Staff diary  
スタッフ日誌[2014]

[文 / 益田(制作)]

3/31(月)

スタジオにて。

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他人と急接近したり、仲違いしたり、また仲直りをしたりなど、交友が安定しない人がいる。 当然そういう人は人間関係が流動的になりがちで、若い時分などは常に新しい友人らで周りが囲まれていたりする。 何故そうなるのか。

結論としては、脳の問題と思われる。 言い方は悪いが、ある基準における脳の精度が良くないから、と言う他ない。 理由は以下に述べる。


私が大学生の頃、ある知人に、(私が講義を受けている)ある教授についての感想を述べたことがある。 「話術が巧みで面白い先生だ」と。

ある時同じ知人に、その教授について「講義に遅刻してくることが多く、学生を待たせることなど平気なようだ。酷い時は30分近く遅れる」と言う不満を漏らしたら、その知人、不思議そうな顔をする。「その人、良い先生じゃなかったの?」と。

その人は、たったこれだけの情報を総合することが出来なかった。 その教授を評するなら「授業は面白いが、時間にはルーズな人」。たったこれだけだ。何の撞着も無い。


人間の印象とは複合的なもので、時間軸をも伴う。 人は時にある行動を採り、また時に別のある行動を採る。 それら言動を総評することによって人物像というものは出来上がる。

もし脳に、この時間軸を展開するだけの性能が無く、対峙する人間に総評を下すことが出来なければどうなるか。 「常に最後の感想をもって、人物像が上書きされる」ことになる。 ある時善人だった者が、ある行動によって一転悪人に変わる。 だから関係が一定しなくなる。 そういう人たちは、互いに混乱の中で関係を継続していると言って良い。


第一印象と言うものも、単に直感だけで形成されるわけではない。 人間には歴史があり、脳内には過去に見てきた人間らの膨大なデータベースが存在する。 人は、ある人物に出会った際、そのデータベースを参照しつつ第一印象を形成しているわけで、その判断には一定の合理性がある。

このデータベース(つまり印象を伴った記憶)が脳内に存在しなければ、人は、出会う人物を推し量る基準を持てない(その空白をしばしば願望で埋める)。 だからして、客観的に判断すれば、絶対に破綻するであろう人間関係をいとも容易く構築してしまう。 で、必然として破綻する。破綻すべくして。


3/30(日)

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スタジオにて。 上は東北土産だそうな。

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soundfont周りの環境がうまく整わなくて四苦八苦してたんだけど、ようやく落ち着いた。 それもほぼ完璧に。 やっぱこの規格、このまま廃れさせるには惜しいわ。


3/27(木)

(ピアノの)連弾用の曲を書こうと思って、サンプルとしてのスコアをいくつか見てみた。

楽譜見てみると、意外なほどにプリモ(高音部担当奏者)とセコンド(低音部担当奏者)の担当音域が近接しているのに驚く。 確かに理屈としては、多少フレーズが左右交差していたりしても演奏は可能なはずだが。 相方が異性だったりしたらやりにくくなかろうか。

因みに連弾に相当する英語は無いっぽい。 fourhandsとか言うらしいんだけど、日本語で言うなら四手ってところ。 実際に英語の直訳として四手(よんしゅ)って呼び方もあるらしいが、あんまし一般的でないような気がする。

そもそもピアノって標準的なモデルで88鍵あり、十和音まで出せる(十本の指を使う)ので、表現能力が高い。多分現存の楽器の中でも最高のものの一つだろう。 それを奏者二人で演奏するのだから、非常に自由度の高い楽曲が作れる。 今構想段階だから、うまく行けば1年後くらいには作品も発表できるだろうか。


3/26(水)

宮大工・西岡常一のドキュメント的なDVDを見た。

一応素人でも見られるように仕立ててはあるものの、西岡自身はプロなので、語る内容などはかなり専門的なものばかりになる。 一々の発言内容が分かるから面白いのではなく、プロの真剣さが伝わってくるから面白い。

結局、あらゆるコンテンツの面白さって、実は作者の気分なのではないか。 芸術やスポーツなんてのも、やはり当事者の気分こそが面白い。


西岡の語録で「芸術家から芸術は生まれず、職人から芸術は生まれる」みたいなのがあるそうだ。 私は表面的な意味において、これに賛同し難いが、言わんとすることは解る。

彼の言う芸術の指すもの、つまり芸術の定義が、私の考えるものと違うのだろう。 彼が見てきた自称芸術家はほとんど日本人だったのだろうし。 確かに私も、芸術大学に行く人らなんかより、西岡常一の方が芸術家と呼ぶに相応しいとは思う。


3/25(火)

スタジオにて。 いくつかレコーディングの結果をチェック。 先週はこんな作業が多かったな。

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例の万能細胞の一件。共同研究者の一人と思しき人物が、マスコミの取材に対し「俺は確かに見たんだから事実だ」みたいな見解を(憤慨交じりに)述べていた。 その後、その御仁、謝罪文に名を連ねていたようなので、認識も微妙に変化しているのかもしれない。

私にとっては、その事件なんてハッキリ言ってどうでも良い(よく分からん分野の話だし)。 私が気になったのは「見た」と言う事実に如何程の証拠能力があるか、である。

まず上の件で言えば、いくら見たと言っても「どの工程を見たか」によって結論は違ってきて当然だ。 しかしそれより何より、人間は妄想もするし幻覚も見る。 特に上のような「あって欲しい事実」に対する目は、往々にして曇る。

あんまし世間では常識とされていないようだが、人はしばしば「見たいもの」(あるいは逆に「見たくないもの」、つまり意識に色濃く存在するもの)こそを見る。 だから幽霊だって宇宙人だって見てしまうんじゃん。 「俺は見た」なんて全然大した証拠能力無いよ。


3/24(月)

スタジオにて。

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一般的に、未来のことは分からないとされているのだけど、ある幅を持った観測であれば成立しなくも無い。 未来は、それを映し出す個人個人に色々と事情が存在するから見えにくくなっている面が濃厚だ。 分かりやすいところで言えば、願望とか。これは未来をかなり見えにくくする。


論文作成で不正を働いたとかいう女の人が、世間からのバッシングを浴びていたりするらしいのだが、私はつい最近、とある大学教授がその人を擁護する論陣を張っているの見かけた。

細かい内容は覚えてないが、「論文にある研究成果がこの先、実証されるかもしれない。されない確証はない」とか、「論文と言うのはそもそも逆説的なものだ」とか、剽窃行為について「科学論文の内容と言うのは客観的事実で、一般的に共有されるべきものである」とか、「再現実験が成功しないのは、各研究所が使う水道水の、ごくごく僅かな水質の違いなどが影響している可能性だってある」などなど。

まあ理屈と膏薬はどこにでも付くと言うし、確かにそうとも言えなくもない。 ただ、私個人の率直な感想としては、上の大学教授の見解、穿ち過ぎだとしか思えない。 私はその論文を発表した女性に対して、別に悪感情など持たないけど、公平に見て、単に捏造行為を働いたと考えれば一番疑問が残らない。 また、論文の内容(研究結果)は共有されるべきであっても、語り口(センテンス)を丸ごと拝借することとそれは次元の違う話。

多くの世人らの態度は、要するに不誠実な者に対して示された拒否反応だろう。 不誠実な者は社会に弊害をもたらしやすいので(秩序を乱すと言うだけでも十分に弊害なんだろう)、共同体はそういう者を、排斥の態度をもって迎えがちだ。 その態度自体には一定の正当性・合理性があるので、世論の尻馬に乗るだけのような人も多いのだろう。 時と場合によって、その手の便乗者は確かに鬱陶しい。

上の大学教授の態度は、世間の多数派のいわば「逆張り」と言える。 「こんなに世間の非難を浴びている彼女だが、私は理解しますよ」と。 彼の立場(論文の審査員などを務めることもあるそうな)がそう言わせる部分もあるのかもしれないが、要するに「私には分かる」と言う、自己の特殊性に対する信心のようなものが、彼の物の見え方を蒙くしているように見えた。


「多くの可能性がまだ残されており、確定的なことは言えない」←ある面ではこれも事実。 だが同時に「平明な感覚を持ってして事態を見渡せば、単なる不正行為であるのはほぼ疑いの余地がない」←これは常識的感覚。 この常識を基礎に物事を眺める方が、より正確な未来が描けると思うわけですね。私などは。


3/23(日)

スタジオにて。 最近、広瀬沙希の売り上げがジワジワ増えている。ありがたいことです。

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漫画や小説などの、「単一の作者の手による作品」を読む時、子供の頃に比べ、明らかに見方(感覚)が変わっている面がある。 それは登場人物の性別について。

昔は男性作者が描いた女性キャラクターが、普通に女に見えていたが、今は違う。 男の頭の中から出てきた女性モドキにしか見えなくなってしまっている。 女性作者の描く男性キャラクターも全く同じ。 だからして、男性作者の描く(女の)お色気シーンなど、むしろ気持ち悪いものにしか感じられなくなってしまった。 だって、オッサンの想像した世界であることは間違いないんだもの。


3/20(木)

昨日今日言われはじめたことじゃないけど、日本は学歴社会だと言う。 わりかし「良からぬ傾向」みたいな文脈で語られることの多い用語だ。 実際に社会人になってしまった立場から言わせてもらうと、世の中さほどに学歴なんてものが通用するほど甘くない。 ある一部の特殊な現場以外ではほとんど考慮に入ってこないように思うが、学歴の信奉者自体はまだまだしぶとく残っているのだろう。

私は、学問を究めることが悪いとも思わないし、各学校が入学希望者を学力で選別することも悪いと思わない。 しかし現状の日本ではその選考作業が不正まみれになっているようで、このままでは学歴社会の神話が崩れてしまうのではないかとは思う。

私の言う不正とは、試験でのカンニングやいわゆる裏口入学の類だけを指しているのではない。 合法的裏口入学とでも言おうか、訳の分からない推薦制度みたいなのこそその最たるものだと思っている。

人間、悪事を悪事だと思っているうちはまだモラルの崩壊は起こっていないと言える(悪事そのものがいくら起ころうとも)。 本当のモラルの崩壊は、人々の心が、それを悪だと感じなくなった時に初めて起こる。

偏差値70ある大学にレポート提出と面接だけで合格する人がいるらしい。 ちょっと聞いたところによると、日本のほぼ最高レベルの私大でも、もう既に一般入試経由で入学する者は半数以下(酷いところでは3割とか)のマイノリティーになっていたりするらしい。 内実、表向きの偏差値と実情の乖離が甚だしかろう。

どうしてこういう現象が起こるかと言うと、学歴が階級章になり果てているからで、つまり階級の証として学歴が狙い打ちされているからだ。 挙句の果てに、大学などは中身が腐り果てるほどに食い荒らされてしまった。 現状、(時に少数派である)一般入試組の学力(のブランド力)に、その他多数の不正組が便乗している状況と言える。

そもそも高偏差値の学校は、学力のある者が行くところだったので、合格者らが世間からの羨望のようなものを集めがちだったのだろう。 羨望を集めるその威光の部分だけを狙い求める者らが大挙して押し寄せた結果、それらの学校の多くは、実の部分を骨抜きにされてしまった。

私はこういった現状に対して、憤りのようなものを発動させるほどにヒマではないが、学歴社会は実体をここまで荒廃させてしまっている以上、元々あった権威がやがて値崩れを起こすのではないかという気はする。 既に起こしているのかも。 こういうことは一種の必然だからね。


3/19(水)

soundfontってなんてデリケートな代物なんだろう。 ちょっと制作環境変えただけで、不具合が頻出する。 不具合の代表的なものとして、音抜け・モタり、なんてのがあるんだけど、PCのパワー不足なんてのは理由として考えにくく、強いて言うなら、古い規格なんで昨今の環境との相性が悪いのだろうか。

プレイヤーをいくつか試してみると、レンダリング後に出来上がるオーディオデータがそれぞれ違う。 まあこれは当然として(各プレイヤーがそれぞれ違う構造を持っているのだろうから)、同じプレイヤーでもホストが変わったり、あるいは同一ホストでも出力する度に、出来上がるデータが違うのはどうしたものか。 波形編集段階で視認できるレベルの違いが生じているんだもの。

仕組みとしては、断片的なオーディオデータをMIDI信号をトリガーに発音させているだけみたいな単純なものだと思うんだが、どうしてこんなにもトラブルだらけなんだ。 最近は使っている人も少ないと見えて、関連情報が少ないってのも余計事態を難しくしている。 私はあれをとても重宝していて、あれ無しでの制作環境なんて今のところちょっと考えられない。


3/18(火)

スタジオにて。

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いわゆる幕末の日本の外交史を眺めていると、江戸体制と言うのは倒れるべくして倒れていると思わざるを得ない。 それほどに当時の徳川幕府ってのは諸事拙劣である(まあ人類規模で見れば、同時代の他の政権に比べ、評価できる面も勿論ある)。

まずいわゆる鎖国(海禁政策)については、ある意味当時としては仕方のなかった面もあるような気がしないでもない。が、例えば漂流民を届けにやってきた外国船などの扱いがにべもなかったり、あるいは漂流民そのものの受け入れを拒否したりなど、どう考えてもまともでない振る舞いが多いと思わざるを得ない。

そもそも当時の日本に「人権感覚」はないが、彼ら(幕府のお偉方)の心理はそれだけで語り尽くせない。 漂流民は、自らが望んだわけではなかろうが、外国社会をその目で見てきてしまっている。 そのことが幕府サイドには引っ掛かった。 「漂流民などと言うが、奴らはスパイではないか」、「外国での見聞を国内で広められでもしたら、良からぬ結果を生むのではないか」などと。

これは徳川幕府が一種の基本方針として隠密の類を重用したことと無縁ではないだろう。 人間は自分をベースに他者を推し量る。 ろくでもない者は自分のろくでもなさに苦しめられる。 それにしても当時の幕府は、よほどに我が体制に自信がなかったと見える。 近い将来、倒れてしまうのにも頷けてしまう。 支えている当人らこそが、その体制に自信が持てない程度のものなんだもの。

今の日本も、あんまし日本人自身が胸を張れる社会じゃないのではないか。 これから先、この社会がどうなって行くのかなんて私には分からないけど。 まあいくら社会が制度疲労を起こしていても、それを覆す思想が無くては革命も起こらないがね。


3/17(月)

佳乃、レコーディングでした。 今回の曲は以前シングルのタイトル曲として発表したものを、アルバム用に再録しています。

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変奏曲みたいなのを作ろうかとボンヤリと考えていた。 ただし、作ろうとしているのは歌物なんで、主題を「変奏」とかいうほと極端に弄るのではなく、もう少しマイルドな展開を考えている。 数小節くらいのフレーズを、微妙な展開を持たせつつリピートするだけ、みたいなの。

しかしPOPSって、本当に極端な仕様が見られない。 商業音楽っていう縛りは、案外音楽を保守的にしてしまうものらしいね。 私は音楽家として売れてないわけだけど、足枷になるような制約が少ない環境で創作できるってのは助かる。


3/16(日)

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スタジオにて。

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組曲っぽいものを作りたいと考えているのだけど、ああいうものって必然的に長くなるからどうしたものかと。

イメージしているのはバッハの無伴奏のチェロ組曲とかパルティータとか。 ああいうものの中の一ブロック(アルマンドとか)が数分程度あるので、どうしても全部で数十分とか、短くても十何分とかになってしまう。 POPSとしてはちょっと長過ぎだ。

各ブロックを一分以内くらいに収めてしまえば、辛うじてPOPS的な尺に収まらなくもないけど、あんまし慌ただしいのもどうかと思って。 完成のイメージがまだ遠い。


3/14(金)

新たな万能細胞が発見されたとか、どうもそれが眉唾物であるとか、そういう報道が相次いでいる。 発見が事実であったなら、人類規模での大発見で、ノーベル賞も間違いないと言われていたそうだ。

私はこの手のことについては全くの門外漢で、発表された論文などについても、内容を検証する能力が無い。 が、状況から察するに、おそらく嫌疑が生まれるのも止むを得ないほどに胡散臭い。 しかし私にとってそれはどうでも良い。 私が関心を持って見つめているのは、それを発表した中心人物(♀)の人格である。


発表された論文は、内容(画像・文章)に不自然な点が満載であると言う。 更には、その人(発表者)が過去に作成した博士論文にまで世間の関心は及んでいるらしい。 早い話が、博士論文も怪しいところだらけだそうな。

上の疑義が事実であるなら(事実だろう)、博士論文どころか、それ以外の論文、修論・卒論だとか学部生時代のレポートだとか、そういうのもおそらく全部怪しかろう。 その人にとって、剽窃・捏造などは生きる手段であって、人生とは、そういう小さな嘘を息を吸うが如く重ねてきた結果だろうから。

その人には相応のペナルティが科せられてしかるべきかと思うが、私自身は、その彼女に対して、個人的な悪感情を持たない。 虫が湧くのは湧いてしまう環境があるからで、湧いてしまった虫の一匹を殺したところで別の虫が湧くだけ。 これは社会の問題だ。


音楽などをやっていても、音楽が好きなわけでなく、音楽家や歌手と言う肩書を別の目的に使いたくて、この世界にエントリーしてくる人を見かける。 つまりはスノッブである。 学問の世界など、ある意味では最も多くその種のスノッブを抱えてしまっているだろう。

スノッブには作りたい音楽像など無い。 音楽家として評価され、賞賛される自分像のみを脳裏に描いている。 それを得る手段として音楽制作に手を染めるのだが、確かに目的こそ違うものの、表面的な行動(作曲など)は一般の音楽家と同じだったりするので、ある人にとっては見分けがつきにくい。 結果、本当に賞などに与ったりすることだってある。 審査も人間がするものなので、常に万能ではない。

世の中には色々な人がいる。 スノッブもいてしまう。 欧米社会にだって当然いるのだろう。スノッブと言う言葉が存在するのはその動かぬ証拠と言える。 結局そういう人種が存在してしまう以上、どの世界にもその人らは混入しうる。 学問の世界のみならず、芸術や政治の世界にだって混ざっているだろう。

済民・創作と言った本質でなく、むしろこの「混ぜてもらうこと」こそが真の目的であるが故に、むしろそういう人らは「その世界に入り込む」と言う果実をとりあえずは得てしまいがちだ(最短距離でそこに向かってくるのだから)。 だから、入り込んでしまうこと自体は仕方がない(避けようがない)。問題はその人らが、入り込んだその世界でどのような処遇を得るか、である。 そこがその世界の健全さ、自浄能力を測る物差しになる。

スノッブたちは、うまく入り込んだその世界で「居辛さ」を感じねばならないはずなんだ。 異質であるはずなんだから。 もし環境がそれを感じさせないのであれば、その環境こそが疑わしい。 スノッブの温床として、その体質を取り返しがつかないレベルにまで腐食させているのではないか。

もし音楽の世界がその種のスノッブの巣窟となり、音楽界の中枢を占める重鎮らがスノッブのみで構成されたりしたら、当然その世界は輝きを失うだろうし、憧憬の対象にもならず、優れた後進も望めなくなるだろう。 今もうそうなりかけているのかも。 今回の彼女が科学の世界の中枢に居座っているところを見るだに、あちらの世界もその腐敗が深刻であると見える。

賞賛の為に音楽家を目指す人が作る作品のように、彼女にとっての論文とは、研究の副産物ではなく、単位・学位、名声取得の為の道具だったろう。 学生の書く論文なんてのも、その多くは、担当教授などから単位をもらう為だけのものだろう。 そういう感覚で作った論文で、査読者を欺き学位を取り、人事を欺き研究者になり、挙句の果てには世界を驚愕させる発表に至った。

彼女は捏造行為を行ったというより、彼女にとっての論文作成とは、そういうものだったのだ。 つまり、体裁を整えて査読をパスすること、こそが論文作成だし研究であったのだろう。 その結果、どういう成果が生まれるとか、人類にどのように寄与するとか、そういう事なんて考えたことすらきっと無い。

「表面行動こそ似ているものの、違う目的を抱えている人」が巻き起こすであろう失態の、考えられる典型的な一例が今回の一件と言える。 彼女にとっての研究は、彼女の中にあるものでなく、彼女の外を飾るものでしかなかった。 これは彼女を責めても仕方ない。 彼女は自分の中に、何かを宿す媒体ごとおそらく持ち合わせていなかったろうから。

「ノーベル賞受賞確実な、人類規模の大発見」なんてのをブチ上げてしまったばっかりに、それは「Natureの審査をパスしたら終わり」なんて次元の問題でなくなってしまった。 お気の毒に。 彼女は本当にビックリだろう。 今の今までそうやって生きてきたのに、今回だけ何故これほどの非難を浴びるのか、本気で分からないと思う。


賞賛を得る為に音楽を作る人にとっては、盗作など「バレなきゃOK」に違いないだろう。 目的が違うのだから、外見は似てても精神はまるで違う。 彼女が今に至るまで事無きを得てきたと言う事は、彼女の周囲に「彼女の正体」を見抜いた人が少なかったという事なのではないか。 だとしたら悲しいことだ。

恋をしたことがない人は「自分が誰かに恋をしているか」が、分からないだろうし、目の前にいる他人が「誰かに恋をしているのか否か」も分からないだろう。 誰かを好きになって初めて、誰かを好きでないことも分かる。 本物には、本物と贋物の区別がつくが、贋物にその区別はつかない。 私は、彼女その人より、彼女を育んできた環境こそを嘆いている。 この国が衰退していることを象徴するような事件だ。


起こってしまった事実はもう取り返せない。 問われているのは対応だし善後策。 だからこそ彼女の周囲は、決して彼女に寛大な処置を下すべきでない。 若かろうが女だろうが関係なく、厳格な態度で臨まねばならない。 それができず、周囲が彼女を庇うようであれば、失った信用を取り戻すのは難しいだろうし、少なくとも今彼女の属している組織はもう終わりだ。

非難の声を上げる科学者やそういう団体が散見される事には、希望を見出せなくもない。 科学、学問の世界の自浄能力が問われていると思うので、声を上げるべきだ。 本物の学者たち、がんばれ。 結局のところ、彼女のような人を救うのもあなたたちなんだ。


3/13(木)

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私にとっての世界観を言えば、世界には内と外がある。 外ってのはありとあらゆる物質世界。 この私の皮膚や臓器すらも含まれる。

内ってのは精神世界のこと。 これは意識のみをもって構成されている。 携帯電話や何やと言う物質世界を、私は私の内側である精神世界から眺めている。

車だとか洋服だとかアクセサリーだとか、そういうものって全て、私の表面、つまり外側に貼り付いたものに過ぎない。 それに引き換え私にとっての音楽とは、私の中に流れているもの。 つまりこの私の意識と不可分な、いわば私自身。

何度も言ってるのだけど、私は音楽を好きでもあるが、そんな事より音楽に愛された。 音楽が、私の表面を飾るものでなく、私の中で私を後押しするものであるからだ。 私は、私が感じているこの気分を他の誰かにも伝えたくて、作品を発表し続けている。


意識を構成できぬ人間にとって、実は世界は「外」しか存在していない。 自分自身すらもその外に含まれている。 自己(意識)の確立に失敗してそうな人を眺めてみると良い。 自分を外から眺めているかのようであるに違いないから。 ついでに言えば、外から眺めている対象は、自分自身であるし、自分自身でしかない。 世界全てを眺められるパースペクティブは、それはそれで自己の確立抜きでは持てない。

私が届けたいと思っている何かは、物質でないのだから、それが届くための要件として、それを展開できる媒体がいる。 つまり意識である。 メモリーが存在していない対象に、あるデータをロードしようとしているのなら、その行為は無駄なのだけど、私は、その存在していないメモリーを生み出す方法ごと今考えている。 結論なんて出てないけど、きっとこの先、音楽がその答えを出してくれる。 今までだってそうだったから、きっとこの先もそう。


3/12(水)

スタジオにて。

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音楽はスノッブたちの標的にされてしまっている。 芸術とか教養とかの匂いがするからだろう。 芸術的気分は持たない人でも、高尚さだけは感じるのだろうか。 似たものを挙げるなら、学歴がそれだ。 ある意味最も典型的な標的と言える。

大学は研究機関である筈だが、今や階級章になり果ててつつある。 標的にされ、ある部分は腐敗し、ある部分は膨張し過ぎたが故に。

何故人は学校に行くのかと言うと、それは「人生を楽しくするため」である。 学問も交友も、全ては人生を楽しくするためのもの。 趣味も恋愛も、芸術だってそう。 人生を楽しむための道具に過ぎない。

世の中には、いわゆる教育ママみたいな人種がたくさんいる。 そういう人に育てられた子供は、かなりの高確率で似たような世界観を持つ人に育つ。 スノッブはスノッブを拡大再生産するんだ。 私はそれを一種の社会悪だと思うけど、その教育ママ個人だけが悪いのかと言うとそんなこともない。 彼女らは彼女らで、ある世界観を持つが故に結果としてそういう行動を採る。 世界観は、その人の感性だけに由来するものではないから、半分はこの社会のせいなのかも。

「罪を憎んで人を憎まず」と言うけど、本当に個人を憎んでも詮無い。 虫が湧くのはそれに適した環境があるからで、湧いた虫の一匹一匹を殺したって仕方ない。 放っておけば、また同じような虫が湧くだけ。

スノッブになってしまう人ってのは、おそらく自己の確立に失敗しているのだと思う。 自己、あるいは意識。 精神疾患の類について調べていると、大抵その原因は言語機能にある。 自己・意識・記憶、そういったものを構成するものが言語である。 私の今のところの解釈では、スノビズムは軽度の人格障害である。 日本人のマジョリティだったりするものだから、異常な症例だと認識されてすらいない。 どうしたらいいんだろうね。


3/11(火)

スタジオにて(影山リサ)。

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普通タイトル(題名)ってのは、その作品の内容を要約するものである。 だから、作品全体に比して、あまり偏ったものはつけるべきでないと私などは思うのだが、数々の事情により、常にそういう理想的な命題ってできない。 分かりやすい例として、同一アーティストの複数のレパートリーに同じタイトルなんて付けられない。 そのほかにも色々事情は発生しうる。

総合的な事情により、最も適当なタイトルが付けられず、次善のそれに落ち着くことはしばしばあるのだが、そのアンバランスさが時々気持ち悪い。 今まさにそういう作品を抱えてて、色々アタマを悩ませている。

「嗚呼玉杯に花うけて」って曲、ご存知か。 それなりに有名な曲なはずだが。 実はこのタイトル、通称であって正式名ではないそうな。 しかしそのことを知った時、さもありなんと思った。 バランスが悪いのである。 上の通称、歌いだしの部分の歌詞を切り取ったものだが、最後まで文章を読むと、全くもって作品全体を表したものでないことが分かる。

今抱えているものってのは、あそこまで極端ではないものの、症状としては似ている。 他の事情も存在しているだけに、単純に最適な題を付けるってわけにも行かず。 このまま行くべきか悩む。


3/10(月)

神田優花、また新しい曲の制作に入ってます。

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「男はつらいよ」シリーズを見ていて見逃せないのは、主人公寅さんがいわゆるヤクザであると言う基本設定だ。 主題歌でも「どうせおいらはヤクザな兄貴」などと歌っているが、あれは比喩的な言い回しとかではない。

寅さんは職業も「テキ屋」で、まごうことなきヤクザである。 作中ハッキリ語られることこそ無いが、多分何らかの組織にも属しているはずである。でないとあの手の商売なんてできないはず。

実際、初期の作品などでは、寅さんが極道仲間と酒盛りをするシーンや、登場人物のセリフの端々から、彼が「ヤクザである」と言う設定が紛れもなく読み取れる。 シリーズが進む(現在に近づく)につれ、その設定は影を潜める。と言うか、あんましその辺について言及されなくなる。 時節柄、止む得ないのか。

キャラクターが日本人に愛され、主演の渥美清は国民栄誉賞までもらったのだが、忘れちゃいけません。寅さんはヤクザですよ。

そう言えば確かに、ヤクザ物のコンテンツって明らかに減った。 一昔前は、極道物の大ヒット映画とか普通にいくらでもあったのだが、今はそういうヤクザ物って、あってもほとんどVシネマとかそういうアングラな界隈。 私は別に反社会的行為を推奨するわけではないが、昨今の自粛は行き過ぎかと思う。 お話の世界と現実くらい区別しなさいよと。 それらの区別が付かない人間がいるから自重するってのは、社会をアホ向けにシフトしているってことだ。


3/9(日)

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また更新間隔が空いてしまった。 色々ありましてね。 下はスタジオにて。今回から画像のサイズ大きくしてます。

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3/6(木)

「同窓会」は、いわゆるオフ会なんてものと違って、メンツの素性がある程度ハッキリしている。 同じ時間を過ごし、同じ景色を見た者同士だから、分かち合える気分がある(と、少なくとも当人らは思い込んでいる)。 だからそれなりに楽しい。

人は、共有できる気分の分量によって人間関係を構築している。 だからオフ会よりは同窓会の方が楽しい。 人間関係に濃密さを感じやすい。

気分を、最も多くの分量共有する方法は、誠実に生きることである。 明確な目的があれば、誰かと気分を共有することは比較的容易い。 心の中に何も無い人は、「共有できる何か」を持たないので、誰とも親密になれない。 オフ会ですらカテゴリー別で催されるではないか。ああいう集まりだって、一応は何らかの共通点を模索しているのだろう。

多くの人間は、明確な目的こそが持てない。 だから地元だとか学校だとか会社だとかで同じ時間を過ごした者くらいが、精一杯の人間関係になってしまう。 精神の希求により生まれた人間関係ではなく、外的な事情によって発生した人間関係。

同窓会のメンツは、一定の濃度を持つ人間関係だろうが、同時にその程度に過ぎない。 だから毎日同窓会はやれない。 きっと話題も尽きる。 一生に数回とか、その程度が適量だろう。

本居春庭の伝記で「やちまた」ってのがある。 春庭の死後、周りの人らが毎年春庭を偲ぶ会みたいなのを催すくだりがあるんだけど、年々会の参加者は減り続ける。 春庭に人徳が無いのではなく、物事と言うのは宿命的に風化せざるを得ないんだ。 思い出ってのは財産だけど、即ち思想ではないので、なかなか発展するまでに至らないのだろうね。


3/5(水)

スタジオにて。

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英語を知れば気が付いてしまうこととして、濁音(半濁音)・清音の別など日本語特有である、なんてのがある。 日本人は「は」に濁点をつけて「ば」に、半濁点をつけて「ぱ」にするが、英語ならh音とb音・p音はタダの別の音で、派生関係にあるとか思われてすらいない。 他にも形容詞と形容動詞の別なんてのも英語(と言うか多分日本語以外)には無い。 

確かゲーテだったかが、他言語を知らぬ者は母国語を知らぬ者だ、みたいなことを言っていた。 言いえて妙だが、ヨーロッパ人の彼の考える他言語って何語のことだろうか。 まさか日本語や朝鮮語では無いよね。 ドイツ人がオランダ語を覚えて上記の発言に至ったのなら、ちょっと面白い。



神田優花。 ここ最近(おそらく年単位で)、ずっと制作中の新曲を抱えている状態だったんですが、先月で一段落つきまして、やっと今レパートリー(持ち曲)のおさらいをしてます。 新曲作ってばっかで、全然歌い込んでなかったもんで。 まあ今週からまた次の新曲作りに入る予定だけど。

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3/3(月)

スタジオにて。

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私は長い曲が嫌いである。 音楽を聴いた絶対的な時間を言えば、私は平均的な人より長いはずだが、とにかく冗長なものを嫌う。 私が長い曲を嫌う理由は、そこに思考が込められていないケースが多いからだ。 何も考えなかったが故にダラダラ長くなってしまっているコンテンツが好きでない。

例えば7分あるPOPSとか、「そんな尺に必然性あるか?」と問いたくなる。 7分ある曲が悪いわけではなく、その尺に見合うプロットが込められていないことを嫌う。 7分の大作だと言うもんで蓋を開けてみれば、ほとんどリピートで埋め尽くされた、全く必然性の無い尺だったりする。 私はそういうのを聞かされた時に、判り切った説教を何度も聞かされているような気分になるのよね。 人間、残された時間には限りがあるんだぞ。

表現したいあるテーマがあったとして、それを作品化するなら、無駄な部分は極限まで切り落としたくなるはずだ。 そうならないってのは、テーマの輪郭がぼやけているからに違いない。 テーマそのものが、一時間の時間軸を要するものなら、それはそれで良いと思うんだけど、実際そういうものって少ない。

江戸期の端唄・小唄の類は、1センテンスを歌い上げるのに、こんにち的な感覚で言えば、異常なほどに時間を食う。 まあ聴いていられない。 あの現象の発生理由は、脳の処理速度だろう。 PCとかで言うならCPUのクロック。 現代人があれを聴けないのは、単なる低周期のサイン波などを、不必要なほどのハイレート・ハイビットで取り込んでいる状態だからなのでないか。 そんなハイレートで取り込まねばならないほどの情報など含まれていないと言うに。 不必要にメモリーを食いまくるから、全体像の理解に難が生じてしまう。

こんな私だから、ミニマルみたいな音楽には全く食指が動かない。 ミニマル・ミュージックに巨大な可能性を感じている音楽家とかいるらしいけど、どういう理屈なのだろうか。聞いてみたいよ。


英語ではlistenとhearは別の動詞である。 英語が特殊なのではない。現に漢語においても「聴」と「聞」は違う。 日本語ではそれらを一緒くたに「きく」と訓ずるのだけど。 原日本語にそれらの区別が無かった証左だろう。

聴くことと聞くことの違いを感じない民族の作る音楽は、きっと長いよ。 絶対的な時間がではなく、元のテーマに比して、仕上がる作品の尺が。


3/2(日)

スタジオにて。 一枚目はイタリア土産だそうな。

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最近、何だか忙しい。 私は忙しいのがキライなんだけど、まあ最低限、押さえるところぐらいは押さえとかないといけませんものね。 今そういう時期なんです。



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影山リサ、歌入れでした。 声の調子が悪いとかで、一週予定が後ろにずれ込んだんだけど、とりあえず無事録り終えました。


2/28(金)

桂米朝さんの宿屋仇をCDで聴いていたら、下座(三味線)のあるテクニックが耳に引っ掛かった。

話の中に宴会のシーンが挟まるのだが、そこで盛大な囃子が奏される。 その後、場面が別の部屋に変わる箇所があるのだが、そこで三味線の音が急にトーンダウンする。 撥のアタックを抑え、音量を下げることによって、場面の転換を表現している。

上のレトリックを現代的な感覚で再現しようと思うなら、差し詰めオーディオデータを何らかのエフェクトでローファイ化するってところだろうか。 奏者ではなく、アレンジャーかエンジニアの作業領域。

ああいうテクニックって誰が考案するのだろう。 下座の人?噺家さん? 勝手な印象だけど、下座の人ってあくまで雇われ人的な感覚でやってる気がして、ああいうクリエイティブな部分に口出さないような気がするんだけどな。


2/27(木)

何やら言う、学者なんだか医者なんだか、そういう立ち位置こそよく知らない人の寄稿する、精神医学だかについての文章を読んでいたら、「ピカソはアスペルガー症候群であったと言われています」とあった。 そんなアホな。

上の御仁、ピカソとアスペルガー症候群のどちらか(あるいは両方)が全く解っていないんだろう。 物事を理解しない人は、「理解する」と言う機微ごとまるで体感できないから止むを得ない面もあるけど。 それにしても酷い。

ピカソはアスペルガーじゃありませんよ。 私は精神医学の専門家でもピカソ研究者でも無いけど、これだけは断言できる。 ある基準に沿って人類を座標に配置したら、ピカソとアスペルガー症候群の患者は、ほぼ正反対に位置している筈だ。

芸術家が芸術作品を生む原動力となっているものは「言語」である。 ここについて、ある程度以上芸術を理解している人ならば、異論はまず無い筈だ。

アスペルガー症候群は、言語機能に何らかの障害が発生している症状で、つまり言語機能を代替する何かが異常に発達した脳の状態を指すと思われる。 ピカソの語録とか読んでなお、彼をアスペルガー症候群だと思うのなら、色んな意味で勉強し直した方が良いと思う。


2/26(水)

トムとジェリーって有名なアニメ作品がある。 私も子供の頃に再放送なんかをよく見た。 内容はあって無いようなものなんだが、まあほとんどの方はご存知だろう。

あれの音楽(BGM)について、今色々と考えている。 あれっぽいものを作ろうと思っているわけです。 因みに、トムとジェリーはシリーズ物らしくて、いくつかのバージョンがあるのだが、私が思いを馳せているのは最初期のヤツ。

通常のアニメのBGMって、よくサントラなんかに収録されているような短めの曲を、場面場面に配置しただけのようなものが多いんだけど、トムとジェリーは違う。 アタマからお尻まで、完全にアニメーションの動きに合わせて音楽を作っている。 当然無拍節っぽいものになるわけだけど(部分的に拍節音楽になったりもする)、それが一応はオーケストラ編成でアレンジされている。

音楽を担当しているのはスコット・ブラッドリーと言う御仁で、聞くところによると、管弦楽法についてはほぼ独学であるそうだ。 しかし、そこにはさほど驚きもしない。 彼の凄さは、管弦楽法の知識云々なんてレベルでは無いからだ。

しかし当時、あれをどうやって作ったろうか。 今のようなDTM・DAWなんてモノが、実体はおろか思想としてすら存在していなかった時代である。 よくあんなモノを作ろうと思い立ったもんだ。 作曲者も凄いけど奏者らも結構凄い。 作曲技法については、独学であったのもある意味当然である。 彼以前にあんなものを書いた人はいない筈で、教わろうにも教えてくれる相手が存在しなかったろう。

トムとジェリーの制作期って、多分あの手のアニメーションの走りに近い時代だったろうから、下手に先例を聴き過ぎてなかったのが良かったのかも。 「アニメのBGM」の先入主が濃厚にあってしまうと、あの発想にはなかなか至らない気がする。

色々調べているうちに、段々あれが完成していくプロセスが理解できては来た。 それでも「凄い」と言う感想は変わらない。 私が今試みている「DTMレベルであれを再現する事」は、間違いなく数等簡単なのだが、それでも結構時間が掛かっている。 当時あれの一話分のBGMを作るのには、どれだけの時間が掛かったろうかね。 クレイアニメ「ピングー」は、一話(5分)を作るのに、大体一ヶ月掛かってたとか聞いたことあるけど。


2/25(火)

スタジオにて(影山リサ)。

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何だか今更だが、「才能」って何なのだろう。 一般的な定義としては、希少かつ優れた性質ってところだろうか。

希少は分かるとしても、優秀性の定義がこれまた分からない。 如何なる条件をもってして秀でているとするか。 私は、世のいわゆる才人らを眺めていて、確かに才能だと感じるものもあれば、それとは異なる性質のものだと思うものもある。

ぶっちゃけて言うと、浮世で才能だと言われているものの多くは、実は優秀性と言うより、脳などのある身体機能が決定的に欠けているが故に、そこをリカバーする形で補強されただけのものではないかと思われる。 皮膚が傷付けばそこに瘡蓋ができるとか、車椅子生活を続けている人の腕筋が発達する、と言ったように。

瘡蓋は傷を保護するためのもので、傷がつかなければそもそも必要の無いものである。 多くの健常な皮膚にはそれが付いていないから特異に見える。 事実特異なのだが、それを才能とするのは、物事の把握のし方として本当に正確なのか。

筋肉なども、日常生活に必要程度であればそもそも備わるもので、異常な筋肉の発達はそれを促す条件があってこそのものだろう。 その条件とは、上の例で言えば、ある機能の欠損・欠落。 それを補う為に発達した身体条件なのだから、そもそものニーズを十全に満たしているかすら怪しいのだが、通常とは異なる条件下においてある機能を成立さしめようとしているだけに、標準的外形をなしていない。 これがあたかも「才能」であるかのような錯覚を誘う。


私は、サヴァンやアスペルガーなどと言った諸症候群について、理解を進めるうちに上記結論に至った。 多分間違っていない。

その種の人たちは、通常人が言語で処理する思考・記憶系統などを、全く別の機能(例えば運動神経など)で処理しているが故に、時に通常人には俄かに信じがたいような現象を見せる。 しかし元の言語などの機能が欠落しているが故に、本来言語で処理すべきもの、例えば芸術などにおいて、そういう「才能」には限界が見えている。 と私は思います。


2/24(月)

神田優花、レコーディングでした。 今回の曲は、あまりに今までの作品とカラーが違ったんで、随分時間が掛かってしまいました。

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西洋音楽ってのは、ある意味実にシンプルだ。 ベースがシンプルにできているからこそ、高度に体系化できる。 この辺、言語そのもの(英語など)にも似ている。 日本語も、その所産である日本音楽(J-POPではない)も、モダリティの部分が大き過ぎて体系化しにくい。 日本の諸技術がしばしば師承・秘伝になってしまうのは、テキスト化しにくいからではないか。

言語力と呼ばれているものはいわばメモリーで、発想・思考を保持する機能となる。 基礎部分が単純でなければ、レイヤーを重ねる段階でエラーが生じやすい。 西洋音楽の作曲家たちがオーケストラのスコアを脳裏に描けたのは、当然西洋言語と無縁ではない。

私は日本語を、かなり優秀な言語だと思ってて、あれを使いこなすことさえできれば、英語などよりよほどに高度な概念・芸術を生み出せるのではないかと思っている。 ただ、シンプルでないから扱いにくい。


2/23(日)

スタジオにて。

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忙しさについて。

今の私は、日々忙しいと言えば忙しいが、時間があると言えばそうとも言える。 音楽作りに脳のリソースの大半を割いてはいるが、さほどスケジュールには追われていない。

私は週のうち、2〜3日くらいはモノを考える時間に当てている。 「がっつり休んでるじゃん」と言われると困る。 考える時間を挟まねば、実作業に移ろうにも移れないんだ。 音楽作品ってのが思考の結晶だから仕方ない。 このあたり、やらない人には説明しにくい。

これだけの時間を考えることに割いていながらも、いざ実作業(特に作曲)に入ってからも、私は頻繁に休憩を挟みつつでないと作業が進められない。 私の取り組んでいる作業が大変なものだからなのか、単に私の頭が悪いのか。 おそらくその両方だろう。


若い人なんかにはよく「多忙な人」がいる。 抱え込んだスケジュールに忙殺されている人のこと。 私も若い頃は、今に比べれば下らない用事に時間を取られていたし、大学生くらいの頃は、周囲に「多忙な人」をよく見かけた。

そういう人らって、「やるべきこと」に追われているのかと言うと、まあまずそんなことはない。 大抵、サークルだのバイトだの飲み会だの、下らないことを抱え込み過ぎているだけだったりする。 本来「すべきこと」を選別できないが故に、時間の大半を無為に過ごしているだけであるケースが圧倒的に多い。

色んなものに手を出すのは、即座に悪いことではない。 私だって、若い頃は色んな下らないものに手を出した。 下らないものに手を出すことによって、それが下らない事を知る。 それを知ったことにより、自分にとって下らなくないものが何なのか知ることができる。

私は今まで、大切なものが何なのかを知る為に、随分下らないものに手を出してきたし、これからもそういう事はあり得るだろう。 でも、もう随分その手の対象も減ってきた。 私だって学習するからだ。

いつまで経っても、下らないものを山ほど抱え、日々忙殺されている人は、結局自分にとっての大切なものを選別できない人なのだろう。

本当に好きなことがあるのなら、もうそれ以外の何かなんて邪魔でしかない筈だ。 私は作品を作る為に時間が必要だから、今の自分に十分なそれを確保すべく努めている。 音楽を作ることが好きだから、四六時中そのことを考えているので、何にも拘束されない休暇なんて存在しない。

私にとって、時間の効率は死活問題だ。 私は日々過度なスケジュールに拘束されたりしないが、無意味な時間だって持たない。


2/21(金)

滝田ゆうと言う漫画家の作品に「あしがる」と言うのがある。 私はこれを子供の頃に読んだ。

ある足軽(百姓上がりの侍)が、上司に切腹を命じられる。 「名誉の死」を賜ったと。 足軽本人はあれこれ悩むのだが、結局は渋々切腹に臨む。

上司(家老連中)を前に、腹を切った時、足軽はその痛みにのたうち回る。

実はその切腹、足軽本人には伝えられてなかったのだが、何らかの実験・リハーサルのようなものだったらしく、上司らは「やはり足軽は使い物にならんな」と、「これが公儀の前だったら事であった」などと、絶命しつつある足軽を尻目に席を立つ。


世間での通りの良い学校を出ることや、お堅い職に就くことなどは、自らがそれを欲していないのであれば、それはつまりは名誉の切腹と同じようなものだろう。 自分で選んだのであれば、どんな成れの果てにでも、人は満足できるはず。


2/20(木)

私が音楽に関わる理由は「音楽が分かっているから」ではなく、むしろ「音楽が分からないから」なのだろう。 謎を感じるからこそ掘りおこしたいわけで、要するに私は、音楽こそがきっと一番分からない。

では、「分かっているものなんてあるのか?」と問われるのならば、当然ありますよ。 例えば「金」。 あれをどれだけ手に入れたら、どういうことがどの程度実現できて、挙句どういう気分が味わえるか。 ある程度の想像はつく。 少なくとも音楽よりは分かっていると思う。

音楽と言うが、つまりは我が心のことを言っている。 我が心を知るために、音楽と言う道具を使っていると言うこと。 私は結局のところ、宇宙よりも私自身のことが分からないし、知りたい。


2/19(水)

スタジオにて(川村真央)。

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人間の価値とは、その人自身が自分に感じた価値のこと。 「誰一人として他人を信用できない」と言う人は、自分のことを欺かれるに相応しい人物と見做している。 これは間違いない。

どうすれば人は、自分に価値を感じることができるのか。 自分に価値を感じる方法、それは未来を想い描くこと。 将来有望な会社の株価が高騰するように、鮮やかな未来を想い描ければ、その人は自分に価値を感じられるはず。

「鮮やかな未来像って何?」って言われても分からない。 それこそが、その人固有のイマジネーションの生み出すものだから。

ただハッキリ言えることとして、「私の将来の夢は弁護士になることです」みたいな未来像には、誰しも価値を見出しにくい。 何故なら、「司法試験に合格すれば弁護士になれる」と言うのは、判り切ったことだから。 「\500払えば牛丼が食える」なんてのと本質的に変わらないもので、そこに夢なんてものが入り込む余地は無い。

夢の無い人は、無理に夢を持とうなどとするより前に、夢とは如何なるものなのか、よく考えてみると良いような気がする。


2/18(火)

大黒屋光太夫について、色々と考えていた。 本とかDVD見たりして。 有名な映画「おろしや国酔夢譚」なども見たけど、どちらかと言うと史実(と言うか定説)に忠実なものを中心に眺めている。

遭難し、飢えや寒さと戦いながら最後には日本への帰国を果たす光太夫(とその連れ二人)。諸資料を読み進めて行くだに「漫画じゃあるまいに、そんなに物事常に上手く行くかしら」などと訝しく思えてならないのだが、あれは一応厳然たる史実である。 北槎聞略などを始めとして、わりかししっかりした史料が残っている。

そのそも江戸体制下では、船の遭難事故ってものが多かった。 制度の欠陥に起因しているので、半ば人災と言って良い。 奇跡を繰り返す光太夫一行だが、たまたま奇跡を繰り返した連中だったからこそ歴史に名を残してしまった面が濃厚で、その背景には無数の帰らぬ受難者がいたと考えて間違いない。 特に遭難した船の中での日々など、想像したくないくらいだ。

感心してしまうのは、当時のロシア人の人道性。 東方系とはいえキリスト教徒であったことが絶対関係しているだろうが、実に慈悲深い。 その後ソ連のような体制を同じ民族が作ったなんて、俄かに信じられないくらいだ。

光太夫が無事帰国できたことに、数々の奇跡が寄与していることは間違いないだろうが、光太夫本人の資質も大きく関係していると思われる。 光太夫は江戸期の一町人(船乗り)だったが、一応船頭はれるくらいの人物であったし、寺子屋レベルではあったろうが、読み書き算盤程度のことはできた。 ある程度の読書も経験していたような形跡があり、当時のその階級においては一応の教養人だった。

局面局面における諸判断が概ね的確であること、また女帝エカテリーナに拝謁し、一連の受難について語ったと言われるが、当時の日本人で、そういった体験、そこについての感想をそのように正確に言語化できた人がどれほどいたろうか。 おそらく、こんにちの日本においても少ない。

当時のロシア人は光太夫に同情した。 つまり、光太夫の精神に共感した。  遭難したのが大黒屋光太夫その人でなかったら、きっと結果も随分と違ったはず。 事実、ロシア体制下での光太夫一行に対する処遇も、光太夫とそれ以外の人らに対してでは差がある。 欧米人は伝統的に、感情の起伏を持たない人物に人権を感じない。 今でもそうだ。


2/17(月)

神田優花、スタジオにて。

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こういう作業を長々とやってると、当然ぶつかりやすい壁ってものがある。 金だとか年齢だとか。 別に歌い手さんに限った話じゃない。 裏方にだって同じような壁はある。

音楽なんてコンテンツを売るだけの単純な商売なんで、売れれば金になろうが、売れなきゃ金にならない。 金にならない方のケースの方が圧倒的に多いのだから、金儲けを目的としていれば活動は頓挫しやすい。 音楽を作ることそのものが目的ならば、「金にならない」と言うことも、一つの障害として乗り越える手段を講じねばならない。 そんなこと初めから分かり切ったことだろうが。

月並みなことを言うようだけど、本当に価値のある何かってのは、真剣にそれを求めないと手に入らない。 その真剣さには、困難を乗り越えることも当然含まれる。


年齢を気にする人もいる。 まあ分からんでもない。 でも年齢って何だ。

去年の私と今の私は同じ私なのに、勝手に外の世界に一歳の齢を付加された。 私は自ら選択してこの世界に生まれてきたわけではないが、この世界の側が勝手に時間だとか年齢だとかを設定しやがったもんで、私は日を追う毎に年を取り、おじさんになっていくらしい。 勝手にしてくれ。 俺は音楽を作りたいだけだ。

外の世界に押しつけられた年齢と言うレッテルなんかより、音楽を好きだと感じたその気持ちこそが私なのだから、私はそれを離さない。 きっとそれが一番正しい。 みんなもきっとそう。感じる何かがあるなら、それを手放してはいけない。

確かに年を取れば、縁談や就職が決まりにくいってのも事実だろうけど、それにしても要するにそれは相手側が設定した条件に過ぎないわけで、そんなもんの為に生きるのって、いい加減馬鹿らしくないか? 私は私のために生きるよ。


ちょっと前に、運送屋のトラックがバックで道に出る場面に遭遇した。 道路には車がいるのだが、そのトラックのせいで通行を中断させられていた。

気の短い運転手なら「早くしろ」とクラクションの一つでも鳴らしそうな状況だったのだが、待っている車の運転手は全くもって大人しい。 ふと気付いたのだが、待っているその車、それも同じくトラックだった。 つまりその運転手には、目の前のトラックの運転手の気持ち・抱えている事情がよく分かるのだろう。

真剣に生きれば生きるほど、人は心の深い部分で誰かと気持ちを分かち合える。 真剣に生きない人は、誰とも、何らの気分をも分かち合えない。

自分の心に決めた道を、艱難を乗り越えてでも突き進んだ先で、手に入るものはきっとある。 諦めてはいけない。 心配するな。本当に困った時には誰かが助けてくれる。 その「助けてくれる誰か」と何かを共有するためにも、真剣に生きないとね。


2/16(日)

実は先週まで風邪で寝込んでいた、病み上がりの影山さん。

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ごく単純化して言えば、人は損得で行動を決している。 これは何も金銭的なものだけを指していない。

恋人が欲しい人は、相手の経済状態だとか容姿だとかを査定項目に当然入れる。 「優しい人が好き」なんていう人だって、査定項目に「優しさ」を加えているだけで、つまり基準は損得である。

自分を高く値踏みしている人は、相手を選ぶ。 より良い条件を得られる可能性を模索しているのである。 誰だって損はしたくない。


だからある人が、他人の感覚では信じられないような行動を採っていたとしても、それはその人なりに得をしていると考えて良い。

「どうしてそんな人と付き合うの?」→その人以外相手がおらず、その人を選ばねば、誰一人として異性が相手をしてくれない人間だと思われてしまう。それだけは避けたいから。など。 つまりそんな相手でも付き合わないよりマシ。

「どうしてそんなキツい肉体労働をするの?」→考えることが苦手。つまり考えさせられるより、肉体を酷使する方がマシ。など。

「どうして自殺するの?」→余生に、ある困難を乗り越えてまで生きるほどの価値を感じられず、困難に立ち向かう苦痛を味わうくらいなら死んだ方がラク。など。 要するに皆、その人なりの得策を選んでいる。


人は皆、その人固有の条件の下、最良の選択をする。 結婚指輪をつける人、外す人、各人それぞれに得をする為の方策を選んでいる。 ある人にとってはつけた方が得で、ある人にとってはつけてない方が得なのだ。

例えばいわゆるホームレスについて。 私は、彼らは生活保護などの諸制度の利用を、何らかの理由にて嫌うからこそあの境涯にいる、と大雑把に理解している。 例えば申請手続きの煩雑さとかね。

命を捨ててでも職務を全うする者、いわゆる殉職者だって、その局面から逃げ出すことはできた筈だ。 彼は逃亡者と嘲られつつ生き長らえるくらいなら、敢えて死を選んだ。 その人にとってはそちらの方が得だったのだ。

「○○大学に行きたい」とぶち上げてみたが、受験に失敗した挙句、適当な別の大学に進学する人は、「何年浪人してでも、机に噛り付いて合格するまで勉強し続ける」なんて道を選ばなかった。 そこで妥協した方が得なのだ。


人を動かすものが「未来」であると言うことが理解してもらえるでしょうか。 想い描く未来が巨大であったなら、人は万難を排してでもその未来を手に入れに行く。 努力と引き換えに得られるであろう成果に、その努力に引き合う程の魅力が無かった場合に、人は挫折する。 想像力こそが、その人を動かす。


2/15(土)

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スタジオにて。 また雪積もってるよ。

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就職が決まらない理由。 世の中は随分長いこと就職難で、ハローワークには失業者が溢れ返っていると言う。 私の学生の頃から既に就職氷河期とか言われていた。

本来仕事と言うのは、需要が下支えするものであるはずだが、そういった種類のものであればあるほど忌避される傾向にあるように思える。 やりたがる人が多い仕事って、あんまり社会的な貢献度の高くないものが多くありません? 全てとは言わないけど。

作業がラクで安定してて給料が高い仕事場、そういうものって数限りなく存在するわけじゃない。 椅子の数が限られるから、コネだとか学歴とか、とにかく何らかの基準にて希望者の選別が行われる。 選考からはねられてなお、その種の職に拘泥する人の曰く「就職難」であると。

例えば原発事故の処理作業員は、確実な需要に支えられた職だろうけど、どう考えたってなり手は少ない。 まあそこまで極端な例でなくとも、例えば運送会社の運ちゃんは、なり手が少なく人手が不足しているそうだ。

ああいうもの(運転手)には適性ってものがあって、例えば私なんかには全くもって向かないのだが、「やれるだろうけどキツそうだから嫌だ」って人は多かろう。


結論に入る。 多くの人の就職が決まらないのは、「貢献する気がない」からだ。 「この職場にはこういう人材が必要なのか、私ならその役目を担えるのではないか」と言った心持ちにてエントリーしてくる求職者なら、求人側も無下に断れないはずだ(無論採用の枠には限りがあろうが)。 そもそも人が必要だからこそ求人出しているのだろうから。

多くの求職者は、「会社に食わせてもらうつもり」でエントリーしてくる。 貢献する気などサラサラ無く、会社に依存・寄生しようとしている。 だから必要とされない。 そんな人、私でもいらない。

就職にフォーカスして話を進めているが、要するに世の中ってそういうものだ。 恋人ができない人も、友達ができない人も、要は相手に貢献する気が無い。


2/13(木)

想像力が大切な理由。

世界とは、各人が捉えただけのもの。 犬や猫にとって、札束が何の意味も為さないように、人は心に無いものを目に映さない。

私の側に大切な人がいるのは、私がその人との出会いを見過ごさなかったから。 人が偶然に、道端で小銭を拾うことがあるのは、小銭との出会いを見過ごさないから。 つまりその人の中に「金」を映し出す心がありありと存在するから。 野良猫なら小銭になど見向きもしない。

価値のある何かを得るには、偶然にそれを拾うべく徘徊するでなく、ある偶然を見逃さない心の持ち主になるしかない。 それには想像力がいる。 大切な人と巡り合ったことより、そんな人と出会える予感がしていたことの方が遥かに意味がある。

私に想像力が無ければ、今ある大切なものなど、全ては通り過ぎるままに失ったはずだ。 だから、私が今この場所にたどり着いたのは決して偶然ではない。 私のイマジネーションこそがここへ連れて来てくれた。


2/12(水)

欧米社会では、自己の確立は生存必須の条件とされる。 逆に言えば、弱いヤツは生きていけない社会でもあると言うことでもある。 アメリカがあのような訴訟社会になているのは、「少しでも自分に有利な条件を得るために可能な限り騒ぐ」人たちの世界だから。

日本はそうでない。 よく言えば日本人は従順で、日本の犯罪率も伝統的に低い。 どちらが理想的な社会か、私には分からないが。

日本の親は子に「人様に迷惑をかけるな」と教えるだろうが、欧米人は「人に負けるな」と教えるだろう。 アメリカ人は、結構平気で理不尽なことを言う。 アメリカ人だって「理不尽なことを言うな」と教えられもするだろうが、それだって要は「負けない為」である。 非論理では議論や裁判で負ける。 負けぬことが最優先なのだから、時には非論理のその為の手段である。

自己が優先されるのなら、人はバレない嘘は吐くだろうし、誰も見てないところでなら不正を行うだろう。 神との対話の習慣がある程度の抑制を期待されているのだろうけど、神ってのは要は自分だ。 自分がそれを許すのなら、不正は実は不正ではない。

多くのアメリカ人は、あなたが落とした財布を拾えば、きっとそれを懐に入れて気に病まないだろうけど、病気や災害などであなたが苦しむ時には、救いの手を差し伸べようとするだろう。 金は手に入れようとするし、苦しむものは救う。 この「救う」行為に、日本人によくある自己犠牲の感覚は無い。 彼らは自己を削ることをよしとしない。

財布なんてモノだ。 財布に痛むような「感情」などない。 無論財布には落とした持ち主がいるが、それは目に見えず、共感などできようはずもない。 日本人もここは同じはず。


確実に言えることとして、日本社会の方がある面での効率は高い。 訴訟の件数が多くて弁護士だらけの社会なんて、非効率極まりないはずだ。 「ドルを貯め過ぎる」とか「働き過ぎる」なんて日本人はよく言われてきたんだけど、だからこそこれだけ豊かな社会を作れた面は大きい。

集団で生きる昆虫などの生態を眺めていると、やはり実に効率が高い。 一個体が、まるで臓器の一つであるかのように無駄がない。 一個体の生命なんかより集団の利益が優先されているからこその効率で、私の中で日本人のイメージと重なる。

ローマ帝国が滅びたのは、人々が享楽的であり過ぎたからと言われることもある(勿論理由は複合的であるだろうが)。 人間の人間らしさってその享楽を求める部分にもあったりする。 だからヨーロッパでルネッサンスは興った。 人類規模での財産と呼べるようなものの多くは、彼らの社会が生み出した。

今回の話に結論は無い。 考えていたことをつらつらと文章化しただけです。


2/10(月)

神田優花、レコーディングでした。 ここ最近のリリースラッシュが今月でとりあえず一段落。 未発表のトラックが溜まってきたので、夏前にはまた新曲として発売する予定です。

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2/9(日)

スタジオにて。

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45年ぶりの積雪量だそうだ。 何年か前にこれくらい積もったような気がするけど、あれより全然降ってるってことか。 しかし街なかを歩きにくくて仕方がない。

子供の頃、朝起きたら一面銀世界ってことが何度もあったんだけど、今ほど歩きにくかったって記憶は無い。 どうしてなんだろうか。 忘れているだけなのか、体などの変化によるものなのか。 東京の人口密度が高過ぎて、雪が踏み固められて氷になってしまうからかな。


2/8(土)

聾者を装った自称作曲家が、じつはゴーストライターを使っていた、なんて事件が世間を騒がせているそうな。 なんか如何にも日本社会らしい、裸の王様みたいな話だ。

私はその御仁を今回の事件で初めて知った。 だから意外だったとか衝撃的だったとかそういう感想らしき感想はない。「そんな人いたんだ?」みたいな話。

しかし事後になってNHKスペシャルの映像とかちょっと見てみたけど、聾者はあんなに流暢には喋れんだろう。 健常者がイヤホンつけてるだけで正常に喋れなくなったりすると言うのに。 まあ何の予備知識もなくあの映像を見せられたら、私も「聾者にしては随分流暢に喋る人だ」などと感心しただけかもしれない。 人によってはその位の調整は可能なのかもしれないし。

しかしまあおそらく、音声学とか医学的な常識など一切持たなかっただけなんだろう。 だって総合的に判断して、やり口が荒っぽ過ぎる。 ゴーストライターがカミングアウトしてる時点で、事前の根回しが甘いと言わざるを得ない。

当人楽譜すら読み書きできなかったそうだから、ちょっと喋ればその人が素人であることなど明白だったはずだ。 多少なりとも音楽的知識のある人なら、管弦楽のスコア書けそうな人か否かぐらい判断できたろう。 肩書を作曲者でなく「プロデューサー」とかにしておけばまだマシだったんだろうが、それでは宣伝材料として弱かったのか。

作曲者の名義がどうであろうと、結果的に仕上がった曲が面白いもので、多少なりとも我々の人生を楽しくしてくれるのであれば、それはそれで素晴らしいことだ。 だが、聞くところによると、そのゴーストライターが書いた曲は「マーラーの焼き直しで音楽的価値などほぼ無い」みたいな話に落ち着いているらしい。 しかし、何らかの既存の音楽を下敷きにしているものだからと言って、即座に無価値であるわけがない。 つうか、下敷きの無い音楽なんてそうそう無い。

余談だが、私はクラシックが嫌いで、普段も検証用途以外ではほぼ聴かない。 長いから。 今回話題になっている人らの代表作とやらも80分の大作だそうな。 長すぎて聞いてられないよ。5分のPOPSでも長く感じるというに。 だからいまだに私は一連の作品を聴いておらず、楽曲そのものについての評価が全くできない。

クラシック嫌いの私だが、中でもマーラーなんて最も苦手とする部類だ。 そんなに詳しく無いけど聴いた事ぐらいは一応ある。 フックとなるような細かい旋律の動きなどがほとんど無く、良く言えば重厚とか荘厳って感じなのだろうが、申し訳ないが私には、冗長としか思えない。聴いていて退屈だ。 話題になってる作品も、聴いてはないけどマーラーが下敷きならおそらく私の好みとは遠い。

手口の荒っぽい詐欺師が世間を騒擾させただけの、大した事件とも思わないけど、これが一種の警鐘となって、日本人が自らのスノビズムに羞恥を覚えたりする契機になってくれれば、歴史的意義はある。 それにしても日本人はアートを嗜む感覚とはほど遠い民族ですな。


2/7(金)

シンセサイザーは要は音声合成器だが、初期の用途は生楽器の代用品としてのものだった。 結果として全く当初の想定外の形で音楽界に影響をもたらしたのだけど。

シンセサイザーの音は多目的で、楽曲構成上の戦術的位置付けも各種リード楽器、ストリングスやリズムギター、ベースなど、様々のニッチを占めている。

80年代とかのFM音源盛期の商業音楽を聴いていると、ある特徴に気付く。 例えばベースのフレーズで、16分音符が出てくるところなんかに、刺繍音とか経過音的な形で頻繁に(スケールアウトを含む)半音階が出てくるものがある。 昔はさして気にもしてなかったんだが、最近その発生原因が分かってきた。

シンセは、エレキベースのようなものと違って、鍵盤を発音のトリガーとしているので、オルタネイトピッキングのような奏法を再現できない。つまり、同一音のトレモロ的な連打ができない。 従って、細かい16分音符を表現する際、音階を使った代用表現にならざるを得ない。

ある時期以降、一種の様式と化した手法なので(アルベルティー・バスのように)、多くのミュージシャンらはそこに含まれる事情を感じないままに使用していたかもしれないが、発生当初は違ったはずだ。 キーボーディストの苦肉の策だったろう。


2/6(木)

スタジオにて(影山リサ)。 ここ何日かまた寒くなりましたね。

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2/5(水)

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神田優花、「Shelty」本日発売です。 下は本人より。 上は先日のリハの様子。


shelty

私はいつもなくしてから大切なことに気づく、そのくり返しです。それでも思い出す感覚1つ1つを丁寧に歌えたらといつも思っています。
この曲はレコーディングで歌ったときよりも、今この曲を届ける段階になって、より近くに感じるようになりました。
ただいつもそばにいた、そんな存在を歌った曲です。
聞いてください。

Mona-Lisa

これほどその時の気分に左右され、心情を吐露してしまう曲もないと思う。それだけにレコーディングに臨むのに、今までと違った緊張感がありました。が、ふたを開けてみれば一発録り。
私のその時の生の気分を一緒に味わっていただければ嬉しいです。
とても美しい繊細な曲です。聞いてください。

神田優花



2/4(火)

明日発売の、神田優花「Shelty」(全2曲)のカップリング曲「Mona Lisa」について。


2.Mona Lisa

タイトルに深い意味は無い。 昔住んでいた家に、モナリザの絵(多分ポスター)が飾ってあったのを何となく思い出して。 音楽・音響的に特筆すべき点は無い。 リズムは三拍子です。

ボーカルについては、「歌」の定義を「(持続的な)音程感のある声楽」とするなら、この曲は歌とは呼べないもの。 「語り」ってくらいが適当だろうか。 神田優花は、急にこんなの振られた割りにはソツなくこなしてると思います。




以下は余談。

日本レコード協会にISRC事務局ってのがあって、いつも商品の発売に当たってそこからISRC(商品コードみたいなの)ってのを発行してもらうんだけど、その申請の際、毎度各楽曲の作品情報を登録することになっている。 今回も当然登録・申請を行ってるんだけど、この曲に関しては「作曲」のクレジットをどうすべきかでちょっと迷った。

作品の骨格を作ったのは私なんで、作曲者も私ってことにとりあえずしているけど、このクレジットってヤツ、特に作曲者の定義って実に曖昧にされているので、明確なガイドラインを作った方が良いと思う。


2/3(月)

先日のスタジオにて。 今回はトロンボーンなんて珍しい楽器が登場してます。

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2/2(日)

中国の領土欲が旺盛なわけ。 国が若いからとか(中華人民共和国なんて生まれて百年も経ってない)、中国人の感性が近代人でないからってのは、遠からずも正鵠を射ていないような気がする。 要するに言語なんですよ。これもきっと。

あの辺の歴代王朝って冠に「大」がつく。 大唐とか大清とか。 大韓民国もその影響でしょう。 日本だって漢字文化圏と言えばそうだが、日本人は大小と言うとつい英語のlarge・smallのような、単なる寸法(size)を表す無色の言葉を想像してしまう。 だから中国人に小日本とか罵られても、その蔑称のニュアンスがイマイチ体感できない。

中国人の使う「大」(と言う言葉)には、強い・正しい・善い・美しいもの、と言った正なるイメージが濃厚に含まれている。 「小」にも同様に、弱い・悪い・醜い・偽りのもの、と言った負のイメージがある。 彼らにとって物事は、「デカければデカいほど良い」。 だから尖閣諸島だって欲しい。

これ典型的な文化摩擦だと思うんで、表面的な均衡点なら模索できるだろうけど、根っこの部分は多分簡単には解決しない。 面倒臭いけど。


2/1(土)

神田優花「Shelty」(全2曲)のタイトル曲「Shelty」について。


1.Shelty

結果的に思い入れの深い曲になってしまった。 曲としてはPOPSってことになります。 コード進行とか楽器編成とか、ちょっと変わったPOPSだけど。 このシングルは、私の宝物のようなものです。

色々とテクニカルな部分の解説みたいなテキストを打とうと思って、実際途中まで打ってたんだけど、野暮な気がして全部削除した。 そんなことより聴いてみて下さい。



1/31(金)

影山リサ、レコーディングでした。 セカンドアルバム出して以来、割と早いペースで新曲録ってます。これで4曲目かな。 結構早く次のアルバム出せるかもです。

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そういえば最近、新人さんが入りました。 よろしくと言ったところで、作品どころかまだ名前も公開してないんでどうしようもないんですが。 順調に行けば、この先作品を発表することもあるかと思います。

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1/30(木)

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今週のリハーサル風景。



昔読んだある少女漫画にこういう話があった。 遥か宇宙の彼方のある惑星から超高性能望遠鏡で、死んでしまった恋人の生きて動く姿を主人公が眺める。

一光年とは、光の速さで一年掛かる距離ってことだから、地球から一光年離れた星には、一年前の地球の姿が映像として届く。 十年前に死んだ人は、十光年以上離れた星から眺めれば、まだ生きて動いている。 これは理屈としては正しいものと思われる。

ただし、そんな離れた星に人を運ぶ技術も無ければ、運べたとしても光速以上の速さでないと一年以上かかる。 話に登場するような超高性能望遠鏡も現時点では存在しない。 上のお話は、現実的には絵に描いた餅だ。

ただ私は、その話を読んで嬉しかった。 ある理屈が理解できるってことは、想像の射程が広がるってことだ。 私は感じたいだけ。私の欲しいのは想像力。 分かればそれで良いんです。


1/29(水)

神田優花、スタジオにて。

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ある時代のジャズなんかは、良い具合に「壊す」手法が機能してますね。 orthodoxyがそれなりに堅牢だったんだろう。

orthodoxyの逆を取ると、物事は一見面白く見えたりする。 しかしそれは単に壊す作業であって、建設ではない。 だから、やり続けるとある場所に行き着く。 漫画の世界なんかで言う「不条理漫画」みたいなのってのが、ここで言う行き着く先。 壊し過ぎて砂粒になってしまったもの。 私の作りたいものはあれではない。

私の作りたいものは、いわゆる「新しいもの」ですらない。 古さから脱却しようってのは、それ自体が既に自由の足枷になっているようにしか思えないから。 私の作りたいものは、私に見えたもの、私の中に響いた音楽。


1/28(火)

広瀬沙希、歌録りでした。

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昨年末にリリースした広瀬沙希の「この手は もう 離さないで」、ちょっとした手違いでiTunesで公開されてなかったみたいなんですが、現在無事発売されてます。 一応報告です。



閑話休題。 山田洋次監督の有名な「男はつらいよ」シリーズの、とある作品の話。 私は山田洋次さんの作品が好きだ。

寅さんの甥(妹さくらの息子)である満男は、就職先がなかなか決まらない。 周りの友達の就職が次々と決まる中、自分だけが取り残される状況に嫌気がさして、「もう俺は就職なんてしない」などと自暴自棄になる。 「俺は就職なんでせずに好きなことをやって生きて行くんだ」と。

母さくらはそこで言う。「あなたが好きなことをやって生きるというなら私は反対しない。でもあなたに好きなことなんてあるの?本当にやりたいことなんてあるの?」と。 正確なセリフは忘れたのだけど、概ねそういう意味合いのことを言っていた。

私も全く同意見だ。 好きなことがあるならとことんやれば良い。 それが例え、誰からも理解されないものであったとしても、好きなことなら続けるべきだ。 その先にきっと何かが見つかる。

翻って、ただ単に「就職活動から逃げたい」とか言う「何かがしたくない」と言う衝動、あるいはそういうことを含む、自分以外のこの世界の側に「こうあれかし」と願う依存心、これらはきっと大したものを生まない。


1/27(月)

スタジオにて(川村真央)。

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リズム・ビートについて。

世の音楽に四拍子(二拍子)が多いのには、人間の手足が二本であることが大いに関係している。 人間の指が十本だからこそ、これほどに十進法が普及していることと似たようなものだ。

三拍子は、日本の俗楽にほぼ見当たらないが、西洋には多い。 本当かどうかは知らないが、一説には乗馬作法が影響していると言われる。 ビートについても、鼓動と無関係でなかろう。

つまりリズムは、人体やその運動機能の影響によって固定化された面が濃厚だ。 人間が例えば意識(思考)だけの存在であったなら、音楽の様式は、拍節面においては現状とよほどに違ったものになった筈だ。

音楽は聴覚と言う身体機能によって捉えられるものだと思われがちだが、違う。 人は音声と言う引き金によって、脳内の音楽を再生しているだけ。 あくまで音楽は心の中にある。 だからベートーベンは聴覚を失っても曲が書けた。

無拍節の音楽ってのは既にいくらも存在する。 例を挙げるまでもない。 で、その無拍節の音楽こそが人間の本然に根ざしたものかと言うと、それも分からない。 無調音楽などが全く人々に愛されないように、無拍節音楽もあまり歓迎されないような気もする。 少なくとも、人類規模で共有される名曲とされているケースは見当たらない。

生まれながらの盲人は、視覚と言う世界が存在することを何故か知っているという。 同じく生来の聾者も、聴覚と言う世界があることを何故か知っているらしい。 ヘレン・ケラーの奇跡は、心さえ確かなら音楽は感じられると言う傍証のように私には思える。 インド言語のnaadaは「心の中に響く音」の意だそうだが、私は空気の振動ではなく、このnaadaを作ろうとしているのよね。


1/26(日)

いわゆるクラシックと言う日本語の定義するところって、実のところ「西洋音楽」くらいの意味合いだろうか。 西洋音楽史で言うところの古典派(モーツァルトなど)を厳密に指しているとは思えない。 この稿でのクラシックも、日本語的な使い方。そこを踏まえて以下に続く。

ジャズってのは大別するとクラシックだ(少なくともその系譜の歴史的末端付近に位置している)。 和声音楽の一発展型とでも言うべきか。 いわゆるジャズヴォイシング(の独特の響き)ってのは、伝統的な和声感を壊すことで成立する面が大きい。 あくまでその基礎にクラシック的な和声の素地あってこそのものである。

ここで言う素地ってのは、アカデミックな音楽教養とかそういう大層なものではない。 どんな無学蒙昧な人間でも、その言語レイヤーの最下層には母国語がある。 その程度のものを指している。

雅楽の基礎にクラシック音楽的要素は無い(少なくともあるとはされていない)。 雅楽器の笙に「合竹」って奏法があって、要するに和音なのだが、和声音楽における機能性は、成分として全く含まれていない。 基礎にクラシックが存在しないからだ。

合竹の響きは全くクラシック音楽的では無いが、現代人の感じるジャズ的要素など、当時の人は全く感じ取れなかった筈である。 基礎レイヤーにクラシックが存在しない脳なのだから当然だ。 「正統」と言うものは、人間に何かを見せもするが、同時に見えるものを歪めるものでもある。

ギャグ漫画が面白いのは、人が「何を正統とすべきか」を熟知しているからである。 子供が、教科書に載っている偉人の写真や肖像画に落書きをして面白がるのは、教科書が権威であるからだ。 そういう意味では、ほとんどの子供は実は教養人であり、同時に権威主義者でありスノッブであるとも言える。 漫画ばかり読んでいたらバカになるとか、よく言われたもんだが、実は全き無教養人は漫画すら笑えない。


1/25(土)

多調(複調)音楽についてちょっと考えていた。 複数の調が同時に進行(同一時間軸上に存在)するような態様の音楽を言う。

別に驚くような斬新な発想と言うわけでもない。 ポリリズムや多声部による対位法が存在するのだから、当然誰かが思いつきそうな手法ではある。 テンション・分数コード(アッパー・ストラクチャー・トライアド)や、いわゆるモード(旋法)なんかも、使い方如何によっては広義の多調音楽となり得る。

多調音楽と言えばストラヴィンスキーなんかが有名なんだが、ペトルーシュカ和音とかの用語で調べてみたら色々出てくると思う。 ペトルーシュカではハ長調と嬰ヘ長調が同一曲内に共存する。

ハ長調と嬰ヘ長調のコンビネーションは、ストラヴィンスキー以前にも、例えばラヴェルに同様の試みが確認できると言う。 何故か。 まずハ長調と嬰ヘ長調ってのは(両極に存在すると言って良いほど)関係が遠いってのがあろう。いわゆる近親調なんかでは、多調音楽の多調であるが故の(聴感上の)違和感が薄れてしまう。 特性が際立ち難いわけです。

しかしそれより何より、多調音楽を作ろうと思った際に、まずハ長調と嬰ヘ長調が選ばれてしまうのには、彼ら作曲家の多くが「鍵盤を使って曲を作っていたこと」が大いに関係していると思われる。

ピアノの白鍵のみを使って曲を作れば、それは概ねハ長調(イ短調)になる。 同じく黒鍵のみを使えば嬰へ長調(嬰ニ短調)。 つまり、彼らの着想の大部分はピアノと言う楽器の物理性に因っている。 人間は人間と言う物質でもあるから、如何にアーティストと言えども、身体と言う物理性の拘束から逃れるのは大変だったりする。 ピカソは「絵を描く際に体をアトリエの外に置いてくる」みたいなことを言ってたけど、思考ってのは究極的にはそういうプロセスを必要とするのだろうね。


1/24(金)

スタジオにて。写真は影山リサ。

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神田優花は、最来週の水曜(2/5)にまたまた新作「Shelty」を発売します。 随分と立て続けにリリースしてきましたが、次のシングルでちょっと一休み。 下はその「Shelty」のジャケット。

そういえば最近、神田優花のジャケットにアーティスト本人の顔写真以外を使うことが増えているんだけど、素材集とか一切使ってません。一応、全部オリジナルの画像です。




1/23(木)

神田優花「SHINE」(全2曲)、カップリング「fortune」について。

2.fortune

ヨーロッパ音楽、中でもいわゆるクラシックのような宮廷・教会音楽ではなく、民間音楽をイメージした。 そのイメージを補強する楽器として、パンフルートが入ってる。

全体的には三拍子系の曲なんだけど、サビ辺りで四拍子になる。 変拍子の曲なんだけど、与える違和感は少ないんじゃなかろうか。

これ、事情あってレコーディングが二度に亘ってて、一部ボーカルが継ぎ接ぎになってる。 でも丁寧に編集しているんで、ほとんどの人は気付かないと思う。 気付かれそうな仕上がりだったら、ここでは言わないけど。

あとこの曲、マスタリング段階で全体にサチュレーターかましてて、ちょっとローファイな仕上がり。 実際に販売される圧縮済みの音を正確に想定できなくて、ちょっとやり難い手法なんで、実際今までもやってこなかった。 今後も多分あんましやらない。





1/22(水)

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神田優花、「SHINE」本日発売です。 下は本人より。 上は先日のスタジオリハにて。


SHINE

つかまえることの出来ないものをこの手で触れてみたい、そんな風のような曲にしたいと思い歌いました。
風は私の曲の中ではわりと出てくるキーワードで、私の中では裏テーマみたいに思ってるんですが、また一つ素敵な風が出来たと思います。
ぜひ、聞いてください。


fortune

この曲は歌い手としてというより、どちらかというと語り手として歌うことを意識しました。
いつもより客観的な自分が自分の歌声を聞いている、そんな感覚です。うってかわってサビの部分は「私」が顔を出しました。その流れが自然に出てきて、とても気に入っています。
聞く人の心に物語が届くよう歌いました。
ぜひ、聞いてください。

神田優花



1/21(火)

明日発売の神田優花「SHINE」(全2曲)、タイトル曲「SHINE」について。


1.SHINE

普通のPOPSのつもりで書きました。 アタマのファルセットっぽい部分が好き。

バッキングはアコギ中心で、リズムはジャンベだったかダラブッカだったか、そういうエスニックな打楽器。 間奏のピアノは、握り拳で鍵盤を叩きまくったようなもの。 割りと好きな曲だけど、思いつくコメントは少ないな。



1/20(月)

スタジオにて。

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先日、ある人に「売れる自信があるか?」と問われた。 「自分の作る音楽が世間での評価を得られると思うか」と言う意味の問いだ。 私は「そんな自信は無い」と答えたのだが、意外であったようで、驚かれてしまった。 このページなんかでは過去にも表明しているのだが、私に「売れる自信」は無い。

自信ってのが「自分に対する信用」って意味なら、売れるかどうかは守備範囲外だろう。 評価するのは他人だもの。 そんなの私にコントロールできないよ。

繰り返しになるのだけど、私にあるのは「この作業(音楽制作)を続けて行く自信」。 更には「この作業を続けて行く日々を楽しめる自信」。 これぐらいしかない。

人生に勝ち負けなんてものがあるのか分からないけど、私にとっての「勝ち」に相当することは、今のこの作業を継続することだし、楽しむこと。 最後の瞬間を楽しい気分で終えることができたら、それが私にとっての勝利。


1/19(日)

スタジオにて。

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チェンバロ(ハープシコード)って楽器がある。 事実上ピアノの前身とでも言うべき鍵盤楽器だ。 タッチによる音の強弱がつけられず、つまりサウンドプログラミングで言うところの、ヴェロシティ値が出音に反映されない。 オルガンなんかを含め、ピアノ以前の鍵盤楽器は皆このヴェロシティがほぼ付けられない。

ピアノってのはピアノフォルテの略称で、まさにこの「音の強弱が表現できるところ」こそが命名の由来となっている。 それほどに画期的なツールだったと見える。

しかし考えてみると、楽器ってのは原始的であればあるほど、発音体(弦など)に直接作用して音を出す仕組みになっているもので、音の強弱はつけられて当然だ。 打楽器や弦楽器しかり、最もプリミティブな楽器である「人間の声」も同様。

チェンバロのあの平べったい強弱の無い音は、登場した当時的にはピアノの出現時より衝撃的だったのではないか。 人間は車に乗る前は馬に乗っていたわけだが、確かに車の出現は衝撃的だったろうが、騎馬・乗馬の発明はそれを上回る衝撃を人類に与えたかもしれないわけで。

録音技術の確立以前、音楽作品の記録メディアは「楽譜」だった。 当然そこでは細かい奏法のニュアンスとかは端折られてしまうわけだが、音楽作品の核の部分は伝えられると考えられていたはずだ。 実際そうだろう。 音色とかの情報は当然ながら、全て無視される。

私が考えているのは、音の強弱の重要性について。 無論楽譜などにもある程度の強弱の指示記号ってあるわけで、完全に無視して良いファクターとも思わないけど、一般に考えられているほど作品の本質を担う要素では無いように思える。


1/18(土)

ギターの奏法でスウィープ・ピッキングってのがあるんだけど、あれ上手いことプログラミングで再現する方法ないかしら。 スウィープは弦を撫でる感じの奏法なんで、ヴェロシティ値は低い方が良いだろうってことぐらいは考えつく。 あと音のリリースの切れが悪いと、単なるストロークとの区別が付きにくくなるだろうから、その辺もあろうか。 それにしても、ニュアンスを決定付けるほどのものとも思えないが。

昔、とあるHRバンドのスコアにスウィープのフレーズが載ってたんだけど、実際の演奏(映像)で確認したら違ってた。 実際には、ハンマリング&プリングの多用+弦飛びピッキング(こんな名前か知らないが、近接する弦をスキップしつつピッキングするトリッキーな奏法)のコンビネーションによるものだった。 採譜者はフレーズ(音符の配列)から判断したのだと思われるが、確かにそれもやむなしと思われるようなものではあった。

つまり、耳で聴いただけで奏法まで判別するのは難しい。 しかしながら、微妙な音のニュアンスの違いは確実にある。 上の例についても、譜面を見た当時の私が、多少の違和感を感じたからこそ映像で確認までしたわけで。


物事の差異ってのは、物事そのものに内包されているのではなく、実は我々の脳内の方に宿っている(これ、意味分からなかったらゴメンなさい)。 「奏法の違いなんて気にならない」と言う人にとって、「奏法の違い」など存在していない。

例えば弦楽器には、異弦同音ってのがあったりする。 ところが楽器ってものは、全部の弦が同じ構造とは限らない。 一つの楽器の中でも、異弦間に構造や材質の違いなどがあれば、当然発音にも影響する。 他にもチューニングの問題もあって、異弦同音は厳密には全く同じでは無い。 が、そんな違いも人によっては存在しないも同然だ。 日本人の多くは、LとRの発音を使い分けられないと言うが、要するに日本人の脳内にその差異が存在していないからだろう。

私は、「私が気付いてしまった差異」に拘ろうとしている。 それは私が感じ取った世界だからだ。 創作ってのが「自分を掘り起こす作業」だから、これは無視できない。


1/17(金)

スタジオにて。

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会社を起こすような人が、開業に当たっての資金を誰かに借りたりする。 きょうび銀行とかには、もうそういうベンチャー向け投資機関としての側面は薄い気がするけど、まあ個人間の借り入れとかも含めて。 因みに、会社起こしたことも無く、金も借りない私は、こういうことについては全くの素人だ。

私が不思議に思うのは、借金には大抵金利がつくし、つかなかったとしても元本くらいは返済せねばならない。 開業に当たって借金なんてしてしまうと「事業を軌道に乗せること」と「借りた金を返すこと」と言う二重のタスクが課されるわけで、面倒臭くないのだろうかってことだ。 勿論、開業に資金が必要なことぐらい分かってますよ。


商売なんて始めたいのであれば、とりあえず身の丈にあった(自己負担で賄える規模の)ものにしては如何だろうか。 「大きな金を動かさねば大商いはできない」なんて言う言い分はあるのだろうけど、その大きな金を持たないのだから、安易に借りて間に合わせるって発想は本当に正しいのか。

大体借金ってのは、単に借りた額を返せば終わりってわけじゃない。 貸す方にも心ってものがあるのだから、借りればお互いの間に「恩」が生まれてしまう。 私はその恩を重荷に感じてしまうから、余計金を借りたくない。 金なら返せるかもしれないが、恩なんてどうやったら返せるものか。

昔、個人の投資家みたいな人らの前で事業計画をプレゼンし、出資を請う、と言うコンセプトのテレビ番組があった。 「私がこれに出るなら(出資を請う側として)、何と言ってプレゼンしよう」なんて考えたことがあったが、結論としては「私ならこの番組に出ない」と言うところに行き着いてしまう。 私は金を、むしろ「借りたくない」。


あらためて思ったけど、私は商売人に向かない。 私は気分が欲しいだけだから、銭勘定にアタマのリソースの大半を割くような事態を避けたいと思ってしまう。 金なんて全然大したものじゃないよ。死んだ人一人生き返らせてくれないじゃないか。 時間を注ぐ価値が無い。

私は音楽でお金を儲けたいわけでなく、音楽を作りたいだけだ。 作ることが楽しいから。 だからして、作り続けていく環境こそをこさえようとしている。 活動母体を「金儲けの機関」にしてしまうと、そここそが脆弱性となって維持に難が生じる。 自分が金を借りたくない理由が分かった。


1/16(木)

スタジオにて。

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ギターソロのフレーズなんかを作る時、それがわりかしテクニカルなもの、例えばスピードを要するパッセージだったりすると、どこかで聞いたようなメロディー(音の配列)になることが多い。

楽器の構造・人体の構造(聴覚・運動機能の限界)・音楽と言うものの生理・物理法則、これら諸事情により、出来上がるフレーズは、ある程度のパターンの範囲内に収まらざるを得ない。 これは単に確率的な問題である。

無論、調とかスケールとかを無視したりすればそれらの制約は薄くなるが、それにしたってここで言う「範囲」が少々広がるに過ぎない。 結局、音と言うものには限界がある。 スピーディーなフレーズは、その「スピーディーである」と言う条件が加わることによって、「実現可能な音の配列」の範囲が狭まるので、結果似たようなメロディーになりがちだということだ。

「盗作」だの「著作権」だのと言って、自分の思いついた音の配列に独占的な権利を主張する人がいたりするが、そういう人らって、自分の主張が、本来人類の共有財産たるべき「創作」の可能性を狭めていることに気付かないと見える。 芸術・創作と言ったものの本質を理解せぬまま、「著作物が金や名誉に繋がる」と言うことだけを覚えてしまったのだろうか。 だとしたら教育が悪い。

その人がその人である所以、芸術・創作の本質は、音の配列なんかに宿るものではない。

この手のことについて、著作権法とかベルヌ条約とか言う大雑把なガイドラインは存在する。 しかしそれにしても、どれだけ事の本質を理解した人が策定したものか怪しい。 私はそういうのを半ば馬鹿らしく思いながらも、基本的なスタンスとして王法(世俗的ルール)は守りつつ創作・発表を行っている。 と言うか、そうせねば活動に制限が加えられるに違いないからしゃあない。


1/15(水)

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↑影山リサ、先日のスタジオにて。 影山リサの新作「Barracuda」は本日より販売開始されてます。 下は影山さん本人からのメッセージ。


Barracuda

今回の新曲「Barracuda」は歌舞伎の音楽をイメージした曲になっています。

この曲は語りと歌の部分があるんですが、そこがとてもメリハリのある感じでカッコイイ仕上がりになりました。

今までのポップスでは聴いた事が無いような曲だとは思いますが、とてもクールな曲なので、皆さん是非聴いてみて下さい。

影山リサ





1/14(火)

影山リサ、新作「Barracuda」について。


1.Barracuda

これはちょっと変わった曲。 内々でシングルにすべきか迷ったんだけど、影山リサの新境地になればと思ってシングルにした。

いわゆるラプソディー形式で、音楽は歌舞伎の下座音楽を濃厚に下敷きにしている。 下座音楽だけでなく、新内とか、能の四拍子とか、ラプソディーらしくごった煮的です。 溜まったアイディアを随分といっぺんに放出させてもらいました。

ジャケットは、曲のイメージから笑顔のものにしようかと思ってて、既に別のヤツを作っていたのだけど、色々と検討を重ねた結果、現行の最終版に落ち着きました。 別に良かったと思ってますけど。



1/13(月)

自らの出自・家庭環境を嘆く人がいる。 気持ちは分からんでもないけど、その手の不遇感など誰でも多少は抱えているし、言い出せば切りが無い。 劣悪な環境に育った人など、下を探せばこれまた切りが無い。

恐竜は6500万年前に絶滅したと言う。 原因は定かでないながら、隕石衝突説ってのが一番蓋然性の高い(異論の少ない)学説だそうな。 それ以外にも地球は何度か大量絶滅を経験しているが、無論恐竜を始めとする動物たちに罪は無い。 環境に抗うのには限界があるのだ。 我々は、家庭環境どころか生殺与奪の権すら外の世界に握られている。 心の外に流れるものは、常にままならない。

恐竜は何の罪も無いのに絶滅させられた。 裁判官の下す判決ごときに、「不当」だとか言って騒ぐのがバカバカしく思えるくらい、世界ってのは不公平だ。 東日本大震災は千年に一度の規模だそうだから、日本史上、あれほどの地震を生涯経験せずに死んでいった日本人の方が遥かに多い。 ある意味では我々現代人は不幸とも言える。 でも恐竜よりはマシとも言える。

世の中は不公平で、浮世は理不尽だらけ。 涙を飲んで死んで行かなければならなかった者が腐るほどいて、我々はそういう世界に、時間だけ持たされて生きている。 経済的に豊かな環境だとか、愛のある家族だとかに恵まれた人は、本当に幸運なのだろうけど、それすらも我々が、持たされた限りある時間の中で、感じることのできるある要素に過ぎない。

私が言いたいのは、所与の環境を嘆くことが不毛であるということ。 そんな面白くないことやってる場合じゃないよ。本当に。

我々に帰る場所なんて無いんです。失くすものなんてのも、実は無いんです。 この目に映った世界が、残り時間の終わりまで続くだけなんです。 残されたものは時間だけ。 だから我々に、楽しくないことなんてやっている暇は無い。


1/12(日)

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神田優花。 1/22(水)に、またまた新作「SHINE」(全2曲)をリリースします。 下はそのジャケット。





昨今のアンプシミュレーターって音が良すぎる。 とりわけS/N比が良すぎて、逆に嘘臭い。 体感できる本物っぽさって、実はノイズだとかの「不備」の部分だったりするってのを痛感してしまう。

私はハードウェアのアンプシミュレーター、それもかなり古い機種を所有しているのだけど、ノイズが酷くて、ある意味本物っぽかったりする。 VSTとかのアンプシミュレーター、それも最近の市販品レベルのものって、音がクリア過ぎて物凄く偽物っぽい。 明らかに後者の方が音は良い筈なのに。


人は普通、音の良し悪しってのを、自分の頭の中のデータベースを参照しつつ判断している。 本来音に優劣などあるわけないのだから、これは間違いない。 私は過去に刷り込まれた何らかの基準によって、ノイジーな音を良いとしているらしい。

真理かどうかさておき、一般にローファイなもの、ノイジーなものは悪い音だとされる。 この先入主が、一種の洗脳の産物であることはほぼ間違いなかろうが、クリア過ぎる音を嘘臭く感じていることも同じようなものかもしれない。 本当に私が良いと感じるギターの音ってどんなものだろうかね。


1/11(土)

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今年一発目のリハ。 実家に帰ってた人も多かったみたいで、お土産も多いこと。


1/9(木)

ちょっと前に、能の音楽についての資料漁ったりしてたんだけど。 その集大成と言うか、それを反映した習作のようなものを作っている。 使い道(商品化)があるかはまだよく分からない。

能の囃子は、器楽としてはやはりシンプルすぎる。 あれをベースにしっかりとした音楽を作るのは、現実的にはちょっと難しいように思える。 厳密な意味でのメロディー楽器が無いので、調性を維持し難い(能管ってのをメロディー楽器の一種と見做すことはできなくもないが、調性音楽に向かないと言う結論は同じ)。

POPSなんかで言うところの歌のメロディーラインに相当する「謡(うたい)」。 中でもヨワ吟ってのは一番楽音に近いので、ヨワ音階をスケールと見做せば、それに沿ってメロディーラインを作れなくもない。 で、実際に作ってもみたのだけど、やはり謡とは別物になってしまう。 発声法が違いすぎますね。


私は能(の音楽)そのものを作ろうと思っているわけではなく、能ってものに着想を得つつ、ある作品を仕上げようとしている。 様式のある部分は踏襲し、ある部分は無視する(と言うか私の様式で埋める)。 忠実であるべきは、自分の中にある基準にのみ。

今作品を作っててもどかしいのは、良い能管の音源がないこと。 あれは西洋音階でないだけでなく、1オクターブが12音区切り(あるいは7音スケール)ですらないので、どうも音源化に難があるみたいだ。 技術的に(音源化)不可能なはずはないけど、商品化できるほどの需要が無いってこったろう。 無理矢理サンプラーのパッチ作ったりしたけど、ヴェロシティーレイヤーとか一切なく、ループポイントもお手製なんで、ショボいことこの上無い。


1/8(水)

神田優花、「Stand Back」本日発売です。 本人からのコメント。


Standback/Calling

Standbackは私にはめずらしく明るめのロックです。最初はどんな風にこの曲と向き合うか迷って、私らしさとは何ぞやと悩んだりしましたが、素直に感じるものを大事にして歌おうと決めてからは、意外にすんなり歌になってくれました。

Callingはとにかく高音がずっと続くメロディの曲で、いかにテンションとコンディションを持続させるかに苦心しました。また1つ、自分の中の限界をとっぱらえたかなと思います。聞いてください。

神田優花





1/7(火)

1/8(水)発売の神田優花「Stand Back」(全2曲)、カップリング曲「Calling」について。


2.Calling

これもロックっぽい曲だけど、ドラムが入ってない。 リズムの代わりとしてフットステップ(靴音)が入ってるんだけど、コレ、聴いていてあまりにカウント取りにくいもんで、編集時に急遽付け足した。 だから、神田優花はレコーディング時に、このステップ音聴かずに歌を入れている。

音域的に歌い辛そうだったんだけど、ギターメインの曲って移調が大変だし、無理すりゃ歌えなくもなさそうだったんで、そのまま決行した。 曲調的にもシャウトで問題ないしね。



1/6(月)

1/8(水)発売の神田優花「Stand Back」(全2曲)、タイトル曲「Stand Back」について。


1.Stand Back

明る目のロックみたいな曲。 神田優花ってロックっぽいレパートリーが多いんだけど、マイナー系がほとんどで、こういうのは実は少ない。

トータル2分台と、平均的POPSに比べると短いのだけど、ここ最近はこれくらいの尺であるケースが割りと多い。 これ位が気持ち良い。



1/5(日)

四六駢儷体と言う文体がある。 ある時期のいわば流行みたいな(漢文の)表現法で、まあ詳細は調べて欲しいのだが、文飾過剰で外連味の強い文体。 率直に言って実に嫌らしい。 創作においても、ある気分が高じると上の文体のように、俗っぽく装飾過多なものになる。

駢儷体は、対句や比喩を多用するあまりに、書き手の思考が流される。 日本語には「I love you」のような定型的なフレーズがないので、その気分を伝えようとすると面倒なことになる。 つまり深い思考を要求される。 私は英語の明晰性に感心するが、英語が明晰過ぎるあまりに、英語圏人は思考を流されてしまうことが多い筈だ。

駢儷体の文章が、平安時代の百姓に書けたかって言うと、無論書けない。 「裸の王様」の原典では、王様を裸だと喝破するのは子供でなく黒人だそうだが、一定の教養なしには虚飾すらも難しい。

私は装飾過多なものを好まず、また幼児や象の書いた絵を真の芸術だなどとも思わない。 本当に美しいものは、きっとそれらとは違う世界にある。


1/3(金)

正月休みで暇なんで、また昨日の続きを考える。

日本には、戦争をした、あるいは朝鮮半島を植民地化した、と言う負い目がある(それにしたって父祖の世代の話で、我々に何の関係があるか。 今の日本は総理大臣すら戦後生まれだろう)。 しかしそれは、言うならば判断の誤りである。 戦争や植民地の獲得を経験している国ぐらい、いくらでもあるだろう。 今の日本は、ある判断ミスに付け込まれ、半世紀以上に渡ってネチネチと因縁をつけられ続けている。

ベトナムはフランスの植民地だったが、現在のベトナム政府はフランス政府に、外交の場で「反省が足りない」、「賠償金よこせ」などと絡んで行かない。 その理由は、「フランス人の反省が十分だから」ではなく、そんなこと言って絡んでも、相手にしてくれないからに違いない。 つまり「得策」でないから。

ある二国間にて得策でない行為を、得策たらしめている二国関係がある。 日韓などその典型だ(と言うか、日本絡み以外の実例が思い当たらない)。 悪いのは韓国のみか?私はそうは思わないね。


我が身にある引け目を感じるからとて、自分など悪し様に扱われても仕方ないと思える者は、そもそも自分にその程度の価値しか感じていない。 悪し様に扱われるのもやむを得ぬ者だ。 実際浮世にも、相手に罪悪感を感じさせることによって、物事を有利に運ぼうと企む人っている。 巻き込まれるかどうかは自分次第だ。

私は、日本の過去の行為を判断ミスだと評価するが、そのミスを犯してしまう程度にはやはり無能なのでしょう。 でも、だから何だと言うのだ。

「私は無能だが、ぞんざいに扱われることを許さない」。 こう言う人間がいて何故悪い。 人の価値とは、その人自身が自分に感じた価値のことである。

世間を覆っている「韓国嫌い」みたいな風潮にも私は与しない。 多くの日本人のムカつく気分は分かるが、相手ってのは究極的には自分で如何ともしがたいもので、我々は納得できる自分になることぐらいしかできない。 「イチャモンつけてくんな」って言う前に、「イチャモンをつけられぬに相応しい自分になる」ってことが大事。


1/2(木)

前にも言ったのだが、私は物事をradicalに考える人だ。 外交なんてほぼ平素の私の懸案ではないが、日本の政治家なんかは、善隣友好みたいなのを理想としていると思われる。

誰かと仲良くしたい、仲良くあるべき、ってのが良いことかどうかはさておき、「仲が良い」と言うのは、どういう状態なのだろうか。

それには前提として、心が通じ合うことが不可欠であろう。 アメーバと私は仲良くなれないよ。 皆さんだって、電信柱と恋に落ちたりできないでしょうよ。 つまり、本気で仲良くしたいのなら、相手と心を通わせる必要がある。 相手にそういう資質が無いのなら、そういう(誰かの気持ちを汲み取れる)心の持ち主に「変える」必要がある。 そういう資質を持った相手だからとて、必ずしも仲良くなれるとは限らないが、最低でもその階段を踏まねば、仲良くなれる日は永遠に来ない。

ちょっと前に、韓国との関係についての文章を上げた。 ある相手と仲良くなる手段として、譲歩を繰り返すってのは、その相手如何によっては全くもって有効でない。 むしろその相手に、ある資質を育てる機会を失わしめる。 物事は、教えさえすれば誰にだって理解できるってわけではないが、理解を阻害しちゃダメだ。

トマス・モアの「ユートピア」、あのユートピアとは、「どこにも存在しない場所」と言う意味だと言う。 理不尽な要求を突きつけてくる相手には、 「そんな言い分が通用する相手などこの世界に存在しない」と言う現実を教えてあげることも、一つの愛のあり方だろう。

私に言わせれば、譲歩を繰り返す人ってのは、要するにその人自体が誠実でないのよね。 「面倒臭いから相手の要求を通しとけ」ってだけで、本気で仲良くなろうとなんて思っていないからそういう行動を採る。 昨今の対アジア(と言うか中国と韓国)外交の混迷ぶりは、日本の怠慢が招いた部分も濃厚だ。 ツケを払わされてるんですよ。要するに。 だから、ここでまた譲歩するならきっと真の友好からまた遠のく。


1/1(水)

正月休みで時間があるもので、「世界の民族楽器文化図鑑」と言う本を読んでいた。 一万二千円もする本だ。 借り物だが。

面白くなくもないんだけど、文章のリズムが気分に合わなくて、ちょっと読みにくい。 原文のせいなのか翻訳のせいなのかは分からないけど。 あと図鑑なだけにデカ過ぎて、電車や食い物屋の中で読みにくい。

記述の中に、「芸術とは人間の思考を形にして留める作業である」ってことを理解しているっぽいものがあった。 著者はフランス人の学者なんだけど、その程度のことは必須の教養として知っていると見える。 日本の音楽業界が、要するに水商売の延長になってしまっているのに比べ、欧米、例えばフランスにおいて日本のようでない理由は、やはり教養の差にあると思わされる。

私は日本の現状を怪しからんと思ってるわけじゃなくて、勿体無いと感じてるのよね。 人間の思考ってそれなりに面白いコンテンツだ。 と言うか、あれ以上に面白いものなんて無いだろう。 あれを面白いと感じ出したら、きっと酒席や車なんて、全く面白いと思えなくなるよ。


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