Staff diary  
スタッフ日誌[2017]

[文 / 益田(制作)]

6/30(金)

天才ピアニストと言われるグレン・グールド、彼は私に一定の考えるきっかけを与えてくれたのだが、一定以上に掘り下げにくい。 彼の特殊性がいわば「代替的発達」に違いないと思えるからだ。 つまり、私の定義する芸術家でない。 掘っても大したものが出てこない。

伝わっている数々の、変人としてのエピソード。ある枠組みを持ってして考察すれば、それがどのようなメカニズムで生まれたものなのか、するすると解ける。 彼はサヴァン症候群とかアスペルガー症候群とか言われるもの、その典型例、あるいはその亜種のようなものであったろうと思われる。

おそらくは先天的な脳機能の(多分にハードウェア上の)脆弱性から、言語の獲得・形成に失敗し、その代償として、ある機能が発達した。あるいは未淘汰であった。 代償としての発達が為されなかったら、きっと発達障害とか言われた類のものだろうと思う。

ピカソを研究することに比べれば、グールドの研究はかなり医学的見地に偏る。 おそらく彼は演奏時、脳の一般に思考・思索に使用されるワーキングメモリーを用いていなかった。 いくらピアノが上手く弾けても、彼は神に到達しない。

彼がバッハ作品を偏執的に好んだ理由も、同時に一部ロマン派の作品の演奏に消極的であった理由も、今の私には分かる気がする。


6/29(木)

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大バッハ(J.S.Bach)は少々親馬鹿の気があったっぽい。 我が子の、今で言うところの就職の世話に余念が無かったらしい。

そもそも彼を輩出したバッハ一族が(無論多少の例外はあったろうが)音楽師集団で、一族には大バッハと同姓同名の者までいるそうで、後世の研究に混乱を来たしていると言う。 奈良仏師の運慶一門とか飛騨の匠とか、日本史で言うならそういうのをイメージすれば理解は早い。それの音楽家版。 印象として個人の独立性が薄い。

親馬鹿ってのは、言わば自他の区別の曖昧さから来るのだが、彼の出身がそういう一族であったことと無縁でなかろう。 もっと言えば、彼があのような、明らかに研ぎ澄まされた計数感覚から生まれたであろう音楽作品を、大量に生み出していることとも無縁でない。


6/27(火)

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今更だけどまた「夢」について考えていた。

夢を見ることは大切だ。 私は、何を失ったとしても、夢だけは見続けていたい。 私に夢を見ることができなかったなら、今私の側にある大切なものたちも、何一つ無かったはずだ。 心に映らなかったろうから。

夢を見たからこそ、目の前を横切る何かの価値を私は心に映せた。だからそれを見逃さなかった。 大事なのは、結果的に手に入った何かよりも、ある日の私が夢見たこと。


言ってしまえば、私は夢を見たいだけなんです。夢見ることさえできるなら、それだけで良かった。

夢見られることであるならば、それらは全て現実である。 だって私の、この心の射程に入っているのだから。 後はそこに向かって歩いて行くだけ。 たどり着くべき場所がこの目に見えているのなら、それが気の遠くなるほどに果てしない道のりであったとしても、もうそんなことはどうだって良いんです。


6/26(月)

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影山リサ、レコーディング。 先日歌入れまで終わった曲がありまして、それ用の「セリフ」を録りました。 4小節分だけど。


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神田優花、新曲の制作に取り掛かっております。 新曲作りっていつものことなんだけど、ここ何週間か新曲抱えてない時期があったもので。

神田優花と言えば、ニューシングルのリリースが決まりました。 8/9(水)に、「Weather Cock」(全2曲)がリリースされます。 9月にはその次のタイトルも予定してまして、できれば年内に、更に1タイトルぐらいは発表したいところです。




6/25(日)

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癌で亡くなった女性タレントさんのニュースを仄聞した。旦那さんの会見も一部見ました。 去来する思いがあるので文章化してみようと思うけど、全部書き切れるだろうか。

正直言って私は、その御夫婦二人ともの人格をよく知らない。 取材で知り合って、旦那さんの方からの熱烈なアプローチによって結婚に至ったそうだが、きっと彼は、出会ったその瞬間、何か夢を見たのだろう。

「夢」と言ってどれほどの人に伝わるだろう。 人は夢があるから生きて行ける。夢が我々を愛してくれるから。次の一歩を踏み出す勇気をくれるから。

人生には「意味のある出会い」と「意味の無い出会い」が無造作に転がっているわけではない。友人は、賭け事に勝つように運で掴むものではないのだ。 ある出会いの価値を見抜くのも、その出会いに意味を見出すのも、それこそがその人の全てである。

ある偶然が目の前を横切った瞬間、そこに我々の真価は問われている。 「それまでどれほどに真剣に生きたか」が、その偶然を見逃さない精神を育てる。 今日までの全てで、私たちは今のこの瞬間に立ち向かっている。 夢は運が見させるものではないんだ。


今際の際で、彼女は旦那さんに「愛してる」と言ったそうだ。きっと本気だったろう。 自分が消えて行く瞬間、これから先自分無しで生きていかねばならない彼を、残された子供たちを一人で育てて行かねばならない彼を目にして、その言葉以外見付からなかったのかもしれない。 「愛(かな)しい」と言うのは、そういう機微なのでしょう。

愛という言葉は、こんにち的な意味(Loveの対訳)ではそもそも日本語彙に存在しなかった。 だから現代でもその正確な意味を体感できていない人は多いんだが、最後にそれを口にした彼女には分かっていたんじゃないかと思う。 そう信じたい。


目の前を横切った大切な出会いも、誰かの愛も、我々がそれを映せる心の持ち主でなければ、通り過ぎるままに消えて行くだろう。 あるいは別の何かとしてしか映らないだろう。 だから私は、どんな価値ある何かを持たされるより、その価値を映せる心の持ち主になりたいのです。 だから今日も、曲を作り続けている。

大事なことがある。彼の見た夢はまだ終わっていないと言うこと。 彼女が存在したからこそ、それが消えて行く現実を悲しんだり、思い出に涙したりもできる。 再び出会う日を思い描くことだってできる。それが果てしなく遠い道のりだったとしても、決して諦めてはダメだ。

我々にとって一番大切なのは、何を持っているとか、どの地点にいるとかそういうことではなく、「正しい方向を向いて歩いているか否か」。 正しい方向に向かって歩いているのなら、私はもう他には何も要らない。


以下は蛇足である。 今回のニュースに際して、あるコメンテーターだかが、亡くなった彼女を評して「人のために生きた人」だとか言ったらしい。 私は彼女を詳しく知らないけど、見たままの印象からも判明している事績からも、そういう人物像は導き出せない。

彼女は別に悪い人では無かったかもしれないが、「人のため」を主眼として生きたなんてことは無かろう。 おそらくはそのコメンテーター、事態に乗じてテキトー抜かしている。 「持ち上げておけば文句も出まい」と言う不誠実さがありありと見て取れる。 事情が事情なだけに突っ込む人も少ないのだろうが、いくら気の毒であったとしてもウソはいけない。 いくら悲報に纏わるからとて、私は不誠実を不誠実と感じないわけには行かない、

置かれた状況の悲惨さが、その人を善人にしたりしないし、その人の過去を塗り替えたりもしない。 その種のウソは、私が闘わなきゃならない対象ですらある。癌なんかより余程に強敵だ。


6/24(土)

中岡慎太郎が書簡の中で、西郷隆盛を評して「要石(かなめいし)の如き人物」などと認めていたのだが、要石が私の語彙に無い。

礎石とかそう言う意味合いの言葉だろうか。とにかく重厚な人物像を思わせる。 要石を人物評に用いるなら「重鎮」とか「精神的支柱」と言った意味合いか、などと思案した後、解説文を読むと「当時(幕末期に)いた相撲取りの四股名」とある。

差し詰め「曙のような人」とか言うようなものか。確かに後世人には即座に意味が分かりかねるな。


6/23(金)

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またフランク・ザッパについて考えていた。

資料に因ると、ザッパはかなり高度な記譜能力持っていたらしく、フル・オーケストラのスコアまで書いているらしい。 またバックバンドのメンバーが頻繁に入れ替わっている(解雇されている)のだが、大きな理由の一つは「読譜能力の不足」にあるという。 ただしザッパ本人は、正統的な音楽教育を受けたクチではない。つまり大部分は独学であろうと思われる。

制作(録音)手法について、資料をいくつか漁ったが、決定的な部分はいまだ判らない。 「○○年当時16トラックのレコーダーを使っていた」などと言う断片的な記述なら目にしたが、16トラックのレコーダーをどのように使っていたか、が分からなければ何も掴めない。 この点、ビートルズなどはかなり詳細な工程が明らかにされているのだが。

これは単に「ビートルズの方が売れているから(=その情報に需要があるから)」ってだけが理由ではないものと思われる。 アイドルだったビートルズの録音が、基本的にメーカー・プロデューサー主導の下に行われたのに対し、ザッパ関連の録音物はザッパ本人主導の下、ほとんど密室で行われた点なども関係していよう。 ザッパは単にミュージシャンであると言うより、ザッパ作品を生産する中小企業の社長、と言う面が大きい。

一枚目のアルバム(Mothers Of Invention名義)を聴く限り、半ばメーカー指定のプロデューサー指揮の下に制作が進行したからだろうか、当時まだそれほどエキセントリックな音楽の様相を示していない(それでも平均的な商業音楽とはかなりの距離を感じるが)。 つまりザッパは初めから頭のネジが緩んでいたわけではなく(そういう面も多分にあるが)、音楽的な試行錯誤の末、あのスタイルにたどり着いたと見える。

クレジットが普通でない。 まず関わっている奏者の数も単純に多いのだが、そのクレジットに一種の遊び心が込められている。 具体的な部分は調べてもらいたいんだが、あれはザッパの正統的・標準的なものを忌避したがる性格の故にだろう。

今、ザッパ作品をある程度発表の時系列に沿って聴いているのだが、全てのアルバムに耳を通そうなんて思っていない(因みにザッパのアルバムは彼の死後もリリースされ続けている)。 手元に全アルバム解説のような資料があるのだが、そこにすでに100枚のアルバムレビューが載っている。 聴くだけでも容易でない。

そういえば「ザッパの多作ぶりがファン数の拡大に歯止めをかけていた」と言うような記述を目にした。 プリンスもある時期、所属レコード会社から(同じ理由で)リリースにストップを掛けられたと言う話を聞いたが、どうも音楽リスナーに対しては、適度な供給量と言うものがあるようだ。 この点、絵画などとは明らかに違う。 芸術家ってのは、どうしても多作になってしまうものなんだが。


6/22(木)

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人格障害者が持て囃される社会と言うのは、どう評価すべきなんだろうか。 人格障害の病理が分からないことが根本原因なのだろうと思うけど、人は相手が自分と違い過ぎると、思考を類推しにくい。 だからそれって、ある意味では精神が健全な証拠のようにも思えるし、何ともよく分からない。

マリリン・モンローは境界性人格障害者だったと言われているが、病理解説のようなものと彼女の事績を比較検証すると、ほぼ間違いなかろうと思える。 彼女はある時代のアメリカ社会に(もっと言えば世界規模で)歓迎された。 人類史に残るレベルのスターなんだもの。 当時のアメリカ人には、あの行動を生む思考プロセスが分かり難かったと見える。だからこそ新鮮に、魅力的に映った。

人格障害は定型的・類型的である。 だからこそ病名のようなものが付けられたとも言える。 人格障害者の採る行動には典型的なパターンが存在し、そこが診断基準ともなっている。 つまり、素人でもある程度の知識さえあれば(ほとんど断定的に)判断できる。

私の知り合いに「アスペルガー症候群」の人がいる。 それはそれは典型的それで、最初アスペルガー症候群について解説する文章を目にした際、「ハンス・アスペルガーが診た臨床例とは、彼その人ではないか」と疑ったくらいだ。 それ程に症状と言うか言動が酷似している。

つまりそれ程に人格障害者は結果的に似る。 脳機能の不具合がもたらす結果行動はほとんど同じなのだ。 だからして、ある人格障害と診断された人物の、その後の行動はある程度読める。 ある範囲の中でなら、完璧に予測できると言っても良い。

これは人格障害に限った話ではない。 病名がつかないような軽度なものも含め、人間の思考パターンと言うものはかなりの部分類型化できると言うこと。

私の持論だが、大抵の人格障害は、脳の言語を司る部分の不具合に起因している。脳の時間軸の展開能の低さによって、その個体なりに「生存に有利である」と判断した行動を採ったは良いが、それが不正解だった・少なくとも人類一般の導き出す解とは異なっていた、と言う現象が人格障害と総称されているものと思われる。


人格障害の概念図みたいなのはしばしばツリー状になっている。 下位クラスタとして妄想性人格障害だの演技性人格障害だのと言うものがあるわけだけど、個人的にそれらの区分けは決定的でない気がする。 棲息環境の違いによる若干の亜種化に過ぎないのではないか。

「自己愛性人格障害」の症例の一部は、ほとんどの人格障害に当てはまる、とかいわれるらしいが、要するに人格障害者の精神の基底には、必ず歪んだ自己愛があると言うことなのだろうし、諸々の人格障害は画然としていないのだろう。 まあそれらを区別することに学術的な意味が無いわけでは無いのだろうけど。


私が初めてその手の人格障害者にまじまじと触れた時の衝撃は忘れられない。 「普通の人なら、こう言われればこう思うだろう」と言う当たり前の反応が得られない。 思考と言う処理プロセスが常人と違うのである。 「そんな人本当にいるの?」と思われる方もおられるかもしれないが、実在するのである。 ただし、どこかで収斂を覚えるので、ある部分の結果行動は常人と同じになる。 だから社会に紛れ込んでいる。 その人の経歴とか単純なプロフィールだけでは判別がつかない。


6/21(水)

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他人を大事にできない人とは、自分を大事にできない人である。 人間関係とはその人そのもののこと。これは揺るぎない。 私は、自分自身ですらも自らに価値を感じられない人と、親友になったりできない。 あなたですら価値を感じられないものに、価値を見出す他人なんて中々いないだろう。

自暴自棄に陥る人ってのは、大抵周囲にいる他人こそを大切にできない。 凶暴になれる人ってのは、強いのでなく弱い。 弱過ぎて自分すら守ることができないから凶暴になれるし、人間関係なども容易に破壊できる。 家庭環境が悪い子ほど非行に走りやすいのも、環境がその子に「あなたは価値の無い人間ですよ」とわざわざ教えているからだろう。

自分を大切にすることとは、自己を肯定する感覚を持つこと。 まず認識力が要る。言語である。 言語機能が弱ければ、どんな環境を与えられたところで、自己を肯定する感覚は持てないだろう。 全ての感覚の基礎にあるのは、自分の存在を確認できること。


自己を肯定する感覚。それは「大事なのは、何よりも先ずこの私が存在したこと」と感じられること。 そう思えなければ、自分なんてどうなったって死んだって構わないのだから、際限なく自暴自棄になれる。 当然他人なども大切にできないし、する必要がそもそも生じてない。 自分自身が大事でないのだから、人間関係と言う持ち物も平気でドブに捨てられる。


私が、自分で聴く為に作った歌たちを世に出すのは、それを聴く誰かの為。 その誰かが、歌が響くその心を確かめられるように。 延いては、歌が響くその心が、この世界に存在したことに価値を感じられる為。 もしこの世界の片隅に、その心が存在するなら、それはもう私の一部だ。

私は、この私が存在することに気付いたからこそここにいる。 自己を肯定できるからこそ、同じ自己が備わった他人を尊重できる。と言うか、尊重せずにいられない。


6/20(火)

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フランク・ザッパの音楽についてまた考えていた。 特に制作手法について。

オリジナル・アルバムのほとんどが、一般的なスタジオ・アルバムとは制作手法において異なっていたと言うザッパ。 別に奇を衒っていたわけではなく、彼にとっての音楽とはそう言うものであったのだろう。

とにかく、録音物の基本はライブ・テイクであると言う。 せいぜいそれに編集を施したものがアルバムなどとして発表される。 編成はわりかし大規模であったようで、確認できるクレジット情報を見ても、比較的多くのミュージシャンが起用されている。

ザッパ・バンドのメンバーはテクニシャン揃いであったと言われる。 かの有名なスティーヴ・ヴァイもテリー・ボジオもザッパ・バンド出身である。 プレイヤーの中では、ザッパ・バンド出身と言うのが一種のステータスですらあったと言う。 あんなヘンテコな音楽なのに、と言うより、だからこそ平均以上の演奏スキルが要求されたのかもしれない。

ザッパ本人の音楽的教養のほどは、経歴を見ても正確には分からない。 物凄い音楽教養の持ち主とする資料も目にしたけど、それはどうだろう。音楽を聴くだけではちょっとそこまで判断できない。 ただ、無論ズブの素人ではない。

サイケデリックと言われた音楽を象徴する手法としての、長時間のアドリブ。 初期(サイケデリックとか言われる前?)の前衛的とも言える作品を聴いていても、あれに発展して行く素地はありありと見て取れる。 おそらく初期の作品に関しても、楽器別に録る、なんてことはほとんどしなかったのではないか。

「パート別に録らない」ってのは、手法としてはオーケストラ録音などと同じなわけだが、当然プレイヤーには高い演奏精度が求められる。 ザッパ・バンドのプレイヤーが結果的にテクニシャン揃いになってしまった理由がここにも見て取れる。

スタジオにミュージシャンらが集まって、レコーダー回しっぱなしの状態で適当にジャムセッションを行う。 当然ある程度事前の決め事はあったろうが、詳細なスコアベースで進行していたかは怪しい。 最終的に上がった長時間の録音結果を後で編集で繋ぎ、作品とする。 こういうやり方であったのではないかと想像する。 だからきっと、マルチのようなデータはほとんど残っていない筈。

セッションは大部分アドリブで進行した筈だが、打楽器などはさておき、ある程度Keyやコード進行ぐらいは事前に決まってないとやりようがない。 当然そこは詰めていたろう。あと、核となるフレーズのようなものはしばしば見られ、そこについては各プレイヤー間での了解があったに違いない。

それにしてもフランク・ザッパと言う人は、現代に生まれていたとしても有名ブランドのDAWとか(少なくともメインでは)使わない人だったのではないか。 制作のプロセスごと普通の音屋とは違った筈。 これはつまりはアタマの中身が普通と違っていたと言うこと。だからこそ面白い。


6/19(月)

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赤ちゃんは何故かわいいか。 「私はかわいいと思わない」って人も割かしいるみたいなんだが、まあ基本的に人は赤ちゃんをかわいいと認識する。どうしてか。

逆説的だが、それは彼らが天使だからでなく、悪魔だからだ。 自己中心的で、他人に対する愛・配慮は絶無。ただただ自己の欲望の趣くままに動き、その欲望の叶えられぬ時は泣き喚き、周囲に満腔の不満をぶちまける。 周囲が即刻その不満を解消すべく努めることを、当為であるとすら感じている。 悪魔である。

人間に、本能としてあの生き物を「かわいい」と認識する(同時に彼らに対する不信・憎悪を打ち消す)装置が備わっていなければ、それは危険である。 人類と言う種は滅ぶに違いないから。


6/18(日)

フランク・ザッパとサイケデリック・ミュージックについて。 ここ最近ちょっと考えていたことのメモ。

ザッパの音楽を初めて聴いたのは随分昔だったと思うけど、子供の頃だったので、正統的なもの以外は受け付けなくて「何だかわけが分からない」といった印象だった。 今でも言葉にするなら感想はそんなに変わってなくて、変人が作ったもの、と言う印象ではある。

ザッパは作品数がとんでもなく多くて、時代ごとに音楽の内容も多少違うのだけど、私は比較的初期のものが好き。 ただ、そんなに聞き込んでもないし、詳しくはない。 因みにフランク・ザッパは、サイケデリック・ロックの一代表的アーティストとされている。


サイケデリックって、音楽ジャンルと言うより、一種のムーブメントと言うか流行のようなものであるらしい。 だから楽理的な決め事はほとんど無い。 楽器編成に傾向があったりするのは、どの時代にでも見られることである。

強いて楽理と言えば言えなくも無いものに、曲中の長尺に渡るジャム・セッションのような部分がある。当然ほとんどアドリブであるのだが、個人的にはあんましアドリブ音楽って好きでない。 思考でなく、ほぼ反射であるように思えるから。


ザッパはオフィシャルにリリースされたアルバムだけでもとんでもない枚数なのだが、(おそらく初期の数枚を除く)そのほとんどがいわゆるスタジオ・アルバムでは無いと言う。 どう言うものかと言うと、「ライブ・テイクに編集を加えたもの」らしい。 詳細な手法が分かってるわけではないが、まあきっとそうであろうとは思える。 でないと、あんな膨大な録音物を完成させられないだろうから。

因みにザッパ作品は、ほとんどのオリジナル・アルバムがライブ・テイクに拠るものなので、一般概念としてのライブ・アルバムに当たるもののことは「フル・ライブ・アルバム」などと呼ばれていたりする。

ザッパの曲には、10分以上あるようなものが割りと見られるのだが、大抵例の長尺のアドリブ部が含まれている。 確かにああいうものを、事前に詳細なスコア書いて、ドラムから一々スタジオでマイク立てて録ってるとは思えない。そんなことをやる意味も薄いし。


今ザッパ的な曲を作ってみたいと思っている。 イメージとしてはサイケデリックと言うより、60年代辺りのキャリア初期のもの。 どう呼称すべきだろう。プログレってのとも違うし、フランク・ザッパの音楽としか言いようがないのかもしれない。

転調・変拍子・テンポチェンジ・不協和音・ムジカフィクタの多用と言った諸技法が、とりあえずはキーになるだろうか。 ザッパは変人だが低能ではない。 私が盗みたい何事かも、核の部分を抽出するのはそれなりに大変だ。


6/17(土)

我々の側にあるものとは、我々が大切にしてきたもの。 だから同時に、大切にしなかったものが我々の側から離れていったとしても、それは仕方ない。 これは自明のことに違いないのだが、どうもこの単純な事実に得心が行っていない人がいる。 困ったことではあるが、自然の摂理だから抗えない。

「大切にしなかった」と表現したけど、「大切にできなかった」と言う方が正確であるケースがほとんどだろう。 人間は、その人が映す現実の中で生きている。 その人の中に「相手の心」が現実として映っていなかった場合、それを大切にすることはできない。しようがない。

私は、何かを大切にする為にも、大切な何かを失くさない為にも、その何かを映せる心の持ち主でありたい。 今映せない何かは、地球の裏側にも無ければ宇宙の果てにも無い。 きっとそれは時間の中にあるのだろうし、時間の中にしか無いだろう。


6/16(金)

乳児が意味不明の音声を口から出している時に、周囲が「今○○って言った!」などと歓喜しているのを見たりする。 私はそれを横目に「言ってない」と心の中で呟く。

人はありもしないものをあると錯覚する生き物だ。 だから「無くなった」などと更なる錯覚に陥る。 あるものは無くならないし、無いものは初めから無い。 これは宇宙の真理かもしれない。

上の例でも分かる通り、人間の物事に対する評価を曇らせる大きな一因は、願望・希望的観測らしい。 願望に目を曇らせることは、「夢を見る」と言う作業と根本的に違う。 願望は、むしろ夢を見え難くする。


6/15(木)

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今、とあるプラグインソフトを(二つほど)使い込んでいる。 フリー物には付き物なのだがバグだらけで、今そのバグと格闘中。あまりに効率悪いと判断したらそこで作業は止めるつもりだが。 今のその作業を、今後作品に発展させるか、更にはそれを商品化するか、などまだまだ不明。

どういうものかと言うと、サンプラーやリズムマシン、アナログモデリング系シンセ等の音源部に16ステップのシーケンサー部が付いたようなもの。 似たような構成の商品は、ハード・ソフト問わず結構ある。 一定の需要があるのだろう。

音屋さんとかならすぐお分かりかと思うが、16ステップなんて構造で、高度な音楽表現なんてしようがない。 基本的に、リズムとか音色に特化したような音楽を作るためのツールである。


ツールとしての需要は確実にある筈なのに、困ったことにどうも音楽作品に発展させにくい。 手元のソフトも片や一小節のみ、片や最大でも20小節のチェイン可能、と言う代物。 前者は言うまでもないが、後者ですら20小節なんて、明らかに「曲」と呼べるようなものを作ることを前提としていない。

数小節のフレーズ(それもごく限られたパートの)を延々ループさせるようなツール。 玩具として見ても、そんなに長い間楽しめるようなものと思えないが、事実人気がある。 普通の音楽制作ツールより部数出てたりするんじゃなかろうか。

私は、その手のものを楽しめる人らに見えている世界を窺いたくて、今の作業に取り組んでいる。 ただ普段の作業と、手順と言うか仕組みが少々違うもので、相応の面倒臭さは付きまとう。 DAWから(正確なロケーションにての)レンダリング、って言うごく普通の手順が踏めないんだもの。


6/14(水)

私が日々追求し続けている、音楽の果てにあるもの。

私は音楽と言うものを、時間であり、即ち論理であると捉えている。 言語が意識を生み、意識の中に時間は展開される。 だから言語形成の如何によっては、その人の頭の中に時間は存在しない。 私はこれを一種の確信として述べている。 因みに、私の言う「時間」は「断片的な記憶」と言う意味ではない。 断片的な記憶なら、人間以外の哺乳動物にだってきっとある。

絵は、それを掴むのに時間軸が要らない。 視覚には論理が介在しないのである。だから「見えるもの」・「触れられるもの」であれば、乳児にでも分かる。 動画は一見時間軸を持ってそうだが、違う。 あれは時間の無い視覚情報の連続に過ぎない。 それらを膠として繋ぎ合わせる論理が存在しなくとも、とりあえず断片群を鑑賞するだけならできる。

だから子供でもアニメは見られるし、論理が破綻していてもアニメ作品は成立する。 アニメに時間を感じられるのなら、それはあなたの言語がそこに論理を見出したのだろう。 アニメを見つつ、あなたは心の中で音楽を奏でている。

論理は高度である。 「音」であれば幼稚園児にでも分かるが、音楽は難しい。 私は「時間を伴うものこそが難解である」と考えているが、ここは揺るぎない。 神とはロゴスであり、ロゴスの正体は音楽である。 音楽が無ければ、私もこの世界も存在しない。


目に見えるもの、触れるもの、こういったものは言わば簡単である。 ほとんど解釈の分かれる余地が無い。 乳児を見ているとよく分かるが、彼らに映る現実はほぼ、この「目に映るもの」・「触れるもの」で構成されている。

「椅子」の解釈が分かれることはほぼ無かろう。 指差せば一目瞭然で、私の考える椅子とあなたの考える椅子は基本的に同じものだ。

解釈に差異が生じるもの、それは概念。 時間軸を伴ったものであり、時間にしか展開し得ないもの。 「愛」とか「悲しみ」とか言われた際、人はそれを自分の中の時間に展開している。 一般に「言語力」とか言われるものの正体は、脳の時間保持能のことだろう。


ロードするに時間軸を要する概念。もしその人の脳に十分な時間保持能が無ければ、それは当然ロードできない。 「分からない」あるいは「誤って解釈する」と言う結果を生む。 だからある人にとっては「愛」が「執着」になったり、「夢」が「成果」になったり、「配慮」が「我慢」になったりもする。 本来その処理を行うにはマシンスペックが低過ぎるのだろう。

誰かが愛によって老人に席を譲ったとする。 ある人がその場面を見たとしても、脳機能如何によってその愛は現実として映り込まない。 彼に分かるのは、誰かが老人に席を譲るシーンのみである。 その動作であれば目に映るから分かるが、そこに流れた誰かの愛は映らない。

彼はきっと思うだろう。「老人に席を譲る作業が愛なのか」と。 実際その行為を真似てみて、「老人に席を譲った僕は何と愛溢れる人だろう」などと自分に酔えるかもしれない。が、同時に「愛とは苦痛を伴うものだ」なんて思うだろうか。


高級車も豪邸も、我々の時間に映り込んだ一つの価値。 金はそれら物欲を叶える為のオールマイティー、いわば「メタ物欲」だが、金が実現できる価値などたかが知れている。 銀行預金の残高を何桁まで増やそうと、車は買えても愛は分からない。 神への到達など望むべくもない。

分からなかった何かが分かった時、その答えは常に時間の中にあった。 愛や夢が時間の中にしか無いように、神もきっと時間の中にいるのだろう。 今見えない何か、私の知りたい何かもきっと、私が日々追いかけている音楽の果てにあるし、そこにしか無い。


6/13(火)

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「美味しんぼ」と言う漫画がある。 私は全巻とまでは行かないが、かなりの部分を読破している。 好きだと言うべきかは迷うところだが、少なくとも読んでしまうくらいに関心は持っている。 まあ内容が料理とかなので、レシピ本みたいな感じで気楽に読める、ってのは理由としてある。

それにしても内容のクレイジーさは比類がない。あれに比べればいかなる不条理漫画も論理的だ。 最初私は、「料理をテーマに話を量産するのに無理があるから、やむなくあのような内容になってしまうのだろう」と考えていた。 が、読み進めるにつれ、単純にそうなのか分からなくなってきた。 作者、半ば大真面目にあのストーリー作ってるのではなかろうか。

クレイジーさの一証左として、あの漫画にまつわる「トラブル(クレーム)の多さ」を挙げることができる。 詳しくは調べてもらいたいのだが、人気漫画でもあるのでとにかく各界に及ぼす波紋のほどが大きいらしい。 あのクレイジーな世界観が作品内のみに留まってる分には良いが、連載・出版と言う形で浮世と関わってしまうから容易でない。 あの作品の基底に流れている何事かが「この世界で通用しない」ことを証明する事実と言える。

漫画にしてはネームが多くて、登場人物が御託を並べるシーンもよく見られるのだが、その我田引水な論理・事実関係の一方的解釈、そこにそこはかとなく流れる、ある種の人間特有の認知の歪みを感じ取れる。 あの作者、日常生活においても人間関係のトラブルが多かったのではないか。

登場する重要キャラの一人「海原雄山」。 作中では大芸術家と言うことになっていて、更には「人格者」と言うような位置付けすら嗅ぎ取れるが、現実にああいう人がいれば、良くて単なるスノッブ、悪ければ人格破綻者と見做されるに違いない。

あれを見て判断できることは、少なくとも「作者は大芸術家像としてあの人物を創作している」と言うことである。 感覚が通常でないことがありありと感じ取れる。 原理的に「作者の思考の枠組みからキャラクターは創出される」ものである。 あのキャラクターは、作者の思想性の片鱗を窺うよすがとなり得る。 単に「大芸術家とするには未熟」とか言うのでなく、方向性ごと狂っているのである。

とにかく一読をお勧めする。 「一回りした感覚で楽しめる」って人は結構いる筈だ。 「全く過不足無くドラマとして楽しめる」と言う人は少しヤバいかも。 常人があれを作るのは難しい。 私も素面ではまず無理。


6/12(月)

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ずっと前から断続的に考えていることを、現時点でまとめてみる。

音楽作品と言うものは、絵画などとは違い、それそのものが時間軸を持っている。3分の曲は3分と言う時間に展開された作品だと言うことだ。 だからして、脳に3分間分の時間を保持・展開できる機能が備わっていなければ、その曲の本質を味わうことなど不可能である。

とりわけ声楽作品などには、音楽的な楽節展開のみでなく、歌詞世界と言う文学的展開も包摂されたりする。 掴むに相応の言語力が当然問われる。 私の観測では、3分の曲を十全に味わえる言語力の持ち主は、腰だめで見て100人に一人とかそのくらいじゃないかと思う。 ここには私の希望的観測が濃厚に混じっていて、これでもかなり贔屓目な数字だ。

「クラシックなどの1時間を越えるような作品の愛好家はいるではないか」と言う向きもあろう。 確かにそういう人はいるし、その人がそれだけの時間を味わえる脳の持ち主であれば素晴らしいことだと思うが、そうでない人でも1時間を越える作品を聞くことはできるし、その人が音楽鑑賞を趣味だと公言することはしばしばある。 本人はその作品の本質を味わえてないことに気付いてすらいないだろうけど。

時間を展開できない脳の持ち主に、ある時間軸を持った音楽作品と言う情報を与えたらどうなるか。 無論全体像は脳内に展開できない。 可能な範囲で断片のようなものを展開するわけだが、しばしばそれは音(音色・音響)であったりする。 全体にフォーカスする脳であれば、枝葉末節とて半ば割愛するであろう部分にその脳は焦点を合わせてしまう。 巨大建造物を見せられて、そこに使われている木材の木目や襖の柄に焦点を合わせるようなものである。

現実とは、その人(の脳)が捉えた世界のこと。 音色に焦点を合わせてしまった脳の持ち主は、それこそが音楽だと解釈する。 その人が音楽家にでもなった場合、当然その人なりの音楽を作ることになる。

その人は音楽を作ると称しつつ、大抵は音色に特化、と言うか、ほとんどそれのみを表現したようなオーディオデータを作成する感じになる。 あとは「リズム」も焦点が集まりがちなポイントだ。 音楽を流すと幼児が踊り出したりする。 無論幼児に音楽作品を言語的に理解する能力は無い。おそらくは大部分リズムに反応しているものと思われるが、人間と言う生き物は、一定のパルスに反応する本能・傾向性を持っているらしい。

リズムの正体は、アクセントの間隔だろうと思われる。従って把握に大した時間的スケールを要求されない。 ミニマル・テクノなど、とんでもない長尺の作品があったりするが(例えばイントロだけで20分超とか)、大抵はその作者がそれだけの時間軸を脳内に展開しているわけではなく、むしろ全く展開していないが故にその尺になってしまっているものと思われる。 その人が焦点を合わせているのは、作品の全体像ではなく、せいぜい数小節のリズム・パターンだろう。


私は自分の考えを整理するためにこういうテキストを打っているのだが、実はこの手の話は相手によってはしにくい。 音屋のような人種に、この「音にしかフォーカスできない脳の持ち主」が実に多いからだ。 別にそれを即座に悪いことだと言っているわけではないのだが、きっとあんまし良い気分にはさせないだろう。

一般に、ある時間的スケール(それ以上でもそれ以下でもない)を持った脳の持ち主が典型的音楽家と見做されている。 才能とか美醜とかってのは基準が作り出すものだから、天才と称される音楽家も典型的音楽家も、ある基準が生み出し、その評価を世間が共有している。

何事かを成立さしめるのは環境からの要請である。 ある限定的時間スケールを持った脳(仮にそれが一般人の平均値以下であっても)の持ち主が、商業音楽界(楽器業界も含む)において重鎮として扱われることなどもごく普通にあり得る。 環境がその事実を成立さしめるのなら当然のこと。

但しその時間的スケール、その長さは常に下位を兼ねる、いわば上位互換品であるように思える。 3分の時間を展開できる脳が、数秒の時間に焦点を合わせること自体は可能であると言うこと。 慣れない作業に対する戸惑いのような感覚はあると思うけど、そのこと自体は不可能ではない。

逆(数秒の時間しか展開できない脳が3分の時間に焦点を合わせること)は不可能。 これはおそらく脳のハードウェアレベルでの設計に拠っている面が大きいと思われ、構造的にも不可能である。


6/11(日)

竹宮惠子さん(少女漫画家・大学教授)がいわば漫画論とでも言うべき本を出しているそうで、私は未読ながら、書評のようなものを読んだ。

引用文にこうある。「ネームが浮かばない時は考え足りていない。そこでは物語について熟考することが肝要である」と。字句は不正確ながら、概ねそのような主旨だった。 正鵠を得ていると思う。私も全くもってそうだもの。


6/10(土)

マザコンについて。

「子供」を見ていると、彼らはほとんど例外なく母親に甘えている。 歳を取ってもその依存体質が抜け切らないと、彼は世間でマザコンなどと呼ばれたりする。

依存と言うものの本質は、判断こそを避けることである。 夕飯を何にするか、母親が決めてくれるから自分で選ぶ必要はない。 自立を避ける精神は判断こそを避けている。 判断はその人そのもので、判断を避けると言うのは自己を存在さしめぬと言うことである。

結論を言う。 依存から抜け切れない人物は、信用の置けない者である。 自分で判断しないのだから、彼には魔女狩りだって何だってやれる。 女の人は、マザコン男を選ばない方が良い。何故なら彼は、条件さえ揃えばあなたを裏切る人だから。


6/9(金)

アニメの主題歌とか挿入歌(BGM)みたいなイメージの楽曲を集めたアルバム(若しくはミニ・アルバム)を企画中。 既に似たような試みってあったんだけど、今までに作ったものはカートゥーンとかそう言う、アメリカンなものを下敷きにしたようなものだった。 今考えているのは純粋な日本のアニメーション。 それも70〜80年代あたりをイメージしている。

オープニング・テーマっぽいものやエンディング・テーマっぽいもの。アンダースコア的な、BGMをメドレー調にまとめたもの。 とにかくアイディアはたくさんある。

今週の前半はそれ関係の企画を練りつつ、ジャケット類のデザイン関連の作業(主にタイトルロゴ作り)に没頭していた。 音に関しては、既に6曲分くらいのオケが上がってるので、来年には発表できそう。


6/8(木)

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赤ちゃんが泣き止むと言うタケモトピアノのCM(ソング)、フックとなっているのはメロディーライン(音程の起伏)らしい、と言う話を以前にした。 あれ的なものを作れないかと考えていた。 まあ条件を満たすものくらい割かし簡単に作れるだろうが、商品化にはハードルがありそう。

メロディーラインのの起伏って、要は財津さんの低音と女性コーラスの高音部のコントラストのことだと思われるが、あれを模した編成って言うと、デュエットみたいな形が自然だろうか。ピンの女性シンガーの商品に男性コーラスを入れるとか? 一人のシンガーであの音域をカバーするのはちょっと難しい。

録音したボーカルテイクのピッチを弄って、あの上下の起伏を表現するってのはどうだろうか。 表面的・音域的には似たようなものができるだろうけど、フォルマントを歪めた人間の声を子供はどう捉えるのだろう。 多分彼らは、その他の音(楽器音等)と人の声を区別していると思われるのだが、ピッチを弄ったような人工的な人の声を十全な人の声として抵抗無く受け入れるのかちょっと疑問だ。 案外抵抗無かったりするかもしれないけど。

アレンジ(編成)については、猫の鳴き声とかビブラスラップなどが効果音的に入れられてはいるものの、基本バッキングは(アコーステック・)ピアノのみ。ピアノ業者のCMだからってことか。 女性コーラスに関しては、多声部による。 あのハーモニーの美しさと言うか、ピッチのタイトさがフックになってる面もあるのではないかと当初思ったりもした。

バッキングをピアノ1パートのみで、なんてのを命令とする気は無いけど、ああ言う雰囲気を醸そうと思うならシンプルなアレンジにはならざるを得ない。 ピアノ系の鍵盤楽器をメインに、多少のリズム楽器を加えるとか、そんな感じになろうか。 音色面に関心を分散させたくないから、無駄にギミックフルなものは控えたいところ。 高品位な音など望むべくもないが、ショボ過ぎる音とかもそれはそれで避けたい。


6/7(水)

「こぶとり爺さん」の話で、論理的によく分からない部分がある。まあ昔話ってメチャクチャなものが多いものだが。

善良な方の爺さんが、鬼の宴に迷い込み、そこで踊った舞が受けて、鬼に「次の日も来い」と命令される。 そこで爺さんは、その約束のいわば形(かた)として瘤をもぎ取られる。 鬼は「明日あるいは命令通りに来なかったらいけないので、それまでこれを預かっておく」と。 図らずも爺さんは、不要だった瘤を取ってもらえた。

次の日、その話を聞いた性悪爺さんは、同じことをしようと企むが、舞が下手であった為に鬼の逆鱗に触れる。 怒った鬼は「これをくれてやるわ」と、昨日の爺さんからもぎ取った瘤を性悪爺さんの頬にくっつけてしまう。

私が分からないのは、鬼の認識である。鬼はその瘤をどのように捉えているのか。 価値のあるものなのか無いものなのか。どっちなのだ。


「さるかに合戦」も引っ掛かる。

猿は手持ちの柿の種と蟹の持っていたおむすびとを交換するが、その後蟹はその種から柿の木を育て、木は実を為すに至る。

ところが蟹は木に登れず、成った柿の実は猿に食われてしまう。 それどころか猿は「柿をくれ」と言う蟹に柿の実を投げつけ、下敷きになった蟹は死んでしまう。 殺された蟹の子が、栗・臼・蜂・牛糞らの仲間を集め、猿に復讐する、と言うのが基本的な筋だ。

「柿を食えずに死んでいった親父の仇を討つ」と言う子蟹。 その復讐メンバーに「栗」が入っている。 柿と栗の階層が合わんではないか。


「アンパンマン」を見ていても同じことを感じる。 あれに出てくる村人は、ウサギだとかカバだとかの動物が擬人化されているのだが、まあ子供向けの作品だしそれは良い。

ただ、アンパンマンの家(パン工場)では犬が飼われているのである。 そいつは単なる「犬」で、首輪までつけられている。 これも村人との階層が合わぬではないか。


楽器の分類法はいくつか存在するのだが、ザックス=ホルンボステルの分類法が一番論理的と言うか、矛盾が無い。

最大の理由は「階層が揃っている」からだ。 整理した人は、多分ある部分私に似た言語感覚の持ち主で、それまでの分類法に気持ち悪さのようなものを感じたのだろうと思う。


6/6(火)

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文科省の前事務次官が、会見まで開いて現政権を揺さぶっていると言う。 正直あんまり興味無いんだが、たまたま会見の動画を一部見てしまった。 前事務次官、如何にも官僚と言う風韻を醸し出す人物で、そこが興味深い。

政治家も官僚も行政には不可欠なのでしょうけど、片や選挙を経、片や試験を経て生まれている。 通過儀礼の違いがあそこまでタイプの異なる人種をフィルタリングしている。

政治家の汚職事件みたいなのってよく論われるが、それは単に政治家の方が官僚より「目立つ」からで、「政治家と官僚、どちらが信用するに足るか」と言う世論調査を実施したら、おそらく圧倒的に政治家の方が信頼されていることが分かるだろう。 これは当たり前の話で、選挙で選ばれる人なんてのはいわば民意の化身だ。試験と言う、民意と基本的に無関係な工程で生まれる官僚とは本質的に原理を異にする。 私だって政治家の方が信用できると言うか、相手とするならやりやすいとぐらいは思う。

学力での競争を勝ち抜いた人がいわゆる官僚になり、更にその中の出世競争に勝ち抜いて次官にまでなる。当然ある種のアクの強い人にはなりがちだろうと思う。 実際その前事務次官、文科省の天下り斡旋の問題でつい最近槍玉に上げられたそうなのだが、原理的にそういうことはしかねない集団であるってのは理解しておいた方が良いのではないかと思う。 競争の勝者であるのだから有能には違いないが、使い方を間違えば(と言うかある条件が揃えば)あのようになってしまうと言う良い見本のような実例である。

歴史上の支那世界においては、科挙と言う試験で選ばれた秀才が行政のほとんどを担っていたが、その腐敗は深刻で、支那世界の停滞の大きな一因となっていた。 使い方を間違った典型例と言えそうだ。 無論、彼らが害悪のみ撒き散らしたわけではない。


現状の政治と言うシステムが万能なのかと言うと、そうとも中々言い切れない。 最大の欠点は、民意に「時間軸」がほぼ存在していないことだ。 醜聞がある政治家の人気を失墜させたら最後、その人の過去の事績も全て否定されたりする。 人気取りに奔走する余り、歴史・先祖を売り渡すようなことも平気でしたりするし、未来を売り飛ばすようなことも平気でする。 死人に口なしとはよく言ったもので、先祖の名誉が重んじられぬ理由は彼らに選挙権が無いからだろう。

未来を売り飛ばすと言うのは、端的には財政の異常な赤字や世代間の格差に現れている。 借金は、使うのは今、返すのは未来、だから将来を想定しなければ幾らでもできる。 政治の持つ本質的な欠陥だろう。

借金などは際限なくできるものでないので、今のやり口は永遠には通用しない筈だ。 いつか何事かが破綻するに違いないが、その惨事を契機に日本人が変われるかと言われても、それも断言できない。 脳の時間保持能の欠如により、誤った選択をしがちな人が必然として破綻を迎えても、そこから何かを学習するかと言えば、そうでないケースの方が圧倒的に多く見られるから。 その人はそんな感じで火傷しながら生きていくしかないのだろう。 火傷の程度によってはそこで命を落とすかもしれないが。


6/5(月)

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仏教のような思弁的な、ほとんど哲学とさえ言える宗教は、インド世界から生まれた(釈迦の出生地が現在の国号で言えばどこに当たるか、なんて話ではない)。 インド言語、とりわけサンスクリット語と密接に関係していよう。 言語である。

私は基本的に「意見の相違」と言うものの存在そのものに懐疑的である。共謀罪をめぐる議論などを眺めていてもそう思う。

例えば、「郵政事業は民営化した方が社会の為には良い」と言う意見があり、そこに反対意見がある。 これって意見が対立しているのではなく、立場やそこに付随する利害が対立を生んでいるだけだ。 民営化した方が社会の運営の為には効率的である、と言う部分に異論があるわけではなかろうと思う。

もっと次元の低い、普通人の日常に起こる対立なんてもっと単純に「論点が噛み合っていないだけ」みたいなのがほとんどだ。 論理が戦っているのでなく、片や(あるいは両方)論理にすらなっていない。


究極的な齟齬を生むポイントは、脳の時間軸の保持能ではないかと思う。 ライオンに食われる草食動物を「かわいそうだから助けてやれ」と言う意見と、「それによって世界は成立しているのだ」と言う意見。感覚の違いは世界観のパースペクティブによる。 つまり脳であり言語である。

ついでに、後者の意見は「草食動物など食われても別に良いじゃん」と言っているのではなく、「その方が究極的には彼らの為でもあるのだ」と言っている。 チャーチルだったかルーズベルトだったかが、第二次大戦を回顧し「あの悪夢のような大戦を招いた原因は我々の不手際にあった」とか評したらしい。 開戦を誤りだったと言っているのではない。「ナチス・ドイツのあれほどの台頭を許したのは、我々がもっと早く開戦に踏み切っていなかったからだ」と言う意味だ。

今の国際社会の北朝鮮に対する(腫れ物に触るような)扱いを見ていると、人類は進歩したのかよく分からなくなる。 ただ、少なくとも大人にはなってしまった。 だから問題児がいたからとて、すぐに手を上げるような精神状態にはなくなってしまっている。 北の現体制を温存させることは、人類にとって、もっと言えば北朝鮮の国民にとってさえ有益であるか分からないが。

国際社会があの体制を基本的に問題だと感じているのは間違いなかろうが、ロシアなどには、介入できる紛争の火種となりうるあの体制を、歓迎とまでは言わなくても許容する気分があるかもしれない。 中国は、パワーバランスの変化に発展しうるあの辺での紛争を望まないらしいが、誰よりあの体制を小面憎く感じているかもしれない。 アラブ諸国は、あの体制がなければ「イスラム圏とそれ以外の世界」みたいな対立構図が鮮明になりそうで、何となく北朝鮮を容認する気分があるかもしれない。分からないけど。

アメリカにとっても、あのような分かりやすい脅威が消滅すると、安全保障ビジネスのアジア相場における、いわば株価が暴落しかねないわけで、今あの体制が暴発したところで、自国に直接的に大した被害が想像しにくい現状において、消滅を手放しで歓迎できるかどうか。

日本だって北朝鮮を脅威だと感じているのは間違いなかろうけど、あの体制が崩れ、朝鮮半島に統一国家が出現すれば、今より強烈な反日国家になることだって想像できるわけで、良いことずくめってわけでもあるまい。 物事は複雑だ。だからこそ事実あの体制は現存している。 あるバランスが崩れれば消滅するだろうけど。


「悪は悪なのだから叩き潰せば良い」と言うのは一種の正解だが、人間の思考は複雑なので、常に一直線に正解を採れるとは限らない。 世間で天才と言われているような人の、脳のある部分が、ホンの僅か成長しただけでその天才性は崩れたりする。 物事はバランスの上に成り立つから。


6/4(日)

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Infoのページでは既にお知らせしてるんですけど、映画「Ghost in the Shell」の劇中で神田優花(Kanda Yuhka名義)の「changes」と言う曲(&鈴木サヤカの数曲)が使われているらしい。 「らしい」と言うのは私自身映画を見ていないからで、どの部分がどの程度の尺で使用されているかなんてのも全く分からない。 あの曲、私がギターを弾いているんだが、ギターは流れたのだろうか。

その映画、私は人に聞いて初めて知ったのだが、原作は日本の「攻殻機動隊」と言う作品で、それのハリウッド版リメイク作だそうな。 主演のスカーレット・ヨハンソンと言う人も結構有名な人らしいんだが、失礼ながら私は初耳だった(本当に浮世離れしているもので)。 因みに、オフィシャルなサントラ収録曲のラインナップに加えられていないぐらいなので、劇中での扱いも推して知るべし。きっと大した事ない。

ウチの楽曲、海外でのプロモーションについてはエージェントに丸投げって感じで、今回の話もオーサーである我々が事前に知らされてなかった。 アメリカ人ってドライと言うかビジネスライクと言うか、無駄な挨拶を極力挟まない人らであるらしい。 まあそれ用に書き下ろしたようなものでもないし、別に良いけどね。


しかしよりにもよって「changes」とはまた随分古い曲を使うもんだ。 あれ、2004年にMusic Deli(ファミリーマートとかのコンビニ設置型端末での音楽配信)で限定販売した曲で、その後暫く入手できない状態だったんだけど、2006年にMusic Deliでのリリースタイトルにその時点での未発表曲を加えた、文字通り「special selections」として再発。 現在は普通に入手できるようになってます。


6/3(土)

確か数年前に引退した、ある芸能人について考えていた。 カテゴリーとしてはコメディアンに属するのだと思うが、彼はほとんど天才的な話術を持ち、いわゆる売れっ子だった。

特に司会業において、その天才性は遺憾なく発揮されていたように記憶している。 数十人単位のゲストを巧みに操り、常に番組を盛り上げる。彼の番組はきっと視聴率も高かったに違いない。 視聴者は目が離せないから、チャンネルを変えられない。

いわば関心を集める天才なのだが、彼は見られることによって自己を補強しようとするタイプの、病名まで付くかは分からないが、ある種の典型的な人格の歪みを持っていたと思われる。 興味を失われることが怖過ぎるから、手練手管を尽くしてでも興味を持たれざるを得ないと言う。

不正な経理だとか、過度の借り入れなどを抱え込み、自転車操業の末、上場を維持している会社のように、彼の人生は高止まりこそしているが、完全に負のスパイラルに突入していた。 本人きっと苦しかったろう。


彼が引退した理由は、ほとんど破滅とさえ言える。 キャリア末期の彼は、もう平穏な情緒を保っていられず、警察沙汰になるような暴力事件を起こしたり、番組収録中にゲストに襲い掛かるまでに精神を病んでいた。 限界だったのだろう。引退すべくして引退したと言って良い。

ゲストたちを巧みに操る、いわば練達の猛獣使いと言える彼。 人を弄るのが上手いのだが、弄られることに対する耐性が全くと言って良いほどに無い。 しかし実はこれ、全く矛盾の無い話。 自己の獲得に失敗し、主体性を確立できなかったが故に、他人をいわば操作する術を(収斂的に)覚えた。 人を操る天才だった彼だが、彼を操るのはある意味実に簡単だったろう。


私はそれを破滅と表現したが、人生が崩壊してしまうような人はしばしばいる。 それはその人には、人生と言う循環が成立していないからである。 不自然なコストを払って人気を維持しても、そのコストを再び捻出する循環を生み出せねば、その人気はいずれ崩れる。 堰き止めた水が決壊するようなもので、必然と言える。

物事は、高いところから低いところへ流れる「水の流れ」のようでなければならない。 私が一時の栄達などより環境に価値を置く所以でもある。 私はウチの音楽作品を、人口に膾炙させたりマネタイズしたりするより、生産し続けることの方が遥かに大事だと思っている。


6/2(金)

「ファン心理」について考えていた。

私は例えば、特定スポーツの特定球団に格別の思い入れなど持たないタイプである。 モノを考えるキッカケとしてスポーツの試合だとか関連ニュースを眺めることはあっても、試合会場まで行って金払って応援しようとまでは思わない。 もう長いこと東京に住んでいるもので、ちょと電車にでも乗れば東京ドームにも神宮球場にも行けるのだが、東京に住んで以来試合観戦になど一度も行ったことがない。 テレビの中継とか見ることはあるんだけど、やはり金払って応援に行くような人らとは明らかに熱量が違うのだろう。

ファンと言うのは、贔屓のチームと自分とをいわば同一視しているのだが、それってどのくらい意思的・理性的なものだろうか。 好きになっていると言うより好きにさせられているのではないのか。 もしそうならそれは洗脳だ。


贔屓のチームの負けが込めば、ファンは少なからず離れて行く。 自己と同一視しているから辛いのだ。 「もうどうでも良いや」と思うわけだが、専門用語でそれを「脱価値」と言う。 因みに脱価値のメカニズムはあまり論理的なものでないので、容易に覆される。

贔屓のチームが強ければ人気も安泰なのかと言うと、必ずしもそうではなかろう。 ぶっちぎりで強過ぎても、ファンの心は離れて行く。「自分が応援しなくても大丈夫でしょう」と言うように。 野球とか本当に良くできたスポーツで、年間百何十試合やるわけだが、どんな強豪チームでも百勝なんて絶対しない。 常にチームは「適当に負ける」。 興業的にはそこが良いのだろう。 ヒーロー物に「ピンチ」は不可欠ですものね。


ファン心理を逆手に取れば、当然良い洗脳のテクニックとなり得るだろう。 常に危機に晒され、更にはそれを乗り越え、を繰り返し、自在に相手にある種の(執着のような)心理を植えつけることができたら、その人は表面的には人気者になりそうだ。 あたかも人気球団のように。

その手の手法を用いて人気を維持しているミュージシャンが実際にいる。 私は別の視点で見詰めているのだが、ある意味で彼は私の関心も得ている。

そのような行動原理を持つタイプの人間は、人格障害と呼ばれている。 相手の心理を操作できるわけで、人心掌握の巧者とも言えるのだが、同時に、そういう行動原理を持つに至った原因として、自らの思考プロセスに同様のパターンと言うか脆弱性をも抱えている。 つまり彼自身、心理操作に踊らされやすい弱者でもある。

弱者が、弱者であるが故に結果抱えてしまった人格上の不具合によって、常に人心を揺さぶることによって相手からの関心を集めようとする。 周囲から見て、一面それは迷惑な話なのだが、蚊が生きんが為に人の血を吸うようなもので、彼を憎んでも仕方ない。 こちら(常人)側が世間知として、そう言う人らへの対策を持つべきであろう。


一々の試合結果などに一喜一憂するのはあまり生産的でないと思うし、そもそも疲れそうだ。 チームが勝って喜ぶのも負けて落胆するのも如何にも疲れそう。 まあでも一部の人にとっての人生って、その程度の起伏が外からもたらされなければ面白味に欠けるのかもしれない。

「手に入らなそうなものだから、手に入れられて嬉しい」と言うのは、喜びとしては偽物である。 本当の喜びはもっと安定した気分の中にある。飽いてなお好きなもの、こそが我々の本当に好きなもの。


6/1(木)

「北朝鮮のミサイルが日本海に着弾した」とか報道されると、日本国民は大なり小なり動揺する。 「日本に向けてミサイルが放たれた」と反射的に思うからだ。 あれは「日本海」と言う名称にも原因があるな。

例えば日本海が「朝鮮海」と言う名前だったら、「朝鮮海に着弾」と言われても、ほとんどの日本人は「またおかしなことやってるな」とか他人事のように感じるのではないか。 「太平洋に着弾した」と言われても、アメリカ国民はそこまで動揺しないよね。やっぱ名前が大きい。


5/31(水)

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影山リサ、ニューシングル「Follow Me」(全2曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Follow Me

「Follow Me」は明るく疾走感のあるポップスです。誰かの背中を押すようなメッセージを込めて歌ってます。
是非聴いてみて下さい。

影山リサ





5/30(火)



明日発売の、影山リサ・最新シングル「Follow Me」(全2曲)について。

カップリング曲も含め、結構早い段階で完成してたんだけど、もう少し暖かくなってから発表したいって気持ちがあって、こういう時期にリリースすることになりました。

ジャケットは2パターン試作してて、タイトルロゴがピンクのものもあったんだけど、最終的には影山さん本人の好みで現在のものになりました。


1.Follow Me

ちょっとロックっぽいテイストを取り入れたPOPS、みたいなイメージで書いた。 ロック・テイストって言ってもほとんどはエレキ・ギターの音に集約されているわけだけど。 個人的には当初のイメージに近いものが書けたと思っている。

これの基本プロットを練っていた時期は真夏で、曲そのものにも夏のイメージを込めている。 本当に「雲一つ無い青空」の写真とか見ながら曲のイメージ膨らませてた。だからそう言う視覚的イメージもこの曲には籠もってる。

ギターのエディットが大変で、オケ作りには意外に難儀した記憶がある。 今聴き返してるけど、ちょっとギターの音綺麗過ぎるな。 この曲になら許容範囲だけど、例えば神田優花の一部のレパートリーになら使えないかも。

FMシンセの音とかゲートリバーブとか、ある時代を象徴するような音使いになってる。 あんまり特定の時代のパロディーとかオマージュとか、そういう気分で作ってたわけではないけど、私自身属している世代ってものがあるので、あるイメージと時代の音が重なるってことはあってしまう。


2.Morning Rain

私のスキッフル好きが高じてできた曲。 シガーボックスギターとかウォッシュタブベースとか、スキッフルのある種の定番楽器を使ってみたつもり。 打楽器類についても、いわゆるドラムスのような正規の楽器は使ってない。

全体的にスキッフルっぽい楽器で作ってるんだけど、曲の真ん中あたりでテンポがスローになる部分があって、そこと本編では完全に楽器編成を変えている。 一種の二部構成。

音響的な面で特筆すべき点は無いんだけど、強いて言うならリバーブを使ってない。ボーカルを含む全パートにおいて。 リバーブの代わりに色々な効果を掛けているんでドライなわけではないけど。 あと、今譜面見てたんだけど、転調多いな。



5/29(月)

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タケモトピアノのCMソングを赤ちゃんに聞かせたら泣き止む、と言う有名な話があって、ネット上にも情報は溢れている。 で、実際に(一歳児相手に)試してみた。

本当に泣き止む。と言うか、狂喜のほどが凄まじい。 曲が流れ出した瞬間、彼の動きは止まるし、声を上げて笑い出したりする。何度か聞かせていると、不思議なダンスを踊り出す始末。 因みに彼はまだ言葉を話せない。

どう言うメカニズムなのか解明してやろうと思ったのだが、その前にネットで調べたら、既にほとんど解明済みだった。 メロディーラインが肝であるらしい。

上下の振れ幅が大きなメロディーラインに子供は引っ掛かっているとのことだ。 実際に実験で、タケモトピアノのあの曲以外で条件を満たすものを流しても、子供は泣き止んだらしい。


5/28(日)

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最近、ヴィンテージと言うほどでもないが、古い機材(特にシンセサイザー類)のマニュアルをよく読む。 実器なんて所有してないから、マニュアル読んでも細かい部分は分からないんだが、別に良いのである。 読み物として本来とは別のツボを刺激されている。

因みに、マニュアルってPDFとかでなら、割かし容易に入手できる。 YAMAHAなんて過去の自社製品のマニュアルを全て公式サイトで配布しているくらいだ。 これは実にありがたい。

過去に実在した製品ってのは、それだけでリアリティーの塊なのだ。 そこに人類の歴史が凝固している。 私はそこに何らかのヒントを見出しているわけです。


5/27(土)

ピカソは「絵は私より強い」と言っていたそうだ。 意味するところが何となく分かるような気がする。

絵はいつまでも彼を楽しませてくれたのだろう。 きっと常に新しい衝撃を与えてくれた。 絵でなければ、例えば車やゴルフではそうも行くまい。 でもその絵と言う対象にたどり着いたのも、そこに自分を掘り下げるための方法論を見出せたのも、つまりはピカソの脳機能の賜物と思う。 私も、音楽は私より強いって思う。


5/26(金)

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神田優花、今珍しく新曲を抱えてなくて、優雅なリハーサル時間を過ごしてます。 ニュー・アルバム「After Illusion」の方は聴いてもらえてるんでしょうかね。

そう言えば今回のアルバムと先月の「One」あたりから、CD用のマスターデータを作らなくなった。 神田優花は3枚目のフルアルバムからパッケージを作ってないんだけど、3枚目の「sorrow」と4枚目の「Mona-Lisa」は、CD用のトラック番号とかのマーカー類を入れた(後はプレスするだけって状態の)データを一応は作っていた。 意味無いんだけど、構想としてそこまで作ってたわけです。 今回あたりから作ってるこっちのアタマの中も、完全にデータ販売が前提になってきた。




5/25(木)

周囲の大人が眉をひそめるような不良少年でも、ヤクザの親分なら、彼の凛々しさに頬を緩めるかもしれない。 ヤクザの親分はそこに、何らかの美を見出している。直接的には同じように不良少年だった、かつての自分を見ている。 その審美の感覚は、その人そのものである。


人は自らの美意識に従って生きている。 我々が何かを美しいと感じたなら、それはそこからの生き方を示唆されていると言うこと。

好きな人とは、美しいと思える人のこと。あるべき自分を投影した何かのこと。 美しいってのは別に表面的な容姿を指しているわけではない。 好きだと思える人がいたなら、好きだと思えるその部分において、我々はきっと「その人になってしまっても構わない」とさえ思っている。 念のため言っておくけど、好きなものと欲しいものは違います。

我々が美しいと思うもの、こそが我々自身である。 今日の私を律しているものとは、ある日の私が美しいと感じた何か。 何も美しいと感じられなければ、私なんていない。


5/24(水)

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野良猫って一般的に臆病で、人間を見たら大抵は逃げ出す。 同時に彼らは、勝てそうな相手には襲い掛かると言うような習性を持っている。

もう随分前のことだけど、深夜に薄暗いマンションの駐車場のようなところを一人で歩いていたら、不意に野良猫に出くわした。

私はその時考えごとをしていて、本当に直前まで猫の存在に気付かなかったもので、猫に気付いた際、驚いて軽く身構えてしまった。 つまりビックリした。

するとその時、驚くべきことに、猫は(逃げ出さず)一瞬静止し、私を凝視した。 そして直後に私を「人間(勝てない相手)である」と判断するや否や、例のように逃げ出した。 その間一秒もあったかどうかだが、私はその反応を見逃していない。

人間は普通、猫如きに怯えたりしない。それこそネズミじゃあるまいし。 咄嗟のことで怯えてしまった態度が、人としてありうべきものでなかったが故に、私は猫にある判断の狂いを与えてしまっていた。 彼は驚いた(怯えた)私に対し、逃げるべき対象であるか襲うべき対象であるか、一瞬迷ったのである。 私がネズミなら、おそらくあの時殺されていた。

奴らは怖い。 確実に言えることとして、彼ら猫は相手のリアクションを窺っているのである。 但し、相手の気分に共感はしていない。 共感には言語が要るからである。彼らにそれは(構造的に)できない。


上の事実から導き出せることがある。 人間においても、共感のできぬ言語の持ち主でも、相手の反応(表情など)を読むことは可能であると言うことだ。 つまり、「こういう表情をした相手はどうやら上機嫌であるな」などと言うことであれば、言語の獲得・形成に失敗した脳にでも捕捉できると言うこと。 これは一種の世間知として踏まえておきたい。


5/23(火)

昨日、影山リサの画像のアップをミスってたみたいなので再度上げます。失礼。

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片仮名って意外と厄介らしくて、いい大人でも「ツ」と「シ」の区別が付いていないケースとか、割りと見られる。 環七沿いに「コイソラソドリー」って手書きの看板を見たことがある。

マリリン・マンソンは、日本などと言う極東の島国の、漢字仮名交じりなどと言う世界に類例を見ない表記法の、更には最重文化部分である仮名文字において、こんな表記になるとは努々思わなかったろう。 だってマリリン・マンソンですよ。 半角ならマリリン・マンソンだ。


5/22(月)

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片飛鳥、歌入れでした。 週末はそれの編集作業やってました。 これで一応次のシングル収録曲が揃いました。


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影山リサ。こっちも歌入れ。 邦楽シリーズ第二弾の収録曲を録ってまして、これで5曲目くらいになる。 年内にリリースは難しいにせよ、歌録りくらいは全部済ませたいところ。


5/21(日)

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「釣りキチ三平」を見ていて思うことがある。 魚紳さんが三平くんにあれほど色々な景色を見せようとしてしまうのは、彼が三平少年に「子供の頃の自分」を見ているからだろう。 この世界に生まれてきて、同じ「釣り」を好きになった少年を、自分の化身だと感じているのだろうし、それは正しい。 同じ景色を見られる人は、もう自分の一部である。

しかし三平くんの周囲の大人たちが、彼に色々なことを教えたり与えたりしたくなる気持ちは痛いほどに分かるな。 三平少年の探究心・好奇心の強さに惹かれてしまうのだろう。 作中で「天才釣りキチ少年」とか呼ばれるのだけど、過言でないと思う。 だって彼は釣りを楽しめるんだもの。 才能とは、詰まるところ何かを楽しめる能力のこと。 三平少年は確かに天才だ。 


5/20(土)

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北朝鮮関係の報道、その熱量を見るだに、あれはさぞかし視聴率を稼ぎ出すドル箱コンテンツなのだと思われる。 北の体制が崩壊したりしたら、日本で一番悲しむのはマスコミだろうな。


5/19(金)

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美しいものとは何か。 芸術家は日々、美しいものを模索している。 美しいものとは一体何なのだろうか。

答えは簡単ではない。 女性は美を追求するらしいが、美とは何であるか、を定義せずにそれを掴むことは難しいのではないか。 美しくない人が美しくない大きな理由は、その人には美が何たるか分からないからではなかろうか。 自分で定義できないものを追い求めるのは容易でなかろう。


私が今の今まで生きてきて、またその時間の大部分を創作に費やしてきた上での結論。美しいものとは「変わらないもの」。 変わらないものこそが美しい。

人に美質があるとしたら、それはその人の中の変わらない部分。 変わらない部分こそがその人である。人とは本来美しいものなのだろうと思う。


それにしても「変わる」とは如何なる現象を指すのか。この定義は難しい。 コロコロ態度を変える人は、そう言う軽薄な人と言う意味では頑固に変わらないではないか、と言う見方はありえる。 でもその見方は一種の誤解だと今の私は考えている。

物事は、変わる・変わらない以前に存在していなければ評価の俎上に上がらない。 言い換えるなら、在るものとは変わらないもので、無いものとは変わるものである。 だから「変わるもの」なんて、実はこの世に存在していないとも言える。

存在していないものは、その場の情勢に操られるままに形・態度を変え続ける。 存在していないものと上手く付き合うコツのようなものを、世間では広く「政治」などと呼んでいる。 私にその種の才は無いし、その種の才人であろうとも思わない。 永遠に変わらないものを探している私に、政治に執心するヒマは無い。


私は、変わらないものを作ろうと思うし、私自身変わらないものであろうと思います。 在るものは無くならない。 私は永遠でありたいと思っているわけです。


5/18(木)

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視覚情報の処理に時間軸は要らない。 ピカソのゲルニカだって、単にデカいが故に、実物を一度に視界に収めるのは大変だろうが、時間をもって処理するわけではない。 絵を見るのは一瞬だ。

何度も言ったことあるんだが、音楽を作るのには時間が掛かる。 作業と言うのは何だって時間を要すものだが、音楽は一々の検証に時間軸を要する。 他の作業とは違う。 デザインなんかをやっていると、検証に時間が要らない点を非常にありがたく感じる。 普段の音楽作りとは別種の感がある。 専業のデザイナーなどは「デザインも時間が掛かるものだ」と言うだろうけど。


ロゴスと言うのは、言語であり、同時に論理でもある。 更には神でもあると言う。 何故そうであるのか、今の私には分かる気がする。 ついでにロゴスとは時間のことでもある。

「1+1=2」こんな単純な数式ですら、左から右へ順を追っている。 大抵の人はこれを「一足す一は二」と脳内で言語的に処理している。事実テキスト化できるではないか。 順を追っているのだから、この処理プロセスは時間軸上に展開されているのである。

上記の数式を「言語以外」で処理する脳の持ち主がいる。 そこには、式をぶっ飛ばしていきなり解が生じる。 言語的な思索によって解を導き出すのではない。 いきなり解が出てくるのである。 だからそう言う脳の持ち主は、式を問われると困じ果ててしまったりする。

言語以外を使っていようと、それは脳機能の一部には相違なく、そこの処理精度が高いのであれば、その人はいわば頭が良い。 私はそれを、言語部分の発達を代替する形である機能が伸びた(あるいは未淘汰であった)ものではないかと疑っているが。

言語による思索を経ることなく、瞬間的に解を導き出すことしかできない脳には、時間が存在していない。 断片としての記憶ならある。その種の人らは、記憶を時系列で整理する言語が無いのだから、大多数(と信じたい)の普通人とは余程に違った時間感覚を持っていると思われる。 その人らに、普通人の言うところの時間は存在しない。

まあ殆どの人は、言語とそれ以外の部分をブレンドしつつ、物事を処理しているのだろう。 私とてそうだが、私は上記のタイプ(非言語型)では全くもってないので、そういう種類の人間が存在していることに気付くのにすら随分時間が必要だった。 人は、自分をよすがに世界を知ることしかできないから、これは仕方ないことだ。


時間の存在しない脳には、愛も夢も展開できない。 それらは皆論理であるからだ。 更には、そういう脳には芸術の真価も展開できず、例えば音楽を聴かせれば「音色」のような枝葉末節にしか思いが至らない。 音楽作品の全体像(当然時間軸上に展開される)が保持できないからだ。

言語による時間が存在せず、数式を目にすれば瞬間的に解が浮かぶような脳は、あたかも高精度のカーナビゲーションシステムのようなものだ。 空間、距離などはかなり正確に捕捉できる。 ただし、自分(の車)が今どこを走っているのが、が覚束ない。 その拠点とでも言うべきもの、それが言語だからだ。 ここで言う拠点のことを認識とか呼んだりする。


芸術家は何を模索しているのか。 芸術の真価は、愛や夢と同じように時間軸上に展開される。 芸術が言語と密接に関連している所以である。 芸術家の創造(あるいは破壊)作業の目指すところが、詰まるところ神ではないかと私が思う理由もここにある。


5/17(水)

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神田優花、6thフルアルバム「After Illusion」、本日発売です。二ヶ月連続でのアルバムリリースになります。 下はアーティスト本人から。




先月に引き続き、6枚目のアルバム『After Illusion』を出します!

先月の『One』と比べると、初出しの曲かなり多めになってます。
神田優花史上一番です。
突っ込んだ曲も多くて、1曲目の『So What?』からアドレナリン全開!
な感じになっております。
そして最後はパイプオルガンの響く『Precious thing』で幕を閉じます。単語単語が美しくて、1つ1つ大切に歌いました。
アルバムらしいアルバムが出来上がったと思います。

今回アルバムを2枚出すのに、改めて最近の楽曲たちを聞いていて思ったのが、なんか昔より自由になったってことです。
曲に対するアプローチや、表現の仕方とか。
単純に、たくさん曲に取り組んできたことで、技術が上がったり取捨選択することでスムーズになったこともあるだろうけど、それよりも自分のなかにあったタブーや固定観念みたいなものが取っ払われていったのが大きいような気がする。

もっともっと自由になりたいと思います。
『After Illusion』よろしくお願いします。

神田優花





5/16(火)



神田優花、6枚目ののフルアルバム「After Illusion」について。

前作「One」がどちらかと言うとシングルズ的な内容だったんだけど、今回のはトータル・アルバムとしての側面に重きを置いてます。

間違いなく神田優花の現時点での最高傑作です。 過去のアルバムも、基本的にはリリースの時点では常に最高傑作だと思ってきたんだけど、前回の「One」だけはちょっと例外的と言うか、4枚目の「Mona-Lisa」の収録曲より古いものが多く混ざったりしていて、純然たる最新作って内容でなかった。 今回のはかなり新作としての純度が高い。

アルバムのテーマは「現実」。 日本語としての現実と言うより、英語の「Reality」の方が近いかもしれない。 アルバムタイトルと同名の「After Illusion」って曲が入ってるんだけど、アルバムを象徴しているってほどの位置付けじゃなくて、あくまで収録曲の一つ。 たまたまアルバムタイトルと同名ってだけです。 全体を聴いて欲しい。 以下、収録曲について(既発作品は除く)。 未発表曲が多いんで、今回は長いです。


1.So What ?

アルバムのオープニング・ナンバー。 あるイメージに沿った曲を作ってみようと思ってた時期があって、その頃に作った作品の一つ。 イメージなんで言語化しにくい。 「Crybaby」とか「Time Slips Away」なんかも似たようなイメージの元に作ってる。

サビでいきなりレベル(聴感上の音量)が上がるんだけど、それをどう録音物の上で(16bitって制約の中で)表現するかであれこれ考えさせられた。

効果音を多用してるんで、そこ(音の切り貼り)に時間が掛かった印象がある。 まあわりと好きな作業なんで特段の苦も無くやれましたけど。


4.After Illusion

音は物凄くシンプルで、ピアノとPad・SE系のシンセ音、あとホンの少しのドラムで作った。 一旦マスタリングまで終わった後に、どうしてもピアノの音に引っ掛かってしまって、そこだけ差し替えて再ミックスダウンした。

曲については、ある種のジャズとかそういうものに近いんだろうか。 いわゆるテンションとかUSTとか、そういうのを多用してはいる。 動機として「ジャズを書こう」とか思ったわけでは全くない。

出来上がった当初は結構繰り返し聴いたりしたんだけど、時間が経ってやや熱が落ち着いたような。 曲についての印象は終始一貫変わっていないけど。 アルバムのカラーには合ってると思うので、当初の予定通り収録しました。


5.Real of the World

これがアルバムのタイトル曲になる予定だったんだけど、途中で方針変更した。 サビの、歌と語りの中間みたいなフレーズをまず思いついて、そこに肉付けして行ったような曲。 グロッケンシュピールとかヴィブラフォンとかの鉄琴類を中心にアレンジ組んでる。

曲そのものについては、私が書きたかった、書いておきたいテーマが含まれているものではある。 この曲でそれが十全に表現できたかと言うと、正直そこまでの手応えは無い。

ウィスパーっぽい語りとか、音量が極端に小さい部分があって、ボーカルは録った時点でのダイナミクスがメチャクチャ大きかった。 そこを出来るだけ活かしたかったんで、その辺の処理に気を使ったような。 ハッキリ覚えてないけど。


6.Picture on time axis

楽器編成とかはごくシンプル。 変わったところと言えば、時計の針の音でリズムを刻んでるってところか。 いわゆるドラムの音も薄っすら入ってはいますけどね。 このアイディア(時計の針)って既に別の曲で使ってるんだけど、その曲は今のところ未発表。 いつかそれも出すかも。

部分的にではあるけど、オルガンの(ペダルの)音をサブベース的に使ってる。 スピーカーによっては無視されるかも。

この曲の肝はコード使い。 コード(和音)そのものでなく、コードの進行。 個人的にはもう慣れてしまって特異な感も無いんだけど、あんまし一般的ではないと思う。 聴いた感じ普通のPOPSにしか聞こえないと思うけど。 因みに、コードから先に作ったような曲ではない。

タイトルは「時間軸上の絵画」って意味なんだけど、私は日頃そういうものを作っているつもり。 私の作品は、音楽って言うより、時間と言うキャンバスに描いた絵。


7.Time Slips Away

ヴォーカルを全編トーキングモジュレーターで、みたいなアイディアありきで一曲書いた。 歌詞を耳で聞き取るのは多分無理。知りたかったら歌詞サイトとかで確認お願いします。 アーティスト本人の素の声ってほとんど聴けないんだけど、一応モジュレーターに使ったのは神田優花の声ではある。

Waterphoneって言うちょっと珍しい楽器を使っている。 映画の効果音とかによく使われるらしいけど。 あとDelay Lamaって言う有名なVSTi使ってる。 随分前から知ってたんだけど、使いどころなくて今回初めて曲に使った。もう使わないかも。

リズムは普通のドラムキットでなく、インダストリアル・ノイズみたいなので作っている。 他にも色々とギミックフルな曲で、音声合成とか色んな手を使ってる。 ここで一々全部説明はしないけど、聴いてもらえばまあ分かります。


8.Ivory moon

逆回転の効果をフィーチャーしたオケを作ろうと思って。 その程度の動機なんで、音響面以外に思い入れが薄い。 Pad・SE系の音作りを色々試していた時期で、実際の導入例の一つ。

逆回転音(擬似逆回転も含む)の生成プロセスは幾通りかあって、分かり難いだろうけど、それなりの試行錯誤の結果です。 私は音響面への拘りが薄いタイプの音屋なんで、どっちかと言うと慣れない作業だった。

コード進行のメインを担ってるシンセのパートがあるんだけど、曲の全尺分のロングトーン(×4)にピッチベンドをチマチマ入力してコードを構成させている。 だからそのパート、曲の間にリリースが(アタックも)一度だけしかない。 エディットはそれなりに面倒臭かった。の割にはあんまし大した効果も感じないけど。

音楽的な部分での特筆点なんて大して無いんだけど、一旦原形作った際に、あまりに味も素っ気も無い曲だったんで、大幅にリハーモナイズしてみた。 付け足したくなるのは核が弱い曲だからなわけだけど、コード使いにそこが見て取れると思う。

当初大した位置付けの曲ではなかったんだけど、アレンジ煮詰めたりしているうちに印象が変わってきて、アルバムにも収録することになりました。 たまにこう言うこともある。


9.My Justice

当初AORっぽいものを作るつもりで取り掛かったんだけど、あんましそれっぽいものには仕上がらなかった。 曲って、作ってる段階でも行きたい方向みたいなのを持ってしまうものなんで。

どちらかと言うとコード(進行)から先に作ったようなものなので、曲のコアは主旋律(歌のメロディー)よりコードの方にある。 あとは、サビが変拍子込みで構成されている点とかが、この曲のイメージの核になっていたりするんだろうか。

バッキングはギター・ベース・ドラムス・キーボードと言った基本的なものから、少数編成の管(金管&木管)、ラテンパーカッション類と言ったもので構成している。 さして大掛かりなアレンジでも無いけどシンプルでも無いと言う。 大まかにはPOPSなんだろうけど、その辺がそもそもはAORを作りたかったと言う動機の痕跡と言えなくもないような。


10.Drifters

これ書いた頃って鉄琴・木琴類に関心があって、その辺を取り入れた作品が多い。 これにはマリンバが入ってる。

マリンバの4マレットの奏法を前提にスコアを書いた。 最初そのパートをハープに担当させようと思ってたんだけど、マリンバとハープでは楽器の構造・奏法が違い過ぎるもので、かなり抜本的に譜面を書き直してる。 あとこれ書いた時期の作品は、Pad・SE系の音に拘って作ってますね。 「Real of the World」とか「Time Slips Away」とか、導入部がSEっぽいのが多い。

この曲、メインであるボーカルのラインの音域が広くて、確か1オクターブ半ぐらいある。特に上がかなり高い。 いわゆるハーモニーはついてなくて、主旋律である唯一のボーカルパートの動きが上下に広い。 一発録りとか難しそうな曲だ。

しかしタイトルの「Drifters」は、「漂流者たち」って意味なんだが、昭和の人には別のイメージでしか捉えられないような気がする。


12.Precious thing

パイプオルガンの音を中心に作っている。 オケに関してはバッハとかバロック系の影響が濃い。 声楽部分についてはそうでもないと思うけど。

大人になって分かったこととして、英語に日本人の考えるような過去形は無いようだ。 洋書読んだり英語圏人と話しているとよく分かる。 いわゆる過去形はRealityからの距離を表現している(だから仮定法過去なのだろう)。 これの歌詞にはそのような(おそらくは正しい)意味での過去形を使った。

ボーカルは当初ドライっぽく仕上げようと考えていたんだけど、編集時にどうしてもイメージに沿うものが出来なくて、結局こんな感じになりました。 アルバムの最後には位置付け的に重い曲を持ってくることが多いんだけど、この曲も好きな曲です。




5/15(月)

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スティービー・ワンダーやプリンスは、シンセのいわゆる音作りをしなかったそうだ。 世のミュージシャンにはハッキリ言って音楽そのものより音の方が好きな人がいる(日本人に多い)が、明らかに人としてのタイプが違うのだろう。

音楽と言う時間軸上に展開される芸術に対して、音・音色と言ったものに関心の焦点が集まってしまう人ってのは、要は音楽の展開に向いていない脳の持ち主なのではないかと言う気がしてしまう。 これは単純にアタマの良し悪しの話をしているわけじゃない。

時間が展開されるのは、意識であり言語である。 この部分が強靭でない脳でも、無意識の領域(計数・空間把握など)は人並み外れて優秀であったりもする。 おそらく音色に強い関心を示す脳の持ち主は、計数能力に長けているケースが多いはずだ。 あるいは単に全方位的に脳機能が脆弱で、無論言語の時間保持能も低い、と言うケースもあるだろうが。

私の芸術に対する定義が正しいのであれば、時間の保持能が低い脳に芸術は向かない。 私の考える芸術とは、言語にのみ因るものである。 ピカソや北斎が畢生のものとして打ち込んでいた作業のこと。 天才棋士と言われる中学生は自分が芸術に向かないことを知っていたが、その判断は正しいと思う。 でも彼は将棋において人並み外れた能力を事実発揮しているのだから、決してアタマが悪いわけではない。 ただ現状芸術家ではないし、この先も芸術には向かない。


5/14(日)

「アナログシンセサイザー」について考えていた。 それ関係の本を一冊読んだもので。 因みに「アナログモデリングシンセ」ではない。生粋のアナログシンセについて。

アナログシンセってのは、物凄く簡単に言うなら、電圧で音声を合成する装置のこと。 過去に存在したシンセサイザー商品をソフト化したものや、アナログシンセサイズをソフトウェア的に模したようなオリジナルのソフトシンセは数多あるが、昨今楽器メーカーなどが純然たるアナログシンセサイザーを商品としてリリースするケースがしばしば見られると言う。 需要があるってことなのだろうか。

正直私はあんまし興味が無い。 と言うか、そもそもハードウェアを極力買い足したくない人なので、メンテナンスが大変そうなアナログ機器なんてゴメンだ。 私は音楽を作りたいだけなので、効率がとても大事なのだ。

アナログシンセが欲しくなってしまうような人は、音色・音響面に私なんかより高い関心を持っているのだろう。 確かに音色も音楽の一部ですからね。拘るのは悪いことではない。 物書きが筆記用具に拘ってるみたいなものでしょうから。 私は筆をあまり選ばない人ってことなのだろう。


いわゆる倍音減算方式の音声合成については、興味があると言うか、デジタルでなら常用している。 私はそれをアナログで発音させることに拘りが無い。

アナログ機器はモデリング系のシンセに比べ、高次の倍音成分が含まれる点が魅力であると言う。 でも別にモデリング系とかでもサンプルレートを高く設定すること自体は可能である。 最終的な出口が録音物であるから、適当なところで折り合いをつけているだけだろう。 録音物にしてしまうことが前提なら、倍音成分って大したアドバンテージとも思えない。

アナログシンセはデジタルのように出音が一定しない点が良いと言う意見もあるらしい。 デジタル機器でその辺の不安定さを模すことは出来るだろうけど、確かにわざわざそんなことしないだろうな。 この点についても私には魅力が感じられない。

結論として、私は今後もアナログ機器に興味を持つことも手を出すことも無さそうだ。 やはり私は音色・音響に関心が薄い。


5/12(金)

お知らせです。 既にリリース・インフォ出てるんですが、影山リサ・最新シングル「Follow Me」(全2曲)が、5/31(水)に発売されます。 下がそのジャケット。是非チェックしてみてくださいね。



因みにこの「Follow Me」の次のシングルまで計画が立ってたんだけど、そっちの方はカップリング曲に待ったがかかって、現状頓挫してしまっている。 まあそれにしてもタイトル曲もジャケット上がってるんで、秋頃には出せる筈ですけど。


5/9(火)

立て続けで恐縮だが、またプリンスの話。

プリンスの作った曲で「Nothing Compares 2 U」と言うのがある。 元はThe Familyと言うバンド用にプリンスが書き下ろした作品だが、プリンス本人を含む多くのアーティストにカヴァーされ、有名なシンニード・オコナーのバージョンは世界中で大ヒットした。 シンニード・オコナーはPVシューティング中、この歌を歌いながら号泣してしまう(本当に大粒の涙を流しているのがPVで確認できる)。 いわゆる名曲ってヤツである。

その「Nothing Compares 2 U」、音楽的に紐解いてみると何のことはない。 メロディーやコード進行をとってもアレンジをとっても、特筆すべき点が見当たらない(歌詞が共感を呼んだのだろうと言う想像はつくが、ここではあくまで音楽面についてのみの言及している)。 何故にあの曲が名作なんだろうか。

それはつまりは「プリンスが作ったから」ではなかろうか。 音楽(曲)そのものなんて、要は音価と音高の組み合わせに過ぎない。


人の言説にどうも釈然としないことがある。 その人の言うことは大筋で間違っていなくとも、イマイチ共感できなかったりするのである。

結論(結果として言っていること)って意外とどうでも良いのだろうと思う。 大切なのはその言説を吐くその人の心だ。 言説とかってのは、いわばその人の表面的な「態度」の一部に過ぎないわけで、そんなものどうとでも着飾れる。

曲も同じ。 表面的なメロディーだとかって如何様にも着飾れる。 大切なのは、それがどんな思考を経て生まれたものなのか。 作品でなく、作者がどういう人であったのか。

曲を作る時、私は「良いメロディーを書きたい」とかもう思わない。 今の私は日々、「良い曲を書くに相応しい自分になりたい」とだけしか思ってない。 繰り返すが、曲なんて極言すれば音価と音高の組み合わせに過ぎない。それを生み出す思考のプロセスに比べたら実に単純なものだ。


5/8(月)

プリンス関連の本とかウェブサイトを見ていたんだが、逸話の類が凄い。 多作型のアーティストってのは有名なんだが、その多作ぶりが尋常でない。 一日で4曲作るとか、アルバム二日で作るとか、未発表の録音済みトラックが○百曲あるとか。

プリンスはタダの作曲家ではない。歌のメロディー書いたら「はい一曲」ってわけじゃないのだ。 プリンスで言うところの一曲ってのは、一つの(ほぼ完成された)録音物と意味である。 作詞・作曲は無論のこと、編曲も各パートの演奏・録音も全て含む。 それを何百曲分ストックできると言うのが如何に凄まじいことか分かるだろうか。

斯く言う私も、気付けば割かし多作型に分類されそうな勢いだ。昔はそうでもなかったと思うんだが、ここ十年ぐらいで格段に曲作りのペースが上がった。 それでも多くて週に一〜二曲とかその程度。 因みに今の事務所に勤めて十数年、発表した曲が多分二百数十くらい。未発表のオケまでとりあえず作ったものを合わせてもせいぜい三百数十とかそのくらいだ。 ペース言うと二週間に一曲以下だ。

私は歌を歌わないので、イメージが沸いたからと言って一気に歌入れ・ミックス・マスタリングまで済ませる、なんてことはできない。 オケを上げたら常にそこで一段落を挟むことになる。 歌い手さんに譜面やデモを渡してリハーサル期間を挟んでレコーディング、と言った流れになるわけだけど、その期間に平均すると三〜四週間くらいは要してしまう。 その後にミックスとかそういう工程が入る。

歌入れを自分でやるならきっと物凄く作業の効率は上がる筈で、プリンスの多作が可能だった理由として、彼が(単なるライターでなく)歌うたいであった点は大きいだろう。


私はプリンスの音楽が好きである。昨日今日気に入ったのではなく、十代の頃からCDなども買っていたクチである。 その私にして思うのだが、プリンスはそんなに曲を量産する時間・労力があるのなら、何故もう少し一曲一曲を煮詰めなんだ。 多作ではあるが、一つ一つの作品が粗い。

聴いたことがある人なら分かるはずだが、プリンスの曲って、「一つのプロットに若干の改変を加えつつ繰り返し、一曲に仕上げた」みたいなのが多い。多いと言うかほとんどそうである。 一つのプロットと言う言い方には多少の語弊があるな。一つの、時間的に短いプロット、とか言うべきか。 とにかくコアとなる部分は数小節程度であることがほとんどだ。

プリンスのその多作振りをモーツァルトになぞらえる向きがあるようだが、二人は作家としてのタイプがかなり違う。 モーツァルトの方が一曲一曲の核心部分が大きい(時間的に長い)。これはほとんど決定的な違いと言って良い。 繰り返すが、私はプリンスの音楽が好きである。 好きなんだが、もう少し別のタイプのものも作れなんだかと思わなくもないわけです。


コアとなる「プロットの長さ」って言うのは、「曲の長さ」とは全然意味が違う。 曲の長さはリピートによっていくらでも稼げる。 10分のプロットを作るのは容易でないが、10分の曲を作ることや、現状3分の曲を曲を10分にリアレンジすること、は実に簡単である。

プロットと言うのは即ち「構想」のことで、純粋思考のみに因るもの。 多くのジャズ・ミュージシャンはこの思考で音楽をしていない。 断っておくが、単純に良い悪いの話ではない。

プロットがどれだけの時間軸に展開されているか、と言うのは言語と密接に関係している筈だ。 プリンスはいわば、計数能力のようなものを多分に援用して曲を作るタイプだったのではないか。


5/7(日)

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神田優花の最今のところの新アルバム「One」、聴いてもらえてるんでしょうか。 立て続けで財布に優しくないんですが、今月17日には次のアルバム「After Illusion」が発売されます。 是非聴いてみてくださいね。




5/6(土)

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フランス人は英語を嫌う。 フランス語を喋るからフランス人なのであって、英語を使うとそれはもう純粋なフランス人と言えるのか疑わしいと感じるのだろう。

私などは、最下層の母語がフランス語であるなら、表面的には何語を喋っていてもそれはフランス人だと思うんだけど、それは私の母語が日本語と言う、世界的に見ればかなり特殊な言語であるからかもしれない。 私が時折英語を喋ったとしても、一人でいる時に英語でモノを考えたりはしない。 私の英語はあくまで日本語を置換しただけのものだ。

フランス語のようになまじ英語と類縁関係にある言語だと、近いが故にレイヤーの境界が曖昧になるのかもしれない。 つまり最下層が侵される。 だからこそ英語を嫌うのかも。異教徒より異端はタチが悪いと言うことか。

フランス人ってのはまあ色々面倒臭そうな人々ではあるが、言語についての感覚は基本的に正しいと思う。 日本にいるフランス人って、日本語上手い人が多いんだけど、あれも「英語使うぐらいなら日本語喋る方がマシ」と言う感覚なんだろうな。


5/5(金)

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4/19・4/26と二週連続でリリースした、影山リサの「Welcome to My Fairyland」と「Circus」の2タイトル、如何でしたか。 影山さんは今、邦楽シリーズ第二弾の制作に入ってます。


5/4(木)

私は音楽(創作)以外にほとんど時間を使わないが、その理由は、音楽の中に全ては包摂されているからである。 音楽以外に時間を使う必要がない。

私が欲しいのは、知りたいのは、気分である。 「私が」と言うが、全ての人はそうである筈なんだ。

酒飲みで酒によく散財すると言う人は、酒に金を使うと言うが、要は気分を買っている。 酒席に漂うある種の雰囲気であるとか、あるいはもっと直接的に酩酊と言う気分であるとか。 何より金が欲しいと言う人だって、「それに事欠かない人生」と言う気分を求めている。

私が酒席に金を投じない理由は、それをくだらないと思っているから、ではない。 むしろある実在する世界であるのだから、私はそこについて餓えるほどに知りたい。 ただし私の肉体・持ち時間には限りがある。 そこに可処分時間の多くを投じては、他の何かが見えなくなりかねない。

今の私は、例えば酒席について、酒場に足繁く通う以上に効率的にそれを知る術を得てしまった。 だから一々その経験を踏まない。 ここで言う術こそが、音楽である。


目に見える「物質」しか心に映せない人が、それを手に入れる手段として、せっせと蓄財に励む。 その蓄財行為が世俗的な見方にて仮に「成功」を収めていたとして、それって羨ましいことだろうか。 多くの人がそんな人生を選べないのは、使う時間に見合わないからではないのか。

私は子供の頃、プラモデルが好きな少年だった。 プラモデルは、買ってくると組立て前のそれが目の前にあり、箱の中に組立て方法の説明書きがある。指示通りの手順で組み立てると、ある(概ねパッケージ通りの)完成品が出来上がる。

私はある時、それらを一々作り上げることを止めた。 「好きでなくなったから」ではない。「分かったから」である。 商品を選ぶ楽しさ、作り上げる過程、完成品を眺める気分、それらを凝縮したものが音楽にて味わえることに気付いたからだ。

私は音楽の中に、もう一つの世界・現実を持っている。 そこには浮世での栄達などもうとっくに含まれている。 私の欲しいのは、今の私がまだ心に映せない何か。


5/3(水)

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(自分以外の)人間を、善きものと捉えられるか悪しきものと捉えるか。 これは全人類が二種に大別できるとすれば、判別の分水嶺たる点であろう。

無論何事もそんなに単純ではない。 他人とは、時に自分を助けてくれる存在であり、また時に自分に害を為すものでもある。 大事なのは、総体としてどう捉えられるかってことだ。 もし人間を悪しきものとしか捉えられなくなったら、その人のその後の人生はきっと苛烈なものだろう。


「信じること」は、生きていく上でこの上なく大切である。 それが即ち世界の見え方であるからだ。 信じることは愛の感覚と直結している。

愛されることによって人は、この世界に愛や夢などと言う可能性を見出すことが出来るようになる。これが信じると言う感覚の基礎なのだろうと思うが、愛された経験を奇貨と出来るか否かは、その人の性質にかかっている。 心に愛がなければ、目の前を横切った筈の愛にその人は気付けない。

だからドストエフスキーは「本当の地獄とは、もはや愛せないこと」だと言った。 愛されないことではなく、愛せないことであると。 その人の心に「愛する心」がカケラも存在していなければ、その人に広がる宇宙(つまりは現実)に愛は存在しない。 その人の残りの持ち時間は地獄である。


親は子に、「疑わぬこと」ではなく「信じること」を教えてあげるべきだと思う。 忍耐力より愛する心の方が大切だ。 未熟な精神には一時的な弊害もあるのだが、愛の萌芽を見て取れるのなら、その心を大切に見守ってあげて欲しい。


5/2(火)

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プロの棋士になるような人は、常人とは脳の使い方が違うらしい。 これは文学的表現などではなく、医学的な話。 私はこの話を興味深く聞いたが、別段意外ではなかった。 私の人間についての理解と基本的に撞着しないから。

普通人は将棋などを指す場合、思考するので、当然思考に使う脳の領域をフル稼働させる。 一方プロ棋士は、通常人であれば無意識の際に働く脳の領域を使って将棋を指すらしい。 つまり彼らの思考(に一見見えるものは)は反射である。

反射と言うのは反射神経などと言うように、つまりは思考以外の何かである。 猫は二階から落下しても、傷一つ負わずに着地できるのだが、あれはまさに反射である。 彼らは考える以前に答えが解っている。

棋士になるような人らはほぼ例外なく数学が得意である筈だが、式よりも前に解が浮かんでいるらしい。 式と言うのはいわば理由なわけだが、解は分かっても、どうしてその解にたどり着いたのか、説明することが難しいそうだ。

思索の末に解にたどり着くことと、反射的に分かることは違う。 棋士に求められるのは後者の能力なのだろう。 芸術、特に音楽分野にはそっち型の人間が紛れ込んでいるし、むしろそちらの方が正統的な音楽家だと見做されているきらいさえあるが、無論違う。 アートは言語に因るものをしか指さない。


芸術作品は一種の解である。 が、芸術家はそれを作る際、彼ら棋士らとは違う脳の領域を使っている。 その解にたどり着くまでの式、つまり思考のプロセスこそが芸術の本質である。 作品(完成品)なんてのは一つの位相に過ぎない。


5/1(月)

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人間の弱さ、とは一体何なのか。いわば弱い個体とはどういうものか、について考えていた。

身体の強さ・弱さと言うのが、人間の世界観に影響しないわけは無いと思うが、現代社会でそこについて他者と冷静に比較できる環境が与えられるのって、早くてもせいぜい三歳以上くらいだろうか。 三歳なら人間の基本的な世界観は既に粗方完成しているように思われる。

いわゆる未熟児のような、絶対的な弱者のような人なら、自分自身を弱いと感じるだろうか。 意思的に感じるわけではなくとも、世界が何となく怖く見えるかもしれない。 性質で言うなら臆病になるのではないか。

臆病と言うのは、人間の持ちうる最大の弱さだろう。 何故なら、共同体の中で、臆病な者は嫌われ、排除されるであろうから。 いわゆる人格障害者のように、収斂的発達を遂げた者についても、結局その収斂は臆病さをリカバーする為のものであるように思える。

何故臆病者は排除されるのか。それはその他周囲の人らにとっても、その臆病者は危険人物であるからだ。 臆病、つまり(他人を含む)世界に恐怖を抱いている者は、要は他を何をしてくるか分からぬ危険因子と見做し、敵視している。 臆病さと言うのは、言い換えれば他に対する猜疑・敵視なのである。

「この世は怖いところだ」と子供に警戒心を植え付ける親は、つまり我が子に呪いをかけている。 親の言うことを真に受ければ受けるほど、その子の人生は苛烈なものとなる。 無論だからと言って、悪徳商法の類に易々と引っ掛かるような世間知らずでは、それはそれで困ろうが。

人間の臆病さは生得的なものでもあろうから、それを後天的に解く方法が存在しているのか分からないが、親などの周囲にしてあげられることがあるなら、それはただひたすらに愛することだろう。 この世界が、他人が、怖くないと言うことを教えてあげるしかない。


百獣の王ライオンは、ボスとなる一頭のオスが多数のメスを引き連れ、いわばハーレムを形成する。 強いオスの遺伝子を優先的に残す為のシステムなのだと思われるが、自然界はそれなりに合理的である。 ボスとなれない弱いオスは、当然群れからあぶれる

あぶれたオスは子孫を残せないわけだが、ここでライオン社会が現代の人間界のように「民主的な一夫一婦制」を採用しようなどと言い出したら、仕舞いにライオンはシマウマを狩れなくなるかもしれないわけで、それは種にとって危機である。 苛酷な弱肉強食世界に生きる彼らは、そんな愚かなことをしない。

ヒトラーのナチスドイツは、障害を持つドイツ人女性に不妊手術を施したと言う。 人権を無視した稀代の悪行のように語られるが、何の考えも無い行動では無論無かったろう。 「強いゲルマン民族」を作る為、上のライオンの原理を踏襲したと考えれば分かりやすい。 ただ弱い個体を無理矢理淘汰しようとしたところで、生物と言うのは弱者も含め多様であることが本質で、ヒトラーの考えるような成果がそのまま実現するかは疑わしい。


ある個体をこの社会から消そう(排除しよう)と考えるなら、一番効果的な方法は、その者にこの世界に対する恐怖を植えつけることである。 愛さず、日々を生き抜く自信を失わしめれば、その者は覿面臆病になれ、この社会にとって有害になれる。 臆病になればなるほど、その個体には社会からの強い排除の圧が働く。 我々に出来ることは、愛することぐらい。


4/30(日)

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プリンス(ミュージシャン)はシンセサイザーを使う際、プリセット音色しか使わなかったそうだ。 なんか物凄く納得。如何にもそんな感じがする。 因みにスティービー・ワンダーもそうだったらしい。

私もそうだ。 多少の調整はたまにするけど、基本的にプリセットがベースである。 一からの音作りなんてやってられない。 プリンスのような有名な多作型アーティストなら、当然そうなるだろう。 一からの音作りなんて効率悪いことこの上無い。

私がプリセットを使うのも、効率面での理由が大きいが、結局のところ作りたいものが音楽だからである。 私が作りたいのは音色ではない。


またプリンスは、いわゆるLinnDrum(LM-1)を愛用したらしい。有名なリズムマシンなんだが、曰く「最高のグルーヴを叩き出す」らしい。 「ありとあらゆるリズムマシンを手にしてみた俺が言うのだから間違いない」のだと。

そう言われてあらためて考えたのだが、確かに私はリズムマシンの実器をほぼ所有していないので、グルーヴなんて言う具合までは分からない。 音(音色)なら大体分かる。 名器と言われるような機種なら、大抵エミュレーター的な音源やサンプルのようなものが存在するし、それらは入手も割かし容易だ。 サンプリングなら当然音は実器そのものである筈だし、モデリングなら各パラメーターの音色変化などもある程度実器に近付けてある筈である。

ただしそれ以外の部分(特にシーケンサー部分)の挙動については不明だ。 多分エミュレーターの類も音色の再現には注意を払ってても、シーケンスの回路などほとんど気にしていないと思われる。 私にしたって「シーケンス部に違いなんてあるのかよ」って感じだ。深く考えたことがなかった。 プリンスはLM-1の「グルーヴ」を絶賛している。 単発の音ではない。 まあ彼の発言もどこまで間に受けて良いやら、と言う気もしないでもないが。

プリンスの楽曲で、リズムマシンを使っているらしきもの(生ドラム系でないもの)をいくつか聴いてみたのだが、確かにLM-1の音だ。 シンセ同様にプリセット音にあまり手を加えてないらしく、マスタリング後の音源においても、実器の音をほとんど原形のまま残している。 ただ、グルーヴについてどうこうと言うのは、私にはあまり感じられなかった。


4/29(土)

人は変わらない。 「変わるではないか」と言う人は、ポイントを見誤っている。 表面的な行動でなくその下のレイヤー、行動を生む原理のようなものを見詰めれば、人が変わらないことが解ってくる。

「若い頃は車好きだったのに、最近はゴルフにハマっている」と言う人は、年齢・世代に応じた流行に飛びついているだけなのではないか。 「一々の選択に自己判断が働かない精神の持ち主」とか評すれば一つの人格像にキレイに収まる。

「大酒飲みだったが、最近違法薬物に手を出した」と言う人。彼は「本能の趣くままに動き、理性の歯止めが利いていない」と言う一貫した人。 人は変わらない。

私は子供の頃から変わっていない。 歳は取るし、相応に時間を過ごしてきているので「付け足した」部分は当然ある。 知らないことを知り、解らないことが少しづつ解るようになった。 が、人格が変わっているわけではない。


趣味嗜好に変化は確かにある。 それって何なのか。

子供向けの特撮モノとか、私も子供の頃はよく見たけどさすがに今はもう見ない。 これは、そう言うものを楽しむツボを失ってしまったのではなく、そこについて熟知してしまったが故に、鑑賞に取られる時間と結果得られる気分とが、見合わなくなっているってことなのだろう。

今はもうあんまし読まないけど、子供の頃は週刊マンガ雑誌などをよく読んだし、TVドラマのようなものも見た。 当時はその手の少年マンガなどをそれなりに面白く感じていたのだが、大人になるにつれ、面白く思えなくなってしまう。 その理由としては、面白さ、その気分を忘れたのではなく、面白さ以外の嫌らしさのような部分に気付いてしまった面が大きい。

つまり、子供の心を失くしたのではなく、単に成長してしまった。 似たような展開のものの結末を、ある範囲内で予測できたり、成長して映せる現実が広がった分、目障りな部分までが思考に飛び込んでくるようになってしまった。


TVドラマなどを見ていても、少年マンガに対するものと似たような感想を持ってしまうのだが、ああ言うものってとにかくせわしない。 次から次に事件が起こり、心の休まる暇がない。 少年マンガなら、次々に最強の敵が現れ、延々と死闘が続いて行く。 その絶え間ない波風こそがTVでは視聴率、マンガでは人気投票結果、つまり人気の源泉になっているらしく、「主人公の平和な一日」のような冗長な内容を続けることは(少なくとも商業ベースでは)きっと許されない。

しかし、そのクセ商業ベースのものって、落ち着きこそない割には、人気至上主義であるとかそういう商業ベースの運動律そのものに対する疑問は寸毫も持たぬものらしい。 そのパラダイムから一歩も外へ出てくれない。 仕方ないことなのは分かってるつもりだが。

私は、自分の心をささくれ立たせるようなものは好きでない。 そう言う人もそう言う作品も基本的に嫌い。 そう言うものをあえて好むような人がそんなに多いのだろうか。 私は私の感覚を標準的だと思っている。私が好きでないものなんだから、多くの人も本質的にはそうである筈なんだけど。


好きだったものと距離を置くようになったからと言って、人は変わっているわけではない。 子供の頃プラモデルが好きだった私が、今そこに一見無関心でいる理由は、それ以上に好きな「音楽」があるからである。 可処分時間が限られている以上、優先順位に従って物事の扱いが違ってくるのは必然だ。 好悪の感覚が変わったわけではない。

優先順位云々と言ったが、実のところ私は、音楽以外のことに時間を使わない。 メシ食ったり寝たりと言う、生存最低限の作業以外の時間を音楽以外に殆ど使わない。 本読んだりくらいするけど、それはもう創作の一工程だ。


4/28(金)

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ここ数年、子供(乳児)をまじまじと見るにつけ、人間と言うのは生来のハードウェアレベルでの設計によって、人生の粗方が決まってしまうのではないかと思うようになってしまった。

「人生とは、本人の努力によって如何様にでも切り開いて行けるものだ」と言う意見、ある意味正しいと思う。 でも、努力するにも意志を持つにも内省するにも、そこには厳然と資質ってものが必要になる。 その資質はハードウェア(主に脳)に因る部分が大きいのではないのか。

生後間もない乳児の目を見るだけで、私にはその子の将来がある程度の範囲内で予測できてしまう。 無論この勝手な予測は、全くの見当違いであるかもしれないわけだけど。


人間の本質とは「世界の見え方」である。 本来たった一つであるこの世界に、夢を見られる人がおり、また絶望する人もいる。 それらは映し出すその人の心が決めただけのものだ。

その差は何に因るものか。 各人が映せる現実の違いとしか言いようが無い。 物質なら誰の目にも映る。物質を超えた何かであれば、それを映すに視覚以上の何かが要る。 私はそれをしばしば言語と表現するけど、これが正鵠を得ているのか、イマイチ自信が無い。


4/27(木)

若干14歳の少年棋士が天才とて世間で騒がれているらしい。 私はたまたまそのニュースを仄聞し、その少年の特集・インタビュー動画のようなものを見た。 因みに私は将棋に全く興味が無い。ルールすら細かい部分はよく分からない。

映像では少年の生い立ちが紹介されるのだが、五歳で将棋を始めただの詰め将棋が大の得意であったとか言うエピソードと共に、算数(数学)において抜群に優秀な成績を収めていたとあった。 まあ将棋において人並み外れた能力を発揮しているのだから、当然計数能力に優れてはいるだろう。 そんなことより気になったところがあった。

算数に引き換え、彼は絵(美術)が苦手であったと言う。 インタビューで少年は言う。「将棋には最善手があるが絵には無い」と。 私には彼の言わんとすることがよく分かる。

最善手と言うのは、それこそ算数のペーパーテストに用意されている解である。 この世界があらかじめ解を用意してくれているからこそ正答もできる。 一方芸術にはそれが無い。 芸術における正答とは、美醜と言う、自己の判断にのみ因るものであり、詰め将棋の答えとは全く意味が違うもの。

その少年は、天才棋士と持て囃されても芸術家にはなれないわけだけど、その若さにして「絵には最適解が存在しない」と言う点に気付いているだけ大した人物であると思う。


4/26(水)



影山リサ、ミニアルバム「Circus」(全8曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。

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Circus

「Circus」は、先週発売の「Welcome to My Fairyland」に引き続き、ミュージカルをイメージしたミニアルバムです。 前作と比べると、ポップな曲が中心に収録されています。 シングルカットされた「Crazy Birds And You」も収録されています。

皆さん、是非聴いてみて下さい。

影山リサ





4/25(火)



明日発売の、影山リサ・最新ミニアルバム「Circus」(全8曲)、収録曲について。 4曲目の「Crazy Bird And You」は先行シングルとして発表済みです。


1.Come With Me

いわゆるギャロップ・スタイルの曲を書こうと思って。 作例とかもいい加減にしか当たってないし、そんなに綿密な考証を経たものではないけど。

ボーカルは語りみたいな部分がほとんどで、歌ってる部分はごく僅か。 因みにその喋りの部分、かなり早口なんだけど、タイムストレッチとかは一切掛けてない。 レコーディング時そのままのスピード。 あとコーラスは神田優花が歌ってる。

オケの部分を一旦完全に作り上げてから歌のメロディー書いてるんで、歌(声楽曲)としての思い入れはかなり薄い。 ただ、最初から人の声が入ることは想定した上で作ってるんで、良くも悪くもオケはバッキング的と言うか、メロディーの動きなんかは抑えられたものになっている。

フリーリズムっぽいトランペットの独奏から入って、最終的にはブラスバンド的な編成になる。 フリューゲルホルンとかユーフォニアムとか、珍しいってほどではないけど、私は普段あまり使わない楽器を入れている。

曲のラストに近付くにつれて、オケヒットとかブレイクビーツの音なんかが混ざってきて、POPS的と言うか、商業音楽ライクなものになってくる。 だから、純然たるブラスバンドって感じでもない。 アルバムのオープニングを想定して作った曲。


2.As Green As Grass

アニメ・カートゥーンみたいなののテーマソングとか、ミュージカルの挿入歌みたいなのをイメージした曲を量産してた時期があって、その頃に作った曲の一つ。

オケは物凄くシンプル。 鍵盤系の音にリズム(カウント)が加わっている程度。 リズムもフットステップとか。 あんまりだったんで、歌入れ後に(オケに)タンバリン加えた。

構想時に、Mixバランスとかにイメージがあって、それを具体化したって感じ。 私は音響面のイメージから曲を作ることってほぼ無いので、特殊なケースと言える。


3.Circus

映画とかの劇中歌みたいなのを作ろうと思って。 ブラスをフィーチャーしたアレンジばっかり書いてた時期があって、その頃に作った曲の一つ。 歌入れしてから結構時間が経ってる。とりあえず録ってはみたけど半分お蔵入りみたいな状態でした。 あんましPOPS的でも無いんで、出しどころがあってまあ良かった。

当初あったイントロ部分はゴッソリ削除した。 後奏と似たようなイントロが当初あったんです。聴けば何となくどういうものであったか想像がつくはず。

いきなり歌で始まるんだけど、そのアタマの部分にセリフ(の語尾)と効果音が薄っすら入ってる。 サントラなんかにたまに、映画のワンシーンから強引に引っこ抜いてきたようなトラックがあったりするんだけど、そういうイメージ。 普通この手のギミックって一々解説するのも野暮な気がするんだけど、これに関しては言わなきゃ誰も気付いてくれないような気がして。


5.They Like The Rock Music

かなり昔に作ったヤツなんだけど、アルバムの趣旨に沿うものだったんで引っ張り出してきた。 あんまし使うエフェクトのイメージが湧かなくて、かなりドライに仕上がってます。

久しぶりにファイル開いて中身確認してるんだけど、まあ別段変わったところもない曲です。 ドラムに自作のVST使ってる。 バッキングの音数が少なくて、一つ一つの音の粒がえらくビビッドなんだけど、嫌いじゃない。

オケとボーカルの間に、ある種の分離感を出したくて、バッキングトラックを一旦2Mixにした上でボーカルと重ねている。 カラオケみたいな感じ。


6.Blah Blah Blah

全体的にチープな楽器音とか、ヘンテコな音で構成してるんだけど、特徴と言えそうなのは、スタイロフォンと言う、楽器というよりオモチャみたいなの。

ドラムのロールを軸にしたフリーリズムの部分と拍節音楽的な部分を交互に配置した。 途中に入る変な声みたいなのは、人の声を元に手作りしたもの。

歌のメロディーとかちょっと変わってるんだけど、ラインを(階段状でなく)スロープ状にしたってだけで、過去にも似たようなことって何度もやってるし、特段新しい何かってわけでもない。 コード使いとかもちょっと変わってはいるような気もするけど、楽理的に特に面白い試みってわけでもない。 軽いジョークみたいな曲。


7.City In The Night

古めかしいロックンロールとかロカビリーとか、そういうのを書いてみようと思って。 その程度の動機。 一応、その手の音楽の書法を一通り取り込んで見たつもり。

音楽的に特筆すべき点は無い。 楽器編成はできる限りシンプルにしてみた。 ベースとドラムとエレピだけ。十分だと思う。 エレピの音を選ぶ際に、(実器の仕様なのだろうが)音域が狭いものが多くて多少難儀したような。結局CP80って言う、割と有名な機種の音を使ってる。

途中スローになる部分があって、あの手の音楽においては定番的手法なんだけど、BPMの匙加減とか結構微妙なものがあることに初めて気付いた。 半減ってほどは遅くならないと言う。 実際にああいう音楽を演奏してたミュージシャンなんかは、あんまし深いこと考えずに感覚的にやってただけだろうけどね。

最後のあたりで部分的にボーカロイド的なもの(ボーカロイドそのものではない)を使っている。 私はボーカロイド作品みたいなものを全く発表しない(作らない)音屋なんだけど、こういう方法でなら今後も使うことがあるかも。


8.Peppermint Blue

増五度のいわゆる変化和音を軸に一曲書いたような。 本当にそうだったかイマイチ思い出せないんだけど、今譜面を見返した感想。 コードから発展させると言う、私にとってはやや珍しいパターンではある。 古いものなんで細部の記憶は曖昧だけど。

今聴き直してるんだけど、同じく影山リサのレパートリーに「Find Your Way」ってのがあるんだけど、それのプロットに少しカブってるような。最後の辺りのヘミオラっぽいところとかも似てる。 あと、なんかこういう趣向の有名な曲があったような気がするけど、今思い出せない。





4/24(月)

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鳥居耀蔵と言う人物がいた。 天保とか弘化年間なんかに活躍した人だから、いわゆる幕末の人。時代劇なんかにもよく(悪役として)出てくる有名な幕吏である。 奸吏と言うべきか。

鳥居耀蔵の人生を眺めていると、彼がもし現代人で、今精神科医に彼を診せることができたなら、典型的な人格障害と診断されるのではなかろうかと思ってしまう。 と言うか歴史上実在した悪人の類って、ほとんどはこの人格障害のカテゴリーにキレイに収まる人ばかりなのではなかろうか。

鳥居は当時的には(少なくとも朱子学徒としての)教養人には違いなかったろう。それは出自からも察せられる。 が、彼はある面において決定的にアタマが悪かった。 例えば伊豆周辺だったか沿岸部の測量を行ったことがあるのだが、当時並行的に作業を行っていた江川英龍やその周囲と自らの(測量技術における)力量差についての認識が甘過ぎる。 彼我の力量差についての認識が甘いってのは、あるタイプの低能の顕著な特徴だ。 権謀術数と言うのは、それを弄するに、ある種のアタマの悪さが不可欠であるらしい。鳥居の行動はそれを物語っている。

鳥居が大塩平八郎を憎悪するに至った思考のプロセスも、常人には度し難いが、異常人(人格障害者)の思考パターンとしては割かし一般的と言うか、標準的だ。 知らない人には調べてもらいたいところなんだが、要するに、恩を受けたことを屈辱と感じたらしい。受けた恩が後の報復の動機になる。

彼は晩年、失脚の後、どこだったかの藩での蟄居だか幽閉だかを言い付けられるのだが、維新後の(徳川幕府の消滅を受けての)恩赦に対し「将軍からの言い付けなのだから、将軍からの恩赦でなければ受けられない」などとゴネ出し、新政府を閉口させたらしい。 これも彼にとっての世界観が、常に「勝ち負けの土俵であった」と見れば合点が行く。 素直に恩赦に従えば、それは彼にとって「敗北」を意味したのだろう。 なんと言うか、ストレスの溜まりそうな人生だ。


4/23(日)

ある人から聞いた話。 その人の母親は看護師だそうなのだが、義務教育終了(中学卒業)後、すぐに看護学校に行き、そのまま60いくつまで(いわば定年過ぎまで)現場一筋に勤め上げたそうな。 因みに現在は一応退役期間ながら、要請に応じて今でも時折(医療の)現場に顔を出すと言う。 多分世界史レベルでも稀有なほど、第一線での実戦経験豊富な御仁である。

なまじ母親がプロなもので、その人は子供の頃、少々の病気や怪我などでは親に心配されなかったらしい。 幼少期に一度、額に大怪我を負ったらしいが、その時も母親は「ちょっと骨が見えかけてるけど大丈夫大丈夫」などと大様に構えていたらしい。 凄い。私がその立場なら絶対青ざめていた。

何故その母親はそこまで余裕を持てるのか。 それは経験豊富だからである。 怪我や病気で病院に担ぎ込まれる人たちを、日常的に見続け、処理し続けている。 少々の怪我など当然想定の範疇で、想定内のことだからして驚かないし動じない。


人は、物事を想定できればできるほど落ち着いて世界に臨める。 逆に物事を想定できなければできないほど、人は常にストレスフルな時間に晒される。 いわゆる感情的な人が、不測の事態に平静を保っていられなくなる理由は、この「想定」ができないからである。 思考のパースペクティブと落ち着きは、きっと密接に連動している。

平静を保てない人は想定ができないのだから、結果失敗も多くなるだろうし、失敗と言う経験のデータベースを構築するのも、そこから何かを学ぶのも苦手な筈だ。

物事を長い目で見れば、落ち着いて考えてみれば、失敗こそが我々に大切な何かを残してくれることが分かる。 失敗こそが、未来の想定の基礎になるからだ。 意味の無い時間・経験なんて無いのです。


4/22(土)

音楽関係の本を私はよく読む。 音楽理論書などは勿論、DTMの初心者向けテキストのようなもの、あとは音楽業界についての本とか。 実用の為と言うより(結果的にそうなることはあるが)、モノを考えるきっかけとして読んでいる部分が大きい。

「音楽で稼ぐ方法」みたいな本を先日読んだ(因みに、タイトルはもっとエグかった)。 その手の本の常として、あんまし具体的な方法には言及していない。何と言うか、心構えのような一般論がほとんどなのだが、まあこれは仕方ない。 手に取る人がそれぞれ違うわけで、全員に適応できる普遍的な方法論なんてのが存在しないからしゃあない。

しかし、音楽にフィールドを絞った上で、尚且つ稼ぐ方法なんて難しい命令だ。 何故なら「稼ぐ」と言うのは、他人の欲求を嗅ぎ取ることで、一方音楽は言うなれば一応は芸術だからである。 音楽なんて、金儲けの手段としてそんなに効率的とは到底思えないし、稼ぐことを優先度の高い命令とするなら、音楽と言うフィールドに拘る意味がきっと無くなる。

「好きなことやって食いたい」と言うような人はいるし、事実「好きなこと」と「金」が両立するケースはあろうけど、その二者は本質的に別の方角を向いている。 上の本の目指すところって、根本的に矛盾を抱えているような。


4/21(金)



↓神田優花の子供じゃありません。念のため。

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以前とある会合に出席した時の話。 我々のようなレーベルだとかミュージシャンに向けて、コンサルタント的なアドバイスがなされるわけだが、曰く「今の時代にアルバムと言う形態はそぐわない」らしい。 「とにかくシングルを小刻みに出せ」と。 因みにここで言うシングルは、旧来のカップリング付きの二曲入りとかそういうのを指しているわけではなく、単曲のことを言っているものと思われる。

月産1曲のペースで制作しているとして、年に一枚、12曲入りのアルバムを出すより、毎月1曲を出す方が良いと言うことらしい。 「年一枚なんてペースではリスナーに忘れられる」と。 そうかもしれないしそうでないかもしれない。私にこの辺はよく分からない。

確かにアルバム(10曲前後のセット販売)と言う形態は、レコード(LP盤)だとかレッドブック準拠のCDメディアの記録時間に合わせて曲を盛り込んだだけで、そこにそれ以上のさしたる合理性があるわけではなかろう。 今のようなダウンロード中心の販売形態には確かにそぐわない。 同一アーティストの曲をまとめて聴きたければ、落とした単曲を集めて適当にプレイリストでも作れば良い。

上のアドバイスに従ったとか言うわけではないけど、ウチのリリース形態も自然そのように(シングル中心)になってしまっていた。 ただしシングルとは言っても、カップリング付きの旧来の(EP盤とかの)形態を踏襲したものが多い。 アルバムも一応出すには出すけど、内容は必然的にシングル集みたいなものになってしまう。 とにかく我々の出す商品は、旧来のメディアの形態を踏襲したものだ。

理由と呼べるほどの理由も無いのだが、やはり我々が音楽を好きになった子供の頃に触れた商品の形態に近いもの、を作っていると言うことだろう。 一つ一つの商品だって、その核となっているのはイマジネーションなので。


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で、本題。 神田優花の6枚目のフルアルバムが来月に発売されます。 今回のアルバムが今までのものと違うところは、収録曲中の、未発表曲の純度が高いこと(全12曲中9曲が未発表)。 一昔前はこのくらいが標準的だった。つまり旧来のトータルアルバムの概念に近いものであること。 時代に逆行するようなものをあえて作ってみました。 神田優花6thフルアルバム「After Illusion」、5/17(水)発売です。




4/20(木)

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一昔前の歌謡曲に出てくる地名にはある程度の法則性があった。 多いものは横浜・神戸を代表とし、他には長崎とか函館なんてのもある。 昨今歌(演歌とか)に地名が出てくるケースは、あからさまに御当地ソングを狙ったようないやらしいものが多いんだけど、そういうものをとりあえずは指してない。

要は幕末から明治にかけての外国人居留地である。 長崎は江戸期にオランダとの貿易拠点だった。 つまり、異国(とりわけ欧米)の臭いが重要らしい。 歌のみでなく、例えば今でも神戸出身者は「兵庫県出身」でなく「神戸出身」と自称することが多いのではないか。 これって日本特有の現象だろうか。 中国人とかだって、「四川」よりは「上海」の方が歌になると感じるのではなかろうか。 よく分からないけど。

とりたてて結論があるわけでない文章なのだが、最近のJ-POPに横浜や神戸が見られなくなったのは何故なんだろう。 外国に対する憧憬の気分が薄れたと言うことなのだろうか、


4/19(水)



影山リサ、ミニアルバム「Welcome to My Fairyland」(全8曲)、本日発売です。 下はアーティスト本人から。


Welcome to My Fairyland

今回のミニアルバムは4/26発売の「Circus」と対になっている作品で、どちらもミュージカル的なものを意識して作られたミニアルバムです。
レコーディングの段階では、どちらに収録されるのかは分からなかったんですが、「Welcome to My Fairyland」は少しノスタルジックな感じ、「Circus」はポップな感じのアルバムにまとまりました。

「Welcome to My Fairyland」からは、タイトル曲の「Welcome to My Fairyland」ももちろんですが、特に7曲目に収録の「Caterpillar」の歌詞が面白くて、私自身その世界観にすぐ引き込まれました。
ユニークな世界観を感じていただけたらと思います。

2週連続のリリースとなります。

皆さん、是非聴いてみて下さい。

影山リサ





4/18(火)



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明日発売の、影山リサ・最新ミニアルバム「Welcome to My Fairyland」(全8曲)、収録曲について。 5曲目のHollywood In The Lunchboxはシングル「Crazy Bird And You」に収録済みです。


1.Moonlight Comes Into Your Eyes

バッキングはホンキートンクっぽいピアノ(1パート)のみの、いわゆるソナタ形式の曲。 ソナタの形式を最低限満たしている、と言う程度のソナタだけど。 ピアノの練習曲に歌を乗っけたみたいな曲。 典型的なアルベルティー・バスとか、わざわざベタな書法を取り込んでる。 ホンキートンクっつってんだから分かると思うけど、ピアノの調律の狂いは意図的なものです。

あまりにオケがシンプルなんで、編集時に色々とボーカルの粗が目立って困った。 そもそもあんまり歌っぽくないメロディーラインで、ブレスとかもほとんど考えずに作ってるんで、歌い手さんも大変だったろうと思う。 滅多にあるものでもないので許して。

曲自体はこのアルバム用に作ったものじゃなかったんだけど、合いそうだったんでストックから引っ張り出してきた。 物凄くローファイに仕上げてるんだけど、こんな曲でもないと、ここまで極端な処理もなかなかできない。


2.Welcome to My Fairyland

アニメ・カートゥーンみたいなののテーマソングとか、ミュージカルの挿入歌みたいなのをイメージした曲を量産してた時期があって、その頃に作った曲の一つ。

バッキングは物凄くシンプルで、メロトロンのみで作ってる。 のみと言っても、メロトロン自体が一種のサンプラーなんで、元になった楽器音は色々だけど。

ボーカルのピッチを弄って色々な効果を出しているつもりなんだけど、この時期のMixに多用した手法。「Crazy Birds And You」とかでも見られる。


3.My Song

単にシンプルな曲を書こうと思っただけなんだけど、後になって「ミュージカルとかにこういうのってありそう」とか思って、何と言うか、曲としての役割を変更した。

アレンジはスチール系のギターのストロークが中心で、リズムはハンドクラップとかギターのボディー叩いた音とか。いわゆるベースにあたるものは無い。 ギターはリゾネーターってヤツですね。いわゆるドブロ。

イントロはリコーダー、間奏はカズーとハーモニカのユニゾンに、後半でオカリナのオブリガートが絡んでくる。 最初ハーモニカは入れる予定無かったんだけど、カズーのサンプルの音程感が怪しかったんで、それを補強するために入れた。

私はスキッフル音楽が好きで、これなんかはスキッフルそのものとは言い難いんだけど、楽器構成とかに若干その影響が出てると思う。


4.Change Your Mind

割と好きな曲。自分で言うのもナンだけど私らしい。 アニメ・カートゥーンみたいなののテーマソングとか、ミュージカルの挿入歌みたいなのをイメージした曲を量産してた時期があって、その頃に作った曲の一つ。

これもシンプルな曲。 楽器編成はちょっと変わってるのかも。 ジューズハープってのをフィーチャーしてる。 あとはリズムに使ってるビブラスラップの音とか、その辺がこの曲のイメージに直結していると思う。 あと声に掛かってる効果とかも。

この文章起こすに当たって、DAWのセッション久々に開いてみたんだけど、リズムに和太鼓とか使ってる。 他にもベースはバスクラリネット使ったりしてる。 結構前に作った曲なもので、細部とか完全に忘れてた。


6.Wili Wili

アニメ・カートゥーンみたいなののテーマソングとか、挿入歌みたいなのをイメージした曲を量産してた時期があって、その頃に作った曲の一つ。

「チター(そういう楽器がある)を使って作る」みたいな命題が自分の中にあって、それを形にした。 チターって属名になってるぐらいだから、別にマイナーな楽器ではないと思われる。

上のような動機で作ってるもんで、チター以外ほとんど使ってない。 リズム刻んでる音があるぐらいなんだけど、それもちゃんとした打楽器でなく、ポットを叩く音か何か。スキッフルのような。


7.Caterpillar

アニメ・カートゥーンみたいなののテーマソングとか、挿入歌みたいなのをイメージした曲を量産してた時期があって、その頃に作った曲の一つ。

これもボーカルのピッチをかなり弄ってる曲。 オケもかなりシンプル。 この時期の作品に共通している。 あんまし手数の多くないドラムの上に展開されるダブルベースのフレーズが核になっていて、そこにところどころ管の音が入ってくるだけと言う。


8.Find Your Way

シングル「Pretty Storm」のカップリング曲として2014年にリリースした曲。 アルバムのイメージ合うような気がしたんで、いわばオマケとして入れた。 7曲入りでも別に良かったんだけど。

2014年のリリース時と全く音は変わってません。レベルの調整すらしてない。

初公開時のコメントと被ってるかもだけど、いわゆるラグタイム。 ハッキリした動機で作ってるから、極めて様式的と言うか、面白味には欠けるかも。 まあオマケですから。





4/17(月)

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記憶と理解について。

音楽理論書などを読む時、私はそれが「理解できるか」を自身に問うことはあるが、記憶力のトライアルに挑む気は無い。 音大生が解くような和声の問題(バス課題とか)に常に正答できる状態を保つには記憶量が不可欠だ。

私は例えば和声法だとか対位法だとかを、理解できさえすればそれで良いと思っている。 一歩踏み込んだ、諸々の書法だとか禁則だとか言う物にはほとんど理解は必要ない。

例えば雅楽器に笙と言うものがあるが、合竹(和音)と合竹の移動には「手移り」と言う割かし厳格な書法と言うかルールのようなものがある。 百種類以上あるので、笙の専業奏者でもない私がとてもじゃないが覚えていられない。 私の研究対象に比して、私の持つ記憶力や記憶領域はあまりにか細いのである。つまり、一々の記憶なんてしてる余裕は無い。

音楽周辺に限った話だが、現時点で私に「理解できなかったこと」はとりあえず無い。 これは、ペーパーテストに臨んだ私が高得点をマークできるかどうかとは全く関係がない。 だが私にとっては、この理解こそが最重要課題なのだ。


こういう私だからして、いわゆる「カンニング」に対して神経質になっている風潮には共感し難い。 「カンニングぐらい大目に見てやれよ」とつい思ってしまう。 つまり私は、カンニングぐらいで高得点をマークできるような試験に大した価値を感じていない。

私の作る楽曲は、ある疑問に対しての私なりの「解」なわけだが、作る過程において、あらん限りの資料を駆使する。 本当に楽理書・教程書のようなものを片手にスコアを書くことだってあるが、それってペーパーテストならカンニングのようなものだ。 でも、だからと言って名曲が書けるかと言うと、そんなに簡単なわけがない。 カンニングしたぐらいで名曲が書けるなら苦労は無い。

「鎌倉幕府の開府は西暦何年か」と言う問いにであれば、カンニングで正答できるが、「鎌倉幕府とは一体何か、4000字以内で論述せよ」と言った問いになら、カンニングぐらいで対応できない。 問われるのが記憶量でなく理解であるからだ。 理解の程を開陳する為の試験なら、資料などむしろ可能な限り援用させてあげたいではないか。

私は理解に価値を置いても記憶量に価値は置かない。 記憶なんて人間の頭脳以外(それこそ資料など)のデバイスでも代用が効くものだからだ。 日本の試験制度って記憶量に価値を置きすぎだと感じるが、そもそもその前に、出題者は二者をキチンと区別しているだろうか。


4/16(日)

広瀬沙希、暫くお休みしてたんですが、めでたく(子連れで)リハーサル復帰です。

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ちょうどお休み期間中に1stアルバム「Love Solitude」のリリースがありました。 こちら、引き続き発売中。是非聴いてみて下さいね。




4/15(土)

ありもしないウソの音楽様式を作るとして、まず編成は打楽器とシンプルな弦楽器、あとは効果音的なものを取り入れたい。 低音はスカスカでも構わない。

打楽器の材質は、木と金属どちらが良かろうか。 沖縄には鉄器時代が無かったらしい。確かに御座楽にも民謡の類にも金属楽器って無さそう。 無論御座楽は楽器も含め大陸由来なんだが、琉球人の民情に合った形で定着した面はあるはず。 沖縄の三味線は、猫でなく蛇の皮を使っているわけだが、必ずしも沖縄産の蛇ってことでもなく、感性とのマッチングの問題のように思える。 とにかく沖縄と金属って相性悪そう。 でもガムランは金属楽器だらけだから、島国特有の現象ってこともないな。

島国、離島ってのは基本的に海に囲まれている。 だからその地理特有の楽器編成とか生まれてもおかしくない筈だ。 例えば貝や魚の骨を使った楽器とか無いのか。 骨は軟骨では厳しいか。 貝を使った打楽器とかあってもおかしく無さそうに思うんだが、あんまし思い当たらない。何故だろう。

そういえば法螺貝とかってあるな。あれが楽器かどうかはさておき(一種の吹奏楽器?)。 多少無理からながら、ニッチとしてはアルプホルンとかに近いように思えなくもない。 法螺貝は何故、あの宮本ラッパみたいな使い方だけでなく、もっと倍音とか、尺八で言うところのメリ・カリなどの奏法を駆使して旋律的なものを奏でる方向に発展しなかったろうか。 奏者には名人芸が求められるだろうが、モンゴルのホーミーみたいに、奏法を達人が伝承していたりしたら面白かったのに。

未知の音楽様式があったとして、それが和声音楽である筈は(現実的に考えてほぼ)無い。 常識をもって推すに旋法音楽のようなものである筈だが、どういったスケールを使うだろう。 一般に未開地域の音楽であればあるほど、スケールの音程間隔は広く取られる傾向にある(必ずしも民度とそれが正比例するわけではない)。 だから5音くらいで構成するとそれっぽくなろうか。

雅楽とかも12律ではあるが、大体のレパートリーはそのうちの5音ぐらいをピックアップして作られている。 民謡音階とか都節とかぺログ、スレンドロ、沖縄音階とか、その辺もみんな大体同じ。 ただ、それらのスケール構成はそれぞれ違っていて、そこがその音楽の独自性のようなものに直結している。

タイ楽のように音律そのものが違うってのもアリだろうか。 しかしタイ楽のいわゆる七等分平均律は、実際にはさほど厳格なものではない(理論値と実測値に差があり過ぎる)。 西洋音楽のピタゴラス律とか純正律とか、そういうものとは違う。 まあ大体民族音楽みたいなのって、チューニングは厳格でないケースが多いから、そこはあんまり拘り過ぎない方がそれっぽくなりそう。


4/14(金)

今ある様式を作ろうと思っている。ある様式に沿った曲でなく、様式そのものを作りたい。 もう少し具体的に言うと、ありもしないローカル音楽みたいなのをイメージしている。

現状偏に音楽と言った場合、事実上西洋音楽のことを指しているわけだけど、あれだって西洋文明(キリスト教など)が生み出した一様式だ。 が、インドネシアにガムランのようなものがあり、日本に雅楽のようなものがある、と言ったように、世界中のどの地域にも存在するローカル音楽と西洋音楽を同列には扱えない。 西洋音楽は人類規模で普遍化したものだからだ。共有されるべき何事かが含まれていた。


各ローカル音楽には、当然差異があり、また共通点がある。 まず共通点。 時間軸上に展開される、人間の可聴音域上にフレーズが配置される(可聴音域の範囲内のものが作品と見做される)、などと言うほとんど音楽として絶対的なものがあり、他にも非和声音楽である、低音が弱い、スケールがあり、それらは大抵オクターブをループポイントと見做している。なんてのもある。 因みに中東音楽のマカームのようにオクターブで必ずしもループしていないスケールもある。 日本でも能楽のヨワ音階だとか、一部の筝の調弦に、オクターブでループしないものが見られる。 絶対的とまでは言えないルールなのだろう。

いわゆる和声(音楽)は、西洋音楽特有のものだ。他のローカル音楽には見られない。 インドや中東の音楽にだってスケールはあるし、ポリフォニーのようなものは民族音楽の中にもしばしば見られる。 スケールがあってポリフォニーがあるならそのままハーモニー(ホモフォニー)に発展して行っても良さそうなものだが、ヨーロッパ以外ではそうはならなかった。

例えば日本では、筝の本手・替手や三味線の地・上調子なんて言う、一種のポリフォニーのようなものがある。 実際作例などを見ていると、一部ハーモニーを形成しているフレーズなどを見かけたりもするんだが、あれもあくまでポリフォニーの一環と捉えるべきなのだろう(小泉文夫は「対位法とすら捉えるべきでない」とか言っていたような気がする)。 その後和声音楽として発展して行った形跡は無い。 雅楽のヘテロフォニーなども、ホモフォニー化の動きは見られない。

編成に打楽器は大抵入る。 モノは叩けば音が出るものだから、大抵どんな地域でも土地の鉱物・植物相などに由来した打楽器の類は存在する(quijadaのように牛の骨なんてのもある)。 ガムランは編成のほとんどが打楽器で構成されているが、そのほとんどが旋律打楽器と言うべきもので、純粋な打楽器は実は少ない(皆無ではない)。 ゴングのような調性を無視して使われるようなものでも、聴くとわりかし楽音に近い音を出しているように思われる。

楽器の素材は当然ながら、その地域の動植物相・鉱物に影響される。 中東のナイは葦製だが、日本の篠笛は竹製。これは単にその地の植物相に由来している。 鉱物(金属)などはその文化の冶金技術の水準なども当然影響してくるんだけど、その辺は今はとりあえず措く。

低音が弱いってのは、いわゆる民族音楽だけでなく、雅楽のような体系的音楽・宮廷音楽においても顕著で、要するにしっかりとした低音が出せる楽器(特に旋律楽器)は、工業製品として作るのが難しい。 その辺においてもヨーロッパってやはり凄い。文明の重厚さを感じる。 ガムランとかは民族音楽の中ではわりかししっかりした低音を出しているんだが、例えば有名なゴング・クビャールと言う編成だって、生まれて確か数十年やそこらで、さほどの歴史は無い。 一般的イメージとしてのガムランは、諸ローカル音楽の中では比較的新しいものだ。

スケールは旋律音楽を構成する上でほとんど不可欠なものである。 雅楽の呂・律もガムランのぺログ・スレンドロもタイ楽の七等分平均律も、要は全てスケールだ。 更にそのスケール、基本的にオクターブでループしている。 上に挙げたような僅かな例外はあるが、インドのラーガ(タート)も中東のマカームも原則的にはオクターブでループしている。

シンプルな弦楽器のようなものは(民族楽器に)よく見られる。擦弦・撥弦どちらもよくある。 糸張って擦ったり弾いたりすれば楽音が出るし、開放弦の中央を押さえればオクターブ上の音程が得られる。まあ手軽なのだろう。 日本の固有(大陸由来でない)楽器にも和琴(わごん)なんてのがある。一弦琴である。 それを弾く埴輪の出土例まであると言う。

弦楽器の弦が複数ある場合、それらは大体四度か五度の音程関係になる。 複弦構造とかだと大体一度かオクターブ。 こういうのも一種の生理のようなものだ。


前置きが長くなった。 今作ろうとしているのは、ありもしない、いわばウソの様式。 でも全くデタラメなものを作るつもりはない。 如何にも存在しそうな、リアリティーあふれるウソを私は作りたい。


4/13(木)

神田優花の5thフルアルバム「One」が昨日発売されましたが、来週水曜には影山リサの8曲入りミニ・アルバム「Welcome to My Fairyland」がリリースされます。 影山リサは再来週には次のタイトルも発表します。 是非聴いてみてくださいね。




4/12(水)

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神田優花、5thフルアルバム「One」、本日発売です。 下はアーティスト本人から。




アルバムを2ヶ月連続で出します!
フルアルバムとしては初めての試み。こんなに録りためてたかと、自分でもびっくりです。

まず第1弾、『One』
これはシングルコレクションとでもいえそうなアルバムです。
かなり幅広い曲調のものが集まってて、録った時期もバラバラ。
タイトル曲のOneなんかは5年以上前に録ったものですが、アルバムに今まで入ってなかったことが不思議な感じです。神田優花の王道的Rockですね。

今回の新曲は、3.Your Shadowと7.My Little Honey Your Shadowは得体の知れないものへの焦燥感と不安定さを意識しました。
My Little Honeyはブロックごとにテーマを変えて歌っています。
同じ歌詞で印象を変えてみたいなと。

いろんな曲をつめ込んで、5枚目のアルバム『One』、出来上がりました。
ぜひ、聞いてみてください!

神田優花





4/11(火)



神田優花、ニューアルバム「One」について。

神田優花の5枚目のフルアルバムになります。 前作「Mona-Lisa」もそうだったんだけど、更にベストと言うかシングルズ的なアルバム。 だからってことでもないけど、アルバムトータルでのコンセプト性みたいなのはやや薄い。

収録曲も初出の時期はかなりマチマチで、前作(4thアルバム「Mona-Lisa」)のリリース前に発表している曲も多い(中には2011年リリース、なんてのもある)。 とにかく期間を広く取ったアルバムになってます。 悪く言えば散漫なんだけど、一曲一曲がカラフルでビビッド。 バラエティー豊かなアルバムになってると自負してます。

アルバムタイトル曲にもなっている収録曲「One」は、2011年リリースのシングル「a moment」のカップリング曲で、収録曲中で一番古い(昔に発表した)作品になります。 収録曲のタイトルからどれか適当なものを選んで、アルバムタイトルにしようと思ってたんだけど、初収録曲の中に良いものがなくて、結局この「One」にすることにした。 アルバム独自のタイトルを付けることだってできなくはないんだけど、私はあんましそういうことをしない。

蛇足ながら、私の理想とするタイトルは論語の篇名。章の頭の字句を取っただけと言う。 無作為なようでいて、尚且つ概括的であるところが良い。

神田優花は、この5枚目とほとんど並行して6枚目のアルバムの制作を進めてまして、収録曲なんかは既に仕上がってます。 だから、そんなに時間を空けずに次回作を発表する予定です。

以下はその「One」収録曲のうち、現時点で未発表のものについて。


3.Your Shadow

アコギの16分のカッティングに歌、間奏はハーモニカ、みたいなざっくりしたイメージがまずあって、そこから肉付けしていったような曲。 ギターの弾き語りとかやりながら間奏をハーモニカで演奏する、みたいなミュージシャンって(一典型として)いると思うんだけど、そういうののイメージ。 でも実際、この曲をそういうスタイルで演奏するのはかなり難しい気がする。

曲(の原形)が出来た時点ではアルバムのタイトル曲にしようと思ってたんだけど、タイトルが決まってから止めた。 アルバム全体のイメージを総括している感じじゃなかったんで。

編成だけ見ればフォークソングとかそういうのに近いんだけど、曲自体はマイナーの16ビートで、あんましそれっぽくはないと思う。 やはり神田優花のアーティストイメージの範疇で色々試行錯誤してる部分もありますんで。


7.My Little Honey

シャッフルを作ろうと思って。かなり昔に書いた。 書いた当初から割と好きな曲だったんだけど、随分長いことストックのままだった。 何と言うか、巡り合せの問題で。

アレンジと言うか楽器編成は、バンジョーとかフィドルとか使ってて、ちょっとカントリーっぽい。 リズムには、ハンドクラップとかスナップとか靴音だとか、スキッフル的な音を使ってる。

サビの半音進行の部分とAメロの部分が、元々別のアイディアとしてあったんだけど、それを繋げて一つの曲にした。 そういうタイプの曲って中途半端になることが多いんだけど、これは上手く行った方。





4/10(月)

想像について。

あるアイドル少女のファン(中年男性)が「あの子(そのアイドル)は僕と結婚したがっているのに、周囲がそれを邪魔している」とて、所属事務所を相手取って裁判まで起こしたと言う事件があった。 いつ頃だったか忘れたけど、私の記憶には新しい。 事件がその後どう展開したのかなど、私は全く知らないが。

多くの普通人はそのファンのことを「狂っている」と感じるだろうし、私もまあ基本的にはそう思う。 論理(言語)の狂いがなければ、人はそのような行動を起こさないだろう。

その手の人はよく「想像と現実の区別がついてない」とか紋切り型に評されたりする。 それは良いのだが、私は想像と言う言葉がこの社会で厳密に定義されていないことが多少引っ掛かっている。 想像って一体何なのか。


「過去・現在・未来」などと言葉で丸められると、まるでそれが同列の概念かのように錯覚しそうになるが、それらは全く違う。

まず現在は体感するものだ。感覚として掴むもの。 過去は記憶の中にしかない。記憶化された体験が、脳内で引っ張り出され反芻されることによって、その人の現実に映り込む。 記憶そのものは実体験が刷り込まれただけのものである。 危険回避の必要性からも、例えば人間以外の哺乳動物などにも記憶自体はある筈である。 記憶を反芻することによって過去は生まれる。その反芻作業には人間的言語(認識)力が要る。

未来は想像に属している。 過去を援用しつつ思い描くことはあっても、体験を参照するだけの過去とは違う。 未来を描くには、何かを脳内で一から作り上げると言う、おそらく人間にとって最も難度の高い作業が要る。

明日と言うものが実体として存在しないように、全ての未来は人間の想像力の所産であると言うことだ。 体感できず、体験すらしていない。 想像は最も高度なタスクと言える。 処理する為のよすがとしての感覚も記憶も無い世界。 未来は、現在とも過去とも次元が違う。

言語力の精度如何によって、人は各々、余程に違った過去を持っている。記憶の反芻に言語力が直接に影響するからだ。 論理的な整理が出来なければ、過去は際限もなく手前勝手な妄想で埋め尽くされる。 「そうではない」と反問する拠点となるものが言語力だからだ。

更に言えば「現在」の体感にだって論理力は要る。 論理力如何によって、人は余程に異なった現在を抱えていると言える。 人は皆同じではないのだ。 同じ場所で同じ時間を過ごしたとしても、その人の言語によって、それらの現実は全く違うものになる。

未来に至っては、その脳の言語力如何によっては存在すらしない。絶無である。 物質でないのだから、想像によって掴むしかないものなのだが、その想像がタスクとしてあまりに高度だからである。

私は、「曲を作ること」を「夢を見ること」のようなものだと捉えている。 一番近いものを挙げるならば、それが「未来の想像」だと思うから。 従ってそれは容易ではない。私は日々挫けそうになりながら、その作業に挑んでいる。


彼(上のアイドルファン)は「想像」をしているわけではない。 事実の体感(論理処理)に狂いが生じてしまっているだけである。 現在を掴むことにすら不具合を来たしてしまっている状態の脳に、想像などと言う処理が可能なわけがない。


4/9(日)

ここ最近、一時期のポータブル・キーボードの音をサンプリングしたような音源を集めている。 見かけたら落とす程度なんで、そんなに積極的なものでもないけど。

具体的な商品名で言うとCASIOトーンとかYAMAHAのPSRシリーズとか、その辺りの音。 基本フリー物ばかりなんだけど、有料物なんてそもそも存在してない。

何故その辺に関心を持っているのか。私自身ハッキリ分からない部分もあるんだけど、そういう商品に確実に需要があった(今もあり続けている)点に興味を持っている。


どういう商品かと言うと、チープなPCM音源を搭載したキーボード。 鍵盤一体型で、主たる用途は「演奏」だと思われる。 音源は必ずしもGM準拠ってわけでもないけど、それに近い仕様。 ドラム音源まで一通り入ってるので、それ一台で音楽作品が(マニアックなものでなければ)作れるようになっている。 ただ、商業音源レベルのものだとか、生演奏を見紛うようなものであるとか、そう言うものなど望むべくもない。

例えば今手元にある、とある音源、オルガン・ピアノ・ハープシコード・フルート・オーボエ・クラリネット・トランペット・ホルン・バイオリン・チェロ・アコーディオン・ギター・バンジョーなどのプリセット音色がある。あとシンセ系の音色いくつかとドラム。 その気になればフルオーケストラのスコアでも書けそうだ。

「ビオラが無いではないか」と言う話なんだが、そこはバイオリン音色があるから問題ない。 バイオリンとビオラの違いは、ピアノとフルートの違いとは階層が違う。 バイオリンとビオラは、ある見方をするなら同じと言って差し支えない。 だから音色ラインナップにわざわざビオラなんて加えてないのだろう。合理的判断だ。

今のこの関心が何らかの作品構想に発展して行く気配は(今のところ)無い。 発展して行くかもしれないし、行かないかもしれないんだけど、常日頃こういう小ネタのようなものを無数に抱えてないと、曲なんてできないのです。


4/8(土)

立石斧次郎(トミー)について。

多くの現代人はきっと、立石斧次郎と言う人物の名前すら知らないだろう。 そういう人がいた。幕末の頃、条約批准の為アメリカに渡った使節団の中に、通訳見習いと言う身分で参加した少年(当時16歳)である。

当時のアメリカの婦女子から、アイドルとして熱狂的な人気を集め、連日新聞を賑わせた。当時彼に因んだ曲まで作られたらしい。 呼び名である「タメ(為八)」から、斧次郎は当時「トミー」なる愛称で呼ばれた。

現代の日本ではほぼ忘れられている存在なので(例えば日本版Wikipediaに「立石斧次郎」の項目は無い)イメージを掴みにくいと思うが、ビートルズの絶頂期のフィーバー振りとか、そういうのを思い合わせられたい。


トミー・フィーバーとでも言うべき現象(歴史的事実)、現代人がそれを忘れてしまっている理由は、それがまさにイメージとして掴みにくいものだからだろう。 何故立石斧次郎にそこまでの人気が集中したのか、確かに分からない。 そんなに昔の人物でもないので、写真などもいくつか残っているが、特別美男子と言うわけでもない(少なくともこんにち的感覚では、さほどハンサムとも思えない)。 人格部分についても、著書などを残しているわけでもなく、伝わっている断片的なエピソードからだけでは何とも量りようがない(詳しく知る術が無い)。

当時のアメリカ婦女子や斧次郎本人に人気の理由を尋ねても(何かを答えたかもしれないが)、正解と言えるような回答はきっと得られない。 人気の原因を説明するなら、多くの要因が複雑に絡み合い、ある時点であのような現象を生んだだけ、とでも言うしかない。 ここで「回りくどいこと言うな、単刀直入に言いやがれ」とか言う人は、身の回りの不幸の原因を「大殺界が云々」などとすぐ言い出す。 つまり宇宙の真理を知る作業に向いてない。 物事に、単刀直入に言い切れるものなんて本当は無いのだ。

現象と言うものは、環境と言う複雑な条件が作り出すので、常に難しい。 説明しようと思えばできなくもないので、本当にしたり顔で解説する者も出てくる。多くの人はそれで分かったような気になってしまうのだが、分かりやすいものってのは、実は分かりやすいのではなく、手の届く範囲にある耳障りの良い何かで手を打たされてしまってたことをそう錯覚しているだけ。


私達の日々作り続けている音楽作品は、無論社会現象と言うほど売れているわけでもないが、同時に全く売れないわけでもない。 何らかの理由がそこに存在するからこそ、僅かではあっても売れたりする。 今後その売上げがどのように推移して行くかも、我々では読めない。


4/7(金)

低音部について。

各種の民族音楽は、一般に低音部が薄い。特に楽音としての低音が弱い。 中東音楽において顕著にそうであるし、雅楽だってそう。 西洋楽器のようにしっかりとした低音が出せる楽器(特に旋律楽器)は、工業製品として作るのが難しい。

ガムランはゴング系とか割かししっかりした低音が出るが、あれはまあ打楽器で、しかも一般的イメージとしてのガムランの編成(ゴング・クビャールなど)は歴史から言っても伝統音楽とか呼んでいいのか微妙だ。 雅楽の、強いて言えばベースラインを担当する楽器に楽琵琶とかあるけど、西洋楽器の例えばコントラファゴットとかオルガンのペダルなどとは、受け持つ音域(帯域)ごと違う。 打楽器なら雅楽にも大太鼓(だだいこ)とかあるけど。

考えてみると、低音楽器に楽音を担当させること自体、西洋音楽の様式性ではないか。 太鼓は打楽器だから楽音(安定した周波数)を出さない。ガムランのゴングも楽音っぽくはあるが、必ずしも調性に沿ったベースラインを出しているわけじゃない。 インド楽器であるタンプーラの担当する部分なんかは、やや西洋音楽の通奏低音(と言うか保続音)の概念に近いような気がしないでもないが、自由度から言ってもそれと同等とは言い難い。 音域的にも西洋音楽のベース担当楽器に匹敵するものとは言い難い。 ついでに、タンブーラは通常トニックとドミナントの二種のみを発音し、用途としてはそれらは保続音にほぼ相当する。

アナログドラムなどを思い合わせられたい。 シンバル類とかはノイズ系だったりするが、キックやタムなどは、オシレーターを使ってそもそも周波数の安定した音のピッチを時間的に変化させたりして音を作る。 つまり楽音を調性と無関係に使用している。 そういうものがアンサンブルに加わっていても、人間の脳はそれを音楽として成立させてしまうのだろう(特に低音においてそれは許されるらしい)。 つまり西洋音楽に見られる低音の役割は、音楽に絶対不可欠なものでない。 また一つ新たな理解を得た。


4/6(木)

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言語の獲得が、人類に飛躍的進歩をもたらしたと言われる。 私もそう思う。 マンモスを狩る原始人らは、そのチームワークを言語によって培ったに違いない。 言語こそが、人と人を繋ぐ唯一のよすがである。 愛も友情も、言語が作り出したものだ。

狩られる対象であるマンモス、彼らには当然ながら言語がない。 群れてはいても、本能によって連動しているだけで、友情がその行動を支えているわけではない。 言語で繋がれぬ者たちは、言語で繋がることを覚えた者たちに狩られるようになった。

言語の獲得に失敗した者がこの社会には紛れ込んでいる。 彼らはおそらく「狩られる恐怖」に怯えながら、ある形態を収斂的に獲得することによって、この社会で生き延びている。 外形的には普通人と同じだから、大多数の普通人はそれに気付けないのだが、イルカの群れにサメが混じっているようなものである。 形はそっくりだがそれは擬態によるもので、アタマの中身には天地の差がある。

言語の獲得が十全に行われなかった脳の持ち主の、あるタイプを発達障害とか呼び、別のあるタイプを人格障害とか呼んでいる。 前者はアタマの中身が普通(平均的)でないから、見た目にもアタマの中身が普通でなく見える。 後者は違う。言語部分の欠損を補う形で、脳のある部分が代替的に発達した結果、アタマの中身が普通でないのに、一見アタマの中身が普通であるかのように見える。 二者の決定的な違いは、後者が極めて社会にとって有害であること。

何故に彼らは有害であるのか。 それは彼らが自分の利益(生き延びること)を最優先の命令とし、愛を持たぬばかりか、他人の愛を自らの利益の為に利用しようとするからである。 愛に付け込むと言うのは、即ちこの社会において、愛の発動を危険にする行為である。 彼らの存在は、この世界の未来を闇にする。 私は彼らをかわいそうな人たちだと思うが、同時に彼らの存在に寛容になれない理由は、彼らのその社会悪の元凶を為している性質に、どうしても論理的に引っ掛かってしまうところだ。

また彼らは同時に、あまつさえ他人の不幸を望む。 どうして他人の不幸を望みまでするのか。 それは他人は不幸であった方が、己の要求が通りやすいからであり、他人の幸福より他人の不幸の方が自らを利するのに都合が良いからである。 例えば自己愛性人格障害の症例解説に、「他人が自分と無関係に幸福であるだけでも傷付く」などとあったりする。 彼らの原理さえ理解できれば、どうしてそうなるのかも自然と解ってくる。

STAP細胞事件当事者の彼女。 彼女のことを「自己愛性人格障害ではないか」と診断した精神医学者がいた。 私にその辺を断定する能力は無いが、その見立て、大きくは外れていないと思う。 彼女の脳は言語の獲得が十全に行われず、ある解にたどり着く為に通常人と同じ思考のプロセスを辿れず、常に異なったプロセスを採るようになった。 彼女の論文が剽窃・捏造だらけであった理由も、ざっくりと言うなら彼女にとっての論文作成とはそう言うものであったから、と言うしかない。 式(思考のプロセス)は違えど、結果上がった解(論文と言う成果物)は世に言うそれに似ていたでしょう。

理研と言う、いわば正統的科学界の中枢に身を置いていた彼女は、イルカの群れに紛れ込んだサメだった。 見た目はソックリで、まるで同類かのように思えるが、我々と同じ哺乳類の群れに原始的魚類が紛れ込んでいれば、様々な軋みが生まれるのは必然である。

彼女は定めし怖かったろうと思う。 常に正体がバレる危険を感じながら生きる日々だったろうから(と言うか今でもそうだろうけど)。 同時に天井知らずの肥大化した自己評価をも抱えていた筈だが、この辺りの機微を説明しようと思えば、文章量が膨大になる。またの機会に。


4/5(水)

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最近あらためて思うことは、才能とは、つまるところ何かを楽しめる能力のことなんだろうと言うこと。 才能の無い人ってのは、つまりは楽しめない人のことを言うのだろう。 この社会では、才能と言う言葉を「器用さ」のような意味で使うことが多過ぎるような気がする。 例え何が上手であっても、それを楽しめないと続けて行けない。

一般概念としての才能(器用さ)なんて、実は基準が生み出した錯覚。本当の才能とは、楽しめる能力以外ありえない。だから究極的に才人とは、「自分であれる人」のこと。 人は、自分の天才であらねばならない。

何かを上手だと、その器用さを持て囃されても、自分が楽しめない時間に価値があろうか。 人は決して、名誉の為に生きてはいけない。 我々が生き方を選ぶ基準は、我々が楽しめる否か。 世間を支配する価値観に抗う、唯一の拠点は自己である。 だから我々は最後まで自分であり続けねば、自分の天才であらねばならない。


何故楽しめるか。それはそこに夢を感じるから。 その作業を続けて行く先にある未来に、明るい何かを感じられるから。

私が「夢」に一番近い感覚を挙げるなら、それは愛だろうか。 この先、生きていく勇気。 愛が未来を生き抜く勇気に変わるように、夢は我々に次の一歩を歩ませる力に変わる。 私は愛のような、夢のような曲を作りたい。 それを心に宿した誰かの、次の一歩を踏み出す勇気に変わるような。 「これはあの時感じた愛そのものだ」としか言いようがないような。

ただ、残念なことに、愛も夢も、この世界に溢れ返っていたとしても、それを感じ取る能力が無い人にとっては、そんなもの存在しない。


ついでながら、才能には敵がある。 それは、未来に対する勇気を失わしめる何かのこと。 これについての文章は明日以降に上げる。


4/4(火)

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前々から考えていることについてのメモ。 人格について。

人には皆、一人に一つづつ精神(人格)が備わっている、などと思われているし、一般にそう言われてもいる。 しかしそれは本当だろうか。私は疑っている。

私の予てからの持論だが、傾向性の奴隷のような人、彼はこの世界に存在していない。 腹が減ればメシを食い、日々リビドーの趣くまま異性を求める、つまり行動原理の基礎が全て欲望である、と言うような人。それは動くものを餌だとして飛び掛かるカエルと同じである。 その欲望を制御・認識し、時にはその抵抗の拠点となる理性、それこそが人格だろう。

「彼は酒・タバコが好きで、ギャンブルが好きで、女好き」と言う人物がいたとする。 まるでそれは性格(人格)かのように紹介されているわけだが、実は挙げられた全てのバイオグラフィーは、人格を証明するものではない。 人格が欠如した人体に、傾向性(物欲)のみが残った状態に過ぎないのである。 だからそんな人、この世に存在していない。

欲望の単純な例をいくつか挙げたが、傾向性はなにもそれだけではない。 他人に抜きん出たい・勝負事において勝ちたい、とかそう言うのも実は傾向性。進化の原動力であったりもしようから、これ自体は仕方ないことだが。 アル中もギャンブル狂もつまるところ傾向性に起因している。 感情・行動を抑制できないのは、抑制する為の装置である言語(理性)が備わっていないからである。

自己と言うのは即ち言語である。 おそらくは脳の、言語を司るある部分が、我々にこの世界(現実)を見せている。 言語の確立が十全でない者、彼は要するに自己感こそを持てない。

このテキストを読んでいる人のほとんどは、当たり前のように自己を持っている筈だ(当然である。でないと何がこのテキストを読んでいるのか)。 不思議でしょう。ほとんどの通常人が何の疑いもなく持たされている自己、それを持たない人なんて本当にいるのだろうかと。

いるのである。しかもほとんどの人が考えているより多く。 いわゆる人格障害とは、言語の獲得不全によって生じる。つまり「自己感の欠如」があるパターンの行動を生む。 脳の機能不全なのだが、収斂的発達により、一見通常人と同じような言動を採るので、見分けがつきにくい。 その微妙な差異に気付いた者(精神医学者)が整理・体系化したのが人格障害等の諸概念だ。

人格障害者らを見分けるコツは、結果行動に惑わされぬこと。 ある表面的な行動を見た際に、その動機・心根の部分を見詰めると何かが見えてくる。 解でなく、式を見詰めろと言うこと。 解(結果としての行動)でなく、それを生み出した思考のプロセスこそが、その人の本質である。

自己愛性人格障害とか境界性人格障害だとか、人格障害には種類(下位クラスタ)がある。 が、全て病根が言語である点は一致している。置かれた環境や、言語の獲得不全の程度の甚だしさに差があるだけ。 これは即ち、カメレオンが棲息する場所によって体色を変化させているようなもので、カメレオンと言う同じ原理性を持つ生物である点において、全く同じであることと似ている。

ある資料に「自己愛性人格障害者は200人に一人の割合で存在する」とある。イメージとしては5クラスに一人とかそのくらいだろうか。 一つのカテゴリーでその割合なのだから、人格障害者は全体としてはかなりの割合でこの社会に紛れ込んでいる筈で、大抵の人は人生のどこかで遭遇している筈である。 「見たことがない」と言う人の多くは、病理についての知識がなかったり、相手の表面的な態度に騙されて気付けなかったりしただけだろう。


人間と人間を繋ぐ唯一のツール、それは言語。本当の孤独とは、言語の無い世界。 人格障害者らは、常に一人である。

人と人を繋ぐものは言語でしかない。 愛を感じるのも友情を感じるのも、音楽に感動するのも、この宇宙に神秘を感じるのも、全て言語によってである。 ここで挙げた愛・友情・音楽・宇宙の神秘、これら全ては物質でない。だから目に見えない。 目に見えないものを感じるのは言語であり、言語こそがその「物質としてありもしない何か」を我々の現実と変える。 言うまでもないが、言語が無ければ、それら全ては存在しない。

言語の獲得に失敗した脳の持ち主に「自己を確立せよ」などと言うのは拷問のようなものだ。 無いものを確立も陶冶もしようがない。 同時に「理性的であれ」とか「我慢せよ」と言うのも無理難題である。 その拠点としての言語が無いのだから。 水に「低いところへ流れるな」と言うのが無理であるのと同じ。 人格障害のことを「行動抑制障害」と評する人がいるらしいが、ある側面から見ればまことにその通りとしか言いようがない。


4/3(月)

子供に見せたくないマンガだとかテレビ番組だとか、いつの時代にもそんな風に言われるものはある。 私は個人的に、自分以外の世界に対し「こうあって欲しい」と言う感覚をあんまし持たないタイプの人なので、例え我が子であっても「この本を読むな」とは言わないような気がするが、推奨できない本、とかなら(結構)ある。

推奨できない理由は「有害」だと思うからだが、一般的な悪書のようなものをその対象と考えているわけではない。 私がお勧めしない本は、例えば物語の論理が破綻しているようなもの。 ああいうものばかり読んでいると、頭の中がメチャクチャになりそうな気がするから。


4/2(日)

文学はオハナシではない。 「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが〜」と言うようなオハナシを創作することって、言語がもたらす現実感抜きにだってできる。 文学の本質は、そこに登場する人間の精神である。 シェイクスピアの本質は、ハムレットと言う物語を作ったことでなく、ハムレットと言う人物・人格を創造したところ。

八木義徳と言う作家は、「男はつらいよ」の山田洋次監督を「寅さん」と言うキャラクターを創出した点において高く評価したらしい。 いわく「人間の典型を作った」と。 八木義徳と言う人の小説は読んだことないんだけど、さすがは文学者だと思える。

寅さん役の俳優が亡くなったことによって「男はつらいよ」は打ち切られたわけだけど、寅さんの精神は不滅である。 演じられる役者がいないだけのこと。

ドラえもんは、作者が死んでも(漫画・アニメ共に)続いている。 各キャラクターの精神を形作ったところで、作者の仕事は粗方終わっている。作者の偉大なる事績は、あれらのキャラクターを作ったことである。

キャラクターが確立されたなら、後はオハナシを適当にこさえるだけ。その程度のことならアシスタントとか脚本家でもできる。 オハナシを用意しさえすれば、後は各キャラクターが勝手に動いてくれる。 「こういう場面、のび太ならこういうことを言いそう」とか言うことが自然に分かる。

人格と言うのは複雑である。 それを作るのに余程の論理力が要る。 それに比べればオハナシなんて単純だ。 以上、私が文学の本質が人間の精神にあると考える所以。


4/1(土)

スケールって、音楽を作るような人なら基本知識であるはずだが、要は音列と言うか音階のこと。 ペンタトニック・スケールと言うのは、いわば五音音階と言う程度の意味で、一種の一般名詞。特定の音列を指しているわけではないので、例えばハーモニックマイナー・スケールとか言うものとは言語的な階層が違うんだけど、とりあえずこの稿では演歌とかで多用される4・7抜き音階のこととする。

ペンタトニック・スケールを使って旋律を書く、と言うのは「特定の五音を使う」即ち「それ以外の音を使うことを禁忌とする」と言う感覚とは違う。 「そのメロディーの行きたがる方向が、悉くその五音に(自然に)収まる」と言う状態のメロディーを書くこと。 つまり、旋律線を書くと言うより、核となるイメージを作る作業。 伝わり辛いかもしれない。

適当な音階をこしらえてオリジナルのスケールを自作する、なんてことができたとして、その音階に過不足無く自然に収まるメロディーラインを生み出すことができなければ、それは生きたスケールとは言えない。 実際に歴史上にも、理論上設定されたものの、実用に至らなかったスケールなどが存在する。 これはスケール・音楽に限ったことじゃない。実用に至らなかった制度って生きてない。

生きたスケールを作るなんて容易でない。 と言うか、今から全く新しいものを作るなんておそらく無理だろう。 特に12音律の範囲内で作れる音階なんてたかが知れてますしね。


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