Staff diary  
スタッフ日誌[2016]

[文 / 益田(制作)]

12/31(土)

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今年最後の更新です。 スタジオで撮ったような写真を上げ続けてますが、私自身はここ暫くリハーサルをお休みしてます。 年内最後のリハには、病院抜け出して一応顔だけ出したんだけど、本当に顔出しただけ。一切仕事はしていない。 本格的な復帰は来年になります。来年もよろしく。




12/30(金)

BPM20台の曲を作ってて思ったんだが、やはり音楽鑑賞の際、肝になるのは時間の保持能で、曲は速すぎても処理が追いつかなかったりしようが、遅すぎると保持できなくなる。 古代の音楽、例えば催馬楽なんかを聴いてると、私も遅すぎて把握できない。 今作ってるそのBPM20台の曲は、人によってはたまに突然音が鳴るだけの、全く意味不明な作品になるかもしれない。

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(非鳥類型)恐竜が絶滅した理由は、絶滅しない為の最低限の条件を維持できなかったからである。 最低限の条件、環境と言い換えても良い。 それが維持できなかったから絶滅した。 「隕石が落ちたからじゃないの?」と言う意見、それも多分間違ってはいない。 隕石が地球に衝突したことによって、十分な条件が維持できなくなったのだろうから。

この理屈が体感できない人は、ある生物が絶滅した際にすぐ「人間による乱獲が〜」とか言い出す。 無論、人類そのものも環境を構成する一要因には違いないから、その影響は絶無では無い。 しかし環境と言うのは、人間の行動ぐらいで簡単に条件を根絶やしにできるほど、脆弱なものばかりではない。

「だったら条件さえ揃えば恐竜は絶滅しないのか」と言う反問はあり得るだろう。 そしてその通り。 条件さえ維持できたなら絶滅なんてしなかったろうし、条件さえ揃うなら、この先に恐竜が出現することだって当然あり得る。 但し、環境と言うものはそんなに単純な要素で構成されていない。 再現しようにも一億年前の環境である。隙の無い条件など容易には揃わない。

ニッチありきで収斂は起こる。物事ってのは、何かが在ったことなどより、それを在らしめる環境が存在したことの方に本質があると言う事だ。 条件さえ揃うなら、恐竜が再び出現することだってあり得る。


12/29(木)

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Youtubeをダラダラ見ていたら「子狐を保護するライオン」みたいなのをたまたま見てしまった。 子狐を我が子のように保護する雌ライオンの有り様を、感動的なストーリーに仕立てている。

結論から言わせて貰うが、それは錯覚である。 「子猫を育てる母犬」だとか、その手の似たような話はよくある。 多くの動物は出産後、モードが切り替わるように設計されていて、特に無抵抗・無警戒な子供(上の子狐だとか)を見たら、反射的に保護してしまうようになる。 愛などと言う意志ではなく本能である。

ああいうのを愛だとか錯覚するから、物事が見えなくなる。 私がよく言う、在るものと無いものが見分けられない思考回路の典型だ。 願望が物事の評価を曇らせる。 在るものは消えず、無いものは最初から存在しない。

例えば「母猿が子猿の死体をいつまでも離さない姿が涙を誘う」とか、よく聞きますね。 あれは母猿に「死」の概念が理解できないだけ。 共感すべき何事もそこにありはしない。 私はこういうことを口にして、「血も涙も無い人」みたいに評されることがたまにあるんだが、「血も涙も無いのはどっちだよ」といつも思ってしまう。

物事を実体相応に理解することすらできずに、誰の心の側にいてやることができましょうかね。 猿の気持ちすら分からねば、猿の心に寄り添うことだってできませんよ。


12/28(水)

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昨日の続き。 シーケンサーを色々入れてみた。 結局インストーラー付きのようなものもいくつか試すことにした(インストーラーを解凍するプログラムを使ったので、インストールそのものはしていない)。

正直、あんまし新たな境地は得られていない。 フリーウェアばかりでなく、以前は有料だったものが無料化されたようなものだとか、フリーなんだけど有料ソフトのクローンのようなものも入れてみた。 しかしどれもイマイチ馴染めない。 やはり入力方法変えたぐらいで、新しい発想なんて簡単には得られないのかもしれない。


話は変わるが、私はハッキリ言って病院(医療機関)と言うものが嫌いだ。 昔から好きではなかったが、あらためて強く認識した。 理由は複合的だが、端的に言うなら変な「甘え」みたいなものを感じるからだ。 これは病院側にも患者の方にも感じる。 いわゆる共依存関係にあるものと思われる。

しょうもないことではあるが、まず病院の関係者(看護師・医師など)が、我が院に勤める医師のことを、客である私に対し「先生」と呼ぶ。 普通の感覚なら「医師の山田が」とか言う筈で、先生などと当たり前のように言ってくるってのは、他人である私に自分らの人間関係を当然のように踏ませて然るべきと思っていると言うことだ。 その現場の慣習だと言うなら文句は言わないが、個人的に違和感は拭えない。 あんまし相手に世間知が欠けていると、正直なところ、対峙するこちらも敬意が薄れてしまう。

学校などで生徒・児童が教師を「先生」と呼ぶのとは意味が違う。 あれはそう言った作法も含め、子供に教え込む為の機関であろう。 だから義務であったりもする。 また私立学校においても、当然その手の作法の仕込み(いわば調教)はサービスの一部として料金に含まれているであろう。 ついでに、私学の客は「親」である。 子供を教育(調教)すると言うサービスを売っている。 病院の従業員である勤務医を、私が「先生」などと呼ぶ理由は無い。


また、これは一般化できるような話では無いだろうけど、担当医が患者である私の私生活に干渉してくることにも違和感を覚えた。 医者は医学の定説、経験則に従った処方をし、今後推奨される行動、などを見立てて伝えれば十分で、いい大人である患者が最終的にどういう行動を採ろうと、それは本人の判断として尊重されるべきである。 依存されることが当たり前の機関だから、干渉(これも要は依存だ)も許されると言う変な空気が蔓延しているのだろうか。 まあこれは医師個人の資質による面も大きかろうが、私の担当はいわば外れだったのだろう。

「あなたは現状ニコチン中毒で、肺癌という形でその影響が出ています。このまま喫煙を続けると高確率で○○年以内に死に至ります。それを回避するにはこういう方法があります」←こういう事実関係を相手に伝えたらもう十分と言うことだ。 その上でタバコを吸いたければ吸えば良いし、やめるならやめれば良い。 「タバコを我慢してまで長生きなんざしたくねえ」と言う人は当然いるだろう。

まあ他人からの干渉それ自体は避けようのない面もある。 私は私で医者からの干渉に対しては、内容によってはハッキリ拒否し、毎度そうするわけにも行かないから、内容によっては適当に相槌だけ打っていたりする。 プロの所見と言うのはそれ相応に尊重するが、最終的に意見を採用するか否かは、常に自分で判断する。


ついでに患者も気持ち悪い。 病棟って何故か殺伐とした空気が漂っていて、例えば入院患者の、病院(直接的には看護師など)に対するクレームなども頻繁に上がる。 内容は丸っきり理不尽なものばかりではないのかもしれないが、普通の社会人ならその程度の不平は飲み込む程度のものであったりする。

「病人だから落ち着いた気分でいられないのだ」と言うのは一面の事実かもしれないが、「病人であるのだから、世界に対して無理を押し付けても許される」と言うロジックが私には成立しない。 一応断っておくけど、皆が皆おかしいわけではない。 大多数はまともだ。

看護師などが手取り足取り面倒を(場合によっては本当に大小便の始末まで)見てくれるが故に、「どんなことを言っても許される相手」だと思い込んでいるように見えた。 甘えた人間の典型的な思考パターンなのだが、「優しくしてくれる人には際限なく甘えても許される」らしい。 看護師さんもよく付き合えるよ。そこには本当に感心する。 あとあの職業には、共感性(言語力)と水商売的な資質が不可欠であると見た。 以前は看護婦と言ったいたのだが、女性でなければいけなかったのには理由があるのだろう。


12/27(火)

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シーケンサーを色々入れてみようかと思ってみた。 現状使ってるツールに特に過不足は感じないのだが、インターフェイスを変えることによって新たなインスピレーションを得られないものかと思って。 そんなに甘くはないかもしれないが。

新たなアプローチを模索してるんだから、今までのと似たり寄ったりのものじゃ意味が無いと思って、とりあえずステップ・シーケンサーみたいなのをいくつか入れてみた。 しかし普通のピアノロールとかドラムエディターみたいなのって、要はその手のものの上位互換品であったりする。 新たな境地なんて得られるんだろうか。

今回の試みに、ボタンの画像とか押した時のグラフィックとか、そういうGUI面って重要。 純粋な機能面だけ抽出するなら、導入する意味なんて実はほとんど無いこと分かってるんだから。

シーケンス・ソフトにはスタンドアローン物もプラグインもある。ほとんどそれ自体DAWなのにプラグイン化されているようなものもある。 因みにその辺はどちらでも良かったんだが、一旦落としてみた後、インストーラー付きだったものは全部削除した。 何となく気分の問題で。 ついでに落としてきたのは全部フリー物。有料に値するものなんて求めてない。

とりあえず物色の末10種類くらいは落としてみたろうか。 ほとんどの物は起動後数分内に削除した。 とにかく分かりにくいものはダメなんだ。こういうのの相性って殆ど直感的なもの。

スマホアプリのWindows(移植?)版みたいなので面白そうなのを発見したんだが、有料だったんでとりあえず導入は見送った。 「4和音まで出せるステップシーケンサー」みたいに謳われていて、それってセールスポイントでなく、単なる制約ではないのか?と思ったんだが、そこがむしろ面白そうに感じてしまった。 スマホのインターフェイスがあのようであるが故に生まれた独自の入力法とか、そういうのであれば興味がある。 切り口を探してるんだから制約は大歓迎なんだ。


12/26(月)

私の身長は175.6cm。 これ、今月入院した際に医療機関で測定したものなので、かなり確度の高い数字である。

実は私は自分の身長を170くらいだと本気で思っていて、今までもそう自称してきた。 高校の頃、毎年身体測定があるわけだけど、高校三年の頃の身長が170そこそこであったと記憶している。 因みにその三年の間、私の身長は確か殆ど変わっておらず、自分でも「身長面での成長は止まった」と考えていた。 ついでに、社会人になってから、健康診断をやるような大きな会社に勤めたことはなく、身長なんてキチンと測ったことが無かった。

それにしても、その後5センチ以上も伸びているとは驚きだ。 こんなことあるのか。 言い渡された直後、看護師に「そんなにあります?」とか聞いてしまった。 私はずっと、身長を5センチ以上も逆に鯖読んでいたことになる。

ちょっと話は逸れるが、私は「何か悪いことしたな」と申し訳ない気持ちになってしまった。

例えば若い頃、周囲の男は身長なんて、実際より高めに公称することが多かったりしたのではないかと思う。 実際は170しかないのに「俺は175センチだ」とか言うように。

そこで隣に立つ私が「俺は170センチだ」と言っていたのである。 実は175センチあったかもしれないのに。 彼は何となくバツが悪かったりしなかったろうか。 「俺、鯖読んでるの丸出しじゃん」とか思ったり。 私に悪気は全くなかったのだが、結果的に気分悪くさせたかもしれない。ゴメンな。

しかしこの話、身長面で伸び悩んでいる若者などには朗報かもしれない。 身長って、意外と結構な歳まで伸びるみたいですよ。


12/25(日)

今日はクリスマスか。 人生最悪のクリスマスだ。 そういえば看護師からクリスマスプレゼントもらったけど、逆にブルーになってしまった。



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神田優花、リリースのお知らせです。 来年2/1(水)にニューシングル「Shades&Lights」を発表します。 因みに、3月にはその次のシングルのリリースを予定しています。

実は3タイトルの企画を進めていたんだけど、諸般の事情で2タイトルになった(カップリングに予定していた曲をアルバムに収録することにしたら、曲の頭数が足りなくなった)。 来年はアルバム2タイトルも予定しています(こちらは変更なし)。 ご期待ください。 下はジャケットです。




12/24(土)

一枚目は神田さんの御実家から送られてきたみかん。 おいしいんだけど今年私は食べられなかった。 今の私は、(強制的に)プロボクサー並に管理された食生活を送らされている。

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入院なんて経験をし、色んな科を回されたもので、多くの医師・技師と話す機会を持った。 中でも糖尿病専門医と話した内容と糖尿病に対する私の見解を以下に述べておく。

糖尿病の専門医に、ある時私は「糖尿病に良い点は無いのですか」と聞いてみた。 相手は怪訝そうな面持ちで「特にありませんけど…」と答える。 奇態なことを聞く患者だとでも思ったろうか。 私は彼の反応に別に驚きは無く、「そういう観点で病を捉えた思考的経験が無いのだな」と認識した。

例えば一個体内において、「風邪引いて熱が出る」と言う事態が出来したとする。 熱が高くなり過ぎると解熱剤などが処方されたりするのだが、発熱に良い面が無いわけではない。 ウィルスに対する抵抗反応を示しているのだから、無闇にその熱を下げて良いものか一概に判断することは難しいとすら言える。 つまり発熱に良い点はある。

現状これだけ多い糖尿病患者。日本でも軽度のものを含めると数千万単位でいると言う。 良い点が無い(悪い面しかない)などと言う不合理なことがあるだろうか。 人体がそんなに非合理に設計されている筈が無い。

糖尿病(特に2型)は、主に食生活が原因で発症すると言う。 つまり食い過ぎに因る。 食い過ぎた個体がいわば自滅のトリガーを働かせると言う。 これが既におかしい。 不必要な栄養分など、そのまま排泄してしまえば良いだけであるのに、人体はその不必要な栄養分を察知し、自らを破壊する命令を発動すると言う。

例えば、ある種のビタミンが欠乏することによって脚気などの病気なったりするわけだが、「足りないこと」に因るのだからある意味当然と思える。 ビタミンCは蓄積できぬと聞くが、人の10倍摂取したところで蓄積できないと言うだけである。 それによって人体が病気を発動させるなんてことがあろうか。

肝臓と言う臓器や脂肪層は貯蔵の為に存在する。 貯蔵できた方が生存上有利だからだ。 もし有利でないのなら、そんな装置がそもそも発達しなかっただけだろう。

ガソリンやオイルが足りなければ車は正常に動作しない。 「多過ぎること」に因る不具合とは何事か。 ガソリンを入れ過ぎようにもタンクの容量を超えたら貯蔵できなくなるだけだ。 「より多く貯蔵できるよう、タンクの容量を大きくしよう」と言うのが肝臓などの思想であろう。


私は思った。 一個体において有利に働く点が無いのなら、もっと大局的な視点、人類・集団と言った観点で考えればどうかと。 人類と言う規模で眺めるなら、ひょっとして糖尿病に良い点はあるのではないかと。

おそらくそうだろう。 「食糧」と言う限りあるリソースを一部の人間が占有し過ぎない為に、人体にはリミッターが埋め込まれている。 これが糖尿病の正体ではないか。

日本史上、文献で確認できる最古の糖尿病患者は藤原道長であるらしい。 「此の世をば我が世とぞ思う〜」とまで詠った御仁である。 食生活がどのようなものであったか、ある程度察しが付く。 当時は市井に餓死者が絶えなかったような時代である。

当時、道長には「淘汰の圧」が働いた。 確かに彼の散ずる財を餓死者の救済に当てたら、如何程の人が救えたろうかと思う。 人類は、人類全体の利益の為、彼を消滅させることを選んだのではないか。 人体が壊死した組織を剥落させるかのように。

ある時期話題になった「狂牛病」を思い合わせていた。 肉骨粉を与えて育てた牛の脳が海綿体状になり、やがて死に至ると言う。 これも牛と言う種全体で見ると理由が見えてくる。 「牛を食う(常食する)牛は消滅させねば危険である」と言う、大いなる判断がそこに働いているのではないか。


現代は、コンビニ弁当の5割が廃棄されていると言う飽食の時代である。 「一部の人間が少々食い過ぎたくらいではビクともしないくらい食糧は潤沢ではないか」と言うのは一面の事実である。 だが、そうなったのはここ数十年の話。 人体がそんな事態まで想定して設計されているとは思えない。 この食糧事情が続くようであれば、数万年後とかに糖尿病は無くなるかもしれないとは思う。

あと、人類が農業を始めたのは近々数千年の話である。それ以前は長らく狩猟・採集生活だった。 だから、炭水化物(糖質)中心の食生活になったのもきっと比較的最近で、慣れてないが故にその副作用にも弱いのかもしれない、とは思う。


私の上の見方を糖尿病専門医に話してみたら、曰く「非常に面白い考え方だと思います」だそうだが、どこか素人の考える絵空事と言う気分が窺えるような気がした。 確かにある思考の枠組みと言うのは、体験しないと分からないものではある。 現場を受け持つ人に、そんなのどかなことを考えている暇は無いのだろう。


12/23(金)

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ピカソやアインシュタインはもう一度生まれうるか。 全く同じようなテーマで文章を上げたことがあるが、またあらためて考えていた。

「ドラえもんに最終回が存在する」と言う都市伝説?があったらしい。 「のび太は植物人間で、ドラえもんは、親友を渇望するのび太の心が生み出した壮大な妄想であった」とか言う。 無論公式なエピソードにこんなものは無かろう。 誰かの作ったオハナシにしては何事かの核心を突いているようで、それなりに秀逸だと思った次第である。

言うまでも無くドラえもんはフィクションである。 内容に突っ込みどころが満載なのも、誰かの思いつきに因るものだから、整合性の取れていない部分が随所に残っているからだ。 つまりドラえもんは実在しない。 「遠い未来にでもドラえもんは実現するか」と問われても、現時点で存在しないのだからそれは保証の限りでない、と言わざるを得ない。


人間の遺伝子と言うのは要は四種の塩基の配列である。たった四種の配列なのだ。 遺伝的要素ってものはほぼそれだけで決定される、と言うのが現状の定説である。 無論そこに環境と言う要因が加わることによって、結果として出来上がる人物・人格は遺伝的要素だけでは到底測れないような複雑怪奇な代物となる。

しかし、そうにしたって要は遺伝的形質に環境と言う係数を掛けただけである。 つまり、ある条件(それが稀有なものであったとしても)が揃えば、ピカソもアインシュタインも再度この世界に降臨しうると言うことである。

100メートルを1秒で走り抜ける人間や、空を飛べる人間は生まれない。メシを一切食わずとも生きて行けると言う長南年恵のような人物も生まれない。 何をどう組み合わせても成立しないからである。 リリエンタールがどう足掻いても空は飛べないが、本気で空を飛ぼうと試みるリリエンタールのような変人は存在したし、再び生まれうる。

私は常識に従って上の文章を打った。 ある塩基の組み合わせにて生まれた個体に、ある生育環境を与えたところ、例えば100メートルを8秒台で駆け抜ける人間に育つ可能性は無くも無いと思うのだが、もしそうなるなら、そういう人間は成立しうる、人類はそういうポテンシャルを持っていると言うことだ。 当然後世にもそういう個体は誕生しうる。 単に確率の問題である。

キリストもヒトラーもエジソンもモーツァルトも、成立したからこそこの世に実在したのである。 神話に出てくる「超人」やその事績が現代に再現されないのは、そもそもその神話の記述自体が怪しいからである。在るものが無くなったのでなく、最初から存在していなかった。 実在したと言うことは、実在しうると言う動かぬ証拠であり、同時に再度生まれうる可能性を保証するものだ。


在るものは無くならない。 恋愛などで酩酊状態に陥った若者が、相手のことを「こんなに素敵な人はこの世界にあなたしかいない」とか言ったところで、酔いから冷めた瞬間に容易に決別してしまうのは何故なのか。 それは「世界一素敵なその人」がそもそも存在していないからである。 そもそも当人の願望の投影に過ぎないものだから、いなくなったのではなく、いたことが無かった。 かつて存在したものが消滅したのではなく、はじめから存在していなかったことに気付いただけ。

私はいる。 その動かぬ証拠として、私の美意識の結晶である作品が存在する。 私が実在しているのなら、永遠の闇に葬られることなどあり得ない筈だ。 この宇宙のどこかに私と同じ審美眼が存在するのなら、それはもうこの私である。

もう会えないと思い込んでいた愛する誰かに思いを馳せる時、「ソイツは確かに実在したのか」をあらためて自分に問う。私の思い描いた幻でなかったかと。 実在したのであれば、時間・空間の果てででも、いつかまた巡り会えるに違いない。 強がりでも何でもなく、今の私はそう信じられる。 私は幸せ者だ。何を手に入れられた事より幸福なのは、何も諦めずにいられる事。 私は何も諦めていない。


以上のようなことを考え、文章化したものを読み返してみたが、頭がおかしい人だと思われてしまいそうだ。 まあおかしいけどな。


12/22(木)

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私はスキッフル音楽が好きである。 スキッフルとは何ぞやと言う話をする方が親切なんだろうけど、今その気力がない。詳しいことは調べて欲しい。

最近、スキッフル用途で使えそうな半分ジョークのような音源が数多く出回っていて、私のような人には喜ばしい限りである。 ほとんどがフリーなのも嬉しい。 ただ、よくよく聴いてみると使いどころが無さそうなのも多いのも事実。 大抵はサンプリング系なので無駄に容量も大きくて、結局落としてはみたものの、直後に削除ってのも多い。

今考えているのは、スキッフル音楽ばかりを集めたアルバムの構想。 曲数によってミニ・アルバムになるかフル・アルバムになるか分からないけど、とにかくいくつか習作を作ってみたい。 実は既に影山リサの曲でそれっぽいのを一つ録音済み(未公開)ではあるんだが、それを収録曲の一つとするかはまだ決めてない。

スキッフルの定義って、楽器編成に因る部分が大きくて、楽理的な決め事は希薄である。と言うか多分絶無である。 ただし、モノがモノなだけに、あんまし高度な書法を駆使しては当然それっぽくなくなるだろうから、この辺りの匙加減はある意味難しいかもしれない。 あと楽理的決め事が無い音楽って括りで企画を進めるのだから、企画性の輪郭が覚束ないものになる危険性はある。 オルゴールCDみたいなものは作りたくない。

私はできるだけ「和声音楽でないもの」を書きたいんだが、実際のスキッフルって意外と(粗放な)和声音楽ってのが殆どだ。 だから実はそんなに面白くもない。音楽的に面白いものはかなり稀であるはず。 私は「面白いスキッフル」を作りたい。

テクノに強い関心を寄せていた時期があるのだが、それもスキッフル熱と近いツボを刺激されていたが故にである。 テクノのあの「工作感」みたいなのに一種の面白味を感じたのだけど、正直パターン(手数)は少ないと思った。 掘り下げる余地が無かったのだろうか。

テクノ音楽の一部は発展の末、タダのPOPSのようなダンスミュージックに変化して行く。この辺りスキッフル・ミュージシャンがジャズやロックミュージックに転向していく過程に似ている。 ニッチが存在したのではなく、単に発展途上(つまり未熟)であっただけなのだろうか。 つまりコビトカバではなく、カバの子供に過ぎなかったのかと。 ここについては、私自身今はまだ明確な回答を持たない。


12/21(水)

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「あんまり長生きとかできないかもしれない」なんてこぼしたら、随分繊弱に見られたみたいだ。 しかし、多分私のモノの見え方はそんなに一般的ではない。

体ってのは借り物なので、その品質・耐用年数については、私の意志だけではコントロールできない(無論、私の意志によってかなりの部分悪あがきできるとも思っているが)。 遺伝病とかって最たるもので、本人では如何ともし難いものだ。 私は今のこの生存の形は、条件を欠けば維持できなくなると冷静に思っているが、悲嘆に暮れているわけではない。

あと私は死と言うものを、そんなにリアリティーをもって見詰めていない。 (今の形態では)長生きできないかもしれないし、長寿の記録を更新するくらい長生きするかもしれない(これはこれであり得なくはないと感じる)。 どのみちあんまり先のことは深く考えていない。 毎日を楽しく生きるだけです。 昔も今もそこは変わらない。


この私に、揺るぎない意志があるのなら、今の形での生存について、条件がそれを許すかどうかと言う問題は些事である。 今の形でそれが維持できないのなら、形を変えてでもその意志は継続されるはずだ。 存在するものはなくならない。


12/20(火)

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十年以上前に作ったある曲の(DAWの)セッションを開いてみたら、あるシンセ(VSTi)のパラメーター設定が飛んでいる(初期状態になっている)。 DLLを古いバージョンのものと置き換えてみたり、色々と復元を試みてみたのだが、どう無理っぽい。 ネット上に同様のトラブルの報告は無いかと探してみたが、それも見当たらず。 私の環境固有に近い不具合なのかも。

因みにその曲は既にリリース済みで、オケの音(オーディオファイル)はあるし、譜面情報(MIDIデータ)もある。 思い切って私は、それらを元に一から設定を復元してみようと考えた。 こう言うと如何にも遠大な作業のようだが、そうでもない(筈だった)。 私は普段、一からの音作りってのをほとんどしない。 大抵はプリセット音の中からイメージに近いものを引っ張り出して、多少の設定を弄る程度。 その曲についても、ベースとなったプリセット音色には割りとすぐに目星が付いた。

細かいパラメーター設定、特にその曲で使ったアルペジエイターの設定が皆目分からない。 設定項目が細か過ぎて分からない(復元できない)のではない。実はそのアルペジエイター、設定項目は実にシンプルで、肝になる設定項目は二つしかない。しかもそれぞれ設定値は四種、合計16種類しかパターンが存在しない。 なのに分からない。つまり、どの設定にしてもオケの音と違う。 どうしたものか。

フレーズ生成のアルゴリズムが4パターンあるのだが、そのうちの一つに「random」とあるが、どうもこれを使ってたんじゃないかと言う気がする。 他の3パターンはどれも明らかに違う。randomで生成されるフレーズも違うんだが、モノがランダムなだけに毎度微妙に違うフレーズが生成されるようで、つまり過去の正規音源に採用されているフレーズは「二度と再現できないもの」であった可能性がある。 まあランダム生成されるフレーズのパターンにも限りがあると思うので、二度と再現できないとまで言い切ってしまうと言い過ぎかもしれないが。

要するに再現できない。 もしその曲をリミックス、リマスターなどする場合にはどうしたものか。 元のオケはあるので、オケの音に全く改変を加えないのであればそれで事足りる。 元のオケを大部分援用しつつ、新たなバッキングトラックを作るとかになると、多少の難が生じるかもしれない。 色々と事態を想定してみたが、あんまし困ることもなさそうな気がしてきた。

因みにその復元不能なアルペジエイターのフレーズは、イントロ(導入部)に割かし大胆に使っていて、そのフレーズを別のものに差し替えるとなると、曲の印象が結構変わってしまう。 でも元のオケからその部分だけサンプリングして使うとか、そう言う方法も無い訳では無いし、やはり大した問題ではないかも。 しかし設定が飛ぶようなプラグインは本当に困る。 なんとかして欲しい。


12/19(月)

病院のベッドで寝そべっていると、近くの部屋から患者と看護師のやり取りが聞こえてくる。 患者は入院のプロではないが、看護師は患者を扱うプロだ。 ランダムに送りつけられてくる「人格」の扱いに習熟しているのがありありと見て取れる。 一方の患者だが、それこそ人格など十人十色であろうが、基本自分のことは話したがるものの、相手のことを知りたいと言う気分が希薄であるように思える。 飲み屋の姉ちゃんに年齢などを聞くのは、相手に関心をもっての行動ではない。 基本的に人とはそう言うものなのか。


私の病気について、それ自体が非常に稀であったが故にだろう。当初担当医師もそれについての知識、経験が十全でなかったようなのだが、徐々に情報収集が為されたと見えて、私に語る内容も精緻さを増しているように思える。 当初の見立てにも若干の軌道修正が入れられているようだ。

入院二週間を経過した頃に、担当医に「さぞかし痛かったでしょう」と言われた。「激痛を伴う病である」と言う認識がリアリティーを帯びたのかと思われる。 個人的な感想としては、確かに激痛であったが、あれがいわゆる病気の中で最大級の痛みである、と言われるなら若干拍子抜けと言うか、「あんなもんか」と思ってしまう。 無論二度と味わいたくは無いが、正直言って病気に対して怯える気分はむしろ薄らいだ。 病気の痛みなんて大したことない。


医者と雑談していると、何となく彼らが(学生時代を含め)どのような教育を受けてきたのかが窺い知れる。 医療現場における基本理念として「愛をもって患者に接せよ」とか「医は仁術である」などと言われるのだろうか。 しかしキリスト教国でもない我が国で「愛」など説いても、「愛」そのものの概念理解が十全でない者が混じっているから難しかろうな。 だからと言って「慈悲」・「仁義」・「惻隠の情」などと言ってもそれではスローガンとして如何にも弱い。ますます分からないかもしれない。 とにかく日本人は「西洋医術」は上手いこと取り込んでいると思うけど、この国から「国境なき医師団」みたいなのは生まれ難い気がした。


12/18(日)

ボーカル抽出(あるいはキャンセル)ツールについて。

普通の2Mix(市販音源など)からボーカルパートのみを抜き出すことは、現状技術的に不可能である。 そういう効能を謳うツールは存在するが、効果のほどは怪しい。 少なくとも原理を聞いて納得できるものは皆無である。

現在実用されているのは、いわゆるアイソレーターのようなものか定位と位相反転の合わせ技みたいなものか。せいぜいそのくらい。 後者については、センターだけ正確に抜き出せたとしても、センター定位の音は全部まとめて残ってしまう。 昔の(ステレオ音源発生当初の)音楽商品のようなものならいざしらず、現在のPOPS作品などには使えないだろう。 前者は要するにイコライザーと同じ原理のもので、帯域で搾り出すだけだから、これまた同帯域の音は全部残ってしまう。 まあでもしかし、現状一番効果が期待できるのは案外これだったりして。

つまり実用に耐えるツールが存在するしない以前に、実用に耐える原理が案出されていない。 ノイズリダクションのシステムが、昔のノイズゲートのようなものから現在の、ノイズプロファイルを基にした演算によってノイズを除去する方式に(劇的に)変わったように、ボーカル抽出(あるいはキャンセル)に関しても劇的な効果が期待できるアイディアが生まれないものかと、私は期待している。 コンピューターがオーディオファイルから人の声だけを認識して、そこだけ抽出したファイルを生成(再構成)する、と言ったようなものがいずれ出来ないかしら。


12/17(土)

入院中。病室のベッドでテキストを打つ。

治療中、医師に「若いから〜」と何度も言われる。 察するに、実年齢がどうしたとか言うより、要は想定以上に回復が早いのだろう。 事実、当初「半年は入院」とか言われていたのに、現在普通に歩ける。 と言うか一週間ぐらいで普通に歩けるようになっていた。 こちらからは退院の話ばかり持ちかけるのだが、やや難色を示される。 再発が怖いそうな。

当初、検査結果のほぼ全ての数値に異常が出ていたと言う話は既にしたが、例えば血糖値については「糖尿」を疑われた(因みにその時点で400数十と言う値が出ていたが、その前日はほとんどマトモに食事を取っていなかった。つまり、かなり低血糖の状態でそれだったと思われる)。 が、その後入院中の検査の結果、C-ペプチドってのが正常に出ていることが判明する。 聞くところによると、どうもそれは体内から出るインシュリンで、体外から投与したものとはハッキリ識別出来ると言う。

つまり一般には、それが出せなくなった身体を糖尿病と判定するのだが、私の場合、炎症によって数々の異常値を計測しているものの、糖尿病としての基本的要件を満たしていないと言う。 他にも足や目など隅々までチェックされたが、糖尿病特有の症状は確認されず。 入院直後に「子供の頃を含め、糖尿について言及されたことはないか」とも聞かれたが、それも全く無い。 おそらく私は(少なくとも典型的な)糖尿病ではない。 因みに、医師の糖尿病についての警告は、その後徐々にトーンダウンしていく。 当初行われていた一日4度のインシュリンの注射も途中で中断された。

体内で強い炎症が起こった場合、数々の数値が異常を来たすものらしい。 体温・血圧・血糖値・アドレナリンなど。 私の血糖値もその強い影響下にあると考えるべきかと思える。 私の場合血尿なども出ていたわけだけど(他にもメチャクチャ色んなものが出ていた)、基本は脊椎の炎症が原因と思われる 。

炎症は自覚的には数日の間に重症化したのだが、案外発症そのものはもっと前だったかもしれない。 それを推測させる数値上のデータもある。 ついでに感染経路が分からないとも言われたが、これは永遠に分からないだろう。

世間には「病気になってみて、モノの見え方、考え方が変わった」などと言う人がいると思うのだが、私においてはそれはない。 「病気になること」もある程度想定のうちに入っていたので、その可能性の一つの枝葉が現実になったと言うだけ。 ただし、何十万人に一人の奇病に罹るとまではリアルに想像していなかったが。

あんまし弱気なことも言いたくないんだが、事実として私は、奇病に罹る程度には変な体質の持ち主なのは間違いないわけで、「あんまし長生きできないかもしれない」と言った程度の平明な想像はしてしまう(この状況でその程度の結論に寸毫も至らないようでは、それはそれでおかしかろう)。

今回の件も、「罹患場所が胸椎付近だったから良かったものの、頚椎あたりだったら脳が侵されていたかもしれなかった」と言われた。 職業柄、脳がやられたらアウトだったろう。 医者は今後の再発を恐れているようだが、私とてそこについては同じである。 実のところ、摂生しようにもデータが少な過ぎて手の施しようがないと言うのが正直なところだ。 まあせいぜい残り時間は有効に使わせてもらいます。 別に悲観的になってるわけじゃありません。私は変わらない。


12/16(金)

いまだ入院中である。 担当医曰く「奇病」であるそうな。 数十万人に一人出るかというようなレアさであるらしく、医師らも診た経験がないらしい。 因みに、症状としては脊椎の炎症(化膿性脊椎炎)だそうな。激痛を伴う。 パーセンテージとしては大したものではないが、致死率が出るタイプのものらしい。

病院に行く数日前に背中に軽い痛みを覚えていたのだが、筋肉痛の類と思って放っておいたら、みるみるうちに痛みが増し、二日後くらいにはマトモな姿勢で歩けなくなっていた。 最初に病院に出向いた時、尿・血液検査をしたら、その結果ほとんどの項目に異常値が出ている。因みに体温は39.2度。 病院にいる間にもみるみる容態は悪化していたらしく、病院には午前中に出向いたのだが、午後にはもう歩けなくなっていた。 短期間ではあるが、車椅子生活を経験した。

尿検査中、紙コップの中を見ると、尿が紅茶のように赤い。 検査結果でも血尿が検出される。 医者に「どうしてここまで放っておいた」などと言われるが、「普段あんな尿が出ればいくらなんでも気付く」と答えたことによって、数十時間内に急激に状態が悪化してきている(しかも現在進行中である)と判断され、緊急入院と言う措置に。

朦朧とした意識の中、医師に「仕事に穴開けたくないんで入院なんてしたくない」旨伝えると、「死ぬかもしれませんよ」と真顔で言われ、結局ビビッて入院。 入院なんて全く想定していなかったから、私はサンダル履きだった。

因みに、入院当日の夕方から次の日にかけて、ほとんど意識を失っていたらしく、記憶も断片的にはあるが、時系列などがメチャクチャである。

三日目の夜に最大級の痛みに襲われる。 ナースコールで窮状を訴えたところ、かなり強めの痛み止めを打たれたらしく、直後に意識が途切れた。 その後幻覚を見たりしたようなのだが、しかし今振り返るとあの時が一つのピークであったとも思える。


二週間以上経った今、やっとのことで容態も安定してきている。 ただし、いまだ絶対安静を強いられている。 弱者ビジネスのようなものが嫌いだからこういうことは言いたくないが、現状私は「重病人」らしい。 しかし、あのタイミングで病院に行かなかったらどうなっていたことやら。 死にはしなかったにしても、昏睡状態にぐらい陥ったかもしれない。 まあその結果死に至ったかもしれないわけだが。

実は私は健康ってのが数少ないとりえだとすら思っていたクチで、普段ほとんど風邪なども引かないし、病院などの世話にもならなかった。 事実、社会人になって「病欠」と言うものをしたことがなかった。 ここ二十数年くらいの間でも、医療機関になど五〜六回ぐらいしか行ってない。うち二回は歯医者、一回は大学の時試験を寝過ごして、再試験を受けるために(嘘の)診断書作ってもらうために行った。 その他の数回も殆ど周囲に勧められて嫌々行ったようなもので、自らの意志だけでは行かなかったろうケースばかり。 つまりほぼ医療機関と無縁の人生だった。入院なんて無論ない(子供の頃に一度あるが)。 CTスキャンもMRIも今回初めて経験した。

今回の入院、当初医師に「骨は代謝が遅いから(入院期間は)半年以上になるだろう」なんて言われていた。 正直冗談じゃないと思ったが、同時に「退院できたとして、その後マトモな生活が送れるのか」と言う疑問(と言うか恐怖)が頭をもたげていた。 「もしかして身体障害者として生きていかねばならないのか」と。

結局、幸いなことに何とかそれは避けられそうである。 一秒でも早く退院して仕事に復帰したいと思っているが、これだけは私の一存でってわけにも行かない。 迷惑をかけた皆さん、ゴメンなさい。なるべく早く戻ります。


12/14(水)

入院中で暇なもんで、読書量が普段の数倍になっている。

ゲーテの語録みたいなのを読了。 普通に納得できるものが殆どだが、目から鱗が落ちると言う感じでもない。 ゲーテが陳腐なのではなく、むしろ内容が尤も過ぎて引っ掛からないってことか。

世界中に実在した神秘的な人物を列伝形式で綴ったものを読む。 スウェーデンボルグのような人ってたまに現れる。大抵オカルティズムに傾倒するような人って、その衝動が劣等コンプレックスから生まれているようなケースが大半で、正統的・アカデミックな学問分野においてはあんまし秀でてないことが多いと思うんだけど、稀にそこでも優秀な成績を収める人物が現れる。 日本史で言うなら空海とか。 そういう人らは神格化されやすいんだが、まあそれら(オカルト主義と試験秀才)は一人物に、特に障り無く共存しうると私などは思う。 確かにケースとして希少なのは事実でしょうけど、それは個人の資質ではなく環境が原因だろう。

長南年恵についての雑感。 伝承(一切メシを食わなかったなどと言う)はそのままでは到底信じられない。 医学・栄養学的にとか言う前に物理的に不可能だろう。 裁判の記録についても、もし彼女の裁判が現代に行われていたら、全く評価の異なる記録として残ったろうと思う。 神話にケチつけるのは野暮だが、そのまま信じるのも愚の骨頂。

宮武外骨について。 今で言うパパラッチみたいな人なんだろうが、相手が芸能人とかでなく政府の要人だったりするものだから容易でない。 当時は讒謗律のような恐ろしい法律があったので、彼の仕事も半分命がけだったろう。 それにしても当時と違って今は、個人が思い立って新聞を刊行したり事実上できない。 できるような世の中の方が面白いだろうにね。 まあ正確に言うなら刊行(情報発信)自体はできるんだけど、需要がないと言うね。 本当に面白いのなら私は見たいけどな。

ピカソの画集を見る。 やっぱしピカソは良いな。 最近好きなのは1963年の「画家とモデル」と言う作品。 個人蔵らしいので実物見る機会は少なそう。 私もああいう音楽を書きたい。 因みにピカソ作の同名(同テーマ)の絵は複数点あるんだが、作品番号は今ちょっと分からない。

同書中、ピカソの言葉として「大事なのは芸術家の仕事ではなく芸術家がどういう人かということだ」と言うのがあったが、全く同感。 私は名作を書きたいが、それよりも前にそれを書くに相応しい自分自身になりたいといつも思っている。


12/11(日)

お知らせ。 先日Spotifyの日本でのサービスが開始されたのだが、ウチの既発全タイトルを公開します。 いわば再発売ってことになるのだが、合わせて比較的最近スタートした音楽配信サービスにもまとめてエントリーします。 とりあえずこちらですべき処理は全て済ませた。年内に間に合いそうな勢いです。

Spotifyの他に、(比較的新しくローンチした)複数の音楽配信サービスのメニューにも弊社既発タイトル、あらためてエントリーされます。 どういうことかと言うと、例えば2010年にリリースしたあるタイトルがあったとして、その時点以降にスタートしたサービスにそれは加えられてなったりするわけです。 6年も時間が経ってくると、終了するサービスも新たにスタートするサイトもたくさんあって、ここで一旦リフレッシュと言うか、過去タイトルも再納品することにしたわけです。 音楽配信系って、大抵の人は利用するサービスが粗方決まってるだろうから、あなたの使ってるサービスで今まで扱われてなかったウチの古い音源が聴けるようになりますよ、って話。

この手のサービスは新陳代謝が早いので、こういうリフレッシュ作業が今後も必要になるかもしれない。 仕方ないけどめんどくさい。


余談。 Spotifyへのエントリーって、一種の賭けでもある。 フル尺で聴けてフリーでアカウント取れるわけだから、レーベルとしては全コンテンツをタダでバラ撒いているみたいなもんだ(まあ現状もそれに近いけど)。 認知度だけでも上がってくれたら良いんですけどね。 その前に、Spotifyの利用率が欧米並みになってくれないとね。


あとこれは報告するほどのことではないんだけど、月刊Auditionその他の媒体にて、アーティスト募集告知をかけてます。 締め切りが年内一杯なんで、音聴いたりするのは来年以降になるかと思いますが、ご応募お待ちしております。


12/10(土)

死の淵から生還した益田です。 更新が滞っていたが、緊急入院していた。と言うか、今もしている。 病室のベッドでこのテキスト打っている。

お為ごかしみたいなことは言いたくないので「全然元気です」みたいな嘘臭いことは言わない。 緊急入院するぐらいだから、それなりに悪い。 ただ、とりあえず今は意識はしっかりしている(怪しいもんだが)。 事情は追って闘病記みたいな形でお伝えしたいが、取り急ぎ今回は生存報告までに。


11/30(水)

またと言っては失礼だが、お隣韓国の政権周辺が何やら物々しい。 今回の疑惑、大統領とその親友(親族ではない)に焦点が当たっているらしい。 やや珍しいケースと言える気がするが、飲酒運転で捕まった者が、いつもはビールなのに今回は焼酎だったと言うところか。

私が気になるのは、抗議デモの盛り上がりっぷり。 朝鮮民族のああいうファナティックなところは、日本人も少しぐらいは見習うべきだとすら思う。


丙寅洋攘と言う歴史的事件がある。 殆どの日本人は言葉を聞いた事すら無いと思われるが、韓国では多分、歴史教科書とかにもデカデカと紙数を割いて紹介されている筈で、いわば国民の常識だったりすると思われる(違ったらゴメン)。

丙寅洋攘は前近代の朝鮮(王国)とフランスの紛争で、近代的な意味での戦争の定義を満たすものなのかはよく分からないが、とにかくその紛争、勝敗を付けるなら朝鮮側が勝っている。 当時のほぼ最先進国であるフランスに、前近代水準の兵器で勝ってるんだから大金星である。 馬関戦争に長州が勝ったみたいな話。

丙寅洋攘で緒戦の勝利を得た後の、朝鮮側の加速度的な兵員の増強、あれがスムースに達成できるのは、今回のデモの動員と多分同じ理由だろう。 大東亜戦争末期に、朝鮮半島での兵員募集をかけた際の応募倍率の凄さは半ば伝説的なんだけど、あれも日本軍が緒戦の勝利を得たが故にだろう。 どの民族だって基本そうだろうけど、とにかく勝ち馬に乗りたがる習性が甚だしい。


支持率が低下していると言うが、不人気と言うと厳密性を欠くような。 人気の無い人ってのは、基本的に無視される筈。 あれは不人気であると言うより、憎悪されている。 恨(ハン)なんて機微は、多分私を含む日本人にはあんましリアルでない。 都知事の醜聞が出たからと言って、数十万人規模のデモに発展したりしないものね。

抗議デモに数十万単位の民衆が集まると言う。 槍玉に上げられた人らの機微が分かるが故に、余計に腹が立つと言うところか。 しかし惜しむらくは、これが政権転覆に発展したとしても、王制を打倒したフランス革命のようにはきっとならないところ。 いわばカーストの入れ替えが起こるだけで、時間が経てばまた似たような事件が起こる。


11/29(火)

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ミュート・カップについてのメモ。 一部の吹奏楽器に使われる弱音器のこと。 使われる楽器の代表格はトランペットとトロンボーン、原理的にそれ以外にも使えるはずだが、この二者に使用例は多い。

実はあれ、色々種類があってそれぞれ出音も違う。 ストレート・ミュート、カップ・ミュート、ワウ・ミュートなんて種類があって、音のニュアンスなんで違いは説明しにくいが、最後のワウ・ミュートについてはその名の通り、(エレキギターの)ワウペダルに近い効果を得られる。

私はブラス・アレンジにミュート・カップ使用前提のものを書いたことは(割りと何度も)あるんだが、実器を演奏しないもので、細かい奏法上のニュアンスは分からない。

クラシックとかジャズ系のビッグバンドとか、ジャンル問わず使われているように見受けられるのだが、その割には音源類とかあんまし充実していないように思える。 ミュート系の音色とかあっても、単にMuteTrumpetとかそういう名前で、せいぜい音も単なるカップ・ミュートってところ。 それ以上のものは中々見当たらない。 需要が無いのだろうか。

あとカップ・ミュートを使った奏法って、単に(固定的に)装着した状態のものだけでなく、着脱を繰り返すようなものもある。 これはサンプリング・ベースでの再現は難しいと思われるんだが(やってみたけど事実難しかった)、モデリング系の音源とかなら再現可能なものがあったりするのだろうか。

しかし、やはりブラス系の奏法は打ち込みでの再現が難しい。 そもそもトロンボーンのあの音程カーブを、十全に再現できる音源が存在していないのではなかろうか。


11/28(月)

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恩について。

マイケル・サンデルが言っていた。 「全ては動機である」と。 私は100%賛同する。

人と言うものは、何かを貰うために施しを為すことがある。 あたかも釣り人が、魚にとりあえずは餌を与えるように。 「タダより高いモノは無い」とはよく言ったもので、不純な動機にての施しならこの世界に溢れ返っている。 何を貰ったところで、そんなものに感謝などできるわけがない。

私は、私を助けてくれる人に感謝するが、「助けてくれた」と言う成果ではなく、「助けよう」と思ったその気持ちにしか感謝しない。しようがない。 恩と言うものは、気持ちにしか感じようがないものである。従ってそれは返せない。

私を助けようと思ってくれた人が「結果的にくれたモノ」であれば、一応は返すこともできる。 奢ってもらったメシなら、奢り返すことだってできる。メシなんてモノなのだから。 でも、この私に「おいしいものを食べさせたい」と思った誰かの気持ちなんて、返しようがない。 返す方法が存在しているのなら教えて欲しいよ。

借りた金を返せるように、恩を返せると思っている人がいるのなら、その人は甘い。 恩は決して返せない。


11/27(日)

神田優花、レコーディング。 もう一曲録れば5thアルバムの収録曲が揃う。

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アルバムとは別に、シングルを3タイトル計画してるんだけど、どれも完成していない。 タイトル曲は全部上がってるのに、3つのうち2タイトルは、ジャケットまで上がってるんだけどカップリングをまだ録り終えてなくて(そのうちの一つは候補曲もまだ絞れてない)、もう一つはカップリングまで上がってるんだけどジャケットがまだと言う。 何と言うかチグハグな状態。 まあでも、来年の早い段階にはリリース日も決められると思います。


11/25(金)

Spotifyの日本でのサービスが本格的に開始されたそうで。 定着してくれないかと、淡い期待を寄せている。

ざっと見てみたけど、コンテンツは国毎に違うのね。 日本でのローンチに当たってのメニューに、海外サイトの既発タイトルが全部含まれているわけじゃないらしい。

ああいうのが音楽の消費スタイルの標準になってしまうと、やはり日本の音楽業界は再編と言うか、コンテンツのあり方自体を考え直さなきゃならなくなりそうだ。 とにかくディストリビューションに格差はほぼ無く、新譜の情報源も既存の広告媒体への依存度が低い。 本当の意味での、口コミでのブレイクが起こり得そう。 ただ、あんまし日本人向けでないような気がするけど。


ついでに、全ての弊社タイトル、順次Spotifyでも公開する予定です。 事務処理上の都合で、ある時期(2013年頃)より後にリリースしたタイトルについては年内に、それ以前のものについては多分年明け以降に公開します。 詳しいことが判り次第、またお知らせします。


11/24(木)

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争いに対し、人はどうあるべきか。 争う二人に直面した際、第三者である私はどうすべきだろうか。 今の私は「どちらの肩を持つか」で迷わないだろうと思う。 そう心掛けるまでもなく、普段からそういう心境にある。

私は「誰の味方であるか」ではなく、「どうのようなあり方に共感するか」を考える。 その上で最も適切な解を探る。 いくら身内でも、間違っていることは間違っている。

争うAさんとBさんのどちらに付くか、と言うのはどちらの利害の代弁者たるか、と言うことだろう。 「Aさんは身内だから、私はAさんの肩を持つ」と言うのは、つまりは私(わたくし)である。 身内と自分の境界を曖昧にしている。 端的には儒教社会など、こういう原理で動いているわけだけど、一面、我が精神を独立たらしめるだけの言語が育っていないとも言える。

争い事に最適な解はある。 双方にとって最適な一つの解がきっとある。 それを導き出すには、全ての立場を包摂する視野が要る。 ある立場を理解し、その理解を保持しつつ、別のある立場を理解すること。言語でしか為し得ない。 私はその解を探してあげられる人になりたい。


11/23(水)

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私が音楽を作り続ける理由の一つは、心を豊かにするため、である。 私の心にあるもの、こそが私であるのだから、自分自身を豊かにするためってことである。

例えば「お金」と言う一つの現実がある、私がそれを「増やすこと」に執心できない理由は、それをある程度理解したからだと思う。 金と言う概念を知り、それがあることによって出来ること、あっても出来ないこと、その辺をある程度知ったから、躍起になって残高の桁数を増やしたいともう思えない。 無論あるに越したことはないとも思うけど、持ち時間と相談した結果、そこについての熱量は今ほどにとどまっている。

結局どのような栄華も、我々が心でそれを感じることができるだけ。 此の世の春を謳歌する人の、その気分のカケラが掴めるなら、私はもうそこにいるのと同じだ。

私が映し出したこの世界とは、結局のところ私の中にしかないものだ。 子供はお年玉を喜ぶけど、犬はそんなものに見向きもしない。 物質としての金(紙幣)はこの世界にありありと実在するだろうが、犬の心はそこに込められた意味を映さない。 しかしながら、犬にすら映し出せる愛を、映すことのできない心の持ち主だっていくらでもいる。

私は音楽を作り続けることによって、今見えない何かを見ようとしている。 この世界に、今以上の何かを与えてもらおうと思っているわけではない。 目の前を通り過ぎていく、何も変わらないこの毎日から、今見えない何かを心に映し出そうとしている。


11/22(火)

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「夢とは何なのかが分からない」と言う人に、私はどうやってそれを教えれば良いか。

実は私は、それを伝えるべく日々音楽作品を作り続けている。 無論それだけが理由ではないけど、大きな一つの理由であることは間違いない。 私が感じた夢を、同じような気持ちで捉えることができる人がいるなら、それはもうある部分において確実に私自身だと思うから。

人間は皆違う。それぞれ映している現実が違うからだ。 触れ合うほどに側にいようと、心の外側に佇んでいるに過ぎない。 音楽は、聴いている人の心の内側にある。と言うか、心の中にしかない。 音声は感覚に直接訴えてくるだろうけど、私が作りたいものは音声ではなく音楽だ。

「夢」が何なのか、私は伝えようにも、その人の心の内側を指差してあげることしかできない。 「ホラ、そこにあるよ」って。 だから、心の中にそれが無い人に伝えることは、悲しいけれどできない。


人間とは、つまりは言語なのだけど、特に概念語のようなものは、その機微を持たない者には理解できない。 私が今まで生きてきた中で得た結論である。 誰かを愛さない人に愛は分からない。 いくら愛されてもきっと分からない。 夢を感じない人に夢を教えることもできない。


11/21(月)

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豊臣秀吉の息子である秀頼は、うつけ者であったとも言われているが、私にはその辺が判断できない。 判断を下すに足る材料が無いからだ。

例えば当時の市井に、秀頼は「サザエは木になる」と思っていた、とかいう話が漏れ伝わっていたそうで、それをもってして「秀頼うつけ者説」の補強材料としていた人が随分いたようだが、その巷説が事実であったとしても、それは単なる知識の不足である。頭の良し悪しとは直接関係無い。

上の話が事実であるなら、それは「大坂城からほとんど出たことがない」などと言う、彼固有の特殊事情に因っている面が大きいに違いない。 私は中国語が喋れないが、向こうでは子供でも喋っている。 これは私の「日本で生まれ育った」と言う事情に因るもので、頭の良し悪しとは関係がない。

よくネット上で、ある質問をしている人に対し「そんなことも分からないのか無知め」と言うような居丈高な態度を取る者がいるが、ある事柄について他人より詳しいからと言って、その他人より頭が良いわけでも知識が豊富なわけでもない。 あくまである事柄について、たまたま相手が自分より不案内であっただけ。 こういう簡単なことが分からない人をこそ、私は「頭が悪い」と感じる。

私が平素、人を見て賢いか否かを判断する材料は、知識の量ではなく理解力であろうか。 知識の断片を集めることって、言語以外をもってしても割かし容易である気がするからだ。 人間の頭の良さってやはり難しい。 理解力がいくらあっても、創造性をカケラも持たない人もいるし。


11/20(日)

例えばある企業が存在するとする。 その会社は会計などを粉飾し、事業(収入源)の根幹からして不正によっている。 人件費を含む経費なども出し惜しみ、いわゆるブラック企業と化している。

いわば存在自体が社会悪なのだが、それについて非難されると、その企業(の経営者)は言う。 「そうせねば潰れてしまうのだ」と。

そういう会社は消滅した方が世の為、人の為ではなかろうかと私は思ったりする。

ある自社商品のある価格を維持する為、経費を出し惜しんだ結果がブラック企業なのだろうが、モノを不当に高く売るのが悪であるように、不当に安く売るのも悪である。 そういう正しい意味で成立していない会社が世に蔓延ると、健全な会社は維持できなくなるし、健全な新規参入者も登場しにくくなる。


会社を引き合いに出したけど、私は「人」を見詰めながら以上のようなことを考えていた。 法人に成立・不成立があるように、個人にも当然そういう側面はある。

成立していない人間も大変なのだろう。 自分を、条件が許してくれないのだろうから。 そういう人だって黙って首を吊るわけにも行かないだろうから、様々な手練手管を弄するのも無理はない。 その悪あがきみたいなのがますます世を乱すんだけど、そういう人らが生まれてきてしまうこと自体は、それも自然の摂理である。 どうしたら良いものかは私にも分からない。


11/19(土)

職業名のような一種のステータスは、「結果として得てしまうだけのもの」である。 対象となる分野とは「使うもの」である。 如何に偉大であると世に言われているものであったとしても、それに従属すべきものではない。

一流大学に合格するとか、上級公務員や大企業の社員になるとか、弁護士や医者などの資格ものの仕事に就くとか、そういうのも含め、生き方とは、自分に一番多くのものを残せる時間の使い方を選ぶこと。 そこに従属し、不安を解消してもらうもの、ではない。

私は政治家にも裁判官にもなりたくない。 理由は面白くなさそうだから。 これは「なれるかどうか」とは直接関係無い。 その人が社会的にどんなに高いステータスにあろうと、その分野を「使っている」と言う気分になれないのであれば、その人は人生の負け組だろう。 学者になることとは、学界に属することではなく、ある学問分野を(自己の探求の為に)採用することである。


上に述べたことは、一種の本質であると思うが、それを理解できない人は、ステータスにまつわる「周囲からの羨望」のような表層的な部分のみを知る。 権威主義者が例外なく低能である所以だ。

権威主義者は、その権威を得るべく一直線にそこに向かってくるから、他に抜きん出てそれを得られたりもする。 権威主義者が権威を食い荒らした結果、権威は早晩実を失う。 今の大学とか、そんな風になりつつあるのではないか。 権威の成立そのものは一種の自然現象のようなものだから、ある権威が実を失ったところで、いずれ別の権威は生まれるだろうけど。


11/18(金)

影山リサ、新曲の上がりをチェックしたりしてました。 これで二枚予定しているEPの、一枚分の収録曲が上がったことになります。

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音楽作品を世に出していると、我々ぐらい慎ましいものでも人様の目(耳)に触れてしまうらしい。 様々な感想をいただくわけだけど、非難のようなトーンのものも見受けられる。

誰に非難されたところで、音楽作品に正解・不正解があるわけではない。 その非難に起こる「理由」があるだけだ。 要するに我々の音楽がその非難を口にする人の何かを、結果的に侵害しているのだろう。 しかし謝ろうにも、一度生まれた作品が消えるわけでも無く、我々に活動を短期的に切り上げるつもりもないので、どうしようもない。

この宇宙に完璧な真理など存在しない以上、作品に本質的な意味での良否など無いが、各人の好悪ならある。 しかしそれは利害とかそういう、固有の事情に因って成立する面が大きいので、全ての人を納得させる作品を作るのは難しいし、私もそんなものを作るつもりはない。


この私にだって、ある音楽を耳にすれば、毎度それなりの「感想」は生まれる。 当然ながら必ずしも好印象ばかりではない。好きになれないものにだって遭遇する。 だが、だからと言ってその際に、非難の声をこの世界にぶちまけたいとは思わない。 そうせずにいられない人は、それはまた別の事情を抱えている。

目にした何かに非難の声を上げずにいられない人は、つまりはその何かに、自身の何かを侵害されていると感じている。 逆説的な言い回しだが、一般に加害者と言うのは、自身が被害者であると思い込んでいる者である。 「別に侵害されていないよ」と教えてあげることが肝要なのだろうけど、その人がその理屈に納得するかは分からない。 世界の見え方は個人個人違うからだ。


11/17(木)

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韓国のPOPS系グループに「少女時代」ってのがいるんだが、英表記に「Girl's Generation」とある。 異言語の翻訳作業はまことに微妙なものですね。 同じ漢語を使っている国でも英語との対応が異なる。 あるいは一種の文学的修辞なのだろうか。


11/16(水)

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ここ暫く、あまり作りたいものがなくて、くだらないことを考えている時間が長い。

私にとって、曲が思い浮かばない時期は「苦痛」なのかと言うと、むしろ逆である。 思い浮かんでしょうがない時期の方がある意味では苦痛だ。 実作業と言うのは労働で、大なり小なりの苦痛を伴うものだからだ。

では何故作るのかと言うと、完成させること(ひいてはそれを味わうこと)が快感であるから。 私は、できあがったそれを聴くためにわざわざ作っている。 「風呂に入って体を洗う」と言う作業などに似ているような気がする。 「体をキレイにする」と言う作業自体は労働だから苦痛なのだが、結果「体がキレイになる」ことは気持ちが良い、と言うような。

曲が浮かんでしょうがない時期と言うのは、いわば「やらねばならない仕事」を大量に抱えているような状態で、そんなに心地良い時間ではない。 今のような(作りたい曲が無い)状態に持って行く為に、一々やり残したタスクを潰して行く実務、が作曲であると言うに近い。 だから面倒臭いものなのだ。

創作には、音作りと言う実作業の前段階として、想像って工程がある。 ぼやけたイメージのままでは聴くに足るものでないので、そのイメージの輪郭を鮮やかにする作業が音作りってことになる。 今はそのぼやけたイメージ、が頭の中に溜まってない。 風呂上りのような状態。 本当に面白いものが出てくるのはこれからだ。


11/15(火)

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知り合いが会社を辞めると言う。 普通の人にとって、離職は人生の一大事だろう。

その人が会社を辞める理由は、平たく言えば会社の経営が傾いているからである。 小規模であるからだろうか、一従業員であるその人にまで会社の体質が丸分かりであるらしく、ここ数年の財務状況の悪化は甚だしいと言う。 もっとも、具体的に給料遅配などの形で既に実害も被っているそうだが。

曰く「このまま行くと早晩潰れる」らしい。 会社に借り入れが多過ぎて、人件費すらもままならなくなっている会社。運営が常識の範疇で行われているのであれば、それはつまりはその会社が、運動(企業活動)によって生み出す利益よりランニングコストの方が大きいと言うことだ。 そのコストには当然従業員の使用料も含まれる。 つまりそこの従業員は、会社の借金によって懐を満たしている。

またその会社の基本的な収入源は、いわゆる(悪名高い)公共事業であるらしい。 入札を経て発生している業務なのだから、一応の需要はありきなのだろうけど、原資は税金である。 本質的な意味での需要のほどは怪しい。 もっとも、公共事業も昔のような羽振りでなく、役所も吝いらしい。私にはよく分からんけど。

事業が成立していない会社から身を引く、と言うのは実に正しい判断だ。 仕事ってのは、需要を満たす作業に他ならず、経営を継続することによって借金が増えていくような会社なら、消滅した方が社会の健康のためには良い。


もし私が「ではお前らの会社はそんなに儲かっているのか」と問われるなら、全然そんなことはない。 ただ、金を増やすことでなく、この作業を続けていくこと自体が目的なので、儲からなくても続けていける方法を日々模索し続けてきたし、今も続けている。 我々が今の今まで音楽を続けてこられたのは事実なのだから、必要最低限の条件は揃っていたのだろう。 無論今も揃っている。

その諸条件のうち、最も大なるものの一つは「我々の意志」である。 意志によってこの活動は続いているし、逆に言えば意志によって達せられるものは継続でしかないのかもしれない。 売れるかどうか、金になるかどうか、と言うのは周囲の環境が決める。 それは我々にはコントロールできない。 私は、ウチの作った音楽が売れてくれれば喜ばしいとは思うが、売れるものを作るつもりはない。

ある困難がこの「継続」を阻むことはありえるだろうけど、その時こそ試されているのだろう。この継続が世界にとって必要かどうか。


日本の古代末期、各地に武士と言う新興の階層が発生した。 当時の政権の腐敗を補うべく生まれた層であっただけに、彼らが結果的に案出した幕府政治は(時折主宰者を変えながらも)700年もの間継続される。 揺るぎない条件が存在したからに違いない。 途中出来したいわゆる建武中興なんて事態が、成立後僅か1〜2年で崩壊したのも同じく、条件(世界からの要請)が存在していなかったからだ。

中世末期には、硬直した社会を改めるべく、織田信長は様々な施策を打った。 座の特権を潰し、宗教団体の武装を解除した。 もし僧兵が当時の社会にとっての必要悪(必要悪なんて言葉もおかしいけど)であったなら、必ずそれは復活したはずだし、もしかしたらこんにちにだって存在したかもしれない。

本来必要でないものが淘汰・排除されても、それは社会にとって何ら不都合ではないし、むしろそんなものは消滅すべきだとも言える。 例えば学歴社会は、当人らの苦痛の上に成り立つ部分が大きいから、こんにち崩壊しつつあるのではないかと私は睨んでいる。

私は、人は楽しいことをすれば良い、といつも思う。 本当に楽しいことであれば、もうそれだけで少なくともその人にとって必要な作業であるからだ。 存続する一つの大きな理由がそこにある。


11/14(月)

ドリフターズの「8時だよ!全員集合」のDVDを何本か見たんだが、それについてまた考えていた。

当時のドリフターズのコントを見て、今の私が純粋に「面白い」と思えるかというと、まあ正直そんなことはない。 あれは、ほぼ小学生とかそういう年齢層を対象としていると思われるのだが、今の私は大人である。一回りした感覚でしか見詰められない。

オッサンである私は、「うんこ」がどうしたとか、そういう内容に腹を抱えて笑う感性に(当然ながら)ない。 元々私は小学生だった時分から、一般的な小学生男子と笑いのツボ自体が多少違っていたような気がするけど。

それにしてもあの手の(うんこがどうしただのと言う)ツボって、小学生とは言っても男子児童特有であるように見える。 女子にあの種のツボは存在していないのではないか。


子供向けのギャグに笑えない私だが、「かつて子供だったことを忘れている」わけではない。 私はあの番組の面白さについて、しばし考えた。

定番ギャグの一つに「カラスの歌」(正式なタイトルは知らない)がある。 童謡の歌詞を捩ったようなもので、とにかく志村けんの歌うそれは子供らに大受けで、会場にいる子供らはその歌が始まると一斉に大合唱である。

あれは、元ネタが童謡などと言う、割かしオフィシャル性を持つものであることが重要であると見た。 子供にとっては、「教科書にある偉人の肖像に落書きをするツボ」などに似ていると思われる。


DVDを何本も見ていると気付くんだが、あれ、ほとんど同じネタをローテーションしているらしい。 まるでデジャヴかのように、見覚えのあるセット・聞き覚えのあるセリフが出てくる。 子供なんて情報の処理や記憶の整理がいい加減だから、効率から見てもあんなもので十分なのだろう。 因みに私が見たDVDは抜粋のようなもので、第一回放送から完全に収録したコンプリート版ではない。 それであの状態なのだから、さぞかし同じネタを使い回したものと思われる。


それにしても、あれだけの大歓声に迎えられている番組なのだが、私の立ち位置である後世から見ると、放送はあの僅か数年後に終わっている。 どうせ理由は視聴率低迷とかだろう。 子供からの人気と言うのは、まことに頼むに足りない。


11/13(日)

広瀬沙希のファーストアルバム「Love Solitude」、発売日が決まりました。 来年早々の1/11(水)、ウチの2017年第一弾アイテムになります。 下はそのジャケット。




11/12(土)

ここ最近(一月ぐらいだろうか)、曲を作るペースが落ちている。 まあここ数年、異常なくらいのハイペースだったので、通常に戻っただけって感じもするが。

ペースが落ちているのは、要するに書きたいものが見当たらないからだ。 ある面において、書き尽くした気分なわけです。 無論、音楽そのものを書き尽くしたと思うわけではなくて、次のパラダイムに飛躍するための準備期間みたいな感じだろうか。 とにかく私としてはそんな気分。

一応、神田優花のフルアルバムは現時点で四枚なんだけど、多分来年は六枚目まで出す。 十年以上の活動期間で四枚しか出してないフルアルバムを、一年のうちに二枚出すってんだから、結構大変な作業ではあります。 因みに収録予定曲はオケまでもう上がってて、あとは歌を入れるだけ。 まだ歌詞がついてないのが三つほどあるけど。

六枚目のアルバムを出したら、神田優花もある意味一区切り。 アーティストイメージみたいなのの基礎が仕上がるはず。 今まであるイメージの範疇で試行錯誤してきたんだけど、六枚目以降はもっとメチャクチャやりたい。 ただ、現時点で既にあるストック(これが多分100曲近い)を消化しつつ新しいことに手を付ける感じになるだろうから、表面上、劇的な変化を見せたりしないとは思う。


11/11(金)

ずっと欲しかったものなのに、手に入れた瞬間どうでも良くなった、なんて経験がある。 私にあるんだから、覚えのある人もいるはずだ。

人は常に、「好きだから欲しい」とは限らない。 そんなに単純でない。 感じた圧力によって、欲しがらされることだって往々にしてある。 まあ欲しがらされたと言ったところで、原因はどうあれ、欲したのは事実だが。 とにかく、好きだから欲しいのか、単に欲しいだけなのか、この辺の整理を付けておかないと、人生がメチャクチャになる。

「物は手に入れるまでが一番楽しい」なんて言い回しを聞いたことがある。 分かる部分もあるし、同意できない部分もある。 「手に入れたい」と望む時間も、手に入れたそれを味わう時間も、失った後に余韻を味わう時間も、要するに何かを感じているだけだ。 想像できることであれば、それらは全て現実。 私には逆に「所有」と言うことが何なのか、よく分からない。


この歳になるまでに分かったこともある。 「手に入れてなお好きなもの」と、「手に入れたいだけのもの」は違う、と言うこと。 後者は、単に欲しがらされているだけのもので、それに気付ければ、もう追い求める作業に振り回されなくて済む。

前者のことを、一般に「夢」と呼ぶ。 手に入れてなお好きなもの、つまりそこにある時間を楽しめる予感のするもの。


「時間の想像」が夢なのだから、その人の持つ時間感覚如何によっては、夢が見られないと言うことになる。 その人の頭の中には「手に入れたい」と言う感覚のみしか存在しない。 だから永遠に何かを、それこそ宇宙の果てまで追い求める破目になる。 途中で時間を使い切るだろうけど。


11/10(木)

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ドリフターズの「8時だよ!全員集合」のDVDを何本か見た。 一応私は、あれの本放送をリアルタイムで見ていた世代である。

当時としてはさほど珍しいことではないが、あれ、音楽は基本生演奏である。 オープニング、エンディング共に極端な「巻き」が掛かっているケースが見られるんだけど、トランペットのトレモロっぽい奏法とか大変だったろうと思う。 日に日にBPMが上がって行ったから対応できたのだろうか。 忍者が修行で、日々伸び続ける草を飛び越え続けるように。


11/9(水)

影山リサ、またレコーディング。 年内にストックが20曲近くなりそうだ。

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影山リサの近況&今後のスケジュール。

まず企画物のミニアルバムを2タイトル。これは収録曲も9割方出来上がってるので、近いうち(年明けぐらい)に発表できると思います。 本編(4thアルバム)の方も並行してコツコツ作ってはいるんですが、こっちはまだ先になりそう。

あと来年には、2015年にリリースした「ナイチンゲール」の続編に当たる新作を出したいと思ってます。 これは収録予定の曲自体はある程度出来上がってるんだけど、歌入れがほとんど手付かずの状態。 一曲だけ録ってるけど。


11/8(火)

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価値とは、それを測る物差しありきで生まれる。 才能とか頭の良さと言うのも、比較によって生まれている。 この世界に自分一人しか人間がいないなら、美醜も賢愚も存在しない。 比較の対象が無いのだから。

事業で成功を収めるような人は「頭が良い」のか。 基本的に良いとされていると思われるが、では事業で成功を収められない人、は頭が悪いのか。

確かに起業には勝算が必要だろうが、不安材料も当然付きまとう。 数々の不安材料が懸念として脳裏をよぎってしまう人は、それが理由で起業に着手できなかったりもするだろう。 懸念がよぎらない人にとっては、起業など実に容易い。 金儲けのアイディアが一つ浮かべば良いのだから。

いわゆる受験勉強のように、クイズの正答率を競うような、ある側面ではシンプルな作業においても、その成績と頭の良さとの相関性は単純ではないように見える。 例えば言語力は、計数能力に干渉してしまうに違いないから。

健康や頭の良さなどと言う複雑な基準は、物差しの置きように困る。 血糖値や血圧などは、高過ぎても低過ぎても不健康とされるでしょうから。


11/7(月)

神田優花、新曲制作中。 今抱えてる二曲を録り終えたら、とりあえず次のアルバムの収録予定曲が上がります。 今年中のリリースは難しいけど、来年早々にも発表できたらと思ってます。

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あと、先週だかに録った曲の上がりをチェックしてたんだけど、その曲は次の次のアルバム(通算6枚目のフルアルバム)に収録します。 予定通りなんだけど、来年はフルアルバムを二枚出すことになりそうです。


11/6(日)

人間は、目的が無いと生きて行けない。 一歩を踏み出すことすら多分できない。 平社員は主任や係長になりたい。 社長に登り詰めたら詰めたで、より巨大な組織のトップだとか、団体の会長だとかにどうせなりたくなる。

目的を高次に設定し続けたら、宇宙の果てまで支配しても飽き足るまい。 いずれ神になるしかなくなるわけだけど、多くの人はそれまでに時間を使い切る。

人間の諸欲に寛容な社会は、それを矯めることにある程度成功しているのだろう。 日本のようにがんじがらめ体制を作らねばならなかった社会は、それはそれで事情がある。 偏差値の高い学校は、校則がうるさくないと聞く。


どのような形であれ、栄達に目標を置くことは、この物質世界に対する依存である。 芸術家は、心と言う宇宙より複雑怪奇なものを探求する者。 芸術家は、栄達など求めてはいけない。


11/5(土)

ちょっと前にこのページで言語の時間保持能について触れたんだけど、読む人にとって意味不明な言葉だったかもしれない、と思って敷衍する。

日本語は述語が最後に配置される。 英語は無論のこと、中国語だって「我愛〜」のように、動詞(つまり結論)が主語の直後に置かれる。 副詞だとかそういう修飾的な部分はその後に配置されるわけだが、その辺って、言ってしまえば端折っても大意に差し支えない。

英語圏のHIPHOPアーティストなどがよく、フリースタイル(即興ラップ)ってのをやるわけだが、あれも使用言語が英語である部分に因っている面が大きい。 日本語のように動詞(述語)が最後に来てしまうような言語では難しい。 と言うか、脳の負担が大きくなり過ぎる。 だから日本人ラッパーはあれ(フリースタイル)が苦手である筈だ。 使用言語の違いに因るのだから、別に恥ずべきことではない。

ある思考を言語化する際に、日本語のような言語はワーキングメモリーを食い過ぎる。 脳機能にも因る話だが、「私はあなたを愛しています」ぐらいなら保持できても、「私は、一目会ったその日から、あなたと言う人のことを、誰よりも愛するようになってしまいました」とか言うセンテンスの場合、メモリー不足により保持できなくなる。

全てを保持できない場合、どういうことが起こるか。 アタマの部分だけしかインポートできない(結論部分が無い状態)、お尻の部分で全てが上書きされる(文意が成立しない状態)、あるいは部分をピックアップしたような状態(支離滅裂)になるに違いない。

この辺、英語などは「I love」の時点で大意が成立してしまっている。 その後に続く部分なんて無いなら無いで大筋の意味は読み取れてしまう。 つまり、同じ長さのセンテンスでも、包摂できる意の濃さが違う。 同じく少ないワーキングメモリーをもってしても、成立させられる文意(時間的な量)が違う。

一部が削られた際、片や文意が成立せず、片やとりあえずの意味は汲み取れるものであると言うこと。 私の言う「言語による時間保持能」ってのの意味、うまく伝わりましたでしょうか。


11/4(金)

野良犬は狼とは違う。 犬・狼と言った呼称は、おそらくは厳密な意味で学術的なものではないと思われるが。

野良犬は、単に逃げ出したり捨てられたりした飼い犬が、野生化しただけである。 人が出したゴミなどを漁ったりして暫くは食い繋げるかもしれないが、長い目で見れば種を維持できない。 この辺が、草原を駆け回る狼とは決定的に違う。 つまりニッチが成立していない。

特定の昆虫が大発生する年などがあるけど、そういうのも長くは続かない。 続かない理由は、個体数を維持するのにも相応の条件が要るからだ。 長く続くならそれはもう大発生ではなく、その種はそういう個体数のものである。


本題に入る。 精神を病んでしまう人や、あまつさえ自殺までするような人がいる。 日本は毎年万単位の自殺者を出すという、まさに自殺大国なわけだけど、そういう人らも、大掴みに言うならニッチが成立していないのではないか。

「人生に行き詰まり、自殺を考える人」に聞いたみたら良い。「どう言う人生であれば行き詰まらないのか」と。 多分明快な答えは出てこない筈だ。

人格障害者などは、必ずと言って良いほど対人関係を破綻させてしまうわけだが、そういう人らにも「どういう相手だったら満足なのだ」と聞いてみれば良い。 その人の断片的な要求を一々汲み取れば、きっとあり得ない人物像ができあがる。 いわば「背が高くて低い人」のような。 つまり成立していない。

「世界一優しい人」とか言うなら、確かにそれは高望みではあるけど、あり得ない人物像ではないので、少なくともそれを得るべく、遠大な人生に取り組むことはできる。 「優しくて優しくない人が良い」とか言い出したら、得られる得られぬ以前に、そこに取り組みようがない。 そう言い出してしまう人こそが、人間として成立していないと言える。


例えば歌手などが「歌い続けたい」などと言ったところで、その要求がなかなか叶わないのは、条件が揃わないからである。 本人の意志・能力も無論そうだが、家族の協力だとか、脇を固めるスタッフだとかのモチベーションだって諸条件の一つである。 物事に行き詰る人は、条件を見直してみると良いかもしれませんよ。

単に「歌うこと」なら、それこそ誰にだってできる。 コンサートを開いたりCDを作ったりすることだってできる。 でもそれは、飼い犬が一時的に野生化しているようなものである。 難しいのは「歌い続けること」。 それには条件と言う、難解極まりない、複雑怪奇なものの成立が不可欠となる。 私が良いアーティストの条件として、「長く続けられる人」を挙げる所以だ。


11/3(木)

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「悲しみ」について。

人はどうして悲しむのか。 例えば我が子や親兄弟、恋人などを失くした人は、そのことを悲しむだろう。 「あの人のいない人生なんて考えられない」と。 大切な人を失った人は、大切な人がいないから悲しいと、生きて行けないとさえ思い込んでいる。 でも本当にそうだろうか。

我が子を失った人は、その子が生まれる以前、当然その子がいない毎日を平然と生きていた。 恋人と出会う前だって同じ。その相手無しでも問題なく日常を過ごしていた。 結婚して子を作るような人なら、むしろそれまでの人生が充実していたケースも多いのではないか。


出会ってしまうことによって、出会ったその相手は我々の現実となる。 存在しないものを失うことはできない。 つまり、「いないから悲しい」のではなく「いるから悲しい」。

誰かを愛したことのある人ならきっと分かるはず。 失ってすらいない、目の前にありありと存在するその人を見るだけで「悲しい」と感じたはずだから。


「それでは出会いに意味など無いではないか」、「出会いは別れの始まりでしかないではないか」と思う人もいるだろう。 でもそんなことはない。 これは大事なことだが、その人が我々の現実であり続ける限り、我々は「再び出会うその日」を夢見ることができるから。 それが果てしなく遠い道のりであったとしても、そこを目指して歩いていけるから。

それが現実でなければ、我々は失うことすらできず、愛することも悲しむこともできない。 会いたいとも、会えなくて淋しいとも感じられず、再び会うその日を夢見ることさえできない。 我々が生きていることにもし意味があるとすれば、一番大切なことは、我々が心に何かを映していること。


11/2(水)

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ある時、あるミュージシャンの個人HPみたいなのを眺めていた。 自作曲がいくつか公開されてあったのだが、そこに注意書きとして「※パクるな!」みたいな文言があった。 その人は、自作曲の何%ぐらいが純然たる自分の発想に因ると思っているのだろうか。 私は喧嘩を売っているのではなく、純粋に興味があるから知りたい。

「自分が作った音楽(音符配列)なのだから、これは俺のものだ」と言う主張。 これがもし正しいのなら、一面では音楽なんて、後世の者であればあるほど作りにくくなる。

『「ラ」の音に、私は先占の権利を主張する。 だから他の音楽家らは、それを使いたくば私に使用許可を得よ。』などと言う誰かの主張が認められたら、もう音楽なんて作れない。 無論これは極論だけど、要するに「パクるな」ってこういうことでしょう。

もう多くの人が気付いているだろうけど、著作権と言う思想は怪しげなものだ。 良い悪いはさて置き、立脚の根拠が怪しげな物は崩れやすい。 「パクるな」と言う者が殺気立ってしまう理由として、「容易にパクれてしまうから」ってのは大きかろう。 だって単なる配列なんですから。

「パクるな!」と声を上げる人は、創作と言うものの本質を理解しているのだろうか。 音律・音楽などと言う、先人らが数千年かけて作り上げたメソッドを、時間の末端にいる我々は拝借させてもらっているだけである。 後続の者に引き継ぐことこそを考えるべきだろうに。


11/1(火)

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仲睦まじきことは美しい。私は本当にそう思う。 仲良くなれるのだから、それだけの条件が整っていたのだろう。 でもその事と「誰とでも仲良くなるべきか」とは話の次元が違う。 当然だが、人は誰とでも仲良くなれるわけではない。 この世には、仲良くなってはいけない相手だって存在するから。

八方美人ってのは、要するに敵を作りたくない臆病者のこと。 つまり人を嫌いになれない者。 彼は好悪の判断を避けているだけだ。 自分の頭で物を考えることができない人は、究極的には人殺しだって魔女狩りだってやれる人である。 誰かのことを「嫌い」とハッキリ言える人こそが、つまりは信用できる者。

私は、嫌いな人のことを「嫌い」とハッキリ言える人でありたい。


10/31(月)

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今作ってる曲についてのメモ。 またアニメーション・カートゥーンの音楽、みたいなのを作ろうと思い立ってしまった。

アニメーションなんかのBGMには、大別するとミッキーマウジングとアンダースコアの二種がある。 ミッキーマウジングってのはアニメーションの動きに音楽を伴奏させるような手法で、アンダースコアの方は普段の我々がアニメのBGMと聞いてとりあえず連想するようなものを指している。 前者にはスコット・ブラッドリーなんて言う大家がいるんだが、そもそも絵の動きに合わせて音楽を作るってのが容易でない上に、とにかく、絵がある程度上がってからでないと着手しようもない。 昨今あまり見られない理由は、単に大変だからって部分が大きいと思われる。

影山リサに「Midnight Hour」ってミッキーマウジングの手法を取り入れた曲があるんだけど、今回のはアンダースコア的なもの。

着手してみると意外と難しい。 何が難しいかってのを説明するのも大変だが、映像の従物であることが前提の音楽なのだから、あんまし主張の強いものではマズいんだ。かと言って単旋律とかタダのコード・アルペジオとかってわけにも行かない。 とにかく、音楽的な「意味の無さ」が求められると言う特殊さ、が難しい。 BGMと言う種類の音楽にだって、良し悪しはある。 音楽的に無意味、かつ良質な音楽、と言う命令って結構厄介だ。


10/30(日)

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行列のできるような食い物屋って実在する。 一方で閑古鳥が鳴いているような店も多く、潰れる店、新たに開業する店、どちらも後を絶たない。 何当たり前のこと言ってるんだ、と言われてしまいそうだが。

しかし食い物のパターンなど、食材を含め高が知れている。 店の立地とかも、好条件であれば費用も相応に掛かろうし、掛からない物件なら、これまた相応に条件も悪かろう。 他にも内装だとか宣伝だとか、色々ファクターはあるけど、こういう部分でも劇的な差別化を図ることって難しそうだ。

料理なんてパターンだ。 食材と調理法を組み合わせただけ。 どちらも存在する選択肢に限界があり、現実的に選択できるものに限界がある。 しかし料理には、旨いものと不味いものとが存在する。 音価と音高などの組み合わせで作る音楽作品に、厳然と良し悪しがあるのに似ているような気がする。


10/29(土)

政治についてまた考えていた。 割かし狭義の政治。

日本の近代政治史みたいなのを眺めていると、確かに東アジアの他の地域に比べ、政治家はとびきり清潔だ。 明治新政府だってそうだし、今でも勿論そう。

日本人の中に「政治家の汚職事件は後を絶たないではないか」と言う感想はあろうかと思う。 でもそれは、ニュースのネタになるから殊更に取り上げられている面が大きかろう。 明治の頃にだって尾去沢銅山の一件とか、山城屋和助の事件とか、一部の長州藩出身による有名な汚職事件はあるけど、総評するなら清潔な政権と言って良いと思う。

清潔と言うのは比較の上での話なわけだけど、対象は主に支那・朝鮮になる。 日本にいくら汚職があっても、ああいった儒教圏のように、体制そのものが汚職によって成り立っていると言うほどのものではない。 汚職が事件として取り上げられてしまうのも、「珍しいから」と言う理由が大きいように思える。


よく言われることだけど、支那世界に公は存在しない。 歴代政権も基本的には私有であったと言える。 ただ、天下為公とか言う言葉もあり、そもそも公が漢語である以上、その感覚そのものは(概念としては)あったのだろうと思われる。 精神として骨肉化させられなかったと言うことか。

日本に成し遂げられた近代化が、中国(当時の清)には成せなかった。 両国民の公感覚が影響しているとか言われる。 私もその見方になんとなく納得できるんだが、成り行き(歴史)を見詰めている視点が限定的過ぎるようにも思える。

大久保利通のような人を見ていると、究極までに私(わたくし)を削ぎ落とした人間に見える。 が、その生涯、特に幕末期の岩倉具視なんかとの行動を眺めていると まごうこと無く(芸術家でなく)政治家だと思わざるを得ない。 西郷の方は芸術家に見えなくもない。

江戸幕府は徳川家私有の政権、と言う色合いが濃い。私(わたくし)である。 諸藩も要はプチ徳川家で、大久保のいた薩摩藩も例外でなかろう(それが封建体制ってもんだと私は理解している)。 大久保は島津久光の側近として政界にデビューしているわけだが、政治家大久保の公感覚とは、如何なるものだったろう。 私(わたくし)の定義する輪郭を拡げた、私の大なるもの、と言った感覚だろうか。 あるいは単に無私=公であったか。

政治の発生源となっているのは、人々の私だろうと思う。 そのいわば蛮性を制御する必要から、政治は生まれている。 修身斉家治国平天下、みたいな思考法から逆算しても、やはり政治って私と切っても切り離せない。

公と私は正反対の概念だ。と言う見方は、あくまである思考の枠組みから生まれたものだ。 もし神が存在するとして、その視座から眺めるなら五十歩百歩と言うか、どちらも似たような機微だろう。 「お国のため」も「我が身かわいさ」も。

アメリカは京都議定書を蹴るではないか。 合衆国大統領が私に振り回されているのではなく、彼の考える公の輪郭が、アメリカ一国を限界としているからだろう。 合衆国大統領ですら、人類のため・地球のため、などと言うスケールで物を考えられない。


中国人の中国的思考法と言うのは、ある意味実に合理的で、と言うか合理主義そのものとすら思える。 アメリカ人などとある面では似ているような気もするが、両国民が作り上げた体制は天地ほどに違う。 どうしてなんだろう。 中国的思考法と、リバタリアニズムに代表されるようなアメリカ的思考法は、似ているようで全く異なるようだ。 因みに、私も心情的にはリバタリアンにシンパシーを寄せる者で、日本的な空気が肌に合わないと感じることも多い。

現中国は経済発展において目覚しいと言われる。 確かに金持ちはいるだろうし、その羽振りの良さも著しかろうけど、ではEU圏の平均以上の国家、あるいは日本などと比べ、国民全体の生活が豊かだと言えるのかと言うと、決してそうでなかろう。 各人が合理的行動を採り続けた結果、豊かさにおいてアメリカは無論のこと、ヨーロッパや日本などの社会民主主義国の後塵さえ拝する体制に行き着いている。 何故か。


私なりの今のところの結論。 国民性・民族の違いとは、煎じ詰めると言語の違い。 ハードウェアとしての脳の機能についてはよく分からないけど、使用言語(language)の持つ時間保持能の差が大きいような気がする。 いわゆるワーキングメモリーとか呼ばれるものがそれを指しているかと思われるが、言語に因る面が少なくないと私は疑っている。

つまり個人としての最適解の集積が、国家・民族としての最適解に繋がらない。 「囚人のジレンマ」は、個人が脳内に展開できる時間軸の欠如によって起こっているような気がする。 人は、言語が時間軸上のあるパースペクティブを捉えたものを、公(あるいは私)とか呼んでいるのではないか。

万引きをする者、しない者、どちらもいる。 前者の行動にだって合理的根拠はある。 モノを盗んだ方が買うより安くつくではないか。 一方後者は、請け負わねばならない(物心両面での)ペナルティーにまで想像が至るから、普通に代金を支払う。 両者は違った価値観を持っているのではなく、どちらも自身が考える損得計算に従って行動しているだけ。 違うのは「時間感覚」である。 時間とは言語である。


何故欧米以外から偉大な文学者や芸術家が出ないのか。 言語だろう。 ロシアは近現代クラシック音楽の一大淵叢と言えるが、血だけで見るとモンゴロイドとの混血は濃厚である筈だ。 中国人を生まれた時からアメリカで育て、母国語を英語としたなら、彼は紛れも無いアメリカ人になるだろうし、ノーベル賞だって取るかもしれない。


10/28(金)

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もう会えない人と会う夢を見た。 私はよくこういう夢を見てしまう。

夢の中の私は、ソイツの側で目を閉じた。 せっかく会えたと言うに、視界と言う情報源を絶ってしまった。 夢から覚めた後、「どうして自分は目を閉じたろうか」と考えてみたんだけど、どうやら心を感じるのに、視覚情報は時に邪魔であるらしい。

だから私は、本当にそういう場面に出くわした時にも、きっと目を閉じてしまうだろう。


視覚でなく、心で感じ取った何か。私の知るもので、一番それに近いものは音楽だ。 私はこの音楽を作り続ける日々の遥か向こうに、何より大切なものが待っているような気がしている。


10/27(木)

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ゴルゴ13を読んでいたら、脇役のセリフに「ぐるり」と言う言葉が(複数回)出てくることに気付く。 意味は、周囲・周辺と言う程度のもので、あまり聞かない言葉だが(辞書には載っていたが、少なくとも私の日常語彙ではない)、意味を掴みかねると言うほどでも無い。 言わんとすることは解るから、そのまま読み進められる。

読者は御存知だろうが、ゴルゴ13には主人公のゴルゴ以外にレギュラーと言えるキャラクターがいない。 基本的には常に一話完結で、キャラも登場は一回限りである(ごく稀に再登場するキャラもある)。 つまりキャラクター同士に、スラングなども含めた語彙が伝播する余地が無い筈である。

なのに何故彼らは「ぐるり」などと言う、あまり一般的と思えない用語を使うか。 最も導き出しやすい結論は、「作者(脚本家を含む)の語彙だから」だろう。 当たり前だが、ゴルゴ13は誰かの作ったオハナシなのである。

別に私はあの作品の批判をしたいわけではない。 まるでそれが目の前で起こった出来事であるかのように作品に没入していても、そういうディテールによってある気分は覚める、と言う話をしている。 この気分を私はリアリティーと呼んでいる。 私は、一部の隙も無いリアリティーを作りたい。 まるでその作品の中に、もう一つの世界が実在するような。


10/26(水)

散々このページでも述べていることだが、ある時私はある人に「スポーツなどの勝敗なんてルールが決めただけのもの」、「勝者は踊り上がり、敗者はうな垂れるが、双方の運動量に違いは無い。彼らを別けているのは気分に過ぎない」と言う話をした。

するとその人は、やや承服しがたいと言う気分の籠もった語気で「それまでの練習があるからですよ」と返答(反論?)した。 このやり取りは、どちらが正しいとか言う以前に論点が噛み合っていないのだが、私はどうして良いものか、その時点では分からなかった。 「どうすべきであったか」と言う明確な答えは、今もって持てない。


これは前々からの持論なのだが、私は「意見の相違」と言うものに対してやや懐疑的である。 立場の相違なら解る。 立場の違いとそれに付随する利害により、人は対立する。 が、意見に相違などあるのだろうか。 言語とは論理そのものの筈で、食い違いをむしろ生み難いツールである筈だ。

上のその人も、運動部に所属していたことがあるそうで、「勝敗と言う神聖なものを愚弄された」と言う(誤解だが)不満のような気分があったものと思われる。 つまり立場が原因となっている。

私の言わんとしたことの骨子に、スポーツは関係ない。 話を解りやすくするために引き合いに出した例に過ぎず、スポーツの代わりに将棋やペーパーテスト、戦争、TVゲーム、ミス・コンテストその他を例に取っても論旨は変わらない。 たまたまその人の抱える事情が、スポーツと言う(本来関係無い)点に無駄に引っ掛からせてしまった。


人間誰しもが抱える私(わたくし)。 私(わたくし)と言うものは、どうも平明である筈の結論を曇らせてしまうらしい。 生存と言う、生物が抱える必須のタスク、これは即ち私(わたくし)の正体であろう。 私が好まない政治も、発生の遠因はこれ。 本来見える筈の何かを見えなくするから、私はそれを好まない。


10/25(火)

昨日、弁当屋のレジ前で注文の順番待ちをした。 目の前で会計中の中年女性がいたのだが、オーダー内容が複雑だったからか、レジを打つ店員が何度も間違い、何度も計算をやり直していた。

待たされているうちに、注文者の機嫌は見る見るうちに悪くなる。 後ろで見ている私に見て取れたのだから、店員にも当然伝わったろう。


どうして彼女の機嫌は悪くなったのか。 それは店員の無能によって「待たされている」と感じたから。 ここでは、彼女が被った「待たされる」と言う害と、店員の無能さは直結している。

ここで私は気付いたのだが、店員の間違いによって生じたロスは、順番待ちをしている私にもほぼ直接影響する。 つまり待たされていることについては、私も同じなのである。 でも私は特にハラを立てたりしなかった。 人間なんて(私を含め)皆その程度には無能だったりもしようから、ミスぐらいするだろう。 とにかく私は、その程度には寛容だ。

また、その時の私は急いてなかった。 もし一刻を争うような状況だったら、その店員のミスを許容できぬ気分が生まれたかもしれない。 まあそんな状況でのん気に弁当なんて買う人も少なかろうから、上の中年女性も、客観的に見て、そんなに差し迫った状況下にあったと言うより、単に他人の無能さを許容できない性格であった、と言うのが真相に近かろうか。 言い換えるなら彼女は、平素常に差し迫った状況下に置かれている。

つまり人は、自らが抱えている状況に余裕が無いと感じれば感じるほど、自分以外の世界に寛容でいられなくなると言うことだ。 自分以外の世界に対する「こうあれかし」と言う気分は、即ち依存である。


ここ最近、私はいわゆる「赤ちゃん」を見る機会が多い。 その子を眺めていたら分かるのだが、まさに依存心の権化である。 親やそれ以外の大人に甘えている、とかそういうレベルではない。 この世界全てに甘えている。 ちょっとでも不満を感じたら泣き喚き、周りの世界がその不快を解消すべく努めることを当為であると感じている。

私もそうだが、その子の親すらも、その甘えを良いものとは思っていない。 赤ちゃんだからと已む無く許容しているだけ。 もしその子の脳が成長せず、今のままの依存心の塊りのような大人になったら、当然周囲はその人格を許容しないであろう。

許容されない彼はどうなるか。 本質において成長できないのだから、大抵は「成長したフリ」を覚えるようになる。 これが収斂である。

彼は、常にある態度を取りたいのに取れない。 高いところから低いところに流れるはずの水を、無理に堰き止めているような状態なのだから、その緊張・負荷は大きい。 一見普通人に見えても、本当の意味で普通人に成長したわけではないから、ちょっとしたキッカケでも堰が切れそうになる。 上の弁当屋の一件とか、典型的なそれであろう。

収斂によって普通人に成りすましている人にとって、日々は我慢の連続となる。 ストレスも普通人のそれとは程度が違う。 実際、発達障害・精神疾患を抱えている人が、鬱病その他の病気になるケースは非常に多いと言う。

今私が述べていることは、大筋において間違っていないと思うが、では「どうすれば良いのか」と言う結論は無い。 収斂は脳機能の不全に因ると思われるが、脳の性能なんてかなりの部分が遺伝的に決定されているであろうから、どうしようもない。


10/24(月)

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タイプライターについて、軽く調べを入れていた。 おそらくかなり旧式なものだと思われるが、タイプライターをサンプリングした音源を導入してみたもので。

そういう音源まで出ているくらいで、タイプライター(の音)を音楽作品に採用しようって試みは既にある。 調べたらすぐ分かるはずだが、ルロイ・アンダーソンの「タイプライター」とか有名だ。 因みに、楽音が出せるわけではなく、要するに打楽器(と言うか効果音)としての採用なんで、多方面においてそんなに面倒臭い調整は求められない。

正直言って構造と言うか、メカニズムがよく分からない。 サンプル(音)は何系統かに大別できるんだが、動作との関連性がイマイチ正確に分からない。

まずキーボードを打つ音、改行を促す警告?音、改行する際の音、の三種があることは分かるんだが、例えば改行音らしきものが数種入っているのはどう言うことなんだろう。 まあ正統的な楽器でも無いし、メーカーとか年式による差異なんかも幾らでもありそうで、真剣に調べるのもバカらしい気もするが。


10/23(日)

ソニーの事実上の創業者である、盛田昭夫の伝記(マンガ)を読んでいた。 必然的にソニー社史みたいな内容になっている。

ピカソは「売れる絵を描く者を画家と言い、描いた絵が売れる者を芸術家と言う」とか「絵描きは人が彼に望む絵を決して描いてはいけない」とか言っているんだが、商売とは、「人が彼に望むもの」こそを生み出すべき作業だろう。 商売人は芸術家とは違う原理で動いているわけだけど、私は別に商売について、批判的であるわけではない。

「売れるもの」を生み出すことによって、本人は自身望む成功者となり、買う人を喜ばせ、雇用を産む。社会に還元する部分が実に大きい。 素晴らしいことだ。 こんにちの我々も、ソニー製品のお世話になっている。


私が思ったのは、商売の世界には何故「世間に歓迎されない成功者」がいてしまうのか、と言うこと。 日本には実際「出る杭は打たれる」と言うような言葉まであるし、伝統的に社会にそう言う傾向がある。 その「出る杭」こそが社会を豊かにしている面もあると言うのに。

成功者を嫉むあまり、「足を引っ掛けてやりたい」みたいな気分が周囲に蔓延するのだろうか。 例えば私にだって、金持ちを羨む気分そのものはある。 ただ、だからと言って他人の破滅を望んだりはしない。 豊かな者が豊かさを失ったところで、貧しい者の貧しさが即座に解消されるわけでもない。 むしろ貧しさを深刻にする可能性だって濃厚にある。


もう随分昔、実名は伏せるけど、ある音楽プロデューサーと飲んでいた時、その彼が当時の有名音楽プロデューサーのことを散々に扱き下ろしていたのを思い出した。 当時売れていたプロデューサーやミュージシャンらの名を挙げ、「あいつらがいなくなれば良い」などと彼はボヤいていた。

その人はきっと本気でそう思っていたろうけど、実際は「その売れている人たち」がいたからこそ、彼に回ってくる仕事もあったはずだ。 公平に見て、私にはそのように思える。 売れている人らがいなくなるってのは、業界そのものの崩壊をも意味するわけで、「売れないミュージシャン」なんてのが存在する余地すらなくなる状況だ。

ただ現実には、その人のようなタイプは少数派で、基本的に世の人らには、成功者を賞賛する気分があるものと思われる。 有名になり過ぎた人は、多くの人の目に結果的に映ってしまうので、その少数派の目にも触れてしまうだけではないかと思う。


しかしよくよく考えてみると、とりあえずは成功者でありながら、多数派に疎まれるタイプも存在することに気付く。 そういう人は大抵、自身は目に見えて成功しているが、社会に還元するところが無い。あるいは絶望的なまでに少ない。 実際にそうであるかはとりあえず置いといて、世人らの多くにはそのように映ってしまっている。

結論として、その手の成功者には、気分の中に「愛」や「夢」がほとんど無い。 ソニーの盛田氏に「社会に貢献したい」なんて気分がどの程度あったかなんて分からない。 単に自身の夢を追いかけていただけなのかもしれないが、それで十分なのである。 夢を伴った行動なら、きっとそれは社会にも何らかの還元をもたらすであろうから。

考えてみたら、盛田昭夫をはじめ、松下幸之助や豊田佐吉、本田宗一郎などが社会からのバッシングを受けたなんて話は寡聞にして知らない。 無論、成功者を快く思わない者はいつの時代にもいたろうけど、決して多数派を占めるなんてことは無かったろう。 嫌われる商人は、その人自体がその原因を抱えているのではないか。

その人に夢(即ち人としての心)があったれば、それは必ず他人の心をも映すし、その人の夢は自分以外の人の気分を差し置いては成立し得なくなる。 その点に、周囲はある種の安堵を覚える。

愛や夢の無い人の行動だって、社会に還元する面はきっとある。 雇用だって産むだろうし、最低でも税収の面では社会に貢献するに違いない。 ただ、その人らの行動(つまり商売)がどのような財やサービスを産み出したのか、つまり「どれほど世界に貢献したのか」は、大抵分かりづらい。そんなもの存在しないからかもしれない。 とにかく、社会はその人らを歓迎しない。 その人らの結果的な行動と言うより、心事を歓迎しない。


愛や夢無き者に対するある種の嫌悪感・抵抗感、これは人間の生理とも言うべき論理性が弾き出している。それはあるいは意識下のものであるかもしれないが、常に理由があると言うこと。 いくら成功者であるからとて、その手の人らで溢れ返る社会に、人々は明るい未来が待っていそうな気がしない。

気がしないとか言うと、精神論のような非科学的なことを申し上げているようだが、単純にそうではない。 社会は気分が構成しているのだ。 アメリカとはアメリカと言う思想体のことだし、日本人とは日本と言う思想を共有する人らのこと。 気分が壊れたら社会なんて成立しない。


10/22(土)

愛された記憶は忘れられない。 少なくとも私は忘れない。 もし私を知る誰かが、「私はあの時お前を愛したのに、お前はその愛を忘れているだけだ」と言うなら、「そんなことはあり得ない」と自信を持って言い切れる。 感じた愛の記憶なら、私は絶対に忘れない。

今もって分からないことがある。 私の記憶の中に、「あの時のあれは果たして愛だったろうか」と、今でも判断の付かないものがあるのだ(それにしたって忘れてはいない)。 もしかしたらこの思索は、畢生の作業になるかもしれない。

どうしてそんなに愛を正確に知りたいと思うのか。 それは私が作りたいものが、愛のような曲だから。

愛に似た曲、なんて存在するのか。 間違いなく存在する。 愛はモノじゃない。我々が心で感じただけのものなのだから、如何なる物質よりも、音楽と成分が似通っている筈。 もっと言えば、同じ要素で構成されているものだ。

「愛のような」とか言う表現は、一種の謙遜でもある。 私は愛と同じ曲、愛そのものを作ろうと思っている。 「これは愛そのものとしか言いようが無い」と言うような、完璧に美しい曲を私は作りたい。


10/21(金)

神田優花、歌録り。 また予定外だったんだけど、ソツの無いテイクが録れたと思います。

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あとここ最近上がった曲のマスターを、いくつかまとめてチェックしてました。


10/20(木)

「好きさ」と「欲しさ」は違う、みたいなことを以前このページで述べたんだけど、またあらためてそこについて考えていた。

英語とかでもやはり「I want you」と「I like you」は違う。似ているんだけど違う。 欲しさと言うのはとりあえず好きさとは無関係の感覚で、例えば美意識の狂いなどからも生じうる。 だから「全然好きじゃないけど欲しい物」なんてのもあり得る。

過度に誘惑的な女の人などは、自分を好かせようと思っているのだろうけど、それ故か、自分を欲しがらせるべく画策しているように見える。 自分を欲しがらせるべく散々誘惑的に振舞い、高値で売り抜けたは良いが、経年劣化の末、乗り潰した車のように捨てられたりする。 かわいそうなどと言うも愚かだ。 そうなるべく自身振舞ってきた当然の結果なのだから。 これも言語整理の問題だ。


小学生の頃、私の周りではペットを飼うことがちょっとしたブームのようになっていた。 私も親に頼んで犬を飼うことを許してもらった。

私はその犬がとても好きだったから(今でも大好きだ)、周りの人らも当然自分のペットを好きなのだろうと思い込んでいた。 でも違った。 時間が経つにつれ分かってくるのだけど、ほとんどの人らは流行りに乗じて欲しいものを手にしただけだった。 子供がある時期に手にするオモチャなどのように、時間が経つにつれ、ペットたちは飼い主の関心を失っていった。

あるいは「好きだった」のだが「好きでなくなった」のかもしれない、などと言う可能性にも思いを馳せてみた。 しかし好悪と言うのは、人間固有の感性(思考回路)から導き出されているわけで、そんな簡単に変わるものだろうか。 好きでなくなったのではなく、初めから好きでなかったものを欲しがっただけではないのか。 あるいは「欲しがらされた」とか。


人間(と言うか生き物全般)は食わないと生きて行けないので、食い物に対する「欲しさ」はほとんど本能的なものだろう。 無論だからと言って、食い物と言う対象へ好悪の判断が働かないわけではない。 「好きな食べ物」は厳然と存在する。 ただ、腹が減れば減るほど「欲しさ」に頭のリソースは占められ、「好きさ」は軽視され出す。 つまり、何を食べても旨く感じ出す。 これは要するに、美意識が狂っているのである。


もし、生命を維持すると言うような必須のタスクが課されなければ、人間は好悪の判断のみに拠って生きていけるのに、などと夢想してしまう。 もしそんな世界が実現するなら、そもそもこの「好悪の判断」を持たない人などは、存在すらしないと言うことになってしまう。

「欲しさ」と言うのは、平たく言えば、水が高いところから低いところに流れると言うような、単なる傾向性である。 行動原理のほとんどが「欲しさ」で構成されているような人間など、存在していないのと同じだ。 帰らぬ人(故人)を嘆く遺族などに対して私が、「その人は本当に存在したのか?」と問いたくなる理由は以上の通りだ。


10/19(水)

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今更の感もあるが、STAP細胞について考えてみる。 私はそもそも文系だし詳しいことは分からないんだが、常識で判断できることもある。

発明と言うのは発見である。 誰かが何かを創ったと言うより、「そもそもこの宇宙に存在した法則に気付いた」と言うこと。 iPS細胞のこととか、私にはよく分からないんだが、「細胞と言う物質に、ある手順で手を加えればある現象が出来する」と言うことに人類が気付いたわけだろう。 だから当然、その「手を加える」と言う作業は、誰が行っても同じ結果を生む。 そもそもあるのだから。

この「そもそもある」ってのを実感できない人が多分いるんだと思うんだ。 「江戸時代に原子力発電は無い」のではなく、その時代に、まだ人類がそういうものの存在に気付いていなかっただけ。 江戸時代どころか、縄文時代にだって中生代三畳紀にだって、もっと言えば宇宙開闢以来存在する。 気付かれていなかっただけ。

STAP細胞のように、「言い出しっぺの彼女以外の誰にも再現できない」なんてことは、それが本当に実在するのならあり得ないことだ。 その人の心の中にしか存在しないもののことを、広く世間では妄想などと呼んでいる。


私は、私にしか作れない(組み立てられない)曲を作っているわけではなく、私が気付いた、今のところ私にしか気付けなかった美を構築しているだけ。 譜面情報そのものをトレースすることなど、誰にだってできるし、できなければおかしい。 作品を共有するリスナーなんてものが存在し得なくなる。


10/18(火)

実名こそ伏せるが、私は最近、ある有名ミュージシャンのことが気になっている。 人格障害者でないかと疑っているからだ。 人格障害には一応の定義があって、DSMとかで検索してもらえればすぐたどり着くはずだが、一定の診断基準が公開されている。 つまり素人でもある程度の判断ができる。

私はそのミュージシャンの行動を、知れば知るほどのその疑いに確信を強めてしまう。 私自身はまず間違い無かろうと思っているのだが、世間でそのような評価は全く為されていない。 気付いている人がいない(少ない)のだろう。 専門家が見れば一目瞭然である筈だが。 奇矯な行動についての評価も「芸術家だから」とかそういう理由で煙に巻かれてしまっているらしく、「芸術家の皮を被っているだけ」と言う単純な事実に皆気付いていない。

その彼は、「必ず」と言って良いほど遅刻するそうだ。 ライブなどの際も、リハーサル・本番に定刻通り現れない。 何故かと言うと、「約束を守る」と言う、普通人にとってごく当たり前のことが当たり前でない。 彼は、約束を守らされることを屈辱だと感じているのである。 人格障害の典型的症例なのだが、世間は何故か気付いていない。

そのミュージシャンは体調不良を訴えることが非常に多いそうだ。 それを理由にリリースを延期したり、ツアーをキャンセルしたりし、ライブ中にはしばしば倒れたりもするらしい。 ファンは気が気で無かろうが、これも人格障害者の典型行動で、疾病利得と言う専門用語?まで既にある。

そのミュージシャンには「人気」がある。 多分に手入れに因るものかと思われるが、年齢に似つかわしくないほどに容姿端麗で(容姿についての判断には自信が無いが、そうとされていると思われる)、一々の行動も人々の耳目を集める。 しかしそれら全ては作為的なものだろう。 表面的に「魅力的な振舞いを為す」と言うのも、その人格障害の典型行動として挙げられている。

そのミュージシャンはアーティストでありながら、極端に寡作である(作品を中々出さない)そうだ。 周囲の評価が気になり過ぎるからだろう。 これも典型症例である。 芸術家は作品に執念を注ぐから、一般的に「完璧主義者」のように見られがちである。 「失敗を恐れ過ぎる者」も結果行動が似るからそのように錯覚されやすい。 過去実在した偉大な芸術家たちを見れば良い。 作品の少ないアーティストなどありえないことが分かる筈だ。 形容矛盾のようなものだ。

数少ないと言うその人の作品を聴いてみると、なるほど本当に隙の無いものを作る。 しかしもっと正確に表現するなら、他人に突かれる可能性の残る如何なる隙すらも許容できない、と言うべきにも思える。 いわば、山を造っているのではなく、穴を埋めている。 自己が希薄な証拠だ。

そのミュージシャンはグループの一員(リーダー)なのだが、グループはメンバーの離脱が絶えないと言う。 表面的な理由はそれぞれなのだろうが、とにかく脇を固めるメンバーらは「彼の元を離れたい」と感じるらしい。 繰り返しになるが、そのグループは人気がある。 近くにいる人(メンバー)は離れたがるのに、遠くから見る人(ファン)には魅力的に映る。 これも典型的だ。


因みに、人格障害には○○性人格障害とか××性人格障害とか言う(それこそDSMで調べて欲しいんだが)、下位のクラスタ(分類)があって、それぞれに定義があるのだが、要するに病理の根源は同じである。 環境などによって出方・程度が変わってくるだけ。

原因は言語(の形成不全)である。 アタマの中身が普通でない者が、普通の人でなく見える場合、それは大抵、知能障害とかそういう風に呼ばれる。 アタマの中身が普通でないのに、一見普通に見えてしまう(収斂を見せている)者を人格障害者と言う。 だから世間が気付き難いのもある意味仕方がない。 この分野の研究は今後もっと進む筈で、病理についても、社会的なコンセンサスになるに違いないと私は踏んでいる。

盲人の聴覚とか、車椅子で生活する者の腕筋とか、そういうのって、本来必要である機能の欠損を補う形で発達したものだ。 その代替的発達が、欠損を完全に補える、若しくは健常者以上のパフォーマンスを果たせるのなら、人間の視覚器などと言うものは既に退化していておかしくない筈だ。 代償発達は、本来必要であった機能の十全たる代償を果たせない。

メカニズムが分かってしまえば、何のことはない。 そのミュージシャンの行動も特段面白くもない。 大多数の普通人にある何かを「持たない」ことによって特殊な行動を採っているのだから、今後採りそうな行動も、ある程度の範疇で予測可能だ。 分かられてしまえば、周囲の人々の関心も醒める(変化する)に違いないのだが、きっと彼にとってそれは恐怖だろう。


10/17(月)

影山リサ。 ミニアルバム二作分の企画を進めてます。 CDだったら、二枚組みとかそういう形になったろう企画。

収録曲は今のところ16曲の予定で、それを8曲づつ二つに振り分けるつもり。 今のところ12曲録り終わってて、他の録音済みのトラックを合わせると、今14曲くらいストックがある。

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人に勧められて「おかんメール」と言う本を斜め読みした。 どういう本かと言うと、「母親から届いた笑えるメール」とかそう言うものを集めたもの。 「あるある」みたいなツボに訴求したものだと思われるが、正直あんまし面白いと思えなかった。

共感ってのは、笑いに限らず感動の基礎にある感覚だと思うし、上記の本はその共感に訴えかけたものであることは間違いない。 面白くないのは、そこにリアリティーを感じないからだろう。 私は別にその本に載っているネタを「作り話」だとか言っているわけではない。 知らないけど、本当にあったものだったりするんじゃないかと思う。 ああ言うのを丸ごと創作するのは、それはそれで難しいような気がする。


10/16(日)

政治についてまた考えていた。 広義の政治のこと。

何故この世の中に「政治」が必要なのかと言うと、きっとそれは、人々が「生きるため」なのだろう。 物質世界は有限だから、生きるために調整が必要になる。 それは分かる。命あっての物種と言うのはその通りだろう。

全ての生物にとって、生きることはほぼ最優先の命令だろう。 でも言い換えれば、人間以外の生物でも優先すべき事項なのだから、いわば傾向性だ。 理性で捉えるべき事項でない。 過度に政治に寄り過ぎている人間と言うのは、要するに生存至上主義者であると言うこと。「生きること自体」が目的だ。 人間以外の動物とそんなに変わらない。

人間も生物だから「生きることを目的とするな」と言われても無理だろうけど、何か目的を持って生きていると、この常に付いて回る「生きる」と言う目的(義務のようなタスク)がやや煩わしくなる。 私が政治を嫌う理由もそこにありそうだ。 


10/15(土)

全国のチエさんには申し訳ないが、私は「チエ」と言う名前の響きに、ある種の品の無さを感じてしまう。 自分に娘ができても、絶対そのように名付けない。

ある時期、私は考え込んでいた。 「じゃりン子チエ」と言う漫画があるが、私のチエに対する印象は、その漫画の影響なのか。十分にあり得ることだ。 あるいはそもそもチエと言う名は、品の無い名前の代表格で、だからこそその漫画の作者が主人公をそう名付けたのか。 つまりチエの与える印象は、社会通念であるのか。

こういうものの決定的な正解なんて出にくいが、今の私は自分を納得させられる程度の結論を得ている。 平凡な結論だけど、理由は複合的なものだろう。 漫画の影響もあり、社会通念もある程度はあり、私が過去に実際に見た「チエさん」の印象もある。


ある対象への印象形成に、自身固有の審美眼以外が影響することは、ごく自然にある。 自己の持ちようによって、その影響を最小限度に抑えることができると思うが、それでもゼロにはできない筈。 触れたある情報から、如何様な影響をどの程度受けるか、と言うのは固有の感性に由来していようから、影響も個性の一部ではあるのだろうが。

私は全くもって結論に至らない文章を上げているんだけど、日常のこういう作業が、曲作る上でも割りと大切だったりします。


10/14(金)

神田優花、新曲の上がりをチェック。 あとこの日は、影山リサの曲のコーラスを録りました。

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私が音楽作品に求める条件の一つはリアリティー。 ギターを弾かない音屋のギターアレンジがどこか嘘臭いのは、要するにリアリティーに欠けるから。 リアリティーの欠如、こそが原因なのだから、リアリティーさえ持てるのなら、その音屋がギターを弾こうが弾くまいが、リアルなギターアレンジは可能だ。 リアルなアレンジには、実器を見聞きする必要さえない。

その楽器がどういう構造で、どういう原理で発音するか、また人体がどのような形で直接的・間接的にその発音体に作用するか、など。そういうことが理解できてくるとアレンジ(スコア)はリアリティーを帯びてくる。 これ、実器を使って生演奏するかプログラミングで済ますか、なんてこととは直接関係無い。


パガニーニは当時「悪魔に魂を売った」とまで信じられたほどのテクニシャンで、パガニーニのヴァイオリン曲の演奏は、現代のヴァイオリニストにとっても難しい。 一方、バルトークのヴァイオリンアレンジは、彼自身がヴァイオリンを弾かなかったが故に、演奏するのが難しいと言われている。 ノートの構成がヴァイオリン的でなかったりするからだろう。

ピアノで出せる十和音がギターでは出せず、ギターで容易な同音のトレモロがピアノでは容易でない。 両者の構造が違うからだ。 こういう単純な固有条件を無視して書くスコアは、当然ある面でのリアルさを欠く。 ただアレンジってものは、実器に則していさえすれば良いと言うわけでもない。 また究極的なリアリティーってのも、単に実器に忠実であるか否かってのとは別のところにあるようだ。

そこにリアリティーを感じられるなら、ギターは十和音を出せるし、ピアノでトレモロは表現できる。 究極的に必要なものは強固なイマジネーション。


10/13(木)

本当かどうか知らないが、前世の記憶を持つと言われる(自称する)者が世界中にいる。 本人が「前世はどこの国の誰であった」と主張するからと、調べてみるとその者の証言に符合する事実が次々に明らかになったりすると言う。 日本にも平田篤胤の「勝五郎再生記聞」のような転生に関する記録があるにはある。

私はいわゆるオカルト信者ではないつもりだし、上のような逸話についても、検証の精度のほどを手放しで信用していない。 ただ、分からないものは分からない、とするスタンスは崩したくないので、アタマから否定したりもしない(できない)。

ある精神が、別の肉体に乗り移ることなど、事実としてあり得るのだろうか。 私に医学の知識は無いんだが、人間の脳(の状態)と体躯には、ある程度の相関性があるように思える。 脳も臓器(ハード)なわけで、OSやアプリをインストールする際に推奨スペックがあるように、精神と言う複雑なものは、どんな脳にでも展開できるわけではあるまい。  だから私の意識が別の身体に移り変わったとして、今の私の精神をそのまま維持できるかは怪しい気がする。

脳と言う装置をそのまま別の人体に移植することは可能だろうか。 例えば臓器移植は現実に行われているが、脳だって一つの臓器である。 技術的に現時点で可能かはさておき、私の脳を他人の脳と挿げ替えることができるなら、私は別の人に乗り変わってしまうのだろうか。 楳図かずおの「洗礼」とか、このあたりに着想を得たような作品もある。

分からないけど、脳のパフォーマンスは身体の他の部分との連携によって成立している面も大きいように思えるから、挿げ替え後に従前通りの働きを為せるかは怪しいと思う。 また、脳も人体の一部なので、挿げ替えが技術的に可能になったとしても、脳そのものの寿命は如何ともし難かろう。


では意識と言うのは、ある人体に固有のもので、その肉体が滅びれば同時に絶えてしまうのか。 魚群だとか、蟻や蜂などの昆虫の集団を眺めていると、一つ一つの個体に画然たるパーソナリティーなど備わっていないとしか思えない。 集団毎に意志のようなものが存在するかのようで、個体はそれこそ一臓器のように見えてくる。

意志とまで言えば、その成立には言語が不可欠であるように思えるので語弊があろうか。 とにかくその「意志」様のものの輪郭は、個体に無さそうだ。 個体に意志が無いなら、彼らは統合失調症なのかと言うと、おそらくそうではない。 集団と言う単位での統合が取れているから。


双子は稀に認識を共有してしまうと言う。 私自身に経験が無いからリアルに分からないが「似ている」あるいは「同じ」と言うことは、究極的には認識の共有にまで繋がってくるのかもしれない。

統合失調症は、昔は精神分裂病とか呼ばれていた。 つまり、精神が一つの塊を為していないということ。 実際その患者には、自分の精神に何者かが入り込んでくるような感覚があったりするそうだ。

肉体に何かが入り込む、ならまだ分かる。 それこそ臓器が移植されたり、ウィルス・細菌や寄生生物などが入り込むことは事実あるから。 でも精神に別の何かが入り込むということは、意識が一つに統合されていないと言うことに他ならない。 だから統合失調症と呼ぶのだろうし、精神が分裂していると嘗ては言われていたのだろう。

統合失調症の病因が「言語」にあることはほぼ分かっている。 精神に何事かが入り込むのは、別の人格と意識を共有しているのではなく、言語の不具合によって、我が人格を確立させることができないのだろう。 まるで昆虫のように。


思考とはパターンである。 端折って言うなら審美眼のことだろう。美醜の判断こそが個性と言われるもの。 更に言えば、審美眼の基礎を為す判断とは、何を等質と見做し、何を異質と見做すか。 何を等質・異質とするか、と言うマークシート方式のテストみたいなのの結果が(思考の)個体差に繋がっているに違いない。 「解答のパターンが似通っている人」と言うのは、極めて自分に近い人のこと。 完璧に同じであるなら、それはもう自分自身と言える。 自他の区別が付かないのではなく、ある他者と自分を同一視できてしまう状態。

審美眼の共有は、個体の垣根を越えてしまうのではないか。 ある対象に同じ感想を持つと言うことは、二つの個体がそれぞれ同じ感想を持っているのではなく、その二者はある部分において同じ(一つ)なのではないかと。 ただ、思考パターンがいくら同じでも、具体的な記憶を共有できるだろうか。 よく分からないけど、無理のような気がする。 共有できるのは美醜の判断だけかもしれない。それで十分だが。


私の作る歌を、私と同じような気持ちで聴ける人がいるなら、その人の中に私の歌が流れる時、私はきっとそこにいる。

私が日々考えているようなこと、向かっている先、それらは全部間違っているのかもしれなくて、私は人生を掛けて壮大な不正解を答案用紙に書き続けているのかもしれないんだけど、まあそういう人生があっても良いじゃないかと今は思える。


10/12(水)

影山リサ、レコーディング。 今回録った曲、割と面白い。 編集作業は一段落着いてる状態なんだけど、ここ何日か私のヘビーローテーション。

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IT系とかのベンチャー企業の社長が、芸能人と付き合ったり結婚したりしても、割かしすぐに別れてしまうのは何故かと言うと、それは栄華の証として、その相手を得ることに価値を置いているからだろう。 相手の人格と永続的に付き合って行こうなんて、とりあえず考えてなかろう。

また、その種の戦利品として扱われてしまう人(芸能人など)は、その人はその人でそれに相応しい人物だったりするので、どちらが悪いわけでもかわいそうなわけでも無さそうだが。

ある対象についての「好きさ」と「欲しさ」は違う。 私も若干似ているような気もするから、間違いそうになったことはある。 でも違う。 この二者の区別がいつまでも付かない人は、永遠に何かを追い求め続け、持ち時間を使い切る。

この区別が付かない人は、ある対象を「好きだ」と言いつつ、実は「自分を好かせたい」だけであることが殆どだ。 好かせたい理由は、その対象が「欲しい」から。 本当に好きなら、好悪も含めたその人の判断こそを尊重してあげられるはず。 好きなその人を愛した結果、その人が別の誰かを選んだとしても、その人の選んだ道として認めてあげられるはず。


とまあ、ここまで言っておいてナンだが、あなたが本当に愛した相手なら、愛が伝わった相手なら、その人はきっと、あなたの側から離れることはない。 愛があるのなら、どこにも消えやしないから心配は要らない。 これは水が高いところから低いところに流れるような、自然の法則・宇宙の摂理のようなもの。 多少私の願望も入ってるのかもしれないけど。


10/11(火)

とあるミュージシャンが、散々世間を騒がせた挙句、活動を自粛するとか。 ある女性タレントがそのニュースについてコメントしていたんだが、そのミュージシャンをボロクソに酷評していた。

おそらくその女性タレント、そのミュージシャンとの直接の面識は無いと見た。 知り合いだったら辛辣なコメントも入れられまいとか、そういう理由ではなく、相手のことを抜きがたい先入主のような、偏向した「概念」だけで見ているように見えたのだ。 彼、卒爾な御仁はあるのかもしれないが、実際に会ってみてなお、そこまで悪一色で塗り固められたような人物だろうか。

他人のことを先入主・概念で見る、と言うのは、言い換えれば現実感を持たずに見ると言うこと。 現実感を持たない人ってのは、失礼ながら信用できない人。 その人の口にする非難も賞賛も、全く信用するに足りない。 人間の誠実さってのは、即ち現実感のこと。


10/10(月)

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ちょっと前にある音屋さんと話していたら、「ボーカロイド」の話になった。 その人はボーカロイド作品を多く発表しているらしい。

そう言えば私はその手のものを作らない。 随分昔、まだボーカロイドなんて商品名も無かったころに、(多分ボーカロイド技術のプロトタイプに当たるものだと思うが)似たようなパフォーマンスの商品があって、仮歌用に使っていたことはある。入力が面倒なんですぐ使わなくなったが。

しかし、それ自体(ボーカロイド作品のようなもの)を商品として発表したことは無いし、しようと思ったことも無い。 別に否定的に捉えているとか、そう言うわけではないんだけど、なんとなく食指が動かない。 その手の表現が、自分の中であんまし大きく発展していく気がしないってのも事実だ。

やはり私自身がリスナーとして、そういうものを聴きたいとあまり思わないってのは(やらない理由として)大きい。 今後気が変わって、あの手のものを作りたくなることがあるだろうか。何となく無さそう。


10/9(日)

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最近作ってた曲にパイプオルガンの音を使ったんだけど、それについてのメモ。 私はパイプオルガンの実物を触ったことが無いし、詳しくない。 資料に目を通して、判断できる範囲のことしか分からないし、今まで作った曲もその程度の知識で書いている。

まずこれはパイプオルガンだけでなく、いわゆるオルガン全般に言えることだが、ヴェロシティーに対応していない(タッチによる音の強弱が付けられない)。 これはハープシコードとか似たような楽器はあるし、特別変わった仕様ってこともない。 変わっているのは、それ(ヴェロシティー非対応)を回避するための仕組みである。

スウェル・ペダル、クレッシェンド・ペダルなんて構造がある。 ペダル制御の音量調整装置。 原理について詳しいことは(興味あるなら)調べて欲しいんだけど、純粋なヴォリューム調整装置とは言い難い。 前者は発音体を物理的に「閉じ込める」ような形で音量を押さえるものなんだけど、思うに、(ローパス)フィルターっぽい効果になるんじゃないか。

後者はストップ(パイプの1セットを指す単位)を「付け足す」ような形で音量を変化させるんだが、シンセとかで言うならオシレーターの付加って感じなんで、これもやはり出音のニュアンスが単なるヴォリューム調節的ではなくなるだろう。 まず音量変化が(スロープ状でなく)階段状になるし、音の変化も例えば鋸波とSuperSawとか、そういう違いになるはず。


今回作ってた曲に関しては、その音量調整は必要ないものだったんだけど、今日のエントリーは個人的な備忘録。


10/7(金)

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広瀬沙希、わけあって多分年内最後のリハーサル。 検討の結果、アルバムの発売日はおそらく来年になります。 音もジャケットも既に上がってるんだけど、リリース日を少々調整することにしました。


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片飛鳥、歌録り。 今回のはアルバムに収録するか、シングルのカップリングにするか、いずれにしてもタイトル曲にはならない予定。


10/6(木)

漫画家・さいとう・たかをの自伝的な著書を読んでいた。 まだ読了前なんだが、ちょっと気になる記述があった。

さいとうさんは学業においてはかなりの劣等生だったらしいが、初等教育の第一歩、「1+1=2」で躓いてしまったそうだ。 先生が黒板に書く「1」の文字が同じでないのにそれを等価とし、足して「2」とすることがどうしても納得できないと。

こうもある。「リンゴを二つ持ってきて2とするならまだ分かるとして、リンゴとミカンならどうなのだ」と。 「まだ分かるとして」と言う表現に、それすらも納得し難いと言う気分が滲み出ている。 確かにそうだ。 偏にリンゴと言ったって、色も形も大きさも違うじゃないか。 大人になった私にはそれ(さいとう少年の言い分)が理解できてしまう。

色も形も大きさも違うリンゴを、一つのリンゴ概念に丸めるのは言語の作用である。 階層を一つ上げ、リンゴとミカンを同じ果物とするのも同じく言語の作用。 それが働いていなければ、リンゴに限らず、この世界の全てはバラバラである。

さいとうたかをは日本漫画界の巨匠で、劇画の祖と言って良い人物なんだが、彼が劇画と言う表現手法を採用したのは必然と言える。 同書にはこうもある。 ディズニーや手塚治虫の漫画に出てくる人物の「どこが肘やら分からぬ絵」に馴染めなかったと。 これもまさに上の1+1の話と同系統で、漫画化・デフォルメと言うのが要は言語を使った概念化であるからして、彼の脳はこれを受け入れ難かったのかと思える。


言語が十全に作用していないと思われるさいとう氏は、「頭が悪い」のか、と言うと、それは分からない。 頭の良さを測る絶対的な尺度が存在しないから。 さいとうさんはその脳の状態だったからこそ、あのような名作が残せたわけで、そのバランスが崩れ、別の脳の状態になればあれらの作品が書けなくなる。 ある側面においてはやはり頭は良い。


10/5(水)

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影山リサ、新曲の最終リハ。 今年のリリースタイトル数、去年なんかと比べたら控えめなんだけど、レコーディングのペース自体はほとんど変わってない。 つまりストックが溜まってきている。 もう少ししたら一気に発表します。


10/4(火)

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ここ数日間、曲作りに没頭していた。 いつもそうなんだが、今回はとりわけ集中度が高かった。

そんなに重要な曲を作っていたのかと言うと、全くそんなことはない。 比較的「苦手」な作業だったために、無駄に集中を要しただけ。 私は音響と言った意味での音作りが苦手なんだけど、今回はその面でのギミックに趣向を凝らしたものだった。

構想そのものはちょっと前からあったんだけど、逆回転のフレーズを中心に組み立てたオケ、ってのを作ってみた。 逆回転ってアナログレコーディングが主流だった時代からあるような、いわば古典的な手法。 アナログ環境ならではってほどでもないけど、アナログ録音の仕組みから生まれたギミックって面はある。

毎度のことなんだけど、あるプロットについて集中して考えていると、どうしてもその曲に同居できないアイディアってのが生まれてしまう。 要するに次の曲の端緒ってことなんだけど、今回も集中度が高かったもので、色々と予定外の構想が副産物として生まれてきてしまって、その整理で余計に時間が掛かってしまった。


10/2(日)

神田優花、歌録り。 予定外だったんだけど、なかなか良いテイクが録れました。 今編集中。 ここ最近、曲作りに夢中になって更新が滞っていた。 まあそっちが本分なんで。

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