Staff diary  
スタッフ日誌[2018]

[文 / 益田(制作)]

3/31(土)

仏教用語の四苦八苦、うちの四苦は生病老死だと言う。 病老死が喜ばしくないのは分かる。 生が苦しみとはどういうことか、私には分からなかった。 私の感覚が欧米人的なのかもしれない。生は謳歌するものと捉えてしまう。

ある種の人にとって、生は苦しみであるらしい。 私は人を眺めていて、ある時そのことに気付いた。 例えば乳幼児の要求は、要約するなら「俺をこの世界に存在させるな」と言うことに尽きたりする。 何も見たくない、何も考えたくない、と彼らは言っている。 無論乳幼児も人によって気質が違うから、皆一様ではないが。

この世界に存在することすら物憂いと言う彼らには、きっと「自分が生きている」と言うその感覚こそが希薄であろう。 「生きたくない」と言う気分は「責任を取りたくない」と言う気分と同根であるに相違なく、だからそういう人らは、集団の中では害悪と化してしまう。

意識とは即ち良心。 生きること、それは理性・良心を持つことであり、その良心などの基底を為すのは言語である。 神とはロゴスである、と言うのはきっとそういうことなんだろう。


3/30(金)

殺人などと言った凶悪犯罪事件の報道で、「逮捕されたのは35歳の会社員の男」とか言われると違和感が残る。 会社員が何やってるんだ、と。

でもそれって要するに、ソイツの収入源となっていた組織が法人として登記されてたってだけの話なんだよね。 会社員とか言われると、背広姿にネクタイ、頭は七三分け、みたいな像をつい思い描いてしまう。


言ってなかったが退院している。 体調はおよそ万全とは言い難いが、リハーサルにも参加している。 レコーディング待ち状態の曲が山積みになってて、今週だけで6曲も録った。 ちょっと編集が追いつかないんだけど、仕事に復帰したことで生気のようなものを取り戻している。


3/29(木)

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自明のことだが、音楽コンテンツは値崩れを起こしている。 一昔前、\1000のシングルCDが2曲入りだったとして、1曲あたり\500で売られていたことになる。 今、1つの音楽コンテンツに\500払う人は稀有である。

私が子供の頃、任天堂の初代ファミコンが流行していて、本当にほとんどの子がそれを持っていた。 カセット式のソフトが大体1本\5000くらいだったろうか。 そのほとんどの内容は、こんにち的感覚ではゴミのようなプログラムばかり。

仮に今あの程度のプログラムを誰かが作ったとして、せいぜいフリーで公開するくらいしか使い道は無かろう。 タダと言われても、ハードディスク汚れるから落としたくないと言う人が多いと思われる。 \5000を払う酔狂な人などもう現れない。 一旦値崩れを起こしたものが再び元の価値を取り戻すことなんて、実際にはほとんどあり得ない。 誰かが歌を吹き込んだ録音物も、それに(ある水準の)金を出す人がいなくなっている。

音楽コンテンツは、それを作るのにも相応のコストが掛かる。 なのにリリースしてもほとんどのものが売れない。 しかしながら、それでもそれを作り、公開する人がいる。 各々どうやって採算を取っているのか、私には分かりかねるが、いる以上その人らにはそれをやる条件が揃っているのだろう。


3/28(水)

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\1000とか言う価格設定を見ただけで私は、そこにある種の好感を抱いてしまう。 同時に\999とか\980は醜い。 「なら同じ商品が\1000と\980ならどっちが良いのだ」と問われるなら、当然買うなら\980の後者だけど。 その精神が美しくないと言う話。

美しくない理由は、そこに「相手の心を操作しよう」と言う心根が伺えるから。

私は\980の値札を付けられたものを、つい「安物」と感じてしまう。 980円だから安物って言ってるんじゃない。 9億9千9百9十9万円って言われてもそれは安物だと思う。 本当に価値あるものは、きっと自らそう言う値段を付けていない。

今、自分の心の側にある、本当に大切なものについて考えている。 出会った時、その大切なものにそんな値札が付いていたろうか。 私においてそんな記憶は無い。 大切なものに、そんな魅惑的な値札なんて付いてなかったし、それらは皆、値札すら付けていなかった。


3/27(火)

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今の私が生きている理由は、とりあえずは音楽にある。 音楽と言う既存の一分野を象徴として挙げてはいるが、要するにある予感のこと。夢と呼んだりもする。 その予感が私を在らしめた。

その予感がしなければ、私は存在しなかった。 「そんな筈があるか。お前はある時にある両親の下に生まれているではないか」と言われれば全く仰る通りだが。 私が言っているのは、私が今見つめているこの世界など存在しなかったと言うこと。 今の私に見えている現実、それこそが私である。

その予感がせず、今の私がいなかったとしても、今の私ではないソイツは今日もどこかで、今の私とは全く違う世界を見つめながら生きているだろうよ。 生存の原理に従って、思いつく限りのことをやったろう。

ソイツは勉学において秀才になったかもしれないし、才能が無くて落ちこぼれになったかもしれない。ある時平凡なサラリーマンになったかもしれないし、またある時良い金儲けのアイディアを思いつき、世に言う成功者になったかもしれない。 成功の暁にはこの世の春を謳歌したろうか。 でも、今この世界を、この瞬間を見つめている私はそこに存在しなかった。 私が言っているのはそういうこと。

私には、私が存在していると言う揺るぎない自信がある。 だからこそ、消えてしまうと言う恐怖も、実のところそんなに切実でない。 在るものは消えない。


3/26(月)

日本史を主題とした、ある軽めの読み物を見ていると、歴ドル(歴史アイドル)なる肩書の女性が出てくる。

その歴ドル、年齢は三十路を越え、容姿も公平に見て、例えば普通のアイドルや女優としてブレイクするようなクオリティーではない。 歴史と言うテーマに特化し、その周辺知識を得ることによって、そこに群がるオジサンらをターゲットとした特殊なアイドルのニッチを占めたものと思われる。 そこには生物学的原理が強くはたらいている。

世に言う才能とか適性ってのは、このニッチを得るための引力である。 この引力は生存への執着と密接にリンクしている。 人はしばしば、その引力に引き摺られ、人生を決められてしまう。 美男美女然り、試験秀才然り。 ニッチの深みが深ければ深いほど、人はそこから抜け出せなくなったりする。

才能とは何も、世間で言われているような運動能力とか絵を描く能力とか、そう言う華々しいものばかりではない。 苛烈さに耐えられる精神力だって立派な才能。 周りの大人に「右を向け」と言われればいつまでも右を向いていられる人は、既にある種の才人である。 その適性が求められる場所は割かし容易に考えられる。

こんにちこの「才能とは、ある基準が生んだ錯覚である」と言う平明な事実は、多くの人に認識されていない。 生存への執着が、この単純な事実を人に気付かせないのかもしれない。 確かに執着は、「人に物事を見え難くさせる」と言う割かし顕著な特性を持っている。

いわゆるエリート・試験秀才の類は、世間で「頭の良い人たち」などと思われていたりするが、その立場を得る原動力として、この生存への執着が強くはたらいている。 だから頭の良い彼らには、ほとんど盲目的に見えないとある一面がある。それが見えてしまっていたら、彼らは今の立場に至るまでの人生の途中で、足を踏み外しただろう。 私はこの観測に自信を持っている。彼らを実見してみても、この確信は揺るがない。

私が今までにニッチの深みに足を取られずに生きてきたのは、才能が希薄であるからでもあろうが、それよりも何よりも、生存に対する執着が薄かったからかもしれない。 サラリーマンや公務員になれなかったばかりか、ある意味ミュージシャンにもなれなかった。 私にあるのは自分の才能だけだし、目指すところも自分のゴールでしかない。

生存へのこの執着の薄さこそが、今の私が健康を失いつつある原因かと思ったりする。 だが、曲がりなりにも今日まで生きてこれたのだから、そこにも理由はあるに違いない。 私だけに用意された唯一のニッチがあり、今の私は、そのたった一つの椅子へ向かっているのかもしれない。

この、誰しもが持つ生存への執着すら不完全な、壊れかけた人間である私。それが今生きていられるのは紛うことなく愛のお陰である。 私は音楽に愛されたし、今日も誰かの愛に背中を押してもらっている。 就職活動すらマトモにできなかった私の現実に、誰かの愛が輪郭鮮やかに映り込んだのはきっとそのせい。 見えている現実こそが、この私を構成している。

ついでに断っておくと、私は上の歴ドルとやらを腐しているわけじゃない。 彼女だって生きて行かねばならないんだし、法や道義に触れるようなことをやってわけでもない。 私にああいう生き方はできないけど、できる人を素直に羨む気持ちだってある。


3/25(日)

パワーコード(1度・5度)には3度の音が含まれないから、理屈としては長短の別も存在しない。 とは言うものの、聴いている人がその楽曲にトーナリティーのようなものを感じていない筈は無く、コードの長短も脳内で補完しているに違いない。

昔の歌番組の映像などを見ていると、3ピースとか4ピースくらいの最小編成のバンドが生演奏をしている場合など、特に間奏あたりのコード進行はこの補完抜きに掴めるものではないと思える。 唯一のメロディー楽器であるギターがソロを演奏している時に、ベースが単音でルートをたどっているだけだったりするのだ。 聴く人はそのルートから、その上の3度・5度、あるいはセブンスあたりまでを脳内で補完しているのだろう。

この補完を成立さしめる唯一のツールは言語である。 その人の言語環境によっては、同じ音を聴かせても脳内に結実する作品像が大きく違うと言うこと。 だから、例えば強進行(ドミナントモーション)の引力なども、人によっては実はそれを感じられない。

音楽作品は、それを聴くにリスナーの教養が不可欠である、と言う当たり前のことに思いを馳せている。 専門書のようなものを読むのに、周辺の教養が不可欠であると言うような当たり前のこと。 未就学児童に学術論文が読める筈は無い。


3/24(土)

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東京のいわゆる下町には「昔この辺に映画館があった」と言った話(伝承)が多いのだが、「この辺りも昔は開けてたのね」とか思ったらどうやら間違いであるようだ。

先日、豊島区椎名町にトキワ荘跡地を見に行ったのだが、近くに「当時住人らが通っていた映画館跡地」とやらの看板があった。無論今その映画館は無い。 椎名町なんて23区内では完全に下町のような場所である。 葛飾区亀有に映画館が3つほどあったと言う話も聞いた。

それら映画館は、今の人が考える繁華の象徴ではない。 テレビ普及以前、庶民の代表的娯楽は映画鑑賞で、東京の下町のような人口密集地には、居間のテレビの代わりとして当たり前のように映画館があった。 風呂無しアパートが多かった時代に銭湯が多かったのと同じ。 だからして、テレビ普及とほぼ時を同じくしてそれら映画館のほとんどは廃業している。 むしろ下町に多くの映画館があったのもそのせい。


3/22(木)

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ガムランとかタイ楽とかの資料は、邦楽に比べてもかなり少なくて、調べている当時困じ果ててしまっていた。

ガムランなんて図書館とかで探しても、ホンの薄っぺらい本が一冊あった程度、内容も大学の講義1コマ分とかそれくらいのボリュームで、ガムランにはいくつか流派(様式)があるのだが、バリ様式についてのみ言及されていた(二大様式の一つと言えるジャワ様式についての記述は皆無)。 タイ楽はさらに少なくて、出版本としての解説書はついぞ見つけられなかった。 出版本にならないと言うことは、即ち需要が無いと言うこと。

そう言う時に役に立ったのが、個人筆の論文。 大学などによっては学位論文をPDF化して公開していて、誰でも自由に読めるようになっているのである。 出版本ではないので校正とかは甘いし、プロの物書きが書いているわけじゃないので、正直そんなに読みやすいものではないのだが、とりあえず私はその学恩を大いに受けた。

例えばタイ楽は七等分平均律と言って、採用されている音律自体が西洋音楽とはまるで違う。 (西洋楽器とではアンサンブルが成立しないから)楽器群も固有にならざるを得ないわけだが、上記論文の中に、その実物を発音させ、実測値を周波数ベースで記録したものがあって、作品作りに大いに役立った。

因みに、そこまでして作った神田優花の「Forest」(タイ楽ベースの楽曲)、全然売れてないと言う。 労力と売上げなんて全く比例しない。


私の実感として、知りたいと言う意思が明確であればあるほど、答えは視界に入ってくる。 いつまでも分からないものとは、そもそもそんなに知りたくないものなのではないかと思う。 この世の中のことがいつまで経っても分からない人なんかは、眺めていても分かりたそうに見えないもの。本当にそうなんだと思う。


体調についてである。 実は数字的根拠こそ皆無であるものの、体感的には悪くない。快方に向かっているような気さえする。

大量の内服薬を服用させられている。一度に十数錠と言った数で、いっぺんに水で流し込もうとして吐きそうになったりした。 中に「尿酸値を下げる」と言った効能の薬がある。 尿酸値って何ぞやと調べたら、それはほぼアルコール摂取の相関数値であると言う。 普段酒を一滴も飲まない私に尿酸値?訊いたら薬の副作用らしい。 薬を飲み、その副作用の為に更に薬を飲んでいる。 だから種類も増える。バカらしい気がしないでもない。


3/21(水)

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邦楽を取り入れた作品集を今年出す予定なんだけど、それを作る大変さについて回顧していた。

邦楽と偏に言っても、例えば浄瑠璃と長唄は全然違う。 邦楽は流派の枝分かれが激しく、体系のようなものを作ることを苦手としているきらいがある。 この辺、西洋のクラシックとは対照的だ。 西洋文明の強さも、この体系を作り上げる能力にあると言える。 無論西洋世界にも国境はあるし、音楽に楽派もあるのだが、それと邦楽界の諸流派とは性格がかなり違う。

雅楽について調べを入れようとしていた時、(クラシック音楽に比べて)資料の少なさに閉口してしまったが、俗楽においてはある意味それを超える資料の少なさだった。 資料の点数で言うと俗楽のそれの方が多いくらいだったような気がするが、学問体系としてまとめられたものがほとんど無かった。 歌舞伎の下座なら下座、長唄なら長唄の資料と言った具合に、点在している感じ。 邦楽の世界には、それをまとめようとする力学が弱いように思えた。

ネット上に情報が少なくて、図書館などを漁るわけだけど、モノがマニアックなので各地の図書館を横断検索する破目に。 欲しいものがあっても閉架送りになっているものが多かったように記憶する。 長唄の、一番為になった資料は自費出版本だった。

私がもう少し売れている(儲かっている)作家なら、神田の古書店などに関係資料集めてもらうようオーダーするところなんだが、そう言うわけにも行かず。 自らの足で資料を探すしかなかった。

作例当たる際には、ネット上の動画が結構役に立った。 無論CD作品とかも掻き集めはしたが、結果的な効能としては半々ぐらいだったような。 あとこれ邦楽に限った話じゃないんだけど、地味にCDのブックレットは役に立った。 あれ、一種の本と言うか紙資料なわけだけど、ページ数の制約がある(大したページ数にできない)から、必然的に記述が網羅的・概括的になる。 初心者が理解するには大変ありがたいものだった。

楽器とかについて調べる時、近くにその楽器の奏者・演奏経験者などがいた場合、私はその人に直接あれこれ訊いたりする。いわば取材である。 邦楽についても、近くの三味線教室などに取材して回ろうかと思い、当たりもつけていたのだが、結局これは断念した。 知りたかったことをある程度自力で判明できたのもあるけど、何となく面倒臭くなって。


3/20(火)

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隠しても仕方ないことなので正直に言うが、今私の心臓は二割程度しか稼動していないらしい。 しかもその筋の専門医に言わせれば、一部壊死している可能性もあるそうな(私自身はそう思ってないが)。 その上致死性の不整脈を起こしている。再発の恐れもある。

ICD(徐細動器)と言う機械を体内に埋め込むことを提案されたが、それは不整脈を起こしたときに電気ショックでリカバーする機械で、致死性不整脈による即死を回避できるものの、心臓そのものが壊滅的にやられているのであれば、どの道長くはない。

今月初め、電気ショックで心臓(心拍)を蘇生させる措置を採った後、私の心臓の動きは目に見えて悪くなったらしい。 まあ素人考えでも、そんなことをすれば身体の負担は大きかろうと思う。 もし今後、私の心臓が不整脈を連発し、都度電気ショックを与えられるようなことになれば、結局のところ持つまいと思う。

私は今仕事に復帰するための準備を着々と進めている。 「早過ぎる」とか周りに言われるが、待っていたところで治らないものは治らない。 治るのであれば動いた方が回復もきっと早い。 もしこの先の持ち時間が少ないのなら、なおのことチンタラ寝てなんていられない。


そう言えば今日は、ワーファリンと言う薬(血が止まり難くなる)の影響で、鼻をかんだら鼻血が止まらなくなって、採血一回分くらい出血してしまった。 ただでさえ低血圧なのに勿体無い。


3/19(月)

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私はこの世界を見るのに夢中で、時々自分を見ることを忘れてしまう。 街中の鏡に映った自分の姿を見て、しばしばハッとさせられたりする。 とにもかくにも私は、平素自分をあまり見ていない。

思い出したように自分のことを考えたりすると、急に怖くなることがある。 先日、その恐怖で寝られないことがあった。 ただ、だからって取り乱したりはしない。これは性格である。

今月初め、私は病院に救急搬送された直後、血圧は40台だったそうだ。 殆どの人は経験したことのない数値だろうが、その後私の血圧は、測定不能にまで陥った。 心室頻拍と言うのが起こっていたのだが、頻拍はその後大抵「細動」と言う状態に移行する。 細動とはほぼ心臓が止まっている状態で、生体としては死んでいるに近い。 血液などを送り出せなくなるから、一命を取り留めたとしても脳がほぼ確実にやられる。これは僅か数分でである。 私の場合も血圧を失っていたのだから、細動に移行しかかっていた、あるいは既に移行していたのではないかと思われる。

私には、電気ショックで心臓を蘇生させる措置が採られたのだが、意識を失っていたから当然その時のことなんて分からない。 目が覚めたら集中治療室にいて、周りにいた医療関係者らが「目を覚ました」と喜んでいる様が目に入った。 あのまま目を覚まさなければ、私はあの闇の中に永遠に閉じ込められていたのだろう。 闇を闇とすら感じられない絶対的な闇の中に。

こう言うことを考えていると、何だか怖くなったりする。 だが同時に、どこか他人事のような、映画を見ているような現実感の無さも覚えている。 何となくだけど、私はまだこの世界に必要とされているような気がする。


3/18(日)

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影山リサの邦楽をフィーチャーしたミニアルバム、収録曲もジャケットもとっくに上がってるんだけど、先行シングルのカップリング曲がまだ上がってなくて、今急いで作っている。 と言っても私はリハーサルにすら参加できていないわけだけど。

演歌みたいな曲を一つ収録しようと思ってて、候補曲が二つほどあったんだけど、結果的に採用することになった方に注文(修正依頼)が入ってしまった。 1コーラス中4小節を削ることにしたんだけど、こういうのって結構難しい。 単に4小節削れば良いだけって思われそうなんだけど、それでいてなお曲としての整合性を保たなければならない。 まあ結局最小限の手間で修正したんだけど、私は原型を知ってるから多少の違和感は拭えない。 リスナーが聴いた感じはどうなんだろう。不自然さを感じさせないか心配だ。


3/17(土)

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標準的なピアノにはペダルが3つ付いていて、それぞれに役割がある。 ミュート・ソステヌート・サスティン(ホールド)。 ダンパーとかシフトペダルとか、呼称は色々とあるが、指しているものは同じである。

ホールドに関しては、それをオンにしていると離鍵時に音がそこでリリースされなくなるので、リバーブのような残響感が得られる。 但し、リバーブとは原理が全然違うので、掛けっぱなしには向かない(センド量の調整もできない)。適度にオンオフの状態を切り替えないと、音の濁りが甚だしくなる。

ソステヌートについてはその機能を文章で説明するのが面倒なので、知りたい人は調べて欲しいのだが、要するに一部の音にだけホールドの効果を出す為の装置(こんな説明じゃ分からないでしょう?)。 いわゆる打ち込みにおいては、ほぼ必要ない機能である。 普通の演奏でもあんまし出番の無いペダルで、殆ど使ったこと無いって人も多いんじゃなかろうか。

ミュートとは弱音のことで、アップライトとグランドピアノで原理が異なったりもするのだが、要するに音を小さくする。 構造に手を加えた弱音の表現なので、ベロシティーの強弱で付けた表現などとは原理ごと違う。 生ピアノのミュートを打ち込みとかで表現しようとするなら、ミュート音のサンプルが必要になる筈だが、そんなものあるんだろうか。あんまし聞かないような気がする。

急にピアノのペダルについて語り出したのには理由がある。 最近入手したピアノ音源のインターフェイス上にペダル(ボタン)が付いていて、一応出音に影響するらしき代物だったのだ。 あんまし使わないものなので、効能を忘れかけていて、ここでおさらいしたわけです。


3/16(金)

医者は基本病状を悪く見積もる、と言う話を昨日した。 私においても、不整脈の専門医と言う御仁が「心臓の一部が壊死している可能性がある」などと言って来た。 曰く「動きが悪い」と。 エコーやレントゲンで見て動きが悪いぐらいで壊死とは、それは最悪のケースを想定しているに等しい。

壊死については、私には何とも言えない。心臓を取り出して実見したわけではないから、これは専門の医者にも分からない。 ただ、医者には経験上の勘のようなものはある筈で、その辺は素人と同じではない。

単純な事実として、心筋は再生しない。再生する他の部位とは性質が違うのである。 心臓は皮膚表面のように、傷付いたからと言って自然に修復されるような仕組みを持っていないのだが、体内の深部にある、損傷する可能性の低い部位がそのようであるのも、一種の合理的思想による設計であろう。

心臓に壊死が起こっているとすればそれはもう絶望的で、自然良能・治癒によって修復される見込みも基本的には無い。絶無である。 だが私自身は「自分の心臓は壊死していない」と考えている。 動きが悪いのなら、単に疲れているとかその程度の話で、待ってれば回復するだろうと。

単に自分のことだから希望的に捉えている、と言うわけではない。 壊死には壊死のメカニズムがあり、相応の条件が揃わなければ(それを回避する為の一切の挙動を根絶やしにせねば)起こせないのである。 生体がその内部で壊死などと言う致命的・不可逆的な事態をそう容易に起こすとは思えない。 心筋が回復しないと言うのも、昨日今日生まれた性質ではない。 人体がそんな生存不可欠な部位を易々と危険に晒すとは思えず、壊死の危険が迫れば、それを回避する為のメカニズムが作動している筈だと思うわけである。

心臓への血液供給に一部難が生じたとして、そのまま壊死を起こすような戯けた生き物なら、人類などとっくに滅亡していたろう。 自然界の作り上げたシステムは、数十億年の時間を背景としている。その精緻さ・堅牢さは人知を遥かに超えたものだ。 まあ私において、壊死が起こっている可能性だって、それはそれであるわけだけどね。分からないから。

血液の供給が一部途絶えたから壊死しているに違いない、と言われて思い出すモデルがある。 「時速○○キロで転ぶとこれほどのダメージがあります」と言うことを説明する為に、自転車にマネキンを乗せて転ぶ様を(スローモーションとかで)映像化したようなもの。 それはそれはショッキングな映像で、頭から転げ落ちたマネキンは、粉々に砕け散ったりする。

「時速○○キロでの走行中、人体が地面に落下すれば、これほどの衝撃が加わる」と言われれば、可能性としてはそりゃそうでしょうねえ、と言わざるを得ない。 転落による最悪の事態を想定すれば、確かにお説の通りではある。

だがちょっと待て、と。乗っていたのが本物の人間なら、転んだ時に手ぐらいつくわ、と。 人はダメージを最小限に抑える為に受身の体勢を取ったり、無意識に・反射的に、可能な限りダメージ回避の手を尽くす。 生き物ってのはそういう風に出来ているのである。


3/15(木)

病院・医者と言うのは、基本的に病状を(将来的な可能性も含め)悪く見積もる。 様々な角度から見ても、その方が無難であるから。 医者が病気を見逃すことはあるけど、それはあくまで見逃したと言うミステイクであって、故意に軽く見積もったのとは違う。

基本的に医者は病状を悪く見積もると言う性質を持っている。 考えられる悪夢を想定出来るだけ想定しておけば、後々のヘッジになる。 これは良いとか悪いとか言う話ではなく、そういう生態を持った生き物であると言うこと。 それはそれで彼らの立場を理解するとして、患者の方としてはその見積りに際限なく付き合うわけには行かないわけですが。



今年中に神田優花の7枚目のフルアルバムを作りたいと思っている。 まだ3月だけど、今年はもう8ヶ月チョイしか残っていないんだから、そんなにイージーなタスクではない。 年内発表とか言う話になるなら、納期とかもあるし、実質半年ぐらいで上げないといけない。

ここ数ヶ月の売上げ明細を眺めていたんだけど、広瀬沙希の再生・ダウンロード数が地味に増えている。 ある程度の販路に乗っけておきさえすれば、特に単なる再生とかは無くも無いものではあるんだけど、そういうことではなく、明らかに意味のある数字が出ている感じ。 全然プロモーションとかしてないのに凄いな。

影山リサのミニアルバムについては、もう収録曲もジャケットも上がってて、先行シングルの収録曲を一部追加で作ることになったので、ちょっと押しているけど、まあこっちは今年中に間に合いそう。


3/14(水)

私の脳は(少なくとも決定的には)やられていないと思うが、それでも死に掛けたほどの重症であったから、心身共に疲労感が大きい。 その証拠として(ほぼ日常的な習慣である)読書が進まない。 本を読むのが負担なのか、読み進めたいと言う積極的な気分が起こらない。 これは活字本だけでなく、漫画でもそう(私は漫画も結構読む)。対象を問わない。

曲作りと言う作業においては「情報の保持能」が問われる。 「あるフレーズをイメージとして保持しつつ、別のフレーズを脳内に展開し、ポリフォニーを作る」とか、「AメロとBメロとサビを通して脳内で再生してみる」とか。他にも、単純に複数パートのアンサンブルを想定することなども含まれる。 複数パートと言うが、場合によっては十数パートとかを脳内で展開することだって必要になってくるのである。 無論脳内再生はそんなに精密なものではないけどね。だからシーケンサーが要る。

「情報の保持」を成立さしめるのには、生来のハードウェアとしての脳機能と言うか気質のようなものも当然問われようが、後天的に獲得した言語の役割も大きい。 言語はOSである、そのハードを制御するに最も大切な要素。

英語がリンガフランカである理由は、やはりあれが優れているからだろう。OSとして優秀だ。 日本語は何と言うか、ソースコードが汚い感じがする。無論日本語は、ある意味で世界一優れた言語だと思うが。 日本語は、芸術・思想・哲学・宗教と言った、高度に形而上的なものを理解・表現できる能力を持った言語であると同時に、やはり使用者を問う。問い過ぎる嫌いがある。

クラシック音楽が西洋文明から生まれ(実は他文明圏からあれに匹敵・比肩しうるものは生まれていない)、あの辺から巨大作曲家らが群がり出たのは偶然でない。あの地域の使用言語と密接に関係している。してない筈がない。 日本人がクラシックを学ぶなら、まず語学から修めると良い。

私についてである。 現状、作曲・創作作業に必要程度の情報保持能は失われていないと感じる。事実作業を再開できているし、そこでの思考が確かなのである。 血圧が測定不能にまで陥った以上、脳に全く影響がなかったと言うのは奇跡的だと思うが、事実そうなのだから仕方ない。 まあ自分のことだから分からない面もあるのかもしれない。アタマのおかしい人らは、皆自分を正常だと言い張るらしいし。 今打っているこのテキストにも私の思考は如実に表れている筈なので、読んでる皆さん判断してください。


3/13(火)

「美味しんぼ」と言う漫画に、確か「野菜料理対決」みたいな話がある。如何に野菜をおいしく調理して出すか、を競うわけである。 その話の中で、登場人物の一人である海原雄山が「野菜と言うのは人間にとって、基本的にマズいものである」と言う自論を展開していた。 私はあの漫画に突っ込みどころを多く感じる者だが、その見方については秀逸だと思った。

要するに人にとって葉っぱなんてマズいのである。 肉や何やの方をうまいと感じるように人間は作られている。 ある程度生命維持に必要なビタミンなどを補う為に野菜は不要ではないが、不可欠ではない。うまいと感じにくい時点で、生存にとってさほど肝要でないのは明らかである。 生き物がそんなに不合理に設計されているわけがない。

もし私が、青虫じゃあるまいに、味も素っ気もない野菜ばかりのマズい料理を出され「健康の為」などと言われるなら、「それ全部水で流し込むから錠剤にしてくれ」と言いたくなる。 それを喰らう苦痛な時間に意味がないからである。 病院とかなら点滴で血管に注射してくれれば良い。その間に別の作業ができる。

私はマズい食い物が大嫌いである。 そんなの食わされた日には「二度と食うか」と本気で思う。 健康にどうだとか栄養がどうだとか言うのは結果であって、私は飯を「うまいから食う」のである。 うまくもない何の娯楽性もない食い物なんて料理の名に値しない。 そんなものをダラダラ口に放り込む時間など食事の名に値しない。

「長生きの為」とかアホかと言いたくなる。 うまいものも食えずにダラダラ生きる時間に何の意味があるか。 私が生きたいのはうまいものを食う為でもあるんだ。 ここは絶対譲れない。


3/12(月)

いわゆる病院食を毎日三食食べ続けている。 私は出されたものを基本残さないタイプなのだが、味覚が壊れているわけではない。

「子供の頃に比べて、大人になったら好き嫌いがなくなった」などと思っている人がいるなら、きっとその人は甘い。 大人になって献立のイニシアチブを握れるようになり、あえて嫌いなものを選ぶ必要がなくなったからこそ、そのように錯覚してしまっているケースがほとんどだと思う。 他人に握られてみたら分かる。入院患者である私の実感である。

当たり前だが入院なんてしたら仕事が滞る。 スタジオにも入れないし楽器も触れない。 できることくらいやっておこうと思ってノートPCを持ってきてもらったが、やはりできることは限られている。

まあしかし私は、与えられた現状を嘆くことを生産的でないと感じる人だ。 とりあえずできることをやっていたら、2月の入院以降(ラフなものだが)4曲ができた。 ジャケットのデータも4つほど上がっている。 普段のペースに比べれば随分遅いが、これでも少しづつペースを上げている。

リハーサルの様子を写真や動画で見せてもらう。 とりあえずみんな元気そうで何より。


私の体に起こった事態はショック症状のようなものなので、実のところいつまで入院したところで再発の可能性は残る。 病院にいれば再発した時に迅速な対応ができるというのは事実だが、そういうことを言い出したら、誰でも病院で生活するのが一番安全と言う話になる。

だから医者には体内にある機械を埋め込むことを提案された。再発時にそれが作動すれば一先ずは安心だと。

私はこの度自分に起きたトラブルを、手術によるものだと考えている。手術と言う形で、臓器と言う人知を超えた精密機械に、人が不用意に触れたことによって起こった不具合だと。 だから小康を取り戻した今、再びそれが起こる可能性は低いと考えている。 これは将来の可能性をどうとらえるかと言う問題で、無論のことこの予測が外れる可能性はあるわけだが。


病院の仕事、特に看護師の仕事は、一部どうしてもロンパールームのお姉さん的にならざるを得ない。 だからかどうか、全ての患者を「幼児」として扱ってくる看護師がいたのには閉口させられた。

入院患者は色々と検査や何やで(例えば注射など)痛い思いをさせられることがあるのだが、ある看護師がその検査の後、私の体をさすりながら、上目遣いで「痛かったよね?ゴメンね」と、まるで幼児に対するような口調で言ってきた時には驚いた。 まあ世の中常に相手の行動は制御できず、決められるのは自分の在り方だけである。 私は「はあ」と、違和感を拭えずにいるのみであった。 私はたまたま病気で入院しているだけで、普段は背広着て仕事しているんだけど。解ってるのだろうか。

しかし相手との距離感とか立場・関係性とかって、完全に言語に依存している。 それが不正確(TPOに適っていない)って時点でその人の言語は怪しい。


3/11(日)

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相変わらず病床にいる。退院の目処は未だ立たない。 今は点滴やら検査やらの跡で体は傷だらけ。昨日は謎の発熱に悩まされると思ったら、インフルエンザA型陽性だと。院内感染やん。病院しっかりしてくれ。

私は一種のショック症状で病院に救急搬送されたのだが、入院時に医師にも「状況が状況なので慎重にならざるを得ない」と言われている。 だからして、数日で退院ってわけに行かないことは端から分かっていたのだが、例えば年単位で入院とか言うことになったら、色々なものが破綻してしまう。 何とかならないものか。

入院って物凄く規則正しい生活(9時消灯・6時起床)を強いられる。普段夜型の私なんかは正直辛いのだが、この夜型と言うのが病の遠因ともなっているようである。

理学療法士と雑談していた際に聞いたのだが、患者の職業には明らかな傾向があるそうで、長距離トラックやタクシーの運転手など、つまりは夜型の人が有意に多いそうだ。 私の夜型は運転手さんらのものとは違って、自分の意思一つで変えられる類のものである。 変えるべきではあるのだろうけど、本当に長年の習慣なのでそんなに簡単に変えれるだろうか。


3/10(土)

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黎明期のPCM音源について考えていた。 具体的な機種名で言うとKorg社のM1とかRoland社のJD-800とか。 PCM音源ってのは、サンプリングした波形をプレイバックするタイプの、要はプリセットサンプラーのこと。 今でも音源と言えば主流になる方式で、それ以降さほど画期的な音源方式は生まれていない。 音声合成(synthesize)を行っているわけではないので、厳密な意味でのシンセサイザーではない。

私は例えば、上記二機種を所有したことはない。実器は無論のこと、その後出された後継機種やエミュレーターの類も。 ただ、出音のニュアンスだとか使い勝手についてはある程度分かる。 音は耳にしたことがあるし、機能面についてはカタログスペックだけである程度察しがつく。

過去にヒットした製品のエミュレーターってのは、ソフトシンセの一つの定番なのだが、その手のPCMモノについては、エミュレーター自体あまり見られない。 あっても本家謹製みたいなものが多い。 PCMは、アナログモデリングのように発音原理をソフトウェア上で再現すれば良いものではなく、内蔵波形そのものが肝になるので、他者による製品化が難しいのだろう。

とは言え、さして特殊な技術が使われているわけではなく、波形容量も昨今の基準に照らせば大したものではない(まあ4MBに全音色を収めるなど、小容量過ぎて、その技術を逆に「凄い」と私などは思ってしまうが)。 生楽器音の再現度なども、こんにち的感覚に照らせば低い。 ただ、普及品なだけに、その特有の音の愛好者が一定数いるらしい。 それらのプリセット音色を、例えばピアノならJDピアノとかM1ピアノなんて呼んだりするらしい。 私は聞いたことなかったけど。

それら(M1ピアノなど)のサンプルを入手してみた。 かなり近いニュアンスを実現できてるらしいが、実器からのサンプリングではないらしい。まあ私は実器に対するノスタルジーも無いし、似たようなものであるなら別に構わない。 ただし、使いどころは今のところ思いつかない。 聴いた感じただのチープなピアノ系音色にしか聞こえないし。 ただ、いわゆるエレピ(ローズなど)とはそれはそれで明らかに違う。独特の音色ではある。


3/9(金)

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ビッグバンドでの演奏前提のスコアを書こうと思っている。 曲は普通のPOPSなんだけど、アレンジがビッグバンド用と言う。 以前影山リサの「Ordinary Girl」と言う曲でビッグバンド用のスコアを書いたのだけど、もう一つくらい書いてみようと思って。

今でこそカラオケが主流になったテレビ番組などで歌ののバッキングだが、昔は多くが生演奏であった。 だからテレビメディアと絡めて売るタイプのPOPS(昔はこれ以外のポピュラー音楽など事実上存在していなかった)のアレンジは、ビッグバンドと言うかジャズオーケストラのような編成での演奏を当然のように前提としていた。 昔の歌番組の動画を見ていると、木管の音も聞こえてたりするので、吹奏楽団を基礎としたバンドと言うべきなのかもしれないけど。

吹奏楽団の編成は、厳格と言うと言い過ぎだが(最大で100人近い編成を厳格に運用するのは難しい)、ある程度規格化されていた。 日本吹奏楽指導者協会が標準編成表と言うものを公表しているのだが、一応はそれがスタンダードと言うことになっている。 その吹奏楽団やビッグバンドの編成、ある時代まで、ポピュラー音楽にとって重要なキーであった筈だ。

当時作り手側は、当然のようにそのビッグバンドでの演奏をある程度想定しつつ、アレンジなどを練ったろう。 歌番組へのブッキングに当たって、各局にスコアを提出することなどは基本となっていたのではないかと想像する。まさか各楽団一から採譜すまい。 とにかく作曲家、特に編曲家には、それ用の管弦楽法と言うか、各楽器の音域・奏法などの知識が必須であったに違いない。 ある時代、アレンジャーとは、事実上ビッグバンド用のスコアを書ける人のことであったろう。

ビッグバンドと言う言葉を使っているが、一応ビッグバンドには(厳格ではないものの)定番の編成ってのがある。 今「8時だョ!全員集合」の楽団である「岡本章生とゲイスターズ」の編成を調べてみたところ、ビッグバンドを基礎としたオリジナルの編成と言った内容。 アルバムのクレジットを見ての判断なのだが、アルバムごとに編成が微妙に変わっていたりもしている。 ギターやベースがあったり無かったり、時にサックスセクションがほぼゴッソリ無かったり。

因みに、実際の番組内でどういう編成であったかは分からなかった。 当時の映像などをつぶさに見れば粗方分かるような気がするけど、ちょっとそこまでの気力はない。 多分標準的なビッグバンドに近い構成だったような気がする。

今書こうと思っているスコアは、ビッグバンドに近いようなものなんだけど、ギターとかピアノとかは要らないような気がしていて、もう少しスリムな編成を考えている。 あとソロにクラリネットの高音域使いたい。 今イメージを煮詰めてます。


3/8(木)

マメにこのページを更新しているから「割りと元気そう」なんて思われてしまいそうだが、正直そんなに甘くはない。 私に起こった症状は致死性のものであり、入院後いまだに(医療関係者以外)一人としか面会もしていない。再発の怖れも当然残る。 ここをあまり長期間更新しないと、本当に「死んだ」と思われてしまうのである。

担当の医師も私の病状について、希望的に観測していないようで、言葉を選びつつだが、曰く「日常生活が送れるようになること」を目標にすることが現実的らしい。


私はごく最近、ほぼ仮死状態を経験したのだが、不幸中の幸いとして、脳がイカれなかった。 通常、一定時間酸素の供給が途絶えたら、人間の脳は不可逆的なダメージを受ける。 集中治療室で意識が戻った際、私は自分の思考が正常であるかどうか、真っ先に気になった。 まあ今考えれば、そういうことが気になっている時点である程度正気ではあったろうが。

結論としては正常である。 多くの人には分からないかもしれないが、曲作りをしているとこれは確認できる。 曲作りとは、脳内での時間の展開であるからだ。 私のその部分には、寸分の狂いも生じていない。 他の部分はさておき、この機能が壊れていなければ私としては問題ない。

音楽は、絵のようにそれを展開するに時間軸が必要ないものとは、根本的に違う。 例えば譜面のように音楽作品を視覚化したようなものはあるが、あればあくまで視覚に置き換えた簡易的なスケッチであって、実際の音楽とは違う。 音楽を脳に展開する際、私は譜面を脳に展開しているわけではない。 あくまで時間を展開している。これは論理と言い換えても良い。 分からない人には分かり難いと思うけど。

だからかどうか、私は人と話す際、言葉遣いにおいて、特に初対面の人などには奇異な印象を与えるらしい。 時間の保持能と言うか、タイムスケールが違うからだろう。 職業柄と言うか、生来の気質と言うか。 無論この時間の保持能、気付かない人は全く気付かない。

この時間保持能、腰だめで見て女は長く男は短い傾向にある。 私は学生の頃など、よく周りの女の子に「女の人みたい」と言われていたが、おそらく脳の気質が女性に寄っていたからではないかと思われる。


音楽家の中には、この時間の保持能が極めて低い者が混ざっている。 率として割かし多くて、音楽家の一典型とされていたりする。

無論その種の人らに構造物としての音楽作品は作れない。 展開できるタイムスケールが短いので、そういう人らは大抵音楽でなく「音」を作る。音色・音響と言っても良い。 関心の比重が音色などに寄り過ぎているミュージシャンがいたら、その人の脳の時間保持能は低い(タイムスケールが短い)ケースが多い。

5分のタイムスケールを持たない脳で5分の尺を持つ曲を作ることは難しい。 そういう脳の持ち主が作る曲は、尺こそ5分10分であっても、よくよく聴くと内実は単なる音や数小節のフレーズの繰り返しであることがほとんどだ。


脳の時間保持能について長々と述べたが、この長短は、単純な優劣関係にあるとは言えない。 生存の上でどちらが有利か断定し難いからだ。 まあ私は音楽を作る人なので、この時間の保持能がなければ話にならんわけですが。


3/7(水)

私はどうして音楽がこんなにも好きなのだろう。 この作業をやってるだけで心が落ち着く。 今病室にノートパソコンを持ってきてもらって、新しい曲のイメージをまとめている。 きっと私は最後の瞬間もこのようで、作りかけの曲を残したまま死ぬのだろう。

私は曲を作っていると言うが、実感としては作らされているような気分だ。 何と言うか、大いなる何かの力によって作らされているような。 私が音楽を選んだのではなく、音楽に私が選ばれたような。 棟方志功も似たようなことを言っていたんだけど、今はその気持ちが分かる。


ゴーゴーについて調べていた。 ワシントンD.C.を発祥とする黒人音楽。 Wikipediaに同項目は存在するが、記述は簡潔を極めている。楽理的部分など皆無である。

ゴーゴーはある流行形式ではあるが、ジャンルとか言うと言い過ぎで、代表的アーティストなどもいるにはいるが、例えばブルースなどのようにそれを専業とする者なのか、それほどの音楽的深みのあるものなのかは不明である。と言うか怪しい。

いわゆるダンスミュージックであると言うが、時代柄シーケンスなどは基本使われてない。 生楽器で16ビートを奏でている。 楽器編成は当時のロックとかと概ね変わらないが、ラテンパーカッションの多用などが特徴的であるとされる。

今そのゴーゴーのようなサイケのような曲を書こうと思っている。 まあ単にある時代風のロックミュージックってだけだが。ゴーゴーなんて、音楽ダウンロードサービスのサブカテゴリーにすら存在してなかろうからね。


3/6(火)

浄瑠璃の歴史についての文章をダラダラ読んでたんだけど、それについての雑感と言うかメモ。

起源については、16世紀の史料に記載があると言うことで、無論それ以上に遡りうる。 が、相撲の起源についての記録に「足」を使っていたと思わされる記述があったりするのと同様に、内容が後の浄瑠璃そのもの、あるいはそれに近いものだったかについては疑問が残る。 私は、平曲のようなものが三味線で奏されたり、別のレパートリーに発展することはあったろうと自然に思うから、そこまで眉唾とも思わないけど。

起源と言うのは(特に流派が現存していたりする場合)大抵盛られるので、そこは割り引いて考える必要がある。 歴史学でも、加上説と言うのは基本として踏まえるべきとされていよう。 浄瑠璃、特に古浄瑠璃(竹本義太夫以前)については、私も「よく分からない」と言う姿勢で眺めている。 一種の神話と言うか。 私個人としても、基本的にレパートリーの残っていないような領域に関しては、興味が薄い。

近世以降の浄瑠璃についてである。 そんなに解釈の別れる余地が残るようなものでもなく、私も概ね定説に従って理解している。 ちょっと気になったのは、当時のいわゆる太夫らが「豊後掾」・「豊前掾」等を名乗っている点。竹本義太夫も筑後掾を一時期名乗っている。 掾は律令に定められた地方官の称号だから、単なる僭称だろうが(○兵衛・○衛門とか名乗るようなものか)、北九州の僻地を名乗るのには何かの意味があったのだろうか。 因みに豊後は現在の県名で言うなら大分だ。

掾程度の私称は当時公許とまで言わないが、黙認の対象でぐらいあったのだろう。 庶民階級がそれ以上の高等官を私称するケースは見られない。 そもそもこの官職名、日本史においては実に複雑で、理解に相当の歴史知識が必要になる。無論私のような素人はよく分からない。 いわゆる武家官位のような自称があり、朝廷に任命されたオフィシャルな官職あり、江戸時代のように幕府の持つ一応は公的な官位奏請権に基づく武家の任官あり、それらが並行的に存在していたり。


宮古路豊後掾が興したと言う「豊後節」は、江戸で流行し過ぎたため、当時お上の禁制に触れている。 因みに名こそ豊後節だが、別に豊後発祥と言うわけでもなく、宮古路豊後掾も豊後出身でない。 そもそもいくら江戸期とは言え、豊後のような僻地で興行のようなものが成立する筈もない。

織田信長政権麾下の指揮官らが当時、日向守や筑前守などの官名、(九州地方の名族とされる)惟任姓などを名乗ったのは、占領政策の一環だったと考えて間違いないと思うが、その名に対して当時の人らが抱くイメージがまずその前提として存在したに違いない。

豊後などの地名に、浄瑠璃の聖地と言ったイメージがあったのかもしれない。今でも伊勢屋や三河屋に、何らかの余徳のようなものが感じられるように。 街道沿いでもなく、当時行き来すら容易でなかったろう場所なだけに、実体以上にイメージが膨らんだ部分とかあったのかもしれない。 私は当時の空気を知りたい。


ベルリンフィルとウィーンフィルにスタイルの違いと言うか、それぞれ癖のようなものはあると思うし、マニアならその違いが分かるかもしれない。が、それらをジャンルと定義する者はいない。 浄瑠璃諸流派の違いについても、私は基本的に音楽的に意味を持つほどの違いは存在しないと考えている。 流派が分岐すれば継承されるスタイルがそれぞれ亜種化すると言う程度にしか捉えていない。 最大の違いはレパートリーに過ぎなかろう。 清元と常盤津の違いなんて音楽的に説明できない。

三味線は成立(と言うか伝来)の新しい楽器とされる。 定説では15〜16世紀の伝来とされるから、浄瑠璃の誕生とほぼ時を同じくしている。 余程に日本人の何かに触れる楽器だったのだろうか。


3/5(月)

私の心臓はトラブルを起こした。 モノが心臓なだけにトラブルは生命に直結する。 動きが止まれば命が消し飛ぶ。

そのトラブルの後、私は数々の薬を点滴され内服し、24時間体制で常に心電図を取られ続けている(結果は常に遠隔地にてリアルタイムでモニタリングされている)。少しでもおかしな挙動がないか監視されているのである。 更には、大掛かりな手術を勧められるなど、要するに私の心臓は「仕事ぶりが信用ならん」と評価を急落させ、糞味噌の言われようなのである。 心臓君がかわいそうになる。

言っておくが私の心臓は、生まれてこの方数十年間、一度の目立ったミスも起こさず、一日24時間フル稼働を続けてきたのである。 こんな精巧なエンジンをどこのメーカーが作れるか。 精密機械などと呼ぶのさえ生温い。 神の仕事ぶりである。

大きなミスこそ犯したが、私は私の心臓を、その仕事ぶりを今でも概ね信用している。 以下現時点での私の見解を記録しておく。

医者や病院は立場上容易には認めないかもしれないが、私の心臓のトラブルと直前の手術は密接に関係している。 心臓の手術が引き金となって私の心臓はエラーを起こした。 だから医者が悪いとか言っているのではない。 医者は医療現場での経験・医学の定説に従って、極めて常識的処置を施した。 私の心臓にその処置を施すことは突飛な発想によるものではない。

だが私の心臓は不具合を起こした。 血管と言う川の流れに、灌漑の為に堰を作ったり浚うなど、あれこれ手を加えた結果、予想外のエラー、リズムの狂いが生じたと言うこと。 まあ元々手術の必要がある壊れかけの心臓ではあったのだが、悪いなりにも保たれていた均衡がそこで崩れた。

私の心臓は自然界が作り出したものである。そこには医学などと言う人知の遥かに及ばない知恵が集積されている。 カテーテル治療を思いついた人類の叡智は素晴らしいが、臓器・循環器と言う自然界の偉大な知恵のホンの表層を知り、ある手を加えればある結果を生むと言うことに気付いただけ。 心臓を作れと言われても、人間如きは到底あのようなものを作れない。 制御することさえ容易でない。

iPS細胞で臓器を作る試みは為されているではないか、と思われる向きもあろうが、iPS細胞って何なのか。 人類が自然界に存在する細胞と言うものに、ある手順にて手を加えればある現象が出来する、と言うことに気付いただけ。 本当にたったそれだけ。 原子力発電って何なのか。 人類が、自然界に存在するある物質にある手を加えると熱を持つことを知っただけ。その熱で湯を沸かして蒸気でタービン回してるだけ。 除虫菊を虫除けに利用しているのと基本的には変わらない。 人間は殺虫剤すら実は作れない。 自然界の知恵を、理解も定かならぬまま拝借しているだけ。

私の心臓がエラーを起こしたのは、それがポンコツだからではない。その逆で、人知を遥かに凌駕する精密機械であるから、そのメカニズムすら理解していない人間如きが不用意に手を加えてしまったことによってエラーを起こしてしまったのである。

私はICDと言う装置を体内に埋め込むことを提案されたが、それを飲んでいない。 それの効能は理解できるが、私は私の心臓を信用している。 心臓のトラブルよりICDの誤作動の方が余程に想定しうる。 繰り返すが、私の心臓は数十年の間、一度の大過も無く毎日24時間休みなく稼動し続けていたのである。 無論このテキストを打っている今も動き続けている。 そこに対する私の信頼は絶大だ。


3/4(日)

私は病院が嫌いである。 医療関係者が嫌いなのではない。「患者」が嫌いなのである。 無論人にも因るが。

酒を断つことを厳命されていたのに隠れて飲んでいたオッサンが、看護師にその場を目撃され、説教されているところに遭遇してしまった。 彼は一体何がしたいのだ。

何の為に医療機関を利用するか。生き長らえる為である。 何故生きたいか。やりたいことをやる為に他ならない。 もし私が担当医に「健康の為に音楽活動など止めなさい」と言われたら、「君はアホか」と言うだろう。 生きるのは音楽活動の為である。 意志を絶ってダラダラ生存し続けることに何の意味があるか。

酒が何より好きならそう言えば良い。 「私が生き続けたいのは、一秒でも長く酒を飲み続けたいからだ」と。 医者には「その為に君の力を借りようとしているのだ」と言えば良い。 「酒を断つ」など人生の選択肢として存在していないのだと。 「百年飲み続ける為に、目の前の今日酒を絶ってくれ」と言われるなら無論別だが、それにしたってそれは、あくまで自分の判断の範疇にある。

私は酒を飲まない。 もし飲むとして、「生き長らえる(音楽活動を続ける)為に酒を絶て」と言われれば、その二者択一なら一も二も無く酒を絶つ。 そこに逡巡などない。

彼はきっと酒が好きなのではない。 酒が止められないだけ。酒に飲まされているだけ。 自由なのではなく、本能・欲望の奴隷、全き不自由の中にいる。


入院生活がむしろ好きだと言う者がいるらしい。曰く「安心」だと。 看護師は場合によっては糞尿の処理までしてくれるからね。 私は自分でやれることを他人にやらせることを好まない。

酌をしてもらい、タバコに火を点けてもらって喜んでいる親父がいる。 私がそれを望まないと「殊勝な」などと思えるらしい。

彼は知らない。 タバコに火を点けてもらうことによって、自分がある到達を奪われていることを。 更には、その到達こそが人生の深奥であると言うことを。

タバコに火を点けてもらって喜んでいる親父は、そのまま糞尿の処理までしてもらえば良い。 家に帰る時はおんぶに抱っこで。 最早どこにも行く必要すらない。対象の方から歩み寄って来てくれさえすれば。 要求に対しては、際限なく周囲に手厚くあってもらえば良い。 要求を口にする(言語化する)ことすら根気がいる。 全ては忖度してもらえば良い。 いずれ君はこの世界から消えてしまう。


私がこの世界を怖くないと思える唯一の理由は、私自身が存在していると確信できるからだ。 在るものは消えないと言う、宇宙の真理に気付いたから。 私は在りたいだけ。その為に糞尿の始末を日々この手で行っている。


3/3(土)

物騒な話だが、今私は遺言状の文面などを考えている。 楽曲の権利の帰属など法的に曖昧な部分があるし、その辺もクリアにしておきたい。 他にも、可能な限り私の精神を継いでくれる者に還元できるような仕組みを、少なくとも法的にぐらいは整理しておきたい。 幸いこの会社の代表の親族に法律関係者がいるので、その辺は割かし堅牢な対策ができそうだ。


私に起きていた事態は心室頻拍と言う。 ハッキリと危険な症状で、命に関わる。 場合によっては死に至るし、突然死のようなことも起こる類のもの。 次起こった場合、生きて帰れる保証は無い。 「そうでしたろう」と直接言いはしなかったが、手術直後だっただけに執刀医などはさぞかしビビッたろうと思われる。

私はとりあえず一命を取り留めた。 が、それが起こりうる体質であることは間違いなく、医者は今後の再発を恐れてか、(割りと大がかりな)手術を勧めてきた。 体を開き、体内に上記トラブルを防ぐ為の器具を埋め込むのだと言う。

パンフレットのようなものを貰い、ぼやけた思考ながらもそれを読んでみた。 埋め込むものが機械なだけに、定期的なメンテナンスは必須で、電池交換の度に体を開く必要があると言う(資料に電池の寿命は6年とある)。 俺は人造人間か。


私はとりあえずその手術をしない方針である。 周囲の人はすることを強く勧める、と言うよりほとんど驚きをもって詰問される。「何故なのか」と。 そんなに不思議なことかしら。

例えば私は地震保険に入っていない。 震災クラスの地震が身の回りに起こるかもしれないし起こらないかもしれない。私は「起こらない」と言う方に賭け、平素の負担を軽くし、万一起こった場合のリスクを抱え込んでいる。 それと同じこと。物心両面でのコストを最小限に抑える選択をした。

「地震保険と違って直ちに命に関わるではないか」と言う意見。分からんでもない。 が、この国では交通事故で年間数千人が死亡しているが、それを避ける為に外に出ないと言う人は少数だろう。 散歩だって買い物だって命に関わると言えば関わる。

モノが心臓とかなだけに、トラブルは生命維持に直接影響する。 が、それは誰だって基本的に同じ筈だが、0歳児にペースメーカーを埋め込む親はいない。 確率をどう捉えるかと言う問題に過ぎない。

事実私の知り合いは、当時二十歳チョイの大学生だったが、(詳しい原因は不明ながら、おそらくは心臓のトラブルで)突然死した。 既往症など一切無かったから、自発的な対応が後手に回った可能性は高い。 一度この事態を経験している(それがもう不測の事態でない)私は、むしろ平均的な人より、同種のトラブルに対してある面では有利だとも言える。


医療機関を眺めてきての感想だが、どうも医者は予防的な発想に寄り過ぎているように見える。 対症的に動くより結果として効率的なのだろうか。

とにかく手術とか、そういうものを勧めたがるのだが、それを患者に説得する技術こそが、現場の医師には大きく問われているようにすら見える。 「こういう方法がありますよ」と、上策下策と言うか、甲案乙案程度を提示したら「あとはご自身の判断で」で良かろうに。

患者に万一の事態が起こること(端的には死であるとか)、を最小限に喰いとめたいと言う気分は分からないでもない。 多分彼ら現場の医師らの世界観をそのように追い込んでしまっているのは、多くの患者(やその家族)であろう。 甘えた奴らが多過ぎる。教育の問題だろう。


3/2(金)

入院生活ってヒマで仕方ない。 私は普段テレビを見ないんだが(そもそも持っていない)、病室では暇潰しにダラダラと眺めていた。

何やら冬季オリンピックの選手団の帰国会見のような映像が流れている。民放もNHKも、ほとんどどこのチャンネルでもそれ。 視聴者からのメッセージなんかも読み上げられる。 「感動した」とか「勇気をありがとう」とか。本当かしら。

「私はオリンピックになんて興味ありませんね」とか絶対に言えない空気が蔓延している。 あるスポーツジャーナリストだかが、「今の選手や指導者らは世界に目を向けている、一昔前とは視野が違う」などと褒め称えている。 だったらそのパラダイムをもう一階層上げて、「スポーツの勝敗などルールが決めただけだ」とか誰か言い出さないものなのだろうか。 そこが見えてこないから、日本人は欧米人にルールを弄られて歯噛みしているのではないか。

モノを作る人間にとって最も危惧すべき事態とは、周囲が皆絶賛する時である。 その周囲がどのような心根であるかを探るのを忘れ、そこに安住の地を見出してしまいそうになる。 「皆がこんなに誉めてくれるのだから、ここが俺の居場所ってことで良いや」ってつい思ってしまう。 金メダルなんて、栄誉の象徴なのでしょうからね。

私は騙されません。 誰が絶賛しようとも、私が許せない作品は駄作だ。 私は誰のためでもない、私の為に曲を作ります。 私は、私が納得できる自分になる為に生きている。


余談ながら、入院後数日目から、体を半身に起こすことの許可が出たもので、影山リサの今年リリース予定の数タイトルのジャケットデザインをやっていた。 事前の構想に近いスチールが撮れているので、作業も概ね想定通りに進んでいる。助かる。


3/1(木)

退院したと思ったのも束の間、また入院する破目に。今ICUでこのテキスト打っている。 私は一体何をしているんだ。

そもそも手術後ずっと体調不良が続いていたのだが、低血圧が続くと思っていたら、ある時目眩が酷くてほとんど自力での歩行が困難な状態になってしまった。 病院に行くことを勧められ、そのまま仕事場から病院に直行。因みに救急車まで呼ぶ事態に。

本当にほぼ歩行不能の状態だったので仕方なかったのだが、それでも私自身は「救急車なんて大袈裟な」と思っていた。 病院に着いても「まさかまた入院ですか?」とか訊いてしまったんだが、病院関係者曰く「ご自身が思われているより深刻な事態です」と言われてしまう。 そう言われてみれば周囲が慌ただしい。

心臓が止まりかけていたらしく、リアルタイムで血圧は急降下していたそうな。 一種の不整脈なのだが、心臓の手術後その種の不整脈が起こった場合、1〜2割の患者は突然死するらしい。 今このテキストを打てている時点で、私は残りの8〜9割に入っていることになる。 危うく三途の川を渡りかけた。

病院に担ぎ込まれた直後、電気的なショックで心臓を蘇生させるような措置が採られることに。 因みにその直前、私の血圧は「測定不能」だったそうだ。 言わば仮死状態と言うことになるわけだが、確かに自分の手の平の色が真っ白だったことだけは記憶にある。

集中治療室で意識が戻ってきた後、医師に一通りの説明を受けたが、細かい(専門的な)部分については失念した。 本当に意識が朦朧としていたので。 ただし、上のタイミングで救急出動を依頼したのは英断だったそうな。私の判断では無かったんだけど。

救急車を呼ぶ前、私自身は「病院に行くのは良いけど、仕事がもう一区切りついたら」とか、今考えれば悠長なことを抜かしていた。 もしあのまま放っておいたらどうなっていたか、と担当医に訊くと、相手は言葉を選びつつだったが「おそらく亡くなられていたかと思われます」とのこと。 何と言うか、命って意外と簡単に消し飛ぶものなのね。

今回軽く驚いたのは、そこまで心臓機能が低下し、血圧も測定不能にまで陥ったのに、現時点で割りと脳(思考)がしっかりしている点。 人間の脳って、一定時間酸素の供給が途絶えたら、ほぼ不可逆的・壊滅的なダメージを受けると思っていたし、今でも基本的にそう思っているのだが。 そこまででなかったってことなのかね。だとしたら幸いなことだ。

しかしここ数年の私は、本当に病院に担ぎ込まれてはそのまま入院、と言う事態を繰り返している(1年3ヶ月の間に三度目の入院)。 どうも本当にこの世界から消えようとしているのかもしれない。 だとしたらイヤだな。 まだまだ出したい音、作りたい曲、山ほどあるんだけど。冗談じゃないよ。


2/25(日)

夢と成果について、私は何度もここで触れているんだけど、また言いたくなった。

先日ある青年と話す機会を持った。 その人は関西の大学を出た後、就職などもせずに上京し、住み込みで新聞配達をしながらエンタメ系の学校に通っている。 やりたいことがあるから、夢を諦めなかった。

親に気に入られるよう、適当に就職でもしていれば彼の将来は(金銭面などでは)とりあえず安泰だったかもしれない。 でも、東京に出てくれば何か楽しいことが待っていそうな予感がしたのだろう。彼はそれらを全て蹴った。

夢と成果の区別が付かない人がいる。 夢を問われて「有名人になる」とか「金持ちになる」なんて言ってしまう人。 有名になることも金を持つことも成果の一つに過ぎない。 成果を一つづつ手にすることを「夢を叶える」とか言ったりもするから分からなくなるのだろう。

成果の山に囲まれ、何一つ夢を感じられずにいる人がいる。 夢とは、上の彼が感じたある予感のこと。 夢を見ることとは、それを感じながら生きていくこと。 どういう気分で生きていくか、たったそれだけのこと。

だから皆さんも、夢だけは見続けていてください。 負けちゃダメですよ。負けるってのは、成果が手に入らないことではなく、自分の中の予感に忠実に生きないこと。 目の前で道が二つに別れたら、「誰かに誉められそう」とか「金が儲かりそう」とかでなく「楽しいことがありそう」な方を選ぶんだ。 成果なんて何一つ手に入らなくても、私は夢を見続けます。


2/24(土)

昨日は(退院後初の)外回りだった。まだまだ寒いですね。

昔は挨拶がてら納品に出向くこととかあったんだけど、最近はほとんどアップロード作業だけになってしまっている。取引先の担当者の顔も知らなかったり。 20年近く前だって、技術的にはアップロード納品って可能だったはずなんだけど、「ファイルが壊れていることが多い」とかそんな理由で嫌がられることが多かった。 その点今は楽になった。


曲作り、特にバッキングトラック作りを再開している。 私はやっぱりこの作業が好きみたいで、これやってると時間を忘れてしまう。


スポーツの世界なんかで言う「監督」、これ英語で何と言うんだろうと思って調べてみると意外な事実が発覚した。 一般的にはcoachらしい。 日本語的感覚では、監督とコーチは明らかに別物である。代表と平取ぐらいのイメージの差がある。

野球やサッカーなどのクラブチームに限った特殊な用法らしいが、managerと言う呼び方もあるらしい。指すところは同じく監督である。 しかしこれまた日本では、野球チームの監督とマネージャーは明らかに別物である。 この辺、呼称が混乱しているのだが、緊急に正す必要性も無いからだろうが、放置されている。 まあ私も困らないけど。


2/23(金)

冬季オリンピックの記事をよく目にする。 当たり前のことだけど、スキーやスケートと言った冬季オリンピックの種目は、選手も東北や北海道などの出身者が多い。 九州や沖縄出身のスキーヤーとか少なそうだ。

逆に北海道出身のビーチバレーの選手とかも少ないはずで、これは日本の国境線が南北に長大であることの利点と言うべきなんだろうか。 メダルの数も結果的に増えてるはずだ。


とりあえず退院してきた。体調は依然悪い。 心臓の手術までしてるんで、何事も無いと言えば嘘になるが、まあ仕事くらい騙し騙しならできる。 今は溜まった仕事を処理している。リハーサルにも来週から復帰します。


2/21(水)

また更新間隔が空いてしまった。 体調、相変わらず好転せず。

病気そのものと言うより、手術のダメージが大きく、高熱・低血圧に悩まされる。 特に低血圧の方は経験したことがないレベルで、本当に足元がふらつく。 因みに未だに平素のレベルの血圧水準には戻っておらず。ある程度以上には回復しないのかもしれない。だとしたら、体質そのものが変化したと言うことになる。

単純に手術の跡が痛い。 傷は一見塞がっているように見えるが、切開した場所だけでなく、その周辺にも痛みが蔓延しているので、炎症っぽいものが起こっているのかもしれない。 これも地味に日常生活を制約する。


いつまでもダラダラ寝たきりでいるわけにも行かず、ベッドの上でもコツコツと曲作りを再開する。 幸い私は両利きに近くて、右ほどではないが、左手も不器用ながらある程度使える。 右手首を切開した時も、その日の夕飯などは左手で箸を持って食べた。 仕事においても左手が活躍した。

入院後、三曲分くらいのラフスケッチが完成した。 無論スタジオとかに入れるわけではないので、できる工程に限ってしか手をつけていない。


2/17(土)

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手術は一応終わったが、症状の劇的な改善は見られないようだ。早い話予後がよろしくない。 そもそも手術も1時間チョイの予定が3時間掛かっている。目に見えての大成功とは言い難いようだ。

病気と言うのは、医療をもってしたくらいで、その全てが完全に原状に復するようなものばかりではない。 往時の半分程度にでも回復すれば御の字、と言うものだってある。 私に関しては、担当医は医学、更には自身の経験に基づく医療現場ににおける定番的処置を施しはした。 結果が芳しくないわけだが、私はそれで十分だ。 私の身体と言う固有条件においては、現状これが精一杯なのだろうから。

病名が付くような象徴的な形でトラブルが顕在化したからこそ、それを「治す」と言うような気分も生まれるのだろうが、臓器はハードウェアである。日々劣化に晒され続けている。 壊れた車を修理に出しても新車になって戻ってくるわけではない。

ある患者が医師に向かってこう言っていた。 「私はがんばってこの病気を完全に治したい」と。 処置の方は丸投げで、がんばって治すもクソも無かろうと私などは思うのだが、いい大人が素面でそんなことを言っている。

要するに彼はこう言っている。「俺はこの病気を治したいんだから、お前責任持てよ」と。間違いなくそう言っている。 実現し得ない結果を望むのは、この世界に対する依存である。



話は変わる。 ピカソは稀に見るような創作欲旺盛な作家だが、ある時期いわゆる鬱のような状態になっていたようで、「すべてはむなしい」とか「絵、展覧会、そんなものが何の役に立つのか」などと言う、当時の言葉にその気分が窺える。 創作のような作業をライフワークとしながら、そういう気分に一度もならない人の方が凄いと私などは思ってしまうのだけど、ピカソとて例外でなかったらしい。

私が気になるのは、彼がどうやってその気分を脱したのか、と言う点。 おそらく特別なことをしたわけでなく、単に時間が過ぎるのを待ったような気がするが。 私がそうだから。

時間が経ち、新たなアイディアが頭をもたげてくる。 そして、それを形にした際の感覚が、自分をもう一度奮い立たせてくれる。 こう言う経験の繰り返しこそが「絵は私より強い」と言う実感に繋がったものと思われる。


2/16(金)

スタジオでのカットを上げてますけど、私は参加してません。

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一昨日ICU(集中治療室)から出て一般病棟へ。 手術で開いた右手首の痛みも漸く落ち着いてきている。 ここ数日休みなくこのページを更新してますが、前もって作ってたテキストを上げてただけでした。

ICUに入る際「ここは計器類が多く、通信(携帯電話・WiFiなど)は御法度」と念を押される。 そう言われて従わぬつもりは無いが、「飛行機内では携帯の電源を切れ」と言われるのと同じような釈然としなさが残る。 そんな破綻寸前の状況で運営されているわけがなかろう、と。

手術そのものは問題なく終わったはずなんだが、術後の外傷性ショックで高熱にうなされる。 そう言えば私は確か大学生くらいの頃も、抜歯後に高熱を出し、三日三晩うなされた。 そう言うのに弱い体質らしい。


姑息と言う言葉は、現代では確信犯などと並び、誤用の方がはびこっている代表的なものである。 私は担当医と話した際、この「姑息」と言う言葉を正しい意味で使ったのだが、相手は当然のように正しい意味として理解し、会話を続けていた。 当たり前のことだけど、医者が姑息の意味を間違ったりはしないようだ。


今大部屋にいるもので、近隣の患者の会話が聞こえてくる。 患者と医師・看護師との会話においては、患者はほぼ自分のことしか話さない。 相手の背景は現実として映りこまないようだ。

患者とその家族の会話を聞いていても「オリンピックで誰某が○メダルを取った」などと言ったものばかり。 それは新聞やテレビなどを見れば誰にでも分かることなのだが、そこにその人なりの感想がない。らしきものがあっても、社説の受け売りのような月並みなものばかり。 多くの人にとって人生とは、目の前に去来するマテリアルなものだけで構成されているらしい。


2/15(木)

(多弦ギターのような例外を除き)ギターは基本6和音しか出せず、フルートやトランペットなどに至っては単音しか出せない。様式上の理由もあるが、フルートのような木管で過度に和音などを奏でると、途端に本物っぽくなくなる。

トロンボーンはその構造(発音原理)上、運動性の高いパッセージを苦手とするが、その独特の構造故にスロープ状の音程変化など、他の楽器で見られない演奏表現ができる。 ピアノのような階段状の音程変化しか実現できないような楽器の音でトロンボーンや多くの弦楽器のようなスライド・グリッサンド込みのフレーズ・音程変化を表現したりしたら、これまた途端に嘘臭くなる。

昨今の音源、例えばギターなら、目くら滅法にノートデータを送り込んでも、実器で演奏不可能な部分は自動的にフィルタリングしてしまうと言った機能がご丁寧に実装されていたりする。 ことほどさように、昨今リアルな演奏表現は重視されている。


前置きが長くなった。 私はその楽器固有の演奏表現、楽器の固有性を無視することによって面白いものができないかと考えている。 無視と言うよりむしろ敢えて「らしくない表現」を採りたい。

以前鈴木サヤカのある曲で「ピッチベンドを使ったピアノのフレーズ」を採り入れてみたことがある。動機は上の通り。 しかしその曲について、多少の心残りがあった。、ベンドの効き具合を優先するあまり、ピアノの音色に対する拘りを殺してしまったのである。

今あらためて、「ピッチベンド入りのピアノ」を基礎とした曲を書いてみている。 上の曲を作った当時より制作環境も向上していて、もう少し理想に近い音が作れる気がする。 ただ、こう言うのをシリーズ化するほど掘り下げようとか、そこまでは思ってません。


2/14(水)

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看護師は患者のことを人間と思っていようか。あるいは思っていなかろうか。 無論こんなの人によるに決まっているんだけど。

「人間の糞尿の処理をせよ」と言われれば、やりきれない思いがする。が、それが牛馬のものなら、割かし平気に思えなくも無い。 これは愛あるが故にでなく、牛馬を人間と見做していないからだ。

看護師らの仕事振りを眺めていて、患者を人と思わねば務まらない仕事であろうと思う反面、人と思ってはやれない仕事ではないかとも思える。 ただ、どっちにせよあの人たちはこの社会に必要な人たちだ。 人生の時間をあの作業に費やしてくれる人がいることに感謝したい。

あと、前にも言ったことがあるような気がするけど、あの仕事に就いている人の大半が女性であることには、きっと理由がある。 夜勤などもあるし激務だろうが、あれは女性でないときっと務まらない。


近況報告。 一通りの検査を終えて、施術の方針のようなものが粗方定まったようで、担当医から説明を受けた。 いくら命に関わる状況であっても「手術するぐらいなら死ぬ方がマシだ」と言う人もいるわけで、この手のことについて患者は必ず同意書にサインさせられる。 私は今回の担当医を率直に「当たり」だと思っていて、彼の懇切丁寧な説明を受け、その方針に従うことにした。

私に専門的な医学知識は無い。更には医学は体系的な学問分野である。大掴みな説明を受けたところで、テクニカルな部分については分かりようがない。 私が判断すべきは目の前にいるその医者の、人格を信頼するかどうかだ。 その面において、彼は信頼に足る人物であったと言うこと。 因みに、どういう点を信頼に値すると感じたかと言うと、その人に「私(わたくし)」を感じない点。 医者に限らず、人とはあああるべきでないかと思わされた。


医師は私の体に起こっている数々の不調の根本原因を「心臓機能にある」と判断しているらしく、そこにメスを入れるのだと。 心臓のある血管に金具のような機器を入れ、血流を確保するそうな。 その金具は半永久的に私の体に留まり、またある種の内服薬を服用することが私には死ぬまで義務付けられる。

医者から受けた説明によると、心臓の重要な血管の一つが機能しなくなった場合、その他の部分が健常であれば、付近の血管が独りでにバイパス血管のようなものを形成するらしい。 収斂的な発達と言える。 但しその俄か普請の血管、あくまで姑息的なもので、そもそもの(機能不全に陥った)血管の十全な代償は果たせないと言う。 だろうね。

上の話、私は説明を受ける前から実は知識として知ってはいた。人体と言うものは時にそういう現象を見せる。 ハードウェア的な面で起これば上記のようになり、人格のようなソフトウェア的な部分で起これば人格障害やアスペルガー症候群のような形で表現する。


2/13(火)

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北斎の臨終の様子については、割りと詳細な記録が残っている。 北斎研究の基本資料として飯島虚心の著作がある。比較的容易に手に入るものなので、興味ある方には一読をお勧めする。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す

と言う有様だったそうな。 壮絶としか言いようが無い。


ピカソの言っていることが私には全て分かる。一言一句不明瞭な点は無い。 ピカソの語録のようなものは、ネット上でも簡単に見ることができるからこちらも一読をお勧めしたいが、訳に良し悪しが結構あって、時に一見意味不明な文章になっているものもある。

Give me a museum I'll fill it(美術館を一つくれ、俺が埋めてやる)

彼の残した言葉の中で、私が一番好きなもの。 彼らは絵が上手いとか下手だとか以前に、その作業を楽しめた。 最後まで楽しめたこと。これが彼らの天才性の本質だろう。

私もそうありたい。 地上の栄達など何一つ手に入らなかったとしても、最後までこの日々を楽しみたい。 与えられた時間を楽しみ切ったら、この人生は私の勝ちだ。


2/12(月)

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「百日紅(さるすべり)」と言う映画(DVD)を見た。 葛飾北斎の娘、葛飾応為を題材に採ったと言うアニメーション作品。 考証面にあれこれイチャモンつけるような種類の作品ではないのかもしれないが、それにしても引っ掛かる点が多い。

物語を作る上でやむを得なかったのかもしれないが、先ず主人公お栄(葛飾応為)が「美人」として登場する。 彼女について詳細な記録は残っていないが、そのか細い記録の中に「不美人であった」とする割とハッキリした記述が存在する(受け口であり、父北斎は「アゴ」と読んでいたと言う記録も残る)。 言ってしまえばその程度のか細い記録が残るのみであるが、後世美人として物語にするには最も不適格な人物の類であろう。

お栄の妹(北斎の子)として盲目の少女が登場する。 人物自体は名前以外ほぼ創作であると思われるが、当時は今に比べ、あのような盲人と言った不具者が市井に溢れていたろうとは思う。 北斎の親族についは詳細な記録が無く、葛飾応為が実在したことはほぼ疑い無いが、娘が三人であったか四人であったかと言ったことさえ判然としない。

北斎その人が随分しょぼくれた親父に描かれているのも、気になると言えば気になる。北斎ってあんな人物か? ついでに、北斎その人は階級的には百姓町人の類なので、例えば雅号としての葛飾姓だとか養家で名乗ったと言う中島だとかも基本私称であって、奉行所に引っ張って行かれることなどがあるなら、単に「町人鉄蔵」だったはず。

映画に使われている音楽についてはコメントのしようがないと言うか、制作陣があの映画をどのように位置づけているか如実に示してはいると思う。 絵は綺麗でした。あの絵を描きたかったんだろうな。要するに。


2/11(日)

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予定外の入院なんてしたものだから、仕事に大きな穴を開けてしまった。 が、同時に予定外の時間を持ったから、曲作りなど普段以上に捗ってしまった面もある。 まあ入院なんてせずに済めばそれに越したことは無かったけど。 因みに今でも病床です。


緊急入院した当日、オーディションの審査員として水道橋(代々木アニメーション学院)に出向く予定だった。 まあ行けなかったわけだけど、後で貰った資料に病院のベッドで目を通していた。

速報的な感想はいただいていたんだけど、その通りの感想を私も持った。 年々、生徒さん個々のレベルは上がっている気がする。 今回も中々面白い人がいる。

私が今考えているのは、商品化について。 単に歌が上手かろうが、踊りが上手かろうが、それを商品化できなければどうしようもない。 私はマネタイズとか言う大層なことを考えているわけじゃない。 音楽商品なんて昨今どうしようもないほどに売れないし、採算なんて容易には取れない。 そういうことじゃなくて、取引先に持っていってレーベルとしての信用失わない程度の商品を作らねばならないと言うこと。 これすら難しい。

これはエントリーしてきた人の能力だけの問題でなく、我々のプロデュース能力の問題でもある。 普通オーディションとかって、受ける人の気分としては自分の能力が単に問われていると思うんだろうけど、そんなに単純でない。 良い素材を与えられても、シェフが下手糞だと良い料理は作れない。


2/10(土)

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心不全をはじめとする病名にて入院したのだが、肺に怪しい影があるとかで、実は当初結核を疑われた。 法定伝染病なので即入院と言う措置に、当然隔離病室に入れられた。

ほとんど誰でもそうだろうが、私に結核になる心当たりは無かった。 そもそも心不全と結核は全く別の病気で、現状多臓器にトラブルが起きている私に、何故結核まで降りかかるのかと、何と言うかもう自暴自棄になりかけた。 因みに、数度に亘る結核の検査結果は全て陰性、いわば誤診であった。 大事をとっての見立てと言った方がよろしかろうか。

医師の見立てによると、私は軽度の心筋梗塞を起こしていたのかもしれないらしい。 心筋梗塞って大ごとじゃないの?気付かないなんてことあるの?と思ったが、詰まったのが比較的小さ目の血管だった場合など、本人無自覚のまま普通に暮らしていることなど割とあるらしい。 ただし、血液のポンプ機能が低下するので、どのような弊害が生まれるか分からない。 私の場合、多臓器の不具合に繋がったと言うことか。

心筋梗塞なんてのは不摂生がたたって起こると言うイメージがあったのだが、私は僅か一年チョイ前に退院したばかりで、その際に基本的なメンテナンスは行われている。 退院後の一年なんてそんな短期間に不摂生の限りを尽くしたところで、影響も高が知れていようと思うし、そもそもそんなに不摂生を尽くしていない。と言うか、体調的にも出来なかった。入院時の血液検査でも、栄養状態はむしろ「悪い」と言われた。 平明な感覚をもって察するに、やはり私の体は音を立てて崩れているらしい。 因みに心筋梗塞云々はそう言う可能性があると言うだけで、確定的な診断ではない。

実を言うと、前の入院との関係で今回の事態が生じたのではないかと疑念する部分がないわけでなく、その程度には心当たりのようなものが無いでも無い。 ただし、このことを説明し出すとまたとんでもない文章量になる。気力があればいつかテキストにおこすかもしれない。

物事ってのは単純でない。常に複合的事情による。 私の体も、生来の体質があり、選択的な生活習慣があり、運不運も当然あり、かように至っている。 一つ言えることとして、このまま私が近い将来、この世界から消えて行くのなら、この世界に私はさほど必要とされていないと言うこと。 これは別に自嘲ではなく、詮無い話。どうしようもないこと。

私には、私が「この世界から必要とされるに違いない」と言う変な自信がある。 だから上のようなこともむしろ言えてしまう。 私が誰かを応援しているのだから、私を応援する誰かがいない筈は無い。 きっとすぐに元気になります。


2/9(金)

更新間隔がまた空いてしまった。 どこから説明しよう。 正直、今このテキスト打つのも物凄く辛いんだが、来週右手首の血管を開く予定で、その後暫くテキストの入力も多分できなくなる。 今のうちに現状報告だけでもしておこうと思って。

端的に言うと、また入院することになった。 今月アタマ、調子が悪かったんで病院に行ったら、行ったが最後帰してもらえなかった。 その日の仕事も、対外的なアポまであったのに全てキャンセル。 医者曰く「医師としてあなたを帰すわけには行かない」そうだ。 関係者の方々には申し訳なかったんだが、その足でそのまま入院となる。

医者が出した病名は心不全。 が、代表的な部分で名前を付けただけで、他にも多くの臓器に異常が出ていた。 肺炎、胆嚢炎、肝機能低下など。 体内で強い炎症が起こった状態で受診したので、例のように高血圧とか高血糖とか、そういうのは軒並み出ていたけど。

私は一年ちょっと前にも入院していて、その際エコーやらCTスキャンやらMRIやらで、殆ど人間ドッグ並みに体を隅々まで調べていて、癌やエイズの検査までしている。 そこで見つからなかった疾患がこの度次々に見付かった。ほぼ多臓器不全と言ったレベルで。 導き出せる結論としては、私は坂を転げるように急激に弱っているらしい。 早い話が死に掛かっていると。 しかし何でだろう。体のことって難しくてよく分からない。


エコーで調べても、心臓の一部がほとんど機能していないらしい。 仕事どころかまともに日常生活よく送れてたと言えるような状況らしい。 実を言うと、確かにここ数ヶ月、運動などは勿論、坂や階段を上るのも難儀だったし、夜は苦しくてほとんどまともに寝れてなかった。 心肺機能が著しく低下していたらしい。


いわゆるインフルエンザだったのではないかと思うのだが、昨年11月頃に風邪を引いた。 当時「たかが風邪ぐらい自力で治すわ」と思って苦しみながらもとりあえず熱が引くところまでは持って行った。 が、その後息苦しさと言うか喉の不調が全快しない。 近くのクリニックみたいなところに行ったりしたんだけど、処方された薬(抗生物質とか)を飲んでも大して自覚的には効果を感じられない。 そのクリニックには日を改めて再度行ったりしたのだが、効果を感じられなかったので、以来行っていない。

その後暫く様子見を続けていたが、多少改善しているように感じられた面もあったけど、それも劇的ではなく、とにかく歩くことすら時にままならないと言う状況で、睡眠も、疲れ過ぎて気を失ってからの数時間がそれ、と言う日々が続いた。 寝るのに極力楽な姿勢を求めた結果、座ったまま寝ることもしばしばあった。

三ヶ月近く経ったこの度、また風邪らしき様相を呈してきたので、ついこの間引いた風邪をまた引くか?と思い(理屈としてはありえなくはないが)、別の可能性についてもおぼろげながら頭を擡げてくる。 そこで病院に行くことになり、数々の異常が発覚することになる。

モノが心臓とかだけに、手術も半ば不可避であるっぽく、もう少し具体的な話も担当医とはすでにしているのだが、まだ断定的なことはここでは言えない。


手術などが成功して、無事退院に至ったとして、この事務所がどうなって行くのかと言う問題がある。 現状ウチは専属スタッフ二名、所属アーティスト数名、プラス外注スタッフ数名、と言った程度の規模で運営している。 私は受け持っている業務のある部分について、真剣に引継ぎのようなことを考えねばならない時期に来ているのかもしれないとも思っている。 あんまし迷惑も掛けられないし。

一応断っておきますけど、音楽活動止めようなんて微塵も思ってないですよ。 体なんていくらボロボロでも思考さえ確かなら曲は作れます。 ただここ数ヶ月かは、その思考も鈍ってる気がしますけど。


1/30(火)

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仮想通貨について考えていた。

年齢と言うのは、誰にとっても常に未体験の領域である。 私は今日の私の歳を経験したことがない。 音楽と言ったような、夢のようなことを日々続け、考えている。 当たり前のことなんだけど、近い世代でこういうことを続けている人らは少なくなる一方だ。 若い人の数は減っているし、そもそも音楽コンテンツの需要が壊滅的だ。

何を動機としているかにも因るんだろうけど、例えば商売が動機になっていた人らにとっては、音楽産業って全く魅力的でなくなっているだろうし、自分を見てもらうことが動機となって始めていた層にとっても、音楽の世界が脚光を浴びる面って少なくなっているから、あんまし魅力的なフィールドでなくなっているだろう。 私は、私が何かを見る(理解する)為に音楽作品を作り続けているようなクチなので、幸いと言って良いのか分からないけど、こんにちまだ動機を失わずに済んでいる。

仮想通貨に関する報道のボリュームが増えているような気がする。 私に詳しいことは分からないけど、物凄く大雑把な概要なら自分なりに整理している。

金と言うのは諸価値を抽出したもので、実体定かならぬ物である。 それそのものに価値があるわけでもない。 だから昨今の電子マネーのように紙幣・硬貨を伴わない形になって行くのもある種の必然だと思うし、インターネットのような国境を易々と越えてしまうツールが生まれれば、従来の国家の枠組みに捉われないような通貨が生まれてしまうことも必然と思える。 ついでに、世間師のような人が、そこにある種の匂いを嗅ぎ取ってしまうのも必然だろう。

「私の夢は金持ちになることです」←これはウソである。 繰り返すが金は実体を伴わない。 私は人間の欲望を否定しないが、金は欲望ですらない。 「それさえあれば欲望を満たせる」と言う期待・不安の裏返しでしかない。

金はそれ自体価値ではなく、価値となりうる可能性を保証した「メタ価値」である。 仮想通貨、特に投機対象としてのそれは、金と言うメタ価値の更に上のパラダイムを形成する「メタ-メタ価値」だ。 肯定的に評価すれば人間の想像力の産物とも言えるが、人間の想像力の枯渇が生み出した錯覚とも言える。

プラモデルが欲しい小学生がお小遣いを貯めるように、何かを欲しい人が金に執心するのだろうとかつい思ってしまうが、よくある誤解である。 欲望に対する想像力さえ尽き果ててしまった者も金に執心する。もう金にぐらいしか執着の起こりようがない。 二者は表面上似ているから区別が付き難い。

言動とかって難しいですね。 同じようなことをしているようでも、それを支える気分は全く正反対であったり。 逆に、全く正反対のことを言っているようでも、両者の気分は殆ど同じであると言って良いほどに近かったり。

仮想通貨の取引量は、各国の中でも日本でのそれが突出していると聞く。 こんにちのこの国を象徴するような話である。 夢を見ることってそんなに難しいですかね。 どういう気分で生きて行きたいか、ただそれだけなんですけどね。


1/28(日)

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「夏子の酒」って漫画を読んでの雑感。

食い物・飲み物をテーマにしたような作品には、よく味覚の鋭い登場人物が出てくる。 ワインのソムリエとか、米を食ってその銘柄・原産地まで当ててしまうような人とか。 大抵その超人的味覚は、人間としての優位性として扱われる。

44.1kHzのサイン波と44.2kHzのそれを聞き分けられる人は、いわゆる絶対音感保持者なのだけど、聞き分けられると言うより「バラバラに聞こえている」と言う方が実体に近い。 視覚で言うと、カラーバランスの数値を1変えただけでそれを別の色だと感じる人は、要するに言語による「丸め」が働いていない。

上の漫画の主人公夏子は、超人的な味覚の持ち主と言う設定である。 酒の中にある、ホンの僅かな雑味も見逃さない。 しかし現実にそういう人が存在するなら、それはやはり言語の獲得に失敗した個体だろうと思う。


1/26(金)

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光の波長を人(の視覚)は、色として認識出来る。 赤や青と言う言葉と結び付けているからって面は大きかろう。

一方、カラードノイズ(特定周波数スペクトラムを持つノイズ)を、少なくとも私は色として認識できない。 視覚と聴覚の違いはあるけど、言葉とのリンクが、日が浅いからか確立できていないものと思われる。

6色の絵の具で絵は描けるけど、6種のカラードノイズで私は音楽が現状作れない。 無論単にそれらを並べて尺を埋めることくらいはできるけど、私の脳内に色鮮やかなサウンドスケープが広がっているわけじゃない。

ノイズミュージックについてまた考えていた。 カラードノイズを並べ、あるフレーズを組み立てるところまでは何となくイメージできたのだけど、一曲にするにはまだ物足りない。

私がサンプルとして耳にしたノイズミュージックはまだ数が少ないんだけど、無拍節モノが多い印象。要するに現代音楽・前衛音楽にカテゴライズされるようなもの。 しかしノイズで無拍節音楽を作るとなると、ますます商業音楽的なフックに近づけるのは難しくなるな。

因みにノイズミュージックと言う用語は定義を割りと広く取った言葉で、例えばビートルズの一部の楽曲もそれに含まれると言う解釈もある。 私は割りと狭義に(非楽音音楽と言う意味で)使っている。 つまるところピッチもリズムも、その正体はパルスである。 ある時間軸上に設定されたアクセントの間隔。 無拍節音楽だろうが、無拍節(一定間隔でない)と言うパルスである。

完全に非楽音のみで一曲を構成するか、あるいは楽曲の一部に非楽音を取り入れる(非楽音のみで構成されるブロックを挿入する)か、で悩んでいる。後者の方がやや現実的か。


1/25(木)

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神田優花、今年一発目の歌録りの結果をチェックしたりしてました。 またストックが結構たまってきてます。 昨年末リリースの「Parade」もよろしく。





今更な感もあるんだけど「夏子の酒」と言う漫画を読んでいた。読了前だけど。 漫画として面白いかどうかはさておき、酒に関する薀蓄のようなものは楽しめる。

とりあえず思ったのは、男の作者が作った女性キャラはどうしてあんなに「空っぽ」なのだろうと言うこと。 思い当たるところでは、三四郎の美禰子とかドラえもんのしずかちゃんとか。あれが一種の女性の理想形なのか。それとも単に作者の想像力の限界?よく分からないけど後者だと思う。 異性は、文学者にとっての永遠のテーマなのかも。


1/23(火)

東京、雪でえらいことになってますね。



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昨年末に撮ったスチールの上がりを、今やっとチェックし始めてます。 いくつかデザインの案もまとまってきたので、春頃には発表できそう。


1/22(月)

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私事で恐縮だが、時間があったので、トキワ荘の跡地を見に行ってみた。 豊島区椎名町周辺。 友人の家がその辺りにあって、昔(もうかれこれ10年以上前)何度か行ったことがあるのだが、当時はそこがあの有名なトキワ荘のあった場所だなんて思いもしなかった。

しかしながら、実はトキワ荘関連、当時のよすがとなる物がほとんど残っていない。 トキワ荘そのものは無論のこと、当時のトキワ荘の漫画家らが通っていた銭湯や喫茶店・映画館など、ほとんどは現存していない。跡地として看板のようなものが掲げられてはいたけど。

この辺り「男はつらいよ」の舞台である柴又とは対照的だ。 柴又は駅も映画の当時と大して変わってないし、寅さんの実家とされた「とらや」もある(最初の頃は実際に収録にも使われたらしい)。 帝釈天(題経寺)もその参道も健在である。 トンガリ帽子の取水塔も江戸川もほぼ当時のまま。矢切の渡しもまだ通っている。

「トキワ荘通りお休み処」とか言う、区営の案内所のようなものが作られていて、トキワ荘の一室が復元されていたり、各種資料などが展示されているのだが、無論そんな施設はごく最近作られたもので、当時を偲べる材料とはなりにくい。 因みに、私は一応その施設にも足を運んでみた。係員のような人が色々と説明してくれるのだが、「ここに来るような人にとってそれらは自明のことでは?」と言うような内容が多かった。 まあ色んな人が来るのでしょうけど。 因みに私は、そこで「チューダー飴(百円也)」を購入した。

その施設では、寺田博雄の部屋が当時の資料を元に、かなり精密に復元されている。 案内してくれた係員さん曰く「(部屋を見て)泣き出してしまわれるファンの方もいらっしゃいます」とのこと。 私は、ファンと言っても、漫画家寺田ヒロオのファンと言うよりは「まんが道」のキャラクター「テラさん」のファンなのではないか、と言う気がした。

以下はその係員に聞いた話である。 もう随分昔、トキワ荘の実録と言おうか、ドキュメントタッチの映画が作られたのだが(私は未見)、昭和の時代の話だからか、随分暗鬱なタッチであるらしい。 それを見たトキワ荘グループの一員が「あの頃の毎日はあんなに暗くなかった」と、やや否定的な感想を述べたそうである。

黒澤映画とか見てても思うんだが、古い時代が舞台になると、それだけでテーマが重苦しくなる。 白黒写真しか残ってないような時代だと、現代に生きる私などは、本当に世界がモノクロだったかのように錯覚しそうになるのだが、無論当時の人らには、世界はフルカラーに映っていた。 空の色も今我々が目にするものと変わらない。 ましてやトキワ荘グループの面々など、夢のみなぎっていた若者である。 日々世界は極彩色ですらあったろう。


トキワ荘跡地は現在日本加除出版株式会社の社屋になっていて、モニュメントのようなものがあるにはあるが、トキワ荘そのものは跡形も無い。 周辺の通路(私道っぽい)なども、位置関係が何だか当時のものと頭の中で照合しにくく、区画そのものが大幅に整理されているのではないかと思われた。

当時を偲べるものがほぼ何も残っていないと言ったが、ほとんど唯一の例外として、中華料理屋「松葉」がある。 まあ従業員などは勿論、店舗の外観もかなり変わってしまっているのだが、トキワ荘住人らがよくラーメンなどを食べたそうで、エピソードが「まんが道」やその続編なんかにも出てくる。 因みに私も松葉でラーメンを食べてみたが、味は実に「普通」であった。よくある個人経営の中華料理屋って感じ。 このような条件でもなければ、まず暖簾をくぐることは無かろうと思うような店。 そう言えば店の中には、漫画家のサインがたくさん飾ってあった。一種の聖地となってしまっているのだろう。

上の「お休み処」の案内人から聞いたのだが、今豊島区がトキワ荘の完全再現を計画しているそうである。ただし場所などは別のところになるらしいが。 日本加除出版は土地を譲ってくれないのだろうか。できることなら当時と同じ場所に作りたかろうにね。


1/21(日)

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ノイズミュージックと言う言葉は、どうも厳格な定義で使われてないっぽい。 現代音楽・前衛音楽などと厳密に区別されてなくて、つまりノイズ即ち非楽音と言う意味で使われていない。

例えばノイズミュージックの代表的アーティストの一覧とか、挙げられているその代表曲のようなものを見てみても、ノイジーなロックであるとかそういうのが多かった。 ギターのハウリング=目的外の音=ノイズ、みたいな解釈なのだろうか。

私が今思いを馳せているノイズ音楽ってのは、言うまでもなく上記のようなものでなく、純然たる非楽音の世界だ。 ただし、非楽音で曲想なんて容易に組み立てられない。 コンポーズってのは脳のトライアルなわけだけど、ノイズでの曲作りってのは割りかしハードなタスクだ。

ノイズだけで一曲作るのはやはり難しい。 曲を作るのが難しいと言うより、作品化(要は商品化)が難しい。 曲のアタマにオマケとして付けるオーバーチュアのようなものとか、間奏とか、そういう半ば独立した部分をノイズで作れないかと今は考えている。 それでも難しいけど。


1/19(金)

来月1日発売のオーディション雑誌にアーティストの募集告知を載せる予定なんだけど、原稿チェックの際に気が付いたことがある。 それは「デモテープ」と言う言葉が死語になりかけていると言うこと。 ウチは応募要項に「デモテープ」と言う言葉を載せてたんだけど、確かにカセットテープは現状代表的な記録媒体ではない。更に言えばMDとかも違う。

ではCD-Rとかにすべきかって話だけど、それも違うような気がする。 今の若い人は、歌などを何に記録しているのだろう。 データプレイヤーのようなものは再生機としては主流だろうけど、録音機としてはどうなんだろう。 また何らかのメディアに落とさなければデモとして送付できないわけだけど、例えばSDカードとかだと高価過ぎる気がする(応募資料って一々返却しませんからね)。 どうしたものか。

結局「デモ音源」と言う名称のものを募集することにした。つまりメディア不問と言うことである。 他所さんはどうしてるんだろうと思って、他の記事を読んでみたんだけど、もうそもそも「音源」を募集しているところ自体が少数だったりする。 アイドル系の募集告知なんかは、ほとんど写真のみを審査基準としてる。 しかし、歌手を募集する事務所がデモテープ無しってわけにも行きませんからねえ。


1/17(水)

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影山リサ、昨年末に録ったテイクのチェック。 その後新しいアイディアが浮かんだもので、同曲、再ミックスしてます。 アニソンみたいなのを集めたアルバム作る予定なんだけど、それの収録曲になります。 昨年末リリースの「Up & Down」もよろしく。 何かカップリング曲の方が好評なようですが。




1/16(火)

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ノイズミュージックについて考えてるって、何日か前のこのページで言ってたんだけど、その続き。

よくよく考えたら、カラードノイズを一通り出力できる音源(VSTiとか)って存在してないような気がする。ちょっと探した限り見付からなかったんだけど、需要が無いのだろうか。

DAWとのコンビネーションで使うような音楽系のプログラムはとりあえず見当たらなくて、ノイズをはじめとする各種波形を生成するような(ある意味専用の)プログラムを入れてみた。 有料ソフト(シェアウェア)で、試用期間過ぎたら使えなくなるようだったので、必要な音をWav化して保存することにした。

カラードノイズのサウンドサンプルって、簡単に見付かるんだけど(例えばWikipediaにも上げられている)、非圧縮のオーディオファイルである必要があったもので、上記のような面倒な作業になってしまった。 カラードノイズの定義は周波数特性にあるわけで、圧縮のアルゴリズムにもよるのかもだけど、圧縮処理してしまったら帯域分布が変わってしまったりするんじゃないかと思って。

カラードノイズって、要はフィルター通したホワイトノイズで、そのフィルタリング(関数)によってブルーだのピンクだのと言う各名称のものになる。 だから手作業でも出来なくはない筈なんだけど、面倒臭そうだったので上記のプログラムを使わせてもらった。

で、生成した各ノイズのWavを元に、サンプラーのパッチを作ってみた。要するにカラードノイズ専用のインストルメント。 因みにこのパッチ作り、ループポイントの設定とか、ノイズなだけに実に簡単な作業だった。 音屋さんとかなら分かるはず。

とりあえず、ノイズミュージックを作るためには環境から整えようと思ったは良いけど、曲想そのものは相変わらず全く浮かばず。 楽器を手にしてはみたけど全く曲が思いつけない、みたいな状態です。


1/15(月)

神田優花、新年早々(でもないが)レコーディング。 今年の計画としては、ソウルっぽいテイストのミニアルバムを挟みつつ、間に合えば次のフルアルバムを出したいところ。

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私はいわゆるスマホを持ってなくて、当然詳しくもないんだが、スマホアプリを紹介するような本を読んでみた。 音楽関連のアプリについて知りたくて。

今更そんなに劇的な新機能とかあるはずもなく、新しいアプリと言っても、インターフェイスとかワークフローの違いがあるくらいのもの。 ただ、私が感心したのは、割かし有料ソフトが多いこと。 一応は売れると踏んでの価格設定なのだろう。

ウィンドウズ用のソフトとかって、完全に値崩れ起こしてて、普通に商品レベルの音を作れるDAWがフリーだったりする。 音源類も、かつて商品レベルだったようなものがいくらでもフリーでバラ撒かれてて、その気になればフリーソフトだけで音屋業がやれる。本当に可能だと思う。

スマホアプリのラインナップ見てる限り、あの程度の代物、ウィンドウズ用なら値をつけるのが難しそうなものが多い。 しかし、どんなクズのようなアプリでも、プログラムの手間くらいは掛かっているのだから、コスト相応の価格にはなるはずだ。どちらが健全かは分からないけど、経済活動のフィールドとしては、スマホ市場の方が少なくとも機能しているのではないかと思った。 ウィンドウズ界隈は基本設計に失敗してるような気がしないでもない。


1/14(日)

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南京事件、いわゆる南京大虐殺について考えていた。 私はあんまし政治的なスタンスみたいなものを持たなくて、どっちかと言うと学問的興味からの思索だ。

肯定する者・否定する者どちらも存在していて、犠牲者の数などいまだに論争の種となっている。事件そのものが無かったと言う論者もいる。 中国共産党の公式見解だと、犠牲者は30万人だそうだ。 まあ南京攻略戦は都市での戦闘なのだから、当然(民間人も含め)死者は出たろう。 南京においては、そう言う一般的な戦闘行為を逸脱したようなジェノサイドが(戦闘終結後に)行われたのかどうか、が争点と言うことであると思われる。

資料をざっと読む限り、日本兵による「捕虜の処分」のようなことは行われたっぽい。便衣兵狩りとか。 便衣兵ってのは、軍服を着た正規の軍人でない戦闘員。ゲリラと言うかテロリストのような。 捕虜の扱いは国際法に準ずるべき、であるなら、便衣兵など言語道断とも言える。

しかしそもそも国際法ってなんだ。 国際法も国家・領土の概念も、西洋人が勝手にこさえて非西洋人にそれを押し付けただけのもの。 中華と言うのはそれと別系統の文明である。 中国がそのルールに従わされる筋合いはなく、当時の日本のように西洋文明の尖兵・優等生として、バカ正直に国際法などを遵守しつつ我が版図に攻め入る輩に対し、中国人は律儀に国際法に準じて応戦するようなお人好しではなかった。 現代でもアメリカが押し付けようとする著作権や特許と言った思想に、最後まで抵抗しているのは中国だ。

便衣兵を国際法違反だと糾弾する日本と「そんなこと知ったことか、敵を苦しめる為にはどんな手段でも使う」と言う中国。 論点が噛み合ってないので、この議論は永遠に平行線だろう。 基準が無いことなのでどちらが正しいとも言えないが、私の気分としては、日本人にももう少し中国人のような気概がないものかと、我が民族ながら嘆かわしく思わなくも無い。

数についてだが、中国人の計数感覚の異様さは有名になってしまっているんだけど、機械ののような精密な計数処理を行う現代人の方が、人間としては異常と言うか、新たなステージにいるのかもしれない。 ただ、日本人の数に対するこのシビアさが、プレ資本主義とも言える江戸文明を築いたし、16世紀には朝鮮半島に数十万人規模の出兵を可能にした。明治後の近代化や戦後の高度経済成長のバックボーンにも当然なっていよう。

エスキモーはある程度以上の数を「たくさん」で一絡げに処理してしまうとか聞いた。 魏志倭人伝に「卑弥呼が銅鏡百枚貰った」とか言う記述があるが、その百が「one-hundred」なのか単に「たくさん」の意なのか、研究者の中でも意見が分かれているらしい。 サンスクリット語には実に巨細に渡る数詞が存在していて、現代日本人もその恩恵に与っているわけだが、それらの数詞もこんにち的感覚における「数」を正確に表しているのか怪しい気がする。 例えば「刹那」は、語の定義とされる厳密な長さでなく「ホンの一瞬」と言う意味で使われたりする。 数詞と言うより多分に形容詞である。

現代の我々の感覚で見て、30万人は如何にも荒唐無稽だが、南京の犠牲者数ってのも、上に類するケースなのかもしれない。 30万と言う数字に日本人は異議を唱えるが、中国人には「万里の長城は本当に一万里でない。正確な里程にあらためよ」と言うように聞こえるのかもしれない。 30万は数と言うより、一種のスローガンとして使われているだけのような。 だから中国は、韓国人の言う従軍慰安婦問題のように、それをネタに補償を求め続けるようなことはして来ない。 位置付けが違うのだろう。

以下は蛇足であるが、上記のような実状であるからして、大体中国の主張する歴史は、いわゆる歴史学の検証に耐えられない。 歴史以外についても概ねそうであるから、ノーベル賞受賞者も出にくい。 まあ正統とされている学問体系もノーベル賞も、西洋人が作った価値ではありますからね。


1/13(土)

今度の大河ドラマは西郷隆盛が主人公らしい。 西郷さんのような、見事と言うような芸術的人格はどうやったら形成されるのだろう。

遺伝的要素のみで語られるべき問題なのだろうか。 西郷はどのような教育環境にあったろう。別に来歴が謎に包まれているような人でないけど。

当時の武士階級の平均的な(あるいは平均以上の)教養はあった(事実西郷には、寺子屋の師匠のようなことをしていた時期もある)。 具体的には朱子学を柱とした武士道のような精神は(無論後天的に)刷り込まれたろう。 特筆すべき点として、西郷は陽明学の徒であったと言う話があるが、その辺の影響は如何程のものだったろう。 私は王陽明の著作(言行録)を読むどころか、思想のアウトラインすらよく分かっていないが、陽明学が西郷を育てたとか言うと、言い過ぎのようにしか思えない。

西郷は「自分を理解してくれる人は一人いれば良い」とか「間違った時は自分で『間違った』と思えばそれで良い」などと言う感動的な語録を残しているが、まるでプロテスタントのような精神の強靭さを感じる。 無論彼にプロテスタンティズムの正確な理解などあった筈も無いが。

私は日本人の「自問自答できない性質」の原因を、神との対話を習慣として持たないことにあると考えている。 西郷はまるで、その精神に神を持っているかのような不思議な人物だ。 何故そのようであれたのか、今もって分からない。

私は革命家としての西郷を、西洋史型のそれ(例えばロベスピエールなど)と比べ、見劣りすると感じていた時期があるんだが、やはり物事はそんなに単純でないと思う。 まあ、欧米人的な価値観で本質を理解しにくい人物である、と言うのは事実だと思いますけどね。


1/12(金)

日本には芸術家の養成機関を自称する大学などがある。 ○○芸術大学だとか。 とりあえずこの稿では、芸術とartを同義として使用する。

例えば聴音のテストと言うものがある。 メロディーを譜面に起こすような作業だが、耳にした音高を絶対的な音名とリンクする能力が問われる。 当然言語の形成をやや失敗したような脳の持ち主である必要がある。 芸術大学はその種の人間を天下から掻き集めている。 だから芸術家が育たない。

音名を言い当てる能力は簡単に判別できるが、旋律を認識する能力は入試なんかで容易に測定できない。 それが高度な機能であるからでもある。 もしかしたら今後、医療器具のようなものを用いて、測定できるようになったりするかもしれないけど。

「幼少期からの訓練によって絶対音感は培われる」のではなく、手を加え、言語形成のある部分を阻害せねば、絶対音感能力は淘汰されてしまう。 その能力を人間が自然に淘汰するのは、より高度な機能を獲得するためである。


結果的にその人が、どのような技能を修得しようと地上の栄誉に与ろうと、食うため・賞賛されるためとて、浮世の構造に合わせ自身を変化させる者の、その変化の具合は芸術性ではない。 座標上、それと芸術性とは正反対に位置している。

いわゆる芸術大学からも、時折芸術家様の(一見芸術家と見紛うような)人物は輩出する。 ある楽器を超人的に上手く弾ける人とか、作曲技法に精通した人とか。 コンクールなどで入賞し、生徒が取れたりする立場になれば、食って行くのは割かし容易い。

でもその作曲技法に精通した人、和声の肝である機能性を十全に感じ取れているかは怪しい。 そこは言語で行われる作業だからだ。 ただし仮に感じ取れていないとしても、そこは外から判別し難い。 「ドミナントが来ればトニックに移行するんでしょ」と言うような知識さえあればテストでは正答できるからだ。

「絶対音感の無い人=メロディーを丸められる程度の言語の持ち主」が絶対音感保持者の振りをすることは不可能である。聴音のテストが解けないから。 絶対音感保持者が非保持者の振りをすることなら簡単だろうけど。 その人が音の機能性を感じ取れているか否かを、外から試験官などが判別することも困難だろう。

芸術大学などを名乗る機関が全くもっておかしな基準で選考を行っているのだが、そもそもの芸術(と言うよりアート)の定義は微動だにしない筈だ。 私はおかしな世界に生きているものだと感じはするけど、それを怪しからんと非難する気分には無い。 人を掻き集めている側も、掻き集められてる側も、詰まるところ私ではないから。


1/11(木)

ノイズ・ミュージックについて考えている。 その名の通り、ノイズ(雑音)で作った音楽。 一応そのジャンルでの有名アーティストなどもいるが、商業的な引き合いが取れているのか(それだけの愛好者が存在するのか)は不明だ。

ノイズと言うのは直訳すると雑音になるのだろうけど、生活雑音のような不規則なものばかりでなく、特に音屋の言うノイズってのはホワイトノイズやピンクノイズ・ブラウンノイズ等のように、一定の周波数スペクトラムを持ったものだったりする。 興味ある人は調べて欲しいところだが、私は「大したモノが出て来そうに無い」と思ったからさほど入念に調べを入れてない。

実際にいくつか作品を聴いてはみたが、ちょっとよく分からない世界だ。 想像してみて欲しい。一切楽音が登場せず、十数分間ひたすらノイズが流れる、と言った作品が十数曲収められたアルバム、なんて聴く気になりますでしょうか。 私は一曲の途中でリタイアしてしまった。 現時点でも、つまみ聴きで数曲を聴いただけである。

曲中に、いわばフレーズとしてノイズ(非楽音)を使ったことなら何度かある。後は打楽器音のようなものをノイズで作るとか。 私にとってノイズの利用法としては限界に近いものだ。 印象としては非12音律の世界とかと近い。16平均律とか、それで作ったフレーズを取り入れたことはあるけど、私の中でそれ以上に掘り下げようが無いと言う。

私は大抵、このように特定の音楽ジャンルについて熟考した後は、習作のようなものを作ってみるのだけど、このノイズミュージックについては分からない。 今のところ曲想も全く浮かんでない。 必然的にインストにならざるを得なかったりするのだが、私がそもそもインストを作らない作家なもので、余計に食指が動かない。


1/10(水)

慰安婦と言うのは、即ち売春婦(prostitute)である。 各人それぞれに事情は抱えていたかもしれないが、性的サービスを提供し、対価として金銭を受け取っていた。 これを売春婦と言わぬなら、売春婦などと言う言葉の定義を満たすものは無くなる。

いわゆる慰安婦問題と言うのは、旧日本軍を主な顧客としていた売春婦の補償に関する問題である。 ただし当時には公娼制度があり、売春は合法であった。遡及効を持たないのは近代法の原則である筈だ。

男ばかりを大量に動員する軍隊において、性処理の問題は補給に類するような切実な懸案事項で、これは古今世界中の軍隊において変わらない。 とにかく、売春婦はおそらく、人類最古の職業と言って差し支えない。

慰安婦を(prostituteでなく)「sex slave(性奴隷)」などとするのは誤りである。 軍が売春宿を経営していたわけでもなく(朝鮮においてはほぼ現地の民間人が経営していたろう)、強制連行などと言うものも、確実な証拠は一件も上がっていない。歴史歪曲とほぼ断言して良い。 ただし、慰安所の営業が軍の強い主導の下に行われたのは事実だろう。 軍人と言うのは一種の物資であり兵器である。 性病などが蔓延しても困る。衛生状態などの管理を怠るわけにも行かなかったろう。

今あちこちに「少女像(慰安婦像とされる)」が立てられている。 まるで、年端も行かない少女に日本兵が性的サービスを強要していたかのように受け取られそうだが、少女の慰安婦がいたなんて話も聞いたことが無い。またいつもの政治的プロパガンダ(要は捏造)かと思われる。 売春婦が性奴隷に変わったように、放っておけばいつか「慰安婦=少女」のイメージが世界中で定着するかもしれない。

被害者ビジネスは、そのイロハとして被害を「盛る」。 これほど馬鹿げた空騒ぎを、人類はほとんど経験したことがないのではないか。 こんな荒唐無稽な話が、御伽噺にでもあるだろうか。

私は旧日本軍を庇いたいからとて上のような見解を述べるわけではなく、単に本当のことが知りたいだけ。 歴史と言うのは現在を構成する大事な資料である。そこにウソが混じれば世界観の輪郭がボヤける。 私は私の為に事実を理解したい。

だからして、今の私のこの見解をくつがえすような意見や史料があるなら、是非とも教えて欲しい。 納得できるのなら、私はきっと見解をあらためるだろう。これも偏に私の為に。


世界、特に国連やアメリカ世論(地方議会)などは、この政治的プロパガンダ・ロビー活動に振り回されている。 私は自分自身が日本を代弁する立場でもないし、この手の陰謀を繰り返す輩がいてしまうことも、それに加担する人・騙される人がいてしまうことも、つまるところ「仕方ない」と考えている。 それらの他人はあくまで他人であって、私ではないからだ。 分かってくれない他人の存在を嘆くのも、外の世界に「こうあれかし」と望むことであって、要は依存である。 我々は我々のあり方しか選べない。 我々が考えるべきは、その手の人らとの「付き合い方」のみである。


慰安婦と言う売春婦は存在したが、慰安婦問題なんてのは、後世捏造された壮大な政治劇に過ぎない。 我々は自分が真実を知りさえすれば良いのであって、政治的陰謀を繰り返す者や、その手の言説に惑わされる者らに一々振り回される必要はない。

ここで私に素朴な疑問が沸く。 人類が、この慰安婦問題のような幼稚な茶番に欺かれ続けると言うことは、即ち「嘘吐き」に生きやすい環境を与えると言うことであり、世界を不正の温床にすると言うことである。 選択的にそういう世界を構築する生き物であるなら、人類の未来は暗いと言えるが、同時に「そんなバカなことがあるわけない」とも思う。 人類がそんなに暗愚な生き物なら、こんにちのような輝かしい文明を築けた筈がないと思うからだ。

人類はそれなりに聡明な生き物である。 嘘吐きが得をする世界を積極的にこさえて、我が身で足元を掘り崩すような愚かな真似はしないと信じたい。 正義と言うのは、人間たちの理性が一つのそれを共有できるものである。 不正義を繰り返す者には、必ずその報いが待っている。


1/9(火)

ここ最近、山上たつひこの漫画を読んでいる。 「がきデカ」で有名な人なんだけど、私にとっては「がきデカ」も古典である。リアルタイムで読んだ世代ではない。 因みに、「がきデカ」も読んだけど、今は初期の短編作品を重点的に漁っている。

手塚治虫が「COM」(手塚が主宰したカルト的漫画雑誌)に、昨今(当時)の新人漫画家について書いている文章があるのだが、ほとんどの新人を酷評しつつ、僅かな例外として山上の名を挙げていた。 当時の山上は「がきデカ」でブレイクする遥か以前で、連載すら持っておらず、読み切りなどを散発的に発表する程度の活動状況だった。

手塚は漫画家である以前に、漫画評論家として一級の人物である。 自身が同業者であるが故の複雑な心境はあるのだろうけど、漫画を見る目は誰よりも真剣で、私はその批評眼・審美眼を信用している。 だから山上たつひこにも手塚の書評がきっかけで興味を持った。

その感想なんだけど、やはり手塚の言うように光るモノを持っている作家であると思う。 初期の作品なんかは、初期のものだけに画力とかその後に比べたら拙い部分はあるのだけど、作者の精神そのものの強靭さを感じてしまう。 もう少し読んでみようと思います。


1/8(月)

南北朝鮮が閣僚級の会談をするだとか。議題の中心は平昌オリンピックに北が参加するか否からしい。

北朝鮮はなんだかんだ言って、結局は交渉の場に出てくる。必ず出てくる。 当たり前だ。 媚びる者も脅す者も、手段こそ違えど他人から何かを奪うために画策しているのだから、行動の全ては他者の存在が前提である。 当たり屋や暴力団は社会に寄生することこそがライフスタイルなのだから、揉めてナンボである。無視される(係わり合いを持たれない)のが一番困る。 核兵器だって、アメリカをはじめとする周辺国に何かをねだる為の道具の一つに過ぎない。

現状の北朝鮮があのようであるから、戦争勃発の可能性も高いと思われている。私も戦争に発展する可能性はあると思うけど、例えば20世紀に起こった日露戦争とか日米戦争のようなものこそが戦争であるのなら、それと同定義の事態は起こらない。

ある程度国際法などに則った戦争って、単なる動乱とか無秩序とは違って、それをやるにも相応の統制(環境)が要る。 近代的な国家として法制度や軍隊が整備されてあって、他国との外交関係があって、相手国に大使館があったりして、宣戦布告があって初めて開戦できる。 装備は技術力そのものだし、戦線の維持にしたって、補給には国家規模での官僚機構が不可欠だろう。

朝鮮人には戦争をした経験が無い(厳密に言うと、日本の敗戦まであの半島は日本だったから、そう言う意味では第一次世界大戦以降の戦争は(日本として)経験してはいるが)。 朝鮮戦争のように、自民族同士での内乱(大国を巻き込んだ代理戦争)のようなものなら経験しているが、それが上の定義の戦争と違うことは分かるでしょう。

だからきっとこの度も、彼らが自主的に戦争に踏み切る事はないはず。「やれなかった」という事は、それをやるための物心両面での条件が揃わなかったと言う事。 彼らに戦争はできない。

では何故戦争化を危惧するのか。 それは自殺未遂(狂言自殺)に失敗して死んでしまう者がいるように、ブラフのつもりが「アクセルの匙加減を間違えること」はあり得ると思うからだ。 歴史って結構そう言うところから生まれていたりもする。


1/7(日)

発達の過程で、言語の獲得が上手く行かなかった場合、人は共感性を持てなくなる。 誰かの愛に触れても、その愛と同じものが心の中に生成できないから、当然愛に感謝などできず、誰かの投げかけた愛と道端で拾った小銭の区別が付かない。

愛の意味が分からない者は、愛を投げかけられた際、単に「得をした」と思い、それをもう一度貰う方法を探り出す。 博愛の人は、彼らの好餌として標的にされる。 彼らはこの社会において、愛の発動を危ぶまれる行為としてしまう、いわば社会悪である。 私は日本にキリスト教が根付かなかった理由を、日本人の言語力にあるのではないかと疑っている。

パーソナリティー障害には種類(下位クラスタ)がある。 当然モノによって表面行動が違うからそのようにカテゴライズできるわけだが、共感性の欠如と言う特徴や、原因が言語の機能不全にあることは皆共通している。

つまり発達の過程で言語の十全な獲得に失敗した個体は、ついぞ「与える」と言う機微を覚えることができず、常に「貰う」ことに腐心する。 各人、より効率的な手段を模索するわけだが、結果的に採用したその「貰う為の手段」の違いを、医学的には○○性人格障害などと呼称(区別)しているだけで、根は皆同じである。

周囲の人から見れば、その「手段の違い」はまるでその人の性格のように映る。 だが違う。採用した手段の違いは性格ではない。 犯罪性向の強い「反社会性パーソナリティー障害」は男に多く、迎合性・恭順性の強い「境界性パーソナリティー障害」は女に多い。 主に身体条件から、この社会において効率的な収奪法を選択しているだけである。 ただひたすらに貰う為、ある者は他人を恫喝し、ある者は他人に媚び諂う。目的は同じ。

言語と言うのは、即ち理性であり良心であり人格である。 言語の形成に失敗した個体は、自己の獲得に失敗している。 つまり彼に人格は存在しない。 本能的に、生存に有利な方法だけを模索する人間未満の動物に等しい。


1/6(土)

実名こそ伏せるが、ある大学教授(日本の脳科学の権威であると言う)の著書を何冊か読んでみた。その感想。 因みに共著モノが多かった。

私が読んだのは、脳をテーマにしているものの学術研究・専門書の類でなく、要は乳幼児の発達に関する本で「こう育てれば賢い子に育つ」と言ったマニュアル本のようだった。

内容は陳腐極まりない。 「こういう睡眠を取れば脳に良い」とか、一般論としてそりゃそうなんだろうけど、子供の発達に頭を悩ませている親にとって何の足しにもなりそうにない。 子の発達に悩む親は数も多かろうし、その悩みも切実だろう。そういうテーマで本を出せば要は「売れる」のだろうと思われる。 何と言おうか、商魂の産物と言う印象が拭えない。学者としての良心とか痛まないのだろうか。

深刻な発達の遅れを指摘されているような子は、脳のハードウェア上の設計がほぼその原因となっている。 だから基本的には治らない。 その条件を認めた上で、よりマシな環境を作ることならできようけど、それはあくまで治らないことを一旦認めた上での話だ。

音楽屋にもいます。 「胎教に優しい音楽」とか「鬱に効果がある音楽」とか、そういう触れ込みで音を売っているような人らとか。 私がその手のものの効果について正確な知識を持っているわけではないけど、個人的にはあれを「脅し」のように感じる。不安を煽ることによってモノを買わせているのだから。 少なくとも我々は、ああ言う商品を出したくない。出すようになったら終わりだと思う。


1/5(金)

Spotifyを(無料アカウントで)聴いていると、時々広告が挟まるんだけど、印象として自社広告が多い。 スポンサー上手い具合に集められてないのだろうか。

その自社広告、有料アカウントへのアップグレードを勧めるような内容なのだが、聴いていると「プレミアムアカウントにアップグレードすると、時々入るこのウザい広告を聴かずに済みます」みたいなことを言っている。 オイオイ、大丈夫か。 まあリスナー目線なら、まさにその通りではあるんだけど。

そのウザい広告の一部は、スポンサーの皆様が(当然有料で)出稿してくれたものだろうに。 私がスポンサーなら、自社広告を「ウザい広告」扱いされるのはあんまり良い気分ではないな。 この辺ってまさに論理なんだろうけど。心配になってしまう。


そう言えばSpotifyのその広告、地上波でも結構なボリュームで流しているらしい。 CMに使われてる曲も、どうやら「売る気」らしい。

日本の商業音楽界って、大ヒットを生むためには常に、音楽番組なんかへのブッキングとかドラマ・CMなどへのタイアップだとか、とにかく地上波展開が不可欠だった。 Spotify発のヒット曲とか出たら、新しいスキームの誕生に繋がるかもしれないわけで、個人的には淡い期待を抱いてしまう。 惜しむらくはそのCMソングそのものが、私の琴線に触れないこと(私ももう随分なオジサンですからね)。まあこれは個人的な嗜好の問題なので仕方ない。


1/4(木)

赤塚不二夫に「たまねぎたまちゃん」と言う漫画がある。 昭和40年代に小学館の学年雑誌「小学一年生」に連載されたと言う、いわゆる児童漫画である。

学年雑誌発のヒット作と言うと、有名なところでは「ドラえもん」がある。 「たまねぎたまちゃん」は、ドラえもんに比べれば売れなかった(あれに比べればほとんどの漫画は売れてないだろうが)。 「たまねぎたまちゃん」は、赤塚がその後ヒットを連発した影響で、復刻版のような形で刊行され、現在容易に入手できるようになっている。

「たまねぎたまちゃん」の概要を説明すると、主人公たまちゃんをはじめとする、野菜をベースにしたキャラクター(ガールフレンドの「とまとちゃん」など)で構成される物語である。 パンをベースにキャラクターを作っている「アンパンマン」なんかを彷彿させるが、アンパンマンが擬人化されたパンであるのに対し、たまちゃんは(髪型が玉葱のようであったり、玉葱様の特徴を備えてはいるが)あくまで人間である。

藤子・F・不二雄作品の「ウメ星デンカ」なんかと似てなくもない。 あれのキャラクターには漬物をベースにしたネーミングが為されているのだが(ベニショーガとかナラ子 とか)、あれの登場人物も基本的には人間(宇宙人)である。 因みに「ウメ星デンカ」は藤子・F・不二雄のその後のブレイクに引き摺られる形でアニメ化されたりもしたが、連載当時の人気はイマイチで、打ち切りに近い形で終わっている。

私は「たまねぎたまちゃん」の失敗の原因を考えていた。 まあ失敗と言うと言い過ぎだが、少なくともドラえもんやアンパンマンにはなれなかったわけで、その理由を探っていたわけです。

「たまねぎたまちゃん」はそれなりによく出来ている。 野菜をベースにしたキャラクターなど、コレクション性のようなものもあり、それなりに売れる要素を秘めていると思う。繰り返すが、アンパンマンのプロットとも通底する。

思うに、たまちゃんが人間に寄り過ぎていたのではなかろうか。 アンパンマンがあくまで擬人化されたパンであるように、たまちゃんも単に「手足の生えた玉葱」にすべきだったのではないか。 子供にとって「人間」と言うのは(情報量的に)少々煩い素材なのではなかろうか。 だから「ウメ星デンカ」より「ドラえもん」の方が熱狂的に受け入れられたのでは。


1/3(水)

年末に、韓国がいわゆる慰安婦合意に今更難色を示しだした、みたいなニュースを目にした。 まあ日本政府も当然予想していただろうと思うけど。だから今後の対応も間違わないと信じたい。

その前に韓国(朝鮮)人は何故にああなのか。 放っておくだけで際限なく分裂して行くのは、基本的に敵を作ることが動機となる性質故になのだろうが、だから朝鮮半島は南北に分裂するし、南は南で東西に分裂する。

朝鮮人の行動は、個人で言うところの「弱い個体」に酷似している。 多くの人が他人と仲良くするのは、その方が要は「得」だからだ。 必ず喧嘩を始め、周囲を敵だらけにしてしまう個体と言うのは、自らで自らを窮地に陥らせ、生存環境を悪化させているわけで、生物としては非合理である。弱い個体と言わざるを得ない。

日本では「嫌韓」のような世論が支配的であるみたいだが、放っておいても彼らは自滅する。 「滅ぼしたいから放っておけ」と言っているわけではなくて、圧力をかけようが援助をしようが無視しようが、結局自滅するからどうしようもない。 自滅する方向に一直線に向かっているから、他人ではどうしようもないと言う話。

半島、特にその北半分は現状収容所国家のようで、人民は塗炭の苦しみに喘いでいる(南だって近代国家の要件を満たしているとは到底言い難い)。 例えば歴史のもっと早い段階で中国に併合されていれば、今頃中華人民共和国の一省として、その程度の暮らしは保証されていたろうと思う。 そうならなかった点に彼らの本質はある。

あるレベルでの独立を果たせない集団は、大抵は周辺の広域国家に吸収され、その中の少数民族として生きて行くことなる。 朝鮮人は何故かそうならず、時に植民地化され、時に服属国となり、周辺の強国に依存し、国際的なパワーバランスを風見鶏のように伺い、その力学関係の渦の中で、常なる不安定の中で生き長らえてきた。 地域そのものがまるで紛争を誘発するパワースポットのようで、事実今でもあの半島は、東アジア地域最大の不安定要素となっている。

多くの日本人は、北朝鮮と言う国家も元首である金正恩と言う個人も嫌いだろうが、現状最も多くの朝鮮人を苦しめ、殺戮してくれているのは金正恩さんその人である。 あの体制下にある以上、あの辺の生活水準が上がることも、人口が爆発的に増えることもきっと考え難かろう。

アメリカの大統領などは、北のあの体制を「怪しからん」と非難するが、アメリカ的価値観にそぐわないのは分かるが、あの体制がそれなりに地域の民情に適っていると言うのもおそらくは事実である。 放っておくだけで、民族が自ら自分達を干上がらせるような体制をこさえてしまう。 生物として、集団として合理的でない。

朝鮮半島の隣には、幸運なことに日本がある。 この程度に裕福で国民もお人好しな国が。 様々な面で渡りに船とすべきかと思うし、実際に過去色々と世話にもなっているわけだが、不思議なことに自ら反日世論を繰り返し沸騰させ、わざわざ日本人の逆鱗を買う。 味方となりうる相手を自ら敵に変えてしまう。

言い方は悪いけど、日本人なんて大方バカなんだから、台湾みたいに腹の底で何考えていようが、表面上猫撫で声で擦り寄ってさえいれば、親睦ムード一色に染まったはずなのに。 弱い個体ここに極まれりと言おうか。 失ったものは、そのまま元には戻りませんからね。


1/2(火)

これ、以前にも言ったことがある。 「フランス料理が好きな私は、フランス料理にはちょっとうるさい」と言う人がいる一方、私のように「うどんが好きだから、どんなうどんでも機嫌良く食べてしまう」と言う、つまりは「好きなもの(うどん)にうるさくない人」もいる。

ここで分かるのは、各人の「好き」の定義が違うと言うことである。 「好きな対象だから大切にする」と言う人あり、一方で「ぞんざいに扱えるから好き」と言う人もいる。 この差は、各人の映している現実の差である。 言葉の定義の違いと言うのは、捉えている宇宙の違いに直結する。

例えば恋人・結婚相手一つとっても、「好きな人だから」と言う単純な理由で選ぶ人がある一方、「自分にアプローチかけてきたから」などと言う受身な理由で選ぶ人もいる。 私は恋愛・恋人関係と言うのは、愛情の延長線上に展開されるものだと思うから、後者のようなパターンを見ると、その人は終生恋人と言うものを持たずに生きていると見做してしまう。 現実の差である。

私は恋愛と言うものを、愛情感覚の延長線上にあると考えている。母親が子を愛す感覚と、恋人を愛しく思う感覚は似ている筈だ。 人によるこの現実の差、乖離が甚だしい場合、ある人は異性にトロフィー・戦利品としての役割や、性欲と言う傾向性の捌け口としての役割しか求めなかったりする。

IT企業の社長のような地上の成功者が、栄達の証しとして芸能人と付き合ったりするけど、すぐに別れてしまう。彼にとっての恋人がトロフィーに過ぎないからである。獲得以上の意味が無い。 傾向性の捌け口だけを求める人は、キャバクラや性風俗の類に通い詰めればそれで事足りる。 ある面では、結婚相手を維持するより安上がりであるかもしれない。

恋人のいるAさんと、同じく恋人のいるBさん。一見まるで同じ持ち物を持っているかのように見えるのだが、各人にとって恋人の位置付け・意味合いは全く異なっていたりする。 ある人は当たり前のように恋をし、ある人の心には永遠に恋なんて現実は映り込まない。 映している現実、それこそがその人の正体。


1/1(月)

音楽を聴かせようとしても「音」しか聞けない人がいる。 音は鼓膜が(物理的に)捉えるものだから、誰だって聞ける。それ用の感覚器さえ持つなら、人間以外の動物でも聞ける。 事実、害鳥は銃声で駆除できるではないか。 音を捉えるのに言語は要らない。

言語の最大の役割は、何かと何かを「同じ」とすること。 忘れそうになるが「同じ」と言うのは難しい概念だ。何故なら、この世に同じものなど実は存在しないから。

「私の持っている百円玉と君の持っている百円玉は同じじゃないか」などとつい思ってしまうが、本当は違う。 製造年が違うとかそういうことじゃなく、似たような外観を持つ両者を人は同一視し、等価とすることで社会を成立させているだけ。 本来別の何かなのに。


「同じ」は我々の頭の中にしか存在しない。全てはバラバラだからだ。 我々の言語が、本来実在しない「同じ」を作り出した。 我々が「同じ」を創造・体感できたこと、これは奇跡だろう。

誰かの愛に感謝できるのは、その愛と同じ何かを我々が心の中に再現できるからである。 再現できなければ、誰かの愛など道端で拾った小銭と同じ。感謝の対象とするどころか「どうすればもう一枚拾えるか」しか考えられないだろう。

音楽を聴く時、人はその作品に作者が込めた何かと「同じ」何かを心の中に展開する。 もしそこで、「同じ」とする言語機能が心に無ければ、その人は音のみを捉えることになる。心の中に照合すべき何かが見付からず、それしかできないから。 この「心の中の照合すべき何か」のことを私は現実と呼んでいる。 私は、私と同じ何かを心に再現できる人の為に、今日も曲を作っています。 新年早々、相変わらず長閑なことを考えてました。


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