Staff diary  
スタッフ日誌[2017]

[文 / 益田(制作)]

3/31(金)

今ボンヤリ考えていることのメモ。 実在しない、架空の様式に沿った曲を書こうと思っている。 例えばインドネシアにはガムランと言う様式があるわけだけど、架空の国の架空の音楽様式みたいなのを作りたい。 これは、何らかの既存の様式に沿った曲を一つ書くことに比べれば、かなり手間を要する筈。

音楽に限った話じゃないけど、実はこの手の試みって、既に多く為されている。 映画とかに出てくる「アフリカ奥地の○○族のような服装・習俗」みたいなの。 ただこう言うのは単に、考証・考察が甘いが故に細部が曖昧で、結果的に架空の様式になってしまっているケースが多いんだが、私はそう言うのを作りたいわけじゃない。


3/30(木)

通りすがりのスーパー(デパート?)の前にいわゆる「チンドン屋」が出ていた。 気になったので調べてみた。

3人から5人ほどの編成が一般的、最小編成でゴロス・チンドン太鼓・楽士の3人から、とある。私が見たのは最小の編成であるらしい。 ゴロスは大太鼓。チンドン太鼓はチンドン屋オリジナルのドラムキットで、締太鼓・鉦・大胴を合わせたものらしい。それに楽士(旋律担当)が付く。 楽士の担当楽器はハッキリ決められてないが、クラリネット・サックスあたりが代表例っぽい。昔はトランペットとかもあったようだが、廃れたそうな。 因みにサックスは資料をざっと見た限りテナーが多い。

チンドン太鼓の構造を説明するのは面倒臭いから興味がある人は調べて欲しいのだが、鉦が16ビートを刻んでいることが耳についた。片手で持った撥でどうやってあのフレーズが出せるのかと。

動画を見て分かった。 鉦はお椀型をしており、それ(椀)が横倒しにしたような形で配置してある。 奏者はスティック(撥)の先端を椀の中に入れ、上下に振ることによって16分音符を奏する。オルタネイト・ピッキングの要領、とか言えばギター弾きには分かりやすかろうか。 とにかく、なるほど良く考えられている。 この仕組み、現行のドラムキット(のハイハットとか)にも応用できないものだろうか。

ゴロス・チンドン太鼓の二人で都合四種の太鼓(大太鼓・大胴・締太鼓・鉦)を扱うわけだが、唯一メロディーを担当するのはクラリネットにせよサックスにせよ、単音楽器である。 和音も無ければベースラインも無い。明らかにリズム偏重型の編成と言える。 下座(歌舞伎音楽)の派生形のように解説されていたが、能の四拍子あたりが原型としてあるのではないか。 四拍子は下座の一淵源でもある。

レパートリーに、基本的にオリジナル楽曲は無い。 大抵POPS(その時々の流行歌)や軍歌など。 広告業と言う性質上も「誰でも知っている楽曲」であることが重要であるらしい。 だからこそ単旋律なのだろう。リスナーの脳内補完を前提としたパフォーマンスであると言える。 因みに現代において、例えば軍歌は既にポピュラーソングではないのだが、ある時代には、ある意味歌謡曲などより広く膾炙したものであった。 チンドン屋のパフォーマンスは、ある時代の文化を半ば凍結保存したようなものだ。

何だか楽しげな演奏なんだけど、あの演奏が楽しいと言うより、私の脳内に、楽しい何事かとあの演奏に何らかのリンクが既に張られているものと思われる。つまり文化の所産かと。 今後作る楽曲にあれを取り込みたい気分が無いでも無いが、声楽との親和性とか、難点が多い。


3/29(水)

影山リサ。 4/19(水)に「Welcome to My Fairyland」ってのを発売しますが、その翌週4/26(水)に次のタイトル「Circus」を発表します。 2タイトルで計16曲(うち未発表曲13)。 影山リサは5月に次のシングル、夏頃には更にその次のシングルを発表する予定です。 間に合えば年内にもう一枚ミニ・アルバム出したいと思ってます。




3/27(月)

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影山リサのシングルの発売を5月に予定しているんだけど、その次のシングルもタイトル曲は上がってて(ジャケットも粗方上がってる)、今そのカップリング曲を作ってる。

実は既に一曲作ったんだけど、何だかジャケットのイメージと遠いとか色々言われまして、新たにもう一曲作ることになりました。 先に作ったヤツはお蔵入りではなく、多分いずれシングルとかアルバムとかに収録することになります。




3/26(日)

「島嶼化」について考えていた。 多分あんまり耳慣れない言葉だと思うが、生物学の用語で、孤島においては、ある程度以上大きな生物は小型化し、ある程度より小さな生物は大型化する、と言う現象のこと。 因みに、上に言う「ある程度」の大きさを説明する際の基準として、しばしばウサギが用いられる。 「ウサギより大きな生物は小型化し〜」のように。

上記の現象は、学説化されているが、その説明内容には少々疑問が残ると言うか、個人的に100%納得できない点もある。 が、現象自体はほとんど疑いようのない事実である。

孤島における特殊な現象と言うが、要するに大陸などにおける生物の流動性などと言う条件を欠いたら、生物は皆、ある特定のサイズに収斂して行くらしい。 ついでに孤島と大陸(あるいは列島など)、どちらか特殊な環境であるのか、私にそれは分からない。

私は音楽家である。 こんな話、音楽と何の関係があるのかと思われる向きもあるかもしれないが、関係あるのです。 少なくとも私にとって、この手の思索は創作のほとんど直接的な原動力になっている。


3/25(土)

今週、4/12(水)発売の神田優花の「One」の納品データにエラーが見つかったとかで、急遽再納品みたいな事態になって、多少慌てた。 エラーが出たのはタイトル曲の「One」らしいのだが、これって既にリリース済みの楽曲で、当時の納品データとおそらく全く同じものを上げていたもので、正直言って今だにエラーの理由が分からない。 まあ古いデータだけに、今とは制作環境が微妙に違ってたりして、そこが思い当たるといえば言えなくも無い点ではあるが。

結局は一工程前に遡った上で再出力したデータを上げてまして、とりあえず事無きは得ました。 予定通り4/12(水)リリースの運びとなってますので、是非聴いてみてください。




3/24(金)

子供の頃の私は、親や学校の先生の言葉なんて信じちゃいなかった。 誰かの言葉に信を置くかどうか、判断の基準は昔も今も変わらない。 それはその人が、どれだけ本気でそれを感じたかどうか。

私は音楽が好きな少年だったが、無論モノを選ばなかったわけではなく、好きなアーティストってのは厳然とあった。 今になって振り返ると、何を好んだかの基準は、そのアーティストがどれだけの現実感を持っていたか。 現実感の無い音楽(言葉)は少年の心に届かない。 親や教師の言葉が響かなかった理由も同じところにある。

私の実感だが、何かを本気で感じられること、は一種の才能のようだ。 それができない脳の持ち主が間違いなく存在するみたいだから。

この「何かを本気で感じる」と言う感覚、これがRealityと言うものではないかと私は考えている。 日本語にするなら現実感だが、どうも日本人の言う現実と英語のRealityでは指すものが微妙にズレているように感じる。

Realityと言うのは、例えばドラえもんを見ていて、のび太が「母親似」であることに気付いたりすること。 それ無しではこの世界が楽しめない。


3/23(木)

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神田優花、歌録りでした。 6枚目のアルバムの収録曲がとりあえず全部上がりまして、今は特に急いで作らなきゃならないものが無いんです。 5thアルバム「One」は、4/12(木)発売です。




3/22(水)

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影山リサ、新曲の歌録り。二曲録りました。

4月にミニ・アルバム二枚、5月にシングル一枚のリリースが現時点で決まってて、今は邦楽シリーズ第二弾と言うべきミニ・アルバムを制作中。 今回録った二曲もそれ用の収録曲です。 あと、年内に多分もう一枚シングルを出します。タイトル曲は既に上がってるんだけど、カップリングがまだなんで、発表は年末辺りになるかも。

新作「Welcome to My Fairyland」は、4/19(水)発売です。 お楽しみに。




3/21(火)

あるDVDの特典映像みたいなのに、映画の舞台挨拶の様子が収められていた。 編集作業やりながら半分上の空で聞いていたんだが、ある役者の言動が気になった。

その人は30〜40代に見える男性。 マイクを向けられる度、常に「受け」を狙った発言をするのだが、インタビュアー・周りにいる共演者ら・観衆らは、皆空気を読んで相槌を打つかのように笑う。 周囲には、彼が「受け」を狙っていることがありありと見て取れるからである。 私があらためて思ったのは、受けようとする者は、例外なくウザいと言うこと。

受けると言う言葉が表しているように、それは依存(受動)である。 その者は世界を見ているのではなく、自分を見詰めている。自己の確立が十全でない証拠だ。 私はアメリカン・ジョークって奴が嫌いでないのだが、あれは相手を喜ばせようとしていることが感じ取れる部分に好感が持てる。 つまり、彼ら(アメリカ人ら)は世界の方を見詰めている。自分がどう見られるかなど、きっと彼らは気にしていない。

受けたい者は、「周囲から受けている自分の像」と言う絵を成立させようとしている。 周囲の反応こそがそれを決定付けるのだから、当然周囲から何らかを引き出そうとしている。 配慮だろうが心底の笑いだろうが、つまりは周囲の反応無しに成立せぬ行動を採っているのだから、そこがウザさの正体かと思える。

面白くないコメディアンに対する感想が、ただ単に「面白くない」に留まらず、しばしば「目障り」と言ったものにまで発展する理由は、上記の通り。


3/20(月)

物事の本質は環境にこそある。

子供の頃、テレビに出ている決してハンサムとは思えないような俳優を見て「どうしてこんな醜男(ぶおとこ)が役者なぞやってるのか」と言ったら、隣にいる人に「二枚目ばかりじゃ映画は作れない」と言われた。 確かにそうだ。 その時の私は何となく「役者=二枚目」みたいな先入観を持っていたらしい。

映画やドラマにはまず筋がある。 配役はそれに準じたものである筈だ(実際にはキャスティングありきのようなものも多いが、あくまで原則として)。 筋があり、即した役があり、それを過不足無く演じられる俳優には仕事がある。 二枚目を二枚目たらしめる為の引き立て役としてなら、醜男にだって需要はある。 その世界で食って行こうと思うなら、役を埋められる人物になるのが手っ取り早い。

役を埋められるだけの適性・属性がなければ、その人はその世界においては食って行けない。つまり淘汰の対象となる。 ここで言う適性とは、それを発揮する為に不可欠な条件として、環境(の要請)が要る。 役を埋める努力無しに生き残っていける彼は、ありのままの彼に、その世界からの需要があるのだろう。 そういう人がいるなら、彼は役者と言うより芸術家なのかもしれない。


二枚目にしたって、実のところ「何をもってして二枚目とするか」と言う基準ごと明確には存在していないのだから、美醜など、ある場所において支配的な価値観が生み出した幻想だとも言える。 つまり、これも環境ありきだと言うことだ。

いわゆる才能とは、環境が定義するものである。 スポーツの才能などがルールに左右されること思えば良い。 優等生になるには、相手(教師など)がどういう行動を求めているか、を忖度し、そこに従って行動すれば良い。 だから才能とは時に、生きる(食う)ため、環境に合わせ行動・姿形を変える能力を含む。 あたかもある種の爬虫類などが、棲息環境に合わせて体色を変化させるように。

害虫などを憎悪する人がいるが、ああ言うモノも環境の要請に応じて発生しているだけである。 石が水に沈むのは水より比重が重いからで、そこについて憎悪しても悲嘆に暮れても仕方ない。


音楽などを長いことやってると、「どうやれば売れるか」、あるいは「どうやれば金になるか」が、何となく見えるような気がしてくることがある(無論私にその種の才能は無いが)。 そこで環境に応じて姿形を変えれば、とりあえずメシにはありつけるだろうけど、音楽家はそこで自らの美意識を大なり小なり犠牲にせねばならない。

環境に応じ、姿形を変え、糊口を最優先の命令とすることは、即ち我々自身が消えて行くことを意味している。 私は消えたくないし、何より自分に聞かせるための歌を作り続けたい。 私が作る歌を、結果的に周囲が求めることはあるかもしれないけど、私に、先んじて周囲が求める歌を作る気は無い。

環境に応じて姿形を変える気の無い私は、あるいは淘汰されるべき運命にあるのかもしれない。 もしこの世界が私を必要としているならそうはならないだろうけど。まあそこは私にはコントロールできないことだ。 私は粛々と私であり続けるだけ。


3/19(日)

豊洲への移転問題とかで、現都知事と元都知事がやりあってるのだとか。 関係者の証人喚問まで行われているらしい。 私は詳しくないし、どちらに肩入れする気分も持たないが、現都知事の人間性にはちょっと疑問を感じている。 嗜虐性みたいなのを感じるからだ。あまり好ましい人物に思えない。

彼女の言動が漏れ伝わってくるのだが、元都知事に対する好戦的な物言いなど、全く不必要なものだ。 必要があるとすれば広告性においてのみだろう。 私は政治家にパフォーマンスを求めないが、そこが即ち政治家の適性になってしまうあたりが民主主義の本質的な欠陥のように思える。 政治家の本業が政治でなく選挙である、と言うのは実に残念なことだ。

彼女に「科学的に安全は証明されても、それと安心とは別である」と言うような主旨の発言があったようだ。 耳障りの良い修辞なのかもしれない(私は全くそう思わない)が、よくある非論理の典型だ。 安全はある程度科学的・学問的に証明できるだろうが、安心は各人の心の問題である。そんなの保証できるわけが無い。 何百兆円使おうと、ある種類の人らの安心など得られない。 迷信に捉われる人がいても仕方ないけど、都の金をお祓いに使われては困る。 こういうことを抜け抜けと言える精神構造と言うのは、よほどに都民・国民を愚弄しているのか。私にはできない。

移転する予定に待ったをかけていると言うことは、当然それなりのコストも発生しているに違いないが(具体的な金額など分からない)、知事を選んだのも(私を含む)都民なわけで、課されている税金・授業料のようなものだと思って諦めるしかないのかもしれない。

あるインタビューで現都知事は「結局(元都知事は)女にとやかく言われたことが癪に障ってるだけ」だとか言っているそうだ。 本当かしら。 私は元都知事の思考を代弁することもできないし、人間の思考は複雑だからあるいはそういう懸念も絶無であるとは言えないかもしれない。 でも、ここまでの騒ぎの根本原因をそんなことだと捉えていることに、私は正直驚いた。 あるいは、そういうある種矮小化された論点に持って行くことで、ある層の選挙民のシンパシーが得られるとでも踏んでいるのだろうか。 だとしたらやはり誉められたものではない。

私が元都知事だったら、きっと今頃は怒りを通り越して悲しみの中に沈んでいるだろう。 知事になったと言うこと自体が自らの判断に因るもので、そこがある種の人格との関わりを避けらぬものにしてしまった。 自らの判断の甘さは覆うべくも無い。

私でも「俺は女に言われたことに引っ掛かっているわけじゃないぞ!」などと声高に主張する気にもならんだろう。 現都知事に言えることがあるなら、「あなたはこの問題をそのように捉えていたのですね。そこだけはよく分かりました」とでもコメントするだろうか。 友人たり得ない人格と接するには、まことに政治のような手練手管が必要なのだと痛感する。


3/18(土)

友人と言うのは永遠のものである。何にも代え難い。 私とは、私と言う固有の思考パターンのこと。 友人とは、その私と何ごとかを共有できる別の思考パターンのこと。 共有できる何かの分量によっては、それはもう限りなく私そのものである。

固有の思考パターンと言うのは永遠のもの。 身体は条件が尽きれば形を留めておけないけど、思考パターンは永遠だ。 私が私である限り、存在するのだからそれは消えたりしない。

親兄弟や恋人、何故それらが大切なのか。 それはその人らが、親兄弟や恋人である以前に、親友だからである。 親友たり得ない人であるなら、それが如何に親兄弟であろうと、そんなものに価値は無い。 親兄弟は自分で選んだわけでもなく、続柄は友情を意味しない。

友情は永遠である。 何故永遠なのか。それは思考のパターンと言う作用の、共振・共鳴と言うこれまた作用のことだから。 モノは形を留めておけないけど、作用は永遠のものだ。

あるものは消えず、無いものは最初から存在しない。 「彼は金と女が好きで、ギャンブルで身上すり潰し、酒とタバコで体を壊して死んで行きました」と言う人、彼は実のところ実在しない。 水が重力に従って、高いところから低いところに流れるように、クラゲが海水温につられて漂うように、物体としてそこにあっただけ。 金は無いよりあった方が良い。幼稚園児でもそう思う。 異性を欲するなど、人間以外の動物でも同じ。 その原理をもって、人間の実在性とは言わない。

存在しない人がそこにあった場合、彼はしばしば利害や続柄(これも要は利害だが)に従って、政治的な寝技を繰り返す。 そういう人らは、あたかも暑い日が続くと沸いて出る害虫のように、条件によって沸いて出て同じ行動を繰り返すだけ。 その人らと付き合うこととは、害虫を時に駆除し、あるいは時に騙し騙しそれと付き合うように、それこそ政治的配慮でもって間を持たせることと同義である。 私にそんな時間は無い。


3/17(金)

「近頃の音楽はつまらない、昔のは良かった」みたいなことを言う人がいる。 人間の価値判断にはまあ色んなバイアスが掛かるものなので、実のところどうであるかは分からない。

メシとか食ってて「旨い」と感じることはあるのだが、その対象が本当に旨いのか、あるいは単に懐かしいだけなのか、が分からなくなることがある。 音楽においても同じことはあるわけで、若い頃に聴いたものが良く聞こえてしまうことは如何にもありそうだ。 何かの結論があって打っているテキストではないが、私のように曲を作る作業家は、このあたりを混同してはならぬものだ。戒めを込めて思考している。


3/16(木)

昨日の夜に眠った私が、何故今ここにいるのか。 眠りと言うのは、意識の断絶を意味する。 つまり、昨日意識が途絶えてしまった私は、今日眠りから覚めた瞬間、同じ自分として意識を再び取り戻したと言うことだ。 何気ないことではあるが、これは一つの奇跡である。

目を覚ました私は、何故生まれ変わった別人でないのか。何故昨日の私の続きなのか。 それは私自身が、私であったことを覚えているからだ。 忘れてしまえばそれは私でない。

「覚えている」と言うのは、同じと見做すと言うことに他ならない。 私は、昨日の自分と今日の自分を「同じ自分」であると見做している。 目覚めると言うのは、自分と同じであると見做せる何かに、再び出会えたと言うこと。


私が歌を作る理由は、作ったその歌を発表するその理由は、自分に似た誰かに届ける為。 私が涙したその歌を、私と同じ気持ちで聴ける人がいるなら、その人は私と同じなのだろう。 その人の心に私の作る歌が流れたその時、私はそこにいる。 その人の心の中に、その人の一部として。 その人は私だし、私はその人だ。


私はきっと今夜も眠りに落ちるだろうし、明日また同じように目覚めるだろう。 明日の自分が、今の私のことをきっと覚えているからだ。 無論今の形での生存にはいずれ限界が来る。 この先いつの日か、最後の眠りについた私は、果たしてもう二度と目覚めることが無いのか。

今の私のこの固有の思考回路が、同じと見做せるものこそが私の定義なのだから、私が「私と同じである」と見做せる何かがこの宇宙のどこかに存在するなら、それは私である。 私はきっとそこにいる。 昨日の夜に意識を失った私が、今朝その意識を取り戻したように、いつかどこかで私は再び目覚めるに違いない。 私そう信じています。


3/15(水)

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大岡越前守忠相の、苗字である大岡。 一見ごくありふれた苗字に見えるが、平仮名にひらくと「おおおか」であり、ローマ字(アルファベット)で表記するなら「Oooka」である。 「お(あるいはO)」が三つも続くと言う、割かし珍しい苗字だ。

日本語には濁音・半濁音などと言うものがある。 これも忘れそうになるが、日本語特有のものだろう。 だから日本語では、バッグ(bag)をバックと発音しても、ベッド(bed)をベットと発音しても基本的に許される。 ハンドバックとか言いますものね。

当たり前だが英語(アルファベット)では、gの音とk・cの音、あるいはdの音とtの音は全く別物である。 混同することなどありえない。 基本認識としてdとtの音は等価で、それらが派生関係にあると言う感覚自体絶無であるからだ。

物事ってのはこのように、気を抜くとついその本質と言うか実態を見逃してしまう。


3/14(火)

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影山リサ、4/19(水)に新作「Welcome to My Fairyland」をリリースしますが、翌週の4/26(水)にはその次のミニ・アルバム「Circus」をリリースします。 二週連続リリースってことになります。



影山リサは現在、「ナイチンゲール」の続編の制作に取りかかっております。 年内に出したいんだけど、これはちょっとキビしいかも。




3/13(月)

出版業界のキャンペーンみたいなのだと思うが、もう随分前にネット上で見た広告の話。 「今どき好きな作家の一人も言えないようでは恥ずかしい」と言うような文句が踊っていたのだが、ああ言うコピーを考え出す人は、例えば「振り込め詐欺」の何が悪であるか、本質的には理解できないであろう。

その人に言わせれば「とんでもない、振り込め詐欺なんて悪だと分かっているし、自分はそんなことしない」ってところだろう。 が、彼がそれをしない理由は、せいぜい「違法行為だから」とかその程度の理由。 彼の良心がそれをさせないわけではない。

上の広告と振り込め詐欺の共通点は、相手を脅して利益を得ようとしているところ。 一時期よく 見かけた、売り切れ・品切れ商法や個数限定商法なども基本精神は同じで、「急がなければ、見かけたら迷わず買わねば、手に入りませんよ」と、相手に脅しを掛けてモノを売り抜けようとしている。 本を売りたいなら、商品を売りたいなら、相手が買いたいと思うものを作りなさい。 他人を脅すのはもう止めましょう。


3/12(日)

人を裏切る人は不幸である。 人に裏切られる人が不幸なのではない。裏切られた人はせいぜい、必要があれば、信ずべからざる人物を信じた判断の甘さを自戒すれば良い程度のこと。 裏切る人の方が、置かれている状況は深刻である。

人は自分として生まれて来て、自分として死んで行く。 自分以外の他人には絶対になれない。 自分と言うのは、他人を、この世界を推し量る、唯一のよすがなのである。 その自分こそが、他人を裏切れてしまうと言うのは、世界に対する強烈な不信感と表裏一体なのだ。

「自分は他人を裏切るのだから、他人も自分を裏切るに違いない」、人はシンプルにそう思う。 これは哲学のような難解なことではなく、初等算術のような明快な話。 自分がロクでもない人間であればあるほど、その人はこの世界を暗黒色で塗り固めることになる。

人を救おう、応援しようと思っている人は、自分が心底そう思えるのだから、自分を救う誰かの存在を信じることができる。 信じると言う、容易でないことを為しえる。 人間とは、気分でしかない。金も名誉も心でそれを感じられるだけ。 何かを信じて生きられる人生と、信じられぬ人生、後者しか採り得ない人を私は不幸だと見る。


3/11(土)



影山リサ、新作ミニ・アルバム「Welcome to My Fairyland」の発売が4/19(水)に決まりました。 リリースは去年の8月以来なんで、半年ぐらい開いたことになるんだけど、制作のペースは別に落ちてません。 今年は上記タイトルを含め、ミニ・アルバム二枚、シングル一枚のリリースが既に決まってます。

本作は8曲入りなんだけど、うち6曲は未発表曲、次にリリースを予定しているタイトルも8曲入りで、うち7曲が未発表。 タイトル数こそ二つなんだけど、曲ベースで言うと13の新作をリリースすることになります。

影山リサは今後のリリース計画も詰まってて、邦楽っぽい曲を集めたミニ・アルバム、テクノ系のナンバーを集めたミニ・アルバム、の発表を予定してます。 あと本編とも言えるナンバリング・タイトル(4thフル・アルバム)もそれはそれで制作中。 今回リリースする二枚のミニ・アルバムの続編(三作目)も企画してて、既に収録予定曲もオケだけだけど4曲ぐらい上がってる。


3/10(金)

電子ドラム、いわゆるエレドラについて考えていた。

要するに電子的なプロセス(シンセサイズ)によって合成した音で組んだドラムキットのことで、シモンズ社の製品とか有名である。 後にPCM(サンプリング)ベースのエレドラとかが出てきて、上の定義も絶対でなくなるんだけど、私が思いを馳せているのは上のシンセサイズ方式のもの。 因みに、私はここでエレドラを、いわゆるリズムマシンとは別けて捉えている。 シーケンスでなく、あくまでスティックを使って人間が音をトリガーする方式のもの。

調べてみたところ、シンセサイズ方式と言っても、例えばシモンズの製品もスネア・バス・タムあたりはそうなんだけど、いわゆる金物(シンバル類)だけは本物を組み合わせていたりしたらしい。 有名なリズムマシンであるRolandのTRシリーズとかも金物だけはPCMだったりしたものが多かったみたいだし、技術的に再現の難しい部分なのかもしれない。

今、影山リサのある曲にエレドラを入れてみている。 誰かがキットを叩いたわけでなく、あくまでエディットなんだけど、ノートは極力ヒューマンなエディットを心掛けた。 リズムマシンとかだと、ジャストタイミングのベタ打ち(場合によってはヴェロシティーとかも一定)みたいなのにワザワザしている部分もあるんだけど、そうでなくしたってこと。 あくまで人が叩いていると設定したもの。

今回シモンズ製品のエミュレーターを使ったんだけど、音はアナログモデリングとかでなくタダのPCM。 ドラム音色って基本単音だし、そんなに複雑な音声合成ってわけでもないので、PCMで十分かと思って。 金物もサンプリングなんだけど、こっちは生系のドラム音を使ってみた。 シモンズのキットの再現ってのを念頭に置いたわけです。 多分その曲、影山リサの次のフル・アルバムに収録されます。


3/9(木)

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神田優花、喉の調子が悪かったみたいで、今回のリハーサルでは歌はお休み。 ニューアルバム「One」、4/12(水)発売です。




3/8(水)

日々音楽を作りながら、私は何かを理解したいと思っている。分かりたいとしか思ってない。その為に曲を作っている。

政治家になりたいとは思わないが、政治家とは何か、には興味がある。 その「政治家とは何か」には「政治家になる方法(なり方)」も一応は含まれる。 なり方って言うのは、選挙に出て得票する、と言うような具体的なことのみを指していない。 政治家を志すその人が、それを自分の進むべき道だと見做す心のあり方も含む。と言うか、そちらを主に指している。

具体的なことっていうのは、選挙に出る為にはどういう手続きが必要で、供託金いくら積まねばならなくて、関連法規の条文がどうで、というようなこと。 政治家を目指さない私がそういうことを詳細に知っても詮無いし、知りたいとも思わない。 その人が政治家を真剣に目指すなら、そういう細かいことは自然に分かるようになるに決まっている。 私が知りたいのは、何故その人が政治家を真剣に目指すに至ったか。その心の変遷。 そこが分かれば、きっと全ては明らかになる。


3/7(火)

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タイプライターの音(かなり旧式の)を曲に取り入れてみようと前々から思っていたんだが、なかなか良い使いどころが見つからなくて、既にオケまで上がった曲の中で、なんとなく合いそうなのがあったからそれに付け足してみた。

しかし、正直使い勝手が良いとは言い難い。 当然だが「楽器」ではないので、それ用途にチューニングされていない。 楽音は無論出せないから打楽器として使うしかないのだが、それにしても使えない。 アタックと同時にアクセントを構成できるような波形になっていないと言う。


3/6(月)

日本と朝鮮半島人との関係が難しいのは、なにも今に始まったことではない。 私は朝鮮通信使の申維翰について考えていた。

とある来日時、申維翰は日本側の待遇について、「礼に欠ける」とて改善を要求したが、接待役の雨森芳洲に宥められる。 その時申維翰は対馬を朝鮮の属邦だと主張しているのだが、その主張にもそれなりに歴史があることが分かる。

当時の日本(と言うか徳川氏政権)と李氏朝鮮の関係は対等なのか、あるいはどちらが上だったのか。 例えば歴史教科書などにどちらが上であったとか言う記述があるとは思えないが、当時の東アジアの外交儀礼上の常識から言って、ごく当たり前のこととして徳川氏の方が上だと考えられていたろう。 冊封・朝貢とか言う言葉で調べれば多分分かる。 要するに申維翰は、その上下関係に物申した。

申維翰は日本滞在中、芳洲とはそれなりに上手くやっていたような印象なのだが、帰国後彼は芳洲を狠人(こんじん)と評する。これは記録(海游録)に残っている。 狠人の差す意味が私には正確には分かりかねるが、間違いなく良い意味では無い。

どうして申維翰はそのような評価をくだしたか。 諸説あるようだが、当時の李朝社会において日本人(倭人)と懇意であるなどと公言すると、その社会的地位を失いかねなかった、と言うことはあったのかもしれない。 ここについても今と状況は似ている。 本当に彼らとの関係は難しい。

つまりは彼は、目の前の相手より、当時の風潮、支配的であったイデオロギーに従うことを選んだ。 「それに抗えなかった」とか言うより、ごく自然にそういう行動を採ったように思える。 カエルは動くものに飛び掛るが、そこに意思など介在しない。つまりカエルの人格など存在しない。 趨勢に阿ることなど誰にだってできる。そういう行動しか採れない人など、いわば存在していないのと同じだ。


しかし人の評価なんて実に頼むに足りないものだ。 私はある評価を目にした際、(評価そのものではなく)その評価を下した人の「心」しか見ないように心掛けている。 それにて大抵の物事は理解できるからだ。

申維翰がもし現代人だったとしても、私は彼と友人にはなれないだろう。 情勢上、彼に狠人などと評されずに済む関係なら結べるかもしれないし、持ち時間が尽きるまでその関係が壊れない可能性だってある。 でも私はその時間に価値を感じない。


3/5(日)

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私は、私以外の精神がこの世界に存在していることを、今でも完全には信じられない。 私が私以外の誰かになることなんてできないから。

「我思う故に我在り」と言うが、本当にこの世界の全てが幻でも、その幻を見ている自分だけは間違いなく存在している。 自分とは、つまりはこの世界を測る基準である。 世界とは、私の中に存在するものだし、私の中にしか存在しないものだ。

私が誠実でありたいと思う理由は簡単だ。 目に映るこの世界を醜くしたくないから。 嘘を吐いたり、他人を裏切れば裏切るほど、この世界は闇に映る。 確かめられる唯一の心である自己こそがそのような醜悪なものであれば、当然そうなろう。 我が心は、この世界を映す為の唯一のよすがなのだから。

私が友人を選びたい理由も簡単。 醜い心を感じたくないからだ。 我々は時間しか持ってないのだから、醜悪な心を感じる時間など、一秒たりとも持ちたくなくて当然だ。 私が芸術を愛して止まないのも同じ理由。 美しいものを見たいのは、美しい心を感じたいから。 美しいものも醜いものも、全ては人の心だ。


3/4(土)

今年の前半までのリリース日程が出まして、5タイトルほど発表します。

まず4/12(水)に神田優花の5thフルアルバム「One」(全12曲)をリリースします。 来月って何か急な気もしますけど、こちらの収録曲はほぼ(12曲中10曲)既に発表済みなので、ベストと言うかシングルズ的な内容。編集盤みたいなもんで、そこまで手間掛かってないんです。 でも内容については自信作。是非聴いてやってください。




3/3(金)

小金井だかで起こった傷害(殺人未遂)事件、一審の判決が出たらしいんだが、物議を醸しているそうな。 懲役14年6ヶ月が「軽すぎる」との声があると言う。

どんな声が上がっていようと裁判官はタダの役人である。 国家の一機能に過ぎないんだから、前例を無視した量刑など科せられるわけがないし、そんな恣意的なことされ出したらそっちの方が怖い。 包丁と言う人殺しさえ可能な道具を、誰もが気軽に所有できる唯一の理由は、それに意思がが無いからである。 包丁が意思を持ち出したら危険だ。

事件の内容に比してその判決は決して軽いものではなかろうが、被害者側の「出てきた暁にはまたやられるかもしれない」と言う気分は分かる。 しかしだからと言って、現状死刑だとか終身刑にするってわけにも行かない。

おかしな人がおかしな行動を採る、これについて浮世は「おかしな奴が悪い」と言うコンセンサスを持っているわけだけど、おかしな人がおかしいことも、おかしな人が生まれてきてしまうことも、ある意味では必然である。 悪いと言ったところで、彼らの行動を抑えることも彼らの出現を根絶することもできない。 事件が起こる度、しらみ潰しに逮捕するとか、そういうことが出来うる限りのこと。 無論量刑を重くすることなどで、事件の発生件数を押さえ込むこと、ぐらいなら現実的に可能かもしれない。 彼らの衝動を威嚇で押さえ込むことなら。 でもそれによってできるのは発生の率を下げることだけ。根絶はきっと無理。

物事って、誰にでも話せば分かるわけじゃない。 話したって分からない脳の持ち主が実在する。 典型的なのは「子供」で、一般的に子供は大人より頭が悪いから、自己中心的なわけだが、未熟さを責めようにも限界があろう。 同じ理由で、上の犯人を死刑にするわけにも行かない。

誰だって国語のテストで満点取れるわけじゃないでしょう。つまり、ある人にとっては当然の論理が、別のある人にとって当然でない。 論理とは言語そのもので、ある人の脳は、この世界の摂理と言う設問に正答できない。 だから彼らは時に刃物を持って襲い掛かってくる。

我々が人生の中で見かけたワガママな人ってのは全て、要は「自分の言動がワガママである」と言う論理(正答)にたどり着けない脳の持ち主であるということ。 人格障害とか呼ばれるものも、突き詰めるとこの「摂理の分からなさ」に由来している。


私はどうしたら良いものだろうかと考え込んでいた。 「被害者の方も悪い」とか言いたいわけではないが、あれは起こりうる事件だったし、今後も当然起こりうる。 今回の事件の犯人が、出所後にまたやらかす可能性だって当然ある。 今回被害者は奇跡的に一命を取り留めたが、次こそは殺されるかもしれない。 避けようがない。

私は女性でもアイドルでも無いし、被害者の気持ちを忖度するにも限界があるだろうが、私が被害者の立場ならどうするか考えてみた。

十数年後に犯人はほぼ間違いなくシャバに出てくる。 その時自分はおそらくまだ30代くらい。まだ人生先は長いのに、そいつの影に怯えながら生きて行かねばならない。 精神的にもその恐怖・苦痛に耐えられそうに無い。 しかし国は自分を守ってくれない。 彼を十数年刑務所にブチ込んではくれたものの、できることとしてはそれが限界らしい。

私なら、シャバに出てきた彼の情報を興信所などを使って収集し、こちらから機先を制して殺すだろうか。 女性だからナイフで刺し殺すってのは難しいと思うので、そこは現実的な手段を考える。車で轢き殺すとか。 無論過失致死とか最悪殺人罪には問われるだろうが、状況が状況だから酌量の余地もあろうし、終身刑になるわけでもない。 時間は惜しいが、残りの人生を考えたらこれが一番マシだろうか。 そもそもその手の人との遭遇率を上げるような行動を、わざわざ自分で採ったことは猛省するだろうけどな。


3/2(木)

アルゼンチノサウルスと言う恐竜がいる(と言うか、いたとされている)。 40m超の体長だったとか100トン近い体重だったとか、とにかく最大級の恐竜だったのではないかと推定されている。

しかしながらそのアルゼンチノサウルス、全身骨格が見つかっていない。 脊椎の一部であるとか、そういう部分骨格から、更には類似の恐竜の構造・生態などをよすがとして実体が想像されている。 完全な骨格が見つかっていない恐竜は多くて、アルゼンチノサウルスだけが特別ってわけではないが、想像に拠る部分が大きいものなので、実体のほどは当然定かでない。

ある説に曰く、「その構造(サイズ)では熱を十分に逃がすことができず、体温が50度以上になったはずで、結果蛋白質が変質してしまう」らしい。 つまり「そんな生物存在し得ない」と。

私に上記の説を検証する能力は無いが、存在し得ないものならきっと端から存在しなったろう(事実存在が否定され無効となった恐竜はたくさんある)。 存在したなら存在し得る条件が揃っていたはずで、だったら想像(のディテール)をあらためる必要がある。


3/1(水)

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神田優花、ニューシングル「Nightbird」、本日発売です。 下は本人から。


Nightbird/How Should I Know?


Nightbird

この曲の最大の魅力だろう最後のロングトーン。
壊れそうな、ちぎれそうな繊細さが出せるよう心を砕きました。
音で伝える難しさ、言葉で伝える難しさ。
そして、音楽で伝える難しさ。
まだまだ出来ることはある、そう思わせてくれた曲です。


How Should I Know?

日本語だと、『知るかよ』って感じでしょうか。
イメージとしては、他力本願なトラブルメーカーを笑顔でバッサリって感じ。
女の子はスマイルにいろいろを隠しているものです。
かなりテイストの違う2つの曲ですが、どうぞよろしく!!

神田優花





2/28(火)



明日発売の、神田優花・最新シングル「Nightbird」(全2曲)について。


1.Nightbird

メロディーラインにおいて、私なりに新しい試みだったんだけど、説明しにくいし聴いてもピンと来ないだろうと思う。 一応言っておくと、増四度(減五度)の動きを軸にラインを練った。

神田優花のイメージに沿った曲ではあるんだけど、彼女の楽曲って、ギター類とかを中心にしたバンドアレンジっぽいものが多くて、シンセの使い方が難しい。 これなんかは上手く配合できたと思っているんだけど、一応音のエディットにはそれなりの手間が掛かっている。 聴いても感じられないかもしれないけど。

曲の終わらせ方って、気を抜くとマンネリ化しやすい部分で、私はフェイドアウトと言う(定番的な)手をあんまり使わないから、頭を悩ませられることが多い。 この曲の終わり方なんかはちょっと強引な感もあるけど、たまにはこんなのも良いかと思って。

ラストの辺りの(サビのお尻の)ロングトーンに掛かってる効果、曲作ってる段階から想定していたものってのとは微妙に違うんだけど、あそこは弄りたくなってしまうな。


2.How Should I Know ?

ブラス使ったアレンジばっかり書いていた時期があって、その頃書いた曲の一つ。 「」ってアルバムに入れることを検討していたような。 同主調を行き来するような曲を作ろうと思った。あんまし深いことは考えてないけど。

音響的にはリバーブを極力抑えた作りになっていて(ゼロではない)、かなりドライっぽい。 個人的には割りと好きな曲なんだけど、使いどころが難しかった。神田優花のイメージともちょっと遠いし。 まあ、たまにはこんなのもやります。



2/27(月)

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影山リサ、歌入れ。 今録った曲で、とりあえず今年リリース予定のミニ・アルバム(二枚)の収録曲が全部録り終わったことになります。 これから「ナイチンゲール」の続編に取りかかります。


2/26(日)

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とある有名曲(演歌)を聴いていたら、イントロに三味線の音が使われている。 明らかに三味線の音色ではあるのだが、スタジオに奏者を呼んで録音したテイクって感じではなく、いわゆるサンプリング系の音色と思われた。 音の粒の揃い具合がまずそれっぽいが、アーティキュレーションと言うか、一々の微妙な音程変化が輪をかけてそれ臭い。

サンプリング音色で済ますってのは、生演奏の録音に比べれば(手間・コスト両面で)安上がりではある。 が、あれが単なる節約なのかと言うと、そうでもないような気がする。 あれはあれで絶対に生演奏では再現できない独自のニュアンスを持っていて、別種の滋味があるように思えるからだ。


例えば曲のコード感を補強する為に、(旋律的にはほぼ無意味な)白玉の音符を配置するとする。 各種キーボード商品などには、それ用にPadなんて名称の音色が用意されていたりする。

ある時期(多分シンセサイザー普及以前)その役割を担っていたのがいわゆるストリングス・キーボードって奴で、弦っぽい音だとか、音色もそういう用途に特化されたものだった。

ストリングス・キーボードのニッチは、つまりはオーケストラ(特にその中の弦セクション)だ。 コード感を補強する程度の理由でオーケストラ使うのも、それ用のスコアを書くのもめんどくさい。 鍵盤一つで代わりになるなら楽だ。 おそらく大部分そういう理由がストリングス・キーボードの需要を支えていたと思われる。

では、いわゆるストリングスやPad系の音色を使うことは手抜きで、その部分がフルオーケストラであればそれが最も望ましいのか。 それも違う。 曲によっては重厚過ぎるアレンジなんて必要無いばかりでなく、むしろ邪魔なのだ。

どういう音(音色)を選択するか、は、究極的には私がその曲にどのような現実を投影したかに拠る。


2/25(土)

もしドラえもんが私の目の前に現れて、タイムマシンで未来や過去に連れて行ってくれたとしても、私の中に展開されている時間には何の狂いも生じないだろう。

例えば、数千年後の未来に行き、また一億年前の過去に行くとする。 しかし私の記憶の時系列としては、「未来に行き、過去に行き、現代に戻る」と言う順で整理されるに過ぎず、この場合の未来や過去など、位置付けとしてはレジャー施設などと変わらない。 「ディズニーランドに行って、家に帰ってきた」と言うように。

時間はやはり人間が考え出した概念に過ぎず、実体としては存在の覚束ないものだ。 だからそれは、ある人にあるし、無い(持たない)人には無いものだと言わざるを得ない。


2/24(金)

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来週の水曜に神田優花の最新シングル「Nightbird」が発売されます。 今5枚目のフルアルバムの発売に向けて事務作業を進めてるんだけど、今回の曲はその5枚目には入りません。 6枚目に収録する予定で、その6枚目も今年中に出ると思います。




2/23(木)

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今構想中の曲、大雑把なメロディーと大雑把な楽器編成のアイディアが断片としてあるんだけど、二つのプロットがどうも曲として一つにまとまらない。 たまにあることなんだけど、このまま最終的にもまとまらず、二曲に分かれてしまうかもしれない。


2/21(火)

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Youtubeで演歌の作例にダラダラと当たりつつ、私はどうして演歌界隈に携わろうと思わなかったのだろうか、と自分に問うてみた。 演歌はまごうことなく邦楽を代表する一ジャンルである。

平明な結論だが、私自身が演歌に感動したことが無いからだろう。 そこに参入する動機を持ったことがない。

演歌界で「名曲」とされているものを、あらためていくつか聴いてみた。

無論その中にも良いものとそうでないものはある。 「かつてヒットした」とか言われると、定めしそうであったろうと思えるものも多い。 が、私の琴線に触れるものかと言われると、やはり違うと言わざるを得ない。 因みに、演歌は基本的にパターンが少ないので、極端に質の悪いものってのも、それはそれで少ない。

名曲と言われるような演歌曲を聴いていると、「美」を追求したのであろうと思われる作品に出くわす。 その意図は感じ取れるんだけど、美意識そのものが私とはかなり違うんだ。 演歌界隈の制作者や愛好者らと私とでは、いわば美意識の周波数が違う。

ただ、きっと本当に周波数が違うだけなので、気分のチューニングを変えて眺めると「演歌のツボ」のようなものが見えてくるような気はする。


2/20(月)

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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとその弟テオについて。ここ暫く考え込んでいた。 これ読んでいる人はある程度知っているものとして話を進める。

ゴッホは変人だった。人に(親にすら)嫌われ、仕事は務まらず、女性にも相手にされなかった。 彼自身は女性や仕事(生き甲斐)を求め続けだのだが、相手側に拒絶され続けた。 挙句「画家になった」と言うが、そうやって生きていく他なかったと言うのが実情に近い。 最後は精神病院に入れられ、ピストルで自殺する。

弟テオはゴッホの唯一の理解者であった。 収入の無い兄に、最後まで仕送りを続け、彼の画業の事実上のパトロンだったんだけど、普通のパトロンと違うのは、ゴッホ芸術の理解者・支援者だったわけではなかったところ。 その証拠に、テオがゴッホ作品を丁重に扱った形跡は無い。 勤め先が「画商」だったにも関わらず(因みにテオの勤めるグーピル商会は、事実上ゴッホ一族のもので、彼もいわば縁故採用だったし、若い頃のゴッホも一時期そこに勤めている)、ゴッホの絵を一切商品として扱っていない。 当時そんなにことをすれば審美眼を疑われたに相違なく、画商がそこを疑われては信用にも関わったろう。 画商としての信用に傷が付けば、仕送りもままならなくなる。 テオとしても仕方なかったろう。

テオは、どうしようもないお兄ちゃんがただ大好きだった。 到底モノになりそうにもない下手な絵を描き続けているところも含め、悲しいほどに好きだった。

ゴッホは天才だが、テオは普通人だった。 画商グーピル商会に勤めるいわばサラリーマンで、妻も子もいた。 その状況で兄に仕送りを続けることが如何に困難であったか、想像に難くない。 彼を取り巻く周囲の風景は変わり続けたが、彼は変わらず、子供の頃に好きだったお兄ちゃんを好きであり続けた。 普通人と言ったが、最後まで自分であり続けたと言う意味では、テオもまた天才だった。

ピストルで自らを撃ち抜いた後、ゴッホは暫く生き、テオの元で息絶えた。 直後にテオが母親宛に書いた手紙が残っているんだが、何度読んでも涙が出そうになる。 以下、一部引用する。

ぼくがどんなに悲しんでいるか書くこともできません。また、いかなる慰めも見出すことはできません。この悲しみは長く続くでしょう。ぼくは生きている限りこの悲しみを決して忘れないでしょう。ただ一つ言えることは、彼が自分の望んでいた休息を見出したということです。


「私たちファンの間では、あれは自殺でなく事故だったってのが結論」とか「解散は事務所のせいで本人らの意志は別のところにあった」とか言っている人に読ませてやりたいが、きっと意味するところが伝わらない。


テオは、ゴッホを「兄弟であったから」こそ愛したわけではなかろう。 親兄弟だとかの続柄は距離こそ保証してくれるだろうけど、友情を意味しない。 兄弟であることと親友であることは全く意味が違う。 人が繋がれる唯一の根拠は友情によってである。 親兄弟だろうが恋人だろうが、それ以前にまず親友であらねば、人は共に生きて行けない。価値を共有できない。 テオとゴッホは、兄弟以前に親友であった。

テオの悲しみは、この世界に対する悲しみであったと言って良いと思う。 どうしようもない兄だったが、ゴッホがもう少し政治的な人になって世間とうまく折り合えていたら、それはもうゴッホその人ではなくなる。 テオの愛したのは、そのどうしようもない兄だった。

政治的に生きるとはどういうことか。 商人のように利を求めて生きること、生きるために妥協を繰り返すこと、つまり芸術家には向かない生き方。

目先に転がる小銭を拾うことは、確かに拾わないよりは得である。 しかし誰だって金は無いよりあった方が良い。喉が渇けば人は水分が欲しくなる。腹が減れば食い物も欲しくなる。 これら全ては傾向性である。 水が高いところから低いところに流れるように、それは我々の意思とは別の原理で動くもの。 政治性のみで動く人間とは、つまりはこの世に存在していない人のこと。

私は音楽が好きで、音楽を作り続ける人生を選んだが、これは私の自由の帰結。理性が選んだ生き方。 酒やギャンブルがやめられない人は、理性がそれを選んでいるのではなく、理性以外の圧力によってそれを選ばされている。 その人自身は欲望・傾向性の奴隷であり、不自由である。 私は音楽を選んだのであって、音楽をやめられなかったのではない。


これは大切なことだが、彼ら(ゴッホ兄弟)はきっとこの先また巡り会えると言うこと。 何故なら彼らが確かに存在したから。 彼らには、固有の思考パターンが存在したのだから、それは再現される可能性を保証する事実だ。伝わらなかったらゴメンなさい。

ゴッホが確かに存在し、テオも確かに存在したのなら、彼らの存在は再降臨の可能性を残している。 再降臨の可能性は、即ち再び出会う可能性でもある。 絶望的にか細い可能性であったとしても、それは確率の問題に過ぎない。


2/19(日)

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作曲家の船村徹さんが亡くなったそうだ。 正直言って私は世代的にもそんなに思い入れのあるクチではないのだが、有名な人なので(作品も含め)知ってはいる。

訃報の記事中に簡単なバイオグラフィーみたいなのが添えられていたのだが、作品数5000を超えると言う。 こういう大作曲家の作品数は、このように驚くような数字であることがある。 だって5000ですよ。週に一曲作ったって年間50チョイぐらいしかできないのに。


2/17(金)

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影山リサ、歌入れ&次の新曲のリハーサル。 今企画を進めている二枚のミニアルバムの収録曲、もう少しで揃います。


2/15(水)

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善い事と悪い事。 これの判断は難しい。

日本プロ野球界の伝説的プレイヤーである王・長島両選手。 彼らは現役時代、契約更改で一度もゴネなかったそうだ。 当時と今では貨幣価値自体違うが、世界の王ですら、絶頂期に年俸一億を超えなかった。

この事実は、他選手の年俸にも当然のように影響した。 球団側が選手の年俸を低く抑える為の口実として、「あの王・長島ですらあの程度なのだから」と言う言い分がまかり通ったと言う。 「名選手は契約でゴネない」と言うような、ジンクスのようなものさえ蔓延したらしい。 さぞかし他のプロ野球選手らは、ゴネにくい空気(無言の圧力)を感じたろう。

当時の王・長島の判断が善いか悪いか、一概に断定できない。 状況を構成する要素はそんなに単純でないから。 ただ、給料の件で会社に楯突くべきでない、とアタマから思い込んでいたのなら、それは誉められたものじゃない。

まあ金の話は基本的にゲームのようなものだから、ルールも効率化の為にあるようなもので、そこに善悪と言う価値判断を持ち込むべきではないのかもしれない。 しかしモノを不当に高く売ることが悪であるのなら、モノを不当に安く売ることも悪だろう。


2/14(火)

倫理感覚の基本は、何かを「為さない」ことであるらしい。 だからして例えば、正義感の発露だとしてボランティアに勤しむ行為と言うのは、純然たる倫理感覚が動機であるか怪しいと言うことになる。

確かに私も、「大人になった」と自分で感じるのは、何事かを為さずに平静を保てる瞬間にである。 積極的に善を為す、模範的な人物であろうと努める(その承認を求める)と言うのはやはり子供の所業だと感じる。 為すことより、為さぬことの方が、自己の輪郭を明確にするのではないか。


2/13(月)

ここ数日、ずっと編集作業漬けでした。



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神田優花、二曲いっぺんにレコーディング。 これで6枚目のアルバムの収録予定曲を録り終えたことになります。


2/11(土)

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物事の善悪ってそんなに簡単に決められない。 物事ってのは何を一つ取っても難解だからだ。 但し、旗幟を鮮明にすることはできる。 「私は○○を善とし、××を悪とする」と言う態度を明らかにすることならば。

真善美なんて言葉があるけど、善悪ってのは即ち美醜のこと。 その人の取った態度、つまり生き方ってのはその人の考える美醜に即している。 人が結果的にたどり着いた場所ってのは、その人の美意識の帰結。

私には過去、自分可愛さに認められなかったものがある。 ほとんど誰にだってある筈なんだが、こんな言い方じゃ伝わらないかもしれない。 私には、本当はそれを善きものとすべきだったのに、「それを善きものとしてしまっては、この自分は悪しきものに他ならぬではないか」と言う私が発動してしまって、認められなかったものがある。 認めなかった結果、それが私の手元から離れていったとしても、それは仕方ない。 それこそ私の招いた結果だし、それを持たぬ境遇こそが私のたどり着くべき場所だったろうから。

私は自分の未熟さだとかが招いた事態に対して、原状回復のための努力をしない。常にそれは未来の教訓とすべきだと考えている。 だから人生においても、人との仲違い・仲直りを繰り返す、なんてことが基本的に無い。 無いよう心掛けている。

自分が招いた事態を、まるでそもそも無かったかのように「取り戻せる」(過去を改竄できる)と思っている人をよく見かけるが、あれはどうしてそう思えるんだろう。世界を舐めているのか。 受けた恩が返せないのと同じく、壊してしまったものも返らない。 時間とは本質的にそういうものだ。決して取り戻せない。 だから人生には覚悟がいる。

私が真剣に生きねばならぬと思う理由は、時間が取り戻せないからだ。 私はここについて、過去幾度となく考えたが、現状どうやら時間は取り戻せないものらしい。 私はその取り戻せない時間ってやつを、どうにかしてもう一度味わえないかと今でも考えているけどね。


2/9(木)

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人体の状態が正常であることを健康と言うのだろうから、病気と言うのは異常であると言うことなのか。 ウイルスに感染し、風邪を発症する。 目に見える症状として熱が出たり咳が出たり。

一般に風邪(と言う病気)とは、ウイルスに感染していることを差すのか、あるいは結果としての諸症状を差すのか。 この辺あまり明確に区別されていないのだろうか。両者は全く違うものなのだが。


アレルギー反応と言うものがある。 端的な例として喘息とか花粉症とか。 あれは人体にとって不要、もしくは毒であるものに対して、排除の圧を起こしている状態である。風邪っぴきが熱出しているようなものだ。

異物の侵入に対し、全く無反応であればアレルギーの諸症状は起こらない。 つまりその諸症状とは、ある種の健康さの現れであるとも言える。 高熱を出す重病人も咳が止まらないような人も、その表面的な症状自体は健康さの現れである。

だから熱が出たからと言って、解熱剤でその熱を下げてしまって良いものか、判断は難しいところである。 「それは良くない」と言う考え方があるのにも頷ける。 健康さの発露なのだから。

ただその健康さ、全幅の信頼が置けるほどのものではない。 毒とは言っても大した毒性でも無いのに、体が大騒ぎしているだけのようなケースもきっと多かろう。 また、自己免疫疾患で死ぬ人もいる。 健康さは時に、勢い余って宿主すら死に至らしめる。


2/8(水)

演歌について考えていた。 私は平素、メシを食うように曲を作り続けているもので、この手の考え事に使う時間が多い。

一つの音楽のスタイルでは間違いなくあるので、様式性があり、研究の対象にもなりうる。 しかし個人的に好きかと問われると返答に困る。少なくとも普段、あまり積極的には聴かない。 比較的良いと思うものもあるが、演歌を聴いて感動したことは無い。

あれを日本の伝統音楽とも思わない。 と言うか、そういう形容はちょっと盛り過ぎである。 日本人の伝統精神を受け継いでいる、とか言うならまだ許せるけど、演歌は、実体としては戦後の一流行歌であろう。


演歌のリズムは四拍子系ばかりではない。 多分演歌(歌謡曲)特有の呼称だと思うんだが、いわゆる「ブルース」と言うものがある。 ちょっとハネたような三拍子系のリズムで、譜面表記はどうなってるんだろう。ハチロクとかそういう解釈なんだろうか。 とにかく演歌の一典型と言うべきタイプの曲(リズム)がある。

しかし日本の伝統音楽に三拍子系は存在しない。 雅楽のレパートリー(当然明治以降の新曲などは除く)に絶無で、多分近世までの俗楽にもほぼ見当たらない。 つまり三拍子系を典型とする時点で日本古来の感性でない。 因みに、三拍子とまで行かないちょっとハネたようなリズムのものは民謡・俗謡の類に若干見られる。

あるいは演歌のルーツと言うか、オリジンの一部は朝鮮半島由来の何かか、と言う想像もしてしまう。 よく分からないけど全く無縁ってことはそれはそれであるまい。 因みに朝鮮古来の音楽はほとんど(全て?)三拍子である。


演歌は、どちらかと言うと旋律に力点が置かれているように見受けられるが、基本シンプルな和声音楽だ。 いわゆるヨナ抜き音階をベースとした旋律線を、和声で補強したようなものが多いような印象だけど、(少なくとも純粋な)旋法音楽ではない。

旋律の節回しに前近代の音楽(と言うより歌唱)の影響があるように思えるんだけど、あんまし実証的な裏づけがあるわけではなく、あくまで印象。 あのコブシ回しが、民謡・催馬楽・木遣り・声明などと同じ系譜の上にあるように思えなくもない。


アレンジについては、私の聴いた範囲だと、何でもアリと言うか俗楽ならではの節操の無さを持っている。 管・弦あり、POPS的なエレキギター・エレキベースだとかも多用されているし、シンセサイザーだって普通に導入されている。 つまりは歌謡曲なんで、テレビ番組付きの楽団の編成に沿ったものが基本であるように思える。

三味線だとかの邦楽っぽい楽器もよく使われているんだけど、三味線だと津軽三味線のような、比較的歴史の浅いものが好まれている気がする。 演歌に雅楽のような、「本当に歴史のあるもの」の影響は薄い。演歌とはそういうものなのだろう。


2/7(火)

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癌(細胞)は臭いらしい。 私は嗅いだことが無いが、いわく死臭らしい。

大前提として、この世に臭いものなど存在しない。 人間がある対象を、臭がったり臭がらなかったりしているだけである。 つまり人は、癌細胞を臭がっている。

それは即ち、その臭いがし出したら「ヤバい」と言うことである。 人の脳がそれを危険信号として捉えている。 排泄物が臭いのは、排泄の必要がある物体なのだから当然である。 臭さってのは、対象のヤバさのメルクマールとなる。

欧米人は他人の体臭に寛容であると言う。 一方、日本人はおそらく世界一非寛容な民族。つまり人を臭がっている。 人間に対する見え方が違うと言うことだ。


2/6(月)

都政に関するニュースをちらほらネット上で見かけるんだが、何と言うか現実感に乏しいものばかりな印象。 アホくさ。

今の知事さんがポピュリストであるかどうかとか、私にはどうでも良い。 上昇志向の強い人には見えるけど、政治家って本来そういう属性でしょう。 戦術面に上手・下手があるだけのこと。 彼女は上手いってことになるんでしょうね。

豊洲移転の問題。私は全然興味無いし、詳しいことも分からない。調べる気も無い。 大体話題にならなければ移転すること自体知らなかった始末。 多くの都民もそうじゃないのかしら。 全くの勘だけど、あれって原発問題とかと似たようなメカニズムで、キチンと調べれば実にアホ臭い話と見た。

そもそも最初に彼女が登場した時に「都議会のドンがどうした」みたいな話(対立構図)が出てきたのだけど、物凄く違和感あった。と言うか失笑。 仮想敵を作って煽る、ってのはオーソドックスな手法なんだけど、察するに、今の日本(都政)が平和・正常過ぎて付け込む良いネタが無いらしい。 都議会のドンとかやらの肩を持つわけでなく、そんなの知らない、関心が無い、と言っている。 私みたいな人、多い筈なんだけど、何故か予てからの問題かのように扱われている。

当の都民である私が、都議の名前など一人も知らない。普段都議会で何が話し合われているのかも全く知らない。 選挙の時なんかも、基本政党に投票している気分である。 もっとも、投票なんか仕事が忙しければ行かない。 既存政党や政治家(立候補者)の人としての資質をある程度信用しているし、またそれらが行使できる権力に高をくくっている。 「もっと政治に関心を持て」などと言われなくとも、持たざるを得なくなればそうする。 この程度にしか持たなくて良いと自分で判断しているし、それぐらい今の日本は平和だと感じている。 政治権力のやり放題を許容しているわけでもなく、白紙委任状を差し出している気分でもない。

騒ぎが起これば物事は一応進展する。 変化を望む者にとって、現状が漫然と維持されることは困る。 関ヶ原が起こらねば家康は天下を取れなかった。 残念なのは、当時の社会の不安定要素に比べれば、今話題に上る都政の問題なんて屁のようなものであるところ。 騒ぎの中心にいる御仁、家康なんかに比べると遥かに拙劣に見えるんだけど、政治家としての資質がどうしたと言うより、それだけ今の日本社会が機構として堅牢なんだろう。

知事選挙期間中、既に「劇場型」だとか揶揄されていた彼女、「その時点で本質を見抜かれていた」とか言うほど、その評価が慧眼と言うわけでもない。 ド素人の私にでもそう見える。

いわゆる劇場型が悪いって言ってるわけじゃない。政治ってエンターテインメントである面もありますからね。と言うか、私にとって森羅万象全てはエンターテインメントである。 だから評価基準も、それが面白いか面白くないか。 ヒトラーとかって、持ち出すネタなんかもきっと飛び切り魅力的で、人々を狂喜させる何事かを持っていたんだろう。当時のドイツ国民は日々実に面白かった筈なんだ。

そういう意味では、アメリカ新大統領もそれなりに面白いのだろう。 今の都知事(関連ニュース)は全然面白くない。 面白くなりそうなネタそのものが存在しないわけではないが、賢明な彼女はそこを突かない。 英雄の出現しない風土って、こう言うことなんだろうかね。


2/4(土)

昨日、いわゆるデパ地下を歩いていたら「恵方巻」キャンペーン中だった。ここ十数年くらいの間にだろうか、随分定着したもんですね。 主婦の皆さんとかって、夕飯の献立考えるのも大変だろうから、ああいうイベントがあってくれた方が良いのかもね。


JASRACが音楽教室から楽曲の使用料を取る方針らしい。教室側は反発していて、法廷闘争に発展しそうな勢い。 ネット界の意見は圧倒的に音楽教室側に同情的で、この件に限らずだけど、JASRACは何故か彼らから人気が無い。

私としては、この件に限ればJASRACの言い分が正しいと思う。 確かに著作権とかって怪しげな権利で、心底信じて疑わない人はバカに見えるけど、一応は認められた権利である。 著作権そのものに疑義を呈すようなラディカルな議論ならいざ知らず、それ自体は認めつつ、音楽教室を例外にせよと言うのは筋が通るまい。

「教育用途なのだから使用料は免除すべき」と言う意見がある。 しかし、民間企業が楽器の演奏技術を有料で指南することって「教育」なのか? 別に文科省などが指導要領を定めているわけでもなく、使用テキストに検定などの形で関与しているわけでもない。 その言い分が通るなら、ほとんどのサービス業は教育と言い張れる。

あるTV番組の司会者は「お金が掛かるから子供達が演奏できなくなる」とて、行き過ぎだと言うらしい。 不思議な意見だ。誰が「演奏するな」とまで言ったのだろうか。 JASRACは「使用(演奏)するのだから使用料を支払って下さい」と言っているだけ。 子供らには楽器代もテキスト代も、更には音楽教室への月謝も発生しているじゃないか。同じことを教室の側にも(月謝に対して)言ってみてはどうか。 使用料(額面)が適正なものかどうか、の議論ぐらいはあって然るべきだろうけど。

ある女性アーティストは「私の曲は著作権料なんて気にしないで使って欲しい」とのコメントを出したそうな。 そういう人がいても良いと思う。 JASRACと言う団体の方針と合わないからとて、彼女が自身の楽曲を委託から引き上げることだって、それはそれでアリだと思う。 でも今回の行動が、著作権管理団体のものとして、さして不合理とは私には思えない。

何故、放送やカラオケでの使用には使用料が発生するのに、音楽教室においては発生しないと言うことになるのか。 「教育だから」が論拠であるなら、教育の定義を争うことになるのだろうけど、放送やカラオケにだって教育と言う側面は確実にあるよ。


2/3(金)

飯食ってる影山さん。

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ロボダッチってプラモデルのシリーズが昔あって、子供の頃好きだった。 今復刻版とか出てるみたいだけど、何故か当時もの(オリジナル)とサイズが違う。 馬鹿デカい。小さいところが魅力だったのに。何考えてあんなもの作ったんだろう。

多分小学校低学年の頃とかそれ以前に持ってたような気がするんだが、調べてみると私はリアルタイム世代ってことでもないみたいで、シリーズの最後の方にギリギリ間に合ったって感じ。 だからその数年後にロボダッチは商品としては姿を消している。

私が好きだったのは「○○島」とか言う名前のシリーズで、当時数百円だったと思うが、小さなキャラクターがたくさん同梱されていた。 同じプラモデルでは有名なガンダムのシリーズとか既にあったし、そっちも買ったりしたけど、ロボダッチのあのコミカルさとかキャラクターがたくさん入っているところは子供だった私の琴線にやけに触れた。


何故こんな話をしたかと言うと、最近あるコメディアンのアルバム(デジタル・アルバム?)を眺めていたら、それがやたら短い曲ばかりで構成されていて、しかも当然コミックソングばかりで、まさに私にロボダッチを思い起こさせたからだ。

ショートソングばかりを集めたコミックソング集は、既に似たようなものが多分いくつもある。 内容的に大きな尺をあてがうわけにも行かないものが多いのだろう。 構成としては適当かと思う。 上記ロボダッチの「○○島」シリーズなんかも、中に入ってる全部のキャラクターを一々単体で商品化するのが難しいからあのようにした面もあろう。

昔作った鈴木サヤカの一連のアルバム、あれは私なりのロボダッチのツボに根差したものでもある。 短い曲がたくさん入った、ちょっとコミカル(キュート)なもの。 神田優花は差し詰めガンダムか。

上の(デジタル)アルバムの収録曲、大体数十秒から長くても2分ぐらいで、本当に短い。 目玉になっていると思われる先行のヒット曲も45秒とかそれくらい。 これも適当な尺かと思う。

私は、あそこまで短い曲を集めてアルバムを出したことも出そうと思ったことも無い。 どうしてかは私自身正確には分からないが、私の場合、あそこまでのショートソングならある程度数をまとめて「メドレー」のように仕上げてしまうか、あるいは2〜3度のリピートにして1〜2分台の曲に仕上げてしまっている。 後者の実例は鈴木サヤカの諸作品とか、今年出す予定の影山リサのミニアルバムなんかもそういう収録曲がメインとなっている。 前者については、影山リサの「Barracuda」とか「Midnight Hour」なんかはそういうタイプ。いわゆるメドレー調。 このタイプの未発表曲もいくつかある。

とにかくあのロボダッチのツボには、まだ何か眠っていそうな気がする。私がタツノコプロ作品を好きなのもきっと同じツボ。


2/2(木)

神田優花、レコーディング。 5枚目のアルバムの収録曲は既に上がってて、今6枚目の収録曲も残すところ2曲になった。

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SNES(スーパーファミコン)用のサウンドファイル(spc)の、良さそうなエディター見つけた。 基本はトラッカーなんだけど、一々マニュアル読んで使い倒そうとは思えない。 SMFのデータを読めるみたいだから、使うならノートはMIDIシーケンサーで打ち込みたい。

音色データ(instruments)をノートデータにあてがって発音させるような仕組みなんだが、一応はその音色データも一通り入手した。 オリジナルの音色も作れる。 と言うか、SNESのサウンドはそもそも音色を自作するものだ。 面倒臭いんで、私は出来合いの音色使っているけど。


しかし、神田優花のChiptuneシリーズを作り終えて以来、正直その辺への熱はちょっと沈静化している。 上のエディターについても、一連のChiptuneシリーズを作ってた当時にそれがあれば使ってたろうとは思わせる代物なんだけど、今それを使って作りたい曲はとりあえず無い。 今後もし作ったとしても処遇に困りそう。 1曲ポツンとそんな曲があっても出しどころに困るから。 まとまった曲数作り溜めたらアルバム化したりするかもしれないけど。


2/1(水)



神田優花、ニューシングル「Shades&Lights」、本日発売です。 下は本人から。


Shades&Lights/Crybaby

Shades&Lights

初めて曲を聞いたとき、10代の頃夢中で聞きあさってた曲たちのことを思いだし、無性にノスタルジックな気分になりました。
なので、歌い方も思いっきりそっちに寄せてみようと試みました。
一音一音かなり細かく作り込んでみましたが、違和感なく歌い込めたと思います。

Crybaby

実験的にいろいろ遊んでみました。
Aメロとか、最初は別撮りとかにしてフレーズごとにくっきりさせて掛け合いのようにしようとか考えたりもしてたのですが、結局切らずに繋げて歌うことに。最終的にはそっちでよかったなと。
あーでもない、こーでもないと、流れをいろいろいじって今の形になりました。
製作サイドでは、そーきたか、というような感じだったようです。
いいのが出来たなと、思います。

今年1発目のリリースになります。
ぜひ、聞いてください!

神田優花



なお、3/1(水)には次のシングル「Nightbird」を発売します。 こっちもよろしく。




1/31(火)



明日発売の、神田優花・最新シングル「Shades&Lights」(全2曲)について。


1.Shades&Lights

これ多分、原形は十代の頃に作った。 だから良くも悪くも単純な曲。リハーサルの時間も短かった。 神田優花のイメージにフィットする曲なんで、ストックから引っ張り出してきた曲。 子供が作ったようなものなんで拙いと言えばそうなんだけど、商業音楽的な尺度で見るなら、普段私が作っているようなものよりこちらの方が良い作品の条件を満たしているのかもしれない。

いわゆるリズム隊はシンセとかエレドラの類で、上モノは生楽器っぽいもの(エレキギターのカッティング、アコギ)で埋めた。 アレンジを概括するとそんな感じでしょうか。 まあ単純なものです。

作ってる段階で「80年代っぽい曲だね」とか言われたけど、私自身にはそんな印象は無い。 割と好きな曲なんだけど、ちょっと演歌的と言うか、日本人的なツボに寄ってる気がする。


2.Crybaby

私なりにHIPHOPっぽいものを作ろうと思った。 動機の一部はそこだけど、仕上がりを聴く限り全然HIPHOPじゃないな。 元々そんなにベタベタなHIPHOPを作るつもりはなくて、POPSと折衷したようなライトなものを考えていたんだけど、結果かなりPOPS方向に寄ったものになった。

スクラッチとか、サンプラーっぽい音使いとか、ちょっとだけ出てくるラップっぽい音程感のボーカルとか、その辺に当初のプロットの形跡が残ってる。 随所に出てくるロボット・ボイスみたいなフレーズ、あれ何て言ってるのか私にも分からない。

普通のPOPSの範疇なんだろうけど、例えばBメロの一部のメロディーなんかは、スロープ状と言うか、単純に五線譜表記できる階段状のラインでない。 サビの語尾の部分なんかも譜面化しにくい。 まあ私の場合、そう言うのもこの曲に限った手法ではないので、特筆事項ってほどでもないけど、この曲の一応の特徴と言えばそう。



1/30(月)

影山リサ、歌入れ。 今年発表する予定の二枚のミニ・アルバム、これで収録曲は残り二つになった。

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ウチの出すアルバムって、アルバムとは言っても実質ベストとかシングルズに近くて、例えば収録曲が10曲あったら、そのうち8曲は既にシングルとして先行発売済み、みたいなのが多い。 影山リサのも基本的にはそうなんだけど、今回のミニ・アルバム二枚については収録曲に未発表のものが多い。 去年リリースアイテムが比較的少なかったのは、こういうものを作ってたからってのもある。


1/29(日)

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私は普段の音楽制作においても、自分の領域と他人の領域とをキッチリ区別している。 無論歌に注文付けたりすることはあるが、メロディーや譜割などが違っていることに気付いたら、それを伝えると言った程度のものだ。 一応は売り物を作っているのだから、指示系統のようなものはあって、自分の責任の及ぶ範囲においてのイニシアチブを握るってのは義務でもあるから仕方ない。 ただ、基本歌は歌い手の領分だと言う認識はある。

平素の作業の流れにおいて、私は単なる作曲家(ライター)と言うよりプロデューサーである。 曲を書いたら終わりではなく、最終的に商品としての音源を上げねばならない。 どうしても相応の領分ってものがある。 純粋にライターとして関わる場合ってのもあるが、単にライターとして関わる場合は、領分も当然違ってくる。


この領分の捉え方、人によって随分違うらしい。 例えば作曲家なら、単にライターとして起用されただけなのに、現場(スタジオ)まで出向きたがり、下手すりゃ「ダメ出し」までしたがるような人もいる。 どういう思想の人がいても良いけど、進行の妨げになりそうだから、私はできるだけそういう人に曲を依頼したくないと思ってしまう。

領分の捉え方こそがまさにその人の独立性、見方を変えれば依頼心の現われである。 「自分が(原形を)作った曲なんだから自分の理想の形に仕上げてもらわないとイヤだ」と言う感覚、これは依存だ。 こういうことを言う人は、自分のことを「拘りが強い」などと誤って総括していたりする。

「私はプライドが高いから、私を傷つけることは許さない」的なことを言う人、いますよね。 「私を傷つけるな」と言うのは自分以外の世界(他者)に対する要求である。即ち依存だ。 プライド(誇り)と言うのは、あくまで自分のみに属するものである。

自分が拘れるのは「自分の在り方」においてのみで、他人の行動に干渉するのは甘えである。 自作曲の、他人によるカバーだとかリメイクの類に執拗に容喙したがるのも同じく甘えだろう。 そのように自他の区別が曖昧になるのは、言語の精度の問題だろうと思う。


こういう風に世界が見えている私だからして、いわゆる思想・信条の自由とか、信教の自由なんてものを声高に主張する輩には懐疑的だ。 何故なら、思想・信条などというものは終始一貫して自分に属するもので、他人からの干渉などそもそも許す余地が無いからだ。 そういうことを主張せずにいられない人は、大抵は自由でなく甘やかしを求めている。

政治権力や軍や警察が、我々の身柄を拘束することはできても、思想を拘束することができましょうかね。 できる筈がない。 逮捕されようが拷問を受けようが有罪判決を出されようが、我々の思想・信条は自由であり、何人も侵すことはできない。 「あるいは侵されかねない」などと危惧している人がいるなら、それはあなた自身が存在していないと言うことだ。


1/28(土)

変わらないものは無いと言う。 確かに、物質に限定すればそう。 エントロピーが増大する限り、万物はある状態を留めておけない。 でもその背景に存在する何か(作用)、はそうでない。むしろ変わらない。 私は「在るモノは無くならない」と常々思っているんだが、ここで指すモノとは、物質でなく作用のこと。

「人は死ねば天国に召されると言うが、人の何がそこへ行くのか」と言う問いに、西洋(キリスト教)世界では明快な解が用意されている。 「人はbodyとsoulで構成されており、天国にはそのうちのsoulが行く」と。 このsoulこそが作用である。 「梃子の原理」そのものは作用であるが、それを証明・解説する為に用いられる道具が、いわば人間でいうところの人体であると。 精神とは作用である。

この辺り、日本の例えば一向宗で言うところの、極楽浄土には「人の何が召されるのか」と言う疑念に対する解は明快でない気がする。 日本が伝統的に物質世界であったことと関係があろう。 人間と人体の概念の区分けが明確でない。


物質と言うのは、不滅である「作用」が、ある条件を背景に現出したものだということ。 その本質は、実現可能であるか否か。 作用は潜在的に常にあり続けるが、顕在化するには条件が要るということ。

水(H2O)は摂氏0度を境に凍り出し、100度を境に気化する。 これは時代や場所を問わず変わらない。宇宙の果てでも基本同じであるはず。

人間を人体だと定義するなら、それは有限に違いないと思うけど、精神・意識だと捉えるなら、それはやはり永遠に消えないのではないかと思ってしまう。


1/27(金)

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影山リサ、新曲の最終リハ。近々歌入れです。 ミニアルバム二枚の企画を進めてるって随分前から言ってるんですが、それの収録曲。 片方の収録曲は去年の時点で既に揃ってたんだけど、もう片方の収録曲がまだいくつか残ってて、二枚は間隔置かずに発表したいので一旦全収録予定曲を上げてから諸々(リリース日等)を決めようと思ってます。

そういえば影山リサは三週前くらいにも(シングル候補曲を)レコーディングしている。 カップリング用の曲も既に上がってるんだけど、もう少し暖かくなってから発表したいんで、発表はミニアルバムの後になるかも。


1/26(木)

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DAWと相性の悪いプラグインが稀にある。エフェクターに多いような気がする。 顕著な弊害として、音が飛ぶ(途切れる)なんてことがある。 単純に(CPUの)処理が追いついていない、と言うのとも微妙に違うようだ。 実際調べても、そこまでCPUの占有率も上がっていない。やはり相性としか言いようが無い。

音飛びの回避法ってのを、自分なりにあれこれ実践してみるわけだけど、稀にどうしようもないものもある。 プラットフォームとしてのDAWを変えると回避できたってケースがあったんだけど、それはもう前面降伏に近いと言うか、回避したと言えるのか微妙だ。 どうしたものかね。


1/25(水)

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今、一昔前のヒーロー物アニメのオープニング(&エンディング)テーマみたいなのを作っている。 珍しいことではないが、二曲同時進行で作ってる。 こういうテーマが明快な作業においては、大体事前に資料(作例)当たるんだけど、アニメ関係はネット上とかに資料が豊富で助かる。

私が今回特にイメージの核に据えているのは、一部のタツノコプロ作品。 あの会社の作品って、常にちょっと三の線と言うか、気取ってないところが好き。 どの作品がと言うことでもなく、全体的な雰囲気が。 思い入れのある特定の作品なんてのはないんだけど、タイムボカンシリーズの再放送とか、子供の頃によく見た記憶がある。

ちょっと調べたとことでは、タツノコプロは現在、制作会社としては事実上現役を退いている状態のようで、過去の作品の版権管理会社みたいになっているみたいだ。 タイムボカンシリーズはリメイク関係の需要も高いし、結構仕事もあるんだろう。


タイムボカンシリーズの主題歌の類はほぼ同じ人が作ってるんだけど、作曲者とアレンジャーは明確な分業体制にあったようだ。 本編とイントロでは明らかにコード使いが違ってたり、作業担当者の音楽的な背景が聴けばすぐに分かってしまう。

因みに、タイムボカンシリーズの音楽を担当しているのは、有名な人なんだけど山本正之氏。 今回あらためてHPも見てみた。

山本さんはHP上でCDなどの通販を行っていて、入手可能な作品のタイトルが一覧できる。 「才能」と言う言葉が入ったタイトルが多く、本人が才能を自負していることが伺えるんだが、まあ仰る通り才能でのし上がった人だ。

山本さんは大学卒業後だかに、中日ドラゴンズの応援歌をラジオに投稿したのがキッカケで商業音楽の世界に入ったそうだ。 さるお大尽の御曹司で強力なコネがあったからとか、親が音楽家にすべく英才教育を施したとか言う事情でなく(少なくとも表向きは)、かと言って本人の血の滲むような努力の結果、と言うわけでも無さそうだから、やはり実力(才能)の賜物と言わざるを得ない。 才能がどの程度のものかってのは私には判断付きかねるが、大別するなら才能型であることは間違いない。 少なくとも、楽曲の質が成功要因の大部分を占めているのは事実だろう。 最近こういう人を見かける機会が減ってきたような気がする。

ただ才能とか成功とかってのは、外にある要素が決定するものだから、あんましそこに拘るのも(特にアーティストには)危険な気がしないでもない。 そこにしがみつくと心が弱りそうだ。


なんだか話が逸れた。曲のことに戻す。 今作ってるのはオープニングっぽいのとエンディングっぽいのの二曲。 当初迷ったのは、それらのプロットを別々の二曲とするか、合体させてメドレーにするか。 前者にする場合は各2〜3分程度に、後者にする場合はそれぞれを半分程度のサイズにして、合計で2〜3分程度に収めるつもりだった。

結局、両方の案を採用する(両方作ってみる)ことにした。 それは良いんだが、ファイルの管理をどうするかでまた悩んでいる。 これは詳しく説明することが難しいんだが、分かる人には分かるかも。


1/24(火)

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言語の基本作用は同定。何かと何かを「同じ」とすること。

「言語がなければ同じものが同じでなくなるのか」と言う疑問、これはその通り。 本来全てバラバラのこの世界を、我々は言語でもって一つづつ同定している。

バラバラであることと違いが分かることは、全く違う。 同定が出来ない脳の状態においては、全てがバラバラであっても違い(差異)は分からない。


美醜の感覚、これは言語の作用なのか、もっと下のレイヤーなのか、今の私にはまだよく分からない。でも密接に関係しているに違いないと思う。 少なくとも私は、曲を作る際、常に何事かを「同じである」あるいは「違う」とする判断を繰り返している。 デジタル世界の構成要素が、煎じ詰めると0と1に集約されることに似ているような気もする。 思考パターンの集積こそが音楽作品だし、この私そのものでもある。


人は言語でもって、万物を自分に説明している。 だから言語の精度が悪ければ、映る世界そのものが粗雑になる。 言語の役割はADコンバーターのようなもの、とか言えば音屋には分かってもらえるだろうか。 その精度が結果物に濃厚に影響するでしょう。

言語が発達した結果、人類は自己と言う複雑怪奇なものさえ同定できるようになった。 数秒前の自分と今の自分、これらを同じ自分だとするのは言語の作用。 昨日の自分と今日の自分が同じだと感じられるからこそ、人は子供の頃の自分を自分自身だと思える。 自己とは、物質としての人体でなく、我々の中に流れた歴史のことだ。

だから「時間」と言う概念も、つまりは言語の産物であると言うことになる。 自分の外に流れている世界、このとりとめの無いものを「同じ」だと捉えられるからこそ、人は時間の中に生きることができる。


同じであるからこそ、昨日の自分は自分なのだ。 と言うことは、自分(の言語)が、自分と同じと見做せる何かがこの世に存在するなら、それはやはり自分自身であると言うことになる。

我が子と自分の区別が付いていない人、なんかをたまに見かける。 これは別に、子と自分とを同一視しているのではなく、区別が付いていないだけだろう。 自他の区別が付かなくなると言うのは、言語の機能不全の典型症例だ。

いつものようにハッキリした結論のない文章をダラダラと上げてしまった。 私が繰り返し考え続けていることなんだけど、自分の理解の為に文章化している面もあります。


1/23(月)

諸行無常と言う言葉がある。 万物は流転すると言う。 変わらないものなんて無いと言うことなのだが、本当なのだろうか。

私は自分自身の中に「変わらない何か」を感じる。 身体はいわば乗り物なんだから、当然変化(成長・老化)していくし、精神だって子供の頃と今とでは明らかに違うではないか、と言われればその通りである。 でもそれは変質したと言うより、「付け足した」と言う感覚に近い。 芯にある「変わらない何か」はあの頃のままだ。 全く変質していないと思う。

その「変わらない何か」が私自身なのではないのか。 人生と言う時間の中で、私に残った過去(記憶・経歴など)も、要は付け足した何かに過ぎない。 日々作り続けている曲も、突き詰めるとこの過去の一部(記憶)である。

審美眼というヤツがその「変わらない何か」の正体ではないか、と思ったりする。 だから「手に入れた何か」(成果)なんかより、何かを「夢見たこと」の方に、私の本質はあるのではないかとも思う。 前者がいわゆる過去であり、後者が未来と呼ばれるもの。

審美眼は成長しないのか、と言う疑問は沸く。 しかし、確かに感性は洗練されるものだが、実はそれってその「変わらない何か」の輪郭が明確化してきているだけなのではないか、とも思う。 つまり最初からあったもの、眠っていたものを掘り起こしているだけなのではないか。 少なくとも、私にとっての創作活動とは、自分と言う取り留めの無いものの探求作業だ。


昨日も今日も、子供の頃も今のこの瞬間にも、ずっと変わらない何か。 変わらないと言うことは、つまりは「同じ」だと言うことである。 変わらない何かこそがこの私なのだから、その変わらない何かと同じものが、この時空のどこかに存在するのであれば、やはりそれは私だと言うことになる。

私の今の形での生存に、いずれ限界が来ることは分かっている。 でもこの宇宙のどこかに、私が「変わらない何か」と呼んでいるものと同じものが存在するなら、私はそこにいるはずだ。 今の形での生存に限界が来た後にも、私はそこで目覚めているに違いない。 今ここにいる私と寸分違いない審美眼としてそこに。

今と違う形で目覚めたそこに、私が持っていけるものがあるだろうか。 銀行預金や貴金属の類など言うまでもなく、人間関係(友人)も思い出も、きっと何一つ持って行けないだろう。 私に持っていけるのは、美醜を判断する今のこの感覚、即ち審美眼だけ。 もうそれだけでも十分だと思うけど。

どこかで目覚めた私はきっと、今のこの私が日々愛して止まない歌たちを連れているはず。 無論今日の私が口ずさむ歌だって、記憶の断片に過ぎないのだから、今の形での私を超えた、如何なる場所へも連れてはいけないだろう。 でも私と同じ何かなら、きっとどこかでその歌に出会うだろうし、その歌に特別な何かを感じるはずだ。 他に何一つ連れて行けなくても、歌とはどこかで出会えるし、その先きっと連れても行ける。

今の私にいる、愛すべき友人たち。 その人らとの友情だって、きっと直接的には連れて行けない。 でも、もしこの私の存在が揺るぎないもので、その友らの存在も確かなものなら、在るものは消えない。 時空のどこかできっとまた出会えるはず。 未来と言う射程に入っているのなら、もうそれで十分だ。


過去は、それそのものとしては変わらず、微動だにしないが、私の中にある過去は日々変質し、あるいは薄れて行き、ある時を境にそれ以上先には連れて行けなくなる。 でも、未来は続いて行く。夢だけは永遠に見続けられる。 今も寸分変わらずこの心の中にある、予感のような何か、これだけ持って行ければ私はもう何も要らない。

目覚めたその先で、愛する友とまた出会えるのなら、愛するこの歌をそこに連れて行けるのなら、もうそれで十分。それ以上の何か、それ以外の何かなんて望まない。 私は私であり続けるだけ。


1/22(日)

「森のくまさん」の替え歌を持ちネタとしていた芸能人が、訳者によってそのネタ(音楽商品)にストップをかけられたとか言うニュースを仄聞した。 いわく「同一性保持が為されてない」そうな。替え歌なんだから当然だろうが。

報じられている範囲の話だが、訳者の主張は「著作権侵害行為なので300万支払え、さもなくば訴訟に移行する」とかそう言うものらしい。 金額が妥当なのかは分からないが、主張そのものは大筋で認められるのではないか。 善悪の評価はできないけど、この国では著作権と言うものが正統な権利とされている。 法治国家なんだから、この種の主張は認められる公算が高い。

ここで素朴な疑問が沸く。 この件の当事者、訳者と言うくらいだから「和訳」の担当者で、翻訳と言う加工をなさったわけなのだが、原型は外国産の童謡である。 つまり既に(日本語への)替え歌だった。 異言語へのトランスレーションは同一性の破壊に当たらない、とでもお考えなのだろうか。 私は喧嘩を売っているのではなく、本当に分からない。 同一性を何故保持せねばならないのか、ごと分からない。 出典を明記するだけじゃ何故ダメなんだろうか。

どのような形で伝承されようと、原作そのものが変質するわけがない。 しかも今回のケース、派生物とハッキリ分かるもの(替え歌)なわけで、同一性が保持されていよう筈もない。 「俺の作ったものなのだから、一語一句の改変も許さない」、「そのような形で引用したくば金を払え」、この手の主張を私は単純に醜いと感じる。 これは感想なので仕方ない。

作品と言うのは、どのようなものでも、配合率の違いこそあれ、何らかの形で他作品の影響下にあるものである。 これはモノを真剣に作ったことがある人なら誰だって分かることである。 長い間、共有されることによって発展してきた文化が、誰かの私によって占有されかねない事態こそ憂慮すべきだろう。

私だって著作物を世に出しているし、僅かではあるがその権利による収入も得ている。 しかしこのシステムをありがたいとは思うが、当然の権利とは思わない。 同一性保持についても、原作の権利者に一定のプレゼンスを与える制度が一応は存在するということを、還元の可能性を担保するものとしてありがたくは思うが、当然の権利とはこれまた思わない。 ましてや引用されたからと言って、何か自分の権利が侵されたなどと感じる筈もない。

カバー作品なんかを出す際、著作権管理団体で所定の手続きを踏めば権利関係がクリアになるように、替え歌程度のものにもそういう簡素な手続きを用意できれば良いのに。 同一性は維持されるべきものである、と言う建前があるから「用意できない」と言うことに現状なっているのだけど、これも一種の思考停止だ。 同一性が何故保持されねばならないのか、論理的に説明された試しがないもの。

もし私の作品が、このような形で引用されたらどうするか。 権利委託作品については、一般的な著作物の使用料程度の還元があるなら何の不満も無い。 「事前に許可を取れ」とも思わないが、「権利者の了承を得る必要があるのです」と言われるなら「どうぞご自由に」だろう。

自己管理楽曲なら場合によっては当事者間の交渉が必要になるのかもしれないが、それにしたって多分二つ返事でOKだろう。 無論将来的に、その楽曲の権利関係のステータスが変動することはあり得る。当然それに伴って事務手続き上の扱いが変わる可能性はあるので、その辺を一応示唆したりはするだろうか。せいぜいそのくらいだ。


1/21(土)

ヘーゲルの弁証法について考えていると、結局のところあれが西洋言語の堅牢さに拠るものだと思わされる。

ヘーゲル哲学については、あんまし良い日本語での解説に当たらない。 いわゆる止揚(aufheben)とは、つまりは言語による同定→差異の認識→階層化と言う解釈で良いのだろうか。 解説文のようなものを眺めていると、ヘーゲルの論理展開が白馬非馬説になってしまわないあたりに、西洋言語(この場合ドイツ語)の明晰性を感じる。

ヘーゲル哲学、とりわけ止揚については詭弁と評する意見をいくらか目にした。 確かに思想とか哲学ってのはモノでないので、各人がそれを現実とするか否かで見え方が変わってくる。これは仕方ないのかも。 私は別に詭弁とは思わなかった。ヘーゲルの強い影響かにあると言うクラウゼヴィッツの著作(論旨)とかも、大筋において危ういものでないと思うし。

止揚はヘーゲルの独創ではなく、言語は本質としてそのような作用を持っているのだと思われる(特に西洋のそれにおいては顕著に)。 そしてその同定・階層化の末に、人類は神の概念を生み出した。 私は哲学者になったこともなろうと思ったことも無いが、芸術家と思想家・哲学者ってのはアプローチこそ違えど、同じ場所を目指しているのかもしれない、とは思う。


1/20(金)

ドラえもんに出てくる「しずかちゃん」、あれはまことに日本的なマドンナだ。 アイドルなどと同じく、アタマにあんまりモノが詰まってなさそうなところこそが良いらしい。

しずかちゃんを怒らせてしまったのび太が、必死に許しを請う場面があるのだが、のび太はしずかちゃんの気分を害してしまったことを「申し訳ない 」などと全く感じていない。 許しを得る為の呪文として「ごめんなさい」を繰り返している。 まあ現実世界でもよく目にする光景だ。

しずかちゃんは、ドラえもんに登場する男性キャラほぼみんなのマドンナなのだが、彼女自身には強い意志性が感じられず、常に「戦利品」として描かれている。

例えば、みんなで釣りに行く回がある。 最初はのび太・しずかちゃんペアとジャイアン・スネ夫のペアに別れているのだが、全く釣れないのび太ペアにスネ夫が近づき、「こんな奴といても釣れっこないからこっちに来なよ」と言ってしずかちゃんを奪う(連れ去る)シーンがある。 如何に「獲得の対象」として描かれているか分かるだろう。

好き嫌いの話はさておき、ハリウッド映画のヒロインにあんな人、絶対出てこない。


1/19(木)

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笑点の大喜利を見ていると(最近久しく見てないが)、人間と言うのは平素の懸案事項こそが形作るものなのだと強く思う。 いわゆるプロに求められるものとは、身体能力とかそういうものでなく、思考の密度なのだろうと思う。

大喜利出演者の回答・振る舞いが、純粋な即興であるかは疑わしい。大掴みには台本のようなものがあるのではないかと私などは思うが、それにしても平素の鍛錬の賜物とは感じる。 私にあれをやれと言われても、当然気の利いた答えなど出せない。 これは平素の懸案でないからで、噺家さんたちが「この場で曲を作れ」と言われても閉口してしまうであろうことと同じだ。

私は音楽家だからして、普段の生活の中でも、例えば街中の騒音に接した際にも「この音をサンプリングして〜」とか、すぐにその手のシミュレーションを脳内で行ってしまう。 平素の思索ってのは、目に見えないから分かり難いだろうけど、その人そのものでもある。


1/18(水)

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神田優花、新曲の上がりをチェック。 やっと5枚目のアルバム収録曲が出揃いました。



2/1(水)にシングル「Shades&Lights」を発表する神田優花ですが、その一ヵ月後、3/1(水)には次のシングル「Nightbird」をリリースします。 こちらもよろしく。




1/17(火)

儒教は孔子を祖とするが、教えそのものは孔子の独創でなく、当時あのあたりで支配的であったエートスを体系化したに過ぎないそうな。 私は全然詳しくないが、無論そうであったろうと思う。 でないと根付く筈もない。

仏教と言う外来思想を(内容こそ変質させてはいるが)これほど濃厚に受容している日本なのに、室町時代に既に伝わっていたキリスト教が全く根付いていない。 根付くだけの素地が無かったのだろう。

仏教界では、近代以降でも西田幾太郎・鈴木大拙・中村元と言った人物を輩出している。あと清沢満之とか。 キリスト教においてだって新渡戸稲造とかいるじゃないかって話なんだけど、やはりキリスト教関係に比べると日本の仏教界は人物も濃い。

伝来のし方、の違いと言うより、やはり受容の素地(環境)がどれだけあったかと言うことなのだろうと思う。 日本にはキリスト教が根付く素地がなかった。


宗教と言うようなブッキッシュなもの以前の、それこそエートスと言うようなものは如何にして形成されるのか。

お隣の中国では、紀元前に既に出来上がっていた郡県制(中央集権)国家が、前近代の日本にはまったく成立しなかった。 他にも律令とか一応は取り入れているのに、科挙は導入していない。宦官もいなかった。 日本人の何かに抵触したのだろう。

中央集権体制が古代(大化の改新とか)に存在した、とか言う話はあるけど実態のほどは分からない。 と言うか怪しいと感じる。 そんなものが根付く素地があったと思えないからだ。 元々そういう素地があったなら、もう少しその体制は磐石であった筈で、定説通り「ほどなく形骸化した」と言うのなら、やはりそもそもどの程度のものだったろうと思わざるを得ない。 建武の中興とかせいぜいそのレベルだったんじゃないか。

豪族の連立国家とか、封建体制とか、そう言うのが日本人の体質に合う理由は何か。 無論要因は複雑だろうけど、私は地形の影響が大きいように思う。

一神教は砂漠の真ん中で生まれたと聞くが、分かるような気がする。 日本のように四季があり、地形も入り組んだ場所からああいうもの(思想)は生まれ難かろう。 どうしても八百万の神になってしまうのではないか。 Godや天のような超越概念が生まれない言語世界では、人々の気分が割拠的になってしまうのも当然のように思える。


キリスト教の思想的な核になっている愛や人権。 日本では独自に生まれるどころか、受け入れる素地さえなかった。 これもどうしてなんだろうか。

人口が多過ぎたのだろうか。 例えばEU圏の一国の面積と日本のそれは似たようなものかと思うが、こんなに人口密度の高い国なんてEUには無かろう。 これは単純な面積比では計れない。日本のように国土のほとんどが山岳地帯という地形に、この人口は多過ぎだ。 因みにこれは現代だけの話じゃない。 歴史上、ず〜っと日本の人口は多かった。

人口が多い理由は米の収量倍率にあろう。 昔見たNHKのDVDで、メソポタミア文明の驚異的な収量倍率について語られているくだりがあったんだけど、稲作ってほとんどそれに近いんじゃないか。 単位面積における収穫高、と言うか人口の維持能が牧畜・麦作なんかと比べ物にならない。

人間=人体、と言う思考法も日本と言うかアジアにおいて濃厚である気がする。 人口が多過ぎると(人命の)相対的な価値が下がるのだろうか。


1/16(月)

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あるマンガを読んでいたら、こういうくだりがあった。

受験を控えた高校三年生の息子が勉強をしない。夏期講習にも行かないという。 何でも彼は役者になりたいらしい。 困った母親が、父親の方に説得するよう頼み込む。 そこで父親は言う。 「○○(息子の名前)、世の中には大学に行きたくても行けないかわいそうな人がいるんだぞ」と。 まあ如何にもありそうな筋書きだ。

しかし、その親父は何故に「大学に行きたくても行けない人」がかわいそうであるのと全く同じ意味で、「大学に行きたくないのに行かねばならない人」がかわいそうであると言う単純なことが分からないのだろうか。 不思議でたまらない。


1/15(日)

私は基本的に我慢しない。 ある対象を結果的に「得ない」ことはあるが、それは総合的な判断によって、別のある選択を採る際、トレードオフの結果排除したものに過ぎない。 つまり何事かを得ている。


誰かのために土産の一つでも買ったとする。 それはある意味では我が身を削る行為でもある。事実その代金は損じている。 だからそれは自らの能動的行為として与えたのであって、我慢ではない。 むしろ与えないことこそが我慢である。

千円払うのが惜しくて昼飯を食べなかったのなら、それは昼飯を我慢した(捨てた)のではなく、千円の方をを選んだ(得た)と言うことだ。


貰う為に生きたりもしない。あくまで私は得る為に生きている。 不正行為で大学受験をパスしようとする者は、モノは与えてもらうもの、と言う世界観が拭えないからそういうことをしてしまう。

例えば受験なら、学力は自ら得たものだが、それにある評価を下し、合格通知などを出すのは相手側である。 我々は自らが納得出来る自分になるべきだし、究極的にはそこしか目指せない。何かを与えてもらうべく画策している時点でその人は、世界観の形成においてどこかを誤っている。

一般に学歴・賞・資格なんて言う「経歴」は、誰かが「くれるもの」。 だから私はそれらを「自分の外身に付いたもの」と表現してしまう。 私にとって経歴なんてものは、私の中にあるこの音楽と本質において全く違うものなんだ。

私は、私が美しいと思える曲を作ろうと思っている。誰かが持て囃してくれる曲を作りたいわけじゃない。 だから、出来上がった曲が結果的にどの程度売れるかとか、どのように評価されるか、なんてことは、そもそもの目的とは違うところにある。 無論、どうでもいいと思うわけではないけど、他人からの評価は常に付帯的なものだ。


このような思考が習慣化すると、英語に何故「否定形」が少ないのか、が解ってくる。 「Anybody doesn't know」でなく「Only God knows」と言うように。 アメリカ人は子供に「自分にまつわる事柄について、受動形を極力使うな」と教育するそうである。

アメリカ人がスポーツの国際試合などに何となく冷淡である理由は、賞を「貰うこと」に熱心でないからだ。 アメリカが銃社会である理由も見えてくる。 例えば目の前にナイフが一本ある。これをどう見るか、と言うのが世界観である。 「危険だ」・「凶器となり得る」と思えば、その社会には封印の圧が働く。 「便利そうだ」・「木も削れるしリンゴの皮も剥けるじゃないか」と考える社会がアメリカなんだろう。 だから全人類を滅ぼしてもなお余りある核兵器が持てるし、逆に日本では、原子力発電すら消えて行く運命にある。


私は英語を母語としないが、ある面において彼ら(英語圏人)と同じ結論に至っている。 つまりこの世界観は、単純な使用言語の差ではないらしい。


1/14(土)

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ヴィンテージ・シンセを再現したようなプログラムを漁っている。 前々からソフトシンセみたいなものは、必要程度には一通り持ち合わせていたんだが、ここ暫く、無意味なほどに様々なものを試している。

実在したシンセサイザー商品のエミュレーターと言うのは、ソフトシンセの一つの有力な型である。 ヒット商品であったものは、そのほとんどがソフトシンセ化されていると言って良い。

そのエミュレーター、実機の発表当時としては技術的、あるいはコスト的な限界に過ぎなかった仕様までを忠実に再現していたりする。 やや滑稽に思えなくもないけど、そこを再現せねば見向きもされないのかと思われる。 シンセサイズの能力を買われるのでなく、ノスタルジーが主たる入手の動機になっているらしい。

私は鍵盤と一体型のシンセサイザーを買ったことが無くて(音源モジュール化されたタイプならいくつかある)、それ界隈には当然疎い。 再現性の程が絶賛されているようなエミュレーターを手にしても、(実機との)比較がほとんどできない。 「当時こういうものが商品化された」と言うこと、つまり「商品化される素地がその時代に存在した」と言う歴史を味わっている面が濃い。


KORG社製のシンセにDL-50とかいうのがあって、既にヴィンテージ物らしいんだが、そのエミュレーター的なVSTiを落としてみた。 無論実機なんて見たことも無い。

ネットで情報漁ってみたんだが、シンセの音を出すセクションとストリングスの音を出すセクションがあるらしくて、それらをブレンドさせて音を作るそうな。 シンセ部分は一応の標準的パラメーターは実装されていて、いわゆる音作りも可能となっている。 ストリングス部分はほぼレイヤー用って感じ。シンセ音に掛けるエフェクトのような位置付けか。

シンセとストリングス音がセットになっている必然性みたいなのがイマイチ感じられないんだが、確かにピアノとストリングスをレイヤーしたような音色って(プリセットとかに)よくある。 当時、割かし使用頻度が高いと判断された音の構成なのだろうか。 実用例とか知りたいところだけど、如何にもありそうな感じはする。


Roland社製JX-8Pのエミュレーター(PG-8Xと言う)を落としてみた。 と言うか、結構前から既に導入していて、実際曲にも使っている。現時点で商品として発表したものがあるのかはよく分からないけど、いずれ発表するのは間違いない。

JX-8Pには当時別売りで、専用の音色エディット用端末PG-800と言うのがあったそうだ。 エミュレーターのGUIには、その端末の操作パネルがほとんど丸ごと採用されているらしい。 実機は本体でも音色エディット(パラメーター操作)が可能だったみたいだが、狭いパネル上に配置されたボタン類をフル活用するような仕様らしく、おそらくは重々の階層化が為されていると見た。如何にも面倒臭そう。 私がソフトシンセ化するとしても、PG-8Xのような仕様にするだろう。

そのPG-8X(と言うより実機JX-8Pの仕様)、操作方法なども確かに分かりやすい。 音の良し悪しの感じ方は一様で無いだろうけど、音も良いように個人的には感じる。 実機のSysex(機種固有情報)も読み書きできるそうなので、かなり再現性も高いと思われる。 ついでに、JX-8Pの音源部は(モデリングではなく)純粋アナログだったらしい。 因みに私は、アナログに対する拘りも郷愁も全く持たない人だ。

この当時のシンセサイザーは、思想(商品コンセプト)的には、純粋に音を創造するツールでもあるが、実在の各種楽器音を再現する為のツールって側面もまだ大きいように思われる(現行のシンセサイザー商品にこちらの側面って、もうほとんど無かろう)。 プリセット音色などを眺めていてもそこは伺える。 過渡期の商品なんだろう。


1/13(金)

街なかで「笑顔の猫」の写真(ポスター)を見た。 正確には「猫の、一見笑顔かのように見える顔」をポスター化しているもの、だ。 意図的にか偶然にか、ああいうカットが撮れてしまったのだろう。

猫にあのような機微は無い。断言できる。 ほとんどの人は知っている筈だが、稀に本気で錯覚している人もいる。 大抵は無害であるから、その錯覚も咎められたりはしない。

私は上の文章において、意識的に「表情」と言う用語を避けた。 感情が表出するから表情なのだろうから。猫のあれは表情ではない。


某アイドルグループの解散について、「あれは事務所の内紛が原因で、メンバーらの意思は別のところにある」などと言ったコメンテーターが、ファンらに絶賛されたらしい。 「よくぞ言ってくれた」と。

おかしな話だ。 いくら事務所の内紛などと言う困難があったとしても、「それを乗り越えてでもグループを継続したい」と言う意志までは無いから解散するのだろう。 物事と言うのは、当事者の意志だけでもかなりの部分持ち堪えるものだ。 上の賞賛の声は、「解散が本人らの意志でなくあって欲しい」と言う願望を投影しているだけ。


もう20年近く前に自殺したあるミュージシャンがいるのだが、一部のファンの間では「あれは自殺でなく事故」と言うのが共通の見解であるらしい。 無論、警察発表などは一切無視した見解であろう。つまりまた願望。 「彼が世を儚んで自殺したなんて思いたくない」ってことなのだろう。

上のグループの話とも重なるが、そういう願望を押し付けるファンらに欠けているのは、相手の視点である。 自殺でなく事故であるなら、本人の意思に反して死んだと言っているわけで、本人がかわいそうではないか。 愛する人を失ったその悲しみの前に、救われる点があるなら、その死がその人自身の選んだ道であったと言う一点においてのみである。


直江兼続と言う戦国武将がいる。 兜の前立てに「愛」の一文字をしつらえていたそうで、その現物も残っていると言う。 ある作家が「あの時代に愛をスローガンとしていたなんて、なんと先進的な感性の持ち主か」だの、「愛民思想の表れか」などと驚嘆を込めて評していたが、後にその「愛」について、その作家の見方とは全く違った形で定説が確立しつつある。

兼続は地元の愛宕神社に戦勝を祈願していた、と言う記録があるそうで、その辺りが機縁で「愛宕権現」の頭文字を取ったのではないか、と言う説が有力であると言う(あるいは「愛染明王」の頭文字とも)。 漢字一字をしつらえたのも、主君上杉謙信が「毘」の一字(毘沙門天の頭文字)をしつらえていたことに倣った、と考えるのが最も無理が無い。

つまり、後世人が驚嘆するような気分などそこに込められていない。 そもそもその時代に、LOVEの対訳としての愛なんて言葉は存在しない。


何だかオムニバスのような文章になってしまった。 人は、そもそも在りもしないものを在ると錯覚するからこそ、無くなったなどと感じてしまうのである。 在るものは無くなったりしない。 物事の観測を曇らせるのは、大抵は願望である。


1/12(木)

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死にかけたほどの重病であったのに、案外早く退院したりしたものだから、周囲に「割りと大丈夫そうだね」みたいに言われる。 「元気そうに見えるから心配でなくなる」と言うのは、ごく常識的な感覚であるから、全く責められない。 私も周囲に過度な心配などかけたくない。

しかし私は本当に死にかけていた。 実際医者にも「死ぬかもしれない」と言われたし、判明した病名も、数こそ少ないが死亡例のあるようなものだった。 事実、当初は入院期間も半年以上、とか言われていたのだ。

私は無理を押して退院した。 まあ、そう言うとちょっと語弊があるな。 自覚的にはほとんど健康体なのに、いつまでも寝たきりでいるのがかったるかった、と言うのが実情に近い。 ただ、担当医にもう暫くの入院を勧められていたのも事実である。 因みに現在も、抗生剤の服用など、治療そのものも完全には終わっていない。入院から外来患者に身分が変わっただけだ。


健常者としての振舞いが、周囲の心配を掻き消してしまう。当然ながら、それと同時に、周囲からの「手厚い待遇」も霧消してしまう。 ここで人は何となく「損をした」ような気分を覚えるのだろう。私とて例外でない。 しかし、この気分が高じると、人は「弱者ビジネス」に手を染めてしまう。 弱者としての生き方が骨肉化した人間、彼と交誼を結ぶのは絶望的なまでに難しい。


脊椎なんて言う、生存の根幹に関わるような部位が侵されていたもので、本当に入院当初は車椅子での生活だったし、退院後も「障害者として生きて行かねばならないこと」がある程度想像の範疇にあった。

でももし仮にそうなったとしても、私の世界観そのものは変わらなかったろう。 医療機関(具体的には看護師の手)と言う、この社会のインフラの、使える部分は利用し、もしそれが使えないのであれば別の手段を講じるだけ。 身体の不具合によって、生活に窮する事態だって想定できた。 公的な給付のようなものを受けるにしたって、利用できる制度があれば利用する、と言うだけ。都合良い制度がなければ、即座に別の方法を模索する。 自分なりの最適解に従って生きることに変わりは無い。

「次の曲を作ること」を至上の命令とする私は、そんなところで自ら率先して残り時間を縮めようなんて思わない。


私は自分自身で「大丈夫」と判断して、医者の制止すら振り切って退院したのである。 だから健康なのだし、健常者として扱ってもらって結構だ。私の判断なのだから。 無論ある側面において、健常者は損であることも知っている。 が、私が健常者としての振舞いを選ぶのには、理由がある。

私が弱者としての振舞いを嫌う理由、それは自分を弱者だと主張して、何らかの権利の割り当てを期待する行為・心持ちが、乞食のそれと同じだからである。 それは、モノを「得る」でなく、「与えてもらう」方法に腐心すること。 私は貰うためでなく、得るために生きている。 乞食として生きることを潔しとしない私は、どんな栄誉に与ることより、自分がこの生き方を選んだこと、を誇りとしている。


1/11(水)

広瀬沙希、1stアルバム「Love Solitude」、本日発売です。 下は本人から。


Love Solitude

ファーストアルバムです。

どの歌も全てが私であり、私を形成するパーツの一つで、この身を削って、時には心の中に潜り込んだりして完成させた、渾身の13曲です。

是非聞いてもらって、何かを感じとってもらえたら、何かをみなさんの心に残すことが出来たら嬉しく思います。

広瀬沙希






因みに、広瀬沙希は現在リハーサルをお休み中です。 近いうちにまた活動を再開する予定ですが、それまでこのアルバム聴いて待っててください。


1/10(火)

入院中、退屈なんでオセロ(TVゲーム)をやっていた。コンピューターを相手にである。 因みに相手のレベルを4段階で選べるんだが、レベル2ぐらいで私はほとんど勝てなくなる。

あれ、要するに一手打つ毎に変わる盤面の状況変化を脳内で展開する作業が得意な人ほど強いはずなんだが、完璧に計数能力だな。 数千数万、もしくはそれ以上の盤面の状況を脳内に展開するのに、言語をもってしてでは負担が重過ぎる。と言うか無理。 あれにはきっと言語以外の能力が要る。

今のところの結論。 オセロのような単純なものでさえ難し過ぎるのだから、囲碁・将棋のプロになど私は到底なれない。



そう言えばピカソは言っていた。「コンピューターなんて役に立たない。あれは答えを出すだけだから」と。 確かにそう。 人間の人間性は思索にこそあると思う。 コンピューターは、オセロにおける「次の一手」と言う正解を弾き出せるわけだが、考えてもみると、正答って実は簡単だったりするのではないか。

ペーパーテストを受けるとする。設問は仮にアイウの三択式。 「第一問目の解はアだな」。「第二問目の解は、これもアだな」。「第三問目の解、これもアだな」。 なんてことになった際、人は「待てよ。一問目から三回もアが続くか?」などと逡巡を覚える。 人と言うものが複雑だからだ。

1+1の答えなんかより上の逡巡は、余程に高度な論理の所産であろう。 正答より難しいものはあると言うことだ。

ある対象に直面した際、人が脳内に展開できる情報(つまりその人の映している現実)は単純でない。 1+1を解くように、何でもかんでも直接的に正解を選べる人は、例えその人がペーパーテストで高得点をマークできたとしても、多分ある側面においては頭が悪い。 人の心と言う複雑怪奇なものを持ち合わせていなければ、人は常に一直線に正解にたどり着ける。 そういう人は、人としては狂っているが、コンピューターとしては優秀なのかもしれない。

上のペーパーテストの例、実を言うと人の心でなくとも対策可能である。 「○回以上同じ答えが続いたら、いずれかの解を疑え」と言う命令を一つインプットすれば良いだけだから。 これはいわば、言語機能欠損の代償としての発達なわけだが、多くの人はここに気付けない。 だから人間性でないものを人間性と錯覚したりもする。

その手の命令を例え何億通りインプットしようと、代償は代償に過ぎない。 言語の十全たる代替になどなるはずが無い。


1/9(月)

退院後、早速リハーサルにも復帰してます。

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神田優花、年明け早々のスタジオ入り。 早速二曲ばかり録りました。 5枚目のアルバムの収録予定曲がこれでとりあえず揃った。




入院したばかりの頃、正直言って気が滅入っていた。 体調も無論良くなかったが、いつ退院できるかは勿論、その先五体満足でいられるのかさえ見えていなかったから。

入院何日目だったろうか、寝たきりの日々の中、ノートPCを病棟に持ってきてもらい、ベッドの上で無理を押して仕事(曲作り)を始めた。 その日、それまで医者などにどんな処置を施された時よりも、強く「回復」を実感した。 やはり人間は、目的が動かしているらしい。


上の話をスタジオで神田優花にしたら、「そんなことをして(医者などに)怒られなかったのか」と問われた。 事実そんなこと(心配されるようなことはあっても、怒られるというようなこと)は無かったので「別にそんなことは無い」と答えたが、もっと正確に言うなら、そういう(怒られるというような)関係性に無かった、と言う方が正確だろうか。 相手にそんなことを言う勇気が無かったのかもしれないし、私が無意識のうちにでも、相手にそういう間合いを許してなかったのかもしれない。 そういう意味で私は、一般的な患者では無かったのかもしれない。

文章打ってて思い出した。 退院間近のある時、ある看護師(おそらくは優に50年配は行ってたろう恰幅の良い女性)に、「手に針(注射器)を射す前には洗面所に行って手を洗って来い」と命令された。 腕を組みながらの随分偉そうな物言いで「何だか厚かましいオバさんだな」と思いはしたが、不思議とハラも立たず、「ハイ」と素直に指示に従った。

今になって思う。 あのオバさんの堂々たる態度は「これはお前の為に言っているのだ」と言う確信から来ている。 つまり、相手に対する愛がその人を強くしている。 精神の基底に愛がなければ、その疚しさのせいで、人は常に何かに怯えなければならない。 だから、人に好かれるのは「堂々とした人」なのだろう。 私もあのようでありたいね。


1/8(日)

慰安婦問題、また揉めているらしい。

自分を救えるのは自分しかいない。 いくら何を伝えようにも、その人の心に無いものを感じてもらうことは出来ない。 人もその集団である国も基本は同じだろう。 「被害者ビジネス」のような生き方が骨肉化しているような人とは、もう直接的に付き合うことがお互いにとって得策でない。

韓国は日本を依頼の対象としている。これは間違いない。 民族の骨髄に沁みこんだ、事大の精神とはあのようなものなのだろう。 「なまじ手を差し伸べたから恨まれる」と言うのが事実であるから困ったものだが、個人の関係においてもしばしばこういうことはある。

韓国が親日国家に変わる可能性は(割りと濃厚に)ある。 が、その為に日本は、謝ったり金払ったりしても意味が無い。 「今のやり口が通用しない相手である」と思わせるしかない。 それは時に恫喝のような手口を伴う。 友人になれぬ相手なのだから仕方ない。

「被害者ビジネス」を止められない者と親友になることは不可能である。 パワーバランスによって、その者が「裏切れない環境」なら実現可能だし、運良く持ち時間が尽きるまでその環境が崩れないことはあり得る。 但しその関係を友情とは呼ばない。 友情の成立しない相手との妥協的な時間を、私は無価値だと感じる人だ。 本当の意味での友情の成立からも、遠ざかるだけ。


1/7(土)

フリーソフトって音楽系でも充実していて、ほとんどフリーソフトだけで売り物レベルの音は作れてしまう。 今の私は、曲作る際、シーケンサーもDAWも一応商用のものを使っているが、昔から使い続けているものを惰性で今も使っているだけで、機能面でそれらはフリー物とほとんど変わらないと思われる。

フリーのシーケンサーでノート組んで、フリーのDAWにフリーのプラグインシンセの類を立ち上げて発音、必要に応じてフリーのエフェクターをかまし、オーディオデーターにレンダリング、これで一応曲はできる。 波形編集ソフトやマスタリング系のエフェクトなんかも、フリーでそこそこのものは揃う筈。

ただしその一通りの無料ツールを揃えるには、相応の情報収集の手間ぐらいは要る。 一々のダウンロードも(それに伴うアカウント取得作業なども)手間ではある。 あとトラブル対応なども原則的には自分でやらねばならない。


音楽制作用の有料ツールが、平均的にどれだけの数出るかなんて正確なところ知らないが、音屋の数自体が大したことないので、商品の部数も大したものではあるまい。 三千部出れば大ヒット、とか言う話を聞いたことがある。どの程度実状に則しているのかは分からないが、概ねそんなところではないか。 もしそうなら、ほとんどの商品は遥かそれ以下の部数で推移しているということになる。

「だったら商品なんて成立するのか」って話だけど、現に存在しているんだから一応は成立するのだろう。 市場がか細いが故に、一つ一つの商品は割高になっている筈だが、それでも買う人がいて採算も取れたりするらしい。 仮に(フリー物と)性質上の差が無いとしても、手厚いサポートだとかへの需要があるのだろう。


先日、入院したのだが、そこで(医師・看護師などのプロによって)行われたことは、血液・尿検査だの抗生剤・栄養剤などの投与だの、つまりは、キットを与え一通りの訓練さえ施せば患者本人にでもできることばかり。 CTスキャンだのMRIだのも、要は機材が特殊なのであって、オペレーションにさほどの職人芸が要るとは思えない。 レントゲンと駅前の証明写真撮影機に、操作の難度における違いなんてほとんど無いはず。 修正なんて工程があったりする分だけ、後者の方が難度高かったりして。

にも関わらず、病院は連日大層な賑わいで、外来の待ち時間2〜3時間なんて当たり前だそうだ。 医者・看護師も激務だそうで、休みを削って働いている。 医者の平均寿命は日本人の平均を下回ると聞いた。

人々は、医療技術でなく、手厚いサポートの方を求めているのではないか。 もしそうであるなら、それは心の問題だ。 この心の問題があり続ける限り、ある種の商品・サービスに需要はあり続けるし、そういう商売は成立し続ける。


1/6(金)

最近、街なかで赤ちゃんを見かけると凝視してしまう。 0歳児の時点で、既にその子が映している現実に歴然とした差があることが分かる。 あれはつまりは生まれ持った脳機能の差で、おそらくは終生埋められない溝なのだろう。

ごく最近見かけたある子(多分生後一年未満)は、母親が拍手するのを真似て手を打っていた。 あれはいわゆるミラーニューロンの作用で、まさに脳機能そのものだ。 別のある子は、目に映るもの以外(他人の人格・愛など)を全く映していない。 意図を読み取れないから、当然人の真似などもできない。 両者の差は、両者が映している現実の差であり、言語と密接に関係していることは、疑いの余地が無い。

ピカソの言葉に「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」なんてのがある。 日本語化しているから意味を掴みにくいが、英文(原文はおそらくフランス語かスペイン語)では「I paint objects as I think them, not as I see them.」となっている。

芸術家にとっての最大の資産は、その人が映している現実である。 作品はその現実の一断面・一位相に過ぎない。 泣いている女性を目にした時、泣いている女性(と言う物体)しか心に映せない人では、泣いている女性の姿しか描けない。 その写実能力を極限までに高めたところで、写真のそれには勝てまい。

「何を言っているんだ」と思われるかもしれない。 対象を見ること(see)しかできない人に、ピカソの「泣く女」は描けないということだ。 あの絵はピカソが心に映した風景である。 心に映すこと(think)に必要な、唯一のものは言語である。


1/5(木)

電気屋の中を歩いていたら、広告映像が流れていたのだが、猫がそれぞれ楽器を手にバンド演奏をしている。 ギターだのドラムだの。

ああいうものに難癖をつけるのも野暮だが、楽器ってものは人体に則して設計されている。 仮に猫に社会があり文化があったとしても、楽器はあのような構造・奏法にならない。当然音楽様式も(人間社会のそれとは)違ってくる。 ただし、ある程度の共通点も残るだろう。 音楽には、自然の摂理のようなものも反映されるから。

猫のような、時間軸を展開しにくい脳の持ち主に楽しめる音楽があるとしたら(無いだろうが思考の遊びとして考えている)、いわゆる楽章・楽節構造を持った音楽のような、構成・構築美を味わうようなものにはなるまい。 もっと断片的な、点を抽出したような音色・音響を楽しむようなものになるだろう。 あるいはミニマルのように、尺だけは長くても構成を脳内に展開して味わうようなもので無いもの、になろうか。


1/4(水)

退院した。 すっかり元気になったから退院した、と言う訳でもなく、入院後10日目ぐらいからあんまし状況は変わっていない。 体調的にはとっくに退院できたのだが、(抗生剤投与などの)所定の治療が終わってなかったので退院できなかっただけだ。 正直言うと担当医にはもう暫くの入院を奨められたが、振り切って退院した。いつまでも寝てるわけにも行かないんで。

簡潔に現状を説明しておくと、炎症はとりあえず収まった。血液検査の結果でもそれはハッキリしている。 また、入院時の検査で出ていた数々の異常値は、炎症反応が収まるのに連動してほぼ沈静化した。 40度近くあった体温も平熱に戻ったし、血尿も収まった。血糖値も食前80・食後120前後あたりに落ち着いている。 要するにほぼ完全に健康体。 長い間寝たきりの生活をしていたので筋肉が落ちていることは感じるが、日常生活に特段の支障は無い。

ここまで状況を説明する文章を上げてきたのだが、誤解のないよう補足を入れる。

私は確かに何十万人に一人出るかかと言う奇病に罹っていた。 担当医の話によると、アメリカの医学会の統計(レアケース過ぎて国内の統計データが無いらしい)では入院患者の一万人に2.8人の発症率であると言う。 母数が入院患者でなければ本当に数十万、あるいは数百万人に一人と言うことになったろう。

但し、私に生じた脊椎炎自体が珍しいと言うより、私の抱えていた状況がかなり珍しかったのだと思う。 通常、体がボロボロになって各部位が炎症・感染症に侵され、併発的に脊椎炎も起こるのが普通なのだろうが(そのケース自体そんなに多くはなかろうけど)、私の場合、ピンポイントで脊椎炎だけ起こったと言うことで、その辺が珍しかったのだろうと思われる。

更にこれは重要なことだが、奇病と言うのは「稀である」、従って「データも少ない」と言う意味であって、難病・重病とは意味が違う(私の場合、重病と言うことにも一応なっていたようだが)。 癌は日本人の死因の最上位を占める難病だが、同時にポピュラーな病気でもある。 死因の上位を占めてるんだから、前例豊富な、言わばごくありふれた病気で、医療機関側にも広範なデータがある。 モノによっては「治らない」、「死は不可避である」などと言うことも含めたデータが。

私の場合、奇病であるが故にデータが少なく、現場の医師も経験に基づく処置が施し難かったと言うことだ。 病気そのものはおそらくイージーな案件で、外科手術などもしていないし、基本抗生剤の投与ぐらいで終わっている。 とりあえずは退院してます。心配おかけしました。


ついでに、入院と言う形で医療機関をじっくり眺める機会を得た。 その感想。

以前の印象と大差は無いが、あまりクリエイティブな、インスピレーション豊富な現場では無い、とあらためて思った。 まず客が基本的に「病人」である、と言うのが私などは引っ掛かる。 例えば我々が平素面接したりする相手は、「夢を持った若者」であることが殆どなわけだけど、えらい違いだ。

医師や看護師らは、「病気を持った人が病院のお陰で快癒し退院する」と言う顛末を見守ることに充実感は持てなくもないと思う。 が、その患者はいずれ同じ病気を再発するなり別の病気を発症するなりして、あるいは老いによる衰弱で、高い確率でまた医療機関のお世話になる。 そしていずれ(絶対に)死ぬ。 医者は、医術は、病を根絶できるわけでも、老い(時間の流れ)に抗えるわけでもない。

医療機関は社会のインフラとして、絶対に必要なものである。 その有用性は重々認めつつも、私はあのような現場に持ち時間の全てを捧げる気分には到底なれない。 私の精神はそんなに頑丈じゃない。


1/2(月)

Spotifyのアプリを入れて色々と弄ってみたんだが、結構面白い。子供の頃だったらもっとハマったろう。 Spotifyは現状、世界最大のアカウント数を誇るサービスであると言う。つまり、音楽の消費スタイルのスタンダードであると言うことだ。

結局業界は旧来の価格帯、アルバム\3000・シングル\1000だとかを維持することが難しい。 音楽の販売形態がパッケージから配信に変わると言う、音楽業界が経験したことのないような(記録メディアがレコードからCDに変わった、なんてこととは比べ物にならないくらいの)ドラスティックな変革期に当たって、今はまだ長い試行錯誤の時期なんだろう。

音楽コンテンツなんて、詰まるところ容易に複製可能なオーディオデータに過ぎないのだから、配信の単曲\200・アルバム\2000とかって価格帯すら維持するのが難しい。 多分昔も、アルバムを\3000出して買ってた人なんて、(そのアルバムの)リスナーの3分の1もいなかったのではないかと思うんだが、コアとなる層であったろう中高生にとって、1タイトル\3000は如何にも高い。

その障壁のバッファとなっていたのが、レンタルやCDやカセットテープの貸し借り(&ダビング)だったと思うんだが、厳密にはあれも著作権侵害ではあろうものの、リスナーを育てる重要な役割を担っていたはずだ。 オーディオデータのコピーにロックを掛けるってのは、初期段階のリスナーのエントリーの窓口を締め切るようなもので、広い視野で見るなら業界にとってもきっとマイナスであるに違いない。

日本のメーカーはCCCDなんて作ってみたりYoutubeにクレーム入れて動画を削除させたりしていたんだが、結局「容易に複製できてしまう」と言う現実の前にそういう行動って無力で、「だったらタダで聞いても良いから、そこに広告載せて少しでも収益源化しよう」って発想は正しい。 道義的な善悪はさておき、商売人の発想としてはまっとうだ。


容易に複製できるものを\400とかで売っているものだから、あちこちで複製品がバラ撒かれる。我々がクレーム入れたりすることは無いが、ウチの音だって色々なところで違法コピーが上がっているのを確認できた。 これは水の流れのようなもので、無理に堰き止めようにも限界がある。 どうせ根絶できないのなら、そういう動きについても、少しでも収益源化したいと考えるのは自然だ。

Spotifyのようなサービスが生まれることによって、違法な複製品のアップロードとかは激減したはずだ。 落とす方にしたって(フル尺で聴ける)合法的なサービスが存在するのなら、わざわざ違法行為に手を染めたいと思わないだろうから。

Spotifyには月額\1000程度の有料アカウントと無料アカウントがあるらしい。 無料の方は若干音質が下がり、時折強制的に広告が入る。再生時間の制限もあるらしい。 昔だってCDとそれをダビングしたカセットテープには音質上の差があった。この辺も似ていると言えば似ている。


音楽コンテンツの価格暴落によって生じる問題として、「ミュージシャンの収入をどうするか」と言うのが挙げられている。 ミュージシャンの収入も激減していると言われているのだが、私はここについてはやや懐疑的だ。 iTunes・Moraのようなダウンロード販売サービスのみを続けていたらミュージシャンの収入は安泰だったろうか。そんなこともあるまい。

例えばウチのあるタイトルは、現在月間7万を超える再生数がある。 その7万件が全てダウンロードされるなら月間一千万円近い収入になるはずだが、ダウンロードのみの販売形態を取っていたらそんな数落とされる筈が無い。 現状の広告収入程度の実入りすらあったか疑わしいと思う。

今ちょっと調べたら「Spotifyの運営側は年間10億ドルの収益を上げ、うち5億ドルをロイヤリティーとしてアーティスト側に分配している」とある。 私は少し取り過ぎ(分配が少な過ぎ)ではないかと思ったが、もし現状の分配率が不当なものであるなら、もう少しリーズナブルな分配率のサービスがいずれ立ち上がるだろうし、コンテンツ供給者もそちらに流れるに違いない。 そういう動きが急激には見られないことからも、上記の分配率の設定も、現状暴利と言うほど不当なものではないのだろう。


ウチのように巨額の宣伝費を掛けられないレーベルにとって、Spotifyのようなサービスってむしろ有難いのかもしれない。 アルバム1タイトル\2000〜\3000ってハードルが高過ぎる。 私も子供の頃、\3000払って定価でアルバムを買うようなケースって、余程のフェイバリット・アーティストのものに限られていた。 「ちょっと聴いてみたい」程度のタイトルに\3000は高価過ぎたからだ。 こういう硬直化したシステムでは、\3000落とされるか無視されるかの二者択一と言うことになり、大宣伝掛けられるアーティストが有利と言うか、ほとんどそういう商品しか成立しなくなる。

「ちょっと試しに聴いてみたい」と言うような需要を掬い取れるサービスって実は有難いのかも。 しかもテープのダビングと違って、多少ではあっても収入源となるし、(これは重要なことだが)再生数が捕捉できる。


結局のところ欧米人には「物事は放っておいてもいずれ良い風に収斂していくだろう」と言うような楽観と言うか、人間に対する信頼のようなものがあるのだろう。 そしてその感覚はきっと正しい。

Spotifyのようなサービスがミュージシャンを滅ぼす、と言うのなら音楽の需要自体がその程度のものなのだろう。 人類が本当に音楽を欲しているのなら、きっとミュージシャンに作品を再生産できるだけの還元をもたらすシステムが整備されるに違いない。


1/1(日)



現時点で既に決まっている、今年のリリース計画。 今月11日に広瀬沙希のファーストアルバム「Love Solitude」が、2/1に神田優花の「Shades&Lights」がリリースされます。 その後、3/1に神田優花の次のシングル。 ここまでは日にちまでハッキリ決まってます。

その後神田優花の5th・6thアルバム。これも収録曲は9割方上がってるので、ほぼ確実に今年中には発表できます。 影山リサはシングル1タイトル、これは今月中には歌入れも終わる予定なので、春頃にはリリースできそう。あと企画物のミニ・アルバム2タイトル。全収録予定曲16のうち13曲が上がってるので、これも今年の前半には出せるはず。

影山リサはその後に邦楽シリーズ(「ナイチンゲール」の続編)を出そうと思ってて、できれば今年中に発表したいと思ってます(個人的にはこれが一番楽しみ)。 影山リサは去年は比較的リリースタイトル少なかったんですが、タイミング的な問題で、制作のペースは例年と変わらなかった。だから今年はたくさん発表することになりそうです。




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