Staff diary  
スタッフ日誌[2021]

[文 / 益田(制作)]

6/18(金)

K-POPを聴いていると、ある種の完成度に感嘆せざるを得ない。 しかし私の感想をあえて文章化するなら、単に「上手く出来ていますね」ではなく「上手く出来なかったら殺されるの?」みたいな感じである。 それほどに鬼気迫ると言うか、彼らは必死である。

あるグループのテレビでの歌唱動画を編集で繋げたような(おそらく個人作の)動画を見たのだが、驚いた。 一糸乱れぬ振り付けであるあまり、編集痕がほとんど感じられず、衣装が時々切り替わるだけという、まるでMVのようだった。 あの振り、どれほどの訓練を要したろう。 さながら北朝鮮のマスゲームのようだ。さすがは同民族。

歌を聴いていても、マゾヒスティックなまでの金切り声(ハイトーン)に耳を奪われる。 私があんなメロディーを書くなら、歌い手さんにお詫びの言葉の一つでも添えてしまいそうなもの。


実はこれら、あの社会の原理性を知れば理解に難くなくなる。 ほんとうに「上手く出来ないと殺される」という心境なのである。

殷の鉄器の精度は、現代のメーカーでも再現するのが容易でないと言う。 どうして紀元前の技術でそのようなものが作れるか。 ある歴史家いわく「人を人として扱っているうちは、そのようなものはできない」そうである。 J-POPがある面でK-POPに勝てない理由も、そこに尽きようか。

山のように存在する女性グループは、皆同系統の美人で、身長をはじめとするスタイルも統一されている。無論のこと、歌・ダンスの技能は大前提である。 そういう人材を、少ない構成で4〜5人、多ければ十数人と集めてきている。 どこにそんなにいたのだ。

でも事実いるのである。 価値が多様でないから、例えば美人には一つの型があり、いわゆる整形なども、施術の方向性が単純であるから技術的洗練もされやすい。 一つの到達点に向かって皆がわらわらと押し寄せてくるから、ある評価基準における逸材には事欠かなくなる。 あの国が酷烈な学歴主義社会であることと、根は同じである。


韓国で音楽産業に携わる者は、基本的に音楽が「好きでない」。 生存のための手段としてそれを採用しているから、それを好きでやっているような暢気な人らでは、ある面において太刀打ちできない。 しかし、彼らは嫌々それをやらされている。 嫌々やらされた結果、彼らがたどり着けると考える最良の環境とは、「それをやらずに済む世界」。

ただしそんなものは実在しない。 苛烈な過当競争に放り込まれ、日々宿命的に衰える美などというものを頼みにするから、彼らは高確率・高頻度で「鬱」を発症する。 これが韓国社会の自殺率につながっている。

日々苦痛に耐えることで、耐えずに済む(ありもしない)世界を求めるから、つまりは「生まれてこない方が良い」という平明な結論にたどり着く。 韓国の出生率は彼らの世界観の反映である。 日本も人のことは言えないが。


今K-POP勢がアメリカの音楽チャートを席巻していると聞く。 ここについても言いたいことは色々あるが、まあそれはさて置く。 ハッキリ言えるのは、アメリカ人の原理性と彼ら韓国人の原理性は、根本的な部分で相容れないだろうと言うこと。 だからきっと、そのブーム(キャンペーン?)も長くない。


6/17(木)

先日、食事をするため、ある店に入った時の話。

店に入るなり「アルコールで手を消毒してください」と(割と強い口調で)言われる。 まあ突っ込みどころはあるが、この程度はよくあること。 席に着いたら「食事の時以外はマスクをしてください」と言われる。 お茶も飲めないじゃないか。

私は持病の関係で、外での食事前にはほぼ必ず薬(市販薬)のようなものを服用するのだが、そんなこと考えてはくれない。 アルコールに対するアレルギー体質の存在などが全く無視されているのと同じで、保身のための優等生ごっこなので、本質的配慮とは遠い。

連れと二人で入った店なのだが、テーブルには仕切り(パネル)が置いてある。 会話にも不便なので縁に移動したらそれを指摘される。 つまりは「動かすな」と。

耐えかねて「相席ならいざ知らず、目の前の人は連れである」旨申告したら「家族間感染も増えております」だと。ご親切なことで。 その家族とやらは、四六時中パネル越しに会話してるのかい。

あまりの干渉の酷さに気分を害された私は、そこで店を出た。 後で調べて知ったが、似たような事例(店の対応に立腹して退席)が全国的に起こっているらしい。 私はいわゆる「クレーマー」のような人ではないと思っているが、あれは一種のハラスメントではないか。 私は、自分の尊厳を守るために店を出たと言って良い。

彼らは、食事を提供する業者でありながら、食事(外食)の本質を理解していない。 食事とは、連れと顔を合わせ、会話することも含めて成立するのである。 単に栄養素を補給するだけで良いなら、全て錠剤だとか点滴にすれば良い。 我々は心を持った人間で、ブロイラーの鶏ではない。


彼らがああなってしまう理由は分かる。 非科学的・理不尽な締め付けによって瀕死の状態にまで追いやられている飲食店、コロナのクラスターなど発生させてしまったら、今ならほとんど確実に潰れるだろう。 そんなことなくても、このままでは行政に潰されてしまいかねない。 延命のためにも、少しでも模範店の振りをして、ポーズとしてでも対策を取らねばと思うのだろう。

事情は分かるが、だからといって相手の尊厳を侵して良いわけがない。 騒動に腰が砕けて本来敵でもないはずの客を敵視し出せば、当然そこに軋轢は生じる。 エスカレートする彼らは、確実にこの騒動の片棒を担いでいる。

気の毒だが、あの店はきっと将来消えるだろう。 個人的な不快から「潰れちまえ」と言っているわけではない(まあもう行きはしないけど)。 本来人類の一員であったはずだが、理不尽な弾圧を加えられた時に、構える相手を間違え、市民に牙を剥いた。 もうそれは、人類共同体の枠を一歩踏み外したも同然。 騒ぎの元凶と、諸共淘汰されるに違いない。


6/16(水)

神田優花、ニューシングル「Void」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Void/City Lights

Void
この曲で一番こだわったのは、サビのバックに流れる、高音のオブリガート部分。いけることなら一息でいってしまいたいとこだけど、さすがにそれは無理だったんで、どう切り、どう繋げるか、頭の中で鳴らしながら試行錯誤して作り上げました。
何もない空に溶けていけって感じかな。
反対に主旋律部分の歌いまわしは、そう時間かけず固まりました。
イメージ通りになったと思います。

City Lights
この曲は低音が魅力かなって思ってます。
サビがこんだけ低音ってなかなかないんじゃないかしら。しかも、コーラスが更に輪をかけて低い。単独の音でこれくらいの低音なら今までもあったけれど、こんながっつり低く続くメロディーは初めてかも。
ヘ音記号の楽譜なんて、J-POPのボーカルテイクでは初めて見ましたもん。
きちんと歌になる声音で歌えるかなあ、と思ってましたが、やってみると歌えました。 ぜひ、その辺も聴いてみていただきたいです。

今回の2曲でとりあえず配信ラッシュは一段落ですが、4月から6月にかけて出させていただいた曲たちもあわせて、よかったら聞いてみてください!

神田優花





6/15(火)

神田優花、明日発売の新作「Void」(全2曲)、収録曲について。


1.Void

逆回転っぽいサウンドエフェクトを入れた、ちょっとアーバンなPOPS。 Aメロとサビが、同一音型のトランスポーズのような、私のよくやるパターン。

あまりに苦もなくできた曲なんで、創作時の記憶はほとんど無い。 ただ、マスタリングの段階でどうもしっくり来なくて、何度も作り直した。

当初シングルにするつもりも別になかったんだけど、色々と抱き合わせのパターン考えてたらタイトル曲になってしまった。 嫌いな曲じゃないですけど。


2.City Lights

こういう感じのPOPSを大量生産していた頃に作った曲の一つ。 リズムが肝ですね。 小さなアイディアをたくさん入れている。

イントロのサックスは、グロウルっぽい濁りを一切排除した音色で、曲のイメージの核になってる気がする。あとコンプで潰しまくったエレピとかも。 間奏に入る部分にティンパニのヒットを入れたんだけど、アタック強すぎて、全体のレベル調整がそこ中心になってしまった。

サビのメロディーは、張り上げる感じじゃないんだけど、たまにはこういうのも良いでしょう。 歌については歌い手さんからコメントをどうぞ。





6/12(土)

プロモーションについて考えていた。というか、もう少し具体的にあれこれ動いていた。

ウチみたいな予算の割けないレーベルには、有料広告とか(有料)タイアップの類って、よほどのことでないと手が出せない。 金は無いけど宣伝はしたいって時に、昔はラジオとか有線放送とかに営業掛けてたんだけど、今それはやらない。 効果が薄いから。

今交渉してるのは、Spotifyの各種プレイリストへの入曲。 審査のようなものはあるが、ものによっては効果も見込める。 今後、神田優花とかのニューリリースについては、プレイリストへの入曲を申請することを基本としたい。

しかしSpotifyというのは、音楽配信ビジネスのデストロイヤーのように言われていたし、今でもそう思われているフシがあるが、私はあれを販売(マネタイズ)の為の媒体だとは思ってなくて、あくまでプロモーションツールだと割り切っている。 今後もそういう付き合い方になると思う。


6/11(金)

東京都のプール金が底を尽きかけているというニュースを見た。 現都知事、一兆円近い都の金を使い込んでいるらしい。それも、豊洲移転問題とかコロナ関係の協力金とか、そういう全くもって都民にとって無益なことに。 周囲にいるであろう都職員らはどういう気分で彼女を見つめているのか、気になる。

彼女は選挙公約をほとんど何一つ実現していないそうだが、会見などでの応答を見ていればそこにも納得してしまう。 彼女にとって言語とは、意思を交換するツールでなく、常にその場を切り抜けるためのツールなのである。 公約は当選という果実を得るための道具。釣った魚に餌はやらぬとばかりに全て反故にされる。 そして有権者のほとんどは、その後次々と巻き起こるいわゆる政局に見とれて、過去の約束など忘れてしまう。 その政局とやらが、実は誰かの作為によって引き起こされていることにも気付けない。

彼女の正体を知りたければ、彼女の言語を凝視すると良い。 一方的な発表などでなく、他人とのダイアローグを見るべし。 返答は常に要領を得ず、論点が全く噛み合っていない(応えが答えとなっていない)のに、結果として煙に巻かれるような不思議な空気を見るだろう。 彼女にとっての言語が、普通人のそれとは異なっているからである。

だから彼女は「キャッチフレーズ」が実にお好きである。彼女の繰り出すその手のキャッチフレーズがどれだけあったか、思い返してみると良い。煙に巻かれているのである。 おそらく私は、この機序を完璧に理解している。

共感という繭に包まれていない人であるから、行動も常にそうなってしまうのだが、要するに彼女が人類共同体の埒外にいる証拠。 人格に欠陥というか、認知に狂いがあることは疑いない。

とある芸能人が(現都知事に)「騙されるな」とテレビで視聴者に向けて発言したら、その後(別件でだが)都からの抗議が来たそうである。 脅かして黙らせようとしているらしい。 「騙されるな」の一言がそんなに気になるのは、彼女が「騙している」からである。

知事には、現時点でも過半数を超える(都民の6割程度の)支持があるらしい。 おそろしいことだ。 彼女が自分のために働いてくれると信じている(騙されている)者が、まだ6割近くいるということ。

彼女は平穏無事を嫌い、混乱を好む。 彼女がコロナ騒動に涎を垂らすのは、恐怖の刷り込みによって自らの支持を固めるため。これはインチキカルト宗教などが、洗脳によって信者を獲得するのと全く同じ手口である。 オウム真理教に騙されて人生を棒に振った人がいたように、いまだにこんなのに騙されている日本人は、一旦滅ぶ運命なのかもしれない。

確か以前、経費の使途を問題視され、辞任にまで追い込まれた都知事がいたと記憶するが、立ち回りさえ上手ければ、桁違いの浪費も容認されるらしい。 バカを騙すのって、ある人にとっては実に簡単なのだな。

人が、明らかな醜女に向かって「なんとお美しい」と言えないのは、それがもう失礼であるからだ。 見え透いた世辞に侮辱的な気分を感じないなら、その醜女はバカなのだが、人は相手がバカであることを前提に人と対峙しない。 バカを平然と騙すためのコツは、相手を知性の備わった人間と思わず、心底バカにすること。 多くの普通人には(良心が邪魔をして)これができないから、都知事にもなれないのだろう。


今後もし都が「財政再生団体」になったらどうなるか調べてみた。民間企業でいうところの民事再生のような状態。

過去に財政再生団体となった夕張市では、ほとんどの行政サービスは全国最高水準にまで値上がりし、市職員の給料は4割カット、職員数は半分以下にリストラされ、議員も半減、議員報酬は4割カットされたそうな。 日本の首都である東京がそれと同じ扱いになるかは分からないが、一つの参考例にはなるだろう。 都職員はそろそろ「主君押込」のような手段を検討しても良いかもしれない。


6/10(木)

「オリンピック開催の是非は分科会に判断させるべき」。「コロナのことは専門家に」。などという人がいるらしい。 「開戦の是非は軍に判断させるべき」。「軍事のことは軍人に」。 なんてバカなことをやって滅びた国があるらしいが。

コロナ騒動はこの社会にとっての禍害だろうが、騒動によって地盤を得る者だって当然いる。 その人に物を尋ねるなら、そこを割り引いて考えないと、全うな結果になどたどり着く筈が無い。 こんな当たり前のことがコンセンサスとなっていない時点で、この社会にはコロナ騒動のような荒療治が必要であったのかもしれない。

この度の騒動で、わらわらと出現した専門家とやらを、私は全く信用していない。 「専門家を信用しない」というだけでなく、彼らが「本当に専門家としての要件を備えているのか」すら疑っている。

理由は単純。 彼らの予測が当たらないから。また、毎度(過剰なまでの)対策を提案するものの、それが功を奏したという形跡がほとんど皆無であるから。 十分にしてお釣りが来るほどの理由だ。 当たらない予測に如何なる理由を裏書したところで、当たらないのだから直接的な役には立たない。 実験であるのなら、それは自分の部屋でやるべきで、全国民を巻き込むなど言語道断、迷惑至極である。

ソクラテスの言う「無知の知」とは何なのか。 専門家はその分野についての学究によって、真の知性を得ないのか。 私は音楽を作る専門家ではあるが、音楽を売る専門家ではない。全くその能力がない。 この程度の区別は付いている。


私は日々創作を続けているが、如何なる御託を並べたところで、それが「美しくない」という事実は覆らない。 また、如何に説明がつかなかろうと、それが「美しい」という事実の前では無力である。 解は常にある。 理由を探すのが難しい。 如何に高尚なモデルを用いて警鐘を鳴らしたところで、超過死亡マイナス数万人という事実の前には無力である。

散々言われていることだが、緊急事態宣言における飲食店の時短営業は、どのような試算に基づいて求められたのか。 また、どのような効果があったのか。 人流抑制が感染拡大防止にどれだけ効果があったのか。 何故検証結果を発表しない。 もう一年以上も経っている。検証する時間は十分にあった筈だ。

曰く「この状況でオリンピックなど普通はやらない」そうである。 普通って何? ディベートとかでもよく「普通〜だ」とか「というのが常識だ」とか、全く実証性を伴わないことを言って高みに出ようとする者がいる。 いもしない援軍をチラつかせたところで、言ってることが正当性を帯びるなんてことはない。

のたまう「普通」とは何のことか。 どの地域を、何国を引き合いにしているか。あるいは如何なる歴史事象と比較してのことか。 この程度のことに答えられないのなら、発言はその程度の思考上の推敲すらも経ておらず、それを不誠実という。 不誠実は、人として最も恥ずべきことである。

彼らが悪質なのは、献策が的外れであるのみでなく、そこを反省するでも総括するでもないところ。 学者ってあんな幼稚な人でも務まるのか。 あんなに正直さというか誠実さを欠いていたら、学問的な業績を上げることも難しいはず。 あれが一流の学者であるなら、学問の世界は何かを履き違えている。


6/9(水)

神田優花、ニューシングル「Colorful World」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Colorful World/Lord

Colorful World
ギターリフから始まる、美しい3拍子の曲です。
この曲で大事にしたのは多幸感。音の美しさの中に溶けていくように繊細に、でもそれだけじゃなく世界の美しさが伝わるように力強く、、、そんなことを考えながら歌いました。
日々は色鮮やかなときばかりじゃない、真っ黒に塗りつぶしたくなるときもある。
私はまた怖れずに、希望を持ってこの世界に生まれたい、そう思います。

Lord
この曲は1度レコーディングし終えた後、どうしても気に入らず、無理をいってもう一度レコーディングし直してもらった曲です。
ストレートに、逢いたい人を想いながら歌いました。

新たな曲たちをお届けできることを幸せに思います。
ぜひ、聞いてください。

神田優花





6/8(火)

神田優花、明日発売の新作「Colorful World」(全2曲)、収録曲について。


1.Colorful World

三拍子の癖のないPOPS。 アレンジはアコースティックな編成で、パート数も少ない。

私は作曲家であるだけでなく編曲家でもあって、編曲部分を織り込んではじめて成立するような曲も多いだけど、この曲はそうでない。 本当にピアノやギターといった一つの楽器を伴奏にした弾き語りのようなアレンジでも成立するような曲。

この曲のコーダ部分なんかを聴いてもらえると分かると思うんだけど、曲作りをやってるとこういう小さなアイディアが溜まってくる。 今年の一連のリリース作品では、その手のアイディアを大量に消費させてもらった。 曲の核心部分でない、ちょっとしたアイディア。


2.Lord

ピアノとボーカルだけのシンプルな曲。 会いたい人に会えない時、会えないその誰かを直接的に望むのではなく、自分がその人と再び会うことが、この宇宙の摂理に適うよう、祈るような歌。

ロマン派のピアノ曲なんかが下敷きになっている。 小節の途中でコードが変わるところとか、特筆点といえばそうなんだけど、テンポルバートかってぐらいにリタルダンドとか随所に入ってて、その「小節の途中」というタイミングを感じにくいかもしれない。

確かこれ、一回歌録りやり直してる。 なんか歌い手が納得できないとかで。 あと最後のサビのブレイクに「語り」のような部分が入るんだけど、レコーディングの際はそこだけ何度も録り直した。





6/7(月)

民主主義とは多数決である、と日本人は教わっている。 間違いではないが、それが形成される歴史的プロセスを共有せずして西洋文明の上澄みだけを輸入しているから、内容にところどころ綻びがある。 というか、本質における誤解がある。

あらゆる人には神が与えたもうた人権がある。 その人が存在するということは、存在するための全ての条件を備えているということで、それは神(この宇宙)の意志に他ならない。 だからこその人権で、人権に優劣など容易につけ難いからこそ、人は対等で、だからこそ一人一票の民主主義なのである。

日本人は、上の思想無しに、流行りの服やバッグを輸入するように、「人権」を輸入したものだから、それは流行り風邪ごときに簡単に踏みにじられる。

神はきっと、今の日本人を許さないだろう。 今の狂騒は後世、人類への背信であるとか、文明の破壊であるとか、そういうダークな印象でもって語られるに違いない。


政府は、新型コロナウィルスが「公衆衛生上の危機」といった脅威でないことも、当然ご存知だったはずである。 あらゆる数字を見渡しても、それが妥当な結論である。

「政府はオリンピックを至上とした」というような非難の声が聞かれる。 無論オリンピックが、諸判断に影響しなかった筈はないが、如何なる理由が背景にあろうと、人間には許される行為とそうでないものがある。 というか、人間の尊厳とオリンピックなど、比較の対象とすることすら馬鹿げている。

政治の都合で人権を軽んじたことは許されるべきでない。 「複雑な事情があったのだ」という本音、これを私も分からないではない。 しかし、如何なる事情が存在していようと、侵してはならないものを彼らは侵した。 我々はそれを忘れるべきでないし、決して許すべきでない。


6/6(日)

オリンピックを開催するべきか否かで、世論が沸騰していたりするらしい。 (調査元にも因るが、)圧倒的に「すべきでない」という意見が多数を占めているという。

私個人は、スポーツにあまり興味がなくて、正直オリンピックもどうでも良い。中止と言われても何のことはない。 しかし今私が、上の設問に答えるなら「開催しても良い」となる。 理由は明快。 新型コロナが何ほどのこともない風邪であるから。

風邪にはその時々の流行りの型があるものだが、新型コロナはそれの一つ。 しかも超弱毒性で、死者の平均年齢は日本人の平均寿命にほぼ等しく、年間超過死亡はマイナス万単位であるという。 「コロナで一万以上の死者が出ているんだぞ」という意見。それも嘘ではなかろうが、ウィルスも生態系の一部であり、ニッチがあるのである。 その人らのほとんどは、コロナが無ければ別の病気で死んでいただけ。

そんな状況で飲食店の営業自粛も必要なければマスク着用も必要ない。 運動会を中止する理由がないのだから、オリンピックを中止する理由もない。


6/5(土)

日本でいうところの大将を、英語ではGeneralという。 辞書を引けば、一義にGeneralは「全般的な」とか「全面的な」などとあるが、同時に「専門家でない」という意味もある。 Generalたる者とは、軍事の専門家などでなく、諸事・森羅万象の統合者・総合者であらねばならないということ。

専門家は確かに専門的知見を有するのだろうが、所詮はある分野の専門家に過ぎず、部分最適を導き出せるに過ぎない。 その専門的知見をどう吟味し、採用するか、その判断は総合者に委ねられている。

今の日本の悲劇は、その専門家が本来の職掌を逸脱し、政治的判断に容喙しはじめたこと。 無論総合者はそれを無視して良いのだが、無視するのにも度量が要る。 現代日本は、先の大戦での軍部の暴走などと、似たような轍を踏んでしまっている。

一旦抱え込んだ専門家の具申を袖にすれば、「御用学者の意見しか採用する気がない」とか「独裁的」とか決まり文句のごとく言われたりするが、総合者はそれで良いのである。 自らの判断、方針を補強するために専門家に諮っているだけ。 専門家とやらの意見に右往左往するようでは、それこそ総合者としては欠格である。


6/4(金)

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スチール撮ってました。

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神田優花は来週、次のシングル「Colorful World」(全2曲)を発売します。

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6/3(木)

ちょっと前に外で食事をしようと店に入ったら、入るなり店員に「アルコールで手を洗ってください」と強要された。 私は持病があるから分かるが、普通病院でもアルコール塗布前に「アレルギーの有無」とか訊いて来る。 コロナさえ防げるなら他(例えばアルコールアレルギー)はどうでも良いってことか。

で、席についてマスクを外したら、店員に「食事の際以外はマスクを着用してください」と、これまた命令される。 もう反論するのも物憂い。 過剰な対応に腹を立てる前に、何故彼ら飲食店がそんなに必死なのか考えてみた。

私に直接言ってきたのはチェーン店の店員で、その行為が彼の独断であるはずはなく、きっと上からそのような対処をするよう、お達しが出ているに相違ない。 飲食店は、今の政府・行政の理不尽な締め付けに「生存への恐怖」を感じているのだろう。 つまり、極力優等生ぶった行動を取らねば、「理も非もなく潰されてしまうかもしれない」という危惧が根底にある。

今の、いわゆる時短やアルコール提供中止の要請は、科学的根拠もなく(あれば自信を持って発表しているはず)、ハッキリ言って人権侵害に他ならないのだが、西洋と違って、日本人にとっての人権は輸入観念である。血を流して得たものでない。 キリスト教徒でもなく、唯一絶対神を信奉しているわけでもない日本人にとって、人権など流行り風邪以下であるらしい。

恐怖を感じる飲食店が、客に過剰な干渉をし、客はそれを不快がる。 店側も生存に必死である。従わない客が恨めしい。 でもこれって、双方憎む相手を間違えている。

憎むべきは、この混乱を好機と見て、過剰な締め付け(政治パフォーマンス)を行う者である。 端的には現都知事。後はせいぜい政府か。 客と店がいがみ合えば、それは彼女の思う壺である。 人類には二種類ある。彼女の正体に「気付いた」者と「気付いていない(騙されている)」者。

彼女の認知は狂っている。 前部帯状回のフィードバック関連陰性電位を調べてみて欲しいくらいだが、あの行動原理は確実に「反共感」である。彼女は間違いなく「人類の敵」。 私はこの見解に自信を持っている。 「何言ってやがる」と思う人は、私のこの文章を、記憶の片隅にでも留めておいて欲しい。いつか分かる。


6/2(水)

神田優花、ニューシングル「情熱」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


情熱/Untrue

情熱
まず始めに思い浮かんだのは"憧憬"という言葉。
手にいれたいというより、焦がれて、心が奪われて動けなくなるような、そんな瞬間です。
繰り返される高音のその向こう側に、私の感じた情熱が聞こえるといいなと歌ってます。

Untrueはラップのような、リズムと抑揚のついたセリフのような、まぁそんなような曲。
Untrueって不実とか真実でないとかそんな意味なんだけど、わかったような気になってるけど、何一つ手にいれた真実なんてまだないって気分で歌ってます。
でも絶望感とか無力感ってわけじゃない。いつだって探求者でいたいって、そんな一種の決意表明でもあるのかもしれないなーって歌ってて思いました。

ぜひ、聞いてみてください。

神田優花





6/1(火)

神田優花、明日発売の新作「情熱」(全2曲)、収録曲について。


1.情熱

珍しく日本語タイトルですね。 曲書いてる段階で「シングル向き」とか感じた曲。 POPSなんだけどギターとかがうるさいんで、ちょっとロック寄りのような曲。

イントロに絡むハミングとか、ギターのカッティングとRingModulatorのコンビネーションの感じとか、個人的に好きな部分です。 ハミングは、あれが事実上のサビって感じ。

歌のメロディーが随分高いのだけど、上手く処理している(誤魔化してる)と思います。 こういう歌唱のテクニックみたいなのも聴きどころなんでしょうね。 私が感想を述べると、音についてばっかりになってしまうけど。


2.Untrue

グランジとかメロコアとか、そういううるさ目のものを書いたつもり。 ボーカルは普通の歌唱とラップの中間くらいのものをイメージした。

ボーカルのパートにほとんど楽音が無いんだけど、それでいてサビの盛り上がりとかを表現するのって、結構難しかった。 (サビを)ダブルにしたり、バッキングを工夫して、それらしきものに仕上げたつもりなんだけど。





5/28(金)

AIを使ったマスタリングソフトってのを導入してみた。 音に拘らない私のような音屋にとっては楽で良い。

以前からその手のアプリケーションは存在したし、クラウドサービスのようなものも存在した。多分原理的には似たようなものだろう。 コンプとかEQとか自動で設定してくれる。 ヴォーカル用のマスタリングツールのように、ピッチ補正のような高度なアルゴリズムを用いていないだけに、実用的である。


入院生活が長かったせいか、医者の人格について一々見る癖がついてしまった。 床屋行く時に、理髪師の人格なんて気にしない人が多いのではないかと思うが、私も以前は医者について同様の態度であった。

私は現代医学や日本の医療にさしたる異論を持たない。 細かいことを言えば、人間のやっていることなのだし、完璧はなかろうと思うが、そういう部分も含め、概ね信用している。 ただこれは、「通説」を信用しているということであって、個々の医者の人格は別だ。

皆さんも就学時「アホな教育者」をたくさん見たろう。 そのアホの人格によって教育行政や学問そのものの信頼性が揺らぐ、なんてことはない。 そして、それらをゴッチャにしてはいけない。 昨今の騒動を眺めつつ、あらためて思った。


5/26(水)

神田優花、ニューシングル「Depressions」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Depressions/Get The Funk Up

この2曲は、神田優花名義で出すかどうか、制作サイドで少し迷っていた曲たちです。
私は歌でというより、セリフで曲の一部として参加してます。
Depressionsのレコーディングでは、曲に合わせてというよりも、曲が鳴っている中リズムだけ合わせてしゃべって、それを好きに加工してもらったもの、という感じ。
Get The Funk Upはもう少し歌ったものなってますが、、、。

音を楽しんでもらえればと思います。

神田優花





5/25(火)

神田優花、明日発売の新作「Depressions」(全2曲)、収録曲について。


1.Depressions

テクノ、エレクトロニカ、EDMとか、そういうプロットの中心を音(音色)に置いた曲を作ろうと思って。 ある時期に何曲か作ってみたうちの一つ。

動機が上のようなので、音楽(楽理)的な部分でのコメントがしづらい。 本当に対して何もないから。 今聴いてみたら部分的に変拍子入れてたりするけど、それも楽理的にどうこうというより、音響的なギミックの一つのような。

自分で作っておいてナンだけど、そんなに思い入れの強い曲ではないかな。 こんなのもたまにはあって良いと思うけど。


1.Get The Funk Up

テクノ、エレクトロニカ、EDMとか、そういうプロットの中心を音(音色)に置いた曲を作ろうと思って。 ある時期に何曲か作ってみたうちの一つ。 楽節構造のちょっとした緩さは意図的なもの。何となくそういうものを作ってみようと思った。

タイトルに意味は無い。 無意味なタイトルを熟慮の末につけたんで、テキトーってのとも違うけど。

ほとんどプロットの中心を音に置いた曲なんで、音楽面のコメントが難しい。 今聴き返してるんだけど、チップチューンっぽい音とか、そういうシンセ系ばかりでなくメロトロンの音なんかも入れてますね。 そういうところが強いて言うなら特筆点ですかねえ。 本当に大して言うことが無いな。





5/21(金)

緊急事態宣言がまた延長される(見込み濃厚)らしい。 発狂もここまで来れば見事と思えてくる。 私など既に、この騒動が後世の歴史家などにどのように評されるか、に関心が移っている。 老婆心ながら、為政者らには「いい加減にしとかないと、未来永劫悪名が残りますよ」とか言ってあげたいが、今の時点でもそれは不可避だろうから、かけてあげられる言葉も無い。

現代日本と先の大戦時との類似性を指摘する声があるが、いくら無謀でも、戦争には一応敵があった。今回のほとんど一方的な自爆行為より、私などには遥かにマシに思える。 敵がいないから、なかなか終わらせてももらえない。

散々言われているが、具体的施策(飲食店の営業時間短縮要請など)は、どういう根拠に基づくのか、また事後にどのような効果があったのか検証されているのか、一切説明が無い(説明と言えないような発表ならある)。 一方で、野から「緊急事態宣言は感染拡大防止策としては無意味である」という意見が(納得度の高い)データとともに散見される。

騒動は、その実態が一部の人には完全にバレてしまっていて、指摘は日に日に熱を帯びてくる。 いくらなんでも、この非難の声が、為政者の耳に届いていないはずはない。

実際のところ私には分からない部分もあるが、常識的に考えて、これだけの被害を出すのだから、宣言に伴って生じる不利益と効果のほどが「引き合う」と、多くの人が納得する程度の説明は必要だろう。 まあ、身も蓋もなく言えば、「説明できない」のだろうけど。要するに本当に効果が無いから。

意味が無いのに何故このような愚行を続けるか。 止めてしまうと、自らの誤りを認めてしまうことになるから。だから超過死亡マイナスの事実もひた隠しにされる。 ある(妥当でない)基準にて発動させた宣言なのだから、それを遥かに下回る数字と共にでないと解除できない(でないと、宣言自体が何だったのかって話になる)ってことか。 迷惑な。

「ナンか勘違いでした。全然大したことない風邪でした。ビビッて(責任取らされるのがイヤで)過剰に対策したもので、財政は破綻寸前、瀕死の状態になりました。経済に有史以来最大のダメージ与えちゃいました。倒産・失業・自殺、大量に出しちゃったし、これからも更に出ます。ただでさえ高齢化社会なのに、更に出生率下げちゃいました。日本人に計り知れない精神の萎縮をもたらしちゃいました。 要するにこの社会・未来をブッ壊しちゃいました。ごめんちゃい。エヘ」ってわけには確かにいかんのだろうなあ。 つき合わされるこっちは堪ったもんじゃないが。


5/20(木)

各音楽サービスのニューリリースのページを見ていると、「こんなご時勢によくここまでの商品が制作されているな」と感心する。 がんばって欲しいですね。 神田優花の次のシングル「Depressions」、来週発売です。




人は基本的に、その人が自認する自己の尊厳を踏襲する。 自らを価値の無い人間と思っている人などは、周囲からも軽視されやすい。 自認する自己の尊厳、こそがその人の価値であり、実体である。

相手の自己評価を無視した見積もりでもってその相手に接しようとする人がいれば、大抵二人の間に横たわるその関係は失われる。 現実にこういうことはケースとして少ないのだが、絶無ではない。 悲劇である。

日本史にもそういうケースは散見される。 織田信長と弟の信行、島津斉彬とその父の斉興など。 彼らは我が兄や息子を、兄や息子であるという理由でもって、正当に評価することができなかった。 彼らが単なる他人の立場であったなら、もう少し平明な目で人物を見られたろうに。

時代(情勢)にもよるだろうが、肉親とは利益がぶつかりやすい。 単なる財産の話ではなく、肉親の評価は自分の評価を相対化してしまう。 そこで私(わたくし)が発動されれば、その人は往々にして平静でいられなくなる。 私(わたくし)は、とかく審美の感覚を狂わせる。

島津斉興は、我が息子が高く評価される度、自分が見下されたような気持ちになったのだろう。 彼の心に響いたその笑い声は、殺意にすら発展する。 私は、島津斉彬の死は暗殺に因るものだったと考えている。

肉親関係を例にとったが「コイツが評価されては自分の評価が下がる」と思わせられるケースはある。 そこで保身を考えず、どれだけ事態を定量的に判断できるかが、その人の論理性なのだろう。

この文章の結論としては、他人(をはじめとするこの世界)の評価は正確であるべし、なのだが、これは言われるまでもなかろう。 そういう当たり前のことができない人がたまにいるだけ。 Twitterとか眺めててそう思った。


5/19(水)

神田優花、ニューシングル「Pieta」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Pieta

抽象的な詞ですが、全てを内包するかのような、大風呂敷広げて歌ってます。
オーケストラの響くスケールの大きな曲です。
先の5/5に配信された別バージョン(Pieta In a Bottle)も合わせて聴いていただけると嬉しいです。

Ray -reprise-

これはオケを新たにするということで、歌の方もリレコーディングさせてもらった曲で、これを機にもう少しこの曲について深く掘り下げることが出来ました。最初に録った当時もずいぶん苦労しましたが、今回もまた難しかった。
音は余白が多いほどに難しい。
少しも気を抜けない、キリキリとした緊張感を味わいながら歌いました。
表現の幅が広がる程に難しくなる、、、歌のおもしろいところだと思います。

ぜひ、聞いてみてください。

神田優花





5/18(火)

神田優花、明日発売の新作「Pieta」(全2曲)、収録曲について。


1.Pieta

フランス和声について色々考えている時期があって、その頃に作った何曲かのうちの一つ。

ドリアやホールトーン(スケール)だとか、短三度の移調とか反復とか、6thコードとかペレアス和音とか、とにかくフランス和声っぽい技法を散りばめた曲なんだけど、それなりに私のものにはなっていると思う。

こういうのについて毎度思うんだけど、一般的な商業音楽とは毛色が違い過ぎるので、どういう扱いでリリースすべきか迷った。 まあ一般的商業音楽に準じるものばかり出しても詰まらないんで、ウチは遠慮なくこういう変なものを発表していくことにしてますけど。

アーティスト(ブランド)ってのは、定番的なレパートリーが普通あって、その路線を大きく外したものを出すと客が離れる、なんてことが起こりやすいんだけど、神田優花に関しては、こういう「色んなことをやる人」という風に概括していただければと思います。


2.Ray -reprise-

10年前以上前に出したシングルのリメイク。 シングル曲なんだけど、アルバムには未収録。 今回オケも作り直してるし、歌も録り直してる。

個人的に好きな(思い入れの強い)曲だったんだけど、アルバムにも収録してないし、何となく録り直したくなった。 前のバージョンが気に入ってないとか、そういうことでもないんだけど。 本当に何となく。

ダイナミクスの広い曲なんで、キツ目のコンプとかかけてません。ウチのは大体そうだけど。 tempo rubatoっぽい曲なんで、歌い手はタイミングとか大変だったろうと思う。 編集も結構大変でした。

曲そのものは全く変えてないんで、そこについては特にコメントも無い。 ただ、転調があるんだけど、一つのフレーズの範囲で二つの調を行き来するもので、強いて言えばそこが聴きどころと言えばそうかも。 次のアルバムに(こっちのバージョンを)収録しようと思ってます。





5/17(月)

ただでさえ私は「分かりさえすればそれで良い」という人で、つまり商売人に向かない。  分かりきったことを一々踏むことに、さほどの意味を感じない。 一応は音楽商品を世に出しているので、「売ること」をタスクとされてしまうが、残念ながらその能力が無い。

世の音楽コンテンツを眺めつつ、ある程度その背景にどういうプロセスが流れているのか見えていることがある。 「こういう広告代理店経由で、こういう枠を買っているのだな」とか、そういうこと。

音楽業界に憧れていた子供の頃、テレビの主題歌やFMのローテーションとかコンビニのパワープレイが、どういう仕組みで決まっているのか、皆目見当がつかなかった。 今でも完璧に見えているわけではないが、ある程度の推測は成り立つ程度に理解している。 そして、その理解が成立しさえすれば、私はそれ以上の熱意を無くしてしまう。

ある風に投資(宣伝)したら、期待通り、あるいは期待以上のリアクションを得る人が時々出る。 これがブレイクなわけだろうけど、この機序が分かれば私はそれで良い。 無論、ブレイクできる者が稀有であることは分かっている。 私はそこで結果得られる成果に、人生を捧げられるほどの価値を感じていないのである。

私が追い求めるべきは、やはり真善美に尽きる。 誠実に創作に向き合うくらいしかない。 だから、この気分に共感してくれる人と共同作業がしたい。 金や承認を求めての音楽活動をやりたい人に、我々というパートナーは適当でない。


5/15(土)

私はK-POPに流れている、ある空気というか思想性が好きになれない。あれと私とは相容れない。 単に音楽面での技法とかなら、学ぶべき点が多くあると思っているが。

K-POPのプロモーションは成功していると言うべきなのか、若い人たちには確実に浸透している。 広告代理店を巻き込んだムーブメント作りは、ある程度功を奏していると言えるだろう。 私は別にそれに文句はない。 音楽だって商業なのだし。 ただ、その支持が本物でなければ、いずれ弾が尽きて忘れられるだろう。

K-POPアーティストは、一部の若者に(理想像として)確実に支持されている。 まあ分からんでもない。 特に女性の場合、日本の集団アイドルのようなものより、K-POP勢の方が憧れの対象になりそうだと、私だって思う。 単にK-POPの方がカッコイイのだろう。 日本のメーカーの怠慢とも言える。

私(と言うかウチの会社)は、音楽・エンタメ系の専門学校・スクールと、割と濃厚なお付き合いがある。 だから、音楽の世界を志す若者の動向はそれなりに正確に把握しているつもりだ。 今の若者のK-POP熱も、肌で感じていると言って良い。

この少子化・高校無償・大学全入の時代に、エンタメ系の学校は、生徒数が増えていたりする。 これって驚くべきことである。 つまり若者の一部は、行こうと思えば行ける大学など蹴ってエンタメ系のスクールを選んでいるということ。

そして、その若者の原動力・羨望の対象として、K-POPはある。 私はこのことについて、素直にK-POPに感謝している。 この国の退廃は、若者からエンタメへの熱を奪いかねないものだと思っているから。


ここまで言っておいて何だが、その種の専門学校・エンタメスクールの類から、(いわゆる芸能界においての)一線級の歌手・アーティストはほぼ出ない。 出てくるルートが違う。 無論物事に絶対は無いから、例外というのはあるのだが、私は一般論を言っている。 この話、し出したらとんでもない文章量になりそうなので、今回は止めておく。また別の機会に。


5/14(金)

「不要不急」と言う言葉をよく耳にする一年だった。 しかし、我々に不要な時間・経験など本当にあるのか。 愛する人と時間を過ごすことも、酒飲んでバカ騒ぎをすることも、病気に罹ることも、誰かの死に涙することも、大好きな歌を心に響かせることも、みんな大切な人生、不要なものなんて何一つ無い。

新大陸(アメリカ)の発見は、ヨーロッパに梅毒をもたらしたし、大陸側には天然痘をもたらした。 しかし、地球上にあるあんな大きな土地がいつまでも未発見のままであるはずもなく、その発見に因んだ病気の流行も、遅かれ早かれ起こったことに違いない。 日本でも鎖国体制が緩み始めた幕末の、コレラの流行などの事例がある。

この度のコロナ騒動、「水際対策がなってない」とか「ロックダウンなどのもっと強い措置を」とか言い出す者がいるが、イマイチ私には共感できない。 例えば鎖国すれば病原菌なども入ってこないだろうが、永遠に鎖国なんてできるはずもない。 ロックダウンとかにしても効果に疑問である。 まあ私はそういうことに詳しいわけではないから、知らんけどね。

ウイルス・細菌、そういうものは生態系の一部としてこの世界に遍在するものだし、対策はまああって良いとして、根絶なんて現実的でないし、そもそもそういうことをすべきであるのかごと私は疑問だったりする。

人は病気になり、回復し、抗体を持ち、免疫を獲得する。 このプロセスは学習であり成長であり進化である。 その学習は、無論ウイルス側にもあって、変異というのは一種のそれだろう。 ウイルスも我々も、日々研鑽を続けている。 それがこの宇宙というもの。

風邪を引かないために経済や社会そのものを破壊する、というのは、「ゴキブリが出たからその建物を解体する」と言うに等しい。 我々は死なないために生きているのか? だったら生まれてこない方が良い。世界など存在しなくて良い。 その方が、無駄な不快を味わわないだけ気が利いてる。

自分が存在することにも、この宇宙が存在することにも、きっと意味がある。人類は、きっとどこかに向かっている。 我々一人一人も、人生に意味があると信じるから一歩を踏み出せる。 風邪引かないために生きているんじゃない。

対策はあって良い(意味のある対策ならね)。 病気の流行も、あまり急激だと医療その他の社会体制にも支障を来たすだろうから。 ただこれは、あくまで事務処理上の効率化についての話である。 対策によって社会を破壊するなど愚の骨頂、命より健康を大事にするようなもの。 世間は、もうそろそろ正気を取り戻さないものかね。


5/13(木)

葛飾北斎って存命中、どの程度の有名人だったのだろうか。 割と真剣に考えてみた。

飯島虚心の著作が、北斎研究の基礎資料となっていると思うのだが、それにしても判然としない部分が多い。 北斎はいわゆる野の人なので、徳川将軍で言うところの御実紀のような公式な記録は無い。 生い立ち一つとっても不明な部分が多い。

とりあえず現代で言うところのテレビ・ラジオ・インターネットの類は一切存在しないから、メディアの寵児は生まれ難かったろう。 北斎に限らず、これは当時の全ての有名人に言える。

強いてメディアと言えるものがあるなら紙媒体が唯一のものなのだけど、写真の技術が無いから、顔が周知となるようなことは無かったろう。この辺、北斎は安心して江戸の町を歩けたに違いない。 歌舞伎の千両役者とかにしても、まさか大首絵なんかに本人と同定できるほどの肖似性があったとは思えず、当時には、街を歩けなくなるようなスターは存在しなかったのではないか。

古地図とかで確認したわけではないが、書肆は基本江戸中心部に寄っていた筈だ。せいぜい、少ないながらも大阪とか他の都市にもあったろうか。 (単なる文庫ではなく)市民図書館のようなものは無い。実物はおろか、そういう思想すらほぼ無い。 紙媒体は基本都市部でしか流通していなかったろうから、地方にどれだけ影響力を持ったろうか。皆無とは言わないが、影響するところは薄かったろうとは思う。

版画という手法は、知名度に一役買ったに違いない。 一点ものの肉筆画にくらべ、作品を目にする人の数が格段に増えるから。

北斎には、富嶽三十六景のような、いわゆるヒット作があるが、アートと言う思想が存在しない頃の話である。 富士山のブロマイドとしては好評であったのかもしれないが、それを描いた絵師にどれだけの注目が集まったろうか。 アイドルのブロマイドは今でもあるが、それ撮ったカメラマンなんて知られないのが普通なのではないか。 この辺り、当時の空気を肌で感じ難い。 富嶽三十六景は都市部を中心に、僻地にも(土産物等として)ある程度出回ったと思われる。

北斎は、飯島虚心の著作にて「赤貧洗うが如し」と形容されている。 実際、ある時期に唐辛子の売り子(一種のアルバイト)をしていたという記録もある。 これは「売れていない」というより、アートワークを大金に換えるスキームが当時まだ成立していなかった、ってのが多分大きくて、画家として相対的には売れっ子だったし有名人でもあったと思われる。 十一代将軍徳川家斉とのエピソードなどが残っているし、存命中から有名人であったのは間違いないと思う。

現代の売れっ子タレントとかそういうのに比べれば、有名度・知名度も低かったろうし、その質もかなり違ったものだったろう。 ただ、今に比べれば話題そのものも少ない時代だったろうから、そういう意味では相対的にトピックスバリューはあったとも思える。


5/12(水)

広瀬沙希、ニューシングル「nameless」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


「nameless/お風呂場のネコ」

実は自分はここに居てはいけない人間で、それを必死で隠して生きている。
そんな気分に陥ったことはないでしょうか。
取り繕い、嘘を吐き、整合性を取るために自分の思考や行動さえも変え…、そしていつしか本当の自分を見失う。
ネット上で毒を吐く"nameless"さんたちもきっと、皆自分や自分の居場所に不安を抱えているのではないでしょうか。

「お風呂場のネコ」は、これまでの私とは違うイメージになったでしょうか。
結局のところ、一番言いたいことは1番の最後の「お風呂場のネコは笑ってる」ということです。
笑っててくれたら、幸せでいてくれたら、それでいいんだよなー。と歌っていてしみじみ思いました。

真逆の感情ではありますが、どちらも振り絞って歌いました。ぜひ、聞いてみて下さい。

広瀬沙希





5/11(火)

刺激の少ないマイルド(平板)なPOPS、を作ろうと思って机に向かったが、できない。 考えることが苦痛なくらい。 私に向かない作業なのだろう。

定番的なコード(和音)があり、その定番的な進行がある。 そこに定番というか、齟齬の無いスケール上に旋律線を書く。 詰まらん曲の一丁上がりである。 こういうのを何百書いたところで、それはほとんどゼロと同じ。

つまらない曲はつまらない曲なだけに、作ろうと思えばいくらでも作れたりする。 作曲と言うのが、かなりの部分知識だけでやれるからだ。 しかし、作る意味の無い曲を作ることに私は苦痛を覚えるようだ。

つまらない曲というのは、「売れそうにない」とか「フックが弱い」とか、そういう曲のことではない。 本当に芸術という作業において必要の無いもの。 必要性を見出す能力、というのも才能なのでしょうけどね。


5/10(月)

江戸幕府(徳川政権)は、同時代の世界中のあらゆる体制と比較しても、十分に誇れるような精緻な体制であったが、それですら二百数十年しか持たなかった。 現体制は明治から数えても百五十年くらい。戦後からなら八十年も経っていない。 随分綻びの早い。

ほとんどの現代人は、現体制に終わりが来るとは努々思うまいが、それも仕方ない。 例えば延喜年間や元禄年間の人らだって、当時の体制が無窮であると信じて、決して疑わなかったろうから。 その終焉を想像できたはずもない。

例えば鎌倉幕府の成立をリアルタイムで見ていた大多数の人らは、新時代が到来したこと自体理解していなかったのではないかと、私などは疑っている。 後世それが画期とされることは、必ずしも同時代人だからとて知るわけではない。 もしかしたら、今も一つの時代が終わりつつあるのかもしれない。

鎌倉政権の成立は、当時の律令制、とりわけ土地制度の矛盾に端を発している。 「荘園」とかのキーワードで調べればすぐ分かるはずだが、脱法行為が横行し、その矛盾が体制を揺るがした。 当然次代の鎌倉幕府は、堅牢な土地制度・政策を持った。

ただし、鎌倉時代が到来したからといって、律令が廃止されたわけでも、その日を境に大多数の民の生活が劇的に変わったのでもない。 画期というのは、あくまでも後世からの視野にある。

明治維新は、主に薩長による倒幕によってもたらされたのだが、この諸藩の存在という、封建制の脆弱性こそが革命に繋がった。 当然ながら明治政府はその脆弱性を補う中央集権体制を布く。

現代社会の崩壊も、当然ながらこの社会の脆弱性に由来している。 マスコミが愚民を煽ることで社会が崩壊するとすれば、それはマスコミや愚民によって右往左往する社会の崩壊をも意味する。 それは即ち、そうでない世界の萌芽と考えることもできる。 私はそうなると信じているし、そうならないなら、この国は滅びる運命なのだろう。

まあ体制が崩壊したところで、日本列島が消滅するわけでも日本人が全滅するわけでもない。 崩壊に伴う混乱は不可避だろうがね。


5/9(日)

母の日だそうで、たまたま通った駅の花屋には、大行列ができていた。 カーネーション買うのが悪いとは言わないが、この国・民族が弱っているのを感じざるを得ない。 真剣に生きていたら、人生は「お母さんがどうした」どころでないはず。


作るということについて。

私は常日頃曲を作り続けているから分かるが、作ることとは、作る(為す)・作らない(為さない)より深い階層にある。 これが分からない人に創作は難しい。

削ることこそが創作であるケースもあるのだが、削ることは(作ることより)難しい。 成果が見え難いから。 仕事をすることと仕事をした振りをすることの区別が付かない人は、ここが見えていないのだろう。

今の政治家のやっていることは、ほとんどこの「作ること」である。 仕事している様子を見せないと、立場が危うくなると思うのだろう。ポピュリストの限界。 実は不作為こそが最大の貢献である可能性など一顧だにされない。


それにしても一連の緊急事態宣言だの蔓延防止云々は、きっとこの先高くつく。 単に増税となって返ってくるとかそういう話ではない(増税は、それはそれで不可避だろうが)。

政治家や官僚などの公務員や、年金生活者・医療関係者という準公務員らが、民間人である飲食業者を(薄弱な根拠にて)徹底的に締め上げた。

効果さえ定かならぬ緊急事態宣言とやらが乱発され、基準すら曖昧なまま延長され続ける。 おそらくこの先この国で起業を志す者はさらに減る。 だって、為政者らの恣意的な判断で、民業は如何様にも蹂躙されうるということを知ってしまったから。 愚かなことだ。


5/8(土)

大阪の知事が会見が何かで「コロナを軽く見ている」と発言したらしい。 ある種の飲食店に対してらしいが、彼の方こそ飲食業を、経済を、延いてはこの世界を軽く見ている。 現実感覚の希薄さというのはそういうこと。

コロナはそんなに恐ろしい病気なのか。 インフルエンザをはじめとした、他の風邪・感染症と比較すれば自明であるはず。 あらゆるデータはそれを否定する。 彼らの施策のほとんどがウイルスそのものには奏功せず、経済・社会を破壊し続けているのは明らか。 ナントカ宣言とかって、人間の生み出したものは、人間の生み出したものを破壊することを得意とするのかも。

経済を破壊された結果、日常生活を破壊される多くの人らのことが、イマイチ想像し難い世界にいるらしい。 やはり彼は、この世界をなめている。 現実感の喪失とはそういうこと。

常在の菌・ウイルスだってあるのだから、感染そのものにさしたる問題は無い。 無症状・軽症者など、社会の運営上、ほぼ無視して構わないはずだ。 ウイルス・細菌や、我々すら含んだ生態系というのは複雑で、人為で制御できる部分などおよそ高が知れている。 飲食店の営業時間短縮ぐらいでウイルスを根絶できるはずもなく、おそらく影響すらほとんど有意には認められないだろう。

予想通り、変異株がどうだとか騒いでいる。 ウイルスの変異が、まるで新型コロナ特有であるかのようだ。 宿主を殲滅するウイルスは、生物としては低能である。寄生を生存手段とするのだから。 変異とはより生存に有利な形態を獲得するためのもので、おそらく大半は「弱毒化」を意味するはずだ。

「変異株は、より強い感染力を持っている」とかいう。 私はそりゃそうかもな、としか思わない。 生存を磐石にするためには、感染力を強化し、毒性を弱くするのが合理的だろうから。

生物は、この宇宙が数十億年かけて作り上げたもの。 高が数千年の人知で制御できると思うことが間違っているのかもしれない。 それを踏まえた上で、できるだけ効率的な対策を模索するのが、本来の政治や医療ではないのか。


5/7(金)

昭和の終わり頃のPOPSを聴いていた。 主に男性ソロアーティスト、それ以外もちょっと聴いた。 昔は大した分析もせず(できず)に聴いていたが、無論今の私は成長している。 感想も子供の頃に聴いたままではない。

正直、音楽的に面白いと思えるようなものは少ない。 歌唱を含めたパフォーマンスとそれをやれる精神、それに加え音楽作品を作るための諸々の技術、が一人に同居することって有り難いのだろう。 別に音楽に限った話ではないけど。

当時量産されたパッヘルベルのカノンみたいなコード進行の曲、どれを聴いても聴きやすいと言えばそうだが、あれを作り続けるモチベーションを維持するのは(少なくとも私には)難しい。 鑑賞には、僅か三十一(俳句に至っては十七)文字で作品を完結させねばならない和歌の世界なんかと、似たような態度が必要になるのだろうか。

ああいう感じのものを、一つくらい作ってみようかしらと考えている。 新たな音楽的な発見とかはあまり無さそうなので、キャッチボールする感覚だけど。 まあ今は比較的時間があるから良いか。


5/6(木)

この国は一度滅びないといけないのかもしれない。 大日本帝国が日本の焦土化を伴って瓦解したように。 学習できない人は、一旦焼け野原にされないと分からないらしい(分かっても暫くすると忘れるかもだが)。 人間、とりわけ日本人というものが、こういう人らである以上、これは嘆いても仕方ないこと。

この国も例に漏れず、神話と歴史はクロスフェードしているのだけど、そのいわば神代に、日本(大和朝廷)は多くの異民族を征伐し、服属させた、と記紀や宋書などにある。 細かい部分については脚色があろうが、概ね史実を神話化したのではないかと思われる。

つまり歴史上、この地においてだって多くの国(集団)が滅びた。 近世に至ってなお、アイヌや琉球などは、日本から見ると半ば(近代的広域国家とは言い難いものの)異国であったが、それらは日本の近代化に伴って雲散霧消する。 要するに、その歴史の変動に耐えられる体制でなかったということ。

日本人がこれだけ愛して止まない天皇が、(かつて日本でもあった)お隣の韓国では憎悪の対象となっている。 民族・国家、その支柱となっている思想にこれだけの異同があるというのは、それが滅びうる可能性を示唆する。

ユーラシア大陸では、かの有名なモンゴル帝国のために殲滅させられ、その後全く歴史に登場しなくなった国家もある。 気候変動によって滅びる種があるように、それらは全て、滅びぬための十分な条件を持ち合わせていなかった。

人類史上の悪夢と言うべきモンゴル(チンギス・ハーン)の台頭は、人間(とりわけ西洋人)に「人類とは何か」を考えさせたのではないかと思っている。 「良心」「理性」こそが人間の本質で、そこへ気付いたことが、キリスト教への信仰を強固にした面もあるのではないか。 この辺り検証しようもないが、宗教改革の一遠因にくらいなっていたりするかもしれない。

近代国家と言っても、その核は人々の心。 その心が曇れば国は滅びる。 結局今の騒動も、愛や夢の欠如、結果としての保身至上主義が招いている。 政治家は政治家というより選挙家である。 政治が悪いのではなく、民度の限界。


私たちは、この社会が焼け野原になっても、そこでも粛々と音楽制作を続けるだろう。 困難は、乗り越えるべき課題に過ぎないから。無いに越したことはないけど。


5/5(水)

いまだに緊急事態とかいって世間が慌しいのですが、我々は黙々と作品をリリースしていきます。 神田優花、ニューシングル「Wild Strawberry」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Wild Strawberry/Pieta In a Bottle

Wild Strawberryは、童話とか絵本のような1曲。
いつもとまた違った雰囲気の曲なので、歌い方も語尾を跳ねたり、声も甘さを意識したり、1音1音細かく歌にしてます。音符のおたまじゃくしたちを感じていただければ嬉しいです。

Pieta In a Bottle

都合上こちらが先に配信になってしまったけど、5/19に出す、Pietaのもう一つのバージョンです。
なので、どうもコメントしづらいですが、Pietaが"動"なら、こちらは"静"。どこまでいっても夢の中のような、内へ内へと向かうイメージで歌っています。

ぜひ聞いてみてください。

神田優花





5/4(火)

神田優花、明日発売の新作「Wild Strawberry」(全2曲)、収録曲について。


1.Wild Strawberry

フランス和声について考えていた時期に作った曲。 Pietaって曲と同時期に(ほとんど同時進行で)作った。 フランス和声というけど、要はそれを含めたクラシック音楽・西洋音楽準拠の作品。終止部分とか顕著だけど。

フランス和声っぽい技法を取り入れた曲なんだけど、それよりも何よりも、ピアノの(16分の)フレーズに試行錯誤した記憶がある。 フレーズそのものでなく、音色に。

強タッチのピアノ(アルペジオ)が欲しくて、生音録る気力も無かったんで、ベロシティー値とかで対応しようと試みたんだけど、どうも満足行くものが出来なくて、結局この曲用にサンプル探すことになった。 その甲斐あって、割かし納得度の高いものが作れたと思ってます。 二分半くらいの短い曲です。


2.Pieta In a Bottle

Pietaって曲を作った後に、オケの音色を差し替えた。 アレンジの雰囲気が変わってしまうので、ボーカルも全面的に録り直した。 ハーモニーのトラックは端折った。 あとコーダが半分になってる。

チープな家庭用キーボードの音を使ってオーケストラを表現してみようと思って。 その程度の、大した動機でないわけだけど、せっかく作ったんで公開することにしました。

ちなみに原曲であるPietaの方は、再来週にリリースされます。 別バージョンだし、時期的にも後に録ったものなんだけど、諸事情あってリリースが前後してしまった。 たまにこういうこともあります。





5/2(日)

野党は「ゼロコロナ」などと実現性皆無のスローガンを掲げる。 ある人は「コイツらにだけは政権任せられないな」と思うだろうし、私も基本的には同じ気分なのだが、どうも野党というのはそういう性格を持つものらしいですね。

関ヶ原で家康が掲げたのは「反豊臣」ではない。 あくまで豊臣政権の家老として、主家の御為、君側の奸を除くというスタンスであった。 戦勝後の彼が豊臣家をどう扱ったかはご存知の通り。

幕末など分かりやすい。 いわゆる幕末期、世論は尊王・攘夷で沸騰していた。 狂信的な志士たちがそれを主張するのみでなく、日本人はほぼ一人の例外なく、そういう思想を持っていた。 イスラム教徒がアラーを信奉するように、日本人にとって空気のように当たり前のことだったと考えて良い。

だが、それが現実的に可能であるか、は別問題だった。 この辺り、時の為政者達には頭の痛い問題だったろう。 (征夷大)将軍と言うのは、そもそも夷(えびす=異民族)を征する事を職掌としている。 夷狄を攘(うちはら)うことは、いわば義務であった。

「勤皇VS佐幕」などと歴史を単純化してしまう人がいるが、無論現実はそんなに単純でない。 上に述べたように、勤皇も攘夷も、当時の日本人には常識であった。ただ、それは理想であって、実際に政権を運営する者らにとっては、頭痛の種だった。

征夷を職掌とし、表向き攘夷の方針を掲げる幕府。それを手緩いと突き上げるファナティックな世論。その揺さぶりの代表的担い手である諸藩・志士たちは、いわば現代でいうところの野党である。 与党も野党も基本的に同じ主張をし、(方向性でなく)熱量を競っていた。

後の明治政府の開国路線を見るだに、当時の攘夷は多分に政権揺さぶりのための方便だったと見て良いかと思う(無論、ファナティックな攘夷原理主義者、といった例外も無数にいたろう)。 野党というのは、いつの時代もそういうものであるようだ。これは生物学的現象なのかもしれない。

当時「攘夷など現実的でない」という正常な感覚を持つ者も(おそらく大量に)いたが、その思想は歴史を動かす力をまだ持っていなかった。 また、基本的にそれらの存在は在野であった(勝海舟のような例外はあるが、彼は基本的にその本意を胸底に秘めていたし、そもそもあのくらいの下級官吏を体制側とすべきではなかろう)。


コロナ騒動について考えている。 緊急事態宣言を要請する首長らと、それに唯々諾々と従う政府。 野党は政権を批判はするが、むしろ「ゼロコロナ」などと実現性皆無の無理難題を押し付ける。 野党とは、いつの時代もそう。「政権への嫌がらせ」こそを命令とするらしい。 私は基本的に「その人が何を言っているか」でなく「何を考えているか」という、動機の部分から諸々を判断するので、ゼロコロナ自体はさして気にならない。


5/1(土)

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ボーカルパートの諸々の処理をAIベースで行ってくれるプログラム、とやらを期待を込めて使ってみた。 マスタリングの諸工程の中でも、ボーカルの処理はとりわけ手間がかかる(あるいは最大かも)。俄然期待も膨らんでしまう。

試しに使ってみての結論。使えない。 特に期待したピッチ補正の精度が全く実用レベルではない。 今まで通りの、グラフィックベースにての手作業での補正は不可避と見た。 その上で一種の(Auto-tune系の)エフェクトとしてなら使えなくもないかと思った。 残念。


4/30(金)

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儒教は古を尊ぶ。端的には孝という徳目に集約される。先祖崇拝などもこの孝から出たものだろう。

述べて作らず、父祖の道を改めず、という感覚が、ある時代の儒教世界の停滞に繋がった。 が、儒教世界(要は中国)が世界最高水準の文明であった時間も(割と長く)ある。 つまり、賞味期限が切れた。

今の日本は少子高齢化が深刻で、シルバー民主主義とか言われたりするが、民主主義と言うのはそういう脆弱性を本質として持っている。 膨れ上がった赤字国債など、その象徴とも言えるが、つまり上の世代は常にツケを後世に押し付け、逃げ切ろうとする。 この気分の横溢が、少子化を後押ししているのかもしれない。 だって、生まれるのが後であればあるほど、ある面でそれは貧乏クジなのだから。

また「一人一票」を原則とするので、人口面でのコア層を騙してしまえば如何様にでも国を操作できる。 だからマスコミこそが最高権力となり得る。 そこさえ篭絡すれば良いというのが、私のような者にでも分かるほどに自明であるが故に、マスコミにはある種のリソースが集中する。 日本人が愚かであるというのもあろうが、民主主義の欠陥と言えるかもしれない。

政治・経済・学問・エンターテインメントなど、あらゆる分野は侵食されているに違いない。 私が音楽業界を眺めていても感じるもの。 アメリカとかでも当然同様の腐敗は生じている、と考えて間違いない。

儒教と同じく、民主主義(とりわけ選挙制度)は制度疲労を起こしている。

では現在世界を席巻しつつある中国のような体制が、それに取って代わるのか、と言うと、私はそうはならない(あるいはなったとしても期間は短い)と踏んでいる。 何故なら、人類が聡明な生き物であるから。 神はきっと、ある思想を好まない。


4/29(木)

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今我々は、未曾有の惨事に遭遇している。 歴史というのは往々にして、最中にいる時、その重大さに気付けないもの。 無論コロナ騒動のこと。 これにくらべれば、例えば震災やオイルショックなどかわいいものだったと思える。

私が未曾有というのは、コロナウイルス感染症そのものではなく、それに対して日本国民が起こした集団パニックのこと。 ここまで科学も論理もヘッタクレもない集団発狂は、歴史上類例を見ない。 御伽噺にすら無い。

憂鬱な気分で事態を見つめているような正常な人たちも、それはそれで相当数いるであろうから、私なりにも少し前向きに捉えてみたい。

国政や自治体の長といった、本来先導者たるべき者たちに、正常な判断力が欠けているというのは、ここに至っての悲劇ではある。 しかし歴史というのは、そういう個人の資質なんて些細なことで決定付けられるわけではない。

徳川幕府体制の存続を望む者から見たら、15代将軍の人選は最悪だったろうが、後世から見ると、彼は(その意思に関わらず)動乱の被害を最小限に収めた立役者でもあった。そして、革命を経験しながらにして国土が荒廃しなかったことが、次代(新体制)への資産となった。 ここに来て最悪の人物たちが中枢にいることは、歴史が奇貨とすべき何事かなのかもしれない。

私が、この事態を経験した日本人に将来望むことは、「本当の社会悪の原因となっているもの」の存在に気付くこと。 人類史には、イデオロギーだとか人種だとか、様々な対立軸が生まれたが、「最後の敵」が何なのか、そろそろ気付くべき。

それはあるタイプの認知を持つ者のこと。 脳機能と言ったハードウェアに由来する場合、分かりやすくそれは絶望的であるが、後天的なものであっても、認知は概ね不可逆で、教育で矯正することは至難である。

思考の要所が狂うと、人は共感性が持てず、この世界から搾取することのみしか考えられなくなる。 依存・威嚇・恫喝など、表面的な形態こそ様々だが、彼らに共通することは、与える機微を持たないこと。 今の都知事などはその典型と言える。 彼女は人類の敵である。

彼女は圧倒的得票、つまりは都民からの信任を背景に知事に就任したではないか、と思われる向きもあろう。 しかし、それは要は都民が「騙された」だけ。 オカマは女より女らしい。 この世には、信用すべからざる人物であればあるほど、周囲からの輿望を集めるケースがある。 これも人類の知見の不足から来る。 私がこの事態が教訓たることを望む所以である。

象徴的人物である現都知事を槍玉に上げたが、無論その人だけの話ではない。 この騒ぎの発生源であるマスコミの背景に何があるのか。 そのアプローチが、要は「良心感覚の欠如」に起因していることは疑いない。 神がいずれ審判を下す。

「人類の敵」たちは、その正体を見破られるまでが華、本質を見抜かれたら最後である。 何故ならそれが本質であるから。誤解による決裂であれば、それは(誤解なのだから)必ずや修復されるが、本質を見抜かれたのなら、その信頼関係の破綻は、決して元の鞘には戻らない。

長かろうが短かろうが、本質が露呈するまでの限られた時間なのだから、今はその姿・振舞いを冷静に眺めていようと思っている。 きっと歴史・後世は、正しい評価を下すはず。


4/28(水)

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神田優花、ニューシングル「Bad Rose」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


Bad Rose

フラメンコの息遣いを感じてもらえるように、ブレスや吐息もいつもより意識して、流れを途切れさせることのないように心を配りました。
歌ってるときは、ずっとひるがえる真っ赤なドレスの裾が目の端にちらついてました。
踊ることはできないけれど、ずっと心ではステップを踏みながら歌ってます。
ぜひ、神田優花のフラメンコ、聞いてみてください。

Duneは詞に情景がたくさん描かれていて、美しい絵画のような曲です。
手で触れられそうで届かない、そういうもどかしさや儚さを表現したかった。
2曲とも雰囲気のあるものに仕上がったと思います。
これから、新曲の配信続きますんで、ぜひぜひチェックしてください。

神田優花





4/27(火)

神田優花、今年初めてのリリースになります。、明日発売の新作「Bad Rose」(全2曲)、収録曲について。


1.Bad Rose

単調のV(7)を軸にしたフィリジアンというか都節というか、そういう匂いを醸した曲。 いわゆるフラメンコを下敷きに、POPSを一曲書いてみた。 編成はナイロン系のアコギを中心に、リズムにはカホンと、ハンドクラップとかカスタネットとか。ベースもアコースティック・ベース。 パート数は少なくて全体的にシンプルです。 あと短い。

間奏に当たる部分にフットステップの音を入れてるんだけど、要するに「ダンス」をイメージして欲しくて。 あの部分で踊り子の姿をイメージできるタイプの人は、ウチの音楽を楽しむのに向いていると思います。

普段やらないタイプの音楽については、楽理のようなものについて、調べを入れることが多いんだが、この曲についてはあんまし覚えていない。 リズム(コンパス)とか、単なるカスタネットのフレーズとか聴き返しただけでも、一応の様式には沿っているんで、全く調べなかった筈はないけど。 フラメンコとかそういう西洋音楽の一亜種のようなエスニック音楽って、そこまで特殊なものでもないんで、そんなに記憶に残らなかったのかも。


2.Dune

これもフラメンコというほどではないにせよ、そういう匂いのある曲。 アタックの強い弦(バイオリン)の音が欲しくて、色々と試行錯誤した記憶がある。

これ作ってた時期、アイディアが溢れてしかたなくて、とにかくアレンジにも小ネタを大量に投下している。 例えばAメロの終わり(次のブロックへの繋ぎ)部分とか、それなりの技巧を駆使しているのだけど、まあ曲作るような人にしか分からないかも。





4/25(日)

ギターのスライドをサンプリングした音と、平板なノート(サステイン)をピッチベンドでスライド様に音程変化させたもの(無論後者もサンプリング)、両者を聞き比べると、なるほど確かに違うといえば違う。 でもある部分においては同じと言えなくもないほどに酷似している。 これは、私が音の何(どの部分)を聴いているのか、を知るよすがになる。

音楽を聞くというのは認知そのもので、どう聞こえるか、がその人の正体である。 芸術作品を作り続けるというのは、要するに自分の正体を探すことだとあらためて感じさせられる。



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先週、代々木アニメーション学院東京校(水道橋)に行ってきました。珍しく(でもないが)昼間の仕事だった。

あそこには割とよく行くんだけど、今回はアニソン・アーティスト科の授業にお邪魔してきました(肖像権とか昨今うるさそうなんで、生徒さんらの顔の分かるような写真は上げません。悪しからず)。

あの中から将来一緒に仕事をする人が出てくるのかもしれないと思いつつ、彼らの歌を真剣に聴いてました。 こういうご時勢に、歌なんて歌って生きて行こうと思った彼らの気分の明るさを分けてもらえた気がします。


4/24(土)

さだまさしさんはバイオリン奏者だそうだが、なるほどそれらしい曲(旋律)を書く。 竹久夢二が詞を書いたという有名な「宵待草」、あれも作曲者はバイオリン弾きなのだが、聴けばそれと分かる特有の雰囲気を持っている。

具体的に言えば、一々の音符の長さ(ゲートタイム)、アタックの緩やかな立ち上がりなど、それを感じ取れる点はいくつかあるが、私が今考えているのは、人は楽器というフィジカルなものに思考を左右されてしまうということ。

単音楽器(専門)の奏者は、和声を意識するところが薄いから作曲には向かなかったりするし、ギターのように最大同時発音数の少ない楽器では、テンションを含むような複雑なコードが書き辛い。 ことほどさように、人はphysicalityの束縛から逃れがたい。

それは即ちイマジネーションの補強材料でもあり、また足枷でもある。 作曲という作業の初動において、その補強材料が必要なのはいうまでもないが、芸術家はどこかの地点でそれを捨てる必要があるのではないか。


4/23(金)

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ゲーム(スマホアプリ)を弄っていて思っていたのだが、私は「難しすぎるゲーム」に遭遇すると、軽い落胆を覚える。

困難に対して子供が癇癪を起こすような気分とは全く違う。 私はある種類の難しさに「作りの粗さ」を感じてしまう。 ゲームなんて、難しく作ろうと思えば際限なくそのようにできる。 適度なバランスを保つのが難しいのである。

無理ゲーとか言われるものを見ると、「テストプレイすら十分に行っていない」という、作り手の不誠実さというか、無能さを感じずにいられない。

私は任天堂の初代ファミコン世代なんだけど、当時のゲームにはそういうのが多かった。 名作と言われるようなゲームにそのようなものは無い。 難し過ぎるゲームがいまだにあることに、私は軽く失望してしまう。 学習しましょうよ。


Difficulty(難しさ)というのは、それ自体が難解である。平面的概念でない。

昔あるメーカー製の「テトリス」をやっていたら、そのゲームは「画面中央で展開されるテトリスをプレイしながら、画面下部にあるキャラクターを動かして別のプレイヤーの邪魔をする」という仕様になっていた。 つまり、「ゲームをしながら別のゲームをせねばならない」という設定。

「テトリス」はポピュラーなゲームなので、独自性を出したかったのかもしれないが、当然マトモに操作できるわけがない。 開発者は「難しさ」の意味が分かっていないのである。

私が失望する「難しさ」とはこれのこと。 要するに、開発者の言語力の不具合によって(図らずも)生じている難しさ。


4/22(木)

そう言えばスチール撮ったりしてました。

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また緊急事態宣言が発令されるらしい。 いい加減にしてくれと言いたくもなるが、私がそれ言っても詮無いこと。 どこが緊急事態やねんと言う気分は拭えないが。

Yahooだったかの世論調査では、また75%くらいの人が発令に賛成しているというが、どういうことだ。 私の周りに賛同者はいない、とかそういう話でなく(実際いないが)、その世論調査の特設ページ直下のコメント欄にも反対意見が溢れ返っている。 あれで圧倒的多数が賛成っておかしくないか? 私は自身をあまり陰謀論に傾かないタイプだと思っているが、あれは怪しいと感じる。

しかしまあ、また数兆円規模の経済的損失が出るのだろう。頭が痛くなるな。 超過死亡マイナスのこの状況に、社会が崩壊していくという。

ついでだが、今後コロナ関係の死者は増加するだろう。 だって万単位の超過死亡が出てしまったのだもの。 それって「本来なら死んでいたような人らが首の皮一枚で生きている」という状態。そんなのが市井に溢れ返っているのが現状なのだから、きっとこれから死亡例は増える。 そしてまたそれを誰かが騒ぐ。


病気とかって単純でない。 風邪一つとっても、構成要素は複合的だ。 ある風邪が流行したが故に、干渉で別のウイルス感染が激減する、ということだってある(コロナに対するインフルエンザはまさにその状態)。 家で自粛すれば外で風邪もらってくることは減るかもだが、家族にうつされるかもしれないし、自粛のストレスが精神を病ませるかもしれない。運動不足による筋肉の萎縮が、老人などの寿命を縮めることだってあるかもしれない。

が、家に篭ってるんだから交通事故に遭うことはなくなるかも。 「金より命」とか言ったところで、経済苦が自殺を誘発することは統計上ハッキリしている。 物事は単純でない。

「超過死亡マイナス」というのは、何にも勝るエビデンス。それが答えである。 もう騒ぐ必要など全く無い。


4/21(水)

川本比佐志、ニューシングル「Distant Days」、本日発売です。 以下、アーティスト本人からのコメント。


POPなメロディーの聞きやすさとジャズ特有の少し尖ったスリリングな部分も失わないようにと考えながら作曲し演奏いたしました。
二つの相反するものの融合ですが日々試行錯誤しております。

川本比佐志





4/20(火)

川本比佐志、ニューシングル「Distant Days」、明日発売になりました。 今回、カップリングは、前回のシングル曲(インスト)に歌を乗っけたものです。 下は今回のゲストボーカル(&作詞)のMIUさんから。


初めまして。MIUといいます。
今回、記念となるこの作品に作詞とゲストボーカルで携わることが出来てとても嬉しく思います。
作詞はほとんど初めてだったのでいろいろ苦戦しましたが、今の自分の素直な気持ちを歌詞と歌に込めることが出来ました。
少し落ち着きたい時に聞いてみて欲しいです。

MIU





4/18(日)

昨日の続き。 非譜面的音楽について。

故人だが、井上大輔という作曲家がいる。その人の曲について、今考えている。 本人サックス奏者だったというから、最低限の譜面は読めたはずだが、曲はあまり譜面的でない。 どうしてかは分からない。あるいはサックス(のような吹奏楽器)のアタックの弱さに起因するのかと思ったりしたが、何れにせよ作曲時にスコアを書く習慣は無かったのではないか。

非譜面音楽の特徴は、昨日挙げた旋律線(主旋律)の譜割りだけでなく、拍節・楽節構造や、ピッチエンベロープなどにも現れる。 つまり、一般的な作曲家は、曲想を都度譜面化することによって整理、四捨五入してしまっている。 だからある部分は画一的になる。 事務処理の都合上、商業音楽には向くはずだが、同時にある面白さは削り取られる。

スコアを書かない音楽家は、西洋人にも当然いるはずだが、西洋音楽という体系を作り出してきた民族の血が流れているからか、私の言う非譜面的音楽というのはあまり見られない(HIP HOPのようなものはとりあえず除く)。 血が云々というのは半分冗談としても、言語は関係しているような気がする。

非譜面音楽を書こうと思っている。 今までもそういう発想を(フレーズレベルで)取り込んだ曲は書いたことがあるんだけど、もっと大胆に取り入れたい。 新たに読み取れたポイントも多く、一曲に集約するのは難しいから、これから数曲はそこをベースに作ることになろうか。 それにしても、数ある非譜面音楽作家の中でも、宇崎竜童さんはとりわけ面白いな。


4/17(土)

宇崎竜童作曲の、山口百恵の一連の作品を聴いていると、「これはメロディーを譜面(五線譜)で作っていないな」と感じる。 直感的なものだが、多分当たっていよう。

世の中には、(西洋音楽的)スコアを書かない音楽家もいる。 別に作曲に記譜能力は必須でない。 ただ、実際にその楽曲が完成する過程で、記譜能力を持つ何者かの手が挟まることが多く、結果上がる音は西洋的・五線譜的になりがち。

その「何者か」というのは、必ずしも編曲家だけでなく、採譜・写譜屋だとか、作詞家、あるいは歌い手本人などであるケースもある。 と言うか、それだけ多くの人の手(というか思考)を経由する以上、譜面的でない音楽が、その非譜面性を最終的な完成まで保つことは困難かと思われる。

私はその「譜面的でない音楽」について今考えている。 そういう旋律を書きたい。 しかし上の例のような場合、おそらくはラフな録音物の形で、歌い手に曲を伝えているかと思われ(作詞家が「身内」という事情も深く関わっていると思われる)、作曲者が歌い手を兼ねることが重要になっている。 私の場合はそういうわけに行かない。

やはり私があれを真似るなら、結局のところアレ的な旋律を譜面で書くしかないかと思われる。 ふんだんに「溜め」を入れ、一般的でない音型・○連符の類を多用する。 歌い手は面倒臭かろうな。


4/15(木)

つい先ほど落としてみたピアノのフリー音源がある。 非常に丁寧なサンプリングで、使う価値があると思えるもの。 無料であるところも含め、素晴らしい。

先日納品したばかりの、6月リリース予定の新曲で、バッキングがほぼピアノのみ、ってヤツがあるんだけど、上の音源入手した後だったら、そっち使ったかもしれない。それぐらい音が綺麗。 まあ今後使うことがきっとあるでしょう。



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福島第一のトリチウム放出について。 全然詳しくない私だが、あらためて調べてみた。 結論としては、全く問題ない。

興味深いのはIAEAやアメリカなど、国際的にも問題ないと評価されている行為に、中国や韓国が批判的であるところ。 散々言われているが、韓国の原発からは、遥かに大量のトリチウムが海洋放出されているという。 それにしてイチャモンつけてくるとは良い度胸だが、これはもうお国柄と言って差し支えない。

韓国の場合、反日が政権の支持率に直結してもいるから、些細なことでも因縁をつけ絡んでくるのは殆ど織り込み済みと言えるが、要するにこれは、日本を弱体化させようという意志の表れなのだろうと思う。

日本が優位性を保てる数少ない分野である原発、これを風化させるため、ありとあらゆる手段を講じてくる。 中国は無論、韓国はもう敵国だと見做して良いかと思う。

手っ取り早い方法として、マスコミ経由で「放射能デマ」を流布することがある。 しかし、マスコミに外国資本が深く食い込んでいることまで周知となってしまった今、あの手の手法もいつまで持つやら。


4/14(水)

この騒動の「仕掛け人」と言えば大袈裟かもしれないが、事態を歓迎している手合いはいるに違いない。 彼らからしても、今の日本人の愚かさは予測を上回るだろう。

仕掛けられた罠に嵌るのみでなく、そこで自らパニックを引き起こし、相手の予想を遥かに超えたダメージを食らう者、これこそが愚者。 私がその仕掛け人とやらだったら、今の状況には、背筋に寒気を覚えるような、ある意味空恐ろしい気すらしたろう。



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「偉さ」について。

単に指示系統の上流にいる人を「えらい人」だとか、いい歳して本気で言っている人を見かける。 彼は偉さの意味が分かっていない。

彼に偉さの意味が分からない理由は、彼が偉くない(偉くなったことがない)からだろう。 人を愛する機微を持たぬ者に「愛」という言葉の意味が分からないように、偉くない彼には「偉さ」が分からない。

死ぬまでの限られた時間の中で、偉さの本当の意味を知りたければ、一度で良いから本気で貢献してみたらいい。 偉くなれば、きっと本当の偉さが分かるはず。


4/10(土)

親に小遣いをいくら前借りしようと、子供は我が家が破綻するなどと努々思わない。 家計など子供の知ったことではない。 ただ、その子供の認知がいつまでも抜け切らない大人は、人格に障害があると認定される。 修身は治国平天下に至るもので、要するに身持ちを崩した人々こそが天下を乱す。 今のこの国の衰退を見ていて思った。


フジテレビの外資規制違反の一件が話題になっている。 放送法の該当条文を素直な国語力で読む限り、停波というか免許取り消しのような処分は不可避であるかのように思えるが、総務大臣はこの件に関し、早々に「不処分」の方針を表明しているという。

確かに、フジテレビクラスの放送局が認定取り消しなんてことになったら、この国と言わず、世界の民主主義国家において空前の事態となろう。 しかし、そうしないために解釈を曲げるのであれば、法律は空文化する。法治の危機だろう。 因みに、フジテレビ以外の局も、同様の問題を抱えているのではないかと言われている。

まあ私はこんなことに詳しくもないし、どんな帰趨をたどるのかも予想がつかないが、この件によって「マスコミは外国資本に深く侵食されている」ということが周知となったのは目出度い。 彼らの言動を逆算するよすがにはなろう。

アレクシス・ド・トックヴィルは、マスコミ(新聞)を第四の権力と言ったが、今の日本では最高の権力と言っても過言でなかろう。 政権はテレビ局一つ潰せないが、マスコミは総理大臣の首すら挿げ替えられる。

もうハッキリ言ってしまって良いと思う。 マスコミとは、要するに「反社」であると。 情報機関もスパイ防止法もなく、あまつさえ憲法に軍隊の非保持を謳っているという暢気なこの国は、つまりはマスメディアさえ押さえてしまえば如何様にでも操れる。 反原発キャンペーンしかり、現在進行中のコロナ騒動しかり。 そこに強い意思が働いていることを前提とすれば、理解にも難くない。

細菌・ウイルスは脆弱性を温床とする。いわゆる感染である。 戦後の日本のヤクザ・サラ金・パチンコなど、あれらの正体が何なのか、調べてみると良い。 無論、博徒や的屋などのいわゆるヤクザはそれまでにもあった。 そしてそこが感染源となった。 マスコミも同じと考えれば良いと思う。

この社会の自浄能力を信じたいと言えば信じたいが、マスコミは今後、東南アジアで言うところの華僑のような存在になっていくのかもしれない。 ああいう存在が無かったことが、日本の近代化・経済成長を支えたような気がするのだけど。


4/9(金)

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芸術というのは人間の鑑賞である。 だから、一部の隙も無い堅牢な普通人は、そういう視点では面白くない。

音楽家を含めた芸術家は、(自明のことだが)自由でなければいけない。 自由には強い意志が要るのだが、たまに認知の狂いによってその自由を(表面的にだが)実現してしまっているケースを目にする。 大体は時と共にそれは破綻するが。

醜男なのに自分をハンサムだと思っている人がいたとしたら、それは確かに普通でない。 だからそういう人は物を作らせたら面白いものを作ったりもする。 ただ、その程度の常識的感覚が持てなかったほどに脆弱な認知であるから、程度はさておき統合は失調している。 統合の失調は、加齢と共に深刻化しやすい。 私は最近、その手がほとんど瞬時に見抜けるようになってしまった。


4/8(木)

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プリンスがカミールとかいう名義で試作した作品群がある。 結局ほとんどの曲はプリンス名義で発表することになったのだけど、カミールは仮想の別人格であったらしい。

唯一の音楽的な特異点は、ボーカル(声)にフォルマントシフトをかけていること。 当時の技術水準は、正確には分からない。フォルマントシフターなんて便利なものがあったのか。あるいは回転数とかで調整したのかもしれない。 とにかく、Napoleon XIVとかフォーククルセダーズの帰って来たヨッパライとか、極端に言えばそれらと着想は似ている。

私もそのフォルマントシフトを使った曲を思案中。 カミールみたいに曲中かけっぱなしでなく、曲の途中で効果を増減させるような、どちらかと言うとNapoleon XIVのイメージ。

ただ、手元にあるそれ用のプログラムの精度がやや粗いというか、(効果をかけない状態で)プラグイン挿しただけで音質が聞いて分かるほどに劣化する。 それも一種の味として許容するか否か。迷うところだ。


4/6(火)

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他人をどう扱うか、というのは、要するにその人の自己紹介である。 その人が揺るぎない自己を抱えていればいるほど、(自分の一部である)人間関係が大切になり、結果他人の扱いが丁重になる。 あるいはその自己が、丁重に扱うべからざる人間についての判断のよすがともなりうる。

他人をむしろ丁重に扱わぬことによって、自らの何事かを補強しているような人物を見かけることがある。 それがその人固有の世界観なのだからどうしようもないが、要するに「私は小人です」との申告に等しい。 まあ好ましいこととは思えない。 一般論として、そういう人はあまり人に好かれもしない。

他人を丁重に扱えない人は、丁重に扱う扱わぬ以前に、そうしたくなる心境に達さねばならないのだろう。 それこそが自己の確立で、それを得ずして如何なるポストや名声などを得ても意味がない。


4/5(月)

子供の声(コーラス)が欲しい。 今考えている曲にコーラス(オブリガート)を入れる予定なんだけど、そこに子供(小学校低学年くらい)の声が欲しい。

知り合いの子供とか、いないことはないが、イメージ通りの声が得られるとは思えない。 そのためだけにオーディションやろうとまでも思えないし、どうしたものか。

ボーカロイドにそんな用途向けのものがないかと調べてみたのだが、どうもあるらしい。詳しく調べてないのだが、どうも商品化前(開発段階)であるようだったが、需要そのものは見越しているのだろう。 つまり私のように、それを求めている人はいる。

上記商品、サンプル音源を聞いてみたが、ボーカロイド特有の違和感がやや抑えられているように思えた。 違和感の正体が「思考の無さ」であるからか。 子供は本物であっても思考が薄い。 ボーカロイドとの差が少ないのかもしれない。


4/2(金)

かぐや姫のことをちょっと調べた際に出てきた、「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」のことを考えていた。 当時、(警察発表では)6万人が集まったというライブイベント。 静岡県掛川市のつま恋多目的広場ってところで開催されたのだが、本当に何もないところで、あそこに6万人が自主的に集まったなど、一種の狂気かとすら思える。 ドキュメント映像からも、当時の熱気というか、あの頃の空気が伝わってくる。

当時の掛川市の全人口を上回る動員であった故に、各種のインフラはパンク状態になり、現場は数々の想定外の事態に見舞われることとなる。 詳しくは調べて欲しいのだが、代表的なものに「トイレ不足」がある。 混乱はさながら地獄絵図のようだったと聞く。

メインアクトである吉田拓郎氏の当時の口吻を見るだに、得意満面、驕りの春の中にいるのが見て取れる。 それもそのはず。我が魅力は6万人を集めるほどのものだとの自負もあったろう。 当時の日本にそのような大動員のコンサートは空前であった。

しかし、言うまでもなく吉田拓郎氏は現役であるが、今この瞬間に彼が同様のイベントを思い立ったところで、きっとあのような僻地(失礼)に6万人どころか、6百人集めるのも至難であろう。 つまり、あの現象は時代・歴史という、薄氷を踏むような複雑な要素によって成立した。 それを人はしばしば才能とか呼んだりする。錯覚ではなく、才能とはそういうものなのかもしれない。

僅か40数年前の話である。 当時のオーディエンスらのほとんどは存命中であるはずだが、あの時あそこに集まった6万人は今どこで何をしているのだろうか。 不可逆な時間というものがある現象を成立さしめる。 ただ、例えば吉田拓郎の歌が、条件次第で6万人(無論それ以上も)の注目を集めうるということは間違いない。


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