Staff diary  
スタッフ日誌[2017]

[文 / 益田(制作)]

12/31(日)

「穴を掘る」とか「湯を沸かす」とか、日本語はおかしい。なんて話を聞いた事がある。 「穴は掘った結果できるもので、掘る前には存在しない。『土を掘る』とか『地面を掘る』とか言うべき」ってことなんだろう。

そう聞くと「確かに日本語っておかしい」って思ってしまいそうになる。 だが、こう言った表現ってむしろ、日本語なんかより英語の方がお家芸って感じで、「Dig a hole」とか「Light up my fire」みたいな修辞って英語にこそ頻出する。 むしろ上の表現に違和感を覚えてしまうところこそが、日本人・日本語の特性なのかもしれない。

何故英語は「Dig a hole」的になるのか。 それは日本語と違って「不定冠詞(と言うより定冠詞・不定冠詞の別)」が存在するからだ。 頭の中(言語)にのみ存在する概念としての「穴」があるからだ。 多分ここは、多くの日本人に分かり難かったりするはずだ。

頭の中にある穴だから掘れる。頭の中にある火だから点けられる。 失くした大切な人だって、それが頭の中にいるから、側にいない現実を悲しめるし、再び会いたいと思える。 在るものとは、在る無い以前に在るから。


12/30(土)

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赤塚不二夫の漫画を今読んでいる。 日本人で知らない人も少ないと思うけど、「天才バカボン」、「おそ松くん」、「もーれつア太郎」等で知られる、超のつくほどのヒットメイカー。奇才である。

彼は有名なトキワ荘グループの一員でもあるのだが、そう聞くとまるで、当初から並み居る天才青年らの一人だったかのようだが、彼が頭角を現し出したのはちょっとしたタイムラグを経てからである。 トキワ荘時代の彼はあんましパッとしない(失礼)読み切りの少女漫画などをメインに描いていた。人気もイマイチだったろうし、仕事の量自体が少なかったらしく、一時期は石ノ森章太郎のアシスタントのような状態であった。

無論漫画家としての最低限の技量は持っていたからこそ、その程度にでも仕事がこなせたのだが、例えば地元で高校生だった頃から天才とて出版業界で噂されていた石ノ森など比べると、編集者らの間での評価もきっと低かったと思われる。 トキワ荘グループの中でも「大成しないタイプ」と目されていたに違いない。 とにもかくにも、トキワ荘入居当初の彼は、その大器の片鱗も見せていない。

写真をはじめとする当時の記録なども見たのだけど、人物そのものの印象も影が薄い。 仲間内でもそのような印象であったと見受けられる。 私が不思議に思うのは、どうしてそのような人物が後にあれほどにブレイクするのかと言うこと。

何と言うか、本当に「クスリでもやってんのか」と疑いたくなるほどにクレイジーな作品を描き出す。 例えば「天才バカボン」を現代の感覚で見てはいけない。あれは歴史的位置付けを踏まえた上で読むべきで、当時の漫画の水準を踏まえると、やはり奇才と言わざるを得ない。

ある時期以降の赤塚氏はアルコール依存症であったらしいが、それが何か関係あるのだろうか。 その辺のメカニズムはまだ正確に分析できてない。 ただ、私は基本的に「人は変わらない」と思っているので、赤塚氏についても、彼が奇才であるのなら、きっと彼は元々その素質を秘めていたろうとは思う。


12/29(金)

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影山リサ、(今年最後の)レコーディング。 今回のは編集手間取りそうです。 先週リリースの「Up & Down」も是非聴いてくださいね。




12/28(木)

「愛」は伝わるのか。 幾度と無く同じようなことを考えているんだけど、これは私にとってとても重要なテーマなんだ。

聴覚と言うのは、そもそも絶対音感仕様に作られている。 周波数ごとに細かく受容する細胞が違い、それらがカタツムリ状に収納されているような格好。グラフィック・イコライザーのようなものとか言えば、少しは理解の足しになろうか。 周波数によって反応する部位が違うのだから、そこには共振作用(共鳴の原理)が生かされていると思われる。

人間は、感覚レベルではそもそも音の高低を(かなり詳細に)聞き分けられる筈なのに、それから先の段階、つまり意識レベルでその(音の高低と言う)情報を細かく区別できなくなる。 中にはできる人もいて、絶対音感保持者とか言われる。

「メロディー」と言う、音価と音高を組み合わせたパターンを、人間は多少上下にトランスポーズしたところで「同じ」と認識できる。 私など、ピアノの鍵盤を一つ叩いた時に出る単音(音価)をすらメロディーと認識してしまうから、音名と正確にリンクできない。 つまり私は、世に言う「音感の悪い人」である。

もし私が、多少音高の違うメロディーを同じと捉えられなければ、それらは皆「違う」と言うことになる。 本来違って当たり前なのである。事実音の高低が、周波数が違うのだから。 私の脳が、言語機能が、それらを何故か無理矢理にでも「同じ」としてしまう。


「サリー・アン課題」と言うものがある。どういうものかをここで説明する気はないので調べて欲しいのだが、あるタイプの人間には、このサリー・アン課題が解けないと言われている。

何故解けないのか。 それは他人の気持ちが分からないからである。 他人の心の中で巻き起こっているであろう何事かを、自分のものとして心の中に再現できない。 彼に無いのは、視覚情報・聴覚情報などの、感覚として捉えられる諸情報を総合し、我が心の中で「同じ」とする能力。

赤ちゃんなどを眺めていると分かる。 いわゆる「つられ笑い」をする子としない子がいるのである。 つられ笑いをする子は、相手の心の中に巻き起こっている何かと同じものを我が心に生成できるが、つられ笑いをしない子は生成できていない。

どうもこの能力の源は、脳のある(ハードウェア的な)機能らしい。つまり生来の気質に属する。努力でリカバーできるようなものではないように思える。 ついでに、それらの「どちらが優れているのか」は、今の私には判断できない。 生存の上でどちらが有利かも一概に言えない。


音が周波数によってバラバラに聞こえる脳の持ち主は、例えば「愛の言葉」を投げかけられても、その声の周波数が多少違っただけで「同じ愛である」と言うことがもう分からない。 当然彼の心にその愛は届かない。

彼はきっとこの世界が怖かろう。 周りにいる全ての他人が「何を考えているのか」が分からないから。私だって世界中の他人が皆覆面姿だったら怖い。 彼は他人の表情から、その心の中に沸き起こっている感覚を、自分のものとして再現できない。 彼はきっと、他人の表情と感覚の対応表のようなものを世間知としてインプットするようになる。これが言語の代償としての発達である。

音が音高によってバラバラに聞こえる脳の持ち主は、「音感が良い」などと持て囃されることはあるかもしれないが、絶対的音高は判別できても、例えば和声の本質である「音の機能性」などは十全に感じられないはず。 更には、あるメロディーを耳にした際、それを作った誰かがそこに込めた最も大切な何かが掴めない。 例えば愛であるとか。悲しみであるとか。

投げかけられた愛と同じ何かを生成できるのは、その人の心に照合すべき機微かがあるから。 誰かを愛さない人に愛の意味は分からない。 その人の頭の中身である現実、それこそがその人の掴まえている宇宙である。 だからドストエフスキーの言うように、本当の地獄とは「愛されぬこと」でなく、「愛せないこと」。


デカルトの時代、当時のヨーロッパ社会では「人間以外の生き物には心が存在しない」とされていたらしい。 これが間違っていることは現代ではほぼ常識だが、私ですらその間違いを証明できる。 何故なら、犬は「自分の名前を覚えている」からだ。 誰から呼ばれても自分の名が分かる。 自分の名が音でなく言語であるからだろう。

受信環境如何によっては、愛は伝わらないのかもしれない。音なら伝わるのだけど。 私は、曲を作る際、その曲を発表する際、「歌の意味なんて何一つ伝わらなくても、私が愛したことだけ伝わればもうそれで良い」と思う。 ただ、その愛を伝えることこそが最大の難関であることも、今はおぼろげながら理解している。 私は、自分が絶望的に難しいことをやろうとしていることを、あらためて感じています。


12/27(水)

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神田優花、今年最後のシングル「Parade」(全2曲)本日発売です。レーベルとしても今年最後のリリースアイテムになります。 以下、アーティスト本人から。


Parede/Galaxy

Paredeはどんな曲かっていうと、酔っぱらいの歌。
っていっても、別に酔っぱらいのことを歌ってるわけじゃなくて、音の乱高下が激しくって歌詞も飛んじゃってて、、、
なんだか酔っぱらったときの視界が歪んでぐわんぐわんしてるようなあの感じ、って思ったから。
レコーディングもそんなイメージでやりました。
お酒は飲んでませんよ、もちろん。

Galaxyも遊びの強い曲。
綺麗なだけにならないように、かといっておどけすぎないように、のラインをさぐりつつ歌を構成しました。

ゆるっと聴いていただければいいなと思います。
よろしくお願いします。

神田優花





12/26(火)

神田優花、明日発売の新作「Parade」(全2曲)、収録曲について。


1.Parade

神田優花に関しては、6枚目のアルバムが上がった時点である切り口については粗方やり終えたって感覚があった。 新しい境地を開拓して行こうと思っているのだけど、それを象徴する一曲。 微分音を多用してるしハーモニーも独特な曲で、歌うの大変だったろうと思うけど、編集も大変だった。

ちょっと変わった曲なんだけど、大雑把には60年代以前のサイケデリック・ミュージックのイメージが下敷きにある。 使ってる楽器の音とかアーティキュレーションとか、今まで守っていた神田優花のイメージを気にせずと言うか、割かし好きにやらせてもらった。勿論全く気にしなかったわけじゃないけど。

単純に楽器のパート数も多いんだけど、トランペットのスウェルとかチューニングの甘い(と言うか狂った)ギターとか、色んなアイディアを詰め込んでる。 オルガンの音を使った間奏は一種のフーガになってるんだけど、応答のフレーズは四度関係の変格応答。とにかく、ちょっと一般的でない匂いを強調した曲です。

イントロの(トランペットの)メロディーなぞってるボーカルについては、事前に明確なイメージと言うかモデルがあったんだけど、結果的には少々違うものになった。 レコーディングで物凄く調子っ外れなものを録ろうと思ってたんだけど、思うようなテイクは録れず(リハーサルの時点で諦めてたけど)。結局編集段階でピッチとかフォルマント弄って当初のイメージに近付けられるだけ近付けた。 エフェクティブだけど元は神田優花の声です。


2.Galaxy

いわゆるメドレーのような曲。 テンポとか拍子とかが目まぐるしく変わるんだけど、わざわざそういうものにした。 リピート部もそれはそれであって、そういう面でも純粋なメドレーとは若干違う。 こういうのをいくつか作ってた時期があって、その一連の作品のうちの一つ。

基本バンドアレンジなんだけど、ところどころCrotalesとかサックスのグロウルとか、普段神田優花ではあんまし使わない音を使ってる。

展開の奇抜さ、みたいなのが曲の肝になっているんだけど、それぞれのブロック自体は音楽的に大した魅力を持つものでもない、と作者ながら思います。 途中の五拍子になる部分とか好きですけどね。

影山リサの楽曲に(未発表曲も含め)こういうメドレーっぽいものがいくつかあるんですが、神田優花では初めての試み。 今後もこういうのをやるかは分からないけど、あんましやらないような気がする。使いどころがない。





12/25(月)

DX-7って言うYAMAHA製のシンセサイザーがあって、もうかなり古い製品なんだけど大ヒット商品なもので、それをソフトシンセ化したようなものとか、色々と派生商品がある。 私も(実器こそ持たないものの)いくつかそういうものを持っている。 FMって音源方式がかなり独自なもので、それでしか味わえない滋味があるんだ。

YAMAHA純正のプラグインボードって言う、DX-7の基盤部分を剥き出しで商品化したようなものがある。 私はそれを二つほど所有していて、影山リサの曲のオケにもいくらか使用しているんだけど、いかんせんハードウェアなもので、使い勝手がイマイチで、何とかソフトシンセで代用できないものかと現在思案している。

DX-7のエミュレーターのようなソフトシンセは有料無料合わせていくつかあるんだけど、中にはDX-7の音色情報(システムエクスクルーシブ)をそのまま読み込めるようなものさえある。 そこまでの互換性があるのだから、パラメーター構成もかなり似通っているってことだろう。 音色の管理とか、ソフトシンセの方が何かと便利なんで、私はそっちをメインで使いたいんだけど、音色情報とか過去の遺産がそのまま引き継げないのが困ったところだ。

上記プラグインボードってのも要はDX-7の音源部をそのまま商品化したようなものなので、実器とほとんど完全な互換性がある。 音色も理屈としてはそのまま移植できる筈なんだけど、方法が確立されてない。 システムエクスクルーシブ吐き出したりできるユーティリティーソフトのようなものがあれば良いんだけど、モノが古すぎて今更そんなものを作ろうと言う有志もいないだろう。

そのプラグインボードで作った音色(プリセットを含む)を、DX-7のエミュレーターのようなソフトシンセに移植する方法も、実器を介在させれば無いことも無いはずなんだけど、実器を持たない私にでもできる方法は無かろうか。


12/24(日)

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ちょっと前に、アメリカが特殊部隊などを使って、金正恩の暗殺を企てていると言うニュースを仄聞した。 まあ意図的にリークされたものかもしれないし、真偽のほどはよく分からない情報であるが、仮に本当に暗殺が行われたらどうなるだろうかと想像してみた。

トップ一人が殺されたからと言って、体制そのものが崩壊するかまでは分からないものの、大混乱を招くことは想像に難くない。 今の北朝鮮はそれだけ磐石な官僚機構を持っていないと言うことである。

例えば織田信長が本能寺で殺されたことによって織田政権は事実上崩壊し、豊臣秀吉が死んだことによって豊臣政権も崩壊した。 が、徳川幕府は15代、260年以上続いた。その間将軍職にあった者が14人死んでいるわけだが、それによって体制が揺らぐようなことはなかった。 官僚機構がそれなりに精緻であったが故にだろう。

今の日本で総理大臣が殺されたからと言って、日本国が崩壊するなんてことはあり得ない。 事実小渕恵三首相は(暗殺ではないが)任期中に病死したが、いわば次席の者が繰り上がっただけで、体制自体はビクともしなかった。 アメリカでもケネディ大統領が銃殺されたりした。

この一事をとってみても、北のあの体制が前近代のものであることが分かる。 いくら軍事技術を増強しても、体制そのものは歪極まりなく、アンバランスと言わざるを得ない。 今後もあの体制を維持していくのには、ちょっと色々な面で無理があり過ぎる気がする。


12/23(土)

私は音楽が好きだから、音楽を自らの意志によって続けているが、アルコールやギャンブルに依存している者はそうではない。 自らの意志とは別の事情に因ってそれに振り回されている。 だから厳密には、彼らは別に酒やパチンコが好きではない。止められないだけだ。 彼らはその「別の事情」の奴隷である。

甘えが強く、言語の獲得が平均に比して遅いと言った、自己の確立が覚束ない幼児などを見ると、私は「将来、性犯罪者などにならねば良いが」などと(結構本気で)心配してしまう。 言語が脆弱と言うことは、即ち理性による制御系が弱いと言うことだからだ。

アル中は治らないと言われる。 アル中患者の手記のようなものを何冊か読んだことがあるが、アル中の治療と言うのは根治を目指すものでなく、「どれだけ酒を絶つ時間を長く保てるか」に挑戦するものであると言う。だから、患者を隔離病棟のようなところに軟禁するようなことさえ、治療プログラムの一環とされる。 「酒に依存してしまう」と言うその人の性質・脳機能そのものが変わるわけではないからだ。

アル中患者の家族などが「酒に手を染めていなかったあの頃のあなたに戻って欲しい、あの頃は良かった」などと、たわけたことを言ったりする。 無いものを在ると錯覚したところで、無いものは初めから存在していない。 だからどこまで探しても見つからない。無いからだ。

「アル中になった」などと言うから、まるで性質がそのように変化したかのようで、本質が見え難くなる。 その人は生まれた時からそのような脳を持っていたし、酒と言う対象に遭遇すれば溺れてしまうと言う不変の特性を持っていたのである。 だから治らない。 ギャンブル依存症なども全く同じ。

私は生誕して最初の食事(母乳とかだったんだろうか)を採るまでは、何一つとして食い物を口にしたことがなかった筈だが、かつて「メシを食わずとも生きて行ける人間だった」と言うわけではない。 最初のメシにありつくまでの時間があったに過ぎず、あくまでメシ抜きに生きては行けないと言う動かしがたい性質を持っていたし、今も持っている。死ぬまで変わらない。 アル中患者も同じく、酒に出会うまでの時間があっただけだ。子供の頃のその人は酒に溺れていなかったろうけど、「酒があれば依存する」と言う固有の性質は動かしがたいものであった筈だ。

性犯罪者などの再犯率の高さはもう有名になってしまっているが、それがその人固有の脳機能に因るものであるからだ。 決して治るようなものでない。 だから彼に再犯させない為には、性犯罪行為が「できない」環境に置くしかない。 できない状態を続け、運良くそのまま(再犯せぬまま)天寿を全うする、と言う、いわば「牢獄にいるような人生」こそが最良の余生と言うことになる。 事実刑務所とか言うのは、そういう(「犯罪ができない状況に強制的に置く」と言う)思想で運営されている面もあろう。

タバコ喫み、ニコチン依存症の者に禁煙させることはできなくもない。 政府が一切のタバコの販売を禁じてしまえば良い。手に入らないから止めざるを得ないだろう(それでも非合法な形での流通品に手を出す人はいる筈だが)。 タバコの値上げと言うのはマイルドな形ではあるが、上の措置に近い。 値を吊り上げることによって、ある経済状態にある者に「手を出せなくする」と言うこと。


理性に因る制御系の弱い人間をどう教育すべきか。 それは人生に禁忌を一々設定するしかない。 教育と言うより調教と言う方がニュアンスとしては近い。 教育を施そうにも、それを受容できる素地がないのだから仕方ない。

私は、あるタイプの人間を貶そうとしているわけではない。私なりに真剣に考えた末、このような結論に至っている。 「そんなことはない。教えて成長できない人なんていない」などと本気で言えてしまう人は、脳を含む人体のそもそもの「設計」を軽視し過ぎている。 人肉の味を覚えたヒグマは殺処分するしかない。「話せば分かる」なんてわけない。

不謹慎・失礼を承知で言うが、私は心底「アル中患者のような人に生まれなくて良かった」と思う。 人生そのものが、バンカーで始まりバンカーで終わると言った、まるで罰のようであるからだ。 ついでに、私自身は、その手の人らに対し比較的寛容な人であると思う。寛容である唯一の理由は、彼らをかわいそうだと思うから。


12/22(金)

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ビヤボンと言う楽器(笛)がある。琵琶笛・津軽笛などとも呼ばれた。 それらはみな江戸期の呼称で、今の人に分かりやすく言うならアイヌのムックリとかJew's Harpと言ったもの。基本的にそれそのものと言って良い。 いわゆる口琴である。 楽器と言うよりは玩具で、厳格に規格化されていたとは思えず、割かし個体差もあったろうと思われる。

鉄製の笛なのだが、Fluteと言うよりWhistleに近い(一応旋律っぽいものも奏でられるが)。 鉄片を使って珍妙な音を出すもので、天保年間あたりに子供を中心に流行した。 それに合わせた俗謡(政道を揶揄したような)の類も生まれたらしく、いくつかが記録に残っている。

そのビヤボン、流行の後、当時の政府(徳川幕府)から使用を禁止されている。 上の俗謡の類がお上の何事かに触ったらしい。 ビヤボンそのものに罪は無いと思うのだが、俗謡を全面的に禁止するよりはマシな措置だったろうか。 もしそんなこと(俗謡全面禁制化)なんてされてたら、現代に伝わる邦楽そのものが大幅に変質していた筈である。


ビヤボンを曲に使おうかと今考えているんだけど、そのもののサンプルが(無論実器も)見つからない。Jew's Harpならある。まあそれらは基本同じものなんだけど、バイオリンとカマンジャとフィドルが別の楽器とされるように、位置付け(使われる音楽様式)が変わると楽器音は別の意味合いを持ったりする。

Jew's Harpの音は割りと好きで、今までもいくつかの曲に使ってきたんだが、邦楽っぽいのに効果音として使いたい。 遊郭文化のしどけなさ、蓮っ葉さなんかが表現できないかと思って。


12/21(木)

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単純な犯罪事件のようなニュースを眺めつつ思うことがある。 俗に言う悪人にとって、世界は住み難くなる一方だろうと言うこと。 時代って変わるものだ。

私の少年時代、私の育った地域柄もあるかもしれないが、そこには「悪が賞賛される空気」があった。 悪ければ悪いほど英雄となれる、と言うような。 これは大抵鄙びた土地であればあるほど色濃く残っている感覚なのだが、古代・中世などにも似たような風潮(価値観)は存在した。悪をそれ即ち強さとして是認する感覚。 田舎にはまだその空気が残っていたりするのだろう。 まあそれにしても今とは隔世の感がある。 現代の若者なんかには、俄かに信じられないかもしれない。


東名高速で当たり屋やってたガラの悪い兄ちゃんが、インネンつけて絡んだ相手を追越車線に停車させた挙句、後続車との接触で死に至らしめた、と言う事件があった。

当然のように世論はその加害者に非難一色で、彼は後に逮捕されるのだが、その事由も危険運転致死傷か何かだった。 ぶつかったのは後続車、彼は(半ば強制的であるにせよ)停車を促しただけである。 つまり警察はかなり道交法を拡大解釈した上で逮捕に踏み切っているのだが、世論の後押しがあるからか、そこについて指摘する声は聞かれない。 彼に厳罰を望む声は多い。 今後、裁判員裁判とかになるなら、本当に判例とかを無視したような厳罰が処される可能性も高い。 つまり、現代社会はその手の悪人に対し、徹底して非寛容である。

悪人、つまり良心の欠如した人間と言うのは、どの時代のどの地域にも生まれてくる。 遺伝的な要素に地域間の偏りが無いとは言わないが(ハッキリ「存在する」と言う研究結果もある)、土地柄と言うのはそういう意味ではなく、悪を容認、更には賞賛する空気があるかどうかと言う、文化の面をここでは指している。

上の事件の加害者は福岡県人なのだが、私も福岡に住んでいた。 時代は違うものの、ある程度あの地域の空気感は分かるつもりだ。 彼はきっと地元で、「当たり屋」をやっていることを、一種の武勇伝としてむしろ誇らしげに語っていたのではないかと思う。 あの土地ではまだそう言う空気が残っていたりする気がする。 ただし、きっともうじきその空気も消える。 時間とは物事の変化・変質の具合を数値化したもので、単純に逆戻りしたりは決してしない。 悪人にとって、この社会はますます住み難くなる。


現代社会は悪人に寛容でない。 悪人の悪行に対しては、強い非難の声が上がる。 きっと悪人にとっては生き難い世の中である筈だが、このトレンド、短期的に変わることは無さそうで、むしろ度合いを強める一方であろう。

そういう社会では、悪人による悪行は表面的な件数で言うと減る。 だが、良心の欠如は生来の脳機能に拠っている面が大きい。つまり社会の風潮・趨勢がどうあろうと、悪人の絶対数がそんな短期間に劇的に変わるわけではないと言うこと。


これからの世の中は、悪人にとって負荷の強いものになろう。 地球上の全ての出来事は衛星から観測され、繁華街や主要幹線道路など街中の至るところにテレビカメラが設置され、車と言う車にはドライブレコーダーが搭載されるようになり、ほとんどの個人は携帯電話端末と言うビデオカメラを持つ。 法律・世間の空気・物理的な監視の目、と言った威嚇によって、悪人は悪行がやりにくくなる。

こういう社会において、悪人はどうなるのか。 悪人は悪人をやめられず、善人に生まれ変わったりなどできないから、多くは「善人のフリ」を覚える。 「善人」と「善人のフリをした悪人」は、表面上ソックリなので、区別が付き難い。 これからの世の中で、それらを見分ける眼力は必須の世間知となるだろう。


12/20(水)

影山リサ、ニューシングル「Up & Down」(全2曲)本日発売です。 以下、アーティスト本人から。


Up & Down

新曲「Up & Down」は80年代風のポップスです。独りよがりで寂しがり屋な女の子の気持ちをシリアスに、ドラマチックに歌いました。

ップリングの「I Don't Know Why」は、孤独で寂しい女の子の気持ちを歌った曲です。

どちらの曲も、感情の波に溺れる女の子の気持ちを歌っていて、感情の表現の仕方が違うだけで、この2つの曲は同一人物なんではないかなと、レコーディングしながら思ってました。

是非聴いてみて下さい。

影山リサ





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来週にはウチの今年最後のリリースアイテム、神田優花の「Parade」が発売されます。こちらもよろしく。




12/19(火)

影山リサ、新作「Up & Down」(全2曲)、収録曲について。


1.Up & Down

これ、どういう動機で作ったんだったろう。 ちょっと古めかしいPOPSみたいな曲。 なんか普通の歌謡曲って言うよりアニメとかの主題歌みたいなイメージ。

FM系のシンセとかストリングス・キーボードとか、ある時代の音楽を意識した形跡はある。 でも基本的にそういう音使いって好きなんで、あんまし強い意図の元ではないような。

そう言えばこの曲は、一回マスタリングまで終わった後でドラムの音をほとんど一から差し替えた。 結局今のシモンズ系のものになったけど、その前はもう少しおとなしいものだった。

譜面とかも見直してみたけど、あんまし強い意志性って汲み取れない。 肩慣らしみたいな感覚で作ったら、なんとなく良く思えるものが出来たんで発表にまで至った、みたいなところだろうか。 歌い手さん本人は割かし気に入ってたみたいなんで、まあ良かった。


2.I Don't Know Why

ポルタメント的な音の動きの持つ、ヒューマンな雰囲気をフィーチャーした曲。 私の考える愛のような曲の、具体的なイメージの一つ。 曲としては普通のPOPSです。

リズムギターとドラム(リズムマシン)以外の音は全部シンセサイザー。 イントロに口笛のフレーズを入れるイメージがまずあって、その音色を口笛そのものにするか、シンセで作ったものにするかでちょっと悩んだ。結局シンセにしたけど。

あんまり主張の強い曲でもなくて、結局カップリングに落ち着いたけど、個人的にはタイトル曲よりこっちの方が好きです。





12/18(月)

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ニュース番組とかいわゆるグルメ番組で、おいしそうな料理を出す店などが紹介される。 ゲストや司会者などは、そのうまそうな料理の映像が流れただけで「辛抱たまらん」と、涎を流さんばかりのリアクションを取る。

血中のナトリウム濃度(カリウムとのバランス)によって人は喉が渇いたと感じ、血糖値の低下などによって空腹を感じたりする。 これは我々の意思とは無関係な生理現象である。

基本メシを食いたがるのは人間の傾向性である。理性でなく本能的な欲望と言うこと。 そういう意味では性欲などと同じである。 無論人間の行動の背景には、理性と傾向性が混在している。 メシを欲するのは本能だが、「好きな食べ物」を選ぶ嗜好性は理性に拠るものでもある。 性欲は本能だが、人は性行為の相手に「人格」を求めないことはない。 異性に愛を感じるのは言語であり、理性である。

とにかく、この社会は性欲の発露は忌むべきとしているのに、食欲に関しては(かなり)寛容である。 これは普遍性こそ見られるものの、一種の文化に過ぎなかろう。

露出度の高い服を着た女性を登場させ、それを見た男性ゲストが「たまらん」、「やりてえ」などと、股間を押さえ涎を垂らすようなTVプログラムが(地上波のゴールデンタイムとかに)あれば、おそらく視聴者から非難が殺到しよう。 でも上のグルメ番組とかだって、本質的には同じようなことをやっている。 無論文化に即したものであるわけで、人間が社会の生き物である以上、その面は実に大きいわけだけど。

私は今回の文章のようなことを、多分高校生くらいの頃から考えていたんだけど、今でも気分は変わらない。


12/17(日)

子供の発達について、ある人に興味深い話を聞いた。 直接の面識は無い人の話で、伝聞の伝聞のような形のものなので、多少内容も変形しているかもしれない。

とある子供がいたそうだが、その子は発達が遅かったらしく、明らかに標準的な子より言語の獲得などが遅かった。 遅れが明らかであったため、一歳半検診などでも当然のようにそれを指摘されたが、三歳を超えたあたりから言葉を話すようになり、その後ペラペラと、むしろ普通の子よりも饒舌に喋り出したと言う。

周囲(と言うか親)は安心した。 「はじめは発達の遅い子だったけど、結局は巻き返した」と胸を撫で下ろしたのだろう。 しかし小学校に上がる際、様々な検査をされた結果、その子はいわゆる「特別学級」に入れられたそうな。 他の子より饒舌なその子がある。

私の子供の頃なんかに比べると、昨今の教育機関の「発達に関する査定」は、実に微に入り細を穿っているらしい。 その判断を下した人らも、査定の結果が親などを傷つけることは当然解っていたろうから、情緒に流されるわけには行かないレベル(決定的なもの)だったと考えるべきかと思われる。 因みに、その手の検診などを行う担当者は、子供の知能と言う、実にデリケートなものを扱う故、表現・対応には細心の注意を払うと言う。

私が上の話を聞いて思ったのは、他人より明らかに遅い段階で獲得した表面的な能力(この話の場合では会話能力)は、外形上似たようなものでも、実は本質において内容の異なるものであることが多いのではないかと言うこと。

九官鳥は実に流暢に喋るが、言語の意味は解していない。 その子もよく喋り、一見会話が成立しているかのように見えたから、周囲も「我が心に植わっている言語機能と同じものが備わっているのであろう」と当然のように錯覚した。

「反省すること」と「反省したフリを覚えること」は違うが、表面的に両者の違いは見え難い。 ある質問に際し、相手の投げかけたその問いの論旨を理解し、思案の末、自分の意見を開陳することが回答である筈だが、思案したフリをし、解のようなそれらしきセンテンスを口にすること、でもある程度その場は凌げる。 周囲は煙に巻けても、専門機関はそのアルゴリズム(思考プロセス)の違いを見抜いてしまう、と言うのが上の話なのではないかと思う。


12/16(土)

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石ノ森章太郎原作の佐武と市捕物控って作品がある。元は漫画なんだが、人気作品で当時アニメ化までされたらしい。 60年代のアニメでまだ白黒である。ただ現在でも(石ノ森作品全般に言えることだが)入手は比較的容易である。 原作の漫画をここ最近読んでいるのだが、ついでにアニメの方も見てみた。

そのアニメ、割りと面白い。 古い作品なんで技術的なところとか拙い部分は当然あるのだけど、それにしても奇妙な魅力がある。 そこはかとない無気味な世界観が魅力となっている点で、妖怪人間ベムなんかを髣髴させる(因みに「佐武と市〜」の方が古い)。

悪役を含め、不具者のような登場人物が多いのだが、そもそも主人公の一人である松の市からして、めくらの按摩と言う設定。そこが理由かは不明だが、再放送などには難があるのか、地上波で目にすることは稀な作品。

時代劇のようなものって考証が曖昧なことが多いんだが、その辺も割かし堅牢である気がする。 登場人物のセリフに出てくる用語が近代以降のものであるとか、突っ込みどころは色々あるが、その辺を差し引いても作品は及第点に達していると思う。 あれの連載を開始した頃の石ノ森って確か二十代後半とかだ。読書家なんでしょうね。


12/15(金)

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近世邦楽における「ハネたリズム」について考えていた。 いわゆるシャッフルとかスウィングとか言われたりするもの。解釈によっては三拍子系と見做されたりもしようもの。

まず日本で現存する最古の音楽である雅楽には、三拍子系の楽曲は存在しない。絶無である。 二拍子・四拍子系のみと言うわけではなく、夜多羅拍子などと言う一種の変則リズムのようなものはあるが、正確な三拍子と言うのは無い。

中世の、能の音楽でも三拍子系は見られない。 数少ないながらも残っているレパートリーにも、多分見当たらなかったと思う。 要するにある時代までの日本人の拍節感覚に、三拍子は馴染まなかったと言うか、存在しなかったらしい。

近世に入ってから生まれたとされる、いわゆる歌舞伎の下座音楽のようなものにはハネたリズムも散見されるようになる。 が、私が聴いたそれらの楽曲が、本当に近世に生まれ、演奏表現も固定化されていたのか、検証できなくてちょっとよく分からない。

落語の出囃子とか端唄・小唄の類にも見られるが、これもいつ頃その手の楽曲が生まれたのかハッキリしない。仮に生まれたのが前近代でも、録音物が残っているわけでもなく、楽曲が誕生当初のまま伝承されているのか分からない。 明治以後の、西洋音楽流入の影響があるような気がする。

民謡のようなものの中にも、ハネたようなリズムは見られる。が、モノが民謡なだけに楽曲の来歴とかも判然としない。そんなに古いものには見当たらないようにも思える。 こう言うのの研究書とかあれば助かるんだけど。小泉文夫とか残してないんだろうか。

私の結論。 前近代の邦楽に、ハネたリズムはほとんど存在しない。存在したとしてもかなりレアなものである。 また、日本人古来の拍節感覚にも馴染まない。 現代に伝わる、邦楽と呼ばれる楽曲の中にそういったものは散見されるが、多くは明治後流入した西洋音楽の影響でそのように変化して行ったものであろう。

近世までの日本の音楽って、三拍子とか四拍子とか言う以前に、詩吟とかせいぜい長唄のような、拍節進行感が明確でないダラダラしたものがほとんどだったんじゃないかと言う気がする(特に声楽曲は)。 邦楽は、ルーツこそ近世にあるのかもしれないが、スタイルの確立はほぼ明治以後と言う、現代音楽と言って差し支えないものであると思われる。


ついでに、楽曲の伝承過程における変質についてもメモ。 楽曲(演奏)ってのは、どうしても長い歴史の中で変質して行くものらしい。 クラシックでもそれは見られる。特にスピード、基準ピッチ(A=440Hzなどと言う等において明らかに確認できる。 楽曲のテンポ指定などがこんにちのBPMのような絶対的速度表記でなかったりしたから、その手の変質は起こりやすかったろうし、変質を許容する感覚もきっとあったろう。

雅楽のように、お上直属の演奏集団が固定的な楽曲(演奏)を伝承するようなスタイルだと、(少なくとも俗楽などに比べ)諸々の変質は起こりにくそうであるが、基準ピッチなど明らかに変化していた形跡がある。 ある時期にイギリス人だかが計測した実測値が、三分損益法で算出した理論値(当初これに準じていた筈)と懸け離れているのである。長い歴史の中での変質と思われる。 それにしても雅楽曲は、かなり高い純度で原型を留めているのではないかと私は考えている。

確か明治期だったかに、この「楽曲の変質」を嘆く雅楽関係者の声が残っている。 時流への迎合と言うか、具体的には俗楽、あるいは西洋音楽に影響された部分を嘆いたものと思われる。 雅楽には変質自体は確実にあったのである。 ただし、「変質を許容しない」と言う雅楽の性格から来た嘆きであろうことは察せられる。 変質を望ましくないとする感覚すらない俗楽であれば、当然その種の嘆きも記録されることは無いわけで、あるいは上の証言は、雅楽の変質の少なさを物語っている部分もあるかもしれない。


12/14(木)

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虫歯ができる。齢と言う字に歯が入っているように、人間の老いを象徴する部位らしい。 日常的に使うものだから悪くなるのである。洗濯機やパソコンが壊れるように。 エントロピーは増大し、人体そのものも、使ってりゃいずれ壊れる。

扱うものが食い物だったりするものだから、歯は当然のように腐る。 ここで、どうしてそもそも腐らないような構造・材質でないのか、と言う素朴な疑問が沸く。 人体は、人間がこんにち程度の時間生きることすら想定していない。

人は死ぬ。死ぬべく設計されている。 人は子を残すことによって種そのものは維持するべく設計されているのだから、とりあえずは個体を基本的に死なない方向に設計できなかったろうか。 個体にはタイムリミットを設定し、遺伝子を子孫が継承する方向に人間は設計されている。 何らかの面で、その方が有利であるのだろう。

とりあえず私はいずれ死ぬ。私と言う戸籍情報を持った人間は死に、二度とこの世に現れないとされる。まあそうだろう。 私はいわゆる輪廻のような話を俄かに信じる人でないが、子供の頃の私と今日の私が同じ私であることに、輪廻のような不思議を感じないでもない。

今日の私が例えば、昨日の自分のやらかしたことにある種の羞恥を感じたりするのは、昨日の自分を同じ私だと感じるからだ。 同じと定義できる条件を満たしているのだろう。

この宇宙の、この時空のどこかに、私が同じと認定できるほどに私と同じ言語機能があるのなら、それはきっと私である。 私なのだけど、その私は、今の私の戸籍情報だとか預金残高だとか、そういうものを継承しているわけではない。

今の私が、どこかにいる私にあげられるものがあるとしたら、それは日々作り続けている歌くらいだろう。 ソイツは私なのだから、きっとその歌たちに涙するはず。 私は私を探し続けているんだと思う。 だから、目の前だけの景色に合わせ、妥協の末生まれたような歌を作っても意味が無い。 そういうのって、消えて行くものだから。


12/13(水)

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いわゆるお笑い芸人なんかを眺めているとしばしば感じてしまう、ある種の危うさについて考えていた。

「受ける」とか「笑わせる」と言うのは、要するに相手からあるリアクションを引き出すことなのだが、相手抜きに成立し難い辺り、商売のスタイルが根本的な部分で依存的である。 「引き出す」と言うのはいわば「奪う」ことなわけで、彼らは常に何かを奪おうと画策していることになる。 だからそこはかとなくウザい。

とあるCMで、女性に何かを問われた男性が「何だと思う?」みたいに聞き返す描写があったんだが、それ見た時も私は瞬間的に「ウザい」と感じた。 焦らすことによって相手の関心を引きつけようとする行為、これの正体も依存だろう。

良い歳してやたらにオシャレなオッサンとか見たら、私はそこでも反射的に「めんどくさそう」と感じてしまう。 単にオシャレが好きな人とかもいるんだろうけど、大抵の人はそうでない。 「好き=何かを見たい」のではなく、「自分を見せたい」と言う人がほとんどだ。

魅力的振舞いを為す、と言うのはまさに奪うための画策である。 私は「コイツ良い歳していまだに他人から何か貰おうと思ってるのか」と感じてしまうわけですね。 私の中を巡っている計算式はそんなに狂ってないと思う。

ヒトラーと言う人物がいる。 ヨーロッパなんかでは人類の敵と言わんばかりで、非難しか許されず、その反動としてネオナチのようなものが生まれたりもしている。 私はヒトラーやナチスの歴史的意義についての評価はさておき、ヒトラーのあの「チョビ髭」を見るだに「ウザそう」と言う感想が拭えない。 あれに比べれば今の日本政界の中枢にいるような現役の政治家らは、風貌からの印象一つとっても、それなりに堅実・堅牢な人たちであると思う。


12/12(火)

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三位一体論について考えていた。 とりあえず神とその子イエスについては良いとして、聖霊ってのが何のことなんだか、本とか読んでもよく分からない。

一体と言うのは一先ず「同じ」と解釈したい。 同一パターン、同じ配列を持った何か。 昨日の私と今日の私が同じ私であるのと同じように、三位一体のそれらは、ある面において皆同じなのだろう。 だから聖霊と言うのも、神やイエスと同じパターンを持った何かと言う風に解釈すればとりあえず良いのだろうか。

遍く存在する神が、ある時にある場所で、イエスと言う生身の人間に化生したと言うことらしい。 ここで仏教(神道?)用語を使うのも何だが、イエスは、神が垂迹した存在とされたのだろう。

仏教に話は飛ぶ。 釈迦はゴータマ・シッダールタと言う、過去この地球上に実在した人物と言うことになっているが、釈迦も神のように永遠不変の存在とされている。 久遠実成の釈迦(と言うより仏陀)が、現世に垂迹した存在がゴータマ・シッダールタと言うことらしい。 神学論みたいなのって、よくよく考えると至極当たり前のことを言っているだけのようにも思える。

水(H2O)は摂氏0度を境に凍り出し、100度を境に沸騰し気化する。これは宇宙普遍の現象だろう。 遍く存在する法則であるが、水と言う物質が無ければ、とりあえずその現象を目の前で確認することは出来ない。 梃子の原理も宇宙普遍であるが、棒や何やと言う道具がなければ、それを眼前に出来させることはできない。

梃子の原理と言う、潜在的には宇宙普遍のものが、棒や何やと言う道具を用いることによって可視化される。 久遠実成の釈迦も、ゴータマ・シッダールタと言う一人類によってこの世界に現れた。垂迹とはこのことを指しているのだろう。 神もイエスによってこの地上に現出したと。

日本でも(鎌倉時代あたりから)垂迹と言う言葉は使われた。 仏本神迹・神本仏迹と言った垂迹説として。 ただ、当時の日本人がどう言う意味(感覚)でこの垂迹と言う言葉を使っていたのか、正確には掴みかねる。 神と仏に序列が設定されているっぽいあたり、三位一体の「一体」とはかなり違う意味なのだろう。


私は在るものは無くならないと思っている。 「God is(神は存在する)」と言うが、神も久遠実成の釈迦も、存在するのだからそれは普遍であり、条件が揃うことによってこの世界に現出するし、条件の欠如によってこの世界から消えもする。 イエスやゴータマ・シッダールタなんて人らは、その条件。梃子の原理を現出させる為の棒や石ころ。

存在すると言うことは、現出するしない以前に在ると言うこと。

イエス(キリスト)は復活したと言われる。 私は新約聖書を史書としてどこまで信頼して良いかよく分からないが、一旦死んだ生身の人間が蘇って再び生命活動を開始する、なんてことはあるまいと思う。 が、「復活しうる」と言うことについて異論は無い。 在るものなんだから、条件次第では再び現出しよう。

この先、きっと私も条件の不足によって、一先ずこの世界から姿を消すだろう。 霧消した私が再びこの世界に現出するかどうかは、今の私が本当にいるか否かにかかっている。 私が本当に実在するのなら、決して消えたりはしない。 そういう意味では、私には変な自信がある。自分が間違いなく存在していると思えるから、あんまし色んなことが怖くない。

何かがこの目の前から消え失せ、今この瞬間にそれを目に映したり触ったりできないことを残念に思うことはある。 その気分を拭うことはできないけど、「在るものは無くならない」と言うことが、私の中で救いとなっている。 私が思いを馳せるのは、目の前に現れぬその何かが、本当に在ったのかどうか。 在るものなら無くなりはしないが、無いものは初めから存在しないから。

ついでだがこの稿では、神と言う言葉を一神教徒の言うそれと日本語の(八百万の神の)神と、二つの意味で使ってしまっている。 まあ分かると思うけど、乱暴な使い方ではあります。


12/11(月)

またスチール撮ってました。 これで暫くは絵に不自由しないと思う。

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睡眠不足は良くないと言う話。 私はいわゆるショートスリーパーで、正直あまり寝ない。でも徹夜なんて基本的にしない。 創作意欲が高ぶり過ぎて、気が付けば朝になってた、みたいなことはあるけど、それも最近減ってきた。 基本的に無理はしないようにしている。

ある時期の漫画家の異常な短命ぶりが気になって、色々調べてみたことがあるのだが、手塚治虫やそのフォロワーとでも言うべきトキワ荘グループの面々、(多少の例外はあるものの)ほとんどが60歳くらいで亡くなっている。 手塚が60、石ノ森章太郎も60、寺田博雄も確か60くらい。藤子F不二雄が62。短命過ぎる。 きっと寝てないからだ。

と言うわけで、睡眠不足は良くない。 私もなるべく無理しないようにしてます。皆さんも気をつけて。


12/10(日)

Wikipediaと言うWeb版百科事典のようなものがある。便利なんで私もよく使う。 ただしそこに載っているのは、いわゆる公式情報ではない。 有志の手によって作られているようなものなので、情報の吟味にはある程度のリテラシーが要る。

私の知っている人なんかにも、自分自身の項目をWikipedia上に作成している人がいるのだが、どうもあれを一種の権威だと感じているらしい。 事実歌手志望者のプロフィールに「Wikipediaに載るような歌手になりたい」とか書いてあったりする。 Wikipediaを何だと思っているのだろう。

以下はあまり言われないことである。 圧倒的な人気を持つようなアーティストはさておき、例えばメジャー流通商品を出しているようなアーティストでも、特に新人なんかは実のところメーカーだとか事務所の関係者があれの項目を自ら作成しているケースが多い。 同業者のようなところ(小規模レーベル)でも、自社のアーティストの項目を自ら作っているところがある。

単に自社商品のカタログだとかアーティストの概要(バイオグラフィー)を示したければ、自社のHP(オフィシャルサイト)などを整備すれば良い。 わざわざWikipediaを編集したがるのは、あれを権威だと感じているからに違いない。

「あなたのところはWikipediaのページ作らないの?」と言われた事がある。 因みにWikipediaでは「トピックスバリューが無い」と判断されたページは削除対象になったりするらしい。ウチのコンテンツにその価値があるかどうかなんて私には判断できないが、仮に神田優花のページなどこさえてしまったら後が大変である。

神田優花の音源リリースの頻度が現状のようである以上、数ヶ月に一度はページを編集せねばならず、もうそれは一つの業務になってしまう。それ用の人員抱えてるようなところならいざ知らず、ウチみたいな規模では誰がそれやるんだって話になる。 本当にそのような情報が必要だと感じるリスナーが一定数以上になれば、そう思う人らによって、自然にそのページは出来上がるだろう(事実海外リスナーで神田優花のWikiを作っている人は既にいるようだ)。 需要も無いのに権威だけ求めてそんなものを作れば、それを維持するコストに振り回される。 「無理は負荷を生む」と言う実に分かりやすい例ですね。

トピックスバリューがあり、需要があるからこそ情報源としてのページが整備される。それが延いては権威ともなった。 そのメカニズムが分からず、権威の部分のみしか理解できなかった者が、わらわらとその権威に群がる。現代日本の縮図のようだ。 研究の成果に与えられる賞の、その権威部分にのみ着目した人がSTAP細胞を捏造してしまうのと同じ。


12/9(土)

邦楽っぽい曲を書こうかと何となく思っている。 邦楽っつっても、例えば長唄のような重様式のものを書くつもりは(とりあえず現時点では)無い。

影山リサの「Hypnotism」って曲なんかは長唄をベースにしてて、当時それなりに資料とかも漁りつつ書いたものなだが、がんばって削っても4分台になってしまっている。 置歌とかチラシとか、最低限の様式(展開)を踏むだけでもある程度の尺が必要になってしまうからだ。 その様式を厳格に踏んだ曲を何曲も作るつもりはとりあえず無くて、もう少し縛りの薄い、例えば端唄だとか小唄のようなもの(要するに俗謡の類)を作ろうかと今思案中です。

端唄・小唄の類って、近世邦楽とは言っても、時代区分的には近世最末期くらいに誕生していて、実際に発展したのは明治以降って面も濃厚だ。 因みに端唄とかってのは、音楽ジャンルと言えるような様式性を持つものでなく、どちらかと言えば流派名に近い。 編成とかも含め決め事は曖昧で、私のイメージでは邦楽臭い三味線音楽、程度のものでしかない。

ただし「それらしさ」のようなものは厳然としてある。 単なるJ-POPを三味線でアレンジしたものを端唄と呼べるかと言うと、決してそうでない。 端唄楽曲を実際に作っていた作曲者ですら認識していたか怪しい部分ではあるが、この核のような部分を体感できねば端唄は書けないだろう。

邦楽のこの辺のジャンルって境界が曖昧で、流派を跨いで継承されているレパートリーとかもたくさんある。 基本的に長唄の影響は強いようだが。 落語の出囃子に長唄からの転用が多く見られるんだけど、ああいうものに近いのかも。 出囃子に歌入れたみたいな。 私が今作ろうとしているのも、そんな感じのライトなものです。


12/8(金)

NHKのある番組で、食虫植物と蟻の奇妙な共生関係みたいなのが特集されていた。 上の空で見ていた(聞いていた)ので詳細は失念したが。

共生について考えていた。 上の例以外にも、イソギンチャクとクマノミの共生関係とか有名なんだけど、生態としての環境を確立しているケースは、それ自体が一つの生命体なのではないかとすら思える。 生物の学問的な定義は別のところにあるんだろうけど。

この私とて腸内細菌とは共生している。 他にも、私の中にあるミトコンドリアのDNAは、私とは別の遺伝子情報を持つと言うが、これも広義には一種の共生と言えるような気がする。 断っておくけど、今回の文章には結論のようなものが無い。私に生物学などの知識が無いからこれ以上深く掘り下げられないんです。 分かってる人にとっては自明のことを考えているだけだったりして。


12/7(木)

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人は誰も皆「得」をしている。 損ばかりしているように見える人だって、実はその人なりの得策を選んだ結果そのようになっている。 わざわざ損な道を意志的に選ぶ人なんていない。

例えば借金までして物を買う人がいる。借金で物を買うってのは、10万円のバッグを11万円で買う方法なのだが、あるタイムスケールを持つ人にとっては「品が手に入るのは今、金を払うのは先」である。未来の自分など他人と同様と思える人にとって、その行動は合理的だ。

「どうしてあんな人と結婚したのだろう」と周囲に訝しまれるような人だって、実はその人なりに得策を選んでいる。 何らかの事情によって、その相手を選ばないよりは選ぶ方が得なのであろう。 人はわざわざ損をしたりしない。

「人は必ず得をしている」。ここが分かってくると、行動からその人の世界観も見えてくる。

「結婚指輪なんてつけてたら異性にモテなくなる」と、こっそり指輪を外す人がいる。 逆に「結婚指輪をつけてなければ、結婚相手すら得られない人間だと見做される」と、指輪の存在に安堵を覚える人もいる。 後者の気分が高じれば、もはや相手などいなくとも指輪だけでもつけたくなるかもしれない。 私個人は、この二者なら、前者でありたいと思う。

人は気分の生き物である。 客観的に見てどういう悲惨な境遇にあろうとも、本人が幸せな気分でいるならその人は幸福だ。 人は決して損を選ばず、常に得を選んでいるのだから「何をもって得とするか」がその人の本質と言うことになる。 そこにその人の時間間隔も如実に現れる。 時間ってのは天体の動きから計測したものでなく、その人の意識の中に流れる時間のこと。


12/6(水)

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神田優花、ニューシングル「Siren」(セイレーン/全2曲)本日発売です。 今回のは出しどころに迷った曲で、良い抱き合わせ方が思いつかなくて、結局シングル化して単独でリリースすることになりました。 アルバムとかにも収録しないような気がします。まだ分からないけど。

とりあえず下はアーティスト本人から。


Siren/Crystal Ball

Sirenはセイレーンと読みます。 この曲はかなり変わった録り方をしてて、、、というのも私、レコーディングの日に初めてこの曲と出会ったんです。
その場でフレーズ毎に覚えて、即レコーディング!を繰り返しました。
作り込まない、感情を乗せないで歌う、というのをコンセプトに歌ってます。
出来上がりを聞いて初めて、こんな曲だったんだってわかるという、異色作ですね。

逆にCrystal Ballはいつもよりリハを重ねて録った曲。
ラップとも違う、ただしゃべるわけでもない、お経のようなローテーションでぶつくさ言ってます。
"歌わない"というのがとにかく難しかった。

新しい体験をさせてくれた2曲です。
どんな曲よ、と思った方。 ぜひぜひ聴いてみてください。
新しい何かに出会えると思います。

神田優花





12/5(火)

神田優花、最新作「Siren」(全2曲)、収録曲について。


1.Siren

タイトル「Siren」はセイレーンと読みます。

まず四声の(付け焼刃な)フーガを書いて、そこにシンセ音色を被せた。 あとリズムパートとSEの類も加えた。 シンセポップとバロック音楽のハイブリッド作品。 原型と言うべき段階の曲にあったピカルディ終止は、曲(音)の雰囲気に合わなかったんで削除した。だから尻切れトンボみたいな印象与えるかも。

ボーカルのパートを含め、もう全然POPS的では無いんだけど、クラシックのようなものを作るつもりは全く無かった。 メロディーラインについては、全体像を一旦頭に描いてから譜面化したようなものでなく、オケ聴きながら数小節単位で適当に書き足して行ったような(いい加減な)もの。 上がった当初、作った私ですら旋律を覚えていなかったと言う。

いわば音モノと言うか、音楽そのものよりも音色の方に力点が置かれたような曲。 まあでもその割には原型となるフーガ部分を書くのに時間は掛かっている。 多種類のカノンを盛り込んでたりするんだけど、惜しむらくは音色のせいか、音の細かい粒が聞き取り辛い。


2.Crystal Ball

あんまし深遠な動機で作ってはいない。 私なりの試行錯誤の一環と言うか。あるイメージを形にできるか試してみたんだけど、ある部分については「できない」と言う結論を得た。 得たものがあるのだから、とりあえず無意味ではなかったと思う。

私の出したかった雰囲気を、とりあえず日本語の歌詞で出すのは難しいらしい。 英詞にすれば良かったのかと言うと、単純にそう言うことでもない。 テイストとして、ネイティブの発音とか英語使いが持つ固有のリズムのようなものがもっと色濃く必要だったらしい。

アレンジはあんまり特定のジャンルを意識したようなものではないけど、スクラッチとか多用しているんで、HIP HOPとかの影響は多少あるかも。特定の楽曲やミュージシャンのイメージがあったわけではない。 神田優花と言う人にとっては苦手なタイプの曲だったみたいだけど、それなりにソツなくこなしていはいる。 リハーサルには時間を掛けた曲。





12/4(月)

影山リサの邦楽シリーズ(邦楽ベースで作った企画モノ)のミニアルバムを作ろうと前々から思ってまして、既に収録曲は上がってて、あとはほとんどジャケット撮るだけって状態だった。 先日その為にスチール撮ったんだけど、イメージが上がり過ぎて、使い道に困ってしまっている。 捨てるのも勿体無いんで、予定より多くシングル切ることも検討してます。

影山リサの今年最後のシングル「Up & Down」は12/20(水)発売です。




12/3(日)

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石ノ森章太郎の漫画を読んで思ったこと。 著名な漫画家なんで知らない人は少ないと思うんだが、サイボーグ009とかHOTEL、佐武と市捕物控なんて言う代表作がある。他にも仮面ライダーやいわゆる戦隊モノシリーズの原作者として有名な人物。 あのトキワ荘グループの一員でもある。

石ノ森はとにかく原稿を描くスピードが早かったと言う。 当時の周辺の証言でも、ペースにおいて仲間内では随一、石ノ森に匹敵する者を挙げるとしたら、辛うじて手塚がいるくらいだろうか、と言うところだったらしい。 あまり言われていないことのように思うが、漫画家の原稿生産ペースにはかなりの個人差があるらしい。 まあこれは漫画家に限った話ではなく、クリエイター全般に言えることだが。音屋もそう。

どうしてペースにそれほどの違いが生まれるのか。それは各作者の自信に差があるからである。 一つの線を描くだけでも、その自信は如実に表れる。 曲を作っているから私にも分かる。イメージが鮮やかな曲の方が完成するのも早い。パート数とかトータルの尺とか関係なく早い。 このイメージの鮮やかさこそが自信である。

超人的な多作家だった石ノ森は、自信の塊のような人だったろう。 ある時期のトキワ荘グループの中でも最年少ながら、抜きん出て頭角を現したと言うのも頷ける。 あと個人的感想だけど、石ノ森章太郎って女にモテたろうと思う。作るものにそういう色気を感じる。


11/30(木)

先週撮ったスチールの上がりを少しづつチェックしてたんだけど、毎度のことながら骨の折れる作業だ。

神田優花のニューシングル「Siren」は来週水曜発売です。




11/29(水)

地下鉄の貼紙に「痴漢は犯罪!」などとある。文法的な部分にまず引っ掛かるが、とりあえずそこは本題でない。

痴漢行為は犯罪とされている。 日本は法治国家だから犯罪は当然禁忌である。私もそんなことやらないし、推奨もしない。痴漢なんて逮捕して良い。 だが、「痴漢行為は女性の尊厳を踏みにじる蛮行です」とまで言われると「そんな大袈裟な」と思う。 体触られたりしただけじゃん。

もし私が女なら、満員電車の中などで体を触ってくるオッサンとかいたら、確かに鬱陶しい。警察には「取り締まってくれ」と言うかもしれない。 が、「自分の人間としての尊厳が根底から蹂躙された」とまで思わない。「そんなアホな」と。

警察も鉄道会社も圧倒的な男組織なんだろうと思うが、痴漢の実態が分からなくなってやしないか。たかが痴漢ですよ。 女性を丁重に扱うのは良いが、ある程度正確な理解に基づくべき。 この最低限の理解すら持てないヤツこそが、弱者を権力にしてしまっているんじゃないのか。 女性専用車両とか全く必要ない。

自分自身ですら人権感覚を持てないような者でも、世間の趨勢のようなものなら嗅ぎ取れる。 「よく分からないけどこれを持ち出せば思わぬ成果が得られるようだ」などと、周囲の無理解に付け込むような輩は存在する。 しっかりしていない親を持つ子供は、自らを人質に要求を突き付けたりもできる。 付け込まれる人ってのは、付け込まれるべくして付け込まれている。それだけの人だってことだ。

生理中とか言って水泳の授業をサボる女生徒を、どう扱って良いか分からず狼狽するのは、しばしば若い男性教師だったりするだろう。 そんな人が、一人で膝を抱える少女の心の側にいてやることが本当にできるだろうか。 しっかりしてない人が多過ぎる気がする。


11/28(火)

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絵物語について考えていた。 今、山川惣冶の「少年ケニヤ」を読んでいる。 連載(初出)は昭和26年とある。

絵物語ってのは、要するに挿絵の分量の多い小説で、読んだ感覚としては紙芝居なんかと近い。 ある時代までの少年向け読み物の代表格の一つで、少年雑誌などが今ほど漫画に占められる前は、漫画などと似たような位置付けであった。 内容としては紙芝居を出版物化したものと考えて良いかと思うが、実際絵物語作家は紙芝居作家からの転向が多かったようだ。

その絵物語、意外と面白い。 「意外と」と言うのは、その後少年誌の世界から淘汰されてしまったと言う結果からの感想だが、当時の下手な漫画なんかより(特に山川作品など)よっぽど面白いと思う。 本当に、どうして漫画がこんにちのような圧倒的地位を占めるに至ったのだろうか。 映像の処理が、詰まるところ簡単だからか。 ついでに、絵物語を読んでいると、登場人物のセリフだけで物語が進行している漫画の方が奇異に思えてくる。

因みに、山川惣冶って人は漫画界で言うところの手塚治虫のような人なんだが、両者のこんにちにおける知名度の差は斯くの如し。 手塚は天才だが、その活躍は漫画と言うメディアの隆盛とシンクロしたものだ。 才能ってのが、状況の要請によって生まれると言う、分かりやすい例ですね。 戦国武将も幕末の志士も、状況が彼らを英雄にした。


11/27(月)

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実はここ二週間くらい風邪っぽくて、仕事の能率下がりっぱなしだった。 風邪なんてほっときゃ治るだろうと思ってて、実際そうなんだろうけど、思考もままならない状態でダラダラ過ごすのも時間の無駄のような気がしてきて、結局病院行って薬貰ってきた。

しかし、風邪薬一つ貰うのに毎度医師に診断してもらい、処方箋貰って調剤薬局に行かねばならないってのは、いくらなんでも非効率に過ぎる。 因みに調剤薬局には、3〜4人は人が詰めていた。人手不足だと言うに、人的リソースの無駄遣いも甚だしい。

大体薬剤師とかって、四年制大学出なきゃ取得できないほどの価値ある資格なんだろうか。 今時本当に薬剤を調合するわけでなし、あんなのコンビニのバイトより簡単だろうに。 薬局行っても、薬剤師がいない時間帯だからとて買えない薬があったり、ネットで薬買えないとか、規制多過ぎ。

医師による診察に価値が無いとまでは言わないが、あくまでプロの所見ってのは判断材料の一つに過ぎなかろう。心配な人は毎度所見を伺えば良いし、自分で判断できる人は自分で薬も選べば良い。 現状それらに選択の余地がほぼ無いからこそ、判断材料たる情報も乏しいのだろう。 需要があるならその手の環境などすぐ整うはずだ。 セルフチェックでお勧めの薬を提案してくれるウェブサイトの類とか、いくらでも出てきそう。

そもそも薬の購入にああまでのハードルを設ける必要性ってどこにあるのだろう。 濫用の防止とか言い出したら、塩でも砂糖でも過剰に摂取すれば体には悪いわけで、あくまでセルフコントロールに委ねられるべきものだろう。

年金制度が崩壊しかかっていると聞くが、医療ももう少し本気でシステムを効率化しないと早晩の破綻は避けられないと思った。

私は基本的に依存することが嫌いで、だから医療機関などにも極力お世話になりたくない。 無論この依存回避性も、度を越すと一種の病気であろう。 私もメシを食うためとて水田の開墾から始めようとはとは思わない。 しかしこの社会で生きる際に、制度上不必要なほどに依存させられてしまうと言うのに少々引っ掛かっているわけです。 自分でできることくらいやらせてくれ。


11/26(日)

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スチール撮ったりしてました。今回からカメラマン変わってます。


今回のスチール撮りの目的の一つに、「影山リサの(邦楽テイストの)アルバム・ジャケットを撮る」ってのがあった。 とりあえず目的は達したと思うんだけど、多くのパターンを撮りすぎてしまいまして、せっかく撮ったものの使い道が無いものが多くなりそう。 「勿体無いから邦楽っぽい曲もっと作れ」とか言われてしまったんだけど、それはそれで簡単じゃないから困る。

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11/24(金)

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古い話で恐縮。 STAP細胞事件の彼女の会見を、専門の捜査官だかが検証した結果「あれはウソを吐いていない目だ」との見解であったそうだ。 鑑定自体に驚きは無いが、その捜査官とやら、「そんなに少ない標本数しか扱っていないのだろうか」と言う疑問は持った。 世の中、普通人と同じ尺度で測れる人ばかりではないですよ。 アドラーの著書とか、一読をお薦めする。

ウソを吐いた時、嘘吐きの挙動を示してしまう人は、自分がウソを吐いていると言う認識がある。 認識、言語である。 だから言語のある部分が壊れれば、そのある種の「気後れ」のようなものは発動されなくなる。 一般に罪悪感とか良心とか言われているもの。 人間の良心は人間の言語が生み出している。 だからそれが無ければ、人は人殺しだって何だってできる。良心が痛まないんだもの。

「ウソを吐きつつ、ウソを吐いていない気分でいられる」。こういう人が実在することが、イマイチ周知となっていない気がする。


11/23(木)

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リーダーには器ってものがある。 家父長は数人、多くても十数人とかを統べるリーダーだが、大統領は全国民を統べるリーダー。 町内会長の器しか持たない者が大統領のポストだけ与えられれば、それは即ち破綻を意味する。

豊臣秀吉が天下人となりえたのは、彼にその器があったからだろう。 日本のいわゆる戦国期にいたローカルな武将らは、ある範囲の地域を統べるリーダーではあったろうが、彼らが天下(と言うより日本国)を任されれば、たちまち破綻を招いたに違いない。 事実息子は、豊臣政権を維持できなかった。

結果として与えられたポスト・称号と、その人物に備わる力量は違う。分けて捉えるべきもの、と言う話をしている。 日本社会には血統信仰のような土俗性が濃厚に残っていて、多くの現代人にも、上の二者の成分的な違いが曖昧に見えているらしい。

お隣の支那では、政権交代の度に大量の流民が発生した。 流民を統べるにも、その数に応じた力量が問われる。 劉邦と項羽の差は、詰まるところその器だったろう。 力量なき者が立場だけを得ても、集団は雲散霧消せざるを得ない。 相応しき実力を持たぬ二代目の若旦那とか世襲政治家が、一応はその職責をまっとうできていたりするのは、彼らが立場以外の有形無形の何かをも継承しているからだろう。

遊牧民族とかその辺が顕著だが、時折(チンギス・ハーンのような)英雄的人物が生まれ、集団は大膨張を遂げる。 チンギス・ハーンの子や孫の代になって、モンゴル帝国が分裂するのは、要するに地球規模の版図を維持できるだけの器を持つ者がいなかったからだ。


現都知事についてである。 出来立ての新党は崩壊寸前だそうな。 私はそれで良かったと思うし、日本の有権者らの慧眼にある意味感心した。 私は、一時的に政権取るぐらいのところまで行くかもしれないとすら思っていたから。

仮に政権を取ったとしても、きっと早晩それは崩壊したろう。日本史上の類例を探すなら、建武の新政とかに近かったかも。 頓挫した平成版・建武の新政だが、禍害が少なかっただけ気が利いている。 それもこれも有権者のお手柄。

私は彼女をそれなりに有能な人だと思っているんだけど、自らの器を、いくらなんでも高く見積もり過ぎた。 聡明なお局様だからと言って、一国の宰相の座を狙うとか、飛躍にもほどがある。


11/22(水)

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日本のHIP HOP、日本語のラップ、どう呼ぶべきなんだろう。J-RAPとかJ-HIP HOPとか言えば良いんだろうか。 それ聴いてて思ったこと。

ルーツと言うかオリジンは明らかに海外にあるんだけど、明らかに日本独自の進化を遂げている。

ある時期、その日本版HIP HOPについて、(無論作ること前提で)色々考えていたんだけど、大した収穫は無かった。 その時考えたことを作品に生かした部分とかは多少あるけど、それそのものを作りはしなかった。

何故かと言うと、結局は独自性の大部分は、日本語の特性に流されて生まれただけのものってことに気付いたからだ。 あと独自性について、おそらくやってる当事者らが分析的に見詰めていない。 結果仕上がったスタイルより、分析的に見詰める態度(思考)の方に多くのヒントは埋まっている。


11/21(火)

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愛することと可愛がることの違いに気付けない人は多いらしい。 私の日々は思想的鍛錬の繰り返しなので、この手のことで迷うことは正直あまりない。

私は親に愛されたことは無い。可愛がられたことなら多少はある。 親が、可愛がりたくて(可愛がる対象欲しさに)私をこさえたことも今は分かる。 学校の先生などに可愛がられたこともある。微かに愛されたような気もしないでもない。

「あれは愛だったろうか」と今でも悩むようなものもあるが、愛でなかったものを愛だと錯覚したことはあっても、愛された記憶を失くすことはありえない。 私は、私が出会った、私を愛してくれた人のことを忘れない。

一般に、親にとって子は可愛い。 可愛いものとは、アクセサリーや何やのように、自分にとってのある感覚を満たすもののこと。 可愛い服や愛玩動物を買うように、可愛い子を作る人がいる。

可愛い服や髪飾りのように、ただただ可愛い我が子。 しかし困ったことに、その子供は人間だったりする。 自分の思い描いた通りの子供像に育ってくれないからとて、深刻な憎悪の対象になることだってあるし、幸運なことに望み通りだったとしても、熱帯魚を飼うようにただひたすらに可愛がるだけでは、集団に順応できるだけの最低限の所作すら身につけられない。

その子は人間だから、何かを目に映し、心で何かを感じている。 また、これは大切なことだが、その子は未来を持っている。

子供を叱れない親が増えていると言う。 叱る事によって「子から嫌われる」のを恐れているのかもしれない。 嫌われては、可愛がることによって貰っていた何かが貰えなくなる。

人間の自由は尊重すべきだが、人は社会の生き物である。 犬猫並みに野放図に育てた者を集団に放り込めば、周囲は無論迷惑するし、何より本人が苦労するに違いない。 叱ってやれないのは、親が我が子をアクセサリーだと思っているからである。 自分の何事かを満たす為に製造したものだから、その子の将来より、その子の存在が自分に与えてくれる何かに重きを置いてしまう。

私に分かることは、私が今までの人生で得た結論とは、「弱さは全てを壊す」と言うこと。 しっかりしていない人は、大切なものを守ることもできない。その前に、「何かを大切なものとすること」すらできない。


11/20(月)

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神田優花のジャケットイメージって暗いものが多い。 モノトーンだとか黒ベースだとか、カラー入りのものでも比較的彩度の低いものが多かった。シックと言えばそう。

神田優花のアーティストイメージに沿ったものだったんだけど、来年から若干のイメージチェンジをしようかと今考えている。 具体的にはもっと明るいものにしようと。 因みに、早速と言うか、今年最後のリリースタイトル「Parade」のジャケットは下のような、今までのに比べるとやや明るめのものになってます。 因みに12/27(水)発売です。




11/19(日)

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「くもちゃんゆらゆら」と言う童謡がある。海外発祥のものの日本語版。 原題に「Spider」の文字があるから翻訳なんだろうと思う。

それの歌詞がなかなかに良い。 軽く擬人化された動植物などを登場人物とした童謡ってのはよくあるが(「犬のおまわりさん」がどうしたとか言う)、「くもちゃん〜」に出てくる蜘蛛は、蜘蛛そのものである。 一種の叙景詞で、全く蜘蛛の心が書かれていない。 ケレン味が無くて私は好き。


11/18(土)

曲を作っていると、ある時点から道が二つに別れることがある。 どういうことかと言うと、例えば間奏のアイディアがAとBの2パターン生まれてしまう、と言うようなケース。 曲の構成には限りがあるから、どちらかを排除せざるを得なくなる場合はしばしばある。

私はそういう場合、どちらかを選ぶ(=もう一方を捨てる)か、そこでファイルを二つにしてしまう。間奏Aバージョンと間奏Bバージョンのように。 作っている過程で生まれてしまうものだから、当然その後も曲は変化する。仮にイントロに手を加えるとすると、AB両方のファイルにその修正を施さねばならないわけで、手間も相応に発生する。 だからこのパターン、実は極力避けたい。

私は音楽家だけど、これはデザイナーだとかそういうクリエイティブな作業をやってる人になら大抵心当たる話なんじゃないかと思う。 肉筆画家なんかはこれができなかろうから、結果的に彼らの創作は、即ち決断となってしまうだろう。 決断と言う精神的鍛錬は、個の確立をどうしたって促してしまうだろう。 とにかくプロットを捨てる決断力が弱ければ、この予備ファイルは際限なく増えて行く。

とりあえず結論の無い文章を打っている。 「可能性の枝葉」を際限なく抱え込むことはできるが、そこで作品は完成しなくなる。 創作の進行とは排除のことでもある。これは時間が排他性であることと似ている。

私はありえた何か(起こりえた可能性)について、それは在る・無いと言う側面においてはあったと同等と見做している。 プロットが排除され、音楽作品としては完成しなかった曲、それはある条件を得られなかった為に、(多分に音響として)可聴化されなかっただけのもの。

これはついでだけど、「あったもの(かつて存在した何か)」と言うのは、在るも同然である。 あったのだから。 あったのである以上、あり得たのだから、「条件の不足で現状可視化されない」とかそう言う程度の話。 あった何かについて我々が思うべきは、それが本当にあったか否か。それだけ。


11/16(木)

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とあるTVアニメのエンディングテーマを聴いていると、「なんと斬新なアレンジ(展開)か」と驚かされたことがあった。 Aメロの前半数小節とサビの後半数小節をドッキングさせたようなブロックがあったりとか。

が、詳しく調べてみると何のことはない。 放送の為の便宜として「○分○○秒の尺に収めてくれ」と言うタイトな命令があったが故に、無理矢理そういうエディットが生まれただけで、作曲家やアレンジャーの意図でもなんでもない。無論原曲はごく普通の構成を持つ凡庸な曲だった。 用途上、ギリギリ破綻を回避したような構成になってはいたから、作曲者などにまるでそのような作為があったかのように誤解してしまっていたのだ。

しかし実は、斬新性・独創性と言うのは上のように、むしろ制約から生まれただけのもの、と言うことが多い。 ベースのスラップ(チョッパー)奏法が「ピックがないこと」から生まれたりとかね。 あとそういう物理的制約以外の、思想上の制約みたいなのも独創を生みやすい。


11/15(水)

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前にもこれ言ったことあるんだけど、スパムメールが無くならない理由は、そのビジネスの「採算が取れている」からだ。採算が取れなくなれば、あんなものはたちまち消滅する。これは間違いない。 物事を在らしめるのは環境である。

「あんなワケ分からない詐欺めいた話に引っ掛かる奴なんているのか?」って思いますよね。私も思う。 でもいるのだ。私は見たこと無いけど、これは確実に言える。

スパムメールだってそれを送る為のサーバーの維持費や電気代だってかかる。企画考えたり文面打ったりする人的リソースも要る。 投入したコストを回収してなお余りある収益があるからこそ、スパムメール送信者は後を絶たない。 引っ掛かる人間がいなければ、あの運動が続くはずがない。


11/13(月)

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数日前に「まんが道」についての文章を上げたんだけど、言い足りなかった部分がある。 テラさん(故寺田博雄氏)についてである。

トキワ荘にいた漫画家連中のリーダー格にして、実際彼らのグループ「新漫画党」の総裁だった人物である。 トキワ荘メンバーの多くが日本漫画界の巨匠となっていく中で、いわば彼は取り残されて行った。 平たく言うと売れなかったわけだが、絶頂期にはメジャー誌の連載も持っていたし、それなりのヒットメイカーではあった。 ただ、比較対象となっている後輩たちが凄過ぎた。

寺田博雄は「まんが道」のもう一人の主人公とさえ言える。それほどに他の登場人物に比べ、扱いが大きい。 本当に作者にとっての印象も濃かったのだろう。 漫画家としてはさほどの名を成したわけではないが、トキワ荘から出た巨匠らの活動黎明期を支える存在として、彼は偉大な功績を残した。

晩年の寺田は決して幸福であったとは言えないが、生真面目すぎる性質故に鬱のような状態にあったのではないかと思われる。 だた、その性質がなければ上の功績も無かったろう。 寺田博雄と言う人は、ゴッホの弟のテオだとか、そういう存在を思わせる。 あれはあれで一種の才能なのだと思う。

自らゴッホになるつもりだった寺田だが、彼は実はテオだった。 自分に眠っている才能、自らに課せられた歴史的役割に自ら気付けない人っていると思うんだけど、一つの典型のような人。


11/12(日)

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「深夜食堂」と言うマンガがある。結構売れているらしいんだが、私も読んでみた。 感想は別の機会に述べるとして、ああいう食い物屋が現実にあったとしても、きっとそこで出る料理はそんなにおいしくないだろう、とは思った。


11/11(土)

正解を出せることって、そんなに高度ですかね。 日本は依然学歴社会であるようだが、マークシート式試験での高得点にどれだけの価値があるか、私にはイマイチよく分からない。

数十桁の暗算だって、コンピューターを使えば一瞬で解けますよ。 ある問いに向かう際、人間の心に去来する幾重もの逡巡の方が、計数能力などより余程に高度である。

ピカソは「あれは答えを出せるだけ」と、コンピューターを高く評価しなかった。 確かにあれに芸術作品は生み出せない。 芸術は、むしろ上で言う逡巡の方から生まれる。


11/10(金)

先日、店員に大声でイチャモンをつけている「態度の悪い客」を見かけた。 まあ一度くらい見たことある人も多いであろう光景で、今日も日本のどこかで彼らは暴れているのだろう。

店員は接客と言う仕事柄、あの手の人間との遭遇には(平均的な人よりは)慣れている筈だが、それにしたって気分良いものではあるまい。 耐えることも仕事だ、と割り切っているのだろうか。

タチの悪い客、あれはあれで一定の割合で生まれてきてしまうものではあるから、根絶するのは難しい。 蟻の群れは、二割だかが働き、それ以外は基本働かないと言うが、その稼動している二割が死に絶えると、それまで無為徒食していた蟻の中から働く者が出てくると言う。 しかもキッチリ全体の二割程度の数で。 つまり一見無価値、あるいは有害と思われる層も、全体の環境の一部を為している。必要かどうかはさておき、必然ではあるのだろう。

私はああ言う客を眺めていて「暴れたいなら好きにすれば良いけど、目の前の店員が君の相手をすることを割に合わないと感じたら、いずれ君は現状のお値段でそのサービスを受けられなくなるかもよ?」とは思う。 彼は自ら自分を生き難くしている。弱い個体と言うのはああいうものなのだろう。


11/9(木)

「まんが道」と言う漫画がある。 巨匠藤子不二雄の少年期から始まる、半自伝的漫画作品。 私はあれを多分小学生くらいの時に読み、今また一から読み返している。もう何度目か分からない。

本当に感動的な作品で、漫画家を志す人なんかには必読の書と言って良い。漫画家を目指さない私が見ても名作なんだもの。 内容はとにかく「熱い」。熱いとしか表現しようがない。未読の人は是非とも読んで欲しい。 傑作である。

一生懸命生きた人がこの世界に存在するだけでも僥倖とすべきなのに、その人が精密な記録を残してくれている。 それを読めると言うことは、我々がもう一つの人生を与えられたと同じこと。 我々はせっかくこの世界に存在できたのだから、是非とも読むべきかと思う。間違いなくその価値がある。

「一生懸命生きた人は、我々にもう一つの人生を与える」と言ったけど、一生懸命に生きない人は、唯一の人生(自分自身)すらも与えられぬのと同然である。 一生懸命に生きることとは、同じく一生懸命に生きた親友を得ることであり、親友を得ることとは、即ち生きること。 上の作品は、友人の意味を教えてくれる。

SNSや何やで何千何万の知り合いを得たところで、実のところそれは、一人の友人すら得られぬ人生を生きるのと同じこと。 友人を得られないなんて、生きていないのに等しい。 「生きている」と言うこの感覚、それこそが我々の正体なんだ。


11/8(水)



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神田優花、新曲の歌録り。 ニューシングル「Siren」は、予定通り12/6(水)発売です。 先週発売した「Savanna Night」の方も是非チェックしてみてください。





ハロウィンに渋谷で仮装した若者らが騒いでいたりする。それを警察などが規制しようとすると「庶民の娯楽を奪うな」みたいな論調が見られるようになるのだが、庶民と言うのは声のデカイ奴だけを指すわけじゃない。 その手の狂騒を好む人なんて、全体から見ればきっと少数派で、通行を妨害されて迷惑だと感じている人の方が多かろうってこと。 大声を出さない普通の人の方も、もっと愛してやってくれ。


11/7(火)

「寿司屋で十年修行して、やっとのことで卵焼かせてもらうことは愚行か否か」みたいな議論がネット上で行われていた。 片やの意見として「調理学校行けば数ヶ月でその程度の技術は身に付く」だとか。

個人的な意見を言わせてもらうなら、私自身は十数年掛けて寿司作りを学びたいとは思わない。 持ち時間にも限りがありますからね。 ただ、他人が映している別の現実については、それを一応は尊重したいと思う。 だから他人の選択を「愚か」だとも一概に言いにくい。

私においても似たようなことはある。 それ系のスクールにでも通えば数ヶ月で理解できたような書法を、数年掛けて独学で理解したことなどがあるからだ。 だが、私には私の生き方があり、走り続けている一本道がある。 きっとその一本道は、私の目に映っているゴールは、他の人には容易には見えない。

技術のみ抽出するなら上に言う通り、そんなものの習得に数ヶ月も要さないだろう。 だが、寿司職人を志す人の求めるもの、その人に映っている現実はそんなに単純ではない。 奉公人を採る寿司屋の大将にしたってそうだろうし、そこに金払う客の気分もそう。そんなに単純ではない。 客は「その人の費やした十数年の時間」に金を払っているかもしれないのだ。

ある物事に直面した際、脳内に展開できる何事かがか細い場合、その人はある尺度において純粋な正解を出せる。 が、一般に人間はそんなに単純ではなく、様々なファクターが脳内に去来する為、そんな単純な解を導き出せない。 人間が高度な生き物であるが故にである。

「三ヶ月で習得できる技術を十数年掛けて得る者」を、「愚かである」と断言できる人には、要するに当事者らの心に映っている世界が見え難いのだろう。 それもその人の現実・映している世界。 少なくとも私の目指してるのはそういう世界じゃないけどね。


11/6(月)

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影山リサのニューシングル「Up & Down」の発売が、来月20日に決まりました。 下はそのジャケット。 今回のは前作よりは幾分マトモです。




11/5(日)

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言うまでもないことだが、アメリカは銃社会である。 自由を尊重し、個人の権利を究極までに認めた結果、あのような社会ができた。 集団に強い推進力が生まれたが、同時に日本を含む他の国では考えられない規模での無差別殺人事件なども起こる。

銃は、女が男を殺せるし、子供が大人を殺せる。 そんなものが流通しているのだから、それによる事件なんて必然のように起こる。 が、アメリカ建国の精神の支柱を為している思想を縛ることは難しいらしく、銃を規制せよと言う世論が大勢を占めるには至らない。 現に銃による大量殺人事件が起こった直後、アメリカの世論は銃規制反対の側に大きく傾くと言う。

私は欧米人・キリスト教社会のモノの見方・考え方に大部分共感する者だが、手放しで礼賛するわけではない。 と言うか、日本の方が優れている面も大いにある、と思うから日本に住んでいる。

欧米人は日本人(と言うより日本語)の現実感覚の異質さに「まるで家畜のようだ」なんて思うようだが、私に言わせれば彼らのあの堂々とした(悪く言えば傍若無人な)振舞いを見ていると、「そんなに世界が怖くないなんて、君らこそ人以外の何かではないか」などと思えることもある。

彼らの世界観の基底を為しているのが彼らの信仰なのだろうし、同じ教えを信奉しない日本人にその感覚が味わえないのは当然なのかもしれない。


11/4(土)

ウチは、いくつかの音楽系専門学校とお付き合いさせていただいているが、そこの生徒さんらを眺めていて思うことがある。 ちょっと言い難い内容を含んでいるが、ご容赦ください。

ぶっちゃけて言うと、あの種の学校が、プロの商業音楽家や芸術家を輩出することは少ないだろうと思う。 それらが狭き門であるから、成功者が出難いのは当然であるが、私はそういうことを言っているわけではない。 あの手の学校の出身者と、その人らが結果的に音楽家・芸術家になる事って、むしろ有意な逆相関関係にあったりするのではないか、という事。 つまり、ああいうところに行く人らの多くは、アーティストにむしろなれない。 単なる奏者とかなら出やすいかもしれないが。

「目立ちたい」と言う機微は、つまりは私(わたくし)である。 個と私は違う。個が育たなかった精神を蝕むように肥大化するのが私である。 創造的・芸術的気分と言うのは、何かを見ようとすることであって、自分を見てもらうことではない。 自分を見てもらいたくて仕方ない人は、早い話が創作には向かない精神の持ち主であると言うこと。


11/3(金)

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アタマの良さそうな人を見ると、「この人は、気付かなくて良いようなことに一々気付いてしまおうから、日々が苛烈でなかろうか」などと、いらぬ心配をしてしまう。

人とは心である。その人が映している世界こそがその人。 誰を愛してもその人を所有することはできないし、誰に愛されたとしても、誰に所有されることもできない。 私たちは、詰まるところ一人で生きている。

親友も恋人も、人生の登場人物の一人に過ぎず、我々の背後に世界なんて存在しない。 望む望まないに関わらず、私たちは一人で生きるしかないんだから、私はせめて、みんなのその背後に流れて、その背中を押すような歌が作りたいと思っています。 勿論今日も私が歌を作り続けるのは、私の為なんだけどね。


11/2(木)

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足利尊氏の新たな肖像画が発見されたらしい。 像主の比定に異論なんて出てないと思うが、私が画像をちょっと見ただけでも本人に違いないと思える。等持院の木像にも酷似しているし。

私は最近、前近代の絵(肖像画)の見方がちょっと分かってきた。 見方と言うのは、要するに「絵を見て本人を想像する方法」のこと。 昔はこれができなくて、例えば写真誕生以前の歴史上の人物について、いまいちリアリティーが持てなかった。


11/1(水)

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神田優花、ニューシングル「Savanna Night」(全2曲)本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Savanna Night

低音、高音とオクターブで同じメロディを歌う箇所があるんですが、音域って低音は低音、高音は高音それぞれが持つ魅力が違うから、それを最大限生かせるよう、心を砕いた曲です。
そこが上手くいってれば、スタイリッシュな曲に仕上がってるはず!
ぜひ、聞いてみてください。

カップリングのPieces Of Meは自分で作り上げた、1曲の中での"ストーリー"を大事に追いました。
始めは独り言のように自分の中だけで考えて遊んでた思いが、こぼれだして、自分を飛び越えて、どんどん広がっていって周りを巻き込んでいく。
そんなイメージ。
リズム的にも切れるところがないし、気持ち的にも途切れさせたくなかったので、レコーディングでは通しで歌うことにこだわりました。

Savanna Nightは高音の声色を保つため、Pieces Of Meは毎回通しで、と2曲ともに違う意味で緊張感のあるレコーディングでしたが、楽しんでやれました。
ぜひ、聞いてみてください。

神田優花





10/31(火)

神田優花、新作「Savanna Night」(全2曲)、収録曲について。


1.Savanna Night

ヴァースとコーラスの両ブロックのメロディーを同一音型で、それのトランスポーズによってサビの盛り上がりを表現する、みたいな命令で作った曲。 Aメロとサビがちょうど1オクターブの関係になっている。

しかしオクターブの音程差ってやっぱりキツかったみたいで、歌い手さんは苦労してたっぽい。 まあでも、そこがこの曲の肝だからプロットとしては外せない。 聴いた感じの割にはパート数も少なくてシンプルな曲。 ここ数年、どうも私のアレンジはシンプルになる傾向にあるらしい。

バッキングはシンセのリフとPad、ベースのスラップにLynnDrumの出すリズム、で構成されている。 神田優花をジャンルでカテゴライズするならRockで、販売の上でジャンル指定を求められる時には常にRockにしているんだけど、この曲なんかはギターに拠らないRockみたいなものが、創作段階でのイメージとしてあった。


2.Pieces Of Me

これも「Savanna Night」と同じく、「ヴァースとコーラスの両ブロックのメロディーを同一音型で、それのトランスポーズによってサビの盛り上がりを表現する」と言う命令で作った。 Aメロとサビが4度関係になってる。

正直印象が薄くて、上記の命令で作ったは良いけど、そこに縛られ過ぎて、曲そのものの色気のようなものが軽視されたきらいがあるような。

アレンジについても記憶が薄い。 今DAWのセッション開いてみたけど、あんまし言及すべき点が見当たらない。 基本的にオーソドックスな手法ですね。 男性ボーカルでも面白かったかもしれない、とかちょっと思った。

ボーカルはとにかく終始歌いっぱなしみたいな曲で、レコーディングも一発録りに近い形。 1テイクしか録ってないってわけではないけど、複数テイクの切り貼りをしていない。





10/30(月)



水曜に最新シングル「Savanna Night」を発売する神田優花ですが、年内にそれを含めもう3タイトル(計6曲)を発表します。 あと影山リサももう1タイトル(2曲)を発売予定です。 年内って言ってももう2ヶ月しか残ってないわけで、かなり慌ただしいリリースになります。

年内リリース予定のその一連新作のうち、12/6(水)発売の「Siren」のジャケットが下のものになります。




10/29(日)

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神田優花の新作シングル二枚分のトラックが上がってて、あとはテキスト類とか事務作業を残すのみとなってたんだけど、ようやくリリースの目処が立ちそう。 でも年内はちょっとスケジュール的に厳しいかもです。


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影山リサの邦楽テイストのミニアルバム、曲が7つほど上がってて、7曲入りにするか1曲削って6曲入りにするか悩んでたんだけど、6曲入りにすることにしました。 削った1曲は先行シングルのカップリングにする予定。 こっちは年内リリースまず無理。ジャケ類が全然上がってないので。


10/28(土)

最近北朝鮮おとなしいですね。 あの地域がこの先どうなって行くのか想像してみた。

常識的に考えて、あの体制がそんなに持つ筈はない。かと言って、外圧抜きで革命(易姓革命でなくRevolution)が起こるかと言うと、それも考え難い。 革命はそれを起こすに民族的な資質のようなものか要るから。 経済制裁とかがそれなりに効いて、かなり泥沼状態になるまでは続きそう。 前にも言ったんだけど、北の現状は李朝末期にソックリだ。民族の宿痾であると見た。

朝鮮人は喧嘩が止められない。これは原理だから仕方ない面もある。そういう性質であるが故に民族を維持できたのかもしれないし。 もし南北が統一されたら、統一朝鮮半島国家内の地域間対立は深刻になるだろう。今の慶尚道・全羅道の対立なんてレベルじゃないくらいに。

ってことは、その地域間対立からのスケープゴートとして、日本が標的にされる可能性は濃厚にある。短期的に「反日」ムードが更に強まるかもしれないってこと。 日本は日本で、良くも悪くも朝鮮民族に対する理解が深まってしまったこんにち、迎合的な世論は形成され難いと思う。 要するに両国の未来は暗い。


現代日本人の多くは朝鮮半島人を嫌っていて、例えば政治家の「外国人参政権を認めぬ」と言う政策表明に対する賛意・快哉は、事実上在日朝鮮人に対するものと捉えてほぼ間違いないと思われる。 だが、ユーラシア大陸の片隅のあの半島にああいう民族が興り、国家(広域社会)を形成してしまうのは地政学上の摂理のようにすら思える。 熱力学の第二法則のような必然ではないか。

「かの国との国交を断絶せよ」などと言う過激な意見も耳にするが、鎖国の時代じゃあるまいに、これほど社会が高度に複雑化してしまった昨今、現実的にそんなことができる筈はない。 適当に距離を置き、適当に付き合う、みたいな感じになるしかない。 個人の人間関係において、面倒臭い隣人を抱えてしまった場合なら「関わりを絶つ」と言う選択もありうるかと思うけど。日本列島ごと引っ越したりもできないし。


今の日本は北の重軍備化を脅威だと言っているが、末期の李朝(と言うかあの地域)は弱過ぎて脅威だった。 弱くても強くてもダメなんじゃん。 北の体制が続こうが崩壊しようが、半島が統一されようが分裂しようが、結局日本にとっては頭痛の種になる。 あの半島が外患となるのは多分地理的宿命。台風とかと同じだからある程度諦めよう。


10/27(金)

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「ブラックジャック創作秘話」と言うマンガがある。因みに、タイトルこそ左様のものだが、実際は手塚治虫(虫プロ)実録みたいな内容。 面白くて私は二度ほど通読した。

月並みな感想かもしれないけど、やはり手塚と言う人は天才だったのだろうと思う。 アタマも抜群に良かった。 あれだけのマンガ狂でありながら、例えば学力一つとっても優秀で、帝大医学部を出ている(のち医学博士に)。 因みに、在学中既に人気漫画家だった。

一般に、数寄と学力が両立し難い最大の理由は、可処分時間の限界にある。 彼は「寝ない」ことによって、普通人より多くの自由な時間を持ち、密度の高い人生を送れた。

天才型クリエイターの典型症例として、アドレナリンや脳内麻薬物質(ドーパミン等)の分泌量が人並み外れていたものと思われ、とにかく彼は寝なかった。 上のマンガもその一つだが、周辺が残したその手の証言は少なくない。 当時の漫画家の常でもあったろうが、手塚の睡眠量の少なさは中でも異数だったようだ。 「神様手塚ですらああなのだからお前らもがんばれ」などと叱咤された新人漫画家などいたに相違なく、手塚が出版業界に悪弊を残した面もあるのではないかと思えてしまう。

医者だった手塚だが、自身の摂生は怠りがちだったと見えて、満60歳にして亡くなっている。当時としても早世と言って良い。

きっと彼には、「俺は寝ずともやれる」と言う自負があったろう。 実際、書きたいあまりに寝てなどいられなかったようである。 私など、そこまで睡眠が不足した状態で、よく創作なんて思索を要する作業に向かえるものだと感心してしまうが、常人とは全く脳の状態が異なっていたと考えるべきだろう。

身体の危険を顧みずに作業に向かえた時点で、彼は何らかのバランスを失っていたと解釈されるべきかと思う。 彼の中の、危機を察知する本能が壊れていたのだろう。

彼のパラノイアと言えるような創作意欲に、体の方がついて来れなかった。 手塚治虫が60年しか生きなかったことを残念に思うが、あの身体(頭脳を含む)もってして生まれ、生きた存在として、その60年は過不足のないものだったようにも思える。 生きるべくして生きて、燃え尽きるべくして燃え尽きた、と言うような。


10/26(木)

事務所の通信機器の不具合で、ここ二日くらいインターネット接続できない状態だった。 二日分まとめて更新。





先週発売の、影山リサ・最新シングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」、聴いてもらえたんでしょうか。 今制作中のミニアルバムのティーザー広告のようなシングルでした。 多分6〜8曲入りくらいにするつもりなんだけど、今回のシングルの原型に当たる二曲もそのミニアルバムに収録する予定。 お楽しみに。

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10/25(水)

昨日の続き。 この間の選挙についての雑感と言うか、現都知事についてだな。


ある立場を得たいと思うなら、それに相応しい人物になるしかない。 相応しい人物でないのに立場だけを得ようとすると、どうしても無理が生じる。 演技や詐称のような、要はウソが必要になったり。 金で維持されている人間関係なんかも、一種の「無理」である。 金と言う膠が剥がれると、たちまちその関係は崩れる。

マヤカシのようなものによって成立した何事かは、いずれ崩れる。 一瞬で解けるマヤカシがあり、長く持つものもある。ちょっと精度の良いマヤカシなら、ある人間関係が、当事者らの持ち時間が尽きるまで崩れないようなケースだってある。 でもマヤカシはマヤカシだ。

私がいわゆる政治のようなものに興味を持てない理由は、あれが常にその場を凌ぐマヤカシの手練手管であるからだ。 仕方ないとは思ってますよ。必要には違いないし、私とてその恩恵に与っている。 現状例えば「平和」は、政治によって成立しているわけで、決して愛や友情によって成立しているわけではない。 因みに、愛や友情ってのは永遠のもの。


信頼関係のこじれが、当事者らの誤解によって起こっている場合、それは誤解なのだから、時間が掛かったとしてもいずれ修復されるに違いない。同時に、マヤカシが解けたことによって崩れたある信頼・輿望の類は、本質的な意味ではもう元に戻らない。 本当のことが解られてしまっただけなのだから、元の鞘になど収まりようがない。

現都知事擁する新党が、思うような支持を得られなかったことの原因を、直前の「排除発言」(知らない人は調べられたし。私も詳しくはない)に求める意見があり、知事ご自身もそのように総括されているようだが、私は違うと思う。

ある発言が破綻を招いたとか単純に総括してしまうと、まるでその発言一つがなければ信頼関係は永続したとでも言わんかのようだ。 そうではなく、その発言から「その人の人間性が窺われてしまった」と言うのが実情なのではないか。 要するに本性がバレて、あるマヤカシが解けた。 件の発言も、その契機でぐらいはあったろう。

政党・政治家がいくら公約だのマニフェストだの言ったところで、素人の我々が分かるのはせいぜい大綱の部分だけで、専門性の高い領域についてはほとんど白紙委任の状態だ。 当たり前の話で、私には生活があり仕事がある。細かい部分に精通しているヒマなんてないから政治家と言う代理人を選んでいるし、税金も払っているのである。

我々が検討材料とすべきは、「その代理人が信頼に足る人物であるかどうか」くらいであるし、それが正しい。 美辞麗句なんていくらでも並べ立てることができるではないか。 信ずるべきはその人の吐いた言葉そのものではなく、その言葉を吐いたその人の心根である。 前者を信じる(と言うかそれに左右される)者が、しばしば後になって「騙された」とか言い出す。 心こそを信じる者は、決して騙されたりしない。

断っておきますけど、私は政治家としての適性とお友達としての適性は違うことくらい分かっているつもりだ。 例えば織田信長は天才的政治家だと思うけど、現代に信長が生きていたとしても、私は知り合いになりたくない。


結婚・離婚を繰り返す人とか、要するに人間関係が安定しない人は、要するに物事を時間軸を伴った概念として把握できない。 心と言う時間を伴った複雑なものを理解できさえすれば、その人の人生は、ある種の失敗を繰り返さずとも済むものとなる。

知事は「選挙で負けたことが殆ど無い」と言うのが一種の矜持であったらしく、この度初めて敗因を分析する破目になったと見えるが、今までの支持こそが「お手並み拝見」の為の仮のものであっただけなのかもしれない。

この稿の結論は、生まれ変わって別人にでもならない限り、もう彼女が再び支持を集めるのは難しかろう、と言うこと。 再び支持が集まるようなら、日本人は蹉跌の繰り返しから逃れられぬ民族で、問題の本質は政治家でなく民度と言うことになる。


10/24(火)

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選挙の件。 私はいわゆる政治にあんまし興味ないクチなんだが、人間には興味がある。

現都知事が作った新党、意外にもあんまし人気が無いそうだ。 「意外」とは、私の支持に反して、と言う意味ではない。 今までメチャクチャやってても支持を得られてたんだから、今度も国民は彼女を支持するのだろうと思い込んでいたってこと。

私は、あそこまで都政に情熱の薄い都知事を見た記憶が無い。 記憶にある都知事の皆さんも、大して都政について情熱なんて持ってなかったのかもしれないが、ああまで露骨なケースは珍しい。 国政に関与する前、そもそも都知事選に出る際に、彼女は一応の公約などを掲げていた筈だが、それらはどうなったのだろう。


ここ最近、私は現都知事の「思考」に関心があって、あれこれと想像してみていた。 「あるいは天才か」などと思ったりもしたのだが、結局のところ月並みな結論にしか至らない。 彼女は要するに「現状(の評価)に満ち足りていない人」なのだろうと思う。

経歴や容姿などを見てもそれなりに華やかな人なのだろうし、勤め上げてきた役割相応にアタマも良い。 それは間違いないのだが、その能力や実績に対して下された評価にどうも得心が行っていないと見える。 私はあの手の人を過去何人か見てきたが、この種の不満は、仮に彼女が総理大臣になったとしても満たされることはあるまいと思える。

満ち足りぬ理由を「我が心の至らなさ」でなく、「周囲の蒙昧さ」に求める人はマキャベリストになりやすい(マキャベリ本人の思考ってそんなに単純なのか分からないけど)。 彼女がああまで露骨なポピュリストであれたのも、民を「バカ」だと心底思うからに違いない。 今回の選挙の結果が、ますます彼女の中のその確信を揺るぎないものにしてしまわないか心配である。

急いては事を仕損じると言うが、マキャベリズムもあまり拙速ではよろしくないのだろう。 これ別に政治の世界に限ったことじゃないけど「自らに下された評価に満ち足りていないこと」が動機となって起こされたアクションって、ろくな結果に至らない気がする。 少なくとも私の見てきた中ではそうだった。


満たされないのは評価が過小であるからでなく、すでにあるものに満足できる感受性が足りないからだ。 だから満たされぬ人は、何を与えられてもいずれ飽き足らなくなる。 努めるべきは勲章を得ることでなく、我が心を磨くこと。 心さえ磨けば、道に咲く花や風の匂いだって、あなたに何かを教えてくれますよ。


10/23(月)

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囲碁は、いかなる達人であろうとAIには適わないそうだ。 もうゲームの性質としてそういうものであるらしい。 将棋はまだそこまで行ってないのかもしれないが、コンピューターの演算能力が追いついていないだけなのだろうから、これも時間の問題だろう。

人間はその知性で、身体能力において勝るその他の動物を抜きん出る、霊長としての地位を得たのだけど、その知性とは計数能力のことではないらしい。 だってそれならAIの方が優れているんだもの。

ピカソは「コンピューターなんて役に立たない、あれは答えを出すだけだから」と言っているが、私もそう思う。 物事の本質は、解でなく式(プロセス)の方にある。 だから芸術も、作品(解)でなく、それを導き出した作者の思考(式)の方に本質がある。 それを作った人がどのような(思考回路を持つ)人物であったか、が最も重要であると言うこと。 私は、人類に最後まで残る職業は芸術家だと思っている。


10/22(日)

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アマチュアミュージシャンとかプレアイドルとして、(ネット上などに)ある種の活動の痕跡を残し過ぎている人を、大手の事務所は忌避しがちだ(小さいところでも好ましくは思わないだろう)。 採用する場合も、その痕跡は極力隠滅するよう努めることが多い。 まあ当たり前の話で、自分のところでコントロールできない情報が多過ぎることは、どこの事務所だって好ましく思わないだろう。

だからして、オーディションなどに応募したとして、あなたが選考担当者の目に留まったりしたら、その担当者は最低でもあなたの名前で検索入れたりぐらいはしていると思ってほぼ間違いない。

以上は私見ではなく一般論である(と思う)。 が、斯く言う私も、自分がオーディションなどの選考者なら、あまり活動の痕跡を残している人を積極的に選びたいとは思わない。 選考者一般の気分と同じなのかは分からないが。

私がその種の人らを避けたいと思うのは、「目立ちたい」と言う欲求に歯止めがかけられない人のように見えるからだ。 つまり幼稚に見える。 駅前とかで歌い出してしまう人らにも同じ匂いを感じるんだが、「行動力がある」とかそう言う風に自分自身誤解しているのではないかと思ってしまう。 その人らの本当に欲しいものが、その辺りにあるのなら、それはそれでよろしいかと思うんだけど、だったらやはり私とは価値観が違うような気がする。

私は何かを「見るため」に音楽活動を続けている。自分を「見てもらうため」ではない。 自分を見せるための作業が必要になる人は、(とりあえずどちらが良いとか言う話でなく)創作に臨める精神状態には少なくとも無いと思う。


10/21(土)

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人が死んだら悲しい理由。

もし今私が「お前の小学校の頃の同級生○○君が昨日亡くなった」などと聞かされれば、ソイツとの関係にも因るだろうが、大なり小なり悲しい。 一方、ニュースで「交通事故で○名が死亡」などと仄聞しても、正直悲しくはない。物騒だと感じるくらい。

その小学校の頃の同級生の彼が、今の私の日常に全く無縁の存在で、昨日までの私が彼を忘れて生きていたとしてもこれは変わらない。 私の映すこの世界は、彼が生きていることを前提に成り立っていたからだ。 どこぞの知らない場所で、私の知らない人に囲まれていたとしても、私は彼がそれなりに幸福な気分で生きていることを前提としていた。

在るものだからこそ、人はそれを失った時に悲しむ。 自分の世界の一部をもぎ取られたような痛みに襲われるから。 ただ、心配しないで良いこともある。 在るものは決してなくならない。 上で言う「失うこと」なんて、見えなくなるとか触れられなくなるとか、その程度のことでしかない。


在るものは無くならないし、無いものは初めから存在しない。 これは私の持論であるのと同時に、宇宙の真理だと思っている。

大切な人を失って悲嘆に暮れている人がいるなら、在るものは無くなったりしないから大丈夫だと言ってあげたい。 ただその代わり、あなたがいくら「在る」と思い込んでも、無いものは初めから存在していないけどね。

大切な人を失くして悲しむ者は、何よりも先ず、その大切な誰かが存在したかどうか確かめてはどうかと思う。 そこを確信できるのなら、きっと光は見出せる。


私には、誰かがいたことを確信できたから見えた光があり、同時に、いなかったことを知って消えた憎しみやわだかまりがある。 全ては、本当に大切な何かを掴む為、必要な過程だったと思っている。


10/20(金)

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今週は代々木アニメーション学院(東京校)さんの合同企業説明会に参加するため、雨の中水道橋まで行ってきました。 希望者参加型のセミナーみたいなのじゃなくて、全員参加型の授業カリキュラムの一部だったので多くの生徒さんと顔を合わせることができて良かったです。

質疑応答の時間が設けられていて、ウチも参加するのは初めてじゃなし、ある程度の問答は想定してたりするのだが、時間的な制約もあって十分に説明しきれなかったことをここに残しておきます。 今ここを読んでる生徒さんもいるかもしれないので。

代々木アニメーション学院さんは、少し前から「アニソン科」と言う科を設けているんだけど、そのアニソン科があるエンタメ学部はどちらかと言うと声優科が主流であるものと思われる。 ウチのような音楽に特化した事務所は、(我々にとっては声優科の人も大歓迎なのだが)どちらかと言うとそのアニソン科生をメインの対象としていることになる。


で、そのアニソンについてなのだが、早い話が「ウチのような事務所で活動していてアニソンが歌えるのか(=アニメのタイアップが取れるのか)」と言う疑問にお答えしたい。

結論から言うと「簡単ではないが不可能でもない」と言うところか。 ウチは地上波ゴールデンタイムのアニメ番組の制作委員会に名を連ねるような事務所ではないので、そういう枠の主題歌などをあてがわれることも現実的には無いだろう。 あるとしたら、広告代理店が出してくるメニュー表に載っているローカルの深夜枠の挿入歌とか、そういうのを買うことくらいか。 金額的にもそれくらいが現実的なんだけど、実のところアニメ関係の枠は人気があるからか、そのメニュー表に流れてこないイメージがある。 我々の(アニメ関係に対する)興味が薄いから、そのイメージもそんなにしっかりした統計に基づくものではないけど。

ただやっぱし、仮にそういう枠(商品)があったとしても、積極的には手を出さない気がする。 分かる人には分かると思うけど、ああいうのって費用対効果で見ても、全くもって効率的でない。 100万円で売りに出されている枠があったとして、それは到底100万の見返りが期待できるような代物でない、と言うこと。 不当に思えるような価格設定が崩れないのは、それでも買いたがる人がいるからだろう。 いるんだからしょうがない。環境には抗えない。

音楽コンテンツを売ること以外にマネタイズの手段が確立しているようなところ、あるいは初めから(金銭的な)見返りなどほぼ当て込んでいないところ、なら一種の箔付けの為にその手の枠を買うことはあろうけど、良くも悪くもウチはとりあえずそういうところじゃない。

ついでに、ウチのコンテンツの中で、iTunes(USA)のJ-POPチャートで2位くらいまで行ったのもあるし、Spotifyで80万再生超えたようなアルバムもあるけど、どちらも全くプロモーションはしていない。おそらくはプレイリスト絡みだったり、要は口コミだろうと思われる。 中途半端なプロモーションに、実感できる効果なんてほとんど無い。音を売るための起爆剤としては、口コミの方がまだマシ。


そもそもアニソンと言う音楽ジャンルが存在するわけではない。 アニメ関連のタイアップを取った曲が結果的にアニソンとか呼ばれるだけだろう。それっぽい楽曲とかも事実あるけど、アニソンに不可欠な書法があったり固有の楽理が存在する、なんてわけじゃない。

ウチにいて、現実的にありそうな目はどういうものか。 コツコツと音楽商品作って、一応の販路に乗せ続ける、これがウチでの活動のメインになると思われる。 で、その流通商品をエージェント(提携先のライセンス事業者)にカタログとして提供し、それにオーダーが入るのを待つ、くらいしか無さそう。 クライアントがたまたまアニメ関係の制作だったりしたら結果的にアニソンにはなる。あるとしたらそれくらいか。

無論のこと「ブレイク」したアーティストなら、ほとんど選択肢は無限になるだろう。 ブレイクの為の踏み台としてアニソン(アニメ関係のタイアップ)を利用したいと考えるなら、上記のプロセスぐらいが考えられる精一杯のところか。 まあぶっちゃけて言うなら、その人に実力さえあるなら、最悪大手の事務所に売り飛ばす(売り込んで移籍させる)ことくらいはできるに違いないので、やはりその人次第と言えばその通りではある。


我々が求めている人とは、やはり一緒に楽しんで音楽作品を作って行ける人です。 自分を見せたい人でなく、創作に向き合いたい人。表現活動を、楽しんで、長くやって行ける人。 成果のような部分は結果として付いてくるものなので、過程そのものを楽しめる人の方が向いていると思います。


10/19(木)

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母親と言うのは大変だ。 子供の出来不出来の責任まで負わされる。これ、多分に文化的ものでもあるだろうけど。

キリスト教社会では、子供は親の一部(所有物)でなく、神のものであろう。 敬虔な態度とも言えるが、反面日本人的感覚で見れば無責任でもある。 無論躾の責任を放棄しているわけではなかろうが。

日本人女性は一般に、子育てに関して気負い過ぎていると思う。 あと父親と母親のハイブリッドである筈の子供の責任を、どうして母親が一方的に背負い込むことになるのかよく分からない。 後天的な教育については勿論、遺伝的な部分についても母親の責任とされるきらいがなくないか。

健康な子を産んだことが母親だけの手柄でないのと同じく、不具者を生んだ責任が母親にあるわけではない。 また、優秀な子を生んだとしてもその子自体は他人だ。 子が不出来であったとしても、その子の行く末を心配することはあっても、落ち込む必要はない。 落ち込んでしまうのは、その子を自分の一部と見ている(他人と見做せていない)からだ。


心臓が動いていることも消化が行われていることも、私の人格に拠るわけではない。そもそも一日の三分の一くらいの間、私の人格は停止している(寝てるから)。 自分においてその体たらくなのに、子供なんて他人の責任なんて負えたものじゃない。 私の子供が何かしでかしたとしても、ソイツも自然の一部なんだから皆で何とかしてくれ。私だけの手には負えん。


10/18(水)

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影山リサ、歌録り。 今回のテイクで、「ナイチンゲール」の続編となる邦楽をベースにしたミニアルバムの収録曲が揃いました。

シングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」は本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Little Runaway 〜長い旅のように〜

今回の新曲「Little Runaway 〜長い旅のように〜」は別々に録った2曲の歌を繋げた作品になっています。
子ども向けのアニメをイメージしました。様々な登場人物が出てくる感じが伝わると思います。
是非聴いてみて下さい。

影山リサ





10/17(火)



明日発売の、影山リサ・最新シングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」について。


1.Little Runaway 〜長い旅のように〜

ある時代のTVアニメの主題歌をイメージしたもので、完全にコンセプト先行型の作品。 企画の後に曲を作ったわけだけど、芸術作品なんてのは「作ろう」と思い立った時点で粗方できたようなもの、と言う分かり易い例のような作品。

前半部と後半部で元々別の二曲だったものを一曲にした、一種のメドレー。 二曲を繋げたわけだけど、実のところメドレーとか言うほどの趣向ではなくて、聴けば分かる通り単に並べただけ。 要はオープニングとエンディングのイメージ。 サブタイトルが入ってるんだけど、メインタイトルとサブタイトルが、つまりは元の二曲それぞれのタイトルなわけです。

曲を通して入ってるノイズは意図的なものです。 テレビのチープなスピーカーから流れてくる音のイメージ。全体をローファイ化しようかとも考えたんだけど、色々と難点があって、トラックの頭とお尻の部分だけノイズの分量を増やしてる。

編集段階で繋げてるんだけど、前半は元の曲の一番に当たる部分、後半は二番に当たる部分を持ってきている。 前半部最後辺りのロングトーンは、かなり無理な繋げ方してるんだけど、さほどの違和感もなく聴けてしまう。昨今のDAWの編集機能の優秀さに感謝したくなる曲。

最後のちょっと強引なフェイドアウトなんかも、当初からのアイディアの一部で、割りと上手く行ったと思ってます。 冒頭の効果音とセリフは元の曲には入ってなくて、このいわばシングル・エディットにのみ入ってる。

ついでに、原型に当たる二曲は、別の機会に(多分アルバム収録曲として)発表します。



10/16(月)

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高校野球の強豪校とプロ野球の最下位チームが試合をしたらどちらが勝つか。 無論物事に絶対は無いが、ほぼプロ野球チームが勝つに決まってる。平明な観測眼をもってすれば誰にだって分かること。

物事と言うのは何事においても複雑だが、同時に明瞭なものである。 本来明瞭なはずのものを曇らせるのは、多くの場合「願望」である。


子供の発達を検診する医師は、基本的にその子本人のチェックを判断の基礎とするのだが、その場でのチェックには限界があるので、多くは親(主に母親)からのヒアリングを補完材料とすると言う。 そして、その際の親の証言は、しばしば医師に実体と異なる判断を下させてしまうそうな。 願望が混じるからである。

「見た限り全く言葉を発さないこの子ですが、普段家では何か喋ったりしますか?」と言う医師からの質問に、母親はあらん限りに話を盛る。 「ある時にこういうことを喋った」などと担当医師に伝えるわけだが、その証言がしばしば願望まみれで、単に謎の音を口から発しただけであったり、つまり実はそのような事実など無かった、と言うケースが多いのだろう。 如何にもありそうな話だ。

いくら世界を願望で埋め尽くしても、事実は微動だにしない。 その場凌ぎの願望で自分を欺いても、いずれ現実は厳しくその人にのしかかる。 願望がそもそもなければ、人は裏切られたりもしないのである。


10/15(日)

まことに私は音(音楽でなく)が分からない人だ。心底そう思える出来事がまた最近あった。

最近リリースされた、ちょっと話題の音源がある。いわゆるヴィンテージセンセのエミュレーターである。 それ界隈の人ら絶賛の代物なのだが、デモ版の出音やデモンストレーション映像の類をチェックしてみても、どうもよく分からない。 私に分かるのは「このような音が良いとされているらしい」と言うことだけ。

私の中に、音に対する良し悪しの基準が全く存在しないわけではない。 例えばドライブ系のギター音など、生のギターをエフェクターとかアンプで歪ませたものと、家庭用キーボードとかのギター音色を比べれば、明らかに後者がショボい。そのくらいは私でも分かる。 でもシンセ系は難しい。私の中に「カッコ良いシンセ音」のイメージが確立されていないのかもしれない。

上の商品、評する人らの言うには「音が分厚い」らしい。 倍音成分が豊富とか、そういうことを言いたいのだろうと思われるが、そこについてもよく分からない。 従来のシンセサイザーでも、例えば音のレイヤーとかでそういった出音を作ることは出来そうな気がするし、特別新しい技術が投入されているわけでも無さそうだ。

例えばFMシンセサイザーが登場した時の衝撃って、全然リアルタイムで経験していない私でも分かる気がするんだ。 あの煌びやかな音色は、それまでの倍音減算方式のアナログシンセなんかとは、明らかに出音が(無論発音原理も)違うもの。 あれくらい差異が明瞭だと私にでも分かるのだけど。


10/14(土)

家庭用キーボードをサンプリングしたような音源がいくつか手元にあって、何かに使えないものかと予てより思っていたんだが、使い道がやっと見付かりそうだ。 因みに使おうと思ってるのはカシオトーンの音。

(音楽でなく)音そのものの話なんで、要は導入できそうな曲があるか否かってだけの話である。 どういう感じの曲に使えそうかってのを考えていたんだが、早い話がチープな音なので、モノによっては明らかに違和感が出る。 例えば管弦楽用の楽器音なども一通り揃ってたりするのだが、それで大真面目に管弦楽曲のオケは作れない。作っても良いけど使いどころに困る。 チップチューン音源のような独特の滋味があるのようなものならまだしも、家庭用キーボードってのはとりあえあずそういうものではない。

POPSを丸々一曲、その音でこさえてみようと思ってます。一番無難なので。 しかしその音源、おそらく実器の仕様かと思われるが、まずベロシティーが一定。 この時点で音楽表現は相当に制約される。 試しに作ってはみるけど、公開は断念するかもしれない。


10/13(金)

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神田優花、新曲の歌入れ。 これで次のシングルの収録曲は全部揃ったんだけど、年内のリリースはちょっと厳しそう。 シングル「Savanna Night」(全2曲)、来月発売です。





私は時間を二種類に分けて理解している。 一つはこの世界に流れる、いわゆる時間のこと。それは私の外の世界に流れている。 もう一つは、私の中に流れている、私の中にしか流れていない時間。 後者は、言語とか論理とか言われているものにほぼ相当する。 私の愛して止まない音楽も、その後者、私の中に流れる時間に展開されている。

私の中に流れる時間とは、即ち私そのものである。 目の前の街並みが目まぐるしく変わる時、私(の中に流れる時間)は、私の外に流れる時間を不思議な気分で眺めている。 私の中の時間とは無関係に、外の時間の流れるのが早過ぎて、時々勝手に設けられた「年齢制限」に引っ掛かってしまっていたりする。

外の世界に流れる時間とは、言い換えるなら物質世界に流れる時間。 それは物質の持つ排他性によって設けられた制約のこと。 だから有限であるに違いない。 私の肉体と言う物質も、当然外の世界の時間に引き摺られて劣化し、ある時点より後へは持って行けなくなるだろう。 でも私の中に流れている時間は違う。外の時間とは独立して流れているものだから。 物質世界の、何もかもが絶えた後、時間さえ絶えた後にでも、私の中に流れる時間は絶えない筈。


10/12(木)

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随分昔のことなんだが、とあるグラビアアイドルなどを多く抱える事務所のスタッフが言っていたことを思い出していた。 いわく「巨乳顔」と言うのがあるそうだ。 要は「バスト(と言うより乳房)のデカそうな顔」と言う意味で、顔の作りである程度胸のサイズがプロには分かるらしい。 私はその時まで深く考えたことが無かったのだが、言われてみれば確かに「あるかもしれない」とは思う。

私のような素人は、胸の大きな女性を見れば「胸の大きな人だ」と思うし、小さな人を見れば「小さな人だ」と思ったろう。 が、グラビアアイドル系の事務所スタッフなどと言った、いわば「プロ」は違う。 「この顔立ちにしてこのバストサイズなどありえない」なんてことが分かってしまうらしい。 だからして、詰め物と言った細工や、外科的な豊胸なども見抜いてしまうに違いない。

私は普段仕事でいわゆる「デモテープ」を聴くことがある。 その人物を判定する為のもので、そのデモテープをそのまま商品化するわけでもないのだから、音質の良し悪しなどハッキリ言ってどうでも良い。 その人の「歌」が分かればそれで良いのだが、稀にご丁寧に「ピッチ補正」まで施しているものがあり、逆に困ってしまう。 装飾されればされるほど、資料的価値は下がるのである。

で、そのピッチ補正、普段から日常的にそれをやってる私が聴けば、補正の度合いにもよるが「聴けば分かる」。 「人間の声帯はこのような動きをしない」とか言うのを知っているからである。 ボーカロイドの音程カーブとかもっと分かりやすく、「人間の歌(と言うより頭脳)はこんなカーブを形成できない」とか分かってしまう。

中古車屋で働いている友人が「車を買いそうな客は話せばすぐ分かる」と言っていたことを思い出す。 タクシーの運転手は、手を挙げた客の姿で「利用する距離」まで大体分かるらしい。 無論、どんな仕事に就いていても、何も見えてこない人もいよう。 感受性さえあれば、作業はその人に何かを残せるのだけど。


胸の谷間を見せ付ける女の人を見て、鼻の下を伸ばしているだけの男には、目の前のその女性の心に何が映っているのか、が見えて来ないだろうと思う。 そういう人に夢を語らせたら、どこかで聞いた地上の栄達と言った、しばしば紙芝居のようなサクセスストーリーになる。 「ビッグになってやる」とか「大スターになる」とかね。

私は星になりたいわけじゃないし、星を手に入れたいわけでもない。私はただ、星がその心に映している世界、星の悲しみを知りたいだけ。 それを知る為に日々曲を書き続けている。


10/11(水)

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忍者列伝のような本を読んだ。 歴史的に著名な忍者を実在・非実在問わず列伝形式で綴っている。 虚実織り交ぜた内容だが、著述の姿勢そのものは学究的なもの。

実在が確実視されている忍者についてはさておき、非実在と言うのは、完全なるフィクションと言うか「架空の人物」もあれば、上級の史料に登場せず、実在の確認が十全に取れない「伝説的人物」と言ったものもある。 後者の例を挙げると、果心居士・霧隠才蔵なんてのがある。

個人的にはその手の、広く名の膾炙している人物については、事績はさておき、(少なくとも有力なモデルくらいは)実在してはいたのではないかと言う気がする。 ただ、モノが忍者なだけに、その事績が史実として痕跡を残し難かったりした面はあるのではないか。

巻末あたりに、有名な架空忍者を紹介するページがあって、横山光輝の赤影とかに章が割かれている。 しかしながら、おそらく日本で一番有名な架空忍者「ハットリカンゾウ」が、何故か無視されている。 赤影とハットリくんに本質的な違いなどあるまいに。


10/10(火)

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先日、街を歩いていたら、ある食い物屋に行列が出来ていた。 私は基本的に列を為すタイプの人ではないんだが、行列に参加するのがある意味で合理的であることは理解できる。

何故合理的であるかと言うと、判断を避けられるからである。 自分の舌で味を見分け、自分の金銭感覚に照らしてその価格設定が妥当であるかを判断する、と言うのにはそれなりのリソースを食われる。 考えることが苦手なら、とりあえず列の最後尾に並んでおけば色んな面で間違いない。

多くの人が絶賛するものなのだから、きっとそれは良いものに違いない。味も良いのだろうし、価格もモノに比して良心的であるに違いない。などと思うのだろう。そしてその経験則は本当に大間違いではなかったりする。 でも、日本人がそのようであるからこそ、この国は権威主義に充ち学歴社会となるし、STAP細胞事件も起こる。何百万枚も売れるCDが出るかと思ったら、音楽産業そのものは壊滅に近い惨状にも陥る。 全ては根を同じくしている。


A地点にいる私が「B地点に行きたい」と思い立ったとする。 B地点までたどり着いた私は、そこで自分のある意志を達成する。 人類は発展し続け、自分の足で達成していたその意志を具現化する手段として、時に馬に乗り、車に乗り、飛行機に乗ってきた。 自動車の自動運転装置はそんなに遠くない未来に実現しそうだし、究極までにこの利便性を突き詰めれば、ドラえもんのどこでもドアのようにワープして瞬時に行きたいところへ行ければなお良いし、もっと言えばもう行く必要すらも無くなるかもしれない。 対象の方からやって来てくれれば良いわけだから。

人類の進歩は割かし手放しで賞賛される。でも進歩って何なのだ。 エレベーターが生まれたことによって、私は階段を上らずに済んでいる。だが、それは私の意志による「ある到達」を奪われていることでもある。 利便性は、突き詰めると私の存在すらも消しかねない。

無論私は原始人になりたいわけでもないし、諸技術の発展が私の求める「ある獲得」を手助けしてくれていることも事実である。 私はここで、西田幾多郎の言う絶対矛盾的自己同一について話を進めたい衝動に駆られたりするのだが、大量の文章になりそうだから止めておく。


プロミュージシャンを目指す人らの多くは、事務所やレコード会社を「自分をスターにしてくれる装置」だと思い込んでいるのだが、そのようなサービスが魅力的に見える時点で、ある種の世界観の歪みを抱えているのでないかと思ってしまう。 彼らは音楽が好きなのではなく、音楽家の立場に憧れている。 少なくとも私とは、本質的に違う。

ウチは規模の小さいレーベルだから、小さいなりのタスクがあり、所属者に要求するところがある。 資本規模の大きなところへ行けば、ある面ではウチと全く違った待遇があろうが、大きさ故の要求するところがあり、そこに関わる人の苦悩も付きまとう。

待遇に不満を持つ人を眺めていると、要するにこの人は「マイクの前で歌か何か唄ってりゃスターにしてもらえて、有名になって金持ちになれて異性にチヤホヤされる」と言う状況を求めているらしい、と言うことに気付いてしまうことがある。 私は「我々にその能力は無い」ととりあえず伝えることにしているが。 トマス・モアのユートピアは「どこにも存在しない場所」と言う意味らしい。


赤ちゃんは泣き喚く。全力で不満・不快を表明するわけだが、その子の親に聞いても泣いている理由は分からなかったりする。 いわば「俺が何を不快と感じているか忖度せい」と言う態度なのだが、彼らは実は、泣いている理由を自分自身ですらも把握していない。 考えさせられることこそが不快の種だからである。

獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、などと言われる。 乳児を見ていると分かるが、彼らの要求に対し、際限なく手厚くあろうと考えるなら、それは彼らをこの世界に存在さしめぬことと同義になる。 私は「ドアの開け方」なら教えてあげたいが、「勝手に開くドア」を作ってあげる気は無い。

自分の心の在り処を探すのは難しい。どうして自分は辛いのか、どうして自分は悲しいのか。歯を食いしばって考えないと答えは出ない。 その労苦を負いたくない人は、考えないし責任を負わない。 結果、列の最後尾に並ぶことになる。 合理性によるある成果は得られても、私の探している「到達」など得られるべくもない。


私は音楽が好きで、日々音楽作品を作り続けているが、それは私の意志によるある到達を得る為である。 私の求めているものは、タバコに火を点けてもらって喜んでいるような人らには絶対に見えて来ないだろう。 私の欲しいものとは、利便性などと本質的に相容れないものらしい。


10/9(月)

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「人はカネについて来る」と豪語する御仁。彼は要するに不人気のコストを払わされているだけだと言うことに気付けないのだろうから、その程度にはアタマが悪い。

上のようなことを言えてしまう人の言う「人」とは如何なるものか。 正確には分からないものの、多分に物質的な何かだろう。 もしそうならば、彼の映す世界に「人の心」と言う現実は映りにくい。

映りにくい原因は、偏に言語機能が脆弱だから。 つまり彼は生来の身体機能の不具合のコストを支払わされている。 視力の弱い人は、そうでなければ本来必要の無いメガネ代やコンタクトレンズ代を払わされる。それと同じこと。 カネを稼ぐのもそれなりに大変だろうにね。


10/8(日)

唐突だが、時間とは排他性のことだと思う。 指定席は指定席なのだから、一人しか基本座れない。 二人が同じ席のチケットを持っていたら、どちらか一方はその席に座れなくなる。 両方が座れるならダブルブッキングなんて概念は無くなる。

道路で車と車、あるいは車と人がぶつかると交通事故になる。 ある一点、一空間を二つの物体が共有できないからだ。 物体は排他的である。 世の争いごとは、基本この排他性によって生まれている。 領土紛争然り。実に分かりやすい。

原始仏教の究極概念である「空」。一神教徒の言うGod。これらの共通点は空間的な何事をも侵さない点だろう。遍く存在すると言うのはそういうことだ。 だからどこにでもある。 宗教戦争のようなものを人類は数え切れないくらい経験したが、あれらは解釈(による行動様式の違い)によって生まれただけで、元来神そのものはそんな排他的なもので無い筈だ。

私はこの「排他性」が歴史(時間)を生んでいるような気がする。 本来混沌とした確率の雲でしかなかったものが、物質の排他性(空間を占有する性質)によって時間を確定させてしまうのではないか。 排他性さえ無ければ、それは時間すらも超越し、遍く存在する神になってしまうのではないか。 伝わり難いことを言っているのは分かってるんだが、分かりやすく説明する能力が無い。

二つの物体が一点の空間を共有できるのなら、そこに順位・序列は無くなる。 順位を展開する為に時間は生じるのではなかろうか。 物質に排他性が無ければ、時間なんてきっと無かった筈。


神は何事も侵さないのではなく、何事も侵さない何かが神になってしまうのではないか。 物質でないが故に排他性を持たないから、神は時間を超越してしまう。 だから神は、エントロピーの増大によって起こる「劣化」とも無縁である。 絶対とはきっとそう言うこと。

キリスト教徒が神に愛されたと思えるように、少年の日の私は音楽に愛されたと感じた。 何の成果を与えられたわけでも約束されたわけでもないが、それを作り続ける日々を楽しめる予感だけはあった。 それは生きて行く勇気そのものであったし、今の私が作りたい音楽も誰かの生きる勇気になるもの。一番成分が近いものを挙げるなら、それは愛。

芸術とか言う言葉で一括りにされているけど、音楽は、例えば絵画などより神に近い。 もっと言えば、神そのものになりうるかもしれない。

私の作りたい歌も、それをもってして誰かと席次を争うようなものではなく、そういうものとは心の違うレイヤーに響くもの。 あなたが大好きな歌を聴いているその時にだって、変わらずそこにある歌。 遍く存在し、歌の中にだってある歌。

キリスト教徒の言う神が、愛の印象と限りなく近く、重なって見える理由が今は分かる気がする。 神も愛も、何事をも侵さないからではないか。 何事も侵さないこと。それは時間を超越する何か。 だからHeavenも「場所」でなく、当然単なる未来に属するわけでもないのだろう。 神は時間の埒外に存在し、物質は、その物質性によって時間と言うしがらみの中に捉われている。


10/7(土)

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先週発売の神田優花「Garden」、聴いて貰えたんでしょうか。 来月1日には次のシングル「Savanna Night」(全2曲)の発売が決まってます。こちらもよろしく。 神田優花は間に合えば年内にもう1タイトル出したいところなんですが、これはまだ分かりません。




余談だが、今月はオーディションと言うか新人採用活動で忙しい。 現時点でも雑誌・Web等の媒体での告知が為されているんだが、その他にも、提携してる学校の生徒さんの資料チェックとか、学校(校舎)に出向いての説明会の予定なんかが入ってまして、今月から来月にかけてはそっち関係で忙しい。


10/6(金)

「人格」について。

前からの持論なんだけど、人格と言うのはそれなりに高度なもので、誰にでも持てるものではない。 鯖やカブトムシに人格なんて無い。 この世界で人格と思われているものも、その多くは人格以外の何かである。

ハエやゴキブリだって手を挙げると逃げる。 しかし「殺される」と言う恐怖から、意思的・認識的に逃げると言う選択を採ってるわけではない。 動くものあれがばそれに反応して逃げるだけ。反射である。そうあった方が生存に有利なのだろう。 彼らの人格がそういう行動を生んでいるわけではない。


犬は異性を容姿で選択しないらしい。人間などに比べれば諸感覚の中で視覚に拠る部分が少ないから、とりあえず相手を「嗅ぐ」。 犬がやたら舐めたがるのも同じで、人間などに比べれば、手による触知に負う部分が少ないからだろう。ある情報の処理を行うに際して、舌と言う別の感覚器を代用しているだけ。 つまりその表面行動の差異は、構造によるもので性格によるものではない。

いわゆる「赤ちゃん」を眺めているとよく分かる。 人格がまだ確立されていない彼らには、「典型行動」のようなものが見られる。 例えば「口に入れられるものにはとりあえず食いつく」と言うような。

あれを見て「何にでもよく食いつく性格」などと評するならそれは誤解である。 身体を維持する為、何よりも食うことを優先し、また知能が発達していない、つまり脳の統合が為されていないから、ああいう形で対象を選別(情報処理)するしかないだけなのだろう。 だからある段階の乳児は、皆「同じ行動」を採る。 性格でない証拠だ。

おしなべて乳幼児は依存心が強い。 言語による自己の確立が為されていないから、いわゆる「主体性」が育っていない。 だから依存するしかないのである。 知能が低ければ低いほど、自立に割くリソースは負担として大きい。 依存心が強すぎる個体は、換言するなら即ち低能であると言うこと。

世に言う「食いしん坊」や「甘えん坊」は性格ではない。人格が育たなかった個体に、最後に残った生存原理がそれなのである。 水が高いところから低いところへ流れるように、ハエが動くものに反応するように、それらは単に本能が採らせている反射行動に過ぎない。


いわゆるパーソナリティー(人格)障害と言うものがある。 特定のおかしな行動を採る人間らを総称する概念なんだが、彼らの思考、そこから生じる言動は、ある部分において皆同じである。 だから人格障害者などと言う名称で一括りにできる。

人格障害者は、人格障害と言う性格を持っているのではない。 言語獲得による人格の形成に失敗したケースをそう呼んでいる。 人格の形成に障害が生じているから「人格障害」なのである。 だから彼らに性格(人格)は存在しない。 あるのは本能による傾向性だけである。

人格(言語による脳の統合)と言う、本来人間が生きて行くのに最も重要なものの形成に失敗した個体は、それでもなお生きて行かなければならない為、(あたかも車椅子生活者の碗筋が発達するように)別の何かを肥大化させやすい。 それを医学用語でパーソナリティー障害などと呼ぶ。

その肥大化が起こらなければ、彼は人格障害でなく知能障害とか発達障害とか呼ばれるわけだが、そのような個体は、現代のような手厚い社会は例外として、自然界で生きて行くのは難しい。 せめて人格障害でも起こさねば、生存すらままならないのだから、ある意味生体として自然な反応であると言えなくも無い。

人格障害は、置かれた環境の違いにより行動に多少の差が出るが、その違いを「○○性人格障害」などと呼んでいるに過ぎないだけで、どのケースも原因自体は同じである。 全聾の両親を持つ赤ちゃんは、泣き喚くことを次第にやめるらしい。 泣いても意味がないからである。 彼らは依存する為、生きていく為に最も効率の良い手段を選択しているだけなので、効果が無いなら泣くことさえ「カロリーの無駄」なのである。 但し、しつこいようだが、その選択は性格による意思ではない。 環境によって生じる外形の違いについて、分かりやすい例を出してみた次第である。


以上のようなことが分かってくると、この世界に「実在する人格」など極めて希薄であることに気付かされる。 私が友人をかけがえのないものと感じる所以です。


10/5(木)

先月、歌詞検索サイト「うたまっぷ」内、アーティストクリップのコーナーで影山リサが紹介されてるってお知らせしたんだけど、既に随分前に同コーナーで紹介されていた鈴木サヤカのページがマイナーチェンジされてるみたいです。

紹介されてたアルバムが、現在販売完了品になってたんで、入手できるもの(一応最新タイトルの「YES-YES-YES」)に変えてもらいました。 公式にインフォメーションするほどのことでも無いんですけど、一応お知らせ。





昭和のある時期までの映画なんかを見ると「キチガイ」と言う言葉が頻発する。 放送禁止用語などでなかったからだが、別に忌むべきとされていなかったのだから、ここぞとばかりに敢えて使い倒した、と言うわけでもあるまい。 要するに当時の日本人にとっての「日常語」であったのかと思われる。

しかしあれが使えないとなると、作家などは困るだろうな。 英語のCrazyやMadに当たる概念を使えない。概念ごと抹殺されているわけだから。 文学で狂気を扱えないなんて、日本から文学者なんて出て来なくなるかもしれない。


10/4(水)

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外国人労働者などが増えてくると、当然ながらそこに比例して、その人らの起こす犯罪性の事件なども(絶対的件数で言うなら)増える。 当たり前だ。日本人の人口が爆発的に増えれば、日本人による犯罪件数も増えるに決まってる。

「こんなに外国人が増えて、日本の風紀や道徳はどうなってしまうのか」と言う懸念。無論完全なる杞憂だとも言えなかろうが、長い目で見るならきっと大丈夫。 地政学的な引力って、そんなにヤワじゃない。 日本人がこんにちのようであるのも、日本と言う社会・地理に合わせてカスタマイズされただけ。

仮に日本人と中国人を総取っ替えして両国の国土に住まわせたら、きっと程なくして、中国人は日本人に、日本人は中国人に、綺麗サッパリなり変わってしまうだろう。 何千年掛かるか、とかそんなことまでは分からないけど、結果自体はほぼ間違いない。

前にも考えてみたことがあるんだけど、支那世界に成立した強固な郡県制(中央集権)国家が日本に成立しなかった理由も、多くは地理にあろう。 地形が入り組んでいるから気分としても日本人は割拠的になってしまうのだろう。 日本の方言の多様性とかも多分同じ理由に拠っている。


北朝鮮は飽きもせずミサイルを飛ばす。 朝鮮半島がキナ臭くなると、日本人の気分として、いわゆる「在日韓国・朝鮮人」に対する風当たりも強くなる。 当然のように一味だと思うのだろう。

だが、本国のその種の振舞いを一番嫌がっているのは、いわゆる在日の人たちかもしれない。 「一緒くたにされかねないではないか」と。 同類扱いされれば、日本社会に土着している彼らは生き難くなるだけ。迷惑ではあろう。

在日はもう数世を経ていて、そのほとんどが日本語を喋っている。 日本で生まれ日本で暮らし、日本語を喋り日本語で思考しているのである。甚だしく日本人としての収斂を起こしているに相違なく、「在日」と言うアイデンティティーは、既に「我ら九州男児」とか言う程度の帰属感しかもたらさないのではないか。

そう言えば昨年末入院した際、元在日と言う看護師に会ったが、その人は私の「本貫はどこか?」と言う質問に、本貫の意味が分からなかった。 完璧に日本人である。


在日には、暴力団員だとか、非合法の商売に手を付ける者が多いと言う。 でもある意味それは当然で、ある時代のアメリカのマフィアなども、イタリア系移民とかが多かったし、今でもヒスパニック系の犯罪は多い筈だ。 そもそもマイノリティーで、国籍や地盤が無かったり、縁故も希薄なのだから、その土地の人に比べれば正業に就き難いのは当たり前だ。

勿論違う民族で、遺伝的形質や行動様式が違うのだから、何かと衝突は起こるだろうけど、同じ人間なんだからある程度は同じで、環境に応じた変化にも法則性がある。 諸悪の根源みたいに見えてるなら、それは多分に錯覚だと思う。


10/3(火)

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ちょっと前に、あるオーディションサイトを運営している業者さんからのコンタクトがあった。要は営業なわけだけど、内容を聞いて思ったことを以下。

事務所とかスクールの募集告知を(有料で)掲載し、そういうところを探している人らとの仲介を行うサイトを運営していると言う。 この手のサイトはいくつかあるんだけど、(広告でなく)単なる情報掲載は無料のところが多い。 有料であることが悪いと言っているわけではなくて、事実少ないのだから、ビジネスモデルとして成立し難いってことは確かなのだろう。

特にウチみたいな小規模のところは、早い話が人(応募者)をマネタイズするのが難しいし、時間も掛かる。だから入り口であんましコストを掛けられないってのは正直なところ。 身代不相応に告知関係にコストを掛ける(いわば短期決戦型の)ところとかもあるけど、ウチは音楽作りたいだけなので、長くやって行くことが一番大事なんです。 だからその為の環境こそが肝要で、固定費用がかさむようなスキームは極力避けたいと思ってしまう。

人をマネタイズするのって、大手でもどこでも大変に違いないが、やはり事業全般に言えることとして、元手が大きい方が運用も容易になりがち。 だからミュージシャン志望者も、大手からお声が掛かるならそっちに行った方が良い部分もある。と言うか、有力な選択肢とすべきなのは間違いない。


あとオーディションって締め切りが設定されているケースが多いけど、実はああいうのって、理由と呼べるほどのものは事務処理上の都合とかせいぜいその程度しかなくて(あるいは駆け込みを呼び込むためか)、どこも実質随時募集に近い。これは大手だろうがウチみたいなところだろうが基本変わらないはず。 良い人が来てくれるならいつだって大歓迎だろう。


昨今よく目にする「アイドル商品」は、要は換金しやすいモデルなのだろう。オーディション情報見てても、アイドル関係って物凄く多い。 ラーメンがブームだった時にラーメン屋が雨後のタケノコのように乱立したけど、商売ってそういった性質を持っている。

ウチはそういうことをとりあえずやらない。ノウハウも無いし、そもそもスタッフにそっち関係への情熱が無い。好きでないことって、やっぱりあんまし上手くやれもしないものでしょう。 まあアイドル商売って、最近目立つだけでプレアイドルとか昔からあったけどね。私もそれの用の音楽作ってたことがある。 アイドル商品は、今も昔も比較的換金しやすいってことに変わりは無いのだろう。 まあそれにしても、そのブームももうピークは過ぎていると思うけど。


10/2(月)

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テレビのバラエティー番組で「ホモセクシャル」を揶揄する表現があったとかで、局が「性的マイノリティーに対する配慮が足りなかった」とて謝罪したり、スポンサーが降板するなんて騒ぎになったらしい。 なんだか不思議な気分だ。

と言うのも、その「ホモを揶揄する表現」とやら、私の子供の頃には当たり前のようにゴールデンタイムで放送されていたもので、当時の子供らにとってそれはごく日常的な風景であった。 時代が変わったと言えばそれまでだが、僅かな時間で人の気分がここまで変わると言うのが無気味である。 日本人にしっかりとした思想的柱が確立されていない証拠のように思える。

事の良し悪しについて、私に定見は無い。 皆が不快に思うなら、テレビ局は商売柄自粛の方向で動くだろうしそれで問題ない。 多くの人がそこで生まれる「笑い」の方に価値を感じるなら、少々の批判は覚悟でそういうコンテンツを流し続ける媒体も生まれるだろう。 基本原理は商売だから。 だからこそ、このように当事者のスタンスも揺れる。

しかし「差別」がイカンと言うが、その理屈を極限まで突き詰めると「笑い」なんて消滅するが、それで良いのだろうか。 「おかしい」と言うのは標準的でないことで、つまりは笑いは差別を根にしている筈だ。 ダジャレ一つとっても、それを笑う人は正統的でない点にツボを刺激されているのだろう。

「性的マイノリティーに配慮せねば」と言うのは、即ち彼らの票を無視できなくなったと言うことで、既にマイノリティーでなくなっていると言うことなのかもしれない。 差別される側も効率的なアクションを採っているわけで、マジョリティーが本当にマジョリティーなら、「笑い」を奪われていると言う現実に何らかの対抗措置を検討しても良いのではないかと思ったりもする。 私自身はホモを笑いたいと特に思わないから、そういう表現が消滅しても直接的には困らない。 私がコメディアンなら、メシの種である一表現を封殺されるってのは困るだろうけど。


10/1(日)

昨今のギター音源を使ってると、フィンガー(擦弦)ノイズが入っているものがあることに気付く。 サンプリング時にたまたま混入したようなものでなく、あえて混ぜ込んでいるものと思われる。 言うまでも無く、リアルな楽器音(演奏表現)を再現する為である。

生のギターを録っていると、フィンガーノイズのようなものは避けられなかったりするが、あくまであれは無ければそれに越したことはない「雑音」である。 その雑音が、楽器のリアルさをある面で保証する何かになってしまっている。 音の良し悪しに実は基準など無いからである。

きっとそんなに遠くない将来、あの意図的なフィンガーノイズは、「打ち込み臭さ」の象徴となる筈だ。当然否定的に捉えられる。 この文章に結論は無い。 私はあれを、音として好きなら使うし好きでないなら使わない。それだけ。


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国政の世界で離合集散が相次いでいるらしい。

人間を商人と芸術家に大別するなら、政治家はまごうことなき商人だ。 選挙を経て生まれるんだから、原理的に仕方ない。

それにしても商人とか商売とかって響きは、何故にかほどに軟弱なのだろう。 元々そうではなかったように気もするんだが。 マックス・ウェーバーの説く不羈たる精神、みたいなのの片鱗も昨今の商人には感じられない。 プロテスタンティズムがベースに無いからだろうか。日本でも例えば坂本龍馬とかって商人で、それなりに気合の入った存在だと思うんだけど。 精神が全然継承されてない。


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