Staff diary  
スタッフ日誌[2013]

[文 / 益田(制作)]

12/31(火)

今年最後の更新です。


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神田優花、今年最後のレコーディング。 今、新シリーズに突入してて、今回録った曲も、今までのとちょっと毛色が違う。 来年の夏前には公開できる予定ですが、まだよく分かりません。 とりあえず年明け早々(1/8)には新曲「Stand Back」を発表します。 1月末にはその次のシングルも出ます。 どちらもよろしく。




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佳乃。 今年はシングル「Decide」を発表してます。 年末にレコーディングを予定してたのだけど、来年に持ち越しなってしまった。


12/30(月)

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広瀬沙希、今年最後のリハでした。 今年は約三年ぶりの新作を年内に発表できたことが収穫でした。 もう何枚かシングル挟んだ後に、アルバム出そうと思ってます。 お楽しみに。


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片飛鳥。 こちらも今年は4曲入りの新作を発表できました。 本人、今も新曲書きまくってます。 来年もよろしく。


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川村真央さん。 新曲の歌入れでした。 実は先々週に一度レコーディング試みてるんだけど、機材&声の調子が悪くて延期してました。 とりあえず無事録れたと思う。


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影山リサ。 新曲のリハーサル。 あと先日録った新曲のチェックもしてました。 来月15日には新曲「Barracuda」をリリースします。 聴いてください。




12/29(日)

とあるVSTプラグインソフト(サックス音源)、手元の環境で上手く動作してくれないのだが、ネットで情報漁ってると、どうもこちらの環境だけの問題じゃないらしい。 物凄く環境との相性を問うものみたいで、その手の報告がかなりの数見られる。

そもそもそのVST、現在は配布されていないのだけど(公式サイトも閉鎖)、元々販売用途で開発されていたものらしい。 評価版としてフリーウェアが公開されていて、私が持っているのもそれなんだけど、確かにそれなりの代物だ。 サックス系の音源なんだけど、グロウルの音とか、その音源以外では中々出せないような音色もある。

公式サイトは現存しないものの、残骸みたいな断片的な情報はネット上に転がっていて、本体も一応いまだに落とせる。 が、その本体が容易に動作しない。

一応私はそのVSTの、ある段階のバージョンをあるRuntimeを入れることによって、何とか使えるようになった。 別途落としてきた音色のファイルを読み込むような仕様なんだけど(プラグインそのものよりその音色ファイルが秀逸なのかもしれない)、もう新しい音色とか公開されないんだろうな。 勿体無い。


12/28(土)

ネットでニュース記事を読むことが割りとあるのだけど、日本と中国・南北朝鮮の関係ってどうも上手く行かないみたいですね。 あれらの国が反日国家であるのは事実だろうけど、日本人の方も、あんまし彼らと仲良くしたくないようだ。 少なくとも民意はそのようである。

日本は一応民主主義国家なんで、民意がこのようである以上、今後の彼らとの関係にもあまり明るい兆しは見えてこない。 この件について、意見を一通り述べようと思えば、とんでもない文章量になるだろうから、とりあえず韓国についてのみ考えてみる。


韓国について、理解するためのキーワードは「依存心」だと思う。 正確な理由は分からないけど、有史以来、長いこと中国の属国であった経験がそういう国民性を育んだのか、よく言われる事大主義と言うものの正体である。

日本は先の戦争についての負い目からか、戦後一貫して、韓国に対しては譲歩を繰り返してきた。 そもそも交戦国ですらない韓国に、巨額の賠償を施した上、半世紀に渡って謝罪・援助を繰り返してきた。 なのに、彼らの反日的言動は鳴りを潜めるどころか、激化する一方だったりする。 どうしてなのか。

「なのに」ではなく、「だから」激化する。 人間は、我が心に思い当たらない機微を体感できない。 思い遣り・配慮などと言うものは、その気分が思い当たる相手に施さねば意味が無い。 「ああ、この人は私をこんなに思い遣ってくれたのか」と感謝できる相手でなければ、何を施したところで、「ああ儲かった」と、道端で小銭を拾った程度の感想しか持てない。

相手の思い遣りに対し、感謝しないと言うのはどういう事かと言うと、上の通りである。 小銭を拾って儲けたのだから、彼らは「もっと小銭は落ちてやせぬものか」と当然考える。 歴史問題について、被害者であるとか傷付いているだとか、とにかく不満を表明することによって援助と言う果実を得られた実体験があるのだから、当然そこをほじくり返し続ける。 だってもっと多くの小銭が拾えるかもしれないのだから。

彼らに、誰かを援助する者(この場合日本)の気分が分からない理由は、彼ら自身、誰かを救おうと思うことや、誰かに申し訳なく思うことが無いからである。 結論から言うと、そういう人らを救う必要は無い。 救ってあげることなんて出来ないからだ。 むしろ、そういう人に投げかける不必要な慈悲は、事態を一層困難にすることが多い。

靖国問題など、定期的に外交問題として持ち上がるが、そもそも交戦国ですらない韓国と靖国神社に何の関係があるか。 日本の謝罪が不十分だから韓国との関係がこじれるのではなく、なまじ謝罪・賠償などしたからこそ、彼らに「食い込んでいける隙」を与えてしまった、と言う事の証拠である。 だから彼らは、事ある毎に日本の行動に難癖をつける。 それによって何らかの利益を引き出せる可能性を感じているから。 そして、彼らにそれを学習させたのは、他ならぬ日本である。

日本と韓国の関係と類似のケースはいくつもある。ベトナムはフランスの植民地だったし、インドネシアはオランダの植民地だった。 ベトナムが「フランスを許さない」とて、いまだに「謝罪と賠償」を求め続けているか。 そんなことをしない理由は、「フランスの謝罪・賠償が十分だから」ではなく、「そんな要求に応じてくれる相手でないから」である。


私が生活に困って、誰かに10万円借りたとする。 もし私に「私を助けようとした誰かの心」を感じ取る能力がなかったら、できる限り「返したくない」と思うだろう。 またどんなに誠実であったとしても、私にできる精一杯のことは、その10万円と言う額面を完済することでしかない。 誰かの心を恩に感じることができないのだから。

更に私は思うだろう。 「もっと金を貸しやがれ」と。 何故なら、一旦貸してくれた以上、その相手は「自分に金を出す者」と見做されるから。 相手の心など感じないのだから、引け目も感じない。

だからして、そんな私であれば、援助など受けられなくとも仕方ないと考える。 だって、貸す方の身になれば、どんなに良くてもせいぜい貸した金が額面通り程度に返ってくるだけなんだもの。返って来ない可能性も無論ある。 ハナから貸さない方が危険もない。

返って来なければ「怒り」と言う、好ましくない感情がこの世に生まれ、また返って来たとしても、それまでの間「返ってくるかしら」と言う、本来生まれる必要もない「不安」が生まれる。 要するに、その施しは害こそあれ、この世界に益しない。


12/27(金)

神田優花。 新曲の最終リハでした。 今度の曲で、とりあえず今年は仕事納めって感じです。

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DAWのトラックプリセット(EQとかの設定を一々ファイル化したもの)がエクスポート(他の環境に移行)できないっぽくて困ってる。 同じDAW(バージョンとかまで同じ)なのに、インストールしたOSなんかが違うだけで記述方式が変わるみたいで、新しい環境で古いファイルが読み込めない。 拡張子とか同じなんだけど。

新しい環境にて保存したトラックプリセットファイルと旧環境でのそれ、僅かではあるが明らかにファイルサイズが違うんでソース開いて見てみたんだが、確かに何か違う。 記述をつぶさに検証して、部分的に書き換えたりすれば読み込めるようになったりするかもしれないんだが、さすがにもうそこまでやる気力が無い。 かといってトラックプリセット全部書き直しってわけにも行かないし。 どうしよう。


12/25(水)

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影山リサ。 新曲「Romance」、本日発売です。 以下、本人より。 上はスタジオで撮った写真。


Romance

今回の曲は馬鹿げた恋愛について歌っている曲です。
くだらない恋愛を呆れて見てる様な、そんな感じの曲になっています。
軽くて可愛い感じのポップスなので、皆さん是非聞いてみてください。

影山リサ





12/24(火)

影山リサ、明日発売の新曲「Romance」のタイトル曲について。


1.Romance

影山リサの曲って基本はPOPSなんだけど、これはコード進行とか楽器編成とか、一部クラシック(古典派あたり)を参考にしてみた。 顕著なのはサビの輪唱のあたりだろうか。

Aメロ部分はスキッフルっぽい。 私は基本的にスキッフル音楽が好きなもので、この曲にもその好みが色濃く投影されている。

間奏にシタールのフレーズが入ってるんだけど、ちょっと前にインド音楽について色々調べてた時期があって、その影響が出てる。 神田優花のレパートリーにも、インド音楽に影響受けたようなものがいくつかあるんだけど、あそこで使われている楽理はタートっつって、いわゆるスケール。 編成こそインド楽器満載なんだけど、中身はさほどでもない。 一方、この曲はラーガってのがベースになっていて、楽理的にももう少しディープにインド音楽を援用している。 ただし間奏だけ。

複数のプロットを一作品にまとめた感があるので、異なる曲が混在してるように感じられるかも。 あ、上のラーガとかタートとかの用語、説明なしに使ってるけど、ゴメンなさい。 説明してたらとんでもない文章量になるもんで省きました。



12/23(月)

世間は連休だとかクリスマスだとかで浮かれているみたいだが、私は制作環境の復旧作業でそれどころでない。


能(&狂言)の音楽について、色々資料漁ってるって話をしたんだけど、その続き。

やっぱし当初の印象通りと言うか、体系と言うほどのものではないな。 能の音楽に特化した本とかも、少ないながらも一応はあって、私も読んでみたのだけど、一冊に仕上げるのが大変だったろうことが伝わってくるほどに内容が薄い。 まあ学問的に整理してくれるのは、こちらとしてもありがたいことで、随分理解の助けにはなったけど。

能の謡で、一番音楽的である「ヨワ吟」、「ヨワ音階」などとあたかもスケールのように解説されていたりするが、実体覚束ないと言う話をした。 追記すると、ヨワ音階の構成音は2オクターブぐらいに展開していて、いかにもそういうスケールであるかのように解説がなされていたりするが、そもそも1オクターブ単位でその構成音がループしていない。

確かに、構成音が1オクターブでループするものだってのも西洋音楽的発想ではある。 周波数440Hzの音と880Hzの音が同名であると言うのも、単に一つの整理法だ。 いわゆるテトラコルドなんてものは分かりやすい例だけど、まあ2オクターブに跨るスケールが存在したって別に良い筈。 しかしそれにしても、1オクターブ単位でループしないスケールは標準的ではない。 ヨワ音階なんてものが本当に存在するとしたら、特異なものであることは間違いない。

能の謡の中でも、ヨワ吟は一番楽音に近いので、無理すれば大雑把に採譜できなくもない。 実際やってみたんだけど、やはり全然ヨワ音階なんて構成してない。 数小説単位で小刻みに転調しているとか言う解釈が成り立たないこともないけど、そこまでしてありもしない音階を成立させる意味も薄い。


(能の音楽を)作品に活かすかどうかだが、ちょっと考え込んでいる。 一つ作品を完成させるにはプロットとしてのボリュームに欠ける気がしているから。 能の音楽が薄っぺらいとかいう意味ではなく、私が感じ取った何かが少ないと言う話。 あと囃子方の発するあの掛け声って奴が、どうも私が作っている音楽作品との相性が悪い。


12/22(日)

何だかここ最近、呪われているかのように備品の調子が悪い。 今度はデジカメがおかしいらしい。

普通にカメラとして使う分には支障ないらしいが、PCとの接続に不具合が生じているっぽい。 因みに私が普段そのデジカメとやらを使わないのだけど、使わないだけに勝手が分からず困っている。 下は先日のスタジオにて。 そのデジカメで撮ってます。

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12/21(土)

能(楽)の音楽について、色々調べていた。 以下、備忘録も兼ねて。

以前、歌舞伎音楽について調べていた時期に、ついでに能の音楽についても資料を当たった。 この二者は共通する部分がある。 と言うか歌舞伎がミクスチャーなんで、能の四拍子なんかを取り入れている、と言うのが正確か。

上の当時は、あんまし食指が動かなくて、能については半ば放置と言うか、深く理解しようとしなかった。 純粋な音楽っつうよりあくまで劇伴みたいなもので、メインは演劇なんだから内容も大したものではあるまいと高をくくっていた。 今回あらためて調べてみたのだが、事前の印象に大きな変化はないものの、新たな発見はあった。


まず囃子(楽器隊)について。 能の四拍子は、器楽として見るなら編成が貧弱過ぎる。 そもそも厳密な意味での旋律楽器が存在しない。 打楽器以外に、笛(能管)ってのが唯一存在するが、効果音発生装置ってのに近い。 少なくとも現代人の考える旋律楽器とはかなり違う。

四拍子のうち、三つを占めるのは打楽器(小鼓・大鼓・太鼓)だ。 実にアンバランスな編成に思える。 因みに、そのうちの太鼓は、多くの演目では使われない。

実際に映像なども見てみた。 当初、適当に(アドリブで)演奏しているのかとも思ったが、一応譜面のようなものが存在しているらしい。 つまり即興性は薄い。 雅楽などもそうであるように、あの時代の日本人はどうも即興と言う演奏手法を選ばなかったらしい。 そういう思想すら存在しなかったのか。


能には、謡(うたい)ってのがある。 厳密な意味での歌ではないのかもしれないが、広義の声楽ではある。 謡にはシテ・ワキなどの演者による役謡と、その他のメンツによる地謡(基本、八人構成だそうな)ってのがあるが、作例当たった限り、ほとんどが地謡である。 役謡と思しき物は、劇の冒頭部分に若干見られる程度。 狂言の方は役謡が多いみたいだが、未確認である。

資料に、謡は、ヨワ吟・ツヨ吟などと言う、いわばスケールに沿ったものであると言う説明があったが、実際に聴く限り、どうもそのスケールは活かされていない。 西洋音楽的観点で翻訳・説明したらどうしてもそうなってしまうのかもだが、実体とは懸け離れている。 少なくとも能の側に、その意識(スケール感覚)は無いと見た。 ヨワ吟・ツヨ吟を、西洋音楽で言う作曲法のような精密な理論体系とする解釈は、ちょっと穿ち過ぎ。

また上のヨワ吟は、(資料上)2オクターブぐらいの範囲に展開されるスケールなのだが、その音域をフルに活用している作例は見当たらなかった。 おそらく、スケール上の2〜3音をつまんで使用するってのがせいぜいの実態かと思われる。 ツヨ吟はそもそも4音ぐらいで構成されるスケールだと言うが、ヨワ吟も活用法は上記の通りなので、二者の聴感上の印象(旋律・スケール面における)はさほど変わらない。 そもそも一つ一つの発音が、楽音として採譜するにはピッチが安定して無さ過ぎる。 やはりスケールとしてのツヨ吟・ヨワ吟なんてのは、錯覚ではなかろうか。

この手の現象(研究者による過度な体系化)って、本を書いて上梓するような人らの立場になって考えたら、発生理由が分からんでもないが、私のような現場の音屋にとっては、正直有害ですらある。 まあ情報の取捨選択も、音屋の能力のうちか。


12/20(金)

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神田優花、1/8(水)発売のニューシングル「Stand Back」のジャケット。 上は先日のリハーサルの様子。




12/19(木)

私が音楽を選んだ理由。

実のところよく分からない。気付けば私の中にあっただけで、それを選んだ瞬間なんて多分無い。 あったとしても覚えてない。

ただ、聴覚と言うものにヒントがありそう。

私を支えるもの、愛とか夢とか、大切な人の記憶とか、誰かがくれた勇気とか、あるいはこの私そのものとか。 そういうのって実は全て論理で出来ている。 決して物質でない。 だからそれを理解するのにも味わうのにも、常に「時間軸」が必要になる。 例えそれが「一瞬」であったとしても。

幼い頃の私が、何かを探し、捉まえるために、音楽に惹かれたのは必然であったと思える。 音楽とは時間だから。 私の作る音楽を誰かが聴き、その誰かが心に何かを残したなら、それは私の中に流れていた時間が、その人の中にも流れたと言うこと。

ピカソは絵を選んだし、視覚的情報(絵画)が、彼の脳裏に、ある感傷を展開する引き金に常になっていたろうが、その展開作業にはきっと時間軸を要した筈だ。 つまりピカソの絵は、ピカソの中にある音楽を奏でるための譜面だった。 私はより心に近い場所にて、直截的に感傷を留め置く手段として音楽を選んだ。

私は、私にとって大切なものを収納するための媒体として、音楽(時間)を選んだ。 私が、大切な何かを味わう時、それを展開するに時間軸が不可欠であったから。

私の中で、私と一体になり、私を支えるものとして、最も機能的なツールが音楽(時間)だった。 だって私と言うのは、私が消えて行くまでの時間のことだから。 私とは、私の中で流れている音楽のこと。


12/18(水)

神田優花、「地球儀」本日発売です。 そういえば、11/6(水)発売の「Mindscape -Remastered-」、海外での発売が遅れてたのですが、今日から購入できるようになってる筈です。 と言っても海外での話なんで、これ読んでるほとんどの人には関係ないと思うけど。 下はその新作について、本人からのコメント。


地球儀/Meteor

地球儀は、ラテンの要素をもった曲です。歌っているときは、自分の手の中に全てを握っているかのような不思議な感覚でした。スケールの大きな曲です、聞いてください。

Meteorはティンパニーの音が印象的に響く楽曲です。
オーケストラの中に一人放り込まれたような気分です。迫り来る音の波に、じわじわと攻めいっていく心地で歌いました。聞いてください。

神田優花





12/17(火)

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神田さんのご実家からみかんが届きました。 皆でおいしくいただいております。 以下、スタジオにて。

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明日発売の「地球儀」のカップリング曲「Meteor」について。


2.Meteor

この曲も企画としては、タイトル曲「地球儀」とちょっと共通した部分があって、タンゴっぽい。

クラシカルな編成にてのロック・ナンバーみたいなのをかねてから作ってみたかった。 上手くできたかって言うと、まあまあってところか。 ティンパニで喧しくリズム刻んでるところとか、弦のスリリングな感じとか、アタマの中にあったアイディアはほぼ漏れなく盛り込んでるつもりなんだけど、もうちょっと上のレベルに持って行けたような気がしないでもない。



12/16(月)

12/18(水)に新作「地球儀」(全2曲)を発売する神田優花ですが、来年の1/8(水)にはその次のシングル「Stand Back」(全2曲)を発表します。 両タイトルともよろしく。

その「地球儀」のタイトル曲について。


1.地球儀

タンゴをベースにした曲。 編成はキンテートとオルケスタ・ティピカ両方を折衷している。

あんまり普段やらないタイプの曲だったんで、アレンジとかには(実作業より構想に)時間が掛かった気がする。 ベースとかも、展開によって弓と指弾き使い分けたりしてます。 あとこの時期、コンサーティナとかバンドネオンについての資料を漁ってたわ。 概ねこのシングルのためです。

当初、カップリングの「Meteor」の方をタイトルに持ってこようと思ってたんだけど、マスタリングまで終わった音を聴いてみたら、こっちの方が良いような気がして来たので、こっちをタイトルにした。



12/15(日)

ここ数日、大変だった。 まあ聞いてくれ。

普段仕事で使ってるPCが二台ほぼ同時にトラブルに見舞われてしまった。 分かるだろうか。二台同時にである。 早急に何とかしないと仕事にならない。

想像してもらいたいんだけど、これ私が音屋であることに関係なく、誰でも参るはず。 毎日使ってるPCとスマホが両方いっぺんに壊れて、「ある程度環境が元に戻るのに一週間かかる」とか言われたら結構大変でしょう。

二件の故障が重なったのは全くの偶然である。 一台はおそらくハードウェア的な故障、もう一台は原因不明ながら、まともに起動できなくなってしまった。 それらの処理で、ここ数日まともに寝てない。

図らずも今回の件で、私の知識はかなり(無駄に)補強されてしまった。 OSが起動しないPCを、別のOS書き込んで作ったCDでブートして、無理やりレジストリ書き換えたり、普段なら絶対やらないような作業に明け暮れていた。 二度とやりたくない。


12/13(金)

PCを買い換えた。 同時にアプリケーション類も入れ直したりしてるんだけど、まあ大変だ。 言いたいことは山ほどあるが、それはさておき、作業に戻る。


12/12(木)

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神田優花、来週の水曜にニューシングル「地球儀」を発表します。 下はジャケット。




12/11(水)

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広瀬沙希「この手は もう 離さないで」本日発売です。 以下、本人からのメッセージ。


「この手は もう 離さないで」

今回の作品は全体的に「弱さ」が漂っているものになりました。
自分の「弱さ」をぶつけられる相手がいるというところから、それを見つめたり、受け入れたり、抗ったり、強さに変えたり…。
「弱さ」から生まれた様々な感情に注目して聞いていただけたら幸いです。

広瀬沙希





12/10(火)

スタジオにて。

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ノートPCの調子がおかしい。 作業中に突然落ちたりする。 そろそろ買い換えなければ。

元々不具合と言うか、気になる点があったので、いずれ買い換えようとは思っていたのだが、気が付けば数年来ほったらかしの状態だった。 どうも人間ってヤツは、不満も少々であれば、騙し騙しでも現状を容認してしまう生き物らしい。

だからして不幸ってのは、訪れるなら中途半端でないものの方が自らの転機となりやすい。 自分に何かを考える切欠を与えてくれるから。

しかしPC環境の乗り換えって本当に億劫だ。 アプリケーション類のインストールだけでも、数日は掛かってしまう。 これ、何とかならんものかね。


12/9(月)

想像力の無い人は損をする。 これは単純に金銭的な面でも。

高価な装飾品は、それにて何事かを補うためのものである。 補う必要がなければ要らない物。 高級車も高学歴も、人も羨む恋人も。

想像力が乏しければ、何かに「飽く」のにも手間が掛かる。 「私は飽きっぽい」とか言ってる人の多くは、一定の想像力さえあれば、本来手を出そうとすら思わないようなものに手を出していたりする。 飽きっぽいと言うより、手を出さねば飽きることさえ出来ない想像力の持ち主ってこと。 だから大抵の「飽きっぽい人」は、そもそもその対象が好きであった時間があったのか怪しい。

一を得て一を知る人より、一を得て十を知る人の方が、効率的なのは言うまでも無い。 一を得て百を知ればなお効率は良い。 一を知るのに十を得る必要のある人は、どうしても損をするでしょう。 想像力があればあるほど、人は遠回りをせずに済む。


12/8(日)

随分昔の事だが、あるTV番組で、ベテラン芸能人らが新人と思しき芸能人を品評するような企画があった。 印象に残ったのはある新人演歌歌手が俎上に上がった際だ。 その新人さん、「歌を続けて行きたい」らしい。

あるベテラン芸能人は言う。「君は僕らに比べ、まだ全然ボロボロじゃないのよ。芸能の世界で生き抜こうと思うなら、もっとボロボロにならないと」みたいな事を。 表現こそ具体性を欠くが、言わんとすることは解るし、まあ本音と言うか、正直な感想だっただろう。 そのように見えた。

そこで私などは思うのだが、そんなにボロボロになってまで彼らが欲しいものとは何なんだろうか。 金?純粋に金儲けがしたいなら、芸能より効率の良い業種など腐るほどあろう。 では名声? 多分こっちの方が動機としては有力だろう。 して名声欲の正体とは何か。

それは依存心だろう。 目立ちたいと言うのは認めてもらいたいと言うことに他ならず、つまるところ他人に依頼する気分の表れだ。 上のベテラン芸能人は、我が依存心の強さ(=自己の覚束なさ)を新人に居丈高に説いている事になる。 やや滑稽に思えなくも無い。


新人演歌歌手が、「歌を続けて行きたい」と真剣に思うなら、その方法は簡単である。 勝手に歌い続ければ良い。 我が心以外にそれを阻むものなんて無いはずだ。

翻って、その人が望むものが「認められること」であるなら、その手の成果は誰にも保証できないだろう。 認めるか否かは他人と言う周囲が決めることだから。 ついでながら、その他人の一人である私は「周囲に認められたい」なんて動機にて歌っている程度の人物を、ひとかどの者として認めない(感じ難い)だろう。 弱過ぎる。


芸能と音楽の世界は、一応地続きだったりするので、私も芸能の世界について考えることは多い。 しかし日本の芸能界って、ハッキリ言って思考能力に重きを置いていないのではないか。 私があの世界に憧れない理由も、つまりはそこにある。

私は、私のこの見解に対する、おそらくはありとあらゆるパターンの反駁を予想できるが、私の結論は揺るがない。

私は無論のこと音楽を続けて行きたいが、そんなこと一々表明するまでも無く、当然続けて行く。 それは私が決めることだからだ。

私は、比較的依存心の弱いタイプの人間だと自分でも思うが、本当に微塵も依存心が無くなってしまったら、こういう文章を上げることも、音楽作品を発表することさえ止めてしまうかもしれない。 まあでも、私が音楽作品を発表する理由は、もう自分だけのためでは無いんだよね。


12/7(土)

音楽は、誕生した時点で既に抽象的だった。

絵画はそもそも、目の前にある自然物、木々や牛馬、人などを描き留めたもので、芸術に昇華される以前に記録手段だった。 音楽に准えるなら、自然界の音声、波風の音や鳥の囀りを記録するようなものである。

色や線などと言う絵画手法をもってして、具象物以外を表現する試みが、美術史において革命的事件とされるけど、音楽はハナからそういう次元にてスタートしている。 どちらが優れているとか言う話ではなく、単に客観的事実として。


本来、聴覚とは論理そのもので、音楽は芸術の道具としてはそれなりに機能的である筈だが、惜しむらくはスポーツ的要素が強かった。 芸術は純然たる脳の作業なのに、音楽に運動神経や空間把握能力のようなものが必要になってしまうので、結果的に絵画の方が純度の高い芸術表現のツールとなってしまった。

DTMの出現は後世、音楽からスポーツ性を取り除いた、革命的エポックとされると私は踏んでいる(端的な事例こそ思い当たらないけど)。 音楽の芸術としての純粋性は、きっと今後ますます高くなると思う。


12/6(金)

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影山リサ、今月25日に「Romance」、年明けの来月15日に「Barracuda」の両シングルを発表します。 上は先日のスタジオにて。 下はその「Barracuda」のジャケット。





画家は一般に長寿であると言う。 多分医学的にまだその理由は解明されていない。

山田風太郎に「人間臨終図鑑」と言う著書がある。 各界の著名人ら一人一人の臨終時の様子を淡々と綴っただけのもので、各エピソードは「享年順」に並んでいる。 だからして、読み進めるにつれ、扱われる人物は長寿者となるわけだが、巻末は明らかに画家の割合が多い。 確か著者自身も、そこに気付いての一文を入れていた。 センテンス自体は忘れたが。

ピカソなんかは近代人だから、ハッキリとその統計上の事実(画家が長寿であると言う)も認識していて、ピカソ語録の中にも、確かそれに関連したものが残っている。 画業が人間の寿命に影響するのはほぼ間違いないらしい。


12/5(木)

スタジオにて。

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広瀬沙希「この手は もう 離さないで」、12/11(水)発売です。 下は先日のスタジオにて。

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12/4(水)

神田優花、サードアルバム「sorrow」本日発売です。 以下、本人より。


「sorrow」

やっと出来上がりました!3ndアルバム「sorrow」です。みなさん、よろしくお願いします。
2曲目のーsorrowーは今回初公開で、アルバムのタイトル曲となっています。

今回のアルバム、厳選された15曲は、どの曲も皆さんのもとに届くのを待っていた楽曲たちです。
何年たっても色褪せないアルバムに仕上がったと思います。ぜひ、聞いてください。

神田優花





12/3(火)

明日発売の神田優花のアルバム、「sorrow」収録曲「Tell me」について。


6.Tell me

声部が多かったって印象が強い。 でもその割りには編集そんなに面倒でも無かった。

ギターのアルベジオとスキッフルっぽい打楽器隊がメインで、ベースにあたるパートは基本的に無い。 ベースって必ずしも必要でない。

曲としては嫌いじゃないし、かねてから表現したかった何かがとりあえずは形にできたって感慨はあるのだけど、シングル(のタイトル曲)としてはやや弱い気もした。 なので本アルバムのみに収録。 神田優花の歌は良く録れてます。



アルバムの総評。

ちょっと前作とのインターバルが長過ぎたかもしれない。 もう一作アルバムを挟んでおくべきだったかも。 そういうボリュームです。 全15曲。 曲順は、ロックっぽいナンバーとおとなし目のナンバーを概ね交互に入れた。

全15曲のうち13曲が(先行シングルとして)公開済みので、本作にて初公開の曲はタイトル合わせて2曲のみ。 先行の曲を既に買われている方は、その2曲だけ摘み買いしてもらって良いし、神田優花を初めて聴く人には、それはそれで入門編としてオススメのアルバムです。

神田優花はこのアルバム発表後も、新作を続々リリースする予定です。 本作の二週間後にもニューシングル「地球儀」を発表しますので、よろしくお願いします。



12/2(月)

神田優花、別に納期があるわけでなく、徒然に歌録りなんてやってました。

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神田優花のアルバム、「sorrow」が12/4(水)に発売されます。 と言っても、収録の15曲中13曲が発表済みです。 既発音源をもう入手された方は、未発表の2曲を摘まんで買ってみて下さい。 神田優花を聴いたことがない方は、シングル満載だし、入門編としてオススメのパッケージになってます。


神田優花「sorrow」(全2曲)のタイトル曲「sorrow」について。

1.sorrow

アルバム・タイトル曲。 音楽的には別に特徴的な部分も無いと思うけど、いわゆる増六系の和音を多用している。 アレンジはピアノとストリングスを中心としていて、実にシンプル。

途中、歌のバックがチェロとピアノだけになる部分がある。 チェロは和音(クォドール・ストップまで)を使ってるんだけど、基本一本です。 その部分のフレーズは、歌舞伎の下座音楽とかをちょっと参考にした。

sorrow(悲しみ)ってのは、私が書きたいテーマの一つなんだけど、そのまんまのキーワードをタイトルに持ってきてるんで、「ここで使って良いものか」と言う逡巡はあった。 まあでも良かった。



12/1(日)

社会の構成員の大多数が「他人の気持ちが分からない人」であったならば、その社会の基本的ルールは「禁欲」にならざる得ないだろう。 「あれが欲しい、これが欲しい」と、周囲が抱える諸事情に全く思いを至らせずに、自己の欲求だけ満たそうとする輩だらけでは、そうせねば社会が崩壊してしまう。

翻って、社会の構成員の大多数が「他人の気持ちが分かる人」であったなら、その社会は人間の諸々の欲求に寛大になるはずだ。 「おおそうか、君はケーキが好きなのか。 ならば心行くまでおあがりなさい」となるだろう。 気持ちが分かるんだから当然だ。


この共感ってヤツは何によってなされるか。 言語である。 私の見た鉛筆と、隣にいる誰かが見た鉛筆は、「鉛筆」と言う言葉によって同定される。

物質であれば、解釈に異同は生まれにくい。 鉛筆は誰が見たって鉛筆で、鉛筆と言われ、フライパンを思い浮かべる人は病院に行った方が良い。

しかし概念語になるとそうは行かない。 「悲しみ」と言う言葉に含まれる感情は、その人の感受性、つまり言語力によって巨大な差異を生む。 Aさんの悲しみとBさんの悲しみは、成分が違う。

当然だが、「違う」とは言えど「全く違う」わけではない。 「悲しみ」と言われて「喜び」の感情を思い浮かべる人は、ほぼいない筈だ。 つまり概念語における各人間の解釈の差異とは、人によって多少の歪みがあるとか、大きさそのものが違うとか、そういう違いだろう。 この「違い」を、この社会では「個性」などと大雑把に呼んでいるようだ。

人によって、悲しみは、身を引き裂くほどのものでもあり、また人によっては、悲しみなど実は心の中に存在しないも同然だったりもする。


「他人の気持ちが分かる人」だらけの社会に「他人の気持ちが分からない人」が混入した場合、当然その人は異常人と、更には悪人と見做されるだろう。 逆の場合はどうか。 「他人の気持ちが分からない人」だらけの社会に「他人の気持ちが分かる資質のある人」が生まれてしまった場合。

恐ろしいことだがその場合にも、「他人の気持ちが分かる資質のある人」は異端扱いされ、排除される可能性がある。

他人の気持ちが体感出来る程度の言語力がある場合、人は、精神の重量が自然重くなってしまうので、要求も大きくなる。 これは小学生の算数のように単純明快なこと。 自分の中に「思い当たるフシ」があるからこそ、他人のそれにも想像を発展させられる。

日米外交において、アメリカが日本政府に一方的に要望を突きつけてくるのはこのせいである。 日本人の多くは、アメリカのこの「要求」にムカついている。 他人の気持ちが分からないから。 「アメリカ人だって日本人の気持ちが分かってないじゃないか」と言う意見はあろうが、ゼロの証明ができないように、「無いもの」を斟酌するのは難しい。

欧米人(キリスト教徒)は、自分に、神が与えたもうた何人も侵すべからざる権利(人権)が持たされていると信じている。 同時にそれを行使しない者は、当然のようにそれを持たされていない者と見做される。 良い悪いはさておき、だからこそアメリカは日本に原爆すら落とせた。

アメリカ人的資質を持つ人間が、日本社会にいたらどうなるか。 この禁欲を是とする社会においては悪人になってしまいかねないだろう。 文化摩擦と言えばそれまでだが、人類にとってとか、そういう普遍的視点において非難されるべきはどちらか。 言うまでもないと私は思うがね。 


11/30(土)

誤解(無理解)と言うのは、それをしてしまう人において「理解に至る条件が整わず、理解したくてもできない」のではなく、その人の「誤解する(理解しない)ための懸命な努力の結果」と言えるそうである。 なんか思い当たるフシあるわ。

ある程度以上の論理性さえあれば、多分人の間に意見の相違はそう生まれない。 世に言い争いが絶えないのは、社会には、普通程度の論理性の持ち主ばかりでなく、そうでない人がしばしば存在するからだろう。

論理性のない人は、考える能力が低い。 平明な論理力をもって推してしまうと、ある「自分にとって都合の悪い結論」に至ってしまいそうだから、懸命にそれを避ける。 無理矢理に別の結論を持って来ようとするから、プロセスとしての論理が破綻する。 非論理の誕生である。


自分の行動が美しく思えない時、人が採り得る選択肢は、「その行動を慎む」か、あるいは「自分は美しくない人間であることを自覚する」かしか無いはずである。 それが論理性ってヤツだ。

美しくない(自分ですら美しいと思えない)行動を取りつつ、尚且つ「自分は美しい」と信じるためには、どうしても論理の飛躍が必要になる。 その人には論理の破綻こそが「不可欠」なのである。 その人は、できることなら何事かを誤解したい。


ここまで考えてふと思ったのだが、論理性に欠ける人って、ボケやすいのではないか。 記憶ってのは多分に意識の産物で、記憶の整理ってのはつまりは論理である(このロジックが既に分からんと言う人がいたらゴメンなさい。説明する気力が無い)。 無理解を放置すればするほど、その人はボケへの近道を辿る。

(私見ではなく、一般論として)芸術家はボケないと言われるのだが、芸術ってのが「誤解を取り除く作業」に他ならないからではないか。


11/29(金)

影山リサ、来年1/15(水)にシングル「Barracuda」を発表します。 今作ってる曲が多分、12月のアタマくらいに上がる筈なんで、来年2月の予定に間に合いそうです。 でもまあ、私は今回も年末年始、休んでる暇無いな。

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生き物が滅ぶ理由は、滅ばないための最低条件を欠くからである。 よく言われるように「人間の乱獲」が原因なのかと言うと、一因としてそういう面もあるにせよ、無論それだけが理由ではない。 この地球に生命が誕生し、今も続いていると言うのは、条件さえ揃えば生物が滅ばない動かぬ証拠でもある。

保護センターまで作ってもらって、もうただ繁殖しさえすれば良いと言う条件を与えられてもなお、トキはさほど増えない。 遺伝子が絶滅を選んでいるかのように繊弱である。 もし本当にそうだとしたら、それも一つの条件である。

恐竜が絶滅した理由の有力な一説として、隕石衝突説ってのがある。 隕石が地球に墜落した事よりも、その後の環境変化が大きく影響したと見られているわけだが、恐竜は滅びても、全ての生命が滅んだわけではない。 現に我々哺乳類は生き長らえているわけで、要するに恐竜は、変化した環境に適応できなかった。


山脇東洋が、解剖の実験台として、川獺を使ったと言う記録がある。 現在絶滅種と言われるニホンカワウソをである。 当時の京都にそんなに川獺がいたことが驚きだが、実際いたらしい。 生息し得る環境があったのだろう。

当時(江戸期)の日本の人口がおそらく二千万程度だろうから、現在の6分の1以下である。 人間の数が6倍以上になったのだから、それがその他の生態系に影響を及ぼさないはずはなく、川獺の実態なども、その実例の一つだろうか。


子供の頃、友人の部屋で、カップラーメンの残りのスープの中からキノコのようなものが生えているのを見た事がある。 きっと特段の飼育をしたわけでもなかろう。 単に食いさしを放置した程度のことだろうが、生息するに最低限の環境がそこに揃っていたらしく、キノコは生えた。

人が生きていく上でも、この環境と言うヤツは大きく作用する。 誰かに友人や恋人が出来ないのも、誰かの就職が決まらないのも、誰かが作った音楽が売れるのも売れないのも、全ては環境に由来する。


11/28(木)

神田優花のニューアルバム、「sorrow」のジャケット。 




下は先日のスタジオにて。

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吉田松陰と山県太華の論戦が記録として残っているのだが、松陰の論陣がどうもおかしい。 太華のものがそれほど大したものとも思わないが、松陰のは明らかにおかしい。 松陰と言う人は当時の大秀才である筈だが、試験秀才ってのは、いわば環境(制度)に依存するもので、普遍的存在ではないのかもしれない。 特にファナティックって、その時代の熱狂が冷めてしまうと何のことやら分からん存在に成り果ててしまうことがしばしばある。 松陰もそれなのか。

幕末の、勤皇思想の真っ盛りの頃なんだが、太華の「天皇家が正統だと言うが、そもそもその正統性とやらの根拠はどこにあるのだ?」と言う問いに松陰は、「そうであるべきなんだ」みたいな、反論とも言えないような愚劣な反論を残している。 この手の非論理ってのは、よく見るものだから特に珍しくもないが、言葉の主が松陰なだけにちょっと考え込んでしまった。 あれ何なの?誰か教えて。


11/27(水)

片飛鳥「神様は許してくれなかった」本日発売です。 以下、本人より。


「神様は許してくれなかった」

今回の収録曲も、全て詞を書かせていただきました。
私の中の陰と日向、裏と表のような部分が見える歌詞になりました。
わりとネガティブな性格なので、マイナスなニュアンスの言葉が多いかと思います。
でも、出来るだけ『自分らしい表現』で書いたので、そんなところをちょっとだけ意識して聴いてもらえたら嬉しいです。

前作から作曲もやらせていただいています。 まだまだ模索中ですが、今この音楽が私の成長過程であり、今現在の『片 飛鳥』だと思います。
音の最後の最後まで楽しんで聴いていただければと思います。

最後に4曲目の「L」。
これは私が作曲を始める以前に作った曲です。今以上に音楽に対して、自分に対して迷っていました。
格好いい言葉や美しい表現でないと、いけないんじゃないかと思っていた時期です。
そんな時、「もっと自分の言葉で詞を書いたら」と言われました。

とりあえず自分のことを吐露してみたわけですが、カワイイ曲に仕上がりました♪
ぜひ聴いてみて下さい!

片飛鳥





11/26(火)

つい先週、シングル「nowhere」をリリースしたばかりの神田優花ですが、来月には4年振りのニューアルバムを発表します。 その後も、今のところ来年の2月くらいまでにかけて、シングル4タイトル(計8曲)を発表する予定です。 お楽しみに。

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11/25(月)

「男はつらいよ」のDVDを見た。有名な「寅さん」シリーズの一話である。 沢田研二と田中裕子が共演している回で、二人は同映画の出演を期に知り合い、その後結婚した。 そういう作品。

映画そのものについてはさておき、ちょっと気になったのは、沢田研二の役どころが色男・二枚目として扱われている点。

「沢田研二は当時、色男の代名詞だったのだし、そういう扱いを受けるのは当然ではないか」と言う意見はあるかと思うが、それはあくまで実体としてのジュリー・沢田研二のことであって、私が見たのは映画「男はつらいよ」である。 沢田研二は「沢田研二役」として出演していたわけではなく、劇中では単なる一青年である。

映画とかドラマの出演者は皆芸能人である。 当然そのほとんどは美男美女で、そういった人らでもって擬似的な日常を模したものがドラマだったりする。 例えば学園モノとかだと、クラスのほぼ全員が芸能人レベルの美男・美女なわけで、既にその世界は非日常なのだが、それが日常だと言う前提で物語は進んで行く。

だから突然、沢田研二が色男だとか言われてしまうと、「ああ、この世界はそういう前提なのね」と言う風に、見ているこっちが仕切りなおさねばならない。 この違和感、伝わりますよね?


11/24(日)

芸術って日本語の来歴はよく知らないが、言葉自体は結構古くからある。 多分中世ぐらいには、日本人の基本語彙の一つだったのではないか。

ただし、流通していたのはいわゆるartの訳語としてではない。 絵の道なんかも含まれるのだが、兵法(剣道)とかまでを指していた。 当時使われていた「芸術」の定義、何となくイメージできますでしょうか。

確かに現代では、剣道を芸術とは言わないだろう。 が、対象こそ兵法でも、そこにartの種は無くも無い筈。 宮本武蔵や柳生宗矩とかって、現代の下手な自称芸術家なんかより余程にartistだったような気もする。 ただし、彼らは自らの行為(art)と、当時の言葉である「芸術」を多分重ね合わせてはいなかったろうけど。 蛇足だが上の二人、全く接点は無かったと思われるが、同時代人である。

葛飾北斎は、こんにち的な感覚で言えば割りと典型的な芸術家だが、我が畢生の画業を「芸術」と呼んだことはおそらく無かったと思われる。 そういう用法が定着する前の時代の人だから。

しかし前にも似たようなことを言ったけど、何故artの訳語に芸術を当てたのだろう。 芸術大学は間違いなく芸術を追求しているが、全くもってartの場ではない。 大抵こういう錯誤は、言語の不備によって生まれる。


11/23(土)

私は何事に対しても、他人の判断を鵜呑みにはしない。 他人が下した、物事に対するある評価を信ずるかどうかは、そもそもの評価を下した「人物」による。

例えば、Aさんが「Bさんは悪い人だ」と言った場合に、「その評価を信ずるか否かは、Aさんと言う人物の人格による」と言う話。 これは「自分の判断基準を他人の評価に委ねる」なんてことではない。私は如何なる場合においても、そういうことはしない。 Aさんの人物評も含め、自分の判断ってことだ。 私が地球を「丸い」と思っていることも、要はそういうこと。


織田信長には同腹の弟がいた。 どういう人物であったか、詳細は分からない。 が、信長と家督を争った挙句、抹殺されていることだけは確かである。

国主の地位を兄が相続することが絶対的正義と言うわけではないので(信長には腹違いだが兄もいる)、その継承権争いについて、事を善悪で断ずるのは難しいが、このケースにおいては信長側に十分な情状酌量の余地がある。 殺されたと言うから弟は被害者のようだが、喧嘩をしかけたのはとりあえず弟の方からである。 しかも複数度に渡ってのことなので、当時的感覚においては、信長の正当防衛ともう言って差し支えない。

有名な話だが、少年期の信長は、「大うつけ」と呼ばれた。 本当にうつけ者であったと言うより、周囲にその思考・行動が理解されなかったと言うべきだろうけど。 とにもかくにも、弟(信行)は、兄に対するそういう悪評を聞きつつ育った。

「ひょっとしてあんなヤツより、俺の方が家督を相続するに相応しいのではないか」なんて事が弟の脳裏をよぎったと見える。 あるいは考え難いが、兄の人物を自分の目で判断した上で、行動を採ったろうか。 どのみち結果が物語るように、その観測は正確性を欠いた。

弟(信行)について、残っている資料が少ないので一概に判断できないが、どうも凡庸な人物だった気がする。 凡庸と言うと聞こえが悪いが、要は普通の人である。 だから普通人程度に己の分際を知らなかった。

「周りも散々うつけ者呼ばわりしている兄が相手なのだから、俺だってその気になるさ」と言うのは実に常識的感覚である。 しかしその兄は、日本史上類例が思い当たらないほどの天才的人物だった。

後世に生きる我々から見れば、史上の英傑・信長でも、リアルに同時代を生きていた弟の感覚では、「単なる我が兄貴」のイメージは払拭し難かったろう。 兄弟なのに、と言うかむしろなまじ兄弟などであったが故に、目の前の人物の偉大さが彼には見えなかった。 評価とはかように難しい。


11/22(金)

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影山リサ。 来月25日にニューシングル「Romance」を発表するんですが、再来月(来年一月)にはまた新しいシングルをリリースする予定です。 今リハやってる曲が年内には上がる予定なんで、来年の3月くらいは更にその次のシングルも発表できるかもです。




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片飛鳥、来週水曜にニューシングル「神様は許してくれなかった」(全4曲)を発表します。 前作より約一年ぶりの新作になります。 片飛鳥は現在アルバム制作(企画)中で、来年くらいにはなんとか間に合わせたいと思ってます。



先日のリハーサル風景。


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11/21(木)

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上、スタジオにて(神田優花)。

その神田優花の最新シングル「nowhere」(全2曲)、のカップリング曲「迷いの森」について。


2.迷いの森

モテト(プチ・モテ)みたいなのを作ってみたかったもので、それっぽいものを作ってみた。 習作的な側面が濃い。 そう言えばこれ、完成後に一度タイトルを変更している。タイトルが曲の根幹に関わってないってことです。

歌い手さんのコメントにもあるけど、本人、声楽科出身で、その経験がどの程度役に立ったのかは分からないけど、こういう音楽を全く聴いた事無い人に比べれば、話が早くて助かりはした。

厳格対位法の禁則を、一応は頭に入れた上で作ってみてはいるけど、結構面倒だった。 一人分の音域に、四つの声部を無理矢理詰め込んでるから。

バッキングの編成はオルガンとバスぐらいで、実にシンプル。 一応クレジット上、作曲は私ってことになってるんだけど、ここまで様式的なものって、作曲とか言うほどのものでもない。 今後この手のものを量産したりはしないと思います。





11/20(水)

神田優花「nowhere」本日発売です。


nowhere

何があったってわけじゃない。だけど今日は何だか何もかもダメな気がする、そういう時ってあると思います。そんな日に、そっと寄り添う曲になってくれればと思います。
どうかあなたのそばに置いてください。

迷いの森

この曲は初め違うタイトルが付いていたのですが、最終的に「迷いの森」になりました。この曲名、すごく気に入ってます。
学生の頃グレゴリオ聖歌を勉強していたことがあるのですが、その時の経験が生かせました。響きの美しさにこだわって歌っています。
美しい曲です、聞いてください。


神田優花



11/19(火)

11/6(水)に発売された、神田優花のシングル「Mindscape -Remastered-」(全2曲)の海外での公開が事情あってちょっと遅れてます。 来月(12/18)には公開される予定だそうなので、一応お知らせしておきます。 因みに、国内では既に発売中。


神田優花「nowhere」(全2曲)のタイトル曲「nowhere」について。


1.nowhere

シンプルな曲。ギターの弾き語りみたいな感覚で作った。 ほぼ全編に亘ってモノラルなんだけど、冒頭に入ってる風の音のみがステレオ。

バッキングに使ってる楽器はアコギとクラリネットくらい。 クラリネットって音域が広いし、アレンジ上の使い勝手が良くて助かる。 クラリネットは、シャルモーとかクラリーノとか言って、音域を名称で区別するくらいに広い。

リズムは、そのほとんどがギターのボディーパーカッションとかそういうの。 ドラムとかそういう、リズムパート専用の楽器を一切使ってない。

神田優花の歌って、エフェクティブなものも多いんだけど、これはとってもドライ。 特に間奏明けのAメロなんてリバーブすらほとんどオフなんで、部屋で歌ってるみたい。



11/18(月)

「名将言行録」って書物がある。 そんなに古いものではなく、確か江戸末期だか明治の初めだかの代物である。 内容は日本史上の名将と言われるような人物らの言行・逸話を列伝(オムニバス)形式で綴ったものだ。 巷間流布されたこぼれ話のようなものを採録したものなので、史料的価値はさほど高くない。

それを読んでいると気付くのだが、ある人物について、そもそも私が持っていた人物観とその本に記載されたエピソードに登場する人物像が重ならないことがある。 また、その言行録単体で見ても、複数のエピソードから一つの統一された人物像が浮かび上がり難かったりする。 要するに、史実性が薄いってことなんだろう。

「信長公記」に出てくる信長は、まごうことなき同一人物である。 太田牛一の文才がどうしたとか言う話ではなく、つまり透明な事実(史実)と言うものは、その程度に人間を洗い出すってことなんだろう。 実見した人間の印象が裏切らないように。


11/17(日)

倫理と道徳は違う。 倫理は神の決めたルールと言われ、道徳は共同体のニーズによって固まったと言われる。 して、両者の違いの本質とはどの辺にあるか。 同じ人間が、同じく社会を構成するに当たって定めた決め事が、洋の東西の違いぐらいで、それほど本質的に異なるものになりうるのか。

西洋、とりわけキリスト教社会は、人間の諸欲に寛容である。 翻って儒教や武士道などと言う東洋的価値観においては、人間の欲望は慎むべきものとされがちだ。 それは何故か。

言語のせいである。 言語の形成環境が違い過ぎるため、意識のレベルが隔絶し、欧米人の捉える「欲」が、日本社会などにおいては単なる堕落としか見做されなった。 だし、事実そうであったろう。

「酒がやめられないこと」と、「酒が飲みたくてたまらないこと」は似ていて全く非なる心境である。 欧米社会において後者は肯定され、日本社会において前者が否定された。 二つの社会の間で、ある一つの機微について正反対の評価が下されたのではなく、対象である機微そのものが全く異なるものであった。

アル中患者が、本当に「酒が飲みたい」のなら、医療施設に隔離される前に、自らで「酒が飲み続けられる環境」を整備した筈だ。 彼らは酒を飲み続けるだけで、環境作りには思考を至らせなかった。 真剣に考える苦痛を請け負うぐらいなら、隔離されることを選んだ。 医療施設は彼らの望んだ場所だ。

大体、体を壊してしまっては、酒が飲み続けられなくなってしまうではないか。 彼らは「酒がやめられない」だけであって、断じて「酒が飲みたい」のではない。

「チヤホヤしてくれる女が欲しい」と言う男と、「○○さんが好きだ」と言う男、両者が同じな筈がないでしょう。 前者は忌まれて当然だし、後者は賞賛されても不思議は無い。 芸術家が日本から生まれないのも理由は同じ。 芸術家は「自分を楽しませてくれる都合の良い世界」を想像しているのではなく、「自分が楽しむための世界」を創造している。


11/16(土)

レオナルド・ダ・ヴィンチは不世出の天才だと言われる。 まあ私もそう思う。 画家であり音楽家であり、科学者でもあった。 おそらくは、当時考えられるほぼ全ての分野に精通していたと言って差し支えない。

しかし、あれほどに多様な分野に手を出したところを見るだに、「コレ」と言う過不足無き対象が見つからなかったのかとも思える。 器用貧乏と言う言葉もあるように、そういう意味では、彼が幸福だったのかイマイチ分からない。 ダ・ヴィンチは十分に人類史上に残る巨人だが、ピカソが対象として絵を選んだように、彼が何か一つをもってその対象としたならば、その事績はより巨大なものだったかもしれない。

まあ彼は単にダ・ヴィンチ道を追求していただけなのかも知れず、そう言う意味では彼も一本道を走り続けていただけなのかも。 少なくとも、あれこれと色んな対象に手を出しては、何一つ得られない人、ってのとは違うっぽい。

して彼は、結局のところ何をしようとしていたのか。 それは「分かる」ことだろう。 絵画や何やと言う対象を梃子に、森羅万象を理解しようとしていたのに違いない。 彼以外のありとあらゆる芸術家・哲学者・宗教家・科学者も、対象の違いこそあれ、目指しているところはつまるところ同じ場所なのだろう。


11/15(金)

スタジオにて。

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「誰しもに好かれる人」は理想的人格像か。

確か論語の一節で、孔子は弟子に「誰にでも好かれる人はよろしいか?」みたいに問われ、「否」と答えている。 そして結びとして「ある人に好かれ、ある人には嫌われる、ぐらいがよろしいのでは」みたいな見解を述べている。 私も全く同意見だ。 別に、中庸をもって最善と思うわけではない。

八方美人は臆病さが生む。 自己が確立していれば、八方美人になど絶対にならない。 世の中には色々な人間がいるからだ。 「誰から何と言われようと、嫌いなものは嫌いだ」とハッキリ言えてこそ独立した精神であるに違いない。

確立された人格を煙たがる人間はいくらでもいる。 そういう人に気に入られる必要は無い。 我々は、自分の好きな自分になるべきだ。


11/14(木)

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神田優花、新曲のリハやらこの間録ったテイクのチェックやら、色々やってました。 神田優花は来週水曜(11/20)にニューシングル「nowhere」をリリースします(下はそのジャケット)。 12月にはアルバムも発表する予定なので、是非聴いてみて下さいね。




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川村真央。 先日録ったテイクの上がりをチェックしたりしてました。 これで前作「Baby Blue」発表後、三曲目になるのかな。 あと何曲か録り溜めるつもりなんで、リリースはもう少し先になります。 しばしお待ちを。


11/13(水)

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佳乃。 新作「Decide」本日発売です。 以下、本人より。

この曲たちを作っている間は、現実世界でも色んな悩みにぶつかっている時期でした。
みっともなくしがみついて足掻いている姿なんて、晒すべきじゃないかも…とも思ったのですが、今はそんなのも私だと思うようになりました。
モヤモヤしてる時に一緒に暴れるような、そういう存在になれたら嬉しいです。

佳乃





11/12(火)

人たらしと言われた豊臣秀吉は、人心掌握の天才だった。 人間の機微が解るからこそ、常に最善の選択が見えたし、ひいては天下が取れた。 しかし、人間の幸福とは、どこにあるか分からんものである。

晩年の秀吉は、多くの歴史家に「耄碌した」と評される。 確かに晩年の秀吉は猜疑心の塊のような人に成り果てていて、例えば、一旦後継者に指名した我が甥とその妻妾ら、まとめて数十人を虐殺している。 我が子秀頼の行く末を案ずるあまり、側近らに誓紙など交わさせているが、彼には人の心が解るが故に、その恃み難さも身に沁みたろうか。

死を目前にした秀吉は、枕頭にキリスト教の宣教師を呼び、何やら物語りなどもさせたようだが、話を途中で遮って、その宣教師を退出させている。 愛の教えも、彼の心には届かなかったと見える。

持てる何もかもが、手練手管の限りを尽くして得たものばかりであったが故に、彼はありのままの自分を愛する何かの力を感じることができなかった。 彼特有の生い立ちのせいとばかりも言えないかもしれない。 その当時に、私の言う「愛」を感じられた人などどれほどいたろうかね。

秀吉は、その母大政所の臨終の報を聞いて、衝撃のあまり卒倒したと言われる。 もう物質的な面では、手に入れられないものなど当時ほぼ無かったであろう天下人にとっても、ありのままの自分を愛した母の存在は得がたいものだったと見える。 かほどに愛は得がたい。


どうやら「得た何か」より、「得られる予感」の方が人を幸福にするらしい。 しかしこれは実に恐ろしいこと。 前者は物理的条件さえ整えば誰にでも容易に手に入るが、後者はそうでない。 何かを得られる予感は、想像力が欠けている人には絶対に手に入らない。

だから想像力が大事なんだ。 一般に人は、愛される事によって夢を見られるのだけど、それもこれもその基礎に想像力あってのことだ。 猫を愛したって、彼らは夢を見たりしない。


11/11(月)

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影山リサ、新曲の制作に入っております。 来月25日にニューシングル「Romance」を発表するんですが、その後も何曲か短い間隔にてリリースする予定です。 また発売日近くなったらお知らせしますね。


11/10(日)

常識について。

常識とは常なる意識(認識)。 そもそも英語のcommon sense(共通認識)の訳語だから、その意味は、「誰だってそう思う」ってことである。 

寒い日に薄着のままでは風邪を引きやすい。 誰だってそう思う。 非常識な人とは、ほぼ万人が同じ感想を持つであろうある状況において、ソイツだけ同じ感想・観測を持てなかったりする人である。 これは度が過ぎれば、笑い事ではない。

精神病患者がよく陥る症状である被害妄想、これは「そんなの心配し過ぎだよ」と言う、誰しもが感じる常識が共有できない人において起こる。 彼は、普通人であれば特段何とも思わないような状況において、既に被害者である。 妄想の度が過ぎれば反撃に出かねない。 多くの常識人にとっては危険な存在だから、場合によっては隔離されたりする。

誰しもがその目に映す、この世界と言う情報に大差はないはずである。 しかし、結果としての行動には大きな違いが出る。 これは、情報の処理装置である脳と、そこにインストールされた言語の精度に因っている。 情報と行動の中継点であるそれらが、人間の統合を維持している。

教育の手に負えるのは、ソフトウェアの部分(ここで言う言語)だけで、ハードウェアの性能については医学の領域ってことになる。 まあ医術でフォローできる部分など高が知れていようが。 脳と言うハードの性能は、容易に動かし難いのだから、出来る唯一のことは(言語)教育ってことになる。


「芸術家=異常人」みたいなステレオタイプなイメージが定着してしまっていたりするが、そんなわけない。 新たな発想ってのは、常識を基礎としないと生まれない。 世界が分かる事ってのは、心が分かる事でもある。

ピカソの懸案が普通人のそれと全然違ったのは、彼が非常識人だったからではない。 とうの昔に結論の出たようなことに、延々とかかずらっていなかっただけだ。 この「とうの昔」と、彼のup to dateな懸案事項の距離が離れ過ぎている場合など、しばしば彼は普通人の感覚を思い出せなくなってしまっていたろう。 それが普通人の側からは「異常(=非常識)」に映ったってだけ。


11/9(土)

寝起きなどに瞼が腫れていることがある。 単に寝る時の格好が悪かったとか、理由の大半はそういう他愛の無いことなんだろうが、そこで私は以下のようなことを考えさせられた。

腫れぼったい目で世の中を眺めていると、不快な気分になることがある。 目を細めたような状態って、偶然なのだろうが、不快感を示す表情に似通っている。 その表情であった時の気分を思い出してしまうのか、目が腫れた朝は何となく不愉快であったりする。

表情と気分との相関性について、私に科学的・医学的な知識はない。 が、人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだとかよく言われるらしい。 これ、当たってなくもないんじゃないか。 表情と気分はリンクしているに違いない。

怒った犬は吠え掛かる。 何らかの危険を察知し、怒りのリアクションを取るのだろうが、怒りを表明することによって攻撃態勢はより強化されているのでは。 「怒るから腹が立つ」とでも言おうか。


吠え掛かってくる犬だとか、毛を逆立てる猫を見た時、人は「コイツは怒っているのだな」と言うことにぐらいは気付く。 気付くってことは、彼らの脳内で行われている演算処理のプロセスを体感出来るってことだ。 人間の感じる怒りと、彼らの感じているであろう怒りは、つまりは似ている。

正常な感覚を持ってさえいれば、人は犬猫の気分ですら体感できるのだから、同じ人間の気分など言うまでもない。我がことのようにありありと感じられる筈だ。 世の中には、表面上笑顔を作りつつ、本当は笑っていない人がよくいるが、きっとその作り笑顔を構成する気分ごと他人に伝わってしまっている。 人は騙せない。

以前、TVか何かで蛇に食われるカエルの映像を見たが、カエルは全くの無表情であった。 つまりここで言う演算処理のプロセスが全く似通っておらず(あるいはほぼ何の処理も行われておらず)、想像するに至らない。 従って共感が成立しない。 両生類には表情筋自体が存在しないが、ここで言うプロセスとは、表情筋の動きと言うアウトプットも含まれたものなので、結論は変わらない。

何かを感じ取る感覚と、それを感情として表現する機能の連動は、きっとある意味ごく単純明快な数式に因っている。 だから、雰囲気を見ただけでその人の本質は分かる。 第一印象はほぼ裏切らない。


欧米では教育の一環として、幼少期から「スマイル」を叩き込むと言われる。 ひょっとして人は、笑顔でありさえすれば明るい気分で生きて行けるのではないのか。 楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい。 楽しい気分で生きているからこそ、この世界の面白さに気付く。

翻って考えると、日頃から仏頂面で生きている人は、常に不快な気分で生きていることになる。 当然この世界の面白さにも気付けない。 そういう人の周囲にいる人も同じ人間。相手の思考が体感できるから、当然不快感こそが伝わってくる。 従って、そういう人には人気が集まらない。 仏頂面はますます険しくなる。

その負のスパイラルから抜け出す方法はあるか。 簡単だ。 笑えばいい。 タダである。 が、その簡単なことこそが、ある人にとっては至難の業らしい。


物質的充足が喜びの根拠となっているのなら、その幸福は有限である。 が、楽しさと言うのは実は無限なのだ。 これが実感できない人は、楽しさを「与えてもらうもの」と思ってやしないか。 この世界を我々が「楽しむ」んだ。


11/8(金)

実を言うと今週は、代々木アニメーション学院さんの東京本部へ、企業説明会ってヤツに出向きました。 まあほとんど喋ってるのは(私でなく)ウチの代表だったんだけど、普段はスタジオや事務所に籠って音ばかり作ってるこの私も、一応コバンザメのようについていった。

多分あれって授業の一環と言うか、いわゆるセミナーみたいな自由参加のものではないんだろうな。 ほぼ在籍生徒全員が参加しているっぽかった。 オーディションって、ウチも雑誌なんかでは時々告知するんで、出版社とかに足を運ぶ事はたまにあるんだけど、その雑誌の大量の読者を目の前に事務所の説明したりとかって普通はしない。 何だかいつもとは違う疲れ方をしてしまった。

参加された生徒さんで、これ読んでいる人とかいるかもしれませんね。 スタッフ一同、皆さんのご応募をお待ちしてます。


11/7(木)

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9月にアルバムをリリースした影山リサですが、早速12/25(水)に新曲「Romance」を発表します。 お楽しみに。 上は先日のリハーサル中のカット。


神田優花「Mindscape -Remastered-」(全2曲)収録曲「Sink」について。


2.Sink

かれこれ10年近く前に一回発表した曲の再録。 ボーカルは全面的に録り直し、歌詞も若干修正入れてます。 オケも音自体は差し替えてる。

バッキングはピアノだけで、実は全面的に作り直そうかとも思ったんだけど、指が鈍ってて同じフレーズが全然弾けなくなってた。 しゃあないんで、前回発表のバージョンで使ったMIDIデータをほぼそのまま使って、音色だけを差し替えた。

歌については10年近いブランクがあるので、是非技量の変化を聴き比べてみて欲しいんだけど、前のバージョンの入手はちょっと面倒かも。





11/6(水)

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神田優花、ニューシングル「Mindscape -Remastered-」(全2曲)、本日発売です。 上は先日のスタジオにて。 以下、本人からのコメント。


MMindscape/Sink

Mindscapeは1stアルバムに収録されている曲で、リマスター版となります。

Sinkは2003年に出したシングル(It's my)Tuesdayのc/w曲で、今回新たにレコーディングしました。深海のイメージで歌った曲ですが、より深く深くもぐれたんじゃないかな。静かに、聞く人の心に染み渡ってくれればと思います。

神田優花



11/5(火)

スタジオにて。

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私は別に特段の権威主義者ではないつもりだが、本などを読むなら、最近はできるだけ学者の書いたものにしたいと思ってしまう。 単に読みやすいからだ。 文章の論理性(つうかリズム)が気分に合うからで、これは純粋に好みの問題である。

歴史モノの本なんかには、よく珍説・奇説の類が見られる。 奇を衒えば本も売れたりするのだろう。 一口に珍説と言っても玉石混交で、納得度の高いものとそうでないものがある。 ほとんど妄想ではないかと思えるような、アカデミズムに対する猜疑心が原動力になっているようなものすら存在する。

その珍説、読んでいるとあることに気付く。 その手のものの中の、特に非学者の書いたものは、学説の実証性云々以前に、文法がしばしばおかしい(無論全てではないが)。 文章とは論理そのものだ。

要するに、学説の是非以前に、その手の珍説の提唱者の一部には、そういうこと(珍説)をぶち上げずにいられない精神の傾斜があるのではないか。 文章力の怪しさは、それを端的に物語る。

その手の御仁の多くは、その突拍子もない説をおそらく本気で信じているだろう。 が、普通人の本気とその本気は、成分が違う。 「本気」を構成する意識は言語が支えるものに違いないから。

例えば私は一応エンジニアだが、音に対する偏執的な拘りは無い。 音なんて、自分が聴くに支障ない程度のものであれば良いと思っている。 が、世の中には、何千万円もする卓が買いたくなる人だとか、そういうおよそ私には理解出来ない行動を取る人が実在する。

そういう人の頭の中には、そこに横たわる微細な音の違いをありありと映し出す精神が植わっている。 幽霊が見えない人には、見えている人のことが理解出来ないだろう。 別にオーディオマニアを妄想家だとか言ってるんじゃありませんよ。


11/4(月)

川村真央さん、新曲の歌入れでした。

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レコーディングが終わった後に、「数週間前の方が上手く歌えた」みたいなことを、本人がちょっと悔しそうに言っていたのだが、そういうことはこの作業に付き物だ。 歌ってのは、ただ壁のように無表情に突っ立っているだけの対象でなく、そういう小さな差異を自分に気付かせるための道具でもある。



そう言えば、先月より告知してましたオーディション、とりあえず10月末日にて締め切ってます。ご応募ありがとうございます。 選考の結果は、今月中に通知する予定だそうです。


11/3(日)

11/6(水)発売の神田優花「Mindscape -Remastered-」(全2曲)のタイトル曲「Mindscape -remastered-」について。


1.Mindscape -remastered-

神田優花のファーストアルバム「マインドスケープ」のタイトルナンバー、「Mindscape」のリマスター版。

この曲はアルバムリリース後、2006年に確か「サークルK・サンクス」と「ヤマザキデイリーストア」店内BGMのローテーションに入ってたんだけど、その際に音源を微妙に修正している。 元々この曲、コーラス部分の位相を弄ってて、店舗に設置してあるスピーカーの仕様によってはそれが正常に(こちらの意図した形にて)再生されないおそれがあった。 で、その対策として結局専用のリマスター版を作ったわけです。

その修正バージョンの方が(後発だし当然)よく出来てて、個人的にもよく聴いていたもので、この際あらためてリリースすることにしました。 わざわざ作った以上、公開しないのも勿体無いし。 コレクターズアイテムっぽいものかもだけど、興味ある方は聴いてみてくださいな。



11/2(土)

精神と言う、いわば計量・計数不可能なものの実体とは何なのか。 こういう事を考えてしまうこと自体、キリスト教的な心身二元論に流されてしまっているのかもしれない。

言語とは、事物を記号化したものなので、大なり小なりの四捨五入を含んでしまう。 言語は明晰であるに越したことはなかろうが、明晰であればあるほど目が粗くもなるのではないか。 それを精神とか呼ぶから、一種の神秘を感じてしまうのだけど、要は脳機能のことに違いない。 各種の感覚と運動を統合する機関としての脳、それの機能。

精神疾患なんかについて調べていると分かるのだが、患者は概ね言語機能がおかしい。 精神と言うのがつまりは言語だからなのだろうけど、言語の異常と言うのが、どうも単純なソフトウェア的問題だけでないようなのだ。

精神に何らかの異常を来たしている者は、健常者に比べ、脳梁が細かったり海馬が小さかったりするそうだ。 脳内のプログラムにミス(書き損じ)があると言うより、それを走らせるためのハードウェア自体に不具合、更に言えば機能不全があると言って良い。

これは困ったことである。 プログラムの問題なら書き変えることができるだろうけど、ハードならそれは無理。 外科手術とかで修理が可能なら良いけど、脳に交換用の部品が存在しなかろう。 したとしても、例えば海馬の大きさとかだって、それは遺伝子に組み込まれたその人固有の身体条件なわけで、それこそが個性だろう。軽々に弄くるわけにも行くまい。


人の顔には感覚器が集中している。 目・鼻・耳・口、無論皮膚も。 哺乳類は顔面の筋肉も発達しているので、それらの統合の様子が実に顕著に現れる。 表情は、脳の稼動の具合をモニターしている。 だから、相手の顔を一目見ただけで、その人がどういう人間かは粗方判る。

感覚器から入った情報を処理するのが脳で、結果は運動として出力される(表情筋の態様も立派な運動である)。

もし、遺伝形質として目の焦点が常に合っていない人がいたらどうなるか。 その人は、視覚情報だけに限れば、この世界が常に(通常人に比べて)偏向した形で入力されることになる。 視覚情報は感覚の中でもボリュームが大きい。 その人は、世界を誤解してしまう確率が高くなるはずだ。 あるいは脳の性能によっては、その多少歪んだ情報を補正できるかもしれないが。 ヘレン・ケラーの偉大さは、要するにその補正能力にあると言えるのではないか。

精神病患者の典型的症例として「被害妄想」ってヤツがある。 他人やこの世界全てが、何らかの禍害を為す存在に見えてしまう。 その人固有の脳機能が映した世界観である(無論環境と言う係数もある)。 私はそれを一種の誤解だと思うが、私に見えた世界とその人らに見えた世界、どちらが正解かなんて今のところは分からない。


11/1(金)

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神田優花。 来週の水曜日、11/6にニューシングル「Mindscape -Remastered-」(全2曲)を発売します。 ファーストアルバムのタイトル曲のリマスタリングバージョンです。 カップリング曲はもっと古い。 是非聴いてみて下さいね。 上は先日のリハーサルにて。




10/31(木)

ニュースで紹介されていたのだが、ごく最近、誰かが生きたままの野良猫に火をつけて殺した、と言う事件があったそうだ。 誰がやったかは不明らしい。 何やら言う条例に引っ掛かるらしくて、警察はその犯人を捜しているのだとか。

私には疑問がある。 無論、猫殺しを推奨はしないけど、野良猫を殺すのって、報道されるほどの大罪か? ネズミを駆除する為のグッズなら、ホームセンターとかにいくらでも売っている。 人殺しがイカンってのはまあ分かるとして、ゴキブリや蚊を殺すのは良し、ネズミも良し、農業に害を為す猪などの駆除もOK、鶏や牛や豚は食って良し、飼い犬を保健所で殺処分してもらっても良し、だが野良猫殺しはダメ。 これらの基準は?

そう言えば随分昔の話だが、「矢ガモ事件」ってのがあった(詳細は調べられたし)。 「鴨に矢が刺さっててカワイソウ」って、鴨ってごく普通に流通している食材じゃん。 どういう感覚なんだろう。 私は批判しているのでなく、単に知りたいだけなのだ。

上記の事件においては、「誰かが猫を焼き殺したこと」しか紹介されておらず、その行為に至った周辺事情が一切解明されていないから分からないが、殺した人にも一応の理由があったのかもしれない。 野良猫なら、人間の生活に何らかの害を与えることも考えられなくは無い(例えば糞尿とか)。 まあ焼死体を放置したことは問題かもしれないが。

私は事件を茶化しているのでなく、本気で怖いのだ。 そりゃ私は野良猫を焼き殺したりしないだろうが、当たり前の事として害虫・害獣のようなものを駆除したら、突然猟奇犯のように扱われるかもしれないわけで。 基準を誰か教えてくれよ。


10/30(水)

スタジオにて。

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日本の音楽コンテンツプロバイダーとでも言おうか、その手の事業者の、音楽に対する感覚ってヤツに、私は違和感を覚えることが多い。

とりわけ、旧譜の扱いについてそれを感じる。 国内の事業者って、基本的に新譜以外を半ばゴミのように捉えているかのようで、コンテンツのリストからも簡単に外してしまう。 いわゆる廃盤である。 海外の業者は違うよ。 iTunesとかだって、抱えているコンテンツの「数」こそを誇っている。

CDなどの「物」ならある程度分からないでもない。 物質はどうしても場所を取ってしまうから。 店舗の陳列棚とか倉庫など、とかくスペースを占有する。 ダウンロードコンテンツが占有するサーバーのスペースなんて微々たるものだろう。 維持コストなんて、きょうびほぼ無視できるレベルである筈だ。 でも、古い曲は削除されがちだ。 要するに価値を感じられないからだろう。 価値を感じないものにかかるコストなんて、そりゃ請け負いたくないわな。

音楽と言うデータベースは、いわば人類の叡智の結晶だろう。 旧譜があるから新譜が出来る。 音楽配信の本当の素晴らしさは、廃盤化を極限まで回避できることではないか。 確かにほとんど売れなくなった旧譜をいつまでも置いといたって金にはならないのだろうけど、日本人の「音楽を消費財だと捉える感覚」こそが、業界を衰退させてるんじゃないのかね。


10/29(火)

とある(大人向けの)絵本作家の話。 その人は女性で、絵と文章の両方を手がけているのだが、割りと引っ掛かりどころを感じなくもないものを作る。 私はその人の作品を、若い頃からなんとなく読み続けているのだが、実に女性らしいものを書く人で、おそらくその読者も、ほとんどは女性だろうと思われる。

その人の作品で、愛犬について綴ったものがあるのだが、その作品に登場する犬は、家族や友人と言うより、インテリアだとかアクセサリーのようである。 後書きなどを読む限り、その話は、作者が実際に飼っていた犬の記憶が濃厚にフィードバックされたものと思われる。

そこに出てくる犬は、作者が怒ろうが悲しもうが「いつも同じ」だそうな。 その犬を公園に繋いで忘れたまま帰っても、彼は忘れられたことにすら気付かない。

その人の作品に登場する者は、ハッキリ言って皆似たような雰囲気を持つ。 精神の輪郭が曖昧で、作者に映った世界には登場するものの、大した役割を期待されていない。 作者の心の世界の外側に、ボンヤリと漂っているだけ。 犬も恋人も友達も、基本的には全部同じ。

作者は自分の心をひたすらに見つめてはいるが、自分以外の心を映していない。 私は彼女の作品が好きだが、私と彼女とは世界観が違う。

私にとっての愛犬とは、彼女の作品に登場するようなものではない。 私の悲しみも怒りも感じ取ってくれるし、私に忘れ去られれば当然悲しむもの。 そして、私が愛せば、私が愛したのだから、この私が窮地に陥った時には、きっと助けてくれる。 友人のイメージも恋人のイメージも、基本的にはみんな同じだ。


10/28(月)

唐突だが、私はルパン三世が好きだ。 面白い。 好きな理由を言い尽くすのは難しいが、大きな一点として、主人公の脇を固めるキャラである次元・五ェ門がルパンの「子分」でないところがとても好き。

彼らは独立した自己を持ち、案件ごとに協力関係を築いている。 仕事の内容に不服があれば、平気で降りたり(参加を放棄)する。 友情とはああいうものだ。 誰かが誰かにベッタリ依存するようなものを友情とは言わない。 義務教育機関は、ルパン三世を教科書にすれば良いんだ。 泥棒の話じゃ無理か。


10/27(日)

欧米人を代表とするキリスト教徒は、神(唯一絶対神)の存在を信じているとされている。 キリスト教だけでなく、起源を同じくするユダヤ教やイスラム教における神も、つまりは同じものを指している。 それらの信仰が、実のところ如何ほどのものなのかは、今の私にはよく分からない。

「神を信じる」なんて言うと、日本人は、ある種のオカルティズムのような「迷信」を連想してしまうのではなかろうか。 超常現象の信奉者のような人種を。でもそれはきっと誤解だ。

神は、言語世界が作り出す超絶概念である。 インド言語が生んだゼロ(仏教で言うところの空)なども、発生のプロセスは似通っているのかもしれない。 欧米人は神を信じていると言うより、その言語世界の一角(頂点)に、ありとあらゆるパラダイムを超越した存在(つまり神)の概念を有している、と言った方が正確なのではないか。

言語の持つ同定機能と階層性、それは最終的に絶対と言う、この宇宙に本来存在しないもの(概念)を生み出した。 神である。 モノを考えてりゃ分かってくるが、万物に対し、メタ把握にメタ把握を重ねていけば、どうしたって「それ以上無い」と言う超絶概念にたどり着く。


芸術家の目指しているのって、ひょっとしてそこではないか。 つまり「神」である。 北斎が、ピカソが目指した場所。 私も及ばずながら、きっと彼らと同じ場所を目指してます。


10/26(土)

想像できるものであれば、それは全て現実である。 如何なるものも、我々がこの心でそれを感じているだけ。 私はまだ見ぬ気分を探して、日々想像の限界に挑戦している。

私の欲しい物は気分です。 様々な、微に入り細を穿つ感情を味わいたい。 くだらないものなんて何一つありはしない。

野球が好きな高校球児は、一戦一戦の勝利を、究極的には甲子園での優勝を味わいたいだろうか。 私も実はそれを味わいたい。 が、私が甲子園での優勝を目指さないのは、勝ち続けるだけでは、敗者の目に映る景色が見えないから。 私は地球の裏と表、両方に同時にいようとしている。

「何故あなたは野球をやらなんだ?」。 それに答えるなら「高校球児になってしまっては、サッカーの全国大会で優勝できないではないか」と、とりあえず言いたい。 私はサッカーでの優勝だけでなく、ありとあらゆる景色がみたいのだ。 部活なんてやらずに、猛勉強して一流大学を目指す者や、そんなこと一切やらずにTVゲームに入れ揚げる者、単なる不良少年、全ての者の目に映った景色が見たい。

「そんなこと不可能だよ」と言う意見は、無論一面正しい。 でもそれを可能にする方法があるとするなら、それは芸術しかない。 私はそう思っている。

「物事なんてのは、実際にやってみなけれりゃ分からないよ」と言う意見はあろう。 そして、それは本当にそうかもしれない。 でも、そういう事を本気で言えてしまう大多数の人には、おそらく「感じること」の意味が正確でない。 きっとそういう人にとっての「感じること」は、物理的な刺激などを多分に含んでしまっている。


生物は、魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類などとカテゴライズされるから、まるでそれらが(並列的に)枝分かれしたものかのように思えるが、発生の過程をつぶさに観察すると、どうもそう単純ではないらしい。 人間の受精卵の、ある発生過程を観察すると、あたかも魚類が両性類になり、両生類が爬虫類になり、爬虫類が鳥類になり、最終的に哺乳類、ひいては人間となるかのように見えるそうだ。

また、一口に哺乳類と言っても、原始的なものから人間のように高等なもの(高等の定義についてはさておき)まで色々ある。 人間のある段階の胎児は、犬の胎児とソックリだったりするそうだが、これは偶然ではあるまい。 大脳新皮質が、それまでの脳の進化型であると言うより、あくまで新皮質と言う「上乗せ」であるように、物事と言うのは、究極的には上位が下位を包摂してしまうのではないか。 一見そう見えなかったりするのは、その上位がまだ完成形でないからってだけだったりして。

「神(God)」と言う、人間が作り出した概念の定義が、「全てを包摂するもの」であるなら、芸術家は要するにそこを目指しているのかもしれない。たどり着けるかどうかはさておきね。 そう言えば私は、私の中にある音楽を、既存の概念中で一番近いものに比定するならば神のようなものだと感じる。 私を支え、私に問いかけ、私に答えを与えてくれるもの。


10/25(金)

スタジオにて。

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感動的な芸術作品の持つ、人々を感動させる何か、の成分って何だろう。 私は作者の精神だと思っている。 誠実さや注意、作者自身が感じたであろう心の震え。 それが共振作用を引き起こす。

一般に、良い音楽作品は長い時間に渡って聴かれる。 心が籠っているからだろう。 感覚で作られたもの、つまり思考の痕跡が薄いものは、仮に一時的に持て囃されたとしても、飽きられるのも早いように思える。

注意の欠けた人の作る作品は、それはそれで実は結構面白い。 普通人であれば、何手も手前で回避したであろう選択肢を平然と採るから。 ただ、その面白さには、飽きが来るのも早い。 つまり、娯楽コンテンツとしての持ちが悪い。 また、注意の欠けた脳の状態ってのは、思索の末、そこに到達したわけではないので、一定の成長を遂げてしまえば失われるものであったりもする。 子供の面白さって、成長に伴って消えて行くでしょう。


実名は伏せるが、私は最近とある音楽家について考え込んでいた。 一昔前の日本の音楽家で、ドラマ・アニメなどのいわゆる劇伴を多く手がけた御仁。

その人の作るものは確かに割りと面白い。 が、思考の痕跡が感じ取り難い。 その人について色々調べると、やはり当初の予想通り、作品をかなりいい加減に作っている。 生涯に七千曲作ったなどと言われているらしいが、それもその筈。一日で百曲近く録ったなんてエピソードが出るわ出るわ。楽譜すら書かなかったらしい。 一々考えて作ってたら、そんな作品数になるわけない。

私がその人について関心を持ってしまうのは単純な理由からで、要するに私とあまりにタイプが違うからである。 その人の手法が、つまり私は得意でない。 ただ、脳の状態に似通った部分を持つ人にとっては、その人の作るものは面白いと見えて、実際熱狂的なファンもいる(私も割りと好きだが)。 ただしその関心、携わった映像作品(アニメなど)に対するものなのか、音楽そのものに対するものなのか、厳密なところよく分からない。 多分に前者なんじゃないか。


10/24(木)

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スタジオにて。 何でみんな何か食ってるんだよ。

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9月に発売した、影山リサの2ndアルバム「Yesterday & Today」のパッケージ版をHP限定で販売してるんですが、下がその現物。 数が少ないんで、購入はお早めに。

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10/23(水)

神田優花、レコーディングでした。 とは言っても、新曲ではなく、以前に録ったテイクに若干の不備が発覚したもので、急遽、一部追加テイクを録ってました。

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神田優花と言えば、新作「Love Lights」(全2曲)、本日発売です。 神田優花は、三週連続で新作をリリースして来ましたが、来週は一休み。 再来週にまた新作「Mindscape -Remastered-」(全2曲)を発表する予定です。 こちらも是非チェックしてみて下さい。




神田優花「Love Lights」(全2曲)のカップリング曲「one reality」について。


2.one reality

これもインド音楽をベースに作ったと言えばそうなる。 でもインド音楽ってどうも実体が覚束ない。 文献が少なすぎるってのが大きな理由なんだけど、要するに楽理的な根拠って希薄なのではないか。 あるいは単にブッキッシュになりにくいのか。

楽器編成なんかはLove Lightsに近いんだけど、こっちはハーモニウムって言う、オルガンみたいな鍵盤楽器の音を使ってる。 インドではポピュラーな楽器らしいけど、どう考えてもインドにそんなに昔からある楽器ではない。 歴史的には大正琴みたいな位置付けの楽器か。

ハーモニウムは、起源であるヨーロッパで廃れ、インドに土着した。 外来の楽器でありながらインド伝統音楽に取り入れられたのは、インド人の琴線に触れたからに違いないわけで、むしろこういう物にこそインド音楽の真髄が秘められているはず。

これ、作った当初大した思い入れも無かったんだけど、歌入れ段階になって、何となく良いような気がして来た。 こういう事も稀にだがあるようだ。



10/22(火)

明日発売の、神田優花「Love Lights」(全2曲)のタイトル曲「Love lights」について。


1.Love lights

インド音楽を下敷きに作ってみた。 とは言っても、楽器とかスケールとか、ベースになってるのはその程度のものだけど。

実際のインド音楽を聴いてみると、この曲なんかに比べると、もう少し編成がシンプルであることが多く、尺は全然これより長い。 要するにこの曲は、日本風に作られたカレーライスみたいなもんです。

インド音楽の骨子であるラーガってのがあるんだけど(詳細は調べられたし)、この曲はラーガベースではない。 要素としてはラーガのスケール部分だけを抽出したようなもの(タートとか言う)。

コードの進行ってのは実に様式的なもので、こういう旋法っつうか非和声音楽を見ると、創作物としての純度(創作性)はこちらの方が高いのではないかと思えてくる。





10/21(月)

島津斉彬と言う人物がいた。 幕末の頃の薩摩藩藩主である。 幕末の四賢候の一人と言われるが、あるいは江戸期を通して最高の名君であったかもしれない。 とにかくそれ程に優秀な人物であった。

が、その父島津斉興は、我が息子をさほど評価しなかった。 と言うか、碌でもない人物と見做して憎悪したと言っても過言で無い。 確か、息子の悪口を認めた書簡が現存している。

島津斉興は、いわゆる暗君ではない。 散財の激しかった祖父(先々代)によって傾き切った藩財政を、家臣調所広郷の重用により、立て直した実績を持つ。 むしろ彼は彼で名君だとすら言える。 ただ、斉彬とはタイプが違っていた。 つまり両者は親子ながら、似ていなかった。

斉興は、幕府(老中)から直接(暗にだが)「息子斉彬に藩主の座を譲れ」と言われてしまう。 それほどに斉彬は嘱望されていたし、その才覚は誰の目にも明らかだったのだろう。

斉興には祖父との関係から、息子にある悪夢を見てしまったであろうことなど、弁護すべき事情はいくらかあるが、要するに、なまじ我が息子であったばかりに、相手に対する平明な評価が下せなかったと言える。 父は、父であるが故に、子が持つある優秀性を認められなかった。 「我が子如きが、そんなに(俺より)優秀であってなるものか」と。

島津斉彬は変死を遂げる。 濃厚な暗殺説があるが、その黒幕は父斉興だったのではないかと言う説さえある。 因みに私も、状況から察するにおそらくそうであったろうと考える。

仮にその想像が事実であったとしたら、人は我が心が肯んじ得ないものに対して、時に殺害の意志すらを持って襲い掛かると言うことになる。 似ていないものを認めることが、時に自己の確立の妨げとなるからだろう。

人間の持つその、時に狂気とも言える自己防衛本能を制御する方法はあるか。 私が思うに、その手の衝突の緩衝材となりえるものって、今のところ愛ぐらいしかないのではないか。 他に何かあるなら教えて欲しい。


10/20(日)

私は性格的に、物事を根源的(radical)に捉える人だ。 だからして、何事においても表面的な現象でなく、原因について考えてしまいがちだ。

どういうことかというと、例えば、家に害虫が発生したとすると、「殺虫剤でその虫を殺す」と言う対症療法でなく、「虫が発生してしまう環境こそを絶つ」と言う原因療法に着手してしまうということ。 平素の私は、表層でなく、環境を整える。 仕事、人付き合い、生き方そのものについても基本同じ。

孔子が、「七十にして心の欲する所に従えども矩を越えず」みたいなことを言っているけど、要するに、その歳になってようやく、私の言う環境が整ったってことじゃないかしら。

人はその本然として、人に好かれたい。 だが、言語力の低い人って、すぐ誰かを「従えよう」としてしまう。 力関係で他人を押さえつけることと好かれることの区別がつかないからなのだが、堰き止めた水には常に圧力がかかるので、ある条件を欠いただけで(例えば経年とかでも良い)その構造は決壊する。

人間関係だとかを含む、何事かを円満に構築したいのなら、まず「環境」を作ることだ。 水の流れのように自然なもの。 私は音楽が好きだし、この作業を続けて行きたいから、常にそれが許される環境こそを作ろうと思っている。 それは時に利益(金)とかだって犠牲にしてしまうけど、それは環境のためのコストだから構わない。 腹減ったから飯代が掛かったってだけ。


10/19(土)

題名は伏せるが、ある漫画を読んでいて思ったこと。

その漫画、作者の精神を味わうと言う、創作物本来の楽しみ方から言えば、全然面白くない。 単に扱われている内容(主要テーマ)が私の関心事と多少重なっているから読んでいただけである。 漫画として面白くないのは、作者そのものが淡白である故かと思える。

その漫画本、一話一話の間に、作者による短いコラムみたいなのが載っているのだが、それもまた別に面白くない。 同じ精神(筆者)によるものだから当然とも思えるが、しかし、時々そのコラムに、およそその作者・作風に似つかわしくないほどの毒(舌)が見られるのが気になった。 繰り返すが、作品そのものは毒にも薬にもならぬほど淡白な代物である。


何かこういう感想、過去にも味わったことがあるわ。 多分あの作者、作品から察するに、感受性そのものが薄いタイプなのだと思われるが、そういう人がごく稀に周囲を「引かせる」ほどの罵詈を吐いてしまう。

上の現象の発生原因は、作者の感受性の薄さにある。 多くの人は、精神の重量がそれなりにあるので、当然悪い部分(と言うか、他人と抵触する部分)も持ってしまっている。 精神のその部分が、他人との摩擦を生む経験を積みつつ大人になるので、ある程度以上の年齢においては、その角が程よく取れてしまう。

が、そもそも精神そのものが希薄な人物は、この悪い部分も当然薄い(全部薄いんだから良い部分も無論薄いが)。 角が少な過ぎて、それが他人と摩擦を起こすような経験をあまり持たぬまま成長してしまう。 その人は矯正の機会こそ持たないものの、角そのものを持っていないわけではないから、その角はしばしば歪な形のまま温存される。

だからある時、とんでもない形でそれを露呈してしまう。 普通人なら年齢相応に取れている筈の角が、剥き出しのまま残っているからである。 見たことありません? いわゆる「天然」みたいな、ボーっとした人物が、突然周囲を戦慄させるほどの悪口を吐くこと。 メカニズムはきっと上記の通りである。


10/18(金)

下、スタジオにて。 ここ最近、また俄かに忙しくなってます。 リリース関連の作業も勿論あるんだけど、それ以外が立て込んでまして。

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平素私は、創作と言う作業に脳のリソースのかなりの部分を割いているので、それ以外の些事にあまり拘ずらっておられない。 人間関係上の心労などもっての外と言える。

しかし世の中には、この心労を敢えて買って出るような人が多い。 必然性の薄い出会いなどを無闇に求める人。 常に流動的な人間関係に振り回され、人生の大半、その処理に追われてしまう人。

そういう人が求めた、いわばライトな人間関係は、そうであるが故に、相応の禍害をもたらすこともあるわけだけど、それも当人の望んだもの。 まともな人間関係ってのは、構築するにそれなりの手間隙がかかる。 安物の人間関係にそのコストは殆ど無い。

モノには適正な値段ってものがある。 価格破壊された食べ物が危険を孕むように、人間関係と言うのもそういう面を持つ。 まともな人間関係の構築を面倒臭がって、トラブルを常に抱え込む人は、つまりはそのトラブルを望んだ。 恒なる心の安寧より目先の安物を選んだのだから。

人の間と書いて人間と読む(日本語の人間は誤訳に近いが)。 人間関係とは、その人そのものだ。


10/17(木)

影山リサ。 Infoでもお知らせしてるんですが、先月リリースしたセカンド・アルバム「Yesterday & Today」のパッケージ版を、昨日よりHP限定で発売します。 収録曲等、特に違いはありませんが、CD音質で聴きたい人はこちらを入手してみて下さい。 当然ブックレットも付いてますので、歌詞なんかも載ってます。

商品購入フォームはこちら → [Ace's Shop]



下は先日のスタジオにて。 新曲の語り(歌でなく喋り)部分を録ったりしてました。

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10/16(水)

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神田優花「Beauty」(全2曲)、本日発売です。 引き続き来週には新作「Love Lights」をリリースします。 こちらもよろしく。 上は先日のスタジオにて。 先週は三曲も録りました。




10/15(火)

10/16(水)発売の神田優花「Beauty」(全2曲)カップリング曲「Thieves」について。 意味の分からない用語については、良かったら調べてみて下さい。 説明するのが大変なので。


2.Thieves

これも中東っぽい音楽。 タイトル曲「Beauty」とはマカーム・イーカー(中東音楽の骨子)が違う。 タクシーム風のイントロから始まる。

特にイーカーはナワハトやサマイ・サキールなんて言う7・10拍子系のヤツを使ってて、その辺は平均的POPSとは随分違う。 ナワハトは拍子の基点の解釈が西洋型とは違ってて、その辺りも感覚的に慣れない部分だった。 まあガムランなんかも、西洋音楽で言うところの小節のお尻の部分が開始点(小節の)になってたりするので、どちらが圧倒的なスタンダードと言うことでも無さそうだが。

こっちの曲の方が習作的な色合いが濃い。 7拍子とかで歌謡曲的なキャッチーさって出し難い。 二曲並べると、こっちがカップリングになってしまいますね。



10/14(月)

ごく最近のことなのでご存知の方も多いと思われるが、とある女子高生が元交際相手に刺し殺されたと言う、痛ましい事件があった。 あんまり詳しいことは知らないけど、二人はフェイスブックで知り合ったそうな。

男の子(加害者)の方は、職を転々とするフリーターだったそうだが、交際相手(被害者)の方には、自らの身分を関西の私大に通う大学生だと申告していたそうである。 また(おそらく唯一の)連絡先である携帯電話は、自分名義のものでなかった(知人のものだった)らしい。 彼女は何者と交際していたのか。

女の子の方は、高校に通いながら女優業みたいなことを始めていたそうな。 芸能活動を本格化するに当たって、身辺(人間関係)の整理をしたと見えるが、そのフェイスブックで知り合った彼氏など真っ先にその整理の対象に上がったに違いない。 切り捨てられた彼は、ストーカーと化し、結局は彼女を殺害するに至った。

フェイスブック何たるか、詳しくは知らないが、おおよその見当はつく。 しかし現代人は、何故にそこまである意味での人間関係に固執するのか。 人間関係など、無闇に広げる意味は薄く、また神経質に選別する必要も無い。 自分がしっかりしていれば、人間関係など自然と相応のものに落ち着く。 携帯電話がこれほどのマストアイテムとなり、SNSだの何だのと言う、コミュニケーションのツールがここまで普及・蔓延してしまうのは何故なんだろうか。

確かに人間関係は大切だ。 友人は得がたい。 私とて今のこの瞬間にも、友達を探している。 でも、友達ってSNSなんかにいるものだろうか。

時間くらいしか持ち物の無い私は、相応にせっかちである。 SNSでできる知り合いを何千・何万と作り続けることに深い意義を感じない私は、従ってそういうところにウロついていない。 そんなところにいる何万の知り合いより、得がたい一人の友人を探してしまう(無論友人は、たくさんいてくれても構わないけど)。 友人を得るため、私は今日も真剣だ。

私の考える友人の定義とは、「同じ景色を見られる人」。 親友の定義とは、その景色を「最後まで一緒に見ていられる人」。 心の深い場所で、誰かと気分を共有する方法は、自らが誠実であり続けることくらいでしかない。

前にも言ったけど、ある友人を得る事とは、その友人を得るに相応しい自分になる事である。 フェイスブックが悪いって言ってんじゃない。 下らない私が、下らない私のままでどこをほっつき歩いたって、意味のある友情なんて得られるわけないって思うだけだ。


10/13(日)

10/16(水)発売の神田優花「Beauty」(全2曲)タイトル曲「Beauty」について。


1.Beauty

中東音楽を下敷きに作ってみた。 中東音楽ってどうも宮廷音楽的な格式ばったものでもなく、基本俗楽っぽいので、相応に易しいと言うか、さほど理解に難は感じなかった。 微分音ってのが頻出するんだけど、それも要は、西洋型の12音階を倍の24音階に(オクターブを24平均律化)しただけのようなもので、算出法ごと違う雅楽みたいなのに比べれば扱い易いものだった。

中東音楽には、理論的柱とでも言うべきマカーム・イーカー(要するにスケール・リズム)理論なんてのがあるんだけど、早い話がそれを拝借して曲を作ってみただけ。 あとはせいぜい楽器編成がそれっぽいくらいのものだろうか。中東音楽っつってもその程度のもんです。

中東音楽にインスパイアされたものではあるけど、所詮日本人が作ってるものなんで、メロディーなんかは普通に聴きやすいものになってると思います。





10/12(土)

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ウチはこれから暫くの間、1〜2週おきぐらいに新作を発表します(多分来年初めくらいまで続く予定)。 神田優花なんて、活動10年を超えて制作のペースが上がっているという。 神田優花と言えば、年内にアルバム(15曲入り)をリリースする予定です。 近々詳細をお知らせするので、しばしお待ちを。


10/11(金)

影山リサ、新曲の歌録りでした。 先月発売の、影山リサ2ndアルバム「Yesterday & Today」のパッケージ版を、近日中にこのHPで販売開始します。 下はその先日のレコーディングの時の写真。今回多めに上げてます。

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10/10(木)

スタジオにて。

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佳乃、ニューシングル「Decide」の発売が11/13(水)に決定しました。 下、先日のリハーサル。

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10/9(水)

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神田優花「Water me」、本日発売です。 三週連続リリースの第一弾になります。 上は先日のスタジオにて。 以下、本人より。


Water Me/phantasmagoria Beauty/Thieves Love Light/one reality

ガムラン、アラブ、インド音楽の三部作(計6曲)で、今年の春あたりに取り組んでいたものです。去年雅楽をやったときの経験があったので、とにかくひたすら曲を聞き込んで、自分に馴染むのを待ってから歌に入りました。 今回私の中のテーマは、"楽曲の中で旅をする"です。
皆さんにも見えるでしょうか、私が見た果てしなく続く砂の丘や雨つぶに濡れる花や、たくさんの宝石に揺れる指先が。

日常を忘れて一時、しみわたっていくガムランやシタールの音色に身をまかせてみませんか。

神田優花





10/8(火)

神田優花「Water me」(全2曲)収録曲について。


1.Water me

バリのガムラン(ゴング・クビャール)に着想を得た曲。 gilakと言うスタンダードナンバーみたいなものの様式を土台に、歌物を作った(まあゴング・クビャール自体そんなに歴史のある編成ではないが)。 ただ曲としては、ボーカルの分量は少ない。

ガムランって基本西洋音階ではないのだけど、この曲もそれに倣っている。 ピッチ補正の類もほとんど施してない。


2.phantasmagoria

タイトル曲「Water me」と同じくガムランに着想を得た曲。 因みに「Water me」はバリ様式なんだけど、これはジャワ様式がベースになっている。

ガムランには何種類か系統があるんだけど、バリ様式に比べジャワ様式については資料が少なくて難儀した。 スンダとかになると更に少ないと思われるんだけど、スンダ様式には今のところ深入りしてない。

ガムランの展開って、典型的なPOPSみたいにAメロ・Bメロ・サビのループとかではないんだけど、この曲もその部分は踏襲している。 歌物としてはレアかも。 展開ってのは様式の紛れも無い一根幹で、ある音楽様式を題材に取るなら、わりと欠かせないものだったりする。 たまにはこういうのも悪くないと思った。



10/7(月)

あるニュースで、中国のいわゆるネチズン(インターネット界の住人)らの言として、「日本は文字すらも我が中国のものを盗んでいる」と言うものが紹介されていた。 しかし、文明と言うのは、共有されてなんぼのもので、アルファベットなどを引き合いに出すまでもなく、文字などその最たるものであろう。

ただ、上のネチズンとやらの言い分、事実である面も無論ある。 漢語・漢字は大陸から流入したが、日本語や、例えば日本で改良・産出された仮名文字などは大陸にほぼ波及しなかった。 一応は双方向にて重層的な文化交流があったにも拘らず。 してそれは何故にか。

漢語には助詞がない。 大和言葉に漢語をところどころ移植するのは、比較的容易である。 そもそも「やま」と呼んでいたものに漢語の「山」を当てる。 それらを助詞と言う膠でそれまで通り繋げれば、センテンスは完成する。 このように容易だったからして、現実にも漢字や漢文の訓読は日本に定着した。

しかし逆は考え難い。 元々助詞と言う概念のない言語にどうやってそれを移植するか。 大豆から豆腐はできても、その逆は無理。 名詞とか、そういう単語レベルで日本語を中国日常語に移植することは出来ても、その程度が限界。 日本にいる中国人の使う日本語を聞いてても、「助詞のない言語世界の住人」であることは明白だ。


日本語との対比であるから助詞が軸になってしまったが、英語には助詞に相当する(助詞機能を補完する)ものとして、前置詞・接続詞、定冠詞・不定冠詞などがある(と思う)。 漢語にはそれらすらほとんど無い。 例えば漢文には、「しかり」・「しかるに」の区別が無いそうである。 どちらも「然」なのだろうが、接続詞と言うより、間投詞程度の機能しか果たさないのではないか。 日本人は、漢文の順接・逆接を、文脈その他の条件にて判断する(読み下す)他ないのだが、当の中国人はそもそも順接・逆接の区別なしに論理を組み立てていることになる。 高度な論理の構築は難しかろう。 と言うか、その言語は、ある特殊な論理体系とならざるを得なかろう。

現代中国とその他の国際社会との摩擦は、煎じ詰めればここに集約される(中華世界はそれはそれで普遍的世界なので、それを単純に異端とするわけには行かないが)。 言語である。 演算装置である言語が違うから、ある同じ条件を与えられた時にも、他言語とは違う解をはじき出してしまう。 ただ、言ってみればそれだけのことでしかないので、ある原理性を熟知すれば、それなりに対峙しやすい面もあるのではないかと思う。 無論、心の深い部分で何かを共有するのは難しいだろうが。


10/5(土)

レッドクリフって映画を(DVDで)見た。 映画の宣伝文句の「総制作費○○億円」みたいなのって、多分にハッタリと言うか、鯖を読んでいるように思われるので、話半分としても、それなりに手間隙掛かってそうな映画に見えた。

テーマは「赤壁の戦い」。三国志のハイライトとでも言うべき有名な局地戦なので、ご存知の方が多かろう。 映画が史実にどれぐらい忠実か、とかその辺は私にはよく分からないが、CG映像なんかは作るの大変だったろうと思わせるものだった。

しかしCGってのも、考えようによっては貧乏臭い代物ではある(私は嫌いじゃないけどね)。 例えば関ヶ原を映像化しようとか思っても、十何万人のエキストラと人数分の衣装・小道具用意するわけにはなかなか行かない。 で、苦肉の策とて五百人で関ヶ原とかやられるよりも、CGの方がまだマシかと思える。 評価はさておき、レッドクリフはそのCG満載だった。 東洋史、とりわけ中国史ってとにかく映画人泣かせと言おうか、人口面でのスケールがデカい。 CG已む無し。

私は映画好きではないが、好きな人の中には「CG嫌い」とかいるんだろうな。 音楽でも「生音派」ってのがいまだにいるもの。

話の中で、孔明らが楽器を演奏するシーンがあるのだが、あの辺は多分考証とかかなり曖昧だと思われる。 あの時代の中国音楽とかって、ほとんど全然と言って良いほど現存していない筈。 楽器ではなく様式が。


10/4(金)

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上、スタジオにて。 まだたまに暑い日がありますね。 東京でこんなに暑いんだから沖縄などさぞかし大変だろう、と思って気象庁のHP見たら、むしろ沖縄の方が気温が低かったりする。 この暑さ、完全に人為現象じゃん。まあある程度仕方ないことではあるのだろうけど。



閑話休題。 私は、未確認生物(とでも言うべきだろうか)に関心がある。 ネッシーとかそういうヤツ。 子供の頃からその手の話が大好きだった。 ワクワクするんだもの。

それ関連の本とか、いまだに読んだりするんだけど、「ネッシーは実在すると思うか」と問われると微妙な気分だ。 よく言われる「プレシオサウルス型の水棲爬虫類」がネス湖に存在するとは、様々な角度から考えても、やはり思えない。 でもいて欲しいとは思う。

こういう話を易々と信じてしまう人らのアタマの中では、「○千万年」とか「○億年」とか言うタイムスケールが、いまいちリアルでないのではないか。 その時間が如何に途方も無いものか。 地を這うネズミみたいな生き物が人類に変わってしまうぐらいの時間なんですよ。

それはさておき、あの手の怪物(?)の命名法について、日本人(とりわけああいうものに関心ある人種)の誤解を誰か解いてやってくれ。 ネス湖の怪物→ネッシーってのは、欧米人がつける愛称の典型である。 エドワード→エディみたいな変化形。 実際、ロック湖の怪物はロッキーである。 レベッカ→ベッキーみたいに、アタマの一音節を端折る形も散見される。 シャンプレーン湖のチャンプなんかも、マイケルをマイクと呼ぶ類だろう。

「池田湖の怪物→イッシー」は、明らかにおかしい。 池田湖ならイケディーかケディーくらいが適当だろう。 イッシーて。「ッシー」を怪物につく接尾語か何かと思っているのだろうか。

あれって、ゴジラとかの影響かしら。 ガメラとかモスラとか、○○ラの「ラ」は、一時期の怪獣映画に出てくる怪獣を表す接尾語として機能している。 あの「ラ」、映画作ってるレーベルと無関係に使用されているところ見ても、事実上の汎用語である。 でもネッシーの「ッシー」はそれとは違うぞ。


10/3(木)

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神田優花、来週の水曜日から三週連続でシングルをリリースします(詳細はInfo参照)。 今回の三作は、ガムラン・中東音楽・インド音楽などの要素を取り入れた作品で、いわば神田優花番外編です。 是非聴いてみて下さいね。 上は先日のスタジオにて。

そういえば、今月は雑誌その他の媒体にて、オーディション(デモテープ募集)の告知をしております。 たんさんのご応募お待ちしております。


10/2(水)

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スタジオにて。 上は差し入れ。

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広瀬沙希、新曲の歌録りでした。 今回ので新作の収録曲は一先ず揃いました。 年内には発表できると思いますので、今しばらくお待ち下さい。

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10/1(火)

この間、通りすがったデパートで「北海道物産展」みたいなのが開催されていた。 通りかかっただけなので、細かいことは分からないが、ある売り子が「ウズラの卵で作ったプリン」とやらをしきりに宣伝していた。 「世にも珍しい、ウズラのプリンですよ」と。

それがおいしいのかなんて私には分からない(食べてすらないし)。 しかし、一般的なプリンに鶏卵を使用するのには、それなりの理由と言うか必然性があってのことである。 その理由が、味なのかコストなのかサイズなのか、諸々の簡便性なのか知らないが。 きっとほとんど全部と言って良いだろう。

私だってウズラの卵くらい食べたことがある。 様々な料理に使用されているから、どうしても口にしてしまうわけだが、私の今のところの理解としては、あれは「鶏卵のミニサイズ」である。 特段の別物と言うわけでなく、サイズこそが需要の鍵となっていると思われる。 味の違いなど、あったとしても商品性を決定付けるほどのものではあるまい。

確かにウズラのプリンは、前例がほとんど無いと言う意味では珍しい。 が、前例が無いのにはそれなりに理由があろう。 プリンのようなものの原料に、わざわざ鶏卵でなくウズラの卵を使う必然性が無い。

きっとああいう商品を思いつく人の頭には、「良いアイディアを思いついた。これはヒットするかも」なんてハラがあったりするのだろう。 あたかも無から有を生み出すかのように。 しかし需要と言うのは、そもそも存在するものであって、無理から作り出すものではない。


私の中にある現実社会のイメージは、膨大なピースからなるパズルのようなものだ。 「欠けたピースを埋める」と言うニーズはあろうが、余分なピースなどいくつあったとしても、本来そのパズル完成に必要とされる構成要素ではない。 ウズラのプリンは、現実社会構成の要件とは思えない。

例えば政治家や芸能人なんてのも、そもそもその成立の基礎として需要が存在している。 スキャンダルで失職する政治家がいても、すぐにそのポストは別の誰かで埋められるではないか。 何よりまず需要ありきで、そこに人が埋まってるだけだからだ。

以上のようなことも、私は音楽に教えてもらった。 本来、必要とされる音楽は聴かれ、必要とされないものは聴かれない。 ただそれだけのことである。 だから、水の流れに逆らうかのように、そもそも需要と言う素地がないところで無理矢理売った音楽作品なんてのは、長い目で見れば共有されるに値しない。

私の作る音楽は、言ってしまえば大して売れない音楽である。 が、「誰からの需要も無い音楽」ではない。 少なくとも私からの需要はあるから。

私にとって間違いなく必要なものだからこそ、今の私のこの音楽活動は継続される。 社会の側にもニーズがあろうものなら、それは例えば金銭や名声とか言う形でのフィードバックになったりもするだろうが、社会のニーズって奴は私がコントロールするものではない。 私は粛々と、我が心に忠実であるのみである。


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