Staff diary  
スタッフ日誌[2015]

[文 / 益田(制作)]

6/30(火)

影山リサ、明日発売のシングル「Joy to The World」、について。


1.Joy To The World

企画ありきと言うか、この手のシリーズを3タイトル連続でリリースする予定があって、その中の最後にできた曲。 夏っぽいイメージで作りましたけど、ちょっと拙速な感は否めない。 歌詞とかも時間掛けてなくて、賛美歌とかを参考にした当たり障りのないものを付けたつもり。

これも意識的に和声音楽っぽくならないようにした。 色々なアイディアを盛り込んでいるんだけど、盛り込み過ぎて一つ一つの効果が正直聴き取りにくいな。 神田優花にコーラスやってもらってるんだけど、エフェクティブ過ぎて全然誰だか分からない。


2.Contrail

もろに初期のクラフトワークのイメージ。 ああいうのに比べれば、若干音使いが丸っこくて全体的にPOPかな。 これもそんなに時間掛けてない。

要するに古典的テクノ。 曲そのものは勿論だけど、音についても、古典テクノの名器と呼ばれるようなものを多用している。 ただ、私自身はそういうところにルーツを持つ人じゃ全然無いけどね。

曲中に有名な教育用玩具「Speak&Spell」(のサンプリング音)を使ってる。 これもあの手の音楽においては、ごくありふれた(使い古された)手法だけど。





6/29(月)

神田優花、レコーディングでした。 一曲録り終わって、早速次の曲に入ってるんだけど、これで前回のアルバム以降、11曲目になる。 本当に次のアルバム出せそうだ。

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話は変わる。 「新橋横浜間に鉄道が開通」←この表現は許せる。 が、「新橋に駅が設置」←これには違和感が残る。 駅は設置「された」のだろうよ。 最近この手の表現をしばしば見かける。 これって「設置」の意味が変質してきているってことなんだろうか。


6/28(日)

SID音源の再現の為に試行錯誤中。

Commodore64は世界で最も売れたコンピューターとか言われてるぐらいなので、その筋では最もメジャーな機種である。 サウンドチップであるSID音源(型番で言うとMOS6581等)も有名で、それ用のサウンドファイル作りにも多くの人が参加している。 サウンドエディターもプレイヤーも、SIDを再現したシンセの類も多数存在する。

つまり、あの音らしきものを手元で出すことは比較的容易である。 しかし現存するエミュレーターの類は、どうも私にとっては「帯に短し襷に長し」と言った感じだ。

プラグインの類をいくつか試してみた。 再現性の純度はモノによってマチマチだが、どれも結構いいところを突いているような気がする。 が、再現度100%ってのは(当然だが)見当たらない。 95%くらいのものしか存在しないのかって言うと、必ずしもそういうことじゃない。 120%くらいで作ってしまっているものが多いのだ。 つまり実機を越えた過剰なスペック。

本来実機に存在しないエフェクトの類を、ご親切に装備してくれているようなものが多い(まあその効果を使わなければ良いだけのことでもあるが)。 本物のSIDチップを搭載したハードシンセまで存在するんだが、マニュアルを読む限り、それも制御系など過剰な感が否めない。 基本波形を時間的に変化させる、いわばWaveシーケンスのような機能とか、やろうと思えば実機でも無論できたのだろうけど(だからこそ実機搭載のシンセでもできるのだろう)、当時のCommodore64用アプリのサウンドプログラマーでそんなの使ってる人いたろうか。

有料ソフトでなにやら高い再現性を謳ってるものがあったので、そのデモ版を使ってみた。 実機なんて見たこともない私に再現度の正確な評価なんてできないが、ちょっと綺麗過ぎて嘘っぽい感じがしなくもない。 ただ、実機再現への拘りは感じられる。 個人的にはフリーのプラグインで中々良いと感じたものがあったので、それを使って何か作ってみたい。


6/27(土)

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ここ暫く、頭を使いすぎて疲れている。 SIDって形式のサウンドファイルを作りたいんだけど、上手く行かなくて。

ここで言うSIDってのはCommodore64ってコンピューターの内蔵音源用のサウンドファイル。 実機なんて見たことすら無くて、演奏はエミュレーター(SIDプレイヤー)で十分だと思ってるんだけど、こちらの思うようなファイルができなくて難儀している。

SIDなんてものに手を出さなくてもファミコン用のNSFとかで良いじゃんって思われそうなんだが、SIDはSIDで他にはない魅力がある。 SIDは、音自体は矩形波とか三角波とかよくあるものなんだけど、エフェクトっつうか効果にRingModuratorなどの特殊なものがあって(多分他のゲームサウンドには無い)、ちょっと捨てがたい。


SID用のサウンドエディター類は、実は豊富に存在する。 chiptune界隈(特にアメリカ)ではSID形式って非常にポピュラーで、クリエイター人口も(多分一番)多い。 だが、そのエディターのほとんどがトラッカーな上、おそらくそれらの全てがBPMベースでテンポを管理してなくて、一般的なDAWとの相性が悪いんだ(BPMに換算すると小数点とか出そうで)。 ここについて喋り出すと長くなりそうだから、とりあえず話を進める。

おそらく唯一と思われる、エディットがMMLベース、テンポ管理がBPMベースのSIDエディターを見つけたのだが、数々の障壁があってSIDファイルをコンパイルするまでに至らない。 これ実用化できたら最高なのに。 それ用のアセンブラがどうやら不備だらけな上に、私にその辺の知識が乏しいもので、結局作業が頓挫してしまっている。 ある形式のサウンドファイルをコンパイルする為だけにプログラムを一から学ぶなんてのは、実に効率が悪い。

私はこれまでトラッカーってのを極力避けてきたんだけど、避けて通れないのだろうか。 トラッカーって世界中にたくさんあるんだけど、どうも操作法の個体差が大きいように(非効率に)思える。


本物のSIDチップを搭載したシンセだか音源モジュールだかが商品化されてはいるのだが、そういうものを手に入れる気は今のところ無い。 今の私にはエミュレーターで十分なんです。 そう言えばSID音源を模したようなVSTとかもある。フリー物をいくつか試してはみたけど、どうなんだろう。 通常のMIDIの演奏情報であの音を十全に再現できるのだろうか。 もう少し検証作業が必要だ。


6/24(水)

影山リサ。 「Jellyfish」、本日発売です。 下は本人から。


Jellyfish/Mermaid

Jellyfishは妖しい雰囲気が魅力的な曲です。
Mermaidでは海底で呟いて歌っている様な感じをイメージしてレコーディングに臨みました。
カッコイイので是非聴いてみて下さい。

影山リサ





6/23(火)

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影山リサ、明日発売のシングル「Jellyfish」、について。


1.Jellyfish

これ随分前にオケ作ってたんだけど、出すタイミングが無くてこの時期になってしまった。 タイトル「Jellyfish」がサウンドのイメージに合ってるように私は思うんだけど、全然作為の結果じゃない。 あと、これもカップリングもタイトルが、海とか水のイメージなんだけど、ここについても全く企画性無し。タダの偶然。

音楽的には特筆すべき点も思いつかないけど、音に関しては、ボーカル・バッキング共に逆回転を多用している。

あとこの曲(とカップリング曲)には、いわゆるサブベースを入れている。 そのサブベース部分、マスタリング段階でいくつかの再生環境を試したんだけど、一部の環境ではやはり十全に再生されない。 聴き取りにくいとかでなく、その辺の帯域がゴッソリ抜け落ちる。 だからこの曲を制作側の意図通りに聴こうと思うなら、ある程度再生環境を選ぶ必要がある。


2.Mermaid

これ作った当時、似たようなものを量産したせいかもしれないんだけど、思い入れが薄い。 この文章作るに当たって、聴き返してみたんだけど、細部の記憶がかなり薄れていた。 音についてばかり考えていたので、曲想が空っぽに近い。

トラックのアタマにレコードの針が落ちる音を入れたりしてて、アナログ・レコードの雰囲気を出したつもり。 「Fireworks」カップリングの「Watercolors」はカセットデッキを模してたんだけど、こっちはレコードプレイヤー。

パラメーターが多くて、構造的にちょっと複雑なシンセとか、ノイズの類を多用していて、曲についての能書きをここでたれようと思えばできなくもないんだけど、ほとんどが「音」(音楽でなく)についてのものになってしまう。 あんまし面白くならないと思う。





6/22(月)

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対位法について。

手塚治虫の「ルードウィヒ・B」に「バッハは対位法の使い手で、フーガはその対位法を駆使して書かれた」と言うようなことが確か書かれてあったような気がする(全くもって定かな記憶でないが)。 実際世間でも、対位法って言えばバッハがその(使い手としての)代表格みたいに言われているように思うが、あれはどうしてなのだろう。

作品(譜面)を眺めていても、バッハの曲はいわゆる対位法全盛の時代(ルネサンス期ぐらい)のそれとは明らかに一線を画している。 分散和音の使い方などを追っていると、もう和声音楽の萌芽がそこにありありと見て取れる。 ラモーとバッハはほぼ同時代人なので、ある意味当然のことではあるが。 むしろバッハは、初期和声音楽の大成者とすべきではないか。

バッハ作品の代表例でもある各種フーガ、あれも「対位法で書かれた」とか言われるとちょっとした違和感が残る。 なるほどフーガは和声音楽的ではないし、対位法の禁則も一応生きているし、出てくる諸技法も、一般書としての対位法の参考書などに出てきそうだ。 が、人々が感じるフーガのフーガらしさって、大部分は単にカノンであるとか、そういうところではないのか。 確かに平均律(クラヴィア曲集)などを見ていても、(どちらかと言えば和声音楽的な)プレリュードとフーガが常にセットになっていて、対置されるべきものと見做されているのは明らかだが。

一口に対位法って言っても、フックスの理論化したような、声楽を基本とした厳格対位法(パレストリーナなどを代表者とする)と、時代的にはやや下るバロック期などの器楽対位法は、書法の上での共通性はあっても、鑑賞する上での印象は随分違う。 この辺りも誤解を生む遠因の一つになっているのだろうか。

主旋律・定旋律と対旋律ってものの存在が、それら複数の声部の関係性を学問的に整理したルールと、複数の旋律が同一の時間軸上に展開されるポリフォニー音楽との、概念の混同を招いたのか。 counterpoint(対位法)とpolyphonyには言葉としても(無論概念としても)別物だしな。

多分音楽を専門的に学ぶ場(音大など)においては、既に「バッハ=対位法」的なステレオタイプのイメージって無い筈だ(でないと論が先に進められまい)。


6/21(日)

チップチューン熱がまだ冷めてない。 が、その割には習作一つ上げてない。 まだその段でないらしい。


ナムコの(ファミコン用)拡張音源に、N160ってのがある(姉妹品のようなものがあるらしいが、大体似たようなものかと思われる)。 最大8chの波形メモリ音源。 内臓音源で出せる楽音が最大3なので、8音って結構凄い。 内臓音源と合わせると11和音まで出せることになる。

ファミコン内蔵音源のようなPSG系の音源って、同時発音数が少な過ぎて、どうしても旋法・対位法とかポリフォニー的な音楽になりがちだ。 11音あればかなり和声っぽい作りにできそう。 後年のメガドライブ(セガ)なんかのFM6ch+PSG系音源なんて構成と(発音数において)近いものになりそうだ。

但しそのN160、カタログスペック的には最大8音とあるが、チャンネル数が多くなるにつれて音質が劣化するそうな。 だから現実的には4〜6チャンネルぐらいが適当なのかも。

上の音質劣化の件、一応実機での話だろうから、エミュレーターでの挙動は分からない。 でも何やらそれらしき記述を目にしたから、エミュレーターでも8ch同時使用には難があるのかも。 試してもないんだが、エミュレーターがそこまで忠実に再現しているなら、ある意味凄いような気もする。


6/20(土)

「私は完璧主義者で、作品には推敲に推敲を重ねるので、容易に完成しない」と言うような人がいる。 いかにも世俗的な芸術家のイメージと合致するようで、カッコイイのだろうか。

しかし人間は持ち時間が限られている。 日本人男性の平均寿命は確か70いくつで、一曲作るのに何年も掛けていられるほど余裕がない。 私などは、完成度を無視するではないが、多少それは捨ててでも効率を見つめざるを得ないと思っている。

完成度を優先するあまり、寡作に終わる作家とか、なんか本末転倒のような気がする。 芸術とは言語、即ち論理の精髄で、論理とは時間感覚そのものだ。 時間を見つめれば、効率の方が大切だと気が付かざるを得ないような気がするんだけど。 違うのかな。


6/19(金)

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英語には、日本語で言うところの「懐かしい」に該当する単語が存在しないと言う。 その理由について、定説は無いのだろうが、私にはなんとなく分かる気がする。 ただ、少ない文章量で説明し尽くすのが難しい。

日本語の「懐かしい」がこんにち的な意味で使用され出したのがいつ頃からなのかは知らないが、そもそもは違った意味合いで使われていた。 長い歴史の中で、意味を変質させながら「懐かしい」は現状に至っている。

そもそもの「懐かしい」は、単に感動を指す形容詞だったのだが、そこにいつの間にか時間的な構成要素が加わった。 その間、日本人の言語機能が成熟したと言うことだろうか。 確かに言語は、使えば使うほど人間に何事かを分からせる特性を持っている。


感動の度合いが強ければ強いほど、それは強烈なイメージとして記憶に残る。 人間は何かに感動した時、「あの時に感じたアレだ」とて、脳内に過去を呼び起こす。 だから「懐かしい」はこんにちのような意味になった。 割りかし素直な変遷のように思える。

ただし、「懐かしい」の成立要件には、時間的な「隔絶感」がある。 だから気分の連続性が保たれ難い脳の状態にては、頻繁に起こりえる感傷とも言える。 猫や爬虫類のように、時間的連続性が成立しない脳に「懐かしい」は存在すまいが、連続性が濃厚すぎる脳にもそれはそれで存在し難い。 数分前の気分が懐かしくないのと同じこと。 濃厚に覚えている、繋がっている気分を誰も懐かしいとは呼ばない。


6/18(木)

一般に、医者は短命らしい。 詳しい統計データなどを見たわけではないが、ある医者の書いた本にそう書いてあった。

世間では、医者なんて制度的にも優遇されているし、儲かる仕事の代表かのように思われていると言うのに、実のところ世間で思われているほどは気楽でないらしい。 どうしてなのか。

無論私に原因を特定できるはずも無いが、まあ扱うものが人間なので、神経を使わされることは間違いなかろう。 しかし、おそらくそれだけではない。 医者が短命な理由の一つとして、医療の現場が「希望を見出しにくい場所だから」ってのはあるのではないか。

医者にかかる人が、医者にかかる理由は、突き詰めるとそのほとんどが怪我・病気あるいは老いであろう(それらは明確に区別できない)。 怪我や病気は一時的に快方に向かったとしても、人間の老化を止めることはできない。 病室に横たわる病人・老人らはいずれ死ぬ者だし、病院は死へのカウントダウンの場とも言える。 いずれ死ぬのは病人に限ったことではないが、医療の現場とは、その目を逸らせない現実を強く認識せざるを得ない場所には違いなかろう。


病人を救うのは医師(医学)だろうが、医者を救うのは何か。 それは希望であり、思想だろう。 私は希望を持って生きたい。 もっと言えば、希望さえ持てるなら、あとは何もいらない。 生きて行くにはそれだけで十分。 私は、音楽という名の希望を作ろうとしている。


6/17(水)

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影山リサ。 「Confessions」、本日発売です。 下は本人から。


Confessions/Tiger

Confessionsは懺悔を許せない女の子の気持ちを歌った曲です。騒がしい感じの曲なので意識的にあまり感情的にならないように歌いました。
Tigerはクールな中にも強さを感じられる曲です。
是非、聴いてみて下さい。

影山リサ





6/16(火)

影山リサ、明日発売の新作「Confessions」(全2曲)、収録曲について。


1.Confessions

ボーカルの処理に時間が掛かった曲。 ヴォコーダーかなり大胆に使ってるし、ボーカルトラックそのものも(途中に入るラップも)、ピッチとかフォルマントをゴチャゴチャ弄りまくってる。 あとリバース(逆回転)ディレイとか、エフェクト類もかなり細かく設定してて、色々と手間が掛かってる。 この手の曲は大体そうなんだけど、歌入れの後が大変だった。

音楽的にはごく単純な曲です。 前半の四つ打ちの部分と、後半と言うかラストのメロトロン風のストリングスが入ってくる部分は、全然別のプロットを繋げたんだけど、特に違和感は残らなかったように思う。


2.Tiger

ごく短時間で作っている。 構想のボリュームは極めて少ない。 ある既存のスタイルを踏襲しているだけのようなもので、音屋としては肩慣らししてる感覚。 何となく「今度はこんな感じのトラックでも作ってみようかな」程度の動機だけで作ってる。 オケは多分数時間で出来た。

当時(と言っても最近だけど)、たまたま見つけてきたプラグイン・エフェクトを初めて使ってみた曲。 それはPANを弄るためのものなんだけど、よくあるオートパンの類と違って、帯域ごとに細かくPanningを設定できる。 新しい技術とか言うほどのものではないのだろうけど、今までそういうものが無かったような気がする飛び道具的なエフェクト。 とりあえず取り入れてはみたのだが、プリセットをそのまま使っている。 Panningについて、創作上の詳細な設定なんてあんまり持たないもんで。

全般的にこの手の曲は、楽器録りなんかも無いし、オケ作りは普通の曲より時間が掛からないんだけど、ボーカルなんかのエフェクト処理に時間掛けるんで、歌録りが終わった後の工程に時間が掛かる。 これもそうだった。





6/15(月)

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ファミコン音源用のサウンドデータであるnsfを作成する手順はいくつかあるが、私はその中でもトラッカーってのがあんまし得意でなくて、今まではほぼMMLベースで作ってばかりだった。 MMLってのは一種のプログラム言語で、テキストで音符情報を入力していくような形になる。

一応MIDIデータ(SMF)をMMLに変換するツールってのが存在している。 確かに大した代物で、よくぞあんなプログラムを作ったものだと思わされるが、やはりMIDIデータとMMLはアルゴリズムが違う。 どうしても「翻訳」になってしまうので、簡易的にあの手のサウンドを再現するには良いツールだが、本格的に作り込みたいならお薦めできない。


6/14(日)

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IR(サンプリング)リバーブについて。 音屋で知らない人はあんましいないと思うけど、そういう通常のものとは原理の違うリバーブが存在する。

詳細なメカニズムについては調べて欲しいのだけど、簡単に言うと、インパルス・レスポンスって言うデータ(オーディオ)から空間を計算し、その特性を再現するって方式で、まあリアルな効果が出せると言われている。 但し、演算量が膨大なので、とにかく処理が重い。

ウチの音で言えば、神田優花の初期の作品の、特にボーカルの処理にその手のリバーブを使ってるものがあるんだけど、手間の割りには(普通のリバーブとの)効果の違いを感じにくくて、最近ではほぼ使わなくなった。 上記使用例についても、その効果が必要だったと言うより、物珍しさで使ってみた感が濃厚だ。

ごく最近、フリー物のVSTプラグインなんだけど、割りと評判の良いサンプリング・リバーブを手に入れた。 気が向いたらまた使ってみようかと思わせる代物ではあるんだけど、これも効果と手間(負荷)とを勘案した上でってことになるな。


ついでに私は、「リアルさ」も勿論無視する気は無いが、「手軽さ」の方を優先しがちだ。 と言うか、それらを総合した上での「効率」を採る。 当たり前のことだが。


6/12(金)

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神田優花。 今ちょうど抱えてる新曲が無くて、ここ数年で録った曲のおさらいをやってました。 録りっぱなしで全然歌ってなかったもので。

神田優花については、今またリリース計画練ってます。 既に結構マスタリング済みのストックが溜まってきてますので。多分年内にもういくつか新作出します。


6/11(木)

スタジオにて。

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物事の複雑さ。 物事ってのは大抵、何を取ってもそれなりに複雑である。 これが分からない人は多い。

例えば風邪一つ取っても、その原因って何なのか。 ウィルスが猖獗する場にいたから感染したのか、着衣にもっと留意すべきだったのか、抵抗力が弱ってたのか、等々考えられる理由はいくつもある。 確実に言える事があるなら、それらを含む無数の要素が複雑に絡み合い、ある時点に風邪と言う症状として顕在化したと言うことだけ。

風邪一つ取ってもこれだけ複雑なのだから、病気だけでなく、不景気や環境問題など、原因を一つに特定できる筈がない。

しかし世の中には、原因を一つに特定したがる人が多い。 と言うより、何か一つに原因を集約せねば事態を把握できない、と言う方が近いのか。 だとしたら世界観の問題で、視野の広さはほぼ脳機能に依存しているのだろう。


関ヶ原の戦いは、「豊臣VS徳川」とか言えば構図が理解しやすいのだろうけど、実際には東軍の主力のほとんどは豊臣家恩顧の大名で、「秀吉子飼いの有力者らの内紛に、徳川家が乗じた」とか言うのが実態に近い。 また戦闘に参加した大名家の中でも、各種の思惑から親子で敵味方に分かれている者らがいたり、つまりそんなに単純ではない。

太平洋戦争は日本が悪かったから起こったのか。 あるいはアメリカの方が悪かったのか。 そんなマンガのように善悪で色分けできるわけ無いよね。

幕末・維新史あたりの話でも、勤王派VS佐幕派とか言えば分かりやすくなるのだろうけど、あの当時の日本の、ある程度以上の教養人で勤王でなかった人などいたろうか。 現実は常に、子供向けの小説のように対立軸が明快であるとは限らない。


「事実は小説より奇なり」などと言うが、小説ってのはfacts(事実群)を単純化・デフォルメし、話の構成に都合よくピックアップしたもの、だと思っているので、当然事実の方が難解であろう。

「YESなの?NOなの?」とか「AかBかハッキリして!」みたいなことを言う人に、「ある条件下に限定すればAとも言えなくもないが、Bの成分も多分に含まれる」とか言っても、話をはぐらかしているようにしか聞こえないのだろうね。


6/10(水)

DPCMについて。 これもチップチューン関連のメモ。

初代ファミコン内蔵音源には、矩形波×2・三角波・ノイズの4chの他にDPCMって言うオーディオファイルを再生する為のchがある。 オーディオファイルの再生なんだから、早い話がサンプラーなわけだけど、良く言えば味のある、身も蓋もなく言ってしまえばローファイでノイズだらけの音。

以前、鈴木サヤカのレパートリーとしてファミコン音源(エミュレーター)を使ったものをいくつか書いたんだけど、DPCMは一切使ってない。 ファミコンのようなレトロゲーム機の音の再現を主目的としていたので、DPCMは意識的に避けた。 DPCMって要はPCMなわけだから、ある意味どんな音でも使えてしまうから。

今、ちょっと当時とは考えが変わったと言うか、別のアプローチを考えていて、DPCMを使ってみようかと考えている。 それにしたってちょっとしたワンショットの効果音とか、その程度のものだけど。 そもそもDPCMはあんまりロングサイズのオーディオを想定してなかろうし、そういうものの方がそれらしいかと思って。 今から実際の使用例をチェックしてみようと思ってます。


6/9(火)

ゲームボーイ音源の3ch、PCエンジンやファミコン用拡張音源N106で使われていた波形メモリー音源ってのがある。 それまでの古典的なPSG系音源は、矩形波とか三角波とかの大雑把なプリセットに、デューティーサイクル変えたりエフェクト掛けて音色を作る感じだったのだが、波形メモリーってのは、原波形から設定できる。 上記以外のサイン波・鋸歯状波などと言う一般的なものは勿論、様々な波形を自分でデザインできるので、少なくとも音色面での自由度は上がる。

ただ、矩形波(パルス波)や三角波はそもそもファミコン内蔵音源にプリセットされてるし、鋸歯状波もVRC6に入ってる。 波形メモリの特色を出そうと思うなら、それら以外のものを使いたいところだが、面白いものはないものか。 私は本当に音に関するアイディアが乏しいもので、こういう時に困る。


6/8(月)

広瀬沙希、最新作「螢火」(全2曲)の発売が7/8(水)に決定しました。

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6/5(金)

VRC7(ファミコン拡張音源)についてまた色々調べてた。 ユーザー定義音色を(MMLベースで)作るのが大変に違いないと思ってたんだが、一応その大変さを緩和するためのツールが存在するようで、なんとかなりそう。 あとプリセット音色も使えないこともなさそう。 6chもあるし、内臓音源と合わせたらかなりの表現が可能なはず。

必然のようにも思えるが、レトロゲームの音について調べるついでに、レトロゲームの歴史そのものについても調べを入れる破目になってしまっている。 研究って、すぐ対象が広範化してしまうな。


6/4(木)

神田優花、2曲の歌録り。 今ラフミックス聴いてるんだけど、良くできてる。 年内の発表間に合うかなあ。

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またチップチューンについて。 初代ファミコンの音源部の仕様はかなり詳細な部分まで情報が出ていて、知ることも容易なんだけど、ここ数日、拡張音源について調べていた。 因みに、ファミコン内蔵音源は初期型と後期型でノイズの仕様などが異なるらしい。

その前に拡張音源とは何ぞやと言う話だが、当時のソフトウェア開発者らがファミコン内臓音源の表現能力に飽き足らず、カートリッジ内に音源を増設したものである。 ナムコのN106、任天堂のMMC5、サン電子のSUNSOFT 5Bなど各種存在するが、ここ数日調べを入れていたのはコナミのVRC(6と7があるが特に7)。

当時ファミコンは物凄い普及機だっただけに、ソフトもヒットすれば百万部単位とかで出ることになる。 各メーカー差別化に必死であったようだ。 私はファミコンについてはリアルタイムで触っていた年代なんだが、拡張音源の存在とか全く知らなかったし、最大発音数がどうだとか気にしたことすらなかった。

因みに、拡張音源が上記のようなものである以上、例えばN106とVRC7が同時に使用されるなんてケースは(少なくとも実機では)存在しなかった。 エミュレーターなんかを使えばできるわけだが、レトロゲーム音楽を再現に主眼を置くので、そういうこと(拡張音源の複数同時使用)にはあまり食指が動かない。

VRC7は早い話がFM音源なんだが、知る限りファミコン周りの音源類の中では一番高度な表現が可能である。 後世携帯電話などに実装された音源チップとほぼ同等のもので、波形からオリジナルなものを作れる。 とは言え、私は普段からFMでの音作りなんてしないもので(ほとんどプリセットを使う)、VRC7についても、あんましそれで積極的に音を作ろうとは思っていない。 FMの特徴的なサウンド、は表現したいけど。

暫くチップチューン(と言うかレトロゲーム音源)について考えているが、まだそれを活かした曲想にたどりついていない。


6/2(火)

スタジオにて。

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またチップチューンについてのメモ。 いわゆる任天堂の初代ファミコンってのの人気が他機種のそれを凌駕すること甚だしいようで、サウンドフォーマットについての情報量もnsfとそれ以外では雲泥の差がある。 他機種用のサウンドファイル作成の際のノウハウも、事実上、大部分をnsfのそれから類推するしかない状態だ。


ファミコンの周辺機器の一つにディスクシステムってのがある。 なんかフロッピーディスクのドライブみたいなの。 それを増設すると、使用できる音が若干変わる(拡張される)みたいで、モノフォニックながら一応キャリアとモジュレーターのある2オペレーターのFMシンセサウンドが出せるようになる。

実際にそのFMサウンドとやらを出して(作って)みた。 なんかFMって言うよりLFOって言った方がしっくりくる。と言うか、まさにLFOそのものなんだけど(LFOはFMの一種だ)。


PCエンジンの音源部は6chで、そのうち2つを使ってFM的な音声合成ができるとある。 しかしそのFM音を使ったサウンドファイル(hes)の作り方が分からない。MMLでの記述法が確立されていないのかな。少なくとも私には探せなかった。 いまだにそのFM合成のし方が分からない。半分諦めかけてるけど。 とにもかくにも、MMLは標準規格なんで、応用が利く半面機種固有の機能を制御する能力は低い。

コンパイラ付属のドキュメントとかネット上にある情報に目を通しても、それに関わる記述は僅かに散見されるものの、核心の部分はよく分からない。 仕方ないから、ネット上にある誰かが作ったMML(hes化前提の)を落としてきては一々開いてみたのだが、そもそもそのFM機能とやらを使っているものが見当たらないような気がする。 どうしてなんだろう。PCエンジン音源の特性だと思われる部分なので、それ用のサウンドファイル作るなら是非とも使ってみたくなる機能ではないのかね。 それにしては情報が少な過ぎる。


6/1(月)

ここ暫く、ラテン・アメリカの音楽について本やネットで調べていた。 あんまし大した収穫は無い。 読んだ本は内容が薄くて(私の関心事と遠くて)面白くなかった。

一般に南米の音楽として知られているものは、ほぼ全てヨーロッパ人入植後のものだ。 だから早い話が西洋音楽の一地方種。 クラシックのような宮廷・教会音楽ではなく、どちらかと言うと民謡がベースになっている。 スペインのフラメンコとかポルトガルのファド、と言ったもの。 まあ自然な流れに思える。

ヨーロッパ人入植以前の(先住民による)音楽はどのようなものであったか。 ハッキリ言って分からない。 スペイン側の記録に若干の記述が残っているが、何やら笛のようなものが数種あったとかその程度。弦楽器は無かったらしい。 楽器はモノだから遺物としても残っていたりする。しかしどのみち詳細な楽理は分からない。

白人(キリスト教徒)は徹底的に先住民文化を破壊した。 勿体無いような気がしないでもないが、そんなに大したものがかつて存在したとも正直思えない(あって欲しいとは思うけど)。 インドネシアのガムランとかも、こんにちのあの仰々しい編成、(多分に商業主義の産物として)ここ半世紀ぐらいにできたものらしい。 無論原型のようなものは存在したのだろうが、こんにちの様式はあくまで観光用途で固まったものっぽい。 南米の先住民の音楽も、雅楽が入る前の日本の音楽とかに近いんじゃなかろうか(それはそれで判然としてないが)。 期待すると損するような。


5/31(日)

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影山リサ。 5/6(水)からの四週連続リリース、いかがでしたか。 影山リサは、今月17日からまた三週連続で音源リリースします。 その第一弾「Confessions」のジャケット。




5/30(土)

またチップチューンについての独り言。

世にいるチップチューンやってるミュージシャンらは、レトロゲームのBGMを再現したいってタイプと、あの手の音色を使ってるだけで特にそういう意図は無い(あるいは薄い)ってタイプに分かれるみたい(私はどちらかと言えば前者)。 だから聴いていると「これのどこがファミコンなんだ?」って感じのも多い。


ゲームボーイの音源部は、ファミコンとほぼ同じと言って差し支えないものだが、3ch目が波形メモリ音源になっている(ファミコンでは三角波固定)。 波形メモリ音源ってのは、大雑把なものではあるが基本波形を自分で設定できる。 と言っても1〜2chが矩形波なんで、やはり三角波にするか、ファミコンとカブりたくないならノコギリ波にするとかになるかなあ。 あんまり凝った波形にはしたくない(そもそもそんなに複雑なものは作れない)。


PCエンジンって機種に搭載されてた音源は、波形メモリ6音、うち2音をノイズにできる(その場合、出せる楽音は4)。 PSG音源にもノイズチャンネルはあるが、選択可能であるところがミソだろうか。 ノイズは大体リズム用途で使うものだが、ノイズを殺せば6音まで使える。 PSGの倍の発音数になるわけで、かなり印象の違った音楽が作れたはずだ。

因みに1〜2chを使ってFMのような音が出せたそうな。 まあFMって言っても、片方のchをLFO(ビブラートみたいな効果)として使うだけのいわば2オペレーター。 後世のFMシンセサイザーのような自由な音作りができたわけではない。


セガのメガドライブやゲームギアなんて機種に搭載されている音源は、FM6音にPSG様の音源(DCSGとか言うらしい)が付加されたもの。 上記のハードウェアなんて、私は所有はおろかハッキリ見た覚えもないが、ファミコンなんかに比べると随分豪華になっている。

こっちのFMは割りと本格的で、確か4オペレーター。 但し、複雑になっている(パラメーターが増えた)分、プログラムとかもかなり大変になっていると思われる。 MML(テキスト)ベースとかで入力するのは多分ちょっとしんどいな。

DCSG音源は、3ch目と4chのノイズの関係がややこしい仕様で、それをここで詳述する気はないけど、メガドライブはFMと合わせて9音くらいの最大同時発音数になる。 繰り返すけどこれは(ファミコンあたりに比べ)かなり豪華で、実際にvgm(サウンドファイル)を再生して聴いてみたけど、明らかにファミコンあたりの音とは違う。


各種レトロゲーム音源について考えてみたけど、それらを総合してどういう形で作品に活かそうか、まだ検討中である。 面白いものになれば良いけど。


5/29(金)

広瀬沙希、新タイトルのリリース、7月目処で事務作業進めてます。

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ラテン・アメリカの諸々の音楽、概念・定義が分かりにくい。 サンバ・ソン・サルサ・ルンバ・マンボ・チャチャ、この辺りの用語を正確に定義できている人ってどれだけいるのだろう。


例えばルンバ、これは音楽名であると同時にリズム名でありダンス名でもあると言う。 リズムのとある定型だったりするものだから「サンバにルンバが使われること」が実際にあるそうな。 またダンスのルンバは本来の(音楽としての)ルンバとは何の関係も無いと言う。ジャズダンスがジャズと関係無いのと同じだろうか。

そもそもルンバなる名称は、キューバの音楽「Son(ソン)」が英語のSongと紛らわしい為に(多分に商業主義の産物として)できた言葉だと言うのが通説だとか。 であるならソンとルンバは実体としては同じものである筈だが、どうもそうでも無いらしい。 そもそも土地(キューバ)で言うルンバと国際的イメージのルンバが別物と言う。 また、土地で一般に言うルンバとそもそもの(ルーツとしての)ルンバがまた違うらしい。 まことにややこしい。

因みに、ルンバの名を冠した世界一有名な曲「コーヒールンバ」、あれは正確にはルンバではないらしい。 なんじゃそりゃ。 「サンバ・デジャネイロ」も典型的リズム型であるクラーベが採用されていない以上、厳密にはサンバでないのではないか。 まあサンバの定義が分からないから何とも言えないが。 テレコ・テコ(典型リズム)を使わないボサノバだってあるみたいだし。


サンバはサンバでブラジルのそれとアルゼンチンのそれでは全く内容が異なるらしい。 私は調べていて、この辺りから理解することを諦めた。

要するに、定義が複雑・難解なのでなく、定義が曖昧なのだろう。 こういうことって実によくある。 日本人の言うブルースやラプソディが、本来のそれと全然別の意味だったりするのに近いような気がする。 定義付けを曖昧にしたまま定着した言葉って、しばしばこういう現象を起こす。

サンバとかルンバって、土地では単に「音楽」ってだけの意味の言葉であったりするのではないか。 雅楽と言う呼称は明治以後に生まれたのだが、それまではあれを単に音楽と呼んだ。 日本のような他文化圏と隔絶された社会においては、他の音楽様式と比較する必要がほとんど無かったからだろう。 必要になる程度の立地条件なら、当然「日本音楽」を指す固有の呼称が発生したろう。

フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネに厳格な楽理的決め事は無かろう。日本の演歌だって基本的にはそう。 但し、それらの言葉が全くもって音楽様式的に無色なものではないし、聴けばそれと分かる固有の雰囲気のようなものはある。 南米の各音楽ジャンル名もこれと同じでは?


5/28(木)

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スタジオにて。



今作ってる曲にカヴァキーニョ(カヴァコ)って言う南米の楽器の音を使おうと思ったんだけど、マイナー(特に日本なんかでは)な楽器なもんで、有料無料問わずおそらく良い音源が無いと思われる(真剣に探してないけど)。 実器なんて無論持たない。

珍しい楽器とは言っても、発音原理などが特殊であるわけではない。 実物こそ見たことは無いが要はギター(の亜種)で、4本のスチール弦を張るタイプらしい。 ヨーロッパから移入されたギターが土地で改良されたもので、ウクレレなどと誕生の経緯は似たものであると言う。 調弦法を見ても、ギターがベースになっているのはすぐ分かる。

因みにそのチューニング、低音弦からDGBDあるいはDGBEであるそうな。 後者はギターの下4弦と全く同じである(動画なんかを見る限り、ピッチは1オクターブ違い(カヴァキーニョが高い)であるようだが)。 奏法なんかもギターのそれがほぼそのまま流用できるだろう。

共鳴部の大きさが違うので倍音のニュアンスなどは若干変わろうが、原理的にはスチール弦のギターと同じなので、ギターのサンプルで再現しようと思ったのだが、そう簡単に行かない。 音域が1オクターブ違うって言ったけど、その辺りの音域、一般的なアコースティック・ギターのサンプルには収録されていない。 確かにアコギの類って、エレキ・ギターに比べるとハイ・ポジションでの演奏が構造的に想定されていない。 1弦12フレットあたりの音が最高音になってるものがいくつかあったけど、まあ妥当と言うか、実際の演奏ではその辺を使うことすら稀だろう。

まあ色々と当たって結局は何とかなったんだけど、広い音域をカバーしてる音源って、サンプリングの精度が粗いものも多い。 今回は音質面では多少妥協した感が濃厚だ。


5/27(水)

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影山リサ。 「Hypnotism」、本日発売です。 これが四週連続リリースのとりあえず最後のタイトルになります。 影山リサは6月にまた三週連続リリースを控えてますので、そちらもよろしく。 上は先日のスタジオにて。下は本人からのコメント。


Hypnotism

今回はおとぎ話の様な毒々しくて可愛い、長唄風の曲です。
普通のポップスじゃ、まず無いような変わった曲なので、とりあえず聴いてみて下さい。

影山リサ





5/26(火)

影山リサ、新作「Hypnotism」、について。


1.Hypnotism

長唄について色々調べたり考えたりしていた時期があるんだけど、その総括として書いた。 卒業論文のような作品。

置唄からチラシの段切まで、一応の基本フォーマットは踏んでいる。 途中いわゆる転調(西洋音楽のそれではない)を二度挟んだりしていて、その辺も長唄を踏んでいる。

ところどころに、歌とバッキングのリズムが明らかにズレている部分があるんだけど、そこもある意味長唄の影響で、意図的なものです。 拍節感については、長唄そのものでもない、現代POPSとの折衷品って感じ。

編成は、バッキングに三味線二挺、それにボーカルが乗ってる。 三味線の、重音とかコスリとかの特殊奏法が一部入ってはいるけど、全体的にオケはシンプル。 音に関しては、Mix段階でのヴォーカルの処理とか、そういう部分にはウチの商品としての統一性を持たせてはいる。

以前発表した「Barracuda」なんかは、(歌舞伎の)下座音楽をベースにしてるんだけど、大雑把にはあれのシリーズ物みたいな感じ。 ただ、あっちの方は意識的にラプソディ形式に仕上げているんだけど、こっちは、一見ラプソディかのようではあっても、この展開は長唄本来のもの。





5/25(月)

サンバについて調べていた。 あのサンバ・カーニバルとかのサンバ。

あれは基本的にダンスであるみたい。音楽的な面での資料がほとんど見当たらない。 見つけた僅かばかりの資料も、内容たるやほとんどが使用される楽器とかその程度のもの。楽理と言ったような内容は含まれていない。

因みに、編成的にはほとんど打楽器ばかりで、定型的なリズム型なんかはあるものの、音楽的な要素は薄い。 若干旋律楽器も使われるようだが、ギターとかその亜種のようなものが多く、独自の楽器や音楽理論体系を持っているわけではない。 基本は西洋音楽。その地方種と考えて良さそう。

そもそも南アメリカでは、白人入植以前の土着の音楽はほぼ絶えてしまっていると思われる。 南米音楽に関する本を読んでいても、出てくる内容は、白人入植以後の音楽ばかり。 それ以前の音楽については、ホンの僅かに触れている文章なども目にしたが、やはりほぼ散逸してしまっている模様。 そもそも期待するほどのものが存在したかも分からないがね。


5/24(日)

昔の刊行物に載っていた作曲家名(人名)の表記を見ていたら、今とは随分違う。 例えばモーツァルトがモヅアルトであったり。 まず今とは、使える仮名の種類が違うってのは大きい。 ヰとかヱとか、今は基本使わないものね。

因みにパガニーニはバカニニ、ワーグナーはワグネルである。 「これ多分ドボルザークのことなんだろうな」とか、大抵は誰のことなのか推察できるのだが、中には本当に誰のことか分からないものまであった(そもそも私の知らない作曲家であるかもしれないんだが、そうなのかすら判らない)。 そもそも音韻体系が違うんだから、これはしゃあない。

幸田露伴が書いた史伝は、一人称(つまり露伴本人のこと)が「余」である。 読んでいて多少の違和感なくもないが、文化、その端的な一つである言語は当然時代によって変化する。 我々が今使ってる言葉だって、後世人の失笑を買っているかもしれない。


5/23(土)

またチップチューン雑感。 チップチューンって、好きな人が一定数いるらしい。 私はあの手の音に対する人々の関心の大部分はノスタルジーだと思っているので、長い目で見ると消えて行くジャンルのような気もするけど、どうなんだろう。

今、有名なゲーム機の音周りの仕様を色々調べている。 「制約の中で作る」と言う、当時のゲーム音楽のコンポーザーの気分を知りたくて。 因みに有名ゲーム機って言っても、全ていわゆるレトロゲーム機である。 昨今のハイスペックなモデルなんて、普通の商用音源と変わらないので。


例えば初代ファミコンなどのPSG系音源は、最大発音数がノイズ含め4音(DPCMっつうサンプルの再生も含めると5音)。 これは大体のPSG系音源共通である。 ポータブル機であるゲームボーイもファミコンとほぼ同じ4音。

最大発音数4音(楽音は3)では、確かに高度な音楽表現には向かない。 しかしこの制約こそが魅力であるなら、コモドール64と言う機種は最大発音数3だったのだが、それ用のサウンドデータ(SID形式)を聴いたり作ったりしている日本人は多分少ない。 機種そのものが日本で普及していなかったからだろう。

例えばアメリカではそのSID形式、大変な関心でもって扱われている。 普及機だったからである。つまりノスタルジー。 日本人が任天堂のファミコンの音を好むのと同じ気分なのだろう。


ゲームボーイはステレオ仕様らしい。 が、本体にスピーカーが一つしか無いので、PAN情報は基本無視される。 イヤホン使用時のみに生きる機能になるわけだが、ポータブル機だからそれなりに効果が活かされる機会も多かったろうか。

セガのメガドライブだとかの機種は、4オペレーターのFM6チャンネルとPSG系音源のハイブリッドである。 一世代前の機種に比べると格段に表現能力が上がっているが、その分チップチューンの滋味である「制約感」が随分薄れている。 あえてチップチューンを作りたい、あるいは聴きたい人にとっては、多少魅力の薄いものではないか。

任天堂のスーパーファミコンあたりからはPCMが採用されている。 要はサンプリングなんだが、もう独自の音声合成などは行われていない。 メモリーの節約から生まれた仕様(制約)があれこれとあって、そこが強いて言うならその音源の特性に聞こえなくも無い。 でもこの辺りがチップチューンと呼べるものの限界(歴史的末端)であろうか。


しかしそれにしても、本当にチップチューンとは即ち音だ(音楽でなく)。 音以外の楽理とか様式ってのが重視されていない(存在はする)。 メモリーの制約から生まれたループだとか、ゲームの進行に合わせた楽曲展開・効果音の併用、あたりが強いて言うなら様式に近いか。

例えば箏曲について調べを入れていると、楽理だとか定型だとかを知ることになるので、ある程度理解が深まった時点で(次に書く)曲のイメージが形成されるんだが、ことチップチューンとかになると、調べる点が、音源チップの構造がどうだとか同時発音数いくらだとか、プログラムの記述がどうだとか、要するに音楽的でないので、ある程度自分なりに理解が固まってもその時点で の曲想が空っぽだったりする。 音ってやっぱり曲ではないんだよね。


5/22(金)

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自己と言う難問。

「自分」はモノではない。 物質でないから、言語力が無ければ当然掴めない。 愛や何やと同じく、自己は概念である。

「物質(モノ)しか分からない、概念が理解できない」と言う人は、実は自分自身すら分からない。 人は大抵、自分を投影しつつ他人を推し量るから、多くの人にこのことは理解し難いだろう。 ほとんど誰しもに当たり前にある「自己感」が持てない人間がいるだなんて。

人は、人によって映している現実が違う。 あたかも自分と同じような形をした人間でも、中身には全く違う宇宙が広がっている。 言語機能が各人固有であるから。

鉛筆とか消しゴム、と言ったものの場合、そこに当然のようにコンセンサスが成立する。 「私も彼も同じものを同じく鉛筆だと捉えているではないか」と。 しかしそれは、対象がモノ(物質)だからである。 形而上的概念にコンセンサスは容易に成立しがたい。 あなたの言う悲しみと彼の言う悲しみが、果たして同じかどうか。 同じであるならそれは奇跡。

愛が分からない人間が事実存在する。 見たことあるでしょう。私はある。 愛が分からないのだから、その人が「自分」と言う難問を理解している筈が無い。


5/21(木)

神田優花、新曲のレコーディング。 新曲一つと別の曲のコーラス録ってました。

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モーツァルトは天才だと言われているし、私もまあそう思うけど、「実体をどの程度理解された上でそう言われているのか」は甚だ疑問だ。

私は世の中でたまに目にする「盗作騒動」なんかについてもよく思うのだが、世にある一般創作物の、どの辺までが様式の踏襲でどの辺からが作者の創造(独創)であるのか、大雑把にでも理解した上で騒いでいる人なんて絶無に近い気がする。 これは、その手の騒動の当事者にすらも感じることがある。

例えばモーツァルトの曲、譜面を眺めているだけでも、(音型・アーティキュレーション等の)書法にハイドンの影響が見て取れる。 あるいはハイドンの方がモーツァルトに影響された面もあろうか。 同時代の同業者同士なのだから、至極当然にありうべきことかと思える。

ベートーベンはモーツァルトに直接教えを乞うたことさえあるのだが、モーツァルトの曲を再編曲したりもしている。 そもそもクラシック音楽ってのが、重体系の上に成立しているので、前時代人を含む同業者の影響は(濃厚に)あるに決まっている。 こういうことって、程度の差こそあれ、POPSをはじめとする他の音楽ジャンルだって大筋において変わらない。

これは文章(テキスト)や絵画においてだって同じ。 共有されるからこそ言語はプロトコルたりえるわけで、誰もが銘々に好き勝手な言葉なんて使ってたら言語なんて成立しない。 絵にも厳然と様式ってのが存在するからこそ、絵画教室や美術大学なんてものが成立するのだ。

人は口語・文章に関わらず、正統文法のみを使うわけではない。 修辞とかそういう、言語の持つ微妙な体温みたいなものごと共有できるからこそ意思の交感ができる。 誰かの作品に触れて「独創的だ。天才だ」などと持て囃したり、あるいは「盗作だ」などと騒ぐ前に、そもそも創作や才能と言うものの本質を知るべきだと思う。

私はモーツァルトの「凄さ」は当然知りたいけど、「凄くなさ」だって同じくらいに知りたいよ。


5/20(水)

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影山リサ。 「Hush, hush」、本日発売です。 本作は四週連続リリースの第三弾に当たります。下は本人からのコメント。 影山さん、今週も新曲録ってました。


Hush,hush/Girls Have No Time

Hush,hushは傷だらけの恋愛を歌った曲です。高音が多いんですがシャウトを入れ過ぎないように気を付けました。
怒りと悲しみが入り混じる歌詞とスリリングな曲がカッコイイです。
是非聴いてください。

影山リサ





5/19(火)

明日発売の影山リサの新作「Hush, hush」(全2曲)、収録曲について。


1.Hush, hush

作った当初、シングルにするかと全然考えてなくて、録り終わった随分後にシングル化が決まった曲。 これも前作「Tonight」と同じく、80年代とかのちょっと古めかしいPOPSを作ろうと思った。 そのイメージを補強する材料として、FMシンセとか、ロートタムとかを使ってる。

今聴いてみたけど、影山リサにはちょっとKeyが高めだったかな。 どうしてこういうことにしたんだろう。 ギターとかを多用している曲だと、開放弦の入れ方によっては移調が難しいとか、そういうことってしばしばあるんだけど、この曲についてはどうしたものか。思い出せないな。


2.Girls Have No Time

キャッチボールしてる感覚で作った曲。ハッキリ覚えてないけど、かなり昔に作ったと思う。 大体私は常時、こんな感じのモチーフを数曲抱えつつ生きている。

レコーディングするに当たって新たに加えたアイディアとして、間奏部分の歌い手とギターの掛け合い(会話?)みたいなのがある。 どういうものかは聴いてもらえれば分かります。





5/18(月)

チップチューンに関して、色々考えていたのでそのメモ。

例えば箏曲について調べを入れていると、楽理だとか定型だとかを知ることになるので、ある程度理解が深まった時点で(次に書く)曲のイメージが形成される。

ことチップチューンとかになると、調べる点が、音源チップの構造がどうだとか同時発音数いくらだとか、プログラムの記述がどうだとか、要するに音楽的でないので、ある程度自分なりに理解が固まってもその時点で の曲想が空っぽに近かったりする。 音ってやっぱり曲ではないんだよね。

チップチューンについてあれこれ考えていたんだけど、今のところの結論として、私はああいった音楽(と言うより音色)がそんなに好きでもないようだ。 あれに対する関心は、単なるノスタルジーが動機となっている面がほとんどな気がする。


鈴木サヤカの一部のレパートリーのバッキングに、任天堂の初代ファミコンっぽい音を使ったものがある。 あれは一応nsf(ファミコン用のサウンドファイル)作った上で、エミュレーターみたいなの介してオーディオ化したもの。 PSG音源とかって、別に大して特殊な音が出るわけではない(ファミコンの音源って厳密には狭義のPSGではないらしいが)。単なる矩形波とかノイズとかに過ぎないので、音そのものだけであれば、それらしきものを出すVSTとかを見つけてくるのも割りと容易なんだが、どうも納得行く音が当時できなくて、結局上記の方法に至った。 音そのものより、その(制約を含んだ)挙動と言うか、書法に因る面が大きいと気付いて。 nsf作るに当たって、当時mml(プログラム言語)を一から勉強した。

私が初代ファミコンの音を使いたいと思った理由は簡単で、幼少期にそれで遊んでいた記憶が濃厚だったからである。 私はいわゆるゲーム好きではない。 小学生の頃、そのファミコンを親に買ってもらったのを最後に(当時周りの子供たちも本当にみんな持っていた)、ゲーム機を一度も買っていない。 今も、普段ゲーム機なんて全く触らない。

他のゲームの音、例えば次世代機であるスーパーファミコンの音に食指が動くかと言うと、ほぼ全くと言って良いほど動かない。 因みに、スーパーファミコンの音は要はPCMなので、初代ファミコンのような機種固有の音があるわけではない。

同じく任天堂のゲームボーイ(ギリギリ私の世代はリアルタイム)って機種の音、まあ何となく惹かれないこともないが、それは初代ファミコンの音とかなり似通っているからに違いない。 つまりノスタルジー抜きで、あの種の音が琴線に触れるって感覚はほぼ無い。

そういえば色々調べているうちに、ゲームボーイ用のサウンドファイルを生成するためのツールを見つけたのだが、中々使い勝手が良さそう。 mmlベースなんだが、8トラック構成になっている。 ゲームボーイの音源は、ファミコンとほぼ同じで4chなんだが、1chにつき2トラックを用意され、片方が優先的に発音する仕組みになっている。 ゲームって、BGMと効果音を一つのサウンドチップで処理しないといけないから、この仕様は便利。

以前MusicDeli(ファミリーマートとかに置いてある端末でのダウンロード販売)でリリースした「氷の刃」って曲があって、それはレトロゲーム風の効果音満載なんだが、mml打つのが実に大変だった記憶がある。 ああいうのって、音源の制約上、効果音を入れようと思うなら都度BGMを中断させる(それでいてタイムラインは一定に保つ)必要がある。 またmmlって、時間軸の扱いがトラッカーとか普通のシーケンサーのようでなくて、入力にはそれなりのコツが要る(この説明だけで、分かる人には分かるはずなんだけど)。 上記のツールは、この手間が随分と省けそうだ。


しかし私はどうもトラッカーってヤツが苦手だ。 トラッカーってのは、要はオルゴールみたいな仕組みのシーケンサーなんだけど、縦スクロールってのが感覚的に肌に合わない。 いくつか試しに導入してみたんだけど、どうも常用するに至らない。 五線譜も各種シーケンサーも、mmlですら横スクロールなんだもの。使いにくいよ。

あと、あの手のレトロゲーム用のサウンドファイルって、「BPM」との相性があんまし良くないっぽい。 mmlとかトラッカーで普通にBPMベースでテンポ指定できるものは存在してるんだけど、少々無理させてるみたい。 私はこの辺詳しくないんだけど。


5/17(日)

私の作るメロディーを、私と同じ美的感覚で受容できる人なんて、この世界にいるのだろうか。 常識的に考えて、いるわけがない。 ある旋律を脳(思考)で処理する際、そこで展開される感傷のベースには、その人の(例えば記憶などと言った)固有の情報とのリンクがあるに違いない筈で、別の人生・歴史を持つ他人が同じ感傷を共有できる筈は無い。

ただし、私に近い記憶や言語感覚を持つ者なら、私と似た感傷を引き出すことぐらいはできなくもない筈だ。 記憶も結局は言語なので、核は言語になる。 もしあなたが、私の作る音楽に何らかの美を感じることがあるなら、そこにはきっと私がいる。 ある部分において、私と同じ処理が行われている可能性が高い。

私の作る音楽を楽しんでいるアメリカ人とかがいたとしても、結局それは、作品のごく表層部分を味わっているに過ぎないのだろうと思われる。 残念なことだが、演算に使う最もベーシックなレイヤーである「言語」が違うのだから、これは仕方ない。

では、作品などいくら作ろうと他人には何一つ伝わらないのか、と言うと、そんなことはない。 私が作ったその曲を、他ならぬこの私が美しいと感じていること、これだけは殆どの人に伝わる筈だ。 と言うか、究極的にはそこだけしか伝わらないのかもしれない。

ピカソの(あの高額な)絵を扱っていた画商が、ピカソの死後に彼を評した言葉が印象的だった。 曰く「ピカソその人こそが最高傑作」だそうな。 結局、ピカソの描くあの難解な絵画の美が理解できたと言うより、それを美しいと感じたピカソの心を感じただけなのだろう。

もしこの先、この宇宙のどこかに、私の作品を私と同じ気持ちで味わえる誰かがいたら、それはもう私だろう。 この宇宙のどこかに私と同じ言語機能が存在するなら、それは私であるに違いないではないか。 私は、音楽を作ると言いつつ、自分を探している。


5/16(土)

ある時期「モチベーション」と言う言葉をよく聞いた。 一種の流行語のようなものだろうと思うが、サッカー絡みの話でよく聞いた気がする。 今でも一応使われてはいるのだろうけど。 海外のサッカー・シーンでよく使われていたりしたのだろうか。

motivationを直訳するなら動機。 「モチベーションをもってプレイしろ」などと言うのは、「動機を明確化しろ」と言う意味になる。 例えば絶対に勝たねばならない試合においては、「相手チームより一点でも多く得点する事」を至上命令とする。 引き分けでも良い試合なら、「最低でも引き分けに持ち込む」とか。試合の勝敗より、個人記録の方が大事な状況とかだって当然ありえるだろう。 各ポジションのプレイヤーなら、その職責がどこにあるのかを明確に認識しろってこと。


随分前のことだけど、ワールドカップ・サッカーの予選か何かで「ドーハの悲劇」ってありましたですね。 試合終了直前で相手チームにゴールを決められ、決勝進出だかがフイになったのだったか(細かい事情について私は詳しくない)。

絶望に繋がる一点を入れられてしまった場合、例えばそれが国際試合などで「絶対に負けられない試合」だったら、果たして当事者は、その後どう振舞えば良いのか。 簡単である。 その一点を取り返せば良い。 残り一分しか時間が残されていなかったとしても、その一分間全力で点を取りに行くしかない。

「そんな僅かな残り時間で点など取れるはず無いよ」と言う意見はあろう。 と言うか、そう考えるから当時、サッカー日本代表の選手はピッチにうずくまった。 でも本当にそうかしら。 現に相手チームは試合終了間際にゴールを決めたではないか。 相手が残り一分で点を入れたなら、こっちは残り30秒で入れたら良い。 仮にそれが困難であったとしても、ピッチでうずくまるよりは前に進める可能性が高い。 こんなの初等算術のように単純明快なことだ。

そして、これこそがまさに「モチベーション(目的意識)を持って行動すること」に他ならない。 これは一種の時間感覚とも言えるが、どうも日本人の多くは、これを持つのが苦手らしい。


多くの日本人は、モチベーションのことを「元気」とか「やる気」とか言う意味に捉えてないか? 「モチベーションを持ってプレイしろ」なら、「元気一杯でプレイしろってことだな」なんて思ってそうだ。 違うぞ。


5/15(金)

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箏曲に替手って言う、変奏のようなオブリガートのようなパートがつくことがある。 因みに、メインのパートの方を本手と呼ぶ。 三味線で言うところ、地と上調子みたいな関係。

本読んでたら、「替手は、本手とは別の調弦を施す場合が頻繁にある」と言う。 最初私は驚いた。 二重のトーナリティーが同時進行するような(いわばポリ・モードのような)音楽が日本にあったわけ?なんて。 冷静に考えたらそんなわけない。

箏の調弦、いわゆる雲井調子とかって絶対的な音高を指してなくて、本手と替手が別々の調弦を使ってると言うが、音高を変えて調自体は基本揃えてある。 CアイオニアンとAエオリアンとか言うようなもん。

ただ、若干の例外もあって、例えば平調子の本手と雲井調子の替手の合奏の場合、替手の方を4度下とかで調弦することになるわけだけど、替手の方の最高弦のEがスケールアウトすることになる。 そのスケールアウト音、別に必ずしも押し手(ギターのチョーキングみたいな奏法)とかで回避すると言うわけでもなく、雅楽で言うところのスレみたいに、細かい部分は基本無視、ってことらしい。

ただ、この音のぶつかる感じこそが、箏曲(と言うか近世邦楽)特有の味である面もあるので、捨てがたいと言えば捨てがたい。


5/14(木)

メロディー(旋律線)の美醜について。

日本の(日本に限らないけど)前近代の音楽は、歌詞が乗ると途端に進行が遅くなる。 例えば端唄・小唄など、内容の理解が困難であるほどに遅い。

聴いたことが無いって人にどう説明すれば良いのやら。 POPSで言うところのバラードだとか、そういうのを想像しているのであれば全然甘い。 波形編集ツールのタイムストレッチを使って、その手の曲を倍のスピードで再生してみても、まだなお遅い。 到底商業音楽にはならないレベルである。

思ったんだが、あの手の音楽にメロディーの良し悪しってそもそも存在しているのだろうか。 「音楽、とりわけ流行歌だったのだから、当然良し悪しも存在するでしょう」と言う意見は、ベースとなる感覚ごと現代人のもの。

例えばある時代のジャズ、ハード・バップとかフリー・ジャズとかに頻出するスピーディーかつテクニカルなフレーズ、あれってほとんどスケール上の音を転がしているだけのようなもので、旋律線の美しさなど発信している側ですら感じていないだろう。 あれは奏者にとっての一種のスポーツである。 人間は、人間の高い運動能力に感動する性質を持っている。 だから球技や格闘技などがエンターテインメントとして成立する。 だから「楽器が上手い」ってだけのことがセールス・ポイントになってしまう。

端唄・小唄ももしかしたらあれと同じように、ほとんど「喉を震わせて発声する快感」のみを追求したものではないか。 近世末期の遊郭などで流行した端唄の類、流行したとは言うが、共有されたと言うだけで、音楽作品としての感動を呼んだわけではないのかもしれない。 と言うか、多分そう。 あれらは体操としてウケたのだろう。 差し詰め現代で言うなら、ある種のダンスの型のように。


そもそも音価と音高の組み合わせに、美醜が存在すること自体が不思議なことではある。 メロディーなんて確率的なもので、煎じ詰めればあれは数値である。 本来無意味な数値に、美醜を感じ取る人間の言語力こそが、音楽作品の美を美たらしめている。


5/13(水)

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影山リサ。 「Tonight」、本日発売です。 上は先日のスタジオにて。下は本人からのコメント。


Tonight/Don't Say You Love Me

Tonightはちょっと懐かしくて、古くさい感じのポップスです。ディスコとかクラブにいる女の子をイメージして歌いました。

Don't You Say Love Meでは切ない女心を歌っています。曲の核となるブリッジの盛り上がる感じがカッコイイです。

今回は影山リサらしい、80'sテイストの2曲です。  是非聴いて下さい。

影山リサ





5/12(火)

明日発売の影山リサの新作「Tonight」(全2曲)、収録曲について。


1.Tonight

割りと好きな曲。 ちょっと古臭い(80年代くらいのイメージの)POPSを作ろうと思って作った。

マスタートラックにそれっぽいサチュレーターみたいなのかましてる。だから軽くヒスノイズみたいなのが乗ってるけど、意図的なもの。 あと、Aメロ部分に微分音が出てくるんだけど、これも外してるわけじゃありませんからね。

80年代風のガールズポップってのが、影山リサのアーティストイメージの一つの核になってるんで、この曲なんかはその端的なものになります。


2.Don't Say You Love Me

エレドラとかサックスのグロウルなんかを入れて、80年代っぽいPOPSを作ってみたつもりです。 あんまし書くこと無いな。 今聴き返してみたけど、展開がちょっと変わってますね。 でも全然特別な意図は無い。

そう言えばこの曲のリリースを計画している段階で、歌い手本人が「この曲がカップリングなんて勿体無い」みたいなことを言っていた(因みに、これをカップリングにするって決めたのは私じゃない)。 アーティスト本人は、割りかしお気に入りの曲みたいです。





5/11(月)

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スタジオにて。



筝、筝曲についてまた考えていた。昨日の追記に近い。 日本の前近代音楽のスピード感について。

段物ってのは純粋器楽なのだが、有名な「六段の調べ」なんかを聴いていても、スピード感において現代音楽との決定的な違いは感じない。 が、箏曲(と言うより日本の前近代音楽)に歌が入ると全く話は違ってくる。

雅楽の催馬楽然り、端唄・小唄の類(箏組歌も大別するとこれらに含まれるのだろう)も、とにかく進行が遅い。 一々の音を聞き取って、アタマの中で文章化するのが困難であるほどに遅い。 器楽と声楽でこれほどの差がある理由は、偏に言語処理のタスクとしての重量にあろう。 当時の人らは、きっと会話のペースも現代人に比べるとかなりスローだった筈だ。

西洋音楽においても、古楽の時代、例えば聖歌などは実にメリスマティックで、歌詞世界の進行が遅い。 人類は、言語の処理速度を、ここ数百年くらいで急激に上げたらしい。


結局今作ろうと思っているのは、バッキングは箏曲なんかを踏襲しつつ、歌においては近世邦楽の、特に器楽曲のメロディーに詞を乗せたようなもの、とか。 当然(都節系の)スケールなんかは押さえつつ。 これが一番現実的な気がする。 純然たる箏組歌や地歌の類では、作ってるこっちですら聴きたいと思える作品にならない。


組歌は、そのほとんどが六歌構成である。段物も、有名な「六段の調べ」は当たり前だが六段構成である。 六韜とか六国史とか、六と言う数字には何かがあるのだろうけど、それと関係あるのかな。 因みに、段物は六段に限らない。五段も七段もある。

「六段」の各段を聞き比べてみたのだが、楽章とか言えるほどの展開は無い。せいぜい変奏と言った程度のものだが、その変奏に法則性が見出せない。と言うか、存在しないものと思われる。 ただ、随所に定型的な旋律型(西洋音楽で言うところの主題とか動機に相当するもの)は見られるから、やはり変奏には違いない。

しかし箏の奏者は、六段のような曲を演奏していて、「今どの段を弾いているのか」が分からなくなったりしないのだろうか。 気になる。


5/10(日)

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広瀬沙希。 新曲、とりあえず録り終わった。 次のタイトル収録曲が揃いました。 リリース日程、決まったらこのページでお知らせしますね。



箏、箏曲について色々考えていた。 今影山リサのとある企画物のミニ・アルバムの制作に入ってて、近世以降の邦楽をベースとした楽曲をまとめたものになる予定なんだけど、それの収録曲を揃える過程であれこれ調べを入れている。 この文章は個人的な備忘録に近い。

軽く驚いたのは、意外なほどに資料が豊富なところ。 一時期雅楽について調べてたんだけど、明らかにあれより資料は多い。内容的にはそこまで大した体系でもないんだけど。

どうも近代(明治以降)に入ってピアノが一般化される以前、嫁入り道具としての楽器の代表格が箏であったらしい。 だからこんなにも資料が豊富であるのだと思われる。 演奏技術取得が比較的簡単な楽器だしね。


今作ろうと思ってる曲は当然歌物なんだけど、箏組歌っていう箏曲の代表的歌物をベースにするつもりはとりあえず無い。 筝組歌は、なんだかいわゆる端唄・小唄みたいなヤツで、とにかく進行速度が遅過ぎて現代POPS的で無さ過ぎるから。 あとああいうのって、メロディー的にも美を感じないんだよね。

他にも手事物って言って、いわゆる地歌系の歌物に、合いの手が発展したような手事っての(器楽)を組み合わせたものがあるんだけど、それもあんまり現代POPSとの相性が良くなさそう。 あとそれって、編成に三味線が入るケースが多いみたいなんだけど、私はどちらかと言うと、純粋な箏曲の上に歌を乗せたものが作りたい。

箏による純粋器楽曲である「段物」ってのがある。複数楽章によって構成される曲なんだけど、それをベースに一曲作ろうかと思っている。 ただ、例えばそれの代表的な作品である「六段の調べ」を見ると、その名の通り六段構成なんだが、普通に演奏するとトータル7分前後にはなるみたい(整然と一定のBPMで進行していくようなものでないから、奏者による個人差が大きい。徐々に速度が増すと言うのは雅楽にも通じるもので、日本音楽の特性なのかもしれない)。 POPSとしてはちょっと長過ぎる。 二段構成とかにして、POPS的な尺に収めるか。

ついでにその段物、かなり様式的な代物。 一段が基本104拍になる(初段のみ換頭と言う4拍程度の音型がつくので108拍)。 あえて五線譜表記するなら26小節とか52小節になるわけだが、8や4の倍数でもないし(52は4の倍数ではあるけど13倍)、西洋音楽的な(と言うか現代人的な)感覚では楽節感が掴みにくい。


あと箏曲には替手ってのがあって、それを作品に採用したいと思っている。 替手は本手(主旋律)に対する別パートなんだけど、対旋律でもカノンでも無く、ハーモニーでも無論無く(和声音楽でない)、変奏ってのが一番近いようなものなんだけど、ハッキリとした楽理的定義付けが為されていないので、作るのにちょっと難儀しそうだ。 作例から何となく雰囲気を掴むしかなさそう。


5/7(木)

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上、スタジオにて。 先週実は四件も歌録りがあって、週末は大変だった。


昨日「Working Girls」を発表した影山リサ、引き続き来週は次のシングル「Tonight」を発表します。 影山さんの王道的ナンバーです。




5/6(水)

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影山リサ。 「Working Girls」、本日発売です。 影山さん、今週は二曲も新しいの録った。ここ暫くハイペースで新曲録ってます。 上は先日のスタジオにて。下は本人からのコメント。


Working Girls/Nothing In This World

Working Girlsは働く女子の日常を歌った曲です。女の子たちの心の声みたいな歌詞が面白い。

Nothing In This Worldでは「私の心をとめられるものなんてこの世界には何も無い」というような事を歌っています。
是非聴いてみて下さい。

影山リサ





5/5(火)

影山リサのニューシングル「Working Girls」、収録曲について。


1.Working Girls

スキッフル音楽みたいなのが私は好きなので、その辺の好みが多少反映されているような。 大掴みにはPOPSの範疇だと思いますけど。

Bメロの移調と言うか転調のような部分が、この曲を作る動機になった。 サビのコーラス(ユニゾン)は神田優花が歌ってます。

ここ最近、影山リサの曲って音色に特化したようなものばかりだったので、ちょっと口直しに、こんな感じのものもいかがでしょうか。



2.Nothing In This World

これもPOPSなんだろうと思いますけど、アレンジはバンド編成っぽい。

多分数年前に作ったものなんだけど、細部についての記憶が薄い。 Aメロのド頭から随分高い音使ってますね。





5/4(月)

夏目漱石は日本近代文学の父と言えるような偉大な作家だが、女性を書くのは苦手っぽい。 登場する女性はどれも実体の覚束ない、フワフワした人物ばかり。 ピカソの「泣く女」の中に女性はいるが、漱石文学の中に(リアルな)女性はいない。 別に漱石に限った話ではなく、女を書くのが苦手な(男性)作家って割りと多い。

もし漱石が電車に乗って、目の前に「胸を寄せた女性」を見たら、何て思うだろう。 「胸を寄せているな」と思うだろうか。 あるいは「この人、胸が大きいな」かな。 ひょっとすると、何一つ感想を持たないかしら。

世の大半の男は、「この人、胸が大きいな」とか思うんだろうな。 ある時「騙された」とか思ったり。


「この人、胸を寄せてるな」って思うことができたら、次の瞬間には、「胸を寄せてしまうその人が心に映している世界」が見えてくる。 私が一番欲しいものはそれ。 その景色が見たい。 私は薔薇になりたいのでなく、薔薇を手に入れたいのでもなく、ただひたすらに薔薇の悲しみが知りたいね。


5/3(日)

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神田優花、レコーディング三昧の日々。 公開したばかりのニューアルバム「Mona-Lisa」はどうだったんでしょうか。 まだあんまりリアクションみたいなのは感じませんが。

神田優花って、マスタリング済みの曲と、今回歌入れしたばっかりのと、現時点で抱えている新曲を全部合わせると、多分もう8曲ぐらいあって、その気になれば今年中に録り下ろしのフルアルバム出せる。 まあ出さないけど。




5/2(土)

ストロー・ヴァイオリンについて。 フリーの(サンプラー用)ライブラリが出てたので落としてみたのだが、そういう特殊仕様のヴァイオリンが存在する(かつて存在した?)らしい。 ハッキリ言って私は初めて知った。 因みにストローは人名らしい。

日本語版のWikipediaにそれの項目が見当たらないぐらいなので、まあ誰でも知っているというほどのものでは無いものと思われるが、指向性をレコーディングに特化した改造ヴァイオリンらしい。 ってことは出現は蓄音機以降だろうから、歴史もその程度と見てほぼ間違いない。

現状、粗方淘汰されてしまっているところを見るだに、録音技術の方の発達によって駆逐されてしまったものと見える。 古いものではあるが、伝統楽器と呼べるほどの歴史は無く、また現在は廃れてしまっている。 大正琴みたいな位置の楽器と言うことか。

ネット上にも資料となるページが少なくて(特に日本語)、詳細は分からないのだが、画像を見る限り、概要についてはまあ理解できなくもない。 通常のヴァイオリンと比較しての「出音の差」については、正直言ってよく分からないのだが、共鳴部が明らかに違うので相応の特徴があるのだろう。

上のフリーのライブラリ、音を聞いてみたのだけど、何やらローファイなヴァイオリンって印象しか持てない。 実際、ローファイ化のためのパラメーターがあったりして、そのレトロな感じを味わうべきものと見た。 楽器固有の特殊なアーティキュレーションなどがあるわけでもなさそう。 あくまでヴァイオリンの一亜種と言う感じか。


5/1(金)

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先日ドラム・セットについて述べた後、またあれこれ考えていた。 私はあれを「消えて行くもの」だと思ったわけだけど、そこについて。


随分昔、ある地方ニュースで「算盤を見直そう」みたいな運動が取り上げられていた。 「現代人は計算機のせいで算盤を使うことを忘れかけている」と。 まあ「怪しからん」と言う気分も含まれていたろう。 よくある「近頃の若い者は」と言う話の類かと思われた。

当然だが、算盤は文明の利器である。 自然界に端から存在したものではない。 ある時代に誰かが発明したテクノロジーで、それ以上に優れた後発のテクノロジー(計算機)にほぼ駆逐された。 算盤の登場以前にも、人類に計数そのものの必要性はあったろうから、算盤以前の計算用ツールも当然あったろう。 例えば紙媒体だとか、もっと言えば単に指だとか(指が計数に使われていたからこそ、こんにちこれほど10進法が普及しているのだろう)。 また、現行の計算機以上に優れたものが発明されれば、計算機も駆逐の憂き目に遭うに違いない。

つまり算盤も計算機も過渡的なツールに過ぎないと言うこと。 私はドラム・セットも似たようなものだと思っている。 ありとあらゆる楽器はそうなのかもしれないが、ドラムスはそうである面が濃厚だ。

ドラムは楽器ではあるが、メロディー(楽音)を表現するためのものではなく、あくまで拍節を刻むためのツールである。 メトロノームとか、レコーディング等で使用されるいわゆるクリックだとかと、位置づけとしては同じもの。

標準的なキットとか存在するけど、ある時代の流行とかそういうものに近い。 あの構成にさしたる必然性は見出せない。 基本的な用途から考えても、「人力で稼動させる必然性が薄い」と言うより、「人力で稼動させるべきでない」とさえ、場合によっては言えるもの。

「何千曲叩いた(レコーディングに参加した)」と言うような有名ドラマーはいるけど、譜面ベースでキチンと演奏しているとは到底思えない(しているなら、そんな件数こなせるわけがないと思う)。 つまり適当に叩いていても、職務を全うできる。 商業音楽の世界においても、設定が厳密でないパートだと言うことだ。 つまり拍節の指標程度の役割に過ぎず、音楽表現に不可欠ではない。

音楽って体系的なものだから、伝統とか言った要素も強い。 現行のドラム・セットそのものや、更には音楽作品の上でのドラムパートの存在も、必然性でなく、音楽の伝統(基本フォーマット)の踏襲によって延命させられている面が大きい。


4/30(木)

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4/8(水)以来、三週連続でシングルをリリースしていた影山リサですが、今週一休み入れて来週からまた連続リリースに入ります。 既に三週連続で出すって話をしてたんですが、四週連続に予定が変わりました。 また、多分6月末以降になると思うんですが、またまたシングルを三週連続でリリースすることになるかと思います。 下は次のシングル「Working Girls」のジャケットです。




4/29(水)

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神田優花、4thフル・アルバム「Mona-Lisa」、本日発売です。 以下、アーティスト本人から。


新しい曲を最初に聞いた時、中に光るように感じられる箇所があります。その光の粒を一つずつ拾いあげて繋げていって1つの曲が出来上がります。そうやって1曲1曲を歌い繋げて、また1つアルバムが出来上がりました。

今回のアルバムは、少しダークでデカダンな香りのするものを集めています。新しい表現方法にも挑戦しています。

アルバムを待っていてくださった方も、初めてお会いする方も、どうかこのアルバムを楽しんでくださいますように。

神田優花





4/28(火)

神田優花、4thフル・アルバム「Mona-Lisa」について。


全12曲、神田優花四枚目のフル・アルバムになります。

収録曲の中には、先行シングルとして、前回のアルバム「sorrow」より前に出ていた「live through this」とかあるにも関わらず、時期的には本来収録すべきであろうシングル曲「Stand Back」・「SHINE」・「Shelty」あたりは入ってない。 アルバム全体の雰囲気を優先させた結果、そうなりました。 上記未収録のシングル曲は、いずれ何らかのアルバムに収録されると思います。

前作の制作スパンを長く取りすぎてしまった憾みがあって、今回はアルバム1タイトルの制作期間としては、概ね理想的なものになったと思っている。 「sorrow」の方は、もう少し早い時期に一つアルバム出しておくべきだった。 制作期間が長いと、歌そのものを含む制作環境の変化の方が耳についてしまいますね。

収録曲のうち、「Any world(You mean to be)」と「鵺」は、先行のミニ・アルバム(どっちも7曲入り)のタイトル曲。 ミニ・アルバムも一応アルバムではあるので、そのタイトル曲をアルバムに収録するのは一般的でないんだけど、別にその手の慣習に必ずしも従う必要も無いかと思って入れることにした。

タイトル曲「Mona Lisa」は、シングル「Shelty」のカップリング・ナンバー。いわゆるB面の曲をアルバム・タイトルに持ってくるという、これまた一般的でない形になりましたけど、あの曲が好きだったもので、こんなことになってしまいました。 以下、収録曲について。



1.silihouette

ギター(エレキ)とDoumbek(ダラブッカ?)のみのバッキング。 ギターはハーフダウンです。 打楽器が入ってはいるけど、効果音としてのもので、曲自体は基本無拍節。

サビに当たる部分以外、ボーカルは語りになっている。 個人的にはこの曲好きですけど、やっぱしシングルとかには向いてない。



2.Villain's Game

シングル「Villain's Game」タイトル曲。 この曲は作ってる段階からシングルにしようと思ってたし、アルバムにも入れるつもりだった。 音はシングルバージョンと全く同じです。



3.Destiny

基本的にはジャズのフォーマットを拝借してはいるんだけど、これは私のジャズ。 ジャズの書法を借りてある世界を表現した。 昭和歌謡とかも、エッセンスとしては入ってなくもない。

イントロ・間奏・コーダは割かし好み。楽器のゴチャゴチャ入ってる部分。 本編のバッキングはほぼ3ピース(ピアノ・ベース・ドラム)編成のごくシンプルなもの。 因みにピアノはアップライトの音を使ってる。

ところどころに変拍子と言うか、変なタメみたいなのが入ってるんだけど、全体的にリズムのタイトさは求めてない。 歌についても、リハーサル段階から、歌い手さんと「リズムは緩くて良いよね?」みたいに決めてた。 その微妙な間合いと言うか、呼吸みたいなのを楽しんでもらえたらと思ってます。



4.Any world(You mean to be)

ミニ・アルバム「Any World」の一応タイトル曲。 これも割りと内輪で評判が良かったんで、アルバムにも入れた。 実際この曲は割りと出てる方。



5.鵺

ミニ・アルバム「」のタイトル曲。 これも好きな曲だったんで、アルバムにも入れました。



6.Absolute tunes

シングル「Absolute tunes」タイトル曲。 この曲は二つバージョンがあって、ミニ・アルバム「」にも収録されている。 今回アルバムに入れたのはシングルの方。 まあそれが妥当だろうと思って。



7.beauty in ugliness

シングル「beauty in ugliness」タイトル曲。 この曲、私は個人的に好きなんですけど、あんまり売れてない。 どうしてだろう。ジャケットが悪い?



8.Forever one

シングル「Forever one」タイトル曲。 直前に出たばっかりのシングルで、反響とかも分からない部分が大きい。 音はシングルのまんま。



9.live through this

シングル「live through this」タイトル曲。 この曲だけ時期的にちょっと古い。 アルバムの楽曲的な統一感を優先させた結果、こういうことになりました。



10.地球儀

シングル「地球儀」タイトル曲。 いつも、売り上げの明細に、どこの国で出たか分かるように二桁の国別コードってのが記載されてるんだけど、この曲(とカップリングの「Meteor」)だけ普段見ないようなコードがある。 中南米が多い。 どうしてだろう。タンゴっぽいから?よく分からない。



11.Forbidden Fruit

シングル「Forbidden Fruit」タイトル曲。 これとかVillain's Game・beauty in ugliness・鵺あたりがこのアルバムのイメージ的な核になっていると思う。 これも音は先行シングルのままです。



12.Mona Lisa

シングル「Shelty」カップリング曲。 作った当初、アルバムタイトルにしようとか全く思ってなかったんだけど(歌ですら無いし)、聴いてるうちに思い入れが募って、こういうことになってしまった。 これも音は既発のものと同じなんだけど、よかったらもう一度聴いてください。





4/27(月)

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一冊まるごとドラム(キット)について解説した本を読んでいる。 読了前だが、まあ面白い。

私には、ドラム・キットを触った(叩いた)経験こそ一応はあるが、専業のドラマーとかでは無論無いので、不案内な部分も多い。 上記の本は私にとって、ドラム何たるかの知識を補強してくれた。 多少なりともドラムについて、今後リアリティは増すだろう。

例えば、筆者は当然ながらドラマーなのだが、ドラムの出音に影響を与える要素として、ハードウェア(周辺機材)についてまで多くの紙数を割いている。 私にとってそれらは、今まで考慮に入らない要素だったが、存在にあらためて気付かされた。

タムについての記述も面白かった。 あれって大小色々なサイズがあるのだけど、各メーカーが適当に作ってるのではなく、一応規格が存在するのね。 八種(の径が)存在するらしい。

三味線には太棹・中棹・細棹の三種が存在するが、音作りの上で、私はそれらを区別しない。 だから私にとって、それらの差異は現実でないとも言える。 但し、そういうもの(種別)が存在している、と言うことだけは一応知っているわけで、あながち全くの現実外ではないとも言える。 タムの種別や太鼓の周辺を固めるハードウェア類なども、上の本を読むことによってそんな状態に変わった(やや現実に近づいた)。

現状ウチは、生ドラムの録音については、ほぼ諦めている。 コスト的にも打ち込みで間に合わせるのが現実的かと思っているのだが、ドラムについてのイマジネーションの豊かさは、打ち込み表現を当然左右する。 私にとってはためになる一冊だ。


しかしまあ、現行のドラム・セットは、将来的には音楽制作の現場からは消えて行くものだろうな(既に前時代の遺物の感もあるが)。 アナログ・ターンテーブルだとかプレート・リバーブなどのように、ヴィンテージ機材としてなら無論残るだろうけど。


4/26(日)

ナポレオンズ(芸人)が出している、マジックの種明かしのようなDVDがある。 それ見ての感想。

マジックってのは手先を使った技術的なものばかりではなく、相手の錯覚・誤解を引っ張り出すような詐術のようなものも含む。 落語の壷算ってご存知か。後者はいわばああいうモノのこと。 上記DVDにも色々な種類のマジックが混在しているのだが、結構おそろしいと思った。

プロのマジシャンにとっては、例えばお店のレジでの支払いの際、釣銭などをちょろまかすことなど赤子の手を捻るようなものだろう。

無論そんな寸借詐欺みたいなことを続けて、仮に何度かは成功したとしても、いずれは逮捕されてしまう。 長期的に見ればそれは得策でない。 だからこそナポレオンズも、芸人と言う仕事を選んだのだろうと思われる。


4/25(土)

人間に未来は見通せるか。 私は無理だと思う。 少なくとも私には無理。

未来と言うのは、ありとあらゆる要素、それこそ森羅万象によって形作られるもの。 その形成プロセスは複雑・難解極まりない。 たかが人知程度をもってして、その行く末を測ることなど到底できるとは思えない。 スーパーコンピューター使った天気予報だって外れる。

名軍師と呼ばれるような(例えば諸葛孔明のような人)なら、未来を見通せるか。 無理だと思う。 あの手の人らは、自らの願望と事態の予測を区別できただけのような気がする。 もうそれだけで名軍師と言って差し支えないほどに、一般に人は、願望抜きで世界を見ることが難しい。

以上のことを踏まえ、音楽業の未来について考えた。

音楽コンテンツは、CDなどの記録メディア配布型からデータ配信に(現在ほぼ)移行した。 不正コピーの問題とか色々あるけど、まあ何事も新しいものが生まれれば、それに付随した不具合も生まれるものだ。 コンビニが生まれれば万引きも生まれる。

不正コピーをいくら「不正だ」とか「違法だ」とか騒いでみても、音楽がデータである以上、容易に複製できてしまうと言う事実の前には無力である。 実際メジャーレーベルの新譜とかって、動画サイトとかにいくらでも転がっている。 メーカー側とかも昔は一々クレーム上げて削除してもらったりしてたのだろうが、昨今メーカーがオフィシャル・アカウントとって公開するってのが一般的な流れになっている。 現実的なところで妥協したのだろう。 イタチごっこを続けるより、動画に広告つけて多少でも収入源化する方が賢明との判断か。

良い悪い以前に、それが「容易に出来てしまう」と言う事実が如何に強力か。 例えば鏡を作っている会社が、「この鏡は購入者本人以外を映してはいけません。家族と言えども、映したいのであれば商品を人数分購入してください」と言ったとする。 そりゃ売り手側は数多く売れた方が儲かる。 でも、「購入者以外も容易に映せる」と言う事実の前にその警告が如何に無力か分かるだろう。

更に、鏡は物質である。 ある人が鏡台の前にいるなら、別の人はとりあえず順番を待たねばその鏡が使えないのだが、データにはそんなことすら当てはまらない。 物質でない以上、ほぼ完全な形で、無限に複製できる。

ある種の団体などが、「不正コピーを撲滅しよう」みたいなことを広告とかまで使って声高に叫んでいたりするが、それって裏を返せば「簡単にコピーできてしまう」し、「それを悪だと糾弾する根拠が薄弱」である証拠でもあるんだ。 だからこそ彼らは声を荒げている。

日本人の主食である米。 あれはインド辺りを原産とする(そもそも自生種らしい)。 数千年前の誰かが、東アジアと言う全く気候の違う土地であれを栽培できないかと考えた。 日本の稲作は、インドの気候を再現しているわけで、例えば春先の水を張った田圃、あれはインドの雨季を模している。

もし上記の稲作手法を思いついた誰かが、「これは俺の発明だ。誰にも真似させない。真似したいならアイディア使用料を寄越せ」と言ったとしても、容易に真似できてしまうと言う事実の前には無力だろう。 「真似すんな」と言った誰かがいたのかは不明だが、物凄い規模・スピードで稲作技術は模倣された。

出来上がった「米そのもの」であれば、誰かが食べれば無くなってしまい、他の誰かは食べられない。 が、稲作技術は無限に模倣が可能である。


音楽コンテンツの複製も、ある程度止むを得なかろう(と言う、防ぎようがなかろう)と思う。 容易にできてしまうのだから。

しかしそのことによって、供給者側(レコードメーカーなど)の収益が激減した場合、リスナーは良質なコンテンツの供給を(少なくともレコードメーカー経由では)受けられなくなることになる。 これは「税金を安くしたらインフラが整わない」みたいな当たり前の話。

そうなったらどうするんだろう。

まず、音楽を作ること自体に実は興味がなく、自分を見て欲しいだけのようなミュージシャンらは、音楽業界が縮小され、注目を集めなくなったりすれば、自然に雲散霧消するだろう。

音楽を作るのが好きな人はいつの時代にもいるだろうから、そういう人らはきっと、金にならなくても音楽作品を生み続けるだろう。 金持ちの好事家のような人がスポンサーになったりでもするのだろうか。

ゴッホは生前一枚しか絵が売れず、ほとんど弟夫婦からの援助で暮らした。 そういうミュージシャンが大多数になる? 今の日本はそういう状況を生み出すには割かし適した社会だとは思うけど。


4/24(金)

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私は勝者と敗者を等価と見做す者だが、この感覚って伝わり難いらしい。 勝利に喜び、躍り上がる勝者、敗北に落胆し、うな垂れる敗者、私にはそのどちらもが滑稽に見えなくも無い。

物事の優劣とは何か。 それは如何なる基準に依拠するかで決まるもの。 「脚の速さ」とか言う比較的順列の付けやすそうなものでさえ、如何なる距離における速さか、によって結果が違ってくる。 美なんてものは、定義が複雑過ぎて単純に優劣がつけられない。

偏差値は偏差値である。絶対値ではない。 つまり他人との比較から生まれた概念である。 世界に自分しかいないのであれば、美醜も賢愚も存在しない。 才能とは相対的なもの。

偏差値70いくつある大学に入ればエリートと見做されたりするのだろうが、ある意味そういう人らは病気なだけかもしれない。 相撲取りになるには一定の身体基準を満たさねばならなかろうが、医学的基準においては、相撲取りなんて全員病気である。 血糖値や血圧が人並み外れて高ければ、それは病気である。 基準を健康に置けば当然そうなる。 誤差に収まりきれぬ学力だって似たようなものかもしれない。 実際、生存の上で学力が果たす功績って如何程のものだろう。マイナスも大きいように感じなくもないが。


秀才とは、相手の機微を読み取る巧者のこと。 学校では教師の、試験では出題者の意図、を読み取るからこそ優等生となる。 だから官僚や政治家は、世論なんて言う「空気」に概ね弱い。 例の原発事故後、東京電力からは離職者が相次いだそうだが、東電の社員なんて、高学歴だったりするのだろう。 空気を敏感に察知することはお得意と見える。

よく「試験秀才には独創性がない」みたいなことって言われるけど、構造的に当たり前のこと。 上級公務員だとか高学歴の者は、ある基準においてアタマが良いのは確かだろうと思うが、頭の良さにも種類がある。 相手の機微を「理解」する能力は問われてきたろうが、創造力・独創性などを問われた経験なんて無いに等しかろう。

「周囲の意図を読み取る能力」と「創造性・独創性」は、両立が難しいのではなく、互いに干渉してしまう属性だろう。

テレビタレントは、面白いから・容姿が優れているからと言う理由でもってそこにいるのではなく、制作者やスポンサー、視聴者のニーズを満たせる(機微を読み取れる)からこそそこにいる。 芸能と言う世界の一角の、あるニッチを占めると言うのはそういうこと。 独創性なんてものを買われたわけではない。


では天才とは何か。 私は前にもここで述べたのだけど、天才とは「自分であれる人」のこと。 これが唯一にして絶対の条件。 勝ち負けはルールと言う基準が色分けただけのもの。勝ち続けることなんて、優等生の条件ではあっても、天才の条件なわけがない。 だから勝者と敗者は等価なのだ。


4/23(木)

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三味線について解説しているDVDを見ていたんだが、三味線の代表的調弦である本調子・二上り・三下りを説明するくだりにちょっと引っ掛かってしまった。

解説者曰く、「本調子はフラット」であるそうな。 また二上りは「長調」的で、三下りは「短調」的であるらしい。 私はそういう感覚で見つめたことがなかったので、ちょっと気になった。

上記の調弦について、詳しくは調べてもらいたいのだが(きっとすぐ分かる)、早い話が、本調子・二上りは4度・5度の音程関係を軸としたオープン・チューニングである。 三下りは本調子にちょっと変化を加えたもので、単純なオープン・チューニングではないのだが、それら三つの違いを見渡しても、西洋音楽で言うところの長短との関連性は、私にはちょっと見出せない。

私は三味線を弾かないので、実感として分かりにくいだけなのかしら。 実際に奏者らがそれを感じているのであれば、何らかの理論的根拠のようなものが秘められているのかもしれない。


日本の固有音楽は無論のこと、西洋音楽を除いて、和声音楽ってものは存在しない。 世界中にある諸々の音楽体系は、基本旋法音楽である(あとはせいぜい童歌みたいな、2〜3音構成で出来た単旋律くらいか)。

インド音楽や中東音楽で言うところのラーガ、マカームなんてのも、旋法音楽理論がその骨子となっている。 雅楽も、笙の合竹のような「和音」は登場するが、やはり基本は旋法音楽。 ガムランもそう。明確に理論化されていないのだろうが、ぺログもスレンドロも基本スケールだ。

その旋法音楽にも一応の長短はあるとされていて、教会旋法で言うところのドリアとかフリギアなんてのが、そのうちの短(旋法)に当たるとされている。 雅楽で言うところの壱越調は、ドリア型の旋法である(但し壱越調はそもそもは呂旋とされており、呂は長旋法と言われている。が、実際の壱越調の楽曲は、歴史的曲折を経て、最終的に律に近い旋律線になっている。この辺少々ややこしい)。

日本の国家「君が代」は壱越調で、教会旋法で言うところのドリアにほぼ相当する。 有名な「さくらさくら」は、いわゆる都節音階で、同様に教会旋法のフリギアに相当する。 つまりminorだと言うことだ。 三味線音楽にも、長短は間違いなく存在する。


上の「フラット」が何を指しているか、正確に分からないながらも、おそらくは長調・短調のどちらにも属さないと言う意味であると思われる。 確かに、例えば現代のPOPSには、西洋音楽で言うところのmajor・minorどちらでもないと見做せるものが多々ある。 そういうものを指しているのだとしたら、当然ありうべしと思える。 私は三味線音楽の作例にそこまで当たってないので、断定的なことは申し上げられないわけだけど。


4/22(水)

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影山リサ、また歌録り。

影山リサのニューシングル「My Truth」が本日発売されています。 以下、本人から。


My Trurh/Cotton Candy

My Truthは雑踏の中に一筋の光が射すような、そんなイメージの曲です。少しの苛つきと愛しさを込めました。

Cotton Candyは甘くて寂しい、パステルカラーの綿菓子のような曲です。冗談な感じにならない様に意識しました。お気に入りの曲です。

どちらも良い曲なので、みなさん是非聴いて下さい。

影山リサ





4/21(火)

三週連続リリース第三弾、影山リサ、ニューシングル「My Truth」、明日発売です。 影山リサは、一週休んで再来週から、また三週連続で音源を発表します。 以下、「My Truth」収録曲について。


1.My Truth

これもどちらかと言えば音楽面より音色に比重を置いた曲。 でも、そう言う曲にしてはかなりPOPS寄りで、割りとよく出来たと思ったのでシングルにした。

二番のサビでサイドチェインかましてるところがあるんだけど、久しぶりに使った効果だったんで、ルーティングとか細かい設定とかほとんど忘れかけてた。 だから面倒臭かったってことは覚えてる。 でもまあそのくだりって実に典型的と言うか、お約束みたいな構成。



2.Cotton Candy

物凄く短時間で作った。 トラックもそうなんだけど、歌詞が上がるのもレコーディングも全部早かった。

時間掛かってないだけあって、バッキングのトラック数なんかも実に少ない。 手抜きと言えばその通りなんだけど、そういうものが作ってみたくなる時もあるんです。

ちょっと調子っ外れな曲を作りたかった。 例えば、間奏のメロディーとバッキングがズレてるんだけど、いくつかそういうアイディアを盛り込んでる。 その一つとして、歌のメロディーとバッキングの和声とを意図的にチグハグにしてる(外音ばっかり使ってる)部分があるんだけど、歌い手さん的にはちょっと歌い難かったみたい。





4/20(月)

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ある元野球選手(現在はスポーツ系のコメンテーター?)が、現役最年長のサッカー選手に、テレビ番組で引退勧告をしたことがちょっとした話題になっていたそうだ。 世間の大勢を占める意見は、そのサッカー選手に同情的で、コメンテーターの方には非難のトーンが強かったようである。

因みに私は、その選手の現役続行の是非について、あんまし大した意見を持たない。 「現役であることが許されているってことは、本人の意思を含めた諸々の条件が整っているのでしょうから、やれば良いんじゃないの?」ぐらいの感想。 気になるのはコメンテーターの方である。

そのコメンテーター、在日韓国人であるそうな。 これは本人も(現役時代から)公表していることで、秘密でも何でもない。因みに、元在日ではなく、現在も大韓民国国籍であるそうだ。 上の発言は如何にも朝鮮人的だ。 いわゆる恨(ハン)と言うのもおそらくはこの種の衝動で、これは一種の民族性のようなものではないか。

そのコメンテーターの現役時代の成績は素晴らしいもので、日本プロ野球史に残る屈指の名選手と言えるレベルだそうな。 私はその人の現役時代を知らないけど、数字だけで見てもこれは明らかだ。 それほどの不動の実績を持っても、なお他人のある種の動向が気になるらしい。

朝鮮人は一般に、敵を作りたがる。これ、私の個人的見解とかでなく、歴史的にも実例をいくつも挙げることができる事実。 他人を賞賛する気分が生まれにくい文化なのだろうか。 これ一概に欠点とも言えないのかも。 例えばよく言われる「反日」にしたって、韓国はそれが原動力となって発展した部分もあるのかもしれない。

私個人としては、「世界の見え方」こそを大切にする者なので、あんまり他人を素直に賞賛できないような世界観って持ちたくないけどね。


4/19(日)

打楽器は世界中どの地域にもほぼ存在する。 モノは叩けば音が出るものだからだ。

しかしシンプルな太鼓の類にも奏法と言うか、最低限の楽理のようなものがあって、それらには一定の生理のようなものを感じ取れる。 ジャンベはアフリカ、カホンは南米の楽器だが、基本奏法はほぼ一致している。 一般的ドラムキットで言うところのバスとスネア(あるいはハイハット)に相当するものがどちらにも存在する。 高音と低音と言った程度のものだから、当然なのかもしれないが。

打楽器の生理と言うより、拍節の生理と言うべきなんだろうか。 時間の進行をカウントする際、高音と低音のコントラストを使うのが最も合理的ってことか。


4/18(土)

時間的にはもうかなり昔の話になると思うが、ある裁判の判決文に、さだまさしさんの歌への言及があったとか何とか言うニュースを仄聞した。 事件そのものについては綺麗サッパリ忘れてしまったが、引用だか言及だかされたと言うその歌自体は聴いてみた。

裁判官だって人間だから、音楽も聴くだろうし、それに感銘することもあろう。 こういう事件もまあ起こり得る。 個人ブログとかも含めた世間の反応としては、「彼(被告)もきっと更正するだろう」みたいなのがチラホラ見られた。 「それほどに歌の力は凄い」と。 しかし、ここについては本当かしら。


申し訳ないが私は、そういうよくある美談みたいなもので自分を騙して酔っ払うことができない体質である。 刑事事件を起こすような犯罪人が、そういう人になってしまう理由の大部分は、良心の欠如にあろう。 良心の形成・発露には過程があり、それは環境にも大きく由来するからこそ、少年犯罪には酌量の余地が設けられている。

早い話が、「もう少しマシな環境を与えさえすれば、まともな人間に育つ程度の良心」の為に、少年法なんてものがあるのだろうと思われる。


如何に強く良心に訴えかけた歌であろうと、良心の無い心には届かない。 訴求力とは、本来受容する側にこそ存在するもの。 単なる音であれば、それこそ聴覚を持つ者全てに響くだろうがね。

きっとその判決文を認めた裁判長だかの心には、その歌が響いたのだろう。 被告の心に届いたのかは分からないけど、結果私を含む多くの人がその歌を知ることになった。 こちらの結果の方が、よほどに社会には寄与すると思われる。


ついでに私は、さだまさしと言うミュージシャンは嫌いではない。と言うかむしろ好きだ。世代的には全然リスナーのメイン層では無いと思うが、若い頃は結構曲も聴いたし、著書の類まで読んだ。


4/17(金)

4/29(水)に、神田優花の4枚目のフルアルバム「Mona-Lisa」(全12曲)が発売されます。 収録曲は既にシングル等で公開済みのものが多くて、ベストアルバム的な内容になってますが(新曲も勿論ある)、アルバム価格は12曲をバラで買うより当然お安くなってますので、神田優花入門編としてもお薦めです。

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4/16(木)

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バカと天才は紙一重、とかよく言われる。 私はバカと天才を似たような物とは思わないが、一見似たように見えることがあるのは事実だと思う。 以下は、バカとか天才と言う言葉が人間の脳機能を指している、と言う前提で述べる。

言語機能が鋭敏・繊細である者にとって、言葉には明確な宇宙(定義)が存在する。 だからある言葉とある言葉が、厳然と違う。 例えば愛と執着であったり、自由と放埓であるとか。それらを、言語機能が全く異なるものとして区別してしまう。

一方、言語機能が脆弱、あるいはほとんど壊れているような状態にある脳にとっては、言葉(単語)とは、表面的な意味がくっついているだけのものである。あたかも単語帳のように。 だから金物の鍋と鍋料理は違う。 「今夜は鍋にしよう」と言われても意味が全く分からない。

あるものとあるものを、「同質とするか異質とするか」、これが脳(言語)機能の核であると私は思う。 ある者にとって異質である二者が、ある者にとっては同質である。 また一般に同質であるとされている二つの物が、ある者にとっては異質であったりもする。 だからバカと天才が紙一重に見える。


4/15(水)

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影山リサ、歌録りでした。 最近レコーディングばっかりだ。

影山リサのニューシングル「Fireworks」が本日発売されています。 以下、本人からのコメント。


Fireworks/Watercolors

Fireworksは初めて音を聴いた時に夏っぽい印象を受けたので、切ない感じをイメージしてレコーディングに臨みました。
眩しくて、魅力的で、忘れられないこと。
そんなことを思って歌いました。

Watercolorsはおもちゃ箱の中に入り込んじゃったような曲です。

是非聞いてみてください。

影山リサ





4/14(火)

影山リサ、ニューシングル「Fireworks」について。


1.Fireworks

音(音色)に特化したものを意識的に作ろうとしていた時期があって、その時に作った一連の作品の一つ。 今聴くと、エフェクティブ過ぎて、歌詞がちょっと聞き取りづらいな。

間奏に当たる部分を、ノイズだとか合成音で作ってるんだけど、「鍵盤をインターフェイスとしないフレージング」ってのを念頭に作った。 手法としてはこの曲に限ったものではないけど。

この曲みたいに、ある既存のジャンルみたいなのに沿って作るものはあるけど、その中では比較的楽なものだった。 過去に例えば演歌を作ってみたこととかあるけど、そっちの方が全然大変だった記憶がある。 音楽そのものについての下調べ、みたいなものがほとんど要らないってのは気楽なもので、楽理とか呼べるほどのものがほとんど存在しないので、それらしい曲をいくらか聴いたりはしたけど、せいぜいその程度。あとは機材(ソフト)類のオペレーション覚える手間があったぐらい。



2.Watercolors

チップチューンみたいなのを作ろうと思って。 メジャーコードだけで作っているんだけど、音楽的な特徴としてはそこがキーでしょうか。

曲の最初と最後にカセットテープを再生・停止してる感じのギミックを施している。 こういうちょっとしたアイディアっていくつもあるんだけど、採用できる曲がなかなか見つからないことが多い。この曲は全体的に高音がうるさいんで、冒頭のローファイな部分とのコントラストが明確に出た。 このアイディアを活かすには、それなりに適したキャンバスだったような気はする。

私は普段、PAN絡みの効果ってあまり使わないんだけど、この曲では多少その辺も弄っている。 構想の比重が、割りと音響部分に割かれている曲です。





4/13(月)

勝者と敗者は等価である。 勿体無いことに、これが分からない人がこの世界には実に多い。

「合格者と不合格者、この二者が等価である筈が無い」と、努々疑わない人は、ある種の洗脳下にいる。 勝者と敗者を分かつ何かとは、単に誰かがこさえたルールに過ぎない。

我々は時間しか持たされておらず、一物さえ持たない。 人生と言う映画を、時間の終わりまで見ることが許されているだけで、如何なる物質も所有できない。 「所有できる」と思っているのなら、それは錯覚である。

金とは何か。 それは我々の時間の中に登場した一パラメーター。しかもそれは、どこかの誰かが作ったもので、この世界にそもそもあったものですらない。 日々の寒さ暑さのように、預金の残高も上下し、人は日々その数値に一喜一憂する。 つまり心で感じるだけのもの。


マイケル・サンデル教授(ハーバード大)が、その授業で、ビル・ゲイツの総資産だったか現在に至るまでの総収入だったかを、ゲイツの今までの推定労働時間(あるいは人生の実時間だったか)で割った数値を出していた。 数値そのものは忘れたが、秒間○百ドル、とかそういうものだった。

サンデルは言う。 結論として、ビル・ゲイツは、道端に落ちている100ドル札を拾う為、一秒間歩みを止めるなら、それは損である(彼が一秒間に稼ぎ出す金額の方が多い)と。

ビル・ゲイツの伝記映画があるなら、それはそれなりに面白かろうけど、「おしん」だって人々の心を捉えた。 大金持ちの栄華も貧しい少女の日々も、映画として見るならどちらも面白い。 一番得なのはその両方を見ること。 両方を知ってこそ、世界は我々の前に現れる。

どんな富豪になろうと、貧しい少女の一日を想像できないのであれば、その人生に大した価値なんて無い。 ○○大学合格者ぐらいでは、不合格者すら兼ねない。

「もし偏差値最高の大学に合格すれば、それは全てを兼ねる」と言うのであれば、私だってこの無い知恵を絞って、もっと一生懸命受験勉強などをしたかもしれない。 「金で手に入らないものなんて存在しない」、これが真理なら、私は今日もせっせと金集めに奔走していたろう。 どの程度の成果が得られるか、どこにたどり着けるか、なんてことはさておき、私はきっとそこを目指したろう。

勝者になるぐらいでは、敗者の目に映る世界なんて見えてこない。 私が今向かっている場所とは、全てを兼ねるもの。 私はそこへ、一直線に向かっている。 私はこの世界を知るため、全てを兼ねる何かを目指して、日々曲を作り続けている。

「何目指してるのか知らないけど、本当にたどり着けるの?」と言われても、そんなの知らない。 私はそこを目指して、正しい方向へ歩いているのならそれで良い。


4/12(日)

宇崎竜童さんの作った曲(メロディー)をいくつか聴いていると、「絶対この人は譜面(五線譜)で書いていない」と思わされる。 まあ私は、山口百恵さんのレパートリーについてそう思ったのだが、全ての作品を聴いたわけではないので、手法を使い分けていたりするのかもしれない。 譜面を「書けない」のか「書かない」のかは知らないけど、曲想が五線譜表記を前提としたものでないのは、容易に見て取れる。

譜面を書けない(読めない)ミュージシャンは割りといる。 特に(一昔前の)プレイヤー系の人には多い。必要と言うほどでもないのだろう。 ハッキリ言えば私もここ最近、シーケンサーでスコアを入力することはあっても、厳密な意味での譜面を手書きしていない。 細かい部分、特にリピート関係とか(セーニョだとか)その辺を忘れかけている。 読めはするけどすんなり書けない、みたいな状態。

譜面をプリントアウトする時なんかは一小節目から最後までベタ打ちで出力するのだけど、それで特に問題ない。 リピート関係の符号って、基本紙の節約の為に生まれたようなものだろうから、必ずしも要らない。 昨今、私みたいな人は多いのではないか。


「譜面を書けない(読めない)」と言うと欠点かのようだが、必ずしもそうではない。 作曲家と言った人らは、大抵譜面を書けるし、当然五線譜化を前提で曲想を練る。 だから仕上がる作品が、ある面において画一的で面白くない。 「譜面表記を前提としない」と言うことは、大多数の作曲家とは違うアルゴリズムでメロディーラインを生成すると言うことで、斬新性とか言う側面で見るなら、一種のアドバンテージであろう。 だからこそ、宇崎さんの曲には実際にニーズがあった。


4/11(土)

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神田優花。 先週発売のシングル「Forever one」、如何でしたか。 今月末には4枚目のフルアルバム、「Mona-Lisa」(全12曲)発売です。




4/10(金)

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ゴルゴ13のエピソードにこういうのがあった。 ある条約の調印式だかの会場で、「条文が載ったペーパー(のある部分)を打ち抜くことによって、条約の内容を反故(正反対)にせよ」と言う依頼にゴルゴが応える、と言うもの。

このプロットを誰が考えたのか知らないが、言語・文章と言ったものの本質をよく理解している御仁であろう。 文章ってのは本当にそういう面を持つ。


このHPは、ウチの会社概要と所属アーティストのリリース情報を載せる為の、いわば事務的なものだが、私がオマケとして書き綴っているこの日記にも一応読者がいるらしい。 たまにメールなどが送られてくることもあるのだが、必ずしも好意的な内容とは限らない。

随分と前に、非難めいた文章が送られてきたのだが、その内容は、厳密には私の発したある意見に対する「反論」ではなかった。 どういうものであったか一言で言うなら、「誤読」である。 そもそもこちらの発した文意が全く伝わっていない。 私はそんなにおかしな日本語を載せたつもりはないので、読み手の読解力の問題かと思われる。

結局私はそれについて、何の回答も行わなかった。 意見に対してであれば、もしかしたら反論したかもしれないが、誤読を一々正すのは大変だ。 申し訳ないがこれは仕方ない。


これ、昨日の話にも通じるんだが、いわゆる誤読と言うものは「文章全体を浅く捉えている」と言う状態ではなく「全テキスト中の部分部分を抽出して捉えている」と言う状態であるようだ。しかもそれら断片が、論理的に秩序付けられていない。 その人の頭の中では、抽出された部分以外はほぼゴッソリ抜け落ちている。

これも要するに、各断片の前後の繋がりの問題で、つまりは時間感覚の欠如と言える。

文章全体を理解することと、部分的に抽出した文章を捉えること、では、導き出せる結論が正反対になってしまうことが本当にある。 他人に好かれよう(自分を好かせよう)と思うのに、結果嫌われるような行動ばかり取る人、とか実在するでしょう。 あれって、脳内で起こっている演算のプロセスを紐解いてみると、上記の通りであると思われる。


4/9(木)

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元プロボクサーのガッツ石松さんのエキセントリックな言動は有名で、ガッツ伝説とかよく言われている。 私も個人的に興味があり、また映像なども実際にいくつか目にした。

そのうちの一つ、あるクイズ番組では「今年解散した沖縄出身の四人組女性ユニット〜」みたいな出題に対し、「具志堅用高」と答えている。 また「濁点を半濁点に、半濁点を濁点に替え、面白い文章を作りなさい」みたいな出題には「上から読んでも下から読んでもしんぶんし」と回答していた。

クイズそのものに対しては当然不正解で、一見あたかも質問無視のような傍若無人な振舞いに見えるが、そうではない。 普通人とガッツ石松さんの違いは、脳が保持する時間軸にある。

彼は質問を無視しているのではない。 その証拠に一応回答しているではないか。 彼は出題文の一部のみをピックアップする形で捉え、それに答えた。 前者については「沖縄出身」、後者については「面白い(文章)」と言う部分をピックアップした。

人間の「個体差」の大部分は、脳に展開できる時間軸の差であることを痛感してしまう。 「理解できない」こととは、全体をボンヤリとしか掴めないのではなく、時間的な一部分のみしか掴めない、と言うことなのだろう。

分からなかったのであれば、それこそ言語などを全く解さない昆虫などのように、クイズそのものも無視すれば良いのだが、そうならない。 出題の一部分のみを捉え、反射的に回答してしまう。 これは人間の生体反応のような行動かもしれず、「展開できる時間軸が短い」と言うその人の脳固有の特性から生まれた、代償的な機能発達なのかもしれない(あるいはむしろ、「時間軸の展開可能な脳機能」の方が代償的発達である可能性もある)。 ガッツ石松さんのボクサーとしての強さの源泉は、もしかしたらそこにあったのかもしれず、物事の優劣と言うのが、容易に判断しがたいものだとつくづく思わされる。


4/8(水)

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影山リサ、ニューシングル「butterfly」、本日発売です。 上はスタジオで撮った写真。 以下、アーティスト本人から。


butterfly/eclipse

butterflyは、音の上を滑る様な感じで軽く歌いました。
蝶の持つ、ミステリアスな感じを表現することを念頭に置きました。

eclipseはふざけた感じの曲で、歌ってて楽しかったです。

これからしばらく連続して作品をリリースします。今まで歌ってこなかったような曲に挑戦していて、私の新境地ともいうべき曲たちです。 みなさん、是非聴いてみて下さい。

影山リサ





4/7(火)

明日発売の、影山リサ ニューシングル「butterfly」について。


1.butterfly

音(音色)に特化したものばかり作ってた時期があって、これはその時に作った作品の一つ。

普段作りかけの曲には仮タイトルってのをつけるんだけど、この手の音モノにはよく、シンセのプリセット名(あるいはその一部)をつける。 この曲も確か元はそうなんだけど、結局仮タイトルのままリリースすることになった。

正直言ってあんまし手間が掛かってないんだけど、気を使った点を強いて言うなら「和声音楽的にならないよう」気をつけた。 テクノとかそういう音楽にも一応トーナル・センターはあるので、それらも調性音楽でぐらいはある。 和声的な機能感とか進行感とか、そういうのを極力感じ取れないようなもの、を心がけた。

今聴き返してるんだけど、エフェクテッドなヴォーカル(ウェット音)が、ワブルっぽいベースラインにモーフィングして行くくだりとか、割かし事前の想定通りに上がったところかな。 まあでも、オモチャみたいな曲です。



2.eclipse

これも音楽っつうより音を作った感じ。 楽曲の構成なんかも実に単純。

曲作ってた時の記憶で思い当たるのは、調性音楽っぽくならないように心がけたってことくらいか。 だから、フレーズはあんましスケールに収まる感じのラインにしてない。 キッチリと12音にも収めてなくて、つまり微分音を多用しているんだけど、いわゆるマカームとかそういうのに則ったわけでもない。 要するに適当。

この手のトラックは通常の曲に比べ、オケ作りなんかはかなり簡単で、時間も掛からないのだけど、歌録りの後、Mix〜マスタリングの工程に手間隙がかかる。 この曲も例に漏れない。 まあそれでもトータルで見ても、普通の曲に比べたら全然お手軽ですけどね。 これのオケなんて、確か4トラックぐらいしかない。





4/6(月)

世界を見ることと自分を見ること。

この世界は何故存在するか。それはそれを認識する自己があるからだ。 我思う故に我在り。我在る故に世界在り。

もし自己が十全に確立されなかったらどうなるか。 当然人は世界を見られない。 見る主体が存在しないから。 観客がいないのに映画は見られないでしょう。

意識の備わっていない昆虫や鳥類、言語獲得以前の乳児などは、まだ確立された自己でなく、この世界、宇宙の一部である。 因みに、それらのうち、視覚を持つ者は映像記憶能を持ち、聴覚を持つ者は絶対音感を持つ。 皆さんは、これら世に言う「特殊技能」の本質的な意味がお分かりになるだろうか。 私は分かっているつもりである。同時に、自分が絶対音感保持者などで無かったことを僥倖に思う。


ミュージシャン志望の若い人とかを見る機会は(仕事柄)割りとあるが、その人が「音楽をやりたい」のか、あるいは「自分を見て欲しい」だけなのか、は区別している。 後者の作品に、見られる価値は(少なくとも音楽的な面においては)ほぼ無い。

言語機能が薄弱で、自己感が希薄な人は、世界を見ることが出来ず、中空に漂いつつ自分を見ている。 だから周囲の評価によって自分の価値が左右されてしまう。 もし、消えてしまいそうな人が、消えてしまいたくないのなら、持てる全てを尽くしてでもこの世界を見るべき。


4/5(日)

ゲイリー・ムーアとサンタナの曲、特にギター・インストは、その類似性が耳につく。 要するに、何だか似ている。

どっちかがどっちかをパクったとかそういうことでなく、人体とそれに合わせて設計されたギターと言う楽器、更には音楽と言うもの自体の生理と言う、諸々の構造的な制約がそういう現象を生む。 当然生む。

音楽ってスポーツでもあるから、メロディーなどを手癖で作る人も多い。 さだまさしさんはヴァイオリニストだそうだが、如何にもそういうメロディーラインを書く。 「曲なんて出尽くしている」とか軽々しく言う人には、一旦思考のみで作曲されることをお薦めしたい。


4/3(金)

いわゆる(西洋音楽的概念としての)拍子について。

小学校の音楽の授業で、初めて「拍子」について習った時、私は率直に「随分画一的で硬直したものだな」と思った。 義務教育の音楽科は、事実上「西洋音楽講座」なわけだけど、西洋音楽の明晰性は、ある面においては柔軟性に欠けるものに映らなくもなかった。

当時の私に、雅楽などの非西洋音楽の知識なんてある筈もないが、確かにそう感じたのだから、本来人間の本然に即した拍節感ってのは、もう少々曖昧さを許容するものなのではないか。 西洋音楽ってのは、高度かつ普遍的であるが、同時に実に人工的である。 如何にも人間の脳の産物と言う感じで、当然だがこの辺り、西洋言語と酷似している。


雅楽を含む日本の固有音楽には、三拍子がほぼ存在しない。 少なくとも私は例を知らないのだが、童歌の類まで含んだ俗楽に皆無である。 雅楽には夜多羅拍子と言う五拍子のようなスタイルがあるが、それも多少間延びした四拍子と言うのが実体に近く、2+3や3+2等の三拍子系の変拍子ではない。

日本音楽に絶無と言えそうな三拍子、余程に体系化の末にでなくば生まれてこない様式なのかと思ったら、なんと驚くべきことに、朝鮮半島においては固有音楽のほとんどが三拍子であると言う。

日本語と朝鮮語は類縁関係にあり、大雑把に言えば兄弟のような言語である。 因みに中国語は全く系統を異にする。 医学・生物学的なことはよく分からないけど、日本人と朝鮮人なんてご親戚のようなものだろう。 その二者の文化的所産である音楽に、これほど決定的な違いがあると言う。

私はある時期、この事について熟考していたのだが、未だに結論が出ない。 文化・民俗なんてものは、通常考えられているほど必然的でないのかもしれない。 あるいは、何事を発端としてある必然が生じているのかってのが、我々が容易に気付けるほど単純ではないのか。


4/2(木)

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自分を「面白い」と思ってる人って(特に男に)多いが、面白いってどういうことなんだろう。

面白さって概念は、一般的にはそんなに細分化されてないない。 だから「ギャグなどのレパートリーを持つ人」と「モノの見え方や感じ方が特殊な(面白い)人」との区別なんて当然のように付いていない。


私が今回考えていたことは、「面白さ」ではなく、「私って面白いでしょう?」とウケを狙って何らかのアクションを起こす人についてである。 この手の人って、ほぼ例外なく鬱陶しい。 事実面白いかどうかにこれは関係なく、実際の言動がたまたま面白かったりすれば、多少この鬱陶しさが相殺されて結果軽減するだけである。

職場や学校などの、共同生活の場で「ギャグを飛ばしてくる人」は、相手に何らかのリアクションを要求している。 相手が笑えば彼は面白い人になり、そうでなければ彼は面白い人になれない。 つまり自分の評価を相手に委ねている。 依存である。 だから鬱陶しい。


浮世に売れるコメディアンとそうでない人がいるように、人を面白がらせる能力に個人差は歴然とある。 でも結果的に面白い人であっても、それは「俺は女に頭下げて付き合ってもらってるんじゃなく、女をいてこましてるんだ」と言ってるようなもので、女と言う外部要素なしに成立しない何事かを抱えている時点で、その人は脆弱である。 この事実の前には、どれだけ面白いとかってまことに無力だ。


私と言う人はいわゆる「面白い人」か。 こんなこと実にどうでも良い。 私は、私が楽しめる「面白いこと」を日々探してはいるが、私自身が面白いと評されるか否かなど気にしてもいない。


4/1(水)

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神田優花、ニューシングル「Forever one」、本日発売です。 以下、アーティスト本人から。


Forever one/Lonesome Queen

Forever Oneは幸福感を大事に歌いました。
ずっと探していたものを見つけた気がした時の一瞬。この時がずっと続けばいいと願うほど幸福なのに、失う予感に泣きたくなる。
一音でも何となく歌っていい音なんてないと、強く思ったレコーディングでした。

Lonesome Queenはメロディアスで、私の最近の曲の中ではもっともキャッチーな曲だと思います。それだけに、今の神田優花だからこそ歌える歌を!!とレコーディングにのぞみました。
どちらの曲も大切な私の今がつまっています。
是非聞いてください。

神田優花





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