Staff diary  
スタッフ日誌[2018]

[文 / 益田(制作)]

12/31(月)



先月リリースの、神田優花のフル・アルバム「Garden Of Thorns」は聴いてもらえたんだろうか。 神田優花は既に来年の第一弾リリースまで決まってます。

(2019年の)1/30(水)に最新シングル「Happyholic」が発売されます。 今度のは(カップリングも含め)ジャズです。下はジャケット。





日本と韓国の関係が険悪化の一途を辿っているのだが、あの国大丈夫かいな。他人事のように心配してしまう。 どう考えても一番損をするのは韓国だろう。 あの国の政権、北の工作員に乗っ取られてるんじゃないのか。半分本気でそう思う。

多くの日本人は、韓国人の狂信的な反日に「議論しても無駄」と思っているだろうけど、まあその通りではある。あれに話は通じない。 でも戦前の日本にも近い雰囲気はあった。 両国民は似ている。

「日本と朝鮮半島は全く違う」と言い張る人もいる。 確かに細かく言えば相違点はたくさんあるのだろうけど、一旦社会がある空気を共有し出したら際限なくなるところとか、実に似ている。 東日本大震災の後の、節電とか変な自粛ムードには、まさにその逆らえない空気を感じられた。 あれを濃くしたものを想像したら、戦時中の空気が感じられるような気がする。

ある時の日本人が「欲しがりません勝つまでは」と言っていた空気と、今の韓国国内に蔓延する反日(のスローガン)は、きっと似ている。 それが集団の中での模範解答なので、中にいる人にっては、そう標榜することが合理的なのだろう。 と言うか、そうしないと生きて行きにくい。

先日の一件で自衛隊機にレーダーを照射したと言う艦(フラッグシップらしい)の名が「広開土大王」だったと言うのは、その一傍証たりうる。 命名の由来となった人物の事績を知りたい人は「広開土王碑」あるいは「好太王碑」で調べてもらえば分かる。 あらためてあの国の軸が「反日」であることを思わされて 印象的だった。

ある時代の狂信的日本人らは、自ら崖に向かって進み、敗戦と言う形で亡国を招いた。 当時の日本の空気が、敗戦に因らねば破壊されなかったように、強烈な外的要因でもなければ、韓国の反日も留まるところを知らないだろう。 かわいそうに。


12/30(日)

ウチのコンテンツの、歌詞の供給先が増える予定です。 今まではリリースの度に「うたまっぷ」・「歌詞GET」の二つ(とその提携)のサービスで公開してたんだけど、この度「歌ネット」でも公開されることに。 とりあえず神田優花・影山リサ・鈴木サヤカの現時点での全リリース済み楽曲の歌詞が掲載されることになりました。

「歌ネット」では、今までも神田優花の一部の楽曲だけは扱ってもらってたんだけど、リリース済み楽曲も含め、現時点での全レパートリーが公開される運びになってます。 「歌ネット」では過去、アルバムの紹介ページとか組んでもらったりもしたんで、運営会社さんとはそれなりに長いお付き合いなんです。


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以前にも触れたことがあるかもしれないんだが、スーパーなどでは、ある時間を越えるとよく惣菜が値引きされる。 よく行くところでも最大で半額になるのだが、値引き価格の表示の為に貼ってあるシールに、よく見ると「半額引き」とある。 「半額」でなく「半額引き」である。

半額なら「0.5x」だが、半額引きなのだから「x-0.5x」と言うことになる。 結果としての値段は変わらないから、途中の計算式が違うことを見落としそうになる。 まあ惣菜ならそれでも構わない。

しかし、芸術においてそれらは同じではない。 何故なら、解ではなく、途中の式こそがその本質であるから。 そのアーティストが「どう言う人であったか、どういう思考のプロセスでそれを生んだか」に比べれば、結果として残った作品なんて、実に些末である。


12/29(土)



2017年公開のハリウッド映画「Ghost in the shell」のサウンドトラック(LP/アナログレコード)が出てるっぽい。リンク先は通販サイトだけど、既に(40ドルで)売られてる。

我々も詳しいことは分からないんだが、権利関係とかどうなってるんだろう。 宣伝する気もないが、買いたいなら止めもしない。 それにしてもきょうびレコードなんて誰が買うんだろう。


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ハゲ(薄毛)について。 若年性のものを最近では特にAGAとか言って、一種の病気扱いにしているみたいなのだが、老若を問わず、あの現象の機序について考えていた。 因みに、一般的なハゲの治療は保険適用外であるらしい。

人間以外の哺乳動物のほとんどがそうであるように、人間もかつては全身毛むくじゃらであったろう。 現生人類の毛は、必要な部分を残して退化したらしい。

毛が残った部位、それは目の上や脇、性器周辺など。無論頭部も。 全ては人間と言う生物にとっていわば大切な部位で、そこを衝撃から守らねばならないと言う必要性から毛は残ったに違いない。

毛だってタダじゃない。生えさせるに相応のリソースが割かれる。 人体はそんなに不合理にできておらず、常に競合的である。 無意味な毛など生えさせている余裕は無い。

頭部に毛の無い個体があるとはどう言うことか。 言うまでもなく、頭部には統合を司る脳がある。そこでは、人間を人間たらしめている「思考」が行われている。そこを「守らずとも良い」と神に判断された個体。それは既に人類の一員として「不必要」と言われたようなものではないか。

実際、多くの薄毛は加齢に伴った現象である。 老い、衰え、共同体に寄与する部分の少なくなった個体が、淘汰されつつあることを示す(割りと顕著な)一兆候なのではないか。


少々話は逸れるが、私は、薄毛と性欲は濃厚な相関関係にあると思っている。そしてこの見解に、私は自信がある。 このことは多分、医学的・生物学的にもある程度立証されているのではないかと思う。

生殖能力が衰え、「役目を終えた」と自然界に判定された個体の頭髪が抜け落ちるのは、老化と言う一般的な現象である。 いわゆるAGAのように「初めから(あるいはかなり早い段階から)必要ない」と判定された個体には、いわば代償的特殊化として「性欲の肥大」があるのではないか。 この私の出した結論については、これ読んでいる皆さんにも、周囲の人間関係を重ねて考えて欲しい。 思い当たるに違いない、と私は踏んでいる。

因みに私には、今のところ薄毛の兆候は見られない。 しかし、今後は分からない。頭髪が薄くなり出したら、ある面での私の役割は終わりはじめているのかもしれない。


12/28(金)

今年最後に録った神田優花の新曲、ここ最近のウチの音にしては、かなりレベルを突っ込んだ。

ここ十年以上になるだろうか、エンジニアとしての私は商業音楽的な音圧競争に嫌気が差していて、(一般的な音楽商品と比べることをせずに)私の好みの音圧感に仕上げていたのだけど、今回は最近のものではちょっと音がデカく、多分市販品に近い。 曲想に合わせた結果、そうなりました。

音楽プレイヤーなどではアーティストごとに再生することってあると思うけど、その際なんかには、ボリューム調整が必要になったりして面倒かもしれない。お手数お掛けします。

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あるアメリカ人アーティストのコンサート会場で、銃の乱射事件が起こった。 死人まで出たのだが、その後そのアーティストが出したコメントが「I am sorry」だったことが印象に残っている。

普通、日本語では「I am sorry」は「ごめんなさい」とか訳される。 でも、それでは上の状況にマッチしない。

「sorry」はおそらく「sorrow(悲しみ)」と同語源である。 つまり「私は悲しい」と上のアーティストは言っている。 これを精一杯近い日本的表現にするなら、「遺憾の意を表明したい」と言うところだろうか。


12/27(木)

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先日、とあるビルでエレベーターを待っていたら、親子連れと隣り合わせた。 夫婦と、小学校に上がるか上がらないかと言った年齢の女の子一人の、合わせて三人連れなのだが、その女の子がやたらと微笑みかけてくる。

その微笑みは一見可愛いのだが、その少女の挙動を眺めていると、明らかにおかしい。 年齢相応に言語(話し言葉)を獲得できておらず、何やら呻き声ばかりを発する。 時折「バイバイ」などと口にはするが、せいぜいその程度の片言しか喋らない。 おそらくあの子は、知能に障害がある。

私が考え込んでいたことは、その笑顔についてである。 言語すら満足に獲得できていない個体が、笑顔を振り撒くことだけは覚えている。 それはむしろ、言語を獲得できなかったからこそ、代替的に身に付けた所作なのかもしれない。 おそらくそうであろう。

言語の獲得に難がある個体、それは即ち弱い個体だろう。 生まれながらにして生存に不利な条件を持たされた個体は、それでもなお生きようとする。 彼女は周囲から与えてもらう為、あの笑顔を獲得した。 与えてもらうものとは、金やモノと言った即物的な何かだけではない。人間としての承認も含む。

ああ言う特殊化・代償発達は、言語より下のレイヤーにあるらしく、思っていたより根深いものだ。 如何程の高度な言語であればあれを制御できるだろうか。あの子がそれを後天的に獲得することなど可能だろうか。 絶望的に思えるが。

あの子のある面があのまま発達せず、美人にでも成長した日には、彼女は芸能人になるかもしれない。 そこで大成した(おそらく人類史上最大の)好例がマリリン・モンローなのだろう。 不幸なことだ。


12/26(水)

来年1/16(水)に、川本比佐志のシングル「Light Breeze」(全2曲)がリリースされます。 詳細はリンク先に。





物事の「階層性」について。

頭の悪い人と話していると、「言ってることが前と違う」と言うようなことをしばしば指摘される。 別にコロコロと前言を翻しているわけではないのだが、その人には物事の階層性が理解出来ない。 人々の間に齟齬が生まれる理由は単一ではないのだろうけど、理由の大きな一つがこの階層性の無理解、と言うのはほとんど疑いない。

特に日本人は、階層的に物事を捉えることが苦手なように思えるのだが、これは日本語に英語のような( that節・関係代名詞節等と言った)「節構造」が存在しないことと無縁でないかもしれない。

例えば「歴史は進歩するのか」とか「人間は成長するのか」とか言うラディカルな質問に回答するなら、「そうとも言えるし、そうでないとも言える」とか言う風にならざるを得ない。 これは換言するなら「ある階層においてはそうであるし、別のある階層についてはそうでない」と言うこと。

一般に人は、(精神において)いつまでも子供ではない。 精神のある部分が成熟し、大人になって行く。 が、その精神の基底たるある部分が成長しなかったが故に、表面的所作だけを代替的に獲得する個体もある。 また、精神のある部分をいつまでも瑞々しく子供であり続けさせる為には、絶えず変化・成長する必要があったりする(状況は一定でないのだから)。

こう言った諸現象を評価するなら、人は一面変わるとも言えるし、また一面変わらないとも言える。 物事には階層があるのである。 時間(歴史の段階)と言うのも、要はこの階層である。 が、これらのことは、ある人にとって理解不能であるらしい。

懇切丁寧に説明をしても、そのある人にこれを理解させることはおそらく不可能だ。 何故なら、思考の階層性と言うのは、それこそが言語で、またそれこそがその人そのものであるから。 これを変えることができるのなら、人は人を作り変えられることになる。神じゃあるまいに。


12/25(火)

ジョルジュ・ブラックは、ピカソと共にキュビズムを大成した、絵画史上における巨人であるのだが、彼は生前、キュビズムについてこう語っている。 「キュビズムとは、私の為の手段であり、絵画を自分の能力の届く範囲に持ってきたものだ」と。

この発言は「絵画は自分の能力の範囲外にあった」とも解釈できる。 つまり彼は、早い話が絵が上手でなかった。 得意でなかったが故に、特殊な技法を身に付けたと言える。 絵画があまりに得意であったれば、彼には「絵画を動かす必要」が無くなる。 それはある動機を失うと言うことだ。

芸術家とは一般にそのようなものである。 絵画に従属するでなく、絵画そのものを我が薬籠中のものとする。 ブラックの盟友ピカソは、若い頃から(とりあえず不足の無い程度の)絵の達者であったと言われるが、彼の解釈の中にも、色々と細かい不備・不足はあったろうと思われる。 でないと思考の取っ掛かりが無くなる。

例えて言えばこう言うこと。 「私がこんなにメイク(自分を綺麗に見せること)が上手なのは、私が不美人であるからだ」と、芸能人が言うようなもの。 美人でないからこそ彼女は「自分を美人に見せる技法」を獲得する。制約こそが何かを成立さしめるのである。 この宇宙も時間も、制約こそがそれを生んだ。


12/24(月)

昨日、自己について述べたのだが、また少し考え込んでいた。 少し敷衍してみたい。 まあいつも考えていることだけど。

いくら食い物があったところで、それは食ってしまえば仕舞いだし、食わずともそれは朽ちて消えて行く。 その人が、その食い物を与えてくれた誰かの愛に気付けねば、食い物は物質以上の価値を持たない。

とりあえず愛と言ったけど、愛も夢も友情も悲しみも、それらは全てモノでない。 だからそれを掬い取る能力を持たねば、この世界に存在しないものである。

物質以外の何かも含め、その人が心に映した全てのもの、それが現実(reality)と呼ばれる。

物質はいわば簡単である。目で見たり手で触れたりできるから。 椅子や鉛筆などと言ったものについて、解釈が分かれることなどほぼ無い。 これは母語を異にする者同士であっても例外でない(鉛筆とpencilの意味は、ほぼ100%一致する筈だ)。 しかし形而上的概念はそうでない。 言語によって掴むしかないものだから、その人の持つ言語の精度によって実体が変わってくる。

言うまでも無いことだが、愛や夢と同様に、自己と言うものも概念である。 我々は言語で愛を感じ取るように、自分自身をも言語によって感じ取っている。

言語の形成不全がもたらす、人間にとって最大の弊害は「自己感の喪失」である。 言語の精度によって、人は感じられる自己そのものが変質する。 更には、あるレベルでの言語獲得が為されなかった個体、例えば人格障害者などは、良心なども持てなかろうが、それ以前に実は自己を持っていない。 自分が自分であると言う、この当たり前の感覚を持てなかったと言うこと。

生物としては生きているものの、人間としての自己を持てなかった個体が採りうる行動は、生存に直結したもののみである。 例えば性犯罪者の高い再犯率は有名になってしまっているが、性欲が生存と直結している上、それを制御するための理性(つまり自己)が育っていないのであれば、どうしても彼は性犯罪を繰り返さずにはいられない。 自制しろとか反省しろとか言われても、それをする主体たる自己が無いのだから無理なのだ。

その「生存に直結した行動」には、この社会の中で生きて行くため、「ありもしない自己がまるであるかのように振舞うこと」なども含まれる。

あなたの隣にいる人は、本当に存在していますか? 私は、あることを現実とすることによって、実は存在していない人がいることに気が付いた。

愛や夢を心に映せれば、その人の世界は変わる。 しかしそれ以前に、自己が存在していなければそれらは映せない。映す主体が無い。 いくら食うに困らない環境を与えられても、何の希望も感じられず、ただただ時間を使い果たす人や、あるいは自ら命を絶つ者だっている。

我々が唯一持たされているもの、それは時間。 時間が終わるまでの間に何を心に映せるか、それこそが人生の価値だ。


12/23(日)

知的好奇心の希薄な子供に、文章を読んであげようとすると「ワカンナイ」などと答える。 そこには既に代償的特殊化が見られるわけだが、つまるところ人間の軸は言語だと言うことが分かる。

上の「ワカンナイ」は「考えてみたが理解できなかった」と言う意味でない。 「ワカンナイ」と言いつつ、それは「考えたくない」と言う表明である。 その呪文を唱えたら、彼にとって苦痛である「思考」と言うタスクから解放される。

ここで人は、「同じ日本語を使っているのだから、自分の考える『分からない』と同じ意味であろう」とつい思い込む。 これが「無いものを在るとする錯覚」である。 この世界に生じる齟齬と言う齟齬は、言語解釈に因るのだろう。

この特殊化が程度を増すと、人格に障害が起こる。 その個体が、人格障害でも起こさねばある水準にまで至らなかった、と言う部分に根本原因はあるのだが、とにもかくにも人格障害はそう言う機序にて生じる。

思考の拒否。それは存在の否定である。 思考こそがその人の正体で、思考させられることは存在させられること。 思考を拒否する者、それはこの世界における存在を拒む者だ。


言葉を覚えて程無い子供を見ていると、彼は自分のことを「○○くん」などとファーストネームで呼ぶ。 大人になっても女性など、自分をファーストネームで呼ぶ人は見られるし、前近代では男性にも見られた。 この習慣は、おそらく主体性を危うくする。

前近代の、例えば武士が、切腹や殉死なんて信じ難い行動を採れた理由の一つに、その主体性の希薄さがあるのではないか、と私は疑っている。

母親は言う。「この子もきっとこの先、自分のことを『俺』なんて言い出すでしょう」と。 「俺」と言う一人称を、下品なものとて好意的には捉えていない。

確かに社会通念として上品ではないかもしれないが、「俺」は「○○くん」よりは数等マシなのである。 何故ならそれが明確な主語・主格であるから。 世界を見るために必要なものは、目・視覚、あるいは五感などではない。 世界を見るために必要なのもの、それはそれを見る主体たる自己。


12/21(金)

武者小路実篤は、晩年かなりボケていたらしい。 晩年の文章を読んだことがあるが、まあメチャクチャだった。 センテンスの頭とお尻が整合していないようなものが多く、時間が保持できない脳の状態であったことが伺える。 論は無限ループの様相だった。健忘症と言うのはが、あのような脳の状態を指すのではないかと思う。

晩年の武者小路の文章をネット上で探してみたのだが、探しているようなものはほとんど見付けられなかった。 私は山田風太郎の「人間臨終図鑑」で抜粋のようなものを読んだ。

脳のある部分がイカレたら、時間の保持が難しくなるのだろう。 時間の保持、それは論理力そのもの。 論理とは時間なのである。 だから、時間軸上に展開される音楽は、論理そのものと言える。 音楽は目に映らないし、触れない。 純粋な概念である。

晩年の武者小路のような脳に、音楽を聴かせようと思ったら、例えば三分の尺は長過ぎる。 ごく短いスパンのものだとか、あるいは瞬間的な音響を味わうくらいしか出来そうにないので、テクノだとかそう言う、数小節のループを基本としたものや、もっと断片的な、音そのものを楽しむようなものにならざるを得ない。

やはり音楽って難しい。 情報を脳内で再構築しなければならないから、その為の唯一の道具として言語が要る。 言語の精度によって、音楽作品の実体は変わる。 私の作る音楽を、私の感じるままに聴き取れる人とは、極めて私に近い言語機能を持っている人だろう。


ついでに、絵は簡単だ。 鑑賞に時間軸を要さない。 動画とかってのも、要は断片的な絵を繋ぎ合わせただけで、即ち全体で論理を構成するものではない。 動画には絵と言う断面があるが、音楽には断面などありえない。

スタジオジブリの作品なんかを見ていると、ストーリーが整合していないケースがしばしば見られる。 子供は動く絵をショートスパンで見ているだけだから、全体としての論理など実は必要ない。 静止画・動画を問わず、絵と言うものが論理そのものではない、と言うことをあれは証明している。


12/20(木)

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日本と言う国、文化は弱っていると思う。特に音楽面。 どうしてなんだろう。

ここ十年来くらいのK-POPを聴いていると、明らかにJ-POPは追い抜かれていると感じる。 リスナーの好みの問題(リスナーの嗜好と言うのは民度そのものなわけだが)もあるのだろうけど、単純にテクノロジー面でも劣っているのではないか。 多分K-POPの音屋たちは、もう既にJ-POPを下敷きにすることをやめている。 彼らが下敷きにしているのはアメリカのPOPSだろう。

実際韓国の音楽は、ビルボードチャートで上位を占めるような音楽を上手にトレースできているし、本当にアメリカ音楽シーンへの訴求力も持っている(アメリカ音楽が至高のものとも思わないが)。

今のJ-POPにそんな能力は無い。 J-POPシーンの(セールス面での)最強クラスのアーティストでも、多分アメリカでは全く受けない。 いわば文明的な普遍性が無い。 だからと言って、文化的に高度に発達しているとも思えない。 要するに衰退して行っている。

80年代くらいの日本の歌謡曲を聴いていると、まだそれなりに訴求力と言うか、活気のようなものを感じる。 あれがそのまま時を経て、例えば現在のK-POPのようになったとすれば、それなりに納得できる発展型であると思うが、どこで足を踏み外したのか。


私は一応音楽家だから、音楽について述べたけど、それ以外の多くの分野でも同じような現象は見られるのではないか。 例えば私は、黒澤映画に一時期ハマってたんだけど、映画界も確実に衰退していると感じる。 昨今の日本映画で、あれに匹敵するものってあるかしら。

ついでながら、私の言っていることは、オッサンが冒険心を失い、自分の若い頃に見聞きした物以外受け付けなくなって「最近の若い者の好むものは分からん」とか言っているのとは根本的に違う。 黒澤映画なんて全くもって世代じゃないもの。 私は、自分が生まれる前に作られたものを、今更見てたりする。 純粋な比較の上での結論。


12/19(水)

物語と言うものがある。 古くは竹取物語とか源氏物語とか。今でも使われる言葉だが、私は前近代のそれについて述べている。 現代ではその意味が「story」と言う程度に薄められているが、きっとそもそもはそうでなかった。

そもそもの意味・用途は「物」の字に象徴されるように、怨霊と深い関係にあったと思われる。 物忌みとか物故とか物の怪とかの物。 大物主と言う神名もあるが、やはり怨霊神だ。

源氏物語のようなフィクションや、今昔物語・宇治拾遺物語のような真偽定かならぬ怪異譚もあれば、やや下った頃に現れる、いわゆる軍記物のように、基本的には史実を叙したようなものもある。 戦争は(時に大量の)死者を生む。怨霊鎮魂は必須であったのだろう。 それら物語の多くは、基本的に政争・戦争の敗者側が主人公となっている。

いわゆる軍記物、大抵は作者不詳であるのだが、それも含めて一種の様式のようにも思われる。 つまり、作者を明記しないことが、一種の決め事であったのではないかとさえ思える。 物語と呼ばれるもの(特に中世以前の)は、作者が判明しているケースの方が少ない筈だ。 中には作者の有力な候補があったりするものもあるが、基本的には不詳と言うことになっている。


将門記結尾の冥界消息は、後世の研究者にその成立年代を誤解させた。 太平記にも怨霊が暴れまわるくだりがあるが、あれと冥界消息は同じ性格のものだろう。 おそらくある時代まで、物語の意味は日本人の常識であった筈だが、年月とともに本来の意味は忘れられたらしい。

源氏物語は世界最古の長編文学作品だと言われている(日本最古ではない)。 日本のような、文明と言う側面で見れば後進地帯に、世界最古の文学があると言う。 誇れることであると同時に、不可解な事実でもある。

物語の発達は、その基礎に「怨霊信仰」と言う未開性がある。 遅れていたから進んだ、と言うパラドックスなわけだが、人間の才能と言われているものも、多くはこのような代替的発達である。

分かりやすい例えとして、「車椅子生活者の碗筋」だとか「盲目者の聴覚」のようなものと私はよく言う。 確かに普通人より発達しているので優位性のように錯覚してしまうが、その背景に「足・耳の不具合」と言う欠陥がある。 その代償発達が、足や耳の機能欠損を補ってなお余りあるもの(つまりは才能)であるなら、人類はとっくにそのように進化した(聴覚などは退化した)筈なのだ。

アスペルガー症候群は、言語機能の形成不全によって起こるが、その代償として、計数能力や記憶力の異常発達が見られる。 言語による「応用」が効かないから、代わりに記憶・計算などに使う領域が発達する(あるいは淘汰されない)。 結果、絶対音感や映像記憶と言った特殊能力を持ちやすい。

平家や応仁記の冒頭・序文に見られる鮮やかな修辞、高い文学性には、ありありとその代償発達を見て取れる。 「才能の正体とは、つまりはこの程度のものか」と、ある時期私は思い込みそうになっていたが、今は別の結論を得ている。 ピカソやアインシュタインの能力は代償発達でないからだ。天才は実在する。


12/18(火)

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マリリン・モンローは、フロイトの娘から「境界性パーソナリティー障害」だと診断されていたらしい。 逆算するように事績を辿ると、蓋然性の高い評価だと思わずにいられない。

ああ言う風に乱暴に生き、薄命に終わるような人って、専門家に診断させたら大抵いずれかのパーソナリティー障害に該当するだろう。 要するにマリリン・モンローは「生き抜く才能」に欠けていた。 これは俗世での評価などとは無関係であるらしい。

マリリン・モンローは、やっとのことで人も羨むスターになれた、と言うより、スターにでもなるしか生きて行く方法が無かった。 スターになったことこそ無いけど、私もどこか壊れた人間なので、ちょっとだけ気持ちが分かるような気がする。

何故マリリンはあんなに可愛かったのか。それは生きる才能に欠け過ぎた故に、周囲に可愛がられる、いわば代替的能力を獲得したからだ。 世に信じられている才能ってヤツは、大抵がこの代償発達に過ぎない。

彼女にもし(愛されるでなく)愛する能力があったなら、きっと映る世界も変わったはずだ。 だが、もしそう言う機微が、生来彼女に備わっていたなら、きっとこんにちの名声も無かったろう。 周囲が持て囃したこと、こそが不幸の始まりだったのかもしれない。


12/17(月)

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米朝間の(朝鮮半島非核化の)合意の履行が、スムースに為されていないそうだ。北朝鮮はまたいつものように、アメリカを非難する声明などを出しているらしい。 予想通りと言うか、まあ毎度のことだ。 歴史的と言われるようなトップ会談までしたのにね。 ノーベル平和賞にまで与った南北のトップ会談も、結果的には何の実りも人類にもたらさなかったわけだけど。

一般に、合意とか条約とかってのは、双方にそれなりのメリットがあるもの。 どちらかが一方的に得をするだけの付き合いなんて、個人の間にだって考え難い。 今回のケースでは制裁の緩和と非核化がセットになっていた。

「成果は欲しいが義務は果たしたくない者」は、成果を貰う為にとりあえずの約束はするが、それとセットになっている「果たすべき義務」は果たしたくない。 が、情報機関まで持っているアメリカが、そう何度も易々と騙されるはずもなく、今回のケースも「貰い逃げ」がしにくい流れになっているのかと思われる。

約束を踏むと、その人には「信用」と言う価値が付加される。 信用はその醸成に時間が掛かる上、基本的に金では買えない。 人には共感性があるから、そもそも他人を裏切ったりしたくないものだが、裏切ればその信用が毀損される。 信用を培う為にも人は約束を破らない。 単にその方が得でもある。合理行動なのだ。 その合理性は時間感覚に由来する。

が、困ったことに信用は物質でない。 目に見えないし手で触れない。 だから、それを現実として映さない心の持ち主にとって、この世界に「存在しないもの」である。 存在しないのだから、当然判断に影響を与える筈がない。 信用を映さない心の持ち主に、彼なりの合理行動を採らせたら、彼はしばしば人を裏切る。

彼が約束を踏むとしても、それは相手の為・信用の為ではなく、更なる成果を手にする為である。 だから可視的な成果が無いと、彼には「約束を踏む理由」が無くなる。 行動を見れば、その人の時間感覚は伺える。


得心できる成果と引き換えになら、きっと彼らも、短期的な約束くらいはとりあえず守るはず。 約束を反故にする方が短期的にメリットが高い状況に置かれれば、彼らはかなりの高確率で裏切る。 これは経済学などで言うオペレーションズリサーチと言うヤツなのだろうけど、行動を解く鍵は「彼らの映している現実」、あるいは彼らの「時間感覚」。 これさえ分かればある範疇での解は導き出せるし、付き合い方も間違わなくなる。 


12/16(日)

私はいわゆる嫌韓のような思想性を持つ人ではないが、韓国、朝鮮人について考えることが割りとある。 彼らは私に考えるキッカケを与えてくれる。

一見悪口を言っているようにも見えるかもしれないのだが、私は物事を有り体に評価しているだけのつもりである。 まあ私は彼らの思想・原理を良いものだとは思っていないから、そう言う意味では肯定的ではないかもしれない。 ただ、いわゆる嫌韓だとか右翼的な思想を持つわけではない。 私は多分平均的日本人よりも、彼らに対して寛容だ。

何故寛容であれるかと言うと、それはおそらく「理解」しているから。 結局のところ怒りとは、不安の感覚に直結している。 不安とは「読めない」こと。 理解不能であればあるほど、それは憎悪の対象になりやすい。


12/15(土)

東名のあおり運転事件、一審判決は懲役18年らしい。まあ、現行法上その辺が限界なんだろう。

私は加害者に、一片の同情も持ち合わせていないが、裁判についての報道などを見る限り、弁護側の主張の方に理を感じる。 確かにあれを危険運転とするのは、法の拡大解釈が過ぎるであろう。

加害者は停車を促しただけで、実際に追突したのは別のトラックである。 これは事実。 しかしこの言い分が通用するなら、例えば私が、駅のホームに誰かを突き落とし、その誰かが電車に引かれて死んだとして「轢いたのは電車だ」と言うロジックが成立することにもなってしまう。 高速道路の追い越し車線に停車させるなど、危険であるのは明白である。

ただあの犯人の、その危険性についての認識が甘かったであろうことは容易に想像できる。 「だから酌量すべきある」と言っているのではない。 むしろ危険性を認識しつつやっていた方が、望みは薄いながらも更正の余地を残しているとすら言える。 ここで言う認識の甘さとは、即ち頭の悪さである。

私は彼を、一般的なイメージとしての「悪人」であると言うより、「頭の弱い人」なのではないかと疑っている。 まあ悪人とは大体頭の悪い人で、脳の言語関係を司るある機能の形成不全によって出来上がる。

良心感覚すら体感出来ない脳の状態なのだから、それはある面で評価するなら頭が悪いとしか言いようが無い。 そしてその頭の悪い人、こそが、詰まるところは我々人類の最大の敵なのである。 現にあのように、市民社会に牙を剥いてくるではないか。


12/14(金)

方法論(Method)について。 あまりに物事が分からない人と言うのは、自分なりの方法論を持たないのではないか。 それさえあれば、物事は自ずと見えてくるはずだ。

例えば西洋社会において、キリスト教とは一種の方法論であったろう。 キリスト教やそれに伴う神学論争、があったからこそ人間やその集団が発展し、文明と呼べるような高度な何事かを築けた。 日本人にだって無いことは無いのだろうけど、欧米人に比べると、やや希薄な感がある。

生存を至上の命令とするからとて地方公務員にでもなったような人は、確かに生存環境は磐石であろうが、そのままそれを定年まで勤め上げる彼は、生きていると言う現実感が持ちにくいのではないか。 だからきっとメシもうまくない。 方法論は、日々のメシをうまくする為にもある。

因みに、私にとっての方法論とは、言うまでもなく音楽である。 私は、音楽ごときに従属しているわけではない。方法論として採用しているだけ。 私は音楽を使っている。


話はやや逸れるが、私は太平記関連の本をある時期読み漁っていた。 太平記と言うのは鎌倉末期から室町初期のいわゆる南北朝時代を舞台とした軍記物語。物語なんだからつまりは文学作品で、厳密には史書ではないのだが、前近代の日本においては一種の(史書以上の)史書として扱われた。 広く膾炙した書物で、太平記の時代と言えば、一種の時代区分として通用する。

南北朝期には、史上かつてないほどに皇室の権威が低下した。 ばさら大名とか言われるものが登場したのもこの時期である。

ばさら大名の個人名を挙げると、高師直・土岐頼遠・佐々木道誉など。 どう言う人らであったかは調べて欲しいところだが、その種の人たちの振舞いは時代の空気に誘発されたものなのだろう。 人間は潜在的にはああ言う層を一定数含んでいるのだろうから、個々人の資質よりも、その人らをそこまで調子に乗らせてしまった環境の方に問題の本質はあると言える。 とにかく、ばさら達の振舞いは、皇室崇拝と日本人の道徳観念が直結していることを伺わせる。


天皇制度・皇室崇拝(あるいは単なる血統信仰)と言うのは、か細いながらもおそらくは日本人の一方法論で、皇室があるから尊崇するのではなく、尊崇の対象を作らねば社会を律することができないから、(有無を言わせず尊崇せねばならない対象として)皇室が生まれたのではないか。 それは日本人の原理性に深く根差しているもので、だから天皇家の血筋が絶えたところで、きっと日本人はそれ様のものを作ってしまうはずだ。

実際歴史を通覧すれば、皇統なんて事実上何度も途絶えている。 天皇があったから崇拝したのではなく、崇拝の対象が必要だから天皇が生まれたのだろう。


12/11(火)

最近外付けハードディスクドライブを新調した。 それまで使ってたヤツの(おそらくコネクター部分の)調子が悪かったもので。

結局モノって壊れるから嫌だ。 私は音作りについても、ここ十年来、どうしても生楽器などを使わないといけないケースなどを除き、ほぼソフトウェアだけで完結させている。 できれば楽器も使わないようにして行きたい。 演奏って一種のスポーツだから、技術の維持にコストが掛かるし、若さに拠っている部分も大きいので。


12/10(月)

神田優花、先週録った音のチェックをしてました。 今回のは、歌い手本人の事前のイメージに近いものに仕上がっているらしい。

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事前のイメージに近いってのは実に喜ばしいことで、そうなってくるとモノ作りは面白くなってくる。 私なども、昔は頭の中では名曲が鳴っているのに、音にしてみたら「なんじゃコレは」みたいなケースが多かった。 今は当時に比べればかなり完成品に近いものをイメージできている。


12/9(日)

アスペルガー症候群の彼女を持った男性の、ほぼ実録のような漫画を(随分前に)読んだ。 まあ鼻糞ほじりながら見てるような気分だったが。 因みにアスペルガーは、圧倒的に男性により多く発症するので、女性のアスペルガーは割りと珍しい。 男性の脳の方が、ハードウェアとして磐石で無いからだろう。

二人はコミケだったかSNSだったか、そう言うのを介して知り合ったらしい。出会いの場が職場や学校などでないと言うこと。 で、男性の方が声を掛けて付き合うようになったのだが、その女性、付き合ってみると色々とおかしい。 最終的に男性は、その異常性がアスペルガー症候群に因ることを突き止め、対策を講じるに至る。そう言う内容。

本は、男性の彼女に対する愛の言葉で締められているのだけど、全く私はその話に美を感じない。

モテない男が運良く女と言う収穫物を得られたのだが、どうもそれに不具合がある(不具合があるからこそ他が手を付けてなかったのだろう)。 不具合は自分にとっても快いものではないが、相手の側には自分への恋愛感情が存在せず、あまり面倒なことを言うと縁を切られてしまう。 だから、関係を壊さずその腫れ物に触る為の策を身に付けた。 要約すればそう言う話。

「恋愛感情が存在しない」と言うのは、別に貶しているのではない。 アスペルガーと言うのはそう言うものなのである。愛などと言う機微を持てない脳の状態であると言うこと。これは医学的な定説とも抵触しない筈。 「そうでない」と言い出したら、それはアスペルガーではなくなる。

女性の側に男性への恋愛感情が存在せず、また男性の方にも、女性への恋愛感情など本質としては存在しない。 男性は、女性の持つ異常性に少々目を瞑りさえすれば、彼女と言う成果物を失わずに済むから当面我慢している。 そして、その我慢を愛だとか偽証している。 しかし彼は、本当の我が心の在り様を、自分自身に説明することさえできない。

結局、物事を見え難くするのが私(わたくし)であることを、その漫画は物語っている。 私に因る欠乏感が邪魔をする余り、平明な感覚を持ってすれば見えた筈の何かが、彼には見えなくなっていた。 美しくないものを美しいとすれば、人は必ずそのツケを払わされる。 彼の努力は要するにここで言うツケだ。


12/8(土)

もう結構前の話だが、現総理大臣が、ある閣僚が自殺したことを受けて「慙愧に堪えない」と言っていたことを思い出した。 どう言う意味か。

自殺した大臣は、要するに汚職がバレて、その追求に耐えられず、逃げるように自ら命を絶った。説明責任すら果たさない卑怯者である。 自殺した彼を「侍」だとか賞していた愚か者がいたが、全くもって実態とは乖離している。 私は侍何たるかもよく分かってないが、本当の侍が聞いたら怒りそうな気さえする。

話は逸れるんだけど、「死者を悪く言うな」と言う風潮は、そろそろ何とかならないものか。 死んだ人でも悪いものは悪い。 悪を悪とせねば、後世に悪影響を及ぼす。 ましてや上の大臣など、死んだ理由まで悪い。 因みに私は、事件を起こす前の、その人の雰囲気を初めて見た瞬間に、ある種の悪い予感がした。当たってしまったわけだけど。


話を戻す。 自らの内閣に、そのような卑劣漢を出してしまったわけだから、上司に当たる総理大臣がそれを「恥ずかしい」と感じることも論理的におかしくはない。 しかし「慙愧」を恥ずかしいと言う意味で使ったろうか。怪しい気がする。

音が通じることから、慙愧を「残念」と言う意味で使ってやしないか、と私はちょっと疑っている。 ただ、慙愧でも意味は通じる為、誤用とは言えない。


12/7(金)

ある人が、子供の泣き声に寛容でない現代の日本社会、を嘆いていたそうな。 嘆かわしいほどに日本人は狭量であろうか。

物事って、できるだけ細分化して捉えるべきだと思う。 日本人が寛容でないのは、子供の泣き声に対してか、あるいはそれを防ぐべく努力しない親に対してか。 大抵は後者だろう。

我が子と言う、ある種制御不能なものが、周囲にどうしても迷惑を掛けてしまうことについて、心を痛める者と、それを当然の権利だとして居直る者がいれば、後者のメンタリティーは憎まれて当然だろう。


セブンイレブンが、フランチャイジーに対し「店頭の灰皿を撤去するよう求めている」と言うニュースを目にした。 会社としては好ましくないと思っているみたいなのだが、フランチャイズのオーナーの中には別の考えを持つ者もいるのかもしれない。 確かにそれ撤去したら、ある層の客足が遠のくかもしれませんものね。

昨今、特に都市部では「路上喫煙」が条例などで禁止されているが、当然ながら誰しもがルールに従うわけではない。今でも路上喫煙者は後を絶たない。 私はそう言う人をよろしくないとは思うが、その一々に絡んで行って説教しようとまでは思わない。そんな余裕は無いから。

そんな私だが、社会の一員として、「歩きタバコを容認しない」と言う気分は捨てていない。 一々注意して回りこそしないが、いくら我が商売に利するとしても、その人らの為に灰皿を設置してはイカンと思うわけである。 私自身は非喫煙者だが、それとこれとは関係がない。


私は子供の泣き声くらいには寛容である。 子供なんてバカだし、動物だから騒いだりもするだろう。 だが、例えば「子供が既にそれなりの年齢なのに、相応の躾をしていない親」に対しては気分的に寛容であれない。 そこを不問に処すことが悪い前例となりそうな気がするからで、これは私の持っている共同体感覚である。 容認できないと言うより、容認すべきでない、と考えている。


12/6(木)

スパムメールって本当に減った。 一時期、スパムメールの存在が、ネットワーク社会・技術を根底から破壊してしまう(使用不可能にしてしまう)のではないかと懸念されていたらしいが、杞憂であったみたいだ。

以前全く同じことを述べたのだが、スパムメールも(機会費用含めて)タダじゃない。 送信するのにネットワークを介さねばならないから、プロバイダーに払う料金や(普通のプロバイダー経由でそんなもの送信すれば、即刻アカウント潰されるだろうが)、独自にサーバー立てるならそのコストも掛かる。 文面練るのも一仕事だし、送信するのも作業だ。 スクリプト組んだりするとしても、最低でもその労力は掛かる。 それよりも何よりも、フィッシングだとかそう言うもののスキーム作るのが大変だ。 本当にご苦労なことであった。

スパムメールが減った最大の理由は、取締りが厳しくなったから、とかではない。 「引っ掛かる人が少なくなったから」である。 フィッシングにしろ出会い系サイト・エロサイト等の広告にしろ、そこに金を落とす人がいて、ある循環が成立してなければ、スパムメールと言う一種の運動は絶えざるを得ない。

振り込め詐欺とかでもそうだけど、騙される人と言うのは、騙す者に利益を供与している、いわば資金源である。 騙される人がいるから詐欺師は後を絶たないし、騙される人がいなくなれば詐欺師は消滅する。 儲からないから。 儲ける為にやってるんだから当然だ。


元暴力団員が飲食店を開業した、とか言う話が(割りと美談として)ニュースで扱われていた。 因みに福岡県の話。

警察は、特に福岡県の暴力団を撲滅する為に、結構本気であるとか聞く。 警察庁は福岡県警の治安維持能力に懐疑的であったらしく、他所から大量の陣頭指揮官(いわば進駐軍)を連れてくる、と言うようなことまでしている。 また、単に暴力団員を摘発するだけでなく、暴力団に利益供与する人を取り締まる法律(条例?)だかをも施行したとか。 発想としては正しい。 ヤクザ業は、生存の手段なので、それが得策でない環境を作れば、粗方は雲散霧消する。

暴力団は得をする為の機構なのだから、それが得でなくなれば、大多数の構成員は食い物屋の大将にでも何にでも変わってしまう。

ヤクザ屋さんにとって、現代はやりづらい世だろうが、これを「最近は当局の締め付けが厳しい」などと一過性のものだと考えているのなら、多分それは間違っている。 時間は後戻りしないし、単純に循環したりもしない。

明治維新によって武士と言う階級が消えたように、今ヤクザと言う階級が消滅しかかっている。 私はこの現象を「市民の側があることに気が付いたから」起こったものだと考えている。 パチンコ屋や性風俗店が消滅しかかっていたり、消費者金融機関がほぼ廃業に近いほどの壊滅状態に陥ったことも、同じく人々があることに気付いたからだろう。

歴史の不可逆性と言うものは、ある人にとって実に難解らしい。 だから「別れても好きな人」なんて曲が出来上がる。「良かったあの頃」を構成している要素の複雑さ、それを理解できれば、それが容易に再結晶化できぬことも分かろうと言うものだ。

ただ、どんな時代も条件がそれを作っていたのだから、条件さえ揃えば再現できるのは間違いない。ある時間が再び訪れることはあり得ると私も思う。 ただ、時代に合わせて形を変える人、なんて実のところ存在していないも同然だ。


12/5(水)

ウチとしては初めての、フィーチャー物(ボーカル)のタイトルを来年早々に一つ出すんだけど、その納品作業中、表記のことで結構うるさく指示されてしまった。

フィーチャリングの「feat.〜」の表記、アーティスト名でなくトラック名に付記するものなんだと。そう言う仕様上の決まりがあるらしい。 初めて知った。 feat.〜の何某はパフォーマーなのだから、論理的にもアーティスト名に付記したくなりそうなものだが、ルールではそうなっていないらしい。 ちょっと気持ち悪いけど仕様なんで仕方ないですね。


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機序について。

複雑な計算問題などを解いていると、公式だとか解法の類を知ってるのと知らないのでは、仮に正答できるにしても、その正解を導き出す為に要する時間に雲泥の差があることが分かる。

1+1+1は3だが、掛け算を知ると1×3と言う形で、計算に掛かる時間を省略できる。 私は詳しくないけど、○○式の計算方法だとか、算盤の使い方だとかを知っている人は、それを知らない人とは違う計算の機序を持っていると言うことになる。 「1+2+3+4+5+6+7+8+9+10は?」と問われたら、普通の人は頭から順番に足し算をしてしまうだろうけど、ある方法を知っていれば、その人は「11×5=55」と瞬時に解を出せる。

私は暗算は苦手である。と言うか、やらないので苦手と感じることすらほぼ無い。 音楽はある面数学でもあるので、時に計算が必要になるのだが、都度電卓を使う。 以前16平均律を使った曲を書いたが、関数電卓無しでそれを完成させることは、出来たとしても大変な時間と労力を要したろう。 「電卓を使う」と言うのも、私が採用している機序である。


12/4(火)

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神田優花、新曲のレコーディング。 今回録ったのとは別の曲なんだけど、来年早々のシングルのリリースが決まってます。 今度はジャズ。お楽しみに。 先月リリースの「Garden Of Thorns」、引き続き販売中です。こちらもよろしく。




12/3(月)

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人間の良心について考えている時間が長い。 最近、悪人について列伝の形で書かれた本を読んでいた。 初見ではなく、今まで何度読んだか分からないくらい繰り返し読んでいるもの。 列伝ものって、概括的・要約的であるから読みやすくて良い。 史記の列伝とかも面白い。

で、その本、いわゆる暴君と言った人から、奸吏・汚吏の類だとか、あるいは詐欺師や殺人者と言った単なる犯罪者まで、古今の悪人を綴っている。 結局人類の歴史が、一部の良心不在者とその他大多数の普通人との鬩ぎ合いであったことが確信できる。

読んだ上での率直な感想は、つまるところ人間社会に生息する悪人は、ほぼ余すところなく精神病質・パーソナリティー障害の類であると言うこと。 医者に見せれば一目瞭然だろう。と言うか、直に見せなくても、その人らの事績を医者に説明しただけで診断可能だろうと思う。

仮に病名まで付かない(いわば軽度の)ケースであるにしろ、その人格的特徴が良心の欠如と言う脳機能に原因がある点については変わらない。 世界は、良心(人間)とそうでないものとの戦いであったし、今でもそうである。 「そうでないもの」には病気・災害・天変地異の類だって当然含まれる。


人間と言う生き物は、ある程度の割合で、良心感覚の希薄な、あるいは欠如した個体を生み出してしまう。 それにある環境を与えたら、彼はいわゆる悪人として名を残してしまう。 現代の凶悪犯罪者などもこう言うメカニズムで生まれている。

環境を与えさえしなければ、彼は割かし大人しくしている。 単に悪を発動する隙が無いから。 だから大多数のまともな人が、その環境作りに注力せねばならない。これも社会規範の為。 彼らは、本質的に良心に欠けているのだから、環境さえ与えれば容易に悪に転びうる。我々に出来ることは、とりあえず騙されないこと。


12/2(日)

「見損なう」と言う動詞がある。 「あなたを見損なった」とか言う風に使う。

これは「あなたに失望した」とかそう言う意味を含むから、時間軸上の現在に掛かっていると思われがちのような気がする。 無論違う。 見損なっていたのだから、見損なったのは過去である。 私は無いモノを在ると錯覚していた、と言う意味で、ある時点での自らの判断を指している。

この世界の全ては自分の責任である。 騙されたことだってそう。信ずべからざる人物を信じた自身の判断の甘さは、自らの責任に帰す。 他人のせいにできることなんて実は無いんです。


12/1(土)

普段よく使うスーパーで惣菜を買ったら、使い捨ての箸が付いてくるのだが、それがいわゆる「割り箸」でない。 以前はタダの割り箸だったのだが、わざわざモデルチェンジしてやがる。

どういうものに変わったかと言うと、長い円柱状の棒が、二本一組でパッケージングされている。箸の断面が(四角でなく)円になると言うこと。 割り箸のように角が無いので、机の上だとか茶碗の縁などに置きにくい。置くと転がる。 昔、鉛筆にも同じような形状のものがあって、似た不便を感じたことがある。 箸だって地味にではあるが不便である。

私は、物事に人知を感じる時に安堵を覚える。 例えば寿司にワサビが入っているだけでも、「このコンビネーションを絶妙だと感じた誰かがいるのだろう」と、人肌の温もりのようなものを感じてしまう。 私が芸術を愛して止まない理由もそこにある。

全く同じ意味で、上の箸のようなものに遭遇した際には「ここには人知が介在していないのか?」と不安になる。 私が思うのは「これの導入を決めた人、あるいはこの箸を発案した人は、実際にこれを使ってみたのだろうか」と言うこと。 通常人の感性さえあれば、使えばその不便さにもすぐ気付くはずだろう。


11/30(金)

韓国の徴用工問題、また新たな判決が出たっぽい。 当然のように日本企業に賠償を命じるもの。

私は韓国の司法制度について詳しいわけじゃないが、最高裁判決が出た後なんだから、それは判例として踏襲されるだろう。 今後次々に起こるであろう同様の訴訟について、日本側が全敗することを意味してもいる。


日本と韓国は、かつては一つだった。 そのことについて、歴史的評価は色々だし、併合当時にも(どちらの側にも)賛否両論あったが、まあ概ね平和裏に一つの国になった。

戦後、日本は独立した韓国に、日韓基本条約を含む数々の経済・技術支援を行ったし、両国はワールドカップの共催なんて空前絶後のこともやった。 民間でもK-POPの隆盛とか、韓流ドラマのヒットなんかは記憶に新しい。

今の日韓両国の決裂は、ほぼ修復不能な段階にある。 韓国は、日本人の心に拭い難い不信感を刻み付けた。これは賠償金云々なんて言う小さな話ではない。

政治家の弱腰に憤る日本国民の声は大きいが、むしろ交渉の矢面に立つ彼ら政治家の方が、韓国人と言う民族の本質に濃厚に触れ、彼らを痛いほど知っている。感想を野放図に口にしないだけ。 両国の決裂を望むのであれば、あなたに心配は要らない。 望まないのであれば、かけてあげられる言葉も無い。

「一般に人は、金を貸すのを断ることによって友を失わず、金を貸すことによって友を失う」。 ドイツの哲学者、ショーペンハウエルの言葉である。 私は、そこで失われる友とは、本当の友でなく「友と錯覚した何か」だと思うけどね。


11/29(木)

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神が存在するのなら、何故この地上に不運・不幸があるのか。 マザー・テレサの死後、彼女の遺品を整理していたら「神の不在」を嘆く自筆の文章が見付かったとか聞いた。 本当に神はいないのか。

「あんなに善い人があんな不幸に見舞われるなんて、神も仏もない」と、この世界を疑わしく思う人はいるだろう。 でも、神に召されたその人が、その時にその場所で神に召されたことには、実はその時点では誰にも気付けなかった、大きな意味があるのかもしれない。

私は、公平に見て、(親兄弟と言った)家族の人格には恵まれなかった。 欺瞞的総括のできない私は、率直にそう思う。 ただし、その事実を恨み事として捉えてはいない。 生まれついた家庭など、私の選択に因るものでなし、籤で外れを引いた程度のものだ。

しかしながら、それが外れであったこと、は紛れも無い事実で、何故そう言う不幸が我が身に降りかかったのか、その事実から私は何を導き出すべきなのか、には一考の価値があると思っている。

もし、愛の溢れる幸福な家庭に生まれついていたら、私は今ここにいないかもしれない。 愛や執着は何かと足枷にはなるもので、釈迦が我が子をラーフラと名付けたのも、つまりはそう言う気分であったろうと推察できる。

つまり、とりあえず降りかかった不運・不幸とは、それを奇貨とし、何かに変える為にある。 敗戦による禍害が深刻だった日本だが、そのお陰でこんにちのような民主的社会を築けた面も確実にあるではないか。 恋人にフラれたとか、試験に落ちたとか、それら不運・不幸そのものより、それらのお陰で得られた何かの価値こそを、我々は見詰めるべきなのではないか。

大切なものを無くした我々にできることは、その不運をヒントに、今を精一杯生きることだけ。 不幸を僥倖に変えてみせられるか、それこそが神が我々に与えた試練・受難なのだろうと思う。

降りかかった不幸とは、それがなければ得られたであろう小さな利得などより遥かに巨大な、「未来に得るであろう何か」の為にある。 そこに気付けるか、それが得られるかどうか、我々は試されている。 神はきっと存在する。


11/28(水)

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埼玉県川口市(川口駅前)に「イート川口」と言う商業ビルがある。 モノが少々古いからか、オフィシャルHPすら無いのだが、駅前の好立地で、規模こそ小さいながらも、立ち上げ時には割かしビッグ・プロジェクトだったのではないかと察せられる。 私が思いを馳せていたのは、そのネーミングについてである。

イート川口の「イート」は、先ずはおそらく「eat」のことで、ビルにはレストランフロアが複数階ある。 更には「イート」の音は1(イ)・1(イ)・10(ト)に通じる。 つまり、1110の数字が漢字の川口に似通っていること(川・口≒111・0)、も命名の由来になっているらしい。ロゴなどを見る限りそのようだ。

中々に秀逸なネーミングで、考えた人はそれなりに熟考したのではないかと想像するが、あまりそこに感動する人はいなそうだ。 実際私がその出色性について熱弁・力説しても、周囲からのはかばかしいリアクションは得られない。 少なくとも数分で思い付いたような名前じゃないのに。

誰が考えたか知らないが、「イート川口」の名称は、一種の傑作である。 しかし顧みられない。 世の中って往々にしてこう言うことがあったりする。 誰だか知らないけど、思い付いた誰かよ、この私はそれが傑作であることに気付いているぞ。


11/27(火)

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悟りとは何なのか。 解脱について考えていた。 麻原彰晃は最終解脱者を自称していたようだが、解脱の意味を分かっていたのだろうか。少なくとも彼なりの解釈くらいはあったろうか。

ある時期の鮎は、餌を確保する為にナワバリを形成する。 そこに別の個体が近づくと全力で体当たりするのだが、その習性を利用する形で「友釣り」と言う釣法が生まれた。 とにかく鮎社会は、強い個体が生き残れるように設計されている。

最近ある不良漫画を読んだ。 読んだと言っても買って熟読したわけではなく、ホンの数十ページ、流すように試し読みしただけだが、内容は作者の実体験に基づく話らしく、平成の時代劇と考えれば読めなくもない。

作者の経験に基づく話なので、ある意味リアルで、読んでいて「如何様にして不良少年が形成されて行くのか」がありありと分かる。

子供の頃いじめられっ子だった主人公は、ある日喧嘩に勝つことによって周囲から一目置かれるようになる。 そしてそのまま不良街道を驀進して行く。

強ければ強いほど、悪ければ悪いほど得をするのだから、彼の凶暴化には歯止めが掛からない。 生物はその原理として、効率の良い収奪法を採用する。 物乞いが物を乞うように、彼はカツアゲと称した収奪・恐喝行為を繰り返す。

つまり彼は、暴力によって「得」をした。 周囲からの注目を集め、丁重に扱われ、行動の制限も受けず、金も女も手に入れた。 今その暴力を発動しないのは、環境が変わり、それが得策でなくなったから。 それにしたって、今でもその武勇伝を語ることによって、いくばくかの収入を得ているわけで、ある人にとって不良人生は、まことに効率が良い。

不良が特有の髪形や服装で自己主張をするのは、要は威嚇の為である。 その威嚇は収奪の為のもの。 だから、女性が露出度の高い服で誘惑するのと本質において変わらない。 奪う者も乞う者も、対象に依存している点で同じなのだ。

得をするため不良少年やヤクザになった者は、ある別の条件下に置かれれば、きっと物乞いになったろう。


東京の女子高生や女子大生と話していると、彼女らは当たり前のように「偏差値の高い大学に行きたい」だとか、自慢げに「慶応の学生と付き合っている」だのと言う。同時にヤンキーを「怖い」などと言うが、その「怖い」には「ダサい」と言うニュアンスが濃厚に感じ取れる。 これはこれで如何なものかと思うが、要するにこの地域では、不良が得をしない。 むしろ生き難いから数も減る一方だ。

捕鯨の禁止が生態系の破壊に繋がっているのではないかと言われている。 海洋の食物連鎖のほぼ頂点に位置する生き物のみを捕獲せず、他の(下位にいる)生き物を捕獲するのだから、生態系が乱れないとは考えにくい。 捕獲をする人類も生態系の一部なのだが、それがある思想によって「特定の生物だけ捕獲しない」と言う不自然な行動を取れば、それは当然何らかの影響を生むだろう。

ライオンが個体数を爆発的に増やせば、食われる草食動物は激減するだろう。 餌である草食動物が減り続ければ、ライオンはいずれはある個体数を維持できなくなる。

ライオンが絶滅すれば、とりあえず草食動物は個体数を増やすだろう。 ライオンに準ずる位置を占める動物は、かつてライオンが占めていたニッチに収斂するだろう。 増え過ぎた草食動物が、餌である草を食い荒らせば、爆発的に増えたその個体数を維持できなくもなる。

ライオンに生まれたから肉を食い、シマウマに生まれたから草を食う。 これは生存の原理に支配された行動で、そこに意志は含まれていない。 ヤクザや不良少年を目障りだと思うなら、取り締まることよりも、彼らが「その態様を為すことによって得をする環境」の方を根絶やしにする方が望む効果は得られる。

魚は汽水域だとか、単なる水の落ち込みだとかに群がる。 その習性を生物学用語で走流性とか言うんだけど、その習性も、要は「流れに向かって行けば餌にありつける」からこそ備わったのであろう。 つまりこれも条件に根差している。 条件が無ければ魚は雲散霧消する。

生ゴミに虫が沸いたなら、殺虫剤を撒くより、まず「その生ゴミを処分しろ」と言っている。 それがなければ、きっと虫はいなくなる。


「俺は喧嘩が強いんだ」と言う人が不良になる。 身体能力と言う所与の条件から、もっとも効率の良い収奪法を選んだ結果そうなった。 彼はとりあえずライオンだが、条件が違えばハイエナに、あるいは羊になったに違いない。

世に言う勝敗と言うのは、基準が生み出した錯覚のようなもの。 学歴にしろ喧嘩の強さにしろ、それらのカーストは条件によって生まれている。 ある基準における勝者も敗者も、彼らは常にその条件に支配される。 彼が輪廻の中で生まれ変わるとしても、都度持たされた条件によって、生存に有利な行動を採らされ、とある役割を演じさせられるだけ。

この世界は、その生態系だとか食物連鎖だとか言う、巨大な輪廻の中にある。 各種の保存則・特殊相対性理論なんてのも、要はこの輪廻を説明するものだ。

あるカーストに生まれついた者が、それとして相応の時間を全うするだけであるのなら、彼に個性など無い。 もっと言えば、彼など存在しない。 「喧嘩が強かったから不良になった」と言うのは、余すところなくその輪廻に取り込まれた現象で、私が不良少年に個性と言った面白味を感じない所以もそこにある。

仏陀の説くように、逃れられない輪廻の中から抜け出すことが解脱であるのなら、それは即ち意思を持つことではないのか。 腹を空かした私がメシを食いたくなるのは、生物としての生存原理に過ぎないが、私が音楽を好きであること、これは意志である。 この意志こそが所与の条件などに左右されない私の本質であり、永遠であるもの。


11/26(月)

割りと最近、商業施設のフードコートみたいなところに行った時に見た光景とその感想。

子連れの夫婦が席に座っているのだが、持参のベビーカーの取っ手の部分が通路にせり出している。 狭い通路なので、そこを通行する人はにとっては邪魔なのだが、身をよじれば通れないこともないので、とりあえず誰も文句を言わない。

幾人もがそこを窮屈そうに通るのだが、その夫婦は一向にそれを意に介さない。 動く物体としては通行者が視界に入ったりしている筈だが、その人らの「心」が現実に映りこまないらしい。 因みにその夫婦の夫人の方、どうやら身重と見えて、おそらくじきに次の子ができる。

普通の人は「子供を作るとベビーカーなどが必要で、ベビーカーなんてかさばる物を持って外に出れば、何かにつけ置き場所などに難儀する」と言う、当たり前の想像が働く。 だから子作りにも躊躇してしまう。 「迷惑している周囲」を映さない心の持ち主であれば、そんな心労も感じない。 従って、次から次に平然と子を産める。 子供なんて、メシ食わしとけば良いだけの愛玩動物なのだから。


その手の無配慮な人たちこそが次々と子を作り、それに心労を感じる人は子を作らない、のだとすれば、この社会の未来は暗いのではないか、と思ったりした。 が、そうでもないのかもしれない。 多分この種の配慮は、遺伝的要因と言うより、環境によって培われている。 だから、普通程度の知能があれば、大抵の人はソツなく収斂して行く。 親がアホでも、子供の方で勝手に何かを覚えて行く。

それよりも、何かにつけ過敏な人が子を作り、その世界観でもって子を育て、またその子が更なる神経質となること、の方が問題であるのかもしれない。 きっとそう言う集団は弱る。


11/25(日)

Youtube Musicってのが、サービスを開始しているらしい。見てないけどウチの楽曲も扱われているはず。 プレスリリースみたいなのが届いてたんで、少し前からスタートするってのは知ってたけど、詳しいサービス内容とか(いまだに)理解してない。

確か独自ブラウザみたいなのは無くて、普通にYoutube見る感覚で音楽聴けるとか聞いた。 目まぐるしいネット界において、Youtubeの息が長い理由の一つに、独自ブラウザを導入しなかったことはあろう。 それで良いと思う。

Spotifyとかまさにその独自ブラウザ型なんだけど、日本でのローンチに失敗している感がある。 あんましアカウント取れてなさそうだし、聴いてても広告が自社のものばかり。出稿もあんまし取れてなさそう。 一応世界標準と言って良いサービスの筈なんだけど。

独自ブラウザの方がユーザーを囲い込めるとか思うのかもしれないけど、それが新規顧客獲得のネックになっているんだろうし、ちょっと飽きてきたら、ブラウザ立ち上げることすらなくなるので、ユーザーはアクセスを一切しなくなる。

持論なんだが、音楽は消費のスタイルが定まっていないところが問題であると思う。 単曲買いでもサブスクリプションでもストリーミング(フリーアカウントに広告載せるタイプなども含んだ)でも良いから、一般的な音楽消費のスタイルが確立しないものかと望みます。 もう少し時間掛かるんだろうか。


11/24(土)

誰にでも好かれる人こそが君子であるのか。そんな筈はない。 無論誰にでも嫌われる人が良いなんてことも、それはそれで無い。

我々はどういう人であるべきなのか。 それは、ある人には好かれ(友とするに相応しい人と見做され)、またある人は嫌われる(嫌われることを恐れない)人。 これ以上の人はいないと思う。私はそうありたい。


11/23(金)

ストックホルム・シンドロームって御存知だろうか。 特別知る人ぞ知ると言うような言葉ではないと思うので、聞いたことある人も多いと思うのだが、掻い摘んで言うと「人質などが、自らを拘束する暴漢の方を好意的に捉え出す」逆転現象のこと。 心理学で言う反動形成などと深い関連性があるものと思われる。

暴漢と人質のような特殊なケースだけでなく、類例は日常の中にも無数に出来していて、病識のようなものさえあれば、遭遇すればすぐにそれと気付けるはずだ。 人間には、受け入れ難い苦痛を、自ら望んだものとすることによって浄化しようとする性質があるらしい。 反射的な防御なのだろうと思われるが、ある種の合理的行動ではある。

結局人は、抵抗の拠点としての自己を確立し、認識力を持たねば、ラマチャンドランの言うゾンビだとか、カント哲学などで言う傾向性に抗えず、人生を支配されてしまう。 結果、自らの生存を脅かすような対象に、好意をもって擦り寄ってしまうことさえあると言う。

脅威でしかないものを理知的に排除しようとすることと、それを好意的に受け止めること、どちらも自らの生存に有利な方法を選択しているだけなのだろうけど、後者の姑息な感は否めない。 総合的に見て、後者の方がより得策であるのなら、人には意思など備わらなかったはずだ。


11/22(木)

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蚊取り線香の匂いを嗅ぐと「ここには蚊が出るらしい」と直感するが故に、ほとんど反射的に嫌な気分が沸き起こる、と言っていた人がいた。 蚊取り線香は蚊を退治する為の道具である。それがなければ蚊が猖獗してしまうからこそ焚いていると言うに。

トイレの芳香剤は便所の悪臭を防ぐ為のものだが、あの匂いに便所を連想する人は多かろう。 ゲートボールは「年寄りのスポーツ」と言う負のイメージが固定化された為、ある世代以降の人が敬遠し、競技人口が激減していると言う。

非人と言うものは、死を扱えることから周囲に畏敬の念を抱かせた存在であるのだが、後にその死穢が遠因となり、差別の対象となったと言う。 警察のような組織が一種の「汚れ仕事」と見做されるのも構造としてはほぼ同じ。罪穢を扱うからだろう。

こう言うイメージ(あるいはそれを指す言葉)の逆転現象って、無数に見られる。 よく言われる「素晴らしい」とか「恥ずかしい」と言う言葉の指す気分が昔と今では180度違う、などと言う現象も、「ない」の用法の変化も、要するにこの逆転現象に由来する部分があるかと思われる。

別に結論めいたことも無い話なのだけど、ふと思ったことなので文章化した。


11/21(水)

黒人は肌が黒い。 黒人になったことが無いのでよく分からない部分もあるが、黒は光を吸収する色なので、炎天下ではおそらく「暑い」。 どうして北方に白人がおり、南方に黒人がいるのか、私には分からない。

同じく西洋人の鼻は高い。 寒冷地にいて鼻が高ければ、鼻腔に冷気が入り込むだろうから、構造的に具合が悪かろうと思うが、実際そのようである。 これらには、私が知らないだけで理由と言うか、医学的・生物学的な定説があるのかもしれない。

しかし学説・定説と言うのは、目の前の事象に思いつく根拠を付会しただけのもので、それが本当の理由であるかは誰にも分からない。 どんな理屈をこねようと、出来した事実には敵わない。

神の視座をもってすれば、間尺に合わないことなど無い筈だ。 あなたが傷付いたことも、そこには何らかの意味がある。 それはきっと、何かを為す遠因となっている。

森羅万象は不合理でない。この合理性こそが神の力かと思われる。 一見不合理に見えることも、実はそこに何らかの意味が隠されている。だから意味の無いことなんて無い。


11/20(火)

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韓国との例の徴用工問題、続報を仄聞して思うところを記す。

韓国政府の要人(首相だったか)が、日本の外務大臣の発言に苦言を呈した、とか言う報道があり、その件について見解を求められた大臣は「(コメントに対する更なるコメントは)ない」と答えたらしい。 彼らのような相手の御し方のツボを、実によく心得た御仁である。

練達の精神科医や心理学者などにとっては、何のことはない当たり前の対応だろうけど。 だからこそ私には、ブレインの存在を感じさせる。

ああ言う相手の発する非難の声明に、非難で応じるのは得策でないのである。 「取り付く島もない」と言う言葉があるが、憤慨のリアクションは、相手にその「取り付く島」を感じさせてしまう。 他者からの不興を買うことは、誰にとっても好ましいことではないが、相手から何かを毟り取りたい気分の人にとっては、主張を無視されるよりは反論されることの方がマシなのである。

「心が揺れること」、これは相手に収奪の余地を感じさせてしまう。だから今回のようなケースにおいては、事態を「非難の応酬」にしてはいけない。 反論は、一旦相手の主張を汲み取るが故に出るものである。言動を意に介さず、言い訳の一切に耳を貸さず、相手を揺るぎない悪と見做し、粛々と正義の鉄槌を下す、と言う「断行」の姿勢で臨まなければならない。

良心感覚の欠如に因って仕上がった人格にとっては、発言の真偽などは常にどうでも良く、その発言の「効果」こそが重要になる。 ウソを平気で吐く人の発言が、たまたま事実関係と合致する真実であること、などは普通にあるが、彼にとってその真実性は大した価値を持たない。


STAP細胞事件の彼女が、散々捏造やら狂言を繰り返した挙句、逃げられない局面にまで追い詰められ、最後に発した言葉が「何を言っても通らない」と言うものであったと言う話は印象的だった。

つまり、彼女にとって物事とは、策を弄して「通すもの」であったと言うことだ。 だから粉飾の限りを尽くした論文を作るし、時にウソを吐く。また時に、発言内容が事実関係に合致する場合もある。 効果こそが意味を持つし、それ以外に意味など無い。

「俯仰して天地に愧じぬ爽快さ」なんてものは、その人がそこに価値を感じるからこそあるもので、映す現実の違いによっては、そんなものありはしない。 期待するも愚かだ。


韓国人を悪く言いたいわけではないのだが、彼らへのあるべき対応と言うのは、パーソナリティー障害者に対してのそれと完全に一致している。 個人、あるいはその集合である国家においても、ある性質の特殊化と言うのは、一定の機序を持っていると言うことだろう。 だからこそ人格障害者には典型症例があり、対応法も確立されつつある。

異常・特殊化が、精神におけるものであったとしても、一般化できるからこそそれは病気なのであり、延いては治療法の確立にも繋がる。 理解さえすれば何のことはない。 今日本の政治家などに求められているのは、その理解だろう。


11/19(月)

カサンドラ症候群について考えていた。 カサンドラ症候群とは、アスペルガー症候群のパートナーを持ってしまった人の陥る、一種の精神障害のこと。 まるで一方的な被害者かのように語られているが、そんなことはない。 そんなパートナーを選んでしまうような精神を抱えているところに本質的な問題はある。

欠乏感と言うのは、何も物質面のみにおいて起こるものではない。 と言うか、むしろ如何なる欠乏感も精神が抱えるものだ。 私も欠乏そのものなんかより、欠乏感の方が余程に怖い。 それは美醜の感覚、延いては取捨選択の行動を狂わせるからだ。

自分に存在意義を見出せない人は、恋人や子供をしばしば作りたがる。 必要とされることによって存在意義を見出せるから。 街なかとかで、これ見よがしに イチャつくカップルとかいますですね。「自分が必要とされている」と言う絵を見せることによって存在意義を周囲に承認してもらおうとしているのである。 だから、そういう人であればあるほど、恋人の採用基準はある面で甘くなる。

欠乏感が強ければ強いほど、その人にとって恋人とは、収奪の余地をより多く残した存在となり、時にアスペルガーですら垂涎の的となる。 欠乏感に支配され、普通の人なら手を付けなかった物件に手を出してしまっているのだから、収奪の余地が尽きた時、それは強烈な反作用となって表面化する。 これがカサンドラ症候群の正体である。

存在意義が見出せない人が、存在意義を見出せない理由は、その人に貢献の気分が無いからである。 人を愛する感覚を持たず、何にも貢献する気が無いので、当然「自分は貢献した」と言う自負が持てない。 自分がこの世界に存在する意義を自らに説明できず、その人は常に気後れの中で生きることになる。 そして、いつしかその隠れ蓑を探し出すに至る。

自分が本気で誰かを応援したことがあるなら、その人は自分を必要とする誰かの存在を確信できるはずだ。 存在意義を自分に見出せない人は、紛い物で自らを糊塗・虚飾するでなく、一度で良いから貢献しようと思うべきである。 子を持ち、子を愛することで、初めて誰かの愛に気付けた人はいるはずだ。


11/18(日)

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徳川家康は旧主を殺し、前政権を簒奪した者である。 だからして徳川政権期(特に初期)には、その前政権の主である豊臣家を礼賛することは許されなかったし、例えば石田三成は極悪人とされた。 人類史には古今無数に類例の見られる現象である。

体制に正当性を持たせるには、前政権を悪とするのが手っ取り早い。 フランス革命では王(ルイ16世)がギロチンにかけられたし、殷周革命においても帝辛は悪王とされた。 今の朝鮮半島でも日帝は悪の象徴である。 有名なマリー・アントワネットの逸話類についても、多分に上の事情に因って生まれたものかと思われる。

しかしもし徳川幕府が、反豊臣を推奨する余り、それを掲げさえすればどのような背徳も容認するなどと言う態度を表明したら、きっと治安も道徳も崩壊したろう。 幕府がそんなに愚かでなかったからか、当時の日本人の性質によるものか不明だが、日本はそんなことにならなかった。

モラルの崩壊は、例えば経済の崩壊などより余程に恐るべきものだ。 ヨーロッパ文明がキリスト教的倫理観に支えられたことは疑いない。 人心が曇れば、社会など一望の焦土となる。


欧米人があれだけの文明を築けたことと、キリスト教的世界観が、無縁でないことは自明である。 宇宙に意志があり、人類はどこかに向かっているとする感覚が、文明を、延いては彼らの共同体感覚を支えている。

唯物論と言うものがある。神はいないとする。 アニミズムのような土俗的信仰の対象としての神と一神教徒の言うGodは同じではない。 前者のことを指すなら、私だって神はいないと思うが、宇宙の意志と言うか力学のようなものならあると思う。 そう言わざるを得ない。そうでないなら何故この宇宙が存在するのか、何故我々が存在するのか、進化とは何なのか、全くもって説明できない。

日本の停滞の理由を一言で言うなら、神の不在だろう。 どこに向かっているのか分からず、従って進むべき方向も進みたいと言う意志も持てない。

東アジアの国々を見渡しての感想だが、聖書もマックス・ウェーバーも持たない日本が、こんにち程度の道徳的社会を築けたことの方が奇跡なのかもしれない。 まあだからと言って堕落が許されるわけでもないが。

とにかく神は存在するのだから、要らないものはきっと淘汰されて行きます。


11/17(土)

神田優花の最新アルバム「Garden Of Thorns」が今年中に無事発表できた。 ちょっと前には、正直今年中には無理かと思っていた。

リリースはめでたいことなんだけど、今後も従来と同じペースで作品を発表できるかは未だ不透明である。 私の体調がバランスを崩すことはありえるし、実際、現状でもかなりの頻度で検査を行っているのだが、数値の上下が結構激しく、安定しない。 あるラインを超えたら再入院もありえるし、発作が起これば命に関わる。

私は好きで音楽を続けているので、環境が悪化したからとて音楽作りをやめてしまう、なんてことは無い。 ただ、今後の状況如何によって、再生産の効率が低下することは(ごく自然に)ありえる。

これを読んでいる人がもし、我々を応援してくれているなら、我々の作る音楽を聴いてやってください。それだけで良い。 買って(金を落として)くれればそれに越したことはなく、我々へも還元されるだろうけど、別に聴き続けてくれるだけでも良い。 聴いている人さえいるなら、それはきっと何かを生みます。





私に「湿度」は存在しなかった。 考えたこともなかったので、例えば天候を調べる際にも、その日の湿度など気にも留めなかったし、誰かに「今日はジメジメと湿度が高い」とか「この部屋は乾燥し過ぎている」とか言われても、ピンと来なかった。

無論、身体はphysical・materialなものである。 私が気にしようがしまいが、湿度と言うのは厳然と存在していたわけで、例えばそれが理由で風邪を引いたりしたことなどもあったのではないかと思われるが、湿度は私の世界観には一切の影響を及ぼさなかった。 だから本当に、私の映す現実に湿度は存在しなかった。

今は違う。周囲に言われることなどによって湿度の存在に気付いてしまい、嫌でもそれを感じずにいられなくなってしまった。 因みにこの変化(成長?)は不可逆的なもので、一旦それを感じるようになってしまった私が、以前のように、それを感じない日々を送ることは不可能である。


11/16(金)

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現外務大臣について。 戦後の日本の政治家では、前例が思い当たらないほどに韓国に対して強硬且つ理性的な人である。 今までも、外国(特に支那・朝鮮)に対して威勢の良い発言を繰り返すことで、一定の支持を集めていたような政治家はいた。 ただ、基本的にガス抜きと言うか、一部の人らの溜飲を下げると言う役割でしかなかったので、例えばその人が政府の要職に就くとか、そういう事態は見られなかった。

大臣のお父さんは、慰安婦についての談話を発表したことで有名な御仁である。 ある意味寸借詐欺に騙されたような気の毒な人なんだが、その後慰安婦問題が加熱してきた際、ほとんど国賊のような扱いを受ける。 私も、その人には悪いが、後世売国奴として名を残すことは避けられそうにないと思ってしまう。

そんな人物の息子が外務大臣になると決まった時、不吉な予感がした日本人は多かったろうと思う。 ところがその予感は(きっと多くの人にとって良い意味で)裏切られた。 何故なのか、私に断言はできないが、仮説のようなものならある。

「売国奴の子」として非難に晒され続けてきたであろうことが想像に難くない彼なのだから、逆の形で態度を硬化させることだってありえたろうと思う。 「親父は悪くない」と、むしろ一部の世論を真っ向から敵視し出すことだってありえたが、歴史はそうはならなかった。 むしろ彼の置かれた環境は、彼に「親父の汚名を雪がんとする意志」、延いては「親父の汚名の原因となった相手に対する憎悪」を培わせたのではないか。

善悪の話はさておき、私は彼の行動を合理的だと(無論善だとも)感じる。 そして、そういう思考法ができる人なのだから、まあ朝鮮人的価値観とは相容れないだろう、とも当然のように思う。 つまり韓国は、ある相手からの、回復不能と言って良いほどの決定的な不信感を買ってしまっている。 このこと一つを取ってみても、韓国人の所業がその場凌ぎの姑息的なものでしかなく、長い目で見れば得策でないことは疑いなく思える。

本当に日韓関係の未来は暗いと言えるが、不利益を被るのは圧倒的に韓国側であろう。 私は、経済力の優位性とかそう言う話をしているわけじゃない。 韓国が「与える機微」を持たない以上、彼らにとって関係の断絶は、痛みでしかなかろうと言うこと。 縁を切られたらもう奪えない。


日本と韓国は、ワールドカップの共催と言う、史上前例のないことまでやったほどの関係である。 確かに浮世には「あんなに仲が良かった二人が決裂するだなんて」と言ったケースはしばしば見られる。 しかしそれは「仲が良かったのに」と言う逆接より「仲良く見えたりするから」と言う順接の方が当を得ている。 互いに一定の距離を保てる程度の理性すら持たなかったりするから、ある時は蜜月関係となり、ある時には決定的に関係を破綻させる。 宿命的なものだから致し方ない。 相手を冷静に理解する程度の知性があれば、破綻以前に、そもそもの蜜月関係が存在しなかった。

今後日韓関係は取り返しのつかないレベルにまで冷却化するだろうが、日本人がさして心配する必要はない。 「善隣友好が崩れれば、孤立してしまうのではないか」なんてのは杞憂である。 その杞憂は心の怯みが生む。 悪いものは悪い、嫌いなものは嫌い、とハッキリ言える者の方が結局は信頼される。

悪を容認する者は、ソイツ自身が悪の謗りを免れない。自分らが毅然としていれば、きっといずれはキチンとした友人ができます。 福沢諭吉はそんなにおかしなことを言ってない。


11/15(木)

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人は、その人の映す現実に従って生きている。 羞恥や信用と言うのは物質でなく、概念、あるいは論理なので、それを感じない人にとっては存在しない。 人はある概念を理解できない時、類似の代用品をもってしてそれとしてしまう。そうとしかしようがない。 執着を愛としたり、恭順を交友としたり、萎縮を羞恥としたり。 モノに対してなら解釈の違いなんてほぼ無いのにね。

愛と言う感覚を持たない人にとって、この世界に愛など存在しない。 誰かがその愛に因って与えてくれたプレゼントがあったとしても、それは単にプレゼントと言う物質に他ならない。 そこに込められた愛など存在しないのだから、彼はその愛に感謝し、返報するでなく、「もう一つ貰う方法」に腐心し出す。 その方法の一つとして、例えば「感謝したフリ」などは割りとしばしば見られるが、これは悪気でもない。

その態度は、まるで本物の感謝のようだから、愛と言う感覚を持って接する相手はそれに簡単に騙される。 人は自分を通して世界を見るからこれは当然で、愛あるが故の錯覚である以上、責めるわけにも行かない。

しかしその感謝のポーズは本当の意味での感謝ではなく、もう一つ貰う為の方便なのだから、効果が無いと見るや否や、彼の態度は一変する。

目先の金欲しさにある約束をした者に、信用と言う感覚が無かった場合、しばしばその約束は反故にされる。 そういう相手なのだから仕方ない。 反故にされた側の採りうる態度としては、粛々と法的措置などによって約束を履行させるだとか、あるいは金輪際関わらないだとか。 そういう自衛の為の判断が必要になる。 相手の改心を期待することは、即ちこの世界に対する依存なので、やめた方が良い。

先日の韓国による条約破りの一件、当事国以外でそれについて最も早く意見を表明した国のうちの一つが北朝鮮である。 それも日本を全面非難する(韓国を全面支持する)内容。 労働新聞だかの紙面に「我々も百倍・千倍の賠償金を受け取ってやる」と言うような意志表示が見られた。 恥ずかしくないらしい。 余談ながら、日本の明治新政府は、旧幕府のこさえた対外債務を継承し、完済した。 当時の日本人が信用に価値を置いたからかどうかは分からないが、結果信用に繋がったのは間違いない。

映している現実が違い過ぎること、これは即ち、その両者の間に共感が成立し難いことを意味している。 哲学的な話でなく、算術のような話。 共感すら成立しないのだから、友情など望むべくもない、と言うシンプルな結論に私は至ってしまう。 私は凡庸な、常識的な観測眼しか持てない詰まらない人だ。


日韓関係が悪化の一途を辿っていると言う。 こうなることは分かりきっていたが、今後更なる悪化も不可避であろう。 願望を交えず、平明な観測眼をもってすればある範囲での未来は見えなくもない。

信用と言うものは目に見えない。 だからそれを現実としない者にとっては、存在しないものである。 これは言い過ぎではない。 現代人のほとんどが、幼稚園児でさえ映し出す「金」と言う現実を、例えば魚は映さないからこそ、ミミズで彼らは釣れるのに札束では釣れない。

日本政府は、韓国の不当性を国際世論に訴えていくと言う。 まあ当面の処置としては妥当だろうし、私が政府でもそうすると思う。 ただ、それが功を奏して生まれた圧力によって、彼らが行動を慎むことはあっても、彼らを「約束を忠実に履行する、信用できる人々」に変えることは不可能だろう。

彼らがあのようである理由を概括的に言うなら「与える機微を持たないから」である。 与える気分が無いから、常に相手が「奪う対象」としてしか存在しない。 日本など奪う対象でしかないのだから、彼らの要求が止まることは未来永劫無い。 あれだけ反日を標榜しながら、決して彼らの方から国交断絶を切り出さないのはその傍証と言える。

日韓併合はいわゆる侵略ではない。 世界が承認した合法的併合で、歴史上標準的な植民地支配よりも同化政策に近かったのも事実(全くの同化では無論無いが)。 戦火を交えてなどいないのだから賠償の義務など生じる筈もなく、また韓国は日本の敗戦によって独立することになったが、戦勝国などでは無論無い。 むしろそれまで日本だったのだから敗戦国である(法的には第三国と言う扱いになっている)。

日本はその韓国に、経済協力金と言う名目で事実上の(本来払う必要のない巨額の)賠償金を支払った。 そこではその件が「最終的に解決したこと」も明記されている。 だから慰安婦問題などと言うのも、当然日韓基本条約の請求権に含まれると解釈すべきであるが、その慰安婦に民間基金を出し、仕舞いには政府が十億円の追い銭を払った。 情勢上止むを得なかったにせよ、日本はゴネ得に一役買ったと言える。 ついでに慰安婦は単なる売春婦である。売春婦が性奴隷に変わったように、募集に応じた単なる労働者は徴用工に変わった。 ゆすりの為の方便として。

相手は与える機微を持たない者なのだから、金を払っても許してくれるどころか、ますますもって「柔らかい土」だと見做され、執拗にぼじくられる。 一旦旨い汁を吸えたと言う記憶は忘じ難いらしく、彼らの要求は、少なくとも気分としては収まるところを知らない。

ロジカルにはどう考えたって、正面切った交渉をしても、これ以上の金をせしめることは出来そうにないから、韓国内の日本企業の資産を(国内法上)合法的に差し押さえると言う手段を採るつもりと見える。曰く「三権分立」だそうな。 浮気がバレた途端に「自分に正直に生きたい」とか言い出す人に似ている。 子供が言うような、理屈とも呼べないほどの自己正当化を平然とできてしまうのも、彼の心にに羞恥が存在しないからだ。 因みに、条約締結の主体たる「国家」には、当然司法府も含まれる。

しかし上の事実は、韓国が自ら、自国が信用に足る相手でなく、国家の体を為していないと言うことを世界に知らしめ、とりわけ日本国民に拭い難い不信感を植え付けた。 彼らは重大な一線を越えてしまったことにまだ気付いていないようだが、これまでもっとも旨い汁を吸わせてくれた相手を、とうとう食い潰してしまった。 私は、彼らが弱い民族であると確信する。何故なら行動が合理的でないから。 思考がマクロ的でないから。

今後日本の世論が韓国に対して甚だしく好意的に傾く、なんてことは考え難く、きっと政治の世界でも、北や韓国に強硬であればあるほどその政治家は支持を集めるようになる。 また韓国の為政者は、自らの正当性を主張する為に思い付いた方便である(多分に妄想による)「反日」を、制御不能なほどに増長させてしまっていて、最早鎮火することもできない。 自ら崖に向かって歩いているのだけど、誰も彼を止められない。 事実中国は今、反日世論に一種の警戒感すら抱いていて、押さえる方向に舵取りを変えつつある。 彼ら中国人が良い人だからではない。バカじゃないだけだろう。

私は、いわゆる嫌韓のような思想性を持つ人ではない。物事を学究的に見詰めたがる変な人なだけ。 現外務大臣の言動を見るだに、彼はああ言う輩の御し方を知っているように見える。専門のブレインでもいるのか、あるいは彼自身が何らかの確信を持っているのか。 あ、そう言えば外務大臣についても思うところがあったんだ。でも今日はこの辺で終わる。続きはまたの機会に。


11/14(水)

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神田優花、ニューアルバム「Garden Of Thorns」(全12曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Garden Of Thorns

今年最後のリリースになるのかな、
新しいアルバム出します!!
今回のアルバム、曲への取り組み方が少し変わってきたのを実感してた時期に録ったものばかりです。
思い返せば『感情』を 全面に出したレコーディングが多かった。
今までは、自分のイメージする情景なんかを思い浮かべながら歌うって感じだったけど、このアルバムの収録曲たちはもう一歩踏み込んでる。
Pandora、Gardenなんかは顕著で、溜め込んで凝縮させた感情を曲にぶつける、そんなレコーディングでした。
たぶん、自分のやりたいことを冷静に践んでいきながら、感情に身を任せるって余裕が、少しずつ持ててきてるってことかなーと。

この感情の波に一緒に飛び込んでほしい。
そんなアルバムが出来ました。
是非、聴いてください。

神田優花





11/13(火)

神田優花、明日発売の新作「Garden Of Thorns」(全12曲)、について。

今年の初め頃、私(制作担当・益田)は急病で入院し、ほぼ生死の境をさまよっていた。 今年の三月には、心臓が頻拍と言う痙攣を起こし、私は病院に救急搬送された。血圧を失い、仮死状態にまで陥ったのだが、電気的除細動によって心臓が鼓動を取り戻した。

今は退院しているが、「治った」なんてことはない。私に降りかかった症状はそんなに甘いものではなく、今も通院と大量の内服薬で何とか発作を起こさずに保っている。 今でもちょっとバランスを崩せば即再入院、ってことになるであろう状態で日々を過ごしている。 そんな私が、冗談でなく命がけで作ったアルバム(収録曲の三分の一くらいは、病院のベッドで原型を書いた)。 死ぬ前にこれ完成させられて本当に良かったと思う。


1.Miracle

アルバムの一曲目に入れようと思って、メチャクチャ古い曲を引っ張り出してきた。 多分原形は20年以上前に書いた。

元々バンド用途の曲だったんで当然バンドアレンジだったんだけど、この度アレンジについては微調整と言うか、かなり変えている。 楽器編成だけでなく、曲の進行とかメロディーとかも。結局半分くらい別の曲になった。

長い間寝かせていた曲なだけに、プロットはふんだんに盛り込まれている。 Bメロのブレイクにギターのリフが入ってくるところとか、サビのベースレスになる部分とか、スネア(スネアのタイミングで入ってくる打楽器音)の音とか、前々から温めていたイメージが詰まっている。 オープニングに相応しいナンバーだと思います。


2.Mean The World

比較的最近書いたと思う。 ある時期のJ-POPとかに雰囲気が近いものとかあるような気がするけど、特定の何かを下敷きにしたわけではない。

ギター以外はほぼシンセで作っていて、生楽器音は少ない。 ただ、バックに流れる効果音みたいなの、普通ならPad系のシンセとかで作りそうなものはギター(ハウリング)で作ってる。

今セッション類開いて見てるんだけど1コーラス目のみ移調している。何かそういうものが作ってみたかったんだろうか。我ながらあまり必然性のようなものは感じない。

リハーサルには割かし時間掛けたような気がするけど、正確な記録を見て言ってるわけじゃないのでよく分からない。 ボーカルは良く録れていると思う。サビのコーラスワークとか、事前の想定にかなり近いものが録れている。 最初からこの位置(アルバム収録曲)に持ってこようと思っていた曲です。


6.Perfect Songs

中国っぽい音楽を作ろうと思って。これの他にも同じような動機でいくつか作ったうちの一つ。

これは割りと揺るぎない持論なんだけど、体系としての中国音楽なんてのは存在していなくて、せいぜい中国楽器とか断片的な中国民謡くらいしかない。勿論そこに付随した若干の楽理・書法のようなものはあるわけだけど。 今回のこの曲にもその若干の楽理のようなものは採用させてもらっている。ある種のペンタトニックとかね。

楽器編成についてはPOPS的なものがほとんどで、途中のオブリガートに二胡の音を使ってるくらい。あと月琴の音もゼクエンツ(シーケンス)っぽい形で使ってる。 それ以外はシンセとかフレットレスベースとか、POPSっぽい。リズムにはインダストリアルノイズみたいなのを使ってる。

曲はごく普通のPOPSと言うか和声音楽と言うか。 ベースのフレーズに微分音が頻出しているけど、ちょっと変わったところと言えばそれくらい。


以上の三曲以外は先行シングルと基本的に同一バージョンです。





11/12(月)

人間の頭の良し悪しは測り難い。 如何なる基準をもって測るのか、誰にも本来決められない。 ただ、「思考力」と言うものが人類の進化を支える重要な要素であったことは、ほぼ間違いなさそうである。

学力と言うものは、その基準を一部の人間(文部科学省、一部の学者・教育者など)がこさえたものである。 無論全く無根拠なわけではなく、ある分野における適性を測るベンチマークとしてはそれなりに機能しているのだが、勿論万全とは言えず、今でも改良の余地は多いとされている。 ただ、文科省の役人は、現行の学力判定制度における勝者なのだから、そこに抜本的な改革を加えるに適した人材でなく、だから例えば日本の英語教育は百年かけても実用性を伴わない。

数学と言う教科がある。 国語や英語などと共に、各教科中でも最も重要視されているものの一つである。 だが、それには思考力があまり問われない。 本来数学者になるような人とか、少なくとも理数に進む人以外に必要ないであろう内容まで、例えば高校数学には含まれている。

高度とされる数学には、おそらくは言語と干渉する部分があり、この基準で優劣をフィルタリングすることは危険ですらあると思うのだが、私のこの認識は、世間では全く共有されていないようだ。 また、数学に限らず、言語的な思考に拠らない全ての学力は、無価値とまで言わぬまでも、人間の優位性を保証するものではないと私は考える。 電卓は、十桁の計算式でも一瞬にして解を出す。

計数能力は運動能力・空間把握能力などと同じく、反射的なものである。 思考でなく反射なのだから、ある人にとっての計算問題とは、思考によって答えを導き出すものでなく、反射で答えが浮かぶもの。だからどうして解がそうなるのか、言語で説明できない。

言語をもってして数学の難問を解くことはできようが、その処理能力において、反射に及ぶべくもない。 猫は二階から落ちても怪我一つせずに着地する。鳥は空さえ飛ぶ。 反射の精度に価値を置くなら、人間が万物の霊長である理由など説明できなくなる。

「家畜には名前を付けるな」と言われるらしい。 ペットにしてしまうと食えなくなるからだ。 人間の持つ共感性がそのメカニズムを生んでいる。 だから言語による共感性がなければそんなルールも必要ない。 社会は複雑だから、共感性の無い人に向いている職業だってある。 ヤクザであるとかプロボクサーであるとか、あるいは死刑執行人であるとか。 だってトラやヒグマは人を平気で殺せるし食うことだってできる。 身体能力においてだって人間を遥かに凌駕する。

私に人間の頭の良さの基準を断定することはできないけど、思考力にその基準を置かないのであれば、人が何故家畜を食って良いのかを説明できなくはなる。 そこは即ち人類の優位性の説明に他ならない。 少なくとも現行の学力考査が、人類としての優位性を測るものでないことは確実と言えそうだ。


11/11(日)

赤ちゃんは可愛い。 可愛い赤ちゃんがいるのではなく、赤ちゃんと言うものは本来可愛いものなのである。そう言う成分が既に含まれている。 だから英語圏人は愛しい人のことをbabyなどと呼ぶ。

同種の幼体を可愛いと認識できなければその種は危うい。 人間だって動物だから、幼体を可愛いと感じるように、更には可愛いから自動的に保護するよう設計されている。腹が減ればメシを食いたくなることと同じ。あるいは性欲とも。 だから赤ちゃんが可愛いことに特段の不思議は無いのである。 私が考えていたのは「可愛くない赤ちゃん」についてである。

ごく稀に「可愛くない赤ちゃん」がいる。珍しいから見たことない人さえいるかもしれない。でもいる。 例えばある種の先天性の疾患を持つ幼体など、率直に「不気味」と感じる。 これは差別とかそう言う、「それをどう扱うべきか」と言う話とは別である。 心中に巻き起こる感想の話。 生物学的観点で言うなら、可愛くない赤ちゃん、それは共同体に益する部分が薄く、時に有害ですらあり、いわば必要ない個体なのではないか。

以下は赤ちゃんと言うより幼児の話である。 子供は泣くものだが、その泣き声をよくよく聞いていると、ものによって心中に成立する感想が違うことに気付く。 ある泣き声については許容できるし、別のある泣き声については(例えばそれが幼児のものであっても)許容できぬ思いがする。 早い話がムカつく。

人間は論理の生き物である。 ムカつかれる子供がムカつかれるのにも、きっと合理的な根拠がある。 私の論理性は、その子の感情・振舞いが、共同体にとって好ましくないものであることを嗅ぎ取っているのではないか。

泣いている以上、それは不快の表明には違いないのだろうが(嬉しくて泣きはせんだろう)、その度合いには差がある。 状況相応のありうべき不快感と言うのはあって当然だ。 しかし、不快の表明が強すぎる子、快不快の沸点(境界線)が低すぎる子は、世界観に大なり小なりの狂いがあると思われ、教育は緊急の課題であると言える。

また、叱られた際に、悲しくて泣くのと怒りで泣くのは違う。 後者は要するに暴力である。モノが幼児だから泣き喚くぐらいで済んでいるが、それはその子なりに振るい得る精一杯の暴力なのである。 騒音を撒き散らすことによって周囲を威嚇している。「俺を叱るなんて許せない」と撤回を求めていると言うこと。 これを親などがそのまま放置したら、その子は碌な大人にならないだろう。

人の好き嫌いには私(わたくし)が混ざるから、実は生物学的観点のみで語り尽くせるものでも無いのだが、幼体に対する感覚などについては、ほとんど生理的なもので、あまり個体差無さそうに思える。 人を評すると言うのは自分を評することで、誰かの下す評価なども、それ自体を私は鵜呑みにはしないが、「幼体に対する生物としての感覚」はある程度信頼できると思っている。


11/10(土)

神田優花、新曲の歌録り。 今回は椅子に座って歌うと言う、初めてじゃないけど珍しい試みでした。

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良さげなフリーソフトを見つけると、以前はとりあえず落としてみてたんだが、最近それにも食傷気味であることに気付く。 「生音系ドラム音源、総サイズ50GB」とか言われるとゲッソリしてしまう。 落とすだけでどれだけ時間掛かるのかと。それにハードディスクも無尽蔵じゃないぞ。

そう言うのに限ってまたインストール作業とかが面倒だったりする。 この間見かけたのは、インストール作業にインストーラー・コントロールセンター・ライブラリー二種、の計4つを落とさねばならない上に、サイズも当然のようにギガ単位。

既存の有名サンプラーソフト用にライブラリーだけをリリースすれば良いものを、オリジナルのサンプラーソフトにそれ用のライブラリーを読み込ませる仕様らしい。 また、インストールが容易でないことは想像に難くなく、インストール作業用のチュートリアル動画まである始末。

(モデリング系でなく)サンプリング音色って、ファイルサイズが品質のメルクマールであったりするのだろうけど、最近私は小容量のものを見ると逆に「厳選されているのではないか」と感じるし、それだけで好感を持ってしまう。

例えば生系のドラム音色なら、同じ音源ばかり使っていると、確かに飽きてくる。 違うキットを使いたくなるのは分かるが、その為だけに数十ギガのファイルを落としてくるのは如何にも非効率だ。

実際私は、音だけ聴いてもその音源のファイルサイズまで分からない。これは当たり前と言えば当たり前だが、割りと好みの音源を調べてみても、驚くほどサイズが小さかったりすることがある。例えば私が曲作りによく使うあるドラム音源(サンプリング系)は、二十数音色入ってて、総容量22MB。曲作りと言うが、それはプリプロとかじゃなく、本当にそのまま商品としてのリリース用途だったりする。 私の好みはビット・レートやベロシティーレイヤーにすら因っていないらしい。


11/9(金)

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喧嘩と言うのは、争う二者の「どちらかが間違っている」あるいは「どちらも間違っている」と言う場合に起こりやすい気がする。 正しい者同士はあまり喧嘩にならない。 だから喧嘩両成敗みたいなのは基本的に間違っていて、紛争内容を精査すれば割かし白黒はハッキリする。  だから裁判なんてものがある。

日韓関係の雲行きがまた怪しい。 何やら日本側は国際法廷に訴え出るみたいな話も出ているが、やるならやったらよろしい。相手が出てくるとは思えないけど。

「国交を断絶せよ」と言う過激な意見も見られるようだ。 それを言う人らに、本当に国交断絶した場合に、日本側が被る不利益について承知している者がどれだけいるか怪しい(私もよく分からない)が、私はそれも有力な選択肢の一つとして良いと思う。

今回の一件においても、私は彼ら韓国人の行動を非とするが、これは私が日本人だからではない。 人類の一員だからである。 国際法廷の仕組みごと私はよく分かっていないが、きっと裁判官に当たる者は第三国人になるに違いない。その人にも私と同じように、人類の一員としての自覚があることを願う。

国際法廷でもし本気で争うようなことになれば、またいつもの調子で判事の買収などが行われるかもしれない。 結果彼らが勝つようなことがあれば、人類の歴史は一歩後退する。 私は人間がそんなにバカな生き物だとは思わないから、きっとそうならないと思っている。

ここまで日韓関係が悪化した理由は、日本の側にもあると私は思う。 彼ら韓国人は、彼らの思想に従い、あのような言動を為すに至っているわけだが、それに一番得をさせてきたのが他ならぬ日本だからだ。 スポーツの国際試合などの韓国戦を見る度、こういう人たちが育ってしまった原因は日本にもある、と率直に思える。

一旦成立した歴史は取り戻せない。 日本に今出来ることは、現状の彼らへの対策ぐらいである。 粛々とやれば良い。 日本の近現代史は、ちょっと授業料の高いレッスンだったと思うしかない。より適切な判断を下す為の。


11/8(木)

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DJプレイを取り込んだ新曲を作りたいと思っているのだけど、それについてのメモ。 曲を詰める前に、今はパーツ作りで大変だ。 曲作りって、モノにもよるけど下準備のような工程が大きい。

私はDJソフトとかを遊び半分で使ったことはあるけど、ターンテーブルを本格的に扱ったことなどは無い。 ライブでCDJ使ったこととかもあるけど、ほとんどキュー出しくらいのもので、そんなにトリッキーな使い方をしたことは無い。 DJプレイ何たるかをあらためて考えていた。

まず標準的な機材やその配置・接続について考えてみる。 私には懇意にしているDJさんなどはいなくて(知り合いの知り合いと言うような人ならいる)、細かい部分を直接取材することはできないと言うか、するのが面倒なのだけど、まあこの程度のことなら調べればある程度分かる。 DJのセットは基本的にシンプルで、二基のターンテーブルをDJ用ミキサーで采配する。あとサンプラーを導入することも多いようで、CDJなど最初からサンプラー機能が付いていたりする。

ターンテーブル二基を使って音を繋げつつトラックを作っていくと言うが、僅か二系統の音で曲を完成させるのは難しかろう。無論扱っているのがサンプリングデータなので、どのような高度な音楽でもサンプル化自体はできる。だが、自分の構想を形にする作業には向いていない。

ターンテーブルを弄ることやディスクのマーキングなどは基本的に全て手作業で、BPMベースでの正確な拍節進行は望めない。それ望むならやはりDJソフトのようなものを使うことになる。 しかしソフトウェアを援用するなら、実のところほとんどどんなことでも出来てしまうわけで、わざわざDJプレイの窮屈さを再現するのはやや滑稽に思えなくもない。

ターンテーブルを駆使すると言うが、ターンテーブルは楽器ではない。 単なる再生機なので、出せる音はネタ元の盤に依存する。 ジャグリングのように同じ盤を二枚使う場合など、出せる音は更に限られる。 無論演奏中に盤を変えることは可能だし、実際にDJはそれをやってもいるのだが、比較的大掛かりなアクションになるので、これは制約が大きそう。

自由な楽曲展開を妨げる最大の要因は、自在に楽音が出せないこと。 ターンテーブルの回転数を変えてピッチを上げ下げするトーンプレイのような技法はあるにはあるが、当然ながら正確な音程など望むべくもない。 サンプラーを使ってサンプリングされた楽音を使うことならできるが、それ言い出したらDAWで作りこんだトラックをそのままサンプルとしてロードし、再生させることだって出来る。 サンプラーはあくまで効果音のポン出しとか、そういう用途で使うべきかと思う。

因みに、DJ用機材としてスタンダードなサンプラーであるSP-404は、12のパッド×10バンク構成で、計120のサンプルデータが読み込める。 バンクの切り替えとかの手間までちょっと分からないけど、120あれば困ることはなかろうと思われる。

クラブスクラッチやフレアスクラッチなどの諸技法を、DAWで再現するにはどうしたら良かろうか。 単純にスクラッチ音をチョッパーとかでブッタ切る、とか出来なくもないけど、クロスフェーダーの構造上、もう一系統のターンテーブルの音に影響が及ばなければややウソ臭くなる。 サイドチェインとか使えば多少それっぽい表現は可能だろうか。 もっと簡単に、手コンプみたいな要領でオートメーション(ボリュームカーブ)書けば良いだろうか。

例えばリズムトラック、普通にドラムスコア書いたりするとそれっぽくなくなる気がするんで、できれば出来合いのループを使いたい。 私は基本的にループ素材のようなものを使わない音屋なんだけど、今回はとりあえずのリズムパターンを大雑把に考えて、それに近いループを探すとする。

色々考えていたらアイディアちょっとまとまってきた。 とりあえずループソフトをベースにオケを作ってみようと思う。一番作業効率が良さそう。 ただ、ループソフトって1サンプルに1トラック使う要領なんで、セッションが汚くなると言うか、単純に見にくい。DAWとの連携をどうするか考えどころ。


11/7(水)

影山リサ、ミニ・アルバム「カメレオン」(全7曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


カメレオン

アルバム「カメレオン」はアニメっぽい曲を集めたアルバムです。個人的には5曲目に収録されているUp & Downが好きです。 是非聴いてみて下さい。

影山リサ





来週にはウチの今年最後のリリースタイトル、「Garden Of Thorns」(全12曲)が発売されます。 こちらもよろしく。




11/6(火)

影山リサ、明日発売の新作「カメレオン」(全7曲)、について。

アニソン集みたいなものをとにかく作ろうと思った。 実際にアニメ関係のタイアップ取ってるとかってわけじゃなくて、あくまで架空のアニメソングのようなもの。 影山リサ番外編って感じですけど、それなりに楽しんでやれました。

因みにこれ、ウチとしてはミニ・アルバムのつもりで作ったんだけど、厳密にはミニ・アルバムの定義を満たさないらしく(6曲以内でないとミニ・アルバムとは言わないらしい)、まあとにかく(EPでなく)フル・アルバムってことになるらしいんですが、我々としてはミニ・アルバムと呼んでます。ナンバリング・アルバムではない。

以下、収録曲について。 5.Up & Down・6.サマちゃん絵描き歌、の二曲は、先行シングル収録バージョンと同じものです。


1.Little Runaway

先行シングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」前半部の原型に当たる曲。 これの一番をシングルに収録している形になるんだけど、サビの最後のロングトーンだけ二番のものを使ってる。 先行シングルの方と聴き比べれば、どの辺を切り貼りしたかがよく分かると思います。 因みに、シングル版冒頭の効果音とセリフは入ってない。

音楽的にはどう呼べば良いんだろう。POPSになるんだろうか。 今DAWのセッション開いてみてるんだけど、ゴチャゴチャした音の割りにはパート数は少ない。 シングルのリリース時に出したコメントと重複するんだけど、子供の頃に見たヒーロー物のアニメのオープニングテーマのイメージで書いた。

メロディーラインなんかは本当にどこかで聞いたような、ひねりの無いもの。10分くらいで作ったんじゃないかしら。 Aメロのフレーズとかも七五調なんで、本当にどこかにありそう。 アレンジに関しては、こんなのでも結構時間掛かった。 オケは全部打ち込みで、音に関しても、如何にも打ち込みって感じのPCMの音を探したりして、それなりに拘ってる。


2.Chameleon

かれこれ十数年は昔に原型を書いた曲。 当時私はまだ今とは別の事務所に勤めていて、そこでのある企画に使う予定だったんだけど、完成前にその事務所を辞めてしまったから、結果的にお蔵入りになっていた。

音楽商品って必ずしも売るために作るわけじゃなくて、情勢上やらざるを得ない仕事みたいなのも多い。 この曲なんかは典型的なそれだったわけだけど、個人的に嫌いじゃなかったんで引っ張り出してきて使うことにした。

オケはほとんど当時のままなんだけど、随所に入ってた効果音みたいなのを全部削除した。 あとイントロの前にオーバーチュアみたいなのが入ってたんだけど、それもゴッソリ削除してる。

バッキングに使ってる楽器音は全部打ち込み。この曲には適度の「チープさ」みたいなのが欲しくて、オケの「打ち込み臭さ」みたいなのをあえて強調した。 具体的には、部分的にだけどノートをヴェロシティー一定のベタ打ちにしたり、リリース短めのサンプルをあえて使ったり。

ボーカルのメロディーラインがいい加減な作りで、あんましブレスとかしっかり想定してなかったもんで、リハーサル前に色々調整が必要になってしまった。 聴けば分かるはずだけど、パートを複数トラックに分割することで破綻を回避している。


3.On The Borderline

多分かなり昔に作った。 引っ張り出してきた感じ。

あらためてファイル開いて細部を確認しているんだけど、シンセPOPみたいな曲ですね。 オケは6パートぐらいしかない、ごくシンプルな曲。 メロトロン系のストリングスの音を入れてるんだけど、私はメロトロンの音が好きで時期を問わずよく使う。

多分サビのフレーズを思いついて、それ以外の部分を付け足して行ったんだろうと言う曲。 古くて細かいことは思い出せないけど、きっとそんな感じ。


4.Your Friend

アニメのBGMをメドレーで繋げたような曲。 いわゆるアンダースコアってのをイメージした。 基本インストを作った上で、歌のメロディーを後から乗っけてるような曲なんで、歌としての整合性のようなものは弱い。

一応楽器編成を言っておくと、シンセ類と木管がいくつか、あとはパーカッションとか効果音みたいなのが多い。ギターとかもちょっとだけ入ってる。

メドレーって複数の曲を繋げたものなので、必然的にパート数が増える。 これはマスタリング済みの2Mixを編集で繋げただけのようなものじゃなくて、メドレーには聞こえるけどあくまでこういう単体の曲。 だから本当にパート数がメチャクチャ多くて、DAWのセッションが汚い。


7.長い旅のように

こっちは「Little Runaway 〜長い旅のように〜」後半部の原型に当たる曲。 これの二番部分をシングルには収録している。

ある時代のTVアニメのエンディング・テーマをイメージした。 ボーカルについては、本編部分と二番に出てくるセリフの部分を別の日にレコーディングしている。 コーラスやセリフ部分は、フォルマント弄ってたりして変に聞こえるだろうけど、全部影山リサ本人の声を元に作ってます。

合いの手のように入ってくるコーラスは「エンヤサッサ」と言っているのだけど、因みにあれ、影山さん本人の考案です。 彼女には、本当にこういうものを作る才能みたいなのがあるように思う。 一番最後に入っているセリフのような効果音も影山さんの声です。

シタールとかジューズハープとか和太鼓とか、割かしエスニックな楽器を多用してるんだけど、今DAWのセッション開いてみてあらためて気付いたくらいで、全然事前に意図したものではない。 ある種のコミカルさを表現しようとしたら、結果的にあのようになってしまった。

「Little Runaway」も含め、冗談みたいな企画なんだけど、私は元々「音の便利屋」みたいな人で、基本的にこういうことは得意。





11/4(月)

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水島新司さんの漫画とか読むと思うことがある。 野球に道を見出すような人って割りかしいるように見えるけど、どうしてその人らは野球如きにそれほど従属的な気分になれるのだろう。 あれって、誰かがああいう遊びを思い付いただけなのでしょうに。


話は変わるが、アドリブについて。 ある声優さんの逸話みたいなのを読んでいたのだが、その人は伝説的と言えるほどにアドリブ過多であったらしい。

ウチのアーティスト、レコーディングの時などにアドリブを入れるタイプの人は少ない。 基本的に事前に想定した譜面情報を忠実に再現する感じ。 サプライズ的な面白さは無くとも、作品をリハーサル段階で練りこめるし、編集も楽だ。

声優に限らず、役者とかでもアドリブを入れるタイプとそうでないタイプはあると聞く。 後者は、それが過ぎると現場での不評を買ったりする。 まあ分かる。要するに作品を壊しているのだから。

エンジニアとしての私は、アドリブをそこまで嫌うわけではないが、それやられると編集作業の負担は当然増える。 結論から言うと、アドリブは「やるならやるだけの価値のあるものにしろ」と言うに尽きる。 受けを狙うと、場合によっては滑ります。


11/3(日)

孫悟空が持っている「如意棒」、あれは直訳すると「意の如き(に使える)棒」と言うことだ。 何かドラえもんの道具のような名前だ。 「どこでもドア」とかと構造は同じ。「意のまま棒」とか本当にドラえもんが出しそう。 だからどうしたと言うことも無いけど。


今DJプレイについて考えている。 クラブで単に選んだ皿回すだけの人とかでなく、バトルDJのようなスタイルについて。 あるDJがいみじくも言っていたんだが、曰く「図工やってる感覚」であると。 確かにあれは音楽と言うより図画工作に近い。

定番的なテクニックがいくらかあるのだけど、あれ、リアルタイムでやれることにこそ価値があるような気がする。だって、DAWとかサンプラー使ってああ言う音を再現することって悉く可能だもの。 リアルタイムでなく、ああ言うものの面白味を再現することって、どれだけ可能なんだろうか。

DJプレイをふんだんに盛り込んだトラックを作ってみようかと思案中。 以前サンプリングミュージックみたいなのを試しに作ってみたことがあるんだけど(現時点では未発表)、それと似たような作業になるのかも。 私はあんましループ素材のようなものを使ってトラックを作るタイプの音屋じゃないんだけど、今回に関してはそう言うものを使った方がらしくなるような気がしている。


11/3(土)

片飛鳥。アルバムの制作中なんだけど、収録予定曲の中で既に発表済みのものが何曲かあって、それらの一部を微調整してました。 アルバムバージョンとか言うほど極端に弄ってはないんだけど、一応再ミックスってことになります。

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ニューシングル「Your Brown Eyes」を今週発表した神田優花ですが、再来週の水曜には最新アルバム「Garden Of Thorns」(全12曲)をリリースします。 レーベルとしてもウチの今年最後のリリースアイテムになります。是非チェックしてみてください。




11/2(金)

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昨日は代々木アニメーション学院の企業説明会参加のため、水道橋まで行って来ました。 代々木アニメーション学院さんとはもう結構古いお付き合いで、過去何人もアーティスト志望者を採用させてもらってます。

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その代々木アニメーション学院の今年の卒業生、正村元一氏のレコーディングを行っていました(別に上の説明会とはスケジュール上の何の関連も無いけど)。

実は私は春頃に手術を受けていて、退院後も暫くはマトモに喋れなかった。 喋る度にむせるものだから、今回のように壇上に立って喋るようなことに対して多少不安があったんだけど、とりあえず昨日は無事に喋れました。 症状が治った、と言うより、むせずに喋るコツを覚えたってのが実状に近いけど。


11/1(木)

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ドストエフスキーは、マルキシズムの潮流を目の当たりにした時、直感的に「神は敗れる」と思ったらしい。 歴史は彼の予測に反したが。


以下私の経験を述べる。 長いこと音楽レーベル業をやってきたが、我々が一番苦しめられたのは「販路の開拓」においてである。 どんな技術を持ち、どんな音源を作ったところで、販路に載せてもらえなければ売れようもない。

まだ私が東京に出てきて間もない頃、当時今とは別の会社の音楽制作部に勤めていた。 あるレコードメーカーと新譜のリリースについて交渉していた際に、ざっくりと概要を聞いて(その不自由さに)驚いた。 パッケージ(要するにCD)を作る際のコストだとかは無論のこと、入出庫・売れなかった場合の廃棄のコスト、新譜扱い・廃盤までの期間等々。 CDはモノなんだからトラックで全国に配送し、先々で倉庫の場所を食う。 CDショップの商品陳列スペースにも限りがある。 売筋商品が入手しやすいのは分かるが、そうでないものは入手し難いどころか、カタログから駆逐される。 物質が有限だからだ。

音楽配信の技術(と言うより思想)が出てきた時、夢のような話だと思った。 流通・入手ルートの維持にコストがほぼ掛からない。 当然のように渡りに舟とした。 本当に我々は、音楽配信と名の付くものほとんど全てに関わってきた。 PC向け配信なんて、今まだ動いている全てのサービスが開始される前からやっているし、店舗設置型サービスもMUSIC PODやMusic Deli等、ほとんどその全てに商品を卸している。

しかし、当時の私が考えたほど世の中甘くは無かった。 その配信用販路の一つであるMisic Deliは、コンビニだとかに置いてあるキオスク端末でのサービスなのだけど、当時結んだ契約内容は「販売期間は二週間、それ以降は売り上げ如何によって継続するかを(Music Deli側が)判断する」と言うもの。 つまり条件を満たさねばコンテンツ一覧から削除される。コンビニの新商品などと同様と思っていただければと思うが、音楽コンテンツはカップラーメンと違って場所を取らない。それでもこの始末。 因みにMusic Deliは、その後ほどなくして、諸事情からサービスを終了する。


ほぼ現行の音楽配信サービスに作品を提供し始めた頃、PC用コンテンツに加え、携帯電話端末向けコンテンツ「着うた」などもあって、両者は割りと画然と区別されていた。 今考えるとこれも変。どちらも単にオーディオデータをダウンロード販売して、プレイヤープログラムで再生する、と言うだけなのに。

公平に見て、我々は弱小レーベルなわけだけど、「着うた」用のコンテンツが出してもらえない。 「売れない」ではなく出してもらえない。ランキングどうこう以前に、スタートラインにすら立たせてもらえない。 ウチはプロモーションに大した予算が割けるわけでもなく、当時はラジオや有線で流してもらうとか、雑誌やフリーペーパーにちょっとだけ扱ってもらうとか、せいぜいそんなことくらいしか出来なかったのだけど、出してもらえないコンテンツでは宣伝のしようがない。 昔、埼玉の某FM局にプロモーションの相談に行った時も「インフラ(つまり販路)が整っていることは(局で扱う為の)最低条件」と言われた記憶がある。まあ当然だ。

ニューリリースのインフォメーション出しても一社も扱ってくれない。 当時アグリゲーター(ダウンロードサービスの運営会社とレーベルの仲介業者)に相談した上で、各「着うた」サービスの運営会社に直接交渉してみたが、ほとんどは門前払いに近い扱いだった。 (一応補足しておくと、厳密には一社だけ扱ってくれるところがあるにはあったのだが、「着うた」と言うか、携帯端末でも再生可能なコンテンツを場合によっては扱いますよ、みたいな微妙なスタンスだった)

私はおかしいと思った。 CDショップにセレクトショップや演歌専門店があるように、マイナーコンテンツを扱う(あるニッチを占める)業者があっても良い筈だ。 善悪の問題でなく、単に商業主義的(と言うより生物学的)観点で見てもそうなる筈なのだ。 CDと違って場所すら取らないのだから(サーバーのデータ領域くらいは占有するが)。

着うた系サービスは、全社横並びで我々の作品を扱わないと言う。 我々だけでなく、当時似たような規模・スキームで音楽を作っていたレーベルは、きっと皆この締め出しの対象だったろう。

因みにPC向け配信については、逆に「全ての業者」が扱ってくれた。これもおかしな話だ。 全ての「着うた」サービスが、一社ですら扱ってくれなかったコンテンツを、全ての業者が(これまた全社横並びで)入荷すると言う。 私はその理由を、後になって知る。

PCコンテンツ市場は当時、iTunesとMoraの二強に近い状態だった。iTunesは外資、Moraは国内レコードメーカー主導の元に運営されていたサービス。 国内シェアを二分するサービスなのだが、片や外資なだけにある意味日本国内に流れる微妙な空気を読まない(読めない)。 iTunesは新譜を、レーベルの大小の隔てなく、全て取り扱った。

メジャーコンテンツ+マイナーコンテンツを扱うiTunesと、メジャーコンテンツしか扱わないMora、と言う状態ではユーザーがiTunesに流れる。 音楽ダウンロードサービスのユーザーは、基本的に「使い慣れたサービス」しか使わない。一旦客を取られると取り返すことは容易でない。 だからMoraをはじめとする国内業者らも資本の論理には敵わず、渋々マイナーコンテンツを扱うことにしたらしい。 外資の参入が無かったら状況はかなり違っていた筈だ。

しかし当時Moraで我々のコンテンツが置かれたカテゴリーは「インディーズ」なるものだった(神田優花だけはメジャー流通商品出してたのでそうでなかったが)。 これもおかしい。 他のコンテンツはRockとかPopsとか音楽ジャンルによって分けられているのだが、「インディーズ」は音楽ジャンルではない。率直に、一種の隔離だと感じた。 因みに現在そのカテゴリーは無くなった。誰かの羞恥と言う論理性に触れたのだと信じたい。

PC向け市場については上記の通りだったのだが、携帯電話端末向け市場は当時もっとクローズドだった。 とにかく商品を扱ってもらえなかった、と言う話は既にしたが、その閉塞状態を打破してくれたのは、やはりまた外資(アップル)だった。

iPhoneがリリースされるのだが、巨大なシェアを獲得するiPhoneは、iTunesから直接音楽データを買えた。つまりiTunesは着うたダウンロードサービスにもなったのだ(やはり技術的な障壁など無かった)。 これによってPC用コンテンツと携帯用コンテンツの垣根は無くなり、以後土崩するように業界は変わる。 ほぼどこの業者でも、我々の作る音楽作品を携帯用コンテンツとして扱ってくれるようになった。 そうせねば、客を根こそぎiTunesに持って行かれるからだ。

更にはサブスクリプションやストリーミングのサービスが始まった(新規参入業者が相次いだ)ことによって、我々のようなコンテンツホルダーにすら、(ある意味三顧の礼で)コンテンツの提供がお願いされたりすることになる。 状況が、コンテンツ(取り扱いタイトル)の数こそが即ちセールスポイントになるように変わったからだ。 事実、過去にリリース済みのタイトルのリフレッシュ(再リリース)なども、むしろこちら側が提案を受けた。 しかし表面的な方針こそ180度変わったものの、目先の得を追ってるだけ、と言う意味においては全く変わらない。


日本人は、つまりは横並びでコンテンツの囲い込み(特定コンテンツの締め出し)を行っていた。間違いなく行っていた。 リスナーに選ばれるコンテンツを作るでなく、自分らのコンテンツのみしかリスナーの目に映させないように努力していた。 そしてこれも日本人の特性なのだが、その努力には「誰がしがやった」と言うような、主犯たる個人は特定できず、まるで社会性昆虫のように皆が何となくそういう構造を作り上げていた。

アメリカ人は音楽を売ろうと思った時、リスナーに自分らの作ったコンテンツ以外見せないよう努めるでなく、リスナーが選ぶに値するような良質なコンテンツを作るべく努める。 日本人とアメリカ人、神はどちらに味方するか。

ある時iTunesが、「ウチには何億曲のコンテンツが揃っている」だとかの宣伝文句を高々と謳っていたのを見かけて、私は心底その心事を涼しいと思った。「これだけのタイトルを取り揃えているのだから、きっとあなたの好きな音楽が見付かります」と言っているのだから。 一方日本の業者らは「これだけ厳選した(数少ない)コンテンツしか扱ってませんよ」・「これを聞いていれば恥ずかしくありませんよ」などと言い続け、ある種のコンテンツの締め出しに精を出し続けていた。

文明は高いところから低いところへ流れる。 日本の音楽業界においても、神は敗れなかった。 日本はManifest Destinyに飲み込まれたのだけど、どうやらそこで底が抜けた。本質的な意味での音楽リスナーが、ほぼ存在しなかったからだ。 だが私は、新しい何かを建設しようと思うなら、焼け野原ってのは割かし好条件だと思っている。


10/31(水)

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神田優花、ニューシングル「Your Brown Eyes」(全2曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Your Brown Eyes/Love For Sale

Your Brown Eyes
これはとにかく淡々と歌う、
いい意味でいつもの神田優花らしさを消してみようと取り組みました。
感情は持ったまま抑揚はなくす、みたいな。
サビのテンポのいいところなんかは特に、言葉の意味は置いてくるくらいの感覚で歌ってます。
長く歌作りの作業をやってると、ある程度の出来上がりや曲のポテンシャルなど、想像出来るようになってくるんですが、この曲はそれを超えてくれました。
思った以上に曲にカッチリはまってくれたと思います。

Love For Saleは、スローテンポなナンバー。
スローすぎて、歌詞の言葉と言葉の合間を持て余すかな、と思ってたんですが、意外にすんなり歌えました。単語、単語で遊んでたら出来てたって感じです。
歌の行間を感じてもらえれば、と思います。

楽しんでもらえたら嬉しいな。
よろしくお願いします。

神田優花






モネの「日傘の女」を見ると、彼の心に走った電流が私の心にも流れる。 もしモネが、画家などと言う道を選ばず、保身の為とて高学歴になり高収入を得て、何不自由なく生き、死んで行ったとしても、後世の私には毛ほどの何かも残さなかったろう。

今を生きる私に、ホンの一欠片であったとしても、ある感想を残したモネ。 これこそが人類に対する貢献である。 増えたり減ったりする銀行預金の残高を眺めながら時間を使い切る人、その人は自分が何故この世界に生まれてきたか、自分なりの答えが出せないだろう。

私は子供の頃から好きだった音楽を今も作り続けているのだけど、何故そうあるのかと言うと、「作れ」と言われたような気がしたから。 誰が言ったのかは分からない。 この世界の全てであり、それが神なのかもしれない。


10/30(火)

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神田優花、新作「Your Brown Eyes」(全2曲)、収録曲について。


1.Your Brown Eyes

アルバムにこんなのが一曲あっても良いだろう、と思って書いた曲なんだけど、割かし出来が良かったんでシングルカットすることにした。

バッキングは物凄くシンプルで、確か4パートくらいしかない。 ボーカルのハーモニーとか、ちょっと聴くと複雑に聞こえなくもないんだけど、ここもシンプル。旋律線で言うと確か3〜4パートくらい。 だから制作時間もあんまり掛かってない。

私が書いたんじゃないんだけど、歌詞に「シミュレーション」と言う言葉があって、神田優花はそれを「シュミレイション」と歌っている。 英語のSimulationならそれじゃダメかもしれないけど、カタカナだしアリでしょう。

こういう曲、ジャンルで言うと何になるんだろう。POPSとしか言いようがないのかも。 作る上で気にしたところと言えば、ボーカルのメロディーが極力歌っぽくならないよう気をつけた。 楽器的と言うかシーケンス的と言うか、そういうものを作った。


2.Love For Sale

BPM20台の曲を作ろうと思って。 実験的と言えば聞こえは良いが、要はその程度の動機で作った。

バッキングはベースとドラムだけ。 あまりに音の間隔が開いていて、例えばブランク情報検出してトラック番号振っていくようなプレイヤーとかだと、途中から次の曲にカウントされたりするかも。 今時あんまり無いと思うけど。

そう言えばこれ、大急ぎで作ってて、普段スタジオで歌い手さんに途中経過をチェックしてもらうんだけど、これについてはその時間的余裕が無く、サーバーに上げたラフミックスをチェックしてもらうとか、そういうことをした。 あとこの曲は一旦納品した後にデータ差し替えたりもしてる。私はあんまりそういうことしないのだけど。 まあ拙速な曲ではあります。割りと好きですけど。





今考えていること。 神田優花の、シングルのカップリングからセレクトした曲だけでアルバムを作りたい。 個人的に、昔からBサイドコレクションみたいなのって好きなんです。

Bサイドコレクションなのだから、基本的に新録曲ってのは入らない予定で(もしかしたら1〜2曲入れるかも)、出すかどうかごと今はまだ分からないけど、出すならほとんど事務作業だけで終わってしまうだろう。 一種の公開プレイリストですね。


10/29(月)

旅人と旅人とがその旅の途中、ある地点にて鉢合わせることはあるだろう。 時空のある地点で二人が出会えたこと、これは確かに一種の奇跡ではある。

二人は、限られた時間でも一ところにいるのだから、談笑もしようしその時間を友情だと感じてしまうこともあるに違いない。 似たような方角に向かっていたりしようものなら、同道する時間も長くなろうし、友であると見做す気分は深いものになろう。 ただ、最終的な目的地が違うなら、その人たちは必ずやどこかで別れなければならない。 最後まで同じ景色は見られない。

人間の持ち時間には限りがあるから、旅の途中で命が果てることだってある。 だからある人は、隣にいる人と自分との「最終的な目的地が違うこと」に最後まで気付けなかったりする。

最後に同じ景色を見られる人、それが親友の定義である。 最後まで同じ景色を見られるのだから、利害は当然一致する。その友はある意味自分自身なのだから、もう自分がその人になってしまっても構わないとすら思えるだろう。 親友、それはまごうことなく私自身である。

同じ場所を目指しているのなら、今側にいない親友とだって、きっといつか出会える。 ある地点にて、互いにはぐれてしまった親友とだって、必ずやいつか再び巡り会える。 同じ場所を目指しているんだもの。先にたどり着いたソイツは、きっと私のことを両手を広げて待っている。 まるでそれが無限遠の彼方であるかのような、遠い時空の果てでだって、いつかきっと会える。


私はどこへ向かっているのか。 一神教徒の言う天国は、単純な未来ではないらしい。 無論過去でもない。

Godが時間や空間と言った諸概念を超越するように、Heavenも時間軸上にあるわけではないのだろう。 当然場所ですらない。

芸術家は神を志向している。 その肉体は尽きても、意志は不滅である。 だからいずれたどり着けるはず。 同じ場所を目指す者、それが親友。きっと最後に、寸分違わぬ同じ景色を見る。 何故なら、その友と私とを分け隔てるものなんて何も無いから。親友は私自身だ。


10/28(日)

物質・物体なんて本当にあるのだろうか。私はそんなところからこの世界を疑っている。 「あるに決まってるじゃないか」と言われてしまうかもしれないけど。 確かに見たり触ったりできますものね。

高級車も豪邸も、あるいは金そのものですら、我々が心でそれを感じただけではないのか。 正直私には、所有と言う感覚がいまいちリアルでない。

私に所有できる物、なんて本当にあるのだろうか。 例えば車を所有するって言ったって、ガレージに置いて眺めているだけでも車検代・各種の税金、車庫の維持費くらいは発生する。 走らせるなら更なるコストが掛かるし、いわゆるカーライフは全て(車の規格ごと)法律に則ったもの。 車検証に所有者と記載されてあったとしても、私はせいぜい使用権を得ただけではないのか。

土地を買ったって豪邸を建てたって、固定資産税は掛かり続ける。 登記上所有しているとされたところで、実態としては賃貸と変わらない。 処分する手間が掛からないだけ、賃貸の方が気が利いているとすら思う。

また、この体にしても物質だから、あるだけで常に住民税のようなものが発生する。 無論維持コストはそれだけじゃない。 私は、私の体すら本当に所有できているのか。 あの世に持っていけるモノなんて何一つ無い。 金なんていくら集めたところで、棺桶に札束敷き詰めたって天国まで持って行けるわけでもない。

我々に所有できるものなんて、本当は何一つありはしないんじゃないか。 だから同時に、失くすものなんてのも存在しないのではないか。 帰る場所も、当然帰る時間も無い。 我々は、この目に映った世界を、時間の終わりまで見させてもらえるだけなんじゃないのか。

この世に生まれてきたと言うこと、それは人生と言う名の映画のチケットを一枚だけ与えられたと言うこと。 だからつまらない映画なんてダラダラ見てちゃダメだと思う。少なくとも私はそんなもの見たくない。


10/27(土)

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中国とアメリカの仲が悪いらしい。 これって一種の文明の衝突だと思うんだけど、アメリカ的価値観には譲れない一線があるらしい。


インサイダー取引が何故禁止されるか。 それはそう言うルール破りが横行すると、一般参加者が減り、それが延いては市場の活況を殺ぐからだろう。 ここに善悪の基準を持ち出すことは本来おかしい。

ネット界では時折広告などで、「ソフトウェアの不正コピー」を糾弾するようなものが見られる。 「告発者には最大○○万円の報酬を支払う」とか言うのまである。 こんなのも単なるルールで、そう言うことを躍起になって言ってる連中は、要するに自らの権益が侵されていることに憤慨しているだけ。 義憤とか言えるほど高尚な感情ではない。

著作権は正義ではない。ルールである。そこに善悪の価値基準を持ち出すことは本来おかしい。

それらルール破りに罰則があるのは何故か。 罰則を設けないとルールが死文化し、破り放題になるからである。設ける以上、ルールに強制力は要る。 ここにも善悪など無い。 法律は倫理でもなければ道徳でもない(勿論それらと無縁ではないが)。

「著作物のコピーは悪でない」と言う意見がある。因みに私も、ルール違反だとは思うが、悪だとは思わない。 だが、こういう場合の著作権は、基本的に財産と言う意味だ。 それが生み出す金についての議論であると言うこと。

「著作物に金など払わない」と言うのも立派な思想だと思うけど、それを徹底的に貫くなら、共同体への参加は基本的に見送らざるを得ないだろう。 著作権なんて単なるルールだが、その下のレイヤーにある金(Money)もルールに過ぎないからだ。


10/26(金)

HPをリニューアル(一部増設)している。 まだ完全移行って状態じゃなくて、ところどころ継ぎ接ぎなんだけど、今後少しづつ整備していく予定(しないかも)。

ウチの元のHPは完全にPC仕様になってて、スマホからのアクセスではちょっと使い難かったので、使いやすい簡易的なページをこさえたわけです。 今回新しく作ったものは、無料HP作成サービスみたいなののテンプレートを元に一日で作った、正直かなりいい加減なものなんだけど(本当に数時間で作った)、まあHPなんて基本的な情報が分かればいいだろうと思って。


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神田優花、レコーディング。 今回録ったテイクで、二曲入りシングルの収録曲が揃った。 多分リリースは来年になると思います。 来週には最新シングル「Your Brown Eyes」がリリースされます。こっちも是非聴いてみてください。





勉学に勤しむことは努力とされている。 親は子供に「勉強しろ」と叱咤し、高い偏差値の学校に行かせたがる。

何故か。高学歴であった方が生きて行きやすいからである。つまりそれは私(わたくし)。 叱咤する親は受験生本人ではないが、子を愛しているのではなく、単に自他の境界が曖昧なだけだろう。子と自分とを区別できていないだけ。

動機が私(わたくし)に因るものなのだから、そのレースの最終勝者らが、現在のいわゆる高級官僚のような性質の人たちになるのは当然と言える。 彼らはその職務において、貢献の気分を主たる原動力としていない。こんにち社会が硬直するまでに諸利権が複雑化し、天下りが横行する理由も、上のメカニズムでほぼ説明がつく。

学問が好きならば机に齧りつけば良い。 生存に有利だからとて机に齧りつく者は、貢献以前に自らの意思を殺いででも保身に努めているわけで、その私利私欲をむしろ捨てることこそが、人類の一員としての努力であり延いては貢献となる。 今の日本人のほとんどは、このことに気付いていない。


ところで、歴史上の著名人の中でも、徳川家康は後世からの人気が薄い。織田信長とか大人気なのに。 私は同時代に生きるとか、仕えるとか、そう言うケースを想定するだに、信長とか絶対嫌で、家康の方が数等マシに思える。 何故それなのに家康には人気が集まらないのか。

徳川家康と言う人が現代に生まれていたら、きっと高学歴になったに違いない。 何故なら、上で言うところの私(わたくし)が強いから。自らの生存を至上の命令とする人物。 だから彼が開いた徳川幕府は、公儀などと呼ばれつつ、その実質は徳川氏を主とした私的政権だった。 ここには創業者の人格が強く影響していよう。

後世人が彼を嫌う理由は、彼に貢献の気分・共同体感覚が希薄であるからではないか。 無謀さが余りに無いところなど、可愛げのようなものを感じ取り難い。


10/25(木)

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北九州市の行政だかが作ったポスターに「修羅の国」がどうしたとか「ロケットランチャー」がどうしただのと言う文言が(ギャグタッチで)踊っているらしい。私はネットニュースでそれを知ったのだけど、ごく最近のことなので調べればまだ出てくるはず。

「修羅の国」とか言うのは、ネットスラングで福岡県のことを言ったもので、ヤクザの数や暴力事件が全国で突出して多いことを茶化したもの。 「ロケットランチャー」と言うのは、福岡の暴力団の武器庫が捜索を受けた際、本当に出てきたもの。他にも殺傷能力の高い武器が多く押収されているが、とりわけインパクトが大きかったのがそのロケットランチャー。戦争でも始める気かと。

つまり悪評に基づくキーワードなわけだが、行政にとってもその悪評は好ましくないのだろう。それを半ば自虐的にギャグ化することによって、マイルドなものへと印象操作を図っていると見える。 地域の人心こそがその悪を増長させたこと、が想像できるよすがのような一件である。

悪評が膾炙するのには理由がある。 事実その他の地域では考えられないような凶悪事件が多発したからであって、それを恥だと思うなら抜本的な解決策を真剣に模索すべきである。 ギャグ化と言うのは、核心部分に触れさせたくないが故に、はぐらかしているだけ。 そう言う姑息さ・不誠実さが、延いては悪の猖獗を招いたのではないのか。 行政府と言う市民の側にさえ、行動の端々に悪を容認する気分が見え隠れしている。

人は、エクスキューズを思い付いているうちは、本気で反省をしない。 どうやらそう言う生き物だ。


ちょっと話は逸れるが、もう随分前、はなわさんと言うコメディアンが、出身地(多分)の佐賀県を自虐的に茶化した「佐賀県」と言う曲をリリースした。 出身地の田舎振りを持ちギャグ化すると言う手法は、一つの定型だ。有名どころでは吉幾三さんの曲とか。

その「佐賀県」の歌詞に「マジでヤンキーがモテる」と言うくだりがあるのだが、地方だとか世代によっては、そのギャグの意味が掴みかねる人がいるような気がしないでもない。 「え?女にモテるのって(当然)ヤンキーじゃないの?」って思う人。

私は大学を出た頃まで福岡県(佐賀の隣県)にいたので、実はその感覚が分からないでもない。ただ、同時に東京にも長く住んでいるが、こっちにその感覚は絶無と言って良いほど無い。 つまり東京人は、皆で「不良に得をさせない社会」を作っている。

逆に地域によってそこは「不良が得をする社会」であったりすると言える。 ヤンキーがモテると言うことは、即ちそれをモテさせている周囲がいると言うこと。 ここがその社会・地域の原理性と言うべきところなのだろう。

不良が得をする、不良が英雄になる社会においては、その中でのいわばエリートがヤクザになる。 だから福岡県は、飛び切りヤクザが多いし事件の数も多い。 根底に悪を賞賛する空気があるからだ。 悪ければ悪いほど、彼は英雄になれる。 これは実感だが、福岡県人は老若男女皆本当にヤンキーが好きである。学校の先生さえヤンキーを可愛がる。 その種の人らに可愛げを感じる感覚が全く分からないではないが、もう少し大多数の普通人の方も可愛がってやってくれ。

粗暴な人間や良心感覚の希薄な人間は、ある程度の確率でこの世に生まれてくる。 人間と言う生き物はそう言うものなのだろうから、そこについては致し方ない。 だが、その気質をどう扱うかで社会そのものの性格は決定付けられる。 個人的意見だが、私は福岡県は人心の醸成に失敗した地域だと思う。佐賀とかも近い雰囲気なんだろうか。


10/24(水)

影山リサ、ニューシングル「サマちゃん絵描き歌」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


サマちゃん絵描き歌/Sheep's Dance

サマちゃん絵描き歌は「まるでよくあるような」絵描き歌。Sheep's Danceは子守唄をイメージしてレコーディングしました。是非聴いてみて下さい。

影山リサ






モジュラータイプのシンセサイザーについてついて、あれこれ思案中。 因みに私は、シンセマニアのような人種ではない。若い頃もシンセサイザーなどに全く興味が無くて、扱っていたのは生楽器がほとんどだった。

普通の(パラメーター固定型)シンセに比べて、一からシステムを構築(モジュール単位での増減が)できるので、単純に音作りの自由度が高い。 ただ、当然ながら使いこなすには、音声合成に関してそれなりの知識が要る。

以前VSTプラグインソフト作りに執心していた時期があって、その頃にシンセサイズについては一通り独学した。FMも倍音減算方式も、その時に初めて概要を理解した。 しかし、当時はそれなりに理解もしていたと思うものの、今ほとんど忘れてかけている。 性に合わないのだと思う。 EuroRack規格とか一部で静かなブームらしいんだけど、あんなの使えるなんて皆凄いね。

今私が弄ってみているのは、ソフトウェア型のモジュラーシンセ(ハードなんて絶対買わない)。 とりあえずオシレーターの音が良いとか悪いとか、そう言うことは無視して、結線の流れとか、そう言う初歩的な部分についてあれこれ試行錯誤している。

ただ、どんな音が出来上がろうと、音だけ聞いて普通のシンセサイザーとの違いなど分からない。 きっと分かる人なんてほとんどいないと思うが、少なくとも私には全く分からない。 だからして、モジュラーシンセ(の音)が曲想に発展する、なんてことも今のところ無さそう。


10/23(火)

影山リサ、明日発売の新作「サマちゃん絵描き歌」(全2曲)、収録曲について。


1.サマちゃん絵描き歌

絵描き歌を書こうと思って。 絵描き歌って、ジャンルと呼べるほど絶対的な作品数が存在してなくて、作例当たるのにも難儀した。

使ってる楽器は木管とか弦とか、あんましPOPS的ではない。 一応三番まであるんだけど、単なるリピートでなく、調やリズムが違ってて、全く同じコーラスは存在してない。

最近私は歌詞を書いてない(極力書きたくない)んだが、これは私が書いている。 ここまでのものだと他人に頼み難いのです。 サマちゃんって何だよって話だけど、別に何でもない。ついでに、絵描き歌とは言うものの、出来上がる像も無い。


2.Sheep's Dance

徒然なるままに書いたらこうなった。正直、細かい部分についてはあんまり覚えてない。 三拍子で始まるんだけど、サビで四拍子になる。 いわゆる変拍子と言うものでなく、解釈としてはサビの四拍子が基本で、Aメロ部分は三連符ってことになる。

アレンジは、アコギにハープ、チェロのピチカートにメロトロンのストリングス音色と言う、弦の音を中心に構成されている。 今セッション開いて確認した。

この曲、歌(歌唱)について構想段階から多少の想定があって、その辺を一応は注文したんだけど、リハーサル期間が短過ぎたきらいがある。 編集に負う部分が大きかった曲なんだけど、仕上げの作業は面倒臭かった記憶がある。






アルバムとかって(シングルも)、それがリリースされる頃とその収録各曲の構想を練っている時間にタイムラグがあり過ぎて、正直私としては(リリースに当たっての)感慨が常に薄い。 「ああ、そんなのありましたね」ってな具合。

音楽そのものに飽きている、とかそう言うことじゃなくて、その時点時点でいつもホットな構想があって、それが頭の中を占めているから、(私にとっての)古い曲に関心が薄れていると言うこと。 致し方ない。


10/22(月)

「死」について考えていた。

孔子は死について問われた時「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と答えている。 論語・先進篇にある有名な言葉だ。 生きていると言うことが正確に分からない、だから当然死についても分からない、と言う。基本的には私も同意見である。

生きている感覚が壊滅的に失せたら、きっとその人は、体は動いていたとしても生きていない。 壊滅的と言わぬまでも壊れかけたら、自分自身で自分像の輪郭が描けなくなる。 自分(と言う概念)は見えないが他人(と言う物質)は見える。 周囲からの扱いによってのみ自分像を描けるので、自然その人は依存的・他者制御的になる。 子供は、精神が未熟であればあるほど、他人にちょっかい出さずにいられない。 自己の輪郭が曖昧だからだ。

人間の表面的な行動には、その人が存在するからこそ起こるものがあり、存在が曖昧であるから・消えかけているからこそ起こるものもある。当然存在しない者が起こすものだってある。雨が降るとか、蚊が人を刺すとか。

人は死んだら生き返らない、と言われているが、それは今の私には分からない。 孔子の言うように、生も死も、その定義ごとよく分からないからだ。 昨日の私と今日の私が同じ私であること、これは再生ではないのか。 どうして昨日の私が今ここにいるのか。意識とはなんなのか。時間とは何なのか。よく分からない。

日本にも平田篤胤の「勝五郎再生記聞」のようなものがあるように、いわゆる再生譚のようなものが世界中に散見される。 私はそれらを鵜呑みにはしないが、再生そのものについては「あり得る」と言うスタンスである。

言語の演算処理が意識を生んでいるのだとしたら、昨日の私と今日の私は、同種のアルゴリズムを持っているからこそ、どちらも私なのであろう。 アルゴリズムの違いが自分と他人とを分けている。そう言わざるを得ない。そうでないのなら、輸血や臓器移植を受けた者は、一部が他人となってしまう。

思考アルゴリズムの違いが自他を区別しているのだろうから、それが安定しない者にとって、昨日の自分は別人であろう。当然そういう人は、自他の境界も曖昧になる。過去の自分も未来の自分も別人である。 また、アルゴリズムと呼べるほどの思考を持っていない人は、即ちその人自体が存在していない。 存在していないんだから、過去にも未来にもその人はいない。

今の私の循環器の運動が止まり、肉体が焼却処理されたら、周りの人は私と会ったり喋ったりはとりあえず出来なくなる。 このことを人は死と呼んでいる。 が、私の存在が、その本質が、上記のアルゴリズムのことであるのなら、それは不滅と言える。 とりあえずその時点で、目の前の現象としては確認できなくとも、それが在ることは間違いない。

在るのだから、それは条件次第によっては再生されるだろう。 ある炎が燃え尽きても、「発火」と言う現象自体は不滅なのだから、酸素・可燃物・着火のエネルギーと言う条件が揃えばそれは復活し、目の前に再現される。 在るものとは常に、この宇宙に潜在的に在り続ける。 同時に、無いものは無い。時空の果てまで探しても無い。 だからSTAP細胞の再現実験は、誰一人として成功させられなかった。

以下常々の持論である。 大切な人を亡くし、悲嘆に暮れる者は、その前に先ずその大切な人が存在したのかどうかを考えるべき。 存在したならいつかまた戻ってくる。あなたも存在するのであれば、時空の果てででも、きっといつかまた巡り会える。 正しい方向を向いて歩いているのなら、それが果てしなく遠い道のりだったとしても、きっとそこにたどり着く。 我々は在り続けるだけ。在りさえすれば良い。


10/21(日)

いわゆる「嫌韓」と言うような風潮が、ネット界を中心に、もう随分長いこと蔓延している。 要するに韓国人、朝鮮半島人を嫌う気分のこと。 彼らの振舞いは、日本の市民的価値観と相容れない部分が多いのだろう。

しかし、外国人犯罪の直接の被害者、などと言う特殊な人を除き、多くの日本人は彼らからの「実害」を被っていない。 例えば日本政府が慰安婦合意に拠出した10億円、あれも原資は我々の税金と言えばそうなわけだが、自らが支払った税そのものとして痛みを感じるような変人はそうそういまい。 皆が狂喜するオリンピックとかだって、選手の強化費用は税金から出てる筈だが、誰も文句は言わない。

つまり朝鮮人は、その行動でなく「思想」が嫌われている。 自らに実害の無いものの、思想を許し難いものとして憎悪する感覚、これはアドラーの言う共同体感覚だろう。 それを容認することが、延いては共同体・人類にとって好ましくないと思う感覚。 現代日本人の大多数はそれを持っているらしい。

自分に直接関係があろうが無かろうが、許し難いものは許し難い。 ヤクザにメシを奢ってもらったからと言って、暴力団を容認する人がいるなら、その人は社会正義より私利私欲を優先させたと言うこと。 私(わたくし)が、貢献の気分と対極にあることが理解していただけるだろうか。

目の前の相手に、姑息的な利を食わせることによって、自らの醜悪さを容認してもらう行為、これが「賄賂」のメカニズムである。 献金によって本来不必要な公共事業の発生源となる者。その人は予算と言う、社会全体のリソースを不当に食いあらす社会悪である。 我が身の醜悪さを自身で容認した代償は、実は賄賂そのものの額面に留まらない。 その共同体感覚の欠如は、その人の精神を、見えている世界を蝕むからだ。

私利私欲に捉われ、社会悪を容認する者は、この世界に貢献していないと言う後ろめたさから逃れられないだろう。それが共同体感覚の欠如である。 その人の人生は、常に目先の利得に飛びつくだけになる。集団の中にいても「孤独感」は拭えない筈だ。 その人は、自分がこの世界に存在する意義を、自分に説明できない。

賄賂が横行する社会の構成員が、実は不安・猜疑の感覚から抜け出せない理由もここにある。 自分には直接関係無くともそれを対岸の火事とせず、むしろ積極的に憎む感覚が共同体感覚で、このあたりが、こんにち日本人が朝鮮人を嫌う理由の最大の一つであると思われる。


10/20(土)

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私は、音楽が好きだから続けている。 メシを食うために音楽を作っているのなら、宝くじでも当たった日にはやめてしまうだろうし、また、音楽なんて作っても金にならないと思えば、その時点でもやめてしまうだろう。 でも私は、銀行口座に何億円振り込まれようと音楽をやめません。何故なら、好きなことだから。

承認される為、つまりは目立つ為に音楽に手を付けたなら、満足できる程度に目立てれば、その人は音楽をやめてしまうに違いない。 また、音楽を使っても満足に目立てないのなら、より目立てる方法を探して音楽活動をやめてしまうだろう。

金は無いよりあった方が良い。その方が生きて行きやすいから。 承認に対する欲求も、生物としての人間の生理である。それを満たさねば自己の輪郭が定まらないと言う。 それらは皆、生体としての生存を優先する行為。つまり「私(わたくし)」の所産。

この私にだって、生存への欲求は当然ある。腹が減ればメシを食いたくなるし、喉が渇けば水が欲しくなる。 だがそれらは、我々の今捉われている肉体が無くなってしまえば全て必要なくなる物。 その種の欲求の全てが必要なくなったその時に残るもの、それが我々の正体である。 その時に何も残らない人のことを、私は「存在しない人」と見做している。

好きであることこそが、物事を永続さしめる唯一の原動力である。 それ以外の衝動は、要するに環境の要請によって生じただけのもの。 腐ったものを放置すればある種の虫が大量発生するが、それと同じようなものだ。 欠乏欲求を満たしたい、と言うのは空腹・性欲を満たしたい、などと言う感覚と同種のもの。 要は単なる飢餓感である。

飢餓感に振り回され、時間の大部分を費やしてしまう人、その人はつまりは、意思以外の何かの力によって人生を奪われた人。 各種の依存症患者や性犯罪者などと本質としては変わらない。 「俺は我慢しない。好きなように生きるのだ」と言いつつ、酒やギャンブルに溺れて行く人。彼は自由なのではない。 傾向性の奴隷であり、即ち不自由である。

好き以外の衝動によって生じている運動は、いずれ絶える。 私は、終わりの始まりに手を付けようと思わないのです。それがいくら儲かると言われても。 大好きな音楽、友人、愛、全て永遠だ。


10/19(金)

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公務員はある意味、皆生活保護受給者のようなものである。厳密な意味での納税者でもない(給与明細には税の引かれた痕跡があるだろうが)。

彼らの仕事に有用性が無い、と言っているわけではない。 社会運営上絶対に必要なセクションがあり、必要性の怪しいセクションがあり、必要ではあるがコスト不相応なセクションがあり、また事実上全く必要のないセクションもある(例えば車が一台も走っていなかった江戸時代にも人々はそれなりに暮らしていたのだから、国土交通省・運輸行政、なんてものが本当に必要なのかどうかも私には分からない)。 ただ、どれをとっても採算性はとりあえず無視されている。

私は採算至上主義者ではないが、不採算と言うのは、民業であれば撤退の理由になる。 公務員の世界は一種の社会主義ではある。 別に社会主義が悪いとも言ってない。 二十世紀の社会主義国が軒並み上手く行かなかったのは、人類にとって早過ぎる試みだったからだろう。 今の日本のように、資本主義が高度に完成された社会であればこそ、本当の社会主義に移行できるような気がするのだが、これはそのままマルクスの言っていることだ。

公務員のことを「税金泥棒」などと罵る人はいるだろうけど、この社会に生きている以上、税の恩恵に与っていない人などいない。 そもそも金と言うもの自体、現体制が保証する決め事に過ぎない。 金はルールに従って与えられ、搾取され、再び配分される。 ゲームに参加する以上、ルールには従わねばならない。

日本の資本主義は、かなり最終段階に近いところにまで達していると思う。 日本の資本主義は、明治後の欧化政策によって俄かに根付いたようなものではない。それ以前の近世社会に既に(西洋とは別系統の)資本主義が成立していたからこそ、資本主義を含む西洋文明をスンナリ受容できた。 その証拠に、受容しようにも日本と同じように受容できなかった民族がほとんどではないか。 江戸期に隆盛を見た商品経済、あれは実は資本主義なのだ。

韓国人は認めたがらないだろうが、韓国は近代化に、日本の植民地支配と言うワンクッションを必要とした。 台湾と大陸の、近代化・資本主義化におけるタイムラグも、植民地化の濃淡によって生じていると思われる。 西洋人が世界各地で展開した植民地化、あれはある価値観で見た場合の歴史的必然だったろう。 彼らの言うManifest Destiny、本人たちは本気で信じていたに違いない。 実際正しいと言わざるを得ない面がある。

江戸時代と違って、今の日本は人口の8〜9割が百姓(食糧生産者)と言った社会でない。 要するに、やろうと思えばほとんどの人は無為徒食できる。 だからある時期は、公共事業のようなタスクを無理矢理生み出すことによって何事かを循環させていたし、今でもそういう体質は抜けきらない。 仮想通貨のようなものが生まれ、人々がそれに狂奔するのは、この世界必至の現象であると言える。 だって世の中の仕事の大半は、人間が自ら作り出した虚仮のようなもの。要するに全部遊びみたいなものなんだもの。

最近激しく体を壊したことが理由で、私はそれまでの仕事(を含む日常生活)を十全にこなすことが難しくなっている。 実を言うと、転職を勧められたりもしていて、紹介された中には、音楽制作の会社で比較的身体上の負担が少ないところなどもあった。 自分で言うのも何だが、私は技術者なので、モノをそんなに選り好みしなければその手の職に就くことは割かし容易い。 ただ私は、今のこの事務所での作業をやめるわけには行かない。 この仕事が私にとってのCallingであり、Destinyであるから。

音楽以外の(単なる事務職のような)仕事も紹介されたのだが、ほとんどが実態としては社会制度に寄生する油虫のような仕事ばかり。 私は音楽なんて遊びのような仕事ばかりしてきたが、一応は体制などに寄生してメシを食ってこなかったと言う自負があった。 だからその手の油虫仕事は、正直言って未体験の世界。 ただ、世の中の仕事の大半が、本質的に有用なものではないことは事実だ。経済的に引き合う引き合わないとかそう言う話でなく。 採算とか言い出したら土地転がしだって詐欺師だって採算は取れていたりするだろう。

ベーシックインカム(BI)と言う構想がある。 (試験的にでなく)本格的に導入されたケースがあるのか知らないが、少なくとも現在の日本では導入されていない。 が、私は、おそらく将来的にはそう言う制度に行き着くだろうと予測している。 「人間が思いついたことを実現し続けること」こそが人類の歴史だからだ。 思いついた以上、そこに行き着かざるを得ないだろう。


10/18(木)



昨日ニューシングル「Thorns」(全2曲)を発表した神田優花、再来週には今年最後のシングル「Your Brown Eyes」をリリースします。是非聴いてみてください。





パーマン(藤子・F・不二雄)のDVDを見ていたのだが、どこから突っ込んで良いやら分からないくらいに突っ込みどころが満載だ。

まず、どうしてパーマンのスペックはあんなに中途半端なんだろう。 最高時速119kmって。車より遅いやん。犯人が車に乗って、高速とかでぶっ飛ばして逃げたらもう追いつけない。 パーやんが大阪からやって来るなら、休憩無し・常に全速力で飛ばして来ても、ガッツリ4〜5時間掛かる。 そのスピードで国外(南極とか)にまで行ってやがる。 どれだけ時間掛かるんだ。

力が6600倍になる、と言うのは良いが、人体と言うのはそれなりのバランスを持って設計されていて、いきなり6600倍の筋力を持たされても連動する部位が持たない筈だが、その辺は大丈夫なのだろうか。 また、温度への対策は為されていないらしいのだが、あの半ズボン姿で上空を飛んだり南極に行ったりして大丈夫なんだろうか。

6600倍に119キロと言う、いずれの進数も採用されていないっぽい設定には時代を感じる。 要するに、ここが作り話ってことなんだろう。

パーマン一号の正体は、主人公須羽ミツ夫なわけだが、性格は無論のこと、服も声も背格好も筆跡も露出している顔の下半分も全て同じ。パーマンはミツ夫が半ヘルメットを被っただけなのに、誰も(親すら)パーマンの正体が分からない。 そんなわけあるか。

あと妹のガン子の呼称、ミツ夫姿の時は「ガン子」、パーマン変身時は「ガン子ちゃん」と、基本的に使い分けているのだが、DVD見てたら時々間違っている(パーマンがガン子と呼んでいたりする)。 ミツ夫が半ヘルメット被っただけなら、間違えたりもするだろう。ある意味リアルだ。 しかし、それが意図的なものである筈がない。 声優が台本読み間違ったのか、あるいはそもそもの台本が間違っていたのか。どっちにしろ制作陣は誰一人として気付かなかったらしい。 制作陣の誰一人気付かないのだから、ミツ夫が間違いもするだろうよ。 だが、それを聞いたガン子当人が「コイツ兄貴やん」と思わない筈はない。

日本人の創作物にたまに見られるんだけど、いくら顔を隠したところで人格(精神)が同じであることは覆いようが無い、と言うことが無視されている。 横溝正史の「犬神家の一族」に出てくる佐清の話でも全く同じ感想を持った。私はあれを見て以来、横溝の文学者としての資質に懐疑的だ。

大体バードマンの、パーマンの人選が疎漏を極めている。 パーマン四人のうち、一号は劣等生、二号は猿、三号は日本一忙しいであろう小学生。メチャクチャだ。 あとパーマンは世界だか日本だかの平和を守るために存在しているようだが、全四名のうち関東近郊(おそらく東京)に三人、大阪に一人、と言う配置はちょっとアンバランスだ。 パーやんは、鎌倉幕府で言うところの六波羅探題みたいなものなんだろうか。 沖縄とかで事件あったらどうするんだろう。

パー子の正体である星野スミレは超人気アイドルと言うことになっているが、小学生のスーパーアイドルはちょっと現実的でない。せいぜい有名子役と言ったところだろう。せめて中高生くらいの設定にしないと。 あと、基本的にパー子と星野スミレは顔が違う。 星野スミレにあのヘルメットを被せてもパー子にならない。口の辺りのデザインが違う。

作中に星野スミレが持ち歌を歌うシーンが度々ある。 パーマンの挿入歌とかいわゆるキャラソンのようなものを使い回しているらしいのだが、あれもキチンとそれ用の曲を作るべきだろう。 テレビに出ている人気アイドルのレパートリーが「パーマンの歌」ばかりなのは不自然だ。

あとパーやんは「がめつい(金に汚い)」キャラに描かれているのだけど、大阪人=守銭奴、と言うようなステレオタイプなイメージって、発祥はどこにあるのだろう。 あれ、嫌がる大阪人結構いるんじゃないか。

パーマンバッヂのあの着信音は何とかならないのか。 肌身離さず携帯せねばならない物なら、マナーモードくらい付けてくれ。

コピーロボットは鼻が赤いのだが、あれ、視聴者にだけ分かるように入れた記号のようなものでなく、作中でも設定として「生きている」らしい(ファンデーションで鼻の赤みを隠す話が出てくる)。 だったら誰がどう見てもミツ夫の鼻が赤いじゃないか。それもパーマンと一緒にいる時には必ず。 テレビに出てる星野スミレも時々鼻が赤いけど、視聴者は気付かないのか。

コピーロボットは、基本的に本人と「同じ」ものであるらしいが、本当に同じであるなら、もう自分がコピーなのか本人なのかすら分からなくなる筈だ。 双子ですら認識を共有してしまうことがあると聞くのに。 あとコピーロボットは起動時に、服を着た(裸でない)状態であるのだが、どこまでコピーされるのだろうか。手荷物とかもコピーされるのか。

パーマン二号(ブービー)は猿なわけだが、彼にも「正体を明かしてはならない」と言う命令があるらしい。実際、正体がバレそうになって四苦八苦する、と言ったエピソードが出てくる。 しかし猿の正体って。ヘルメット被ってても猿であることは明白なわけで、「猿である」と言うことが全てだろう。 正体もクソも、普通の人は猿を二匹連れて来られたらもう区別が付かない。

しかし主人公「すわみつお」は、「男はつらいよ」の寅さんの甥っ子と同姓同名(漢字は違う)である。 調べたらパーマンの(連載の)方が若干早期に始まっている。 山田洋次はパーマンを知らなかったらしい。

パーマンは正義のヒーローと言うことになっていて、話の中では警察と協力関係にあったりするのだが、もし本当にパーマンが実在したら、警察はあれを嫌がるだろう。 自分らと表面上似たような使命を持ちつつ、自分らの統制下に無い団体。きっと潰しにかかる筈だ。

と、ここまでイチャモンをつけたが、面白くないわけではなく、文句を言いながらも見てしまう。 私は基本的に藤子さんの創作物が好きだ。


10/17(水)

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神田優花、ニューシングル「Thorns」(全2曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Thorns/Virus

Thorns
物語のような曲。
管弦楽の世界にトリップ出来るように歌を乗せました。

オーケストラに異質な琵琶の音色が曲に深みを持たせていると感じたので、
自分の歌声もその一部となるよう、高音域を美しく、というのに心を砕いた曲です。


Virus

これは2分弱と短い曲ですが、おもしろい試みをしてます。
曲の持つアクティブさに、メロディラインを一部無視して歌ったりして遊んでたんですが、
これがおもしろいってことで、急きょメロディ通りに歌うバージョンと二通りレコーディングすることに。
あまり歌を作り込んでからじゃ、おもしろいデタラメ感が薄れると思ったので、先にデタラメなままのを録った後、数時間で歌を作り込み、再びレコーディングブースに入るという…。

おもしろかったです。

かなりテイストの違った2曲ですが、それぞれ楽しんでいただけますように。

神田優花





来週水曜には、影山リサ「サマちゃん絵描き歌」(全2曲)が発売されます。 ちょっと久しぶりの新作です。




10/16(火)

神田優花、明日発売の新作「Thorns」(全2曲)、収録曲について。


1.Thorns

管弦楽バックに歌物を書いた。 オケ作りは、ほとんどこれだけに数週間費やしていて、ボーカルも合わせると30パートくらい書いている。 でも大袈裟な割には3分半くらいしかない、コンパクトな曲です。

私はクラシック畑の人じゃないし、管弦楽法とかもいい加減にしか学んでないんだが、まあ見様見真似で作ってみるわけです。 アレンジの引き出しの一つとして管とか弦とかも持っていたい。

言うように、バッキングに多くの比重が割かれた曲なんで、歌としての面白味にはやや欠けるかもしれない。 でもまあ、こういうのもたまにはあって良いんです。

間奏(カデンツァ)に当たる部分、筑前琵琶が担当している。琵琶コンチェルトみたいな仕上がり。 ただ間奏だけにしか使ってない。 私は弦と木管の組み合わせが好きなんだけど、これには金管の音も使ってる。 金管が入ると途端にやかましくなる気がするんだけど、まあこの曲についてはさほど気にならず、割かし上手く出来た方だと思っている。

11月に出るアルバムのタイトルが「Garden Of Thorns」。まるでアルバム(Garden Of Thorns)のタイトル曲かのようだけど、全然そういう位置付けではない。 アルバムタイトルが決まった後で書いた曲。むしろアルバムの方に引き摺られてこういうタイトルになった。 結局収録することにしたけど、当初アルバムに入れるかどうかも迷った。


2.Virus

TR-909(実器ではない)の音のみでバッキングを作った曲。 ほぼそれだけ。 リアルタイムでツマミを弄ってるんだけど、GUIの問題で、二つ以上のパラメーターを同時に動かすことが難しくて、オートメーションの為に複数回トラックを再生したりした。 三つ以上のツマミを同時に動かすとそれはそれでリアルでなくなるので、極力それは控えている。 一応実器の操作性を想定して作った。

歌詞はファミレスでチラシの裏に数時間で書いた。内容もほぼ無意味で、全体の半分くらいのテキストを書いて、あとはそれをリピートしてる。 手抜きだけどたまには許して。

この曲、仮タイトルを本タイトルにした。 データ管理の便宜から、歌詞が乗る前の曲にも大抵仮タイトルってヤツをつけるのだけど(「試作品1」とかだと内容が思い出せなくなる)、ある程度曲のプロットと関連する用語である時もあれば、単にその時視界に入った単語であるケースもある。曲に使っているシンセとかのプリセット名にすることなんかも割りと多い。 この曲はその仮タイトルのまま完成品としてるんで、タイトルと歌詞との関連がほぼ無い。 これもたまにはアリでしょう。 ウチの作品で詞の内容とタイトルが無関係な場合、仮タイトルのままってケースが多い。

メロディーについては、それなりに考えて、普通のPOPS的・和声的でないものにした。 本当にバッキングにほぼ楽音が無いので、調性音楽っぽいものになりにくい。 尺は1分半とごく短い。プロット相応の尺を設定したらこんな感じになりました。





今月末に発表予定の「Your Brown Eyes」って曲がある。 あんまし今までの神田優花っぽくない曲と言うか、音使いなんだけど、仕上がりを聴いたらそれなりに良くって、それっぽい曲をもういくつか作ることにした。

イメージとしてはEDM・ダブステップ・エレクトロニカとか、そういうのをエッセンス的に取り入れたPOPS。 私は流行の音楽を追っかけるタイプでもないし、一過性の音楽ジャンルにそこまで強い関心を持たない人なんだけど、まあ今はたまたまそう言う音が興味の対象になっているわけです。 EDMとか言ったけど、四つ打ちのようなリズムはあんましイメージになくて、どちらかと言えば、音使いのみを抽出して取り入れた感じのものにしようと思ってます。


10/15(月)

唐突だが、私は神は存在すると考えている。 私は特定の宗教の信者でもないし、神さんと言う人格がどこかにいる、とか思っているわけでもない。

神と言うのは、要するに自然界の摂理であり宇宙の意志のこと。 それは全てを包摂する。 この宇宙に貢献しない者が結局淘汰されて行くのも、つまりはそこに神の意思が働いているからではないか。 この世界が何故存在するのか、我々が何故生まれてきたのか。そこに神の意思が介在しないわけがない。

私はキリスト教などの一神教信者でもなければ、英語圏人でもない。英語で思考する習慣も基本的に持たないが、彼ら欧米人が感じているGod概念を、かなり忠実に体感できていると自負する。 どうしてかは分からない。アートなどと言う作業を、長いことやり続けていたからかもしれない。

アートとは創造であり破壊である。美醜の判定を下し続ける作業。 言語の持つ同定機能によって、対象が等質であるか異質であるかを日々判定し、階層を積み上げ、登っていく。ヘーゲルの言うアウフヘーベンも、つまりはこのことを指しているのだと思う。 そして、究極まで登り詰めた先にあるものは神でしかない。 芸術家は神を志向している。

ピカソについてあれこれ調べていた時期があったのだが、彼には断片的な語録は残っていても、精細な著書は無い。 だから正確な思考を辿るのは本来難しい筈なんだが、正直私はかなり正確につかめていると思う。 で、そのピカソだが、「芸術家の目指すところは神である」と言った主旨のものが語録などに残っていないかと探していたのだが、今のところ見つけられていない。無かったのだろうか。 彼が西洋人であるから、自明過ぎることとて、一々口にしなかったのかもしれない。


ラマチャンドランは著書で、人間の、意思以外による作用の全てを「ゾンビ」と呼称していた。 寝ている私の循環器が稼動し続けることも、彼に言わせればゾンビの仕業と言うことだろう。

翻って考えると、人間には何故意思なんてものが備わっているのだろうか。 全部ゾンビ任せでも生きては行ける筈である。 事実魚類や昆虫には意思など無いだろうが、生きてぐらい行けている。 生きて行くだけなら必要なかったかもしれない意思が、我々に備わっていること。ここに神意を感じずにはいられない。


神に救いを乞う者は、最低でもその人なりに誠実であらねばならない。 普通の論理性さえあるなら、人は疚しい気分のままでは、救いを得られるどころか、自分にそれを乞う資格すらあると思えないだろう。 神とは自分の心の中にいる対話の相手であり、ある意味自分自身である。 どんなに他人は騙せても、自分だけは欺けない。

この世界に貢献したと言う自負が、神を信ずるに足るものにしている。 心の底から誰かを応援できた時に、その人には「知らない何かが祝福してくれる予感」がする。 ここが信仰の基礎となっていると思われる。 当然ながら、何の貢献もしていない(結果できていないと言うより、する意志の無い)人には、神が自分を祝福してくれる予感がしない。 だからこの世界が、未来が闇に見える。

私は、美醜の感覚に個人差はほとんど無いと考えている。感受性に濃淡はあっても、方向性の違いなどほぼ無い筈だ。 私が美しいと感じる何かを醜いと感じる人が本当にいるなら、その人は夏の炎天下の中「寒い」と凍えていることになる。 そんな筈ない。

美醜の感覚に差は無いが、表明には差が出る。事実、どう見ても美しくない物を美しいとする人はいる。 何故か。私(わたくし)が混ざるからである。自らの生存を優先する気分が、美醜と言う本来誰にでも見える筈の何かを見えなくする。

この世界に生まれてきた我々が、この世界に貢献できたなら、それが即ち自信となるのだろう。 意志を持って生きるだけで良い。美しいものを美しい、醜いものを醜い、とするだけで良い。 私(わたくし)に捉われ、私利私欲の趣くまま、目先の利得を追いかけ続ければ、その人は不安の中で生きるしかなくなる。

天は自ら助くる者を助く。これは真実だ。 意志無き者に、きっと神は見えないだろうと思う。


10/14(日)

漫画雑誌には、執筆者がいて、編集者がいる。 担当(編集者)は自分が受け持つ漫画家の原稿をチェックし、特に新人漫画家などの場合、あれやこれやと細かく指図する。

もし編集者の意見が絶対的に正しいのであれば、彼こそがその漫画を描けば良い。あるいは絵が得意でないなら原作者になれば良い、と思われる向きもあろう。 でも、実際にそういったケースは少ない。 これは単純に編集者の意見が正しくないから、ではない。

特に子供向けの漫画などの場合、読者への訴求力を維持するためには、ある程度その作家の精神的な「子供さ」が必要になる。これは実年齢と必ずしも連動しない。 この「子供さ」が枯れ果ててしまうと、彼の描く漫画は、子供の心に届かなくなる。

編集側は、一定の子供さを保った作家を起用し、懇切な指導の下、漫画を描かせ続けている。 漫画界もそれなりに歴史のある業界である。それが最上策であるからこそ、そのような形態に収斂したに違いない。 新人ミュージシャンとディレクター・プロデューサーなどとの関係に似ている。

人間の思考は単純でない。 編集者は大人であり、大人相応に頭が良いが故に、ある着想を形にできない。 形にする過程で否定し、消し去ってしまうようになる。 論理性がそうしてしまうのだから、一概に悪弊とも言えない。

だから編集者は、子供心を濃厚に残している若者に漫画そのものは描かせ、自らは編集者と言う立場で方向の指示をする形を採っている。 子供漫画が、彼らにとって理解不能なものであるなら指示もできない筈で、やはり彼らは分かっているのだ。自分では描けなくなっているだけ。


10/13(土)

人は誰も皆、得をしている。 人間を理解する上で、ここは原点として踏まえておきたい。

千円札と一万円札、どちらを選ぶかと問われて、千円札を選ぶ人なんていない。 異性を選ぶ際なども、人はより良い条件の相手を探す。 感性・価値基準が違うことはあっても、わざわざ損を拾いに行く人なんていない。

「どうしてあんな相手と一緒になったんだろう」と、周囲が理解に苦むような人はいる。 が、きっとその人もその人なりの得を拾っているのである。 単にその相手が「いないよりマシ」と言うのだって立派な理由である。 「結婚相手を得られない者の人格が疑われる」と言うのは、割りと広くコモンセンスとなっているように思われる。 事実そこにそれなりの理由もある。

資産のある人、高学歴・高収入の人が良い。こういう感覚は私(わたくし)である。 生存上の利点を漁る行為。 好きな人・愛すべき人と言うのは、自らの生存とは無関係に存在する。

愛すべき人を愛すなど、(私でなく)理性に従って生きることだって「理性に従いたい」・「好きな人と一緒にいたい」と言う私利私欲ではないのか、と言う疑問は当然起こりうる。 でも違う。 理性は私と全く違う次元に存在している。 これは説明すると多くの文字数を割かざるを得ないので、マイケル・サンデルの著書でも読んでもらいたい。

得を拾う(収奪する)為に異性を選べば、その異性から得られる収奪物が尽きた時、その関係は終わる。 容色のみを売りにする女性は、それが衰えた際に捨てられやすい。 破産を期に、女房に逃げられる成金は多い。

私が愛や友情に価値を置くのは、それが一時の利害によって生じている政治的均衡でないからだ。 私は好きな人こそを恋人や友人として選ぶし、好きなことを生き方として選びたい。 私はメシを食うために已む無く音楽を作っているのではない。私が好きだから作り続けている。

私がこの目に映しているのは、永遠に続く何か。 それ以外のことって、本当はどうでも良い。 金も名誉も別に欲しくないけど、周囲がそれを求めてくることが多いんで、仕方なしに最低限のそれを持ったりしているだけ。


10/12(金)

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言葉の乱れについて。 福岡県あたりの方言(スラング?)で「バリ」と言うのがある。「とても」とかそう言う意味だ。「とても速い」なら「バリ速(はや)」とか言う風に使う。 まあどこの地方でもこの、英語で言うところのVeryに相当する言葉は方言化されやすいらしい。

私は福岡に住んでいたんだけど、中学生くらいの頃、「とても腹が減った」と言う意味で「バリ腹」と言って笑われていた子がいた。 今考えると、それがおかしいことが分かるのだから、中学生って皆それなりに国語力がある。 母語話者の勘ってヤツだろう。

若者がスラングと言うか、若者言葉を喋っているのを見て、大人はしばしば「言葉の乱れ」を嘆く。 私も言葉の乱れは論理の乱れだから、無論望ましくないと思う。 だが、若者言葉くらい、どの時代のどこの文化でもあったろうし、それ自体は特に問題ないと思う。 つまり私は、それを「言葉の乱れ」とは思っていない。

私が問題だと感じるのは、上の「バリ腹」のような例である。 そう言う言葉を平気で使い出したら、その人の思考回路は怪しい。 大人が嘆くべきは、スラングとか若者言葉でなく、非論理だ。


10/11(木)

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ここ最近、モンゴル帝国(とその後継国家ら)について、いくつかの本を読んでいた。 モンゴルは人類史上ほぼ最大の版図を誇った、最強の集団だったと言うことになっているのだが、私には「果たして本当にモンゴルは強かったのか」と言う素朴な疑問がある。

彼らはモンゴロイドである。 黒人のような見るからに屈強な身体を持つわけでなく、相対的に優れた科学技術を持っていたわけでもない(使用していた重火器類について言えば、技術者も含め、ほぼ他文明からの収奪物だ)。

彼らは他文明を本質において吸収せず、利用する場合はその利器を、工人ごとさらった。 モンゴルは儒教圏でもなく、技術者を卑しむような伝統は薄かったのではないかと思うが、そう言う実態であった。 その性質を「モンゴル人の気高さ」のように評しているものも目にしたが、私は単に技術・メカニズムごと吸収する素地が無かっただけなのではないか、と疑っている。

北朝鮮は工作員養成の為の語学教育機関を作る際、その教員として、日本人を身柄ごとさらった(拉致した)。 権力者の饗についても、(調理技術を学び取るでなく)料理人ごと日本から招来したことも分かっている。 貨客船を使って日本の文物を片っ端から買い付けると言うのも、国産化の意志が薄いことを思わせる。 日本だって過去には、(自国通貨でなく)明銭が流通していた時代もあった。 北朝鮮は偽ドル札を密造していた。

民族は、それが未開であればあるほど、他文明に「乗る」傾向が強くなる。 ピストルを手にすれば、子供だって大人を殺せるが、子供は引き金を引くことはできても、決して拳銃を製造できない。 因みに日本人は、鉄砲伝来の直後から国産化に成功している。

いわゆるモンゴルの集団戦法についても、あれをモンゴルの先進性とするのは間違っているような気がする。 事実、集団を形成し、戦闘を行う動物は、ライオンにしたって蜂にしたって、集団戦法を採用している。人間もそうであったに違いない。 もしライオンなどが、争う両陣営から勇者一人づつを選りすぐり、一騎打ちをさせたりすることがあるのであれば、その様式性は一種の文明に到達しているように思える。

実際、いわゆる元寇(文永・弘安の役)においても、元軍は、日本兵(鎌倉武士)と組打ちになりそうになったら、恥も外聞も捨て、背中を見せて逃走している。それがほとんど常だった。 この辺も未開人と言うか、もっと言えば人間以下の動物を思わせる。

源義経は戦術・戦闘の天才と言われている。 いわゆる源平合戦の勝利は、彼のその天才性に負う部分が大きい。 ただ彼は、当時の戦闘行為における暗黙のルール(いわば戦時国際法)を悉く無視した。 壇ノ浦の時には、当時非戦闘員と見做されていた水主を狙い撃ちし、生存を最優先するあまり、戦局の次第によっては敵に背を見せ、一目散に逃げた。 「義経ジンギスカン説」は笑止だが、彼の性質がモンゴル人と合い通じているのは事実のように思える。 彼は女癖が悪く、有名な腰越状などを見る限り、政治的な頭脳も持っていない。

元との戦いにおいては、日本人の戦闘時の様式性(鏑矢だとか名乗りだとか)が物笑いの種になった、と言うことが記録に残っていて、有名でもあるのだが、彼らの方が文明人であったから、とは一概に言えまい。 日本は国家としての歴史も古く(当時でも既に世界最古級であったろう)、文化的な蓄積も豊かだった。 戦闘様式なども文化であったし、文化だからこそ不合理な面もある。 事実人間以外の動物は、ある面で合理性を持つが、同時に合理性しか持てない。

理性も廉恥心も持たず、当然様式も持たず、ただ一戦闘において勝つことのみを命令とするなら、人は出来うる限り何でもやるし、そういう人には敵わなかったりする。 それは彼が強いのではなく、未開人なのである。


以下は蛇足だが、蒙古と言うのは、中国人が付けた蔑称である。 その意味は、単刀直入に言えば「バカ」とかそう言うもの。 まあ隣接する国同士には、よくそう言う蔑称が生まれるもので、それ自体は珍しいことではない。

しかし後の元は、ある時期まで「大蒙古帝国」と自ら名乗っていて、日本宛の国書にもそうある。 漢語・漢文は当時の東アジア地域における公用語・リンガフランカであったから、国書寄越すんならそれ使うのが常識ではあった。 しかし、フビライ・ハーンは、モンゴル人にしては比較的中華文明に理解があったと言われているのだが、本人も文書作成担当のブレインも気にならなかったのだろうか。

当時(鎌倉時代)の日本に、その国書を見て「これフザケてるんじゃないのか?」と本気で思った識者がいたと言う話をどこかで目にしたような気がするのだが、今その出典を探せない。 でも、漢語に通じている者なら当然思うだろう。

現代人に分かりやすいよう、「大蒙古帝国」類似の名称を挙げるなら「バカ田大学」とかそう言うのが近かろうか。「大バカ帝国」なんだもの。 冗談かと思うわな。


10/10(水)

神田優花、新曲のレコーディング。 今回のは軽めのジャズ。ジャズっぽいのを二曲でシングル化しようと思ってまして、そのカップリング用の曲を録ってました。

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ニューシングル「Heartache」(全2曲)が本日発売されています。 下は神田優花本人から。


Heartache/Drive

Heartache
とても爽やかな1曲。
でもそれだけじゃなく、強さを忘れないように、と歌いました。
今日がダメな日だったとしても、やがてくるであろう明日を心待ちにしていたい。そんな気分で。

Driveは軽快な疾走感と、重層感たっぷりの低音が魅力的な曲。
タイトル通り、鉄の塊がスピード上げて走り抜ける感じ。

いろんな声が聞こえてきますが、正真正銘私一人が歌ってます。

楽しんでもらえたら嬉しいです。
ぜひ、聴いてみてください。

神田優花




10/17(水)には次のシングル「Thorns」(全2曲)発売です。





我々が大切にすべき人とは誰なのか。

私は親には愛されなかったんだけど、仮にもし私に、私を愛してくれる母がいて、同時に、手の届く範囲で適当に選んだ次善の嫁がいたら(私はそんなの選ばないけど)、私はどちらを大切にすべきか。 言うまでもなく母親である。 私はいわゆるマザコンのような気分の薄い人間だが、これはそう言う気分の多寡と関係がない。

もし実家の母が困っていたら、病に倒れたなら、私は仕事も何もかも放り出して、即座に実家に駆けつけるだろう。 もしそれが、その時点での結婚生活と抵触するのであれば、私はそんなもの捨てるだろうと思う。嫁も新居も。

「子供がいたらどうするの」と問われるなら、「私は母の側にいねばならんから、子供の面倒はとりあえず見といてくれ」と嫁に頼むかもしれない。 それが無理なら子供を背負ってでも実家に駆けつける。 私を愛してくれた母、私の愛する母の為には、中途半端な嫁や結婚生活など捨てても構わない。あるいは子供だって捨てる。 誰に何て言われたって関係ない。

愛に何よりの価値を置く私の姿を見て、もしその子が何かを感じてくれたら、私の親としての役目はある意味終わりだ。

逆に私を愛さない母親がいて、同時に私を愛してくれる恋人がいるなら、私は当然後者を選ぶ。 親不孝などと言われても関係ない。

私の言っていることは単純だ。 私は、私を愛してくれる人を大切にする。このことに迷いなど無い。 私は、愛が結果的にもたらす即物的な何か、に価値を置いているのではない。あくまで愛と言う動機に価値を置いている。 我々が本当に大切にすべきは、我々を愛してくれる誰か。

私は、大切にすべきものが何なのか間違えたりしない。 もしその優先順位を間違うような人なら、私はきっと曲も書けなかった。


10/9(火)

神田優花、明日発売の新作「Heartache」(全2曲)、収録曲について。


1.Heartache

こんな感じの曲をいくつか書いてた時期に作った。 ギターを中心としたバンドアレンジっぽい曲。

メロディーとかコードとかはシンプルなPOPSのそれ。 核となるギターはエレキとアコギ(12弦)のアンサンブル。私には珍しく、割かしキッチリ左右に振ってる。

こう言うシンプルで明るい曲って、それはそれで歌い手の力量を問うもんです。 こう言うものをソツなくこなすのにも、相応のキャリアのようなものが要ると思う。


2.Drive

バンドっぽい編成にシンク系のシンセリードやS&H(Sample&Hold)、それらはとりわけMoogっぽい音、ベースはフレットレス、みたいなイメージがあった。 曲そのものはシンプルで、バッキング作りにも時間掛けてない。

ボーカルのメロディーラインに微分音が頻出する。ハズしてるわけじゃありません。 あとサビの部分、ところどころで(ピッチでなく)フォルマントを弄っている。 編集段階で俄かに思いついたようなものでなく、そういう効果を事前に想定した上で歌も録った。

神田優花と言う人はこういう音域の曲が割りと得意であるみたいで、ほとんどリハーサルにも時間を掛けずに録れた。 最初からシングルのタイトル曲とかには向かないと思って作ってたんだけど、こういう位置付けになりました。






アスペルガー症候群の旦那さんを持ってしまった女性の手記(マンガ)があって、以前それを読んだ感想をこのページに上げたことがある。 またあらためてそれについて考えていた。 因みに「アスペルガーって何?」と言う人にアスペルガー症候群を説明するつもりは無いので、知らない人は調べて欲しい。

その女性(作者)は、旦那に散々困らされた挙句、最終的には別居するに至ったそうだ(その破綻に至るまでの過程を漫画化している)。 が、私はその旦那さんの方がかわいそうになる。 何故なら彼は、出会ったその日から寸分変わらぬ彼であったに違いないからだ。 どうしてその寸分変わらぬ彼が、ある時は熱愛の対象となり、ある時には捨てられるのか。

早い話が、その女性の方が、異性を「収奪の対象」としてしか見ていないからだ。 結婚相手とし、結婚式を挙げ、新婚旅行に行き、新居を構え、子を作り、ある時にはATMとし、ある時にはサンドバッグにした。 収奪の余地がほぼ無くなった後、その旦那を冷静に見たら、ただのゴミクズにしか見えなかったらしい。 要するに「出涸らし」となったのだろう。

旦那の方はアスペルガーなのだから、日々の精神的ストレスはあったかもしれないが、その結婚生活そのものから受ける直接的な負荷は少なかったのではないかと思われる。 だが、嫁(その作者)の側が受ける負荷は深刻だったろう。 無神経・無配慮にイラつかされる日々、人格的な魅力を全く感じられない相手とのストレスフルな生活。その気分を、収奪と言うカタルシスによって相殺していたのだろうから。 収奪をし尽くした後のその相手との生活には、苦痛しか残らなかったろう。 破綻は不可避と言える。

しかしその旦那、収奪の対象として見た場合、本当に良い物件ではあったと思える。 唯々諾々と収奪され尽くした挙句、捨てられること(その別居の提案)にすら抵抗した形跡が無い。 キリスト教徒は「全ての人間には神の与えたもうた人権が備わっているが、それを感じない者、それを行使する意思の無い者に、それは無いものと見做す」そうである。まあ私もそれで良いと思う。

飛び降り自殺をする者だって、地面に届くまでは生きているように、「破綻までの時間が残っているだけ」と言うようなカップルは多い。 破綻に至るまでに当事者らの寿命が尽きることだってあるので、例えば表面的には、離婚・破局に至らないケースも多い。 ただ、今の私は、そう言うものについては、理解できさえすれば良い。一々経験として踏む必要は無いと思っている。

一月続く関係があり、数年続く関係もある。あるいは百年千年続く関係だってあるだろう。だが、私はそれらのいずれも欲しくない。 私が欲しい物は、永遠に続くもの。 水の流れのように自然で、誰かの犠牲によって成り立っていないもの。 誰かの犠牲によって成り立つものは、水を堰き止めているようなもので、その負荷は常に決壊の危険性を孕む。 私の論理性はその種の緊張を嫌う。これは野生動物が地震を予知するメカニズムとかと似ているのかもしれない。

愛と言う発明の偉大さは、与えることによって与えられるところにある。 人類はそれによって永遠の可能性を得た。


10/8(月)

貢献について。

貢献する気分を持たずに生きれば生きるほど、その人は疚しさから逃れられない。 「私(わたくし)」が忌むべきものとされたのも、人間は究極的に理念の生き物だからだろう。 心の在り様こそを至上の価値としてしまう。高度な生き物である証拠だ。

「私」と言うのは、個体としての生存を優先する心の在り様のことで、それは、意志性・理想・貢献の気分など、人にとって大切なものを蝕む。 共同体に生きる我々人類にとって、過度な私を抱える者は、それが過剰であればあるほど不要な個体と見做されるだろう。

「私」は、芸術にとっても明らかな敵である。 私が混ざれば混ざるほど、美醜の感覚には狂いが生じる。 芸術のような美の判定作業において私とは、病原菌のような、排除されるべきもの。 人が守るべきは、自分が美しいと感じられるもの。 美しいものは美しいし、醜いものは醜い。これは我が身の生存とは関係が無い。

「知りたいこと」が原動力となって、学問の世界を志す者はいる。良い研究者になるには日々の研鑽も必要だろう。 これは自由であり意志である。 「高学歴であった方が就職に有利」と言う気分は私である。そこに貢献の気分は含まれていない。だから俗物・権威主義者と言ったものは蔑称となっているのだろう。それらは要するに私に捉われている者を指す。

同じく机に噛り付いている者でも、動機がそれらを分けている。 動機に私利私欲が含まれるかどうか。 私を捨て去ること、それが即ち貢献の気分である。 事実、意志を動機とする者らこそが人類を救ってきた。

「愛すべき人だから愛す」のでなく、「手に入りそうな対象だから手に入れたくなる」と言う妥協的な気分で恋人を選ぶ人は多い。 経験上異性にモテなかった者には、「私に恋人などできるのだろうか」などと言う懸念が頭をよぎる。 そこから来るある種の気後れから、相手を得る為に妥協する気分は生まれる。それは即ち自らを値引きすることで、要するにそれは私の所産。 そう言う生き方をすればするほど、人は疚しさの中で生きねばならない。

疚しさを払拭するに不可欠なもの。それは貢献の気分。 貢献って何も、私財をなげうつこととかボランティア活動とか、そう言うものを直接的に指しているわけじゃない。 自由に、意思的に生きるだけでも十分に貢献なのです。 ピカソや北斎の存在が、今日を生きる私の勇気に変わっているように、自由に判断し、自由に生きるだけで、きっとその人はこの世界に貢献している。 美しいものを美しいとするだけで良い。ただ、私を捨て去るには、勇気が要ります。

誰かに「がんばれ」と説教する必要は無い。 それよりも先ず、我々が心の中で「がんばろう」と思うだけで良い。 と言うか、むしろその心に人は勇気付けられる。 それは既に貢献なのだと思う。


10/7(日)

ある小説家について話していたら、「この人は普段どういう人だったのだろう」と言う疑問を投げかけられたのだが、私は何となくそれを知っていた。 小説だけでなく、その人のエッセイのようなものも読んだことがあったからだ。

文章、特に随筆・日記(あと史伝とか)のようなものは、とりわけその人を代弁する。 著書ってのはそもそもそう言うものであるのだが、日記の類は小説などに比べても、残っている体温の部分が大きい。 「直接会った印象」ってのも裏切らないものではあるのだが、時間・空間の制約がある以上、直接会える相手は限られる。

歴史の中の人物に直接会うのは難しい。 歴史上の人物について考える時、私がよく思うのは「この人が文章を残してくれていたら」と言うこと。 例えば徳川家康などと言った日本史上の超有名人は、有名人なだけに逸話の類も多く残されているが、結局のところその人の正確な思考の部分が辿れない。 文章が残ってないからだ。 坂本龍馬など、自筆の書簡が大量に残っているような人物であれば、その人の思考はある程度掴めなくもない。 慈円や兼好法師は著書を残してくれているから、その俗っぽさも含め、人物像が明瞭だ。

大部の自伝とかならなお良いが、断片的な日記や書簡の類で構わない。 それが残っている人物とそうでない人物とでは、後世人の私にとって、人物像を結ぶ際における解像度、が全く違ってくる。


10/6(土)

10/24(水)に、影山リサのニューシングル「サマちゃん絵描き歌」(全2曲)が発売されます。 確か3〜4ヶ月振りくらいの新作になるのかな。 お楽しみに。





大阪の逃走犯、続報を聞いての雑感。

ある時期、彼は四国に潜伏し、遍路を装っていたらしい。 ある時は自転車で日本一周を目指す好青年、ある時はお遍路さんに扮していた。 きっと、必要なグッズはほぼ全て盗品、それらしき振舞いは全て演技、であったろうが、そもそもの警察署からの脱走も含め、その行動力に驚かれる人も多いのではなかろうか。

彼をして「知能犯(平均以上に高い知能を持つ者)」と感じる人がいるなら、それは誤解である。 人間の思考とは、そんなに単純なものではない。 今の私はそこが分かってしまった。

弁護士との接見機会を利用して警察署から脱走し、方々で窃盗事件などを起こし、ある時はある者に変装し、逃避行を続ける、このようなことを一般的普通人はやらないが、決して「思い付かない」のではない。 大抵の人はその程度のことになど容易に思い至るが、それを実行には移さない。 それが悪手である(得策でない)ことまで容易に分かるから。 あるいは、自分がそれを思い付いたことをハッキリ認識すらしないうちに、何十手も先に、瞬時にしてその想念を脳内から消し去っていると思われる。 だから(自分もそれを思い付いたことを忘れて)それを実行に移す人に驚嘆してしまったりもする。

その程度のこと、誰だって可能性の枝葉としてくらい思い付くんですって。それくらい人間の知能は高度だし、思考は複雑・重層的である。 むしろ、思い付いたことを実行に移さずにいることにこそ、理性が求められる。 理性は当然ながら言語に拠る。

理性が無ければ、人間は思い付いたことを片っ端から実行してしまう。 その性質をある種の専門用語で「行動抑制障害」と言うのだが、彼は典型的なそれを抱えていた。 だから引ったくりでも婦女暴行でもやれてしまい、挙句犯罪者として警察に拘束されていた。 その脳の状態が、ある局面に晒された時に「好青年に化ける」と言う得策を選んだ、と言うだけ。


10/5(金)

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来週10/10(水)にシングル「Heartache」(全2曲)が発売される神田優花ですが、再来週の10/17(水)にはその次のシングル「Thorns」(全2曲)をリリースします。 予定では、それらプラス、シングル1・アルバム1タイトルを年内に発表することになります。 下はその「Thorns」のジャケット。




そう言えば、昨年末くらいから神田優花のイメージ類をマイナーチェンジしてまして、黒基調のものからもう少し明るめのものに変えてます。 事務所の方針と言うか意図的なもので、スチール撮りの時点でもうあえて黒めのバックでの撮影をしてません。

 

 

↑こういうのから。

↓こういうのに変えて行ってるわけです。 今後暫くはこんな感じになると思います。

 

 


10/4(木)

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承認欲求について。

アブラハム・マズロー(心理学者)は、人間の基本的欲求を五段階に分け、そのうち下層の四段階を欠乏欲求とした。 つまり五段階とは言うものの、最上段と下層四段は隔絶している。

最上段の欲求を自己実現欲求と言う。 アートと言うのは、作品を作ると言いつつ、実は自己を実現する作業である。 アーティストは自分を実現し続けている。 実現するのだから、その前段階として想像せねばならない。 想像を実現し続けること、それが芸術。 想像力の限界こそがその人の限界である。

ミュージシャンらを眺めつつ、私はしばしば思う。 彼らの多くは、自己実現をしていると言うより、欠乏欲求の一つである承認欲求を満たそうとしている。つまり、音楽を使って、それを満たしてもらおうと考えている。 だから、自己を追求すべく作品と向き合うでなく、常に手っ取り早く目立つ方法を採る。 駅前の往来で歌い出してしまうのはそのせい。

つまり動機ごと違う。 マズローは階層化された各欲求について、基本的に下層が埋まらないと上層に至らない、と結論付けている。 だから一部の人にはまだ、アートと言う作業は早いと言うこと。 あるいは死ぬまでその境地に至らないかもしれない。おそらくそうだろう。


ついでだけど、私はマズローの説に一部肯んずることができない(概ね同意するけど)。 欲求、特に欠乏欲求は、そんなに画然と階層化されていないように思えるからだ。 複雑に絡み合って同時併発的に発症したりするケースが多いのではなかろうか。


10/3(水)

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広瀬沙希のニューシングル「 誰にも聞こえない歌」(全1曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


「誰にも聞こえない歌」はロックテイストな曲です。
特定の加害者のいない、まるで空気のような出来事を、被害者の立場から皮肉を込めて歌っています。
この曲を聞いて下さった方の心のモヤモヤが、ひとつでも浄化されることを願っています。

広瀬沙希





来週水曜日には神田優花のニューシングル「Heartache」(全2曲)が発売されます。





大阪の逃走犯の件、続報を仄聞するのだが、思うところを書き残す。

彼が捕まった際、取り押さえた警備員(女性だそうな)には世間から賞賛の声が上がったらしい。 「よくぞあのような凶悪犯を取り押さえた」と。 確かに言われてみればそのように思えなくもないが、私は多分世間一般とは別の想像をしていて、それにこの事態は矛盾しない。

彼は、偽名まで使って、自転車で日本一周だか縦断だかを目指す青年、になりすましていたらしい。 あるところでは写真撮影に気さくに応じ、それらしい文章を残したり、野宿の場を提供してもらった際には、お礼とて草むしりまでやったらしい。 対応した人曰く「好青年に見えた」そうである。

上の話を聞いても、私の描く彼の像はブレない。

彼は言語機能にきっと問題を抱えていた。そう言う脳の持ち主だった。 言語に不具合を来たすと、時間感覚が展開できず、人はしばしば自己感・現実感が持てなくなる。

自己感が持てないと言うのは、つまり自分の中でも自分像が定まらないと言うこと。 周囲の扱いによって自分像の輪郭を作るしかないから、良い人として扱われれば(表面的には)良い人になり、悪い人として扱われれば悪い人になる。 人は多かれ少なかれそう言う面を持っていて、振舞いにおいて周囲の影響を受けやすいのだが(端的には「生き様が親に似る」とか)、それにしたってモノには程度ってものがある。

彼は常軌を逸脱した「影響されやすさ」を持っていたのではないか。 好青年としての振舞いが周囲の錯覚を呼び、好青年として扱われるうちに、自分自身本当に好青年のつもりになっていった。 きっとこんなところだろう。 好青年なんだから、警備員に捕らえられたりもする。

善人として扱われれば善人らしきものになるのなら、彼を更生させることは比較的容易なのでは?と思われる向きもあるかもしれない。 しかし世の中そんなに甘くは無い。 逃走中と言う限定条件下においてこそ、好青年になりすますメリットがあったのであって、その条件が無くなれば、彼に「好青年の振りをする理由」も無くなる。


10/2(火)

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大阪の逃走犯、やっと捕まったそうな。 表に出ている情報を総合しつつ、私の抱いた感想。

犯人は、山口県で万引きをしたところを警備員に取り押さえられたらしいが、その際「財布を忘れたから(一旦店外に)取りに行っているだけだ」と強弁し、騒いだらしい。 対応した警備員に当然そんな言い分は通用せず、その後警察に身柄を引き渡された。 警察に拘束された後、彼が話題の逃走犯であったことが判明する。

上記の顛末自体には何の驚きもないが、逮捕の後、彼が「財布を取りに行っただけなのに泥棒扱いされたことに納得が行かない」と憤慨していた(あるいは今もしている)、と報じられていることには感じ入った。 因みに、逮捕時の彼の全所持金は\280であったことが既に判明している。 やはり私の予想通りの思考アルゴリズムを持っているらしい。

「万引きをするなんて悪いヤツだ」と言う素直な感想はあって良い。事実そうだから。 だが彼は逃走中である。手持ちもなく、収入源も当然無い。 せっかく逃げたのに餓死するわけにも行かないから、何らかの犯罪的行為によって食い繋ぐしかないのである。 だからこそ、警察はそう言う者を市中に放すべきでないのだ。

私は犯罪行為を容認するのではなく、ある部分の論理性について言及している。 「人を殺す」と言う目的を持った者が、それを実行する際、手にした武器がオモチャのピストルでは(殺せないから)意味が無かろうと言っている。 だから万引きについては、それ自体はある程度止むを得ないと思う。善悪でなく論理の話である。


「財布を取りに行ってただけ」と言う言い分を聞いて、「ウソ吐きやがって」と言う感想を持つ者も多かろうと思う。 勿論私もそれはウソだと思うけど、そもそも犯罪者なのだから、更には逃走中であるのだから、場合によってはウソも吐かねばならんだろう。 逃げ延びる、と言うタスクを遂行せねばならないのだから。

私が感じ入ったのは、彼がウソを吐きつつ、ウソを吐いていない気分でいることだ。 彼はウソを吐いていない気分であるからこそ、この期に及んで憤慨できる。 ウソを吐けば自分がウソを吐いたことによってある種の気後れを感じさせられてしまう、と言うのは論理だから、成立させるのに一定の論理性と言うか、脳のスペックが求められる。

彼は本当に財布を取りに戻ったのか。そんなわけない。 所持金は\280だし、状況から察するに、財布そのものを持っていたかすら怪しい。 警備員に呼び止められなかったら、そのまま品物を持ち去ったに違いないのだ。 無論、そもそも盗む為にその品を手に取った。

「財布取りに戻るっつったって所持金\280じゃん」とか「憤慨も何も、それ以前にお前、そもそも逃走中の指名手配犯じゃん」とか言うツッコミは、全て論理の賜物である。 論理性を持たない者にそのツッコミは通用しない。

良心感覚の備わった普通の人間だって、場合によっては犯罪くらい犯す。 悪いと分かってても悪いことをするし、ウソと分かっててもウソを吐く。 だから時々そう言う人が罪悪感で首を吊ったりもするし、多くの人はやがてウソを吐かなくなる。犯罪もやらなくなる。 良心が、論理性が、時間感覚が邪魔をするからだ。 因みにこれらは、全て同じものである。

人がウソをウソと認識するのは、例えば上のケースだと「そもそも盗むつもりで品物を持ち出した」とか「財布を取りに戻るなどと言い張ったが、財布も無ければ金も無い」と言う事実が、論理性に撞着するからである。 そして、その感覚こそが自己を形作っている。 時間感覚こそが自己の連続性で、その感覚を持つことを英語でidentifyと言う。


ウソを吐いたが故に自分をウソ吐きだと思い、ウソがウソであるが故に自分の主張をウソだと認識してしまう。更には、自分がウソ吐きであることが恥ずかしい。恥ずかしいからウソを吐きたくなくなる。 これらは全て論理に拠っている。 だから、論理性の配線が途切れれば、これらの感覚は全て吹き飛ぶ。

彼は反省しない。 しようにも論理が成立しないからできない。 逃走や窃盗程度の罪状なら死刑や無期懲役になんてなるはずないから、いずれまた彼は出てくる。 そしてまたやらかす。 時間感覚が無いのだから、良心など持ちようが無いし、そもそも自己感すらも獲得できない。 自己感と言うのは、「自分が自分である」と言う、殆ど誰しもが持てるごく当たり前の感覚。

何故彼はこの時間感覚・自己感が持てないか。それは脳と言うハードウェアがそのように設計されているから。 脳の検査をしてみれば分かる。きっと前頭葉などに異常(普通人との差異)が見付かるに違いない。 私はこれに自信を持っている。


「人は誰も皆、得を拾っている」と言うことは、世の中を理解する為にも知っておいた方が良い。 万引きも逃走も、そもそも犯罪自体、長い目で見れば得策でないことが明らかであるからこそ、多くの人はそんなことやらない。

だが、ある時間感覚を持つ者にとって万引きとは、品が(タダで)手に入るのは今、仮に逮捕されるとしても、罰されるのは未来の自分、である。 未来の自分が他人に等しいのであれば、人はなんだってやれる。 一種の合理行動なのだ。 どう考えても損な生き方をしている人だって、その人なりには得を拾っているつもりなのである。 利害・損得の感覚ごと狂っていて、わざわざ損を拾いに行っているのではなく、彼が普通人と違うのは、時間感覚において、である。


自明のことだが、indetifyができないのだから彼にidentity(自己の同一性・連続性)は無い。 つまり、彼と言う人なんて存在していない。 蚊は人の血を吸うが、意思など無いから罪にも問われない。問いようがない。 その代わり、人権も無いから容赦なく叩き殺される。 「生類憐みの令」が後世悪法とされたように、彼を人と見做すことも後世物笑いのタネになるかもしれない。


10/1(月)

孫引きであるが、ドーソンの「モンゴル帝国史」に下記のくだりがあるらしい。

チンギス・ハーンはある時、側近らに問うた。「男としての最大の快楽は何か」と。 そしてその答えは「敵を撃滅し、駆逐し、その財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その妻らを抱くこと」だそうな。

これを今の価値観で一方的に評価するわけにも行かないのだろうけど、率直な感想として、まさに鬼畜そのものである。 チンギス・ハーンは若い頃、釣った魚を奪われたとか言うしょうもない理由で、弟(異母弟)を殺したと言われている。 現代に生まれていたら、彼はきっとサイコパス(精神病質)とされたに違いない。 隔離の対象となった可能性すらある。

当時のモンゴル高原には、そのような者を英雄とする民族的な気質・社会的風習があった。 チンギス・ハーンと言う、最早社会現象が生じた時、近隣の部族らは吸い込まれるようにそれと同化した。 チンギス・ハーンは当時、クリルタイ(合議・有力者会議)と言う、前近代にしては比較的民主的なプロセスによって王に選出されている。集団の素地として、そのようなリーダーを熱望する気分があったと言うこと。

現代のモンゴル国は極めて穏やかな国に見えるが、モンゴル帝国になる為の条件が揃わないと言うのが主な理由だろう。 「条件が揃いさえすれば、再び人類に悪夢をもたらしうる」と私は考えている。


少々が話が逸れるように思われるかもしれないが、私は「良いヤクザなんていない」と思っている。

野球が下手なプロ野球選手なんていない。 相対的に能力の低い選手は当然いる。が、野球の技術・技能が評価され、名声や高給に繋がり、そこにおいて劣る者が淘汰されて行く、と言うのがプロ野球の世界なのだから、原理的に「野球技術の拙劣さ」が高評価され、そこで生存上有利に働く、なんてことは絶対に無い。

技能がある水準に達してないが故に、その立場を失い、転職を余儀なくされる者がいる。 ヤクザに向かず、ヤクザを廃業してカタギになる人もいる。 子供の頃からほとんど野球しかして来なかった人が、それ以外の職に就くのは大変だろうが、野球人としての適性が社会規範に真っ向から抵触するようなものでないこと、が辛うじてその可能性を支えている。


私が言いたいのは、個人の資質なんてのは割りとどうでも良くて(少なくとも些事で)、問題の核心は集団としての原理性である、と言うこと。


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