Staff diary  
スタッフ日誌[2014]

[文 / 益田(制作)]

6/30(月)

試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、勝者は躍り上がり、敗者はうなだれる。 双方の運動量に大した違いはない。 両者を分けるものは、気分である。

「勝ったんだから、勝者が躍り上がるのは当然じゃないか」と、人は思っている。 だが、勝利って何だ。 勝利なんて、勝者が感じただけのものではないか。 能力など、世に数多ある「基準」が、あたかもそれを実在するものかのように錯覚させただけのものだ。一試合の勝敗だって、ルールと言う基準に支配されたものではないか。

勝つこととは、勝ったと思うこと。 勝ったと思う者が勝者で、負けたと思う者が敗者である。


6/29(日)

影山リサ、スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



チター(zither)と言う楽器についてのメモ。 ツィターとも表記されるが、チターの方が一般的らしく、協会の名称も「日本チター協会」であるようだ。

起源については諸説あるようだが、とりあえずヨーロッパ発の民族楽器である。 5〜6本の旋律弦と30数本の伴奏弦からなるのだが、それらをプレクトラム(演奏用の付け爪)で弾く。 因みに、厳密な意味でのzitherは伴奏弦のみによるそうで、日本で一般にチターと呼ばれているものは、コンサート・チターとかジャーマン・チターとか言うものらしい。

演奏方法については、テキストでの解説も読んだし、実際に奏者が演奏している動画も見てみた。 まあ大体理解できる。 40本近くある各弦のチューニングについても、ある程度(代表的なものは)判明した。

旋律弦について。 要するにギターみたいなものなんだが、奏法に決定的な違いがある。 ギターは、左手をネックの下からくぐらせる形で弦を押さえるのだが、チターは上から押さえる(分かりにくいだろうけど)。 実器に触れたことがないので半ば想像だが、チューニングもある程度その奏法に適したものになっているはずだ。 ただ、ギターのようにコード演奏を主たる前提としたものかは不明。伴奏弦の方は、ほとんど専らコードを担当するのだろうから。

伴奏弦は、基本的に全て開放弦なので、リリースの処理をどうするのか気になる。 特にミュート用の構造があるようではないので、演奏に難が生じないのか。 動画見た限りでは特に気になるほどではなかったが。

旋律弦は、単体で見ればギターと大差ない筈なのだが、30何本も開放弦張ってたら、それらがドローン弦的に作用するかと思うので、倍音の聞こえ方とか、かなり違ってくるんじゃなかろうか。 この辺も、実器が無いのでよく分からないけど。

一応音源(VST)も入手したのだが、正直イマイチ。 soundfontとか無いのだろうか。もう少し当たってみたい。


6/28(土)

都節音階には半音程(半音階)が含まれている。 いつの時代に確立されたものか正確には分からないが、出現当時(多分江戸末期とか)的には画期的な響きだったろう。

前近代的な音楽は、一般的にスケールの音程間隔が広い。 ガムランの構成音とか、いわゆるペンタトニック系のスケールなんかは端的な例なんだけど、要するに画素が粗いと言うか、解像度の低い旋律が、ある時代までは一般的であった。 あんまり細かい音程間隔を処理する言語精度がなかったためかと思われるが、この辺も正確には分からない。

中東音楽には、いわゆる微分音が頻出する。 半音より細かい(1/4音とかの)間隔。 どの程度実用化されていたかは不明だが、古代の中国(漢代だったか)にはもっと細かい音律もあったらしい。 では、アラブ人や古代中国人の言語的な処理精度はヨーロッパ人以上なのか、と言われるとそうとも断言できない気がする。

例えば、400〜500の生活単語のみしか存在しない言語では、高度な思想・哲学・芸術など構築しようがなかろう(その程度の語彙の数では、そのほとんどがフィジカルなものに集中してしまわざるを得ない)。 が、日本語のように、他言語圏の人が容易に習得できないほど難解でも、それはそれで高度な思考にはある意味向かない(難がある)ような気もする。

やはりヨーロッパ言語は、現状最善のものということか。 習得困難なほどに難解でなく、また高度な理論を構築できる。 ベースがシンプルで、それ故に高度に体系化できる。 あれに匹敵する、あるいは機能においてあれを超えるものがあるとすれば、表意・表音文字ハイブリッドな日本語ぐらいかと私なんかは思うのだけど。 しかしこの言語は、使い手を選ぶ。


6/26(木)

管弦楽曲などで、弦や木管などの白玉の音を薄っすら入れて、楽曲のコード感を補強するような手法がある。 POPSにおいても当然必要(使いどころのある)書法なんだが、管弦楽用意するのはコストがかかりすぎる。 このニッチを埋めるためにストリングス・キーボードとかって生まれたのだと思われる。

現代なら、シンセのストリングスとか、Pad系の音色などで間に合わせるべき表現だろう。 POPSは、クラシック(西洋音楽)の歴史的末端に位置している。 当然クラシックの書法の多くは、POPSに継承されている。


昔(昭和30年代くらい)の商業音楽を聴いていると、まだPOPS制作の書法が確立されていない時期であるためか、無意味なほどに管弦楽が使われていたりする。

「男はつらいよ」の主題歌は、ちょっと聴いただけでもクラシック系のプロが作っていることがわかる。 後に調べたら、ライターは東京芸大の作曲科を出ている人だった。

曲を聴いてもらえば分かるが、あれってごくシンプルな演歌みたいな曲で、アレンジもギター一本で十分事足りるであろうプロットである。 それをオーケストラで書いている。 無駄にオーバースペックだ(別に伝統音楽がポピュラー音楽より優位であるなんてことは無いから、多少語弊がある表現だが)。 さしづめ現代にあの企画が持ち上がるなら、適当にメーカーとかが連れてきた音屋に作ってもらう程度のものだろう。

当時の音楽って、今に比べれば作れる人の絶対数が少なかった。 いわゆる音楽家の裾野が劇的に広がったのって、昭和のフォーク・ブームあたりからだろうか。 素人でも(ギター一本とかで)簡単に音楽が作れてしまう。 「あれなら俺でもやれるかも」ってな動機で当時エントリーした人は多かろう。 80年代あたりのバンド・ブームとかも、状況としては多分似ている。

全然結論めいたものもない文章で申し訳ないけど、この辺で終わる。


6/25(水)

人間関係が常に安定しない人は、パターン認識が下手な人なんじゃないか。 要するに言語力の問題。 パターン認識とか言うとちょっと大袈裟だが、ほとんどの人は無意識のうちにやっていることだ。

人は仕事やプライベートなどで様々な人と出会うが、皆それらを一目見た瞬間、ある程度の査定をしているはずだ。 「友達になれそうだ」とか。 その判断の材料となるものは、「過去に見てきた人々」に違いないわけで、そのデータベースの量と各情報に対する評価の確度によって、その人の人間関係の安定性には雲泥の差が出る。

因みに、脳内の情報には量だけでなく、質の違いってものがあるらしく、その人の脳機能によって、情報と言うものが全くアテにならないケースがある。 意識・思考と明確にリンクされていないデータのこと。 この話は本題からそれるので、ここではこれ以上掘り下げない。


上で言う情報、つまり保持できる記憶の量の個人差ってのは、要するに脳に由来しているわけだけど、そこが貧弱だとこのパターン認識の精度が落ちるわけです。 そういう脳の持ち主は、そもそも必定破綻せざるを得ないような人間関係を容易く構築してしまう。 「そのタイプの人については、過去に痛い目を見たでしょう?」と教えてくれる自分がアタマの中にいないから。

自己同一性とは、子供の頃の自分と昨日の自分、今日の自分、明日の、未来の自分が全て繋がっていることを指す。 この私が、ある日を境に別人になってしまわないことを。 人とは、その人の中に流れている時間、歴史のこと。

日々音楽を作り続ける私の中には、子供の頃の私が当然いる。 昨日の私も、一秒前の私だっている。 だから、ある困難に直面した時も、私の中には、その解決策を教えてくれるたくさんの「自分」が側にいてくれる。 私は、今に至るまでの全てでもって、目の前のこの瞬間に立ち向かっている。

もし私の言う、過去の自分たちが心の中にいなかったら、その人は訪れる瞬間瞬間を、誰の助言も望めぬまま生きねばならない。 そりゃ人間関係も破綻しようし、そもそも世界が怖かろう。

そういう人らを救う方法があるとしたら、それは訪れる瞬間を心に焼き付け続けることぐらいしかない。 だから、涙したその歌を忘れちゃいけないんです。 脳機能如何によって、それは誰にでもできることではないのかもしれないけど。 


6/24(火)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



金が何より好きな人は、自分に一番多く何かを与えてくれるものが金なのだろう。 その人の心に映る現実のほとんどは、金で買えるようなものばかりだった。

愛や夢が金で買えるか。 「買える」と本気答える人の心には、おそらく愛も夢も映らない。

「誕生日おめでとう」と、ケーキを買ってくれた友人や恋人の「愛」が見えなければ、その人に映るものは「ケーキ」と言う物質のみである。 その人にとって、そのケーキをもう一度手に入れるために必要なものは、「誰かの愛」でなく、その誰かが払った「金」。

金に至上の価値を置く人は、つまりは愛などと言うメタフィジカルな概念が理解できなかった人。 きっとその人の心には、誰かの愛も、この世界の本当の美しさも映らない。


6/23(月)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



聞き覚えのある旋律を、人は「良いもの」だと捉えがちらしい。 だから商業音楽はしばしば、ドラマやCMなどのタイアップで「刷り込み」を行う。

しかし音楽作品に良し悪しってのは厳然とあるもので、聞き覚えがあろうが無かろうが、やはり良くないものは良くない。 「良い」と感じた気分の正体だとか、対象である作品のどの部分を良いと感じたのか、などを抽出・整理するのには論理力がある程度要る。

この論理力が無ければ無いほど、「良いものである」と言う前提で押し付けられたものと、「本当に自分が良いと思うもの」の区別が付かなくなる。 あたかも卵から孵った雛が、最初に目にしたものを親と思い込むように。

親は大事にせねばならぬとか、親の言うことは聞くべきだとか言われる。 だからとて親と言う相手に無批判であるべきではない。 音楽だって同じ。 対象が何であろうと、盲目的に信仰するのはアホの所業だと思います。


6/22(日)

「男はつらいよ」のある回に、寅さんが柴又小学校の同窓会に出席するくだりがある。 その日の夜、金町でクリーニング屋をやっていると言う、とある同窓生に連れられて、ヘベレケになった寅さんが家(団子屋「とらや」)に戻ってくる。 寅さんはそこでまた飲み始めようとするのだが、その友人は明日も仕事があるとて、その酒を断る。

酔った勢いで寅さんは言う。「テメエのクリーニング屋なんて潰れたって誰も困りゃしねえよ」と。 それを聞いた友人(ごく温厚な人物に描かれている)は、そこで激昂する。 「俺にもお得意さんがいるんだ。俺の洗ったシャツじゃないといけないって人がいるんだ」と。 セリフの字句は不正確だが。

更にその友人は、話をとらやの主人(おいちゃん)に振る。 「おたくだってそうでしょう」、「ここの団子でなきゃならないって客がいるだろう」と。 おいちゃんは「そうだそうだ」と相槌を打つ。 身内の失礼をフォローする気分のみならず、本気の同調に描かれているように見えた。

その友人の気持ちは分かる。 人はそうとでも思わないと、自分の存在に意義を感じにくいから。 でも彼の作ったそのストーリーは、早い話が嘘だ。

彼のクリーニング店が潰れたら、そのお得意さんとやらのほぼ全ては、近くにある別の店で用を足す。 きっと団子屋が潰れても似たようなもの。 多少好みからは離れるかもしれないが、近くにある別の店で団子を買うだけ(因みに、話の舞台である柴又帝釈天参道は似たような団子屋だらけ)。 つまり困らない。あるいは最寄の店が多少遠くなる、と言った程度にしか困らない。

寅さんの言い分の方が実は正しい。 が、多くの人はそういう身も蓋もない事実を指摘されることを嫌う。 自分にとって都合の悪い結論に至りそうな予感に怯え、自己を欺きつつ生きる。 上の例で言うと、「自分にしか洗えないシャツがある」と言う物語を作ってしまう。

誰だって自分が生まれてきたことに理由を求める気分があるはずで、だからこそ「自分でなければならない役割」を果たしたいと思ってしまう。 もし上の彼が、そういう生き方こそが正しいと本気で思うなら、クリーニング屋なんて自分以外の誰にでもできる仕事なんて明日にでも辞めてしまえば良い。 あるいは、クリーニング業を糊口の手段と割り切って、残りの時間で本当に正しい生き方を模索すれば良い。

クリーニング屋に自分の存在意義を無理矢理見出すなど、自己欺瞞も甚だしい。 現実の世の中にも、こういう人って実に多い。


6/19(木)

影山リサ、レコーディングでした。 今回録った曲、次の次のシングルタイトル候補らしい。

Photo1 Photo2 Photo3



片飛鳥、こっちも新曲の歌入れ。

Photo1


6/18(水)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



金で手に入らないものはあるか。

こういう愚問が、一つの問いとして成立してしまうこと自体が不思議なんだが、当然あるよ。

金ってのは、多くの現代人が映し出す一現実ではあるが、それ以上ではない。 金で買えるものなんて、ごく限られた物質だとか権利だとか、その程度のものでしかない。 誰かの愛が買えるわけでなし、死んだ人を生き返らせれるわけでなし、永遠の命が手に入るわけもない。

金なんて、時間を一秒戻すことすらできないじゃないか。 今の私の心が、まだ映し出せない「新たな想像」と引き換えられるはずもない。

金で手に入れられるものは、全て分かり切ったものだ。 どうすれば手に入るが自明で、手に入れた場合にどのような気分になるかまで粗方判明しているもの。 そんな分かり切ったものなら、その一々をわざわざ手に入れることにどれほどの意味があるのか。


6/17(火)

Photo1

神田さんのご実家から、みかんジュースが届きました。 みんなでいただいてます。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4

その神田優花、この間録ったテイクのチェックやら、新曲のリハやら。 また新曲たくさん抱えているもので。


6/16(月)

芸術家の、最大にして唯一の条件とは、その人が天才であること。 して天才とは何か。

天才とか言うと人はすぐ、優秀な運動選手だとか、難問を解ける人だとかを想像してしまう。 が、それはとてもよくある間違い。 優劣やハイスコアなんて、誰かが基準をこさえたからこそ生まれただけのもの。 他者との比較から生まれた錯覚に過ぎない。 天才の条件とは、その人がその人であること。

「その人がその人であるなんて当たり前じゃないか」と言う人には、多分私の言いたいことは伝わっていない。 最後の瞬間まで自分であり続けることは、そんなに簡単なことじゃない。

その人がその人である方法は、自分自身に気付くこと。 涙したその歌を、決して手放さないこと。


教育は、その目的の一つに「人間の画一化」を持っているので、時にそのカリキュラムは我々の「自己」と抵触してしまう。 仕方ない。 国家だって、これだけ高度に発達した社会に順応させねばならないのだから、ある程度人間を規格化せざるを得ない。

会社だってそう。 特定のタスクを遂行するために組織化されたものなので、その一員になるというのは、即ちその歯車になるということでもある。 組織内で機能させるためには、ある程度規格化された人間であってもらわなければならない。

その「規格化」とは、なにも専門的な技術・知識を持つことや、法規・習慣に通暁することのみを指さない。 規格化は時に、愛のない人間関係や、夢の無い単純作業に耐えることと同義であったりもする。 社会が悪いのではない。 我々が負けてはいけないだけ。


美人が美人であることや、咲く花が綺麗なこと、それは果たして真実か。 そう思わされているだけなのかもしれない。 我々の心が映した本当の世界とは如何なるものか。

私は、世上至高の栄誉に与る作曲家になるより、誰にも知られぬ天才でありたい。 私は、私の心に響いた音楽を書きます。


6/15(日)

ワールドカップの試合についての雑感。 編集作業やりながら、中継を聞いていた。

日本人のしばしばやらかす、例の(崩れ落ちるかのような)現象がまた出た。 前半に取った一点のリードを、追いつかれた直後に二点目を入れられ逆転されてしまう。 なんかデジャヴのようだ。前にもそんな展開あったような気がする。 同点ゴール決められた時の動揺・意気消沈ぶりが、おそらくは次の失点に直結している。 あれはサッカーの技術云々でなく、思考能力の問題だな。 間違いない。

本来なら想定内であって然るべきある事態が、その人の脳内に展開できる思考のパースペクティヴ如何によって、不測の事態となってしまう。 不測の事態に遭遇した人間は、しばしばパニックに陥る。 不測の事態たらしめているのは、ソイツの脳のキャパシティに他ならないんだけど。

点数入れられようが何されようが、スポーツの試合なんて相手より多く点数入れた方が勝つだけのものなんだから、粛々と自軍に次の点を取らせるべく行動するしかなかろう。 同点にされることなんて、容易に想定できる事態で、そうなった場合に採るべき次の行動まで明らかである。

サッカー選手は、サッカーの練習も大事だろうけど、言語の精度を上げた方が良い。


6/13(金)

オーケストラには、リズム隊ってのが一応(ティンパニとか)あるにはあるけど、大したウェイトが置かれていない。 少なくともポピュラー音楽のそれなんかと比べれば、バランス的には随分簡素な印象だ。 かと言ってクラシック(様式)には、無拍節音楽の要素は薄い。

拍節面での整理ってのは、音楽と言う情報を処理する上で結構重要で、編成上リズム面が薄いのであれば、旋律型がある程度それを補完せざるを得ない。 実際そのようになっている。 クラシック音楽は、旋律の自由度を上げる為にリズムセクションを強化する、って方向に何故進化しなかったのだろうか。

例えば能の四拍子は、事実上その3/4がリズム隊で構成されている。 一種の劇伴なのでオーケストラなどと完全に同列には扱えないが、まあリズムに重点が置かれているのは事実。 やはり舞踊が絡むことが、あの編成の成立に強く関わっているということだろうか。 確かにPOPSも、バンド・サウンドなども含め、ダンスミュージックである面が大きい。

私は、音楽を音響面で味わっているうちは、まだ本質部分に全然到達できていないと考えているので、究極的にはリズムパートは要らないものだと思っている。 では今後私は無拍節音楽を作って行きたいと思っているのか、と言うと、これがまたそうでない。 こういうのって一筋縄でないから難しい。


6/11(水)

ダブ(・ミックス)っぽいものを作ろうかと思って、諸々検討中。

神田優花のある新曲(未発表)があって、それのBPMを落とした別バージョンを作ろうと思ってるんだけど、それをダブっぽいミックスに仕上げようかと思っている。 その曲、そもそもレゲエっぽいアレンジなんで、せっかく別バージョンを作るならダブなんてどうかと思って。

その手の音楽、私は普段あまり聴かないもので、あらためて代表的なのをいくつか聴いてみた。 色々思うところはあるけど、文章化する前に音にしたい。

因みにその別バージョン、原曲からのトラックの流用はほとんど考えてなくて、あくまで(リミックスでなく)もう一つのバージョンを作るつもりです。 無論、ボーカルも一から別テイクを録ります。


6/10(火)

スタジオにて。

Photo1 Photo2



東北の震災の後、「歌で被災者を勇気付けよう」みたいなスローガンをしばしば仄聞する。 一応善意に裏付けられた行為ということになっているので、批判の声はとりあえず聞かない。

人生において、自分を勇気付ける必要が無かった者には、「勇気付けること」が如何様な行為なのかも分からない。 勇気の意味さえ体感できないかもしれない。 従って、他人を勇気付けたりも当然できない。 ピカソは、「芸術は苦しみや悲しみの中から生まれる」って言ってたらしいけど、まあその通りだ。

被災者は、地震や津波だとかによる物理的被害を被っているわけで、物理的支援については、とりあえず助かる面はあろう。 でも勇気となると難しい。 それを与えるのにも感じ取るのにも言語力が要るだろうから。 勇気など、そもそも必要としない人さえいる。

偽善者が「歌で勇気を」なんて言ってるのなら、それはちょっとフザケすぎだろう。 困ったことに、「偽善」の本質的な意味が理解できるのなら、その人はもう既に偽善者ではなかったりする。 つまり、本物の偽善者には、偽善の意味ごと分からない。 だから偽善者に偽善者であると言う自覚は無い。


6/9(月)

影山リサ、スタジオにて。

Photo1 Photo2

先週取材が入ったって話をしたんだけど、もう言って良いのかな?来月一日発売の月刊Auditionに影山リサが載ります。 最新シングル「Pretty Storm」の宣伝も兼ねて、影山さんが色々お喋りしてます。 良かったら見てみてくださいね。


6/8(日)

Photo1 Photo2

上、スタジオにて。 ここ何日か、ずっと雨で嫌になりますね。 全国的らしいけど。


Photo1 Photo2 Photo3

神田優花、歌入れでした。 二曲録ったんだけど、うち一曲は六声あったんで、実質三曲分ぐらい録ったことになる。 早速今編集中です。


6/7(土)

昨今の人手不足について、また考えてみる。

江戸時代(精緻な封建制時代)の経済についての諸記録は、初等レベルの経済学のテキストとして実に分かりやすく適当であると思う。 例えば、諸藩で発行された藩札とその顛末など、実に端的だ。

信用力の低い藩の発行した藩札が起こすインフレなど、あたかも、水が高いところから低いところへ流れる、と言った物理現象かのようだ。 中世人の目に現実を映した(近代的視野を持たせた)のが、如何なる啓蒙的書物でもなく、商品経済だと言うのは頷ける。 経済現象と言うのは、それなりに正直なものなのだろう。

つまり、物事、殊に経済なんてものは、制度でがんじがらめに縛ったところで、一時的に堰き止めた水の流れのようなもので、いずれは落ち着くべき事態に落ち着く。

以前、アフガニスタンだかで灌漑用の水路を整備した日本人のドキュメント映像を見たが、その手法は、シミュレーションゲームかのようにコンクリートをベタベタ塗って作り上げると言うより、河の流れなど自然の力学を利用しつつ、それに手を加えると言ったようなものであった。 江戸時代の治水技術が非常に役に立ったとか言う話で出ていたけど、まあそうだったかもしれない。 江戸期の技術は、江戸時代人の思想の表れなんだろう。


人手不足も一種の自然現象で、起こるべくして起こっているのは間違いない。 「若者の反乱」と言った形で総括されていたりもするが、そういう面は確実にあるだろう。

民主主義の数ある欠陥の中に、多数派の利益が「世代」にも根差しがちである、ってのがある。 分かりやすい例として、後世の日本人には投票権すら無いからこそ、こんなにも赤字国債が累積するってのがある。 自分が死んだ後の世界など知ったこっちゃ無いってところか。 貴族院みたいなもので国会が運営されていたら、ここまで酷くは無かったろう。

後世のことなど考えない人は、似たようなものである「別の世代」のことにも思いが至り難かろう。 日本の少子高齢化は言われ出して久しいが、人手が不足していると言われている業種は、若者しかやらなかったようなものばかりだ。 少数派である若者は、ある種の割を食うことに対し、拒否の意思表示をしているということ。

困ったことに、若い世代ってのは後世人と違って、今現在生きていて各々意思を持っている。 割を食わされることにも当然拒否反応を示してしまう。

消費税の増税にここまで社会的抵抗があるのは、老人社会だからってのもあるに違いない。 年金生活者は、所得税なんていくら上げられても痛くも痒くも無い。 困るのは労働者世代だけ。

そもそもフリーター等の、いわゆる非正規雇用がここまで蔓延した理由は何か。 正確には私にも分からないけど、上の世代の割を食っている面は大きいのではないか。 雇用が流動化しないから企業も人をおいそれと採れない、と言ったような。


多くの若者は、もう牛丼屋やコンビニなどと言う、あの手の仕事を最低賃金スレスレの時給でやり続けることを放棄してしまった。 年金や、正規雇用に胡坐をかいているような上の世代に比べ、本当に賃金が不当に安いのではないか。 きっと今後短期的には、あの手の仕事に対する報酬額は暴騰する。


牛丼屋のアルバイトの時給が上がればどうなるか。 当然牛丼屋は人件費が上がるのだから、昔のような値段で牛丼が提供できなくなる。 こういうことは牛丼屋に限った現象ではないので、要するに物価そのものが上がる。

物価が上がっても、牛丼屋のアルバイトの皆さんはまだマシ。 何故なら彼らは時給も上がるから。 額面上の支出は増えるが収入も増える。 このことは牛丼屋の店員に限ったことではなく、実体経済に組み込まれている層であれば、多少の差はあっても、ある程度皆さん同じような形で、賃上げも実感として享受できるし、変化にも対応できる。

おそらく年金生活者とか公務員とかは、そう上手くこの波に乗れないと思う。 何故なら、この現象は平衡化だと思われるから。 つまり、元の状態こそ歪であるということ。 平衡化の流れに逆らうことはきっと難しいよ。

私には経済学の知識などほぼ無い。 上記の観測は、私の常識・平衡感覚にのみ基づいたもの。 でも私には、生半な知識・情報などより、こちらの方が信用に足る。


6/6(金)

スタジオにて。

Photo1



私の伝えたいこと。

大学生くらいの頃だったか。まだ地元にいた頃に、犬を連れてドライブに行った時の話。 何だか前にも言ってたような気がするけど。

高速のドライブインから見えた景色が綺麗だったから、私は犬を抱きかかえて、その景色を見せた。 が、今考えてみると、犬の視界は人間のそれと随分違うらしい(例えば人間は光を三原色として捉えているが、鳥は四原色らしい)。 ハードウェア的な問題で、視覚の個体差は大きい。 網膜が捉えた情報を処理する脳機能も、生き物によって当然違う。

私が見た綺麗な景色が、犬にとっても同じく綺麗だったかは神のみぞ知る。 さらには、当時私が飼っていたその犬は、既にかなりの老体で、白内障らしかった。 もしかしたらその犬には、私が見せたかった景色なんてほとんど見えなかったかもしれない。

ただ、私がその景色を「見せたい」と思ったことだけは、伝わったはずだ。 少なくとも私はそう信じている。


私は日々、音楽作品を作り続けている。 時々、「分かりにくい」とか言う感想を頂戴したりするけど、実を言うとそういうテクニカルな部分なんて、伝わらなくても構わないと思っている。 私は、私が愛したことだけが伝われば、もうそれだけで十分。


6/5(木)

Photo1 Photo2

影山リサ。昨日触れてた取材の件で、高田馬場まで行ってきました。 しかし、6月入ったばかりだと言うのに、何と言う暑さだ。 スーツ着せられるのが拷問のようだ。

Photo1 Photo2 Photo3

今日のインタビューの内容は、来月一日発売の月刊Audition8月号に掲載される予定です。


6/4(水)

影山リサ、スタジオにて。 急遽、一件取材が入ったんで、それ関係の打ち合わせなんてやったりしてました。 最新シングル「Pretty Storm」、発売中でございます。

Photo1 Photo2


6/3(火)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo4



「男はつらいよ」のある回で、とらや一同が家族旅行から帰ってくるシーンがあるのだが、そこでのおばちゃんのセリフ。 「やっぱり家が一番だねえ」。

如何にもオカンの言いそうな言葉だ。 誰が書いた台本か(あるいは役者のアドリブか)知らないが、やはり映画なんてものは人間通でないと作れないんだろうね。

ああいう大衆向けのコンテンツ一つとっても、実際に見ていると「作り手はシェイクスピアとか好きなんだろうな」とか思わされるもの。 蓄積こそが人に何かを残させる。

人生の局面局面で、その人が抱いた「感想」こそが、物を作る燃料になる。 上のシーンについては、似たような場面に遭遇した経験が、作り手にきっとあって、そこで何かを感じたのだろう。 何も感じない人は、何も残せない。

人生を辛いと感じる人がいるなら、その感じた辛さは無意味なものではない。 きっと何かを残すための燃料になるから、心配はいらない。


6/2(月)

神田優花、スタジオにて。

Photo1

今、また大量の新曲を抱えてまして、しばらくそれらの処理に忙殺されそう。 今年の後半はまたリリースラッシュになると思われます。 20曲以上発表することになるかも。


6/1(日)

広瀬沙希、スタジオにて。 新曲の最終リハでした。 来週録る今回の曲、次のシングルのタイトル曲になる予定です。 わりかし短いスパンで次のシングル発表する予定です。細かい日程、決まり次第またお知らせします。

Photo1



生理痛に劇的な効果を発揮する薬が開発されない理由の一つに、「研究者や現場の医師らの多くが男性であること」は、きっとあるだろう。 男である彼らにとっては、早い話が、その痛みが深刻・切実でない。

私は、自分自身がこの世界を知りたいがために日々創作を続けているのだけど、その過程で分かったことの一つとして、「気持ちが分からないと、その人の心の側にはいてあげられない」ってのがある。 当たり前のことだけどね。


5/31(土)

各種媒体にて告知しておりましたオーディション(デモテープ募集)、とりあえず本日をもって締切りとなります。 ご応募ありがとうございました。 一次選考(書類審査)の結果は、6月中には発送できるかと思いますので、しばしお待ち下さい。


オーディションといえば、明日発売の月刊Audition誌「AuditionFlash」のコーナーで、野崎愛さんが紹介されています。 今年から活動を始めたウチの新人さんです。 内容的にはオーディションの結果報告なんですが、誌面にある応募者数は、当時各媒体(Webサイト・学校関係)で告知していたオーディションなどの応募者総数です(一誌・一回の募集に対する数ではない)。


5/30(金)

プロ野球選手などが「オフに肉体改造に取り組んだ」とか「キャンプでは走りこみで下半身を鍛えた」とか言う話を聞く。 あの人らはそれが仕事なのだから、努めるのも当然と言えなくもないが、私は聞いていて複雑な気分だ。

どんなに走りこみとやらで下半身を鍛えたところで、チーターより速く走れるはずもなく、筋力を増強したところで熊やライオンと戦って勝てるとも思えない。 150キロの球を投げられるようになったところで、機械なら200キロでも300キロでも難なく可能だろう。 人間が人間たる所以は、やはりそういう部分ではない。


努力って何だろう。 「○○選手は練習量が人並み外れて多い」と言うなら、その○○選手は練習する時間が楽しいのだろう。 練習と引き換えに得られるであろう成果についての想像が、自分を駆り立てる。 この想像によって、人は行動を決める。

もし練習を「辛い」と感じる人がいるのなら、その感覚こそが自分なのだから、その人はそれに忠実であるべきだと思う。 抱え込んだそのしがらみを捨てることこそが、採るべき道だろうし、要するに「誠実さ」ではないのか。 自分に忠実であり続けた先に、手に入るものはきっとある。

練習が嫌いな人は、想像が自分を、その練習に駆り立ててくれない。 「できない」と思うから続けられない人あり、また「できたところで手に入るであろう成果に、練習に引き合うほどの魅力を感じない」と思う人もあろう。 人間とは、その人の想像力のこと。


私は、音楽を続けて行くことによって、何かを得られると感じている。 だからこの作業を続けられる。 得られる何かとは、世俗的な成果とかそんな単純なものではない。 あえて言葉にするなら、「この作業を続けることを、楽しめるであろう日々」。


5/29(木)

「できる」ってどういうことだろう。 「100メートルを10秒で走りたいのなら、そのタイムで走り抜けることじゃないの?」って回答、多分これはこれで一面の真理なのかもしれない。 ならば、「できること」とは、「実際に体験すること」と言うことか。

現実とは、客観的に存在するものではなく、我々が個別に映し出しているものだ。 私のこの見方は、文学的な修辞とかでなく、医学的な一般常識とも近いはず。 この世界は私のもの。

五感が察知した諸情報を、脳(機能)が統合・再構築し、世界を作り上げる。 100メートルを10秒で駆け抜けた者も、大金を手にした者も、それらの実体験(情報)を、脳内に結像しただけとも言える。


「できること」とは、つまりは「できると思う」こと。 ある事柄を「できる人」が、実際にその体験を経て感じられる気分を、我が物として心に再現できるのであれば、それはもうできているんだ。 だから、想像力如何によって、我々に不可能など無い。


5/28(水)

影山リサ、ニューシングル「Pretty Storm」、本日発売です。


Pretty Storm

今回の新曲、Pretty Stormはゴシックな雰囲気の曲です。
聞いてすぐに映像が頭に浮かぶ様な曲だったので、短い絵本のようなイメージで作りました。
イメージがよく表現できたと思います。
とても良い曲なので、皆さん是非聞いてみて下さい。

影山リサ





5/27(火)

浮世は人手不足だそうだ。特に飲食業界などのアルバイト従業員(ほとんど若者だろう)の不足が深刻だと言う。

どうしてこういうことが起こるのか、私は感覚的には手に取るようにその理由が分かるのだが、「分からない」と言う人に理解させるには気の遠くなるほどの手間がかかりそうだ。

端的に言うなら、この社会の歪さがある形を取って表面化していると言うこと。 政府は企業に補助金を出すことを検討しているらしい。 それって要は、決壊しかかっているダムの一部をコンクリートで補修する、みたいな話。 人はすぐ、このような姑息的延命策を思いつく。どうして「環境こそを整備しよう」と言う発想を持てないのか。


状況としては、いわゆるバブル経済が崩壊したとか、そういう社会現象と同様に、人々の心が全ての原因となっている。 巻き添えを食らう人はいつもたまったもんじゃなかろうが、世の中とはそういうものなので仕方ないのです。 バブル期に土地投機に狂奔した人なんて、全日本人の1%にも満たないはずだが、結果はご覧の通り。

よく言われることだけど、現時点で日本国の発行済み赤字国債の額面が、物凄いことになっていると言う。 未来の日本人が選挙権を持たないから起こる現象だが、いずれ誰かが痛い目を見て、それを授業料とするだろうか。 「世間ハ滅ビバ滅ビヨ」ってことだろうか。 どのみち大したことにはならないだろうけどね。

おそらく飲食等の接客業は、短期的には外国人が人手不足の穴を埋めることになるだろうし、実際もうそうなりつつあるけど、そんなことで全てが丸く収まると思っているのなら、観測が甘い。 日本人がやりたくないことは、外国人だってやりたくない。 日本人がこれから先も、外で牛丼を食べたいのなら、牛丼屋のアルバイトを「やりたくなる仕事」にするしかない。


5/26(月)

影山リサ、ニューシングル「Pretty Storm」、収録曲について。


1.Pretty Storm

一応POPSと言って良いんだろうけど、楽器編成はチェンバロと弦と木管とか、ちょっとクラシックっぽい。 音楽的には、あんまりクラシック的な要素は無い。 効果音を多用したので、その辺の手間がかかったって印象がある。

ちょっと変わった曲で、標準的J-POPっぽくはないんだけど、作ってる段階から「影山リサのキーになる曲かも」とか思いつつ書いた。 結局シングル曲になったんだけど、それなりに相応しいかと思います。


2.Find Your Way

要するにラグタイム。 何年か前にラグタイムについて考えている時期があって、その頃に書いた。 もう何年も前に書いた習作的な曲。

あんまし時間掛けてない上に、年単位で昔のことなんで、ちょっと記憶が薄れている。 楽器編成は物凄くシンプルで、ピアノ(ホンキートンク)とハンドクラップぐらい?しか使ってない。 シングルのカップリングとかって、こういうのもあって良いんじゃないかと。





5/25(日)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



ピカソは云う。 「できると思う者はできる。できないと思う者はできない。これは揺るぎない絶対的な法則である」と。

この感覚がつかめない人は多いだろう。 「できると思ったくらいでできたら世の中楽だよ」、「オリンピックの陸上競技で金メダルを取れると本気で思えるわけがない」なんて声が聞こえてくるようだ。 その気持ちは分かる。だが、ピカソの言うことの方が正しい。

どんな名誉も勲章も、我々が心でそれを感じているだけだ。 この世界は、現実は、我々の心が捉えただけのもの。 「勝てる」と思った彼は、もう勝ったも同然。


5/24(土)

一昨日の話の続き(補足)。 今、各媒体にて告知してますオーディション、来週末で一先ず締切りとなります。

説明会なんかで「御社は女性アーティスト専門の事務所か?」みたいな質問があったりする。 確かに一見女の人ばかりなんで、男の子からしたらそんな感じに見えたりもするんだろう。 説明会とかなら直接顔を合わせるので、実際このように聞かれたりもするのだけど、雑誌の読者など直接的なコンタクトを取れない人らも、同様の感想を持ったりするだろう。

回答としては、全くそんなことありません。 過去には実際男性も何人かいたし、今後も良い人がいれば積極的に採用したいと思ってます。

まあどうしても、結果的に女の人の方が多くなってしまうのは仕方ない。 オーディション誌など7〜8割方読者は女性だそうだし、オーディション(Web)サイトなんかは、端から女性専用サイトになっていたりする。 こっちは男女不問のつもりでもサイトの運営側が入口で「女性専門」を謳っている以上、閲覧者はほぼ女性のみになってしまうに違いない。

とりあえず回答としては上記の通りです。 因みに、選考作業って私の管轄外です。一応代表して回答してますけど(この文章打ってる私自身は、音を作ってるだけで、外注スタッフに近い)。 そういえばウチは代表者が女性で、女の人が多くなってしまう理由として、その辺も関係あるかもしれません。


5/23(金)

ある漫画家が、アイドル論みたいなものを書いていたのだが、贔屓のアイドル・グループを礼賛し、また自身のアイドル好きを(ほぼ全面的に)肯定するような内容だった。 私はそれを読んで、その彼に失望した。 学生の頃とか、わりかし好きな作家だったもので。

アイドル好きなんてカワイイものである。 私はそんなことに失望したりはしない。 そうでなくて、自身のアイドル好きを「恥ずかしながら」と言う形で公表するのでなく、それを誇るべきことであるかのように語り、更には、批判者には食って掛かって(論難して)いたことに落胆を覚えた。

人は思考し、論理の帰結としての結論(採るべき行動)を導き出すべきで、私はそれこそが、その人の行動の美しさを保証するものだと思っている。 上の御仁は、自身の「衝動を止められないこと」に対し、後からそれを肯定する理屈を無理矢理に捻り出しているかのようだった。 また自身の疚しさを払拭するためか、批判者に対しては牙を向いている。 残念なことだ。 言い方は悪いが、こういう人は、最後の最後で人を裏切れる人間でもある。

人間には、その人固有の思考の癖みたいなものがあって、それが要は個性なのだが、結局人を信用するか否かも、判断材料となるのはその思考の癖(言語機能)である。 私はこの世界を眺めながら、いつもそこを見つめつつ、人を信用したりしなかったりしている。


私は、アイドルの追っかけもやらないし、水商売や性風俗の類にお世話にもならない。 その手の商売が存在することも、その世話になる人がいることも、別に許しがたいとか思ってるわけではない。人は自分に忠実であれば良いと思うし、そうするより他無い。 また、私だって人間なんだから、異性に全く興味が無いわけではない。 単に、私の論理性に引っかかる行動は、極力採らないようにしているだけである。 私にとってそれは辛くない。美しくない自分である方が辛い。

私がキャバクラの類に行かない理由は、それが「楽しそうに思えない」からで、楽しそうに思えない理由は、そこが「誰かの犠牲によって成立している場」であるから。 ああいうところで働く女性は、無論「好きだから」って理由で、そこで働いている人もいるだろうけど、大抵は「金のため」とか、仕事の意味をはき違えて「自分に何事かを説明するため」であったり。

従事する人の気分が「水の流れ」のようでないから、概してああいう現場は離職率も高い。 給与水準が高いのは、つまりは「金」がバッファとならざるを得ないからだろう。 私の論理性は、そこに存在するある種の緊張感を嫌う。 本当に楽しい仕事であるなら、私なら金払ってでもそこに行って働きたいよ。 人が、学費払ってでも学校に通うのは、想像力がその日々を一応は支えてくれるから。 想像が途絶えれば、人はもうその先へ進めない。


人は、自分自身「美しくない」と思わずにいられぬ行動を採る時、自分を「美しくない人間」だと自覚せねばならない。 それが潔さや誠実さと言うものだし、つまりは論理性だ。 美しくない行動を採りつつ、美しくない自分と言うものを認めたくないが故に、むしろ「美しい」と言う結論を導き出そうとするなら、どうしても論理の飛躍が必要になるし、その飛躍を自己に許容する欺瞞性こそが、その人の人格となる。 当然その人は、究極的には他人を裏切れる。 「裏切りたい」と言う、目の前の得を拾うために、理屈を後でこさえることができるのだから。


5/22(木)

今、複数の媒体にてオーディション開催中なんですが、最近説明会とかも含め、そういう機会(歌手志望者とのコンタクト)が増えている。 以下、それについての雑感。

歌手志望者の中に、歌だけでなく、ソングライティングにも興味のある人って、割りと多い。 エントリーしてくる人の中にもかなり(おそらく半数くらいは)いる。 ウチなんかにも自分で曲書いている人とかいるんだけど、この場を借りて言っておきます。 大変ですよ。 歌だけでさえ結構な課題なのに、それに加えて曲も書くなんて。 相当の覚悟は持って臨んでいただきたい。

一昔前からシンガーソングライターみたいなのが流行り出して、一時期「曲を自作できないなんて格好悪い」みたいな風潮すら生まれた。 確かに、歌うたいとしての能力とソングライターとしての能力を兼ね備えるような人はいて、特殊な才能だからこそ脚光を浴びた。 才能の無い人が才人の真似をするのは、愚かである。 「自分で曲を書いていると公言できなければ、存在が危うくなる」と言う人は、偏に幼稚である。 まだアートなんて作業に取り組める精神状態ではない。

例えば物書きは、文筆の才能があるからこそ物書きなんだ。 日本人なら大抵誰でも日本語を使えて、日本文を書ける。 「物書きと呼ばれたいから紙面を汚す権利を与えてくれ」と言うような人を物書きとは呼ばない。 作曲家も同じ。

一般論として、レパートリーなんてのは、プロが書いた方が当然良いものになりますよ。 専業者並みのソングライティング能力を持つ歌い手、ってのは確かにいるでしょうけどね。 「プロの書いた曲と自分で書いた曲に、違いなど感じない」と言う人は、比較と言う学問的視野が持てないだけ、であるケースがほとんどなんだろうと思う。


5/21(水)

星新一(作家)は、作中に「金の単位」を一切登場させなかったそうな。 作品の時間的普遍性を高めるための、作者の意図的な表現だと言う。 確かに貨幣価値って、時代によって変動する。 「○○万円」とかにすると、体感できるその○○万円の価値が時代によって変わってしまう。

ゴルゴ13の初期のエピソードなどを読むと、時代が古いだけに、こんにち的感覚で言えば、随分報酬が(額面的に)安い。 「ゴルゴ、500万で人殺すの?」とか、ちょっとした違和感が残る。 「そんなに安いギャラで請けてるから、年中暗殺ばかりやらなきゃならない破目にに陥るんだよ」とか言いたくもなる。

しかし世の中ってものは、貨幣価値以外にも様々なことが変化する。 金の単位だけ隠したところで、結局物語は時代を超えた普遍性なんて持てない。 持てるとしても、少なくともそういうディテールの部分では無いな。 私だって普遍的作品が残したいけれど、ここで言うそのディテールについては諦めているもの。


5/20(火)

Photo1 Photo2

影山リサ、ニューシングル「Pretty Storm」、来週発売です。 上は先日のスタジオにて。




5/19(月)

Photo1

神田優花、新曲抱えてない時期を多少あったと思ったら、今はまた新曲ラッシュ。 今抱えてるのは2曲なんだけど、次の予定曲も(3曲ほど)上がってるので、しばらくまた大変になりそう。


5/18(日)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



ここ数年来くらいかな?空前のアイドル・ブームだと言う。 もう多少落ち着いた感があるのかな。 して、そのアイドル業界に関する本を読んだ。

はじめて知った部分も多かったのだが、随分と過酷な業界らしい。 当事者(アイドル本人)らも人間なんで、ちょっと気の毒に思えてこなくもない。 ただ、あくまで本人が希望してエントリーしている世界なので、そこは救いと言うか、「なら仕方ない」と思わせる部分だ。

アイドル・ブームには批判的な声も多いそうな。 まあ分からなくもない。 アイドル文化って、人間を物質的に捉えている面がどうしても否めないので、ヒューマニズムの感覚と抵触してしまうのか。 昔もミスコン反対派とかいたものね。

因みに私自身は、アイドル商品に金を使うことは平素全く無い。でもアイドル・ファンを批判したい気分もそれはそれで無い。 そもそも音楽ソフトなんて売れてなかったわけで、何もかも売れないよりは、アイドル・グッズだろうが何だろうが、売れてくれる方が景気も良いし、音楽の世界も潤うだろう。

現象そのものが良いことか否かはさておき、アイドル当人=被害者、みたいな図式は多分間違いだ。 アイドルの皆さんが、それ(アイドルになること)以上の時間の使い方を思い描けるなら、きっとその人たちはアイドルなんて生き方を選ばないだろうし、アイドル・ファンの皆さんが、それ(ファンになって金を落とすこと)以上の財産の処分方法を思いつくなら、きっとその人たちも熱狂的なアイドル・ファンにはならない。 みんなその人なりの最良の選択の末、今に至っている。 想像力の限界がその人だ。


気になることはある。 欧米諸国にアイドル商品がほぼ見当たらないことだ。 と言うか、台湾など、日本文化の浸潤が見られる若干のエリアなどを除いて、日本以外にほぼ存在しないのではないか。

同じ人間であるのに、アメリカ人に必要のないアイドルが、日本人には必要であるのならば、その原因は言語にある可能性が極めて高い。 そこはあんまし誇れることでは無いかも。


5/17(土)

唐突だけど、宮沢賢治って何であんなに神格化されているのだろう。 私には彼(の作品)の良さがあんまり分からない。 「良くない」と言っているのではなく、分からない。

一応いくつか作品も知っている。 児童文学のようなファンタジックなものではあるが、その他有象無象との差を感じにくい。 あと、作中頻出する「造語」が引っかかる。

文学者は言語で何かを表現するしかなく、その辺の窮屈さと言うか、大変さは想像できる。 が、だからと言って造語はどうだろう。 それやり出したら際限なくなってしまわないか。 「自分語」を作って、終始意味不明な呪文で紙数を埋め尽くせる。

造語は造語である以上、コンセンサスではない。 作者の脳内に如何に深遠なテーマが展開されていようとも、読者にそれは伝わらない。 深遠なる何事かが込められているような気がすることや、それに気付けない自分に対する「気後れ」のようなものが、造語文学成立の条件となっているのなら、それこそ恥ずべきことだ。

良いか悪いかはさておき、私に造語は分からない。 そういうものが存在したって構わないが、私には意味が分からないので、私の思想を構成する何かにはなりにくい。 積極的に読みたいとも思わない。


5/16(金)

私は臆病者が嫌いです。 これは私自身が臆病であるか否かをさておき、一種の義憤であると言って良い。

ヤクザをヤクザたらしめているのは、臆病者である。 臆病な者はヤクザにとっての上客で、そういう人らが存在するからこそヤクザ業は成立する。

今は全国的に有名になってしまっているっぽいが、ヤクザのメッカである福岡県。あそこでは、ヤクザの被害者である一般人が、裁判での(ヤクザを糾弾する側に立っての)証言を拒んだりするそうだ。 どういう社会か分かるでしょう。

ヤクザそのものよりも、それが発生・成立してしまう土壌こそが社会悪である。 報復を恐れ過ぎる者は、彼こそが暴力の応酬と言う悪循環を生む元凶となっている。

私だって人間なのだから暴力は怖い。 でも暴力にビビり過ぎると、それを交渉カードとする者に利得を与えてしまう。 ひいては、暴力を交渉カードとする者こそが得をする社会を作ってしまうだろう。 私はそういう社会の片棒を担ぎたくないので、極力臆病であらぬよう、心がけてます。


5/15(木)

例の万能細胞の一件、当事者の所属組織による不正認定が正式に下ったとか。 まあ当然のことだろうけど。

悪意と言う言葉の意味について、解釈が錯綜していた感があったけど、善意の第三者が別に善人ではないのと同じ事で、この期に及んで騒ぐようなことでもあるまい。 まあ悪人正機説などにおいても然り、善悪と言う言葉の解釈は、いつの時代でも難しいのかもしれない。

当事者の彼女の言として「何を言っても通らない」とあった。 彼女の気分(世界観)が実によく表れている。 彼女にとっての物事とは、自分の何らかの振る舞いによって「通す」ものであるのだろう。 この振る舞いには、当然「嘘」も含まれよう。

論文に剽窃が含まれているのは、論文作成と言う行為を貫徹するために、そういう行動を採ったと言うことだ。 学位取得の為に盗用を行い、業績を上げるために業績そのものを捏造した。 結果嘘吐き呼ばわりされてしまったから、そのレッテルを払拭するためにまた新たな行動を採る。

こういった画策そのものは、誰でも取りうる。 が、大抵の人は、嘘吐きと思われたくなかったら、嘘そのものを慎む。 嘘を吐けばある利益は得られるかもしれないが、嘘吐きのレッテルと言う不利益も同時に抱えてしまうから。 普通人はそれらを瞬時に相殺した上で、一々の行動を決める。 彼女と常人の違いは、「嘘を吐きたくなるか否か」ではなく、脳内に展開できるタイムスケールの差と言えるだろう。


彼女の一連の行動を見ていて、私は高橋お伝と言う人物を思い出した。 明治時代の強盗殺人犯なのだが、有名な人なんで調べればどういう人物かは分かると思う。

高橋お伝は犯行直後、現場に「これは仇討ちである」との旨の置手紙を残している。 が、それは全くの嘘で、実情は一種の売春行為の後、男が支払いを渋ったためのものだと言われている。 因みに手紙の署名も偽名だった。

お伝は捕まった後、釈放されたいが為にある手紙を認めているが、その全文が筒抜けに新聞紙上に掲載されている。 知り合いに宛てたものだが、内容は口利きを依頼したものだ。 万能細胞事件の彼女が、博士論文内の剽窃文について海外プレスに問われた際、「あれは下書き段階のものが間違って製本され、出回ってしまっている」などと回答していることと、私の中で重なる。

その後、裁判の過程だかで、犯行理由としての壮大なストーリーを述べているが、あらかた出鱈目である。 が、その作り話を創造する根気には感心させられる。 直面した事態を「切り抜ける方法」だけを毎度考えていたらしい。

お伝は最後、首切り役人山田浅右衛門に斬首されるのだが、その一部始終も醜態極まるものだった。 「申し上げたいことがある」などと執行段階になって絶叫したり、最後には男の名を泣き叫んだりしたそうな。 そこに及んでなお、目の前の事態を切り抜ける方法のみを模索していた。


万能細胞の一件、今後訴訟とかに発展するかもしれないわけだが、訴状が作られるなら多くの事実が今以上に明らかになる。 私は興味があるので、ある意味訴訟に発展して欲しいような気もするが、当人のためを思えば、止めた方が良いと思う。 弁護士さんは、あれも生業である以上仕方ないのかもだが、ああいう人に群がって、メシの種を作るのはどうなんだろうか。


5/14(水)

映画って、厳密な尺が定められていないところが良い。 無論、標準的サイズってのは大雑把ながらあるが、テレビドラマのようなフレーム刻みのサイズ規定があるわけではない。 この辺り、音楽も似たようなもので助かっている。

規制があるってことは、プロットを過不足なきサイズで作品化できないってことだ。 ある時は無駄なくだりで尺を埋め、ある時は必要なくだりを端折らねばならない。 作品の完成度が落ちる。


5/13(火)

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4

神田優花・影山リサ、二人とも新作の制作中でございます。



昨日の話の続き。

ピカソとビートルズ、二者は同時代人である。 ピカソは和暦でいうところの昭和48年まで生きているから、当然ビートルズは知っていたろう。と言うか、解散までその目で確認しているはずだ。

もしこの事実を「意外」に感じる人がいるのなら、それはやはり絵画と音楽の商品性の違いに由来しているものと思われる。

「ピカソをもっと古い時代の人だと思っていた」のなら、その感覚は即ち「遠さ」で、やはり身近に感じにくいってことなのだろうね。


5/12(月)

Photo1

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



私はピカソと言う画家が好きなのだけど、割と強い関心を持ったのは比較的最近だ。 関心を持って見つめていると気になるのは、ピカソの名声に比して、流通しているその情報量の少なさ。

本屋や図書館などに置いてあるのは、せいぜい代表作のダイジェストや、あるコンセプトに沿った作品を抜粋したもの、と言った類の本。 作家で言うところの全集のようなものはほぼない。 ピカソの残した作品数が多過ぎるからってのも、理由としては確かにあるだろうが。

例えばビートルズのファンサイトのようなものは、多分世界中に腐るほど存在する。 それも異常なほどにマニアックな内容なものがゴロゴロと。 発表された全作品など、網羅的に紹介されているはずだ。 ピカソにそれ的なものは、探せばきあるのかもしれないが、(彼の実績・名声に比して)少ない。

これは、絵画と大衆音楽と言う媒体の差が大きいと思われる。

ピカソの絵は、彼の存命中から(無論死後ほどではないが)高額だった。 投機対象として高騰した面もあって、ハッキリ言えば一般人の手に届く代物ではなかった。 つまりピカソの絵は、名画であるという世間の認識はあったろうが、その世間の大多数の人には高嶺の花であった。 ビートルズのレコードは無論そうでない。 多くの人が実物を所有していた。


私はピカソの絵をまじまじと眺めていて思う。 もし絵画と言うものが、一点の価値を好事家が競って定めるようなものでなく、リトグラフィーのような複製品を、(一点千円とかの)安価にて大量生産し、その販売部数を競うような代物だったとしたら。 ピカソはこんにち巨匠扱いされていないかもしれない。

私はビートルズは好きだが、率直な感想を言えば、やはり音楽としては入門編と言うか、平易な感は否めない(だから悪いってんじゃないよ)。 でもだからこそあんなに売れた。 ただ、分かりやすいだけで何の捻りもないようなものって、それはそれで人の心に引っかからない。 商業音楽としてそれなりに堅牢なのでしょう。


5/11(日)

Photo1

広瀬沙希、新しい曲の制作中。 前作出してまだ間もないんですが、この曲が上がったら早速次のシングル出します。 お楽しみに。


5/10(土)

まだ言語を持たぬ乳児には、万物がそれぞれ異なっている。 何もかもが異なるという事は、別の言い方をすれば、全ては混沌と言う一つの塊りともいえる。

目の前のこの宇宙とは、言語によって開闢する。 言語により、あるものとあるものを、区別し、またとある概念で一括りにする。 この同一視と言う作業が、すなわち事物の階層性を形成する。 何を同質と見做し、何を異質と見做すか。これが要は言語の機能である。


愛も依存も執着も、ある人にとっては同じである。 つまり言語機能によっては、それらの区別など存在しなくなる。 同じである。 無論、区別する人(言語機能)にとってのそれらは、当然別のものである。

逆の場合もある。 言葉としては別のものであっても、あるものとあるものとは同じであると言うケース。 例えば私にとって、愛と悲しみは同じものだ。 別々の語彙であっても、それらの指す感情は同じ。 これを「同じ」と為すこの言語機能こそが、要するに私の正体なんだろう。


5/9(金)

日本古来の音楽に、和声法的アプローチは皆無なんだけど、対位法っぽいものもそれはそれで見当たらない。 俗楽に見られる本手・替手の重奏だとか、新内流しの一部のフレーズなど、それ(対旋律)っぽいものが見られなくもないけど、理論・体系化されてはいなかった。 一般的な回答としては「存在しなかった」で問題ない。

伝統的な日本音楽のスタイルは、基本的には雅楽を代表とするヘテロフォニーであると言える。 基本それしかない。 あとは単旋律とか。

日本の伝統的スタイルの音楽作品を作ろうと思ったら、どうしてもこのヘテロフォニーに落ち着かざるを得ない。 日本の楽器を使って和声音楽を作ることは簡単(多少音律の壁とか無いことも無いけど)だけど、やっぱしそれは本質をすっ飛ばしてる気がするのよね。 少なくとも、ある意図をもって臨む作品制作には向かない。


5/8(木)

子供の頃、住んでいた家の近くで年に一度、夏祭り(盆踊り会)があった。 私自身は浴衣着て踊ったりはしなかったが、夜に煌々と灯る明かりを眺めることや、並んだ夜店を巡るのが楽しかった。 今でもその気分を、昨日のことのように鮮明に覚えている。

ゴッホの「夜のカフェテラス」や「星降る夜、アルル」、ピカソが描いた「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、あれらは私のあの気分に近いものを描き留めたものだと思う。 私の感じた、夜の闇に燦然と輝く光。


盆踊りで流れていた曲が、私のある気分を展開するトリガーにならないかと思って、色々とその手の音楽について調べを入れてみた。 ○○節・○○音頭なんてヤツ。

あらかた予想はしていたが、そんなに歴史は無い。 ほとんどの作品が、せいぜい遡っても江戸末期〜明治初期ぐらい、おそらくはその程度に古いものすらあんまり存在してなくて、ほとんどは昭和に入ってから生まれたものかと思われる(それも多分に商業音楽として)。 旋律にしばしば、いわゆる都節音階が使われているが、大体あの都節ってのが、ハッキリした来歴が分からないながらも、一般に膾炙したのが明治以降かと思われる。 因みに都節は、教会旋法で言うところのフリギアにほぼ相当する。

都節は、上原六四郎(音楽学者)の「俗楽旋律考」にて、明治28年に紹介されている。 上原が「発明」したものでは無いので、歴史は当然もっと遡りうるが、それにしたって大した時間ではないと思う。 せいぜい江戸末期くらいまでではないか。

まず日本最古の音楽と言える雅楽の原形に、都節的要素は絶無である。 出典こそ失念したが、確か雅楽関係者の誰かが、近年(当時)の雅楽曲の旋律に、都節的な動きが入りつつあると言う現象を、「俗化」とて嘆いたとか言う記録があった。 本質として、雅楽は都節的要素を異端とするのだ。

私は都節の旋律に、どことなく品の無さを感じてしまう(だから嫌いってことでもない。ある効果は濃厚に感じるので、使い途は確実にある)。 ひょっとすると、歴史の浅さがその感覚を成立させているのかもしれない。 個人的には民謡音階(いわゆる田舎節)とかの方が気質的に合うのかも(こっちの方も割りと使用されている)。 まあ完成形にもよるけどね。


初めての試みでは無いんだけど、今その○○節・○○音頭の類(それらをベースにした作品)を作ってみようと思っている。 民謡音階的な旋律線を基礎に、対旋律っぽく都節のフレーズを絡めるとか、主旋律もところどころ都節に転ずるような形なんかを考えている。 あとは調性音楽で言うところの同主調間での転調(調性音楽でないので転調は変だが、他に言いようが無い)とか。 他にも、室内楽っぽくしたいので大太鼓はデカ過ぎるとか。 イメージは固まりつつある。

あの手の音楽が、それ単体で大きな印象の種になっているとは思えない。 上で述べたように、複合的な要因でもって私にある感想を抱かせているのは間違いないので、私にある感懐を与える音楽だからとて、別の条件下にある人に同じものを与えるとは限らない。と言うか、与えないだろう。 私が今構想している曲を、もし耳にする機会があったら、私の感じている気分こそを汲み取ってやって欲しい。


5/7(水)

慰安婦問題について、アメリカ大統領が、韓国世論に同調するような発言を見せている件について、歯噛みするような気分の日本人が結構いるらしい。 その人らは、少し落ち着いた方が良い。

そりゃそうなるよ。 相手の立場も考えてみれば良い。 アメリカと言う典型的なポピュリズム社会から生まれた代表者が、慰安婦問題なんて言う、ある意味キャッチー且つ詳細の分かりにくい問題(しかも他国間の)に、どう立場を表明してしまうか。 考えなくても分かるよ。

「あれはタダの売春婦だ」、「当時は合法であったのだ」などと言う日本人の主張、私は理解できるけど、そんなの他国の有権者のほとんどに通じるわけがない。 「賠償は済んでいる」、「軍による強制連行などの事実は無い(相手側の主張に虚偽が含まれている)」と言った事務的な回答に終始する方が現実的だし利口だと思う。


「あれはタダの売春婦だったのだ」と言う人がいるが、でも事実売春婦でぐらいはあったわけで、政権の中枢を担うような政治家が、「現代の売春についてどう思うか」などと問われたとしても、肯定的な見解など表明するはずが無い。 社会に性風俗業に従事する人がいくらでも存在する現代においてだってそうなのだ。 過去の売春になら寛容な態度を見せる、なんてことはないだろう。 その程度のバランス感覚くらいを、容認してあげられない方がちょっと危うく見える。

別に合衆国大統領は、日本を悪だとか、更なる賠償をすべき、なんて言ってるわけじゃないんだから、アメリカ側も(おかしな議員とか一部にいるっぽいが)ある程度本当の事情は知っていると見て良い。 アメリカの態度については、ある程度諦めざるを得ないと思う。 多分大統領が共和党系とかでも、この件についてのステートメントは似たような感じになるんじゃないかね。


5/6(火)

文学ってのは、要は人間を作るものなんでしょうね。オハナシではなく。 ドストエフスキーの功績は「罪と罰」と言う物語を作ったことにあるのではなく、ラスコーリニコフ・ソーニャ・マルメラードフなんて言うキャラクター(人格)を創造したことにある。

人格さえ確固としていれば、きっと物語なんて勝手に作られていく。 キャラクターが独りでに動き出すに違いないから。 こういう場面、あの人物ならこう言うに違いない、そう言った想像が成り立つ。 そしてそういうものが、結局のところ一番面白い。 面白いものって、つまり精神なんだよね。


5/5(月)

世間はゴールデンウィークか。 毎度のことながら私にはあんまし関係無いな。 以下、スタジオにて。 一枚目のよもぎ饅頭、うまかった。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


5/4(日)

スタジオにて。 だんだん暑くなってきましたね。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5



あるハーモニカの演奏を聴いて思った。

ハーモニカって構造上、純粋な単音を出しにくい(両隣の音が混ざって和音になりやすい)。 無論出せないわけではないが、相応のコツがいる。

私が聴いたのはそのコツを踏まえたものでなく、ハッキリ言えば和音だらけの拙いものだったのだが、演奏されているのが超有名曲だったので、基本の旋律線が耳で追えた。

和音だらけの、いわば全く原曲に忠実でない旋律線を「追えた」と言うのはどういうことか。 それは脳内に既にあるデータベースと「照合できた」と言うことである。 つまり、何を吹かんとしているか斟酌できた。 これは言語の作用だ。

言語力如何によって、この照合作業はできなくなるに違いない。 言語の援用無しでは、和音だらけの旋律は、単なる雑音だらけの得体の知れない旋律になってしまう。

聴力にだって個人差はあるだろうが、脳の個体差に比べれば、きっとそれは大したものではなかろう。 世界と言う情報は、その人の脳が映す。


5/3(土)

影山リサ、スタジオにて。

Photo1 Photo2

先日お知らせしましたけど、ニューシングル「Pretty Storm」が5/28(水)に発売されます。 是非聴いてみてくださいね。

そういえば今月号の月刊Audition誌にウチのアーティスト募集告知が掲載されています(影山さんの写真も載ってます)。 たくさんのご応募、お待ちしております。 




5/2(金)

スタジオにて(神田優花)。

Photo1 Photo2



女の人は、恋人なんかと一緒に外を歩く時、そのお相手が別の女性に気を取られたりすることに、腹を立てたりするそうだ。 「私だけに関心を持て」と言いたいらしい。 実に排他的だ。

恋人を独占することが正義なのか否かってのはさておき、現実として、上のような類型の人は多数派なのだろうから、世間でも同じ気分が共有されやすかろう。


人間って醜いね。 「自分を愛して欲しい」って欲求があるのは分かるとして、どうしてそれが「他の誰かを愛すな」ってことになるのか。 きっとこれは本能としての排他性で、避けられないものなのだろう。 同時にここが人類の限界に繋がっている。 人間、と言うか人体は物質なので、確かに限りってものがある。 しかし愛とか幸福とかに限りなんて本当は無いはずなんだけど。


5/1(木)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



頭の良さってどういうことか。 脳の性能と言うなら、その基準は一つではない。 「足の速さ」と言った、一見単純比較できそうな性能でさえ、例えば短距離においてと長距離においてのそれとは別種である。 頭の良さなんて一概に測れるはずがない。

言うまでもないが、芸術は純粋に思考の産物で、脳を酷使と言って差し支えないほどに使う。 しかしその適性(脳の属性)は、一筋縄に判断できない。 互いに相反する要素を含んでいるので、ある機能が発達し過ぎているが故に、それが別のある機能に干渉してしまう、なんてことだってある。



文系・理系なんて分類は、大雑把ではあるが、それなりに合理的だと思う。 これに匹敵する整理機軸って、男女とかぐらいしか思い浮かばないほどだ。

私はどちらかと言うと文系脳だ。 音楽なんて算数的なことをやってはいるが、基本的に得意でないことをやっている。 音楽関係の文章とかよく読むけど、音律についてはよく分からないことが多いし、そもそも全く興味が持てない。

いわゆる絶対音感も持たない。 聴力が悪いわけではなく(多分人並み程度だろう)、多少周波数をシフトした旋律が、違って聞こえるような脳の状態でないと言うことだ。

では音楽は理系向きなのかと言うと、そうではないと思う(バッハなんかは間違いなく理系だったろうが)。 音楽も一応芸術なので、言語の守備範囲だ。 数学的アプローチが必要になるのはあくまでディテール部分で、核はやはり言語。 この辺が音楽ってヤツを難しくしているのだろう。


音楽制作には、とりあえず表面的に計数能力が必要になる。 だからその奥にある言語の重要性が、ある人にとっては見えにくくなる。


4/30(水)

韓国の例の沈没事故について。 事故そのものについては、私なんかより皆さんよくご存知かと思われる。 私は本当にあらましの部分しか知らない。

どうしてああいう事故が起こるのか。 過積載がどうだとか、船員の不手際がどうだとか言われているが、ああいう事故が起こった後は、直接的な原因探しが行われるもので、そういう分かりやすい部分に衆目が集中しがちなもんだ。

「あれは事故ではなく人災だ」とか言われ出していて、実際に船長を含む船員が何人か逮捕されたりしているようだが、大抵の事故ってのは人災である面を排除できないだろう。 今回の件も、やはり韓国人の原理性が深く影響していると思われる。

過積載や違法改造が取り沙汰されている。 そもそもそういうことに関する法律が整備されているのは、人間は放っておいたらそういうことをしてしまうってことの証拠でもあろう。 そういう行為が罷り通ってしまう背景には、それを黙認する空気があるのだろう。

おそらくあの社会では、チェック体制など作っても、それは骨抜きにされやすい。 デパートの床や橋が崩壊するのも、原因は同じところにあろう。 事故で家族を失わさせられた怒りと、袖の下に渡された小銭をせしめたい欲求、真面目に働けば働くほど損をするような感覚、これらが実は同質の世界観から生まれていた場合、人はああいう社会を構成する。

結局人ってのは、自分自身に苦しめられる。 社会・国家と言う人間の集団においてもそれは基本的に同じ。

よく言われるように「儒教」の悪影響かと言うと、それもそんなに当を得ていないような。 日本だって古くから儒教を取り入れているし、江戸期には唯一政権公認の学問であったりもした。 でも、門閥制とかそういう他の日本人の原理性と調和しなかったからだろう、日本には科挙も採用されなかったし、宦官もいなかった。 儒教以前に、社会の素地としてそれを歓迎する気分が存在するかどうかは大きい。 韓国には(無論、本家中国にも)それがあった。


事件後、船舶会社とか管轄の役所だとか言う当事者の間で、「責任のなすりつけ合い」が起こっていると聞く。 まあ自分が当事者であったとしても、事情によっては、「自分の領分において回避不可能であった」、「責任は明らかに自分以外の誰かにある」なんて言う発言が出るかもしれない。それが我が常識感覚に忠実なのであれば。 でも多分今回の件についてはそれとは本質的に違おう。

誰しもが責任から逃れようとする社会において、「私は責任を感じています。何だったらお金だって払いましょう」などと言う殊勝且つ経済力豊かな人物が現れたら、彼はたちまち「依存」されてしまうでしょう。 次から次に難題を吹っかけられ、事あるごとに何らかの利得を毟り取られてしまうだろう。 その利得実現の為に、彼はしばしば悪人にさえされてしまう。

日韓併合に、実は韓国世論は概ね賛同していた。 あの時代に、独立を保てない地域のほとんどは、いずれかの広域国家に吸収されざるを得なかった。 現実にある選択肢の中から、彼ら朝鮮人は日本に吸収されることを望んだ。 今ならもっとその気分は濃厚であるかもしれない。 もし今の韓国が「ベトナムと日本どちらかに併合されなければならない」と言う二者択一を迫られたら、答えなど聞くまでもない。


私は日韓関係について、割りかし透明な感覚でそれを眺めていて、自分が日本人だからと言って日本に肩入れする気分はあまり無い。 が、この蜜月?関係は、いずれ終焉を迎えるだろうと思っている。もう終わりが始まっているのかも。 何故なら、依存者と言うのは、依存の対象を早晩「食い潰してしまう」ものだからだ。 相手が嫌気をさす、あるいは頼むに足りぬ存在になり果てるまで依存度を高めてしまう。 今の日本国内で巻き起こっている「韓国に対する気分」はそれの一つの典型的な兆候だろう。

何だか話が脱線した気がするけど、今日はこの辺で。


4/29(火)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



普通、印象を伴わない記憶は頭の中から消えて行く。 二日前の昼飯が思い出せないのは、そこにさしたる感想が無いから。 遠い子供の頃の出来事が、今なおありありとこの心に残るのは、そこに何らかの感想があったから。 つまり、記憶力の基底にあるのは感受性(=言語力)である。

人間とは、その人の中に流れている時間のこと。 子供の頃の私が、今の私であるように、昨日と今日は繋がっている。 私は、ある日を境に突然別人になったりしない。 自分が自分であったことを覚えているからだ。 identity=自己同一性とは、これのことである。

もし、感受性が絶無である人間がいたらどうなるか。 その人の脳には、記憶を保持する機能がついていないことになるのだが、その人は瞬間瞬間に生まれ変わり続けているのだろうか。

結論としては、それに近いということになる。 実際、猫などを観察していると分かるのだが、瞬間毎に意識が更新(上書き)されているかのようである。つまり脳内に時間軸がほぼ保持されていない。 瞬間毎に、目にする対象についての感想ならあるだろうが、それを蓄積できない。

感受性をほぼ持たない人間でも、猫のように数秒前のことを全く覚えていないというような人はいない。 そういう人は、通常人とは違う(印象を伴わない)形で、物事を記憶していることになる。 記憶の代替物を使っているわけだから、記憶と言う言葉が適当でないような気もするが、それ以外に言い表しようがない。

この記憶の代替物は、チンパンジーの幼獣にも見られると言う映像記憶に近いと思われる。 印象を伴わない、データとしての記憶。 多分それによって自己の連続性を補完している。 その人の自己は、正確な意味での自己同一性ではないということになるのだが、そういう脳の持ち主に、自己同一性を植え付けることは可能なのだろうか。

今の私にそれは分からない。 そういうことが出来たら理想的だとは思いますけど。


4/28(月)

もう何年か前の話だが、ラジオからプロ野球中継が流れていた。 ラジオってテレビの地上波なんかに比べると、対象人数が少ないこともあってか、なんとなく実況や解説者のコメントの雰囲気もダラけている。 よく会話が脱線して雑談になったりするのだが、そこが面白かったりもする。

試合の中で、ピッチャーの投げたある球が、どうも(ストライクかボールか)きわどいものだったらしいのだが、そこで実況担当者が言う。 「私は忘れもしません。○○さん(同席の解説者)の現役時代、A投手がプロ入り初登板で初勝利を収めたあの試合、○○さんが最後のバッターでした。あの打席での最後の球はさっきの球と似ています」。

そこで解説者は答える。 「ああ。あの時もあんな球でしたね」と。 その人らは、何十年も前の試合で目にした、ある一球を覚えていた。

私はそのやり取りを聞いて、何故か嬉しかった。 ラジオですから、その当の投球内容について、細かい部分は分からないわけだけど、そんなの関係なく面白かった。 過ぎた時間が、間違いなく存在したことを確かめられたようで。


詰まるところ私は、時間とか過去・歴史とか言うものを、人の心の中にしか存在しないものだと思っている。 考古学資料や文献があってこその歴史ではないか、と言われてしまいそうだが、そんなこと分かってる。それでも時間は人の心にしか存在しない。


4/27(日)

DVDを見ていてふと思ったのだが、きっと映画って、必ずしも話の進行(時系列)に沿って撮影するわけではないよね。 ウチで撮ってるPVだってそうだもの。

例えば、物語が札幌で始まって、途中東京でのシーンを挟んで最後また札幌に戻って終わる、みたいな展開の場合、一々札幌東京間を何度も行き来するなんて面倒なことやってられないだろうから、物語の始めと終わりはいっぺんに撮ってしまいたいところだろう。

「男はつらいよ」の舞台である葛飾柴又、帝釈天参道。私はその地に行ったことがある。まあ近所なんで。 聞くところによると、団子屋「とらや」内でのシーンは、四作目以降、大船にある松竹の撮影所で撮っていたらしい。 見れば分かるのだが、参道や帝釈天(題経寺)、江戸川河川敷などでのシーンはおそらく全部柴又で撮っている。

ってことは、とらや内で口論した末、参道に駆け出る、みたいなシーンを撮ろうと思うなら、もうそれだけで柴又と大船をハシゴせねばならない。 こんなのだって、時系列順で撮影なんてしてられないだろう。 柴又でのシーンと店内でのシーン、どちらもある程度まとめて撮影が行われたはずだ。 物語内でのタイムラインはチグハグだったりしたろうから、役者の皆さんは感情移入が大変だったんじゃなかろうか。

男女の恋愛などをドラマ化する場合、映画内での時間が進むにつれ、当然登場人物の「親密さ」の度合いが変わってくる。 途中をすっ飛ばして、最初と最後のシーンを演じてくれ、なんて言われたら演者は大変だろう。 もしかして役者のプロフェッショナリズムって、その辺にあったりして。


4/26(土)

私は一応音屋だが、いわゆる音楽大学などを出ておらず、アカデミックな場で音楽論を学んだことはほぼ無い。 もっと言えば、音大への進学などが選択肢として頭を擡げたことすらない。 まあ音楽的な疑問について、質問できるような人が一応近くにいたりはしたが、それにしたって師事したとか言うほど大袈裟な関係ではない。


音大出身の知り合いなら何人もいる。 が、私自身は「音大に行っとけば良かった」なんて、今に至るまで全く思ったことがない。 それほどに音大のカリキュラムは私にとって魅力的でない。 本当にあれを教わるのに、何百万円と数年の時間を掛ける価値なんてあるのだろうか。 「ある」と断言できる人がいるのなら、理由を聞かせて欲しい。 私は批判しているのではなく、本当に分からない。

例えば、厳格対位法の禁則を100%暗記して、あらゆるバス課題に完璧に解答できたとして、そのことが芸術活動に如何ほどに寄与するのか。 「ある時代・ある地域(文化圏)においては、このような規則、それを良しとする感覚が存在した」、 「その(一応の)発生理由は、このような根拠に因っている」←この程度のことが理解できれば十分でないの? どうしてもバス課題を解く必要があるなら、資料片手にでも解けば良い。 また、解答に誤りがあったところで、それは単なるミス(見落とし)に過ぎず、無理解とは意味が違う。 禁則を暗記せねばならない必然性が、私には思い当たらない。

私は性格(と言うより構造)的に、「暗記」的な処理法が嫌いなのだろう。


現状音楽大学は、芸術家でなく、せいぜい音楽講師を養成する機関だろう。 原理的にそのくらいにならざるを得ないはずだ。 ほとんど無意味な(むしろ有害ですらある)入試での選抜などを止めてしまえば、もう少しはマシになるかもしれないのに。

実を言うと私は、現状の音大などの人選には重大な欠陥があると思っていて、芸術家に不可欠な言語力を、むしろ持たない人を厳選しているのではないかと思っている(私は割りと明確な根拠を持ってこれを言っている)。 だから芸術家を本気で目指す人にとって、ああいうところはむしろ行くべきでない鬼門とすら思える。

「芸術系の学校には国費が投入されている。だから選抜は行うべき」みたいな理屈もイマイチ理解できない。 内容が形骸化しているのに、税金が絡んでいることが改善の足枷になっているようでは本末転倒も甚だしい。 だったら税金投入なんて止めてしまえ。 芸術振興の為の国費が、むしろ腐敗を進めていては冗談にもならないよ。


補足だが、この稿で私は「芸術」を、伝統的日本語の芸術の意でなくartの訳語として使用している。 旧来の芸術の意に忠実であるなら、芸術大学は確かに芸術家養成機関に違いない。 「我が国は、アーティストではなく芸術家を育成することを是としているのです」と言われたら、もう返す言葉も無い。


4/25(金)

神田優花、録ったばかりの音を二曲分まとめてチェックしてました。 今、珍しく抱えている(制作中の)曲が無い。 そういえば現在、神田優花の新作のリリース計画中でございます。 多分夏頃には、またまとめて発表できるかと思います。

Photo1 Photo2


4/24(木)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



DVDの音声と字幕って内容が微妙に違う。 字幕作成のスタッフもクレジットされてたりするところを見るだに、字幕ってのは、単にセリフをテキスト化しただけのものじゃ務まらないらしい。 まあ当然か。

会話にはリズム・イントネーション・間などなど、文章化できない要素が満載だ。 台本上のセリフをベタ打ちしたテキストを字幕にしたりなんかしたら、チョイチョイ意味不明な部分が出てくるのでしょうね。


4/23(水)

Photo1 Photo2

影山リサ、ニューシングル「Pretty Storm」が5/28(水)に発売されます。 二曲入りで、価格はサイトによって微妙に異なると思われますが、概ね\400程度になるかと。 下はジャケット。今回のジャケットは3パターンぐらい試作したので、いつも以上に手間が掛かってます。




4/22(火)

人間の排泄物は何故臭いのかと言う話だが、実を言うと、臭いものなんてのが存在しているわけではなく、単に人があの匂いを嫌うだけだ。 「臭がる」とでも言うべきか。 生魚や腐った食い物を臭く感じるのは「それ食ったら腹を壊すかもしれない」と言う危険信号を、我々の脳が発しているのだろうと思われる。

原爆投下直後の広島や、チンギス・ハーンによるシャーリゴルゴラの虐殺についての記述などを読んでいたら分かってくるのだが、どうも人間の死体の臭いと言うのは随分鼻につくらしい。 人間が死臭を生理的に嫌うからだろうが、これにしたって、死体の臭いなんて単なるタンパク質とかそういうものの腐敗臭に過ぎまい。 蟻を一匹潰すと、その匂いに反応(危険信号を察知)して、他の蟻たちはパニックに陥る。 人間が死臭を嫌うのも、メカニズムとしてはそれと似ていよう。

死臭を嫌うのは、生物としての人間の本能に根差した拒否反応かと思われるが、何を臭がるかは、文化の副産物である面も多分にあるだろう。 日本人の好む納豆の匂いを、多くの外国人は臭がるが、逆のケースも多々ある筈だ。実例こそあんまし思いつかないけど。 結論として、臭さなんてのは、対象ではなく、嗅ぐソイツの頭の中身がそれを決める。


何故人は排泄物を臭がるのか。 そこに人間(他人)の臭みと言うか、アクが凝縮されているような気がするからだろう。 糞便なんて単なる食い物の残滓で、その匂いもタダの発酵臭とかそんなもんだろう。 多くの人は、人体やその代謝物を、人だと思い過ぎている。


人は人肌を恋しがる。 だから芸術作品なんてものが商品にすらなってしまう。 しかし同時に、人はある人間臭さを嫌う。 私とてそう。 確実に言えることとして、私は多くの平均的人間とは、微妙に違った基準でそれらの臭みを判定しているらしい。 世間で共通認識とされている、ある臭みには寛容だし、ある臭みには実に敏感だ。

人間には、臭みの発生源となる何事かが含まれている。 ひょっとして、人間の諸々の排他性ってヤツがそれなのかも。 人間(っつうか生物全般)は、進化の原動力として排他性を持たされている。 他者の存在は、それ即ち潜在的脅威とも言える。 だから人間は、自分の排泄物なら、さほどに臭くも感じないはずだ。

きっと人間以外の動物も、(血縁者など、一部の例外を除く)別個体の排泄物の匂いを嫌うだろう。 犬猫のマーキングって「縄張り」の誇示のためのものだろうから、まさに排他性を象徴している。


態度の悪い人が嫌われるのは、ソイツが人間関係の「上下」を押し付けてくるからに違いない。 序列は排他的だ。 誰かが上にあることによって誰かが下になる。 他者と自分とを「同じ」だと感じられない感性は、つまりは臭い。 早い話が、排泄物と同じ匂いを放っているから嫌われる。


物質としての人間は、原罪としての臭みを持っている。これは間違いない。 愛すべき人間性ってのは、やはり「抽出された人間の思考」なのではないか。 芸術とは、芸術作品と言うモノではなく、そこに込められたメタフィジカルな思考。 だから、それを感じ取れる人には求められるし、感じ取れない人には、求められるとか求められないとか言う以前に、存在すらしていない。

ピカソの名画だって、思考を感じ取れない人にとっては、単に絵と言う物質に過ぎず、モノである以上それは排他的で、本質として臭みに感じ取れてしまうもの。


4/21(月)

私は、楽器の演奏技術に重きを置かない音楽家だ。 生演奏にも大した価値を感じない。 まあ最低限必要な楽器は持ってるし、必要に応じて今でも弾いたりはするけど。

子供の頃に心に残った音楽も、基本的には皆スタジオ録音物だった。 ライブは無論のこと、ライブアルバムとかですら、あんまし心に響いたものはない。 演奏と言うのはいわば大道芸だ。 作者の精神を味わうなら、満を持したスタジオ録音物が良いに決まっている。


かくいう私だが、昔はやたらあれこれと楽器に手を出していた。 そもそもバンドマンだったし、ギター・ベース類は計十何本持っていた。 家にピアノもキーボードもあったし、一時期部屋にドラムセット置いてたこともある。 他にも吹奏楽器やら民族楽器やら、オモチャのようなものも含め、大量に楽器を所有していた。 また、持っていたものに関しては、ほとんど一応の演奏も出来た(大したレベルじゃないが)。

しかし、高校を卒業する前後くらいだかにシーケンサーなんかを扱い出してから、劇的にではないが、音楽観は変わった。 アプローチがより的確になったと言うべきか。 当時まだDTMとか言うほどの環境ではなかったけどね。

楽器を扱う人なら分かると思うが、演奏技術の獲得・維持には、時間が掛かる。 本人の素質にもよるが、ある楽器の演奏技術を、録音に耐えうるレベルにまで習熟しようと思うなら、もうそれだけで最低でも年単位の時間が掛かる。 また、楽器や演奏技術は、維持コストも大変なものだ。

「楽器が上手い」なんてことを矜持とするミュージシャンなどを見かけると、失礼ながら、そんなことシーケンサー(コンピューター)にやらせとけば良いのに、と思わずにいられない。 私は合理主義者なんで、結論として楽器の演奏技術は捨てた。 あれはスポーツだ。私の煮詰めているのは思考。


4/20(日)

私は、私の考える美を追求している。 完璧な美を。 それがどういうものか、正確には分からないし、分かっている部分ですら一言では説明できない。 つまりそれは複雑・難解である。


つい先日、駅前を歩いていたらある光景に出くわした。

路上で演奏するミュージシャンと、何やら募金活動をする者が、間近で声を張り合っている。 お互い目的を持って行動しているのだろうけど、それらがバッティングしてしまうらしい。 双方、相手のことを鬱陶しく感じていたことだろう。

ああいう現象は、ミュージシャン同士でもおそらく日常的に起こっている筈だ。 駅前の路上などで演奏活動をしようと思うなら、良い場所など他のミュージシャンとの取り合いになるに違いないし、隣り合って演奏する時など、お互いの音が邪魔で仕方なかろう。

あの時見たミュージシャンには多分、一応の目標があるはずだ。 ああいう場所で演奏を披露しているのだから、きっと「有名になりたい」とか「売れたい」とか言う、割りと即物的成果を求めているのではないか。 して、売れるってどういうことだろう。

例えば商業音楽作品の市場には、各種チャート・ランキングみたいなものがあって、一位から順位が付けられている。 順位なんだからそれは排他的である。 誰かが一位を占めると、それ以外のものは必然的に二位以下になる。 つまり売れている曲ってのは、ある視点に立つと、邪魔な存在でもあると言うことだ。 あたかも、隣り合う路上ミュージシャンそのものであるかのように。


私は、誰かと席次を争うために音楽作品を作り続けているわけではない。 私が作ろうとしているのは、誰かの中で、その人の夢になったり、日々を後押しする力に変わるもの。 踏み出す一歩に変わり、まだ眠たい朝には背中を蹴り飛ばす。 降り注ぐ陽射しや風の中にだって存在し、更には、その人が愛する歌の中にすら存在するもの。 私は歌の中にある歌を作ろうとしている。 老荘的な無為とか、そういうものを尊いと感じてるわけでもない。 一番近いと感じるものを強いて挙げるなら愛だろうか。

完璧に美しいものは、きっと何をも邪魔しないよ。 何をも邪魔せず、寸毫たりとも占有せず、且つ遍く存在するもの。 無のようでいて全てでもある。 私はそういうものを作ろうとしている。


4/18(金)

来月末に影山リサのニューシングル「Pretty Storm」(c/w Find Your Way)が発売されます。 もう音もジャケット類も納品済みなんだけど、このページで紹介できるような形のものが無いので、また後日あらためて載せます。

今回から料金体系が変更されてまして、要するに増税の影響なんですが、業者によっては定価が一円刻みになるみたいです。 一律に全ての業者がその価格を採用するってわけではないので、つまりサイトごとに定価が異なる状態になります。 これ、我々に決定権の無いことなんで仕方ないですね。


4/17(木)

私に言わせれば、大方の人は自分を物凄く小さく規定している。 人間、その気にさえなれば、随分色んなことができるだろうに。

子供ってバカだから、良くも悪くも自分に無限の可能性を感じている。 大人になるにつれ、人は現実を思い知らされ、萎縮して行く。 実は自分が規定したサイズこそが、等身大の自分であると言うに。 こんな簡単なことが分からない人が、どうしてこんなにも多いんだろうか。

この世界に、自分一人しか人間がいなかったら、美醜も賢愚も無い。 優劣なんて比較から生まれた錯覚みたいなもんだ。 私が音楽を続けている理由は、私に音楽の才能があるから、ではなく、音楽を作り続ける時間が私にとって楽しいから。 それだけ。


私は、自分の何事かを証明してもらうために音楽に携わっているのではない。 この世界を把握するためのmethodとして、音楽を採用しているだけ。


4/16(水)

子供の頃、多分小学校一〜二年生ぐらいの頃の話。 当時の私の家の近所に本屋があった。 婆さんが一人でやってるような小さな本屋だったのだが、私は本の好きな少年で、当時その本屋にはよく行った。 因みに、ほとんど立ち読みばかりで、本を買った記憶が正直無い。 婆さんゴメン。

私は金を落とさない人間で、常識的に考えて、店にとってはむしろ迷惑な存在だった。 ある冬の日、いつものように私はそこで本を読んでいた。 店の中はストーブがあって暖かいし、大好きな本はたくさんあるし、何時間いても飽きない。 私は立ち読みならぬ座り読みに入っていた。

店に入って数時間後、その婆さんが私に近づいてきた。 私はその座り読みを咎められるのではないかと直感したのだが、なんとその婆さん、座っている私に「みかん」を手渡してくれた。 私はみかんを頬張りながら大好きな漫画を読むと言う、至福の一時を過ごした。 私は、その時読んでいた漫画のエピソードごと詳細に覚えた。


時は流れて、大学生の時。 ある先輩が学校を辞めて引っ越すことになり、引越し作業を手伝わされた。 無論タダ働きだったのだが、その先輩はお礼にと、(おそらく捨てるつもりの)漫画本を大量にくれた。

その大量の漫画の中に、あの時みかんを頬張りながら読んだ漫画が含まれていたので、「俺、これ読んだことありますよ。こんな話ですよね?」と、あらすじを言ってみた。 その先輩は「そうそう、その通り」と相槌を打つ。

徐にページをめくりつつ巻末を見て驚いた。 なんとその漫画の一刷が、どう考えても私の記憶と撞着する。 その漫画の初版は、私の記憶にある時期の数年後なのだ。

私は上で「小学校一〜二年の頃」と言っているが、私は小学校三年生の時に転校している。 だから、例えば小学校四年生の頃の記憶を二年生の頃のものと勘違いした、なんて事は起こりにくい(一年生の頃の記憶を二年生の頃のものと間違えることならありえる)。

つまり私の記憶はすり替わっていた(とでも考えないと現実と整合しない)。 医学的に考えても、脳細胞は代謝を繰り返しているわけで、子供の頃と今では別物だ。

何十年来の記憶なんてものが存在するのは、人生の途中で、その記憶を反芻したからだ。 ある局面における「感想」が、ある印象を伴った記憶を引っ張り出す。 そしてそこでその記憶は新たなものとして複製される。 私の脳は、ある段階でその複製作業にミスを生じさせてしまったらしい。 つまり、別の時に読んだ本の記憶が紛れ込んだ。


もしある時期(上の引越し作業の前)の私が、上の小学生の頃のエピソードの真偽について問われたら、まず間違いなく「真実だ」と答えたろう。 真剣なので、態度も堂々たるものであるはずだ。

もし脳機能のありようによって、上のような事態(記憶の複製エラー)が短いスパンで、頻繁に起こったとしたらどうなるか。 更には人間は、仕損じた複製を、都合の良い空想で埋める。 どうしたって私は嘘吐きと言う印象を周囲に与えるだろうし、態度が真剣そのものである分、天才的詐話師とか言うような評価すら招きかねないだろう。


要するに件の万能細胞事件、科学云々ではなく、医学の領域だってことです。


4/15(火)

例の万能細胞の一件。 当事者の彼女って多分、奇人列伝みたいな形で日本史に残るだろう。 それ程のレベル。 当人の素質が、ではなく、結果として引き起こしてしまった事態が。

気の毒な人ではある。 素質そのものは、ありふれたとまで言わないが、単なる変人に過ぎないと思うんだけど、環境がある異常性を肥大化させたのだろう。 いわゆる寛解の状態にまでは持って行けなくも無かった筈だ。

彼女は人生において、本来なら社会正義と抵触した筈の言動を、咎められることなく、むしろ成果と引き換え続けた。 だからきっともう、彼女の世界観は容易に揺るがない。

きっと彼女は、ある程度明確な意思を持って行動しているはずで、だから自分のやっていることを知っているだろう。 しかしそれと同時に、自分は正しいとも本気で信じられる。 常人には理解しがたい機微だろうが、おそらく私の考察はそんなに外れていない。

人間は基本的に、得策を選ぶ。 ある時嘘を吐くのは、その方が得だからで、ある時嘘を吐かないのもその方が得だからだ。 バレる嘘なんて吐いても、バレた時困るでしょう。 「嘘吐き」だと思われるから。 ほとんどの人間はその程度の未来を予測(脳内に展開)できるから、そんな嘘を吐かない。 あくまで得策でないから。

常識的感覚を持つ者なら、自分が嘘吐きだと思われるのは嫌だろう。 誠実、正直である方が一般論として美しい。 だから、ある得を拾うために嘘を吐き、尚且つ正直者であれるなら、それが一番得である。 でも、その二つは互いに矛盾する。

矛盾する事実が同居できないのは、単に論理が邪魔をするからである。 論理性が無ければ、黒くて白いものだって存在しうる。

時間感覚と言うのは、即ち論理である。 論理性なき脳に時間軸は存在しない。 一つの嘘の価値を定めるのは、その人の持つ時間感覚だ。 これが乏しければ乏しいほど、その人にとって嘘は魅力的に映る。


結局、脳機能=言語力=論理性=時間軸、なのです。 人間とは、その人に流れている時間のこと。 私が自分を留め置く手法として音楽(=時間)を選んだのは当然のこと。 音楽が、成分として一番私そのものに近い。


4/14(月)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4



ハーディ・ガーディって楽器についてのメモ。 発音の原理としてはヴァイオリンとかに近いのだけど、ドローンが入ってたりするので、出音はバグパイプとかに近く聞こえなくもない。

楽器そのものを実際に見たことはない(動画は見た)が、ある程度の想像はつく。 分かりにくい説明だろうけど、ホイールを使って弦を擦るみたいな原理なので、細かいヴェロシティなんかは多分つけられない。 音域もせいぜい2オクターブ程度とな。

構造的に細かいスタッカートなんかもつけられない。 基本鳴りっぱなしみたいな楽器なんで、休符のニュアンスを出そうと思うなら、音高が離れたノートを挟んだりするしかなさそう。 この辺もバグパイプに似ている。

民族楽器みたいなものなので、色んな部分が曖昧だ。 構造すらハッキリしていないし(個体差が大きい)、奏法などについても、正式な流派が無い分、詳しいことが分からない。


今ハーディ・ガーディを使った曲を作ってるんだけど、率直な感想として、あんまし使える楽器ではない。 だから実際に知名度も低いのだろうね。


4/13(日)

スタジオにて。 3曲もまとめてヴォーカル録ってました。

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


今日、早速編集作業に入ってたのだけど、アプリがフリーズしやがったもんで、2時間強分の作業がブッ飛んだ。 ああムカつく。 きょうび自動保存機能ぐらいついてないのかと思われそうだが、まあある工程においては本当についてないんです。 骨董品ばかり使ってるもんで。


4/12(土)

和声法ってのは、対位法を煮詰めて行った結果、成立した。 この辺の歴史的経緯はわりかしハッキリしている。

和声法ってのがあまりに整然かつ便利なもんで、ついそこから曲を作りたくなってしまう。 つまり、コードからメロディーなどの細部を作ってしまう。 これは大雑把に言えば、和声の成立過程と逆のプロセスを踏んだ形。

私はやはり、主旋律から音楽を作りたい。 コード進行なんてどうでもいい。 主旋律にバッキングの旋律線を付加していった結果、進行が生まれるならそれでも良し。 とにかく、コード感はそれも創作の一部だからあっても良いが、そこから曲を生みたくない。 思考が抜ける。


4/11(金)

幕末期の日米(日露だったか、その辺は失念)交渉の場に、オランダ人が(通訳として)同席したって話があった。 当時日本に英語を話せる人は(ジョン万次郎のような超特例を除いて)ほぼいない。 オランダは欧米諸国の中でも唯一、例外的に江戸体制下の日本と国交(通商のみだが)のあった国である。 実際蘭学は日本に浸透しており、オランダ語ならある程度理解されていた。 アメリカなどがオランダをよすがとするのは、合理的判断と言える。

ところがである。 交渉の席で幕吏の話すオランダ語が、(オランダ人通訳に)なかなか通じない。 それもそのはず、日本人の使っていたのは、数百年前のオランダ語だったらしい。 「ここまで完璧な中世オランダ語を話せる人は、本国オランダにおいてもいない」と言わしめたとか。

つまり当時の日本人は、オランダ語そのものは理解できても、含まれる曖昧さの部分が全くもって体感できなかった。  だから上のような現象は起こってしまう。


音楽関連の調べものをする際、大掴みには文献などのテキスト情報と作例(音資料)を当たることになる。 そこで分かることとして、様式などには無数の例外があるということ。

例えば「○○形式」なんていうものを調べると、百科辞典のような文献には、当然その様式の決め事のようなものが列記してある。 そしてそれを踏まえつつ音資料を耳にすると、しばしばその記述と矛盾する書法に当たってしまう。

俳句に字余りがあるように、大抵の様式には例外ってものがあろう。 知るべきは、どの程度の幅の例外が、どれ程の頻度で発生しうるか、と言った「許容される曖昧さ」の部分だ。 これは文化と言った大枠を体感していないと難しい。 私の知りたいのはまさにここ。


4/10(木)

バッハとかの無伴奏もの、中でも特にヴァイオリンやチェロなどの、単旋律用途に近い楽器のソロ楽曲って、当然だがリズムが取りにくい。 旋律形から判断するなら、絶対二拍子系だろうと思われるようなフレーズが、譜面見たら三拍子だったりする。

拍子なんてのはどうでも良いことだが、バッハの頭の中では、ああいうフレーズが三拍子でカウントされていたのだろうから、私とは脳の情報処理のプロセスが違うってことだ。 ここは気になる。

例えば、1+2+3は?と問われるなら、大抵の人は1に2を足した上で、その数に更に3を足す。答えは6。 でも中には、最後の3から1を取ってきて、最初の1に加え、2+2+2の式にした上で、2×3に変換し、解の6を導き出す。 なんて人もいるだろう。 結果としての答えは同じでも、式(プロセス)が違う。


世の中は、この結果としての解(言動)が同じだったりしてしまうから、途中のプロセス(思慮)が見えなくなりがちだ。 実はこのプロセスこそが物事(このケースでは個性)の本質だったりするはずなのに。 過程に比べれば、結果なんて実に些細なこと。


4/9(水)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



CD屋や図書館などの棚では、当然CDが分類されているのだが、実に分類(整理)法って曖昧だ。 例えば、雅楽とボサノバが同じ一ジャンルとして扱われていたりするのだが、両者は無論別種ではあるが、分類上の「階層」が違う。 屈折語と博多弁、とか言うようなものだ。

私は重箱の隅を突くように、誰かの間違いを指摘したいわけではない。 用途の上での便宜ってヤツがありましょうから、厳密さに拘るのもバカらしい。 私が分類する側の立場だったりしたら、似たような形でカテゴライズするやもしれん。 しかし私自身は、感覚の上でこの曖昧さを許容するわけには行かないのだ。 特にこの「階層性」については。

何故なら、この階層性は、言語で組み立てる論理の骨格とでも言うべき、基礎の部分だからだ。 私がこの辺の区別を、アタマの中で曖昧にしたままだと、おそらくいずれは曲が書けなくなる。 因みに、この観測すらも、基本はここで言う階層によって組み立てられている。


4/8(火)

スタジオにて。

Photo1 Photo2 Photo3



私は、分かり切ったことを繰り返すのが嫌いです。 時間が勿体無いから。

「ではお前は毎日メシを食わないのか?」と問われると、無論そんなことはない。 メシを食わねば餓死するからだ。 繰り返さねばならぬと決まり切ったことだから、そこに疑問を差し挟むことの方が、私にとっての繰り返し(無駄なこと)に当たる。


以前、「どうにかして金儲けが出来ないか」などと(思考の遊びとして)考えてみたことがあるが、その為に使う体力・神経・思考のリソース等を勘案した結果、「貧乏のままで良い」と言う結論に至った。 私の欲しいものの大半は、どうやら金では買えない。


自分のとある行動・思考が、周囲に理解されない時、昔は「理解して欲しい」と言う希望のままに説得を試みたりすることや、理解されぬ現実を嘆いたりする気分があったのだけど、それらも消えた。 諦めたわけではない。 ある相手にある事柄を理解・体感させるために「説得」が全くもって有効でないと言う事実に気が付いたからだ。 私は、嘆くことだって繰り返したくはない。


4/7(月)

音楽には、明らかにそれを支配する力学みたいなのが存在していて、実際に随分昔からドミナント(支配)と言った用語が存在していた。 因みに古代のドミナントは、今の音楽用語であるドミナントとは指すもの違ったりする。 とにかく、何となく追い風のような力を感じたのだろう。 西洋音楽の世界においては、それが神の実在感に重なる。

江戸末期だったか明治の初め頃だったかに、聖書の和訳作業中「ロゴス」をどう訳すかで難儀したとか言うような話を聞いたことがある。 「賢きもの」とか確か訳されていた。「はじめに賢きものありき」みたいに。

日本人は伝統的に、上の力学を感じることがあんまし無かったと思われる。 だから感覚的にロゴスを理解しにくかった。 この力学と言うのは、それを感じ取る感覚を持たない心の持ち主には、存在すらしない。 魚が札束で釣れないのと同じこと。

力学を感じ取る能力、この源泉とでも言うべきもののことをロゴスと呼ぶのではないか。 私は私に忠実でありさえすれば、たどり着ける場所があると思っている。 すべからくは、探し回ることでなく、この力を感じ取ること。


4/6(日)

ここ数年、私はDVDを借りて見ることがよくあるんだけど、実際にそのDVDを見る前の、パッケージを見た段階で、それが面白いか面白くないか、粗方判明していることに気付いた。

映画とかには「感動の超大作」とか、そういう売り文句が添えられているものだけど、別に私はそういうものに踊らされているわけではない。 そうでなくて、パッケージにある情報だけで、自分の好みに合うか否か、ぐらいは判別できてしまう。 この予感は人間の第一印象とかと同じで、経験値から生まれている。 だからほとんど外れない。


あと、つくづくシリーズ物の強さってのを痛感する。 基本設定が膾炙しているだけで、同じ2時間でも詰め込めるプロットに巨大な差が出る。 例えば「男はつらいよ」や「ルパン三世」だとかの有名なシリーズ物だと、上の空で見ていても、登場人物やその関係性を端から熟知しているだけに、話の筋が入ってきやすい。 この辺は、商業音楽の世界でも、楽曲を売るよりタレント(歌手)を売る方が堅いのと同じだろう。


もう一つ、感じたこと。 面白くない映画の面白く無さを強化するポイント(特に日本映画)として、「登場人物が嘘臭い(どう見てもネイティブでない)方言を使っていること」ってのがある。 私はあれが入っているだけで、その映画を減点してしまう。

どうして嘘臭い方言が映画を面白くなくさせるのか、だが、おそらく役者の思考の問題だろう。 そもそも役者は「セリフを読む」言うタスク越しに言葉を伝えなければならない。 既にその時点でいくらかのリソースは奪われるはずだが、更にそのセリフを普段使い慣れない方言を介してとなると、そこに奪われる思考は甚だしかろう。 でも多分それだけじゃない。 方言を入りの脚本なんかにも私は嫌らしさを感じている。 とにかくあれには、私の嫌う成分が大量に含まれている。


4/5(土)

方言ってのは、標準言語が地方地方で亜種化したものだと捉えられているように思うが、無論そういう面はあるにせよ、それだけで成立したものではない。

方言ってのは、むしろそっちの方が原型に近くて、arche-type(古形)とでも言うべき面を濃厚に残している。 それに引き換え標準語などは、やたら人為が加わっているだけに、ある面では実に不自然だ。 勿論合理化されている面も多分にあるだろうが。

例えば現代仮名遣いより旧仮名遣いの方が、ある意味では論理的だ。 誰だったか失念したが、そういうことを言っていた作家がいたような気がするけど、私も同感。

私は人間の人間性をこよなく愛すが、同時にある種の人間臭さを(時に激しく)嫌う。 これは説明しにくい。

つまり、人間らしさ、humanity・humorなんてものは一筋縄でなくて、美質と同時に灰汁の部分を濃厚に含んでいる。 私は完璧な美を探しているけど、それは単なる自然にあるわけでなく、だらしない人為に宿るものでもないと考える。


4/4(金)

語弊を恐れずに言うが、誰かの心の側にいてあげる為には、不可欠のプロセスとして親なんてものは(気持ちの上で)捨てねばならない。 別に姥捨て山に捨てろって言ってるんじゃなくて、親を明確に「一人の他人」と見做せと言うこと。

子はすぐ親に依存してしまうし、親は子に依存してしまう。 孝行なんてのが徳目とされているから分かりにくくなってるんだろうけど、そのような共依存関係に美質なんて(少なくとも私には)見出せない。

「愛する親がいなくなって悲しい」ことと、「頼れる親がいなくなって困る」ことは違う。 これらは厳密には別けて捉えるべき事柄。

寄る辺があると思うから、いつまでも人は自立できないし、誰かを救うこともできない。 親を依存の対象から外すことによって、はじめてその親すらも救ってあげられるかもしれないのよ。


4/3(木)

西洋音楽の明晰性が西洋言語の明晰性そのものであったり、日本古来の音楽が日本語そのものであることを見るにつけ、やはり私の中でほとばしった感傷を記録するツールとして、音楽は最良のツールであると思える。 その音楽について、ここ最近考えていたことをダラダラと。


随分前の話だけど「作曲なんて誰にだってできる」なんて言われたことがある。 相手は一応音楽業界人だった。

確かに和声法・対位法などと言う作曲技法がご丁寧に体系化されているもんで、その種の資料を漁れば、一応作曲はできることになっている。 つまり知識だけで曲はできる。

例えば、駅前でギターをかき鳴らしながら自作曲を歌うアマチュア・ミュージシャンは、知識が無いのかと言うと、とんでもない。 知識が無ければ、曲など容易にできるわけがない。

ギターは人間の指でコードを押さえることを前提に作られているし、コードは機能性をなぞるためのもんだ。 「コードブック読んで、適当なコードかき鳴らしつつ、適当に(相当スケール上の)鼻歌作りました」ってのは、立派に知識に裏打ちされた行為だ。 適当な鼻歌が思い浮かぶ時点で、その人の脳の基礎レイヤーには、揺るぎない西洋音楽知識が埋め込まれている。 知識と言うより感性と言う方が近いのかもしれないが。

ただ、上のようなプロセスにてできる曲ってのは、ゲームに例えるなら、一からプログラム打って作るゲームではなく、オリジナルゲーム作成ソフトみたいなので作ったものに近い。 別にそれが悪いわけではない。 一定の知識さえあれば誰にでも曲が作れるようにと、体系ってのは整理された面もあろうから。


以前、旋法音楽の習作をいくつか作っていた時期があったんだけど、その時に「こっちの方が創作性は高い」と率直に思った。

昔読んだ音楽理論の本に「旋法音楽は和声音楽に比べ、簡単である」と言うような主旨のくだりがあったんだけど、ある面では実にその通りで、確かに旋法音楽は(和声音楽に比べ)単純ではある。 もっと言えば、旋法と言う理論体系が確立される前の音楽は更に簡単だったであろう。 だが、シンプルさと、創作性は単純な比例関係にないっぽい。

和声音楽は、ある面において旋法音楽より単純で、またある面において難しい。 基礎が単純であるが故に、高度な体系化が可能であるからだ。 和声音楽理論は、誰にでも容易に作曲ができると言う極めて優れたメソッドだが、同時に方法論そのものが曲を作ってくれる面があるので、人間の思考が抜け落ちやすい。


機能和声理論は、ある意味では和声音楽を作るためのメソッドで(後付けだが)、それを理解しさえすれば、概ね誰にでも作曲ができる。 メソッドが普遍的である証拠に、異文化圏(例えばこの日本)にも普及しうる。 プログラムをベタ打ちして作るゲームと、「ゲームを作るゲーム」みたいなものの違い、と言うのは、それが広く共有できる点においても傍証たりうるように思える。 共有できるからこそ高度に体系化されやすい。

ごく一握りの知識人が情報を独占していた時代より、現代の方が人類の進歩のスピードが速いに違いない(何をもって進歩とするかはさておきね)。 webデザイナーなどが一々html打ってホームページを作っていた、インターネットのスタート間も無い頃より、ブログだとかTwitter盛期の昨今の方が、人間の知が集積されやすかろう。

和声音楽って、今明らかに停滞期にあるように思えるんだけど、突破口みたいなのがあるとしたらこの和声音楽の先にあるのだろうかね。 よく分からないけど。


4/2(水)

昨今の日本の恐怖映画みたいなもの、全然怖くない。 私の精神が大人になってしまっているから、「所詮は人のこさえたもの」と言う印象が拭えないのだろう。

しかしその一方、私には古い映画(やドラマなど)が恐く感じられる。 昭和の30〜40年代のものとか、その時代の女性のメイクの質感とか、そこはかとなく恐ろしい。

もし今、四谷怪談の現代版などが、最新の映像技術を駆使して作られたとしても、私には全く怖くない。ある意味自信がある。 もう怖くなさ過ぎて、見るのも億劫だろう。

昭和30年代に作られた四谷怪談、とかなら話は別だ。 実際に映画そのものを見たら、おそらく大して怖くも感じないだろうけど、怖そうな気がしてしまう。

私は、映画そのものでなく、子供の頃に感じた恐怖心こそを思い出している。 世間知により、ある対象への畏怖は克服できても、記憶に残る恐怖は消せない。


4/1(火)

私は、結構多くのいわゆる「権威主義者」を見てきた。 勿論好感は持たないが、好き嫌いの話ではなく、人間がどうして権威主義に陥ってしまうのか、について考えていた。

結論から言うが、早い話が「アタマが悪いから」と言う他ない。 アタマが悪いと言う表現が穏やかでないなら、権威と言う表層部分以外(つまり実体)を理解するに適切な脳を持っていない、とでも言おうか。

一流大学は権威だろうが、権威には権威たる所以ってものがある。 その本質を体感できねば、その人にとっての大学に対する理解は、表面的な権威のみにしか及ばない。 「どうやら凄いらしい」と。 そういう人はしばしば、その権威の部分のみを狙い撃ちして追い求めてくる。


私はいわゆる試験秀才では無いが、学校には一応行っていたから、受験勉強と言うものがどういうものかぐらいは、大雑把には理解している。

まず私が疑問に思うのは、どうしてあれほどに膨大な記憶量を求められるのか、である。 例えば英単語など日常生活に必要な最低限(400〜500くらい?)知っていれば十分だろうし、歴史の年号・人名なんて一々覚えるは必要ない。 事績の内容を理解しさえすえれば、関連する人名なんて自然に覚えるだろうし、年号を知りたければ調べれば良い。 「調べ方」を教えれば十分だ。 難解な漢字だとか、漢字の書き順など覚える必要あるか?漢字ってそもそも象形文字(絵)なんだぞ。 私は別に、受験制度みたいなのを批判したいわけじゃない。 日本社会における学力の審査基準のおかしさが気になっているだけだ。

何度も言うように、アスペルガー・サヴァン症候群などと言われる疾患について、調べていくと分かってくるのだが、ああいうのは大抵言語機能の不具合である。 精神疾患とかにも色々な名前が付いているが、発現の仕方に差が生じているだけで、発生原因は大体同じところだったりする。 自己愛性・妄想性人格障害、なんて言われるものも、程度の差こそあれ、つまりは言語である。 言語機能の脆弱性に因って自己の確立に失敗しているケース。 無論問題のある箇所は、ハード的な部分(臓器としての脳)であったり、ソフト的な部分(後天的な教育環境)であったり、あるいはそれらの複合的なものであったり、色々だろうが。

前にも触れたのだけど、言語(=意識)系統に致命的な不具合があった場合、ある人はその不備を補う形で特殊な機能を発達させる。 アスペルガー症候群の患者などに見られる特殊な才能ってヤツの正体である。 あくまで言語をリカバーするための機能なので、それを踏まえて見つめねばならない。

車椅子生活者は腕の筋肉が異常に発達するが、普通人にその筋力が付かない理由は、単に必要ないからだ。 健康な足があれば、その筋力は必要ない。

人は言語によって意識を形成するし、記憶系統を整理する(ここで言う言語は、単なる文法とか語彙とか、そういう表面的なものではない。言語を司る機能とでも言うべきもの)。 それを何らかの機能によって代替しているのだから、例えばそういう人の「記憶」は、普通人の記憶とは質が違うはずだ。 アスペルガー症候群の患者は、よく「喋るほどに理解していない」と言われるそうだが、当然そうだろうし、「一見、記憶をしているように見えるが、彼らが持つ記憶は、実は一般人の持つ記憶ではない」であろう。

言語機能は何によって代替されるのか。 正確には分からないながらも、運動神経・計数能力・空間把握力とでも言うようなものであると思われる。 それらの機能は「獲得されたもの」と言うより、単に淘汰されなかったもの、あるいは淘汰されざるものが発達、強化されたものであるかと思われる。 どうやらその機能は、あるレベルの言語機能とは同居できないものであるようだが。


偏に脳の機能と言っても、細分化すれば、記憶力・理解力・創造力、などがある。 これらは全部脳の機能だが、例えば芸術家に一番必要なのは創造力だろう(当然それだけではないが)。 学問の世界においても、学者なら創造力が問われるだろうし、学校の先生になるなら記憶力・理解力があれば十分だろう。

受験で、かなりのウェイトをもって問われる記憶力。 これは上で述べた代替機能によって、最も容易に代用が利くもの。 つまり日本の学力審査は、言語に重きを置いていない。 日本人の言語力が、総じて低いからに違いない。 この国において、権威主義者が権威に入り込みやすい理由の一つだろう。

他に抜きん出た記憶量を誇る者が、大学などと言う研究機関に入って、如何程の(創造的)成果が出せようか。 出せるわけがない。 持ち前の記憶力(代替品だが)でもって試験をくぐりぬけることぐらいしかできまい。


物事ってのは、皆それなりに複雑・難解である。 創造には無論のこと、理解するのにも一定の言語力がいる。 言語に不具合を持つ精神疾患などを例に挙げたが、権威主義者は軽度のそれである。


※このページに記載された内容の転載や二次利用はご遠慮ください。

archives


   お問い合わせ先  
 


株式会社 エースミュージックエクスプレス


E-mail(Mailform) -> ClickHere
Tel/Fax -> 03-3902-1455

 
(C) Ace music, exp. Co.,Ltd. (Since2000) All rights reserved.