Staff diary  
スタッフ日誌[2015]

[文 / 益田(制作)]

3/31(火)

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クラフトワークは如何にもドイツ人って話を過去にしたような気がするんだが、本当にそう思う。 あの商品の商品性の核と言っても過言でない。 吉幾三さんは東北(青森県)出身なわけだが、あの人が例えば神戸や横浜の生まれだったら、あの商品性(逆ブランドイメージ)は台無しだったはずだ。 と言うか、そんな歌手存在すらしてなかったろう。


3/30(月)

桜が満開なようで、見ず知らずのオバさんに「桜が綺麗ねえ」などと話しかけられてしまった。 またそこで、桜の綺麗さについて考えた。

日本を象徴するかのように思われている桜、その代表格であるソメイヨシノは比較的最近定着した種であるらしい(江戸末期に開発され、全国的に広がったのは明治以降と言われている)。 しかし、桜やそれを愛でる習慣自体は昔からあったようで、例えば百人一種などにも「八重桜がどうした」みたいな歌はある。


古来日本人は、桜を美しいとしてきた。 でも桜って本当に美しいのか。 「美しいとされてきたのだから、美しいに決まっているじゃないか」と言う感覚は蔓延しているはずだが、何かを美しいとすることも文化である側面が大きい。 例えば、日本人が満月を美しいとすること一つとっても、唐詩などの影響が大きいと思われ、現にアメリカ人には月を美しいと思う感覚が希薄であるらしい。

花を美しいとするのは、程度の差こそあれ、おそらくは人類普遍に見られる感覚であろうと思われる。 何故か。 それは分からないけど、万人が美しいとするのだから、きっと本能的な感覚なのだろう。 そもそも中生代・白亜紀になるまで地球上に花は存在しなかった。 昆虫は花に群がるが、昆虫を群がらせるために後から花は生まれた。

人間の性欲に付け込んだ商品は数多あるが、そこに金を落とし続ける人や、いわゆる性犯罪者などは、つまりは性欲と言う宿痾の奴隷なだけである。 我々人類は、花を美しがってはいるのだろうけど、同時に、花に美しいと思わされているのかもしれない。


花を好む感覚は、おそらく我々人類の(もしかするともっと広く動物全般の)深い階層に刻まれた本能。と言うか花とは、その本能的感覚に付け込んだ形質(美)を体現した物体。 更にそこに文化的な付加価値まで加わっているから、その美はほとんど揺るぎない。 でも、私と言う精神が、その理性が、それを本当に美しいと感じるかどうかはあくまで別問題。


3/29(日)

神田優花、新作「Forever one」、カップリングの「Lonesome Queen」について。


2.Lonesome Queen

ちょっとJ-POPっぽい曲。 神田優花のある面でのイメージには沿っているかと思う。 珍しくフェイドアウト。

あんまり時間掛けた記憶がない上に年単位で寝かせておいた曲なんで、ちょっと聴くが薄れている部分があって、コメントが浮かばない。 アレンジとか、今聴くと所々詰めの甘さを感じなくもないな。 でもそまあそういう荒削りな部分を楽しんでください。 歌は悪くないですよ。





3/28(土)

神田優花、新作「Forever one」、タイトル曲「Forever one」について。


1.Forever one

バラード。考えてみるとウチとしては少ないタイプの曲かも。 アレンジはPOPS的だと思う。

大部分がシンセ系の音で、神田優花にしては珍しい編成。 全編通してエフェクティブで、ハーモナイズド・ディレイなんかをはじめ、複雑なディレイをかましてる。何系統も。

この曲、個人的にも好きなんだけど、音響面以外について言及できる部分って少ない。 聴いて何かを感じてください、ぐらいしか言えないわ。





3/27(金)

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神田優花のニューシングル「Forever one」、来週発売です。




3/26(木)

スタジオにて。

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3/25(水)

慰安婦問題について、あれこれ考えていたらムカついてきたので書き残す。

既に学問的にはほぼ決着のついた話なんだろうと思うが、政治的には解決していないらしい。 事ある毎に韓国政府がこれを蒸し返す。 韓国政府が悪いっつうより(無論悪いんだが)、これは日本人・日本政府の責任だろう。

私は元慰安婦だった人らにはある程度同情する。 大変だったろうと。 でも全員が被害者だったとか言うと言い過ぎである。 やむなく娼婦となった人もあり、また好んでその生業を選んだ人もいた筈。 貧困と無縁の現代においても、その手の仕事を選ぶ人がいるのだから当然だ。

私がムカついているのは、女性だとか性の問題だとか言えば周囲はグウの音も出ないとばかり思い込んでいる輩に対してだ。 ああいう奴ばらこそ人間を軽んじている。

女だとか子供だとかに変に気後れしてしまうオッサンとかよくいるが、それは要するに自分が子供だったことを覚えていないし、女なんてのが同じ人間に見えていない証拠なんだ。 昔風俗で働いていた婆さんぐらい何だっつうんだよ。 それが原因の後遺症とかで、生活に深刻な支障があるとかいうわけでもなし。アホ臭い。 もし元慰安婦とやらに今、金が必要な事情があるとしても、それはその人が慰安婦やってたこととは無関係だ。


70年も前に終わった戦争の話である。存命中の当事者すらもう何人いるか。 私は70年と言う時間を経験したことは無いが、子供の頃のことぐらいならある程度覚えている。 誰にだって、子供の頃の嫌な思い出の一つや二つあろう。 もしそれについて「今あの話を蒸し返したら、何らかの利益(金に限らない)が得られますよ」などと唆す人間がいたら、それは友とすべき人間じゃあるまい。 本当にその元慰安婦とやらを愛する人なら、「もっと楽しい明日を探そう」ときっと言うだろう。 偽善者どもが。


「何と言おうが、韓国世論は本当に憤慨している。だからこそこの問題は解決すべきだ」と言う意見、これ本当かしら。 単につけ込まれているのか、本当に相手を傷つけているのか区別できない人こそ、要は他人の気持ちが解らぬ人間である。 韓国には「この問題をカードにすれば相手は怯む」と思われているだけである。

依頼心の強い者は、しばしば相手に罪悪感を持たせることにによって物事を有利に運ぼうとする。 彼らが自身の行動原理を、そのように総括しているかどうかはさて置きね。 こういう相手への対処法は、とりあえず無視するしかない。 その戦法が「通用しない」ことを、身をもって知ってもらうしか。

慰安婦問題があったから日韓関係は拗れたのではなく、捻じ込む口実として慰安婦問題が選ばれただけ。 選ばれた理由は、一見解り易いから。 アホが怯むから。

「善隣友好こそ優先すべきである」、これも本当かよ。 友情の成立には、相手の質も当然問われる。 世の中には「仲良くなってはいけない相手」だっている。 常に中庸に寄りたがる人は、自己に自信を持てないだけ。 敵を作れない人間こそ、胡散臭い奴なのだ。 自らを律する基準を持たぬからそうなる。 そいつらこそ、最後の最後で保身の為に他人を見捨てるだろう。

野党とか、それ寄りの言説を好むメディアとかも、もうこの話をネタに揺さぶりをかけるのは本当に止めた方がよろしい。 人間としての品性を疑われるぞ。 事実韓国人とか、もう多くの日本人からこの「品性」こそを疑われているではないか。マトモな人だってたくさんいるだろうに。 今後いくら騒いだって、日韓基本条約を無視して更なる賠償とかとかって話に発展するとも思えず(日本の世論がそれを許すまい)、誰にとっての得策でも無い。


3/24(火)

時間ってのは人間の意識の中にある、意識の中にしか存在しない、って話をここで何度かした。

分かり難いかもしれないが、時間ってのはつまりは印象である。 次から次へと目まぐるしく変わる状況を保持する脳機能。言語とおそらく濃厚に関連している。 過ぎた時間と言うのは、過ぎてしまった以上、目の前には存在せず、全てそれらの正体は印象なのである。

印象化が不得手な脳は、要するに時間を保持できない。 ついでに保持される時間と言うのは、必ずしも実時間ではない。 二時間の映画は、脳内に印象として一点に圧縮されている。

もう少し敷衍する。 夏休みって大体一月以上あったりしますよね。 夏休みと言われれば、各々は自らが持つ夏休みの印象を意識の中にロードする形を取る。 印象の精度が各自違うので、夏休みのイメージは各人、物凄く違う。

ある人は、その一月以上の時間を、目の前にありありと存在する現実として一瞬に味わえる。場合によっては永遠すら一瞬かもしれない。 またある人には、一月と言う時間は長過ぎて、十全に印象化(無論再生も)できない。 旅行やデートなんかを際限無く繰り返すカップルとか、それらの経験を印象として保持できないのだろうと思われる。

最悪の場合、例えば昆虫とか魚類は、この印象の構成・保持が絶望的にできない。 だから彼らの中に時間は当然存在しない。 変化し続ける環境を留め置くことが全くできず、つまり彼らは、流れて消えて行く時間そのものであるとも言える。


私の中にある夏休み(と言う一点の印象)を、誰かに伝えようとするなら、どうしても順を追っての説明になる。 「このように始まり、こういう経過をたどって、このように終わる」と言うように。これがつまりは時間上への展開である。 圧縮された印象を伝えるには、どうしても時間軸が必要になる。

私にとっての音楽とはこれなのだ。 誰かに説明するための媒体でもあり、またその誰かとは時に自分自身をも含む。


3/23(月)

ある有名なコメディアンを見ていて思ったこと。 その人は若い頃天才とまで言われていたし、ピカソの再来だとか評している人もいたようだ。 事実私も、面白いと思っていた。

しかし今、その面白さは見る影も無い。 今のその人は、常に何かに怯えたような不安そうな顔をして、過去にウケた自分のスタイルを一生懸命模倣しているように見える。 事実、大昔にとある番組で喋ってウケていたのと同じ話を、別の番組で(心細げな顔で)喋っている姿を何度か見た。 何かを「面白い」と感じることは出来なくなっても、「周りが面白がってくれた」と言う記憶はあると見える。

テレビ業界は現在、彼の過去の実績部分に目が眩んでいるようで、彼にコンテンツ上の大役を任せ続けている。 もうその任に堪える能力が枯渇していることは、素人目にも明らかなのに。 実際視聴率なども、昔ほど取れなくなっているに相違なく、その状況は今後大掴みには加速して行く一方に違いない。 まあテレビ番組ってものの構造上、一タレントの能力と数字は、直接の比例関係にならないから発覚し難い面もあろうか。

入れ物こそ過去のその人であるが、現状中にあるプログラム(つまり精神)は、もう過去とは全くの別物となっている。 そしてその過去の精神状態は、決して戻らない。 似たようなケースは、我々の日常の中でも時折見られる。


昔、もう十年以上前だと思うけど、あるテレビの企画で、若手無名芸人らに一旦その有名コメディアンの前で芸を披露させて、その後そのコメディアンについ先ほど見たその若手芸人らの名前(芸名・グループ名)をどれだけ記憶しているか問い質す、ってのがあった。 一種のクイズのようなものである。

驚いたことにそのコメディアン、ほとんど壊滅的と言って良いほどに若手芸人らの名を覚えていない。 僅か数十分くらい前に芸を披露された際には、一々大笑いしていたにも関わらず。 つまりインパクトが薄かったのではなく、記憶として名前などの情報がアタマの中に残っていなかった。 彼がどのような脳の状態にあったか、を推し量るよすがになるエピソードだ。


若い頃の彼の喋りを眺めていると、次から次にバカバカしいことを口にし、時に歌を歌い出し、踊りを踊り出す。 まるで小学校のクラスいた、お笑い担当のひょうきん者のように。 また、同年齢の普通人なら口にするのも憚られると思われるような、家族や自分の性癖・性遍歴などを、恥ずかしげも無く全国に向けて平然とぶちまける。

普通人にそれが真似できないのは、誰もが自分の存在を背負っているからで、精神と生身の自分が切り離せない以上それは仕方ない。 そのコメディアンは、まるで幽体離脱しているかのように、自分のことすらも笑えた。 つまり、生身の自分と精神が乖離していた。

羞恥と言うのは論理に因る。 幼児が裸で走り回れるのは、羞恥と言う論理が成立しないからである。 上のコメディアン、本当にそういう脳の状態だったらしい。 確かに良い大人がそんな風に振舞うのは、見ていて面白いし、多くの人にそれが真似できない以上、才能と呼んでも差し支えないと思える。

しかし彼は大人になってしまった。 昔やれたバカ話が、今はもうできない。 それを恥ずかしいと思える程度の論理性が育ってしまったから。 その人は、比較的最近になって急に(必然性の薄い)結婚をしたり、笑い以外の分野に手を出したりしているが、それらの行動は、きっと全てこの精神状態の変化に由来している。


お笑い担当の小学生が、大人になって行く、ならざるを得なくなるその理由の大きな一つは、自身の振舞いを容認しない圧力を周囲から感じるからであろう。 級友は時が経つにつれ、皆大人になって行く。 いつまでも子供の裸踊りに抱腹絶倒してはくれない。 無論それは、そこに気付くだけの言語力の獲得と密接にリンクしている。

もし、その小学生の周りに、その振舞いを手放しで歓迎・賞賛する空気や、あまつさえ高額なギャラの保証まであったなら、その子の成長は結果としてかなり遅れたろう。 そのコメディアンが結果的に、結構な年齢に至るまで、上の振舞いができた理由の多くもそこにあろう。


笑いに限らず表現ってのは、世に受け入れられる条件として、作者の(精神的)強さと言うのが実に巨大となる。 何にも臆せず、堂々と笑いを取りに行き、面白いと感じるものを笑う人、これは強い。 だから若かりし日の彼は周囲を圧した。

だが、怖さを乗り切った人と、恐怖を感じ取れるだけの論理が構成されておらず、結果として怖くない状態にある人、ってのは似ているが全く違う。 後者は要するに配線の途切れた装置で、酔っ払いがヤクザにでもケンカを売れるようなもの。 それは精神の強靭さでは決してない。

ピカソの語録に「他人を模倣することは時に必要だが、自分を模倣するのは哀れなことだ」とある。 彼はピカソではなく、いわば年を取り過ぎた小学生だった。


3/22(日)



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影山リサ。 4/8(水)にニューシングル「butterfly」が発売されるんですが、その次の週4/15(水)には、その次のシングル「Fireworks」を発表します。 下はそのジャケット。 影山リサは4月から5月にかけて、ほとんど毎週のように新作をリリースする予定です。お楽しみに。




3/21(土)

自由に価値を置くなら、Aさんの自由とBさんの自由は抵触しないのか。 これは当然噴出しうる疑問。

だが、決して抵触しない。 本当の理性に裏打ちされた自由なら、それらはきっと鬩ぎ合わない。 自由の果てに見えてくるものには、「他人の心」も含まれているから。

この世界に生まれうる争いと言うのは、自由と自由とのそれでなく、実は自由と不自由とのそれなのである。 教祖様の命令だからとて、地下鉄内でサリンをバラ撒く人らって不自由でしょう?


3/20(金)

音楽は難しい。美は容易でない。 それは即ち人間が難しいということ。 創作物は人間の思考から生まれ、人間の思考が受容・解析する。 そのプロセスは複雑極まりないもの。

私の作る作品が、それを聴く人に十全な形で受容されるだろうか。 現実的に考えて不可能だろう。 私と他人とでは、言語演算のアルゴリズムが同じでないから。

各人の脳機能が唯一であるから、つまりは私の作る作品は、私にしか解らないということになる。 私に近い人であればあるほど、近い形で受容できるには違いないが。

では私は、作品を通じて何を伝えられるのか。 それは私が誰かを愛したこと。多分それだけ。


3/19(木)

最近よくスーパーなどで採用されている、セルフレジってヤツが私は好きで、よく使う。

何故好きかと言うと、例えば後ろで順番待ちをしている人や、レジを担当する店員の心を感じずに済むからだ。 時間をあまり気にせず小銭などを使える。

もし私が、人の心を感じない人間であったなら、一々バーコードをスキャンする手間すらも他人に委ねたいと思うかもしれないけどね。


3/18(水)

スタジオにて。

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夢路いとし・喜味こいしの漫才が私は好きである。 どちらももう故人であるが。

昔(存命中)から好きだったけど、今もCDを聴いたりネットに上がってる動画を見たりする。 たまに涙が出そうになる。

好きな理由を詳細に説明するのは難しいが、彼らが生涯現役であったことはその確実な理由の一つである。 彼らは確か、70年近く漫才師を続けたはず。もうそれだけでも見る価値がある。

何かが好きである、だから結果としてそれを続ける。 人はたったこれだけのことが容易に為し難い。 口にする「好き」が、しばしば嘘、あるいは真剣味を欠くものであるが故にそうなる。 死ぬまで漫才を続けた人間を見るだけで、私の心は何がしかの安らぎを覚える。


「私は定年まで会社を勤め上げたぞ」と言う人はいよう。 でも、何かを続けることと、判断を回避し続けること、は(結果出来する事態こそ似てはいるが)違う。

彼らが駆け抜けた半世紀以上の時間は、おそらく日本史上(もっと言えば人類史上)この上無いほどの激動の時代だった。 目に映る世界は目まぐるしく変わり続けたろうが、彼らは最後まで漫才を続けた。 たった一つ、変わらないものが心の中にあったからに違いない。

天才の条件、それはこの「たった一つ」を心に宿すこと。


3/17(火)

ドイツのメルケル首相が訪日中、民主党の党首と会談したらしいんだが、そこで交わした内容が物議をかもしていると言う。

また例の慰安婦問題についてなのだが、その党首さん曰く「会談中、メルケルさんは慰安婦問題の解決を促した」らしい。 が、政府筋(官房長官)が言うには「メルケルさんから、その件について特段の意思を表明するつもりは無い」との連絡があったそうな。 ここで「言った言わない」の悶着に発展している。

実際に何て言ったのかなんて、その場に居合わせた人以外分かる筈もない。 が、官房長官が言うように、後日上のような連絡があったのなら、政治的な立場はハッキリしている。 「本当に言ったんだもの」なんてのは野暮だ。 政治って多分そういうものでしょう。

政治家なんていう、高度に人間の機微に精通しなくちゃならない仕事をしてる人なんだから、目の前の人間の求めている発言ぐらい、かなりの部分斟酌できるだろう。 だから会話の流れによっては、リップサービスも当然混ざりうる。 今回の件がそうだったのかは知らないけど。 あと、私はこの辺の慣習に疎くてよく分からないが、この種の発言の扱いに、ガイドラインのようなものって無いの?

メルケルさんの真意がどこにあるか、なんてのは本人以外が断定できる筈もない。 でも、政治的な立場ってのは既に表明しているわけで、これはどう考えても終わった話だろう。


3/16(月)

影山リサ。こっちもレコーディング。 編集大変だ。

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ミュージシャンとアーティストって、割りかし混同して使われることの多い用語で、日本語にするなら音楽家と芸術家。 両者の定義は、重なる部分こそあるのだろうが、完全に同じでは無論無い。

世間で割りと一流として扱われているミュージシャンでも、アーティストとしての適性を著しく欠く者だっている。 ミュージシャンとしての適性が、運動神経のようなところにもあるからだろう。 アーティストに不可欠な能力は言語。 この差は大きい。


いわゆるミュージシャンを見ていて、私は「この人は自分と同じ道の上を歩いていない」と感じることが多い。 私とその人の、どちらが前にいるとか後ろにいるとかそういうことでなく、そもそも同じ道の上にいない、と感じる。

でも逆にミュージシャン以外、例えば画家だとか学者だとかを見ていて「この人は同じ道の上にいる」と感じることだってある。 この辺りに詰まるところ、ミュージシャンとアーティストの違いってのが集約されているのだと思う。


3/15(日)

神田優花。 また二曲も録った。

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私はいわゆるクラシックがあんまし好きでなくて、普段もほとんど聴かない。 しかし、クラシック音楽にはそれなりの歴史があるので、研究しがいってものはある。

使ってみたくなる書法だとか、書法と言えないような些細なアーティキュレーションみたいなのが山ほどあって、色々と採用したくなる衝動に駆られる。 まあそれだけ極めようと思っても一生かかるような代物かもしれないんだけどね。

上の感想は、概ね管弦楽についてのものなんだが、管弦楽の編成って別にクラシック音楽に限ったものではない。 ディズニー物なんかを代表とする、いわゆるカートゥーンのBGMだとか、ミュージカル系に使われているそれは、クラシックの亜種ではあるのだろうけど、様式としてはクラシックとは別物と思える。 エンターテインメント用途に特化した管弦楽って感じなのだろうけど、本来のクラシックとそれは、二大体系かのように思える。

私は今、そのエンターテインメント特化型の管弦楽ってのを作ろうと思っていて、色々と書法を研究している。 既にいくつか試しに上げてみたものもあって、発表済みのものもある。 未発表のものや今作ってるものは、多分来年くらいには出せます。


3/14(土)

ちょっと前に、いわゆるアル中(アルコール依存症)患者の書いた手記(実録)みたいなのを読んだ。 矯正施設(隔離病棟)でのリハビリ生活など、なかなか面白い話満載だった。

アル中で施設に入れられた筆者は、カウンセラーから最初にこう説明されたそうだ。「アル中は決して治りません」と。更に「アル中が治ると言うのは、一旦スルメになったイカが元のイカに戻るようなもので、それは事実上不可能です」と。

私に医学的知識こそ無いが、これは全くその通りであろうと容易に想像がつく。 何故なら、アル中と言うのは体質と言うより世界観だろうからだ。 その人がその人である限り、世界の見え方は容易に変わらない。 変わることがあるなら、それは奇跡と呼ぶべき現象であろう。

アル中は治らない。 だから矯正などと言ったところで、できることと言えば「酒に手をつけない時間をどれだけ長く保つか」でしかないと言うことだ。 一度でもまた酒を口にしてしまえば、全ては元の木阿弥。 世界の見え方が変わらない限り、アル中は治らない。 世界の見え方が変わると言うのは、その人が別人に生まれ変わると言うこと。


私はこの仕事をやっていて、上の事実に素直に合点が行くようになった。 音楽とかも本当に同じで、奇跡を起こせるかどうかは、その人が自分の未来をどれだけ発展的に思い描いているか、に尽きる。 想像できることこそ現実で、できることとは、できると思うことに他ならないのだ。


3/13(金)

神田優花。 今年発売の4thフルアルバムが既にマスタリング済みで、今は諸々の作業に一区切りついた感があるのだけど、相変わらずハイペースで曲を作り続けてます。

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既にお知らせしてますけど、神田優花は、来月一日に次のシングル「Forever one」を発売します。こちらもよろしく。




3/12(木)

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無知とは何か。

私は日頃、インターネットを使って調べものをすることが多いのだが、ネット上の質問コーナーみたいなのところ(掲示板など)には、ある質問に対して「そんなことも知らないのか」とか「その程度のことすら知らないんなら諦めた方がいい」などと、質問者を見下すような書き込みが多く目につく。 あれは何なのだろう。 因みに、大抵その手の書き込みをしている回答者は、質問そのものには答えていない。 基本的に愛に欠ける人物が多いようだ。

確かに質問の中には、「そんな初歩的なことぐらい自分で調べろよ」と言いたくなるようなものもあるのだろう。 すぐに何でも教えてもらいたがる依存心が鼻につくとか。 でもそれにしたって、教えたい気分にならないのなら無視しておけばよく、別にあえて罵詈雑言を書き込む必要は無い。 彼らの行動の根には精神の脆弱さがある。 世界に対する不満がああいう形で噴出してしまうのだろう。


やや話が逸れた。 誰かの抱えるある疑問について、仮に自分がその答えを知っていたとしても、その一点をもってして「コイツは自分より無知だ」などと優劣を決め付けるのは早計である。 その軽率な判断こそ、物事を総合的に理解できない(つまり無知である)が故に起こっている。

例えば弁護士は法律のプロだろうが、無数にある法律のうちの、とある法律のある条文について、弁護士よりも詳しい素人はいくらでもいるはずである。 ある弁護士が「○○法○条○項について、私は不案内だから教えて欲しい」と思うことぐらい現実にいくらでも起こりえるはず。 それについてたまたま詳しかった素人が、その一点のみを見て「そんなことも知らないようなら法律家なんて諦めろ」と言えてしまうなら、その人こそ諸価値を統合できない人で、それが即ち無知なのである。

諸価値の統合、それは条文の記憶などと言う表面的なタスクより余程に難しい。 孔子曰く「知らざるを知らずと為す是知るなり」。 まさにそうなんです。


3/11(水)



Listen Radio」って言うネットラジオ局があるようで、失礼ながら私は最近まで知らなかったんだけど、何やら影山リサの楽曲をオンエアしてくれているみたいです。 楽曲使用料の明細が上がってくることによって初めて知ったんだけど、多い時は月に100回以上とか、結構なヘビーローテーションで回してくれているようだ(あるいはダウンロードサービスとかを持っているのかもしれないけど、その辺はよく分からない)。

DTPとかやってる人なんかは仕事中にラジオとか聴いたりするらしいんだけど、音回りの作業とラジオ(音情報)の並行処理はちょっと無理。 私も普段仕事中にラジオは聴かないんだけど、聴くって人がいるのなら、こういう媒体が存在しているみたいです。 チェックしてみては如何でしょう。

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因みに、上記メディアにてオンエアされている楽曲は、専ら「Sweet Smell Before The Rain」であるみたい。 これは現時点での影山リサの最新作なんだけど、来月には次のシングル「butterfly」もリリースされます。 こっちも是非聴いてみてくださいね。




3/10(火)

「逆ギレ」と言う言葉を聞く。 本来なら謝らねばならない(相手に怒られるであろう)場面において、自ら憤慨していると言う、おかしな人間を形容した言葉。 しかし、実際にそういう人がいるからこそできた言葉ではあるのだろう。

何故に彼は逆ギレするか。 それは世界観がおかしいから。

自己が確立されてさえいれば、例えば約束の時間に遅れた場合、人は「相手を待たせて悪い」と感じる。 申し訳ないからしばしば萎縮してしまう。 相手を待たせて悪いと感じるのは、待たされた相手の気分が理解できるからである。

しかし、相手の気分を感じられる程度の言語力を持たず、罪悪感を感じられるだけの自己(良心)が無い場合、人は相手に対して悪いなどと思えない。 過去「そういう行動を採って非難された」と言う経験だけは無数に記憶にあるので、「こう言う場合、(謝りたくもないのに)謝ったりせねばならない」と言うことだけ知識として知っている。 つまり、ただ単に「自分は悪者にされた」とだけ思い込んでいる。

だから彼は、本音を言えば「ムカついている」。 心の中でムカつきつつ、目の前の相手に(怒りを抑えながら)アタマを下げる。 ここで怒りを抑えることを放棄した場合、人はいわゆる「逆ギレ」状態になる。 これが逆ギレの正体。メカニズムが分かったところで、そういう人って碌な人間じゃないんだけど。


3/9(月)

「三丁目の夕日」(西岸良平作)って漫画は、登場するキャラクターの一部に、実在の人物をもじった名をつけている。 例を挙げると、茶川竜之介や古行淳之介など。古永小百合ってのも確か出てきた。

お分かりかと思うが、作者は「字形」こそをもじっている。 「ずうとるび」はビートルズの音をもじっているから、字幕なしのTVや、それこそ音声のみのラジオでも、(何のパロディーかと言う)その意図が汲み取れる。 「三丁目の夕日」は一時期アニメ化までされたらしいが、かなり早い段階で打ち切りとなっている。 あくまで漫画と言う表現手法にこそ向く作品、と言うことなのだろうか。 確かに音で「ちゃがわ」とだけ言われても、何のことだか分かりにくいものね。 毎度字幕入れるわけにも行かないだろうし。

「字形をもじる」と言うのは、おそらく作者の脳の情報処理プロセスに由来している。 西岸良平さんはきっと文字情報を読み下す際、大部分を形状で処理しているのだろう。 大多数の人がどうなのかまで分からないが、少なくとも私とは違う。

作中出てくる茶川氏が、芥川をもじった名を持つキャラであることがアニメでは分かりにくい。 これはこれで事実だろうが、そういう顕著な部分だけでなく、「処理プロセスが一般(テレビ)的でない脳から生み出されている」と言う根本原因は、作品の至るところに影響を及ぼした筈で、放送が続かなかった原因の一つは、詰まるところそういうところにあるのではないか。


日本語は漢字仮名混じり文と言う、世界的にも稀有であろうハイブリッドな形態を持つ。 漢字と言う一種の象形文字と、仮名と言う、まるでアルファベットかのような表音のみを目的とした文字が混在している。 医学的なことなんかは私には分からないけど、きっとかなり複雑な処理アルゴリズムであるに違いない。


3/8(日)

大正琴について。

今ちょっと、過去の音源のリメイクみたいなことをやってて、ある曲のバッキングに大正琴の音を加えようと考えている。 そこでその構造・奏法について調べを入れてみた。

6弦構成の弦楽器で、うち4本が旋律弦、2本がドローン弦であるそうだ。 チューニングは全てG(オクターブ違いを含む)だそうで、当然この構造では演奏に向く調が限られる。アンサンブル楽器としての想定は薄いのだろう。

旋律弦の音域は(モノによって多少の幅はあるそうだが)通常2オクターブ程度だそうな。 あんまり幅広い音楽表現に向くとは思えない。

その名の由来にもなっているのだが、この楽器、大正元年生まれであるそうで、以来大変流行したらしい。 また、小泉文夫曰く「唯一の日本起源の楽器」だそうだ。 確かに言われてみれば、音楽学者がそう言いたくなるのも分からなくもない。 私は、構造がハーディーガーディーに似てると思ったりしたけど、出音のニュアンスを含め、それともかなり違う。

大正琴は、森田吾郎と言う人物が発明したと言われているが、まあ中々思い切ったものを作ったものだ。 因みに、太古には(これも日本起源と言われている)、いわゆる和琴(一弦琴)ってものがあったが、構造・奏法ともに大正琴に似ている気がする。 基本的に日本人は、ああいったタイプの楽器を好むのだろうかね。


3/7(土)

敵とは誰か。

人類は長いこと争ってきた。 無論、今も争い続けている。 対立の軸は、例えば民族や宗教と言われていたりする。 遥か昔には、人類とそれ以外の動物、とかも対立軸と見做されていたかもしれない。 して、最後に残る(つまり最大の)対立軸とは何か。

それは良心を持つ者と良心を持たぬ者だろう。 ハッキリ言って後者を何と呼んで良いか分からない。 人の形をした何か、というべきもの。

キリスト教なんかでは、人間には良心が生来備わっている、みたいに割かし楽観的に捉えられているが、実際はそうではない。 良心を持たぬ人間は(特にこの社会においては)大量に存在する。

例えばもし刑法など無かったとしても、人を殺したいかと問われたら、多くの人は殺したくないだろう。 殺人なんてむしろ嫌だから、極力避けたい行為であるはずだ。 自分と同じように精神が備わっている存在を、この世から積極的に消したいはずがない。

ところが、良心が備わっていない人間は、場合によっては他人を殺したい。 何故なら時に邪魔だから。 殺してはいけない、殺したら罰せられる、と教わっている(脅されている)から当面殺さないだけ。 その箍さえ外れれば、彼は容易に悪魔になれる。

上の「殺すな」と言う脅迫のことを、この国では教育と呼んでいる。 本来教育とは、生来人間に備わっているとされる良心の、その正体・良心に因る動機の根拠を教えることである筈だが、精神の前提が違い過ぎるとそんな教育は用を為さないと見える。


人類最後の敵は、良心を持たぬ者である。 実際もう既に現実社会においても、大抵の現場ではそうなっているはずで、大多数の普通人の頭痛の種はソイツらであったりするに違いないのだが、ほとんどの人が良心の有無に軸を置いて捉えないから、そのような認識が共有されていないだけ。


3/6(金)

スタジオにて。

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何を誇りとすべきか。

「私は○○大学に合格した」・「○○賞をもらった」・「倍率の高い入社試験を通った」・「結婚を申し込まれた」など、人は何かに選ばれたことをしばしば矜持とする。 確かに、好かれることは、嫌われるよりは良いことだろう。 でも私は、そんなことを誇りとは思わない。

一流企業の採用担当者などは、自分だけが一方的に人を選んでいるものとばかり思い込んでいたりする。 実は選ばれていることさえ知らずに。 我々もたまにオーディションとかやったりするから、ある意味「選んでいる」わけだが、応募してくるみんなの選んだ人生と、同じように我々の意思・選択があり、双方が重なったり、あるいは重ならなかったりするだけ。 本当にそれだけ。

私はこの先、例えば音楽家として如何なる栄誉に与ろうとも、私の誇りはそこに無い。 私の誇りは、何に選ばれたことよりも、私がこの生き方を選んだこと。


3/5(木)

広瀬沙希、新曲の詰めの作業に入ってます。 今作ってるのが上がったら、新作(全2曲)のリリースを予定してます。

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ここ数年くらいか、よく聞く言葉(音楽制作用語)に「ワークフロー」ってのがある。 「作業の流れ」と言った程度の意味合いかと思われる。 まあ音屋の間でこそ使われるが、一般的には耳慣れぬ用語だろうけどね。

私は、普段の音楽制作の作業の大部分をワークフローだと何故か感じない。 ある特定の種類の作業に対してだけなら感じなくもない。 ループ素材を貼り合わせるとか、数小節単位のブロックを組み立てる、みたいな作業に対してのみ「ワークフロー」を感じる。 言葉の定義感覚の問題なんだろうけど、区別しないと気持ち悪いのだから、私の中で両者(音楽制作とワークフロー)は違うものなんだろう。


十代の終わりの頃だったかに、私はシーケンサー(単体機)と言うものを初めて購入した。 既に基本的な思想において、現行のモノとほぼ変わらない代物ではあったが、細部においての違いは、当然ながら幾つもあった。

分解能の違いとか、そういう枝葉末節についてはさておき、最大の違いは、「数小節のパターンを作り、それを組み合わせることで曲を作る」と言う部分だろう。 現行のメジャーなDAWとかにその思想はあまり受け継がれていないように思えるが、確実な需要があるらしく、一部の機種は頑固にもその機能を採用し続けている。

因みに私にはそのパターン機能、全く必要でない。 上記のシーケンサーを使っていた頃も、そんなやり方で曲を組み立てるのが面倒で仕方なかった。 例えば3分のプロットを、何故わざわざ10秒とかに分割して作らねばならないのかと。

その後だんだん分かってきたのだが、どうもミュージシャンの中には、脳内にその「3分の曲想」といったものの構築を経ずに曲を作っている者がいるらしい。それも結構な数。 そういう人らにとっては、むしろソング機能(曲全体を構成するモード)こそが要らない。

多くの一般リスナーはおそらく区別していないだろうが、「3分の尺を持つ曲」と「3分相当の構想を持つ曲」ってのは全然違う。 尺なんてのは、リピート回数を増やせば際限なく増していける。 5分の曲だが、要約すれば20秒で済む曲、なんてのが数多く存在する。 そういう曲は尺こそ5分だが、構想は20秒程度しか持っていない。


ある音楽制作機材についての記事を読んでいたら、そこにあるミュージシャンのコメントがあったのだが、その人の一貫した主張は「ソング機能は要らない」であるそうな。 音楽は数小節あれば十分と言うことらしい。それをループさせればいいじゃないかって気分なんだろう。

実際そのミュージシャンの作る曲と言うのは(正直そんなには聴いてないけど)、音楽(music)と言うより、ほとんど音色(sound)である。 その方の仕事部屋では、多くのアナログ機材が並べられ、それらは(まるで空調機のように)走らせっぱなしになってていたりするそうである。 と言うことは、そこで流れている音と言うのは、おそらくは1小節とかせいぜい数小節単位のもであることは想像に難くない。 彼は音楽でなく、音を楽しんでいる。

上のミュージシャンの世界観(アタマの中身)は、私にとっては、自説を立証するに十分なもの。 「やっぱりな」って感じだ。 その人の意識の中に「時間」はほぼ存在していない。

脳の時間保持能が弱ければ弱いほど、人は音楽(と言うかあらゆる情報)をショートスパンでしか捉えられない。 この時間保持能が壊滅状態にある場合、人の脳は、究極的には音色ぐらいしか捉えられなくなる。 あらゆる情報をショートスパンでしか捉えられないということは、自分の存在(これも諸情報の一つには違いない)すらも例外でないと言うことになる。 そういう脳の持ち主は、おそらく自分がかつて自分であったことを覚えていない。


3/4(水)

芸術性について。 最近考えていたこと。

神田優花のジャケットには、アーティスト写真以外を使うこともしばしばある。 風景だとか花だとか。 あれは市販の素材集のようなものから拝借して来たものではなく、うちのスチール類を十年以上担当しているカメラマンが撮って来た、いわば撮りおろしの画像である。 当然だが、元はもっとたくさんの画像データで、一々スタッフがそれらを吟味・選択しているのである。

写真には、絵なんかに比べると実に(無意味なほどに)詳細な情報が盛り込まれている。 例えば「Forbidden Fruit」(リンク先はAmazon)のジャケットに映っている薔薇の花弁には、葉脈まで映りこんでいる。

もしあれが誰かの描いた薔薇の絵なら、そこまで描かれていたかどうか。 画家が必要だと判断したなら無論描かれようが、そうでなければ無価値な情報として無視される。 写真機は精神を持たないので、そういった情報の選別を行わない。


芸術性と言うのは、この世界と言う茫漠とした情報を、人間を使って濾過(フィルタリング)したもののこと。 その人の心が映した現実こそが芸術作品となる。

大友克洋の「AKIRA」は絵が細か過ぎて、通常のコミックスサイズではその精密さを表現しきれないとの判断により、あの版型にてリリースされたらしい。 なるほど確かに、背景などを見ていると、壁の落書きに至るまで細かく描かれている。 作者の目に映った現実が、あのように巨細であるのだろう。 だが、もしかしたら、情報の取捨選択に強い意思が働いていないのかもしれない。

AKIRAはその芸術性が評価され、海外などでの人気も高いと言う。 作品の巨細さと芸術性は正比例関係にあるのだろうか。

では「ドラえもん」や「アンパンマン」は、芸術性において「AKIRA」に劣るのかと言うと、それは即座には判断できない。 心に映った何かを吐き出す作業とは、即ち映らぬもの、つまり夾雑物を排除する作業でもあるからだ。


藤子・F・不二雄のドラえもんは、作者の死後も愛され続けているが、同じく巨匠である手塚治虫の「鉄腕アトム」は、正直それほどでもない。 少なくとも、ドラえもんと同程度の熱量でもって見つめられてはいないように見える。

その理由は、本当のところは分からないながらも、主人公のキャラクターに因ると思われる。 ストーリーなんて、ドラえもんにしたって(作者生前の連載中から)作者自身が書いてなかったに違いないだろう。 別人が書いたって、あのキャラクターさえあれば成立するほどに、ドラえもんの商品性・芸術性はあのキャラクターに凝縮されている。

アトムと言うキャラクターは、情報として重過ぎるのだろう。 人は芸術を愛すと言う前提で述べているが、ドラえもんの方が芸術性の純度がおそらく高い。


子供の描く絵が子供らしいのは、彼らが映している現実があのようであるからだろう。 多くの子供の心に、葉脈は映らないだろうが、母親の愛なら映る。 多くの大人は、本来映せた筈の何かを、映せなくなり果ててしまう。 葉脈まで映せるのに、人の愛が心に映らない、と言った大人はいくらでもいる。

私は、時に葉脈の存在を見逃さず、またある時には目の前の薔薇の花にすら目を奪われず、その向こうにある本当に大切なものを映せる心の持ち主でありたい。


3/3(水)

妖怪人間ベムのオープニングテーマをご存知だろうか。 有名な曲なんで知っている人は多いかと思うが、その冒頭の「(闇に隠れて生きる)おれたちゃ妖怪人間なのさ」ってくだりもご存知の方多かろう。

そこの歌詞、テロップにこそ「妖怪人間なのさ」とあるが、実は「妖怪人間『なんだ』」と歌われている。 歌い手は間違いなくそう歌っている。 これは、人間が情報の処理を行う際、如何に視覚に大きな比重を割くか、を物語ってもいる。 だから「空耳アワー」なんて企画も成り立つのだろう。

とにかく、幾度となく再放送されたこの有名作品の、知らない人もそういないであろうほど有名なオープニング曲の正しい歌詞が、実は膾炙しているものと違う。 ほぼ日本中の誰もがそこに気付かなかったらしい。

何故このようなことが起こるのか。 歌唱者であるハニーナイツ(の誰か)が歌詞を単に間違ったのか。また、そのことに関係者の誰もが気付かなかったのか。あるいは気付いても、スケジュール上の都合などでそのままGOサインが出たのか。 それとも何らかの事情で、レコーディング後に正式な歌詞が変更されたのに、これまた何らかの事情で再レコーディングが行われなかったのか。 皆目見当がつかない。

私はこれに初めて気付いた時(厳密には気付いたある人に教えてもらったんだけど)、我が目(耳)を疑った。 インターネットで検索もしてみたのだが、この件について触れているサイトが見当たらない。 まず私は、このことに気付いていたと言う人を寡聞にして知らない。日本中の誰もが気付いてないか、あるいは気付いても、ネット上にその痕跡を残すに至っていないのだろうと思われる。 それ程に気付いている人が少ない。 これを読んでいるあなた、下にYoutubeのリンク貼っておきますので、もし気になるならチェックしてみてください。

因みにこの「なんだ」で歌われているのは実際にアニメで使用されたオリジナル版のみで、その後に山ほど作られた再録・リメイク版の類は、知る限り全て「なのさ」と歌われている。 再録に携わった人らも、おそらく気付いていなかったのだろう。



ことほどさように現実とは、真剣に見据えねば見えてこない。 我々はややもすれば、世界を見させられてしまう。 物事を有り体に見るという、たったそれだけのことが、実に難しい。 妖怪人間ベムの歌は、それを端的に物語っている。


3/2(月)

影山リサ、ここ最近、立て続けにレコーディング。

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影山リサは、4/8(水)にニューシングル「butterfly」をリリースします。 今回の「butterfly」は三週連続リリースの第一弾で、影山リサはその後も二週続けてシングルをリリースします。 影山リサの新境地とでも言うべき楽曲たちで、内容的にも三部作のような3タイトルです。 是非チェックしてみてくださいね。





ついでにMS処理についてのメモ。 随分昔にも、MSについての雑感のような文章を残した気がする。

MS処理とは何か、と言うところから説明する気力は無いので、その辺に興味ある方がいるなら詳細は調べて欲しいところだが(今なら豊富に情報があるはず)、簡単に言うと、オーディオデータをMidとSide(真ん中と両端)に分けて処理する方法、と言うか「思考法」と言う方が的確かもしれない。 ステレオ・エンハンサーとかそういうエフェクトってあるけど、ああいうのも広い意味でのMS処理と言える。

MS処理用のツールはフリー物のプラグインとかも合わせ、いくつも存在しているが、代表的なもの、更にそれが採用しているMS処理のプロセスってのが、ちょいと特殊である。 ステレオ2Mixを、一旦MidとSideに分けたデータに変換した上で編集すると言うもの。 編集後、その(MidとSideに分けた)データをまた元の通りのステレオ2Mixに戻す。 因みに、ほとんどの2Mixは、Sideの音量の方が小さいので、MS処理ってのは実質Sideのレベル上げを指していたりする。

上記の手法を初めて知った時、「何と荒っぽい手法だ」と思って、正直取り入れたいと思えなかった。 実際音質上のロスも結構大きいと思われ、今でも私は、その手法をなるべく避けたいと思ってしまう。 Side部分を強調したいと思うなら、本当にステレオ・エンハンサーとかで間に合わせた方が無難なように思える。


来月にリリースを予定している影山リサの三部作、カップリングも入れると計6曲あるんだけど、そのうちのタイトルに使われている3曲は、全部MS処理経由でマスタリングしている。 いつになるか分からないけど、アルバムとかに収録する際は、本来の(MS処理抜きの)マスターを使うつもり。


3/1(日)

もう3月だ。 神田優花は新曲の歌録りでした。

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2月にミニ・アルバムを含む3タイトルをリリースした神田優花ですが、4/1(水)に次のシングル「Forever one」のリリースを控えてます。 お楽しみに。




2/28(土)

「ありえない」って何だ?

政府の新しい法案について、野党の、どういう肩書きの人か忘れたけど、一応は党を代表して意見を表明する程度のポストにある人がコメントしていた。 曰く「ありえない」そうな。 どういう意味だよ。

イスラム国とやらに殺害された後藤さんって人のお兄さんだかが、雑誌のインタビューに応じていたのだが、記事の中でインタビュアーの「弟さんは風俗店を経営していたとの報道が一部でなされていますが?」との問いかけに対し、これまた「ありえない」と答えていた。 これもどういう意味なんだ。


内容の是非はさておき、事実法案が出ているのなら、(仮にそれが草稿段階とかだったとしても)間違いなく「ありえる」モノだろうに。 風俗店の経営だって別にありえなくはないでしょう。 世の中に風俗店なんていくらでも存在するでしょうから。

もし私が、「あなたは風俗店を経営していたそうですね」などと言われたら、単に「いいえ、そんな事はしていません」と答えるだけだろう。 「ご兄弟が風俗店を経営していたそうですね」と尋ねられたら、「初めて聞きました。少なくとも私はそういう事実を把握していません」とか何とか答えるだろうか。 どのみち「ありえない」とは言わない。 「あなたは昔女子高生だったそうですね?」とか言われたら、「私は男なので、そんな事はありえない」と言うかもしれないけど。

要するに彼らは「あって欲しくない」と言う意味で「ありえない」という言葉を使用している。 これって何だろう。流行語か何かですか? 違和感あるな。 変な日本語使うことが常態化してきたら、アタマの中メチャクチャになりますよ。


2/27(金)

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多摩川河川敷で中学生が殺された事件について、またあれこれと考えていた。 事件を知った瞬間から、犯人はおそらく未成年、どうせ程なく捕まる、程度の予測はついた。

あれ程の残忍な行為を平然とやれる神経、と言うのはどういう類のものだろうか。 犯人らには良心と言うものが備わっていないに違いない。 もうあの年齢(おそらく中高生程度)で良心の獲得に失敗したのなら、彼らは永遠に良心など持つまい。 「ある行動を採れば、非難あるいは逮捕される」と言うことが制約となり、ある種の行動を慎むようにぐらいはできるかもしれないが、それが限界と言うことになる。 良心の不在は深刻な問題だ。

私はある時期、真剣に考え込んでいたのだが、人間の道徳律(要するに良心)は、生来のものか、教育による獲得物なのか。 無論現実の人間は、性悪だとか性善であるとかいう風な単純なものではなく、それらが複雑に入り組んでいるハイブリッドなものであろうが、良心が決定的に欠如した人間が、後天的に良心を培うことは果たして可能なのだろうか。

私は無理なような気がしてしまう。 が、「不可能だ」と言い切ってしまうことは、世界に一つの限界を設定するようで、あまり気が乗らない。

犯人らは被害者である中学生に、万引きをしてくるよう命令していたそうだが、さもありなん。 「金」や「物質」と言う価値は簡単だから、良心さえ育たなかったような脳機能にでも捉えられる。 更にはその命令を理性で抑える装置(つまり良心)も備わっていないのだから、当然そうなろう。 ならない方が不思議なのだ。

彼らの心に夢は見えない。誰かの心も見えないから愛も感じられない。 それどころか、空の青さも太陽の眩しさも、何も映らない。 どんな芸術作品を見せられても、芸術家の精神など感じ取れる筈もない。 つまり、この世界の美しさを心に映すことなく、彼らは死んで行く。


多くの日本人は、いい大人でも自由の意味を知らなかったりする。 自由と無制約・ワガママ放題の区別が付かない。 「自由が許されるなら、俺は人を殺す」と言う人。 彼は人を殺したいと言う衝動を、理性で制御することが出来ないのであり、自由でなく、衝動の奴隷なのだ。 即ち不自由である。

例えば私が、手にしたある物体を手放せば、その物体は重力に従って地に落ちる。 その現象と、腹が減ったから飯を求め、金が欲しいからとて盗みたくなる衝動を抑えられない。これらは同じである。 彼らはまだ人でない。

良心を持たぬ者を、それでも社会に順応させようと思うなら、我慢を覚えさせるしかない。 だからこの国は身分制・門閥制が民情に適う。 情けないことだが仕方ない。 良心を持たぬ者が精神の箍を外せば、深刻な社会悪となるに違いないから。


あの手の事件が起こらぬ社会をどうすれば作れるか、考えてみた。 まず身分制度を作り、大多数者の基本的人権を剥奪して、ある階級に押さえ込む。 一部の人間を特権的階級とし、その多数のマネージメントを担当させる。 特権者にはモラルが当然要求されるので、常日頃の精神鍛錬を義務化する。 これって、まさに江戸体制なわけだけど、やはり二百数十年続く体制にはそれなりの合理性がある。 私はそんな世の中嫌だけど、この国の国民性に合っているのは事実だろう。


2/26(木)

神田優花、新作「Forbidden Fruit」、収録曲について。


1.Forbidden Fruit

HIP HOPみたいなもので、且つ歌物的なのを作ろうと思って。 それにオリエンタルなスケールとか使ってみた。 わりと好きな曲。

ギターは確か全編単音なんだけど、ベースのフレーズがコード(三和音くらいの)になってる。

途中で合成音声みたいなのが喋ってるところがあるんだけど、何言ってるか全然聞き取れないらしい。単にAメロの歌詞を喋ってるだけです。


2.Mirage

ボーカルのみで、バッキングに楽器を一切使ってない。 必然的に声部は多くなっている。

いつもとは変わったアプローチではあるんだけど、特別難儀したって記憶は無い。 ウチの曲って変わってるものも多いんで。

途中に転調挟んでるんだけど、バッキングの楽器音が無いんで歌い難かったりしないだろうか、とかちょっとだけアタマをよぎったけど、全然そうでもなかったみたいだ。 まあ楽器の音が人の声になっただけで、広義のバッキング自体はあるわけだから、当然なのかも。





2/25(水)

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神田優花、シングル「Forbidden Fruit」、本日発売です。 以下、アーティスト本人から。


Forbidden Fruit/Mirage

Forbidden Fruitは、曲全体のヘビのようなうねりを切らさないよう、サビの歌い回しやレコーディング時の構成などに気を配った曲です。
歌詞からは、湿り気を帯びたあからさまな欲望が感じられます。乾いた感じのオケの音とが混ざり合い、また重低音のゆっくりとしたリズムが心を乗せやすく、かっこいい楽曲になりました。ぜひ、聴いてください!

Mirageは「声のみの楽曲」という、私にとっては新しい試みです。『迷いの森』で少し経験したものだったのですが、Mirageは全面的に声のみのアカペラ、その上テンポがどんどん変化していきます。最初と最後ではかなり早さが違う曲に。
ぜひ、何度か繰り返して聴いてみてください。

神田優花





2/24(火)

他人の財布を盗めば金が手に入る。 これは行動としては一種の正解である。盗まないより儲かるんだから。 「盗みなんてやったって、その金を使い果たしたらどうするんだ」とか「警察に捕まったらどうするんだ」などと多くの人は考えるから、世の中正業に就く人が多い。

ヤクザだって、泥棒なんかと比べたらある程度安定的な職業だ。 泥棒は盗み続けないと生きてさえ行けないから、いずれ行き詰るに決まってる。

正業に就く人と泥棒は、どちらも行動としては正解を選択している。 どうして異なる正解が存在してしまうのかと言うと、それは各人の時間感覚が異なるからだ。 「今日で世界が終わる」と言われれば、行動が変わってくる人は多いでしょう。 私は多分変わらんけど。


2/23(月)

影山リサ、レコーディングでした。 先週は二曲も録った。 もう少ししたらリリース情報を公開しますので、しばしお待ちを。

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「日本人には個性が無い」とかよく言われるが、これは本当か。

例えばアメリカ人には個性があるのか。 私は最近思うようになったのだが、彼らは精神のある階層において、個体差がほとんど無いが故に、遠慮なく個性を発揮できているだけなのではないか。 逆に日本人は個体差がありすぎて、社会秩序を維持するためにも、それを押さえ込む原理が必要になっただけではないのか。 私から言わせれば、日本人は皆バラバラである。 アメリカ人に比べると、共有できている価値観が遥かに少ない。

因みに、この稿では「個性」と「精神の個体差」を分けて論じている。 日本人にあるのは精神の個体差であって、個性ではない。 だから「日本人には個性が無い」は、正しいと言えば正しい。


2/22(日)

私は好みの表現者を見つけたら、その人の作品を片っ端から入手したくなる。 作品でなく、作者の精神こそを好むから。

もし私のような人ばかりなら、いわゆる「一発屋」というのは出にくいはずだが、実際にはそうでない。 例えば漫画家とかなら、ある作品をヒットさせたは良いが、その後ヒットに恵まれない、なんてケースは実に多い。 その後何十年経って、若い頃のヒット作の続編とかスピンオフみたいなのを書いて、食いつないでいる人もよく見られる。 つまり作者でなく、作品こそが好まれている。

この作品偏重、これも要は言語力の脆弱さから来ていると思われる。 例えばギャグ漫画においてなら、「ギャグ」と言う表面的なものぐらいしか味わえない言語環境がこの現象を生んでいる。 ギャグこそが人気の源泉なら、作者以外の誰かがそのギャグを盗んでしまえば、人気もそこにくっついて行ってしまう。 だからこそこの社会は、盗作に過敏である。

お笑い芸人なんかを見ていても、奇声を発したり、奇抜な格好をしたり、変な表情を作ったり、いわゆる「持ちギャグ」なんかを披露するような者ばかりが目立つ。 それらは全て、その人の外に貼り付いただけのもの。 心の内側ではない。 人間の精神は複雑極まりないもの。容易には模倣できないし、だからこそ面白い。

奇抜な格好をしたり、奇声を発することなど、私にでもできる。 それがいかに衆目を集める奇矯さであったとしても、それは私の外に貼り付いたもので、私そのものではない。 そういうことをするお笑い芸人などを眺めつつ、ここで漏らしているようなある感想を持つ主体、それこそが私である。 私とは、このモノの見え方や感じ方のこと。


2/21(土)

スタジオにて。

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音楽は自己が聴く。 自己とは理性のこと。 当たり前のことだが、自分がいないと、音楽を聴こうにも聴く主体が無い。 釣りの道具として、釣り竿や釣り糸が必要なのは無論のことだが、釣り人本人を忘れては釣りなどできようもないのと同じこと。

日本の教育プログラムは、自己の涵養に主眼が置かれていない。 共同体での順応を主眼としているように思えるが、日本の教育機関の多くは、哲学用語で言うところの他律的行動を刷り込む場所になり果ててしまっている。 歴史的に人口過密である上に、価値が画一的、且つ重文化であると言う土地柄、これは自然ななりゆきなのかもしれない。 が、これでは音楽文化を発展させようにも、それが育つ土壌がそもそも成立していない。

「土壌が無いと言うが、現に世界有数の規模の音楽産業が成立しているではないか」と言う意見はあろう。 でも、基礎となる土壌無しに発展したものなのだから、本質的に異なるものであるのは間違いない。artと芸術が本質において異なることと同じ。


ホンの百数十年前までの江戸期には、日本の人口の8割ぐらいが農民だった。 農民に求められる資質として、確立された自己の優先度って極めて低い。 村落と言ったコミュニティにおいて、周囲の空気を読める、平均的人間であることの方が余程に求められる資質であったろう。 換言するなら、個を確立させぬことこそが適性だったとも言える。 結果こんな風な国民性ができ上がった。 良い悪いは一概には言い切れないが。

音楽がこの「空気を読む」試験紙、あるいは未確立である自己の凝固材として求められる場合、それを聴いているリスナーは、まだ確立された自己たりえていない。 だから早い話が、他人の精神などまだ楽しめる精神段階にないと言える。 だから日本の音楽コンテンツって、人間の精神を味わうとか言う以前の段階、例えば「異性」だとか、人間のそういう生物的な本能に根差しているケースが多いでしょう。

人間の行動原理を大雑把に整理すると、理性と傾向性とに分類できるかと思う。 傾向性ってのはいわば本能。水が高いところから低いところへ流れるように、喉が渇いたからとて水を欲するような衝動のこと。 芸術鑑賞は理性が処理する作業。 日本の芸能産業は傾向性の市場。 正反対なんだよね。


2/20(金)

スタジオにて。

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ビジネスの才能「も」あるアーティスト、なんて実在するのかしら。 「現にそう言われている人がたくさんいるではないか」と言われば、確かにそうではある。

オリンピックの短距離走と走り幅跳び、の両方でメダルを取るようなスポーツ選手は実在する。 それら二つの競技の適性は、一つところに両立しうるということだろう。

私が言いたいのは、天は人に二物を与えるか否か、なんていう単純なことではなくて、ビジネスの才能と芸術の才能って、互いに干渉しやせぬかと言うこと。

つまり、ビジネスとアートは短距離走と走り幅跳びの関係に無いと思うわけである。 むしろボディビルダーと水泳選手の適性などのように、一個体に共存しにくいタイプの能力のように思えるのだが、どうなんだろう。


2/19(木)

昨日発売の「」収録の「masquerade」って曲の歌詞、内容としてはかなりいい加減に書いたものなんだけど、個人的にはある試みだった。 時間(ストーリー)が進行していくようなものにしたかった。

分かったこととして、ストーリーというものは、理解・論理など伴わずとも進行させていけるものだと言う事。 つまりストーリーを組み立てる、あるいは記憶することと、脳内に時間軸(つまり論理)を展開することとは、全く別の作業なのである。

時間と言うのは、誰の意志を介するでもなく、とめどもなく流れ続けるもので、そもそも存在するもの。 時間軸を展開する人間の思考とは、むしろ時間に抗う拠点。 思考なき脳には、いわば時間しか存在しない。時間のみが際限なく通り過ぎるように流れ続けている。 だからそこには留め置ける過去も無く、思い描ける未来も無い。

そもそも何の意味も無い茫漠とした時間に、意味を与え、心に刻み付けられるのは、人間の思考。 言語であり意識。 狭義の時間は、人の心の中にしか存在しない。

私は、流れていく時間、それに伴って変化していく環境、と言った物語を書きたいわけではない。 そこに確かに存在した気分を書き残すことによって、時間を流れて消えて行くものでなくしたい。


2/18(水)

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神田優花、ミニ・アルバム「」、本日発売です。 来週には次のタイトル、「Forbidden Fruit」(全2曲)が発売されます。こちらもお楽しみに。 上は今週のスタジオにて。




以下はその「鵺」について、アーティスト本人から。




ミニアルバム第2段です。
タイトルは「鵺(ぬえ)」。 このアルバムのタイトル曲「鵺」は、とにかく曲の持つ妖しさ、禍々しさを表現したくて苦心した曲です。闇深いところから現れる何か。ぜひ、楽しんでください。

「once again」は、ベースの旋律とサビ、コーラスの旋律それぞれが複雑にぶつかり合う曲。全体像をつかむのに苦労したけれど、その分いいものが出来たと思います。

「Masquerade」は虚像を歌った物語です。非日常のソレですが、曲を掴むのは早かった気がします。 暗い欲望の物語の世界にはまり込んでみてください。

「Absolute tunes-reprise-」は、原曲Absolute tunesを録ってから、そう間を置かずに録ったものです。原曲をレコーディングした時にやり残した、(といえば語弊があるかもしれませんが)、もう少しやりたかったことをここでやれたので満足しています。

前作のミニアルバム「Any World」はクラシカルな曲を集めたものでしたが、今作はDarkな香りのするものやJazzyな曲を多く集めています。 1つでも、あなたの心に何かを残す曲があれば幸いです。

ぜひ、聞いてみてください。

神田優花





2/17(火)

アフリカゾウの生態について説明する文章を眺めていたら、驚くべきことが述べられていた。

アフリカゾウは嗅覚が非常に鋭く、匂いを嗅ぎ分けるための細胞とやらを人間の五倍程度持つらしい。 これは犬などよりも遥かに多いという。 で、そのアフリカゾウ、自分らを狩る部族とそうでない部族とを、嗅ぎ分けるそうな。

彼らは何を嗅ぎ取っているのか。 私はその辺あんまし詳しくないが、アフリカ大陸の各部族間の身体的な差異なんて、どの程度存在するのだろうか。 少なくとも黒人と黄色人種とか、そういった程の違いは無いだろうし、部族間の通婚とかだって、相当あるのではないのか。

ひょっとするとアフリカゾウは、人間の心理に起因する、ある種の身体の(状態の)変化を嗅ぎ取っているのではないのか。 だとしたらこれは怖いことだ。 犬は、犬を好む人間と嫌う(怖がる)人間を見分けると言われるが、これもひょっとすると匂いを察知しているのかもしれない。

人間社会においても、臆病な人は嫌われるわけだけど、それって人間の論理性だけでなく、嗅覚とかまで動員した上で判断されているのかもしれない。 もしそうなら、臆病者に思われたくないのなら、臆病でない人間になるしかないってことだ。


2/16(月)

神田優花、新作「」、収録曲について。


4.Be-Bop-A-Lula -Version2-

シングル「True colors」のカップリング曲のVersion2。 五拍子。 ジャズ(モード)っぽい曲で、和声的な進行感は薄いんだけど、進行感が全く無いってわけでも(完璧な1モードって感じでも)ない。

細かい相違点はさておき、ドラムパートを差し替えてます。 (スティックでなく)ブラシになっている。 この曲は、こっちのバージョンが最終(完成)形ってことになります。


5.Now(is the time) -Version2-

シングル「Losers」のカップリング曲。それのVersion2。

ところどころ微調整はしているけど、一番ハッキリ違う点は、間奏の後にドラムソロが挿入されていること。 後発なんで、これもこっちが最終(完成)形だと考えてもらって結構です。


6.Waiting For you

レゲエっぽい曲。 コード進行がちょっと変わってる。

こういうオーソドキシィの逆を取ったような曲って、一つ間違えば「受け狙い」みたいな、実に鬱陶しい印象になるから難しい。 これについては、私としてはギリギリ許容範囲。

歌詞は私が書いてないんだけど、ちょっと難航したみたい。 やっぱりこういう曲って、深遠なテーマなんかには向かないようで、内容を選ぶのでしょうね。


7.Absolute tunes -reprise-

シングル「Absolute tunes」の別バージョン。 「Version2」の類と違って、ミックス段階で手を加えただけのようなものでなく、完全に作り直している。 だからどちらが正式(完成形)と言うわけでもなく、別の作品です。 時間的にはこっちの方を後に録りました。

オケも勿論のこと、歌も全面的に再録している。 BPMはこちらの方がスローで、落ち着いたものになっていると思う。 ところどころダブっぽくMixしている。 そのくらいかな。





2/15(日)

神田優花、新作ミニ・アルバム「」について。


ラインナップとしては、ちょっと偏りがある。 アレンジ的にはブラス・フィーチャーのものが目立つかな。 再録モノとかリアレンジとか、神田優花の補遺のような意味合いが強い。 以下、収録曲について。


1.once again

確か声部が5つぐらいあって、ハーモニーありオブリガートありでゴチャゴチャしてる。 その一方で、オケ(バッキング)は至ってシンプル。

バッキングの主役はギターと言って良いと思うんだけど、ソロの部分なんかはルーパー使うことを前提に譜面を組んだ。 実際に使ってるわけではないけど、使えば演奏できるように構成されてはいる。


2.鵺

ギターのワウの感じとか、ファンク的な要素を盛り込んだつもりなんだけど、やっぱり純粋なファンクは私には作れないように思う。

構想としては二曲分くらいのプロットが詰まってる。 だから4分半と、ウチの曲にしては長い。

ボーカルの音域は、一曲間で使われるものとしてはかなり広くて、2オクターブ以上ある。神田優花かなりがんばってると思う。


3.Masquerade

ファンクっぽいものをって思ったんだけど、私の血の中に黒っぽいものが薄くて、着想としてちょっとしたアイディアを拝借したようなものになっているかと思う。

歌詞については、当時あんましドラスティックなアイディアが無くて、(架空の)昔話のテーマソングみたいなのでも作ってみようと思って。 だから本当に大した意味は無い。

ブラスを使った曲を集中的に作っていた時期があって、その頃に作ったものなんだけど、その一連の作品中では、ブラスパートは比較的少ない。 エレキギター的なニッチとして、クラビネットを初めて使ってみた。 たまには悪くないと思うけど、常用するならやっぱギターの方が良いね。





2/14(土)

時間は人間の意識に内在する。 昔は、時間なんて私の外の世界に流れているだけのもので、自分がそれをたまに参照しているのだとばかり思っていたけど。

好きな曲なんかは、繰り返し聴いてしまうわけだけど、何度も聴くうちに、たまに曲の進行速度が遅く感じられる時なんかがある。 あれって、内在する時間と外で流れる時間に、齟齬が生じてしまっているのではないかと思われる。 その昔、昨今で言うBPMのような絶対的な速度表記が無かった頃、曲のスピードを表す記号はプレストだのラルゴだのと、数値を用いない人間の感覚に即したものだった。 時間ってものが、本来人間の中にしか存在しないからではないのか。

画家は実は、現実世界以外に、もう一つの世界(時間)を持っている。 それが絵画なのだろう。 画家は絵の中に生きている。 その世界は時間軸が圧縮されているから、外の世界とは進行速度が違う。 だから画家は長寿なんじゃないのか。


2/13(金)

スタジオにて。

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精神病者は「特殊な人」なのか。 まあ難しいところだ。 少なくともマジョリティではないのだろうけど。

病名がつくと言うことは、精神医学におけるある概念に収まると言うことで、要するに豊富に前例・類例が存在するということだ。その程度に典型的であるのは間違いない。

脳機能のある部分が単に故障した場合、人間の思考は、一種のループを起こしがちだ。 計算式に狂いが生じやすい。 従って世界が常人とは異なって見えてしまう。当然大多数の通常人とは行動様式が変わってしまう。 この故障を、大まかではあるが体系的にタイプ分けしたのが精神医学だ。

多くの普通人は、そう言う人(見も蓋も無く言えば頭の悪い人)に振り回されたりするのだけど、それはその普通人が正常である証拠でもある。 人は自分の思考を元に他人を推し量るものだから。 おかしな人のおかしな思考パターンが理解できなくて当然なのだ。 自然に理解できるようではちょっとヤバいかも。

類型化できる程度のおかしな人は、いわばその程度の異常人なのだから、行動の原理も粗方解明されている。 だから次にその人が採りそうな行動も、ある程度の範囲内で予測できる。 結論から言えば、そういう人らって別に面白くない。 付き合ってみると、最初は物珍しさで面白く感じないこともないけど、すぐ飽きる。


2/12(木)

日本人は臆病である。 極端な健康志向とか、原発に対するアレルギー反応とか、日本人のそれってちょっと常軌を逸している。 人間に制御の難しい科学技術などに対して、古代人が自然に対して感じたのと同じような畏怖を感じているのかもしれない。

原発は日本以外の国だって持っているし、核兵器だって持っている国はいくらもある。 彼ら(とりわけ一神教の信者ら)が、自分たち人類すらも滅ぼしかねないような巨大な技術を持てるのにはわけがある。 それは、自分たちが「正しい方向を向いて歩いている」と信じられるからだ。 その信心無しに、持て余しかねないような巨大な技術を、ただただ持たされるのは確かに負担であろう。


病に臥せる人がいたとする。 その人を救うのに必要なのは何か。 薬か医療技術か。 いくら薬があっても医者がいても、モノには限りがある。 一人の病気を治したとしても、その再発や病そのものは根絶やしにできない。 ある病原菌に対する特効薬を見つけたとして、別の新たな病原菌の発生まで防げるわけじゃない。 病に立ち向かうには、薬も医者も大事だろうが、それらの背景となる思想が必要になる。

そもそも医者は人間だし、薬はそれを開発・製造する人がいる。 医療機関や製薬業界は人間が為している。 医者一人育てるにも医大などの養成機関も要るし、管轄する公的機関も要る。 金を出してくれる親や制度もいるだろうし、それより何より、それら全てを容認、後押しする社会的コンセンサスがいる。 そしてこれが一番大事なことだが、その道を選ぶ人間の意志がいる。

だからキリスト教世界は愛を説く。 愛さえあれば、人は人を救うから。 人の心に愛さえ植われば、薬や医術は放っておいてもいずれ生まれる。 この「愛を説く」と言う一見迂遠な方法が、実はもっとも早く且つ効果的に人間社会に寄与するからこそ、キリスト教は教えの核はそこに集約されるのだろう。 一種の合理性と思える。


神とはロゴス(言語)であると言う。 これも究極的な合理精神から生まれた思考法に違いない。 ロゴスとは言語であり、言語は即ち論理である。 人間の本然に道徳性が存在すると仮定した場合、つまるところ究極的に、神もその愛も、言語に由来するのだろう。 私が音楽を愛し、自分自身音楽そのものでありたいと願うのは、音楽が時間であり、時間とは論理性であり、私を含む人間の本質や愛が、その論理・時間そのものであるから。 これだって、ある種の合理精神が基礎となっている。

芸術家の目指す場所、それは要するに神なのではないかと。 神とは、合理化の果てに見えてくる概念。 日本人(日本語)はその数千年の歴史の中で、何故かそこにたどり着けなかったけど。

日本人が臆病な理由、それは目指すべき方向が見当たらないから。 いくら金や技術を持たされても、それを使って進むべき場所を想像できない。 仮に愛が無ければ、外科医の持つメスが単なる凶器にしか見えないのと同じこと。 そりゃ軍隊も原子力も怖かろう。


2/11(水)

神田優花、ニューシングル「Villain's Game」、本日発売です。 以下、アーティスト本人から。


Villain's Game

Villain's Gameは、半音上と半音下の音が同時に奏でる不響和音に胸ん中がざわつく曲です。その中にかっこよさを感じてもらえたらと思います。

c/wの玉葉は琵琶の音のみのシンプルなオケ。リハの時、初めは感情を込めて歌っていたのですが、最終的に今の形に落ち着きました。
心象風景は描きつつ心は上の空で・・・という少し変わったアプローチをしています。

趣の違った2曲の歌ですが、ぜひ聞いてみてください。

神田優花





2/10(火)

影山リサ、歌録りでした。 次に出すシングルのカップリングになるのかな?とにかくそういう位置付けの曲。 今、神田優花の次のアルバムに関しての、音回りの作業がやっと一段落したところで、影山リサの一連のリリースに向けての詰めに入ってます。

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2/9(月)

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神田優花、レコーディングでした。 今回のテイクで、とりあえず次のアルバムの収録曲が揃いました。 今編集中です。


それはさておき、2/11(水)発売の神田優花ニューシングル「Villain's Game」、収録曲について。


1.Villain's Game

ギターとかボーカルとかのところどころに、サウンドクラスタと言うのか、上下に半音で音を被せてたりする。 そういうものを作ろうってのが動機で生まれた曲。 割りと良くできたと思える曲で、編集段階で「シングルにしよう」と思った。

ある時期、似たような引き出しで曲を量産してたんだけど、そのうちの一曲。 途中でラップが入るんだけど、また何言ってるかサッパリ分からない。


2.玉葉

琵琶楽についてちょっと調べていた時期があって、その頃に作った曲。 いわゆる習作の感が強い。 タイトルとか歌詞はいい加減に作ったもので、あんまし深い意味は無い。

雅楽でも琵琶って使われてるんだけど、俗楽で使われる琵琶とは奏法も楽器としての構造も違う。 今回使っている音は筑前五弦琵琶。 奏法なんかも基本そのまま。 そういえば、オープニングは琵琶の調弦から入っている。

近世以降の琵琶楽、作例にもいくつか当たってみたんだけど、声楽面で現代のPOPSと違い過ぎることもあって(純粋琵琶楽って語り物とかに近い)、今回の作品においてはあまり忠実に再現していない(無論参考にした面はある)。 曲に関しては、なんかペンタトニックを基礎とした演歌みたいなものになっている。





2/8(日)

子供の頃、時計の秒針とにらめっこしながら、時間の流れを体感していたことがある。 「何だか遅いな」みたいな感想を持った。 以下、時間について。


小学校二年生ぐらいの頃だったろうか、ある時母親と二人で家にいたのだが、その後母親が外出してしまった。 一人で過ごすのも退屈なので、近くの友人の家に遊びに行った。

友人は不在だった。 仕方ないのでそのまま家に戻る。 すると帰宅直後に、母親あての電話がかかってきた。 依然母は外出中である。

私が電話の相手に母親が外出中である旨伝えたところ、「いつごろ家を出たのか?」と尋ねられたので、一旦考えた上で「二分くらい前だろうか」などと私は回答した。

今考えたら、少なく見積もっても30分くらいは経っていた筈で、二分である筈が無い。 でも私は本気だった。 ある時に体感した時間の流れに即せば、本当に二分ぐらいだと思えたのだ。 「子供ってなんてバカなのでしょう」と言う笑い話で終わる筈だったんだけど、今の私はまたそれとは別の結論に至ってしまった。


実はあれって、本当に二分ぐらいだったんじゃないだろうか。 勿論時計の針はそれ以上進んでいたでしょうけど。 時刻が共有物であるが故に、人はそれが、抗えない絶対的な流れだと思い込まされている。 でもそれって本当だろうか。

画家は長寿であると言う。統計的にほとんど間違いない。 楽しい時間って早く過ぎてしまいますよね。同様に、退屈な時間は長く感じるとよく言われる。 大好きな人とお喋りをしていたら、いつの間にやら日が暮れていた。 ホンの一時間くらいのつもりだったのに、時計をみたら四時間も過ぎていただとか、こういう話よく聞く。


テロメアってご存知だろうか。致死遺伝子とでも言うべきもので、それは生物の人生をカウントダウンしている(私はこの辺、あんまし詳しくないけど)。 つまり、文学的な修辞とかでなく医学的に見ても、時間は外に流れているのではなく、人間を含む全生物の中(内側)に存在する。 残り時間と言う形で。 一時間を過ごすと言うのは、即ち持ち時間を一時間使うと言うことである。

つまらない時間を過ごしている人は、その間を長く感じているだけでなく、本当に多くの残り時間を奪われているのではないか。 絶対的な経過時間と言う、額面の上でこそ一時間でも、実はその数倍の時間を奪われているのではないか。 だから、長く感じるそれは錯覚ではないのでは。

逆に楽しい時間を過ごしている人の言う、あっという間に過ぎた数時間なども、実は本当は数分程度なのかもしれない。 それくらいしか残り時間を消費していないのではないだろうか。 だから画家は長生きする。 彼らの人生の大部分は絵の中に存在し、表明上経過したとされる時間(年齢など)を、実は奪われていない。 神は彼らに、ホンの少しだけ多くの時間を残した。


多くの長寿者が実年齢より若く見えるのも、本当に若いからだろう。 例えば、外の時間が二年経過する間に、彼らは一年しか歳を取っていなかったりするのではないか。 つまりその間、一年分しか残り時間を使わされていない。 時間は、心が映しただけのもので、我々の中にしか存在しないもの。 だからその流れはきっと一定ではない。


2/6(金)

スタジオにて。

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コブラって漫画に「カゲロウ山登り」ってエピソードがある。 地図にも存在しない、あるはずの無い山(の頂上付近)に、大量の金塊を載せた飛行機だったかが衝突し、乗客らも遭難する。 主人公コブラと、金塊を求めて山頂を目指す者たちを描いた作品。

カゲロウ山は、それを信じる者の目にしか映らない。 物語では、山の存在を信じることのできない者が、一人ずつ脱落していく。 信じられなくなった瞬間に、山は目の前から消え失せ、その人は真っ逆さまに地に落ちて行く。

私は多分、小学生くらいのころにこの作品を読んだのだけど、今でも印象に残っている。 現実とは、このカゲロウ山みたいなもの。 それを信じる者の目にしか映らない。


2/5(木)

DX-7って言う、ヤマハ製のシンセサイザーがある。 歴史的ヒット作と言って良い。 昨日、「シンセサイザーの歴史」みたいなのを体系的にまとめたような本を読んでいたら、やはりシンセ史の画期的事件としてDX-7の登場が、多くの紙数を割かれて紹介されていた。

文中、気になる箇所があった。 DX-7が如何に革新的な商品であったのかを説明しているくだりがあって、FMと言う新しい音源方式だとかノートポリフォニーがいくつになったとかそういうことが列記してあったのだが、その中に「音色に名前がつくようになった」とある。

正直言って私は、シンセとかそういうものに疎い。と言うか、興味を持ったのが割りと最近で、十代のころとかは、ギターとかピアノとか、そういう生楽器系にしかほとんど関心がなかった。 だから、この手の古い機種は所有したことも無いし、触った経験自体少ない。


実機こそ所有しないものの、その種の伝説的機種を復刻したようなプラグイン・シンセの類って数多く存在していて(ソフトシンセの一典型フォーマットとさえ言える)、当時の雰囲気を出すためか、プリセット(音色)なんかも実機のそれを踏襲しているようなものがある。 そういうものを眺めていると、中に音色名が無いものが確かにある。 正確に言うと、無いのではなく「preset○○」・「patch○○」(○の中は数字)のように、各プリセット音色には数字だけが割り振られている。

現行のシンセ類って、プリセット音色には例えば「7:Synth lead」みたいに、それを見れば瞬間的に音のイメージが湧くような具体的な音色名が振られていて、効率で考えれば確かに使いやすい。 が、便利であるが故に気になるところも無いでは無い。

例えばジャズっぽい曲を書いていたとする。 その曲のバッキング上のあるパートに音色を割り当てる際、それがもしギターだったとしたら、プリセットの一覧から音色を選ぶわけだが、そこでこの音色名に判断が引き摺られてしまうことがあるのだ。

どういうことかと言うと、「JazzGuitar」みたいな名称の音色があったりすると、ついそれを選びそうになってしまうと言うこと。 当然そういう名前を冠しているのだから、そのジャンルに適した音色ではあるのだろうけど、だからこそ余計にそこで思考を停止してしまいがちになる。楽だから。 でも音色の設定は確実に創作の一部である。 判断を流されてはいけないね。


2/4(水)

人間の印象について。

私は、子供の頃から周囲に、物事を「よく覚えている」と言われる。 私は私にしかなったことが無いので正確には分からないが、と言うことは、世の中の多くの人は、物事を忘れてしまっていることが多いのだろう。 「忘れる」と言うが、人の記憶から消滅してしまった時間など、存在しないのと同じだ。 忘れ去ってしまえるほどに印象の薄い時間など、そもそも始めから存在したかすら怪しいが。

「好みのタイプ」とかそういう言い方があるが、人間には人に対する好き嫌いがある。私とて当然ある。 あって当然だし、あるべきだとすら私は思う。 「私に人の好き嫌いはありません。誰とでも波風立てず付き合えます」なんて言う人は、人間としてむしろ問題があると思う。 それは、美意識が希薄である証拠だからだ。 この美意識こそ、人間が人間たる所以と言える。


一々の出来事をわりかし鮮明に覚えている上に、人の好き嫌いがハッキリしている私は、稀に「根に持つタイプ」だとか評されることがある。 無論違う。 事実を積み上げた上で物事の評価を確立させているが故に、その評価が容易に覆らないだけ。

客観的なこの「評価」ってヤツが、私の目線から見れば印象と言う言葉になる。 印象は覆らない。 この「覆らない印象」を形成するために必要なのは、「時間の前後関係」・「物事の因果関係」を強く認識すること。

結婚・離婚を繰り返す男女だとか、ケンカの絶えない間柄だとか、そういうのはまさに、ここで言う印象化の精度の悪さに由来している。 相手に対する印象が、時間軸上に展開されず、常に定点に「上書き」される形で形成されるからこそ、人間に対する評価が安定しない。 だから本来「合わない」相手との距離が保てない。当然諍いぐらい起こる。 だが、そういう人らは「根に持つタイプ」とは評されないだろうがね。


私は目にする相手を、時間軸を伴った形にて総体的に印象化している。 だから一旦、「良い・美しい」あるいは「悪い・醜い」と判断した対象についての、評価が覆ることがほぼ無い。 判断を保留していた対象について、決定的な印象が固まる、ってことならよくあるけど。


「こういう事があったから、あの出来事を介して、Aさんのことが嫌いになった」。 こういう言い方をすれば、あたかもその出来事一つさえなければAさんが嫌われることは無かったのに、なんて思われたりするんだが、無論それは見当外れの感想である。

個別の出来事ってのは、印象を補強しているだけの、いわば「印象化の手がかり」に過ぎず、それを材料に人物の評価を定めただけのもの。 人物自体ははじめから変わらないのだから、ある材料が欠けたとて、正しい評価というものはいずれ定まる。 だから、嫌われたくないのであれば、嫌われないような人間になるしかない。


2/3(火)

難解と言われるカント哲学だって、長いことそれについて熟考していると、だんだんその思想のあらましが分かるような気がしてくる。

しかしまあ道徳と言う言葉(概念)は曲者だ。 日本語にするなら道徳と訳さざるを得ないのだろうが、日本人の言う道徳と欧米人の指すそれとは、成分的にかなり異なるのでは。 日本人の言うそれは、共同体の同調圧力によって生じたある種の制約のことだろうが、欧米人の言うそれは、神の創造物である人間に生来備わっているとされる良心感覚のことで、倫理感と言う方がしっくり来ようか。

つまり両者は似て非なるもの。 どうして似たか、の理由は一種の収斂だろう。 個人の自己が確立されない日本のような社会では、その秩序を維持するため、いわゆる道徳は代償的に発達した。


定言命法と仮言命法に明確な線が引けるのだろうか、など色々と疑問を感じてしまうのだが、ここについて説明しようとするなら、かなり膨大な文章量が必要になってしまうだろうから、とりあえずここでは止めておく。 まあ私が感じる程度の疑問なんだから、似たような疑問もそれに対する回答も、きっと出尽くしているんだろう。

それにしても、道徳観念は人間の本然に根差した、人類が(馴致の結果でなく)自然に体得できるような代物だろうか。 どうしても彼(カント)の主張は、根底部分にキリスト教的フィクションが含まれているような気がして、多少の懐疑が拭えない気もする。


2/2(月)

PD(phase distortion)音源についてのメモ。

まあ古い技術なんだが、カシオのCZシリーズなんかに代表される(と言うかカシオの特許?)音源方式で、CZは80年代半ば、ヤマハのDXシリーズに対抗するような形で売り出されたらしい。

私はその存在自体は随分前から知っていたのだが(そういうものがあるらしい程度の認識)、あらためて色々調べてみた。 まずそのPhaseDistortionとやら、その名の通り位相を歪ませるそうだ。 原理を解説した文章なんかによると、波形の読み出し速度を変えることによって位相角を変化させるのだと。

疑問の残る部分もあるけど、要するにプリセットされた比較的シンプルな波形(サイン波、あるいはコサイン波)を、半ば絵を描く感覚で変化させて、複雑な倍音構成を実現させるってことだろうか。 FMとかに比べれば、分かりやすいような気はする。

PD音源をシミュレートしたソフトシンセの類って昔から存在してて、私も使ったりしたことがあるんだが、その音色に特別な印象は無い。 今あらためて弄ってみたんだが、その印象に変化は無い。 カシオはその後、PD音源方式を半ば放棄するような形で、プリセットサンプラー(PCM)路線に進んでいくんだが、きっと世間的なニーズに合わせた方針転換なんだろう。 積極的に音作りをする人なんて、つまるところ少数派ってことなんだろうか。


2/1(日)

大切なこと。


「お受験」と言う言葉がある。 有名な幼稚園だとか私立小学校などを子供が受験することを言うらしい。 私は実生活においてその言葉を使うことも、そこについて深く考えることもあんまり無いけど。

何故有名小学校を受けるかと言うと、有名中学校に入るためだろうか。 名門校を渡り歩き、有名大学に合格し、一流企業だとか省庁などに就職する。 そうすれば収入や社会的地位も安定し、良い縁談も望める。 こんなところか。

多くの人間はこのように、より上位の目的を設定するものだが、同時に限界にぶつかってしまったりもする。 目的の限界はその人の限界だろう。

偏差値最高の高校に受かった人は、当たり前だが、もう高校受験の勉強に時間を使わないだろう。 最高の大学に受かった人も同じく、もう大学受験の勉強なんてしない。 上位の目的を達成(あるいは設定)した人にとっては、しばしばそれ以下の目的のための労力は無価値になる。 官僚になるために大学を中退する人とか、実際いますわな。 その人にとっては、大学の単位が価値を失ったと言うことなんだろう。


「いくら虚勢を張ったところで、私がこの先アメリカ合衆国大統領やローマ法王になれるわけがない」。 現実的にこれはその通りだが、なれない理由は、なれないと思うからである。

我々が天皇になれないのは、皇位継承権を持たないからで、その理由は天皇家に生まれなかったから。 私が天皇になれないのは、私が私以外の誰かになれないことと全く同じこと。

法王も大統領も、その地位を、日々を心で感じている。我々にその気分を感じ取ることができるなら、それはもうその地位に君臨するのと同じことなんだが。


「何を夢想しようと、過ぎた時間が戻ることは無い。死んだ人が生き返ることだって無い」。 本当だろうか。 私はそうは思わないよ。 例えば我々は、医療の水準なんかを含めた科学技術や食料事情において 僅か百年前には想像すらできなかった世界に生きている。 この先数百年後に、どんな世界が実現されていることか。 私が伝えたいことって、こんな陳腐な話じゃないんだけど、仕方ないね。実例を引いて述べようとするとどうしても矮小化されてしまう。例え話の限界だ。

「数百年後の世界に我々はいない」。 これが想像力の限界。 私はそう思わない。 朝、目覚めた私が、昨日までの私であることを覚えているように、昨夜見ていた夢の続きを見られるように、この体が絶えた後、いつか私の心が、この世界を映す日がまた来るかもしれない。 その日を連れてくるために、唯一必要なのは勇気。 だから私は曲を作る。

私が偽りなく感じた勇気なら、きっと誰かの心にも響くはず。 いつかその誰かは、きっと私を深い暗闇からも連れ出してくれるだろうよ。 愛してくれる誰かがこの世界に存在するなら、私は何も恐くない。


綺麗事でなく、どれほどの金や名誉より大切なことがある。 大切なのは、「今、何を持っているか」ではなく、「自分は正しい方向を向いて歩いているか」。これだけ。 私はだから、芸術家になろうと思ったし、日々曲を作り続けている。


1/31(土)

2/11(水)に「Villain's Game」を発売する神田優花ですが、続けて次の週(2/18)にミニアルバム「(ぬえ)」(全7曲)が発売されます。 こっちも「SPACE SHOWER」でリリースインフォ出てるみたいですが。 下はジャケット。




1/30(金)

スタジオにて。

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とあるDTMの初心者向け教則本を読んだ(教則本と言うのは大体初心者に向けたものだが)。 因みに私は、その手の本を割りとよく読む。

一通りチュートリアル的な内容が述べられた後の巻末にこうある。 「さあ読者の皆さんがんばってください。あなただけでなく、誰しもがカッコイイ音を作るため、日々研鑽しているのですから」だそうな(字句は不正確)。 オイオイ、私は音楽を作るための研鑽は日々怠っていないが、音を作ることなんて大した懸案と捉えてないぞ。

確かにその本、読んでいると本当に「音楽の作り方」ではなく、「音色遊びの方法」をレクチャーしている。 実はその本一冊に限らず、その手の教則本にこういうケースはしばしば見られる。 「音楽の作り方なら作曲技法の本でも読め」と言うことなのだろうか。しかしDTMってデスクトップミュージックの略だろうよ。

私は日々、音楽作品と言うか録音物を作り続けているが、「音」と「音楽」は分けて捉えているし、実際現場でもハッキリ定義の異なる用語として扱われている。 「音」は音響・音色と言った意味。 「音楽」は、それらを含んだ包括的概念で、構造物としての音楽そのもの。 音響・音色だって確実に音楽を構成する要素ではあるから、「そんなの音楽じゃない」と言い切ってしまうと語弊が生じる。 だが「音楽そのもの」では確実にない。


何度も言うようだが、私は音色と言うものに、「底の浅さ」を若干感じている。 音色に固執する人って、多分言語機能が弱い。だからシンセマニアとかって男に多い。 脳に展開できる時間的パースペクティブの問題。 構造物としての音楽の、全体像を展開できる脳の保持機能がなければ、どうしてもパーツのようなもの、例えば音色などがアタマの中枢を占めてしまう。

建物とかで例えるなら、音色は建物全体でなく、壁紙とか襖の柄とかその程度のもの。

あと、音楽は心の中に響くものだが、音響は外に響く。 この違いは大きい。 精神世界は無限だが、物質世界は有限であろう。 私の言ってること、伝わらないかもしれないけど。


1/29(木)

スタジオにて(神田優花)。

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私は常に、他人と「分かり合いたい」と思っている。 が、それは即座に、他人との「距離を縮めたい」と言うことではない。 この二者は全然違うこと。

誰かと分かり合いたいのだけれど、その誰かが、分かり合おうとせず、距離だけを縮めようとしてきた場合、私の採るべき行動は自明である。 その誰かの接近を拒む。 何故なら、分かり合うことなしに距離だけを縮めるのは、分かり合える日から遠ざかることに等しいから。


1/28(水)

マイケル・サンデル教授(ハーバード大学)の講義をDVDで見ていると、色々なことに気付かされる。 例えば冷戦の意味(サンデルは、講義で冷戦そのものには触れていないが)。

冷戦当時、アメリカとソ連は軍事技術や宇宙開発など、様々な分野で競争をしていた。 多くの日本人は「ライバルなんだから競い合って当然」とか、「現代でも韓国とかは日本をライバル視してるじゃん」ぐらいに捉えているのだろうが、そんな単純なものではない(韓国の反日もそれはそれで単純でないのかもしれないが)。

あれは国力っつうより原理の戦いなのだ。 共産主義国家は、神の存在を否定し、一党あるいは個人が独裁的に人民を統治し、国家の効率を最大化しようとしている。 もしそんな相手にアメリカが負けることがあるなら、それはスポーツ競技における一敗のように軽く見過ごせるものではない。 何故ならそれは、彼らの歴史・信仰などと言った全てを否定されることに等しいから。

冷戦での敗北は、彼らアメリカ人の標榜する自由・民主主義と言った諸価値の敗北を意味する。 アメリカ人は、自分らの共有する原理が、普遍化されるべきであるし、されるに違いないと信じている。 原理と原理の戦いであるから、彼らは絶対に負けられない。 だから冷戦もベトナム戦争もあれほどに泥沼化した。

作家の司馬遼太郎は、ベトナム戦争に介入したアメリカを「子供」だと評した。 ある観点から眺めれば、そういう見方もあったに違いないが、彼らには子供にならざるを得ない事情があった。 日本人がその事情を持たないのは、大人だからではなかろう。 きっと、自らを律する規範を持たないからだ。

太平洋戦争もある意味原理の戦いと言えなくもない。 原理を持たぬ者との戦いなのだから、同じ原理で動く生き物相手でないことは間違いない。 日本人のこの「原理を持たない」と言う原理性、直ちに欠点なのかは私には分からない。 日本人がこのようであるからこそ、例えば中国や朝鮮にできなかった明治維新が実現できたし、こんにちほどの経済大国になれた。


欧米人がピカソの絵画にあれほどの高値をつけたのも、北斎を評価するのも、きっと同じ理由からだろう。 全身全霊を懸けて芸術に取り組んだ彼らを、放っておくわけには行かないのだろう。 彼ら欧米人の気分を代弁するなら、ピカソに何の還元もなされない世界であってはいけない。 無論ピカソの絵が好きでもあったろうが。

「芸術」という思想が、彼らの社会から誕生したのも頷ける。 芸術としての音楽は、「音の響きが気持ち良い」などと感じることではない。 音楽とは、音楽と言う対象を梃子に、精神世界を掘り起こす作業のこと。


1/27(火)

影山リサ、新曲の歌録りでした。 新作については、今しばらくお待ちを。

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マイケル・サンデル教授によるハーバード大学の講義内容をDVD化したものが、NHKから出ている。 私はいくつかそれを見てみた。

サンデル教授がしばしば言を引用する人の一人にアリストテレスがいる。 私は、アリストテレス哲学そのものについてはよく知らないが、主張のアウトラインだけは、薄っすらとだが解りかけたような気がしないでもない。

フランシスコ・ザビエルは日本での布教時に、「アリストテレス哲学を学んでいて良かった」と思ったらしい。 現存する彼の書簡の中にそんなくだりがあった筈だ。 当時の日本人から、教えの内容について色々と突っ込まれたわけだが、その際答えに窮さずに済んだということだろう。

確かに、疑問・質問に対し、冷静に答えられないような人間は信用できない。 何故なら、そこについて考えられない・考えたことが無い、あるいは自らに正義が無いと知っている証拠だからだ。 どういう角度で捉えても賛美できない。


DVDを見ていて、半ば危惧として感じたことは、日本人の捉えている学問・教育・大学なんていう諸概念が全て誤解に基づいているんじゃないかと言うこと。

そういえば江戸時代までの武士道には、ああいった(欧米型の思想教育のような)探求性がわりかしあったように思えるのだが、どうなんだろう。 侍が絶えたってのは、チョンマゲ結ってる人がいなくなったって意味じゃないな。 日本人の精神からあの探究心が消えたってことだ。


1/26(月)

金は簡単である。 早い話が理解に容易い。 何故ならそれは数値で測れるから。言語力の援用がほぼ必要ない。

普通、物には「値段」が付けられている。 カレーライスが\750、ラーメンが\500などと。 ある人は、値段が高いからとカレーライスを実体以上に有り難がり、またある人は、カレーライスが食べたいが、金が掛からないからとてラーメンを頼む。

もしレストランのメニューに、商品個別の価格が表示されておらず、「いずれか一品、どれでもお好きなものをご注文ください」などと書かれていたらどうなるか。 人は自らの嗜好を模索せねばならない。 それは即ち自己を掘り下げる作業に他ならない。

自己と言うとりとめのないもの、それは金の額なんかよりよほどに難しい。


ついでに、ペーパーテストの結果の評価なんかも簡単である。 得点で序列をつけるだけなのだから。 「美」のように複雑怪奇なものでないから、基本誰にだって考査可能である。 日本が経済大国であるのも学歴社会であるのも、要するに金やペーパーテストが簡単だからだろう。

「では大学などの人物本位の選考に賛成か」と問われれば、否である。 何故なら、人を評価することには、評価する人物の器量も問われるから。


1/25(日)

数日前に、データの復旧作業で難儀したって話をした。 やっと落ち着いたので、その奮闘記を。

私は音作りの環境を一つのDAWベースに絞ってない。 曲によって色々な環境を使い分けているんだけど、そのうちのある環境準拠のファイル類がほとんど(半分以上)開けなくなった。 理由はいくつかあるんだけど、大半は二つのプラグインに由来するものだった。 一つはシンセ、もう一つはサンプラー。

シンセの方はフリーソフトで、バージョンアップを繰り返しているせいか、過去のファイルを開いた際、音色情報(プログラムナンバー等)が全て初期値になってしまっていた。 と言うのも、そのバージョンアップと言うのが、単なるバグフィックスとかでなく大幅な仕様変更で、パラメーターの数ごと変わっている。 私は念のため、過去のバージョン(dll)も保管していたのだが、パッチの呼び出し方が普通のプラグインソフトと違うらしく、過去のバージョンをもってしても呼び出せなくなってしまっていた。 ハッキリ言って迷惑な代物なんだが、フリー物だけに文句を言うわけにも行かない。

仕方なく、出力後のオーディオデータを参照する形で、一々その音色定義を再構築していった。 これだけ聞くと、まるで耳でフーリエ解析を行っているかのようで、物凄い作業に思われるかもだけど、私はほとんどプリセットしか使わないので、そうでもなかった。

困ったのがアルペジエイター。 オーディオデータと聞き比べながら当時の設定を模索していたんだが、どうしてもピッタリのものが見つからない。 そのうち気付いたんだが、どうやらそのアルペジエイター、大雑把な設定はできるものの、フレーズの詳細部分はランダムに生成されているらしい。 つまり当時と同じオーディオデータは出力できない。 それどころか、二度同じフレーズを奏することすら事実上難しい。 私は結構いい加減で、そんなことすら当時気にしてなかった。

サンプラーの方は、一々のオーディオデータごとファイルに埋め込んで保存するような仕様でなく、パスだけ記録してそれを参照しつつオーディオデータとリンクする、みたいな形のもので、当時と環境が大きく変わっている以上、ミッシングリンクだらけになっている。 単にリンクが切れているだけなら「○○.wavが見つからない」とか言ってくれれば良いものを、「FATAL ERROR」とか仰々しく表示するばかりで、見つからないファイル名すら教えてくれない。 単なるリンク切れ以上の重大な問題が生じているのかもしれないが、詳しいことは何も分からない。 その上、そのサンプラー、パッチファイルもロードできないときた。

仕方ないから、一々オーディオファイルを探すことに。 これも照合作業実に大変だった。また、どうしても照合できないものもいくつかあった。 オーディオデータを削除したとは考えにくいんだけど、見つからないものは仕方ない。いくつかは諦めた。 因みにそのサンプラーもフリーソフト。 言っても詮無いが、作りが粗い。

まあ、それでもなんとか数日かかってある程度のところまでは復旧させたが、考古学者とかになったような気分だった。 ロゼッタ・ストーンを読み下している気分。 ついでに。プリセットばっかり使ってたり、アルペジエイターの仕様をあんまし把握してなかったり(そもそもアルペジエイターを使うこと自体、手抜きの感がないでもない)、随分いい加減な音屋だと思われそうだが、単純にそれいうことでもない。 上記の楽曲(ファイル)類は、ほとんど習作的な色合いが濃いものばかりで、要するに私は、作品の傾向によって環境を使い分けている面が大きい。 だから時にファイルが開けなくなったりするわけです。 今後気をつけよう。


1/23(金)

SPACE SHOWER」とかで既にリリースインフォとか出てるみたいですが、神田優花の「Villain's Game」(全2曲)、2/11(水)発売です。聴いて下さい。 下はそのジャケット。




1/22(木)

ここ何日か忙しかった。 とあるコンピレーション・アルバムへの参加を打診されまして、その企画自体は特に問題なく進んでいるんだけど、参加作品が古い楽曲だっただけに、もののついでに当時のデータを引っ張り出してみた。

驚いたことにその当時(多分10年ぐらい前)使っていたあるホスト準拠のファイルが、ほとんどまともに開けない。 OSが当時と別だったり、ファイルに埋め込んでたプラグインのバージョンが変わってたり、サンプラーが読み込んでたオーディオデータの相対的な位置(フォルダの階層等)が変わっていたり、とにかく散々だった。

結局80曲近いデータの復元作業で数日を費やした。 因みに完全に復元はできておらず、作り足したものもある。 ただとりあえず全曲聴ける状態には戻した。 ああ疲れた。


1/21(水)

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更新間隔が空いてしまったのには理由がある。 とにかく忙しかった。 どう忙しかったのかを説明するのもまた手間で、今それをやる時間が無い。 とりあえず先日スタジオで撮った写真を。

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1/18(日)

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今神田優花のニューアルバム(デジタル)について、収録曲をあれこれと思案中なんだけど、以下思ったこと。

ダウンロード物の音源って、基本単曲での販売が想定されている。 アルバムとか数曲セットのシングルとか、確かにあるにはあるけど、CDのフォーマットを踏襲しているだけで、大した必然性は無い。

今回のアルバムの1曲目と2曲目は既に決まっているんだけど、その曲間がちょっと気になってしまった。 CDだったらもっと切り詰めたい間なんだが、デジタルデータとして単曲で売ることが前提となるとそう簡単には行かない。

ISRC(レコード協会が発行している商品コードみたいなの)なんかの登録は、一曲単位で行うので、曲の前後のブランクの設定なんかも、当然一曲をもってして完成形であるという前提で行う。 変な(極端に短いだとかの)ブランクにしてしまうと、単曲で購入してプレイヤーに突っ込んだりした際、一つだけおかしなトラックが混ざり込んでしまうことになる。

今回のアルバムにおいては、結局単曲としての完成度を優先して、1〜2トラック間のブランクについての構想は捨てた。 パッケージとか作る機会があるなら、あらためて考えたい。


因みに、ウチの商品ラインナップ、一応シングルとかアルバムとかいう形でカテゴリー化してはいるけど、明確に定義付けはしていない。 大体4曲くらいまでをシングル、それ以上をアルバムまたはミニアルバムとしているけど。


1/17(土)

ニュースサイトみたいなのをつらつらと眺めていたら、とある芸能人夫妻が離婚の危機にあるという。

その事自体は私にとってどうでも良い。 その人たちのことも良く分からないし、その辺のデリケートな部分は、当事者や関係機関が話し合って決めたら良いと思う。 私が気になったのは、離婚の理由を探すような記事が目立ったこと。 「夫の束縛が原因ではないか」などと。

束縛って。 夫婦や恋人同士って、その本質として拘束性を持っている。 束縛の無い男女関係なんて稀だよね。 そんなことより何より、人間関係破綻の原因が、そんな分かりやすい一点に集約されると思う言語力が気になる。

男女が袂を分かつ最大の理由は、どちらか一方(あるいは双方)が「相手に、関係を継続できるほどの好意を維持できなくなったから」だろう。 好意の濃淡は、相手の人格と言う、実に複雑なものに由来する。 世間でよく言われるように、「夫の浮気が〜」なんていう、単純な理由だけで人間関係は動いていない。


1/15(木)

人と人とが袂を分かつ理由は、煎じ詰めれば「価値観を共有できないから」である。 価値観が共有できさえすれば、人は一緒にいられる。

何に価値を置くか、何を大切にするか、ってのは要はその人そのものだ。 価値観を共有できない人間関係にさらされることは、一般に人間の精神にとって不安材料だろう。

もし今、価値観を共有できない人間関係に悩む人がいるのなら、やはり人間関係を再構築すべきだと思う。 それって生きて行く上で、最優先事項だから。

愛に価値を置く人であれば、誰かが自分に投げかけた愛にも当然気付ける。 我が心に思い当たる機微なのだから当然である。 その人は、愛を持つ人こそを友人とするだろう。

愛に価値を置かない人であれば、誰かの投げかけた愛を、小銭を拾ったとばかりに「儲けもの」と捉える。 当然感謝しない。 彼の次の行動は「もっとそれを寄越せ」である。 愛に価値を置く人と置かない人は、最終的に共存できない。

愛をもってして懇々と説かれた如何なる教えも、愛に価値を置かない人にとっては「タダの退屈な長話」である。 イエス様だって、そういう人を救うことはできないし、その二人は価値観を共有できないから友人にもなれない。


1/14(水)

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スタジオにて。

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1/13(火)

人種差別について。 私は洋の東西を問わず、多くの日本人が感じているほど、そういうものって存在しないと思っている。 「全く無い」と言ってしまえば語弊があるだろうけど。

中国は歴史的にほとんど人類最高の文明圏であったろうが、歴代王朝を見渡しても、不思議なほどに人種差別の痕跡って見当たらない。 日本人を倭人だとか東夷と呼んでいたのは、あくまで非文明人と言う意味であって、当時の中国人は、生物学的な意味での人種とかそういうところを見つめてはいなかったように思える。

今の欧米人にしても然り。 肌の色なんて違っても同じ人間だ、と言う感覚は絶対にあるはずで、もし現代日本人が「差別されている」と感じることがあるなら、それは人種でない別の部分においてのものではないのか。

欧米人は伝統的に、人間的でないものを人間と見做さない。 人間には人権があるが、行使しない者のそれを重大に扱う必要など無いと思っている。 因みに私もそう思う。


彼ら欧米人は、人間のとある部分を見つめ、人であると見做したり、そうでないと見做したりしている。 だから牛を平気で食えるし、アジアを植民地化できた。 黒人を奴隷にできたし、またそのある部分を見つめるが故に奴隷のままにしておけなくなった。

過去の日本人が肉食をしなかった理由もそこにあるような気がする。 日本人的な価値観・世界認識では、牛と人間の尊厳に明確な線など引けないだろう。


1/12(月)

興奮しやすい人っている。 子供とか実にそうですね。多少の例外を除けば、大人は大体落ち着いている。 どうして人は興奮し、あまつさえ取り乱してしまうのか。

それは保持能が低いから。 脳内に展開できる情報量の差が、その手の挙動の違いを生む。

想定外の事態は、どんな人にとっても心をささくれ立たせる要因に違いないが、それを処理するに、パーセンテージにしてどれほどの脳のリソースが食われるか、には個人差がメチャクチャある。

つまりある人にとって、出くわした事態を処理することは、脳の全リソースを奪われる作業であったりする。 当然その時に「理性」は保てない。 保持するリソースが残っていないから。 従って容易に取り乱す。

ここで言う「想定外の事態」も、万人に共通ではない。 何事かを想定することも、要は脳機能だからだ。 ある人にとって当然ありうべき事態は、別のある人にとっては晴天の霹靂であったりする。 脳機能が低ければ低いほど、人は理性的でいられなくなる。


ある物事を、理性を保持しつつ処理する作業、それを実現するのに必要なのは脳の精度。 何かを察知して暴れることくらい、人間以外のほとんどの動物にでもできること。 そこで理性を保てることこそが、人間の人間たる所以である。 人間を人間たらしめているのは、理性以外の何者でもない。

何事かを処理する時、そこで保たれている理性の分量、それこそがその人である。 事態の処理に全てのリソースを割かれてしまうと言う人がいるなら、要するにそんな人この世界に存在していない。 私は、今日までの全てで、目の前の瞬間に立ち向かいたい。 環境ごときに吹き飛ばされる自分であってはいけない。


1/11(日)

西洋音楽の体系は、長調と短調に収斂していった。 理由は分からない。 和声音楽以前の教会旋法にも一応、短旋法・長旋法とかそういう種別はあって(盛期当時からあった厳格な区分なのかは知らない)、どうも音楽とは長短二極化する傾向を、その本質として持っているらしい。

西洋音楽は何故こんにちのようになったのか。 それはきっと、例えば音律が十二段階に収斂されたことと同じ理由に拠るものだろう。 雅楽も十二音階だが、両者の一致は偶然ではなかろう。 雅楽における呂律も、一応は長短の別であるとされる。

ガムランはぺログ・スレンドロ共に五音階である。 いわゆる琉球音階や民謡音階などと同じで、実際スケール構成も似ている。 いわゆるテトラコルドは、オクターブ大体五音階で構成される。 古代ギリシャにかつて存在したと言う原型としてのテトラコルドは四音構造だったらしい。 民謡・童謡などの多くは二音ないし三音で構成されている。

一概に「オクターブを細分化すればするほど、それは高度な音楽体系である」などと言うわけではない。 アラブ音楽が二十四音階であることは有名だし、トルコ音楽は一音を九分割する。 紀元前の支那には六十分割の音律があったと言う。 音なんて周波数に過ぎないんだから、細かく分割しようと思えばほとんど際限なくできてしまう。

細かければ良いというものでもなく、無論大雑把過ぎれば高度な音楽表現には向かない。 この辺、言語に似ている。 数百と言った生活単語のみしか存在しない言語は、高度にメタフィジカルな思考に向かず、また、過度に使用者の能力を問うような難解過ぎる言語は、それはそれで発展しにくい。 集合知のようなものも生まれにくい。

フランス語は英語のいわばArchetypeで、まあ同系統の言語である。 ある側面で見れば、フランス語は英語より細かいニュアンスが表現できるのだろうが、その精密さこそがネックとなって、こんにちリンガ・フランカたりえていない(Lingua francaって本来「フランス語」みたいな意味の言葉だが)。 例えば男性名詞・女性名詞の別など、英語においては淘汰されてしまっているが、つまりは合理化だろう。


十二音階、またその中の七音をピックアップしたスケール構成、長短二種の調性、これらはきっと「ある基準」における進化形であり合理化の産物であろう。


そもそも収斂とは、何を基軸になされるものか。 進化とか言うのだから、どこかに向かってはいるのだろう。

それがどこなのか今の私には分からないが、言語による万物の同定・階層化が思想上の収斂を生み、逆算から神・絶対の概念を生み出したのであろうことは想像に難くない。 今の私に分かるのはここまで。


1/9(金)

EDMの代表的アーティストであるdavid guettaはフランス人だそうだが、彼が彼たる所以として、フランス人であることは大なり小なり影響していよう。 もし彼がドイツ人だったら、あのアーティスト(ブランド)イメージは生まれにくかったろう。

例えばクラフトワークはドイツ人だが、如何にもって感じで、日本人のイメージとかにも本当に近いのかも。

西洋文明圏における都鄙感って、日本人である我々では感じにくいが、おそらく濃厚に存在する。 ローマ帝国やフランク王国ってヤツがその光源かと思ったりもするが、厳密なところはよく分からない。

朝鮮人が日本人を罵るとき、「島国」と言うことがあるのだが、多くの日本人はそこに込められた侮蔑のニュアンスごと感じ取れない。 朝鮮人のように文明の光源を中華、具体的地理呼称としては中原(華北)に求める感覚ごと無いからだ。 要するに彼らの意識として、中原から距離的に遠い(地続きですらない)日本は田舎である。

別に朝鮮人をバカにしているわけではない(誉めてもないが)。 ある基準に照らし合わせれば、日本人こそが非文明人であるからこそ、その感覚を持てないわけで。 つまり朝鮮人は文明の基軸を中華世界に求めている。 まあ朝鮮と言う国号も、直接的には中国皇帝に選んでもらったわけだしね。

朝鮮人が口にする「倭人」と言う蔑称も、要は中国文献に登場する言葉である。 同じく日本人は、その差別感ごと体感し難い。

フランス人はアメリカ人を田舎者だと思っているに違いないが、アメリカ人の方は既にその、文明の光源をローマに求めるような感覚ごと希薄になってしまっているだろう。

上の話には、別にこれと言った結論めいたこともない。 ただ、その手の文明感覚に対しては、ニュートラルであった方が物事を有り体に見られるのかも、とは思った。


1/8(木)

テクノとかエレクトロニカとか、その手の音楽(総称する言葉を知らない)って、基本和声音楽的でない。 と言っても無調性とかってわけでもなく、トーナリティー自体はあるので、強いて言うなら旋法音楽なんかに近い。

音楽を作るとき、私は無意識のうちにでも、メロディーと同時にコードの進行感を想定してしまう。 それを頭から外しての作業は、いつもと違うって意味では多少の労力を伴う。

しかしやはり、そういう作曲メソッドって、独自の体系が存在するわけではなく、あくまである楽理(和声など)が「介在しない」と言うだけの状態なので、あんまし大したものを産み出さないような気がする。


それ的な音楽を専門とするような音屋さんの、いわゆるワークフロー(制作の流れ)を動画化したものをYoutubeで見たことがあるが、まさに一小節目から作っている感じで、平素の我が仮説が証明されたようである意味感動した。

やはりあの手のミュージシャンの多くは、作品の全体像を脳裏に思い描いた上で作業に臨んでいないようだ。 断片的なブロックを作り、それを繋ぎ合わせる感じで曲を仕上げている。 それが良いか悪いかなんてのはさておき、その手法ではきっと処理し難いタスクってのがあるな。


1/7(水)

「おべんとうばこのうた」ってご存知だろうか。 私は幼児のころに聞いた記憶がある。 作曲者は不詳であるらしいが、一種のラップのようなもので、メロディーが楽音っぽくなくて、西洋音階で譜面表記しにくい。 童歌の類には、似たようなものが他にもある。「べんけいが」とか。

誰が作ったか不明であるにせよ、ある程度以上音楽的な教育を施された人間なら、ああいう歌を作ろうと言う発想が生まれにくかった筈だ。 つまり教養は時に、自由な発想を毒する。 私も気を付けたい。


話は多少逸れるが、「おべんとうばこのうた」って、子供向けの歌である筈だが、その(弁当の)内容たるや「刻み生姜」だの「蕗」だの、随分渋いメニューだ。 もう少し子供向けの内容にすれば良いのに。


1/6(火)

不安について。

不安は物質ではない。 我々の頭の中にある感覚に過ぎない。 ただ、「錯覚である」と言い切ってしまうと語弊がある。 当人が感じている以上、それは現実には違いがないからだ。 但し、我々の人生において、それは本来必要の無いもの。

将来にどんな不確定要素があったとて、それはそれで一懸案とすべきであるに過ぎず、同時に不安を抱える必要はない。 全く予測不可能な、例えば天災のようなものに対しても同じ。 如何なる心構えを持とうが、あるいは持つまいが、起こる時には起こるし、必要程度の対応にも迫られる。 事前にどの程度の準備が必要かは、各人が適当に判断すれば良いだけ。 別に不安は必要ない。

私は自分にまつわる未来に対して楽天的で、物質的な備えもなければ精神的な不安も抱えてない。 不安は人生を割高にするからだ。

目の前の相手を、必ずしもだらしなく信用すべきであるわけではない。 「コイツは、ある条件下においては必ずや裏切るであろう」と言う予測は、それはそれで一種の信用である。決して猜疑ではない。 猜疑、それに付いて回る不安は、人生において不要なものである。

私なりの結論。 信頼(確信)は人を強くし、猜疑は人を弱くする。 不安は、人を弱くするためだけに存在し、人生において全く必要でないもの。


1/5(月)

所有について。 私に(物質の)所有欲はほぼ無い。 「俺は車を○台所有している」と言う人がいるが、所有って何なのだろうか。

「自分(名義)の車を持つってことが所有さ」と言う人は確かにいる。 でも車は、各種の税金が課されたり車検があったり(これも一種の税金か)、走ればガソリンも食う。 物体なので置く場所にも一々金が掛かるし、物理的に壊れるから修理代も維持費として当て込まなければならない。 絶対にいつか使えなくなるものなのに、処分にも費用が掛かる。

要するに、車を所有するとは言うが、それはつまり使用権を買っているに過ぎないのではないか。 ローンが残っている車は、本当に所有者も信販会社だったりするし。


私は家を持たない。寝床は賃貸である。 知り合いで、随分若い頃に家(分譲マンション)を買った人とかいたけど、わざわざ自らで移動の自由に制限を掛けているかのようで、全然羨ましいとも思えなかった。

家を買えば、当然家賃は掛からなくなるけど、共益費だの何だのとの名目で金は掛かってくるし、そんなのが無くても固定資産税は発生する。 相続税だってある。 また、家だってモノだから補修も必要になるし、維持費がゼロになるわけでは無い。 処分する際には不良資産化しているかもしれない。 要するに家だって、使用権を買っているようなものだ。

そんなことより何より、我々の人生には時間的な制限がある。 何を所有したとしても、残り時間に限りがあることには変わりがない。 我々にできる贅沢って、楽しい気分を味わうことくらいしか無いのでは?


1/4(日)

表現の本質は省略にもあると思う。 それは強調と表裏一体。 要するにデフォルメのこと。 作者の心に映った何かを吐き出す作業とは、同時に、作者の心に映らないものを排除する作業でもある。

DTM(サウンドプログラミング)のいわばイロハとして、生楽器の(奏法表現の)再現法ってのが各種存在する。 ノートの発音タイミングを適当にバラしたり、ヴェロシティ弄ったり。 再現したい楽器によっては、その構造に起因する特有の奏法表現があったりもする。

その手のコツを踏まえた打ち込み表現は、確かに(生演奏に近いという意味では)それなりにリアルに聞こえたりもするが、同時にある面芸術性から遠のくような気もする。

実在の楽器の、リアルな演奏の再現ってのは、要するに構造物としての楽器の、その構造性に引きずられただけのもので、芸術表現の純粋性とかそういう側面で見ると、確実に作品の純度を落とす。 それらは創作において、そもそも必要でない情報だからだ。 だからして、打ち込みだけでなく、生楽器の録音とかに際しても、楽器固有の奏法表現って実は不要なものだったりもする。 それ(奏法表現)こそが作品の構想に含まれる場合なんかを除いて。

例えばギターと言う楽器には、当然ながら固有の構造が存在するが、ギターで曲を作る作業においても、ギターは単なる道具に過ぎず、その構造に起因する特性(ある種の制約)は作曲作業の想定に含まれない。 結果付いて回るだけのものだ。

単純な線のみで書かれた絵などに、高い創作性を感じたりするのって、それが無駄な情報を一切排したものであったりするからだろう。 音楽にも当然そういう面がある。


1/3(土)

万物は収斂する。 これを踏まえた上で眺めないと、世の中は見えてこない。

イルカとサメはそっくりだが、中身は全然違う。 環境に適応するために、両者あのような外貌を為すに至った。 これほど顕著ではないにせよ、人間にも同様の例は(ごく当たり前に)見られる。

グレン・グールドは天才的音楽家だと言われる。 僅か三歳の頃に絶対音感を体得していた、だのと。 しかしそれは錯覚だと私は思う。 彼は成長過程において、普通人がごく当たり前に身に付ける能力の形成に失敗したが故に、ある(生来誰でも持つ)機能の淘汰に失敗した。 そして、それがあたかも才能であるかのような錯覚を周囲に与えた。 また、その形成失敗を補完する形で、ある能力が普通人以上に発達・肥大化してしまった。 彼を世人曰く「天才」だと。

よく遅刻する人と遅刻しない人、一見後者の方が「善人」かのような印象を周囲に与えるが、そうとは限らない。 何故なら後者は、悪人であるが故に、善人に見られる所作を後天的に獲得しただけかもしれないからだ。 逆に前者は、自ら癇に障る部分が少ないが故に、傍若無人な態度を取ってしまいがちなのかもしれない。 それはその人の寛容さの現れであったりもする。

人は、生来悪人であればあるほど、世間と言う障害物にブチ当たる回数も増える。 そこで収斂が起こる。

私は人間と言うものを、この「収斂」を踏まえた形にて理解するよう、日々努めている。 そうすることによって、誤りは減った気がする。


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