Staff diary  
スタッフ日誌[2018]

[文 / 益田(制作)]

6/30(土)

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万物は制約から生まれる。 時間も空間も、要は制約である。制約こそがこの宇宙を作り出した。

曲を作っていると、しばしばこの制約にぶつかる。 標準的なギターは6弦構造だから、7和音以上を出せず、ピアノでも10和音以上は出せない。 また、ある楽器のフレーズを書こうとするとその楽器の音域の制限にぶつかり、下に移調しようとすると低音担当楽器の音域に(今度は下に)ぶつかる。 シンセサイザー(合成音)なら音域においてほとんど際限なく使えるが、人間の可聴音域にも限りがある。 もっと言えば情報処理能力の限界はもっと近いところにある。

制約は創造の足枷となるウザいものだが、同時に制約こそが物事を生み出す。 ピアノのオクターブは人間の手のサイズに合わせて設計されている。 こんにち十進数がこれほど普及しているのも、人間の指が十本であることに由来する。 空間も時間も、物質が排他的であるが故に設定された。 つまりは制約である。

制約が無ければ、私はもっと自由に曲が書けるのか。 無論そういう面もあろうが、直面したある制約を取り外したところで、また別の制約にぶつかる。 究極的には、制約が無ければ曲なんて生まれようがない。 制約が無ければ、この宇宙も、私すらも存在しなかったろう。


6/29(金)

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ソックリな夫婦がいる。性格が、ではなく、単に見た目が(顔が似ているなら性格も似ている可能性が高いが)。 兄弟がソックリであることと夫婦がソックリであることとは意味が違う。夫婦がソックリなことには遺伝上の理由が無い。 ソックリな夫婦はお互いの嗜好によって生まれている。選択の結果なんだから当然だ。

どうも人には、自分と似たものを良い・美しいとする感覚があるようだ。 だから子育てなどもできるのだろう。 子は親の遺伝子を濃厚に受け継いでいるから、容姿(無論性格も)も当然似やすい。 それを愛でる感覚が本能として備わっていることによって、本来苦痛である筈の子育ても苦でなくなる。あるいはその苦が軽減される。 生物としては当たり前と言うか、合理性に基づく設計ではある。ただしその感覚は本能であって、意志ではない。

意志でなく本能なのだから、ソックリな夫婦と言うのは理性によって成立しているわけではないと言うことになる。 その夫婦が成立した主要因は、腹が減ったから飯を食う、喉が渇いたから水を飲む、女を抱きたいから抱く、こういうことと基本構造において変わらない。

「似ていること」は好感の条件となるが、同時に「似ていないこと」も悪感情の条件となりうる。 これも進化・生存の原理に適っているから一種の合理性だろう。 制御系を言語に委ねていない、傾向性の権化のような人物であればあるほど、例えば「自分に似ていない子」は、時に深刻な憎悪の対象となりうる。


6/28(木)

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ジャズについて調べていたら、気になったことがあったので下に記す。 ジャズ、とりわけその楽理について調べていた。私は二十歳前後の頃、一応(ざっくりとだが)ジャズボイシングを勉強しているのだけど、そのおさらいの意味も込めて。

コードやスケールの運用などに、通り一遍の決め事のようなものは存在していて、絶対的なものでもないんだけど、ある程度それを知らないとジャズ様の楽曲は書き難い。 決め事ってのは、例えばテンションコードについてなら、三度マイナーのコードにテンションは付加できない(しにくい)とか、オルタードテンションはドミナントに(のみ)付加できるとか。 実際ジャズ系コンポーザーのスコア見てると例外は無数に存在しているんだけど、基礎にあるルールを理解しないと壊すことも難しかったりする。


話が逸れた。 私が気になったのは調べる過程で目にしたあるサイトの内容である。 ジャズ理論を解説するサイトで、サイト主自身がピアノ奏者であるらしいのだが、その物事(この場合ジャズ理論)の理解のプロセスが私とは全く違うのである。

テンションコードの解説において、コードネームとそのテンションとの対応表のようなものを作っていて、「このコードネームが来たらこういう和音」と機械的に覚えることを勧めている。 当然結構な記憶量を要求されるわけだが、ご自身もそれをがんばって覚えたらしい。 まるで九九を覚えるかのように。

テンションにはその土台となっている調があって、スケールがあって、と言う部分の理解はすっ飛ばしているわけだが、確かにそんなこと理解せずともジャズっぽい演奏・作曲は可能である。 私はそのサイトを見て確信した。確かに「できる」と。


そのサイト曰く、「セブンスコードに対応するテンション(コード)には暗いものと明るいものの二種類があり、曲によって使い分ける」そうである。 「実際に鳴らしてみると片方が明らかに違う(音がぶつかっている)と分かるから、判断できないことはない」そうである。 ご自身もそうやって選択していると言う。

おそらくは長調におけるV7と短調におけるV7などの別について言っておられるのだと思う。 確かにハ長調におけるG7とハ短調におけるG7は、構成音が同じではあるのだが、それが乗っかっている調は違う。 上にテンションノートを積み上げようとすると、どちらかのスケールに沿ったものにせねば音がぶつかる。 しかしここについても、調性だとか何だとかを理解せずとも、V7のテンションには二種類あり、曲によって(感覚的に)使い分ける、と言う方法で実用にはほぼ難が無い。


他にも「三度マイナー(セブンス)のコードにはテンションが付加できない」と言うことを(これまた機械的に)覚えろ、とも言う。 確かに三度マイナーのコードは9thの音がスケールアウトする。半音下げればアボイドだし、半音上げれば三度になる。 9度のテンションが付加できないことには調性上の理由があるわけだが、そこもすっ飛ばして「三度マイナーはそのままの(テンションを加えない)構成音で出す」とルール化することでも、一応聴感上破綻の無いものにはなる。


私は理解しているつもりではあったのだが、あらためて感じ入った。 解(結果)は表面上同じでも、そこに至る式(脳内アルゴリズム)は違うのである。特にミュージシャンのような人種には、この「処理違い」が多く含まれている。 実はこの手の人らはミュージシャンの一典型とされている。どちらが良いか、あるいは正統的かと言う話はさておき、私とは明らかに違うのである。

ついでながら、私は上のサイト主やそのサイトをディスってるわけではない。 実に分かりやすく内容も実用的で、私自身大いに助かりはした。 ただ、処理が違う。私にああいう解説は作れない。


6/27(水)

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「あなたとは考え方が合わない」と言われたことがある。 まあ世の中色んな人がいるからそういうこともあろうかと思うが、私はそう口にする人の心根をあれこれ想像していた。

考え方云々以前に、価値観が共有できない人ってのは確かにいる。 ある何事かを価値とする者と別の何事かを価値とする者、こういう単純な図式ではなく、実際にあるのは、価値とする何事かを持つ人と持たない人、との齟齬である。 厳密には価値観の相違などではない。

私は、自分の考え方が絶対的に正しいとか思うわけではないが、自身概ね標準的・常識的なモノの考え方をする人だと自認している。 そんな私だが、私に「考え方が合わない」と言ってきた人は、例外なく幼稚に見えた。 合う合わないとか言えるほど大層な主義主張があるように見えなかった。 「考え方が合わない」と言う人は、さしたる価値を信奉しているわけでもなく、自分の幼稚さに気付かされることを嫌がった結果、上のような物言いに達したように私には見える。

以前にも言ったことがあるが、私は「考え方の違い」と言う物にやや懐疑的である。 論争が止まないのは意見の違いがあるからではなく、どちらか(あるいは両方)の頭が悪く、論点が噛み合ってないだけだったりすることがほとんどだと感じている。 当事者に堅牢な論理力さえ備わっていれば、意見の相違なんて多分生まれないですよ。


6/26(火)

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今更だが、金管・木管って呼称あらためれば良いのに。 サックスが木管であることに納得できない人は多かろう。事実金属製だし。

木管・金管と言った呼称が定着するには歴史的な紆余曲折があり、それこそ私の言うように簡単に改められるものでないことは分かっているんだが、概念・言語的階層の整理が曖昧なものを気持ち悪く感じてしまう。


6/25(月)

ジャズを作ろうと思っている。 今までもジャズっぽいものは作ってきたんだが、テンションコード入れてみたりモードスケール使ってみたり、あるいはアドリブっぽいフレーズ入れてみたり、要するにジャズ臭い書法を取り入れたってだけだった。 今考えているのは古典的なジャズの様式を踏んだもの。

単に「ロック」とか言った場合、一応の音楽的定義はあるのだろうけど、ほとんど精神性みたいな部分を指していたりする。 が、厳密な意味でのRock'n'Rollと言うものはそれはそれである。 コード進行と言うかスケールのようなものが基礎になっているのだが、アーティスト名で言うとチャック・ベリーの音楽などがほぼそれである。

今はオーソドックスなスタイルのジャズを作りたいと思っている。 ただ、ジャズのスタンダードと言うより、POPSにジャズアレンジを施したイージーリスニング的なものだとか、色々な構想があって、一曲にはまとめられそうにない。 因みに、私はアドリブってのをやらない。アドリブのようなブロックは作ったりするとしても、そこでのフレーズ、リックと言ったものは、全て事前に譜面化したものである。 これは私の音楽制作の基礎を為しているアルゴリズムなので仕方ない。


6/23(土)

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いつもお世話になっている白夜書房さんの月刊Auditionって雑誌が、今月号からリニューアルしている(誌名も変わっている)。 手元にいただいた見本誌があるのだが、綴じ方が変わってる。あれを指す専門用語とかあるんだろうけど、調べようとまで思わなかった。 新雑誌の創刊号にウチの記事(告知)を載せてもらってるんだけど、今回版型変更の為とのことで写真を載せられなかった。しかし見る限り、やはり写真は必要だと思った。


6/22(金)

仕事柄と言うか、私は作曲作業のサポートのようなことを随分やってきた。 私自身曲を作ったりするのだけど、シンガーソングライターのような人だとかに付いて、作曲に関するアドバイスなどをする、いわばディレクターのような立場であったことが多い。

音楽ってのは一つの学問体系なので、そんなに簡単に修められるようなものではない。 私自身今でも分からない部分は多いし、若い頃なんて尚の事そうであった。 だから私のスタンスとして、常に「断定を避ける」と言う態度を取ってきた。今でも変わらない。 「これって間違ってますか」と問われたら、「それを間違いとする感覚が、あるところでは共有されているようです」とか答える。

例えば「不協和音」と言う概念がある。 避けるべきであるとされたりするが、あくまである音楽体系において(更にはある時代)、それを忌避すべきものとする感性が存在した、と言うだけである。 現代音楽において不協和音とされない4度音程が、ルネサンス期の対位法では解決が不可欠な不協和音とされた。 多くの現代人が不協和音と感じる短2度ですら、雅楽と言うクラシック音楽・西洋音楽と別体系の音楽では許容される。それを好む感覚すらある。 感覚としてはジャズのオルタードとかに近い。

HR/HMで多用される5度のパワーコード、あれは常に連続5度なので、ある時代の西洋音楽では禁則とされる。 クラシックの世界で1度・5度・8度などが(連続・並達は勿論、単純な響きとしても)嫌われた理由は、おそらく声部の独立性が損なわれるからで、それはそれで一つの立派な理由なのだが、HR/HMの世界でパワーコードがむしろ好まれるのにもそれはそれで理由がある。 両者は根っこにある感性が違う。

物事と言うのは、考えれば考えるほど分かってくる、と言うような単純なものではなく、知れば知るほど「分からないこと」に気付かされたりもする。 今の私は、まだまだ分からないことだらけだ。


6/21(木)

 

影山リサ。シングル「Signs」(全2曲)が7/4に、「Backpack」(全2曲)が7/11に発売されるんですが、その次の週、7/18には「Strawberry And White Marshmallow」(全2曲)が発売されます。 三週連続リリースになります。



その影山リサ、新曲の歌入れやってました。 今割りと早いペースで新曲を録ってるんですが、テクノっぽいナンバーを集めたミニアルバムとシングルいくつかを企画してます。 もう少ししたら詳細お伝えできるかと思います。

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6/20(水)

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音楽商品が芸能産業の有力なノベルティーグッズとして採用されているから、音楽と芸能界が地続きであるような印象が生まれた。 私は音楽は好きだがいわゆる芸能界には興味が無い。

こんにち斯様なものであるからして、音楽にはファッション性が求められたりする。 音屋は如何にオシャレな音楽を作るかに執心していたり。 流行に乗ることを至上の命令とし出したら、その人は商業音楽家としてなら成功が収められても、芸術家としては終わりだろう。

「オシャレに興味がある」とか言う若い人、多いですよね。 彼らは要するに子供なのだ。 自ら判断した経験が薄く、価値基準を周囲(流行)に委ねるしか無いからオシャレに執心せざるを得ない。 好きなのではなく、不安拭おうとしているだけ。

いい歳してやたらオシャレにご執心のオッサンとか見ると、その物欲しげな態度に、私の論理性は即座に「ウザそう」とか感じてしまう。 彼はいつまで誰かに誉めてもらう気なんだろうか。 誉めてもらいたい気分と言うのは、即ち世界から何かを貰おうとする気分である。

本当に無垢な子供なら、余計な教養が無い分、好きの感覚のみに因って行動を決められるかもしれない。 子供が「タダのアホ」なら意志など持つのは難しい。 だが、私の見た限り、例えば一般的な小学校低学年の子供は、一分の隙も無き俗物だ。 本当に子供のようにケレン味なく、意志的に生きることなんて至難の業である。

オシャレと言うのは不安を埋める作業で、芸術にとっては病原菌のような、いわば敵でしかない。 山を造る作業と穴を埋める作業、二者は一見似ている部分もあるから、やってる当人でさえ区別が付かなくなる。 「誉められる」と言う本来生存環境の保証にお墨付きを与えられることを、「自分の好きなこと」などと錯覚してしまう。

流行の服を着ること、派手な車に乗りたがること、テストで良い点を取りたがること、ある面においてこれらは皆同じで、生存に対する執着が原動力となっている。 そんな衝動に支配されている時点で、その人は芸術家には向かない。


6/19(火)

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私も世にふりてしまった。周りに子持ちの人が多いんだが、その子供について、思うところを書き残しておく。

「友人や恋人と子供、どちらが大切か」。これに答えるなら、言うまでもなく前者である。 友人や恋人は自らの意志で選ぶものだが、子供なんて作ることを決めただけ、どのような人格が出てくるかなんて一種の賭けである。 友人になれるような人格なら友人であるし、そうでなければ友人になどなれない。 親子も恋人も、それ以前に親友であらねば、一緒に生きたりできない。

人は恋人を自らの意志で選び、自由により子を作り育てる、などと思われているのだろうけど、実のところそんなケースは稀だ。 心に巣食うある種の不安が手の届く範囲にいた人を恋人とし、それを結婚相手としてしまう。不安解消の為に子を作り、作った以上仕方ないから子を育てる。こんなケースがほとんどだ。

子供は親に依存してくる。 依存は一般にウザいものだが、ある種の不安を抱える者にとって「必要とされること」は蜜の味である。 自由でなく、私(わたくし)が子離れできぬ親を製造する。 「こんなに必要とされているのだから、これが私の安住の地ってことで良いや」などと、むしろ自由・意志を殺す為のエクスキューズとしてしまう。 だから釈迦は我が子を悪魔と呼んだのだろう。

「何より子供が大切です」と言うことが美徳とされていたりする。本当かよ。 単に、それを至上の価値とせざるを得ないくらい「意志無き者」であるだけじゃないのか。 私がこういうことを言うと「子宝が何より大事でないなんて」とか、眉をひそめられそうだ。

私に子はいないけど、この先子が出来ても、私は子の為に生きたりしません。 作った以上最低限の責任は果たさねばならないだろうけど、その子と友人になれるかどうかはその子に因る。 たかが子如きに、私の自由・意志が犠牲になることなんてありえない。

私がこういう人であること、この意志こそが私であること、これが分かるようなヤツなら、私はその子と親友になれるだろう。 心の深い部分できっと何かを共有できる。


6/18(月)

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更新間隔が開いてしまった。 私がここの更新をサボると死んだと思われてしまうんだが、生きてます。

土曜の朝だったかに、心拍数が急激に低下したからビビった。 数値そのものはそこまで驚くほどのものではなかったが、急変することは問題だ。 どうもまだ私の体(特に心肺機能)は安定していないらしい。



ごく初期のファンクっぽいものを作ってみようと思っている。 サンプルとしてオーティス・レディングなんかを聴いていたんだけど、その感想。

音楽的には物凄く粗放と言うか、楽理的に着目すべき点は見当たらなかった。 編成もシンプルで、曲にもよるけど、ギター・ベース・ドラムにブラス類ってのが多い。ピアノもたまに入ってた。

単にシンプルであると言うより、極力シンプルであらねばならないと言う思想性と言うか、命令でもあるのかってくらい本当にシンプル。 例えばコード進行一つとってもそうで、オーティス・レディングはビートルズのカバーを何曲かやってるんだけど、「A Hard Day's Night」の、曲の滋味とも言えるAメロの特徴的なコード進行を完全に割愛している。わざわざ違うコードにしているわけだけど、ビートルズのコピーバンドなら絶対そんなことはしない。 そうしたくなる力学が存在しているのだろう。

私が知りたいのは常に、この力学と言うか思想性。 どうしてそうなるのか、どうしてそうしたくなってしまうのか。 この気分が知りたい。


6/14(木)

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北斎の絵を見ていたら、複数の絵の中に広がっている世界が、皆繋がっているように思えてくる。 どう言うことかと言うと、例えば富嶽三十六景のある一枚と別のある一枚、そのどちらかの絵の中の世界に入っていけるとしたら、もう一つの絵の場所まで歩いて行けそうな気がしてしまうのだ。つまり、その二つの世界は繋がっている。

これがつまりはリアリティーと言うことかと思える。 北斎の絵は彼にとって、もう一つの現実であった。 ピカソが、「アトリエに入る際、肉体を置いてくる」と言っていたのは、この「もう一つの現実」に没入する為かと思える。

この「もう一つの現実」を持っていること。これは私が面白いと感じるクリエイターに共通している。 同時に面白くないと思えるクリエイターは、例外なくこの現実感覚に乏しい。 この現実を映している主体、それこそがその人の正体なのだろう。


6/13(水)

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バッキングにTR-909(のみ)を使った曲を書いていた。 某(その界隈では有名な)ミュージシャンのビートメイキング動画にインスパイアされた。 その動画は十数分あるのだが、延々とTR-909を弄り倒している。 それが曲であるか、については解釈別れるところだろうが、まあ時間軸上に展開されている以上音楽ではある。

実際にTR-909(のエミュレーター)を弄りつつ曲らしきものを作っていると、面白くなくは無いのだが、作品化するにはやはり十数分と言う尺は長過ぎる。 作品プロットには相応の尺ってものがある。

私はその曲において、その相応の尺ってのを1分半程度と判断した。 一般的なその手の音楽なら、まだイントロも終わってないかと言う時間である。でも私はそれで十分と判断した。

バッキングはTR-909のみだが、それに歌らしきものが乗っかる予定だ。 一般的な声楽曲とは一線を画すようなものにしたい。それほど大袈裟なものでもないが。 明確な楽音が無いので、とりあえず調性感は表現し難い。

ビートメイキング動画を見ていると、フレーズをループさせつつ、ツマミをリアルタイムで弄ったりしているのだが、似たようなことをソフトウェア上(マウス操作)でやるのが大変だった。 実器のあの筐体サイズにも意味はあると思った。


6/12(火)

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人が書いた歌詞を眺めていると、存在している人とそうでない人がいることが、ありありと分かる。

「宿題がかったるい」と言う小学生、「彼女が欲しい」と言う大学生、酒が止められない親父、「腹が減ったから飯が食いたい」と言う人、「金が欲しい」と言う大多数の人。 この人らは、これらの点において、特に存在の証拠が見出せない。 真夏の炎天下の中「寒い」と言う人がいないように、金なんて誰だって欲しいに決まってるから。

「お母さんを大切にしよう」と言う小学生。大抵は自分の言葉でない。 どこかで聞きかじった正解・最適解を口にしているに過ぎない。最適解は最適解で導き出すのにそれなりの条件がいるだろうが、最適解なんかより難しいものはある。 例えば芸術における「美」などに比べれば、最適解なんてどれほど簡単であるか。

お笑い芸人は、ギャグが面白いことと、自分が面白い人であること、の区別を付けているだろうか。 ギャグが受けて、いくら流行語大賞を取ったところで、あなたが面白くない人であることは変わりませんよ。

「仕事がかったるい」と言う人がいる。私も思ったりする。 そこで「誰だってそうだよ」と言う人がいるのだが、その誰しもが皆同じ感覚でその苦痛を捉えているわけではない。 笑いのツボにだって個人差があるのに、苦痛に個人差が無いわけがない。 腰だめで見て、苦痛とその人の存在の濃度は、正比例するようだ。

「コンビニの帰り道、夜空を見上げたら星が綺麗でした」と言う歌詞を書く人、その人はおそらく存在していない。 姿は目に見えるし、喋れば声も聞こえるから、あたかも存在しているかのように錯覚してしまうのだけど、それでもそんな人存在していない。


6/11(月)

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今の私は病人、もっと言えば重病人なわけだけど、何となく事態を楽観している。 どうしてなのか、自分でその理由を考えてみた。

私の中には、今でも誰かを応援する気分がある。 その衝動を自分の中に感じられるから、私はまだまだ大丈夫だと思える。 この気分が心の中から消え失せたら、私はもうダメかもしれない。 私が誰かを応援しているのだから、私を応援する誰かはきっといる筈だ。 私の心の中に、何かを愛する気分が残っている限り、この世界は私を必要とする筈だ。

この理屈は、感じられない人には感じられないだろうと思う。 でもこれは、私の中に一分の矛盾も無く整理されている、この宇宙の摂理である。 ドストエフスキーも「本当の地獄とは、もはや誰も愛せないこと」と言った。


「無理をして何かあったらどうするの?」と言われる。 確かにその通りだ。 私の病状に関して、しばしば「予後」と言う言葉が使われるのだが、迂遠な言い方であるものの、「予後が悪い」と言うのは、即ち死を意味している。 私は死ぬかもしれない状況にあるらしい。 心臓も二割程度しか稼動していない、と医者に言われた。

生きていく事のみが至上の命令なら、体調の深刻な悪化は、即ち絶望なのかもしれない。 私だって体調は良いに越したことないけど、体調なんて良かろうが悪かろうが、やることは決まっている。音楽作品を作り続けることだけ。

「死んだらどうするの?」と言われたところで、事実死んでしまえばその世界に私はもういないわけだから、実のところ困りはしない。 困る主体たる私が存在しないのだから。 未来の可能性に、死と言う確率の枝葉は当然存在する。 だがこの私は、私が生き残ったと言う歴史の中にしかいない。

私の背後に世界なんて存在しないように、私が死んだ後、なんて時間も存在しない。


6/10(日)



7/4(水)に影山リサのニューシングル「Signs」(全2曲)がリリースされますが、その次の週の7/11(水)には、同じく影山リサ「Backpack」(全2曲)の発売が決まってます。是非聴いてみてくださいね。 下はそのジャケット。




6/9(土)

ここ数週間考え続けていた曲、やっと一応のオケが上がった。 オケと言うが本当に管弦楽。間奏に琵琶を入れていて、琵琶協奏曲みたいな仕上がりになっている。

管とか弦を使ってオケを作る場合、やたらにパート数が増えるから(今回のも30パートくらいある)面倒と言えば面倒。確かに時間は掛かる。 まあだけど、普通のPOPSなんかとの違いと言えば、基本的には構成音をどんな楽器が担当するか、と言うことでしかない。 定番的な書法の違いとかはあるけど。

今回の曲は神田優花のシングル候補曲。 今現在神田優花が消化する予定の曲は、物凄い数のストックがあって(多分50以上ある)、一応は作った順番に近い形で制作に入ることになってるんだけど、今回の曲はその順番に割り込む形でレコーディングすると思います。


6/7(木)

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今考えてる曲にティンパニを入れようと思ってるんだけど、ティンパニについてのメモ。

ティンパニは一応楽音が設定できると言うことになっている。一種のクロマチックパーカッションになるわけだが、実際半音単位でチューニングしたものを並べて演奏するなんてことはない(見たことない)。 チューニングした径の違う数個をドラムスとして使うことが多い。 そのチューニングも、一応調に則したもので、主音・属音とか、スケール上の音を採ったものが基本であったりする。

要は打楽器なので、そこまで調性に左右されないと言うのは事実だ。 チューニングも、調など関係無く単に五度関係のA2・D3とか、調性をほとんど無視したようなケースとかもあるっぽい。 ドラムスのキック(バスドラム)を音高で表記することはできるけど、アンサンブルの中であれを楽音と捉えたりは(少なくとも一般的には)しないものね。 ティンパニも、純粋な打楽器として捉える作曲家が割りといると言うことだ。 私もどちらかと言えばそう。

過去にティンパニを使ったケースでも、クロマチックパーカッション(純粋なメロディー楽器)として取り入れたことは無い。 固定的なチューニングの太鼓数個(2〜3くらいだろうか)を打楽器として使う、ってのが多かった。 今後も、使い方としては大筋変わらないと思う。


6/6(水)

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中国楽器を使った曲(「中国音楽」ではない)を作ろうと思って、今構想を練っている。 エスニックな匂いのする楽器を使おうと思っているだけなので、必ずしも中国楽器でなくても良い。

中国楽器の代表格として二胡ってのがある。 どうして多用されるのか。使っている全ての人を代弁できるわけではないが、音云々より、あれがフレットレス楽器である点が大きいと思われる。 胡弓系の楽器は半音(あるいはそれ以下の)単位での演奏が可能なので、調性音楽・西洋音楽とのアンサンブルに支障が出ない。

例えば私は、今回の曲において月琴と言う楽器を使おうかと考えていたんだが、調との兼ね合いで使えなかった。 スケール固定のような楽器で、半音単位での演奏ができないのである。 もっとも昨今の月琴は半音単位のものもあるのだが、あくまで西洋音楽に合わせて作られたもので、伝統的な月琴ではない。

今候補として考えているのは琵琶、中でも筑前琵琶。 雅楽で使われるいわゆる楽琵琶は月琴と同じ理由で使えない。 筑前琵琶も大雑把なフレットしか打ってないような楽器ではあるのだが、チョーキングのような奏法が可能だ。と言うか、それの多用を前提とした楽器である。 だからして、少々の無理は利くと言うか、奏法である程度半音階をカバーできるような気がする。


6/5(火)

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クラシックのオールドマスター達は、例えば交響曲一曲を仕上げるのにどのくらいの時間を要したろうか。 そんなの曲に因るし個人差もあるに決まっているが、大まかなところでも知りたい。

こういうのって、巷説のようなものはあっても、正確なところは不明である筈だ。 現に私が一曲書くのにどれくらいかけてるか、なんて私以外誰も知りえない。

こんにちのようなDAW・DTM環境(と言うより精度の高いシーケンサー)出現以前は、楽曲のプレビューが困難であったろう。 だから、せめてと作曲家は皆ピアノ(鍵盤)を弾いたのだろうと思う。

当時の作曲家らは、20パート以上のスコアを脳内でプレビューできたのだろうか。だとしたらどの程度正確なものだったろう。 知り合いに、音大の作曲科を出て一応プロの作曲家になっている人がいるが、彼は「総譜を眺めれば大体のコードネームくらいは頭に浮かぶ」と言っていた。 本当かしらと思ったけど、本当なら凄い。 そんなのがクラシックの作曲家必須のスキルであるなら、私はクラシック作曲家にはなれない。


6/4(月)

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K-POPを聴いてたら、チューニングを狂わせたような微分音らしき音が頻出する。 複数の曲で確認できるので、K-POPシーンでの一種の流行のようなものらしい。 斯く言う私も、多分音屋の中では微分音を多用するタイプである。

ああいうテクニックは、詰まるところ簡単である。チューニングすらせば良いだけなんだから。 怪しげな響きのコードだとかその進行だとか、ムジカフィクタを多用したメロディーラインとか、そういうものの方が遥かに作るのは難しい。 念のため、単にそれらを濫用したものでなく、それを使いつつ一種の美的な整合性を保つのが難しいと言う話をしている。 だから、チューニング狂わせた微分音の類でも、それを駆使してある種の美を構築できるなら、無論それは偉大な試みだと思う。 ただ、私の聴いたK-POPはそのようなものでなかった。


6/3(日)

神田優花の今年のリリース計画について、今最終的な詰めに入っている。 一応今月中くらいにはリリース日のアナウンスもできるようになると思います。

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体調の件、不良が収まったわけでも無いが、大きな変化も無いので触れてなかったけど、依然悪い。 ただ、内服薬の影響と見られる異常は漸く収束しつつあるらしい。 少し前、出血があまりに酷くて、寝場所(布団や枕など)や着衣が血まみれになっていて、それを見た人に泣かれてしまった。

今はその状態を完全に脱したと言うわけではないが、多少マシにはなった。 週に数時間、スタジオに顔出す以外は、ほとんど寝たきりに近い毎日だが、できることはコツコツとやり始めている。

そう言えば、私の病状は鬱を併発する可能性が高いものであるらしいのだが、今のところ私においてその兆候は無い。少なくとも自覚的には絶無である。 体は悪いが精神は健康であるらしい。


6/2(土)

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影山リサ、新曲の歌入れ。 アニソンっぽい曲(本当にアニソンなわけじゃない)を集めたミニアルバムを作ろうと思っているんだけど、そのシリーズの先行シングルを出すことにした。 今回はそれのカップリング用の曲。アルバムの方の収録曲はもう揃っている。


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神田優花、レコーディング。 これで録音済みのトラックが10曲になる。うち9曲はマスタリングまで終わってて、年内に次のアルバム間に合いそうな勢い。


6/1(金)

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暑くなってきた。 前から思っていたのだが、蚊の活動期が変化してないか。 昔は蚊なんて夏のものだったが、最近はそうでない。 さすがに真冬には見ないが、一年の3/4くらいの期間に見る気がする。 しかも明らかに都市に適応している。ほとんど別の生き物になってやがる。


蚊と言えば、虫除けツールが薬局などで売られている。 要するに蚊取り線香のようなものなのだが、昨今のは電気供給によって効果を発揮するタイプのものが多く、詰め替え式のボトルのようなものに薬品が入っている。 数時間しか持たない蚊取り線香と違って、ボトル一つで一夏くらいは持つようだ。

そもそも虫(害虫)は何故発生するか。 それは発生しうる環境があるからである。環境を背景にしか物事は存在し得ない。 ある人の態度も、それがごく短期的な条件によって生じているのか、あるいはそうでないのか、見極めることによって友情の真価も見えてくる。

蚊取り線香が電動式になり、一夏持つようになったように、これから先更なる進化があり、人の一生分くらい持つボトルが開発されるかもしれない。 薬品のお陰で、蚊に刺されない快適な暮らしが送れるようにもなるだろう。 そして、アホな人はその時間を蚊との友情と誤解する。


5/31(木)

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今頭の中を巡っているアイディアについてのメモ。

7thコードを使い倒したようなちょっとコミカルな曲を作ろうと思っている。 影山リサのあるレパートリーがあって(完成済みなんだけど未発表)、それ聴いてたら同じツボでもう一つくらい作ってみたくなった。 因みにこの曲はオケまでほぼ出来ている。

中国楽器(二胡とか月琴とか中国琵琶とか)をフィーチャーした曲を、神田優花のレパートリーとして作りたい。 ほとんどそれと歌のみ、と言うようなシンプルなものにするか、あるいはPOPS的な楽器群やオーケストラなどを使って装飾するか。その辺は未定。 因みにこの曲はまだほとんど出来てない。構想段階なんだけど、その構想もまだまだボヤけている。 三拍子にしようかと思案中。

最近Rolandの歴史的名器と言われているTRシリーズとかについて考えてたんだけど、ほぼリズムマシンのみで一曲作れないかと考えている。 とは言っても、インスト物にする気はなくて、バッキングをほぼリズムマシンで作って、それに歌(と言うか人間の声)を乗っけたい。 別にハッキリとした声楽的なものでなくても、例えばラップとか語りとかでも良いと思っている。 これもまだ全然できてないんだけど、これは作り出したら早そう。


5/30(水)

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掛け算を覚えると、例えば2+2を2×2と言う形で処理できるようになる。 答えは4。足し算を使っても結果的には同じ解にたどり着く。

でも2×4とかになると、足し算で処理しようとするなら2+2+2+2なんてことになり、やや面倒になる。 2×10000とかになると足し算での処理にはもう向かない。

発達の遅い子、と言うのがいる。 例えば満二歳なのに一歳児程度の知能しか無いとか。 そう言う子を医者などは最近「ゆっくり」などと表現するらしい。 親を傷つけぬよう、細心の注意を払っているのだろうけど、それでは遅いながらも普通人と同じ処理をし、いずれ普通人に追いつく、と言う誤解を生みそうだ。 普通人が一年で身につける何かを二年で身につける子は、遅いと言うより処理が違うと考えてほぼ間違いなさそうである。 上の足し算と掛け算の違いのようなもの。

余程に頭がおかしければ別だろうが、人は表面上、概ね似たようなものに仕上がる性質を持つ。 2+2と2×2のように、脳内のアルゴリズムこそ違えど、表面的には同じ解にたどり着く。 ただ似て非なる処理をする者は、当然応用が効かず、シチュエーションによっては2×10000の計算を強いられる。 つまり対応できない。

掛け算と言う処理法を獲得できなかった個体は、代償的に足し算の能力を発達させる。 普通人がまず行わない桁数の足し算を日常的に行うのだから、当然それに適した状態に脳がカスタマイズされる。 足し算と言う一点において競わせたら、きっとその者に普通人では太刀打ちできない。 世間ではその人間離れした足し算の能力が「才能」などと誤解されている。 絶対音感とかね。

大多数の普通人程度の発達が為されれば、その代替的発達は必要無かったものだ。 本当にその代償発達が才能などと言う人としての優位性であるなら、人類はそっち方向に進化して行ったに違いないのである。


5/29(火)



影山リサの今年最初のリリースアイテム、やっと発売日が決まりました。 7/4(水)にニューシングル「Signs」(全2曲)を発表します。 ここ数年来温めてきた「邦楽シリーズ」の2018年第一弾。 影山リサは立て続けにシングル三作、その後6曲入りのミニアルバムを発表する予定です。

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出す出すと言い続けて、やっとのことでその目処がついたミニアルバムなんですが、収録曲の方は随分前に上がっていて、それ以外の作業に手間取ってました。と言うか、私の体調不良で頓挫してました。 今後はここ数年来のペースに比べれば遅いと思いますが、少しづつ作品も発表して行けると思います。


5/28(月)

デトロイトテクノの(一般的知名度はさておき、その界隈では)有名なミュージシャンが、TR-909(そういう名器と言われるリズムマシンがある)をリアルタイムで操る様を動画化したものを眺めていた。 いわゆるビートメイキング動画みたいなの。

何となく面白いような気がして、ああいう音楽のツボが分かりかけたような気がしたのだが、それも束の間、5分くらいで上の空と言うか、別のことを考えてしまっていた。因みに動画は10分以上ある。 どうも私には、あの手のものを楽しむ気質が欠けているらしい。

Roland社のTR-909・TR-808とかってのは名器とされていて、それらの再現・復刻版を謳ったような商品はソフト・ハードともに大量にある。 実器など未だにバカ高いが、愛好者が多いのだろう。 TR-909の実器を中古楽器屋で見たことがある(触ってみたこともある)が、あんまり音に思い入れが無い私には、単に馬鹿デカい機材と言う印象しかない。 値段相応の価値も感じない。ああいうものは、本当に価値が分かる人が入手すべきだと思う。

あの手の機材を弄って出した音って、いわゆる「曲」なんだろうか。 正確な楽音ではないにせよ、一応の音高・音価を持ってはいる。 音源として商品化されているものだって当然ある。 やはり著作物には違いないのだろう。

ああ言った音楽とか機材とかって、かなりディープな世界だ。 ちょっと調べれば分かるはずだけど、愛好者の拘りが半端じゃない。私などは到底付いていけない。

あの手の機材の本質的な滋味ってどうこにあろう。 単なる出音であれば、それをサンプリングしたようなものは腐るほど出回っている。 実機からサンプリングしているのであれば、それは本物に違いない筈だが、それだけで完全に要素を再現できるのなら、実器の相場があれほどに高止まりする筈が無い。

実器の、各ツマミに当てられたパラメーターの音色変化などは実器以外のサンプラーなどでは再現し難かろう。 TR-909の方はアナログとサンプルプレイバックのハイブリッド音源だが、アナログの方は特に難しかろう。サンプルの方も再現の難しさにおいてあんまし変わらんかもしれないけど。

音源部以外の、特にシーケンサー回路の違いはあるのかも。 TRシリーズの再現を謳ったようなVSTiなど、フリー物でも大量に存在するが、出音には拘っていても、シーケンスのアルゴリズムを再現しようとか試みてすらいないのではないかと思われる。 固有のアルゴリズムって当然あるでしょうから。マニアにはそこが重要なのかも。 どのみち私にはよく分からない世界だけど。


5/27(日)

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先日、年の頃は大学生くらい(大学には行ってない)の、ある女性に身の上について話を聞かされた。

その人は、高校生の時に両親が別れ、母方についたのだが、母親の新しい恋人だか再婚相手だかと反りが合わないらしく、家を出て一人で暮らしていると言う。 一応は経済的にも自立していて、もう親と生きて行く気は無いのだそうだ。 母親と連絡を取ることももう無いと言う。

ケースとしては比較的よく聞くものなのだが、事情は個別に複雑なものが存在していようから、「よく聞く話」で片付けてしまっては気の毒だろう。 しかし本当に親の人格・素行は、子にとっては重大事と言うか、そこに世界観を決定付けられてしまうほどのものだ。 私はそこについて、どう解釈すべきか、をその人に伝えたかったのだけど、伝わった自信が無い。


子供の頃の私も、親の人格には悩まされたクチなんだが、今いわゆる「人の親」を眺めつつ、当時のことがバカらしくも思えてくる。 「親なんてこの程度の人物でもなれるんだものな」って。苦笑してしまう。

人の親になんて、子供さえ作れるなら誰にだってなれる。 生殖機能さえあれば子は産めるわけだから、小学生でも親にぐらいなれる。 あの頃の私は、たかが親に何を期待していたんだ。

親に復讐とか反発をしているうちは、その人はまだ親に依存している。 親なんて人生の登場人物の一人に過ぎないのだから、助けてくれるならありがたい存在だし、迷惑だと思うなら関係を最小限にする、あるいは絶てば良い。 助けたいと思うなら助けてあげれば良いし、愛を発動する価値すら無いと思える相手なら放っておけば良い。 どのみち、その人が「自分の親である」と言う一点の理由で、人生の核心部分に容喙を許すほどの存在とすべきでない。

冷厳な目で見詰めるなら、親と言う一人の他人を評価する基準は、その人と友人になれるか否か、たったそれだけである。 友人になれる人との間になら友情が成立するし、そうでない相手との間に友情は成立しない。 続柄は一時の決め事だが、友情は永遠である。


5/26(土)

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日大アメフト部の一件。 最初興味無かったんだが、あんまり話題が長引いているので、一から調べて今更ながら事件のあらましを知った。

体育会系の部は一部今でもそうらしいが、昔から軍隊のようなところで、上下関係になど無意味なまでに厳しい。たかが中高生・大学生くらいのガキが、一つ二つの学齢を盾に、後輩などの生殺与奪の権を得たかの如く横暴に振る舞うことが許されている。 そしてそのヒエラルキー構造の、ある種の象徴的存在が監督・顧問であろう。

この種の歪んだ感覚は、基本的に拡大再生産される。 先輩に奴隷のようにこき使われた者は、自分が先輩になった時、ここぞとばかりに後輩相手に同等、あるいはそれを越える権利の行使が許されると思い込む。 そういう世界が輩出する人間らの一典型が、今回の事件の当事者である監督なのだろう。

スポーツ部に所属している者は、監督に逆らえない。 嫌われては試合に出してもらえなくなるかもしれないし、場合によっては進学・就職にも響く。 我が身が可愛ければ可愛いほど、人は監督と言う上司に絶対服従する。 我が身可愛さを捨て、冷静に善悪を見詰めるなら、理不尽な上司に服従せねばならない部などとっとと辞めれば良いだけなのに。 ただ、そうすればある利得は得られなくなりますがね。 ここで言う利得とは、何も即物的な何かだけじゃない。「自分で思考・判断せずに済む状況」だって含まれる。

刑事事件に相当するような暴力沙汰が、監督の指示の下行なわれたのではないかと疑われている。 因みに私もおそらくその通りであったろうと思う。 ただ、故意に他人に重症を負わせながら「僕は命令されたのだ」と被害者ヅラしている当事者にも寒気を覚える。 君はもう大学生だろう。何かを判断した自分はいないのか。

加害者の彼以外の、他の部員らも監督に反旗を翻しつつあると言う。 監督と言う権力者も、今は沈みかけた船である。沈みかけた船からはネズミすら逃げ出すと聞く。 我が身可愛さに、ある時は上司の奴隷になり、ある時はその上司に反旗を翻す輩。彼は自分が、人間以外の下等哺乳類と同じ行動を採っていることを分かっているのだろうか。 あなたがたはある時まで、その権力のおこぼれにあやかる為、監督と言う権力者に群がっていた人らなのでしょうに。

その監督に私は別に賛否どちらの気分も持たないが、いい年して、あの程度の人間関係しか持ってなかったことは哀れに思う。 パワーバランスによって裏切れない条件下にいただけの者らは、そのパワーバランスが崩れれば当然裏切ったりしますよ。 人にモノを教える立場のあなたは、その年まで生きながら、友情の意味すら分からなかったのか。

ある圧力が消えたことによって、離反者が相次いでいる。 監督さんには気の毒だが、一旦崩れたパワーバランスが元通りになることなんて、短期的にはもう考え難い。 これを期に、残りの人生、本当の友人を探してみてはどうか。

暴力を振るうこと、あるいはそれを教唆すること。それ自体は容認されないことなのでしょうね。日本は法治国家ですから、相応のペナルティーもありましょう。今のこの社会的制裁も含めて。 ただ私は、親鸞じゃないけれど、心に任せたことならば、人を殺めることだってあるかもしれないと思って生きている。

これから先私は、例えば親友と共に、世界を震撼させるような凶悪事件を起こすかもしれない。 親友の思い付いたあるアイディアを名案と思えば、自らが履行を担当するかもしれない。 でも私はその時に、「僕は命令されただけ」などとは口が裂けても言わない。 私は、何かを信じることはあっても、騙されることなど無い。


5/25(金)

「考える」と言うのは一種の運動であるらしい。 脳は統合を司る。 アナログである感覚をADコンバーター通してキャッチし、DAコンバーター介して動作として出力する。 コンバーターは即ち言語である。 言語が粗雑だと、世界が貧しくなる。

子供の頃の私は、モノを考える際、常にウロウロと歩き回っていた。 今考えれば、脳内だけでその運動を完結できなかったのだろう。実際の運動を必要とした。 今は思考だけ独立して行えるようになったが、当時はそうだった。 だからよく親に「うるさい」などと怒られ、手足を縛られたこともあった。

私の親はライフタイムのうちに「考える」と言う時間を持たないタイプの人だったので、今思うとこれは仕方ない。人は自らの思考パラダイムの枠組み内でしか言動を選べないから。 これは、私の親に「分かることが無い」と言っているわけではない。思考によって解を導き出すことはなくとも、「瞬間的・反射的に分かること」などはむしろ人より多かったのではないかと思う。

今の私は、しょうもないことを考える場合など、シンプルなゲームをしながら考えることが多い。 あるいは一定時間思考して、一定時間ゲームを挟む。 脳のアイドリングが必要なのだろう。 但しこの場合、ゲームがある程度以上複雑だと用を為さなくなる。集中を要し過ぎるとアイドリングにならないからだ。

私は自身の脳について、上の様な仮説にて整理しているが、おそらく脳科学などの立場から見てもそんなには外れていない筈だ。



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体調不良で寝たきりに近い生活をしているのだが、ほとんど仕事もしていないことに若干の罪悪感を覚えないでもない。 まあやれる限りのことはしているつもりだが。

音楽制作って、アーティスティックな作業とは言っても、実態はかなりの部分肉体労働である。 だから体調如何によってはやれない作業領域が出てくる。

私はいわゆる障害者に相当するそうで、今の私の不調は笑い事ではない。 「働き盛りの男が昼間から寝ていては怪しからん」などと無理に動けば、致死性不整脈を出して最悪死んでしまう。 精神論で片付けられるような状況にない。

運動、中でも身体に一定の負荷を掛けるものは避けるべきであるようだ。 例えば急な坂道などを上ると、その後暫く異様な疲労感に襲われる。 キツいことすれば疲れるのは当たり前だが、そういうレベルの話ではない。 意識が朦朧としてくる感じ。足元もフラついたりする。

この状態、いつまで続くのだろう。 担当医は「日常生活を送れること」を目標にしようとか消極的なことを言っているが、私は急ぐ時には走りたいタチである。 タクシーになんて乗りたくない。自分の足で走りたい。


5/24(木)

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この間歩いていたら、道端のツツジに蜜蜂がたかっていた。 何か野生の蜜蜂なんて久々に見た。

私の子供の頃は、蜜蜂なんてその辺にいくらでもいた。刺されたこともある。 今はどうだろう。ほぼ野生絶滅に近い状態なんじゃなかろうか。 私が見たそれも、純然たる野生種かは怪しい気がする。

蓑虫とかもその辺にいくらでもいて、変わった素材で蓑を作らせる実験とかしたものだが、今は蓑虫そのものが少な過ぎてできないだろう。 蝿も減ったとか聞いたが、確かに見ない。

雀が減ったとか言うニュースも見た気がする。 江戸時代の瓦版に朱鷺の飛来する様がある。当時は江戸の町に朱鷺がいたらしい。 先日対馬だかでカワウソがカメラに収められたと言う一件があり、ニホンカワウソかどうかが焦点となっていたが、どうも大陸由来のものだったらしい。 山脇東洋がカワウソを使って解剖実験をしていたと言う記録があるが、江戸期には京の町にでもカワウソが(おそらく大量に)いた。

生物相って目まぐるしく変わるらしい。 それも数千年とか数百年とかそう言うスパンでなく、数十年とかそのくらいで目に見えて変わってしまうようだ。 人間のせいなのだろうか。少なくとも気候変動については人為が疑われてはいるが。


5/23(水)

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今、バブル期を越える空前の就職内定率であるそうな。 私が大学を出る頃は、就職超氷河期と言われ、碌な就職口も無かったので、マトモに就職活動なんてするのもバカらしかった。 我々の意思と全く無関係に時代は変わるものだ。

実際、若い人と話していると、彼らが売り手市場に生きていると言う感覚が伝わってくる。 生き方そのものが、ごく自然に強気である。 事実、若者の離職率は高いと聞く。 人が余っていた時代には、職の方が限られた椅子であった為、人はそんな悠長な気分では生きてられなかった。 別に、昔と今の若者に本質的な違いなんて無い。あるのは周囲を取り巻く環境の違いだけ。

主に人手不足と言った理由から、就職先の選択肢が広がった。 でも、そのことと「人生を主体的に選ぶ感覚が育つこと」とは違う。 そういう感覚が強固な若者なんて、全く見ることが無い。 ワガママが通りやすい環境にいることと、自ら選べる人であることは全然違うってこと。


5/22(火)

影山リサの今年のリリース作品について、軽く打ち合わせと言うか、本人を交えて説明のようなものを行った。

そこであるシングルについて「その二曲のうち、何故片やタイトルで片やカップリングなのか(何故逆でないのか)」と質問されて、答えに窮してしまった。 理由が無いのではなく、説明が大変だったのだ。

タイトル曲は京風手事物ってのを下敷きに作った歌物である。 文献無しにはまず作れないような、極めて様式的なもので、下調べから何からに相応の時間・手間が掛かっている。 もう一つの曲は音楽的な決め事の少ない、いわば端唄・小唄の類で、時間もほとんど掛かってない。半日くらいで出来たもの。

両者は音楽的価値において隔絶している。 ただし、後者の方が分かりやすく、どちらかと言えばPOPS的である。 無論私は、前者を推したいからこそシングルのタイトル曲にしている。リスナーとしてもそちらを聴きたい。

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医者と話す度に体の具合を訊かれるのだが、都度「悪いなりにも安定している」と答えるようにしている。 事実ずっと体調は悪いが、悪化していると言うわけでもないのである。 小さな体調の変化は無いことも無いが、それを説明し出すとそれはそれで大層な手間だ。

体調不良のうちでも、特に仕事に差し支えるのが喉の不調だ。 四六時中ってわけではないが、喋るとムセることが多い。 風邪のように咳き込んでしまうのだが、単なる風邪ではない。明らかに臓器関係が影響していると思われる。 営業仕事なんてできない。


そもそも私は、何故これほどの重病に陥ったろうか。 病気の原因を探るなど、人知程度で可能なはずが無いが、大雑把な観測くらいしておきたい。

私は酒もタバコもやらないので、その手が原因で生じた病でないことは明らかだ。 食生活については、十代の頃から実家の飯なんて食べてない上、ずっと独り者で、食事のほとんどは外食かスーパー・コンビニの惣菜だった。 お世辞にも健康的とは言えないが、逆に言えばその程度の不摂生でしかない。 生来の体質が原因などと特定するのも乱暴だが、結局それが一番蓋然性の高い結論と言えるかもしれない。


5/21(月)

90年代くらいのものだったろうか、あるヒット曲のWikipediaを読んでいたら、その曲は「盗作の疑いが濃厚」であるとか、音楽評論家に指摘されていると言う。

私はそのヒット曲を聴いたことがあるし、盗作元と言われている曲(因みに洋楽)も聴いたことがある。 似ているかと問われるなら、「メロディーの一部が似てはいる」と答えるだろうか。でも言われるまで気付きもしなかった。 言われてみれば似ている、と言う程度。

メロディーが似ていると盗作騒動になったりするが、楽器編成やコード進行ではそうならない。 間奏のメロディーが似ているとて盗作問題に発展したと言う話も聞いたことがなく、音楽作品において、編曲部分について著作権は及ばない、あるいは極めて軽いとされているようだ。

この手のルールは、単に人が線を引いただけのものなので、どうと言う感想も無いが、編曲部分にも創作性は当然ある。 ただ、そこに排他的な使用権・占有権が設定できたりすれば、私のような音楽屋は物凄く困ったろう、とは思う。

「○○(ジャンル名)っぽい曲を作ろう」とか思い立った時、そこには定番的な楽器編成やスケール・コード進行、音型、アーティキュレーションがあったりする。 それらを踏襲するからこそそれっぽくなるわけで、そこを踏み外すなら動機ごと失われる。 現状、それらに著作権が及ばないとされていることに助けられている。

ただし、主旋律(POPSなら歌のメロディー)だけは引用できないとされている。 やはりアレンジ部分なんて、所詮は従物と捉えられているのか。 一般的なリスナーの、楽曲の印象化において、メロディーの重要度が他を圧倒して大きいってことなのだろう。 その事一つ取っても、私と平均的リスナーとでは、随分音楽を聴く態度が違うようだ。


5/20(日)

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水木しげるさんは絵が好きだった。 意志以外の力によって絵がやめられなかった、のではなく、純粋に好きだった。

子供の頃から絵が好きで、小学生の時に開いた個展は地方新聞に掲載されたと言う。 その後戦争に借り出され、戦地で片腕を失う。幸いそれは左腕であったが、もし右腕を失っていたとしても、彼なら左手で絵を描いたろう。

彼畢生の懸案であった妖怪とは、西洋人の考える神だろう。 彼を守り、彼の生存を磐石たらしめるもの。 自伝で彼は、戦地でぬりかべに助けられ一命を取り留めたと本気で述べていた。 復員後、漫画が売れるまでの困窮生活を振り返っても、「私には自信があった」と言う。 その自信とは、漫画が売れる自信などではなく、「生き抜く自信」であったらしい。 まさに信仰そのものだ。

神不在の日本社会において、何かを好きになることは至難の業である。 J-POPに流れるそこはかとない弱さの理由も、日本からピカソが生まれない理由も、結局はそこにある。


5/19(土)

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先日、担当医と障害者認定についての話をした。 曰く「少なくとも3級か4級なら取得できるのではないか」とのことらしい。 私はその辺に全然詳しくないが、障害者に相当すると聞いて、あらためて自分が病人なのだと認識させられた。 因みに、認定を得るには申請作業が必要になるらしい。

障害者認定には等級があって、下位の認定なら貰っても大したメリットが無いらしく、あえて取らないケースもあるようだ。 あと、1・2級とそれ以下では待遇が随分違うと言う。 私において、「3・4級なら」という風に医師に言われたのも、それ以上の等級を得るには多少の条件的なハードルのようなものがあるのだろう。 私が置かれている状況が3級に相当する、とか言うより、それ以上に認定してもらうには相応に煩雑な作業が伴う、と言うことなのかもしれない。

障害者優遇制度について私は、この社会が用意している制度なのだから、使える人は使えば良いと思っている。 生きる上でわざわざ不利な条件を選択する必要はないし、普段税金払っているのだし、制度の利用は正当な権利だろう。

私が気になっているのは、自分で自分を弱者だと規定し権利の割り当てを期待する気分は、私のクリエイティビティーを歪めるに違いないと言う点。 小銭なんかよりこれは余程に大きな問題だ。 とにもかくにも自分で判断すべき問題である。 どう状況が変わろうと、私自身が自分の精神を「侵されない」と判断できるかどうか。


5/17(木)

神田優花、新曲の歌入れ。 今年はまだリリースが無いんだけど、実はマスタリング済みのストックが現時点で7曲くらいあって、多分年末くらいにはそのうちのいくらかを出せると思います。

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不調をおしての編集作業。 先週末からまたほとんど寝たきりだったんだけど、がんばって二曲分の編集作業終えました。


5/16(水)

ここ二日ぐらい、寺山修司について考えている。 青森出身の詩人・歌人・戯曲作者。

生前の映像が多少残っていて、本人を知るよすがになる。 当時熱狂的な支持を集めた物書きらしいが、現代にあの位置を占める文化人はいないような気がする。 ある時期には芥川・太宰などもそうだったのだろうし、中原中也や竹久夢二と言った人らはもっと似た類型だったように思える。 存命中に支持があれば、石川啄木とかも似たようなニッチであったかもしれない。性格はかなり違うような気がするが。

寺山が「徹子の部屋」に出演した時の映像が残っている。彼の話術の巧みさ、ある種の魅力を理解するための貴重な資料である。 司会者は直前に読んだ資料を元に喋りかけているだけに相違ないのだが、寺山はその振りに対し、単純に「さようでございます」と言う返答をしない。 必ず色を付け足し、話を面白くする。 ゲストとしては有難い人であったろうが、総合的に判断して、語る内容には多分に創作が混じっていたと思われる。

確かに話は面白い。が、私はその内容に誠実さのようなものを感じ取れなかった。 感じ取れたのは衒学性であるとか、単に目立ちたがりな性格だとか。 寺山には「言葉の錬金術師」などと言う異名があったと聞くが、純粋な賛美の気分のみが込められた異名であったろうか。 言い方は悪いが、ペテン師のような臭いを嗅ぎ取られていたのかもしれない。

幼少期に父親を亡くしている寺山は、ほぼ母親の女手一つで育てられている。 本人「面白いことを言わないと周りに友達がいなくなってしまう」などと述懐していて、彼の話術が、当時置かれた環境によって培われたものであることを匂わせている。

あるコメディアンが全く同じようなことを言っていたのを思い出す。 ある脳機能を持たされた個体にある環境を与えた際に起こる、一種の化学変化なのかもしれない。

晩年(と言っても47で亡くなっている)寺山は、住居侵入罪で逮捕・起訴され、罰金刑を受けている。 新聞各紙には「のぞき」と報じられているが、本人は否定している。 真偽の程、私には検証する能力が無いが、それが事実であったとしても、私の寺山に対する印象はブレない。


5/15(火)

アプリオリ(a priori)について。

ある時、とある文章を読んでいたら、アプリオリと言う言葉がそこに頻出する。 が、私の語彙にそのアプリオリが無い。

辞書で引くと「先験的」などとあるが、先験的の意味が掴みかねる。 Wikipediaにも「アプリオリ」の項目はあるが、記述は平易であるとは言い難い。要約するなら「経験以前に知っていること」と言うことらしいのだが、私にとっては難解であった。

その後暫くして、乳幼児を何気なく眺めていたらアプリオリの意味が分かってきたような気がした。 経験と言うものをほぼ持たない彼らにでも、知っていることと知らないことがあるからである。

例えば、自閉症児の典型症例として、微笑みかけても笑わない、と言うのがある。 翻って、何故自閉症でない普通の子は微笑みかけられただけで笑ってしまうのか。 それは自分の中に存在する心と、相手の気分とを照合しているからだろう。

子供は歳を重ねるに従って、学校などで教えられる。「他人には、皆それぞれに心が植わっています」などと。 そう言われて納得できるのは、その子が既にそれを知っているからだ。 全ての理解とは、つまりはアプリオリに基づく。


私にアプリオリの意味が分かったのは、それがまさに先験的であったからだろう。 アプリオリの概念こそがアプリオリであった。 まあ今の私の解釈が正しいのか、まだよく分からないけど。

物事と言うのは、教えられて分かるのではなく、分かっているからこそ教えられて納得できるのだろう。 だから、分かる心の持ち主でなければ、何を教えられてもその言葉は通り過ぎて行くだけ。 だから私は、目の前を横切った何かを見逃さずに分かる心の持ち主でありたい。


5/14(月)

仕事柄、歌手志望の若い人などから、相談と言うか質問のようなものを受けることがある。 その都度なるべく誠実に回答しているつもりだが、内容的に重複することが多いので、ここで文章として残しておく。 こんなページ一々読まないだろうけどね。


「複数の事務所に所属しても良いですか?」と言われることがある。 それに答えるなら、「その複数の事務所さんらがそれを許可しているのなら良いのでしょう」と言うところだが、現実問題として、帰属関係が曖昧な人を事務所が本気で売り込んだりするはずもなく、両属などを許可している時点で、そこの事務所の気分はたかが知れている。 長く付き合っていく気すら希薄なんじゃないだろうか。

歌なら歌を本気で続けて行こうと思うなら、旗幟は鮮明にした方が当然望ましい。 どこに行くかはさておき、両属なんて意味ない。結果として大した成果も得られない。 「他所に男作っても全然俺は気にしない」と言う彼氏がいるなら、その人はあなたと本気で付き合う気がないに違いない。 これは一般論で、私個人の意見なんかじゃない。


「プライベートって開示しないとダメですか?」と言う質問。 ウチは所属者に、本人の連絡先(携帯電話の番号など)以外に、緊急連絡先と言うのを聞くようにしている。 突然連絡が取れなくなったら色々困るから。 ウチはそこまで求めないが、事務所によっては保証人のようなものまで求めるところもあるだろう。 とにかく、連絡先、これは普通実家の電話番号か何か教えてもらえれば特に問題ない。実際そこに電話掛けるケースもほとんど無い。

時折、自分の持っている携帯の番号くらいは教えるが、それ以外の連絡先を一切明かせない(明かす気が無い)と言う人がいる。 そう言う人に限って電話などをしても滅多に出ず、返信も迅速でなかったりする。 我々事務所サイドの人間が、そこについて憤慨していると言うのではなく、そんな調子ではあなた自身が得られるものが目減りしますよ、と言いたくなるのである。

そういう人に、例えばブッキングのような枠を取ってくることなんて出来る筈がない。すっぽかされたら怖いからだ。ローカルのラジオとか生で動いてることも多いけど、生番組のブッキングとかもっての外と言うことになる。 「怖いから」と言ったが、事務所は怖がる以前に、そういう人の営業活動自体をやらないから、実は怖くもない。当人が機会を失うだけだ。

例えば、就職一つするにも身分証明や保証人まで求められるケースがある。 消耗品のようなアルバイト従業員にならそこまで求めない会社が多かろう。 他人と誠実に向き合う気のない人の人間関係は、同じような気分の相手で塗り固められる。


「この事務所って私に何をしてくれるんですか?」と言う質問。複数の事務所などを当たり、この答えが一番魅力的なところに行きたいらしい。本当にそういうことを言ってこられる。 別に単なる事実を答えることくらいできるけど、他人との付き合いを開始するに当たって、「あなたは私に何をくれるの?」と言う人ってどうなのだろう。 少なくとも私は、面接などでそんなことを口にしたことは無い。

上の質問は、「貢献する気が無い」と言う気分を表している。貢献するでなく、与えてもらうことばかりを考えると、人はそのようなことを口にしてしまう。

私は上の質問に対して「逆に訊きたいが、あなたには何ができるの?」と聞き返してしまったことが本当にある。 例えば音を作って販路に乗せるとか、その商品の宣伝をするとか、そういうことって出来ると言えば出来るわけだけど、商品たり得る歌が歌えて、宣伝に効果が生じるほどに魅力的なコンテンツでなければやる意味は無い。 ステージを用意することは出来るけど、そこに相応しいパフォーマンスなんて出来るのか?って話。

本人に能力さえあれば、事務所はかなり色んなことができますよ。これは事務所の規模の大小に関わらず。 出版社系など、何の実績も無い事務所にでも門戸を開放している営業先はいくらでもあるし、その人に能力さえあるなら、最悪大手の事務所に売り飛ばす(移籍させる)ことだってできる。 事実私の以前勤めていた事務所は、女性三人組を某大手に丸ごと有償譲渡した。

ウチはコツコツ音作って販路に乗っけてるだけのような地味な事務所だが、再生・ダウンロード数などは、アーティストによって全然違う。その差も数万倍と言うスケールだったりする。 結果なんて本人次第としか言いようがない。


私個人は「近頃の若いものは」と言うような世代論って信じないタチである。 良くも悪くも彼らにそこまでの個性なんて無い。上の世代が覚える違和感は、ほぼ彼ら若者が育ってきた環境に因る。 それにしても私は、どうしてここまで弱々しい世代を作ってしまったろうか、とは思う。 これって若い奴らじゃなくて大人の責任だよね。


5/13 (日)

雑誌、特に漫画誌は、読者の年齢層を上げるのは簡単だが、下げるのは難しいらしい。 読者も作者もスタッフも、放っておくだけで歳を取るからである。 ただし、その自然現象に任せたままだと、その雑誌は部数を下げ、早晩終わる。

当たり前のことなんだけど、どこかで誰かが踏ん張って若者向けの若い作家育てねばならないのである。 いくら日銭が稼げるからと言って、過去のヒット作の続編や編集版のようなものばかりを出していると、その業界は弱る。

出版も音楽の世界も、要は似たようなことが起こっている。 景気も悪いし少子化なんだから仕方ないってのは事実だけど、そのモノの見方が少子化さえも招いているのだと思う。 でもこれ、誰が悪いとか言えるような話じゃない。


体調が悪いと思って深夜に熱を測ったら、38度台。 病院に行こうか迷ったが、とりあえず寝ていることにした。 熱・咳・鼻水等、典型的な症状が出ているので、風邪なのではないかと思うけど、風邪とかも引きやすくなっているのかもしれない。


5/12(土)

体調がよろしくない。 どうしたものか。 週に一度、スタジオリハに顔出してるんだけど、数時間立ってるだけで疲労感が酷い。 背もたれのある椅子に座らないと、本当に倒れそうになる。

ここ数日は咳に悩まされている。声を出すと咳き込んでしまうから、電話なども(特に夜は)できない。 更には、症状としては風邪のようなものだが、本当に風邪かは分からない。 心不全が風邪様の症状を呈することはよくあることだから。

一応今週は二曲ほど歌を録っているので、気力があれば編集作業に入りたい。 今録っているテイクの編集が終わったら、今年最初のリリースの目処が立つ。


5/11(金)

一応私は仕事柄、欧米人との多少のコンタクトがある。 大抵メールのような文章のやりとりが多いが、実際に会うことだってたまにはある。

欧米人だって要はタダの人間だ。 誉められれば喜ぶし、相手が怒れば緊張する。 話していての感想は、正直言って頭の悪い人がほとんどって感じだ。 生来のハードウェアとしての脳の性能は、日本人一般と大して違わない。日本人の方が良いかもしれないと思うこともある。 但し彼らは卑屈ではない。

文明圏としての日本が彼らの後塵を拝することになってしまっている理由は、要するにこの卑屈さだろう。 脳機能こそ大差なくとも、卑屈さはモノを見え難くする。


5/10(木)

海外で売られているウチの楽曲の一部のクレジットが、アーティストと私の連名になっているのだが、無論私の意向ではない。 向こうのアグリゲーター(販売の仲介業者)が加えている手心なんだろう。 複数のサービスで確認できるので、各販売事業者の意向でないことは明らかだ。

連名になっている(私の名が入っている)のは、神田優花(Kanda Yuhka)と影山リサ(Kageyama Risa)の一部の楽曲。おそらく比較的最近リリースされたものばかり。 向こうの人って、楽曲のコンポーザーを重要視する傾向があって、私の名が入る方が売れると踏んでいるのだろうか。よく分からない。

よく分からないが、拘りもないので「やめてくれ」とも言ってない。 売れてくれるのならそれでも良いし。 ただ、私の希望じゃありませんよってことだけは、この場を借りて断っておく。 ウチが提出している資料に、そんな連名は一切入ってない。


Groove Boxについてまたメモ。

入れてみたいくつかのアプリケーション(プラグインソフト)を弄っていたのだが、事前の予想通り、飽きるのは早い。 あっという間にツボが不感症起こす。

ああいうののヘビーユーザーって、どんな感じで使ってるんだろう。 一からパターンや音色作ったりしてるんだろうか。 できなくもなかろうけど、そんなことしてないような気がする。 因みに私は、プリセットのパターン呼び出して、適当に気に入ったもののパターンとかパラメーター類弄って遊ぶ感じ。 音楽制作とか言えるような作業じゃない。

やはり「曲想を形にするための道具」でない点が痛い。 あれらは偶然に出来たフレーズを楽しむもので(そんなに楽しくもないが)、作らされている感が強い。 とにかく独立した一曲を作り上げるのは難しい。何をもってして曲とするかにも因るけど。 使いどころがあるか分からないけど、もう少し弄ってみます。


5/9(水)

アメリカのドラマなどを見ていると、随分態度のデカい「お手伝いさん」がいるのに気付かされる。 日本では考えられない態度であるのだが、人としてあるべき態度はむしろあちらの方で、日本のように、使用人は媚び諂うべきとする気分は卑屈そのものである。 この社会に美質はふんだんに含まれていると思うが、私は日本人のその気分を嫌う。

何故日本人は人間を上下に別け、例えば使用人は主人にへりくだって当然と考えるのか。 それは偏に生存上の理由であろう。 給金を貰うだとか身分を保証してもらうだとか、その程度のくだらない理由によって、人は身の処し方すら制限されてしまう。

翻って、何故欧米人はそうでないのか。 それは生存上の危機感を抱えていないからだろう。 全ての人には神が与えた人権が備わっていて、それは何人たりとも侵せないとされている。 お手伝いさんは、自らが持つその当たり前の権利を行使しているだけなのだろう。 雇い主も上司も、そこだけは決して侵せない。

欧米人がそれほど偉大なわけではない。あいつらだってたかが人間だ。 彼らがこんにちのようであり、また日本人がこのようである理由も、大部分はたまたまその社会・歴史の中に生まれてきたからってだけ。 ただ、そういう社会を希求し、作り上げてしまう人間としての資質の違いはあるだろう。 個人レベルでの差異はごく僅かだろうが。


芸術やそれを愛好する習慣が日本で育たなかった理由は、我々日本人が神に守られていないからである。 生存に汲々としている人間に、審美の感覚は育たない。 何かを選ぶ、好む、と言う判断は、確立された自己によってしか為せないからだ。 また何度も言うが、「好きなこと」とは、「やめられないこと」や単に「気持ち良いこと」とは違う。 子供でもスポーツを好きだとか言いますね。それは遊園地で乗り物に乗るのと同じで、単に気持ち良いからである。 そんな理由で音楽やってるミュージシャンもいる。

親や学校の先生を喜ばせる為に学業に勤しむ子は、やはり生存上の脅威を抱えている。「誉められる為にやっていること」と「好きなこと」とは違うのだ。誉められることによって生存上の不安を払拭しようとしているだけ。愛が足りていない証拠である。 「私は誉められることが好きなの」と言う主張はウソである。生存条件を満たしたいだけであって、それは傾向性・生存本能に他ならない。

もし生存が磐石なものであるなら、その子は勉強なんて面倒臭くてやってられなくなるかもしれないし、あるいは興味を持つが故に学問に打ち込むかもしれない。 後者の感覚を「好き」と言い、我々人類が全力で守らねばならないもの。人類の可能性もそこに集約されている。 西洋文明があれほど巨大化したのも、それ以外の地域、例えばアジアがこんにちのようであるのも、詰まるところ根源的な理由はそこにある。


言わせてもらうが、私は自分の好きな生き方を選べた審美感覚の備わった人間である。 何故純粋に好きな生き方を選べたのか。それは、自身における何事かが揺るぎないものであったから。 音楽と言う神に守られていたから。 無論今でも守られている。私はどんな境遇にあっても、音楽が好きだし、それを作り続ける日々を楽しめる。 音楽の中には、私のもう一つの世界・人生・現実がある。誰にもそれは侵せない。 私が「音楽に愛された」と言うのは、歌の文句のような綺麗事を言っているわけではない。今の私に愛の本当の意味が分かるから、そう表現している。


5/8(火)

現状薬漬けの日々を送っているのだが、副作用が酷い。 症状が一つや二つでないので、一々説明するのも大変だ。

多量・多種類の内服薬を処方されているのだが、都度の診察(採血)の結果如何によってその構成が変わる。 効いていないからとて量や種類を増やされるのだが、それでは逆に効き過ぎているからとて減らされるのかと言うと、(無論そういうこともあるのだが)必ずしもそうでなく、効き過ぎ(=副作用)を抑える為とて、新たな薬を出されたりもする。

例えば今の私は、薬の副作用で尿酸値がかなり上がっている。 尿酸値はほぼアルコール摂取の相関数値で、酒を飲まない私には今までほぼ無縁のパラメーターだったのだが、今後はおそらく一生付き合わされる。

いくら私自身の不摂生に因るものでないからとて、事実値が高いのだから、このまま放っておくと痛風やら何やらが発症してしまう怖れがある。と言うかかなり高確率でそうなるだろう。 そしたらまた、その治療がそれはそれで必要になるに相違なく、考えるだけで憂鬱になる。 ついでに、尿酸値を下げる為の薬は、それはそれで既に毎日服用している。


副作用の中でも酷いのは、ワーファリン(血が止まりにくくなる)によるそれだ。 本当に出血しやすくなるし、止まりにくくなる。

ある時着衣が冷たく感じるので、濡れているのかと思って見てみたら、布地が鮮血で染まっていた。 それはまだ良いとして、ゾッとしたのは出血痕の周囲の皮膚を探しても、それらしき傷が無いこと。 よくよく見たら小さな傷跡を発見できたのだが、要するに、その傷の規模から想定される量を遥かに超えた出血量だったので、見落としてしまっていたのだ。 今の私はそれくらい血が止まりにくい。


病気と言うのは肉体を蝕むだけでなく、世界観(精神)をも蝕んでしまう。 病気は私の「世界の見え方」まで侵食してくるのである。 勿論負けるわけには行きませんけどね。


5/7(月)

ある漫画家の自伝的エッセイを読んでいた。 結構売れている作家で、代表作は過去アニメ化までされている。

気になったのは「ここ最近の一時期、経済的にかなり行き詰っていた」とのくだり。 手持ちの資産を売り払うことによって食い繋いでいたらしいが、その時期にほとんどの資産は消えてしまったとのこと。 本人も上の本の中で「漫画家は夢を売る仕事なのに、こんなこと言うのは忍びないが」と断った上で語っているのだが、経済的な困窮は事実らしい。

私は不思議だった。 無名の新人じゃあるまいに、そこそこの知名度もあり、作品はアニメ化までされているような人である。絶頂期は過ぎたろうが、食うに困るなんてことはあるまいと。 あるいは「使い方」に問題があるのではないかとも思った。 因みにその人は、今でも連載を持っているし、単行本もコンスタントに出ている。

漫画も含めた本って、CDを出しているアーティストなんかの視点で見れば印税の率が良い。 漫画家はCDで言うところの原盤権を完全に押さえている状態なので、例えばミュージシャンならアーティストロイヤリティーが1%(各種控除後に0.7〜0.8%)とかになるところを、漫画家なら10%くらい丸々貰える。 500円の単行本を私が一冊買えば、作者に50円振り込まれる、みたいな計算になる。

「ボロ儲けじゃん」とか思ってはみたが、初版100万部の売れ筋商品ならいざ知らず、出版不況と言われて久しい昨今、盛りを過ぎた長期連載作など初版1万部も刷られるだろうか。 まあ私から見れば1万でも凄いんだけど。 とにかく、仮にイニシャルで1万部刷られたとして、コミックスの定価が500円なら、作者に還元されるのは50万円ってことになる。 年に3冊リリースしたとして150万。確かにあんまし大した額じゃない。

無論、連載の原稿料ってヤツは別に入るはずだが、アシスタントの人件費をはじめ諸経費あろう。実際、原稿料は大して漫画家の手元に残らないと聞く。 漫画家は、売れていれば濡れ手に粟だろうが、ちょっとピークを過ぎたら食うにも難渋するらしい。

正直に言うが、ウチのCDなど、ファーストロットで万の単位刷ることなどまず無いし、トータルで万行ったタイトルも無い。 配信物(ダウンロードコンテンツ)とかで一番出たのでも、アルバムベースで換算すると多分一万も行ってない(数えてないけど、単曲でカウントするなら、一万くらいは行ってるアルバムもいくらかあるかも)。 因みに、配信物はCDなんかよりずっと還元率が高い。

その昔、Music Deliと言うダウンロードサービス経由で10タイトルくらいだったろうか、シングルをリリースしたことがある。 Music Deliのコンテンツはいくつかのルートでリリースされるのだけど、メインはファミリーマート設置のFamiポートでの販売だった。 当時ファミリーマートが全国に7000店舗くらいだったか、あると聞いて「凄い販路だ」とか思った覚えがある(きっと今はもっとある)。 「各端末から1件づつでも出れば7000ダウンロードじゃん」とか思ったり。実際端末あたり1件なんて全然出ないわけだけど。

仮に7000ダウンロードとか行ったとしても、それだけで食って行けるとか言う金額には到底至らず。 上の漫画家の話もよくよく考えてみると納得できてしまう。 どこの世界もそんなに甘くないですね。


5/6(日)

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NES(任天堂初代ファミコン)での音楽制作についての追記。

ファミリーコンポーザーと言うソフトが存在していた。 その名の通り作曲用ソフトらしい。ゲームのオマケに作曲モードがついているようなものでなく、一応は作曲に特化したソフト。 因みにこれもディスクシステム用。作曲ソフトってディスクシステム用タイトルが何故か多い。 リリースのタイミング的な理由(要するにたまたま)もあるのだろうけど、ディスクシステムは拡張音源が使えるからって理由も多少はあろうか。

調べてみたけど、全パートの音を打ち込めるようなものでなく、プリセットの伴奏(各種音楽スタイルのバッキング)に主旋律を加えるだけのものらしい。 しかも音が外れたりしないよう、スケールは固定。 子供用のオモチャってことですね。

マニュアル(説明書)があれば理解の足しになったろうと思うけど、ちょっと探したくらいでは入手できず。 個人ブログとか動画の類であらましを一応理解したところによると、結論としてはやはり使えない。 キチンとした音楽作品を作れるようなものではない。



近況報告。 調子悪い。とにかく出血しやすく血が止まり難い。 ここ最近、ほとんどの時間寝巻き姿でいるのだが、出血が酷く、寝巻きがところどころ鮮血で染まる。 我がことながらグロい。

症状の理由は複合的であるものの、要は内服薬の副作用が大きいと思われる。 なら服用を止めれば良いと思われるかもしれないが、そういうわけにも行かない。 内服薬を断ったら別の大きな問題が生じる。そっちは死に至る可能性もあるから、血だるまでも我慢するしかない。


5/5(土)

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故水木しげるさんの語録に「好きの力を信じる」とある。 私は100%それに賛同する。 好きの力こそが、きっと全てを打ち破るし、全てを解決する。

人が何かを「好き」であると言うこと、これは人類が全てを掛けてでも守らねばならない何事かである。 人間が人間である理由はそこに集約されるし、人類の可能性もそこに秘められている。

蛇足だが、「好き」とは「やめられないこと」ではない。 アルコール依存症患者は、自分が酒を好きだと思っているのかもしれないが、彼は酒をやめられないだけ。 好きとは、もっと崇高な機微だ。


少年期の私は、金も時間もほとんど音楽以外に使うことがなかったような人だったが、私の親は、少年だった私の音楽に対する「好き」の感情を、全く肯定的に捉えなかった。そればかりか積極的に封印しようとすらした。

私の父親は言語力が弱く(事実理系だった)、酒・タバコ・ギャンブルのような傾向性の対象に、もれなく手を付けているような人間だったのだが、彼の考える「好き」は余程に碌でもないものだったのだろう。 「俺がタバコを吸いだしたのは成人してからだ」などと自慢げに語っていたのを覚えているが、「そんなに好きなモノであるなら、一秒でも早く手を付けた方が良かったろうに」と私は不思議に感じていた。

人間、心に無いものは分からない。 いくら教えてもらったところで我が心に思い当たる機微がなければ理解には至らない。 愛が理解できるのは、その人の心に誰かを愛する気分があるからである。 「好き」と言う言葉一つにしたって、その人の定義する「好き」でしか体感できない。 貧しい心を持つこととは、貧しい宇宙に生きることである。


5/4(金)

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斜視について考えていた。唐突だが、気になってしまったのだ。 気になった理由は、私にとって不可解であったから。彼らには世界がどう見えているのだろう、と。

調べると、やはり正常には見えていないらしい。 少なくともキチンとした立体視ができない。 普通の人は、左右の目から入ってくる視覚情報差から立体映像を脳内で構築する。 斜視者は、左右からあまりにバラバラの視覚情報が入ってくる為、それを脳で統合できず、どちらかの視覚情報をピックアップするような形で処理するらしい。 実質的には片目であるに近く、しばしば「利き目」のようなものを作ってしまうと言う。 そうなった場合、あまり使われないもう片側の目は弱視となるケースも多いそうだ。

乳幼児などの先天性の斜視の場合、彼らは生まれた時からそのような視界を持たされているのだから、結構大きくなってもそれを当然の世界だと思っていて、周囲が気付いてやらないと斜視であることに本人では気付けないと言う。 まあ当然だよね。 斜視は、二歳くらいまでに矯正してあげないと、その人は生涯立体視の能力を獲得できないと言う。

斜視は放っておくと、視覚情報の一部を脳が処理しないので、脳のその部分が退化するらしい。 退化と言っても、必ずしも脳のある領域がゴッソリ抜け落ちるのではなく、別の処理にその領域が使われ出すことが多いようだ。例えば利き目の視力が異常に発達するとか。 言語獲得に失敗した個体に、計数能力や空間把握能が身に付くようなものだろう。 別段の不思議は無い。

但し、いくら珍奇であるからとて、その代償的発達を才能などと評するのはやはり誤りであろう。 本当にそれが才能・優位性であるなら、人類はそちらの方向に進化したに違いないからだ。

私は人間の理性・思考は目(の印象)に集約されると思ってきたから、斜視に正直無気味さを感じてしまう。 思考が読めないからだ。 事実、脳での情報処理が一部為されなくなっているのだから、この「読めなさ」はあながち錯覚でも無いようだが。


5/3(木)

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ある芸能人が酒に酔って起こした不祥事だかが話題になっている。 当人、アルコール依存症の疑いが濃厚であると聞く。 「早く治して再起して欲しい」と言うような声があるようだ。が、冷たいようだが、それは治らないし再起などもしようがない。 まあ再起の意味にも因るが。

アルコール依存症は治らない。 私に断定する権能は無いが、少なくとも医学的な定説ではそうなっている。 治らない理由は、それが病気のような一過性のものでなく、脳の(ハードウェア的な)状態に起因するものだからだろう。

言語の獲得・形成に失敗した個体は、必然として自己が育たない。 変わりに発達する何事があったりするのだが、それは言わば「人間以外の何者か」としての成長である。 単純記憶能力とか、計数能力とか。 サヴァン症候群とか、調べてみると良い。

自己・理性が育たなかった個体には、物事に対する歯止めが利かなくなる。それを行動抑制障害と言い、人格障害者には典型症例として現れるものなのだが、例えば妄想を正すことが難しくなる。 思いついたことを、例えそれが悪事であったとしても、やらずにいられなくなるから、ある人は酒がやめられず、ある人は犯罪者になる。

彼らを犯罪者にせずにする方法は、一々物事に禁忌を設定し、手を出さぬよう調教するしかない。 彼らにとって人生とは、ほぼ煉獄と同義になるだろうが、実のところさほど同情することではないかもしれない。 感じている苦しみも、我々とは別種のものに違いないから。 同情・共感したくてもできない。

好きと言う機微は、人間の理性から生まれる崇高な感情である。 彼らは酒が好きなのではない。水が高いところから低いところへ流れるように、生存の原理によって生じたある衝動を押さえられなかっただけ。 食い物や異性に、反射で飛びつく下等生物のように。


以前、あるニュースで、受刑者はかなり高確率で認知症を発症する、と言う話が伝えられていた。 さもありなん。

犯罪者にはよく精神鑑定が用いられるが、そんなまどろっこしいことせずに、もっと外科的・解剖学的アプローチに拠って、脳を調べてみると良い。 犯罪者のほとんどには、前頭葉などに何らかの異常が見られる筈だ。

酒に手を「出す」、犯罪を「犯す」、などと動詞に着目するから、その人らに「異常性」と言ったものが付着しているようなイメージを持ってしまうのだが、それは誤解である。 彼らには病原菌のような何かが巣食っているのではなく、ほとんどの常人が持つある当たり前の機能が欠損しているだけ。 「あること」によってそうなっているのでなく、「無いこと」によってそうなっている。

ウィルスによって風邪を引いた者なら、そのウィルスを取り除いてやることによって健康を取り戻せるだろうが、ある脳機能の「欠損」によって起こっている事態なら、その機能を付け足してやるしかない。 が、視力の欠けた者に角膜を移植するように、脳を移植するわけには行かない。 脳はその人そのものなのだから、それはその人を別人にすると言うことになる。

彼らが獲得できなかった何かとは、自己であり理性である。 彼らは形としては人なのだが、人として生まれて来れなかった。 だから言わば、彼らは存在していない。そもそも無いものなのだから、当然再起などもしようがない。 あるものは不滅であるが、無いものは初めから存在しない。 この先にも当然存在しない。


5/2(水)

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美は単純ではないが、同時にある明快さを持っている。 私が日々答えを探し続けるのは、その答えが存在しているに違いないと信じられるからだ。

審美眼を狂わせるのは、概ね私(わたくし)である。 我が身可愛さに美しくないものを美しいとした者は、自らが美しいとしたその紛い物こそに苦しめられる。 ここは間違いない。


話題になっていた愛媛の脱獄犯、彼は「塀の無い刑務所」にいたらしい。 誰の思いつきか知らないが、そこに無理矢理に美談のようなものを見出したのだろう。 見事に裏切られ、逃げ出され、世間をこれだけ騒擾する事態となった。 その誰かは、きっと責任を取らされるだろう。

美しくないものを美しいとすれば、人はその判断の狂いの責任を取らされる。 こういう意味において、きっと神は存在する。


5/1(火)

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昨日の続き。NESを使った音楽制作について。 あんまりよく調べずに昨日のエントリー上げてたんだけど、その後ちょっとだけ調べを入れてみた。

まずドレミッコ。 しっかりしたシーケンサーのようなモードはどうも無いらしい。 リアルタイム入力の結果を並べて曲らしきものにすることは出来るみたいだけど、ステップ入力が出来ない。だから当然細かいノート類のエディットなんかも出来ない。 音楽制作ソフトと言うより、やはりゲームソフトであるらしい。

次にオトッキー。 まず、ある段階までステージをクリアしないとMUSIC MAKERなるモードにたどり着くことすら出来ないわけだが、それもごく簡易的な代物らしい。 トラック数5・最大4小節なのだと。ともに本格的な音楽作品を作れるようなものではない。 ただ、ディスクシステムを使ったものなので、多分ディスクシステム内蔵のFM音源が使える。

余談だが、資料を見るとディスクシステムのFM音源はPWM音源などとも記述されている。 パルス波を基本キャリアとした2オペFM音源って意味なのだろうか。 もしそうなら、ファミコン音源の矩形波のデューティーエンベロープで原理的には似たような音が作れそうなものなんだけど、ディスクシステムの音は明らかにファミコン本体のそれとは違う。

絵描衛門、本体にバックアップする形でデータをセーブできたらしい。 但し4トラック・12小節と言う制限あり。まともな曲など作れるはずもなく、あくまでループベースのゲームBGMを作るためのものらしい。 ただ上に挙げたソフトも合わせた中では一番使える。 音源としては1ランク下がるが、一番マシ。 ついでに、ドレミッコの値段が高いと言う話をしていたのだが、絵描衛門はそれを上回る\9800と言う定価。 ファミコンソフトなんて小学生とかを対象としていたろうに、随分強気な価格設定だこと。

4トラック(最大発音数4)と言うのはファミコン(2A03)音源自体の仕様なので、仕方ない。 しかし最大12小節と言うのはキビしい。 ブロック単位で作ってオーディオ化したものをDAWで貼り合わせて曲にする、とかが現実的なんだけど、そこまでして使う価値のあるようなものだろうか。 あと、一応絵描衛門はテンポ指定ができるようになってはいるが、システムの制約上、厳密なBPMベースではない筈。


4/30(月)

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世間はゴールデンウィークだと言うのに、私は相変わらず病床に臥している。 スタジオリハーサルに顔出す以外はほとんど外出もせず、人とも会わず、ただ飯食って寝るだけの生活を続けている。 まあ私の場合は普段からあんまし人とは会わないけど。 それにしても体調も優れないし、子規の晩年とかこんな感じだったんだろうか。


ちょっと前にChiptuneに執心していた時期があったのだが、今NES(任天堂初代ファミコン)にての音楽制作についてまた考えている。

MMLのベタ打ちとかトラッカーを使って作ったデータを、ファミコンのエミュレーターとか音源部だけ独立させたプレイヤーなどで再生・録音、なんて一連の作業が私にとってのChiptune作りだったんだけど、ファミコンのソフトには一応音楽制作用途のものがいくつか存在する。 それを使って曲作りを出来ないものかと考えていた。

作曲ソフトには、オトッキー・ドレミッコ・絵描衛門(デザエモンと読む)などのソフトが存在する(他にもあるかもしれない)。 挙げたうち最初の二つはディスクシステム用のソフトで、ノーマルなファミコンだけではプレイできない。

絵描衛門はファミコン本体だけでプレイできるが、カートリッジ式のROMで、知らないけどおそらくバックアップができないと思われる。 ディスクシステム用の2タイトルはできるのかしら。 とにかく、実機でやるとなると、ファイルの管理は難点ではある。

ドレミッコにはキーボードが付属しており、定価もそれなりに高い。当時標準的なディスクシステム用ソフトが2千円台だったのに、ドレミッコは約9千円もする。 キーボード無しで(普通のコントローラーだけで)十全にプレイできるのかは不明だ。

オトッキーは基本的にシューティングゲームで、オマケとしてMUSIC MAKERなる(作曲用)モードが用意されている。 が、ステージ6をクリアしないとそのモードはプレイできないらしく、私がそれを使おうと思うなら、先ずその前に6面クリアできるぐらいそのゲームに達者にならねばならない。 なんかアホらしい。


4/28(土)

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高校球児は甲子園出場を目標とすることが多い筈なのだが、私はよく兵庫県代表校の気分を想像してしまう。 兵庫県の高校球児も「目指せ甲子園」なんてスローガンを掲げていたりするのだろうか。

例えば私は、大学生の頃まで福岡県に住んでいた。 福岡球児が「目指せ平和台(そう言う野球場がかつてあった)」とか言ってたら、やや滑稽に感じなくもない。 福岡県内のどのあたりの高校であるかにも因るのかもしれないが、平和台出場が決まってもイマイチ嬉しさがこみ上げてこないのではないか。

福岡市内辺りの高校なら、おそらく大会開催期間中も、わざわざ宿を取ったりはしないはずだ。 選手は普段の登校と同じように、試合の日には電車か何かに乗って平和台に行くことになるだろう。 テンション上がらないな。

平和台出場を果たしたは良いが、試合に負けた際には、涙ながらに平和台の砂を掻き集めたりもするのだろうか。 これもイマイチ気分が盛り上がらないような気がする。 やはり物事には、適度な距離が必要だ。


4/27(金)

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唐突だが、私は何も諦めていない。 諦めたものなんて無い。 小学生の頃に飼った犬ともう一度会える日だって来ると信じている。 私は、いい歳してそんなことを信じつつ、ネクタイ締めて外回りなどをやっている狂った大人だ。でも私は本気です。

「そんなこと無理に決まってるじゃないか」と言う気分が常識である事は知っている。 もしその犬が口を利けるなら「もう新しい犬でも飼いなよ」って言いそうな気がする。「私のことなんて、時々思い出してくれればもうそれで良いよ」って。 でも私はそこで「ふざけんな」って思ってしまう。 私は諦めていないから。

芸術って、絵を描いたり歌を歌ったりすることではないのです。それは対象としての作業に過ぎない。 芸術とは、諦めないこと。私は諦めません。 何一つ持たされてなくても良いんです。正しい方向を向いて歩いているのならそれで良い。


諦めたって歌くらい作れます。極論すればドレミファソラシド並べ替えるだけでも作れるし、事実色んなことを諦めながらそれを生業としている人はたくさんいる。

でも、もし私が諦めたら、私の作る歌はある強さを失うはずだ。 私は、私自身を勇気付けるために歌を作り続けている。 だから弱い歌なんて作ってられないんです。


4/26(木)

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神田優花、新曲(二曲)の歌入れでした。 今年は私のせいでリリース計画が大幅に崩れてまして、今年最初のリリースタイトルの目処も今だついてません。 今年の前半はリリース無しってことになるかもです。


4/25(水)

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先日、医師と話している際、現実と言う言葉を使った。「不整脈が私の現実となってしまった」と言うように。 私の使う現実は、Realtyの訳としては正しい筈だが、「我々を支配するもの」と言う意味で使っている。

医師は言う。 「私も臓器関係のトラブルに恐怖することはあります」と。 医師であるが故、何かが起こった際、「分かっているから怖くないこと」があるのと同時に「分かっているから怖いこと」があるそうな。 これが私の言う現実である。

幼児は抱えている現実が乏しい。 だから怖いことは少ない。同時にそれ以外の全ても乏しい。 芸術は悦楽であるのと同時に、苦痛でもある。 物事って基本的にトレードオフで成り立っている。


4/23(月)

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審美眼を狂わせるものは私(わたくし)である。 私は人としてどこかが壊れた人で、生存への執着が薄い。だからこそ芸術家になってしまったのかもしれないし、芸術家になる為に、気が付けばその生存への執着を削り落としてしまったのかもしれない。

美醜の判定に自分の生存は関係無い。 ある対象を美しいとするか否かの判断に、その対象が我が身をどう評価するかなどと言う要素は含まれない。 それが含まれ出したら、もうその審美眼は信ずるに足りない。

「どうしてその恋人を選んだのか」と言う問いに対する本当の答えが、単に「その相手が自分に言い寄ってきたから」と言うような人は多い。 手に入りそうだからその対象を良いもの・美しいものとした、と言うこと。 尋ねられればあれこれと後付けの理由を述べるだろうが、要するにそういうこと。

その対象が美しいかどうかに、自分との関係とか、その対象が下す自分への評価とか、そういうものって全く関係無い。 美しいものは美しく、醜いものは醜い。 私は、私のことを選ばなかった相手でも、ソイツが美しいなら美しいとする。


4/22(日)

Groove Boxとか言うカテゴリーの機材(と言うか製品)がある。 半ば一台完結を前提とした音楽制作ツールで、リズムマシンにシンセとかベースのパートが付加できるようなものが多い。 大抵16ステップとかの簡易的なシーケンサーでノートを打ち込む。 機能的にはハード・ソフトどちらもあり得るし、事実あるのだが、どちらかと言えばハードのことをそう呼ぶような気がする。 リアルタイムでの演奏を主眼としているように思われるのだが、まあ当然と言うか、高度な音楽制作には全く向いていない。

私も一応その手のラインナップの機材を持ってはいるが、モノの試しに買ってはみたものの、正直ほとんど使ってなくて埃を被っている。 選んだものが悪かったのもある。操作性が悪い。

私はそのGroove Boxに前々から興味を持っているのだが、片っ端から買い求めるわけにも行かず、あれこれとその周辺について想像している。 事実DTM関連商品の中でも、その手の機材はリリース数も多く、売れ筋であると思われる。 つまり好む人が多い。

高度な音楽制作に向かなかろうが、多くの人に好まれているのだからそこには理由がある筈。 「簡便だから」と言うのが一応の回答となっているようにも思えるが、簡単さと言うのの正体がまた簡単でない。 何をもって簡単とし、何をもって複雑とするのか。

今そのGroove Box系のフリーソフトをいくつか落としてきては弄ってみている。 当然作品にも活かしたい。 が、断片的なフレーズを作ることを主目的としたものなので、例えば丸々一曲を作ろうと思うなら、DAWとの連携は不可欠であるかと思われる。


4/21(土)

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数日前、ある野球人の本を読んでいると言う話をした。 そこについて更に考えるところがあったので文章化しておく。

その人は、公平に見て、選手としても指導者としても偉大な実績を残した人であるのだが、実に僻みっぽい。 世界に対する満腔の不満が見て取れるし、実際著書の中でも常に「自分は虐げられている」と言うスタンスを貫いている。

百の幸運は一つの不幸を見え難くするが、その不幸な歴史を抹消することはできない。 どんな幸運に包まれていても、僅かな不遇をかこつ人はいるし、そういうことは出来てしまう。 人も羨む成功の中に居ながらにして、誰かに貸した金のことが気になって仕方ない人はいるだろう。 どうしようもない。

野球と言う一つの現場に携わることによって、その人は深い知識と洞察力を持った。 が、それらを自らを精錬する道具にはできなかったようだ。 普通、世界を見つめ洞察し続けることによって、人は自分自身を作り上げる。 ほとんどイヤでも作り上げてしまう。 なのにその御仁、何故か経験や実績相応の自己を作る事ができていない。 著作中でも、事ある毎に「人の道」を説くのだが、自身にこそ人としての大切な何事かが欠けている。

今のところの私なりの仮説だが、その人には自己感が希薄なのではなかろうか。 だからいくら世界を見詰めても、その経験から自身を磨けない。自己が存在していないからだろう。


あと、その人の現役時代のポジションはキャッチャーで、監督の経験もあるのだが、一種の職業病として他人に対する猜疑が骨肉化しているのかもしれない。

キャッチャーや監督は、敵の裏をかく。 内角を抉るようなストレートで打者を仰け反らせ、「当たること」すら意識させた上で、外の変化球で空振りを誘う。 常に相手を欺き続けることで名声を得てきたのだろう。 だからこそ、自分以外の成功者を見た時、反射的に「出し抜かれた」と言う感想を持ってしまう。

人を欺こうと思えば思うほど、「他人こそが自分を騙そうとしている」と言う懸念が払拭できなくなろう。 世界観こそがその人である。 どれだけの名声を得ても、世界がそのように見えているのだから、その人は本質的な意味での成功者ではないのではないかと思えてしまう。


4/20(金)

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期外収縮と言うヤツが断続的に起こるもので、数日前の深夜、急遽病院に行くことにした。 病院出た時には既に明るかったので、深夜と言うより早朝に近かったかもしれない。

結果から言えば、特段の症状の悪化は見られないようで、そこについては良かったのだけど、つい先月に致死性不整脈を起こしている身としては、心臓のおかしな挙動に対しては神経質にならざるを得ない。 医師もそう言う私に対して「当然だと思います」とのこと。

その時病院で取った心電図には異常は見られず、「瞬間的に不整脈が起こっていたのかもしれないが、致死性のそれではない」とのこと。 確かに致死性不整脈が出る可能性があるからと言って、出てもない状態では手の施しようが無いのだろう。 結局大した治療をするわけでもなく、追加の内服薬なども出されず(今の私が処方されている薬は綿密な治療計画に基づくもので、担当医以外が簡単に内容を変更できないのだ)。


致死性不整脈の恐怖は、痛みに対するそれなんかではない。 以下、一度陥った私の感想。

それまでの私は不整脈について、言葉ぐらい聞いたことがあったが、どういうものか真剣に考えたことすら無かった。つまりそれは私の現実でなかった。 そして、一度陥ることによってそれは私の現実となった。 今まで気にもしなかったであろう、心拍数の変化や心臓の収縮が一々恐怖として襲い掛かる。 細動が起これば、私は死ぬかもしれず、一命を取り留めたとしても脳がやられる。 酸素の供給が僅か数分途絶えただけで、脳は不可逆的なダメージを負う。救急搬送しても間に合わない。

必ずしも、病気だからこそ心臓が期外収縮を起こしたり心拍数が変化したりしているわけではない。 健常者にでもそれらは起こりうることだし、過去私だって日常的に起こしていたかもしれないのである。 ただ、今の私は、それらに死の影を感じつつ怯え暮らさねばならなくなってしまった。

つい先日まで、病院で理学療法士の指導の下、リハビリを行っていた。 その際、心電図を取られながら色々な動作をさせられるわけだが、ちょっと早歩きなんかをしただけで「心電図の波形が乱れた」とか指摘される。 最初「私の心臓はそんなに悪いのか」とある種の不安を感じていたのだが、そこについて療法士は「健常者でも運動などをすれば心電図の波形が少々乱れることはあります」と言う。 とりあえず安心はするが、私の現実に以前にはなかった悪夢が入り込んでいることに気付かずにはいられない。

致死性不整脈が一度起こった以上、再度起こりうる可能性は排除できない。 不整脈は100%の健常者にでも起こりうると言うが、それが自らを束縛する現実であるか否かは大きな違いである。 私の意思と全く関係なく24時間稼動し続ける心臓を、不整脈は何の前触れも無く時刻も問わず襲う。 当然寝ている最中にでも起こりうる。私は眠りに落ちる度、二度と目覚めないことをホンの僅かでも可能性の枝葉として、視野に入れつつ生きている。

ついでながらここ最近、期外収縮と言うのがたまに起こる。 運動の影響で出ていると思われるものもあるが、寝ていても出る。 これは健常者にでも起こる類のものであるものの、軽度の不整脈である。 程度にも因るのだろうけど、直ちに死に至るようなものではないらしいが、頻拍・細動に移行するケースもある。 私のように頻拍の経験のある者は、当然その確率も上がる。

期外収縮は、心臓と言う「血液のポンプ」の異常なので、独特の疲労感のようなものが全身を襲う。 この疲労感は除細動なんて発動させても、変わらないかあるいは更なるレベルのものになると思う。 あと、不整脈を抑えると言う効能の内服薬を飲んでいるのだが、それはあまり効果を発揮していないように思える。 あるいはそれなしでは、もっと頻繁に期外収縮が起こっていたのかもしれないが。

ICD(埋め込み型除細動器)を体内に埋め込むことを提案されたが、私はそれを受けていない。 私なりの計算あってのことだが、勿論100%の自信があるわけではない。不安は付きまとうが、これも自分の判断。 私は世界の見え方こそを大切にする人である。 私は今の状態が「永遠に治らない」と言う前提で生きない。


4/19(木)

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ある野球人(元プロ野球選手・監督・解説者)の著書をいくつか読んだ。 その人は結構多作なようで、ちょっと調べただけでもかなりの数の著書があることが分かる。 そのうち(読了前のものも含め)10冊ばかりも読んだろうか。

私は野球部や少年野球チームなどに入った経験もない全くの素人で、プロ野球観戦にすら行かない。 野球ファンとは気持ちの上でかなり遠いところにいる人なのだが、一つの現場で真剣にその作業に向き合った人の言葉には重みを感じる。 その重みを感じたくて読んでいたわけです。

内容はまあ、期待を裏切らない程度に面白い。 ただ、数冊読み進めると、趣旨が重複していたり、著述に対する熱が持続されていないのか、内容が陳腐化していたりする。 作家としては10冊読むに耐えうる人でないと評すべきか。

詰まるところ、こう言う点がその人の思考的パラダイムの限界と言うものなのだろうか。 言っていることは粗方正論だが、ある地点で思考がループしているように感じる。 出版のオファーは(多分に商業的理由から)来るのだろうが、例えば全集などを出す価値のある作家ではない。 本物の文学者の精神の偉大さをあらためて感じてしまった。


4/18(水)

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ちょっと前の話だけど、本屋で人を待っていて、時間があったので音楽・芸能誌コーナーを眺めていた。 ウチがたまに記事を掲載してもらっている月刊Auditionなんかが置いてある一角。

各誌の表紙が並んでいるわけだけど、その中に若い女性が肌が透けて見えるようなきわどい下着姿で載っているものがある。 どうもその下着姿の御仁、(割かしメジャーな)アイドルらしい。 「月刊Auditionなんかが置いてある一角(=成人向け雑誌のコーナーでない)」とわざわざ断ったのは、その雑誌がエロ本に見紛うようなものだったからだ。

昨今のグラビアなどを見ると、しばしばグラビアアイドルが(水着でなく)下着で映っていることがある。 確かにビキニ型の水着は下着と基本デザインが変わらない。 水着がOKなら下着でも良かろうと言う風潮になっているのかと思われる。 まあその判断自体に算術的狂いは無い。

私は人間の羞恥心について考えていた。 羞恥とは即ち論理である。 論理性のタガが外れると、人間は恥じらいを感じられなくなる。 だから酔っ払いは時にあのようになる。 論理のタガをアルコールによって緩めているのである。

論理性が確立されていない脳の持ち主は、自身が恥ずかしくないからと言って裸で街を歩くわけにも行かない。逮捕されてしまうから。 そういう人は「裸で街を歩いてはいけない」と言う禁忌を一々自分に叩き込むことになる。 だから、「別に裸で歩いても良いんだよ」と言う風潮さえ生まれれば、容易にそのような行動を採れる。 本来羞恥によって平素の行動が律されていたわけでないからだ。

若い娘さんが、半裸と言っていいような下着姿で人前に出て、あまつさえ全国誌に載るなど、正気の沙汰でない。 あれが平気でやれると言うことは、その人の普段の礼節・貞節も、自律に拠っていたわけではないと言うことだろう。


4/17(火)

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ビューティー・ペア(ジャッキー佐藤とマキ上田)の「かけめぐる青春」を聴いていた。 因みにビューティー・ペアとは、70年代に一世を風靡した女子プロレスラーのコンビ(タッグ・チーム)。 「かけめぐる青春」のEPは当時80万枚売れたらしい。 当時の80万枚は、90年代のCDに換算すると200万枚くらいには相当するのではないか。 再生機の普及率が全然違う。

音楽そのものは、当時のモノとしても特段の興趣は感じ取れない。普通のPOPSである。 70年代と言うとフォーク全盛の時代で、ビューティー・ペアの楽曲も、当時で言えば青い三角定規とかの雰囲気に近い。 まあ青い三角定規はニューミュージックっぽい色合いもあって、純然たるフォークって感じでもないけど。「かけめぐる青春」もそう。

あの時代のJ-POPなら、基本的にはいずれかの洋楽を下敷きにしている筈なんだけど、「かけめぐる青春」のベースはどの辺にあるのだろう。 ABBAとかじゃないかって意見も聞いたけど、ABBAのどのレパートリーが該当するか、私にはちょっと分からない。

それにしても、芸能界における女子プロレスのプレゼンスは明らかに低下しているな。 私の子供の頃だってまだ「有名女子プロレスラー」は存在した。 クラッシュ・ギャルズとか悪役ではダンプ松本とか。 ダンプ松本なんて、日本国民で知らない人はほぼいない、と言うぐらいの認知度だった気がする。 今そんな女子プロレスラーなんていない。女子プロレスの存在すら知られてないんじゃなかろうか。

聴けば聴くほど、これが大真面目な(ギャグでない)商品であったことに驚かされる。 時代とは変わるものだ。 実際当時のものと思われる動画がYoutubeなどに上がっているのだが、ちょっと見ただけで当時の人気の高さ、ファンの熱量が伝わってくる。 知らない人で、かつ興味ある方は、音だけでなく是非映像つきのものを見て欲しい。



近況報告。 週末の深夜に、突然心臓がおかしな挙動を示し出したのでビビった。 症状は説明しにくいんだけど、突然心臓の鼓動が大きくなる感じ。 これが散発的に起こるので、正直怖かった。

後で知ったが、その症状を期外収縮と言うらしい。 病人特有のものでなく、健常者でも時折見られるものらしいが、無論好ましいものではなく、悪ければ頻拍や細動に移行してしまう。 細動に移行してしまうと高確率で意識が飛ぶから、私はその時点で救急車を呼ぶことが頭をよぎった。

心拍数を測ろうと思って立ち上がったら、軽い貧血なのか脳震盪のような症状が起こっていて、足元がフラつく。 何とか心拍数を測ったら、多くはあったが正常の範囲内だったから、とりあえず保存に努めることにした。 極力楽な体勢で深呼吸を続けていたら、一時間くらいで治ってきたのでそのまま崩れるように寝た。


4/16(月)

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古い話なんだけど、あるミュージシャンが、自身が統合失調症であることをカミングアウトしたとか言う話を仄聞した(「統合失調症に罹っていた」と言うような表現で、まるで一過性のような言い方だが、統合失調症は治るようなものではない。今は寛解状態にあると言うことなのだろう)。 私は割りと好きなミュージシャンだったもので、それについてしばし考え込んでしまった。

若い頃からちょっと風変わりと言うか、いわゆる天然キャラのような扱いを受けていた御仁。確かに印象としてはその通りだが、「脳の統合が上手く行っていなかった」と言われれば、過去の言動にも納得がいってしまう。 統合失調症は、風邪引いてそれが治る、と言うようなものではないから、やはり私の今の理解で正しいのだろうと思う。

その人の歌は心を打つ。私の心も打つ。歌に一種の真剣味を感じてしまうからだ。 「その人は統合失調症ではないの?」と言われるなら(公表しているくらいなのだから)その通りなわけだが、私は無いものを在ると錯覚したのだろうか。

私はその人の歌(の動画)を見漁っていた。 私の今の結論としては、その人の歌は真剣だし、真実味がある。 私は単純に騙されて、無いものを在ると見たわけではない。

その人にとって世界は事実不可思議であるのだろう。 そしてその人には、その不可思議さに向き合う誠実さがある。 ただ、一定の結論を導き出せるだけの知能(言語力)が無い。 だから余計にその探求作業はハードなタスクとなり、滲み出る苦しみは周囲にも伝わってしまう。

これはそのミュージシャンに限った話ではなく、もしかして統合失調症の機序とは、一般にそのようなものなのではないかと感じた。 専門家じゃないから実のところは分かりませんけど。


4/15(日)

子供の頃、好きでよく見ていた歌番組を、最近Youtubeでよく見る。 当時見逃していた回や、もう二度と見ることが無いと思っていた回が見れたりする。 率直に嬉しい。


POPSを聴いていると、二番(2コーラス目)をお寒く感じることがある。 例えば燃えるような恋の歌だったとして、一番の情念を感じつつ聴いていると二番に突入する。 二番は概ね、一番を同じメロディーに違う歌詞を乗せたようなものである。

私はそこで、「この言葉は純真な吐露」ではなく、「メロディーに整合させることを懸案として書かれたものなのだ」と言うことをイヤでも感じてしまう。歌の世界に没入していても、そこである種の気分が冷める。 特に作詞者がプロの作詞家だったりしたら、「食うため」にその条件をクリアしていることを感じてしまうから尚更だ。

それでは一番も二番もなく、ダラダラと非定型詩にメロディーを付けたようなものが良いのか、と言うと無論そうとも言えない。 韻の無い文章が心に届き難いのもそれはそれで確かだ。 この辺は実に難しい。


幸い今では多少症状が緩和されたが、ちょっと前の一時期、声を出す度に咳き込んでしまい、まともに会話ができなかった。 ICUにいる時など、携帯電話は使用禁止だし、面会は親族ですら10分程度とか決められていて、直接誰かと会話する機会自体はほとんど無かったから別に困らなかったけど。

しかし入院中、手術で両手首(特に右手)を開いた時にはテキストも打てなくなったので困った。困ったと言うより怖かった。 交信の手段がほとんど完全に絶たれているんだもの。本当に自分が人類の埒外に置かれたように感じてしまった。


4/14(土)

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私が物事に対して楽観的だと言うと、「困ってないんしょ?」とか思われてしまうんだが、そうではない。 困っているんですってば。 近況を説明してやろうと思う。


私は先月退院したばかりなのだが、まず体感的に体調が万全でない。 如何なる数値的根拠を示されるよりこれが辛い。 臓器、とりわけ心臓が悪いからほとんどあらゆる面で体調に影響する。 行動は勿論、体勢などもかなり制限されるから、寝ることすら一苦労。重いものを持つことだって危険な状態なのだ。

現状スタジオリハーサルには顔を出しているが、これは私の意地と言うか、世界観に関わることなので、這ってでも参加したいのである。 本来なら行くべきでないし、健康状態としても行けないと言って差し支えないのである。


激しい運動など当然禁止されているが、運動を全くしないと弱る一方であるから、理学療法士の指導による(長期的な)リハビリが最善であるのだが、当然タダじゃない。いくらなんでもそんなヒマも金もない。 こちとら仕事も満足にできないのである。

薬の影響で血が止まりにくい状態にあるので、怪我も簡単にできない。 無論今までだって怪我なんてできることならしたくなかったわけだけど、細心の注意が必要になるので、これも日常生活を制約する。 また、本当に出血しやすい状態にあるらしく、注意をしたところで謎の出血痕があちこちにできる。 あと、これは説明し難いが、瘡蓋が普段のそれと違う。本当に血液の状態が変わっているのだと思う。


出血による貧血状態なんかになって意識が飛んだらどうしようとか、ちょっと息切れがしたらまた不整脈に移行したらどうしようとか、一々気にせずにいられない。 特に一人の時に何かが起こったら死ぬかもしれない。


義務付けられている内服薬が、一度に飲むことすら困難なくらい大量である。 多分イメージ沸かないと思うけど、十数種(一種一錠ではない)の薬を毎日所定回数飲むのが如何に大変か。 通院後渡される薬の大量さに最初は驚いたが、その後ジワジワとその本当の大変さが理解できてくる。

例えば薬のPTP包装を一錠づつに鋏で裁断し、渡された資料を元に毎日の服用分に分けねばならない。そうしないととてもじゃないが管理できないのである。 朝と夜では内容が違ってたりするのだから一々大変である。 何日分作るかにも因るが、これだけで一時間近く掛かったりする。

包装を裁断まではできるが、そこから薬を取り出してピルケースなどにまとめることは出来ない。 薬の中に吸湿性の高いものなどがあって、飲む直前でないと取り出せなかったりするからだ。 だから毎度飲む度に一々薬を包装から取り出す作業が必要となる。 これはたかが数分の作業だが、毎度のことなのでウザくはある。

薬は毎日飲むのだから、その日の必要分を既に飲んだかまだ飲んでいないのか、テキトーに飲んでると時にそれすら分からなくなる。 袋に小分けにして、その一々に「○月○日朝」とかメモすることなども必須になってくる。 既に一種の仕事である。 しかも診察(検査)の度に薬の構成は変わってくるので、その都度資料の見直しが必要になる。

あとこれは実に大きなことだが、それだけ大量に処方されると薬代もバカにならない。 保険を適用しても薬代だけで数万円の単位になるわけだが、診察費と合わせればとんでもない金額になる。 繰り返すが、今の私は仕事もマトモにできないのである。 金銭面で今の私は、ほとんど蓄えを一方的に切り崩すことによって過ごしているようなものだ。


現状入退院を繰り返していて、一年チョイの間に三度も入院している。 一年たった12ヶ月しかないのに、そのうちの数ヶ月も寝ているのだから(退院中も100%で仕事に臨めるわけではない)、業務などほとんど麻痺状態になる。 しかも今後の体調も予断を許さない状況、下手したら本当に死んでしまいかねない。 事実私はつい先月、致死性不整脈で救急搬送されたばかりなのである。 本来こんなテキスト打ててることが奇跡のようなものだ。

知り合いに「公的な補助制度を使えば良い」とか提案されたが、私は全然そんなのに詳しくもない(補助って何してくれるのかも分からない)。 病院側は費用を請求するのみで、そのような案内など一切してくれるわけではない。 「自分で調べれば良い」と言うのかもしれないが、私はつい先月、致死性の症状に陥り、意識すら失うほどの重症だった患者である。今でも退院後間もなく、現時点で心臓の動きは二割程度、専門医に言わせれば一部壊死の可能性もあると言う。 当然仕事もマトモにはできず、日常生活すら大幅に制限されている。

今の私には、役所に相談に行くことも資料をもらうことも、とりあえず現実的でない。 本来長距離移動など以っての外で、階段や坂道を上ることすら危険な状態なのである。 ところがその手の相談や申請作業、代理人ではできないらしい。 そんな面倒な事務作業サクサクやれるような健康状態なら、そんな制度の援用も必要なかろうと思うのだが。


分かっていただけるだろうか。もう八方塞がり、四面楚歌である。 と、ここまで言っておいてナンだが、困ってはいるんだけど、私にはその状況を俯瞰して見ているもう一人の自分が常にいる。 ソイツにとってはその困難もどこか他人事で、何故かのんきに構えていられる。 確かに伝わり難いかもしれない。


4/13(金)

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対象には三種類がある。 好きなものとそうでないもの、もう一つは私自身。 友人の定義とは、私の側にあるもの、あるいは私そのもの。

私にも、女の人のことを好きになった経験がある。 その胸が締め付けられるような気持ちを、今でも生々しく覚えているし、そんな気持ちになることがこれからだってあるかもしれない。

私と言う思考回路が、条件によってある対象、この場合女性を好きになる。 多分多くの人は、この気分の多寡で恋人や結婚相手を選ぶのだろう。 それ自体はおかしなことでないと思う。

ある条件を持つ人を好きになるのだから、好きな人は何人だってできうる。 「私とあの人、どっちが好きなの」と問われるなら(実際問われたことは無いが)、「どちらも好きです」と答えるしかない。 婚姻届は一人の相手としか出せないが、それはこの国の法律がそうなっているからに過ぎない。

美醜や知性が単一の尺度で測れないように、二人の人のどちらが好きかなども一概に言えるケースばかりではない。 「二人の子のうち、どちらかを選べ」と言われても、困る親が多かろう。 この程度のごく当たり前のことが、この社会では口にすることさえ憚られるらしい。 みんなもっと真剣に生きようよ。


どんなに好きになった人でも、私はその人を好きになったり愛したりはできるけど、逆に言えばそれだけしかできない。 それは、私がその人になることや、その人が私になることとは次元の違うこと。

私が一番大切なのは私。 ここで言う私とは、今のこの戸籍情報を持った生体としての私と言う意味ではなく、私と言う思考パターン。 だから私と同じ何かがあるのなら、当然それも含まれる。

私は、私を一番大切とする。 狂おしいほどに好きになった人でも、その人が私でないなら、優先度は一段下がる。 と言うか、経験上、狂おしいほど好きになった人が私そのものであったことなど無い。 どんなに大事に思ったところで、目の前を通り過ぎていく何かに過ぎなかった。 私の人生と言う映画の登場人物の一人。私と一緒にその映画を見てくれる人ではなかった。

セックスした相手だろうが結婚した相手だろうが、目の前を通り過ぎていく何かなら、それはそれだけのもの。 世に言う恋人なんかより、その恋人との失恋の後、話を聞いてくれたり慰めてくれる友がいるなら、きっとソイツの方が私の近くにいる。 私が本当に大切にすべきはそちらの方。


4/12(木)

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大学生くらいの頃、周囲に「就職してみて物の見え方が変わった」なんて言うような人が出だした。 翻訳するなら、今までの仕事をしてなかった自分や、現在仕事をしていない人間が低次元にいるように見える、と言うことだったのだと思う。

今考えれば就職したばかりのガキなんだから、そのくらい思慮が浅くても不思議ではないんだが、当時の私には、どうして仕事をしている人がそんなに偉いのか分からなかった。 因みに今でも分からない。

臨死体験をした人など、上の就職なんて比べ物にならないほどのサプライズを経験しているのだから、これまた「考え方が変わった」とか「生死について考えるようになった」とかよく言い出す。 宗教とかに俄かに傾倒し出したり。

私はつい最近、致死性不整脈と言うのを経験している。つまりは死に掛けたわけだが、私においてその手の変化は無い。 ハプニングこそ起こったが、丸っきり想定外では無かったからだ。 何かを契機に物の見え方が極端に変わる人ってのは、直面した事態が重大であるのでなく、単に思慮が浅いのだと思う。 不測の事態にパニック起こしているだけであって、それは本来恥ずべきこと。


4/11(水)

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通院中である。私は今後、一生通院を余儀なくされているのだが、憂鬱極まりない。 仕方ないと言えばそうだけど、何とか通院せずに済む方法を探してしまう。少なくとも頻度を何とかしたい。

体調も万全とは到底言い難い。 運動・長時間労働や夜更かしができないから、必然的に仕事が大きく制限される。 特に運動については、例えばちょっとした距離歩いただけで、その後動悸や謎の発汗がある時があり、体がおかしな挙動をし出しやせぬかと私自身正直怖い。 睡眠も、ある体勢でしか寝れない状況が続いている。

大量の内服薬を服用し続けているのだが、薬代が二万とか言われて驚いてしまう。 いい加減にしてくれと言いたくなるが、これも薬剤師に言っても詮無いこと。

もうほとんど病気と付き合う為に生きているようなものではないか、と思えたりする。 毎日大量の薬の服用を義務付けられ、通院にスケジュールを占められる(無論財布の中身も)。 複数の理由から、仕事も当然満足にはできない。 こんな状況が続くようなら、本当に生活が破綻してしまう。 薄毛に悩む人がある種の業者に捉まってしまったら、こんな人生になったりするのだろうか。


と、まるで泣き言を言っているようだが、実のところ本気で絶望しているわけではない。 私はいつもそうなのだけど、どこか他人事のような気がして、艱難も含めた物事全てに楽観的だ。 今の世の中、生活が破綻すれば、破綻した者の為の手厚い制度が用意されているに違いなかろう。 私が突然死んでも、そこにもう私はいないのだから私自身は困らない。 死体を片付ける周囲は困るだろうけどね。

私は、この目に映る人生と言う名の映画の主役である。 主人公がこんなところでくたばったりするわけない。主人公を襲う悲劇は、単に何かの伏線であるに違いない。


4/10(火)

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病院で医師と話していると思うことがある。私の感懐が伝わるかどうか、自信が無いが。

自明のことかもしれないが、血液の供給が途絶えることによって壊死は起こると言う。 また生体の損傷部位を修復するのも基本的には血液である。 だから心臓が機能不全に陥ったりした場合、体の隅々にまで血液が送れなくなり、それが様々な不具合となって表面化する。

血液の価値についてあらためて考えている。 血液こそ生命の源泉である。 人体はそのほとんどが水分なんだけど、血液は中でもとりわけ価値が高い。 街中で献血を呼びかける声によく遭遇するし、私はそれに応じたことは無いが、血液を提供してくれる者には手厚い見返りがあると聞く。 本当は金払ってでも買い取りたいところだろうけど、倫理的にそうも行かないのだろう。

不換紙幣が当たり前となったこんにちでは、いまいちイメージが沸き難いかもしれないが、血液は貨幣となりうるに十分な価値を持っている。 金(Gold)などと同等、あるいはそれ以上の利用価値があるからだ。 保存さえ利くなら、血液本位制とかだって検討に値する。

血液に比べれば、ビットコインなど屁のようなものである。 仮想通貨を使ったマネーゲームに狂奔する人が後を絶たないらしいが、きっとその人らは、人が狐狸の使う木の葉に翻弄される、御伽噺の世界を笑えない筈だ。 とにかく血液には価値がある。そりゃ蚊も血を吸いに来るだろう。


4/9(月)

トロンボーンと言う楽器はかなり特殊で、他の管楽器とは随分異なる。 大抵ある楽器の奏者は、別の楽器に持ち替えることができるのだが、トロンボーンだけは(できたとしても)話が違おう。 とにかくアレンジャー泣かせの楽器だ。

スライドと言う独自の構造を持っていて、それを動かして演奏する。 他の楽器で言うところのフィンガリング・ポジションなわけだけど、その勘所(スライド・ポジション)も僅か7箇所しか存在しない。 同一ポジションにて、息の吹き込み方によって様々な音高を奏でる(アンブシュアの用語で調べてもらえれば、理解の足しになろうかと思う)。 トランペットなど他の金管だって、3つ4つのバルブで構成されているわけだけど。 金管の中でもトロンボーンは特殊である。

スライドを使っての音高変化(グリッサンド)は他の楽器には見られないものだ。 特殊な演奏表現が可能であるのと同時に、その構造故に運動性の高いフレーズを苦手とする。 ただこれは一般論で、アレンジの基礎知識ではあるものの、実際の演奏などを見ていると、奏者によってはかなりスピーディーなパッセージを奏でている。 つまり(これはトロンボーンに限った話ではないが)奏者の技量に負う面もかなり大きいと思われる。

早い話がスコアを書きにくい。 私自身が実際に演奏しないからなわけだけど、演奏しない楽器なんて山ほどある。トロンボーンの書き難さは他の楽器のそれとは違う。 スライド・ポジションの変更とアンブシュアの合わせ技による音程変化は、どの程度の旋律線にまで対応できるのか。 アンブシュアによるトリルのような演奏表現(偶発的なものでなく、譜面ベースのもの)のスピード的な限界なども知りたい。

幸い私は、割かし身近な知り合いに元トロンボーン奏者がいる。 だから色々と質問もできなくはないのだが、内容が内容なので、電話やメールでと言うわけに行かず、実際に会う必要があって、そんなに簡単でないのだ。


4/8(日)

とある伝説のバンドとやらのライブ映像を見ていたのだが、映像で確認できるバックのホーンセクションと、その出音に大層なギャップがある。 しかし、どうもオケを流しているだけとか、そういう風にも見えない。

あれ、音だけで聴いたら、私は奏者の人数ごと誤解しただろう。 例えばトランペットセクションが存在しているかのように聞こえるんだが、映像ではトランペット奏者は一人である。

マイクで音を拾った後の段階で手を加えているのだろうか。ダブリング系のエフェクトとか。 複数の音が鳴っているようには聞こえるんだけど、それがハーモニーなのかユニゾンなのかはちょっと分からなかった。よく聴けば分かったろうが、そこまでの気力が無かった。 もしハモってたのなら、ハーモナイザーとか使ってたのか。昨今のハーモナイザーは、スケールなどかなり細かく設定できはする。

何を考えていたかと言うと、私が例えばブラスのスコアを書く時、私の欲しがっているある音のニュアンスは、別に複数パート書かなくても実現できるのかもしれないと言うこと。 単に、ある旋律線にダブリング効果掛けりゃ良いだけなのかもしれない。


4/6(金)

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桜もほぼ散ってしまったようだ。 今年は、桜なんてのん気に眺めている余裕が無かった。 まあ桜は来年も咲くだろうし、そんなに悲嘆に暮れるような話でもない。 桜が美しいのかどうかはさておき、私はこの世界の美しさを、一秒でも長くこの目に映していたいと思う。

花は美しい、とされているし、ほとんどの人はそれを疑わない。 が、そもそも在った花の色を、誰かが美しいとしたわけではない。

花は地球誕生以来在ったわけではなく、ある時期(中生代白亜紀)を境に出現したものである。 当然それより前には無かった。 三畳紀や石炭紀の地層から、花の痕跡は出てこない。

花粉の運搬に虫や鳥を媒介させるため、蜜などと同時に花の色・形を備えた被子植物は生まれた。 花の美しさに虫が惹かれたと言うより、虫を引き寄せるための条件を備えたものが花である。 あたかも男の目を引くため、短いスカートを穿く女性のように。

人は花を美しいと感じるのだけど、花は、美しいと思われるに最も適した形態を後から獲得した巧妙な生き物である。 我々は、花に美しいと思わされているだけなのかもしれない。

事実、人間に好まれることによって、その花は個体数を爆発的に増やしていたりする筈だ。 つまり花にとってその色や形(いわゆる美しさ)は、生存条件とほぼ重なる。

では花は美しくないのか。それは一概に言えない。美は、そんなに単純な要素だけで成立しないからだ。 美とは極めて複雑なものである。私は残りの持ち時間だけで、その正体を掴めるだろうか。


4/5(木)

レコーディング・編集等の作業を再開している。 曲作りに関しては中断することが無いのだけど、編集作業なんかは久しぶりだったので、やや勘の鈍りを感じなくもない。

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漱石はどれだけ本当に則天去私であれたろうか。 私は衒いでもなんでもなく、ややもすると私(わたくし)の存在を忘れてしまう。 だからして、殊更に則天去私に徹しようとも思わないし、そう言う言葉を座右の銘とする気分にも無い。

漱石さんを見たことは無いけれど、彼は私との葛藤の中にいたのかもしれない。 絶とうと努めねば私がまとわり付いてくる、って当たり前だよね。人間なんだから。


4/4(水)

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人間には大抵性格があるが、性格以前、性格より下のレイヤーに気質と言うものがある。 気質は概ね、身体と言うハードウェアの設計に拠っている。 因みに、この気質と言う言葉やその用法は、私の思いつきではない。

足の悪い人が松葉杖を突いたり、車椅子に乗ったりする。 自分の足が頼りにならんから別のものに依存するわけである。 同様に、生来性能の悪い脳を持ってしまった個体は、自分の思考・判断が頼りにならないから、そここそを他人に委ねようとする。 これが依存の正体である。

生来頼み難い脳を持たされた個体は、選択的に依存に傾く。これは生存の原理だから仕方のない面もある。 だがそういう子を持ってしまったら、甘やかすでなく自立を促すべきだと私は考える。 生まれてしまった以上生きていくしかないからだ。極力害の無い生き物であってもらわないと。


近況について。 退院後スタジオで「いつ退院したのか」と聞かれ、「最近」とか曖昧に答えてしまったのだが、本当に正確な日付が分からなかった。

これ読んでいる人のほとんどには、丸二ヶ月なんて期間の入院経験は無いと思うが、二ヶ月間ほぼ寝たきりで、テレビも新聞も見ず、仕事もせず人ともほとんど会わないと、日付・曜日の感覚はあっという間に無くなる。 しかもその間、外出も出来ず、室温・湿度なども常に一定。私の場合窓の外を見ることさえほとんど無かったから気候にも全く無頓着になってしまっていて、面会相手などに「暖かくなってきた」とか「今日は雨が酷い」とか言われても、本当にピンと来なかった。

退院した日も、その日が何日・何曜日かなんて考えもしなかった。 晴れていたことや、その空の青さは覚えているが。 因みに今でも(退院許可証のような書類を漁らないと)正確な日付は分からない。 退院しても、その直後なんてほぼ寝たきりで数日を過ごしたから、仕事に復帰した後の上の質問にも即座に答えられなかった。 頭がおかしくなっているわけではない。


4/3(火)

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自立・依存について考えることが多い。 自立とは何なのか。依存とは何なのか。

幼い子を見ていると収穫が多い。 依存心の強い個体は、要するに生きること・存在することを嫌がっている。 言語の獲得が遅い個体などは、成長・自立を忌避している。

成長とは単なる自然現象である。受精卵が分裂していくような、我々の意思だけでは抗えないもの。 成長しない個体は、成長できないのではなく、成長することを避けようとしている。 物事を理解しない人って、したくてもできないのでなく、理解することによって直面させられてしまう現実から、全力で逃避しているように見えるでしょう。それと同じ。

好むと好まざるとに関わらず、人は人として誕生してしまった以上、成長させられてしまう(成長には当然言語獲得も含まれる)。 それを拒否し続けた個体こそが、発達の遅い子なのであろう。

私は、言語の獲得が人(他の子)より一年ほど遅い個体を間近で眺める機会があったのだが、その機会は上の確信をより強いものにしてくれた。 言語の獲得状況と依存心は密接に連動している。 成長(言語獲得)が遅い個体は、隙あらば母親の胸の谷間に顔を埋め、世界を見ることさえ拒否していた。 同様に思考することを拒否し続けた結果、言語の獲得が人並みより大きく遅れたものと思われる。

母親の乳房からは母乳が出てくる。食い物である。しかもそれは完全食品で、それさえあれば基本的に生きていける。 乳房に強い執着を見せる彼の、その要望に際限なく手厚くあろうとするなら、胎児のままにしてあげるしかない。 彼は乳房に吸い付くのだって好きだが、出来ることなら臍の緒で繋がっていたいのである。 つまりこの世界に存在したくない。 存在と言うのが自立である。

人がこの世界に存在するための唯一のツール、それが言語である。 存在したくない彼は、自然界が強要する言語獲得を拒んだ。 言語を獲得してしまえば、存在させられてしまうからだ。

大人になっても自立心が育たない個体は、しばしば人格障害などを発症する。 ほぼ例外なく彼らは言語力が怪しい。 先天的な欠損と言うより、先天的な気質がそういう形質・形態を選択したと言える。 人間には性格以前に気質と言うものがあって、最終的な仕上がりもそこに大きく由来するのだが、それについて話し出すととんでもない文章量になってしまう。

選択的に依存に傾く性質とは、即ち生きることを忌避する性質である。 だからそういう人らの要望を代弁するなら、「生きることの責任を誰かに取ってもらいたい」に尽きる。



話は変わる。 大量の内服薬を採り続けている影響ではないかと思うが、歯が痛い。痛みがあまりに酷くて眠れないんで歯医者に行こうと思ったら、病院と歯医者との間で診療計画の摺り合わせが必要になるんだと。 例えば今血が止まり難い状態なので、抜歯は避けた方が良い、とか。

結局歯医者にもお世話になることになったんだが、通院関係がスケジュールを圧迫するのがウザい。 その分働けないし診療費もバカにならないし。


4/2(月)

大切にしなかった何かが壊れてしまったら、私はそのことを仕方ないと考える。大切にしなかったのだから。 あるいは「大切にしていたのに壊れた」と言う人がいるかもしれないが、それがもし宿命的な限界でなかったのなら、大切にし方が足りなかったのだと思う。 壊れて欲しくないのなら、きっともっと大事にすべきだった。

失ってみて初めてその大切さに気付いたとしても、過去は取り戻せない。 今側にある大事なもの、これから出会う何か、それらを大切にするしかない。 とにかく、大切なものを失った人に出来ることなんて、それからの時間を精一杯生きるぐらい。

大事に扱わなかったが故に粉々に割れた茶碗を「かけがえのないものであった」と後になって気付いた人がいるなら、精一杯の修復を試みれば良い。 修復不可能である、と言う現実に直面させられるかもしれないし、あるいは継ぎ接ぎだらけの汚いものとしてしか復元できないかもしれないが、その継ぎ接ぎこそが「大切にしなかった」と言う歴史そのものなのだから、そこは取り返せない。

稀に、歴史そのものを「無かったことにしろ」と言い出す人がいる。 私はそれをワガママだと思うけど、私がどう思おうが思うまいが、一旦成立した歴史が消えることは無い。


4/1(日)

ある時代のドラムサウンド(特にスネア)を再現したくて、あれこれ試行錯誤していた。 特定のミュージシャンとかバンドの音、と言うのではなく、ある時代特有のサウンドと言うに近い。

コンプやEQの設定、あとサチュレーターとかのエフェクトの類で、割かし近いところまで持って行けてるような気がするんだけど、イマイチそれそのものと言うほどにはならない。 楽器そのものに違いがあるのかと思って、ヴィンテージ系のドラムサンプル持ってきたんだけど、何か違うような。 私の感じたある成分は確かに持っているんだけど。 あるいは奏法に理由があるのかと思ったり、まあ色々と模索してみていた。


上の話は今回の本題ではなくて(この手の思案は日常のことだ)、容易に言語化できない印象について考えている。 印象と言うのは時に複雑で、一つ二つの要素だけで再現できるものばかりでない。 人間の印象なんかも同じく複雑で、そんなに平面的・断片的でない。

サウンドですらそうなのだから、人間の印象とは複合的・重層的なもので、言語抜きには形成し難いものだ。 だから、その人の言語水準によって、相手の印象は当然異なる。 言語形成が十全に行われなかったような個体においては、印象と言う本来複雑怪奇なものの、それを構成する諸々のファクターの一つ二つを抽出したものによって相手の印象が形成されているものと思われる。 例えば容姿(視覚イメージ)だとか。

もし容姿を鍵に相手の印象を形成しているなら、彼は「老いさらばえてしまった幼馴染み」を同じその人だと認識し難かろう。

今回の話にオチめいたものは無いんだけど、現時点までに私が得ている一つの結論として、「視覚は簡単である」と言うのがある。 バカでもオシャレはできる。


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