Staff diary  
スタッフ日誌[2015]

[文 / 益田(制作)]

12/31(木)

今日で今年も終わりか。仕事の区切りが無いので何の実感も無いけど。 来年もよろしくお願いします。

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Waterphoneと言う楽器についてのメモ。 楽器っつうより効果音作成器って感じだけど。

ホラー映画とかの効果音によく使われるらしい。 弓や撥(マレット)を使って演奏するそうな。 キチンとした楽音を出せる楽器ではなく、正当な流派みたいなのもなさそう。 そもそもパッセージを奏でるためのものじゃない。

探したらVSTあった。 演奏動画などと比べてみたけど、出音もそれなりに実器を再現できてる。 と言うか、単なるサンプリングだろうから、当然のようにほぼ実器そのもの。 聴く限り、サンプルは弓で発音させたものだったので、撥を使った音は出せないみたい。 でもあの楽器の音使いたいなら弓だろうな。


12/30(水)

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神田優花、新曲(二曲)録りました。 今回歌入れしたのは、数ヶ月前にずっと懸案としてた「タイ楽」を作品化したもの。 音律が一般的でないので、その分苦労はしたと思うんだけど、一応年内に作業上の一区切りは付いた。 発表は来年になると思います。


12/29(火)

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広瀬沙希、レコーディング。 来年こそは広瀬沙希のアルバムを完成させたいと思っているんだけど、いつ頃になるかとかはまだ分からない。 広瀬さんの音楽は、多少聴く人を選ぶような気がするので、万人にお薦めできるのか分からないけど、完成した暁には是非聴いて欲しい。


インドの言葉に「ナーダ(Naada)」ってのがある。 日本語にするなら「音」なんだろうけど、まあ異言語間の対訳には多少のズレがあることが多い。 音ってのも物質ではないので、解釈に違いが出やすかろう。

物質世界と言う混沌を、人は言語で翻訳する。 目の前を横切る野良猫を「Cat」とすることにより、脳裏にロードする。 その際、言語化できない部分は端折られる。 だからこそ、言語の豊かさこそが心、即ちその人に広がる世界の豊かさになる。

「在る物」とは、その人が心に思い描けるものであり、「無い物」とは、その人が心に思い描けないものである。

形あるものは視界に入り込んでくるので、曲がりなりにも捉えやすい。 音だって同じ。音響は鼓膜に直接飛び込んでくるものなので捉えやすい。 日本語の「音」はこの、鼓膜に響いてくる音の方を概ね指しているように思える。

ナーダの方は、音を聴いた人が「心にロードした何か」の方を指していると思われる。 広瀬沙希の音楽とか、如何にもこのナーダの音楽って気がする。 音響面の派手さなんて無いから、言語で処理する、つまり(耳でなく)心で聴く感じになる。 だから人を選ぶ。


12/28(月)

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サイゼリヤと言うファミレスみたいなのがあるんだが、御存知だろうか。 全国チェーンなのか知らないので、地域によっては全く無かったりするのかもしれない。 私は時々そこに行くんだが(東京近郊のほとんど至るところにあるので)、注文の品が届くまでの間、よく子供用メニューに載っている「間違い探し」に没頭する。

子供用メニューに載っているものなので、無論対象年齢は子供である。小学生とかその辺りまでだろうか。 ああいうものは得意な子と不得意な子といるに違いないが、私はそこでふと考えてしまった。

あれ(間違い探し)、もしかして、ある面での脳機能の優れた子はむしろ苦手なのではないか。 何故なら、言語の主要な役割として、同定・同一視ってのがあるからだ。

例えば、二つのそっくりな鳥の絵が並べてあって、片方だけホンの少し違っているとする。 言語はそれらを「同じ」だと認識するある種の引力を発動するはずだ。 発動されないのであれば、その子の言語力は弱いのではないか。 無論、「違い」を認識するのもこれまた言語である。 この辺、簡潔に文章化するのが難しいな。


12/27(日)

私にとっての音楽とは何か。 毎度間遠いようなことばかり申し上げて、伝わりにくいであろうことは承知してます。

私は音楽を作る時、また(特に自作曲を)聴く時、特別な意識の覚醒状態にある。 音楽は、私の日々見つめているこの世界の一部には違いないが、特別な場所である。 ピカソはアトリエに入る時に「肉体を置いてくる」と言うようなことを言っていたが、私も似たような感覚である。 私には、音楽の中にもう一つの世界がある。

もう一つの世界にいる時、私はまるで映画を見るように、ガラスの向こうから浮世を眺めている。 突然電話のベルが鳴って、イキナリ浮世に連れ戻されたりすることもよくあるけど。 そういう時に私は、いわば下界に降りてくる。


モノであれば取っておける。 無論物質は劣化を避けられないけど。 人は、気分と言うような取り止めのないものを留め置きたくて、例えば記念品を買ったり、記念写真を撮ったり、日記を書いたり、あるいは絵を描いたりするのだろうけど、私にとって一番心(気分)に近いモノが音楽なんです。 これさえあれば、私は時間すら旅できる。

音楽の中に生きていると、浮世の戯れ事に関心が薄くなる。 人に寛容になるし、物に恬淡としていられる。 世人らが立身・出世・財産などに汲々としている姿が、おかしな言い草だけど、憐れにすら見えてくる。 だからして、私には必然的に、音楽と言う分野で他のミュージシャンらと席次を争いたいと言う気分が生まれ難い。

私にとっての音楽に、一番近いものを挙げるなら、それは「夢」かもしれない。 平素とは異なる意識の状態。 但し、夢が意識の低下であるなら、それは意識のむしろ高揚。 平素より遥かに研ぎ澄まされた意識の覚醒状態。 究極の自由。

伝わる人には伝わるかもしれないけど、やはり伝わり難いでしょうね。 ある種の人にとっては、先天的な盲目者に「視界」を説明しているようなものだろうから。 ただ、先天的盲目者でも、視野と言う世界があることは朧気ながらにでも知っているらしいけどね。 私は何となくそれも分かる。


12/26(土)

販路を拡大したいって話をしてたんだけど、その続き。

とある業者(アメリカ)で商品を扱ってもらうべく現在折衝中なんだけど、商品価格をどう設定するか、あらためて考えている。 そういえば今までの海外向け商品の価格って、こちらで全然決めてなかった。

アグリゲーター(レーベルと販売業者との仲介役みたいな業者)かあるいは販売業者側で定価を設定しているのだろうけど(契約書とか調べれば分かるだろうけど面倒で見てない)、結構マチマチと言うか、モノによって価格設定が違う。 どういう基準で決めてるのかよく分からない。

国内での販売価格については、一応こちらで決めている(いくつかの選択肢の中からこちらが希望する価格を選んでるだけだが)。 国内での販売価格を反映する形で海外での価格が決まってるんだろうか。 であるなら、その都度為替レートなんかに応じて変動することになるのかな。 だから統一感の無い価格設定なのか?

今のところ、単曲1ドル、アルバム10ドル、ぐらいの価格設定にしようと思っている。 厳密には$0.9・$9.9みたいな価格になると思うけど。 そう言えば、スーパーとかでもよく\398みたいな価格設定って見かけるけど、この手の数字が与える一見の安値感って万国共通なのね。


12/25(金)

随分昔の話だが、昭和初期あたりに書かれた対位法の本だったかを読んでいたら「不満足」と言う言葉が頻出する。 そしてその「不満足」は、どうやら現代人の言う、気分としての不満足ではなく、単に「要件を満たしていない」と言うだけの意味かと思われた。 言葉の意が時代とともに変化してきている例だろう。

その後、音楽関連(特にクラシック系)の楽理書の類を読んでいると、しばしばその不満足の記述が上記の意で使われていることに気付く。 各筆者が上記の本そのものを読んだのかは不明だが(読んでいる可能性も高い)、そういう用法が、音楽の世界に半ば限定的に膾炙していることは事実と見て良い。

時代とともに変化する言葉の意味が、ある世界(この場合音楽界)に限って生き残る(あるいは独自進化を遂げる)場合があると言う好適例と言えるだろうか。 野球の世界で「投球する」ことを「ほうる」とか言ってるようなものか。 一種の方言みたいなもんですね。


12/24(木)

人と言うのはこの世界の一部である。 私がここで言う人ってのは人体のことではなく、精神のことを指している。 言語の精度が悪いと、この「人」ってヤツが見えてこない。 世界を見ることができないのだから当然だ。 世界を見られない人は、自分ばかりを見ている。

言語の精度が悪い者は「自分」を見ていると言うが、まあ強いて表現するならそうなるってだけの話で、実のところ自分すらよく見えていない。 相対的に言うなら自分のことばかり見ているのでしょう。 絶対量でなく、あくまでパーセンテージの話。

自分しか存在しないと言う世界観においては、他に何かを与えたいと言う機微が生まれない。 存在しないモノに与えるもクソもない。 子を持つことによって、初めて世界が見えてきたって女性はいる筈だ。 世界が見えないと、その見えない世界(他人も含む)に対し、何ら与えることはできない。

自分しか見えない人は、与えることができないのだから、必然的に「貰うこと」ばかりに執心することになる。 彼は、如何にして「貰えるか」ばかりを考えている。 ある相手には媚び諂い、ある相手には恫喝する。これらの行動は、ひたすらに「貰うための画策」だと分かれば理解に容易い。 不遜と臆病は同源である。

「貰う」と言うのは、即ち相手から「奪う」ことである。 奪うための算段ばかり考えている人は、如何なる表面的な所作を覚えたところで、いずれは誰からも、何も与えて貰えなくなる。


12/23(水)

幽霊が実在するか否かはさておき、それが見えている人は存在する。 その人の判断に影響を及ぼしているからこそ、お祓いだとかにコストを掛けられる。

我々はこの世界を見ているだけだ。 ほとんど自分しか見られない人は、つまりは世界を見る視野を持たないということである。 これは意識水準の問題かとも思う。 覚醒の度合いが低ければ、人は世界を見られないのではないか。


私のように音を扱う仕事をしていると、必然的に可聴音域に留意しないわけには行かなくなる。 ある程度以上の高周波数を、私の聴覚は聞き取れない。 無論、波形編集ツールなどで視覚的に把握することはできるので、その辺の帯域を編集することは実際にもよくある。

私には聞こえない音でも、それが聞こえる人がいることは知っている。 一般に女性の方が高音域は聞き取れるようで、私もそれは実感として身につまされている。 だからその辺の帯域の処理を放棄できない。 この世界に私だけしか人間がいなかったら、そんなの放置なのに。


上記のような気分で生きている私は、ある作業の範囲をいわばマナーとしてこなすことは多いが、正直そこに真剣でないことも多い。 私に見えていないものだからだ。 私は加持祈祷の類に金を掛けたりできない。幽霊が見えないから。


12/22(火)

所有について考えていた。

私は結婚をしていないけれど、今後する予定もとりあえず無い。 相続とか税制上の理由で誰かと婚姻関係を結ぶ可能性とかなら無くは無いかもしれないけど、個人的な気分としては、結婚と言う制度が他人に対する所有権のお墨付きであることを無気味にすら感じる。 私は、他人の所有権を主張する人が嫌いだし、もっと言えば怖い。

私は誰かを愛するけれど、自分自身を与えることはしないし、できない。 また、誰かをどれだけ愛したとしても、その愛した誰かを所有したいとは思わない。 私は如何なる物も要らない。

ここで言う所有への欲望のことを、言い換えれば執着と言う。 愛と執着は全く違う。 私は私への愛に感謝するし、誰かを愛すこともあるが、誰にも執着しないし、執着されるのは迷惑だ。 と言うか恐怖・戦慄に値するとさえ思う。

人が他人を所有できると錯覚し、またその権利が半ば公然と認められているこの社会は、どこか狂っていると思います。 私は自分のこの感覚に自信がある。

他人の所有権を声高に主張し出す輩は、究極的にはその他人なんてどうでも良いと思っている。 自己を満たす道具だとしか思っていないから、最悪傷つけても構わないと思っているはず。 傷つけられないのは、自分の大事な道具であるから。それだけに過ぎない。 要するにモノだと見做している。


私は依存を嫌う。 私に帰る場所なんてありはしないと思っているし、失くすものなんてのも無いと思っている。 帰る場所も失うものも、要は依存の対象だからだ。 私は時間しか持たない。 この目に映った世界が、時間の終わりまで続いていくだけ。

土塊から生まれたわけでない私には、一応親だっている。 でも私は、親と言うものを一人の他人だとしか見做していない。 愛すべき人物であれば愛すし、そうでなければ愛せない。 親に依存したりしないし、親を自分の所有物だとも思わない。 親が私を愛してくれるのなら、それは感謝すべきことだろうけど、愛さなかったとしてもそれもまた彼らの自由。 また、もし親が私の所有権を主張してきたなら、それはもう明らかな敵と見做し、戦う。 私は、相手が誰でであろうと、私の所有権など認めない。許さない。


子供の頃に飼っていた犬(♀)が私は今でも好きで、もう一度会いたいと思っている。 会う方法を真剣に探している。 何故好きかと言うのを説明するのは難しいが、彼女に親が事実上おらず、親に依存していなかったことは大きい。 また彼女は私の所有権を主張しなかった。 自分を飾る何かを模索せず、ただ私のことを好きでいてくれただけに見えた。 彼女は自分自身なんて見てなかったんじゃないかと思う。 人は自分を見過ぎる。

「犬なんて単純な思考しかできないから、所有権になんて考えが及ばないだけだ」と言う見方はあるだろうし、それなりに正しいのかもしれない。 でも、なまじ知恵が付いたあまり、他人の所有権など主張し出す醜悪な生き物よりは余程に高尚に見えた。 実際高尚だと思います。

私が依存を嫌うのは、誰かの側にいるためでもある。 誰かの心の側にいるためには、誰かの所有物であってはいけない。 何かを所有することとは、何かに所有されることである。 依存の本質とは共依存であり、互いの所有である。


私の近くに、私のこのモノの考え方に、諸手を挙げて賛同してくれた人は今のところいない。 誰にだって、その人固有の立脚の事情ってものがあろうから無理も無い。 でもきっと、これは本当のこと。


12/21(月)

有名な作家(作詞家や作曲家等)の経歴などを眺めていると、しばしば「三千曲を書いた」などと言う、俄かに信じ難い記述を目にする。 そういう作曲家と私のような人は、基本的に制作手法と言うか担当する工程が違うので、単純に比較できないのだろうけど、それにしても三千曲とは凄い。

私の場合、どうがんばっても年産百曲ぐらいが限界だろう。因みに、年間百曲リリースしたことなど現時点では一度も無い。 週一曲のペースで生産したとしても年五十数曲程度なわけで、その倍の百曲なんて殆ど不可能に近い。 寝る間も惜しんで馬車馬のように働いて(質はさておき)年百曲生産したとして、それを三十年間休まず続けて初めて三千曲になる。 まあ現実的な数字じゃない。


そういう(三千曲書いたなどと言う)作曲家の作品を聴いていると、素朴な疑問が湧く。 彼は作曲作業に飽きなかったのだろうか。 例えば、ピカソが少年時代にかなりハイレベルな具象画を描いていたことは有名だが、ピカソはそれに飽いたからこそ終生それを描き続けることを選ばなかったわけで。

その手の作曲家の作品って、要はスケール上の音符を並び替え、貼り合わせただけのようなものがほとんどだ。 それを数千回繰り返し、一生を終えたらしい。 クライアントの性格から考えても、そんなに前衛的な作品など求められた筈はないが、それにしても退屈極まりない作業(人生)でなかったか。

英語で言うところのartistとは、上のような類型ではなかろう。 強いて言うならartisan、いやworkmanぐらいが適当か。 退屈な仕事を定年まで40年間勤め上げる人とか実在するけど、そういうタイプのように思える。 単純作業に強靭なる精神力をもってして耐える、と言うのも偉業と言えば偉業だけど。


12/20(日)

ウチの音源の販路を、もう少し拡大できるものなら拡大したいと思っている。

実のところウチは、現時点でも海外も合わせてかなり多くの業者に商品を扱ってもらっていて、多分主要なところは大体押さえている筈。 ハッキリ言って、もうレーベルである我々も全部把握できないぐらいなんだが、更なる販路拡大を検討している。 少しでも多くの人に知ってもらいたくて。できることはとりあえず全部やっとこうと思った。

多分今から販路を広げたところで、売り上げなんてさほど変わらないだろうし、事務作業を始めとする労力に比して、実りの少ない作業になるであろうことは想像に難くないけどね。


12/19(土)

死んでしまった大切な人は、今のこの瞬間、この世界に存在するのか。 存在の定義が判然としないからハッキリとは言えないけど、我々が愛し続けているのなら、その人は我々にとっての現実には違いない。 だって我々の、日々の諸々の判断に影響を与えているのは間違いないから。

「もう会えない人なんて、存在するわけない」と言い切ることだって簡単だ。 言葉と言うのはその人そのもの。そう言い切ってしまえる人にとっては、本当に存在しないのかもしれない。 私はそうは思えない。 愛するその人が、かつてこの世界に存在したからこそ、今も「会いたい」と思えるのだし、再び出会えるその日を夢見ることだってできる。 想像できることは現実だ。

ピカソは死に臨む際、「私が死んでも、私を愛してくれる人々がまだこの世界に残っている。だから悲しいことなんてない」と言ったそうだ。そして全くもって彼の言う通り。 大切な人を失くして悲しみに沈む人よ。決して諦めてはいけない。

「どんなに愛したって、その愛はもう返って来ないじゃないか」と思う気持ちは分かる。だからこそ人との別れが悲しいのだろうから。 でも心配要らない。 愛されることより、愛することの方が、きっと我々にとって大きな意味を持つに違いないから。 人生の本当の醍醐味は、愛されることでなく、愛すること。 我々の愛するその人が、愛するに値する人物であったこと。それこそが我々が本当に僥倖とすべきことなんだろうと思う。


12/18(金)

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新聞に軽減税率が適用されるそうだ。 業界自らが「適用しろ」とのキャンペーンを行っていたみたいなんだが、効を奏したと見える。 私は新聞なんて取ってないけど、この度取る価値がないことがハッキリ分かった。

新聞社って言語・言論を司っている機関だろう。 羞恥と言うのは論理である。 それを感じない者の言説なんて信用するに足りぬ。


12/16(水)

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影山リサ、ニュー・アルバム「Weather Report」、本日発売です。


今年は様々なジャンル、そしてたくさんの曲をレコーディング&リリースしました。
3rdアルバム「Weather Report」は今年最後のリリースアイテムになります。
今までの影山リサらしい明るいポップスから少しダークで攻撃的な曲まで、影山リサの新たな一面を感じてもらえるようなアルバムになりました。

未発表曲の「Back Street of Avalon」は80年代風ポップスです。
レコーディングの時は少し感情的になっていて、突っ込み過ぎてるかなと思いましたが、切なさの中に力強さが感じられる様な作品に仕上がりました。

伝えたい事が詰まったアルバムです。色々な景色が見えると思います。
是非聴いてみて下さい。

影山リサ





12/15(火)

影山リサ、明日発売の3rdフル・アルバム「Weather Report」について。 以下私(益田)なりのコメント。 既にシングルとかで発表しているもの以外が中心になってます。


3.Pretty Storm

先行シングル収録のバージョンと音は全く同じ。

一応影山リサのイメージの核になる曲だと思う。 シングル出す時には雑誌にちょっとレビューみたいなの載っけてもらったりしたんだけど、初動あんまし良くなかった気がする。 その割にはいつまでもダラダラ出てて、結局のところ代表曲になりつつある。

そういえばこの曲、A-B-C-C'-B'-A'みたいな展開で(Cは間奏部分)、シンメトリー構造になっている。 だからどうしたってことも無いけど。


5.Back Street of Avalon

正直印象が薄い曲なんだけど、マスタリング段階で二転三転した記憶がある。 アルバムにはこのくらいの強さの曲もあって良いんじゃないでしょうかね。

影山リサのイメージの核となるPOPSよりは若干音に比重を置いているような。 あとこの曲、サブベース入れてるんで、再生環境によって全体的な音のイメージが少々変わります。


6.My Truth

先行シングルとして発表済みなんだけど、このアルバムに収録されているのは別マスター。 元々こっちが正規のマスターで、シングル版は多少それに手を加えた(MS処理した)もの。 だからリマスターと言うと語弊がある。いわばこっちが正式バージョン。 今よくよく聴いてみると、なんかユーロビートみたいな構成の曲だ。

当初ミニ・アルバム「ピニャ・コラーダ」の方に入れる予定だったんだけど最終的にこっちに入れることになって、「ピニャ・コラーダ」の方の曲数の帳尻合わせるために「Moon」って曲を大急ぎで作った。 だからあの曲物凄くいい加減。


7.Cloudy Mind

割りと好きな曲です。 シンセのメインリフみたいなのがあるんだけど、それのエフェクト(トランスゲート)に時間掛けた記憶がある。

ワン・コードの曲ってたくさんあるんだけど、これは一機能とでも言うべきか、サブ・ドミナントのみで進行して行く。 途中移調を挟むんでコードネームとしては一つじゃない。

冒頭にいわゆる「ピー音」みたいなの(タダのサイン波)が入ってるんだけど、あれ入れなかったら   explicitコンテンツとかに なったんだろうか。 別にそれを避けるために入れたわけじゃないけどね。


9.Fine

聴けばどこのことかすぐ分かると思うけど、前奏と間奏の一部を複調で作ってる。

曲そのもの(本編)は、特段珍しくも無い。70年代の終わりから80年代初頭くらいの、ちょっと洋楽テイストのJ-POPをイメージした。 Mixバランスがちょっと他の曲と違うところがあるんだけど、まあそれも意匠の一部です。


11.Midnight Hour

一番直近の先行シングル。 古いカートゥーンとかのショートフィルム(のBGM)なんかをイメージした曲で、ちょっとローファイっぽく仕上げてるんだけど、アルバム収録に当たっても特にリマスタリングしてない。 だからアルバムに入れて他の曲と並べると、若干(前後の曲に比して)音量が小さく感じるかもしれない。許して。





12/14(月)

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神田優花、相変わらず新作のリハーサル中。 最新シングル「Punks」如何だったでしょうか。神田さんは今来年用の音を録り溜めてまして、録音済みのものと今抱えてる(リハーサル中の)ものとで確か十曲超える。 今年も随分作品出したけど、多分来年もペースダウンしません。

そういえば今月号の月刊Auditionにウチの記事が載ってるんだけど、今回から神田優花のアー写が変わっている。 だからどうしたってことでも無いけど。




12/13(日)

HIP HOPについて、ボンヤリとだけど考えていた。 因みに、私はHIP HOP、割りと好き。

極めて様式的であるし、楽理的な説明は、割かししやすいタイプの音楽なような気がする。 ジャンルを象徴する書法として、サンプリング・データの使用、スクラッチ、定型的リズム・パターン、あとボーカルのラップなどがある。

世間でよく言われる「ジャンル」ってのは、満たすべき要件が甚だ曖昧で、つまり言ったもん勝ちみたいな面がある。 フューチャーベースだのプログレッシブハウスだのと言ってても、本質的な意味でのジャンルとは階層が違うような。

その点、HIP HOPは明らかにジャンルだ。 ひょっとすると、現時点で人類が発明した最後のジャンルなのかもしれない。


ちょっと前からHIP HOP的なトラックを作ろうと考えていたわけです。 と言ってもコテコテのヤツではなく、適度なマイルドさに処理したライトなHIP HOP。 HIP HOPとPOPSの折衷品ってところか。 私はあんまし日本語ラップってのが好きでないので、それ的なくだりは入れないつもり。 多分来年には発表できます。


12/12(土)

私は、運転免許とかそんなの以外、まともな資格のようなモノを何一つ持たない。 資格って便利なもので、物によってはそれ一つで食うに困らなかったりもする。

先日、電車に揺られている時、目の前に座っていた男性(初老と言った雰囲気だった)の背広の襟に何やらバッヂが光っている。 弁護士とかそういう職業なんだろうか。 そこでふと考えた。私はどうして資格のようなものを持たないし、持ちたいとも思わないのだろうか。

難関と言われるような資格試験、通るのは大変だろうし、対策としての勉強にも時間を取られよう。 また、最後まで受からないかもしれない。 でも、例えば私の夢が「冤罪に苦しむ人を救いたい」と言うようなものなら、その夢に向かって進んだろう。結果的に弁護士の資格ぐらい手に入れてしまうかもしれない。 あくまで夢を実現する手段として。

「金になる」・「食うために有利」などと言われると、そもそも人生って何なのだ、と言う疑問にぶつかる。 この社会では「雇用創出」なんて言葉が普通に使われていて、特に違和感もなく聞き流されている。 雇用を創出するとて、穴を埋める仕事を生み出すために、誰かが税金使って穴を掘っていたりする。

仕事って時間を潰すためにやるものなのか。 人生と言う処分すべき時間があり、それを潰す方法を模索するのが人生なんだろうか。 だったら自殺にそんなに抵抗もないかもな。 確かに人体には餌も必要だし、置き場所の確保にもコストがかかるけど。

私は、この人生と言うせっかく与えられた時間を使って、好きなことをしたい。 結論としては、詰まるところのその好きなことってのが音楽なんだけど。 とにかく私には、好きでないことなんてやってる暇は無い。 だから資格なんてのも、とりあえず必要ない。 今後必要になることがあったとしても、あくまでそれは、好きなことを続けるための一手段としてでしかない。


12/11(金)

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影山リサ。 来週、三枚目のフル・アルバム「Weather Report」(全12曲)が発売されます。 レーベルとしても今年最後のリリース・アイテムになります。 是非チェックしてみてください。





スタイロフォン(Stylophone)についてのメモ。 イギリス発祥の電子楽器だそうだが、楽器名と言うより商品名ではないかと疑わしい。

まずインターフェイスについて。 パネルに鍵盤様の絵が描いてあって、それをスタイラスと言うタッチペンみたいなもので押して発音させる仕組みである。 演奏動画などを見てみたが、おそらくヴェロシティー(音の強弱)などはつけられない。

鍵盤以外には電源とヴィブラートのON/OFFスイッチがある。と言うか、それしかない(あと裏面にチューニング用のノブがある)。 因みに音域はA〜Eの二オクターブ弱と思われる。実物を触ったことは無いが、画像類から見て取れる。 基本的にモノフォニックで、音域的にもあんまし高度な演奏表現には向かない筈で、いわばオモチャのようなものである。

音は、ハッキリ言えばチープな電子音で、さほど独特なものとも思えないけど、一部で人気を博したとのこと。 チップチューンとかと似たようなツボを刺激されるのかもしれない。


ごく最近、そのスタイロフォンを使用した楽曲を作っていたもので、それについての備忘録を認めていた。 因みに使ったのは実器ではなく、それを模したプラグインシンセなんだけど、あんまし再現度高くないように思えた。 いくつか試したんだけど、片やヴィブラートのスイッチが無く、片や音そのものが似ていない、と言うような体たらく。


12/10(木)

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音とは何か。 空気の振動である。 その空気の一定の振動数(とその倍数)に固有の名称(ドレミ・ABCなど)を割り当てたのが音名だ。

一般的な基準音440Hzが音名で言うところのラであるとされる。 でも自然界に厳密な440Hzの空気の振動は存在すまい。 音楽の世界に限定しても、基準音と言うのは時代によって変わっている(時を経るにつれ、高くなる傾向にある)。 クラシックの世界では(基準音と言う発想が既に西洋音楽的なものだが)、実際基準音は昔は440より低く、現在は442とか443とかになっている。

基準音を基準と見做すのは、言語の作用である。 耳で聞いた音を音名で言い当てたり、440と441の周波数の違いを聞き分けられたりする者を絶対音感保持者と言うが、言語獲得前の乳児には、全てのモノがバラバラに聞こえているらしい。


言語は、ある程度の幅を持った振動数に音名を割り当てる。 ホンキートンクピアノだからと言って全くドレミが分からない、と言う人は少ないはず。 周波数を丸めているということだ。 因みに、私は絶対音感を持たない。 440Hzと441Hzの違いが分からない、などと言うレベルでなく、ある周波数を与えられた時、それを音名で言い当てられない。 ファなのかソなのかと言うのが分からない。 正確に言うなら「分からない」と言うより、「同じ」に聞こえる。

無論私でも、ギターの六弦開放と一弦20フレットの音を聞き間違えたりしない。 つまり私の言語は、音をドレミなどと言う音名単位で丸めていない。 少々の音階上の高低なら丸めてしまうと言うことだ。 丸めると言うのは、要は同定する(同じであると見做す)と言うこと。

言語未獲得の乳児は、複数匹の猿を見せられても、それがみなバラバラに見える。 つまり「猿」と言う言語で同一視できない。 猿を猿と見做すのは言語の作用である。 同じモノとして一括りにする。 それが脳内に生まれた猿と言う概念なのだろう。 英語で言うところの不定冠詞を伴った、a monkeyがそれ。


私の脳の、音に対する把握は多分一般的な人と大きく違う。 丸めの幅を大きく取り過ぎている。 多分音に対してだけじゃあるまいが。 私は作曲家であるわけだが、私の作る旋律線などもこの脳機能を経たものなわけで、常人の旋律感覚とはおそらくどこかズレている筈だ。 どうして私がそういう人なのかは分からない。


12/9(水)

神田優花、最新シングル「Punks」、本日発売です。

『Punks』

この曲は当初シングルの予定はなかったんですが、結構出来がよかったってことでシングルで出すことになったものです。
一言でいうとクレイジー。
歌詞に意味なんてなく、聞く人を巻き込んで爆発してくれればと。ん?そういう意味でもパンクス?偶然ですけど。
このクレイジーさを一緒に楽しんでください。

『Another Train』

c/wはブルースです。
ほこりっぽい空気とくたびれたブーツに安酒、みたいな。あの格好よさを表現できるよう神田優花なりのアプローチで歌っています。

今年最後のリリースになります。
ぜひ、チェックしてみてください。

神田優花





12/8(火)

神田優花、明日発売の新作「Punks」(全2曲)について。


1.Punks

ミニ・アルバム「Romeo」の一曲目に収録する予定だったんだけど、割りと内輪での評判が良くて、「シングルにしたら?」みたいな意見があったので、そうした。 私もそれなりに良い出来だと思います。

ギターのフレーズは微分音を多用していて、耳慣れない人には変わったものに聞こえるかも。 神田優花の曲にしてはボコーダーの分量多い。 あとブレイクビーツ入れてる。 ネタは有名なアーメンブレイク。こういうのはベタで良いんです。

ラストはレコードの針飛びを模したギミックなんだけど、若い人とかレコード・プレイヤー扱わない人にはこっちの意図が分からないかも。


2.Another Train

要はblues。 一応作曲のクレジットは私ってことになってるけど、こういう重様式なものって、作曲とか言うほどのもんでもない。 作曲者の項目を埋めないと、リリースのための事務作業が進まないから、自分の名前で埋めた。

アレンジはごくシンプルで、ピアノ・バイオリン・ギター・ドラムと、ベースを担当しているのがバス・トロンボーン。 ギターはボトルネック(奏法)使ってる。

古臭い感じの曲なんで、音全体に薄っすらサチュレーターみたいなのをかましてる。 最初もっと50年代とかそれ以前の録音物をイメージしたものを作ってみたんだけど、あまりにローファイ過ぎて商品化が難しそうに思えた。 なんで、結局現状のようなちょっと日和ったものになった。

こういう、いわばスタンダードみたいなものは、歌い手にとっては腕の見せ所でもあると思う。 リスナーの中には純粋に歌を聴いている人もいると思うので、そういう人らにはお薦めの楽曲です。 音楽的な面では大して面白いものでもないと思う。





12/7(月)

白馬非馬説ってご存知か。 言葉ぐらい聞いたことあるんじゃなかろうか。 私は、昔読んだ陳舜臣の中国史(通史)かなんかで初めて知った。 が、言葉を知っただけで、その本を読んでも何が何だか分からない。 その後別の資料を当たったりしたけど、今もってイマイチ論旨が分からない。 中国のある時期に生じたロジックとでも言うべきなんだろうか。よく分からん。

簡潔に言うと、白馬は馬でないと言う。 何故か、と言う説明を以下にすべきなんだろうが、当の私がよく分かってないのでそれができない。 興味がある方は調べてもらいたいのだけど、多分即座には理解できないと思う。

思うに、中国人の頭の中(つまり言語)って、要するにメチャクチャなのではないかと。 助詞も冠詞も無いんですよ、中国語って。 どうやって論理を組み立てるのか。 白馬非馬説は一種の混乱と言うか、言語のエラーなのではないか。

論理学も言語学も要するに西洋言語がベースになっている。 中国語も言語の一分派ではあるのだろうけど、明らかにそれ以外の言語と異質なのではないだろうか。 この白馬非馬説も、中国史において時を隔てつつ複数回出てきているところをみるだに、言語固有の脆弱性に因っているのでは。


有名な、いわゆる魏志倭人伝、有名なだけに原文に当たるのも比較的容易なのだが、あの助詞もスペースも句読点も全く無い漢字の塊を見ていると、なんだか頭痛がしてくる。 真剣に解読して邪馬台国論争なんてやってるのもアホらしく見えてくる。


白馬非馬説を唱えた御仁、同じ学派だかの連中を言い負かしたりした(誰もその説を覆せなかった)そうだ。 しかし、関を通る際「白馬は馬ではない」と強弁し、通行税を踏み倒そうとしたら、役人(徴税官)には通用しなかったそうだ。 さもありなん。 生半な詭弁を弄す輩より、アタマの堅いオッサンの方がまだ好感持てるな。


12/6(日)

4曲も歌を録りまして、今編集中でございます。

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うち3曲が神田優花。 まあ神田優花の曲にしてはシンプルで、編集も比較的楽だと思われるが。 次の水曜日には神田優花の最新シングル「Punks」、発売です。 今年最後のアイテムになります。




12/4(金)

想像できることは現実である。 ピカソはそう言ったが、全くその通り。 ただし、この現実と言う言葉はちょっとややこしい。 日本語の現実と、欧米人の言うrealityが違うからだ。

想像は現実感によって成立する。 日本人は想像の世界と現実の世界と言うように、両者を対義語のように捉えているのではないか。 違う。 リアリティーが無ければ、想像なんてできるわけがない。 リアリティーの無い脳にとって、想像(妄想)と現実に区別など無いはずだ。 つまり、想像も現実も存在しない。

あるレベルの言語機能を持たない者に未来の想像ができるか。 できるわけがない。 未来ってのは時間感覚なんだけど、要するにある事物に附帯する周辺事情の忖度ってこと。 思考が立体的でなれば、そこに思慮が及ばない。

やはり想像できることは現実だし、想像できることこそ現実なんだ。 目の前の物質でさえ、そこに在ると認識できる能力(言語力)こそがそこに在らしめているわけで、一種の想像の産物だ。


12/3(木)

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地獄とは何か。 ドストエフスキーは「地獄とは、もはや愛せないということ」と言っている。 いきなりの結論だが、その通りである。

前にも同じようなことを言ったような気がするけど、本当の地獄とは、誰からも愛されぬことでなく、誰も愛せないこと。 何故なのか。

愛と言うのは形而上的概念だから、それを体感するのに言語が要る。 自らの機微に照らし合わせることによってしか感じ取ることができない。 誰をも愛さない人は、仮に誰かに愛されたとしても、我が心に思い当たる機微が見当たらず、従って愛の意味が分からず、その愛を感じることができない。 愛を与えるに値しない対象だと見做され、やがて愛を発動してもらえなくなる。

愛を理解できない者は、僥倖にも与えられたその愛を感じ取ることができず、表面的な現象・物質のみを捉える。 プレゼントをくれた人の愛を感じないから、プレゼントと言うモノや、それをくれた人・もらえる自分、と言う絵しか理解できない。 自己を補強する為、その行為(プレゼント)を果てしなく求め続け、やがてはそこにあった愛を涸れ果てさせる。

愛と言うのは連鎖的な物である。 誰も愛せないこととは、その愛の循環の外に置かれるということに他ならない。 ドストエフスキーはそれを地獄を呼んだんだろう。 あなたが誰かを愛しているのなら、心配はいらない。 あなたを愛する人はこの世界に必ずいる。


もし自ら発動する愛が「伝わった」と確かに感じられた経験を持つ人なら、それは揺るぎない自信となるはずだ。 仮にある時、伝わらない相手に出会ったとしても、「この対象には(例外的に)伝わらない、伝わり辛いのだな」と大様に構えていられるはず。

周囲に愛の連鎖が存在せず、愛が「伝わった」と言う実感がいつまでも持てない人は、きっと心が折れてしまうだろう。 そして誰も愛せない人になる。 更には誰からも愛されない人となる。

愛せたことにより、人はこの世界に存在する愛に気付く。 目には見えないその愛が、現実となる。


我々は、我々を愛してくれた人に無論感謝すべきだが、それよりもなお「愛したもの」、つまり我々に愛させてくれた対象に感謝すべきなのかもしれない。 愛が確かに伝わったと言う実感を、我が心に与えてくれた者に。


12/2(水)

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水木しげるさんが亡くなったそうだ。 何と言うか、どう表現して良いか分からない。 「水木しげるが死んで悲しい」とか言うより「水木しげるでも死ぬんだ?」みたいな感覚。 しばし呆然としてしまった。 大ファンだったもので。

水木さんは漫画家なんだけど、私は彼の書いた漫画と言うより、作者その人のファンだった。 直接会ったことなど無論無いけど、この世界の片隅に、ああいう人が現実に生きていると思うだけで勇気が沸いた。 あの人の明るさ、屈託の無い笑顔が好きで、ただひたすらに「生き続けて欲しい」と願っていた。

水木しげるはまさしき天才だ。 絵が上手いからとか漫画が売れたからとか、そういう理由ではない。 彼が最後の最後まで自分でい続けたから。 私が愛して止まない理由もそこにある。


私は彼の自伝的著書の、おそらくそのほとんどに目を通している。 有名な話だけど、彼は戦争中に爆撃により、左腕を失っている。

片腕を失い、傷病兵として隔離されていた時、当たり前だけど彼は生死の境をさまよったと言う。 出血多量、大怪我による衝撃。傷口からは蛆が湧き、頭髪は抜け落ちたそうな。 マラリヤによる高熱が続き、一時発狂しかけたらしい。

戦局は絶望的な時期で、傷病兵は時々刻々息絶え続ける。 ある時、衛生兵は死に掛けの兵に食料を与えることを渋ったらしい。 どうせ数日、あるいは数時間後には死体となっているものに貴重な食料を与えることを「勿体無い」と感じた。情勢上無理からぬことだったろう。

水木青年も当然その(食料出し渋りの)対象であったが、その時彼は残った右腕にナイフを持ち、衛生兵に詰め寄り「俺にメシをやらねばお前を殺す」と言って、食料を奪い取ったらしい。 人はかくあるべし。日本人が鑑とすべき人物だろう。 もし自分の子供がああいう人だったら、私はその頼もしさに涙を流すかもしれない。


彼の精神の強靭さ、未来に対する信念とでも言うべき強固な肯定的イマジネーション。私は彼に多くのことを学んだ。 水木しげるは私の中に確実にいる。


12/1(火)

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日本人のほとんどは、愛(と言う言葉の)の意味が分かっていない。 これ断言できる。 少なくとも執着や物欲とか言う気分(概念)と区別してない。

「J-POPシーンにはラブソングが溢れ返っているではないか」と言われそうだ。確かにそうだ。 でも意味が分かっている人がこんなに少ない世界で謳歌される愛の歌なんだから、きっと意味が正確でないはず。 差し詰めこのケースにおいては、「愛」を「性欲」とかの意味で使っているんじゃないかしら。冗談でなく。

こういうことを考える度に、日本にキリスト教が根付かなかったことを残念に思ってしまう。 一応は室町時代に来てたのにね。 来たのに定着しなかったってことは、気分に合わなかったのだろう。


11/30(月)

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愛用(ってほどでもないが)のとあるドラム音源(VSTプラグインソフト)がある。 商用ソフトだが、デモ版で十分使える。

デモ版には使用時間の制限があって、確か15分。パネルにデモ版の制限事項として「Audio fades after5minutes〜」などと表示されるが、実際には5分でない。 多分、デモ版の仕様が途中で変わったりしたのにテキストを修正し忘れたとかそんなんだろう。

で、そのソフト、最近何故かその使用制限が無くなった(制限時間を越えても使える)。 別に私が何か裏技のようなものを編み出したとかそういうわけでなく、いつも通り使っていたら突然制限が無くなっていた。 理由は分からない。

まあ以前から15分を越えたらホストを再起動すれば良いだけだったので(それが面倒ではあったけど)、殆どフリーソフト感覚で使っていたんだけど、完全にフリーソフトになってしまった。 遠慮なく使ってるけど、こういうことってあるんだな。逆に突然使えなくなったりしそうで怖いけど。


11/29(日)

パターン認識ってのを、どうやら人は言語で行うっぽい。

周波数をドレミで丸めるのも言語だろうけど、私はドレミ単位では音を識別できない。 言語による丸めが働いていないのではなく、丸め過ぎているらしい。 同じ「ド」であると認識するでなく、単音をメロディーとして認識してしまう。 だから半音ズレていてもそれは同じメロディー。

この同定力が、私の自己をかたどっているらしい。 周波数などと言う単調なパターンでない、自己と言う複雑怪奇なものを同じだと認識する。 子供の頃や昨日の自分が、同じ自分だと感じられる。 この同定力が無ければ、私は私でいられないはず。


11/28(土)

普段私がよくお世話になっている、とある民族楽器のデータベースみたいなサイトがある。 そこがここ一週間ぐらい閲覧不能になっている。

特段のアナウンスも出てなかったし、サイト閉鎖とかいうほどの事態でないと思われる。 サーバー(機器)の不具合だとか、単にレンタルサーバーの利用料払い忘れてたから差し止められたとか、その程度の事な気がする。 閲覧者から利用料取ってるわけでなし、基本的に好意で運営されているサイトなんで文句言うわけにも行かない。

私が思うのは、一週間近くその状態にも関わらず、いまだ復旧していないってことは、とりもなおさずそのサイトの、絶対的な利用者数が少ないってことなんだろうってこと。 ある意味私のような人の為にあるようなサービスだ。 運営側は、落ちてること自体まだ知らないのかもしれない。


11/27(金)

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年内のリリース予定タイトル、全部アナウンスしてるんですが、今年は本当にたくさん作った。 合計27タイトル、うちアルバムが6つ(ミニ・アルバム含む)。 よく働いたものだ。我がことながら感心する。 今も来年のリリースに向けて色々やりくりしてますが。

下は神田優花の今年最後のリリースアイテム、「Punks」のジャケットです。




11/26(木)

宿題を忘れてきた小学生の言い訳として、「ノートを家に忘れてきました」と「そんな宿題があったのを忘れてました」、どちらが悪質か。

前者である。 前者は、「ノートを忘れた」と言う嘘と「宿題自体はやっていた」と言う二重の嘘を吐いているからだ。 何故二重の嘘を吐きたくなるかと言うと、自分を飾るためである。

会社を休む時に「遊びに行きたいから休暇が欲しい」と言う人や、遅刻の理由として「寝過ごした」と言う人は正直者である。 人はついそこで自己を正当化するための嘘を上乗せする。 「親が病気で」とか。 それは要するに従業員を欠いて困るであろう会社のことなど無視して、自分を飾ることにのみ執心した結果生まれる行動なわけで、つまりその人は自己中心的なのである。

私は極力そういう人間になりたくないと自分を戒めているんだけど、そういう心がけが必要になる程度にはその種の人間であると言うことでもある。 またその点について気にかけているので、当然そういう人を目にした際、ある種の論理性に引っ掛かってしまう。


11/25(水)

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影山リサ、最新のミニ・アルバム「ピニャ・コラーダ」、本日発売です。 下は本人からのメッセージ。



ピニャ・コラーダ

タイトル曲のピニャコラーダは歌詞がカクテルの名前だけという、お遊びみたいな曲です。この曲と6曲目のmoonは曲を渡されてからレコーディングまでが15分位で、リハーサルをほとんどしないままのレコーディングだったので、まさかタイトル曲になるとは思いませんでした。
でも、なかなか面白い作品に仕上がりました。

音だけでも楽しめるようなミニアルバムです。 是非聴いて下さい。

影山リサ



12/16(水)に、影山リサ三枚目のフルアルバム「Weather Report」が発売されます。 因みに、ウチの年内最後のリリースアイテムになります。こちらもよろしく。




11/24(火)

影山リサ、明日発売のミニ・アルバム「ピニャ・コラーダ」について。


影山リサの、今年リリースした楽曲の中での、ある傾向のものをまとめてパッケージ化しました。 商品解説文なんかにはテクノとか書いてありますけど、要するに「音」に特化したレパートリー。



1.ピニャ・コラーダ

古典的テクノみたいなのを作ろうと思った。 テクノと言う音楽にそんなに長い歴史なんて無いけど。

名機と言われているTR-909・TB-303系の音とか、ベースラインのフィルター・レゾナンスを弄って音色を変化させる感じとか、そういうのを最初からアタマに描いていた。

2分弱とごく短い曲。 歌詞は全く意味の無いもの。カクテルの名前を列挙しただけ。 わりと好きな曲ですけど。


2.butterfly / 3.Fireworks

この二曲はどっちもシングルとしてリリース済みなんだけど、このアルバムに収録されているのは一応別Mixです。 と言っても、シングル版がMS処理済みってだけで、どちらかと言えばこっちの方が本来のMix。


4.Confessions / 5.Jellyfish 6.Joy to The World

この三曲も全部シングルでリリース済み。 こっちは音も全く同じです。


7.Moon

ミニ・アルバム収録予定だったある曲を、フル・アルバムの方に入れることに急遽なったもので、ミニ・アルバムの収録曲が一つ少なくなってしまった。 そのまま6曲入りで出すことも考えたけど、やっぱり当初の予定通り7曲入れることに。 そこでこれを新たに作った。 付け焼刃。

実際全然時間掛けてなくて、オケも数時間で作ったし、歌もあっという間に録った。 テープストップ・リスタート効果使ったりとか、サンプラー多用したりとか、音に関しては多少の趣向を凝らしてますけど、言わばそれだけの曲。 元々ボーナストラックと言うかオマケみたいなもんなんで。 あと宮本ラッパとジューズ・ハープとか(任天堂の)エレコンガとか、ちょっと変わった楽器使ってます。





11/23(月)

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Chiptune的なモノを作る時、どういうプラットフォームで作るかってのが、最初の懸案としてアタマをもたげる。

細かい話になるけど、例えば「YM2151ってFM音源チップをベースに作ろう」とか決めたら、オペレーターの数とか同時発音数とかの制約に沿ってノートを組んでいくことになるわけだけど、私の場合、その音源チップが実際に搭載された機種の周辺をつい想像してしまう。 やっぱし私の脳は音だけを処理しているわけではないようだ。

上記のチップが搭載された、あるいは拡張機能として実装可能な機種ってのは数ある。 モノによってはその他にPSGだとかADPCMとかでいくらのチャンネルを使えるとか、改造に近い形のものまで含めてどの程度の機能拡張が可能であるとか、環境は個別に違う。 複数台のマシンを同時制御可能なプログラムが存在する、とかそういうことにも思いを巡らせてしまう。

音源チップだとかそういう、機材史に精通しているなんてわけじゃないんだけど(むしろ無知であるとさえ言える)、曲を作る際のイマジネーションの一部に「実機」の存在が確実にあるって話。 Chiptuneとか作ってる音屋の中では、私なんかむしろ全然実機に拘らないタイプなんだと思うけどね。 イマジネーションさえあれば、音自体はエミュレーターで十分。


11/22(日)

私は能管と言う楽器が割りと好きで、実際曲にも結構使っている。 しかしこれがまた使いにくい。

おそらくは市販品・フリー問わず、能管の音源って存在していない筈だ(フレーズをサンプリングしたようなものは除く)。 と言うか、あったら教えて。 因みに私は、サンプラーのパッチを自作している。

どうして音源化されないのかと言うと、そもそも需要の問題はあろうけど、おそらくは鍵盤にアサインしにくいってのが大きいかと思う。 クロマチック単位での発音ができない、いわばスケール楽器なんだけど、キチンとした7音階でないし(そもそも1オクターブ8音構成)、各音は12音律に対応していない。 因みに、建前としては1オクターブ8音構成ってことになっているけど、その8音がオクターブに収まってなかったり、とにかくメチャクチャな楽器だ。

また楽器間の個体差(特にピッチ)も大きい。 自作のパッチと言うヤツが手元に二つほどあるのだけど、同じメロディーを演奏できない。 無論、全くもって違う旋律線になってしまうわけではなく、大雑把な山谷は一致する。でも採譜(五線譜化)するならまず同じにはならない。 つまり、同じノートデータを流用できないと言うこと。 まあ能管は、今日的感覚での楽器と言うより、効果音発生装置と言った方が実体に近いような。

別の能管を使ったぐらいで、同じ旋律を演奏できなくなるってことは、そもそも同じメロディーを奏でる必要性自体が存在していないってことなわけで、能管音楽は、我々現代人が考える音楽・楽器の概念に収まらないものなんだろう。


11/21(土)

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影山リサ。 新曲の歌録りでした。 ミニ・アルバム「ナイチンゲール」いかがだったでしょうか。 来週水曜には次のミニ・アルバム「ピニャ・コラーダ」発売です。 お楽しみに。




11/20(金)

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御座楽について。 御座楽はいわば琉球の雅楽である。 「おざがく」あるいは「うざがく」と読む。 沖縄は母音を「ア・イ・ウ」の三種とする(日本語のエ・オをそれぞれイ・ウに変換する)と言われているので、現地発音は後者に近かろうか。

まず始めに御座楽は、明治の廃藩置県による琉球王国の消滅と同時に絶えている。 御座楽を現代に継承する楽団・流派など無論無いし、楽譜すら残っていないそうだ。 御座楽を知るよすがとなりうるものは、僅かな文献史料や絵巻物の類ぐらいしかなく、実体については殆ど想像に頼る他ない。


「楽器」というのは物質なので、音楽そのものが途絶えても、相応の条件が揃えば残る。 私も高校生ぐらいの頃に、曾婆さんが弾いていたと言う琵琶をもらったが、調弦を含む奏法など当時全く分からなかった。

御座楽の楽器については、沖縄本土においても残っていないと言う。 復元されたものならあるそうだが、それも江戸期に琉球王朝から尾張徳川家などに献上されたものをベースに復元されたものらしい。 これはどうしてなんだろう。 もしかして単に自然消滅的に「絶えた」のではなく、明治期の廃仏毀釈のように、沖縄人自ら日本への帰順の意志表示のために、琉球的なモノをあえて破壊したのかもしれない。

まあ楽器については、そもそも大抵のものは琉球起源であった可能性が低く、海外(おそらくは大陸)からの流入品であろうから、絵画などで外観さえ確認できれば特定・復元も比較的容易であるかと思える。


それにしても御座楽の資料は少ない。 そもそも断絶してしまっていることが明らかであるので、生半な資料など見つけても易々と信ずべきでない。 因みに、上に「琉球の雅楽」などと表現しているが(自作の表現ではない)、御座楽は16世紀あたりを発祥とするそうなので、仮に断絶せず残っていたとしても、音楽体系としての歴史は、雅楽に比べると全然浅い。

「御座楽」で検索すると、インターネット上には動画がいくつも転がっているが、言うまでも無く楽曲などは現代のモノで、商業主義の副産物として生まれたものかと思われる。 だって譜面すら残っていないものをどうやって再現する。 私もその手の動画をいくつかチェックしてみたが、明らかに現代人の脳から生まれた旋律線だと、瞬時に判断できるものが多かった。

山内盛彬なる人物が二十世紀初頭だかに、土地の古老の覚えていた旋律(鼻歌)を採譜したものが三曲分程度あると言いい、御座楽唯一の楽譜資料になるそうだ。 御座楽は日本の雅楽と同じく、基本的に大陸音楽をルーツとするので、その三曲の鼻歌にも相当する原曲があって不思議は無い筈だが、大陸音楽がそもそもどの程度残っているか。

御座楽は明清楽と言う、(雅楽などに比べれば)比較的新しい音楽体系を基礎としているようだが、同じ楽曲が雅楽にも継承されている可能性は絶無では無い筈。でも照合できたと言う話は聞かない。 符合するものが無い、あるいはその鼻歌が断片的過ぎるとか、原形を留めていないとかそういう理由で照合できないのかもしれない。 やはり御座楽楽曲の復元は容易でなさそうだ。


11/19(木)

スタジオにて(広瀬沙希)。

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良い音楽、良い音楽家の条件とは何か。

私は、いわゆる才能と言うヤツを、世間で言われているほどには信用していない。 能力と言うものが、単に基準に左右されるだけのものだからだ。

商業音楽の世界では「売れるもの」こそが良いとされていて、これも「売れるか否か」と言う基準が作品の良否を別けているわけだが、単に「売れる」と言う基準一つとっても、数ある売れ方と言うのは直線的に比較できない。 短時日に数を捌くものがあり、またロングセラーのようなものもある。 巨大な宣伝費を伴うもの、そうでないもの。色々ある。


歌が上手い人やルックスの良い人が良い歌手なのか、ヒット曲を出せる人が良い歌手なのか。あるいは長く売れ続ける人が良い歌手なのか。

偉業の本質は継続にあると思う。 それがどんな傑作であったとしても、一点のみの作品で大芸術家となった人などいない。

個別の事績だけを見れば大したことでなくとも、それを続けられること、積み重ねられることこそが、やがては偉業と見做されるようになる。 ヒット曲を出すと言うのは要はホームランかっとばすと言うようなもので、いかに鮮やかな打撃技術を見せたところで、それ一本打っただけで偉人とされた人などいないだろう。 偉人は「打ち続けた人」だし、「打つべく努力を続けた人」だろう。

これ、分かってない日本人多いんだけど、努力とは、時に「肉体の酷使」も含むだろうけど、必ずしも肉体を酷使することのみを意味しない。 努力とはそれをも含んだ効率化のことだし、最大効率を上げるための思索のこと。


結論。 良い音楽の条件とは「長く愛され続けるもの」であること。良い音楽家の条件とは「長く続けられる人」であること。 これも一つの基準に違いないが、もし良い音楽・音楽家に条件があるならば、私にはこれぐらいしか思いつけない。 「長く持続すること」は、考えられる全ての環境がそこに揃っていることを意味するから。


11/18(水)

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神田優花、レコーディングやってました。 ミニ・アルバム「Romeo」、今日発売です。 下は本人からのメッセージ。



Romeo

Romeoは、全体的に乾いた感じの、ライトめのロックを集めたミニアルバムです。
タイトル曲の『Romeo』は私にはめずらしく、甘い恋の歌です。
いつもの私からは離れてみようと、少し意識して歌っています。
『Pretend』は聞く人の心にじわじわ染み込むようにと歌っています。
自分じゃない何かになろうとしたり、自分だけは違うとうそぶいてみたり。人は日々少しずつ何かを偽って生きてたりするけど、その哀しみや、そうしない潔さを表現できたらと。

『Lapis-lazuli』

この曲の魅力は交互にやってくる高音と低音のメロディ部。
なるべく差が出せたらおもしろいだろうと、一人二役みたいな気分で歌っています。

『Daring』

このアルバムの中ではハードなロックです。2分強の短い曲ですが、タイトルの響きや弱さを歌った歌詞からは想像できない荒らさで走ってます。そのギャップを楽しんでいただけたらと思います。

『Alone』

孤独を感じる時って、寂しさや悲しみの他に、ほんの少しの甘さが混ざってると思います。孤独を楽しむ気持ちと、そんな自分を自嘲するような気持ちと。
それらを織り混ぜて、明日を待つ強さを歌えたらと思いました。

今年はこれまでにアルバムを1つ、ミニアルバムを1つ出させてもらいましたが、年内にもう1つお届けできることになりました。
『Romeo』是非、聴いてください。

神田優花



12/9(水)には、神田優花の次のシングル「Punks」発売です。 お楽しみに。




11/17(火)



明日発売の神田優花「Romeo」について。 アルバム・タイトルは「ロメオ」って読みます。


シングルの谷間とかに作ってて、半ばストック化していた曲をまとめて出すことにしました。 だから全部未発表曲。

昔からBサイド・コレクションみたいなアルバムって好きで、これからもこういうコンセプトのアルバムを出したいと思っている。 全体的にアレンジはロックっぽい。



1.Romeo

ロンド形式の曲をロック・アレンジで作ってみた。 イントロも間奏も無く、終始歌いっぱなしみたいな曲。

商品化に当たって、例えば着うたみたいな断片ファイルに名称(Aメロ・サビ等)を付けないといけないんだけど、これについてはちょっと困った。言いようがなくて。 私の曲ってそういうの多いけど。


2.Unfaithful

割りと好きな曲なんだけど、コメントは特に思いつかない。

間奏っぽいイントロで始まるところとか、細かいコード使いとか、かねてから使ってみたかったアイディアを色々と消化させてもらった曲ではある。


3.Pretend

大別するとロックとかそういうカテゴリーに入るかと思うけど、歌謡曲みたいなのも濃厚に影響している。

ベースが(エレキベースでなく)コントラバスになっているところが、アレンジ上の特筆点だろうか。 ギターも入ってるんだけど、上モノにはマンドリンとかエレピをメインに使っている。 Aメロとかに入れているエレピのコードの感じとか、割りと気に入ってるところ。

冒頭と途中に出てくる変拍子のフレーズが曲のキーになってると思う。 歌のメロディーのお尻の部分がかなり音域的に低いんで、歌い手さんには「別に必ずしも楽音でなくても良い」って事前に言ってたんだけど、録音結果を見たら割かしキチンと音程取れてて、誤算と言えば誤算。 良い意味でだけど。

Aメロとサビのメロディーはほとんど同じで、単にオクターブ違いになっている。 「Forever one」とかでも使った手法なんだけど、一種の癖のようなもんです。


4.Lapis-Lazuli

これとかPretendとかRomeoとか、ちょっとマイナー系のロックナンバーがアルバムの中核的なイメージを為していると思う。

今聴くとちょっと荒削りな部分も目につくけど、これはこれで良いのかも。 一応サビに当たる部分のオクターブを跳躍するフレーズがキーになっているんだけど、歌うのは大変だったと思う。

アンプシミュレーターの設定とかEQとか、しっくりくるポイントが中々見つからなくて、オケ作りが難航した。 何度も微調整してて、そういうところが記憶に残ってる曲。 Bメロのブレイクとかも当初は無かった。


5.Darling

シンプルなロック・ナンバー。二分強と短い。 この手のストックはたくさんあって、そのうちの一つを消化した感じ。 音楽的に特筆すべき点は無い。 私は元々ギター弾きで、こういう曲は好きだし得意。

ギター・パートについて(奏法とか)は、色々と拘った面があるんだけど、ちょっとマニアックな内容になるんでそこは割愛。 ボーカルは無難に処理しているかと思います。 特にコーラスとかは、欲しかったニュアンスが音源に生かされていると思う。


6.Gold Rush

こういうのもたまには作っておかないといけないって感じの曲。 肩慣らしみたいな曲ですけど。

ヒンドゥー・スケールって言う、ちょっと変わった(そうでもないか)スケールを使ってて、そこが雰囲気のベースになっていると思う。


7.Alone

これはかなり前に作ってて、ずっとストックのままだった曲。 全体的にはロックっぽいアレンジなんだけど、間奏はピアノとイングリッシュ・ホルン。

スライド(・ダウン)とかピック・スクラッチとか、その手のギターの奏法をスパイス的に入れてるんだけど、今思えば無意味なほどに試行錯誤した。



11/16(月)

日本の戦国時代、川中島の戦いと言う有名な合戦がある。 日本史の一ハイライトと言っても良い。 川中島における上杉・武田両軍の戦は一度ではないが、いわゆる川中島と言うのは、大抵そのうち四回目の衝突を指している。

合戦そのものについて語る気は無い。私が思うのは、物事の評価についてである。

川中島においては、どちらの陣営が勝利したのか。 古来歴史家などをはじめ、多くの人がそれぞれに評価している。 「前半は上杉優勢、後半は武田優勢」だの「死傷者数の比較から、上杉勝利」であるとか。

戦争と言うのは交渉手段の一種なのだから、目的があってやっているのである。 だから戦略的退却とかだってある。 川中島の場合は領有権を巡る争いなのだから、武田信玄側の勝利であることは疑いようも無い。 領土を保全したのだから。

武田信玄は領土をほぼ完全な形で保全し、上杉謙信は遠征の末、多数の死傷者を出しながら、寸土も得ることができなかった。 川中島の勝者を上杉だと言うのは、野球の試合に例えるなら、負けたチームが試合後に「○回のあの場面で、相手ピッチャーはうちの四番バッターを怖れて敬遠しやがった。だから俺たちの勝利だ」などと強弁しているようなもんだ。

敬遠だって一種の戦術である。 それは勝つための一手段。 武田信玄はあのケースにおいて、相手軍を殲滅する必要なんてなかった。

局地的な戦闘において優勢に見られれば、それにて「勝利」と見做せる者は、物事を一種の面子の張り合いだとぐらいしか思ってないのではないか。 だとするなら、そういう人との駆け引きなど簡単だ。 見せ掛けの「勝利」をくれてやればそれで満足なのだから。 実の部分になど彼は目もくれない。


11/15(日)

音、音圧感について。 内輪で話題になったのでちょっと考えていた。

商用音源って、平均的にここ数十年くらいで随分音圧感が増した。 私もそういうモノ(コンプ処理とかでレベル突っ込んだ音)をある種実験的に作っていた時期とかあるけど、今はあんましそういう側面について拘りがない。 市販のある音源などを持ってこられて「これに比べるとボリューム感が低い」とか言われると、「それはそうかもしれない」とは思う。 その手を最終的な理想とする感覚自体が無いから。

個人的にJ-POPの主流を聴いていると、ちょっとヴォーカルがデカ過ぎると(あと高域の増強が過度であるってのも)感じる。 聞かせたいのは歌なのだろうし、商品としての核がそこなんだから仕方ないにせよ、私などはもう少しアレンジ(バッキング)部分も聞かせてくれよと思う。 ウチの音に関しては、バッキングも結構重要だと思っているので、無論聞かせたい。 バランス的にはバッキングが大きい音に仕上がっていると思う。 これは商品としての性格の違い。 あと私がMix・マスタリングのエンジニアであるのと同時にアレンジャーでもあることも一因になってるのかも。

80年代とかその辺りまでの商業音源とかって、今のに比べるとバッキングの(聴感上の)比率が高い。 最近のウチの音ってあの辺りに近いと言えば近いのかも。でも別にそれを理想としているわけでも、それはそれでない。

ウチは、音については今後も劇的な変化は無いと思われる。 音楽面について掘り下げる事は(当然)あるだろうけど。 私は録音物を作っているって言うより、音楽作品を作ってるって感覚が強いね。


11/14(土)



スタジオにて(神田優花)。 今年ももう残すところ一月半くらいですが、ここ一年ぐらいで神田優花の再生数が飛躍的に伸びていて、現在もリアルタイムで上昇中。 とりあえず喜ばしいことだし、我々自身励みになります。 新作「Romeo」は来週水曜に発売です。お楽しみに。

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ここ最近の懸案についてのメモ。

ミュージカルとオペラの違いは、音楽がクラシック的かPOPS的かってことだと思っているんだけど、あくまで私のイメージで、学術的な定義なんかとか異なるのかもしれない。 因みにそのミュージカルとかオペラの類、私は個人的にあんまし好きでない。 当然詳しくもない。

ある時期のディズニー音楽は、オペラ(オペレッタ)とミュージカルを折衷したようなもので、ある意味ではオリジナリティーの高いもの。 ジャンルと言えば大袈裟かもしれないけど、一つの様式でぐらいはある。


カートゥーン、特にショートフィルムのBGMには、大別するとアンダースコアとミッキーマウジングがある。 アンダースコアってのはこんにちでも常用される手法で、単にBGMと言われれば多くの人が連想するものである。

ミッキーマウジングの方はつまり、アニメーション(キャラクター)の動きに合わせた効果音のような音楽。 「トムとジェリー」のBGMを想像してもらいたいんだけど、あれは基本的に管弦楽にてのミッキーマウジングになる。 因みに「トムとジェリー」はミッキーマウジングの代表的使用例として、私の読んだ一書にも引かれてあった。 ただし代表例ではあるのだろうが、その名からも分かるように、あくまで技法としての起源はディズニー作品にあるようだ。


影山リサの「Midnight Hour」って曲では、一応はそのミッキーマウジングの手法を使ってみたんだけど、今後更にあれを掘り下げたりするかはよく分からない。私自身決めかねている。 とりあえずミュージカルの類と一般のPOPSとの違いについて、今様々な角度から考察している。 結論については、今後作る曲に反映されると思います。


11/13(金)

スタジオにて。

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BI(ベーシック・インカム)構想に関連した話題を、ここ数年来しばしば耳にする。

実現可能であるのか否か、在野の知識人とか学者レベルでは検証されたりしているみたいだけど、少なくとも政府筋からその手の話は出てこないし、現状世界中のどの国においても、実際にBIが実施されたケースはないと思われる(ごくごく限定的なテストケースなどは除く)。 こんな調子のBI、現実化されるのだろうか。

私はされると思う。 現実化されて欲しいと私が思うかどうかはさておき、おそらく将来的にBIは現実化されるだろう。 何故なら、人類がそれ(そういう制度)を思い付いてしまったから。

人類の歴史って、要は人間が思い付いたことを具現化し続けた軌跡だ。 BIなんてのは要は一種の配分方法に過ぎないわけだけど、空を飛んだりすることに比べれば実に容易なオペレーションに思える。 きっと実現するよ。それも意外と早く。


11/12(木)

中国とアメリカの間が、何やらキナ臭いようだ。 中国って、私にモノを考えるきっかけを与えてくれる。

中国との間に「領土問題がある」などと言うと、あたかもある土地の所有権(主権)について解釈の違いがあるかのようだ。 まるで一般的な領土紛争かのように。 違うよね。

中国と他国間にあるのは、一般的な領土問題ではなく、「領土観」の違いであり、もっと言えば世界観の違い。 これは容易に埋まらない。

法的な意味で言えば、今問題となっている南沙諸島など中国領である筈が無い。 中国政府は領有権について、如何なる歴史的・法的根拠も示せないだろう(噴飯モノの根拠なら持ち出してくるかも)。 そもそも中国の歴代王朝は、基本的に海の外には恬淡としていて、あまつさえ海禁政策すら採っていたはずだ。 南沙諸島が中国領であった時間など一瞬たりとも無かろう(そもそも暗礁だそうだが)。

であるのに、米中首脳会談は全くの平行線だったと仄聞する。 そりゃそうだろう。 アメリカ合衆国大統領は、国連海洋法条約がどうしたなどと、国際法のようなものを持ち出したろうと思われるし、その批准国で国連常任理事国ですらある中国はそれに従うべきであるに違いないが、それでも両者の溝は埋まらない。 彼ら中国人の脳内に、その論理がすんなり収まらないからだろう。

中国人(と言うより中国共産党)は南沙諸島も尖閣諸島も、もっと言えば沖縄も朝鮮半島もモンゴル(全土)も皆中国のモノだと思っている。 華僑の多い東南アジア諸国や漢字を使う日本などもそうかもしれない。 チベット・ウィグル・台湾なんて当然である。 オバマ大統領が聞いたら仰天するかもしれないが、実はアメリカ大陸すらも潜在的には中国のモノだと思っているのではないか。 この溝が容易に埋まるだろうか。

中華思想ってのは、いわゆる通常のナショナリズムなんかとは全然違う感覚。 宇宙の中心である中原に、宇宙唯一の絶対者(皇帝)がいて、あとは辺境がありそこに蛮族が偏在している。 きっとこういう世界観。

清朝末期だかにあの辺りにいたヨーロッパ人が残した手記だかに「果たしてここは国だろうか」と言ったものがあったような気がする。「国などでなく、天と地の間に人が転がっているだけではないか」と。 素直な感想だし、実際そんなところだったろう。 軍隊とかだって私兵だったわけで。 国ってそもそも相対的な概念だ。他国も無いのに自国なんてあるわけない。 愛国心が強いから他国と揉めるのではなく、国がどうなろうが知ったこっちゃないからいくらでも揉め事を起こせる。

国が無いのであれば、どこに人間の紐帯が求められるのか。 端的には「血」だろう。

彼ら中国人に行動の矛盾を突くのって、あんまし得策と思えない。 現状の彼らの行動はいわば「侵略」なわけだけど、日本人がそう言ったところで「日本は歴史について反省していない」とか何とか言い返されるだけだろう。 つまり侵略を指摘されたら「お前だって侵略したじゃないか」と、相手に罪悪感を持たせることによって状況を少しでも有利に運ぼうとする。 これもまた「議論が噛み合わない」のではなく「議論観」が違っているから起こる。

痛いところを突かれたら、そこについて申し開く、反論する(自らの正当性を主張する)のでなく、相手の痛いところを返す刀で突く。 これが彼らの議論。 だから柔らかい土ほどほじくられる。 日本の「歴史云々」など実に分かりやすい「柔らかい土」である。

ピッチャーが球を投げたら、普通バッターはどうにかして打ち返そうと(あるいは選ぼうと)するものだが、彼らは球を投げてこられたんだから、相手目掛けて球を投げ返そうと(半ば反射的に)してしまう。 ここで「ルール違反だ」とか何とか忠告しても無意味だ。 忠告こそが攻撃と捉えられ、また新たな反撃に繋がる。

こういう相手にどう対応すれば良いのか。 現実的には威嚇を含んだ実力行使しかない。 私がそんな結論を導き出す前に、もうアメリカはそうしているわけだけど。 まあ正しいと思います。

そんなに仲良くなる必要があるか、また現実的に仲良くなれるのか、など不明な部分は多いが、濃厚に原理的な人らではあるので、付き合っていく為の鍵も、強いて言うならその辺にあるのかとは思う。


11/11(水)




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影山リサ、ミニ・アルバム「ナイチンゲール」、本日発売です。 上は先日のスタジオにて。下は本人からのメッセージ。


ナイチンゲール

今回のアルバムは演歌や長唄等、和風の楽曲を集めたミニアルバムです。
それぞれの曲にある、情景を思い浮かべてレコーディングに臨みました。
変わってますが、とても面白いアルバムに仕上がってます。
みなさん是非聴いてみて下さい。

影山リサ



最来週の11/25(水)には、次のミニ・アルバム「ピニャ・コラーダ」発売です。 こっちもよろしく。




11/10(火)

影山リサ、明日発売のミニ・アルバム「ナイチンゲール」について。


日本っぽい音楽をまとめたミニ・アルバム。 日本って言っても雅楽とかその手の要素は皆無で、基本は近世邦楽のテイストを取り入れている。 4曲目のHypnotismは先行シングルの音と全く同じです。 同じくシングル曲Barracudaの方はニュー・バージョンで、本作収録バージョンが完成形ってことになります。


1.玉梓

落語の出囃子みたいなのを作ろうと思って。 私は能管のあの調子外れな音が好きで。 オマケみたいな曲。


2.Nightingale

何と言う音楽ってわけでもないけど、近世以降の邦楽のテイストを取り入れた曲。 俗楽の中でも、遊郭音楽とかそういうイメージ。 編成も三味線・篠笛に各種和モノの太鼓類とか。何となく日本の音楽っぽいけど、これという様式に沿ったと言うわけでもない。

最初に作った時にはもっとBPMも早くて、ちょっとPOPS的な雰囲気だったんだけど、割りと大幅に修正を入れた。 修正が大きくてオケが最終的に二種類存在してしまったような曲は、2バージョン公開することなんかも多いんだけど、この曲において多分それはない。


3.Barracuda -Version2-

以前発表した「Barracuda」のニューバージョン。 Mixバランス・EQとかエフェクトの量とか、色々と微調整は入れているけど、元のシングルバージョンとそんなに大きな違いは無い。

強いて言うなら、一番の相違点は三味線のパート。 前のバージョンの奴は重音にバレーコードとか使ってて、ちょっと現代っぽいと言うか、あんまりスタンダードでない使い方をしている。 その後三味線音楽や楽器としての三味線についての理解が深まったこともあって、三味線のパートだけ作り直した。 前作よりも若干古典に近い作りになってます。 あと上調子も入っている。


5.夕凪

箏曲をベースに作った曲。 箏曲には箏組歌などの「歌物」が存在しているんだけど、今回ベースにしたのは段物っていう器楽曲。 六段が有名だけど、この曲は二段構成。 箏組歌や催馬楽みたいなスピード感のものに、どうしても私は美を感じない。

段物ベースに何となく和っぽい旋律を乗せた、結構オリジナリティーの高い曲だと思う。 作るに当たって筝楽について色々調べたんで、手間は相応に掛かっている。 バッキングには筝二枚と間奏に尺八を入れている。


6.恋しぐれ

聴けば分かると思うけど、要するに演歌です。 かなり前にカセットテープで販売した曲。 随分昔(前職時)に演歌を作ってろうって話があったもんで、その時ごく短期間で作った。 内容としては付け焼刃っつうか、かなりいい加減なもの。

当時のトラックをほぼそのまま流用してはいるんだけど、ところどころおかしな部分があったので、微妙に修正は入れている。 元のバッキングのデータをチェックしてたら、一部微妙にテンポがヨレてて、どうもキチンとした同期が取れていないようだったので(まことにいい加減な作りだ)、その辺は一応修正。 あとアレンジに関して言えば、イントロとかに大正琴の音が追加されてる。

今回、影山リサのレパートリーの中の、歌舞伎の下座音楽とか長唄とかそういう日本(近世)の音楽にインスパイアされたような楽曲をまとめてパッケージ化しようって企画ありきだったんだけど、最終的に出揃った曲の頭数がちょっと少ないような気がしたもので、急遽この曲を引っ張り出してきた。 日本近世音楽と演歌に直接的な関係って無いはずなんだけど、まあ近世音楽の系譜を(精神面で)現代に受け継ぐものの一つが、演歌であるような気がしないでもない。 私見ですけど。

あとウチの音って、一種の商品カタログでもあるので、この曲については、音屋としての守備範囲を例示したって面もある。 だから、演歌の精神面を表現しようなんて気はサラサラ無い。





11/9(月)

長編映画のようなものを見た際、私はいつもその後の世界を想像してしまう。

例えば「アラジン」。 王宮を抜け出した王女ジャスミンは、市場でアラジンと出会い恋に落ちる。 アラジンは窃盗常習犯で、要は街のチンピラである。 「愛があれば身分の差など関係ない」なんてのが一種の物語の主要テーマにもなっているのだろうから、まあその身分の差についてはさておき、「外界に初めて出た直後に出会った」と言う部分が引っ掛かる。 その手の新鮮さっていつまで持とうか。一生添い遂げたりできるのか。 あの二人、その後危ういのでは。

例えば「大長編ドラえもん」。 のび太ら一行は、長期休みの度に毎度、中生代にタイムスリップしたり宇宙のどこかで戦ったりするわけだが、いい加減飽きてこないか。 「また宇宙戦争かよ?今度はどこ?」なんて思ったり。 「今年の夏休みは宿題多いんで、俺止めとくわ」などと脱落者が出たりしないのだろうか。 私なら、三回目ぐらいで嫌になりそうだ。

例えば「天空の城ラピュタ」、あれの主人公のパズー少年は、あの壮大なアクションを繰り広げた後、家に帰って次の日からまた炭鉱夫として働きに出るのだろうか。 シータ少女と仮に結ばれるとして、どういう気分で余生を過ごすのだろう。 灰のようになってしまいはせぬか。 仲間と飲んで酔っ払った時など、毎度しつこいほどに「あの映画の話」を繰り返すオッサンになりはしないだろうか。 周囲に「また始まったよ」とか思われたりして。

いらんお世話と思われそうだが、いつも私はそういうことを考えてしまう。


11/8(日)

曲(録音物)作りにおける一番の難所はどこか。

工程としては、まず主旋律やコード付けと言った骨組み部分を作る作業(一般に言う作曲)、次に主旋律以外の各パートを作る作業(いわゆる編曲)、その次にそれらをオーディオ化するバッキングトラック作りってのがあって、その後に歌入れって流れになる。 曲によっては、録ったボーカル素材から更にバッキングを補強するパートを作ったり、多少プロセスが前後したりすることもある。 何度か言ってるような気がするけど、ウチの音は大体このような流れにて仕上がる。

で、難所だが、私にとっては上に挙げたどの工程でもない。 「曲を作ろう」と思い立つ瞬間、これが一番の難所である。

「作りたい」と思うか否か、これが一番大事なのだ。 核となるイマジネーションさえ生まれれば、そこが起点となって、後は曲なんていつの間にかに完成している。 絶対にでき上がる。 経験上これは間違いない。 逆に、起点としての強固なイマジネーション抜きには、いくら手癖で楽器弄ったりしたところでマトモな曲なんてできない。


11/7(土)

スタジオにて(広瀬沙希)。

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私はよく、CDのブックレットなどに載っている(知らない曲の)歌詞を読む。 そこにインスパイアされたメロディーをよく思いつくからで、一種の作曲法だ。 これ、昔からよくやった方法。

ただ、上記の手法をもってしても、全くメロディーが思いつけない場合がある。 多分その詞を書いた人と私との、重なる部分が少ないのだろうと思う。 言葉につられてメロディーが出てくるなんて現象は、言語機能に張り巡らされた無数のリンクが為すに違いないからね。


11/6(金)

何だか肌寒くなってきましたですね。 焼き芋とかおいしい季節になりました。

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一時期、ステゴサウルスには第二・第三の脳があったのではないかと言われていた。 現在、その説はやや説得力を失っているらしいが。

第二・第三の脳と言っても、多くの人がイメージする脳ではなく、神経塊とか言った方が適当な気がするようなもので、デカい図体を一箇所の脳で制御することの煩雑さ・困難さから、中継的な臓器(統合装置)が発達したのだろうとの仮説である。 

もしその第二・第三の脳がさらなる発達をして、意識のようなものを生んだとしたらどうなるか。 自分の体に別の人が住みついているようなもので、さぞかし気持ち悪かったろう。 現状、そういう形に進化した生物はいないみたいなんだけど、よく恐竜の研究者は上のような仮説に至ったものだね。 その想像力に恐れ入る。


11/5(木)

片飛鳥、歌入れでした。

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手元に「ディズニー映画音楽徹底分析」と言う本がある。 資料として借りてきたものだが、タイトルこそ「徹底分析」と謳っているものの、あんまし分析的態度で書かれていないような。少なくとも私の求める(楽理的な)アプローチにての分析結果では無かった。 譜例のようなものがほんとんど引かれていないのだが、私の感想を推し量るよすがになろうかと思う。

ディズニー音楽の様式を楽理的に分析してくれていればありがたかったのだけど、どうもそういう趣旨ではないようだ。 まあディズニー映画のファンなんかにはありがたい読み物なのかもしれないけど、私のような用途には向かない。


因みに「ディズニー映画音楽〜」とのタイトルであるのに、装丁からしてディズニー関連の画像が全く使用されておらず、まるで「磯野家の謎」とかそういう「謎本」の類を髣髴させる外観。 無論装丁だけでなく、中身にも一切画像類は使用されていない。 ディズニーと言う企業がその辺うるさいと言う噂は聞くけど、本当に画像の使用許可が下りないのだろうか。


11/4(水)

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影山リサ、「Midnight Hour」、本日発売です。 上は先日のスタジオにて。下は本人からのメッセージ。


Midnight Hour/Ordinary Girl

Midnight Hourは、これから何かが始まるような、プロローグの様な曲です。
普段はあまりない、溜息や驚いた声のレコーディングが新鮮でした。
ファンタジックでワクワクするような感じが表現できたと思います。

Ordinary Girlでは普通の女の子の気持ちを明るく、コミカルに歌ってます。歌詞が面白いです。

今年は今までにない位にたくさんの曲をレコーディングしました。
年内はこのシングルを皮切りにあとミニアルバム2枚とフルアルバム1枚をリリースします。
本当に様々な曲を歌っています。
是非チェックしてみて下さい。

影山リサ





11/3(火)

明日発売の影山リサ、「Midnight Hour」(全2曲)、収録曲について。


1.Midnight Hour

なんか昔のカートゥーンのBGMみたいなのをイメージして作った。

専門用語になるけど、ミッキー・マウジングの手法を拝借した。 私の場合、ベースとなる映像が存在しない状態にての作業だったんで、厳密な意味でのミッキー・マウジングではないけど。 まあそれにしても、それなりに大変でした。

ギミックフルな曲で、効果音とか多用してるんでその手の手間も掛かったけど、単純に音楽的な面でも私なりの趣向を凝らした曲。 こういうバカげた曲にも最低限の管弦楽法の知識とか要るし、こういう曲だからこそアイディアの手数が必要になる。


2.Ordinary Girl

いわゆるBigBandモノを作ろうと思って。 過去にもそれっぽいものはいくつか作ってるんだけど、より標準的な編成になっている。

チップチューンみたいなのを作る時って、使えるパート(同時発音)数が少な過ぎて和声感出すのに苦労するんだけど、こういうパート数が多過ぎるものも、これはこれで内声部の構成とか面倒。すぐメチャクチャになる。

ただ、本当に同時発音数の縛りとか全く感じることなく作れたんで、コードなんかには割りかし趣向を凝らせた気はする。





11/2(月)

神田優花。 相変わらずせっせと新曲作ってます。

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神田優花は今、いわゆるChituneモノを作ってまして、既に録音済みのもを含め、ストックは20曲近くある。 リリースは来年以降を予定してるんだけど、諸々のリリース計画とかジャケット作りなんかを、今進めている最中です。

11/18(水)発売の「Romeo」の方もよろしく。




11/1(日)

いわゆるカートゥーンの音楽について、考えている。 カートゥーン音楽って言っても、主題歌・BGM、それも長編用・短編用など各種存在するわけだけど、今は総括的・概括的に思いを巡らせている。 個人的には、割りと長年の懸案だったような。

例えばディズニーの音楽、管弦楽をフル活用したゴージャスなものでも、典型的クラシックとはどこか毛色が違う。 まるで一種のジャンルを成立させているかのように。 私は一時期、管弦楽を使った音楽ジャンルとして、クラシックとディズニー音楽がその双璧を為すものとさえ認識していた。 その後多少その認識はあらためるけど。

ディズニー音楽は間違いなくクラシックの強い影響下にある。 実際、初期のディズニー作品には、クラシック楽曲がそのまま使用されているケースも多い。 クラシックそのもの(オペレッタなども含む)やクラシックをディズニー風にアレンジしたものを使いつつ、ディズニー音楽様式は成立していった。


要するに次に作る曲のイメージを固めているわけです。 長編アニメの壮大なエンディング・テーマ曲や、劇中に挿入されるセリフを歌詞化したような(ストーリー進行上不可欠とも言える)ミュージカル風の楽曲、またショート・フィルムで使われるBGMや効果音、そういった諸々の音楽を一旦楽理的にバラして私なりに再構築してみたい。

いわゆるオペラやミュージカル用のナンバーを作りたいのか、と言うとそうではない。 やはり(実物は伴っていないながらも)濃厚にアニメーション世界のイメージが前提。 私はカートゥーン音楽専門の作家などでは無論無いので、ベースとなる映像の無い状態でこれから曲を作ることになる。あるのはアタマの中にあるイメージだけだ。でもそれで十分。

映像が無いってことは、少なくとも楽曲の進行をフレーム単位で考慮したりする必要は無いわけで、より自由な作曲は可能だ。 ただ、物事ってのは制約から生まれる面も大きいので、単純なアドバンテージであるかは分からない。制約に縛られないにしても、制約の存在ごと忘れてしまわないようにしたい。 凝縮されねば、ダイヤモンドだってタダの炭だ。 圧縮下にあるというのがまさに制約。


10/31(土)

常識と言うのはcommon senseのことで、senseなんだから感覚のことを指している。 上滑りな薀蓄などを延々と述べることができたところで、ある感覚を持たぬ者に常識は無い。

ある環境に晒された際、誰でもこう思うだろうし、過去の自分もこう感じた、と言う感覚。 これこそが常識で、つまり常識とは、我々の中にある時間に住んでいる。

以下は、これを読んでいる皆さんが常識人であることを前提に述べている。 みんなの周りに「常識に自信が無さそうな人」っていません? もしいるなら、多分その人は時間が成立しにくい脳の持ち主なんだろうと思う。 その人に無いのは、常識以前に時間感覚。

「数日振りに会ったその人は、ちゃんと私のことを覚えていた」と思う向きもあろう。 でも、きちんとメモリーにロードされたままの、いわば「生きた気分」として、あなたと言う人の印象が彼に残っていたのか、あるいは単にハードディスクからあなたの印象を取り出しただけで、再会する直前までその印象は意識から消え失せていたのか、は区別して良い。 区別できるはず。


10/30(金)

スタジオにて。

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大学生の頃、先輩から聞いたある話が今でも印象に残っている。 先輩の高校時代の話なんだが、その人の行った高校は、地元の学区内では随一の進学校だったらしい。

高校入学直後、クラスメイトは互いにほぼ面識がないわけだが、担任の教師がそこを慮って、ホームルームの時間か何かに、全員の「自己紹介」のコーナーを設けたそうな。 まあ如何にもありそうな話だ。

一人づつ、名前や出身中学、所属の部などを申告する。 ある人の番が回ってきた時、不思議なことが起こった。

その人は他の人と同じように自分の名(フルネーム)を名乗ったのだが、その直後、「あ!」とか何とか言って全然違う名をあらためて名乗ったそうだ。 念のため、訂正後の名前が本名だったらしい。

先輩は、その(自分の名を間違った)彼とその後三年間同じクラスだったらしいが、その件以来、全く事件を起こすこともなく、おかしな言動一つ取らず彼は卒業して行ったそうだ。 そしてその三年間、その自己紹介での一件について、ついぞ問い質すことができなかったと言う。

学区内随一の進学校だったと言う断りを始めに入れているのは、その彼が「アタマのおかしな人」である可能性が薄いってことを言いたかったからだ。 彼は何故自分の名を間違ったか。 蓋然性のある仮説が思いつけない。 世の中には不思議な話があるもんだ。


10/29(木)

今、当面作りたい曲のイメージが無い。 私には珍しい期間だが、稀にこういう時期もある。 ピカソも「私は探さない」なんて言って鷹揚に構えてたみたいだし、私もそういう気分。 だからして、のん気なことをあれこれ考える。


曲を作るってことは、音高・音長などの数値を組み替える作業である。 トータル・セリエリズムとかって用語で調べてもらえば分かると思うんだけど、そういう側面で音楽を捉える気運みたいなのは随分前から存在した。

昨今の趨勢として、音屋さんたちは音楽よりも「音色」を重視する傾向にあったりするんだけど、確かに独自性を発揮できる余地は、音楽よりも音色の方にあるような気もする。 ある思考の次元に限定すればこれは分からんでもない。 「音楽なんて出尽くした」って思うんだろう。

ドレミファソラシドを並び替える作業に、延々一生を費やす気には無論なれない。 だから何やら「新しいこと」を人は始めようとする。 創造が破壊である所以だろう。

しかしこの「新しさ」には種類がある。 12平均律に飽きたとて、16平均律にて旋律を書く。これはある面では新しい試みなんだろうけど、その後更に「次は17平均律で書く」とか言い出したら、その人の一生は多分 短い。

音律と言う観点に気付くことを仮に垂直的思考だとすると、ほとんど無限に存在しうる「○○音律」を虱潰しに追求する行為は水平的それだ。 例えば北斎は、西洋画を始めとする諸技法、浮世絵ならその諸流派を徹底的に研究した。 もし当時インターネットなんかがあって、世界の各文化圏の絵画様式が総覧できたら、虱潰しにそれらを模倣したろうか。 どこかの地点で止めたような気がする。


芸術、つまり創造の本質は因習の破壊であったりする。 パラダイムの転換ってのは要するに、ある思考の枠組みからの脱皮である。 つまり概念の階層化。だから言語による作業に他ならない。

思考が水平的になってしまうのは、一種のループを起こしている状態で、「円周率を小数点以下第何位まで記憶できるか」に挑戦してしまいがちになる。 創造ってのは、つまりはこういう思考法との戦いであったりする。

言語による階層化って作業が、その果てに人類に神(The Absolute)の概念を生み出させた。 芸術ってのは、一番直截的にその軌道を辿っている作業だと思う。 芸術家ってのが神に近い存在に思えてしまうのは、ある意味当然でもある。


富嶽百景の跋文には「百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん」とあけど、北斎の言う「生けるが如き絵」は如何なるものだろうか。 少なくとも、単なる写実的な絵なんかでは無かったろう。 私も北斎の言う「生けるが如き絵」のような音楽を書きたいね。


10/28(水)

広瀬沙希、新曲の歌入れでした。 今回録ったのはアルバムに収録する予定の曲なんで、公開はちょっと先になると思います。

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ウチは9/30(水)から、四週連続で新作を発表してきたんですが、今週は一休み。 また来週から四週連続のリリースに入ります。


10/27(火)

あるアメリカ人?大学教授が、日本人の使う英語についての誤りを指摘していたそうだ。

曰く「『〜for USA』のように冠詞(この場合はthe)が抜けた異様な英語が流通している」と。 確かにそうかもしれない。 おそらくは日本語にそもそも冠詞(当然定冠詞・不定冠詞の別も)がないの原因かと思われる。 「別に無くていいじゃん」って気分なんだろう。私もそう思うことはある。

例えば中国語には「助詞」が無い。概念ごと存在しない。 だから中国人の使う日本語からは、しばしば助詞が抜ける。 「私、学校行く」。こんな感じに。 彼らの気分としては「通じるから良いじゃん」ってなもんだろう。 ただこれは、概念を理解した上で端折っているのとは違う。


歌詞に使う英文ってのは、私の場合なんかは特にあれは日本語なわけだが、一応英語の外形を為しているのでその文法にはある程度従っている。 が、冠詞を省略することはある。 今パッと思い出せるものが一つ。もっとあるだろうと思う。

歌詞に使う英文から冠詞が抜ける最大の理由は、メロディー(音符の数)に収まらなくなるからだ。 メロディーそのものを改変することだってできるわけだけど、これは優先順位の問題。 メロディーラインの方を優先した場合、歌詞は妥協せざるを得ない。 この種の判断・取捨選択こそが芸術のコアになる。

平均的日本人であれば十年くらいの英語教育は受けているので、定冠詞・不定冠詞の区別ぐらいは付いている人も多い筈。 概念そのものがアタマの中に無いわけでないが、使用するかどうかを都度選択している。 これってむしろ高度と言うか、上位互換性があるのではないか。

日本人の母国語は日本語であり、我々の脳の言語機能の最下層レイヤーには「日本語」が、いわばOSとしてインストールされてある。 その上に英語アプリが乗っかっているわけで、だからこそある文法表現を選択可能となる。


しばしば指摘されることだが、日本語(日本文)の「主語が抜ける」ところを、英語圏人は異様に感じるらしい。 でもこれも、なんとなく上位互換な気がする。

「公園に行ってくる」←確かに主語が無い。 でも潜在的な主語が私(I)であることは読み取れるし、使ってる当人の意識にも当然あるわけで、主語(主体)の概念が存在しないわけではない。 必ず主語を入れねばならない、って制約がある方がちょっと不自由な気がする。 どうなんだろう。


10/26(月)

神田優花。 新曲二つ録って、更に次の曲のリハーサルに入ってます。 週末はずっと録った二曲の編集やってました。

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11/18(水)に新作「Romeo」発売です。




10/25(日)

子供について。 身近な人がごく最近子供を持ったのだけど、あらためて考えてみた。

私には子供はいないし、当面作る予定も無い。 が、もし私に子供ができたら、その子の為に私は生きるだろうか。 まずそんなことは無いな。 愛すべき他人の一人としてその子を愛しはするだろうが、私は私の為に生きている。子供が出来たところでそれは変わらない。

私は日々、人生と言う名の映画を見ていると思っている。 親兄弟だとか友人、恋人の類も全て、その映画の登場人物の一人。 親に人生を捧げたりしないのと同じように、子に人生を捧げたりもしない。

子だって一人の人間なのだから、私と同じようにその目に映画を映しているのだろう。 一度しかない人生なのだから、一番好きな時間を映して欲しい。 私が他人に対してそう思えるのは、私が私の為に生きたから。 自分の為に生きたその時間の果てに、互いに分かり合える日がある。 私が私の為に生きるように、その子も自分の為に生きるべき。


10/24(土)

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神田優花。 「Minutes」・「Rose」・「Sandy times」の三部作?のリリースが今月でとりあえず終わりまして、来月18日には次のミニ・アルバム「Romeo(ロメオ)」(全7曲)が発売されます。 上は先日のスタジオにて。 下、ジャケット。



通常のアルバムって曲数自体は一見多くても、先行シングルをふんだんに含んでるんで、新曲は実のところ少なかったりする。 今回のミニ・アルバム収録曲は、ハッキリ言えばシングル・タイトルとかに漏れたような曲たちではあるんだけど、一応全部新曲ではあります。 新作としての純度は高い。


10/23(金)

信じることについて。

ピカソの活動(存命)期、既にその当時の人(主に欧米人)は、あの絵画たちを高額で取引していた。 しかしながら、多くの人はあの難解な絵画を理解できたわけではなかろう。

では当時の人らは何を理解したのか。 それはピカソその人が、あのわけの分からない絵を「美しい」と感じていたこと。 ピカソが感じた美を、いわば「信じた」のだろう。

これは別に、ピカソ芸術特有の成立背景と言うわけではなく、基本的に芸術と言うのはそういうものなのだろう。 他の画家だってそうだろうし、音楽家とかだって当然そう。 お笑い芸人の面白さとかだって、その人本人がどれだけ「面白がっているか」こそがその面白さの真髄であろう。

人、その脳機能ってのは個体毎に違う。 誰かが感じている美を、別の誰かが全く同じように解釈できるわけではないんだ。 例えば単に「色」とかだって、私の見ている青と、他の誰かが見ている青が同じかどうか。 青空を見て、同じように「青い」とか「綺麗だ」とか口にしたとして、見ている(感じている)青さが同じであるなんて保証は無い。 と言うか、おそらく違うだろう。

青さとか言う単純なものでさえそうなのだ、芸術作品なんて言う複雑怪奇なものが、一様に解釈されるはずがない。 ピカソを愛する人は、ピカソを信じたのだし、ピカソその人には、他人を信じさせる何事かが秘められていたのだろう。


上で述べたことと全く同じ意味で、自分すらも美しいと思えない作品を発表している人の作品は、他人の心も捉え難い。 まあでも、そういうこともケースとしては絶無ではなかったりする。 自分でも信じていない神を、信者たちに信じ込ませてしまう宗教家とか実在しますものね。

その手の新興宗教の信者になってしまうような人らは、「信者」とは言うが、実のところ信ずる者ではない。 その証拠に、ある心理的な機会を境に「騙された」などと易々と言い出してしまうではないか。 他人を信じることとは、自分を信じることである。 だから自己の確立抜きには為し難いことなんだ。

人は時に、本来信ずべからざる相手を易々と信じてしまうのだから、同様に本来信ずべき相手を易々と見過ごしてしまったりもしようか。 信とは、即ちその人そのものなのだろう。 ここで言う信ずべきだとかそうでないとかも、要は私一人の価値観に過ぎない。

例えばこの私のことを信じる人がいて、また信じない人もいたとしても、どちらが正しいとも、どちらが誤っているとも言えない。 その判断は、その人が映した現実なのだろうから。 ただ実際問題として、信じられない人と価値観を共有することは難しいだろうけど。

騙されてしまう人は、そういう相手を一時的であるにせよ、信じてしまった(と言うより、それに依存してしまった)のだから、つまりはその人の「信」は、それこそ信用ならないと言うことになる。 だからそういう人らは、自分や延いてはその判断が常に信用できない。 早い話がそういう人らって、信じてしまったと言うより、疑う能力が無かっただけだ。

パチンコだのと言うギャンブルの虜になってしまうような人が、そこに依存してしまうのは、そこに自らの能力の介在する余地がほぼ無いことが理由だろう。 つまり彼らは自分に自信が持てない。 自分の能力が問われるのなら、それこそそんな信ずるに値しないものの質を問われるのだから、即座に「敗北」の予感がしてしまうだろう。 パチンコは、勝敗の帰趨が偶然に委ねられるからこそ、ある種の人々に歓迎される。


何かを信じる為に、必要になる唯一のものは自信である。 誰かを信じると言うのは、その判断を下した自分自身を信じると言うことなんだ。 自信を培うには蓄積が要る。 目の前の何かを信じるか否かを決定するのは、我々の「今日までの全て」である。

その気にさえなれば、時間は流れるが消えず、蓄積されていく。 蓄積の媒体が精神なのだろう。 局面局面で都度下した判断が、失敗も含め自己の蓄積となる。 その蓄積、留め置くにもある程度の精神の強靭さを問われるようですけど。

私が作った音楽作品たちってのは、商品と言うより、私の考える「美」であり、人生の局面局面における諸判断の集積であると言える。 あの作品たちは私の精神そのものだ。 あれがあるから私は何かを信じられる。  私は今のこの瞬間のみに生きているわけではない。


10/22(木)

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影山リサ、新作「ナイチンゲール」、11/11(水)発売です。





旭化成の一件。 私はそもそも文系だし、構造力学などの基礎的な理解も無い。当然テクニカルな部分は分からないわけだけど、私なりに思うところを。

以前にあった似たような偽装事件で、ある建築士が非難の槍玉に挙げられていた。 その時だって私にはテクニカルな部分は分からなかったわけだけど、最初にその人の風貌を見た時、明らかに「カツラ」を被っていたことだけは見て取れた。

カツラは基本ハゲ隠しのツールである筈で、おそらくあの人もそういう用途で使用していたのだろうが、一目でバレては意味が無い。 あの状態でOKとしていたのだから、つまり彼の頭の中で行われている諸々の演算は、どこか普通人とは違っていたのではないか。 そしてそれは、事件の一つの遠因なのではないだろうか。

私は冗談を言っているのではない。 ハゲを隠す事だって一種の仕事である。 私は、あのカツラと起こしてしまった事件とが無縁では無いと思うのだ。 だって彼の仕事振り、頭髪の偽装すらも既に「荒い」じゃないか。

佇まいにその人の常識感覚って滲み出るものだ。 私が仕事であの人にもし会ったとして、あの風貌を見ただけで、何と言うかプロジェクトの重要な部分を任せたくないと反射的に思ってしまうような気がする。

今回の事件、直接のいわば実行犯のような人はまだ登場していないと思うんだけど、どういう人かしら。 一目見てみれば、色んなことが分かるかもしれない。 まあ、おかしな人が一見おかしく見えないことは間々あるけどね。 しかし、あからさまにおかしく見える人が、実はおかしくないことってほぼ無い。


10/21(水)

佳乃のニュー・シングル「鈍色ヴァージニティー」、本日発売です。 下は本人からのメッセージ。


鈍色ヴァージニティー

ちょっと大人っぽくてスリリングな感じにしたかったのですが、気付いたらめっちゃ背伸びした結果大怪我してる歌詞になっていました…経験値って大切ですね(笑)
キーの高さではない、音自体の強さを出せるように頑張りました。一つの恋に必死ですがりついているギリギリ感が伝われば嬉しいです。

走れナッキー

何だか失敗や知らないものをものすごく怖がる人が多い気がして、意外と大丈夫だよ!と伝えたくて作った歌です。
子供の頃に見ていた、みんなのうたやアニメの主題歌みたいにしたかったので、この曲では「うたのおねえさん」を目指しました。かなりイメージ通りに仕上がっているので、是非聞いてみて下さい。

佳乃





10/20(火)

生きる自信について。

もう結構前の話だが、ある漫画家の自伝的な著書を読んでいたら、気になるくだりがあった。 その人は、若い頃にはヒットに恵まれず、晩成型と言われる漫画家。

売れなかった極貧の時代を回顧しつつ、その人は言う。 「当時の私は、貧しくはあったが自信があったからやってこれた」と。 そして更に言う。 「その自信とは、売れる自信なんかではなく、生き抜く自信である」と。

私は思う。 結局どんなに金や名声を持とうが、どんな職に就こうが、どんな異性・交友関係を持とうが、人が究極的に必要とするのはこの「生きる自信」ではないか。 実はそれさえあれば、全ては解決するのではないか。 おかしな行動を取ってしまう人の大半はこの、「生きる自信」が持てないだけのように見える。

多くの人が、愛されることを望むのは、愛がこの「生きる自信」に直結するからだろう。


今思えば、子供の頃の私はこの「生き抜く自信」が持てなかった。 自分の過去の葛藤や混迷振りの理由は、ほとんどこれで説明できる。 幸運にも今の私にはこの「生き抜く自信」がある。 愛のお陰だろう。 誰かの愛であり、私の中にある音楽のお陰。


私に売れる自信なんて無い。 ただ、この作業(つまり音楽)を続けていける自信ならある。 私にあるのは、この作業を続けて行く日々を楽しいと思える自信。 私はよく「音楽に愛された」って言うんだけど、これは決して冗談ではないんです。


10/19(月)

スタジオにて(広瀬沙希)。 新曲の最終リハになったのかな? 次は歌録りです。

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音楽家としての私は、正直言って「売れる」ことに真剣でない。 昔はもう少し売れたいと思ってもいたし、見栄のような気分もあって、そのように公言したりもした。 でもやはり私は、売れるってことには無頓着だ。 基本的にこれは一貫している。

もし私が売れたい(=富や名声が欲しい)のなら、行動が根本から変わってくるはずだ。 売れるために活動の方向性を変えたところで、求める成果が得られるかは無論分からない。 と言うか、私にはその手の才能があまりあるとは思えないので、おそらく大した成果は得られまい。 ただ、その成果が欲しいのだから、それを得るべく、今とは違うある方向に向かったはず。

現状においても、私の作る音楽作品が結果的に売れてしまうことはあり得ると思う(私は普通人なので、この程度の事象を「絶対に起こり得ない」と断言できるほどの確信も持てない)。 でもそれは、売れる音楽を書いたって言うより、書いた音楽が売れただけ、なのだと思う。 これって似て非なる現象。


10/18(日)

私は平素、音楽をあまり聴かない。 全く聴かないわけではないけど、正直あまりそこに時間を使わない。 若い頃は今よりは聴いたけど、その手のマニアなんかに比べれば全然大したことはない。

ここで言う音楽とは、概ね商業音楽のことであるが、これ、どこの国のものとか問わず聴かない。 理由は、失礼ながら面白くないから。

非商業音楽であれば聴くのかと言うと、それはそれでそうでもない。 クラシックとか長いから嫌いだし、雅楽とかだってまあ面白い部分はあるけど、原曲はみな長くて退屈だ。 いわゆるワールド・ミュージックの類も、思考の濃度を感じないから正直好きでない。


人生とは時間である。我々は、究極的には時間しか持たされていない。 人間とは、人体のことではない。 私が寝ている間にも、私の意志とは無関係に心肺は動き続けている。それは本質的に風や水の流れと変わらないもの。 私がこの目に映し、心で感じている何か、それこそが私である。

人間とは、その人の中に流れている時間のこと。 夢とは、その人が決めた残り時間の使い方のこと。

私に残された、音楽を聴ける時間など限られている。 詰まらない音楽などできる限り聴きたくない。積極的になど聴くものか。 金を損ずることなんかより、時間を損ずることの方が余程に苦痛である。 だから全く同じ意味で、面白いと思える音楽を作ってくれる人に、私は感謝する。 私の限りある時間を、幸福で埋めてくれたから。


10/17(土)

スタジオにて(影山リサ)。

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今年の影山さんは凄い。 何タイトル出すんだろう。数えてないけど。 今まで通産でアルバム二枚しか出してないんだけど、来月の11日から一月ちょっとの間に三枚もアルバム出す。 道理で今年、私は忙しかったはずだ。 とりあえず再来週発売の「Midnight Hour」の方、よろしく。




10/16(金)

スタジオにて(片飛鳥)。

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タイ音楽ベースの楽曲を作っていて気が付いたのだけど、私の音楽(旋律)に関する記憶、つまり言語処理のメカニズムは、かなりタイトに12音律準拠であるらしい。 七等分平均律で曲を作ると、記憶にエラーが生じる。 また美醜の判定も当然言語に因って行われるが、それも12音律との深いリンクがあるようだ。

例えば神田優花の普段のレパートリー、バッキングトラックの制作に入る前の段階だとか、更にその前の大雑把なコード進行とメロディーラインのみが仕上がったような段階で、「その歌、歌ってみてよ」なんて誰かに言われても歌うことができる。当然できた。

ところがタイ楽ベースの曲、それができない。 機材に向かって曲作ってる最中には、無論ある程度の理解・保持が前提で作業を進めているのだが、一旦そこを離れるとイメージが薄れていく。 「歌え」と言われても、多くの部分を思い出すことができない。

単に適当に(手癖とかで)作ってるからってことでもない。 一応曲全体の構想だとかは、事前にかなり細部まで言語で整理している。 それのみが原因でないにせよ、七等分平均律と言う、慣れぬ音律が確実にこの現象の一因となっていると思われる。 という事で、冒頭の結論に至ったわけです。


10/15(木)

神田優花の三部作?のリリースが、昨日で一段落しまして、来週10/21(水)は佳乃の「 鈍色ヴァージニティー」が発売されます。 その次の週は一旦リリースお休みで、11/4(水)には影山リサの「Midnight Hour」発売です。 神田優花の次のリリースも11月。 年内はアイテムのリリースラッシュになります。




10/14(水)

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神田優花、ニュー・シングル「Sandy times」、本日発売です。 上は先日のリハーサル風景。 下は本人からのメッセージ。


Sandy times

Minutesとは違った切り口から時を表現した曲です。積み重なるのではなく、流れ行く時。
この曲に取りかかっている間、ずっと懐かしさというかノスタルジーを感じていました。神田優花として歌い始めた頃のことを思い出していたからです。
あの頃があって今がある。表現したかったのは今です。


Everything

オーケストラの音に身を任せて、祈るような気持ちで歌っています。
音楽と一体になった感覚で満たされたレコーディングでした。
ぜひ、聞いてください。

神田優花





10/13(火)

明日発売の神田優花、新作「Sandy times」(全2曲)、収録曲について。


1.Sandy times

バッキングはシンセサイザーのみで、打楽器すら入ってない。 その上ところどころ変拍子だから、歌うの大変だったと思う。

あんまり和声音楽的でない。強いて言うならポリフォニー音楽。 バッキングのシンセは確か4パートぐらいあるんだけど、基本的にコードを担当してるパートは無い。 アルペジオっぽいフレーズもところどころ出てくるし、一応潜在的な(想定している)コード進行はあるんだけど、そんなに厳密なものではない。 ボーカル・パートもハーモニーは無い。

楽器を使うってことは、その楽器固有の物理性・物質性に多少なりとも引きずられることでもあるわけで、純粋思考のみで曲を作りたかった。 だからして、音色すらもちょっと邪魔で、最初サイン波だけとかで作ろうかとも思った。聴き辛いんで止めたけど。


2.Everything

バッキングは管弦楽と言うか、ピアノ・コンチェルトに近いものなんだけど(一応カデンツァまで入れてある)、書法的にはクラシックと言うより、ある種のアニメーション・カートゥーンとかミュージカルのような、オーケストラを使った広義のPOPSみたいなものをイメージした。 私としては、当初の想定に近いものができたと思ってますけど。

最初から分かってたんだけど、この曲、神田優花の得意な音域ではない(と言うかPOPSシンガーには高過ぎる)。 オケ作った時点では、オペラ歌手のような、ピッチ面での遊びが殆ど無い、完全な裏声みたいな(倍音を極限まで削ったような)ものを想像してたんだけど、若干事前の想定とは違うものになった。 まあそれにしても、神田優花は職人芸と言うか、それなりの処理をしてるとは思いますけど。

トラック個別にEQとかエフェクトとかを一切掛けてないんだけど、リバーブのみ、マスタートラックに掛けてる。いわゆるサンプリング・リバーブ(ウチは滅多に使わない)。 全体にホール・ノイズとかも入れていて、そういう臨場感と言うか音響に多少の力点を置いた。

ボーカルトラックについても、極力手を加えないものにしたかったんで、基本ドライ。 ダイナミクスとかも録ったままの状態に近いものにしたかったんだけど、ここについては聴き辛くない程度のところで妥協した。 歌そのものを聴きたい人には、良い曲なんじゃないでしょうか。





10/12(月)

スタジオにて(広瀬沙希)。

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前にも言ったと思うんだけど、広瀬さん、アルバム作ってまして、今リハーサル中の曲はそのアルバム収録予定曲。 それにしてもアルバム作るって大変だ。


10/11(日)

昨日の続き。 ピーパートって編成をベースにした習作をとりあえず作り終えまして、今クルアンサーイって編成での曲を作っている最中。


タイ古典音楽、中でもクルアンサーイって編成の一角を為すソー・ウー、ソー・ドゥアンと言う二種の弦楽器(要するに二胡)、前者が低音、後者が高音部を担当することまでは分かってるんだが、動画などを見る限り、オブリガート的なフレーズをメインに奏するわけではなさそうだ。

オブリガートって言うか、一種の掛け合いのような箇所は確認できたが、ほとんどの部分、ユニゾンに近い演奏をしているように見えた(聞こえた)。 運指などを見ても両者は動きが酷似している。 総譜が手に入らず、合奏しか聴いてないんで正確なところは分からないけど、オクターブ違いの同じフレーズを主に演奏していると見た。 和声音楽でないので、8度(又は1度)以外の音程は基本無いのではなかろうか。

という事は、基本的に演奏しているフレーズは即興的なものでは無いと言うことになる。 資料によるとタイ楽は、アドリブ的な部分もあるものの、基本アドリブ音楽では無いとある。 また、記譜の習慣が無い。 私の印象としては、ピーパートに比べるとクルアンサーイの方がアドリブ的要素は薄い気がした。あんまり実証的のものではないけど。


高音担当のソー・ドゥアンの方、楽器としては中国の二胡と概ね同じものだと思われる。 出音を聴き比べても両者の違いは感じなかった。 ただし、タイ楽は音律が独特であるから、例えば、通常の二胡の音源をそのまま使っての曲作りは難しい。

ソー・ウーの方は若干出音のニュアンスが二胡とは違うように思えた。 音の抜けのようなものが悪く、アナログシンセとかで例えるなら、LPFで音こもらせてレゾナンス掛けたような音。 ソー・ウーとソー・ドゥアン、弦や弓に決定的な違いは無いと思われるので、あの音の違いはボディの構造や材質から来るものだろうか。ちょっと分からない。


10/10(土)

しつこいようだがまたタイ音楽の話。

器楽部分ならある程度簡単に作れる。 慣れない音律だが、適当に音を出しつつ、いわゆる手癖のような断片的なフレーズを作り重ねることによって、何となく曲らしきものの体は為してくる。 和声音楽的なコード進行が存在しない音楽空間なので、比較的上記のような方法は採りやすい。 アプローチとしてはモード・ジャズとかに近いような。

上記の手癖ってのは、西洋音楽の概念で言うところの主題、若しくは動機とか呼ばれているものに近いと言えば近い。 が、やはり個人的には手癖と呼ぶのが一番しっくり来る。 いわゆる主題などとは、旋律線の芯に通っている思考の濃度が違う気がする。

とにかく、曲想のコアとなる主旋律を作るのは容易でない。 七等分平均律と言う音律がアタマの中で鳴ってくれないので、メロディーを作ろうと思うと、どうしても西洋音階準拠のペンタトニックみたいなもので組み立ててしまう。 それをタイ音律に変換することはできるけど、単に調律が狂ったペンタトニックになってしまう。 タイ音階ならではの旋律線にならない。

上記の手癖のような手法で主旋律(と言うか全パート)を書けば、多分ある意味では本物っぽくなる。 輪郭の薄い、骨格の覚束ない曲になるがね。 まあそういう音楽作品はいくらでも存在するし、タイ古典音楽も基本的にはそういうものだろう。 だが今の私が書きたいものは、とりあえずそういった音楽(純粋タイ楽のようなもの)ではない。


10/9(金)

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影山リサ、スタジオにて。 予定通り11/4(水)には、ニューシングル「Midnight Hour」発売です。



影山リサと言えば、11/4の次の週にはミニ・アルバム「ナイチンゲール」(全6曲)発売です。 こちらもお楽しみに。




10/8(木)

スタジオにて。 やっと涼しくなってきたと思ったら、もう肌寒いような。

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タイ古典音楽における打楽器について。

Ching以外の打楽器に、どの程度リズム進行上の役割(つまりリズムキープ)が期待されているのだろうか。 例えば代表的な編成であるPiphatのうち、ごく一般的な一つ(曰く最小編成)であるPiphat khrueang ha。構成する6人(6パート)のうち半分がリズム楽器(非旋律打楽器)である。 平明な感覚で見つめると、リズム楽器に比重が置かれすぎている。

では実際に演奏を聴いてみるとどうかと言うと、特に聴感上、リズムに比重が割かれているという印象もない。 動画を見ても上記のChing以外の音はほとんど耳に入ってこないし、入ってくるものも印象としてはスカスカで、全体のテンポを引っ張ってる感じではない。 打楽器音のほとんどが、リズム進行のメルクマールとなるようなアクセントになっているように思えない。 かと言って、取り立てて装飾的な音を出しているわけでもない。 英語版WikipediaのPiphatの項目では、例えばtaphonを「secondary beat」などと説明してあるけどね。

演奏進行上のある役割を担っていると言うより、合奏と言うAmusementに参加する際の、手持ち無沙汰を埋める道具と言った印象。手ぶらで参加するわけにも行かないものね。 もしそうであるなら、打楽器(非旋律楽器)と言うのは合理的だ。 楽音が出ないから楽曲に干渉しない。 タイ音楽は和声音楽ではないが、旋律・スケールはあるので、下手に楽音を出されると時に邪魔になる。


上の見方、特に穿ったものではない。 ジャンルによっては(例えばジャズなど)ごく自然かつ濃厚に存在する感覚だろう。 「演奏は作品世界を構成するものでなく、技術を披露するEntertainmentである」と言う感覚。


10/7(水)

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神田優花、来年からリリース開始予定の新シリーズの制作中です。上はその様子。

ニュー・シングル「Rose」が本日発売になります。 上は先日のスタジオにて。 下は本人からのメッセージ。


Rose/青春

語りの入った曲はやったことあるけれど、今度は演説のような表現方法を織り混ぜた曲です。なかなか聞いたことのないおもしろいものに仕上がっていると思います。私自身、曲が出来上がるまでどんな曲になるのかわからなくてワクワクしました。
何はともあれ、聞いてみてください。

「青春」はセピア色のような、モノクロに少し色のついたような、そんなイメージて歌いました。フィルターを隔てた向こう側で歌ったような。でも楽曲は色褪せないものが出来上がりました。
趣のまったく違う2曲ですが、是非聞いてみてください。

神田優花





そう言えば、先週発売のシングル「Minutes」収録曲の歌詞の公開が遅れてたみたいなんですが、本日「Rose」収録の二曲と同時に公開されてるそうです。

来週には次のシングル「Sandy times」が発売されます。 三週連続リリースの三作目、次のリリースは来月になります。




10/6(火)

明日発売の神田優花、新作「Rose」(全2曲)、収録曲について。


1.Rose

演説調のシャウトにワウ・ギターが絡むファンキーなナンバー。 途中、拍節を無視したようなフレーズが出てきたり、複調っぽいギターのコードとか、色々なアイディアを詰め込んでいる。 これも最近の作品の中では好きな曲。

打楽器にジャンベとかトーキング・ドラムとか、ちょっと変わったものを入れている。 どっちも西アフリカの打楽器。

歌は大変だったろうと思うけど、神田優花の曲ってこれに限らずめんどくさそうなのが多いんで、特別難儀したって印象はない。 サビのメロディー(の一部)が階段状でなくて、譜面としても表記しにくいものだった。 サビはポリフォニーなんですが、聴けばどの部分か分かると思う。

一番苦労したであろう部分はやはりAメロの語り(?)。 普通の朗読みたいななものじゃないんで、イメージを固めるのに時間掛かったみたい。リハーサルも普通の曲に比べれば時間掛けたような。 神田優花ってプロフェッショナルな人で、どんな無茶ぶりにも対応してくれるから土台作ってるこっちとしては助かる。


2.青春

こういうあんまり盛り上がらないマイナーの曲って、たまに作りたくなる。

メインとなる、三度でハモってるギターの旋律にボーカルラインが絡んでくる部分が着想となって、一曲書き上げた。 どっちかっつうとボーカルの方がオブリガートのような。

ベースが大活躍してて、間奏なんかもベース・ソロになってる。 基本的に多弦ベースを想定していて、通常のエレキベースの最低音より低い音を使っている。 図らずもサブベース的な効果になってるんで、多分スピーカーを選ぶ。 この曲においては、生演奏を録ってるわけじゃないけど、実際にベースで演奏しようと思うなら、5弦ベースとかそういうものが必要になる。






10/5(月)

タイ音楽ベースの曲を作るために、環境を整備していたんだけど、やっとある程度のものが揃った。 まあとにかく大変だった。今回得た結論としては、タイ楽器のサンプルに、ループ・ポイントを設定するのは至難の業であると言うこと。 理由は一つではないが、これもピッチ(の安定性)が大きな壁となっている。楽器としての精度の問題と言おうか。

苦労させられたのはラナート・エクって楽器。 VSTとかSoundfontの類は勿論なく、サンプラーのパッチのようなものも(有料・無料問わず)見当たらない。 お手製のパッチ作ろうとしても、サンプリングのしようもない。 ほとんど可能な限りの手を尽くしてサンプリング元を漁ったんだけど、使用に耐えうるものは見つからず。

ラナート(・エク)はオクターブ奏法を基本とするのだけど、そこがネックとなった。 どの音ネタも(教則ビデオの類まで)ほぼオクターブで演奏しているので、単音がサンプリングできない。 単音の演奏もあるにはあったが、21(あるいは22)鍵全てのサンプリングはできなかった。

楽器として、100%オクターブ奏法のみしか使われないものだと言うなら、それ(オクターブのサンプル)でもなんとかなったろうが、そうでもない。 動画などで確認したが、稀にオクターブ奏法以外も使われており、またオクターブ違いの同じ音(音名)を交互に演奏する、トリルのようなトレモロのような奏法は頻出する。 つまり単音のサンプルがないと、サンプラーでのラナートの演奏表現は不可能である。

楽器そのものは、原理的にも何のことはない。タダの木琴である。 ではマリンバやシロフォンの類で代用できるかと言えば、それは難しい。音のニュアンスが違い過ぎるのである。 マリンバなどは、製品としての堅牢さが反映されているのだろうが、音が良過ぎる。 ラナートは使用する木材も一定しておらず(ある程度定番的なものはある)、共鳴装置も(あるにはあるが)ハッキリ言っていい加減。各楽器の個体差(特にピッチ)も大きい。 つまり製品として実にアバウトである。そしてそれこそがラナートなのだ。

どうしてもサンプリング元が見つからなくて、特殊な民族楽器を扱う業者にコンタクトをとって、実器をサンプリングしようかとも思ったが、止めた。 総合的に考えて、それをやる価値が無い。 タダの木片叩いて発音させているだけなんだもの。その上ピッチも正確でないと来ている。


タイ音楽は七等分平均律に拠ると言われるが、実際の楽器は全くもってそんな整然たる音律でない。 計測結果が手元にあるが、理論値とはかけ離れている。 また、合奏に使われる楽器間の調律も完全には合わせられておらず(ある程度近いものには調整されてある)、また一つの楽器においても、あるオクターブ上の各音の調律と、違うオクターブ上の各音の調律が違っていることがほとんどである。 更には、(特に吹奏楽器系において顕著だが)ある単音のピッチカーブを見てみても、全くもって一定の周波数を保っていない。 つまり特殊な音律を採用してもいるのだろうが、そもそも音律が厳格でない。


10/4(日)

タイ伝統音楽の世界では、多くの楽曲クレジットは匿名であるらしい。 時代的に古い音楽作品にはこういうことってよくある。 単に作曲家名が散逸しているってのもあるし、コンポーズにそれなりの価値が置かれるには、様式がある段階に達する必要がある。 これ、説明しにくいけど。

グレゴリオ聖歌は本当にグレゴリウス一世が作ったわけじゃない。何でもかんでも「空海の事績」とか言うのと似たようなもので、あくまで伝説である。そのように仮託した方が箔がつくってのもあったろうか。 クラシックの世界で作曲家名が後世に残り出したのは、レオニヌス、ペロティヌスとかそのあたりを嚆矢とすると思われるけど、まあ理由は複合的だ。

雅楽などのレパートリーも上記と似たような状態で、古過ぎて散逸しているものあり、伝説なのか史実なのか判別し難いものあり。 ある程度(誰が作曲したのか)確実と思われるものも無論ある。

ここ最近、タイ古典音楽の楽譜(総譜・五線譜)を探していたが、良いものは見つからなかった。 探す過程で知ったのだが、タイ音楽には記譜の習慣(思想)が無いそうである。 基本的に楽曲は口承によって受け継がれるらしい。 Youtubeなどに転がっているので興味ある方は見て欲しいのだが、そのタイ音楽、一曲20〜30分なんてザラである。 口承でどうやって細部まで伝えられようか。

やはりタイ音楽においては、「音楽とは、作曲家が構想した楽曲を各楽器奏者が演奏(再現)するものである」と言う感覚が希薄なのだろう。 ある程度の決め事が出来上がったら、後は各奏者めいめいが適当にプレイすれば良い、みたいなジャズだとかスポーツのラリーだとかのような感覚なのかもしれない。 上記の口伝についても、せいぜい大掴みな骨子部分程度(例えば主題であるとか)がその対象ではないのか。


例えばプロ野球の世界。 変化球(などの諸技術)に著作権は認められていない。 認められていれば、フォークボールを編み出した誰かの子孫は、今頃大金持ちかもしれない。 誰か知らないけど、調べればすく分かろう。


現代は、著作権と言う怪しげな権利(財産)が何やら当然のように認められているので、上の話は、多くの現代人には感覚的に分かり難かろう。 「これは俺の作品だ。似ているものを発表したければ俺に金を払え」。現代では、これが正当な主張とされている。 あまつさえ揉め事を起こす者までいる。

別に私はそれ(著作権の主張)を一方的に悪だとも思わない。 認められている権利ですからね。 公的な手当ての支給を受けているのと同じようなもんでしょうから。 でも、曲がりなりにも芸術家なら、著作権の正体ぐらい知っておいてもバチは当たらないと思う。


10/3(土)



影山リサ。 年内のリリース・アイテム、発売の日程が大体決まってきました。 予定通りシングル一つ、ミニ・アルバム二つ、フル・アルバム一つの計4タイトルをリリースします。 下はスタジオにて。今は来年リリース予定のシングル・タイトル曲のリハやってます。

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まず11/4(水)にシングル「Midnight Hour」(全2曲)を発売します。 上はそのジャケット。



来週水曜日には神田優花の新作「Rose」、発売です。




10/2(金)

スタジオにて。 一枚目は差し入れのカステラ。

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どうでも良い話だろうが、何故カステラの底には薄い紙が貼り付いているのだろう。 取るのを忘れて紙ごと食いそうになるし、取ろうとするとザラメ(カラメル?)ごとごっそり取れてしまったりする。 あんな一見余計なモノがワザワザくっつけられているってことは、ハッキリと必要性があるのだろうけど、あの構造を回避する方法ぐらい誰か思いつかないのか。


10/1(木)

タイ古典音楽をベースに、習作のようなものを作ってみようと思い立ちまして、それ用の環境作りに勤しんでいた。 私にとってはそんなに珍しいタスクでないけど。

まず具体的には楽器音を揃えることになるわけだけど、同時にそれらの基本的な奏法を知らねばならない。 これが実に難しい。 楽器音そのものの入手より難しい。

楽器(実物)とかその音をサンプリングした音源とか、そう言うのはいわばモノなので、入手できさえすればそれで仕舞いである。 奏法はより立体的な情報なので、楽器の基本構造を始めとした「理解」を伴う必要がある。 これは時に容易でない。

今回例えば「タポーン」とか「トーン・ラマナー」だとか言う打楽器について、最後まで定型的なリズム型が分からなかった(今後分かるかもしれないが)。 インドのタブラ(・バヤ)なんかだと情報もそれなりに多くて、各種の単音の出し方とか、リズム・パターン、典型的なブレイクなど、ある程度基本を知ることはできた。 今回はその種の情報が足りなくて、結局分からず仕舞い。

タポーンはクローン・タットと言う打楽器とセットで使われることが多いそうだが、であるならコンビネーションによる定型プレイがあるはずだろう。 それが分からない。

トーン・ラマナーは厳密にはトーンとラマナーと言う二種の楽器で、それらを一人のプレイヤーが合わせ持つ(タポーンとクローン・タットは奏者二人)。 資料によってはトーンとラマナーを二つの楽器として別々に紹介しているものもあった。 確かにハイ・コンガとロー・コンガを別々の楽器として紹介しても間違いではない。

このトーン・ラマナー、二つを合わせ持つのなら、当然そこにも二者のコンビネーション・プレイがある筈だが、分からない。 トーン・ラマナーについては、各種単音の出し方ならある程度知ることができたが。

J-POPのアレンジャーとかでも、例えばドラムスについては、「1・3拍目にキック、2・4拍目にスネア、8分や16分などでハイハットを入れる」などと言う、定型を知っているからこそアレンジを組み立てられる。 目の前にスネアやシンバル類を置かれても、定型を知らねばどう扱って良いか分からない。

無論太鼓は叩けば音が出るし、ある程度他の太鼓から奏法を類推することもできる。 だが、それでは核心部分が分からない。 分かっていて無視することと分からないことは全く違う。


楽器は物質だから、例えば遺跡などから出てくることもある。 楽器の構造・材質によっては、実際に音が出せるようなモノまである。 でも楽器が残っていることと、その奏法、それを伝承する流派、それらを総合した体系、などが残っていることとは意味が違う。 だからクラシック(西洋音楽)や雅楽は偉大なのだ。 同時に、現代において持て囃されている中国音楽などは、雅楽と本質的に違うのだ。 いわゆる中国音楽が単純に価値の無いものだとか言ってるわけじゃないけどね。


因みに、多くのタイ語(タイ楽器名)のカタカナ表記はまだ固まっておらず、例えば上のトーン・ラマナーにはトン、ラムマナー等の表記が見られる。 文中の表記は適当にピックアップしたものです。


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