Staff diary  
スタッフ日誌[2019]

[文 / 益田(制作)]

6/27(木)

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昨日「風街ろまん」に触れたんだけど、今回は「氷の世界」(井上陽水)について考えていた。 前者は1971年リリース、後者は73年。ほぼ同時代と言って良い。

私は「氷の世界」を確か中学生くらいの時に聴いた。因みにリアルタイムではない(私の生まれる前のアルバムだ)。 当時は単に音楽の一つとして聴いていただけだったが、今になるとあれの歴史的意義について感じ入ってしまう。

氷の世界は当時100万枚以上売れた超ヒット作である(Wikipediaには累計140万枚とある)。日本の音楽業界史上、初のミリオンセラーだという。 驚くべきことに思えるが、あれが当時の音楽という娯楽のメインストリームといえるコンテンツだったらしい。

タイトル曲のサビは変拍子である。 例えばプログレのような音楽は、特に日本人にとっては、マニア向けのコンテンツなのだろうと思っているのだが、少なくとも当時の多数の日本人は「氷の世界」に痺れた。 今この現象が起こらないのは、ミュージシャンの人材不足なのか、リスナーの人材不足なのか。

黒澤映画なんかを見ていても感じることだが、時代というのは単純に進歩するのみではないらしい。 音楽も映画も、ある観点を用いれば、明らかに後退している。 ここには賛同してくれる人も多いのではないかと思う。


6/26(水)

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今更だが、はっぴいえんどの「風街ろまん」というアルバムを聴いていた。 収録曲の一部は聴いたことあったんだけど、今回初めて一枚通して聴いてみた。 日本のロック黎明期の名盤というべきもので、某誌のアンケートでは、邦楽史上最高と評されたアルバムである。何度となくリマスタリング・再発されている。 一応私も音楽家なので、とりえあず聴いておこうかと思って。

感想を書きたいところなんだけど、ちょっと今その気力がない。 でも好きなアルバムです。 音楽も好きだし歌詞も好き。

私も、ああいう感じの音で一枚くらいアルバム作りたい。あのローファイ感、コンプのかかり具合で。 一部のボーカルトラックのドライっぽさとか、その時代特有というか、今ではお目にかかれないサウンドディレクションに気付く。 あんなのもありかもな。

「はっぴいえんど」というグループ名(表記)には時代を感じさせる。 同時代のグループに「はちみつぱい」なんてのもいるのだが、当時はっぴいえんどと人気を二分したそうな。


古いもの、かつて存在した時間、を感じることが私の一種の趣味となっている。そこには、私の琴線に触れる何かがあるらしい。 趣味というが、単純な娯楽とは言えないかもしれない。そこに「気持ち悪さ」のようなものも同時に感じてしまうから。

コンテンポラリーなコンテンツに興味がないわけではないんだけど、「現在」というものを、あくまで時間の一位相だと捉えつつ味わっている。 未来の音楽は聴きようがないから、過去のそれを聴いているってこと。


6/25(火)

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アルバム二枚とシングル三枚分の事務作業中。 しばらく音出してなかったんだけど、ボチボチ発表していきます。


そう言えば、とあるコンペに出品してみた。 ウチって、いわゆるコンペの類には基本的に出品しないのだけど、今回は条件が緩くて、手持ちのトラックで参加できたんで。


6/24(月)

水島新司さんのドカベンに、「優勝旗を盗まれる」というエピソードがあるのだが、それはストーリー上の大事件として扱われている。

優勝したことにこそ価値があるわけで、その記念品としての旗なんてものに如何ほどの価値があるか、と私などは思ってしまう。 優勝旗なんて、それ作った業者に再発注すればほとんど同じものが出てくるはずだが、球児をはじめとする高校野球関係者にとっての優勝旗は、そんなものではないらしい。 なんというか、本当にスポーツ関係者は従順である。

優勝というのは実績なわけだが、実績は物質でないから目に見えない。 記念品のような形で象徴化しないと、あるタイプの人には感じ取ることができないようだ。

一神教徒にとってのGodやAllahは、偶像化すらされず、銘々の心の中にあるだけなのに対し、天皇を人間という具体的なもので象徴化したことに日本史の特殊性はある。 大和言葉に概念語はほぼ無いらしいが、本当に即物的な民族だ。


6/21(金)

曾我蕭白という江戸時代の絵師がいるのだが、奇想の画家だとか持て囃され、近年再評価されつつある。 画風については見てもらうしかないが、要するにエキセントリックな絵を描く人だ。

その蕭白、狂気を表現する際に、目がズレた人物をしばしば描くのだが、つまりは斜視を狂気の象徴としている。 群仙図屏風とかヒマだったら見られたし。

「人を見た目で判断してはいけない」とか「男は顔じゃない」とかよく言うけど、あれは嘘である。 見た目は人物を量る(おそらくは最好適の)指標である。 特に目などその人の思考がそのまま凝縮されている。

脳の統合こそが思考を生み、その思考こそがその人そのものとなる。 立体視など脳の統合が如実に現れる点で、斜視である以上、脳のある領域は機能していないと見るべきだろう。


6/20(木)

怪しげな言説を吐く者の文章は、論旨も危ういが、それよりも先ず、文章力そのものが危ういケースが多い。 言語をもってして思考するのだから当然である。 脆弱な道具で堅牢な成果は望めない。

本を読む時、特にその著者をよく知らないケースにおいて、私はまずその人の、経歴でもなく、論旨ですらなく、文章力を見る。 文章が堅牢でない人の書くものを、疑ってかかるようにしている。 言語とは論理そのものであるから。

私が、自分の中で頭をもたげそうになるある種のバイアスを嫌うのは、それが美醜の感覚(つまり論理性そのもの)を侵食するからだ。 美しくないものを美しいとしてしまえば、人は美なんたるかが分からなくなるだけでなく、必ずそのツケを払わされる。

思考にある誤った傾斜を持たせてしまうのは、大抵私(わたくし)である。私とは要するに生存への執着のこと。 人はしばしば、我が身可愛さに美醜の判断を狂わせる。 理性・自律性が育たなかった脳には、その生存への執着が剥き出しになるのだが、そこに美醜という尺度は存在しない。

つまり、美醜の感覚とは、その人の存在そのもののこと。 美醜の判断を狂わされるということは、自分の存在こそが侵食されているということ。 美しいものは美しいし、醜いものは醜い。 この世界に存在したいのであれば、我々は狂わされてはいけない。


6/19(水)

金管楽器やサックス類について色々と考えている。 特に特殊奏法について。

その種の楽器には、カップを使ったミュートとかグロウル、あるいはそれらの合わせ技、のようなものがふんだんにある。 一部は正統的なテクニックでないのかもしれないが、アレンジ(特にPOPS類の)における引き出しとして、知っているだけの価値はある。 実際頻出する。

私のように実器を扱わない音屋は、想像するしかない部分が大きいが、イマジネーションの枝葉に特殊奏法があるのと無いのでは、上がるアレンジに雲泥の差が出る。

今ラテンっぽい曲を書こうと思っている。 ベンドを入れた管やティンパニの音、金管やサックスの特殊奏法、この辺りがイメージの核になりつつある。 ただ、(少なくとも現段階では)生演奏を入れるわけではないので、それらしき音の出る音源が欲しい。 サンプルはいくつか出回っているんだけど、十分でない気がする。


6/18(火)

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飼い犬は、飼い主が家の中で突然死したりすると、その死体を(一部)食べてしまうことがあるらしい。 因みに空腹を満たすためではない。 すぐ近くに、いつでも食べられる状態のペットフードが置いてあったりしたケースもよくあるのだと。

憎悪に因るものでもない。 その手の事例を調査すると、飼い犬側が虐待を受けていたケースはほぼ見当たらず、大抵は飼い主との関係が良好であったケースであるそうだ。 因みに、同じ愛玩動物でも、例えば猫に同様の事例はほとんど見られないという。

素直な論理力をもって推せば、導き出せる結論がある。 どうやら犬は、飼い主が好きだから、その死を悼むあまり、死体を食べてしまう。

こういうことを言うと、おかしな人だと思われてしまうかもしれないが、私には犬の気持ちがちょっとだけ分かるような気がする。


6/17(月)

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人種差別はよろしくないとされているが、では人種間に差異は存在しないのかというと、そんなことは絶対に無い。 ここに同意できない人は、多分どこかおかしい。

私のように、音楽にフォーカスして物事を見詰めていれば、黒人の音楽的能力の高さ、は自明のことである。 単にスポーティーな部分だけでなく、黒人特有の音楽ジャンルがあるように、ベースにある発想そのものも特異である。

人種論を語る時、優位性についてであれば許容され、劣位性であればそれはタブーとされる。アホ臭い気がしないでもない。 優位・劣位なんてのは紙の裏表で、差異があれば当然付随するもの。 ある基準を定めれば、人種間に差異は当然ある。 良心感覚にだって当然濃淡がある。

世界には何系統もの言語がある。 民族間には、聴覚や運動神経などという感覚由来のものだけでなく、言語による差異も当然ある。 私が日本人である最大の理由は、血統ではなく、日本語を喋り、日本語で思考している点だ。

ある遺伝形質を持ち、言語を中心とするある文化に生まれたものには、当然相応の特殊性がある。 別々の民族が衝突を生むのはある意味仕方ない。 人種間に差異があるからだ。 別の人種・民族を足蹴にせよとは言わないが、正確な理解は必要であると考える。 それがなければ、その特殊性が教育などによってある程度矯められることも周知されない。 昨今そこへの言及すら忌まれているのは残念だ。

無論、理解によって、絶望的なケースがあることも分かられてしまうだろう。 そうすれば対策の軸が、矯正・更生でなく「隔離」になるに違いない。 仕方ない。 人類は聡明な生き物だから、いずれそこにも気付くと思うけどね。もう気付いてるか。


6/16(日)

チップチューン関連の本を読んでいた。まだ読了前。 割と面白いんだけど、誰がこんなの読むんだろうという疑念は拭えない。 一般人の中では、私程度にでも予備知識がある者は稀なはずだが、その私から見てもマニアックな内容で、一部理解しかねる。 一般書としては限界レベルだろうと思う。

コンピューター・チップチューン界隈の知識は、ある人には深く、無い人にはほぼ全く無い。 私のような中途半端な層は、これはこれで珍しい。 訴求対象から外されて当然だ。

チップチューンというのはコンピューター・ゲーム機等に付随して生まれた文化なので、大部の著作だったりすると、大体コンピューター史のアウトラインなんかから語られることになる。 それはそれで面白いんだが、私が知りたい内容とは、芯がズレてる感が否めない。

私はまず、各種コンピューター(搭載のサウンドチップ)の、詳細な仕様が知りたい。それも素人にでも分かりやすい記述で。 しかし、当たり前だがそんなの存在していない。 思想史的な部分はまだ私には早い。 あとその本、用語索引を付けてくれたらもっと助かったのだが。

因みに現在、私のチップチューンについての関心はホットでない。 上記の本も、たまたま目にしたから読み出しただけだ。 今後また作りたくなるかどうかは分からないけど、今のところ必要程度にはやり尽くしたように思える。


6/15(土)

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アホな子供がアホなことをやらかしたら、「お里が知れる」とか「親の顔が見てみたい」などと思われる。 これは親の教育が疑われているということ。 しかし大真面目な話、アホのアホさは教育のせいだろうか。 浮世を眺めつつ私は、ほとんどの部分遺伝というか、先天的資質に原因はあると思えてしまう。

どんな劣悪な環境で育っても、賢い子は賢い大人になる。なるに決まっている。脳というハードウェアの性能が良いのだから。 メチャクチャな環境を与えることによって、プログラムのソースコードが汚くなったり、ある解を求めるプロセスが迂遠になったりとか、そういうことはあろうが。

性質的にボーダーライン上にいる者であれば、教育にかなりの部分左右されるのだろうけど、その時点でその人の脳内の何事かは怪しいというか、根本的な良心感覚に欠けるのではないか。 堅牢な資質が、教育環境ぐらいで潰せるものだろうか。 つまり、教育環境ごときで転びうる者なんて、既に知能にある種の欠陥を抱えていると言える。 このくらいの層は実に多いように思えるが。

教育環境は、人が成熟するまでの時間を決するものである。本当にその程度。 教育環境ごときに仕上がりを左右される人なんて、実のところそんな人存在していない。常に生存に有利な手段を採っているだけ。

先天的に性能の悪い脳を持たされた個体をアホでない大人にするのは、如何なる教育を施したところで至難の業である。

教育によって仕込めるのは、せいぜい表面的な所作だけなのだが、それは忍耐力を叩き込むことに他ならない。  その人の本質が忍耐によって歪められる時、その程度の甚だしさによって、それは人格の障害を生む。 障害でも起こさねば社会との親和が成り立たないのだから、ある意味そういう人が失敗人生を歩むのは必然である。 どうしようもない。


6/12(水)

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ピカソの語録に「ひらめきは、自分で呼び込めるものではない。わたしにできるのは、ひらめきを形にすることだけだ」とある。 当然ながら、ピカソにもアイディアが出てこなかった時間があるのだろう。

いわゆるクリエイターという人種は、発想こそを頼みにしているのだから、アイディアの枯渇は恐怖である。 私だって、「いつかアイディアが浮かばなくなるのではないか」と思ったことがある。 因みに今は無い。 長いことこういう作業をやっていると、それがありそうにないことも分かってくる。

発想の源泉は感想である。 ある対象を心に映した際の、自分なりの感想こそが創作の動機となる。 自分が存在するなら、感想は生まれる筈だ。 全く何も生まれないのであれば、それはあなたが存在していないということ。

創作というのは、いわばメシを食うような作業で、腹が減るからこそ食いたくなる。腹一杯の時は食いたくなくなる。 放っておけば腹は減る。 ただし、その対象を如何ほど食いたくなるか、は毎度同じではない。 モノによって食指の動き方は違う。


6/11(火)

神田優花。 ここ最近、体調悪くてしばらくリハーサル入ってなかったんだけど、ようやく復帰。 今年は私の体調もあって、リリース計画がメチャクチャになってしまっている。 少しづつ軌道修正して行きます。

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ティラノサウルスについて考えていた。有名だから知らない人もいないと思う。 恐竜とはよく言ったもので、ティラノサウルスは恐ろしい。 ほとんど知らない人はいないであろうティラノサウルスだが、その本当の恐ろしさを知っている人は少ないと思われる。

獰猛な肉食恐竜であることぐらいなら、大抵の人は知っているのだろうけど、その獰猛さが尋常でない。常軌を逸している。

体長12m・体高6m(無論個体差はある)、走行速度は諸説あるが、時速50kmくらいは出たのではないかとも言われている。 眼窩の位置から立体視が可能だったと見られ、鼻腔の大きさ・嗅球の発達から、優れた嗅覚を持っていたと言われている。

咬合力(噛む力)は、諸説あるが大体3.5〜8ニュートンと言われる。ニュートンという単位が私もよく分からないが、現生動物と比較すると、アリゲーターのゆうに10倍はあろうと言う。 完全に肉食に特化した鋭利な歯は、ご丁寧にもステーキナイフのような鋸歯状になっている。 噛み付かれたりしようものなら、人間など一たまりも無い。

12mあろうかと言う、地球史上おそらく最強の陸生肉食動物が車並みの速さ(時速50km)で襲ってくる。 しかもそれは視覚・嗅覚に優れ、狙われた側は逃げも隠れもできない。 逃れる方法が無いのだから確実に殺される。

ドラえもんのエピソードで、ティラノサウルスから追われ、息を潜めて隠れる、みたいな描写があるらしいが、現実にそれは不可能である。 視覚的に補足されるのは無論のこと、嗅覚も鋭く、息を潜めようが闇に隠れようが、確実に見つかる。

ある専門家が書いていたのだが、「百獣の王ライオンとティラノサウルスが戦ったらどちらが強いのですか?」などと言う質問が出る度に「皆さんティラノサウルスを全く理解していない」と思うようだ。 そんな生易しいものでないと。

ライオンとティラノサウルスを同じ檻に入れたりでもしようものなら、ライオンは秒殺である。 跡形も残らない。 この「跡形も残らない」というのは文学的表現などではない。本当に丸ごと食われ、骨も残らない。 車でもスクラップにしようかという咬合力で獲物は一呑み、骨ごと噛み砕いて丸呑みである。 本当にコプロライト(糞石)から粉々になった骨が見つかるそうだ。 ティラノサウルスから見れば、ライオンなどスナック菓子に等しい。

ティラノサウルスの手(前肢)はほぼ退化しているようで、どういう用途であったのかさえ不明とされているが、要するにハンティングにおいても手を使わなかったという証左であろう。 つまりイキナリ喰らい付いていた。 じわじわ嬲り殺す必要すら無かったのだろう。 狙われた獲物は、一瞬であの世行きだ。

彼らは、チーターやライオンのように、一々獲物と格闘しているような効率の悪さでは間に合わない、というぐらい大量に食っていた。 ティラノサウルスの成長の度合いをグラフ化したものがあるのだが、14歳ぐらいを境に、一日2kg以上体重を増やしているそうだ(骨の断面を調べることによって判明する)。 一日2kg強、年間で767kgくらい体重を増やしているのだと。 ほぼ純粋な獣肉食のみでそれ。どれだけ殺し、どれだけ食ってたんだ。 一説によると、一日平均90kgを食っていたという。

ライオンが草食動物を食うように、ティラノサウルスも植物食恐竜を食っていたというイメージがあろうかと思う。 無論その通り植物食恐竜も食っていたが、肉食恐竜も食っていたし、更には共食いまでしていたという。 つまり彼らは、食えるものなら何でも食っていた。

地上最強、食い出したら止め処も無い。 ティラノサウルスから逃れられることがあるなら、それは彼らが満腹になった時ぐらいなのだが、食欲も凄まじいときている。 上記の成長カーブは、彼らが如何に貪婪かつ優れたハンターであったかを物語っている。

ティラノサウルスは、集団を形成し、頭脳的な狩りを行っていたという説もある。 実際に各種成長段階の化石がまとまって出てくることがあるそうだ。 あくまで仮説なのだが、現生の肉食動物でも例えばライオンなどは集団で狩りを行う。ありえないことでは無いと思われる。

ティラノサウルスに一旦狙われたら、基本的にはその時点で「終わり」である。生き残る術が無い。 戦って勝てる筈もなく、逃げることも隠れることもできない。 例えばその巨体が入れない洞窟のようなところへ逃げ込んでも、集団を形成しているから小型の個体は追いかけてくる。 生き延びる為の戦術のようなものが思い付けない。

ジュラシックパークが実現しても、現代のサファリパークのように自家用車などでティラノサウルスを見物するのは危険である。 ティラノサウルスがその気になれば、車ごと粉砕・丸呑みできるかもしれないから。

悪夢のような生き物である。 ジュラシックパークのストーリーの核になっている「DNAを採取して現代に蘇らせる」という手法は、限りなく実現不可能に近いらしいが、「もしティラノサウルスを蘇らせるなら、徹底的な管理の下でないとどうなっても知らないぞ」みたいな警告が本に書かれていた。 因みに学者監修の本。 私もそう思う。


6/10(月)

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フォーク世代のオッサンが「近頃の音楽はつまらん」とか言っているのを聞いたことがある。 多分それは、音楽の良し悪しというより、加齢による冒険心の低下が原因ではないかと思われた。 実際老人は、子供の頃に好きだった食べ物が恋しくなるそうだ。

これが人間一般に見られる現象であるなら、私とて物を見る際、その属している世代によるバイアスがかかっているに違いない。 まあ普通に考えてそうだろう。

しかし、バイアスがかかるということは、判断に狂いが生じているということでもある。 特にモノを作る人にとって、その狂いは即ち美醜への判断の狂いである。排除すべきもの。


6/9(日)

誰かの愛が、ある人にとって「余計なお世話」であることはよくある。 これは不幸なことなのだろうけど、どちらが悪いというようなものでもない。 お互いの、映している現実が違うのだから。

映している現実、これはどういう言葉で説明したら万人に分かってもらえるだろうか。 私には、道端に落ちている丸くて平べったい金具のようなものが、五百円玉に見えてしまったことがある。金・貨幣という現実が、私の心を捉えて離さないことを実感してしまう。

愛を現実としない、愛など必要でない人の心に、誰かの愛は映らない。 愛に引き摺られて生じた諸々が、むしろ邪魔になることすらあるかもしれない。

私の知っている子(幼児)は、救急車の中で救急隊員に囲まれた際、恐怖におののき、嘔吐した。我が身を救おうと駆けつけてくれた者だって、ある現実を映さない者にとっては、おぞましいものでしかない。

その人が、誰かの愛を「要らないもの」とするのであれば、当然その人の判断に愛という要素は無くなる。 その人はきっと、愛無き者が得をする、愛の無い世界を作るだろう。 マザーテレサが感じた神の不在とはかようなものか。

愛を心に映さない者が、愛を心に映せない理由は、その者に誰かを愛するという機微が無いからである。 星の王子様じゃないけど、本当に大切なものは、目には見えない。


6/8(土)

私は「阪神ファンファン」である。「阪神ファン」ではない。 私に贔屓の球団など無い。言うまでも無くプロ野球の話。

阪神ファンの熱量の高さ、に強い関心を持っている。 ネット上で阪神ファンのコメントなどを見るだに、そのパッションを痛感してしまう。 私は芸術作品などを鑑賞する時も、つまるところ作品の良し悪しなど分からない(明確な基準など無いのだから)。 私が感じているのは、作者の心の震え。 阪神ファンにはそれがある。

阪神ファンは試合に勝った時は無論のこと、負けた時もそれはそれで熱い。 連敗時など、ファンはネット上で、真剣にチームの再建策を講じ合っている。 勝っても負けても面白いのだから、阪神ファンは「外れ無し」である。

勝ち試合は録画でもう一度一から見たりするらしい。 勝利に涙するらしい。更には、時に一打にさえ涙することさえあるという。 各選手の情報にも異様に詳しいのだが、それには二軍以下の選手も含まれる。 阪神ファン同士が酔って語り合っている様が目に浮かぶようだ。

私の知り合いの某阪神ファンなどは、「俺が中継を見た試合に限って負ける」とて、試合鑑賞を自らに禁じていた時がある。 私はそのストイックさ、リゴリズムに感動した。 因みに、リアルな知り合いとしての阪神ファンは、私にはその人一人だけである。

「もう阪神に勝たせてやれよ」とよく思う。 試合には相手が常にあり、その相手チームにも当然ファンがいるのだろうが、それでも阪神に勝たせてやりたくなる。 独断で恐縮だが、阪神ファンの好きさに比べれば、他球団ファンの好きさなんて大したものではあるまいと感じてしまう。 巨人ファンとか数は多いんだろうけど、巨人が優勝しても神田川に飛び込むヤツなんかいないじゃないか。 阪神ファンは道頓堀に飛び込むんだよ?

私は、無感動な何万人より、一人の熱意を尊重する。

阪神ファンは面白い。 こんなに面白いのに、何故これが世間の常識となっていないのか。不思議なくらいだ。 そんなに阪神ファンをこよなく愛す私なのだから、リアルな阪神ファンらと交流を持てば良いではないかと思われる向きもあるかもしれない。 でもダメなんだ。 私はあくまで阪神ファンファンなのであって、阪神ファンの振りをして近づいても、その熱量の低さがおそらくすぐにバレてしまう。 だって選手の名前すらよく知らないんだもの。そもそも野球のルールが完璧には分からない。


6/7(金)

地球上に何度か起こったとされる大量絶滅は、当然ながら、都度生物相の激変を促した。

直近(といっても6600万年前だが)に起こったとされる白亜紀末の絶滅期にも、多くの生物が絶滅し、恐竜は生態系上の頂点の位置から引き摺り下ろされた。 変わりに哺乳類が頂点を占めるようになったのだが、いまでもその状態は続いている。 まあ生態系の頂点とかってのは、人間が多分に学問的便宜の為に作り出した概念に過ぎないが。実際はそんなに単純ではない。

自然条件の激変によって生物相、というかそこでのパワーバランスの激変は当然起こりうる。 戦後の混乱に乗じて土地を不法占拠した者の話とか、生々しく残っているが、性格的には似たような現象だろう。

白亜紀末に起こった混乱は、当時の生態系を根本から覆し、新たに確定したその構造は、今でも基本的には継続されている。 一種の均衡が出来上がっているのだろう。 戦後の混乱期に起こった、これもいわば「生態系の激変」だが、そこで生まれた新たな構造は、均衡を保てるほど磐石でないらしい。 そこで生まれた諸利権は、今次々と滅びつつある。

同時に、敗戦を契機に流入してきたと思われる西洋的市民社会(思想)は、揺るぎなく定着した感がある。 日本に根付くだけの素地があったとも言えるが、基本的に文明とは、高いところから低いところへ流れるものなのかもしれない。

地理的・自然的条件ってのはそれなりに堅牢なのだろう。 日本人がこんにちの日本人のようである理由も、環境要因が大きい。 人為的な混乱なんかで生態系ごと覆し、新たな均衡を生み出せるほど脆弱なものではないようだ。


ちょっと話は変わる。 中生代の終わり、地質学上の画期であるとされるK-Pg(K-T)境界。 大量絶滅が起こったとされる。

戦後50年とか戦後半世紀とかいうフレーズは、1995年前後には聞かれたろうが、それから20年以上経った現在では(少なくともリアルタイムな時事用語としは)登場しない。 時間が経ち、当然ながらもう戦後50年ではないからだ。 戦後70年というフレーズももう聞かれなくなっている。 この手のフレーズの数字部分が増して行くにつれ、我々も歳を取っていることを実感したりする。

K-Pg境界、昔はよく6500万年前との記述をよく見た気がするのだが、最近6600万年前との記述を(割と立て続けに)目にした。 私は深く考えず「まあ時間も経ち、私も歳を取ったのだから、この手の数字は変わるものだ」とか思っていたのだが、よくよく考えるとそんな筈は無い。 戦後50年と6千数百万年ではタイムスケールが違う。

K-Pg境界は約6550万年前らしいのだが、まあ「約」と付いているくらいで、そんなに厳密な年代でない。 四捨五入して言うか五捨六入して言うかという違いに過ぎなかった。


6/6(木)

矢口高雄さんの自伝的マンガに「長欠児童」の話が出てくる。 オフィシャルな用語なのかは不明だが、要するに、当時僻地の農村に多く見られた不登校児のこと。 現代でよく聞くような登校拒否児童でなく、家庭の事情等で学校に出てこられない子供のこと。 普段学校へは行かず、子守りをしたり、家事や野良仕事を手伝っている。 作中の長欠児童のエピソードについては割愛する。

授業に参加しないその長欠児童らも、一応(中学校の)卒業式には参加するのだが、そこでその子らは皆号泣する。 登校すら満足にしていないその子らが、他のどの生徒よりも卒業(義務教育期間の終了)を悲しんだという。

実は私は、これに類する話をいくつも聞いたことがあったので、驚きは無かった。 古今普遍的に見られる現象らしく、どうやら人間というものはそういう生き物であるらしい。

学校に行けない。行かないからこそ(ある意味実体を超えた)憧憬の念が募る。 欲しいからこそ無いことが痛む。 持っている人にとって空気のように当たり前の、時に邪魔ですらあるような何かが、持たざる者にとっては狂おしいほどの渇望の的となる。

ハイスクール奇面組にこんなエピソードがある。 林間学校の水泳大会だったかで、優勝した者に与えられる特典が「休み」だという。 二学期の授業を何日だったか大手を振って休めるというのだが、学校に行きたくない生徒たちは、休み欲しさに全力で大会に臨む。

ハイスクール奇面組の作者は、本当に生々しく子供の気持ちを残した、良い(ある意味で適任の)漫画家だったのだろう。 長欠児童の気持ちの欠片を知ってしまった私に、そのエピソードは、少なくとも複雑な気分無しでは書けないだろうと思う。


6/5(水)

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統合失調症は100人に1人程度の割合で発症するらしいから、そんなに珍しい病状ではない。 が、ごくありふれた症状であっても、99%の人類はそうならないのだから、少なくともそのタイプは「標準」ではない。

統合失調症患者の遺伝子を、政策的に根絶やしにしたとしても、きっと残りの99%の中に統合失調症は(同じく1%程度の割合で)発症する。 標準でないその症例が、なぜ絶えないのか。それは人類にとってそれが必要であるからだろう。 何故なのか今の私には分からないが。

スティーブ・ジョブズは人格障害であったのではないかと言われている。 エピソードを聞くだに、それと疑わしい点は間々ある。 彼が人類規模での貢献を果たしたイノベーターであったことに異論は少なかろう。

彼は人類史に必要な人であった。 ただし、人格には問題があった。 もし彼が人格障害者であったのなら、彼の事績とその人格破綻が無縁であった筈は無い。 私は今、人格障害者の有用性について考えているのだが、結論はまだ出ていない。


進化について、ヒマだから考えている。 進化ってのは特定の種のみではなく、生物相全体として評価すべきものだと思うが、地球上の生物は進化しているのか。私はしていると思うし、まだ伸び代を残しているとも思う。そう信じたい。

遺伝子の変異や自然選択などの、従来語られてきた進化の原理がとりあえず正しいとして(私はとりあえず納得している)、今の人類の個体数・社会の広域化は、既に進化に適したものでないようだ。 人類はピークアウトしていくのだろうか。

変化を進化とするか退化とするか、基準は明確でないわけだが、とりあえず現生人類をはじめとする多くの動物が、脳を肥大化させる方向を選んでいることは間違いなさそうだ。 脳を発達させることが生存に有利であることは、殆ど疑う余地が無いらしい。

人類は脳を肥大化させ、機能を充実させた結果、こんにち様の社会を築いた。とりあえず生態系上のトップを占めてもいる。 脳こそが人類を人類たらしめている、と言って差し支えなかろうか。

脳機能に欠陥を抱え、十全たる人類の一員となりきれていない個体(人格障害者のような)は、これからどうなって行くのだろうか。 多様性の一部として、進化のある原動力として、今後も許容され続けるのだろうか。あるいは不要とされ、淘汰されるのか。 私には、個体数としては増えているように、また、その個々は排除されつつあるようにも見えたりするのだが、この辺はよく分からない。 因みにジョブズは56歳で病死している。早世というほどではないが、天寿を全うしたとも言い難い。

繰り返すが、進化とは生物相全体で評価すべきものかと思える。 ライオンがレイヨウを食っても、それが生物全体から見て悪であると単純に言えないように、人格障害者が一般市民を害すことにも意味があったりするのだろうか。

「意味など無い」と、大いなる何かが判断したなら、きっとあるタイプの脳を持つ個体らは、淘汰されるだろう。 この世界に必要とされるには、貢献するしか無い。 ただ、貢献の気分を持つことと結果的な貢献とは、それはそれで違うのかもしれない。


6/4(火)

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棟方志功について考えている。 私が気になっているのは、あれ(あの頭脳)が代償的発達であるのか否か。 代償的発達というのは、要するにある機能の欠損ありきで、それを補う形で別のある部分が特殊化したケースを指す。 よくある実例として、盲目者における聴覚の発達だとか。 ピカソの頭脳はおそらくそれでない。ゴッホの頭脳はある部分おそらくそれである。 グレン・グールドの天才性などは、その殆どがそれであろう。

昭和47年に開催された「棟方志功芸業頌・厖濃展」のカタログに、棟方本人からのメッセージとして「太陽が湧き、月が没するありのままを魂化て身沁みました。印度という国の厖濃です」とあるらしいが、俄かには文意を理解しがたい。 芸業も厖濃も辞書に無い。彼の造語である。

ここまで造語で語られると、もう言語がプロトコルとしての用を為していない。 因みに上記昭和47年は志功の死の三年前である。 造語の癖は、歳とともに度合いを増していたのではないか。

私の今のところの結論としては、棟方の才能は、ある部分やはり代償的発達であったのではないかと思う。 まあ、正統な発達なんてものが存在すると仮定した上での話だが、私はそれをあると思っている。


6/3(月)

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機材(無論音楽制作関連の)を見る時、それの本質が「機材」であるのか「商品」であるのか、そこは分けて考えている。 勿論、そんなに画然と線が引けるようなことでも無いのだけど。

例えばシンセサイザーやエフェクターは、音を作ったり加工したりするためのものなのだが、筐体の色がどうだとかランプがカラフルに光るとか、音という実質に関係ない部分があったりする。 無論操作性とか視認性という物理的な部分は、即ちその機材の使い勝手でもあるが。

車とかで例えるなら、スピードや安全性とボディーカラーのバリエーションは、どちらも選択の基準になるだろうが、基本的に全く性格の異なるポイントだろう。

異なるからと言って、本質を外れるポイントについて怪しからん、とか思うわけではない。 機材も売れなきゃ話になるまい。 既に述べたように、機能性と商品性は画然としない。完璧に分離するのはおそらく不可能だし、趣味性を極力排除し、機能性のみを抽出したようなものだって、詰まるところそういうニーズを満たす為、つまりは(それが安直ではないにせよ)商業主義の産物だろう。

私はそれらが良いとか悪いとかでなく、それらの違いについて述べている。 一つのアイテムにも、それらは複雑に絡み合い、混在している。 概念を腑分けすること、これは実は音楽作品を作る上でこの上なく大事なことだったりする。


6/2(日)

税制に不満がある人って多い。 それは特に納税に対しての不服であるのだろうけど、私にはそんな気分が薄い。というか、ほぼ無い。 納税額が少ないからってのもあるだろうけど。

「高い税金取りやがって」と思う人は、税について、もっと言えばそれ以前に、Money・貨幣経済についてどれほど理解しているのだろうか。 貨殖について熱心な人はよく見かけるが、自分が増やそうとしている金の本質に思いを馳せる人って少ないように見える。 まあ私とて、どれほど理解できているか怪しいが。

貨幣経済はこの社会を円滑に動かす為のシステムである。その重要なアイテムである金も、そこに付随した発明品。 財の交換が付加価値を生むことを知った人類が、いっそのこと価値のみを抽出した概念を作り出した。 脳の持つ同定機能が深く関係していると思われる。

我々が普段目にしている貨幣は日本銀行が発行している。物というより権利なわけだが、一応はその価値の裏書を政府機関が行っているといえる。 スポーツにルールがあるように、貨幣経済にもルールがある。 善悪という価値基準を持ち出すことさえどうかと思うが、一応そのルールは法律に基づいている。

貨幣経済というゲームに参加する以上、ルールには従わねばならず、基本アイテムである「金」も、ルールに基づいて支給され、ルールに基づいて徴収される。 システムが不合理であると思うのであれば、それを正す方法も一応は整備されている。

私は無人島で自給自足の生活をしたいとは思わないので、最低限のルールには従っている。 必要以上に払いたいとは思わないから、節税に努めたりはするけど、それはあくまでゲームだと理解した上での行動。

聖徳太子が世間虚仮と思ったように、これがゲームであることに気付けば、見えてくるものがある。私にはあった。


6/1(土)

三畳紀、誕生した当初の恐竜は皆二足歩行で肉食であった。 有名なアパトサウルスやトリケラトプスなどという、四足歩行の植物食恐竜は、進化の結果生まれた(ある形態を獲得した)ことになる。

植物食恐竜は肉食恐竜に捕食されるのだが、形態としては植物食恐竜の方が進化型というか、少なくとも後になって生まれたタイプではある。 当然生存に有利であるからこそ獲得した形態であろう。

多様性の意義について考えている。 恐竜はある面で見れば、肉食と植物食に分岐したわけだが、自然条件の変化などに対応する為にも、その多様化には意味があるのだろう。 事実、中生代末の大量絶滅においては、肉食植物食合わせて恐竜はそのほとんどが絶滅したが、その後哺乳類が生態系上の頂点を占めるようになる。 哺乳類だって分化の結果生まれたものだ。

多様性に意義はあるが、事実絶滅する種も存在する。 その程度にはこの宇宙に必要とされなかったからだろう。 物事って難しい。ある事柄を理解することとは、その複雑性を理解することである。 複雑性とは時間軸に展開されるものだから、言語の精度が不可欠となる。


話は変わるが、ドラえもんに出てくるのび太たちは、スモールライトやガリバートンネルなどといった道具を使って、しばしば自らを小型化させる。 子供の頃は何の疑問も感じなかったが、私も今は大人である。 自然界の物理法則は変わらないのに、体だけ小型化してしまって大丈夫か、とか思ってしまう。

「内温動物なのに体表面積を極端に縮小してしまったら、体温どうやって維持するのだろう」とか、「脳(海馬・脳梁など)も小型化するのに思考力が維持できるのか」とか。 あと声帯もスケールダウンするなら、フォルマントの周波数も当然変わる(つまり声が変わる)。 他にも色々な点が不安になってしまうが、そんなこと考え出したらあのような名作は書けなくなるのかもしれない。


5/31(金)

我々は、常に我々のままで良い。 あるモノが欲しい時に、その欲しさが本物であれば、きっと我々はそれを得るに相応しい自分になる。 何を欲しいと感じるかがその人の本質で、欲しいと本気で思えた時が、そこへ向かう始点である。

欲しさは、我々が心に映し出すものでなければいけない。 心を経ずして何かを求めることは、カメレオンが生存上の有利さを求め、色を変えることと何ら変わらない。

もし我々が、ある成果を得る為、自分を変質させてしまったら、それは即ち人格の歪みとなる。 納得できる自分になり、結果相応の何かを得ることと、成果を得る為のみに自分を変質させること、これらは全く違う。

恋人ができないとか、就職やアルバイト先が中々決まらないとか、志望する学校の入学試験に合格しないとか、人生には色々な挫折感が付きまとう。 でも気にしなくて良いんです。我々は我々のままで。 あるべき自分であれば。

自分が自分のままであり続けること。それが一番大事なこと。 その結果、手に入るものがあれば入らないものもある。 手に入るものこそが初めから望んだ何かで、手に入らなかったものは、詰まるところ必要なかったものだ。

私は、負け惜しみみたいな感覚でこの文章を上げているのではない。 流れ着いたところが、結局はその人が最初から目指した場所なんだということ。これは本当のこと。 だから今の我々に、過不足なんて無いんです。


5/30(木)

「じゃりン子チエ」はまことに名作で、一種の文学作品である。 登場人物に人間の典型を見ることができる。

キャラクターの一人であるテツは、無職のチンピラ、喧嘩の強さが自慢、といった人物で、いつも近所のヤクザ者などに絡み、金を巻き上げて暮らしている。 友人知人の類にしても、常に何かを貰う対象としてしか見ない。店をやっている友人がいれば、常にその商品代金は踏み倒す。 そういう人物に描かれているのだが、あそこまで極端なのは珍しいにせよ、人間の一つの型であることは間違い無い。 実在したとしたら、おそらく人格障害とされたろう。

常に収奪的であるということは、常に依存的であるということ。 対象がなければ収奪できないのだから、生存スタイルがどうしても干渉的・寄生的になってしまう。 彼は他人に対して無害な存在でいられない。

テツは友人らに対しても、いつも「裏切られるのではないか」とか「陰口を叩かれているのではないか」などと猜疑の目を向けている。 寄生生物である以上、宿主の動向を気にせずにいられない。

テツは喧嘩が大好きである。 自分が喧嘩をすることが好きなだけでなく、喧嘩という解決手段そのものに好意的である。 他人同士の喧嘩に涎を垂らし、猫の喧嘩にさえ興奮するくだりがある。

何故彼は喧嘩が好きか。 それは暴力に因る収奪が正当化される世界、喧嘩の強さによって序列が形成される世界を望んでいるからである。 それが実現されれば、彼より多くのものを得ることができる。

テツが歓迎される世界は、きっと今でも存在する。 暴力性・搾取性が強く、多くの収奪結果を得ることのできる人物。また、希薄な良心感覚が、その収奪行為を邪魔しない精神の持ち主。 その強い収奪性は、当然のようにおこぼれに与る者を生むだろう。 ヤクザや賊の世界でなら、きっと高評価されるに違いない。

子供の脳は、生物としての人間の古層に当たる部分が剥き出しで、例えば男子は「足が速い」という身体条件のみによって女子からモテたりする。 素早く移動できれば、狩猟などにおいては有利であろうが、それを人としての優位性としてしまえば、馬やチーターは我々人類より優位であるということになってしまう。

いくら足が速くても車や電車には敵わない。 自動車や電車を作ったのは人間の脳である。 頭脳こそが、人類をこんにちの人類たらしめた。 ここでいう頭脳は、良心・共感性などと根を同じくしている。 つまり、テツ的な価値観と大多数の人類が持つ価値観は抵触する。 だから彼らは社会の敵とされる。

テツ的価値観が支配的となれば、きっとその社会は、賊やテロリストに制圧される。 北朝鮮の体制を眺めつつ、私は、あの地域には悪や暴力を容認、更には賞賛する空気があるに違いない、と確信する。 アメリカが標榜した、テロとの戦いとか、悪の枢軸云々というのは、こういう価値観・世界観を含んでいると思われる。 それが正しいかどうかはさておきね。

生物というのは多様であるし、多様であることが進化の重要な原動力となっていると思われる。 だからどういうタイプこそが有用で、どういうタイプは無用であるとか、そういうことって一概に判定できないわけだけど、ネアンデルタール人が滅んだように、あるタイプの人類は将来、大多数の人類に無用であると見做され、消えて行くかもしれない、とは思う。


5/29(水)

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サックスについてのメモ。 今サックスのスコアを書いているんだが、あらためて楽器の奏法などについて、調べを入れていた。

サックスが出てくるアレンジくらい、過去にも書いたことはあるが、音域とかその程度のことしか気にせず書いた、割かしいい加減なものだった。 まあ簡単なものならそれでも問題ない。

アドリブ・ソロなどを含む複雑なものであれば、ある程度特殊奏法などの知識があった方がそれらしいスコアも書けるのだが、いかんせん私にサックス(というかほぼ管楽器全て)の演奏経験が無い。 当然詳しくもない。

サックスの特殊奏法を極めたいわけではないが、定番的なものくらい知った上でスコア書いてもバチは当たらない。 ギターとかでいうと、ミュートやスラー、ハンマリング・プリング、ハーモニクスとか、その程度の奏法についての知識はあった方が面白い(というかリアルな)スコアが書けよう。 それ以上のトリッキーな奏法については、必要かどうかは各アレンジャーの表現したい領域による面が大きい。

消音器を使ったミュートとか、アンブシュアでのピッチベンド(ポルタメント奏法)なんかは、例えば前者は金管楽器全般にあるもので(サックスは木管)、後者などは吹奏楽器ではあればそのほとんどに存在する奏法。特筆すべき(サックス固有の)奏法ではない。 グロウルなんかも、クラシック音楽なんかではあまり使われない特殊奏法と言えるが、カズーとかの発音させかたを知っていればどういう原理かは分かる。

今回調べてみて初めて知ったのは、オルタネイトフィンガリングというもの。 ある音高を出すのに複数のポジション(運指)が存在しているのだが、そこを利用して、タンギングを使わずにトレモロ的な音を出すもの。 ギターのオルタネイトピッキングも、昨今のギター音源では、違和感無く表現する為、同一音高に複数のサンプリングデータを割り当て、ローテーション(あるいはランダム)で発音させている。 アップピッキングとダウンピッキングの微妙なニュアンスの差を損なわないようにだろう。

オルタネイトフィンガリングについては、実際の演奏を聴いてみたが、ギターのオルタネイト奏法に比べると、複数の(同一音高の)音に割かし明瞭な差異があるように感じた。 倍音とか音程そのもにも違いがあるのではないか。

他にもファズ(Fazz tone)というのも初めて知った。 特定音域(それもかなり狭い)でだけ、一定の効果をもって出せる重音のこと。 これなどは譜面表記が必要なものだろうか。確かに、ギターのピッキングハーモニクスとかも、譜面で指定されているケースがあるにはあるけど。


5/28(火)

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ここ最近、ジェームス・ブラウンの曲を聴いたり、人物について調べたりしていたのだが、ある時彼のバックバンドの連中が、「待遇改善を求めてストライキを起こした」という記録に感じ入ってしまった。 如何にもアメリカ人である。

彼らは、人には誰しもに、神が与えたもうた人権が備わっていると信じている。 確かに、人が存在するには、存在する為の全ての条件を備える必要がある。 その自然界・宇宙の意志は、神が与えたもうたものとでも解釈せざるを得ないのかもしれない。

だからアメリカの文学作品などを読んでいると、登場する「お手伝いさん」などの態度がデカい。日本じゃ考えられないくらいにデカい。 社会がその権利を認めているし、認めないとしたらそれは神の意志に逆らうものなのだろう。 これが共同体感覚の基礎となっていると思われる。


アメリカの大統領が来日したらしい。 現大統領は景気・雇用対策に熱心な、商人のような大統領なのだが、ある意味非常に大統領らしい大統領なのかもしれない。

坂本龍馬が「アメリカ大統領」について、師である勝海舟から受けた説明に「大統領というのはお針子から売り子に至るまで、国民の暮し向きが立つのか心配するのが仕事だ」というものがある。 龍馬はそこで大層感心するのだが、民主主義や議会制度などという表層のみを移植したところで、日本に大統領のような存在はきっと生まれない。

民主主義という制度も大変な発明なのだろうけど、その基底に流れている共同体感覚が理解できない限り、本当の意味での民主主義を日本のような異世界に根付かせることは難しいでしょうね。


5/27(月)

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ファンクっぽいものを作ろうとしている。 ファンクを取り入れたPOPSとかファンクロックの類ではなく、古典的ファンクを作りたい。

これといって特殊な書法や編成があるわけではないので、特段の難所は無い(と思う)。 ただ、シンプルを極めているのだが、強引なほどにシンプルで、そこが書法と言えば言えるかもしれない。

キャッチボールする感覚でトラックをこさえていくと、その段階で、派生した色々なアイディアが生まれてくる。が、その一々を曲に取り込めない。 取り込むとその多様さが曲をらしくなくする。 音楽的なプロットも極限までに削らねばそれらしくならないのだ。

思いついたアイディアをどうするかというと、独立した別の曲とする。別の曲として一から作るくらいしか、生かす方法が無かったりする。 今、最初に作り出した曲が三曲に分化している。もっと増えるかもしれない。


5/26(日)

今私は、空虚な歌を作ろうと思っている。 本当に大したアイディアに支えられてないような、如何にも「何も思いつかなかったのだろう」という感想を持たれるような。

曲については、実は結構前に作っているのだが、モノが酷過ぎて誰のレパートリーにもなっていない。 ただ、曲は言葉のような意味を持つものを使わないので、単に詰まらないメロディーさえ作れば、駄作を極めるのもそんなに難しくないように思える。 仕上がったものを聴いても「こんなのどこかにありそう」とか思ってしまう。 商業音楽に如何にもありそうなのだから、あの世界は割かし玉石混交である。

今回、その曲に歌詞を埋める作業を私が行っている。 曲が酷いので誰も歌詞を書こうとしないから、仕方なく私が書く。 極限までに酷い歌詞を書きたい。

「ありがちな歌詞」を書きたいわけではない。 頻出する用語や表現というのは、実はそれなりにシンパシーを生むからこそ多用されているわけで、そんなものを貼り合わせたりしたら、一応の作品の形は整ってしまう。 自動作詞ソフトとか実在する。要するに頻出ワードをランダムに貼り合わせるだけのプログラムなんだけど、それなりに機能しているように思える。

「会いたくて」とか言うフレーズを聞いたら、「空虚な歌詞だ」とは思うが、会いたいという感情はそれはそれで普遍的なものだ。 ありがちであることと無意味であることは違う。 私はもっと無意味・無感動なものを書きたい。

「Melody」とかいうタイトルを見ると、「何も思いつかなかったのだろう」と率直に思う。 メロディーに言葉を載せて歌詞にするのだから、「Melody」は一種のゼロ回答に近い。

昨今便利なもので、歌詞サイトのようなサービスでは歌詞のキーワードだとかタイトルで検索がかけられるようになっている。 試しに某サイトで「Melody」を検索してみたら、同タイトルの楽曲が76曲出てきた(重複込み、「melody」・「MELODY」・「メロディー」等の表記違いも含む)。 無意味且つありがちという、ある意味秀逸なタイトルなのだろう。このタイトルはちょっと魅力的だ。

「コンビニの帰り道に夜空を見上げたら星がキレイでした」という小学生の日記のような歌詞があったとして、それは陳腐ではあるのだけど、「キレイだった」という部分に「キレイだと思った」という感想が一応は含まれてしまっている。 私はもっと空虚なものが欲しい。 「空を見上げて・・・」みたいな。これはこれでお目にかかるが。

とにかく、別の意味を持ってしまうほどの、極限までに無内容な歌詞が書きたい。 まあ初めての試みなんだが、割と難しい。 更に、出来上がってもまたお蔵入りかもしれない。多分誰も歌いたがらないから。


5/25(土)

物事は正確を期せば断定が難しくなる。 以前「恐竜が絶滅した理由は〜」のような文章を上げたことがあるが、鳥類は恐竜の一種なのだから(竜盤目-獣脚類の一部が鳥類に進化した)、厳密には絶滅していない。 ただ、中生代末の大量絶滅によってそのほとんどが地球上から姿を消したのは事実で、「鳥類という例外を除く恐竜は絶滅した」と言うべきだろう。 もっと言えば「と言うのが現在支配的な学説である」とか。

獣脚類の一部が鳥類に発展したのだから鳥類は恐竜である。これは良い。学問的にも正しい。 が、恐竜は分類上爬虫類である。 鳥類は爬虫類ということになると、魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類などという、学校で習った分類法が画然としなくなる。 そもそも爬虫類は両生類である。

恐竜の話がしたいわけじゃない。 私はある論旨を述べるに当たって、恐竜を例として使っただけで、絶滅種であればネアンデルタール人でも何でもよかった。 「人は皆○○である」とか「○○などという人はいない」とか言う表現も、多分に誤差を切り捨てた言い方で、大抵は厳密性を欠く。

物事の複雑性について考えている。 言い切れるものなんて、実は存在していないのではないか。 私の身長が何cmか、とか言う単純な命題だって、厳密を期すと言い切るのが難しくなる。 何をもって私の身長とするか。 リアルタイムで刻々と代謝を続ける私に固定的な身長なんて数字があるのか。 そもそも数値なんて小数点第何位まで求めるべきなのか。

そんな単純なことでさえ斯様なのだから、美醜なんてもに明快な解などある筈が無い。 私は、複雑怪奇この上ない作業に取り組んでいるらしい。


5/24(金)

ジェームス・ブラウンとかオーティス・レディングを聴いていると、楽曲の単純さが気に掛かってしまう。 特にコード進行面でのシンプルさ。 普通に聴いていても「ここでコードを展開させたくならないのか?」と不思議に思うくだりにしばしば遭遇する。

オリジナル曲がそうであるのはいいとして、オーティス・レディングなどは、既存曲のカバーを行う際にも、原曲のコード進行を端折ってまで単純化している。 あのシンプルさが音楽的な肝でもあるのだろう。 そうしなければ、彼らの感じる何かが壊れるのかもしれない。

ジェームス・ブラウンの代表曲を聴いてみても、コード進行を極限まで削っている。 執拗なまでのシンプルさで、ほぼ1コード、ドラムに関してはフィルすら無かったりする。 動画などでライブテイクを見る限り、ボーカルのジェームス・ブラウンがいわばバンドマスターを兼ねており、まるで指揮者のように進行をコントロールしている。 まあそうでもしないと、あの音だけでは進行のタイミングが掴めないだろう。

ジャンル名で言えばファンクとかそういうものになるのだろうけど、どうしてあの手の音楽はああまでシンプルであるのか。 和声音楽以前の、旋法音楽などにむしろ近いような曲構成。マイルス・デイビスはまさにその旋法を使ってモードジャズを大成させたのだけど、彼らの精神にああいうものと親和する何かがあるのか。

ただ、モードジャズとジェームス・ブラウンなどのファンクは、それはそれで違う。 後者は、旋法音楽というよりは、やはり1コードの和声音楽と言うべきだろう(モード的なスケールを使っていたりもするが)。 因みに、教会旋法全盛の時代には、現代音楽では最も基本と言えるメジャー/マイナーのスケール(旋法名で言うとイオニア/エオリア)が、ほぼ使われていなかった。 感性の問題なので、何故かと言うようなものではないのかもしれない。仮に理由を説明できるとしても、簡潔には無理だろう。

キーとなる(ほとんど1〜2小節の)フレーズを延々ループさせる。しかも1コード。ドラムはフィルすらほぼ無い。本当にループソフトで作った曲みたい。 あのようにバッキングを極限までにシンプルにするなら、DJが一人でオケを担当する、HIP HOPのような音楽に移行していくのも必然のように思える。その方が安上がりでもあるし。

つまるところ、音楽ってあれで良いのだろう。 無論、様式美の限りを尽くしたような楽曲はそれはそれであって良いが、その構造性って別に必須ではない。 J-POPのAメロ-Bメロ-サビ、というような構造も、ある視点で見れば煩い。 多分普遍性にも乏しい。 西洋音楽体系に全く無知な者に、ソナタ形式の曲を聞かせても、提示部やら展開部やら全く分からないだろう。 ファンクのような音楽は、ある種の教養というか、予備知識無しでも楽しめる。 ある面では高度な代物なのかもしれない。

ああいう音楽(のバッキングトラック)を作るのは、比較的簡単である。 ただ、音だけ真似ても本質が掴めるのかどうか。 今私は、ああいう音楽をやりたくなる人らの気分を知りたいと思っている。


5/23(木)

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棟方志功のドキュメント的な映像作品を見ていたのだが、肝心の内容よりBGMの方に意識が行ってしまう。 音屋の宿命のようなものだが。

あれ多分kawaiのK3とかの音じゃないかと思われるのだが、音楽そのものよりも独特の音(音色)に惹かれてしまう。 まあクレジットされていたわけではないので、本当にK3かは不明だが。

今調べたら、K3(の音源方式)は「デジタル・ウェイブ・メモリー音源」だそうな。 この音源方式というヤツは各メーカーが銘々好き勝手に呼称しているだけのもので、そんなにオフィシャル性の高い用語ではないのだが、とにかくkawaiはそのように自称していたらしい。

デジタル波形を加算合成して音を作るというから、ウェーブテーブルシンセとかに近いのか。 古い機種だから出音にチープさを感じないでもないが、この手の感覚というのは粗方感じさせられているだけのもので、実体覚束ないものだ。 科学的根拠は薄い。

K3のエミュレーターのようなフリーのVSTシンセが存在している。 私は実器を触ったことは無いのだが、動画とかと比べる限り、結構再現性は高いと見た。 それ使った何曲か書いてみようかしら。


「みようかしら」でイキナリ思い出したのだが、子供の頃、ドラえもんのマンガを読んでいる際、のび太がたまに言う「〜かしら」という台詞に違和感があった。 「どうしてのび太が女の言葉を使うのだろう」と。 今その違和感は消えた。一種の標準語なのかもしれない。


5/22(水)

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最近、人の書いた詞をよく読む。 シンガーソングライターのような人のものより、専業の作詞家のものをよく読んでいる。 本当にああいう仕事ができる人は凄いと思う。

阿久悠の歌詞なんかも、あらためて読んでいる。 個人的にはもっと好みの作詞家がいるんだけど、阿久悠の魅力も昔より今は感じられていると思う。 本人元々脚本家志望だったそうだが、頷ける。 本当に映画やドラマの1シーンのような歌詞を書く。ただ、作品を作り込むタイプではないと見たので、一つ一つの詞に掛けている時間は比較的短いと思われる。

さっきWikipedia見たらシングルの累計売上げ枚数が7000万枚近いのだと。 純文学性のようなものは薄くて、大衆性の濃い作品を書く人なんだけど、作家でいうなら芥川賞でなく直木賞作家というところか。 三島由紀夫でなく赤川次郎とかに近いような。


5/21(火)

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北京原人は実在したのか。 有名な話だ(と思う)が、北京原人の直接的な痕跡(化石など)は、ほぼ散逸してしまっている。 公的には、戦時の混乱下で輸送中に紛失した、ということになっているのだが、つまり、北京原人はモノとしては存在しない。

ただ、学者による(レプリカを含む)精密な記録が残されており、存在に疑いの余地は無いとされている。また、その記録者が西洋人(ドイツ人)であることも、証拠能力を補強していると思われる。 ただ、言うように、化石と言う最大の証拠が失われてはいる。 その後に断片的な痕跡が発掘されたりもしているが、化石消失前のレベルには至っていない。

スピノサウルス(恐竜)の化石は第二次大戦の空襲により一旦は消失したが、その後の調査で新たな化石(一応全身骨格を復元できるレベルの)が発掘され、その存在は揺るぎないものとされている。 研究成果も、消失前より高いレベルに達している。

確かにあったものなら、そういう形でまた新たな痕跡が見付かることもあるだろう。 が、モノには限りがある。 ある水準のエビデンスが二度と発見されない可能性だって、それはそれである。 ただ、存在したものが存在したという事実は消えない。 存在するには、存在する為の全ての条件が備わっていたということ。 物的証拠というのは、その事実を我々が知りえるよすがに過ぎない。


5/20(月)

ここ最近、歌詞ってヤツをほとんど書かなくなったんだが、事情があって今ひとつ取りかかっている。 しかし本業の作詞家ってのは本当に凄いと思う。引き出しの多さが素人の比ではない。 私なんてあっと言うう間にネタが出尽くした感がある。


Pungiという楽器の音を探しているのだが、見付からない。 今時、結構なマイナー楽器でもサンプルの類は転がっているものだが、こちら良いものが見当たらない。多分使えるレベルのものは(特にフリーでは)存在していないように思われる。

Pungiというのはインドの楽器で、おそらくは濃厚に民俗楽器である。 蛇使いなどの大道芸人の使用する楽器として有名だ。

楽器そのものについて、私は詳しくない。実物を見たことも多分無い。 調べたり音を聴いたりする限り、いわゆる簧(リード)付きの楽器であるようだ。 出音の雰囲気は篳篥とかに近いような。

一応有料ソフトにはPungi収録の物があるにはあるようだが、どの程度の再現度かは調べてないから分からない。 他にも、マルチ音源のような大量の音色数を誇るものの中にPungiなる音色は存在していたりするが、今の時点で使えるレベルのものにはお目にかかってない。

確かに音源化しにくいと言えばしにくい。 ドローン楽器で、常にサブトーンのようなものが鳴りっぱなしなので、最低でも半音単位でサンプリングする必要がある(サンプルをピッチで弄ったりできない)。 また管楽器なので、特有の音程の揺らぎがある。これも再現の難といえばそう。

更には、奏法が基本的に循環呼吸法前提で、聞くところフレーズにブレスのようなものがほとんど見られない。 ドローンの方は鳴りっぱなし、メインの管の方もほぼ鳴りっぱなし。 二者を別々にサンプリングしたくなるのだが、そういう奏法は多分一般的でない。 奏者をスタジオに呼んでサンプリングするなら、通常の(単音での)演奏を行ってもらうことになるだろうか。

その手のドローン楽器ってのは、別に珍しくはない。 日本でなら大正琴などは構造的には近い。大正琴の音源なんていくらでもある。 やはり需要と言うか、DTM人口とも関係しているのだろうね。


5/19(日)

データの整理でほぼ一日使ってしまった。


棟方志功についてまた考え込んでいる。 ある程度考えがまとまったら、またこのページに文章を上げようと思っているのだが、残念に思うことがある。

大抵この種の思索ってのは、自分に何かを残すものだが、対象が絵画であるだけに、音楽作品に直接的には昇華させにくい。 例えばミュージシャンについて熟考したなら、その総括として、濃厚な影響を受けた作品ができたりするものなんだが。


5/18(土)

えびはら武司さん(漫画家)は、藤子不二雄のアシスタントだったそうで、アシスタント当時のことをマンガで綴った手記のようなものを発表している。 私も何冊か読んでみた。 内容についての感想はあるが、今思いを馳せているのはそこにではない。

えびはら氏の代表作は「まいっちんぐマチコ先生」。 アニメ化までされたヒット作なのだが、性的描写の濃い作品で、アニメの放送当時、PTAからの苦情が絶えなかったという。 師である藤子不二雄氏も「そんなエッチなもの教えとらんぞ」と言っていたらしい(上記の手記にある)。

その「まいっちんぐマチコ先生」、私は微かながら記憶にある。存在自体は知っているということ。 マンガは持っていなかったし読んだ記憶も無いから、多分触れたのはアニメだろうと思うが、目にしたことが一応はあるのではないかと思う。

それが本放送だったのか再放送だったのかとか、全く分からない。 ストーリーや登場人物についての記憶も全く無く、さっきYoutubeで主題歌を聞いてみたが、それにも全く聞き覚えが無かった。 とにかく印象に残っていないのだろう。これは作品の質でなく、主に私の属している世代の問題だろうと思われる。


私が気になっているのは、タイトルにも入っている「まいっちんぐ」という言葉である。Wikipediaで引くと、当時流行語にまでなったそうな。 マイッチングなんて言葉は辞書に無い。作者の造語であろうと思われるのだが、こういうダイナミックな発想には恐れ入ってしまう。 ありもしない言葉をタイトルにまで持ってくるか。

これはマンガについての話だが、音楽にもこういう独創性が発揮された例は(枚挙に暇が無いほど)あって、私はそこにある種の面白味を感じてしまう。 潔さのようなものを感じるわけだが、その独創性は(上手く行けば)音楽を魅力的なものにする。 私にはできない。私は、そういう潔さが自分にももう少しあれば、と羨んでいるクチである。


5/17(金)

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「花」について言えば、人間は「花概念」と「ハナ」という音、あるいは「花」という文字を脳内で統合し、等価としている。 人は、この統合のバランスの偏差のことを個性だとか呼んでいるような気がする。

夢路いとし・喜味こいしの漫才に、「鍋が好き」という相方に対し「丈夫な歯でんな」と返すボケがある。 言うまでも無く、鍋という言葉には、あの金属製の鍋の他に「鍋料理」といった意味も含まれている。 それらを総合したイメージが鍋という言葉には込められているわけで、言語の持つ立体性を理解できなかった場合、ある断面(ここで言うなら金属製の鍋)のみをもって鍋の定義としてしまう。 これは統合の偏りと言える。

意味の部分が色濃く意識にロードされない脳の持ち主には、当然音や文字の形状などが優位となって映り込む。 「花」という文字を提示された際、花概念より文字の形状などという感覚所与の方が優先される。


あるミュージシャンの子供の頃の作文が出回っていたので、読んでみたのだが、ありありとこの感覚所与優位が感じられる。 まず筆跡(字の形)に一目で分かるようなクセがあり、字を意味でなく形状で捉えていることがハッキリ分かる。

また、例えば「良いのでしょうか」というセンテンスが「いのでしょうか」に、「〜に行く」が「〜にく」となっている。 アタマの「い」や「に」に軽く長音符がつくイメージなのだろうけど、つまり言葉を意味よりも音優先で処理している。

良い悪いという話ではないが、この感覚所与優位は、ミュージシャンをはじめとする、いわゆるクリエイターの一典型例であるのは事実である。 私は棟方志功のことを考えていた。


棟方志功。説明するまでもない、日本が世界に誇る大芸術家ということになっている人である。 ピカソと生存年の大部分が被っていて(没年が二年しか変わらない)、お互いにその存在は知っていたに違いない。 因みに私はどちらも好きだ。ただ、二人はタイプが違う。

ピカソはそもそも親が絵画教師で、幼い頃から絵画の英才教育を受けていたクチである。基礎的な絵画教養があった上であのスタイル行き着いている。 棟方はそうでなく、どちらかと言うと、イキナリあのスタイルに到達したようだ。到達といって良いのか分からないけど。

ピカソには直接の著書が無く、彼の思考は、作品の他には、語録などという断片から想像(再構築)する他ない。 私はある程度彼の思想性を理解できているつもりだが、著書を残していてくれたら、その確信はより強固なものになったろうと思う。 棟方には著作がいくつかある。専業の物書きでないにしては割と多い方だろう。

棟方には、極度の造語癖があった。 有名なものでは、作品タイトルに頻出する「柵」。無論本来の柵の意でない。 版画を板画とするのもそれだろう。 一々の作品にも、「達々」のような造語が随所に散見される。

好意的に解釈すれば、彼の中の想念が、既存の(というより自前の)言語体系で表現できなかったのかと思える。 一方ピカソに造語の癖は(少なくとも調べた限りは)見られない。 因みに私も造語癖は無いタイプだから、どちらかというとピカソの方に共感できてしまう。 私は、在る言葉で精一杯思考するタイプだ。


統合があるバランスに寄った際、人は造語の傾向が強くなるらしい。これは既に判明している。 例えばアスペルガー症候群では、「特異な言語感覚」というのが一典型症例とされている。 造語癖としてしまうと言い過ぎだが、例えば「暴行」を「妨害」という風に、意味や音が一部似通っているものの、それそのものでない表現を好むという。

棟方はアスペルガーだったのかと言うと、よく分からない面もあるけど、おそらく違う。そんなに単純・典型的であるとは思えない。 やはり天才なのではないかと思う。

何やら尻取り話のようになってしまった上に、大した結論もなく恐縮である。 ついでに、私自身はアスペルガーとはかなり遠いところにいる人だ。 「自分は正常だ」と言い張っているのではなく、私に病名が付くなら、きっとそれとは違うものになるだろう、という話。


5/16(木)

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唐突だが、同和問題・部落差別について。自分の考えをまとめるために文章化している。 私の子供の頃などは、学校の授業にてあれこれと教え込まれたものだが、今はどうなんだろう。 あれ、地方性とかもあったのかもしれない。

被差別部落出身者、具体的にはエタ・非人といった階級所属者を差別してはならぬという。 無論、私も不当な差別はよろしくないと思うが、例えば黒人やユダヤ・イスラム教徒、らい病患者らに対する差別などに比べると、生活様式や肌の色などという、一目でそれと分かる要素がないだけに、黙ってりゃ風化してしまうのではないかとも思えた。

そもそも部落民とは何なのか。 それをここで詳述する根気は無くて、知りたい人はネットなり図書館なりで調べて欲しいのだが、日本史上(おそらく古代から)実在した階級である。 そもそもは特定の職業集団を指していたのだろうけど、それが階級として固定化されたらしい。

文献上も中世初期には初出が確認できるらしく、存在は当然それより遡りうる。 江戸期に至っては、穢多頭矢野弾左衛門や非人頭車善七などという、いわば歴史上の人物も確認できる。 因みにそれらは世襲名である。山田浅右衛門とか言うようなもの。

エタ・非人は実在したし、差別待遇も受けた。 ただ、こんにちまでその差別が濃厚に残っているかと問われれば、答えは単純ではない。少なくとも私の日常に、それを感じさせる出来事は皆無である。 ただ、同和利権については、それを肌で感じたことがある。 上記の授業なども一種のそれであろうし、調べればこういうことは簡単に知ることができる。

部落問題というのは、日本人の宿痾のようなもので、無論合理的・科学的精神にも反することで、私もそれは解消されるべきだと思う。 ただ、部落問題というのは、戦後とそれ以前で、質的に変化しているようだ。 これは、ヤクザの実態にも相通ずるものと思われる。

例えば、朝鮮半島出身者が同和地区に多く定着したという歴史など、それを理解するよすがとなりうる。 詳しくはエセ同和とかいう言葉で調べてもらえば分かるはず。 因みにエセ同和問題なども、別段特殊な知識でもなく、例えば日本語版Wikipediaなどで部落問題の項目を一読すれば、大掴みには理解できると思う。

エセ同和・同和利権が存在したから、そもそも同和問題自体が壮大な虚構であるのか、というと、無論そんなことはない。 血・殺生・肉食などを嫌う日本人の原理性に由来している問題であるには相違なく、文献上もかなり古くに確認できる。 ただ、そこに金の臭いを嗅ぎつけた層がいた、ということは、これはこれで間違いなさそうである。

ある思考のパターンを持つ者が、ある環境に置かれた際、そこでもっとも効率的な生存法を選択し、結果あるニッチを占める。 同和問題ってのは、ある面で見ればその結果的な態様のことである。 「同和問題って事実なのか虚構なのか」と問われても、物事はそんなに単純で無い。 ある部分は厳然たる事実で、ある部分はそこに漬け込んだ利権である、としか言いようが無い。 今の私に言えるのは、差別的な制度があるのならそれは撤廃すべきだが、被差別部落出身者に経済的な優遇措置を与える必要は無い、ということ。

物事を判断するに必要なものは、如何なる疫学的データよりも理解である。 理解すればこの世界は見えてくる。

日本社会は敗戦という大きな転機を経て、一旦大風邪を引いたと思われる。 健康は侵されもしたが、流入した何事かが毒になり薬にもなった。 毒についても、ようやくそれをワクチンとできるだけの体力が整った。 ヤクザや部落問題の変遷はそれを物語っている。

ちょっと気になったことだが、被差別部落・被差別部落民を「部落」と呼ぶのは如何なものだろうか。 黒人差別問題に例えるなら、黒人(黒色人種)を「人種」と呼ぶようなものだ。 部落というのは、集落とか言う程度の意味で、本来無色な言葉であるはずだ。


5/15(水)

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間隔が開いてしまった。 体調を崩していたのもあるが、私自身のみならず周囲が目まぐるしくて。 体調悪いなりにも、最低限の仕事はしようと思って、溜まっていたボーカルトラックの処理をしていた。 主にピッチの補正を。

インストとかボーカロイド系の音ばっかり作ってるような人ならいざ知らず、普通の歌物の編集って、実のところこの「ボーカルの処理(ピッチ・リズムの補正)」に大半の時間を費やしてしまうものではないか。 少なくとも私はそうだ。

ピッチ補正など、もう少し自動的に行えないものかと思ってしまうが、ではどのようなメカニズムでと問われたら見当がつかない。やりようがないのかもしれない。


5/11(土)

日本のPOPSって、世界最高クラスにコード進行が複雑なのだと。 確かに言われてみれば、海外のPOPSに転調とかって少ない。 無いことは無いけど、かなりレアな印象だ。

どうしてなんだろう。調性音楽自体は西洋文明発であるのだが、少なくとも昨今の趨勢としては、転調を好んでいないように見える。 日本のPOPSはこう言う面で見ても、独自の進化を遂げているらしい。

要するにマーケットのニーズに合わせた結果なのだろうけど、芸術ってのが、作者の思考を楽しむものだとしたら、シンプルである方が良い、なんて単純なものではないはずなんだけど。 よく分からない。


5/10(金)

韓国は半万年(五千年)の歴史を自称している。 政府高官のような人が口にしているのを聞いたことがあるから、民族・国家としての公式見解に近いのだろうと思われる。

とかく朝鮮人は歴史だとか文化(起源)だとかを誇りたがる。それ自体はおかしなことではないのだが、私が思うに、基本的に文化・文明(その要件)への理解が甘いのではないか。

五千年という数字は、中国の四千年を意識したものだろうが、中国に文明が起こったのにも理由がある。 大体古代文明は大河の近くで生まれているものだが、人間のような生き物が淡水に群がるのは、生物学的な現象である。 黄河流域の場合、それに加え、保水力が高く農業に適した黄土の層があった(長江流域にしても、江南のような農業の適地があった)。 人口を維持する能力のある土地だから、周辺民族の流入が繰り返され、そこに文明が起こった。

農業は季節と密接に連動するから、そこに暦や天文学が発達する。 農業は人の定住を促すから、そこに戸籍なども生まれる。 記録の必要性から文字も発達し、それが歴史を生む。 何より、人の定住が文化(生活様式)の蓄積を生み、それが文明を醸成する。

今のアメリカ文明も、あの大陸の資源を抜きにして考えられないだろうし、日本の歴史・人口も、この列島が稲作の適地であったこと、気象条件による樹木の再生能力が高かったこと、等に由来していよう。 土地に人口を養う能力があるからこそ、そこに人間の流入があり、その人口流入が延いては文明の基礎条件となる。

朝鮮半島に、他地域を遥かに凌駕するような「人類最古の文明」が存在したとすれば、当然その理由が要る。 私は韓国人を侮蔑しているのではなく、物事は、それを成立さしめるに相応の条件が要る、というごく当たり前のことを言っている。


5/9(木)

与えることと貰うこと。 多くの人はこの点に思いを至らせず、日々を生きている。 一応断っておくが、貰えるものとかいうのは別に物質に限らない。 自尊心を満たしてもらうことだって十分な果実である。

ある時、ある親子を眺めていたら、親が子に言う。 「笑顔でいたら可愛がられるから極力ニコニコしていなさい」だと。 親は子に、与えるでなく貰う方法を教授していた。

暴力で人を脅し何かを奪う者と、媚び諂い何かを恵んでもらう者、これらは私に言わせれば同じである。 どちらも与える気分を持たない。 表面行動の違いは、置かれた条件の違いから生まれているだけ。

当然のことながら、人間の機微には、与える気分と貰いたい気分が複雑に混ざり合う。 しかし、与える気などサラサラ無い者でも、表面的・一時的には与える場合がある。だから目くらましに遭う人も出てくる。

暴力団を撲滅するため、警察が市民への協力を呼びかけたところ、当の市民の中に協力を渋る者が出てきたそうだ。 曰く「お世話になっているから忍びない」と。 ある視座をもって見れば、それが錯覚であることは分かりそうなものだが、当事者にはそれが見えないらしい。 無能者の無能性は、それこそが悪の温床と化していることがある。 悪を容認する者は、彼こそが悪である。

親は子に与える。 与える気の無い者でも、一旦子を持つと食い物ぐらい与えねば餓死させてしまうから、とりあえずは与える。 リモコンに電池を入れるのは、与える気分があるからでなく、そうせねば用を為さないからだ。

何故一旦は与えるか。それは貰う為である。 貰う為にこさえた子なのだから、貰う為にも生かさねばならない。 釣り人が魚に餌をやるのは、単に釣り上げる為である。その餌には針が含ませてある。

だからして、ある種類の親は、我が子が思い通りの何事かを与えてくれないと分かるや否や、そこに深刻な憎悪の感情を持つようになる。 与える気などさらさら無いのに、一方的に与えさせられるのだから、これは物理現象のような必然である。 児童虐待などの多くは、こういうメカニズムで生じているものと思われる。 そこで子供の側に非でもあろうものなら、親としてはしめたものである。我が憎悪が正当性を帯びる。

貰う為に子をこさえた親は、条件によっては虐待を行うが、逆に「一切叱れない」などという親にも容易になりうる。 子を愛しているのでなく、自分の何かを満たす道具としか思ってないからだ。 両者の違いは、ホンの僅かな条件の違いに因る。

与える気分は言語によって成立している。だからあるレベルで人格が育たなかった個体には得難い境地であると言える。 これは年齢ともあまり関係が無い。 年寄りが孫をやたらに可愛がるのは、一方的に貰えるからである。 子育てという面倒な義務が条件付けられてしないのだから、そりゃ有難かろう。 小遣いくらい安いものだ。

暴力性・収奪性の高い反社会・非社会性人格障害は男に多く、恭順性・迎合性の高い境界性人格障害は女に多い。 単に身体条件などからそのように収斂しただけに過ぎず、両者に共通しているのは、与える気分を持たぬこと。

与える気分を知らねば、人はこの世界をある形でしか捉えられないだろう。 この世界の本当の姿を見る為には、与える気分を持つことが必須の条件なのだけど、それが実に難しいらしい。 私は歌を作るしかない。


5/8(水)

敬愛する海音寺潮五郎について。

じゃりン子チエの花井拳骨のモデルは、菊池寛説が有力だそうだが、私は海音寺潮五郎ではないかと思っていた。今でも思っている。 教員を務めた後文筆家に、漢文・漢籍のスペシャリスト、などの経歴も両者は重なる。 私は花井拳骨というキャラクターが大好きで、同時に海音寺を創作者として尊敬している。 何故海音寺を尊敬するかと言うと、最後の瞬間まで創作意欲を失わなかったからだ。

歴史作家としては、国民作家などと言われる司馬遼太郎の方が現在ではおそらく有名で、累計部数で見ても司馬作品の方が出ているのではないかと思われるが、その司馬と海音寺、二人は懇ろであったらしい。

司馬遼太郎が偉大な物書きであることは疑いようが無いが、彼と言う人物がナイーブに過ぎるからか、その作品を読むと、自分の弱さのようなものを思い出させられて、何だか心細くなる時がある。 つまり弱い。 海音寺は強い。

司馬遼太郎は晩年、ほぼ小説は書いておらず、軽めのエッセイのようなものばかり書いている。 創作に対する情熱を維持できなかったのだろうか。 晩年や死に際についての記述を読んでも、どうも繊弱であるというか、生気に欠ける印象だ。

どちらが良いとか言う話ではないが、私自身は海音寺型でありたいと思う。 最後の瞬間まで創作意欲を持ち続けたい。

海音寺は晩年、マスコミからの取材の一切を断り、ひたすらに執筆を続けたという。 その頃の文章だと思うが、死ぬまでに書き上げたいテーマを列挙したものがあった。 当時執筆中だった(結果として遺作となった)西郷隆盛から始まり、最終的には中国通史を書き上げたいという。 それらが全て終わったら、読書でもして悠々自適に暮らすのだと。 冷厳な目で彼の持ち時間を考えても、それらは到底書き終えられるものと思えず、事実上の生涯現役宣言であったと思われる。

海音寺は少年時代、ノイローゼになり、一時休学していたそうだ。 私はその昔、豪放磊落な彼の人物像からそのエピソードが不釣合いに思えて不思議だったのだが、今はそこに矛盾を感じない。 彼はキチガイでなかったということ。 あらためて偉大な人物だ。


5/7(火)

ピカソは極めて多作だったと言われていて、人類史上最多の作品数を誇る画家としてギネスにも認定されているそうだ。

ちょっと調べてみると、肉筆の絵画が一万数千点だとか、とにかく尋常でない数字が出てくる。 中でも凄いのが版画の十万点という数だ。 十万点ですよ。並大抵の数じゃない。 一日一点描いたとして、実に三百年掛かる。

調べたら何のことはない。 ピカソは版画作成の際、石版(あるいは亜鉛版)に線を彫り、修正の度にスクレイパーを使ったそうなのだが、制作途中、様々な位相において試し刷りを行ったらしい。 イメージの変遷を記録するためにも有用であったのだろう。

アトリエに無数に転がっていたであろう、途中経過で生じたその試し刷りが、今では全て作品として扱われ、あまつさえ高額で取引されている。 画商は売り物である以上、それを試し刷りとするわけに行かず、作品ということにしてしまっているのと思われる。

音楽作品を作っていても、一つの曲が完成に至るまでには、様々な段階がある。 曲が途中で(創作上の)方向を変えることなども日常茶飯事で、大幅な修正が入る際など、その時点でのデータを念のため保存することはしばしばある。 ソフト類によっては、自動的にバックアップファイルが生成されるものとかあるけど、まあ目的は似たようなものだ。 

自動生成されるバックアップファイルの一々を「作品」と言われたら、多くの音楽家は戸惑いを覚えるだろう。 CGなどが無かったピカソの活動期に、制作途中でのその試し刷り・描き損じの類が大量に生まれたのは、如何にもありそうなことだ。

私は、多作であることは素晴らしいと思うし、芸術家の条件であるとすら思う。 如何にそれが名画だったとしても、一点しか作品を残していない大芸術家などありえない。 しかし、物には限度ってもんがある。 生涯に千数百曲を残した作曲家、なら多作として認めるが、「数十万曲を残した」とか言われると、それは測定方法がおかしいのではないか、ってこと。


5/6(月)

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日本に初めて鉄道が開通した当時、駅はstationと呼ばれた。耳慣れぬ言葉だったからだろう。訛ってステンショと呼ばれていたとかいう話も残っている。

何故駅でなくstationだったのかというと、それまでの日本に、鉄道そのものはおろか、その思想すらも存在しなかったからだ。 つまりstationに相当する概念が無かった。

駅という言葉は、馬偏からも分かるように、伝馬のシステムに付随して生まれた宿場のことである。 stationの訳語をそれまでにあった言葉の中から選ぶなら、それなりに妥当なものと思える。 ただし多くの日本人は、station(駅)を「駅舎」のことだと思っているのではないか。 帰る場所が、homeでなくhouseである猫のように。

概念が存在せねば、対訳も定着しがたい。 identityやambivalenceは、訳語こそあるものの、それらは定着していない。 多くの日本人の、思考がそこにまで至ってないからだろう。 stationは駅という物体ではなく、その機能のこと。


バスといった場合、日本人の多くはあの乗り物を想像する。 バスという用語がいわば車種となってしまっているのだが、無論本来の意味は違う。

元々は乗合い馬車のことをそう呼んだそうだが、busは馬車の部分でなく「乗合い」の部分を指す。 コンピューターや電気関連の用語としても使われるが、音声信号の処理でも使われる。 音屋ならauxiliaryとかbusとかって用語に馴染みがあると思うが、あのbusと乗合いバスのbusは同じだ。

日本人が「概念語」を苦手とする、という話をしている。 概念語が苦手なのだから、高度に形而上的なもの、例えば芸術とか哲学とか、そういうものが苦手なのはある意味当然だ。 やはり思考の基礎には言語がある。


5/5(日)

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属性付与について。

子供の頃、親の下す「あなたはこういう子である」などという評価に、イマイチ納得できなかった。 当時、親に対する懐疑は、世界に対する懐疑でもあった。

大人になった今の目線で世の親子を眺めていると、当時の釈然としない気分の正体が分かる。 ああいった評価には、親(という一人間)の願望が濃厚に混ざるからだ。 これは良い評価だろうが悪い評価だろうが変わらない。 保身などの感覚から、「我が子がこういう人間であった方が都合が良い」と思う余り、そういう人間だという評価を下してしまう。 当然ながら、それと同時に「そうでないこと」を受け入られられない。

親は、いわば記念品として子を作ったのだから、それが我が理想に沿う方が気分良いに決まっている。 子供には子供服を着せるものなのだろうが、そこによくアンパンマンなどという児童向けコンテンツの意匠がほどこしてあったりする。 ペットの誕生日を祝う愚のようなものだが、その子が成長した暁に、親は「あなたはアンパンマンの好きな子でした」と評価するなら、そりゃ本人納得行きかねるのも当然だ。

ここでいう評価は、上のような単純なものばかりではない。 「やさしい子」だとか「シャイな子」だとか「正義感の強い子」だとか、そういう検証の難しいものも多い(当然一部くらい当てはまってたりしようから、頭から否定しにくい)。 全ては親という一個人が下した願望交じりの評価に過ぎない。 親のこの手の行動には、「属性付与」という専門用語まである。人間の典型行動の一つなのだろう。 スポーツの国際試合に、選手と同国人の審判は採用すべきでないとされているそうだが、親という一個人は、子供を評するにある面最も不適切な人材である。

子供の方は子供なだけに、親の下す一方的評価に十分に反証できないことが多い。 結果、「自分はこういう人なのだ」と、親の評価を受け入れてしまったりする。 唯々諾々と受け入れちゃダメですよ。

我が子なのだから優秀であれかし、と思う余り、優秀であるということにしてしまったり、あるいはその子が我が身を評価せぬことに苛立ち、保身からその子を悪としてしまったり。 私(わたくし)というものは、とかく物事を見え難くする。 美しいものは美しいし、醜いものは醜い。これは我が身の安全とは関係ない。


5/4(土)

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今期からウチで活動を始めた新人さん(レパートリーはおろか、アーティスト名もまだ決まってない)がいるのだが、その子の父親が私と同い年であるという。

「ショックだった」とか言えば、色んなものが丸く収まるのかもしれないが、正直全くそのような感想は持たなかった。 私は歳を取り続け、大抵の新人らは若い(大体十代から、行ってても二十歳ちょっと過ぎたくらい)。 このギャップ(年齢差)は開くことはあっても縮まることは考え難い。 従って私も、遅かれ早かれその子らの親などと同年輩、あるいはそれ以上になる。ならざるを得ない。

物事、想定の範疇にあればあるほど、それは動揺に繋がりにくい。 だから、想定できるケースが少ない知能であればあるほど、日々は動揺に満ちているだろう。 どっちが意味のある人生かなんて分からないが、私においては、物を見るのに心の波風は邪魔だと感じることが多い。


5/3(金)

子を「親が作った」と考えるのがとりあえず儒教的だとすると、キリスト教的理解では、子は「神が創った」と考える。 どちらが科学的か。まあ科学なんてうさんくさい言葉だ。どちらが真理かと言い換えても良い。

朱子学をいわば国教としていた江戸期ならいざ知らず、今の日本は厳密な意味での儒教国ではない。が、キリスト教国ではもっとない。 どちらに近いかと言えば儒教だろう。 キリスト教徒は、親子の関係に限らず、全ての人は神の被造物だと考える。

例えばbrotherという言葉は、漢語の兄・弟と意味が違う。厳密な対訳となっていない。 brotherは「同じ親を持つ男性」というだけの意味で、brother同士に上下の関係は無い。 同じように人と人を平等だと考えるから、フランス革命も起こったし、民主主義なんて思想も生まれた。

アメリカは格差社会だというが、西洋文明の中の異端であるというより、原理主義的世界なのだろうと思う。 本来人間が平等であると考えるあまり、結果としての格差を極限まで容認する社会が出来上がっているのではないか。 ヨーロッパ社会などは、アメリカに比べると老成・老熟し過ぎていて、原理主義的純粋性を希薄にしているように思える。だから社民に寄る。

どちらが良いかは分からない。 ただ、今の日本が文明的潮流の、蚊帳の外にいることは知っても良いのかもしれない。 無論、中国や朝鮮など、論外と言えるほど蚊帳の遥か外であるが。


4/29(月)

始皇帝は巡遊中に死んだ。 しかし側近らの思惑から、その死はとりあえず秘された。

暑い季節(7月)だったこともあって、隠そうにも車内の死体はみるみるうちに腐って行く。 側近らは死臭を隠す為、死体を載せた車に、大量の魚を載せた車を併走させたという。 そういう記述が残っていて、これ自体は有名な話である(因みに、始皇帝の乗る馬車を特に「オンリョウシャ」というのだが、ANSIテキストの制限で漢字のままでは書き込めない)。


ここで分かるのは、魚の死臭と人間の死臭は、おそらくは同じくタンパク質の腐敗臭なのだろうけど、つまりは似ている(基本的に同じである)ということ。

少し前の話。 沼津港付近の干物売り場を歩いていた際、付近には干物の臭い(魚の死臭)が充満していた。 それを嗅ぎつつ私は、上のエピソードを思い返していた。

おそらくあの臭いを、人間は生理的に嫌うはずなのだけど、魚という食い物の臭いでもある点から、(多分に習慣から)気分が相殺されるのかと思われた。 死体からは危険信号が出ているに違いないが、食い物はある方が生存上有利だから。

だからどうしたという話でもない。 死臭を忌避したがる本能を人間が言語で制御しているのかと考えてみたのだが、単に食い物を選択するという、これまた本能で相殺しているだけだろうという結論に落ち着いた。

しかしここでもし、死体の映像とあの臭いがセットだったらと考えてみる。 私を含む人間は、きっと平静を保っていられないはずだ。 臭いといういわば断片的な情報からは成立しなかった危険信号が、たちまち形成されるだろう。

つまり人間は、それら諸情報の統合こそを、最も優れた生存上の利器として持たされているものと思われる。 統合を司る器官とは、つまりは脳、とりわけ言語である。 人類にとって最も有用なもの。


4/28(日)

改元だそうだ。 正月のようなめでたい雰囲気なんだが、日本人はこういうムードの改元を歴史上初めて経験していると思われる。

何故なら、改元とは基本的に、葬式(天皇の死)とセットであるものだったからだ。 確かに明治以前には、一世一元という原則は無かったんだけど、概ね改元ってのは吉事に由来するものではなかった。

私は一応改元を経験している。 言うまでも無く昭和から平成に至るものだが、子供だったんで覚えていない部分も多いけど、何と言うかとにかく辛気臭いものだった。 テレビをはじめ、全ては自粛ムード、茶化すことなど絶対に許されず、殉死者まで出たのだけど、今回とりあえずそれは無さそうで何よりだ。

生前退位ってのを、もう原則認める方向で行ったら良いのではないだろうか。 天皇だって人間なんだから、常に「自分だけは次の元号を絶対に知ることが無い」と思いながら生きねばならないことを、気の毒に感じる。


4/26(金)

以前ある外国人(イギリス人)と話していたら、彼はメモを取りたくなったらしく、ノートを取り出したのだが、そのノートに書き込むために、目の前にあった私のペンを(無断で)取って書き出した。 無論、何の悪気も無い。

日本人ならあるまじき行動だが、私は別に腹も立たず、むしろ軽く嬉しかった。 同時に「こういうことができないから日本人はダメなんだ」とも強く感じた。 彼は私の何事かを、自分の一部と感じていたのだろう。 これはまさに共同体感覚である。


ベンサムのいわゆる功利主義のような思想が生まれる背景には、彼ら西洋人の持つ共同体感覚が確実にあろう。

人類をこんにちの人類たらしめた根本原因の一つに、共感性がある。 広域社会ってのは共感によって成立している。 共感は、それを成立させる機能がそもそも人間の脳に埋め込まれているのだが、それは言語の処理と密接に関連しており、持てない人には持てない。 持てない人は、当然人類共同体としての一体感が感じられない筈で、きっとこの世界が怖かろう。 怖くない人は、無断で私のペンを掴める。当たり前のように自分のペンを差し出すつもりがあるから。


4/25(木)

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ある音楽関連のiOSアプリのWindows版を落としてみた。 DAWというと大袈裟のような、オリジナル音色付属の簡易版DAWみたいなもの。

Windows版といっても本当に純粋な移植版というべきもので、Windows仕様へのカスタマイズなどほぼされていない。 普通のPCでの操作が想定されてなくて、例えばタッチパネル前提だから右クリックなど一切使えない。 MIDIデータ(SMF)をインポートできたりもするのだが、あくまでファイルフォーマットとしてそれを採用しているだけといった状態で、あんまりうまく説明できないが、SMFの基本設計というか、思想のようなものが踏襲されていない。

結局、数時間で「使えない」と判断して削除したのだが、惜しいところもあったような。 私はアプリケーションってものの良し悪しを、単純な操作性・利便性よりも、アイディアの取っ掛かりとなるか否かで判断している部分が大きい、とあらためて感じた。 


4/24(水)

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犯罪者、特に凶悪犯罪者の類について、多くの人は誤解している。 我々普通人の一部がある時羽目を外し、一種のミステイクとして罪を犯してしまうのではないということ。 そういう人がいるなら、それはむしろ例外的な存在である。

凶悪犯罪者は、脳の構造が一般人とは違う、別種の人類である。 ここについては既に科学的データも存在する。 そしてその、別種の人類には特有の思考パターンがあり、ある範囲の中で次の行動も読める。

犯罪捜査のプロ(特に心理分析などの)は、ある事件に容疑者がいた場合、物的証拠などなくとも、「平素のその人のあり様」を聞いただけである程度の判断は下せるはずだ。 「如何にも犯罪者的な性質を持ち合わせているな」とか判断できるはず。


4/23(火)

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親が離婚している家庭に育った子は、大人になって離婚しやすい。人とはそういうものだ。 人は、育ちが悪ければ悪いほど、暴力のような犯罪行為への閾値も低くなる。 経験がある人の方が無い人よりは、例えば逮捕や服役に対する抵抗感なども薄い。

つまり人間は、経験から行動の選択肢を構成する生き物だということ。 特に抵抗の拠点となる「思考」が形成しにくい脳を持たされた個体には、極力劣悪な環境を与えるべきでないと言える。が、そういう個体であればあるほど、そういう環境に晒されやすい。 困ったもんですね。


4/22(月)

私は、物事は解れば良いと思っている。 理解しさえすればそれで良い。 だから所有については、常に恬淡としている。

私は一般的な意味でのサラリーマンを経験したことがないが、サラリーマンへの興味はある。 新卒で入った会社に定年まで勤め上げる人の気分を知りたい。 もしその勤め先が一ヶ所であったりしたなら、人生最後の出勤日、私はどんな気分であるだろうか。 その職場が、どのように心に映るだろうか。

ロックミュージシャンやスポーツ選手が、脚光を浴び、英雄扱いされる時、彼の心には何が映っているだろうか。 富すらも私にとっては、理解の対象に過ぎない。 所有欲の対象でないということ。 無論必要だから、その必要程度には欲しているけど。

ここで断っておきたいこととして、私が理解したいのが「勝者の気分」だけでないということ。 会社を倒し、債権者集会でクソ味噌になじられ、ホームレスに身をやつす人がいるなら、その人の気分だって知りたい。 しかも私はそれを、勝者の見た景色と等価と見做している。

知りさえすれば良いんです。解りさえすればそれで良い。 だから、解り切ったことを一々踏むのは面倒に感じたりする。 私が音楽を作り続ける唯一の理由は、解るため。 森羅万象を知るため。 その為の最も近い道だと思ったから。


4/21(日)

仕事というのは、それを「やる」という心構えなしでは為せない。 言われたことを黙々とやり続けられることだって一種の才能だろうけど、幸か不幸か、私は若い頃からそういう環境にいなかった。

仕事ができること、というのは、ミスをしないことではない。 エクセルの入力をいくら全くのノーミスで仕上げたとしても、言われたことをやるだけのうちは、仕事なんてできていない。 まあこれは仕事の定義にもよるのか。 私が区別している何事かは、きっと伝わると思う。


4/19(金)

吉田松陰と山県太華の有名な論争があるのだが、論旨だけを見ていると、圧倒的に太華の方が論理的に思える。 松陰はメチャクチャ。 しかし歴史への影響度とか、後世の知名度でいうなら、松陰に圧倒的な軍配が上がるだろう。物事分からないものだ。

論客としてはさておき、松陰は思想家・革命指導者には向いていたのかもしれない。というか、事績を見ても明らかに向いている。 あのファナティックなところが即ちカリスマ性でもあるのだろう。

論理的・理知的な人は、どうしても温厚になってしまうだろうから、革命家としての熱量には欠けてしまうのかもしれない。 どちらが良いかという話ではないが、革命家としての適性は、自身を短命に終わらせやすくもある。 吉田松陰とかまさにそう。 死ぬべくして死んだというか、あのタイミングで死ななかったとしても、どのみち先長くはなかったろう。


4/18(木)

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性欲は性格ではない。 性犯罪者は「エロスの強い人格」なのではなく、十分な人格が備わらなかった個体だと言うこと。

本能は誰にでもある。 性欲もそうだが、腹が減った時に何かが食いたくなるとか、喉が渇いたら水が欲しくなるとか。 人格形成以前の乳児を見ていたらよく分かる。 彼らは口に入れられるものなら何にでも食いつく。単細胞生物などと変わらない。

本能で何にでも食いついていた個体が、言語を獲得することによって、例えばモノによっては「体に毒かも」とか、硬そうなものなら「歯に悪いかも」とか、一々選別できるようになる。 食い物を得ようとするのは生存上の理由からだが、この選別が出来た方がより生存に有利であるからこそ、人間はこんにちのように進化した。 性格とはその制御系のことで、誰にでもある本能をコントロールするためのもの。

性格が育たなかったらどうなるか。 当然のように(性欲・食欲といった)本能が剥き出しになる。 「メシと女とギャンブルが大好きだった男が、性犯罪を繰り返した挙句、アル中で死んだ」とか言われても、正直私は悲しくならない。 そんな人間(人格)存在していないからだ。

性格(人格)とは理性のこと。 それは脳機能、とりわけ言語に因る。 あるレベルでの言語を獲得できなかった個体とは、人間になれなかった個体ということ。 人間になれなかった個体の脳に、代償的特殊化が見られなかった場合、その人は知能障害とか言われる。 見られた場合、人格障害とか呼ばれる。

人格が育たなかった個体に、顕著に見られる性質として「願望と現実の区別が付かない」というものがある。 これは実際にあった事件だが、あるアイドルファンの男性が、そのアイドルの所属事務所だかを相手取って裁判を起こしたことがある。 曰く「あの子(そのアイドル)は僕と結婚したがっているのに、事務所が邪魔をしている」そうだ。

「そうであったら良いな」という願望に「しかし現実はそうでない」という歯止めを掛けるのが言語であり、その人の人格である。 「あの子が好き」という感情が「あの子も僕を好きでいてくれたら良いな」という願望に発展すること、ここまでは常人にも当然ある。 人格形成に失敗したら、それが「あの子の方が僕を好いている」という認知の歪みとして発露する。

病気とされるレベルのものは稀であるにせよ、現実認識と願望との区分けが曖昧な人は、割かし見られる。 私は、私に本当に見えたものを見ようと思う。


4/17(水)

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日本史上、いわゆる戦国時代に「手取川の戦い」という局地戦があった。 上杉謙信率いる上杉軍団と、信長を欠く織田軍団が衝突した。 結果は上杉側の圧勝。

織田軍団の大将は、筆頭家老格であった柴田勝家だったということになっているのだが、作戦会議中、そもそも勝家と反りが合わなかった羽柴秀吉が、意見の食い違いから戦線を離脱する。 将の足並みが揃わなかったことも敗戦の一因であったかもしれない。

織田軍団の中に実は信長はいて、敗戦の最中に現場から逃走した、という説が昔からある。 当時そのことを揶揄する落首のようなものまで出回ったらしいし、今でも一部では根強く信じられている説なのだが、本当のところはどうだったのか。


私には断言できるが、信長はそこにいなかった。 何故なら、もしいたなら、秀吉が離脱できる筈がないからだ。 単なる状況証拠に過ぎないが、これは確信に足る材料だ。

何が言いたいかというと、理解すれば物事は見えるということ。 理解しさえすれば、遥か遠い場所からでも歴史の彼方からでも、たった一つの真実は見える。


4/16(火)

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和という字を「ナ」と読むのは連声らしい。そうなのか。 確かに元和も陳和卿も、新元号候補だった万和も、全てナの直前は「ン」である。

しかし和が「ア」のような剥き出しの母音であるなら分かるが「ワ(wa)」からも連声は起こるのか。 メカニズムがイマイチ分からないな。 あるいは和を「ア」と読んだりするのか。聞いたことないけど。

文字とその読みは乖離していく。無数の実例が証明しているが、これは生理のようなもの。 h音が抜けるとか、洋の東西を問わない普遍的現象だ。

河合奈保子は表記で見ると「なほこ」の筈だが、皆「なおこ」と読んでいる(私はそうだ)。 出生届がどのようであったかまで知らないが、つまりはhが抜けている。 英単語「hour」は、そもそも「ハワー」に近い発音だった筈だが、h音が抜け、「アワー」となった。 冠詞がつく場合も「an hour」と、音の方が優先されている。 フランス語など、h音自体が消滅してしまっている。 江戸弁のh音がs音になってしまうのも、h音の抜けやすい性質の故にだろう。

乖離した音と表記の対応は、ある程度の周期でリフレッシュ(訂正)しないと支障が出るに違いない。 仮名遣いの改めとか、その為のものだろう。

「今日」は旧仮名遣いでは「けふ」。 発音につられて「きょう」となったわけだが、こんにち実際の発音は「きょお」に近かろう。 これもいずれ改めねばならないかもしれない。

「観応(元号)」は「かん+おう」だが、「かんのう」と読む。これが連声。 いつからか知らないが、仮名表記も既に「かんのう」だ。 「kan・ou」が「kan・nou」になったわけだが、これはまあ自然だと感じられる。

しかし「ban・wa」が「ban・na」は連声のメカニズムを逸脱し過ぎていて納得行きかねる。 宋・元音とか長安音のような比較的マイナーな発音体系に、和を「ナ」と読むものがあったりするのではないかと思ったりするが、どうなんだろう。 無学な私には分からないけど。


4/14(日)

音楽のライセンスビジネスは、(特にアメリカでは)割と昔から存在した。 ただしそれは、どちらかと言えば業者向けサービスだった。 勿論例外はあったろうが、クライアント・供給者共に、概ね業者が占めていたように思われる。

ここ数年で乱立した、個人クリエイター参加型のライセンスビジネスは、形式的には同じような業態ではあるものの、やはり後発なだけに本質(特にクライアント)が違う。 あと成約の単価も(数十倍というスケールで)違う。 言うまでも無く後発の方が安い。

「こんなに安価な競合サービスが出来てしまって、それまでのライセンス事業者は大丈夫なのだろうか(業務が立ち行くのか)」、などと思ってしまったのだが、それは「一杯300円の牛丼屋があるのだから高級料理店は大丈夫なのか」と言うようなもので、つまりは杞憂であるのかもしれない。 クライアントの気分、求めるクオリティー、が全然違うのだろう。 確かにそんなこと言い出したら、自前の制作部やチーム持っているプロダクションとか、高コスト極まりないけど、事実そういうところはあるわけだし。 誰でも「安ければそれで良い」と思うわけではない。


してその後発のサービス。 クリエイターの側も、契約書交わしたりするような面倒な手続きが要らず、その他のネットサービス同様に、Web上でメールアドレス一つでアカウントとパスワード発行してもらうような手軽さで参加できる点が魅力だったのだろう。 自作の音楽作品がマネタイズできるという。

個人制作の動画だとか、小規模で作られるアプリの類のように、「音楽(BGM)が必要ではあるが、さして質にも拘らず、予算もそこまで掛けられない」と言った企画に向けたライセンスサービスってのが、需要に応じる形で立ち上がった。おそらくここ数年の話。


スキームというか、一定の仕組みさえ作ってしまえば、後は勝手に金が入ってくるというような、運営側にとってはある意味ボロいビジネスだったと見えて、似たようなサービスが一時期乱立する。 既に廃業しているようなところもある。

ただ、すぐに供給過多に陥ったらしい。 大体この手のサービスはクライアントとサプライヤーの比率がアンバランスになりがち(要するに供給過剰)なものだが、それが機能不全を起こすレベルだったようだ。 つまり、(クライアントとクリエイターの)仲介を行う事業者が、処理に難儀するほどの大量の楽曲が送りつけられたと見える。

個人向けの音楽配信サービス(作品発表の場)のようなものなら、広告収入とかにシフトすべきだったのだろうが(そのビジネスモデルが成立し難いことは、歴史が半ば証明しているが)、あくまでクライアントからの支払いを軸にしていたので、クリエイター側からの楽曲提供に制限がかかることになる。

どうしてそうなったのか。実のところ正確な理由は私にも分からない。 そうしないとサイトはアップローダーになり、それのメンテナンスがスタッフの主業務となってしまうということか。 しかし、一々楽曲の審査をするなら、それはそれで別の労力が掛かる。 私は多分に事業者の気分が影響しているのではなないかと思うが。

因みに、乱立したサービスの中には、既に「使用(ライセンス)料無料」のものまである。 拘りの無いクライアントなら、もうそのフリーの楽曲で十分だろう。 拘るクライアントにとっては、恣意的な審査で楽曲を絞り込んでいるサービスなんて、それはそれで使い勝手悪かろうがね。


私は「別に、楽曲提供なんて際限なく受ければ良いのに」と思う人である。データベースは巨大な方が良かろうと。 ただ、多くの業者の考えは違ったらしい。 とにかく、供給に制限を掛ける方向に動いたようだ。 一見そうする方が効率的に思えたのだろう。

現在も新規のクリエイター登録を受け付けているところは多いが、実のところ「もうお腹一杯」であるらしい。 審査でハネたり、あるいは新規登録の受付自体を中止しているサービスすらある。 あるサービスに「審査でハネる理由」を列挙したページがあったのだが、要するに「もう足りている」というものが印象的だった。 本音だろう。

用途が用途であるだけに、大量の新作が必要ない。 個人作の動画だとか、小規模な企画においては、つまりは「音楽なんて、あれば何でも良い」のである。 成人向け雑誌は、バックナンバーの価値が薄れ難い。それと同じ。 バックナンバーで差し支えないエロ本を、毎月何万誌も新たにリリースする意味が無い。


著作権フリー音源集だとか、ループソフトで使うようなループ集のようなものって、昔からいくらでもあるが、ほとんどどれも一定のクオリティーは保っていて、もうそれさえあればBGM程度の用途は満たせる。つまり、オリジナルの楽曲なんてほとんど必要無い。 用途が用途なだけに、その手のものって使用にうるさい制限も無いし。

つまり、音楽ライセンスビジネスに需要はあるのだけど、ここ数年で新たに開拓されたそれは、実にか細いものでしかなかったらしい。 モノに拘るなら不十分で、拘らないなら無料のもの・既存のもので十分という。つまり、立ち上げた直後こそいくばくかの小銭が転がり込んだようだが、長期的なビジネスとしては成立しにくいみたいだ。

今もがんばって広告活動(実質クライアント募集)をやってる事業者はいるが、広告費に見合う見返りが期待できるだろうか。


個人的に「委託するならここが一番良いのではないか」と思えるサービスがあったのだが、サイトの作りにクセがあり過ぎて、スタッフ間で協議した結果、委託は見合わせようということになりつつある。 そのクセというのは、一言で言うとオタクっぽい。 一応会社として登録するのだから、もう少し無色である方が望ましいと言えばそう。

因みに上記のクセのあるサービス、データ販売事業者としては、一応国内最大級であるそうな。 国内最大のサービスがそれということは、つまりはネット界というのはやはり、特定の層が占める割合がいまだ大きいということか。

半分アップローダーのような、楽曲審査などを設けてないサービスがあるなら、生き残るのは存外そういうものかもしれない。 登録時に、ある程度の手続きを踏むことを義務化すれば、さほどのカオス状態にはならないはず。


4/13(土)

ウードやリュートなどという撥弦楽器は、ヘッドが(ほとんど直角に)反っている。 装飾目的でなく、弦のテンションを維持するための構造上必要な反りで、大抵の弦楽器には似たような構造が見られる。 日本の楽器で言うと琵琶や三味線など。上記のウードやリュートほどに極端な角度ではないが、ギターのような楽器にもその反りは見られる。

そのヘッドの構造のことを指す専門用語があったような気がするのだが、失念してしまったようで、今あれこれと探してみても見付からない。 構造そのものは楽器を特徴付ける明らかなものであるし、そこに言及した文章はよく見られるのだが、とにかく単に「反り」だとかしか呼ばれていない。

だからどうしたということでもないのだが、言葉が出てこないのがもどかしい。 あるいは最初からそういう用語など無く、私の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。


4/12(金)

「ゆとり世代」とか言う言葉がある。いわゆるゆとり教育にて育った世代のこと。 しばしば「堪え性が無い」、「打たれ弱い」、あるいは単に「学力が低い」といった評価の枕詞になる。

先日見かけたネット記事曰く、新入社員の30数%が、入社2〜3年以内だかに離職するだとか言う(厚労省調べ)。 このデータが、特定の世代に(有意差をもって)顕著に見られるものなのかどうか、分かりかねる部分もあるが、まあ生育環境が行動に影響を及ぼすのは事実だろう。 ただ、それと本人の資質・本質は分けて捉えられるべきものだが。

私は仕事柄、若い人と接触せざるを得ないので、いわゆるゆとり世代とも(割と日常的に)コンタクトがある。 世代特有の雰囲気とか、多少感じなくもないが、やはり同じ人間。本質的な違いは無いと感じる。 ただし、社会という受け皿の方は昔と大きく違う。 環境が違うのに行動が同じであるなら、そちらの方が驚くべきことだろう。 正直言って私は、彼らの個性なんてものを良くも悪くも信じていない。

「近頃の若い者は」という大人の嘆きはよく聞かれるが、環境をかこつのも一種の依存である。 私の場合は、彼ら若者と対峙せざるを得ないという職掌柄、「対策」は練っているが、それは散らかった仕事場を片付けているようなもの。彼らのありようについては、ある程度止む無き物だと諦めている。

ただ、アドバイスはすることがある。 あるものが欲しいという若者に、「その程度の代償(意識・技量等)で、それを手に入れるのは難しいのではないか」とか。 これとて余計なお世話かもしれないが。

どんな世代に生まれようが、何かを手に入れるには相応の条件がある。 無論その条件は環境に左右されるから、時代によっても変わっては来る。 詰まるところ、結局、流れ着いたところがその人の最初から目指した場所、なのであって、周りがどうこういうべきものではないのだろう。 物事全てはなるようになる。なるようにしかならない。


4/11(木)

改元に伴い、恩赦が実施される見込みらしい。 前から思っていたのだが、恩赦って何なのだろう。何故そんなものが必要あるのか。皆目分からない。

「実施対象は軽微な犯罪に限られる」らしい。 凶悪犯罪者は対象外なのだと。 しかし「そういうことなら歓迎しよう」とはならないだろう。 軽微であったとしても犯罪の要件を備えているからこそ犯罪で、それに対する量刑等のペナルティーも、一定の合理的判断に基づくものなのだろうに。 そこと改元とに何の関係があるのか。 歴史の上に、恩赦の対象となる人とならない人が生まれることになるのだが、その不平等を容認する根拠は?

調べを入れても、納得行く理由など何一つ探せなかった。 「だったら法改正の方を真剣に検討すべきでは」といわれたら言い返す言葉もなくなるような愚論・愚見ばかり。 恩赦は「不作為」によるものでなく、誰かの「積極的働きかけ」によって実現されるものであるに違いないのだが、どこの誰がそんなことを躍起になってやろうとしているのか。 訝しげな話だ。

本当に誰か私に、納得のできる理由を説明してくれないものだろうか。 非論理は絶対に許されるべきでない。 これを放置したら世の秩序はメチャクチャになる。


4/10(水)

音楽のライセンス事業者には二種類ある。 無論私がそう解釈しているだけであって、そんなに画然としているわけではない。業態としては皆同じであるつもりなのかもしれない。

どういう二種であるのか、だけど、要するに使途の違いである。 即ちクライアントの違い。 片や大手のクライアントを抱え、映画やCMなどでの使用を想定している。無論実際にもそういう用途で使われる。

もう一種は、個人だとか、比較的小規模なクライアント向けのサービス。 成約例を見ても、スマホアプリのBGMとかが多い。紹介されている例でそれなのだから、それすら稀であると思われる。 個人制作の動画とかそういうものに使われることが多いのではないか。 因みにこちらは、使用料も(当然入ってくるギャラも)安い。

上記の二者があった場合、当然前者の方が審査などが厳しいと思われるだろうが、それが違う。 前者は契約そのものにハードルはあっても、契約後にカタログに載せる楽曲について、一々うるさく干渉して来ない。

後者は違う。 一々楽曲をエントリーする度に審査され、「一般的商業音楽でない」などと言う理由でハネられたりする。 一般的商業音楽であることに、どうしてそんなに価値があるのか。私には分からない。

素人向けであるからかもしれない。 膨大なデータベースから、用途に合わせた適当な楽曲を探し当てるのは、確かに大変な手間である。 専業のエディターのような人ならまだしも、自作動画やアプリのBGM程度のものを探しているような人に、その膨大なデータベースは余計だ。 適当なものを見繕ってもらいたいくらいだろう。

実際売られているコンテンツを聴くだに、イージーリスニングみたいであったり、あるいはサンプリング集に収録されているループのようであったり。 要するに、毒にも薬にもなりそうにないものがほとんどである印象。 あんまりアクの強いものを必要としてなく、むしろカタログが膨大化することを避けたい、という気分があるのか。



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ピカソの語録を眺めていると、やたらに「子供」という言葉が出てくる。 「子供は誰でも芸術家だ」とか、「ようやく子どものような絵が描けるようになった」とか、「子どものように描くのには一生涯かかった」とか。

ピカソの言うの「子供」とは、要は自分の正体という意味だろう。 人間生来の何かは、環境によって変質させられる。 ある面で見るなら、それは汚されることでもあろう。 関西に生まれた人が関西弁を喋ることに、自分の本質は全く関係無い。

環境によって培われる部分以外のもの、つまり自分の本質のようなもの、私はそれはあるような気がする。 それが無い人もいるのかもしれない。 ある人にとって、それの探求は、しばしば畢生の作業となる。 それが芸術ということ。


自分がいること、これが全ての前提条件となる。 見ること、探すこと、愛すこと、悲しむこと。全て。

大切な人の大切さも、自分がいるから気付ける。 ある人を失った悲しみも、その人がいたから沸き起こるもの。 いたから悲しいし、いたから今でもいる。

自分が間違いなくいて、失った大切な何かが間違いなく実在したのなら、その関係は永遠だ。きっと再び巡り会える。 単にそれは確率の問題。 私は、本当の自分を探す為に曲を書き続けている。


4/9(火)

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パーソナリティー障害を解説した文章に「彼ら(人格障害者)はヤクザのようなものに向く」とあった。 私の理解はある程度正確であるらしい。

肉食動物は草食動物を食う。 ライオンとシマウマを同じ檻に入れれば、おそらくシマウマは殺されるだろうが、そこに別段の不思議は無い。 彼らはそういう生き物だからだ。

パーソナリティー障害は、脳の機能不全にて起こる。これはハッキリ分かっている。 だから、後天的に(事故等で)物理的な損傷を受けた脳が、パーソナリティー障害を発症するケースが見られるそうだ。 機序を理解していれば驚かない。

刑務所に収監されている、いわゆる凶悪犯罪者らの脳を調べたら、ほぼ例外なく前頭葉に異常が見られるそうだ。 つまり彼らは犯罪者である以前に、人格障害者であるということ。 人格障害というのは、知能障害の一種の収斂形だ。

パーソナリティー障害者のタチの悪いところは、ライオンのようにビジブルでないところ。 犯罪者は我々一般市民の一部がやむにやまれずそうなるのではなく、構造的に違う脳を持つ、「別種の生き物」である。 峻別の方法すらある。

彼らパーソナリティー障害者らの異常行動は、性格に因らない。 傾向性とは性格でなく、物理現象である。

水は100度で沸騰する。99度や101度で沸騰しない。つまり、皆常に同じ態様を示す。 一見個性かのように見える表面行動は、環境に因って生じたケースの違いでしかない。 弱火に晒した薬缶と強火に晒した薬缶の、沸騰するまでの時間が違うようなもの。 個性と見るのは錯覚である。

ライオンのようにビジブルであれば、そもそも同じ檻に入れることが間違いであると気付ける筈なのに、パーソナリティー障害者は同じ人間の姿をしているから、多くの人が騙される。 一般市民は、社会という共通の檻に入れられ、しばしば被害を受ける。

この被害を最小限に食い止める唯一の方法は、我々がその事実に気付くことである。 気付けば世の中は変わるはずなのに、それを煙に巻こうとする勢力のせいで周知されない。 この勢力というのも、要するに彼らの一部なのだけど。


4/8(月)

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この世界というのは、向き合った分量しか見返りも望めない。 愛さねば愛されないということ。

夢と言われるものがある。 例えば「ミュージシャンになりたい」とかだったとすると、音楽に誠実に向き合った分量しか音楽は応えてくれないということ。 これは世俗的な名声とかそういう面での話じゃない。 自分に何を残せるか、という話。

SNSだとかオフ会だとか、飲み屋・盛り場の類で知り合ったような人らで、自分の人間関係を塗り固める人がいる。 不誠実にしか他人と付き合う気がない人には、不誠実な人間関係しか待っていない。 私は良いとか悪いとかの話をしていない。

人は、求めたものしか手に入れられないということ。 相手とどう取り組むか、が人間関係の本質で、更にはそれが人生の質となる。


4/7(日)

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海外のライセンス事業者に楽曲を委託したいのだが、英語表記の身分証明書を求められて閉口してしまう。 持ってない。というか、日本の行政機関は、パスポートなどという僅かな例外を除いて、英語表記の身分証明書なんてほぼ発行してない筈だ。 私はパスポートを持ってないし、そのために作る気もしない。

ここ最近、音楽ライセンス事業(特に個人クリエイター向け)について、色々と調べを入れていたのだが、私なりの解釈というか、現状認識がまとまってきた。 また時間がある時にでも文章化してみます。


4/5(金)

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私は、才能というものにさしたる価値を置かない。 才能とは、基準が決めただけのものだからだ。 才能如きに引き摺られた人生を送る人なんて、その時点で負け組である。

美人に生まれたからモデルになったとか、勉強ができるから試験秀才になったとか、運動神経が良かったからスポーツ選手になったとかいうのは、それだけで評価するなら、腕力があったから暴力団員になった、というのと同じ。 所与の条件から、最も生存上有利な方法を選んだだけ。

暴力を使って収奪する者は、暴力が使いものにならなければ、一種の物乞いになる。 与えるでなく貰うことしか考えていないから。 高学歴であった方が就職に有利だからとて、机に噛り付くものは、糖分にたかる昆虫と同じ。

私は、音楽の才能があったから音楽家になったわけではない。音楽が好きだから、その作業を続けるうち、結果的に音楽家になった。 だから私は、世の音楽家や歌手を評価する際にも、その人の才能に重きを置かない。 「どれだけ歌えるか」でなく「どれだけ歌いたいか」を見ているということ。



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広瀬沙希、歌入れ。 今回の曲はそれ単体でシングルリリースする予定ですので、比較的早めに公開できるかと思います。


4/3(水)

神田優花、体調不良でちょっと新曲作りは休止中。 録音済みのテイクをチェックしたりしてました。

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あるミュージシャンが麻薬の使用で逮捕された。 それによって事務所を解雇されたり、収録済みの映像などがお蔵入りするとか再録されるとか、様々な問題に発展しているらしい。 ミュージシャンなんだから当然音源もあるわけだが、多くのそれが流通を停止されているという。

事件に伴うその種の自粛に批判的な声もあるらしい。「作品に罪は無い」とか「○○(歴史的な有名クリエイター)もクスリをやっていた」とか。 この手の大掛かりな自粛も、それに対する批判も、お決まりと言えばそうだ。

私個人の意見を言うなら、例えばフェイバリットアーティストであれば、音を聴けなくなるのは困る。好きでないアーティストならどうでも良い。 お決まりの批判についても、そちらの方に理があるだとか、それに従う方が利にありつけるとかであれば、きっと関係者の行動も変わってくるだろう。 現状、そうなっていない。自粛の方向に行く方が得策なのだろう。

犯罪者の関係した作品が自粛対象にならねば、犯罪行為はいわば「宣伝」になる。 関係各所の自粛の判断は、犯罪行為を容認しない、という意思表示でもあろうから、一理なくもないと感じる。 「太宰だってヒロポン使ってたじゃないか」って言っても、それによって今更彼の著作に重版がかかるなんてことは無い。

自粛行為が、自然の摂理・神の意思に逆らうものなのであれば、きっとそれは放っておいてもいずれ淘汰される。 淘汰されないのであれば、きっとそこにはそれだけの意味・価値がある。 ついでながら、麻薬の使用という犯罪は、制限速度超過と本質的には同じようなものだから、善悪という価値基準をそこに持ち込むつもりはない。


4/2(火)

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新元号、令和だとか。 出典は万葉集らしい。渋いところから持ってきたな。漢籍じゃないのか。 しかしなんだかなあ。一つ前の元号が昭和なのに。一部カブってるじゃないか。

因みに和の読みである「ワ」は、呉音なんだと。知らなかった。 和の読みは音訓ともにちょっと多過ぎる。 元号の候補だったものの一つに、和を「ナ」と読ませるものもあった。 ナってどこ起源の読みなんだろう。 過去の元号にも元和(げんな)とかあったし、陳和卿(ちんなけい)とかいう歴史上の人物もいる。 ナと読むこと自体は間違いないんだろうけど。


4/1(月)

働く(仕事をする)ことと生きる(生存する)ことの区別が付いていない人は多い。 生きることがあまりに大変だからだろうか。

手練手管の限りを尽くし、やっとありついた就職先で、毎日定時までそこにいてタイムカードを押せば、月給が貰える。 それだけの時間を拘束されるだけでなく、当然その間に処理したタスクもある。 人はついこれを仕事だと思い込む。

女性なんかはしばしば、社内で良い結婚相手でも見付かろうものならと、日々めかし込み、売り抜けの方途を探る。 これも実に大変な労力である筈で、その大変さは自分が「仕事をしている」との錯覚を生みやすいだろう。

上に挙げた一々は、全て生存への執着である。 仕事とは貢献のこと。 上司や雇い主の前では、反射的に「仕事をしているフリ」をしてしまう人は、本質的な意味で貢献の気分を持っていないのだろう。 生きることって大変だから、ある程度仕方ないのかもね。

因みに私は、生存に執着することが悪いこととも、仕事をすること=美徳、とも思っていない。 両者を区別しているだけ。 区別は出来た方が良いと思う。国語力の問題だから。 区別した上で、サボるならサボれば良いのではないかと思う。


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