Staff diary  
スタッフ日誌[2020]

[文 / 益田(制作)]

3/31(火)

特殊奏法ってのは、アレンジャー必須の知識なんだけど、私はさほどに詳しくない。 古いアニメとか好きなんだけど、見ていると金管系のミュートとか頻出する。一種の管弦楽法なんだろう。

管系のフラッター、弦のピチカート、サックスのグロウル等々、定番のような技法から、ホーミー(人声)のような極めて異色のものまで、特殊奏法は多種多様である。 コンガのムースコールなど、私は比較的最近知った。アレンジャーとしては不覚である。

その多様な特殊奏法を自身の楽曲に取り入れること、の難しさについて考えている。 定番的なものなら実演できる人も多いし、サンプルのようなものも比較的容易に入手できるが、そうでないものがあってしまう。

実演できる人が珍しく、サンプルが存在しない(探せない)もの。 どうしてもそれが使いたい場合、私は演奏動画のようなものを探して(これなら大抵ある)、欲しい部分を抽出し、サンプラーのオリジナルパッチを作る。 ただ、次善の策といおうか、音質的に満足できるものは少なくなる。 共通の悩みを抱えている人はいるはずだ。なんとか共有できないものだろうか。


3/30(月)

世間の騒ぎを余所目に、週末は編集作業に勤しんでいた。

昔から、ボーカルのリズムを修正する際、譜面と波形を照合した上でどう見ても正しいタイミングであるのに「ズレて聞こえる」ケースがある。 あれって視覚上は合ってるんだけど、アタック部分がまだ構音上のアクセント(発音形成)の位置に達してなかったりするんだろうな。


今年の新人さんの話。 今月に某エンタメ系の学校を卒業し、学校の紹介でウチに来ることになったのだが、住居が学生用で、卒業を期に退去せざるを得なかったそうな。 で、一旦引っ越したのだが、アクセスの悪さを痛感し、来月また引っ越すという。 そんな短期間に二度の転居って、とんでもない労力だろう。

どうしてそういうことができるのかと言うと、それは「夢があるから」に他ならない。 その子と私は、親子ほども歳が離れているわけだが、今の私がそういう人らとの共同作業を仕事とできるのは、実に僥倖である。 私は実年齢より若く見られることが多いのだけど(別に良いことだとは思わない)、人間関係が影響している面があるように思える。


3/29(日)

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完全にパニックになっとるな。コロナウイルス騒動。 この期に及んでも、全く憂慮するべき事態と思えないが。

感染数とかどうでも良くて、気にすべきは死亡率なわけだけど、日本は先進国最低レベルである。 様々な側面から考えても、ただの流行の風邪である。

日本人の感染数・死亡例が少ないのには、きっと理由があろう。 仮説はいくらか存在する。S型・L型がどうしたとか、BCGワクチンの日本株が有効であるとか。 もしBCG説が正しいなら「たまたまだけど、日本人にとっては脅威でなかったわけで、良かったね」ってだけの話だし、S型L型云々が正しいとしても「だったらもう少し感染を容認して良いんじゃないの」って話。 両説ともに仮説の域は出てないわけだが、事実日本ではさほどパニックになるほどの事態が起こってないわけだから、この度の自粛は明らかに過剰だろう。

まあ政府だとか関係省庁とかが万全の対策を取るのは当然としても、動揺って何の利益にも繋がらない。 仕事とかでもそうだろう。焦ることって何の意味もない。


3/28(土)

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神田優花、レコーディング。 今回のでとりあえず次のアルバム収録曲用のテイクは全部録ったことになる。来月にそれ用のスチール撮るんで、順調に行けば今年の夏から秋口にかけてのリリース、間に合いそうだ。 他にもシングルも数タイトル出すんで、それとの兼ね合いにもなりますけど。


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今年の新人さんが入りまして、スタジオリハーサルが始まってます。 どういう名前(表記)で行くかとか、そういうのも全然決まってないんですが、今後ともよろしくお願いします。


3/27(金)

音楽は様々な面で行き詰っている。 商業音楽(コンテンツ)だけでなく、音響機器とかも含めた音楽産業全てに言える。

音楽制作の技法などと同じく、再生手法も、技術的には天井が見えた感がある。 例えばある時期に、ハイレゾ音源とかいって、従来のものよりハイレート・ハイビットの音楽商品を普及させようという機運があったのだが、イマイチ浸透していない。 ハイレゾが標準とされたら、当然プレイヤーもそれに対応せざるを得ないし、制作者側もスキル・ツール両面でそこに対応していかねばならなくなって、相応の需要が生まれたはずだが。

それもそのはず。 オーディオデータを際限なくハイレゾ化したところで、受信器(人間の聴覚)の側がそれに対応していない。 CD規格が44.1khzを採用しているのには、それなりの理由があるのである。

多チャンネルとかも基本的に同じで、例えば5.1chを更に多チャンネル化したところで、人間の耳が二つしかない以上、どうしても最終的に2Mixになってしまう。 ついでながら、これは「音楽」に限定した話。体が感じる振動とかはまた別になる。

とまあここまで述べたのだが、芸術としての音楽の価値は不滅である。新たなイマジネーションも生まれ続けるだろう。 限界が来ているのはあくまでテクノロジーの話。そっち面では、今後も劇的な変化は生まれないと思う。


3/26(木)

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某(音楽の)ストックサービスが、音楽配信に参入するらしい。今プレスリリース読んでいた。 ストックサービスってのは、オーディオデータの使用権ビジネス。因みにウチも(複数の事業者にて)出品している。 国内にも海外にもその業態は存在するのだが、クライアントの性質等、両者の実態はかけ離れている。

国内のストックサービスで売られている音楽は、いわゆるBGM。音楽単体で作品となっているものでなく、動画だのの従物としての音楽。 一般論として、リスニングの対象として面白いものではない。用途上、あんまり主張の強いものでも困るのだろう(多分そういうのは審査でもハネられやすい)。

そういうものを音楽リスナー向けの音楽商品として販売するという。「聴きたい人がいるのか?」という疑問は拭えない。スーパーでかかっているイージーリスニングみたいなのをアルバム単位で聴くことを想像されたい。  多分売れないし、再生もあまりされないだろう。 腐しているのではなく、両者(一般的音楽コンテンツとライセンス用途のBGM)は性格が違うのである。 因みに、日本国内に限った話。

プレスリリース読む限り、全ての登録楽曲が発売されるわけではなく、登録クリエイターからの申請があったものの中から、ジャンル別に選曲し、コンピレーション化するという。 そんなに人為が挟まる以上、継続の条件としては厳しいものになろう。むしろ全登録楽曲が自動的に別媒体(配信サービス)でもリリースされる、とかの方が手間がかからなそう(かなりの工程を自動化できそう)で、継続もされやすいのではないかと思った。 手間と引き合わない、という理由でニューリリースが途絶えがちになるのではなかろうか。あるいは大幅に企画の内容が変わるとか。


やや話は逸れる。 シリーズ物のコンピは、最初が肝心である。 以下の話は、情報の扱いに気を使って、今まで触れてなかったのだが、時期的にももう良かろう。

実はウチも過去、NHKのキャラクターである「どーもくん」を冠したコンピレーション(シリーズ)に楽曲を提供する予定だった。当たり前だが、正規ライセンス品。 料率まで詰めていたのに、企画は事実上頓挫している。

当初プロモーションにかなり力を入れる(要は予算を割く)という話だったので、結構期待していた。クレイジーフロッグってドイツ発のコンテンツがあって、そういうのを想像していたのだが、全くアテが外れた。

使用許可・料率等の詰めが終わって、かなりの時間が経ってから、ほぼノープロモーションで第一弾がリリースされる(使用許可出したウチのコンテンツは未収録)。TVCMとかはもちろん、Web媒体での広告も、探した限り見つからなかった。つまり、単なるプレイリスト(そもそも新作の収録は無い)にキャラクター画像一点付けただけ、の商品となった。 配信物だからCDみたいにブックレットとかも無い。

正規ライセンスの画像を付けたといったところで、きょうび素人がSNSのアイコンとかで、有名キャラクターの画像を無許可で貼り付ける、なんて行為は常態化されている。「そんなのとは本質において違う」とかいったところで、見ている側にその区別は無いわけで、本当にタダのプレイリストで片付けられてしまった感がある。 成果を知らされてはいないが、きっと売れなかったと思う。

経費もそんなにかかってなかろうから痛くもなかったろうか。 売れなかったであろう傍証として、シリーズの予定だったものが、第一弾が出てから五年近く経った現時点で、第二弾以降が出ていない。 無論公式に頓挫したとはアナウンスされていないが、事実上そう理解して間違いなさそうである。

まあとにかく、上述の新企画も、第一弾の売れ行きがその後を左右するのは間違いない。がんばって欲しいところではあるが。


3/25(水)

コロナウイルスの名称は、太陽のコロナ(球体周囲のフリル部分)に因んだものらしいが、「新型コロナウイルス」を「コロナ」と略すのはいかがなものだろう。 「コロナ 内定取消し」とか言うニュースの見出しを目にしたが、株式会社コロナは迷惑しているのではないか。



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先日、代々木アニメーション学院(東京校)に出向いたって話をしたんだけど、代々木アニメーション学院さんとはもう随分長いお付き合いになる。 他の音楽系の専門学校や芸能雑誌・Webサイトとかとも付き合いそのものはあるのだけど、特別なものを感じている。

私自身、学内オーディションの審査員やったり、授業の一環である企業説明会とかってのにも参加したりするもので、質疑応答の時間など、生徒さんらの雰囲気に割かし濃厚に触れてしまう。 真面目な生徒さんらが多い印象だ。

これだけ付き合いが長くなると、生徒さんらに一種の友人を感じてしまったりもしてしまう(こういうこと言うと他の学校・媒体に悪いけど)。 実際、採用したり、単発企画に起用したりも多くしている。 ここ最近、生徒数も増加傾向にあるそうで、めでたいことである。


3/22(日)

プラモデルが好きだった子供の頃の私は、プラモデルを理解したと思ったから、もうそれを作るのを止めた。 年間パスポートを買ってまでディズニーランドとかに行き倒す人がいるが、私はそういうことをしようと思わない。

ディズニーランドがくだらないから、ではなく、「いつでもそこに行ける」って思えたら、もうそれで十分だからだ。 過ぎた時間、経験が、自分の中に確かにあったものであることに気付けば、きっと人々の判断はある一つのものに近付いて行く。



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有るものが有るということは、有り得るという動かぬ証拠であり、未来の再結晶化の可能性をも保証するものだ。 無いものは無い。時空の果てまで探しても無い。 私は有るものを探している。

私、この私固有の思考パターンが存在する、ということは、それが不滅であることを意味している。 それと同様に、友情も不滅である。 ある思考パターンと別のある思考パターンの共鳴であるのだから。

その関係が(友情でなく)利害であるのなら、情勢次第では消える。 友情が破綻したのではなく、友情としてははじめから存在していなかっただけ。

だからして、友人がこの世界からとりあえず消えたとしても、有ったものなのだから、それは永遠だし、私の現実であり続ける。 再び出会うその日を目指して私は歩いて行ける。 もしそれが無いもの(私が勝手に抱いた幻想)であったなら、私に進むべき方向は無いことになる。 私は、それが有るものなのか無いものなのか、いつも考え続けている。


3/21(土)

例のコロナ騒動で、会社はテレワークだのを推奨し、学校は授業を一時停止しているという。 緊急の対策として、政府が国民全員に10万円支給するだのという案が出ているという。 私の考える(望む、ではない)未来に、存外の形で近付いているようにも思える。

食糧生産を含む大部分の肉体労働が、かなりの部分機械化されたように、いわゆるホワイトカラーの仕事もいずれ激減する。 テレワークで賄える作業であるなら、きっとそれはもうAIでも賄えるに相違なく、そこに人類の大部分が気付いていなかったからこそ、今まで劇的な変化が起こらなかった。気付いてしまった以上、きっとこれから起こる。 学校にしても、教育そのものは必須としても、通学の必要性・必然性が案外薄いことにこれから多くの人が気付くだろう。

国民全員に10万支給だなんて途方も無い、と思うだろうか。 一億人に10万配ったって10兆である。一般会計だけで100兆円規模の予算組んでる国家なんだから、そんなに無体な話でもない。 BI(ベーシックインカム)制に移行するための段階としての、過渡的なヘリコプターマネーの出現が、後世歴史的転機とされる、なんてことは如何にもありそうだ。

コロナウイルスの出現が、図らずも人類史の推進力となった、のではない。 実は機運が醸成されているからこそ、このようなたかが新種の風邪如きに社会が鳴動する。


3/19(木)

ある有料音楽アプリが無料化されたってんで入れてみたが、弄ってみて一時間しないうちに飽きた。 金出して買うほどのものじゃないな。

音楽アプリといっても、音楽制作用途というより、音を使った玩具って感じ。 でも今後、音楽系のツールってああいうものが中心になっていくのかもしれない、とは思う。

プロユースの音楽制作機器に今でも一定の需要はあるし、これからもあり続けるだろう。 でも、例えばアレンジャーキーボードのような製品にも堅固な需要があり、これからもあり続けると思われる。 プロ志向でないところにも音楽の隆盛が見られる。

音楽が金を産まない時代になりつつある。既に随分前から突入しているのかも。 だから商品用途の録音物の需要は相対的に下がり、趣味的な、上記のオモチャのようなツールがこれから増えるような気がする。 価値を失う音楽商品ってのは、いわゆるPOPS・歌謡曲の類。 それ以外はそもそも大金を産んだためしがない。

私は芸術に価値が無くなる、といっているわけではない。 芸術の価値は不変・永遠である。 換金レートが迷走したりするのではないかって話。


3/17(火)

毎度のことながら、自粛ムードが蔓延している。 例のコロナウイルスの件である。 人の集まりがその対象となっているから、ライブやフェス、アミューズメントパークのようなところも軒並み営業中止に追い込まれて、それに起因する不況も心配されている。

私は、人間が、自分が決めた行動によっていかなる不利益を被ったとしても、それは仕方ないと考えている。 それがどんなに不合理に見えたって、本当に不合理であるなら、その行動も、行動の背景にある思想も、いずれは淘汰される。 そんなに心配してない。

ちょっと気になったのは、今回の一件は、ウイルス騒動なわけだが、どの地点をもって終息とするのかということ。 ウイルスを絶滅させるのは難しいだろうし、変異したりもするかもしれない。大体新型のウイルスとかって、これからも生まれ続ける。 インフルエンザのように感染力の高いウイルスの存在がこうまで知れ渡ってしまった以上、人の集まりに一定の抵抗が生まれてしまわないだろうか。

つまり、ライブやフェスの自粛が終わっても、シュリンクした動員がある程度以上に戻らない、なんてことはないだろうか。 私は音楽文化の萎縮を懸念しているわけだけど、危惧しているわけではない。 ライブ文化が廃れた分、リスニングの需要が高まるとか、そういうことになるかもしれないし、そんなに心配はしていない。


3/16(月)

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DAWって、現役のものだけで今いくつ位あろうか。 まあいくらあったところで、機能的にはどれも大差ない。ありようがない。 DAW(ブランド)の違いなんて、本質的には存在しない。どのコマンドがメニューのどこに配置されているかとか、そういう違いはあれど、やれること自体に大した差は無いということ。

どうして大差がないのか。それはそんな圧倒的な優位性などあれば、それ以外のDAWを使う人などいなくなるから。 いずれかのDAWが、ある機能的なアドバンテージを獲得したら、他の機種もそれを模倣する。 結果、ツールとしては同じようなものになる。 無論、模倣してまで実装する価値のない機能なら無視されるから、そこが機種間の違いとなったりもするわけだが、本質的にはいらない機能だからこそ無視されるわけで、そこは実際の作業においての不都合とはなりにくい。

価格においても同じ。 機能が似たりよったりなのだから、ある機種が他に抜きん出た高額であるなら、その機種はいずれ売れなくなり、市場から淘汰される。 機種はどれも同程度の機能、同程度の価格帯い収まり、シェアも機種の数で等分に割ったようなものになる。

こういうこと一つとっても、物事というのは合理的に突き詰めると、最終的には一つに集約されるというか、収斂していく。 この力学に神意を感じたりするし、きっと西洋人などもそれを感じたからこその一神教なのだろうと思う。


3/15(日)

週末は雪の降る中、水道橋へ。 代々木アニメーション学院東京校さんへ、面接に行って来ました。 寒かった。

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神田優花。 今リハーサル続けてる曲が上がったら、とりあえずアルバム収録予定曲(11曲)が揃うんだけど、もう1曲作ろうか悩んでいる。 今月中くらいには決めたいところ。

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マスク転売を防止するための法律が制定されるとか。元々あった法律のアレンジで対応するようだが。 悠長なこと言ってられることではないだろうから、程なく施行されることだろう。

私はマスクの転売で一儲けしてやろうなどと考えている人ではないから、そんなのどうだって良いけど、一々法律まで作らねばならない民度には失望を禁じえない。 いつの時代も、共同体の本質的な敵は、災害そのものではなく、一部のアホである。

貨幣は鋳造された「自由」であった。 それを掻き集めることが私権行使の可能性に直結したし、そこにまつわる諸々の行動は容認、賛美さえされていた。 昨今最低賃金は上がり続け、人手不足が深刻化している。つまり、他人の時間を金で買うことが難しくなっている。 今、金の相対的価値は下がり続けている。

マスク転売が禁止されるということは、また一つ、人類の私権が制限されるということ。「転売・集金の自由」が一部封殺されたってことだから。 私はこれを良いこととも悪いこととも思わないが、必然ではあるのだろう。 また一段階、金の価値は下がり、人類史は新しいフェーズに突入する。


3/14(土)

政府の支給する休業補償が「過少である」とて、一部フリーランスなどから不満の声が上がっているという。 報道を見ていたら、そのクレイマーの代表として「ミュージシャン」を称する者がインタビューに答えている。 要は「補償の額が少ない(もっと金寄越せ)」と。

いやしくも芸術家たろうとする者が、庇護を求め、時の政権などに無心するとは何事か。 恥を知れ。 私は彼らと一緒にされたくない。


3/13(金)

ドラえもんの0巻が大ヒットしているらしい(知らない人は調べられたし)。 それにしてもあれは凄いマンガだ。 何が凄いって、そもそもの設定というか、つかみ(導入)の部分から突っ込みどころ満載なんだもの。

のび太の冴えない人生を軌道修正すべく、子孫が遣わしたというドラえもん。 その助力の結果、ジャイ子と結婚する予定だったのび太は、マドンナであるしずかちゃんと結婚することに。 そんなことしたらその子孫に影響はないのか(ここについては作中でも言及されているが、凡人には理解し難いロジックで物語は進行していく)。

不遇全ての原因がジャイ子にあるわけではなかろうが、ジャイ子との結婚は、少なくともその失敗人生を象徴する事実として扱われている。 人生の汚点を挽回すべく奔走するのがドラえもんの役目なわけだが、ジャイ子の視点は一切無視されている。ブスに人権など無いということか。 あの設定、今でも生きているんだろうか。


3/12(木)

例のコロナウイルスの件で、政府は休校だとか時差出勤だのを俄かに勧めていて、それに伴う休業補償のようなものまで支給するとかいう。 図らずもヘリコプターマネーのようで、後から見れば、一見無関係なこの騒動が、経済史上の転機となってたりするのかも。 BI制度の端緒となったりしそう。なし崩し的に。

日本人は右に倣えで優等生になりたがる。だから時に際限もない。 太平洋戦争とかも、その日本人の特性が招いた部分が大きいように思える。 大人なんだからどこかで歯止めをかけよう。たかが風邪だ。

高校野球の春の大会が中止となったそうな。史上初なのだと。 これもいかにも日本人らしい。敵性語排除とかを思い出す。野球ぐらいやったら良いのに。 それにしても敵性語の件とか、とかく野球ってのは槍玉に上げられるな。それだけ国民的スポーツってことなのだろうけど。


3/10(火)

少々古い(15年くらい前の)鼎談録のちようなものを読んでいた。いわゆる歴史作家らの鼎談。 そこでは「軍師」について語られるのだが、皆が山本勘助の実在を疑っている。 ご存知の通り、現在では、山本勘助の実在は揺るぎないとされている。

私には、いわゆる歴史知識など無い。少なくとも学者や歴史作家のそれとは比べ物にならないほどに乏しい。 その私は、定説がこんにちのように定まったから言うのでなく、以前から勘助は実在したろうと思っていた。 理由は単純。創作が難しいからだ。 私がモノを作る人であるからこその判断かもしれない。

架空の人物を一から創造し、その背景や事績を一々作り上げるのは、不可能とは言わぬまでも至難である。 きっと勘助はいた筈だ。少なくとも有力なモデルくらい存在したに違いない。 これは私の常識・世間知のようなものがそう判断させている。

また、甲陽軍鑑は、戦国期の武田氏について記された書物である。 甲陽軍鑑の著者(の一人)とされる小幡景憲は、戦国から江戸初期の人物で、戦国が終わってほどない頃に、秘書などでなく、商売用のテキストとして著した本に、全くのデタラメが書かれてあれば、当時そこを突っ込まれたに違いない。 その突っ込みが、史料として残る可能性も高い。

事績とされるものの細かい部分においては、創作や誇張が混じっていることはあるかもしれないが、勘助の実在そのものは疑いなかろう。事実現在の定説ではそうなっている(私もそれに従う)。

歴史作家というのは、学者でこそないものの、専門知識を有する歴史研究者である。 その専門家にして、山本勘助を非実在と誤断した。 私が何を言いたいかというと、物事を知るに必要なものとは、単なる情報量でないということ。


3/9(月)

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私にとって、「在ること」と「無いこと」の境界は明確であるが、「在ること」と「在ったこと」の境界は明確でない。 これは私の言語、時間感覚に由来していると思われる。

英語の過去形は、現実からの距離を時制としているだけで、実は日本人の言う過去ではない。 インド人の捉える循環する時間、Heavenが時間を超越したものであること。Godが全てを超越した概念であること。 考えれば考えるほど、時間というものが、我々が作り出した一種の錯覚であることが分かる。


3/8(日)

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最近、といってもここ二十年くらいか。少子化が言われ続けていたのだが、実際それに比例するように歌手志望の若者の数も減っていた。 少なくとも、私の知る範囲では確実に減り続けていた。

それがここ最近、俄かに増えて出している気配がある。 提携しているエンタメ系の学校などの、生徒数が増えているという。比例してうちのようなレーベルにも、エントリーが増えている。 どうしてそうなっているのか考えてみた。

今、大学なんて行こうと思えば誰でも行ける。学費も肩代わりしてもらえるし、そもそも全入の時代なので、モノさえ選ばなければ入り口でハネられることもない。 誰にでも手に入るものなので、それが欲しい人以外には、価値を感じられなくなったらしい。 本当に大したものでもないしね。

就職もしない人が増えているのだろう。 一応断っておくが、人は皆、すべからく「働かねばならない」なんてことはない。 人類がホンのある時期、そういう形態の社会を構築していただけ。

江戸時代には、おそらく人口の8割以上が百姓(食糧生産者)だったが、後にそうでなくなった。 江戸期の侍が事実上の無為徒食者であったように、現代人にも労働というタスクは消えつつある。 就職者が要らない時代に突入しつつあるのだろう。 犬や猫が働かないように、人間も必ずしも働く必要はない。

進学や就職に興味がなく、実際にそれをしない人はどうするのか。 好きなことをするのだろう。 歌に興味がある人は歌をうたい、演劇に興味ある人は演技を磨く。 自動車に興味ある人は自動車メーカーに就職するかもしれないし、公僕になりたい人は公務員になる。政治に興味ある人は政治家になれば良い。 あくまで金が欲しい人は、それを求めて生き続ければ良い。

食えるかどうか、金になるかどうか、が行動の条件となる時代は終わりつつある。金なんてものが実にしょうもない条件だからだろう。 しょうもない条件が取り払われ、きっと創作の世界は、これからもっと面白くなる。


3/5(木)

マスクが市井から払底している、というのはまだ分かる。 需要が短期的に急増したのだろうから。 しかしトイレットペーパーとコロナウイルスに何の関係がある。

混乱に乗じて転売で稼ごうとする輩など論外だが、デマに踊らされて買占めに奔走する人や、転売品を高値で買う人ら、彼らは被害者でなく、まごうことなき加害者だ。 今回の騒動は歴史に残る事件に違いないが、現代人の共同体感覚の未熟さを思い知らされた一件でもあった。 本当の大災害などが来たら、災害そのものより、人心の方が脅威である。


3/4(水)

ステレオグラムの交差法ってのができなくて、「交差法(にての立体視)のコツ」みたいな文章を読んでみたのだが、それでもなおできない。 更なる調べを入れていたら段々分かってきたのだが、あれはできなくて当然だ。

「右目で左を、左目で右を見る」、これが交差法なわけだけど、マトモな脳の統合をもってして、容易にできるわけがない。 実際ネット上の記事を読んでいたら、「そもそも立体視ができない、あるいは斜視・弱視である人の方が向いている」などとある。

交差法は、「寄り目」で対象を見るという動作なわけだけど、寄り目は統合失調症の典型症例である。 こんなことが難なくできてしまうなら、その人の脳はヤバい。 だって自動的に焦点が合ってしまうもの。 交差法は、聴覚でいうところの絶対音感だろう。 交差法ができない人がいるなら、心配要らない。それはあなたが正常な証拠だ。


3/3(火)

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知ってる人の子供が幼稚園に入るそうなんだが、昨今は幼稚園も無償だそうな。 この国では、本人や親にその意志さえあれば、基本的に教育は無償で受けられる。

金って本当に大した価値を持たない。 収入が100倍になっても、それまでの100倍メシが食えるわけでもない。 贅沢しようにも、良いもの食い過ぎても痛風になる。

豪邸に住もうにも、法律がうるさくてお城を建てるわけには行かない。そもそも都市部に広い土地などほぼ無い。 所有してしまえば維持にコストがかかる。固定資産税も取られるし、掃除も大変だ。

病気になっても、現代では「金がなければ医療も受けられない」なんてことは絶対にない。 何らかの手厚い制度が必ずある。 民間のがん保険とかも全く必要無い。 生命保険とかいう商品がここまで普及していることなんて、正気の沙汰とは思えない。 死んだ後の世界なんて知ったことか。

ただし、病や老い(死)から逃れることは、いくら金を積もうとできない。 金なんて本当に役に立たない。

大枚はたいて水商売の姉ちゃんにチヤホヤされることはできても、誰かの愛を金で買うことはできない。 愛も夢も時間も、私が日々探し続けている新たな想像(新曲)も、金なんかでは何一つ買えない。

収入や安定だとか、そういうものを得るために捧げる人生なんて、本当に馬鹿げている。 私は私のため、好きなことをします。 好きなことやって残り時間を使い切ったら、この人生は私の勝ち。


3/2(月)

神田優花、歌入れとか録音結果のチェックとか。 新作のリリースについては今暫くお待ちを。 近々スチール撮る予定なんで、それ終わってからですね。

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私は新しい靴下をおろすのが嫌いだ。 どうして靴下と言う商品はああまでに厳重なのか。 金具だのプラスチックだのの、取り外さないといけないパーツが多過ぎる。


2/29(土)

今年って閏年なんだな。


友人に「ブドウ膜炎」という病気に罹った人がいる。 それは良いのだが(良くはないか)、眼球にあるというブドウ膜のその名称についてである。

面倒臭くて調べてないが、おそらく形状からの命名かと思われる。ブドウ膜は外見上、葡萄状をしている(筈だ)。 ブドウ球菌とかと多分同じ。 私が考えていたのは、あの形状・形質についてである。 おそらくあれには何かがある。

果物の葡萄が正にその名前の由来なのだろうけど、事実葡萄があの形である以上、あれは神(この宇宙)が作った意匠である。 ブドウ膜はあの形をしており、ブドウ球菌もあの形、そもそも葡萄の房があの形であるし、同様の形状の植物なども多く存在する。 原子や天体が球状を為しているのとかと同じような、究極に合理的な理由があるのだろう。

つまり、あの形状・形質は、この宇宙に遍く存在する。 存在するからこそ、条件を得て具現化する。 ブドウ球菌の繁殖は、それを支える条件によって起こっているということ。 繁殖は条件に因るが、ブドウ球菌の存在自体は永久不変のものだろう。


2/28(金)

JASRAC、地裁で勝訴らしい。音楽教室らの請求を棄却だと。 まあ当然か。

私は、一部著作物の管理をJASRACに委託しており、同時に音楽教室ビジネスにも、多少なりとも関わってきた。 その上で、私は別にJASRACにも音楽教室側にも肩入れする者ではないが、判決は妥当だと感じる。 もっとラディカルな議論をするならいざ知らず、現行の著作権制度を承認した上での上記係争には、論点上無理があり過ぎる。

音楽教室は、他人の著作物を利用して商いを行う者である。 無断使用だったが、今まで黙認されてきた。著作権侵害である。 「音楽文化の振興が云々」というのは別の話。 税金の使途について、政府に異議があるからとて、脱税が許される筈もない。

「音楽教育」とかいう美名を盾に、業を聖域化しようとしたりもしているが、別にカリキュラムは文科省などの公的機関が要領を策定しているわけでもない。 単なる自称である。 教育なんて厳密な定義があるわけでなし、言ったもの勝ちなのだろう。 性風俗店は「性教育」の、高利貸しは「経済学」の、それぞれ教育機関だと主張したらよろしい。

ネット上散見される意見に目を通してみたが、JASRACに批判的であるものが多い。 気持ちが分からないではないが、思考のパースペクティブが狭すぎる。 そんなんじゃ何も変わらないよ。現実は微動だにしない。


2/27(木)

人は何故鬱になるか。 まあ鬱病ってのは病気であるということになっているんだけど、その機序について考えたい。

結論から言うと、「生存こそが目的」となっているからだろう。 人間は目的の為に生きるべき生き物で、生きること自体を目的にし出すと、他の下等生物と変わらなくなる。 「人類の要件を満たさない個体に、淘汰の圧がかかっている」、これが鬱ではないか。

夢とは、気分である。 どうやって時間を過ごしたら一番幸福でいられるか、これが夢。 「医者になりたい」という人の言う医者とは、即ち成果。収入や社会的地位などと言う、自らの生存を有利たらしめる条件を求めてのもの。 「人を救いたい」と言うのならそれは夢である。 そこを目指して生きることそのものに、幸福を感じられるだろうから。そういう人が、結果として医者の地位を手にしてしまうことがあるだけ。

生存を優先すると言うことは、同時に自由を劣後に置くと言うこと。自由を犠牲にする日々とは、人間にとってそれ即ち苦痛。 自由を犠牲にして得られるものとは、良くてせいぜい更なる生存。 苦痛に耐えて生存時間を延長したところで、生存を優先するという原理が変わらない以上、その時間もまた苦痛で染められている。 だからその時間(人生)に当人自身価値を感じられない。実際価値が無い。

繰り返すようだが、生存に有利となるある成果を手に入れるため、歯を食いしばって苦痛に耐えたところで、生存は生存に過ぎない。 生きる時間を延ばしても、その苦痛の日々が延長されるだけ。 何より生存を優先させ、生存時間を延長したところで、その時間も結局のところ、更なる生存を優先するだけのつまらない時間。 生きることが苦しみでしかなく、未来は暗黒色で染められている。

自殺は何故起こるか。 ある困難が人を死に至らしめるのではなく、その人にとっての人生が、その困難を乗り越えてまで生きる価値がない場合に自殺は起こる。

夢を見ろと言われたところで、夢など感じられない人には感じられない。 強いて言うならその人にとっては、生存を磐石たらしめることが最も優先度が高い。 生存を危うくしてまで趣味に生きるなど、それこそ恐怖・苦痛だろう。

更には、生存を優先させることとは即ち保身なわけだけど、それほどまでに積極的に保身に価値を置く、というのは、貢献の気分を持たぬということでもある。 この社会、共同体に貢献しない者は、それ故に常に淘汰される恐怖に怯えているはずだ。 一部の公務員などの、本来公僕たるべき者らが、何故か国民の怨嗟の海に浮かぶ小船のようになっている理由もそこだろう。

保身とは貢献の対義語。 保身に走れば走るほど、その人はこの世界にとって要らない存在となり、生存環境に磐石さを感じないから、彼は更に保身の感覚を鋭敏にする。 この負のスパイラルが鬱である。

生存を最優先にするから日々が苦痛になるし、生存時間を延ばしたところで、その苦痛が続くだけ。 だから未来に希望が感じられず、人は鬱になる。 夢を見れば良いだけなんだけど、夢ってヤツこそが、その人固有の思考が生み出すものだから、見られない人には見られない。

機序が分かっても解決策が見つからない。残念なことだ。


2/26(水)

連日世間を騒がせている新型コロナウイルスである。 あんましうるさいから調べてみたのだが、もう脱力してしまう。

日本での、新型コロナウイルスによる死者は現在一名だと。 因みに、2019年の日本人の死亡者数は137万6000人だそうだ。一日4000人近く死んでいる計算になる。

ついでにインフルエンザについても調べてみた。 例年のインフルエンザ感染者数は推定約1000万人。死亡者数は2005年で1818人だそうだ(厚労省HPより)。無論日本国内の話。 超過死亡概念ってのを用いた計算だと、年間死亡者は推定1万人だそうだ。毎日30人くらいインフルエンザで死んでいる計算になる。

繰り返すが、新型コロナウイルスによる国内での死者数は、現時点で一名である。 一億数千万人の人がいて、ほっといても毎日4000人近く死んでいるわけだが、老衰だとか基礎疾患持ちが、死に至る直接的な原因が風邪であることくらいいくらでもあろう。 その中で一名って。宝くじ当てるより難しい。

「ワクチンがない」とか「治療法が確立されていない」とか、まあそりゃそうなんでしょうけど、風邪の特効薬だって無いわけで。 「未知のウィルスである」とかも、毎年流行る新型のインフルエンザも厳密には未知だろう。

マスクの売り切れが続出、ネットで高値で転売されている、そうだ。頭が痛い。 エタノールが品薄とかいうならまだ分かるが、マスクってタダの布じゃないのか。 石油が枯渇したとかならいざ知らず、そんなに欲しいならマスクぐらい自作しろよ。

日本の交通事故での死者数は年間三千人チョイなんだけど、マスク買いに薬局に殺到している人らは、薬局に着くまでの間に車に轢かれる心配はしなくて良いのか。

私は逆張りをしたいわけじゃないのだが、あんまりなんで物申してしまった。


2/25(火)

最近毎週レコーディングやってるような気がする。 その割にはリリースが無いもんで、ストックが随分溜まって来ている。多分今年は大量にリリースします。

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カリンバ(Klimba/Mbira)について。 同楽器はカリンバやムビラ以外にも様々な名称があるのだが、アフリカ諸国の方言と解釈して間違いなさそうだ。この手は存外、単に「楽器」という意味の単語だった、とかいうオチも多い。

英語圏ではThum Piano(親指ピアノ)とか言われるのだが、構造というか奏法を見てもらえれば命名理由も一目瞭然。 両手の親指を使って演奏するようになっているんだけど、構造上幅広い音域には対応できないと思われる。

クロマチック楽器ではない。というか、厳密な意味でのスケール楽器ですらない。 Wikipediaに「形状も作る人によって様々で、並んでいる棒の数すら決まっていない」とあり、別のサイトにも「決められた音階はありません」とある。 広い意味では楽器なのだろうけど、玩具のようなものに近いと思われる。 一応補足しておくと、「棒」とは発音体のことである。

サンプリングされた音源が手元にあって、ご丁寧に半音単位で配列されているのだけど、そうしないとアンサンブルに使えないからで、実器は全くもってそのような仕様でない。 使い方の難しい楽器ですね。


2/24(月)

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ギタロフォン(Guitarophone 、一名Marxophone)について調べていた。 楽器名というより、商品名に近いのではないかと思われる。つまり一般名詞として成熟していない。 命名の由来は、ギターのような(Guitaro-)発音体(Phone)ってことか。Marxophoneについてはよく分からない。それこそ商品名だろうか。

演奏動画を見てみたが、思想としてはチターに近い。というか、直接にチターから着想を得たものだろうと思われる。

メロディー(主旋律)を奏する部分と、コード(伴奏)を担当する部分とに分かれていて、前者は15音階、複弦構造で、全30弦ある。後者が16弦で、合計46弦。 因みにクロマチック楽器ではない。Cメジャーのスケールしか出せない。 この時点でアンサンブルが想定されておらず、趣味的な室内楽用の楽器と言える。

メロディー弦が15本でダイアトニックなのだから、音域が約2オクターブ。 かなり限定的な音楽しか奏でられないと思われるが、要するにギターやチターがピアノだとすると、トイピアノのような位置づけなのだろう。


2/23(日)

私が(もうかれこれ10年来くらい)曲作りを教えているある子がいるのだが、先日、その子に(教材として)使わせていたシーケンスソフトに「音が出なくなる」というトラブルが発生した。 それ自体は特に意外なことではない。トラブルくらい時に起ころう。

そのソフトは実に古いもので、当然ながら最新のOSに(公式には)対応していない。 ただ、機能的に堅牢で、特に五線譜ベースの曲作りには向いている。 (曲作りを教えている)その子は、幼少期にピアノを習い、高校までブラスバンド部に所属、芸大目指していたが途中で進路を変更、紆余曲折を経てウチで音楽活動をしている、といった音楽歴を持つ人である。 つまりピアノロール表示や数値入力に不案内である。

私はあくまで、その人固有の条件に添うツールを常に提案している。 当たり前だが、その特定のソフトを、如何なる条件においても最良のツールだ、とか思っているわけではない。 事実、その程度のMIDIデータを作れるようなアプリケーションなど、フリー物にでもいくらでもあるだろう。 物事には様々な利点・不利点があるが、私はその限定条件の中から次善のものを選択している。

トラブル解消のため、その子はPCに詳しい人に尋ねたらしいのだが、そこで返ってきた答えの一部に「そのソフトはお勧めできない」とある。 理由は「開発が終了しているから」だそうだ。 その趣旨の助言を複数回もらったという。

しかし、そんなことはこちらも分かっている。分かった上で解決策を模索しているのである。 ネット上でもよく見かけるのだが、ある不具合について解決法の教示を乞う書き込みなどに対し、「そのOSはサポートが終了しているから買い換えろ」とか「スペックが低い(だから買い換えろ)」とか、そういう回答がしばしばある。

買い換えるとか、そういう手段なら誰にでも瞬時に思い付ける。 が、毎度そうするわけにも行かないから、とある限定条件にて騙し騙しにでもやり過ごす方法を人は模索する。 このロジックを共有できない人が増えると、私にとって浮世は住み難いものとなる。


2/22(土)

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神田優花、レコーディングの上がりをチェック。 随分ストックが溜まってきてるんだけど、リリース計画の問題でちょっと公表まで時間が掛かってます。

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歌というのは様々なテーマで作られてきたのだけど、歴史上、特に前近代など、実に春歌・猥歌の占める割合が高い。 教育だとかに取り入れられなかったりと、後世に残りにくいだけで、数そのものはあるいは一番多いかもしれない。 エロスは簡単だからである。

実際、春歌の類がお上(時の政権)から規制された、みたいな話も散見される。 人々の懸案として、割合の高いものなのだろう。 早い話が、アホにでも分かる。

本能・傾向性は、誰にでもあるものだから、歌のテーマとしてもひっかかりやすい。商売するなら食い物屋とかが手っ取り早い、とかいうのと同じ。 食い物屋は食い物屋でやっていくのも大変だろうが、誰にでも思い付けるものなので、単に供給過多となっている面も大いにあろう。

私が春歌を作らないのは、それが風紀を乱すからとかExplicitコンテンツになって扱いが面倒だから、とかそういう理由ではない。 掘り下げたって大したものが出てきそうにないから、である。


2/21(金)

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著作物には著作権が当然あるわけだけど、著作権、あるいは創作性とはどこにまで及ぶものか。

旋律だとか歌詞の一文とか、そういうものに著作権は厳然とあるとされているのだけど、歌詞のあるフレーズが自作品に似ているとて騒ぎを起こしたが、全く認められなかったという有名ケースがある。 実際そのフレーズは似ていたし、後発のものが影響下にあった可能性だってあるのだが、そこに著作の侵害性は認められなかった。

主旋律となる歌のメロディーが争点になることはあっても、間奏のメロディーが争点になったという話は寡聞にして知らない。 コード進行にも著作権(排他性)は認められないとされている。 創作性を問うなら、歌のメロディーにそれがあるように、コードにも間奏にもそれは当然ある。 ただ、権利の主張に制限があるということらしい。

著作権の侵害を騒ぎ立てる者の、その著作物とは、果たしてどれだけ独自のものだろうか。 100%独創によるもの、なんてまああり得ない。そういう風に勘違いしている人ならいるだろうけど。 創造、創作は、そんな単純なものじゃない。

今私は、ある作品のある部分を拝借しようと考えている。いわばパクりである。 ただ、旋律であるとか、歌詞のフレーズだとかがその対象ではない。 歌詞の世界というか、設定のようなものを拝借できないかと考えている。

かぐや姫の曲に「妹」というのがある。自身の妹が、自分の友人と結婚するというお話を楽曲化している。両親が亡くなって、兄弟だけで育っている、などという設定まで歌詞から読み取れる。 作詞者、喜多条忠の実体験に因るもの、という話だが、作品は発売の後、映画化までされた。

もしこの「妹」と同設定の物語を作品化したら、多くの人が「あれと同じだ」と感じるのかもしれないが、旋律や歌詞を拝借していないのであれば、盗作とかいうことにはなりにくいだろう。 もしこの世界観、設定の類に排他性が認められたらだろうなるだろう。 シェークスピアや黒澤明がそれ主張し出したら、浮世は大混乱になったろう。

因みに、今私が参酌しようと考えているのは上記の「妹」ではないが、分かりやすい例として挙げた。 まあその「妹」にしても、どれほど作詞者、喜多条忠を起源としているか。甚だ怪しい話である。


2/20(木)

キム(Khim/Kim)って楽器についてのメモ。 仕事で知る機会があったんで。

タイの民俗楽器なんだけど、中国の揚琴、ペルシャのサントゥールなどをルーツとしているらしい。 ダルシマーのような、いわゆる旋律打楽器である。 三本づつの複弦構造で、全部で42弦とあるから、音階にして14、タイ楽は基本七等分平均律だから都合2オクターブってことになる。 使い勝手はお世辞にも良くない。

タイ楽の伝統的な合奏(ピーパート、クルアンサーイだのという)には使われない楽器で、だからこそ今までノーマークだった。 差し詰めフォークギターとか、そういうものに近いのか。ポピュラーな楽器ではあるらしい。

どうして合奏に採用されなかったのかは分からない。 チューニングの問題とか考えてみたけど、タイ楽ってあまりその辺に厳格でない印象だ。

キムと呼ばれる楽器は、キム・ピースア(キム・ヤク)とキム・クラパウの二種があるらしい。 一般にキムと言った場合、小型のキム・ピースアを指す。 キム・クラパウは中国の揚琴の形状を踏襲している大型のタイプで、録音等に使用される、いわばプロユースであるという。 まあ私が使うなら前者だな。

この手の民俗楽器の常として、仕様が厳格でなく、個体差が大きい。 サンプリング元が違うだけで、その二者を近づけるのは時に至難となる。

リリースを調整する、ダンパー等の構造がなく、音は基本発音されたらされっぱなしである。 深いエコーやリバーブがかかったような音で、普通の楽器でいうところのドライっぽい発音はできない。


2/17(月)

突然だけど、カラオケバージョンのクレジットってどうなってるんだろう。 最近CDなんて買わないもんで、調べるのも億劫だ。

そもそも最近のCDにカラオケバージョンなんて入ってるんだろうか。 絶無では無かろうが、減っているには違いない。 しかし過去にあれだけあったものなのだから、定番的な扱いも存在したはずだ。

例えば美空ひばりのシングルのカップリングにカラオケバージョンが入っていたとして、そのカップリング曲は誰のレパートリーになるのだろう。 おそらく美空ひばり名義になると思うのだが、バンドとかならいざ知らず、カラオケバージョンの制作に歌い手は基本的に関わってないだろう。

オリジナルの作曲者やアレンジャーが、作・編曲でクレジットされているのは当然として、作詞者は?歌詞なんて乗ってないわけだから作詞のクレジットは無し?でもタイトルはオリジナル曲に因んでいるはずで、そのタイトルは大抵歌詞に因んでいるだろうし、作詞者が付けているだろう。

大体カラオケバージョンはその曲を「歌うため」にあるわけだが、当然歌詞は必須である。 創作物のコアと言って良い。 カラオケバージョンを必要とする人は、同時に歌詞も絶対に必要になる。これで作詞者に何の権利も与えないとしたら、著作権思想から考えても不自然である。 カラオケバージョン、印税の分配とかもどうなってるんだろう。


2/16(日)

あんまし詳細は言えないんだけど、急なオーダーに対応するため、週末は休み無し。 一応今は一区切り付いたんだけど、寝不足だ。 海外のエージェントなんかとやり取りする時って、時差があるからこうなる。スピードを要求されるからある程度は仕方ない。


2/14(金)

間隔が開いてしまった。 事務作業とかボチボチやってました。

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何があったろう。 そうだ、歌録り二件ありました。 それの編集とかもやってたんだ。 今回のヤツは、録ったテイクを元に一部バッキング部分作ったりしたんで、ちょっといつもと工程が違った。


2/11(火)

あるプラグイン(エフェクト)がありまして、まあ分かりやすいというか、効果は絶大なのだが、使いどころがなくて困っている。

いわゆるグリッチ系のエフェクトなんだけど、グリッチって何?って人に説明する余裕が無い。 とにかくギミックフルな音を作り出す。 ただ、ゴチャゴチャとパラメーター構成が複雑な割りに、想定した音を実現する機能は低い。というかほぼ皆無。

非常にランダム性の強い代物なんだが、私はこのランダムってのが苦手だ。 過去えらい目に遭った経験がある。 ランダムってのはつまり、再生の度に出てくる音が違うってこと。例えば一旦レンダリングしたトラックは、二度と同じものが作れない。 「メチャクチャ」という一種類の音だと解釈できなくもないけど、思想的にあんまり私の好きな設計でない。


2/10(月)

ADHD(注意欠如・多動症)の子には、顕著な視覚優位が見られるそうだ。 視覚優位というのは、言い換えれば聴覚劣位ということ。 聴覚処理障害という障害名もある。

聴覚にての情報処理ができないから、視覚偏重が起こり、対象を視認するための動線が伸びることによって、結果多動となる。 メカニズムを簡潔に紐解けばこういうことなわけだが、つまり彼らは音楽が聴けない。 音を聞くことならできるだろうが。


2/9(日)

私は経済の本(話)が好きでないのだが、何故あれが面白くないのか、真剣に考えてみた。

経済とは何か。金勘定である。 金というのが、現代人にとって不可欠なものであるからこそ、それが人類の重大な懸案となり、学問分野にまでなった。ノーベル賞の部門にすらなっている。 政府にはそれを司る機関があり、役人や民間人の俸禄もそれにて支払われる。 確かにあれには、人間を豊かにするための何事かが含まれてはいる。

ここ数日、気温が低い日が続いたが、きっと誰だって寒いより暖かい方が良い。 気温につられ、温度計が上下するように、預金の残高も上下する。 寒いより暖かい方が良いのと同じく、預金の残高も、無いよりあった方が良い。 それらの要素は、我々の幸福感と直結している。

金は、幸福を実現するための諸要素の一つには違いない。 だが、それだけのものだ。 会社の上司や同僚と気が合わなければ、きっと仕事場に通うのも苦痛になろう。 人心というのも、ここれ言う幸福実現のための諸要素の一つである。

人間の幸福とは何か。気分である。 全ての要素は、この気分に映り込んだもの。 愛されることや夢を見ることによって、人々が感じる気分を、幸福と呼んだりする。 金だって、それを与えてくれることはあるだろう。

確かに、金には権利行使の可能性が含まれる。 欲しいものが買えるかもしれない。 だが、欲しいものがある人が、その欲しいものへの情熱を語るのであれば、私はそこに関心を持つだろう。 金はそれじゃない。金そのものに価値は無いからだ。

金そのものに執着する人は、不安を埋めようとしている。 そういう気分の人間の存在は、既に私の幸福感を妨げている。 だから私は経済の本を読んでいても面白くない。

以前立ち読みした本に、「世の中金だ」・「金が全てだ」などと書かれていたのだが、その筆者の気分を想像するだけで、私の心は不快を催した。 そんな人間が世界に増殖するだけで、私の気分が暗然たるものとなる。


金は、使用権という一種の権力である。 が、一昔前に比べ、現代社会は権力によって実現できることが減った。 社会的なセーフティーネットは張り巡らされ、教育費なども無償化された。 最低限の生活に満足できる人なら、苦労して金を手に入れる必要がなくなっている。 この最低限の生活、の水準は今後(多分飛躍的に)上がる。 金の価値はますます無くなる。人類の歴史は、そういうフェイズに突入しつつある。

今後も金は一定の価値を保ち続けると思うが、少なくともその価値は希薄化される。 そうなった時、人類にとって必要となる新たな価値とは何か。 私が芸術という追求作業を続ける理由は、その新たな価値のため。 つまり、私の気分と経済の話は、要は水と油なのだ。


2/8(土)

私は才能に価値を置かない。 私は音楽の才能があったから音楽家になったわけではなく、音楽が好きだからそれを追い続けただけ。

才能とは、浮世の矩(のり)が決めるもの。基準があってはじめて優劣は生まれる。いわゆる才能とは、単に生存の係数。 優劣など虚仮である。善悪にすら絶対的基準が無いから、人類は葛藤を続けるというに。

才能に引き摺られた人生とは、自分を生存さしめるため、生来備わった才能という道具を行使しただけのもの。 自己の実現どころか、それによって犠牲になった何かこそが自己であったりする。

何より高学歴・高収入を求めた者とは、何より生存を優先させた者。 生存を有利たらしめる為とて、机に齧りついての受験勉強を努力と呼ぶのなら、糖に群がる昆虫は努力の真っ最中だ。

私の言いたいことは単純だ。 我々は、才能に引き摺られて生きてはいけない。 私は、我が心に認められる「好き」と言う感覚を守るべく生きる。 そして、そういう人を応援したい。

好きとは、生きるに有利どころか、時に生存そのものを危うくする。 それでも追い続ける価値のあるもの、それが「好き」である。


2/7(金)

とあるフリー音源(シリーズ)を使って曲を書いてみようと思っている。 サンプリングなんだけど、妙にクオリティーが高い。 ただ、音そのもののクオリティーが高くとも、使い勝手は悪い。珍重すべきレアなアーティキュレーションがあると思ったら音域が狭かったり。 わざとそうしているのかもしれない。いわゆるティーザーというように。

その音源はシリーズ化されているのだけど、本当に使えそうなものと使えなそうなものが混交している。 単なる音源だけでなく、フレーズ集・効果音集のようになっているものもあるんだけど、まずフレーズ集については、私はそういうものを基本使わない。 ブレイクビーツのネタ元にリズムのループ使ったりとか、せいぜいその程度。 別に「使うべきじゃない」とか、そこにストイシズムを求めてるわけではないが、イマジネーションを形にするという作業に使えない。

私は、ある特定音源のみを使って曲(アレンジ)を作る、という試みを何度か行っている。 チップチューン制作なんかと精神としては通底するのだけど、「制約」が生む何事か、について掘り進めたい。


2/6(木)

ギリシャ哲学史のようなものを読んでいた。ソクラテスープラトンーアリストテレス、と続く思想史。 フランシスコ・ザビエルはパリ大学在学中、アリストテレスの哲学を学んだそうだが、西洋史を通して支持されたのは、圧倒的にプラトンであったろう。 しかもザビエルはクリスチャンである(プラトン哲学の方がキリスト教との親和性が高い)。

アリストテレスはプラトンのイデア論に懐疑的・批判的であったという。 物事というのは質料(Hyle)が形相(Eidos)を為したものであり、イデアが存在するわけではないと。

プラトンは、人間の霊魂(Psyche)を一種のイデアと捉えていたようで、この点が後世のキリスト教の霊肉二元論との親和を見せる。

私は、アリストテレスの論を、プラトンにクリティカルなのでなく、むしろプラトン哲学を深化させたものだと考える。 精神は肉体の「機能」であるが、その機能こそがイデアではないかと。

原理・定理というのは、物質・物体の形相のそのまた一側面であろうが、それ故に不滅である。 梃子の原理は、支点・力点・作用点などを複合した概念だが、それを視覚化するために棒や何やという物体が必要になる。 物体が無ければ視覚化されないわけだが、原理そのものは不滅である。時空の果てまでも不滅である。

イデアなど無いと言ったところで、その「無い」ことさえ概念である。 古代のインド人は、「無」を「在る」と捉えたからこそゼロを発見した。在るものは消えない。 ついでに、前述の梃子の原理だってアルキメデスが発明したのではなく、この宇宙に存在する一つの原理に気付いただけだ。 原理そのものは普遍。

人(人体でなくその本質である精神)も概念である。だからそれが確かなものであるなら、決して消えない。 人体は物質なので消える、と言うより形質を留めておけない。 人間(の思考)には、理性・意志・自由などと言われるものと、本能・傾向性などというものが複雑に入り混じる。 混入した後者ら(本能など)に支配された者こそ、ラマチャンドランの言う「ゾンビ」なのだろうと思う。

食欲や性欲に抗えない者がいる。 性欲に抗わねばその人は即ち性犯罪者などになってしまうわけだが、性犯罪者の再犯率は周知となっている。 何故そうなるのかと言うと、その行為に歯止めをかけるべきその人が存在していないからだ。 水に「水さん、高いところから低いところに落ちないで」などと説得しても無駄なのと同じ。

本能・傾向性といった、その種の夾雑物を全て取り払った後、そこに残るものこそがその人である。その人の精神の重量。 私が音楽を好きであることは、「酒がやめられない」・「タバコがやめられない」と言った意志以外の何かの力に因るものではなく、それらを全て取り去った後に残った、私の本質である。

大好きな音楽を追い続ける私は、それによって自分の存在に気が付いた。その衝動こそが自分であることに。 そして同時に、自分のその本質が不滅であることにも気付かされた。 今の私とは、私の意志という不滅の何かが、条件を得て具現化したもの。 イデアは実在するではないか、と思うし、人体の一機能である精神、それこそがイデアではないかとも思う。

ついでだが、意志と同じく、友情というものも永遠である。 心臓と肺が、連動しつつある作用を為すように、ある精神と別のある精神が連動によって成立させたもの。 だから友情は不滅である。

傾向性の濁流に飲み込まれ、溺れてしまいそうな誰かを見た時、私はその人を救いたいと思ってしまった。 生存優先の生き方を選ぶ、というのは、生存に優先される自己あっての言い回し。 自己が無いなら生存原理に従って生きるのも当然ではないか。

あることに気付いた私は、消えてしまいそうなその何かを、救う為に歌を作った。 私の作る歌がもし、あなたの心の特別な部分に響いたら、それこそがあなたである。 友情が成立する可能性もそこにある。 私はそこを目掛けて歌を作り続けてきたし、これからもそうある。


2/5(水)

経済の本を読んでいると「マネーはゼロサムではない」とある。 誰かが金持ちになるからとて、他が貧しくなるわけでない、と言いたいらしい。 サッチャーもそんなこと言ってたけど、確かにそうかも。 それにしても経済の本は面白くない。

金とは権利である。 行使できる権利を持つ者が生まれれば、周りはそれを行使される割を食う。 株式の分割などと似ていて、サプライの調整によってバラ撒くようなことをすれば、当然価値が下がる。 誰かが権利を独占すれば、他の誰かは何らかの収奪を受ける。 これはイノベーションによって豊かさが浸潤する、なんてこととは別の話だ。

私は庶民だが、ある時代の天下人以上の生活水準にある。 アレクサンドロス大王も始皇帝もチンギス・ハーンも豊臣秀吉も、夏の暑い日に冷房も無ければ、アイスクリームも食えなかった。 ただ、今の私に、他人を使役して、都市のど真ん中に巨大な城郭をこさえたりはできない。

GDPが今の100倍になったって、それだけで我々が幸福になるわけじゃない。 諸々の額面にゼロが増えただけ。 給料が100倍になっても、物価が100倍になれば生活は変わらない。 私の理解って間違ってるんだろうか。 因みに、地面から石油を掘り出せば豊かさは増す。 地球から資源を収奪しているわけだから。 ただ、当然資源には限りがある。

地球上にある、人類の財産の絶対量が100倍になれば、人類の生活は100倍豊かになる。 が、金とは使用権なので、そのこととは本来関係が無い。 その100倍の分配を巡って、使用権を持つ者は、持たざるものから収奪するに違いない。

人間の持つ、成功への希求は、しばしば収奪の動機とリンクしているから分かり難くなるが、本来それらは分けて捉えるべきもの。 収奪の動機が、結果的に人類の生活向上に一役買っていたりするものだから、煙に巻かれそうになる。 物質の絶対量とその分配率も別だ。 成功や優劣の本質は、比較にこそあるはずだ。だからそれは物質量では埋められない。

給料の額面が100倍になることはあり得る。 生産性や私有財産が100倍になることだってあり得る。 イノベーションによって生活水準が劇的に向上することだって当然ある。 ただ、金は権利なのでそれらの総和と直接には関係無く、本質的には、常にそれらの分配率に過ぎないはずだ。


2/4(火)

LyricFindっていう、歌詞の配信サービスがある。 国際的なサービスで、歌詞の管理業者としては世界的なスタンダードらしい。Googleが採用しているようで、検索結果に表示される。

Spotifyとかで、曲にシンクロして歌詞が表示されたりするんだけど、あれSpotifyがやってるんじゃなくて、LyricFindとの連動らしい。

そのLyricFindに歌詞を提供することを今検討しているんだが、同期表示の為に、それ用のデータ作らないといけない。LRCってご存知か。

神田優花だけで200曲とかあるわけで、全ての曲のデータなんて作ろうと思ったら、それだけで何日かかるだろうか。 どうしたものか。


2/2(日)

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ごく最近知ったのだが、ブドウの主要生産地は、年間降水量500mmから1600mmあたりであるらしい。 年間500mmの雨が降ればブドウは育つと言うこと。 因みに、東京の年間降水量が1800ちょっとである。 あんなに水分たっぷりなのに、水がさほど必要ないのだと。保水力が高いということか。 凄いな。


2/1(土)

一神教と多神教の比較論のような文章を読んでいたのだが、イマイチ釈然としない。 日本においては土着の多神教が(新来の一神教に)「勝った」のだと。

確かに前近代、いわゆる室町時代に日本に一神教(キリスト教)は入っていた。 唐にキリスト教の一派(ネストリウス)が入っていたから、もっとライトな形でなら、それ以前にも遣唐使経由などで入ってきていたかもしれない。 ただ、根付かなかった。 日本人にそれを受容する素地が無かったのは間違いなかろう。

一神教は砂漠の真ん中で生まれたとか言われたりする。 360度見渡す限りの地平線、見上げると雲一つ無いスカイライン、という状況にて神との対話が生まれた、という話。 ありうべしと思える。

と言うことは、日本のように山河の入り組んだ地形において、一神教は生まれ難い、ということにもなる。 山有り谷有りの地形では、人々の世界観すらも割拠的になるということか。

私の見解としては、日本が多神教世界だったから一神教を拒絶した、というより、それ以前に、地理条件が一神教の受容に適さないのだと思う。 多神教が勝ったとかって、人間如きが作り出す文化を重く見過ぎているように思える。

Religion(宗教)なんてもの以前に、地理はある。 自然・宇宙といって良い。 自然・宇宙というのは、それこそがGodの賜物。 Godというのは、一神教・多神教などという比較論を超越したレイヤーにある。 この前提を共有していないから、今読んでいる文章に釈然としないのかもしれない。


1/31(金)

音頭についてまた考えている。 習作の一つでも作りたいところだが、歌う人がいない。

有名な東京音頭を聴いてみる。 やはり近代以降の俗楽臭が漂っている。 まあ東京というくらいなのだから、明治後であるのは確実だと思ったが、東京音頭は昭和の作品らしい。

譜面を見たところ、1コーラスが(2拍子で)26小節、頭をアウフタクトだとするなら25小節ってことになる。 綺麗な4の倍数でないところなど、楽節構造は西洋音楽的でない。邦楽のオリジナリティーと言えなくもない。 メロディーラインはいわゆる都節。邦楽の音階は西洋の(教会)旋法と違って、トニックへの引力が弱い。そういう点も含め、典型的な都節。

音頭のリズムって大抵ハネてるんだけど(いわゆるシャッフル)、色々聴いてみると、稀に例外的にそうでないものもある。 私が今考えているのは、その例外的な(シャッフルでない)方。 一応言っておくと、シャッフルとそうでないものって、そんなに綺麗に線が引けない。 POPSとか(採譜ベースの)譜面を見ると、同じ曲の解釈が分かれていたりすることもある。 方や(8分)三連譜の中空き、方や付点8譜+16分音符、みたいに。 実際それらの中間、みたいなリズムもある。

合いの手で入る「ヨイヨイ」だの「チョイ」だの、音楽を構成する、ある種の肝となっているわけだが、あまり取り入れたい衝動に駆られない。 私はオノマトペみたいなの好きでないのです。 POPSの「Ah」とか「Wow Wow」とかも好きでないしね。


1/30(木)

ベートーヴェンは晩年、聴覚を失っていたが、作曲は出来た。 まあ分かる。 生まれもっての聾者だったらいざ知らず、音楽の基礎が身に付いた状態なら、脳内で音楽はある程度構築できたろう。

かく言う私も、作曲の初期段階においては、楽器も使わないし、そもそも音を出さない。 脳内にての構成作業であるということ。 道具は言語である。

しかし、脳内で作業を完結はできない。 細部はやはり音にしないと作り込めない。 必ず音響によるモニタリングが必要になるということ。 ベートーヴェンは突発的に聴覚を失ったわけではない(難聴から徐々に聴覚を失っている)から、その過程にて脳内での音楽構成力が発達した可能性がある。 私がそのような状況に晒されたらどうなるのだろう。 複雑な和音とか、脳内で鳴らせるだろうか。現状は難しいな。


1/29(水)

歌に限った話ではないが、歌には無論その時代の流行がある。 同じ人間の為すものなのにどうしてこれほど違うかと思うぐらい、歌は時代によってマチマチである。 J-POPとかに限定しても、私の若い頃と今とでは明らかに支配的なスタイルが変わっている。

アレンジの一部として、「あの時代っぽいコーラスが欲しい」とか思うことがあるわけだけど、これが難しい。 当時の人を連れてきたところで、その人らも歳とってるし、歌い手にサンプル聞かせて参考にしてもらうくらいしか方法が思い付けない。

ボーカロイドとか、どうせならこういう需要に応えるライブラリーを作ってくれないものか。 「○○年代フォークソング・女性」とか。


1/28(火)

音頭について考えていた。 管絃の音頭(おんどう)じゃなくて東京音頭とかの音頭。多分両者は同語源だが。

以前、鈴木サヤカのレパートリーとして音頭を作ってみたことがある(未公表)が、全然調べも入れてなくて、「音頭なんてテキトーなものだろう」と高をくくっていた。 この度、あらためて調べてみたんだが、やっぱりテキトーなものだった。

まず楽理的な定義のようなものは無い。 Wikipediaを見ると「日本古来よりの民謡云々」などとあるが、ルーツをそのように比定できなくもないとしても、いわゆる音頭そのものの歴史は浅いはず。 聞けば分かる。 多分知られているほとんどのものは昭和以降に生まれたものかと思われる。

○○音頭・○○節の類をいくつか聞いてみても、楽器編成は全くもって厳格でない(ある程度定番的なものはある)。 スケールはいわゆる都節(陰旋法)がほとんど。 要するに、一番よくある日本の俗楽のようなもの。演歌とかに近い。


1/27(月)

のび太は、隠していた0点の答案用紙をママに見つけられて、しばしば説教をされる。 話の中で彼は、0点をとりまくる劣等性ということになっている。

しかしテストで0点ということは、義務教育機関である小学校の教程を皆目理解していないということである。つまり彼は、知的障害である可能性が高い。 ママはお小言なんて言ってる暇があるなら、一刻も早く我が子を病院に連れて行くべき。


1/26(日)

神田優花、リハーサル中。今制作中の曲が3つほどあります。 複数作品の同時進行って珍しくは無いんだけど、3つになると珍しいかも。

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インド哲学についての本を読んでいる。 戻ってこられなくなりそうなほどにディープな世界である。

ある面で多神教的世界でもあり、ブラフマン(梵)とアートマン(自我)という世界観は、神とのダイアローグを行う一神教的でもある。

シヴァ神だとかそういう、原始のバラモン教(というかインド土俗信仰)にあったのか怪しい諸要素について、後世付加されたものかと思ったりする。 私には、虚飾のない初期の思想体系の方がスッキリしていて理解にも容易いと感じる。 インド信仰の精髄とも言える仏教についても、原始(上座部)仏教の方に魅力を感じる。

自我は認識できないと言う。 認識している主体が自我であるから、それを認識できる主体は無いとするらしい。 意識や認識という言葉は、割かし定義曖昧に使われている気がする。 意識を俯瞰することが認識だと理解しているから、私などは自我は認識できると思っている。 違うのだろうか。

日本も広義には仏教国であるはずだが、哲学・思索面での影響が薄いことは残念だ。 あれを受容するに日本語は、サンスクリット語のような、ある面での精緻さを欠いた言語だったのだろうか。


1/25(土)

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広瀬沙希、レコーディング。 リハーサル期間、長めに取ってたんで、作業はスムースに進められました。


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消費税が10%に上がったわけだけど、昔ほどの抵抗は見られなくなっているように思える。このままEU並みにすることだって無理じゃなさそうだ。

税額の設定なんて、思考上の遊びみたいなもんだ。 だからして、無税の国家だってロジカルには可能なはず。 金なんて国家が認定した権利。言わずもがな物納でもなく、兌換制ですらない。 バラ撒いてる分と相殺すると税金なんて霞のようなもの。

今金持ちになるメリットって何なのだろう。 うまいもの食えるとか?痛風になるぞ。 金なんてあっても、家だって車だって法律の範囲内の規格でしか手に入らないし、麻薬とか、ピストル一挺だって買えない。買えないものは買えない。

車とかも自動運転が実用化されてシェアライドが当たり前になると、趣味性の入り込む余地ってほとんど無くなるような気がする。 いわゆる車好きは、古銭マニアとかそういう、一種の好事家のような存在になる。 今でもなっているんだろうけど、よりその色合いが濃くなるだろう。

金というのは簡単である。数値なのだから。機械にだって判定できるようなもの。 金なんていくらあったところで、それは私に次の一曲すら見せてくれない。

金の限界が周知となり、それ以外の価値に重きが置かれた時、あるタイプの人間は当惑するというか、方途を見失うだろう。 それが人類共同体とそれ以外を判別する一つのメルクマールとなるのかも。


1/24(金)

ある種のパーソナリティー障害者は、物事の責任を全て他にあると考えるらしい。他罰的とかいう用語で説明されたりする。

この「世界の見え方」は、当然ながらその人の人格形成に甚大な影響を及ぼす。と言うか、認知こそがその人そのものである。 とにかく、人格障害者の有害性の本質は、一面この他罰性にあるとも言える。

「人のせい」にできたら安心らしい。 普通の人は、物事の責任を他にあるとする思考法が、自分を含めた全てを幸福にしないことを経験的、あるいは先験的に知っている。 それがいつまでも理解できない思考の構造こそが人格障害の機序となっている。

つまりその人らは、大多数の人類と価値を共有できない。 共同体こそが社会・文明の基礎なのだから、価値を共有できないということは、即ち淘汰の対象であるということ。

ただ、私は、その人たちの思う「全ては他のせい」という結論、それはそれで正しいとも思う。 我々は一人の例外もなく、自らの意志でこの世界に誕生したわけでない。 親などという他人の意志で、まさに「産まれた」わけで、生得的な条件全ても我々の意志に関わらず所与であった。

劣悪な脳を持たされ、ある歪んだ思考しかできない者も、その根本原因は(その人本人でなく)この世界の側にある。 ただしそれは同時に、そのことが「神の意思である」ということでもある。 淘汰の原理とはこういうことなのだろう。


1/23(木)

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新人さんのレコーディング。今回で二曲目になります。 前回録った曲のカップリング用の曲だったんだけど、こっちもシングル化しようという話になって、急遽二曲分のカップリング曲を作らねばならなくなってしまった。 まあストックの中から適当に見繕いますけど。


1/22(水)

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片飛鳥のアルバム「Kata Asuka」の収録曲中、6曲がリマスタリングなんだけど、「アルバムバージョン」という但し書き(サブタイトル)を入れてたら、アップル系のサービスで全部でそのサブタイトル部分が削除されてしまった。 アップル側の規定なのだと。

だからして、この度あらためてサブタイトルを「Remastered」に変更してます。 アップル関係以外は今までの通りです。


1/21(火)

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神田優花のB面集みたいなのを企画中。結構前から考えてたんだけど。 レコードじゃないんだからB面というよりカップリングとか言うべきだな。

昔から、個人的にBサイドコレクションみたいなのが好きだったってのもある。 カップリング曲って制約が薄い分、やりたい放題やれる部分があって、面白いものがあったりする。

神田優花ってカップリング曲だけでも結構膨大な数あるんだけど、オールタイムのB面集みたいなのは考えていない。 何故かというと、キャリアが長すぎて、時期による歌や録音物としての品質にかなりバラツキがあってしまうから。 リマスタリングとかすれば良いんだろうけど、ちょっと面倒で。


1/18(土)

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ある音楽的なアイディアを作品に盛り込もうとしたものの、事情によってうまく作品化できないってことがある。 昔は、そういう場合にもどかしい思いをしていた。

今は気付いた。アイディアは死なない。 ある発現の場所が成立しなかったからと言って、アイディアそのものは不変である。 条件さえ与えられたら発現できること、これがアイディアの本質。


1/17(金)

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また間隔が開いてしまった。 色々ありまして。

加賀藩のある武家の家計簿を、古書屋から買い取った学者がその精密な研究結果を本にしている。一般書なんだけど、それが面白くて読み耽っていた。


話は変わる。 韓国の大統領が、いわゆる徴用工問題に絡めて「日本も解決策を出すべき」だとか言ったらしい。 多くの日本人は憤慨しているみたいだが、それが既に相手の術中に陥っているということ。 冷静に論点を見詰めなければならない。

輸出管理厳格化についても同じ。 韓国は「待遇を元に戻せ(ホワイト国にせよ)」という要求を続けているのだけど、ある品目について不適切な処理事例が発覚したからこその厳格化なわけだから、本来なら輸出禁止であるとか、そういう措置を検討すべき事案。

「徴用工問題に対する報復だ」という意見にしても、(私は報復的気分が全く含まれていないとは思わないが)そこを「不当な報復である」とすることで論点をそこにフォーカスしているわけだが、本来なら日本はもっと明白な報復を行って良い立場である。 報復と呼べるほどの報復を行っていないにも関わらず、おかしな論点を設定されているが故に、正当な主張の領域まで踏み込んでいない。 騙されている。

朝鮮学校への補助金問題とか朝鮮総連への課税とか、そういうもの全てに感じる。 存続すら許されるのか疑問である団体が、あまつさえ「優遇しろ」とまで言ってくるから「優遇などしない」という点が攻防線になってしまっている。 「優遇など論外、存続を許可すべきかが争点」とハッキリ言うべき。 これは領土問題とかに似ていて、おかしな争点を設定されている時点で相手の策に嵌っている。

私は別に韓国に物申したいわけではないのだが、ある思考パターンについて言及しようと思ったら、韓国がいつも好適例となってしまう。


1/12(日)

音楽制作系のスマホアプリを眺めていると、音のハッタリに拘って作られているのがよく分かる。 SMFの出し入れとか、そういうごく基本的な機能すら備えていないものが多いのに。

音なんて所詮は音なんで、プロが作ろうが規格上の限界は超えられない。 限りなくプロに近い音を作れるツールは実現できるだろうし、事実もう出来ているのかもしれない。 ただ、素人とプロの本質的な違いは「思考」にある。 これは如何なるツールをもってしても埋められない溝で、ツールが充実することによって、今後ますます素人と玄人の差は明確になっていくだろう。 そしてその違いは、分かる人には分かり、分からない人には分からない。


1/11(土)

金とは権利である。 日本銀行券なら日本政府がその価値を裏書きしているということ。権利であることには変わりない。 一万円札の正体は、額面一万円分の使用権であるということ。 貨幣という形で象徴化されるから、あたかもそれが物質的に存在するかのように錯覚してしまう。

権利なのだからして、「金が好きか」と問われると答えに窮してしまう。 「選挙権は好きですか?」とか問われても困ろう。 権利は権利である。好きも嫌いもない。そんな対象になりえない。 本質的に所有の対象ともなりえず、愛着なども持ちようが無い。 あった方が生きていきやすい権利であればあるに越したことはないという、それだけのもの。

人はどうしてその権利に振り回されるか。 あった方が生きやすいものだから、無いと生きて行けないような気がするからだろう。 つまりは保身である。

金の価値の、ある面での正体は、不安である。その人の弱さが見せる幻覚のようなもの。幽霊に似ている。 ここに気付けば金との付き合い方も変わってくる。 歌の文句のようだが、人生は一度きりである。 金如きに振り回されてどうする。


1/10(金)

詞と曲作りに忙殺されていた。 今年はここ数年の鬱憤を晴らすかのように大量に作品をリリースしようと思ってます。


マスタリングをオンラインで(おそらく自動にて)やってくれるサービスがあるらしい。 今のところ私は使う予定無いけど、マスタリングなんてAIとかで十分事足りる作業だってことだ。 だろうと思ってた。

狭義のマスタリングってのは、2Mixの(商品化のための)最終調整のことを言う。 2Mixにまでしてしまっているのだから、当然細部の手入れは出来ない。 音圧(コンプ)処理とかEQとか、せいぜいノイズ抜き程度の作業を指す。 因みに、厳密な意味での正解があるような作業ではない。

市販のマスタリングソフトとかも、現状上のサービスに近いものになっているはずで、要するに人為をさほど必要としない作業については、機械に任せる方向に進んでいるらしい。音楽も例に漏れず。 って言うか、マスタリングすら必要無いのかも。 コンテンツのダウンロードサービスとか、あるいは各プレイヤーの側でも十分対応可能な領域だろうから。

私は今まで、マスタリングとかハッキリ言ってかなりいい加減にやってきたんだけど、それで良かったと思っている。 今後も変わらないというか、ますますもっていい加減になって行くかもしれない。


1/7(火)

スマホアプリってのをワークフローに取り入れようかと思っていたのだが、どれも帯に短し襷に長しという感じで、どうもイマイチだ。 まあ私がフリー物ばかり漁っているからってのもあるだろうが。

単純にMIDIファイル(SMF)をインポート・エクスポートできるものが無い。 作業を完結させるのにスマートフォン一台ってのはちょっと厳しくて、どうしてもPCとの連携を前提としてしまう。 編集能力以前にファイルのやり取りくらいできるようにして欲しい。

多くのアプリが存在する中、SMFの出し入れが出来るフリーソフトが一つも無いのはどうしてなんだろうか。 有料アプリ売るためにワザとそうしてるのか。


1/6(月)

ある席で「どうして音楽家など目指そうと思ったのか」と質問されたので、私なりに精一杯誠実に答えたつもりだったのだが、やっぱりあんまし伝わらなかったような気がする。 相手の理解力云々ではなく、私が日々間遠いようなことばかり考えている人だから。

結論から言うと「好きだから」。これに尽きる。 私は音楽が好きだから、それを追い求め、続けてきた。それだけ。

好きである、というのは、あくまで私の意志がそれを選択したのであって、意志以外の何かの力によって追い求めさせられていることとは違う。 「酒が好き」・「金が好き」などという機微とは本質として違う。これらは皆「好き」ではない。

受験生は努力とて受験勉強をする。 何故受験勉強をするか。学力を身に付けるため。何故学力が必要か。希望の学校に入るため。 何故希望の学校に入りたいか。進学や就職に有利だから。 何故良い職に就きたいか。 収入や身分が安定し、良い縁談も待っていようから。

これらは全て、他から抜きん出て、自らの生存環境を有利たらしめるもので、つまりは保身感覚から生まれた衝動。 昔の人はこれを「私(わたくし)」と呼んで忌むべきものとした。 机に齧りつく受験生は、糖に群がる昆虫と同じ。

音楽は私に、富も名誉も安定も、何一つ保障してくれない。 が、それが好きな私は、それを追い続ける日々を「楽しい」と思うことができる。 私は、初めて映ったこの世界で、音楽に守られた。 音楽に愛された。夢とは愛である。 私には、愛と夢の区別が付かない。

若い頃の私に、成果についての自信は無かった。 私にあったのは、続けて行ける自信、続けて行く日々を楽しいと思える自信。 それなら今でもある。

「好き」というのは、何より価値のあるもの。人類が、全力を賭けてでも守るべき何か。 私は、私の中に認められるこの「好き」という感覚を守るべく生きてきたし、これからもそうあり続ける。


1/5(日)

私はK-POPが好きで、割かし聴くのだが、それについて思うことを書き記す。

音楽的なクオリティーは低くはない。ただ、良く言えば様式的、つまりは画一的というか、イマジネーション・自由さに欠けるとも感じる。 ある面でJ-POPより優れていると思うが、別のある面では劣っている。 物事の優劣を平面的に断ずるのは難しい。

音楽面の話がしたいわけじゃない。 私が気になっているのは、K-POP勢の「出稼ぎ」についてである。 周知の通り、日本を始めとした海外にK-POPは輸出されている。 日本向けの商品は(拙い)日本語で歌われていたりもする。 商魂たくましい。 まるで日本軍の遠征についていったある種の業者たちのようだ。

K-POPの、特に女性パフォーマー(あるいはそこに口実を見出した者)たちは、時間が流れ、価値観が変わった暁に「意志に反して性的サービスに従事させられた」とて、日本に絡んできやしないかという懸念が私には拭えない。 これが笑い事でないことは、慰安婦問題の顛末を知っていれば分かってもらえるだろう。 日本人を顧客とした商行為は、性奴隷云々なんていう話に変質した。 私の思い描く悪夢は、あながち杞憂とも言えまい。

「K-POPアーティストの興行は自発的なものだ」という意見はごく常識的なものだが、それが必ずしも誰にも(どの時代でも)通じるわけではない。 実際テレビの世界など、少し前まで問題とされなかった表現が次々と封印されてるではないか。時代は移り変わる。

後世「本人の意思に反していた」というエビデンスを揃えるのは容易である。 誰にとっても仕事なんて嫌なもんだったりするから。 話ってのは盛ろうと思えば際限なく盛れるもの。 韓国芸能人の置かれた過酷な状況は周知となりつつあるし、事実自殺者も多い。 弱者ビジネスを展開する者とは、付き合いを避けるべきで、正論で立ち向かうのは無意味だ。

K-POPのMVなどを見てみると良い。パフォーマンスに「性的アピール」が含まれていないとは言い難い。 そこを指摘されるなら、私だって「間違いなく含まれていますね」と答える。 K-POPを愛好する私など、後世謝罪と賠償を要求されかねない。 おそろしや。


1/4(土)

ペレアス和音って和音がある。ドビュッシーのオペラ、「ペレアスとメリザンド」から命名されている。 フランス和声を象徴するもの。定番的技法だとか頻出するとか言うと言い過ぎだけど、少なくとも象徴的なものではある。 構成音とかは、興味ある方には調べてもらいたい。

使いたいんだけど、使いどころが無い。 そもそもどういう機能が割り当てられているのかも定かでない。 作曲家は曲は晒すけど、能書きまで付けてくれるわけではないから、分析は評論家のような人の領域になりがちだ。 そしてそれは正しいとは限らない。 機能性とは一種の解釈なので、本人以外知りようもない。 当たり前だけど、人はそれぞれ捉えている世界・現実が違う。

結局曲の冒頭部分に、本編とはほとんど無関係に使ってみた。でもそれって正しい意味で使えているのか怪しい。 トリスタン和音とかも、以前使おうと試みたんだけど、似たような形でしか使えなかった。 代理コードのように、明快な用途(機能性)が開示されているわけじゃないからね。


1/3(金)

最近減ったけど、昔はアニメの主題歌とかって、作者(原作漫画家)が作詞してたりするケースが多かった。 減った理由は商業主義的なものかと思われる。

作詞のみならず、作曲までしているケースがあったりする。 私はずぶの素人が作る音楽作品に興味があって、一時期漁っていたのだが、音楽教養に毒されていない純粋な素人作品になんてまあ出会えない。

ある時期、いわゆるフォークソング(民謡ではなく、60年代終わりから70年代くらいにかけての流行音楽)を聴き漁っていたのだけど、ほとんど収穫は無かった。 単に未熟な西洋音楽といったもので、独自の様式性など皆無に近かったから。

音楽教養皆無のド素人が作ったもので、尚且つ音楽的な面白味のあるもの、これは稀有である。 しかし無いわけではない。 私が探し当てたものの一つは、楳図かずお氏の手による(作詞・作曲)「グワシ!!まことちゃん」だ。

アレンジはおそらくプロの手によるもの。ある時期のソウルなどを下敷きにしている。 しかし原曲はプロのものでない。楽節構造の曖昧さなどにそれは伺える。

本人歌唱による音程の緩さも楽曲の前衛性を高めているように思える。 楳図さんが楽器などを扱えるのかよく分からないが、おそらく鼻歌のようなものをアレンジャーが編曲したのではなかろうか。

ああいう天才のような人が稀に含まれているから、素人作品は侮れない。 他にも探してみようと思います。面白いのあったら教えてください。


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