スタッフ日記[2024]

[文 / 益田(制作)]



  • 4/17

動機について。

この国は「金利の無い世界」と言う幻想を共有し、ホンの一時、壷中にいたのだけど、文明の潮流がそれを許すはずもなく、今その幻想は音を立てて崩れている。 江戸末期の、政権担当能力を失った徳川政権が金(Gold)の大量流出を招いた事態を彷彿させる。 鎖国なんて幻想を、世界は共有してくれなかった。

どうして為政者を含むこの国の住人は、何事かが維持可能であるのかどうかを考えないのだろう。 積み上がった国債発行額、社会保障の潜在債務。我が身さえ富貴なればと、国の行く末など考えもしない。 要するに、人類共同体の一員でないのだろう。

厚労省は6000億円分のワクチンを廃棄したそうだが、「無駄ではない」との声明を出しているそうだ。誰の金だと思っているのだろうか。 1億2千万人の国で、期限1年程のワクチンを9億数千万本発注したと言う。この期に及んで居直っているところも含め、正気を失っていると言わざるを得ない。 厚労省を構成している官僚たちも、結局保身のためにその生き方を選んだのだろう。 貢献の気分を持たない人らが社会の主導権を握ると、こういう結末を迎えるらしい。

私はコロナワクチンを(一度も)打っていない。 コロナ騒動をハッキリと「発狂」だと見做していたし、今になって思うのでなく、当時からワクチンにも懐疑的だった。

機序が従来型と違うとか、通常の承認プロセスを経ていないとか、そういう理由がなかったわけではないが、基本的に感染症にもワクチンにも素人である。詳細なメカニズムは承知していない。 私が警戒したのは、それを勧める相手の動機に対してである。


子供の頃に飼っていた犬のことを今でもよく思い出す。 ソイツは私が何かを食べていると、いつも側に寄ってきては「それを寄越せ」と催促してくる。 あまり吠えないタイプだったので、催促はいつも「手」だった。手で私をノックする。

食べたことがないであろうものだって関係なく欲しがる。 ある時「グミ(キャンディー)」を欲しがるので上げたら、マズかったのか体が受け付けなかったのか、程なくして一旦食べた分を全て吐き戻した。 吐くようなものを何故欲しがるか。私がうまそうに食べていたからだろう。 そして、求めればくれると信じている。

別のある時、地ベタ(車の中)に落とした唐揚げをその犬にあげようとしたら、顔を背けて拒否された。 好物であるはずなのだが、ソイツは、唐揚げなんて見ちゃいなかったのだろう。 何を見ていたか。それは私の動機である。 「ゴミ(いらない物)」をやろうとしていることを察知した。

何故その気分(動機)が分かるか。 心の中に「与える気分」を持っているからだろう。それが現実であるから、意思決定を左右する。 現日本人の多くがその胡散臭いゴミのようなワクチンに群がったのは、それを差し出す相手のいかがわしい動機を察知できなかったから。 つまり、愛が欠如していた(同時に「騙す」気分も希薄だったと言えるが)。 申し訳ないが、滅びるに相応しい集団だと言わざるを得ない。

それを差し出す相手に、好もしい動機を感じられたなら、私はそれが得体の知れないものであったとしても無条件で口にしたろう。 今の厚労省や日本政府にそれを感じなかっただけ。




  • 4/16

円安が止まらない。 因みにこの現象、ドル高とは言い難い。何故なら、ほぼ全通貨に対して円が暴落しているからだ。

そもそも資源の無い小国であったのが、技術立国で先進国入りした。 その後ここ30年くらいで、ほとんどあらゆる産業がやせ細り、国の借金は積み上がり、少子化は加速。現状の円安を投機的なものだとか政府は言っているが、概ね国の実情を反映したものだと思う。だから止まらない。

利権で社会を硬直化させ、新陳代謝を止めてしまった。 本来人間を含む社会とは、治癒によって成長する。 法で解雇を規制し、補助金や公共事業で企業の倒産を回避させ、失政・社会政策の歪みを赤字国債と言うモルヒネで隠し続けてきた。 ただでさえ貧困化しているというに、わざわざ原発を止め、(円安の逆風の中)化石燃料を海外から大量に買い付けている。 中央銀行は借金が巨額過ぎて、金利を動かせず、それが円安をブーストしている。 どうしたら社会が貧困化するか、を最短距離で実践・実験しているようだ。

そこに来てコロナの馬鹿騒ぎ。 何でもないタダの風邪に狼狽し、数百兆とも言われる国富を溶かした。 現政権の増税が批判されているが、そりゃこうなるよ、としか言いようが無い。 幻想の共有によって一時的に成立したカップルが破局する時などに似ている。 愚かな者が貧しくなる、というのは一種の自然の摂理でもあろうから、仕方ないのかも。






  • 4/9

表現者について考えている。 ある優れた表現者が、時と共にそうでなくなってしまうケースがあるが、そのメカニズムについて。

人間にとって加齢とは即ち劣化であるのだろうか。 身体はモノなので、そういう面もあろうかと思うが、精神はどうなのだろう。 私は精神において、加齢とは、最終型に近付く工程だと思っていて、単純な劣化を意味しないどころか、その逆の解釈を持っている。 つまり人間は、年を取れば取るほど、本当の自分に近付く。 まあ脳も身体の一部なので劣化は避けられず、完成型としてのある演算を達成できなくなることはあるのだろうが。

若さとは未熟さでもあり、生き物としての傾向性(生存への本能)が克服できていないことでもある。 実はほとんどこの傾向性だけで構成されているような人間もいるのだが、芯に意志性が備わっている個体にとっての加齢とは、即ち成長である。 完成へ近付くこと。

若かりし頃の方が優れている人間がいるなら、その人にとっての加齢とは、成長でないということになる。 その人は完成に向かっていないということにもなるわけだが、そんなことあるだろうか。 とにかくそのケースにおいては、未熟さこそが周囲に魅力的に映ったということ。

うまい料理とそうでないものがある。 料理なんてものは、限られた食材を限られた調理法で処理するだけ。 奥が深いと言ったところで、そのコンビネーションの結果であることは間違いない。 だから、ランダムにそれらを掛け合わせたら、ある確率でうまいものが出来上がったりもするだろう(無論うまい料理の成立要件が、受容する側にもあることは承知している)。 同じように、たまたまあるフェイズにおいて、優れた表現者のようなものが成立してしまうことがあるのだろう。

我々は映し出す現実に支配される。 ミミズやゴカイで魚は釣れるが、札束では釣れない。 彼らが金と言う現実を心に映していないから。 因みにゴカイは(人にとっても)結構うまいらしい。ある「ゲテモノ食い」のようなことを専らとするYoutuberが言っていたが、「貝紐」のような感じらしい。まあ有毒種でもなく、タンパク源には違いない。そもそも生き物としての人間の脳はそれを「うまい」と感じるように設計されている部分はあるはずだ。

本来それなりにうまいはずのものを、現代人は口にしない。 それを忌避する別の現実が映り込んでいるのだろう。

0歳児は金を映さないが、幼稚園児なら既に映している。どうやら金は簡単らしい。 例えば愛なら、生涯それを映せない心の持ち主がいるというのに。

ほぼ全ての人が金を現実とするようになるのは、そもそも我々に、それを映し出す素地があるからだろう。 依存症は治らないと言われる。 アルコール依存症の患者だって、小学生の頃からそうだったわけではなかろうが、感染症かのように「依存症に罹患した」わけではない。 依存に陥る素地(特性)を持った個体が、依存対象に出会うまでにタイムラグがあっただけだろう。 つまり、アルコール依存は、その人のたどり着くべき完成型であるということ。

ある個体が、完成型に近付く過程において、ある態様を成すことがあり、それが一見の「優れた表現者」であることがあるのだろう。 それが優れたものに見えたこと自体は錯覚ではないのだろうが、優れた表現者(芸術家)とは、そういうものではない。 芸術家としてのそれは、やはり錯覚であったろう。






  • 4/5

前回の続きになる。 神護寺三像の像主が誰なのかについて論争がある。 教科書に載っているほどメチャクチャ有名な(日本人なら絶対見たことある)藤原隆信筆の源頼朝像があるが、あれの像主比定(無論作者も)が怪しいと言う話。 現在ではむしろ非頼朝(足利直義)説の方が有力である。

私もあれは頼朝ではないと思う。 そう主張する文献にも目を通したが、概ね納得できる内容だった。 絵画史的にあれを隆信筆(その時代のもの)とするのに無理があるし、そもそも太刀の柄にある家紋が違う(足利氏の桐紋、これは決定的)。 

それはさておき、本題はそこではない。 神護寺三像の中でも最もクオリティーが低く、資料上の像主比定が難しいと言われている「伝藤原光能像」あれの像主が誰か、についてである。

上記説の提唱者によると、あれは「足利義詮」であろうと。理由はいくつかあるが、その一つが「等持院像の足利義詮木像に近似する」と言うもの。またかい(因みに等持院は足利氏の菩提寺で、所蔵の歴代足利将軍木像は極めて肖似性が高いと言われている)。 しかしこれも画像見てもらえば分かる。間違いない。 良い画像見つけたので下にリンク貼っておきます。

等持院蔵「足利義詮木像」

神護寺蔵「伝藤原光能像」




  • 4/4

東京国立博物館に「伝源頼朝坐像」と言う木像がある。 「伝」と付くのは、要するに像主比定において疑問が残っていると言うこと。 来歴は定かでないが、言い伝えによると源頼朝の像らしい、と。

疑義が差し挟まれている大きな理由の一つとして、ある程度確かな「甲斐善光寺所蔵の源頼朝坐像」と顔貌が程遠い、と言うのがある。 善光寺の像は、頼朝の御台所(正妻)北条政子の命にて作成されたことが銘文から明らかになっており、顔貌においても信憑性が高いと言われている。 確かに両像の顔貌は似ても似つかない。常識的に考えれば「別人」である。 では博物館蔵の頼朝像の像主は一体誰なのか。

鎌倉幕府第五代執権の北条時頼ではないか、と言う説があり、割りと有力であるようだ。 その根拠は、鎌倉の建長寺にある北条時頼像と近似する、とのこと。 要するに別のある木像に顔が似ているから、と言うもの(因みに北条時頼は建長寺の開基で、つまりは特別な存在である。 像も重要文化財で、少なくとも怪しげなものではない)。

目録や銘文、あるいは縁起などの文献上の根拠があるならいざ知らず、「似ている」なんて薄弱な理由が有力説になるなど、歴史・美術の世界も曖昧なものだと一旦は私も思った。 しかし実際にその両像を(写真で)見比べてみて「こりゃ同一人物だわ」と納得。 皆さんも見られたし。

東京国立博物館蔵「伝源頼朝坐像」

建長寺蔵「北条時頼坐像」




  • 4/3

静岡県の川勝知事が、失言によって、結果的に辞任に追い込まれているようだ。 そもそもトラブルメーカーっぽい人だったようだが、これで止めを刺された感じだろうか。

ああいう事の顛末を眺めて思うのは、あそこに人類の課題が詰まっているということ。 似たような構造の悲劇は、おそらく世界のあちこちに見られる筈だが、日本社会は毒されやすく、自浄の能力が低い。 ダイアナ妃は王室に嫁ぐが、王妃の地位ですら追われる。強い排除の圧があったのだろう。

職業に貴賎は無い、のかどうか、私には分からない。職業の優劣を決定付ける基準が、実はこの宇宙に存在するかもしれないから。私はまだ知らないけど。 一つ言えるのは「職業に貴賎なし」、この命題一つとってみても、日本人は口にはするが、自ら悟るに至った真理ではないということ。 いつもの「受け売り」である。多くが意味など体感してはいない。 それどころか、問われればそう答えるのが正解と知りつつ、実際には全く違う行動基準を含んでいる。 これは、この社会が抱える致命的な欠陥と思える。

ライオンは、最強のオスが群れの全てのメスを従え、ハーレムを形成する。 百獣の王たる強い遺伝子を残すため、必要な仕組みなのだろう。これを人間社会に当てはめて優劣で計るのはナンセンスだ。 もしライオン社会が平等思想などを掲げ、一夫一婦制を導入したりなんかしたら、たちまち種は弱体化し、彼らは百獣の王たる生態系上の地位を失うだろう。

政治家などのように、全体の奉仕者たる資質を求められる職業において、全くその適性のない、私利私欲しか考えないような者こそがそのポストに登りつめやすい社会システムがあるなら、それが巣食う社会は脆弱だろう。 一方これは、人類の宿命のようなものでもある。 ある脳機能の欠損を抱えた個体が、それを補うため脳の別のある部分を特殊化・肥大化させた例のことで、日本の政界など顕著だが、社会の随所にそれによる侵食が見られる。 もしかすると、これを排除することこそが、神が人類に課したタスクなのかもしれない、と最近思うようになった。

(生存のための)学歴競争の勝者たちが官僚になれば、その者たちがその後出世・栄達競争に執心するのは自明のことだろう。 国家公務員の鬱病の有病率は、民間の三倍と言われる。 生存を最優先するために時間を使い、生きている時間を延長したところで、その先の時間も生存を最優先することに費やされる。 こういう世界観がどれほどグロテスクなものであるか、想像できるだろうか。 その暗鬱たる世界を抱えた者たちこそが中枢を占めるようになれば、その社会の展望が曇るのも仕方ない。

これは何某と言う悪者がいるわけでなく、制度の欠陥である。 そういう体制を構築してしまう、民族の宿痾と言えるかもしれない。 STAP細胞事件が起こってしまうのも、科学者・研究者としての適性を全く持たない者が科学界の中枢に登りつめてしまう制度の欠陥に因っている。 そしてこれを正すのは容易でない。 不合理な原理を抱えている生き物など過去にもいくらもあったろうが、小手先のものなら改善できても、ラディカルな面は難しかったろう。 そして大抵その場合、その種は滅びることによってこの宇宙に貢献する。

太平洋戦争の破滅的な敗戦と、こんにちの財政・社会保障の潜在的債務、戦慄を覚える点において両者は似ている。

(軍人の)「将軍」は英語でGeneralという。つまりは総合者という意味になろうか。 将軍に問われる資質を簡潔に言い表している。つまり、アメリカ人は将軍何たるべきか知っている。 軍事力・科学力・経済力、あるいは人口・資源、そういった物が社会の優劣・興亡を決定付けるのではないことがここでも分かる。 日本は、原理において劣る。と言うか、原理と呼べるものを持たない。




  • 4/2

4月を境に値上げされる食品が2806品目、値上げ率は平均で23%だそうだ。

目下インフレ進行中であるが、それに合わせて年金の支給額も上がるのだと。 スライド調整はあるのだろうが、それでも額面上の年金は増えるということ。額面上の賃金が据え置きと言う労働者はいくらでもいるだろうに。

医療を含めた社会保障制度、加速度的に崩壊に近付いているようだ。 いっそ自公政権がこのまま支持を維持して、利権政治を拡大してくれた方がカタストロフを迎える時期も早まって良いような気もするが、現実的にはもうそんなに長くはもたないだろうと思う。 この先政治は混乱するだろう。






  • 3/31

私はドラムを生で録ることを諦めているクチだが、だからある程度ドラム系の音源は必須となる。 一応各種のパーツ・奏法を一通り揃える必要があるので、データの量も私にしては結構なものになっている。

ある音源、ハイハットの奏法がかなりのバリエーションで収録されている。 例えばハーフオープンが「開き具合」ごとに○/○みたいに分数で何段階も収められている。トップだのエッヂだの、打面の位置も調整できる。 贅沢な限り。

しかし、当の私にそれらの音の区別がほとんど付かない。 個人的にもドラムキット(実物)を扱ったことぐらいあるのだけど、それでもよく分からない。 私にとってそのあたりの差異があまり色濃い現実として映っていないのだろう。



自民党の二階さんが、次の選挙への不出馬表明を行ったのだとか。内容は探せばいくらでも出てくると思うが、随分それが評判悪かったらしい。 要するに不遜であると。

私はその会見(の抜粋)を見てみたのだが、世間の人々の憤慨は、やや的外れのようにも思える。 あの目つき・表情を含めた物腰を総合的に判断するに、もう軽度の認知症なのではないか。 質問者に「馬鹿野郎」などと発言したと言うが、怒りっぽくなるのも認知症の典型症例で、若い頃からその傾向があったとか言うが、そもそも認知症なんてものは、濃厚な病前気質が見られるもの。

まあ私がこんなところで何言ったところで、世間の悪印象は拭われまい。 悪いことが重なるのは単なる偶然でなく、ある事柄が終焉のフェイズを迎えているということ。 どうしようもないのかも。




  • 3/29

円安が止まらない。 財務大臣が「断固たる措置」をチラつかせたりするが、できることなんてせいぜい為替介入とかその程度。長い目で見れば、限りある外貨準備を溶かし、更なる日本の弱体化を招いているだけ。 強い円を取り戻したければ産業を再構築するとか人口を含めた資源を増強するしかないわけだが、今の政府に、そんなことに手を付ける気はサラサラ無い。

日米の金利差が大き過ぎて、キャピタルフライトのようなことが起こるだろう。と言うか、既に現在進行形で起こっているに違いない。 しかし、如何に手持ちをドルに替えたところで、そのドルもインフレで日々価値を失っているのだから、実質を見るとどうだろう。まあそれでも円のまま持つよりマシだが。 円は今、ほぼ世界中の全通貨に対して価値を失い続けている。

日本って今後どうなるのだろう。 日本の借金、国債の発行額は既に千数百兆、社会保障などの潜在的債務を合わせると二千兆は下らないと言われている。その巨額の負債が、金利に対して身動きを取れなくしているようで、要するに四面楚歌である。 また、その借金を返済する意志があるならいざ知らず、現在も毎年のように数十兆の国債を新規に発行し続けている。 批判の中、微々たる増税を続けているが、そんなので到底間に合うはずも無く。 インフレが起こっていると言うが、これは今後も続くだろうし、加速度的に進行するだろう。

ハンバーガー一個一万円超とか言う時代が来れば、日本人の年金や溜め込んだ預金など紙屑に等しくなる。 私はこれを回避すべき事態だと一応は思うけど、その為の施策は現状ゼロなのだから、到来する可能性の高い未来だとも同時に思う。

太平洋戦争の終焉についても言えることだが、この民族は破滅を迎えないと物事を終わらせることができない。 回避すべき事態を予測し、事前に舵を切ることが苦手である。現体制の財政も、おそらくそうなる。 杞憂の「杞」の国の人は、天地が崩れ落ちること心配したと言うが、今の日本人ソックリだ。 杞は滅びたそうだが、臆病・愚昧と言うのは滅びるに相応しい条件である。 日本は島国であった幸運によって今まで永らえてきたが、ユーラシア大陸の一角にあったりしようものなら、とっくに国ごと消滅していたろう。


サルはどうしてサルであり、ヒトはどうしてヒトであるのか。 猿には共感性や共同体感覚が無い、あるいはあったとしてもか細い。 サルとヒトは近縁種に違いないが、分化したのだから、決定的に違う何かがあり、そここそが人類とサルとを分けているのだろう。 もしそうでなければ、今頃ヒトはサル(サルはヒト)であったろう。 この決定的に違う何かこそが、こんにち人類を人類たらしめている。 日本人は本当に人類の一員なのか。 人類のフリをして、人間社会に紛れ込んでいるだけではないのか。

日本人には意志が無い。 意志の実現の為に時間を使うでなく、生存(保身)に日々窮々とし、生きることそのものを目的としている。 溜め込んだ僅かばかりの金が紙屑となる時、彼らに一体何が残るのだろうか。 何も残らないのであれば、やはり人類の歴史の中で「滅ぶべき人々」と言えるのではないか。 地球上の限りある資源を浪費し、二酸化炭素を吐き出し続けるに相応しい価値があると到底思えない。

私は違うけどね。愛や友情、夢だとか、その結晶である音楽作品が私には残る。それらは皆永遠だ。




  • 3/28

再生可能エネルギーTFの電子透かし事件、なんというか失笑してしまうな。

千年に一度の大地震に際し、不運に不運が重なって大事故を起こしたが、それでもなお一人の死者も出さなかった原発。ベースロードたり得、CO2排出などの側面から見ても、現状この上ない効率的発電法である原発。 朝日新聞のような左翼系(と言うか売国)メディアがその危険性を煽りに煽り、一定の世論誘導に成功した。 結果、日本の電力行政は再生可能エネルギー、とりわけ太陽光発電への依存度を高め、(半分反社のような)関係業界に多額の補助金をばら撒いた。

森林を破壊し、国土に禿山を乱立させ、全国民に賦課金と言う負担を強制し、電気料金を高騰させ、電力と言う基本インフラを脆弱化させた。 太陽光発電装置のサプライチェーンから中国を外すことは現状難しいようで、数十兆とも言われる国富を流出させた。 原発動かしときゃ良いだけだったのに、愚の骨頂である。 コロナ騒ぎと構図は瓜二つだ。

ここまで平明な論理を無視して進められた強引な施策である。 推進者が「杜撰」であることは容易に想像できたが、そのバカ工作員、国絡みの会議に中国国営企業の電子透かしが入ったままの資料を提出したらしい。 工作活動の是非などはさておき、なんとまあ疎漏であることか。 前近代なら親分に車裂きの刑か何かに処されたかもしれない。

しかしあの河野さんという大臣、単なる売国奴なのか真性のうつけ者なのか。どのみち国政に携わらせてはいけない人物だろう(恐るべきことに、総理大臣の有力候補らしい)。 親子揃って日本史に未来永劫の汚名を残すことは不可避と思われる。

日本への工作活動、中国やロシアのような国から見たら、容易過ぎて本当に笑いが止まらなかったろうな。この国滅ぼすのに銃火は要らない。 アメリカとかもこの民族の知能の低さに呆れ、近い将来、同盟関係を希薄化していくことも考えているかも。政府系の会議に中国の工作員が紛れ込んでいるような国との情報共有なんて怖い。私ならそう思う。

反原発キャンペーンを特定のメディアが行い、太陽光発電の推進によって日本の電力インフラは脆弱化し、国富は(特に中国に)流出(オマケに国土は荒廃)し、電気料金の高騰化によって日本人は貧困化し、福島の処理水問題では中国政府が(常軌を逸した)強い反発を示した。 全ての答え合わせがここに詰まっている。 今の日本人の持つべき世間知は、あの手の国(&その尖兵たる国内メディア・政党)の「逆」を常に張ることが正解である、ということ。 こんな簡単な答えに何故たどり着けぬか。理解に苦しむ。




  • 3/27

公務員になった若者が、同僚などと浴びるほどの酒を酌み交わしたところで、そこに友情は芽生えにくかろう。 何故なら、大方そこにたどり着いた動機が「生存(保身)」であるから。 天上でなく、地の底での邂逅であるから。 我が心に妥協を許さず、意志を守り続けた果てに出会う人なら、親友になれる。 友人は我々の心の中にいる。友人を得る方法とは、意志的に生きること。






  • 3/23

当たり前だが、人間は動機で動く(動機と言うぐらいなのだから)。動機が無ければ動かない。

だから政治家に「利権政治を止めろ」と言っても、そこに動機が無ければ彼らはそれを止めてくれない。 今まで、それ(利権確保)を思い留まるほどのインセンティブが彼らには見えなかった。

その利権の恩恵に与れぬ(大多数の)人々が、彼らを止める方法があるのかと言うと、あるにはある。 それは投票行動。 落選の懸念が脳裏を過ぎれば、それは確実に動機となり得る。 今の政権中枢は、ようやくその懸念を持ちつつあるが、もう手遅れかと思う。 政治にとって手遅れである以上に、有権者がその懸念を植えつけるのが遅すぎた。




  • 3/19

Nashvilleギター(チューニング)について。 そういうギターが存在しているわけではなく、単にチューニングのことを言う。ギターの3~6弦をオクターブ上にチューニングしたもの。当然普通のゲージのギター弦では不可能なので、それ用の弦を用いる。12弦ギターの複弦のみを張ったギターと考えれば良い。低音弦が無いので、高音に寄った特殊な響きがある。

今作っている曲にNashvilleギターを使いたいと思っている。それもプログラミングで再現したい。実器を用意するのは如何にも面倒臭い。 ギターに限らないが、実器はとかく面倒だ。ギターの弦は時間と共に響きが失われて行くのだが、Nashvilleのような独特のレゾナンスを表現するならなおのこと。 一度のオケ作りのために弦張り替える根気が無い。

プログラミングでどうやって再現するか。 一応「Nashville Guitar」みたいな(名称の)音色は存在していて、私は使わないけど、低音部分にオクターブ上のサンプルが当てられていたりするのだろう。だとするとちょっと荒っぽい仕様だ。 私は一旦普通のギター用のパート(譜面)を作った上で、3~6弦部分をオクターブ上にシフトしようと思っている。 そういうNoteを組んでアコギ系の音色を当てたい。

以前にもやったことがあるのだが、3~6弦部分の音をオクターブ上げると、同一音高(異弦同音)が大量に生じてしまう。 サンプラーとかって大抵同一音の同時発音ぐらいできるのだけど、ピッチが完璧に揃っていて、うねりが発生せず、やや嘘臭い。 ギターって楽器は構造上、開放弦でチューニングを合わせても、ハイポジションに行くに従って若干音程が狂うようになっている。 トラック分けて同一音の片方のピッチベンド弄るとか、回避法もあるにはあるけど、そこまでするかは迷うところ。