Staff diary  
スタッフ日誌[2020]

[文 / 益田(制作)]

12/28(月)

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ヨーデルについてまた考えていた。

聴く限り、パターンは多様でない。まあ当たった作例が少ないってのもあるが、古典的・様式的声楽なので、制約が大きいのかとも思われる。 とにかく旋律線に一定のパターンがあるように聞こえる。

あの裏声を効果的に混ぜようと思うなら、当然どんな旋律でも良いってわけには行かない。 定番的パターン、ジャズとかでいうところのリックのようなものがある。 定番を嫌い過ぎると、きっとそれはヨーデルではなくなる。

コード進行も実にシンプルである。 古典的和声のカデンツを逸脱したものなど、(聴く限りであるが)ほぼ見受けられない。 ヨーデル(のメロディー)を作るなら、古典的和声進行に定番的な旋律線ってことになる。 もう作曲と呼ぶのかすら怪しい。 演歌を作るとかいうのと似ている。

しかも歌詞を乗せるに強い制限がある。 技術的にも仮声帯で構音は難しいはずだが、様式的に見ても、全編に歌詞が乗るようでは、それはヨーデルとは言い難い。 今のところ、面白いものが作れる自信がない。


動画の類を眺めていると、とある「天才少女によるヨーデル」のようなものに出くわす。 確かに凄い。 だが、その後他の動画を漁っていると、ヨーデル界隈には、意外にその手の「天才少女」が多いことに気づく。

あれは「少女なのに歌える」のではなく「少女だから歌える」面が大きいのではないか。 つまり、例えば変声期を迎える前の少女の骨格・フォルマントが、あの歌唱に適しているように思える。


12/26(土)

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「毒」について。 唐突だけど、考えていたもので。

福島第一で「トリチウムを放出する」と言ったら、過剰反応が見られたりする。マスコミとかは本気で言っているのか怪しいけど。 結論から言うと、濃度が基準値を下回っているのなら全く問題ない。

「寸毫たりとも放すべきでない。何故なら放射性物質だから」と思う人がいるのだろうか。 自然放射線の中で我々の日常は営まれているのだが。 自然放射線が無害とされる唯一の理由は、ある値を超えていないからである。

多くの人は、レントゲン写真を撮ったことくらいあるだろう。X線は放射線である。 基準値を超えないから問題ないとされる。 ラジウム温泉など、放射線は適量であれば健康に資するとさえ言われている。

風邪薬だって何だって良い。市販薬で「大量摂取して死ねないもの」は、あったとしても例外的であろう。 茶碗一杯の塩を摂るだけで人間は死ねる。 塩は毒なのである。 塩が毒と認識されていない唯一の理由は、これまた「基準値を超えていない」からである。 言うまでもないが、同時に人間は、ナトリウムなしでは生きて行けない。 物事はバランスで成り立っている。

トリチウムだろうがダイオキシンだろうが、基準値を下回るまで希釈されたものが放出されても問題ない(その「基準値」が適切・妥当なものであるか否か、は別の問題である)。 毒とは成分と量の兼ね合いで初めて成立するものだからだ。

こういうことを、日本は義務教育とかで教えた方が良いのではないか。 この程度のことがコンセンサスになるだけで、原発やコロナの騒動は起こらなかったかもしれない、と思う。


12/25(金)

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ヨーデルについて考えている。 無論曲を作ることを前提に。 以下の文章、多くは日本語版Wikipediaに拠った。

ヨーデルというのは、裏声と地声を織り交ぜる独特の歌唱法なのだが、聞いたことが無いという人はほぼいないだろう。 アルプス発祥なのだと。

裏声(ファルセット)とは言うが、仮声帯での歌唱(発音)と頭声は違う。 厳密な意味でのヨーデルは前者であるという。 仮声帯は喉とは別器官で、構音には難がある。 つまり、「歌詞」が歌えない。 因みに、モンゴルのホーミーなども、この仮声帯を使った歌唱である。

私は、音楽について考えることは多いが、「歌(歌唱)」についてはそうでもない。 というか、理解・考察が浅い。 例えば女性の歌唱について、体感できない部分が多いから、女性歌手に指導などという高度な作業もできない。 男性シンガーが女性のボイストレーナーになることも、難しいと考えている。

ヨーデルは各地に伝播し、それぞれ土着の様式を作り上げているという。 有名なのは、アメリカ発のカントリーヨーデルで、日本のヨーデルは、系譜的にはその後継に属する。

いくつか作例を聴いてみた。 歌部分を全編ヨーデルとする純粋ヨーデルだけでなく、POPSに(前奏・間奏など)アクセントとして「ヨーデル部」を加えたようなもの、それらが複雑に折衷されたものなど、まあ色々であった。 私が作るなら、全編ヨーデルで固めるってことは無さそう。

ヨーデルはあくまで「歌唱法」であるので、厳密な意味での音楽ジャンルとは言い難い。 実際、楽器編成などにおいても、厳格な様式が無さそうに見える。 ただ、西洋音楽の一派ではあるので、何となく西洋楽器と相性が良い感じだ。 例えばガムランや雅楽の楽器群にバッキングを担当させたりすると、不自然ではある。

日本ヨーデル界黎明期の人と言って良いと思うが、「キング・オブ・ヨーデル」と言われたウイリー沖山の歌なども聴いてみた。 しかしあれは頭声ではなかろうか。厳密な意味でのヨーデルなのか怪しいような気がした。 まあよく分からないけど。

作ったところで「誰が歌うのだ」って問題はあるが、とりあえずオケまでは作ってみようと思う。 年末年始の宿題だな。


12/22(火)

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更新間隔が空いてしまった。 最近ちょっと疲れているのか、思考がまとまらない。 曲作りは相変わらず続けているのだけど、中途半端なアイディアが次から次に出てきて、未完成の曲ばかり増えている。 年末年始、ゆっくり休みます。 今年はリハーサルも早めに切り上げたし。


12/16(水)

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ある討論番組を見ていたら、元大阪府知事が、(日本)共産党の議員に向かって「あなたたちは、いまだに共産党なんて名乗っているからダメなんだ。そんなんじゃ政権取れるわけない」などと罵っているではないか。 政党名を今風に改め、徹底的なポピュリズムを貫くこと、こそが正しい選択だそうだ。

その元府知事は、政治家であるだけでなく、弁護士でタレント、政党の発起人でもある。 己一代でのし上がった風雲児のような人だ。ポピュリズムの申し子、と言っても過言でない。当然弁も立つ。 まくしたてる様を見て、「相手(共産党)は怯んでいる」といった印象を持った視聴者も多かったのではないか。

元知事のようなタイプの人から見ると、共産党のような古い政党は、いかにもチンタラしているように見えるのだろう。実際その通りな面もある。 共産党は、当事者らだって今更共産主義革命なんて本気で志しているだろうか。 現状、日本共産党は、「アンチ与党」のような典型的ガス抜き野党になり果ててしまっている。

しかし党名はブランドである。時流に迎合してコロコロ変えていたら価値が下がる。 過去、旋風を巻き起こしたような野党はある。日本社会党は総理大臣まで出したし、民主党は一時的にだが政権を奪取した。 ただ、彼らはその後、雲散霧消する。あるいはしかかっている。

共産党という一面古臭い名には、実はその成分として、ブランドイメージ・信頼などが含まれている。 時流に合わせて名を変えていたら、こんにちこのようであれたろうか。あるいは消滅していたかもしれない。

思想・信条というのは、貫いてこそのものである。 長く続くことには意味がある。長く続いたということは、続くだけの全ての条件が揃っていた証拠だからである。 時代遅れだのなんだのは、今までも散々言われてきたろうが、それでも名を変えなかったからこそ、今それは一つの思想と見做され、こんにちこの程度の信用を得ているのではないか。

今、民主主義国(先進国)で「共産党」なんて名前で政治活動を続けられていて、議席を持ち、この程度の政治的プレゼンスを維持できているケースが如何ほどあろうか。多分絶無だろう。 この事実だけでも、日本共産党の戦略・戦術は優れていると言わざるを得ない。 断っておくが、私は共産党支持者ではない。

元知事の発言内容は、それはそれで正しい。 一代でそれだけの事績を成し遂げた御仁らしい意見である。 しかし、彼はいわば英雄である。幕末の志士らは、当人らは一代の英雄を自認していたかもしれないが、明治維新を「薩長の関ヶ原のリターンマッチ」と捉えるなら、実に270年掛かったことになる。 時を待たずして、例えば寛政年間に長州藩が逸って倒幕の兵など挙げようものなら、きっと幕末の頃に長州藩なんて存在していない。

共産党は、短時日に注目を集め、電撃戦で政権を得ることを目的とした組織ではない。 英雄としての最適解と、政党である彼らの最適解は違う。


12/13(日)

年内の納品を早々に諦めた。 リリース計画を変更せざるを得なくなったって事情で。 ウチはシングルを、タイトル曲+カップリングの二曲ってオーソドックスな形で出すことを基本としているんで、曲の頭数自体はあっても、良い組み合わせにならないってことがあるもので。


12/11(金)

今年ももう二十日切ってしまった。 何とか次のリリースタイトルの納品を年内に終えたかったんだけど、日程的に微妙になりつつある。

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ちょっと前に、オケまで完成させたある曲を、作り直そうと思っている。 厳密には、一旦できたその曲はそれで残すとして、同じ引き出し(プロット)でもう一曲作りたい。

不満が残っているのである。 その曲は、ブルーノートなど、、スケールアウト音を多用した、ちょっと調子っぱずれな曲で、音のぶつかりというか、不安定さを楽しむようなもの。 そこはまあ良いとして、その不安定さの中に一種の煌きというか、色気のようなものを盛り込みたかったんだけど、今聴き返してもコミカルな印象しか受けない。 表現したかった何事か(いわば核心の部分)が表現できていない。 一種の失敗作である。

一旦完成したものを、ほとんど一から作り直すようなことって、あるにはあるのだけど、今回は(作り直すでなく)別のものを作ることにした。 やはり、一度生まれたプロットは死なないというか、いつかは形になる。


12/10(木)

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トランペットのミュートについて考えていた。 トランペットという楽器は、ミュートというのが基本奏法の一つとなっていると言える。 それくらい使用頻度が高い。 トランペットのミュートは、ピアノの弱音ペダルなんかとは、やや用途が異なる。

ミュートといっても、字義通りの「弱音・消音」というより、そういう「音色」だと理解した方が実体に近い。 だからして、種類も豊富で、有名なところだけでも三種類くらいはある。 ストレート、カップ、ハーモン等。

私には、音の違いがイマイチよく分からない。 ストレートとハーモン(ワウ)の違いくらいは分かるが、ストレートとカップの違いとか、音だけ聞いてもよく分からない。 他にもプランジャー・ミュート、バケット・ミュートなんてのもあるが、無論区別が付かない(上記の三つを含め、これらは「商品名」という側面も濃厚にある)。 聴き込めば覚えられるかもしれないんだけど、今のところそこまでの情熱はない。 「そういうものがある」とだけ理解すれば今のところ十分だ。

ミュート奏法を再現できる音源についてだが、メジャーな奏法だけに、(上記三種のような)代表的なものなら割りとある。 トランペット以外にも、(テナー)トロンボーンなどは割りとあるが、それ以外の金管にはあまり見られない。 音源以前に実際の使用例が少ない。 構造というか、原理的にはどの金管でも可能である筈だが。

トランペットは音色だけでなく、フォールやスウェルといった奏法も多彩で、ちょっと音屋(サウンド・プログラマー)泣かせなところがある。 楽器についての知識がある程度ないと、アレンジが難しい。


12/9(水)

橘高茉奈。 先々週録った音のチェックをしてました。 彼女、最近編集結果にうるさく(口出すように)なってきたから、私の仕事が増えつつある。

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フリーターやってる二十歳の若者と話をしてたんだけど、そこで思ったことのメモ。

いわゆる飲み屋のような飲食店で働いているそうなのだが、「イヤな客」がいるそうで、仕事そのものがストレスになっているそうな。 昨今、飲食関係の仕事は不人気で、求人もほとんどが随時募集である。 慢性的に人が足りないのだろう。

少子化で若者が減ったから飲食店の従業員も確保し難くなった、というのはあるだろうが、人口という理由を差し引いても、飲食の不人気は際立っているように思える(データに基づいてはいないけど)。 つまり、人がその仕事をやりたがらない。 私が話したその子も、現状それほどストレスフルであるなら、早晩その仕事を辞めるに違いない。

「イヤな客」についての、具体的エピソードは聞いていない。でもまあ粗方想像がつく。 因みに、「店員に態度の悪い者」は、「嫌われる人」の典型であるそうな。


なり手がいない職種であるから、外国人などがバッファとなっているが、要するに(貧困などの)相手の弱みに付け込んで、日本人がやりたがらない仕事をやらせているだけである。 日本が今より貧しかった時代、現代人ならまずやらないような仕事に甘んじていた人は多かったろう。 今その貧乏クジを外国人に押し付けているのだが、彼らだって豊かになれば、きっとそんな仕事やらなくなる。

また外国人は、日本人従業員の完全互換品ではない。 日本国籍を持たず、日本で育ってすらいないのだから、日本語をはじめとする諸常識を備えていない。 雇う側は情勢上やむを得ず雇っているが、費用対効果は低下している。 提供できるサービスの質も低下しているのだから、客側も無論割りを食っている。 質を維持しようと思うなら、賃金などで調整するしかないわけだが、それは商品価格に直接影響する。

知り合いに「コールセンターのオペレーター」をやっていた人がいる。仕事内容は「クレーム処理」である。 クレーマーの対応など、多くの人が嫌がる仕事なだけに、実際離職が激しく、常に新たな人を補充せねばならない状態だったそうだ。 人が足りないから給料などもみるみる上がっていったという。 求人で謳う条件と現従業員の待遇に差をつけるわけにも行かなかったのだろう。

コールセンターの利用者にとっては、利用料は高止まりし、質の低下(電話が繋がり難いなど)も受け入れざるを得ない状況になっている。 それは「マナーの良い客」にとっても同じこと。つまり、マナーの良い客は、マナーの悪い客のその「マナーの悪さ」のせいで、不当に高いコストを負担させられている。

それだけ「人に対する依存(悪態を吐くなど)」は高くつくということ。 きっとこの先も、人間の価値は上がる一方だろう。 未熟さの捌け口として他人を当てにすることは、きっと難しくなる。

つまり「イヤな客」諸氏は、平素の振る舞いが、経済の悪循環の原因となり、存在そのものが社会悪となっている。 彼らさえいなければ、この社会はきっともっと効率的であるはずだ。 私は思う。彼らにはきっと、淘汰の圧が掛かる。


12/5(日)

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私は本当にプリセットを使う音屋だ。 最近のWavetable系のシンセとかも、基本プリセットしか使わない。音作りをしない。

Wavetableシンセってのは、断片的なオーディオデータを元に、一般的なパラメーターを調整して音色を作っていくようなものなんだけど、原理としては割りと古くからあるもの。 最近リファインされた。

「一般的なパラメーター」の構成は、よくある倍音減算式のものと大差ない。 ただ私は、それを一々(完璧に)理解する気がなくて、プリセット音色再生機としか捉えていない。 そのWabetableシンセサイズが、旧来の倍音減算式やFM方式と比べ、複雑・高度であるのか、よく分からないが、別段そんなことも無かろうと思う。

私は難しいとて挫折しているわけではない。 ある部分を理解できたから、それ以上掘り下げることにさしたる価値を感じないだけ。 ウチの音源で、それらしき音を使っているものがリリースされたとしても、そこで使われている音色はほぼプリセットと考えて間違いない。 私は音作りをしない。


12/2(水)

「プリプリした食感」とかいうが、あの「プリプリ」という言葉(副詞?)は、エビ以外に使用されることがあるのだろうか。 実例を知りたい。

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整形リテラシーについて考え込んでいた。 世の(一部の)人は、どうして斯様に美容整形(手術)についてウブなのか。 私とて疎いんだけど、浮世には無理解尋常でない者がいる。

名は伏せるが、ある芸能人の「整形疑惑」なるものを検証しているというサイトを眺めていたのだが、結論として「整形はしていない」と結んでいるではないか。 私は不思議でしょうがなかった。「整形していない部位」を探すのが大変なぐらいの顔の持ち主だったから。

歯並びは完璧に矯正され、歯の色・質感はまるで便器のよう。小鼻は明らかに整形しているし(過去の顔と比較できる)、口周りも明らかに手を加えていて、口周辺の皮膚・筋肉にはそれ特有のこわばりがある。 常時サングラスをしているから分かり難いが、おそらく目も弄りまくっている。 肌などさながらリカちゃん人形である。 因みにその御仁、年齢はもう還暦近いはず。

TVに出演する時のメイク・ライティングの入念さなど、上記のエビデンス以外にも、それを類推できるポイントは多い。 周りの人らの心労は、察するに余りある。 まああそこまで弄りまくってたら、メンテナンスなど本人も大変だろうが。

その人をして「整形などしていない」と結ぶ(おそらくは)ファン。 ファン心理というのは願望の投影でもあるから、仕方ないと言えば仕方なかろうが。 ああまで願望が現実を曇らせていると、おそらく日常生活でも支障を来たすことが多いだろう。

芸能というのは、ある面「美」を売り物にする世界だが、何故「整形手術」という自明の方法に手を付けなかろうか。 「アンフェア」だとかいう通念があるのだろうか。 だったら化粧も髪型も全て不正である。 多分芸能人にとって整形とは、化粧の延長線上にあるというか、明確に区別されていないものと思われる。

私は芸能人全般を揶揄したいとか、特定の人物を中傷したい、なんてわけじゃない。 物事を常識的観測をもって判断しているだけ。


12/1(火)

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ネットをダラダラと眺めていたら、ある(未知の)ギター奏法に出くわす。 ギター(のストローク)でパーカッションを表現するというもの。 パーカッションといってもタム(膜鳴)系ではなく、シンバルのような倍音豊富なノイズっぽい音。 タバレット奏法とかいうらしい。

5弦と6弦を寄り合わせ、いわゆる「ビビり」のような音を出す。 理屈としては単純なのだが、実際にやろうとすると、その5・6弦の寄り合わせ状態を演奏中に作ることが至難である。 あれ、ギターそのものというか、弦高とか弦の材質とか、色々問うのだろうな。


11/28(土)

新しいシンセを入れようと思ったら、OpenGLが対応してないとか言いやがる。 私の使っているマシンも随分な型落ちだからな。 私は世の中の流転の早さに付いていけてない。

OA機器や家電品なんかも次々に壊れていくわけだけど、もう少し耐久できないものか。 例えば最近事務所の電話の子機(の液晶)が切れ掛かっているんだけど、修理するより多分新品買った方が安く上がる。 買い換える方が安いのだろうけど、一々電話番号の登録やら設定やらをやろうと思えば、それだけで半日くらいかかってしまう。

結局上のシンセ、導入を見送った。 最悪PC買い換えれば良いんだろうけど、仮にPCの乗り換えとかになったら、その作業は一日で効くかどうか(というか絶対無理。一週間ぐらいかかりそう)。全プラグイン類のインストール作業とか必要になるんだから。 そんなに暇じゃない。


11/27(金)

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相も変わらず曲を作っている。先週から数えて三曲目。 もうストックも200くらいになる。 きっと私は、膨大な未発表曲を残したまま、残り時間を使い切るのだろうな。

どうも私は、一々のノート(特にロングトーン)のゲートタイムに拘りがあるらしい。というか、気になる。 大多数のリスナーは、そんなの気にも留めちゃいないだろうことは分かっているんだが、あくまで私自身が引っかかってしまう。

私はオケ作りにおいて、プレイヤーをほぼ起用しないんだけど、節約のためではなく、プレイヤーを使うと、そういう「リリースのタイミング」のような機微な部分がぶっ飛ばされてしまうからってのが大きい。 だから音楽をほぼ100%プログラミングできるようになったこんにちは、私にとって僥倖といって良い。 このテクノロジーがなかったら、私は画家にでもならざるを得なかったかもしれない。


11/26(木)

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私は、この宇宙に、絶対的な善悪の基準など存在しないということを前提にモノを考えている。

韓国は約束を破る。 これが悪であるのか、私には分からない。 少なくとも得を拾う為の行動であることは間違いない。 約束を守る者とてそうである。 皆、その人なりの得を拾っている。

ただし、人はその脳内に展開できる時間軸が違う。 借りた金を返す約束を反故にすれば、踏み倒した額面くらいは得をするが、信用を失うが故に、きっと将来、彼に金を貸す人はいなくなる。 長い目で物を見る者にとってそれは損なのだが、その時間を展開できない者にとって未来のその損は、行動を左右する要因でない。

自由だの民主主義だのという美辞を並べたところで、それも一つの価値観に過ぎない。 お隣の中国は、有史以来一度も民主社会を作ったことが無いが、それなりに発展している。 その発展の行き着く先として、かの国が人類のリーダーとなることだってあり得るわけだが、もしそうなるなら、神は彼らの原理こそを正義(少なくとも残るべきもの)としたということ。 西洋人の言うmanifest destinyってヤツだ。

自由主義社会は、数々の美質を備えていると思うが、例えば情報戦には脆弱だろう。 北朝鮮や中国という体制の、マスコミや教育制度に他国の付け入る隙は無さそうだ。 そういうことをしたい者らにとって、日本はきっとボーナスステージのような国だろう。

アメリカなんかは、「勝利」に大きな価値を置いているっぽいから、情報戦も(時に肉弾戦も)容認されるだろう。 日本はアメリカとある価値は共有しているのだけど、少なくとも情報戦のようなものに、強く美を感じていないように思える。 だから歴史的にもそれが下手だ。

日本史の、いわゆる戦国時代(室町末期)などは、例外的に情報戦(実戦も)の密度が高かった時代だったから、それに強い政治家も群がり出た。 今の韓国の所業を眺めながら、「徳川家康が現代人なら、鼻で笑ったろう」とか思ってしまう。

日本人の洗脳を企む者が、そのアプローチとして、マスコミや教育を狙うのは必然だろう。 しかし、そういう行動は、日本人の道徳観と根本から抵触するような気がする。 日教組なんかも影響力を低下させているように見えるし、(社名を出して悪いが)朝日新聞なども随分部数を減らしていると聞く。社会民主党はもう雲散霧消しかかっている。 淘汰の憂き目に遭っているのではないか。


日本とアメリカは過去に戦った。 ご存知の通り、日本は負けたわけだが、もし勝っていたら、歴史は大きく変わったろう。

無論、変わらない部分もある。 日本勝利というイフの世界でも、利便性は人類共通の価値だから、例えば車の性能は上がったろうし、コンビニも電子レンジも出現したろう。 当然軍事技術も向上にしたに違いない。 ただ、社会を貫く価値観の部分は、随分違ったものになったろう。 神は、戦前の日本に流れていた、ある価値観を容認しなかった。

「日本は軍備を放棄すべきだ」とか「戦争反対」とか声高に言う人がいる。 戦争が無くなる未来を望ましくないとは思わないが、その「戦争反対」の声が、実は既に戦争の一手段だったりするなら、いずれそう言う人たちは(一時的に得た共感者たちからの)支持を失う筈だ。 私とて平和を愛すが、「戦争反対」な人たちには懐疑的だもの。 つまり、教育を狙い撃ちにする人たちは、教育の柱である道徳との相性が悪い。 矛盾は常に、滅亡の遠因となる。

論旨のまとまらない文章をダラダラと上げてしまったが、私は、中国や韓国は一度滅びるのではないかと思っているし、そうなるべきだとも感じている。 生まれ変われることを期待するけど、ここについてはまだよく分からない。


11/25(水)

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日本人にとっての神は、即物的というか、具体的イメージが濃い印象だ。 だから恋愛成就のためとて、縁結びを売りにしている特定神社を詣でたりする。 キリスト教徒は、現世利益を乞うために大聖堂を拝みには行かないだろう。

神に祈る、というのは、全てに祈るということ。 「○○さんと結婚したい」という祈りは、その○○さんや親御さんに向けるものではなく、「私が○○さんと結婚することが、この宇宙の摂理に適うことを願う」ということ。

願いを叶えるためには、何よりも先ず、その成果を得るに相応しい自分であらねばならない。 そこに目を瞑り、成果だけを欲しがるから、小銭を拾うかのような現世利益を求めてしまう。  そうか。「叶う」とは「適う」という意味か。今気付いた。


11/21(土)

某イスラム学者の著書を読んでいると、「天国は時間の果て(未来)にあるものではない」とある。 天国は、いわずもがな地理的呼称でないばかりか、時間すらも超越した概念であるという。 過去でも未来でも(無論現在でも)ない。

仏教的世界観である「六道(六界)」。 天界とか人間界とか言われると、それが「場所(地理的概念)」であるような気がしてしまうが、それも誤解だろう。 天界や餓鬼道がそれぞれどこかに画然と存在するのではなく、個々の映し出す現実こそが、それぞれこの「六道」いずれかに定義されるということかと思える。

世界は、この宇宙は一つである。 それを映し出すそれぞれの心に違いがあるだけ。


11/20(金)

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人間という言葉はHuman beingを指すことになっているが、元々は違う。 おそらくは一種の仏教(インド哲学)語で、「人のいる世界」という意味である。 世間とか無間とかの間。 人の間と書くわけだが、Relationshipこそがヒトである、という本質を突いている。 人間とは、人類共同体を生きる者を言う。

自閉症はAutismの訳なのだが、接頭語「Aut(o)」はオートマチックとかのAutで、自動とか言う意味を表している(ここで言う自閉・自動は、自律とは全く重ならない概念である)。 Auto-StartとかAuto-Runとかって、周囲の空気とか人々の気分とかを一切無視して発動される。 ヒトでないのだから。

自閉症とは、自分だけで世界を完結させている、というようなイメージ。 つまり自閉症の人は、人類共同体の中で生きていないということ。

自閉症児の典型行動に「クレーン現象」というのがある。 「ママ、喉が渇いたから水をちょうだい」と訴えるでなく、グラスを持った母親の手首を掴んで自分に引き寄せる。 彼の世界に、厳密な意味でのヒトは存在しておらず、共同体に生きることができない。


11/19(木)

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今、電車に乗ると、ほぼ全員がマスクを着用している。 これは言い過ぎではない。マスクをしてない人なんて発見することが難しい。

私はマスクの効果に懐疑的だが(無論、効果絶無とは言ってない。コストに見合うか疑ってるだけ)、これだけ定着するところを見ると、それを許容する土壌が既にあったと見るべきだろう。 だからコロナウイルスのワクチンとか出たところで、状況は劇的に変化しないと思われる。


その昔、私の子供時分などは、歩きタバコって当たり前に見られたけど、今じゃ珍しい。 歩きタバコなんて見かけたら、その路上喫煙者の「素行」より「知能」を疑ってしまうって現代人は多いんじゃなかろうか。

昔は当たり前だったなんて言ったら、若い人には「日常的に路上喫煙なんてしたら、吸殻の処理とか大変だったんじゃないか」とか思われそうだが、そんな心配は無用だ。 吸殻・灰・空箱などは、当然のように全て路上に投棄するものだった。携帯灰皿とか持っている人なんて珍しかったと記憶する。

電車内もバス内も基本的に全て喫煙可で、大抵席には灰皿が設置してあったが、地ベタに吸殻を捨てるような人もいくらでもいた。 今は喫煙者が隣にいると臭いで分かったりするのだが、おそらく当時は、難しかったろう。 至るところでタバコの煙が充満していたろうから、いわば全ての人がタバコ臭かった。

私はこのことを、良いことだったとも悪いことだったとも思わない。当時を懐かしんでいるわけですらない。 ただ、時間の不可逆性について思いを馳せている。

時間は不可逆である。 人が若返ることが無いように、歴史も逆行しない。 人が何かに気付いてしまったら、それを気付く前には戻れない。


11/18(水)

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中華(中国)に対する感光力について。

韓国(人)は本当に中国が怖いらしい。 右往左往する姿が、日本人にはやや滑稽に映っているのではないかと思われるが、これは島国(離島)と大陸の典型的な感覚差だろう。

日本は中国(中華)の怖さを感じたことがほぼ無い。同時に朝鮮半島の歴史は、一面中国対策の歴史であったとも言える。 日本人は感じ難い、韓国の感じる恐怖感を、例えばベトナム人ならまだ理解できるのではないか。

日本の国号は、要は「日の本」で、有名な遣隋使の国書にある「日出処」の異称だろう。 つまり、中華に対する対抗・対等意識から生まれているわけだが、李氏朝鮮が国号を明に仰いだのと対照的である。

言っておくが、当時の東アジア(の辺境)においては、朝鮮の感覚の方が一般的・国際常識的であった。 隋唐など、いわば世界帝国で、その文明はおそらく当時の世界最高水準であった筈だ。

朝鮮半島人は、その長い服属国・隷属民族としての歴史が、中華に対する恐怖を血肉に刷り込んでいる(日本人はこの辺「うぶ」である)。 現中国の発展は、刷り込まれた恐怖心を呼び覚ますのだろう。

独立の精神を奪われた者は、対等という感覚を持てなくなる。 対等が無い以上、全ては上下である。 だから、例えば中国に対しても、ある時は奴隷となり、またある時には傲岸・不遜の限りを尽くすことだって、状況次第では当然あり得る。 つまり、信頼関係を構築できない。

中国人は「朝鮮人の扱い方」をよくご存知であるようだ。 日本は対応を間違った。 今適切な距離を置こうとしているが、それが正しかろう。


11/15(日)

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葛飾北斎の有名な「富嶽三十六景」に「神奈川沖浪裏」という一図がある。 日本人なら、見たことのない人はまずいまい。 神奈川(一説には横浜という)の太平洋沖から望んだ富士を描いたもの。

少し前、私は湘南あたりに出向いた。同じ太平洋の沖合いである。 北斎の存命当時なら、江戸から湘南へ行くのもちょっとした旅行だったろうが、今は電車で一時間チョイである。 江ノ島から見える波濤を見ながら、私は「北斎もこの波を見たろうか」などと思い耽っていた。

翻る波頭など、あの絵と瓜二つである。 ハイスピードカメラどころか、写真の概念すら無かった時代に、北斎はあの波を、その肉眼に焼き付けた。 彼は間違いなくこの世界に実在した。


11/13(金)

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0(ゼロ)はインドで発見されたという。 原始仏教でいうところの「空」というのも、要はこのゼロのことだと思われる。 ゼロそのものは物質でなく、この世界に遍在するもので、英語でいうところのNothingnessに近い概念だろう。インド人はその存在に気付いた。

「神はあるか」という設問がある。 私はこれを聞くと「ゼロはあるか」と問われているような気分になる。 逆算によって導き出された概念なのだから、それを心に映す人にとっては(私にとっても)あると言わざるを得ない。 神のことを「The Absolute」とか言ったりもするのだが、「絶対はあるか」と問われても語弊なく答え難い。

ある漫画家の話。 その人は教条主義的な共産主義原理主義者で、当然ながら唯物論者、神の存在を一切否定する。 彼の描く漫画に「神が本当にいるなら、目の前のこのコップを動かしてみやがれ」というようなくだりがある。

当然ながらコップは動かない。 その漫画は、それをもってして「神不在の証拠」と結んでいるのだが、神を信奉する者にとってもそれは当然の話で、私とて「そりゃコップは動くまい」と思えてしまう。 神とは、「雲の上にいる、神さんという凄い人」なんかではないのである。

神の存在を否定するその人とて、神の被造物である。 存在し得る全ての条件を備えたから存在できた。


11/12(木)

この間録った神田優花の新曲の編集をやっていた。 グランジとかコア系の、ちょっとうるさ目の曲。

及第点ではあると思うんだけど、どうも(歌に)私の想定していた「不敵さ」のようなニュアンスが足りない。 ある意味彼女は善良過ぎるのだろうと思う。歌い手の人柄によって、ある種の作品は作りにくくなる。

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最終解脱者を自称した麻原彰晃は、長髭・長髪の、異形の風体であった。 そちらの方がハッタリが利いていて、新興宗教団体の教祖という商売柄、有利でもあったのだろう。

アブラハム・マズローは自説である欲求段階説で、五段の欲求階層の上に「自己超越」なる階層があると説く。 自己超越者の特徴が11ほど挙げられているのだが、その中に「外見は普通である」というのがある。 超越者というのは、そういう物なのかもしれない。

因みに、上の外見云々を含む超越者の条件は、日本語版Wikipediaに拠ったのだが、英語のソースが見つけられなかった。 本当にマズローの言なのか怪しくもある。


Wikipediaの同ページ内、自己超越の項目に「このレベルに達している人は人口の2%ほど」とある。 50人に一人なら、クラスに一人ぐらいいたっておかしくない計算になるが、そんなに自己超越者がいるかしらと思って調べたら、下記の一文を見つけた。

perhaps upto 2% of the world’s population might be able to transcendとある。 「最大2%程度がその境地に到達しうるかもしれない」といった文意である。 もしこれがソースであるなら、Wikipediaは誤訳である。

98%はそもそも「到達不可能」で、残りの2%には可能性が残されているという意味だ。これならまだ分かる。百人に二人ではなく、実際は一億人に一人とかそういう話だろう。 「be able to≒can」というのは可能性を指すものだ。


11/11(水)

更新間隔がまた空いてしまった。 別に何やってたってわけでもない。事務作業をこなしつつ、物思いに耽っていた。

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唐突だけど、私は基本的にドラムトラックをパーツ毎に分けない。 パーツ毎に個別のエフェクトを設定するような特殊なケースを除いて。

スネア・キックなどの、アクセントを担うパーツの場合、頻繁に音量調節が必要になったりもするので、パートを分けることは多いけど、金物とかタム類一個づつに、バラでトラックを割くようなことはほぼしない。 トラックが増えすぎるとデータ量もかさむし、処理も重くなるから。

要するに、ドラムパートに限っては、ステムトラックのようなものを作ることにしている。 手抜きと言われればそうかもしれないが、生のドラムを録る際に、パーツ毎にマイク立てるなんてことは(余程の理由が無い限り)普通やらないわけで。リーケージ完璧に取り除くことなんて不可能だし、やる意味がない。


11/5(木)

神田優花、二曲録りました。 と言っても一曲はインスト用のサンプリングボイスみたいなのを録っただけですが。

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私は文学(小説)を読まない。 昔は読んだりもしたが、今は、ほぼ全くと言って良いほど読まなくなった。 読書の習慣が無いわけではない。 ノンフィクションとかエッセイとか歴史書・学術書の類はわりと読む。

小説家よりジャーナリストや学者の文章の方が気分に合う。 また、小説家の書いたエッセイなどもまだ読める。 歴史小説はほぼ読めないが、史談なんかは割と好きだ。

小説を読まない理由は「面白いと思えないから」に尽きるが、情報処理にかかる労力と、結果得られるインスピレーション、のバランスが悪い気がする。 要は冗長だと感じる。 二分で要約できるストーリーを、三時間の映画にされているようで。

人が作ったお話に没入するには、色々と条件が要る。 そういえば儒教圏では、小説は蔑まれている(小説というのが既に蔑称である)。 魯迅のような例外も無くは無いが、あれだけ長い歴史の中に、小説家がほぼいない(羅貫中とか言うのは、一種の「読み人知らず」だろう)。

私は儒教の徒ではないけど、小説は読めない。 「くだらない」と言えばキツい言い方になるが、正直そう思えてしまう部分はある。 アタマの中で生まれたストーリーにリアリティーを感じさせるには、作者の頭脳が問われる。 小説が読めなくなったというのは、私がある面大人になったということでもあるのだろう。


11/4(水)

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弊社のコンテンツ、販路が拡大されます。 詳細はまだ言えない(あんまり理解できてない)んですが、ヨーロッパあたりの販路が強化されると思います。 取り扱い業者が30とか増えるみたいなので、より入手しやすくなると思います。


10/30(金)

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フリーのトランジェントシェイパーを探していた。 それ自体はいくつもあるのだが、どれも帯に短し襷に長し。 トランジェントシェイパーってのは、ダイナミクス系のエフェクトで基本原理はコンプと変わらない。

ああいう音のディテールを調整するようなエフェクトの類って、私はあんまし持たない。 興味があるポイントでないから。 私は作曲とかには注力しているけど、音作りに関しては実にいい加減だ。これからもここは多分変わらない。


10/29(木)

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自由は我々の中にある。 我々の意志は我々の思考の中にあるし、現実世界と折り合いをつける原動力になるものでもある。 外の世界へ譲歩を要求するのは自由ではない。 それは甘えだ。

例の学術会議の話。 任命を拒否されたという学者のうちの一人の風貌を、動画で初めて見た。 何と言うか、甘えの強そうな人だった。 人間を見た目で判断してはいけないとか言われるんだけど、実際ある程度判断できてしまうんだもの。

学問の自由は寸毫も侵されちゃいない。 好きなだけ研究でも何でもやったらよろしい。 そこに国家がある種の墨付きを与え、あまつさえ予算を注入することの是非は問われて然るべきという話。 政府の機関なのだから、政府の側に任命・拒否権があるのは当然のこと。 政治の容喙を嫌うなら民営化すれば良いだけのこと。

優遇されぬことを我が身への攻撃と捉える被害感覚、これは典型的な認知の狂いだ。 いい歳してこんな単純な理屈すら分からずに、「学問の自由」だとか厚顔無恥にも言えてしまえる論理力。 学問って一体何なのだろう。学問ってのは、自分に何かを残す為のメソッドではないのか。

あれが言えてしまう時点で、彼らは学問に真剣に向き合っていない。 どう見ても、学問に真面目に取り組んでやしない彼らを、現状のまま税金で養う意味があるのだろうか。理解に苦しむ。

何とも攻撃的というか辛辣な文書になってしまったけど、私は学者という人たちに、友人になれる可能性を感じていただけに、強い失望を感じてしまった。 まあ学術会議=学者ではないけどな。


10/28(水)

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年齢って(広義の)傾向性ではないか。 年齢という数値ではなく、老いとか若さとか言われているもののこと。

人はその振る舞いを年相応に収めたがる。 若い者が無分別であるのは未熟故に仕方ない面もあるが、要するに理性による制御が十全に働いていない。

高年者が年齢相応にらしく振舞うのも、自己より年齢を優先するが故にである。 理性以外の何かなのだから、それはおそらく傾向性だろう。 無分別な子供も、尊大な高年者も、遠慮会釈無い老人も、皆傾向性の奴隷。 自己の形は本来一つであるはず。


10/25(日)

アメリカ人ってマイナー(短調)が嫌いなのではないか。 そんな気がする。特に短調のV7の響きとか。 暗いからだろうか。 だからして、北欧系のメタルバンドとか、アメリカのマーケットではイマイチ受けない。

日本で大成功を収めたロックバンドなどが「全米進出」なんてのをブチ上げたりするんだけど、向こうのマーケットで成功を収めたなんて話はあまり聞かない。 受けないんだろう。

特に耽美系のバンドなどは、アメリカよりヨーロッパの方がまだ好意的に受け入れられるのではなかろうかね。 日本のいわゆるヴィジュアルバンドなどは、アメリカでは単に「ゲイ」と思われるらしい。


10/23(金)

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いわゆる慰安婦問題とは要するに、朝鮮人娼婦らを率いる朝鮮人売春業者(女衒)らの、旧日本軍を顧客とした売春ビジネスのことである。 当時は合法であったのだが、まあ当事者(娼婦)らは苛烈な境遇にあったのでしょうからと、現日本政府は多少のはした金をくれてやった。 強制連行云々はデマゴギーである。

嘘吐きが嫌われるのは、価値体系を乱すからである。 嘘吐きの吐く嘘は、基本的に生存・保身の為のものだが、自らの保身を理由に他者の生存を脅かすのだから、嫌われて当然だ。 私は哲学の話をしているのではなく、自然科学の法則について話をしている。

ドイツのどこやらで、また例の、韓国人団体による慰安婦像の設置についての悶着があったらしい。 特定の国(この場合日本)を貶める目的の行為など、取り締まって当然のように思えるが、韓国人側からの抗議に、ドイツの当局はやや及び腰であるようだ。

先の大戦においては、(幼稚な話だが)参加各国に善悪の色分けがなされ、いまだにそれが罷り通っている(国連など、物的証拠と言える)。 先の大戦絡みのネタでのゆすりたかりが容認されては、ドイツ自身も困ろうと思うが、そこには別の力学が働いているらしい。

ドイツは工業国だが、実にクリーンで、自然エネルギーに拘ったり、CO2の排出についても抑制的であるわけだが、贖罪意識からその気分が生まれているのではないか。 あまりにメチャクチャやり過ぎたから。 慰安婦問題への及び腰にも、多少の影響があるのだろうか。

しかし敗戦国云々以前に、我々は人類共同体の一員である。 被害をネタに、ゆすりたかりを繰り返す者を容認してはならない。 延いてはそれこそがこの宇宙の病患となる。

きっとこの先、あの手のものに対してどのような態度で臨むか、が人類の岐路となるだろうと思う。


10/22(木)

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中国内の少数民族に「苗族」というのがいる。読みは「ミャオ(ぞく)」である。

日本語(大和言葉?)で「なえ」、音読みでは「ビョウ(あるいはミョウ)」であるが、多少の転訛が見られるものの、ビョウとミャオは同一のものだろう。

「猫」は苗にケモノ偏が付いただけのものだが、こちらも音で読むと「ビョウ(・ミョウ)」。 苗と同源であることは疑いない。

平明な結論として、中国人はcatのことを「ミャオ」と呼んでいた。 擬声語だろう。 だからどうしたという話でもないが、気づいたもので。


10/21(水)

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先週はレコーディング(歌入れ)二件。 今漸く編集一段落ついた。 神田優花は最新アルバム「Flairs」以降、既に7曲目を録り終えた。 一年も間隔空けずに次のアルバム出せるかも。


10/20(火)

完璧主義者というのは、要するに完璧でないことに怯え過ぎる者のことで、その時点で芸術家としての適性を欠くのではないと思えたりする。 もしピカソや北斎が、いわゆる完璧主義者であったなら、あのような膨大な作品が残せた筈はない。

完璧主義を捨てるというのは、作品に拘りを持たないということではない。 完璧を望むと作品が完成されなくなるから、それをあえて捨て、一種の乱作によって何かを得ていく。 創作とはMethodである。それに従属してはいけない。

いわゆる完璧主義者というのは、要は作品に振り回されている。 それが完成しないことが、創作活動の足枷となっているのだから。 完璧を望むからとて、新曲を作らないミュージシャンなど、一種の偽者のように思える。 私は、その人の作品数を、ある判断の基準に用いている。


10/19(月)

年齢について。 世間の多くの人が感じている年齢とは、つまりは錯覚のようなもの。

生命という現象は、時間軸を伴っている。 だからその現象が持てる瞬間と人体という物質が置かれる空間が、他のそれと重なり合うことがあり、それを出会いとか言う。 出会ったそれらが、互いに友情を確かめ合うことが出来たらそれは幸福だが、本来友情は永遠・普遍である。絶対と言っても良い。

だからして、例えば過去や未来に生きる人といった、生年が重ならない相手とだって友情は成立しうる。 生身で確かめ合うことが出来ないだけで、人格も友情も、それ自体は計算式のように無窮であるから。

私は、友人が、この世界に間違いなく存在したことが確かめられれば、それだけで良い。 出会うかどうかは単に確率の問題に過ぎないから。 ある人格が存在したということは、存在しうるという動かぬエビデンスで、それは将来再現されうる可能性でもある。

年齢という相対値がある。 自分はもちろんのこと、出会った全ての人も年齢を持っている。 だがそれは、その時点でお互いが、生命という現象における如何なるフェイズにあるか、というだけのこと。 我々が、大きな輪廻の中にいることを感じられれば、その意味も等身大に分かるはず。

年上の人に必要以上にへりくだらなくても良いし、他人の若さを羨んだりする必要も無い。 相手の年齢に畏敬を感じるのも侮るのも、要は(自分を含んだ)人間を年齢的存在、つまりモノに過ぎないと捉えている証拠だ。 年齢や性別、身分・国籍以前に、我々は人だ。


10/18(日)

何度も言うようだが、在るものは不滅である。 同時に、無いものは時空の果てまで探しても無い。 私の言う「もの」とは、物質ではない。

物理上の諸現象、例えば「梃子の原理」は在るものだから、時空を超えて普遍である。 過去にも未来にも変わらず、宇宙の果てででも再現される。 STAP細胞は無いものだから、過去にも未来にも誰にも再現できず、宇宙の果てまで行ってもそれは変わらない。

生身の人間は、条件を備えることによって成立している現象である。 条件が揃わなくなれば維持出来なくなるわけだが、世間ではこれを「死」とか呼んでいる。 ある条件が成立し、現象は一定の時間を持たされる。 お互いの持つ時間の中で重なる部分があれば出会うことも出来るし、友情を確かめ合うことも出来る。 だが、そもそも友情は永遠である。一種の物理現象であるから。

人の本質は、物質ではない。我々の持つ論理性こそが我々そのものである。 だからして、それが実在するのであれば、それは不滅である。 実は存在しないのであれば、端からそんな人存在しない。

人は成長することによって大人になる。 私はこれを変化でなく還元と見る。 様々な夾雑物を排する作業こそが成長ではないか。 私は日々、本来の私に戻りつつある。 日々が失うだけのものだと感じるなら、あなたは実は存在していないのではないか。

私は、私自身が間違いなく存在していると思うから色んなことが怖くないし、友情を永遠・不滅の何かだと思うから、それを何よりも大切にする。 私に興味が無いのは、利害とか政治的力学によって一時的に保たれている均衡。 時間の無駄のように思えるから。


10/17(土)

自閉症・知的障害児は「方言」を喋らないそうだ。 これは最近言われ出した(発見された)ことで、現時点で研究が進行中の事案だ。 だからして、正確な機序などは分かっていない。

私は子供の頃に、純度の高い知的障害児を見たことがなかったから、正直そこについての印象は薄い。 が、言われてみるとそのような気がしないでもない。 興味深い事実だと思う。

方言を喋らないということは、要するに「標準語(あるいは文語)」を喋るということ。 つまり、彼らは言語獲得のプロセスにおいて、他人の喋り言葉を参照していない。 各種メディアやテキストから言語を習得しているということだろう。

どうしてそんな迂遠なことをするのかは分からない。 ただ、言語そのものは、生きていく上で不可欠であることが間違いないらしい。それほどに言語は便利なのだろう。まあ私もそう思う。

犬は吠えることで意思を表示する。 鳴き声は、程度こそ低いが一種の言語で、犬程度の知能があれば、あのくらいの言語は操れるということ。 骨格が人間に近ければ、犬はきっともっと高度な会話を身に着けている。

方言にはモダリティー要素が多い。 関係性・距離といった成分をふんだんに含むので、使いこなすのに言語以前に言語を司る脳機能が重要になる。 自閉症児は、言語獲得にある種の(普通人様の)聴覚処理を援用していないのだろう。

今回の稿に結論はない。 上記のことは今ホットな研究課題であるのと同時に、不明な係数が多すぎて、推論も成立し難い部分が多い。


10/16(金)

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時間・歴史を、一過性の天候のようなものと捉えていたら、「最近面白くない」とか「あの頃に戻りたい」とか、人は安易に思ってしまうのではなかろうか。 時間というものは不可逆なのに。

ヤクザ(暴力・恫喝による収奪)というライフスタイルが容認されなくなっている。 このことを「最近は取締りが厳しい」などと捉えるなら、それは錯覚だ。 人類が、歴史のある段階においてあることに気付き、それの排除に取り組んだ結果がこんにちである。 彼らが再び我が世の春を謳歌することは(少なくともかつての形態のままでは)無い。

ただし、あるタイプの脳機能を持つ人間は、これからも生まれ続けるだろうから、彼らは生存手段を変えねばならない。 生存のために選んだ生き方の一つがヤクザなら、その効率が悪ければ鞍替えも当然である。 きっと彼らはこの先、一時的に姿を変える。

破綻した人間関係も、元の鞘には戻らない。 離婚した夫婦が再婚するのは、新たな信用・信頼関係をゼロから再構築したということ。そうでなければならない筈だけど、現実にはそうでないケースが殆どだ。 どういうことかと言うと、当事者らのアタマの中に「時間感覚」が希薄な故に蓄積が無く、同じ過ちを繰り返していることが多い。 その人たちは、そういう一種の無間地獄にいる。 当事者のどちらか一方でもがマトモな時間感覚を持つなら、その離合集散は終わる。

日韓関係や米韓関係が悪化していると言われる。 国家間の信頼というのは、即ち友情である。一旦毀損されたそれが元に戻ることなど無い。 韓国が再びホワイト国のように扱われるとすれば、それは元に戻ったのではなく、新たな信頼関係を構築したということ。 ありえないと思うけど。

韓国が中国に寄っていると言われる。 友情を構築できない者なら、利害に落ち着くのは物理現象のようなもの。 ある時期に方便として自由主義の一員であるとか民主国家のフリをしてはいたが、その実、常に利害に従って右往左往していただけなのだろう。 地政学上の事情が変わったら、表面的な行動・態度が変わるのはある意味仕方ない。 とにもかくにも、彼らはパワーバランスに支配される方が、性に合ってはいるのだろう。


10/15(木)

ある曲のピッチ補正をやっていたら、ほぼ一日が終わってしまった。 いまだにあの工程には時間がかかる。 AIとかで一発で終わらせてくれるプログラムが出ないものだろうか。(2Mix用の)マスタリングには既にそういうものがある。

しかしピッチ補正関係は難しいかもしれない。 一般に思われているほど、歌は譜面通りでないからだ。 AIに正解を判定されることがきっと難しい。 まだしばらくは、あの作業から逃げられそうにない。

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現首相が、日中韓の首脳会談に出席しないことを韓国に伝えたそうだ。 「首脳会談に条件を付けない」というのは、前政権が公式に掲げていた方針であったと記憶しているが、そういう原則が維持できない状態にまでなっているということだろう。 世論の支持も概ね得られているに違いない。

私はいずれこうなると踏んでいたが、思っていたよりペースが速い。 今後、韓国(北朝鮮・中国)に対して、強硬であればあるほどその姿勢は支持され、同情的・融和的である者は、ある疑いを持たれる。 一部の新聞の論調などは、既に「答え合わせ」の材料として使われている。 私はこのことを、ある原理の終焉をリアルタイムで見ているのだと理解している。


10/14(水)

日本人は、新型コロナウイルスに戦慄した。生存を脅威に晒されたから。 実はそんな大したものではなかったのだけど、生存を至上の命令とする生き物にとっては戦慄を禁じ得ない大問題だった。

生存至上主義者らの発狂によって、社会は混乱を極めたが、私のように生存を手段とする者にとって、それは迷惑至極であった。 コロナ騒動は、私の創作活動にさえ干渉してきたから。

生存を道具とする者だって、生存そのものは必須である。 命が無ければ作業ができない。 だから命は大事だし、伝染病だって怖い。 間違いなく私は、生存至上主義者なんかより生存を大事にしている。 ただしその恐怖は、実体を超えたものではない筈だ。


「裸の王様」で、王様が裸であることを喝破するのは子供である(原作では黒人らしい)。 子供の純粋さを象徴化した作品である。

果たして子供は純粋で、人は大人になるにつれ、汚れて行くのだろうか。 私は違うと思う。 子供の無謀さ・遠慮無さは、生存に対する無責任さから来ている。 恐怖・脅威を現実に映し出すのも論理である。 未熟過ぎてそれが育っていないだけ。 これを純粋さとするなら、下等生物であればあるほど純粋である。

脅威に気付けないことと、それを乗り越えることは全く違う。 アホは清々しいほどに堂々としていたりするものだ。恐怖を映し出す能力すら無いから。

人は成長し、生存に責任を感じざるを得なくなる。 そして、多くの人にとっての人生とは、その生存への汲々たる時間で終わってしまう。 何かを好きであり、その好きな何かを追い求める。たったこれだけのことが実に難しい。 我々が生身の人間であるからだ。

仏教の世界では、そのしがらみを解脱によって乗り越えることを至上の目的とし、キリスト教世界では、神に守られることで人はそのしがらみを捨てられる。 日本人が生存に汲々とせざるを得ないのは、かわいそうだけど、ある意味当然だ。

日本においてコロナ騒動は、起こるべくして起こった事件と言える。 きっと形を変えてまた起こるだろう。 これを起こさないためには、人々が夢を持つしかない。


10/13(火)

池袋の暴走事故、公判が始まったらしい。 加害者の言い分が国民の怒りを買っているそうな。 以下は、事件のあらましを知っていることを前提にしている。

加害者は元通産省キャリア官僚、東京大学工学博士だそうだ。 その彼曰く、「アクセルを踏んでいないのに車が(勝手に)暴走した」のだと。 しかし主張とは裏腹に、事故を起こした車の制御システムに明白なログが残っており、言い分はちょっと通りそうにない情勢だ。 おそらく弁護士なども、それ(その主張が認められ難いこと)を本人に説明していると思うが。

我が身かわいさから出たものか、彼の常軌を逸した発言が、今国民の逆鱗に触れているわけだが、私には別の感想がアタマをもたげる。 結論から言うと、彼は(冗談でなく)いわゆる認知症なのではないか。

自ら認知の矯正ができない、というのは統合失調症の顕著な特徴だ。 認知症・統合失調症とは、要するに認知の歪みを正せないことを言う。 つまり、手前勝手な妄想に歯止めがかからない。

自らの運転する車が白昼街中を暴走し、十数名の死傷者を出した。 仮にもし車の制御系が異常を来たしていたとしても、普通の人なら「もしかしたら自分が運転を誤ったのでは?」という疑念がアタマをよぎって当然だ。 論理とは可能性の枝葉である。

それを「車が悪い」の一点張り。 被害者や一般国民の感情を逆撫でているわけだが、要するにその主張は、悪夢のような事件を起こしてしまった彼にとって「そうであったら都合の良い事態」である。 私が加害者だったとしても、悪い夢であってくれたらいかばかり救われるか。

事実がどうであるのか、主張が蓋然的であるか、それを聞いた他人がどう思うか、なぞ一切無視しているのだが、それが出来る時点で、認知を疑っても良いのではないか。 人生がなまじ順風満帆だっただけに、晩節汚すこの事件が、よほどのショックだったとも考えられる。 だから許されるって話でもないけどな。


10/12(月)

アメリカ人は有り金を使い果たす。 投資が盛んだし、同時に破産者も多い。 破産者が多いのは、金を貸す(投資する)側の人間も多いということである。

無論アメリカ人だって金は惜しかろう。が、日本人のような守銭奴的な感覚を持つ人は少ないのではないか。 金は使うためにあるもの、という当たり前のことを当たり前とする感覚、それが神に守られているということなのではないか。 一応断っておくが、日本人をディスりたいわけではない。考えることを優先しているので、言い口に多少遠慮をなくしているだけ。

資本主義というのは一種のチキンゲームでもある。アクセルを緩めたら何かがはじける。 アメリカ人の価値観・世界観は、そのゲームに参加する適性を支えている。 レバレッジは、怯み無さこそが生み出す。

例えば音楽業界一つとっても、巨大な才能が現れることは喜ばしいに決まっている。 才能とは我々の人生を楽しませてくれるものだから。 ここにおいて日本はアメリカと違う。才能を汲み取る原理が無い、あるいは極めて希薄である。

アイドルとアーティストは違う。 アイドルとは「売れる音楽を作れる人」のことで、アーティストとは「作った音楽が売れる人」のこと。 似て非なる者だ。 日本にアイドルが生き残る土壌はあるが、アーティストが発掘される土壌はない。

アイドルとは、乞う姿のこと。貰う仕事だから子供が(人格障害者ならなお)望ましい。 貰うという目的を持つ者が、一時的に与えることはあるが、それは貰うため。 アート(創造)とは冒険である。冒険心が絶えたら、その社会から与える機微は消え失せる。

例えば映画やドラマを作るとする。 主題歌や挿入歌は、そのストーリーに見合った名曲であることが最も望ましい。それが作品の完成度に貢献する。 だったらその名曲を、八方手を尽くしてでも探すべきであるが、目先の損得勘定から、主題歌の枠を広告代理店が切り売りするなら、それは怯みである。 ゲームにおいては敗者の条件。

前者は優れた映画を作るだろうし、ひいては優れた音楽・音楽家を、更には優れた後進を生み出す土壌となる。 一方の後者が作る映画は、きっとつまらない。 怯みこそが、映画業界にも音楽業界にも、衰退の途を辿らせる遠因となる。

アメリカにだって広告(の概念)ぐらい当然ある。 どういう者が最終的に勝ち残る、あるいは淘汰されるか。そのシステムこそが文明の本質である。

私は「そうあれかし」という願望でなく、そうであろうと言う蓋然性を探っている。 アメリカ文明発達の要因が那辺にあるか。 もしアメリカが、この原理を捨てたら、それは即ち文明終焉の始まりだろう。


10/11(日)

世界は、現実というものは、我々の中にある。 我々が映し出したもの、それこそがこの世界の全てである。

だからして、我々の背後に世界など存在しない。 この目に映った今のこの瞬間、これこそが宇宙の全てである。 私は、目の前のこの景色を鮮やかにするため、音楽を選んだし、今も選び続けている。

英語の仮定には、過去形が用いられる。 一般的日本人の時間感覚にはそぐわないものだろうが、あれは現実との距離を表現している。 そういう側面では、未来は過去と等価とも言える。

インド哲学では、時間は一定方向に進むものではなく、循環するものであるという。 金(Money)というものが、人間が作り出したフィクションであるのと同じように、時間も要は「決め事」である。 時間が戻らないのではなく、我々が感じた「戻らない(遠くにある)何か」を、「時間」として数値化・定量化しているだけ。

一神教におけるGodやHeavenが、時間を超越した何か、であることは当然かと思える。 時間は高々人知が思い付いただけのものだから。 階層ごと違う。

聖徳太子の言う通り、世間は虚仮である。 それを映す我々の中にしか存在しないもの。 幽霊が見える者がいて、愛が見えない者がいる。 それに行動を左右されたなら、それがあなたにとっての現実だ。


10/10(土)

結婚とか出産って、ある意味便利なツールであるらしい。 自らの疚しさを誤魔化すためのグッズとして、結婚相手や子供は抜群の効果を示す。

愛の無い人とは、つまりは共感性の無い人のことで、要するに人類の一員としての要件を欠いている者。 だからして、その人はこの社会に紛れつつ、一抹の不安を打ち消せずにいる。 いつか自分は淘汰されるのではないかと。 まあそのように言語的に整理してはいないだろうが。

普通、誰かを愛するが故に恋愛関係になるし、その結果子供を作る。出来た子供は愛さずにはおれない。 愛があるのであれば、発動させぬことが難しい。

一方、愛の無い人には、本当は恋人も子供も必要ない。 だが、それらを持たない状態のその人は、人格によっては、ある「疑い」を持たれる。 だからそのある人格を持つ人にとって、それらは垂涎の的となる。

性(繁殖)行為によって子が生まれるというのは、水が摂氏0度で凍るというような、いわば物理現象である。 そこに愛は不可欠でない。 私が目の前の人を判断する基準となるのは、その人の持ち物でなく、あくまで人格である。 それだけで世界把握のブレは格段に減る。


10/9(金)

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友人の条件は、価値が共有できる人であること。 価値観を共有できない、これはその人と生きて行けない理由として、十分にしてお釣りが来るほどのものだ。

ケンカによって人が仲違いをする。 だったら、その仲違いの契機となったケンカという事件さえなければ、いつまでもその仲は睦まじかったのだろうか。 多くの場合において違う。 事件によって、価値が共有できないことが顕わになっただけ。 だから、遅かれ早かれその決裂は起こったことだし、置かれたその距離こそが本来あるべきものだ。本当の意味でそれは修復されない。 単なる勘違いなどがそのケンカの原因であったなら、それは勘違いなのだから長い時間がかかったとしても、必ず修復される。

ここで言う価値観、実は一つしか存在しないのではないかと私は疑っている。 例えば一神教のGod、The absoluteと仏教の空(0)の相似性・類似性にもそれを強く感じる。 つまり、様々な価値観がパラレルに存在するのではなく、価値観というものは本来一つで、それ以外は価値と呼ぶに値しないのではないかと。

「価値観が違う」のではなく、価値観に従って生きる者と、価値観を持たぬ者、が存在するだけなのではないか。

価値観を持たぬ者は、生存の原理に従って、持たされた条件から得な行動を採るだけ。 美女が強者に取り入り、ヤクザが暴力で収奪し、勉学が得意な者が秀才になり、ある者は物乞いになる。これらの行動原理に価値観は含まれていない。

韓国人に美女が多かったり、在日朝鮮人の多くがヤクザや生活保護受給者になったり、韓国が異常な学歴社会であったり、韓国政府が賠償を求め続け、情勢によっては国際条約すら反故にしたり。 これらは全て「価値観が成立しない空間」での出来事、と捉えれば矛盾無く説明できる。 


10/8(木)

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何かを手に入れる過程において、苦痛が生じることはある。 「金稼ぐために働く」とか。 この場合、働くことが苦痛なわけである。 私はこの「苦痛」に、ある種の胡散臭さを感じている。 人生にしばしば混入する、何らかの紛い物ではないかと。

某映画監督が大学で特別講義をした様子が、あるDVDの映像特典として収められていた。 講義中、質疑応答の時間に、一人の学生の「今以上の上昇志向は無いのか。世界的評価を得たいであるとか」といった主旨の質問に、その監督が答えて曰く「そんな気分は無い」と。 「ずっと好きな映画を撮ってきたから、ずっとずっとそれを続けていたい一心であった」そうな。

私は上の映画監督を、いわば「本物」と見る。 上昇志向で「今に高評価を得てやる」と、日々栄達・承認のための道具として映画を撮り続ける監督がいたなら、ソイツは偽物である。

プロのサッカー選手になりたい少年にとって、日々の修練は幸福な時間であるはずだ。 サッカーが好きなのだから。 「有名になって周囲を見返したい」などと、サッカーを承認の道具と捉えている人にとって、修業は苦痛である。 彼は自らを欺くロジックとして、「将来得るもののため、今の苦痛がある」などと自分に言い聞かせる。

誰だって、あえて茨の道を選択しようとは思わない。 私の見る限り、苦痛に耐えている人は「生存」を優先している(承認も生存の一部である)。 生存のために苦痛に甘んじているのだが、それを夢とは言わない。 生存を優先するあまりに生じた苦痛を、容認する言い訳として夢という言葉を借りてきただけ。

私は音楽家だけど、昔から、世のいわゆる音楽家と必ずしも同胞意識が持てなかった。 今はその理由がハッキリ分かる。 彼らの多くは音楽が好きなのでなく、音楽によって自分を承認してもらおうと思っていた。

芸術家は強くあらねばならない。 絵画や音楽が、「自分より上」であってはならない。 自分を生きさせてくれる道具として、音楽が輝いて見えるのなら、その輝きは錯覚である。

人はどう生きるべきか。 無論私にそんなこと分からないわけだけど、言えることがあるとすれば、「好きなこと」をするしかないんじゃないだろうか。 我々に「好きでないこと」なんてやっている暇は無いのではないか。


10/7(水)

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物を考える時、最も重要なアイテムは「話し相手」である。 少なくとも私はそう。

この話し相手、誰でも良いってわけじゃない。 思考にはリズムがある。波長が合わないとどうしようもない。 この波長の合う人ってのが、即ち友人なわけだけど。

物事を悲観的に捉え過ぎる人は当然アウトだが、楽観的過ぎても困る。 蓋然的に物を考えられる人でないと、思考のペースを乱される。 この蓋然性ってのが、つまりは論理である。


10/6(火)

一時期K-POPをよく聴いていたのだが、最近ちょっと感想が変化しつつある。 ある面での完成度は高いが、イマジネーションに欠けるような印象もある。 物事の評価は難しい。良い悪いではなく、私の琴線に触れなくなってきた。 別の何かには触れるが。

流行音楽というのは、その社会の縮図のようなものである。 K-POPの基底に流れているある気分(暗さ)を、私の論理性は嫌う。 その気分は、例えばアメリカのPOPSにはほとんど感じ取れない。 K-POPの音作りが、アメリカの商業音楽を下敷きにしていることは疑いの余地が無いというに。

嫌いになった、というのも違う。 音使いなどは本当に達者で、ある面では依然面白い。 しかし同時に、どうしてもある部分が好きになれない。


10/5(月)

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日本学術会議って組織が話題に上っている。 色々思うところはあるが、結論として、解体されて問題ない団体だと思った。一国民として。

批判されている部分とは別のところで私は引っかかった。 現政権の方針にクリティカルな意見を眺めてみたが、任命を拒否された当事者のものも含め、詭弁しか見当たらなかった。

いやしくも学者ともあろう者が、あのような脆弱な論陣を恥ともせず吐露してしまうのは、彼に論理性が欠けている証拠でもある。 学問も芸術も、基礎となっているのは論理(言語)である。 そこが頼むに足らない者に優遇措置は必要無いと思う。 きっとその金は学問の発展にさして寄与しない。もっとマシな金の使い方はいくらでもある。


10/4(日)

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不信・猜疑であるとか、単にバカであるとか。 そういうものって実に非効率・高コストである。 以下にそれを論述したいところなのだが、今その気力が無い。 いわゆるコロナ対策における財政出動は、要はそのコストである。 ツケを払わされているようなもの。


10/2(金)

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日本の、とりわけ明治以降の芸能史の本を読んでいた。 歌舞伎・落語・講談といった類の俗楽。

歌舞伎というのはお芝居なんだけど、ビジュアル面に重きを置いたもので、おそらく江戸や明治の頃の大衆の多くは、脚本面をあまり深く理解していなかったのではないかと思われる。 オーディエンスの感想というのは、歴史上のエビデンスとして残り難い部分ではあるが。

歌舞伎は雑駁で、よく言えばミクスチャー的な寛容さがある(あった)。 歌舞伎音楽というのも、要するに当時の流行を貪婪に取り入れたもの。 そこが面白さでもある。 歌舞伎音楽を深く理解しようと思うなら、歌舞伎音楽の解説書のようなものはそれはそれで存在するが、その下のレイヤー(長唄だの)を調べると良い。

落語音楽(寄席囃子)は、要は歌舞伎(下座)音楽の亜種である。 というか、それそのものと言っても差し支えない。 ただ、歌舞伎では本編に使われるのに対し、落語では出囃子・受け囃子など、本編とはやや逸れた部分に使われる。 相応に扱いもぞんざいである。 例えば寄席囃子において、多くの奏者は前座の芸人である。

講談と浪曲って、系統を同じくする(派生関係にある)ものだったのか。知らなかった。 

川上音二郎って福岡(筑前)出身らしい。 今でも福岡県出身の芸能人って多いんだけど、どうもそういう土地であるのだろう。


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