Staff diary  
スタッフ日誌[2017]

[文 / 益田(制作)]

9/30(土)

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態度の悪い人間に対してムカついてしまうのは、我々がその相手を一応は人と見做しているからである。 自分が他人にこのように当たるなら、どれだけ相手を侮っていることか、などと考えてしまう。

蚊が断りも無く近付いて来て、あまつさえ生き血を吸い取ったとしても、人は蚊に(人に対するのと同じ感情で)ムカついたりしない。 黙々と蚊取り線香を焚いたり、あるいは叩き殺す。 人と見做していないからである。人でないのだから当然だ。 であるからこそ、人は牛や豚を食える。

大抵人は、自分に相応の尊厳を認めている。 他人に対する態度と言うのは、自認する人権の発露である。 ここは分からない人には分からないだろう。 他人をぞんざいに扱える人と言うのは、即ち自分に価値を感じない人なのである。

ついでに、自らが感じる自分の尊厳が守られていないと感じた時、人はそれに不満を表明して良い。と言うかすべき。 人は、自分の尊厳を認めない人と深く付き合うべきでない。 それは自分の価値をその程度のものと貶めることと同義であるからだ。


標準的でない態度を取る者がそのようである理由が「彼が人の当然持つ何かを持たないこと」であることに気付くと、人は彼の態度をある程度許容するだろう。 幼児に対して大人が寛容であるのも、要はそういう理屈である。 ただ、幼児は単に幼児であるだけで、将来的に大人になることがほぼ確実視されている。 「信用による猶予」である面が濃厚であると言って良い。 単に期待値で成立している寛容さであるから、成長するに従って人としての何かを獲得できなかった場合、その幼児は当然許されない。

幼児でない者が人としての何かを持たない場合、その精神的幼児は、ある面での周囲の寛容さは引き出せようが、「人と見做されぬこと」に起因する寛容さである以上、同時に彼の人権は認められない。 人としての当然の機微(良心)を持たぬ、と言うのは、ある態度の行使を許されると同時に、自らの守られるべきある尊厳を放棄する、と表明することでもある。


9/29(金)

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私が耳にしてしまう幻聴について。

曲を作っている過程で、プレビューって当然のように(幾度となく)するわけだが、時々変な音が聞こえてくることがある。 変な音とは、する筈の無い音のこと。

隅々までデータを開いて見ても、ノートとしてそこに配置されていない音が聞こえてしまう。 天籟のように一度きり聞こえるものもあり、何度聞いてもそう聞こえてしまうケースもある。 それが聞こえ出したら、あまりにしっくり来る場合など、もっとハッキリ聞こえるように、あえてそのようにノートを配置することだってある。と言うか、そういうケースが多い。

思うにあれは、そこに無いだけで「あるべき音」なのではないか。 あるべき音だから、「聞こえない」あるいは「無い」と言うことに私の脳が気付いてしまうのかもしれない。

英語のMissは、いわば「無い」ことを感じると言う動詞だが、それ以前に「在る」ことが前提となっている。 在るからこそMissできる。無ければMissなんてできない。 私はある音をMissしているのかもしれない。

この感覚はきっと言語が導き出している。 インド人がゼロを発見したのも、英語使いが天職をCallingと言うのも、きっとおそらくは同じメカニズムだろう。 人類が神を創造したのもこれ。 神とは、人とは、つまりはロゴスであり、その確立を見ない者には絶対に見えてこない世界がある。 私は、何かの片鱗を見てしまっているのかもしれない。


9/28(木)

ハーモニーと言うのは音楽を構成する重要な要素であるし、例えば音屋のように音楽作りを生業とするような者なら、ある程度そこに精通していないわけには行かない。 以上は当たり前のことだが、旋律を装飾するもの、いわばエフェクトとしてのハーモニーについてある感懐がある。

私はエフェクトとしてのハーモニーの存在をお寒く感じる時がある。 作品の持つべきある真実性と言うか切迫感のようなものが薄れる気がするのである。 理由は(完全には)分からない。 もしかしたら、それが事前に用意された「台本」に添ったものだからなのかもしれない。

政治家ががモノを喋る時、それがその人の言葉であるのか、あるいは官僚の用意したペーパーを代読しているだけなのか、は聞く者の気分を大きく左右するはずだ。 言葉が届く(心の)場所が変わってくる。 代読者の言葉が心に響かないのは、そこに誠実さを感じられないからだ。

コーラスパート(バッキングボーカル)担当者も含め、歌い手と言うのは皆歌詞世界の表現者で、表現者である以上、聴き手に何かを伝えようとしている。 ハーモニーの構成美はそれはそれであるものの、伝える為のリソースの一部をそこに割かざるを得ないのも事実。 表現する曲(と言うか歌詞)によっては、あれは誠実さを損なう手法となり得る。

音楽作品は、即興演奏でもない限り、基本的に台本(スコア)のあるものである。即興だって基本的な決め事はあるもので、純然たる独創のみで構成されるわけじゃない。 ただ、それがあまりにあからさまだと、ある聴く者のあるリアリティーの結実を阻害するような気がする。


9/27(水)

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神田優花、新曲の歌録り。今回のは編集が大変です。 ニューシングル「Garden」(全2曲)は本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Garden

この曲は実は歌うのがほんの少し怖かったりしたんです。
その時は解らなかったんだけど、多分、自分の中に在るもの、もしくは無いものが剥き出しになってしまいそうな気がしたからかも。
って、後から思いました。

なくした人ともう一度どこかで逢えることはあるんだろうかって、歌いながら泣いてしまいそうになったりも。
聞く人の心に寄り添いたいって本気で思います。

普段歌うときって、多かれ少なかれ何かを演じたり、ふくらませたりするんだけど、Gardenは私のまんまで歌いました。
この歌は貴方の味方にきっとなってくれると思います。
どうか、聞いてください。

神田優花





9/26(火)

神田優花、明日発売の新作「Garden」(全2曲)、収録曲について。


1.Garden

15年以上前に書いた原形のようなものがあるんだけど、改変率激し過ぎてほとんど別の曲になってしまった。事実上の新曲。 タイトルについては物凄く悩んだ。 結局こういうものに落ち着いたんだけど、「楽園」とかそういうイメージ。 因みに、歌詞中にタイトルは全く出てこない。

二つ以上のプロットをまとめて一つの曲に仕上げることはよくあるんだけど、この曲は逆のパターンだった。 確かBメロ部分だったかが曲全体とうまく馴染んでなくて、あまりに歪だったんでそこだけ独立させた上で、新たに肉付けして別の曲にした。 そっちの方を聴いても、多分多くの人は元々同じ曲だったと思わないはず。

音楽的にはシンプルな和声音楽だし、メロディー・コード進行ともごく一般的。#や♭がほとんど出てこないみたいな。 あんましベタなものって避けたくなる気分が働くんだけど、ベタなものも作れないってのはそれはそれで不自由な気がして、あえてこういうものを作ってみたりもするわけです。 ただ、「一定の面白味のようなものは保っている」と個人的には思ってます。

コーラス深めにかけたギターのストロークで始まるんだけど、アレンジは全体的にシンプル。 歌とアレンジが同時進行で出てきたような曲でなく、昔作った曲の骨組み(歌メロとコードくらい)を抜き出してリアレンジしたようなものなので、ちょっと取って付けた感は残ってるような気がする。 楽器編成もギター・ベース・ドラムにPad系とサビにだけ入るシンセのリフみたいなのがある程度。 後付け(リアレンジ)だし、自分で聴いてもアレンジに大したアイディアがなかったことが分かる。 でも好きな曲です。

結局この曲は主旋律(歌メロ)に時間掛けたんだけど、説明のしようがない。 音価と音高を組み合わせ、最も私の琴線に強く触れるものに仕上げた、とかしか言いようがない。 その作業工程には無数の論理が介在しているのだけど、それを文章化するのは難しい。

あとサビに絡んでくるオブリガートがあるんだけど、そこのテキスト、歌詞としては(歌詞サイトなどで)公開しないことにしている。意図的なものです。 パッケージ版とか出すならブックレットには載せるかも。 因みにこの曲にはオブリガートこそ入っているものの、主旋律にハーモニーは一切入っていない。入れなかった理由は後日述べる。

この曲は、今後神田優花の代表曲の一つになっていくような気がします。


2.Sweet Love Song

昭和歌謡とスウェーディッシュポップのイメージを折衷したような。 コード使いとかに割かし拘ったような気がするけど、その辺はあんまし思い出せない。

楽器編成は管とか弦とかの音がベースになってるんだけど、特に弦はキーボードで出したストリングス音色って感じのもので、オーケストラ用の詳細なスコアを書いたわけではない。 管(木管)の方は一応4〜5パート分のスコアを書いたと思うけど。

打楽器の音はラテンっぽいパーカッション(シェイカーとか)に締太鼓とか和太鼓のリムショットを加えたコンビネーション。 気に入るものを模索した結果、こういうものになった。

元々「Weather Cock」のカップリング曲「Cherry Blossoms」がここ(「Garden」カップリング)に来る予定だったんだけど、急遽変更になってしまって、「この位置に来る曲」って言うハッキリした用途ありきで録った。 ストックから引っ張り出してきた曲。





9/25(月)

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ちょっと前にフリーのオモチャみたいな16ステップのサンプラーと言うかシーケンサーのようなものを導入したみたって話をしたんだけど、使い道がないのが悩みどころだった。 今ようやく活かす方法を思いついてきた。

ソフトは似たような趣旨のものをいくつか入れてみてるんだけど、しっかりとした調性音楽が作れるものがほとんど無くて、本当に作品に使えなかった。 今考えているのは、イントロとか間奏とかに全く別ブロックとしてそれらで作ったオーディオファイルを配置すると言う手法。

間奏とかって、それなりにアイディアが求められる部分だ。 無論サビとかAメロのコード進行(アレンジ)そのままペーストして、その上にソロ楽器で適当にスケール奏でる、みたいな間奏もあるんだけど、やっぱしあんまり面白くない。 8小節とか16小節とかの「別の曲」を曲中に埋め込んだら面白いような気がして。 これから試してみます。


9/24(日)

昔ある女の人に聞いた話。 その人が彼氏に別れ話を切り出したところ、彼がそれを承諾しなかったと言う。曰く「俺のどこが悪いのだ」と。更には「何か気に入らないところがあるのなら、俺はそこを変える」と言うそうな。

女の人は言う。「そういう問題じゃないのよ」と。 私はお互いの気持ちがある程度分かるので、気の毒に思うけど、やはりその二人の関係をそのまま維持させるのは難しそうだ。 二人の間に横たわる最大の問題は「展開できる時間の違い」だろう。如何ともし難い。

一般に男の方が女より言語力は低い。時間の展開能は言語そのもので、やはりここが違い過ぎると歯車が噛み合わない。

男の方はつい思ってしまう。「俺のある言動が相手の不興を買ったのであればそれを改めれば良い」などと。 しかし女の方は「その言動を生むに至った思考回路と相容れない」などと思っている。 この溝は深い。

あとやはり、いくら不興を買ったであろう一言動を撤回したところで、不興の要素が一つ減ったと言うに過ぎず、そんな消極的な理由で誰かと長く時間を共にするのは難しかろう。私だってそう思う。


この話は男女の関係のケースだが、基本的に人間関係と言うのは友人関係である。 親兄弟も恋人も、皆それ以前に友人であるからこそ付き合える。 友人になれぬ者とは、当然何かを共有したりもできない。

友人たりえない人物と時間を共にすることは無駄だし、本当の友情の成立からも遠ざかる行為である。 友情でないものを友情と見做すこと、つまり無いものを在ると見る思考法、これがしばしば人生を行き詰らせるのだと思う。


9/23(土)

人の曲を聴くと、その人の「頭の良さ」が分かる気がする。 表面的な見た目なんかより、仕事をさせた結果の方がその人を物語るってことだ。 作曲以外の作業においても基本同じだろう。

創作ってのは通常模倣から入る。 模倣とは、我が琴線に触れる対象を自らの手で再現しようと試みること。 そこからさらに段階を変え、その「琴線に触れる何か」をより高い純度で抽出していく作業が創作だ。 模倣と創作、感受性を基礎としている点において、両者は性格が似ている。

作曲家志望者などの、作曲作業を始めた初期段階の曲を聴かせてもらうと、ダイレクトに解るのがその人の感受性だ。 英語のsensibility・sensitivityあたりが、私のここで言う感受性に近いような気がする。

感受性の豊かさは作曲家の基礎条件と言える。 「当たり前じゃん。鈍感さが要件である作業なんてあるか?」なんてホンの一瞬自問したが、それはそれでいくらでもある。 「過酷な労働条件に耐えられること」を必須条件とする職場、なんてザラにありますものね。


9/22(金)

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ごく最近、友人が急死した。 私ももうそんなに若くないし、これからもこう言うことが増えて行くのかと思うと、分かってはいてもやりきれない。 「今度ゆっくり話そうね」と言って別れたのが、今生の別れになってしまったのだけど、今まだ全く現実感が沸かない。


朝目覚めた私が、右足から踏み出すか左足から踏み出すか、これはほぼ私の意思がコントロールできる事象である。 どちらを選択することもできるし、そこにはそれぞれ相応の未来が展開される。

ありうべき歴史、と言うのは、既にその時点で存在するも同然である。ありえるのだから。 ありえない歴史は、ありえないのだから過去にも未来にも存在しない。

不慮の事故で夭逝した人は、大抵悪い偶然が重なってそのようになった。 彼が天寿を全うすると言う歴史は存在しえたのだから、きっと彼はどこかで生き永らえているに違いない。 今の我々に想像さえできないどこかで。

但し、今の私の目の前に広がっているこの限定的宇宙に、彼はとりあえず生きていない。 しかし在るものは無くならない。「無」ですら在る以上、不滅ではないか。


いなくなった誰かは何故いなくなったのか。理由は分からない。 ただ一つ言えることは、私の目に映る、私にしか映らない「人生」と言う映画の登場人物であった彼は、もう(回想シーンくらいにしか)登場しないらしい。 しかし、私の映す世界に彼がいたことも、その登場人物としてある役割を担ったことも、ある時を境に消えて行く事も、きっと私にとって何らかの意味があるのだろう。 私が今何かを感じているのだから、そこに意味が無い筈はない。

友人は、友人なのだから、思い出になったとしてもきっと私を助けてくれる。

私の目の前に今も広がり続けている歴史は、この宇宙は、常に唯一の選択肢を採り、それ以外の可能性を排除する。 今の私に分からないだけで、そこに理由もきっとあるのだろう。 私の目の前に広がる今のこの瞬間、これが宇宙の全てである理由。 神が存在するのなら、きっと私に何かを教えようとしているのに違いない。


9/21(木)

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「夢」の実在性。

子供の頃の私は、この世界の存在を完全には信じ切れていなかった。 「自分の目の前に広がっている世界は、誰かが私を騙すために仕組んだものではないか」と、どこか疑っていた。 以前にも言ったことがあるが、これは本当のこと。 無論今は当時と同じ気分には無いが、完全にこの世界を信じ切れているのか、と問われると、微妙なところだ。

世界を疑っていた私だが、自分自身の存在だけは疑わなかった。 当然である。我が心の中にありありと存在するものなのだから疑いようがない。 ただ、この世界に「自己感すら覚束ない人」が実在することまでは知らなかった。今は知っている。 その人たちにとって、全ては疑わしいかもしれないし、疑う主体が無いからそういう機微すら無いのかもしれない。分からない。


大人になった今でも、この世界に疑わしく思えるものがある。 尾籠な話かもしれないが、例えば「女性の性欲」について、私はかなりの部分疑っている。

女も生き物だから性欲のような傾向性は当然持っているに違いないが、標準的な言語機能から推すに、男に比べれば制御系の大部分を本能に委ねていない筈だ。 女は性欲に従って性行為をしているのでなく、多分にそれは「弱さ」や「諦め」や「商取引行為」であったり、あるいは相手のことを愛したりしているだけなのではないか。 少なくとも女の性欲の実態、男性諸氏が考えるものと比べれば、随分か細いものに思える。

「淫乱」だとか、女性の性欲の強さを表現する形容詞とかってありますね。 でも私はそういうものの実在性を疑っている。 私自身女でないから正確なところは分からないが、多分に妄想の産物ではないか。


「夢」を語る人がいる。 私の生き様柄もあろうが、今までにたくさん出会ったし今でもしばしば出会う。 が、その人らの語る夢が、要するにウソであることに気付かされる度、私の心は傷付けられてきたし、甚だしい時は、心が折れそうにすらなった。 「夢」の実在性に対する確信が揺らぎそうになるから。

「夢など実在しないのではないか」・「浮世にそれを口にする嘘吐きがいるだけで、本当に夢を持っている人間などこの世界には絶無なのではないか」、などと思えてくるわけです。 でもそんな時、「そんな筈はない」と、あらためて自信を持って自分に言い聞かせられる唯一の根拠は、今の私のこの心の中に「夢」があること。 自己と同じく、自分の中にあるものだから、その確信は揺るがない。

もしこの世界に、夢の実在性を疑わしく思う人がいるのなら、私がここにいると言うことを伝えたい。 だからこそ私は、音楽作品を世に出し続けている。 夢は実在する。心配は要らない。


9/20(水)

まずお知らせ。 Infoでもお知らせしてますが、音楽情報サイト「うたまっぷ」内のアーティストクリップのコーナーで、影山リサが紹介されてます。 バイオグラフィー的な内容なんだけど、むしろウチ(オフィシャル)のプロフィールなんかより詳細なんで、是非見てみてください。

「うたまっぷ」アーティストクリップ(影山リサ) → Click Here





山田洋次さん(映画監督)がどこかの大学で行った特別講義だか講演だかの様子が、あるDVDに特典映像として収められていた。 細かい内容は忘れたけど、印象に残った言葉があった。 それは「私はずっと寅さんを録っていたかった」と言うもの。

主演の渥美清さんが亡くなったことによって。あのシリーズは終わった。 でもあの物語のコンセプト、寅さんと言う人格、監督の創作に対する情熱、これらは全て永遠である。

主役を務める人の生命活動が終わる、と言うある条件の欠損によって、あの運動はとりあえず継続できなくなったわけだけど、永遠の運動律は、この時空のどこかで、一定の条件を背景に息を吹き返すに違いない。 在るものは無くならない。

私は変わらないものが好きです。 愛して止まない音楽や友人らを私は、自らのステップアップの為の腰掛のように全く思ってなくて、終の棲家だと思っているわけです。永遠のものだと。 私も山田監督と同じく、今続けているこの作業をずっとずっと続けて行きたいと思っています。 私の肉体が尽きたってこの意志はきっと続いて行きます。


9/19(火)

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真実について。

太田牛一の「信長公記」と言う本(と言うか記録)がある。 織田信長の言行を淡々と綴ったようなもので、ドラマ的な脚色が薄く、甫庵の「太閤記」などとは毛色が違う。 その装飾性の薄さが理由で、同時代には「つまらない」などと言う評価もあったらしいが、現代ではフロイスの「日本史」などと共に、中世、特に織豊政権期の基本資料となっている。 脚色が無いこと、それが即ち史実であるからだ。

信長公記を読んでいると、信長と言う人の人物像が、私の脳裏に色鮮やかに浮かんでくる。 ある局面を与えられた時、彼がどのような行動を採りそうか、まである範疇で想像できてしまう。 彼は間違いなく実在した。 このイメージの「ブレなさ」こそがリアリティーである。

例えば近世以降に流布された軽めの読み物の類(名将言行録だとか)を読んでいると、そこに出てくる武将らの人格的イメージの輪郭がぼやける。 おそらくその不鮮明さの原因は、記述に創作が紛れ込んでいることである。 理解において、論理的整合性がホンの僅かでも崩れるのだろう。 何事かの「成立してなさ」がリアリティーの結実を阻害する。 在るものは消えず、無いものははじめから存在しない。

私は基本的に、人の発言をとりあえずは信じるタチである。 だからこれまでの人生においても、発言から組み立てた人物像とその人の行動、に矛盾を感じ、理解に苦しむことが多かった。 「ウソが混じっていた」と考えると、全てはするすると、まるで紙が剥がれるように解ける。

人物、人格と言うのは思考のパターンであり、論理そのものである。 ある思考のパターンが結果として言動を生むわけだが、ある人物の、想定した思考パターンから生まれる筈の無い言動が見られたなら、それは脳内に結んた人格像がどこか狂っているのである。

狂いが生じてしまうのは、そこに何らかのウソが混ざっているからだ。 創作・誤解・狂言・擬態など、切り口は様々だが、要するにウソである。 真実は常に、輪郭鮮やかなもの。


9/18(月)

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何日か前、『先回りして相手に罪悪感を与える形で、自論を押し通そうとする手法』の醜悪さについて述べたんだけど、説明が足りなかったような気がした。 「相手に罪悪感を与える」ってのは、即ち恫喝なのだけど、私が何にそれを感じているのか、以下説明する。

私はテレビ(受像機)を持っていないから、基本的にテレビ番組も見ない。 無論見たことがないわけじゃないが、そもそもあそこに流れる空気があんまし肌に合わなくて、できれば見たくない。

多分私が中学生くらいの頃だったろうか、バラエティー番組の世界にある不思議な現象が起こった(もっと昔からあったのかもしれないが、ハッキリと確認できた)。 それはいわゆる楽屋ネタの登場である。 「ディレクター何某がどうした」だのと言う。 視聴者である我々にその面白さどころか、意味さえ掴みかねるような内容である。 また、それの登場とほぼ時を同じくしていたように思えるが、ネタの合間に入る「笑い声」が、よくあるオバちゃん(視聴者を意味するであろう)のものでなく、スタッフのものに変わりつつあった。楽屋ネタなら笑うのはスタッフで当然であるが(純粋な視聴者は笑えないはず)。

番組中で喋るタレントの言葉の一部を可視化する、と言うような手法もよく見られた(今でもあるのかもしれない)。 あれもスタッフの笑い声と同じく、笑いを促しているものと思われる。「ここが笑いどころですよ」と言う示唆である。 本来笑いどころなど、視聴者銘々が自分で判断すべきに違いないのだが。

楽屋ネタもスタッフの笑い声も、あれは一種の脅しである。 あれは「業界人の皆さんが笑うほどのくだりなのですよ」と言いたいのだ。 気の弱い視聴者は「この高尚な笑いのツボが、あなたには分からないのですか?」と、教養の欠如を指摘されたかのようで、怯えるあまり同調して笑う。 あるいは自己の希薄な人は、自らの気分のありようが分からず、本当に面白いかのような気分になってしまう。 勿論面白い筈ないのに。

こういう恫喝の構図ってのはテレビに限らず、絵でも音楽でも文学でも、あらゆる世界にはびこっている。 良いか悪いかは知りませんけど、私は嫌いです。


9/17(日)

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影山リサ、新曲のリハーサル。多分来週くらいに録ります。 今回のはシングルのカップリング候補曲。 来月発売のシングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」もよろしくお願いします。



何度も言ってるんだけど、影山リサは、「ナイチンゲール」の続編に当たるミニアルバム(「邦楽シリーズと内輪では呼んでます」)を引き続き制作中。 音はもう一息で上がりそうなんだけど、絵(ジャケットとか)がまだ出来てない。

邦楽シリーズは、影山リサのアーティストイメージの芯の部分とはちょっとズレてるんだけど、それはそれで重要なレパートリーと考えてます。 ああいうものをやってるアーティストってほとんどいない筈なんだけど、潜在的な需要はあると思う。 「ナイチンゲール」の収録曲でも、「Barracuda」とかそれなりに出てますしね。


9/16(土)

長期連載のマンガとか長寿番組などが終わることになると、当然のようにそれを惜しむ声が出てくる。 まあ気持ちは分かる。ファンだったりしたらなおのことだろう。

私にもそういう気分はある。 変わらないもの・長く続くものが好きだし、もっと言えば永遠に続くものが好きだ。 「続いて欲しい」と言う願望は今でも捨てきれない。

物事をとりあえず在らしめるのは環境である。 大好きなマンガの連載が続くのも終わるのも、恐竜が滅びたのも、害虫が発生するのも、我々が生きているのも、みな全て環境に因る。 ある条件が途絶え、一定の環境が維持できなくなった時、物事は途切れる。

例えばマンガなら「商業誌の週刊連載」と言うスキームに乗っかった状態を維持することが難しくなる、なんてことはあるだろう。 私も一応作家ではあるので、その制約のウザさは分かるつもり。 ただそれでも、創作の意志さえ途絶えていないなら、一週間と言うスパンや一定の人気(得票数)維持、なんてのを条件としない形ででもその運動は続いて行くに違いない。

例えば漫画家が事故で右手を失ったら、絵が描けなくなるのでとりあえずマンガの連載も中断せざるを得ないだろう。 条件が欠けるってのはこういうこと。 それでも「描きたい」と言う意志があるのであれば、いずれ彼は左手で絵を書き出すだろうし、左手も失えばペンをくわえてでも絵を描くだろう。


歳を取ったから、耳が悪くなったから、家族が病気になったから等々、何かと理由をつけては作業を止めてしまう人がいる。 ある困難が継続を妨げるのではなく、意志が途絶えた時、人は作業を止める理由を探すのだろう。 今の私には、それがもう解ってしまった。

「若かったからやれた」などと言う人は、そもそも意志が備わっていたわけではなく、生ゴミに虫が沸くように、条件に後押しされてある行動を起こしていたのを、周囲がその背景に意志が存在すると錯覚してしまっただけ。 在るものは消えないし、無いものは初めから存在しない。 アーティストとは、「歌が上手い人」ではなく、「歌が歌いたい人」のことだ。

誤解して欲しくないのは、私は「誰かが何事かを継続できなくなること」を悪いことだと思っているわけではないってこと。無論、逆に良いことだと思っているわけでもない。 物事ってのはどうしようもなくそういうもので、良いも悪いもない。今の私がトチ狂って、オリンピックで金メダルを取る為の努力を俄かに始めたとしても、その気の迷いはきっと長くは続かない。 私が思っているのは、この私と言う固有の思考回路に最も適った作業に、人生と言う持てる時間を捧げたいし、その運動が永続的なものであるならなお望ましい、と言うこと。

創作の核は作者の意志である。 それさえ確かなら、あとは条件が揃うか否かだけの問題だ。

我々は多分に我々の意志によって、今のこの音楽活動を続けている。 結果的に生まれた音楽作品が「売れる」ことによって、より再生産の環境が整うことはありえるし、環境の悪化によってこの先活動が途絶えることだって考えられなくはない。 でも仮に途絶えたとしても、意志が途絶えていないのだから、その先また条件が揃うことがあれば活動もきっと息を吹き返す。 在るものは無くならない。


9/15(金)

「酔っていて覚えていない」と言う人がいる。 例えば報道されるような事件性のものにおいてでも、当事者のその手の発言は見られる。 私はそういうのを聞く度「ウソ吐きやがれ」と思っていたが、最近少し考え方が変化してきた。 あれ、半分本当なのかも。だから許してやれ、って話ではないよ。

今の私は普段酒をほぼ全く飲まないが、飲めないわけではない。昔は量・頻度ともにかなり飲んだし、酒に強いいわゆる酒豪のような人だった。 また、これは体質なので、今でも飲もうと思えばかなり飲めるはずだ。

よく飲んだ私は、二日酔いも経験したし、吐くほど酔い潰れたこともある。 ただし、記憶を失ったことは一度もない。 自分自身に全く覚えの無いことなので、そういうことを言う人を嘘吐きだと解釈してしまったのも、我ながら無理からぬことではあったと思う。

しかし今の私は平素酒を飲まない。 つまり酒込みで自身のライフサイクルを成立させていないと言うことで、要は酒に依存していない。 私の意思性・自己感がそれを為さしめていると思われるが、酒に依存するほどに意思薄弱な者が同じ感覚下にあるわけはない。

酒は異物で、取り入れる以上身体に何らかの変化をもたらさぬ筈は無い。 ただそれに掻き消される程度の意識の持ち主であるか否か、ってところに個人差があることは考えられる。 私は「酒飲んだくらいで意識が飛んだりする筈ねえよ」と思っていたのだが、そうでない人だっている可能性はある、と今は思う。

以前の私は「そんな奴いない」と思うと同時に、「酔っていて覚えていない」なんて言うことを、何となく「恥ずかしい」とも思っていた。 今はハッキリ分かる。「酔っていて覚えていない」と言うことは「その程度のオツムです」と表明するに等しい。 まことに羞恥とは論理である。


今回の文章をここまで打った時点で、あることが見えてきた。 責任回避性と自己感は濃密に連動しているに違いないと言うこと。

言語の獲得・形成に失敗し、自己の形成が十全に行われなかった個体に、最もハードなタスクは責任を負うことだろう。 責任は因果を根拠としているものだが、言語形成失敗型の脳は時間の展開こそが苦手である。 瞬間瞬間を反射的に切り抜ける術は収斂的に獲得できても、責任追及に対応するのは苦手に違いない。 責任は、時間軸を伴う概念だからだ。

だからして、極度に責任回避性向が強い人物がいたら、その人の人格・脳の性能は疑った方が良い。 無論誰にとっても責任と言うものは重いものだが、人並み外れた回避性を示したらソイツは怪しい。 ソイツが一見普通人に見えてたりするのなら、その所作は収斂的に獲得したものである可能性が高い。


9/14(木)

乳児を眺めていると複雑な気持ちになる。物事は単純でないからね。

彼ら乳児は生存のことで頭が一杯である。当然だ。彼らは一人で生きて行けず、ある梯子を外されただけで死ぬより他ない。 自分の生存以外の要素を一切排除した行動を採る生き物、それ自体が美しいはずはないが、人は「子供だから」と許容している。 「いずれそうでなくなること」を信じてのことだが、その信を成立さしめるのが愛と言うことになろうか。

電車の中で子供が泣き喚いた場合、母親の心労は察するに余りある。 あえて「うるせえよ」と怒鳴る人は稀だろうし、いたとしても心無い御仁だが、言わない人の中にだって、うるさいと感じている者ぐらいはいるだろう。

「我が子が大事」と母親が思うのは当然である。世界にただ一人の大切な子宝だもの。 でも街中ですれ違う得体の知れぬオッサンだって、かつては誰かの「世界にたった一人の子宝」であった。 少なくとも犠牲を強いられる筋合いは無い。


先日、リハーサルの最中にある人が、子供が泣くのを見て「この子の泣き声はかわいいね」などと母親に語りかけているのを見た。 もし私がその子の母親なら「何と言う気遣いか」と感動するかもしれないが、あるいはその人は本気でそう思ったのかもしれない。他人の感覚だから究極的にはそこは分からない。

私自身は、街中などで泣き喚く子(とそれを連れた母親)に遭遇した際、「うるさい」と思う人である。 私自身もそう感じはするし、その騒音が周囲の寛容によって許されていることを感じずにいられないから「何とかならぬものか」と思ってしまう。 ただし「うるさい」と怒鳴りたくなるような衝動まで覚えるほどに非寛容ではない。


私は身障者などを見ても「さぞかし日常生活に支障があろう」と同情はするが、「周囲は配慮して当然」とすら思っている身障者には怒りを覚える。ふざけんなと。 身障者は、色々と配慮してくれる「その身体の障害と全く無関係の周囲」への感謝を忘れるべきでないと思う。 だから身障者が権力者になってしまう今の社会のあり方には疑問を感じる。

子供は身障者ではない。 単にまだ知能が低いだけで、多少の個人差はあろうけど、誰しもが基本子供の頃はああだった。 身障者同様に「親は周囲に感謝しろ」と言うべきなのか難しいところだ。まあ感謝ぐらいしてもバチは当たらないだろうけど、騒いでるのは親じゃない。 子供は親が製造したものではあるけど、コントロールするにも限界がある「自然そのもの」である。 ケツの持って行き所の無い自然災害などと同列なものなのかもしれない。


人間は多様である。 泣き喚く子に不快を感じる者、感じない者、不快のあまり「うるさい」とまで言ってしまう者、むしろ積極的に「かわいい」とまで感じる者。様々だし、その多様性が社会を作り上げている。 「うるさい」と怒鳴る分からず屋の親父も含め、社会の多様性は保障されている。 だからどういう人だって、とりあえずいても良いのだろう。

私は、私がどうあるべきかを考えている。 私だって子供を「かわいい」と思ったりもする。また「うるさい」と思うこともあり、それくらい許容できる気分もある。 結果私はどう振舞うべきなのか。あんまし明確な結論はまだ無い。

食い物を振舞われた際、どう感じたところで「うまい」と一言言えば丸く収まる。その程度の常識感覚はある。 しかし仮に「不味い」と感じたのなら、その感覚には忠実でありたい。 お為ごかしに思考そのものが流されてしまっているような人を見かけるが、「ああはなりたくない」と心底思ってしまう。


街中で見かける赤の他人の子はさておき、知り合いの子供に対しては、私もハッキリとしたスタンスを持っている。 その知り合いと私が友人であったとしても、その人の子供は即ち私の友人ではない。 これは友人の親が私にとって赤の他人であるのと同様の、自明のこと。

その子が将来私の友人になれるか。それはその子次第である。 なるかもしれないしならないかもしれない。 友人になれる人の方が稀有なのだから、常識的に考えてなる可能性は低かろう。 それぐらい友人って得難いもの。


9/13(水)

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何年か前、インド音楽について調べていた時の話。 リズム理論であるターラを解説する文章に気になる記述があった。 出典は失念した。

「音が鳴る・鳴らないと言うのは、表面的なサウンドが鳴っているかどうか、のことだが、ターラ(リズム)は永続的なものである」らしい。 つまり、ある曲が終わり、リズム音が鳴り止んだ後も、また単なる休符の間も、ターラは続いている。音(空気の振動)として伝わらないだけである、と言うことらしい。 まさにインド哲学を感じる。 「無」を在ると考えたからこそインド人はゼロを発見した。

そして彼らの言うことは正しい。 音楽作品と言うのは、創作と言う意志の一断面に過ぎず、本質は意志の方である。つまり永続的な運動。

モノを叩くことによって生じる空気の振動のパターンを我々はリズムとか呼んでいるのだが、鼓膜に伝わることによって確認できたりするだけで、それ自体は普遍的に存在するに違いない。


9/12(火)

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あんましこのページで音楽以外の話ってすべきでないような気もするんだけど、私が気になったことは書く。 朝鮮半島情勢について。

結構リアルに戦争の可能性も出てきたと思うんだけど、どうしてこうなってしまったのか。 北が狂ってるのは間違いないのだけど、南もおかしい。 韓国と言う国がもう少しマトモだったらここまで事態は拗れなかったと思う。 「安物買いの銭失い」の典型のような行動を採っている。 因みに韓国と世界中で最も近い思考パターンを持つ国が日本である。

孔子は乱れた国を救う窮余の策として「必ずや名を正さんか」との名言を残している。 名とはロゴスである。 つまり論理的思考力の欠如こそが地域の混乱を招いていると喝破したと言うこと。 私も全く同感だ。

アメリカの新聞などで金正恩は「crazy kim」と呼ばれていると言う。 クレイジー、つまり「話が通じない」と言う印象を持たれているのかと思われるが、要するに名・ロゴスの乱れを感じ取られている。


日韓の外交問題にまで発展した慰安婦問題とか実に分かりやすいのだが、あれがここまで拗れた理由も、「話が通じない」からである。 慰安婦とは売春婦であり、当時売春は合法であり、日韓のいわゆる歴史問題については条約で解決済みであり、一時問題になっていた強制連行は事実でない。当時の慰安婦らが置かれた苛烈な境遇には同情するが、現日本政府がその保障をする筋ではない。たったこれだけの簡単な論旨が通じない。

論理的思考力が欠如しているから議論で物事が解決できない。 結局日本政府ははした金を掴ませて解決を図ったりしたが、また蒸し返されようとしている。論理性が欠落した相手なのだから当然とも言える。 政治は妥協の類語で、この種の寝技のことをまさに言うのだが、それすらも限界と見える。

慰安婦問題は日韓以外の誰かが仕組んだ、一種の政治的離間策なのではないかとか、そういう見方もありえるのだろうが、事実として現韓国世論は概ねその尻馬に乗っている。 あの非論理こそ韓国の支配的空気である。 反日を切り出せばとんでもない法案が通ったり、つまりはあそこは正常な論理が通用しない。 つまり言葉(ロゴス・名)が正されていない世界である。

北をああまで増長させる前に、当たり前の思考力がありさえすれば打てた手はいくらでもあった筈である。 当たり前の論旨がすんなり受け入れられる頭の状態でないことが、それらを皆棚上げにした。 日本は例えば歴史問題で、韓国と分かり合える日などおそらく永遠に来ないが、彼らを黙らせることならできよう。 当たり前の理屈が通じない相手だからそうせざるを得ないのかもしれない。 朝鮮半島情勢がこんにちのようになったことと、例えば歴史問題において日本と韓国の話が噛み合わないこと、これらは全く根を同じくしている。


9/11(月)

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「タウリン1000ミリグラム配合!」などと言うCMの文句を目にした際、私が引っ掛かるところは、タウリンを私は知らん、という点。みんなタウリンなんて知ってるんだろうか。 と言うか、その前にミリグラムがどれだけの量かすら知っているのか。

「知らないけど何か体に良いものなんだろう」と思う人がいるのだろうけど(まあ私も基本的にはそう解釈するが)、実はタウリンは環境ホルモンの一種かも知れないのである。知らないんだから。 「ダイオキシン1000ミリグラム」と言われても、知らなきゃ良さそうに思えてしまうのではないか。


「美味しんぼ」と言うマンガを見ていると(しつこくてゴメン)よく目にするパターンなのだが、例えば「市販の牛乳は加熱殺菌処理されている」とか「養殖の海苔は酸処理されている」いう話が出たら返す刀で「まあ?!そんな酷いことをしていたの?」とか「ええ?!そんなのおいしい筈ないじゃないか!」とか言うセリフが登場人物の口から出てくる。

ホントかよ。それが良くないことだなんて私は知らないよ。 正直私は「詳しくないけどそれって良くないことなのかなあ?」とか思う程度。 だから逆に「昨今の海苔養殖業者は手間や費用を惜しむ余り酸処理を行っていない」と言われても、「はあ。詳しくないけどそれって問題なんだろうか」とか思ってしまう。 あのマンガの登場人物なら「ええ?!酸処理をしていないだなんて酷い!」なんて言い出す展開だってありえそう。実際如何にも言いそうだ。

その辺の事情によほど明るい人でもない限り、酸や加熱処理、個々の添加物が与える影響なんて知らないはずだし、ある意味それは当然だ。 人はそんなにヒマじゃないし、厚労省や農水省なんて官庁がその為に存在しているんだろう。私はある程度その仕事ぶりを信用する。


私はあのマンガに流れている屈折したロジックがいつも気になってしまう。と言うか、あれにある種の人格特有の臭いを感じてしまう。 毎度、常識でもないことをさも常識かのように押し付けてくるのだが、臆病な人などは、まるで教養の欠如を指摘されたかのようで、とりあえず黙ってしまうのだろう。 「まあ!だから日本は世界中で嫌われているのね?!」とか。「だから」なんて既成事実かのように言うな。そんなの初めて聞いたよ。

先回りして相手に罪悪感を与える形で、自論を押し通そうとする手法、老婆心ながらこれは止めた方が良い。人格を疑われますよ。 こんな私はいつも、便所の貼紙に「いつもキレイに使っていただき、ありがとうございます」とか書かれているのを、軽く不快な気分で眺めている。 私がいつキレイに使ったと言うのだ。


9/10(日)



神田優花、新曲の歌入れ。 今回のはちょっと今までのとは毛色が違ってて、リハーサルの期間も長めに取ってました。 今編集中なんだけど、とりあえずシングルとかにするような曲ではないな。

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昨日の文章を上げた後、また考えていたことを補足として上げる。

「気付いて欲しい」って表現が誤解を招きそうな気がしたんだけど、私はお金が欲しいとか有名になりたいとか、そういうことを願ってるわけじゃない。 勿論売れてくれればそれに越したことはないと思うけど、私の言う「気付いて欲しい」ってのはそういう成果を求めているのとは違う。

私は、ウチの音楽を聴いてくれる誰かが存在することを、「友達が出来ること」のように感じるんだ。 同志と言うか戦友と言うか。何と表現したら良いんだろう。やはり友達としか言いようがない。 私は、まだ見ぬ友と出会う為、日々音楽を作り続けています。


9/9(土)

我々は別に、ヒマや金を持て余しているから音楽を作り続けているクチではない。 好きだから、意志があるからこそこの作業を続けている。 まだウチの商品を存在自体知らない人は多いと思うけど、早く気付いて欲しいと思う。 気付いてもらうための努力ってのは、あんまししてないけど。

意志あってこその継続だが、結果として継続できているってことは、そこにそれなりの意味があるってことである。 ここで言う意味は、当事者である我々すら今の時点で気付いていないものかもしれない。でも間違いなくある。 この理屈、感じられない人には感じられないのかもしれませんけど。


9/8(金)

クレイジーキャッツ作品によく見られる、終止に使われる#11th、あれ起源はどこにあるんだろう。どう見てもクラシック的な書法じゃないからジャズ系なんだろうか。 使わせてもらおうと思ってたらちょっと気になった。


ライセンスビジネスについて、また考えていた。 ウチの作品(音源)の代理店のような窓口を増やすべきか否か。 増やせば多少露出も(無論収入も)増えようが、契約だとかカタログ作成の手間も当然増える。 あと、あんまし多くの業者と契約し過ぎるとブランドイメージが失墜するような気もする。迷うところ。


私は機材マニアのような人でないので、制作環境の代謝は遅い。 特にシンセ類とかエフェクトとかはもうお腹一杯って感じで、余程に目新しい技術込みのものでなければ要らないと思ってしまう。

今でも物色しているのは、エスニック系とかのレア楽器の音とか、メジャーな楽器の特殊なアーティキュレーションとか。 でもマニアック過ぎるものはそれそれで要らない。使いどころもない。

以前ストリングスとかブラスの特殊アーティキュレーションのサンプルを大量に公開してるところがあって、喜んで落としてみたんだけど、余りにサンプリングの(特にピッチの)精度が悪くて、手元で調整を試みたりしたんだが、結局諦めた。 もう使いでのあるもので且つ簡単に導入できるものって、本当に減ってきた。


9/7(木)

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また随分古い話で恐縮だが、「薬害エイズ事件」の被害者らが当時の厚生省や医薬品メーカーなどを相手取ったアクションを起こしている際、「心からの謝罪」を求めていた。 「金の問題じゃない」と。 私はその「心からの謝罪」を求めることの無意味さを感じる者である。

確かに訴訟など起こしたところで、仮に完全勝訴してもせいぜい金をふんだくれる程度の話。 刑事にしたって最大でも相手を殺せる(死刑にする)だけ。原状回復とは別の話。 でもそれを言うなら、心からの謝罪だって原状回復には何ら貢献しない。 何をやったところで「溜飲を下げる」と言った程度の効果しか期待できないからこそ、金や何やである程度代替可能だと見做されているのだろう。


「心からの謝罪」を求める人の気分を代弁すると、「相手に自分と同じ、あるいはそれ以上の苦痛を味わわせたい」と言うことなのだろうと思われる。 「自分のしでかしたことの重大さを知りやがれ」と。

しかし残念なことに、悔恨の念なんてものは、性質的に言語機能が生み出すものである。つまり感じ取れるそれに個体差が大きい。最も大きく差が出る類のものである。 相手の言語機能如何によっては、同じ苦痛なんて感じられようもない。 言語こそが良心なのである。


人肉の味を覚えたヒグマは繰り返し人間を襲うようになる。 有名な熊害事件であれば詳細な記録が残っていたりするので、興味がある方は調べて欲しい。まあ凄惨なものである。

家族や恋人などを喰い殺された者が、ヒグマに「心からの謝罪をせよ」と喚いても、それは土台無理な話である。 人の味を覚えた熊は殺処分するしかない。反省などする機能が備わっていないのだから、悲劇を繰り返さない為には死んでもらうより他ない。 熊に反省など望むべくも無く、無論のこと既に喰い殺された人も戻らない。

加害者に「心からの謝罪」を求める人は、相手を自分と同じ人間であれかしと期待しているし、その程度には相手を含む世界に依存している。

では被害者はどうすれば良いのか。 どうしようもない。被害を未然に防ぐべく対策を採ることはできても、現状死んだ者は生き返らないし過ぎた時間も戻らない、とされているので仕方ない。 ただ、復讐だとか、我々にできることだってある。例えば大切な何かを奪った相手を実力で殺すこと、これなら一応可能である。 ただ相手を殺したって大切な何かは戻らないけどね。 念のため、私はできることについて言及しているだけで、報復行為を推奨しているわけではない。


薬害エイズのような事件は、誰某が悪いとか言うより日本人の原理性に深く根差した一現象で、この国に暮らす以上、ああいうのを100%回避するのは難しいと思われる。

交通違反の反則金に「ポリ公ふざけやがって」と憤慨する人が、あわよくばと我が交通違反の揉み消しを誰かに依頼するのなら、それは金をたかられる身が金をたかる者を羨んでいるだけの話。 立場が逆転することはありえても、現象そのものが消滅することなど考えられない。

ああいう事件が金輪際起こって欲しくない、と真剣に思うなら、新たな価値を創造するしかない。 あれを起こした人々の心を、心底軽蔑できる人間に我々がなるしかない。  そしたらきっと世の中変わりますよ。これは嘘じゃない。


9/6(水)

片飛鳥、ニューシングル「さよなら」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


さよなら

『さよなら』は、大切な人との別れの曲です。互いに別の道を歩む事になった寂しさや悲しさ、それでも受け入れて前を向いていこうと決意する気持ちを歌にしました。
『おはよう』は、1日の最初にもらう小さな幸せに感謝を!という想いを込めて歌いました。

全く雰囲気の違う2曲なので、その日の気分で楽しんでいただけたら嬉しいです!

片飛鳥





9/5(火)

信について。 信こそが我が心にある唯一の財産である。

何かを信じること、このことこそが私に私の未来を肯定させている。 だからと言っては何だが、私には将来の備えなんてない。 この心一つさえあれば、どこへだって行ける。何だってできる。 未来を信じているから。

「いざと言う時の為に蓄えがなければ」と蓄財に奔走する人は、我が不信に振り回されている。 病気・災害などに備え、各種の保険に加入する、と言うのも要は不信に掛かるコストと言える。

無論 物事は、信ずるに足るものばかりではない。 私も単なる楽観主義者ではない。起こりうる悪夢を想定することぐらいできねば、生きるにも難渋しかねない。

「彼は状況如何によって必ずや私を裏切るであろう」と言う観測、これは不信ではない。 そういう相手ととの付き合いを最小限に抑えればそのリスクも粗方回避できる。 自明のことだが、不信とは依存心の相関係数だ。


「状況次第で寝返る者」を自らの人間関係に加えると言うのは、自分自身の成分を悪化させることである。何故なら、人間関係とはその人そのものであるから。 この理屈は分からない人には分からないかもしれない。 でも真理である。 人間関係とは、その人そのもの。

「状況次第で寝返る」と言う場合の状況って、時間的にショートスパンであるケースが多い。 つまりそういう部分最適を選択する脳は、時間の展開能が低い。 部分最適と総合的な利益が矛盾しているケースはよく見られるが、選択的にそういう動きをしてしまう者は、彼こそが要するに淘汰されるべき弱い個体なのだろう。

弱い個体はいつ裏切るか分からない。 そういう印象でもって、社会に不信と言う病原菌のようなものを撒き散らしている。 そういう意味でも消えるべき運命にあるのかもしれない。

この世界にとって有益な、必要とされる存在となるには、何よりも先ず強くあるべき。 具体的には、何かを信じてみると良いと私は思います。


9/4(月)

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自己と成長。

大抵の人は精神的に成長する。私も子供の頃は今に比べれば当然未熟だった。 成長すると言うのは自己を改善することで、その基礎として反省が不可欠となる。 反省するには反省すべき部分に気付けるだけの感受性が要る。感受性と潜在的な成長の可能性は密接にリンクしているはずだ。 自己を改善しないと成長できないし、そもそも反省しないと改善点に気付けない。改善的に気付くには気付けるだけの感受性が要る。 従って、感受性の鈍い人は成長しない。

しかしながら、もっと基本的なことがある。 それは成長するには、その成長の主体となる自己が要るということ。当然のことながら、自己が確立していないと成長なんてできない。 無い種を発芽させるみたいなことになるわけで、何を成長させるのだと言う話になる。

おそらくは多分に生来の脳機能の不全により、自己の形成に失敗する個体がいる。割合としては僅かであるが、多くの常識人が思っているよりはその個体数は多い。

その自己形成失敗型の個体は、自己が確立されていないので、一般的な意味での成長は絶望的に難しい。 その絶望的環境がありのままである場合、発達障害とか知能障害とか言われるのだろうが、いわゆる成長以外の変化(代償的な発達)が起こった場合、それが世に言う人格障害なのだろうと思われる。

彼ら人格障害者らは、代償的発達によって普通人の様相を呈しているが、いわゆる擬態のようなものである為、平素当人らの感じている負荷は大きい。 まあただ、普通人とは感性が違うから、負荷そのものも質的に違うはずではある。例えば暴力に対する本能的な恐怖感などは、「生きている」という感覚そのものが希薄なので常人よりは軽いはずである。

人格障害者が引き起こすトラブルのようなものの原因は、自己を改善できない点にある。 自己が存在しない故に、改善など当然望めないから、彼らは周囲こそをコントロールしようとする。 だから日々は衝突の連続となる。 モノとしての自分は見えても、自己を認識できないから、他人の目に映すことによって自分の存在を確かめようとしてしまう。 必然的に依存的になる。

自己が存在しない個体。 つまり「自分が自分である」と言うこの当たり前の感覚が持てないと言う。このことは我々普通人にとって想像が容易でない。 が、無理矢理に想像を逞しくするに、おそらくそれは地獄であろう。本当に植物ならその地獄も感じまいが。 失敗に躓く人、その人は幸福である。何故ならそれは成長の糧に違いないから。


9/3(日)

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ちょっと古い話になるが、大塚家具と言う会社にお家騒動のようなものがあった。事の顛末については、皆さん私なんかより詳しいのではないかと思う。

騒動そのものは娘さん側の勝利に終わった。 彼女は過去(騒動以前)、社長職にあった時期には会社の業績を上げ、騒動時にも株主は概ね彼女に好意的だった。 業績を上げたと言う、動かぬ事実があったことは株主らにとっても大きかったろう。

ところがその大塚家具、親父さんと決裂してその後(つまり娘さん体制に完全に移行した後)、大赤字を繰り返しているそうな。 要するに会社が傾いている。不思議なものだ。

娘さんは過去、事実業績を上げたのだから上げられるだけの手腕を持っていることは間違いない。 ただ、あくまでそれは後見人として親父さんが健在であったことに付随した現象であったのかもしれない。 分からないけど。

袂を別った親父さんは親父さんで、似たような業種の新会社を興したそうだが、そっちはそっちであんまし景気の良い話は聞かない。 物事って微妙なバランスで成立するものなのだと心底思わされる。 業績の上下なんて、経営者の能力なんてものとは全く無関係な要素で決まる部分だって、それはそれで大いにあるのだろうけどね。


信長が本能寺で殺されたことによって織田政権は崩壊した。 「当主が殺されたんだから当たり前じゃん」って思うかもだが、実は当時織田家は既に代替わりしていて、当主は息子の信忠、信長は隠居の身だった。 これ、別にカルト的な歴史知識でも何でもないはず。

信忠の方も本能寺の折に落命する。 でも、彼に取って代われる息子は他にいくらもいた。 但し親父の代わりはいない。、誰が飾り物の当主の座に就いたところで、親父がいなければ話にならない。 信忠が当主であった時間、織田軍団の戦績そのものは別に悪くなかったのだから、優秀な社長であると評価できなくもない。

歴史的事実として、織田家の当主は織田信忠だった。 が、誰がどう見ても織田政権最高権力者は信長だった。 だから本能寺を契機に織田政権は歴史から消滅する。 物事って、リアルタイムであるからこそ見え難くなる部分もある。 大塚家具についても、もう少し時間が経てば、その実態が今よりクリアに見えるかもしれませんね。


9/1(金)

面白くないことばかりを言っている人を見ると、「この人はディープに思考するのが苦手なんだろう」といつも思う。 ではどうすれば良いか。結論としては分からない。 思考のプロセスこそがその人なのだから、思考を弄ることは難しかろう。別人になれとも言えない。

現実的に採り得る対策として、まずは鼻で呼吸してみてはどうだろう。 念のため、私に冗談を言っているつもりは無い。

「夢が持てない」と悩む人は、まず腹一杯好きなものを食べてみてはどうだろう。 座り小便ばかりしている若者は、まずそれをやめてみたら良い。 世界が変わるかも。


8/31(木)

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片飛鳥「さよなら」、9/6(水)発売です。





音楽作品にとって大事なのは「その作品がある程度以上の面白さを持っているか」と言う部分で、いくら破綻なく作られていたとしても、面白くないものに聴く価値は無い。

音楽家は自分なりの面白さ、の感覚を作品に投影するわけだけど、何かを面白い・面白くないとする尺度と言うか、沸点のようなものが作家の命であると言える。

面白さと言うのは難しい。 カルト宗教だって。歴史を経て、信者数をある程度獲得すれば、その教義が道徳のように扱われ出す。 だから大抵の巨大宗教も、その教団が新興であった時期には迫害を受ける。 善悪などと言うものの価値基準が曖昧であるからだ。 美しさも然り。絶対的な尺度が存在していない。

マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスに転じるように、面白くないものと面白くないものも、合わせ方によってある面白さを生んだりもする。 難しい。 ある部分のみを抽出するなら面白くも何とも無い、と言う名作はいくらでもある。


モノを作る人にとっては基本であると思われるが、オーソドキシーの破壊にはある面白さが含まれる。 英語のfunnyには「おかしい(面白い)」と言う意味があるが、日本語のおかしいと成分的にかなり似通っている気がする。 コメディーがおかしい、と言う気分を指すのと同時に「体調がおかしい」と言う意味にもなる。

A「How are you?(調子はどう?)」、B「Funny(調子がおかしい)」

↑これは英会話としても成立すると思われる。 つまり「おかしい=正常でない」と言うのは即ち面白いのだろう。 だから人は、気持ち悪いと思うものに惹かれたりもする。 愛の反対は憎悪でなく無関心、と言うのは本当にそうで、引っ掛かりどころが無く、無視されるものこそが一番価値が低い。


8/30(水)



来月末にシングル「Garden」をリリースする神田優花ですが、11月にはその次のシングルのリリースも決まってます。 ご期待下さい。

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子供に教えるのが難しいものの一つとして、「物事の取り返しのつかなさ」がある。

人は好き放題、どうにだって振る舞えるのです。そこから波及する何かをコントロールできないだけで。 意思の赴くまま、やりたい放題に振る舞えるけど、行動の結果は外の世界にある。 それは我々の意思だけでは制御できない。

「結果を制御させやがれ」、「他人は思う通りに動きやがれ」と外の世界に要求すること。これをワガママと呼ぶ。 結果及ぼす影響についてはさておき、自らの行動を自らで決すること、これを人類は自由と呼び、崇高な価値としてきた。 自由とワガママの違いを知るにも、一定の言語力が要る。

自分の採った行動の責任は、好むと好まざるとに関わらず、自分で請け負わねばならない。 そういう意味で、人は皆ある意味では自由なんだけど、そこに気付けない人は多い。


私は、「物事の取り返しなんてつく筈が無い」と何かを諦めているわけではない。 それどころか、過ぎた時間すらも諦めていませんよ。 でもそれは「物事の取り返しのつかなさ」を身に沁みて知るが故に見る夢である。 このことと「物事の取り返しのつかなさ」すらも理解できないこととは、少なくとも私にとって全く違う。

物事は取り返しがつかない。 このことを私は良い事だとも悪い事だとも言っていない。 どうしようもなく物事とはそう言うものだから、我々にできることは、今を一生懸命に生きること。それだけ。


8/29(火)

例の映画「Ghost In The Shell」、DVD化されたみたいで、色々ランキングとかでも上位に入ってるみたいだ。私が見たところほとんど1位だった。 因みに私は見てないんだけど、エンドロールのクレジットだけは確認した。 神田優花の「changes」は引き続き販売中です。よろしく。

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人がなかなか幸福になれない理由は、幸福の形を外に委ねるからだろう。 自分で決めたゴールじゃないから、いつもそこに残る疑問を拭えないし、誰かにそのゴールを簡単に動かされてしまう。

高いものを買うために貯金している人でも、安物を手に入れて喜ぶ隣人を目にしてしまうと「自分は何も手に入れていない」と不安になってしまうんでしょうね。 大丈夫ですよ。心配しなくても。

人間の真価って、手に入れた何かでなく、どういう未来を思い描いているか、だと思う。 何一つ手に入れていなかったとしても、正しい方向を向いて歩いているのなら私はそれで良いと思う。


8/28(月)

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「美味しんぼ」についてまた言わせて欲しい。 あの屈折した世界観が癖になる。

あのマンガに「タイ米」についての回があるのだが、おかしいことこの上ない。 毎度おかしいのだが、おかしさが際立っていて、ある意味象徴的なのだ。

ある時、東西新聞社文化部でタイ米のことが話題に上る。 「臭くてマズい」だの「人間の食い物でない(家畜のエサ)」だのと、内容は非難一色。 その場ににてそれを聞いた来日中のタイ人女性記者は激怒する。 「あれは臭いのではなく、タイ米の香りなのだ」と、更には「何の香りも無い日本の米の方がむしろおかしい」と。また「現にタイは日本と違って米の輸出大国である(=日本米よりタイ米の方が国際的評価に耐え得るものである)」と。 その後いつものように「日本は世界に嫌われている」とか「先の大戦での侵略が云々」と言うあのマンガお得意の話に発展して行く。

発展して行った後の部分はさておき、タイが米の輸出大国である、などの話は事実であろう。 日本の米は日本人の味覚・日本国の風土に特化し、カスタマイズされたもので、本当に国際的な訴求力はそんなに無いのかもしれない。 非難の主唱者だった副部長は、口の過ぎる悪者として描かれている。 私はその辺については特別気にもならず、そのまま読み進めた。

話は続き、最終的に、東西新聞の関連企業である東西テレビの番組にて、タイ米の魅力を特集することになる。無論東西新聞文化部が中心になってのことだが、上のタイ人女性記者の協力も得る形でである。 タイ米の汚名を返上すると言う筋書き。 まあ話の展開としてはありがちなもの。

そこで提供されるタイ米を使った料理の旨さに、会場の人らは舌鼓を打つ。この辺もありがち。 しかし最後に提供されたタイ米を口にした皆がそれを絶賛し、発した言葉が「このタイ米は全く臭くない」と言うようなもの。 そこで提供者側がそれについての説明を加える。

曰く『このタイ米は、タイの伝統的炊飯法にて作られたものです。 タイ米は本来の伝統的炊飯法で作れば臭くないのです。現代のタイ米が臭くなってしまうのは、電気炊飯器を使って米を炊くからであり、その電気炊飯器は主に日本の家電メーカーなどが普及させたものです。電気炊飯器は、その余りの便利さ故に現代のタイでは大変に普及しており、残念なことに、若い世代など旧来の米の炊き方を知らないくらいなのです。』ですと。

オイオイ。ならやっぱりタイ米が臭いと言ってた副部長の意見は正しいんじゃん。 日本人以外(無論タイ人を含む)にとってもあの臭いは、無いならそれに越したことは無いものではあるんじゃん。 あれは「香り」と言う、むしろタイ米の美質であると言う話はどこへ行ったんだ。


あのマンガに流れる、そこはかとない胡散臭さを象徴しているエピソードである。 大抵の詭弁を弄する人は、議論の正しい意味を理解できていない。 議論と言うのはこのように、その場限りの口から出任せで、相手をやり込める、もっと言えば「負けないこと」こそが議論のやり方だと思っている。 だから前後の論旨を総合すると、矛盾だらけであることなど日常的に起こり得る。

上のエピソードを紹介するのには結構な文章量を割いたが、他にももっと単純なケースもある。 例えばある回で海原雄山(重要な登場人物)が「私は鯉の洗いを信用できる店でしか食べない(=信用できる店では食べる)」と言ったかと思うと、次の回(連載時にはおそらく一週間後)には「私は鯉の洗いを食べない」と断言していたりする。 まさに食言なのだが、「その場を凌ぐこと」を至上の命令としていると考えれば、ごく自然に納得できる。


8/27(日)

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クレイジーキャッツの音楽について考えていた。 因みに、私はリアルタイムで全く見たことがない世代である。 メンバーの入れ替わりが激しくて、「○人組」などと言い切れないグループなんだけど、ドリフターズのプロトタイプと言うべきもので、通底するプロットを割りと露骨に感じる。

しかしあの時代の音楽は、絶対的な供給量が少ないからだろうが、一々クオリティーが高い。 コミックソングと言えどもそれなりに練られていて、十分に聴き応えがある。 あの当時、音楽家なんかになろうと思ったら、ある程度管弦楽法などに精通していることは必須条件だったろう。 と言うか、そうでなくなったその後の音楽界の方が変なのかもしれない。

ある曲の動画(映画のワンシーン?)を見たのだが、植木等の左右に二人づつが配置されていて、つまり5人組の絵になっていた。 5人組のドリフターズは国民的人気を博した。特撮の戦隊モノなんかも基本5人なわけだけど、5人と言うフォーメーションには日本人の琴線に触れる何かがあるのだろうか。 クレイジーキャッツ自体は厳密には5人組と言い難いけど。


クレイジーキャッツ楽曲の多くの作詞を手がけている青島幸男さんについても気になった。 青島さんは後年、映画「釣りバカ日誌」のテーマソング(の作詞・作曲)を手掛ける。曲そのものは、まあハッキリ言って素人丸出しと言うか、音楽的な教養・経験に乏しいのが聴いただけで分かる代物なんだが、クレイジーキャッツ作品の明らかな影響が窺える。 因みに青島さんは、クレイジーキャッツの「曲」を書いたことは無い筈。 自分が聴いてきた曲を、音楽そのものと捉えたのだろう。

基本的に創造は模倣をベースにしている。どれだけそれを血の通った自分のものに出来るかってのが重要なわけだけど、模倣が基礎にあることは間違いない。 音楽経験の少ない人の曲を聴くと、それが如実に現れている。 青島さんの曲は、ある意味サンプルとして貴重なもの。


しかしクレイジーキャッツはいわゆるコミック・バンドなわけだが、正直「笑えるか」と問われると微妙だ。 「スーダラ節」だの「ホンダラ行進曲」だの、オノマトペのような笑いって、ユーモアやウィットと言った感覚とは遠い。 笑いとしても未熟と言わざるを得ない。

あとついでながら、植木等さんと言う人は、あてがわれたあの役柄と本人の生のキャラクターにギャップがあり過ぎる気がする。 本人しんどそうと言うか、色々と負荷が大きそうだ。


8/26(土)

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神田優花。ニューシングル「Garden」(全2曲)、9/27(水)発売です。





一歩を踏み出すなら、右足からにしようか。あるいは左足からにしようか。 「右足から踏み出す」と言う行動を選択することとは、即ち「左足から踏み出す」と言う歴史を抹殺することだ、と言うことになっている。

私が右足から踏み出したとしても、「もし左足から踏み出していたら展開したであろう相応の歴史」が存在しないわけではない。 今の私がその「排除された未来」の中にいないから、そのもう一つの歴史を眺めることは当然できないけれど。

右足から踏み出したことによって、「右足から踏み出す」と言うその歴史は決定付けられる。 その確定した歴史から、我々は一歩も外に踏み出せないとされているし、それを疑いすらしない。 その、可能性の枝葉を行き来できないこと、こそが時間の不可逆性であるらしい。 エントロピーは増大すると言う。 何だか文章のまとまりが悪い。

「時間は戻らないもの」と、広く考えられているけど、実は戻らない何かを我々が定量化・数値化し、時間と呼んでいるだけなんだよね。


8/25(金)

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影山リサ、新曲のレコーディング。 影山リサは10/18(水)にニューシングル「Little Runaway 〜長い旅のように〜」(全1曲)を発売します。 今度のはカップリング無しの1曲入りなんだけど、実質2曲(のメドレー)です。





相撲取り、今はもう外国人だらけなわけだけど、とりわけモンゴル人が多い気がする。 あれこれ表向きの理由はあるのだろうけど、要は容貌が日本人に近いからだと思われる。 一応は日本の国技なのだから、典型的なアフリカ黒人や金髪碧眼の白人だらけではマズいのだろう。

外国人力士は、相撲取りと言う職に就いた単なる「外国人就労者」なわけだけど、その割には最もポピュラーな在日外国人であり、地理的にも隣人である中国・朝鮮人がほぼいない。 何故か。

これも言われていない(少なくとも私は聞いたことがない)が、最大の理由は彼らが儒教の徒であるからだろう。 肌の露出を礼に悖る(野蛮である)とて好まない。 日本も大掴みには儒教文化圏であるはずだが、この辺一つ取ってもその影響が軽微であることが分かりますね。


8/24(木)

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モノを作ることを創造と言い、未来を思い描くことを想像と言う。 字こそ違えど、二者は実は同じものだ。

ピカソや北斎は凄い。本当に凄いと思う。 何が凄いって、生涯多作であり続けたこと。 絵の上手さなんて。正味のところ私には分からない。

生涯多作であり続けられたってことは、生涯その作業を楽しめたと言うこと。 もし作れなくなる日が彼らに訪れていたとしたら、それは飽きた・面白くなくなってしまったということなわけだけど、そこが彼らの限界だったろう。

何かを楽しめる能力、これこそが才能の正体である。 如何に世俗的な栄達など手にしていようと、あるところより先に進めなくなる者は多い。

何かを創ると言うのは、未来を思い描くこと。 もしこの先私に曲が書けなくなったら、それは私に未来を想像できなくなったと言うこと。


どこかでリタイアしてしまう人はいる。 例えばミュージシャンとかなら「耳が悪くなった」とか言う理由で。 でもそれってつまりはウソなんだ。 続けられなくなったから、やめる理由を探しただけ。 「耳が悪くなった」とか言う、ちょうど良い理由が手の届くところに転がっていたから、それを公式ステートメントとして自他を煙に巻いただけ。

耳が聞こえなくなろうが目が見えなくなろうが、両手がもがれたとしても、ピカソや北斎はきっと描き続けただろうよ。 私も書き続けようと思います。


8/23(水)

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テレビ番組で「落雷対策」を特集していたのだが、そこに気になる部分があった。

番組中で専門家らしき人が「激しい落雷の最中には、車中にいるのが安全である」などと言う。 そういう話って聞いたことあるし、そこについてはさしたる感想もなかったのだが、専門家は更に言う。 「電気の通り道がある環境の方に雷は落ちやすい」などと。

結果的に雷がどういう環境を選択したとしても、雷に意思があるわけではない。 「こちらの方が起こる確率が高い」と言う話である。現象と言うものは基本的にそういうものである。 まあこれは雷に意思があったとしても、大筋の論旨に変わりはないのだが、自然現象とかだと私の考えていることがアタマの中で際立つ。

例えば一望の野原に高い木が一本立っていれば、雷はそこに落ちやすい。 その木への落雷は「起こりやすい現象」と言うことになる。 では野原の方に落ちることは同時に「起こりにくい現象」なのだろうけど、それってどういうことなのか。

起こりにくい現象、起こらなかった現象、と言うのは、それ自体が存在しなかったわけではなく、現象と言う形でこの世界に残り難いものだっただけではないのか。 つまりそれそのものは、痕跡として留められ難いだけで、厳然と存在しているのではないか。


枝分かれした「起こったこと」と「起こらなかったこと」について考えている。

明日の天気は晴れなのか雨なのか、はたまた曇りなのか雪なのか。誰にも分からない。 が、ある程度の予測は成り立つから天気予報なんてものがある。 雲の動きなどを観測すれば、ある程度の蓋然性は導き出せるからだ。

「明日の降水確率は90%です」などと気象庁が発表したならば、確率的に90%程度は雨なのだろう。 でも残り10%はそうでないと言っている。 曇りかもしれないし、あるいは雲一つ無い快晴かもしれないのだ。 更には明日が(今は8月なのに)大雪である可能性だって0.0000001%とかならあるかもしれないのだ。

そんなに起こりえる可能性が低い現象など当然のように起こらない。 が、「起こらない」と言うのは、「起こった」とて現象として痕跡を留め難い何かであるだけなのではないのか。 私に「伝わり難いことを言っている」と言う自覚はある。


音楽なんかを作っているとよくこう言うことを思う。 作曲家は、音価と音高の組み合わせにて曲を構成するわけだが、常に自分なりの最適解を選択している。 では最適解として漏れたパターンは存在しないのか、と言うとそうではないと思うわけだ。

漏れた可能性の枝葉。それ自体は存在するのだけれど、最適解としてこの(限定的)宇宙に痕跡を留め難かっただけなのではないか。 留めた何かのことを我々が現象と呼んでいるだけなのでは。


8/22(火)

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アルツハイマーとか認知症とか言われる「症状」がある。 かつては痴呆・老人ボケなどとも言われていたが、実はあれは老人特有の病気のようなものではなく、ある脳の(多分にハードウェア的な)不具合を指す。 だから実は年齢はそんなに関係無い。


声優大山のぶ代さんの旦那さんが最近亡くなったそうだ。 大山さんはまさにアルツハイマーで、旦那さんは晩年、彼女の身の回りの世話などで大層苦労されたそうで、その辺りの心労があるいはたたったのかと思われる逝去だった。

その旦那さん、生前のあるインタビューで「妻が元通りになる日を夢見ている」と言うような主旨の発言をされているのだが、「元通りの大山のぶ代」とは如何なる人物か。 その夢、実体を伴ったものだろうか。彼の頭の中にだけ存在する、錯覚のようなものだったのではないか。


もう随分昔、あるテレビ番組で「大山のぶ代(ドラえもんの声優)がドラえもんの道具をいくつ覚えているか」を検証する企画があった。 確か、道具の絵だかを見せてそれの名称を言い当てさせる、みたいな内容。無論大山さんがアルツハイマーなどと一切言われていなかった時期である。 私は何気なくそれを眺めていてあることに気付いた。

ドラえもん(主役)の声優と言う、制作に濃厚に関わり続けた立場にありながら、実に正答率が低い。 また、単に正答率が低いだけでなく、間違い方が「おかしい」のである。 どういうことかと言うと、例えばある道具の絵を見せられて「どこでもドア」と答える。するとそれは「不正解です。正解はタケコプターです」となど言われる。 ここまでなら単なる不正解(記憶違い)に過ぎないが、次の出題がなされた時、彼女は「タケコプター」などと解答する。

当然不正解なわけだが、さっきの絵がタケコプターだったのだから次の問い(当然別の絵)の答えがタケコプターのわけがあるまい。 単に頭の中に残っていた「タケコプター」と言う音を復誦したのかと思われるが、既にその時点で通常人とは「処理」が異なることが窺える。 因みに、実際に出題に使われた道具の固有名は上の通りでない。出題の性格を理解してもらえれば良い。


彼女は「変わった声」の持ち主だった。 だからこそある分野において、あのような巨大な功績を残した。 人としてのある(ごくベーシックな)部分が通常人と同じであったのなら、きっとそれは単に個性であったろう。 そうでなかったから、それが発話にまで現れていただけなのかもしれない。

若い頃の彼女に周囲は、何故その処理の違いを見出せなかったか。 それは人間を含む万物は収斂するからであり、また、周囲にいた他人も人間で、人間は他者に自分を投影するからだろう。 つまり無いものを在ると見た。

この処理のプロセスが思考であり、つまりはその人そのものだ。 元々異なっていたそのプロセスが、願望を始めとするいくつかの要因によって見え辛くなっていた。 元々微妙なバランスで成立していた幻影だったから、加齢によるちょっとした身体条件の変化でも、いとも容易く崩れてしまう。

崩れたのは彼女の思考ではなく、周囲が見ていた幻影の方である。

このことを人は、アルツハイマーだとか老人ボケだとか呼んでいるのではないか。 老いによって何かが崩れたって言うより、そもそも崩れていたことが周囲にも分かるようになった、と言うのが実態に近いように私には思える。


8/21(月)

↓スタジオで食べたおやつ。

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曲作りのための小物作りに半日くらい使ってしまった。

小物って何だよって話だけど、使いまわせるフレーズ(MIDIデータ)とかDAW用のオートメーションとかそういうの。 あったら後々便利だと思うからこさえるんだけど、意外と使い道無かったりもする。


8/20(日)

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片飛鳥、新曲の制作中。 新作「さよなら」が、9/6(水)に発売されます。 片飛鳥は現在アルバムも制作中です。




8/18(金)



8/9(水)に「Weather Cock」をリリースした神田優花ですが、来月末の9/27(水)に次のシングル「Garden」(全2曲)を発売します(下がそのジャケット)。 今度は久々のバラードナンバーです。




8/17(木)

ここ最近、パッケージ物をほぼ作ってない。 配信のインフラも整ってきたし、別にそれは良いんだけど、ダウンロード物には「ブックレット(歌詞カード)が付かない」と言う難点がある。 完全にそれを補完できるか分からないけど、ウチとしては、代わりに歌詞サイトで歌詞を公開する形を取ってました。 その歌詞についてのお知らせ。

今まで新譜の歌詞を「歌詞GET!!」等のサイトで公開してました。と言うか、厳密にはそれを管理している業者さんに歌詞データを提供してたので、そこ経由でいくつかのサイト(サービス)に反映されるような形になっていたんだけど、この度(8/9発売の神田優花「Weather Cock」より)「うたまっぷ」さんの方でも新譜の歌詞を公開することになりました。 歌詞情報の供給先を増やしたってことです。

「うたまっぷ」には、今までも何十曲か(主に神田優花の)歌詞を提供してたんだけど、神田優花に関しては、一応現時点でのリリース済み楽曲の歌詞を全て公開することになります。あと今後はリリースの度に新作の歌詞も公開される予定です。 「うたまっぷ」さんには、アーティストクリップのコーナーで神田優花や鈴木サヤカを紹介してもらったりと、今までも色々お世話になってます。 便利なサイトなので、皆さんもご利用されてみてはどうでしょう。


8/16(水)

ドラえもんの世界の「その後」を想像してみる。

まずジャイアン。 物語での彼は小学生なのだが、中学に上がった後、彼はきっといわゆる「ヤンキー」になる筈だ。 これは生物学的原理のようなもので、ほとんど疑う余地がない。 中学卒業後は、時節柄、高校くらいまでは行くのではないかと思うが、きっと大学進学はすまい。 肉体を酷使するような職に就き、やがては自分で会社を起こす。 若くして結婚し、比較的子沢山の家庭を築く。


スネ夫は難しい。そもそもキャラクターとしてあまりリアリティーが無いから。 家庭環境から推すに、当然大学(有名私立など)まで行くと思われるが、しかしそんなに金持ちの彼が、何故そもそも小学生の時点で私立に行かず、のび太らと同じ公立小学校に通っているのか。 理由は簡単。構成上「金持ちキャラ」がいた方が話を作りやすいからである(「ちびまる子ちゃん」の花輪くんとか、同一ニッチのキャラクターはよくある)。 つまり実在性に優先する事情があって作られている。だからどうしてもリアリティーに欠ける。

就職なんかは親のコネで楽にできようし、スネ夫はとりあえず経済的には生きて行くのに苦労しない筈だが、あのマンガのキャラクターの中で、人格面で一番行く末が心配なのが彼であるのは間違いない。


しずかちゃん。あれもリアリティーに欠けるキャラクターだ。 大体小学生の女の子がたった一人で、のび太ら男の子の集団に、遊び仲間として日常的に混じっているものだろうか。 のび太や出木杉くんなどとよく二人きりでお互いの家などにいるわけだけど、もうそのことが尋常でない。 物語では将来のび太と結婚することになっているわけだけど、小学校の同級生と結婚するなんてケースも物凄くレアである。 存在自体がリアルでないキャラは、当然行く末も想像し難くなる。


のび太。 一人っ子だし、両親は大学まで進学させたがるだろうが、小学生の時点でテストは0点ばかり。どういった進路を辿るのだろうか。 そもそも小学校時分に0点を取りまくる子ってのは、「成績が悪い」なんて生易しいものではなく、発達障害を疑われるレベルだろう。 「しずかちゃんと結婚する」と言うことになっているので、そこはまあ設定として踏襲するとして、仕事人として将来どうなるのやら。 どう考えても仕事はできないだろう。

出木杉くんは普通に進学校に行って国立大学を出て、一流企業に就職するか、公務員になるか。そんなところだろうか。


8/15(火)

知らない日本人もいないと思うが、幕末の頃、新撰組って団体があった。 混迷極める京都の治安維持を担った、非常警察組織である。 構成員は、身分こそ百姓町人が主であったが、皆いっぱしの手錬れであった。

取り締まる対象は、主に長州などの過激分子、今で言うところのテロリストのような連中だったのだが、そいつらも一応は武装している。と言うか、装備のレベルは同程度だったろう。 だから、任務はそんなにイージーでなかった筈だが、判明している限り戦績は良好、と言うよりほとんど圧倒的だった。

彼ら新撰組は、普段屯所に詰めていた。分かりやすく言うと集団で寮生活をしていたわけだ。 またある時期は「いつでも死ねる」と言う心意気を表するために、死に装束を意味する白ベースの装束を制服としていた。 これまた分かりやすく言うと、いわば統一的ユニフォームを採用していた。

幕末の京の町で、彼らの存在が有名になるにつれ、当時の遊女などの中から、新撰組のファンのような者が現れ出したそうで、新撰組のあるところには彼女らも出没した。 つまりは今で言う「追っかけ」である。 これは一応の歴史的事実である。


私は如何にもありそうな話だと思うと同時に、その行動メカニズムについて考えていた。 統一的な白装束に身を包んだ青少年らが、寮で集団生活をしていたところ、そこに婦女子が集る。

スポーツの強豪校、その運動部には女性ファンがしばしば群がる。 プロスポーツにおいても、チームに対する愛着はユニフォーム抜きには成立し難い筈だ。

チェッカーズが売れた理由として、衣装をチェックで統一した点は大きかったろう。 そして、寮生活をしているアイドル・グループ。事実存在したりもしようし、そういう妄想も如何にも蔓延っていそうだ。 つまり新撰組には、ファンがつく条件が揃っていた。 どうして女子らはその手の条件に弱いのか。


結論としては「分からない」。だが、仮説のようなものなら出せる。 ああ言う対象は、脳(思考)のリソースを節約できるからではないか。

子供が単純な線で構成されたアニメーションなどを好むのは、処理できる現実に制約があるからだろう。 例えば実写だと、情報として重過ぎる。 デフォルメされたキャラクターで構成されることによって、物語の情報量は節約されるのだろう。 制服は、人物の抽象化に一役買っているのかもしれない。

対象が、統一的装束を身に纏うことによって、識別を容易にさせるのではないか。 寮生活のように「浮世と隔絶した環境に置かれている」と仮定した方が余計なイマジネーションが紛れ込んでこない。 などと考察してみたが、結局のところよく分からない。いつか分かるかもしれないけど。


8/14(月)

ドラえもんのある回に、ジャイアンが「除け者(のけもの)」にされる話がある。 ドラえもんの道具を使って、皆で映画を作るのだが、その際ジャイアンにだけはそのことが知らされず、ジャイアン以外の子らは示し合わせ、極秘裏に映画制作を遂行する。

確かにジャイアンは乱暴者で、普段から皆に煙たがられる存在として描かれている。 が、その彼を除け者にする際、平素一の子分であるスネ夫がもっとも積極的にそれを計画する。 スネ夫はジャイアンのいないところでは、彼を「アイツ」呼ばわりである。

スネ夫と言うキャラクターは、ある人間の類型を活写している面がある。 ジャイアンが持つ暴力に怯え、いつもはその子分の身に甘んじているが、パワーバランスが崩れ、条件さえ許せば、このように恥ずかし気も無く裏切りを見せる。 彼と友人になることは難しい。

暴力による支配・被支配の関係が、長いこと崩れないことはそれはそれであり得る。 ジャイアンとスネ夫の、お互いが時間を使い切るまでその関係が続くことだって十分にあり得る。 但し、それを友情とは呼ばない。

蚊は血を吸う為に人に近寄るが、蚊と友情を結ぶことができないのは無論のこと、「血を吸いやがって」と憤慨するのも愚かだ。 我々にできることは、蚊が家に侵入してこないよう注意を払うことや、入って来てしまった場合には粛々と蚊取り線香を焚くこと、など。 最近はボトルタイプとかの優秀な蚊除けもあるようで、上手く使えば一夏くらいは持つそうな。 その一夏を「蚊との友情」だとするのは欺瞞である。

スネ夫のような人物と付き合うには、常に政治的な手練手管が要求される。 彼が「裏切れない環境」を構築する必要があるからだ。 私はその物心両面でのコストを馬鹿らしいと考えるから、友となれない人と付き合うことは極力避けるようにしている。


私は、日韓併合とその後の、敗戦から現在に至るまでの日本・朝鮮の歴史について思いを馳せている。 友とすべからざる者を友とした日本(大日本帝国)は、その後パワーバランスの変化によって、その一旦友と見た何かを、いわば病患として抱え続けることになってしまった。

朝鮮人の振舞いを憎む現代人は多いし、私もある程度それに共感するけど、日本人だって反省すべき点が無いわけでは無い。 日本は要するに、友とすべきでない者を友と見たと言う、判断の甘さのツケを払わされている。 我が身に降りかかる不幸の原因を他に求める思考法は、まさに彼らのそれと同じだ。 失敗の記憶は、未来の自分に何かを教える為にある。


友人と言うのは、永遠のものである。だからこそ何にも替え難い。 友情とは、ある思考のパターンとある思考のパターンとが、とある部分を共鳴させ、時間を共にできたこと。 政治的パワーバランスを維持し、如何に多くの人間関係を維持していることより、私はたった一人の親友を持ちたい。

友情は永遠なのだから、仮に私が友と離れ離れになったとしても、この時空のどこかででも必ずやまた巡り会える筈だ。 あるものは消えず、無いものは初めから存在しない。 私とは、私と言う固有の思考パターンが、ある条件を背景に現出しただけのもの。 だから私は無くなったりしないし、私を取り巻く友情も、それが本当に友情であるならば、決して消えたりはしない。


8/13(日)

影山リサ、ちょっと先の話になりますけど、10月後半にシングル出します。 もう納品とかは終わってるんだけど、詳細についてはまた後日。

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アメリカに「Ke$ha」と言う表記のアーティスト(歌手)がいる。 アーティスト名に「$(ドル)」マークが入っているのだが、この辺りに日本人との感覚差を痛感してしまう。 あれ、アメリカ人的にはカッコ良かったりするのだろうか。 例えば日本人アーティストで「GLA\」とかあったら、金の亡者のようで実にカッコ悪い(と私は思う)んだけど。


8/12(土)

神田優花は今、ちょっとめんどくさい(と言うか、本人苦手っぽい)曲に取り組んでます。 まあ今は取り立てて急ぎのリリース予定とかも無いし、こういう機会にじっくり作りたいと思ってます。 発表できるのはまだまだ先になりそうだけど。 最新シングル「Weather Cock」、発売中です。





一杯10円のラーメン屋があれば、そこには行列ができるだろう。 しかし「客が来ない」と嘆いているその辺のラーメン屋の店主が、そういう価格設定にしないのは、採算が取れないからだ。 「タダより高いものは無い」とは良く言ったもので、成立する筈のない価格が設定されているモノは、何か別の事情を抱えている。 10円ラーメンに列を成す人らも、きっと10円以外の何かを別の形で払わされている。

モノには適正な価格ってのがある。 争奪戦が起こるような商品は、疑ってかかった方が良い。 無理のない価格設定が行われていれば、そんな現象は起こりようがないからだ。 ダイヤモンドやゴールドは希少であるが故に高直だが、貴金属店に行列ができたりしない。その唯一の理由は、価格が適正だからである。

「急いで手に入れないともう手に入らなくなる」と言う動機、本当かしら。 そんなに売れるものならナンボでも生産すりゃ良いだけだから、待ってれば必ず手に入る筈である。 以後手に入らないのであれば、それは希少であるのだから、適正な価格設定が行われるに違いないのである。


私は「争奪戦のいかがわしさ」について述べているのだけど、上手く表現できているか自信が無い。 例えば男女の話においてだって、しばしば争奪戦は起こる。でもそれって本当に当事者の人格的魅力が引き起こしているだろうか。 誰かの不当な安売りによって起こってないか。 モノを不当に高く売ることが悪であるならば、不当に安く売ることも同じく悪である。


8/11(金)

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私は人間の個性ってものをそんなに信用していない。 行動を支配するものは、ほとんど個性(精神)ではなく、自らの姿形を含む環境である。 不良少年も優等生も、ほぼ環境によって作り上げられている。

よく言われる「昨今の若者の堕落」みたいな話も信じない。 羊の群れに異端などおおよそ出現しないでしょう。 彼らに個性など、良くも悪くも備わっていない。違うものがあるなら、せいぜい周りを取り囲む環境ぐらい。 おかしな体色のカメレオンがいたなら、ソイツには個性があるのではなく、おかしな場所にいただけだ。

街なかで不良っぽい若者を見かけ、時々思うことがある。 彼らの服装や物腰は、いわば周囲に対する(威嚇を主とした)ポーズなわけだが、周囲無しでは成立せぬものであると言うこと。

つまり、彼らは周囲から何かを貰う(奪う)ためにあの行動を採っている。 だから相手にクネクネと媚び諂う者と、基本的な精神は変わらない。 奪うことも乞うことも、欲すると言う精神において同じだからである。 二者の表面行動の違いは、環境に因って引き起こされただけのもの。収斂である。

奪うってのは必ずしも物質的な収奪を意味しているわけではなくて、恫喝的態度によって引き出せる相手の譲歩とか、ただ単に「目立つ」と言う成果をも指している。 ギャラリーがいないと目立つことすらできない。 周囲無しでは成立しない何事かを抱えている時点で、その人の生き方は依存的である。

生態系上のあるニッチを占めたが故に、ある者は他者に媚び諂い、ある者は他者を恫喝する。効率の良い収奪法を選択しているだけである。 つまり彼らは、環境に従ってその行動を採らされているだけ。 だから、例えば不良のような人物は、どの時代のどのコミュニティーにも出現する。

ある条件を与えられた場合に、彼らに採れる行動は範囲が限られている。 結論としてそんなに面白い人らじゃない。


8/10(木)

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量子力学の本とか読んでみて、私にも感覚的に分かることと分かり難いこととがある。 数学のある段階以上を分かってないから、計算式のようなものはあんまし解けないが。

例えば虚数と言うものを概念としては(説明を)理解できても、その存在は体感し難い。 「実在しないものだから体感できなくて当然」と思えなくもないのだが、物理学者の頭の中にはありありと実在するものだろう。 現実ってのはそもそも各人の頭の中にしか存在していない。

虚数については、我々が過ごす日常においてそれを感じることはなくとも、この宇宙を構成する重要なファクターであるかもしれず、濃厚に実在しているとも言える。 少なくとも、数学者の脳内だけに存在する仮想的なものではなさそうだ。 仮想って何ぞやって話だが。


量子レベルでの世界は、確率的なものであると言う。 「シュレーディンガーの猫」って有名な話があるけど、確率的な分布を含んだ状態で量子の世界は構成されていると言う。 ある状態が確定することによって、それまでに経過した時間も成立すると言う。 この辺り、パラレルワールドの存在を窺わせるが、実際着想の一部となっていたりするのではないか。

量子力学的世界の解説にしばしば引き出されるモデルに、二重スリットを使った実験、ってのがある。 詳しくはその種の本を読んでもらうとして(必ず出てくる)、事象が観測によって決定付けられる、と言うような話には俄かに納得し難いが、我々の生きている「そうでない世界」の方が奇跡なのかもしれない、と思えなくもない。

私はそもそも文系で、いわゆる音楽家であり芸術家である。 物理の世界なんて全くの門外漢なのだが、多少の関心を持ってしまうのには理由がある。 ミクロの世界の探求は、同時に宇宙の解明に繋がっているわけだが、そこが私の創作活動にも、何らかのヒントを与えてくれるような気がするからである。 無論テクニカルな部分は分からないし、分かろうとも思わないが。 これは能力の問題でもあるが、可処分時間の問題ってのが大きい。

私は個人的に、日本語の時間解釈と量子力学的世界観の相性はあまり良くないと思うのだが、事実量子力学の世界における日本人の学問的功績は大きい。 やっぱり物事って単純でないね。


8/9(水)

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神田優花、ニューシングル「Weather Cock」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Weather Cock/Cherry Blossoms

Weather Cockは感情の揺れ幅の大きい曲。
リズムも早いし、ドラマティックに、少し演技過剰にやってみました。
クルクル回る風見鶏が見えるといいなと。

Cherry Blossomsは、神田優花的演歌とでもいう感じかしら。
大人の花を目指しました。

今回の曲たちは、色でいうなら極彩色。
艶やかな印象の2曲です。
楽しんでもらえますように。

神田優花





8/8(火)

神田優花、明日発売の新作「Weather Cock」(全2曲)、収録曲について。


1.Weather Cock

ベースのウォーキングラインっぽいところとかブラシ使ったドラムの4ビートとか、アレンジはジャズ臭い。 曲全体のイメージとしてはそうでもないと思うけど。

私は編曲の際、生楽器音(実在する楽器の音)を使うなら、実際に生演奏でなくても演奏可能なスコアにすることが多い。 この曲の各パートも基本そうなのだが、ダブルベースに関しては、カポタスト使用前提になっている。 珍しいケースと言えばそう。

以前リリースしたシングルのタイトル曲「Rose」と、プロットが若干通低するような。 部分的に歌のメロディーが無拍節っぽくなるところとか。

途中ホンの数小節だけ入る弦の音とかあって、パート数は(聴いた印象よりは)多い。 その割にはバッキングトラック作るのに時間掛からなかったけど。勢いで作ったような曲。


2.Cherry Blossoms

和っぽいニュアンスの楽器を使ったアレンジ、みたいな漠然としてイメージがベースにあった曲。邦楽でなくあくまでPOPSを作ろうと思った。 三味線とか筝の音を使ってるんだけど、実器でなくあくまでPCM音源のニュアンスを出そうと心掛けた(特に三味線)。 PCMにはPCMの良さってものがあるんです。

上のWeather Cockの話と重なるんだけど、普段のアレンジで私は、実在する楽器の音を使う場合、例えば筝であるなら13弦の半雲居調子であるとか、三味線なら一弦開放がFの二上りだとか、そういう基本設定を踏まえた上で、実際の奏法に則したスコアを書く。 でも今回のものは違ってて、単に作ったフレーズに音色を被せただけ。無論全く実器を無視したってわけではないが、細かい部分は曖昧だ。 そこも含め、PCMっぽさの意図的な演出。

曲そのものは割かし気に入っているけど、そんなに練られたものでもない。特にサビはオマケに近い。 ヴァースのメロディーラインにムジカ・フィクタと言うか、ところどころスケールアウトしたような、ちょっと強引な部分があるんだけど、ある種の民謡とかに出てくるフレーズを参考にした。 西洋音楽的なスケール感では確かにない。

この曲、当初は来月リリースする「Garden」のカップリングになる予定だったんだけど、「(タイトル曲と)イメージが合わない」みたいな意見が出たんで、こっちと抱き合わせることにした。





8/6(日)

「親父ギャグ」と言う言葉がある。 親父と言うのだから男性特有のもので、ある種の言語の脆弱さに由来している。だから女性に見られない。

脳のある部位、要は言語を司る部分が脆弱である場合、その脳は時間を展開し難い。 音楽作品などを展開することなど当然困難なのだが、それより何より「想像(夢を見る)」と言うタスクが絶望的にできない。

音楽(Music)は展開できない脳でも音(Sound)であれば展開可能である。時間軸がほとんど存在していないから。 「笑い」なども本来論理である筈だから時間に展開するものであるが、あるタイプの脳にそれは展開できない。 そう言う人らを笑わせようと思えば、「変な顔」のような視覚的刺激や、類似音の反復のような、いわゆる「ダジャレ」と言った言葉遊びを持ち出すことになる。後者がつまりは音である。

親父ギャグを繰り返す脳は、きっとそれしか楽しめない。 正確に言えば、彼ら以外の人の言う「楽しさ」は、彼らの脳に存在していない。


8/5(土)

ある人に聞いた話なんだが、「無理」と言う言葉の意味が分からない人(上司)がいたらしい。 「それは無理ですよ」と答えると、「だったらどうすりゃ良いんだよ」などと返してくるらしく、「だから無理ですって」と同じ回答を繰り返さざるをえなくなると言う。

話を聞くだに、「そりゃその人は無理の意味が分かってないな」と言う感想を抱いてしまう。 インド人は無を在ると考えたからゼロを発見した。 無理と言うのは「理が無い」と言う意味で、論理学的に高度な概念なのだろう。 だから分からない人には本当に分からない。

悪さをした子供が親に叱られる。 理由はさておき、ある行動が「親の怒りを買う」と言う結果だけを当初知ることになる。 端緒となる行動とその結果の間には、いくつもの論理の階梯が存在するわけだが、とりあえず子供にそれは分からない。

だから子供にとって、ある行動を控えることは即ち忍耐と同義になる。 間に転がっている論理が踏めないから仕方ない。 人は大人になるにつれ、その「間に転がっている論理」が理解できるようになるから、行動の抑制が我慢と同じでなくなる。


「ここでうるさくしてはダメですよ」と諭す親。 周りの皆にも同じように自己が植わっており、それぞれがそれぞれの時間を生きている。うるさくしては、周囲のその皆の映している現実を汚してしまう。だからこそ、あなたは配慮する必要があるのです。 親は要するにこういう事を言っている筈なのだが、子供に完璧に理解させるのは難しい。

上の理屈が十全に理解できた時、その人は大人になる。 我慢によって静かにしているのでなく、他人に迷惑を掛けたくないから、むしろ騒ぎたくない。 大人になったその人は、自分の生き方とワガママが違うことなども分かるようになる。 もし分からなければ、その人の日々は死ぬまで忍耐の連続となる。

「理屈は分からんが、騒ぐと周りの怒りを買う」。 こう言う感覚にある者は、表面的には普通人と同じ行動を採っていても、頭の中に展開されている論理は全く違う。 単に我慢によって行動を抑制しているだけだから、ちょっとしたキッカケでその行動抑制は決壊する。 良心を持たぬ者の厄介さ、恐ろしさもここにある。


江戸時代には船がよく遭難した。 船体の構造規制が過ぎた故の、半ば人災と言えるものなのだが、とにかく当時は遭難事故が相次いだ。 海に漂う、前後を失った船の上では、しばしば理性を失う者が出現する。 船の上の世界が浮世と隔絶したが故に、それまでの彼を縛り付けていた無言の桎梏が消えた。 彼はまさに「普段の行動を忍耐によって抑制していた者」である。 記録を読む度に私は暗鬱たる気分にさせられる。

「無理の意味が分からぬ上司」は要するに、遭難した船の上にあれば間違いなく取り乱す人物である。 表面的な行動は着飾れても、そういう発言の端々からその人の思考の経路は読み取れる。


8/4(金)

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影山リサ、レコーディング。 「ナイチンゲール」の第二弾と言うべきミニ・アルバムを企画してるって散々言ってるんだけど、それの歌録りもいよいよ大詰め。収録曲がだんだん揃ってきました。 一応の予定ではあと一曲です。


8/3(木)

私は原始仏教を一種の哲学として認めるが、日本仏教の、例えば密教や禅などにイマイチ気分が馴染まない。 もっと言えば、それらに胡散臭さを感じてしまう西洋人の気分の方に、シンパシーを覚えてしまう。 室町時代に来日したカトリック宣教師らは当時、ボンズ(仏僧)をいかがわしいものとて忌み嫌った。

私は禅の世界に詳しくないが、十牛図で人生における重大な何事かを頓悟できるとも思わないし、禅問答のような論理的に明晰でないものには、カルトや判じ物のようないかがわしさを感じてしまう。

現代でも隆盛を誇る日蓮宗、その宗祖である日蓮は存命中、あれやこれやと鎌倉幕府に進言をしているのだけど、宗教家のクセして随分と政治に容喙したがる坊主だこと。 日蓮については、その筆跡を見ただけでも「ケレン味の強い御仁だ」と言う印象を拭えない。 別に日蓮宗をディスりたいわけじゃないけど、印象なのでこれは仕方ない。

信長は宗論を闘わせることが好きだったようだが、朝山日乗と言う日蓮宗の坊さんについては、フロイスの日本史にその宗論時の割かし詳細な発言(いわば議事録)が残っている。 入手は難しくない筈なので、興味ある方は見てみると良い。 日本仏教を敵視している側の記録なので、その辺はある程度差し引いて読む必要があるが、当時の坊主の人格的な雰囲気を知るよすがにはなる。


確かに芸術(創造)はオーソドキシーの破壊と言う面を含む。 だから時に多くの人がそれの理解に苦しむ。 しかしであるからとて、意味不明であればあるほど芸術的である、なんてのはマヤカシも甚だしい。 そう言う手合いは芸術の複雑性・難解性にかこつけた俗物に過ぎない。

ピカソの語録を読むと良い。 確かに内容は必ずしも平易ではないが、意味の分からない点など一つも無い。 意味が分からないなら、それは芸術について深く思案した経験が無いからってだけだろう。

平易であればあるほど非芸術的である、などと思っているのなら、それは誤解だ。 ピカソの絵や語録は、扱っているテーマが難解だからある人にとって理解に容易いものでないだけで、表現のプロセスにおいて、勿体振っていたり回りくどかったりする点など皆無である筈だ。

日本独自の文学である和歌や俳句、あれらは文字数などの制約がキツ過ぎて、どうしても暗示的・概括的にならざるを得ない。歯を食いしばってでもの論理・文章化をこととする、西洋的概念としての文学とはほど遠くなる。 日本文学の「意味するところの深い部分については斟酌・忖度せい」と言う態度が、ある種のいかがわしさを温存し、裸の王様の温床を作り上げた、と 私は見る。

西洋においても、ユリシーズのような、前衛文学であるとか、あるいは散文詩のようなものはあるんだけど、それらがシェイクスピアに取って代わると言うような扱いを受けることは無かろう。


8/2(水)

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最近の話ではないが、アメリカ(メジャーリーグ)に渡った、とある日本人野球選手が「趣味はAV(ポルノ)鑑賞だ」などと公言したことが、アメリカ人を驚愕させたらしい。 「有名プロスポーツプレイヤーなどと言う、社会的認知度も高く紳士であらねばならない職業において、あるまじき破廉恥さだ」と。 つまり「ドン引き」された。

私はその彼(野球選手)に対して、少々同情的でもある。 きっとその人、プロになるくらいだから子供の頃から野球少年で、中学・高校などでも当然野球部に所属していたはずだが、プロになってからも含め、彼の属していたコミュニティーにおいてそれは「言って良いこと」だったのだろう。 だからきっと彼自身、アメリカ人のその反応に当惑した。

「赤信号、皆で渡れば怖くない」と言う言葉があったけど、きっとその野球選手にとって「趣味はAV鑑賞」と公言することは、渡って良い筈の赤信号だった。


日本は「エロ大国」であるそうな。 小学生でも利用するコンビニエンスストアに平然とエロ本が置いてあることに、欧米人は驚くらしい。

例えばアメリカでは、いわゆるアダルトコンテンツに日本のような規制は無い。 つまり内容的には日本のものより過激なわけだけど、そのことと「通常コンテンツとアダルトコンテンツとの、取り扱い上の垣根が無いこと」とは全く別である。 似てすらいない。 ポルノは卑猥であり、淫靡であるからこそポルノなのであって、サンドウィッチと一緒に売られるようなものではないのだろう。

多くの日本人には、正しい意味での羞恥心は育っていないのではないかと思われる。 羞恥とは論理である。 どこの世界でも悪いことをすれば悪者扱いされるわけだが、「悪者扱いされることはイヤだ」と言う感覚を良心とは呼ばないように、羞恥心・廉恥心とは別の感覚でもって行動を律しているのではないか。 だから時に、上述のケースのような綻びが生まれる。


8/1(火)

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尾崎豊は「大人への反抗」みたいなのが商品の核となるテーマだったし、本人の主たる創作の動機もその辺にあったと思われる。 若くして亡くなったのだけど、あんまし日持ちしそうなテーマでないので、仮にその後生きたとしても、例えば40代とかであれをやり続けるのは難しかったろう。

尾崎豊のことを「作られたカリスマ」みたいに言う人がいるんだけど、私はそんな風には思わない。 周囲を固めるスタッフにそういう思惑と言うか、軽薄な商魂のようなものがあった可能性については否定しないけど、本人は割かし大真面目にあれを作っていたのではないか。 大人が売るためだけに作ったようなものでは、どうしても若者に訴求できるだけのリアリティーが生まれないもんだ。


人は大人になるにつれ、どうして「大人社会への反抗」のような心を失ってしまうのか。 それは自分自身が大人社会の一員になってしまうからなのだろうけど、同時に大人の「大したことなさ」を知ってしまうからだろう。 それが「大人になる」ってことでもある。 子供が親に反抗できるのは、親の本当の弱さを知らないからだ。


大人になって、自分が敵視していた何かが急に弱く見え出すことがある。 しかし、諸々のメカニズムが解明できた結果、それでも好きになれる相手とそうでない相手はいる。 私の場合、対象を「大人」などと一絡げに年齢的存在と見做す思考的習慣はあまり無く、あくまで対象は個人として個別に存在している。 好きな人は好きだし、好きでない人は好きでない。

ついでに、私が共に時間を過ごすのは、好きな人と。 好きでない人となんて一刻たりとも過ごしたくはない。 嫌いな人なんて、実のところそんなにいないんだけど(いるけどな)。 持ち時間には限りがあるのだから、嫌いでないぐらいの消極的な理由で、誰かと時間を過ごしたりはできないのだ。


7/31(月)

英語に、日本的感覚での「時制」は存在しない。 これは英語を理解する上での重要な鍵である筈なのだが、不思議と教育現場では言及されていない(少なくとも私はそう教わった経験が無い)。

日本人にとっての時間とは、ドラえもんのタイムマシンのように、過去・現在・未来が直線的に並んでおり、どの時点を軸にするかで時制が変わってくる、と言うようなもの。 しかし時間とは、人間が生み出した概念である。 諸々の概念語に文化間でのギャップがあるように、時制にもそのギャップが生まれやすいらしい。

英語圏人にとっての過去形や現在進行形は、現実感(リアリティー)と密接に関連している。 要するに現実感覚との距離を時制としていると思われる。 そうでなければ(従来の日本的解釈では)、仮定法過去などの用法に説明がつかなくなる。

英語使いが「I'm talking to you」と、いわゆる現在進行形を使った時、それは動作の主体がどの時点にいるかなどではなく、「私はあなた(の心)にこそ語りかけているのだ」と言う現実感の濃度を示している。

「Would you〜」や「Could you〜」は必ずしも時間的な過去を意味しないでしょう。 「Will」と言う助動詞も、「意志」と言う意味の名詞と同源に相違なく、時間的な未来と言うより、「〜をしようとしている」と言う意志性を表している。 つまりはこれもリアリティー。


インド人にとって、時間は一定方向に進むものでなく、循環するものであると言う。 それを聞いた日本人は「何とケッタイな」と思うかもしれないが、リンガ・フランカである英語的感覚に照らせば、日本人の時間感覚も正統的ではない。 アインシュタインが相対性理論に行き着いたのも、つまりはこの言語(時間)感覚の賜物であろう。

「日本人は日本語を喋る」と言う、このごく平凡な日本文も、英語には上手く訳せない。 「Japanese speaks Japanese」のようになってしまう。 つまり彼ら欧米人にとって、当たり前のように民族とは言語なのだろう。 私もそう思う。民族の本質は使用言語にある。


7/30(日)

誰か言わないかと思っているのだけど、とりあえず聞かないことがある。 ここ数十年で、「犬」が明らかに賢くなっているように思うのだ。 犬なんて昔はもっとバカだったし、それが当たり前だったように思う。

理由はいくつかあろう。例えば洋犬の比率が上がったことなど。 しかし最大の理由は、犬社会に強烈な淘汰圧が働いていることだと思われる。 洋犬が賢いのも、欧米社会において、犬にある種類の淘汰の圧が長年働き続けた証左であるように思える。


昔は飼い犬の用途なんてせいぜい番犬あたりが主だった。 番犬は見知らぬ者の侵入に際し、騒ぎ立てることで用途を満たしていたのだろうが、それって不測の事態にパニックを起こす性質とも言える。 つまりバカさである。

現代では、盲導犬・介助犬(昔からいたのだろうが数が増えたろう)などを始め、彼らの任務が社会的に重大かつ難度の高いものとなっている。 当然高い知能が要求される。 普通の飼い犬ですら(特に都市部では)番犬などではなく、純粋な愛玩動物である。愛玩動物である以上、賢い方が当然ニーズに適う。

現代社会では、知能が低い犬には需要が低い。 そこに資本の論理が働いて、当然ブリーダーなどもバカ犬を積極的に繁殖させない。 飼い主に捨てられ、保健所で殺処分されるような犬も、知能が低い個体であるケースが多い筈だ。 バカな犬に強烈な淘汰圧が働いた結果、僅か数十年で犬は見違えるほどに賢くなったのではないか。 そしてそのトレンド、今後しばらくは加速して行く一方だろう。


私は犬のことを述べる一方で、人間社会について考えていた。

人間社会はバカに寛容である。 いくら仕事ができなかろうが知能が低かろうが、人間は「人間である」と言う唯一の理由によって殺処分されたりしない(だから私も助かっている)。 それどころか、ある種の知的障害者などがむしろ優先的に職を宛がわれるような、社会的優遇措置さえある。 一時期言われていた「ゆとり教育」なども、学歴(これも能力での選別)偏重社会を「悪しきもの」と見做した上での制度だろう。

とりわけ日本において、人間と言う種は弱って行くのではないか。 少なくとも犬に比べたら、弱る条件が揃い過ぎている。 まあ私は、それを一概に悪いこととも思わないが。 ついでに私は、ダーウィンの進化論に概ね納得している。


7/29(土)

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昨日、急な仕事が入ったもので、年甲斐もなくまた徹夜してしまった。





娯楽は生存に直接関係ない。 だから生存にリソースの大半を割いている脳に、娯楽は存在しない。

周囲を見渡せば目に入るはずだが、飲み食い・ギャンブル・異性などと言う、生存原理に密接に関連した事柄以外にほぼ関心を持たないような人間が存在する。 ある基準に照らせば、例外なく低能であるはずだ。

そう言う人を遠巻きに眺めると、率直に、何が楽しくて生きているのか分からない。 そんな風に感じたことありませんか?私にはある。 私は長いことそう言う人らにこのような感想を抱き続けてきたのだが、思考のメカニズムがある程度理解できてきた今、その脳内に本当に楽しいことが存在していないらしいことに気が付いた。

人生と言うのは時間である。 どれだけ自分に楽しい時間を見せられるか、それが人生の価値。 娯楽が存在しない人生なんて生きてはいけない。


7/28(金)

「うんこ漢字ドリル」と言う商品がある。 最近出たっぽいが、売れているらしく、本屋の店頭などに平積みになっている。

アホな小学生は、母親に「勉強しなさい」などと言われても一向に意に介さない。 そしてそう言う、いわば低能児童に限って「うんこ」などと言う下ネタに異常な関心を示す。 それでは学習用の参考書や問題集にうんこを取り入れてみてはどうか、と言う発想が当たったらしい。 発案者には、少なくとも商才はある。

その商品、小学生向けらしいが、実のところ対象はほぼ男子児童に限られると思われる。 一部の男子児童が何故「うんこ」に旺盛な食いつきを示すのか、多くの女性には分からない筈だが、あれは生来の脳機能に因っている。 うんこなどと言う下品なネタに反応する細胞が、男性には女性より圧倒的に多いらしい。

因みにその、うんこに異常反応を示す脳の領域は、エロスを司っている部分に近い、と言うか全く同じであると思われる。 つまり、うんこに異常反応を示す児童が成長した暁には、かなり高確率で強い性欲を持つようになる。

ここで私の提案。 小学生向け「うんこ漢字ドリル」が大ヒットしているのだから、大学受験生用などに「エロエロ問題集」を作ってみたらどうか。同じ層に受ける筈だ。 アダルトビデオの制作会社などとタイアップして、書中の随所にAV女優を登場させる。更には昔流行った脱衣麻雀のように、問題に正答できたらエロ動画などをダウンロードできるようにする、などアイディアは尽きない。 もう誰かが既に考えているかもしれないけど。


7/27(木)

人がありもしないものをあると錯覚する時、基本的にその誤解は願望によって引き起こされているわけだけど、まことに人とは矛盾を抱えた生き物だと思わざるを得ない。

何かを願望するなら、世に「こうあれかし」と求めているわけだから、まずは自分がその嚆矢となるべきかと思う。 どういうことかと言うと、例えば「私の恋人は、運命的に出会ったまたとない人」だとか言うのなら、その人はそう言う「またとない運命の人」と結ばれることが正しい、あるいは美しいと思っているのだろうから、本当に歯を食いしばってでもその「運命の人」を探してはどうか。

「探したって手に入るかわからない」あるいは「運命の人の像が結べない」と言うなら、それは悪いことと言うより、あなたがその程度の人であると言うだけだ。 手近にあった何かで手を打ったのに、それを運命的であるとか、そういう欺瞞で包んでしまうから何事かを見失う。 見失うと言うのは、即ち自身を存在さしめぬと言うこと。

私にとって自明のこの理屈も、ある人にとっては難解なのかもしれない。 掲げる理想と自らの行動が一致していないような矛盾した人は、要するに人として成立していない。 成立さしめることに失敗したケースと言って良い。だから、その人自体がそもそも存在していないってことだ。

自我とは言語である。 言語とは即ち論理で、本質として矛盾を抱えたような人と言うのは、要するに自己の確立に失敗している。 だからその物体はつまりは生きてない。 ありもしないものだから、それはどこにも存在しない。過去にもこの先にも。


7/26(水)

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品薄・品切れ商法みたいなのが少し前に横行していた。今でもあるのかもしれない。 ある種の人間心理を突いた金儲けの常套的手法である。仕掛けた側は無論否定するだろうけど、いわゆる詐欺ってのも基本的には同じようなメカニズムに拠っていると思われる。 商売ってのは本質的にそういう醜さを含んでいる。

争奪の末手に入れたものには、当然価値があると思う人がいる。 「私はモテるんだ」と高言すれば本当に人から好かれると思い込む人がいますものね。そんなことないのに。 相手に「得たい」と思わせられれば自分の値が上がると目論んでいるらしいが、羨望・執着と愛は違う。 そんなことをしても、せいぜい愛とは別のものしか得られない。

私は、本当に価値あるものは何気ないところに転がっているものだと信じている。 価値を見出すのは我が心だ。 争奪戦が起こるようなものは、迷妄だとか、誰かの作為によってそれが起こっているケースがほとんどで、換言するなら、それ無しでは売れ残ってしまう程度のものである。 躍起になって手に入れる必要なんて無い。


7/25(火)

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共鳴・共振について。

私は文系で、物理学などには不案内である。 でもソフトシンセは扱うし、単純なものなら設計もしたことあるので、ベーシックな部分はある程度理解しているつもりだ。 多くのシンセサイザーにはレゾナンスの装置がついている。

この世界には、共振のような現象が起こる。振動・周波数が同じであることは、それを越えた何事かが同じであることらしい。 電波は同一チャンネル上であれば、同じものが再現できる。

そんなに不思議なことでもなく、私が私であると言うことも、要は一種の共振である。 代謝を続ける数十億の細胞の塊である私が、統一的な自己を持って(感じて)いるのだから。 昨日の私と今日の私が別人でないのは、要するに「チャンネルが合っているから」である。

ずっと前から思っていたことなんだけど、もしこの宇宙に私と同じ何かが存在するのなら、やはりそれは私そのものだろう。 私はきっとそこにいる。 一秒前の私と今の私が同じ私なのは、何かを同じくしているからで、その何かが途切れれば、きっとそこに私はいない。


共振がどうしたなどと言いつつ、私は「自己」について考えている。自己とは何なのか。

同じであると言うことが、何かを共有させるのなら、「どこにでもいる似たような人ら」は、何事かを共有しているのだろうか。 ある意味ではしているのだろうし、別のある意味ではしていないと言えるのかもしれない。

同じであるものは、同じである以前に「存在」している。 「存在しない」と言う意味での同じさは、何かを共有できない。

ボクシングを習おうとしたある人が、ボクシングと言うものが「人を殴ること」であることに気付いて断念した、と言う話を聞いた。 その人はボクサーとしての才能が「無い」わけだが、人としてある何かを「持っていた」が故に、浮世に存在するある作業に向かなかった。

才能と言うものは基準が作り出した錯覚のようなものである。 「人を殴れること」すら才能であるのだから。突き詰めれば、人としての何事かを徹底的に持たぬが故に殺人さえ平気でやれる人は、殺人者としての才能に恵まれていると言うことになる。 実際その才能が重宝される世界はあるだろう。

「無い」ことにおける同じさは、きっと何かを共有させてはくれない。 自己と言うものは存在の拠点である。それが無ければ物体としての私など、水や空気と変わらない。 自己が無ければ私は、この世界そのものと同化してしまうはずで、存在しないものに共有も何もあったもんじゃない。


存在と言うのはパターンのことで、人間と言うのも究極的には思考のパターンを言うのだろうと思う。 存在するパターンが無くなるはずは無い。条件の不足によって現出できない瞬間があるだけだ。

私は、私と言う思考パターンの存在の痕跡として音楽を残している。 音楽作品そのものはよすがでしかないが、それを私と同じ心の震えでもって聴ける人がいるなら、そこに起こった共振はこの私そのものだ。 存在するものが消えてしまうことなんてあり得ない。 時空のどこかで起こるであろう、その共振現象の触媒として音楽作品はあるのだろうと思う。


7/24(月)

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友情とトキワ荘。

トキワ荘ってご存知だろうか。結構有名だと思うんだけど。 日本漫画史における梁山泊とでも言うべき伝説的なアパートで、多くの巨匠を輩出した。 建物自体はもう無くなっているそうだが。 「まんが道」と言う漫画の舞台でもある。

まんが道をはじめとするトキワ荘の話を聞く度、私は心が洗われるような気分になる。 同じく漫画家を目指す青年たちが、一つ屋根の下で過ごした青春の物語。 羨ましくさえある。

私はトキワ荘グループのような、人が羨むような青春時代を過ごしていない。 同好の仲間も少ない。 めぐり合わせと言うか、運に恵まれなかったとも言えるし、そもそも私と同じ気分でどこかへ向かっている人が少ない、ってのもあるのかもしれない。

同好の友を持たない私は、それが「要らない」わけではない。むしろ飢えるほどに欲しい。 でも、いくら欲しいからと言って、本当は友でないものを友と言うことにして自分を欺けば、私は私でなくなる。 きっと曲も書けなくなる。


漫画が好きだった彼らが漫画を描きたかったように、音楽が好きな私は、音楽作品が作りたいだけです。 私が曲を作るのは、できあがったそれを誰よりも先に聴くことができるから。 同じ気持ちの人がこの世界のどこかにいるなら、一晩中だってそいつと語り明かしたい。

もしトキワ荘に越してきた青年の一人が、「漫画なんて好きでもないから描きたくもないが、漫画家になって有名になりたい」などと言うなら、「このトキワ荘にギャラリーを入れて、机に向かって執筆している姿を実演して見せたい」などと言い出すなら、きっとその人はトキワ荘グループに馴染めなかったに違いない。 周囲はきっと、違和感と言うか、ある種の温度差のようなものを覚えたろうから。


彼らにとって読者は常に誌面の向こうにいた。 直接会うわけでなく、声援を浴びるわけでもない。肌を触れ合うような距離に存在するものではなかった。 ただ、自分が面白いと思う漫画を、遠い空の下で、同じような気持ちで面白がっているであろう読者の存在は信じたろう。 私ならそれで十分。

共感と言う現象は距離を問わない。 近くにいないと感じられないのならそれは共感ではない。 肌触れ合うほどに近くにいても、心の遠い場所を漂っているだけのような人がいる。 私はそれを友人とは見做さない。 一緒に生きる人ってのは、親兄弟でも恋人でも、何よりも先ず親友であるべき。


7/23(日)

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「絵描き歌」について考えていた。 どういうものか分かりますよね? 絵と曲の進行が連動したもので、最終的に何らかの像ができあがることが前提の歌である。

絵が仕上がらねば話にならず、曲の(メロディーなどの)良し悪しは必然的に二の次になる。 サンプルとなるものをいくつか聴いてみたが、アレンジなどはごく単純であるし、楽節構成や拍子などは歌詞の犠牲にされる。

サンプルを聴いたと言ったが、実は絵描き歌、一つのジャンルと言うには絶対的な作品数が少ない。 童歌のようなものと、子供向けのアニメ作品に付随したようなものがいくらかあるぐらい。 後者はある時代に集中しているように見える。 絵描き歌になるくらいだから、当然完成形となる絵はシンプルなものになるわけだけど、単純な線のみで構成できるイメージに限りがあるのかもしれない。

今その、絵描き歌を書こうと思っている。 それらしき歌詞なども検討中であるが、絵画的なイメージと連動しているわけではない。 完成形を想定しているわけではないから、絵描き歌モドキと言うべきものになる。


7/22(土)

結果的に寡作になってしまう作家の多くは、完成度に拘っているのだろうけど、効率を考えればどこかで妥協点を見出さざるを得ない。 妥協と言えば聞こえが悪いが、日和ってるわけじゃない。 創作上の成果を殺してまで一作品の完成度に引き摺られるのは、むしろそちらの方が妥協である。 意思が明確なら、ある点においては妥協だって許される。無論許されぬ妥協もある。

私も作品の完成度に拘りたいし、実際拘っている方だと思う。 ただ、ある程度以上の拘りは怯えのように感じる。

創作ってのは一つの作品を仕上げることではなく、作り続けることだ。 作れば作るほど自分に感慨を残せるし、それが次の作品を生む原動力となる。 完成させられないことは、作ることを放棄することでもある。 私は妥協しない為にも妥協する。


7/21(金)

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神田優花、新曲の歌入れ。 今回は座った状態で、数小節づつのレコーディングと言う、いつもとちょっと違った方法で録ってます。 半分インストみたいな曲で、効果音としてのボイスサンプルを録ったような。

Weather Cock」(全2曲)、8/9(水)発売です。





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影山リサ、ここ最近録ってた曲の上がりをチェック。 二曲分の上がりと、それら二曲を編集で繋げた別バージョンが完成。 別バージョンの方は年内にはシングルとして発表する予定です。


7/20(木)

当たり前の話だけど、音楽は時間軸を持っているので、常に「終わり」を作らねばならない。 曲にせよその集合である曲集でも。フレーズ・楽節と言った単位だって一応は完結を必要とする。 だからカデンツなんてものが生まれた。 絵ならそんなことはないのに。

ある表現を思いついた時、例えばそれがメロディーと和声進行のコンビネーションだったとして、「ある進行の上にある旋律が乗ったこの雰囲気こそ、欲しかった何かだ」と膝を叩きたくなるようなことがあるが、困るのはその「続き」を書かねばらないことだ。

「続きなんて適当に付け足せば良いじゃないか」ってわけには行かないのだ。 続きも含めて音楽なんだから、下手な構造を付け足すと、それは作品にとってゼロではなくマイナスなんだ。 つまり、成立していた筈のある美が崩れる。

完璧なメイクを施した顔でも、鼻毛が飛び出していれば美は台無しだ。美はトータルで成立するものだから。 これが絵なら、見せたい部分だけにトリミングできる。音楽にそういう手法は適用しがたい。

過去にこういう経験がある。 あるCMソングを聴いて良いものだと思ったから、CD入手してフル尺を聴いてみるとガッカリみたいな。 蛇足は無い方が良いのだが、無しでは音楽作品が成立しないらしい。

では上の例の場合、CMで抜かれた15秒のみを完成品としてはどうか。 やはり別の違和感が残ってしまうだろう。 ある地点でぶった切られた音楽(オーディオデータ)は、「断絶」と言う通常のカデンツとは別種の進行を持たされていると言うことだ。

要するに、時間に終わりが無いから音楽には終わりが必要なのだろう。 時間そのものは続いて行くからこそ、音楽作品には一々終わりを設定せねばならない。


7/19(水)

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もう随分前の話だけど、プロバイダーから来る広告チラシに、Wi-Fiか何かが(オプションで)格安で契約できるとある。数百円とかそのくらいだったと記憶する。

「こんなに安いならお願いしようかしら」と問い合わせたら、全くもって私の思い違いで、その十倍くらいは費用が掛かると言う。 チラシに踊っていた数百円の文字は、詳細は忘れたが、割引額だったか何だったか、とにかく掛かる費用そのものでは無かった。

どうもそのチラシの表現は錯誤を招きやすいものではあったらしく、私以外にも粗忽者がいたのだろう、問い合わせ先の担当者は「またか」と言う物腰ではあった。

しかしいくら私でも、キチンとそのチラシを隅々まで読めば、そのような勘違いはせなんだろう。 上の空と言うか、意識を集中せずに読んだ故に誤解してしまった。

ここで解るのは、人間は正確な理解が得られなかった場合、自分にとって都合の良い結論を導き出しやすいと言うこと。 この場合、ありもしない格安料金をあると思い込んだ。

分からないなら「分からない」と言うとりあえずの結論を出し、分かるまで自分を追い込めば良い。 あるいは誤解するにしても、実態より「高い」と言う不都合な結論を出しても良さそうだ。 しかし私はそのいずれの判断もしなかった。 勝手に自分の都合の良い妄想のような結論を出した。

人間は、物事が分からなければ分からないほど、自分に都合の良い結論で世界を埋め尽くす生き物なのだろう。 そして、その妄想に歯止めを掛けられるものがあるとしたら、それは言語でしかなかろう。


7/18(火)

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創作物が面白くなくなる原因の一つに、「私(わたくし)」の存在がある。 私が混ざれば混ざるほど、創作物はある意味では汚れていくし、面白いものとは遠くなる。

映画、ドラマ、コントのようなものを見ていてしばしば思うことがある。 良い演技、良い役者は、常に我が身(私)を捨てていると言うこと。つまり役に没入している。 「ミスなんてしたら、私は大根役者と思われてしまう」とか、「こんな演技をしている俺って素晴らしい」などと言う気分を維持していると、役に没入できないらしい。つまりそういう役者こそ、いわゆる大根役者ってことなのだろう。

役者でも物書きでも音楽家でも、「生身の自分を誇示したい」と言う感情・感覚から逃れられなければ、良い作品など残せる筈はない。 ではクリエイターは、どのような心構えで作品を生むべきなのか。 それは、常に自分自身が「楽しい」と思えるものを作ること。

「私」と「個」は違う。 個が確立すれば、人は世界を見ることができるし、楽しめる。 私は、自分しか見せてくれない。


上記のテキストを打った後、不意にいかりや長介氏について考えてしまったので、それを以下文章化してみる。

ドリフターズのいかりや長介さんは、コント芸人として名を上げ、晩年は俳優として活躍された。 私はドリフターズのコントはよく見たが、俳優としての彼をあまり知らない。  しかしコント芸人としてのスキルが俳優業に転用できそうなことは、割かし容易に理解できる。だからお声が掛かった面もあるのだろう。

そのいかりや長介、「8時だよ、全員集合」などの、コント芸人時代の演技を見る限り、決して名優とは言い難い。 役に没入していないのである。 舞台上の彼は、割烹着を着た母ちゃんでなく、常に「いかりや長介」その人である。

何故か。それは彼が(単なる出演者でなく)番組全体の進行を任された司会者でもあるからだ。またそれと同時に、そもそもドリフターズと言うグループのリーダー、いわば中小企業の社長であるからだろう。 頭のリソースの全てを演技に注入できない。当然だろう。これは仕方ない。 役者として集中できる環境が与えられていない。

彼に「自分を大きく見せたい」とか言う卑小な気分があったとは思わないが、演技に全てを注げないと言う意味では、大根役者に近い心境であったろうと思う。

俳優時代のいかりやさんの演技を、私はまともに見ていないが、きっとコント芸人時代よりは役に没入できたろうし、重責を負っていた当時に比べ、気楽に仕事にも臨めたろう。 演技自体は俳優時代の方が良いものだったのではないか。


7/17(月)

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盗作問題について考えていた。 日本では比較的その手の争いごとって少ないように思えるのだけど、多分アメリカとかだともっと多い。 あそこが訴訟社会であるからってのもあろうけど。

ある作品と別のある作品が似ている時に、片方(大抵先に発表した側)の権利者がもう片方を相手取って騒動を起こす。 「これは俺のものだ」と。更には「金を寄越せ」と。 因みに、音・音楽は物質ではない。 周波数に音名を当て、それらを組み合わせたパターンを音楽と呼んでいる。 つまり作曲者とか言われている者は、あるパターンに美を見出した、いわば発見者なわけだけど、先占の権利を主張できるらしい。 私も一応その権利の恩恵に与っている。

一応それは正統な権利だと見做されていて、知的財産だとか特許だとか、そういう怪しげな思想をこの社会は重要な基盤としている。 例えば私が、他人の作った作品を自分名義で発表したりしたら、著作権侵害と言うことになる。確実になる。

しかし大抵の盗作騒動は、誰かの作品を自分名義で発表した、とかそういうケースでなく、単に「似ている」ことに端を発している。 糾弾する側の主張を要約すると「俺の作品から着想を得ている」とか「ある部分を無断引用している」とか、そういうことになろうか。

裁判官は裁判のプロではあろうが、音楽については素人である。 その種の諍いごとを持ち込まれても判断に困るに違いない。 盗作については一応のガイドラインはあるし、判例もあろうけど、正味の話判定は難しい。

「二小節同じだったらアウト」なんてのもおかしな基準で、一小節と三拍なら良いのか。その線引きに合理的な理由は無い。 確かにどこかで線を引かねば、例えば音楽記号にあるターンやモルデント、プラルトリラーなんて音列は、既に一定の旋律である。現状公共物とされているが誰かが所有権を主張してもおかしくなくなる。 もっと言えば単純音名ですら音価を持つ以上旋律である。誰かが排他的所有権を主張し出すかもしれない。


著作権の侵害を訴える側は、自身の著作物のどこまでが純然たる自身の発想に拠るものだと考えているのだろう。そこはいつも気になる。

私は音楽家だし自作の音楽作品を世に出しているわけだけど、私が12音律や音の機能性を発見したわけでもなく、和声法を編み出したわけでもない。

例えば過去に演歌のような曲を公表したことがある。 演歌のような定型的な音楽の場合、過去発表された無数の先行作品群の中から、きっと似たようなものを探し出すことは容易だ。 瓜二つと言えるようなものさえあるかもしれない。私は知らないけど、あっても全然驚かない。

私自身、その自作の演歌作品において、オリジナリティー(固有の創作性)が如何程含まれているかと問われたら、「贔屓目に見て一割程度もあるだろうか」などと思ってしまう。 その他九割(つまりそのほとんど)は先人らのアイディアだ。 それに私は多少の要素を付け加え、自作曲と称して世に出している。 ここでは演歌を例に取ったけど、POPSとかでも、純度の違いこそあれ、本質的には同じである。

もしここで「お前のあの曲のAメロは○○と言う曲に似ているぞ」と言われたら、どうすれば良かろう。 「音楽は音価と音高の組み合わせで、確率的に似てしまうことがあってな」とか「コードやスケールってものがあって、旋律にはトーナリティーってものがあって」とか、そういうことから説明せねばなるまいか。 「演歌のような特定スケールへの依存度が高い音楽においては云々」とか、「演歌のAメロのような音楽的価値の低いものについては〜」とかそういう話も必要になるだろうか。 説明してもどこまで分かってもらえるだろうか。

ある日、「機能和声のメソッドを利用したくば、使用料\○○を支払え」と言うルールができたら、私は仕方ないので、音楽ソフトに金を払うように粛々とその金額を支払うだろう。 王法に背くには相応の覚悟が要りますからね。効率性から考えても妥当な額なら払うだろう。 善悪の感覚とは全く別の次元で。


私が感じていることを平たく言うならこういうこと。 発想を財産権、つまり金銭に換算し過ぎる思考的習慣を滑稽だと思う。もっと言えば嫌気が差している。 別に現状の著作権のあり方などに不満があるわけではないが、創作の真価はもっと高次にありますよ。


7/16(日)

アンパンマンなんかの意匠が入ったグッズのようなもの身につけた子供を、街中でよく見かける。 子供と言うかほとんど乳幼児である。 実際アンパンマン関連の収益は莫大に違いない。ドル箱コンテンツである。 しかし果たして子供は、本当にアンパンマンが好きだろうか。

当然彼ら子供は財布の紐を握っていないので、あれらのグッズはほぼ親が買い与えていると思われる。 親は半分良かれと思ってあれを与えているのだろう。 子供を塾に通わせるように。 人は、我が子を自分好みにカスタマイズすることを、「子供の為」などと良く言うし、本気でそう思い込む。

人生必須のイベントととして結婚する人は、結婚式は挙げたいし、新婚旅行にも行きたい。女の人はウェディングドレスも着ねばならない。せっかく結婚までしたんだもの。 当然出産もせねばならない。結果子供が生まれる。

せっかく子供を作ったんだから、アンパンマンのグッズも身に付けさせねばならない、とてあれを買い与えているだけなのではないか。 子供の嗜好など無視して。 私にはそう見える。

子供はきっとアンパンマンなんて好きじゃないですよ。 私の記憶でも、自らの嗜好が芽生えたハッキリした記憶は、どう遡っても4〜5歳ぐらいだ。 無論もっと前からお気に入りのオモチャもあったろうし、よく見たTVアニメなどもあった。 でもそこに含まれた嗜好性はかなり薄い。 その程度のものしか見えなかった(解らなかった)だけ、と言う面が濃厚だ。

私は、それが文化であるとて、無批判に踏襲される社会様式の一部のような作品を作りたいと思わない。 本当に子供に好かれる作品なら作りたいけど。


7/15(土)

クラヴィコードと言う楽器(古楽器)についてのメモ。 14世紀に発明されたクラヴィーアの一種らしい。ピアノ以前、チェンバロなどと並んで鍵盤楽器の主流であったそうな。 言うまでもなく現在では廃れていて、現物を見ることさえ困難だ。

発音原理であるとか、その辺を詳述する気力はないので、興味ある方は調べてもらいたい。 奏法については、鍵盤モノなので現代のピアノとほぼ同等と考えて差し支えない(無論多少の違いはある)。 基本的に音域はピアノより狭い。


少し前にあるクラヴィコードのSoundfontを見つけた。 サンプリングも処理も丁寧で、非常に良質なものなんだけど、良い使いどころが思いつかない。

まず調律が「A=397.3Hz キルンベルガー音律」とある。 現代音楽の標準的チューニングはA=440〜443辺りである。 実に一音(二半音)近いズレがある。 他の楽器との兼ね合い上、アンサンブルにそのままでは使えない。 ノートデータ自体を一音トランスポーズした上で、ホンキートンクとして使うか。それでもかなり無理がある。

音律関係については私は全般的に不案内で、キルンベルガー音律についても詳しくない。 キルンベルガー第三法について軽く調べを入れたけど、18世紀に発明された、要は平均律定着以前に広く採用されていた諸音律の一つであるらしい。 相対的な音程関係を指す概念のようで、絶対音高の縛りがあるわけでは無い筈だが。 とにかく上のSoundfontはA=397.3Hzでサンプリングされている。

やはりアンサンブルには向いていない。 純粋クラヴィーア曲のようなものを作ってクラヴィコード音源単体で演奏する、と言うのが一番現実的か。 せいぜいそれに+ボーカルとか。 歌モノなら、ピッチ補正とか入れるとなるとかなり面倒臭そうだ。 周波数の表とか作らなきゃならないかも。 まあ人の声のようなそもそも音程が不安定な楽器に、そこまでのピッチ精度なんて求めるようなものでもないか。


7/14(金)

どこぞやのオッサンが痴漢行為や買春で逮捕された、などと言うニュースを、いわゆる女子アナが眉をひそめて紹介するのを見て、私が抱いた感想。

その前にオッサンらは何故、性犯罪のようなことに手を染めがちなのか。 性欲は個人差こそあれ、ほぼ誰にでもあろう。生物の原理だから。 ただし本当に脳機能による個体差が大きく、生来のものなので、ある意味仕方ない。 起こる度に警察などが出動するのだけど、根絶などできる筈はない。現状のように都度事後的に対応するしかない。

人間も生き物だから、食欲・性欲などと言う傾向性は持っている。 どれだけそれを理性で制御できるか、と言うバランスの問題だ。 生まれつき性欲の強い人は、脳の(ハードウェア上の)問題を抱えていると言える。 子孫を残すための装置なので、それは一概に欠陥とも言い難い。 因みに、構造的に男の方が性的衝動は強く、性風俗産業はほぼ男性のみを対象とするし、性犯罪の世界などもほとんど男の独壇場だ。


男はその傾向性に因り、女から「性欲のはけ口」を奪おうとする。 具体的には金や暴力などを使って。やり口が法に触れれば逮捕されたりもする。

逆にある種の(大多数かもしれない)女性らは、その男が固有に持つ傾向性を見抜き、そこを刺激することによって、彼女らは彼女らで、ある成果を得ようとしている。 つまり双方奪い合いをしている。トレードと言うべきなのかな。

上のニュースなどを見て、私が思うのは「もし仮に、世の全ての男性が傾向性でなく理性に因る行動を採るようになれば、性犯罪はなくなるだろうけど、一番困るのは君ら女子アナのような人種ではないのか?」という事。 釣りに例えるなら「対象魚が用意した餌に見向きもしなくなる」と言うことなわけで、きっと釣果は崩壊しますよ。


7/13(木)

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既に今更な感じの話題だけど、都議選、あのような結果に。 予測の範疇ではあったのだけど、まあ極端な結果だ。 私はその結果に「怪しからん」と憤慨しているとか、逆に快哉を叫んでると言うわけでもなく、現都知事の思考をあれこれ想像していた。

彼女の言っていることは空虚だ。 都政に対する情熱のようなものも薄いからのように思われる。きっと行動の目的が別のところにあるのだろう。 しかしポピュリズムってのは、民を心底バカにしてないと採れない行動だってことは最近染み入るように理解できてきた。

本来都政が課題とすべき事案について、実効性のある対策を採ったと言う話は聞かず(興味の無い私が知らないだけかも)、築地の移転問題のような人気取り以外にほとんど意味の無さそうなことばかり話題に上る。 むしろ人気取りこそが最優先の懸案なのだろう。 彼女の行動はいわばマキャベリズムと言うことか。

政治において天才的な人物なのか、そこについては分からない。 少なくとも今採っている手法は、かつて起こった現象などの焼き直しのようで、さして独創性があるようには思えない。 ただし、独創と言うのは独創であるが故に大抵は粗いものである。創作なんて作業をやってると、ここは分かるようになってくる。 一番槍のような人ってのは、成果においては報われないことも多い。 後発のフォロワーのような人にその先駆的事績を改良・微調整された挙句、成果部分はさらわれやすいものだ。 そういう意味で彼女は、あるメソッドの大成者にはなりうるのかも。 いずれそういう手法も通用しなくなるだろうけど。

私は凡庸な感覚の人で、例えば都知事や都議は、都政に貢献したい人がなるべきだとかのん気に思ってしまうのだけど、事実として、知事の椅子は国政へのテコとして使い勝手が良いらしい。 政治は有権者が形作るもので、かような現状が生まれるのも環境に由来しているのだから、嘆くようなことでもない。

私が一番気になっているのは、彼女の性格である。 どういう条件下で育ったらあのような上昇志向の強い女性ができあがるのだろう。 もしかして異常者ではないか、と言う懸念も過らないでもない。 ある意味では天才なのかも。


7/12(水)

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70年代の終わりぐらいから80年代初頭にかけての、ある音楽的流行について考えていた。 ハッキリとしたジャンルと定義できるほどのものではなくて、強いて言うならやはり流行としか言いようがない。 それも大した規模の流行では無かったので、流行と認識すらされていないようにも思える。

抽出できる楽理的な部分と言えば、いわゆるヨナ抜きのメジャー・ペンタトニックをベースにした旋律、とかその程度のもの。 雰囲気としてはアジアンな、中国のイメージなのだろうと思われる。 因みにそのステレオタイプな中国音楽のイメージ、実体としての中国音楽そのものではない。 中国音楽は散逸の度合いが激しく、実体は見え難くなってしまっている。

当時どうしてあのような音楽が流行ったのか。 おそらくはその嚆矢となるヒット作があり、それを踏襲するいくつかの作品が現象を形成したのだろうと思うんだけど、詳しい経緯はよく分からない。 因みに昨今のJ-POPにその手の作品はほぼ見られない。 日本人が飽きたのだろうか。

ヨナ抜き音階は演歌に見られるように、日本人の琴線に触れる何事かを間違いなく持っている。 要するに単純で分かりやすいからだろうが。 しかしその似非中国風POPS、演歌とはそれはそれで違う。


今、作ろうとしている曲がまさに上記のような、似非中国風POPSなわけです。 あるスケールをベースに、それらしき楽器でバッキングを作る、とかその程度のアイディアなので、大したものは出て来そうにないけど。


7/11(火)

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影山リサ、レコーディング。 今回のレコーディングで、次のシングルに必要なテイクは揃った。 録る前から分かってたんだけど、今回のヤツは編集の作業量が膨大で、レコーディングが終わったこれからが大変だ。


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神田優花、新曲の歌録り。二曲分録りました。 「Weather Cock」(全2曲)、予定通り来月9日発売です。




7/10(月)

同じ(等質)であることと違う(異質である)こと。


まだ大学に通っていた頃、生物学の(発生関係専門の)教授だったか助教授(当時そういうポスト名があった)だったかと話をした。 クローン技術についてである。

当時既に、羊のクローンなどは作られていたわけだけど、それがどれほどの難度のものなのか訊いてみた。 その辺の研究者・研究機関でも実現可能なのか。ついでにコストも訊いた。

彼は「できる」と言う。 コストについて私は「何十億円とかそんなレベルの費用が掛かるのか、あるいは何百万とかそういう、我々でも無理すれば払えなくもない金額なのか」と訊いてみたら、「おそらく何百万とかそういうレベルでしょう」だとのこと。


倫理的な問題はさておき、何百万あれば技術的には私のクローンも、私の愛する人のクローンだってできるのである。 ただ、結果できあがる人は私なのだろうか。愛する人なのだろうか。

その学者は言う。 「遺伝子の(塩基)配列は基本同じなのだから、一卵性双生児程度には同じものになる」と。 その後私はあれこれ考えたけど、結論として、私の愛する人のクローンは、私の愛する人ではない。 せいぜい愛する人の双子の兄弟に過ぎない。

「どうして?全く同じDNAの、遺伝的には寸分変わらぬ人じゃないか」と自分自身に問い詰めてみたが、やはり違う。 私はそれを同じとは見做せない。 限りなく似ているのかもしれないけど、「同じ」ではない。


人は例えば恋人を作る。 近くにいた理想に適う人を選ぶのだろうけど、少々理想と違ってもしばしば妥協してしまう。 「だって婚期を逃すかもしれないじゃない」、「異性に相手にされない人と思われたくないもの」と。 政治である。人は政治的な寝技で日々をこなしている。

近くにいた一番理想的な人。それが手に入らなければ、二番が繰り上がる。 その人にとっての恋人の定義において、一番と二番は「同じ」なのである。どちらも定義を満たす。 一応は定義を満たすのだから、一番も二番もそれなりの美質を備えてはいるのだろう。 差し詰め私にとっての、昼飯を何にするか、なんかと近い。ラーメンでも定食でもどっちだって良い。どっちも好きですよ。

次善の恋人を選べる人の、まさにその恋人に私がなったとして、その人は、私がこの世界から消滅した後に、きっと私を探してくれない。 私に似た何かを掴んで、きっと「同じ」としてしまうだろうから。


あの時の私が、我が愛する誰かと、その誰かのクローンとを「同じ」であると見做していたら、私の音楽の品質は、きっとこんにちの程度すら保てず、激しく劣化していたに違いない。その変質は醜悪ですらあったろう。 それどころか、私の精神そのものさえ、甚だしく腐敗させたろう。 きっと私は私でなくなっていた。

私の言いたいことは単純だ。 何を等質とし、何を異質とするか、それこそがこの私そのものなのである。 だから、これは絶対に妥協できない。


私は「愛のような歌が作りたい」と日々公言しているが、私が作ろうとしているのは「ような」ではなく、「愛そのもの」である。 あの日感じた、私を包んでくれた愛と寸分違わぬ何か、を私は作ろうとしている。


7/9(日)

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私は、人の正体を「その人の中に流れた時間」だと思っている。 時間が存在しない脳のの持ち主を、私は正直、人と見做していない。

私は目の前にいる物体が人なのか、あるいは人でないのか、常に見ている。 世の中には、人としての、いわば人間性が消え入るほどにか細くしか存在していない人、絶無である人、色々いる。 この社会でそれらは、さも人間かのように扱われている。

「Aさんが存在しないわけがない、目の前にありありといるではないか」、「負けず嫌いで、甘えん坊で、と言った性格まであるではないか」と言う向きがある。 が、私はそれらを存在の根拠とは見做さない。 負ける為でなく勝つ為の行動を採るのは、単に生物の原理である。 自立でなく依存を選ぶのもある種のリソースの節約の為。これもつまりは一種の原理だ。

カエルは大きなものが動けば逃げ出し、小さなものが動けば飛び付く(食い付く)らしい。 ここで「カエルさんは存在する」と我々は考えるべきだろうか。 そんなわけがない。カエルさんなんて存在していない。

「どうして?カエルさんはそこにいるじゃないか」、「臆病で食いしん坊、と言う性格だってあるじゃないか」と言うだろうか。 ハエだって叩かれそうになれば逃げ出す。 水は高いところから低いところに流れる。 それらを人格とは呼ばない。

私は人を愛するけれど、あくまで愛するのはその人に流れた時間だ。 確かに存在する者を愛し、そうでないものを愛せない。


7/8(土)

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日本商業音楽史におけるアイドル歌手の「失敗例」について考えていた。 で、ここでその考察の結論などを述べるべきなのだけど、困ったことに大した結論が無い。

私が考えたのは当然音楽的側面についてなんだが、成功例と失敗例の間に、明確な音楽面での優劣が存在していないような気がした。 「あのアイドルが売れなかった理由はショートカットだったからではないか」などと、音楽以外の要素にばかり関心が行ってしまうんだ。 アイドルなだけに、音周りの比重が軽いってのは事実としてある。


7/7(金)

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またオモチャみたいなループ作成ソフトを弄っていた。 商品化に繋がりそうにない作業なんだけど、ついやってしまう。 今回使っているのはプリセットのオーディオデータを元に1〜2小節分(32ステップ)のループ(リズムパターン)を作れるという代物。 元々は有料ソフトらしいんだが、それの無料(機能制限)版。

1〜2小節に限られるんだが、一応シーケンスパターンを保存できて、オーディオデータ化の機能も備わっている。 出力したオーディデータをDAW上に並べれば、曲にすることができるかも。 まあリズムトラックのみだけど。


そう言えばここ最近、フーガを作りを試みていたんだけど、とりあえず一曲作ってみた。

伝統的な模倣法を踏まえると、どうしても現代POPSのような分かりやすいブロック配列にはならなくて、あとメロディーラインもキャッチーとは言い難い。 シングルのタイトルのような位置には持ってこれそうにない曲に仕上がった。 公開するにしてもカップリング曲とか、そういう形になりそう。


7/5(水)

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少し前に、16ステップ入力式の、オモチャみたいなサンプラーとか使って音作りしてたんだけど、端から分かっていたことながら、やはりどうも商品化に繋がり難い。 全くもって商業音楽制作用途に作られていないんだもの。

まずソフトとしての精度が悪過ぎて、そこがほとんど致命的なんだけど、正確なロケーションでのレンダリング(オーディオデータ化)ができない。 色々試してみたけど方法が存在していないと思われる。 同期が取れないんで、DAWベースの音楽制作とは基本相性が悪い。

しっかりしたソングモードがついてなくて、代わりの機能として20小節程度のループが組めるようになっている。 だから現実的にそれ使って曲作りしようと思うなら、4とか8小節くらいの単位でオーディオデータ化し、それをブロックとして使う(DAW上で組み立てる)くらいしかない。 レンダリングできないので、オーディオループバックとか使ってオーディオデータ化しないといけない。 手作業での補正が必須となる。 そこまでして使うようなものなのか。

8小節のリズムループなんて、効果音として使うには長過ぎるし、無論曲と言えるような代物でもなく、一番使いどころに困る。 良いアイディアなかろうか。


7/4(火)

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フーガを土台とした曲を書こうと思っている。 あれこれ思案しつつ試行錯誤を続けていたんだが、まずベースとして四声フーガを書かねばならぬと言う結論に至った。 全てはそれからだ。

今書きかけのスコアは、どうも主題のレンジを広く取り過ぎたようで、転回や何やと言う応用に難がある。 各種カノンだとか、技法をあれこれ取り込みたいところなんだが、どうも私の苦手な作業らしい。数学の難問を解いているようだ。 継ぎ接ぎだらけの汚いフーガ書いてます。


しかしフーガと言う音楽様式が、対位法から発展して行ったと言うのは歴史的事実だろうが、フーガを書きたいとて対位法のテキストに当たるってのは、あんまし効率的と思えない。 確かに和声音楽ではないが、厳格対位法の禁則やら知ったところでフーガを書く足しになるだろうか。

フーガは、対位法音楽が和声音楽に発展していく過程で生まれた、鬼っ子のような音楽様式に思える。 実際バッハも存命中、特に晩年は古臭い音楽家だと見做されていたようだし。 しかしながら、むしろ、ある段階以上に発展しなかったことにおいて、フーガに関する私の興味は尽きない。


それにしてもフーガのようなものを書く作業は、作曲と言うより本当に作業って感じだ。 普段の創作とは別種の作業。脳の、使う領域が違うような。

フーガと言えば、バッハと言う教科書のような作家がいる。 バッハは即興の名手だったそうだが、どういう頭してるんだろう。 今私が資料としているフーガ諸作品をさすがに即興で作ってはいないだろうが、彼にとっての作品とは、思索の末に到達する解ではなく、瞬時に分かるものだったのではないか。 むしろ、何故そうなるのかを説明するのが難しいと言うような。


7/3(月)

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物事の優劣について。

私の大学生くらいの頃、既にバブルとか言われた好景気は終わっていたが、音楽産業にはまだその余燼のようなものが燻っていて、早い話がまだ景気が良かった。

その後、音楽家を志して上京した頃、既に音楽業界の雲行きは怪しくなっていて、求人などはほとんど壊滅的だった。その間僅か数年くらいだったのだけど。

何の伝手も無い私が大手のレコードメーカーに就職できる筈も無く(当時既に、かなりの大手でも年次採用など行わなくなってきていた)、ほとんど丁稚奉公のように制作屋に入り込んだ。 その後、営業先だったプロダクションの音楽制作部にスライドするのだけど、この辺りの数年が、今考えると物凄く勉強になった。


前置きが長くなった。 もう随分前だけど、経産省だったかが主催の公聴会のようなものがあった。現役の音楽レーベルであるウチにも(間接的にではあったが)参加の要請があったもので、後学の為にも私は会場に出向いた。

会場には業界関係者が集まっているわけだけど、いわゆるレコード会社の社員が多かったのではないかと思われた。 私と同世代と見える人も数多く陣取っているわけだが、あの時代にレコード会社に就職できたような人らである。 私のような現場叩き上げのような者に比べれば、エリートと言って良い。実際高学歴だったりもするのだろう。 まあ私は心なしか場違いな感を覚えつつ、会に参加していた。

会では、登壇者が何人か入れ替わり喋るわけだけど、ある人が喋ってる時のこと。 実名は挙げないけど、その人は伝説的なディレクターだったと言う人で、いわゆるバブル期に大変な人気アーティストを手がけ、ヒット作を量産したと言う。

その人は話好きなのだろう。本筋とは関係ない無駄話のようなことをやたらと喋る。 「昔は私も六本木では顔だったが、今は○○(レコード会社名)の○○さんには負けるけど」などと。一種の軽口である。 当然彼らのコミュニティーの外にいる私に、その話の面白さはリアルには分からない。登壇者とも、話に出てきたその○○さんとも面識は無いし。

ところがその時、近くに座っていた「同世代と思われるレコード会社社員」が、声を上げて笑い出した。 勘ぐり過ぎかもしれないが、私には「俺にはそのギャグの意味が分かるぞ」と言う顕示であったように思えた。 だって、どう想像を逞しくしてもそんなに面白い話では無いでしょう。 音楽業界に、まだステータスとしての価値が今よりあった時代のこぼれ話です。


また話が逸れた。以下本題です。

上の登壇者のように、伝説的ディレクターになるには、当然伝説的実績が必要になる。 彼はきっと行動家だったろう。 現役時代には、会社の金を躊躇無く使い、次々と企画を実行に移し、平たく言えばそれらが当たった。 結果的に会社、ひいては業界に利潤をもたらしたが故に伝説的貢献者となり得た。 成功者の典型と言える。

その後、音楽業界にも不況の波が押し寄せる(私はそれを好不況と言った一時的現象とは捉えていないが)。 CDは売れなくなり、レコード会社もリストラを断行し出す。 2000年代以降、私も何人かのレコードメーカーのディレクターなんかと会ったり話したりしたが、ほぼ全方位に消極的な、まるで退役軍人のような人がほんとどといった印象で 上記登壇者とは人間として丸で別の類型であるようだった。

成功者は成功以前に冒険者である。 時代の要請によって、挑戦的冒険者は成功者となる。 時代の要請とは、この場合「CDが売れること」である。 売れなきゃ冒険者など、「会社の金を湯水のように使う無駄飯喰らい」に過ぎない。


強靭な肉体を持つ狩人は、冒険者であるが故に常に命を落とす危険を抱えている。 猛獣が潜む密林にも我先にと駆け込むから、結果成功者となったりもする。 同時に命を落としやすくもある。

レコード会社のディレクターなども、冒険的であればあるほどリストラの対象となりやすかったろう(逆風の中でも結果を残せた奴はそれはそれでいたろうが)。 結果、多く残ったのは石橋を叩いて渡るような堅実な人ばかりだった。 彼らは無能なのではなく、ある条件下においては有能であるからこそ解雇されず、妻子を食わせ続けられた。

私が言いたいのは「物事の評価は難しい」と言う単純なこと。 優劣は、規矩がつけるだけのものだったりしますから。 勇猛さでのし上がった者がいる一方で、臆病さで生き残った者もいる。


7/1(土)

フーガについてのメモ。 今フーガの技法を取り入れた曲を書こうと思っている。 因みに純粋クラヴィーア曲みたいなのを書こうと思っているわけではない。 楽器編成はもっと商業音楽的で、旋律にフーガっぽいカノンだとかを取り入れたい。 神田優花のレパートリーに、それっぽいアイディアを取り込んだものがいくつかあるんだけど、それらとはまた趣向が違う。

基本歌物を作るつもりなのだが、ボーカルのラインをどういう形で入れるか、が悩みどころだ。 例えば四声のフーガを書くとして、そのうちの一声をボーカルに担当させるのか、あるいは純粋な四声の器楽対位法に、ボーカル用の旋律線を更にオブリガートとして加えるか。 後者の方がやや現実的か。

何故なら、前者を採るとなると、主題の制約が重くなり過ぎる。 楽器に比べボーカルは、音域も狭いしブレスも要るし、メロディーの細かい動きにも対応しにくい。とにかく主題(を含む全旋律線)が単純にならざるを得ない。 あるいはボーカルのラインだけ、実用的に少々単純化するか。でも、それではフーガのらしさが損なわれそうだ。


しかし、対位法と言う用語は誤解を生みやすい気がする。 今回ざっと読んだ資料にも、割かし無定義に乱用されていて、ある程度の予備知識が無いと混乱してしまうように思えた。 無論音大とかの楽理科出てるような人が間違うわけはないが、一般人には理解しにくい概念だ。

「フーガ=対位法」みたいなパブリックイメージがあるような気がする(あるよね?)。 対位法と言われたら、ゴシック期のモテトやパレストリーナ作品でなくバッハのフーガを想像してしまうような。 「対位法」と言うタイトルで、フーガの技法を解説するような本が実際にある。 フーガが古典的対位法の応用・発展型であるのは間違いないと思うが、イコールではない(古典と言う言葉も音楽用語としては紛らわしい)。 フーガは対位法を基礎とし、各種バリエーションのカノン(模倣法)を取り込んだ楽曲様式の総称だ。

まあパレストリーナとかが、現代においてさほど著名でないってのは理由として大きいのかも。 西洋音楽の中では、一応パレストリーナぐらいの年代のものはCD化とかもされているのだけど、いわゆるクラシック音楽と呼ばれているもの(バロック期以降のもの)と比べると、音楽として面白くない。きっとCDも売れてない。 私も随分昔に聴いたことがあるが、曲については全く覚えていない。


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