Staff diary  
スタッフ日誌[2019]

[文 / 益田(制作)]

3/31(日)

「挨拶は大事だ」とか言う人がいるが、私には挨拶がどれほど大事なのか、今ひとつ分からない。 無論人間関係を多少なりとも円滑化するためにも、不要とまでは言わないが。

挨拶は挨拶に過ぎない。 一種の儀礼であり、仕事などの本質とはブレる。

挨拶に価値を置き過ぎる人は、仕事の本質が分かっていないことが多い。 その人に理解できたのはそれだった、というだけ。 若い人は、仕事場などで挨拶に重きを置き過ぎる上司を見たら、その人のことは疑ってかかった方が良い。 多分その人は、仕事の核心部分が理解できていない。


3/28(木)

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先日出くわしたある光景について、思うところがあるので書き残しておく。

ある母親が我が息子(幼児)に、落としたものを拾ってもらおうとして「拾って」と要求していたところ、別の子(他人の子)が割って入ってそれを拾い上げ、「どうぞ」とその母親に渡した。

母親は、我が子にお願いしたわけで、その別の子は本来無関係であるのだが、当惑気味でこそあったように見えたが、「ありがとう」と感謝の意をその子に伝えた。

私はその一部始終を見ていたのだが、その割って入ったという別の子に、若干の不安を覚えた。 それは「物を落として困っている人」に共感し、助けようとの意思によって為された行動でないことが、見るからに明らかであったからだ。

彼は、落し物を拾うことによって、点数を稼ごうとしていた。 きっと「困った人がいたら助けてあげましょう」というように教わっているのだろうが、「困っている人」という他人の気持ちに共感できねば、その子は「困った人」という絵に対し、反射的に行動を起こし、「誉められる」という成果を得ようとしてしまう。 つまり代償発達である。

その子はまだ子供だから、今後成長し、他人の気分に共感できるようになるかもしれない。 が、ならなかったらどうなるか。それが人格障害というヤツである。

「困った人に同情する」という共感性は、まさに脳、とりわけ言語の作用である。 生来その部分が脆弱な脳を持たされた個体は、ある指標を与えられた際、別のルートををたどってある(表面的には普通人と同じ)到達点へとたどり着く。 これが代償発達。 人格障害が代償発達のことであることについては、既に粗方判明している。

我々が困った際、人格障害者は我先にと(まさに割り入ってでも)救いの手を差し伸べるかもしれない。 普通人はそこに「共感」があると思い込み、感謝するかもしれない。 でもそれは錯覚である。 長い目で見れば、その誤解は、社会に取って有益でない。


3/27(水)

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水木しげるさん(漫画家)は、三歳の頃まで言葉が喋れなかったそうだ。四歳にして始めて言葉を口にする。 現代に生まれていたら、確実に検診などで引っ掛かり、発達障害・知能障害とされたろう。

当時としてもそれは看過できぬものであったと見えて、彼は尋常小学校に一年遅れで入学させられる。 今でいうなら、養護学校とか特別学級に入るようなものかと思われる。 つまり周囲は発達において、正常でない、と判断したということ。 事実、正常(一般的)ではない。

しかし水木さんはその後、絵の才能を認められ、小学生にして個展を開くまでになる。しかもその個展開催は、当時の新聞記事にまでなったという。 絵を描く技能は、空間把握力などと密接に関連していよう。

更に、十代の終わり頃には哲学書などを読み漁るようになるのだが、残っている若かりし頃の文章などを見るだに、一種の天才を思わせる。 というか、間違いなく天才だろう。


言語の形成不全は、諸々の代償的機能を発達させる。代表的なものとして、記憶力・計数能力・空間把握能力など。

つまり、例えば空間把握能力は、ある程度言語の代替品として機能するということである。 だからして、代償発達でなく、生来人並み外れて優れた空間把握能力を持たされた人は、言語の獲得が遅れるかもしれない。 いわば必要無いから。

人間は言語を、必要であるからこそ獲得する。 他人を自分と同じ人間だと思うから、共感するしコンタクトを取りたい衝動も感じる。 典型的な発達障害児は、他の子と遊ぼうとせず、言語の獲得が遅い。 他者の存在が現実に映り込まず、言語を獲得する必要が薄いからだろう。

代償発達について、私はその機序を理解できているつもりだ。 例えば記憶力については、言語に因る応用が利かないから、記憶に費やす領域が肥大化する。 計数能力なんかも、要するに言語による応用が利かないから、脳が計算で物事を処理する方向に傾いてしまう。 表情を読む、とかいうのも、要は計数だろう。

この文章の結論というか要旨は、既に述べた「空間把握力等は、ある面において言語の代替品たり得る」ということ。 結論を先に出したので、文章のまとまりが悪くなった。


3/26(火)

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ある兄弟がジャンケンをする。 兄が勝ち、弟が負けるとする。 兄が自分の利益にのみ着目するなら、自分は一勝を得ているが、同時に弟は敗者となる。 しかし、その一部始終を側で見ていた親がいるなら、親にとってその光景は、単に「戯れる我が子の姿」に過ぎない。 勝ち負けで見ても一勝一敗である。 ヘーゲルの言う止揚とは斯様なものか。

魅力的なサービスを提供する会社などが、顧客を満足させ、雇用を生み出し、上場などした日には株主にまで還元をもたらす。 成功した会社はいわば勝者なわけだが、ここで大事なことは、こういった勝者は、必ずしも敗者を生まないということ。 ある企業の上場は、別の企業の上場廃止を条件としない。

音楽が好きな人が音楽作品を生み出し、好事家がそれを鑑賞する。 これが理想である。 もしそこに「勝敗」という原理が持ち込まれれば、たちまちその世界は荒廃する。 音楽を「売りつける人」と「買わされる人」が生まれるから。

言語は、物事を階層的に捉える。そういう特性を持っている。 だから西洋的学問体系は、常にツリー状に整理される。 止揚を繰り返し、パラダイムをシフトし続けた結果、彼らには愛や共同体感覚が生まれ、更にはこの階層を、これ以上ないところまで登り切ったところに、Godの概念も生まれた。

博打は、勝者が出れば必ず敗者が生まれる。 パチンコのように胴元が基本的に勝ち、長期的には大量の敗者を生み続けるシステム、が社会から淘汰の圧を受けている理由は、それが共同体感覚に抵触するからだろう。

ヤクザは市民社会に寄生する。 寄生しているのだから、彼らが肥え太れば太るほど、宿主は大量の栄養分を吸い取られる。 社会全体から見れば生産的でない。 弊害の方が大きい。

共同体感覚をもって社会全体を通覧して、誰かが得をする一方で誰かが損をするのなら、最大限良く見積もってもイーブンである。 彼らヤクザが「金」という養分を吸い取るために、犠牲となり首を吊る人が出るなら、その損失は計り知れない。

学歴社会やその勝者であるエリートというのも、実はこの博打やヤクザとある面で同じである。 勝者が敗者を生む。 公務員の給料、原資は税金である。上級公務員に学閥があるということは、そこに入れない人は、搾取される側に回るということ。 私が今のような学歴主義社会を「もう長くない」と感じる理由もそこにある。


3/25(月)

私は、映画とかそういう映像コンテンツを作ったりすることの無い者だが、もし作るとするなら、どういう音楽が欲しいだろうか。

ここ最近、東京オリンピック開催決定の余波で、和風な音楽コンテンツの需要が高まっているとか仄聞した。 試しに国内のライセンスサービスにて「和風」とかそういう用語でサーチ掛けてみると、確かに出てくる。 しかし上位にリストアップされていた曲を試聴してみると、本当に単に和風というか、純度の高い邦楽ではない。

どういうものかと言うと、多くはいわゆるショッピングモールとかの店内BGMのようなイージーリスニングの、主旋律に当たるようなパートに、シンセの三味線や琴などといった和のプリセット音色が当てられているようなもの。 おそらく、雅楽・俗楽などという邦楽の様式に忠実たろうとか、実器(和楽器)の構造・奏法などを再現しようなんて発想に、微塵も基づいてない(全てを聴いたわけじゃないけど)。

別にそれが悪いってんじゃなくて、そういうものはあっても良いし、そこに需要もなくはないだろうと思う。 ただ、私が例えば江戸時代を舞台とした映画を作るなら、絶対に上のようなBGMは採用しない。

私が欲しいと思うようなものが、何故商品ラインナップに無いか。 そういう作品の供給が全く無いとは考え難い気がする。 そういう音をエントリーしようとする音屋があっても、入り口でハネられている可能性が高い。


私は、(個々のレーベルでなく)マーケットが商品を厳選する、という発想に懐疑的だ。 商品の陳列スペースに限りがあった時代ならいざ知らず、今のネットワークビジネスにおいて、そんな制約は事実上存在しない。 推したい商品があるのなら、それはレコメンドとかそういう括りにすれば良いだけ。その他のコンテンツを排除する理由にはならない。

「この売り場には厳選された商品しか置いてませんよ」というのがセールスポイントになる、って発想はどうなんだ。 特有とまで言わないにせよ、日本人に濃厚に見られる感覚だ。 iTunesはむしろ、厳選していないところ(カタログの膨大さ)を売りにしていたりするというに。 私はTVメディア(地上波)から顧客が離れた理由も、要するにこの辺にあると睨んでいる。

予てからの持論だが、取捨選択、それ自体はあって良いと思う。 不良品が混じっていては客も迷惑だろうから(試聴というシステムがある以上、それも大した問題ではないように思うが)。 しかし音における不良とは、例えばファイル形式が規格に沿ってないとか、音声そのものが入ってないとか、極端に(作者の意図でなく)S/N比が悪いとか、途中に意図せぬクリップが入ってるとか、そういうもの。 楽曲そのものに不良など無い。あるとしたらそれは客が判断すること。

要するに、私が客としての視点で言うなら、マーケットによる取捨選択(という介入)は、それこそが迷惑なのである。 欲しいものが買えない。それ以前に耳目に触れさせても貰えない。 これ以上の余計なお世話があるだろうか。 「由ラシムベシ、知ラシムベカラズ」と言うのは、要するに神の被造物である人間を信じない精神で、そういう気分の持ち主というのは、彼こそがこの自然界の意志に障る存在だろう。

創造の意志あるものが作品を作り、世に出し、個々の全てのリスナーによって、それらの作品の良否が判断され、ある物は選ばれ、ある物は淘汰される。 これこそが神の力学であって、マーケット側の介入というのは、それに必死で逆らおうとする行為。 おそらくその動機は、つまり巡り巡っては生存の原理だろう。 共同体感覚の欠如によるもの。 いずれ、その者ごと神に淘汰されるかもしれない。


上記は、日本の音楽ダウンロードサービス(ライセンスでなく販売事業者)にも、ある時期濃厚に見られた性質で、一種の宿痾と言えるかもしれない。 外資が入ることである均衡は崩壊させられ、現状に至っているのだが、今後ライセンス界隈にも似たようなことが起こるかもしれない。分からないけど。

現状が維持されている理由に、市場規模が小さ過ぎるから、というのはあるような気がする。 ここについては、もう少し人々の意識が変わらないとどうしようもない。 まあなるようになるでしょうけど。 ならなければ、神はその状況を許容するということ。

今のところ国内に(というか円決済の)、音楽コンテンツのライセンス事業者はほぼ寡占状態にあるらしい。 もう少し増えて欲しいところなんだが、出てこないものだろうか。 競合が無いところに向上は生まれにくい。ここは経験上確信している。


3/24(日)

体調がよろしくない。 多分単に風邪引いただけだと思うんだが、基礎疾患があると。風邪も通常のそれとは違う疲労感がある。


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話は変わるが、現行犯逮捕って恐ろしい。 警察官には現行犯逮捕、という権限があって、つまり、その警察官個人が「見た」ということに、証拠能力が認められているわけだ。 よくよく考えると怖いことだ。

幽霊を見た人や宇宙人を見た人が、これほどに多い世の中である。「見た」なんてことに証拠能力を認めて大丈夫なのか。 警察官にだって誤認・錯覚の類はあるだろうし、そもそも誰だって嘘くらい吐くだろう。


3/21(木)

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神田優花、ちょっと久々の歌入れ。 今回の割りと普通のPOPSだったんですが、これから暫くはそういう感じのものをリリースしていく予定です。


3/19(火)

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以前見かけた、物凄くデタラメな音(失礼)をリリースしまくっていた、とあるミュージシャンの話。その人は私に、考えるキッカケを与えてくれた。

デタラメな音というのはどういうことかと言うと、「曲が良くない」とか、そういうことでなく、本当に鼻歌をそのまま録音物としてリリースしたり、ミックス前のパラのトラックを独立曲としたり。あるいは打ち込みの練習として作ったような既存曲のコピーなどを、商品として(数千曲という単位で)出しまくっていた。 無論、それを正当な音楽コンテンツとして購入する人など、絶無に近いと思われた。作者の趣味でしかなかったろう。

昨今、個人でレーベルを立ち上げることが可能になったことから、そういう人が出現することは予測できていた。 そして本当に出現する事態となったわけだが、私は思うところあって、その人の動向を興味深く見守っていた。

音と言うのは、売れようが売れまいが、それなりの手間が掛かる。 曲作るだけでも相応のスキルが要るし、Mix・マスタリングにも手間・コストが掛かる。機材費とか録音に使うスタジオ代とか、各種の消耗品費とか、とにかくタダじゃない。 ジャケット作るならスチール撮影から行うことになるから、カメラマンの人件費や衣装・メイク・道具類・スタジオ代等々が発生する。 さらに画像の補正、ジャケットデザインなど、上がったスチールを加工するのにも手間隙は掛かる。 しかもそれをリリースするとなると、商品コード取得するのにも費用が掛かるし、各種の事務的な物心両面でのコストが掛かる。

上記のデタラメ音源は、ジャケットのほとんどは、おそらくフリー素材(画像)や自分で撮ったもの、音は宅録、コメント類は自作、というもの。 ほぼその供給主が一人で全部の作業を行っている。面倒だろうが行えてしまう。 ただ、最大限コストを削ったところで、ゼロにはならない。 数千曲なんて出したら、手数料のようなものだけでもとんでもない額になる。

アグリゲーター(各レーベルとショップとの仲介業者)にとって、一旦契約してしまった相手からのリリース計画(納品)を断るのはおそらく難しい。人がやってることなのだから、仕事やってる人なら感覚は掴めると思う。 相手が空気読めなかったりすると、アグリゲーターは際限もなくデタラメ音源のリリースを請け負わなければならなくなる。 因みに、リリースに際しては、アグリゲーターの負担する作業も結構多い。その為の人件費など当然かかる。


そういう人がマーケットを荒らした挙句、ショップ(各ダウンロードサービス)はゴミデータのアップローダーと化すのか。更にはそのせいでサイトは麻痺し、サービスそのものが機能しなくなるのか。 実はそうならない。

数千曲をリリースするための機会費用は大変なものである。実費部分だけで見ても随分値の張る趣味になる。 それを買う人がいて、再生産のコストを負担してくれねば、一方的な支出にならざるを得ない。だから大抵は続かない。 上記のミュージシャンも、ある時期を境に、燃え尽きたようにリリース活動を止めてしまった。

デタラメ音源のリリースを続けるには、作者のその行為に対する情熱・覚悟が必要となる。 儲からないんだからなおのことである。 もし頭のイカレた御仁が、採算など一切度外視して、その手の不採算コンテンツを膨大にリリースし続けるなら、その音楽はもう、リリースされるだけの価値があるのである。

私は上記のミュージシャンについて、批判的であるわけでも好意的であるわけでもない。 興味深く見守ったのは、物事がなるようになる、という真理をリアルタイムで見たかったからだ。


3/18(月)

何を選ぶか、というのはその人の本質だ。当たり前だが。 他人をある基準で選ぶ人は、その選択・価値基準を見られることによって、自分自身が評価される。 恋人や友人を選ぶ基準は、それこそが自分を体現している。 人間関係とはその人そのものだ。

私は、誰かの下す一々の評価について、表明された評価理由そのものよりも、その誰かの「心境」の部分について考えてるようにしている。 そして、そうすることによって一歩、森羅万象の理解に近付いたと思っている。

面接官は就活生を選んでいるつもりだろうが、そこでの選考結果・選択基準を、同時に学生らにも見られている。 どういう恋人を選ぶか、という判断は、他人がその人を判断する重要な要素となる。

選択基準というのはその人・その組織の本質と言える。 基準を見せることによって、興味を失われる者は多かろう。 これは自分が選ばれなかったから愛想を尽かす、なんていう「酸っぱい葡萄」のような話じゃない。

私に心があるように、他人にも心が植わっている。 私はこのことがいまだに俄かには信じがたい思いがするが、そうである以上、全ての人は対等であると考えるしかない。 だって、如何なる地上の成功者だって、隣人にはなれないんだから。


3/17(日)

友人・友情という得難いものについて。

人に好かれようとする必要はないし、他人が自分をどう思うか、というのは結局コントロールできない。できるはずがない。 それをコントロールしようとすることが即ち依存であって、究極的に我々が脱さねばならない境地。 自己の確立は、友情を得る為の条件である。

だからして、友人というのは、自分に情を投げかけてくれる人なんかでなく、自分が愛すべき人。 その相手が友であるか否か、決めるのは常に自分だ。 相手が自分をどう思うか、なんて関係ない。 美しいものは美しいし、愛すべきものは愛すべき。

人を好きであること、誰かに美質を見出せること、とは、好きと思えるその部分において、自分自身がその人そのものになってしまって構わない、と思えるもの。 好きだと思える誰かがいるのなら、我々は友を持ちつつある。あるいは既に持っている。

「私に友人なんているのだろうか」と不安の中にいる人は、真の友人を持たないのかもしれない。 自分が友と見做せる人がどこかにいるのなら、その友は既に側にある。 我々が誰かを応援しているのなら、我々を応援してくれる誰かはきっといる。


3/16(土)

ブレイクコアを作ろうと思い立って、一応一曲上げたって話をしてたんだけど、その総括。

トリッキーな音に一定の面白味はある。これは私も認める。 ただ、その面白さって飽きが来やすい。本質的な面白さではないのだろうと思う。

音は(音楽に比べ)ショートスパンである。保持の利かない言語状態でもある程度楽しめる。音楽はそうは行かない。 一定の言語力が無ければ、長いセンテンスが読めない。保持できないから。 そういう脳の持ち主に文学作品などを与えたら、文字の形などに関心が行く。 その人は、文字の形(フォント)の面白さこそを文学だと思い込む。

文学においてなら、それが誤った楽しみ方であることが分かりやすいが、音楽においては分かりにくい。 それがショートスパン・ロングスパンと言う、尺の違いにしか見えないから。 長距離走者としての資質と短距離走者としての資質は、全くもって異質であるらしいが、素人から見れば「同じ運動選手、しかも走る人なんでしょ」ってなものだ。

音楽を聞かせた時、音に焦点が合ってしまう人は、どうしてそうなるのか。 それはゲシュタルトの形成不全が起こっているからだ。 その人に音楽を聞かせても、音しか聞けない。 作者がその作品に込めた「愛」の部分など、届きようもない。

ブレイクビーツ(と言う技法)を多用したブレイクコアというジャンルが存在することは分かる。あっても良いと思う。 しかし「ロックミュージシャン」がいるように「ブレイクコア専門のミュージシャン」がいることには、ちょっとついて行けない思いがする。少なくとも私はそれにはなれない。 私にとってブレイクビーツは、単にアレンジの引き出しの一つ(しれも使用頻度のごく少ない)に過ぎない。これからもここについては変わらないと思う。


3/15(金)

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昨日の続き。 音楽ライセンスビジネスについて。 今、新たにライセンスの委託先を模索しているのだが、多くのサービスに「楽曲審査」が存在している点がちょっと煩わしい。

つい最近、国内のサービスの一つに楽曲の登録を申請したのだが、初っ端から審査でハネられる。理由はよく分からない。 そこのサービスで実際に販売されている楽曲を聴いてみると、何となく傾向のようなものは掴めなくもない気がするが、対策を取ってそれ用の楽曲を作ったりするような手間は掛けられない。そこまでになると現時点での構想外なのだ。 因みに、そのサービスに登録されているのはイージーリスニングっぽいものが多い印象。基準は実のところよく分からない。 まあ確かにウチが登録申請したものはかなりクセのあるもので、イージーリスニングっぽくはない。

しかしこの、恣意的な審査ではじく、という発想は如何なものか。 勿論クズデータのアップローダーにされても困ろうけど、(S/N比だのという)音質上の理由でなく、楽曲そのものが審査されるという。 音楽作品の良否など誰に判定できるんだ。

正直言って、長いこと音楽なんてやってるものだから、この審査というヤツには泣かされてきた。 何が困るって、明確な基準が存在していないところ。 審査があるだけで、制作のコストも制限されるし、それって音楽の可能性を潰す行為だ。

審査そのものはあって良いと思う。 でも容認できるそれは、データが規格に沿っているかとか、そういう事務的なもの。 最大の障壁はクライアントによる選択であるべきだ。 音楽ダウンロード販売においても、結局はリスナーの選択こそが最大の関門であるし、そうでなければならない筈だ。 恣意的な基準にて、リスナーに届く前に審査と言う関門を設ける意味ってどこにあるのだろう。 今時サーバースペースの節約なんて理由もあるまいに。

私は、昨今の(特に比較的新規参入の)ライセンス事業者のあり方に物申したいとか言うわけではないんだが、作品の供給にフィルターが掛かる、というのは出店を躊躇する材料となってしまうのだ。 想定するカタログがコンプリートされない可能性が高いのだから。

10曲入りのアルバムは、その10曲をもってして作品世界を完成させているのだから、そのうちの何曲かがはじかれたりしたら、作品の整合性が取れなくなる。曲順変えられたりするだけでもアーティストは困るだろう。 酒と酒のつまみが置いてある店は、そのどちらかが(ディストリビューターなどの)一方的な都合によって販売できなくなると絶対困る。 両方が置いてあって初めての商売なんだから。 ウチが今ライセンス用に提供しようとしている音というのもそういう性格のもの。

具体的な解決策としては、極力審査のうるさくないと言うか、自社基準で楽曲そのものを選別したりしないところと契約するくらいか。 一定のコンテンツを陳列しないと商品性が保てないと考えている。


因みに、既に言ったように、ウチのアーティストの販売用楽曲の委託先を増やすことは考えてなくて、バッキングトラックをインストとして再利用する方法とか、そういうものを考えている。手抜きと言えば手抜きだが、それ(ライセンス)用にオリジナル作品を作るほどの手間は、今のところかけられない。 あくまで、普段の楽曲制作作業務に付随して出来たオーディオデータを販売するだけのつもり。 放っておいても一円にもならない物を多少なりともマネタイズできるなら幸いだ。 需要あるのか分からないけど。

結局、国内の事業者での本格的な販売はとりあえず断念することにした。 いくら手抜きコンテンツでもアップロードの手間とかそれ用のエンコード作業とか、一定の手間は掛かるわけで、「審査結果が読めない」というのは中止の理由になる。 繰り返すようだが、対策を施したそれ用のオリジナル曲なんて、ちょっと作ってられないし。

今、海外の事業者を通しての販売を模索中で、うまくルートが確立できるなら、そこで独占的に販売してもらおうかと考えている。 単純に日本の事業者は手数料も高いし、メニュー(登録楽曲)に独断的なフィルターがかかってる時点で、長い目で見ればライセンス事業者としての有用性は低いような気がする。私がクライアントならそう思う。

ウチのレーベルからのリリース用楽曲とそれ以外のBGM用途のオーディデータ、この二者をそれぞれの事業者に委託したいと考えている。 こういうライセンスビジネスに詳しい知人の類が本当にいなくて、全て手探り状態。詳しい人がいるなら話し相手になって欲しいよ。


3/14(木)

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海外では既にマーケットが確立しているライセンスビジネス、日本国内でも数年前からいくつかサービスが開始されていて、軌道に乗りつつあるらしい。

海外に比べると、クライアントの質が少々違うようだ。 海外(アメリカ)ではハリウッド映画だのディズニーだのという大手のクライアントがサービスを利用しているのだが、日本ではまだそこまでのメジャー感はない。 国内最大手の事業者のサイト内にある「採用実績」のようなコーナーを見てみても、スマホアプリのBGMとか、そういうのがほとんど。 個人制作の動画とか、そういう用途が多いんじゃなかろうか。

クライアントの質ってのは、即ち用途なわけで、そこがサービスの本質とも言える。 日本と海外(アメリカ)のそれとは、基本的に別物と考えて良いかと思う。 と言うか、我々はそう捉えている。出品するなら内容は考える。

ウチも、海外では既にライセンス事業者と契約しているんだけど、この度国内でも楽曲提供を始めようかと思っている。 ただ、商品としての楽曲をそのまま委託するのではなく、過去の作品のバッキングトラックをBGMとしてとか、曲作りの為に作った効果音の類をとりあえず販売してみる予定。

コンバージョン率とかいう用語があって、要は再生数における成約件数をパーセンテージ化したものなんだが、アカウントはそれが弾き出せる仕様になっている。 私が軽く驚いたのは、海外のライセンス事業者に比べ、再生数そのものが格段に多いこと。 これはクライアントの質と関係しているのだろう。 参入障壁が高いと、当然クライアントの質は上がり、絶対数は少なくなる。

現時点でのウチのコンバージョン率が如何程のものなのか、他所のレーベルさんの事情を知らないから何とも言えないが、海外事業者との提携においては、おそらくかなり低い。 「日本語楽曲である」と言う厳しいハードルがあるので、何かと海外では使い難いはず。 因みに、成約一件当たりのギャラは、桁違いにアメリカ(と言うか現在のウチの契約相手)の方が高い。 この辺も用途の違いを感じさせる。


余談だが、我々のケースでは、海外のライセンス事業者と契約するには、まず紹介者が必要だった(飛び込みお断りだそうな)。 そもそも紹介者に教えてもらうまで。そういう業者が存在していることすら知らなかったわけだけど。 相手がアメリカ企業ってのもあるのかもしれないけど、契約書なども交わした。 あとはギャラの振込み用に新規にアカウント作ったり。

日本の事業者の場合は、一般のネットサービスのようにメールアドレスなどを登録し、サインアップ、パスワード使ってログイン、みたいな流れ。 随分とお手軽な印象だ。 ネットオークションに参加する感覚。何と言うか、契約って言うより出店って感じ。 個々のオーディオファイルについても、通常の販売用楽曲リリース時のように商品コードの取得とか編成表作成のような面倒な手続きが無くて、随分と簡単。これは助かるかも。


3/13(水)

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インド(古典)音楽には、二大体系として、北部のヒンドゥスターニーと南部のカルナータカがあるのだが、両者を楽理的に説明した記述を見られることははほぼ無い。 説明できないのだろう。

Wikipediaを読んでも、カルナータカの方がより理論的、声楽重視などとあるが、どう理論的なのか皆目分からない。 ラーガ(旋律型)に忠実である、とかその程度の意味か。

私の理解としてのインド音楽は、まずラーガとターラ(リズム)というものがあり、そのうちのあるものを採用した楽曲において、その範疇での即興を繰り返す、というもの。 楽曲にはある程度の様式性があり、アーラープなどの定番的くだりがある。 あと、言うまでもなく、定番的楽器群がある。シタールとかタブラとか。

ターラというのはリズム周期のことで、リズム型のことをのみ抽出してテーカーなどと呼ぶ。 即興的な要素はあるが、リズム面の即興性は比較的薄い印象。 あと、リズムにもティハーイなどという定番的手法がある。

アウトラインだけ言えばその程度なのだが、例えばそのラーガ一つとっても、現存(現役)のものだけでも数百種あるという。 ラーガは西洋音楽でいうところの単なるスケールではないので(スケール部分のみをタートと言う)、一々の説明も難しい。 私が調べたところ、ネット上にラーガを網羅しているサイトは存在しない(私は見つけられない)。

何故突然インド音楽なんだって話だが、ちょっと仕事上の理由で、過去に作ったその手の音楽を整理する必要があって、自分の頭の中もついでにまとめておこうと思っただけ。


3/11(月)

音楽、とりわけ歌を聴いていると、その人の未来まである範囲で予想できてしまう。 それだけ歌ってものがその人を物語るってことなんだろう。

この間、ダラダラと音楽を聴いていたら、生の歌なのかボーカロイドなのか判定しがたいものに出くわした。 よくよく聴くと生の歌であるらしく思えたが、明らかにボーカロイド的な歌唱法を採っていると思われた。 ボーカロイドも基本原理はサンプリングなので、歌い方などによっては、厳然とした差異を見つけにくい。

あの人は、ああいう歌い方が良いと判断したのだろうけど、何故だろう。 流行のようなもの? だとしたらその人は、何よりもそれを優先したということ。 きっとこの先、長くは歌い続けられない。 いつまでも歌なんて作業を続けていることが、流行にそぐわなくなる日が来るから。


3/10(日)

ここ暫くの懸案だったブレイクコア、やっと一曲上がった。使い道全然思い当たらないけど。

やはりあんまし私向きの作業でないらしく、途中何度も挫折しかけた。 結局完成させはしたけど、作業中、思考があらぬところに向いてしまって、結局途中で別の曲が一つ出来上がる始末。 ニ曲目を作るかどうか分からない。作らないような気がする。


3/9(土)

現天皇が退位するそうだ。 当然新天皇が即位する。

天皇は、通常emperorと訳される。皇帝である。 地上の君主としては最高の称号であると言える。 popeとかpriest kingと言ったものの方が実体に即しているような気がしないでもないが、とりあえずはemperorと言うことになっている。

日本では天皇は現人神だと言うことになっていて、ローカルな(日本独自の)概念なだけに、英語にしようがない。 神なんだからGodではないのか、と言う意見はあるかもしれないが、英語圏人は絶対にそれに納得しない。 God概念と天皇は懸け離れ過ぎている。

天皇の存在(天皇制)すらも、神の意思によって生まれたものであろう。 西洋のGodと日本の天皇のどちらに軍配を上げるかとか、そういう話じゃない。 Godとはそういう概念なのだ。 そして日本の歴史に、その概念は生まれなかった。 今でも多くの人がそれを感じられていない。 天皇がGodである筈がない。


3/8(金)

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アメリカの大統領は、先般の米朝会談で「日本人拉致問題」を議題としたらしい。 事件の第三国であるアメリカが言及することによって、「これは日朝間だけの話ではなく、国際問題なのだ」と言うメッセージになったと思われる。 ちょっと感慨深かった。「日本を贔屓してくれてありがとう」と、喝采したい、なんて話ではない。

大統領は、大統領選の公約である「メキシコ国境壁建設」をまだ諦めていないらしい。 多分、日本にて似たような経緯で当選したような人がいたら、とっくに放棄している公約だろう。 青島幸男が本気で自衛隊を解体しようとしている、みたいな話である。

政治家とは、文字通り政治(調整)を行う人なので、公約などは状況に応じて反故にしがちだ。 約束は破るより守る方が良い、こんなこと子供でも分かる。 だが政治とは、大人の世界である。

物事には複雑な事情が絡みあっている。最適解も時々刻々と変化する。 ある面ではAが正しくBは正しくない、が、別のある面ではBも間違いではない。だから、AとBの中間を採る。←政治とはこう言うもの。 有耶無耶に思えるかもしれないが、政治と言うのは本質としてそういう性格を持っている。

大統領のキャリアを見ると、政治家としてはほぼ素人であることが分かる。 彼は要するにビジネスマンである。 そして、だからこそ信用の大切さを熟知しているとも言える。 政治的均衡より、約束の履行に価値を置いているらしい。

事前に、日本政府・拉致被害者家族などからの嘆願はあったのだろう。 当然のように「解決の為に努力する」と言った旨の回答をしたはずだが、この手の回答は空手形と言うか、リップサービスに終わりがちなもので、当事者たちですらどの程度期待したか。

経験上、金も人も信用に集まる、ということが身につまされていたろうか。 アメリカ人が(玄人である民主党候補よりも)結局彼をPresidentとして選んだ理由も、その辺にあるように思える。 如何なる技能よりも、信頼できることって大事なんじゃなかろうか。

「生半な賢者であることより、熟練の政治家であるより、約束を踏む人間の方が優位である」 こんにち文明の最先端にあるとされているアメリカ人は、そう判断したのではないか。 だからああいう人を大統領として推戴したのだろう。 きっとそこには、彼らの信奉する神の意思が働いている。


3/7(木)

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ブレイクコアっぽいのを作ろうとしてるって話をしてたのだが、いまだに完成していない。 「ブレイクコアの作り方」みたいなチュートリアル動画を見てみたんだけど、明らかに私の曲作りと、作業の流れと言うか、脳内メカニズムが違う。

動画では、DAWと言うキャンバス上でオーディオデータを切り貼りしつつ曲を仕上げて行っているのだが、「脳内で事前に曲を構成し、それを形にして行く」と言うようなワークフローになっていない。

上記のような曲作りの方法は、別に珍しいものではなく、つまりは私も知っていたのだが、とりあえず私における平素の曲作りとは随分違う作業だ。 因みに私は、頭の中で構成したプロットを、一旦ほぼ完全に譜面化(MIDIデータ化)した上で音色を選定して行く。 これが私にとっての王道的なやり方。


ブレイクビーツはシンセの音色などと近い。 勿論同じではないが、時間的に短いプロットだ。音色面での要素も濃い。 音色を曲に発展させるのが難しいように、ブレイクビーツと言うフレーズを(あるタイプの)曲に発展させるのは難しい。

「ジャズを作ろう」とかってのは構想の対象が音楽なんだけど、「16ビートにしよう」なんてのはアレンジという、いわば枝葉末節部分で、その着想で一曲を完成させるのは容易でない。随分な距離がある。

アレンジの更に末節である「音」を着想とするなんてのは、本当に無理難題に近いと思うのだが、実際にそういう作業を平素行っている音屋は割りといる。 私とは作曲に使うアルゴリズムが違う。

今その「音」を着想に一曲仕上げる作業に挑んでいるんだけど、やはり中々進まない。 音やアレンジ部分のアイディアってのもそれはそれで大事で、それ豊富であればあるほど、曲の引き出しは増える。 私においても、その手のアイディアはいくつもアタマの引き出しにしまってある。 ただそれらのアイディアは、あくまで曲の骨格があった上で、味付けに使うものだけど。 壁紙からデザイナブルな建築物を作ろうとするのは、ちょっと無謀かもしれない。


3/4(火)

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共同体感覚について考え続けている。

いわゆる学歴社会というものがある。日本など世界的にはその最たるものに属すると思われる。 事務処理能力など、特定の適性を判断する為のベンチマークとしてはそれなりに機能しているから、無論全く非合理ではない。 しかし民間企業がそれ(ペーパーテストの結果)を採用基準に用いるのなら分かるが、公的機関がそうであるのはどうなのか。 税金を原資にしている以上、公務員の採用基準は公平であらねばならない筈だが。

学歴に因る人選を用いねば、官公庁と言う組織は機能しない、などと思っている人がいるのなら、それは既にうまく丸め込まれている。 江戸時代は身分制社会で、いわゆる役人も士分の者(あるいはその子弟)が選ばれたが、政府は機能していた。 無論それが無審査だったわけでもなく、またそこで能力が問われなかったわけでもないが、少なくとも現代のような学力・学歴主義は採用されていなかった。 断っておくが、江戸期の人選法が最善であったとは言っていない。

偏差値80近い、などと言うのは、ある意味不健康そのもので、エリートとは、病人であるとすら言える。 生物の分布はベルカーブ状になるもので、全体の1%未満の上澄み層など、生存上も本来不利であるに違いないからだ。 日本社会は、その特定集団が一定の均衡を作り出し、それを維持している。 社会そのものが病理に似ている。


欧米社会におけるテクノクラート(官僚)は、高学歴である。 日本のように学部卒がほとんどを占めたりしておらず、大半はそれ以上の学位を持っている。 しかしこの学歴の基礎となる評価基準が日本とは違う。 短い文章で説明するのは難しいが、記憶力や理解力、もっと言えば忍耐力が求められるでなく、Creativityが求められる世界である。 学歴の優劣の判定基準が同じでない、ということ。 あといわゆる学閥は(少なくとも日本ほど色濃くは)存在しないのではないか。

もし日本の教育機関が現状のようでなく、Creativityこそが求められる世界であったなら、あるタイプの人は「困る」はずである。自分の属性の、いわば換金率が下がるから。 日本と欧米社会の、この違いを見るだけで、日本の官僚たちが、共同体感覚の持ち主でないことは明白だ。


如何なる機関も、より優秀な人材を求めてはいよう。 しかし人間の優劣など、これほど判定の難しいものはない。 学歴(学閥)・ペーパーテストの結果による選別、というのはあるタイプの人間にとって都合の良い判定法に過ぎないのだが、それによって社会の(一部の)階層が組まれることに、多くの人々は納得させられている。 学力の基準なんて、文科省にいる先住者(公務員)が勝手に定めているだけなのに。

あるいは面接に因る選考であっても、それは先住者が恣意的基準にて仲間を選んでいるわけで、学力と言う明確な基準が存在しない謎の選考法だけに、よりタチが悪いとも言える。 あるタイプの人間が、自分らを再生産するに最も適した方法を採用しているだけ、のように見えてしまう。

私は、重箱の隅を突くように制度の欠陥を指摘しているわけではない。 人間の作る制度に、完璧なものなど無いことくらい分かっている。 私が気になっているのは、それが貢献の気分・共同体感覚に支えられているのかどうか。


科挙による人選が、支那社会停滞の一因となったことは疑いない。 科挙と言うペーパーテストで選ばれた人材が、深刻な政治禍・体制の腐敗を招いた。 今の日本の官僚選別システムが、天下りやそれによる官業の癒着体質等と言った、社会のある種の腐敗を招いていることは周知の事実である。 律令を取り入れた当時の日本政府が、何故科挙は取り入れなかったのか、歴史の謎ではあるが、おそらくは単に、当時の社会の中枢を占めていた層にとって、そんなに都合良いもの(当時の現状以上に魅力的なシステム)でなかったからだろう。

ある種類の人間が、先にうまい汁にありつき、後任者も彼らの独自の基準にて選ばれる。 私はこのシステム・そこに群がる彼らの有り様そのもの、を、利害の握り合いではあっても、共同体感覚の賜物とは思わない。 彼らはむしろ、アドラーの言う「共同体感覚の未熟な人間」であり、人類共同体の一員ではない。


アドラーは、共同体感覚の未熟な者は、集団を形成したとしても、それは自らの利益の為に過ぎず、その所属に心の安定を保障されない、としている。 西洋社会における個人に照らすなら、きっとその通りであろう。

日本社会における個人は、おそらくアドラーの見てきたようなものではない。 西洋社会のように各人に個が確立されておらず、まるで社会性昆虫かのように、彼らはいわゆる省益を形成する。 外国人がしばしば日本人のことを「生きていない」とか表現するらしいが、こういう有り様を異様に感じるからだろう。

明らかに人類一般と違う原理性を持つ日本社会。これがManifest Destinyに飲み込まれる日は来るのか。 私は来ると思っている。それもそんなに遠くない未来に。 北朝鮮の政権が、もう長くは無いと思えるように、日本の現状もそれほど持たないような気がする。

その証拠、と言うか兆候として、今この私がその不自然さに気付いてしまっていることがある。 私が気付くということは、多くの人が既に感じているに違いない。 勿論現体制だって数千年の歴史を経て出来上がったもので、それなりに堅牢なものには違いない。北朝鮮ほど脆いとは、私も思っていない。 あと、ついでに断っておくが、私は高学歴者や公務員を目の仇にしているわけではない。彼らの中に見られる、ある属性を持つ一部の者、が思考の取っ掛かりになっているだけ。


3/4(月)

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アドラーの言う「共同体感覚」について、私なりに熟考している。

共同体感覚の欠如した人間は、そうであるが故に富や名声に恵まれる場合がある。 そして私は、そこに神の不在を感じたこともある。 スノッブであればあるほど高学歴になるとか、割とよく見られる現象だ。

共同体感覚の欠如者は、共同体感覚を体感できず、それに守られている気分を味わえない。 だから、その不安を埋めるため、しばしば一直線に金や名誉に群がる。 彼らが最も濃厚に映している現実が、それであるからだ。 彼らは結果的に、社会からのある側面においての還元を手厚く受ける。

例えば公務員は税金で養われるのだから、身分や高給が保障され、それに就くのに数十倍の倍率が出るのはおかしい。 その賃金では最低限の人員すら確保できないという時に、初めて給金を上乗せすべきだと言うこと。 私の言ってることに、少なくとも一理くらいはある筈だ。それは日本の財政を見ても明らかだろう。 私に経済は分からないが、巨大な赤字を累積させながら、公務員に高給を出し続けるのが不合理である、と言う意見はあって良かろう。 だが、とりあえず現状、この世界はそれを容認している。

そして公務員は、公務員によって選ばれる。 人事院も各セクションの人事も公務員であるから当然だ。 公務員と言う立場に群がった人らは、恣意的に後続の公務員を選択する。 我が身さえ富貴なればとて公務員に就いたような者なら、ある基準にて人を選ぶはずだ。 社会の限りあるリソースは、彼らに食い荒らされる。

そこに介在する力学は、Trust(信頼関係)でなくCreditだろう。 日本語にはしにくいが、英語でそれらは明らかに区別されている。 そこにあるのは、信頼によって成り立つ友情ではなく、握り合いによって保たれる均衡。

共同体感覚の欠如によって公務員(というか税金)に群がったような人らは、果たして幸福なのか。 私はそう言う人らになったことが無いし、幸福の定義もイマイチ分からないから何とも言えないが、共同体の一員としてのある気分を感じられないのは、不幸なのではないかと感じたりもする。

神が存在する前提で述べている。神とは八百万の神とかでなく、宇宙を支配する力学のこと。 超自然的存在と言うより、自然の摂理そのもののこと。

神は例えば公務員を容認するし、暴力団も現状程度には容認している。 朝鮮半島では、北朝鮮の政権だって容認している。 ただし、昨今暴力団は消滅しつつあるし、北の政権も、多くの人に「長くは続かない」と思われている。 多くの人が「神の見えざる手」の存在を確信するからだろう。 暴力団や北の政権が滅びた後、次に神によって淘汰されるのは何なのか。

物を乞う者は、恫喝によって収奪する者と、ある見方によっては同じである。 行動原理に貢献の気分がない。 市民社会に寄生するヤクザと、税金と言う、これまた市民の財産に群がる公務員は、ある面で同じである。 片や合法、片や非合法と言う違いこそあるが、どちらも現状、神の意思に十全に即した存在とは思えない。

金を手にした彼らは、金こそ手に入れているが、その富とは、神が「そのくらい容認しても構わない」と考えている程度の何かなのかもしれない。 「金に群がる者が感じられないであろう何か」に比べれば、それは瑣末なものだと神は考えているのだろうか。 私には分からないけど。

少なくとも、神の加護というのは、目先の小銭のことではない。 金を得たことが終わりの始まりだった、というような人生はよく見かける。 金さえあれば、世界一周旅行にだって行けるけど、単なる金を求めれば求めるほど、その先で見る景色、世界の態様を映す心を失っていくのではないか。

貢献する気がなければ無いほど、人は自分自身に存在の意義を感じられない。 共同体の一員となれず、自身に、この世界に自分が存在する意味を説明できず、孤独感の中で生きることになる。

公務員や暴力団員が神に愛されたのかどうか、私には分からない。 でも彼らの多くが、神の慈愛を感じられずに日々を過ごしているようには見える。 金や世間体と共同体感覚と、どちらに価値があるかなんて今の私には分からないけど、きっと時間が教えてくれる。


3/1(金)

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人間の存在価値について。

人は、存在するだけでそれだけの価値がある。 存在したということは、その為の全ての条件を備えていたということ。 我々は、神に祝福された。

自分の存在に、等身大の尊厳すら感じられない人は、本来あるべき以上の割り当てを期待しているのだろう。 それは収奪の動機に直結する。

我々は、あるべき自分であることによって得られる何か、以上のものを求めるべきでない。 求めればその個体は、たちまちこの世界にとって不要、もっと言えば有害な存在となり、神の祝福の対象から外される。 神の祝福とは、金や名誉のことではない。

コンビニに並んでいる本のタイトルを眺めると、「人に好かれる方法」とか「魅力的な話術を身に付ける方法」みたいなのがよくある。 ありのままの自分が人に好かれないのなら、好かれそうな人になりすますでなく、本当に必要とされる人になるしかないのに。

貢献の気分さえあれば良い。 貢献しようと本気で思えば、生半な能動的行為より、無害でいることの方に価値があることもきっと分かってくる。


2/28(木)

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犬種というものは、科学的でないらしい。 チワワがチワワであることに遺伝子上の根拠は無く、セントバーナードとチワワに遺伝子の上での(種としての)垣根はない。全ての犬種は単に犬である。狼ですら生物学的には犬と隔たりない。 千葉県民と東京都民に、生物学的な差異が無いのと同じ。

では犬種とは何かというと、多分に商業の副産物と思われるが、その手の管理団体の定める定義を満たしたもの、であるそうな。 血統的にどうであれ、チワワの定義を満たすものはチワワである。 横浜市に住民票を置いたら「ハマっ子」だとか言うのに近い。

犬種と言う「概念」が消滅すればどうなるか。 当事者である犬らは別に困らない(犬じゃないから分からないけど多分)。 犬種を管轄する団体だとか、特定犬種のブリーダーだとか、それらの流通・販売を担う業者とか、要するに犬種から派生する(多分に商魂の産物である)諸々の業務が消滅するくらい。 モノが犬種程度なだけに、その概念が消滅したところで、実のところ(まさに)人畜にさしたる害は無い。 犬を愛する人も犬そのものも無くなったりはしない。


ヤクザが全くいない国(地域)は普通にあるらしい。 ヤクザがいないってのは、粗暴な人間がいないと言う意味ではない。 粗暴な人間や良心感覚の希薄な人間は、ある程度の割合で生まれてくる。

チンピラ・ゴロツキの類であれば、人のあるところ、世界中至るところにいるだろうが、ヤクザはそういうものではない。 特異な家父長制を敷く集団を形成し、資金獲得法に一定の(顕著な)傾向を持つ組織。 思考法が特殊なので、おそらく一般人には俄かに理解しがたい価値観・原理性を持っている。

「暴力団の取締りを強化すれば、そういう勢力が潜在化する」みたいな意見があるが、実は別にそれで良いのである。 ある定義(条件)を満たしてさえいなければ、粗暴な人間のいくらかなどいても特に問題ない。 その者らが犯罪を犯せば、その都度警察などが対応するだけ。 社会の荒廃・人心の腐敗は招かない。

取締りを強化するだけでも、その種の人らは生きて行きにくくなる。長い目で見れば絶対数も減る。 そしてそういう社会は、実は実現可能である。 だって現に暴力団のいない地域はあるわけだから。

ヤクザが容認される社会と言うのは、あるタイプの人間にとって、生きやすい(寄生しやすい)社会である。 暴力団のない社会など実現不可能、などと思っている人がいるのなら、その人は既にあるプロパガンダに騙されている。 プロパガンダの発生源は、社会がそうであった方が都合の良い層。

日本でだって、僅か百数十年前の江戸時代にまで厳然とあった「身分(それによる階級も)」が、現代ではほぼ消滅している。 そして現代人は、そこにさほどの不自由も感じず暮らしている。 いらないものはいらないのだ。


2/27(水)

いわゆる「鬱病」の人に、私は心底同情する。 鬱とは気分が毒される病なわけだが、人間とは結局のところ気分でしかないからだ。 富や名声など、いくらあってもそれを感じ取る「心」が晴れねば意味が無い。

仕事や学校に行きたくない人が、仕事や学校と言うタスクこそを障害だと思っているのなら、その気分はきっと晴れない。 遅刻する理由は、学校や会社が「遠いから」じゃないのだ。 距離を乗り越えられない気分の方にこそ原因はある。



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ブレイクコア作り、遅々として進まない。 まああの手の音って、一小節のリズムを組むのに数時間単位で費やす人とかもいるらしい。無論私はそこまでやらないけど、追い込む余地はそれだけあるということ。

BPM190の曲を作ろうとしていて、私のアタマの整理の為に半分のBPM95でシーケンス組んでみたりしたんだけど、当然音楽的な解像度は下がる。 BPMの解釈をどうするかってのは、過去にも何度か生じた問題で、私以外にも割りと心当たることなんじゃないかと思う。


2/25(月)

ブレイクコアみたいなのを取り入れた曲を作ろうかと思っている。 ブレイクコアそのものっていうより、それを取り入れたPOPS。

ブレイクビーツみたいなのを曲に取り入れたことは過去にもあって、引き出しの一つではあるんだけど、ああいうのって、普段の作曲とはワークフローが随分異なる。 違ったアプローチでの曲作りって、結果仕上がるものを聴いて区別が付かなかったとしても、作ってるこっちにとっては、ちょっとした刺激になる。

ワークフローとは言ったものの、ああいうものを作る正しい手順なんてのは存在してなくて、多分音屋の数だけ作り方があるようなもの。 私においては、基本になるブレイクビーツは、それ作る専用ソフトみたいなのがあるのでそれで作るとして、後は出来上がったオーディオファイルをDAW上で切り貼りし、エフェクト類を掛ける、みたいな流れになるだろうか。

バッキングというか、装飾的な部分についてはそれで良いとして、曲そのもの、いわば核の部分をどうするか。 やはり一応はシーケンサーとかで組まざるを得ない。 このシーケンサーで核を作る、という工程をぶっ飛ばして作ると、何と言うか、音こそそれっぽくても芯の無い曲に仕上がる。 私は音そのものに大した興味は無いから、そういうのを作ろうとは思わない。

音響的なギミックを着想としたような曲って、経験上大したものにならないと分かる。 とりあえず作ってみようと思っているけど、核の部分があんまりしっかりし過ぎたものにするつもりはない。 用途とかもどうしよう。シングルとかではないな。


2/23(土)

ここ暫く懸案だった曲がある。 弦楽四重奏のスコアをベースに、POPS的なドラムだとかギターの音を混ぜたようなものをイメージしていたのだけど、弦の音をどうするかで迷った。 普通に生系の(バイオリンだとかの)弦の音を使うか、あるいはシンセで合成した弦の音を使うか。

シンセのいわゆるPadとかってのは、オーケストラのストリングスとか、それを模したストリングスキーボードだとかの役割を担う部分が大きいわけだけど、通常のPadのように、白玉でコードをなぞるだけの為のものとか、そういう音を想定してはいない。

弦楽四重奏なので、基本的には四声のポリフォニーで、各声部の独立性は高い。 ボーカルの主旋律とオブリガートなんかを合わせると、更に声部は増える。 生楽器系の音の方が声部同士の干渉は少ない気はする。 ある種のシンセ音とかは、込み入ったアンサンブルには向かないと言うか、おそらくそういう用途が想定されていない。

今のところの解決案は、生系とシンセを両方使う、というもの。 二種類以上の音色をレイヤーして一つのパートを発音させる、とかじゃなく、四重奏なら第一バイオリンは生系、第二はシンセみたいに、パートごとに音を分け、それらでアンサンブルを構成したい。 ちょっと面白いものができやしないか。


話は変わるが、私はコンプレッサーと言うエフェクト(というかダイナミクス系全般)が苦手だ。上手く使えない。 理由は単純で、効果を視覚的に確認できないから。 だから、波形編集ソフトとかでオーディオデータそのものを改変する形のコンプ掛けならそうでもない。

リアルタイムエフェクトとしてのコンプレッサーの、効果の微妙な部分は私には分からない。 だからいつも凄く大雑把な使い方になっている筈だ。 結果仕上がる波形を表示してくれるものとか無いのだろうか。あるのなら教えて欲しい。


2/22(金)

韓国の教育庁とやらが、日本名のついた樹木を植え替えることにした、との報道を目にした。曰く「日帝時代の残滓」だからだそうだ。 ヒートアップしてきているのが伝わってくる。まあ私はこうなると思っていたけど。

多くの日本人らは彼らを「狂っている」と感じるはずだが、私はそうでもない。 いや、正常な思考を経た行動とは思わないから、ある意味狂っていると思うんだけど、私と多くの日本人とでは「狂っていると感じる部分」が違うと思われる。

人間はその言動を、思考を経て決している。 狂人がおかしな言動をとっても、狂人なのだからある意味当然で、狂った思考が狂った行動を生むのは論理的に矛盾が無い。 例えば子供はバカだからおかしな行動をとるが、子供なんだからバカだし、バカなんだからそれ相応におかしな行動をとっても良いのである。 放っておいても、成長していずれそういう行動をとらなくなる。

頭の中身が正常でない人が、頭の中身が正常でない人かのような行動をとるのは、当然である。頭が正常でないのだから。 むしろそれは良心的というか、看板に偽りの無いものだ。 頭がおかしいのに一見頭がおかしく見えない人がいるのなら、そちらの方が問題というか、少なくとも分析されるべき価値がある。

頭がおかしいのに一見頭がおかしく見えない人は、ある正統的でない発達を遂げている。 機序が素直でないから、多くの普通人は煙に撒かれてしまったりする(日韓関係史はこの状態)。 が、私がこの稿で「一見」と断っているように、いずれは見破る人が出てきて、バレてしまう。

日本人と朝鮮人は人種的にも(地理的に近いのだから)当然近かろうし、例えば欧米人が見れば、見た目ではほとんど区別が付かなかろう。 しかし思考のメカニズムが違う。お互いの持つある「思考上のクセ」のようなものが、全体の構成を変えている。 当然その思考のベースには言語があるが、文化的な側面も決して小さくないと思われる。 勿論遺伝的側面も絶無ではなかろう。


相手の結果行動を「狂っている」と感じる人は、それを生む思考のある部分は(自分と同じで)健全であると思い込んでいる。間違いない。 ライオンが人を襲っても「狂っている」とは感じないはずだ。

私は思考の方の狂いに気が付いてしまっている。 だから結果行動がおかしいのはある意味当然と言うか、その因果関係に矛盾はないと感じる。 理解って大切である。 それが対応の基礎になる。


2/21(木)

幽霊が実在するかと問われるなら、それに答える前に「愛は実在するか」とか問うてみたい気分に駆られる。 実在と言うのは、それを映す人の心にしか本来無いものだ。 見えている人がいるのなら、それは実在する。幽霊だって当然そう。


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ある特定のシンセを多用して、四つ打ちの曲を書いてみたんだが、イマイチ仕上がりに納得行かない。 私の中に、その手の曲の良作・佳作が存在してないからってのが大きい。

4小節くらいのフレーズ(実質的には1小節分程度の音型の繰り返し)をループさせ、フィルターとか弄って音色を変化させる。こういうものは私の琴線には触れ難い。 何度も言うけど。


2/20(水)

俯仰天地に愧じず、と言う言葉が孟子にある。 意味はそのまんま。 そこで言う天地とは、キリスト教徒の言うGod、イスラム教徒の言うAllarだろう。

他人を欺くというのは、つまりは自分を欺くことである。 人が他人を欺きたくないのは、人を欺くような自分でありたくないからだろう。 疚しい気分で生きるというのは、ありたい自分であることを放棄することだ。

疚しい自分のままで、この世界を渡っていけると思っているのなら、それは神を欺いているということ。 疚しさを自身に許容する人間が、この世界から祝福される筈が無い。

日々を不安の中で生きる者とは、本来なら淘汰されて然るべき自分を抱えている者。 他人を欺き、自分を欺き、神すらも欺いているから、その人はこの世界に居場所を感じられない。 我々は、天地に愧じない自分でありさえすればそれで良い。


2/19(火)

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代々木アニメーション学院さん主催のオーディションの為、水道橋へ。私は審査員として参加してきました。 夢のある若者と話すのは、こちらにとっても刺激になります。 もしこれ読んでる生徒さんがいるなら、昨日はお邪魔しました。

今期、私がもし新人を担当することになったら、当然その仕事には全力で取り組むけど、新しい人材こそを積極的に漁りたいとは思わない。 私は、今抱えている作業、要は神田優花の作品作りに全力で取り組むことが最優先の命令だと思ってます。 彼女の歌を「売ること」と言えば語弊があるな。 納得できる神田優花の作品を作ること、そしてそれをより多くの人に心の深い部分で聴いてもらうこと、が至上の課題だと思って日々精進してます。 一緒に何かをやることになるなら、その時はよろしくお願いします。

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2/16(土)

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仮定法過去とか学校で習ったはずだが、仮定の話に時制を用いるのは、それが時間感覚に根差しているからだろう。

もしAを行えばBの事態が起こる。 このAとBの因果関係は時間軸上に配置されており、論理そのものである。 論理なのだから、それは言語によって構成・保持される。 言語のある部分が壊れたら、人は仮定の話ができなくなる。

言語学的に「比較」は難しいと聞いた。 AよりBがよい。 たったこれだけの、時間軸上で言えば一見同時刻に位置しているであろう二者について思考するだけでも、A概念とB概念の保持が必要となる。 「お前が言うな」と言うようなことを平気で口にしてしまえる人は、早い話が自分と相手という二者を比較できていないのだろう。

保持という言葉を使ったが、概念や思考などというものは物質ではない。 モノでないので意識にロードするしかない。その為の唯一のツールは言語である。 言語は脳内に、時間を展開している。 人は、AとBとを、時間軸上に並べている。

音楽と言うのは時間そのものである。 視覚情報などでなく、物質的な実体すら無いもの。 意識にロードするしかなく、言語をもって解析するしかないもの。


2/15(金)

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エレクトロハウスとかコンプレクストロ、などというジャンルの曲をいくつか聴いていたんだが、やはりと言うか、あんまし引っ掛かりどころを感じない。

ほとんどがインストなのだが、基本的に音楽というより音(音響)である。MusicでなくSoundと言うこと。 あれ作ってる音屋さんらは、音楽的構成より、音色の選定に時間を掛けている筈だ。 作曲作業のワークフローもあらかた想像がつく。

ダンスミュージックなので四つ打ちは基本として、その上に数小節のフレーズを延々とループさせ、途中エフェクト等で変化を加えたり、オカズ的なリフを挿入したりする。 ハイライトのような部分があったり無かったり。

ほとんどがインストだと言ったが、歌物も無いことは無い。 ただ、歌と言うより声を楽器の一つとしてバッキングに取り入れている感じ。 POPS的な起承転結・序破急はなく、シンセのメインリフのように、数小節単位のフレーズを繰り返すことが基本となっている。

その手の楽曲に出てくる、サウンド的なギミックについて、私は聴けばその効果の再現方法を大抵思いつける。 どうやってその効果を実現しているか、については、詳細は分からない。同様の効果を実現するのにも、複数の方法が存在するからだ。 ただ、その手の効果は、原理面ではほぼ出尽くしていて、斬新なものはほとんど出てこない。

西洋的なモノの見方なんだが、音楽ジャンルも大抵はツリー状に整理されている。 この種の音楽ジャンルについても、コンプレクストロはエレクトロハウスの下位クラスタにあるのだが、こういうジャンル名ってのはほとんど実質を伴わない。 言い出した者の数だけジャンルが存在すると言って良い。


その昔私は、この種の音楽を聴いて、全ての効果が事前に計算されたものかと錯覚し、作者ら畏敬の念を抱いた。が、後にそれが誤解であったことを知る。

数小節のフレーズを延々ループさせ、途中エフェクトでバリエーションをつける。 その際、その効果は事前に脳内で構成されたプログラムの一部ではなく、偶然性に拠っている。トラックメイカーらは、エフェクターのパラメーターを弄った際に生じる(半ば想定外の)音をリアルタイムで楽しんでいる。 ハッキリ言って、私の考える作曲ではない。

その手のトラックメイカーらにとってのサウンドメイキングツールとは、私で言うところの楽器ではなく、マッサージ器のようなものだと思われる。 脳内で構成したプロットを形にする道具、ではなく、使っていて気持ち良い道具。


2/14(木)

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文章・言語は頼りにならない。 まあ物事に、言語を持ってして判断する以外の方法などある筈もないのだが、それが実に難しいと言う話。

直接的な知り合いではないが、ある知り合いの配偶者が、いわゆる統合失調症らしい。 私が勝手に判断しているのではなく、そういう(医師による)診断がハッキリと下っている。

その人がブログのようなものを開設していて、病気についてやら近況についてやらを綴っているのだが、私がそれを読んで驚いてしまうのは、それが普通の人(あるいはそれ以上)に見えてしまうところだ。 どうも文章と言うのはそういう特性を持っているらしい。

文章(言語)と言うのは通信プロトコルである。 本来差が生じて当然のクオリアを同じであると見做し、規範化したもの。 だから文章などを読めば、それが文章である以上、自分の中で翻訳され、解釈が成立してしまう。 言語は、自分の中に成立している程度には、常に意味を持ってしまう。

だから人は、おかしな人のおかしなところに気付きにくい。 自身を投影してしまうからだ。 あるアルツハイマーの老人について、「普段はマトモに見える」とか「おかしな言動は極めて例外的」などと評価しているケースを見たことがある。 これなどは典型的で、ある行動について、実は狂った思考状態で取っているものなのだが、見ている人は自身を投影しているが故にマトモに見えてしまっているのだろう。 「普段マトモな人が時折おかしい」のではなく、「おかしな人の行動は、(実は全てがおかしいのだが)その大部分がマトモであるとの周囲の錯覚を生みやすい」と言うこと。

人は、他人の行動の大部分を、自分なりに解釈・解析する。 どうしてもその解釈が成立しがたい事態に遭遇し、初めてその他人を「おかしい」と評価するに至る。 実は全てがおかしいのに。

私はある子供と話していて、その子の発言が「おかしい」事に気付いたことがある。 ある時には一応の会話が成立するのだが、別のある時には成立しない。酷い時にはありもしないモノを「ある」と言い出す始末。 きっとあの子も、「時々会話が成立しない」のではなく「会話が成立しているかのように見えてしまうことが多い」と言うだけだろう。 普通の人同士の会話において、解釈が成立しない場合などない。

他人を忖度するには、細心の注意が必要になる、と言う話をしている。 人間には共感性があり、言語は通信プロトコルである。 人間同士のコミュニケーションは、誤解を生むに最も適した方式を採用している。


2/13(水)

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品があるとか無いとか、よく言うけど、品の無さってどういうことなのか。品って一体何なのか。

露出度の高い服を着ていたりとか、「私は下ネタも行けます」みたいな表明をする女の人ってたまにいるけど、その人らはそれが下品だとある意味分かった上でその行動を採っているのだから、少なくとも品何たるかくらい理解している。 していないと下品さの匙加減も分からない。

本当に品の無い人ってのは、品そのものが分からない人だ。 品というパラメーターがその世界に存在せず、上品下品という尺度そのものを持たない人。 セックスアピールの強い人なんかより、下着が透けている人の方が「品の無い人」であると言うこと。


2/12(火)

物事には分水嶺のようなものがある。 ある歴史作家が著書で述べていた。 歴史作家が扱う歴史上の人物と言うのは、大抵何らかの「大事を為した者」だったりするわけだが、その人物の事績を調べていると気付くことがあると言う。

誰でも子供の頃は子供だし、出世する前は出世していない。 ある人物が大事を為す、いわばゴール地点を100とすると、スタート位置は座標上の0だったりするわけだが、スタートからゴールまでのグラフが直線的でないという。

最初なだらかなスロープであったのが、ある時点を境に、臨界点を迎えたかのような急激な上昇カーブを形成する。 人物の軌跡だけでなく、例えば経済上の現象なども似たようなものだろう。 バブルが起こる時、それは人々があれよあれよと言う間だろう。 条件が揃うと言うのはそういうこと。それは人知ごときに制御できない何か。

少々マネーサプライを増やしてもインフレが起こらなかったからと言って、それを続けていると、ある時に、それまで均衡を保っていた何かが崩れ、インフレは怒涛のようにやってくる。 歴史とは常に不可逆的なものであるし、それはたかが人間の手では統御しがたい。

現代の政治家などが無能扱いされる時、過去のいわば名宰相といった人らが比較に挙げられることがしばしばある。 しかし、背景としての歴史的条件と言う複雑怪奇なものを異にしている以上、両者を同列に比較することは不可能である。 たかが一賢者如きに歴史が動かせるわけがない。 スーパーコンピューターをもって出した天気予報が、簡単に外れるではないか。


日韓関係について考えている。 今の日韓関係は、この分水嶺を多分越えかかっている、あるいは既に越えてしまっている。 日本の世論は制御しがたいほどに硬化してしまっているし、今後韓国を擁護するような発言者は売国奴呼ばわりされるだろう。それはある程度理性的な意見であったとしてもさほど変わらないだろうと思う。 韓国を悪く言えば言うほど、その発言者は支持を集める。 それほどまでに韓国は、日本人の逆鱗に触れてしまっている。

この歴史的分水嶺、あるいは臨界点と言うのは、リアルタイムでは当事者にすらしばしば分かりかねる。 時間が経った後に振り返り、「あの時が転機であった」とやっと理解できるようになる。

私は今のこの事態を良い、あるいは悪いと言う観点で述べていない。 私は韓国世論を理性的でないと思うが、その社会で支持を集めようと思うなら理性的でない意見に阿る方が効率的である。 そういう原理を持つ社会なのだから、マトモな意見を吐いているようでは栄達できない。 日本世論もある傾斜を既に帯びてしまっている。 本当に国交断絶まで行くかとか、そういうことは分からないけど、あるレベルでの決裂は不可避だろうと思う。


2/11(月)

横山光輝さんは、日本漫画史上稀に見るほどにキャラの描き分けの出来ない漫画家だ。 読んでいても誰が誰だかすぐ分からなくなる。本当に服の柄でキャラを選別しないといけないくらい。

そういう彼にして、三国志や水滸伝などと言う、それはそれで珍しいほどに登場人物の多い話を扱いたがるのは何故なのか。 マゾなのだろうか。心理学で言うところの反動形成なのかもしれない。


2/10(日)

天才とは何か、について、若い頃からずっと考えてきた。 今でも分からない部分は多いが、私なりの現時点での結論はある。

人間の思考には(オーソドックスな)機序がある。 ある正統的な発達を遂げられなかった脳は、しばしば思考を短絡させる。 機序が違うから、ある(表面的な)到達点が、通常人には奇異に思われたりして、それが天才との錯覚を生む。 盲人の聴覚は異常な肥大化を見せるが、それは彼が天才だからではない。

宮城道雄は盲人であった。 彼が音楽界に残した功績は巨大だが、彼もやはり天才ではなかったろうと私は考える。 彼の能力は、その根底に視力の喪失があり、それが無ければ成立しない部分がほとんどだった筈だ。

音楽の世界には、その(錯覚としての)天才がよく現れる。 宮城道雄然り、有名なところではグレン・グールドなど。 グールドはおそらく言語の獲得に不具合があり、計数能力・空間把握能力などが代償的に発達した例だが、メカニズムとしては典型とも言える。 無論天才ではない。 現代の医者に診せれば、病名が付いたのではないかと思う。つまり一般化できる程度のもの。 肥大の具合がやや大きかった、あるいはある側面でビジブルに過ぎるものであった、と言うのはあったかもしれないが。

彼は絶対音感保持者だったと言われているが、要するに、言語による統合の確立に失敗し、ある年齢になっても絶対音感が淘汰されなかった例である。 聴覚と言うのはそもそも絶対音感仕様に作られている。 言語によって(聴覚)情報を丸める、と言うより高度な処理を人間は覚えるから、一見絶対音感で無くなってしまうだけだ。 それは、猫の運動能力に驚嘆するようなもの。 現代の有名音楽家にも、このケースはしばしば見られる。

サヴァン症候群と言う、一典型例がある。 一度聴いただけの楽曲をレコーダーのように記憶でき、再現(演奏)したりできる。 脳機能の損傷や代償的肥大のバランスが歪であるからか、大抵人間的コミュニケーション能力に難がある。 一般的イメージの天才と懸け離れているからか、天才と賞賛されるケースが少ない(単に異常者と言う印象を与えやすい)。 肥大化のバランスがちょっと違えば、表面的にはまるで普通人かのようなコミュニケーションがとれ、周囲からの畏敬も集めやすかったろうが。


私の今のところの結論としては、代償発達と言うのは天才の条件ではない。 あるバランスの上に成立するものが天才である。 ピカソもダヴィンチもアインシュタインも、代償的肥大化によってあの能力を得たわけではない。


2/9(土)

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最新、と言うと語弊があるが、割かし今主流ののEDM系の音屋御用達みたいなシンセのデモを使ってみている。 多分買わない。

何度も言っているような気がするが、私は基本的に音作りをしない。 プリセットと、せいぜい落としてきたフリーの音色使うくらい。 たまにちょっとだけパラメーター弄ってカスタマイズすること(うるさいエフェクト消したり)とかあるけど、それもほとんどしない。

デモの制限って、起動後20分で音が消える、とかそういうのが多い。ホストを再起動すれば無論また使える。 あと音色の保存ができないとか、そういう制限もあるが、言うように音作りをほぼやらない私には関係のない制限事項だ。

私は曲を「音」から作らない。 骨組みである譜面情報をまず作り込んでいく。 それらのフレーズに音を当てるのは、バッキングトラック作りのほぼ最終段階だ。 要するに、ほとんどプリセットしか使わない私には、デモ版の制限である20分という時間は、必要十分なのだ。オリジナル音色も作らない私には、製品を買う必要がない。

まあ音弄りすらしない私なので、当然その手のシンセを多用するタイプの音屋ではなく、使い込む情熱が無いから買わないってのもある。 しかし、音から作るような音楽を試しに作っていると、普段の曲作りとのアルゴリズムの違いに感じ入ってしまう。 世の中の音屋が私みたいなのばっかりだったら、多分デモ版の制限そのものが今とは違ったろうね。


2/8(金)

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私は文系で、高等数学をよく知らない。 経済学部だったので、微分計算とか学生だった当時はやったが、今は綺麗サッパリ忘れてしまっている。 まあやり直せば大まかに理解くらいはできるだろうと思うが、私のアタマには、平素全く使わない微積分の解法の理解を常に留めておくほどの余裕は無い。

数的処理能力と言うのもある意味では記憶力と同じで、言語の獲得が十全に行われなかった脳において、代償的に特殊化しやすい部分である。 通常人が言語によって処理する何事かを処理するに十分な言語力が育たない脳は、代替的に計数能力を発達させる(あるいは淘汰させない)。


ついでに、音楽と言うのはある面数学である。 音楽家である以上、私も音楽制作に必要な数理は理解せざるを得ない。 ソフトウェアのオペレーションにも数的処理は必要だし、プログラム言語を使ってのプログラムも場合によってはやったりした。私はプログラマーでもあるのだ。 但し、汎用言語(C++など)は全く使えない。使う必要が無かったから。

考えてみれば、私はワードもエクセルも、音楽が好きであることに引き摺られて使えるようになっただけだ。 編成表と言うか商品の仕様規格書みたいなものをエクセルのファイルで提出する必要がある。 関数やマクロ入りのテンプレートに文字や数字を入力するだけだが、日頃その程度には使うので、「エクセルって何?」みたいな状態ではない。 必要であればマクロだって何だって覚えたろう。 私の進む道の上にあるトライアルなのだから解決したに違いない。

他にも、ドキュメント形式のファイルが必要だからとてワードの使い方を覚えるし、テキスト(.txt)で納品してくれと言われればメモ帳を使った。 英語圏の人らとの折衝が必要な時には、ブロークンながらも英語を使う。本当に必要なら中国語だってフランス語だって覚えたろう。 ただ、就職に有利だからとて用途も見当たらない技術を身に付けたことは無い。 だからTOEFLやTOEICでの点数とか、マイクロソフト公認のオフィス関連の資格などといった、数値的に証明できる何かなど全く持っていない。

私の今のところの結論。 能力ってのは、その人のやりたいことそのものだし、それを超えることは無い。 知りたいこと・伝えたいことが無い人が、いくら英会話教室に通って英文法や発音を覚えたところで、本質的な英語力なんて育たない。


2/7(木)

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私は数の単位を無量大数まで言える。 億の上の兆くらいまでなら(国家予算の額などで)よく使われるが、その上の京ぐらいになると、使用頻度がぐっと減る。 阿僧祇とか那由他とか辺りになると、一般的にはまず使われない。 その証拠に、阿僧祇も那由他も一発変換できない。

私が何故、使う場面の無い無量大数までを覚えているかと言うと、小学生の頃に使っていた学習帳の、オマケのページみたいなのに載っていたのを丸暗記したからだ。 それを今でも覚えている。ただそれだけ。

この種の知識を広範囲に集めると、知識人のように言われる。 大学や就職(公務員など)の試験では、この手の知識が求められる。 議会制度・裁判制度について、経済・歴史・地理について等。 こう言うのっていわば雑学なわけだけど、それを大量に掻き集めることによってペーパーテストでは高得点をマークできる。

日本の議会が二院制であり、衆議院は参議院に優越する、議員定数は衆議院が500いくらか、参議院はその半分くらい。 私は以上のようなことを知っているし、理解という面においてそれで十分だと考えている。 変動する議員定数を一桁まで常時記憶していないし、他にも例えば関連法規の条文を隅々まで暗記したりしていない。必要がないから。 必要な時には調べれば良い。

余程脳に致命的な欠陥を抱えている人でもない限り、記憶ができない人なんていないだろう。 何だって時間を掛けて暗唱すれば記憶くらいできる。 記憶力に個人差が無いとは言わないが、記憶量において問われるのは忍耐力だろう。 我々の可処分時間には限りがある。 少なくとも、絶対記憶量のトライアルに挑めるほど私はヒマではない。

忍耐力とは即ち精神力なのか。 一概にそうとは言えない。 辛さを感じるのは感受性であるからである。 どんな過酷な境遇にいても、それを過酷と感じぬ者にとってそれは過酷でない。 ある人にとってそこが地獄であったとしても。 個の確立が十分でなく、苦痛を苦痛と感じない精神の持ち主には、苛烈な境遇もさして苦痛ではない。

その人に「辛いですか?」と問えば「辛い」と答えたりするだろう。 ただ、その言葉の指す含意には個体差がある。 ラマチャンドランはそれをクオリアという言葉で表現していたが。 審美や笑いのツボに個人差があるのに、苦痛にその差が無い筈が無い。

記憶力はアタマの良さなのか。 言語の形成不全が起こった脳においては、論理的な応用力が育たないため、記憶に使える領域が肥大化しやすい。 つまりある面でのアタマの悪さに因るものですらあり得る。 これは単なる私の持論ではない。 私は、記憶力に大した価値を置かない。


2/6(水)

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北九州市が、北朝鮮による拉致事件を扱った映画(DVD)の、学校での放映を取り止めたというニュースがあった。 曰く「在日朝鮮人への差別を助長するから」らしい。 さすがは修羅の国とまで言われた街。教育機関すら根底まで腐っている。

差別って何だ。差別はいけないのか。 犯罪者だってヤクザだって、差別主義者だって差別されるじゃないか。 信用をブチ壊すような行為を繰り返す者の信用が地に落ちることに何の不思議も無い。 そうなるのがイヤだから人は信用を大切にする。 信用を大切にする者とそうでない者を同等に扱うのなら、それこそが差別である。

「全ての朝鮮人が悪い人ではありません」・「在日朝鮮人にも良い人はいます」、こんなの当然である。 国家・国籍と個人を一緒くたにすべきではない。 しかし、家族や友人が、犯罪に手を染めようとしているなら、普通の人は体をはってでもそれを止めようとする筈だ。 国・民族と言うのも友人や家族の延長線上にあるもので、例えば犯罪者の親が世間から白い目で見られるように、国民と国家にはある程度の関連性がある。間違いない。

韓国人は悪い人ばかりではないが、犯罪の件数は(日本に比して)かなり多く、民族の体質として粗暴である。北朝鮮は国家として悪行を繰り返し、国際社会の問題児となっている。 これらは皆事実である。

事実は事実だが、それは理性的に捉えねばならない。 この「理性的な思考法」を教えることこそが教育の役割である。 役割を放棄し、事実を基にした映画を隠蔽するとは何事か。 余程にそれを都合悪く感じる者がいるのだろうが、その人こそが人類の敵だ。

北九州市の教育界の腐敗とあの地域の悪評は、決して無縁ではあるまい。 悪行を繰り返す者が悪人として扱われる、と言う、このごく当たり前のことを声にできないのは、単にその人が疚しいからだ。


2/5(火)

間隔が空いてしまった。体調崩したとか言うわけじゃない。 体調は依然悪いが、悪いなりにも安定していて、とりあえず急変はしていない。



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神田優花、新曲のレコーディング。 次のシングルのカップリング予定曲。 先月発売のシングル「Happyholic」は聴いてもらえたんでしょうか。 引き続き販売中です。



神田優花の次のアルバムの構想を練っている。

前にもちょっと触れたんだけど、結局のところPOPSを作ろうと思っている。 J-POPの王道のようなものではないんだけど、細かい部分は説明しにくい。ただイメージは既に固まりつつある。

アレンジはシンセとかリズムマシンとか、合成音みたいなのを軸にしたものを考えていて、録音済みのものと構想段階のものを含めると、既に5〜6曲ある。 十何曲作ってアルバムにするか、あるいは6〜7曲くらいでミニアルバムにするか。


2/1(金)

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OSの主流が64bitになって時間が経つが、DAWも現行のものは64bitだ。 しかし困ったことに64bitのアプリケーションでは、32bitのプラグインが基本的に使えない。 一応適応させるためのブリッジとか言うプログラムもあるにはあるのだが、100%の互換性は確保されていない。

乗数で二倍の数値を謳ってるんだから、64bit環境の方が処理能力において格段に優れていることは自明だが、32bitプラグインの中には、名作というべきものがたくさんある。 また今でも、32bitオンリーでリリースされるプログラムもあったりする。 64bit環境に完全に移行するのが難しい状況だ。

せめてブリッジの精度をもう少しあげてくれていれば、気兼ねなく64bit環境に移行できたのに。 結局もう暫くは両方の環境を使い分けるしかないのだろうか。 めんどくさいな。


1/31(木)

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子供はアホだから様々なことをやらかす。 しかし、アホさの度合いによって差はあるだろうが、正常な人間なら、やらかす度にこの世界と衝突し、角が取れて行く。 つまり何かを学び取る。イヤでも学ばざるを得ない。 「こう言うことをすればこんな結果が待っている」と言う因果、これはつまりは時間感覚で、それが育たない人間は、人として大切な機能が壊れている。

時間の概念をロードする、脳のある領域。そこはあらゆる形而上的概念を扱っている。 愛も友情も悲しみも自由も信用も良心も、全てはそこに展開される。 展開される主体を自己と言い、展開された何かのことを、広く世間では論理とか呼んでいる。時間とは論理なのである。

ただ、そこが壊れた人間でも、物質であれば分かる。目で見たり触ったりできるから。 これを感覚所与と言ったりする。 時間感覚の希薄な人、その人は自己感そのものが希薄なのである。

感覚所与が優位に過ぎれば、どういうことが起こるか。 文字を見ても、それを意味ではなく、色や形として認識してしまう。音楽を聴いても(音楽作品を理解するでなく)音色・音響しか入ってこない。

黒と言う文字と黒いと言う視覚情報(あるいは「クロ」と言う音声)を等価とするのは、脳の中枢の作用だ。 文字の含意より文字色を優先してしまうのは、ゲシュタルトの形成不全に因る。 あるレベルでの言語獲得が為されなかった個体においては、脳内でゲシュタルト崩壊が起こっていると考えて良い。

我々が文字を文字として認識する時、脳の言語を司る領域が働いている。 その言語による情報処理が意識を生み、それが我々の自己となっている。 感覚所与によって成立している個体に良心は無く、時間感覚も当然生まれず、その人には自己感が無い。


カエルの映している現実は「動くもの」だけしかないらしい。 ある程度以上大きな物体が動けば反射的に逃げ、ある程度未満の大きさの物体が動けば反射的に飛びかかる。 0.1秒でも思考に割いてしまえば、カエルは餌を取り逃がすかもしれないし、天敵に捕食されるかもしれない。

カエルは時間感覚など持たないし、生存の上で彼にそんなものは必要ない。 ヒグマは怖いがカエルさんは可愛い、なんて思っている人がいるかもしれないが、両者の最大の違いは体のデカさである。 カエルがデカければ、それは人類にとって切実な脅威である。

時間感覚が持てず、因果が理解できない者は、情勢によってしばしば約束なども破る。 彼の映す現実に信用と言うメタフィジカルなものが無いが故に、その時々の得策・最上策が普通人とは異なってしまうからである。 信用なんて無いのだから、それが毀損されることも無い。約束なんて破り放題である。 ついでに反省もしない。したくてもする機能が無い。

愛を投げかけられても、それを受容する機能が無い者。 彼は共感できないし、彼からの返報なんて望むべくもない。 愛によって与えられた物質的何かしか現実に映りこまないので、彼は常にもう一つ手に入れる方法を探す。 それは恭順だったり威嚇だったり、時に被害者の振りであったり。 得をするための方策なので、都合の悪いことは簡単に忘れ、情勢次第で約束なども反故にし、自分にとって都合の良いことは、際限無く蒸し返す。

良心に欠けるような人を見ることって、誰だってたまにはある筈なんだけど、その人らと自分との、見えている世界が同じだと思わない方が良い。 良心に欠けると言うことは自己感に欠けると言うことで、それは自分が自分であると言う、このごく当たり前の感覚すら共有できないと言うこと。

人類は、国家・宗教・人種など、様々な対立軸を持ったし、そこに起因する争いも経験してきた。これからもきっとその手の争い事は(散発的にであっても)起こるだろう。 しかし人類にとって、真の対立軸がそれらのいずれでもないことに、今の私は気付いてしまった。 人類最後の敵は、時間を持たざる者である。


1/30(水)

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神田優花、シングル「Happyholic」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Happyholic/Fluffy Dog Walks

ほんとに久しぶりのJazzです。
私はどちらかというとクラシック畑の人間で、なかなかJazzを満足いくまで歌えたことがなくって、実は苦手意識すらあったんです。聞くのは好きよ。
それで今回、久しぶりにJazzをやろうってことになって、これはいい機会だ、リベンジだ!と1人燃えてました。
こんなのはどうだろう、このアプローチはあり?と、Jazzの最大の魅力、"音を楽しむ"を心に置いて、リハを重ねました。
いつもより自由度の高い、レコーディングだったなぁ。

HappyholicはJazzyで大人なしっとりとしたナンバー、Fluffy Dog Walksは逆にカラッとしたかわいらしい曲です。

それぞれ楽しんでいただければ嬉しく思います。

ぜひ、聴いてください。

神田優花





両曲(Happyholic/Fluffy Dog Walks)の歌詞、一部歌詞サイトでは先行で発表されてたみたいなんですが、本日より正式に公開されます。 今月16日発売の川本比佐志「Light Breeze」収録曲の歌詞も、一部のサービスでは本日より公開になります。


1/29(火)



明日発売の、神田優花のニューシングル「Happyholic」(全2曲)、収録曲について。


1.Happyholic

マイルス・デイビスのオマージュみたいな、半分冗談みたいな曲を作ろうと思ったんだけど、割りと好みのものに仕上がったんで発表することにした。 この頃、ジャズっぽいものが作りたかった。

編成はある時期のマイルスのクインテットに、ボーカルをプラスしたようなもの。 極力ジャズ臭くしたくて、私の考えるそれっぽい音にしている。 Brush Drumとか。 とりあえずそれらしい作りにするために、ピアノは曲中ほとんどテンションコード。

歌に関しては、リハーサルの時から「極力ハスキーに」みたいに打ち合わせてたんだけど、上がりとしてはどうなんだろう。 私としては、それなりに事前の想定に近いものになっていると思うけど。

ハイライトのような部分を挟んでテーマを二度繰り返しているんだけど、前半部分と後半部分ではBPMやらアレンジやら、色々と違う。 元々ジャズのスタンダードみたいなのを作りたくて、曲(歌+コード)を先に作った上でアレンジを一から考えている。 編曲部分はオマケです。


2.Fluffy Dog Walks

上の曲と同時期に(と言うかほぼ同時進行で)作った。 だからこれもジャズっぽいと言えばジャズっぽい。 コルトレーンのある時期の編成(カルテット)とかを下敷きにした部分もあるんだけど、上の曲に比べれば影響は薄い。

ジャズの基本編成とか様式を一応踏襲している。 テーマの間に(間奏として)アドリブらしきブロックがあるんだけど、あくまでアドリブっぽいフレーズ(リックらしきもの)を入れてるだけで、本当のアドリブではない。 完全に譜面データを事前に作っている。 アドリブ部の後半に4barsっぽいくだり(二小節単位なんで2barsと言うべきか)とかもあるんだけど、そこも同じく事前に譜面データ完璧に作ってる。

アドリブ部分って、通常テーマ1ターン分の尺なんだけど、これはその半分にしている。 32小節ってPOPSの間奏としてはちょっと長過ぎる。 あと、この曲の間奏(アドリブ)部分、自分がプレイヤーだったら絶対ロストする(カウントを見失う)な。

テンションの響きとかはジャズ的ではあるんだろうけど、曲そのもの(核の部分)はタダのPOPS。 イージーリスニングとかによくある、POPSのジャズアレンジみたいなのをイメージした。



1/28(月)

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恋について。 意外に思われる向きもあろうかと思うが、恋に相当する英単語は存在しない。 英和辞典を引けば対応する英語は載っているだろうけど、無理矢理作った合成語みたいになっている筈だ。

とにかく、恋は英訳できない。 愛(Love)なら英語にもあるが、愛と恋は違う。 まあ日本語化している愛と英語のLoveでも、その成分は随分違うような気がするが、恋に至っては訳語すらない。 英語圏人は、あの気分に特段の価値を置かなかったと見える。

恋を脳科学とか生理学的観点で言うなら、あれは一種の酩酊、あるいは発狂状態であろう。 理性で制御している何事かではなく、傾向性の産物。 おそらくは性欲と密接に連動したもので、腹減った時に飯が食いたくなるのと同様の衝動である。 恋愛の歌など多いが、本来賛美すべきものであるかどうか。

手に持ったボールを中空で手放すと、ボールは重力のままに落下し、反作用のままに跳ね返り、あらぬところに転がって行く。 これをボールの自由や自律性とは呼ばないように、喉が渇いた私が水を欲することは、私の意思ではない。 恋と言うのも要するにこれ。意思以外の何かによって追わされているものに過ぎない。


1/26(土)

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古代生物、特に絶滅種についての本を読み漁っている。

タニストロフェウスと言う古代生物(絶滅種)がいる。中生代三畳紀にいた爬虫類で、学術的な定義では恐竜ではない。 全長約6メートル程度で、そのうち4メートルほどを首が占めているのだが、長いにもほどがある。全身骨格や復元予想図を見ても、ほとんどろくろっ首である(下に骨格画像のリンク(Wikipedia)を貼っておく)。

タニストロフェウス

食ったものを胃に収めるだけでも、随分長旅であったろう。 何故こうなったのか、どの点が生存上有利なのか、皆目分からない。 中生代の竜脚類とか水生爬虫類の首の長さはとんでもなかったりするのだが、その形態を為すに至った理由について、学説は当然のようにあっても、納得できるほどのものなどあるだろうか。

エラスモスサウルスなんかも首の長さでは有名なのだが、あちらの頚椎は78個ほどなのに対し、タニストロフェウスの頚椎は僅か10個である。実現できる動きなどごく限られている(まあ現生動物でもキリンなどの頚椎は、他の哺乳動物と同じく7個だが)。 バランス的に体の大部分を首に割いているので、歩行すら困難だったと考えられていて、陸上生活は難しかったのではないかとまで言われている。 歩けなくなるほどに首を長くする意味が、どこにあったのか。

タニストロフェウスだけでなく、謎の多い絶滅動物は数あるが、それらが空想上の動物でなく、実在した点には留意したい。 実在していたのだから、成立していたのだし、成立しうると言うことだ。 学説は立証しきれてないだろうが、成立するに十全たる根拠があったことは間違いない。 ただ、事実絶滅している以上、一旦成立はしたものの、成立し続けることは難しかったとも言える。


やや話は逸れるが、ネス湖のネッシーはプレシオサウルスの生き残りだとか言われているのだけど、何故プレシオサウルスに比定したか。 プレシオサウルスは首長竜の中では首も長い方でないし、そもそも体が小さい(体長2m〜)。 モデルの選定を誤っているような。


1/25(金)

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協議を行っても、証拠提出などに誠実に応じないクセに、協議を打ち切られると動揺・憤慨する。 今の韓国の有り様なのだが、可愛らしいほどにパーソナリティー障害そのものだ。 彼らにとって応対を打ち切られることは、反論されることより痛い。

パーソナリティー障害者にとって、相手の怒りを買うことは喜ばしいことでもある。 無論相手の怒りを買うことが、普通人にとって生存の脅威であるように、彼らパーソナリティー障害者にとってもそれは脅威なのだが、無視されるよりはマシなのである。 相手から奪うことしか考えていないのだから、縁を切られるのは最悪なのである。

ついでに、パーソナリティー障害者にとって「好きな人」と「嫌いな人」はほぼ同じ箱に入っている。 対極にあるのは「どうでも良い人」。 よく「愛の反対は憎悪でなく無関心」と言われるが、物事を細分化できなければ執着と憎悪は似た箱に入らざるを得ない。

今日本は韓国にとって、その種の専門用語で言うところの「ターゲット」となっている。 前政権の「告げ口外交」と言うのも、ターゲットに対するものだから、と考えれば合点が行く。 ストーカーは標的の悪評をしばしば撒く。

今後日本はどう対応すべきか。 協議を打ち切った、と言うのは良策だと思うが、相手の言い分に反論しないと言うのは「認めた」と見做される怖れがある。 今後の日本は、当該省庁などが定期的に「国際社会に向けた公式声明」を出し続ければそれで良いと思う。 向こうが出してきた映像・画像等については、第三国の信頼できる調査機関などに解析を依頼して、淡々と結果を公表すれば良い。

今の日本の外交は、その半分くらいが事実上朝鮮半島対策になってしまってるんじゃないかと思うが、外交機能と言うリソースもタダじゃない。いつまでも無駄遣いしても仕方ない。

嫌いな相手だから縁を切れ、と言っているのではなく、相手をすればするほど彼らは暴走するしウソを重ねる。 双方の為にも距離を置いた方が良い。 パーソナリティー障害者への正しい対応として「追い詰めるべきでない」と言うのは基本である。 追い詰めれば追い詰めるほど常軌を逸してしまうからだろう。 今の日本国の対応は大筋で間違ってないと思います。


1/24(木)

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ボーカル(人間の声)の不自由さについて考えている。 POPS作品において、主旋律を担うパートでありながら、ほとんど他のどの楽器より制約が多いボーカル。

まず音域が狭い。 公称5オクターブとか7オクターブだのと表明しているシンガーはいるが、実際に一つの楽曲内で使われる音域は、通常のPOPS作品ではせいぜい1オクターブ半くらいだ。1オクターブ半でも広く使っている方だろう。 因みに、例えばピアノは標準的な88鍵タイプのもので7オクターブ半ある。 ベースでも3オクターブくらい出せる。

ブレスが必要である。 肺活量に限界があるから仕方ないのだが、単に空気を押し出すだけでなく、そこに歌詞を載せる必要があるから、吹奏楽器で言うところの循環呼吸法なども使えない。 例えばBPM120の曲で、二小節ブレスが無かったらもうキツい。

倍音も多く、鍵盤楽器のように明確な音程感が得られる構造になっておらず、緻密な音階構成のフレーズに不向きである。 吹奏楽器なら(トランペットでなく)トロンボーンであると言うこと。トロンボーンが運動性の高いフレーズを苦手とすることは、アレンジャー一般にとって常識である。 ただしこの特性は、あるタイプの表現に向いていると言えなくも無く、単純に欠点ではないかもしれない。

歌詞の存在。 その他の楽器のように、単に音を出すだけでなく、そこに歌詞が乗る。 発音と言う複雑な処理が上に乗っかるわけだが、場合によっては複数言語の音韻体系までを知る必要がある。 多彩なアンブシュアを会得せねばならないと言うこと。これは実は最大の難所なのではないか。

これだけ制約の多いパートが、音楽作品の核と言える主旋律を担っている。 よく「メロディーが似ている」だとか「パクり」だとか言う話が持ち上がるが、そもそも、歌のメロディーなんかに独自性があるべき、といまだに信じられていることが驚きだ。 確率的に出尽くしていて当然なのに。


アルベルティーバスと言う音型がある。 アルベルティーと言う作曲家が多用していたからこの名がついたのだが、要するにダイアトニックコード(トライアド)のある分散型である。 トライアドの分散型なんて、そんなもの作ろうにもパターンに限りがある。それをアルベルティーの著作物などとしてしまえば(アルベルティーバスはアルベルティー考案ではないが )、作曲表現そのものに支障を来たす。

もっと分かりやすい例を挙げるなら、ベースのルート弾き。 一小節を8分音符8つのルート音で埋める。これだってフレーズと言えば立派なフレーズだ。 これに著作権を主張する人はいない。 ドラムの8ビートだって、考えた誰かがいるのは間違いない。

歌のメロディーなんて、あれほど制約が多いのだから、主要なラインはパブリックドメイン(公共物)のようになっていてもおかしくない。 実際邦楽の世界では、「手」とか「○○の合方」なんて言う、いわば著作権フリーのフレーズが存在する。ジャズのエンディングとかの定番フレーズのようなもの。 絶対的な数で言うと、圧倒的作品数を誇るPOPSの世界において、メロディーがまだ純然たる創作物とされていることの方が驚嘆すべきことに思える。


1/23(水)

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毎度のことながら、音楽について考えている。

ダイアトニックだけで作った音楽に詰まらないものが多いように、不条理漫画のように悪手の限りを尽くしたようなものも、それはそれで面白くない。要は紙の裏表だから。

コード、楽器編成、音色、それらを含んだ楽理、そういうものについて、ずっと考え続けてきたのだけど、今別のことに思いを馳せている。

子供の頃の私が好きになった音楽とは何なのか。 音楽のどの部分に特別な何かを感じたのか。

メロディー(特に歌の)ではないか。 勿論音楽とは総合的なものだけど、核はメロディーにあるのではなかろうか。 少なくとも私が愛した音楽の正体はメロディーであるような気がする。


歌のメロディーと言うものは、人間の声そのものの制約の多さから、ややもすると発想そのものを縮小してしまいがちだ。 どういうことかと言うと、「複雑なメロディーなど作ってもどうせ歌えない」と、作り手側が端から諦めてしまう。 結果単純な、しょうもない旋律をよしとしてしまう。

確かに人間の声は制約が大きい。 ただ、その制約を過大に捉えたり、ほとんど無意識のうちに「歌のメロディーなんて所詮こんなもの」と自ら創造に足枷をつけてしまえば、本来限界とすべきでないところが限界となってしまう。 歌のメロディーには、まだ掘り下げてみる余地が残っている。とりあえず当面の課題は見付かった。


1/22(火)

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今の韓国人がいわゆる「原理主義者」であることは、我々日本人が隣人として理解しておかねばならないところだろう。 つまり、話は通じないと考えて良い。 キリスト教やイスラム教の原理主義者に「聖書やコーランなんて誰かが作ったものだよ?」とか言っても納得してくれるはずがない。

「日帝三十六年の植民地支配が諸悪の根源である」と言うのは一つの思想なんだけど、史実と照らしてどうだとか、まあ一応は反論しておくべきなのだろうけど、認識を共有できるとは思わない方が良い。

原理主義の行き着く先は大筋において(一つを除いて)破滅である。 大日本帝国もタリバン政権も滅びた。 原理主義は宇宙普遍の真理であることが前提になっている以上、二つのそれが共存することはありえない。

慰安婦を商売だと言って土下座までさせられたソウル大学の教授がいたけど、日本史に置き換えるなら差し詰め美濃部達吉なんだろう。 五十嵐一にならなかっただけでも良かったとすら思える。 当時の日本人に美濃部学説の妥当性を説得することが難しかったように、今の韓国人と価値を共有するのは難しい。

日本の敗戦は評価の難しい問題だが、私は良いことだったと思っている。 経済の復興とかそう言うことなんかより、思想的な呪縛から解放された点においてそう思う。 朝鮮半島に生まれなくて良かった、と思うように、戦前の日本に生まれなくて良かったと思う。


1/21(月)

つい最近、豊臣秀吉って人格障害者じゃないのかって話題になった。 そこについて考えてみた。

秀吉は有名な人たらしの名人だった。 多くの人が仕え難い、信長と言う気難しい上司に上手く取り入ったのも、人たらしの面目躍如たる部分だろう。 このことだけでも、疑おうと思えば疑える。

客観的事実として、彼は人を見抜く達人であった。 きっと表情を読んでいたろう。共感していたかは怪しいが。 彼の魅力的な振舞いに、当時周囲は魅せられた。後世すらもそう。

彼は頭が良かった。それは間違いない。 しかし、普通の人が言語で処理する何事かを、計数を行う領域を使って処理していたのではなかろうか。


弟の大和大納言を「だいなんご」と呼んでいたとか、ある時祐筆が「醍醐」の醍の字をど忘れした際には、「大と書けば良いではないか」と言った、などと言う話が伝わっている。 天下人になって俄かに和歌を習い出した時には、「蛍が鳴く」と言うような歌を書いて周囲を苦笑させたとか言う話もある。 本当かどうか知らないが、事実だとしたら、天下人にダメ出しもしにくかったのだろう。 これらは単に、出自故の無教養さの証しとも言えるが、私は彼が知能(とりわけ言語)に問題を抱えていたことを疑ってしまう。

弾劾状のようなものを流布された腹いせとて、奇妙な踊りを踊ったとか言う話も伝わっているのだが(詳細は調べられたし)、この話もある人格的傾斜を匂わせる。

晩年、耄碌したと言われるが、そもそも問題のあった知能が、周囲にも感じ取れるようになったと言うだけなのではないか。 甥の秀次を処分した後、秀次の妻妾らを皆殺しにしているのだが、猜疑心の肥大化と言うのも人格障害の一典型症例だ。

人格障害者の「なりすまし」は実に巧みだが、老化などと言う身体のちょっとしたバランスの変化に対応するのが苦手である。 それを実証する例は無数にある。

秀吉は、母親が死んだ時、ショックの余り卒倒したと言われている。 承認を受ける対象として母親が不可欠だったのかもしれない。 ここも怪しい。

秀吉は晩年に子が出来たと言われているが、聞くだに訝しい話で、その子はおそらく彼の実子ではなかったろう。 まあ本当の子であった可能性も無いことは無いのだが、状況証拠的に疑える材料は山ほどあるのに、そこに思いを至らせた形跡が無いように思われる。 とにかく、策士であった彼は、そんな簡単な詐術に易々と引っ掛かっている。


世間的な常識にはなっていないと思われるが、彼は先天性の多指症で、右手だったかの親指が一本多かった。 信長が「六ツめ」と呼んでいたと言う記録もある。

身体にそんな明らかな異常があったのだから、脳にも異常があったとしても不思議は無かろう。 DSMで分類されるようなよくあるタイプの人格障害ではなかったのかもしれないが、それ系の疾患を抱えていた可能性は高い。

私は秀吉を「稀有な人」だとは思うが、ピカソやアインシュタインをそれと言うような、いわゆる「天才」ではなかったろうと考えている。 ある機能の欠損を補う為、別のある部分が肥大・特殊化した例に過ぎなかろうと思う。


1/20(日)

悪人を見た際、人はつい、奸佞邪知であるとか狡知に長けた者だ、と歯噛みするような気持ちになる。 しかしピカレスクならいざ知らず、現実世界にそう言う人はほとんどいない。 良心に欠ける人と言うのは、自己すらままならなかった者で、言語機能をあるレベルにまで到達させられなかった人だ。 つまりは低能者。

大抵の人は寝ている時に夢を見たことがあると思うけど、夢の中では窮地に立たされることが多いはずだ。 バッドケースを想定することは、とりあえずは生存の為に有用で、だから人類以下の動物、例えば野良猫などは警戒心が異常に強い。 人を見たら敵だと思うわけだが、ある面での生存の為の方策であると言える。 相手を敵だと見做さず、無警戒に近寄ると、あるいは殺されてしまうかもしれない。

警戒心の塊である野良猫、彼らは常日頃「不快」であるはずだ。 そりゃそうだ。常に危機を感じつつ神経を尖らせているのだから。 要するに、知能が低い者は、人生そのものが不快で染められている。

夢に悪夢が多いのは、我々とてそう言う風に設計されているからだ。 ただし、そのプログラムは脳の古層に刻み込まれている。 人間の人間たる部分ではなく、動物たる部分と言える。 こんにちの人間を、人間たらしめているのは、その古層にある猜疑の気分を言語で制御できること。 大いなる何かは、結局楽しい方が得だと判断したわけだ。

夢とは、脳のある覚醒レベルを指しているのだが、それはつまり頭の悪い状態と言うこと。 「頭の冴えない日」とかあるけど、それの甚だしいもの。 で、夢はバカな自分が見ている現実だから、窮地に追い込まれた際、その場を切り抜ける為にウソなども平気でついてしまう。 次から次にウソを言うと、ウソ同士が撞着してしまうことなどもあるが、そんなのお構いなしである。 論理性がぶっ飛んでいるのだから、当人には分からない。

「起きている」と言う状態すら保っていられないほどに低下した脳の状態でも、人はウソをついたりその場の思いつきで出来うる限りの手練手管を尽くし、窮状を乗り切ろうとする。 本当は乗り切れていなかったりもするのだが、それは当人には分からない。 確実に言えることは、そんな頭脳の持ち主でも、とりあえず万策尽き果てて死ぬまでは、状況をこなすことくらい出来ると言うこと。

低能者が次から次に口にするその種のウソに、正常人は翻弄されたりもする。 そこで「何とズル賢い御仁か」などと驚嘆してしまったりもするのだが、それは誤解である。 未開人の作った、狂った音律の音楽を、正確に採譜しようとするととんでもない手間になる。 だがそれは高度な音楽作品だからではない。


1/19(土)

韓国の暴走が酷過ぎて「K-POPを排除しろ」みたいな意見がネット上に散見される。 K-POP好きの私など、何だか国賊扱いされそうで肩身が狭い。何とかしてくれ。





Garden Of Thorns」が完成してから、今後の神田優花の音楽をどう言う方向にシフトして行こうか、色々思案していたのだけど、詰まるところPOPSを掘り下げようかと思っている。

いわゆるJ-POPをトレースするのではなく、もう少しエッジの尖ったものをイメージしている。J-POPって丸っこい。 私は、音楽って、刺激こそが魅力であると思っている。美とは鋭利なものだ。 勿論丸っこいものもあって良いんですが。


模索中、息抜き感覚で作ったシングル、「Happyholic」(全2曲)は、予定通り1/30(水)発売です。 これはジャズ。 肩がなまらないように、キャッチボールした感じです。


1/18(金)

物事が分かる人にとって、分からない人の「分からなさ」は難しいらしい。 分からないと言うのは、ある問いに誤解答してしまう、とかそう言うことじゃない。 分からないと言うことは、分かる・分からない以前に分からないと言うこと。

テストの問題を解けなかったとしても、正解を教えてもらった時、それを理解できるのであれば、あなたはそれを分かっている。 分かっているからこそ、正解と言う説明に納得出来る。 分からないと言うのは、そう言うことじゃない。

だからして、分からない人には教えても無意味ですよ。分からないんだから。 説明されて分かるようなら、それは既に分かっていると言うこと。 「分からない」と言う溝は、埋めようが無いほどに深い。


私は長いこと音楽なんて作ってきたから、このことが骨身に沁みて分かる。 私の作る音楽を聴く人がいる。聴いているのはその人の心なわけだけど、部分的であるとしても、それを受容できる何かを持っているからこそ、音楽作品を心に響かせることができる。 音楽作品なんてモノが中空に、絶対的存在として在るわけじゃない。

その人が分からないのであれば、音楽作品が心に届くこともない。 愛も夢も悲しみも時間も、それら全ては、それを分からない人の映す世界には存在しない。 だから私は、豊かな心の持ち主でありたい、と餓えるほどに思う。


1/17(木)

昨日発売の、川本比佐志「Light Breeze」(全2曲)、一曲目はインスト、二曲目の「Heart Of Fear」はボーカル入り、と言う形になってます。 以下、その二曲目の歌い手さんからのコメント。


Heart Of Fear feat. M.Shomura

今回川本先生のゲストボーカルを勤めさせて頂きましたM.Shomuraです。
改めて、この作品の発表に至るまでには「感謝」の二文字しかありません。私にこのお話を下さった事に始まり、スタッフの皆様の数々のサポート、そして作詞もさせてもらった事は本当に感無量でした。とても楽しかった。
あとは、幼少期からジャズやオールドミュージックを好き好んで聞いていて本当によかったなぁと思っています。

1人のアーティストとして、良いものを作りたいという沢山の気持ちを私なりに込めて歌わさせて頂きました。川本先生の素晴らしいメロディのもと、何卒よろしくお願い致します。

M.Shomura






歌ネット」さんで、ウチの一部の歌詞が掲載される、と言うインフォメーション出してたんだけど、ボチボチ上がり出しているそうな。 全部のページにジャケット画像が表示されるところとか良いですね。 あとアルバム検索(ALBUM SONGS)とか言うのがあるらしく、アルバムごとに歌詞がまとめられている(リンク先の各画像はAmazonへのリンク)。

ALBUM SONGS(影山リサ)

因みにMora(影山リサ)でも歌詞が表示されるようになってます。 見てみたけど、これは便利。 因みに上のリンクは影山リサのページなんだけど、神田優花の楽曲については、まだ一部工事中と言うか、完全に作業が終わってないみたいです。曲数も多いですからね。

一応付け加えておきますが、「歌ネット」さんでは、同一楽曲の別バージョン(歌詞が同じもの)等については、基本的に「同じもの」と見做すようで、個別に歌詞ページが作られないらしい。 ここは他のサービスとは違ってます。


1/16(水)

川本比佐志、シングル「Light Breeze」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。 歌い手さんのコメントは明日上げます。


Light Breeze

メロディーが解りやすく誰でも親しみやすいJazzを目標に作曲いたしました。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

川本比佐志





1/15(火)

Photo1



オーパーツに関する本を読んでいるって、今年の初めくらいに言ったんだけど、その後暫く読み続けてる。

偽書だとか、トリック写真、インチキ学説の類をぶち上げる人らの性質が、日本と海外(特に欧米)でかなり違うのが気にかかる。 日本でそういうことをする人らは、精神に問題があるように思われるケースが多く、欧米でのそれは、いわば諧謔と言うか、全体的に乾いたイメージがある。 有名なネッシー騒動なども、私はあれを壮大なジョークではないかと疑っている。 イギリス人のやることだし。

周処の墓から出てきた副葬品に「アルミ製バックル」が出てきたとか、明代の墓から「スイス製腕時計」が出てきた、とか言う話は面白かった。 後者は大発見とて、一旦は報道までされたらしいのだが、後に間違いだったと訂正記事が出される。 周処の墓は、大々的な学術調査の前に既に盗掘されていたらしく、バックルはその盗掘者の落し物だったと言う。 それはそれで価値がありそうだと思ってしまうが。

この話を聞いて私が知ったのは、遺跡、特に古墳などの密閉空間の発掘には細心の注意が必要だと言うこと(本当に色んなモノが出てくるそうだ)。 密閉空間なだけに、つい疑うことを忘れてしまうのだろう。 何かが出てきたからと言って、それが本当に埋葬品なのか分からないと言う。 上のように盗掘者の落し物かもしれないし、(故意か否かはさておき)発掘作業員が持ち込んだものかもしれない。あるいはネズミか何かがある時侵入し、何かを混入させたのかもしれない。 言われてみれば当たり前の話だが。


1/14(月)

通信傍受法案が持ち上がった頃、同時に反対の声も上がった。 与党のぶち上げる法案に、ほとんど反射のように反対してしまうのは野党の常だったりするが、あの当時、通信傍受法には「盗聴法」なんて言うレッテルが貼られ、非難の声がなんだかヒステリックだった。

ご存知の通り、日本には北朝鮮の工作員が入り込んでいた。おそらく今もいる。 世論を沸騰させた拉致問題と言うのはその副産物で、そもそも工作員が入り込んでいたことに事件の根本的な原因はある。

情報機関もスパイ防止法も無い日本は、工作員やそれを送り込む側にとって天国のような世界である。 警察力を持って対応する他なかったのだが、その警察は、通信を傍受する権限すら持たされていなかった。

「あなたの電話が盗聴されますよ」と、当時の野党や革新系のメディアは連呼していた。 が、警察はそんなにヒマじゃない。オバちゃんの長電話を盗聴しようなんて思うわけないし(私なら思わない)、オバちゃんの側にも、聞かれてマズいようなことは無いはずである。

誰があの法案に反対していたのか。 一応は当時の野党だとか、革新系のメディアだとか言われている。 まあ直接的にはそうだろう。 幸いこの国は民主主義で、国民の側がしっかりさえしていれば、マトモな体制は作られる。 今後も、民度・リテラシーこそが歴史の分水嶺となるだろうと思う。


1/13(日)

時間と言うのは、愛や悲しみ、あるいは自己などと同じく、概念である。 だからある言語機能を持たない人には体感できない。

「時間が分からない人なんているのか?」と思われる向きもあろう。 また、分からない当人に問うても、大多数は「分かる」と答えるに違いない。 本人は本気だから仕方ない。執着を愛と呼ぶ者は、真剣にそれを愛だと信じている。

時間が分からないと言うことは、それに付随する諸概念、信用・友情・夢など、全てが分からないと言うこと。 それらの概念は、時間軸上にロードするものだから。

愛と言う現実を持たない者にとって、誰かの愛など無きに等しい。 隣人がその愛によって何かを恵んでくれたとしても、愛は見えないのだから、恵んでもらったその「物質的何か」しか分からない。 当然その人は、誰かの愛に感謝・返報するでなく「もう一つもらう方法」に腐心し出す。 そしてそれは、際限を知らない。

愛が分からないおバカさんが、もし子供であったなら、彼は後に成長し、愛の意味を知るようになるかもしれない。 脳に致命的欠陥を抱えているが故に愛を理解できない者なら、我々はその人を人間として扱うことを諦めねばならない。 人肉の味を覚えた熊を「説得しよう」なんて言う人はいない。


1/12(土)

ここ最近の韓国絡みの報道のボリュームと、それに対する日本人のリアクションに感じ入っている。 事件そのものが多いってのもあるが、余程に日本人の心の何事かに触れるものなのだろう。

私は正直言って、事の重大性なんて正味の話分からない。 自衛隊機にレーダーを照射することが軍事常識的に如何なる意味を持つのか、よく分からない。 少なくとも事件の勃発当時、そのような知識は持っていなかった。 ほとんどの人がそうじゃないのかね。

徴用工問題にしても、条約と言う国家間の約束事より国内法を優先させるなんて道理に合わないとは思うが、同時にその程度にしか感じないし、分からない。 法理論にも不案内だからだ。

ついでに私は、韓国のやったように、国内法を優先し国際条約を反故にするってことも、場合によってはありだろうと思っている。 人は、出来ることなら何だってやれる。その影響・結果出来する事態を制御できないだけ。 信頼関係を踏みにじる者には、それなりの未来が待っているだろうけど、自分でそれを請け負うだけ。 請け負うべき、と言っているのでなく、放っておいても絶対に請け負うことになる。

日本人が相手の横紙破りに憤慨する気持ちは分からないでもないが、相手に期待し過ぎることも、大人の取るべき態度ではない。 結局のところ、相手の行動と言うのはままならないもの。 相手がどう言う人であるかと言うのも含め、この世界の偽らざる態様である。 雨降りにムカついても仕方ない。 粛々と天気予報をチェックし、あるいは傘を持って出るしかない。

私は昨今の韓国関係の報道を眺めつつ、それ関係に対する日本人の食いつきの良さ、が気になっている。 どうしてここまで日本人の怒りの感情に触れてしまっているのか。

皆さん記憶の中に、「今の韓国のように振舞う人」を持っているのではないか。 多くは分析的に見ているのではなかろうが、あるタイプの人間の記憶が、彼らに対する怒りの感情を増幅させているような気がする。

人間は経験則を持つ。 出会った人物やエピソードをデータベース化し、それを、目にする新たな局面の解決に援用する。 多くの日本人には、今の韓国のような人たちに困らされた経験の蓄積があるのではないか。

実際今の日本人、若い人なども、近現代の日韓関係史に驚くほど詳しい。 否応無く詳しくさせられてしまっているのだろう。 理論武装は相手に付け込まれない為の防御反応だ。 そしてその知識を得ることが、また彼らに対する怒りを増幅させている。

日本人の韓国に対する怒りの原因が「困った人らの記憶」であるのなら、その困った人らの末路を考え合わせれば、韓国の未来もある程度の範疇で読めなくもない。 離合を繰り返すのか、あるいは縁を断つのか、一々決めるのは我々の側だ。

私は、人類、特に日本人は、歴史的な転換点に差し掛かっていると思う。 人類の歴史とは、実は良心を持つ者と持たざる者との戦いであった。 そこに今気付きつつあるのかもしれないね。


1/11(金)

血圧や血糖値が高いと、身体には様々な不具合が生じる。 だから薬を使ってでも下げるべきなのかと言うと(基本的にはそうなのだろうけど)、如何なるケースにおいても必ずしもそうであるとは言い切れない。 その値は、体が必要と判断したからこそのものであるからだ。 発熱はウィルスに対する抵抗である。

しかし、ある理由によって必要だからとて、高血圧や高血糖の状態を続けていると、様々な合併症に発展し、最悪死ぬ。 そうならない為の手段を講じ、ある均衡を保てれば、それが健康と言うことになる。 さしたる弊害も生まないのであれば、高血圧など屁でもない。

韓国の大統領は弁護士出身であるそうだ。 弁護士とは、いわば論理を売る仕事で、そこについては日本も韓国も変わらないはずだ。 その弁護士にしてあの発言内容。

彼は本当に頭が悪いから簡単な理屈が分からないのか。 そんなわけない。 事実公式見解を出し渋っていたではないか。分かるのだろう。自分らが如何に無体なことをしているのか。 しかし、だからとて彼は「我が国が悪うございました」と頭を下げるわけには行かない。 別の事情が存在しているから。

日本に謝れば、おそらくあの政権は持たない。 韓国で大統領職にある者が失脚すると言うことは、社会的な死を意味する。 支持率低下は、普通の国でのそれと、指す意味が違う。

多くの日本人は、大統領を「おかしな人」だと感じるのだろうが、日本人を納得させられる、ごく当たり前のこと言える人であれば、そもそもあのポストにまでたどり着けなかったろう。 彼個人の資質なんかより、集団の原理性こそが問題の核心である。

ある身体固有の条件から生まれている血圧、その圧を確保せねば命に関わるとして、同時にその圧が身を滅ぼすのであれば、その人はそもそも生き物として成立していない。


私の今のところの結論だが、現在の朝鮮半島人に民主主義とかそう言う体制は合わないのではないか。 北が如何に収容所国家だったとしても、あちらの方が民情と言うか身体条件に合っているのかもしれない。 栄養失調は良くないけど、栄養があり過ぎても病気は起こる。


1/10(木)

空前のアイドルブームが続いている。 もうピークアウトしてはいるだろうけど、それにしても音楽ソフトのマーケット、上位はアイドル一色だ。 J-POP界にも話題の新人アーティストとか出てきてはいるみたいだが、フィジカルのセールスではアイドル勢に太刀打ちすべくもない。

しかしそのアーティスト路線の商品にしたって、音楽的な面白味は(少なくとも私には)さほどに感じられない。

どうしてこれほどに、日本の音楽コンテンツが劣化したか考えていた。 まずJ-POPが割かし独自の発展を遂げたが故に、海外(要はアメリカ)の音楽コンテンツを意識する部分が薄くなったってのはあるのかもしれない。 これは一概に悪いこととも言えないが。

これがいわゆるガラパゴス化、と言う状態なのだろうか。 例えばK-POPはアメリカ音楽(いわゆる洋楽)を下敷きにしていると思われるし、それなりに上手くトレースできている。 個人的にはJ-POPより聴き応えを感じる。


日韓共同プロジェクトのような形の、とあるアイドルグループがいるのだが、音楽を聴いているとあることに気付く。 韓国でのプレデビューを経て日本でもローンチしているようなのだが、両国に向けたそれぞれのコンテンツに明らかな毛色の違いがある。 無論言語は違うが、音回りの話。

プレデビューと言ったが、両国でのファーストタイトルのリリースは、僅か二ヶ月程度しか離れておらず、ほぼ同時進行的に企画が動いていたであろうことは想像に難くない。 で、そのうちの韓国向けコンテンツは実に当世音楽的で、例えば洋楽好きのリスナーをそれなりに満足させそうな仕上がりなのだが、日本向けのものは、一部の隙もないJ-POPに仕上がっている。 後者は、ある人にとっては聴くに耐えないものだろう。

プロジェクトのメンバーはかなりの部分被っているのだろうから、アイドルグループだって、やろうと思えばもう少し音楽的に凝ったものがやれるはずなのだが、そうなっていない。 日本のマーケットに最適化を図り、あえてあのようにカスタマイズされたと考えるべきなのかもしれない。 リスナーも含めてマーケットで、そこがこんにちのように固定化されたことが、いわゆるガラパゴス化と言う現象なのだろうか。


日本語の特異性もあるのかも。文法でなく音韻。 明らかに欧米言語と違い過ぎて、ある種の声楽に向かないみたいなのだが、その「ある種の声楽」こそが、昨今の商業音楽の滋味であったりする。

例えば、J-RAPとかJ-HIPHOPとか言われる日本の音楽ジャンルは、アメリカ発のHIPHOPとかTRAPとか言うものに触発されている面は確実にあるのだろうが、明らかにそれらとは別物に進化している。 音楽面でもそうだが(歌のメロディーに顕著だ)、歌詞の世界観まである種の様式性を帯びている。

音楽文化において真空に近いような地域で、商業音楽を作ろうと思い立った人がいるなら、とりあえずはアメリカのそれをトレースするだろう。 そしてこう言うことは、後発の方がある意味有利で、元が空白に近いだけに、とりあえずはクオリティーの高いものを丸ごと吸収・模倣できたりする。 外国語覚えさせるなら幼児の方が有利、と言うようなもの。 日本が戦後の焼け野原から(そうであったからこそ)復興できたことも、中途半端にインフラが整っていたからこそIT分野で遅れを取ったことも、現状の日本の音楽を説明する材料になる。


1/9(水)

ビートルズのLady Madonnaは、ポール・マッカートニーがBad Penny Bluesと言う曲を下敷きに作ったと言われている。

創作の衝動は共感によって生まれているのだから、他作品の影響を絶無とすることは難しいし、絶無とすることにさしたる意味もない。 しかし、特定の一作品を下敷きに曲を作ることは(少なくとも私においては)あまり無い。 ある曲に感動した時、その感動が大きければ大きいほど、何を作ってもその曲そのものになってしまうからだ。

感動が大きいと言うことは、それだけ自分の審美感覚に適うものであったと言うこと。 それは改定の必要の無さを示してもいる。 つまり、何かを新たに作る必要が薄い、あるいは無い。

良い作品を良いと思った感覚は、胸底に秘め、審美眼を補強する何事かに変えるのがベストかと思う。 感動を感想に変えるには、時間が要ると言うこと。何かを見るには距離が要る。 ピカソも確かそんなことを言っていた。


1/8(火)

SとかMとか言う言葉が、割りとライトに使われるようになった。 人間のある種の属性を判定するメルクマールとして。

Sとは、嗜虐的な人をそう呼ぶもの。 人間の嗜虐性は反共感から来ていると思われるので、度が過ぎるとその人には、治療・隔離など、病人としての措置が必要になる。 人間以下の動物としては正常なのかもしれないが。

他人が苦しむことを快楽とする感覚は、おそらく脳の深い層に組み込まれている、動物的な生理であろう。 他者が蹴落とされれば、自分の生存は(短期的に)保全される。 ただ、現生人類は、そう言う側面での淘汰の結果、こんにちの文明を為すに至ったのではなさそうである。

人間の脳にはミラーニューロンと言うものがある。 例えば目の前で誰かが転んで膝をすりむいたとしたら、普通人には自分の膝(同じ部位)にも微弱な電荷が生じる。 つまりは共感である。 それは人間の脳の、新しい部分に属した感覚である。

人類は、深層に植え付けられた反共感を、言語(共感)によって制御し、その結果、こんにちのように高度な社会を築けた。 だが、古層に組み込まれた反共感を剥き出しにしたままの個体を、一定数抱えてしまっている。

生物は多様であるし、多様性こそが本質でもある。 だからきっと彼らの存在にも意味くらいはあるのだろう。 しかし彼らは、厳密な意味での人類の定義を満たしていない。 ここは原点として踏まえておくべきかと思う。


深刻な反共感性を抱えている個体は、その性質を剥き出しにしてはこの社会で生きて行きにくい。 だから、しばしば演技でそれを隠そうとする。 オカマは女より女らしい。 貴金属の鑑定士が偽物を見抜くポイントは、大抵において「輝きが鈍い点」でなく「輝き過ぎている点」であるとか聞いた。

魅力的な人が魅力的である理由も、その本質を理解すれば見えてくる。 良心に欠けていれば欠けているほど、その人はまるで良心に溢れているかのように見えたりもする。 俗物であればあるほど高学歴になるようなもの。 無論本当に魅力的な人もいる。

特に日本のような、歴史的背景としてのキリスト教などの根付いていない社会で、必要以上に人権を掲げる者はいかがわしい。 自衛隊を廃止しようと言い出す人権派は、国民の生命・財産と言う基本的人権を蔑ろにしているので、どこかおかしい。

このことには、既に多くの人が気付いてしまっている。 だからある政党は議席を減らし、ある新聞は部数を減らす。 彼らは今別の方法を模索しているだけだ。 いずれ現れるであろう新たな手口にも、我々はもう騙されてはいけない。


1/7(月)

良心について、幾度もここで述べているのだが、言い足りた気がしない。 人類の、歴史の最重要課題であるに違いないのだが、この点に気付いている人がまだ少ないように思える。

脳の(言語を司る)ある領域が良心を生んでいる。 それは人間を人間たらしめている大切な何かで、例えば(おそらくは子育てと言うタスクから)言語機能が発達した女性は、暴力犯罪の件数が男性より圧倒的に少ない。 良心と言語が密接に関係しているからだ。 生物は多様であり、人類もその例外でない。 人類は良心不在者を一定数生み出してしまう種なのであろう。

良心は本能ではない。 生来の気質に言語が乗ることによって生まれるものなので、形成に失敗する個体ができうる。 壊滅的に失敗した個体を人格障害とか言うのだが、凶悪犯罪で刑務所に入るような人らの大半が、この人格障害(良心不在)者であることは既に判明している。 サイコパスなどの用語で調べてみると良い。

猿に共感性は無い(あったとしてもごく薄い)。 あれだけ高い知能を持ちながら、隣人の苦しみを彼らは感じない。 確かに隣人を助けても短期的な実入りは無かろう。だから彼らは人類のような高度な社会を築けなかった。 猿山のボス猿は、常に身体能力(強さ)によって選ばれる。 大統領や法王は、喧嘩の強さによって選ばれたりしない。

人間社会への順応力が犬と狼を分けたように、共感力が猿と我々人類を分けた。 原始の頃、人類は共感性を持つことによって、猿と本質的に違う存在となった。 共感は「言語」と言う形で、直接的に発動されるようになる。

おそらく狩猟・採集生活をしていたであろう当時、他の動物と同じく、それまでは身体能力こそが優越性そのものであった人類に変化が起こった。共感による集合知が全てを飛躍的に進歩させ、例えば狩り一つとっても、集団は、自分らを身体において遥かに凌駕する熊だってマンモスだって狩れるようになった。 そこでは、共感の精度こそが個体としての優秀性と変わって行った。 だからこそ大統領選挙は、雇用対策で争われたりする。

人格障害者は結果としての行動だけでなく、身体的特徴においても識別できる。 平常時の心拍数、前頭葉、脳内物質(セロトニン等)の濃度などによって。 彼らは、普通人がセロトニンによる安寧をそれと感じる幸福を、ドーパミンによる刺激でしか感じ取れないと言う。 つまり、外見こそ同じだが、別のタイプの人類であると言うこと。 綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人事件などをはじめとする、世間を震撼させる猟奇犯罪のほぼ全ては、彼らの手によるものである。 そして彼らは多数派ではない。彼らが多数派でないからこそ、人類は人類となった。 これは私個人の見解なんかじゃない。

不良と呼ばれる人たちがいる。ヤクザ映画を面白がるお父さんらもいる。 彼らは良心不在者であるのかと言うと、無論そんなことはなく、大多数は普通人の一種である。 中学生が不良っぽい服装や髪形に憧れたりするのは単に未熟だからで、ほとんどの人は歳とともに普通の大人になって行く。 が、それが良心不在者の隠れ蓑にもなっている。

人格障害のメカニズムを説明する文章などを読んでいると、多くの人は自分にも思い当たる機微があったりするはずだ。 人間の思考が複雑だから、ある意味それも当然なのだが、分量の違いこそが問題の核心なのである。 不良少年の一部の成れの果てがヤクザや凶悪犯罪者であるかのように錯覚してしまうが、無論そうでない。 普通人と良心不在者には明らかな差異・断絶があり、それはハードウェア面でも測定可能なのである。

人格障害者の思考アルゴリズムや世界観を解説(図示)したものを見たことがあるが、彼らは全く普通の人類とは違う。 人とモノとの明確な区別すら付いておらず、自己評価は二重のグラフとなっている。 異常な尊大さと卑屈さが同居していると言うこと。 多分これ読んでいる人の多くが、このくだりを意味不明と思ったはずだが、それは当然で、異常者の異常性を反射的に理解できないのは常人である証拠でもある。

普通人らの不良に対する一種の憧憬が、彼らの隠れ蓑になっている。 良心不在者は、良心に欠けるのだから、当然平素の素行も不良に寄るが、通常人のそれとはメカニズムが全く違う。 人格障害者に典型症例として見られるものの一つに「反共感」と言うものがある。 「人が苦しむ姿を見ることを快楽とする」と言うようなもの。

反共感は、前頭葉の異常により起こる。 それは前部帯状回のフィードバック関連陰性電位(そう言う電気信号)の測定によって、比較的容易に判定できると言う。 人間とそうでない者、を峻別する為の医療器具まで既に存在するのである。

反共感がどれだけ怖ろしいものか考えてみれば良い。 結果出来する事態が、足が遅い子がかけっこでビリになる、と言うような無害なものでない。 言語が壊れれば、その人の人生は、人を苦しめ、世界を呪うしかなくなる(それこそが快感なのだから)。 その性質は、間違いなく共同体との親和性を著しく損なう。 だから多くの人格障害者は、普通人を演じ、社会に「潜む」ような形で存在することになる。 悪が賞賛される社会は、彼らがその普通人を演じる必要の無い世界。

解説を読むと、彼らは常に「正体がバレる(漠然とした)恐怖に怯えている」とある。 人類と同じ外見で人間社会に同化しているものの、実は人間でなく、むしろ人類に狩られるその他の動物に近いのだから、その恐怖も当然で、彼らのある者は演技により正体を潜め、ある者はそれすらせず犯罪常習者となる。 彼らが一番怖いのは、マジョリティーである市民の側が、その事実に気付くことである。 暴力団や高利貸しの類を必要悪だと評価したりすることや、不良やヤクザを賞賛するコンテンツの存在を彼らはきっと歓迎する。 それが隠れ蓑になるから。

彼らも人の表情など、空気を読んだりするらしい。猫でも相手は見てますものね。 ただし、普通人が言語を司る領域にて判断する何事かを、彼らは計数を処理する領域で処理するらしい。 当然共感などあるはずないのだが、共感性の欠如に気付かれては人間社会に寄生しにくくなる。 だから彼らは「共感したフリ」をする。 これも計数処理だ。

言語の形成不全がもたらす代償的発達・特殊化の典型例が、計数能力の肥大であること。ここも既に判明している。 神がロゴスであると言うのは間違っていない。


1/6(日)

言語とは即ち論理である。同時に言語こそがその人の本質である。 世の中には論理的な人と非論理的な人がいる、のではなく、非論理的な人など人として存在していない。

韓国によるレーダー照射事件、韓国側の反論を眺めつつ、その非論理にあらためて感じ入っている。 論理が形成されないと言うのは、言語に機能不全を抱えていると言うこと。 如何に内政的な問題を抱えているとは言え、非論理が正義感・倫理感に抵触しないのだから、それは知能の問題だ。

私は、遺伝形質に民族間の差異などさほどに無いと思っているし、例えばイエローペリルは妖言だと理解している。 ただ、原理性によって、結果形成される社会の様相はかなり変わってくる。 集団の中枢をどのような人格が占めるか、などもその原理の顕著な帰結だ。

河川工法の話などを見ていると、川の流れを矯めるには、川を根こそぎ作り変えるような大掛かりな工事など必要ないことが分かる。 石目を見抜くように、要所要所に(土木的・工法的な)楔を打ち込むだけで流れは変えられる。 人格にも集団の性質にもメカニズムがある。 要所を押さえるだけで変えられると言うことは、要所が狂えば全てが狂い出すと言うことでもある。

敗戦までの日本は狂っていた、みたいに言われることがある。 ホンの数十年前の同民族なのに、そんなに違うだろうか。 形質は変わらないだろう。 あの時代が一種のトラウマとなっている人は、特定の人物の印象が時代の印象にすり替わっているのではないか。

天皇や戦時にかこつけて、それを持ち出せばなんでも許されると踏んだ人間はいたろう。 今の韓国の反日はそれに近い。 戦後の日本は、生まれ変わってこんにちのような市民社会を作れた。 韓国にだって作れないことはないと信じたい。 社会に紛れ込んでいる良心不在者の存在に気付ければ、きっと集団の更生も早い。 気付くことが最も肝要だ。


1/5(土)

道端に飴玉を置いておくと、ほどなくして蟻がたかり出す。 最近あんまり見ないけど、虫の死骸に蟻がたかってる様とか、昔はよく目にした。

蟻は何故飴玉にたかるか。 あれが糖分の塊であるから。つまり生存の原理に従った行動(現象)だと言うこと。 腹を空かせた私が、うまそうな食い物を目にしたら、口中に涎が分泌されたりするが、あれとほぼ同じ現象。 蟻の行動には生存原理以外の何事も見出せない。あれに蟻の趣味・嗜好など含まれていない。蟻さんなんて人、存在しない。

気付いていない人が多いような気がするけど、大抵の受験勉強や就職活動と言うのは、あれと同じ現象である。 生存原理に因る衝動が具現化した例。 人は生存原理に従って、社会の階層を作り上げている。 蟻のような社会性昆虫と、その点では同じだ。

親はしばしば子供に受験勉強をけしかけるが、我が子を社会の上層に送り込み、磐石な生存環境に置かしめたい、と言う衝動も、要は生存原理以外の何事にも支えられていない。 生存原理こそが、この世界で最も崇高な力学であるのなら、きっと人間に意識など備わらなかったろう。 我々は蟻でなく人間である。 意志こそが存在理由。


1/4(金)

韓国に(北朝鮮にも)住んだことは無いが、ある部分について、粗方のイメージは沸く。 まあ住みにくかろう。 経済がどうだとか、技術がどうだとか、そう言う話をしているわけではない。

韓国国内における詐欺・偽証・誣告などの刑事犯罪の件数を、日本のそれと比較したような数字を見たことがある。 それはそれは凄まじい数字で、多分多くの日本人は信じがたい気持ちになるだろう。 私も驚きはするが、どうしてそうなるのか理解できてしまう。

私だってもしあの社会の住人なら、実際に犯罪者にまでなるかはさておき、それ的な性質に傾きはしたろう。 そうした方が生きて行きやすいし、そうせねば生きていきにくい。 日本人の多くは気付いてなかろうが、我々だって社会の同調圧力によって言動を決している部分は多分にある。 個々人の資質は社会の構成要素だが、集団には一種の臨界点のようなものがあり、制御は簡単ではない。

気質と言うボトムレイヤーに、言語と言うOSがインストールされ、人間の基礎は作られる。 個人の複合体である国家は、構成員個々人の資質と、その行動原理によってその粗方が形成される。

「韓国人にだって良い人はいる」と言う意見、これは当たり前である。事実私の知っている韓国人は、(少なくとも知っている限り)皆マトモだ。 韓国人にだって、普通に良心感覚を持つ人がおり、また良心感覚希薄な人がおり、良心が欠如したような人もいる。 民族によってこれらのパーセンテージ(配合率)が微妙に違ったりすることくらいあるだろうが、基本的な部分はきっと変わらない。

プロのプレイヤーになるほどスポーツに達者な人は、遺伝的に運動神経が優れているのか、あるいは努力の賜物なのか。 大抵ハイブリッドであるに決まっている。 それらが総合され、ある行動律を持った結果、とある形質を持つ個体が形成される。

当然のことながら、人格障害の形成要素には、先天的資質(気質)と教育環境がある。 と言うことは、教育環境によって人格障害は作れると言うことでもある(無論生来の気質によって、どう育てようが人格障害を起こさない個体もあろう)。 ゲーム理論における均衡点が、人格や国家と言う複雑なものにも生じると言うこと。

良心不在者は、韓国社会にも、無論日本社会にも潜んでいる。 彼らにとって、現代の日本社会は住みづらかろう。 日本社会は、その構成員の多くが、ある事実に気付いてしまっているから。 日本では、サラ金業が事実上消滅し、パチンコ屋も減り続け、ヤクザ業も同和利権も壊滅状態に陥っている。

韓国社会においても、普通程度の良心感覚を持つ者が圧倒的マジョリティーであろう。 宿主あっての寄生虫である。生態系上、寄生虫が圧倒的多数を占めるわけがない。 良心不在者は、その圧倒的多数派が団結することを最も嫌がる。 北が日米韓の同盟を妨害する理由もそこにある。

韓国は、外交的には一旦焼野原に近い状態にまで陥るだろうが(本当にジンバブエのようになるかもしれない)、その後復興できるかは彼らがその「何事か」に気付けるか否かに掛かっていると思う。 ここで言う復興ってのは精神の上でのそれである。 フランス革命も明治維新も、あらゆる改革と言う改革は、人々の精神によって為された。


1/3(木)

もし私が、マリリン・モンローと同時代人で、なおかつ彼女の近くにいたなら、きっと他の人と同様に彼女に魅せられたろう。 だが、私には音楽と言うMethodがある(如何なる時代に生まれたとしても、私の固有の思考回路は、何らかのMethodを手に入れたはずだ)。ほどなくして彼女の本質にも気付いたに違いない。

彼女の中に自分と同じ何かが存在し、そうであるが故に愛すべきと思える。 こう言う人たちを非難はできない。 共感性・返報性と言うのは人間を人間たらしめている何かであり、いわば美質であるから。

メカニズムが分かってしまえば、彼女の魅力の正体なんて、紙を剥がすようにするすると解ける。 彼女は厳密な意味での人間の定義を満たしていなかったが、人間の振りをすることについては、高度にそれを身に付けた。

彼女はワガママだったと言われるが、自己中心的とか呼べるほどの自己は存在していなかった。 単に行動を律することができなかっただけで、その原理はむしろ他者中心的であったろう。 他人を喜ばせるための手練手管を獲得したからこそ、結果あのようになった。

このことが分かってもなお、彼女に出会った私は、きっと彼女に寛容であれたろう。 理解と言うのは寛容に繋がりやすい。 ただ良くも悪くも、他の人(特に男性)のように、鼻の下を伸ばすような形で接触することは無かったろうと思う。 これは私がある要素での酩酊体質から脱したが故なんだが、浮世の楽しみを一つ失ったと言うことでもある。 まあそんな楽しみ私は要らんがね。 


1/2(水)

昨年末から、オーパーツに関する本をいくつか読んでいたんだけど、その感想。 因みにオーパーツとはout of place artifactsの略だそうで、主に、製造された時代の技術水準にそぐわない構造物を指す。 有名なエジプトのピラミッドとかだって一種のオーパーツとされる。

言われている大抵のものはインチキである。 UFOがどうしたとか、心霊がどうしたとか、その手のものの一種として、ある層に取り込まれている感がある。 しかしピラミッドがそうであるように、技術と言うのは必ずしも直線的に後世に引き継がれるものではなく、歴史に断絶があるように、技術にも断絶がある。 実際先の大戦での敗戦を契機に、日本の軍事技術の発展は一旦途切れている。

豊臣秀吉は(おそらくは自分の事績を顕彰するため)、当時としての最大規模の仏像を健造しようとした。 その際、奈良の大仏の製法を踏襲しようとしたらしいが、その時点で既に技術が途絶えており(どこにも継承されておらず)、断念せざるを得なかった。 結局秀吉は木造のそれで我慢したのだが、つまり奈良の大仏は、いわば当時のオーパーツだった。

上に言う「ある層」について考えている。 UFOや幽霊が実在するか否かはさておき、ある理解不能な現象・物体に遭遇した際、それをUFOや幽霊だとしてしまうことには、そう言う(精神の上での)傾斜を持っていると言うことに他ならない。 この傾斜とは即ち、想像力なのではなく、現実捕捉上のエラーなのだと思う。


1/1(火)

2019年を無事迎えることができた。 私は去年、二度入院していて、一度は死に掛けた。

今こうやってテキスト打てていることも実は一種の奇跡で、こういうことが事実出来ているから「治って良かったですね」とか言われたりもするのだが、無論そんなに甘くない。 私は数ヶ月前まで集中治療室にいた身である。再発の怖れも当然(一生)残る。 仕事についても、それ以前と同じようにこなすのは事実上不可能になっていて、あらたなスキームを今も模索中だ。

ただ、そういう事態に陥って、あらためて持ち時間の価値を感じた。 私はやはり音楽を作るしかない。私も音楽を選んだけど、それよりも何よりも、私が音楽に選ばれた。 今年もよろしくお願いします。


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