Staff diary  
スタッフ日誌[2016]

[文 / 益田(制作)]

3/31(木)

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マウスの調子が悪くてイライラする。 買い換えればいいんだけど、それも面倒だ。

人間の作ったものって、とかくチャチである。 自動修復ぐらいしやがれって思うけど、現状そのような機器なんて聞いた事がない。

例えば靴や靴下は、穴が開いたり磨り減ったりするから買い換えなきゃならないけど、「足」はそうでない。 怪我とかしたって勝手に修復する。 自然って偉大だ。


3/30(水)

影山リサ。 コツコツと作品作ってるんですが、特にお知らせするようなことはありません。 もうちょっと待っててくださいね。

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広瀬沙希。 アルバム収録用の新曲作ってます。 アルバムはどうしてもベスト的な内容になってはしまうんだけど、未発表曲もいくつか入れるのでお楽しみに。

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3/29(火)

神田優花。 喉の調子が悪いみたいで、騙し騙しリハーサルやってる感じです。 喉っていっぺん悪くすると全快までに時間掛かりますからね。

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3/28(月)

ヒメマルカツオブシムシと言う、テントウムシみたいな虫(害虫らしい)を見かけたんだが、凄いな。

せいぜいゴマ粒ほどもあろうかというサイズで、肉眼で細部まで見ることが難しいんだが、昆虫なんだから昆虫としての基本スペックは備えている。 六本の脚があり、当然歩行するし、成虫には羽があり、飛行する。 ゴマ粒大ですよ。 しかも超低燃費、餌無しで何ヶ月も稼動し続けるらしい。 更には自分の複製品を自分で作れる(生き物としては当たり前だが)。

あんな精巧なものを、人類は現時点で作れない。 あれに比べれば原発も核兵器も随分ローテクだ。


3/27(日)

ある著名人の不倫騒動が(また)持ち上がっていると言う。 当然のように激しいバッシングが起こっているそうだが、私は今回、世間一般の反応とはやや異なる、ある感懐が頭をもたげている。 その(不倫の)当事者は先天的に四肢が欠損している、いわゆる身体障害者である。

彼は取材に対し、不倫の事実をアッサリと認めたと言う。 また、あまつさえ「肉体関係まである」などと、普通に考えれば余計なことまで赤裸々に告白したそうな。 今回の件は、相手の人数だとか関係の詳細までやたら生々しく知れ渡っているのだが、それは本人に隠そうと言う意志が無いからかと思われる。


普通の有名人なら隠したいであろうことを、彼はむしろ言いたい。言動からもそうとしか思えない。 何故なのか。

それは彼が身障者だからではないか。 「俺には不倫が、性行為ができるのだ」と、周囲にも、自分自身にも教えたかったのでは。 生まれた時から四肢が欠けているなどと言う苛烈な境遇を、普通の人は想像すらできない。だから本当に、そこに思いを至らせることを忘れてしまっている。

かく言う私も想像し難い。 一度しかない人生の、時間が始まった瞬間に、自分だけは他の人が当たり前に持っている手足を持たされていないと知った時の絶望・恐怖。 その現実を認めて生きて行くに、どれほどの精神の強靭さが求められるか。

実はこの社会は、身障者が単に食って行くだけならむしろ天国のようなところだ。 だが、単に食って行くことと、生きて行くことは違う。 例えば卑近な話をするなら、子供の頃の彼が「将来自分に恋人ができるか」などと言うことについてもそんなに大様・楽観的に構えていられたろうか。 私なら無理だ。 上の想像を杞憂だと笑えるのは、その人が健常者だからに違いない。

身障者に優しい社会だから、職にもありつきやすいし、定職さえ持てれば結婚相手だって見つけやすい。 結婚も一種の就職ですからね。 でも、結婚相手が見つかることと、自分がこの世界に受け入れられるかは、全く次元の違う話。


普通の環境を与えられながら普通の情緒を持てない人を、人格障害とか精神疾患と言うのだろうが、普通でない環境を与えられながら、一分の隙も無き普通人の情緒を持てるなら、それも一種の異常者に違いない。 あの環境を与えられた彼は、問題行動を採ったりする程度には普通人だったのだろう。 身体が欠損することによって、例えば異性に対する執着が肥大化する、代償的に発達する、と言うことだってごく自然にありそうなことだ。

「だから許してやれ」などと言うつもりは毛頭無い。 制限速度50kmの道路を100kmで飛ばせばスピード違反になるし、捕まればペナルティーも当然ある。 彼は国会議員選挙への出馬が噂されていたそうで、その話も流れるかもしれないわけだが、それも一種のペナルティー。彼自身が選んだ生き方だから仕方ない。 一つ言える事は、彼にとってその一連の言動は、それによって失ったものなどより、ずっと大切な何かだった。 許さなくても良いけど、分かってあげて欲しい。


複数人との不倫関係(しかも肉体関係込みの)など認めてしまったら、あるいは現在の立場を失う。 多くの人はそれが割に合わないと考えるから、そういうことをしないし、しても隠したがる。 でも彼はそれを、いわば選択的に公言した。

私は取り沙汰されている事実の、真偽の程すらどれだけのものであったか分からないと思っている。 無論全部言われている通りなのかもしれない(私にとってそんな事どうでも良い)。 とにもかくにも、彼は公言することの方に価値を置いた。 それはたかが不倫問題ではなく、自分と言う人間の、尊厳に関わる問題であったのではないか。 その気分の欠片ぐらいなら私にも見えなくもない気がする。


3/26(土)

欧米人のあの「一枚岩感」の正体はおそらく言語である。 日本人を含むアジア人のこのバラバラ感も、煎じ詰めると原因は言語にあろう。 一視同仁などと言う感覚も、その基礎は「言語」ではないかと私は思っている。 言葉自体はアジア発だけど、この感覚を持てる人って当地では稀有なのでは。

欧米人はきっと、何かを共有できる友を、いわば自分自身だと感じている。 よく「欧米人は有色人種を軽んじている」みたいなことって言われるけど、表面的にその通りにせよ、底に流れるその論理はきっと深い。

友とは何事かを共有できる者のことなのだから、例えばある友人が死んだ後でも、残された者は死んだその友の意志を継いでいる。少なくとも彼らはそのつもりである筈だ。 欧米人があのような巨大な文明を築けた理由も、その辺に集約されるのだろう。 人は死んでも意志が残るからだ。


3/25(金)

演歌と近世邦楽は、正式な相伝関係にあるとかそういうわけでは(少なくとも知る限り)ない。 ただ、影響は認められるだろう。 意識的なものと言うより、商業音楽なんで需要によって変化した面が濃厚かと思える。

私の感じる端的な部分(影響の痕跡)は、陰音階、特にいわゆる都節のような音階。後は旋律のメリスマ性とか。 因みに近世以前の、例えば雅楽に都節的要素は皆無である。


近世邦楽と言うが、例えば17世紀初頭にああいう(都節的な)音楽作品はほぼ見られないと思われる。 おそらくは、どんなに遡ってもせいぜい元禄あたりが上限で、実質的には、およそ江戸後期(晩期)から明治にかけての流行かと思われる。いわばほとんど近現代の所産と言って良かろう。

演歌と言う音楽ジャンルにさほどの歴史は無く、ある時代(実質的には戦後)の流行歌の一種に過ぎないと言って良いと思うが、演歌が日本人の琴線に触れる何かを持っていると言うのは事実だろう。

日本のPOPS(流行歌)の歴史は、イコール演歌史ではない。演歌よりかなり長いし、複雑・重層的だ。 ただその歴史の中で浮き沈みした諸々の音楽ジャンルの中でも、現代においても現役である演歌には、それなりの魅力があったのだろう。 残るのには理由があったはず。この辺を、私は今あれこれと分析しているわけです。


3/24(木)

言語の作用とは、何か(と何か)を同じとすること。

「This is a pen」、初等英語の教科書に出てくるような、どこかで聞いたセンテンスなんだけど、これってどういうことか。

目の前にあるペン。上記のセンテンス中、そのペンを指すものは何か。 penではない。 それはThis(コレ)である。 目の前のコレを、脳内にある「a pen」と言う概念と照合する。 これがおそらく最も基本的な同定作業である。 何かと何かを同じとすること。

この照合作業を梃子にして、この世界のありとあらゆるペンを、一つのpen概念で括る。


ペンのような物質は、誰にとっても同じである。 解釈に差異が生じ難い。 しかし形而上概念のようなものは、そもそも誰しもがそれを把握できるかと言う問題がある上、解釈の個人差もきっと大きい。 「愛」とか言った時、人によってそこに込められたイメージには巨大な差がある。 言語のベースになるものは感受性である。

感受性、それこそが言語力である。 ある言葉(word)を与えられた際、その人がそこにどれだけの宇宙を感じることができるか。 それが言語力の正体。 そしておそらく、これは「脳」と言うハードウェアの性能に大きく由来する。

いわゆる「現実感」の正体もこの感受性だろう。 この世界にどれだけ鮮やかな印象を結べるか、これがその人の持つ現実感。 生きながらにして生きていないような人、彼に欠けているのはこの現実感。


3/23(水)

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演歌を作ろうかとかボンヤリ考えていたんだが、あんまし良いアイディアが浮かばない。

演歌って極めて様式的な音楽で、単にそれっぽいモノをただ作るだけなら割かし簡単だ。 しかしあんまり突飛なものは当然ながら作りにくい。演歌でなくなってしまうからだ。 面白い演歌作品とか言い出すと途端に難しい話になってくるんです。

音楽的にはPOPSと言うか、西洋音楽の一種で、ごく僅かな例外を除いてはシンプルな和声音楽だ。 旋律線などに近世邦楽っぽい匂いを残しているような気はするけど、直接的な関係はおそらく無い。


個人的に好きな(良いと思う)演歌作品はいくつもあるんだが、どれもやや王道の演歌的でない。 むしろ演歌っぽくなさを好んでいるところもあるのかも。


3/22(火)

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メロンの王子を名乗るプリンスメロンは、真桑瓜とメロンの交配種で、メロンの王子どころか厳密にはメロンですらないそうな。


いわゆる幕末の頃、姉小路光知と言うお公家さんが暗殺された。 当時暗殺は横行していたが、姉小路の場合、その主義・主張からも、殺される理由が十分でなく、事件は幕末史上の謎となっている。

一応通説では、犯人は薩摩藩の田中新兵衛と言われている。 人斬り新兵衛とて名高い暗殺者で、薩摩の出身ではあるが、厳密には薩摩藩士ではない。 剣の腕を買われて士分格の扱いを受けていたが、町人であったと言われている。とにかく本来は二本差しの資格すらない人物だった。

事件は不可解を極めている。 暗殺現場に実行犯が「投げつけた」と言われる刀(と履物)があり、それが田中のものであったと言う点が決定的証拠になったと言われている。 しかし田中は剣豪である。武士の命とまで言われる刀を置いていくだろうか。しかも斬るでなく投げるとは。 ともかくも暗殺者が、わざわざ決定的証拠を現場に残したと言うことになっている。 この辺が、後世この件を謎たらしめているのだろう。

取調べにおいて、田中は刀が自分のものであることはアッサリ認めたが、自分は実行犯でないと容疑を否認し、その場で自害している。 無実であるならそれを徹底的に主張すべきで、自害など何故したかと思わせる。 これは田中が武士でなかったからだろう。

武士でない者が武士になる。その心裡には当然理想化された武士像があったろう。 武士らしく振舞わねばならぬと思い込む余り、彼は上の行動に至ったのではないか。 武士でない田中は、武士よりも武士らしく振る舞った。


オカマはある意味、女より女らしい。 女に生まれついてないが故に、女に対しての憧憬があり、理想像を持っている。 だからである。 上記田中の例と全く同じ。


私がここで言いたいのは、度を越したものとは、即ちそこに何らかの事情があると言うこと。

自分に媚び諂ってくる人がいた場合、その人は単に良い人なのではなく、良い人過ぎるのには理由があったりすると言うこと。 例えば、隠さねばならない何事かを多分に抱えているだとか。 逆に、一見態度の悪い人などがいても、その態度こそが、彼の人格が演技を必要としていない証拠であったりする。 江戸っ子が鯉の吹流しであるとか言うのって、そう言うことなんだろうと思う。


3/21(月)

神田優花、歌録り。 先々週録る予定の曲だったんだけど、喉の調子が悪かったとのことで延期になってました。 今回、無事録音完了です。

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人は何故に欲しがるか。 所有欲を満たしたいからだ。 と言うことは、「あれもこれも欲しい」と漁る人は、つまり所有欲を満たせてないと言うこと。

道具としてそれを使っていることと、その物質を所有しているってのは違う。 この辺、あんまり厳密に区別されていないように思うけど。

所有と言うのは、換言すれば依存である。 それを含めた状態においてはじめて何事かが成立すると言うこと。 車がどうしても手放せない人は、車に依存している。 つまり精神に脆弱性を抱えている。

車が道具としての典型だから分かり難くなる面があるな。 車は「無いと不便だから所有している」って人も多かろうが、それは私の考える所有とは厳密には違う。 どんな色が良いとかホイールをどうしようとか、その対象にある種の自己主張を託し出すとそれは所有だし依存である。 洗濯機の色やフォルムなんてどうでも良いでしょう。 道具だからだ。 派手な車に乗っている人などを見ると、私は率直に「何と弱い御仁か」と思ってしまう。


3/20(日)

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演歌の歌のメロディーは、基本的にメリスマティックだ。 殆どの歌詞が七五調とかそれに近いものだったりするんで、旋律の方がそっちに従った結果、あのようなメロディーになりがちだったりするのだろうか。 とにかく歌詞とメロディーがタイトに同期していない。

しかし演歌作品を聴いていると、あのメリスマこそが、日本人の琴線に触れている最大の点であるようにも思えてくる。 進行を遅滞させることによって、歌詞世界を程よく反芻できるということだろうか。

一時期、端唄・小唄の類を調べていたのだが、あまりに歌詞の進行がスロー過ぎて逆に理解し難かった。 しかしあの時代の人に現代のPOPSを聞かせても、歌詞の進行が早過ぎてきっと処理が追いつかない。 演歌は、現代POPSと前近代(近世)POPSの間の、過渡的なPOPS(声楽)ってことになるのだろうか。 演歌ってすぐ「日本の伝統」とか言うけど、実はそんなに歴史も無いんだよね。


3/19(土)

人口がシュリンクしていってるんで、経済は上手く回らなくなっていると言う。 私に経済は分からないけど、実感として分かるような気もする。 学校みたいなのを経営しているところは、殆どどこも生徒数が激減して苦しそうだ。

人手が足りないらしくて、移民の受け入れについてもそろそろ本気で議論がなされているとか。 しかしそもそも人手ってそんなに必要なんだろうか。 雇用を維持するため、無理矢理人手による社会を作ってきた面もあるんじゃなかろうか。 本当は建設現場に今ほどの人は要らないだろうし、人を配置せねばならないと言う制約を無くしさえすれば、そういう人の要らない体制はあっという間に出来上がるのではないか。

「音楽なんて夢みたいなことやってる奴に何が分かる」と言われてしまいそうだが、実は芸術分野とかの方が仕事としては残ったりして。 本質的に人間が携わる必要がある現場って、むしろ芸術とかなんじゃなかろうか。 機械で代替できないもの。


3/18(金)

風邪が流行ってるみたいで、ウチも学級閉鎖なみの事態に見舞われていた。 みんな風邪引いてやんの。もしかしてスタジオで感染してるのか。まあその割には私は平気だが。

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3/17(木)

昨日の自分と今日の自分が同じ自分であるのは、「同じ」であると言う、自分なりの条件を満たしているからだろう。 例えば親などに、乳飲み子であった頃の私が寝小便たれた、とか言われたところで、現実感を伴った我がこととは思えない。 無論、羞恥と言う論理も成立しない。

瞬間毎に自己の連続性が途絶える猫などには、当然のように羞恥が成立しない。 連続性を成立さしめているのは言語である。 言語が壊れれば、人と言えども、昨日の自分がやらかした何事にも辱められず、また同時に、明日の自分なんて他人だから、借金などもいくらでもできる。 どうせ返すのは(他人に等しい)未来の自分だもの。

彼と我とは違う。 当たり前のことである。とされている。 が、もし私なりのある条件とやらを満たすなら、その彼は他ならぬ私であると言うことになる。 昨日の自分が自分だと感じられない人は、自分の中にすらこの条件が成立していないのだろう。

自他の区別が付かない人ってのはしばしば見られるが、そういう人らは、他人と自分とを同じだと見做しているわけではない。 共通性は無論のこと、違いすら分からず、何もかもがバラバラに見えているだけ。 バラバラと言うのは、混沌と言う一つの塊。 自他に境界線など無い世界。

私が私であると認めざるを得ないほどの他人とはどういう者か。 きっとある歌に、私と同じように涙することができる人。 私はその人を探すために日々音楽を作っている。


3/16(水)

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代理コードってのがある。 あるコード(和音)の役割を別のコードに担わせる。 作曲法のイロハに近い技法。

知識としてのそれを得ることは簡単で、ちょっと探せば表のようなものがすぐ見つかるはずだ。 「コードAに代替するものとしてコードB・C・Dが存在する」と言うような形で容易に知識化できる。

ただ実際に曲を作る際、その知識を援用しようとすると、違和感のようなものが生じることがしばしばある。 必ずしも言われている代理コードが代理の役割を果たしてくれない。 音楽ってものが、そんなに単純でないからだ。

「コードBはコードAの代わりになる」のではなく、「代わりになれる場合がある」と言う感じ。 なれるかどうかは、その曲を支配している力学に左右される。 この辺の楽理は、おそらく現時点で十分に解明されていない。


3/15(火)

カエサルもアレクサンドロス大王も、チンギス・ハーンも、アイスクリームを食べたことがなかった。 食べたことがなかっただけでなく、その存在すらも知らなかったから、「食べたい」と思うことさえできなかった。 この世をば我が世とぞ思ったであろう彼らにしてそうだった。 たかがアイスクリームが、彼らの想像力の限界を超えていたから。

偏差値の高い学校を出て、通りの良い職に就き、良い縁談に恵まれ、運転手つきの車で送り迎えされ、豪邸に住む。 こんなの楽勝で我が想像の範疇だ。 私が高学歴だったり金持ちだったりするからではない。 一文無しでもこんな程度のこと想像できる。

私は、分かりさえすればそれで良い。 それがどういうものであるのか、理解しさえすれば、実所有することにはさほどの興味がない。一々踏む必要を感じない。

理解のよすがとしての実体験を欲したことは、過去幾度と無くある。 今後もあるかもしれない。 私が何かを手に入れたくなるのは、本来不必要な欲しさを絶つ為。 何かに恋々とすることは、即ち美意識の狂いであるから。 本当に欲しいものを見えなくするから。


今の私が欲しいものは、今欲しいとすら思えない何か。 今映すこの現実に存在しない新しい何か。まだ知らない気分。


3/14(月)

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70〜80年代ぐらいの歌番組を、Youtubeでダラダラ見ていた。

当時何故なのか演奏は生であることが多かった。 オケを流すことって、単に録音物の再生に過ぎないわけだから技術的な障壁があった筈はない。思想がイマイチ存在しなかったってことなんだろうか。 とにかく番組(局?)毎に楽団があって、大抵バッキングは生。 アイドル物のPOPSとかに無意味なほど生演奏が使われていた。

更には、同じ曲でも番組(局)によってアレンジが結構違う。 あれはどういうことなんだろう。 発売されている音源があるのだから、「公式アレンジ」のようなものが存在するのは間違いないだろうから、違うアレンジってのは楽団ごとに編曲されたということ? 確かに楽器編成など必ずしも一律ではないだろうから、そこに応じた編曲が必要になったことは考えられる。

そもそも公式アレンジがあるといっても、各楽団が一々採譜したりするのも大変だろう。 事務所やレコードメーカーなどからパート譜のようなものが提出されたりでもしたのだろうか。 この辺も謎だ。


歌謡曲、特に演歌系なんかはイントロが二段階(二部構成)になっているものを割りと見かける。 中には三部構成もあった。

TVエディットと言うのだろうか、縮小版みたいなのを作りやすいようにアレンジされているのかもしれない。 だとしたら親切な設計だ。 演歌とかは良くも悪くもあんまし時代による変化が少ないジャンルなので、こんにちのアレンジも似たようなものなのかもしれない。


3/13(日)

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とある音源(商用)が無料化されたとか。 記事を読んでいたら、ヴィンテージ・シンセの復刻版(エミュレーター4個セット)みたいなヤツだそうな。 食指が動かぬでもないような。 因みに音源方式はサンプルプレイバックらしい。

とりあえず落としてみようかと思ったら、データサイズが(インストール・パッケージだけで)9GB以上ある。なんじゃこれは。 落とすだけでもどれだけ時間が掛かることやら。 インストールに必要なHD領域は10GB超だそうな。

上記のヴィンテージ・シンセとやらのうち、興味があったものの一つはKorg社製のM1。もう一つはRoland社製のD-50。 M1は要するにPCMシンセなわけだけど、調べてみたら実機のメモリー(波形容量)が4MBとある。 4MBのPCMシンセをどれほどのハイレート・ハイビットでサンプリングしたらギガ単位になるのか。 だし、そんなことやる必要があるんだろうか。

D-50なんて、LA音源とか言って、確かメモリーの節約のためだかで、アタック部分のみにウェーブデータ使ったような音源方式。 だからしてM1なんかより更にメモリー部分のサイズは小さいはず。 まあそのプリセットなどを丸ごとサンプリングするなら、音色数に応じてデータはかさばるだろうけど。 それでも10GBは無いわ。


私は別にサンプルプレイバックが悪いとは言わない。別に誰しもが音作りをするわけでもなかろうし。 上記D-50などは、メーカー側が狙ったものか不明だが、音作りの自由度の高さが人気の機種だったらしいんだが、と言うことはその復刻版音源、サンプリングである以上プリセット音色ぐらいしか再現できてないと思われるが、そういう(プリセット音を楽しむような)需要もないことはないだろう。

それにしても10GB超って。 HDにも限りがある。 その効率の悪さがちょっと気になってて、導入するか否か迷っている。 いくらフリーソフトでもHD汚し過ぎだろう。


3/12(土)

私は単純な記憶のようなものは勿論、「理解」ですら保持することに拘らない。 これじゃ意味不明ですよね。

ある音楽作品を作るため、ある音楽様式を理解せねばならない、と言うケースは日常的にあるんだけど、作品を作り終えた後、私はその理解を保持しない(忘れてしまう)ことが多い。 まあ、ちょっと目を通せばその理解をリロードできるように、詳細なメモのようなものを残す事は必須だけど。

理解ですらそうなんだから、単純記憶など片っ端から忘れる。 私は日々、曲を作り続けているのだ。そんなの一々保持していられるほど暇じゃない。 モノによって、その理解や記憶を援用せねばならない頻度が高いが故に、自然と長期的な記憶と化してしまうことは無論あるが。


オーケストラのような様式って、当たり前だけど最初から固定されてたわけじゃない。 紆余曲折を経てこんにちのような形に落ち着いたわけだけど、途中で半ば淘汰されたような楽器もたくさんある。 またその曲折の中で、名称(楽器名)もかなり錯綜してしまっている。

例えばバリトンとかって楽器、ご存知でしょうか。 現代では事実上、低音楽器に付く接頭語になってしまっているが、単に「バリトン」と言う楽器も存在した。と言うか現在でもある。しかも数種類。

名称の錯綜ってのも、同じ名前の楽器が複数存在するケースだけでなく、反対にある楽器の名称が地域や時代によって異なるケースだってある。 イングリッシュホルンをコールアングレと言ったり、ファゴットをバスーンと言ったりするのは有名な例だが、もっとレアな例もたくさんあって、古い楽譜だとか見慣れない言語表記の楽譜などを見ると、何の楽器を指しているか分からないような文字列を多く見かける。

クラシック音楽ぐらい携わっている人の数が多ければ、分からないことが少々あっても、調べれば大抵すぐに判明する。 この辺り、私は「調べれば分かる」から、記憶として保持することを諦めた。 脳のリソースが勿体無い。

音楽のように、必然的に研究対象が広範になってしまうものをメソッドとして採用した場合、単純記憶に脳の領域を割くようなことは極力避けねばならない。 そうしないと一生なんてあっと言う間なんだもの。 上記の楽器名なども、調べている途中である面を諦めた。 「名称が錯綜している」と理解すれば十分。


3/11(金)

最近ちょっと演歌の良さが分かってきたような気がする。 別に昔から嫌いではなかったけど。

ある時期のジャズとかみたいに、歌い手の個性を味わうには最適なジャンルなのかもしれない。 噺家の話術を味わう古典落語とかにも近いような。 個人的には女性ボーカル物の方が好きなんだけど、個性が突き抜けた歌い手は男に多いような気もする。


演歌を試しに作ってみたことがあって、今でも販売中なんだけど、私の作ってる演歌は、演歌としてはハッキリ言ってしょうもないモノだ。 無論、意味があって作っているんだけど、明らかに注意の比重がバッキングに偏っている。

今後更に演歌を作ってみるかどうか、今検討中である。 検討したものを作らなかったことがほとんど無いので、多分作るだろうと思うが。 それにしても過去に作ったような冗談みたいなのでなく、少々本気でアーティスティックな演歌を作れないものかと考えている。


3/10(木)

影山リサ、レコーディング。 昨年末にアルバム出してからまだ三ヶ月も経ってないんですが、結構ストック溜まってきました。 次のリリースは夏頃になるでしょうか。 また大量リリースになりそう。

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管を主体とした、いわゆるギャロップ調の曲を作ろうと思って、譜例のようなものを漁っていた。 有名作品、パート数多い割にはヴォイシングはシンプルなものが多いみたいですね。 しかし私は本当に管に関しては不案内なもんで、いまいちイマジネーションがリアルになって来ない。 楽器だけでも、実物をしっかり見た方が良いかもな。


3/9(水)

北朝鮮は何故にあんな極度の軍国主義国家であるか。 国民が飢えても核兵器を作りたがる。

物事ってのは何事もまあ複雑で、一言で言い切ってしまえば語弊を生むことが多い。 が、敢えて今回は言い切りたい。 北朝鮮があのようである理由は、朝鮮人が臆病だからである。 長いこと属国であった歴史がそういう感覚を生むのか、他に対する猜疑心が強く、とにかく病的なまでに兵器に依存している。 これは普通の日本人には分かるまい。幸せなことなのかもしれないが。

「同じ朝鮮民族の国家である韓国は核保有国でないではないか」と言われてしまいそうだが、多分現時点でも「核を保有すべし」と言う世論は韓国内に既にある(と言うか有力である)はずだ。 核開発などを強行した場合のデメリットと相殺して、今の時点では持たないと言う判断に落ち着いているだけだろう。 この判断も一種の依頼心による面が大きいと思われる。 つまり臆病さに起因している。

北の体制は世界的な非難を浴びているけど、ではあの土地・民族に一番合った理想的体制は何かと問われれば、答えは簡単ではない。 私などは「独裁が結局一番良いのでは?」などと無責任に思ってしまう。 ただ中国やロシアのように、国土がデカくて異民族抱えまくってるから独裁でないと機能しない、みたいな話ではない。 彼らは、放って置いたら、そういう体制を作ってしまう民族なのではないかと。いわば宿痾として。 少なくとも現体制が民情には一番適っているような気がする。


3/8(火)

覚醒剤で逮捕された容疑者を「更生させたい」とて、身元引受人に名乗りを上げている学校法人の理事長がいるらしい。 善意なのでしょうけど、なんだかなあ。

「更生できると信じている」とか思ってるんだろうけど、だから結果再犯とかやらかした時に「裏切られた」なんて言う話になる。 薬物依存は世界観なんだから、基本変わらないし治らない。 無体な期待を寄せられる当人がかわいそうにすら思えてくる。


再度やらかした際、彼は周囲から轟々たる非難を浴びる。 「周りの期待・信頼を裏切りやがって」などと。 周囲は信頼したと言うが、要するに「クスリに手を出すな」と言う手前勝手な要求を突き付けただけなんだが。 繰り返すが薬物依存は世界観である。 そりゃやるよ。

薬物依存は治らないとされている。 治療とか更生とか言われているものも、つまりはどれだけ薬物を絶っている時間を長く保てるか、と言うのに尽きる。 絶っている時間のうちに一生を終えられればそれが最良なのであろう。

私は何をやっても無駄と思うわけではない。 解決方法がどこかに存在している可能性だってあると思っている。 が、上の理事長さんなどのイメージする更生とかそう言うものを単純に期待しているわけではない。 何事においても、現状を正確に理解した方が本当の意味での解決にも近づくと思うんだけど。


3/7(月)

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ある未発表曲を、チェックがてらと言うわけでもないが、聞いていたら、結構重大なミスを発見。 リズムのあるパートがズレてる。今まで気付かなかった。

要するに計算ミスが原因なんだけど、MMLってこういうことがたまに起こる。 私の計数能力の問題もあるけど、MMLって普通のシーケンサーとかトラッカーとはタイムラインの捉え方が違うと言うか、早い話小節とかそういう概念が存在しない。 各トラック、休符も含めて曲のアタマからベタ打ちする感じになるんだけど、曲が長くなるにつれ、ミスによるズレが生じやすい。 そしてそのズレてるパートがハイハットとかだったりすると、ちょっと聴いたぐらいでは判別つかない。

今私がこれをいくら説明しても、分からない人には分からないかもしれない。 MML打ってる音屋さんには分かると思うが。 結局、今日二時間半ぐらいかけて再マスタリングした。リリース前で良かった。


3/6(日)

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赤ちゃんをスタジオに入れても、特に騒音とかも気にならないようで、機嫌良くしている。 が、お母さんが歌い出すと途端に泣き出す。 ベビーカーに乗せたりするなど、物理的な距離が離れてても平気だったりするのに、歌い出すともうダメ。

「歌」って作業が、集中を要するものだからだろう。 お母さんが歌に集中すると言うことは、即ち自分の存在を忘れると言うこと。 彼にとってそれは、生存の危機を意味するのだろう。


3/5(土)

他人を恫喝する人と他人に阿諛する人は、つまりは同類である。 自分以外の世界が敵に見えるが故にそうなるからだ。 他人と交友することと他人を懐柔することは違う。

恫喝をこととする不遜な輩が好かれないのと同じように、他人に媚び諂う人は一般的に好かれない。 人間のある論理性に抵触するからだろう。 臆病な態度を取る者が、ある種の危険性を察知されるのと同じ。

媚びる人にとって、自分以外の世界は皆「敵」なのだろう。 敵だからこそ懐柔する必要性が生まれる。 どうして全てが敵になってしまうのかと言うと、友情成立の基礎となるのが言語(脳機能)であり、ある性能を満たさない脳にとってそれが難題だからである。


3/4(金)

「会社の社長は、雇われている社員よりは優秀である」などと何となく思われていたりする。 でも必ずしもそうだろうか。

「起業するのも会社を維持するのも大変に決まってるじゃないか」と言われそうだ。 でもその大変さに想像が及ばなかった場合、その人にとってその作業に着手することは容易である。 そういう人と、「その大変さを請け負う腹積もりのある人」とは全く違う。 その大変さが想像できてしまうが故に、そもそも取り掛からない、と言う人は多いはずで、詰まるところそういう人らが雇われる側に回りがちなのではないか。


私はどちらが優れているか、あるいは劣っているかと言う話をしているわけではなくて、私なりに状況を分析しているだけ。


3/3(木)

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生物には、ある自然条件から逃れられなかったが故に独特の進化を遂げたものってのが、ごく普通に見られる。 と言うか、自然条件こそが進化を促しているのだが、音楽にだって似たような現象は見られる。 盲人の耳が人並み外れた発達を見せることはしばしばあるが、あれも一種のソレである。

私がChiptuneに興味を持った理由の一つはそこにある。 ある時代のコンピューター・ゲームマシン等に搭載された音源チップは、最大発音数が3であるとか、音楽作品を作るには物凄く自由度の低いものであった。 しかし、であるが故に、ある時代のゲーム音楽の世界には、独自のアーティキュレーションだとか音楽様式のようなものが、いわば代替的に発達した(だからして、私が関心を持ったのも、厳密にはChiptuneと言うよりゲーム音楽である)。


実は私はChiptuneではなくて、日本のフォークソングについて考えていた。 FolkSong(=民謡)と言うよく分からないジャンル名だが、無論民謡のことではない。 昭和のある時期の一流行音楽のことだ。

フォークにも色々あるが、編成などシンプルなものが多く、ギター一本(と歌)で完結しているものも多い。 ギター一本を伴っただけのアンサンブルなんて、それはかなり強い制約で、独自の進化が見られてもおかしくないと思ったわけです。

あと当時のフォーク・ミュージシャンらの多くが、音楽的素人だったってのも、関心を持つ一因になった。 教養ってのは、しばしば独創を妨げたりもするものなので。 とにかく、面白いものが眠っているような気がしたのです。 これはゲーム音楽においても同じことが言える。 そもそもゲームに音楽は必要ではなかった。ある時期を境に必要になるのだが、俄かに発生したゲームサウンド制作者らも、多くは音楽のプロではなかった。 そして、だからこそある種の面白味が生まれるに至った。


当時の(フォークの)有名作品などいくらか聴いてみたのだけど(こういう調べものには便利な時代になったもんだ)、それがイマイチ期待したようなものに当たらない。 これはどうしてなんだろうか。 ギターっつう楽器が、要は和声音楽簡易作成ツールだからだろうか。

歌詞世界の文学的な評価とか言うのはさておき、音楽的には実につまらないものばかりに思えた。 「素人なのだからつまらなくて当然」とか言う話ではなく、素人的な自由奔放さを感じないと言おうか。 むしろ中途半端に教養に毒された、通俗性みたいな部分ばかりが耳に付く。 無論例外のような作品もあるんだけど、概括するならそんな印象。


3/2(水)

STAP細胞事件、当事者の彼女が手記を出したそうだ。私は読んでない。今後読むかも分からない。

絶賛、と言うか共感する意見がネット上に溢れていると言う。 皆それぞれ私(わたくし)を抱えて生きているのだろうから仕方ないか。


「物事を白か黒かで判定するのは極論だ。彼女を全否定するのは如何なものか」などと言う意見があると言う。 「偉大な発見の多くが、最初は異端視された」とか。

別に誰も彼女に死ねと言っているわけでなし、全否定ではないだろう。 ただ、科学分野における新発見のように、シビアな実証性が求められるものについては、条件が揃わねばそれは認められないと言うだけかと思われる。 また、内容によっては部分的にでも有用性が認められるケースもあろうが、今回のケースではそれすらも無かったと言うことだろう。 この件は科学の問題ではなく、心理学とか精神医学の課題のように思える。


人に取り入るのが上手い人、ってのが(人間の一典型として)存在する。 営業などの仕事をさせたら、他人に抜きん出た成果を上げるかもしれないし、その人の上司や親などと言う、見る側の立場によっては実に好ましい(都合の良い)人物に映るだろう。 彼女に籠絡された(結果的に騙されてしまった)人らも、一部はそのように、立場が物事を見え難くしていたのではないかと思われる。

他人に取り入るのが上手い人は、そうでない人に比べて優秀なのか。 「業績」のような、ある面だけをクローズアップすればそうなのかもしれない。 しかしこれもそんなに単純じゃない。 例えば「おべんちゃら」を言おうにも、「歯の浮くような世辞など言っては、むしろ相手に失礼ではないか」などと言う論理が働いてしまうだけでも、それが引っ掛かりとなって言えなくなる人は多いだろう。 引っ掛かりを覚えるのはその人の論理性だし、脳機能である。 それが無ければその人は、思い付いたことを何だってできる。 思い付いたことを「せずに留めておくこと」も、つまりは脳機能である。

ある行動を、論理性に抵触するが故に採れない人と、そのある行動自体を思い付かない人とでは、結果的に採る行動が似ていたりする。 しかし、二者の出す解は同じでも、式(その解を導き出す思考のプロセス)は全く違う。


「ある得を拾う為、思い付いたことを何だってできる人」にとって、世界は「早い者勝ち」だろう。 だから行動が不正などにも傾きやすい。 STAP細胞の彼女が「ああいう事件を起こしたこと」と「あの地位を得たこと」は、おそらく根を同じくしている。


3/1(火)

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とあるサウンドファイルのコンパイラーを試しに入れてみたのだが、全く使えない。 使い方が分からない。 コンパイルそのものも通らないし、付属のデモソングも再生できない。 何が悪いんだろう。

添付のマニュアルが簡素を極めていて、どうも意味が掴みかねる。 この種のツールってほぼ有志の手によるもので、大抵商用プログラムのような懇切丁寧なマニュアルはない。 モノにもよるが、ユーザーの絶対数も少ないので、ネット上などにも情報が少ない。

この状況って一概に悪いってわけでもなくて、その代わりと言うのも変だけど、ほとんどのプログラムがフリーで配布されている。これは実にありがたい。 でも使いこなすにはそれ相応のスキルが必要になる。 今の私は、まだそれを持ち合わせてないってことなんだろうな。


2/29(月)

友達って何なのだろうか。

私の知っているある大学生の女の子は、複数の習い事をやりつつ、学校では複数のサークルに(名目上)所属し、他所の学校のサークル(いわゆるインカレ)にも所属し、アルバイトも複数箇所を掛け持っている。 話を聞くだけで、その多忙さに目が回るようだが、本人はそうでもないらしい。 家でじっとしている方が苦痛のようだ。

属しているそのコミュニティーの数に比例して、当然知り合いの数も増える。 その複数のアルバイトのうちの一つは水商売で、客などとも(仕事上の付き合いを超えて)懇意であると言う。 こういう人って、果たして「友達の多い人」なのだろうか。


ある時彼女は、所属しているサークルの一つにて、「合宿」に行くなどと言っていたが、前述の通り彼女の日常は多忙を極めている。 そのサークルとやらに普段どの程度出席しているか不安に思ったのだが、聞くと予想通り「ほとんど顔を出していない」そうな。 そんな程度の関わりであるコミュニティーの、それも合宿などに顔を出して気まずくないのだろうかと思うが、彼女は意に介さない。 部費で旅行に行けるからラッキー、ぐらいな気分だそうな。

普段から部に出入りしている他の部員らは、互いにそれなりに懇意であるのだろうに。 私なら、自分だけ浮いてしまいそうで、そういう会合(特に合宿などと言う)に積極的に顔を出したいとは思えない。 彼女と私では、友人観がかなり違うようだ。

彼女には恋人もいると言う。 が、そんなに会うわけではないそうな。 それも納得。 彼女の話を聞いているだけでも、恋人とゆっくり過ごす時間があるように思えない。 どう見ても、恋人がいると言う名目が欲しいだけのようにしか見えない。 そう言えば、その件について話していた当時彼女は、その彼が何ヶ月も海外に行っていて、会おうにも会えないとか言っていたように記憶する。 別段淋しそうでもなかったが。

彼女は、今のその恋人と結婚しても良いそうな。 それほどに愛している、とか言うより、彼女にとっての人間関係と言うのは、常にその程度の熱量でもって推移していくものらしい。 そう言えば彼女は、私に恋人の話をする際、彼のプロフィールとして「慶応大生」だと言っていた。 恋人を選ぶ重要な基準であったのだろう。 相手の精神に力点を置いていない。置きようがないのかもしれない。


彼女はインカレのサークルにはわりかし顔を出していたそうで、そこでの出来事などを話してくれたのだが、私が「インカレのサークルなんて、ほとんどは1〜2年のうちにメンバーの大半が雲散霧消するよ」と言ったら、「ウチらは違う」と言う。今の日々が永遠に続くとでも言いたげであった。 私は一般論を述べただけなので、結果は彼女の言う通りになるのかもしれない。

ただ、彼女の返答も含め、如何にも彼女らしいと私は思った。 私の描いている彼女像と半歩もブレていない。 もしそこで彼女が私に「本当にあなたの言う通りなのかもしれない」などと答えたら、それは彼女が別の人生を歩み出しているに等しいが、そうではなかった。


彼女には、知り合いの数こそ多いが、本当の意味での友達は皆無だろう。 もしかしたら、死ぬまで一人もできないのかもしれない。 彼女は実生活において知り合いの数を増やしているが、ネットワークなどを使えば、その百倍の知り合いを作ることだって可能だろう。 しかしながら、友達とは、友情の濃淡とは、どれだけ気持ちを共有できるかによって決まる。 心の遠い場所に漂っている他人が、何千人何万人いようとそれは一人の友人もいないのと同じ。

本当の友達を作る方法があるとしたら、それは誠実に生きることだろう。 それぐらいしか無いだろうと思う。 私は友達が欲しい。 今でも欲しいよ。 多くの友達なんて要らない。本当の友達が欲しい。 年齢も性別も国籍も全く関係ない。


2/28(日)

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ウチの楽曲のライセンス契約をしたとかって話をしてたんだけど、データのアップロードとタグ付けの作業が、先日やっと終わった。 ある程度数は絞ったつもりなんだけどそれでも300曲近くあった。

今録音済みかつ未発表のトラックが、多分30曲くらいはある。 レコーディング前のストックで作品化を予定しているものが多分100曲くらい。 数年内にまたあの作業(100数十曲分も)やることを思うと頭痛がしてくる。


2/27(土)

誰かが何かをやらかした際、「教育が悪い」みたいに総括する第三者って割りとよくいますよね。 本当かしら。

人間ってどこまで教育で作れるものだろうか。 私は世間の人間観・教育観にかなり懐疑的だ。 人間ってつまりはハードウェアなのではないか。

一般に「個性」とか言う場合、大抵は、身長や腕力と言った身体(能力)差を指さない。 精神の個体差みたいなのを指すわけだけど、精神って何ぞや。 要は脳機能だろう。 各自生まれ持った脳機能があり、そこに係数としての環境がある。 これだけでは? 生まれ持った身体能力があり、そこに修練を施すことによって磨きを掛けたりできる。これと何も変わらない。

無論ここで言う環境には教育も含まれる。 係数と割り切るには、環境が人格に及ぼす影響は甚大だ。 でも係数はあくまで係数。生来の、ハードウェアとしての脳機能を修正できるわけではない。


人間は、大雑把にだが「二つに分けられる」と私は考える。 そして、そのそれぞれに適した教育法がある。 現代社会はここに気付いていないように見える。欧米人とか気付いているような気もするが。

ここで言う「二つ」とは、端的には、良心を持てる素質があるか否か、と言うことになる。 良心を持つ者にはそこを伸ばすことを教育の主軸とし、そうでない者にはストイシズムを叩き込み、傾向性による行動を制限する。 教育とは根源的にはこれしかないのかもしれない。 後者には、「調教」と言うニュアンスの近い言葉もある。

私には、ある程度の年齢の子供を、ちょっと眺めているだけで、大体この選別が可能であると思える。 0歳児とかだと難しいかもしれないが、三歳児とかなら全然可能だ。


冒頭のテキストと一見矛盾するようだが、やはり環境(無論教育も含む)って大切だ。社会の秩序を保つためには。 日本社会が採ってきた伝統的教育法は、どちらかと言えば上で言う後者の方だけど、これは仕方ないことだったのかもしれない。

私は教育は大事だと思うし、同時に今の教育システムをよろしくないと思うのだけど、それは一般に言われる「教育がなっとらん」と言う意見とは内容において違う。 もっと根っ子の部分で間違ってると思うわけです。


2/26(金)

また独り言のような文章で悪いが、Chiptune作りにおいての雑感。

再三言ってるんだが、あっち系のツール(特にプレイヤー)とBPMベースの音楽制作環境の相性が悪過ぎる。 そもそも80年代とかその当時のゲーム機のサウンドチップ(&その制御プログラム)に、BPMと言う概念は存在しなかった。 だから現状のエミュレーター類も、実機に忠実であればあるほど、BPMベースの環境とは相性が悪い。 ここ一年くらいのChiptune作りも、ほとんどテンポ・BPMとの戦いだった。

NES(初代ファミコン)音源関係は、ツール類も充実していて、プレイヤーなんかも豊富に存在する。 が、正確なBPMで音を吐き出してくれるものは稀有である。

私が(もう十数年来)愛用しているプレイヤーにG-NSFってのがある。 エイリアス・ノイズは常に乗るし、トラッカーなどでの制作段階とでは各チャンネルの音のバランスがかなり変わってしまうし、そんなに評判の良いものでないように見受けられるが、私がそれに拘る唯一の理由はBPMの正確さ。 どうして他のプレイヤーはあのように正確なテンポを吐き出せないのか。またクリエイターの皆さんの要望も、その点に集中しないのか。 正直分からない。


実のところ、この作業(Chiptune作り)を始めた頃に比べれば、随分クロックだとか(つまりテンポ)について、私の理解も進んだ。 以前このページに書いていたような蹉跌についても、今考えれば微笑ましい気分で読めたりする。 恥ずかしいような気にもなるんだが、思索のログなんで一応残している。 私と同じようなところで躓いている人もいるかもしれないし。 蛇足だが、この「自分と同じような人」を感じることが私の日々の動機になってもいる。

昔に比べれば分かるようになったと言っても、未だに分からないこともたくさんある。 最後まで分からないこともあるかもしれない。 因みにテンポのことについては、旧タイプのゲーム機(のサウンドチップ)と、こんにち的なBPMでは、カウントのし方が決定的に違うので完全なる相互乗り入れは難しいようだ。

今のところの私なりの解決策としては、計算式を用いて(整数での)BPM換算が可能なものにするか、あるいは近似値で作ったオーディオデータをタイムストレッチとかで強引にBPMとシンクロさせたりしている。 前者については、本気で説明しようと思えば膨大な文章量になるからとりあえず詳しくは触れないが、要するに曲の(テンポ)方を妥協させるような形を取ること。

個人的な感想。 各種コンパイラーの類は、どうせ正確なBPMで走ってくれるサウンドファイルを作れないのなら、コンパイルの段階で、MMLとかにBPMベースのテンポ指定の記述を求める仕様を改めた方が良いような気がする。 使い慣れない、例えばHz指定のクロックとかでも、不正確なBPM指定よりマシな気がする。


2/25(木)

夢を見ることって誰にでもできる作業ではない。 脳内で行われるタスクだから、相応の処理能が問われる。 アプリケーションに推奨スペックがあるのと同じこと

夢見るのに必要なのは時間の展開能。 時間の展開能と言うのは、実は人間そのもの。人間の理性・意識すらもそこに展開されるものだから。

理性と傾向性は違う。 傾向性とは、水が高いところから低いところに流れると言うような、人間の理性とは異なる原理にて発動されるもの。 酒やタバコが止められない人はいるが、そんなのを夢とは呼ばない。 私は音楽が好きで、音楽を作りたいのであって、音楽作りが止めれないのではない。

性犯罪者は再犯率が異常に高いと言う。 性欲が傾向性だからである。 彼らは性犯罪行為をやりたいと言うより、止められない。 彼ら自身が傾向性の奴隷だからである。 カエルが動く物に食いつくのと同じ。 傾向性の趣くままにしか生きられない人など、実はこの世に存在しないも同然だ。

夢を問われた際に「医者になること」などと反射的に欲しい成果を挙げる者がいるが、それは夢ではない。 金が無いよりはあった方が良い、異性にモテないよりはモテた方が良い。こういうのは単なる物欲で、夢ではない。 物欲の趣くままに生きることなど人間以外の動物にもできる。 夢とは生きる時間を想像すること。楽しめそうな時間を思い描くこと。


2/24(水)

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初代ファミコン(NES)の拡張音源にMMC5ってのがある。 その前に拡張音源ってのについての説明を。過去にもしたかもしれない。 ハード(ゲーム機)に音源チップってのが搭載されているわけだが、仕様上出せる音に限界がある。 より高度な音楽表現のために、ROMカートリッジ側に音源チップを搭載したモデルが当時いくつか登場した。

MMC5ってのは、要するに内蔵音源の矩形波チャンネルとほぼ同等のものだ。 内蔵音源に2つある矩形波チャンネルが、倍の4つになる感じ。

しかしその+2チャンネル、意外と大きい。 NES内蔵音源には、リバーブとかディレイとかそういうエフェクトはついてなくて(どちらが良いと言うわけでもないが、ビブラート・ノートエンベロープ・デューティエンベロープ等のエフェクトは掛けられる)、仮にそれっぽい効果を出そうと思うなら、ノートの記述で無理矢理(擬似的に)表現する形になる。 一つの旋律に2チャンネル使えたりすると、作ってるこっちは大変助かる。 そこまでしてその音源を使う意味があるか否かはさておき。

今回そのMMC5をほとんどフル活用した曲を作ってみた。 やっぱし内蔵音源のみとは一味違います。


2/23(火)

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神田優花のChiptuneシリーズ、一応予定の楽曲は作り終えたつもりだったんだけど、急に思いついてもう一曲作り足すことにした。 今その曲の骨組み部分が一区切りついた(完成した)ところ。

しかしプロトタイプの曲たちを聴いていると、それらが2タイプに分かれることに気付く(作ってる段階で分かってるが)。 Chiptune(系の音)前提の曲と、それ以外。 それ以外の方は、出来上がる時期が違えば全く違ったアレンジになったろう曲たち。 普通のPOPSなどを無理矢理Chiptuneに仕上げたみたいな。

後者の中に、わりかし気に入っている曲もいくつかあって、機会があればリアレンジとかしたい気もしないでもない。


2/22(月)

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時間は人間の意識の中にある。意識の中にしか存在しない。 意識、つまり言語。 人間の現実感と言うのがこれである。 時間とは現実感。

言語の主たる機能は「同定」である。 混沌たるこの宇宙に漂う、一々の対象に、言語でもって照準を合わせる。 脳内にある概念と目の前にある対象の照合、ってのが最も基本的な同定作業だろう。

何かと何かを同じとする機能。 ペットボトルのコーラをコーラと言う言葉で同定する。 コカコーラには同一ブランドのシリーズ商品がある(コカコーラ・ゼロだとか)。 それらをひっくるめて同じコカコーラとする時、概念の階層は一つ上がる。 コカコーラとペプシコーラを同じコーラとするのも言語である。 ペットボトル飲料、清涼飲料水などという括りで階層が上がっていく。 分かりやすく表現しているつもりだが、この階層性はもっと多方向に複雑に絡み合っている。

この同定作業が階層を究極までに上げた結果、神(God・The Absolute)の概念は生まれた、と私は見ている。 アートとは、この階層を上り詰める作業である。 Godの無い言語世界である日本に、芸術家が生まれにくかったのは当然かと思える。

コーラのような物質は単純である。 単純である理由はそれが物質であり、指差せば誰にでも分かるからだ。 解釈に差異が生じにくい。 形而上的概念だとか、階層の上位にある概念には差異が生じやすい(高層に位置する概念は、必然的にメタフィジカルにならざるを得ない)。

「心」と言う複雑怪奇なもの、これを同定すれば自己が生まれる。 昨日の私と今日の私を「同じである」と、他ならぬこの私が感じるからこそ私は存在する。 それが私の自己である。 言語による同定作用が弱ければ、この自己が凝固しない。

目の前に広がる、刻々と変化し続けるこの「世界」と言う複雑怪奇なもの、これを同定すれば時間が生まれる。 これが時間である。 同じく、言語による同定作用が弱ければ、その人に時間は存在しない。

自己と時間とは、我々の中に流れているか外に流れているかと言うだけの違いであり、本質として同じものである。 私の自己はこの宇宙の一部であり、時間は私の中にも流れている。


人間の本質とは、その正体とは、この時間のことだと思う。 金も名誉も何もかも、我々のこの「時間」に映りこんだ一ファクターに過ぎない。 私が音楽を好きな理由は、私の外に転がっているものでなく、私の中に、この時間の中に流れる何かだからです。


2/21(日)

人類を大別するならば「貰おうとのみする人」と「それ以外」である。 キリストじゃあるまいし、「与えようとのみする人」なんてそうそういないだろう。

貰うことは、大抵誰にとっても嬉しい。 与えることに喜びを感じられる者でも、貰って悪い気分はしないはず。 誰かに何かを与えようと思ったその時、人は自分に何かを与えてくれる人の気持ちを知る。 誰かを愛することによって、愛の意味を知る。

「貰おうとのみする人」だって、誰かに何かを与えることはある。 でもそれは、自分が何かを貰うための投資に過ぎない。 貰おうとのみ考えているんだもの。 与えてもらうことにのみ執心する人は、誰をも愛さないばかりでなく、愛の意味を知ることがない。 本当の地獄とは、愛されないことでなく、誰も愛せないこと。


私はこの二種類の人類、ほぼ生まれ持った脳機能によって選別されているように思えてならない。 酷な気もするが、後天的にリカバーできないのかもしれない。 リカバーできなかった場合、その人は地獄の中でその一生を過ごすことになる。 いわゆる良心、現実感なども、人間が生まれ持つものである可能性が高い。 それらはおそらく、全て脳の同じ部分をその基盤としている。


2/20(土)

NSF(ファミコン用サウンドファイル)をトラッカーに読み込めるプログラムがあることを最近知った。 無論読み込んだデータはトラッカー上で編集もできる。 逆コンパイルみたいな感じ。

手元にある自作のNSFを試しに読み込んでみたが、それなりの精度と見た。 読み込み・書き出しが同じプログラムでできるんだから、もう上書きとかもできるようにして直接NSF弄れたら楽なのに。 さすがにそこまでは無理なのか。

NSFを吐き出せるトラッカーはいくつも存在しているが、MIDIシーケンサーっぽいインターフェイスからNSFを直接吐き出せるようなプログラムを誰か作ってくれないものだろうか。 現状そういうものは存在していないか、あるいはあったとしても、私がちょっと探したぐらいでは見つけられないくらいレアな代物。 ってことは需要そのものが無いってことなんだろうけど、何故なのだろう。 あったら便利そうなのにな。


2/19(金)

「奇面組」についてまた考えていた。 しつこいようだが、気になるものは仕方ない。

奇面組はとにかく登場キャラクターが多いのだが、脇を固めるキャラクターの多くは奇面組と同じく5人セットになっていて、「〜組」とか言う風に命名されている。 例を挙げると「腕組」・「番組」・「御女組(おめぐみ)」など。 見て分かる通り、ほとんどが何らかのダジャレになっている。 しかし、何故かプロットの中心である「奇面組」は同じようなダジャレになっていない。

ダジャレの成立を殺してまで奇面組と言う名を採ったと言うには、そもそも奇面が造語であるし、完成度が低い。 構想段階で「〜組」をいくつか作ってみた上で、消去法のような形で奇面組を主人公に据えたのだろうか。 だとするなら、多少納得できる面もある。

主人公「〜組」と、ライバル「〜組」の対決を描こうとする際、例えば主人公が腕組であった場合、ネタがスポーツに寄り過ぎる。腕組が「スポーツ万能」を売りにしたグループだから仕方ない。 その点奇面組はわりかしバランスが良く、どの組と対決させてもそれなりに話になる。 果たしてそれが真相なのかは分からないが、とにかく私の知りたいのは作者の思考のプロセスだ。


「奇面組」は人気が出たと見えて、後にアニメ化される。 このアニメ化についても私は考えさせられる。

当時人気絶頂だったおニャン子クラブ(と言うよりその拠点であった番組「夕やけニャンニャン」)との強力なタイアップの下、アニメ化は進められたらしく、番組主題歌は同一勢力で塗り固められている。 クレジットはグループ内ユニットである「うしろゆびさされ組」だの、関連商品「息っ子クラブ」だのとあるが、全部出所を同じくしている。

それにしてもあの秋元康さんと言う人は、アイドル・ビジネスの天才だと思う。 登場人物の一人、物語のマドンナ役の女の子は、奇面組のリーダー零くんに好意を持っている、と言う設定であるのだが、そこに目をつけたらしく、主題歌はそこに焦点を当てた歌詞世界を展開していく。 そこに心打たれた層は確実にいよう。 と言うか、その層こそ彼がメシの種にしているいわば「上得意」である。

「クラスで一番ダメが奴にマドンナが恋をする」と言うストーリー。 あたかも漫画そのものがそう言うテーマであるかのように錯覚させられるが、そうではない。 原作において上記の設定は枝葉末節に過ぎず、無くても問題なく話は進められる。 私は元の原作から読んでいるが、あれはあくまでアニメ化に当たって換骨奪胎された部分である。 やり口が巧妙過ぎて忘れてしまいそうになる。


2/18(木)

狭義のPSG音源とは、『GI社(現在はモトローラ)およびGIからスピンオフしたマイクロチップ・テクノロジーのAY-3-8910、およびその後継製品のAY-3-8912 / AY-3-8913相当品を指す』そうな。 物凄い普及機であるのだが、それ用のサウンドファイルのエディターに良いものが無い。少なくとも私には見つけられない。

無論あるにはある。 一つ入れてみたのはAtariのエミュレーターを介して起動するタイプのトラッカー。 しかし使い難い。 モノが悪いと言うのではないのだろうが、私の感覚に合わない。 あと文字が読み難い。 またエミュレーターの挙動がどうも扱い難い。単なるアプリケーションとしてでなく、PCを完全に乗っ取ってしまうような形でしか立ち上げられないので、例えばマニュアルのPDF読みながらの作業すらできない。 とりあえずそれを使うことは早々に諦めた。

任天堂の初代ファミコン(NES)で使われた拡張音源の一つに「SUNSOFT 5B」ってのがあるんだが、それがどうやら上記PSG(AY-3-8910)の互換品らしい。 完全なる互換品なのかはちょっと不明だが、まあある程度の互換性があれば私程度の用途であれば十分かと思える。 他にもAY-3-8910(≒YM2149)互換機能が搭載された音源は、YM2203・YM2608などいくつかあって、それらを制御できる環境があれば、PSG的な音は一応作れる。

互換品と言ってもそれそのものではないので、多少の違いはあるのかもしれない。と言うか当然あるだろう。同一型番の製品にだって個体差とかあるくらいなんだから。 しかし、私がそもそも実機とかに対する拘りが全く無い人なので、ある程度似たような挙動を示してくれればそれで十分なんです。


ファミコン拡張音源ならエディターもある程度充実していて、MMLでもトラッカーでもサウンドファイルを作れる。 過去にとりあえずPSG音源ベースで作ってみた(バッキングにPSG音源のみを使用した)曲があるんだけど、それは上記SUNSOFT 5BをMML記述を元に発音させている。

今後同様のフォーマットにて曲を作る際には、(NES用の)トラッカー使ってみようかとも思っている。 一応、SUNSOFT 5Bを含む拡張音源に対応しているものもあるし、MMLよりは細かいエディットに向いていると思われるので。

PSG全盛期(80年代くらい?)のサウンドプログラマーがどういうテクニックを用いてあの音源を制御していたのか、私にはよく分からない。 サンプルとなりうるモノもほとんど耳にしていないので本当に掴み難い。 仕様上の限界は判明しているので、ある幅の中で粗方の想像はできるんだけど、こんにちのトラッカーなどで実現できるような細かい演奏表現ってあんまし当時は用いられていなかったのではないだろうか。 だからあんまり作り込み過ぎると、らしくなくなってしまうようにも思える。


2/17(水)

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神田優花、また歌録り。 ここ二週間で4曲録ったことになる。

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影山リサ。 前回流れた歌録り、今度こそ終えました。

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2/16(火)

音楽のライセンス・ビジネスについて、また考えていた。

例えば映画とかドラマのようなものを作る際、音楽ってのはほとんど不可欠と言って良いものだが、それを作る業者としてそこに参入するのは絶望的なくらいに難しい。 参入障壁が高いってことなんだけど、日本の業界ってどこも似たり寄ったりのような気もする。 新参者って基本的に好まれないものだろうが、日本社会はその傾向が特に強い。

需要があるなら市場も成立して然るべきだが、そうならないってのは、本質的には需要そのものが存在していないってことなのだろう。 建設業界とかに近いのかも。 仕事自体は事実存在しているけど、それらが需要に支えられてはいないと言う。

アメリカなんかはコンテンツの量が日本とは比べ物にならない。 例えばはテレビは、地上波だけで千数百局あると言う。人口は日本の倍程度のはずなのに。 と言うか、日本が異常なくらい少ないのだろう。 チャンネル数が少ないと言うのは、つまりはここにも障壁があるってこと。

コンテンツの量がそれほど桁違いに多ければ、そこに付随して音楽の需要も当然ある筈で、そこに入り込める(作品を供給できる)のなら、多少なりともウチの音の膾炙に繋がるかもしれない。 そう思ってこの度、アメリカのライセンス仲介業者と契約することにした。 契約書とか全部英語で大変だったけど。

日本はチャンネル数(コンテンツ)が少なく、音楽などの「部品」は生産過剰に陥っている。 むしろ主題歌が広告枠として売られていて、制作費の重要な供給源となっている。 しかもその枠も限られているので、買うことすら容易でない。

どこまで言って良い話か分からんけど、十年ぐらい前に、付き合いのある某アニメーション学院の役員さんと打ち合わせしている時に「御社がスポンサーになっている深夜アニメの主題歌とかに神田優花使ってくれないか」みたいな話をしたんだけど、「メーカーに完全に押さえられていて事実上不可能」みたいに言われた。 スポンサーでも容易でないらしい。

ついでながら「声優としてのブッキングなら比較的やりやすい」みたいな話を同時にされたんだけど、神田優花の商品イメージと深夜アニメの声優ってのがあまりに懸け離れてるんで、事務所として乗り気になれなかった。 なんか話が逸れたな。


映画のDVDなんかを見ていると、CMの入らないことに贅沢さみたいなのを感じる(最近は本編の前とかにしつこくCMを入れてあるのも多いけど)。 我々がテレビを無料で見られるのは、そこにCMが入っているからである。 その広告料でメイン・コンテンツの制作費が賄われ、宣伝された商品の代金には広告費が多少上乗せされていると言う構造。 映画にはCMが無いから入場料を取られる。 音楽リスナーで言うなら、サブスクリプションの無料会員は広告を見せられるが有料会員はそうでない、と言うのにほぼ相当する。

昔のアニメなんかを見ていると「ぼくドラえもん」みたいな趣旨の主題歌が多くて、ああいうのも今考えれば、ある意味贅沢な仕様と思える。 主題歌が広告枠として埋まっているアニメとかって、つまりは安物なんだ。 最近ではキャストさえも、芸能事務所のタレント広告枠に成り果てているケースが多い。

テレビの視聴率が悪い、映画業界の景気が悪いってのは、つまりは広告なんて視聴者は見たがらないってことでないのだろうか。 純粋に「面白い映画を作ろう」と言う動機にて作られたものあれば、そこそこ面白いに違いない。 そういう単純な動機で作られたものの部品として、もしウチの音楽に需要があるなら願ったり叶ったりってところだ。 こっちはこっちで、単に自分らが納得できる音楽作りたいだけなので、偶々にでも双方のニーズが合致したりすれば素晴らしい。 別にそんなに期待はしてないし、我々の今後の活動も変わらないけど。


2/15(月)

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手元に「イスラムと音楽」と言う本がある。 ある程度予想の範疇ではあったけど、読む前に淡い期待を抱いたような内容ではなかった。

実践的な楽理書のようなものではなく、譜例のなどもほとんど載っていない。 イスラム世界における音楽史やコーラン・ハディースにある音楽絡みの記述についての考察、と言った内容。 私にとっては、マクロモデル満載の経済理論書を期待して手にしたら、経済思想史の本だった、みたいな状態。 面白くないことはなかったけど。

アラブ・イスラム世界にも音楽はある。 私も一時期、中東音楽について色々調べていたのだけど、あれを一民族音楽として見るなら、それなりに立派な代物ではある。 ただクラシックや雅楽のように、国家、あるいは教団の庇護の下に発展した宮廷・教会音楽ではない。

コーランやハディースに、明確に音楽を禁ずる旨の記述は無いらしい。 ただ、イスラムの教えが、あんましその手の娯楽に好意的でないのも事実。 アラブ世界にルネサンスが生まれる素地はまあ無い。


2/14(日)

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佳乃さん、久しぶりのスタジオ入り。 別に隠すようなことじゃなんで言いますが、昨年末から産休取ってました。 この度めでたく復帰です。

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広瀬沙希、前回録った音をチェック。 再録物なんだけど、私の感想としては、前のより全然良くなってたと思う。 公開はもう少し先になります。

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2/13(土)

とある有料ソフト(プラグイン)が、わけあって期間限定とかで無料化された。 巷では「音屋なら是非とも落としておくべき」との評価だったので、私もとりあえず落としてみた。

しかしどうも私は音(音響)ってのが分からない。 上記のソフトはいわゆるコンプレッサーなんだが、どこにでもあるフリー物との決定的な違いが分からない。 そもそもコンプってのが地味なエフェクトである上に、私が音に疎いもんで。 本当に良し悪しが分からない。


2/12(金)

年甲斐もなく、ここ最近夜を徹しての作業に明け暮れている。 ライセンス用に楽曲データをアップロード&その一々にメタデータを付与してるんだけど、数百曲もあるんで簡単には終わらない。 今も終わってない。 これからまた作業に入ります。


2/11(木)

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広瀬沙希、レコーディング。 今回も、アルバム収録用に過去の作品の再録でした。


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影山リサ。 こっちも歌入れの予定だったんだけど、コンディションの問題とかで延期に。 多分次回録ります。


2/10(水)

神田優花、レコーディング。 三曲も録った。何曲録ったか思い出すのに数秒掛かってしまった。

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今回録った曲も含めた、今年リリースする予定の神田優花の作品群について考えていた。 いわゆるChiptune的な作品をいくつか(二十曲前後)発表する予定なんだけど、まあ今までのレパートリーとは明らかに毛色が違うので、神田優花としては新シリーズってことになる。

神田優花は今までもChiptuneこそやってないものの、結構色んなタイプの楽曲を作ってきたので、さほど目新しい試みってわけでもないんだけど、今回リリースに当たって、いくらかアプローチを変えてみたいと思っている。

まずジャケット。 ウチのタイトルって、神田優花のものを含め、アーティストのスチールにタイトルを乗っけたようなものがほとんどなんだけど、これを変えようかと思っている。 神田優花の過去のタイトルのいくつかは、例外的に風景とかの画像をベースにしてるんだけど、Chptune物はそういうの(アーティスト本人像以外)に統一しようかと思っているわけです。 あくまで本筋の作品群とは別物ってことを強調するために。 となると、デザインに割く作業時間が増えそう。 既にいくつか試作品作ってますけど。

あとリリースのタイミングと言うか、その楽曲たちをどういう割り振りで発表するかってのを考えている。 これが割りと重要だと言うことにここ最近気付いた次第なんです。


2/9(火)

「クスリなんかに手を出しやがって、今度会った時にはアイツをぶん殴ってやりたい」みたいなこと、言う人よくいますよね。 実際ぶん殴ったりして。 殴られた方も殴られた方で、「悪いのは自分だ」と思うからか、黙って殴られていたりするのだろう。 でも、そういう人を殴って意味あるのだろうか。

殴る方は、「自分ならそんなこと絶対にしない」って思うから堂々と殴れる。 でも、殴られる方にとっての事態とはどういうものか。 ある人にとって当然のように必要のないものが、別のある人にとっては(それと同じように当然に)必要であったりする。 暑がりの人と寒がりの人では、エアコン使う時でも、快適な設定温度が違うのだ。 私ならどうするだろう。

「違法薬物なんかに手を出したら警察に捕まるよ」とは言うかもしれない。 制限速度30キロの道を100キロで飛ばせばスピード違反で捕まる。 反則金とかも取られるだろう。 法治社会に住んでいるのだから、ルールを侵せば相応のペナルティーも発生する。 この社会に住むコストだからそれはしゃあない。 あと「体壊すかもよ」とか。 この程度の助言ならできる。


クスリが欲しい→手を出すといずれ捕まる→繰り返すうちにシャバにいられなくなるし体も壊す→クスリを絶たねばならなくなる、場合によってはオーバードーズで死ぬ→だから結論として手を出すべきでない・・・こういうのは、ある程度未来と言う時間が展開できる脳であって初めて成立するロジック(と言うか計算式)だろう。 今日をもって世界が終わると言われたら、行動が変わる人はいる筈だ。 人は知らず知らずのうちにも、時間をアタマの中に展開しつつ行動を決している。 その人の行動は、その人の展開できる時間に因る。

結論としては、私ならそういう人を殴らない。 殴るってのはつまり、友人と言う自分以外の世界に(「クスリに手を出すな」と言う)要求を突きつけているだけのことで、要するにワガママに過ぎない。 別に違法行為を容認するわけじゃないけど、殴ったって仕方ないものは仕方ない。 単に私は合理主義者なだけ。


2/8(月)

「ハイスクール!奇面組」と言う漫画(アニメ化までされた)がある。 古い作品なので、若い人は知らないかもしれないが、私はリアルタイムで読んでいた世代である。

正直そこまで思い入れの深い作品ってわけでもないのだが、気になる点が多い。 まず連載開始当初二十代前半であった作者は、何故「奇面組」などと言う不思議なタイトルを付けたか。

意味は分かる。 奇妙・奇怪な面相の集団と言うことなんだろう。 しかしそれを奇面と言うか。 奇面なんて造語である。変換すらできない。 どうして作者はこんなタイトル付けるに至ったか。 思考のプロセスが気になる。


あの手の子供向け漫画って大抵、連載開始時の作者の年齢の相場が二十代前半とかだったりする。 年を取り過ぎると読者と感性が懸け離れるからだろうか、とにかく若い。 だからして、人生経験上、書ける内容にも限りがある。 「沈黙の艦隊」とか「ナニワ金融道」とかああいうのって、高校を出たばかりの十代の兄ちゃんにはちょっと書けない。 作者が若過ぎると、どうしても作品も自らの経験をベースにした学園物とか、「正義と悪の超人が宇宙で戦う」と言った荒唐無稽なものとかになってしまう。

「奇面組」は典型的な前者である。 人って、そんなに独創的なものって簡単に作れないものなのだ。 それにしても「奇面」と言う言葉が気になる。 そんな方言でもあったのだろうか。


2/7(日)

有名な元野球選手が覚醒剤所持で逮捕されたらしい。

私は以前に、アル中患者の書いた手記のようなものをいくつか読んだのだが、それを踏まえた結論として、薬物依存は治らない。 少なくとも医学的定説ではそうらしい。 だから上記の彼もきっと、かなり高い確率でまたやらかす。

依存症と言うのは、病気と言うより世界観である。 もっと言えば脳機能なので、治すと言うことは、つまりはその人を別人に作り変えると言うことになる。 洗脳と言うプログラムは確かに存在するが、依存体質の者をそうでなくするのは容易ではなかろう。 洗脳ってのも、施せるのは所詮ソフトウェア部分に限られるだろうから。

どうして薬物無しで彼は生きて行けぬか。 「意志が弱いから」と言うのは薬物に依存せずに生きて行ける人の観点からの意見に過ぎない。 我々だって酸素が無いと生きて行けないが、意志の強弱の問題ではなかろう。

依存症の者は、依存対象が無いと生きて行けないのである。少なくとも彼ら自身はそう感じている。 美醜も善悪も、我々が生きてこそこの現実に映りこむファクターである。 自分が存在できるかの瀬戸際にいる者にとって、違法・合法など意思的に選んでいる余裕は無い。


以下のことは、おそらく伝わらないであろうことを承知で述べる。

「彼には野球があったではないか」と、多くの人は思うだろうけど、彼にとっての野球は(如何なる成果を得させてくれたとしても)外身を飾るものでしかなかった。 鮮やかな現実感をもって掴むことのできない対象だった。 現実感をもって掴むことができたなら、それはもうその人の中にあったはず。

「中にある」と言うのは、つまりは愛されたことを言う。 野球が、単に好きな対象としてそこにあるのでなく、野球から愛された状態。 野球が愛してくれたのなら、どんな時も、どんな困難の中であっても、野球が彼を守ってくる。 野球が中にあればこそ、何にも依存せず自立できる。 自分の中に持てないでいるうちは、如何なるモノでも、それは依存の対象に過ぎない。

彼が野球から愛されなかった理由は、彼こそが野球を愛さなかったから。 愛する機能を持てなかったからでもある。

外身に何か纏わねば生きて行けない人が、ある時は野球に依存し、野球が目の前を去れば、今度は薬物に依存する。 何かに依存せねば生きて行けないのは、その人が何かを自分の中にあり続けるものとして、捉えることができなかったから。 捉えるための唯一のツールは言語である。

それにしても日本語のソースコードはハッキリ言って汚過ぎる。 もし日本語が英語のようなシンプルな言語であれば、依存症に苦しむ日本人は激減したかもしれない。


私が音楽を作るのは、ここで言う「その人の中」に届けるため。 その人が掴める機能を持ち合わせていなければ、馬に聞かせる念仏に等しい。 脳機能はハードウェアなので、きっと遺伝形質を克服できない。 でも、プログラム(つまり言語)さえ効率的であれば、きっと私が伝えたい最低限の何かが伝わる素地を多くの人は持つはず。 私はそう信じる。


2/6(土)

最近とある事情で、幼児(3〜5歳ぐらい)と接する機会があったんだが、例えば5歳児って想像していたよりかなりアホだ。 賢い犬とかの方が全然アタマの状態がしっかりしている。

会話のスルー率が、腰だめで見ても80%ぐらい。残りの2割程度しか意思疎通が取れない。 実は大人同士とかだって、会話で100%の意思疎通なんて取れていない。 年を経ているだけに、言語力以前の、基本語彙の個人差とかだって馬鹿にならない。 大人は普通「分かったフリ」をする所作を身に付けているから、発覚しにくいだけだ。 それにしても子供は酷い。

分かったフリすら覚えてないから、本当に「スルー」って感じになる。 子供の投げかけてくるある質問にこちらが答えても、その回答が完全に無視されたりする。 そもそも質問内容自体が意味不明であることが多い。 先日は「さっきの持ってて良いの?」ってイキナリ聞かれた。 自他の持つ情報に差があることを理解していないから起こる現象かと思えるが、それにしても解読は困難だ。


ある子(3歳)は、「コレなあに?」と次から次に対象を指差して質問してくるが、真面目に答えても意味がない。 質問した次の瞬間には(答えを待つでなく)次の質問をしてくる。 私の回答など全く聞くつもりがない。 つまりこれまた「スルー」である。

その子は「コレなあに?」と言いつつ、私の手を引っ張って唐突に走り出したのだが、とりあえずのコレ(対象)が見つからず、結局何も無い地面を指差した。 質問したいのではなく、構ってもらうための方便として覚えた言葉が「コレなあに?」なのだと、そこで気付いた。


しかし、人間生まれてから三年も経てば、もう立派に人格の萌芽は見られるな。 ある程度どんな大人になるかまで想像がついてしまう。


2/5(金)

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「違いが分かること」と「バラバラにしか捉えられないこと」は全然異なる状態だ。 自他の区別が付くからこそ他者と気分を共有できるし、自他の区別が付かなければ、他者と気分を分かち合うことなどできない。

自己があり、他者を他者と認識できるからこそ成立する友情は、究極的には「アイツと俺は同じ(同志)だ」と言う感覚にも発展する。 逆に自己が確立を見なければ、自他の境界なども生まれない。 自他に境界が無ければ当然自他に区別も無いが、それと何らかの感覚を共有するのとは全く異なる境地である。 働き蜂同士に友情など無い。


2/4(木)

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麿とか杢とか言う字、ありますよね。 あれって言うまでも無く原形はそれぞれ麻呂・木工なんだと思われる。 日本の文字が縦書きでなかったら生まれなかったろう。多分国字だろうし。 そう言えば日本ではデパートなどによくある「垂れ幕」、あれ英語圏には無いそうな。 文字が縦書きでないから。 画像のみの、ポスターとしてのそれならあるみたいだけどね。


2/3(水)

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音楽のライセンス・ビジネスについて、あれこれ考えていた。 ライセンス・ビジネスってのは、管理している(権利を持っている)楽曲を商業利用させることによって権利収入を得ること。 アメリカなんかでは既に市場も確立していると言う。

因みに我々はそっちの世界には不案内である。 海外からの権利収入自体を得たことは(微々たるものだが)あるにはある。 何やら海外で使用されたとかで、アグリゲーター経由にて、幾許かの実入りがあったとか明細に記載されていたりする。 もう少し大きなスケールで、今の資産(つまり録音物)を活かす方法はないかと考えているわけです。

とは言っても、ウチの音源ってほとんどアーティスト物なんで、あんまり広範な用途には向いていないわけだけど、ライセンス用途に新たな音源作ろうとか、そういうことは全く考えていない。 あくまで活動のベースは今のままで、多少なりとも音を多くの人に聴いてもらう手段を考えている。


しかしこのライセンス・ビジネス、本気でやろうとするならこれも大変そうだ。 実はつい先日、私はライセンス関係のある講習会みたいなのに顔を出した。 会が終わった後、講師をやってた人としばし雑談までしたんだけど、まあ予想通りと言うか、あまり楽では無さそうだ。

例えばYoutuberとか言われる人らがいるそうで、Youtubeに動画を上げ、広告収入を得るそうな。 それだけで食っている人までいるそうだが、「動画上げとくだけで勝手にアクセスが集まって金になる」なんて簡単に捉えて、副業でやれないかなどと考えているサラリーマンなどがいるなら、それは甘いらしい。

踏まなきゃならない要所が山ほどあり、また単純に最低限アップロードせねばならない動画の数も半端じゃないと言う。 その辺を確実に踏まねばマトモに金にならないと。 それだけの動画を作ろうと思うなら、もうそれは既に仕事(本業)で、相当の時間を充てねばできるものではないようだ。 この辺、Webアフィリエイトなどで食ってるような人らに近かろうか。 デイトレーダーのような人を「株を右から左に動かすだけ泡銭稼いでるようなロクデナシ」だとか本気で思っている人が今でもいそうだが、デイトレーダー業だって、それで本当に食おうと思うなら大変に違いない。


実は私の古い友人で、ある時期いわゆる「パチプロ」のようなことをして暮らしていた人がいる。 その後彼はパチプロ生活から足を洗い、正業のようなものに就くことになったが、それってつまりはパチプロ業が楽で無かったからだろう。 私はその人を間近で見ていた経験があるから、上の話も容易に頷けるところがある。

事実「パチンコで泡銭儲けて笑いが止まらない」みたいなイメージとは程遠かった。 そもそもその友人、実際に台に座ってパチンコ打ってる時間なんかより、「調査」に掛ける時間の方が圧倒的に多いように見えた。 パチンコ屋に入り浸る人らと顔見知りになり、日々何やら情報交換をし、データ収集に余念が無かった。 もうサラリーマンや大学生などが憂さ晴らしにパチンコやってる感覚とは程遠く見えた。 あれは既に純然たる仕事で、もう楽しいとか言う感覚さえあったろうか。


話が逸れた。 ライセンス・ビジネスも、それで稼ごうとか本気で思うなら大変な作業量になることは想像に余りある。 我々はそういうことをやろうとまでは思ってない。 私は、何らかのBGMなどに音が使われることによって、ウチのアーティストの知名度が上がってくれないものかとか考えているだけです。 まだ色々と検討段階ですけどね。


2/2(火)

「私(わたくし)」について。 漢語の「私」を英語にするなら何と言うべきか。Privacyじゃないな。selfあたりが適当か。

「私」はしばしば物を見る目を曇らせる。 本来見えるべき平明な結論を見えなくする。 漱石は則天去私と言うが、本当に文学などと言う高度な正直さが求められる作業において、「私」は大敵と言える。 「私」に塗れては文学作品など作れない。無論、音楽を含む芸術全般においてそう。

ある行為が良いか悪いか、ある対象を好きか嫌いか。こういうことは「主体」さえあれば容易に判断できることである筈だが、人間は自分自身と言う厄介なものを抱えているばかりに、この本来容易である筈の判断が容易に下せない。 その程度には高度な生き物だってことでもあるんでしょうね。

嘘を吐くことは良いことか悪いことか。 こう言う質問に対する答えなど、普通の人は反射的に思い浮かぶ筈である。 でもその人の過去の経歴などが、その平明な答えを平明たらしめないことがある。 「人間誰だって嘘ぐらい吐く。完全なる清廉さなど求めるな!」などと。 「私」が作用している典型的なケースである。


西洋社会で人間成立の絶対条件とされる自己の確立。 自己とは言わば「個」であるわけだが、この「個」と「私」は違う。 言語が脆弱だと、この二者の区別が付かなくなる。 と言うか、「私」が「個」を蝕む。

日本の教育機関は、何故かこの「私」の涵養施設になっている。 読書感想文を書かされる小学生は、純然たる感想ではなく、先生や親に気に入られる文章を書こうとする。 そしてそのタスクが上手くこなせる者こそが優等生となる。 その人たちは、社会に出てまったき大衆(仏教語でなくオルテガの言うそれ)に成り果てる。 生きながらにして死人のように。

自分は何が好きで何が好きでないのか。 こんなこと本当は誰でも知っている筈だ。 本来好きでもないものなのに、誰かの言う「この素晴らしさがキミには分からないのか」などと言う恫喝に負けて、人は好きでもない生き方をしばしば選ばされる。 その人が好きだと感じた何かこそが、本当は一番正しいのに。


子供は誰かに気に入られる答えを探すものだが、それが依存心であり、「私」である。 何かに巻かれている方が楽だし安全だとつい思ってしまう。 人は何にそんなに怯えているんだろう。 失うものなんて本当は何一つ無いのに。 帰る場所があるなんて、どうして錯覚してしまうのだろう。 遅きに失するものなんてのも、本当は何一つ無い筈なのに。

我々には心がある。心しか無い。 何かを所有していると感じているのなら、それは錯覚である。 金も家も車も、家族も友人も恋人も、みんな我々が心で感じているだけだ。 我々が心で感じることが出来なければ、それらは皆この宇宙に存在すらしないのだ。


親や学校の先生だけでなく、浮世のありとあらゆるモノが我々の「私」を揺さぶり続けるだろう。 でも本当に正しいのは、我々の心が最初に感じた何か。 雑音のような声が、心の外側から我々の「私」を揺さぶり続けるから、私はみんなの心の中に響く歌を作ろうと思ってこういう生き方を選んだ。 あなたが感じた何かこそが一番正しいんです。あなたの好きなものこそが一番素晴らしいんです。 あなたが涙したその歌が一番美しいんです。絶対それを手放してはいけないんです。

この宇宙に絶対的な真理が存在しないから、例えば善悪などと言うもの一つとっても、それは常に相対的だ。 では一番大切なことは何か。 それは我々が生きていること。生きて何かを心に映していること。 今の私に分かるのはここまで。


2/1(月)

江戸期の薩摩藩の離島(統治)政策みたいなのを眺めていると、物理的な搾取なんかよりも、例えば「現地人が名乗れるのは一字姓に限る」と言ったような階級の固定化みたいなのが気になった。 おそらく、例えば奄美の人なんかは、今でも一字姓が多いのではないか。

日本ってのは今も昔も基本的に階級社会なんだけど、江戸時代は特にそれが甚だしかった。 特定階級以外は苗字が公式に許されず、そもそもネーミングセンスだけで、ある程度所属階級が分かるほどだった。


ここで思うのは、日韓併合時の創氏改名、やはりあれば当時の大日本帝国の善意であったろうと言うこと。 相手側がどう取ったかはさておき、日本人の伝統的価値観から見るとそうであるに違いない。 植民地化と言うより同化政策に近かったと言うのは一面の事実だろう。

実際当時の朝鮮人らの多くは日本名を容認した。と言うか、喜んで名乗った。 今の韓国人が「そうではない」と言うのはある種の政治的判断に因るものなので、必ずしも史実とは一致しない。 日韓関係史を通覧する上で、ここは原点として踏まえるべきだ。

しかし、日本名を名乗ることを屈辱と感じた朝鮮人はいたかもしれないと思う。 何故なら、「中華」に文明の光源を求める感覚は、それはそれであったろうから。 日本書紀などに出てくる(三国時代の)朝鮮半島人の名は、現在のような中国人タイプのものでない。 歴史上のどっかの地点で彼らは創氏改名しているに違いないのだが、詳しいことは分からない。分からなくなっている。


遣唐大使として唐に渡った藤原葛野麻呂は、当時現地にて「藤賀能」などと名乗っている。 つまり中国式姓名を名乗ったわけだ。 このいわば都鄙感覚は、現代人にはもう分かり難くなっているかもしれないが、当時の唐は世界帝国とでも言うべきもので、地球上最高の文明であった。 今でも台湾人なんかがアメリカ型の通称を好んだりしているが、多分あれと似たようなもの。

植民地時代なんて遠い歴史になってしまっているこんにちにおいてなお、在日韓国人は通名(日本風姓名)を名乗っている。 在日アメリカ人に日本風姓名を名乗れなんて言ったら、嫌がられるに相違ない。 在韓日本人が朝鮮型の姓名を名乗っているなんて話も私は聞いたことがない。 これらのことを取っても、当時の朝鮮人らに日本を憧憬する感覚がある程度あったろうことは想像に難くない。 帰順の意志が生まれてもそんなに不思議ではない。


今の日本は経済においては没落の一途を辿っているみたいなんだけど、仮にGDPなんて言う数値で韓国に追い抜かれたとしても、嬉々として朝鮮式姓名を名乗りたがる日本人などが出ないうちは大丈夫と言うか、まだ独立の精神を失っていないと言える。 失いたくないもんだ。

一方の韓国人、もう世界有数の経済大国になっているし、スポーツなんかもアジアではほとんど最強レベル。 個人的には、K-POPなんてもう日本のPOPSを超えてるんじゃないかとすら思う。 もう反日なんて気分、卒業すれば良いのに。日本ごとき全然そんな大したもんじゃないよ。本当に拘泥する価値無い。


1/31(日)

不倫について。 不倫は良くないことだ。倫理に非ずと言っているのだから当然だ。 だが、それと「配偶者を持ちつつ、別の異性と交際すること」の善悪とは本来別の問題なんだが。 とりあえず不倫と言う言葉を一般的な用法に従って使うけど。


そう言えばいわゆるバブル期とかって、不倫を扱ったドラマとか多かったし、不倫のイメージで売ってる芸能人とかもいた気がする。 今じゃちょっと考えにくい。 ホンの数十年前のことなのに。

不倫行動が発覚した芸能人からは、スポンサーの降板が相次ぐと言う。 これはとりもなおさず消費者からの悪印象を避けたいからだろうけど、消費者(と言うか、一般大衆)は何故にそんなに不倫が嫌いかね。

例えば主婦などにとって深刻な問題であることは分かる。 場合によっては生活基盤(家庭)を破壊されかねないのだろうから。 でもこれって、婚姻と言う契約を盾に相手の行動を制御し、自らの保身を図ってるだけなんだけど。

確かに、生存の欲求と言うのは一種の正義ではあろう。 でもそれって単なる傾向性で、いわば寄生虫の論理なんだけど。 人間であるなら理性で言動を決すべき。


要求が、実は自己中心的なものであることを当人らも薄々知っているからこそ、不倫を糾弾する声はデカいのではないか。 大声で反対意見をかき消してしまわねば、論破されてしまいそうで。 私などは、これが実に気持ち悪い。 この種の人らって多分、街中とかで自分の恋人が、通りがかりの異性に目を奪われたりすることを極端に嫌う筈だ。

例えば、結婚とかする前の恋人同士なら「他に好きな人が出来たので、あなたとは別れたい」がアリとされているのに、結婚相手だと途端にその主張は通らなくなる。 若者(多分主に男性)の結婚願望が薄れつつある、みたいな統計結果を見たような気がするけど、そりゃそうなるわな。 婚姻契約にサインすることが、借金の証文書かされることかのように見えてくるのだろう。


不倫問題とかって、つまりは人間関係のトラブルに過ぎず、あくまで個別の人間関係固有の問題で、一般化すべきことではないように思うのだが、世間のリアクションは全然そのようでない。 暴力団同士で抗争などがあっても、「一般市民に迷惑掛けないで」と言う感想はあっても、「暴力の応酬は怪しからん」と言う声はあんまし聞かないんだが。 正直私も、「ヤクザ同士でやり合うだけならご勝手に」と、つい思ってしまう。

個別の人間関係に属する問題であるべき事柄に、まるで我がことのように過敏に反応する人なんて、要するにその程度の人間関係しか持ってないと自ら表明しているようなものだ。 自分の替えなんてナンボでも利くことを知っているからこそ、契約で縛ろうとするし、縛ってもなお不安なんだろう。

階級の繰上げのように、互いに次善の相手を選んだだけのような夫婦であればあるほど、相手の目移りは恐怖に値しよう。 良かったですね。結婚が契約で。 遵守することが正義であると、法的なお墨付きさえ貰えますものね。


私がもし「お前は結婚相手に浮気をされても構わないのか」と問われるなら、まあ私も人間なので良い気分はしないかもしれない。 でも相手が望んだ生き方なら、それが究極的には一番正しいと思う。 結果その相手が何を失おうとも、何を背負うことになろうと、それもその人が選んだ生き方。 契約なんぞを盾に、相手の行動を制限しても仕方ないよ。そんなところに幸福なんてありはしない。

「家庭が崩壊したら残された子供たちがかわいそう」とか言う論法、これもつまりは嘘である。 子供が不憫であるならそう言う自分こそがその子らを守れば良いだけ。 子供の不遇をこれまた盾に、誰かの行動を制限することを正当化しようとしているわけだが、こういう事を言い出す人は、早い話が、子供を口実に自らの保身こそを図っている。 子供が不憫だからとて、誰かに犠牲を強いる理由にはならないはず。

「私の結婚相手は私の物だ!」と声高に所有権を主張する人。その人は即ち、その結婚相手(の心)を守る気が無い。  何故なら、保身のことでアタマが一杯だから。

私は誰かを救いたいとは思うが、誰かを所有したいとは思わない。無論所有されたいとも思わない。 誰かからの愛を稀有に思うが、それを維持したい余り、その相手に将来の行動を約束させたいとは思わない。 婚姻届が一種の念書になっていることが気持ち悪い。 不倫報道に過剰反応を示す人が、醜悪に見えてしかたない。


不倫に対する一般市民のヒステリックな反応。これはつまりは依存心から来る。 要求と言うのは依存心のことで、所有欲と言うのもそう。 要は世界観の歪みから来る。 何かに寄生しようと思い過ぎるからこそ、あの手の反応は生まれる。 本気で誰かを応援しようと思えば、自ずと世界の見え方は変わってくるのに。

私のこの主張は、おそらく多くの日本人らの共感が得られないであろう。 その人らにとって都合の悪いロジックだから。 無知を正すことより、知っているとの思い込みを正すことの方が余程に難しい。マーク・トゥウェインが確かそんなことを言っていたような気がする。

社会と言う人工物を形成する唯一の材料は、人々の心、その社会のマジョリティーの世界観である。 それが淘汰圧となって社会が形成される。 不倫なんて相手の採る行動のことじゃないか。我が在り様ではない。 不倫ごときにここまでの過剰反応を示すような人々の作る社会だから、こんなに先行きが暗いんじゃないの?って思ってしまう。


1/30(土)

私は本当に機材に金を掛けない。 必要ないから。

勿論全く掛けないわけではないけど、DAWに10万とか、今はもうバカらしくて掛けていられない。 今よく使ってるのも、オーディオ・インターフェイス買った時に付いてきたオマケのソフト。機能制限版とかそんなの。でも十分。

音屋さんみたいな人と話をしてたら、「複数種のDAWを使い分けている」と言うような人が結構いる。 セッションの互換性のみの理由で持ってたりするそうなんだが、一々バージョンアップしたりするのも大変だろうと思う。

とにかく私は物を持ちたくない。 所有に恬淡としていると言うより、むしろ所有を忌避したいと言う感覚すらある。 機材に金掛けてる人に批判的であるとか、そういう気分は全く無くて、あくまで私の現状の報告。 でもこの傾向、今後進むことはあっても戻ることは無さそう。


1/29(金)

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去年はかなりウチとしてはハイペースで音源をリリースしたんだけど、今月・来月はとりあえずリリースアイテムがありません。 音自体は全然変わらないと言うか、もしかすると去年以上のペースで作り続けてるんだけど、色々と懸案事項がありまして、今はリリースの計画中です。 神田優花は、年末か来年のアタマぐらいに5枚目のフルアルバム出したいと思ってます。


1/28(木)

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ルパン三世のTVアニメの第一シリーズは、BGMのマスターが現存しない(紛失されている)そうだ。 元々あんまし視聴率も良くなかったらしいのだが、再放送を繰り返すうちに人気が出だしたそうな。 その人気を背景に第二シリーズ以降が誕生する。

当初人気がなく、後に人気が出た。 マスターテープの扱いがぞんざいであった理由はこの辺にあったろうか。 しかし困ったことに、後に人気作品になってしまったばかりに、サントラCDとかの需要が生まれてしまった。 エンジニアは、残っているTVフィルムから抜粋する形でサントラを一本作り上げたらしい。

私は、そこでエンジニアが行った作業の詳細が粗方想像出来てしまう。 故に実に大変だったろうと思う。 作品に対する愛が無いとできない作業だろう。


1/27(水)

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以前から言ってるんだけど、ウチは生ドラム(・キット)の録音については、半ば諦めている。 基本コスト面から考えてのことだけど、そもそもドラム・キットがあのような形質である理由は、人体に則してのことである。 録音現場にて踏襲する必然性は薄い。

ドラム・パートをプログラミングしていて思うことがある。 生ドラム系の音とリズムマシン系の音では、当然シーケンスの組み方も変わってくるんだけど、それも固定観念の一種かと思って、ある時ガチガチのジャストタイミング、ベロシティー値一定、で生ドラムの音を組んでみたりしてみた。 が、何だか違和感がある。

やはり私は、生ドラムの音に「人間」を感じているようだ。 だから機械のような正確なリズムを刻まれると気持ち悪い。 固定観念と言えばそうだけど、物事のリンクってのは即ち論理性でもある。 創作のような作業をやってると、この論理性のリンクを断ち切るってのが難しくなる。


1/26(火)

天才と称えられるような起業家などを眺めていると、なるほど確かに賢いと思わざるを得ない。 私にその手の才が全く無いから余計にそう思う。

夏の暑い日にはビールの売れ行きが良くなると言う。 つまり気温と特定商品の売り上げに相関性があると言うことなのだが、人間の行動はこのようにある程度数値で測れなくもない。 ビールと気温のような単純なものだけでなく、物凄い複雑な計算式を用いれば、他人に先んじてお金を増やすことはできるようだ。 この場合、ある現実が映りこまない精神の持ち主であれば、論理的に引っかかるところが無く、最大効率で行動することができるからなお良い。

ここで言うある現実とは、端的には愛などを指している。 計数・計量には愛は必要ないし、むしろある種の干渉を起こすかもしれない。 効率化の為には無い方が良い面すらある。


私どもは音楽を商品として売っている業者である。 CDなどの物品売りが配信などのデータ販売型になり、その配信もダウンロード型からサブスクリプション・ストリーミング方式などに形を変えつつある。

ストリーミング方式で一回再生されたところで、レーベル側の取り分は一円に満たない(販売業者にもよるが、せいぜい数銭〜数十銭ってところだろうか)。 音楽配信なんてまるで儲からない。 確かにそうだが、儲ける方法が無いわけでもなさそうだ。

どんなコンテンツでも再生数ゼロってことはまず無い。様々な理由によって、どんなコンテンツでも多少は落とされたり再生されたりするものである。 仮に一曲につき十銭にでもなるのなら、一億曲の作品を公開すれば良いのである。 単純計算で一千万円になる。 「一億曲なんて作るのも大変だろう」と思われるだろうが、キチンとした作品を想定するならそうだが、ジョン・ケージじゃないが、別に無音のファイルだって良いだろう。 無音じゃあんまりだと言うなら自動作曲ソフトに作らせたインストとかにすれば良い。 アップロード作業まで完全にスクリプト化できたりすればなお良い。

一億はあんまりだが、実際数千曲と言った単位で作品を発表している者はいる。目的がどの辺にあるかは知らないが、内容も推して知るべし(当たり前である。精魂込めて作る作品を、短時日にそんな数生産できるわけがない)。

仮に私が一億曲を登録したりすれば、販売業者やアグリゲーターから「屑ファイルのアップローダーとして配信システムを利用するな」と言う苦情が出るかもしれない。 が、現時点でそれは契約条項に違反するわけではない。 そこを理由に契約を解除したりは出来ない筈だ。 そういうことをする者が出てきて初めて、善後策を練ることになるだろう。

無論、これは思考の遊びとして、ある状況をシミュレートしてみただけの、いわば冗談である。 私は過去に実際あった(まるで錬金術のような)手口などを引き合いに、こういうことを夢想してみたわけだけど。 色んなことが引っ掛かるから、私にこういう行動は採れない。 その引っ掛かりをクリアできない私の頭が悪い、と言われればそれまでだが。


1/25(月)

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誠実さとは、即ちその人の現実感覚なのだろうと思う。

世の中を眺めていても、現実感が希薄そうな人ほど不誠実に見える。 芸術家は、その人が映す現実を作品にするのだから、誠実さは要件でさえあるはずだ。

脳、とりわけ言語機能が、おそらくは我々にこの現実世界を見せている。 遺伝的形質の作用なのか獲得した言語の作用なのかは分からない。おそらく両者が複雑に絡み合っているのだろうけど。 どうも多くの日本人と言うのは、この現実が見え難い環境にあるらしいけど。

私は誠実でありたいと願う。 誠実さこそが創作の源泉であると思うからだ。 誠実さってのは、限界まで苦痛に耐える(気付かない)能力のことでは無いよ。


1/24(日)

人気アイドルグループの解散騒動。 もう回避されたとか聞いたけど。

これも芸能と言う世界にはびこる負荷のなせる業。 しかし芸能と言えども資本主義の一角で、当人らにとっては職業であるのだから、「辞める」と言う行動にも相応の負荷が生じると言うことなのだろう。 結果、解散回避だそうな。

ファンたちが様々な「運動」をしていたらしい(あるいは現時点でも継続中だろうか)。 解散して欲しくないからなわけだけど、毎度の事ながら、この手の運動者の行動原理には「当人らの気持ち」と言う要素が抜け落ちがちですな。 辞めたいと言っている人たちにも、そう思う心があろう。

「私はファンだから、そのグループに存続して欲しい」と言うのは事実でしょうが、それって自分以外の世界に「自分の望む形であって欲しい」と言っているだけで、要するに自己中心性だ。 ファンである、そのグループのメンバーが好きである、と言うのなら、当事者らの望む生き方こそを選ばせてあげて欲しい。

しかし芸能人、特にアイドルなんてのは、世人らのその自己中心性に訴求した商品なので、この現象もある程度止むを得ない。 商品の性質上、当然想定される事態だろう。 私の言う負荷ってのはこのことなんだけど。


しかし、世間を散々騒がせたが、結局解散はしないと言う。 本来辞めたがっていたメンバーの犠牲によって継続している、と言うことを世間に表明してしまっている以上、もうファンらの「望む形」を為していないのは間違いないわけで、商品性の核が損なわれた状態にある。 支持のほど、今後どうなっていくのだろうか。 あと、芥川龍之介の「鼻」、御存知でしょうか。 禅智内供の鼻みたいにならなければ良いけど。


1/23(土)

アニメ「いなかっぺ大将」の主題歌「大ちゃん数え歌」は天童よしみさん(当時は吉田よしみ名義)が歌っているのだが、当時確か16歳だったとか。 年齢に似つかわしくない、惚れ惚れするような歌唱力だ。

十代の少女があの歌を宛がわれても、嫌がることなく完璧に仕上げている。見事なプロ根性。 吉田よしみ少女は、○○さんの曲じゃなきゃ嫌だとか、R&Bがやりたいとか言わなかったんだろうか(時代的にR&Bは違うかな)。

単に音程外してないとか、リズムが正確とか、そういうレベルじゃない。 どの程度の歌唱指導などがあったのか分からないけど、何と言うかイマジネーション豊かで、要は天才肌なんだろうと思う。 Youtubeとかで簡単に聴けるので、是非聴いてみて欲しい。


1/22(金)

日本語が、もし西洋言語のように主格の存在が明確な言語であったれば、おそらく日本人は、こんにちのような依頼心の強い民族になってなかろう。 所有感・依頼心、こういうのは皆、自他の区別の曖昧さから生じる。 つまり言語である。

日本人と欧米人、脳機能自体に本質的な違いなんて無いのだろうと思う。 両者の決定的な違いは言語。 両者の間にあるのは、ハードウェアの性能ではなくプログラムの差。

赤ちゃんには、自分の手をじっと見続ける時期があるらしい。 「これが自分の手なのか」と言う確認作業であると言う。 自分と隣にいる他人は別人であると言う、この当たり前のことを、人は整理せねばならない。

日本人はおしなべて依頼心が強い。 日本語・日本文は主語・主格の存在が曖昧である。曖昧さが許容されている。 日本語にもし、欧米言語のような主語の明確性があれば、ここまで依頼心の強い民族になったとは思えない。 言語の明晰性は主体性に当然直結しているだろうし、主体性(つまり自他の区別)ってのは「所有」の感覚に直結しているはず。 我は我、彼は彼、と言う当たり前の感覚。

ワガママな人がワガママになってしまう根本的な理由はここにあろう。 自他の区別の曖昧さ。 自分と他人が違うと言う、ごく当たり前の感覚が持てないことをワガママと言うのではないか。

好きなことをやっている子供に、「勉強しなさい」と言う母親。ワガママなのは言うまでもなく親の方である。 何故なら母親は、子供と言う自分以外の世界に対し、こうあれかしと言う要求を投げかけているから。 遊び呆けている子供の方は、単に自分の好きなことをやっているだけである。 どういう結果が待っていようと、主体的に受け入れられるのなら何の問題も無い。

言語機能が弱い者は、世界を俯瞰して見られない。 自分と、その目の前にか細く存在している(自分との)関係性にしか思いが至らない。 精神疾患者の典型症例である「道行く人が自分を笑っている」と言う感覚も、紐解いてみれば物事を俯瞰的に見られないことに起因している。 「道行く他人は良くも悪くも、自分のことなんて電信柱ぐらいにしか思っていない」と言う当たり前の認識が持てないからそうなる。


1/21(木)

誰かを愛さない人に、どうやら愛は分からないらしい。 私の今の結論。

「愛されること」は、愛の理解への一助になるに違いないが、必須ではない。 何故なら、愛する誰か・愛される誰か、の図を目にするだけでも分かる者には分かるであろうから。

愛を理解するのに必須なのは、誰かを愛すること。 か細いながらも存在した、心の中の愛と言う機微が、その人に愛を理解させる。 誰かからの愛の意味も。 愛を終生理解できぬ者とは、つまりは誰をも愛さない者。


もし、我々の発する愛が誰かに伝わったなら、その誰かはきっと誰かを愛したのだろう。 愛したことがあるから、愛の意味が分かる。 我が心に存在する機微と照合することによってしか愛は分からない。

誰かを愛することのない人にいくら愛を与えたところで、それは愛として受容されない。 照合すべき機微が、その人の心の中に見当たらないから。 その人は誰かの愛に付随した何か、例えばプレゼントだとかを、愛そのものだと誤解するだろう。 物質は理解に容易いから。 その人は永遠に物質を欲しがるはずだ。


愛が伝わったのなら、それはこの世界に愛が存在する証拠である。 だから私は、愛した者に感謝する。愛させてくれたことをひたすらにありがたいと思う。 その人がこの世界にいてくれたからこそ、私にも愛の意味が分かった。 我々が幸運とすべきは、愛するその誰かが、愛すべき人でいてくれたこと。

私はこんな単純な結論にたどり着くまでに、随分長くかかってしまった。 でもお陰で、記憶の中にあるずっと気付けなかったある愛を、今になってまた一つ拾うことができた。

私の音楽の原料は愛である。 愛が無ければ曲は書けない。 伝わりにくいでしょうけど、私にはもう答えは出てるんです。 いつでもそう。私には美しいものが分かるし、美しい何かを見逃さない。 でも式がまだ分からない。 それが何故美しいのか。

私はこの先きっと、その式を解明するでしょう。 きっと、まるで愛そのもののような、完璧に美しい曲を書くだろうと思う。 きっと書いてみせます。


1/20(水)

影山リサ、レコーディングでした。

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去年は随分多くの作品を発表した影山さんですが、今年も去年ほどではないかもしれないけど、たくさんリリースします。 ミュージカル的なナンバーのストックが結構あって、それを今年は消化したいところ。 きっと面白いものになります。お楽しみに。


1/19(火)

友情について。 日本はアジアの国と仲良くなれない。 まあ大抵こういうことを言う場合のアジアとは、中国と朝鮮半島のみを指す。 どうして日本は彼らと仲良くなれないのか。

その前に友情って何か。 物質ではない。 ある種の感情・感覚を指すわけだけど、人間に本能的に備わっているものではない。 例えば食欲ならほぼ全ての生物にあろう。食べないと生きて行けないから。 生殖とかも、生物にとって必要な行為だから、それにまつわる諸感覚の多くは生得的なものである筈だ。 友情はそのようなものではない。

物質でなく本能でもない。つまり文化である。 これも言語によって生成されているに違いない。 だからあるタイプの人類には、そもそも体感し難い感覚であると言うこと。

両国の間には歴史問題が横たわっているから云々、と言うのは嘘である。 だったら歴史問題が無ければ友人になれるとでも言うのだろうか。 歴史問題が発生する以前、友人であった期間でもあったのか。 早い話が彼らは、友情と言う概念ごと誕生し難い言語環境にあるのではないか。

反日と言う感情(と言うかスタンス)を無くすことならできなくもないかもしれない。 「反日であるより親日である方が得である」と言う環境さえ作ってあげれば、わりかし容易なのではないか。 でもそれって要は「利を食わせている」だけであって、友情の成立ではない。

台湾人は親日的だと言われているが、台湾の置かれている政治状況とそれが密接に関係しているのは、誰が見たって明らかだ。 だからして今後、ちょっと地域的なパワーバランスが変化しただけでも、台湾の出方がどう転ぶかなんて分からないと私は思っている。 日本国は、政策的に台湾の独立を支持することがあったって別に構わないと思うけど、台湾を友人だと過度に思い込むべきではない。

大別すると日本人も彼らアジア人と同類である。 友情ってのは西洋的概念だし、いまだに彼ら欧米人の間でぐらいしか成立し難い感覚なのではないか。 EUみたいな共同体がアジアで成立するなんて、私には到底思えない。

一応断っておきますけど、これは概括です。 韓国と言う人格があったり台湾と言う人格があったりするわけではない。 当然人格は個別に植わっている。 友人たり得る人も中にはいるでしょう。


1/18(月)

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広瀬沙希、昨年末にレコーディングした曲の上がりをチェックしてました。

今回録ったのは「ナイフ」と言う曲で、再録になります。 だからこの曲、私としては二度目の編集になる。 特にメロディーラインとか聴いてると、あらためて川本さん(ウチの曲を十年来書いてくれているライター)の上手さと言うか、プロっぽさを感じてしまう。 この曲(再録版)、アルバムに収録される予定です。お楽しみに。


1/17(日)

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神田優花、二曲の歌録り終わりました。 これで最新シングル(「Punks」)以降、13トラック上がったことになる。

神田優花の今年の予定としては、まずChiptuneを20曲くらい出すつもり。多少削ったとしても15曲以上にはなる。 次に去年試行錯誤してたタイ楽の、集大成としての曲を二つほどリリースします。 これはもう録り終えていて、その二曲をカップリングしてシングル化する予定。

更には、今HIPHOPっぽい楽曲を作り溜めていて、それを消化したい。 HIPHOPと言っても、あくまで我々なりの解釈でのそれ。 「神田優花のHIPHOP」を作りたいと思ってます。 上記のChiptune・タイ楽は、どちらかと言うと番外編って感じなんだけど、HIPHOPの方は正規のレパートリーと考えていて、アルバム(ナンバリング・タイトル)にも収録したいと思ってます。 今年中に全部発表できるか分かりませんけど、是非聴いてください。


1/16(土)

普段私は、あんましJ-POPとか聴かないんだけど、つい最近ちょっと聴いてみた。

音とかは本当に洗練されていて、各工程を担当しているエンジニアさんらは、本当に良い仕事をしていると思う。 私はハッキリ言って音響面についての拘りの薄い人なんだけど、一リスナーとして良い仕事してると思います。

ミュージシャンの方は、小手先の技術みたいなのはそれなりに体得しているように見えるんだけど、核がぼやけた作品を作りすぎるきらいがあるような。 そういうのがたまにはあっても良いと思うけど、あまりにそんなのばっかしに見える。 あれ、言語に由来しているんだと思う。

日本人の創作物って、すぐ散文詩とか禅問答みたいになるきらいがある。 ああいうのも一種のパターンなので、勿論あっても良いんだけど、一種のゴマカシのように見做されてしまうこともあるように思う。実際そう見えなくも無い。 中世の日本に来たキリスト教宣教師らが、当時の仏教僧(坊主)に対して胡散臭さみたいなのを感じたのも、ああいう部分に対してだろうと思う。


1/15(金)

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先日、電車に揺られていたら、目の前の女性が何やら花束と紙袋を抱えている。 誰かからのプレゼントであろうかと思われた。 そう考えると、心なしかその人の表情も喜ばしげに見えた。

あるいはプレゼントを貰ったのではなく、逆に「誰かにあげるためのもの」を抱えているのか、と考え直してみた。 しかし仮にそうだったとしても、その人が幸福であることには変わりないな。

祝福してくれる人がいることも、祝福したい誰かがいることも、どのみち幸福であることには違いない。 どちらかと言えば、愛してくれる誰かがいることよりも、愛する誰かがいることの方が幸福である、と私は思うけど。


1/14(木)

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ビブラフォン(Vibraphone)についてのメモ。 私は実物を見たことがあるような気もするが、あんまし定かな記憶でない。 当然詳しくはない。

いわゆる鉄琴の一種だが、固有の機能として電動モーターを使ったビブラートがある。 仕組みについては割愛するが、このエフェクトのON/OFFは、ピアノのペダルのように演奏中に切り替えられるものなのか、あるいはカポタストとかみたいに演奏前に一旦設定してしまえば演奏中に切り替えたり基本しないものなのか、不明。 多分後者ではないかと思うが。 因みにサスティン・ペダルみたいなのは、それはそれで付いているらしい。

音域は3オクターブとあるが、モノによって多少の違いはあると思われる。 マリンバとかと構造は似ているので、当然演奏技術も流用できると思われるが、4マレット奏法は、マリンバに比べると使用される頻度が低いらしい。 また4マレットと上記ビブラート機能は併用されることが少ないと言う。 どちらも理由は不明。 音がゴチャつくからだろうか。本当によく分からない。

いわゆる鉄琴・木琴の類の中で、シロフォン・グロッケンシュピールに4マレット奏法は使われないと言う。 これもつまりは様式で、理由はよく分からないながらも、音域が十分でない為かもと思われる。 2オクターブちょいの鍵盤に4マレットは、どう考えてもキツかろう。


1/13(水)

先日話題になった芸能人の不倫報道。 ネット上で世間の反応を眺めていたんだけど、どうも批判が的外れであるように思えた。

特にそう感じたのは、まず「結婚していながら、不倫相手を実家に連れて行くなんて怪しからん」と言う意見。 次に、事件についての報道で頻出した「卒業」あるいは「卒論」と言う(当事者らの間で使用されていた)用語に対する非難の声。 因みに、その卒業とは「離婚」のことを、卒論は「離婚届」のことをそれぞれ指しているらしい。


まず後者について。 おそらく世人らが思うほど当事者である彼らは、その用語を悪意を持って使用していない。これ断言できる。 むしろ後ろめたさを紛らすためのライトな表現とか、そういうつもりですらあったのではないか。 確かに、部外者が客観的にその表現を見るなら、如何にも人間の尊厳を踏みにじっているかのようだが、言語感覚のコミュニティー差とか状況差とかって割りとあるものです。 大人は意思が通じているフリってのを処世術として体得しているから分かり難くなるけど。

彼(不倫の当事者)が人間を軽んじていることは殆ど疑いないと思うが、糾弾すべきはそこ(用語)ではない。 もっとベースのレイヤーである。


次に前者について。 想像してもみて欲しい。 彼はひょんなことから(本来畑違いである)有名芸能人と知り合い、恋仲にすらなった。 ところがつい最近(数ヶ月前だと言う)、別の人との入籍を済ましたばかりであった。 目の前にブラ下がる巨大な果実を目の前に、彼は「しまった」と自分の判断を悔いた。 出会う時期がホンの少しズレただけで、本来なら「熱愛宣言」などと微笑ましいニュースになった筈なのに、最悪の印象を世間に与えてしまった。

妻帯者である自分に、恋人はいつまで付き合っていてくれるか。いずれ興を冷ますのではないか。 そこで彼は考えた。 妻帯者でありながら、恋人との関係(相手の熱量)を維持し続ける方法は無いか。新婚の身でありながら「今の嫁と即座に離婚する」と言うのはそんなに簡単じゃない。 結婚している事実をいつまでも隠し通せるはずもない。「いつか別れる」では、相手の反応も芳しくないに違いない。 心許ない彼は、どうすれば良いのか迷った。

だから「実家に連れて行って親に会わせた」のである。 最大限の誠意を表明するために。 「私はあなたとの交際を真剣に捉えてますよ」と言うポーズのため。 あまりに行動が裏目に出てしまったので、世間の人らは、この単純な事実に気付き難くなっているように見える。 行動が性急なのも、事情を斟酌してみればある程度納得できてしまう。

あと、新婚ホヤホヤの息子に妻とは別の女性を連れて来られた親は、さぞかし面食らったろうとも思われる向きもあろうが、これだって分からない。 物事に対する現実感覚も結構個人差ありますから。 案外「さすがは我が息子」とでも思ったかもしれない。 ひょっとすると、彼個人の心理と言うか、置かれているパワーバランス上、むしろ戦利品を親の実見に供える必要があったのかもしれない。 この辺は、関係性について詳細な情報を持たないから何とも言えないけど。


犯罪捜査の専門家だか犯罪心理学者だかが言っていた。 例えば「バラバラ殺人事件の犯人が女性であった」と言う事実に、一般人が、「女性でありながら、男性でも中々やらないような猟奇的な行動を採るなんて」などと戦慄するならそれは誤りであると。

女性は男に比べ、一般的に体力がない。 「死体を車のトランクに詰め込み、山奥に捨てる」と言う行動を採りたくても、大人一人の死体を抱えて動き回るなんてことが容易でない。 だから死体を断片化する。 そうすれば非力な女性にでも処分しやすくなる。 これがバラバラ殺人であって、ある種の合理的行動であると。 必ずしも単なる猟奇的行動ではないと。

私は殺人犯などを弁護しているわけではなく、物事の実態は正確に把握した方が面白いと言っているのだ。 「女性なのにバラバラ殺人」ではなく「女性だからこそバラバラ殺人」なのだと言うこと。 同じく「妻帯者でありがら、あろうことか不倫相手を実家に連れて行った」のではなく、「妻帯者であったが故に、実家に連れて行く他なかったのだ」と言うこと。 「奥さんにだまって」とか、当たり前じゃんって思う。 不倫相手との関係を成就させるための行動なのに、一々奥さんに報告してどうするよ。


1/12(火)

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言語の働きとは、何かを「同一」とすること。 厳密には一つ一つ違う筈のドングリを、ドングリと言う言葉で一つに括る。 木の実と言う言葉で括れば、階層が一つ上がる。 木の実と言う言葉は、木の実と言う概念で、数々の木の実を同一とする。

言語は、木の実なんて単純なものだけでなく、時に「人格」などと言う複雑怪奇なものさえ同一視できる。 それが自己同一性である。 子供の頃の私や昨日の私、そして今朝目覚めた私が、全て同じ私であるのはこの言語の作用。

だからして同時に、言語機能が脆弱な者は、実は自己そのものが脆弱であったりする。 自分が自分であると言う、ある人にとってはごく当たり前の感覚が持てない。 その人は、言語に因る良心が持てず、良心によって他者と繋がることも出来ず、不幸にも傾向性の奴隷たらざるを得ない。 言語が脆弱であると言うことは、つまりはそんな人、この世界に存在していないと言うこと。


英語の明晰性に感じ入る度、日本人が各自バラバラで、歴史的にも階級社会しか作れなかったのは、この日本語と言う言語のせいではないかと思わされる。 欧米社会では、大統領も法王も子供もマフィアのチンピラも、基本的に同じ人称を使っている。 日本社会で例えるなら、子が親を、小学生が天皇を「あなた」と呼ぶようなものだ。

人称などは端的な例だが、欧米言語にはまず敬語が無い。 同じ言葉を使うからこそ、彼らは一枚岩、つまり「同じ」なのではないか。 だから出る杭が打たれない(その杭は我が一部なのだから)。 ヨーロッパ・アメリカ文明を支えたのはそこかとも思う。 きっと一因ではあろう。


言語こそが我々の意識を生んでいる。 言語の処理プロセスが、意識と言う奇跡を生んだ。 演算のプロセスが似通っているからこそ、友人は自分自身であり、友情・同胞愛と言った感覚も生まれたのだろう。 私と同じ言語機能が、この宇宙のどこかに存在するのなら、それは私自身に違いない。


1/11(月)

物音を出す隣人に「今何時だと思ってるんだ!」と言うクレーム、如何にもありそうだ。 ってことは、程度にも因ろうが、時間さえ適切であれば騒音は許されると言うことにもなる。

確かにそうだ。 昼間なら、生活雑音に紛れて少々の物音は許容される。 静まり返った夜中には、同程度の音量でも許容されないケースはあろう。

つまり、音がするからうるさいのではなく、する音を人がうるさがるからうるさいと言うことになる。 だから騒音なんてのは、人間の意識の中にしか存在しないものだってこと。


1/10(日)

夢と現実、なんてあたかも対義語のように扱われるけど、要は異なる脳の覚醒状態を指すに過ぎない。 我々は、あるレベルの脳の覚醒状態を夢と呼び、またあるレベルの覚醒状態を現実と呼んでいる。

現実の方が夢より高次の(現状では最上の)覚醒状態とされていて、それを超えるレベルの状態は、概念としても事実上存在しないことになっている。

私は人間の、言語を司る何らかの機能が、人に現実を見せている(現実感を与えている)と思っている。 だから当然、その機能の個体差によって、各人見えている現実は異なる。

その人の中に、消え入るほどにか細い現実しか存在していない(見えていない)ことに気付くことがある。 欧米人などは、そういう人をおそらく十全な人間と見做さない。 彼らの考える、人が人である所以がその辺にあるからだろう。 現実を映さない者などある意味人でない。

人体がそこにあったことなんかより、それが現実を映していること、それこそが一番大切なことである。 私が作る歌は、その人の中に流れる現実に訴えている。 鼓膜に届ける為に作ってるわけじゃない。


1/9(土)

「ペアルックのカップルは早晩別れる」と言うようなジンクスがあるらしい。 でもそれって、ちっとも非科学的でないよね。

その手の人たちは、要は相手を自分の意のままに動かしたい。 恋人に「自分と同じ服を着させたい」と言う衝動がベースにある。 たまたま双方の思惑が一致したからこそのペアルックである。 思惑が一致しなかったら破綻はそう遠くないはず。

依存心と支配欲ってのは紙の裏表である。 依存したいからこそ、その対象に逃げられては困る。従って完全なる支配下に置いておかねば不安になる。 ペアルックって、その支配欲と依存心の象徴みたいに私には見える。


1/8(金)

ある芸能人に不倫報道が出たらしい。 その人はいわゆる好感度タレントのような人で、CM契約なども多数持っているそうな。 従ってその報道も、マイナスの影響がデカい。大騒ぎになっているらしい。

その人は子供の頃から芸能人であったそうで、一貫した芸風でもって芸能人であったのなら、精神に及ぼした負荷は巨大であったに違いない。 何故不倫行為などしたか、なんて周辺事情を知らぬ私に分かるはずも無いが、それを「出来ない」・「してはならない」と思う余り、価値のある何かだと錯覚してしまった可能性は高い。 芸能人が芸能人であり続ける為には、本人の私生活などの犠牲が大きいに相違ない。

CM契約を何本も抱えてるような売れっ子なら、その芸能人は既に一つのブランドで、産業であるとさえ言える。 当然そこに付随して雇用なども生まれている筈で、関係者にとってその不祥事は他人事でない。 今そのタレントさんも、この騒ぎの渦中で、嫌でもそこにあらためて気付かされていることだろう。


人間以外の動物には、地震の予知能力があるのではないか、と言う説がある。 一説には、地盤間に生じた負荷が、大気中のイオン濃度に異常を来たし、それを一部の動物が察知すると言う。 有意な相関性が科学的に認められているわけではないっぽいので、あくまで仮説の一つなんだろうけど、どうも私は芸能界ってヤツにこの「負荷によって生じた匂い」みたいなのを嗅ぎ取っているらしい。 つまり芸能の世界が、私のある論理性に抵触するので、嫌いである。


人間の「欲しさ」を欲しさのまま放置すると、それは美意識の狂いに繋がりがちだ。 上の一件の原因もおそらくはそれで、誰かの犠牲によって保たれているバランスは崩壊しやすい。 そういう意味では、そのタレントさんはとても気の毒だ。 「あんなにキチンとした人が何故?」なんて思われてたりするんだろうけど、多分その人は「キチンとすることに疲れた」って面もあるのだろう。


人は、この美意識の狂いによってしばしば、本当は欲しくも無いものを終生追い続けさせられたりする。 それもまた人生、と言ってしまうのは簡単だが、私においてはそれでは困る。 何故なら私は芸術家だから。 そのバイアスを放置しては、完璧に美しい曲など永遠に書けない。

私の感じるこの負荷について、芸能界と言う業界が自ら自浄作用を発揮する可能性は絶無に近いと思う。 囚人のジレンマのようなもので、あれはあれで一種の均衡状態なんだろうから。 でも外部的な要因で、一気に崩れ去る可能性はあると思う。


そのタレントさんに限らず、困難に遭遇してしまった人に対して私が思うのは、「何かを自分に残せるのならその経験は無駄ではない」ということ。 欲しかった何かをとりあえず手にしてみたのだから、その経験は、これからの自分の進むべき方向を示してくれるに違いない。 欲しかった対象(この場合、その不倫相手)が本当に必要だと思うなら、それを得るべく一直線に進めば良い。 「手を出してはみたけど存外詰まらないものだった」と総括するもよし。


私が音楽を日々作り続ける理由は、「自分に聞かせるため」である。 でも、作ったその作品を一応世に出したりもするのは、この世界のどこかに、それを必要とする誰かの心が存在すると思うからだ。 「あなたの音楽なんて必要無い」と言う人にとっては、本当にそうなのでしょうから無理に聴いて欲しいとも思わない。 悲しみ・苦しみに沈む人に、私の曲が何かの力になったりするなら、こんなに嬉しいことは無いけどね。


1/7(木)

私は時間軸を伴うものこそ難しいと思っている人なのだけど、これは中々伝わらないらしい。 何故そう思ったかと言うと、私は身近な人などにこういうことを常日頃言い続けているのだけど、その身近な人が最近になって「初めて言ってることの意味が分かった」みたいなリアクションを示したからだ。 それはつまり、それまで分かってなかったと言う表明に他ならない。


神とはロゴスであると言う。 ロゴスとは言語であり、言語とは論理であると言う。 言語は論理なのだから、論理的でない言語などあり得ない。 更に言えば、論理とは時間である。 時間軸上にしか展開し得ないものだから。 論理が展開されるのは、距離・面積・体積と言った次元ではないんだ。

例えば文章などは分かりやすい。右から左でも左から右でも、あるいは上から下でも良いが、とにかく順を追って読む。 「AがBをCとした」あるいは「AはBと言う事情でCとなった」とか、こういうセンテンスってのは順を追って展開される。 つまり時間軸上にロードされる。 これらの処理に不可欠な脳のワーキングメモリーってのは、要は「時間の展開能」と言うことになる。

この時間の展開能が低ければどうなるか。 時間軸を伴った諸概念を理解(展開)できないと言うことになる。 「AがBをCとした」と言うこの短いセンテンスにも時間軸がある。ワーキングメモリーが不足すれば、Cの段階でもう「Aがどうした」と言う部分が維持できなかったりする。 従って、容量不足による「上書き」のような現象が起こる。

時間を展開できない脳の持ち主は、椅子や机などと言う、指差せば誰にでも分かるものは理解できても、愛や悲しみが理解できない。 あるいは誤った解釈にて理解したつもりになっている。 愛などと言う概念が「時間を包摂したもの」だからだ。

目の前にいる人間の理解にしても、この時間の展開能によって、巨大な差が生まれる。 そこにいる人間とは、その背景にそこにたどり着くまでの人生と言う歴史を背負った存在であり、その歴史の中に都度喜怒哀楽を刻んだ存在である。 これを忖度できる唯一のツールは言語である。 ある人にとっての人間は人体と言う物質でしかなかったりする。 この無理解は、つまりは時間の展開能の不足によって生まれる。


映像、それを受容する視覚に時間軸は無い。 ピカソのゲルニカのような巨大な絵画だって、脳内に展開するのに時間軸は必要とされない。 「私は時間軸を使って絵画を味わっている」と言う人がいるなら、その人は映像を引き金に、心の中の音楽を奏でているのだろう。

我々が今目にしているこの世界に現実感を与えているのは、おそらく脳機能のうちの言語を司る部分で、論理性や時間感覚なども同じ部分が人にそれを与えている。

音楽とは、この時間軸に展開し、味わうもの。 時間の展開能無き脳では味わえるものに限界がある。 音響・音色しか受容できない者とは、つまりは時間の展開能が不足している脳の持ち主なのだろう。 音楽作品は時間軸を持ち、当然ながら時間軸上に展開される。 成分として、愛や私自身も含む人間そのものに最も近い。 私とは、私の中に流れた音楽のこと。


1/6(水)

「私は幽霊を見た」と言う人はいる。 しかし「見た」と言う事実に大した実証性は無い。 幻覚も夢も、つまりは見てしまうものだから。 但し仮に、それが幻覚であったとしても、当人が見てしまっているのには違いない。

もし私に子供がいて、その子が、私には見えない幽霊のようなものを心に映してしまっていたら。また、それに怯えるあまり、私には理解できない行動を取っていたら、私はどうするだろう。

幽霊が見えてしまっている以上、その子は加持祈祷にも相応の金を使うかもしれない。 幽霊が見えない私に、それは意味の無い浪費に見えるに違いない。 我が子なんだから、そいつの使う金は、結局我が懐から出て行くことになる。「無駄遣いしやがって」と殴りたくなるかもしれない。

その殴りたくなる衝動を、溶かす何かがあるとしたら、それは愛だろう。愛でしかない。 愛が無ければ、人は、殴って我が子のその行動を押さえ込み、ストイシズムと言う代償的成長を促すことになる。 その子は、生きながらにして死んでいるような人になるかもしれない。

死にたくないその子が、家を出て行ったとしても、それは責められない。 少なくとも私は責めることができない。

私だけでなく、誰にとってもこの世界は、初めて出会った世界だろう。 この宇宙に絶対的な真理が無い以上、何が本当に正しいかなんて分からない。 でも実感として今の私に確実に言えるのは、一番大切なこと、価値のあることは、我々が生きていること。


1/5(火)

以前にも触れたことがあるのだが、幕末の薩摩藩(島津家)に起こった「お由羅騒動」について考えていた。 事件についてご存知ない方は調べてもらいたいのだが、いわゆるお家騒動の一典型である。

島津斉興って殿様が、正妻の産んだ嫡子より、妾の産んだ弟の方を世子に置きたがり、家中が(当然)割れた。 正妻の産んだ長男は斉彬と言い、名君の誉れも高い人物で、当時も四賢候の一人とされ、後世「江戸期最高の名君」であるとまで言われた人物である。

弟の方は久光と言い、彼を産んだ妾をお由羅と言う。由羅の出自ははっきりしないものの、町人の娘であったそうな。 久光の人物については、一概に判断できない。 人の頭の良さなどに絶対的基準がないから。 例えば西郷隆盛は、(兄斉彬とは対照的に)久光の人物を全く買っていなかったりするんだが、別に特段の無能者と言うほどでも無いように私には思える。 単に凡庸であっただけでないか。 早い話、お兄さんが優秀過ぎた。

父斉興が長子斉彬に家督を譲りたくなかったのは間違いないらしく、斉興は、当時としては異例なほど長く藩主の座に居座った。 隠居を渋った理由は、偏に久光(と言うより由羅)への溺愛にあったと思われる。 結局周囲(主に幕府)からの圧力により、渋々家督を斉彬に譲るのだが、さぞかし不満であったろう。

斉興には有名な肖像画が残っている。 口をへの字に曲げ、如何にも不満気な表情を浮かべている。 まるで彼の半生の気分を集約したような、ある意味での名画である。 私はあの絵の来歴を知らないが、どういう事情で描かれた物なんだろうか。

藩内が二つに割れた結果、斉彬一族は呪詛の対象とされる。 実際に呪詛そのものの効果についてはさておき、斉彬の子らは軒並み早世し(特に男子は全滅)、斉彬その人も死んでいる。暗殺(毒殺)説が有力であると言う。 私も情況的に毒殺であったろうと思う。

斉彬暗殺の黒幕は誰か。 暗殺が事実であるなら(自然死でないのなら)、由羅派の誰かが実行したに相違なく、あえて黒幕を挙げるなら父斉興であると言わざるを得ない。 親が子を殺すなど俄かに信じがたいと思われる向きもあろうかと思うが、周辺の事情を知れば知るほどありうべきことに思えてくる。

斉興は、我が子斉彬が嫌いであった。 賢人として名高い息子を何故そこまで憎んだか。 それは息子が賢人として名高かったから。 斉彬の有能さを示す数々の傍証の多くは、父斉興にとって意味不明であった。 延いては我が身の無能さを指差されているようで、彼にとっての長男斉彬は、許すべからざる存在に映った。


当時の薩摩藩の、とりわけ保守的な思想を持つ者らには、開明的な斉彬が危険人物に映ってしまう事情が濃厚にあった。 私に、この事情と言うヤツを、短い文章で簡潔に説明する能力は無いから、知りたい人は調べて欲しい。

斉興やその取り巻きは、おそらく日常的に斉彬の陰口を叩いていたろう。ほとんど想像に難くない。 罵詈雑言を繰り返すうちに、斉彬のことが本当に悪人に見えてきたろう。 暗殺止む無しとさえ思えるほどに。

とにかく斉彬は殺された。 無論毒殺説は、日本史上の定説にこそなっていないが、学者とかってのは基本断定を避けるもので、状況証拠的には真っ黒である。

私は斉彬の方にシンパシーを感じる者なので、どうにかしてこの最悪の事態を避けることは出来なかったものかと思案してしまう。 「逆恨み」だと言うのは簡単だが、世の中に逆恨みなど溢れ返っている。 逆恨みを放置しておけば、最悪殺人事件にまで発展しかねないと言う良い証拠である。

斉彬と言う人は、なまじ優秀であり過ぎたが故に、そうでない人に対する洞察が甘かったのではないか。 小人の卑屈さ加減に、どうも無頓着であり過ぎたきらいがあるような。 まあ現代人なら実家を出て行けば仕舞いだが、当時のその状況下においてはどうしようもなかった面もあるだろうか。 残念なことだ。


1/4(月)

慰安婦問題、日韓両国が合意に達したとか何とか、昨年末のあわただしい時期に仄聞した。

個人的には「あの程度で手打ち?」みたいな肩透かし感がある。 相手側の立場になって考えても、いわゆる慰安婦問題を世界中に喧伝するのにも、随分手間隙掛かっている筈で、その種のロビー活動にも相応のコストは発生したろうに。 あの国の歴史を眺めていると分かってくるんだけど、各所の足並みがあんまし揃ってないのかとも思われる。

いわゆる国家間の賠償には当たらないと思われるが、日本国はこの件に、10億円だかを拠出するらしい。 10億って金額は、この種の問題解決に用いられる予算としては端金の類なんだろうけど、この10億だって我々の税金だ。

私はこの手の話を聞く度「くだらないことやってんな」って思うけど、政治家の皆さんはそれが仕事なんだから、そんなこと言ってるわけにも行かないだろう。 たかが慰安婦問題と言っても、国民感情は延いては国防の問題などにも繋がってくる。 大変な仕事だろうと思います。 上の10億も我々の選んだ政権の判断なのだから、ある程度は授業料と思って諦めざるを得ないのだろう。 と言うか、授業料を納めるのだから、できるだけ多くの何かを自分に残すしかない。


政治って仕事が大変なことは理解しているつもりだし、現場の政治家の皆さんには満腔の敬意を持ちつつも、私は政治ってものが嫌いだ。 私自身が政治的な人間でないから。 私は政治的でないから、いわゆる営業が苦手だし、普通のサラリーマンになり損ねた。

目の前にAとBと言う二つの方法があったとして、Aと言う正解を選ぶのが芸術なら、Aを選ぶのが望ましいが、不正解と知りつつも現実的手段としてBを選ぶとか、あるいはAとBの中間を取る、と言うのが政治なのだろうと思われる。 靴の上から足を掻いているようなもどかしさを感じずにいられない。


韓国の人だとか、元慰安婦の方々には失礼ながら、私はああいった「被害者ビジネス」が大嫌いだ。 日本と言う国が悪かったとか酷かったかどうかはさておき、自分の不幸の原因を他に求める思考法が生理的に好きになれないんだ。

日韓の不幸な歴史について、「悪いのは日本じゃないか」と言う意見、それ自体は分かります。 事実その通りかもしれない。 私には、歴史に対して善悪の判断を下せる権能が無いが、ある時代に日本が朝鮮半島を併合(領土化)したのは事実だろうし、それはある時代のある観点においては悪であるのかもしれない。 韓国人の皆さんが「我々はそれを望まなかった」と言うならそれも仕方ない。 「併合は合法であった」とか言う意見も耳にするけど、別に合法=正義でもあるまい。

「いいや、当時の朝鮮人らはそれ(日韓併合)を望んだのだ」と言う反証を挙げる人もいる。 それも紛れも無い歴史なのだから、その手の検証作業を職掌とする方は大いにそこを突いたらよろしいと思うが、彼らが納得するか否かは別の問題だろう。

単純な事実関係だけを述べるなら、ある時代の朝鮮人の一部(おそらく大部分)は日韓併合を望み、大東亜戦争の最中、(朝鮮半島内での)兵員の募集には高い倍率での応募があったし、日本兵として戦った朝鮮人もたくさんいた。 悪名高き日帝36年の植民地支配の間、朝鮮半島は近代化し、客観的には併合の恩恵を大いに受けた(近代化こそが悪だと言うなら、独立後の歴史も全部否定されねばなるまい)。 今それらの事実は、ある都合により、無かったことにされている。


「殴ったのは日本の方だ」と言うのは事実関係として正しい。 でも人類が今ほど大人でなかった頃、この世界はほとんど「殴るか殴られるか」の二択であった。 当時の日本人は、殴られるより殴る側になる為に、努力の限りを尽くしたと言って良い。 善悪の評価はさておき、私は、誰かを殴ったことを非難される者より、殴られたことを盾に何らかの利益にありつこうとする者の方が嫌いである。


私は「日本人は反省すべきだ」と思っている。 但し、韓国人などの言うそれとは違った意味においてだ。 個人の経験においてだって「信ずべからざる者を信じた判断の甘さ」は反省点とすべきに違いない。 国家の歴史においてだってその種のことは言える。

「韓国の方だって悪い」と言うのは、仮に論旨そのものは正しかったとしても、要するに今目の前に立ち塞がる困難の原因を、他に求める態度には違いない。 自らの正当性はそれはそれで主張すべきだが、相手が折れることを過度に期待すべきではないと思う。

日本と韓国は、幸か不幸かある時代、歴史を共にした。 そしてそれは朝鮮半島の日本化と言う形だった。 日本の採った行動について「情勢上止むを得なかった」と言う者はいるが、果たして本当に他の選択肢は無かったのか。 また、ある行動を採ったなら採ったで、細部における瑕疵は無かったか。

とにかく当時の日本は、朝鮮を併合する道を選んだ。 「選択」と言うのは、つまりはその人そのものである。 世界に向かって被害を訴える彼の国の姿を眺めつつ、日本人は自らの判断の甘さを省みれば良い。 10億って決して無意味な金ではないと思う。 我々に隣人は選べない。選べるのは我が在り様だけである。


1/3(日)

大晦日から新年にかけて、よく「カウントダウンイベント」みたいなのってやりますよね。 無論私はそういうのに参加しないし、参加したい気分にもない。 どうして参加しないのか。 私はよくここで、そういうことを楽しんでいる人らから「小馬鹿にしているのでは?」と疑われる。 そんなことないですよ。

私はどういうこと(その手のイベント)に参加し、その景色をこの目に映す気分を、ある時期飢えるほどに欲した。 今の私はそれを既に経験し、理解している。 だからこそ何度も繰り返し履行したいと思わないだけ。 いわば私の中にソレはもう在る。場所も時間も選ばず、いつでも取り出して味わうことができる。

私のここで言う経験は、ある人にとっては経験(実体験)に値しないかもしれない。おそらくしないだろう。 30人規模のライブハウスで演奏した経験によって、武道館公演の気分を知ったと言っているようなものかもしれないから。 でも、それで十分なんです。 経験から得られた気分の、ある部分を抽出し、頭の中で増幅しさえすれば、それは理解に十分。 私の欲しいものは理解。


馬鹿やって羽目を外すことにも価値はある。 それが私の生まれた世界の一部だからだ。 私の目に映る現実だからだ。 ただ、私の持てる時間には限りがある。 だから、ある経験を繰り返すことを選ぶことより、つい新しい景色を探してしまう。 私の態度は人を傷付けてしまうこともあるみたいなんだけど、悪気はないんです。許してください。


1/2(土)

今年は暦から見ても、そんなに大きな連休取れた人少ないでしょうね。 私なんかは大晦日も正月も無い人だけど。 休暇なんてあっても私の懸案事項はいつも変わらず「次の曲」。 結局この年末年始もそうです。 今年もよろしくお願いします。


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