Staff diary  
スタッフ日誌[2014]

[文 / 益田(制作)]

9/30(火)

影山リサ。新曲のリハーサルやってました。あとこの間録った音のチェックとか。

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「中国音楽概覧」とかいうDVDを見た。 よく分からないが中国発のものらしく、メニューで主要各国語が選択できるようになっていたので、海外向けの宣伝用途で作られたものかと思われる。 内容は「歴史ある偉大な中国音楽」の紹介である(本当にそんな感じだ)。

まず冒頭「新石器時代の遺跡から出てきた笛」の話から始まるが、言うまでも無く、それは中国音楽の歴史の一部とは言えないだろう。 冒頭のそのくだりの直後、オープニングテーマ的な位置付けだろうか、音楽が流れてくるのだが、それがズッコケたくなるほどの現代風音楽(無論西洋音楽ベース)の中国楽器版みたいなの。 ある程度予想の通りだが。

楽器と言うのはモノなので、遺物として残ることは当然あって、例えば古墳などから出てくることもある。 日本でも、琴らしきものを持っている姿の埴輪とか実際に発見されている。 しかしそれと様式としての音楽が継承されているってのは全然別の話。

日本の雅楽は確か千五百年くらい続いている筈だが、その時々の政権の庇護下にて存続した。 日本史には厳密な意味での革命が起こっておらず、日本は政権交代を経験していない国なので、様式のようなものを残すにはわりかし適した条件下にあったと言える(応仁の乱とか、存続の危機はあったらしいが)。 雅楽師はミュージシャンであるのと同時に公務員でもあったのだ。

歌舞伎音楽みたいなのも、民間ベースで継承されてきたものだが、雅楽などには及ばないながらも、おそらく二百年ぐらいは続いている。 また、様式として継続しているのも確かだ。 中国には、有史一貫して続く王家も無い。また、過去に存在した各王朝にしても、中枢を占める人々の民族構成ごと違う。 雅楽は無論のこと、この歌舞伎音楽に相当するものも無い。 遺物としての楽器と、音楽そのものとしてはおそらく民謡のようなものくらいしか現存していない。

中国音楽ってのが、様式としては実体定かならぬ(有り体に言えば散逸している)ものであるってのは、ある程度分かっていたが、DVDはその認識を覆すようなものでは全然無かった。 DVDの中で「孔子の時代の音楽」とて紹介されていた曲があったが、どういう来歴だろうか。 譜面情報でも残っていたのだろうか。 単なる伝承を紹介したものか。


中国をはじめとするアジア圏って、「歴史がある(長い)ことは即ち良いことだ」みたいな思想があって(人類普遍に見られる傾向だろうが、中国とかのそれは並外れて濃い)、それがむしろ歴史を見え難くしている。 一般に願望と言うのは、認識を曇らせるものだ。 私は中国(&朝鮮半島)発の自国の歴史についての話は、鵜呑みにできないとハッキリ思っている。

私は「中国なんてくだらない」とか言いたいわけではなくて、むしろ興味があるし、音楽を含む歴史について知りたいのだけれど、だからこそ彼らの主張を鵜呑みにはできないと思ってしまう。


9/29(月)

スタジオにて。

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慰安婦問題って言う空騒ぎが、終結に近づいているみたいだ。 慰安婦問題そのものは、殆ど論ずるに値しないものだが、騒ぎ自体は人間について考えるよすがになる。

しかし本当に朝鮮人と言うのは依頼心の強い民族だ。 よく事大主義と言う表現がなされるが、大に事(つか)えることと、ある相手には脅しすかしし、執拗に絡んでくることは同じ心根から出た行動だろう。

彼らのよく言う、いわゆる「日帝三十六年」の支配。 一部の人に言わせれば、日本は悪いことばかりしたそうで、諸悪の根源は全て日本に求められるそうな。 「実際の韓国人と話せばそうでもない」とか言う話もよく聞くけど、現実にあれほど国是として反日を推進している国家があるだろうか。 教育段階から特定の他国に対する憎悪を、あれほど執拗に焚きつける国も珍しかろう。 アルゼンチンとイギリスとかでもあそこまで酷くないはずだ。

私は特別な思想的偏りなど持たないつもりだが(常識程度の愛国心ならある)、諸悪の原因を求められるほど日本は大した国ではないと思う。 人はすぐ不幸の原因を他者に求めてしまうが、世に数多ある不幸の中で、ケツの持って行き所のあるものなんて、如何程あろうか。

日本は韓国に対する謝罪が足りないのではない。 むしろ譲歩し過ぎたために、相手の依存心を育み過ぎた。 一部の識者などに言わせれば「韓国については放っておけば良い」そうだが、私も同感。 無視することが直接的に何かを生むわけではなかろうけど、関係改善を望むならもうそれしかない。 関われば関わるほど、更なる要求を突きつけられるに違いないから。

「感謝」と言う感情は、思考回路如何によっては生じないものである。 種の植わっていない鉢植えに水を与え続けるのは、水と言う資源の無駄遣いである。 花を咲かせるために考えるべきは、如何にしてその鉢植えに種を埋めるか、だろう。

「強制連行が無かったからと言って居直るなんて、人権感覚が欠如している」なんて仰る御仁もいるようだが、居直るべきかはさておき、鋭敏な人権感覚をお持ちなら、手をつけるべきが歴史の彼方の慰安婦への補償などでないことは分かるはずだ。 慰安婦に対する謝罪も賠償も、きっとそれらは両国民の感情に何ら良質なものを生まないだろうから。

韓国人が悪いわけでも日本人が悪いわけでも無い。いわばどちらも悪いし、両者の反目は自然がもたらしたものとも言える。 韓国人があのようである理由も日本人がこのようである理由も、煎じ詰めれば地理・地政学上の理由が大半であろうから。

ここ半世紀ぐらいの日韓両国のイザコザは、両国民感情(特に日本側の)に、容易に修復不可能なほどの深刻な禍根を残した。 関係が好転する材料がちょっと思い当たらないレベルなんで、本当にこれは長い時間をかけるしかないと思う。 外交の当事者らに、その根気・時間感覚があることを願って止みませんわ。


「売春なんて好き好んでやりたくなかった」って人がいなかったとは思わない。 でもその人らは、ある条件下においてはその職業を選んだ。 売春が不幸なら、その人らを、そういう生き方を選ばない人に変えるべきなんだが、それで本当に良いものか。 その思考回路が、その世界観こそがその人そのものであるのに。

強制連行なんてそもそもある筈もなく、貧困すらも過去のものとなった現代においても、風俗で働いている人もいればAV女優もいる。 その人らを転職させることは善行なんだろうか。 世界がそんなに単純なら、私は今日も音楽を作り続ける必要など無かったろう。


9/28(日)

神田優花、スタジオにて。 また新曲作ってます。 「Absolute tunes」のリリースインフォ(by SPACE SHOWER MUSIC)、もうチラホラ出てますね。

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ここ最近に始まったことではないが、曲ばかり作っている。

神田優花のレパートリーが今百曲チョイぐらいなんだけど、アイディアとしては三百曲分くらいある。 ただ、レコーディングとかそういう実作業が追いつかない。 とりあえずオケができているストックだけでも現時点で百ぐらいある。

今の課題は、とにかく曲を増やすこと。 ストックを消化したいってのもあるが、とにかく作品を増やすことには意義があると思っている。 粗製乱造をよしとするわけではない。レパートリーの総数を増やすことによって、個別の作品の質を変える。

「いくら曲を作っても、既に上がった作品の質は変わらない」と言うのは一面正しい。が、芸術作品とはそのように一面だけで把握できるようなものではないんだ。 発表する作品の数によって、創作と言う運動への理解となす。 一作品を一位相と理解してもらえれば、より全体への理解が深まる。 一作品に対する見え方もきっと変わってくる。


二つの作品は、一つの作品の二倍の価値ではない。 作品の価値は乗数的に上がる。 百曲作った神田優花は、一曲作った神田優花の百倍どころの価値ではないんだ。 何だか意味のよく分からないことを言っているように思えるかもだけど、まあ見ててください。


9/25(木)

神田優花、スタジオにて。

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10/8(水)に「Absolute tunes」を発売した後、同月29日(水)に次のシングル出すって話をしたんだけど、11月には7曲入りのミニアルバムを発表する予定です。


9/24(水)

スタジオにて。

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また長唄(&三味線)についてのメモ。

拍節・リズムがイマイチ理解できない。 楽理書を読んでみても詳述されてない。 何やら「二拍子で一句をなし、八ツ間一くさりづつ連続する」らしい。 暗号のようだ。 私は何となく言わんとすることが分かるような気がするのだが、甚だ理解に自信は無い。 因みに、実際に曲を作るに当たって、上記の「八ツ間一くさり云々」は踏襲しないつもり。 予定の尺に収めるためには踏襲できない。

西洋音楽的な感覚で言えば、長唄の歌とバッキング(要は三味線)はシンクロしていない。 「一種の二重リズム」とも考えられるそうだが、整然とポリリズムであるわけでもなく、原理が存在しないのか解明されていないのか不明。 奏者・研究者らの説明も、つかみ所の無い禅問答のようで、要はわけが分からない。

しかしだ。 長唄にある程度聴き慣れて実際に習作のようなものを作っていると、不思議なことに、西洋音楽的拍節感では気持ち悪い。 唄と三味線を、あの相互に微妙にズレた間でもって進行させたくなってしまう。 自分では長唄の真髄を体感できているとも正直思えないが、片鱗ぐらいは味わえているのかも。 因みに、唄より三味線の方が幾分拍節的で、部分的にはほとんど西洋音楽と変わらないくらいにリズミカルだったりする。 舞踊音楽だったりもするからか。


次に三味線の重音・複弦奏法について。 二日前の続き。

三和音はやはり基本的に無いようだ。 例もほぼ見つけられなかった。 唯一、三味線の教則ビデオみたいなのに「重音」とて、三和音(全部開放弦)の奏法が出てきたが、あくまで特殊奏法という扱いらしい。

あと三味線には和音はあるが、バレーコードってのが(基本奏法としては)無いらしい。 和音は主目的たる一音以外は基本全て開放になるようだ。 譜例(五線譜)を見ていたら、一つ、二上がりの曲で四度音程が出てきていたから一・二弦のバレーか?とも思ったが、多分違う。 文化譜(ギターのタブ譜みたいなの)を見る限り、バレーコードの例は見当たらない。

バレーコードは無論のこと、バイオリンとかで言うところのダブルストップ・トリプルストップのようなポジショニングも当然存在しない(そういう奏法自体は実現可能な筈だが)。 和音は原則開放弦とのコンビネーションになる。

構造的にできるのにやらない、ってのはどうしてだろうか。 楽器の精度の問題とかで、指一本のバレーで複数弦の勘所を押さえること、が難しかったりするのだろうか。 確かにエレキベースは4弦あるから四和音のコードを弾けるけど、誰もそんなことやらない。 様式ってのは文化でもあるので、不合理な面もあるってことか。


私は三味線の実器に触れたことが一応はあるが、その当時全然三味線についての知識も無くて、要するにフレットレスギターみたいなもんかと思い込んでいた。 実際ギターの演奏技術をそのまま援用していた。 まあ構造的には本当にフレットレスギターみたいなものではあるのだが、決定的に違うのは、用途となっている音楽様式に和声が存在しないこと。

調弦のルーズさがバレーコードなどとの相性が悪い、って面は多少なりともあるかとも思うが、要するにそんなテクニックを使ってまで複雑な和音を構成する必要が無かったのだろう。 そもそも和声と言う思想が存在しないんだ。 でもできるんだから、最近のもの(POPSとか)では、技法として使われているケースはおそらくあろう。 私も場合によっては使う。


9/23(火)

影山リサ、レコーディング。 二曲も録りました。

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影山リサのシングル「Pretty Storm」が、カラオケチェーン店「カラオケの鉄人」でリクエストできるようになってます。 あんましカラオケ向きとは思えないけど、よかったら歌ってください。


9/22(月)

また長唄についてのメモ。 長唄についてと言うより三味線についてって感じだが。

今手元に、浅川玉兎著「楽理と実技 長唄の基礎研究」と言う本がある。 調べた限り、現存するほぼ唯一の長唄についての楽理書である。 いつ出版されたのか不明だが、冒頭の自序に「昭和三十年四月」とある。 因みに、序文などから察するに元は自費出版らしい。

私の手元にあるのは一応改訂版のようだ。 しかし、どれだけ版を重ねたのか知らないが、ちょっと読んだだけでも数ヶ所の誤記を見つけてしまったので、おそらくあんまし広く読まれていないのではないか。 内容的に当然だが。


三味線には、一応和音があるんだけど、三味線音楽に機能和声と言った思想は無い。

弦は三本あるんだけど、譜例を見る限り、ほとんど二和音までしか見当たらない。 三和音もあるにはあるけど、津軽三味線とかPOPSとか、そういう現代物ばかり。 明治くらいまでの伝統的な三味線音楽に三和音はどうやら存在しないっぽい。 またその二和音も、要は効果音と言うか、和声を構成するものではないようだ。

上調子や替手(そういうものがあるんです)について、もう少し敷衍して欲しかったのだけど、長唄に限った書法ではないので、他に良い資料があるかもしれない。 三味線の複音奏法が和声でないように、上調子・替手も対位法とか似て非なるものっぽい。 どうしてこれが発展して機能和声のような体系を生まなかったのだろうか。


しかし上述の書、楽理と謳っている割には楽理面の記述が少ない。 良著ではあるのだが、長唄ってのがつまるところテキスト化・理論化しにくいものなのだろう。 しゃあないな。

拍節についてなど、知りたかったのに結局どう読んでも理解できない。 「文章化できない」と言うことだけは理解できた。 しかし、これでは長唄は普遍的音楽にはなりにくかろう。 理論化できないってことは、広く共有されないってことでもある。

「本を数冊読んだぐらいで体得できるような生易しいものではない。師匠に弟子入りして、数十年を経て初めて見えてくるものだ」とか言われたらお手上げだ。 私にそんな暇は無い。


しかし日本の音楽(芸能)ってのは、どうしてすぐ誰かの占有下に置かれてしまうのだろう。 長唄なんかも、何代目何某、みたいなのが財団法人○○とか作って、結局世襲・独占している。 何と言うか、日本人の嫌らしいところだな。 芸術家は分野に従属すべきでなく、また分野を私してもいけない。 両者は紙の裏表だ。


9/21(日)

命令と懇願は要は同じ所作である。 対象との水位の差が表面的行動の違いになっているだけで。

他人に命令する不遜人は、つまりは他人に甘え、依存している。 「○○をやれ!」と命令したところで、「嫌だ」と言われりゃ仕舞い。 結局命令は、他人がいてこそ初めて成立するわけで、自己が確立してしまえば、人はそう言う行動をあまり取らなくなる。 取りたくなくなるはず。

もし偉い人とかになって、顎で使えるような人が周囲にわんさといるようになって、何でもかんでもその他人らがやってくれたら、そんなに喜ばしいか? 私はそんな状況を危険だとすら感じる。 だって自分だけで完遂できないことだらけになるってことでしょう。 私はそんなの怖い。

ある対象(相手)に命令で臨む輩は、それが相手に通用しないと見るや、態度が「懇願」に変わる。 結局目的は同じく「何らかの利得を得ること」に変わりない。 自分の利益しか考えていない。 だから私はそういう人が嫌い。 不遜な奴も嫌いだし臆病者も嫌い。


9/20(土)

欧米人はよく「日本文化は西洋文明のコピーだ」とか言うらしい。 確かに揶揄されるのも止むを得ないほどに、明治以降の日本文化は欧米に拠る部分が大きい。

ある作家が著書で述べていたのだが、「コピーはそちらの方で、ヨーロッパ文明こそが近隣国同士、模倣し合った結果生まれたものだ」そうな。 私はその作家の言いたいことは分かるし、ある面事実だとも思う。 が、欧米人が日本のそれ(模倣)を「異質」に感じていることも同時に理解できてしまう。 コピーそのものが問題なのではなく、コピーの方法、その行為を支える思考上のプロセスが問題なのだろう。

いわゆる模倣と言うのは、「情報の切り貼り」のことを指すのだろうか。私はこの漢語の意味が正確に分かっているわけではないので、ちょっと断言しかねるが、違うのではないか。 模倣には、その基礎たるべき「理解」が普通付随するものなのではなかろうか。 ヨーロッパ諸国の模倣は、当然ながら基礎にこの理解があったものと思われる。

明治後の日本の欧化政策に、ここで言う理解が伴っていなかったことが、当時の欧米人には異様に映ったのではなかろうか。

私は今でも、いわゆる「art」と、日本人の言う「芸術」のニュアンスの違いに気持ち悪さを感じる。 この違和感の正体は、言うまでも無く「理解」の差だろう。


9/19(金)

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神田優花、またレコーディング。 下は10/8(水)発売の「Absolute tunes」(全2曲)のジャケットです。 今回は神田優花(と言うかウチの商品)にしては珍しくロケです。




9/18(木)

マザコン亭主が好まれないわけ。

「男らしくないから」なんて言う紋切り型の文句だけで納得してはいけない。 精神が親から独立していないってのは、要は友人としての条件を一つ欠いていると言うことでもある。 心の深い部分で何かを分かち合う(友情を成立させる)には、精神が確立していなければならない。

私がここで言う「友情」とは、狭義のそれではなく、親とだろうが恋人とだろうが成立し得るもの、つまり他人と自分を結ぶ架け橋のようなものを指している。

子供の頃、ある友人が親とケンカして家出してきたことがあった。 私も子供だったので、当時彼を養う能力こそ無かったが、できる限り匿う努力をした。 私は友人が親元を離れてきたことが嬉しかったのだ。 本当の友情が得られるような気がして。 まあその行動はごく衝動的なものだったらしく、その後その友人は、すぐに親元に帰ってしまったけど。

小学校四年生の頃、私は犬(♀)を飼った。 近所の人から子犬をもらったのだけど、まだ目もしっかり開いていなかったから、当然彼女は親の顔も知らない。 天涯孤独の身と言って良いが、だからこそ私は、彼女と友達になれる気がした。 そしてその予感は正しかった。


こんな子供だった私だからして、現在もマザコン的な資質は絶無である。 両親は存命中であるが、私の心は親から独立し切っている。 親を「恨んでいる」とか「憎んでいる」とか言う感覚では全くなく、冷めた目で見ている、と言うだけ。 私は誰かの心の側にいてあげるためにも、親は捨てなきゃならんと思っていた。

親を頼みにすることをどうしても止められない人は、詰まるところ誰かに助けてもらう腹積もりなわけで、他人を本気で救う気が無い。 その頼りなさが結局は周囲に好まれない。


9/17(水)

スタジオにて。

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音楽の様式を盗み出すことはそれなりに難しい。 印象化・概念化などと言った高度な作業が必要になるから。 脳の負担が大きい。

フレーズ(音符の配列など)を盗むことは、わりかし容易い。 だからこそ著作物は、法などで守る必要があったりするのだろう。 音大の作曲科などを出るような人は、ある時代のドイツやフランスなどの和声進行のパターンを(ありとあらゆるものをと言って差し支えないほどに)インプットしまくるわけだが、それは私がここで言う印象化・概念化の作業ではない。

断片はいくら掻き集めても断片の集積である。 印象とは、時間軸上に展開されるもの。 印象化には脳の保持力が不可欠となる。 もうこの時点で、ある人には理解不能だろうけど。

日本人が盗作に敏感なのは、この印象化が苦手な民族だからかと思われる。 断片は(ほぼ完璧に)コピー・トレースできてしまうので、盗まれると困るし、実際容易く盗めてしまう。 だからこの印象化が苦手な人らであればあるほど、ルールの策定が必要だと過剰に思い込む。 創造の本質など、容易に盗めるものでない、と言う単純な事実が理解できないから。


9/16(火)

武者小路実篤の最晩年の文章を入手できる方は、是非一読されたい。 早い話がボケ老人の書いた文章なんだけど、ボケ(痴呆症)と言うもののメカニズムを知るよすがになる。

ボケってのは脳の劣化による機能低下なんだろうけど、要するに、時間軸の保持力が破壊された状態であるようだ。 常人で強いて例えるなら、夢を見ている状態に近いように思える。

「僕は(A) 学校に(B) 行った(C)」

このような何気ない文章においても、当然論理が成立している。 「僕」と言う主体があるからこそ、「学校」と言う対象も存在し、また主体と対象があるからこそ「行く」と言う目的の遂行に至る。 例えばCの時点で、既にAを保持できなかった場合、「僕は−学校に−行った−のは僕である」みたいに、Cの後に主体を補完する下りの必要性が生じてくる。

実際、晩年の武者小路の文章は、「僕は学校に行ったのは僕であるが、その僕が行ったのはまさに学校である」、こんなのを延々と繰り返したような文章になっている。 つまり、人間の理性・論理性と言うのは、要は時間の保持だと言うことなんだろう。


9/15(月)

読書雑記。

比較的最近、ここ百年くらいの偽書(由緒などを偽った上で作られた書物)について、一々検証している本を読んだ。 私は専門家ではないが、有名な偽書(近代以降)などを見てみると、さすがに眉唾物にしか思えない。 どこから突っ込んで良いものか、途方に暮れてしまう程にお粗末なものばかりで。

良くできた偽書ってのは、基本的に無いそうだ。 偽書は、ほぼ常に専門の学者などに言わせれば噴飯物であるらしい。 古い時代に作られたものなどで、当時的な感覚にて、どのように見える代物だったのか、が現代では分かりにくくなっているものなんかはあるだろうが、それにしても、それが作られた当時なら、似たような感想を持たれるようなものだったろう。

何故、マトモな偽書は存在しないのか。 それは、人はマトモな偽書を作れる程度の論理性がありさえすれば、そんなものを作らない、と言う結果的行動に至ってしまうからだろう。 上手な嘘ってあんましありませんものね。


9/14(日)

今進めている、とある企画について。 影山リサのレパートリーにいくつか、三味線をフィーチャーしたようなものがあるんだけど、もう何曲か作ってパッケージ化したい。 個人的にはあんまし好きな音ではないんだけど、彼女の飄々とした雰囲気には合ってなくもないと思う。

既にいくつか習作みたいなのを作ってはいるのだけど、そのまま商品化すべきか否か迷う。 世人らのイメージする大抵の三味線音楽は、多分昭和に入ってから生まれたような(割りと安直な)商業主義の産物で、今作ったと言う習作も、要はそれ的なもの。 江戸期以前のものは、現代人には簡単に聴けない(理解できない)。 端唄・小唄・長唄、的なものをそのまま作ってしまうと、ほとんどのリスナーには理解不能の音楽になってしまう。 と言うか、歌い手ですら把握できないかも。 どうしたものか。


長唄について調べていて、意外だったのは、結構様式的な音楽であったこと。 俗謡なんで、遊郭なんかでの流行歌に毛が生えたようなものかと思っていた。

置唄・出端・クドキ・踊り地・チラシなど、ある程度形式が決まっている。 またその中でも、例えばチラシのラストは段切と言う定型的な手(フレーズ)で終わることになっている。 作例をいくつか当たってみたが、まあ絶対的な決め事と言うほどでは無いにせよ、かなり多くの作品がこの形式を踏襲している。


もし長唄をベースに曲を作るとすると、この形式を踏まえねば長唄でも何でもなくなってしまうわけで、ほぼそこは必須に近い。 しかしこの長唄、現代のPOPSに比べ、とにかく長い。 平均的なものでも10分以上とかあったりする。短くても7分とか。 作るなら、さすがに尺はそのままって訳に行かない。

平均的なPOPS程度の尺には収めたいところなだが、私は個人的には、5分のPOPSが長過ぎると感じるので、3分ぐらいに収めることを理想と考えている。 そこで問題になってくるのが、上に挙げた形式だ。 これを端折るわけに行かない。 これを踏まえて3分程度ってことになると、それなりのテクニックが要るな。きっと。

今作ろうと思ってる曲は、二挺一枚(三味線×2・歌×1)っつって、ほぼ最小編成のもの。 これに小鼓入れるか迷ってるって感じ。 とにかく、商品として発表できるのは早くても来年以降になると思われる。 その前に次のアルバムできてしまうかもしれない。 並行して取り掛かってるもので。


9/11(木)

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影山リサ、今回は歌入れ無かったんだっけかな。 下は10/22(水)発売の新曲「Sweet Smell Before The Rain」のジャケット。




9/10(水)

スタジオにて。

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人間関係が長続きしない人、つまり恋人や結婚相手とすぐに別れてしまう人は、その人らなりに悩んでいたりするのだろうが、その筋のカウンセラーなどに言わせると「長続きしない相手をむしろ積極的に選んでいる」と言えたりするそうだ。

人間関係が長く続いてしまうと、互いに理解し合わねばならないこと、許容せねばならないこと、など色々と増えてくる。 一日を共有する人間関係と、十年を共有する人間関係では、価値・重みが違ってきて当然だが、十年の人間関係を請け負う器量の無い人は、そういう相手に対し、無意識にでも回避的になってしまうと言うことなんだろう。

つまりある人にとって、「人間関係が長続きせぬこと」は悩みの種なのだろうが、長続きしてしまうことによって抱えてしまうであろう、「もっと大きな悩み」を事前に回避する為の良策であるとも言える。


物事とは、かように無数の必然によってなされる。 「碌な友人・恋人ができない」と嘆く人は、実は自分こそが、立派な友人・恋人を得るに相応しい人物でないことを知っているが故に、そういう人間関係を回避しているのかもしれない。 立派な異性になど見向きもされない、立派な恋人など作ろうものならいずれフラれてしまう。

私の言いたいことは単純だ。 嘆くのを止めて、立派な自分になろう。 そうすれば、きっと何事も上手く行く。


9/9(火)

神田優花、10/8(水)に「Absolute tunes」(全2曲)をリリースするってお知らせしたのですが、その三週間後の10/29(水)に、早速次のタイトル出します。 まだまだ畳み掛けていきますのでよろしく。

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9/8(月)



広瀬沙希、新作「パラドックス」を10/15(水)にリリースします。 上はそのジャケット。

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9/6(土)

影山リサ、新曲のレコーディングでした。 影山さんは、新曲「Sweet Smell Before The Rain」を10/22(水)にリリースする予定です。

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9/5(金)

スタジオにて。

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来月から年末にかけて、リリースラッシュになります。 ここ最近、それ関係で大忙しで、今も作業の合間にこのテキスト打ってます。


9/4(木)

神田優花、新作「Absolute tunes」(全2曲)のリリース日が、10/8(水)に決まりました。 発売日近くなったらまたあらためてお知らせします。 下は先日のリハーサル。

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9/3(水)

ミュージシャンは一般に、アーティストでもあるが、芸人であったりもする。 だから作品の発表の場(つまりライブ)ってのを活動の一環として持ってしまったりする。 そのライブ、実に楽しいものらしい。

ギャラリーを前にすると言う、フィジカルな刺激でもって自己感を充足できる。 結婚式なんかと似たようなもので、客からの祝福さえ受ける。 さぞかし快感なんだろう。 私は演者ではないが、どういう心理が働くのか、くらいは想像できなくもない。 同時に、今の私にそれはもう必要ない。


ライブが楽し過ぎるから、しばしばミュージシャンは、それこそがアーティストの本道だとすら無理矢理思い込む。 誰だって自己の衝動を保証する理屈が欲しい。 演歌歌手とか分かりやすいが、多くのミュージシャンは(特にヒット曲なんかを持っていたりすると)興行師のようになってしまう。

生演奏(歌唱も含む)の完成度を磨くこと、だって芸術の種にはなると思う。 でも私には、それをやっている暇が無い。 多くのミュージシャンらにも無い筈なのに。現実には、彼らはスケジュールの大部分をライブに費やしていたりする。


私は、創作以外に費やす時間を勿体無く感じてしまう。 音楽は物理的な空気の振動のことではない。 聴く人の心の中に流れるもの。 演奏している姿だとか、フィジカルな音波だとか、そういうものを必ずしも届ける必要は無い。

「いくら創作しても、誰にも届かないなら意味が無い」と思われる向きもあろうが、そんなことはない。 私は私の為に曲を作っているし、間違いなく私には必要なものなのだから、私のような人、私に似た人がいるなら、その人も必要とするはず。 そういう人がいないなら、それはそれで良い。

私は、モノを売ろうとする必要なんてそんなに感じていない。 必要とされる価値のあるものなら、黙っててもいずれ誰かが見つけてくれるでしょうと思っている。 過剰に売れたいと思う(売れないのではないかと不安な)人は、要は本質的に必要の無いモノを生産しているのではないか。 自分にさえも。

モノが売れた時に手に入るものは金とか知名度。 無論手に入るものなら私とてそれは欲しい。音楽を作る環境が強化されるだろうし。 でも、その為に払える物心両面でのコストには限界がある。 金や名誉がいくら手に入ったとて、私がこの先百年生きられる筈がない。

ピカソや北斎が、アトリエで絵を描く姿を誰かに見せることにエクスタシーを感じ、それを繰り返す為の環境作りに精を出していたら、あの作品数は残せなかった筈だ。


9/2(火)

長唄とか端唄・小唄の類、聴いていても楽曲の全体像がイマイチ把握できない。 進行が遅過ぎるのだ。 要するに、現代人の脳の処理速度に適した情報でないのだろう。

これは長唄などが「歌物」であることに大きく由来していると思われる。 何故なら同時代の作品でも、器楽曲(のフレーズ)のスピードにならさほどの違和感を感じないから。 純粋器楽曲だけでなく、○○合方(長唄や歌舞伎の劇中に挿入される定型的な小曲)の類も基本的に同じ。 千鳥合方とか、耳にした事がある人は多いに相違なく、聞き覚えている人も結構いる筈。

器楽曲のあのそれなりにスピーディーなフレーズに、シラブルで歌詞を載せることは、それ自体は全然可能な筈だ。 仮にもしそんな作品が存在するなら、現代人の私にでも容易に把握・暗唱すらできる筈だが、実際にそんな曲はほとんど見当たらない。 できる筈のものが無いのだから、理由があるのだろう。

人間の脳は、「言語」の処理に特別なリソースを割くらしい。 江戸音楽は、歌詞が乗ることによって、甚だしく態様を変えてしまう。 変えざるを得なかったのだろう。


江戸期の俗謡の類を聴いた後、普通のJ-POPとかを聴くと、その理解・把握の容易さに安心する。 現代に戻ってきたようで。

私の言う、理解・把握なんて言葉が、そもそも普通の人には分からないだろう。 前近代の音楽を聴けば分かります。 私は「元禄花見踊」を聴いただけで、「これは多分元禄期に作られたものではない」と分かるくらいになった。


9/1(月)

実写版のルパン三世が最近作られたらしい。私は作品そのものを見てないのだが、ある映画評論家のレビューを読んだ。 そのレビュー、一言で言うと「酷評」なのだが、内容を読むだけで、何故筆者がそう思ったのか伝わってくる。

その作品に限らず、昨今のリメイク物(アニメなどの実写化も含む)は、軒並み評判が悪いのだが、その原因はおそらく、その作品の作られた目的がおかしいからである。

映画は、「面白い映画を作るため」に作られるものである筈だが、「出演者に何らかの評価を与えるため」に作られる物が存在する。 配役は、映画を作るために適したものであるべきなのに、まず配役ありきで、その人らを装飾するために映画が(いわばオマケとして)作られる。 映画のための映画でなく、出演者のための映画。 これは面白くない。当然だ。

同様のケースは音楽の世界にだってある。 面白い音楽を作りたいのでなく、ある評価を得るために音楽を利用しようとする人がいる。それも結構多く。 そういう人らが中枢を占めるようになれば、その業界は必定廃れる。


8/31(日)

邦楽について。備忘録も兼ねて。

普通、音楽についての解説書などであれば、その音楽ジャンルについての、楽理・様式面での説明の書となるはずだ。 「ジャズ」についてであれば、テンションコードがどうしたとか、4ビートがどうしたなどと。 ところが、邦楽関連になると、それは途端に、ほぼ「流派」についての解説(沿革)になってしまう。 「○○年に○○派にお家騒動があった」とか、まことにどうでもいい。

普化宗だとか、当道座とかの用語で調べを入れてもらえば引っかかると思うが、日本の音楽(芸術)は、常に特定ギルドのものであった。 日本史を習っていた人なら、中世の座の特権とか教わるはずだが、油や何やだけでなく、音楽の周辺ににおいても事情はほとんど同じだった。

どうして日本人は、今も昔もかようにせせこましい民族なのか。 例えば芸能界。 アメリカにだってイギリスにだって芸能界に相当するものは存在するだろうが、本来それは、芸だとか歌だとかが好きで、一定の社会的評価を得た人ら、の活動の場を総称するだけのものだろう。 その人たちが互いに関心を持ち合えば、場合によっては作業を共にすることだってあろう。

日本の芸能界は違う。 事実上特定集団のサロンになってしまっている。 良いことなのか悪いことなのか、一概に言えないのかもしれないが、私自身の好みで言わせてもらえば、あんまり好ましいと思えない世界だ。 身分制度のような硬直したものではないから、現状特段の非難の対象にはなっていないようだけど。


私が学校を出て上京したばかりの頃、当時一応音楽に関係した仕事のようなものに就いてはいたが、地方出身だし、近くには同好の友人など皆無に近かった。

当時色々と調べているうちに、作曲家協会なるものが存在していることを知った。 私は、同好の人と知り合い、横で情報を共有することができるかもしれないと思い、入会方法や活動内容について教えてもらおうと、早速コンタクトを取ってみた。

すると、その協会の窓口の曰く「当協会の会員二名以上の推薦が無ければ入会は受けつけていない」そうな。 ○○協会なんて名乗ってるから、何となく公共性のある団体かと思ったら、早い話がサロンだった。 ずっと後になって、当時一応の面識があったある人が、その協会の役員だかをやっていたことを知ったのだが、別に入会なんてしなくて良かったと思っている。


話がやや逸れた。 とにかく、邦楽においては、例えば端唄・小唄・うた沢とか言ったところで、それらはジャンルではなく流派であると言うことだ。 無論、分派しているのだから、音楽様式も微妙に亜種化してはいるのだが、楽理の違いによって分類されたものではない。


8/30(土)

邦楽、特に長唄について。

長唄は、直接的には江戸時代の歌舞伎音楽をルーツとしていると言われる。 が、正確にはそれ以前から存在する俗謡(地歌などの一種)を歌舞伎が取り入れたもので、またその後、歌舞伎から独立した一声楽としても発展した。 長唄は、その歴史の中で、ある時期歌舞伎に取り入れられたことによって知名度を上げた、とか言うのが実態に近い。

長唄には一応の様式があって、三部構成くらいが標準的であるようだ。 有名曲とか聴いてみたが、予想通り、現代人の私にはよく楽曲の全容がつかめない。 聴いたものの一つである「菖蒲浴衣」、資料を読むと安政年間作とある。 長唄は江戸音楽だが、安政期ならもう幕末も幕末、最末期である。 それでも感覚的に遠すぎる。 この時期から百年くらいの間に、日本人の言語環境は余程に変化したと思われる。

複部構成の展開感を特徴付けるものの一つとして、三味線の「転調」がある。 転調と言っても、西洋音楽の転調とは意味が違う。調性音楽でないのだから当然とも言えるが、機能和声と言う思想こそ存在しないが、一応日本の前近代音楽にもトーナリティー(トーナル・センター)は存在する。 長唄の転調は、旋法音楽における転調(転旋法)ですらない。

長唄の転調は、三味線の調子(本調子・二上り・三下りなどの)を変えることを指す。 ギターとかで言うなら、ノーマル・チューニングからオープンGに変えるとか、そういうこと。 それを、楽器を持ち替えることなく、曲間に糸巻きを弄ることで実現する。 それなりの熟練が必要かと思われるが、現代音楽ほどにシビアなチューニングが要求されるわけではない。

調子を変えると言っても、例えば本調子から二上りなら、(一・二・三弦の順に)一度・完全四度・完全五度→一度・完全五度・完全四度と言う変化になるわけだが、西洋音楽で言うところの転調は、必ずしも生じるわけではないことになる。 聴き手にも分かるくらいの明瞭な展開感を表現するのは難しくないのだろうか。


それにしても、曲中でチューニングを変える、と言う手法は斬新で面白い。 上に挙げた「菖蒲浴衣」など、歌の一フレーズの途中でその転調を行う(当時としても新しい手法であったようだが)。 作品に取り入れてみたい衝動に駆られる。 とりあえず続きは明日以降に。


8/29(金)

よく行くスーパー(全国チェーン系)の店内に、常時警備員がいる。 万引き対策とか、そういう理由と思われる。

警備員一人に掛かる一日分の人件費っていくらくらいだろうか。 少なく見積もったって万の単位になるだろう。 万引き対策など全く行わなかったところで、被害額は一日平均一万も行かないだろうに。 つまりスーパーは、万引きの被害額と相殺するだけでは割の合わないコストをかけている。

ではスーパーは損をしているのか、と言うと、そんなわけは無い。 スーパーのような比較的大資本ベースの商売をやっている人らがそんなにバカである筈が無い。

大局的に見れば、きっとスーパーは得をしている。 例えば、正規の商品代金を支払う客が損をしない店(ひいては社会)を作ることによって、信用を得ている。 その信用は、いずれは損得面で見ても引き合うだけ価値を持つだろう。

ただ、信用ってのは物質でないので、見えない人には見えない。 だからまるで、損をしているかのように見えたりもする。 物事を大局的に見るってのは、要は脳裏にあるパースペクティブを展開するってこと。


8/28(木)

手持ちのノートPCのオーディオデバイスに、ステレオミキサーが入ってないことに突然気付いた。 今すぐ使う機能ってわけでもなかったんだけど、いずれ使う時に困らないようにと、環境だけは作っとこうと思ったら、それだけで丸一日かかりやがるの。 ああ疲れた。


話は変わるんだけど、ここ最近「音(音響・音色)」に特化した作品をいくつか作ってて、それについての雑感。

一曲を仕上げるのに必要な時間で言えば、普通のPOPSとかより断然短い。 核となるプロット部分のボリューム的な差だろうと思うが、単純にアレンジ面のみで見ても平均的なPOPSよりは楽なので。 聴いた感じサウンド面でのハッタリが利いてるんで、作るのも大変そうに思えたりするんだろうけど、骨子となる譜面情報は実にシンプルだ。

「音響を楽しむ」と言う情報の処理法は、使われる脳のメモリー領域が少ない。 人間が、時間軸を展開するには、それなりの脳機能(領域)が必要になる。 音楽でなく音色を楽しむ、と言った処理法を専らとするような属性の人ら向けの音楽は、音色こそ派手でも、パート数などは大抵少ない。 パート数(旋律など)を同時に保持するのにも、相応の脳機能が求められるからだろう。


8/27(水)

スタジオにて。

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あるフリー物のプラグインを落としてきたんだが、一部の機能に何やら意図的なロックがかかっていた。 結局ある程度解除することは出来たんだけど、DAW経由でのミックスダウンができない(無音のファイルが作成される)。 これも意図的なロックの一種なのか、あるいはそういうロックなんてゴチャゴチャかけてるから生じたバグなのか、今のところ不明。

エクスポートが出来ないんで、DAW内にオーディオを(内部ループバック的に)録音するプラグインを立ち上げてWAV化しようと試みた。 で、まあそれ自体は出来たんだけど、シンクロ録音ってのができなくて困ってしまった。 説明が難しいんだが、DAWのオーディオエンジンって常時アクティブで、内部のCUEと同期(同時スタート)してくれない。 上記の録音用プラグインの録音開始とDAWの再生を同時に行えないんです。

シンクロ録音が出来てないんで、結果として出来上がったオーディオファイルは、DAWで他のパートと並べた際にタイミングがズレている。 現時点での暫定的な解決策として、DAW上で(ほぼ手作業で)位置を調整しているんだが、何か他の方法は無いものかと思案中。 単純なバグならいずれ修正版が出るだろうけどね。


8/25(月)

スタジオにて。

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同じMIDIデータを同じVSTiで発音させているのに、DAW(と言うかVSTホストアプリ)によって発音が(明らかに)違う。 どうしてなんだろう。 別に回避しようのないトラブルとかではないけど、理屈が分からないから気持ち悪い。

ネットで調べても解決策の前に同様の質問が見当たらない。 検索のし方が悪いのかな。


8/22(金)

ここ最近、音(音色)に特化した曲を作り溜めている。 動機は、そういう普段の守備範囲外の音を作ることによって、新しい世界が見えてきたりしないだろうかと思って。 それにしても自分で作ってる気がしない。 機材が作ってくれてるって感じ。 まあとにもかくにも、今のところ大した成果は得られて無い。

長距離走と短距離走とか、早食いと大食いの能力って、全然同系統でないらしい。 全く別の属性なんで、それらの間を転向とかもできないと思われる。

音楽(music)と音色(sound)も似たようなものなのだろう。 ただし、これら二つについては一応の互換性はある。 音楽を作れるなら音色もある程度できる。 ただ、逆は多分原理的に難しい。 逆コンパイルみたいな無理な工程になるはずだから。 国語で算数は解けるが、算数で国語は解きにくい。


8/20(水)

ブレイクビーツについて。 今作ってる曲の中に、ブレイクビーツっぽいフレーズを効果音的に入れようと思っていて、とりあえずのメモ。 今更ではあるけど。

それなりに面白く感じなくもないんだけど、やはり音楽としての底は浅いと感じる。 スライス(16分割とか)したリズムパターンを並べ替える、あるいはその断片のいくつかを逆回転させる、などと言った手法って、どうも機材頼りと言うか、完成形を脳裏に描いた上で取り組む作業とは思えない。 偶然でき上がった音を楽しんでるのに近いと感じる。 これは、底の浅そうなメソッドに対して、ほぼ共通して覚える印象だ。

今のところ、二曲に取り入れる予定(と言うかオケはほぼ完成済み)なんだけど、どちらにおいても、効果音と言うか一種のサウンド・エフェクトとして採用している感が濃厚だ。 今後また使うかについても微妙。


8/19(火)

有名な、北斎の富嶽百景の跋文、私は読む度に奮い立たせられるような気分になる。 彼の生涯はきっと、一本の道を走り続けている心地だったろう。

芸術とは、一本の道を走り続ける作業。 その一本道、見えない人には見えてこないものらしい。

チーターは、一度狙った獲物を最後まで追い続けると言う。 途中、別の獲物らしきものが視界に入っても、それが一見得るのにより容易い対象だったとしても、目もくれぬらしい。 実はそれが一番効率的であるからではないか。 北斎が終生、「洗うが如き赤貧」下に生きたのは、おそらくは富と言う、手近にある獲物に食指を動かさなかったから。

では彼は何を目指していたのか。 私はGodだと思う。いわゆるThe absolute。 ただし、当たり前だが、当時の北斎自身はそう自認していなかった。 当時Godはおろか、artと言う言葉(概念)すら存在しなかったから。


8/18(月)

合理主義者の私は、基本的に手法として、上位互換品を選ぶ。

例えばハイファイとローファイ、音質としてどちらを選ぶかと問われれば当然ハイファイ。 何故なら、ハイファイの世界でローファイは表現できるが、逆は不可能だからだ。 かと言って、自分の耳で判別不可能なレベルの高音質など求めない。 幽霊が見えない私が、幽霊対策にコストを掛けるのは、それはそれで不合理・不経済だから。

プレイヤーとして楽器を選ぶなら、ピアノ(鍵盤)と尺八どちらが良いか、などと問われるなら、当然ピアノってことになる。 音域が広く、同時発音数も多い。 常識的感覚で見れば、多様かつ高度な音楽表現に、そちらの方が適しているとしか思えないから。

世の中には、いわゆる打ち込みを嫌う、生音(生演奏)至上主義者ってのがいる。まだいる。 私は手法をどちらか一つに絞れと言われるなら、一も二も無く打ち込みを選ぶ。 のっぺりしたシーケンスのベタ打ちフレーズ、ああいうものには確かに人間味は感じられない。 でも、ベロシティ弄って適当な強弱つけたり、タイミングをバラつかせて適度に人間臭くすることは可能だ。 逆に生演奏で、完璧なタイミング・一定のベロシティを表現することは、現実的にできない。

生音派のある友人は「打ち込みでは生楽器の持つ豊かな倍音が出せない」などと言っていたんだが、スタジオの生ピアノをロボットに弾かせることだって可能なんだから、やはりそれは(広義の)打ち込みの持つ改善不可能な欠陥なんかではない。 単に現行機種の「改良の余地」を指摘しているに過ぎない。


上記のようなことを、私は宅録を始めた(十代後半くらいの)頃に考えた。 何故今更文章化したのかと言うと、あるミュージシャンが雑誌で語っていたことからの連想で、ふと思い出したから。


8/17(日)

時間は何故戻らないのか。 小学生のように考え込んでいた。

積み木細工が崩れても、また(ほぼ)同じ物を組み立てることはできる。 修復不能なほどに壊れたオモチャでも、一応同じとされている品を買い求めることはできる。 無論似て非なるものだと言う事は分かっている。 世の中に同じ物など存在しないから。

時間の不可逆性は分かりやすい。 昨日と言う日が返らなかったり、死んだ人が生き返らなかったり。 時間はある方向にのみ進み、決して逆戻りしない。とされている。 が、これは人類普遍の感覚では無い。

インド世界では、時間は一定方向にのみ進むものでなく、循環するものだと考えられているそうな。 だから、インド社会は伝統的に時間にはルーズであると言う。 因みに、インド音楽における拍節理論であるターラも、そういった思想(時間が循環を為すと言う)に貫かれている。 おそらく私を含む日本人の多くには体感しにくい感覚だろう。

文化圏によって解釈が異なるのだから、つまりは時間なんてものは、実体として存在するわけじゃない。 時間が戻らないのではなく、戻らない何かを我々が時間と呼んでいるだけなんだろう。 だから時間なんてものは、要は我々の心の中にしか存在しない。

齢を重ねることによって人は老いるのではなく、希望を失うことによって老いる。 同じように、返らないと思うから時間は過ぎるのだろう。 時間が、科学的に定義できるものであるとされていることは知った上です。

「時間が戻るなんて酔狂なこと、信じられるはずが無い」と言うのは、言うまでもない常識的感覚。 確かにそんなことを信じることは容易でないものね。 でも、何かを信じる為にすべきことは、真剣に今日を生きることだけ。 私にできるのは、曲を作り続けることしかない。

私を取り巻く時間が、後戻りしたりすることがあるのか、なんて分からない。 でも今の私が向かっている先は、そこでもあるような気がするんだよね。 過ぎたはずの時間に、いつかまた巡り会えたりするような気がする。


8/16(土)

スタジオにて(影山リサ)。

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先日歌を録ったばかりのある曲の間奏部分に、ちょっとした語りと言うか掛け合いみたいなのを入れようと思って、それを録ってました。 影山リサは「Pretty Storm」発表以来、ちょっと間隔が空いてしまいましたけど、もうじき新作リリースのアナウンス入れます。しばしお待ちを。


8/15(金)

神田優花、またまたレコーディング。 それと先日録った音のチェック。

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今企画中のアルバムの収録曲、ボーカルテイクを全部録り終えたって、少し前に言ってたんだけど、もう一曲残ってた。 それを今回録ったんで、先週末からずっと編集してました。


8/13(水)

STAP細胞事件、とうとう死人が出た。 今更の感もあるけど、それについての感想。

漏れ伝わってくる遺書とやらの(断片的な)内容を知るだに、要するに「生きることに疲れた」と。 まあ本音だろう。 事件当事者の彼女に対しても「あなたは悪くない」みたいなことが綴られてあったと言う。 自分が死んだら、当然責められるであろう彼女に対する常識的な配慮と思えるが、これについても大方正直なところと見た。

論文共著者の一人である、山梨大だかの教授は、結構早い段階で論文の取り下げを提案したり、独自に会見を開いて自らの潔白を主張したりしていた。 みなまで言わないまでも「俺と彼女を同類と思われちゃ困る」とでも言いたげだったし、それは正常な感覚だろう。 私だって、彼の立場ならそう言いたくなるもの。

客観的に見れば、周囲の大多数の者は、彼女の不正行為の巻き添えを食った。 他人の悪行によって、自らの信用を失墜させられた者の反応として、上記山梨大の教授のようなリアクションは、実に健康的と言うか、生物としての人間の、精神生理のようなものかと思われる。 不安にさらされた犬が吠える、みたいなもの。

「あなたは悪くない」・「疲れた」とこぼす御仁。 彼には、もう生物としての最低限の生理が働いていない。 「そりゃ死ぬわ」と(失礼ながら)思わずにいられない。 再生医療とか若返りとか言ってる場合じゃない。


自殺は首吊りによるものだったと言う。 昔売れた「完全自殺マニュアル」とか言う本の中に、「自殺するなら首吊りが一番」と言った記述が確かあった。 「自殺のし方を列挙してこんな本を作ることが実は無意味なくらい、首吊りは自殺法として優秀」だそうな。 最も安上がりで確実であるらしい。 紐一本、布切れ一枚でできる上、極端に未遂率が低く、仮に助かったとしても、脳に深刻な後遺症を残す。 つまり、甚だしく狂言自殺向きでない。

単に目立とうと思うだけなら、リストカットとかにしておくべきで、彼が首吊りを選んだと言うことは、早い話がもう、完全に行き続ける意志が失せていたと言うこと。


それにしても死ななくても良いものを。 私があの立場だったらどうするかなあ。 あの人自身は優秀な研究者だったと言うから、現所属組織なんてとっとと辞めて再就職するか。良いアテが無いのなら、場合によっては海外にでも活路を見出そうとするだろうか。 それも難しいなら家に籠って自力で研究を続けるな。 マスコミがウザかったり、組織に詰め腹切らされそうで悩んでたとか、そんなのでしょ、どうせ。 だったら私なら姿くらますかな。あるいは平然と(あたえられた処遇下で)研究続けるとか。

「自力で研究しようったって、研究には資金も環境も要る」と言うことぐらい、私にでも想像できる。 でも、死ねばどんな劣悪な環境下よりも研究が進捗しない。

私がまだ地方在住で、商業音楽の世界を夢見ていた学生の頃には、CDアルバム一枚作るのに二千万掛かるとか言われていた。 そりゃ再生医療とかの研究にかかる費用に比べれば屁みたいなものかもしれないが、何の伝手も無い貧乏学生からしたら、気が遠くなるような額だった。 でも、だから諦めるなんてことはない。 音楽を作り続けることが夢なんだから。 それを続けて行ける環境をひたすらに模索するのみだ。 自殺など愚の骨頂。 ほっといてもいずれ期限の切れる命を、わざわざ自分で絶たなくても良かろうに。


しかし当事者の彼女、追い詰められちゃったなあ、と率直に思うけど、実のところ心配は要らない。 普通の人とは世界観が違うので、困りはしても、悲しんだりはしないから。 悲しむにはまず、他人の心が(思い込みにせよ)見えねばならない。 自分しか見えない精神世界に、悲しみは無い。


8/12(火)

スタジオにて。

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最近更新が滞りがちなんだけど、別に大した理由は無い。 曲作りに忙殺されていて、それ以外のことを考える時間が無いのです。


8/10(日)

スカについて。

スカっぽい曲を作ろうと思ってるんだけど、スカって一体何だ。 独特のリズム型みたいなのは分かるとして、それ以外がよく分からない。 どんな様式なんだ。

調べてもあんまし情報出てこない。 要するにあのリズムであればスカってことなのか。 スカの一発展形であるレゲエなんかは、決め事と言うほどではないにせよ、様式らしきものが色々とあって、情報も割りと充実しているんだが。

代表的なアーティストとかはたくさんいるので、作例に当たるのは容易い。 しかし、楽理面がイマイチ分からない。 あるいは楽理なんてほどのものが無いのか。


8/8(金)

影山リサ、新曲の歌入れでした。 今週は編集作業ばっかしで疲れました。

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8/7(木)

ちょっと昔、多分十年くらい7前に、あるミュージシャンが所属レコード会社を批判するような文章を公表したことが話題になっていた。 何だか著作権問題とかそういうのに関して。

そのミュージシャンは当時、絶頂期にあった、とはお世辞にも言えない状態で、要するに商業的な観点で言えば、落ち目だった。 当時、所属レコード会社からは、予算配分面での優先度も下げられていたように思われる。 だからこそそういう会社批判に至ったのだと思われるが、江戸時代の初期に福岡の黒田家で起こった、栗山大膳事件を思い出した。

私は別に、そのミュージシャンに否定的な意見を持っているわけではない。 むしろ言ってることは正しいし、取った態度も立派だと思うけど、そこに至る動機の一つとして、自らの不遇感はあったに違いないと思う。

そのミュージシャンの発言は、当時世間(主にネット界)から喝采を浴びた。 「よくぞ言った」、「立派だ」などと。 あと「あなたのCDを買う」と言うのも見かけた。

しかし、賞賛してくれる世間は、実のところ彼(そのミュージシャン)を守ってくれないだろう。 「CDを買う」と言ってしまう人は、意図的ではないだろうけど、要するに利で釣ろうとしている。 「そういう行動を取ればこういう利益がありますよ」と。 しかし純粋に損得の計算に基づくなら、CDの売り上げから来る微々たる印税なんかより、レコード会社に可愛がってもらうことによって得られる利得の方が、遥かに大きかろう。


「よく言った。お前のCD買ってやるぞ」と言う者がもし、「自分が同じ立場に置かれても、きっとそういう事は言えない」と心の中で思っているのなら、そう思うが故にそのミュージシャンの行為を賞賛しているのであれば、結局彼はそのミュージシャンのことを馬鹿にしていることになる。 「利口でない奴め」と。

そのミュージシャンの行為が得策でないと思えばこそ、「CD買ってやる」などと多少の利をチラつかすことで誘導している。 そのミュージシャンがあらためて損得勘定を始めたら、態度を一変させかねないと思うから。

この社会が、正論を吐く者こそが生きやすい社会であれば、いずれ主要な構成員もそういう人らで埋め尽くされるはず。 もしそうでなく、阿諛追従をこことする輩こそが生きやすい社会であるなら、当然そういう人らで溢れ返る。


8/6(水)

スタジオにて。

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広瀬沙希、音の上がりをチェックしてました。

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8/4(月)

リュートについてのメモ。

リュートを使った曲を考えている。 今作ろうとしているのは、バロックや古楽のイメージを残した歌物のPOPS。 リュートとは、まあ簡単に言えばギターの古形とでも言うべき楽器。 中東のウードとも酷似しているが、二者は似ているとか言うより、要するに同じ物。同じ楽器の地方亜種(語源も確か同じ)と言って良いかと思うが、楽器にはしばしばこういうことが見られる。

因みに、過去にも影山リサの「Romance」とか、リュートの音を使った曲はある。 ウードの音なら神田優花の「Beauty」・「Thieves」にも使った。

リュートはギターの先祖のような楽器なんだが、当然、構造上いくつか相違点がある。 まずヘッド部分の反り方が一目見て分かるほどに違うのだが、琵琶などにも見られるこの反りは、いくつかの弦楽器に共通していて、弦のあるテンションを維持するために必要な構造らしい。 この辺りの力学について、私は素人なので厳密な部分はよく分からない。

次に弦が違う。 複弦構造になっていて、代表的なもので6コース・11弦のものと8コース15弦のものがある(1弦のみ単弦)。 6コースタイプは、現行のギターにかなり近いが、チューニングは(各弦の音程間隔も含め)若干異なる。 奏法については、あるタイプのギターとほぼ同じと言って良く、その楽器特有の奏法と呼べるほどのものは無いと思われる。

複弦構造なので、聴感上の印象としては12弦ギターとかに似ている。 チューニングは若干違うと言ったが、それにしても似たようなものではあるので、実際の演奏においてもギターの演奏技術がかなりの部分転用可能だ。 バッハの無伴奏リュート組曲とか、そのままギター用レパートリーになっていたりする。

要するにギターと言う(わりかし正統な)「後継楽器」が存在しているので、理解についても容易な楽器ではある。


8/3(日)

神田優花、またレコーディング。 今回も二曲まとめて録ってます。

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神田優花は録音済み未発表トラックが随分溜まってきた。 年内には発表する予定ですけど。 今、企画しているミニアルバムがあって、今回でその収録曲のボーカルテイクは一先ず全部録り終えました。


7/31(木)

神田優花、先日録ったテイクのチェック。

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影山リサ、こっちもまあ似たような作業(上がりのチェック)やってました。

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今月1日発売の月刊Auditionに、影山さんの記事が載ってたんですが、同号にウチのオーディション告知も掲載されてまして、それの締切りが今日になります。 なんか景気の良い話も聞かない昨今ですけど、アーティストなんてやってみようと思う人がいるなら、是非エントリーしてみてください。


7/29(火)

スタジオにて。

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いつの時代だって世の中には、立派な人もいればそうでない人もいる。 不正行為をはたらく人間だって当然いる。そういう人らの出現を事前に回避することは、如何なる社会においても不可能に近い。 社会の側にできることは、そういう人らが得をせぬ社会を作ること。 インチキ論文に学位を与えない、とか言うことは最低限の社会側のマナーだ。 そういう態度を徹底しないと、この社会はいずれ不正者の温床になる。

不正事件について、不正者が悪いのは間違いないが、社会の側がそれを事実上容認するような態度を見せれば、その社会において、不正者の出現は後を絶たなくなるだろう。 不正行為に寛容である者は、その人こそが不正の連鎖を生み出している。


7/28(月)

盗作って何か。

ピカソは「つまらないアーティストはすぐ何かを真似ようとする。優れたアーティストは盗むのだ」と言っている。 彼の言わんとすることが伝わりますでしょうか。 ピカソはその生涯に、何万点と言う膨大な作品を残しているが、それだけの作品数を残すんだから、他人の作ったものに触発されたことが無かったわけがない。 当然あったろうし、実際オマージュ作品のようなものも大量に残している。

何かにインスパイアされると言うのは、悪いことでないし、アーティストになるような属性の人間なら、当然思い当たる機微だろう。

エピゴーネンと言う言葉があるが、芸術・創作の世界には、本質と言うものがどうしても掴めないタイプの人間が紛れ込みやすい。 「ミュージシャンに憧れ、ミュージシャンを目指す」と公言する者の中に、創作でなく、いわゆる「ライブ」と言う発表の場に固執する人がいるが、要するにその人らが理解したのは「賞賛の図」のみである。創作物の本質になど理解が至っていない。

そういう人らは、作品を作らせればすぐ他人の作品の表層部分を真似ようとする。 音楽で言えば、音符の配列だとか。 核の部分(本質)が理解できないんだから、ある意味当然と言えるが、そういう人らが映す世界に、芸術など本当は存在していない。 無いものなんて作りようがないわな。

何かを感じた時のその印象、それを掘り下げる作業が芸術だ。 何かから触発されることなんて当然。 盗作がイカンと言うのは、他人の作ったものを自分名義で発表するなと言うこと。 本気で創作に取り組んでいる人なら、そんなこと慎むまでもなく、むしろ「やりたくない」筈だ。 私だってそんなことしたくないよ。そんなに暇じゃない。


良い芸術作品の作り方、なんて存在しない。 それがもし本当の芸術作品であれば、その時点で本来魅力的なものである筈だ。 つまらない作品ってのは大抵、芸術作品ですらない。


7/27(日)

リズムについて。近頃の雑感。

今では御伽噺のようだが、戦後間もない頃、日本の音楽業界はヒットを生むために新しい「リズム」を模索していた。 ドドンパ・パチャンガ・スクスクが、三大リズムとか言われた時代もあったと言う。 因みに、そのリズム、国産のものもあれば舶来品もある。 三大リズムもそれらが混在している。

純国産リズム、ドドンパの代表作「東京ドドンパ娘」は、1961年の作品で、終戦から16年しか経っていない。ビートルズもまだ解散していない。 「東京ドドンパ娘」は当時、かなり売れたと聞くが、販売枚数については諸説あり、実数定かでない。 多分、正確な記録自体が残っていないのかと思われる。

その「東京ドドンパ娘」、個人的にはあんまし好みな曲ではないんだが、売るための戦略としてリズムに着目している点は好感が持てる。 リズムは音楽そのものを構成する要素に違いないわけで、音楽商品を売るための着眼点としてはわりかし正当と言うか、健康的な発想のように思われるから。

今も昔も音楽業界は、音楽商品を売るための思案を重ねていることに違いは無いが、現代は音楽そのものに大した比重を割いてない。 現代の音楽コンテンツはメディアミックス商品で、単純に曲だけ良ければ売れると言うようなものでもない。 どちらが良いのかなんて一概に言えないと思うけど、私は単に「違う」と言う感想を漏らしている。


7/26(土)

神田優花、歌録り。 今回は二曲まとめて。

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影山リサ、こっちもレコーディング。

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7/25(金)

アートと芸術が、本質において異なる理由。

artと言う言葉が入ってきた当時、日本人は既存の芸術と言う言葉をその訳語として当てた。 emperorを皇帝としたり、dragonを龍としたように。 しかし、異文化間に全くの同概念などなかなか存在し難い。 多少の誤差が当然含まれる結果となる。


アメリカはイラク戦争後の現地復興計画を、日本の戦後統治をモデルにしようと考えていたらしい。 ところが全くその当ては外れ、イラクはテロリストの猖獗する無法地帯となった。 日本とイラクでは、それまでの歴史が違うからだ。

日本は明治に入って、俄かに西洋文明を取り入れた。 法律や軍事・教育のような諸制度は、ほぼ原形のまま(日本人の意識の上では)、キリスト教のような一神教については、それを日本流に解釈した天皇崇拝(国家神道)として取り入れた。 言っておくが、昭和までの天皇崇拝なんて全然日本の伝統じゃないよ。 明治以降の国家神道は多分、江戸後期ぐらいに起こった(平田篤胤とかの)国学者が流行らせた、カルト宗教みたいなのをベースにしている。 まあそれでも一応は、明治より前にその原型が存在はした。

マルチン・ルターもマックス・ウェーバーもその歴史に持たない日本が、割りと容易に資本主義・市場主義経済みたいなのを取り入れることが出来たのは、江戸期までに既にそれに近い西洋とは別種の資本主義を根付かせていたから、と考えるのが自然で、例えば飛鳥・奈良時代の日本にそんなものを受容できる素地は無かったはずだ。

福沢諭吉が「痩我慢の説」で説いた「私」は、おそらくは私企業・民間資本のイメージで、こんにちで言えばビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズとか、そういう人らのことだろう。 確かに待望されたように、当時の日本にそういう人・企業は無かった。 やや後の財閥(岩崎弥太郎とか)はそれに近いと言えなくもないけど、あの手のいわゆる政商も、江戸期の大名相手の大坂商人などの存在が、濃厚にそのプロトタイプとなっていると思われる。 つまり、やはり先行モデルを素地としている。

明治期の日本が一神教を天皇崇拝と言う形に翻訳したように、独立後の韓国において大統領は選挙で選ばれる皇帝(または国王)と訳された。 それにしたって曲がりなりにも「訳語」が存在したから挿げ替えられた。 イラクに民主主義は、それに置き換えられる思想ごと、その文化・歴史の中に存在しないものだったのだろう。 あるいは、自由を無秩序と翻訳したと言えなくも無いか。

アメリカは何故あのような初歩的な失敗をしたか。 それもアメリカ固有の文化・歴史に起因する。 アメリカの、「歴史が無い」と言う歴史が、占領地における歴史と言うファクターを軽視させた。 「日本で可能だったんだからイラクでも大丈夫だろう」と安易に考えてしまったと見える。


「日本は欧米型の教育制度を取り入れた」と、日本人自身そう思っている。 「大学だって研究機関だってあるし、ノーベル賞受賞者だって出したじゃないか」と。 でも違う。 そこに至る歴史的必然を経ずして定着したものは、必ず翻訳部分を含んでいるはずだ。

差し詰め日本人は、「学術研究の成果」を、「栄達に至る感状」か何かと履き違えたのでは? あたかもアートを芸術と訳したりしたように。 やはり根本的な部分を一から洗い直すべきだと私なんかは思うのだけど、今更○○芸術大学を解体するわけにも行かないのだろう。 この先百年ぐらいはこのままなのかもね。


7/24(木)

既にタイムリーでなくなってしまった話題で申し訳ないが、例の兵庫県議会議員について。 私は一応、ほぼリアルタイムであの会見の様子を知った。

一件の後、彼の経歴や普段の態度について、周囲からの情報が漏れ伝わってきていたのだが、それが面白い。 彼はそれなりの高学歴だそうな。地元の名門進学校を経て、関西大学だかを出ているそうで、大学卒業後、市役所職員を十数年だか勤めた後、政治家へ転身する為にそこを退職していると言う。

その後、何度も選挙に出馬するが、常に立候補者中最低の得票で落選を繰り返し、最後の出馬にて、(全く関係の無い)当時の人気政党と誤解されかねないような政党名にて立候補、当選を果たす。 多分に有権者の誤解を誘発したのではないかと言われているそうだ。 過去そんなに落選しまくったのなら、選挙資金(供託金とか)も馬鹿にならなかったろうと思うが、金主でもいたのだろうか。


私にとって興味深かったのは、彼と言う人物が、経歴をもってしても、外見をもってしても、一見普通人(あるいはそれ以上)に見えてしまうところだ。 イルカとサメは一見そっくりだったりするが、片や我々と同じ哺乳類、片やごく原始的な魚類。頭の中身には雲泥の差がある。 如何に外見がアテにならぬものか分かる。

あの泣き叫ぶ彼の姿を、皆さんも見たろう。 実はあれこそが彼の正体なのである。 彼の頭の中は、実は常にあのような状態で、諸般の事情によって、彼は平素自らの行動に制限を掛けている。 だから、箍が外れればあの体たらく。

旧知だとかいう人物の曰く、「彼は青信号が点滅し出しただけで歩みを止めるほどに真面目な人だった」そうな。 それを真面目と評することに違和感が残るが、それはさておき、彼の人物を窺い知るよすがにはなる。 彼はおそらく、物事をそのように表面でしか捉えることができない。

何故青信号は赤に変わる前に点滅するのか、何故赤信号の時に道路を横断してはいけないのか、はたまた信号とは一体何なのか、こういった論理のようなものを理解・展開できる脳の状態ではなかったのだろう。 だから「青信号が点滅したら歩みを止めねばならない」と言う、禁則と言う形でインプットするしかない。

彼の同僚とでも言うべき、ある議員がインタビューに答えていたことが印象的だった。 「彼は老人(福祉?)関係の予算を取り付けようと、やたらに勉強(調査)しているようだった」そうな。 老人・子供だとか、障害者だとか、分かりやすい対象を救済することによって、得られるであろう賞賛の図に飢えていたと見える。 物事の本質が理解できぬ者の典型行動の一つだ。 彼の得てきた学歴・議員のバッヂと、老人の保護者と言う立場は、本質において同種の物だろう。


普通人は、その行為が恥ずかしいから、裸で街を歩かない。羞恥と言う感覚の基礎となる論理が成立するから。 この論理が成立せぬ者だからとて、全裸で徘徊させるわけには行かないから、「外を歩く時は服を着ねばなりません」と、ある行動を禁止するような形で教育を施さざるを得ない(こういうのは教育と言うより調教と言った方がしっくりくるけど)。 彼の脳内は、そういった禁忌・禁則で溢れ返っていたろう。

行動を理屈で制御してないから、時々とんでもないことをやらかす。 今回の活動費の不正使用が端的なそれだ。 これにて彼の脳内には、「活動費の不正使用はNG」と言う一項目が加えられたに違いないが、名目の違う費用だったりするだけでも、彼が今後どう判断するかは怪しい。 正確に応用できるかどうか。 まあ現実的には、政治家生命は既に尽きているのだろうけど。

そのような人物でも、この国では高学歴に、あまつさえ議員にすらなれてしまう。 こういう脳の状態でも、有名大学の博士号だって取れるし研究機関にも入れる。 ノーベル賞はさすがに難しかったみたいだけど。この国を越えるとさすがに通用しなくなるって言う、分かりやすい例。


彼は例の会見後、報道陣に付きまとわれた挙句、議員辞職を願い出た。 「このまま行くと、(報道陣に対して)暴力をふるってしまいそうで、犯罪者になってしまうかもしれないから」などとのたまったそうだ。 常識的な感覚にてその発言を聞くと、随分と舐めた態度のように思えるが、きっと粗方本気だったろう。 何故なら、言語系統が脆弱な者にとって、自分の行動とは、自分自身でも制御しかねるものであるからだ。 雄を食ってしまう雌カマキリは、自分の行動を意識で制御してないに決まってる。だからその行動を止められない。


日本史関連の本とか読んでると分かるのだが、ある時代(中世くらいまで?)の日本人は、どうも感極まった際しばしば、県会議員の彼のように、激しく嗚咽・慟哭したらしい。 時に発狂したように自傷行為に及んだり、集団で自殺したりもした。 言語(論理性)が未発達だと、人はそのような行動を取りがちなんだろう。 行為が、(理性でなく)感情に支配されてしまうらしい。

日本でここ最近起こっているいくつかの事件、全く無関係のようではあるが、原因はほぼ同じ。 当事者の脳の状態である。 どうやったらああいう人らを矯正できるのか、私には分からないが、改善できる点があるとしたら教育でしかなかろう。それも言語。

私は日本の教育って、ハッキリおかしいと思っているけど、「日本人に適したもの」でぐらいはあるのかもしれないから、現状を抜本的に変えるべきかどうかは分からない。 ただ、あの手の事件には明確な発生原因があって、そこに全く手が加えられてないので、きっとこの国においてああいう事はまた起こる。 断言して良い。


7/23(水)

スタジオにて。

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先週、実は4件も歌入れがあって、週末から編集作業漬けだった。 今はやっと一段落ついてますけど。


7/22(火)

お隣韓国の、歴代大統領を列伝形式で紹介したような本を読んでいる。 まだ読了前なんだが、以下今のところの感想。

一応韓国は民主主義国家である。 あの辺の複雑な政治状況下において、陣営としても民主主義陣営に属しているし、立派に選挙も行われ、大統領も頂いている。 しかし朝鮮半島は、自然な歴史的帰結として、自発的に民主主義社会に落ち着いたのではない。 必然としての体制でないのだから、それはきっと別のもの、彼らの歴史に存在した何かで無理矢理に解釈されたものに違いない。

言語を例に取れば分かりやすい。 外来の、自国の言語・文化に存在しない概念語などを訳すなら、無理にでも自国既存の概念を用いて説明せざるを得ない。 freedomの訳語に自由を当てたのは明治期とされているが、一応それ以前にも自由と言う言葉自体はあった(熟語であったのかはよく分からない)。 有名な二条河原落書の中にも見られたりするが、早い話があんまり良い意味ではない(誹謗文中にあるくらいだし)。 現代日本語の自由は、原日本語にあった自由の意味を多分に混入させてしまっている。 「ワガママ」などといった意味を。

韓国に移入された大統領制、彼ら当時の韓国人(特に為政当事者)らは、それ(大統領)を「皇帝」あるいは「国王」と彼らなりに翻訳した。 差し詰め概念としては、専制君主とか絶対者と言ったものだろうが、それらは語彙としてもイメージとしても当時まだ薄かったろう。 北はもっと分かりやすい。 北朝鮮は共産主義国家である筈だが、どう見ても金王朝にしか見えない。 彼らの文化で翻訳された共産国家だからだろう。

あの民族は、放っておけば際限なく分裂してしまう。 まず南北の分裂ってのが一番端的な現象だが、全羅道・慶尚道の地域対立なんかも有名だろう。 日清・日露戦争も、朝鮮国内の事大派・親露派・親日派などの対立に、周辺大国がのめり込む形で勃発している(朝鮮戦争も原理としては同じ)。 南北朝期の日本人とかも、自民族同士分裂したり、外国勢力を引き込もうとしたり、性質としては近いものがあったように思えるが、朝鮮人のそれには到底及ばない。

日本の敗戦による独立後、朝鮮半島はまず冷戦に乗じる形で南北に分裂するが、南の韓国内でも自由党・民主党の深刻な対立が起こる(現代のウリ党・ハンナラ党みたいなもんなんだろう。政策など二の次の対立)。 民主党が政権を取ったら取ったで、その新派・旧派の閣僚ポストを巡っての対立がまた深刻化する。 本当に際限ない。 李朝時代(あるいはそれ以前)からの彼らのお家芸で、党争とか言われるもの。

大統領を皇帝(のような絶対者)と思ってるんだから、権力者は政権の座を当然譲りたくない。 選挙には数々の不正が横行し、結果考えられないほどの得票差が生まれたりする。 現代なら、スポーツの国際大会とかで、首を傾げたくなるほどの採点結果が出るようなものだ。 要は勝てば良いんだから、工作の程度も必要程度に抑えときゃ良いのに、ついやり過ぎてしまうのだろう。 民族の宿痾と言って過言でない。

アメリカ合衆国とお隣の大韓民国は、表面的には同じく「民主主義国家」であるが、内実は全く違う。 まことに物事の本質は外形・外貌ではなく、そこに至るまでのプロセスである。 そこが見えてくれば、色んなことが理解できてくる。 私は以前、韓国がキリスト教国であるという事実が理解できなかったのだが、今は何故そうであるのか粗方理解できているつもりだ。 原理の部分が理解できれば、そんなに難しいことじゃない。


7/21(月)

昔売れてたバンドとかが、最近よく再結成ってしますわな。 少々失礼を承知で言うが、あの行動は、本人らの論理性に引っかからないのだろうか。 だとしたらアーティストとしてはどうなんだ。

論理性って言うけど、要は羞恥心のことだ。 羞恥は論理が生む。 アーティスト業を長年やってきた上で、羞恥心が育ってないのなら、やってきたその作業が、実はアートでないのではないか。 私個人の感覚で言わせてもらえば、再結成は色んな意味で恥ずべきこと。

「カッコ悪いことをしたくない=カッコ悪い自分でいたくない」って感覚、また行動がその感覚に忠実であること、これってアーティストの条件ですらあると思う。 この条件を欠いているのであれば、その人はアーティストって言うより、商業音楽家って言う方が適当なんじゃないか。


論理性無き思考回路に、恐怖も羞恥も存在しない。 「そう言うが、どんな人でも裸で外を歩かないではないか」と言う意見はあろう。 しかし、誰しもが羞恥心を持っているわけではない。 人間は、羞恥心を持たずとも、まるで羞恥心を持っているかのような行動を採ることがある。また、そういう人間に育て上げることは可能だ(割と容易に)。 日本の教育プログラムは、ハッキリ言えばそういう人間を育てることを念頭に置いたものとも言える。

羞恥心を持つ者は、恥ずかしい行動を当然ながら「採りたくない」。 羞恥心を持たぬ者は、世間で恥ずべきこととされている行動だから「できない」。 両者は、表面上の行動こそ似たようなものだが、その行動に至るプロセスが全く違う。 後者は、本当は羞恥心を持たないのにある行動を制限されているだけなのだから、誰かに「やっても良いよ」と言うお墨付きさえもらえれば、恥ずかしい行動など易々と採る。 裸で街だって歩ける。

平気で再結成なんでできてしまうミュージシャンらは、あくまでアーティストだと称するのなら、もっと真剣に創作に向き合った方が良いのではないか。


7/20(日)

キュビズム以降のピカソの絵って、多くは空間を歪めたようなものに見えるんだが、要するに絵画上に時間軸を展開しているとも言える。 ある対象を、正面から見た形状と真横から見た形状、それらを同居させるってのは、つまり各アングルを脳内で保持し、キャンバスの上で結像させることだ。

ピカソは何故音楽をやらなんだ、と思っていたのだが、彼の絵はある意味では既に音楽とも言える。


7/17(木)

スタジオにて。

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BREAK SOUNDさんって言う音楽配信サイト(「着うた」系?)があるんだけど、そこの週間ランキングで影山リサの「Barracuda」が一位になってたりするらしい。 もう随分リリースから時間が経ってる曲なんで、何故今更と思わんでもないが、まあ売れてることは喜ばしい。

影山リサと言えば、関東圏中心に展開しているカラオケチェーン「カラオケの鉄人」のメニューに、セカンドアルバム「Yesterday & Today」の収録曲(全13曲)が加えられてます。 去年の9月リリースのアルバムなんで、これまた今更報告するのもナンですが(当然、リリース直後から入ってた)。 あれを歌うってのもどうかと思うけど、まあ行く機会がある方は良かったらリクエストしてみて下さい。


7/15(火)

スタジオにて。 更新間隔がまた開いてしまった。

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7/13(日)

先日、吹奏楽団(ブラスバンド)用のスコアを書いてたって人と雑談をする機会があった。

しかしあれも大変そうだ。 スコア面だけで見るなら、一般にブラスバンド系って、音楽の中でも最大規模のものかもしれない。 人数だけで言うなら、オーケストラなんかは100人規模だったりもするけど、メインはバイオリンだとかの弦楽器で、例えば第一バイオリンが20人いたとしても、演奏する(楽譜上の)パートは一つだったりする。 それに比べると、ブラスバンドとかってクラリネットとかトロンボーンだけで各4パートとか、とにかくパート数が多い。 内声部、ゴチャゴチャになりそうだ。

私はブラスバンド用のスコアなんて書いたこと無いし、多分今後も書かない(要請が無い)だろうと思うが、純粋なブラスバンド用のスコアは勿論のこと、それっぽいアレンジのPOPSとかも書かないと思う。 あんまし歌物と相性良くなさそうな気がするから。 ちょっとあれはPOPSのオケとしてはうるさいね。

アレンジ上、ブラスがメインになってるような曲はいくつか書いたことがあるし、今後もあるかもだけど、今までのと同程度の編成が限界だろうと思う。 金管・サックス類、合わせて10パート未満くらい。 POPSとの親和性とか考えると、この程度がちょうど良い気がする。


7/11(金)

影山リサ、スタジオにて。 新曲のミックスをチェックしたりしてました。

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昨日の話の続き。

雅楽には総譜ってものが(思想ごと)存在しない。 たまに管絃用の曲を総譜化(無論五線譜で)したようなものがあったりするが、言うまでも無く現代において便宜的に作られたもので、要は翻訳版である。

総譜が存在しない雅楽は、各パート用の譜面(当然五線譜ではない)を元に、各楽器奏者がめいめいに楽曲を把握し、最終的な合奏の場においてアンサンブルを構成する。 オーケストラの様な総譜も無ければ指揮者もいない。 これが雅楽である。

西洋音楽の、調性・リズム面における明晰性、あれは当然あの記譜法にも由来している筈だ。 西洋音楽は、たまたま五線譜を採用している、のではなく、その記譜法も含め、その音楽固有の生成アルゴリズムであるのだ。

この辺、分かりにくいかもしれないが、詰まるところ民族なんてものが「使用言語」に起因している、と言うことなんかと似ている。 日本人が日本語を、中国人が中国語を、たまたま採用しているのではなく、その言語を使用することも含めて民族であるという事。

バンドなんかでも、事前に宅録とかで、ある程度楽曲を細部までこさえるタイプと、リハでジャムりながら曲を詰めて行くタイプ、とかがあったりするが、仕上がる両者の楽曲が結果的に似ていたとしても、やはりそれらは、いわば別ジャンルと言って良いほどに違う。


7/10(木)

音楽の本質。 音楽って色々だ。 音楽の定義を「時間軸上に展開された何か」とするなら、やはりノイズもアンビエントも音楽ではある。 それどころか、記憶も言語も、愛も論理も、この私自身も全て音楽である。

いわゆるEDMとかダブステップとか、その手の音楽を聴いていると、核となる構想部分のボリューム的な少なさが気になる。 私は音楽に含まれている、この「構想」を普段聴いている。

音屋としての私があの手の音楽に深入りしなかった理由は、まあ好みでないからなんだけど、「作品=思考の反映」って考えているんで、あの畑のミュージシャンらとは、音楽観自体がおそらく違うってのが大きい。 まあわりかし好きなミュージシャンもいますけど。

あの手の音楽の制作手法(無論一つでは無かろうが)、例えばサンプラーにロードしたいくつかの音を(ランダムなタイミングで)リアルタイムにトリガーするとか、ループさせたあるフレーズの「音色」に、エフェクトやフィルターで変化を加える、みたいなのって、脳内の作品像をレンダリングする作業と本質において異なる。 スポーツ的なラリーの面白さと、創造ってのはかなり違う。


フィルターぐらいの音色変化なら、ある程度思考で追える。 どういうことかと言うと、あるパラメーターを動かした際に起こるであろう音色の変化が、ある程度事前に想定できるということ。 これが例えばリング・モジュレーターとか、FM系の変調だとかの、幾重もの乗数的変化とかになると、想定が追いつかない。

つまり、結果的に生成される音色が予測できない。 これで(偶々に)作品が出来上がることは、私の考える創作の定義と重ならない。 だから、そんな感じの手法で曲らしきものを作っていても、私は作曲(創作)とは別の作業をしている気分にしかならない。

私があの手の音楽に似たようなものを作ることは、表面的には可能かもしれない。 が、結果的に仕上がった作品が似ていても、プロセス(制作手法)が違う。 私はきっとあの手の音楽を、一旦脳内で(かなり細部まで)構築した上で作品化してしまうだろうから。

音楽の本質は、この「プロセス」にある。 だから、結果的に仕上がった作品の傾向なんて、枝葉末節に過ぎない。 ミュージシャンのいわゆる「ジャンル」分けってのは、実は結果としての作品の表面的傾向でなく、この制作手法、どのようなアルゴリズムにて作品をレンダリングするか、に関わっている。 だから私は、別のジャンルに転身したりなんて、実はできない。 不可能だから。


7/9(水)

スタジオにて。 早く梅雨明けないかな。

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7/8(火)

集団的自衛権の行使を容認するか否かで、今世論が二分しているらしい。 まあ多分、一部のマスコミが焚きつけているだけの、一種の空騒ぎである面が濃厚だろうとは思うが。

私自身の意見は、「どうでも良い」。 私は、政治や軍事に関してはタダの素人で、平均以上の知識も無い。 個別の(テクニカルな)判断は然るべき担当者に一任したい。 為政者が国益に適うと判断したならそれを信用する。 そもそもその為に選挙に行っている。 一々判断しかねることについて、代わりに判断してくれる人を選ぶ為に。

以下は失礼な話だが、ある政策について「中国政府や韓国世論などが批判的である」とか聞くと、「よく分からんけど、これは正しい政策なんだな」と、反射的に思ってしまう。


7/7(月)

近頃の若者は、根気が無いとか、打たれ弱いとか、そういう風に上の世代から言われているらしい。 私はハッキリ言って、若者(と言うか人間全般)の個性なんてものを端から信用していないので、「近頃の若者は怪しからん」などとも思わない。 世代間に軋轢が生じることはあるだろうが、それが若者の個性に起因するとは思えない。

若者の性質を決定付けるのは「環境」だろう。 ある環境下にて育てられたから、当然それ相応の性質を持つに至っている。 きっとそれだけのこと。

しかし、高々数十年と言った程度の時間差で、そこまで環境が変化し、世代間にギャップが生まれるなんて、日本の文化・教育が成熟していないのは間違いない。 私は今更イエロー・ペリルを唱える気は無いが、日本人の脳機能に問題は無いのか、ちょっと疑っている。 あるいは日本語の不備か。


7/6(日)

世の中を眺めていると、いわゆる「面白い人」の中には、二種類あることに気付く。 物の見え方・捉え方と言った、「感性が面白い人」と、もう一つは、面白い話をたくさん知っていたりする、いわば「話術巧みな人」。 どちらも人を楽しませる能力があるのだけど、内容は随分違う。

感性が面白い人は、要はその人が「何事かを面白がっていること」こそが、他人から見て面白い。 その人そのものが人を楽しませているのだから、きっとその人自身、自分に対する自信のようなものがごく自然に身につくだろう。 自分の存在自体が他人の娯楽になっているのだから。

存在基盤が危うく、自分に自信を持てない人は、どちらかと言えば、後者の「話術巧みな人」になりがちではなかろうか。 「笑えるエピソード」と言う持ち物を多く備えることによって、人気を得ようとしてしまう。 でも、その話がいくら受けたとしても、その人は本質的に人気者たり得ない。


7/5(土)

私は映画を見ている。 人生と言う名の映画を。 映画館のスクリーンに映った如何なるものも、現実の我が物でないように、私に所有できるものなど一物もありはしない。

他人とは、今見ているこの映画の登場人物。 彼らはめいめいに世界観を持ち、どうやらこの私と似たような映画を見ている最中らしい。 でも私にその映画を覗き見ることはできない。 私に見ることのできるスクリーンは、今映しているこれだけ。

大切な友人も恋人も、この映画における重要な役割を担ってはいるものの、つまりは登場人物の一人。 私に子供はいないけど、もしいたとして、その子だって同じ。 どんなに愛する人がいようと、私は私のためにしか生きられない。 愛する人のために、私が何を犠牲にすることがあったとしても、私と言う主人公がそういう演劇的行動を選んだと言うに過ぎない。

ついでに、映画を見ているだけなのだから、私の背後に世界など無い。 他人の目を借りてしか自分を見ることができないような人には、教えてあげたい。 我々の背後に、実は世界など存在しないと言うことを。

如何なる物質も所有できない私なのだから、実のところ、如何なるものも、何一つとして他人に与えてあげることができない。 私に与えてあげられる何かがあるとすれば、それはその人の中に流れる気分。 歌とは、この気分を発動させるための引き金。 だから私は、日々作品を発表し続けている。 能書きなんて何一つ理解されなくて構わない。 私がその曲を「聴かせたい」と思ったことが、私が愛したことだけが伝われば十分。


私と言う主人公は、この映画の終わりに勝利を収めるのか。 収めるに決まっている。 主人公なんだから。 日々のありとあらゆる出来事は、その勝利への布石。 この映画に、無意味なシーンなど無い。

私が音楽作品を作り続ける理由は単純だ。 それは音楽が、「スクリーンの向こうの手に入らない何か」でないから。 音楽はいつだって私の中にある。 私の中で流れ、日々私を支え、進むべき道を教えてくれる。 いわばこの私そのもの。 音楽に比べれば、この肉体ですら彼岸(スクリーンの向こう)にあるものなんだ。


7/4(金)

神田優花。 抱えてる新曲が多いもので、ここ暫くリハーサルばっかりです。

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悩みごとの多い人なんて実はそんなにいない。 そう言う人の多くは、悩んでいるのではなく、悩むための道具(言語)が故障しているために不安に襲われているだけである。 人は、平明な論理力さえ持っていれば、妥当な選択にぐらい行き当たる。

土台となる数字がおかしければ、計算式は成り立たない。 1に2を足したら3になる。3に5を掛けたら15になる。 3に5を掛けても15にしかならないのに、3に5を掛けて100にしようとするから、途中のプロセス(計算式)が破綻する。

自分の悪さを認めたがらない人が、何故かこの社会にはメチャクチャ多い。 自己中心的な振る舞いの限りを尽くしつつ、自分を天使だと思い込むような人。 前提を認めず、ある結論だけを無理矢理導き出そうとするから、途中の論理が破綻する。 信用ならぬ自己を抱えているストレスは深刻だろうが。

自分の至らなさを、とりあえずは認めないと、何らの建設的方策も思い浮かばないよ。


7/3(木)

影山リサ、スタジオにて。 Infoでも触れてますが、1日発売の月刊Auditionに記事が掲載されてます。 是非読んでみてくださいね。

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zitherの音源(vst)、落としてはみたが、どうも使えない。 いくつかのパラメーターが正常に機能していないようなのだが、一体どういうことなんだろう。 しかもその音源、どうやらチターはチターでもコンサート・チターでなく、厳密な意味でのチターらしい。 つまりフレット構造が無い。 ダルシマーとかカーヌーンに近いもの。

フレット構造が無いってのは、要はコンサート・チターで言うところの伴奏弦のみで構成された楽器と言うこと。 旋律弦も伴奏弦も同じ弦ではあるが、機能性は全く違う。 伴奏弦は、基本的に全て開放弦。 両者はギターとハープぐらいニュアンスが違ってくる。

開放弦のみということは、音が基本的に鳴りっぱなしになる。 奏法についてあんまし詳しくないのだが、実器ではどうするんだろう。 一々ミュートしたりするんだろうか。 でないと音が混ざって仕方なかろう。

その音源、確かに一々のノートの歯切れが悪い。 リリース調整用のパラメーターがあるんだが、ほぼ効いてない。 だから、リリースを短くして旋律弦のニュアンスを出す、なんてことも難しい。

代用品となる楽器って何だろう。 旋律弦について言えば, やはり構造的に一番近いのはギターってことになる。 と言うか、ある意味チターの旋律弦はギターそのものとも言える(名称も同語源)。 プレクトラムのニュアンスが、強いて言うならピックや指弾きでの発音と少々違う。 特に、アコギのアポヤンド奏法なんかとは出音がかなり違ってくる。

伴奏弦については、構造的には近いものサントゥールとかダルシマーとか色々あるけど、これら打弦楽器とチターのような撥弦楽器とは、楽器本体の構造は似てても、奏法面での違いが大き過ぎる。 ここは聴感上の印象を決定付けると言って良い。 総合的に判断して、カーヌーンあたりがそれに一番近い(あるいはそのもの)と言えるかも。


7/2(水)

不安の正体。 誰だって不安を感じたことくらいあるだろう。 不安、あるいは恐怖と言った感覚。 その正体は「分からないこと」。

例えば、我が身が危険に晒された際に恐怖を感じるのは、「死」が人間の理解を超えたものであるからだ。 死が怖くない人の多くは、つまりは「分からないこと」が分からないだけ。 大抵の人は暴力に怯えるが、暴力そのものが怖いのではなく、その先にある理解不能な何かを感じることが怖い。 老いや病が怖いのも、同じく死を予感させるからだろう。

身体が頑健な者は、実生活において恐怖を感じにくい。 ケンカしても負けないから。 でもそれは暴力が怖くないだけであって、死の超克とは違う。 その手のタイプは、環境が変わったりする(例えば老化によって体力が衰える)ことに対し、実に脆かったりする。 まあ当然だ。


原発が怖くて仕方ない人は、要するにその得体の知れなさを怖れている。 毒に怯えているのでなく、薬効不明の薬に怯えている。 原発なんて、事故によって引き起こされる最悪の事態すら想定できているのだから、ある意味完全に理解し尽くされている。 本来ならそんなに怖くない対象であるはずだ。 それがここまで怖がられるなんて、つまりは怖がる人らのアタマの問題だろう。

断っておくが、私は別に原発推進派とかではない。 日本人がその総意としてあれを無くそうと決めるのなら、それはそれで構わない(それに伴って生じる不利益も理解した上で、ってのが無論望ましいが)。 私が嫌いなのは、バカがバカであるが故に起こすパニックに巻き込まれることだ。

福島で原発事故が起こった時、日本人の多くは政府や東電に対して怒っていた。 無論、当事者の責任はあるだろうが、多くは「不安」と言う本来自分の言語で解消すべきものについて、世界の側に責任を負わせようとしていただけだろう。 言語力が脆弱であればあるほど、人は独立心を無くしてしまう。 他人が悪いと言う感覚は、要するに世界に対する依存である。


怒りと言う感覚は、不安と直結している。 咆え立てる犬は、不安によって怒らされているのだろう。 統合失調症の人は、しばしば怒っているでしょう。 分からないことが多過ぎて、世界に対して怒らざるを得ないのだろう。 まあ、分からないことすら分からなければ、その怒りも生まれないでしょうがね。

分からないことが怖いのだから、当然未来などもある意味怖い。 それにしても、どうしてそんなにも分からないのか。 それは世界(対象)でなく、各人の言語機能に理由がある。 言語機能が、時間軸を展開できなければできないほど、人は瞬間に生きねばならない。 自分の中に過去が存在しないから、助言を与えてくれる自分が常に側にいてくれず、解決策がいつまでも身につかない。

例のSTAP細胞事件、あれは当事者の彼女の言語機能に全ての原因があると見て良い。 彼女はおそらく、瞬間毎に世界像を、いわば「上書き」しているのだと思われる。 だから、彼女は不正を行ったに違いないが、不正を行わない、清廉潔白な自分像でその記憶を上書きした。 常に上書きされるから、過去がそこに存在しない。 おそらく彼女は音楽を聴けないよ。 本人は「聴ける」と言い張るかもしれないけどね。


分からないことが怖いのだから、怯える者に例えば金をくれてやっても、その人が今分からない何かを即座に理解できるはずも、未来を想像できるはずもない。 従って不安は晴れない。 気違いが怖いのは、これまた「何しでかすか分からない」と思わせるからだろう。 言語力が薄弱な者は、自分の判断が信用できず、要するに自分こそが何しでかすか分からない。 だから世界が怖い。

不安に怯える者から、その不安を取り除いてあげることができるとしたら、それはその人の心に時間を確立するしかない。 だから私は歌を届けたいと思うのだけど、歌をロードするにもアタマの中に「時間」が要る。 どうしたものか。


7/1(月)

スタジオにて。

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音楽の難しさ。

音を操るある種の能力(世に言う絶対音感など)と、芸術・創作の原動力となる言語力、この二つは時に干渉してしまう。 結局のところ、ここが音楽と言う芸術(表現手法)を困難たらしめている。

言語とは即ち論理のことで、論理性とは時間軸である。 この理屈が分からんと言う人に、以下の論旨は共有してもらえないかもしれない。

周波数の差異を、差異として区別するのが絶対音感と言われる能力だが、ある音を、いわば旋律として捉える言語力とは完全には同居できないものと思われる。 旋律を、単なる周波数の上下でなく、旋律として認識することは、言語で丸める作業に他ならない。

芸術とは、思考の産物であるからして、それを作る唯一の道具は言語でしかない。 芸術と言う言葉の正しい意味が、私の定義するそれであるなら、言語力の脆弱な芸術家などありえない。

絶対音感・反射神経・空間把握力、これらを言語(意識)で制御するのは容易でない。 人は臓器の働きを意識で制御していないでしょう。 スポーツや音楽(特に演奏・聴取)は、大抵言語以外の機能を援用しつつなされる。 画家などに比べ、音楽家の限界が、割りと早い段階で露呈してしまう原因はここではないか。

ムカデは百足と書く。 実際に百本あるわけではないにしろ、あそこまで多くの脚の整然たる動作を、言語で統御することはおそらく無理であろう。 今まで音楽家は、言語外の機能を多く求められ、言語力の比較的低い(言語による意識構成が強固でない)者が選別されがちであった。 だから創作において、ある壁にすぐにブチ当たっていた。 音楽の難しさである。

創作とは、空間を処理する作業ではない。 脳内に時間軸を展開することが不可欠な作業である。相応のメモリーが要る。 メモリーの容量が少ないと、単に音楽を鑑賞するにも、脳内に楽曲が展開できず、1フレーズだとか、あるいは音(音響)そのものとか、または視認できる部分(歌い手の姿形など)のみしか堪能できなくなる。

極端に「音色」に特化した音楽しか作れない(聴けない)人は、言語による保持機能が弱いと見てほぼ間違いない。 その人にとっての音楽とは、音響のことで、要するに作品の全体像が脳裏に展開できない。 つまりその人の世界に、その作品像は存在していない。

この世界に秘められたある力学を感じ取る道具、また、メタ把握にメタ把握を重ね、パラダイム超越の限界にたどり着く道具、それらは全て言語である。 神はロゴス(言語)とは言いえて妙。 言語こそ、神に出会うための梯子。


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