Staff diary  
スタッフ日誌[2016]

[文 / 益田(制作)]

6/30(木)

創作物と作者の世界観は当然連動する。 広い世界観を持つ者が、狭い世界を想像することは割かし容易かもしれないが、逆はほとんど至難の業。

日本の全国土は、中国の一省やアメリカの一州にほぼ相当するが、芭蕉の「奥の細道」、あの冒頭の、旅に向かう悲壮とも言える決意を述べたくだりを、例えば中国人やアメリカ人が読んだらどんな気分になるのだろうか。 やや滑稽ではないか。

桃太郎を読んでいると、あれがどの程度史実を含んでいるかはさておき、狭い範囲で起こった事件に相違ないと思える。 桃太郎を育てた老夫婦の家と鬼ヶ島は、距離的にそんなに遠くあるまい。 その点、西遊記の舞台などは広い。 あれにしたって創作であるのには違いないが、とにかく広さを感じてしまう。 中国人の世界観に由来しているに違いないが、それはあの国土の広さからの影響だろう。 水滸伝と里見八犬伝のスケールの違いなども、要は国土の面積に起因しているのではないか。


音楽作品においても、日本人の作るものは、狭い視野から生まれたものになってたりするのかもしれない。 そうでないものを作ろうと思うなら、国土の広さなんて変えようがないのだから、あらためられるものがあるならば、それは世界観だろう。 つまりは想像力。大切なのは何よりも想像力。


6/29(水)

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影山リサ、ニュー・シングル「Party Queen」、本日発売です。


Party Queenはパーティガールの日常を歌った曲です。
気取ってるのに安っぽくてコミカルな感じが隠しきれない、そんな感じをイメージしました。

Get Out Of MyWayは明るいロックです。呆れて、もう怒らせないで!って怒ってます。

今月から8月まで、毎月シングルをリリースします。

是非、聴いてみて下さい!

影山リサ





6/28(火)

影山リサ、最新作「Party Queen」(全2曲)、収録曲について。


1.Party Queen

スカっぽいPOPSを作ろうと思って。 編成とかはバンドっぽい。

音楽的なアイディアを色々と詰め込んだつもりなんだけど、あえて文章化するほどのものは少ない。 ここ最近のは殆どみんなそうなんだけど、例によって短い。2分台。

間奏に影山さんのシャウト?が入ってるんだけど、レコーディングの時に偶然録れたものと言うか、当初の想定には全く無かった。



2.Get Out Of My Way

以前、私なりにファンクっぽいものを作ろうと思っていた時期があって、その頃量産した曲の一つ。 そんなにファンクっぽくないけど。 クラビネットのリフがキーになるようなものを作ろうと思った。

サビのフレーズは基本的に普通の四拍子なんだけど、ちょっと変拍子くさく聞こえるような音符の配列にしてみた。 この辺のアイディアが曲を作る動機になってる。





6/27(月)

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食い物屋での話。 ある時、注文した料理が届いた後、女性店員が私の目の前で割り箸を割ってくれた。 「くれた」と表現しているが、私が頼んだわけでも望んでいたわけでもない。 とにかく私は、既に割られた箸を手渡されたわけである。

一種のサービス(のつもり)なのだと思われる。 つまりその店は、あれ(店員が箸を割る行為)を喜ぶ客がいると踏んだわけだ。 確かに、お酌だとか言うサービスなんてのが実在するものな。 サービスと言う商品が、それを喜ぶ人ありきで生まれているのは事実だろう。

ハッキリ言って私にとって、あのサービスは煩い。過剰である。 個人的な感覚では、割り箸を割る行為は、メシを食うと言う一連の作業に含まれている。 あれが正当なサービスとされるなら、突き詰めればどういうことが起こるか。 私は赤ちゃんか。


これは個人的な意見だが、私は「自分でできることを他人にやらせたがる人」が嫌いである。 タバコの火を他人に付けさせて喜んでいるオッサンとか。 自分でできることぐらい自分でやれ。


6/26(日)

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コドモ社会に多く蔓延る、いわゆる「いじめ」現象を、医学的に解説すればどうなるか。

いじめっ子は依存心の強い者が多いらしい。 つまり他人の目に映ることによって、ある種の自己の存在確認をしていると言う。 だから、ある対象(つまりいじめられっ子)を探し出し、その他人に無理矢理にでも干渉し、自分を相手の目に映そうとする。 無論例外もあろうが、これがいじめの一典型である。

と言うことは、いじめっ子よりもいじめられっ子の方が自立的であるとも言える。 いじめっ子・いじめられっ子、どちらも依存的であるってケースはあろうけど(と言うか、そういうケースが多かろう)。 確かに私も思い返すだに、過剰に他人に干渉的な人間って例外なくウザかった。 依存心が強いからだ。

いじめが日本人の国民病みたいである理由は明白だ。 そもそも言語が(日本語そのもののせいではないが)明晰でない上、信仰の対象(神)を持たず、従って自己との対話の習慣を持たない。故に、己を律することが至難となってしまう。 いじめ行為の原動力は依頼心である。

個人的な感覚として、いじめっ子といじめられっ子、どちらが嫌いかと言うと、圧倒的に前者である。 「いじめられること」は相手からの干渉であるのだから、ある意味防ぎようが無い面もある。 それに引き換え「いじめること」は自らの行為である。 我が依頼心に歯止めが効かなかったが故の行動だ。 どちらが恥ずべき人格か、言うまでもない。


6/24(金)

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広瀬沙希、新曲制作中。 今回のはアルバムの一曲目に収録予定の曲。 長く聴かれるアルバムを作りたいと思ってます。



そういえば6/14のこのページで「SMAFのオーサリングツールがフリーで手に入る」みたいなことを言ってるんだけど、公開期間が終了していたらしい。 私が落としたのはそんなに昔のことではないので、割りと最近のことと思われるが。 とりあえず失礼しました。 ここで一々詳しくは説明しないものの、一応入手方法は存在してるみたいだが。


6/23(木)

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いきなりだが、「おれは直角」と言う漫画作品がある。 私は確か、小学生ぐらいの頃に初めて読んだと記憶するが、既に全然リアルタイムではなかった。 当時から面白く読ませてもらったが、大人になって読むと一段と感慨が深い。 老若問わず、是非一読をお勧めしたい名作である。

連載開始当初、作者小山ゆう氏は25歳くらいだったようだ。 どうしてその若さであのような名作が書けるのか、ほとんど不思議ですらある。 いわゆる文学青年みたいな人だったのだろうか。あるいは才能のある御仁に、読書遍歴も年齢も関係無いのかもしれない。

物語の最後辺り、登場人物の一人である北条照正くんが、自分をバカだと思い込み、傷付くあまり奇行を繰り返す描写がある。 私はある知人に「有名な文学作品などに、似たようなくだりがあるか」と聞いてみた。 回答は「知らない。シェークスピアとかにありそうな気がするが」ですと。 完全なるオリジナルなのかもしれないが、だとしたら作者は、生半な読書家なんかより稀有な御仁である。


作品は、連載開始から20年くらい経った後、アニメ化される。 業界のどこかに、あの作品を「素晴らしい」と、「子供たちに見せたい」と思い続けていた人がいたのだろう。


6/22(水)

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片飛鳥、ニュー・シングル「BFF」、本日発売です。


『「BFF」は、大切な友達へ“ありがとう”という気持ちを込めて歌いました。近い人だからこそ面と向かって言えない想いを、改めて言葉にして伝えたいなと思いました。歌詞にも注目して聴いていただけると嬉しいです。
「Dear K」は、もう逢うことのない大切な人への決意を歌にしてみました。迷いや不安もあるけれど、お互いのため前に進もうという前向きな曲になっています。

全く雰囲気の違う2曲ですが、どちらも大切な人への想いを込めて歌ったので、ぜひ聴いてみてください!』

片飛鳥





6/21(火)

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影山リサ。 最近歌録ってばかりだ。 来週6/29(水)には、今年一発目のタイトル「Party Queen」をリリースします。



今回のジャケットに使ったスチール、割りと昔に撮ったものです。 別に、必ずしも時系列に沿って使うって決めてるわけでもないし、楽曲のイメージに合ったものを選んでると、こんなことになったりもします。


6/20(月)

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神田優花。 6/8(水)にシングル「Cryptid」、6/15(水)に「Words to explain」と二週連続でリリースしましたが、今週からちょっと一休み。 7/6(水)からまた二週続けてリリースする予定なんですが、その第一弾(本シリーズ第三弾)「Peek-A-Boo」、下がそのジャケットです。




6/19(日)

浄瑠璃と言われる一連の流派がある。 諸書微妙な解釈の違いはあるものの、一応現状八流派が残っていることになっている。 流派が存続していると言うより、レパートリーが残っていると言うべきか。

そのいわゆる浄瑠璃と言うような三味線音楽を下敷きに、うまくPOPS的な作品ができないものかと、ここ暫く試行錯誤しているわけです。 ある特定の様式のみをベースとするのでなく、複数のそれを折衷したようなものができないかと考えている。

八流派の様式を全部詰め込んでメドレー調にする、とかは考えてなくて、私なりに琴線に触れた部分を抽出した上で、3分とかその程度の、POPS的な作品の範疇に収められないものかと思っている。 因みに上記八流派、私が聴くところ、ハッキリと違いを聞き分けられるものもあり、また決定的な違いを見出せないものもある。 音楽様式と言うより本当に流派の違いみたいなものなので、これは仕方ないのかも。 とにかく私にとっては、8つのプロットが見出せるようなものではない。

しかし声楽面での特異性がネックにはなってしまう。 例えば上の八流派の一つである「義太夫節」、明らかに普通の声楽と違う。 普通のってのは、いわゆるベルカント唱法、要するに大多数の人が歌と言われて想像するもののこと。 やっぱし歌い手の皆さんも普通の人なんで、子供の頃から声楽と言えばそういうものだと思って育っている。

耳慣れぬ歌が歌いにくい、ってのはある意味当然である。 更には曲作ってるこちらが男で、歌い手さんがウチの場合みんな女なもので、実演による歌唱の指示みたいなのが難しい。 声帯ごと違うと言うか、少なくとも音域は全く違うし。

まだまだ前途多難なんですが、とりあえず影山リサのミニ・アルバムとして、来年中にリリースできれば幸いと、作業を続けてます。 6曲入りぐらいのものを考えているんだけど、今4曲目の作曲中です。


6/18(土)

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今回レコーディングした曲は、とりあえず歌は録ったものの、当初から編集段階でトーキングモジュレーターかます予定だったんで、仕上がりに元の歌唱のニュアンスがほぼ活かされないであろうことは分かっていた。 が、それにしても活きてない。 今まさに編集作業中なんだが、歌詞すらほとんど聞き取れない。

これどうしようかなあ。 既存の曲でトーキングモジュレーターとか使ってるような例って、歌詞を聞き取る意味も無いような擬音みたいなのとか、あるいはコーラスのリフレイン(別の部分でハッキリ聞き取れるフレーズの繰り返し)とかそういう部分であることが多い。 後はそもそも誰でも知ってる曲のカバーとか(脳内で歌詞を補完できる)。 とにかく、純然たるメインのボーカルパートを、完全なトーキングモジュレーションで表現することなんてあんまし無さそう。

歌詞が聞き取りにくい曲ぐらいあっても良いと思うけど、ちょっと甚だしい。 シングルにしようと思っていただけに、どう扱おうか迷ってる。


6/17(金)

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和声法に関する、割りと軽めの本を読んでいたのだが、それについてのメモ。

私は和声法・作曲法とか言われるような公理・定理のようなものを常時完璧には保持していない。 代表的なテキストのようなものには一応目を通しているが、その時点で理解できることを確認したらそれで十分。 私は脳のリソースを無駄遣いしたくない。 勿論全く失念してしまっているわけでは無いけど(むしろ完全に失念する方が難しい)。

「そんな状態で曲が書けるのか」って話だけど、全然大丈夫。 要するに私は、バス課題とかソプラノ課題を出題されて、完璧に正答できる状態を常に維持してはいないってこと。 どうしてもクラシックなドイツ和声のメソッドに則ったような旋律線を書く必要があれば、資料片手に書くだけ。 普段の作曲作業において、そんな必要は無い。

念のため、ここで言うメソッドってのは、ある時代にそれが正統とされた旋律進行の規則と言うほどのもの。 教程としては、どちらかと言うと禁則が軸になったものと言って良く、消去法のような体系となっている。


私が気になったのは、上の本の筆者がそのメソッドを、動かし難く実在する自然の摂理かのように捉えている気がしたところ。 これ、上手く説明できない。 でも、きっとその人と直接会って話しても、根本的な部分で分かり合えないように思える。 因みにその筆者、当代一流と言えるような学歴・音楽歴をお持ちの方である。 まあその種の本を上梓するのだから、当然と言えば当然だが。

例えば「人権」なんてものが存在すると考える人に、「それは誰かが思いついただけのもの」と言っても、容易に同意してくれないだろう。 「法律」とかだってそう。 「それは単なる浮世の(暫定的な)決め事だから、我々の覚悟によっては破られうるし、条文に記載されているペナルティーだって、事後我々にそれを請け負う腹積もりがあるかどうか問われているだけのもの」とか言っても、それを根底から信奉する人には伝わらない。

学問としての音楽なんて、内容は算術的なもので、哲学的な論争を経て出来上がったようなものでないからか、ある種の人々の、それを神が定めたルールかのように捉える感覚も顕著である。


6/16(木)

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ここ最近で、ちょっと感心したこと。

乳癌になったとか言う女性タレントの旦那さんが会見を開いていたみたいで、勿論私は全部見たりしてないんだけど、ちょっとした抜粋みたいな映像をたまたま目にした。

曰く、「子供は大切だが、私にとってそれより大切なのは女房だ」と。 実に正論で、私も100%共感できる。 親と恋人を比べるなら、当然恋人の方が大切であることが初等算術のように明快であるように、ガキと女房、どちらが大切かなんて自明である。 カミさんに決まってる。

こう言うことって、世間では言わば禁句のように扱われていて、「子供が何よりの宝でないなんて」と顔をしかめる人すらいそうだ。 実際、「旦那なんかより子供の方が絶対可愛い」と思っている女性はメチャクチャ多い。

しかしその人らがそう思ってしまうのは、大した相手を選んでないからだ。 くだらない思惑にて、適当にその辺にいた相手を選んだりするから、子供と言う自分の半分身の方がマシに見えるのだ。 自己愛の投影を濃厚に含んで。

子供は、それを作ると言う決断はしたろうが、その人の人格を選択したわけではない。 結果できあがった人格をどこまで愛せるかは、あくまでその人格に因る(だからして、本当に誰より愛せる人物になる可能性だってあるわけだが)。 一方、女房つまり結婚相手は、自分が意志的に選んだ相手である。 そっちが大事に決まってる。


世間で何となく忌まれているようなことを堂々と発言できるのは、その人が自分なりに思考した証拠である。 その程度には彼は信用できる。


6/15(水)

神田優花、ニュー・シングル「Words to explain」、本日発売です。


2週続けてリリースです。
チップチューンシリーズ第2弾は、うって変わって爽やかな2曲です。

『Works to explain』は、リハーサルを重ねた中で、あまり作り込まずにするすると歌いたい方向が決まっていた曲。
完成度の高い曲に仕上がったと思います。自分に言い聞かせるように歌っています。

『Ladybug』は、軽いだけにならないよう、ほんの少しの悲しさも混ぜて歌うことを心掛けました。

どっちの曲も曇り空を吹き飛ばすような、この季節に聞いてみてほしい楽曲です。
ぜひ!!

神田優花





6/14(火)

6/15(水)発売の、神田優花のシングル「Words to explain」(全2曲)、収録曲について。


1.Words to explain

曲そのものは、わりかしフックなどもしっかりしたPOPSだと思う。 たまたまある時期に出来たので、当時の私の関心事と相俟ってこのようなアレンジに落ち着いた。 時期が違えば、オケはまた全然違うものになったろうと思う。

SMAFって携帯電話の着メロ用のフォーマット(今でも現役)があるんだけど、それ用のファイルを一旦作ってオーディオ化したものがバッキングトラックになっている。 ファイル形式はmmf。 携帯電話用でも一応音源チップではあるので、これも広い意味ではチップチューン。

実はオーディオデータ化の良い方法が無くて、プレイヤーでの再生音をループバックデバイスみたいなのを使って録音した。 別に音も綺麗だったしテンポもヨレてなかったので良かったと思ってますけど。

しかし、今回使ったSMAFのオーサリングツールのような素晴らしいものがフリーで公開されているので、音屋のみなさんは是非使ったらよろしいと思う。 純粋にFM音源としても完成度が高い。


2.Ladybug

これも習作の色が濃い。 ほとんどアプリの使用法をテストする為に作っただけの曲。 だからしてリハーサルの時は困った。細部を覚えてなくて。

タイトル曲と同じく、MA2って言う(YAMAHA製の)携帯電話端末用のFM音源でバッキングを作っている。 音は実機のものを録音したわけではないけど、YAMAHA純正オーサリング・ツールから録音したものなので、かなり実機に近いと思われる。 一旦mmf形式の(ネイティブ)ファイルを出力して、手元の携帯電話機で再生してみたんだけど、出音はかなり近い気がした。

曲に関しては、作った動機が上記の通りなんで感想もあんまし無いんだけど、強いて言うなら80年代とかの洋楽のイメージで作ったような。 そのくらいのもんです。





6/13(月)

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「出会い」を求めてさまよう人がいる。 出会い系サイトとかSNSとか、その手の出会い補助ツールも色々ありますですね。 出会いを求めて、盛り場のようなところに毎晩のように出入りする人は昔から絶えない。 どうして皆さんそんなに出会いが必要なのか。

それは、早い話が「与える」気が無いからである。 相手から「貰おう」とばかり考えるから、出会いが手放しで魅力的に見える。 そういう人らも、時には結果的に他人に与えることもある。それも何かを貰うため。 見返りを求めずに与えることが愛の基本条件なのだから、貰うために与える物は愛ではない。 釣り人は魚に一旦餌を与えるが、それは餌以上の見返りを期待してのものである。 タダより高いものはない。

「貰う」と言う表現には、私なりの遠慮がある。 貰うとは、つまりは「奪う」ことである。 収奪の対象を探しているのだから、それは積極的になるに決まってる。 猟師は獲物を探すものである。 与えようと言う気分が根底にあるのであれば、出会いには多少なりとも消極的になると言うか、警戒心のようなものも生まれるはずである。

出会いを求め過ぎる人には警戒した方が良い。 これは一種の世間知である。

勿論現実の人間の中には、与えたい衝動と貰いたい衝動が複雑に絡み合っているし、与えることは喜びでもある。人はそれらを総合しつつ一々の行動を決している。 二つの衝動の配合率は個々に違うし、そこが人間の個性となってもいるのだが、人間集団の中には、稀に「貰おう」とのみ考える者も存在する。


ここ暫く世間で話題になっている都知事の問題を眺めつつ、私は以上のようなことを考えていた。 私に「政治家の正しいあり方」なんて分からないけど、彼ら政治家の口にする「国民のため」とか言う美辞が嘘でないなら、政治家になんておいそれとなれない筈。 真剣に他人の為に生きるなど容易なことでない。なるのに躊躇して当然である。

「都民の為に一生懸命働きたい」などと言ったところで、当の都民の大多数が「辞めてくれ」と願っていると言う。 私が都知事なら即刻辞職する。 「皆さんの為に生きるつもりでいましたが、当の皆さんからNOを突きつけられては致し方ない」と。ある意味ホッとした気分で辞めて行けるかも。

「注射が嫌だからと、病院に行きたがらない子供」を諭すのは、ある意味親の義務だろうが、自己を確立した大人になってなお「医療機関の世話になどならぬ」と言う人がいるのなら、それはもう信念として尊重してあげるべきだろう。 有権者は小児ではないんだ。

逆風とも言える世論を受けつつ、恋々として現職に留まりたいと言う都知事。 彼にはきっと端から与える気が無い。 彼は与えるためでなく、貰うために都知事になった。 この期に及んでなお貰う気でいるから辞めたくないのだろう。 そう考えれば、これまでの行動にも全て説明が付くように思われる。 変な話だけど、政治家に過剰になりたがる人には、政治家としての適性を疑って見た方が良いのかも。


6/12(日)

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近世邦楽の中でも、浄瑠璃・文楽の類には今まで手を出してこなかった。 理由は、声楽面で標準的POPSと違い過ぎるから。 作品化し難いし、歌い手が中々いない。

浄瑠璃界に乱立した○○節の中でも、一中節なんかは、聴く限りかなり音楽的と言うかPOPS的な声楽に近い。 因みに一中節は、有名な常磐津とか清元の祖と言える流派である。 流派としては現在既に絶えているが、レパートリーは若干残っている。

その一中節とか、それ的な声楽をベースにしつつ、一部エッセンスとして常磐津とかみたいな節回しを入れてみたら面白いものになりそうな気がする。 試してみたい。


こういう話って、興味ない人にはサッパリ分からないだろうけど、こちらにとっても俄仕込みの知識で、私自身実のところあんまし分かってない。 分かってないからこそ文章化している面も濃厚にある。


6/10(金)

先週の差し入れ。

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ある女性タレント(フリーアナウンサーだとか)が、癌におかされていると言う。 何やら深刻な状況らしい。 しかも、三十代前半でのその病状はある意味稀有だと言う。

私は正直言って、その女性タレントを全く知らない。 テレビを見ないからってのもあるんだろうけど、顔も思い浮かばない。字面にもあんまし見覚えが無い。 今回のニュースを受けてあらためて多少の情報を得たけど、元々知らなかった人なだけに、感慨の種類も違う。

以下、私は思うところを述べるが、多少の舌足らずはお許し願いたい。


ある時、私はバス停でバスを待っていたのだが、時刻表によると随分待たねばならない。 近くにコンビニがあったので、そこで時間を潰すことにした。

本や雑誌のコーナーで適当なものを手に取る。 斜め読みを繰り返し、いくつか目にある本を手に取ろうとしたのだが、タイトルを見てホンの一瞬躊躇してしまった。 それを読むことが、私のある論理性に引っ掛かったからだ。

正確なタイトルは失念したが、それは「病」に関する本だった。 意地悪な見方をすれば、病の恐怖を煽り、長寿の秘訣のような内容を売り込む本である。 まあよくあるもので、格別目くじらを立てるような代物でもない。

何故私はそれを手にすることをためらったのか。 それは救われたいと思うことが、私自身を蝕むような気がしたからだ。


人類も一つの種である。 種には、それ自体を維持するため、必要な個体と不必要な個体とが存在する筈である。 神が存在するなら、天に意思があるなら、必要な個体は選ばれ、不必要なそれは淘汰されるに違いない。


平素最大の関心事が「健康」・「長寿」などと言う人がいる。 毎日朝から病院に通うような人まで実在する。 当然その人は、医療と言う社会が持つ限りあるリソースを、我先にと(無意味なほどに)占有しようとする。 きっとその個体は、種全体にとって有益でない。 場合によってはむしろ害ですらある筈だ。 天に意思があるなら、真っ先に消滅させられる者だろう。

「健康に留意している」などと言えば聞こえは良いが、度を越した留意とは、要するに度を越した我が身可愛さであり、醜悪ですらある。

救われぬ人が救われぬ理由は、救われようとのみ考えるからである。 誰をも救おうとしなければしないほど、その人はこの世界から必要とされず、無意識のうちにでも「消滅させられる恐怖」を味わいつつ生きることになる。

その恐怖払拭のため、人が手に入れようとする代表的アイテムってのがいくつかある。 ここでそれを一々述べないけど、その人の振る舞いを見るだけで、その人にどれだけ貢献の意志が備わっているかは大体分かる。 上に挙げたコンビニの本ってのも、そのアイテムの一つである。 私の躊躇の理由を述べたつもりだけど、分かり難かったらごめんなさい。

ついでだが、私は結局その本を手に取って見た。 「自身を蝕むのではないか」との予感によって手に取ることを止めてしまえば、それこそが「救われたい衝動」ではないかと思ったからだ。 私はバスが来るまでの暇潰しをしているだけだ。


話を戻す。 若年の癌患者についてである。 私は上の女性がどういう人なのか知らないから何とも言えないが、今その個体に淘汰の圧が働いているのは、紛れも無い事実である。 医学のことなんて私には分からない。 ただ、この世界を、この世界の美しさを少しでも長くその目に映していたいと思うなら、この世界に貢献しようと真剣に思うべきではないか。 そう思えばこそその人は、この世界に必要とされるに違いない。


6/9(木)

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近世邦楽と言う言葉を私はよく使うし、実際そういう用語は存在する。 因みに近世と言う時代区分は日本史固有で、いわゆる江戸時代を指す。

近世邦楽と言うが、邦楽曲は明治以後にも(割りと大量に)生産された。 大方の現代人がイメージする邦楽って、むしろ明治以後の作品だろう。

明治以後のいわば近代邦楽は、私の聴く限り近世邦楽とは違う。 西洋音楽の流入後なので当然その影響はあるに違いないが、それ以外にも、明治を境に当道座が解体されたりなど、邦楽界にとっても明治維新は画期であった。

顕著な部分として、旋律線に都節的要素が薄れている。 元々都節は日本古来のものではないので、革新と言うより先祖返りのような現象なのかもしれない。

あとは拍節感が大幅に西洋音楽的になっている。 宮城道雄の諸作品の拍節感とか、あれはもう明らかに西洋音楽で、明治を境に邦楽は急変していると思われる。

今作ってる曲が、近世邦楽って言うより明治以後の近代邦楽に近いもので、上のようなことをダラダラと考えていた。 特段の結論は無い。


6/8(水)

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神田優花、ニュー・シングル「Cryptid」、本日発売です。


皆さまこんにちは、神田優花です。
去年からずっと手掛けていたチップチューンシリーズ、ようやくお届けできます。
かなり録りためてまして、チップチューンだけでアルバム2つを含めて全9タイトルです。
6月からリリースラッシュ!

まずはこの曲、6/8配信のCryptid/Neo art

Cryptidはタイトル通り、闇の中から何かが生まれる妖しさ全開の曲です。
神田優花のチップチューンは一味違うって感じてもらえる曲じゃないかと思います。

Neo artはチップチューンシリーズの中でも最初の頃に取り組んでいた曲です。
なるべく濃淡つけないよう歌った旋律の中に、突然出てくる人間くさい語りがアクセントになった曲です。
トップを飾るにふさわしいパンチのある2曲です。
ぜひぜひ、ご賞味あれ!!

神田優花





6/6(月)

6/8(水)発売の、神田優花のシングル「Cryptid」(全2曲)、収録曲について。


1.Cryptid

生まれて初めてトラッカーで作った曲。 SID音源の8580の方をベースにした。 8580の特色でもあるリングモジュレーターの効果を使いたかったんで。

同時発音数の問題で、間奏の一部でベース音が途切れてる。 一種の仕様なんで仕方ないんだけど、ベースラインはほぼ同一音型の繰り返しなんで、アタマの中で補完していただけれると助かります。

バッキングをどういう手順でオーディオ化しようか、物凄く難儀させられた曲。 曲自体はとても短いんだけど、苦労した記憶だけは濃い。

SID音源ベースで初めて作った曲だったんだけど、やはり発音数の制限がキツくて、そのやりくりが大変だった印象が強い。 「一般に、SIDファイルにノートエンベロープが多用されてるのって、発音数の縛りがキツいからなんだ」とか、あらためて気付かされたり。


2.Neo art

これもトラッカーで作った曲。 バッキングは、SIDチップの6581の方をベースにしている。 ちょっと拙速な感があるな。

事情あって、サウンドファイル(SID形式)を出力せず、トラッカーから直接オーディオデータ(WAV)を吐き出している。 事情ってのはテンポの問題。 プレイヤー介さずに作ったオーディオデータなんで、音のニュアンスとか変わってしまってるんだけど、とりあえずそうするより仕方なかった。

神田優花が歌うChiptuneって企画を思いついた最初の時点で、とにかく「キュートなもの」みたいなのだけは避けようと思っていて(Chiptuneライクな音楽って、ややもするとそうなりがちだ)、一応そういう意思が具体化した作品の一つ。

ヴォーカル・パートは不協和音程もあるし、そもそも音自体エフェクティブだし、サンプラーとかも多用してたりしてて、全体的にゴチャゴチャした印象を与えると思う。 この曲はまあ、個人的な好みはさておき、事前の想定にかなり近いものになったので良しとしたい。



6/5(日)

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影山リサの近世邦楽シリーズの続編についてのメモ。

去年出したミニアルバム「ナイチンゲール」の続編について、今あれこれ構想を練っている。 今、曲のアイディアが三つぐらいあって、一つはもうオケが出来ている。 最終的に6〜7曲出揃ったら音源化しようと思ってます。

オケまで上がってると言う一曲は、「浪曲」をベースにしたもの。 多分正統な三味線音楽の諸流派から見て、例えば津軽三味線は三味線音楽に値しなかろう。浪曲とかも論外かと思われる(私自身は何が正統かなんておかしな話だと思うが)。 しかしながら、楽理的に吟味すれば、浪曲は間違いなく近世邦楽の流れを汲む音楽だ。 私のアタマの中でも、かなり近い引き出しに入る。

この種の、ちょっと普通のPOPS的でないものって、演者を選ぶ気がする。 私のイメージでは影山リサってその適任者で、彼女の飄々としたキャラクターは、近世邦楽の蓮っ葉なイメージにそれなりにマッチすると思っているんです。 このシリーズって、一曲当たりに掛かる時間が、通常の作品よりかなり掛かる。 6曲仕上げるなんて言ったら何年掛かるやらって感じなんで、発表はおそらく数年後になる(どんなに早くても来年以降だろう)。 楽しみにしてくれている人がどれだけいるか分かりませんけど、気長に待っててください。




6/3(金)

主観・客観とか言う言葉は、学術用語としてはほぼ使われないらしい。 「何故?」と私などは思うけど、定義できないかららしい。 確かに客観も主観に含まれるものな。 便利な言葉だと思うんだけど。 英語圏の人らはどうなんだろう。 objective・subjectiveなんて多用してそうな気がするけど。


6/2(木)

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神田優花、ここ最近録った新曲をまとめてチェック。 リリース前の音って、気が付いたところがあるとすぐに手を入れる(修正入れる)んで、ちょっとした改変は割りとよくある。 その辺の細かい修正点なんかをチェックしたりしてました。

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Chiptuneシリーズ、シングル第一弾「Cryptid」、来週発売です。 これから9月ぐらいまでに掛けて、しばらくリリースラッシュになります。




6/1(水)

地下鉄のホームで私は電車を待っていたが、後ろに二人組みの若い女の子が並んでいた。 会話が聞こえてくるが、他愛の無い内容。

電車が来たので乗り込むと、入り口のすぐ側には、三人掛けの座席が対面で一つづつある。 手前の方は左隅に一人が既に掛けていて、奥の方は右端と左端に一人づつ、二人が掛けている(真ん中が空いている)。

私は手前側の右隅に腰掛けようかと思ったんだが、それでは後ろの二人は離れて座らねばならなくなる、あるいは椅子に座れないと思い、奥の三人掛けの真ん中に座った。 女の子らは、当然のように手前側の席に二人並んで腰掛ける。

その際、その二人は私と向き合う位置に座ったわけだが、一人の子は私のことを数秒間見つめていた。 私のいわば「配慮」に気付いたと見えた。 もう一人の方は全く気付かず、夢中でお喋りを続けていた。


ことほどさように、映すその人の心によって、世界は違った形を見せる。 ある人にとってこの世界には、誰かの配慮が存在し、またある人にとっては存在しない。

この取り立ててどうこう言うほどもない小さな気遣いと言ったもの、それを人が気付くか否かの分岐点とは、その人の中にある気遣いの心である。 誰かを気遣った経験さえあれば、その人にとって、他人の気遣いに気付くのは容易である。 誰かを気遣わない人にとって、他人の気遣いなどこの世に存在しない。

誰かの配慮に気付かない人、つまり誰かに配慮しない人は、誰かに気遣われてもその気遣いに気が付かないのだから、当然感謝しない。 感謝しないその人は、きっといずれ、周囲の気遣いの対象から外される。

想像力は大切だ。 誰かの配慮に気付くには、その配慮と言う心の動きに気付く想像力が必要になるから。 でもそれよりも先に必要になるのは、自分自身の心の動きである。 誰かを気遣う心持ちがあらねば、誰かの心を想像しようにも、我が心の中に照合すべき機微が存在しない。 従って、想像しようにもできない。


5/31(火)

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ピカソやアインシュタイン、織田信長と言った天才は再び現れうるか。 私は、そう言うことはごく自然にあり得ると思っている。

天才の天才性とは、つまりは頭脳であり、各局面における諸々の価値判断である。 身体能力における天才、例えばオリンピックで金メダルを取れるような「足の速い人」が時代問わず当然のように現れるように、ある種の脳機能を持った人体と言うのも当然誕生しうる。

ただ、社会と言うものは、歴史と言うものは、つまり環境と言うものはそんなに単純ではない。 織田信長が現代に生まれても、「天下を統一する独裁者」にはならない。 なれないし、多分なろうともしない。


頭脳と言うが、それは論理性であり言語である。 ある論理性の帰結として、ピカソはピカソとなったのだから、むしろ似て非なるピカソなんかより、ピカソそのものの再降臨の方がよほどに現実味のある想像だろう。 ピカソと同じ感性・判断を持つなら、その人はピカソそのものである。 ただ、上の信長の例と同じく、置かれる環境が違うので、表面上同じ様相は呈さない。

織田信長もヒトラーも、再び生まれうる。 その動かぬ証拠は、信長と言う人間が、ヒトラーが、紛れもなくこの世に実在したこと。


人は美に従って行動を決する。 が、美に絶対的基準など無いのである。 人が何かを美しいと感じたり、あるいは醜いと感じているだけだ。 その人の挙措とは、その人の考える美である。

「赤と青、どちらの色を美しいと感じるか」との問いに、「赤」と感じる人がいて、「青」と感じる人がいる。また「どちらとも思わない」・「何も感じない」と言う人もいる。 結果何と答えるかは情勢にも因るが、とにかくそれぞれ感じ方は違うのである。 この違いを、現代では個性とか呼んでいる。 また同じく「赤」と感じた二人は、ある部分において同じなのである。 同じ感覚を共有している。

赤と青のような単純な問いだけでなく、人間が美醜への問いかけを極限までに突き詰めたら、最後にたどり着く場所がある。 同じ感覚を持つものなら、当然同じ場所にたどり着くに違いない。 各問いに対する答えは、その人の論理性が導き出している以上、最後の設問で枝分かれするようなケースの方が稀だろうと私は言っている。 99.9%同じ人間なんかより、100%同じ人間の方が余程に実在しうると。


5/30(月)

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影山リサ、新曲のレコーディングと更に次の曲のリハーサルやってました。 今、ちょっと普段とは毛色の違った楽曲をいくつか録ってます。 一種の企画物として、いずれまとめてリリースしようと思って。 6/29(水)発売の新作「Party Queen」もよろしく。





筝の調弦の、例えば半雲居調子って、音域は2オクターブちょっとなんだけど、その2オクターブが同一の音階でループしていない。 筝の調弦は絶対音高が決められていないのだが、今作ってる曲に使ってる調弦においては、Fの音が高低3つほど出てくるが、上下はfis(F#)で真ん中の音だけがナチュラルFになっている。

三絃(三味線)などとの合奏の際、楽曲の構造にも因るが、そのFは当然引っ掛かる。 押し手等、回避する方法は存在しているが、とりあえず調弦の段階ではそのようになっている。

オクターブでループしていない音階構造を奇異に感じるのは、西洋音楽的感性なのだろう。 例えば、能楽におけるいわゆるヨワ吟(ヨワ音階)は、オクターブでループしていない。 まああの手のものは理論値と実際が懸け離れ過ぎていて、引き合いに出すのもどうかと思ったりするが。


5/29(日)

大村益次郎と言う日本史上の人物がいる。今、靖国に銅像まで立てられている。 幕末から明治に掛けての人で、元は長州の町医者(身分としては百姓)、その後長州藩・新政府の軍人(司令官)となる。 途中、書生として各地に遊学しており、有名な適塾の塾頭なども務めているので、傍証からも試験秀才のような人であったのは間違いないと思われる。 とにかく経歴としては異色の人物である。

稀に見る天才であった。 作家の司馬遼太郎は、「戦争の天才と言うのは、一つの民族の歴史の中に二人出れば多い方」だとか言っていて、まあそれくらいレアな能力であると言いたいらしい。 実際に、軍人、とりわけ指揮官として優秀であると言うのは、各方面の才能を要求される。 それらを統合するからこそ将軍をgeneralと言うのだろう。

軍人は勇猛であるだけでは務まらない(無論勇猛さは不可欠だろうが)。 装備や兵員の素質を熟知し、補給等の事務にも通じ、天文地理に通じ、彼我の力量を見抜く能力がいる。戦争は時に心理戦ともなる。 生半な知恵では務まるまい。

大村は徹底した合理主義者だった。 更には常勝将軍であった。 彼の軍人としてのキャリアのスタートは、いわゆる第二次長州征伐(幕長戦争)からで、その後新政府軍を任されてからも一貫して負け知らずであった。 常に的確な指示を出し、彼の言う通りにしていさえすれば負けない。また、一々の指示に微塵も気後れを見せなかったので、味方としては頼もしい限りだったろう。 自身、剣や銃器をほぼ扱えず、馬にも乗れなかったらしいが、であるが故、余計に天才としての純度が高いように思える。


彼は計数能力を用いて、戦局を操作していたらしい。 相手の行動すらも、持ち前の計数能力で読めた。 しかし天才司令官であった彼には、致命的な欠陥があった。 共感性の欠如している点である。 共感性、つまり言語である。

町医者時代のエピソードで、有名なものがある。 夏の暑い日、村人に「お暑いですね」と挨拶され、「夏は暑いものです」と無愛想に答えたと言う。 また維新戦争のうちの、上野での彰義隊との一戦でも有名なエピソードがある。 大村が考えた兵の配置図を見た西郷が「薩人を皆殺しにされるおつもりか」と問うたそうな。 薩摩兵を、最も激戦の予想される黒門口に配置していたからだと言う。 それに対し大村は「そうです」と、にべもなく答えたそうで、その場にいた薩摩の海江田信義は後、大村暗殺の黒幕の一人となったとも言われている。 この話は「事実でない」と証言する者もおり、史実として採用しない歴史家もいるようだが、有名な話だし、(史実でなかったとしても)大村の人格を活写しているからこそ膾炙しているのだろうから、一応紹介しておく。

つまり彼は、職分において天才的才能を発揮したが、共感性が抜け落ちており、周囲の神経を逆撫でるようなところがあった。 これほど極端な例は少なかろうが、現代にも似たような性質の者はいるだろう。

彼の天才的計数能力が、純粋な才能なのか、あるいは言語の形成不全による代償発達(又は未淘汰)なのか、私には分からない。 おそらくはそれらが複雑に絡み合った結果できあがった性質なのだろうが。


結局彼は暗殺される。 暗殺などと言う直接的行動に至るまでに、周囲は無数のシグナルを出し続けていたはずだが、彼には届かなかった。 そのシグナルをキャッチする機能は、言語であり共感性であるから。 それこそが彼に足りないものであった。 彼にとってみれば刺客は突然に現れたが、見る人が見れば、それは突然の出来事ではなかったろう。

彼が現代に生きていたら、差し詰め商売などで劇的な業績を上げたろうか。 民間のサラリーマンだとか役人など、(多分に金銭的に)割に合わないとて、一旦手を付けたとしてもきっと長くもたなかったろう。 試験秀才的な能力もあったので、きっと高学歴にもなったろう。 商売などで劇的な成果を上げる一方、周囲の人らの神経を逆撫で続け、仕舞いには迫害されたに違いない。 現代なら、さすがに殺されまではしまいが。


5/28(土)

手事物を聴いていると、頻繁に行われる三味線の転調(調弦の変更)が気になる。 曲にもよるが、本当に無意味なほどに頻繁に調弦を変えている。 例えば「三津山」と言う曲において、三味線は「三下りー本調子ー二上りー高三下りー高本調子」と都合五種の調弦を用いる。 一曲にですよ。

まず基本的に、三味線は和音楽器ではない。 三本の糸があるから三和音まで出すことは可能だが、そういう奏法は本来想定されていない。 重音とて、開放弦を含んだ三和音を出すような特殊奏法は存在するが、あくまでそこで使われる開放弦の音は効果音、ないしせいぜいドローンである。 打楽器音にも音程はあるが、和声の構成音とは見做されない。それと似たようなものだ。

ギターなどのようにコードを演奏することは、構造的に可能ではあるが、とりあえず一般的な奏法ではない。 二和音ぐらいなら行けそうな気がしないでもないが、そもそもチューニングが厳格でない上フレットレスなので、演奏に際しては、指先での一々のピッチの微調整が必須となる。 弦楽器扱ったことがある人になら、和音向きでないことは分かってもらえるだろう。

三味線は、ほとんど単音楽器に近い。 と言うことは、調弦の重要度って如何程のものだろうか。 三味線弾きの知り合いとかいたら本当に聞いてみたいと思っているのだが、あの調弦変更に(演奏上の)意味なんてあるのだろうか。

既にここで触れたと思うのだけど、昔見た三味線の奏法解説のDVDで、本調子・二上り・三下りなどの代表的調弦を説明するくだりで、「〜は長調的、〜は短調的、〜はフラット」などと解説されていて、やや驚いた記憶がある。 それらの調弦法と長短の関連性が、私には見出せなかったからだ。

もし、気分的なものとかでなく、本当にそう言った調弦と調性の連動があるのなら、楽理的な解説を見てみたい。 転調の意味も見えてくるかもしれない。


5/27(金)

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Chiptuneモノを作る際、BPMの問題に直面するって話をこのページで何度もした。 プレイヤー選んだり、オーディオデータ弄ったりして、結構無理矢理BPMベースに修正したりしたんだけど、今後はどうしようかと思っている。

DAWとかって、基本BPMと小節をベースとする。 勿論絶対的な時間ベースとかでも編集可能なんだけど、作業の効率を考えると、現実的にはBPM単位で進行してもらわないわけに行かない。

しかし、古のコンピューターのようなシステムでのスピード制御ってのが、Chiptuneのある種の醍醐味でないかとも思えなくもない。 当時の音源チップは事実BPMで制御されていなかったわけだから。


今後Chiptuneみたいなのを作る際には、効率化のためにBPMベースにするか、あるいは実機の仕様を優先・踏襲するかで迷っている。 実機に忠実って意味では、後者が望ましいのは間違いないんだろうけど。


5/26(木)

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近世邦楽についてのメモ。

手元の資料では、地歌の発生を慶長年間(西暦1600年あたり)としている。 伝説的作曲家である石村検校の事績を元に算出した起源らしい。 本当かもしれないが、私の個人的な感覚としては、もう少し下るのではないかと言う気もする。 この手の話で、特に流派などが現存しているものの場合、起源については「盛られる」傾向にある。 無論文献上の根拠などはあったりもするのだろうけど、例えば「地歌の原形と見做すことができなくもない音楽の形跡が確認できる」と言った程度の話を特筆しているだけかもしれず、読んでるこっちとしては、多少警戒する必要がある。

いわゆる近世邦楽を聴いていると、意外に都節音階とか、半音階を含むテトラコルドの類とかってそんなに出てこないことに気付かされる。 近世邦楽のレパートリーが、時代的に偏っているからかもしれない。 明治以後(近世ではないが)の新曲の割合がかなり多いからか。 また、時代が古過ぎても、それはそれで都節的な旋律は見られない筈。

日本古来の音楽(例えば雅楽)に都節的要素は皆無で、明治以降の新曲にもその要素は薄い。 上原六四郎の著作は明治28年刊行だが、都節の流行は江戸後期とかそういう一時代に集中しているような気がする。 一過性の、ブームだったのかも。

現存する邦楽曲は、江戸末期から明治期に概ね集中している。 作品の絶対数もその時代に多く生産されたのかもしれないが、記録の習慣の濃淡ってのも大きかろうと思う。 とにかく、正しい意味での近世邦楽は、分からなくなっている部分も多い。

因みに、ここで言うテトラコルドってのは、そもそもは古代ギリシャを起源とする用語らしいが、直接的には音楽学者小泉文夫が学問的に整理した概念。 音楽(特に日本の)の実体を解明したものと言うより、そういう見方もできる、と言った一把握法・解釈法。 当然例外も無数にある。 小泉の業績自体は偉大だと思うけど。


江戸期全体として、主流であった音楽(旋律線)は如何様なものであったのか。 西洋音楽の流入前だったので、当然全音階ベースの旋律ではなく、また必ずしも都節的なものでもなかった。 私の印象としては、雅楽の影響が濃く、さほど厳格でこそないものの、いわゆる律音階のようなものを基礎とした旋律が主流であったように思える。特に時代を上るほど。

現代人の私には「全音階をベースにしていない 」というだけで、時にそのメロディーラインが奇異に聞こえる。 近世邦楽曲を五線譜表記で採譜したものなどを見ると、実際臨時記号が頻出している。 西洋音楽で言うところの旋律的短音階とか、そういう整然としたものでなく、あくまでムジカ・フィクタとかそう言うレベルのもの(あるいは楽理的に解明されていないだけなのかも)。


邦楽のメロディーラインは西洋音楽より自由であったのか、と言うとそれもよく分からない。 定番的・定型的な旋律型が多く、ある面での自由度は低いと言える(西洋音楽にも無論それはあるが)。 ただまあ、西洋音楽的教養に毒されてない分、ある種の面白味は感じ取れなくもない。


メロディーラインよりもっと分からないのがテンポだ。 BPMのような絶対的時間単位での記録が無いので、ほとんど推測するより他ない。 「伝承されている楽曲があるではないか」と思われる向きもあろうが、当時と同じ速度を保っている保証はない。

例えば「○兵衛」と言う名前、「○べえ」と訓ずるわけだが、日葡辞書(中世に成立したポルトガル語と日本語の対訳辞書)には「ピョウエ」のように表記してあり、当時の人々が今とは違った発音をしていたことが分かる。 その後時間を経て、現在のような読みに変化したのだが、音楽作品の進行速度などは最もその変化が起こりやすいものの一つだろう。 演奏を重ねるうち、私は「速くなっていったに違いない」と思っている。

葛飾北斎の生涯を描いたと言う映画を比較的最近見た。 途中三味線の演奏シーンがあるのだが、私はそのフレーズを「速過ぎる」と感じた。 正確な考証に基づくものでなく、あくまで直感的なものだが、あの当時あそこまでのスピードの楽曲があったろうか。あったとしても稀ではなかったか。 確かに器楽物は、声楽に比べると速いものも多いのだが。 あれ津軽三味線とかのイメージなんじゃなかろうか。


私は別に「当時と同じものの再現」を命令としているわけではない。 私は知りたいだけ。知った上でどう言う物を作るかとは別の問題。


5/25(水)

アイドルの女の子が殺されかけたとか言うニュースを仄聞した。 全身20数ヶ所メッタ刺しだそうな。完全に殺す気やん。 いずれは起こりそうだと多くの人が思ったろう事件だが、そもそも初めてのことですらないでしょう。 きっと多くの人が気付いている。あれが危険な商売だってことに。

「刺される方が悪い」とは言わない。 言うまでもなく刺した方が悪いに決まっている。 だが、物事には常に相応のリスクってものがあるからこそ、人はそれぞれ判断の末行動を決しているのだろう。

被害者やその親は、事前に警察に相談していたと言う。 ここで「警察の不手際」と言う話が出てきたりすることも多いのだが、警察は誰かの私的なボディーガードではないし、限りある予算の中で動いているのだから、この手の相談事に割けるリソースにも限界があろう。


昨今のアイドル業、あれは芸能とかアートとかでなく、いわば水商売である(現状これらにハッキリと線を引くことは難しいが)。 それも、特殊な客層に訴求しているきらいのある。 だからその客は、時に婚姻届持参して来るし、訴訟沙汰を起こすし、刃物を持って襲撃してくる。 しかしアイドル業は、そう言う人らを上客とし、荒稼ぎしている面も確実にある。

「そんなヤツがおかしいのだ」と言う意見、それは正しい。大多数の客はそうでなかろうから。 でも、それは100%おかしな人のおかしな勘違いなのだろうか。 アイドル業はその本質として、その勘違いを誘引、少なくとも容認するビジネスモデルでぐらいはあるんじゃないのか。

一般に危険な仕事の対価は高い。それが危険を伴う作業だからだ。 スポーツ選手とかになれば、体を使うのだから試合や練習中に怪我する確率は上がる。 職業として「ドライバー」を選べば、普通の人よりは交通事故に遭う確率は上がる。 ボクサーになれば殴られる頻度も、殴った拳を痛める頻度も、普通のサラリーマンよりは高くなる。 寿司職人になれば、包丁で指先を切る可能性が、少なくとも事務員やっているよりは高くなる。 売春婦になれば、性病に罹患する確率が、専業主婦やってるよりは上がる。 ある種のアイドル業に手を染めれば、客に付け狙われ、刺される確率が、少なくとも普通のOLや学生よりは上がる。


アイドルに妄想的な熱を上げ、要求が叶わなかったら付け狙い、殺そうとまで考える者。 人をモノとしか捉えておらず、言語の脆弱性に因る、典型的な自己中心的世界観に染まっている。 でも、そういう人らを対象とした(少なくともそう言う人らを誘引する)商売を自らの意志で始め、上のようなトラブルを全く想定しないと言うのも一種の自己中心性だ。

アイドルなんてやる方も悪い、とすら私は思わない。 結果起こる事件まで想定した上で、ご自身の判断でいくらでもなさったらよろしい。 でもその危険性について、もう少し周知がなされても良いとは思う。


5/24(火)

曲の良し悪しって何なのだろう。 人は音楽作品の一々を、佳曲であるか否か、如何にして判断していようか。 どの辺りがその判断基準であるのか。

例えば「詞」と言うのは有力な一つであると思うが、やはりそれがある種の声楽を伴って表現されるところに音楽作品の滋味は存在すると言える。 今は音楽的な面に限って考えている。


近世邦楽の類を聴いていると、当時音楽作品の良否が何をもって判断されていたのか、容易に判断しかねる。 現代人の一判断基準である、例えばメロディーラインに、そう大きな比重が置かれていたとは考え難い。

現代人と当時の人とでは、情報の処理速度のようなものが格段に違っていたらしく思えるので、この辺は一概に判断しかねるところではあるのだけど、どの曲を聴いてもメロディーにフックなど感じない。


おそらくは多くの現代人が最大の判断基準としているであろう「メロディーライン」、これ一つとっても、現代においてだって全ての人がそれを基準とするとは限らない。

ではメロディー以外のどの点をもってして、曲の良否が判断できるのか。 有力な一つは「音」である。ある人は、音楽と言う構造でなく、音色・音響と言った断面で作品の良否を判断している。 これは、音楽の構造をロードするに、脳の時間軸が必要とされるからである。

近世邦楽の、(現代的感覚で見れば)異常なほどに間延びした旋律線。 当時の人はあれに美を感じたり、あるいは感じなかったりしたのだろうか。 どうもそうでないような気がする。 もう少し総合的な作品イメージのようなものが判断基準だったろうか。

あるいは旋律線と言っても、器楽部分のそれが重要な判断基準だったかもしれない。 器楽部分の旋律と歌詞世界を総合したものが、大体の楽曲イメージとなったのかもしれない。 だとすると、多少納得できる面はある。


近世邦楽の曲を聴いた現代人が「良い曲と思えない」となどと否定的な感想を漏らしたとして、それについて意見を言うなら「そう言った聴き方で楽しむものでないのかもよ」とでも言うだろうか。 近世邦楽は、現代音楽と同じ観点でもって鑑賞されていなかったに相違なく、焦点の合わせ方が違うとでも言おうか。 とにかく、おそらくはそういうモノである。


5/23(月)

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ここ最近、プロモーションと言うか、ウチのアーティストらの出演みたいなのって無い。 全然積極的に営業していないからだ。

たまに向こうさん側(FM局とか)からのオファーってのもあるにはあるけど、正直あんまり条件が整わなくて(単純に局が地理的に遠いなど)、交渉成立に至ってない。

それより何より、ウチの規模でやってるプロモーションで劇的な効果なんて望むべくもなく、実感としては、粛々と(特段の宣伝無しで)音源出し続けている方が効率的だ。 実際、ウチの音の再生数とか上昇傾向にあるしな。 だから、今後も暫くはこんな感じで行くと思います。


5/22(日)

手事物の「手事」について調べているのだが、よく分からない。

Wikipediaによると『手事はいくつかの「段」に分かれていることが多く、それぞれ拍数が等しく変奏曲のようになっている』そうである。 私は過去、箏曲について調べていた時期があるし、実際に段物ベースの曲を作ったこともあるので、これ自体はどういうものか理解できる。

この各段は、相互に合奏できるようになっている、そうである。 と言うか、実際頻繁に合奏される(専門用語で「段合わせ」と言う)。 確かに、小節数が同じであるならとりあえず合奏は可能だろう。 しかし同時に『手事中ではしばしば部分的に転調が行なわれ、場合によっては段の変わり目で調弦を変えて大きな転調を行なう曲もある』(こちらも出典はWikipedia)との記述が見られる。

ある段が、途中に転調を含んでいた場合、別の段との合奏の際、複調になってしまう。 部分的な近親調への移行とかだったら、バッハのフーガとかでもよく見られるし、許容されるだろうけど、果たしてああいうものなのだろうか。あるいは各段、転調の開始位置を揃えているとか? 作例当たってもイマイチどの辺を指しているのか分からない。 前者のような気がするが。

そもそも三味線音楽用語の「転調」、これが一般概念(西洋音楽)で言うところの転調でない。 しかし、三味線音楽にだって当然(西洋音楽概念としての)転調は起こりうる。 Wikipediaの「手事物」の項目には、転調の用語が頻出するが、同時に「調弦が変わる」なる表現もあるので(これが三味線で言う転調)、それらを区別している(「転調」を西洋音楽的定義で使っている)と思われる。 上記Wikipediaに言う転調は、西洋音楽用語としてのそれを指しているに相違なく、だからして私の疑問は当然生じうると思われる。


他にも「段返し」・「掛け合い」等について、用語解説に目を通しただけで粗方どういったものか解るように思えるのだが、特に段返しについて「ここのことか」と思える部分が見つけられない。 当たっている作品の絶対数が足りてないのだろうな。


しかし、段合わせ・段返しをはじめとした、「盛り込みたい書法」ってのを全部突っ込んでしまうと、手事部分の尺がえらいことになってしまいそうだ。 現時点で想定しているプロットを全部消化しようと思うなら、最低四段は要る。 手事ってのはPOPSで言うなら間奏に当たるわけだが、そこに5分とか10分とか割くわけにはいかない。 別に必ずしもPOPSに準ずべきってわけじゃないけど、私自身長いものが嫌いなもので。 コンパクトにまとめたい。

省略するのであれば大雑把には、総段数を少なくするか、あるいは一段を短い拍数にするかの二択になるのだが、書法を盛り込む上で、前者ではやや無理がある。 現実的には後者かと思えるが、これはこれで問題が残る。 因みに、短縮法として「BPMを上げる」ってのは、近世邦楽のニュアンスが激しく損なわれるので、端から選択肢より外している。

段物、筝曲「六段」とか有名だが、この段構造は極めて厳格なものらしく、一段が104拍と決まっている(初段のみ喚頭とてアウフタクトのようなフレーズが付加される)。 つまり、一段の拍数を弄ると、それだけで厳密な意味での段物でなくなってしまう。 さてどうしたものか。 ※喚頭又は換頭の意味について、諸説あるようだが、ここでは一般的用法に従う。

手事部分に歌を乗っけて、冗長な感を希釈してはどうか。 しかし、そもそも手事と言う名詞が「器楽」と言うほどの意味なので、声楽を混ぜると手事物でなくなってしまう(形容矛盾のような状態になる)。 器楽と声楽が同居する点を滋味とする曲種である以上、これはよろしくないと思える。 とりあえず今日はこの辺で終わるが、まだまだ前途多難だ。


5/21(土)

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神田優花、先日録った音のチェックやら、新曲の歌録りやら。



ニューシングル「Cryptid」が6/8(水)に発売されますが、その次の週の6/13(水)には次のシングル「Words to explain」が発売されます。こちらもよろしく。



来月から9月アタマに掛けて、神田優花のChiptuneシリーズ(全部で20曲くらい をリリースしますが、ジャケットにアーティスト写真を使わず、アーティスト名をアルファベット表記にしたりと、一応の統一性を持たせているつもりなんです。


5/20(金)

広瀬沙希、アルバム収録曲をコツコツ作っております。 広瀬さん、実はちょっと体調崩してまして、久々のスタジオ入りでした。

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地歌の曲種の一つで、典型とも言えるものに「手事物」ってのがある。 声楽と器楽を折衷したようなもの。 今、それを下敷きにしたような曲を作ろうかとボンヤリ考えている。 イメージしているのは、その中のいわゆる京風手事物をベースにしたもの。

資料に目を通しつつ、作例に当たっているのだが、やはり進行感の遅さに閉口してしまう。 例えば手事の部分(間奏、クラシックで言うならカデンツァとかそういうものか)、段物の形式を踏まえているらしく、多少それと認識できるよすがは確認できるものの、総体としてはほとんど把握できない。 拍節感に乏しいスローなフレーズが、ダラダラと長時間流れているだけにしか聞こえない。

拍節進行のメルクマールとなりうる旋律型などが探し難い。譜面無しで段構造を掴むのが至難の業である。 この辺り、無意識のうちにでも、私の感覚が西洋音楽準拠になってしまっているのだろう。


声楽部分もそれはそれで酷い。 近世邦楽にほとんど共通していることだが、進行が遅過ぎてセンテンスを脳内で組み立てられない。 多くの現代人にとって共通の感覚だろうと思うが、とにかく遅過ぎる。 演歌のそれなどを想像しているようなら、それは甘い。あんなもんじゃない。 高速回転のドライブを超低速で回さねばならないような状態になる。脳と言う機器にとって、推奨さるべき環境でない。 


ある音楽様式を模倣と言うか、下敷きにして作品を作る際、最低限必要になる理解ってものがある。 枝葉末節部分はさておき、核心を体感せねば作れない。作れないと私は思う。 手事物を作るには、もう少し時間が掛かりそうだ。


5/19(木)

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私は新聞を取ってないし、テレビも見ない(受像機自体持ってない)。 ラジオとかも基本聴かないので、当然のようにいわゆる時事に疎い。 ネットとか見てるだけで、ある程度大きなニュースについては自然知ることになってしまうけど、その手の情報を積極的に漁っているわけでもない。 ポータルサイトのトップに載っているものを知る程度。

私はいわゆるスマホを持っていない。 携帯電話は会社に持たされている、何やら骨董品のような機種。爺さんが持っているような。 ネットにも繋がらないしEメールのやり取りもできない。テレビも見られないしゲームとかもできない。音楽も聴けない。 ついでに車なども持たない。と言うか、基本的にモノを持たない。 でも特に不便とは感じない。

私が言いたいのは、こんな状態でも、さしたる問題もなく日常を過ごせるということ。 よく言われる「格差」とかいうのって、絶対的な貧困とか絶対的な豊かさとか、そういう話ではない。 他人と自分とを一々比べなければ、今感じている不自由さなんてある面においてはほとんど消えてしまう。


5/18(水)

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6/22(水)に、片飛鳥の新作「BFF」をリリースします。 下がそのジャケット。




5/17(火)

世に、アタマが良いとされている人がいる。 その人は頭が良いのだから、色んなことが分かるし、計算できるし、未来が読める。だからお金儲けなどが上手い。とされている。

頭の良さと言うが、脳内で行われている演算が外から伺えるわけではない。 結果としての行動や成果から、頭の良さってのを逆算しているに過ぎない。 つまり、基準を用いて(特定の規矩を設定して)頭の良さを測定していると言うことになる。 ペーパーテストとかその露骨な例ですね。金儲けの上手さとかもそう。

IQとか言われるものを計測する際、大抵は数学的な設問が用いられているように思うが、それが設定しやすい規矩であるからだろう。数値で測れる。 例えば、人間の「感受性」を測ろうにも、設問のしようがない。採点などもっとしようがない。 数値化が容易でない。

外から(数値でもって)測り難い、と言うのは、それが高度な機能である証拠でもある。


数学的な処理機能、いわば計数能力とでも言おうか、それが発達している脳の持ち主は、数学のテストでは当然高得点がマークできる。 一方、言語系のテストの結果はボロボロ、と言う人もいる。 事実存在する人間の一類型で、甚だしい場合、特定の病名のようなものが付いたりする。

しかし、数学で高得点できる者、特に計数能力のみ肥大化させたような人が、必ずしも国語科を苦手とする、なんてことはない。 国語科のペーパーテストは、即ち人間の言語力を測る物差しではないからだ。 国語科の点数は、計数能力でもってある程度リカバーできる。 計数能力と、それを統合するちょっとした機能さえ持てるなら比較的容易であるかもしれない。 大抵計数能力と言うのが、言語の形成不全による代償機能発達であるが故に、そのちょっとした統合機能との共存がケースとして珍しくなっているだけだろう。

「人の心なんて読めるさ。人なんて、こういう環境に晒されればこういう行動を採るだけだろう」と言う風に、計算式を用いて人間の行動を読める人がいる。 金儲けなどをやらせたら、抜群の成果を残せたりする。 が、その人が、その際に人々が感じている気持ちを、共感できているとは限らない。 それらは全く別の能力に属するからだ。 因みに、共感の方が格段に高度なタスクであると私は考える。

IQテストのように、計数能力でなく、人間の社会性・共感性を測るテストがあったとすると、上のような御仁はどうなるか。 きっとそこでも高得点をマークしてしまうのである。 共感性など欠如していたとしても、「この設問にはこう答えておけば、それが正解なんでしょ?」ってのが分かりさえすれば良いからだ。

「寒い日には、懐炉の売れ行きが良くなるか」と言う設問に、「YES」と答えればそれは正解だが、その正答者が、人々が感じている寒さを、懐炉の欲しさを共感できているか否かは分からない。 たかがペーパーテストぐらいでそれは測れない。 測るには、共感性・感受性と言う物が複雑過ぎるからである。

もし仮に、ペーパーテストなどでなく、医療機器のようなもので、人に備わった共感性などを測定する装置が発明されれば、上ような御仁には、おそるべき測定結果が出るかもしれない。 ついでだが、共感性に欠けた人に対する恐怖・抵抗感は、おそらく人間の生理のようなもの。 だからその手の人間は、時に迫害される。


仮に「一円」を儲ける手段があったとする。 「一円なんて稼いでどうするんだ」と思われる向きもあろうが、それを単純に百万回繰り返せば百万円になる。 時給千円の仕事を千時間すれば百万円になるが、千時間分の機会費用も失われる。 確かに手作業を百万回繰り返すのは容易でなかろうが、スクリプト化できるなら処理はぐっと簡単になる。 金儲けの天才と称される人は、きっとこういう手法を用いているのではないか。

但し、世界をスクリプト化によって乗り切ろうとすると、「人の心」が時にそれを邪魔する。 それが、計数能力で制御するには複雑過ぎる要素だからだ。 また、世界を乗り切るに、際限なきスクリプト化で行動するには、共感性などむしろ邪魔である。 なまじそんなものがあるから、そこが障りとなって普通の人はそういう行動(スクリプト化)が採れなくなるからだ。 その人は、他人の気持ちを感じずに済むために「こうやれば儲かる」を常に最短距離で実践できる。

頭が良いとされ、金儲けの天才と呼ばれるが、人の心をしばしばささくれ立たせる人、のメカニズムを私なりに考えてみた。 実体、この程度の話なんじゃなかろうか。

私は、「だからそんなヤツなんて大したことない」とか言いたいわけじゃない。 普通人が持てないような高い計数能力を持っていたり、おそらくその機能で言語力を(十全でないにせよ)代替させているところなど、間違いなくある基準において優れていると言える。 「頭が良い」のである。


5/16(月)

去年出した影山リサのミニアルバムに「ナイチンゲール」ってのがありまして、言うなれば近世邦楽へのオマージュのようなアルバムで、三味線音楽みたいなのばかり収録されている。 正直言って現時点での売れ行きはあんまし良くなくて、ほぼ同時期に出した「ピニャ・コラーダ」なんかの方が全然評判も良いのだけど、私は個人的にその「ナイチンゲール」が気に入ってまして、続編の構想に入っている。 いずれ面白味を感じてもらえるとも思っている。

しかし普通のPOPSでないので、資料当たったりするところから始めないといけなくて、曲を作る時間も一々それなりに掛かる。 今も時間を見つけては地歌の資料に 目を通してます。

続編作るなら、一目でそれと分かるタイトルにしたいんだけど、既に出してしまってる一作目のタイトルは今更変更できないしなあ。 まだ時間あるので、その辺も含めて色々考えます。




5/15(日)

影山リサ、レコーディング。

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影山リサは、6/29(水)に新作「Party Queen」をリリースします。




5/14(土)

葛飾北斎の生涯を描いたと言う映画(DVD)を見た。

やはりあんなものか。 有名なエピソード・逸話の類をふんだんに取り入れてはいるのだが、あれぐらいが限界と見える。物語を作るに当たって創作で埋めていると思しき部分が多い。 あくまでオハナシなんだろう。 制作陣が悪いのではなく、北斎の生涯について、判明していない部分が多いのだから仕方ない。

北斎を知る上では、飯島虚心の著作ってのが基本資料になるかと思うのだが、それを読んでもなお謎は多く残る。 ミステリアスな人物って言うより、庶民(町人)なので、公的な記録が少ない。 いわゆる画工をアーティストなどと持て囃し出したのが最近、しかも西洋文化の影響になる面が大きいのでこれも仕方ないのだろう。 当時の画家にさほどの社会的関心は集まらなかった。


5/13(金)

私は、三味線の音ってのにある種の品の無さを感じてしまうクチなんだが、興味がないことはない。 三味線の歴史は比較的浅くて、筝や琵琶などと違って、雅楽の管絃にも含まれていない。 短期間であれほど流行した楽器なのだから、日本人の琴線に触れる何事かを持っているのは間違いない。 今、三味線音楽を下敷きに、二つほど曲のイメージがアタマにある。

地歌の一種に手事物ってのがある。 歌物(声楽)と器楽をドッキングさせたような様式なんだが、それをベースにしたものを作りたいと思っている。 手事物ってのは割かし重様式なんだが、それそのものを作る気は無くて、ある部分のみを拝借したような作品をイメージしている。 これが一つ。

もう一つは三味線の重奏(管弦楽とかで言うところのtuttiみたいなもの)をベースにした小品。 清元とか常磐津のような編成を想定していて、三味線の重奏とせいぜい太鼓類をいくつか、みたいな。 有名な元禄花見踊は牡丹蝶扇彩と言う曲の一部を独立させたものらしいが、楽曲としてはああいうイメージ。

そもそもある時代の地歌は、小品(いわゆる端唄のようなもの)をいくつか繋ぎ合わせたものだったりしたらしくて、一種のメドレーだったようだ。 この小品とメドレーの関係は相互に重層的に絡み合っている。 メドレー構成の定型化が厳格になったものが長唄なんかになっていったのだろう。


5/12(木)

街で見かける、幼子を連れた人のある種のふてぶてしさを見るにつけ、この社会の先行きはまだまだ暗いと思わざるを得ない。

「唯一無二の我が子が可愛いのだから、他人のことになど構っておられない」と言うのは本音だろうけど、その他人らも、誰もが皆誰かの、唯一無二の可愛い子であった。 それを忘れてはいけない。 そこに思いが至らないのなら、それは愛でなく、肥大化した自己中心性に過ぎない。


子供を大事にしている人は実に多い。 高価な服を着せて、高い月謝払って習い事させたり、高い授業料払って私立の学校とか塾の類に行かせたり。 でもそれらも愛の生んだ行動ではない。 大事にすることと愛することは違う。

「勉強して良い学校に行かねば将来が危うい」と言う忠告は、同時に「世界は闇だ」と言う呪いの言葉でもある。 私だって「学校に行って知識を積めば、世界が今より色鮮やかに映るのだ」とは思うけど、教育ママの行動原理はそんなのではないと思う。


5/11(水)

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神田優花、新曲の歌入れでした。 今回録った曲は多分年内にシングル(タイトル曲)として発表します。 その頃にはChiptuneシリーズも一段落ついて、本編に戻ってる予定。 来月発売の「Cryptid」の方もよろしく。




5/10(火)

信、Trustについて。

この世界には、信用に足る人とそうでない人がいる。 信用できない人ってのは、その人の風韻と言うか、総合的な印象がそう思わせるのだが、要するに「思考」が滲み出ているのだろう。

人間の評価を誤る人ってのは、実は少ない。 評価そのものを「しない」と言う人なら多いが。 その人の雰囲気と、そこから伺えるその人の本質、ってのに実は誤差は少ない。

では何故結婚・離婚を繰り返す人がいるのか。 それはサンプリングしたデータの「時間軸」が足りていないからである。 好き嫌いを間違うと言うのは、暑い寒いを間違うようなもので、実際そんな人は稀である。 時間軸、それを展開するメモリー(言語)の不足によって、誤読のような現象が起こりえるから、人間関係に不具合も生じる。

センテンスのある部分だけを抽出したりしたら、全然文意が変わってしまうことがあるでしょう。印象形成において、本当にそういう現象が起こっているのだと思われる。 利害によって好悪の判断を狂わせる人ってのも、つまりは好意と利得の概念整理が付けられないということで、要するに言語である。


信用に足らない人ってのは、状況に応じて、他人を裏切る者である。 周囲から見て信用ならない人物であるのは当然だが、その人自身も自分のことが信用できない。 信用できる人物だと思えない。

自分と言うのは世界を見る尺度である。 信用できない人物であり続けると言うのは、即ちこの世界を信用しないと言うことである。 窮地に陥った自分を、他人は裏切るであろうと考えることなのだ。 偽らぬ自分がそのような人なのだから、彼は、他人も皆そうだとしか思えない筈だ。


我々は、自分のため、自分が映す世界を美しくあらせ続けるために、信用に足る自分であり続けねばならない。 信用できぬ者が拾う、目先の小さな得に惑わされてはいけない。 歌の文句のようだけど、人生は一度きりなんだから。そんなことやってる暇は無い筈。


5/9(月)

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去年の12月に音を発表して以来、気が付けば半年近く経ってしまいましたが、来月から年末ぐらいにかけて、リリースラッシュになります。 今ほぼ決定しているだけで15タイトル、うち11タイトルが神田優花のものになります。



イスラム教で言うところの天国は、時間概念すら超越する世界なので、単純な「未来」ではないと言う。 無論過去でもない。 イスラム学者の著書にそう書いてあった。 ついでに、西方にあると言う、極楽浄土のような「場所」でもなかろう。

定めしそうであろうと私は思う。 全てを凌駕し、全てを包摂する概念が、時間如きの従属下にあるはずがない。 天国とは神そのものでもあるのだろう。つまり絶対的な何か。 しかし浮世に生きる私を含む人間にとって、この時間と言うヤツは実に厄介だ。 芸術・創作においてだって、この制約がどれほどの桎梏であるか。


5/8(日)

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影山リサ。 レコーディングの予定でののスタジオ入りだったんだけど、結局延期に。 影山リサは、来月末にニューシングル出します。 こちらもよろしく。

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5/6(金)

神田優花。 ニューシングル「Cryptid」を6/8(水)にリリースします。 下はそのジャケット。アーティスト写真を使ってないんだけど、今回のChiptuneシリーズでは基本使わない予定です。




5/5(木)

今年に入ってまだ音源出してなかったんですが、来月に今年の第一弾(神田優花のシングル)をリリースします。 多分数日中に報告できます。

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影山リサ。 こちらも今年のリリースアイテムについて、もうすぐアナウンスできるかと思います。 とりあえず現状、シングル3タイトルの企画を進めております。 一つはもうリリース日も決まってるんですが。

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影山リサに関しては、私はプロデュース的な面ではノータッチに近いんだけど、どうも担当者が「シングル」に興味が薄いそうな。 基本常にアルバムを軸に企画を考えているみたいで、シングルはその繋ぎ、あるいは広告みたいな位置づけだそうな。 で、ここ最近のシングルについては私が色々と案を練っています。 収録曲の抱き合わせとか。


あと、7月にリリースの方向で調整している曲があったんだけど、ジャケットのデザインが没になったんでまた仕事が増えた。


5/4(水)

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野球とかで抑えのピッチャーが打ち込まれたりした時、そのピッチャーには轟々たる非難が浴びせられる。 私は野球そのものなんかより、その種の非難の声の方に興味があるので、割りと細かくチェックしていたりする。

「出れば打たれる」・「安心して任せられない」・「見るものをハラハラさせずに終われたためしが無い」・「全く適性が無い」等々。 言ってる人らは多分半ば本気でそう思っているのだろうけど、実証性の程はかなり怪しい。

本当に適性が無く、出る度打ち込まれるのなら、配置転換されているはずだし、そもそもその任務を宛がわれない。 せいぜい「今までそれなりにその任務をこなしていたんだが、ここ何回か失敗が続いている」とか言う程度の話だろう。

つまり上の現象は、多くの人々が、最後(最近)の印象をもって人間を総評している、と言う恐ろしい事実を物語っている。 これって、その人の脳が時間軸を展開できないからこそ起こりやすい。 これも言語だ。

でも酷評される彼も心配は要らない。 そう言う人らの評価なんて恐れるに足りぬ。 最後の印象が上書きされるのだから、何度かキッチリ抑えたりでもすれば「彼に任せておけば安心」・「抑えの鑑」だとか言われ出す。どうせ。


5/3(火)

世間はGW期間なんですね。私は忙しくて関係無いけど。 ここ数日、今年のリリースアイテムについての事務作業中で机に張り付いている。



音楽の面白さって何だろう。 聞いてるこちとらが面白いと感じられるものこそが、面白いものであるのは間違いないだろうが。

昔、ある芸人さんと話していたら「面白いもの(ギャグ)のパターンはもう出尽くしている」と言っていた。 やってる当人としてはそのような気分なのかもしれないけど、ギャグのパターンが出尽くしているのではなく、その人が面白いと思える現実が、もう出尽くしていると言うことなのではないかと思える。 これらは似ているようで全然違う。

私が、世に言う「才能」と言うヤツにイマイチ敬意のようなものを感じられない理由は、それが規矩によって生み出される錯覚のようなものだからだ。 その序列感に従っている人などを見ると、「なんと素直な御仁か」と思わざるを得ない。

美醜などと言うものも同じようなもので、絶対的基準が存在しないのだから、究極的には、誰かが感じた美しさを信ずるか否かと言う問題になる。 欧米人はピカソが感じた美を、いわば信じた。

ある音楽表現に私が新鮮さを感じる時、まだそこに新しい美は眠っていると言える。 作り手としては、美しいものになる予感がせねば実作業に入る衝動も持てない。 面白そうだと思うことさえ出来れば作れるし、それは事実面白い。面白いってそういうことであるはずだ。 新鮮さを感じることさえできれば、当然それは新しい。 出尽くしてなんかいない。

「出尽くした」と言う諦観は、要はこの世界に対する従属感から起こる。 「もうこの世界は面白い何かを与えてくれぬであろう」と言う気分なのだから。 面白さは我々が感じ取るものである。 この世界ではなく、我が心の中に眠っている。


5/2(月)

神田優花、またレコーディング。 とりあえず今年リリース予定のChiptuneシリーズは全部録り終えました。 今諸々の事務作業中。これがしんどい。

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Chiptuneシリーズの楽曲たちを作るに当たって、使用したプログラムを(一種の謝辞として)公開しようと思って、一覧みたいなのを作っているのだが、意外と大変。 自分用の備忘録も兼ねて作ってるつもりなんだけど、諸概念の階層を揃えるのが難しい。 何言ってるか分かりませんよね。

「コンパイラーは何使いました」とか言いたくても、必ずしもコンパイル経たものばかりでないし、コンパイルに近い工程を踏んだケースがあっても、厳密な意味でのコンパイルでなかったり。 とにかく作業工程が一律でないから、整理を付けにくい。

「音源は何(のエミュレーター)使いました」とか言おうとするなら、大抵音源チップってYM〜とか言う型番のような名称になるのだけど、ある音源チップが多くのマシンで使用されていたり、マシンによっては複数の音源チップを搭載していたりする。 またその一部が機能拡張の結果であったり。 更には、同一機種でも時期によって搭載されている音源チップが異なるケースなどもある(当然出音もハッキリ違った筈だ)。 こちらが「どの機種を想定したか」と言う、肝の部分が明記しにくい。

また、どうやら機種固有の音源チップを使っているらしく、型番のようなものが不明であるケースもしばしばある。 片やハード名、片や音源チップの型番、では階層が揃ってないので若干気持ち悪い。 もう諦めるけど。


5/1(日)

ギター音源についての続き。 ギターの打ち込みでの表現、一昔前に比べれば格段に本物っぽくなっていると思うんだが、何か物足りない。 綺麗過ぎる。

サンプリングってのは、要はそれそのものを録音しているんだから、実器そのものに違いない。 ただ、単音レベルではそのものでも、ギターのような複雑なアーティキュレーションを伴うもののニュアンスを完璧に再現するのは難しい。

エレキギターと言う楽器を数十年来扱って来た人には分かるはずだが、ギターってサンプリング音源のようなあんなに良い子じゃない。 スタジオワークはノイズ・ハウリングとの戦いだったはずだ。


中高生ぐらいの頃、あるバラエティー番組で「タレントさんらがバンドを作ってスタジオで演奏する」みたいな企画があった。 当時たまに見ていたんだけど、音響面での環境の良さに驚いたものだ。 ギターはほとんどピッキングした音のみを出力し、演奏停止中なんかはギタリストが腕組みしていても(弦をミュートしていなくとも)ノイズを出さない。 「俺らの環境とは全く違う」と感嘆したものだった。

昨今のUSB接続のDIとかアンプシミュレーターの類って、ああいう音だ。 それ経由でサンプリングしたギター音源なども無論そう。 綺麗過ぎてどこか嘘っぽいと言うか、私のある感覚に抵触する。

アレンジのゴチャゴチャした曲に混ぜ込んだりしても違和感無いんだが、小編成のバンドサウンドとか、そんなのに使うと物凄く嘘臭い。 どうしたものだろうか。 この感覚自体が、私の属した世代に起因するものなのかもしれないけど。


4/29(金)

4/20のこのページでちょっと触れたんだけど、とある執念でこさえたようなギター音源がありまして、それを導入してるんだけど、その感想。

各種特殊奏法を再現できるように作られてはいるんだが、アームダウンのニュアンスなんかは出しにくいように感じた。 ピッチベンドで再現するような作りなんだが、アームダウンの音程変化のカーブはピッチベンドで表現するのが難しい。サンプル割り当てた方が現実的だったのかも。 但し、データサイズは激増するだろう。 ピッチベンドでサンプルのピッチを弄るってのは、一種のモデリングだと思うんだけど、結局はその精度の問題とも言える。 改良の余地ありってことか。

グリッサンド・チョーキングとハンマリングオン・プリングオフを区別しているところなんかは、凄い拘りっぷりだと思う。 確かに両者は音程変化のカーブが異なる(厳密にはグリッサンドとチョーキングも違うけど)。 が、仕様上単一トラックで通常演奏とハンマリングの類を同時に表現しづらくて、別トラックを用意する必要が生じる。 それだけでなく、音源のポテンシャルを極限まで使おうと考えるなら、複数トラックは大前提となる。 当たり前だけどデータ入力は難儀だ。

私は生演奏に対する拘りなど全然持たないのだが、現状ギター類は、まだ完全にプログラミングで再現することが難しいように思う。 もっと完璧なのを誰か作ってください。


4/28(木)

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ハードロックとかヘヴィーメタルに着想を得たような曲を作ろうと思いつつ、物思いに耽っていた。

アルベルティーバスはPD(一種の公共物)と言うか、誰かが所有権を主張できるような代物ではない。 分散和音のパターンなど限られているからだ。 ハードロック系のリフなんかにも同じ匂いを感じる。 開放弦のミュートと五度のパワーコードのコンビネーションで作るフレーズなんて、パターンに限界がある。 作品なんて既に膨大な数生み出されているのである。 私が試しにリフを作ったとして、世界のどこかに既に、ほとんど全く同じと言って良いようなモノがあったりするのではないか。

8ビートのリズムに、上記のようなギターリフ、それを下敷きにしたようなベースのフレーズ、あるいは8分のルート弾き、こんなのもう創作とか呼べないわな。


4/27(水)

影山リサ。新曲のレコーディング。 気の抜けた曲で、編集もとことんドライで仕上げている。 こんなのもたまには気楽で良いわ。

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4/25(月)

神田優花、レコーディング。 録音を予定していたChiptuneシリーズも残り一曲。大詰めに入ってまいりました。 今回録った曲は、中でもキーになる楽曲で、アルバムのタイトル曲になる予定。

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Auto-tuneってのがある。 本来単なる商品名なんだが、有名になり過ぎて、使われ方がウォークマンみたいな状態になってしまっているが、実際には似たような効能のプログラムは他にもたくさんある。 要は録音物(主にボーカル)のピッチを修正するための道具なのだが、そのピッチ修正プログラムは現状、音屋必携ツールみたいになってしまっていて、私も例に漏れず使っている。

言うように、元々はピッチ補正用ツールに過ぎないんだが、エフェクトみたいな(本来メーカー側が想定していなかったであろう)使い方もできて、有名になったのはこっちの効果の方が理由と思われる。

前置きが長くなったが、そのエフェクト的な効果を、神田優花のボーカルに使い難い。 早い話が、元の歌の音程が合い過ぎていて、変化率が低い。リチューン0にしても殆ど効果が確認できなかったりする。 今回その効果をどうしても使いたくて、無理矢理それっぽいカーブを書いたりしたんだけど、慣れない作業だったのでやたら手間が掛かってしまった。

上記リチューン云々なんて用語を説明無しに使ってしまったけど、短いテキストでそれを説明する能力が私に無い。 使ってる人なら当然分かるだろうけど、そういうパラメーターがあるのです。


4/24(日)

最近に始まったことじゃないが、中国の内陸部(主に農村)などでは、暴動が多発しているそうな。さながら日本史で言うところの一揆のように。 格差、つまり貧富の差に地方住民の怒りが爆発していると言う。

しかし格差って何だろう。 絶対的な豊かさとか絶対的な貧しさとか、少なくともそういう話ではない。 その不満は、自分より豊かな生活をしている者の存在を知ってしまったが故に生じている。 中国政府がインターネットの規制にうるさい理由も、一つはこの辺りにあると言えそうだ。

上の話は、想像力こそが人間の本質であることを物語っている。


もし私が、例えば中世の庶民階級に生まれたらどうなるか。 テレビもラジオもゲームも雑誌もインターネットも無い。現代人が娯楽と見做すようなものはほぼ無く、そもそも電気も水道も無い。 夏の暑い日に冷房も扇風機も無く、かき氷も食えない。 家には風呂も無く、着る服などもこんにち的感覚で見ればまともなモノが無い。

村落にはコンビニもスーパーも無く、買い物もできない。 食料などを買えたとしても、家には冷蔵庫も電子レンジも当然無い。 移動しようにも電車も車も無く、そもそもまともな貨幣経済の中にいない。 病気になっても病院も無く、医療を受けることさえ難しい。 例え受けられたとしても、医術自体が、こんにちから見ればマジナイに近い。

では中世の庶民は皆、塗炭の苦しみに喘いでいたのか。 当然違う。 それより豊かな、幸福な世界を想像できなかった以上、相対的に不幸だとも感じられなかったろうから。


これから数百年後だとかの未来に、人間の生活が今より遥かに豊かになっていることは当然考えられる。 その時代の感覚から現代(我々の今の日常)を振り返ると、地獄のような世界に見えるかもしれない。 でも、当の現代人にその未来とやらの想像が覚束ないのだから、今の毎日をそれと比較して辛いとは感じられない。


4/23(土)

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日本語って、受動と可動の区別がない上、敬語も「〜される」とかって受動のようでややこしい。 だから読み難いんだよ。


4/22(金)

また「絶対音感」について考えていた。 私自身の理解の為に文章化している面もある。


こんな夢を見たことがある。 夢の中の私は、とある人物(ここでは仮にAさんとする)と口論しているのだが、そこに誰かが「まあまあ」と割って入って仲裁する。 その仲裁者はAさんである。

「仲裁者がAさんであるなら、お前の口論相手は誰なのだ」と言う疑問は論理であり、言語の作用である。 言語の機能が低下している夢の中では、論理が働いておらず、その矛盾に抵触を感じられない。

何故Aさんが二人いてはいけないのか。 それはAさんは他ならぬAさんであり、他の誰とも違うからである。 同時に、数日後に再び会ったAさんは、同じAさんである。 着ている服が違おうと、髪形が変わっていようと、数日分老化していようと。

「同じである」とする作用、いわば同定は言語の(おそらく最大の)機能。 これがあるから、老人と化した幼友達をも同じ彼だと認識できる。 あの時の子供は、この老人と「同じ」であると我々の脳が判断するから。

この判断のよすがとして、言語の果たす役割が十全でない場合、人は視覚だとか名前だとか、他の要素を援用せねばならなくなるだろう。 そういう人にとって、顔が変わればその相手は別人である。


人(の脳)は、何をもってして目の前の誰かを「同じ」だと感じるのだろうか。 それはその人のモノの見え方や感じ方、いわゆる人格と言う複雑怪奇なもの。 人格などと言う難解極まりないものを同定できるほどに、人間の脳は高度な装置である。

モノの見え方や感じ方、と言うパターンは、当然ながら他人だけでなく我が身(自分自身)にも備わっている。 子供の頃の自分や昨日の自分、また今日の自分、それらを皆全て同じと認識できるからこそ、我々の中には自己が生まれた。

私にとっての音楽(作品制作)とは、この自己の探求作業に他ならない。 私は、私と言う人間の正体を突き止めるべく、日々曲作りに励んでいる。


本題に入る。絶対音感である。 ある人は、とある音価を与えられた際、その音を音名で言い当てられると言う。 中には44.1KHzと44.2KHzの周波数を聞き分けられる(それらが違って聞こえる)人までいると言う。 それを異能として、世間は「絶対音感」などと呼んでいるのだが、果たしてそれは如何なる現象なのか。

以前読んだ本に、人間の聴覚について、こういうことが書かれていた。 『人体の、音をキャッチする細胞は、対応する周波数に沿って並んでいるそうで、それら細胞の列がカタツムリ状になっている』そうな。

つまり人は、人体と言うハードウェア・レベルにおいては、そもそも音の高低を聞き分けられるように設計されている。 一旦聴覚で聞き取った音を、その後の工程(つまり脳)で「同じ」と処理するからこそ「聞き分けられない」と言う事態が出来している。 本当は聞き分けられないのではなく、わざわざ同定しているのである。 恰も「昨日会ったAさんと今日のAさんが、同じAさんである」と見做すように。 これが殆どの非・絶対音感保持者だ。

と言うことは、絶対音感保持者とは如何なる者か。 ある音価をいわばメロディーとして同定できぬ脳機能の持ち主、と言うことになる。 その人は異能者と言うより、言語の獲得・形成に失敗した者である。 同時にその失敗を補う形で、何らかの機能が代償的に発達しているものと思われる。 音名とのリンク機能とか、聴覚そのものとか。 とにかくそれが何であれ、脳機能を代替するには至らないだろう。 脳、とりわけ言語機能って、別の何かをもって代替できるようなそんな単純な装置じゃない。

絶対音感保持者と非保持者、どちらが優れているかとか、単純にそういう話をしているわけではない。 能力ってのも一概に判断できるようなものでないから。 ただ、私は、自分が絶対音感保持者でなかったことを、心の底から幸運に思っている。


子供の頃、一緒に暮らしていた犬が私は今でも好きで、また会いたいと真剣に思っている。 再び出会うその日を夢見る時、アタマをよぎるのは「こんなオジさんになってしまった私を、少年の日の私と同じだと捉えてくれるだろうか」と言うこと。 でも、そう捉えてくれるような気がする。 だからこそ会いたいと思う。

私はその犬のことを覚えている。 覚えていると言うのは、写真に撮ったように姿形を記憶していると言う意味ではない。 複雑怪奇なそれを今でも保持していると言うこと。 だから、私の目の前にそれと「同じ」何かが横切ったら、私はそれを決して見逃さない。 見逃さない自信がある。


4/20(水)

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とあるサンプル・ベースのギター音源を導入しまして、今マニュアル読みながら操作法を色々試しているところでございます。

それにしても凄まじい拘りっぷりだ。 確かにギターには異弦同音と言うのがたくさんあるのだが、それらを全てサンプリングしている。 音だけ聞いてその違いに気付ける人なんて、ギター弾きでも稀有だろうに。 当然のように一般的な奏法は各種全てサンプリングしてある。 凄い。


4/19(火)

ロックンロールについて。

ロックンロール、あるいはその省略形であるロックと言う言葉がある。 特にロックは現在ではかなり広義に使い回されている用語なんだけど、そもそもはある特定の音楽様式を指した。 かなり定義の厳格なもので、ブルースとかもそもそも同じようなものだった。 現在定義が割りと曖昧になってきているところも含め両者は似ている。

ロックンロール・ミュージシャンって、厳密にはチャック・ベリーとかそういう人を指す。 現在、厳密な意味でのロックンロール・ミュージシャンなんて多分かなり少ない。伝統芸能の継承者みたいな扱いだろう。 今はジャンルとしてロックとかブルースとかのカテゴリーがあるけど、本来はジャンルを形成できるほど多種多様な音楽が生まれるようなものではなかった。 定義を満たさなきゃならないのだから、ややもすると同じようなものばかりになる。

ロックンロールが誕生した当時、人々は余程にあれを面白いと感じたのだろう。 ジャンル名にすらなって残っているところなど、その余熱と言えなくもない。 私は思う。 その面白さは、いわば愛のようなものでなかったか。生きて行く勇気のような。 人々がロックを愛したと言うか、ロックの方が人々を愛したのではなかったか。


愛には返報性がある。如何なる感情にも大なり小なりの返報性はあるだろうが、愛の場合、それが特に強い。 愛すると言うことは愛されることで、愛されることとは愛することである。

この辺り、人によっては理解しにくいのだろうことを承知で私はテキストを打っている。 この世界、この宇宙とは、我々の心が映しただけのものなのだから、森羅万象全ては我々の心の中にあるのである。 同時に、心の中に無いものは存在しない。 札束で魚は釣れないし、幽霊が見えてしまうが故に加持祈祷の類に金を掛けられる人がいる。


私はロックンロールのような音楽が作りたいのです。 誰かの心の中で愛になり、その人を支え、また他の誰かを愛する力に変わる音楽。 簡単でないことぐらい分かってるけど、そういうものが私は作りたい。


4/18(月)

神田優花、レコーディング。 本当は二曲分のテイクが録りたかったんだけど、結局一曲分に。 あんまり拙速なものを作るよりは良いか。

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話は変わるが、世の中には自分のことをファーストネームで呼ぶ女の人がいる。 男性に全く見られない習慣なので、文化と言うか一種の媚態のように思えるが、昔は女性に限った習慣でなかったようだ。

江戸時代(末期)の書簡類を眺めていると、このファーストネームの自称、男性にも(割りと頻繁に)見られる。 と言うか、当時の女性の間にこそそういう習慣が存在したのか確認できない。 名を忌む感覚がまだ濃厚にあったろうから、むしろ当時は女性に見られない習慣だったかもしれない。

有名な円谷幸吉の遺書、文中彼は自分のことを幸吉と呼んでいる。ファーストネームである。 そう言えばこのファーストネームの自称、一種の遜辞と言うか謙譲表現であるらしい。 上の書簡も円谷の遺書も、どうも目上の人に当てたものである。円谷の場合は対象が広範囲なんだけど、両親と言った目上の人が含まれている。


これ日本人の民族性を表す習慣なのではないか。 英語圏人が例えば「I have〜」と言うところを「Michael has〜」などと言うだろうか。 余程別の意味が生まれそうだ。 主語を三人称にしてしまったら、おそらく主体性がブレる。 自他の区別が当然曖昧になる筈だ。


4/17(日)

多弦ギター・多弦ベースの類(特に多弦ギター)って、知らないうちにかなりポピュラーなものになっているのね。 私の感覚ではちょっと際物に類するものだったんだが。

私の子供の頃から、あの手の弦楽器の重低音志向って既に存在していて、チューニングで対応するのが一般的だった。 ハーフダウン(半音下げ)が多かったけど、一音下げとかもあった。 もっと極端なのもあったけど、弦のテンションが維持できないんで、なんだか特殊奏法(と言うか特殊楽器)みたいな扱いだった。

昨今、もうダウン・チューニングなんてまどろっこしいことやってないで、低音弦を付け足すようになったらしい。 しかし多弦ギター用の弦って、どうやって調達するんだろう。 少なくとも楽器屋は7弦以上用に特化した弦なんて常備してないだろうからな。 6弦用のゲージの太い奴とかで代用するのかしら。 それでもせいぜい7弦目ぐらいにしか使えないだろう。8弦以上は? エレキベースの一弦用を使うとか?

ベースは基本単音で弾くものだからまだしも、多弦ギターはどうなんだろう。 7弦ギターぐらいならまだ分かるんだけど、9弦ギターとかになったら、ネックの太さも相応になろうし、コード(特に親指使ってグリップするようなフォーム)とかまともに押さえられないんじゃないか。 多分、多弦ギターの類って、ニーズのあるジャンルが限られていようから、フルストロークみたいなのって想定されてないのだろうけど。


私は一応ギター弾きなんだけど、多弦ギターの類に興味(所有欲)はない。 ただ、アレンジの一つの引き出しとしては、検討の価値があるような気はする。 因みに、多弦ベースに関しては、既にそれを使ったアレンジを書いたことがある。 通常バンド編成でE0以下の低音って聞かないので、ちょっと新鮮な気はした。 低音って、サンプリングレートの壁が無いので、楽音として認識できるか否かはさておき、理論上いくらでも音域を広げられる。 だからサブ・ベースとか言う発想も生まれる。


4/16(土)

薩英戦争についての資料を読んでいると、薩摩藩の意外なほどの善戦に驚かされる。 イギリス海軍は当時世界最強と言って良く、彼らもチョンマゲ結ってた当時の薩摩人など相手になると思ってなかったろう。 マトモな勝負になると思っていなかった傍証もいくらか認められる。

物質的な損害はさておき、人的な被害は明らかにイギリス側に多大である。 ただ薩摩藩は、市街地のかなりの部分を焼き払われ、主要な汽船三隻と多くの砲台を失った。 純然たる防衛戦争でもあり、勝敗の判断は難しいところである。 ただイギリス側にとって驚きであったことは間違いなかろう。

善戦の理由はどこにあろうか。 先代の斉彬の存在は大きかったろう。 一応西洋風の銃器・砲台を持っていたからこそ、曲がりなりにも戦えた。 兵員の素質もないことはなかろうけど、当時の日本の諸侯で、薩摩(島津氏)以外の誰があの程度に戦えたろうか。 佐賀藩とかだったら良いところ行ったりしたろうか。分からん。


4/15(金)

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私はドラマを見ない。と言うかテレビ自体見ないのだけど、昔は一応テレビも見ていた。 当時からドラマを面白いと思ったことはあんまし無い。

理由はリアリティーを感じないから。 私は、ドラマに出ている役者さんたちに一度本気で聞いてみたいんだけど、ああ言う喋り方・所作の人間なんて実社会に存在しますかね。 「ドラマ特有の一種の書法である」と言うなら、何事かを表現する舞台として人間劇にする必然性のほどが分からない。 だからドラマが面白くないと言うより、私にドラマの楽しみ方が分からない、と言う方が正確かもしれない。


4/14(木)

前から思ってたけど、日本語って、受動と可動の区別がない上、敬語も「〜される」とかって受動のようでややこしい。 だから読み難いんだよ。



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神田優花、リハーサル。 今年リリース予定のタイトル、ジャケット類がだんだん上がってきました。 もう少ししたらリリース日程も決まります。


4/13(水)

禁門の変について触れている本を読んでいたのだが、当時の長州藩は何故あんなにもキチガイなのだろうか。 実は私もルーツは長州で、本籍も山口県だ。 余計に気になる。

事件直前、長州勢はさかんに文書をばら撒いているのだが、ロジックがおかしい。 アタマのおかしな人特有の我田引水な論理展開、事実関係の無視、前提の曲解、等々満載の、臭うようなテキストである。 きっと当時の彼らとマトモな議論はできなかったろう。

長州は言う。「我々が敵と見做すのは京都守護職・会津藩主 松平容保のみである。朝廷・幕府・諸藩に敵意はない」と。 更には「皆様方は我々の挙を傍観、できればそれに加勢してくれ」と。

一部の公家さんなどは、見事に騙されていて、「長州は会津のみが憎いと言うのだから、会津を京の外に出して互いに好きなだけ戦わせたら良い」などと言い出している。

「敵は会津だけ」などと言うのは戦術上の方便で、拙劣とも思えるほどに実にありふれた手法である。 要するに全方位を敵に回しては成功率が下がるので、とりあえずの仮想敵に照準を絞った上で、後は一時的にでも、できうる限り懐柔しておこうとのハラだ。 現代でも、一般人の中にもこの手の手法を用いて人間関係を制御しようと考える人は多いはず。 あんましアタマの良くない人でも、反射的にこういうこと(ある種の嘘)って思いつくのだろう。


そのキチガイ集団が、最終的に政権を担うようになる(明治新政府は概ね薩長閥が基礎になっている)。 大日本帝国陸軍の精神風土に長州の空気が強く影響したとかよく言われるが、系統的に言えば現体制も長州人らが作った政府の歴史的末端と言えなくもない。

歴代総理大臣も山口県出身者が多く(一番多いのでは?)、現総理の選挙区も山口だ。 精神の遺伝ってきっとあるはず。自民党がここまで金遣いが荒いことなどにも、多少の影響があるんじゃなかろうか。


4/12(火)

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70〜80年代あたりの代表的歌番組(ザ・ベストテンなど)をダラダラ見ていたんだけど、その感想。

私は基本的に音楽・歌と言うものが好きなのだけど、POPSと言う文化をやや滑稽に感じなくもない。 あるテーマ(恋愛など)に沿った詩文をメロディーに乗せ、ああいった声楽で表現する、と言う行為をめいめい録音物化し、それらをランク付けして1位から10位まで順番に並べてテレビ番組で披露する。 これが当たり前の文化に生きているから殆どの人は不思議にも思わないだろうが、あらためて眺めると奇妙な光景だ。


4/11(月)

未来のことは分からない。私にもそうだし、誰にとっても未来って明確でない。 誰と出会うか、どんなことが起こるか。そんなこと分からない。 各人にとって、未来のイメージは発展的なものであるか、あるいは悲観的なものであるか、その程度のものだろう。

しかしその程度の違いが、行動を分ける。 感じ取れる光の量に個人差があるからだ。ある者にとって眩し過ぎるほどの未来が、別のある者にとっては消え入るようにか細い光でしかない。 あるいはもう光として感じ取れない。そういう人は、いわば闇の中で生きている。

人は皆、同じ一つの世界に生きている。とされている。 だから、この世界に存在する光そのものが違うと言うより、それを読み取る感光力に個人差があると言えそうである。

未来に光を感じる者が当然のように踏み出せるある一歩が、別のある人には踏み出せなかったりする。 光を感じられないからだ。 光とは、その一歩を踏み出す勇気のこと。

今の我々の側にあるもの、それはある日の我々が感じた光の中にあった。 その時はその光が眩し過ぎて、輪郭こそ覚束なかったろうけど。

人生ってのは、その光に埋もれた何かを一々解き明かしていく作業なのだろうと思う。 だから、その光をはじめから感じられなかった人にとって、人生の残り時間とは消化試合に過ぎないと言うことになる。

感じたその光のうち、既に解き明かしたものがあり、まだ解き明かせない何かもある。 解き明かしたもの達は、鮮やかなイメージとして今の我々の中にある。 全てこの「イメージ」に収斂される。 私の場合、このイメージの結晶として音楽作品がある。

今日の私には、まだ解き明かせない大きな光がアタマをもたげている。 時間がどれぐらい掛かるか、なんて全く分からないけど、解き明かして行こうと思ってます。 これから仕事に入ります。皆さんも今日もがんばって。


4/10(日)

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あるDVDを見ていたのだが、思うところがあったので書き残しておく。 DVDの内容は、NHK(教育)で随分前に放送されたものらしい。

本編はさておき、私が気になったのは特典映像での一節。 特典映像では、スタッフだかが当時の撮影にまつわる苦労話などを語っていた。 アフリカのとある集落で取材をしたらしいのだが、その地は一夫多妻制であったと言う。 現地人のある男性にスタッフはこう問われたそうな。 「お前の妻は何人だ?」と。

スタッフは答える。「一人だ」と。 そこで現地人の彼は「俺はもう一人妻が欲しいが、金がなくて手に入れられない。お前も貧しいのか、かわいそうに」みたいなことを言ったのだと。

これは一種の笑い話で、映像でもその場は和やかな笑いに包まれていた。 が、私はそんなに面白いと感じなかった。


何故なら、その話が、如何にもありそうな話だったから。 アフリカのとある集落における逸話として、実にステレオタイプで、行ったことのない私にでも空想で容易に作れるような内容だったからだ。

私は上の御仁を「嘘吐き」呼ばわりしているわけではない。 むしろ実話である可能性の方が高いと思っている。 私はリアリティーを感じないだけ。 リアリティーさえ感じられれば、私はその話が嘘だって面白がれる。


4/8(金)

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影山リサ、レコーディング。 影山さんもだいぶストック溜まってきてまして、今ジャケット類作ってます。 話は変わるけど、今月は雑誌その他の媒体にて、オーディション(デモテープ募集)の告知を出してます。 たくさんのご応募お待ちしてます。


4/7(木)

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神田優花、歌録り。 Chiptuneシリーズ、9割方録り終えました。 リリースは夏頃から年末に掛けてぐらいになるだろうか。


4/6(水)

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ラーメン屋でラーメンすすってたら、目の前に求人(アルバイト募集)の貼紙がある。 時給いくらとか交通費支給だのと言う待遇面の記述の下に一項、「条件」とて、「何でも良いから夢のある人」と書いてある。 店主はどういうキッカケでそう思うに至ったろうか。ちょっと気になる。

ハッキリ言って仰る通りと言うか、人を選ぶ基準として実に正しい。 松下幸之助は面接の際「あなたは運の良い人ですか」と聞いて「はい」と答えた人を採用していたらしい。 さすがだ。

夢のある人とて、ミュージシャンだの役者だの志望の人物を雇ったところ、ある日「本業が軌道に乗りそうなのでこの店辞めます」などと言われても良いのだろう。 それでもあの店の主人は「夢のある人」を雇いたい。 私が店主だったとしても同じ気分だな。 逆に言えば、夢の無い人にどんな学歴や資格があったところで、そんな人全く欲しくない。


4/5(火)

とある事情で、子供(3〜5歳児)の相手をしていたのだが、その感想。

大抵の子供は、(与えるでなく)貰おうとする。 まあ本当に子供なのでこれは仕方ない。 しかし言語機能が優れていればいるほど、早い段階で「くれる相手の気持ち」を理解する。 言語装置の性能によっては、人は終生ここに気付けないらしい。 ここは人生の分岐点になる。

子供たちに菓子をあげたら、彼らは最初素直に喜ぶ。 が、何度かそれを続けていると、子供によって違うリアクションを示し出す。 ある子は与えてくれる者の心に感じ入り、またある子は与える者を見るなり「お菓子ちょうだい」と、条件反射のように求める。餌付けされた動物と同じである。

またある子は、私があげようとすると「いらない」と言う。 私は「そうか。そりゃ欲しくない時もあるわな」と別段不思議にも思わず菓子を引っ込めようとしたら、あわててその菓子に飛び付いた。 つまり、要らないのではなく、要らないと一旦言うことによって、相手の関心を引こうと画策しているのである。 「要らない」と言うことによって、今差し出されたモノ以上の何かを得ようと企んでいる。 だから引っ込められたら元も子も無い。 子供ってバカなりにも賢い。

その子は実に構って欲しがりで、つまり依存心が強い。 「明日僕がママと行くところはどこでしょう?」などと、私に一々謎掛けをしてくるのだが、「分からん。どこ行くの?」とか聞くと「ナイショ」と応える。 どうもそのナイショは彼の中でのブームらしく、事ある毎に一々繰り返す。 私が立ち去ろうとすると、急に答えを言い出すのだが、結局これも上の「いらない」と同じ心根らしい。 つまりすげない対応によって相手(この場合私)の関心を引こうと考えている。 まあ子供のやることだから一々ムカついたりはしないけど、人間の醜さのようなものを感じてしまう。 私は敏感過ぎるのかもしれない。


相手の気持ちに思いが至る程度の言語力があれば、人は上のような態度を他人に取れなくなる。 が、相手の気持ちと言うものが現実に映り込んでこなかった場合、人は何かを貰った際、感謝するでなくもう一つ貰う方法を練り出す。

きっとこの機微は、この社会に存在する全ての不和の元凶だろう。 上の彼がもし、今後の成長によって「相手の心」を映せるようになれなかったら、彼はきっと暗闇の中で生き、死んで行くことになる。


因みに私は、子供が好きか嫌いかと問われると、どちらでもない。モノによる。 大抵の子供は醜いからそんなに好きでない。 私は美しいものが好きで、醜いものが嫌い。それだけです。


4/4(月)

今週の差し入れ。

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和菓子屋で買い物をしたら、包装紙に屋号と電話番号がある。 よく見ると電話番号、七桁である。 随分長いこと包装紙をリニューアルしていないようだ。

しかしよくよく考えてみると、あれってワザとなのかも。 「東京の電話番号が七桁だった時代から営業しています」と言う、老舗のアピールなのではないか。 穿って見過ぎだろうか。


法人の一種に「有限会社」と言うものがある。 資本金の額とか、株式会社との違いはいくらかあるが、要は株式会社の機能制限版である。 有限会社、要は株式会社のリミテッド・エディションに過ぎないのだが、まあ上場とか考えているような会社以外には十分と言える法的機能を備えていた。

確か現在有限会社はもう作れなくなっている。 現時点で存在する有限会社はそのまま有限会社を名乗れるが、今後新規に有限会社を登記することができない。 思うに将来、有限会社は一種のブランドになりやせぬか。 それだけの社歴がある証拠になるからだ。 有限会社ってだけで安心して取引されたりして。


4/3(日)

浪曲の資料(主に録音物)に当たっていると不思議に思うのが「当時の観客はどの程度テキストが聞き取れたのか」と言う点である。 ハッキリ言って聴き取りにくい。 初期の黒澤映画を字幕無しで見る事は難しいんだが、早い話が何言ってるか分からないからだ。 浪曲も近いものがある。

江戸時代の歌舞伎は、ほとんどのセリフが聞き取れなかったと言われている。 視覚的な刺激だけで十分にエンターテインメントたりえたと言うことらしいのだが、まあ分からないでもない。外タレのコンサートに行く感覚だったろうか。

「歌舞伎だってセリフ聞き取れなかったんだから、浪曲も似たようなものだったのでは」なんて単純な話では無い。 浪曲はトーキング・エンターテインメントで、聴いてナンボである。歌舞伎のような視覚的な面白さはほとんど無い。

近いものを挙げるなら落語だろうか。そう言えば古い落語の記録物、CDなんかでも聞き取り難かったな。噺家の名前とか忘れたけど。 とにかく浪曲は当時大流行したのだから、大多数の人があれを面白いと感じていたのは間違いなかろう。 内容も一応は聞き取れていたと判断する他ない。


「現代人が江戸時代にタイムスリップしたら、どの程度当時の人と会話ができるか」と言うような検証記事を見たことがあるが、江戸時代どころか昭和初期とかでももう意思疎通は十全であるまい。

因みに江戸時代(と言うか前近代)は、同時代人同士でも100%の意思疎通は難しかった。 義務教育も標準語も無かったのだから当然とも言えるが、純粋薩摩弁を話す薩摩藩士と純粋会津弁を話す会津藩士が、障り無く会話を進めることが困難であった。 フランス語話者とスペイン語話者は、会話ぐらいはできるだろうが、多少の不便は付いてまわろう。 差し詰めそういうところか。 他にも、使用言語に地域差だけでなく階級差のようなものもあり、社会体制(封建・身分制)が一層意思疎通を困難たらしめていた。


4/2(土)

浪曲って面白い。 個人的にあるヒントを得たような。 因みに浪曲は完全に一過性の音楽ジャンル(と言うか文化)で、ある時代のみに流行した。 現在は伝統芸能として細々と存在しているだけのようで、ほぼ現役からは退いている。

節と啖呵で構成されるのだが、メロディーとラップみたいで、何だかまるでHIPHOPのようだ。 伴奏は三味線一本であることが多いんだけど、この辺りもMCとDJの関係を思わせる。

浪曲は、悪声をいわば滋味として許容、もっと言えば歓迎するらしい。 実際サンプルを聴いていると分かる気がする。あのダミ声が良いんだわ、きっと。 意図的に悪声を操るには、それなりに音感も必要なはずで、浪曲師は皆、基本的に歌が上手い。 実際、初期の演歌歌手は浪曲出身者が結構いる。

しかしまあ、譜面さえ存在しないそうで、楽理的に整理するのが難しいジャンルだ。 作例にもいくつか当たったのだが、採譜が難しい。 譜面化に難があるのは、どちらかと言えば音程よりリズム。

当然かもしれないが和声的でなく、強いて言うならポリフォニー音楽だ。 大雑把にはメジャー・ペンタトニック(いわゆるヨナ抜き音階)をベースにしているみたいで、一応の調性感はある。 ドミナント・モーション的な動きも確認できた。 ただ三味線も人声もそんなにピッチのしっかりした楽器ではないので、ところどころ曖昧。 だが、むしろそこが良い。

率直な感想だが、浪曲ってなんでこんなに廃れてるんだろう。結構面白いのに。 私はジャンル問わず尺の長いものは嫌いなので、浪曲ももっと短く出来ないものかと思ったりはしたけど、あれは改良・発展させればそれなりに面白いものが出来そうな気がする。


4/1(金)

今作ってる曲(アレンジ)は、昭和のある時期の歌謡曲の編成を下敷きにしようと思ってて、当時の事情についてあらためて調べていた。

昔の歌番組お付の楽団、基本的には吹奏楽団であるようで、弦はあまり見られない。 編成については、楽団によって多少の異同はあるだろうけど(公開情報があるわけでないので詳細は不明)、どうやらあの世界にはスタンダードがあるらしい。

吹奏楽部分については、ある時期に日本吹奏楽指導者協会が標準編成案を策定したそうで、基本的にそれ準じた編成になっているそうな。 因みにその編成表を私は見てみたのだが、ある程度の幅があってそんなに厳格なものではない。 ただあのくらい大雑把にでもスタンダードがあるのなら、汎用的な譜面は作れるようになったろう。 それだけでも結構な進歩だったのかもしれない。

楽団の吹奏楽部分は上の標準に従ってるのだろうけど、歌番組のメインはPOPSだ。 吹奏楽の標準編成にプラスしてギターやドラムスなどのPOPS用途の楽器群が並ぶ。 編成としては木管が入ったビッグバンドって感じ。


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