Staff diary  
スタッフ日誌[2014]

[文 / 益田(制作)]

12/31(水)

スタジオにて。 今年も終わりか。皆さん良いお年を。 私は大晦日とか関係なく、溜まった仕事片付けてますけど。

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影山リサ、新曲のレコーディング。 今未発表のストックがかなり溜まってきてまして、早いうちにリリース計画詰めたいところ。

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12/29(月)

自殺について。

ご存知の通り、日本ではここ十数年、年間三万人超の自殺者が(コンスタントに)出ている。 どうして人は自殺するのか。 私の知る限り、自らの意思でもって死を選ぶ生き物は人間だけだ。 最初から生きていないような生物は除いて。

考えてもみれば不思議なことだ。 生きると言うことは、本来最優先事項たるべきことで、何を差し置いても守るべき条件。 それを自ら絶つと言う。 虐められて自殺する中学生は、何故その前に虐めた相手を殺さないのか。 殺人なんて大それたことできないから?そんな筈はない。 だって自分自身を殺しているじゃないか。 まあ殺人など冒さなくとも、虐めから解放されるための手段などゴマンとあろうが、それにしても、自ら命を絶つぐらいなら先に相手を殺すべき。 これは初等算術のような明快な話。

つまり自殺する中学生は、虐めの辛さによって自殺しているのではない。 虐められる不甲斐無き我が身を嫌い、その存在をこの世界から消しているのだ。

自殺者に欠けているのは、自己であり主体性。 現実感であり認識力。 早い話が言語である。 この時点で私の論旨を「意味不明」だと感じる人がいるなら、どう説明すればその人に理解してもらえるか、今の私には分からない。

自殺者年三万人のこの事態は、おそらく教育によって、かなりの部分回避できる。 言語教育によって。 ここに気付いている人ががほとんどいないから誰も手を付けていないだけ。


12/28(日)

神田優花、年内最後のリハーサル。新曲録りました。 リハは結構入念にやったんだけど、レコーディングはあっという間に終わった。

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神田優花は来年の二月に、三週連続で新作を発表する予定です。 新曲・再録・リミックス物なんかを含め、3タイトルで収録曲計11。 もうしばらくお待ちくださいね。


12/26(金)

スタジオにて。

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世の中には「陰謀論」が好きと言うか、世界観がそれに傾きがちな人がいる。 その原因を平たく言ってしまえば、考える能力が低いから、ってところか。 その人にとって、一番手っ取り早く世界を把握する方法がそれなのだろう。

陰謀論ってのは、「世の中の多くの事件には黒幕がいて、そいつらが世界を操っている」みたいな世界観。 自分より遥かに頭が良い人間が存在しているような気がするのだろうか。 そいつらに世界が牛耳られてるってか。

世の中って、意外と大した計算(人智)に基づいて動いてないと思う。 多分、陰謀論好みの人たちが考えるほど、頭の良い人は世の中を牛耳ってない。 むしろ頭の良い人たちは、あなたらのような人たちに、日々困らされてばっかりだよ。きっと。


12/24(水)

スタジオにて。

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年内にはもうリリースアイテム控えてませんけど、来年は早々からリリースラッシュになる予定。 待ってて下さい。


12/23(火)

英語について考えていると、よく分からなくなってくるのが時制だ。 時制って一体何なんだ。

過去形とか現在進行形とか、学校の英語の授業で習ったけど、あれ本当に正しいのだろうか。 アメコミとかを読んでると、未来の想像に過去形が使われているのをしばしば見かける。 過去形って要は「遠さ」を表現しているだけなのではないか。 リアリティからの時間的距離。

現在進行形にしてもそう。 時制云々と言うより、リアリティの濃度を表現しているだけなのではないか。 日本語と英語では、時間に対する感覚が違い過ぎるように思うのだが、どうなんだろうか。


前にも言ったんだけど、時間って人間の心の中にしか存在しない。 当たり前だけど、モノとして存在するわけじゃないんだから、人が創り出した概念であることは間違いない。 だからして、それを感じることができない人に時間なんて存在しない。 感じられない人には、自分の心にそれが存在していないことごと理解できないだろうけど。

時間を「流れるもの」だと捉えているうちは、時間の本質なんて感じられていないのかもしれない。 時間は流れて消えて行くものでなく、心に積み重なるもの。


12/22(月)

現状の私の制作環境は、ソフトウェア上でマスタリングまでほぼ完結できる状態だ。 無論実際の作業においては無数に例外があるが、基本それを理想としている。効率が良いから。 なので最近は、新しいハード機材を導入することってほぼ無くなっている。

機材を導入する際、その製品にデモ版なんかがあるなら、とりあえずそれを使ってみることは多い。 デモ版と謳っているのだから、当然それらには何らかの制限があったりするのだが、それについて。

デモ版といいつつ、実際にはほとんど製品版と変わらないような、実質フリーソフト、みたいなのもあるんだけど、大体は機能制限版である。 で、その機能制限も色々ある。 起動後一定時間しか使えないだとか、機能自体は制限無く使えるがインストール後一定期間を経過すると使えなくなるとか、一定間隔でノイズが入るとか。 あるいはそれらの複合型であったり。

つい最近私が入れたシンセのデモ版は、音色の設定が保存できない、と言う制限がついているのだが、私はあんまり自分で一から音色を作ったりしないもので、使用に当たってほとんどそれを制限と感じない。 私にはそのデモ版で十分事足りる。

そのソフトは、実質フリーみたいなものでなく、立派な商品なので、つまりその制限は、大抵の利用者(商品の訴求対象者ら)にとって制限たりうるのだろう。 私と言う人間が、世間一般の音屋(と言うかそのソフトの想定ユーザー)と違う類型である一つの証拠。


12/21(日)

STAP細胞事件、粗方収束したかのようですね。 私にとっては、実に良い勉強になったと言うか、色々と考えさせられる一件だった。

主要人物である彼女の母親は、驚くべきことに心理学者(大学教授)であるらしい。 心理学何たるかについて、私なんかにはよく分からないが、その名からして人間の心理を分析する学問であるのは間違いないだろう。 母親は我が娘(の心理)を、どのように見つめていたろうか。 物凄く気になる。

私はその母親の学者としての事績・名声など全く知らないが、その人の講義に、受講する価値があるのかちょっと疑問である。 その人の日々の研究対象だった心理学と、隣にいた我が娘、それらの整理をどのようにつけていたのか。 お母さんは、その心理学とやらを、現実感を持って見つめていなかったのではないか。 日本人の宿痾と言うべきアレである。 それでもこの国では、学者にぐらいなれてしまうってことか。

私がもし彼女の親なら、あの一大発表を耳にした瞬間に、絶対に嫌な予感が胸を過ったろう。 と言うか、その何段階も前の時点で、もう少し無難なと言うか、社会的影響の少なそうな生き方を勧めたに違いない。 母親は家族として一緒に生活していて、あのおかしさに気付かなかったのだろうか。

会見で「STAP細胞はあります」と断言していた彼女。 もし常人があの立場にあったなら、「私はそれを発見したと思っていたし、実験も成功したつもりだったが、これだけの騒動に発展し、再現性にも疑問が持たれている。ちょっと自信が無くなりつつあるので、もう少し自分でも検証したい」と言った感じの返答になるのが普通ではなかろうか。 つまり、嘘を吐いているか否か以前に、やはりあの態度はおかしい。

きっと彼女の脳は、時間的な前後関係のリンクが緩い。 時間が一貫したストーリーとして連結されているのではなく、無数の断片として脳内に転がっているのではないか。 そういった人種の典型的な特性は、それら断片を自分に都合良い形で取捨選択できてしまうこと。

常識を持って眺めれば、彼女のやった事は、その詳細な手口まで粗方判明していると言って良い。 おそらくは彼女は、実験中に細胞をすり替えた。 元になる細胞が違うのだから、万能性を示したとしても不思議はないのだが、その現象を目にした時、彼女はそれが自分のすり替えた細胞であることを忘れていた。

ここで重要なことは、彼女はおそらく自分がやったすり替え行為自体は覚えていたろうこと。 単純な事実なのだから、指摘されれば記憶自体は引っ張り出せたはずで、つまりそれらの事実関係が、彼女の中で論理的に統合されていなかったということ。

「統合失調症」と言う疾患がある。 彼女はそれなのか、と言うと、私は違うように思う。 少なくとも典型的なそれではないのではないか。 統合失調症らしき人を、遠巻きながら眺めたことがあるが、会見などであんなに整然と振る舞い、流暢にモノを喋られるとは思えない。 彼女に欠けていると思われる機能は、おそらくごくピンポイント。 典型的でなかったからその異常性の発覚が遅れ、さらには後天的な環境においても、僥倖とでも言うべき諸条件が偶然にも重なってしまった。 そんなところか。不幸なことではある。


12/18(木)

サイドチェインのルーティングって、音屋の皆さんどうしているのだろう。 因みにハードウェア上の話じゃない。 メジャーなDAWでも仕様上ちょっとやりにくいように思えるのだけど。

サイドチェインが何か分からない、って人に一から説明するのは結構根気がいるのだけど、キャリアとしてのある信号に別の信号を使ってモジュレーション(コンプとか)を掛ける、みたいな効果。 ドラムのキックとかがよくそのモジュレーション・ソースとして使われる。

普通のエフェクトの類と違って、入力が二系統必要になるので、ちょっとルーティングが複雑になる(一系統にまとめられているものもある)。 ヴォコーダーとかに似ていると言えば似ている。 ヴォコーダーもルーティング面倒だ。

今のところモジュラー画面が用意されている(フリーの)DAWを使って、何とかやりくりしているんだけど、そのソフトがどうやらテンポ情報を発してないらしくて(MIDIデータは、MIDIファイルに埋め込まれたテンポ情報をリアルタイムで参照しながら再生されているっぽい)、プラグイン類のテンポシンク系の設定が全部無視(BPM120で固定)される。 メジャーどころのDAWでのセッティング例みたいなのがあれば教えて欲しいところ。 検索しても見つからなかった。

セッティングの仕方を私が単に分かってないだけなのか、あるいは仕様上そんなことができないのか、それすら分かってない。 マニュアル類にも参考になる記述が見つからなかった。 しかし情報の少なさから察するに、あんまりやる人いないんでしょうね。


12/17(水)

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スタジオにて。 みんなが食べてるのは、差し入れのみかんで、「紅まどんな」と言う品種だそうだ。

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12/16(火)

物事を長続きさせる方法。

アスペルガー症候群の夫を持つ女性、の書いた(実体験を柱とした)漫画が受けているらしくて、私もそれ読んでみたって話を以前にした。 率直に言って、その作者にあんまし好意的になれないって話も含めて。

世間的な評価ってどうなんだろうと気になって、ネット上にあるレビューの類に目を通してみたんだが、意外なほど私に近い感想を持っている人が多くてちょっと安心した。


人は、恋人でも友達でも、人間を選ぶなら「好きな人」を選ぶべきではないか。 自分に都合が良いかではなく。 上の漫画の作者は、「何をやっても怒らず、どんな無理な注文にも応じるところ」に惹かれ、その旦那を選んだと言う(本当にそう書いてある)。

金銭的に割りの良い仕事は、その程度の意味では自分にとって都合の良いものだが、それだけの理由では続けて行けないからこそ、人はそんな基準で仕事を選ばない。


その漫画には、二人の交際開始から結婚に至るまでの曲折について、詳述されていないが、諸事女性主導の元に進められたことは想像に難くない。 その旦那が本当にアスペルガーなら、彼は積極的に相手との(婚姻などと言う)法的な距離を縮めたりしない。 異性に生物的な興奮を覚えたりはするだろうけど。


その女性は、旦那を全く愛していない。 作中からもそれはありありと読み取れる。 また、アスペルガーは言語の不具合なので、旦那の方もその女性を愛していない。 と言うか、愛せない。 愛する機能が備わっていないから。

女性は、旦那の精神疾患に振り回され、悩み、最終的には別居に至ったと言う。 が、そもそも惹かれた点と言うのも、その彼がアスペルガーだったことに由来しているわけで、彼の長所と短所は紙の裏表に過ぎない。

私には、「拾い食いしたら腹を壊した」とか言っているようにしか見えなかった。 助言ができるなら、「腹を壊すような予感がするから、他の人は誰もそれに手を付けなかったんだよ」と言うしかない。


男女のことって、私には経験も少ないしよく分からない。 でも、関係を長続きさせる方法があるとしたら、それは「好きな人を選ぶ」くらいしかないのではないか。 私がこの作業(音楽)を今日も続けられる理由は、偏に「音楽が好き」だからだ。 好きなものを選んだから、長く続いているだけ。


12/15(月)

最近導入したある音楽制作ツールを弄ってて感じたこと。 リズムトラック制作用途のものなんだけど、早い話がEDMとかそういうジャンルに特化したもの。

いくつかの(使用法の)解説サイトとか、製品レビューの類を読んでいたのだが、そのどこでだったか忘れたけど「ワークフローが劇的に向上する」みたいな文句が目に入った。 私はそれを弄りつつ、考え込んでいた。

私においては、特に作業効率(そのワークフローとやら)が向上したとも思えない。 そもそもその手の音を普段作る習慣が無いので、むしろ効率は悪くなったような気すらするんだが、ジャンルによってはそうでないのだろう。 私かにwaveファイルを一々細切れにして並べ替えて、とかって作業を、それ専用のツール無しでやろうと思ったら大変ではあろう。


そのツールを弄りつつ、トラックを一から作り上げる作業と、普段私が行っている作曲は、行為として似ていない。 「音を扱う」と言う点においてのみ共通項を見出し得るが、そこを除くと、例えばこの文章を考えるとか、絵を描く、なんて行為の方がむしろ断然(作曲に)近いと思える。 これは脳内に展開するタイムスケールの面においての話。 それこそが創作であるから。

オーディオデータを弄りつつ、トリッキーな音を作る行為は、細部において創作と遠い。 創作とは脳内での構築作業なので、この「オーディオデータを弄りつつ、トリッキーな音を作る」と言う言語整理こそが創作部分で、あとのディテールの詰めは、いつものことだが機械が勝手にやってくれてるって感覚が濃厚だ。

あの手の機材はあくまで最後の味付け、マスタリングにおけるコンプとか、そういう工程に近い。 基本のプロットが組み立てられた上での、細部の味付け。

海外のアーティストなんかには、私に近い解釈であの手の音を捉えている人も結構いるように感じるが、そうでない人も多い(特に日本に)。 核となるプロット無しに、あの手の音作り用のツールなどをイキナリ用いて、一小節目から曲を作ってる感じの人。 音色・音響と言ったファクターをごっそり除いてみた上で、残る骨組みを聴き比べてみれば、そのミュージシャンの脳機能のある部分は見えてくる。

本当に、あの手の音楽ジャンルの担い手である海外ミュージシャンの経歴をいくらか調べてみると、いわゆるクラシック畑だったり、元バンドマンだったり、アコギのプレイヤーだったり、本当に日本のあの手のミュージシャンとは人間としての類型ごと違う感じだ。 因みに理由は分からない。 私なりの解釈はなくもないけど、今のところ推論の域を出ない。


12/14(日)

先日、待ち合わせの時刻までちょっと時間があったもので、本屋に寄った。 一角に売れ筋ランキングみたいなコーナーがあって、ランクインしている本が平積みにされていたので、徐に目に付いた一冊を手に取ってみた。

何やら元銀行員の書いた本で、お金の貯まる人(と同時に貯まらない人)の特徴を書き綴ったそうな。 正確なタイトルや作者の名前など、全部忘れたけど、そんな感じの本であった。

中にこんなことが書いてある。 多分実業家とかそういう人の言葉なんだろうけど、それが格言のように引かれてあって「若い頃の私は金が全てだと思っていた。歳を取ってから思うが、全くその通りだった」のだと。 どんなオチが待っているのだろうと、ある意味ワクワクしてしまった。 

本の冒頭だったかにこんな例え話が紹介されていた。 ある兄弟がいて、兄は若い頃から金のことなど深く考えず散財し、弟は老後のことなどを考え、兄とは逆の人生を送った。その結果、50代だかになって、貯蓄も無い兄に比べ、弟は経済的な憂いのない自由な暮らしを手に入れました。 だそうな。 何かどこかで聞いたことのあるような。まあいい。 実際その筆者は、大手銀行の支店長だかを勤めた後、現在は不動産管理などで暮らしていると言う。


私がまず思ったのは、家賃収入で食うのは結構なことだろうけど、「不動産管理」と言う仕事自体はついてまわる。 不動産は一方的に金を生み続けるって感覚があるのかもしれないが、不良資産化することだってある。 完全な自由を手に入れたとは到底言い難いように思える。 と言うか、この世界に人間として生きていて、完全な自由を手に入れることは不可能だ。 ある程度の自由を手に入れることへの対価として、どの辺が妥当な値段か、は判断の難しいところだ。

また、兄が如何に若い頃遊び呆けていようとも、とりあえずの仕事ぐらい探せば間違いなくあるし、この国ではどう転んだって生きてぐらい行ける。 仕事が無ければ生活保護だってある。 またこれは当人の資質を問うが、若い頃に貴重な時間を使って遊んだのなら、その「遊んだ時間」が、イメージとして自分に残る。 その経験は無意味ではない。

私は時間を貴重だと思う人だけど、50代になって初めて可処分時間を与えられても、できないことが多過ぎる。 例えば私の現在の環境ですら、50いくつになって一からから作るなんて事実上不可能だ。ある程度の若さがないと手に入らない経験ってのがある。 定年退職後に幼馴染は作れないでしょう。


「人生金が全てだ」とか言う結論しか出せない人に、どういう言葉を尽くせば伝わるか分からないけど、「あなたの目に映った諸価値であれば、大抵はお金で手に入るのでしょうね」とは思った。 まあ私がこう言ったところで「貧乏人の負け惜しみ」とか思われるのだろうか。

「お前の母ちゃんデベソ」と誰かを罵る子供は、自分の母親にデベソであって欲しくないと思っているに違いないが、母親がデベソだろうが一向に構わないと心底思っている他人が存在するなんて、努々想像できなかろう。 人間は自分の思考の枠組みからしか物事を理解できない。 想像できることこそが現実。何より大切なのはイマジネーション。


12/13(土)

宮大工・西岡常一のドキュメントと言うか、インタビュー映像を見ていた。 DVDなんだが、四枚組みでトータル四時間超と言う大部の作品。

専門的な知識が私に無いので、チョイチョイ内容は意味不明であったりするが、彼(西岡)がプロであることだけは濃厚に感じ取れる。 実に良作だ。

弟子と思しき人物やインタビュアーとの絡みがあるのだが、そういった人らに、西岡に対する尊敬のようなものが感じ取れて、好感が持てる。 お弟子さんは同業者なわけだから、西岡の偉大さを感じていて当然だが、インタビュアーは基本的に大工の世界について門外漢である。 でも明らかに西岡に対して敬意を持っているのが伝わってくる。

おそらくあのインタビュアーは、インタビュアーと言う仕事に真剣に向き合っているのだろう。 だから宮大工などと言う異業種の中の鉄人にさえ、その偉大さに理解が及ぶ。 自分の日々の仕事に真剣に向き合っていなければ、きっと他業界やそこに携わる人間のことになど想像が至るはずもない。

人は、自分に何かを見せるために働くべきだと思う。 だからきっと、職業などと言う生き方を選ぶ基準は、その仕事が如何程の何かを自分に残してくれるか、だよね。


12/12(金)

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スタジオにて(影山リサ)。 寒くなりましたね。

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今、最近導入した新しい機材と格闘中で、それについて色々ここに記したい事があるんだけど、文章化する時間が無い。


12/11(木)

遠足の前日、興奮して眠れなかった経験はないだろうか。 子供の頃の私は、どうしても日曜日には早く目が覚めた。 予感が、私の目を覚まさせた。

夢ってあれのこと。 自分が楽しめそうな時間を想像すること。 如何なるモノも要らない。想像力さえあれば得られる。


「家に帰るまでが遠足です」などと引率の教師が言っていた。 私は、予感と余韻を含めて遠足だと思っている。 だからこの心の中に、今でも遠足はある。

「予感や余韻と実体験は違う」と言う意見はあろう。 本当かもしれない。 私は、本来なら体験すべきであろう多くの事柄を、実際に履行することなく、想像で埋めている。 その場合、予感こそが理解の基礎となっているわけだが、実体験を伴わないだけに、あるいは誤差も含まれよう。 この誤差が、無ければ無論その方が望ましい。 が、私の持ち時間には限りがある。 全てを踏んで行くわけには行かない。

実体験すらも、あらゆる予感と同じく、この心がそれを感じただけ。 来る日も来る日も、飽きもせずデートや何やを繰り返すカップルとかいるけど、私は「デートなんていつだって行ける」と言う気分一つ得られたなら、もうそれで十分。 夢さえあれば、人は生きて行ける筈なんです。


12/10(水)

何日か前に四十肩云々って言ってたんだけど、どうやら予後を見るだに、関節痛ではあるもののいわゆる四十肩ではないらしい。 因みに現在明らかに快方に向かっている。

痛みが発覚した当日、生活に支障を感じるレベルだったんだけど、翌日には明らかにその支障が軽減した。 炎症そのものが収まりつつあったこともあろうが、要するに最初は痛みによる可動域の縮小に慣れてなくて、痛みを生じさせる動作を平然と取りがちだったのが、次の日ぐらいにはある種の学習をしてしまって、ほぼ無意識のうちに痛みの発生を避ける動作を取るようになったからかと思われる。


しかしこういうことって他にもありそう。 例えば「大人になって食べ物の好き嫌いが無くなった」とか思っている人は多いと思うが、それは錯覚である公算が高い。 子供ってのは普通、食事のメニューに関するイニシアチブを持たないから、結果として「嫌いな食べ物」が食卓に上ってしまうことが多いのだ。 大人であれば、そもそも好きでないものを積極的に選ばない。


大抵の人は、痛い思いをするぐらいなら腕なんて動かさない。 どうしても動かしたい奴なら、少々の痛さぐらい我慢してでも動かす。 動かせることより動かしたいと言う意志の方が、結局のところある動作の原動力になる。


12/9(火)

昨日の話の続き。 また考え込んでいた。 昨日の文章を打ち終えてから気が付いたのだが、彼はきっと彼なりに「自分の夢」を私に語りたかったのだと思う。

夢を持つことは素晴らしい、とされている。 学校の先生とかが如何にもそういうことを言いそうだ。 でも夢って一体何だろう。

夢って未来を想像することで、時間感覚そのものだと言える。 だから相応の言語機能を持たない、例えば猫に夢は見られない。 彼らの心に未来は無く、同時に過去も存在しない。 現在のみを生き、時間感覚を持たない。 時間を心に留めて置けない彼らは、流れて消えて行く時間そのものであるとも言える。


夢を心に描けない上に、「夢を持つことは素晴らしい」とだけ(それこそ学校などで)教え込まれた人は、我が心に思い当たる機微をもって、精一杯その「夢」の解釈を成立させようとする。 だから「○○士の資格を取ることが夢です」などと言うおかしなことを言い出す。

私は昨日触れたその彼との会話の中で、過去に感じたある気持ちを思い出しかけていた。 そしてさっきそれが何なのか気付いた。 「酔っ払いとの会話」である。 そういえば酔っ払いは夢を語る。

「俺は○○をやろうと思っている」とか「俺はかくあるべきだと思う」などと、酔っ払いはしばしば大言壮語する。 そして彼らは、酔いが醒めた翌朝、何事も無かったかのようにいつもと同じ日々を繰り返し始める。 黒澤映画「生きる」を見たことある人はいるだろうか。 黒澤明はきっと、私と似たような気持ちになったことがあるんだろう。


夢を持つことは本当に素晴らしい。 本当に夢さえあれば人は生きて行ける。 私は夢が無ければ生きて行けない。これは決して大袈裟な表現ではない。

酔っ払いは「夢を見ることは素晴らしいことだ」とぐらいは理解しているのであれば、本当に夢を持ってはどうだろう、などと思ってみたりもするが、それも欺瞞的だ。 夢はモノではないから、それこそ資格やアクセサリーのように、所有することなんてできる筈も無く、心でそれを感じるしかない。 それを感じ取れる心の持ち主にならなければ、夢は見えてこない。

酔っ払いが夢を語るのは、夢見るが故でなく、夢見ることが素晴らしい、とされている現状を教え込まれたが故に過ぎないよね。 裸の王様は、自身価値が分からないのに価値があるとされていることに、盲目的に追従する人を諧謔的に扱ったオハナシだけど、この社会では、それは寓話の中だけの話じゃない。 彼らに夢を見せることなんてできるだろうか。


12/8(月)

ごく最近、ある若者と話す機会があった。 以下その感想。 もしかしたら本人このページ読んでるかもしれないけど、単なる感想であって悪意は無い。

若者と言っても、彼はもう二十代の終わりに差し掛かっていると言う。 彼の年齢の頃、もう私は、今のこの事務所で働いていた。

彼は今の職場をいずれ辞めたいと言う。 学生時代の友人が飲食店だかを開業したがってるそうで、その手伝いをしようと思っているとか何とか。 しかしそれらとは別に、最終的に進みたい業種があるそうである。

因みに、彼が現在就いているのは、その最終的に進みたい業種とも飲食店とも全然関係ない仕事である。 彼曰く「今の職場に三年勤めてから転職を考えるつもり」だそうである。

私は聞いていて、何だかよく分からなかった。 私にだって若い頃はあったし、その頃の気持ちだって粗方覚えている。 しかし、いつの自分に照らし合わせても、彼の気持ちが体感できない。

携わりたい業種があるのであれば、それと関係ない今の職場など一刻も早く辞めるべきだし、その友人がやりたがっている飲食店なども経由する必要は全く無い。 「三年勤めてから」と言うが、その三年と言う期限に合理的な根拠も見当たらず、判断を先延ばししているとしか思えない。 彼の意思を汲んでやろうにも、その意思が私には掴めない。


要するに彼は、私に嘘を吐いていたのではないか。存在しない意思なら、読み取れないのも当然である。 嘘と言うと聞こえが悪いが、悪意を感じたわけでなく、誠実に思考していないように思えたのだ。 でも彼は、間違いなく普通人の範疇で、要するに平均的日本人は不誠実である。


12/7(日)

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今年も神田さんのご実家から、みかんが届きました。 皆でありがたくいただいてます。

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いわゆる四十肩ってヤツだろうか、関節炎に苦しめられている。 大袈裟でなく、このテキスト打つのも結構辛い。

ちょっと調べたところによると、病院とか行っても鎮痛剤とかもらえるくらいで、本質的な意味での治療法は確立されてないっぽい。 つまり自然治癒に任せるしかない。 放っときゃ治るとも言えるが、同時に治るまで痛みと暮らさなきゃならない。 音楽制作にも当然支障を来たしてて、困ってます。 痛い。


12/6(土)

今作ってる曲は実にありきたりな曲。 仮にPOPSに仕様書みたいなのがあったとしたら、とりあえずそれに従って作ってみましたみたいな曲。

どうしてそんなつまらない曲を作ってしまうのかと言うと、ある(アレンジ上の)アイディアを盛り込むためのキャンバスとして、とりあえず月並みな楽曲が必要だったから。 下地としての楽曲があんましエキセントリックだと、そのアイディアが生きない。

そのアイディアとやらが分量的に大きければ、そここそが曲の印象となるだろうが、気が付かない人には無視されてしまいそうな分量なんだ。 だから大掴みな印象としては、ごく月並みな曲になってしまうのよね。 致し方ないな。


12/5(金)

スタジオにて。

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先月末で締め切ったオーディション、ご応募ありがとうございます。 選考結果は今月中にも出せると思います。


12/2(火)

スタジオにて(神田優花)。

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発表したばかりの「Any World」、聴いてもらえましたでしょうか。 作ってるこっちの感覚ではもう随分いにしえの作品たちなんですが、まだ聴いてない方は是非チェックしてみてください。


12/1(月)

スタジオにて(影山リサ)。

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影山さんは、前作「Sweet Smell Before The Rain」から、ちょっとリリース間隔が開いてしまいまして、おそらく次のタイトルの発表は来年になるだろうと思われます。 マスタリング済みの音自体はかなり溜まってて、アルバム出せるぐらいあるんですが、「どれとどれを組み合わせてどういうジャケットにして」とか、そういう事務的な作業が滞ってます。


11/30(日)

林邑楽について。

雅楽には諸系統あるが、林邑楽はそのうちの一つで、楽制改革を経て唐楽の一部となった。 林邑とは大抵の書物に現在のベトナムとある。 が、厳密には違う。

林邑とはチャンパのことで、メコン・デルタにかつて存在した王国のこと。確かに現在そこはベトナム社会主義共和国の領土ではある。 が、両国は構成する民族が違う。 前者は現在もベトナムに残る少数民族チャム族の作った王朝で、ベトナム人はその征服者に当たる。

チャンパを偲ぶよすがとなるものは少ない。 特に音楽などと言う文化の痕跡は、日本の雅楽にぐらいしか継承されていないのではないかと思われる。 このこと一つとっても、雅楽がいかに偉大であるか分かると思う。

天平の昔に来日し、東大寺の大仏開眼供養に出席したチャンパ人が実在する。 名を仏哲と言い、今でも日本史の教科書などに出てくるはずだが、雅楽では、その人の伝えたレパートリーを特に林邑八楽と呼んだりする。

私は、抜頭・陪臚などと言った林邑楽系の楽曲が好きである。 個人的に音楽的な部分以外には興味が薄いのだが、それらは基本的に舞楽で、装束・舞踊面にも明らかな特異性があるらしい。 林邑楽がどの程度当時のチャンパ音楽の実体を伝えるものか不明だが、雅楽の中でもある種独特なものであることは間違いない。


神田優花の「sequel」って曲なんかは、林邑楽の特徴を取り入れた楽曲なんだけど、当時そこについてあんまし思いを馳せることはなかった。 今は林邑楽について、当時とは別の印象が私の中に形成されつつある。 「sequel」も今作れば、あの頃とは多少なりとも違ったものになるはずだ。

今構想を練ってる曲があって、今回触れた林邑楽のテイストを取り入れたものを考えている。 そんなに厳格に雅楽の様式に沿ったものではなく、あくまでPOPS的な音楽にエッセンスとしてのそれを取り込む感じのものを検討中。


11/29(土)

スタジオにて。 先週は新曲二曲録りました。

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カズーについて。 楽器屋で売ってはいるし、一応楽器なんだろうけど、オモチャみたいなもの。 確か私は実器を持っていた筈だが、今どこにあるのかちょっと分からない。確か500円くらいだった。

あれを生演奏以外で表現しようとするなら、思いつくところでは、カズー音色(soundfontとか)を使うか、人間の声を加工するタイプのカズーシミュレーターみたいなエフェクト使うくらいしかない。 カズーの音程変化って当然鍵盤楽器のような階段状ではないので、soundfontのように半音刻みのノートにアサインするような形にて再現するには、原理的に少々の難がある。ある程度リアルな表現を求めるなら、ピッチベンドとか多用しないといけない筈。それでもどの程度の効果があるか。

だったら後者にすれば良いと言いたい所だが、エフェクトで人工的に作る音ってのは、やはり実器のそれとは遠い。 サンプリング音とシンセの合成音くらい違う。 今はモデリング系とかでも生楽器のニュアンスを結構再現できてるものがあるけど、やはり原理的に心許ない部分はある。


11/28(金)

神田優花、最新ミニ・アルバム「Any World」収録曲について。 昨日の続き。 因みに今回のこのアルバム(全収録曲)もカラオケの鉄人さんのメニューに入れられてるそうです。


3.Cross My Heart

フランス和声(フォーレとか)について考えていた時期に作った曲で、ちょっぴりその影響が出てなくもないような。 ハッキリと準拠したと言うほどのものではないが。

曲の原型だけは随分昔に上がってたんだけど、誰も作詞に手をつけなくて、結果随分発表までに時間が掛かってしまった。 まあ聴く人にとってはタダの新曲でしょうけどね。 作ってから時間が経ってるんで、一旦オケを全面的に作り直した。


4.Any world(You mean to be)

これも最初は組曲っぽいものを書こうと思って着手したんだけど、当初の想定とは随分違った形に落ち着いた。

変奏曲っぽいものに仕上げようかとも一時思ったのだけど、結局止めた。 歌物のPOPSとあんまし合わない。 メインとなる旋律が、二拍子で出てくるところと三拍子になるところがあって、そこが強いて言うなら変奏曲っぽさを残している部分。 でもその程度。

間奏に、ハーディ・ガーディって言うちょっと珍しい楽器の音を使っている。 奏法とか構造とか調べるのにそれなりに時間が掛かったのだけど、ちょっと使いにくい楽器なんで、今後はもうあんまり使わないと思われる。


5.Night Flight

バッキングトラックは弦のみ(弦楽四重奏)。 これの原型、確か二十年くらい前に書いた。

間奏は僅か4小節ぐらいしか無いのだけど、色んなパターン(確か3〜4パターンぐらい)のカノンを埋め込んでる。


6.迷いの森 / 7.World is mine

2013.11.20発売のシングル「nowhere」のカップリング曲と、2013.1.16発売のシングル「World is mine」のタイトル曲。 どっちも基本的に先行バージョンと同じです。





11/27(木)

神田優花、最新ミニ・アルバム「Any World」について。


バッキングに弦とか管とかチェンバロとか、クラシック(西洋音楽)的なものを多用した曲を集めた。 いわゆるキャラクター・ピースみたいなものを作ってみました。

一応断っておくが、ある表現のためにクラシック的な書法を拝借しただけで、私自身はクラシック畑の人なんかではない。 クラシックって、普通に生活しているだけでもどうしても耳に入ってくるものなので、ルーツの一つになってしまってはいるでしょうけど。 このアルバムは、クラシックに首まで浸かってる気分ではなくて、あくまで神田優花のPOPSにクラシック的なテイストを軽く取り込んだだけのもの。

ミニ・アルバムって謳ってるのは、曲数がアルバムとしては少ないからってのもあるけど、ちょっと趣向が変わってるんで、ナンバリング・タイトル(フル・アルバム)には何となくしたくなかったもので。 収録曲は落ち着いたものが多いので、聴きやすくまとまっているかと思います。 以下、収録各曲について。


1.Purple Dawn

組曲みたいなのを作ろうと思っていた時期があって、その頃に書いた何曲かのうちの一つ。

色々と事情があって、典型的な組曲っていうより、組曲っぽい要素を取り入れた曲みたいな感じに仕上げている。 アルマンドとかクーラントとかの、本来組曲を構成する一章を、例えばイントロだとか間奏だとかの一ブロックに収めている。 イントロはアルマンド風、間奏はシャコンヌ風、みたいに。

本筋の部分はサラバンドを発展させたもの。 こういう旋律型、ゼクエンツとかリズム・オスティナートなんていう類似・同一音型の反復って、個人的には好き(私の曲には比較的よく出てくるはず)。


2.believe

ピアノの連弾用のスコアを書いてみたんだけど、それにボーカル用のメロディー乗っけて歌物にした。 グノーのアヴェ・マリアみたいに。 だからバッキングはピアノのみ。

濃厚に調性音楽なんだけど、近い調をフラフラ行き来するような展開のものを書いてみたかった。 ある程度当初のイメージに近いものには仕上がったと思う。



11/26(水)

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神田優花、「Any World」、本日発売。


今日は、神田優花です。
新しいアルバムが出来上がりました。
みなさんの元にお届けできるこの瞬間をいつもいつも幸せに思います。

このミニアルバム、『Any world』は去年から今年にかけて手掛けたものです。
タイトル曲のAny world(You mean to be)は、焦がれてやまない世界を手繰りよせようとするような、それでいて自分の中のちっぽけなこどもに語りかけているような、そんな心持ちで歌っています。ハーディ・カーディの音が美しい曲です。ぜひ、聞いてみてください。

believeは Any world(You mean to be)やPurple Dawnのような複雑な曲たちと平行してやっていたもので、その分いい意味で力が抜けて楽しめたので、その心持ちが歌に表れていてなめらかで心地いい曲に仕上がったと思います。

Night Flight、これは実は一発録りどころかリハで歌っていた時録っていたものをそのまま使っています。レコーディングを意識しない分、心の内側を吐露したような生々しさが出てるような気がします。

Cross My Heart、これは一番最近録ったものですね。
誰かと心を近づけた時、強くなれたり弱くなってしまったり。そんなことを想って歌っています。

迷いの森、World is mineは去年出したシングル、c/wからの再録になります。

"始まりの色"Purple Dawnから始まり、アンサンブルっぽいものからフルオーケストラの様相のものまで、クラシックの要素たっぷりのアルバムです。クラシック好きの方はもちろん、普段聴かないって人も、良かったら通してこのアルバムを聞いてみてください。そしてドップリ音に浸れる、そんな特別な時間を過ごしていただけたら嬉しく思います。
よろしくお願いします。

神田優花





11/25(火)

スタジオにて(広瀬沙希)。

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広瀬沙希は、先日発売の新作「パラドックス」から、歌詞検索サイト「歌詞GET!!」に歌詞を掲載してもらってます。 ダウンロード物って、販路としては優れていても、ブックレットが付かないって(割りと致命的な)欠点がある。 今回一応ではあるが、そこを補完しよと思って、歌詞サイトに掲載してもらいました。 音を聴いて気になった人は是非チェックしてみてください。



スキッフル音楽で多用されるというシガーボックスギターって楽器がある。 タバコ箱を共鳴部とした、早い話が手作りのギターである。 「タバコの箱でどうやって作るんだ?」なんて思われる向きもあろうが、現代日本人が想像するタバコ箱とは材質も形状も全然違う。 詳しくは、検索かけてもらいたい。画像とかすぐ見つかるはず。

スキッフル楽器って要はオモチャみたいなものなので、それを製造販売している大手メーカーとかもないし、楽器の構造だとかもモノによってマチマチだったりする。 演奏動画とか探してみたんだけど、形状も弦の数も色々だった。 フレット構造は無いものが多く、ボトルネック使って演奏しているケースも多く見られた。

そんなに多くを見たわけではないが、三弦タイプが多いみたいで、チューニングはGDGのオープンGが多かった。 フレットレスギターにボトルネック使うことも、ボトルネック使うならオープンチューニングにすることも、実に合理的と言うか当然の発想だ。

因みに上記GDGのチューニングは、三味線の二上りと同じなわけだが、両者は直接の影響関係に無いと思われる。 その調弦が、音楽の生理のようなものに、ある程度適っているが故の符合なのだろう。


11/24(月)

お役所などが公園にトイレを作るとする。 いわゆる公共事業として。

トイレは作る費用も無論かかるが、一旦作ってしまえば、以来恒常的に人がそれを利用するわけだから、トイレットペーパーなどの消耗品を補充したり、清掃業者に定期的な掃除を依頼したりなど、維持するコストがかかってくる。 公共事業とか言うものは、この維持コストも含んで初めて成立するものだろう。

この「維持コスト」をかけることを怠れば、当然トイレなどは荒れ放題になる。 汚れた便器を見て、マナーがどうしたなどと、利用者の意識を問うってのはお門違いも甚だしい。 この世界には、かけるべきコストをかけねば成立しない物事があるっつうだけのこと。 こんな簡単な理屈を理解できない人間が、この社会にはとても多い。


11/23(日)

もうかれこれ十年以上前、この事務所がスタートしたばかりの頃に買ったYAMAHA製のハードディスクレコーダー(HDR)がある。 当時YAMAHAは機材のパンフレットを、民生機とプロオーディオで分けていたのだが、私の(と言うか会社の備品として)購入したものはそのどちらにも載っていた。 つまり民生機最強・プロオーディオとしては最低限と言った具合の代物。

当時、それに搭載されているADコンバーターの質は結構良いものだとの評判だった。 私は音響にそんなに拘りもなく、良否の聞き分けも大してできないクチなので、別にだからどうしたとも思わなかったが。 因みにそのHDR、現在は一線から退いていて、いわば退役期間に入っている。 しかし、膨大なデータ(ネイティブファイルの類)があるので、場所取ってしゃあないが手放せない。

その後しばらくして、録音環境を割りと抜本的に変えたのだけど、音(録音結果)の変化に驚いた。 時間が経っているので、メーカーの技術も当然上がるだろうが、そういう次元でないと感じた。 コンバーターの性能が進歩したと言うより、根本的に何かが変わっているように思えた。


昨今のオーディオインターフェイス(以下AI)だとかアンプシミュレーターだとかって、ハッキリ言って音が良過ぎる。 ウソ臭いほどに。 今はUSB接続のエレキギターとかまである。

アナログの宅録とか、一昔前のバンド演奏なんかを経験したことのある人には分かる筈だが、音ってのはもっと制御し難い、奔馬のようなものだった。 例えばバンド演奏などは、ノイズやハウリングとの戦いになって当然のものだったし、ライブハウスでのライブなんかでは、楽器の上手い下手など聴いていてもほとんど判別できず、ボーカルの歌う歌詞なんてのも全く聞き取れないのが普通だった。

私の初めて買ったレコーダーは、タスカムの4トラックのテープMTRだったけど、こんにち的な尺度で言うなら、使いにくいし音も実に悪い代物だった。

何をもってして音の良し悪しとするかはさておき、AIやそれを含むDAWシステムは、とりあえず音は良ければそれに越したことはないし、商品としても優れたものであるとされるに決まっている。 だったら究極的には、市販品のような音(オーディオデータ)を持ってきて、「これがあなたの出した音ですよ」と言ってユーザーに差し上げればそれが一番良い。 ほとんどの客はそれで満足する。

昨今のAIとかって本当に、入力されたアナログ信号を解析し、そこから求められるであろう録音結果を合成している感が強い。 AIってのは、要はコンバーターなわけだが、コンバーターとは翻訳機であるからして、宿命的にそういう部分を持ってしまってはいるのだけど。

宅録とかに初めて挑戦する人なんかが、いきなり現行の機材を使ってしまうと、「俺って凄いモノが作れてる」とか思い込んでしまいそうだ。

私は昨今の機材やその使用者に批判的なわけではない。 単に分析的に眺めているだけ。

私だって便利で音が良い方が良い。 録音結果の合成機であったとしても、できあがるその合成物が、私のイメージに近いならそれで全くもって構わない。 むしろノイズやハウリングだらけの録音結果の方が望まざるものだ。


11/22(土)

ジャズと言われる種類の音楽が、私は嫌いではないが、作曲に即興と言う手法は採用したくない。 私がジャズを、何事かを託すキャンバスとして万能と思えない理由もそこにある。

とりあえずは、ジャズのある側面のみを抽出したような手法にて、いくつかの創作を試みたりしているのだが、私の作るそれらの曲は、本質的にジャズとは遠かったりするのだろう。

私の考える創作は、ほぼ完璧に脳内で完結する作業。 脳内に構築した作品をレンダリングすることによって作品化している。 実作業の中で細部を修正することなどはしょっちゅうだが、その辺の誤差も無ければその方が望ましいと思っている。

私みたいな人って、本来画家などを目指すべきだったのかもしれない。 が、どうしてもアイディアを展開するのに、時間軸が必要だったからしゃあない。


11/21(金)

「欲しさ」について。

この社会において、物欲と言うものは、基本忌むべきものとされている。 オモチャを欲しがる子供には、その欲求を我慢させることこそが教育上よろしいかのように語られたりする。 少なくとも私の子供のころはそうだった。 子供の頃の私は、何かを欲しがることでよく親と対立した。

確かに欲を削ぎ落とせば、昆虫のように恬淡とした人間ができあがるかもしれない。 犯罪率の少ない社会には貢献しようが、それが理想なのかは一概に判断できない。 虫も殺さぬ者こそが理想の人格であるならば、我々がこの世界に生まれてきた理由が何なのか分からなくなる。


何が正しいかなんて一概に言えないのだろうけど、私は、私自身が何かを欲しがる子供であったことを、本当に幸運だったと思っている。 今の私の側にある全ては、あの時の私が、何かを欲しがったからこそ今私の側にある。 今の私が日々追いかけている何かも、私が欲しがったからこそ見えたもの。

欲しいものとは、言わずもがな想像力の産物。 想像力の限界こそがその人である。 この社会で何が正義とされているのかなんてよく分からないけど、私は「何かを欲しがる者」こそを応援する。


11/20(木)

最近のことだが、モノの試しとて、音(音色)に特化した作品をいくつか作ってみた時期がある。

楽理のようなものが存在しないから、煮詰めるところが、つまるところ機材のオペレーションだとか、音色の生成アルゴリズムだとか、そういう音楽以外の部分になる。 それはそれで奥の深いものなのかもしれないが、音楽面の底が浅い感は否めない。 ある程度分かり切っていたことではあるが。

あと、あの手の音を作っていて正直思うのは、なんかあれって「子供っぽい」。 ガンダムのプラモデルとか作ってるような気分だ。 ああいった音楽における一般的な音の良し悪しの基準って、アニメに出てくるロボットのフォルムのカッコ良さの基準などと似通ってないか。 なんだか、小学校低学年くらいの頃の記憶が蘇ってくるのよね。


11/19(水)

スタジオにて。

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残念なことだけど、人は愛することしかできない。 いくら愛されたくても、愛してくれるのは他人だ。他人の心は我が意のままにならない。

では愛されたい者はどうすれば愛を得られるのか。 それは誰かを愛するしかない。 愛を「得る」と言うが、愛は物質でないので、感じることしかできないわけで、愛を感じるには、まず愛を理解せねばならない。 我が心の中にある「愛」と言う機微と照合するこによってしか、誰かの愛など感じられないのだから、誰をも愛することのない人間に、愛を感じられる日など来ない。

何よりも悲しいこととは、誰からも愛されぬことではなく、誰も愛せないこと。


11/18(火)

グレン・グールドの記録映像を見ていた。 その感想。 多分割りと有名なヤツで、私も見るのは初めてでない。

まず「グールドは三歳の時、既に絶対音感を身につけていた」みたいな解説が入っていたが、絶対音感の解釈に違和感が残る。 古い作品なので、定説自体が今とは違っていたのかもしれないが、絶対音感は「身につけるもの」でなく、時折「淘汰されずに残ってしまうもの」だ。

実際、現存するグールドの記録映像を見ていて、私が確信的に思うのは、彼は常人が持たぬ何らかの特殊能力を持っていると言うより、多くの通常人が持つある(ごく当たり前の)機能を欠くが故に、あのように一見特殊かのように見えてしまっている面が濃厚だってこと(無論、それだけの単純な話では無かろうが)。 早い話が一種の「アホ」なのではないかと。 彼のあの弱々しい子供のような笑顔を見るにつけ、間違いないように私には思える。


11/17(月)

夢(眠っている時に見る方の)について。

普段音楽のことばかり考えているからか、私は夢に旋律が流れてくることがある。 特に寝入り端と起きる寸前に多い。 単にその時以外のことを忘れてしまっているだけなのかもしれないが。

夢に出てくる旋律は、ハッキリ言って単純なものが多い。 ほぼ単旋律ばかりで、フレーズとしてもごく短い。 せいぜい二小節分とかその程度だろうか。 大抵、寝る直前に練っていた曲と、何らかの関連性を持ったものだったりする。 単純な処理しかできないってことは、要は複雑な構成に向く脳の状態でない、と言うことなんだろう。

夢と言うのは、脳が私にそれを見せているのだが、言うなら質の悪い現実って感じだ。 浮世では、あるレベルの脳の覚醒状態を夢と呼び、またあるレベルの脳の覚醒状態を現実と呼んでいる。 睡眠のメカニズムについて、まだ医学的に解明されていない部分も多いのかもしれないが、私はさほどの神秘を感じない。 そこを穿っても大したものが出てくる気がしない。 「気がする」って人は、すぐ薬物なんかに手を出すのだろう。


夢を見ていて思うのは、物事って別に大した思考を伴わなくても処理できるってこと。 夢の中の物語って、さしたる支障もなく進行していくでしょう。 寝ているほどに脳の機能が低下していても、局面局面における一応の判断は下せるってことだ。

ただし、その判断は実に浅はかである。 どう浅はかなのかと言うと、おそらく時間軸が吹っ飛んでいる。 例えば、直面したある困難を乗り越えるために、易々と嘘を吐いたり。 嘘なんて後でバレたら困るに違いないのだが、時間の無い脳にとって、そこは足枷にならない。 恐ろしいのは、そういう脳の覚醒状態にて、現実を過ごしている人間が実在してそうなこと。

おそらく、精度の悪い脳が映し出す現実は、あのような(夢のような)ものなのだろう。 猫が見ている現実とか、実にそのように察せられる。 おバカさんのやらかした「笑えるエピソード」みたいなってよく耳にするが、大抵それらは「夢」をキーワードに解ける。 夢ならそういう行動を取ってしまっても不思議は無い。


11/16(日)

物事は類型化できる。 人間とて例外でなく。

精神医学とかって、人間(の精神)を分類・整理する学問体系なのだろうが、分類することと共通項を見出すことは、基本的に同じ作業だ。

私は、この私の精神を極限まで知ろうとしている。 知ると言うのは、自他の違いを認識すること。 その為に日々音楽を作り続けている。 もしこの宇宙のどこかに、私と同じ言語機能を持つ人がいるのなら、それは私に違いない。

美意識を追求することとは、精神を細分化して捉える作業でもある。 これを怠れば、究極的には自他の区別すら危うくなる。 魚類や昆虫に自他の区別が無いのは、このせいだ。 彼らの心には、つまりは「美」が無いのだろう。

音響を「気持ち良い」などと感じることと、芸術と言う美の追求作業は全く違う。 似てすらない。

ピカソは死ぬ時に「私は死んでも、私を愛してくれる人がまだこの世界に残っている。だから悲しいことなんて無い」と言ったそうだ。 私もそう思う。 誰かと価値を共有できるのなら、その誰かとは、自分の一部であるも同然だ。 私が全てを懸けて今続けている作業の果てには、きっと私の中にある何かに気付いてくれる人がいて、その心こそが私の意志を継いでくれる。 私はきっとそこにいる。


11/15(土)

世界との折り合いについて。

ちょっと前に話題になっていた某兵庫県議会議員、彼の会見の様子を凝視していると、段々彼の「世界観」が見えてくる。

聞き取れた彼の発言の中に「政治活動費云々も大事かもしれないが、議員活動全体から見れば小さなこと」なんてのがあった。 他にも、泣き叫びながらの「少子化問題・高齢化〜」みたいな言葉も聞き取れた。 会見での彼の発言の要旨は、早い話が「俺は大層な仕事をしているんだから、政治活動費の使途なんて細かいことを言うな」と言ったところだろう。

人は要するに、世界と自分なりの折り合いをつけつつ生きている。 荒んだ家庭環境下で育った子供が非行に走ったりするのは、世界から押し付けられた不幸に対して、帳尻を合わせようとしているのだろう。 つまり折り合いをつけようとしている。

困ったことにこの折り合い、めいめいが勝手に基準をこさえているので、必ずしも正当な主張であるとは限らない。 「女にモテないからこの世界を滅ぼしたい」みたいなことを本気で考える人だって実際にいる。

世界から理不尽に押し付けられた不幸に対し、反撃によって均衡を図ろうとする者。感性如何によっては、自らを取り巻く不幸にすら気付けず、反撃にも思い至らない者。客観的に見れば不幸な境遇の中、僅かに存在した愛をも掬い取って自らを幸福とする者。 世の中には色々な人がいる。

上の議員の会見、よく発言を聞いていると、本当に 「折り合いをつけさせてもらって云々」と言っている。 共感こそ得にくい類だが、正直なところではあるのだろう。


折り合いと言うのは、言い換えれば各人の納得とも言えると思うが、それって物質的資源のように限りあるものではなく、あくまで銘々の気分に属することだ。 ソフトウェアだけで満たせるはず。 だからアニメやゲームにこれほどの需要があるのか。 だったらあんまし理想的な帰結とは思えないね。


11/14(金)

先日のスチール撮りの様子。

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reality(現実感)について。 もしも私の音楽が、「あなたの曲はリアリティ溢れるものでした」と言う感想を頂戴することがあるのなら、それは私にとって最大の賛辞だ。


街なか(駅など)で案内板なんかを見ていると、大抵「現在地」の表示があるが、その現在地の側に「YOU ARE HERE」との英語表記があったりする。

「YOU ARE HERE」は現在地の訳としては飛躍し過ぎている。 「説明書」と「Read Me」の距離などにほぼ相当するように思えるが、この差は精神の違い。 つまり「YOU ARE HERE」は、読み手のリアリティに訴えかけている。


私の作る曲は、私と同じ人間でも存在しない限り、究極的には私にしか分からない。 私に似た人がいるのなら、私に近い感覚で捉えることぐらいはできるのかもしれないけど。

現実とは、その人の心が映し出した世界のこと。 札束で魚が釣れないのは、魚にとって金が、現実でないから。 できることなら私は、誰かにとっての現実となりうる作品を書きたい。


せっせとお金を貯め続ける人は、積み上げられた札束を、どれほどのリアリティをもって眺められるのだろうか。 純金の延べ棒は、それ自体金の塊で、ある意味所有者でもあろうが、心が備わっていないからその財産を感じることができない。 つまりそこにリアリティは微塵も存在しない。

リアリティとは、ある対象を真なるものとして捉える感覚。 我々が生きていると言う実感そのもの。 如何なる美辞麗句も、読み手の心に届かないのなら、そこにリアリティは無い。 人に愛される作品の多くは、きっとリアリティに溢れたものだろう。


しかしどんなに私の審美眼に適ったものであったとしても、受け手の感性如何によっては、そこにリアリティなんて成立しない。 悲しいことだけど。 だから私は、私が今日もこのわけの分からない曲たちを、自分の全てを懸けて作り続ける理由の一つに、あなたの心がこの世界に存在したこと、があることだけが伝わればそれで良いと思っている。


11/13(木)

音色について。

私には、シンセとかで音色を一から作ることってほとんど無い。 大抵はプリセットのまんま使うか、必要に応じてエフェクトかけたり、多少プリセット音色のパラメーター弄ったりする程度。 あとは、特定のジャンルに特化した音色が要る場合なんかは、音色パッチみたいなのを探してきて使う(手持ちのシンセにロードする)ことはたまにある。 とにかく、波形を一から弄って音を作るなんてことは、ほぼやらない。

一応言っておくと、音色の構造が全く分からないってわけではない。 倍音減算方式とか、FMとか、そういう基本的な音声合成の仕組みは(あらましではあるが)分かっているつもりで、一時期自作のVSTとか作ってる際にも、とりあえずその知識が助けとなった。

ただ、ある程度以上に複雑なものになるとよく分からない。 また、理論的なアウトラインが分かっていても、結果として出来上がる音色像と、パラメーターの設定値の関係が巨細に体感できると言うほどではない。


何度も言うようだが、私は、比較的音色に重きを置かない音楽家だ。 アタマの中で想定する作品の完成像における、音色面での設定は随分甘い(音楽そのものの想定はわりかしシビアだと思うが)。 だから、プリセットとか借り物のパッチとかであらかた間に合う。

多分、いわゆる音屋の中で、私のような人は少数派だろう。 むしろほとんどの人は、音色こそがメインのプロットで、音楽的な構想部分はオマケだったりするんじゃないか。 音楽っつうものの性格上、そうなってしまうのは止むを得ない気がする。

音屋である私が言うのもなんだが、音楽制作には能力的なバランスが不可欠であると思われる。 時間軸上に作品像を展開するのだから、それは「認識」のような言語的な作業に他ならないのだが、同時に空間を瞬間的に把握する能力も要る。 音感・リズム感は無論のこと、音色なんかも、まさにこの空間処理能が司る分野ではないか。 とにかくこの二つの能力の、どちらか一方だけがいくら発達していたとしても、即座に音楽に向くとは思えない。 バランスが大事なのだ。 特に私の考える音楽家の適性においては。

言語野のみ発達した脳で、音楽空間をコントロールするのは難しいはずだ。 それはどうしてもスポーツになってしまうから。 逆に言語は比較的脆弱でも、瞬時に空間を処理する能力があれば、音楽自体は作れる。 が、結果出来上がる作品に偏りが生まれてしまうだろう。 私の言う「偏った作品」こそが、音楽の本来の姿とされているのかもしれないけど。


まあしかし、音楽に正解なんて無い。 各人の音楽がそれぞれ存在しているだけ。 だから私も一般概念としての音楽を志したり、○○芸術大学に高得点をもらえる音楽家を目指しているわけではなく、あくまで私の音楽を追いかけている。 とにもかくにも、私にとって音色は、一応の懸案事項ではあるけど、比較的優先順位の低いものだ。


11/12(水)

先日のスチール撮りの様子。

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神田優花の新作「Any World」(全7曲)が、11/26(水)に発売されます。 神田優花と言えば、先月発売のシングル「beauty in ugliness」が、カラオケチェーン「カラオケの鉄人」のメニューに加えられているそうです。 誰があんなの歌うんだって感じですけど、よかったらリクエストしてみてください。




11/11(火)

何日か前に触れた「難しいもの」について、また考えていた。 時間軸を伴うものこそが難しい(論理的である)、と考えていたのだが、そこについて。

音楽像と言うのは、例えば5分のPOPSなら、それは5分間と言うキャンバス(時間軸)に展開されたプロットであって、その作品を脳内で印象化するには5分相応のメモリーが必要になる。 聴くだけでもそうで、5分の曲を作ろうと思うなら、その作品像を脳内で一旦(かなり細部まで)構築せねばならないのだから、脳に求められるタスクはさらに巨大である。

私はクラシックが嫌いである。 長いから。 子供の頃なんかは、好き嫌い以前に、一時間近い交響曲など十全に把握できなかった。 今は大人になって脳の処理精度が上がったってのもあるが、形式ってものを知ったことによって、ある程度整理・断片化して捉えられるようになった。 単なる一時間の塊でなく、「ここは第一楽章、提示部の第一主題だ」とか言う風に。 つまりPOPSで言うところの、アルバムを聴くのに近い感覚で処理している。

30分あるミニマル、こういうのも正直好きでない。 退屈だから。 やたらに長くなってしまうのは、30分の大作を構築しているのでなく、瞬時瞬時、空間を処理する感覚で曲を作っているからだと思われる。 つまりあの手の作品は言語的でない。 構築しているから長大になるのでなく、脳での構築を経ていないからこそダラダラと長くなってしまっている。


identityとは何か。 それは自己の連続性である。 その人の中に流れている歴史(時間)のこと。 つまりそれは時間軸上に展開された何か。 子供の頃の意識と今現在の意識とが繋がっていること。昨日の自分が、今日の朝目覚めた瞬間に別人になっていないこと。 つまり、自分が自分であったことを覚えていること。

自己感の希薄な人とは、要するに、構造的に時間軸を展開しにくい脳を持っているのだろう。 だから瞬間瞬間を留め置けない。 従って自己が掴めない。

私が音楽を好きな理由は、やはり自分そのものと成分的に似ているから、だろう。 音楽は、ある感傷を、もう一度自分自身に味わわせることができる最良の道具。


11/10(月)

ここ二週間、ひたすらスチール撮ってたんですけど、その様子を一部公開。

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11/9(日)

今作ってる曲についてのメモ。

大したプロットでもないんだけど、ヒンズー・スケールってのを使って作っている。 スケールで曲を作るってのは、まあ比較的薄っぺらい作業なんだけど。

ヒンズー・スケールは、マイナー・スケールの第三音を半音上げただけの音列で、曲間では一部ハーモニック・マイナー(あるいは単なるマイナー・スケール)化した部分とかあるけど、大部分はそのヒンズー・スケールで作ってる。

ちょっと疑問に思ったのは、「どこがインドっぽいの?」ってところ。 アラビック・スケールとか沖縄音階とかって、一応はそれっぽく聞こえるが、ヒンズー・スケールに同程度の効果は無い(少なくとも私は感じない)。 インド音楽自体はそれなりに特徴的で、聴けばある程度それだと分かるもののように思えるのだけど、ヒンズー・スケールは全然その雰囲気を醸し出さない。

インド音楽の雰囲気ってのが、音列だけで表現するに無理があるってことだろうか。 確かにインド音楽って奥が深い。 ヒンズー・スケールもインド音楽のある部分を要約していたりするのかも。 とりあえず今作ってる曲は、全然インド音楽っぽくない。


11/8(土)

実を言うと、ここ二週間ずっとスチールを撮っていた。 とりあえず撮影自体は一段落ついたのだけど、今からデータの整理とかカット選びとか、まだまだ面倒な作業をやらないといけない。

そういえば今月一日発売の月刊Auditionにウチのアーティスト募集告知が載ってます。 たくさんのご応募お待ちしております。


11/7(金)

昨日のこのページで「自己感」と言う用語を使ったのだが、多少無定義に使用した感が否めないように思えたので、以下補足を。

自己感とは空気のようなもので、大抵の普通人には説明する必要がない。 自分が自分であるという、こく当たり前の感覚。

ところが、この当たり前の感覚が薄い、あるいは絶望的に無い、と言う人が稀に存在する。 例えば、自傷行為による痛みによってはじめて確認できたりする人がいるらしいのだが、そういう人はたまにやりすぎて本当に死んでしまったりもする。

以下は私の想像だが(当たり前である。私は普通人だ)、自己感が希薄な人でも、自己感を満たしたいと言う欲求だけはあるらしい。 で、その自己感を満たすための道具として、しばしば「他人の目」と言うものが必要になるようだ。

だからそういう人らは目立とうとする。 つまり他人に干渉したがる。 時に媚び諂い、善人を演じ、時に命令・恫喝し、悪人として他人の世界に登場する。 はたまたある時は、「人類史に寄与するような一大発見をした」などとブチ上げたりもする。 分かりにくいかもしれないが、これらは全て同じ心根から生じている。

自己感の希薄な人のやる、ある種の干渉行為に対し、怒りの反応などを示すことはあまり得策でない。 その手の人らの一番嫌がるのは「無視されること」だから。 プラスだろうがマイナスだろうが、反応を示されることによって、ある種の自己感の充足は得られるらしいから。

以下、蛇足ながら。 上記は「自己感の希薄な人」についての私なりの分析だが、「自己感の全く無い人」は、またそれはそれで行動パターンが違ってくる。 魚類や昆虫はあまり他者に干渉しないでしょう。


11/6(木)

情動を司るという扁桃体の動作は、論理性(意識・言語)とは独立していて、要するに勝手に動く。 大切な人が死んだ時、通常人なら悲しむところだが、どうしても笑いが込み上げてくる、という人がいるのなら、その人の扁桃体は異常である(少なくとも標準的ではない)。 こういう人のことを、人間社会は「狂人」と呼んでいる。

ちょっと前の話だが、STAP細胞事件の当事者である彼女の会見の様子を、私はリアルタイムで見つつ、彼女の情動を終始追っていたのだが、そこである発見をした。

あの時、彼女は間違いなく嬉しがっていた。 つまりは、自分のやらかしたことに対する詰問の場として会見に引っ張り出されてきているのにも関わらず、多くの記者に囲まれ、質問を浴びせかけられる時に、ある種の快感を覚えていた。 表情から読み取ったのだが、ほぼ間違いない。 表情と心理のリンクに、ほとんど誤差は無いからだ。

つまり彼女(の扁桃体)は、常人とは違う反応を見せていた。 彼女が感じたのは、詰問に対する罪悪感でなく、衆目を集めることに対しての快感だった。 多くの人の関心こそが、自己感を充足させてくれたのではないか。 つまり彼女には自己感が希薄なのだろう。 だからあのような行動が取れる。 普通の人にとって歯止めとなる、ある種の良心が発動されないから。

彼女が過去に取り続けてきた行動のほとんど全ては、上記で説明できる。 ほとんど間違いない。


11/5(水)

片飛鳥、「Shooting Star」(全4曲)本日発売です。 下は本人から。


Shooting Star

今回のシングルは、自分で曲を書くようになって3枚目の作品となりました。 やっと自分がやりたい音楽がわかってきたような気がします。 凄く楽しんで作ることができました!

タイトル曲「Shooting Star」は、 誰かの、友達の、大切な人の、そして自分の背中を、そっと押すような応援歌になればいいなと思って歌いました。
ぜひぜひ聴いてみて下さい♪

これからも片 飛鳥を、どうぞよろしくお願いします!

片飛鳥





11/4(火)

私は、専門学校などの音楽系の講師経験者に何人か知り合いがいるのだが、そのうちのある人が言っていた。 「DTMでは、ベースや(ドラムの)キックにリバーブを掛けないのが基本である」そうな。

私は、DTM(サウンドプログラミング)を専門学校などのアカデミックな場で学んだことがなく、ほぼ独学に近いが、上の話の影響もあって、なんとなくベースやバスドラにほとんどリバーブをかけないことが多かった。 それらに深いリバーブを掛ける必要性もあんまし感じなかったし。 以下そのリバーブについて考えたこと。

DTMとかってのはそもそも、楽器演奏の再現を主目的にしている。 でなければ入力テクニックもクソも無い筈で、打ち込み表現の良否は、あくまで実在の楽器が基準となっている。

リズム入力には、一般的なドラムキットの定型が前提とされることが多い。 しかし、そもそも人体がこのような構造でなければ、ドラムキットの構成だって現状のようである必然性は無かった。

リバーブと言うエフェクトは、ホールや教会などの部屋鳴りを再現したものだ。 だからそれを(ドライな)楽器音に付加することによって、ホールなどで生演奏しているかのような臨場感が生まれるってわけである。

しかし考えてみれば、生演奏の再現を至上の目的とするならば、キックとスネアのエフェクト量が違ってはいけないはずだ。 と言うか、バンドなら全ての楽器に掛かるエフェクトの値がほぼ同じであること、が最も望ましいはずだ。

しかし現状そうとされていない。 DTM(あるいは録音物)の理想形が既に、生演奏の再現とは別のところに存在しているということ。


11/3(月)

複雑さと単純さ。 難しさと簡単さ、とか言い換えても良い。

日本語教師をやっている人に聞いたのだが、言語学的に見て「比較」は難しいらしい。 「AさんよりBさんの方が正しい」とか、そういう思考(言語整理)。 比較は、ディベートやダイアローグは無論のこと、全ての学究の基礎となる。 比較とは、あるものとあるものを、同一である、あるいは異質である、と見做すこと。

何故比較は難しいのか。 それはAさんの評価を保持しつつ、Bさんを評価せねばならないからだ。 つまり脳の保持機能を問われるから。 保持機能と言うのは、つまりは時間軸を展開する機能。

AさんとBさんなどと言った単純比較ができない脳の状態で、例えばバッハの四声対位法が把握・理解できるのか。 普通に考えてできない。できる筈が無い。 でも、おそらくはそのような脳の状態にて、聴いている人が実際にいる。 言語でない、いわば空間把握のような処理なのだろうと思われる。 まあでも「情報の正しい処理のしかた」なんてものが存在するわけではなかろうが。


ロゴスとは、言語であり論理であると言う。 その論理とは何か。 私は時間のことだと思う。 きっと時間軸こそが論理性の正体だ。 だから時間軸無き脳構造には、当然ながら自己の連続性(いわゆるidentity)すらも展開できない。 つまり自己が掴めない。


おそらく簡単なものとは、要は時間軸を伴わないもの。 靴とか椅子とか、指差せば分かるもので、万人の解釈が分かれないもの。 猫を犬と間違う人がいないのは、視覚的にほぼ全容が把握できるものだから。 つまりそれは単純である。

複雑なものとは、要するに時間軸を伴ったものなのではないか。 だから音楽は難しい。 複数パート(旋律線)を同時進行で脳に展開せねばならないから。 また、楽曲の全体像を把握するには、当然相応の時間保持能が要る。

あらゆる学究の基礎となる比較とは、要は時間の保持のことで、愛も夢も明日も未来も、また本質的な意味での人間というものも、つまりは時間軸にしか展開し得ないもの。


11/2(日)

私には絶対音感が無い。 音楽を作る上で、絶対音感が無いことによる不便さを感じることは正直言ってほぼ無いが、どうして自分にそれが備わっていないのかは昔からの疑問だった。 私は、絶対音感保持者などに比べ、一般に言う「音感が悪い人」に当たることになるわけで、ある種の劣等感を覚えたことすらある。

「音の高低を聞き分けること」なら私にだってできる。 だから採譜だってできる。 私にできないのは、耳にしたある音価を特定の音名(あるいは周波数名)とリンクさせた状態で長期記憶化することだ。

ある単音を耳にした際、私の脳はどうやらそれを単なる周波数でなく、旋律として捉えるらしい。 だからこそメロディーが単なる「絶対的な音の高低」でなく、メロディーに聞こえる。 また、その旋律線の向こうに込められた作り手の精神(例えば愛など)、をも掬い取ることができるとも思っている。

絶対音感保持者と私とでは、耳にした音響を、最終的に脳内で組み上げた音楽像において、画然とした違いがあると思われる。 どちらが良いかなんて分からないが、少なくとも私は、自分が絶対音感保持者で無かったことを幸運だと思っている。


11/1(土)

私が「美」を求める、つまり創作を続けるのには明確な理由がある。 それは美が即ち善であり、また真であると信じるからだ。 私はただひたすらに物事を知りたい。

美が善であり、且つ真であるなら、醜さとは、偽であり悪ですらある。 私が何かを醜いと感じる時、それは偽りであり悪であるんだ。


美しい人と言うのは、つまりは自分自身がその人になっても構わないと言える人のこと。 他人のある行動を「美しい」と感じたなら、それはその人に、未来の自分が取るべき行動の規範を示してもらったと言うこと。 つまり、美を追求すると言うのは、納得できる自分になると言うこと。


完全なる美を求めれば求めるほど、即ちそれは醜さを嫌うこととなる。 孔子が「誰にでも好かれる人」を礼賛しなかったように、私もある人に好かれ、ある人に嫌われる人になりたい。 きっと本当の美はそこにある。


10/31(金)

関ヶ原の戦いで、徳川家康が危惧した最大の点は、関ヶ原の局地戦そのものの帰趨ではなく、背後から上杉勢が攻めかかってきて、挟撃の形を取られることだったろう。 この辺の詳細な経緯について、説明する気力が無いので、気になる方は調べて欲しい。

常識的に考えて、上杉勢が総力を挙げて(領国を空にして)攻め上るなんてことはあり得ない。 その為に背後(会津の北方)に押さえの勢力を配置していたし、また、小勢を出して意味のある戦でないことは周知であったろう。

挙兵すれば領国は蹂躙される。 そうなれば、少なくとも補給は絶たれる。 戦が長期化したらどうするのか。 常識的に考えて起こり得ない事態は想定の選択肢から外したいところだが、そう簡単には行かない。 世の中は常人ばかりでは無いからだ。

家康の危惧をあえて表現するなら、要するに「狂人に対する恐怖」だったろう。 万全の棋譜で臨んでも、相手が泣き叫んで将棋盤を引っくり返すなら、もう勝ちも負けも無い。 常識的な保身感覚さえあれば、普通取らないであろう行動を相手が取るか否か。 結果として上杉さんはあの程度には常識人だった。

どんな策士より悪人より怖いのは狂人である。 行動が読めないから。


10/30(木)

神田優花、「beauty in ugliness」、収録曲について、私(益田)からのコメント。


1.beauty in ugliness

(短)九度でシンクロするフレーズとか、バッキングの核となるベースラインと上の歌メロの調が違ってる(近親関係ではある)ところとか、その辺が曲の印象を決定付けている部分だと思うんだけど、これは雅楽の影響が大きい。

パッと聴いても雅楽の影響って読み取れないと思うけど、いわゆるスレ(半音で音をぶつける書法)なんていうのが着想となった面がある。 今思ったけど、ジャズと雅楽ってちょっと似てる。

ボーカルは歌うの大変だったろうと思うけど、実に上手く処理していると思う。 まあ聴いて欲しい。


2.幻

なんか全然神田優花のイメージに似つかわしくない曲で、本人も当初難色を示していた。 仕上がりを聴くだけだと、これもアリだと感じるけど。

曲中に断片的な対旋律のようなものが出てくるんだけど、フーガだとか、純粋な対位法のそれとかに比べると、調やBPMさえ違うと言う、ちょっと次元の違うもの。 この種の音楽表現を作り手側の意図通りに受け取るには、ある脳の状態が必要だと思われる。 情報の保持能。



10/29(水)

神田優花、「beauty in ugliness」(全2曲)本日発売です。 下は本人からのコメント。


beauty in ugliness

ブザー音で始まる印象的な曲で、ほぼシンバルとベースのみの序盤はかなり苦労しましたが、サビのコーラスの響きがうまくいって気に入ってます。
2分少々の短い曲だけど、濃くてかっこ良い曲に仕上がりました。
聞いてください。

c/wの『幻』は神田優花の曲を聞いたことのある人にはかなり異色といえる作品かもしれません。
曲をもらった当初はどうアプローチしたらいいか糸口がみつからなくて、レコーディングまでに長い期間を置いた曲です。
良くも悪くも私は私でしか歌えないと知った曲かもしれない。
いったいどんな曲?と思った方は、ぜひ聞いてみてください。いつもと違う神田優花を楽しんでもらえると思います。

神田優花



10/28(火)

スタジオにて。

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当たり前の話だが、商業音楽の世界において、グループなどの(正規)メンバー構成って、アンサンブル上の必然性のみによって決定されているわけじゃない。 もっと色々な事情がそこには介在している。 例えば単なる視覚的効果のためとか。

ラッパーがメンバーにいたりすると、曲中にラップのコーナーを設けられると言う利点はあるが、メンバーと言う一人間を抱え込んでしまうが故に、そのラップのコーナーが必須になってしまうと言う、楽曲構成上の制約が生まれてしまう。 つまり、時に彼(ラッパー)は邪魔である。

曲を作る際、特にアレンジって、楽器編成をどうするかがかなり重要になる。 しかし、一旦例えば「ギターを入れる」と決めてしまったら、なんとなく(いわば惰性で)全編を通してギターのパートを設けてしまうのだが、それも思考停止なのではないかと何年か前から思うようになった。


10/26(日)

比較的大編成のスコアを書いてる時、DTMのありがたさを痛感する。 入力後すぐに音をプレビューできるから。 昔のアレンジャーとか本当に尊敬する。 全部アタマの中で音を鳴らしつつ調整してたんだろうから。 まあ今でも音大の指揮科出てるような人は、総譜一見しただけで和音が脳裏に浮かぶそうだが。 私には無理。

ノートの入力後、プレビューしてみたら音がなんかおかしくて、よく見たらシャープが一個抜けてた、みたいなことって実に多い。 ジャズ系の和音とかだったら、そもそもぶつかってる感じがあったりするんでますます分からない。 スコア書きはほとんど事務屋だな。


10/24(金)

神田優花、またレコーディングでした。

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来週「beauty in ugliness」をリリースする神田優花ですが、来月末にはミニアルバム「Any World」(全7曲)を発表する予定です。 神田優花はこれから暫く、これくらいのボリューム(収録曲)のミニアルバムみたいなのを数タイトル出すつもりで、我々スタッフもそのつもりで動いてます。 お楽しみに。


10/23(木)

影山リサのニューシングル「Sweet Smell Before The Rain」、収録曲について、私(益田)からのコメント。


1.Sweet Smell Before The Rain

シャッフルとかハチロクとかの、ちょっとハネた感じの曲を作ろうと思った。 譜面上は4/4で作ってますが。

今聴き返しましたけど、まあ普通のPOPSですね。 シングルには向いているように思います。 うちの商品にしては長い。4分40秒もある。


2.Sly

B面っぽい曲。 イントロと間奏部分、16平均律で作ってる。 特筆すべき点があるとしたらそこか。 しかしそれなりに手間は掛かった。 16平均律のフレーズ作成用に音源(サンプラー用のパッチ)自作したんだけど、関数電卓まで駆使した。

販促用の紹介文(こういうの、私が作ってるんじゃないんです)読んでたら「ボサノヴァ」とあった。 そうか。こういうのボサノヴァって言うんだな。



10/22(水)

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影山リサ、「Sweet Smell Before The Rain」(全2曲)本日発売です。 下は本人からのコメント。 上は先日のスタジオにて。


Sweet Smell Before The Rain

時々心が弱くなって色んな事が上手くいかないような気がする。嫌な予感や不安、そんな気分を吹き飛ばしてくれるような曲です。

2曲目に収録されている「Sly」は、ずるくて甘ったれた感じの女の子の気持ちを歌った曲です。とてもよく表現できたと思います。

みなさん、是非聞いてみて下さい。

影山リサ





10/21(火)

スタジオにて。

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BigBandについて。 本来は文字通り「大規模編成」と言った程度の意味だろうと思われるが、いわゆるBigBand形式ってものには一応の様式が存在する。

例外は無数に存在するが、最も標準的なもので、トランペット×4・トロンボーン×3・バストロンボーン・アルトサックス×2・テナーサックス×2・バリトンサックス・ピアノ・ギター・ベース・ドラムの17人編成。 まあ大所帯だ。

様式が存在すると言ったが、どうも調べてみた限り、この「編成」こそが最大の決め事とでも言うべきで、やってる音楽そのものに大した様式性は無いっぽい(強いて言うならJAZZのための編成ではあるが)。 つまり、JAZZ(あるいはPOPS)などを演奏するための、ある定番的な編成と言うに過ぎない。 オーケストラ(管弦楽)や雅楽の管絃、ガムランのゴング・クビャールなどと言う、音楽様式と楽器編成が一体になったもの、とは若干属性が異なる。

譜例を見てみても、特段の独自(様式)性は見受けられない。 例えば、サックスなんかは移調楽器で、譜面上の音高が実音をシフトしたものになっているのが普通なのだが、BigBandの譜例を見渡す限り、移調譜・実音表記の双方が混在している(統一されてない)。 どちらかが例外的に存在しているのではなく、両方ともある程度の数見られるので、どちらかが圧倒的なスタンダードと言うことでも無さそうだ。


今BigBand編成の曲を作ろうと思っている。 一応過去にも、それっぽい編成の曲を作ってみたことがないでもない。神田優花の「Now(is the time)」とか影山リサの「Girlfriend」とか(厳密なBigBandでもないけど、ブラスセクション(サックス含む)+3〜4ピースバンドくらいの編成)。 今回はもう少しシビアに様式に従った編成で作ってみようかと。 まあそもそもBigBand自体そほど厳格なものでもないんだけど。


10/20(月)

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もう一部でリリースインフォ出てるみたいですが、神田優花の「beauty in ugliness」、今月29日に発売です。 下はジャケット。 神田優花と言えば、今月8日発売のシングル「Absolute tunes」収録曲が、カラオケチェーン店「カラオケの鉄人」のメニューに加わってます。 よかったらリクエストしてみてください。




10/19(日)

フランソワーズ・ジローによると、ピカソは同時に6つの絵を描き進めていたそうだ。 分かる。 常時だったのかまでは分からないが、概ねそんなもんだったろう。

私もやはり、一曲のみを集中的に作ることだって無いことは無いけど、大体複数の曲を同時に作り進めている。

実際に何らかの工程を進めている最中の作品こそ数曲なのだが、断片的なアイディアを書き留めただけのもの、途中で放置してしばらく手を付けてないもの、などを含めると下手すれば数百曲とかになる。 ピカソとかもそうだったんじゃないだろうかね。


10/18(土)

モード(旋法)音楽を作ってると、その展開感の乏しさに引っ掛かって、つい転調(転旋法)したくなる。

好き勝手に旋法を転じていると、それは実質としてコード進行に当然近くなってくる。 この「転じさせたい」と言う衝動こそが、和声音楽(機能和声)を生み出す原動力となったのだろうと思われるが。


ある時代のジャズにモード(旋法)が取り入れられたことは、画期的であるように言われる。 実際そうなんだけど、旋法自体はかなり古い書法であり、ある面実に単純である。

ここ十数年くらいだろうか、台頭してきたループ・ベースの音楽制作ツール。あの手を弄ってて、一番の障壁に感じるのはコード(進行)だ。 コードの進行への対応に限界がある。 だからあの手のツールで作られた音って、ごく限定的なジャンル向けであったり、POPSとかであれば(リズムトラックとか)限定的な使われ方しかしてない。 原理的に仕方ない。

ループ音楽みたいなのがもし主流になるとしたら、モード音楽はそのキャンバスとして適しているのではないか。 ジャズのアドリブに対応するために再発見されたように再々発見されるかもね。


10/17(金)

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来週水曜日に、影山リサの新曲「Sweet Smell Before The Rain」が発売されます。 影山さん、最近歌舞伎を見に行ったそうで、上はそのお土産。 下はスタジオにて。

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10/16(木)

スタジオにて。 一枚目は差し入れのカステラ。

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創作(音楽制作)には時間が掛かるって話を何度もしているのだけど、私自身においては、脳・意識を創作に適した状態に持っていくのに要する時間、ってのがバカにならない。 例えば10時間の作業時間を確保したとして、うち8時間くらいまでは集中を高めるために使う時間だったりする。 本当に冴えた脳の状態で創作に臨めるのは、つまり残りの2時間だけってこと。

30分づつの細切れの時間で創作、なんてことは基本的にできない。 したくないのではなく、できない。 アタマの構造がそのようにできていないから。 無論、そういう細切れの時間でもできる(いわば事務的な)作業はあるけど。


先日、そんな感じで曲作りを進めてたんだけど、14時間くらいぶっ通してて、さすがに疲れてきたんで作業を中断した。 次の日またその続きに入ったんだけど、曲についての「感想」が微妙に変化していることに気付く。 前日にベストと思った判断が、そうでなくなっていた。 感想(嗜好)が変わったということは、私が変化したということだ。

人間って繊細なものだ。 中でも審美眼のようなものは特別繊細にできているらしい。 作品を残すってのは、ある時の自分を留め置くことでもある。 今を生きる私が、今と言う瞬間のみに在るのではなく、今日までの全てである理由の一つとして、私がこの創作にずっと取り組んできたことはあるように思える。

作品と言うのは、紛れも無く過去の私自身が下した判断なのだが、それらが今残っているってのは、過去の私が今の私を支えてくれているってことでもある。 多くの人には伝わらない感覚だろうと思うけど、分かる人には分かるはずだ。


10/15(水)

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広瀬沙希、「パラドックス」本日発売です。 下は本人からのコメント。 上はスタジオにて。


パラドックス

この世界で本当に笑って生きて行くためにはどうしたらいいか?を、私なりに考え形にした作品です。
最初はある人に伝えたいと思い作っていましたが、途中で自分に説明するための歌だと気付きました。
でも最終的には自分にも、伝えたかったあの人にも、更には全く意図していなかったどこかの誰かにも届けることが出来る。そんな作品に仕上がったと思います。
この歌を聴いて少しでも元気になってくれる人がいますように。

怪物は僕の中にいた

個人的にとても気に入っている作品です。
“怪物”が意味するものは人それぞれだと思いますが、「私の中にもいるよ」と感じてくれる人がいたら嬉しいです。

広瀬沙希



10/14(火)

音楽好きを自称する人って実に多いのだけど、私は、多くのいわゆるミュージシャンらとあんまし仲良くなれない。 これは共有できる気分の分量の問題だ。

私のように、音楽が好きだから音楽を作り続ける、みたいな単純な人って実は少ない。 多くの皆さんは、もっと音楽に色々な「音楽以外の何か」を求めている。 私は良くも悪くも音楽を道具だとしか思ってなくて、私にとっての音楽は、それに従属せねばならないと言ったほど巨大なものではない。 あくまで私の中にある私の一部で、言うまでも無く私自身の方が価値として重い。 あくまで私が、対象としてそれを選んでいるだけなんだから。


自己と言うのは、大抵の人は誰の助けを借りるまでもなく、ごく自然に確立できるものだが、稀に十全な確立に失敗してしまう人がいる。 自己感と言うのは、「私は私であり、他の誰でもない」と言う、ごく当たり前の感覚。

自己確立への希求と言うのは、人間の本然に近いものらしく、多くの人はその自己の脆弱さを、何かの力を借りてでも補完しようとする。 その何かは、大抵は他人の目なんだけど。

音楽は、その他人の目を拝借するための足がかりとして利用されることが多い。 それなりに訴求力のあるツールらしい。 自己が音楽を希求するのでなく、まだ確立を見ないその自己を固めるための凝固材として、音楽が求められてしまう。 私の言わんとすることが「完璧に理解できる」って人はほとんどいないだろうけど。

私は単純に音楽が好きなだけの人なので、上に挙げたような類型の人らとは見えている世界が随分違う。 だから共有できる気分が少なくて、あんまし友人にもなれない。

因みに、音楽は道具だって言いましたけど、現状この上ない鋭利な道具だとは思ってますので、大切なものではあります。これは間違いない。 ただ、それだけのことに過ぎないので、音楽以上の道具(対象)が見つかったならば、私は迷わず乗り換えるでしょう。 見つかる可能性が絶望的に少ないってだけで。


10/13(月)

人には未来のことなど分からない、とされている。 確かにちょうど一年後のこの場所が、晴れているか雨であるかなど、私には分からない。 でも明日の天気なら、ある程度の蓋然性にて予測可能である。 天気予報ってもんがあるからだ。

人は、天気予報で「明日は雨だ」とハッキリ言われていても、「晴れて欲しい」と言う願望があったりした場合、往々にして「晴れる筈だ」といったおかしな結論を導き出す。 そして傘を持たずに外出した結果、濡れる。 当たり前の判断さえつくなら、起こりえなかった悲劇と言える。



アスペルガー症候群の夫を持つ女性、の描いた漫画がヒットしているらしくて、例えばコンビニとかでも目にする。 私もちょっと読んでみた。

実を言うと、私の知人に一人、アスペルガー症候群の人がいる。 夫がそれである人に比べれば大した負担ではないが、仕事でご一緒するような機会があるので、彼女(その漫画の作者)の苦悩はある程度分からないでもない。 因みに、私のその知人はピアニストなんだが、ピアノは、アスペルガーの人が関心を持つ対象の代表例に挙げられていた。 典型的であるらしい。


しかし私が引っかかるのは、「どうしてそういう人と結婚までしてしまうか」についてである。 別に脳機能の障害者を「足蹴にせよ」と言っているわけではないが、なにも結婚相手と言う関係性にまで持っていく必要はあるまい。 先々苦労することは目に見えている。 因みにその彼女も、現在その旦那と別居中であるそうな。

言っておくが、アスペルガー症候群はある日突然それに侵されるような病の類ではない。 ある生来の脳の状態を指す言葉で、生まれた時から基本的に変わらない。また、死ぬまで治らない。 その旦那さんは、出会ったその日から紛れも無いアスペルガーだった筈で、一挙手一投足の全てが、何らかの違和感を与えるものであった筈だ。 作品(漫画)を読んでいれば分かるのだが、彼女がそこに全く気付かないような人でないことは間違いない。 ある「得」を拾うために、目を瞑ったのだろう。

私は思う。 失礼な言い方かもしれないが、彼女は欲(例えば「結婚願望」など)に目が眩んでしまったのだろう。 諸々の願望が、ごく当たり前に見えるはずの現実認識を曇らせた。 彼女は現在、講演活動などを行っているらしいが、他人を啓蒙できるほどにキチンと事態を総括できているのか怪しいと思う。 今の彼女が他者に助言すべき本当の点は、「欲に目を曇らせて、人生を損ずることのないように」とか言うことではないのだろうか。


10/10(金)

スタジオにて。

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中国楽器を紹介したDVDを見た。 先日お話しした中国音楽のDVDと同じシリーズだと思われる。 (音楽様式でなく)単に楽器の話なので、さほど穿って見る必要も無く、気楽に見られた。

紹介された楽器の一つ、損(けん)と言う笛は、鳥や獣の鳴き声を模倣するためのものだったそうな。 音楽には絵画で言うところの具象画に当たるものが見当たらないと思っていたのだが、絵画に比べれば質量ともに僅かではあるが、一応それに近いものは存在したと言うことか。


10/9(木)

影山リサ、レコーディングでした。

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日本人がまたノーベル賞を取ったそうだ。とりあえずおめでたいことなのでしょうけど、以下はその件とは直接関係の無い話。

受賞者の一人、中村修二さん(現在アメリカ国籍らしい)は、有名な404特許裁判の原告である。 中村さんは日亜化学工業勤務時代、件の青色発光ダイオードに関わる重要な技術を発明したそうな。 私は門外漢で詳しい事は分からないが、彼はその後、その発明の対価を求めて、日亜化学工業を相手取った裁判を起こした。

一審では原告の要求が満額(請求額の200億円)で認められた。地裁の判断では、発明の対価は604億円相当だったのだが、まあ請求額以上の判決も出せない。 その後、高裁の和解勧告により、6億円の和解金にて中村氏は和解に応じる。

以上がさっくりした事の顛末である。 中村さんは現在でも日本社会・企業に批判的であるようで、行動の原動力は怒りだったと仰っているそうだ。 彼の日本(企業)に対する複雑な感情の醸成に、上の一件が大きく由来していることはほぼ間違いなかろう。 斯く言う私にも、ある部分の気持ちは分かります。 確かに日本社会(当然私も含まれる)には、まだまだ未熟な点もあろうかと思うので。

しかし私は、どちらかと言えば企業側にシンパシーを感じてしまう。

中村さんは社員だったんだよね? 会社に開発費を負担してもらい、給料までもらいつつ研究を続けていた。 これで結果的に生まれた成果の半分が、「一社員の取り分」になるのって妥当なんだろうか。


音楽屋としての私は、大手のメーカーやプロダクションに所属したことこそ無いが、雇われ人であったことぐらいある(今も基本的にそうだ)。 雇われ人として、例えば自分で作った劇伴を別人のクレジットで発表されたこともあったし、今だって印税なんかは会社に直接入ってる。 私自身その状況に納得しているし、別段何の不満も無い。 むしろ音楽の研究開発の場を与えてもらったことに感謝すらしている。

もし、私が過去に勤めた会社に残っていた、私の関わった録音物などが、巨大な利益を生み出すことがあったとして、私が「そこから○○億円を寄越せ」と裁判を起こすことって道義的に如何なものだろう。 当時私は、研究の場を提供してもらいつつ給料貰ってたし、経費だって基本負担してもらってたんだよ?

別に中村氏を批判したいわけじゃないが(研究成果自体は素晴らしいものなのだろうし)、勤め人としての私の率直な感想を述べた。 多くの人はどう思うんだろう。


10/8(水)

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神田優花、「Absolute tunes」本日発売です。 下は本人からのコメント。 上はスタジオにて。


Absolute tunes

心にこぼれてくる感情を丁寧に拾い上げたい気持ちと、感じるままに動いてやろうという気持ちとのバランスに心を配った曲です。
これがあるから大丈夫、前に進んでいける。自分の中にあるそんな存在を歌っています。聞く人の後押しをしてくれる曲になってくれれば、と思います。
また一つ、そばに置いてほしい曲が出来ました。
聞いてください。

closed eyes

いろんな事が一枚窓を隔てた向こうで通りすぎていく、そんなイメージで歌った曲です。自嘲的というか、一人言のような他人事のような、そんな感じを出したかった。
寂しげなだけで終わらないように、と思いながら歌いました。聞いてください。

神田優花



10/7(火)

トランペットには色々種類があって、代表的なBb管・C管のものを一般にトランペットと呼んでいる。 ソプラノ・クラリネットを単にクラリネットと、テナー・トロンボーンを単にトロンボーンと呼んでいるのと似たようなものだ。

しかしそのトランペット、代表的なものが「二つ」あるのだ。 当然音域も(厳密には音色も)違う。 私は演奏を聴いたぐらいでは両者の区別はつかないが、聞き分けられる人もいるのかもしれない。 市販の音源類にも、両者の音色を分けて収録しているものがある。 サンプル系のものなら当然別々にサンプリングしているだろうし、モデリング系とかなら、別の発音アルゴリズムを用いていると言うことなわけで、やはり両者は厳然と異なる。

代表的なものが二つになってしまっているのには、おそらく相応の歴史(事情)が介在すると思われるが、今の私にそれを調べる気力は無い。


二つのトランペット、確かに音域が違うのだが、それはごく僅かなもので、最低音が一音(二半音)ほど違うだけ。最高音は奏者によって変わる。 だからして、両者の分担領域は当然カブるし、互いに代用が利く。 因みに、理屈としては最高音に上限は無い。最低音も一応上記とされているが、それ以下の音も出せなくも無いという(音程の維持が難しいそうだが)。 とにかくこれはトランペットと言う楽器の特性である(人間の声に上限音が無いようなものだ)。

両者を分けて収録している音源があると言ったが、分けていないものも当然ある。 単に音色名「トランペット」で収録されている(こっちの方が多いかも)。 サンプリング系なら、無論どちらかをネタ元としているに違いないが、そこを明記していない。 する必要が無いということか。 例えばエレキ・ギターならギターと言えば十分で、ギブソンのレスポールのスタンダードだとか、ピックアップが何だとか、一々明記しないことのようなものか。

ギターはギターである以上、みな同じギターである。 ストラトだろうがレスポールだろうが、シングルコイルだろうがハムバッカーだろうが基本的に同じ。 ある限定条件での出音を比較するなら、それらはバイオリンとビオラとか以上に違ったりする筈だが、同じと言うことにとりあえずはなっている。 バイオリンとカマンジャとフィドルは別の楽器として扱われていたりするのに。


実に他愛の無い話をしているわけだが、私にとってこれは重要なことなのだ。 トランペットなんてどうでも良い。 同一であることとそうでないこと、この区別が、究極的には芸術の肝だからだ。


10/6(月)

明後日発売の、神田優花・ニューシングル「Absolute tunes」、収録曲について。


1.Absolute tunes

普通のPOPSの範疇だと思う。 あんまし特筆すべき点も思い当たらないけど、強いて言うならリズムがレゲエっぽいところぐらいか。 シングルっぽいとは思います。

この曲、2バージョンあるんだけど、とりあえず今回のは最初に録ったもの。 もう一つはおいおい発表します。 この曲に関しては、歌い手さん本人のコメントの方が面白いかも。


2.closed eyes

原発は電力と同時に廃棄物も生むわけだが、創作ってのも似たようなところがある。 プロセスとしてどうしても生まれてしまうもの。 むしろ廃棄物に当たるものの方ができる数で言うと多い。この曲なんかもそう。

アコギとハーモニカぐらいしか使ってない、シンプルなアレンジ。 強烈な記憶は無いけど、ハーモニカの奏法なんかを俄かに調べたりした。





10/5(日)

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広瀬沙希、新作「パラドックス」、もうすぐ発売です。 上はスタジオにて。




10/4(土)

代表的な端唄の一覧みたいなのを眺めつつ、それらを適当に聴いていた。

一回聴いたくらいでは容易に全容が掴めないほどに展開が遅いものから、現代人が口ずさむ民謡・童歌みたいなものまで色々だ。 しかし、おそらく後者はそんなに歴史のあるものではない。 少なくとも近代以降に生まれたものと思われる。 江戸・明治の境には、言語環境において巨大な壁がある。 江戸に漱石は出ない。

明治以後の端唄がバッタ物だと言っているわけじゃない。 端唄ってのは単なる時代時代の当世(流行)歌に過ぎないので厳密な様式も無く、だからこそその他の事情(近代化とか)に影響されやすい。


一覧の中にダンチョネ節ってのがあった。 八代亜紀の「舟歌」の一節として出てくるあれ。 あれも端唄の一種らしい。

あれは要は無拍節音楽だと思われる(四拍子とかハチロクとかで現代風にアレンジしたものがしばしば見られるが、原型としては)。 一種のヒット曲と言って良いと思うが、日本人はそもそも無拍節音楽をそわりかし好む民族なのではないか。 むしろリズムって、音楽のある面での理解を阻害しやしないかね。


10/3(金)

端唄についてのメモ。 流派としてと言うより、音楽ジャンルとしてのそれについて。

長唄の反対語みたいな語感であるらしい。 長歌に対する短歌みたいなもの。 長唄は確かにちょっと長くて、十数分とか長いのになると二十分を超える。 その点端唄はもっと短くて、大体数分以内。現代のPOPSとかに近い。

長唄ってのは、四捨五入して言うと「歌舞伎音楽」なのだが、端唄は要は流行歌(主に色町での)。 この辺もPOPSの態様と近い。 現代だって歌謡曲と酒の席って切っても切れない関係だ。

江戸期の歌舞伎ってのは、雅楽なんかと違って純粋に民間で発達した文化なんだが、端唄とかに比べると、それでもやや高尚な感があるように思える。 端唄の方が、平均的大衆には受け入れられやすかったのではないか。

作例には多少当たったが、これから本格的に聴いてみようと思う。 しかし端唄と言う言葉のニュアンスが、要は「POPS」のようなざっくりしたものなので、実体定かでない。 ちょっと探してみた限り、詳細な楽理書みたいなのも存在していないっぽい。 理論化しにくいのだろう。

長唄については、それなりの様式もあって、一応文章化できる面はあった(それにしても楽理についてのボリュームはごく僅かだが)。 端唄は「難解」であるが故にではなく、定義が曖昧であるが故に文章化できない。 まあ物事って一般的にそういうもんだが。


10/2(木)

端唄・長唄などを始めとする、日本の近世音楽の拍節感について。

明らかに西洋音楽なんかのそれとは異質なんだけど理論化されてなくて、体系的に整理したような書物も無い。 ただ、唄と楽器の手が、西洋音楽のようにタイトに配置されること、を嫌う感覚は明確にあるようだ。

純然たる無拍節音楽ではなく、有拍・無拍が入り混じった複雑なものとなっているので、現代人の感覚でその拍節感を十全に体感するのは容易でないと思える。

リズム周期が表間・裏間で構成されている、と言うような記述をいくらか目にする。 正確にではないかもしれないが、言わんとすることは大筋理解できる。 要するに強拍・弱拍のように(間隔は全然違うのだろうが)、その表間・裏間とか言うヤツが交互に配置され、リズムのある種の基点となっているのだろう。 長唄などを聴いていても、「ここが表(あるいは裏)間だ」と常に認識できるほど明瞭であるとは思えないが、部分的には「ここのことか?」と思える箇所は確かにある。

印象を介して、感覚として体得するしか無いのだろうか思うが、やはり簡単ではない。


10/1(水)

理解について。

子供の頃、私はプラモデルが好きな少年だった。 まあ値段も大したことなかったので、当時、結構な数のそれを所有していた。

しかし世の中には実に多種類のプラモデルが存在する。 その全てを手に入れることなんて不可能だし、したくもない。 ある程度を手に入れて、作ってみりゃ、あとは想像で理解を埋めることができる。 私はプラモデルをいつしか卒業した。

もしここで言う想像力が無ければ、人はいつまで経っても、際限なく物質(外部刺激)を求め続けなければならない。 確かにそれは非効率だし、一つの悲劇ですらある。 車を(どう考えても必然性の無いほどに)何台も所有している人、なんてのを見た時、私は率直に「自動車ごときを、何台買えば理解できるのだ」と、半ば哀れに思ってしまう。


私はラジコンを買ったこともあったし、テレビゲームにハマったこともある。 私は初代ファミコン世代で、小学校の頃周囲のみんなが持っていたそれを、私も例に漏れず欲しがった。

欲しくてたまらなかったゲームだけど、私は既に自分に必要なだけそれをやり尽くしたと思っている。 だから私はそれ(小学生の頃のファミコン)以降、ゲーム機(ハード)を買ってない。 自分がどの程度それが好きで(あるいは嫌いで)、どれ程に必要なのか、またそれを手に入れた結果、どういう気分が味わえるか、を理解したからだろう。 理解できればそれで良いのです。

「いつまでも好きだから、いつまでもやり続ける」そう言う人がいたってそれはそれで良いのです。 「いつまでも飽きない」と言うことを理解した上での行動なら。 楽しければそれが一番。「理解できないから追い続ける」とか、「買い控えることが我慢できない」なんて言うのは楽しんでいるのとは違う。


子供の頃、私の親は、私に何かを買い与えることをとにかく渋った。 愛が絶望的に無いタイプだったので、積極的に与えることは無論のことほぼ無く、私の「欲しい」と言う意志表示に対しても実に冷淡だった。 早い話が、人間の「好き」と言う機微に肯定的でなかったのだが、今の私にはそれが何故なのか分かる。

私の父は、酒飲みで喫煙者で、ギャンブラーだった。 競馬・パチンコ・麻雀など、合法的で手の届く範囲のものにはほぼ全て手をつけていたし、他にもゴルフなどと言った娯楽にも、漏れなく手を出しているような人だった(因みに私は、それら全てに興味がない)。 人はその人固有の言語機能で他人や世界を推し量る。 彼の我が心に思い当たる「好き」が、好ましいものでなかったために、子供の「好き」を弾圧したがった。 今考えれば止むを得ない。 彼は彼なりに、我が子にある悪夢をよぎらせたのだと思われるから。 このように、似てない親子と言うのは本当に悲劇を生みやすい。


私の求めているものとは、究極的にはこの「理解」である。 子供の頃だって、プラモデルやゲーム機を所有したかったのではなく、それらを理解したかった。 だから、最終的に対象として音楽を選んだってことは、音楽こそが自分にとって一番の謎なわけです。 音楽が一番分からないし、私に何かを分からせてくれる可能性を秘めている。


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