Staff diary  
スタッフ日誌[2019]

[文 / 益田(制作)]

12/31(火)

昔、アニメソングとかの非オリジナル音源ってよくあった。子供心ながらも、それを与えられた時の小さからぬショックは覚えている。 数は減ったかもしれないが、ああいうものは多分今でもある。 音楽著作物というのは、比較的容易にああいう形での利用が可能なのである。そういうシステムになっている。

その非オリジナル音源に興味があって、私はネット上を探し回っていたのだが、網羅的に情報を扱っているサイトのようなものは見つけられなくて、せいぜい断片的なものをYoutubeとかで聴ける程度だった。

しかしあれはあれでプロの仕事であることは確認できた。 お手元にあれば聴いて欲しいのだが、素人にあれはできない。 コード進行だの楽器編成だのも誰かが耳でトレースしたのだろうから、それなりの手練がいたらしい。 まあ採譜ミスが目立つものも多いけど。

私が聴いていたのは、主に70年代から80年代初期あたりのものなのだが、時代的にDTM環境は整っていなかったろうから、ああいうものを作るのもそれなりの手間だったはずだ。 オリジナルのバッキングトラックが使わせてもらえず、オケは一から作らないといけないのである。カラオケを使った単なる「歌ってみた」の類と同じだと思ってはいけない。

歌い手も、どこから連れてきたのか、オリジナルシンガーでこそないものの、決して素人とは思えない。 シンガーは精一杯オリジナルに近い声質の者を起用していたり、児童合唱のくだりなども一応は本物の子供を揃えたりしていて、実に涙ぐましい。


12/30(月)

私は、私が大切にしているもの、私が愛したものは、私の側から離れていかないものだと思っていた。 そして、今でもそう信じている。 もしも「愛したものが自分の側から離れていった」という経験があるのなら、それはそこに「愛」が成立していなかったと言うこと。そう考えるしかない。

愛したものを初めて失った時、私はその事態が何なのか、何が起こったのか、よく飲み込めなかった。 大切なものは、永遠に側にあり続けると当たり前のように思い込んでいたし、それを失くすことで、私を支えている現実が根底から崩れ落ちそうになったから。 その認知を正すのは容易ではなかった。 今でもどれだけ正せているだろうか。

子供の頃の私は、音楽を好きになった。 私も愛したし、同時に音楽にも愛された。 音楽は私の側から離れていかない。きっとこれから先も。

「愛したものを失った」という風に言ったけど、そう表現するしかなかったからそうしただけで、今の私はそれを失っていないことに気が付いている。 私が愛したものは、今でもどこかで私を待っている 私はそこに向かっている。がんばります。


12/28(土)

Photo1

今年の春から活動を開始した新人さんがいるんですが、今やっと一曲目を録り終えて、来年からおそらく作品を発表して行きます。 まだ名前(アーティスト名)も決まってないんですが、よろしく。

Photo1 Photo2



琵琶の古曲、石上流泉を聴いていると、質朴というかシンプルというか、ハッキリ言うと「小学生の宿題」のような作品だと感じてしまう。 門外不出の秘曲とされた作品なんだが。

どういうものかと言うと、メジャートライアドの分散和音。本当にほとんどそれだけ。 音楽的な感動とかは(少なくとも私には)一切喚起させず、古楽の持つ独特の雰囲気を(多分に学術的興味によって)味わえるだけのようなもの。

西洋音楽でも、ルネサンス期の例えばパレストリーナの曲などは、実に退屈極まりない。 旋律を楽しむというより、音の響き・重なりを楽しむといった観賞用途のように思える。 因みに私は一曲も覚えていない。覚えられない。

話が逸れた。 古曲のようなものが作りたいのだが、軽く書いてみた旋律線が、実にそれっぽくない。 現代の和楽器奏者などが作る古曲モドキのような、要するに演歌のような旋律になってしまう。 これって聴く人が聴けば絶対に分かる。 江戸期の浮世絵とそれより前時代の絵画との違い、とか言うと多少は理解の足しになるだろうか。

あと音楽には、それぞれのジャンルによって、適正と言って良いか分からないが、少なくとも標準的な尺がある。五分で終わる交響曲とか無いわけだが、私はある先行の音楽様式をベースとした曲を書く時にも、この「尺」は必ずしも踏襲しない。 せっかちだから、ダラダラと長い曲が嫌いなのである。

私は、古の人が持っていた、現代人とは違う音楽観・スピード感、時間感覚を(それも短い尺の中で)再現したい。 これは言語の処理能ともおそらくは深く関係していて、現代人になってしまっている私にとって容易な作業でない。


12/27(金)

神田優花、年内最後のレコーディング。 実は元々予定に無くて、急遽決まった歌入れだったんだけど、まあそれなりのものは録れました。

Photo1 Photo2



琵琶楽における秘曲についてのメモ。

承和年間に遣唐使藤原貞敏が唐よりもたらした、というのが公式の由来となっている。 大抵この種の伝承は眉唾だったりするのだが、一応この件に関しては正史(三代実録)に記載があるようだ。 ただ、例えば揚真操(曲名)については「楊貴妃が作曲」などとあるが、こういうのはどの程度信じて良いものか。

秘曲は揚真操・石上流泉・啄木の三曲とされるが、後年起こった流派の二分で生じた異伝により、上原石上流泉と石上流泉との二曲に分かれたため、計四曲となっている。

在野の音楽研究家・林謙三や宮内庁楽部楽長・多忠麿による復元が試みられていると言うから(この話については、読んだ資料の一部文意が明瞭でなく、私の推量も混じっている)、いくつかその復元曲を聴いてみたのだが、モノによって、同一曲と思えぬほどに違う。 但し、どれが誰の手による復元か等、詳細が分かってない状態なので、それら全てが同列に比べる価値のあるレベルのものであるかは不明。

宮内庁書陵部の所蔵資料が閲覧できるようになっているのだが、Web上の画像で確認した限り、秘曲の譜面は、雅楽(管絃)などで用いられるいわゆる琵琶譜であるように思われたので、あらましの復元はそんなに難しくないのではないかと思ったりした。 しかし通常の五線譜でも伝達手段としてはラフスケッチに過ぎないというか、細部に渡る記録とはなりえない。琵琶譜など更に心許ないものであろう。基本的には口伝などとセットで伝承されるものってのが前提だろう。 だから上記三秘曲についても、「散逸状態である」と言って差し支えないものかと思う。

因みに目を通した資料は、藤原師長の「三五要録」と「石上流泉 上原石上流泉 啄木調」(刑部卿局から後深草上皇へ秘曲伝授が行われた際に作成)の二つ。 片や正平10年(西暦1355年)、片や文永4-5年(西暦1267-68年)とあるから、両者は90年近く離れているのだが、資料を見る限り、基本的に同じスコアであるっぽかった。 一応正確に伝承されてはいたらしい。


12/24(火)

Photo1 Photo2

ずっと音楽を続けてきた私なんだけど、ある事に従事するってのは、必ずしもその対象への尊崇の念を維持することではない。 時に、その対象への敬意を失わしめる行為ですらある。

ある対象への従事者は、その対象の研究者であるわけだけど、私などは、音楽を知れば知るほど、音楽(あるいは音楽業界)のいい加減さ、頼りなさ、をも同時に知ってしまう。 政治家は政治の、学者は学問の、そのいい加減さをきっと感じていよう。 感じない者がいるとしたら、きっとその人は真剣にそれに臨んでいない。


12/23(月)

琵琶の古曲に「啄木(たくぼく/きつつき)」ってのがある。 承和年間(平安期)に唐から伝わったとされる三秘曲のうちの一つらしいが(この手の話は大抵怪しい)、曲そのものは残って(伝承されて)いない。 あの「方丈記」の鴨長明が、伝授を受けずにそれを奏したとて非難された、などといういわくつきの曲である。

曲は伝わってないと言ったが、一応楽譜のようなものが宮内庁に残っているらしく、復元が試みられている。 復元されたというその曲を聴いてはみたが、如何ほどの再現性か私には判断できない。多分誰にも分からない。 ただ、ピアノ用の五線譜を元にピアノ曲を演奏するような明快な作業において「復元」などという言葉が使われるはずも無く、おそらく散逸こそされてないものの、解読不能に近い状態なのだろうと思われる。

どうも曲に特殊奏法が含まれているらしい。 特殊奏法はオーソドックスな奏法ではないのだから、記譜法が確立していなかったはずだ。 だからこそ伝承を軸にした秘曲であったのだろう。密教の灌頂のようなものか。 流派のようなものが絶えてしまっては、推し測りようもない。

復元されたものを聞いてはみた。 曲中、バチでボディーを叩く、いわゆるボディーパーカッションのような奏法が出てくる。 なるほどそこが啄木の所以か、と納得はした。 本当にそのような演奏が行われたのかは分からないが、秘伝とされたのは理由の核はその部分であったろうと。

秘伝とかいうものは、知ってしまえば何のことは無い、というようなものがきっと殆どである。勿体ぶることによって価値を錯覚させようとしているのだろう。 勿体ぶって見せたところで、要はその程度のもの。本当に価値のあるものなら共有されている。 文化というのはそういうものだ。


12/22(日)

DAWを(Reaperに)変えようかと思ってるって言ってたんだけど、いきなり躓いた。 VSTが読めない。読めないものがある。 一応私も長いことこういう作業をやってるんで、ある程度解決策を模索した上でこのテキストを打っている。

読めないことが発覚したVST(dll)は今のところ一つなのだが、探せばまだあるかもしれない。 確かに、読めないそれはやや癖のあるVSTで、インストールも大変だった記憶がある。 しかしDAWのトラブルで「VST関係が読めない」ってのは割りとよくあると言うか、ポピュラーな不具合だ。 結局読めないものがある時点で、他のDAWとの併用は避けられないってことになってしまう。


12/21(土)

琵琶(楽琵琶)のサンプルを探してたんだけど、フリーの良いものが見つからない。 中国琵琶(pipa)ならある。

用途柄、金出して買うほどのものとも思えなくて、自分でサンプラーのパッチを作ることにした。 因みに欲しいのはあくまで楽琵琶(雅楽などで使われるオフィシャルな琵琶)。筑前琵琶だとかの俗琵琶(そんな言葉あるのだろうか)なら既にある。

中国琵琶ならあるって言ったけど、中国琵琶と日本の琵琶は撥弦法が(決定的に)違う。 方やピック、方やバチである。 後者はスピーディーなパッセージへの対応が難しいと思われる。 私には区別できる自信が無いが、聞く人が聞けば発音のニュアンスそのものそれなりに違おう。 弦の材質とかもひょっとしたら違ったかも。

楽琵琶とそれ以外の大多数の琵琶との違いは、構造というよりは奏法にある。 多くの琵琶はフレットの間を押さえ、そこで生じる微妙な音程変化こそがその楽器の妙となっているが、楽琵琶はあくまでフレット上を押さえるので、音程が安定している。 そして、その音程の堅牢さが、アカデミックな匂いと重なって聞こえたりもする。 私が今探しているのは楽琵琶。


12/20(金)

Photo1



私はダーウィンの進化論、自然選択説に概ね納得しているが、変異の説明に関して起こったラマルキズム・定向進化説などには懐疑的である(それらは学術的にも認められていない)。 つまりは意志のようなものが進化の原動力となっているとする把握法は、意志が神聖視され過ぎのように思える。

進化・生存の条件は、個体の意志でなく、環境からの選択圧である。言い切って構わないと思う。 意志というのは脳による統合が生み出すものだから、そもそも人間以外の生物にどれだけ存在するだろうか。

選択圧は一様でないと言う。言われるまでもなく、当然そのように思える。 省庁勤めのいわゆる官僚たちは、生存競争の勝者であるに違いないが、彼らの精神病発症率は民間の三倍だそうだ。 データに基づいてないが、自殺率なども当然相関的になろう。

私は日々、音楽のアイディアを練りながら、上のようなのどかなことを考える。 私は意志的に生きてきたし、これからも変わらないが、私自身や私の音楽が、求められるかどうかは環境が決める。

私の日々の思索は、私に世俗的栄達を今のところもたらしていないが、私にある到達を与えてはくれている。 これから先、更に今見えない何かをこの目に映させてくれるに違いない。


12/19(木)

Photo1



日韓関係が史上最悪レベルに悪化しているという。 まあ、どう客観的に見ても韓国が直接的な原因なわけだが、その韓国も関係修復を望んではいるらしい。 「輸出管理体制を見直せ(ホワイト国に戻せ)」と言う執拗な要求が続いている。

テクニカルな部分は私には分からないが、ロジカルに考えて、一旦優遇対象から(相応の理由があって)外された国が再度優遇対象になるというのは、「戻る」のではなく、条件を揃え「新たに承認を得る」ということに他ならない。 これこそが歴史であり、歴史とは時間の不可逆性のこと。 そして、ある人にとって、ここは一番難しいらしい。

離合集散を繰り返す者にとって、関係とは単にステータスを変動させるものに過ぎないのだろうけど、一旦成立した歴史を書き換えることは不可能である。 だから我々は真剣に、誠実に生きることを求められる。 当たり前の話だ。


12/16(月)

Photo1



ピカソは晩年、随分とエロスに傾倒していたらしい。 評論家なんかには、その時期の作品をかなり酷評されていたりする。

別に清潔ぶるわけでもないけど、エロスってそんなに深遠な何かなんだろうか。 性欲ってのはつまりは傾向性なので、私などは、喉が渇けば水が欲しくなるのと変わらないと思っている。 突き詰めたところで、そんなに大したものは出てこないような気がする。


12/14(土)

神田優花、新曲の上がりをチェック。 これで録音済みの未発表曲が7つになる。来年は次のアルバム出します。多分。

Photo1 Photo2



DAWを変えようかと思っている。 まあ私の場合、制作環境ってそんなに画一的でなくて、色々なアプリケーション使ってるんで、乗り換えると言っても、いきなり完全移行って形にはならないけど。

ReaperってフリーだかシェアウェアだかのDAWがあって、それの使い勝手が非常に良いので、そっちメインに移行したいと思っている。 フリー版は起動後数秒の待機時間が挟まるんだけど、制限はそれくらい。 まあメインで使うとなるとそれだけの制限でもウザくなりそうなんで、私は金払うかもしれないけど、これから始めるような人にもお奨めのDAWだ。

私は今まで何種類かのDAWを使ってきたんだけど、多分ほとんどどれに乗り換えても使えると思う。 種類が違っても、やれることは基本的に変わらないからだ。 どのコマンドがメニューのどの位置にあるのか、とかそういう違いでしかないから、最初ちょっと手間取るだけで、そんなの1〜2週間も使ってたら慣れる。


12/13(金)

Photo1 Photo2

今回初めてのレコーディング(歌録り)に臨んだ人がいたんですが、その初めての上がりをチェックしたりしてました。 できたら来年の夏ごろにでも公開したい思ってますが。


12/12(木)

Photo1 Photo2



とあるマンガの話。 第二次世界大戦中へのタイムスリップ、ってのが話のキープロットなのだが、その世界で登場人物たちは、アメリカより先に原爆(核兵器)を作ろうとしたり、あるいはそれを食い止めようとする。その攻防が物語となっている。

「そのような恐ろしいものを作ってはいけない」という者がある一方、「いくら恐ろしいものであろうと、いつかは誰かが発明するのだ」という者がある。 物語の中で、両者の意見は平行線のままなのだが、私が意見を挟むなら、後者が絶対的に正しい。 核分裂という現象がこの宇宙に存在する以上、開発を遅らせたところで、いつか誰かがそこにたどり着く。

「もし太平洋戦争に日本が勝っていたら」とかいう歴史の仮想ってよくなされる。 当時の日米ほどに圧倒的な物量差があるケースで、「日本が勝つ」というシミュレーションってのが成立し難いが、仮に日本が局地的勝利を収め、有利な講和を結んだとしても、長い目で見ると人類は、今と似たような世界にたどり着いたはずである。 例え異なる曲折を経たとしても。

歴史はある方向に向かっている。一神教徒らは、この力学に神意を感じ取るのだろう。私も感じる。

核兵器は発明(というより発見)され、人類史に大きな影響を与えた。 これから先、核兵器を完全に無力化するような新たな軍事技術を人類は発明するかもしれない。 その新たな世界への布石として、「核による国際的パワーバランスの均衡」というモラトリアム期間はあるのかもしれない。 人類が何かに気付くきっかけとして。

滅び行くものが滅びるのにも理由がある。 この世界は複雑であり、多様である。そして時間は常に不可逆だ。


ちょっと前に成立した、いわゆる慰安婦合意ってのがある。当時日本は10億だかの金を払った。

慰安婦は売春婦と言う商売人で、基本的には自発的に従事した者らだ。強制連行云々は歴史の捏造である。 慰安婦業が「本当はイヤだった」とかいう意見が後世に噴出してくるわけだが、現代の仕事人らの多くは、嫌々働いているだろう。 後世、人が働かなくて良い時代がやってきたら、その多くの人らは今を振り返って「当時は辛かった」と述懐するかもしれない。 とにもかくにも、慰安婦は少なくとも当時合法的な一職業であった。

職業なのだから、当然(当時としては高額な)収入も得ていたし、戦後には日韓基本条約で補償を得た。 その後民間ベースの基金が作られ、更に先般の合意もなされた。 都合四度ほど金が出ているわけだが、この度韓国はその四度目も早速反故にすると言い出している。

私はあの「慰安婦合意」がなされた時、直感的に「韓国は滅ぶのではないか」と予感した。 理由は(失礼ながら)「あまりに不正が罷り通り過ぎた」からである。歴史は、神は、そこまで寛容でないのではないか。

朝鮮人は、歴史や性の問題をネタに、長い間日本にタカり続けた。 被害者を演じることや、性の問題を持ち出すことによって利益を得続けた。 政治家などという立場の人らが、性の問題などに正面切ってクリティカルであり難い、ということも重々知りつつ。

少女像を各地に(基本的に今でも)作り続けるのだが、売春婦がいつの間にか少女になっていたのも、彼らの思考パターンを知れば理解に容易い。 被害者を演じるなら、子供(少女)の方が一層弱者であるからだ。 存外、横田めぐみさんの事例などから学んだのかもしれない。 とにかく彼らは、常に相手の罪悪感(良心)に付け込むことによって得を拾い続けた。

その手法がなまじ成功したばかりに、こんにちこのような破滅的事態を招いている。 後日から見れば、小康を得たことこそが破滅の原因である、ということは多い。

韓国は、ある手法で成功したばかりに、自らを改めるきっかけを失い、滅びる機会すら失った。 日本は敗戦によりこんにちの社会を得たが、韓国はある意味負けなかった(日本の敗戦をいまだに勝利だと言い張っている)ばかりにかような事態に行き着いた。 きっと今後、更なる悲劇が待っている。

淘汰される者とされざる者、を区別するのは簡単だ。 ある僥倖が、その者の破滅に繋がるか否か。 淘汰される者とは、絶頂こそがその終わりの始まりとなる。


12/11(水)

電車の中の広告見てたら「ボクサーは1秒に10連打できる」とか書いてある。 「ホントかよ」と思いつつ、真面目に計算してみた。

BPMはBeat Per Minuteの略である。 1分間に何拍収められるかを数値化したもの。 だからBPM120ってのは、1分間に120拍ってこと。 4/4拍子なら30小節で1分、120小節で4分になる。

ってことは、1小節2秒ってことになるわけだが、1秒間なら2拍。 1秒に10連打ってことは、BPM120の曲の1拍(4分音符一個分の尺)に5連譜、それを二回繰り返すってことになる。

ピアノのアルペジオとか、打楽器系のフィルとかならそのくらい全然ありそうだ。 打楽器ならまさに「連打」だしな。 弦楽器のオルタネイトピッキングとかでもそのくらい行けそう。 結論。上の広告の文句、誇大とは言えない。


12/10(火)

VOCALOIDについて。VOCALOIDってのは商標らしいから、正確さに拘るなら音声(歌唱)合成ソフトとか言うべきだろうか。

基本的に私は使わない。使いたいと思える状況がないからだが、今後は分からない。 しかし、ずっと前から「いつか使う場面があるかも」と思いながらも、ほとんど使ってないところを見ると、あんまし私の創作活動との親和性は良くないのかもしれない。

デモを聴く限り、まだまだ発展途上であると言わざるを得ない。 あれを聴いて「人と区別が付かない」と言う人はほぼいないだろう。

そして、人間と見紛うほどの出来には、おそらくこの先もならない。 「人間と区別が付かない」と言い出す人は出てくる(と言うか今でもいる)だろうが、私が「歌」に求めるポイントはまず間違いなく満たせない。

今考えている使いどころは、オブリガート。そのくらいしか思いつかない(ボカロ作品とかまず作らないだろう)。 あくまで主旋律を人間が担当した上で、飛び道具のような形で合成音声を使おうか。 それにしても、そういう使い方だって曲を選ぶ。何だか使いどころが難しいな。


12/9(月)

フランス和声関係の読み物を、いくつか斜め読みしていた。 音大なんかで必須とされる和声教本である、いわゆる赤本なんかは基本的にドイツ和声だ。

フランス和声という別系統の体系があるわけではなく、要するに、クラシックの世界で有名なフランス人作曲家の技法を分析し、まとめたようなもの。 具体的にはドビュッシーとラヴェル。フォーレあたりも入るだろうか。 核は前二者ですね。

和声(和音)とかその進行とか、旋法の使い方とかに特徴があると言えばある。 でもオーソドックスな(ラモーとかの)和声法を逸脱するようなものではなく、やはり単なる流行のようなもの。ビートルズの学理的研究とかあるけど、まあその程度のもの。

あれを熟知し、応用するのがフランス和声という学問であるのなら、無論価値のある作業でもあるのだろうけど、何やら壮大な徒労のようにも思える。 少なくとも私は、音大に行かなくて良かった。 音大に過不足無く適応できるような脳の状態なら、きっと私は今のこの道の上にいなかった。


12/7(土)

Vaporwaveって音楽ジャンル(?)がある。 ジャンルと呼べるほどの独自性があるとも思えないが、一応ジャンルとされているっぽい。 流行と言うにはちょっと時間が経ってるんだけど、それについて考えていた。

代表的な楽曲を聴いてみたが、これといって目新しさは感じない。 ジャンルの解説文に「80年代文化への風刺云々」とかあるから、レトロな雰囲気であることは意図的なものなのだろうが、「ジャンル」というものの行き詰まりを感じなくもない。

「素材の加工・切り貼りで制作される」とあるから、厳密な意味での作曲作業を経ているわけではなく、ループソフトみたいなので作られたものに近いのだろう。 当然ながら、そんなに複雑な構成の楽曲を作れる筈も無い。 「思考」で作り込むタイプの作業ではないのだろう。

「支離滅裂な日本語の羅列の多用」が一種の特徴となっているらしいが、何と言うか、不条理マンガのような末期症状に思えなくもない。 あの路線は大したものに発展しないと思われる。 ピカソの抽象画と不条理マンガは、それが生み出される計算式が全く異なるのだが、同じにしか見えない人もいるのだろう。

私がこういう風に、特定ジャンルについて考え込む時って、その様式に沿った曲を書こうと思っている場合が多く、一応今回も例に漏れないんだが、どうもこのVaporwave、書法的なつかみどころが無い。 それっぽいもの(既存曲に似せたもの)を作るのは特に難しそうにも思えないんだが、あんまり生産的な作業にならないような。


12/6(金)

Photo1 Photo2



必要悪について。 そんなものが本当にあるのかも含め、考えたい。

不良やチンピラ・ゴロツキの類であれば、いつの時代のどの地域にも発生するだろう。 あれは生態系上のニッチであるからだ。 必要かどうかは知らないが、少なくとも必然ではある。 偏差値の高い学校にも落ち零れは出るし、ケンカ自慢の者らが集まれば、中から「一番弱いヤツ」が出てくる。

反社会勢力のルーツはどの辺りにあろうか。 例えば日本史で言うなら、江戸時代くらいにはハッキリとそれらしきものが確認できる。 穢多頭何某・非人頭何某とか、町奴・旗本奴の類とか。 幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の抗争とか有名ですね。 江戸期に有名な博徒なども出ているし、火消しの集団なども、半分愚連隊のようなものに化してはいた。

他にも「戦国武将なんて皆ヤクザの親分みたいなものだ」とかいう意見も聞いたことがある。 確かにそう言えなくもない。 もっと時代は上るが、吾妻鏡なんて読んでいても、鎌倉武者などの血生臭さは尋常でない。 殺し合いが常態化していて、源頼朝なんて男の兄弟9人いるが、(おそらく本人も含め)天寿を全うできた者が一人もいない。

しかし歴史時代のいわゆる武将たち、時代背景を割り引くなら、言われるほど野蛮ではない。少なくとも出自の怪しい者は少ない。 事実かどうかはさておき、ほとんどの武将が、由緒正しい先祖を持っている。 確かに自称に過ぎないが、それを自称したがる時点で一定の教養人であることは間違いない。 現代のヤクザは、王家の末裔を自称しない。

鎌倉武者の言う「一所懸命」・「名こそ惜しけれ」と言った倫理観、当然のように戦国期の武人らにも(基本同じ階層なのだから当然)引き継がれているし、江戸期の公務員としての侍らにも、やや変質した形ながらも武士道といった形で継承されている。 彼らは武を尊ぶと言う、現代人の我々から見れば、ある意味では粗暴な者たちではあるが、自らを律する倫理を持っている。そして、そこが歴史を担った重要な要素ともなっている。 そこにフォーカスするだけで、現代のヤクザとは異質な存在であることが分かる。

あるいは野武士の類が現代のヤクザに近いのではないかと思われるかもしれないが、それも違う。 あれは単なる食い詰め者らが匪賊化しただけのもの。 精緻な収奪システムを作り上げ、広域化する、などという発展を見せなかった。 時間が経つにつれ、滅びるか、あるいは食える何らかの階層に吸収されていった。


「ヤクザなんていつの時代にもいたのだから必要悪じゃん」とか、「本来ヤクザは侠客という男らしい者たち」とかいう物言いを耳にしたことがあるが、それらは皆嘘、あるいはプロパガンダである。 良識ある市民は決して騙されてはいけない。

現代のヤクザと、歴史時間に現れる武将・町奴・博徒・火消し等の類は、全く性格の違うものだ。 現代のヤクザとは、ある時期に大発生した「良心感覚の欠如した者」らが、より生存(というより収奪)に適した環境を探した結果、それまであったヤクザ業に適応を見せ、ヤクザ社会に潜り込み、そのヤクザ社会の性質を自分ら好みに変容させたもの。 全くもって歴史的連続性を持たない。騙されてはいけない。

ユスリ・タカリの類に手を染める者はいつの時代にもいるだろうが、そんな一時的な収奪行為はまだ可愛いものだ。 その者らが「賠償金の受け取り手」とするなら、ヤクザは「基金」である。 永続的収奪を目論んでいる。 共同体はそれを許すべきでないし、事実許さないという旗幟を今鮮明にしている。


必要悪なんて存在しない。 それが悪なら早晩滅びる。存在が許されるのなら、そこにはその程度の意味がある。 神が創ったこの世界は完璧なもの。一部の隙も無く合理的である。

反社会勢力を「必要悪」などという意見がいまだにある。「取締りを強化すると勢力が潜在化する」とか。 こういうのを流布する人は、単純に騙されているのか、あるいはそういう意見の淵源に、反社会勢力そのものがあるのか。 どのみち発生源をたどっても、人間の良心には行き着かない。 私の結論だ。


12/5(木)

Photo1

更新サボってたらいつの間にか12月だ。 先週二曲分の歌録りがあって、先週末から編集作業。 今回が初のレコーディングって人もいて、編集作業は難航するかとも思われたんだけど、意外とそうでもなく。 予定より早く一段落ついた。

Photo1 Photo2

ここ数年、音楽制作全般に割ける絶対的な時間は減ったのだけど、自分のやりたいこと以外の作業、をやらずに済むようになりつつある。 結果的に芸術・創作のコア部分の作業に避ける時間はあまり変わらないか、あるいは増えているような気がする。 ライフスタイルの変更・調整を余儀なくされているので、生活が落ち着くまでもう少し時間がかかるのかも。


11/30(土)

認知行動療法について。 言葉自体知らない人が多いと思うが、そういう医療プログラムがある。詳細は調べて欲しいのだが、要するに「解釈」によって認知を矯正するためのプログラム。 外科手術のようなハードウェアの「修理」でなく、アプリケーションのバグフィックスのような、ソフトウェア的な処理だ。

医療機関だとか専門家に頼るまでもなく、多くの人は無意識のうちにでも、自分でそういう矯正作業を行っている。 失敗すると鬱になったりもするが、矯正作業自体はそれ即ち成長である、といって良いほどに自然かつ人として必須のもの。

しかし、あえてそれを施さないといけないほどに認知に狂いが生じている脳が実在する。 認知行動療法は現在、少年院などで大掛かりに取り入れられていて、それなりの効果も確認できているそうだ。

認知の矯正に入る前に、当然ながらまず状態をチェックする必要がある。 私は試しにそのチェックシートを体験してみたが(Web上で体験できるサービスがある)、正直設問のアバウトさに物申したくなる。 因みに、この種のものにはよく同じ感想を持つ。

例えば設問の一つに「死について考えることがあるか」といったものがあり、「全く考えない」とか、あるいは考える場合、どのような頻度であるか、といったものが四択くらいで挙げられている。

私にとって「死」というものは、モノを考えるに避けて通れない重要なテーマである。 だから上の設問に対しては「しばしば考える」といった回答になってしまうわけだが、そう答えると鬱病指数に1ポイントが加算されてしまう。 私に鬱病性向は絶無である。

他にも「悲しい気持ちになることがあるか」などという設問もある。 芸術は、この世界に偏在する悲しみを形にする作業でもある。 回答するなら「四六時中そういう気分を(思考の枝葉としてくらいは)持っている」と言わざるを得ない。 これも鬱指数に加算される。


11/29(金)

Photo1



同名(同タイトル)の曲について。 曲にはそれぞれ題が付いているわけだが、アーティストは基本的に同タイトルの曲を出さないし、おそらくそもそも作らない。 ビートルズがもう一曲「Yesterday」という曲を作ったら、紛らわしいからである。

複数のアーティストの間にては、同名曲など腐るほどある。 「I love you」というタイトルの曲が世界中にいくつあるか。数えたことも無いが、膨大な数だろう。 タイトルに著作権というか、独占権・排他的使用権は生じない。生じたらえらいことだ。

一般に作品ができあがる流れは、まず骨子としての曲(歌のメロディー)が上がり、そこに歌詞やアレンジといった肉付けが為されて行く。無論詞先(詞の方を骨子とする)とかいう場合もあるが、今ではレアなケースに属する。

歌詞を書く際、タイトルをどのタイミングで付与するか、は作詞者によるだろうが、まあ一定部分の歌詞が書き上がってから、ってのが多そうだ。つまり書いている過程で固まってくる。 まず最初にタイトルを付けてから書き出すってケースもあるのかもしれないが、少なくとも私の見てきた範囲でそれは少ない。

歌詞を書き上げた後、それに題を付けるわけだが、サビだとかAメロのアタマだとかに出てくる「キーとなるフレーズ」をタイトルにしたり、あるいは全体を総括・概括するものにする場合が多い。後者は(とりわけJ-POPの世界では)商業音楽としての欠陥品とされがちだ。

多くのケースでは、歌詞を書いている途中や書き終わった後で、その作品に適当なタイトルというのが定まってくるものなのだが、定まってきたそれが、過去に書いた曲のタイトルと同じになってしまうことがある。 無論(特に同一アーティストのレパートリーにおいては)それは避けざるを得ないので、別の次善のタイトルを考えるわけだが、その曲を総括するものとしてはやや妥当性を欠くものになってしまう。

同一アーティストに同名曲の存在は適当でない。 では同一作詞家においてはどうなのか。ある作詞家が複数のアーティストに歌詞を提供することは珍しくもないだろうが、同じタイトルは許されるのか。別に法的な縛りがあるわけではないだろうが、儀礼的・事務的にはどうなのだろう。 同一作曲家(歌詞を直接書いていない)においてはどうなのか。同一レーベル内くらいなら許容されるだろうか。

多くの人にとっては、考えてもみなかったことだろうと思う。 でも音楽だって人がやっている。現実には様々な懸案事項が発生してしまうものだ。 例えば「I love you」という持ち曲があるアーティストは、他の「I love you」をカバーしないはずだ。出来ないわけじゃないが、何となく不都合を感じてしまうに違いない。

私の場合、ある仮タイトルをつけた曲が、完成するに当たって別の正式タイトルを持たされることことなどがしばしばある。 が、その仮タイトルが、別の曲の正式タイトルとして採用されることがあったりもする。 ある曲のある段階までのタイトルと、別の曲の最終的なタイトルが同じになってしまう。 これもデータ管理上、若干の不都合を生じさせる。

タイトルというのも一種の創作物で、作者の思考から生まれている。 だから上記のようなケースはあり得るというか、割と蓋然的なものだ。

特段の結論があって書いている文章ではない。 考えをまとめるために思考を文章化している。


11/28(木)

Photo1 Photo2 Photo3



更新間隔が開いてしまった。 私が更新をサボるとすぐ体調を心配されてしまうのだが、今回の理由はそれではない。 ただ、体調は相変わらず悪い。ここ数日も、心臓がおかしな動きをし出したからちょっと動揺した。

何をしていたかと言うと、まあ曲作りです。 急ぎで上げないといけないものがあったから、それに集中してました。 今一段落ついてるんだけど、できたばかりのものなんで、また修正入れるかもしれない。


「ケーキの切れない非行少年たち」という本を読んでいる。まだ読了前。 面白いけど驚きは無い。 要旨が、私の平素の仮説とほとんど寸分違わぬものであるから。 要するに「良心感覚の欠如」とは、「知能(認知)の障害」であるということ。 それは分かっているのだが、分からないのはそこについての対策。


11/22(金)

Without youという曲がある。Nilssonのバージョンが有名だが、原曲はBadfingerというアーティストのもの。 その曲の歌詞に

I can't live if living is without you
I can't give, I can't give anymore


とある。 あなたがいないと生きて行けない。もう与えることができないではないか、と言っている。 作者にとって「与えること」とは、ごく自然に喜びであるのだろう。

与えることを喜びとするのは、共感性が不可欠である。それは言語に深く由来した感覚。 道徳心・共同体感覚なども、そこから発生している。 だからして、ある言語状態にある者にとって、この世界に「与える喜び」は存在しない。

パーソナリティー障害の根本原因が脳機能、とりわけ言語にあることは、粗方判明している。 彼らは与える喜びを持たないから、当然の帰結として搾取的になる。 ある者は奪い、ある者は乞う。それらの根は同じ。


韓国がGSOMIAを破棄するようだ。 私はこの件が持ち上がるまでGSOMIAなんて言葉も知らなかったが、知れば知るほどそれの破棄が、韓国の自傷行為に近いことが分かる。 破棄することが、全くもって韓国の国益に繋がらない。

彼らの真意がどの辺にあるかはさておき、表面的には、(GSOMIAの破棄は)日本が原因である、と主張している。 日本に当てこすりたいのは分かるが、その局面に至って気付かされるのは、彼らが外交上のカードを全く持たないこと(逆に日本側には、切れるカードが無数にある)。持たないから、この度のような自暴自棄とも言える行動に出てしまう。 どうしてそうなるのか。

それは彼らに「与える機微」が無いからである。 一部の隙もなく搾取的である彼らは、関係において、気付けば切れるカードが無いどころか、相手にとって見れば「関係を絶つこと」こそがほとんど最好手と成り果ててしまっている。 搾取者の成れの果てである。

サラ金業者が日本社会から一掃されたのも、つまりは彼らが単なる寄生者であると見做されたからだ。 適正な金利であれば、一応は、それを課してでもの融資が経済の潤滑油たるが(イスラム世界のように、それすら原則的に禁じている社会もあるが)、適正を超えた金利は、破綻者や自殺者を増やすばかりで、社会にとっての有害性が甚だしい。

不当な金利を貪る者は、害悪でしかない。 この社会に貢献する気の無い寄生者である、共同体の一員でない、と判断されたからこそ許されなくなったのだろう。 同じ理由で今、ヤクザも淘汰の憂き目にあっている。 搾取の権化とも言える、日本のヤクザやパチンコ・サラ金業者らの正体は何なのか。調べればすぐ分かる。


私は、韓国とパーソナリティー障害者の行動パターンが酷似していることには気付いているが、その原理・原因について、分析が十分でない。 言語状態が関係していることは間違いないと思われるが、その主要因たる部分。 遺伝的な脳機能の問題だろうか。後天的に獲得した母国語の影響か。 あるいは歴史が、PTSDのようなものを引き起こしているのかもしれない。


11/21(木)

Photo1 Photo2



管弦楽法とかって、そういう仰々しい名前が付いているけど、学問分野と呼べるほどの体系ではない。 要は管弦楽に頻出する楽器群の、基本的な奏法やら音域と言った知識に過ぎない。 本一冊読めば事足りる。実用するとなるとそれ以前の知識(作曲・和声など)は当然必須となるが。

ある時期私は、POPSの作曲時なんかでも、打ち込みで済ますようなパートすらその管弦楽法に則ったスコアを書いていた。 無駄にパートが増えるが、その方がリアリティーが出るだろうと思って。 本当にコード感を補強するためだけの、白玉のストリングスやブラス音までそうしていた。 今はしない。と言うかTPOに合わせる。 Brass SectionとかStrings、Ensembleといった名前の音色を平気で使う。無論1パートで済ませる。

欲しい効果が得られる程度、以上の何かは蛇足である。 最近私にもそれが分かってきた。 これが分かってくると、全方位的に人生がスリムになってくる。


11/19(火)

Photo1 Photo2 Photo3



スポーツ部では、傷害事件とかレイプ事件とかがよく起こる。ような気がする。 最近は、指導に当たってのパワハラがどうしたとか、そういうのをしばしば仄聞するようになった。

今もあるのか知らないけど、昔は「スポーツマン=さわやか」みたいなステレオタイプなイメージって存在した。 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とかね。 現実を見渡すと、どう見ても逆なわけだけど。

反射神経や空間把握能力は、言語と抵触する部分がある。 言語の形成不全により未淘汰であったり、あるいは代償的な肥大化を見せたりするもの。 言語こそが良心であるのだから、それとは遠い個体になりやすい。

スポーツマン=悪人、だとまで言うわけではない。 バランスの良い発達を遂げている人だっていくらでもいるだろうし、「健康」が必要条件である作業なのだから、発達においてもマトモである可能性は高い。


11/17(日)

麻薬で芸能人が逮捕されたのだが、それを現内閣の(スキャンダル隠しのための)陰謀だとか言っている人がいるらしい。 多分大真面目に。

政権のスキャンダルを掻き消すほどのトピックスバリューって、簡単に成立しない。 誰にどのような思惑があったとしても、逮捕される者は相応の違法行為に手を染めているわけで、スケーブゴートになりたくないと言うのなら、陰謀を疑うよりまず、素行を正してはどうか。

私は別に現政権の支持者ということもないのだけれど、良い大人にして上のような陰謀論を本気で信奉できてしまう人は、ちょっと危ういと思う。 古代の独裁王朝なんかならいざ知らず、今の日本という近代法治国家が、どれだけ複雑かつ緻密な官僚機構・行政機構によって成り立っているか、感覚的にでも分からないのだろうか。 


11/16(土)

フリーのオーケストラ音源を見つけたので、落としてみた。 Cinematic(映画的)云々と謳ってあるが、このCinematicという用語は最近の音源に頻出するキーワードだ。

試しに音を出してみると、確かにハッタリが効いている。 単なる音源というより、Tuttiのようなものを丸ごと収録しているものが多く、フレーズが丸ごと入っている(ノートナンバーにアサインされている)ものもあった。

Tuttiの構成とかって、それこそが作曲ではないか(使用がフェアであるか)と思う気分もあるが、同時にそういうものがあってくれると助かる面もある。 有名な(GM128音色にさえ収録されている)オケヒットなどは、Tuttiの代表例だ。 トレモロやドラム類の連打とかも、一々入力するのが面倒なので、奏法ごとサンプリングされてあったりすると、助かると言えば助かる。

面白いので、その音源使っていくつか書いてみたいと思っている。 フレーズ丸ごとサンプリング、みたいなのまで使うかは分からないが、結局音源って作りたいものを作るための道具である。 構想に抵触しないのであれば、何だって使って良い。


11/15(金)

神田優花、新曲の歌録り。 今回のは実験というか、遊び心で作ったものなんで、公開するとしてもカップリングとか、そういう位置づけになると思います。 次のリリースは来年以降になるけど。

Photo1 Photo2



香港のデモ隊が顔を識別されないよう、黒いマスクを装着している、という話は興味深い。 赤眉の乱・黄巾の乱・紅巾の乱などを思い出す。何やら王朝末期の感が漂っている。

でも私は、まだ今の中国共産党政権は持つと思います。何故なら豊かだから。 中国の王朝交代が起こる時、必ずと言って良いほどそこには「流民の大発生」があった。 中国の、推定人口の推移を(歴史的スパンで)示す資料を探してみたら良い。各王朝交代時に、どれほどの人口激変が起こっているか。

現政権の施政に不満は勿論あろうけど、食えてる時点で、歴史的に見れば彼らはまだ幸福だ。 革命の基礎条件を欠いている。 だからして、経済に陰りが見え出すとヤバい。

ついでに。 黄巾・紅巾は、日本ではどちらも「こうきん」で紛らわしい(歴史事件としても紛らわしい)が、ピンインではHuangjin・Hongjin(テキストの制限で正確に表記できない)と、別である。


11/14(木)

韓国の女性は美しい、とされている。実際韓国女を好むオヤジは多い。

私自身は美の判定能力というか、容姿についての審美眼に絶対的自信があるわけではないから、韓国女性が美人かと問われても困る部分があるが、そういう評価があるのは知っている。しかもそれは、昨日今日の俄かなものではない。 実は日本には、中世くらいに既にそういう(朝鮮女が美しいという)風評が存在した。

韓国の某アイドルのオーディション(TVプログラム)で、不正な票操作が行われたのではないか、と話題になっている。 逮捕者まで出ているので、もう疑惑の域は超えていると思われるが、報道には、プロデューサーが風俗店での(高額の)接待を受けていたなどともある。

朝鮮半島は年季の入った儒教圏で、根強い男尊女卑思想があり、女性は性を売り物にする生き物、という感覚が空気のようなコモンセンスとなっている。 この感覚は女の側にも根深く、韓国人女性にとって、水商売は天職の一つとなっている。 K-POPのMVなどに出てくる女性パフォーマーを見ていても、それはひしと伝わってくる。

失礼ながら、朝鮮人の伝統的女性観が、上述のようであることは間違い無さそうである。 古くは朝貢の品目に慰安婦が入っていたし、いわゆる戦後にはアメリカ軍に慰安婦を献上した例もある。 日本に絡んだ慰安婦問題というのも、要は性を売り物にしていた売春婦の話である。時間が過ぎ、価値観が変わった暁に、今度はその性サービスに従事していた歴史を「被害」として金にしようとするのも、性をトレード品目としている点において、変わりは無い。現に「元日本人慰安婦」は名乗りを上げないではないか。 北の「喜び組」などは、彼らのその伝統の(割りと正統的な)継承者である。

一応断っておくが、売春が朝鮮人の専売特許だとか言っているわけではない。 売春は、ほぼ例外なくどの民族どの地域にでも存在した、人類最古の職業である。 きっとこの先も無くならない。 私は程度の話しかしていない。

性(Eros)と美(Beautyというより、どちらかと言うとSexuality)は当然直結する。 性が売り物になる、という生存条件が強固な地盤であればあるほど、そこには美人が生まれる(生き残る)圧が働くだろう。同時に不美人は淘汰される。 実際韓国は整形大国だと言われるし、美人の「型」が単一的である。美の用途が多様でないからだろう。

韓国人に美人が多いっての、私は韓国に行ったことも無いしよく知らないけど、多分事実だと思いますよ。 状況証拠だけでも、十分察しが付く。


11/13(水)

レコーダーなどある程度周期的に買い換えたりするわけだけど、ある時買い換えた新しいモデルを使った時、その劇的なまでの音質のクリアさに驚かされた。

それはS/N比がどうだとかコンバーターの質がどうだとか、そういう録音結果の良質さ云々なんてものでなく、言うなれば、入力された音声信号を元に、録音結果(データ)を生成している、というようなもの。

私がメインで使っているのは安物のオーディオインターフェイスだが、(いくら高価なものでも)一昔前の卓なら絶対に上げられない質感(音質)を実現している。 音屋によってはその嘘っぽさを嫌い、アナログの卓などを偏愛する人もいるだろうが、私は全くもってそのタイプではない。

USB接続のギターとかもあるが、同じだと思う。 きっと今後、リアルタイムでピッチ(チューニング)やリズムのクオンタイズを施してくれるモデルなどが登場し(もうあるのかも)、演奏技術の価値は希薄化して行く。

タイピングのプログラムなどでは、既に大規模に採用されているようなアルゴリズムを用いれば容易であろう。 そういうディープラーニングって、AIの最も得意とするものだ。

私はこの流れに批判的でなく、むしろ歓迎している。 脳内のイメージを具体化する際に、インターフェイスや演奏(筋肉の収縮)だとか、そういうものってほとんど阻害要因にしかならない。無ければ無いに越したことはない。 演奏とかって要するにスポーツなわけで、若さや運動神経に拠っている時点で、芸術とは本質的に相性の悪いもの。


11/12(火)

Photo1



韓国の大統領府(国家安保室長)が、「日本との関係が難しくなっている根本的な原因は日本側にある」と発言したそうだ。 今後の言質となりうる、公式な声明として良いわけだが、「良い大人が何をか言わんや」という感想は拭えない。

物事の責任・原因を他(他者)にあるとする思考法は、決してその人を幸福にしない。 こういうことって、多くの人が経験則として知っている。 それがいつまでも分からない人ってのは、正統的発達を遂げられていないと評価されても仕方ない。  いつまでも成長しない人は不幸になる。むしろ幸せになるのなら、人は成長などしないはずだ。

私は油断すると、つい韓国人を「かわいそう」と思ってしまう。 しかし、過去の日本人の多くが、そう思ったが故にこんにちの破滅的事態を招いている。

弱者というのは、窮地に陥っているから弱者なのではない。 窮地に陥っているだけの者なら、救ってやれば仕舞いである。 本当の弱者とは、周囲がどう知恵を絞っても救いようの無い者を言う。


11/11(月)

Photo1 Photo2



私は一応エンジニアなわけで、曲がりなりにもミキサーやDAW・波形編集ツールなどを使って音を作っているのだけど、まあ言うなれば何でも屋だ。 曲のライティングからマスタリング、デザイン・営業・事務作業まで一応やっている。

専業のエンジニア(PA)さんなどを見ていて、決定的に違うと思うのは、電気・工学的な知識といった面。 私にその手の知識はほぼ皆無と言って良い。 高校の理科程度の理解も無いと思う。

例えばコンプレッサーとかの場合、入力信号があって、それをある値(スレッショルド)を境にある比率(レシオ)でレベル調整し、出力する、とかいう風に機械的に覚えてはいるが、信号の正体というか、そういう部分にリアリティーが持てない。 だから昨今のモデルのように、ノブ一つでコンプレッションを行えるのであれば、もうその方が楽で良いと思える。 詳細な設定とかしようが無いわけだけど、別にそんなの要らない。

他にも、インピーダンス(抵抗)はローで出してハイで受ける、とかいうのが基本である、ということだけは知識として知っているので、セッティングこそそのようにするが、理解が表面的というか、リアルでない。 インピーダンス何たるかが、イメージとして掴めない。

でもこれって仕方ないのかもしれない。 そこが今以上にリアルになるってことは、脳がある別の状態になるってことでもあるわけで、そこで犠牲となる何事かを犠牲にできないからこそ、私は今の私であるのかもしれないし。


11/10(日)

Photo1 Photo2



「あの頃(過去のある時点)は良かった」とか昔を偲ぶ人っている。 私はあんまりそういう気分にならなくて、別に戻りたい過去の時点なんて存在しない。今がそれなりに充実している。

「満ち足りているのか」と問われると、そんなことはない。 物質面など、ほとんど何も持たされていないに等しい状態で、お世辞にも他人の羨むような状況にない。

私が昔に戻りたいと思わない理由は、きっとどこかに向かっているからだ。 ゴールを目指すマラソンランナーや、頂上を目指す登山家が、数時間前の地点に戻りたいと思わないのと同じ。 昔に引き戻されるってのは、今のこの作品たちや、それを作った自分自身、一緒に作業をしている仲間等、全てを放棄することだ。 冗談じゃない。

翻って考えると、過去に戻りたいなどと安易に思える人は、それら複雑な要素が絡み合って成立している「現状」の、全てを捨て去って構わないという人なのだろう。 蓄積でなく地点がその人というような。

若い頃の瑞々しく健康な肉体が欲しいとか、人間関係にしたって、地点のみで成立しているような表層的な何かであるなら、ある時点でのそれと今のとを比較して、過去のそれの方が良く見える、というようなことはありそうだ。

私の個人的な気分だが、過去の自分を羨むような人生って送るべきでない。 過去が美しく見えるのは、未来に希望を持てないからで、それは即ち夢が無いということ。 遠いどこかで自分を待っている何かの存在を感じられないということは、その人こそが誰のことをも待っていないということ。 誰を救うつもりもない人は、誰からも救われると思えない。 過去を切望するというのはそういうこと。


11/8(金)

音楽、とりわけsynthesis(音声合成)について調べていると、私に理数的素養が無いことを思い知らされる。 かといって、今から微積分やフーリエ変換について一から勉強しようとも思わないが。

物凄くざっくりとなら、微積分何たるかも知ってなくはない。 例えば微分は、(速度でなく)加速度のようなものを数値化するものである、とか、積分は座標軸上の二点とある関数に係るスペースの面積を求めるような作業である、とか。 具体的な計算については、よく調べてないから分からない。 出来たとしてもあまり得意な作業ではない。

私に分からないのは、それを音声合成にどう絡めているのか、というアルゴリズムの部分。 CVと積分の相関関係とか、リアルなイメージが掴めない。 音声合成のメカニズムなど分からないまま、なんとなくシンセサイザーを使っている状態だ。 ノブを回せば音色が変わるから回してはみるけど、そのパラメーターに内在する理屈の部分を知らない。

倍音減算式といった古いタイプのsynthesisについてもそうなのだから、FM(frequency moduration)などもっと分からない。というか、その二者のどちらが高度なのかとか、そういうイメージも掴めていない。 FMについて分かる(イメージできる)ことは、減算・加算といった足し算引き算でなく、掛け算(乗数)を用いて音色を合成している、とかそのくらい。オシレーター使ってオシレーター変調させる、と言った程度のイメージ。 よくこれで音屋がやれるものだ。

円周率の果てはまだ判明しないという。スーパーコンピューターをもってしても。 理数脳の人にとって「数」とは、そこに宇宙を感じられるものなのだろう。 私が音楽に別の宇宙を感じているようなものか、と考えたりするが、具体的な感覚は掴めない。


11/6(水)

Photo1



マイクロチューニングに音楽的個性を求めるということは、それは即ち和声との親和性を捨てることでもある。 和声音楽が生まれ、定着したことにも、歴史的変遷があって、それはそれなりに理由のあることであった。 マイクロチューニングをベースとした音楽は、どうしても旋法的にならざるを得ないだろう。

だから私は、マイクロチューニング路線が流行したとしても、それは限定的であろうと考えている。 確かに、いわゆるテクノとかエレクトロニカとか言うような、非和声とまで言わないまでも、和声への準拠が薄弱なもの、とマイクロチューニングは相性が良さそうだ。 その手のものが大衆音楽のど真ん中に躍り出る、なんてことは無さそうに思える。


11/5(火)

Photo1 Photo2



TVアニメ、キテレツ大百科の二代目オープニングテーマに「ボディーだけレディー」という歌がある。 どれだけの人が知っているのか分からないが、私はあまり記憶になかった。

ある人が、その曲の歌詞を「論理的におかしい」という。 まずは聞いて欲しいのだが、歌詞に「ラジオ体操踊っちゃったの」とあり、その後に「顔色変えて何故逃げ出すの?」とある。



「踊っちゃったの」というのなら、本人はそれがミステイクであることを認識しているわけで、「何故逃げ出すの?」はおかしい、と。 「踊っちゃったの」というなら「逃げ出すのも当然だよね」となるはずで、「何故逃げ出すの?」に合わせるなら、「ラジオ体操を踊っただけなのに」とか、あるいは「ラジオ体操を踊ったら」という風なフラットな言い回しになるはずである、と。

だからどうしたと言うことも無いが、言われてみればその通りで、変に納得してしまった次第である。 一応作詞家が書いた歌詞なんだけどな。


11/4(月)

Photo1

今年からウチで活動を開始している人がいるんだけど、アーティスト名(表記)すら決まってなくて、名前で呼べない。 で、その人がトレーニング期間をようやく終え、オリジナル曲の制作に先週から入ってます。 最初のリリースは早くても来年以降になりますね。


11/2(土)

基本的に水商売の女の人は、客のオッサンと恋仲になりたくないはずだ。 勿論例外はあるし、客と結婚するキャバ嬢だっているが。

何故客のオッサンと付き合いたくないか。 それは、そのオッサンは、キャバ嬢に相手をしてもらうことを快感とする者で、つまりは鈍い(共感性が低い)からである。 鋭敏な共感性を持ってしまえば、目の前の人間に自分の相手をさせることを苦痛と感じてしまうはずだ。

共感性が低く、自分を尊重しない者をもてなし、その相手に人生の時間を使うキャバ嬢たち。そりゃ金でも貰わないとやってられない。 だからあれは商売として成立している。 そのオッサンの恋人になると言うのは、いわばその苦痛な作業をノーギャラ(しかも時間制限無し)で請け負うということである。 やりたがるわけない。 結婚というのはギャラが発生するから別ですが。


11/1(金)

とある調査で、日本人の8割以上は中国に良い感情を持っていないという結果が出た。 こういう調査って本当に難しい。

私はとりあえず中国人を「付き合い方さえ間違えなければ共存していける人ら」だと思っているから(まあ最終的には意見が合わないだろうが)、「当面もっと良くなる可能性を秘めている」という意味で「現状日本人の対中感情は良くない」と感じる者である。 でもこれって、きっとネガティブな票としてカウントされてしまうのだろう。

全く同じ意味で、私は現状の日本人の対韓国感情は「良い」と考えている。 好転する要素が全く思い当たらず、将来的にもっと悪くなる可能性が高いから。 まだ高止まりしていると思うわけです。

私は朝鮮半島人に興味があるから、あれこれと考えてしまうのだけど、別に嫌韓とかいうわけではない。 冷静に分析しているだけのつもりなのだが、悪し様にあげつらっているようにも見えるらしい。 嫌いになれるほど好きでもないというのに。


韓国人があれほどに搾取的・依存的である理由は、おそらくは地政学上のもの。 大国に囲まれ、常に日和見で生きながらえて来た。事大の対象を嗅ぎ分ける能力こそが求められた結果だろうと思う。

亜種は、世代を重ね過ぎると(本種との)交配すら難しくなる。 例えて言えば、朝鮮半島人のたどっている分岐は、その不可逆な領域にもう至っているのではないか、と心配してしまう。杞憂だと良いけど。


10/31(木)

歴史に残る「知能の高い人間以外の動物」について、調べつつ色々考えていた。 賢馬ハンス、ローランドゴリラのココ、チンパンジーのブルーノ、等々。「名犬○○」の類もこれに含まれるだろう。 因みに「名猫○○」は存在しない。ハードウェア的な限界があるのだろうと思う。

ローランドゴリラのココについては、テキストも読んだし映像も見てみたが、私はまだ定見を持っていない。 確かに賢そうには見えるし、実際賢い個体ではあったろう。 ただ、それがどういう賢さであったか、また、言われている事績の全てが事実だったか、は分からない。 後者については、人間側の願望も多分に入っているのかもしれない。

ココの賢さは、おそらく言語(を司る脳の領域)で、賢い犬なんかも要するに言語だろう。 人類が理性・良心などと言う何かが備わっているように思える。 だからきっと彼らは、共同体の一員たれる。 ゴリラが手話を覚えるのなら、骨格さえ近ければ犬だって(容易に)それを覚えるだろう。

チンパンジー、ブルーノの話には戦慄を覚える。 ブルーノは、人類が良心などと言っている言語機能上の何かが欠落した状態で、一定の発達だけを遂げている。 いわゆる代償発達というものだろう。発達に正統・非正統なんてものがあるのか分からないが、明確に区別できるものではある。 ブルーノについては、Wikipediaに該当項目があるので、興味がある方は読まれたい。

異端は異教徒より遠い。 キリスト教徒とイスラム教徒の仲が悪いのは、互いの無理解が理由なのでなく、むしろ教義・神話を一部共有してしまっている故にだろう。 キリスト教徒と仏教徒ならケンカになるまい。 チンパンジーは「人間に近いというのに実に恐ろしい」のではなく、むしろ「近いからこそ恐ろしい」。 大切な何かを共有できなかったからこそ、我々人類とチンパンジーは分化した。そうでなければ、彼らは今頃、人類の一員であったに違いない。

賢馬ハンスについてもWikipedia に項目がある。 彼は計算問題を解いていたのではなく、正解を掠った際、出題者や聴衆が見せる微細なリアクションを嗅ぎ取って正解としていた。 ハンスは出題者の顔色を読んで正解を弾き出していたのだから、ペーパーテストには全く対応できなかったろう。

人(の感情)こそが「付け入る隙」である。 多少の脱線・説明不足を承知で言えば、韓国が二国間対話に拘る理由もここにある。 とにかくハンスは、私が「正統的」とする知能は持ち合わせていなかったが、ある能力に長けていたのは事実であろう。 まさに代償発達である。

クレバー・ハンス効果については、私は実は実見したことがある。 ある子供が、振って出たあるサイコロの目を読む際に、「一、二、三〜」と数えつつ、全くサイコロの目を見ず、周囲の大人の表情を見ていたのである。 客観的に見てその子は知能が低く、正統的発達を遂げられていない事がありありと見て取れた。

その子は数を数えつつ、正解を掠った際、大人が見せる表情の変化こそを読もうとしていた。 だが、幼な過ぎたからか演技が下手で、その機微ごと見抜かれてしまった。 もう少し成長すれば、そこは巧妙にカムフラージュされ、周囲は煙に巻かれることとなるだろう。 彼は、人間社会に「潜む」形で生存する。

ここからが結論である。 非正統的発達は、人類共同体の敵となりうる、ということ。なりうるどころか、人類の本当の敵はそれである。 猟奇犯罪者もヤクザも高利貸しも人買いも、パーソナリティー障害者もチンパンジーのブルーノも、全てこの非正統的発達を基礎的条件としている。 おそらくこの事は、じきに人類のコンセンサスになる。


10/30(水)

あるシンセサイザーのスペックを見ていたら、マイクロチューニングについての記述がある。 マイクロチューニングとは、各音高ごとにチューニングをカスタマイズする機能らしい。 モニターミュージシャンによるオリジナルチューニングなどがプリセットとして収録されていたりするようだ。

音に関するアイディア・ギミックはほとんど出尽くしていて、まあチューニングとか(商業主義的な)目の付け所としては自然な気がする。と言うか、既にある種の音楽には微分音が頻出する。 これからの音楽は、チューニングが多様化する方向に行くのかもしれない。

しかし雅楽の三分損益法による音律も、あれはいわばオリジナルチューニングである。それ以前に邦楽など、西洋音楽と比較するなら、その全ては非正規チューニングである。 ガムランのぺログやスレンドロなど、もはや西洋音階の音名を当てることすら難しいと言われている。 西洋音楽を正統とするなら、非正統的なチューニングは世界各地に存在した。

そもそもバラバラであった音律は、西洋音楽の普及・膾炙によって画一化された。 文化侵略が起こるということは、それが文明である証拠。合理的・普遍的であるからだ。西洋音律の普及は、一種のマニフェストディスティニーである。

マイクロチューニング的な思想・方向性は、生まれるべくして生まれたもので、歴史の逆行・退行ではおそらくない。 バラバラだったものが収斂され、人類は、音楽は、違いが分かる段階にまで到達したと言って良いかもしれない。


10/29(火)

Photo1 Photo2

先週発売の神田優花のニューシングル「You're So Beautiful」(全2曲)、聞いてもらえたんでしょうか。 引き続き販売中です。





エスカレーターは(追い越し用に)片側を通路として空けるのがマナーみたいになっているが、あれ、公式には推奨されていない。 あくまでエスカレーターとは、静止して乗る物らしい。

鉄道会社やエスカレーターのメーカーは、随分前から「正しい乗り方」の周知に努めているようだが、一向に定着しない。 過剰なまでにルールを守りたがるこの国民性にして、どうしてこうなのか。

それはやはり、そこに一定の合理性があるからだろう。 ここまで周知を徹底しても効果がほとんど無いのだから、きっとこの先も変わらない。 なくなるものがなくなる事にも、なくならないものがなくならない事にも、常に理由がある。


10/28(月)

公務員のことを昔はよく「税金泥棒」とか言ったものだが、今はあまりそういう言い回しは聞かれないように思う。 実感として希薄であるからだろう。

予算配分を眺めていると分かる。 公務員の給料は既に、実質的に税金を原資としていない。 日本の財政は、良くも悪くも、税金に寄生できるほどに健全ではない。 日本国は毎年数十兆の赤字国債を発行しているわけで、公務員の給料とは、国が刷り出した「使用権」である。 不渡り濃厚な手形を乱発するようなものだが、とりあえず満期は後世、現状大多数の民間人の懐は痛んでない。 だから批判の声もうるさくない。

ツケを後世に投げているようなもので、いずれ誰かが落とし前をつけなければならないものだが、現代を生きる多くの民間人が払う税金なんて、今のこの国を運営するには実に過少である。


10/27(日)

Photo1 Photo2



ティラコスミルスという絶滅種がいる。 いわゆるサーベルタイガーのような肉食動物で(学術的にはそれに含まれないらしい)、アメリカ大陸間大交差により、南北アメリカ大陸が繋がったことによって、生存競争に敗れ絶滅したと目されている。 生態系上のニッチを争った相手は、サーベルタイガーの代名詞として有名な、スミロドンであろうと言われている。

有袋類であったことによる咬合力の弱さが致命傷となったのではないか、などと言われているが、本当のことは分からない。 ただ、絶滅した以上、生き残れるだけの条件を備えていなかったのは間違いない。 同じサーベルタイガーであるスミロドン(見た目も似ている)はその後も生き残ったのだから、存外定説通りの事態が起こったのかもしれない。 入植者が持ち込んだ犬によって絶滅した、フクロオオカミの例を連想させる。 ネアンデルタール人の絶滅なんかも、似たような理由に因るのかもしれない。

現生人類の中でも、やはり淘汰は起こっているだろう。 あるタイプの人類には、淘汰の圧がのし掛かっているように見える。 まあ今淘汰の圧に晒されているその人らは、元々人類共同体と同じニッチを争う者ではなかった。 人類共同体に寄生することによって生きながらえて来たのだけど、それすらもう許されなくなっているらしい。

余談だが、文科省は学校保健安全法施行規則を改正し、2015年以降、健康診断の項目から「蟯虫検査」を廃止したという。 蟯虫検出率が1%を切る状況が10年以上続いたかららしいが、過去、日本人の寄生虫感染率は8割近かったというに。 つまり、ヒト蟯虫は現在ほぼ絶滅に瀕している。即ち淘汰されたということ。 よく言われる「必要悪」などではなかった。


10/26(土)

Photo1



モジュラータイプのシンセサイザーってのがある。 ハードなら面倒なパッチングが必要になる。 面倒臭そうだから私は手を出さないが、ある人にとっては魅力的な代物らしい。

電子楽器のカタログを見ていたら、比較的最近の新製品にモジュラーシンセがある。 今更なのだが、実はこの業界も高齢化が酷くて、新製品の多くは旧製品のリメイク、あるいはソフトウェア化である。 そういうノスタルジックな商品が出ることには何の不思議も無い。

その製品、ご丁寧にケーブルによる(物理的な)パッチングが出来るようになっている。 「必要な機能・構造なんでしょ?」とか思われそうだが、確かにそういう面も無いことは無いだろうが、ソフトウェア的に再現することが容易な機能である。 事実その機種も、内部的に(プログラム上で)モジュールを接続することもできるらしい。ケーブルによる結線の必要が実は無い。

実際に機材を扱っていると分かるが、機材トラブルの原因の多くはケーブル類(の劣化)である。ソフトウェアに収められるならそうするに越したことはない。 上記商品は、旧来のパッチングを絵として見せることによって「商品性」を強化しているものと思われる。

自動車なんかにもよく見られる。 その機能は不必要とまで言わないが、商品性が色濃いもの。 ある構造には機能性と商品性があるし、具体的な装置には往々にしてそれらが混在する。完全に分離するのは、それはそれで難しい。 まあ、今更のというような当たり前のことを言っているわけだけど。 概念の細分化、これは私に必要な作業だ。


10/25(金)

日韓関係が議題の、あるテレビ番組を見ていた(と言うか作業中に聞いていた)のだが、ある識者が「何故韓国(人)がこんにちのようであるのか」という司会者の質問に対し、端的に言って「反省しないから」だと答えていた。 秀逸な回答である。 多くの普通人には分からないだろうが、あるタイプの思考回路を持つ人にとって、反省と言うのは実に難しいのである。

齧歯類の歯は生え続けるので、常にモノを齧って削らねばならない。そうせねば彼らの歯は彼ら自身の生存に支障を来たす。分かりにくいだろうが、反省しない、と言うのはそのようなメカニズムだ。

反省すれば自分の悪いところに着目せざるを得ず、悪いとされる行動を封じねばならない。通常人はこうして成長し、大人になって行く。 もし、普通人と同じことをしていては(=不正によらねば)生き残れない個体があったとしたらどうか。 抜け駆けるのに反省は、不要どころか邪魔である。彼は反省などしてしまうようでは生き残れない。

韓国人が反省しないのは、一種の合理的行動である。 ただし、現在の人類のメインストリームとは違う原理ではある。 共同体の一員たれぬ者は、淘汰される可能性が高い。

北朝鮮の体制を冷静に眺めると分かる。 トップは肥え太り、大多数の国民は飢えている。ある試算では国民の半数が栄養失調状態にあるという。 これを一個体になぞらえると、ある臓器は栄養過剰で肥大化し、末端は壊死を起こしている、とかそういう状態である。 不健康そのもの。

つまり国家として、集団として、瀕死の重病人であるということ。 程度の差こそあれ、韓国も似たようなものである。 二人の病人の違いは、(西側からの)手厚い医療を受けたかどうかだけ。 反省すれば生き残れず、反省しないが故に共同体の一員たれない。従って淘汰の対象となる。 神の圧が働いているとしか言いようがない。


10/24(木)

Photo1 Photo2



ルパン三世に出てくるBGMの一つに、何の楽器の音やら分からないものが出てくる。 私はもう長いこと音屋をやっているもので、あの手のアニメのBGMなどを聴いても、大抵何の楽器かくらいは分かるのに。

最初シンセサイザーかとも思った。シンセ音をホイールとかでベンドしているようにも聞こえたから。 しかしシンセサイズというのは音声合成のことである。シンセなら大抵の音は(似たようなものくらいは)作れてしまうわけで、シンセと言い出したらほとんど降参に近い。

あとトロンボーンのスライドとか、グリッサンドやチョーキングを駆使したフレットレスベースや、ナイロン系のギターかとも思ったりしたが、どうもしっくり来ない。 ギターだとしたら、いわゆるジャズギター(ウェス・モンゴメリー風)のようなマイルドな音。 でも撥弦のニュアンスはほとんど感じ取れない。

Rolandのドラムマシン、TRシリーズのタムのディケイとかチューニングとかを弄ったもの、なんかも近いような気がした。 でも多分違う。 もしそうなら、あのアニメにはもっとTR系の音が使われているはずだ。

楽器名こそ分からないが、案外ポピュラーな楽器なのではないかとは思う。そんな稀有な楽器を使っていたとは考えにくい。 楽器音そのものと言うより、効果の肝は「奏法」かもしれない。ピッチベンド(アップ)的な音程の動きが特徴的だ。 時代背景とか諸事情勘案するに、打ち込み系ではないような気がする。

ルパン三世(TVシリーズ)のいわゆるアイキャッチには、ティンパニのピッチをリアルタイムで弄ったような音が聞こえる。 つまり音を担当するスタッフの引き出しに、そういう技法があるということだ。 もしや擦奏太鼓(friction drum)の類では?と思ったりした。 擦奏太鼓の代表例にはクイーカなんてのがある。

ごく一般的なクイーカのサンプルを聴いてみたが、やや(上記BGMより)音が高く聞こえる。 ただ、擦奏というのは単に奏法で、径の大きな太鼓でそれをやることは難しくない。しかしそこまでやるだろうか。

フレクサトーンやジューズハープのようなピッチカーブを描く楽器、それでいて金属っぽい響きでない(特に倍音が)。 「この曲です」とサンプルを提示できれば話は早いのだが、Youtubeとかで探しても見つからない。

あと近いと思えるのは、低音域をカバーできる木管楽器。それの吹き込み方でピッチを微妙に揺らしているのではないか。 ただ、生楽器っぽい倍音に聞こえないんだよね。 やっぱシンセかなあ。


10/23(水)

Photo1 Photo2

神田優花、ニューシングル「You're So Beautiful」(全2曲)、本日発売。 下は収録曲について、アーティスト本人からのコメント。


You're So Beautiful / Liberty

POPな2曲ですが、本気で誰かの背中を押したい、そのために歌いたいと思って歌った曲たちです。

あなたがそれをやりたい、好きだって心から思うなら、それは何をおいても守らなければいけない大切な気持ちだと思う。
誰でもないあなた自身が、全力で大事にしてほしい。
私がそうしてもらったように、あなたの背中を押すことができたら、こんな嬉しいことはないよ。

神田優花





10/22(火)

神田優花、明日発売の新作「You're So Beautiful」(全2曲)、収録曲について。


1.You're So Beautiful

POPSです。 自分なりに作り込んだ曲ではあるけど、POPSというしかない。 シンセ音も多用しているけどEDMって感じでもないし。

コンプで潰したピアノのストロークに歌が絡むという、Bメロ(?)部分を最初に思いついて、それ以外を後から付け足して行った。 大雑把にはリフ物と言って良い。

私は普段、シンセの音作りというヤツをほとんどやらないんだけど、この曲では例外的にやった。 イメージに合うものが探せなかった。 まあ事前のイメージに近いものが出来たんで良かったと思ってますけど。




2.Liberty

バッキングはギター・ベース・リズムマシン・ハンドクラップのみとシンプル。ロックっぽいソリッドな曲。 パート数が少ないんで、オケ作りは比較的楽だったんだけど、同時に音の一粒一粒が耳に入ってきやすくて、音色そのものには(曲の仕様相応に)気を使った。いつもちょっと違う気の使い方と言うか。

楽音と非楽音を行ったり来たりするメロディー、サビのハネた譜割、ボーカルについてはその辺が特徴と言えばそう。 基本的にボーカルを聞かせる為の曲で、他のパートはオマケ。例えばギターは入ってるけど間奏(ギターソロ)は無い。

この曲は、構想時のイメージと実際に出来上がった曲の印象に若干の齟齬があった。あんまりよろしくないこと。 キーをもう少し下げるべきだったかも、とか思ってはみたけど、これ以上下げるわけにも行かないってくらいAメロは低いし、限界だったのかもしれない。





10/21(月)

Photo1



今更だが、コードネームの表記、もう少し統一的なものを誰か作ってくれ。 法的・学術的に定められたりしたものでないから、現状混乱を極めている。

Cdim7 Co7 Cm6(♭5) C-6(♭5) Cm(♭7)(♭5) C-(♭7)(♭5) Cdim Co

例えばこれら↑は、全て同じコード(Cディミニッシュ)を表すものである。 Cdim7なんて、ディミニッシュに7th加えるのかと思っていたが、違うらしい。 同一構成音のコードにこれだけ違う表記が存在しているものだから、広範な譜面を資料とする音屋などにとっては、煩わしいことこの上無い。


10/20(日)

Photo1 Photo2



コスモス社についての本をまた読んでいる。 面白い。

あのガチャガチャ(中の景品をカプセルトイとか呼ぶらしい)があそこまでヒットした理由として、「壊れにくい」というのがあるようだ。 確かに、あれ壊れやすかったらメンテナンスとか大変だろう。 技術関係の部署とかあったに違いないが、人員の規模が違ったはず。 あのようなメチャクチャな(失礼)会社で、機器の故障対応とかに忙殺されるようでは、事業そのものが危うくなったに違いない。

あのマシン(販売機)は電動でない。 電源が要らず、基本的に「置いておくだけ」のものである。 設置店(駄菓子屋など)は軒先に置かせてやるだけで二割のバックをもらえるのだから、当時爆発的に普及したのにも頷ける。 販売機ごと持っていかれる危険性については、想定した形跡が無い。この警戒心の無さ、如何にも日本的な話だ。コスモス社固有の性格とは言えない。

営業マンが各販売機から売り上げを回収して回るわけだが、開錠の為の鍵は基本的に一つ(一種類)だったそうだ。 全営業マンがマスターキーを持っている状態で、冗談でなく、あそこを辞めた元従業員は、その鍵一つで全国を放浪・行脚できたのではないか。 本当に、全国津々浦々にあの販売機は置いてあるんだもの。

事実、あの会社は金関係のトラブルが絶えなかったらしい。 一番多かったのは着服らしいが、時に「事務所荒らし」まで起こったらしい。 ついでながら、事務所荒らしのようなものってのは、大抵従業員、あるいは元従業員といった「関係者」の仕業である。 これは私の洞察じゃない。警察などもその手の事件については、関係者から洗う。


10/17(木)

Photo1



プリセット音色に、最初から五度音を混ぜてあるものがあるんだけど、あれ何とかならないか。リーディングトーン出すと音がぶつかる。

シンセサイザーのプリセットのようなものなら、パラメーター弄ったりすれば回避できるものもあるだろうが、サンプリング系ならそれも無理。 音に厚みが出るとか思うんだろうけど、必要なら五度音は自分で足す。最初から足してあると抜くことはできない。 音色そのものは良かったりするから勿体無い。


10/16(水)

Photo1 Photo2

来週水曜(10/23)に神田優花の最新シングル「You're So Beautiful」(全2曲)が発売されます。 下はジャケット。




10/14(月)

Photo1 Photo2



Future Bassにおいては、ドミナントとして(V7でなく)V6が多用されるらしい。

雅楽における「羽」は、西洋音楽で言うところの導音である。元々はトニック(宮)の全音半下であったのだが、半音上がって全音下になった。 因みに、全音半下というのは六度音である。

通常リーディングノートはハ長調ならシの音になる。トニックの半音下。 短調は第七音がトニックの全音下になるから、そこに和声的な引力が働き、半音上がったりする。 短調におけるV7、ハーモニックマイナーのこと。 雅楽にもこの引力は働いたらしく、羽はトニックに半音近づけられていった。 この先、更に近づく可能性だってある。

V7が(単なるVよりも)ドミナントとしての機能性を色濃く持っているとされる理由は、(完全四度−長七度の)トライトーンを含んでいるから、だということになっている。 本当かどうか、私は知らない。 ただ、そのトライトーンこそが解決の必要性を補強する何事かであるのなら、VがV7に変化する引力は存在したと言える。

V7の古形がVであり、短調におけるV(7)の古形がVm(7)であるのなら、V6はもしかしたら音楽のある段階の形に近いのかもしれない。 あるいは7が6に近づく、何らかの力学が存在していて、将来的に音楽は、一般にそのような(V7よりもV6を正統的ドミナントとする)ものに変わって行くのかもしれない。 ついでに、今の私にはその力学、感じられない。 ここでいう力学に、西洋人は神の実在を感じたりするのだろう。


10/12(土)

Future Bassについて、考えていた。そういう音楽ジャンル。 まあジャンルと呼べるほどの独自性があるとも思えないけど。 少し前にも調べてたんだけど、その時はそれを着想に曲作ったりするほどの衝動には発展しなかった。

今回は一応目的があって調べている。 私はあんまし流行ものの音を追いかけるタイプの音楽家ではないし、Future Bassのレパートリーを書くつもりではなくて、POPSにそれ的なエッセンスを入れようと思っているだけ。

調べてみて分かったこととして、事前に思っていたよりは楽理(と言えば大袈裟だが)面での特殊性があること、ってのがある。 厳密な決め事とかでないにせよ、コードやメロディー(ハーモニー)に特徴的な様式があるっぽい。 単なる音色ではないってこと。

とは言うものの、やはり音色が肝である点は間違いない。 ジャンル御用達みたいなシンセとかあるわけだけど、いくら分析を重ねて楽理面を踏襲した曲を書いても、単にそのシンセ使う方がそれっぽくなる。


10/11(金)

国内のあるライセンス事業者(というかオーディオ素材の販売業者)にいくつか音の販売を委託しているのだけど、それが割かし売れる。 たった二つしか商品置いてないのだけど、時々売れたと報告がある。

あんまり出るからもういくつか出品しようと思ったりしたのだが、審査でハネられたりする。 一度「ハウリング音」のサンプルを出品しようとしたら「音質が悪いから」という理由でハネられた。わざわざローファイな音を作ってるんだってば。音屋にはそういうものが必要なケースだってあるから。

ウチの出品している素材は、私という音屋が必要に駆られて作ったようなものばかりである(実際商品に使っているものばかり)。 ウチの音は、それを必要とする人がいるはずなんだ。事実私に必要なのだから。


10/10(木)

とある(フリーの)トロンボーン音源を落とそうと思ったら2GBもあって、ファイルが三つに分割されている。 しかも落とす途中で何度も失敗する。これはサーバーのせいだろうけど。 しかし2GBってのが昨今そこまで大容量でない、というのが恐ろしい。


サックスのフラッターを曲に使いたいのだが、一々奏者用意するのも大変だ。 何とかならないかと思ってそういう音源探してみたんだけど、どうも有料のものくらいしか存在していない。 そんなに特殊な奏法というほどでもあるまいに。

フラッターをサンプリングしたような音源は存在していないらしいから、普通のサンプルにトレモロでも掛けてみようかと思案している。 嘘臭くない結果が得られるだろうか。


10/9(水)

長期入院とかしたことない人には分からないだろうが、入院患者って結構忙しい。寝てばかりだと思ったら甘い。

日に三度も血圧だの体温だの計られ、定時に点滴を交換され、無論服薬も日に三度とかある。時間もシビアである。 食事や起床・消灯も常に定時、私など普段が夜型だったから大変だった。 MRIだのエコーだのという検査はしょっちゅう、他にも毎度尿量計れだの、シャワー浴びるのにも一々申請が必要だし、24時間体制で心電図取られてたりするものだから、ちょっと寝返り打ったりして機器が外れたりしようものなら看護師が飛んでくる。当然その都度起こされる。

理学療法士とのリハビリも基本毎日だし、担当医とのやり取り(いわゆる外来のような)も毎日ある。 面会時間が限られてたりするから、人と会うのも一種のスケジュールとなる。 当然手術や何やもあるし、術後には集中治療室入ったり、とにかく忙しい。

何が言いたいかと言うと、ある程度体力が無いと病気もできないということ。 病死する老人とかいるわけだけど、体が弱り過ぎてて病気もできないのだろうと思う。 医療機関は病に対する処置を行うところなわけだが、処置に耐えられなければ病気もできない。


10/8(火)

Photo1 Photo2



先週録った音の編集が滞っている。 可処分時間が追いついていないと言うのもあるが、私の処理能力そのものが、数年前に比べ格段に落ちている。 今週末に上げる予定だったものは無理っぽいな。


10/7(月)

Photo1 Photo2 Photo3



三拍子で16ビートの曲を作ろうと思っている(16分音符が一小節に16あるから16ビートなわけだから、三拍子なら12ビートと言うべきか)。イメージとしてはゴーゴーのような。 断片的なアイディアを膨らまして一曲に仕上げるようなケースは、途中でネタに詰まることが多いんだが、今回もそうなりつつある。

ゴーゴーに厳密な楽理的定義なんて無いだろうから、雰囲気さえそれに近づければそれ即ちゴーゴーなわけだけど、時代的にシーケンス・シンセサイザーを多用するとそれっぽくなくなる。 だから基本使わない予定。

エレキギターやラテンパーカッションあたりがジャンルを象徴する楽器なんだと思うけど、今回それらは極力使わないつもり。 普通のドラムセットとブラス類で表現したい。 ベースもエレキベースでなく、バリトンサックスあたりを使いたい。 


10/6(日)

Photo1 Photo2



ルパン三世には各シリーズあるわけだけど、ファーストシリーズだけ音楽担当者が違う。 二代目も現状名義貸しに近い状態なのかもしれないが。

ファーストシリーズだけ違うということは、事実上降ろされた形になるわけだが、まあ音楽を聴いていても事情は分からないでもない。 ファーストシリーズの音楽は(セカンド以降に比べ)商業音楽的な完成度が低い。と言うか、インプロビゼーションに寄り過ぎている。 企画の規模によっては、適当でないと判断されるのも分かる。 が、音楽が悪いわけではない。私などむしろファーストの方が好きだ。

好きな理由は偏に「潔い(ビビりが少ない)から」。 この潔さが、ある人には粗雑さに見えたのだろう。それも想像に難くない。 しかしセカンド以降は、なるほどまとまってはいるが、ある面での面白みには欠ける。

潔さってのは、音楽を面白くする(結構重要な)ファクターである。 それがあるだけで一定の面白味は生まれる。 ただ、究極的な芸術家の型はどうやらそのタイプでない。


10/4(金)

Photo1

事後報告になってしまって申し訳ないのですが、10/2(水)に、片飛鳥の1stフル・アルバム「Kata Asuka」(全13曲)が発売されてます。 何やらiTunesのコンプリートマイアルバムでトラブルが発生しているらしいので、それ以外のサービスでの購入をお勧めします。 と言っても、みんな使い慣れたサービスを使うんだろうけど。




10/3(木)

Photo1 Photo2



前回のエントリーの続きなんだけど、コスモス社関連の本をいくつか読み漁っている。 基本的にはどの本も、事実上写真集のようになっていて、全体の9割くらいは商品の写真が占めている。 しかし私はほとんどその部分は読み飛ばしていて、熟読しているのは巻末のオマケ部分だ。

巻末は当時の関係者(社員など)のインタビューであるとか、資料(外向けの会社概要・営業用パンフレットや内部向けの広報誌など)となっているのだが、そのリアルさに惹かれてしまう。 「間違いなくこの会社はかつて存在したのだ」と。

中でも幹部社員に向けた「幹部の心得」を示したような小冊子が印象的だった。

可愛らしいほどに独善的・自己中心的で、論旨はツッコミどころ満載である。 「どうして売り上げを伸ばす必要があるの?」・「どうしてそんなにお金が必要なの?」・「幸福とは何なの?」とか、一々質問して行ったら、数分を要せず答えに窮してしまうだろうことが想像に難くない。 高度経済成長期というのは、その程度の思考があのような規模の組織を動かしていたという、動かぬエビデンスである。

当時のビジネスモデルから何から、基本的な部分は分かった上で私は考えている。 あの会社は当時、継続できるだけの全ての条件を備えていたらこそ存在していたし、継続のための最低限の条件すら欠いたから消滅した(コスモス社は現在倒産している)。


※このページに記載された内容の転載や二次利用はご遠慮ください。

archives


   お問い合わせ先  
 


株式会社 エースミュージックエクスプレス


E-mail(Mailform) -> ClickHere
Tel/Fax -> 03-3902-1455

 
(C) Ace music, exp. Co.,Ltd. (Since2000) All rights reserved.