Staff diary  
スタッフ日誌[2020]

[文 / 益田(制作)]

6/30(火)

神田優花、明日発売の新作「Curse」(全2曲)、収録曲について。


1.Curse

ちょっと青臭いロックみたいなを作ろうと思ったんだけど、出来上がったのを聴いてみると、やはりちょっと子供っぽい。 まあたまには良いでしょう。 タイトルや歌詞は二転三転した結果、現在のものになった。

左右に振った二本のギター、ってのがアレンジのキーになっている。 イントロの部分のハーモニーは、(別パートでなく)ハーモナイザー使ってる。 手を抜いたわけじゃなくて、最初からそういうニュアンスが欲しかった。

ハーモナイザーだけでなく、付点8分のディレイとかトレモロとか、ピックアップのスイッチングとか、エレキギターのある種定番的な技法を盛り込んだ。 ギター弾く人とかなら分かると思う。 歌はレンジ広いわ早口だわで、大変だったと思う。でも、歌い手さんには悪いけど、私はこの曲聴く時、自然ギターのパートに耳が行ってしまいますね。


2.kaleidoscope

バンドアレンジっぽくて、一見粗いんだけど、実はかなり細かく作り込んでる。 シンバルのチョーク一つまで計算しつくした設計。

レコーディング(歌入れ)には時間掛からなかったんだけど、リハーサルに入る前の段階で色々と打ち合わせる点が多かったような記憶がある。 変な歌なんで。

デスボイスとかホイッスルボイスなんかの、トリッキーな唱法が頻出する。 リハーサル段階で一転二転したような気がするけど、あんましよく覚えてない。 まあ歌い手さんはよくこんなのソツなく仕上げてると思います。

ブロックによって歌唱法が違ってて、レコーディング時には、オケとのバランスとかマイクの感度とか、細かい調整が必要になった。 ノイズの乗り具合とかも当然部分部分違ったもので、編集には手間が掛かった。 ノイズ抜きってある程度丁寧にやらないと質感変わり過ぎるんで。





6/26(金)

コロナ騒動、実質的には既に収束しているのだろうが、自粛ムードは続いている。 私には今回、痛感したことがある。

世間の人らが何を「情報ソース」としたか、を調査した結果をグラフ化したものを見たのだが、官公庁の公式発表よりテレビ番組(主にワイドショー)の割合が大きかった。 常軌を逸している。 テレビ番組は視聴率を至上の目的とし、放送作家が構成したものである。 それに煽られて社会はパニックに陥った。何と言う民度か。

テレビを悪者にしても仕方ない。 テレビメディアはおそらく早晩壊滅的に衰退するだろうが、それにとって変わる新たな媒体は生まれ続けるはずだ。 この世界には虚実入り混じった情報が氾濫している。それを選別できるだけのリテラシーこそが重要である。 やはり教育が間違っているのだと思う。


音楽なんてやっていると分かる。 日本にはスノッブこそ実に多いが、本質的に芸術を愛する気分は薄い。 葛飾北斎なんて日本発の世界的アーティストだが、(日本での)生涯は赤貧を極めた。 海外での爆発的評価を逆輸入する形で日本でも再評価されたのだけど、本来ならピカソのように扱われてもおかしくない存在だったと思う。


6/25(木)



神田優花のニューシングル「Fight or Flight」(全2曲)、聴いてもらえてるんでしょうか。 立て続けですが、来週には次のシングルが出ます。 ニューシングル「Curse」(全2曲)、7/1(水)に発売です。




6/24(水)

神田優花、ニューシングル「Fight or Flight」(全2曲)、本日発売。 下は収録曲について、アーティスト本人からのコメント。


Fight or Flight

派手な音モノの、突っ込んだ楽曲です。
一番苦労したのはサビのド頭の開放された音。
とにかく爆発したような力強さ、というディレクションがあって、シャウトしてます。
といっても全体それでいく訳ではないので、レコーディング時は声のコンディションとの兼ね合いが難しかった。
時間かければかけるほど、声って疲れてきちゃうし。
まぁ、レコーディングっていつもそうだけども。

アクエリアス
こちらはうって変わって、メロウな曲。
全体に流れる独特のゆったりした時間を表現したくて、南国の民謡や島唄のような雰囲気を意識して歌ってます。
朝に、夕に、夜空に、音がとけていくような、そんなイメージ。

まったく趣の違う2つの曲ですが、楽しんで聴いてもらえると喜びます。

神田優花





6/23(火)

神田優花、明日発売の新作「Fight or Flight」(全2曲)、収録曲について。


1.Fight or Flight

こういうタイプの音モノみたいなのを作ってた時期があって、「Nag」とかと同時期に作ってる。 この度シングル化してるんだけど、リリース間隔とかの調整的な意味合いが大きい。

いわゆるEDMとかって、細かく音をエディットしてるものが多いんだけど、これはそれらしきシンセ音使ってるだけで、エディットには大した手間を掛けてない。 録ってから時間が経ってて、細かいことは覚えてないんだけど、リハーサルの時間もそんなに掛かってないんじゃなかったろうか。

音楽的な部分について、そんなに特筆すべき点も見当たらないな。 イントロのフレーズの音域が広いですね。生楽器系ではちょっと思い当たらないくらいに広い。


2.アクエリアス

リズムがちょっと普通じゃない曲なんだけど、いわゆるtempo rubatoとかそういうものではなくて、強いて言うなら変拍子。 (潜在的な)三拍子の部分と四拍子の部分があって、それらはテンポも違うんだけど、ブロック内でBPMが上下したりはしてない。最後のリタルダンド以外は基本BPMは一定してる。

バッキングのメインとなってるのはコンサーティナの音なんだけど、アコーディオン用のスコアを一旦書いた上で、音色をコンサーティナに差し替えてる。 両者はまず音域が違うので、ノートを1オクターブ分トランスポーズした。 アコーディオンとコンサーティナは、出音こそ似ているけど、音域以外にも構造・奏法などかなり違う。

あとギター用のスコアをケルティックハープの音で鳴らしてる。 ハンマリング・プリング、グリッサンドの類とか、ギター用の奏法が頻出するので、本来(ケルティックハープでは)表現できない音になってる。 基本的に存在しない楽器を使って曲を書けないかと思った。全部の楽器がそうでは無いけど。

ボーカルのメロディー、裏と表とを行き来するようなものを想定してラインを書いた。 だから、ある程度歌い手さんの音域に合わせて最終的なキーを決めている。

歌唱については、琉球とか奄美とか、その辺の島の民謡・歌手のイメージが多少入ってる。 歌に細かいピッチベンドとかスラーを多用しているんだけど、リハーサル段階でそういう風に作り込んだ。 バッキングのパート数も少ないし、メロディーとか調とかシンプルなんだけど、どこか変と言うか。そういう曲です。





6/20(土)

存命中の人物なので名は伏せるが、80年代にデビューした、ある女性歌手についてここ暫く考え続けている。

その人は、(数度の落選を経た)オーディション番組をきっかけにデビューし、ほどなく大スターとなる。 因みに合格当時、彼女は15歳だった。 出す曲出す曲、ほとんど全てがチャートを席捲し、当時の歌番組(ランキング)の常連というか、ほとんどレギュラー出演者に近かった。

デビューにあたって、当時の事務所など、周囲の大人たちの手が大掛かりに加わったことは間違いない。 例えば歯並び一つとっても、オーディション出演時とデビュー後では、素人目にも全く違う。 きっと手が加わったのは歯並びだけではなかったろうし、デビュー後もその手のメンテナンスは、頻繁に行われていたと見て間違いなかろう。

私は、「彼女のファンだった」とか言うと言い過ぎになるが、好きか嫌いかで言えば好きだったし、何より楽曲のクオリティーの高さに魅かれていた(無論今でも評価は変わらない)。 ソングライター系の歌手ではないので、曲は基本的にライターが書いていたのだが、一つ一つの作品が、入念な企画の元に作られていたことが感じられる。 私は、思考が込められたものが好きである。 とにかく当時の彼女は、周囲の大人たちが用意する一々の企画を、実に見事にこなした。あるいは周囲の期待以上だったろうか。

彼女は歌も上手い。 いわゆるミュージシャン的な資質であるかは微妙だが、少なくとも基本は押さえているし、何より個性的な歌をうたう。 アクションも良い。その後の歌手のような緻密な振り付けではなかったと思うが、幼少期からの、クラシックバレエの素養があるそうで、動きの美しさが目を引くほどだった。 私はダンスとかそういうものに全く興味がなく、当然詳しくもないのだが、その私にしてこのような評価である。 如何に優れていたか。

彼女は、デビュー7年後のほぼ絶頂期と言って良い頃に、当時交際していた男性アイドルの部屋で自殺を試みる。 救急搬送され、一命は取り留めたものの、それが原因で関係は明るみに出、当然のように大スキャンダルとなった。 一連の騒動は、その後の会見なども合わせ、芸能史に残る事件となる。


彼女は、裕福な家庭の生まれでなかったそうだ。 しかも6人兄弟の下から二番目で、つまり随分年上の兄弟が何人もいた。 彼女は体が弱く、小学生のある時期には、病気で4ヶ月しか学校に行けなかった年もあるらしい。

子供の頃の彼女は、定めし世界が怖かったろう。 周りは大人や年上の兄弟だらけ、女程度に非力である上に病弱だった。 例えば三度の食事すら、常に自分の取り分が安泰であると感じられなかったのではないか。 彼女はいつしか、芸を磨くことによって周囲の承認を得ていくことになる。 彼女なりに精一杯の生存手段だったのだろう。

歌手を目指した理由として、「歌手になりたかった母親の夢を叶えるため」などと言っているものも目にしたが、行動の動機が他者にある点など、ある種の人格を疑わせるほどに依存的である。

人も羨む大スターだった彼女の夢は「お嫁さんになること」だったそうだ。 普通人には不可思議だろうが、私にはそうでない。 きっと彼女の思う結婚は、一般的なそれではなく「生存の保障」だった。 だから当時の恋人を相手にも大暴れした。 彼を手に入れることは生存の確約で、失うことはその破棄を意味したろうから。 日本の芸能史に残るスーパースターは、多くの普通人にとって手に入れることがさほどに難しくないであろう「結婚」などというものを、餓えるほどに欲しがった。


現在彼女は、重度の鬱病に悩まされているそうで、表立った活動をしていない。 彼女の活動を心待ちにしているファンも多いと聞くが、本人はおそらくもうそれどころではなかろう。


前置きが長くなったが、本題に入る。

彼女はおそらく「境界性人格障害」、あるいはそれに近い脳の状態であったろう。 これは私の個人的見解ではない。実際にそう判断している著名な精神科医がいて、私自身は未読だが、著書でもそこに触れているそうだ。

境界性人格障害者には、「海馬が小さい」といった身体的特徴がある。 ハードウェア面での特徴なので、彼女の脳をCTとかMRIとかで測定したら、きっとハッキリと確認できるはずだ。

彼女の鬱病は、おそらく新型・非定型鬱と呼ばれるものだろう。 非定型鬱には、濃厚な病前気質が認められるという。つまり、病気であるというより、性格である。 脳の形成不全と言って良いかもしれない。

境界性人格障害と非定型鬱は、医学的な判別が困難であるという。 要するに、両者は実は「同じもの」ではないのか、ということ。 完全に「同じ」とする説も濃厚に存在する。

生来脆弱な脳機能を持たされた上、環境も苛烈であった彼女。 その目に映る世界は恐怖で塗り固められていたはずで、その恐怖・戦慄は甚だしい代償発達を促す。 それが天才的歌手の誕生となった。 世に言う天才の、一典型であるが、同時にそれは錯覚である。

彼女は歌が好きだったから歌手になったのではなく、歌に生存の方途を見出しただけ。 これは私にとって紛れも無い事実だが、それでもなお、彼女の残した音楽作品が素晴らしいことには変わりない。 ああいった人たちの存在意義は、実はここにあるのかもしれない、と最近私は思い始めている。


6/19(金)

地球温暖化対策とか言って、コンビニやスーパーが「レジ袋」をくれなくなった。 くれなくなったというか、有料化し出した。 まあ一枚数円とか、そういう値段ではあるんだけど、売る側にとっては必要経費が浮く、あるいは利益すら生じていると思われる。悪くない話だろう。

コンビニに「コロナ対策のため、トイレの貸し出しを中止しております」とある。 まあ便所掃除も手間だろうし消耗品も出る。 貸さずに済むならそれに越したことはあるまい。 「コロナ対策のため、ゴミ箱を撤去しております」とか、「お冷の提供を中止しています」とかいう店も見た。 コロナウィルスのせいにすれば何でも許されるらしい。

私は、レジ袋の無料提供なんてやってられない、という事情が分からないわけではない。むしろ同情すらする。 ただ、「経費節減のため」とか、単に「レジ袋を有料化します」と言えば良いところを、地球温暖化やコロナウィルスにかこつける心根があまり好きでない。


追記。 上述の件、後で知ったのだが、レジ袋の無償提供中止は「義務化」であるらしい。まあでも、論旨というか、私の言いたいことの本筋に影響はないので、テキストはそのままにしておく。


6/18(木)

つい先日の話。 橋の上から川を覗き込むと、水辺で「亀」が甲羅干しをしていたのだが、人の気配に気付いてか、水に飛び込んで姿をくらました。 その一連の動作の俊敏さに私は驚いた。

驚いたというより、正直「不気味さ」を感じた。 亀ってあんなに気持ち悪い生き物だったんだ。 私は自分が持った感想の正体を探ってみた。

亀はノロマだと思い込んでいたら、意外と機敏であった。 このことを不気味とする感覚のベースには、「制御の難しさ」があるような気がする。 コントロールできないものは危険だ。 私は生存を脅かされたのかもしれない。

ゴキブリは嫌われるが、あれがカブトムシのような鈍重な生き物であったら、今ほど忌まれることはなかったのではないか。

日本とアメリカの同盟は、歴史的にも稀有なほどに長期かつ強固である。 アメリカ人は最大の親友である日本を、僅か数十年前、あれほどに憎んだ感覚を今はもう思い出せなくなっているだろう。 多分、当時のアメリカにとって、日本の足は随分速かった。

同じく、中国などはノロマに映っていた。 が、案外足が速いことに今頃気付いて動揺している。 随分長いこと甘い認識のままでいたものだが、手遅れでなければ良いけど。


6/17(水)

佳乃、ニューシングル「私になれ」、本日発売。 下は収録曲について、アーティスト本人からのコメント。


ここ数年の間で、「自分を愛せなければ人も愛せない」という感覚が分かりました。
彼らを大切に思うからこそ、自分自身を犠牲にするような事をしたくない。自身を大切にする事が、きっといつか彼らの未来を自由にするんじゃないかと。
それがすごく嬉しくて、たくさんの喜びを込めて歌いました。

佳乃





6/14(日)

子供の頃に好きだったミュージシャンなどをはじめ、その才能に驚嘆させられた者たちがいる。 が、大人になった今、彼らの正体がおぼろげながら見えてくる。 私が錯覚した天才の多く(ほとんど)は、代償的発達だった。

車椅子生活者の腕筋は発達する。 手に脚の代わりの作業をやらせているからである。 つまり、ある機能の欠損を補うため、別のある部分が特殊化した。 浮世で天才と囃されている者の多くは、この代償発達である。 その才能を羨む多くの普通人の方が、よほどに優れているというか、少なくとも健全であろう。

ある疑念が私の頭をもたげてくる。 それは「この世界に天才など本当はいないのではないか」ということ。 ラマチャンドランも同じようなことを吐露していたような気がする。 そして、ここについて、今の私には確信がある。

天才は実在する。 現にピカソがいるから。 様々な角度から考察しても、あれが代償発達であるはずがない。


6/13(土)

マスメディアにはそれぞれ「スタンス」がある。 周知のところでは、朝日が左寄りで産経が右寄りであるとか。

そもそもの成り立ちとして、新聞もテレビも商売(民業)なのだからして、訴求の対象を設定したろう。 朝日新聞は先の敗戦までは最右翼であったとか言われるけど、商業主義という一環した社是と持っているといえなくもない。

報道という、(理想を言えば)客観的・中立的であるべきものに、スタンスが容認されてきた。 更には、読者・視聴者が客であるのと同時に、広告主も客である。 つまりあそこは「付け入る隙」だらけであるということ。 金を突っ込めばコントロールできなくもないから、そういうことを考える人がいても不思議はない。

朝日新聞の報道姿勢が批判的に語られることは多いように思うが、実際部数も減っているらしい(理由は様々だろうが)。 部数減の憂き目に遭ってもスタンスを変えない理由は、きっとそこを補う(あるいは補ってなお余りある)メリットがあるからだろう。

別に金のことだけを言っているわけではない。 あるスタンスを持つことによって承認されてきた人が、転向するのは容易でなかろう。 ジャーナリズムというのは、主義が生存に直結する環境でもある。 つまり幅が容認される。 行政などにこの幅が容認され出すとマズかろう。公務員が前例踏襲主義であるのにも理由がある。

私は「メディアに黒幕がいる」とか、大仰に言っているのではなく、構造的に狙い撃ちされやすいことが自明であると言っている。 これはそろそろコンセンサスとなっても良いのではないか。

アメリカとか凄いシステムだと思う。 アメリカ大統領は、世界最高権力者であるわけだが、それが選挙で選ばれるという。 集計システムがハッキングされたらとか、有権者が洗脳・買収されたらとか、つい想像して恐ろしくなる。


6/12(金)

中国というのは、膨張と崩壊を繰り返してきた歴史的現象である。 国(Nation)とかいうより本当に現象(Phenomenon)。 私など、国土・国民でなく、この現象こそが中国であると認識している。

豊穣な大地であったため、周辺民族の流入が絶え間なく、そこに文明が起こった。 旺盛な征服欲を持つ、最強の者が支配者になるから、膨張を半ば原理としている。 日本のような、いわば休火山に暮らす者には感じ難いのかもしれない。

現中国は尖閣諸島の領有権を主張していて、そこが日本との懸案になってもいるのだが、それも当然というか、中国は国境を接するほぼ全ての地域と領土問題を抱えている。 北はロシアと、モンゴル(外蒙古)の所有権を争い、南はインドや南沙諸島、東には台湾(尖閣も)、西にはチベット・ウイグルだとか、本当に各方面に隙間無く紛争を抱えている。 膨張を原理としているのだから、この衝突は止まない。

導き出せる平明な結論として、仮に日本が尖閣をくれてやったとして、次には沖縄の領有権で争うことになるのはほぼ間違いないということ。

この中国という現象が、奇跡のような経済発展を遂げ、巨額の外貨を準備した。 覇権主義・世界戦略に移行するのは自然なこと。 台風とかハリケーンとか、そういう自然現象(災害)の一種のようなものなので、根絶は難しい。 でも対策は怠るべきでない。 人類規模のマターとして、コントロールしていく方法を模索すべき。


6/11(木)

北朝鮮による日本人拉致事件の被害者家族の一人が亡くなったそうで、それ関連のニュースを目にした。 私が気になったのは、家族の一人(遺族)である横田哲也氏(被害者の弟さん)のコメントである。

彼曰く、現総理大臣・現政権は「よくやってくれている」そうである。 政権が問題なのではなく、それを邪魔する勢力(一部の政治家やマスコミ)が問題である、と。 正確な字句が知りたい方は探して欲しい。動画などは簡単に見つかるはずだ。

口でこそ迂遠に言っておられるが、その邪魔する勢力の正体が何であるのか、彼には分かっているように察せられた。 もっと切り込みたかったろうが、あのくらいが限界だったのだろう。

日本のマスコミであるはずなのに、それが日本人を守るべく動いてくれない。 彼の言う偏向したマスコミ(報道)の裏に何があるのか。 如何なる構造がその歪さを生んでいるのか。 深く考えればきっと誰にでも分かる。

彼が何かに気付いたのは、きっと「切実」だったからだろう。 その何かにいまだに気付けない人は、要するに切実でない。 人類の重要な推進力である共感性、これから先、それを持つ者が生き残り、持たない者はきっと淘汰される。 Twitterとか見てても、集合知というのは、大掴みには不合理・不正義を排除する方向に進化しているように見える。


6/10(水)

神田優花、約8ヶ月ぶりのニューシングル「Summer Gate」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Summer Gate/Fly High

Summer Gateのイメージは真夏ではなく、夏の始まり、入り口。
目を開けていられない程の、まばゆい白い白い夏の光です。
コーラスにしっかりスタッカートを入れることで光の粒を意識したり、低音と高音のコントラストをはっきり出すことで、夏の潔い強さと、それだけじゃない柔らかい優しさが表現出来るよう、空気感を大事にして歌いました。


Fly Highはブレイクコア。
ブチブチと切ったようなイメージが欲しかったので、いかに口先で歌うか、に心を置いて歌いました。
ともすればボーカロイドでも良さそうな曲ですが、人間が歌うおもしろさが出るといいなと、見えないところにも遊びを入れてみたりしてます。

これ聞いて、日々のもろもろ、少しでもぶっ飛ばす時間になってもらえたら嬉しいです。がんばりましょう。

神田優花





6/9(火)

神田優花、明日発売の新作「Summer Gate」(全2曲)、収録曲について。


1.Summer Gate

私のイメージする夏、トロピカルなものを作ってみたかった。 音数自体は少ないんだけど、私なりに一音一音には拘って作った。

フェイドインで始まりフェイドアウトで終わる。 シンプルなPOPSなんだけど、途中でブリッジ的なパートが入る。Dメロと言うべきか。 半分ラップのようなものをイメージしたんだけど、普通の声楽というか唱法とラップとを折衷したようなものになっている。

サビに、人間の声で作ったリフのようなものがあるんだけど、神田優花の声を元に作りました。 ちょっと前のことなんであんましハッキリ覚えてないけど、結構手間は掛かったような。

これ、歌詞も私が書いてるんだけど、その分総合的なイメージを投影できた感がある。 夏のイメージって言ったけど、抽出されたイメージが凝縮された、私にとっては本物の夏なんかよりも、よほどに濃厚な夏だ。 私が音楽を作る理由の一部が体現された曲。


2.Fly High

ブレイクコア。 ブレイクビーツの多用という、普段やらない手法だっただけに、めんどくさかった曲。 可も無く不可も無く、まあこんなものでしょうか。思い入れ相応の作品。

音だけ聴くとトリッキーだし、如何にも手間掛かってそうに聞こえるかもしれないけど、実のところそんなに時間は掛かってない。 オケの構成はシンプルだし、普通のPOPS一曲作り上げるような手間は掛かってない。 ポイントとしては、エフェクトのインサート先としての 、個別のトラックとマスタートラックとの配分。

サウンド面でのギミックについては、事前に細かく想定したものを形にしたのではなく、リアルタイムで適当に音を弄ってみて、何となく気に入ったものを残した。 創作としての純度は低い。 その割りには好きですけどね。

音楽的には特筆すべき点はない。 タダのPOPSというか、POPSと言えるほどの構想量でもないので、POPS未満というべきか。 こういうものの常として、感想は音楽よりも音についてのものが中心になってしまう。





6/7(日)

私はどうも、ドッペルドミナントを使った進行があまり好きでないらしい。 ドミナントモーションそのものも、あまり好きでないのかもしれない。

ごく定番的な進行なので、曲のラフスケッチのような段階ではよく使ったりするのだけど、追い込んでいく作業中に、大体そこは削られる。

定番を嫌って逆張りをしているつもりはないのだけど、定番的技法ってのは、そこに思考が流されている感じがしてイヤなのだと思う。 私は「独断と偏見で云々」などという、人の言う定番的フレーズを耳にした時に、そこに思考が至っていないことを感じ、ややその精神に軽薄さを感じてしまう。 少なくとも、自分がそうあることに無審査でありたくはない。


6/6(土)

今の懸案事項。 最近書いた曲のオケを二通り作っているのだが、どちらを採用するか、あるいは両方何らかの形で公表するなら、どういう形にするか、で悩んでいる。

片やオーケストラアレンジ(金管はホルンのみ)、もう一方は全パートをキーボード音源(PCM)にしたもの(スコア自体は同じもの)。 キーボードってのは、いわゆるアレンジャーキーボードとかポータブルキーボードとか言われるようなもの。カシオトーンみたいなもの、って言えば分かる人もいるかもしれない。

後者の各パートの音色は、一応前者に倣っていて、例えばピアノのパートはピアノ音色で作っている。 プリセットに無い楽器については、近いもので代用(ビオラ→バイオリン音色、ファゴット→オーボエ音色とかに)している。

また、音色は基本レガート系なので、各種のアーティキュレーションへ(音色レベルで)対応できない。 例えばトレモロ(のサンプル)なんてプリセットに無いので、普通のレガートのトーンにトレモロ系のエフェクトかけて表現したりしている。

チープなキーボードと言っても、音源方式はPCMで、基本原理としては現行の、例えば最上位のオーケストラ音源などと変わらない。 無論、サンプリングポイントとかベロシティーレイヤーとかラウンドロビンとか、違いはあるし、それに付随したデータサイズの違いもある。ただ、基本原理は同じだ。

前々からチープなキーボード音色のみで一曲作りたいと思っていた。それもオーケストラ系だと面白かろうと。 ただ、正直言ってそのアイディアのみのために一曲を使うと、曲が勿体無い。 だってオーケストラ系ってパート数も多いし大変だから。 今回積年の念願叶ってそういうオケが上がったわけだけど、あくまで二通りのうちの一つである。 一旦正式に作ったオケの音色を差し替えたもの。

当然元となった方が正式版なわけだけど(時系列で言っても先に作っている)、録音物として二通り完成した際、どのような案分で出すべきか。 先行シングルとアルバム、とか言う形するべきか、あるいは非正式版をカップリングのような形に収めるか。

ボーカルについては、一つの録音テイクを使い回す形にはしない予定だ。 歌い手はある程度アレンジに合わせて歌を組み立てるもので、オケの印象があまりに違うと仕上がりに違和感覚えるそうな。 私としても、今回はあまりにオケの印象が違うので、個別に録るべきかと思う。

オケが違い、ボーカルのテイクも違うとなると、それは別の曲である。単なるリミックスとかリマスターではない。 タイトルをどうするかについても、懸案となる。 「○○バージョン」を名乗らせるなら、そちらを正式版にはしたくない。 となると、時系列では正式版を先にリリースすることになる。「○○バージョン」が先行では、理屈としてちょっとおかしいことになる。


6/5(金)

少し前にCausticってフリーソフト(スマホアプリ版は有料)を落とした。 大雑把な概要を理解した時点で面白そうだと感じたもので、時間があるうちに弄り倒してやろうと思っていた。

しかし導入直後に多少弄ったくらいで、今もってあまり触っていない。 結構素晴らしいプログラムなんだが。

前々から欲しいと思っていたような、実に痒いところに手が届いたソフトなのだが、いざ手に入れてみるとさほど食指が動かない。 私にはこういうことが割りとある。手に入れてしまえば後はどうでも良くなるような。 獲得への欲求と実用性・必要性ってのが別だからだろう。

だったら獲得は無意味なのか、というと、無論そんなことはない。 獲得欲というのは、要するに審美感覚の狂いなので、それを修正するためにも最低限のものは手に入れねばならない。


それにしても使いどころに困る代物だ。 普通のPOPSなら普段の環境で作るわけで(ベストな環境だからこそ普段のワークフローなのである)、わざわざ別のフローを採用する意味がない。 どちらかというとテクノとかエレクトロニカとか、そういう音楽作りに向いたツールだと思うのだが、そういうのを作るにしてもやはり普段の環境の方が良い(作りこめる)。 オモチャとして使うくらいしかないのだろうか。


6/4(木)

フッ化水素をはじめとする三品目の輸出規制強化に、韓国は猛反発し、今もその余燼が燻っている。 どうして彼らがそこに執着するのかというと、早い話が金蔓だから。 国家そのものが、反社会勢力と同様の資金調達法を採用しているらしい。 語るに落ちている。

この度のコロナ騒動で、外国人の入国を規制したら、真っ先に反応したのも韓国だった。 入国規制を敷いたのは別に日本だけじゃないのだが、何故か日本に対してだけ過剰に反応した。 何故か。金蔓だからである。

韓国から(日本へ)の人の出入りには、ある種の商売が濃厚に関わっている。調べれば簡単に分かる。 つい先日も、一億円相当だかの金塊の密輸が摘発されたとかいう報道を目にした。 金の売買に、消費税還付の差額で儲ける仕組みがあるそうな。 掠め取られるその還付金とやらは、言うまでも無く日本人の血税である。

日本で流通する覚醒剤なども、どこから流れてくるのか、調べれば簡単に知ることができる。 そして、その商売のスキームには、日本国内の呼応者が要る。 韓国(北も)が在日韓国・朝鮮人を引き取らないのも当然だ。 半ば合法的な工作員を失う。 朝鮮総連が日本人拉致にどう関わったのか、これまた調べれば分かる。

パチンコ業者の正体は何なのか。 どうして常にあれほどの一等地に物件があるのか。どうやってそれを手に入れたのか。 散々荒稼ぎしたその金は、一体どこに流れたのか。 如何ほど誠実に納税され、日本の公共にどれほど益したのか。

金(Gold)や覚醒剤の売買に、濃厚に関わっているいわゆるヤクザとは何者なのか。 政治的判断で潰された消費者金融。あの手の高利貸し業者の正体も何なのか、これらもまた、調べれば簡単に分かる。

言っておくが、前近代の日本にも金貸しはいたし、人買いもいた。 博徒など、現代のヤクザに相当するものもあった。 しかし、その後(二十世紀以降)のそれらとは当然ながら質が(規模も)違う。 私はその変質の原因に気付いてしまっている。

同和地区には多くの在日コリアンが住み着き、同和事業の恩恵を受けていたりする。 興味ある人は「えせ同和」とかで検索すればきっと理解の足しになる。 自称弱者が、被害をネタに何らかの割り当てを求める。 部落差別問題と慰安婦問題は、構造的にソックリである。 徴用工問題と言うのが今火種になっているが、要するに「新たなネタ」に過ぎない。 アイヌをはじめとする先住民族問題などが、今後も散発的に持ち上がると思うが、もう騙されてはいけない。

通信傍受法案やマイナンバーに反対しているのは、概ね同じ層だろう(無論例外はあるだろうが)。 いわゆる振り込め詐欺など、不正送金を止めるため、銀行口座の管理は厳格化された。 マイナンバーで金の出入りを掴まれたら困る人らがいるのだろう。 生活保護費の不正受給問題とか、調べて欲しい。朝銀事件とかも調べれば理解の足しになると思う。

マイナンバー制度や銀行口座の運用について、何らかのアクションが起こる度に反対の声が上がる。 お蔭様で日本は、先進国の中でも稀有なほどに電子化が進んでいない。 何故だろうか。私にはもう不思議でない。

マスコミが韓国寄りだとかで批判されることがある。 それもそのはず。韓国政府は公然と「対日宣伝費」を予算として組み込んでいる。 「対日世論工作」とかで検索してもらえば自明である。 まあ事実を知るまでもなく、彼らの原理性を理解すれば、そういうことが行われるであろうことは容易に察しがつく。

一応断っておくが、私はレイシストでも陰謀論者でもない(つもりだ)。 私は、私なりの正義感を持ち、悪を憎む。それだけ。

蛇足だが、インターネットの普及を、きっと彼らは苦々しく思っている筈だ。 旧来のメディアのように、要所を押さえればコントロールできるような代物でないから。 昨今のこの趨勢(状況の変化)は、ネットワークの隆盛に因る部分が大きかろう。

我々市民に今できることは「騙されないこと」。これに尽きる。 愚者がその愚昧さによって何かを失うこと、これは自然の摂理である。 大切なものを失いたくない私は、何よりも先ず、騙されずにいたい。

要するに、日本は血を吸われ続けていたんだけど、少なからぬ人がそこに気付き、社会としてももうそういった関係を絶つ方向に舵を切ったということ。 政治の側からは、このことについて明確な言及は(口が裂けても)なかろうと思うけど。 核心に触れずに物事を正すというのも、政治の要諦なのかもしれない。


6/3(水)

神田優花の新曲「Summer Gate」、iTunesでプレオーダー始まってるみたいです。 短いけど試聴もできます。





Stroh Violin(Stroviol)について。 とあるストローバイオリンの音源があるのだが、音が好きで愛用している。 要するにある構造を持つバイオリンのことを言うのだが、ある時代、録音用途に特化して開発された。

音量増幅器として、本体に金属製のレゾネーターが付属している。ギターでいうところのいわゆるドブロである。 レゾネーターの基本的な精神は増幅器(Amplifier)であるはずだが、単に音量を変化させるのみならず、音色・音質にも影響を与えていて、それが特有の滋味となっている。 本当にドブロである。

実際、ダイナミクスを弄る装置って、コンプレッサーにしてもプリアンプ類にしても、事実上エフェクターである。EQとかですら、固有の周波数特性を持つエフェクトとして扱われていたりする。 音なんて、実のところ空気の振動に過ぎないのだから、原音に影響を与えるものは全てエフェクターと解して差し支えない。

私は基本的に、ストローバイオリンを(単なる)バイオリン、あるいはフィドル・カマンジャとして使っている。 因みにこれらは皆同じ楽器を指す。調弦や演奏スタイルの違いによって別の呼称が与えられているだけ。

しかし、厳密にはストローバイオリンは純然たるバイオリンではない。 ピアノとバイオリンという程の距離はなく、バイオリンとビオラというほどの違いですら無いが、フィドルとカマンジャの関係ほどに同じではない。 原理的にはアコギとエレアコの関係くらいに相当する。あるいはスチール弦のアコギとエレキの違いとか。

三味線のパートをギターで演奏することは割かし容易だろうが、あくまで別の楽器を代用しているだけ。私の使用法はこの代用に近い。 エレピはピアノの機械的な再現を目的としたものだが、今エレピ音源をピアノ音色として使う人は少なかろう。

ある表現を達成するために、実器・本物の使用は、不可欠でないにせよ要素として重い。 ピアノのフレーズにバイオリンの音色をかぶせたら、当然それはピアノらしくなくなる。 私は、自分が何故あえてストローバイオリンと使いたくなるのか、考えている。

結局明確な結論は出ない。 音(サンプル)が好みのものであるから、ってのは間違いないんだが、そこにレゾネーターの存在が関係しているのか、よく分からない。


6/2(火)

更新サボってる間に6月だ。

中東音楽熱が再燃しつつある。確たる理由はないけど。 ここ暫くの間に作っていた曲、中東音楽のエッセンスを濃厚に散りばめている。 ただ、中東の伝統音楽そのものではなく、あくまでそれ的なPOPS。

まず中東音楽はマカームを基礎とした旋法音楽(非和声音楽)なのだが、作った曲は和声音楽だ。それもちょっと複雑なコード使いの。 微分音を混ぜてはいるけど、明確なマカームに基づいているわけでもない。 リズムについては、一応アラブ音楽の基本に沿った。

楽器編成はカマンジャ・ウード・ダラブッカ・ダルシマーにダブルベースを入れている(低音補強に)。 カマンジャは普通のバイオリンでなく、ストローバイオリンの音を入れている。そっちの方がイメージに近かったんで。 ダルシマーについては、サントゥールとかカーヌーンとかのチター属の楽器を入れようと思ったんだけど、しっくり来る音が無かったんでダルシマーで代用した。

興味ない人には本当にどうでも良い文章だろうけど、個人的な備忘録も兼ねてるんで。


5/28(木)

本当に隣の芝生は青く見えるらしい。 これは私が今まで生きてきて、得た数少ない確信の一つだ。

「初夜権」は権(利)というが、実は義務であった。無数に傍証が見られる。 性欲を満たせるからとて、「産婦人科医になりたい」などと思う男はいるのだが、実のところ、産婦人科医は、なり手の少なさが社会問題化すらしていると言う。 つまりそれがリアルな選択肢として頭をもたげた多くの人は、それを選ばない。

ある省庁勤めの知り合いがいる。 その人は就職活動時、他省の内定も貰った上で、今の勤め先を選択したというが、蹴ったその他省を選ぶべきだった、などと本気で言っていた。 無論その人の言う通り、蹴ったそちらの方が待遇面で良かった可能性もあるだろうが、そんなのは勤めてみないと分からない。 確実な情報を元に吐露しているわけではなさそうだった。 つまり、隣の芝が青く見えた。

「(人生の)あのタイミングで別の選択をしておけば、今頃自分はこうだった」みたいに述懐する人を、何人も見たことがある。 本当だろうか。 私は違うと思う。これまた確信的にそう思う。

その人が今いるその場所は、その人が目指し続けた場所だ。 これは間違いない。 想像力こそがその人の限界。 今いるその場所以上の何かをその人が想像できるのなら、きっとその人は今のこの瞬間にも、そこを目掛けて歩き続けている。


物質的には何も持っていない私だが、今のこの認知というか世界観には誇り・自信を持っている。 初夜権や産婦人科医を羨むような、ぼやけた現実の中に私はいない。


5/26(火)

ストリングス系の音源とかって、ホールとかスタジオ借りて、プロの奏者(大抵は有名楽団員)を使ってサンプリングされているわけだけど、採算取れているのだろうか。 いや、取れているタイトルはあるに決まっている。でないと、そういう商品が続々とリリースされるわけがない。

オーケストラ系の音源は、大抵グレードがいくつかに分かれている。 当然、最上位のものが一番モノが良く、値段も張る。 最下位のものはお試し版というか、ある種広告的な要素があるので、額面そのものも安いが、コストパフォーマンスが良い。 私は上位グレードの商品を買わないタイプだ。 下位グレードである程度事足りるから。

下位グレードの商品は、インストルメントやアーティキュレーションが絞られているのだが、 当然ながらスタンダードなものは押さえられているケースが多い(でないと売れないし広告にもならない)。 つまり、上位版に足されているのは、ある種特殊な音である。 無論、モノによってはラウンドロビンとかベロシティーレイヤーとか、そういう違いもあろう。

(本格的な)オーケストラ系の音源に、需要はあるに違いない。 DTMレベルでも、フルオーケストラのスコアを書く人はいるだろうから。 むしろ生演奏録音のハードルが高い分、需要も増すことだろう。

製作コストが高いが、需要は(必要な人の数こそ少なくとも)揺るぎないもの。 こういうものは原理的に高価になる。 本当に何十万円レベル(何百万のまで見たことがある)だったりするのだが、拘る人は拘るポイントなのだろうから、ありうべきことなのだろう。

DTMの関連商品の売上げ(本数)なんて高が知れている。 ちょっと前にヒットしたボーカロイドが、数万の単位で出たとかで騒がれていたのだが、つまりほとんどの商品はせいぜい数千単位、あるいはそれ以下ということだ。 狭い市場である。 スマホアプリなんかに、何百万ダウンロードとかあるけど、あれは対象が違う。

結論の無いことをダラダラと考えている。 話は変わるが、オンラインでないと使えない音源とかたまにあるけど、あれは困りものだ。 録音や編集をあえてオフラインでやる人は多いはずだ。


5/25(月)

もう多くの人は分かっているだろうけど、脅威はコロナウイルスではなく、それに冷静でいられなくなる人心である。

不測の事態に弱いタイプの人がいる。 早い話が脆弱な脳の持ち主だ。 「新種の風邪は脅威だが、それ相応の脅威でしかなく、対策に際限の無い犠牲を伴って良いものではない」。 たったこれだけの理屈が通じない。 完全なるゼロリスクを常に求める人は、既に病気なのだ。 量刑にも相場ってものがあろう。

「タチの悪い風邪が流行しているみたいですから、皆さん気をつけましょう」と言えば良かっただけ。政府は、心配な人用のガイドラインでも示してやれば、なお親切だったろか。 風邪如きに緊急事態宣言まで発令し、未曾有の不況を招くことを、愚だと言わずしてどう評価しようか。 これは人災だ。

不測の事態に弱い人がそうである理由は、可能性の枝葉を脳内に展開できないからだ。 これは病気のようなものなので、言っても詮無いが、狂気というものは往々にして声が大きく目立つ。 そのノイズがマジョリティーの声かと錯覚されれば、政治が動く。民主主義の欠陥でもある。 この手のアホ対策を真剣に考えるべき時に至っている気がする。社会的ロスを看過できない。

「自粛警察」とか言う言葉を仄聞した。 同時にその実態も知ったのだが、彼らへの対策を怠ると、将来きっと日本でも魔女狩りが起こる。


5/24(日)

長く音楽なんかをやっていると「ここでこう動けば売れるのではないか」という直感のようなものが脳裏を過ぎることが何度かあった。 そして、その好機を逸し続けてきたから今の私がいる。 要するに、私の欲しいものがその先に存在していないってことだろう。

私に経済は分からない。でも経験相応の世間知ぐらいならある。 人は物を買う。 何かを手に入れる際、大抵は金を持ってしてその対価とする。 これは言い換えれば金を売っているということ。 金出して何かを買う人は、例外なくその額面の金を売っている。

金によるトレードのみに流れている真理ではない。 おかしな恋人を作る人は、それを作らないよりはマシな選択をしている。 つまり、そこに甘んじる対価として、何かを得ている。 人は基本的に、その条件なりの得を拾っている。

音楽家としての私が「売れること」を史上の命令とした場合、そこで手に入るものは、富や名声、あるいはそれらに付随した自己承認欲求の充足など。 当然そこで、その対価として売り渡す何かがあるわけだが、それは何なのか。

それは「自分」である。 自分自身、自己、どう言えば良かろうか。 私は音楽家、芸術家を志して生きてきたわけだけど、首尾一貫して一番欲しかったのは「自分」である。 私なりに納得できる自分。それを追求してきた。

金や社会的地位は、あればそれが無いよりは生きて行きやすい。 つまりそれらを優先するということは、即ち生存を優先するということ。

富や名声に、一番欲しいものを切り売りしてまで手に入れる価値があるのか。 我々が思いを至らせるべきはその一点だろう。 私は妥協しません。


5/22(金)

来月から新作のリリースが暫く続く予定なんだけど、当然ながら録音物の制作と発表にはラグがある。 今、時勢上制作作業がストップしているのだけど、この影響が出だすのはもう少し先になる。 またリリースの空白期が出来てしまうかもしれない。 回避すべく努力はしますけどね。

その努力の一環として、今は一人でできる作業に集中している。 具体的には曲作り、というか、歌入れを残すのみの状態のバッキングトラックを作るところまで。





私は本当に経済が分からない。誰か教えてくれ。

今の緊急事態への対応として、政府が国民に金をバラ撒くという。 「無闇にマネーサプライを増やしたらインフレにならないのか」という疑念が(私の足りない)頭をよぎる。 が、実入りが減っている人を見越しての対策で、しかも甚だ不十分と言われているのだから、むしろデフレっぽく事態は推移していくのか、とも思ったりした。

要約すると、政府が国民に「使用権」をバラ撒いた、ということである。 昔だったら、百姓の農作業をお上が強制的に止めたら、忽ち飢饉がやってきたろうが、現代の日本国では、少なくとも食料は余っている。

コンサートを中止したら、主催者側は実入りがなくなって困るだろうが、客の側は支出がその分抑えられる。 経済学などと言う思想が無かった一昔前までは、始末(倹約)こそが経済政策であり善行であったのだから、自粛の評価も難しいと言えなくもない。

無論、経済は循環してこそのものだ、と言われていることは知っている。 レバレッジとか言われるものの根底には、この循環があるのだろう。 しかしある物事を悪し様に言う、自転車操業だのと言う言葉もある。

日本人(主に高齢者)の貯蓄は推計で1000兆とか言われているらしい(金融資産はその倍近い)。 国には借金があるが、国民には貯金がある(ついでに日本には外貨もある)。 だからこんにちのような財政も容認されているのか。 繰り返すが、資産とは言うが、金は資源ではなく使用権である。 つまりは約束である。だから信用にのみ基づいている。 非資源国である日本の、本当の財産は貯蓄額ではなく、信用、つまり人間の誠実さではないか。

後進国の財政が破綻して、通貨価値が暴落したりする。 本当に壊れているのは信用である。 そもそも脆弱な信用だから崩れやすい。 後進国は技術を取り入れる前に、信用に足る人格を学んだ方が良いのではないか。 不信の蔓延する社会は、一言で言うなら非効率である。


5/21(木)

今の都知事のコロナウイルス対策が、本気でないのは見ていて分かる。これは私の世間知というか経験則である。 「こういう人見たことあるな」という。

彼女は、この事態に涎を垂らしている。 ここに気付いている人は私以外にもたくさんいて、一部ではそう言われ始めている。 あのタイプの人の好餌となりうる事案のうち、格好のものが目の前に転がり込んだと見える。 これに比べりゃ築地だの豊洲だのは実にシャビーだった。

ああいう人が存在することが問題なのではなく、あれに支持が集まってしまうところに問題の本質はあるわけだが、民度の成熟と言うのは一朝一夕には為しがたい難題なのだろう。 しかし、民意というか歴史の力学のようなものは、実に複雑怪奇である。 現に、前都知事は圧倒的な得票のもとに知事職に就いたはずだが、公費の濫用だとかのしょうもない理由でその立場を追われた。 風向きなんて、いつどのように変わるか分からない。

だから私は、未来なんて読めない、といつも思っている。 この世界がどう変わっていくか。誰にも分からない。 私に分かるのは私のことだけ。 私に約束できるのは、如何なる成果でもなく、私が変わらずにいること。


5/20(水)

「食品ロスをなくそう」とかいうキャンペーン広告を見た。 各種の業者だけでなく、各家庭においても食材のロスは多いらしい。当然そうだろう。 でも本気でそれに取り組むなら、社会のスキーム自体を変えるべきだろう。 劇的に改善する余地はある。

以前、サイゼリヤというファミレスみたいなところに行ったら、ドリアが一皿299円(税込)で売られているではないか。 まず間違いなく、家で自分で作るより安上がりである。 セントラルキッチンとか食材のボリュームディスカウントとか、そういう理由なしに到底達成できる価格でなく、個人経営のレストランなんかがドリアの価格競争を挑んだところで相手になるわけがない。

つまり、各家庭にそれぞれ厨房があり、毎食一家庭分の食材を買い込み、専用のシェフ(母親など)が調理をする、というのが如何に贅沢(非効率)であるか。 この無駄をなくせば、食の構造は劇的に効率化できるはずだ。 こういう思想がベースになっていたのが、いわゆる社会主義なのだろうと思うが。

私がこんなこと言うまでもなく、この世界はそういう形に近付いて行くのかもしれない。既に移行しつつあるのかも。 マルクスの言う社会主義・共産主義ってのは、20世紀に実現した、ほとんど失敗に終わったいくつかの国家体制でなく、日本のような社会がこれから移行する体制、に近かったりするのかもしれない。分からないけど。


5/17(日)

ここ20日くらいの間に、オケのリメイクなんかを合わせて多分9曲くらい作っている。 たまにこういう、異常な創作意欲が沸いてくる時がある。 要するにまとまった時間があるからだろう。


ちょっと先のことになるけど、7/8に、ウチの新人さんのファーストシングルが出る予定になってます。 もう納品作業とか終わってて、正式なアナウンスを待つだけになってます。 もうじきここでもお知らせします。


海外のエージェント(楽曲の営業担当業者)が、日頃「Heard Report」というものを送ってくる。 我々レーベル側は、楽曲をカタログ化して提出しているのだけど、エージェントが抱えているクライアントからの、それら楽曲に対する閲覧の記録をHeard Reportという。

えらいもので、ここ最近のコロナ騒動の影響か、閲覧記録がとんと送られてこない。 アメリカ、結構本当にヤバいんだと思わされる。 まあでも彼らはきっと復活するでしょうけどね。


5/16(土)

私は(いまだに)Soundfontをかなり使う。 ほとんどオープンソースのようなもので、世界中に広範なライブラリーが上がっているからだ。 要するに便利。 商品レベルのものは少ないけど、別に良い。使いどころはこっちで考えるから。

そのSoundfont、ライブラリーも豊富だし、プレイヤーの方も数多く(ほとんどフリーで)存在しているのだが、とにかくバグが多い。 今日も格闘だった。

DAWに(プラグインとして)プレイヤーを立ち上げ、そこにライブラリーをロードする、という仕組みが少々複雑すぎるのか。 ほとんど毎度のようにおかしなことが起こる。 相性の問題のようなケースが多く、いつも色んなプレイヤー試しながら作業を進める。因みに、現在使い分けているプレイヤーは大体5〜6。ほとんど使わないようなものまで含めると10くらいある。 Kontaktとか、Soundfontの為だけに旧バージョンを削除せずにいる。

とにかくスタンダードと言えるような、万能のプレイヤーがないものか。 しかし今の時期にそれを本気で開発する人ももう少なかろうな。 重宝しているフォーマットなだけに残念だ。


5/14(木)

カントリー・ミュージックについて。 カントリーとかブルーグラスとか言われている音楽について、考えている。 勿論そういう曲を作るつもりで。

軽く調べた限りでは、楽理面での記述はほぼ皆無といってよく、要するにジャンルというほどのものではない。 事実歴史も浅い。 定番的楽器群があり、それらを使ってそれっぽい音楽を奏でれば、それがカントリーなのだろう。

バンジョー、マンドリン、スチールギター、リゾネーターギター(ドブロ)、アコースティックベース、フィドル等々を定番とする。 どれをとっても独自のものでない。フィドルとかって、要はいわゆるバイオリンのこと。

代表的な作品に当たってみようかと思ったが、とりあえずやめておく。 そもそも知識の無い頭に、俄かに代表曲数点など入れてしまうと、ほとんどそれに染まってしまう。 イメージが大掴みなまま、曲のアウトラインだけでも作りたい。 曲を聴くのは、細部の詰めに入ってからだ。


5/13(水)

仕事にミスは、そりゃ無いならそれに越したことはない。 ただし、チェックやベリファイ作業に膨大な時間を費やすような仕事は、それはそれで要するにヒマなのである。 割いている人員の必要性そのものが怪しい。

仕事とかやってると気付く筈だが、人がやる作業(機械にでも)にミスやエラーは付き物である。 入念なチェック工程を挟むことで、それを最小限に留めることは可能かもしれないが(それでもゼロにはならない)、そんな非効率なことやってられない。 少々のミスは許容しつつ、発覚の度に修正して行く方が圧倒的に効率が良い。 私がこのような発想の持ち主でなかったら、現在までのウチの商品数は到底実現できなかったはずだ。

確かにミスが許されない作業ってのもあるにはあるけど、実際そういうものは少ない(と私は思う)。 などと言いつつ、来月10から8月26日まで、ウチは毎週何らかのアイテムをリリースします。 我々スタッフが、コンロを二台同時に使うタイプであるからこそ、この少ない人員でこれだけの商品をリリースできるのである。



神田優花「Summer Gate」、6/10(水)発売です。


5/11(月)

神田優花のChiptuneシリーズは、商業的に言えば成功とは言い難いものだったんだけど、その理由の一つとして、アルバムタイトルに「Chiptune」を冠していないってのがおそらくはある。 ただ、それをミステイクだと思っているわけではなくて、今タイトル修正できるって言われても、やっぱりChiptuneは付けない。

ジャンルというのは、結局そこに客がいるからカテゴライズするもので、要は商業主義の産物だ。 Chiptuneのようなニッチなジャンルだと、その効果は分かりやすい。 だから一部の者は、「ジャンル名」の所有権のようなものを主張し出す。

ピカソは「売れる絵を描ける者を画家と言い、描いた絵が売れる者を芸術家と言う」と言っているが、我々が作りたいのはその芸術の方。


5/10(日)

タッチ強めのピアノ(アルペジオ)の音が欲しくて、色々と思案していた。 生の音録るほどの気力が無かったもので。

MIDI規格におけるノートのベロシティー値は128段階なのだが、到底実器のpppからfffまでとか、そういうレンジの表現に対応していない。 精一杯のベロシティーぶち込んだところで、強いタッチの表現とは遠い。 更に、ベロシティー一定ってわけにも行かないから常にMAX値ってわけにも行かない。

一番現実的な解決法として、「強タッチでサンプリングされた音源」を使うことにした。一応そういうものが存在しているんです。 結果としてはそれなりに満足できるものができた。 MIDI規格の「ベロシティー128段階」はMIDI2.0で16bitに拡張されたそうなのだが、私の周りの環境は依然7bitのままだ。


5/9(土)

黙々と事務作業を続けている。 今年初めて作品をリリースする予定の子がいて、それ関係の作業。 最初の作品ってのは、リリースにあたってアーティストプロフィールだとかそういう資料を揃えないといけなくて、普通のリリースより大変なんです。


5/8(金)

この度のいわゆるコロナ騒動で、大量解雇が世界的に横行しているらしい。 日本でも既に発生しているが(某タクシー会社が運転手全員解雇とかいうニュースを見た)、今後さらに対象が増えるに違いない。

「コロナウイルスのせいで」というより、「コロナ騒動に乗じて」、要は余剰人員を整理している面も大きいと思われる。 だって人なんて実は要らないんだもの。

飽和とか臨界とかいう概念がある。 人が余ったって即座に大量解雇とか雇用の崩壊とかって起こらない。 社会とはそれなりに柔軟なもので、色んなサスペンションが利く。 ただ、あることを契機に、物事は土崩してしまったりもする。

人手不足が言われて久しい。 少子化ってのが随分前からの社会問題だったのだから、労働者が不足することは目に見えていたはずだが、ある時期には外国人がそのバッファとなり、 それすらも維持できなくなりつつあるからこその無人化である。

無人化は急激に進められているようで、今スーパーやコンビニには、無人精算機が当たり前のように置いてあるし、飲食店ではタッチパネルでオーダーするようなところも増えている。 このトレンドが逆行することなんて、短期的には考えられない。

物品の配送、自動車の運転、各種の精算作業、これらは近い将来、ほとんどが無人で賄われることになるだろう。飲食店の従業員などをはじめとする肉体労働者なんてのは、近い将来きっと激減する。ホワイトカラーの会社員とかもきっと相当数圧縮される。

技術なんてきっとすぐ追いつく。 セルフレジに特別の新技術は無いと思うけど、人手が足りなくなって初めて実用化され出した。 雇用を守るために、むしろ導入を忌避していたきらいさえあるのではないか。


私は「そうなって欲しい」という話をしているわけではない。 定めしそうなるだろう、と感じているだけ。 平明な論理力を持ってすれば、ある程度見えてくる未来ってのがある。 それを見えなくさせるのは「願望」である。 これが混じると、展望は曇りやすい。

私は「歴史の行方が読める」とかいう大それた話をしているわけではない。 スーパーコンピューターを使った天気予報が簡単に外れる。歴史なんて高度で複雑なものが、人知ごときに分かるわけがない。

雇用が衰退することを危惧する声が聞かれる。 別に心配要らないのに。 機械でやれることなんて、全部機械にやらせとけば良い。 産業革命やITが人類にもたらしたものを思い合わせると良い。 世の中はきっと良くなって行く。 今の人類にもっとも必要なのは、信心だろう。


5/7(木)

緊急事態宣言が延長されるって時、新たなライフスタイルの提唱みたいなのもどさくさに紛れてあったのだけど、まあそういうのを言挙げするまでもなく、日本人のライフスタイルは変わっていくだろう。 良いことかどうかはさておき。

マスクの装着率が上がるであろうこととか、容易に想像が付くのだけど、私が気になっているのは、ライブイベントの行方である。 ライブハウスとか、バカ正直に上の提言に沿うなら、全滅に近い状態になろう。

タダでさえ少子化社会で、バンドマンなどの数も減る一方なのに、ここにきてこのコロナ騒動。トドメを刺されやしないか心配だ。 フェスだとかアリーナ公演のような大規模イベントも、流石に無くなりはしないだろうけど、以前の状態には戻らないのかもしれない。

ウチはライブとかあんまりやらないし、ライブの動員が減っても、音源の再生数には逆の相関が働くかもしれないと、割と楽観的に構えていたんだけど、どうなることやら。 歴史的には、音楽ソフトの売上げとライブイベントの動員は、かなりの部分連動していたろうから、音楽そのものがシュリンクする方向に行ったりするのかもしれない。 望ましくはない。


5/6(水)



神田優花の新作、「Summer Gate」(全2曲)、6/10(水)にリリース決定です。 去年の10月以来だから、半年以上間が開いたことになる。

これから8月にかけて、アルバム・シングル合わせて8タイトルの発表を予定しています。 一つはコンピレーションというか、既に発表された作品をまとめたようなものなので、実質7タイトルになる。 年内にもう1タイトルくらい出したいところなんですけど。


5/5(火)

海外(特に欧米)と日本では、芸能のスキームが違うわけだけど、特にいわゆる「事務所」の位置付けが違う。 アメリカにおいては、事務所が芸能人を作るのではなく、社会全体が才能を判別し、スターを生み出している感が強い。 事務所(というかエージェント)は、その芸能人にまつわる雑務を処理する業者に過ぎない。無論、能力が問われないわけではない。

だから、アメリカとかで鳴り物入りの新人が現れたりすると「凄い才能が出てきたらしい」と思うが、日本でだと「ご実家、裕福なんだろうか」とか反射的に思ってしまう。 どちらが良いとか単純に比較できるようなことでは無いのかもしれないが。


5/4(月)

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音楽は難しい。 佳曲の良さが那辺にあるか、ほとんどの人には分からない。 作った当人にすら分からなかったりする。 ダニエル・キイスは、授賞式か何かで「どうしてあのような名作が書けたのか」との質問に、「どうして私があのような作品を書けたのか教えて欲しい」と答えたとか聞いた。 正直なところだったろう。

キャンディーズに「内気なあいつ」という楽曲がある。 多分そんなに有名でなくて、ファンでもない限り知らない人が多いのではないかと思われるのだが、ヒット曲「年下の男の子」の次に出されたシングルである。

前作のヒットの、二匹目の泥鰌を狙ったことは明らかで、ライター陣からプロデューサーまで前作と同一の布陣、曲も音楽的にソックリである。 しかし(おそらく)売れなかった。実売枚数までは知らないが、少なくともキャンディーズの歴史から抹殺されたかの如く、後年話題とならない。 売れた曲(前作)にソックリなのだから、売れても良さそうなものなのに。

音楽の良し悪しが、そんなに単純でないからだ。 実はこの手のこと、類例こそ無数に存在するのだが、成功例を寡聞にして知らない。 愚策であることが、歴史的に証明されていると言って良い。

例えばコード進行ってのは、ある程度パターンが限られていて、世に同じものが腐るほどある。 試みに、あるヒット曲のコード進行にそれと似通ったメロディーを乗せたところで、著作権の侵害などには当たらない。 しかし、きっとそんなことをしたところで、出来上がるものは差し詰め上の例のようだろう。


ピカソは、特にその晩年、フェイバリット作品のオマージュのようなものを量産している。 物書きってのは、何かに感動するから創作者になるのであって、模倣というのは、避けられない「段階」のようなものである。 模倣を経験しない作家がいるのなら、その方がおかしい。 ゴッホによる浮世絵の模写とか有名だ。

ピカソはこう言い残している。 「今は、もう感動はない。だから、感想が湧くのである。感動には、叫びはあるだろうが、言葉はない。」と。 彼にしてそう言わしめた何かを、今の私は分かるような気がする。

何かを「良い」と感じている、その感動の中で、冷静な創作はできない。 何を考えようとしても、その何かで頭が一杯になるから。 それに飽き、一定の距離を持つことが出来た時に、初めて分析的態度でいられる。

しかし、本当に良いと感じたその何かを、超えるもの作るのは至難である。 その何かを良いと思えば思うほど、そのハードルは上がる。 私にとって畢生の課題は、愛して止まないその何かを、超える新たなものを生むこと。 厄介な作業に取り組んでしまった人生だ。


5/3(日)

予定より随分前倒しで歌を録った曲が何曲かありまして、その編集作業を先月末からやっていた。 その曲とは別なんだけど、6月リリース予定の3タイトルの納品作業が終わったんで、もう暫くしたら詳細を報告します。

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私はシーケンサーを選ぶ人だ。 リスト(テキスト)エディター、スコアエディター、ピアノロール(ドラムロールも)の全てが必須だ。 ピアノロールだけで十分、とかいう人が信じられない。 パート数多い曲とかどうやって作るんだろう。

最近導入したアプリを使って曲を作ろうと思っているんだが、そのシーケンサーで躓いている。 基本的にピアノロールオンリーなのだ。 勿論ピアノロールがあれば曲は作れるんだろうけど、今は別のシーケンサーで打ち込んだMIDIデータをロードして、内蔵音源鳴らしたりしてみている。 でもこれではタダのVSTインストルメント入れたのと変わらない。

やはり、入力のフローこそが音楽の一つの肝であるかと思われる。 少々面倒くさいけどそのアプリ内のシーケンサー使って打ち込んでみようと思っている。 収穫があれば良いが。

そういえば、モジュラーシンセのプログラムを軽く弄ってみている。 以前、簡易的なものではあるが、シンセやエフェクトなどをいくつかプログラムしてみたことがある。 だから当時は、ある程度結線などについても理解していたはずだが、今は綺麗サッパリ忘れてしまっている。 モジュール組み立てて、まず「音を出す」ところに行き着くまでに壁を感じてしまう始末。 音の良し悪しなどの遥か手前だ。


5/2(土)

神田優花の、直近のリリースに向けての作業がほぼ終わりつつある。 しかし日本レコード協会なども一部業務を停止しているようで、日本経済そのものが麻痺状態にあるようだ。 責任を負いたくない誰かが多いあまり、世の中がメチャクチャになりつつある。

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音楽が好きな理由をここで述べようと思ったんだけど、難しい。 我が心の在り処が分からないのではなく、平易な言葉で伝えるのが難しい。

人間はあるレベルの脳の覚醒状態を現実と呼び、また別のあるレベルの脳の覚醒状態を夢とか呼んでいる。 私にとっての音楽は、それらとも別の、現実より更に研ぎ澄まされた覚醒状態を言う。 音楽の中に住んでいると表現しても良い。 音楽に生きる私は、浮世を半ば薄ら笑いで眺めている。

「あの出来事が、夢だったのか現実だったのか分からない」というような経験を持つ人は多いと思うが、私には「あれが日常(現実)の出来事であったのか、あるいは音楽であったのか迷う」ということが稀にある。


多くの人にとって、日常は映画より冗長だろう。だから金払ってでもあれを見る。 多くの人の人生は、短編一本にすらならない。 つまり、人生とは随分淡白なものだ。

ドラマが二時間に凝縮された映画なのだから、それほどに濃密であるかというと、それもどうだか。 つまらない映画も多いし、二時間という尺が適切でないものもしばしばある。

人間は今しか生きられない。 過去も未来も、その想像の範疇にあるものに過ぎない。 それらは皆、現在における体感に含まれる。 だからして、映画の感動的なラストシーンは、その映画の二時間なら二時間を、そこに集約している。 二時間という時間軸がロードされているのは、個々の脳であるからして、脳機能如何によっては、映画など楽しみようがない。

スタジオジブリのとある作品を見ていたら、全体としてのストーリーの整合性など全く無く、断片的なモーション動画を繋ぎ合わせただけのようなものがある。 その作品、それなりにヒットしたらしいが、言語機能によってはあれで十分というか、あれしか理解できないのだろう。 まあ子供向け作品だから、子供の言語状態にフォーカスしているとも言える。 つまり、二時間分のストーリーを脳内に保持するのは、それだけ難しい。

二時間分のストーリーを脳内に展開できるのなら、二時間の映画は一瞬で味わえる。 時間というのは外界に流れているのではなく、人間の心の中にあるものだからだ。

私は音楽にて、その濃厚な瞬間を味わっている。 これは何よりの娯楽。これを覚えてしまったら、ゴルフや麻雀なんていう冗長な作業はやってられない。


5/1(金)

緊急事態宣言とかいうのが延長されるそうだ。 いい加減にして欲しいが、これもまた我々の生きる現実。 集団・個人に関わらず、ある判断が如何なる不利益をもたらしたとしても、それは仕方ない。 割を食うのはイヤだけど、民主主義ってのは基本的にこの「割を食う者」を四捨五入するもの。 まあもしかしたら、この事件に何かを学んだ日本人が、薔薇色の未来を作り出すかもしれないし。



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休業中にも黙々と仕事を片付けている。 今日はリリースにあたっての事務作業と、ジャケット類のデータ作り。 図らずも、溜まっていた業務が一気に消化できそう。


4/30(木)

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割と純度の高いテクノ系の音楽(非テクノポップ)にも歌はあったりする。 ただ、いわゆる歌謡とは遠い。 あくまで声をサンプリングのネタとして取り込んでいるような状態であることが多い。

「上野発の夜行列車に乗って青森駅で降り、連絡船から見えた海峡の景色が云々」といった、時間的推移を伴うものは苦手というか、テクノとは相性が悪い。 テクノは端折って言えば、「電車!」というワンフレーズに全てを集約する。

「デンシャ」だけでは単調なので、時折サンプラーとかで「デ・デンシャ」とか「デ・デ・デ・デ・デンシャ」とかいう風にする。 あくまで音である。おそらく深い意味理解を伴っていない。

ぶっちゃけて言えば、言語野の形成不全による代償発達が、あれに食いつかせているのだろうと推察する。 つまり統合の脆弱性。 私なりの結論で、ここにはある程度自信があるのだが、まあ失礼に当たろうからその手のミュージシャン目の前にしてはよう言えない。


4/29(水)

ゴールデンウィークに突入している。 (死にかけの)私にとってはさして特異な話ではないが、別にとりたててのレジャーなんてものの予定は無い。 まあ世間的にも自粛ムードが漂っているわけだけど。

コロナウイルスで死ぬのはほとんど高齢者ばかり。それに引き換え、今後確実に訪れる不況で首を括る人は、おそらくは働き盛りの年齢層。 コロナウイルスなんてショボい風邪(三百数十人しか死んでない)を理由に、ここまで経済を犠牲にしても許されるという。これも一種のシルバー民主主義なんでしょうな。 高齢化社会の弊害がこんなところにも。



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黙々と曲作りを続けている。 今取りかかっているのは、先日オケが完成したばかりの神田優花の新曲の歌詞と、最近取り入れたアプリを使ったトラック。 神田優花の新曲の方は、私なりにフランス和声をベースにしたもので、楽器編成も管弦楽ベース。 後者はまずアプリの使用法から勉強しているところだ。


引き続き、テクノやエレクトロニカといった音楽について考えている。

非和声音楽というのとも違うが(トーナリティーそのものはある)、いわゆる和声音楽的な進行感は無い。 このブロック単位での「進行感」というヤツは、おそらく言語と密接に関係しているのだが、それが無いということ。 作り手や聴き手の言語感覚に由来しているに違いない。

音楽というものを文学作品に例えるなら、音楽構成(いわば譜面情報)はストーリーだが、音色というのは要するに「フォント」である。

ドストエフスキーの作品を与えられた学生が、その感想として「フォントの形が面白かった」というレポートを上げてきたら、彼は余程に私とは違う言語感覚で対象に当たっていると思わずにいられない。

そっち界隈で天才と囃されているアーティストが「モーツァルトの再来」とか言われているのを目にしたが、クラシック系の作曲家と彼らは、能力差を言うわけでなく、属性そのものが異なっているように思える。


4/28(火)

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お上の自粛要請に従わないからと、「店名を晒す」と脅されたパチンコ屋が、少なくとも都内では全部休業することになったらしい。 たかが風邪ごときを理由に、ここまでの私権制限が許されるなんて、やはり太平洋戦争も国民の総意でやったのだろうな。 さしづめパチンコ業者は「非国民」だ。

あくまで要請なのだから、個々の信条を少しは尊重すれば良いのに。 「コロナウイルスは脅威だが、経済の健全性の方が大事だ」という者があって何故いけない。 都内のパチンコ屋ももっと抵抗すれば良かったのに、腰が砕けたらしい。 まあ私はパチンコなんてしないから関係ないけどね。

ついでながら、私は今の日本を少々狂気の度が過ぎると思っているが、パチンコは明らかな賭博なので、全て潰して良いと思う。 社会にとっての害悪が大き過ぎる。 三店方式なんてのが合法とされるなら、賭場など開帳し放題である。


4/26(日)

曲作りに没頭していたのだが、何だかしっくり来ない。 ここ一週間くらいで4曲書いたんだけど、半分は使い道が無さそう。


ここ最近、新人が何人か入って、私の作業も増してるんだけど、いくら人が増えようと私の処理能力はほぼ一定である。 粛々とその範囲内にて作業を続けてます。

活動に、時勢上の制限が加わっている。 ウチだけでなく、取引先にも休業するところとか出てきて、我々だけでは如何ともし難い状況に。 ちょうどゴールデンウィークにも突入することだし、この機会に曲のストック作ったり、溜まってた編集や事務作業片付けようと思います。


4/23(木)

寒冷地にある国なら、地球温暖化を少々は容認しても不思議はないのだけど、地球規模での全体最適を考えるなら、事はそう単純ではないのだろう。

COVID-19による死亡例は、そのほとんどが高齢者に集中しているようだ。 高齢化は、日本社会にとっての(日本以外の多くの先進国にとっても)積年の懸案であったのだから、少々の高齢者の間引きは容認されて良いような気がするのだが、これは政治家諸氏など口が避けても言えなかろうな。



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テクノとかエレクトロニカだのについて、引き続き考えている。 私が作るその手の曲は、アイディアのごく断片を拝借しているだけで、要はPOPSなのだろうと思う。 エレクトロニカ風POPみたいな。 テクノPOPとか言われているものと、ディープなテクノってやはり違うわけで。

代表的な作品を聴いての感想を書き留めておく。 私も音屋なので、如何にギミックフルな音であったとしても、聴けばある程度の再現方法は思いつく。ただ、だからといって「本質的な滋味」を再現できている自信はない。と言うか、多分できていない。

早い話が、その種の音楽ジャンルの「売れ筋」作品を聴いても、良さがイマイチ分からないのである。 つまり佳作と駄作の区別が付かない。ということは、きっと勘所が掴めてない。

例えば私は、特定アイドルのフリークになった経験が無いのだけど、だからしてアイドル商品のプロデューサーとかには甚だ不適格である筈だ。 ツボが分かっていないから。 同じ意味で、今の私はテクノ関係の作曲家(と言うかトラックメイカー)の適性を欠いていると思われる。


サンプルとしてのトラックを聴いてみる。 1〜2小節程度のフレーズ(ベースライン)を延々とループさせ、ところどころに効果音やエフェクトを加え、変化をつけている。 和声的な進行感はほぼ無い。

曲が進んでいくと、サビというか、盛り上がりのような部分に入る。 リズムが変化したり、リード的な上モノが入ってきたり。メインのフレーズの音色が変わる、というのもあった。でもその程度の変化。 それで一曲7分とか平気である。

私は基本的に歌物しか作らないのだけど、歌との親和性は如何にも低そう。 歌と言うか「人間の声」が入っているトラックはあったんだけど、要するに効果音として付け足しているだけのような。

私がああいうものを作るとすれば、どのようなワークフローになろうか。 とりあえずインスト物を一曲作った上で、その効果音としてのボーカルを乗せるような形になろうか。 そのインストも、クラシック音楽のような和声進行や旋律があるとらしくなくなる。


そもそも私はCausticというアプリを導入したことによって、その手の曲をいくらか書いてみたい衝動に駆られたわけだけど、サンプルとしての作品を当たってみる限り、あのアプリ一台のトータルリコール内でああいうものを作り上げるのは難しい、というのが今のところの率直な感想だ。


4/22(水)

川本比佐志氏のセカンドシングルを制作中。 下は、今回のカップリングに起用されたボーカリストのMIUさん。

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東京しか見てないけど、都市部は軒並み人が減って閑散としているようだ。 朝の通勤ラッシュ時も、腰だめで見ても、普段の半分くらいしか人がいない気がする。

この人の少なさ、今回のコロナウイルス騒動が落ち着いた後も続く(ある程度以上に回復しない)ように思える。 何故なら、人々が色んなことを知ってしまったから。

これを期に営業時間を短縮したり、テレワークを本格的に導入した企業は多いはずだが、それによって「実は人なんてそんなに要らないこと」が周知されるのではないか。 「実はテレワークで業務が賄えること」だけでなく、「実は要らない人」のこと、「テレワークで事足りることならRPA(AI)でも賄えること」、更には「街中にはウイルスが溢れ返っていること」等々、人はこの度図らずも知ってしまった。 今後、早く閉まる店が急速に増えたりしないか、個人的には気になっている。

私が言っているのは、医学的・経済学的見地からどう思うとかそういう話じゃなくて、時間が不可逆であるということ。 一冊の本を読んだ私が、読む前の私に戻ることは不可能である。 一旦人が何かを知ってしまったら、知る前には戻れない。


4/21(火)

マスクしてる人が多いから、写真が面白くないんです。 ごめんなさい。

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エレクトロニカとかそういうのを作ってみようかと思案中。 でも私は「音」で曲を作るタイプではない。

その手のジャンルの有名どころの曲をいくつか聴いてみる。 何と言うか、いまいちピンと来ない。 やはり音楽的なアイディアが薄いところが私のツボを外しているんだと思う。

どうでも良いことだけど、あるアーティストのWikipedia読んでいたら「その作曲ジャンルは多岐にわたり、テクノ、アンビエント、エレクトロニカ、ドラムンベース、アシッド・ハウスと多彩である。」などとある。 これが「クラシック、ロックと〜」とか「ジャズ、邦楽と〜」とかだったらまあ分かるが、列挙されている音楽ジャンル、私に言わせれば皆同じだ。 「大阪弁、京都弁、奈良弁のトリリンガル」とか言われている気分である。


4/20(月)

以下は過去何度も思ったし、ここでも述べたと思うことである。 管弦楽のようなパート数の多い曲を書く度に思うのが、クラシック(特に歴史時間の)作曲家達の偉大さである。 人格とかでなく、単純に技能の話。

今で言うシーケンサーもDAWも無い時代に、十数パートのスコアを軽々と書いていたという。 機材を使ったプレビューができない時代である。 強いて言うならその機能を担っていたのがピアノのような鍵盤楽器なのだろう。だからあの楽器はあれだけ音域が広く、現代の音楽大学などでも理解必須とされるのだと思われる。 それにしても十全なプレビュー能力があるわけでなし、基本は脳内で完結していたのだろうから凄い。

音程間隔のプレビュー程度なら分かる。 音色の重なり具合だとか、同音高の重なり(いわゆるダブリングのような)のニュアンスだとか、全て脳内補完だったろう。 曲の良し悪し以前に、そこに敬服してしまう。 私には絶対無理。


4/19(日)

少し前に「志村けんと実兄は瓜二つである」と言う主旨のエントリーを上げたのだが、その後それについて暫く考えていた。 結論として、やはりあの兄弟は似ていない。似ているのは本当に容姿だけである。

お兄さんは、地方公務員として市役所に定年まで勤めたそうな。 一方弟は、若い頃にコミックバンドの一員となり、芸能人としてブレイクした。 骨相程度似通ったとしても、この精神の違いは埋めようが無い。

定年まで公務員を勤め上げたというだけに、お兄さんの顔には、その篤実さ(同時に臆病さ)が滲み出ている。 弟に見られる「不敵さ」が微塵も感じ取れない。 やはりあの兄弟は似ていない。

有名な「元の木阿弥」の逸話がある。 私は木阿弥の人物をよく知らないが、戦国期に大名が務まった筒井順昭と一盲僧ふぜいである。如何に容姿が似ていたと言え、おそらくその器量はかけ離れていた筈で、真相を知る側近などは、きっと片腹痛かったろう。


4/18(土)

欧米人の思考はシンプルだ。 ある尺度で見ると単純。だがこれは、粗雑であるとか幼稚であるとかいう意味ではない。 日本人などはある尺度で見ると複雑だが、厳密には複雑と言って良いものか。 複雑と混沌は似ているから間違いそうになる。

日本語が優れた言語であることは間違いなさそうである。 事実論文が書けるし、日本から科学分野でのノーベル賞受賞者が頻出する。 ただ、ソースコードが汚いので、使い手を選ぶ。 その点、英語などは実にシンプルである。 人間というのは究極的に言語である。その証拠に、英語使い特有の脳の障害があったりする。

フランス和声も近現代作曲家の作品も、クラシックの一発展型と言って良いが、ある側面でのシンプルさは古典と変わっていない。 発展したポイントが限定的である。分かりやすいエビデンスとして、ほとんどの情報が譜面化できる。 翻って雅楽など、実に複雑で、口伝などを援用しないと正確に伝承されない。だから一旦途絶えたりすると、復元が難しくなる。

ポスト古典の作品などを譜面で眺めると、ある意味では高度に発達しているけど、別のある意味ではシンプル極まりない。 例えば四声体のスコアの、あるパート、例えばアルトにだけ三連譜を入れたりすると、途端に西洋音楽っぽくなくなったりする。 どうして特異な内声(音型)があってはいけないのか。 因みにこの話は、無数の例外を端折りつつ、本題を優先している。 言いたいことが伝わる自信は無いが、話を進める。

長唄の持つ表間・裏間の独特なテンポ感は、実に西洋音楽的でない。 無論西洋音楽的記譜法でああいうものを表現することは可能である。 rit・accelを多用するとか、テンポチェンジや変拍子入れるとか、細かい指示記号で再現自体は可能である。 しかしそうしてしまうことが既にシンプルな整理となってしまっている。 つまり、思考のアルゴリズムが違う。

曲を書いていると、自分の思考メカニズムが、東洋的であることに気付かされる。 やはり私は日本人である。 だから私の作る曲についても、本質的な滋味は、同じ日本人にしか伝わらないだろう。


4/17(金)

信について。 「信」は儒の徳目とされていることからも明らかなように、漢語である。 大和言葉にそれに該当するようなものはおそらく無かった。

信とは何なのか。 辞書を引くと「偽りのないこと」とか「信用」だとかある。 何となく分かったような分からないような。 信用、つまり信じるとはどういう機微であるのか。

誰かの言がfactであると見做すことが信なのであろうか。 大勇・小勇とかいう表現があるが、それに照らすならそれは小信であろう。 私は今のこの社会を、大信の欠けた世界だと感じる。

本当の信とは、それが事実か否かさえ問わない、問うべきでないもの。 私が誰かを信じる時、そこにその相手が将来もたらすであろう利益などへの期待は無い。 ただひたすらに信じるだけだ。 主体は私にあるのだから、裏切られることなども無い。

親鸞は、「敬愛する師の教えを信じたから、地獄に落ちても後悔は無い」と言い切った。 これこそが信であろう。 今の日本人は、政治家も誰かのロジカルな言説も何もかも、更には未来さえも信じられないからこんにちの事態を招いている。

いわゆるコロナ騒動、の核たる原因は人々の心理である。 もう社会は崩壊しかかっているのだが、共同体の実体とは、つまるところ人々の誠実さ・理性であると思わされる。

私は未来を信じている。 だから、この狂騒が収まった暁に、(一時的には死のような不況が訪れたとしても)結局はより理想的な世界が成立するだろうと思う。 ワクチンがウイルスそのものであるように、このバカ騒ぎも、理想的未来への布石なのだろう。


4/16(木)

フランス和声について考えていた。 というか、今作ってる曲が、フランス和声に触発されたものだ。 ディープにフランス和声を投影したもの、とかじゃなくて、あくまでアイディアのとっかかりとして。

フランス和声ってのは、西洋音楽(いわゆるクラシック)の一派(亜種)とするのが穏当だろうと思う。 ジャンルとか言うと言い過ぎだ。

要するにドビュッシーとラヴェルなわけだけど、フランス和声特有というほどではないにせよ、定番的な書法があって、それを取り入れて雰囲気だけでも近付けたい。


サビのメロディーで悩んでいる。 POPS的なフックが思いつかない、というわけではない。 POPSのフックなんてある意味出尽くしていて、メカニズムもほとんど知り尽くされている。 つまり経験とか知識だけである程度のものなら作れる。 ただそういうものを面白いとする感性が、私の中で磨り減っている。

対位法全盛の時代、パレストリーナの曲などをこんにち的感覚で聴けば、実に冗長そのもので、(少なくともJ-POP的な)フックの欠片も感じない。 そういうものが良いとされた時代の感性があるということ。

私はどちらかと言うと、そういう古楽の持つノスタルジーのようなものを表現したい。 ただ、別に古楽に詳しくはない。パレストリーナにしても、一応聴いたことはあるが、一曲も覚えていない。

ゴチャゴチャした旋律線を避けたいのと同時に、全く琴線に触れないものも書きたくない。 割かし難度の高い命令だ。


4/15(水)

続き。

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ちょっと久々のスチール撮影で、今回初めてだった人もいました。

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とりあえず今年の分は調達した。 今年の後半は怒涛のリリースラッシュになる予定です。

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4/14(火)

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また間隔が開いてしまった。 スチール撮影やってまして、今回写真多めに上げてます。 何やら大変なご時勢ですけど。


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神田優花。 今年発表予定のタイトルが今のところで8つあるんですが(7だったのが急遽一つ増えた)、基本的にそれらのジャケット用素材が全部揃った感じです。


4/11(土)

志村けんさんが亡くなった時、実のお兄さんがメディアに登場していたのだが、いかに兄弟とはいえ本当に瓜二つで、武田逍遥軒とはあのようであったろうか、などと夢想してしまった。 お兄さんは東村山市役所に勤めていたそうだが、窓口で彼が「志村」の名札をつけて出てきたら、市民はちょっと驚いたろう。



Causticという音楽制作用途のスマホアプリ(有料)があって、それのフリー版を落として小一時間ばかり弄っていたところ、曲の保存ができないことに気付く。 フリー版の制限だと。 有料版も千円くらいなんで、買っても良かったんだけど、どうも操作性の悪さから、買ってもすぐ使わなくなると見た。

調べてみるとそのアプリ、PC版(Windows・Macともに)があるではないか。しかもフルバージョン(制限なし)。 早速落としてみた。PCで使ってみた今のところの実感なのだが、スマホ版より格段に操作・入力の効率が良い。当たり前だが。

どういうプログラムかと言うと、各種ソフトシンセや簡易的なシーケンサーをパッケージ化した、統合型ワークステーションというようなもの。 DTM齧った人になら「Reasonみたいなの」とか言えば通じるだろうか。 因みにVSTは読めないし、それ自体をVSTとしてDAWなどで立ち上げることもできない。

似たようなものは(有料・無料合わせて)いくつか存在するが、私は本腰入れて使い倒したことがなかった。 導入してみてはいるが、今回もすぐ飽きるかもしれない。

昔から、いっぺんこの手を使ってみようと思っていたので、良い機会だと思いたい。 ただ、残念なことに、やはりMIDIベースでない。保存は独自形式のみ(WAVにエクスポートはできる)。 アプリの乗り換え、とかは想定されていないってこと。 まあ仕方ないんだけど。 ←SMFの保存、できました。

公式サイトに、ユーザー(有志)が自作したらしきプリセットが上げられているのだが、その数が凄まじい。そんなにユーザーいるんだ。これはちょっと驚き。 あれだけユーザーいるなら、乗り換えの策もいずれ出てくるかもしれない。

この手のソフトに毎度思うんだけど、作れる曲のジャンルが特定的になりやすい。テクノ系とか。 勿論使い込めばPOPSとかだって作れはするんだろうけど、わざわざこのインターフェイスを介する必然性がないので、私はとりあえずその土俵に乗って、テクノとかエレクトロニカとかそういうものを作ってみるつもり。 あんまし得意じゃないんですけど。


4/10(金)

私は初代カリメロ(アニメ)の主題歌である「ぼくはカリメロ」という歌が大好きである。 非の打ち所の無い名作で、天衣無縫とはこのことかと思わされる。



誰かに向けた「がんばれ」というような歌が割とよくある。 別にそれが悪いとは言わないが、誰かに「がんばりたまえ」と説教されるより、誰かの「がんばろう」という気持ちの方が私には励みになる。 この世界に存在する「同じ心」を感じることができるから。

歌詞に「プリシラ大好き 愛しちゃお」というくだりがある。 愛の意味が分からない者は、誰かを「欲しい」と思った際、それを愛するでなく、従わせようとしてしまう。そうすれば自分のものになると。 「プリシラ大好き 苛めちゃお」ってなものか。この機序が深刻化すると、その人は人格障害などと言われる。

歌い手の山崎リナちゃんは「がんばっちゃお」のフレーズを、「気持ちを込めて歌え」と周囲の大人に言われたろうか。 中々に良い仕事をしている。

私はよく(特に挫けそうな時)これを口ずさむんだけど、いつもこの歌は私の背中を蹴飛ばしてくれる。いつか私もこんな歌を作りたい。きっと作ります。 私も、野原の果てまで明日まで、大好きなものを追いかけ続けようと思います。


4/9(木)

それにしても政治家ってのは大変な職業だと思う。 そして芸術家とは、ある軸を設定するなら、対極に位置する。 私の親戚にもこの政治家ってのがいたのだが、子供の頃からそれを見ていた私は、全くそれに憧れなかった。

この度の緊急事態宣言発令に関してである。 事前に有識者の意見とか当然聞いているだろうから、政府も実のところ(コロナウイルスに対して)大した意味を持たない、ということを薄々知っていたのではないかと思われる。 しかし、科学的根拠がどうであれ、それを出さないことが集団の不安心理を増幅させかねないのであれば、方便としてでも出さざるを得ない。 それが民主政治ってヤツ(が宿命的に避けられない脆弱性)だから。 この辺り、乳幼児をあやす作業に似ている。

外国では戒厳令まで出ている、からどうだと言うのだ。 感染数(というか重症患者数)をコントロールして医療資源の崩壊を防ぐ、というのが至上命令である。 このコントロールとは非常に微妙なもの。そもそも前提としての条件が全く違う国とそこだけ比較しても意味が無い。 感染は防げないし防ぐべきでもない。 感染がないと免疫にもならない。ワクチン接種というのは、あれはまさに感染である。

本当に意味が分からない。 大した毒性を持つ風邪でもなく(実際インフルエンザより被害が軽微である)、治療法だって(従来の風邪に対するものを応用する形であるが)一応存在する。 そもそも家で一〜二週間も寝てれば治る程度の病気だ。

「ワクチンが存在しない」とか言われても、確かに例年のインフルエンザにはワクチンがあるけど、そもそも予防接種なんてどれほどの人が受けているだろうか。 詳しく調べてないけど、せいぜい二〜三割とかその程度だったような気がする。それなら七割は放置しているわけだ。 平素ワクチン接種など受けない人にとって、ワクチンが存在しないことなんて無関係な事実であるはずだ。 だったら大半の人にとってどうでも良いことであるはず。

そもそも大半の人が、日頃大した風邪対策をとっておらず、仮に感染したとしても、治療法も(普通の風邪程度には)存在する。手厚い治療など受けなくても寝ていれば治る。そして死者は累計80数名。 これで何故緊急事態?本当にペストのようなパンデミックがやってきたらどうするつもりなのだろうか。


因みに、死者80数名とか言っても、純粋にコロナウイルスだけが人を死に追いやっているわけではないからね。 人が死ぬ理由は、「生命活動に必要な最低限の条件を維持できなくなるから」であって、要件は複雑である。 だから基礎疾患持ちは当然死に至りやすい。 私に言わせれば、基礎疾患持ちの高齢者(老人というものが病気持ちであることは別に珍しくない)が風邪で肺炎起こして死んだ、というのは「老衰」である。 事実若者はほぼ死んでいない。

あと、志村けんさんが亡くなった、というのはセンセーショナルであったろう。有名人が亡くなったから報道のボリュームも増え、如何にも危険な病気であるかのような錯覚が生まれる。この辺りがインフォデミックとか揶揄される所以であろう。

彼は高齢な上、重ねての基礎疾患持ちである。 コロナウイルスが死の一因にはなっているのだろうが、トリガーに過ぎない。 志村さんが亡くなった日の、(コロナウイルスによる日本人の)死者数は二名だとか聞いた。 実に志村けん率50%である。だから錯覚なんだってば。 たまたま有名人が混ざっていただけ。


4/8(水)

ちょっと前の話。 15時過ぎくらいだったろうか、少し遅めの昼休みを取って、歩いて行ける距離にある、中国人がやってるラーメン屋に行った。

店の扉を開けると客は誰一人いない。 店員だか店長だからしき中国人女性が「もうランチの時間終わったんですけど…」みたいなことを言ったから、私は「左様ですか」と店を後にしようとしたところ、背後から「でも良いです。作ります」と引き止められる。

何を食べようかとメニューを眺め、ある商品を注文すると、その中国人女性が小声で「それはランチメニューで、もうランチ終わってるんですけど…」みたいなことを言う。 また私が「左様ですか」と言ったら、その女性もまた「でも良いです。作ります」だと。

結局出されたそれを平らげ、私は代金数百円を払って店を出た。 スープはややぬるかった。寸胴の火をもう消してたのかもしれない。 大したオチも無い話で恐縮だが、何と言うか、如何にも中国人らしい御仁だった。


4/7(火)

前近代において風水というのは一種の科学で、都市というものは、江戸にしても京にしても、基本的に風水に基づいて設計された。 今、再開発が風水準拠で行われる、なんてことはきっと無い。

風水に基づき、バカ正直に丑寅の位置に寛永寺を置いた江戸や、延暦寺を置いた京を、現代人は「未開な」と思うだろうか。 死者100人満たないような流行り風邪如きに、この世の終わりとばかりに緊急事態宣言まで出した国民だが。 きっと後世人の失笑を買うだろう。

今の日本人の方が格段にタチが悪い。 風水を信じていた前近代人にとって、風水は精一杯の科学だった。現代人は違う。 論理も科学的エビデンスも何もかも無視した集団ヒステリーに押されて、上の宣言は出された。

宣言そのものに大した効力はないようだが、それによる(半ば自発的な)自粛による経済の萎縮は、笑い事では済まないだろう。

早く平穏な日々に戻って欲しい。我々の音楽制作活動にも影響が出ている。 結局、この度の宣言も、連日の物資買占めも、全ては人々の心に巣食った病魔がそれを生んでいる。 いつの世も、本当の脅威は常に人々の心。


4/6(月)

もし頭の上に隕石が落ちてきたら、おそらく私は即死するだろう。 しかし、だからと言って、日々「隕石対策」に気を揉んだりしない。

「癌になった時の用心」にと、「癌保険」なる商品があったりする。 癌保険の是非については、とりあえず置いといたとして、この「用心」には相応のコストがかかるということである。

細菌・ウイルスは今日も遍く蔓延し、人体はそれらとの攻防を絶え間なく続けている。 今後も新たなウイルスは生まれ続けるだろう。 ただ私は、そこについて気を揉む時間を持つほどヒマではない。

ウイルスは細菌よりも、人類史上の発見が遅かった。 ウイルス発見前の人類は、それを現実に組み込むことなく、日々を過ごしていたのだが、今の我々も、実は存在している脅威を「知らないだけ」かもしれない。 現実でないものに人はコストをかけたりしない。

幽霊対策とて、加持祈祷の類に出費する人がいるが、それがその人にとっての現実なのだから仕方ない。 それで身上すり潰したって、それも自身の判断である。 今のコロナウイルス禍による社会の損失も、それと似たようなものだ。 まことに小人は救い難い。

去年、なんだかんだで137万数千人の日本人が死んだそうだ。インフルエンザ絡みで死んだ人だけでも一万人程度いるらしい。 自動車事故での死者は、一昔前に比べれば随分減ったのだが、それでも年間三千人以上いる。 世界は危険で溢れている。確率を無視すれば、それを脅威・恐怖として現実に組み込むことは簡単だ。

「 緊急事態宣言」という言葉を俄かに耳にするようになった。 その是非を私が問われるなら「どうでも良い」。 何故なら、それをよく知らないからだ。騒いでいる人たちは知っているのだろうか。博識ですな。 「調べるべきだ、怪しからん」と言われても、私は平素、懸案外のことの調査に物心を割いたりしない。

緊急事態宣言、それが必要だと騒ぐ人は、何故それが必要か、論理的に説明して欲しい。 言い出している人こそに説明の義務はあるだろう。これは裁判の挙証責任とかと同じようなもの。

ことほどさように、「不信」とは高くつく。 私は人生を高コスト体質にしたくないから、基本的に、未来を含めた物事を信じることにしている。 自分の影に足を取られるような、バカげた人生送っているヒマは無い。


4/5(日)

神田優花、先週録った音のチェック。 これで録音作業は一区切り。さあこれからが大変だ。

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新人さん。こちらはまだ名前(表記)が決まってない。 ここ一年くらいで新しい人が三人来てるんだけど、みんな二十歳とかそのあたりで(一人はつい先月二十歳になったばかり)、随分ウチの平均年齢は下がってしまいました。

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話は変わるが、例のコロナウイルスの件で、ウチにも自粛要請ってヤツが来た。 スタジオワークって、換気の悪い密閉空間で歌なんて歌う作業だから、感染リスクが高いとかって話になっているらしい。 実際街なかのカラオケ屋とかも休業に追い込まれている。

とりあえず向こう一週間くらいのスケジュールは消化するつもりだけど、その後どうなるかちょっと分からない。 もういい加減にしてくれと言いたいが、一旦発狂してしまった集団に正論をもって立ち向かうのは困難だ。

繰り返すが、タダの風邪だ。 例年のインフルエンザとかに比べ、特別強い毒性(感染力すらも)を持つわけでもなく、死亡率も(特に日本において)低い。 何故日本において低いのか、について、仮説のようなものはあるが、要するに日本国の、公衆衛生においての政策が堅牢であるからだ。

「イタリアでは大量の死者が出ているのだ」って言われても、日本では大量の死者なんて出てないわけで。 エボラ出血熱はアフリカで大量の死者を出したけど、日本人は大して動揺しなかったでしょうに。マラリアによる死者が、毎年どれだけ出ているか知っているのだろうか。 前提としての医療体制・衛生状態からまるで違う地域での出来事に、一々過剰反応してどうするのか。

ある芸能人が「外に出るな、お年寄りにウイルスをうつしたら責任持てるのか」などと言い出したらしい。 それ言い出すなら、あなたは今すぐに部屋で首を吊るしかない。 人体も外界も、ウイルス・雑菌だらけであり、それとの戦いこそが生命活動そのものであるからだ。 家に閉じこもったって、ウイルスは絶滅しないし、抗体も持てない。

私は防疫対策を止めろと言うわけではない。 その効果と犠牲を冷厳な目で見つめるべき、と思うだけ。 失われるものの大きさを考えるだけで、この空騒ぎに辟易してしまう。 この騒ぎは、本当に危機に対するありうべき要請であろうか。誰かの保身から生まれた幻覚ではないか。 この民族は、震災の時の原発事故騒動から何も学べなかったらしい。

野口英世はウイルスの存在を知ることなく死んでいった。 現人類だって、後世から見れば、実は未知の危険要素を知らずに過ごしているだけかもしれない。 ワクチンがないからどうだと言うのだ。いずれ出てくるに相違なく、現時点でとりたてて猛威をふるっているわけでもない風邪ごとき。

「杞憂」という言葉がある。 語源は調べて欲しい。 杞の国は滅びたそうだ。


4/4(土)

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橘高茉奈(こういう名前になりました)、レコーディング。 これで5曲目。全て未発表なんだけど、今リリースに向けて動いてます。


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新人(MIU)さん、スタジオ入りでした。 この方は今、既にリリースに向けて作業に取り組んでまして、多分今年中には作品もお披露目できるかと思います。


4/3(金)

ある音楽素材屋(Webサイト)にて、効果音をいくつか販売しているのだけど、そこで新商品出そうとしたら、やたらに審査とやらがうるさい。 品質がどうだのリリースを調整しろだのと、とにかく注文が多い。 まあほとんど全部無視してるけど。

販売している素材は、全て私の平素の音楽制作において、必要に応じて用意したものだ。 それを販売に流用しているから、基本的にコストはかかってない。 しかしながら、だからこそそれなりに売れたりもするのだと自負している。音屋である私に必要なものなのだから、それを必要とする人がいるに違いない、と。

素材としての販売のみの用途に、一々効果音をサンプリングなんてしていられない。 理由は複合的だが、一々審査があってリリース計画が立たない上、その審査基準が明確(安定的)でない、ってのがある。 流用を原則としているので、修正依頼が入っても基本は無視ということになってしまう。

審査基準が安定していないというのは、感覚だけでそう言っているわけではない。ある理由をもって審査でハネられたものがあると思えば、全くその理由を満たしていないもの(どちらもウチのコンテンツ)が販売されたりもする。 また、過剰なまでにハイファイに拘っているようで、マイク録音のものには、やたらに引っかかるらしい。 ノイズの類(ハウリング・フィンガーノイズ等)はほとんどハネられる印象。

マイク録音を嫌がるというが、非ラインを嫌がっている、というのとも違うようである。 並べられている素材はおしなべてラインを介してすらなく、ソフトウェア上のレンダリング処理で作ったオーディオデータのようなものがほとんどのように聞こえる。 まあ、そういうものがあっても良いんだけど。

ノイズがノイジーなのは(ノイズなのだから)当然である。また、ローファイな音も、それはそれで必要なことがある。 昨今の技術をもってすれば、ヒスノイズをゼロにすることなどある意味容易いが、ノイズ抜きは不可逆処理である。 マイク録りで(無論ライン録りでも)そもそも乗っている素材固有のノイズ、を「要らない」と判断する音屋がいるのなら、それはその人の手元で抜けば良いだけである。 私は基本的に音屋目線でものを考えている。

確かに人為というものは、安定性を欠くものではある。 また、私企業が運営しているサービスなのだから、その会社(スタッフ)の恣意的基準にて運用されるのは仕方ないのだが、どうも私の思考パターンとは波長が合わないようだ。

ついでに、効果音以外のBGMの類をウチは一切提供していないんだけど、商品ラインナップを眺める限り、全くセンスも合わない気がする。 音楽に審査を設けるということは、商品ラインナップが審査者のセンスで染められるということでもある。 購入を検討する者にとって、そのフィルタリングは有難迷惑だったりしよう。 音楽の好みなんて千差万別であって当然だから。

これ確か以前にも言ったと思うのだが、そのサービスで例えば「和風」とかのタグで検索かけたら、スーパーでかかってるようなイージーリスニング曲の、主旋律部分が(おそらくPCMシンセの)和楽器系音色になっているようなものが出てくる。音もソフトシンセをDAWでレンダリングしたような、PC一台で完結できそうなもの。 楽理に根ざした近世邦楽などは一つも出てこない(エントリー自体が無いのか、あるいはあっても審査でハネられているのかは知らないが)。

しかしそれでは、仮に前近代を背景とした、考証のしっかりした映画などを作ろうとするなら、全くもって用を足さない。 演者がチョンマゲのカツラを頭に乗せただけのような、舞台喜劇の類なら、あるいはそれで十分なのかもしれないが。 つまり、私があるタイプの映画のエディターなら、きっとそのサービスをアテにはできないだろう。


物事の難しさについて考えている。 その会社はその会社なりに、効用最大化を求めて今の施策に行き着いている筈であるが、それ故に協力者であるクリエイターの不興を買ってもいる(実際ネット上でもクリティカルな意見を目にする)。 「審査を厳しくせねば商品の質が低下する」との考えからだろうが、商品の良し悪しを判断するのは、基本的に客である。 客の判断を信用せず、素材提供クリエイターも信用していないからこそ、現状の措置となっているわけだが、私は直感的に「不信は高くつく」と感じている。

オーディデータのネット販売なんて、参入障壁はほとんどゼロである(実際個人でやっているようなところがいくつもある)。 技術的なアドバンテージが無いのだから、それが儲かるなら次々と新たな事業者が参入してくるだろう。 そして、その新参者が、合理的基準でもってサービスを運営するなら、クリエイターも客もそちらに流れるはず(ウチも多分そうなる)。

でも分からない。 客の側が、特定運営者が厳選したもの、こそを求めるなら、むしろそのサービスが勝ち残っていくことになるだろう。 ファッションビルとセレクトショップのように、両者が併存するような形になるかもしれない。


4/2(木)

生存能力について、ダラダラと考えていた。 大量の死者を出すような、いわば猛毒というようなウイルスは、生物学的に言えば一種のアホだろう。 寄生者が宿主殺してどうするって話。 ある意味でそいつらの生存能力は低い。

私に医学・疫学の知識は無い。ついでに経済も分からない。 でも恒心ならあると思っている。 今、世界はその恒心を失いつつある。 無意味な買占めに奔走する人たちにとっては「世間ハ滅バ滅ヨ。」ってなもんなんだろう。

季節性インフルエンザ以下の脅威に、人々が狂騒している。 週末は街がゴーストタウンのようだったのだが、外出を控えたら、一時的に感染は防げるにしても、いつまでも免疫は獲得できない筈。

さして効果があるとも思えない防疫対策に、ここまで経済を犠牲にして良いのだろうか。 私は別に良いけど、自殺者が出てきそうだ。 社会の空騒ぎは、人体でいうところの自己免疫疾患である。 たかがと言うなかれ。それが死に至ることだってある。

のどかなことを考えていた。 この度の騒動は、貨幣経済の限界を露呈したものではないかと。 世界恐慌だって資本主義の限界とか思われたんだろうけど、私はヒステリーのような感覚で今の感想を持っているのではない。

結局金って、政府が振り出した「使用権」に過ぎないんだ。 貧富とか安定とかってのも、現代においてのそれは、その使用権の配分に過ぎない。 国の借金がいくら増えたところで、物質の絶対量は微動だにしない。

食糧が欠乏しているというのならまだ分かる。 経済とかいう虚仮に踊らされて、この世の終わりとばかりに首を吊るのはいかがなものか。 人間の命が、たかが金如きに振り回されて良いのか。

今の日本人なんかは、ソフトな社会主義制を容認すると思う。 食と住くらいが保証されれば、それだけで金の呪縛はきっと弱まる。私はだからこそのBI希望論者である。

金に振り回され、本来必要かどうかも怪しい就職という儀礼に、人生の大半を食い潰される。アホらしい。 今までは、学歴だとか事務処理能力なんかが生存能力に等しく扱われていたのだが、やがて訪れる未来には、「時間の使い方を知る者」こそが強者となるだろう。

時間の使い方、それを人は夢と呼ぶ。 公務員は結婚相手として人気だそうだが、安定を求めてそこに群がった公務員など、私に言わせれば絶滅危惧種だ。 彼らはいわば瀕死の重病人である。


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