Staff diary  
スタッフ日誌[2019]

[文 / 益田(制作)]

9/30(月)

コスモスという会社がかつて存在した。有名ないわゆるガチャガチャを事実上創始した会社(ガチャガチャそのものはアメリカ発らしいが)。 コスモスについての本を何冊か読んでいるのだが、中々に凄い会社だったらしい。

実は私も若い頃、それ的な雰囲気を持つ会社に在籍していたことがあるから、何となく分かる。 会社の社長ってのは有能だからこそそれになる人と、自分の無能さに気付けないから起業してしまう人といる。 普通の人の脳裏にならよぎるであろう懸念がよぎらないから、次から次へと何にでも手を出せる。 コスモス社の創業者が典型的な後者であったとは思わないが、現代の平均的な起業家とは随分毛色が違ったろう。

コスモス創業者のような人は、現代の日本では随分減ってしまった。後進地域なんかではまだたくさんいるのだろうか。 そういう人が減ったことが、世の中を面白くなくしている面もあると思うんだが、人間が成長したと言うか、人類がある歴史段階に突入してしまったが故の現象なのかもしれない。 だとしたら仕方ない。

私自身は起業家気質では無いが、そのようなアグレッシブな御仁は嫌いではない。 私は単なる音屋なので、音関係の便利屋としてなら、そういう事業に絡んで行きたい気分は今でも持っている。


9/28(土)

浮動小数点演算について。 演算処理の方法で、コンピューターの性能を測るベンチマークとして使われたりするのだが、私は細かい(数学的な)部分についてよく分かっていない。

オーディオ編集における浮動小数点演算をざっくりと説明すると、ビット解像度を保つための処理法。 今ほとんどのDAW・波形編集ソフトは、内部処理を(32・64bit floatなどの)浮動小数点演算で行っている。

32bit floatは16bit処理より音が良い。これは間違いない。乗数で倍の数字なのだから、どれだけの違いかイメージできなくもないだろう。 しかしそれを言うなら64bitの方がもっと良いし、128bitなら更に良い。 ビットレゾリューションとは即ちダイナミックレンジでもあるわけで、大きければ大きいほど聴感上の音の解像度も細かくなる。 ただ、大きさに比例してデータサイズもデカくなるし、一々の処理に時間・負荷が掛かる。

困ったことに、一般的な音楽商品のマスターデータは16bitである(ハイレゾ音源のような例外は無論ある)。 いくら高解像度で編集しようと、最終的な納品は16bitにダウンコンバートせねばならない。 だからと言って途中の工程を32bitで行う利点が無いわけではないが、要するに効率的な落としどころをどこに置くかという問題である。

例えばレンダリング一つ取っても、16bitと32bitでは処理時間が違う。 たかがそれだけと言うなかれ。作業にはリズムってものがある。 途中の工程に時間を取られ過ぎると、思考の何事かが狂う。 これは由々しき問題。

現状私は、16bitと32bitを使い分けるようにしている。 リリースの繊細な音とかフェイドアウトを含むような音は、途中のレンダリングなどを極力32bitで行い、さほど必要性を感じないものについては、16bitで書き出している。 無論最終的なマスターは16である。 うちはハイレゾ音源を出さない。

ここまでの文章を読み返してみて、32bit等の単なるハイビットと浮動小数点演算をゴッチャにして話を進めてしまっているが、無論両者は別である。 ただ、メリット・デメリット双方が重なりはする。 結果的な論旨に影響はあまり無い。


9/27(金)

蟻の集団は、その二割だったかのみが働いているらしい。八割は無為徒食者であるということ。 そして、その働いている二割を全滅させたら、残りの八割の中から、これまた二割が働き出すという。

この現象を不思議に感じる人もきっといると思うが、私は全くそうは感じない。 ニッチというのはそういうものだからだ。 偏差値の高い学校にも、ケンカ自慢が集まった反社会集団の中にも、きっと落ち零れは出現する。 一種の役割であるからだ。

エリートも落ち零れも、比較から生まれている。 序列を決定付ける最大の要素は、知能も含めた生得的身体条件である。 この地球上、人類もその例外でない、保存則という輪廻の中、人は比較に晒され、よりよい生存条件を求めさまよっている。 働き蟻も女王蟻も、この輪廻の中、所与の条件によってある役割を演じさせられている。

アブラハム・マズローの説く欲求段階のヒエラルキーは、輪廻の構造に近いものを、別の側面から説明するものかとも思われる。 (輪廻説と比べ)どちらが正しいか、より正確か、といったことについては、私には断言できない。いずれにしても、森羅万象を説明し尽くすことは至難である。


輪廻から逃れる唯一の方法を、仏教では解脱という。 解脱なんたるかを、私が正確に理解できているのかよく分からないが、一般的には「煩悩から解放されること」とか言われている。 生身の人間が煩悩から解放されるなんてことが、本当に可能だろうか。

地上で解脱を達成したと言われる実例の一つに、釈迦(Gotama Siddhattha)の存在がある。 如何に釈迦と言えども、腹が減れば食べたろうし、喉が渇けば飲んだろう。 生身の存在が生理的欲求を断ち切ることは、まず不可能だが、意識でそれをコントロールすることと、それら欲求に支配されることは違う。 釈迦は生理的欲求をコントロール下に置いていたろう。 因みに、マズローはこの生理的欲求を、欲求段階の最下位に置いたが、克服すべき何かとはしていない。

解脱者というのは、空想世界の仙人のような、非現実的存在ではない。 解脱の境地というのは、認識の純粋性を基礎としているものと思われる。 認識というのは、意識を俯瞰する作業であると思っているのだが、フィジカルな自分を認識しさえすれば、それはもう超克ではないかと思う。


9/26(木)

ルパン三世の五ェ門とか忍者ハットリくんとかって、武士道と言わないまでも、それ的な価値観を持っているらしく、しばしば「道」を説く。 「忍者たる者こうあるべき」とか。

五ェ門がその名を踏襲する、先祖の石川五右衛門は(実在の)盗賊だし、忍者は現代で言うなら工作員である。 言うような職業倫理など持っているのか。 侍と間違ってないか。 気になる。

あとハットリカンゾウは服部半蔵から取ったのだろうが、服部半蔵は確かに有名ではあるものの、あれは上忍だぞ。これもなんか間違っているような。


9/25(水)

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広瀬沙希、ニューアルバム「闇色の月 -lunar eclipse-」、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


闇色の月 -lunar eclipse-

タイトルは月蝕を意味しています。

地球という存在は、普段は意識しない、目には見えない不確かなものなのに、月蝕によってその影が見えたことで確かなものだと実感し、その中で暮らす自分とあなたと言う存在も確かなものだと実感する。 怒りや焦り、不安が渦巻く中で「月蝕」と「あなた」の存在に癒され安堵する。 そんな思いで歌いました。

広瀬沙希





9/24(火)

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微分音について。 半音より細かい区切りの音高。

ブルースのギターなんかにもqc(クォーターチョーキング)とか出てくるわけだけど、厳密な四分の一音っていうより、もっと感覚的というか、曖昧なもの。譜面上のqcは「半音までは行かない」とか、その程度の指示に過ぎない。

四分の一音(24音階)を実用しているのは、有名なところではアラブ音楽。 実見したことこそ無いが、オクターブ24鍵のピアノとかまであるらしい。 実際マカーム(西洋音楽でいうところのスケールのようなもの)も24音律に準拠している。

ただしマカームにおいては、半音と四分の一音が等価ではなく、あくまで12音律(というか7音音階)が基礎となっているのは疑いない。 聴いてるだけでこれは分かる。 主音・属音などといった、いわば核音をベースに、それ以外の音のピッチを微妙にズラして、音楽的な装飾としているだけ。

私も過去、微分音(特に四分の一音)を曲に使ったことはあるが、アラブ音楽とかブルースのqcとか、その程度の位置づけでしかなかった。 完全に半音と等価の微分音を登場させたわけではない。 それを登場させられるってことは、作曲の段階で微分音込みのフレーズが頭に浮かんでいるってことに他ならないわけだけど、さすがにそれはなかった。

最近EDMっぽいものを作ってるんだけど、微分音が割かし頻出する。 しかも、12音律にスパイスとして使うようなものでなく、一応は微分音前提のフレーズを作っている。 構想段階から頭に(微分音込みのフレーズが)浮かぶ、という域にまでは達していないが、ピッチベンドを駆使しつつ、微分音込みのフレーズを作っている状態。 四分の一音がスケール構成音として他と等価に近い。 違いを文章で説明するのは難しいが、明らかに区別できる脳内処理である。


9/23(月)

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Tape Stopという効果(エフェクト)がある。 流行、と言う程最近のものでもないが、現代POPSでは多用される効果。

アナログレコードやテープなどを急停止したような効果で、音の急速なスローダウンとピッチのベンドダウンの合わせ技のようなもの。 アナログ再生機器と現代のオーディオ再生のメカニズムが違うので、やや迂遠な形での再現となっている。 アナログレコードに存在した効果なのだから、発想として新しいものではない。

Tape Stopのプラグインエフェクトのようなものは、フリー・有料物合わせ、いくつか存在しているのだが、私はとりあえずフリー物しか持っていない。金出して買う予定は今のところ無い。 で、そのTape Stop、そんなに高度なアルゴリズムとは思えないのだが、DAWのオートメーションと相性が悪いものが多い。 二つに一つぐらいはマトモに使えない印象。どういうわけだ。

何とか使えるものは機能的な不足があったりして、どれも帯に短しといった状態なのだが、今のところ騙し騙し使っている。 時にリアルタイムエフェクトとしての使用を諦めたりして。純粋なオフラインエフェクトとして使っていたりする。

割と前から使ってはいるんだけど、最近EDMっぽいものを作ったりしてたんで、あらためて考えていた。 ああいうのも一時代を象徴する音なんで、後世から見れば時代を感じさせる音になるんだろうな。


9/22(日)

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EDMっぽいのを作ってたんだけど、やはりあまり向いた作業では無いようだ。 普段、何らかのジャンルに特化した音楽を作る場合、下調べのようなところから入るわけだけど、そこで掻き集めたアイディア、プロットの類から、結果複数の曲が生まれてしまうことが多い。 例えば雅楽について調べた時は、結果5〜6曲が生まれたんだけど、今回、1曲作った時点でお腹一杯な感じ。

モノがEDMとか言う、ジャンルと呼ぶには楽理面での特殊性のほぼ無いものであるから、作品のアイディアとなりにくいってのはあるかもしれない。 だが同時に、単なる音色や音使いといった、テクニックに過ぎないので、今後も多くの楽曲に活かされる部分はあるかと思う。 まあそんなこと言い出したら、今までの作品にもそれ的なアイディアは散りばめられているけど。


9/21(土)

衆生のさまようこの世界を、仏教では六道とした。 多くの人は人間界にいるという。 煩悩を捨て切れず、執着の中にはいるが、それだけで構成されているような有害でのみある存在ではない。 複雑なバランスの中に成立している。 それが人間らしい。

生存を至上の命令とする生物の中で、特に腕力(暴力)によってその環境を磐石たらしめようとする者たちの生き方を、仏教では修羅の道と呼ぶ。 修羅道は人間界の下位に置かれており、修羅どもは人間以下の存在とされている。

暴力による収奪すらできず、ただひたすらに貰うことのみに執心する者らのそれを餓鬼道と呼ぶ。 修羅道も餓鬼道も六道に含まれる。 衆生が逃れられない輪廻は、その六道を巡ることだそうな。

子供のことをガキと呼ぶのは、彼らが与える機微を持たず、ただひたすらに貰おうとする存在だからだろう。 だからして、歳だけは大人になっていても、本質的には餓鬼そのものであるような人はいる。 比喩でなく、その人らは本当に餓鬼道に生きている。

人と呼ばれているもの以外の生物、それらは畜生道にいると言う。 畜生は与える機微など無論持ち合わせていないが、奪う衝動も必要を超えたものでない。 畜生も餓鬼よりは高位な存在であるらしい。 事実畜生道は、六道においては餓鬼道の上位に置かれている。 個人的には、盲導犬・介助犬等として人間社会に貢献している犬などは、人間界に収めてやりたい気がしないでもないが。

煩悩、特に収奪性が強く、有害の度が過ぎる者の行き着く先を地獄と言う。 地獄に落ちた者は、その自由すら奪われてしまうという。 差し詰め現代社会では刑務所などがそれに当たろう。これも比喩ではない。 刑務所は、仏教でいうところの地獄そのものである。 監獄などと、獄の字が使われているではないか。

刑務所というか、それに相当するものは、人類史上かなり初期の段階から、ほとんどの国家・広域社会において存在したはずだ。 人間が生活するところにはトイレが要る、というような、業といおうか、宿命的なものである。 地獄は決してオカルト的妄想の産物ではない。

ある身体条件(脳のある欠陥)を持たされた個体は、依存性・収奪性の権化となり、社会にとって有害そのものとなる。 マジョリティーである人間どもは、それらを隔離・収監することを、一種の社会的コストと見做している。 あたかも害虫駆除に使う殺虫剤が無料でないように。 言うまでもなく刑務所は、市民らの浄財(税金)によって運営されている。

天界というのは人間界より上位であるという。 (おそらく多くは満たされることによって)ある種の執着から解き放たれ、多くの人間よりは高次の世界に生きている。 しかしながら、その人らも煩悩そのものは捨て切れておらず、解脱とは根本的に次元の異なる世界にいる。 出家前の釈迦などはこの境地にいたのかもしれない。 ある種の充足を得ているが故に、解脱に至るよすがを掴めないという。


以上、六道について概括したわけだが、これが科学そのものであることが分かる。 仏教とは科学そのものである。科学にいささかも抵触しない。


9/20(金)

1+1=2。これは絶対普遍の法則である。 一つのリンゴに、もう一つリンゴを持ってくると、二つのリンゴになる。 一つのリンゴに、一つのミカンを加えても、(階層こそ一段上がるが)それは二つの果物となる。

多くの人にとって疑いない、たったこれだけの事実が、ある人にとっては事実でない。 「手持ちのリンゴと持ってきたリンゴは、色も形も大きさも僅かにでも違う、別のリンゴではないか」、と。更には「リンゴとミカンなんて全く違うものをどうして同列に扱えるのだ」と。 そしてそれは正しい。

確かにマテリアルなリンゴを1とするのには、言語による抽象化、というワンステップを挟む。多くの人がそのプロセスを忘れているだけ。

リンゴは食えば無くなるし、放っておけば腐る。 が、「リンゴ1+リンゴ1=リンゴ2」と言う数式、これは変わらない。 具体的リンゴは変動するが、数式の方は永遠である。


私という物質(具体的存在)は、今は条件によって継続されているし、条件が欠ければ消えて行く。 ただ、私の意志は消えない。それはここで言う数式であるからだ。永遠である。 条件次第で復活・再現される何か。

この、物質としての継続条件を取り払ってしまった後、何も残らない人、それを私は「存在しない人」だと見做している。 食い物が食いたい、性欲を満たしたい、こういう衝動は水が高いところから低いところへ流れているのと同じで、その人の実在性の証明にはならない。 傾向性の赴くまま、より良い生存条件を求め続ける行為、ここに囚われた人生を、仏教では修羅や餓鬼の道と呼んだのだろう。


9/19(木)

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時間は不可逆である。 たったこれだけの一事が、どうしても理解(体感)できない人がいるらしい。 そんなに難しいか。

例えば離合を繰り返す者らにとって、仲違いとは(人間関係の破綻でなく)、まるで天候のような、一時的な変化に過ぎないのかもしれない。いずれは元の鞘に戻ると。 しかしそれは錯覚だ。 仮に似たような状態(時間)が成立したとしても、時間そのものは不可逆である。 エントロピーの増大こそが時間なのだから。

ただ、一旦成立したある時間とは、条件次第でそれが成立し得る、という動かないエビデンスでもある。 条件によって成立したのだから、条件次第で再現でき得るもの。 私と言う具体的存在が消えても、私の意志は続いていく。 これは絶対的な法則である。

割れた茶碗を惜しむのなら、次に買う茶碗を大切に扱うくらししか、我々にできることはない。 まるで割れてしまったその茶碗と見紛うような、瓜二つの茶碗を買ってくることもできるだろうが、それは同じものではない。 あくまで似て非なるもの。

ついでに。 茶碗を割ってしまったことによる「メシが食えない」という状況に、ある種の不便さを感じることと、「惜しむ」という機微は別のものである。 本当についでながら。


9/18(水)

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数字のゼロはインドで発明(発見)された。 「無」を「在る」と考えたからこそ生まれた思想・認識で、それは原始仏教の言う空にも、インド音楽(とりわけリズム理論であるターラ)にも、濃厚に見られるものである。

デジタルの世界は1と0で構成されるという。 「在る」か「無い」か。 全てである神(God)と無(空)を連想させる。 1と0の世界は、在るか無いかの世界であるのと同時に、「同じ」であるか「違う」かの世界でもある。

私のここで言う「違う」は、「異なる」と言う認識のことを指していて、全てがバラバラ・混沌と言う意味ではない。 私は日々音楽を作りながら、何かを「同じ」である、あるいは「違う」との判断を繰り返している。


神とか言うと、多くの日本人は即座に未開性というか、非科学の匂いを感じ取ってしまうようだが、私は「神さんという偉い人がどこかにいる」とか言っているわけではない。

神とは、この宇宙を支配する力学、万物が時に繁栄し、時に滅びていく原理・原動力のこと。 全ての生き物が進化、あるいは淘汰などという明滅を繰り返す中、私もあなたも全ての条件を備えたからこそこの世界に存在している。 そのことを逆算する形で、神の実在は定義されている。 私はそこに、寸毫の非科学性も感じない。

神(唯一絶対神)の概念は、日本では生まれなかった。言い換えれば、日本語では現実化できなかったと言うこと。 私は英語(と言うか西洋言語)の持つ節構造(that〜などという)が、物事の階層的把握法を生み、それが延いては神概念に到達したと考えている。 これは実証しようもないことなのだが、少なくとも神がロゴスであると言うのは疑いないことのように思える。


「神の実在」などと言うが、神が在るのではなく、存在するある概念を神とした。 だからそれを映す心の持ち主にとって、神はありありと存在する。 神を不在であるとすると、金も愛も時間も、何もかも存在しなくなる。

共産主義は神の存在を否定するが、彼ら共産主義者が地球上に生まれ、時にその主張をスローガンとする国家をも樹立し、後その国家の多くが崩れていく、これらの諸現象も、全て神の意思に拠るもの。

私はあるテーマについて述べたくて、上記の文章を作り始めたのだけど、本題に入る前に文章量がこのようになってしまった。 本題はまたの機会にする。


9/16(月)

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愛とは何なのか。

辞書を引くと「いつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち」などとある。 辞書が間違った説明をしているとは思わないが、愛が分からない人にこの説明では、何ら理解の足しにはならないだろうと思う。 私だって可愛がられた経験ぐらいあるが、そこに必ずしも愛は感じ取れなかった。

愛とは「消えないもの」のことではないか。 好きなものを可愛がる気持ちが愛なのではなく、好きであるという気持ちが永遠であること、これこそが愛なのではないか。 愛は消えない、のではなく、消えない何かのことを人類が愛と名付けたのではないか。

小学生の頃、私は犬を飼うことになった。 私はその犬が今でも好きである。私の固有の思考回路が、その犬の思考回路とある共鳴を為した。 これは算術のような普遍的現象で、永遠である。 私やその犬という、具体的存在が(条件の欠如によって)消えて行くことはあっても、上の現象そのものは普遍である。

周囲の状況によって態様を変えるものの中に、愛は宿っていない。 離合を繰り返す者は、輪廻の苦しみの中にいる。 時間が理解できないから、その不可逆性も理解できず、普遍なども当然体感できない。 この「分からなさ」こそが苦しみなのかもしれない。

音楽を好きになった子供の頃の私は、自分が好きになりもしたが、それより何より「音楽に愛された」と感じた。 何の成果も約束されなかったのだけど、それを追い続ける日々を楽しめる自信だけはあった。 当然ながら、今もある。 この気分を夢というのだろう。 永遠である点、愛とでも言う他無い。 私にとって愛と夢は同じものだ。

永遠などと言うが、私を含め全人類、あるいはこの宇宙の全ては、永遠なんてものを経験したことが無い。 永遠は絶対などと同じく、無いと言ってしまえば無いものである。 私は存在していないものについて話してるわけだけど、ここには確信がある。 愛を「信じている」とでも言うべきだろうか。

子供の頃好きになった音楽に、今日も守られ続けているのだから、きっと私は、この先も永遠に今のようにあり続けられるだろうと思う。


9/14(土)

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仏教、とりわけ原始仏教では、衆生は六道を輪廻すると言う。 そして同時に輪廻は苦しみであると。

輪廻が生まれ変わることであるものだから、ある人にその説明はオカルトだとか未開性のように映ってしまうのだろうが、仏教は土俗信仰のような宗教ではなく、哲学であり科学である。 おそらく輪廻は、いわゆる保存則のことを指している。普通思われているような非科学的な話ではない。

生きとし生けるもの、全ては逃れられない輪廻の中にあり、それは苦しみであるという。 与えられた条件下にて、最も効率的な収奪法・搾取法を選択した結果が、各種のニッチとして収斂されている。 収奪というのは、生存をより磐石たらしめるためのもの。 美女が男に取り入ったり、秀才が高学歴になったり、不良がヤクザになったり。全ては生存本能に引き摺られている。

輪廻の苦しみから逃れるための唯一の方法が解脱であるという。 解脱とは何なのか。 簡単なことだ。生存のための傾向性を取り払うこと。 愛するという機微は、ややその解脱に近い境地かと思ったりするが、仏教側は絶対に認めないだろう。 キリスト教的価値観ですから。

傾向性を捨てるとは、どういう生き方なのか。 これまた簡単である。 好きなことをするだけ。 ただひたすらに、好きなことをすればいい。 ただ、ある種の人にそれは容易でない。

金が好き、異性が好き、酒が好き、食い物が好き、これらは全て「好き」ではない。 運動や薬物による身体(脳)への刺激を求めること、これらも「好き」ではない。 列挙した好きに似て非なるもの、これらを得るための具体的方法こそが、ほとんどの人の「生き方」になってやせぬか。

私は音楽が好きである。 音楽が私の生存を保障してくれるわけでもなく、また私の生得的身体条件が音楽を採用させたわけでもない。 だから私は、周囲が私に望む曲を書くつもりはない。

何かを好きであること。 これは我々人類が、全力で守らねばならない何か。 単に私が音楽好きだから、私を守りやがれ、と言っているわけではない。 この私自身が、全てを掛けてでも守り続けてきたものが、この、我が心に認められる「好き」という機微である。 この「好き」こそが、人類の唯一の可能性であるし、「好き」こそが全てを解決してくれる。


9/13(金)

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私は基本的に掃除が嫌いである。 綺麗好きでない、というのとは違う。 部屋は汚いよりは綺麗な方が良いに決まっている。私とてそう。

私が嫌いなのは、そこに労力が必要な点。 溜まった埃を拭き取る、時間が経ちまた埃が溜まる、溜まったその埃をまた拭き取る、この無限ループを徒労だと感じるわけである。 いくら家を綺麗に片付けたところで、いずれは散らかり、また掃除が必要となる。 そうやって時間を費やした挙句、いずれ家そのものも劣化し、使い物にならなくなる。

まるで鬱病のような思考法と思われそうだが、私に鬱病性は皆無である。 最も合理的・理想的一点を目指して歩いているだけ。だから音楽を作っている。 これは伝わらない人には伝わらないだろうと思う。


9/12(木)

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EDMっぽいものをいくつか作ろうかと思案中。 今更って感じだけど、流行ものを追うような軽薄な気分ではない。 そこに群がる人らのある気分を掴みたいと思っている。

いつも言っていることなのだが、私は音作りをしない。 ギターにエフェクトをかます、というのも広い意味では音作りであると言うなら、その程度のことはする。 そちらの方がイメージに近い結果が得られるからで、それ以外の動機は無い。 音の変化について、事前の想像が粗方付く、というのは大きいかもしれない。

シンセサイザー、特にパラメーター構成が複雑なものについては、ツマミ弄った後の結果(音色変化)に想像が及ばない。 だから音を作っているという感覚にならず、偶然出てくる音を期待する、という感覚に陥る。 事実、ボタン一つでランダムに音色を生成するシンセプログラムも実在する。ほとんどプリセットが無限にある状態である。

想像が付いて行かない作業は退屈である。 時間が勿体無いから私は基本プリセットを使う。 シンセも大抵は商品なのだから、その性格上、プリセットの完成度は高い。 ギターのエフェクトのように、そのプリセット音に何らかのエフェクトを掛けるとか、微調整を施すとか、そういうことならする。

EDM特有(というほどでもないが)の効果についても考えている。 サイドチェイン・ライザー・トランスゲート等々。 別にどれを取っても本質的に新しいものではない。 書法として取り入れた、という感じだろうか。 サイドチェインなんかはそもそも、決められたレンジの範疇でダイナミクスを稼ぐための発想だろうと思われるが、EDMにおけるそれは一種のエフェクトとして機能している。 だったらトレモロとかで代用できるはず。 サイドチェインのあの面倒なルーティングとか不要だ。

聴いていて耳につくのは(複雑な)ディレイエフェクトだ。私が音屋だからかもしれない。 私は大抵どういうものを聴いても、「効果を再現するのは難しくない」と判断する。 実際どうやってその効果を出しているのか、までは分からない。 ある効果を生むのに、手法は複数存在しているからだ。

聴いた限りのあの複雑に聞こえるディレイエフェクトを、どうやって作っているのか。 半ばそういうギミック専用と言って良いようなプログラムも実在するが、そういうもののパラメーターをチマチマ弄って、あの効果に繋げているのだろうか。事前に想定したものとして。 あるいはプリセットとか使って偶発的に生まれた効果を楽しんでいるのか。 この二者は、音楽と言うものの根幹に関わる違いと言える。 大抵は後者だったりして、私を落胆させるのだけど。


9/11(水)

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佳乃、ニューシングル「I'm a Queen」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


I'm a Queen

上手くいかない事が多すぎて、自分がとても小さくて惨めな存在に感じた事がありました。
そういう自分が凄く嫌で悩む中で、「環境がどうであれ、心だけは女王の様に強く、誇らしくいよう」と思った時、自分の選んできた道にも、今のボロクソな状況にも、すごく自信が持てました。
この曲は、「女王の様に」という、私の決意表明です。

佳乃





9/7(土)

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先日、ある(多分に素人向けの)音楽制作についての記事を読んでいたら、Q&Aみたいな形で「プロって一曲に何トラック(ch)ぐらい使うの?」とかいう質問が出てくる。 私は「そんなに曲によるとしか言いようが無かろう(アレンジごと違うのだから)」などと思いながら読み進めていた。

そこには回答としてとんでもないことが書いてある。 「アメリカなんかではボーカルだけで100トラック近く使う場合も珍しくありません」だそうだ。 本当かよ。何にそんなに使うのか。 音楽ってのは商品でもあるわけで、際限なくコストを掛け続けられる性格のものではない。

翻って自分のケースを考えてみた。 本当にこんなの曲によるとしか言いようが無いが、単純にハーモニーが重厚な曲やオブリガートが複雑な曲なんかは、コーラスのパート自体が増えるからトラックも増える。これはスコアの量にほぼ正比例するようなことで、当たり前と言えば当たり前。

他にもミックス面での効果としてダブル(ユニゾン)のパート入れたり、ボコーダーで作ったようなトラックを挟んだり、まあそういうのを含んだとして、大体10数トラック前後くらいになるのではないだろうか。 これはよくあるケースを考えているだけで、無論1トラックのみになる曲だってある。 出したい結果によるだけ。

上の「100トラック」である。 勿論私だって人様のセッション一々開いて覗いてるわけじゃないから、人によっては100トラック使う人もいるのかもしれないわけだが、少なくともそれは一般的・平均的ではない。 アメリカ人だって基本的にやってることは同じなのだから、大筋変わらない。 もしかして、とりあえず録ってみてストックしたテイク数のことを言っているのかとも考えてみたが、文脈上、そうとは取れない内容だった。

私が今まで作った最もトラックの多い曲でも、オケまで合わせても100も多分無い。 私が上の記事の筆者に言いたいことは以下に尽きる。「デタラメ言うな」。 信じる人が出てくるじゃないか。


9/6(金)

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シンバル類の音って、聞き分けられない。 「ライドとクラッシュの出音は全然違うではないか」という意見は分かるが、それはそれらが典型的な仕様下にあるからだ。 クラッシュもライドもハイハットも、要は金属製のシンバルに過ぎない。 打奏という発音原理も基本的に同じ。 ハイハットのオープンとクラッシュの違いだって、厳密な部分では分からない。

径が大きく素材の使用量も多いライドは、例えばクラッシュなんかより低い音が出る。 でもライドに絶対的な基準は無い。ある大雑把な範囲で何となく仕様が決まっているだけ。 多弦ギターの低音とベースギターの高音の区別は、あるレベルになると付かなくなるはずだが、ライドとクラッシュも仕様を近付けていけば、耳だけで判別するのは難しくなる。


9/5(木)

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8/17のエントリーで、ある「クリアできないゲーム」の話をした。 外交などを眺めていると、当局の人たちは、「物事には常に解決の手立てが存在する」とでも思ってやしないかと疑ってしまう。 糸口が見えないのは、糸口が無いからではないのか。

ゲームも交渉事も、人が作ったタスクという意味では同じである。 それは恣意的に、際限なく難易度を上げていくことができる。 解決しようにも相手の側に「解決の意思」が存在しない場合だってある。 解決をチラつかせて「更なる譲歩」を引き出そうと考えている相手に対する率先した譲歩が、どのような結果を生むか、考えれば分かる。

「物事をクリアする」とは如何なることか。 それは、ある交渉にて、「相手をの態度を自分好みのものにすること」などではない。 あるいは「当面の解決策など無い」と悟ることことそがクリアであったりもする。 これってそんなに難しいことなんだろうか。


9/4(水)

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また間隔が空いてしまった。 色々と忙しくて、全部説明できないんです。


今年入ってきた新人さんの曲を担当することになったんだけど、とりあえずのレパートリー候補曲を書き続けている。 プロデュース的な形でなく、単なるライターとして関わる方が、表面的な手間は増える。 思考に割くリソースは少ないのだろうけど。


8/30(金)

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何日か前、レストランで食事をしている最中、通り掛かった中年(初老?)男性のハゲ頭を見て感動してしまった。 ハゲを小馬鹿にしたいとかそういうことではなく、あまりに見事な代物だったので、私のモノを考えるきっかけとなってしまったのである。

彼は頭頂部のみ禿げており、側頭部には(むしろ黒々と)髪がある。 禿げ上がった頭頂部にはほぼ一本の毛も無く、露出した肌には光が反射している。 覗き込めば顔が映るのではないかと思われるほど、見事な質感だった。 あれはどういうことか。

生物・生体というのは、合理的・競合的で、無駄なリソースが割かれることなどほぼ無い。 全てに何らかの意味があるということ。 しかしその意味は、必ずしも一個体に還元されるものではない。 社会性昆虫などを見れば分かる。 臓器は臓器のために働いているのではなく、生体(の循環)を維持するために働いている。

人間以外の多くの哺乳類(猿など)がそうであるように、人間はかつては全身毛むくじゃらであったと思われる。  毛だって生やすのには相応のリソースが要る。 無駄な毛など生やしている余裕が無いからこそ、頭部・性器・重要な血管を覆う部分など、必要と思われる部位以外の毛は淘汰された(退化した)。

人間を人間たらしめている最大の要因は思考である。 それを司る頭部(脳)を保護しないで良いと自然界が判断したというのはどういうことか。 それはこの世界に必要無いと評価されたことに他ならない。 脛毛が薄いのとは意味が違う。

最近はAGAなどと言うらしいが、薄毛、要するにハゲを対象としたビジネスは昔から存在する。 ハゲは食い物にされているわけだけど、業者側から見ても、余程に堅牢な(おいしい)ビジネスなのであろう。

昔は知らなかったが、カツラや植毛などは、一度やればお仕舞い、ではないらしい。 そのメンテナンスに多大なコストが掛かり、場合によっては収入の大部分をそれに注ぎ込まざるを得ない状況にまで至るらしい。 考えてみれば確かにそうであろう。

ハゲてない人には「ハゲくらい放っておけば良い」と思われる向きもあるだろうに、どうしてハゲ対策はビジネスたり得るのか。 それは女性が服を買い漁るような、ファッションとしての髪に掛けるコストと本質的に違うからだ。

ハゲは自然界に「不要宣告」を受けているのである。 ハゲた人にとって、世界はきっと怖かろう。自分を淘汰しに掛かっているのだから。 理性ではなく、生存に対する恐怖という本能に付け込んだビジネスだからこそ、ハゲ対策業は堅い。 ハゲの彼らは、生存上の脅威に晒され、自衛のために薄毛対策に奔走している。

実際ハゲの気分を代弁するなら、おそらく多くは、自分の人生の不遇の大部分が、自分の「頭髪」にあるのではないかと思い込んでいる筈だ。 ハゲは他の個体から見ても「不要」のシグナルなわけだから、その懸念はあながち杞憂でもない。

私の仮説を補強する一傍証として、ハゲが一般的に「加齢」によって起こる現象である点がある。 いわゆる若ハゲってのもいるが、基本的にハゲは老化の(割かし顕著な)兆候である。 生殖能力の衰えた、あるいは消えた個体については、そういった点以外でこの世界に益する面が少ない、と自然界(いわば神)に判断されれば、そこに淘汰の圧が働くはずだ。 地球上の酸素だって有限である。


ついでに、ハゲでありながらその対策を一切採らない人がいるのは何故なのか。 結論から言うとよく分からない。 生存を脅かす恐怖に打ち勝った人なのか、あるいは恐怖を感じるための何かすら壊れているのか。


8/28(水)

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神田優花、ニューシングル「Nag」(全2曲)、本日発売。 下は収録曲について、アーティスト本人からのコメント。


Nag

地を這う重低音から始まるNag。
そこに現れるサビの甲高いメロディラインを初めて聞いた瞬間、どう歌うか決まっていました。
雅楽の笙のような音と合わさる声音が自分の思った通りのラインを描けた時、私の中でこの曲は完成しました。
力強く聞き応え抜群の曲です、ぜひ聞いてみてください。
歌詞の要所要所に出てくる"nag"をどれだけ嫌らしく歌うか、、、今回の裏テーマでした。

Empty heart

これはhateっていう強い言葉を、どう何気なく歌おうかずっと考えてました。
歌の中にあまり飾りを入れすぎないようにして、淡々とした中にある強さを意識しながら歌っています。

新たな曲たちを届けることがで来ること、幸せに思います。 ぜひぜひ、聞いてみてください。

神田優花





8/27(火)

神田優花、明日発売の新作「Nag」(全2曲)、収録曲について。


1.Nag

音作りに拘った曲。こう言うものをまとめた(神田優花の)アルバムのようなものが作りたくて、その企画を象徴するような一曲を書いてみた。 作ってる段階で「シングルっぽいかな」とは思った。

音に比重が割かれていて、曲そのものはシンプルで、パート数も少ない。 こう言うのって、音響面でのハッタリは効いてるんだろうけど、曲自体は単純だし、作業としても楽だった。 生楽器音のパートは基本的に無い。

ドラムのアクセントが普通のPOPS作品なんかとは違うんだけど、私の曲にはこう言うの多いし、歌い手さんも慣れたもんで、特段の戸惑いはなかったみたい。 ドラムパート作りは、いくつかの手法の合わせ技なんだけど、一部シーケンスの組み方が通常のプロセスと違うものがあって、ちょっと面倒臭かったような。それはそれでよく使う手法ですけど。

音作りってのは具体的には、シンセサイザーのパラメーター構成でシンセ音そのものを作るのと、後はオーディオデータへのエフェクト。 ボーカルもバッキングもエフェクト類は多種で、ルーティングとかを含め通常の曲よりはその辺に時間が掛かった気がする。

あとこの曲、ここ最近のウチの音源と比べ、音がデカい。 もうここ十年くらい、J-POP的な音圧競争にウンザリしていて、他所さんの音と比べることなしで、私は私の好みの音圧感に仕上げてたんだけど、この曲は割かしレベル突っ込んだ。曲に合う音圧感を模索した結果こうなりました。 アルバムとかに収録する際には、他のトラックとの兼ね合い上、もう少しレベルを抑えた別マスターを収録する予定。


2.Empty Heart

POPSですね。そうとしか言いようがない。 割と好きな曲なんだけど、言及すべき点があんまし思い当たらない。

こういう感じのポリフォニーと言うか、主旋律とオブリガードが絡む感じって好きで、私の曲には多い。 バッキングの音使いとか、触れようと思えば触れられるような拘りってのもあるにはあるんだけど、基本的にこの曲のオケには時間掛けてない。 繰り返しが多いし。

曲調から見てもある程度当然の判断なんだけど、生楽器系の音はほぼ入れてない。 ピアノの音とかもわざわざ作り物っぽいものと言うか、生っぽくないものを選んでる。





8/26(月)

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実のところ私は、ゲーム理論の有名モデルである「囚人のジレンマ」に懐疑的である。

まず、利得表に割り振られた数字(懲役何年などという)が任意で恣意的なものである以上、あのモデルが成立するケースは限定的であるに違いない。

そして、それよりも何よりも、我々があのモデルを俯瞰して見られることが忘れ去られている。 我々はあの表を上から見ているのだから、本当の最適解を知っている。 だから最も高い効用を得られるし、得られない者は近視眼的というか、物事を巨視的に見られぬ者である。

この近視眼だとか巨視的云々というのは、要するに時間感覚である。 時間は意識に由来している。 ロゴスは言語であり、言語こそが意識も理性も良心も共同体感覚もを生んでいる。 囚人のジレンマでいうところの合理的行動こそが最適解となってしまうような者は、つまりはその程度の者に過ぎない。


8/25(日)

ある企業の製品VTRのナレーションのコンペがありまして、普段ならその手の応札ってしないんだけど、今回エントリーすることに。 それのレコーディングやってました。

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横浜市がIR(統合型リゾート、要するにカジノ)の誘致を発表したら、その途端、ある新聞は「市民の反発は必至」と報じた。 私は横浜市民ではないが、新聞社が勝手に市民の総意を代弁するのは僭越ではないのか。

こういう手法も、もう過去の遺物といった感がある。 「市民の反発は必至」と言いつつ、「市民のみなさん、反発してください」と実は言っている。 あるいは希望に沿う形で反発してくれないから、反発を既成事実かのように報道する。 要するに世論の誘導を企んでいるのだけど、その手法が成立するには、昨今市民の情報リテラシーが高度化し過ぎているように思える。

どうしてある新聞はカジノを嫌うか。 「ギャンブルが風紀を乱すから」などいう理由を自らは記事に添えていたりするが、カジノは海岸の、ほとんど隔離された一角に事実上「特区」として置かれるという。 それに比べたら既に乱立しているパチンコ屋の方が、余程に悪影響も強く、排除されるべきだろう。

パチンコ屋は、三店方式という一種の脱法行為によって成り立っている。 脱法というか、明らかな違法営業であるにも関わらず、都心でも駅前などの一等地に何店も構えられている。 田舎に行っても飲み屋とパチンコ屋だけはあったりする。 風紀や依存症を心配するなら、どう考えても現行のパチンコ店の方が影響は強い。 それを放置しながらカジノを批判するのは、明らかなダブルスタンダードだ。

要するに、カジノに否定的である勢力は、むしろパチンコの既得権益を守ろうとしている。 パチンコの利権を享受している誰かに、気を使う必要でもあるのか。 カジノが実現することは、パチンコ業界にとっては嫌気要因となるだろう。もっと違法性の強いノミ行為とかにも影響は出るかもしれない。

合法のカジノがあるのなら、そちらに流れる人は確かにいるだろうと思われる。だからそれを嫌う人がいるのだろう。 私自身はパチンコを野放しにし、カジノを規制するなんてのは筋が通らないと思う人だが、カジノの存在がパチンコ業界にとっての逆風に必ずしもなるとは思わない。 むしろ追い風になったりして。こういう事例は過去無数にある。


8/24(土)

FXの本を何冊か読んでいた。別にそういう取引をやってみようとか思っているわけではない。 私は何事かを理解するためにそういった本を読んでいる。

為替というものは相対的なものだから、どちらかが上がればもう一方が下がる。 その変動を利用して稼ぐのがFXである、というのが私の理解である。

どちらかが上がればどちらかが下がるというゼロサムゲームだから、儲かる人がいるということは損をする人もいる。 手数料という寺銭も取られるので、私は効率的な金儲けの手段とは思えなかった。 無論現時点での私の理解に過ぎないので、間違っているかもしれない。

因みに、パチンコだってゼロサムゲームである。 客として関われば長期的には必ず負けるが、店側はその分儲かる。 金というものは、その額面を使用する権利に過ぎないので、トレードは必ずゼロサムゲームになるのである。

ついでに、このトレードというものが成立した背景には、人類の言語機能が深く関係している。 言語の持つ同定機能、それがトレードを、その象徴的媒体である貨幣を成立させた。 ここについて詳述しようと思えば、今回の主題からは逸れてしまう。


モノの価値は変動する。 新車を買って中古車屋に売ると、元の半値にもなるまい。 無論、元値以上で転売できるものもある。 ただ、大抵モノには適正価格があり、転売時に大きく値を上げるモノだってあるが、そういう現象は誰かの錯覚によって生まれている可能性が高い。 錯覚した誰かが、その判断の誤りの対価を支払わされているだけ。 虚仮とでも言うしかない。

外貨を自国通貨に換金しようとすると、手数料を取られる。 そこに何らかのタスクが挟まるわけだから当然だ。 ということは、為替というワンクッションを挟むことによって、人は必ず何らかの損をしている。 FXで勝って得を拾ったとしても、本来得られた筈の利得のいくらかは手数料として抜かれている。 まあ当たり前のことだが。


私は、金(貨幣)という媒体について考えている。 FXで生じた利得なんか以外にも、多くの人は例えば労働の対価として金を貰っている。 この時点で何らかの損失を被っているのではないか。

例えば江戸時代の旗本などは、扶持(サラリー)を「米」で貰っていた。 侍はいわゆる年俸制だったわけだが、商行為が悪とされた時代背景もあって、先物取引のように相場を見計らうことが事実上許されなかった(因みに、江戸時代には既に先物取引は存在していた)。 建前はさておき、江戸体制は実質的には貨幣経済そのものだったから、禄として貰った大量の米は換金せねばならない。 毎年ある時期に一気に換金されるものだから、侍の禄は常に相場上の底値で取引され、彼らは常に割りを食った。 当然ながら、その割りは、商人の懐に収まった。

「結婚指輪は給料の○ヶ月分」などと言われたりする。 愛を計るバロメーターとして、金(額面)が採用されている。 そのベンチマークは果たして正しいのか。

指輪という物質を介している時点で何らかのロスが生じているのは間違いないが、それ以前に、金を介している時点でもっと巨大なロスが生じているのかもしれない。 だって誰しもがほとんど無意識に使ってしまうものなのだから、自然の摂理として、そこに手数料が入り込まないとは思えない。 米には価格が付いたが、金に価格が(表面上)付かないから、きっとみんなそこに気付かないだけ。

愛の深さを測ることにさえ、金という基準が採用されている。 愛を、換金というワンクッションを挟まずに届けられたら、きっとそれはもっと効率が良い。 それどころか、換金されることによって不可逆的に失われる成分すら存在するに違いない。 だって米を売って手に入れた金で、あらためて別の米を買ったところで、実は同じ米を買い戻せたわけではないではないか。

私は、米でもなく金でもなく、最も効率的な手段として歌を作る。 最も大切な何かを、私の心の中で生まれたそれを、ありのままに一部の瑕疵もなく届けるために。 きっと私は間違っていないはずだ。


8/23(金)

ゲーム理論の有名なモデルである「囚人のジレンマ」、における最適解(ナッシュ均衡)は「裏切り」である。 互いに裏切ることは、効用を求めるなら合理的な行動であるということ。 但し、その均衡はパレート最適ではない。

パレート最適を維持できる社会があるなら、ソイツらはつまるところ最強なわけであるが、今のアメリカとか、要するにそういう集団なのではないかと思ったりする。 同時に、アジアの歴史的停滞の理由も、要するに囚人のジレンマに陥っているだけ、なのではないかと思えたりする。 あんまし実証性の高い意見ではないけど。

ジレンマに陥った囚人たちが、本当の意味での最適解を選べない理由は、彼らの時間感覚にあるような気がする。 裏切ることがいくら姑息的な最適解であったとしても、裏切らない者同士が得られる効用の方が大きいのは自明である。 この「裏切らない者同士」を、人は「友」と呼び、その友同士が持っている気分を「共同体感覚」と言う。

韓国人はこう言ったりするそうだ。 「一対一なら韓国人は日本人に負けないが、三対三なら日本人に負ける」と。 野球と言うスポーツにおいて、世界最高に近いレベルである日本プロ野球界において、個人記録だけを見ると、史上最高クラスのものはほとんど在日外国人の独壇場だったりする。 なのに彼ら在日勢力の祖国である韓国のプロ野球は、少なくとも国際的評価において日本のそれに劣る。 要するに囚人のジレンマのような力学が働いているのではないか。


8/22(木)

神田優花の「Nag」(全2曲)、来週発売なんですが、もうiTunesとかでは予約販売も開始されてるみたいです。 是非聴いてみて下さいね。



今だから言うけど、タイトル曲のNagは、某TVシリーズのトレイラー(予告編)ムービーの、いわばCMソングのコンペに出品した曲。 結局最終的には採用されなかったわけだけど。

実際に上がったそのトレイラーを見てみた(同時に採用された曲も聴いた)のだが、何と言うか、数々の側面で見ても、別に我々の作品が劣っているとは思えないものだった。 物事というのは、編成上の都合というのに大きく影響されるのだろう。

だから就職先が中々決まらない学生なども、大して気に病む必要は無いのだろうと思う。 相手先の企業も、編成上の都合で判断を下しているわけで、人間の優劣を測っているのではない。 無能者が、無能者であるが故にニーズに適うことだってある。

学歴とか分かりやすいが、あれは苦痛に耐えられる精神力(そこに疑問を持たない従順さ)が問われている面も大きい。 だから体育会系の学生など、あるタイプの人に好まれる。 他人に好かれる為に生きてはいけない。音楽家は、周囲が望む曲を決して書いてはいけない。


8/21(水)

ここ暫く、著作権管理業務の委託のため、契約書作ったりそれ関係の折衝で大変だった。 数ヶ月間差し戻しの連続だったんだけど、昨日やっと一段落着いた。着いたと思いたい。

以前(数年前)に比べ、処理できる絶対的作業量が減っていて、リリース間隔も空いてしまっている。 今何とか新しいスキームの目処も立ってきて、ペースは遅いながらも活動計画が成立しつつある。 とりあえずの近況はそんな感じです。


8/20(火)

ミシンやタービンの原理を眺めていると、それ自体理解はできるものの、自らあれを思いつけるかと言われると、到底無理であるように思える。 理解力と発想力はまた別だ。

私は脳の性能ってヤツを割りと細分化して捉えていて、理解力と発想力が違うように、発想力と想像力というのも、厳密には違うと思っている。

中でも、最も程度が低いというか、価値の無いと思うものが記憶力や計数能力である。 何故そう思うかと言うと、それが人間の頭脳以外で容易に代替可能であるからだ。 空間把握能力にしたって、それに価値を置くのであれば、何故人類が生物界の霊長であるのか、説明がつかなくなる。

日本における試験制度は、記憶力や計数力に重きを置き過ぎた。 だからカンニングにこれほど過敏になる。 カンニングなんて自由にさせれば良い。本でも何でも持ち込み可能にして。計算機などの持ち込みも許可したら良い。 そんなもので高得点をマークできるのなら、出題そのものがおかしいのである。 他人の解答を丸ごとコピーするような行為にだけ警戒すれば良い。

大体、入学とか入社の試験というのは主に、その学校や会社に入った後、そこでの作業についていけるかどうかを審査しているのだと思われるが、不正を尽くして入り込んでも、その後の作業についていけまい。 身の丈不相応な成果は、本人を苦しめるだけなのではないか。

私は、音楽の世界における盗作について思いを馳せていた。 音楽に限らず、創作の世界全般に関わること。 盗作というのは、他人の創作物を自作と称することであるわけだが、そんな行為によって名声を得て何になる。 道義的な話だけでなく、そんなんで人気作家になった人は二作目以降どうするつもりなのか。


8/19(月)

私はTVアニメの主題歌に強い関心を持っていて、よくYoutubeとかで昔のアニメの主題歌を漁っては聴いている。 いわゆるPOPSとは(同じ商業音楽ではあるが)違う思想で作られている部分が、ある面白みを確保している。 そういう意味では、昨今のものはあまり面白くない。

最近では、主題歌ってのが広告スペースになってしまっている。 昔のアニメなど、タイトルを連呼するような主題歌を聴くと、なんと贅沢な作りかと感心してしまう。 因みに私は、昨今のTVアニメ制作のスキームに批判的であるわけではない。 これも一種の時代の流れだし、今後どうなるかはさておき、必然ではあったのだろう。 どちらが良いか、ではなく、違いについて言及しているだけ。

似たような性格のものとして、CMソングがある。 これも主旨というかPOPSとは対象が違うから面白い。 適正な尺が違うってだけでも、例えば楽理といった、根本的な作りが変わってくる。 一般的なPOPSでは考えられないような奇抜なものがあったりして、盗める部分を残しているのです。


8/18(日)

脳は可塑性が高く、非常に柔軟であるそうな。 人間形成には教育が肝要であるというのは、この脳の性質に因る発想かと思われる。

義務教育であるとか、それより高度な段階の学校とかいうのは、要するに脳にある一定の型を叩き込むための機関だと言えそうである。 稀に学校に順応できず、不登校になったり、少年院のようなところに収監されてしまう子がいるが、これも要は脳の性能の問題なのだろう。 あるレベルの型が入らない。

これは私の私見ではない。 犯罪者=知能障害者である、というのは医学・統計学的に見てもほぼ疑いの余地が無く、ここについては既に広範なデータが存在する。 「ケーキの切れない非行少年たち」と言う話題の本があるのだが、興味ある方は読まれると良い。 私はまだ読んでないが、いずれ読むつもりだ。

世の中には「浮きこぼれ」ってのもいるから、この種の順応性・適合性の無さってのも、単純に劣等性ではないのかもしれない。 が、少なくとも標準的でないこと、の一証左であることは間違いなさそうである。


8/17(土)

あるゲームをしていたんだけど、途中のあるステージが難しくてクリアできない。 クリアできないなんて生易しいものじゃない。 全くもって惜しくもない。手も足もでないという状態。 因みにパズルゲームのようなもの。

「こんなのクリアできる人いるのか?」とネットで調べてみたら、超難関ステージとある。その攻略ページの作成者も未クリアという。 数ある意見の中には「ゲームとして破綻している」というものさえあった。

バグを利用したチートに近いような方法だとか、単純に課金に応じて条件を緩くしてもらうとか、そういう方法を採るしか無さそうである。アプリの提供者が後者を望むが故の仕様だろうか。

私は長いこと音楽なんて作り続けてきたから、ゲームに至るまで、自然界には何らかの解が存在していると無意識のうちに思ってしまう。 いや、本当にあるに違いないんだけど、それはゲームのクリアなんて瑣末なところに宿ってはいない。


8/16(金)

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弱さ(あるいは強さ)って何なのか、唐突だが考え込んでいた。

例えば、ご丁寧に弱いと言う字まで入っているが、「病弱」な人は弱いのか。 風邪ばかり引いている人は、ちょっとしたウィルスの侵入すらも断じて許さない身体の持ち主で、実は一番頑健なのかもしれない。

では病気一つしない人、ウィルスの侵入に極めて寛容な体質の持ち主の方が、実は弱いのか。 これはこれでそうとも言い切れない。 自己免疫疾患で死に至るケースだってあるからだ。

悩み多き人は、解決策を見出せないのだから、頭が悪いのか。 そんなわけない。 悩みの種にすら気付かずに幸せそうに暮らしている人だっているが、それが本当に幸福と呼べるだろうか。 頭が良い人は、他の人が本来気付かないで良いことにも一々気付いてしまうから、苦悩を抱えやすい。

頻繁に風邪を引く人も、風邪一つ引かない人も、つまりは健康維持にどういう方法を採るかという違いであり、要するにバランスの問題である。 これは生物の多様性とも言えるかもしれない。

一番弱い個体とは、風邪を引きやすい人でも引かない人でもなく、自己免疫疾患のような抵抗反応で死んでしまう人だろう。 つまり、自分が自分を殺してしまう。 抵抗反応すら起こせず、死んでしまうような個体は、おそらくそもそも生まれてこれない。 弱い弱くない以前に、存在しえない。 弱いというのは、在り得るパターンの中でもっとも脆弱であるということ。

究極的に弱い者は、結局誰も救ってやれない。救いようがない。 助けようが攻撃しようが無視しようが、どうしたって結局のところ自分で自分にとどめを刺してしまう。 如何ともしがたい。


8/15(木)

ここ暫く更新滞り気味だったんだけど、別に理由は無い。 曲作りに集中していたのと、それ以外の懸案で頭が一杯だった。


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ギターをフィーチャーした曲を作ろうと思って、その作業に没頭していた。 左右に振った二本のギターに、ベースとドラムのみ。 バンドアレンジというべきか。

付点8分のディレイとか、トレモロ、リングモジュレーター等の定番的効果を盛り込んだ。 中でも特筆点として、今回の曲にはイントロのフレーズにハーモナイザーかましてみた。 私は普段あんまし使わない。

一応昨今のハーモナイザーってスケール上でハモらせれるんだけど、何となく雑な処理である感は否めない気がする。 今回はその雑さを敢えて表現してみたくて、あるフレーズにテキトーにハーモナイザーかましたのではなく、事前にそのハーモニー(ハーモナイザー効果)も想定した上でスコアを書いてる。


8/14(水)

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神田優花、ちょっと久しぶりのレコーディング。 今回二曲録りました。 ニューシングル「Nag」(全2曲)は、再来週の8/28(水)発売です。




8/11(日)

現行のJ-POPとK-POPを比べると、ある側面で見ればK-POPの方が完成度が高い。 そのある側面とは、世界(というかアメリカ)的潮流に沿っているか、ということ。 韓国人は模倣技術において優れている。 歴史的にも、儒教国としてなど、日本より朝鮮は優等生だった。

律令を取り入れ、朱子学を官学とした日本の体制に、ついぞ科挙も宦官も現れなかった。 朝鮮の役で捕らえられた捕虜や江戸期の朝鮮通信使の述懐などを眺める限り、日本は儒教国としては劣等生(後進国)だと思われていたし、事実そうだった。

ただ、だからこそ他のアジア圏とは異質の、高度なプレ資本主義が発達したし、独自の言語、それによる思考パターンを得た。 日本人は科学分野でノーベル賞が取れるし、日本語で学術論文が書ける。 日本製の漢字熟語が東アジア(漢字圏)では共有されている。

J-POP・歌謡曲といったものは、ジャパナイズドされたPOPSと言えると思うが、その、模倣しつつもどうしても滲み出てしまう独自性、の部分が、要は個性なんだと思う。 劣等生は、劣等であったが故に人類に貢献できた。 物事の優劣の評価が、如何に難しいかということ。


8/9(金)

ある対談本を読んでいたのだが、対談する二人(著者とされる)よりも、聞き手の言葉が気になってしまう。 聞き手というのは出版社などが用意したであろう対談の仲介役で、いわばその程度の存在だから発言の量も少ないのだけど、その僅かばかりのセンテンスだけでも、その人物が聡明であることがありありと伺える。

言葉って怖い。 いくら取り繕ったところで、その人の知性は常に丸出しである。 例えばパーソナリティー障害者などが我が知性を演出することなどがあるが、長い目で見ればいつかはバレる。 知性というのはそんなに薄っぺらいものではないからだ。

賢者と見られたい(=バカと思われたくない)と思うなら、結局のところ賢者そのものになるしか方法は無いのだが、それがどうしても分からない人がいる。 つまりはそれが、愚者の愚者たる所以なのかもしれない。


8/8(木)

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キリスト教徒は、何かを誤った時、「誤った」と自ら認識すればそれでもう良かろう。 まだ私などは、たった一人であったとしても、「分かってくれる友人」が必要なクチである。 そこに神を求めてしまうのか。あるいは神をまだ信じ切れていないのかもしれない。

不祥事を起こした芸能人などが、贖罪のためとて、しばしばボランティア活動などを行ったりする。 誤ったと感じたら(それが本心かどうかはさておき)、それを世間に身をもって証明しようとしてしまう。せねばならないと感じてしまう。 ある時にはそれがパフォーマンスに映るし、またそれをせねば居直っているようにも感じられてしまう。

これは生き物としての原理が違う以上、仕方ないことではあるのだが、私自身はキリスト教徒のようでありたいと思ってしまう。 我々は、誤った時に誤ったと思うことができれば、もうそれで良いはず。


8/7(水)

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最近とある事情で、近くの信金に口座を作る必要が生じて、窓口に開設をお願いしに行ったのだが、時代の流れを痛感することになってしまった。 因みに、私は口座なんて久しく作っていない。

とにかくうるさい。 身分証明書と判子ぐらいがあれば良いだろうと思っていたのだが、全くもって甘かった。 用途だとか取引先(振込先)情報の詳細等々、根掘り葉掘り聞かれた上、書類を四枚書く必要があるという。 窓口の行員曰く、上の審査を経る必要があるとのことで、仮にその審査を通ったとしても、場合によっては(口座は作れても)カードの発行までに二ヶ月程度を要するかもしれないという。 その間の利用実績を見させてもらうのだと。

反社会勢力やテロリストなどへの対策、という大義は分かるが、一般利用者の利便性という側面は、ほとんど無視されているように思える。 これも一つの時代の流れではあるのだろうけど。


タバコは簡単に吸えなくなった。 昔は成人男性のほとんどは喫煙者だったし、町中至るところでタバコは吸えた。 バスや電車に普通に灰皿が設置してあったし、多くの人がそれすらも使わず、足元に吸殻を捨てていた。

今はそうでない。 タバコはごく限られた喫煙所でしか吸えず、吸殻の投棄は犯罪であり、処罰の対象となる(これは昔もそうだったろうが、ルールの適用が厳格化された)。 また、喫煙者=病人(ニコチン依存症)であるという社会的コンセンサスが成立し、禁煙外来は保険適用の対象となっている。

この傾向が緩む(逆行する)可能性は、短期的にはほとんど考えられない。 これらは一種のトレンドというより、時間の不可逆性であると思われる。つまりそうでなかった時代に戻ることが基本的にできない。


口座開設についてである。 「羹に懲りて膾を吹く」という言葉があるが、ハッキリ言って現状はやりすぎだと思う。 おそらく近い将来、多少は緩和されると言うか、手続きが簡素化されると思うのだが、しかしこれは時代が逆行することではない。 新たなフェイズに突入するだけ。


8/6(火)

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商業、経済といったものが、人類に近代的精神をもたらしたというのはどうやら本当らしい。 金は嘘を吐かないってことか。

例えば近現代史については、日本は近隣諸国との情報戦に負けたきらいがあるが、要するにこういった話柄が、国際社会にとってメシの種にならないからって面もあるような気がする。 当事者ら以外に、実態を精査する動機がない。

日本帝国主義が如何に極悪・残忍であったとか喧伝されたところで、円の強さは揺るぎない。 現代では、信用という言葉が、経済力とほとんど同義に使われている。 これは一種の誤用なのだが、そう錯覚させてしまう何事かがあるのも事実。

如何に数字上経済大国でも、約束を守らない国の通貨などに信用が集まる筈はない。 実際私の印象としても、韓国と言う国家よりも、サムスンと言う企業の方が信用に足ると思えてしまう。


8/5(月)

複雑なパンニングを実現するエフェクトの類(いわゆるオートパン)がある。フリー物でも中々秀逸なプログラムがあって、一応は私も導入しているのだけど、大した使い道が無い。

定位を単純に左右に動かすだけでなく、シーケンスを組むような感覚で、緻密なパンニングを設定できたり、帯域ごとに異なった動きをさせたりできる。 それは便利と言えば便利なのだが、困ったことに、私にパンニングについてのアイディアが無い。 構想を実現させるための道具が機材なわけだけど、構想が無いんだから仕方ない。

私にパンニングのアイディアが浮かばない唯一の理由は、複雑な定位の揺れを「複雑な定位の揺れ」という具合に、言語で一まとめに丸めてしまいそうになるからで、それ以上の細分化が難しい。少なくとも思考上のワンクッションを必要とする。

以前チップチューン作ってる時に、波形メモリーで音色エディットしたことがあるんだけど、その時にも似たようなことを思った。 三角波とか矩形波とかなら耳で聞いても分かるんだけど、波形弄ってオリジナルの音色作ったところで、「ちょっと変わった音色」という一つのモノに丸めてしまうんだ。 それが私の固有の言語機能だから仕方ないと言えば仕方ない。


8/3(土)

自由(freedom)とは、「自らに由る」という意味である。 思想信条の自由だとか表現の自由だとか、そういうのを標榜し、エゴイズムの隠れ蓑にしようとする人がいるけど、自由とはそんな低次の概念ではない。

私には固有の思考があり、そこから思想・信条が生まれている。 どのような哲学を持とうが、どういった宗教を信仰しようが、それは私の自由である。 仮に今の日本が、北朝鮮のような収容所国家になって、信教の自由を拘束しようとしたところで、入信や布教といった宗教活動に制限が加わっても、私の信仰は揺るがない。 信仰は私固有の思考が形成しているものであって、国家権力だろうが何だろうが、それは侵すことのできないもの。

私は音楽家であり芸術家であるのだが、表現の自由がどうしたなんて声を上げたことなどないし、そんなもの誰かに保障して貰おうとも思わない。 自由は私の中にあるものだ。

発表や換金に、制限が加えられることならしばしばある。 例えばルールを逸脱した引用は盗作と見做されるが、それは誰かの自由が侵されているのではない。 マテリアルな世界に生きている以上、王法の制約は常に付いて回る。 それは赤信号で歩みを止めているのと同じこと。私の思想とも自由とも関係ない。


現在開催中の国際芸術祭にクレームが殺到し、一部展示を撤去する事態になっているという。曰く「表現の自由」だとか、紋切り型のお題目が飛び交っていた。 私は表現者だが、全くその芸術祭の主催者側に同情の念を持たない。

そんなにやりたければ税金を交付してもらうでなく、私費でやったらよろしい。 私費でやったところで、他人の気分を害せば、そこに制約が加わることは考えられるが、それも自身で処理せよ。 自ら切り開くものが自由である。


8/2(金)

理解って大切だ。 隣人を、愛するかはさておき、理解はすべきである。 理解は相手のためというより、自分のためにするもの。

日韓関係は悪化の一途を辿っている。今後の更なる悪化も避けられそうにない。 私だって彼ら韓国人の言動を理不尽だと思うし、非とするが、同時に日本人には、彼らを理解してあげて欲しいとも思う。

彼らは横暴・搾取的なのだけど、それは彼らが弱い民族・国家であるからで、そうなってしまったのは、地政学的理由に因る面も大きい。 だが、何事においても、本来全ての責めは自らに帰するはずだ。

恫喝と懇願は紙の裏表で、要するに相手から何かを奪うためのもの。 恐喝するチンピラと物乞いは同種の生き物である。 その共通点は、対象に依存してはじめて生きていけるところ。 それぞれがより効率的な搾取法を選択した結果、そのような形態を為すに至った。


今日、韓国に対する、いわゆるホワイト国除外の決定がなされた。 規制・報復なのか、あるいは単に管理の厳格化であるのか、などという議論が見られたが、要するに日本は、韓国の通商上の格付けを下げた。 その決定に対して出された、あちらの大統領から公式な声明を、私は溜息と共に眺めていた。

曰く「全責任は日本にある」そうだ。 彼らの感じている気分が、そのような言語で表現された。 彼の主張が正しいかどうかはさておき、彼ら韓国人の思考法があのようであることは間違いなさそうだ。

ある事態、ここでは不幸な事態であるが、その全責任を他に求める思考法が、その人の何になるだろう。 健康にも安寧にも成長にも幸福にも繋がらず、ひたすらに自らを不幸に陥らせることにしかならない。彼らは、自ら我が身にとどめを刺している。 私が感じる弱い民族、とはこういうこと。


他人を大切にできぬ者とは、自分を大切にできぬ者。 人間とは、その人の持つ人間関係のこと。 隣人との信頼関係をここまで徹底的に破壊できるのだから、彼らは弱い。 悲しいほどに弱い人たちで、それは彼らとの間に友情を成立させるのが、絶望的に難しいことを意味している。

彼らは言う「韓国人はプライドが高い」と。 「プライドの高い私を傷つけることは許さない」という人。彼はプライドの意味すら分かっていない。 そんなことを口走ることを「恥ずかしい」と思う羞恥の感覚、それこそがプライドであり、自律の感覚である。

彼らとどこまでも付き合い続ける必要はない。 今日本は、精神医学で言うところのターゲットとされている。 怒りのアクションをぶつけるでなく、無視するのが一番正しい。 「心の揺れ」を感じさせるべきでない。


困った隣人の存在を嘆くこと、これも一種の依存である。 我々は常に、我々のあり方しか選べない。 困った隣人に対して選択しうることは、彼との付き合い方のみ。


8/1(木)

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宇宙物理学・天体物理学の本を読んでいると、気持ちが悪くなってくる。 しかしアインシュタインという人は、本物の天才らしいな。 彼の予言が後世、次々と立証されて行く。現代の学者らも、やっと彼に追いつきつつある。

私が人生の全リソースを捧げたとしても、相対性理論には行き着かなかったろう。言うまでもない。 理解までに至ったかも怪しい。当然現時点では理解すらしていない。


7/31(水)

ここしばらく、日韓関係についてのニュースを興味深く見守っている。 と言いつつ、私には日韓の外交問題などどうでも良い。常に気になっているのは、韓国人の思考のメカニズムである。

日本人と言うのも、韓国人ほどではないにせよファナティックな民族で、両者は似ていると言えば似ている。 太平洋戦争が終わるまで、日本国内に蔓延していた狂気のような圧力に似たものが今の韓国にはあるのだろう。 日本は戦後一転、市民社会のようなものを一旦希求しはじめると、これほどに模範的な市民社会を築けてしまう。その優等生ぶりなども含め、ここで言うファナティックさの傍証だろう。

戦争に負け、国が崩壊するような事態になってはじめて日本が正気になったように、今の韓国も一旦身をもって反日の代償を知ってもらうしか、生まれ変わる方法は無さそうである。 まあそれでも本質的には変われないかもしれないが。

反日を無料(free lunch)とさせてきたのは日本の側だろう。 日本に対しては、いくら文句を言おうが嫌がらせをしようが、報復されることもなく、一方的に恩恵のみを与えてもらってきた歴史がある。 絡んでいくと何かが貰え、非難すればするほど国内的な地位も上がる。端的には政権の支持率とか。 ある思考パターンを持つ者にそんな環境を与えれば、あのように際限も無くなろう。

彼らの収奪は留まるところを知らない。 竹島も仏像も彼らは返さない。返さなくとも何のペナルティーも無いのだから、あるタイプの人間ならそりゃ返さないだろう。 収奪の限りを尽くし、次なる手立てが思いつかなくなった暁に、彼らは人類の常識では理解し難いような国内判決を盾に、韓国内の日本企業の資産を差し押さえた。 合法の名を語った略奪行為で、国家犯罪として歴史に刻まれるに違いない。

「ペナルティーなどなくとも、そんな相手の嫌がるようなことなんてしたくない」と思うのは、良心であり道徳・共同体感覚である。 そここそが、銘々の映す現実である。無い人には存在しない。 報復を恐れることは罪悪感ではない。

今後も韓国には、周期的に政権交代が起こるだろうけど、あるいはもっとラディカルに、新たなレジームが生まれるかもしれない。 その新体制は、ほぼ間違いなく旧体制に批判的であるはずだけど、仮に親日に転んだとしても、日本人はもう騙されてはいけない。 距離の取り方を間違えると、また元の木阿弥だ。

話しても分かり合えない人と分かり合える方法はあるのだろうか。 まあ基本的には無い。 人はそれぞれ映している現実が違うから。 シマウマがライオンに愛を説いても、ライオンから見ればシマウマなど単なる餌だ。


7/30(火)

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音楽をはじめとする創作の世界では、「パクり(盗作)はイカン」ってのがコンセンサスになっているようなのだが、この風潮もなんとかならんものか。

別に盗作を推奨しているわけではない。他人が作ったものを自分名義で発表してはダメだろう。 しかし模倣は学習の基礎である。それができないようでは創作をやろうにも、発想を形にする作業の能力が身に付かない。 ピカソは「Good artists copy, Great artists steal」と言っている。

商業音楽の世界などを眺めていても、結局表面的な成功って、模倣能力に拠っている部分も大きいと感じる。 独創性が高いことより、模倣能力が高いことこそが、商業的成功に繋がっている。 私が言いたいのは「パクるな」ではなく、先ず「もっと上手くパクれよ」である。 どうせほとんどの人は、大した独創性なんて持ってないんだから。


7/29(月)



9/11(水)、佳乃のニューシングル「I'm a Queen」(全2曲)発売です。

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7/27(土)

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「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言うビスマルクの言葉があるという。 要するに人間は、学習と言う作業に時間感覚を使うのだろう。 時間軸こそが、その人の知能なのかもしれない。

欲しいものを手に入れるため、それを盗むとする。それはある時間軸をもって見れば、モノが無償で手に入ることなわけで、得である。 長い目で見れば、そんな生き方が続くわけがないことは分かるはずだが。

クレジットカードでモノを買えば、商品が手に入るのは今、代金を払うのは未来である。今しか存在しない世界では、それは当然の行為なのかもしれない。 しかしその代金はいずれ支払わねばならない。あるいは利子さえ付けて。 ある時間軸をもって見れば、それが得策でないことなど自明であるからして、多くの人は軽率にそういう行動を採らない。

他人に金を無心すれば、あるいは小銭が手に入るかもしれないが、貰うことしかアタマに無い人は、いずれその他人から縁を切られる。 他人の側にとっては、それが最も合理的な行動であるからだ。

脳内の時間軸 とは、その人の知能・知性そのものなのだから、何を言ったって通じない者には通じない。


7/26(金)

仲の良くない日韓両国だが、「反日」という言葉は使われても「反韓」という言葉は使われない。 同時に、嫌韓は聞いても嫌日は聞かない。寡聞にして知らない。

たかが用語と言うなかれ。こういう部分に人間の気分は滲み出る。 日本人は韓国に対し、反抗・反撃などをするでなく、「金輪際関わりたくない」と思っている。 一方韓国の反日は、関わりつつ収奪したいという気分が現れている。 だから今でも対話を切望しているし、寝技に持ち込めばなんとかなると思っているらしい。 因みに「二者関係を好む」というのは人格障害者の特徴であると言われている。

太平洋戦争の終結を、日本人は「敗戦」でなく「終戦」と呼んでいる。 アメリカ人ならきっと敗戦と呼んだろう。「次やる時は勝ってやる」という気分を持つだろうから。 負けがこんだギャンブラーが「負けた」とは言っても、「終わった」とは言うまい。


7/25(木)

量子力学を概括するような本を読むと、ほぼ必ずと言って良いほど出てくる二重スリットを使った実験の話がある。 興味ある方は調べて欲しいのだが、粒子性と波動性を併せ持つという、量子の不可思議な性質を証明するもの。 観測という行為によって、結果出来する未来は左右されるという。

量子力学は発展途上である。今後上記の現象についても、より明快な説明がなされる日が来るかもしれない。 今私が考えているのは、量子そのものの不可思議な性質というより、「観測」が世界に与える影響についてだ。

水は摂氏百度で沸騰する。 薬缶を火にかける時、それをテレビカメラを回して観察しようがすまいが、百度で沸騰することは変わらない。 我々はそれを当たり前のことだと思っているが、量子レベルの世界ではそうでないという。

火にかけた薬缶が、観察により影響を受けないのではなく、そこで生じる対象への影響が比較上微弱過ぎて、それを我々が感知することができないだけなのかもしれない。 物事って難しい。 神学論争だっていまだ結論を見ない。量子の世界が解明される日は来るのだろうか。 私は来ると思っている。ついでに、神の実在も証明されると思っている。


7/22(月)

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相対性理論を100%理解できる人は、現代においても稀だろうが、発表当時は、今とは比べ物にならないくらい難解であったろう。 アインシュタイン自身もそれをほのめかしている。

地動説を唱えたコペルニクスを、ほとんどの者は信じなかった。 相対性理論は理解されなかったろうが、相対性理論を唱えたアインシュタインを信じない者は少なかったような気がする。 人類は進歩している。

ピカソの絵は、常人には理解し難い。 彼の脳内でどのような演算が行われているのか、トレースできる人が少ないからだ。 しかし、彼の語録を見ても、その絵を見ても、そこに何らかの真実が秘められているような気がしてしまう。

そこにあるかもしれない何らかの可能性を信じてしまうのは、我々が人類の一員であるからだろう。 もしそれを感じることがあったならば、我々はその芽を、全力で守らなければならない。


7/21(日)

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体調の話をあんまりすると「引かれる」から、なるべく言わないよう努めていたのだが、やはり調子が悪い。

一種の不眠症になりつつあるのだが、不眠症って単に眠れないのでなく「眠いのに寝られない」という状態だったりする。 疲れてスイッチが切れるまで起き続けてしまう、というような。 よろしくないことだとは重々知りつつも、寝られないもんは寝られない。


7/17(水)

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神田優花、リハーサル。 本人、体調も回復基調にあるようで、そろそろ次の歌入れの目処が立ちそうです。 ニューシングル「Nag」(全2曲)は、予定通り8/28(水)発売です。




7/16(火)

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日本人が普段使っている(読んでいる)漢字と仮名は、それぞれ処理する脳の領域(細胞)が違っているそうだ。 エミュレーターのような脳内プログラムを介して処理しているということか。

話し言葉としての日本語は、まず土着の大和言葉に外来の漢語が移入された。 書き言葉については、仮名はまず漢字ありきで生まれた。 この辺のプロセスは、わりかしハッキリ判明している。

漢字と仮名のハイブリッド処理を行う脳と、例えば漢字のみや、アルファベットやハングルのような表音文字のみでの処理とでは、OSごと違う機種だと思った方が良い。 シンプルな音声データの再生機序が他機種間でも共有されるように、同じ人間なのだから、当然共有できる何事かはあるだろうが、「違う」と言う前提を忘れるべきではない。

韓国は自国文化から漢字を排した。 つまり、日本人で例えるなら、仮名で全てを表現し、思考している、ということである。 脳は競合的である。ある領域はゴッソリ淘汰されよう。 漢字を使わないと高度な思考が形成できない、というわけではない。 リンガ・フランカである英語だって表音文字による。 ただハングルとは、表音文字としての歴史的成熟度が違う。

ハングル(訓民正音)は、その生まれだけを見ると世宋の頃だから15世紀前半、日本史で言うところの室町時代に当たるわけだが、当時はさほどに膾炙しなかった。 事実上、普及したのは日韓併合後、韓国人の言う日帝時代になろうか。 つまり百年程度の歴史しかない。 韓国自体、日本の敗戦と冷戦の微妙なパワーバランスの上に成立した国家である。 非常に実験的な国家・民族と言って良いかと思う。


私には「白馬非馬説」の概要がいまだによく分からない。 漢文・漢籍を原文で読むと、句読点も助詞もないその漢字の羅列に頭が痛くなってくるが、漢字・漢語のみで思考する彼ら中国人と我々では、最も下層のレイヤーが違っていると思うべきだろう。 だから白馬非馬説が分からない。 詭弁だと見做す、ということ以前に主旨が分からない。

人種・民族間に遺伝形質上の差異が無いとは思わないが、言語やそれを含む文化の方が、壁としては巨大であると感じる。

以前このページで触れたのだが、ある時、一見黒人にしか見えない女性コンビニ店員(名札には何やらカタカナがふってある)がいて、あまりに日本語が上手く、物腰も日本人的だったから、「お国どちらですか?」と尋ねたら「私ハーフなんです。生まれも育ちも日本です」と答えられた。 彼女は日本文化の中で育ち、きっと脳の最下層のレイヤーには、日本語が刷り込まれてある。 彼女は正真正銘日本人である。肌の色なんて筐体のカラーリングに過ぎない。


韓国人のことである。 韓国人を現韓国人たらしめている、最大の文化的要因は何なのだろうか。 大掴みには言語としか言いようが無いだろうけど。

ここ最近の日韓関係について、あるTV番組でディスカッションが行われていたのをたまたま見たのだが、そこにパネリストの一人として韓国人がいた。彼の肩書きは日本の大学教授で、詳しいプロフィールは存じ上げないながら、話し言葉のニュアンスから、その日本語は後天的に獲得したものと思われた。

彼は基本的に、韓国を擁護する立場にあったようなのだが、しばしば他のパネリストからのツッコミが入る。 論旨のおかしさもさることながら、単純な事実誤認が何度も指摘される。 何度正しても同じ誤認を繰り返し、議論にならないからか、仕舞いには「あなたはこの度の件において、韓国側に非が無いとお考えなのか」とまで問われてしまう始末。大学教授にしてそれである。

韓国人はしばしば、「こうである」と言う事実より、「こうあるべき」と言う観念を優先すると言う。 実際眺めていてその通りなわけだが、想像と現実に明確な線が引けないこと、それは言い方を換えれば「統合が失調している」と言うことでもある。 人間としては危険な状態である。


ここからは私の想像も混ざるが、おそらく韓国文化は「非論理」をある程度許容する。 論理とは言語・思考そのもので、非論理が含まれると、その言語由来の何事かがいつか破綻する(と言うか、そもそも形成されない)。 理性・自律性・良心等々、全ては論理性の派生物だ。

何事かを論理に優先させる文化を持った以上、それは破綻するだろう。 その何事かってのは、生存上の利点ということになるのだろうけど、それは古いタイプの人類、あるいは人類以外の何かにとってのそれと言うべきもので、そんな性質・原理性をもって現代の人類社会に溶け込むのは難しいのかもしれない。

韓国の分析については、経済や外交のスペシャリストも良いけど、それより心理学や精神医学のスペシャリストに任せるべき領域が大きいと思う。


7/15(月)

今年のリリースタイトル、発売の為の事務作業中です。

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ラマチャンドランはピカソを天才と評していたのだけど、ということは、つまりは彼はピカソの脳内で行われていた何事か(思考・演算等)を、大づかみにはトレースできたのだろう。 天才の天才性なんてものは、やはりある程度以上の知能を持つ者にしか分からない。


7/14(日)

量子力学の本とか読んでいると、アタマがこんがらがってくるような気がするが、要するに混乱するという均衡に落ち着く。 我々の理解しているこの世界は、ある面別の解釈で理解すべきものなのだろう。

量子エンタングルメントの話を摩訶不思議に思えたりもする。 今の私に、量子エンタングルメントについての詳細を説明する気力はない。興味ある人には調べて欲しいのだが、簡単に説明すると、ある方法で生成された粒子群は、ある粒子の状態が決することによって、別のある粒子の状態も決するという。 これは何万光年離れていようと起こる現象であるという。 「確率」の形成プロセスの鍵が、ここにあるとも思える。

Aが起こればBが起こる、のではなく、Aが起こった際、連動してBが起こった世界にしか我々の歴史は進行することができないのかもしれない。 まあ分からないけど。 間違いなく言えることは、淘汰された無数の可能性の枝葉の中から、現在は選択されている。


曲を作っているとよく思う。 ノートデータの配置一つするにしても、それは無数の可能性からある一手を選択している。 選択するということは、それ以外の可能性の枝葉が排除されているわけだけど、その無数の選択の帰結として、一つの作品は完成する。 完成とは、排除の集積である。 ついでに創作とは、私の考える「美」の確認作業である。

まるで無限のような可能性の中から生まれた奇跡、それが曲であり、それを含む一々の事実である。 それはあたかも、二度と再現することが不可能であるようにさえ思えるが、一旦成立した以上、その再構築は可能である。成立したのだから。 気が遠くなるようなか細い可能性であったとしても。


私は友情に価値を置く。 仕事仲間であろうが、親子兄弟親類であろうが、あるいは恋人であろうが、それらの関係よりも、まず人は互いに親友であらねばならない。 親友たり得ない人間関係に、私は価値を感じない。 親友を得るため、我々にできることとは、誠実に生きること。それだけ。

友情とは、ある固有の思考回路と思考回路とが、その間に成立させたもの。 成立したのだから、それは永遠である。 あたかも同一周波数の振動体に起こる共鳴・共振のように、普遍の現象である。 時空の果てまでも続いていく。

歴史が、何故無数の可能性の枝葉を排除しつつ今を構成したのか。 また、未来に向かっているのか。 やはりこの宇宙は、どこかに向かっているのではないか。 取捨選択の基準、それが要するに「美」なのではないかと私は思ってます。


7/13(土)

れいわ新選組という政治団体ができたらしい。新元号を取り入れているし、新しい団体なのだろう。 新選組は当然新撰組から取っているに違いない。 維新がどうだとか、あの時代がみんな好きですね。 実際大河ドラマなんかも、幕末維新の頃と戦国時代が一番視聴率取れるらしいし。

改革を謳う勢力ってのは、逆説的ではあるが、大抵復古主義みたいなのに染まる。あるいは原理主義と言い換えても良い。 明治維新の中心勢力も、尊皇攘夷(南宋の時代に生まれたもの)だとかカビの生えそうなスローガンを掲げていたし、ごく短期間だが太政官制を復活させた。

それにしても上記団体は、新撰組何たるか本当に分かっているのだろうか。 私の印象としての新撰組は、一種の特殊部隊で、殺人技術のスペシャリストたち。その性質は頑迷固陋、保守の権化である。 権力闘争の絶えない血生臭い集団で、概ね歴史発展の阻害要素であったとも言っても良いかと思う。 また構成員・関係者らは、出自が卑しいからか、出世欲・上昇志向が強く、人間的にも尊敬できない人物が多い。 ハッキリ言って、後継者なんて名乗りたくない。

維新という言葉の出典は詩経であるという。 要するに革命(Revolution)と言いたいのだろうが、万世一系を建前とする日本で、更には復古主義を謳っている以上、易姓革命(王朝交代)はマズいと思ったらしい。 一応の選挙対策のようなものは整っていたようだ。それなりのブレインがいたのだろう。

Revolutionの対訳に革命を当てたりするのは、Godに神を当てるような、典型的な異言語間の齟齬であろう。 福澤諭吉とかが新しい言葉作るべきだったな。


7/12(金)

隣国というのは基本的に不仲なものだと言われている。 地理的に近い(だから当然人種的にも文化的にも近いことが多い)のに国境を持ち、国を別ったのだから、その理由があると。 まあ見当外れな見方ではないだろう。 日韓の仲はだからこそ悪いのか。 また、その前にそもそも日韓は近いのか。

日本と韓国(朝鮮半島)は、言語の系統的には近い。現在、日本語と韓国語は全くの異言語になってしまっているが、その昔(といっても少なくとも数千年単位の)、両国語は互いに方言に近い存在であったろう。 だからある面において、似たような思考のプロセスを持っているに違いないのだが、「似ている=協調し合える」なんてことはない。 「協調性が無い」という共通の性質を持つ者は、似てはいても相容れない。 だから例えば「交友」という側面のみを見詰めれば、その成立は得がたかったりする。

文化的には近いのか。 私は遠いと思う。 表面的には、歴史上、稲作や仏教・儒教など、同種のものが流入してきたわけだが、受容の濃淡・解釈が違えばそれらは全く別物である。 この程度の傍証をもって近いとするなら、例えばエジプトとインドネシアは同じくイスラム教国だし、ヨーロッパと南米は同じくキリスト教圏である。 因みに韓国もキリスト教国だ。定めし非正統的解釈にて受容していることだろう。

朝鮮半島はある面ではやはり中国との方が近かろう。 言語的には全く別系統(世界の言語を四つくらいに分けても別のカテゴリーになる)だが、儒教国であり、その骨子とも言える徳治主義や天人相関説といった世界観を一応は共有している。 それが端的に現れている点として、北朝鮮には、自国が韓国より優位にあるという気分を感じるし、韓国もその序列感を受け入れているように見える。その韓国は、どこかで日本を見下している。 彼らが中華世界の住人で、中原を世界の中心と見るからだろう。 世界観というのは民族の一つの本質に違いない。

現代中国は一応は共産主義国で、非儒教国であるとされているが、言われているほど単純であるはずがない。 そういう思想が一旦は骨肉化したということは、それを受容する(抵抗するものの無い)素地があったということ。 そちらの方が物事の本質である。

支那と朝鮮が歴史的に「主従関係にあった」というのが、実に大きな違いのように思われるかもしれないが、そうではない。 いじめっ子といじめられっ子は、ある同じ価値観を共有しているからこそそういう関係に落ち着ける。 その子らは似ている。

アメリカ人がキリスト教を信奉するように、日本人は仏教を信奉しているのか。また、日本人にもキリスト教徒はいるが、アメリカ人と同じ解釈でそれを捉えているのか、というと、決してそうではない。 アメリカ人の考えるreligionと日本人の感じている宗教とでは、レイヤーが違う。 日本人に信奉するreligionがあるなら、それは日本教とでも言うしかないものだ。 日本では、日本教徒が宗教というアプリケーションを選択しているだけ。 ともかく、世界観こそが民族だ。

何と言うか、結論のない話をダラダラと述べてしまったが、間違いなく今の私の懸案の一つではあります。


7/11(木)

地方のことはよく知らないが、東京というか首都圏のほとんどの鉄道では、最近ホームドアというのが設置されていて、酔っ払いなどがホームに転落しないようになっている。

たったそれだけの工夫でも、転落事故(最悪死人だって出る)がほぼ過去のものとなる。 そして人々は、その過去を摩訶不思議なものとしてしか見られなくもなる。 在るということ、知ってしまうということは、それを人々が我が現実に組み込むということ。 そしてその時間というものは、基本的に不可逆である。

物事が変容するということは、この世界がどこかに向かっている、ということでもあるのかもしれない。 淘汰されるもの、生き残るもの、どちらにも理由がある。


7/10(水)

物凄く当たり前のことだが、人間の成長(発達)は、個別の目的地に向かっている。 例えば子供は、発達の機序が正常であれば逐次マトモな大人になっていくが、正常でなければ、逐次異常者に近付いていく。

幼児が凶悪犯罪を行わないのは、単にそれが「できない」からである。 多くの大人も凶悪犯罪を行わないが、それも同じくできない(しにくい)からで、少年には、その社会の圧から解放される、いわば真空状態と言える時期があって、そこが凶悪少年犯罪の温床となったりする。

「悪い子だけど、成長すれば良くなるでしょう」という楽観は見かけるが、「その子がどこに向かっているか」によってその未来も左右される。 正常に発達しているのなら、その悪さは単なる未熟さで、大人になるにつれ改善されて行く。 異常者に向かっているのなら、その子は日々異常者としての完成度を高めていく。 やれることが増えれば増えるほど、有害性も増す。

異常者が異常性を発露しなくなった状態を、医学用語で「寛解」とか言ったりする。 別に正常者になったわけではない。 異常者が、異常性を発揮しにくい環境に置かれたというだけだ。 その異常者の内包する異常性が強ければ強いほど、寛解とは負荷の強い状態だと理解して良い。 つまり暴発・決壊の危険性を孕む。

最近の私は、子供などを見た時、その子が「どういう人物か」、言い換えれば「どこに向かっているか」が瞬時に分かってしまう。分かる気がしてしまう。 親御さんなどには悪いが、悪人が善人になったりはしそうにない。 悪人には、悪行を抑えるための調教を施すしかない。


7/9(火)

何日か前に弄ってるって言ってた音楽エディター(トラッカー)、あらかた使い方が分かってきた。 が、同時にその限界も分かってきた。

まず1トラック分のパターンを作成し、それを組み合わせることで曲にしていく仕様。一般的なトラッカーと旧式のシーケンサーの仕様を折衷したようなもので、これ自体は割かし明快だ。 パターンというのは、要するに数小節分の音楽(ノート配列など)を記録した、楽曲の最小単位のこと。

ゲーム音楽を想定しているからか、どうやら曲の終わりが設定できない。曲が終わる、という思想で設計されていない。 1ステップあるいは指定した複数ステップのループにしかできない。つまり、楽曲は停止するまで永遠に繰り返される。 終わりがあるらしき構成にするなら、空白の小節をいくつかお尻に入れる、とかするしかないのか。 それにしても暫くするとアタマから再生されるが。

テンポ(曲のスピード)は当然設定できるが、おそらくBPMベースではない。 BPMによって制御される一般のDAWのようなものとは異世界である。 あとこれはエミュレーター側の問題だが、オーディオファイル出力のような機能は無い。 オーディオデータ化しようと思うなら、オーディオループバックとか使うことになるかも。

サウンドやアルペジオのエディットなど、細かい部分はまだしっかり理解していないが、過去の経験からある程度類推できる。 因みに音源部はいわゆるSID。 音自体は目新しいものではないが、入力のインターフェイスが違うと、違う角度から発想が生まれるかもしれない。

NES(初代ファミコン)にはいくつか音楽エディット用のソフトがあったんだけど、どれもハッキリ言えばオモチャで、音楽制作の実用に堪えるとは言い難かったのだけど、上記のエディター(vic-trackerという)は、それらよりはマシに思える。 かなり無理すれば使えなくはない。


7/8(月)

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胃という臓器には消化という役割(機能)があり、腸という臓器には吸収などの役割がある。 肝臓のように非常に多目的で複雑な臓器もあるが、なんらかの機能を持っていることに違いはない。

人は十人十色などというが、同じ発生を辿り、生物学的に同じ人類の定義を満たしている程度には同じである。 同じだから私にもあなたにも肝臓はあるし、血管一本毛一本に至るまで、法則に従ってある範疇の中で形成される。 また、その肝臓が悪くなると、黄疸などという典型的な症状が現れる。 機序が同じであるからだ。

脳というのも一種の臓器である。 ある機能を持ち、(正常な)動作に一定のメカニズムを持っている。 不具合が生じれば、他の臓器と同じように典型的な症状が現れたりもする。 不具合の出方も含めた定式を持っている。

だから心療内科や精神科などというものが成立しうる。 他の病と同様に、精神にも一定の法則性があり、一般化できるからだ。 あるアルゴリズムによって成立しているものなのだから、不具合にだって法則性が当然ある。


本を読んでいると、昔よく見られた誤字脱字が最近は減り(というかその内容が変わり)、誤変換の方をよく見るようになったことに気付く。 理由は単に文字入力・入稿のプロセスが変わったからだ。 機能性とエラーには密接な相関性がある。

もし例えば中国人などという、他言語を使い異なる思考プロセスを持つ者に、写植だの校正だのという作業をやらせれば、きっと標準的日本人とは性格の違うミスが生まれるはずだ。 機序が違うから。


韓国人のことを「パーソナリティー障害者と似ている」とする意見をネット上で散見するようになった。私も前からそう思っていた。 パーソナリティー障害はいわば脳の不具合なわけだが、脳にも正統的とされている動作があり、また、エラーにも典型例がある。

両者(韓国人とパーソナリティー障害者)が似ているのは、思考がある面において、同じプロセスを辿っているからである。辿りがちになる何らかの要因があるのだろう。 遺伝的要因なのか、言語などという後天的な環境に因るものなのか。まあハイブリッドであろうが。

パーソナリティー障害に定式性があるのだから、当然パーソナリティー障害者の対人においても、定番的帰結というのがある。 この辺は専門家には自明のことだろうが、今の日韓関係を眺めていると、そこに何の矛盾もない気がする。

日韓関係は「最悪」だとか言われているそうだが、私はそうは思わない。 最悪というのはこれ以上ないほどに悪化した状態という意味だろうから、更なる悪化が容易に予測できるケースにおいて適当な表現ではない。


不思議なことに、今の日本には(ヨーロッパのような)極右政党が無い。少なくとも、一定の政権担当能力のようなものを持つものは見当たらないと思う。 これは日本人が健全である証拠なのかもしれないが、今もしそういう政党が現れたら、きっと大きな支持を集めるに違いない。 断っておくが、私は「現れて欲しい」と個人的に思っているわけではない。

物事というのは、何かが在ったことなどより、それを在らしめる環境があったことの方に本質がある。 ある現象が起こりえる環境が整ったなら、それはもうその現象が起こったのと同じである。 あとは具体的条件が揃うかどうかだけ。 圧縮空気が形成されたことこそが問題の本質で、爆発するかどうかはまた別の話である。 平明な論理力をもって推せば、日韓の間にバラ色の未来は想像し難い。


7/7(日)

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ある音楽エディターを弄っている。 VIC-20(そういう昔のコンピューター)やそのエミュレーター上で走らせるプログラム。基本的にトラッカーベース。 いわゆるチップチューンを作るもの、といえば多少は理解の足しになろうか。チップチューン熱が再燃しているわけではない。

まあ完全にフリー物だから仕方ないが、不具合が多いしマニュアル類が不十分で使いにくい。というか私には難度が高い。 特にエミュレーターは、不必要なほどに実機の再現性が高く、数々の設定を乗り越えないとまともに使いこなせない。

トラッカーというのは物によって多少の違いはあるが、大雑把には皆同じようなものである。 MIDIエディターのピアノロールとかMMLの入力方法に、モノによる大差がないのと同じ。 私も過去、いくつかトラッカーは使ってたし、それで作った音をリリースしたこともある。 ただ、私程度にでも作業の領域が広範になってくると、使わないソフト・使わない機能については、片っ端から忘れて行く。忘れるようにしている。そうしないと支障が出る。 つまり、今の私はトラッカーをほぼ使えない。コマンド類もほとんど綺麗サッパリ忘れてしまっている。

マニュアル類とか過去の自分が残したメモなどを見ながら、一々の作業方法を思い出しつつ、今操作に取り掛かっている。 一度はある程度できていたことだから、きっとできなくはない。 ただ、過去のケースと全く同じ環境ではなく、その個体差のようなものが実は結構大きな障害となる。 個体差ってのはアプリケーション面(トラッカーそのもの)においてのそれもあるが、エミュレーターの癖とか、そういう面も大きい。

操作法の習得作業を行いつつ、「もう少し丁寧なマニュアルとかチュートリアルの類があれば、全く作業の効率は違ったろう」という憾みを感じなくもないが、プログラムを作る能力とその懇切丁寧なマニュアルを作る能力は別というか、あるいは干渉しさえするものであることを、今の私は知ってしまっている。 だから諦めざるを得ない。


7/6(土)

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プロ野球の世界で「サイン盗み」は悪いことというか、ルール違反だとされているらしい。 「盗み」とかいうから本当に窃盗とかそういう犯罪行為を連想するのだろうけど、実のところ何の物質を盗んでいるわけでもない。 暗号を解読しているだけ。他言語を習得するようなものか。

ある時期まで、そのサイン盗みは(当然)悪いこととされておらず、癖や配球を見抜くことと同様の、戦術の一種であったという。だから、それをやっていることを選手などが公言することも、さして憚られることではなかったろう。 「機密」であるという、別の事情で憚られた部分はあるかもしれないが、それはあくまで違う意味だ。

善悪はさておき、サイン交換をする側にとっては、それを解読されてしまうと戦術上不利である。 が、サインを絶対に読まれない方法はある。 一球ごとにキャッチャーがマウンドに駆け寄り、次の配球をピッチャーと口頭で打ち合わせれば良い。 一球ごとにタイムをかけることになるわけだが、ある時期、プロ野球は本当にそれに近い状態にまでなっていたらしい。

そうすればサイン盗みはなくなるが、試合時間が伸びる。 プロ野球は興行なので、試合時間が伸び過ぎると、集客や放送などの都合と抵触する。 だからある時、サイン盗みは禁止された。 今は協約にもハッキリと、罰則付きで違反と謳われているらしい。

スポーツにはルールがあり、ルールの上で行うからこそスポーツである。 だから禁則には従わねばならないわけだが、それと善悪の価値基準とを混同している人をたまに見かける。 そこは教育などで正して行くべきだと思うのだが、如何なものだろう。 インサイダー取引とか、悪業だと本気で思われていたりする。


7/4(木)

ある作詞家の著書をいくつか読んでいる。自伝のようなものや詩集など。 小説もあるようなのだが、それは読んでない。多分読まない。

詞を書いて生きて行くなど、実にのどかな話である。 詞(詩)を書く人であれば、その人は即ち作詞家(詩人)なわけだけど、人間の可処分時間には限界があり、食うに窮する人が作詞なんてのどかなことをいつまでもやっていられない。 この社会ではそうであるべきだとされている。 その著者は事実作詞家なわけだが、実際に作詞で食べて行ける人なんてごく僅かである。

昔と違って、人類、特に先進国人は、人口の大部分が食糧調達に汲々とする必要はなくなっている。 多くの人は、実は必要ない仕事に日々の大部分を費やしている。 他にやることがない人なら結構だろうが、詩を書きたい人にはかわいそうな話だ。

BI(ベーシックインカム)構想ってのは、生まれるべくして生まれた発想だろう。 私は、人類はそのような体制にいずれ行き着くだろうと思っている。 有閑階級が増えれば、日本にルネサンスが起こるかもしれない。

多くの現代人は、生きることと働くことを区別していない。確かに区別しにくい。 私の言う「生きること」とは生存することではない。自由であること、自律的に振舞うことを指している。 せっかくこの世界に生まれたんだから、我々は生きねば。


7/3(水)

K-POPはある側面における完成度は高いが、そのある側面、一様の価値が支配的である。 ある型の曲のみを佳曲としているきらいがある。 そういえば韓国社会では、美人の型も基本的に一つである。

多様な価値が生まれない世界はきっと弱体化する。 まあ日本の音楽も、人のこと言えた義理じゃないのかもしれないけど。





神田優花のニューシングル「Nag」(全2曲)、8/28(水)発売です。 まだ結構先の話なんだけど、半年以上リリース間隔が空いてしまっているので、早めにアナウンスしてます。 上がそのジャケット。是非聴いてみてくださいね。


7/2(火)

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神田優花、ちょっと時間が空きましたけど、ニューシングルのリリースが8月に決まりました。 詳細決まったらまたお知らせします。

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絶頂期というのは、つまりはその人の終わりの始まりということ。 実際に世の中を眺めていても、その通りだとしか言いようがない。 我が世の春を謳歌する者に限って、その後転落して行くではないか。

僥倖というのは、その人に、それを奇貨とできる才覚あってはじめて成立する。 身に余る幸運というのは、同時に不幸の序章になりえるもののようにも思える。 だから我々は、小銭を拾い集めるかのように、その幸運を求めてさまようでなく、立派な自分になるべく心掛けるしかないのではないか。 私は常日頃そう思ってます。


7/1(月)

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闇営業事件とか何とか言って、芸能人(コメディアン)と反社会勢力の関係が取り沙汰され、社会問題となっている。 私自身はその反社会勢力というものを非とするが、それはたまたま私の価値観と世間のコンセンサスが一致しているだけである。それを善とも真理とも言わない。 また闇営業というのも、それは事務所と所属タレントとの間での問題で、当事者以外には本来関係無い話だ。

実は私は、その一件に強い関心を持っていて、特に同業のコメディアンらの意見は興味深く見させてもらった。 気付かされるのは、その事件のある当事者が、同業者らに実に評判が悪いこと。 同じ事務所の人にさえ批判されている。 因みにその彼は、騒動勃発後、一様の謝罪文のようなものを公開したそうだが、自身は雲隠れに近い状態にあるという(会見などを開いてはいない)。

何故同業者らは彼に好意的でないのか。 それは、闇営業がどうしたとか、反社会勢力と関係を持ったことがどうだとか言う話ではないと思われる。一件の発覚後の声明に虚偽が含まれていたというが、そういうことですらおそらくない。

おそらく彼は、その心事の不潔さを嫌われた。 これは不倫であるとか嘘であるとか、あるいは反社会勢力と関わりだとか、そういうこととは無関係である。 自分に起こった事件に対し、それをどう処理するか、こそがコメディアンとしての腕・覚悟の見せ所であり、その人の明快さでもある。

一言で言うと、彼は芸人としてダサいと思われた。 法に触れようが道義に触れようが、それは即ち芸人としての不適格性ではない。 だが、ダサい奴は違う。ダサい芸人なんていらない、と思われたのだろう。 私もそう思う。

事実、世間も概ね彼に批判的で、現在謹慎中だと言うが、この雰囲気だと復帰は容易でないと思われる。

人心というものは、裁判などとは違って、結果としての行動に相応の量刑があったりするわけではない。 愛する人に如何なる醜聞があろうと、その人が愛すべき人であることは変わらない。 どんな事件を起こそうと、愛すべき人なら愛せるし、愛せない人は愛せない。

一々の事件がその人の人柄を決定するのではない。事件とは、その人の人柄のある位相に過ぎない。事件によって、人柄の一部がより露わになるだけ。 人は、事件そのものではなく、その事件とそれを起こした当人の思考とのリンクの部分こそを見ている。

愛せない人がうまく立ち回っていたとしても、その表面的な立場をもってしても「愛される人」になんてなれない。 今までうまく立ち回っていた「愛せない者」が、ある事件を契機に奈落に落ちた。 誰もそれを回復しようとしないのは、物事が本来落ち着くべきところに落ち着いただけ、だからだろうと思う。

心に任せたことなら、私は人だって殺すかもしれません。 でも、私が私であることは変わらない。


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