Staff diary  
スタッフ日誌[2018]

[文 / 益田(制作)]

9/30(日)

子供の頃、犬を飼っていた。 子供の頃と言っても、飼い始めたのこそ小学生の頃だったが、その犬は結構長生きしたので、私はかなり大きくなる(二十歳過ぎ)までその犬と一緒に過ごした。

賢い犬だった。 当時住んでいたのが田舎だったのもあって、散歩などほとんどいつも紐・首輪無しだったのだが、私がスーパーやコンビニなどに入った時、ソイツは店の前でいつも座って私を待っていた。

私はその犬とまた会いたいと今でも思っているし、必ずや会えると信じている。 私は本気だ。

ソイツのことを思う時、私の頭を過るのは「アイツは確かにいたろうか」と言うこと。 私の思い描いた幻想でなかったろうかと。 そして、そこについての結論は、私の中で既に出ている。 「確かにいた」と。

私はその存在の根拠を、ソイツの臓器が動いていたこととか、ソイツが飯食ってたこととか、物体としてそこにあったこと、などに求めていない。 私がいたと確信する理由は、ソイツが私を待っていたこと。 もしソイツがいないのなら、何が私を待っていたと言うのだ。


私は人は殺せないが、蚊なら平然と殺せる。 蚊は人の血を吸うが、「吸いたい」と言う意志を持っているわけではない。 人間の体温や吐き出す二酸化炭素などにつられ、漂っているだけ。 だから私は、血を吸われても、粛々とその対策を取るだけで、さほどムカついたりしない。 水蒸気が雨雲になって雨を降らすが、雨降りに立腹しても仕方がない。 意思が無いのだから、「蚊さん」なんて人は存在していないのだ。


無いものは初めから存在していないが、在るものは消えない。 私と言う人が存在して、ソイツが実在したのなら、更にはその二つが友になれたのなら、その友情は消えない。永遠である。 再び生まれうるか、出会いうるか、は単に確率の問題。

絶望的にか細い可能性であったとしても、ゼロで無いのなら私はそれで良い。 そこに向かって歩いて行けるから。 私が正しい方向に向かっているのなら、時空の果てでもきっといつか再び出会える筈だ。 こんな答えを自分に教える為、私は今日まで音楽を作り続けてきた。


9/29(土)

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片飛鳥、新曲の構想中。 今月発売の「 Start to fade」は聴いてもらえたんでしょうか。引き続き販売中でございます。





犬(イエイヌ)は、狼を家畜化したものである。 こんにちのように、人間社会で一旦家畜として定着してしまった犬を、再び大草原に放ち、元の狼に戻すのは難しかろう。 犬種などに因っては、ある程度可能でなくもない気がするが、難しいことに変わりは無い。

トラはペットにできるらしい。 タイだったかのある寺院で、直接飼育での家畜(ペット)化に成功している例が既にあるそうだ。 私も映像を見てみたが、そら恐ろしい気がしないでもない。 専門家に言わせても「危険なので全くお勧めできない」そうである。 トラは潜在的には猛獣なわけで、高い殺傷能力を持っている。いくら飼い慣らしたところで、偶発的な事故は起こりえると言うことだろう。 因みに、動物園のような飼い方を間接飼育と言うらしい。

子供の頃から上手く育てれば、猛獣だって家畜化できると言う好例なのだが、一旦成獣となったものを家畜化するのは難しかろう。 いわんや人(人肉)の味を覚えてしまった個体と共存など出来る筈はない。 また、飼い慣らした個体にしたって、今後未来永劫人の味に開眼しないとは限らない。

この可塑性(幼獣の家畜化できうる性質)は脳に因り、また脳にしか因らない。 細胞がある時点を境に万能性を失うように、つまりある方向への進化・成長は、不可逆的なものである。 初等教育の費用対効果の高さは、人間と言う生き物の「性質」に拠っているのかと思われる。

トラなんかに比べれば、人間は遥かに高い知能を持っているから、この「飼い慣らし」についても可能性の幅はきっと広い。 しかし脳の質に因るのだから、個体によっては絶望的ってことになる。 私が更生の可能性について、ある面で懐疑的な理由もここにある。


9/28(金)

私は常識的と言うか、凡庸な物の考え方しかできない人である。 現実を無視した突飛な世界観などを構築し難い精神気質だと言うこと。

例えば、同僚と丁半(サイコロ)で昼飯代を賭けるなら、勝率は概ね五割程度で、回数を重ねれば重ねるほど、結果は五割丁度に近づく筈である。 勝率五割の勝負なのだから、やるだけ時間の無駄とも言える。 だから私はやらない。 その賭け事が損得でなく、人間関係の潤滑油として必要であるとか、そう言う面はあったりするのかもしれないけど、少なくとも今の私の環境に、そう言う作業は必要ない。

パチンコなどと言うギャンブルについては、胴元(パチンコ屋)側はあの店舗を構え、機器を揃え、人間を動員しているのだから、相応の寺銭を抜かねば成り立たないに相違なく、客として手を付けた時点である程度の負けは覚悟せねばならないと言うことになる。 無論一時的な勝ちを収める(と言うより、利を食わされる)ことはあるだろうけど、長い目で見れば確実に負ける。 だから私は手を付けない。若い頃、後学の為とてやってみたことはあるけど。


スルガ銀行の件とか最近話題になってるけど、一部で空前の不動産投資ブーム(バブル)が起こっていたらしい。 バブルと言うのは適正価格との齟齬、と言う幻覚のようなものなので、人々がある酩酊状態から覚めたら、その瞬間にはじける。

今の日本のような、明らかな人口減社会において、不動産・土地(特に住居用途のもの)の本質的な価値が上がり続けることなど、中長期的(少なくとも向こう二〜三十年くらい)にはほぼ考え難い。 だからつまりは、不動産の実質価格は下落する。 一部で上手く売り抜ける人などもいるだろうが、下手に手を出すと多くの人は火傷をする。

無論、不動産の価値がゼロになる、なんてことは無い。 人間には空間(生きる場所)が絶対に必要だからだ。 ただ、需要が減り続けると言う逆風の中で、細々と続けて行くべきものが不動産ビジネス、と言うことだと私は理解している。

「構造的に必ず負けることは自明だが、自分だけは例外的に勝ち続けることができる」、こう言うのを突飛な発想と私は思う。 私は、世の中、起こりそうなことが起こる、と言う観測くらいしか持てない。 私に大した知識は無い。私にあるのは常識感覚くらい。


「パチンコがゲームとして面白いからやってるだけで、決して金目当てでは無い」とか言う人が結構いる。 多分嘘である。 あの程度のゲームが、(射幸心・賭博性抜きの)純粋なアミューズメントとして成立するわけがない。 ゲーム制作のプロなどが見たら、話にならないレベルである筈だ。

ギャンブルは依存の対象となり得るものである。 依存症には依存症の機序があり、その機序抜きに成立はしない。 自身の行動を上のように総括する人も、度合いはともかく典型的なギャンブル依存症で、上の解釈も含め、きっと既にその機序に絡め取られている。


9/27(木)

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江戸末期、いわゆる幕末の頃ってのは今から僅か150年くらい前に過ぎないから、その時代の資料は比較的多く、また良質な形で残っている。 更には、その時代に活躍した人物らの多くが、武士と言うある程度教養のある階級なので、文章を多く残している。 筆談の風習があったからか、書簡の類はかなりの数残っている。

文章ってものには、ほぼ必ずと言って良いほど定型・様式があるものなのだけど、当時のいわゆる志士らは教養人なだけにそこを踏む習性が強い。 現代人だって、手紙を書くなら拝啓・敬具とか追伸とかって様式にある程度従うでしょう。メールに絵文字を入れるのとかってのも広義には様式だ。

冒頭に(文責者が)遜辞を入れることなど、しばしば見られる定型なわけだけど、私が笑ってしまうのは「上策・下策」と言う型だ。

幕末の志士たちってのは、今で言えば、一面反政府テロリストのような存在でもあって、だからして様々な戦闘・テロ行為の作戦・計画について文書でやり取りしているわけだが、その際に必ずと言って良い程「上策・下策」(あるいは中策も)を列記している。 単にその時代の型だったからである。

本当に有力な選択肢となりうる二通り以上の方法がある場合は少なく、型に従わなきゃならないから無理矢理下策・中策を案出したようなものが殆どで、上策だけではある意味心細かったのだろうと思われる。

「大老井伊直弼をその登城中、桜田門外にて襲う、メンバーは誰それ」←これだけで十分な筈なのに、「これを上策とし、」と、文章は次の策に続いて行く。 おそらく次の策など、実行に移すつもりは毛頭無かったろうに。 この必然性の無さに笑ってしまう。

無理矢理に考えたものだから、実効性に欠けているようなものも多く、書いた当人がその後に自らフォローを入れているものまである。 「〜、これを下策とするが、○○と言った事情によって実行にはやや難があろうかと思われる」みたいに。 だったら書くなよ、と言いたくなる。

多分中策・下策の案出に頭を抱えていた志士は多かったろうと思われる。 当時、代わりにそれを考えてくれる「下策屋」のような人がいたら、商売として成り立ったかもしれない。


9/26(水)

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神田優花、ニューシングル「Pandora」(全2曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Pandora/Be Straight

Pandora
この曲、『不穏』ですよー。ほんともー、好きにやらせてもらいました。
こういった雰囲気ある曲やるときは、制作途中やりすぎじゃないかスタッフと確認したりすることがよくあるんですが、この曲やってるときは、始めからこれでいいって確信があった気がする。
レコーディングも楽しかったし、
こういう曲と出逢えるからこの作業やめられないって思わせてくれた楽曲です。

反対にBe Straightは繊細に繊細に。
この曲は、ピアノの音の歪みが特徴的で最大の魅力だと思ったので、それをどう歌に落とし込むかが課題の曲でした。
レコーディングでは、その場の雰囲気で、想定してたのと違う歌い方になったりもしたんですが、結果的にそれが良い風に作用したかなと。

ジャケも気に入ってます。
カッコいい1枚に仕上がったんで、ぜひ聴いてください!

神田優花





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来週には広瀬沙希の最新シングル、「誰にも聞こえない歌」(全1曲)が発売されます。 こちらもよろしく。




9/25(火)

神田優花、明日発売の新作「Pandora」(全2曲)、収録曲について。


1.Pandora

ゴーゴーについて考えている時期があって、その時に作った。 割りと気に入っている曲。 ゴーゴーの作例をそんなに当たってないので、メロディー感のようなものは上手く再現できてないかもしれない。 私の考えるゴーゴーって感じ。

楽器編成は、ロックっぽいものにパーカッション類を加えたようなもので、ゴーゴーとしてはある意味典型的。 色んな意味でギター(特にソロ部分)に時間掛けた曲。フレーズも音色も。 ここ最近頭のネジが緩んでるのか、こういう微分音頻出の、ちょっと調性感の緩い曲をつい作ってしまう。


2.Be Straight

生っぽいピアノの音にピッチベンド入れたら途端に嘘臭くなると言うか、奇妙になる。 そのニュアンスを核に一曲書いた。 逆に言えばその程度の動機なんで、大して深遠な曲でもない。

曲そのものは軽めのジャズライクなPOPSと言うか、ごくありふれたもの。 本当に曲の骨組み部分は20分くらいで書いたんじゃないかしら。

バッキングはピアノのみ。 ピッチベンドを使う為に複数のトラックを使ってはいるんだけど、一応発音数的には一台のピアノを想定している。 間奏のピアノはギターソロ用のフレーズにピアノ音色を被せた。





9/24(月)

マイケル・サンデルの本を読んでいると、色々考えさせられる。

人が人を殺さないのは、必ずしも良心に従うからではない。 法治国家で殺人なんてことをすれば、逮捕され罰される。 残りの人生の数分の一と言った長期間、刑務所内に拘束されたり、場合によっては国家・共同体によって、報復的に殺されてしまう。 当然世間からは殺人者として見られ、扱われる。 良心が無い者だってそれはイヤだ。


ハーバードの学生が、サンデルに問うていた。 「良心に従って生きたい、と思う事だって究極的には私利私欲なのではないか」と。 さすがにハーバードの学生は鋭い。 英語にはLet me〜とかMake me〜のような文型が多いから、英語で思考する者はそういう事に気付きやすいのかもしれない。 自己を俯瞰する作業(つまり認識)に慣れている。

上の質問にサンデルは答える。「No」だと。 もし「良心に従わずとも良い」、「己の欲望の赴くままに生きて良い」と言われたとして、君は人を殺したいか?と。 全くその通り、普通の人間なら「殺せ」と命令されても他人を殺したくない筈だ。

しかし、そうでない者が世の中には紛れ込んでいる。 あくまで周囲からの圧によって行動を慎んでいるだけで、殺した方が得ならいつだって殺せるが、それが許されないことを知っているから彼は殺さない。 表面的な行動は、善良な市民と変わらないように見えるから、多くの人には、その者たちと大多数の普通人らとの区別が付かなかったりする。


アドラーは、自身の学問を個人心理学と名付けていたようだが、つまりは「共同体感覚」の研究者であった。 共同体主義を提唱するサンデルと、研究分野は重なっている。 アドラーの言う共同体感覚とは、共同体への貢献を行動の基礎に織り込んでいることを指している。 共同体感覚が共感に拠っていることは間違いない。 共感は言語の作用。良心と言うのも、この共感から生まれている。 良心の欠如とは、共感性・共同体感覚の欠如である。

良心不在者は、人類がその共同体感覚によって作り上げてきた社会・文明にタダ乗りする、いわば寄生生物と言える。 彼に貢献の気分は無く、ひたすら貰うことしか考えていない。 時にある者は脅し、ある者はすかす。


同時多発テロの直後、当時のアメリカ大統領は緊急演説を行った。 そこに「our very freedom came under attack」とある。 「我々の自由が侵された」と。 自由とは、正義とは、文明とは、詰まるところ戦いであるのだろう。 きっとアメリカ人は今も昔もそう思っているに相違なく、例えば太平洋戦争だって、彼らにとっては自由の戦いであったろう。

日本を含むアジアには、この「正義・自由は尊重されるべきもの」と言う感覚が薄い。だから延いては「文明とは戦いである」と言う意識も生まれない。 結果、北朝鮮はああまで野放しにされる。

自由は尊重されるべきものである。 サンデルは「誰かの自由と別の誰かの自由が衝突したらどうするのか」との質問に、「自由と自由は絶対に衝突しない」と答えている。 私もそう思う。自由や正義は、もしそれが本物なら、一つのそれを人々が共有できる筈のものだ。 共有できない者が、社会に稀に紛れ込んでいるだけ。


9/23(日)

ずっと独り言を喋っている老人を見かけた。 「ああ、もうこんな時間か」、「そろそろ帰らないといけないな」、「あれ?外は雨だぞ」←こんな感じで、ずっと一人で喋っている。

脳と言う、一種の臓器は、「ループ」をその運動の基礎としている。 例えば歌を歌うと言う作業においては、オケや自分の歌声を聴覚(耳と言う感覚器)で捉え、そのモニター情報を元に筋肉の収縮によってピッチやリズムを補正する。補正を経た歌声は、また聴覚でその仕上がりをチェックされる。 私は録音物を編集すると言う仕事柄、人の歌った歌のデータを巨細にチェックするのだけど、ピッチカーブを見ると、その人の思考が如実に分かる。


子供の頃の私は、物を考える時、常にウロウロと歩き回っていた。 当時は分からなかったが、今思えば脳に運動をさせていた。 スポーツ選手が筋肉トレーニングを行うようなもの。 脳の発達が未熟な子供は、しばしば絵本を声に出しながら読んだりする。

大人になった今、私は座って物を考えられるようになった。 脳が鍛え上げられ、上のループをほとんど脳内だけで完結させられるようになったらしい。 この「脳内でループを完結させられること」が「思考」と呼ばれているのだろう。


上の老人、早い話が脳が劣化している(あるいは最初からスペックが低い)。 思考を脳内だけで完結できないから、一々声に出して自分に聞かせないと、日常の行動程度の判断もできなくなっているものと思われる。 思考を習慣化させていなかったツケが回ってきているんじゃないかと思う。


9/22(土)

ボクシングとは、人を殴るスポーツである。 ボクサーには、思い切り他人の顔を殴れる資質が、基本的な条件として求められる。 ある種の共感性があってしまうと、それはボクサーにとっての(結構致命的な)欠陥となる筈だ。

スポーツとしてのボクシングでさえそうなのだから、人を脅したり、人から何かを奪ったり、暴行したり、刃物で刺したり、あるいは殺したりするには、良心感覚の欠如こそが求められる。 なまじ共感性・良心などあってしまうと、例えば暴力団やテロリストには不適格と言うことになる。 あまり言われていないことだが、単純な事実として、ボクサー崩れのヤクザは多い。両者の適性は、重なる部分が多いと言うことだろう。

私にはヤクザの友人なんていない。 だから個々人の資質について、実態を知悉しているわけではない。 だが、暴力団と言うものが、良心の欠如こそをその適性とする原理を持っていることが疑いない以上、容認できるわけはない。 それは、市民社会的規範意識と決して相容れないものだからだ。


走り方のコツが分かっていなくて、駆けっこの成績が悪い者になら、コーチをつけてやることによって、ある程度タイムを伸ばしてやることも出来よう。 だが、事故で両足を切断した者に、走り方のコツなど教えようがない。足が無いのだから。 走ることを諦めさせ、車椅子を用意するなど、別の処置が必要になるに決まっている。

暴力団員の更生プロジェクトは、上記の事例に似ている。 生育環境によって、止むを得ずヤクザになるしかなかった者にであれば、矯正プログラムは有効であろう。 だが、そもそも良心が植わっていない精神にそれは無意味である。 種を植えてない鉢に水を撒くようなもの。

良心を持たぬ者には、上で言う「(矯正プログラムでない)別の処置」が必要になる。 ある種の精神病者を病棟に隔離するように、良心の欠如性を発揮できない環境におくべきとしか言いようが無い。 ここに気付いている人はきっといるのだけど、人権思想とか、そう言う(ある人らにとって難解な)モノが 邪魔をして運用に難が生じてしまっている。

私にせいぜい出来ることは、「気付くこと」くらいだ。 気付く人が増えれば、世の中はきっと変わって行く。


9/21(金)

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人は更生できるのか。 昨日の続きでもある。

例えば少年法とかって、少年(未成年)を処罰するでなく更生させる為にある、とか言われる。 だからその性格上、極刑(死刑)は存在しない。

翻って考えると、少年でない者(成人)には死刑がありえるわけで、モノによっては「更生不可能」と考えられているわけだ。 生かしておいても社会に何ら益するところなく、将来に渡っても、市民社会の脅威でしかないと見做されていると言うこと。

法とかってのは真理でも宇宙の摂理でも何でもない。たかが人が作ったルールである。 だからして、それを侵したからと言って即座にそれが悪とも言い切れない。 しかし、それと全く同じ意味で、二十歳を境に成年・未成年を分けることにも大して合理的な理由があるわけではない。 二十歳を成年とするのは十進法から(割りと安直に)生まれた決め事で、十進法がこんにちこれだけ普及しているのは、生物としての人間の指が十本であるからに過ぎない。

韓国は北朝鮮に対して「太陽政策」を掲げたりする。 暴力団に対しても「力一辺倒で撲滅するだけじゃダメだ」みたいな論調って目にする。 社会からの排除の圧を強め過ぎると、彼らはむしろ硬化・先鋭化すると。 もしかしたらそういう面も多少はあるのかもしれない。が、そういう意見が、彼らの延命に一役買っていたりもする。

元暴力団員の就職の斡旋をするなど、新たな(非合法活動に因らない)生活環境を整えてやることによって、彼らを一般市民化しようと言う試みは既に為されている。 北朝鮮を国際社会の一員にしよう、と言う試みなどと精神は似ている。 前者についてはある程度の成果は出ているようだし、私も場合(と言うか相手)によっては全く意味の無い試みでは無いと考える。

ただ、そもそも更生って誰にでも可能なのか、と言う疑問は残る。 北朝鮮は、どうにかすればマトモな国家に生まれ変わるのか。無理だろう。 北の為政者は元々馬賊で、略奪・暴行などを生活の基礎としていたような、いわばギャングである。 そもそもの原理がそのようである集団なのだから、市民社会的規範意識・人権思想などとは絶対に相容れない。 我々が「肉中心の食生活から魚や野菜中心に変えましょう」と言われてもある程度対応可能だろうが、ほぼ動物食のみによって生体を維持している純粋肉食動物(ライオンなど)に「草食動物になりなさい」と言ってもなれるわけがない。 彼らはそのように設計されていないのだ。

私は、良心と言うものが、ほぼ脳機能と言うハードウェアに拠っていると思う人だから、更生については「できる人とできない人がいる」と言う意見である。 私は「足が無い人は歩けない」と言ったようなごく常識的なことを言っているだけ。 そしてこの意見は、多分医学的な定説とも抵触しない。


アメリカでは既に「凶悪犯罪者(受刑者)の脳を調べる」と言う試みが為されている。 結果、ほぼ全ての受刑者の前頭葉に何らかの異常が見られたらしい。 彼らは要するに「別のタイプの人類(あるいは人類以外の何か)」で、更生の可能性についても、まあ絶望的であろう。

彼らが刑期を終えてシャバに出てきたとしても、それは次の収監までのインターバルに過ぎず、必ずやまた何かをやらかす。 生き物として、やらかすように設計されているのだから仕方ない。 彼らが何かをやらかす度、一般市民はその何かの犠牲となる。

それでは彼(脳機能に異常を抱える者)らを外に出すべきでない(永遠に獄中に留めておくべき)ではないか、と言う気分が頭をもたげてくのは、割かし自然な発想だと思うのだが、現状そのようになっていないばかりか、そういう意見すら耳にしない。 彼らの実体に気付いている人が少な過ぎるのではないか。


9/20(木)

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朝鮮半島、南北に雪解けムードが漂っている、と言うような報道が為されている。 未だにそんなこと言っているのだが、北朝鮮がマトモな国家に生まれ変われるとか本気で思っている人がいるのなら、その人は物事に対する洞察が甘過ぎる。 ここ暫く、私は人間の良心について考えている。

単純な事実として、北朝鮮の為政者は馬賊(反政府武装勢力)上がりである。 国家のように見えたりもするが、ギャングがあの辺りを制圧しただけとも言える。 事実、近代的な法治が行き届かないなど、地域が無政府化しているではないか。 ヤクザが警察権力を圧倒したようなもの。 ヤクザなのだから、彼らに「国民の為」などと言う思想性がある筈が無い。

北朝鮮が重度の軍事国家であり、恫喝こそを外交カードとするのは、成り立ち上当然とも言える。 ヤクザなのだから武装するし、覚醒剤の密売・銃火器(兵器)の密売・偽札製造・誘拐(他国人の拉致)など、目立った行動・資金調達法をピックアップするだけでも暴力団・ゴロツキそのものである。

ああ言う輩は、寄生・依存こそを生存手段とする。 ヤクザは市民社会から独立して生きることができず、北朝鮮は周辺国に絡まずに存続することができない。 寄生生物なのだから、宿主に(一時的に利を食わせることはあっても)貢献するつもりは無い。 だから彼らは、ある点について非常に神経質で、「嫌われてナンボ」などと言いつつ、その実、嫌われること・軽視されることに極度に怯える。

分かりやすい実例として、北朝鮮はあれ程に国民に政権を賛美させるし、政権中枢においても粛清事件が頻発するではないか。 日本でも、「暴力追放キャンペーン用ビデオ」を学校で上映しようとしたら、ある暴力団が教育委員会に圧力を掛けてきた、と言う事件があったらしい。同様の事例は、古今東西無数にあるに違いない。 普通人などより余程に敏感なのだ。依存体質が骨肉化している以上、これは避けられない。

脅すことも媚びることも、要は相手から何かを引き出すための方策で、両者は紙の裏表。 どちらにも共通しているのは、与える気分を持たないこと。 だから恫喝が得策でないと判断すれば、表面的な態度は容易に「阿諛」に転びうるが、成熟した市民はそれに騙されてはいけない。 とにかく貰う(奪う)ことしか考えていないので、こちらにとって最良の関係は「断絶」であるのだが、彼らはそうはさせてくれない。 武器にモノを言わせてでも絡んでくる。 これは宿命である。

北朝鮮は、日本の植民地支配の被害者と言う口実で、一世紀も昔の話をネタに賠償を求めてくる。 かと思ったら、自らが加害者であることが疑いようのない日本人拉致問題においては、拉致被害者の身柄と引き替えにこれまた援助を要求してくる。 被害者としても加害者としても金をせびるのだから、やはり関係を絶つことが最上策であることは疑いの余地がない。


綾瀬の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」について調べていると、怒りで吐き気を催すが、あれが現代の日本で起こったことだからこそそう言う感想になるわけで、ある時代の馬賊・匪賊の類の行動だとすれば気分は変わってくる。 事実あんな事件はいくらでもあったろう。

日本でだってコンクリ詰め殺人事件が起こるように、人類はどうやら、良心が根本的に欠如した人間を(少数ではあるが)生み出してしまう生き物らしい。 民族などによって比率は多少変わるかもしれないが、その辺は今の私にはよく分からない。まあ変わるだろうけど。

モンゴル帝国(チンギス・ハーンの時代)について調べていると、こんにちのモンゴル人の先祖とは思えないぐらい彼らは野蛮で残虐である。 西洋人のイエローペリルはモンゴル帝国の記憶に端を発していると言われるが、モンゴルの「良心感覚の欠如」に西洋人は戦慄したのだろう。


実は人類の歴史はこの、良心を持つ者と持たざる者、の鬩ぎ合いであった。そして今でもそれは変わらない。 社会の構成員は多種多様で、例えば欧米人にだって良心に欠ける者・良心感覚の希薄な者はいる。 だが、結果として広域社会そのものがどのような様相を呈するのか、どのような均衡に落ち着くのか、には差が出てしまう。 人間の資質の僅かな違いからその差は生まれているわけだが、いわゆるキリスト教社会は、北朝鮮にはならなかった。

今、この地球上を物心両面で支配しているのが欧米人であることに、私は批判的でない。少なくとも北朝鮮的な価値観に支配されるよりどれだけマシかと思う。 日本にはキリスト教も根付かなかったし、人種的にも日本人はアジア人・モンゴロイドだが、一応こんにち程度の市民社会を築けた。 この国に生まれてこれたことを、私は幸運に思う。


北朝鮮の人民は圧制に苦しむ被害者なのか。アメリカの大統領なんかはよくそう言うことを言いますね。 無論そう言う側面もあろうかと思うが、あのような悪そのものと言った体制が維持されてしまうなんて、あの地域の人々の中には「悪を賞賛する気分」があるのではないか。 この観測に、私は自信を持っている。

暴力などを肯定し、悪を賞賛する空気があれば、一番悪い者がその地域においては支配者になるだろう。 支配される側は、支配されること自体は嫌でも、自分こそが支配者になれればそれで良いと思っている。少なくとも健康な市民社会を希求する気分は薄い。 だからその社会においては、(カーストが入れ替わることはあっても)体制そのものを作り変えるような市民革命なんて起こらない。 与える気分が希薄な社会は、必然的にそうなる。

事実、北朝鮮と同民族である韓国、彼らは北に強硬でない。 現在も親北を標榜する者が大統領となって、あの体制を延命させている。 やはり彼らは悪を容認するではないか。 その空気・価値観があのようなグロテスクな国家を生んだことは、ほとんど疑いようがない。

韓国現大統領は、その姿勢を北朝鮮に激賞されている。 北にとって実に都合の良い指導者なのだろう。 悪に血を吸わせているそいつの精神は、悪の温床である。 もっと言えば、悪を憎まず、むしろそれに献身的・協力的な人間は、彼こそが悪そのものである。


暴力事件・凶悪犯罪が多く、昨今ネット界で「修羅の国」などと揶揄されている福岡県。 指定暴力団の団体数が全国一であるらしい。一県だけ突出して多いそうな。 勿論それらは全て基礎を同じくしている。 悪を賞賛する空気があるから暴力団が猖獗・跋扈してしまう。 私も福岡に住んでいたことがあるから何となく分かる。 今警察権力が、福岡県内の特に危険な団体を壊滅させるべく取り組んでいるらしいが、作戦はある程度功を奏しているらしい。 福岡県は日本だから、北朝鮮にはならないのだろう。 ただ、暴力団の側は、北朝鮮にしたい筈である。

今の日本で、暴力団が本気で警察とやり合って勝てるわけがない。 だが、警察はそれこそヤクザじゃないので、手段を選ばないってわけには行かない。 法や世論の拘束から逃れられない。 だから世論は精一杯警察を後押ししてやる必要がある。 ヤクザはこのことを実は分かっているからこそ、「暴力追放キャンペーン」に過敏になる。 通信傍受法案に反対していた連中も、背景にどのような勢力があったのか、粗方予測がつく。

ヤクザと北朝鮮は要するに同じものだ。 ヤクザが市民に一番気付かれてならないのは、「ヤクザ即ち人類の敵」と言う事実である。 ヤクザ映画や不良漫画などと言う、悪を美化したコンテンツの存在を彼らは歓迎する筈だ。 「地上の楽園」などと言う嘘が流布されることによって、北朝鮮は随分得をした。

「義理堅く情に厚い、良いヤクザもいる」とか「侠客と言う男らしい人たち」とか「必要悪」などと言う嘘のプロパガンダも、淵源をたどればきっとヤクザ的な精神気質に行き着くに違いない。 市民の側もおぼろげながらそこに気付いていて、昔に比べれば現代人はそう言ったものに寛容でない。 我々は騙されてはいけない。

体制側の統治能力・警察の治安維持能力が万全でなかった時代はあっても、ヤクザが必要悪であった時代など無い。 良いヤクザなんていない。 資質がヤクザ適性を欠くが故に、結果的に価値観が一般市民寄りになってしまう、いわば「ヤクザとしての落ちこぼれ」はいたろうし、今でもいるだろう。 だが、ヤクザとしての適性=良心の欠如、と言う原理性は動かしようが無く、やはり彼らは人類の敵なのだ。 彼らと付き合って得することなども、長い目で見れば絶対に無い。


良心を持たざる者・良心感覚が希薄な者、がいくらいようと、その者らはマジョリティーにはなりえない。 間違いなく、良心感覚を持つ者の方が圧倒的多数だからだ。 人類はそう言う生き物なのだろう。だからこんにちのような文明を築けた。


9/19(水)

神田優花、レコーディング。 今回録ったヤツは一応来年リリース予定のものなんだけど、まだよく分かりません。間に合えば今年発表するかも。

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神田優花、ニューシングル「Tokyo」(全2曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Tokyo/Love Will Find You

第2弾です。
Tokyoは、あんまり力まないでさらっと歌うつもりだったけど、出来上がってみると結構つっこんで歌ってたかも。
あれ?もっとスタイリッシュに仕上げるつもりだったはずが…という感じです。
私の中でブームなモチーフの一つでもあったTokyo、まぁこれもまたいいなと思ってます!
神田優花的"Tokyo"、ぜひ聴いてみてください。

Love Will Find Youは、落ち着いた 大人のナンバーです。
そっと心に立つさざなみのような感情を、丁寧に表現出来たらなと歌いました。

ぜひ、聴いてください!

神田優花




神田優花は、来週には次のシングル、「Pandora」(全2曲)が発売されます。 二週連続ってことです。こちらもよろしく。




9/18(火)

神田優花、明日発売の新作「Tokyo」(全2曲)、収録曲について。


1.Tokyo

キャッチーだしシングルっぽいとは思う曲。 シングルにするつもりで書いたわけではない。

これ書いた当時、神田優花のソウルっぽいナンバーを集めたミニアルバムを作ろうと思っていて、その収録候補曲の一つとして書いた。 結局曲の頭数が揃わなくて、アルバム自体の企画は頓挫に近い形になっているけど。

シンセサウンドなんだけど、80年代あたりの、ある時代を象徴する音のイメージでアレンジしている。 編成はゴチャゴチャと色んな音入れてるんだけど、肝は2パートのMoogシンセ。 書いた当初は特段の印象もなかった曲なんだけど、リリース決まった後に聴き返してたら割かし良いものに思えてきた。


2.Love Will Find You

軽めのAORみたいなのを作ってみようと思って。その程度の動機。 これもタイトル曲のTokyoと同じく、神田優花のソウルっぽいナンバーを集めたミニアルバム収録曲として書いた。

ダブルのギターにスラップ系のベース、エレピにストリングスキーボード、あとはドラムと言うシンプルな構成。 サビのあたりのコード進行とか、面白くなくも無いような気もするけど、大して練ったものではない。 キャッチボール感覚で作ったんで、カップリングとかが妥当な曲。 嫌いではない。





9/17(月)

役者には、二枚目もいれば三枚目もいる。 二枚目に相応しい容姿をもって生まれた人が二枚目になり、三枚目に相応しい容姿をもって生まれた人が三枚目になるのは、要するに与えられた環境に従って収斂しただけのことである。 その方が生存に有利だから。

もし、三枚目に相応しい容姿をもって生まれ、二枚目こそが自らのやりたいことだとて、そこを目指す者がいるのなら、彼のその行動は紛れも無く意志である。 それは人類が珍重すべき何か。

二枚目がどうしたとか言ってるが、私自身はハンサム何たるかなど、よく分からない(確固たる判断基準を持たない)。 ただ私は、顔の造作なんかより、むしろ意志性こそをカッコよさだと認識してしまう人である。


9/16(日)

綾瀬の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」というのがある。 もう随分古い話だが、ある程度詳細が判明しているので、知らない人も知ろうと思えば知ることができる。 内容を読んでるだけで胸糞が悪くなるから、調べることを全くお勧め出来ないけど、モノを考える材料として私は(歯を食いしばって)それを調べた。

あの事件の犯人ら(当時は少年)が、その後改悛せず、その後度々犯罪事件を起こしているとかで、ごく最近もその事が報道されていた。 まあ当然そうなるだろう。何故なら彼らには良心感覚こそが無いから。 無いから鬼畜になれたし、今でもなれる。人は基本的に変わらない。

良心感覚が備わっていないような人は、実はいくらでもいる。 ただ、そういう人らのほとんどは、その本性がバレるとマズいと言う社会的な圧を感じている。 だから彼らは、日々抑圧を感じながら善良な市民に成りすましていたりする。 成りすまそうと言う意図、成りすまさねばならない必要性、があるが故に、むしろ普通人より一見善良に見えたりすることすらある。

キリスト教徒などにとっての「倫理」が神との約束事である一方、多くの日本人を律している「道徳」は、共同体からの圧によって生まれた。 良いか悪いかはさておき、日本の歴史は、人々に良心を培わせる方向に進まなかった。

上の事件の加害者らには、その後の人生において、善良な市民に成りすますことによるメリットが薄いのだろう。 やらかしたことが大き過ぎて、何事もなかったように社会に紛れ込むことが難しい。 女を犯したいからとて人さらいをやった彼らが、得にならないことなどやる筈がない。 得になるなら何でもやるだろうけど。

彼らは反省しない。 したくないのでなく、する機能が無い。 良心が無いからその呵責もない。 罪悪感によって苦しみを与えたくとも、普通人と同じそれを持たないから、苦しめることすらできない。 殺された彼女が幽霊になって復讐しようにも、彼らの心にそれを映す程度の現実認識(良心の呵責)がなければ、化けて出ることすらできない。 彼らには、実力行使によって刑務所にブチ込むとか、あるいは死刑にするとか、そういう暴力的威嚇によって、動物的恐怖を与えることくらいしかできない。

良心の欠如は、教育の失敗などと言う後天的な環境によって起こるのではない。 生まれ持った脳機能にほぼ因っている。 この社会は、そろそろその者らへの対策を真剣に考えた方が良い。 人類がその気になれば、良心感覚のようなものを測定する医療器具くらい作れるのではないか。


9/15(土)

忌野清志郎さんが生前、国歌である君が代をパンク風にアレンジした楽曲をリリースしようとしたら、レコード会社から待ったがかかった、と言う事件があった。 もう随分昔の話なんだけど、人間の文化・歴史について何事かを物語るような一件ではあったと思う。

ある事柄(の方)に問題があるから問題提起が起こるのではなく、ある事柄が問題たり得ることに人々が気付いてしまったから、それは問題として扱われるようになる。 昨今の企業のコンプライアンスとか個人情報保護とかも、構造としては似ている。

事実、過去には君が代をマーチ風にアレンジした軍歌まで存在したが、誰もそこに異を唱えなかった。 軍など、むしろ最も不敬に敏感であろうと言うに。

つまり、軍人をはじめとするその当時の人らは、そこに含まれた問題たり得る何事かの存在に気付かなかった。 人々が一旦気付いてしまった以上、今後新たにそういったものを作ろうとすれば、まず間違いなく問題となる。 これも歴史の不可逆性である。


9/14(金)

我々は、騙されてはいけない。 騙されるという事は、自分を失う事であり、同時に友を失う事でもある。 友と言うものが、我々の中にあるものだからだ。伝わり難いかもしれない。

騙す者が醜悪であることは間違いない。 人を騙して金銭を掠め取れば詐欺罪が適用されるなど、人類は騙す者を社会悪とするコンセンサスを既に成立させている。 だが、騙される者が即ち被害者とて、手放しで擁護される風潮は間違っていると思う。

ファイナンシャルプランナーや競馬の予想屋の口車に乗せられ、大損をした人は、果たして騙された被害者なのだろうか。 違うだろう。相手の言う事を信じた、あるいは疑わなかっただけ。 前者はその判断の責任をも自身で負う覚悟があり、後者は「騙された」と思う。

オウム真理教の信者は、ある意味では教祖に騙されたかわいそうな人らかもしれないが、彼らが易々と騙されるような人間であった為、市井には多くの死傷者が生まれた。 騙されたかよわき末端の信者らは、教祖の股肱となり、また教団の資金源となり、市民社会に牙を剥いた。 騙す者が悪であるのなら、それと同様に、騙される者も悪ではないか。

騙す者が悪であり、騙される者が被害者だったとしても、結果として騙される者が失うことは間違いない。 生じた歴史は、誰にも取り戻せない。

騙される者は、騙す者にそそのかされ、本来友になれたかもしれない大切な誰かを失うかもしれない。 これを読んでいるあなたがもし騙される人なら、まだ手遅れでないかもしれないので、騙されない人になって欲しい。 騙す方の人なら、その良心感覚の欠如は、残念ながら人としてはもう手遅れかもしれない。 騙された人は、騙された自分の無能を嘆くでなく、辛うじて(騙すでなく)騙される側の人間に踏みとどまっていたことを幸運に思うべき。

私は、私の行動の真善美を自分自身で判断する。 他人に対する評価も、最終的には自分で下す。 誰かにそそのかされて評価を揺らす、と言うのは、即ち私が私でなくなることだから。


9/13(木)

暴力団を撲滅するにはどうすれば良いか。 警察ががんばって検挙数を上げてもあんまし意味がない。暴力団員を一人残さず逮捕したって多分絶滅しない。 ヤクザは生体系上のニッチなので、ヤクザがいなくなればヤクザ予備軍のような人らが繰り上がるだけ。

「ヤクザを逮捕しろ」と言うのは、発生した害虫に「殺虫剤をかけろ」と言うようなもので、確かに一時的には目の前からそれが消えるかもしれないが、生存基盤が揺るぎないのであれば、同じものがまた間違いなく発生する。

ヤクザを撲滅するには、ヤクザがヤクザであると言う理由で、生きて行けない社会を作るしかない。 つまりは環境。だから警察が強すぎる社会ってのも丸っきり意味がないわけではない。ヤクザ業がやりにくくなるのは確かだろうから。 ただ、ある生き物が絶滅する理由が「乱獲」であるケースはきっと少ない。

我々一般市民が暴力団を根絶したいと思う時、できることがあるとすれば、それは「彼らに極力得をさせないように努める事」くらいだろうか。


私はヤクザや不良少年に美を感じない。 感じられるのではないかと思って、それを知ろうとしたことならある。

ヤクザ映画とかヤンキー漫画とか、よくありますね。今でもある。 でもああ言うものは、実体に即していない。あるいは実体のある側面しか描き出していない。

美を感じないのは、反社会勢力だからとか、違法行為に手を染めているから、とかそう言う理由からではない。 社会的にどう評価された存在であろうと、私の審美の感覚に抵触しないのであれば、それは美しいと言わざるを得ない。琴線に触れてしまっているのだもの。 美しいものは美しい。それはどうしようもない。

私がヤクザに美を感じない理由は、それらの存在の基礎に、生存の原理以外の何事も見出せないからだ。 ある条件を持たされた者が、効率的な収奪法を選んだだけ。 だから環境が変われば(その振舞いが得策でない環境を作れば)、きっと彼らは絶滅する。 明確な意志性でもって成立しているヤクザがいるのなら、実例を知りたい。


9/12(水)

片飛鳥のニューシングル「Start to fade」(全1曲)、本日発売。 片さんは現在、アルバムの制作中です。 下はアーティスト本人から。


感情とは裏腹に強がったり格好つけたり、不器用な愛情表現しか出来ない。素直になんてなれない。───そんな自分でも、誰かと繋がっていたいんです。

自分もこんな時あったのかな?、若いな〜って思いながら作りました。
ぜひ聴いてください!

片飛鳥






話は変わるが、あるタレントさんが、飲酒状態でひき逃げ事故を起こしたとかで、何やら話題になっているようだ。 私はその人の顔(画像)をまじまじと見てみたのだが、やはり目がおかしい。 私は、顔を見ればその人の脳の状態がある程度分かるようになってしまった。

顔と言うが、要するに目である。 目にはその人の思考がダイレクトに反映されている。 目と言う感覚器が、脳の状態をモニタリングするに最適な器官なのだろう。

ある人に「その人は目頭切開をやり過ぎて、バランスが崩れているのではないか」とか言われたんだが、私にその辺の知識はなくて、何とも判断できかねる。 ただ、目の印象は、もっと根源的な思考の部分が投影されたものだと思うんだが。


9/11(火)

ラマチャンドランの本を読んでいると、「てんかんの患者は、しばしば神意と言うか霊威のようなものを感じてしまう」と言うようなことが書かれている。 人間がそれら霊威を感じ取る(現実とする)ことに、側頭葉の何かが関連しているのだろう。

平将門の乱では、当時ある巫女が託宣で、将門の関東統治権を正当とするお墨付きを与えた、と言うような話が残っている。 歴史学の世界では「巫女の狂言」と言う評価が支配的っぽいが、私は、その話が史実だとしたら、その巫女は側頭葉に、神託のようなものが聞こえてきてしまう何かを抱えていたのではないか、と疑ってしまう。

「幽霊はいるのか」と問われても、私に確言する権能は無い。 ただ、それを見てしまっている人には見えているのだろうから、その人の映す現実に幽霊は存在するとは言える。 四谷怪談のお岩は、それが見えてしまった伊右衛門にとっては現実以外の何者でもなかろう。

霊をその現実に映してしまう個体、と言うのも、もしかしたら人類にとって必要な何かなのかもしれない。 因みに、西洋人の言うGodとその霊とは、似ても似付かぬ別物だと考えて良い。


9/10(月)

与えると言う機微を持てなかった者にとって、世界は収奪の対象である。 如何に効率的に収奪できるか、に腐心することこそが人生そのものとなる。 無論そういう者でも一旦与えることはある。 が、それは全て奪う為の方便である。 釣り人は魚に一旦エサをやる。 そのエサには針が入っているが。

例えば結婚って何なのだろう。 好きな人と一緒に生きて行く上で、そういう制度を援用した方が平素の生活の助けになる、と言う明確な理由でもってそれをする人は稀なように見える。 まるでステータスそのものが標的であるようだ。

収奪する為に人はトレードを行う。 ある種の男は力を誇示し、ある種の女は媚態で男に近付く。 生存の為、より効率的な収奪法を模索する。 模索した結果、無能者のその無能性こそが好餌となるケースなど、割りとよく見かける。 頭の弱そうな相手を敢えて選ぶ人とかってよく見ますものね。 収奪が「し易い」との判断に基づくものだろう。

結婚すれば「婚姻状態」や「結婚相手」と言った成果が手に入る。場合に因っては経済的な援助まで得られる。 自分の何事かを保証してもらうに格好の道具である。 だから人は、生物としての原理性から、より条件の良いそれを得る為、手練手管の限りを尽くす。 誰かを好きになるでなく、結婚と結婚するような人は多い。

つまりある人にとって、結婚相手とは、収奪の成果である。 収奪される方の側も、相手が引き替えに差し出した餌にある程度満足しているから、その「結婚状態」と言う均衡は保たれている。 均衡が崩れた場合、その不均衡は(婚姻関係の場合)離婚とかそういう形で表面化する。


誰かと生きて行くには覚悟がいる。 結婚とかってその覚悟を示す一種のメルクマールだと思うんだけど、覚悟が育って無いようないわば子供でも(と言うか子供だからこそ)、ステータスとしてのそれを求めたりはする。 要するに、子供が大人の振りをする為の道具としてそれを欲しがりがちである。 偽装の為には割かし手頃な道具だし。 与える気分を持たない、と言うのは子供の(顕著な)特徴でもある。

諸々の事情から、本当に好きな人と生きない人は、要するに安物で手を打った人生だ。 人は自認する価値程度の人にしかなれない。 安物の人生を歩む人が、安物の人生を歩まずに済む方法があるとしたら、それはその人が自分に今以上の価値を感じるくらいしかない。

本当に好きな人と生きていないソイツが私の親友なら、私は「そんな相手との関係など即刻打ち切って、今のこの瞬間からでも本当に好きな人を探せ」と言うだろう。 ソイツが自認する自分の価値が、現状に見合ったものだと感じているのなら、きっと何も言わない。 ソイツと親友にも多分なれない。

人生には理想と妥協が複雑に入り混じる。 理想の純度が高い生き方を選べば選ぶほど、その人の人生は表面的には困難になりがちだろう。 その困難の果てに何があるか。 今の私にはまだよく分からないけれど、多分そこには友人がいる。 その友はきっと、今も両手を広げて我々を待っている。


私は厳密な意味でのサラリーマンを経験したことがない。 いくら無能な私でも、今以上の高給や社会的地位を得る生き方くらいあった筈だが、そういう人生を選択しなかった。 私が私を安物だと思う余り現状に甘んじている、のではない。 私は私が大切だから、高給や社会的地位如きと引き換えに持ち時間を売り渡すような生き方を選べなかった。 だから私は妥協しません。 私は、全てと引き換えにでも、一分の隙も無い完璧に美しい曲を書きます。


9/9(日)

子供の発達をチェックする一歳半検診において「一語発話」はクリアの必須条件とされるらしい。

例えばその子が「ママ」と単純に口にできたとしても、それをもってして言語習得とは見做されないそうで、食い物(マンマ)なのか母親(ママ)なのか区別できているのか、それらを区別できていたとして、母親と他の女性とをキチンと区別しているのか、あるいは単に喃語ではないのか、等をチェックされるらしい。割りと厳格なものであるようだ。

おそらく大多数の乳児が、最初に覚える言葉が「ママ(あるいはそれを指す別の単語)」なのだろう。 そしてそのママ、概念上の線引きが往々にして曖昧になりがちで、他の概念との区別が理解の条件とされている。


子供は母親の体内から生まれてくる。つまり母親の体の一部が独立して一人の人間になる。 母親は全ての甘えを許容してくれ、無条件で自分を受け入れてくれる。 また、母親の体からは母乳と言う食い物が分泌される。 母乳は完全食品で、ある段階までの人間の「食い物概念」とほぼ一致する。

つまり、子供にとって、世界の全てはママなのだ(自分さえも無論ママである)。 それ以外の「ママでないもの」を一つづつ覚えることにより、言語を獲得していく。 当然人は成長に従って、それ以上の高度な概念も獲得して行くわけだが、ある段階の乳幼児にとって世界は、「ママかそうでないか」の二色で塗り分けられている。

その段階で、言語の本質的な成長が止まってしまっている大人をたまに見かける。専門の医者などに見せればパーソナリティー障害などと診断されたりするのだろうが、彼らにとっての世界は、要するに敵か味方かで塗り分けられている。 が、その一方の「味方」も、普通の人が感じる友の概念とは違う。 要するにママなのだ。 共感によって何かを共有できる相手ではなく、全てを無条件で許容してくれる存在。

概念の区分けが曖昧、と言うのは言語力不足の典型的症状だが、ママ概念(と他概念との境界)が曖昧な子供については、事実子供である分にはある程度(年齢相応には)許容されるだろう。 人の親になっても諸概念の整理ができてない人については、どうしたものかと感じてしまう。 子供が、生物としての原理に従って、母乳の供給装置である乳房に吸い付くことと、自分を友として選んでくれていることとの区別が付いていない人が多過ぎるような気がする。


9/8(土)

東名高速で起こった致死傷事件、警察は危険運転致死傷罪で逮捕しているのだけど、地裁だかがその罪状に難色を示したとか言うニュースを目にした。 ある意味当然だろう。 犯人は停車を促しただけで、後ろから追突してきたのは別のトラックである。

無論、高速の追い越し車線などに停車なんてさせたら危険であるのは明白だ。 でも、だからと言ってあの状況に危険運転致死傷は、法律を拡大解釈し過ぎと言わざるを得ない。


私はあの事件の犯人を弁護しているのではない(と言うか、あんなの最大限の厳罰に処して欲しい)。 私はもっとテクニカルな部分を考えている。

ああ言う事件が起きたら、世論はすぐヒステリックに「極刑に処せ」とか言い出すのだが、極刑なんて判決、出したくても簡単に出せるわけない。 例えばこの私がもし、今日人を一人殺したとしても、普通に考えて死刑にまでは至るまい。 法律(の運用)がそうなっている以上、仕方ない。

裁判所が、庶民の怒りの感情に見合わない判決を下したりした際、世間から「ソイツが刑期を終えて出てきた際、また何かやらかしたら裁判官は責任持てるのか」とか、「裁判官の家の隣に、出所後のソイツを住まわせろ」とか言う意見が聞かれたりする。 裁判官だってそんな奴らの隣になんて住みたくないに決まってますよ。 でも、だからと言って条文や判例を無視した厳罰なんて科せられるわけがない。 立法機関でもない裁判所にそれを言うのは、多分にお門違いでもある。

刑法とかって、犯罪者を罰する為のルールである面は勿論あるが、量刑の限度を明示したもの、つまり国家が犯罪者に厳罰を科し過ぎない為のルールでもある。 犯罪者が刑法に拘束されるように、裁判官だって刑法に拘束される。 事実、法が機能してないような前近代性を濃厚に残した体制においては、国家(為政者)の都合でいくらでも厳罰が下せる。 良いか悪いかはさておき、日本は少なくともそういう世界ではない。


あの手の事件が起こる度噴出する、世間の怒りの声のようなものは、きっと裁判官らの耳にも届いているに違いない。 だからと言って、職掌柄ひたすらに世論に迎合するわけにも行かず、彼らも頭が痛かろう。 法曹界が、自分らの権益を侵しかねない裁判員制度をむしろ歓迎したのは、ある種の責任回避性向でもあるのだろう。 世の中を良くする為にも、相手の立場をまず分かってあげること、は大切であると思う。


9/7(金)

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空虚五度を使い倒した曲を作ろうかと思案中。 終止にだけピンポイントで使うとかでなく、曲全編に渡ってほとんどそれだけでコードを構成したい。

空虚五度ってのは、トライアドの三度音を抜いたもの。三度は長短を決める要素なので、それを抜くとメジャーともマイナーともつかぬ不安定さを表現できる。 空虚五度はその浮遊感のようなものを味わうもの。

ハードロックとかに多用される、いわゆるパワーコードと構成音自体は同じになる。 ただ両者は、用途と言うか性格が違う。 パワーコードは単にダイアトニックコードの省略形で、ヴォイシングの一種である。 三度音が抜かれてあるが、長短の別も潜在的にはある。 聴いている方の類推に任されているような状態だが、その推測は割かし容易である。

クラシック音楽などで言う空虚五度は違う。 例えば短調の終止にピカルディ(の三度)が多用されるように、クラシックは短調だからと言って必ずしもマイナーコードで終わるわけじゃない。 他にも借用和音・変位和音のような書法がその基礎としてあり、和声における三度音はコードの性格を決定付ける重要なものとなっている。 そこに長短どちらとも取れる一度・五度の和音を持ってくることによって、特有のニュアンスを実現できる。それが空虚五度。 無論使用は終止に限ったものではない。

今作ろうと考えているものは、パワーコードでなくあくまで空虚五度を多用したもの。 だからコード進行から三度音を容易に連想できるようでは意図から外れる。 あくまで長短どちらとも付かない響きを出したい。

あと五度和音と言っても、一度・五度の和音だけでなく、一度・減五度の和音も使いたい。 一度・減五度は、五度関係(五度下・四度上)と半音下が同じ構成音になる。 使い方によっては面白い効果が得られそう。 ただ、商業音楽的フックには欠けるものになるだろうと思う。


9/6(木)

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ラマチャンドランの本を読んでいたら(最近こればっかりでゴメンなさい)、多くの子供は「鏡には左右逆に映るのに何故上下は逆にならないのか」と言う疑問を持つ、とある。 私はそんな疑問持ったことがない。

鏡って左を左側に、右を右側に映し、同様に上を上側に映し、下を下側に映す。 何ら矛盾など無いではないか。 この手の話って「あるある」みたいな気分になることが多いのだけど、これについてはよく分からなかった。

ついでだが、中島敦の「文字禍」については、同じ経験があるから分かる。 文字禍はいわゆる「ゲシュタルト崩壊」の話で、文字から意味が抜ける現象。文字がタダの形にしか見えなくなる。 どちらかと言うと、表音文字に起こりやすそうな気がする。 経験したことがある人も多いんじゃなかろうか。


上のラマチャンドランの著書に「キューブ状の物体の凹凸が、突如反転して見える現象」についても触れられていた。 これも短い言葉だけで説明するのは難しいのだが(同書には図が添えられていた)、白地に黒の線だけでキューブを描いたものを凝視していれば、言わんとすることが分かると思う。

この反転、対象でなく見る側の脳内で何らかの変化が起こっていると言う。当然そうだろう。 私も子供の頃、白黒二色のテクスチャーを見詰めていたら、それが白地に黒の模様なのか黒地に白の模様なのか分からなくなったことがある。

この脳内の変化(と言うか解釈)、音においても起こります。 例えば三つの音符が並んでいたとして、1+2に聞こえていたものが突如2+1に聞こえ出したり。 左記の例は分かりやすいものなんだけど、実際にはもっと説明困難な複雑なものも頻発する。 同じ音価・音高の音が違うものに聞こえてきたり。 一つのパッセージに二つの解釈が成立してしまったりする。やはり説明し難い。


9/5(水)

実は機材のトラブルで、しばしリハーサルを中断せざるを得ない状況になってしまった。 前々から怪しい挙動はしばしば見られたんだけど、この度ミキサーがかなり本格的にブッ壊れた模様。 少々の機材トラブルくらいでリハーサル中断したりまでしないんだけど、今回は中心的機材であるコンソールがいってしまった上、電源入れるとプラスチックが焦げたようなヤバい臭いがし出したんで(スタジオは換気も良くない)、修理頼むしかないと判断した次第。


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神田優花、ニューシングル「Endless Dream」(全2曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


Endless Dream/Remember

曲出します!
Endless Dreamは、パンチの効いたロックな曲。
エネルギッシュで気を抜くとすぐ持ってかれるから、とにかく気合い入れてリハを重ねました。
出来上がりもオケと歌声のバランスなど、細かくこだわりました。
久々のロックナンバー、
聴いてください!

Rememberは、こう歌おうとか極力決めないでやろうと思って歌いました。
途中で雰囲気が甘くなったり、また勢いが戻ったりする曲なので、設計図っていうか、そんなようなものを作りたくなる曲なんですが。
いや、実際途中まで作ったりしてたけど、、、
やめよう、予定調和とかいらない、と思って。
この曲やりだした時期からかなー、歌いながら変化していく感覚がおもしろくなってて。

まだ自分も見たことない自分がいるのでは、とか思うとワクワクします。

伝わるといいな。ぜひ、聴いてみてください。

神田優花





9/4(火)

神田優花、明日発売の新作「Endless Dream」(全2曲)、収録曲について。


1.Endless Dream

カラードノイズについて色々考えている時期があって、そのまとめとして作った曲。 ノイズだけで一曲作ろうかとも思ったんだけど、結局それは断念した。

サビの一部だけノイズオンリーで作ってるけど、大部分は基本楽音で作ってる。 あんまり和声音楽っぽくならないようにとか多少気にした面もあるけど、そこについてもそんなに徹底したわけではない。 ノイズオンリーで作ったと言う部分は、ボーカルもノイズ化してみた。

リズムや効果音も含め、ほとんどの音はシンセサイズ(音声合成)で作っていて、生楽器音みたいなのは一切入れてない。 ノイズ部についてはパンニングとかのエディットが細かい。 音についての話ばかりだけど、音楽的な面において特筆すべき点が思い当たらない。 約2分と短い曲です。


2.Remember

こう言う軽めのロックっぽい曲をいくつか書いてた時期があって、その時のもの。 ギターにトランスゲートかましたりしてるけど、大掴みにはバンドサウンド。

サビのアコギとボーカルだけになる部分は、事前に明確なイメージがあったんだけど、過不足なくそのイメージ通りのものが作れたかと言うと、正直そこまでの感触は無い。 リハーサルにもっと時間を掛けるべきだったのか、あるいは現状の我々の限界だったのか。





9/3(月)

ピッコロ(piccolo flute)について。 管弦楽ではフルートのユニゾンとかオクターブ上を担当するなど、あまり単独で派手な動きをすることが少ない、ある意味地味な楽器だが、音域が上に広くて、使い方によっては他の楽器ではできない表現ができる。

音域の広さで言うと、例えばピアノなど最大級のものを持っているが、高音部分をやや苦手とする。高音部のサステインが弱い。 ピッコロは、他のリード楽器のオクターブ上の旋律などを軽々とこなすので、アレンジに特有の面白味を加えられる。

ここ最近、ピッコロをアレンジに取り入れた曲を二曲ほど作っていた。 誰が歌うのかとかリリースの目処とか、そういう用途の部分は全く定まってなくて、まあ発表できるとしたら早くても来年以降になると思います。


9/2(日)

ボーカロイド(シリーズ)と言う商品がある。 ノートとテキストの情報を入力すればその通りに歌ってくれると言う、仮歌作りなどに重宝しそうなプログラムなんだが、それに歌わせたトラックをそのまま商品としてリリースしてしまうような音屋までいる。 因みに私は、複数の理由からそれを使ってない。

近年のDTM関連商品としては比較的ヒットしたものと思われ、シリーズ化されている。 色々なタイプのものがあって、中には有名シンガーその人の声を丸ごとサンプリングしたようなものもある。

使わないと言った私だが、シリーズに加えて欲しいものがあったりする。 例えば数十人規模の女性ユニゾンとか、男性コーラス(3〜5人くらいが理想)ものとか。 男性コーラスなんかは特に美声であることを望まない。 できればタダのオッサンであってくれる方が嬉しい(私のアイディアを作品化する際の助けになる)。 そんなものが存在してないってことは、需要がないんだろうけど。


9/1(土)

山岡鉄舟と言う人がいる(鉄舟は号で本名(諱)は高歩)。 元幕臣で、維新後明治天皇の教育係まで務めた人物。 男の中の男、侍の中の侍みたいに語られている。

私は失礼ながら、そこまでの人物かしらと疑問を感じなくも無い。 理由は、清川八郎と言うややいかがわしげな人物や、清水次郎長なんていうヤクザ者と深く交わっているからだ。人間関係とはその人そのものだ。

山岡のことは西郷なんかも随分気に入っているようだし、周囲に畏敬の念を抱かせるような人格的風韻のあった御仁なのだろうとは思う。 ただ、人物を買った当の西郷は、例えば清川のような人と付き合えば、ごく早い段階でその本質を見抜き、一定の距離を持ったような気がする。 山岡は良く言えばお人好しで取り込まれやすい人だったろうか。

山岡と清川の関係については、後世色々と穿った説のようなものがあるっぽいのだけど、私はあんまし突飛な(さほどの蓋然性を感じない)説を基点にあれこれ思考を巡らせるようなタイプではない。


余談だけど、ヤクザ=悪人なのかって議論はあると思う。 昔は今に比べればヤクザ映画とかの数も多かったろうし、何より社会的な認知度と言うか、いわばメジャー感が今とは随分違ったように思える。 つまりヤクザを美化する風潮が今より強かった。 今に比べれば人々が猛々しかったのかもしれない。 因みに私は、ヤクザに美を感じるところはほぼ無い。

暴対法が施行される前後だったかに、「昔の義理人情に厚かったヤクザの魂と取り戻す必要がある」とかテレビで誰かが言ってたのを覚えているんだけど、私は義理人情に厚いことを存在基盤の核とするヤクザを一例も知らない。実例があるのなら教えて欲しい。 無い(在ると認められない)ものを前提に思考を展開するのもむなしい。


8/31(金)

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ラマチャンドランは、世に言う天才らほとんどを「特殊化した脳のある領域が、別の領域を犠牲にしただけのもの」と評している。 私は時系列と言うか因果関係のようなものが逆であるようなケース(ある領域の欠損を補う形で別の領域が特殊化した)が多いように思えるが、言ってることについては大筋において異論がない。

そのラマチャンドランをして真の天才と言わしめた人がいる。 アインシュタインとピカソである。 ラマチャンドランは著書の中で、本当の天才とて二人の名を上げていた。 ここについても私は同意見である。 ただ私に理数系の知識が欠け過ぎていて、アインシュタインの天才性については、十全に感じ難いところはある。 それでも十分に天才と思うけど。

そう言えばラマチャンドランって、フロイト(親子)の学説を概ね踏襲してるみたいに思えるんだけど、フロイトってのも、相場の乱高下割かし激しい人みたいですね。


8/30(木)

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9/19(水)にシングル「Tokyo」をリリースする神田優花ですが、その次の週9/26(水)には今年三枚目のシングル「Pandora」を発表する予定です。 下はそのジャケット。



9/5(水)発売の「Endless Dream」も予定通り発売されます。




8/29(水)

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フランチャイジーになんてなっても、大して儲かりはしないと私は思う。 フランチャイジーってのはフランチャイズビジネスの子の方のこと。 あるビジネスのスキームを持つ者が、そのノウハウ伝授と引き換えに上納金を得る仕組みをフランチャイズとか言う。

私が上のように思う理由は、別にその業界に精通しているから、とかではない。 そんなに儲かるなら親の方が自らやっているに違いないからだ。 親は自分でやるより、商売そのものは子にやらせ、いくらかを上納させる方が得策と判断したからそのような仕組みを作った。 常識をもってすれば想像に難くない。

「フランチャイズでコンビニなんて始めても早々に潰れる」とか言っているわけではない。 むしろ簡単には潰れ難い業態の方がフランチャイズには向いている。 何故なら、親だって継続的・安定的な上納を望むだろうから。そういう意味では簡単に潰れないように入念にフォローアップするはずだ。 ただ、「簡単には潰れない」と言うのは「その商売に見切りをつけ難い」と言うことでもある。

「ボロ儲けなど望むべくも無いが、簡単には潰れない」、フランチャイジーになると言うことは、このような商売に手を付けると言うことだ。 別に悪いことじゃない。 利は薄くともある種の確実性はあるので、フランチャイズの店などを大量に持ち、それらの管理母体を法人化しているようなところだってある。 ただ、今の私がもし食い物屋でもなんでも開業するとしたら(しないけど)、フランチャイズには手を出さないだろうと思う。


8/28(火)

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水島新司と言う漫画家がいる。 有名なドカベンをはじめ、野球漫画を得意とする人で、まあ日本の野球漫画の第一人者と言って良いかと思う。 代表的な作品のほとんどを私は読んでいる。

作品のどこに魅力があるかを一言で言うならリアリティー。 作者本人の野球に対する熱量が尋常でなく、野球の描写にリアリティーが溢れている。 私は野球などほぼやったことがない人だし、例えばプロ野球に贔屓の球団があったりするようなタイプですらないが、リアリティーにはこの上ない感動を覚える。

水島氏は、日常の大部分の時間を「野球について考えること」に費やしていたはずだ。 頭の中で選手を登場させ、試合をさせ、あれこれと展開をシミュレーションしていたに違いない。 その注意の濃度こそがリアリティーに直結している。

ドカベンの文庫版だかが刊行された際、各巻末に解説文と言うか推薦文のようなものが寄稿されているのだが(寄稿と言うか口述録のような感じだったが)、かなりの割合でそれは本物のプロ野球選手からのもので、また少年時代にドカベンを読んで育った彼ら寄稿主の多くからは、示し合わせたかのように「リアリティー」の言葉が出ていた。 今の感覚で見ればドカベンも荒唐無稽だが、それまでの野球漫画のような「消える魔球」だのと言う現実離れした描写は確かに少ない。


生前のある時、漫画の神様・手塚治虫が水島新司に言ったらしい。 「君は野球だけ描いてりゃ良いんだから良いよね」と。

伝承の類を総合するに、手塚と言う人は自身と漫画(漫画界)とを同一視しているような人物で、だからか後進の新人漫画家たちのフォローなども実に懇切丁寧に行っている。 若手漫画家らを「同志」と見做す感覚が濃かったのだろう。

その手塚にして上のエピソードは、如何にも水島氏を同志と見做す感覚の希薄さを感じさせる。 偽らざる心情の露呈のように思えるが、今の私にはその気分の原因も何となく分かる。 水島氏は漫画家と言うより野球漫画家なのである。 漫画を描いていると言うより野球を描いている。 とりあえずの表現手法として漫画を採用していると言った感じ。

実際、もし漫画でなく「『野球映画』の監督をしてくれ」と言われても水島氏は快諾したのではないかと思われる。 と言うか、自身がプロの野球の選手や監督にでもなれたらそれが最良だったのではないかとすら思える。 事実水島さんは、我が息子を漫画家でなく野球選手に育てようとしている。 とにかく水島作品は、漫画より野球の方に比重が割かれているのである。 手塚の感じた距離感はきっと正しい。


8/27(月)

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多くの人は、自分がバカだと思われることに怯える。 まあ私だって、バカと思われて嬉しくはないかもしれない。 でも事実バカなのだとしたら、それは仕方ないとも思う。 バカにされてるんじゃなくて、等身大にバカと思われているだけなのだから。

バカのクセしてバカと思われることに憤慨する人は、自らを偽って生きようとしている。 世間を欺こうと考えるから、バカと思われることによって「正体がバレる危機」を感じてしまう。 バカ以前に碌なもんじゃない。


8/26(日)

漫画を読んでいたら、豆知識(雑学)のコーナーのようなくだりがあって、何やら難読漢字が出題されている。 「心太」と書いて何と読むか、等。

心太を「ところてん」と読むことや海苔を「のり」と読むことなど、もう有名だから知ってる人も多かろう。 確かにどう考えても本来そう読めない字だから難読とされるわけだが、本来そう読めないのだから、それを答えられるかどうかは知っているかいないかに掛かっているだけのことである。 たまたま知ってりゃ答えられるし、知らなきゃ答えられない。それだけ。 頭の良し悪しなどと関係ない。

読み進めて行くと「鐚一文」を何と読むか、などとある。 私は「『びたいちもん』と書いて何と読むのだろう?」としばし真剣に考え込んだ。 正解は「びたいちもん」だそうだ。

「鐚一文」は心太のような一単語ではなく、「鐚銭(の)一文」とか「鐚銭一文分」とか言う意味で、いわば複合語あるいはセンテンスの省略形である。 百歩譲って「鐚」が難読と言うなら分かるが、一は数詞で文は通貨単位である。

心太と鐚一文とは階層が違う。鐚が難読であることと心太が難読であることすら、意味が異なる。 雑学知識の暗唱などを得意とする人らに、決定的に欠けている何事かが窺い知れるようである。 言語の階層性の整理が悪いと言うのは、即ち言語力に欠けると言うことである。 階層処理(&同定)こそ言語の本質だ。

蛇足だが、鐚って字、(国字でなく)ちゃんとした漢字なのね。


8/25(土)

ジャズコンポーザー・ピアニスト川本比佐志氏のソロ作品集をウチのレーベルからリリースします。 既に企画は進行中でして、年末くらいには第一弾シングルを出せそうなペースです。 内容はインストルメンタルを軸に歌物をカップリング、みたいな構成を考えてます。 ウチにしては珍しい男性ボーカル物とか、バラエティー豊かな内容になる予定です。


8/22(水)



今年11月までにリリース予定の楽曲、とりあえず全て納品完了した。 一部データの差し替え(再納品)とかあって多少バタバタしたけど、とりあえず完了。 11月リリース分まではハッキリ分かってるんだけど、その先12月にリリースがあるかはまだ見えてなくて、多分来月前半くらいには判明すると思います。



神田優花に関しては9/5(水)にシングル「Endless Dream」(全2曲)、その二週間後にはシングル「Tokyo」をリリースします。


8/21(火)

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刑事事件の犯人のような、いわゆる加害者に話を聞くと、驚いたことにその人たちはほぼ皆、自分のことをむしろ被害者だと思っていると言う。

「驚いたことに」とか言ったけど、私は実はこのことがスンナリ理解できる。 共感できる(同じ気分にある)と言うのとは違うが、当然そうなるだろうと、いわば計算問題を解くように分かってしまう。

実際の世の中でもそう。 ワガママな奴ほど「自分は我慢させられている」と感じている。だからこそ余計ワガママに振舞える。 その振舞いが許されると思えるから。 被害者感覚は自らの悪行に正当性を与える効果を持つ。

だからして、平素の生活においても、被害感覚が人並み以上に鋭敏な者とは付き合わない方が得策と言える。 これは一種の世間知だ。 英語圏では、初等教育において、極力受動形を使わないよう指導すると言う。 「選ばれた」でなく「選んだ」と言え、ということ。 社会の秩序のために必要なのだろう。

人類史を紐解いて行っても、メチャクチャやる者ほど正義を標榜する。 神の名の元に人殺しをする者は今でもいる。 正義でなくて良いから無害でいてくれ。


8/20(月)

NHKで障害者のスポーツについての特集があった。 パラリンピックに出場するような人らから、趣味レベルのものまで。 障害者たちへのインタビューを交えつつ番組は進行して行く。

ある障害者(車椅子バスケの選手)は「自分にも競技がやれて嬉しい」とか言う。 私は分かっているつもりではあったのだが、あらためて人々の「意志の無さ」を感じてしまった。

スポーツこそが生き方である、と言うような人が不幸にも事故などで体に障害を負ってしまったと言うのなら分かる。 車椅子に乗ってでもスポーツを続けたいだろう。 でも上の障害者はきっとそういう人でない。

私は病気持ちだが、疾患が内臓なので車椅子を使うようなタイプではないが、もし車椅子に乗らねばならないような障害持ちだったとして、「車椅子バスケをやりませんか?」などと勧められても、即刻お断りする。リハビリの一環としてとかならまだ分かるが、時間が勿体無いと。 私には音楽を作ると言う命令がある。持ち時間だって限られている。


8/19(日)



影山リサ、新曲の歌入れ。 影山さんは次のシングルとミニアルバムのリリースがもう決まってて、その先のシングル収録曲(カップリング曲)を録ってました。 年末くらいに発表できるかも。

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脳の統合が覚束ないと、人間は良心を持てなくなる。 良心。理性・論理性と同じ根を持つもの。 言語に深く関係している。

先日、大阪の留置場だかから脱走した容疑者の顔写真が公開されていたのだが、明らかな内斜視であった。 加古川のダムで女性の遺棄死体が見付かった事件、逮捕された二人のうち主犯と見られる男性の、これまた顔写真が公開されていたのだが、こちらも見事な内斜視だった。

どちらも脳の統合に問題があるとしか思えない。 斜視者イコール悪人、とか言うわけではないが、少なくとも普通人に比べれば、良心感覚が育ち難い条件下にあるとは言える。 斜視者は基本的に立体視ができない。 あそこまで明らかなものだと、我々普通人とはかなり「見えている世界そのもの」が違うはずだ。 立体視を行わない脳は、本来そこに使うべき領域を退化させると言う。


人類がこんにちのような高度な社会を築けたのは、言語の効用に因る部分が大きい。 原始の段階の人類が集団で効率的な狩りを行えたのは、きっと言語を獲得したからだろう。 言語機能の弱い個体は、その共同体の中ではある種のお荷物となっていった筈だ。 狩る人間たちより、狩られる人間以外の動物、の方に近いのだから、彼らは内心常に「狩られる恐怖」に怯えていたはずだ。 人格障害者たちがその常として普通人になりすますのは、この恐怖が原動力となっていると思われる。

世間はそろそろ気付くべきだと思う。 脳の統合に失敗した個体、は人類の敵となりうると言うことに。


8/18(土)

認識、あるいはメタ認識と呼ばれるものについて。

結論から言うが、完全に言語の作用である。 人間以外の動物にでも意識はおそらくある。 だが彼らに認識は持てない。 「怖い」とは思っても、「今自分は怖がっている」と総括できないと言うこと。


芸能界とかって、別に美醜を競った結果形成されたものではないから、当然ながら「芸能人=美人」なんてわけではない。 ただ、美人であるケースは多いし、醜いことが適性となる世界ではこれまたない。当然だが。

微妙な顔立ちの芸能人とかがいる。標準的な美的感覚に照らせば明らかな欠陥を抱えていたりするのだけど、無論だからといって単純な醜女・醜男ってわけではない。 トータルとしては芸能人としての基準を満たしているからこそ芸能人なのだろう。

私はそういう人を眺めつつ、「同じような欠陥を抱える人らからの支持があるのだろう」と思ってしまう。 そこが基礎票になっていたりするのではないか。

ただ、その基礎票となっている人らの方に、その認識(自分がどういう理由でその芸能人を支持しているのか)はおそらくない。 認識が高度だから。 人は考えることはできても、自分が何を考えているのか、は掴めなかったりする。


認識とは、人間以外の動物にはおそらく持てないであろう高度な感覚。 当然人間の中にも、それを持てない者は多く含まれている。 いわゆる人格障害者や、言語の形成不全を計数能力のような代償発達で補う者は、概ねこれに含まれている。

私は音楽を言語で作り、それと同じものを聴く人の心に形成しようとしている。 形成するための唯一の材料は言語である。 それが無い人には、音楽なんて空気の振動に他ならない。


8/17(金)

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「応仁の乱(呉座勇一)」って本を読んでいた。その名の通り応仁の乱についての著作。 学者が書いた本なんで、それなりに堅牢なものだったと思う。

応仁の乱って複雑だ。 何が端緒となって、誰と誰が戦って、結局誰が勝者なのか等、一概に言えない部分が多過ぎる。 そもそも応仁の乱と言うが、戦闘のほとんどは文明年間に行われている。

応仁の乱に限らず、人間の争いごとって基本的に複雑だ。 複雑に過ぎるから、ある人にとってそれは時に理解不能で、例えば関ヶ原を「豊臣VS徳川」だとか、治承・寿永の乱を「源平合戦」とか言う風に単純化してしまう。 大抵解り易いってのは多くの誤謬を含むことで、実は世の中に簡単なものなどそう多くはない。

それにしても、日本の歴史学界は中世史界隈に良い学者を輩出するように思う。あるいは中世と言う時代に魅力があるのか。 私も学生の頃には網野善彦とかよく読んだ。


話は逸れるが、上記の本、よくある新書サイズで読みやすかった。 つい最近読んでいたラマチャンドランの本が、本編は上下二段の段組みで、縦読みと横読み、右開きと左開きが混在していると言う、メチャクチャ読み難いものだったんで、やはり読みなれた設計のものが良いと思った。


8/16(木)

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神田優花、レコーディング。 これで一応年内リリース予定の作品については、必要なテイクが全部揃ったことになります。 シングル「Endless Dream」(全2曲)、9/5(水)に発売です。




世間は盆休みとかだったみたいで、ウチもリハーサルについては小休止って感じなんだけど、私はその間に溜まってた事務作業を片付けてまして、それなりに忙しい日々を送ってます。といっても体調が許す範囲でだが。

今年の2月に私が入院して以降、ウチの会社は開店休業状態に近くて、雑誌に記事とかも出してたんだけど、問い合わせの電話とかにはほとんど応じられていない状況でした。 色々ご迷惑お掛けしてます。


8/15(水)

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この時期になると日航機墜落事故の話が毎度出る。 500人以上の死者を出した、人類史上最悪の飛行機事故らしい。 またなんでそれが日本で、って思うけど。

奇跡的に生存した4名がいるらしい。一人は客室乗務員だったそうだから、純粋な乗客のうちでは3人ってことになる。うち二人は親子だった。 事故当時子供だったその生存者の一人が、後に看護師になったらしい。結構有名な話だと思うんだけど、割かし美談として語られている。

その人が看護師になった理由に、「あの事故との遭遇」はきっとあったろうと思う。 今の私は、その人が心に映した何かが、微かながら掴めるような気がする。 ただ私自身は、そんな未曾有の事故の奇跡的生存者だったとしても、きっと音楽家になったと思います。


8/14(火)

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片飛鳥、9/12(水)にシングル「Start to fade」(全1曲)を発売します。 下はそのジャケット。



多分来年になると思うけど、片飛鳥は近々アルバムを発表する予定です。


8/13(月)

サザエさんのサントラを聴いていたんだが、特段の収穫は無し。 正直もう少し面白いかと思っていた。

サザエさん(アニメ)は子供の頃に見たきりで、ここ最近は全く見ていない(私はテレビ自体持ってない)。 子供の頃だってそんなに大した熱量で見詰めてはいなかったが、当時は娯楽が少なかったからか、BGMには粗方聴き覚えがある。

サザエさんの音楽(主題歌類でなくBGM)は、簡単に言うとバリエーションに乏しい。 例えばドラえもんなら、導入部やエンディング、ドラえもんが秘密道具の説明をするくだり、のび太がジャイアンに追いかけられるシーン、などのBGMはそれぞれの用途に応じたものが用意されているし、それらは当然明確に書き分けられている。 一方サザエさんはどうも違うように思える。 あるシーンに使われるAと言うBGMが、別のBと言う曲に差し替えられても大して違和感がない。 雰囲気が同じような曲ばかりなのだ。

それだけ物語に起伏が無いと言うことなのだろうが、そこが人気の源泉であったのかもしれない。 サザエさんは作者長谷川町子が国民栄誉賞を取るくらいの国民的人気作だが、その人気はどうも消極的と言うか、そこにあまりファンの熱量を感じない。 そもそも新聞の四コマですからね。

主題歌類を聴いていて感じるのは、洋楽、特にモータウン系の影響が濃厚である点。 当時の日本のPOPSは何らかの形で洋楽の影響を受けているものだが、サザエさんはその痕跡が割かし濃い。 Supremesにこんな曲ありそう、みたいなのが多い。


8/12(日)

ドカベンを見ていたら、明訓高校野球部に、土井垣と言ううるさい先輩が出てくる。 土井垣はとにかく後輩をどやしつける。 暴力を振るうような描写も出てくるのだが、あれは今のマンガではNGかもしれない。

それにしても土井垣は何故そんなにうるさいのか。 「中学野球と高校野球を同じと思うな!」とか「そんなことで甲子園に行けるか!」みたいなことを口走るのだが、要は「強いチームであって欲しい」、「甲子園に出場したい」と言う欲求が原動力であるなら、実に甘えた御仁である。 自らの欲求を叶えて欲しい余り、後輩と言う他人に依存しまくっている。 命令・恫喝と言うのは力関係・指示系統に因っているだけで、性格としては懇願と同じである。

実際の世の中にもこの土井垣的な未熟者はいる。 「俺は厳しい人間だ!だからお前らのこういうところを許さない!」みたいなことをよく言う。 ここには典型的な言語力の不足が見られる。

厳しさと言うのは、あくまで自己に対して発動されるものである。 他人の行動に発動させるのは単なる甘えである。 土井垣は自分が甲子園に行きたいのなら、ひたすらに自ら練習に励むべきであって、他人に何かを強要するべきではない。


8/11(土)

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今考えているアイディアについてのメモ。

オールディーズっぽいものを何曲か作ってみている。 もういくつか曲が溜まってきたら、音源化について具体的に考えたい。 シングル1〜2タイトルか、せいぜい企画物のミニアルバム一枚程度のボリュームにしかならないと思うけど。

ハワイアンとかカリプソとか、そういう南国っぽいイメージの楽曲をある程度数を揃えた上でリリースしたい。 今オケまで上がっているものが4曲くらいあって、もう何曲か書いたらこれも具体的なリリース計画を練りたい。

もう一つ、今構想を練っているものがあるんだけど、言語化しにくい。 シャープな楽曲的なキレのようなものを持たない、いわばコミカルなものを作りたい。 尺も短めのものを考えている。 イメージしているのは、商業音楽的なフックに欠けるようなものなんだけど、単なる駄作のようなものではない。 ある尺度において極限まで追い込んだものを作ろうと思っている。 これは今のところ3曲くらいオケまで作ってる。 何だかわけの分からない文章だろうけど、私の頭の中にはかなり明確なイメージがある。


8/10(金)

街なかで、駄々をこねる子供とそれに困惑する母親を見かけた。 子供は二歳児くらいだろうか、語彙は明らかに貧しいのだが、「イヤだ」と言う言葉を連呼する。

その子に限らず、「イヤ」と言う言葉は人間がかなり早い段階で覚えるものらしい。 「保育園に行かされるのがイヤだ」・「ママと離れるのがイヤだ」などと。 それら全ては意志ではない。 子供は事実子供なのだから、甘えるなと言うのも酷だが、その要求がどういう性質であるか、は親なら知っておくべきかと思う。

以前も触れた話なのだが、「男はつらいよ」に以下のようなシーンがある。

寅さんの甥っ子(大学生)が、就職先が中々決まらない時にこう言い出す。「就職活動なんてやってられるか!」。上の幼児の言う「イヤだ」である。 更にはこう言う「俺は好きなことをして生きるんだ」と。字句は不正確かもしれないが、概ねこのような意味のことを言っていた。

そこで母親の櫻は言う。 「あなたが好きなことをして生きると言うのならお母さんは反対しない。でもあなたに本当にやりたいことなんてあるの?就職活動から逃げたいだけじゃないの?」と。


子供は概して未熟なものだが、子を育てる親は、その子の要求が意志に因るものなのか、あるいは傾向性に因るものなのか、は分けて捉えるべきだと思う。 前者にだって際限なく応えてやるわけには行くまいが、無論のこと矯めるべきは後者。

傾向性というのは誰にでも備わっている。本能なのだから人間以下の動物にも当然ある。 意志は違う。意志と言うのは人間性そのもので、人類の可能性もそこに集約されると言う、守るべき何か。 意志を持たぬ者にでも傾向性はあるので、仮に親がそのような「意志を持たぬ者」であった場合、子供の要求が意志に因るものか傾向性に因るものかの区別が付かない。

腹が減ったからとメシを食いたがることや、リビドーの赴くままに異性を求めること、これらは皆傾向性。 子供が「遊びたい」と言うなら遊ばせてやれば良い。と言うか、是非とも遊ばせてあげるべき。 「幼稚園に行きたくない」と言うのは単にリソースの節約を求めているのであって、その要求に際限なく応えようと思うなら、彼を胎児に戻してやる他なくなる。


8/9(木)

影山リサは、シングル3・ミニアルバム1タイトルを今年既に発表しているんですが、年内にもうシングル1・ミニアルバム1タイトルを発売する予定です。 間に合えばシングルをもう1つ2つ出したいんだけど、これはまだよく分かりません。

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天才について。

浮世には、いわゆる天才と呼ばれるような人が時々現れる。 稀有ではあるから驚きをもって迎えられるのだが、多くの彼らは人類の進化型でもなければ、無論最終型でもない。

世に言う才能の多くは、大抵身体機能の形成不十分によって生まれている。 特に言語機能の欠損を補う為に代替的機能が発達した者を、人はしばしば天才と呼ぶ。 無論、全てのいわゆる天才がそのようなメカニズムで生まれているわけではないが。

発生・成長の過程で不具合が生じるのは、そのそもの設計図がおかしいからだろうと思う。 人類は時折、何かが壊れた個体を生み出してしまうようだが、単なるエラー(遺伝子の転記ミスなど)ではなく、そここそが進化の重要な鍵を握っているからのような気がする。

だからして、何万人に一人の天才が出現するのは、統合失調症が百人に一人現れるのと同じ理由なのかもしれない。 十万人に一人の天才は、大抵のケースにおいて、残る99999人の為のScapegoatなのだろう。


8/8(水)

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神田優花、今年一発目のリリースが決まりました。 シングル「Endless Dream」(全2曲)が9/5(水)に発売されます。 前回のリリースが去年の年末だから、実に9ヶ月以上のブランクが空いてしまったわけですが、アーティストの都合ではなく、単にスタッフの都合(主に私の体調)が理由です。



神田優花は年内にシングル6タイトル、フルアルバム1タイトルをリリースします。 再始動って感じなんでよろしく。


8/7(火)

代々木アニメーション学院のエンタメ科を今年卒業したばかりの、正村元一氏がスタジオに見学に来ました。 珍しいお客さんなんで写真をUP。 これから暫くの間、定期的にスタジオ入りする予定です。

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二日前のエントリーでラマチャンドランの著書を読んでいるって話をした。ちょっと前に古谷三敏の漫画を読んでいるとも言ったのだが、私は両者(の著作)の質的な違いについて感じ入っていた。

古谷氏の漫画は言わば薀蓄漫画で、情報量こそ多いが、その内容は、本やネットを駆使すれば基本的に誰にでも集められるものである。 膨大な情報を諳んじられることだって才能かもしれないのだが、ラマチャンドランの能力は少なくともそういった種類のものではない。

古谷氏がその著作で紹介するような薀蓄は、つまりは平面的情報である。 「○○年に××天皇が即位した」と言うような。それを掻き集めるに必要なのは記憶力程度のもの。 ラマチャンドランは物事を生理学的側面から捉えている。換言するならそれを「理解」と呼ぶのだろう。 歴史の年号をどれだけ記憶したところで「日本史における天皇とは何か」の問いには答えられない。 記憶でなく理解が求められるから。

私はいわゆるカンニングに寛容な人である。 ペーパーテストなんて、カンニングOKにして本でも何でも持ち込ませれば良い。 そんなことくらいで高得点を取れるような試験なら、出題そのものがおかしいのである。 記憶の絶対量など競ってどうする。我々は人間なのに。

ラマチャンドランの豊かな仮説立案能力にも敬服してしまう。 これは言うなら発想力とでも呼ぶべきものだが、対象についての深い理解抜きには成立しがたいものだろう。 私がラマチャンドランに感じている知性の豊かさ、もしこれを頭の良さとするなら、その尺度において多くの日本人は頭が悪い。


8/6(月)

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友情は永遠である。 一生モノ、ですらない。 だから私は、如何なる現世利益よりもそれを大切にする。

私と言う固有の思考パターンが、ある別の思考パターンと共感・共鳴する。 そこに友情は生まれるわけだが、出会いと言うのは時間・空間に制限される。 私は、友人たちと出会えたことを、その歴史的条件が揃ったことを僥倖に思う。 神に感謝したい。

友情で結ばれない相手とだって、共に時間を過ごすことくらいできる。 ただしそこには、政治と言うその場しのぎの泥臭い作業が必要になる。 私はそれを美しくないと感じる者だから、そういう人間関係は最小限に留めるよう平素から努めている。

思考パターンの共鳴などと言うが、共鳴(共振)と言うのは宇宙不変の物理法則である。 だから私はそれを永遠と思う。 私の友人がいなくなったって、この私さえいなくなったって、友情は微動だにしない。


8/5(日)

水曜発売の影山リサのミニアルバム、「フラミンゴ」(全6曲)は聴いてもらえたんでしょうか。 邦楽の第二シリーズ、とりあえずこれで一段落。第三シリーズがあるかどうかは分かりません。我々の気分次第。





ラマチャンドランの著書を読んでいた。 ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは当代一流の医学者で、それまで現場の医師らがお手上げだった幻肢痛の画期的治療法を確立した人物として有名である。 まず間違いなく歴史に残る人物だろう。

著書を読んでも、上記の事績(幻肢痛の治療法確立)をとっても、物事を生理学的な目線で観察・理解することに達者な人物なのだろう。 現在アメリカ国籍だそうだが、人種的にはインド人である。 インドはたまに人類史に貢献するような傑物を輩出する。 釈迦とか東京裁判のパール判事とか。

ラマチャンドランは普段英語で思考しているような気がする。論文とかは当然英語だろうし。 インド諸語と言う高度に思索的・思弁的な言語に、英語のようなシンプルで機能性に優れた言語が合わさると、人類はとんでもない変異を起こしたりするのかもしれない。


8/4(土)

私が宅録を始めた頃、まだピッチの補正ツールなんて(少なくとも市販品には)無くて、極力良いテイクを繋ぎ合わせるくらいが技術的な限界だった。

当時でも、テープの回転数とかでピッチを上下させることは出来た筈だが、例えばその手法をボーカルの音程補正に使うのは難しかった(実用的でなかった)。 フォルマントまで変質させてしまうから。

フォルマントと言うのは固定倍音のこと。 人間は歌唱によってある特定音高を発音させている時でも、他にも様々な目的外の音を出している。 フォルマントの変質に違和感を覚えると言うことは、聴く人は無意識のうちにでも、フォルマントを含めて音像を脳内に構築していると言うことになる。

普通人間は、左右の耳から入ってくる音響(聴覚)情報差を脳内で統合し、立体的音像を確立する。 要するにステレオのことなんだけど、視覚で言うところの立体視に相当する。

あんまし言われてないが、多くの人は左右の目(の焦点)がズレている。 斜視と呼ばれるほど極端でないにせよ、多少のズレがある人は多い。 日常生活で目にしても気付きにくいが、写真などを凝視すればよく分かる。 視覚においてこのようであるのだから、聴覚においてもキチンとした立体音像を統合・構築できてない人はきっと多いはずだ。

ダミーヘッドを使ったバイノーラル録音ってのがある。 ソフトウェア的に効果を再現するバイノーラルシミュレーターなんてのもある。 どういうものかは調べて欲しいが、効果の感じ方には個人差があるようで、例えば私などはほとんど効果を感じない。 私の音像の統合において、端折られている聴覚情報なのだろう。

音(空気の振動)と言う対象自体には大した差がなくとも、それを受け入れる側には個体差がある。 感覚器と言うより、それより先の中枢においてその差は顕著である。 カクテルパーティー効果は、音の取捨選択が脳内で行われる。

まとまりの無い文章になってしまったが、今の私の偽りない関心事をダラダラと述べていた。 もう少し考えがまとまったら、またあらためて上げます。


8/3(金)

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バッキングをほぼSteelPan(スティールドラム)のみで作った試作曲を作ってみた。 厳密にはラテンパーカッション系のリズムマシン音を足してるけど。

低音を担当するSix Bassってヤツがあって、手元にある音源(サンプル)を実器の音域通りに発音させてみたんだけど、実に音程感が心許ない。 実際音程感が弱い楽器なので、そこを補強する方法としてオクターブ奏法が有効である、との記述を見た。 が、音域がBb1-Eb3(全18音)で、E〜Aの音はオクターブに当たる音が出せない。

最高音域を担当するTenor Panのように一つのドラム缶(盥)で演奏するタイプもあれば、2〜6までの複数のドラム缶を一人の奏者が操るタイプもある。 マレットを使った最大同時発音数2の楽器なので、一つのドラム缶で二つのノートを発音させる場合と、二つのドラム缶でそれぞれ一音を出す場合、共鳴部分の構造から考えても、前者はやや音のクリアーさに欠けるのではないか。 私はサンプルベースで音を作るので関係ない話ではあるけど。

手元にあるSteelPan音源、実器よりかなり広い音域で発音できてしまうんだが、基本サンプルのプレイバックだろうに。ピッチ弄ってるのかな。 無駄なほどに大容量で、そんなにセコい仕様だとは思えないんだけど。 因みにSteelPan、どれをとっても音高で言うと20〜30くらいの音しか出せない。ピッチ弄ってサンプル使い回すほどのものでも無かろうに。


8/2(木)

神田優花、また歌録り。 年内のリリースタイトルがボチボチ決まりつつあります。シングル6・アルバム1タイトルを出す予定。

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守るべき意志について。

好きさ、それも意志によるもの、であれば、人類はそれを全力で守らねばならない。 全ての可能性はそこに集約されるから。

言うまでもないが、私は音楽が好きである。 私は「俺は音楽が好きなんだから守りやがれ」と単純に世間に対して訴えているわけじゃない。 私自身とて例外でなく、私の中に認められる「好き」と言う機微を全力で守らねばならない。 そして、事実そうやって今まで生きてきた。

我々は音楽事務所をやっているんだが、「歌が好きな人らが歌を歌う場所」を確保せねば、守らねばならない、と言う感覚は濃厚にある。


伝わり難いと思う。どう言えば伝わるだろう。 「好きと言う機微は守るべき大切なものである」と言えば、「俺だって金や女が好きだ」と言われてしまいそうだ。 でもそれらは皆、私の言う好きではないのだ。

異性や食い物を欲するのは、生物としての本能である。 金はそれらを手に入れやすくするツールで、私とて例外でなく、ほぼ誰だって無いよりあった方が良いと思うもの。 酒やギャンブルなども、人が意志によって追い求めているものでなく、意志以外の何かの力によって追わされてしまうもの。 喉が渇けば人は水を欲するが、それは我々の意志ではない。

本当の意味での「好き」なんて気分、ほとんどの人は持ち合わせていない。 ほとんど人は生存の原理に従って、目についた欲しいものを追わされているだけ。 金や権威なんて誰だって欲しいに決まってるじゃないか。あった方が生きて生きやすいのだから。

好きなことであれば、人は何を差し置いてもそれを追いかけるべきである。 好きな何かを追い続け、たどり着いたそこには、きっとこの宇宙の解はある。 「俺は酒や女が好きだけど、酒席に通い詰めた果てに何かが待ってるの?」と問われるなら、「きっと何も待っていないでしょう」と答えざるを得ない。

親に誉めてもらう為、他人の羨望を集める為に偏差値の高い大学に行ったところで、その先にはきっと何も待っていない。 「良い就職口が待っているじゃないか」と思われる向きはあろう。 良い就職口にありつけると、高給や世間体が保たれたり、良い縁談が待っていたりもしますものね。

それらは全て「生存上の有利さ」。 そうやって生きるということは、より良い生存条件を求めてさまよっているだけのこと。 生存を安泰たらしめて一秒でも長く生きたところで、生存の原理に従って持ち時間を使い切るだけのこと。 そこに何も待ってやしない。


8/1(水)

影山リサ、ミニアルバム「フラミンゴ」(全6曲)、本日発売。 下はアーティスト本人から。


フラミンゴ

8月1日発売の「フラミンゴ」は、和っぽい曲を集めたミニアルバムです。
一曲目の春陽が落語みたいな感じで面白いです。
シングルをまだ聴いてない方も是非聴いてみて下さい。

影山リサ





話は変わるが、Audition blue(白夜書房)と言う雑誌がつい最近創刊された。月刊Auditionの後継誌なのだが、内容とか価格から見ても新たな別の雑誌と言って良いと思う。 白夜書房さんとはもう随分長いお付き合いで、月刊Audition誌もウチのアーティストの紹介だとか新人発掘の為の貴重なチャンネルとして、長らく重宝させてもらっていた。 だからして、リニューアルと言う名の路線変更は残念に思っていた。

新雑誌は(男性)グラビア中心の事実上女性誌になっていて、内容から見ても男の読者は少ないと思われる。 また\700弱だった定価が\1000弱になっている。 この価格帯の商品にして\300の値上げは大きい筈で、一定数の読者離れが起こっているに違いない。 そこに目を瞑ってでも新読者を獲得できると踏んだのだろうけど、吉と出るかあるいはそうでないか。私には分からない。

そのAudition blue、創刊号にちょっとだけウチの記事を載せてもらったんだけど、今月発売の最新号にも(今度は写真入りで)載せてもらいます。 ちょっと高くなってるみたいだけど、みんながんばって買いましょう。


7/31(火)



影山リサ、新作ミニアルバム「フラミンゴ」(全6曲)について。


影山リサの、邦楽をフィーチャーしたミニアルバム「ナイチンゲール」ってのが2015年に出てまして、正直あんまし売れてないと言うか、ほぼ同時期に出したテクノ・エレクトロ路線のモノの方が全然聴かれてるんだけど、コアな愛好者が僅かながら海外などにいたようだ。

私は個人的にその邦楽シリーズの楽曲たちを気に入っていて、続編を出したいと前々から思っていた。 今回のアルバムのラインナップ自体は去年の結構早い段階で上がってたので、随分期間を置いてのリリースになります。 満を持してって感じです。

正直言うと、それ用のスチールが上がってなかったから、ってのが、リリースが遅れた大きな理由の一つとしてある。 その間カメラマンが変わったりして。

近世邦楽をベースに置くつもりであったんだけど、結果上がってみると厳密な意味でそういう楽曲は少ない。 粗方のモノが明治以降のいわゆる新曲と言われるようなものベースであったり、もっと言えば昭和以降の邦楽の末流のようなものであったり。 演歌みたいなのもあるしね。 私としては面白ければ何でも良い。

以下、収録曲ついて。2.Signs・4.Strawberry And White Marshmallow・5.Backpackの三曲は、先行シングル収録のものと基本的に同じトラックです。


1.春陽

寄席囃子をベースに一曲作ってみた。 要素として取り入れたのは、出囃子・受け囃子をはじめ、一番太鼓とか。

途中、加工した人の声みたいなのが入ってて、噺家の「喋り」を模してるんだけど、あの音の原形は影山さん本人の声。 何言ってんだか分からないだろうけど。

楽器編成は三味線二挺と笛、太鼓類。 大太鼓の代わりに桶胴ってのを使ってる。 大太鼓を使う方がそれっぽくはなるんだろうけど、デフォルメされた雰囲気を出そうと思って、もう少し径の小さい太鼓の音にしてみた。

三味線については、一挺の部分と二挺で演奏している部分とあるけど基本はユニゾン。 ヘテロフォニー的な動きがところどころにある程度。

笛(能管)のフレージングについては多少の試行錯誤があった。 寄席の囃子って、三味線以外は専業のプレイヤーが受け持つことが少ないらしく、太鼓類はほぼ前座の噺家さんが担当、笛については専業者だったり噺家さんだったりマチマチであるっぽい(実態については詳しくないんだけど、資料によって記述が分かれているのでそう判断した)。

で、この曲の能管のパートに「ヒシギ」(一種の特殊奏法)を使うかで迷った。 前座の噺家が片手間に受け持つ程度のものに、ヒシギは大袈裟のように思えて。実際に出囃子を聴いてても、使用例は少ないと思った。 結果、本格的には入れないことにした。 まあどんな風になったかは聴いてみて下さい。


3.Flamingo

基本、浪曲をベースにした。あと「ナントカ小唄」みたいなののイメージも投影されている。 あの辺の音楽って明確な境界を定めにくい。

バッキングは三味線を基本としつつ、下座で使われるような打楽器類(当たり鉦・柄付き太鼓・カンカラ太鼓・チャッパ)をところどころに入れた。 コーラスは神田優花が担当してます。

途中、まさに浪曲をイメージしたくだりがあって、そこに入る人の声に相当する部分をどうしようか迷ったんだけど、結局は影山リサ本人の声を材料に作った効果音みたいなもので埋めた。 どういうものかは聴けば分かります。 あと、その浪曲のくだりにモールス信号みたいなのが入ってるんだけど、効果音として入れただけで全然意味は無い。


6.Another Boy

一応本編は清元(浄瑠璃の一派、清元節)をベースにしたつもりなんだけど、導入部に長めのいわゆる「片シャギリ」が入ってる。  曲のお尻の部分もいわゆる「追い出し」のイメージ。

全体で二分足らずと言う、ごく短い曲。 本編にあたる部分も多分一分満たない。 最初から、アルバムの最後のオマケとか、そういうちょっと特殊な位置付けのものを想定して作った。



7/30(月)

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7/29(日)

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南国っぽいイメージのPOPSをいくつか作ろうと思っている。 誰が歌うか、なんてのはまだハッキリ決めてない。

イメージは輪郭がややぼやけているが、そのぼやけを残したままにしておきたい。 南国っぽい音楽ってのは、ハワイアンとかカリプソとか、沖縄民謡とかもイメージに含まれている。 ただ、例えばカリプソとハワイアンは全く系統の違う音楽だが。

詳しくないが、おそらくハワイの音楽はネイティブハワイアンの民謡だろうと思われる。 アメリカ統治下になってから、音楽上の混血は当然濃厚にあったろうが、ルーツをたどればそうであったろう。 多分沖縄民謡などと近い。沖縄民謡の方が日本音楽混入の度合いが甚だしいのかもしれないが。

カリブ海の島々の音楽は、基本あの辺の黒人が作ったものだと思われるが、あのあたりの歴史も複雑である。 白人の統治下にあった地域に被支配層として存在していた黒人奴隷らが、ある時期を境に統治権を獲得した。 が、彼らは土着の民族でなく、アフリカから連れてこられた奴隷である。 その種の革命は革命ではあるのだろうけど、民族の失地回復ではない。 黒人奴隷層発祥の音楽だから、カリブの音楽はアメリカのジャズやブルースなんかと性格的には近い。

カリブの民族構成は、台湾で言うなら外省人=白人・内省人=黒人みたいな感じか。 数が少なくて霧消しているように見えるが、カリブにもそもそもの現地人がいた。台湾の高雄族のような。 そういう人らの民族音楽が継承されてカリプソになったわけではなかろうってこと。

今考えているのは、それらの諸音楽をエッセンスとした、トロピカルなPOPS。 本来全く系統の違う諸音楽を、頭の中で故意にゴッチャにしてあるイメージを構築している。 ある時期(70〜80年代)のJ-POPに今抱えているイメージに近いものがあったような気がする。だからあくまで土台はJ-POP。


7/27(金)

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「BARレモン・ハート」と言う漫画を寝そべって読んでいた。酒に関する薀蓄漫画のようなもの。 作者は古谷三敏と言う人なんだが、他にも「減点パパ」などの薀蓄漫画を著書に持つ。そういうものを得意分野とする漫画家なんだろう。 私はお酒も飲まないし、あんましそれ界隈に興味が無いんだが、軽めの読み物として暇潰しに読むくらいの用途には耐えうるものではある。

私は読書が好きだし、物事を知りたいと思う人だけど、やはり薀蓄と言うか雑学のようなものには興味が無いとハッキリ分かった。 私はそういう表面的な知識を掻き集めたいタイプではない。 表面的な知識と言うのは、「○○と言う酒は××と言う国で18XX年に〜と言う人物によって発案された」と言った類のもの。 私は、そういう知識を掻き集めることに大した意味を感じない。


7/26(木)

広瀬沙希、歌入れでした。 今回録ったヤツは単曲でシングルリリースする予定です。

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病身を押しての編集作業中。 今編集してる曲は、年末くらいに発表予定のシングルのカップリング曲。 今の音楽商品のスキームでは、カップリングってほぼ必要ないと言うか、旧メディア時代の風習に過ぎないんだけど、私どもは古風にAB面の二曲抱き合わせって形で多くの商品をリリースしてます。 B面ってフィールドは実験的な作業には大事な場所なんです。


7/24(火)

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神田優花、歌録りでした。 今回のはかなり強敵だったらしいんだけど、個人的には十分満足行くテイクが録れたと思ってます。



影山リサ、シングル「Strawberry And White Marshmallow」、聴いてもらえたんでしょうか。 来週には6曲入りミニアルバム「フラミンゴ」が発売されます。こちらもよろしく。




7/21(土)

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またSteel pan(スティールドラム)について。 昨日の続き。

スティールドラムの音はGM(General MIDI)128音色にも入っていて、いわばスタンダードである。 が、そのスタンダード楽器の中では最も新しい部類に属するものでもある。 要するに歴史が浅い。

カリブ海最南端の島国トリニダード・トバゴ共和国、で生まれた楽器らしいが、歴史が浅いだけに現地の民謡(カリプソ)だとかPOPS(あの辺りに宮廷音楽とか伝統音楽のようなものは無い)に付け加えるような形で使われたろうか。 独自の楽理のようなものがあるわけではなさそう。 因みに音律も西洋音楽準拠である。

例えば狭義の管弦楽法とかって、単に使用される各楽器の奏法・最大発音数・音域なんかを知ること、だったりするわけだけど、本気で管弦楽曲を書こうと思うなら、そのベースとなっている楽理・定番的書法などの理解無しってわけには行かない。 弦楽四重奏とかのスコア書くのも同じなんだけど、スティールドラムに関しては、ベースとして理解せねばならない楽理のような部分は希薄で、せいぜいPOPS的な書法(多分に体感的な)が分かってれば良いように思われる。

もし曲を作るなら、一応南国っぽいものにくらいはしたいところ。 私はそんなに詳しいわけではなく、例えばカリプソとハワイアンの違いなんかも譜面情報(音の配列)だけでは感じ取れない。違いがあるのかすら知らない。 一時期のJ-POPに存在した南国っぽい音楽、みたいなのを骨組みとして作って、あとはバッキングをスティールドラムで固める、みたいなものになりそう。


7/20(金)

神田優花、レコーディング。 今回のヤツは次のアルバム収録予定曲であり、その前にシングルとしてもリリースする予定のもの。 ただし現時点での上がり(ラフミックス)を聴く限り、歌としてはそんなに面白いものでもない。

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Steel pan(スティールドラム)について。

いわゆるクロマチックパーカッションで、一応半音単位の楽音が出せる。 マレット(バチ)を両手に演奏するので、一人の奏者が二和音まで出せる。 モノにもよるが、標準的なタイプで音域が2オクターブちょいと狭いので、あんまし高度な音楽表現には向かない。特にソロ楽器としては。 ある種の打楽器みたいに、集団で演奏すると楽しいみたいだ。

マンドリンとかサックス属の楽器みたいに、音域別に複数の楽器が存在していて、人数集めればあれだけでそれなりの楽曲が演奏できそう。 発音数から見ても、弦楽四重奏とかに近いアレンジくらいなら可能なんじゃなかろうか。

演奏動画などを見ていると、トリルのようなトレモロのような奏法が頻出する。 バチ使う楽器なんで、ドラムスで言うところのロールのようなことが、どうしてもやりたくなるのだろうか。 因みに、マリンバの4マレットのような奏法は(演奏動画なんかを見る限り)存在して無さそうである。

曲作りに活かそうか思案中である。 Steel Panの音色を取り入れた楽曲は作ったことがあるけど、もっと本格的に、ほぼそれだけでバッキングを構成したようなものを作るか否か。


7/19(木)

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ヤクザは強いのか。 強さの定義にもよるだろうが、「生存の能力」こそを生物・生体としての強さとするなら、きっとヤクザは弱い。 調べたわけじゃないけど、統計取れば平均寿命は一般人より確実に短いだろうから。


7/18(水)

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影山リサ、ニューシングル「Strawberry And White Marshmallow」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Strawberry And White Marshmallow

シングル「Strawberry And White Marshmallow / 水鏡」を発売します。
タイトル曲の「Strawberry And White Marshmallow」の可愛いくて不思議な世界観を是非聴いてみて下さい。

影山リサ




影山リサは今、アニソンっぽい曲を集めたのとテクノっぽい曲を集めたミニアルバム、計二枚を制作中です。 前者は収録曲も全部上がっていて、年末くらいには発表できるかと思います。


7/17(火)

影山リサ、明日発売のニューシングル「Strawberry And White Marshmallow」(全2曲)、について。

ジャケットは事前から蛍光灯の下で撮る構想があった。 今回の一連のシリーズに共通しているんだけど、ちょっといかがわしいと言うか、インチキ臭い和の雰囲気を醸したもの。 Sparksの「キモノマイハウス」とかのイメージ。 あのアルバムの一曲目のタイトルがいまだに覚えられない。

現場でカメラマンに「キモノマイハウスのイメージで」とかオーダー出したら、カメラマンがそれを知らなかった。 (事前の打ち合わせとかでなく)その場で伝えただけなのでそれも仕方なかったんだけど、結果的には元よりのイメージ近いものができました。 下がそのジャケットになります。




1.Strawberry And White Marshmallow

強いてカテゴライズするなら、小唄とか端唄とかそういうものの類になるのだろうか。 邦楽っぽい小品です。 バッキングは三味線数本と(能の)四拍子。

音楽的には明治以降のもの、いわゆる明治新曲をイメージした。 でもあくまでそれをベースにしたってだけで、旋律には半音階とかも入っている。 長唄の既存曲を参考にした面があるんだけど、長唄の形式を踏んでいるわけではなく、一部を抽出したようなものになっている。


曲の最後、アウトロの部分は三味線三本によるものなんだけど、「○○の合方」みたいなのを土台にしている。 撥とスクイ・ハジキのコンビネーションによるフレーズ。


一応の補足。 明治新曲ってのは、それ以前の邦楽と比べると半音階(陰音階)ってのがあんまし出てこない。 合方ってのは、いくつもの曲に使われる定型的フレーズ、あるいは小品。 著作権とかの考え方が今とは違っていたので、ある時代の邦楽にはこういうのが頻出する。


2.水鏡

演歌と言うか昭和歌謡と言うか。 今まで何曲か演歌っぽいものを書いたんだけど、何と言うか冗談みたいな作品ばかりで、あんまりだったんでもう少しマトモなものを作ろうと思った次第。 結果できたかどうかはさておき、動機はそんな感じ。

アレンジは、いわゆる吹奏楽団を想定したものなんだけど、ギターとかそういうPOPS系の楽器も入ってるんで、ビッグバンドとかそういうものに近いんだろうか。 昔の歌番組とかのバックで構えている楽団のイメージ。

本来この位置に収録する予定ではなかったんだけど、穴埋め的にここに持ってきた。 影山リサの邦楽シリーズ第一弾ミニアルバム「ナイチンゲール」にも、「恋しぐれ」と言う、全然アルバムコンセプトである近世邦楽と違う、ただの演歌みたいなのが入っているんだけど、これもそんな感じのオマケのような曲。 まあ演歌と近世邦楽って、多少の類縁性を感じなくもない。個人的な感想だけど。



7/16(月)

作っている段階で、既に駄作であることが確定的な曲ってのがある。 駄作と言うと語弊があるな。商業音楽的なフックに欠ける曲ってこと。 要するに「売れそうもない曲」。

私はそれなりに長いこと音楽作ってきたもので、正直駄作に怯えない。 駄作も作れないようになったら終わりだとすら思う。 だから誰に何と言われようと、これからもどんどん駄作を作ります。

音楽に良し悪しの基準など無い。 誰かが決めた物差しがあったりするだけなのだが、売れる(=金になる)ってのはその有力な一つである。 多くの人の支持が得られる作品を作る能力ってのは、言い換えれば商売の才能に過ぎず、芸術的才能ってのはそれとは全然別のところにある。 芸術的才能と言うのは、駄作に怯えない能力のことでもある。

キラキラネームと言う言葉がある。 子供に付けられたある種の(ある傾向を持つ)名前のことだが、子はそれを否応無く付けられただけで、付けたのは親である。

あの手の命名をしてしまう親は、要するに駄作に怯えている。 一世一代の「センスの見せ所」だと気負ってしまうからああなる。 一世一代と言う気負いは、その作業を継続して行く気が無ければより強いものになったりもする。 まあ子作りなんて、おしなべて一生のうちでせいぜい数回だからね。当然でもある。

私は、素人作曲家のような人のサポートを随分やってきたから分かるんだ。 駄作を作ってしまうのが素人なのでなく、怯えるあまり駄作も作れないのが素人なのだ。


7/15(日)

石田三成は、関ヶ原での敗戦の後、捕縛され刑場に向かう折、喉が渇いたとて水を所望したそうな。 捕吏が水の代わりとて干し柿を差し出したのだが、三成は「柿は痰の毒になる」と言い、手をつけなかった。

捕吏が「今から首刎ねられる身が、何のための養生ぞ」と笑ったところ、三成は「お前ら下郎に天下を争った者の気持ちは分かるまい」と逆に鼻で笑ったらしい。

松本智津夫も法廷などで言えば良かったのに。 「裁判官・検察官などと言う、現体制に寄生し税金で肥え太るお前らごとき輩に、この堕落した世界を生まれ変わらせるべく命がけで戦った宗教家の気持ちなど分かるまい」と鼻で笑ってやれば良かった。

もしそんな人物だったなら、少なくとも私の彼を見る目は変わっていたろう。 彼の命令に従った信者らも、少しは救われたかもしれない。 と言うか、日本史上に残るカリスマになったに違いない。 だが実際の彼は、ただの俗物と言うか、単なる精神病者に過ぎなかった。 死刑にまでなった彼の同志たちも浮かばれないね。


7/14(土)



影山リサ。今週水曜発売のニューシングル「Backpack」、聴いてもらえたんでしょうか。 来週の水曜には次のシングル「Strawberry And White Marshmallow」(全2曲)を発売します。こちらもよろしく。 下はそのジャケット。





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神田優花。今年のリリース計画がほぼまとまりかけている。 私の体調不良が一因で半年以上リリースが無い状態なんですが、歌自体は結構録ってます。


7/13(金)

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オールディーズっぽいものを作ろうかと思案していた。 オールディーズって50〜60年代辺りのものを指すことが多いのだが、そのまんまオールディーズじゃなくて、それっぽい書法を拝借したやや後世のPOPSをイメージしている。

オールディーズとか言う括りで、一種のジャンル名とされたり、そういうコンピレーション盤などがあったりするが、オールディーズと言う音楽ジャンルが存在するわけではない。 ただ、共通する雰囲気はあるので、そこを上手く取り入れられたらと思っているわけです。


7/12(木)

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オウム真理教の幹部らの死刑が、一斉(7人同時)に執行されたらしい。 あの事件からもう二十数年が経つのか。

二十何年も掛けやがって、と言う声はあるのかもしれない。 が、オウム関連の裁判って、開廷数もその間隔も、異常と言えるほどにスピーディーな上、教祖のそれは事実上一審のみで終わっている。 これでも法曹関係者らの精一杯の努力の結果と言えそうだ。

私は教団についても事件についても、詳しいことは知らない。 目にしたごく断片的な情報を元に、以下感想を述べる。

例えば地下鉄サリン事件など、東京のような人口密集地の地下鉄で化学兵器を使用するなどと言う、史上稀に見る凶悪犯罪なわけだが、ニューヨークの同時多発テロのように、民族・国家・宗教などの歴史的経緯が絡む、複雑な人間感情が背景にあるとか言うわけではなさそうだ。 一応オウムは宗教団体なわけだが、大した教義とかもありそうになく、少なくとも知る限りは、哲学的に意味のある、人類の可能性に繋がる何事かがあるとは思えなかった。 事実教祖は法廷において、自らの信条を一切開陳しなかった。

教祖は犯罪者(死刑囚)なのだから、一応現世の価値観では悪人になるのだろうけど、悪人即ち無能者ってわけではない。 ヒトラーは悪人とされているが、ある面において間違いなく有能ではあった。

ではオウムの教祖はそういう意味でどうだったのかと言うと、私は大した人物でなかったと思う。 よくある人格障害・精神疾患の類で、専門の医者に見せれば一目瞭然であったのではないかとすら思う。 被害妄想などと言う、典型的症例もいくつか見られる。 先天性の弱視であったとか聞くが、身体に不具合があるのだから精神に不具合が出ても不思議ではない(脳だって身体の一部ですからね)。 別に全ての不具者の人格に問題があるって言ってるわけじゃないですよ。

単なる人格障害者が何故あのような稀に見る凶悪犯罪集団を作り上げたのか。 それは教祖の才覚と言うより、あのような組織・共同体を希求する気分が社会(と言うより多分に一部の人ら)の側にあったからだろう。不運が重なったとしか言いようがない。 環境面での理由なしに一万人の信者は集まるまい。 教祖には、「何故」の問いに答える能力すら無い。

浮世ってのは、要するにこの、少数の人格障害者と大多数の普通人の鬩ぎ合いの場であるようだ。 脳機能に不具合を抱えた人格障害者の類がこの世にいなければ、浮世の揉め事のほとんどは無くなってしまうだろう。 多くの人がまだここに気付いていないだけ。


7/11(水)

影山リサ、ニューシングル「Backpack」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Backpack

シングル「Backpack / Crab Apple」を発売します。
個人的にはカップリングの「Crab Apple」のほうが気に入ってます。 是非聴いてみて下さい。

影山リサ





7/10(火)



影山リサ、ニューシングル「Backpack」(全2曲)、について。 シリーズ第二弾です。 以下、収録曲について。


1.Backpack

地歌の中でもとりわけ京風手事物ってのを下敷きに、POPSライクなものを作ってみたつもり。 バッキングに使ってるのは筝一面・三味線一挺のみ。 あと間奏(手事)部分に「櫓を漕ぐ音」が入ってる。 単に効果音として乗せただけでなく、一応はアンサンブルの一部となるよう、多少の手を施してはいる。

手事部分の、段合わせ・段返し・掛け合い、チラシなんかを含んだ構成、他にも後唄の四度の転調など、定番的書法をふんだんに盛り込んだつもり。 ただ、当たった作例の絶対量がおそらく足りてないので、解釈が正確であるか、そんなに自信が無い。

器楽部分の分量が多くなりすぎるきらいがあって、極力削ったつもりなんだけど、結果この程度には残ってしまった。 間奏にあたる段物の部分は、一段を本来の4分の1程度にした。 今聴くと、もう少し削りようがあった気もしないでもない。合いの手部分とか。


POPSを聴き慣れている耳には進行とかフレーズを把握しにくいと思うけど、これでもできるだけ聴きやすく仕上げたつもりではある。 本物の地歌類って、きっと現代人にはもっと難解だ。


2.Crab Apple

端唄・小唄の類と言うか、要するに俗謡のようなものを作ろうと思った。 厳格な様式性のない音楽。 だから比較的作るのは楽だった。 影山リサの邦楽シリーズは、基本的に近世の音楽(俗楽)を下敷きにしているんだけど、この曲なんかは明らかに明治以後の邦楽ですね。 近世音楽の拍節感じゃない。旋律も近代的。

音は完全にモノラル。エフェクトとかでステレオっぽく広がってたりするかもしれないけど、元の各トラックのオーディオは全部モノラル。PANも全部センター。 リズムは西洋音楽のような明確なものではないけど四拍子。リズムがハネてる部分とのハイブリッド構成になってる。

バッキングは三味線メインなんだけど、笛と太鼓が部分的に入ってる。 落語の出囃子とかの編成をベースにした。 あとビヤボンって言う笛(Jew's Harp)の音を効果音的に入れてる。 三味線だけでいっぺん全編を作ってから、付け足すような感じでその他のパートを作った。

普通こういう編成では、笛(能管)なんかはメインの三味線のフレーズのヘテロフォニー的な動きをすることが多い。この曲も基本はそうなんだけど、旋律を自由に動かしている部分も所々ある。 太鼓(締太鼓)は、基本シンプルにリズムを補強しているんだけど、ちょっとリズムを無視したような部分もある。 この辺りは作例に倣って取り入れてみたところ。

全体的にテンポのヨレのようなのを表現したくて、そこはちょっとだけ苦労した。 普段使ってるシーケンスソフトが、テンポ情報をテキスト入力でしか受け付けてなくて( オートメーション描くような自由度でなくて)、結局その部分だけ別のソフト(DAW)使って入力した。 MIDIデータのやり取りが面倒だったってくらいですが。 インターフェイスが違うと、結果としての曲も当然影響を受ける。



7/9(月)

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先週末から体調がまた悪くなって、ここ数日ほぼ寝たきりの毎日だった。 今若干の小康を得た気がするので、ここを更新してます。



「ハッピーバースデイ」と言う曲(歌)がある。ほとんど誰でも知ってるだろう。 ちょっと前にあるファミレスで、近くに座っていた家族が歌っていた。

あれ、アウフタクト(弱起)だと私は当然のように思い込んでいたが、歌う人によっては強起なのかもしれない。 譜面に沿っているわけでもなし、曲なんて銘々の解釈に過ぎないから。

音楽なんて皆そうである。レコード会社が公式情報として譜面を公開しているわけでもなく、我々が耳にできるのは2Mixのオーディオデータだけ。 聴き手は音楽作品を、必ずしも作者の意図通りに受け取ってくれるわけでもない。と言うか、同じ解釈などほとんど不可能に近い。 私は、私が作った曲を私と同じ解釈で聴く人がいるのなら、そいつは私自身だと思う。


7/6(金)

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タラバガニはカニでなく、ヤドカリの一種である。 カニの一種に見えるからカニと名付けられているが、その名自体は非学術的呼称と言える。 昔の人が、哺乳類である鯨に魚偏を付けたようなもの。

タラバガニがどう見たってカニである理由は、あのような形態を獲得する、獲得せざるを得ない環境にあったからだ。 有袋類(コアラとかの仲間)であるフクロオオカミが、オオカミとソックリの形態を獲得したのも同じ理由で、生態系上のとあるニッチを担当したが故にああなった。 物事は、何かがあったことより、それをあらしめる環境の方にその本質がある。 タラバガニは、ニッチに吸い込まれるように収斂した。

この自然の摂理のような引力は厳然と存在する。 だからこの宇宙は、どこかに向かっているかのように見える。 この辺りの感覚が、ある人に神の実在を信じさせたのだろう。


7/5(木)

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統合失調症は百人に一人の割合で出現するらしい。 これは民族・時代・文化を問わず、だそうだ。

ある時期の西洋人が不思議に思って、自国でのデータを元に植民地での聞き込みを行ったそうだ。 「こういう症状の者がどれくらいの割合でいるか」と。 情報収集には色々と曲折あったようだが、結論として植民地でも同じく1%程度の割合で出現することが分かった。 無論現在の日本でも発症率は1%前後である。

これは、統合失調症を発症する個体が、人類にとって「必要」であることを物語っている。 理由は正確には分からない(私なりの仮説ならある)ものの、ほぼ間違い無い。 だからヒトラーのような人が思い立って、統合失調症の遺伝的因子を持つ者を根絶やしにしたところで、残った人らの中からいずれまた1%程度の割合で統合失調症は出現する筈だ。


7/4(水)

影山リサ、ニューシングル「Signs」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Signs

シングル「Signs / Fox」を発売します。久々の和物シリーズで、3週連続リリースの第1弾です。
Signsの歌のなかでセリフっぽい部分があるんですが、いつものポップスとは違う感じで面白いなって思いました。
皆さん是非聴いてみて下さいね。

影山リサ





7/3(火)



影山リサ、ニューシングル「Signs」(全2曲)、について。

ほとんど内輪でだけ受けている影山リサの邦楽シリーズなんだけど、その第二シリーズの第一弾ってことになる。 私としてはそれなりに楽しんで作ったものではあるのだが、いかんせん諸事情あって、リリースまでに間隔が開いてしまった。 その分気持ち的にホットじゃなくなっているってのも正直なところ。 とりあえず以下、収録曲について。


1.Signs

「○○節」とか言う、浄瑠璃諸流派の、面白そうなところを寄せ集めて作ったような曲。 いわゆるメドレーではない。 バッキングは基本三味線のみ。一応上調子は入ってるんだけど、部分によってユニゾンとオクターブを切り替えている。

パンニングがちょっと変わってて、ボーカルがセンターでない。 浄瑠璃音楽のフォーメーションを想定したんだけど、言われなければ誰も気付かないだろうと思って。

途中「犬の遠吠え」が入ってるんだけど、ある流派に定番のような掛け声があって、それを模した。 分かる人が聴けば、何をやろうとしているのかハッキリ分かるはず。

その掛け声、最初クワイアっぽい声で置き換えようかとか、歌い手さんにその掛け声そのものを真似てもらおうかとか、色々考えたんだけど、遠吠えが一番近かったし聴いてて恥ずかしくなかった。 しかし犬の声のピッチ補正なんて初めてだった。

曲の最後に小さい音で影山リサの「欠伸」が入ってる。 何だか効果音についてのコメントばかりになってしまったけど、それなりに構想とかオケ作りには時間が掛かった曲です。


2.Fox

能楽をベースに一曲書いてみた。 一応の書法と言うか、定番的な手をベースに作り上げたつもりなんだけど、能の音楽って資料が少なくて困った。

いわゆる四拍子のみでバッキングは構成されている。だからシンプルだし、メロディー楽器は能管しか存在していない。 能管をメロディー楽器と呼んで良いのか分からないけど。

バッキングトラック作ってる最中に、一旦能管の音を差し替えたんだけど、聞いてはいたものの、楽器の個体差の大きさをあらためて実感した。 譜面ごと書き直したし。 同じ運指でも出てくるメロディーが全然別物になるんだもの。

能の音楽は一応学問的にまとめられていて、ヨワ吟のヨワ音階であるとか、そういうものが西洋音楽で言うところのスケールとして整理されている。 五線譜表記されているようなものも見られるのだが、実際の音と理論値はかなり違う。 私はこの曲で、その理論値としてのスケール(と言って良いのだろうか)を元にメロディーを書いているんだけど、一応作例にも当たって、実例にある程度摺り寄せたラインにしたつもり。 全然そうなっていないと思われるなら、私の力不足。

能の音楽も広い意味では邦楽に含まれると思うんだけど、私が執心していた近世以降の邦楽とは時代が離れ過ぎてるし、厳密には別のカテゴリーとすべきだと思った。 実際、音楽的にも隔絶したものを感じるし。



7/2(月)

神田優花は今現在、発表済みの楽曲が170いくつかある。 アルバムとシングル両方に収録したものとか、そういう重複を除いての数字である(別バージョンとかは別の曲としてカウント)。 今年も予定通り行けば十数曲を発表できる筈で、上手く行けば来年辺りには200曲に到達しそうな勢いだ。

200曲って凄い数だ。 10曲入りのアルバム20枚分である。年に20曲ペースで作ったって10年かかる。 私の立場で言うのもナンだけど、偉業と言う他ない。

「曲なんて200も作って何の意味があるの?」と思う人はきっといるだろう。 でも我々は、そう思う人が絶対に見ることのできない景色を見ている。 これだけの作品を作るには、全ての条件が揃っている必要がある。 本人の技術・意志だけでなく、支援してくれる人、周りを囲むスタッフのモチベーション、作品を作る環境があって、それを商品として扱ってくれる販路が存在するから上の数字は成立した。 無論その作品たちを聴いているリスナーもいる。 これに意味が無いわけがない。

物事は、それを成立さしめる環境の方にその本質がある。 条件が揃っていたこと、これは即ちこの宇宙が彼女に「歌え」と言っているってことだ。 ここに意味が無い筈がない。 作ってる我々にすらまだ解ってない、大きな意味がきっとある。


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