・9/30(金)
「私はフランス料理が好きだから、フランス料理にはちょっとうるさい」みたいなことを言っている人がいたのだが、それを聞いて考え込んでしまった。
例えば私は「うどん」が好きだが、好きだからこそ、どんなうどんでもそこそこ機嫌良く食べてしまう。 有名店のものだとか、一流の料理人が手打ちしたものだとか、そういう条件など一切無い、チェーン店が出す\300くらいのうどんとかでもそれなりに満足してしまう。 つまり「うどんにうるさくない」。
「好き」と言うのはかように難しい。 同じ好きでも、人によって指している感情・感覚が違う。
人間関係とかでも、「高嶺の花と憧憬する気分」を好きと認識する人があり、また「丁重に扱わずに済む相手だから好き」なんて理由で人を選別している人も存在する。 好きと嫌いが紙一重であったりする理由もそこにあろう。 対象がうどんとかだったら良いけど、人となると困った問題だ。
・9/28(水)
Photo1 Photo2
山下清と言う画家がいる。 正統的な絵画教育を受けたタイプではないが、名声の上では、日本を代表する画家と言っても過言でない。 「日本のゴッホ」とか言われているらしい。 有名な「裸の大将放浪記」のモデルでもある。
山下清は貼り絵を得意としていたのだが、私も彼の絵をいくつか見たことがある。 丁寧に作られたものではあったが、いわゆる芸術性は感じなかった。 「丁寧に作らない」などと言う行動を選択しうる人格でなかったのかもしれない。
彼はこんにち、「サヴァン症候群」であったろうと推定されているらしい。 知的障害の一ケースで、おそらく症例としては稀有な部類だが、病名が付けられる程度には前例・類例がある。 私にその辺について断定できる権能は無いが、山下清は、サヴァンそのものであったか、あるいはそれに近い脳の状態であったろうと思う。 人並み外れた映像記憶能力などと言う、典型的な特徴を持っている。
日本人はすぐ「○○のピカソ」とか「○○のモーツァルト」とか言いたがるけど、山下清はピカソでは無論無いし、ゴッホとも遠いように思える。 近いものを挙げるなら、やはり過去無数にいた「サヴァン症候群」とされた知的障害者たちだろう。
自閉症とか精神疾患とか言われるものの原因は、つまりは言語機能の不具合である。 甚だしさに差こそあろうけど、基本は脳、とりわけ言語の機能不全。 その機能不全をリカバーすべく、ある別の機能が代替的に発達したり、未淘汰であったりした結果、通常人とは異なる外形を為すに至っている。
サヴァンについての資料を読んでいたら、私の言う代替的発達・未淘汰、と言う表現が正確でない気もしてくる。 後天的に、いわゆる痴呆状態に陥った者が、突然サヴァン様の能力を示すようになることがあるそうだ。 脳のある機能の欠損をトリガーに、脳の別のある潜在的機能がアクティブになったのかと思われる。 通常人にとって未淘汰ですら無いのかもしれない。
とにかくその、上で言う「異なる外形」はいわゆる「才能」なのか。 これは私には分からない。 才能と言うものが、そもそもどういう定義を満たすものか分からないから。 ただ、少なくとも言語そのものを使って作品を創造していた、ピカソや葛飾北斎のような芸術家と、例えば山下清は全く(芸術家以前に人として)異なる類型だろう。
日本人が、山下清を大芸術家と持て囃していることを、正直私は、ややこそばゆいような感覚で捉えている。 芸術ってそんなに難しいのかね。
余談だが、芦屋雁之助さんは、裸の大将放浪記のあの役を「嫌がっていた」そうだ。 まあそうかもな。
・9/27(火)
Photo1
私は政治と言うものが、根本的に嫌い。 ここで言う政治とは、いわゆる政治家が行っているそれのみを指しているわけではない。 それを含む、もっと広義の政治。 私がそれを「得意でない」のも事実だが、得意になりたいとも思わない。
政治、換言するなら妥協。 政治は、真なるもの、善なるもの、美なるものと言った、いわば正解を探求するでなく、例えばそれが醜悪なものであったとしても、現実的妥協点として採りうる性質を持っている。 金とかって、実に分かり易い政治ですね。 浮世には、あれによって保たれている不自然な均衡が山ほどある。 金は印刷・鋳造された政治だ。
私が色々なジャンルの作曲を試みてしまうのには、複合的な理由(動機)がある。 先ず、様々なジャンルに帰属的である者、の映している世界を知りたい。 次に、私自身の「物欲しさ」を断ち切るため。 ある対象を「作ってみたい」と言う気分を残したまま別の作業に取り組めば、そこに僅かでも懸念が残る。 まっさらな気持ちで取り組めない。
上の二つは、少なくとも現時点で私自身が認識・言語化している理由だ。 だから本当は他にも理由があるのかもしれない。
「物欲しさ」を何故断ち切る必要があるか。 それは美意識の狂いに直結する感覚だからだ。 人はしばしば、物欲しさに踊らされ、時に人生そのものさえ誤る。 人はきっと、物欲しさを断ち切った後に、本当の好悪が判断できる。 好悪と言うか、真善美と言おうか。
私の作品とは、「私と言う人間が気付いた美」なわけだけど、本当の、私にしか気付けない美を捉えることは容易でない。 この「美を捉えることを容易でなくしてしまう最大の原因」が、物欲しさである。 伝わり難いかもしれない。
「私にしか気付けない美」と言うのが、要するに私自身なんだ。 それに比べれば、例えばこの肉体とかだって「たかが借り物」と思えてしまう。 芸術ってのは、自分自身を探す作業だと思っている。 多分私は、自分自身のことが一番分からないし、一番知りたい。
私は世人らに問いたい。 金や名誉・栄達なんて本当に欲しいですか?と。 人も羨む異性だとか、高直な車だとか貴金属だとか豪邸だとか、そんなのも本当に欲しいですか?って。 親兄弟や家庭とかですらそう思う。 少なくとも今の私は、上に挙げた諸々を別に欲しくない。
例えば私は、友人が欲しい。 友人たりえない相手なら、親兄弟も結婚相手も子供も同僚も知人も、全て要らない。 友人たりえない人と妥協的な時間を過ごそうと思えば、常にそこに政治が必要になるわけだけど、私はその労力を空しく感じる。
私は、私を信じない人と生きては行けない。 「信じやがれ」と言う怨念のような気分を抱えているわけではなく、「生きて行けない」と言う平明な結論に至ったと言うだけの話。
親兄弟だろうが恋人だろうが、一緒に生きて行くには、何よりも先ず親友であらねばならないと思う。 親友たり得ない人と時間を過ごせるほど私は暇じゃない。 で、その親友の定義こそが、互いに信じ合えることだと思うわけです。 信じあえない人との間に必要になるもの、それが政治。
政治的な寝技で他人と時間を過ごす時、そこにどう言う手練手管が必要で、結果どういう欺瞞的な時間が流れるか、今の私にそれは粗方想像できる。 想像できるんだから、もうそんなものを必要と感じられない。 本当に欲しいものでないのだから。
私が芸術を好む理由と政治を嫌う理由、これらは紙の裏表だ。 私だって子供ではないんだから、この社会に政治が必要であることぐらい分かっているつもり。 ただ、政治的な人と私は、本質的に合わないんだと思う。
・9/26(月)
Photo1 Photo2
いまだ物議を醸している原発、あれって何なのか。
自然界に存在するある物質に、とある手を加えると熱を持つようになる。 それだけ。 その熱で湯を沸かし、湯気でタービン回しているだけ。
「原発より自然エネルギーを」みたいな言い回しもよく聞く。 でも原発だって自然界の法則を利用しているだけだ。 例えば太陽光発電とかだって、その太陽光そのものが核融合から生まれている。
原発を推進すべきかそうでないか、私に定見は無い。 関心が薄いんだから仕方ない。 ただ、現実的にこれから原発増やしたりできはしないだろう。 あんまし効率の悪いエネルギー政策とか採られたら、ますます日本の将来が豊かなものでなくなるだろうから、それは残念なことに思うけど。
私が思うのは、日本人はあれに対して神経質になり過ぎではないか、と言うこと。
・9/25(日)
Photo1 Photo2
Youtubeで、あるスタジオミュージシャンのレクチャーみたいなのを見て(聞いて)いた。 多分専門学校生みたいなのを相手にしたレクチャーだったと思う。
ある聴講生から「スタジオミュージシャンが心掛けるべきことは何か」みたいな質問が出るのだが、それに対しての答えは以下のようなものだった。
「アレンジャーやプロデューサーの求めている音を出す」、「譜面を渡されたらその通り弾く」だって。 メチャクチャ当たり前のことだが。
「ギタリストになってやろう」なんて思う若者の多くは、「自分のカラーを出したい」とか「テクニカルなプレイで目立ちたい」とか、つい思ってしまうんだろうが、早い話そういうのがスタジオミュージシャンとして「最悪」の人材であると言うことを、上の回答は物語っている。 因みに私もそう思う。
相手の思惑を忖度できるようになりさえすれば、心配しなくても「個性をどの局面で発揮すべきか(すべきでないか)」まで分かってくる。 きっと無駄な軋轢も少なくなるはず。
物事に真面目に取り組んでいれば、自然他人の気持ちが分かるようになるし、他人の気持ちが分かるようになれば、真面目に取り組む為の環境はより整う。
・9/24(土)
神田優花、先々週録った音(二曲分)の上がりをチェック。 今回の二曲はどっちもシングル候補曲。
Photo1 Photo2
神田優花と言えば、年内には多分間に合わないんだけど、アルバム二枚分の構想を今いっぺんに練っている。
最初に出す予定の一枚は、昨年末にリリースしたシングル曲を軸にまとめようと思っている。 もっと前に(カップリングを含め)シングル化した楽曲で、現時点でアルバム未収録のものがいくつかあるんだけど(ウチはこのケースが結構多い)、それもアルバムのコンセプトに適うなら混ぜるかもしれない。 とにかく収録予定曲は既にほとんど上がっている。
勿論新曲も入れる予定なんだけど、多分数は少ない。 神田優花のリリース活動って、基本シングル中心で、アルバムはシングル集に新曲を数曲混ぜたような、どちらかと言えばベストとかシングルズとか、そういうものに近かった。 アルバムはシングル曲をパッケージ化したものになるので、単曲買いに比べればディスカウント価格になるし、内容的にも入門編みたいになるから、現状に至るまでずっとそうしていた。 次のアルバムも基本その路線に沿ったものになる予定。
その次に予定しているアルバム、ナンバリングタイトルとしては、6枚目のアルバムになる予定なんだけど、今はそれについて考えている時間が多い。 こっちは収録予定曲こそあらかた揃ってはいるけど、半分くらいは歌録り前なんで、公開するにしてもまだ先になる。
こっちの方については、純粋なトータル・アルバムみたいなのにしようと思っていて、先行シングルは収録するにしても2〜3曲とか、そのくらいを考えている。 まだ分かりませんけどね。 とにかく神田優花は今後、割かし短いスパンでアルバムを二枚出すと思います。
・9/23(金)
前近代の音楽を作ろう(再現しよう)とする際、楽理的な部分はさておき、楽器編成を踏襲しようとすると音域が偏る(低域がカバーできない)。 しっかりとした低音を出せる楽器が、前近代には、あってもせいぜい打楽器ぐらいで、旋律楽器なんてほぼ存在しないから。 因みに、いわゆるクラシック(西洋音楽)は除いての話。 雅楽器なんかもやはり低音は弱い。
だからしてそういう曲を作っても、普通のPOPSに混ぜてアルバムなどに収録すると、前後の曲との聴感上の差異が(結構甚だしく)生じる。 まあ、それを気にして収録を回避するかどうかってのは、また別の判断なわけだけど。
今ちょうどその前近代ライクなトラックを作ってるんだけど(江戸末期〜明治のスタイルだから厳密な前近代とも言い難いが)、確かに低音が弱い。 と言うか、ほとんど空白に近い。
この手の「帯域分布が普通のPOPS的でないトラック」を、なんとかパッケージ(商品)化できないものかと考えている。 神田優花なんかはキャリアも長いし、番外編とでも言うべき楽曲も数が多い。 それらをまとめて、コンセプトアルバムみたいなのが作れないものかと考えているわけです。
・9/22(木)
「青春少年マガジン」と言うマンガがある。 小林まことさんと言う漫画家が書いた、デビューからの軌跡を書いた自伝的マンガ。 若かりし頃の、新人漫画家同士の交友などを書き綴っているのだが、何度読んでも悲しくなる。 悲しくなるんだけど何度も読んでしまう。
作者は親友二人(どちらも同業者)を失っている。 死因は片や自殺、片や病気、と言うことになっているけど、要するに仕事がハード過ぎたのだろう。 当時の状況を作中で語っているが、睡眠時間がどう考えても少な過ぎる。 精神・体調の両面に不調を来たして当然と思えるほどに。 今の漫画家の状況は、当時ほど酷くはないと思われるが、状況が改善された理由として、あの当時の漫画家の激しい崩れっぷりは関係あるだろう。
私はあのマンガを読む時、「友人」の意味を思う。 友人とは、同じ気分を共有できる人のことだ。 漫画家を目指し、十代で上京していた作者と、似たような境遇にあって、同じ雑誌にマンガを連載していた同業者。 それは親友になるだろう。 お互い、親友になれるだけの条件を持っている。 友人と言うのは、つまりは自分の一部である。
彼らが親友になれたのは、一生懸命に生きたから。 人は、一生懸命に生きれば生きるほど、誰かと心の深い部分で何かを共有することができる。 今日の私がまた曲を書くのは、自分に妥協を許したくないと思うのは、親友を探すためでもあります。
・9/21(水)
Photo1 Photo2
ツインドラム、ツインベース等について考えていた。 一つのバンドにドラムやベースが二人(あるいはそれ以上)いる編成のこと。 珍しいが、無いことは無い。有名どころではDoobie Brothersとか。
私の場合、編曲の際「ベース」にあたる音域に二本以上のラインを書くことはごく普通にある。 シンセ(ベース)の白玉とエレキベースとか、サブ・ベースってのも広い意味ではベースラインの付加だろう。
しかしドラム(キット)二つってのは、書いたこと無いかもしれない。 生系のドラムとリズムマシンとかならあるだろうけど。 あとテクノ系でTR-808と909を同時使用とか、私はあんましその手の曲書かないけど、割と見られるケースではあるし、私もそういうのを書いたことはある。
生バンドにドラム二人ってのが、ケースとしてレアである理由は、詰まるところ演奏上の利点ってヤツが見出せないからだろう。 確かに私も「何のために?」と思ってしまう。 バンドやったことがある人なら分かると思うけど、ドラムセットの搬出入の手間も半端じゃなかろう。 それでいて演奏上の利点が少ないとなると、実例も少なくなって当然かと思う。
ドラムスの最大の役割は拍節進行のメルクマールである。 後はせいぜい装飾的な効果音、いわゆるオカズってのがあるけど、あれも要は一種の拍節進行のメルクマールである。 とにかくドラムは、旋律や和声の一部を担っているわけではない。 要はメトロノームである。 人力メトロノームが二つ同時に鳴っているなんて、デメリットの方がすぐに思い当たる。
ツインドラムについて調べてみると、実際の演奏は、大雑把には二種に大別できる。 まず、同一リズム型の演奏。 もう一つは、片や基本リズムのキープ、片やオカズを担当、と言ったもの。 二つのパターンが同一楽曲の中に混在していたり、まあそんなに厳格な様式性は見られないが。
上に挙げたもののうち、後者の方はまだ分かる。 私も通常のドラムキットにパーカッションを加えたアレンジとか、過去に何度も書いている。 それと似たような効果であろうから。 分からないのは「基本リズム型を二人で演奏」と言うパターン。
ドラムが二人もいたら、リズムの軸がブレやしないか。 どんなにタイトなリズムを刻めるドラマーだったとしても、それこそリズムマシンじゃないんだから、例えばキックなら、完璧に同じタイミングで音がレイヤーされる筈はないし、どうしても音像がブレてしまうだろう。 あるいはそのニュアンスを楽しむための編成なのか。 たまにはそういうアレンジもあって良いと思うが、そういう編成のバンドには必然性を感じないな。
・9/20(火)
広瀬沙希、先日録った音の上がりをチェック。 今回の曲でアルバム収録曲が全部揃いました。
Photo1
音楽コンテンツの販売形態が、個別のダウンロード型からサブスクリプションとかストリーミング方式に変わったことによって、早い話が音楽コンテンツの価格が大暴落した。 まあ元より既に暴落しつつあったのだが、それが決定的になったと言うべきか。 従来のCDでは二曲入りのシングルが\1000とかだったんだけど、きょうび1曲\500の設定は強気に過ぎる。
そういう定額課金型のサービスが開始された当初、これも時代の流れと思って、ウチも定額型のサービスにコンテンツを提供することにしたんだけど、金額ベースでは売り上げは激減した。 今だいぶ当時の水準に戻りつつあるけど、まだそこまでに至ってない。 ただ、ここ最近ずっとウチのコンテンツの再生数は最高を更新し続けているんで、近い将来当時を超えると思われるが。
当時から、長い目で見るなら、定額制と言うシステムを希望的に観測できないわけではなかった。 つまり本とかで言うなら貸本に近い形態なわけで、再読される本・長く読み続けられる本にとっては、そっちの方が歓迎できるシステムなのかもしれない、と思ったわけだ。 逆に流行りものの、刊行直後に部数は捌くものの、ちょっと時間が経てば古本屋で叩き売られている本、みたいなのにとっては困る事態だろう。
従来の音楽業界ってのは、音楽商品をプロモーションを絡めて短時日に売り抜けるってのが基本スキームで、ハッキリ言えば、ある商品が半年後に中古CDとして市場に溢れ返っていても、そんなことにはお構いなしだったろう。
定額型の配給方式に変わって、「良い音楽コンテンツ」の条件は変わってしまった。 どういうものが良いものかと言うと、それは「長く聴かれるもの」。 私たちは最初からそういう音楽を作ろうと思っていたので、この状況はそんなに悪いものでもない。 まあ、周りの状況とかあんまし意識してないけど。
・9/19(月)
Photo1
ある本を読んでいたら、その筆者が興味深いことを述べていた。 曰く「私には夢と言うものが分からない」そうな。 おそらく冗談ではない。
その筆者、正直な御仁だし、分からないことが分かる程度の言語力を持っていると言う意味では賢い。 多くの読者は思うだろう。「どうしてその程度のことが分からないの?」と。 しかしそういう読者の方こそ本当に分かっているのかどうか。 分からないことすら分からないだけではないか。
確かに「夢」を辞書で引けば意味(答え)は載っていよう。 また、辞書など引くまでもなく「私の夢は医者になること」だとか、分かったつもりで夢を語る者もいよう。 夢は、知ったつもりになれてしまうところが厄介だ。 人は、知らないことなら知ろうと努められるが、知っていると思っているものを知ろうと努めたりは中々できない。
「夢」とは気分である。 気分であるから、それを感じない人には意味が分からないし、説明してあげることも難しい。 感じられない(意味が分からない)まま一生を終える人も多い筈。 夢に一番近い気分を挙げるとするなら、それは「愛」だろうか。 愛が言葉で説明できないように、夢も説明することが難しい。
前から何度もこういうこと言ってるんだけど、学校の先生たちは子供らに、「夢」と「成果」の違いぐらいは教えてあげて欲しい。 この区別が付かないから、「○○大学に合格すること」なんてのを夢だとか錯覚してしまうのだ。 夢が説明できなくとも、「キミの言うそれは夢ではない」とだけ教えてあげれば良い。 それができないのなら、きっとその先生にも夢は分からないのだろう。
成果は条件さえ揃えば手に入る。 同時に、条件が揃わないだけで(我々の努力などと無関係に)手に入らない。 私は多分、年齢や身体条件が揃わないと言うだけの理由で、相撲部屋の新弟子試験を受けることさえできない。 他にも、性別が決定的な理由で、ミス・コンテストには出場すらできない。 逆にペーパーテストの得点のみで選別されるような試験なら、結果次第ではどんな難関にだってパスできる。それこそマークシート方式とかなら、テキトーに埋めたって4分の1とかそれぐらいの確率で正答できるわけで、運があれば理解すら必須でない。
夢とは、自分の楽しめる時間を想像すること。 「医者になりたい」が夢ではなく、「病に苦しむ人を救えるなら、その時間に自分なりの意義を見出せそう」と言うのが夢だ。 その発展的な予感、その時間を想像する時の胸の高鳴り。 それが夢。
夢を問われた時、反射的に「ステータス」のようなものを口にする者がいる。 何故学歴や資格の類がそんなに欲しくなるのか。 将来が不安だから、そういうものがあった方が少しでも生きやすいと思えるからだ。 どうして将来が不安なのか。 それを発展的イメージで捉えられないから。将来と言う時間を楽しめる予感がしないからだ。 その「楽しめる予感」こそが夢なのに。
つまり、夢があるとて反射的にステータスを口にする者は、夢があるのではなく、夢が無いからこそそう言う人になり果てている。 「生きてさえいれば何か良い事があるに決まってる」と確信できる者が、過度にステータスなんて求める筈がない。
夢とは、自分が感じた光に向かって生きて行くこと。 限りある時間を、どういう気持ちで生きて行くかということ。 だから必要なのはイマジネーション。それさえあれば良い。 人も羨むような地位や財産を得ながら、何の夢も感じられず佇んでいる人はいる。
「夢が叶わない」ってどういうことなんだろう。 成果が手に入らなかったことをそう呼んでいるだけではないのか。 成果はそりゃ、条件次第で手に入らないこともあるよ。 言葉の定義、概念の整理、こういう一見些細なことの不備によって、人は人生そのものを誤ったりするような気がする。
・9/18(日)
Photo1
以前、とあるソフトのデモ版を使っていた。 そのデモ版、機能面の制限は無くて、確か30日だとかそういう使用期限があるだけだった。 だからその期間中に私は、使い方を一応はマスターし、使用していたわけである。
ごく最近録った曲に、そのソフト(エフェクト)を使いたいと思い立ったものの、当然試用期間は終わっている。 そんなに高いものでも無かったので、もう一つ欲しかったソフトと合わせ、二つ大人買いしてしまった。 経費でだけど。
こんなことがトピックになるほどに、ここ最近の私は機材を買い足さない。 特にハードは買わない。今回のも二つともソフトだし。 欲を言えば、もう機材買うのも今回で最後にしたい。
・9/17(土)
Photo1
今構想中の音についてのメモ。
影山リサの、いわば企画モノのアルバムを発表しようと思ってまして、収録曲についてあれこれと煮詰めている。
実は準備している曲が、(録音前のものを含め)アルバム一枚に収めるには多過ぎて、かと言って二枚にするにはやや足りない。 今のところ、ミニ・アルバム二枚に分けよう(収めよう)かと思っている。
因みにその企画モノ、内容はいわゆるアニメとかカートゥーンとかの、テーマソングや挿入歌をイメージした楽曲たち。 本当にそういうタイアップなんかを取ってるわけじゃないけど、そういう用途を想定したもの。 昨今の主題歌の類って、なまじ本当にタイアップだったりするもので、無理矢理押し込まれてるからか、物語の趣旨を無視したようなものも多い。 「想定」の方が自由度も高いし、むしろ本質を突いているかもしれない。 それなりに面白いものになるような気がしている。
・9/16(金)
元暴力団員の再就職斡旋についての(ネット)記事を読んだ。 積極的に採用したいと言う企業が少なく、多難であると言う。 更生・社会復帰を考えるなら受け皿は不可欠だろうし、一方採用に消極的な企業の気持ちも分からないでもない。 難しい問題だ。
言っておくが、暴力団員は単なる「落ちこぼれ」では無い。むしろエリートですらある。 誰でもなれるとか思っているのなら、それは甘い。 ヤクザは、ある社会(組織)・規範に属しているのだから、社会性・順応性は間違いなくある。 それが我々の属している一般社会のものと異質であるだけだ。
私がヤクザになれるだろうか。 仮にもしなれたとして、きっと大したヤクザにはなれまい。 ヤクザにも才能・適性があるからだ。 ヤクザを単なるゴロツキ・社会不適合者だと思っているのなら、それは大間違いだ。 事務所当番がキチンとこなせなければ、ヤクザにもなれない。
・9/15(木)
Photo1 Photo2
しつこいけど月琴について。
当時(江戸末期から明治にかけて)それなりに流行した楽器だったのに、今ではレア物扱いで、例えば月琴の音源はほとんど見当たらない。 唯一のものと思しきフリーのVSTがあるが、GUI上の画像を見るに、月琴ではなく阮咸と言う厳密には別の楽器だ。
阮咸は、厳格に呼称されないことが多く、また月琴と広い意味では同じ楽器と言えなくもない。 二胡と日本の胡弓とか、そういう関係に近かろうか。 二胡を胡弓と呼ぶことは割りとよくあるが、こちらもやはり厳密には別の楽器だ。 因みに、月琴の有料音源も一応あるにはあるみたいだけど、どの程度のクオリティーかはちょっと分からない。
ここ何日か、仕事の合間を縫ってサンプラーのパッチを自作していた。 もうここまでやったんだから、それ使って一曲ぐらい書こうと思う。
月琴って事実上二弦の楽器(2コース・四弦)なんだけど、まあ二弦であるところがミソでもある。 演奏例を動画なんかで見たところ、ピック使用前提の単音楽器であるっぽい。 構造的に間違いなく二和音出せるには出せるけど、あんましそういう奏法は見当たらなかった。
パッチ作る際、異弦同音をどうするかで迷った。 単に音階ベースでサンプルを並べるだけにするか、あるいは月琴ならではの二弦のニュアンスを活かせるよう、低音弦・高音弦で別々のパッチを作るか。 結局後者にしたんだが、モノはできたものの、実際の曲作りが難儀だ。 あとそのパッチ、使い方にクセがあるので自分でしか使えない。
自作VSTを公開したりしてるんだけど(随分もう古いものばかりだが)、サンプラーのパッチなんかも公開しようかとか考えたことがある。 しかし、自分が使うためだけに作ったようなものが多くて、どれも汎用性に乏しい。 マニュアルとかこさえれば良いんだろうけど、そこまでやる気力もないしな。
・9/14(水)
Photo1
神田優花、ニュー・シングル「Always And Forever」、本日発売です。
・9/13(火)
神田優花、明日発売の新作「Always And Forever」(全2曲)、収録曲について。
・9/12(月)
私は普段、市販の音楽をあまり聴かない。 特にいわゆるJ-POPのようなものは聴かない。 「音屋のくせして何と不勉強なヤツか」と言われるかもしれないけど、聴きたくないものは仕方ない。
無論全く耳にしないわけではない。 例えば外で飯食う時に店内で流れていたりもするから、今の生活において「全くJ-POPを耳にしない」と言うのも、それはそれで難しい。
何故聴きたくないのかと言うと、その作り手らのある種の「焦燥感」のようなものが伝わってきて、それが私のある論理性に引っ掛かり、心穏やかでいられなくなるからだ。 私は普段神田優花の歌をよく聴くが、彼女の人格を味わっている部分も大きい。 私は落ち着いたものが好きだ。
焦り、苛立ち、不安、猜疑、怒り、怯え、この手の機微って要は皆同じ感覚である。見る角度を変えただけのもの。 目立ちたい、人に抜きん出たい、誰かを見返したい、なんて言う感情も、その原動力になっているのは上に挙げた諸感覚である。
私は音楽に、心の安寧こそを求めている。 心をささくれ立たせるようなものを、わざわざ金出して求めようとは思わないのです。
・9/11(日)
Photo1
月琴について調べていた。 何日か前に中国音楽についての文章を上げたんだけど、その後ちょっと気になって調べを入れた。
清楽の代表楽器である。 フォークソングで言うところのフォークギターみたいなもんだ。 ただ、ギターなんかに比べると個体差が大きく、楽器としての定型がやや覚束ないようだ。 輪郭の曖昧さが許容されていると言うか、弦・フレット(品)の数、チューニングなど、色々統一されていない。
一口に月琴と言っても、明楽におけるそれと清楽におけるそれ、また現代のそれが皆それぞれに違う。 特に現代の月琴は完全に西洋音楽準拠になっていて、フレットが正確な半音刻みになっている。
前近代の月琴はそうでない。 半音間隔で打ってあるフレットもあるが、ほとんどは一音、一音半のもある。 ああいうタイプの弦楽器であるのだから、チョーキングなどの奏法で半音を出す事は不可能ではないはずだが(複弦構造だからちょっと難しいかも)、基本的に特定スケールを想定した楽器であるらしい。
実はそのフレットの音程間隔を調べていて、私はちょっと躓いてしまった。 ある説明文と実際の月琴の構造が矛盾していたからだ。
その楽器の実物を手にせずとも、万物に共通する物理法則のようなものから推察できる点はある。 例えばあの手の弦楽器なら「ブリッジとナットの間に弦を張って、その真ん中を押さえれば(開放弦の)1オクターブ上の音程が得られる」とか。 私が読んだ説明文にあるフレットの音程間隔と、その文に添えられていた図(の柱の位置)が矛盾していたのだ。
その後更に調べを入れることで、単に間違った(適当でない)図が載っていただけだということが解ったが、基本的に個体差が大きく、統一的規格の存在しない楽器であるらしい。
弦の数もモノによってマチマチだ。 3〜4弦が多いみたいだが、一番一般的なのは4弦。 それも2コースで各弦が複弦構造になっているもの。複弦は同一音高で調弦するので、実質2弦の楽器と言える。 ついでに、4弦モノにも、3コース・4弦のうち二つが複弦関係、なんてのもある。 とかく例外が多い。
調弦は(構造から粗方予想できるが)、2コースの弦を5度あるいは4度の音程関係でチューニングする。 「ド-ソ」とか音名で記してある資料もあったが、この時代の(用途も含め)この手の楽器において、調弦に絶対音高が定められてあるケースは少ないので、月琴もきっとそうだろう。
ついでに、清楽は比較的近い時代(江戸後期から)の流行であるからか、良好な状態で継承されている。 有名なレパートリーなども、割かし容易に聴くことができる。 私も聴いてみたが、もう現代人にとってもさほど違和感無く聴ける拍節感である。 当時としてはハイカラなものであったろう。
因みにその有名曲の一つである「九連環」の旋律線などをたどってみると自明なのだが、「旧式月琴のフレットの音程間隔」と言う物理性に引き摺られて生まれたメロディーである事が、ほとんど疑いない。
清楽の伝来は享保年間とあるが、実際に市井での流行を見たのは当然もう少し後だろう。現存最古の楽譜が天保年間というから、つまりはいわゆる「幕末」の流行だったとして差し支えないかと思われる。 要するにごく最近の社会現象。 中国伝来の歌を中国語で歌うことの流行。ミッシェル・ポルナレフの曲をフランス語で弾き語る、みたいな感じかな。
・9/10(土)
「ミュージシャンになって有名になりたいのです」と言う若者を目にしての雑感。
私の日々の創作活動の動機に「目立ちたい」・「有名になりたい」なんてのは無い。絶無である。 別に謙遜でも強がりでもない。若い頃には、その手の我が機微に多少の覚えもあったが(それにしても平均以下だったろうが)、今はむしろ、できるだけ目立ちたくない。 細々と生きたい。
目立ちたい人が目立ちたくなる理由は、それによって自己を補完したいからだと思われるが、今の私にその作業はもう必要ないのだろう。
上の動機を「不純である」とか言って咎めたいわけではないが、動機(原理)ごと違う者同士が一つの作業を続けて行くことは、現実問題として難しいと思われる。 また、有名になるための手段として、音楽ってそんなに効率的とも思えない。 実作業の部分が煩雑に過ぎて、割りに合わないですよ。多分。
・9/9(金)
Photo1
オリンピックの100m走、決勝をトップで走り抜ける者の、その恍惚の表情を見ていると、この世の栄華を知悉したが如く見える。 彼は本当に全てを味わい尽くしたのか。 味わい尽くせると言うのなら、私は無理と分かっていてもそこを目指す。 そうは思えないから、現状そこを目指していない。
トップを走り抜ける彼の視界には、後続の走者が入らない。トップなんだから。 一番多くの走者を目に映せるのは、最下位を走る者。 また、観客・視聴者なら全ての走者を、彼らとは違った視点から舐めるようにして見られる。 トップランナーは、ある側面で見ると、誰よりも狭い視野しか持てない。
酒飲みながらプロ野球中継を見るオヤジが、「何でこんなタマ振りやがるかね、このド下手め」と管巻いたとする。 なじられる選手の気持ちを代弁するなら「だったらお前が打ってみろ」・「どれだけ大変な作業か分かってるのか」ってところだろうか。
確かに視聴者如きには分からない(見えない)ことがある。 何故見えないのかと言うと、それはバッターボックスからの距離が離れているから。 その野球選手の靴の先にハエがとまったとしても、視聴者の目にそれは映らない。 しかし、違う視点を持っているから、例えばキャッチャーが構えたミットの位置だとかいう、「視聴者であるからこそ見えるもの」がある。
サッカーとかだともっと分かりやすいかも。実際にピッチに立ちながら、「視聴者としての視点・視座を持てたらどれだけ良いか」と思う選手はいるような気がする。 全体を俯瞰できるのだから。パスとか通しやすくなるはず。
豊臣秀吉はこの世の春を謳歌した天下人だが、自分の死後僅か十数年後に、我が側近の手によって一族を根絶やしにされるなどとは努々思っていなかった。 が、その事を我々は知っている。 ドラマなどを含めた、秀吉に関するあらゆる資料・事績に触れる際、その結末を常に念頭において眺めることになる。 彼の人生と言う時間軸すらをも俯瞰できるからである。
ただ、我々後世人は、秀吉その人と遠い。 時間と言う距離に隔たりがあり過ぎて、見えなくなっている細部と言うのが当然ある。 それは例えば「○年○月○日に、彼がどういう下着を身に着ていたか」と言ったこと。
物事において、「当事者でないのに分かるまい」と主張する人の指す「分からない部分」と言うのは上に挙げたものである。 距離によって見えなくなっているもの。 そう主張する人からは、「距離があるからこそ見えるもの」は大抵無視される。
「距離によって見え難くなっているもの」は、分析によってある程度明らかにできる。無論限界はあるが、限界まで距離を縮められる。 一方、「距離があることによって見えてくるもの」を、当事者が目に映すことは難しい。 こちらの方がきっと余程に難しい。 その方法が存在しているのかすら疑わしい。
・9/8(木)
Photo1
中国の音楽について。 昔から断続的に考えていることなんだけど、現時点での認識をメモっておく。
「中国の、古典・伝統音楽なんてものは存在しない」と言うのが私の一応の結論で、いまだに揺るぎ無い。 「ある」と言う意見もあるだろうし、事実あったのだろうけど、現代に継承されていない。 「かつて存在した形跡がある」とか言えば語弊が少なかろうか。 ただ、少なくとも日本の雅楽寮のようなものは存在しない。 歴史ある民間流派と言うのも存在しない。
前にも言ったような気がするが、西洋にあれだけ巨大なクラシックと言う体系があるのだから、東洋(その事実上の中心である支那世界)にも、それに比肩しうる音楽体系がありそうなものだとつい思ってしまう。 「クラシックほどでないにせよ、それに相当する位置を占めるものぐらいはあるのではないか」とか。 実際、世人らが中国音楽に対して持っているイメージって、そんなところではないのか。 「よく知らないけどそう言う体系があるのだろう」みたいな。
どのくらいの時代のものを古典と呼ぶかってのも、判断が難しいが、中国音楽で最低限の楽譜資料が残ってるのってせいぜい明代くらいのもので、それより前のものはほとんど存在していないと思われる。 文献上の「礼楽」の痕跡とか、そういうのは紀元前にだって確認できるけど、流派は無論のこと楽曲すらも残ってない。
明楽は比較的良好な形で記録されているけど、それも日本の功績が大きい。 本場中国では、おそらくほとんど散逸してしまっている。 「継続」していないものなので、「復元」が可能であったと言う解釈で間違いないと思う。 念のため、明楽のレパートリーは魏皓の「魏氏楽譜」に50曲程度採録されており、僅かではあるが現存している(確か東京芸大蔵の写本だったかが現存している)。 「魏氏楽譜」は、魏皓と言う明人が日本に帰化し、日本で著した。 明楽は、楽譜以外にも「楽器編成」のような情報も一応残っている。 ただし、それが本当に明代音楽のtraditionであるのか、standardであったのかについては、多少の疑問が残る。
ちょっと下った清楽は、明楽よりは濃厚に痕跡を残しているみたいだけど、清代のものを伝統音楽とは、私の感覚では見做せない。 またその清楽とて、詰まるところ日本での隆盛の影響で、こんにちこれほど濃厚に痕跡を残すに至っている。
因みに清楽はいわゆる宮廷音楽ではない。 いわゆる俗謡のようなものの総称に近い。 明清楽と一絡げに称されるけど、両者の実体はかなり違う。 清楽は要するにライトな俗楽である。 月琴などの中国楽器で詩歌を朗ずることが江戸末期あたりから(おそらく主に遊郭などで)流行した。 西洋楽器であるギターを使ったフォークソングが、若者の間で流行した現象なんかに似ている。 両者が一過性の流行であった点も含め。
確かに和声音楽は西洋発祥だし、ギターと言う楽器もルーツはさておき、直接的にはヨーロッパ由来であろう。 しかし、だからとて「かぐや姫」が西洋(伝統)音楽なのか?と言う話なのである。 清楽は、伝統音楽なんて言葉から一般的に連想されるものとは懸け離れていると思われる。
本場中国では、明楽すらも絶えていると言う。 現地で継承されている実質的な「中国音楽」って、実際のところ如何様なものか。 各地に点在する、比較的最近(およそ清代以降)の民謡のようなものがほとんどではないか。 こんにち我々がイメージする中国音楽も、多くの部分はウィグルの民謡であったりするらしい。
やはり中国(の歴史)は、王朝交代による文化の断絶が著し過ぎて、音楽のような繊細なものが残り難かったのだろう。
もし今私が、クライアントに「中国的な音楽を作ってくれ」などと言われたらどうするだろう。 相手は学術的な正解を知りたいわけでは無かろうから、黙って一応の成果物を納めるしかなかろうな。 歌謡曲のような民謡のようなテキトーな曲に、テキトーな中国楽器でアレンジ、みたいな。 案外大喜びされたりして。
・9/7(水)
Photo1
神田優花、ニュー・シングル「Scorpion」、本日発売です。
ついでに、本作で神田優花のChiptuneシリーズは一先ず終了です。 続きがあるのかは我々自身よく分かりません。 あと謝辞を兼ねて、今回のシリーズで使用した「プログラムの一覧」を公開してます。階層が揃ってないことについては御容赦を。
・9/6(火)
明日発売の、神田優花のミニ・アルバム「Scorpion」(全8曲)について。
・9/5(月)
今構想中の音についてのメモ。
神田優花のアルバムを、できれば年内にリリースするつもりだったんだけど、ちょっと雲行きが怪しくなってきている。
曲の頭数が揃わないのではない。 むしろ今の時点でも十分曲数はあるんだけど、アルバムに統一的イメージを持たせようと思った際、一緒くたにしにくいものがある。 どうしようか思案中なんだけど、一番現実的なプランは、アルバム二枚に分けること。
アルバム二枚作るとなると、少なくとも二十数曲程度は必要になるんだが、実は曲数ならそのくらいは十分にある。 発表済みシングル曲の中で、現時点でアルバム未収録のヤツなんかを含めての話だけど。
結局アルバム二枚を立て続けにリリースするか否かは、とりあえず保留と言うか、もう少し検討を重ねてみる予定。 その間に更に曲も増えるだろうし、増えたらもう少しビジョンも明確になるだろうと思って。
・9/4(日)
Photo1
年内リリース予定のアルバムの、編成表みたいなのを作っていた。 事務仕事ってヤツなんだが、しかし今はアグリゲーターなんて言う便利な業者がいてくれるお陰で、この手の事務作業は各段に楽になった。 昔は例えば「MUSIC POD」と「Music Deli」なら、別々のデータ作って納品しないといけなかったんですからね。
・9/3(土)
昨日の続き。 和声音楽が誕生した経緯ってのは、物凄く単純化して言えば、対位法の進化である。 詳細な説明をするなら、物凄い文章量になる。
知らない人に対位法ってのを説明するのがそもそも困難だ。 音楽的な側面では、ヨーロッパ文明とそれ以外に対位法の時点で既に分岐が見られる。 ヨーロッパ音楽も、当初はその他の文化圏と同じく、単旋律の声楽とかから始まり、平行オルガヌムとかモテト(シンプルなポリフォニー音楽)に発展して行った。 この辺りまでは他の民族音楽と大差無い。
その後、ヨーロッパ音楽は対位法、和声音楽へと発展して行くわけだが、この辺りからは、その他の地域の音楽と隔絶している感がある。 更に後、この和声音楽は人類規模で共有される「文明」となる。 事実共有されているのだから、例えば日本にもそれを受容するだけの素地はあったに違いないのだが、独自にそれ(和声音楽)を生み出すことは無かった。 これは日本に限らない。
どうして和声音楽にでなく、例えば「音律を細分化して行く」と言う方向に発展しなかったのか、と言うのは歴史に対する反問になり得る。 実際そう言う形(音律の細分化)での発展を見せた文化圏はあるし、現代でもその手の試みは見られる。
アラブ音楽が24音律であることは有名だし、トルコ(古典)音楽は1音を9分割する。 漢代には三分損益法を元に六十律が作られた。 でもこの種の試みは、常にある程度以上に発展・共有されない。 事実ここで挙げたものも、全て民族音楽的メソッドに留まっている。 どうしてなのかは、私にも答えが見出せない。 因みに、三分損益法による「12音律」は、雅楽と言う形で上古の日本にも継承されている。 共有さるべき何事かが含まれていたのだろう。
和声音楽のような高度な書法を、誰しもが、例えば「駅前でギターの弾き語りをしている兄ちゃん」ですら使いこなしている。 人間と言うのが文化・歴史の中に生まれてくる生き物だからだと思わされる。 きっと縄文人などを現代に連れて来て、平均的な学校教育を受けさせたら、一部の隙も無い、全き平均的現代人になるだろう。
・9/2(金)
Photo1
私にとって「コード(進行)から曲を作る」ってのは、かなり特殊なケースに属する。 今まで実際そうだったんだけど、世にある曲を聴くだに、コードから作ってるに違いないと思わせるものが多々ある。 私もそういうのを作ってみようと思い立った。
コードってのは、要するに音の組み合わせのことなんだけど、当然パターンは限られる。 コード進行ってのはそのコードの組み合わせのことで、(桁こそ違おうけど)これまたパターンには限界がある。
曲作りの一手法として、そういうのもアリかと思わせるが、本当に過不足無い作品にしようと思うなら、コードが先ってのは適当でない気がする。 何でだろう。 「短歌を作ろう」などと、最初にフォーマットを設定した上で詩想を練る、みたいな状態に近い気がするからだろうか。
・9/1(木)
Photo1
昔、とあるYAMAHA製のキーボードを所有していたことがある。 キーボードっつってもいわゆるシンセサイザーみたいなのではない、いわば家庭用キーボード、カシオトーンみたいなヤツ。PSR〜とか言う型番だった。 絶対に買ってはいないから誰かに貰ったのだと思うが、誰に貰ったか思い出せない。 くれたその誰かに愛を感じなかったからだろうと思う。
そのキーボード、とっくに処分してしまって今は手元に無いが、そのPSR〜をサンプリングしたとか言うVSTをどこぞのデベロッパーが無料で公開していたもので、(別に大した思い入れなどがあったわけでもないが)懐かしさもあって落としてしまった。 因みにそのサンプリング元、正確には私の所有していたものとは違う(PSR以降の数字が違う)。 まあでも似たようなものでしょう。
しかしそれ、内容は小容量のPCM音源で、チープではあるけど例えばレトロゲームの音源チップのような格別な滋味があるわけでなし、どうも使いどころが無い。 音色のラインナップやドラムマップなどは、完全にGMコンパチブルでは無いが、それに近い仕様。 別にGMに準拠していなくとも、用途が近いから必然的に内容も似通うものと思われる。
そのVSTを弄っていて思ったけど、もう音楽なんてあれ一台あればほとんどのものは作れてしまう。 音色とかに拘るならそうは行かないんだろうけど、音色はあくまで音色。音楽ではない。
・8/31(水)
Photo1
神田優花、ニュー・シングル「Sunday! Sunday!」、本日発売です。
・8/30(火)
神田優花、ミニ・アルバム「Sunday! Sunday!」(全8曲)について。
・8/29(月)
Photo1
芸術家とは何か。 私が芸術家を定義するなら、「作品と言う世界を持っている者」と言う感じだろうか。 分からない人には分からないだろうけど、分かる人には分かるはず。
「作品と言う世界」ってのは、つまりはもう一つの現実。 誰だっていわゆる現実の他に、寝ている時に見る「夢」と言う世界を持っているでしょう。 芸術家は更にもう一つ世界を持っているんです。 それが具体的には絵だったり音楽だったりする。
その「もう一つの世界」は、芸術家にとってのカタルシスとなる。 風呂が肉体の汚れを落とすように、芸術作品は精神の汚れを落としてくれる。
ピカソは「アトリエに入る時、肉体を置いてくる」みたいなことを言っていたけど、ピカソならきっと頷いてくれるに違いない。
葛飾北斎の有名な富嶽三十六景の一つに、「曲げ物職人だかが作りかけている、底の付いてない盥の向こうに富士山が見えている絵」がある。 この説明では構図が浮かび難いかもしれないけど、実際に富嶽三十六景を見てみれば「これのことか」と分かります。
その絵を眺めていると、北斎がその絵の中に生きていたことが伝わってくる。 あの絵の中に広がっている景色は、北斎の、もう一つの現実であったに違いない。
・8/28(日)
マンモスは絶滅した。 絶滅の本当の理由なんて誰にも分かるはず無いが、人間が狩猟の対象としたことがその大きな原因だとか言われている。 本当かしら。
現代人は日々ゴキブリを殺虫剤などで殺しているだろうが、ゴキブリが絶滅の危機に瀕しているなどとは聞かない。 彼らには存続できるだけの条件が揃っているらしい。 人間による狩猟も条件の一つではあるが、あくまで条件の一つに過ぎない。 マンモスは種を維持できるだけの条件を持たなかった。
この宇宙の摂理として、マンモスが生き延びるべき種であったなら、きっとそれを狩る人間の方に淘汰の圧がかかった筈である。 その程度にはマンモスは、この宇宙に必要でなかった。
マンモスはたかだか数千年前に絶滅した種なので、氷漬けの死体とかいまだに見つかったりする。 血液とかまで採取できたりするらしくて、象を使って再生しようと言う動きも事実あるらしい。 でも、そんなことまでして再生させたマンモスが、どこまで生き延びられることやら。
・8/27(土)
「ムード歌謡」について考えていた。 そのメモ。
流行歌の(一過性)ジャンルなので、楽理的な定義付けなどは難しいが、聴けばそれと分かる雰囲気を持っている。 三拍子と言うかシャッフルと言うか、とにかくハネたリズム、複数の男性によるコーラス・ワーク、ラテン・パーカッションの多用、サックスのグロウル等々、絶対的な決め事ではないにせよ、特徴的な書法は散見される。
正直言って、創作上の収穫は少なかったんだが、歌詞世界が気になって仕方ない。
あの当時の歌謡曲ってのは夜の世界、要するに酒席と切っても切り離せない関係にあるのだが(今のにもそういう面はあろう)、その最前線にあったジャンルなだけど、つまりは酒臭い。
あの手の業界、消費者は基本男である(仕事として関わっているのは女が多かろうけど)。だからして当然、男向けの歌詞が目立つ。 因みに、「男向け」と言うのは「男目線」と言う意味ではない。 「男向け」の「女目線」の歌詞と言うのが多い。
例えばムード歌謡の代表選手である「ロス・インディオス」の「別れても好きな人」・「コモエスタ赤坂」などの歌詞を眺めていると、男の世界観がよく分かる。 「別れた人と出会う予感」とか「実際出会って意気投合」みたいなストーリー。
別れた人と偶然会ったからどうだと言うのか。 現実にそういう事があったとしても、せいぜい軽い挨拶ぐらいで終わりである。 「意気投合して昔のような恋人関係に戻る」と言うのは男特有の(手前勝手な)妄想である。 多くの女の人にとって、昔別れた恋人は「タダの他人」である。 この辺の認識差って、人によっては絶望的に埋められないらしい。
別れた恋人は生身の人間なのだから、経過した時間相応に成長し、環境の変遷も経ている。 昔のその人そのものではない。 こういうことが見えてこないってことは、即ち世界そのものを掴めないと言うことだ。 私はそんな人になりたくない。
「あなたは昔の恋人と過ごした時間をまた味わいたくないの?」とか訊かれるなら、無論そんなことは無い。 その当時の自分自身や周囲に流れていた時間そのものが、その時のまま味わえるなら、私は涙を流すかもしれない。 昔付き合ってたオッサンとオバサンが街で出くわすってのは、そういうことじゃないのよ。
・8/26(金)
Photo1 Photo2
陳列されているDVDを眺めていたら「ワンちゃんニャンちゃん〜」みたいなタイトルが目に入った。 何となく珍しい言い回しな気がするが、確かに「ワンちゃんネコちゃん」では階層が揃っていない。 片や「ネコちゃん」ならもう一方は「イヌちゃん」にせねばならないだろう。 鳴き声の方で階層を揃えたらしい。
あのDVDを作った会社の社長とかが言ったのだろうか。「ワンちゃんネコちゃんじゃおかしいだろう」、「階層が揃ってないじゃないか」とか。 周りの従業員は反対せなんだろうか。 「そんなの一般的じゃないですよ」とか。
・8/25(木)
Photo1 Photo2
作曲家に対する設問として、「曲を作る時、メロディーとコード、どちらから作るか」とか言うのがあるらしい。 普段意識しないことなもので、なんだかあらためて考え込んでしまった。 私が回答するなら「どちらの場合もあるし、どちらでもない場合もある。どちらでもない場合の方が圧倒的に多い」とか、こんな感じだろうか。
まずコードから作るなんてのはかなり特殊なケースで、ちょっと実験的な匂いすらある。 メロディーがはじめに思い浮かぶケースはもう少し多いけど、それにしたって大まかなコード進行の設定ぐらい伴った形で出てくる。 二つを完全に分離した形で生み出すことは、ある意味難しい。
私が平素曲を作る際のプロセスは、まず始めに「曲のイメージ」みたいな塊を想像する。 これはほとんど言語化が難しい。 それを紐解いて行くと言うか、肉付けして行くような具体的行為が作曲・編曲と言った作業に当たる。 木の塊を掘り崩して作品化する、木造彫刻とかに近い感覚だろうか。
最初に生まれるイメージの中に、メロディーラインやコード進行が含まれていることも無論ある。 が、コードの設定、メロディーラインなどが、上で言う肉付けに含まれていたりもする。 細部を仕上げていく際の「細部」に当たるということ。 細部に過ぎないのだから、完成した後、詳細を忘れてしまうこともある。
一口に作曲と言っても、そのプロセスは各自違う。 そしてこの違いこそが即ちジャンルの別なのだろうと私は思っている。 プロセスってのは要は脳内で踏まれる手順なので、外から伺えない。 だから判別するのも当然難しい。
・8/24(水)
Photo1 Photo2
神田優花、ニュー・シングル「Forest」、本日発売です。 下、本人からのコメント。
6月からChiptuneモノのシングルを7タイトルもリリースしてきたんだけど、今回のはまたかなり趣向が違います。 口直しにこんなのもいかがでしょうか。
因みに、来週からまたChiptuneモノの、今度はアルバムを二作連続でリリースします。 こちらもお楽しみに。
・8/23 (火)
神田優花、新作「Forest」(全2曲)について。
・8/22(月)
足利尊氏・直義兄弟を御存知か。 室町幕府初代将軍とその弟。 元々仲が良かったのだが、兄弟喧嘩(派閥争い)に収拾をつけられなくなり、修復不能な決裂に至る。 日本史の、いわゆる南北朝の動乱期に揉め事を起こし、競って南朝に降ったりしている。 一部の歴史家曰く、「笑止」らしい。私もあんまし美しい兄弟関係とは思えない。まあ節操の無い兄弟ではある。
仲違いと言うのは誰だって経験しうる。 でもそこから人は学ぶべきなんだ。信ずべき人とはどういう者かを。
誰だって仲違いくらい経験しているだろうが、多くの人は(特に同じ人との)それを一生繰り返したりはしない。 人との喧嘩の類は避けられなくても、距離の取り方さえ間違えなければ、それを繰り返すことぐらいは避けられる。 失敗を嗤うべきではないが、失敗から学べないことは嗤われても仕方ない。
仲良くなるには、お互い相応の資質が要る。 人は誰とでも仲良くはなれないし、またなるべきでもない。 仲良くなれる相手かどうかさえ判断できれば、人は仲違いを繰り返さない。
私は「兄弟なんだから仲良くあるべきだった」とは思わない。 世の中には「仲良くなってはいけない相手」だっている。 例えそれが兄弟であっても。 「仲睦まじきことは美しい」とか言う耳障りの良い言葉に踊らされるから、人はすぐ人生を誤る。
仲が良い、あるいは悪いなどと言う評価の俎上に乗ってしまっている時点で、それは双方同類だと見做されている証拠である。 本当に同類で無いのなら、その諍いを金輪際起こさぬよう、距離を置くべきなのだ。
・8/21(日)
オリンピックの最中だそうな。 しかも次は東京らしい。
決勝戦で負けて号泣する人がいる一方、勝って躍り上がる人がいる。 オリンピックで決勝を争うような人らなんだから、どちらも人並み外れた能力を持つのだろうし、その一試合における運動量においても、両者さほどの違いは無かろう。 気分が彼らを分けている。 勝ち負けなどルールが色分けた錯覚に過ぎないと言うに。
短距離走を一着で走り抜ける、いわば「世界一速い人」に我々はなれないのか。 いいや、そんなことはない。 世界一速い者が持てるものとは何か。それは「勝てると踏んだこと」。「勝った瞬間」。「勝ったと言う余韻」。 つまり全て気分である。
だからして、我々がその気分を掴むことができるなら、それはもう世界一速く走り抜けたのと同じなんだ。 勝つこととは、勝ったと思うこと。
スポーツ選手ってのは良く言えば従順、ハッキリ言うならか弱い人たちですな。 いくら強靭な肉体を持とうと、ルールを超えることができない。 彼らは芸術家にはなれない。
・8/20(土)
いわゆるラテン・パーカッションについての読み物をつらつらと読んでいた。 コンガやボンゴとかって、あれ大小一対の太鼓をコンビネーションで使うものじゃないのね。 ドラムキットで言うところのスネアとバスドラムのような関係かと思っていたら、どうも違うっぽい。
コンガならハイコンガのみで基本のリズム形を作った上で、数小節に一度アクセントとしてローコンガを入れる、とかそんな感じらしい。 POPSならシンバルの構成とかに近い。 ハイハットで基本形を作りつつ、クラッシュとかでアクセント、みたいな。
しかしラテン音楽の編成に加わるならそうであるのかもしれないが、POPS系のバンドに配置されているパーカッションも、同じような奏法を必ずしも踏襲しているのかはよく分からない。 POPS系のドラムとオーケストラのそれでは、例えばスネアやバスドラムにしたって使い方は違う。
今AORっぽい曲を作ろうと思ってて、アレンジについて色々考えていた。 編成にラテン・パーカッションの類を加えようかとも考えていて、奏法について調べてたんです。 今までもそういう音色を使ってみたことぐらいあったけど、あんまし奏法について細かく調べてはなかった。 太鼓なんて叩けば音が出るもんだろう、ぐらいに捉えていたもので(実際その通りな部分もあるけど)。
ボンゴやコンガってかなりポピュラーな楽器で、GMのドラムキットにも音色が割り当てられているくらいなんだけど、よくよく考えるとあんまり実態を分かっていなかった。
・8/19(金)
今作ってる曲(と言うかオケ)、随分とギターをフィーチャーしてるんだけど、そのギターを全部打ち込みで作っている。
メチャメチャ細かいアーティキュレーションまで収録したサンプリング系のギター音源があって、それをフル活用したつもりなんだが、例えば間奏作るだけで5〜6時間ゆうに掛かった。 ほぼ一日作業。 弾いた方が早い。
こういう作業、特にギター関係のサウンド・プログラムにおいていつも思うのは、ありえないぐらい美しい音が上がるんで、ある意味嘘臭いってこと。 今回もそうだ。 こういうのがたまにあっても良いと思うけどね。
あとその音源何故か、特定のアーティキュレーション(ミュート・ブラッシング系)において、例えば8分音符で入力したノートが16分で聞こえてきたりする。 どうしてだろう。 8分のノートデータが16分に変換されたりしているわけないので、私の耳(と言うより脳)が一種のオクターブ・エラーのようなものを起こしているのかもしれない。
↑これ波形で見て確認した。私の聴き違いじゃなかった。
上の音源、当然ではあるがドライ(エフェクト無しのナチュラル・トーン)でサンプリングしてるので、エフェクターとかアンプ類通さないとオケに使える音にはならない。 ギター・トラック作りのプロセスとしては、リアンプ的になる。 私は自分で弾いたものを録る場合、リアンプは何となく肌に合わない。と言うか、まずやらない。 そっちの方が合理的なのは分かるけど、面倒臭くて。
今回はアンプ・シミュレーター使ってて、それもソフトなんで基本的にPC内部で完結させている。 ありえないS/N比。 ついでだがそのシミュレーター、音は良いんだろうけど負荷が重過ぎ。 私の環境って公平に見て別に貧弱では無いと思うんだけど、二基立ち上げたりしたらマトモに再生できなくなる。どういうマシンを想定してるんだ。
しかしそのギター音源、どういう人を対象としているのだろう。 上に言ったように、ある程度弾ける人なら本当に弾いた方が早いと言いたくなる位の操作の煩雑さ。 かと言って、ギター弾けない(構造・奏法を理解していない)人では使いこなせないだろう。 本当によく分からない。私のような人のためのものか。
・8/18(木)
アイドル・グループが解散する。 「メンバーの○○が悪い」。「いいや、本当は○○の方が悪い」とか。あるいは「メンバーは誰も悪くない。マネージャーが悪い」。「事務所の幹部が悪い」とか。 そんな声が聞こえてくるようだ。
世の中、「物事にはその原因となる悪人がいて、その誰かさえいなければそういう事態は出来しなかった」とか本気で思っている御仁が(多く)おられる。 そんなことないですよ。
人はいつだって本当の理由が知りたい。 だからと言って、手近なところにあるテキトーな何かを答えとし、自分を納得させてしまってたら、本当のことなんて永遠に分からない。
物事が成立する理由は、それを成立さしめる条件が揃っていたからで、物事が継続できなくなるのは、その条件を欠いたからだ。 条件、環境と言っても良い。 環境は複雑な要因で成り立っているので、簡単に壊れるし、簡単には壊せない。
解散の理由なんて、当人らすらよく分かってないんじゃないか。 解散をそんなに惜しまれるほどに、そもそもそのグループが売れていた理由だって、本人らですら分からないだろう。 物事が複雑な要因で成立するからだ。
トキは絶滅しかかっている。 保護センターを作ってただ繁殖すれば良いと言う環境を整えてやってもなお中々思うようにならない。 しかし、ちょっと換気などの悪い場所や腐ったものなどを放置するだけで、害虫の類は発生する。 全ては環境である。 恐竜が絶滅した理由も、我々が今生きている理由も。
「解散の原因は何某だ!」などと言う人。 その人は、その何某のある行動さえなければ解散を回避できた、とか思っているのかもしれないが、それは発生した害虫に「殺虫剤をかけろ」と言ってるようなもんで、確かに虫は死ぬだろうし、一時的にはいなくなるかもしれないけど、環境が揺るぎない以上、虫はまた必ず発生する。 いわば「犯人」として槍玉に上げられた誰かを排除したところで、姑息的な延命にぐらい繋がるかもしれないが、そもそも条件が全然揃っていない集団を存続させるのは難しい。
ニッチがあるから収斂が起こる。 物事は、ある物が存在したことよりも、それをあらしめる環境が存在したことの方に本質がある。
私は音楽が好きで、音楽家と言う生き方を選んだが、それより何よりも、私こそが音楽に選ばれた。 こういう生き方が出来る環境があったし、こう生きて行くしかなかったとも言える。 「生きていると言うより、生かされている」と言う感覚は信仰の基礎だと思うけど、決して間違ってはいないと思う。
・8/17(水)
神田優花、ニュー・シングル「Perfect」、本日発売です。
・8/16(火)
神田優花、ニュー・シングル「Perfect」(全2曲)、収録曲について。
・8/15(月)
Photo1
私は最近、日本の前近代の美術作品に関心を持っている。 特に木像彫刻の類、それも俗人を像主としたものに興味がある。 以前の私はおそらく、前近代美術作品の技術水準を舐めていた。
等持院にある有名な歴代足利将軍の木像、建長寺の北条時頼像、甲斐善光寺の源頼朝像など。あれらってもしかして生前の本人生き写しなのではないか。 きっと高い肖似性を持つに違いない。 ここで一々述べないけど、私がそう思うに至ったのには理由がある。
歴史時間を空想する時、結局のネックになってしまうのは、人物に対するリアリティーだ。 どう事績を知ったところで当事者の人間としての生々しさが感じられない。 目の前にその人が存在しているような、いわば体臭のようなものが漂ってこない。 また、人物を連想するよすがとして、絵画はあまりにも心許ない。
日本史を通覧する際、いわゆる幕末とかそのあたりに差し掛かると、急にイメージが鮮やかになってくる。 資料が豊富な上、とりわけ当事者らの写真が現存していたりするからだ。 私にとって、絵と写真はそれほどに違う。 彫刻とかって、もしかしたら写真以上にリアリティーのよすがとなるのではないかと、私は思い始めているわけです。
二次元の絵画と三次元の彫刻、言うまでも無く後者の方が写実性は高い。 モデルそのものが三次元だからだ。 三次元の物体を二次元化するとなると、どうしても様式のようなものが必要になる。 様式に沿う分、実体とはやや懸け離れる。
例えば「あしたのジョー」の矢吹丈や、「ドラえもん」のキャラクターであるスネ夫、彼らの髪形は三次元化できない。 原作である漫画を、アニメ化は出来てもCG化は出来ないのである。 理由は元の漫画が絵であり、立体図を想定したものでないからだ。 絵画と言うのは様式なのである。 洞窟に絵を描いた原始人は、ある種の様式を得ているわけで、おそらくは当時天才的な人物が出現して、それを確立したのかと思われる。
浮世絵と西洋絵画を見比べるに、写実性の面では確実に劣ると思っていた。 今でもそう思う部分もあるけど、もっと正確に言うなら、西洋絵画は、写実性に特化した様式を発達させた、とか言うべきなのかも。 浮世絵は別種の様式である。 西洋画との単純な優劣は付けられないが、少なくとも今日的感覚で写実的とは言いがたい。
彫刻にだって様式性はある。 特に仏像のように、モデルが事実上存在しないようなものにおいて顕著である。 が、三次元体である像主を彫刻作品化する際、様式が入り込める余地はある意味少ないとも言える。 様式そのものである絵画と比べ、様式性をうっかり無視してしまうだけでも、像主そのものになってしまうのではないか。
それほどに日本の前近代彫刻作品は写実的である。 いや、像主本人を見たことなど無いので、それは定かでないけど、そう思わせる。
・8/13(土)
「マインスイーパ」ってゲームを御存知か。 Windowsに標準で入っていたような気がするが。今でもそうなんだろうか。
知らない人に概要を説明する気力は無いが、あのゲーム、間違ったフラグを立てるとほぼ間違いなく爆弾を踏む。 まるでこの世の中の縮図のようだ。
Photo1 Photo2
盆休みとか言うほどのもんでもないけど、今ちょっとまとまった時間があるので、溜まった事務作業とか音の仕込みとかやってます。
・8/12(金)
Photo1
広瀬沙希、歌録り。 今回の曲はアルバムの一曲目に収録予定のもの。 色々と事情があって、アルバムの発表は多分来年以降になります。 気長にまっててください。
・8/11(木)
影山リサ。一応レコーディングでした。 歌録りっていうより、効果音的なネタ録り。
Photo1 Photo2
影山さんは先々月から三作リリースしたんですが、もう暫くしたらまたリリースラッシュに多分入ります。 ストックがかなり溜まってきてるんで。
・8/10(水)
Photo1 Photo2
神田優花、ニュー・シングル「Good-bye Southern Belle」、本日発売です。 神田優花は今週から、6週連続でのリリースを予定してます。 アルバムやらシングルやら。 下は本人より。
・8/9(火)
明日発売の神田優花、「Good-bye Southern Belle」(全2曲)、収録曲について。
・8/8(月)
Photo1 Photo2
子供の頃、私はこの世界の存在を信じていなかった。ハッキリ覚えている。 どういうことかと言うと、世界が、私を騙すために仕組まれたお芝居のようなものに思えていた。 あんまし上手く言えてないな。
昔、ある漫画家のエッセイのような文章に、同じようなことが書かれていて、「同じような気持ちの人がいたんだ」と、不思議な気分になった記憶がある。
一神教が偶像を禁じた理由は分からないけど、神が物質でなく、人々の心の中にいるからこそ、例えばキリスト教徒は、こんにちこれほど世界中に散らばっているのだろう。 物質的な象徴、シンボルのようなものを用いる気分がもう少し強ければ、何となくこんにちのようでなかったのではないか。
存在と言うのは、言うまでも無くモノではない。 従って、人が心の中に築き、維持するしかないものである。 神の実在感に一番近いものを挙げるなら、それは自己の実在感だろう。 我々が、ありありと存在していると言うこの感覚。
正直に言うと、私はまだ信じられない。自分以外の他人、例えばこの文章を読んでいるあなたがこの世に存在していることが。 私と同じような意識を持ち、この世界を心に映していることが。 私が音楽を世に出すのは、この「自分以外の存在」を確かめる為でもある。 本当にそれが存在しているのか、私は今も知りたいんです。
・8/7(日)
ポピュラー音楽のようなものは、特にヒット曲などの場合、スコアとかコード進行と言った情報に需要がある。 刊行物とかWeb媒体とかで公開されていたりするので、私も勉強の為に目を通すことがある。
驚いてしまうのは、どう考えても(事務処理上のミスとかでなく)間違ったものが存在すること。あとは、同じ曲でも、モノによって内容の食い違いが甚だしいこと。 特にコードとか酷い。 確かにコードネームってのは一種の「解釈」なので、名前こそ別でも実質同じモノを指していることなどはある。 他にも私も採譜する際によくあるんだが、音がゴチャついている場合など、変な打楽器音の一部とか倍音みたいなのが聞こえてきてしまって、テンション部分なんかを含んだ正確なコードネームが拾えないことはある。 が、私が言ってるのはそういう次元の物ではないのだ。
内容が食い違ってるってことは、少なくともどちらかが間違っているってことだ(あるいは両方間違ってるのかもしれないが)。 メーカーとか事務所とかの、その楽曲の正統な権利者は、特にコード進行と言った情報を公式に発表しない。 だから正確なところは実は誰も分からないわけだけど、大掴みなコード進行ぐらいある程度の音楽教養のある人なら聴いただけで拾えるはずだ。 どうして明らかに違うものが出回るのか。
明らかに間違っているものでも、その採譜者にはそう聞こえたってことなんだろう。 私の関心は実はそこにある。 音楽を含むこの世界と言う情報、それは要するに捉えた人の中にあるし、中にしか存在しないってことなんだろう。 だから我々が作った音楽作品なんかも、実のところそれを聴く人の心の中にしか存在していないし、聴き手の解釈によってしか成立していないってことだ。
・8/6(土)
敗北の価値。
私はいつも言ってるんだけど、我々人間は時間しか持っていない。 何かを所有できると思っているのなら、それは錯覚だ。 所有と言うのは依存と言い換えても良い。
金も名誉も、我々が心でそれを感じただけ。 我々に心がなければ、そんなもの存在すらしない。 心と言うのがつまりは時間である。
浮世での、いわゆる勝者と呼ばれるような人たちを眺めつつ、私はその人らが敗者の目に映る景色を、全くもってその目に映してなさそうなところを、気の毒にすら感じる。 勝者と敗者は等価である。 何故なら勝敗とは、基準が生み出した錯覚のようなものだから。
「良い学校を出て、通りの良い職に就いた」。この程度のことをもってして、世界を知った気分になっている人がいるが、それは本当かしら。 企業の採用担当者は、学生を選んでいるつもりかもしれないが、自分自身が選ばれている事を本当に御存知だろうか。
この世界の本当の鮮やかさをその目に映したいのなら、勝利は無論のこと、敗北をも知らねばならない。 案外敗北の方に、この世界を知るための重要なヒントが隠されているような気が私はしている。 勝ちをもって負けを推すよりも、負けをもって勝ちを推す方がもしかして容易なのではないか。 私たちは、森羅万象を知るため、日々音楽を作り続けている。 ある側面から見れば躓きばかりの人生のようだが、物事はそう単純じゃない。
・8/5(金)
あるギタリストの、多分ワウとアーミング(あとハーモナイザーとか)のコンビネーションによるものだと思うけど、定番のフレーズみたいなのがある。 それが上手く(プログラミングで)再現できない。どうしてなんだろう。
無論100%同じモノを作ろうと思っているわけではない。 また、思ってもできない。音はそんなに単純な要素だけで構成されているわけじゃないから。 私が作りたいのは、単に似たような雰囲気の(音色も含めた)フレーズ。
実器(ギター)を使わずに再現しようと思ったんだけど、どうも似ない。 80%ぐらいの再現度に達したいんだけど、40%ぐらいのところまでしかもって行けてない感じ。 核心部分が欠けてる気がするんだけど、どうしてなんだろう。 サンプリングの音のピッチを弄るだけではダメなのかしら。 倍音がどうとかそんなシビアなものなんて端から目標としてないと言うに。
こういう場合に「実器で演奏すれば早いんじゃないの?」ってすぐ思い勝ちなんだけど、それじゃ私は得心が行かない(そもそも実器演奏でも再現できるか分からないが)。 「実器使えば似たようなニュアンスが出せた」ってのは、つまりはその音のメカニズムを理解すること無しにとりあえず結果だけ得たってことだ。 式を理解しないまま答えだけ教えられたようなもので、どうも気持ち悪い。
そもそもの(ドライの)ギター音が似ていないからってことか? ギターの音はアンプ・エフェクターをはじめ、弦やピックアップ、ボディーの材質なんかを含むギターそのものとか、他にも色んな要素で決まる。誰かの出す音を丸ごと再現するのは難しい。 でも、音程変化のカーブだけでも似せれば、似たようなニュアンスは出せるはずなんだけどな。
色々試しているうちに分かってきたんだが、同じような設定(ピッチベンドレンジとか)の音源に、全く同じMIDIデータ流しても出音のニュアンスはかなり違う。 素の音色が違うと言う意味ではなく、音程変化のニュアンスがかなり違う。 どうもこの辺に原因があるらしい。 要するに、音程の変化って技術の差が出やすいところなんだろうな。 シンセのフィルターとかに似てるような。 フィルターも音色変化の階段が粗いのってたまにある。
結局、オーディオデータのピッチを高い精度で弄れるエフェクトのようなものがあれば良いってことなんだろう。 それで大雑把には近いものが作れるはずだ。 ボーカル用のピッチ補正ツール類は巷に充実しているけど、あんなのを楽器用のリアルタイムエフェクトとして使って、オートメーションでピッチカーブを書ければ良い。 既にそんなの手元にありそうだ。 また色々試してみます。
・8/4(木)
何かを欲しがる人が、欲しがる(欲しがり続ける)理由を考えていた。
それは心に留めておけないからじゃないのか。 何かを「手に入れる」と言うのが、要するに「所有(達成)感を味わう」と言うに他ならないのだから。 その気分は脳機能によっては容易に消えてしまう。 腹一杯食べても数時間後にはまた腹が減ってきたりするでしょう。 ある人にとっては、気分が満腹感のように消えて行くのだろう。
気分が維持できないのは、気分と言うものが時間軸を伴う複雑なものだからである。 保持するのに時間感覚(言語)がいる。 感じ取ることがそもそも容易でないと言うに、保持となるとより一層の言語力を要求される。
留めておけないと言うのは、底に穴の開いたバケツのようなもので、得れども得れども消えて行くことを意味する。生き地獄ようなものである。 高価な車や貴金属などを欲しがり、結果手に入れたとしても、その達成感・所有感は次の瞬間に消えて行く。 金やモノだとか言う、自分の外にあるものを常に得続け、持ち続けねばならない。 これを地獄と言わずして何をそう言うか。
人生なんて短い。 銀行預金の残高の上下に一喜一憂しているだけでもあっという間に過ぎ去ってしまう。 私は、自分が時間しか持っていないと思うから、効率こそを大事にしたい。 私は自分が掴んだ気持ちを離さない。離したくないからこそ日々音楽を作り続けている。
・8/3(水)
Photo1 Photo2
影山リサ、ニュー・シングル「Crazy Birds And You」、本日発売です。 下、アーティスト本人から。
・8/2(火)
明日発売の影山リサ、「Crazy Birds And You」(全2曲)、収録曲について。
・8/1(月)
「個性」について。
人間が物事を判断する際に因るところは、必ずしも個性ではない。 少なくとも行動の指針として、個性の優先度は低い。
では何が優先されるのか。 地域(文化)によっては宗教だったり学問だったり。共同体の同調圧力であったり。 倫理とか道徳とか呼ばれるものがそれだろう。法律とかも、実態はさておき、倫理・道徳の具現化と言う目的がその成立背景にある筈だ。
もっと深層のレイヤーには本能・傾向性なんてのもある。 ほとんどの犬猫の行動などはこの本能に根差したものだろう。 人間だって、言語で自己を律する気分が薄ければ薄いほど、その人は傾向性の奴隷になりうる。 本能の趣くままの行動を個性とは言わないように、ワガママ(自己中心性)は自由とはまったく異なる原理に因る。
とにかく、上に述べたものを総合したのがいわば人間の原理性と言える。 この原理性を差っ引いたところに個性が残る。 差っ引いた末に何も残らないような人は、個性と言う側面においては存在していないも同じと言うことになる。 そう言う人、近くにいません?
そう言えば今日(8/1)発売の月刊Audition誌にウチのオーディション告知が載ってるんだけど、今頃って世間では夏休み期間のはずだ。 この時期の雑誌類の売れ行きとかってどうなんだろうな。 まあとにかくたくさんのご応募お待ちしてます。
・7/31(日)
デジカメ(と言うかその中に入ってたSDカード)の不具合で、先週スタジオで撮った写真のデータがほとんど消えてしまったらしい。 復元とか試してみたけどダメだった。 残ってた一部を上げます。
Photo1
恐竜が絶滅した理由は、隕石衝突説とか有力らしいが、つまりは絶滅しないための最低限の条件を欠いた。 条件さえあれば、絶滅を免れた筈だ。現に我々哺乳類は絶滅していない。
私が音楽を続けられる理由は、その為の条件が揃っているからだ。 この先、環境が悪化することは割りと容易に想定できる。 我々が日々続けているこの活動が、条件の悪化によって絶えることがあるだろうか。
まあ分からない。 でもそういう時が来たら、その時こそ試されているのだと思う。 我々の作品がこの世界にとって必要か否か。 不必要なものが淘汰されるのは仕方ないからね。
・7/30(土)
いわゆるサンプリング・ミュージックのようなものを作ってみようかと思っている。 ここ暫くテクノについてあれこれ考えていたんだけど、その余熱のようなものです。
別に大したものを想定しているわけではなくて、単にオーディオファイルの断片を繋ぎ合わせて楽曲化しようと思ってるだけ。 前衛っぽいような、無拍節のサウンド・コラージュではなく、一応は一定のリズムで進行して行く拍節音楽。 できれば歌も乗せたい。
効果音貼り合わせただけのようなものだから、当然のように和声・調性音楽っぽくはなくなる。 しかし単に非和声音楽と言うだけのことで、独自の体系とかそういったものではない。 例えばミュージック・コンクレートとか言って、昔からその手の試みはあったのだけど、大したものに発展していない。 発展の余地が無いのだろう。
確かに、音楽そのものに限界を感じるからとて音色に可能性を求めるってのは、自然な発想なのかもしれない。 例えばコード(和音)のパターンは割りとすぐ限界を来たすけど、効果音なら殆ど無限にあるものね。 でもやっぱり、ヘンテコな音ってのはヘンテコな音と言う一種類でしかないのよね。
・7/29(金)
Photo1 Photo2
影山リサ、レコーディング。 本当に今年は歌録ってばっかりだ。 来月、8/3(水)には、今年の第三弾シングル「Crazy Birds And You」をリリースします。 下、そのジャケット。
・7/28(木)
テクノ雑感。 個人的な備忘録も兼ねている。
私が普段使ってるシーケンスソフトは随分古いもので、そろそろOSが対応しきれなくなるのではないかと心配なくらい。 そのシーケンサーでノートデータ組む際、私は複数のエディターを併用するんだけど、スコアエディター(五線譜表示機能)は必須だ。 使ってるソフトの大掴みな機能としてはフリー物とかと大差無い筈なんだけど、昨今のシーケンスソフト類はまともなスコアエディターが付いてないのが多くて、そこが理由で今のを手放せない。
私が五線譜表示を必須とするのは、つまりは和声・調性音楽を脳内で構築しているからだ。 大抵の場合そうである。 が、おそらくテクノ系のクリエイターはそうでない。 実際ピアノロールだけで十分と言う音屋は多い。私とはコンポーズの脳内アルゴリズムが違うのだろう。
「脳内」のアルゴリズムなのだから、それは言語と密接に関係している。 テクノクリエイターらと五線譜の使用が当然だったクラシックの作曲家、例えばベートーベンでは、同じ音楽家でもその実体はまるで異種の存在だ。 これは「ベートーベンとモーツァルトが別の作曲家である」と言うのとは意味が違う。
今私は、スコアエディターを一切使わずに曲を作ってみている。 過去に邦楽(雅楽を含む)を作った際にも近い作業は経験しているんだけど、もっと徹底している。 私の言うこの「脳内アルゴリズム」こそが、音楽ジャンルを画然たらしめていると思うからだ。
音楽家が音楽作品を作る際、どのようなプロセスで曲を(脳内で)構築しているか。これこそがジャンルの正体だ。 できあがる曲が結果的に似ていたとしても、それをレンダリングするまでの脳内アルゴリズムが違えば、それらは全く違ったジャンルの作品である。
・7/27(水)
Photo1
神田優花、ニュー・シングル「Desperado」、本日発売です。
・7/26(火)
明日発売の、神田優花の新作「Desperado」(全2曲)、収録曲について。
・7/25(月)
Photo1 Photo2
「卵」の曲線を見詰めていると、あれが一種のアートに見えてくる。 無論アートではないのだけれど、角張ってなくて、触っても怪我しそうにないあたり、人肌の温もりを感じさせる。
何かに似てるような気がしてたんだけど、ピカソの絵だ。 ピカソの描く「曲線」には、人間の匂いがする。 機械にあれは描けない。 音なんかも似たようなところがある。 打楽器とか固定的な周波数よりも、スラー・ピッチベンドのような音程変化のカーブに人の匂いがある。 モノは叩けば音がする。だから打楽器は人知無しに生まれうる。
衒学性の強い文章などを見ると、触れれば怪我しそうな危うさを感じる。 衒いってのが人間の弱さから生まれているに違いないから。 あれには、他人を害しかねない不穏な匂いを感じてしまう。 まあそれより何より、何の思考も介在していないものこそが一番怖いんだけどね。
必要以上の衒いには、他人に対する恫喝の気分が込められている。 そしてそれは、弱さから来る怯えが原動力になっている。 流行や権威などへの過敏さにも、同じ気分が込められている。 社会が抱えている害悪の一つの根源は、人の心に巣食う怯えだろう。
私は、触っても怪我しそうにない作品を作りたいと思う。 一点の隙も無く、思慮で埋め尽くされたものを。 その為にも私は、強くならないといけない。
・7/24(日)
私の考えるテクノの魅力は、いわゆる音楽教養に毒されていないところに濃厚にある。 ついでに、現代用語としての音楽ってのは、事実上西洋音楽のことを指す。
テクノ界のゴッド・ファーザーと言われるJuan Atkinsをはじめ、黎明期のテクノ作品をいくつか聴いてみた。 テクノとしては、最も原始的な段階の作品群。
中に、トランスポーズ機能を使ってのコードチェンジ(シフト)のような例が見られた。 西洋音楽で言うところの機能和声なんてのを無視しているところが実に魅力的だ。 が、残念に思うのは、その独自の手法がさほどの発展を見せていないところ。 その独自手法もパターンは少ない。 発展するだけのニッチが存在しないと言うことなんだろうか。
テクノ界黎明期のアーティストから、その発展史みたいなのを追っていると、結局POPS的なダンスミュージックに近付いて行く。 そちらの方が自然であるのなら、テクノはやはり単なる未熟さ・無教養の産物なのか。 音楽理論が体験的にでも身に付いて来るだけでPOPSになってしまうのだから。
私は、音楽ってのはある方向に向かっているのだと思っている。 例えば12音律や長短の別など、音楽がその生理として持っている特性がある。 他にも、導音の導音(誘引)性は、愛などと同じく、人類が言語によって感じ取っているに違いない引力である。 やはり音楽は、進むべき方向を持っている。 このことは音楽に限った話ではなく、この世界・文明・人類と言ったものも、きっとある方向に進んでいる。
例えば、西洋文明は西洋音楽を生み出した。 私は西洋音楽の明晰さは、西洋言語の明晰さそのものであると感じる。 一方日本の音楽、例えば雅楽は千年以上の歴史の中で、ついぞ機能和声のようなものを生み出さなかった。
結局のところ西洋音楽の体系に収斂されてしまうのだとしても、雅楽はあれだけ巨大な体系である。 一定のニッチが存在したのは間違いなかろう。 ただ現状、限界に近いレベルにまで肥大化したとも言えそうだ。 つまりこれ以上の発展の余地は見出し難い。
テクノから話が逸れた。 私が知りたいのは、テクノにどの程度のニッチが存在するのかってこと。 見た限り、かなり小さなものにか成長していないのだけど、もっと掘り下げられるのではないかとも思う。 よく分からないけど。
・7/23(土)
邦楽に関する資料を(半分趣味として)漁っているんだけど、記述に引っ掛かる。
さして重要なくだりでもないんだろうけど、西洋音楽と邦楽とを対比して、色々と断定的に評している。 「西洋音楽は○○的、邦楽は○○的」みたいに。
私などは「そうと言えなくもない面もあるのだろうけど」と小首を傾げたくなるような気分で読んでいたのだが、まあ軽めの読み物だったし、ある程度概括的にならざるを得ないのだろう。 厳密性をとことんまで追求するには紙数の限りもあろうし。
その本の著者は間違ったことを言っているのか、と言うと、無論そうではない。 ある面においてはそうと言えなくもない。 しかし別の側面においてはそうでないとも言える。 茶を濁しているわけではなく、物事ってのが何においても複雑だからこれは仕方ない。
しかし邦楽の流派ってのは、どうも画然とし過ぎている嫌いがあるな。 この辺りに日本が西洋に勝てない理由もあるような気がする。
西洋音楽にだって楽派ってのはあるし、国境があり、使用言語の違いもある(オペラなど、その言語の違いが音楽ジャンルかのようだ)。 でも邦楽における流派とそれは明らかに違うように思える。 日本人ってセクト主義みたいなのが強過ぎる。 集合知みたいなのが生まれにくい土壌なのでは。
小泉文夫は「日本ほど多種多様な音楽が温存されている文化圏は見当たらない」みたいなことを、感嘆を込めて言っていたのだが、その多様な音楽様式の、どれか一つでも西洋音楽に比肩しうるものがあるか。 雅楽はややそれに近い気がするが、やはり文明と言えるような普遍性は持っていないように思える。 邦楽の巨大さとクラシックの巨大さは、言うなれば階層が違う。
・7/22(金)
何日か前に、テクノについての文章を上げたのだけど、日本人の使うテクノって言葉と、国際標準的なテクノって、よく考えたら別物だ。
日本でのそれは、つまりはエレクトロ・ポップとかシンセサイザー多用型ポップスとか、多分そういう意味合い。 海外ではデトロイト・テクノとかそれ系のダンス・ミュージックのこと。 無論定義として重なる部分はあるが、基本別のものを指している。 スタンダードは後者のことだろう。 発生とかで見ると後発なのにね。
私は今、その(海外で言うところの)テクノについて考えている。 あれが音楽的な面での素人によって作られた点に面白味を感じているわけです。 その発想の自由さに。
確かに実際(デトロイト・テクノなどの有名曲を)聴いていると、和声的な窮屈さを端々に感じる。 あの界隈のクリエイターらに作曲についての基礎知識が欠けているからかとも思えるが、言い換えれば、彼らがそんなところに創作上の力点を置いていないだけってことでもある。
例えば、リズムマシンとベースのみで作られたバッキングトラックなどをよく見かける。 メロディー楽器がベースしかないのだから、周波数帯域分布なんて側面で見れば、標準的POPSなどとは余程に違ったものに仕上がっている筈なんだけど、そんなのお構いなしである。だし、だからこそ面白い。
モノフォニックのベース・シンセが奏でる一小節程度のフレーズが延々ループされ、フィルター等でその音を弄ることによって、ある種の展開が生まれていたりする。 和声法の基本である導音・強進行とかそういうカデンツ・連結原理なんて働いてやしない(一応のトーナル・センターは存在しているようだが)。 旋法音楽に似ていると言えなくもないけど、やはりそれともかなり違う。
(ドラムの)フィルがブロック進行のメルクマールとなっている点など、POPSの制作手法と被るが、具体的なコンビネーション(演奏形)はかなり違う。 独自進化の形跡がありありと見られる。
テクノには、インスト物も多いんだけど一応歌物も存在する。 コード進行の無い音楽空間に乗る歌ってのにある種の窮屈さを感じなくもないけど、和声音楽なんてものが生まれる前はそれが当たり前だったわけで、声楽の原形に近いと言えなくもない。
雅楽にハーモニーは(思想としてすら)存在していない。 西洋音楽とは根本的に別の音楽体系であるからだ。 テクノも西洋音楽的なメソッドが支配する音楽ジャンルではないが、和声的な音の動きが絶無であるわけでは、それはそれでない。 禁則とか言うほど厳密な縛りが存在するわけではないからだ。 良くも悪くもその辺りはテキトーで、何でもありだ。 そしてそこが面白いところでもある。
テクノを作ってみようと思ってます。 教科で言うなら音楽科でなく図画工作の感覚。
・7/21(木)
Photo1 Photo2
浄瑠璃音楽についてあれこれ考えていたんだが、そもそも私は浄瑠璃そのものを実見したことが無い。 わざわざ本物を見に行くわけにも行かないので、とりあえず近松原作の筋を一つ(DVDで)見てみた。
感想。面白くない。 上の空で見ていたから覚束ない部分も多いが、とにかく面白いと思えなかった。 江戸時代の人はあんなのに感動していたのかと、別の感慨ばかりがアタマをよぎってしまった。
・7/20(水)
Photo1 Photo2
影山リサ、ニュー・シングル「Dancing Doll」、本日発売です。 下は本人から。
・7/19(火)
明日発売の、影山リサ最新作「Dancing Doll」(全2曲)、収録曲について。
・7/18(月)
今更ながらテクノについて考えていた。 よくよく考えると、私は厳密な意味でのテクノ作品を作ったことが無いのかもしれない。 厳密なテクノって何だって話だが。
私はPOPSをそれっぽい(テクノ音楽で多用される)楽器編成でアレンジすることはあるけど、それらのほとんどは基本的に和声音楽だ。 Chiptuneモノとかは同時発音数が少な過ぎて、結果的にテクノ音楽的に仕上がったりすることもあるのだけど、大抵は一旦和声音楽を作った(想定した)上で、音数を削っていっただけである。 テクノってのはそういうものではない。
創作における、思考のアルゴリズムが違うのである。 音楽で言うジャンルの違いってのは、究極的にはここに集約される。
それにしても(典型的)テクノ作品などを聴いていると、見事なものだと思わされる。 和声進行を伴わずに曲を展開させてるんだもの。 音色・音量、そう言った要素でサビの盛り上がりなどを構成している。あれはコツのようなものを覚える必要があろう。
因みに「テクノの作り方」をレクチャーしたようなサイト・書籍の類は、あったとしても稀である。 内容的にもあんまし有意義なものは期待できない。 やはりテクノと言う音楽が感覚的な要素の強いものなので、楽理・言語的に解説するのが難しいのか。 と言うか、楽理が難しいのではなく、テクノを得意とする人にとって、言語的な解説が難しいと言うべきか。
ついでに、あの手のものばかりを作っているクリエイターさんが、一般的なPOPSを作るのは難しかろう。 逆(POPSクリエイターがテクノを作ること)の方がいくらか容易であるに違いない。
・7/17(日)
Photo1
ここ最近、おかしな恋人だとかを持ってしまった人の体験記の類(大抵は漫画化されている)をよく見かける。 多分初期に出たタイトルなんかがそれなりに売れたりしたのだろう。似たような企画の本が多数出版されている。
しかし本当に量の増加は質の低下だ。 後発のタイトルになるにしたがって内容が酷くなっている気がする。 例えば「旦那が鬱病で〜」みたいな本を先日見てみた。 巻末に専門家の意見が載っているのだが、曰く「この人は鬱病ではありません」だそうな。 ごくベーシックな検証に耐えられない物件(ネタ)を刊行するかね。 いくら売れるか知らないけど。
しかし最近、人格障害系のネタを扱ったものが増えている気がする。 人格障害者ってのは、要するに良心不在者なわけだけど、今も昔も普通人が平素困らされているのはその手の人らにである。 思考のメカニズムの片鱗が解明されてきたわけだけど、世人ら興味津々と見える。 私も例に漏れないけど。
その手の本を読んでいて、ほとんど毎度思うのは、その人格障害者はさておき、そういう相手を選んでしまう人の思慮の浅さについてである。 要するにその人らは、目先のある得を拾うため、多くの不都合に目を瞑っている。 マルチ商法とかに騙されたとか言って騒ぐ醜悪な御仁を連想させる。 あなたの欲が深いから騙されるのでしょうに。
大体その手の人格障害者に悩まされる(自称)被害者らは、端的には結婚などと言う現世利益に目が眩んでいるケースが多い。 その手の本が売れてしまう背景には、共感者が多いと言うのもあるのだろう。
おかしな人ってのは大抵、生来脳のある部分に脆弱性を抱えていて、そこをリカバーする形で何らかの所作を獲得した者である。 一種の収斂進化なわけだけど、この収斂すらも起こらなかった場合、その人は人格障害ではなく、知能障害とか呼ばれたりする。 両者の病根の部分は、かなり似ているはず。
上の本には「出会った時には素敵な人だったのに、結婚してみるととんでもない人だった」とか言う話が多いのだが、どうしたものか。 とんでもない人格であるからこそ、その人は素の自分を曝け出すわけに行かず(社会に適合できないから)、ある種の人格を演じることを覚えたのである。 そんなに「一見素敵に見えること」自体が要するにいかがわしいのだ。 釣るための餌を撒いているのだから。
あるいはそもそも素敵に見えたこと自体が、願望に因る錯覚であるケース、これも多い。 どっちにせよ、問題の本質は選ぶ側にあるような気がする。
・7/16(土)
思索の末に答えを見出すことと、反射的に分かることとは違う。 前者は言語により、後者は言語以外による。 ここで言う思索は、しばしば瞬時に行われることもあるのだけど、論理と反射はやはり違う。
世間で「賢い」とされている者の中には、物事を反射的に分かるだけの人がかなりの数含まれている。 思索で答えを出す「言語型の人」の能力は、ある面に限ればその人らに及ぶべくもない。 二階から落ちても怪我一つせず着地できる猫と、その手の作業において太刀打ちできる人は少なかろう。
計数・計量のような作業において、言語型の人間の能力は、そうでない者に大抵劣る。 が、非言語型の人間には、決定的に向かないこともある。 その一つが芸術。 もちろん、大抵の人は言語とそれ以外の部分、両方を援用しつつ物事を把握しているに違いないが。
私は浮世を眺めつつ、ミュージシャンにここで言う「非言語型」が実に多いことに気付く。 「芸術に向かないんじゃないのか?」と言われたら何と答えるべきだろうか。 ミュージシャンの典型と芸術家の適性が乖離しているなんて、確かに逆説的と言えばそうだ。 でもそうとしか言いようがない。
○○芸術大学・○○音楽大学の類は、この非言語型の精鋭を天下から掻き集めている。 だから芸術家を輩出できない。 特に音楽分野はそれが顕著だ。
音楽より絵画の方が純粋芸術であるイメージってあるんだけど、絵には運動能力のようなものが介在する余地がほぼ無いからだろうと思う。 DTM(コンピューターを使った音楽制作)の出現により、音楽もそれに近い段階に突入したと思う。 後世画期とされるに違いない。
蛇足だが、言語型と非言語型の人を一目で見分ける方法がある。 それは目を見ることである。 その人の目を見れば(少なくとも私には)分かる。
・7/15(金)
Photo1 Photo1
影山リサ。 ニューシングル「Dancing Doll」が来週にリリースされます。 お楽しみに。
再来週には神田優花の次のシングル、「Desperado」発売。 こちらもよろしく。
・7/14(木)
Photo1
信じること。 信じることって難しい。 信じ抜くことが難しいし、そもそも信じると言う言葉の意味が難しい。
坂本龍馬が脱藩する際、家族は彼に餞別として、何やら言う刀を授けたりしているが、要するに彼らは龍馬を信じていた。 同時に、何一つ求めたわけではなかった。 龍馬の家族は、その後も脱藩者(当時としては犯罪者)である彼に援助をし続ける。 皆彼を信じた。彼の思想を理解していたかどうかとこれは無関係だ。
ここで重要なことだが、坂本家の人々は、龍馬の達成するであろう成果を期待したわけではない。 彼が歴史上の英雄であるが故、そこは分かり難くなっている。 彼らは龍馬を信じたのであって、龍馬の成果を信じたのではない。
誰かを信じることとは、その誰かに見えた「進むべき道」を、生き方を応援してあげること。 英語で言うところの「believe in〜」と言うのは、そういう機微を指すのだろう。 感じられない人には永遠に感じられない気持ち。
親鸞は言う。 「信ずる他に別の子細無きなり」と。 「地獄に落ちても更に後悔すべからず」と。 彼も師を信じた。 師の説く教えの利益の部分に何かの期待を寄せたわけではない。
私は、私を信じない人と深く付き合うことなんてできない。 そんなに暇じゃないから。 これは私だけでないはず。我々の持っている時間には限りがあるんだから。 信で繋がれない人たちと妥協的な時間を過ごそうとするからこそ、すぐ政治のような無駄な作業が必要になる。
・7/13(水)
Photo1 Photo2
神田優花、ニュー・シングル「Summer Camp」、本日発売です。
・7/12(火)
神田優花、新作「Summer Camp」(全2曲)、収録曲について。
・7/11(月)
Photo1 Photo2
幽霊が見えてしまう人は蒙昧なのか。 「だってそんなもの実在しないじゃん」と言う人はいるだろう。 確かに「フィジカルな実体としてそれが存在するか」と問われれば、「しない」と今のところ答えざるを得ない。
多くの現代人にとって、「金」はありありと実在するものだろう。 でも、金だって実体を伴わない。 因みに、私は金と言う言葉を貨幣と言う意味では使ってない。
ミミズやゴカイで魚は釣れるが、札束では釣れない。 金と言う現実を映さない彼らを、多くの人は蒙昧だと思っているし、それは正しいのかもしれない。 では多くの人が実在感を持てない幽霊を、その心に映してしまっている人はどうなのか。
私に幽霊は今のところ見えない。 が、今後もし、幽霊が私の思想・言動に何らかのプレゼンスを持つことがあるなら、それはもう私にとって実在するものである。 この実在感を言い換えるなら現実と言うべきか。 現実こそがこの私を構成している。
私は、敬愛する水木しげるさんのことを考えていた。 彼にとって妖怪は、まごうこと無き現実であった。
夢と現実なんてよく言うが、両者の違いなんて脳の覚醒レベルの違いでしかない。 妖怪をその目に映していた彼にとって、多くの現代人が現実だと思い込んでいる何かなど、あたかも夢のようなものでしかなかったのではないか。
・7/10(日)
Photo1
在るものって無くならないんじゃないか。 ルパン三世のアニメにこんな話がある。 誰かの発見した錬金術だかをルパン一味が封印しようとする。 「そんなものが世に広まってしまうと、この世から一つロマンが消える」とかそういう理由で。 物凄くうろ覚えなんで、細かい部分は違ってるかも。
「誰かが思いつく」と言うが、誰かに出来ることなら、発見したのが誰であれ、それはこの自然界にそういう法則が遍く存在していると言うことだ。 アインシュタインなんていなくたって、彼の発明のおそらく全ては、後世の科学者によって発見・立証されたに違いない。 アインシュタインが偉大であることは言うまでも無いが。
自然科学の世界など分かりやすいけど、いわゆる発明ってのは、要は発見に過ぎないとも言える。 元より自然界に存在した何か(法則性など)に、誰かが気付いたと言う事象のこと。 私は一応、発見と発明(創造)の概念は区別して捉えているが、明確な線が引けるのかは怪しいと思っている。
音楽の世界だってそう。 私は作曲をすると言うが、何かを生み出していると言うより、「この世界に存在した美に気付いた」のだと思っている。 美とはパターン。 音楽は音価・音高などの組合わせだが、絵画で言うところの絵の具・画布のような、作品そのものを構成する物質が無く、よりパターンとしての純度は高い。 おそらくは、あらゆる創造的作業が生み出す作品の中でも、最も純度が高かろう。 音楽とは、人間の論理性そのものであるから。
美とは解のこと。 作曲だとか発明だとかの、ありとあらゆる創造的作業は、この解への到達。 ペーパーテストの解などたかだか人の作ったものだが、創造が到達する解は、この宇宙が用意したもの。
物は無くなる。と言うか、エントロピーが増大する限り、形・状態を留めておけない。 例えば「車」は、使ってるとボロくなるし、時間が経つだけでも古くなる。いずれ潰さねばならない。 物質だからだ。物質は形を一つに留めておけない。 でも車の技術・概念は無くならない。 ある車種に限定したってそうだ。 機能・意匠などを含め、一度生まれたものは、時間が逆戻りでもしない限り消えない。
「在るものが無くならないなんて、そんなバカな話があるか」と言われてしまいそうだ。 「現に死んでしまった人は返らないではないか」などと。 でもそう言う意見こそ本当だろうか。
私は葬儀とか告別式とかで、故人を偲んであれこれ御託を並べる人らを眺めつつ、ある人がもし戻らないと言うなら、「その人物とは周囲の投影に過ぎず、実体としては存在していなかったのではないか」と思ったりする。 実在したなら消滅しない筈だ。
「誰か」とは何か。 人体だと言うなら、細胞は代謝を続けているから、ある特定の人体など、数ヶ月をもって完全に別のものに入れ替わっている。 「誰か」とは、その人固有の感受性だし思考のパターンのことだろう。 だったらある運動(生命)の終わりをもってして、消滅したりもしない筈。
これ読んでいる人の中にも、大切な何かを無くし、悲嘆に暮れている人がいるかもしれない。 でも、あなたが無くしたと感じているその何かが、確かにこの世界に存在したのなら、心配は要らない。 それは決して消えることはない。
この宇宙のどこかに、私と同じ思考のプロセスを踏める脳機能があるなら、それは私そのものに違いない。 膨大な数のニューロンが一つの意識を形成するように、私と同じ誰かが映す世界なら、私も心に映せる筈。 消えてしまわないためには、私は在らねばならないと思う。 在るための最も効率的な作業が、判断の集積を留めおくこの「創作」であると言うのが、今のところの結論。
・7/9(土)
寄席の出囃子について考えていた。 影山リサの「ナイチンゲール」ってアルバムの一曲目に収録されている「玉梓」って曲は、まさにその出囃子を参考にしたものなんだけど、もう少し掘り下げてみたいと思っている。
落語音楽だって一応は一つの音楽ジャンルではあるのだろうけど、さほどの様式性は無い。 基本的には歌舞伎の下座音楽の流用品と言って良い。落語の始まった当初、音楽(俗楽)と言えば歌舞伎音楽だったのだろうか。 歌舞伎と落語の誕生って、詳しくないけど多分時間的にそんなに離れていないはずなので、相互に影響した部分もあったろうか。いや、多分無いな。 歌舞伎が一方的に拝借されたって気がする。 そもそも歌舞伎音楽が、(濃厚に)能の影響下にあるわけだけど。
楽器編成は、三味線(1〜2本くらい?)を基本としつつ、後は適当に打楽器類や笛(能管)の類が入る程度のもの。 様式的な縛りは薄いので、それこそ何でもアリかと思えるが、実例としてはこんなもの。 因みに、奏者は三味線以外は大体非専業者である。 前座の落語家が担当するらしい。
音楽そのものの内容も、要は長唄などの一部を拝借しただけ、ってなものが多い。 無論アレンジはしばしば為されている。 編成や尺が違うから、適宜に調整加えてるってだけだが。 純粋に出囃子用に作曲されたものなんてあるのだろうか。あったとしても少ないはず。
出囃子は、「長唄の一部を拝借」と言っても、噺家が登場するまでの短い尺に合わせたものなので、どうしても曲の「おいしいところ」を抽出する感じになる。 本物の長唄とかって、長唄と言うぐらいで、本当に長い。一曲20分超とか。 私は正直言って聴いてられない。 その点、出囃子はコンパクトな尺に収められていて、音楽作品としても実に聴きやすい。 私はあれに何らかのヒントを得た気がする。
・7/8(金)
Photo1
影山リサ。 新作「Party Queen」を先週リリースしましたが、次のシングル「Dancing Doll」が今月20日にリリースされます。 下はそのジャケット。
ついでに今構想中の曲について。 以前、影山リサのレパートリーとして「Jellyfish」ってのを作ったんだけど、曲中で逆再生・逆回転みたいなフレーズを多用したものだった。 今その逆回転について、あれ作った当時よりちょっと掘り下げて考えている。 因みに私は、音楽について考えることは多くても、こういう音(音響)について考える時間は少ない。
逆回転がもたらす独特のニュアンスってのは嫌いではなくて、あれを効果的に使って、面白いトラックを作れないものかと今思案している。 ギミックとしては使い古された手なんだけど、逆再生専用音源なんてのが昨今でも商品化されるくらいなので、あのニュアンスを好む人は一定数いるのだと思われる。 面白いものができれば良いけど。
・7/7(木)
Photo1
若い頃勤めていた会社(プロダクション)の社長が言ってたことを思い出していた。 当時その事務所では、確か月間200人を超える人たちと面接していたのだが、私はしばしば面接の様子を横目で見ていたし、私自身が面接官のようなことをやらされたこともあった。
エントリーしてくる側の一典型として、面接において「如何に自分は大物であるか」と言うようなことをひけらかす人がたまに(と言うか割りとよく)いたのだが、社長曰く「その手のヤツで大成した者を見たことがない」そうな。 衒いの具体的な内容は「音楽関係に詳しい知人がいる」とか「彼氏がミュージシャンで」とか、他にも色々バリエーションはあったが、皆同じような印象を抱かせたことは確かだ。
その社長は「その手のヤツは絶対に使い物にならない」みたいに評していたものの、私自身は「そんなものだろうか」と、いまいちピンと来ていなかった。 私もまだ若かったし、その手のハッタリについても、多少身に覚えがあったのだと思う。 あるいは「気後れしてしまうのは、自分が未熟であるせいだ」とか思ったり。 しかし私も大人になったのか、今になるとよく分かる。 そういう人らはやっぱしダメだ。
何故なら、そういう人らには「向上心」が欠けているからだ。 自らが向上する気が無く、現時点での自分をもってして完成品(最終形)とし、舌先三寸でそれを売り抜けようとしているから。 つまり夢・時間感覚を持てていない。 無論、当人らがそんな風に言語整理している筈もないが。
自立心と言語力には密接な関係がある。 向上心の欠如と言うのは、別の言い方をするなら依頼心の強さである。 上のような人らの言わんとするところは「自分は以後一切成長する気は無いから、後はお前ら(事務所側)ががんばれよ」ってことなんだろう。 責任の在り処を相手に投げている。
実際に世の中を眺めていると、意外と自信のある人ほど謙虚であることに気が付く。 現状の自分や自分の伸び代に自信があるのだから、しょうもないハッタリで相手が抱く印象を損ねたりするのがアホらしく思えるのだろう。 一方、本質的な部分で自信のない人の方が大言壮語する傾向にある。 夜郎自大と言う言葉があるが、本当に自らを大なると無邪気に勘違いしているのなら、むしろ可愛げすらある。 現実にそう言う人は少ない(いるけどね)。
謙虚な人ってのが、必ずしも有能者であるとは限らないけど、私は、謙虚さってのが芸術・求道における適性の一つではないかと思ったりする。
・7/6(水)
Photo1 Photo2
神田優花、ニュー・シングル「Peek-A-Boo」、本日発売です。
・7/5(火)
神田優花、新作「Peek-A-Boo」(全2曲)、収録曲について。
・7/4(月)
Photo1 Photo2
一番古い記憶。 スタジオで雑談していると話柄が「一番古い記憶」について及んだ。 あらためて私なりに考えてみた。
私の一番古い記憶は、おそらく三歳時のものだ。 近所で犬の散歩をしていた人に「坊やはいくつ?」みたいに問われて、(三つと言う意で)三本の指を出した記憶がある。 三本指を出したからとて三歳だったかは定かでないが、子供にとって年齢は大きな関心事である。 きっとその時は三歳だったのだろう。
私が何故そのエピソードを覚えているか。 それは「思考」を経たレスポンスであったからに違いない。 記憶に残る時間とは如何様なものか。印象の濃い時間である。 印象の濃淡とは、即ち思考の濃淡だろう。 従って、思考が薄ければ薄いほど、記憶として残り難い時間となる。
何かに対して、「好きだ」あるいは「嫌いだ」と感じたような経験は記憶化されることが多い筈だ。好悪・美醜の判断と言うのがまさに思考だからだ。 判断を下さなければ、それは当然記憶としては残り難い。
ここで反問してみたい。 思考と言う動作が起こりにくい脳の持ち主はどうなるのか。
思考力が弱い脳の持ち主には、当然目の前に流れた時間が記憶化されにくく、記憶の絶対量が少なくなるに違いない。 が、あまりに思考力が無さ過ぎた場合、一種の収斂のような現象が起こることはあり得る。 通常のプロセスにて記憶化できないので、別の(印象を伴わない生のデータのような)形で記憶化を行いやすい脳の状態に発達するような現象。
ここまで述べておいてナンだけど、これ説明し出したらとんでもない文章量になりそうなので、ここでやめておく。いつか別の機会にでも。
・7/3(日)
Photo1
何を等質とし、何を異質とするか、その判断はその人そのもの。 その判断こそがその人の本質である。 何故ならその判断は、その人の言語が為すものだから。 あるものとあるものを「同じ」であると見做せるからこそ、違いにも気付ける。 「これは同じでない」と。
例えば、好きな食べ物を「カレーライス」とのみする人には、カレーライスは全て同じカレーライスで、好むところである。 好きな食べ物を「○○屋のカレーライス」とする人にとってはそうでない。 ○○屋のカレーライスと別の店のカレーライスを区別しているから。 よく「犬は人に付き、猫は家に付く」などと言われるが、犬はつまりは人を区別し、猫はしていない、と言うだけのことかと思われる。 その差は脳機能によって生まれている。
「好き」であることと「欲しい」ことを混同している人をしばしば見かける。 ストーカーとか呼ばれる人は概ねそうですね。 それらの感情に精密な区分けが存在していない。 要するにこれも言語力。
人間を欲しがり、執着する者は、餌を撒くように異性にプレゼントをする。単純に喜ばせるためにプレゼントができない。 好きでないからだ。 その人に問えば「俺は○○さんが好きなのだ」と言うでしょうけど、単に好きの意味を取り違えているだけ。 「好き」と「欲しい」を異質の感情を捉えられない。
これは大事なことだが、「区別が付かないこと」と「異質と捉えること」とは全く違う。
人は、職場やプライベートな時間に、しばしば他人と知り合う。 多くの人が、ある他人を見た際、直感的にその人物の本質を見抜いてしまうのは、「過去の出会い」と言うデータベースを参照し、似たような人間を引っ張り出しているからだ。 つまり等質性を軸に本質を見抜いている。
時間感覚、つまりそのデータベースが乏しければ、人は自分自身の判断を信用できなくなる。 自己を確立できぬ者、つまり依存心の強い人間は、こう言う事情にてできあがっている。 自分が信用ならぬから、他人に頼らざるを得ない。 要するに脳機能。 脳機能のある面での脆弱性と言って差し支えないかもしれない。
私には好きなタイプの人がいる。無論好きでないタイプの人もいる。 私が好きであろう、好きであるに違いない誰かがこの目の前を横切ったら、きっと私はその人を見逃さない。 それを「あの人と同じだ」と判断するに違いないから。
・7/2(土)
風邪一つ引かない人、風邪をよく引く人、当然前者の方が「健康」とされる。
風邪を引いたその人に、発熱・咳などの諸症状が見られるケース、これはつまりウイルスに対する抵抗・拒否反応を示している。 排除しようと言う「圧」を自身で起こしているわけで、ウイルスの侵入に反応すらしなければ発熱も何も起こらない。 その身体はいつか深刻な不具合を来たすかもしれないわけだけど、当面平静を装っている。 そしてそれは健康とされる。
抵抗、つまり風邪の諸症状の発露とは、ある側面で見ると、その人の健康さそのものである筈なのだが、どれだけの人がそう捉えているか。 風邪と言う病気がこれだけポピュラーであるのだから、きっとそれは人間の生存において大切な何事かである筈である。
風邪薬一つとっても、それを服用するには薬理のようなものを考えねばならない。 熱が出たからとて解熱剤を飲めば良いものか。 熱はその人体が、固有の状況に応じて、必要があって発しているものである。 それを薬で無理矢理止めるべきであろうか。
癌の発覚が遅れる理由は、それが外部からのウイルス・雑菌の類でなく、己の細胞だからだ。 細胞の複製時に起こる転記ミスのようなものだから、身体が即座に反応できないのだろう。
風邪を引く人の方がむしろ健康なのかと言うと、無論そういう側面もあろうけど、この辺も良く分からない。 よくある自己免疫疾患ってのは、酷い場合それで死んでしまう人もいる。 身体の恒常性維持機能、つまり「健康さ」が宿主を死に至らしめる。 物事は複雑だ。
・7/1(金)
神田優花、スタジオにて。
Photo1 Photo2
神田優花。 7/6(水)にニューシングル「Peek−A-Boo」が発売されるんですが、その翌週、7/13(水)には、その次のシングル「Summer Camp」発売です。 下がそのジャケット。
|