Staff diary  
スタッフ日誌[2013]

[文 / 益田(制作)]

9/30(月)

ちょっと前のことだが、打ち合わせがてらに行った居酒屋にての話。 そこは基本的に食べ放題・飲み放題で、用意されているいくつかのコース(それぞれ時間や品目が違う)の中から、客が好きなものを選ぶと言ったシステムだった。 私どもはそんなに深酒するつもりもなく(そもそも私は酒飲みですらない)、確か一番短かった70分のコースにした。 因みにその店への訪問、一応初めてではない。

オーダー制とやらで、注文しないと料理などを持ってきてくれないのだが、時間帯が深かったせいもあってか、店員が実に少ない。 客はそこそこ入っている上、酒も入っているので店内はうるさい。 店員を呼ぶのにも一苦労である。 しかもどうやら、実質店員一人で切り盛りしているみたいな状態である。 また、その唯一の店員が日本語の拙い外国人である。 国籍はよく分からないが、中南米とかその辺りの人に見えた。

時間制限があるのに注文がままならず、何度目かの注文の際に、その外人店員に「これでラストオーダーになります。注文は二品までです」と言われてしまう。 しかしそこで気になった。 一々時間など確認していないが、最短の70分コースだとしても、いくらなんでも短すぎやしないか。

私(あるいは連れだったか)は尋ねた。 「ラストオーダーって何分時点ですか?」と。 するとその外人「40分です」(ハッキリ覚えてないがそのくらいだった)だと。 オイオイ。全然70分食べ・飲み放題じゃないじゃん。 大体、そんなことは事前に説明すべきでないか。 また、少なくとも以前はそんなに短くなかったし、店員も多かった。

私はそもそも普段酒を飲まないので、そういう店に行きつけることも考え難いのだが、連れは明らかにその店に不信感を抱いていた。 これは銭金の問題じゃない。 信義の問題である。

その店は、えらく若い社長が立ち上げたベンチャーと言って良いような外食屋らしい。 ここ数年で随分都内に店舗を増やしているようで、上場を目指しているそうな。 従業員なども大々的に募集していて、事業展開に人材の供給が追いつかない状態と見える。 後に知ったのだが、その外人店員、私らが行ったその店の店長を任されているらしい。


以下は私の勝手な想像である。 その外国人、店員としてのやる気を見込まれて店長を任されたのだろう。 「やる気」さえあれば、年齢などはおろか、国籍すら問わないらしい。 如何にもベンチャー企業的な発想・姿勢である。 で、店長はその抜擢に応えるべく、自らの裁量権の範囲内にてあらん限りの大鉈を揮う。 インセンティブなんかがあったりもするのだろうか。 とにかく店舗の成績を上げようとするのだが、悲しいかなシステム上、その方法はある程度限られる。

店員が客引きまでするわけでなし、来た客の処理をするのが基本であろう。 定額にての食べ・飲み放題と言うシステム上、客が払うその定額と経費(この場合主に人件費と食材調達費)とのプラスマイナスにて成績はほぼ決まる。 彼は成績を上げる為、人件費を極限まで削り、客への料理の提供に制限を設けた。 確かにごく短期的には業績も上がるかもな。

しかしその手法では、時に客に深刻な不信感を植え付けてしまう。 特に日本のようなクローズドかつ重文化の社会においては。 観光客相手じゃないんだよ。 彼は「リピーター」と言う、直接目に映らない、いわば「未来」を、惜し気も無く一生懸命に潰していた。 悪気がないから尚更タチが悪い。

このように、「視野」が適正なものでない場合、その人のやる気は空回りどころか、マイナスに働くことさえしばしばあってしまう。 人事と言うのは、ことほどさように難しい。


9/29(日)

9/11(水)から三週連続で新作を発表してきましたが、今週は一休み。 で、また来週(10/9)から三週続けてニューシングル(全部神田優花)を発表します。 お楽しみに。


9/28(土)

スタジオにて。

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撫でてやろうと猫に近づいたら、その猫が走って逃げ出した。 こういう経験ってありません? 人間にもいるんだと思います。そういう人。 自分を救ってくれるかもしれない何かに、気付くことさえできない人。

愛とか、そういうメタフィジカルなものを見抜く能力((要は言語力)が無ければ、ほとんど他人と言うものは脅威としてしか映らないのかもしれない。


若い頃の私は、今と同じように音楽が好きだったのだけど、今よりもっと世俗的な栄誉に飢えていた。 認めてもらいたいと言う依頼心が強かったのだろう。 今の私にその気分はほぼ無い。 どうしてなくなったのかと言う理由を一言で説明するのは難しいが、とにかく結果そうなった。

今の私は、何を差し置いても「良い曲」を書きたい。 良い曲と言うのは、私が美しいと感じる曲。 私の中で、私を後押しする力に変わる、愛のような音楽。 私がそう感じるものなら、私と同じくそれを必要とする人が、この世界のどこかにいるだろうと思う。

だからその程度には、売れたりする可能性もあると思ってるけど、別のそのような結果に至らなくても構わない。 基本的に自分のために作ってるだけだから。

私が本気で美しいと思える音楽なら、誰かを救うこともきっとある筈だ。 誰かの心の中で、愛に変われるような音楽。それを作れるなら、本気で作るつもりがあるなら、もう「売れたい」なんてさして思えないはず。 変な言い方だけど「この気分が分からないなんてお気の毒に」ぐらいにしかきっと思えなくなる。


物売りは、如何にして物を買わせようかと腐心するわけだが、本当に価値のあるものなら、宣伝なんてしなくても、買い手の方がいつかそれを見つけてしまうだろう。 買わせる努力をしなきゃ売れないものってのは、つまりは本当は価値の無いものなのではないか。

選挙演説をする候補者なんかを見ていると、いつも思う。 「政治家ってのが本当に民の世話をする仕事なら、他薦で十分なはず」って。 「清き一票を」とか「私を男にしてくれ」などと、「政治家にならせてくれ」と絶叫している時点で、何事かが語るに落ちていると言うか、矛盾していると思う。 私の考える政治家像ってのが、そもそも間違っているのかもしれないけど。

我々の作る音楽が、誰かの勇気に変わっていたりするなら、それほどに嬉しいことはないし、誰かに何かに気付いて欲しいと思いつつ、日々作品を作り続けているのだけれど、「何が何でも買わせるための策」を講じることなど、これから先もきっと無い。


9/27(金)

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スタジオにて。


9/26(木)

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神田優花、昨日発売のニューシングル「Misty」、収録曲「A Firefly」について(上は先日のリハーサル中のカット)。


2.A Firefly

古めかしい旋律の曲。 メロディーラインは基本ドリアなんだけど、途中で部分的にフリギアになる。

作ってからちょっと時間が経っているもので、失念してしまっている部分はあるけど、12弦ギター中心のアレンジだったのは覚えている。 昨今の商業音楽的なフックとかに比べると物足りないかもだけど、こういうのもたまには良いのではないかと。



9/25(水)

神田優花、ニューシングル「Misty」、本日発売です。 以下、本人より。



1.Misty

自分の中にある弱さを歌った曲です。出来上がったものを聞いたら、自分でも気づいてなかった感情と出逢いました。
弱さは人に優しくなれたりもするけれど、その余裕のなさに人を傷つけたりもする。自分の弱さを知っているからこそ、強くありたいと願うのだろうと思います。

2.A Firefly

これでいいと思ったり、これではだめだと思ったり、日々揺れ動く心はどちらも真実です。そんな未熟な心も蛍とともに舞い上がっていけばいい。
上質な物語のような楽曲です。
聞いてください。

神田優花





9/24(火)

神田優花、明日発売のニューシングル「Misty」、タイトル曲「Misty」について。


1.Misty

特筆すべき点があんまし思い当たらない。 バラードです。 そう言えばこれは私が詞を書いてない。

間奏とコーダ部分にチェンバロの対位法(器楽)のフレーズが出てくるんだけど、この部分だけ物凄い昔に作った。 曲の基本部分はごく最近のもの。



9/23(月)

誤解について。

原理主義者の標榜する原理って奴が、本当に真理であるのか否か、私には判断できないが、もしそれが誤解であった場合に、その誤解を正す装置が付いていない時点で、私の採用基準を満たしてはいない。

もしこの世界に真理と言うようなものがあるならば、「誤解」には、する側とされる側があると言える。 と言うか真理と言った正解が存在していないのなら、物事の理解・把握に個人差があるだけで、誤解なんてものは存在しないとも言える。

真理などと言えば大袈裟だが、この世の中に様々な基準ってものが存在している以上、物事にもおおまかな正解ぐらいは存在する。 だからそれに附随した誤解も当然発生する。 とりあえず、ここではそういう前提で話を進める。

この「誤解」の成立要件である、「する側」と「される側」の二者、良い悪いで色分けするとなると、またそこに善悪と言う基準を持ち出すことになり、話がややこしくなるので、それはさておく。 が、その二者に一応の損得は生じるだろう。 ここで言う損得の基準は単純に「金銭」であっても良い。 私は損得の基準を別に置くが。

誤解によって損をするのは、どちらかと言えば「する側」である。 だからして「された側」は、その誤解を躍起になって正そうとする必要すら実はあまり無い。 誤解なんてしたいならさせときゃ良いのである。 それを正すのはほぼ親切によってのみだろう。

芸術家が作品を作り続けるのは、目の前の世界からこの「誤解」を取り除く為でもある。 誤解してしまうことに比べれば、誤解されることなんて屁でもない。


9/22(日)

たまに使うコンビニでの話。 レジに立つ女性店員の容貌が、肌の色から髪の毛の質感まで、まごうことなき黒人で、名札にも何やらカタカナが書いてある。 まあ昨今、外国人などさして珍しい存在でもないが。

しかしその黒人、実に日本語を流暢に使う。 外国人の使う日本語って、どこの国の人かを問わず、ほとんど聞いた瞬間に分かると言うに、彼女の受け答えは、耳だけで聞く限り、日本人のそれと比べても全く遜色ない。 更に、何気なくその店員の物腰を眺めていたのだが、それが実に日本人臭い。

私は思い切って尋ねてみた。 「○○さん、お国はどちらです?」。 すると彼女は答える。「日本です。私、ハーフなんです。生まれも育ちも日本です」だと。


私は思った。 彼女がまごうことなき日本人に見えたのは、脳の基礎レイヤーである「母国語」が、日本語だったからだろう。 ハーフと言うぐらいなんだから、半分はアフリカだとかの血が入っているのかもしれないわけだが、やはり民族とは言語である。 彼女は日本人だ。

私が徹底的な語学教育を受け、完璧にロシア語を理解し、話せるようになったとしても、やはり私は日本人である。 OS(基本ソフト)として日本語がインストールしてある上に、ロシア語アプリケーションをインストールした状態に過ぎない。

語学の世界ではほぼ定説だそうだが、どんなに外国語に熟達したとしても、その言語力は母国語のそれを超えないと言われるそうだ。 まあ当然の話である。

ドストエフスキーの作品(原典)は、無論ロシア語で書かれてある。 「日本語訳を読んでも、それは実のところ別物である」なんてよく言われるが、仮にロシア語を習得し、原文で読んだとしても、脳の基礎レイヤーが他言語であるのならば、本質的には翻訳版を読んでるのと変わらないと思われる。

ウチが作ってる音、ダウンロードの件数だけで言えば、今は海外の方が遥かに多いのだけど、作り手である我々は、日々日本語を喋り、日本語で思考している。 やはり作品の本質が伝わるとすれば、その相手は日本人(と言うより日本語を母国語とする人)でしかないだろう。


9/21(土)

人間は個体ごとに皆違う。 ただ、共通する部分もあるから一般化できる。 人体が、ある環境に晒されれば風邪を引きやすく、ある方法を用いればその治癒が期待できる。 この手の経験則をデータベース化したものが医学なのだろう。

医療がほぼ万人に適用できるのは、身体はおろか、精神すらも一般化できるからである。 精神医学というものが厳然と存在する。

平均的でないものを病気とするなら、私もきっと病気だろう。 ただ、病気の定義は社会との親和性に拠る部分も大きい。 統合失調症の発現率は0.7%だとか聞いた。 単純計算で140数人に一人ぐらいの割合で発生するわけで、学校で言うと3クラスに一人ぐらいは出現する。 レアな症例とは言えない筈だが、日本のような、国民の均質性が高く、人口が過密な社会との親和性が低いのだろう。 ざっくり言って、排除される傾向にある。

今の私は意識的に無害であるよう努めているので、そこを唯一の理由として、隔離されないで済んでいるのかもしれない。


私が何故上のようなことを考えるのか。 それは音楽を作ると言う作業が、「似たような人を探す」作業でもあるからだ。 結局私が何かを発信するのは、「私に似た誰か」、あるいは誰かの中の「私に似た部分」に向けてである。 この世界が、成分として「私に似た何か」を持つところが少なければ、当然私の作る音楽が共有されるところも少ない。


9/20(金)

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神田優花。 下は25日(水)リリースの新作「Misty」(全2曲)のジャケットです。 上は先日のスタジオにて。





影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」収録曲について。


13.Tomorrow

アルバム用の新曲なんだけど、曲そのものはメチャクチャ古い。 多分20年近く前に書いた。 アレンジなんかは7〜8割方当時のまま。 子供の頃に書いただけあって、拙く感じる部分もあるけど、総じてごく普通のPOPSですね。

私は影山リサについては、純粋なライターとして関わっていて、プロデューサーとかそういう立場ではない。 今回のアルバムについてもそうで、ある方針に沿った曲を書いてと言われれば書くし、渡しておいた曲のストックから使われるものが出てきたりもする。 今回は後者。

で、そのストック曲をいざ使う段になると、修正の要望が入ったりする(私の方で修正入れたくなったりもする)んだけど、この曲に関しては「コーダをもっと延ばしてくれ」とか言われたんで、その通りにした。


とりあえずこれで収録の全13曲について、コメント終わりです。 で、アルバムとしての総評。

本作は制作期間が長いので、ボーカルを録った時期にかなりバラつきがある。 ってことは歌い手も人間なので、その間技術的にも成長してしまっている。 再録とかである程度均してはいるもののの、相応のムラが残っていて、図らずもベストアルバムみたいな形になってしまった。 まあシングルは盛り沢山なので、入門編としては適当かと思います。 今まで影山リサを聴いた事のない方にはオススメです。



9/19(木)

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上、スタジオにて。



影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」収録曲について。


11.So Long -Version2-

今年の1月に出したシングル曲。 これは始まり方がちょっと旧バージョンと違うだけで、あとはほぼ同じ。 個人的に割りと好きな曲です。


12.Someday

イントロのボイスパーカッションはウチのVST「Maybe」。 間奏に当たる部分にラップが入ってるんだけど、何て言ってるのか全く分からない。

これもまあ普通のPOPS。 引き出しとしては「So Long」とか「Luck In Your Eyes」とかに近い。 別に曲としては嫌いじゃないけど、まだまだ表現したいものを表現し切れてないな。 サビ頭のメロディーラインの半音進行とか、気に入ってなくもないけど。



9/18(水)

影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」、本日発売です。  以下、本人からのメッセージ。


セカンドアルバムとなる今回のアルバムは、タイトルにもある通り、過去と未来について歌った曲が多く収録されています。明るい曲から切ない曲、様々な気持ちを込めて歌いました。

ポップスはもちろん、ロックや、三味線を使った少し変わっている曲まで様々なタイプの曲に挑戦し、私らしい一枚になりました。

制作期間約5年、色々な世界観、気分を感じられる様なアルバムになったと思うので、皆さん是非聴いてみて下さい。

影山リサ





9/17(火)

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影山リサ、先日のスタジオにて。 影山さんと言えば、セカンドアルバム「Yesterday & Today」、いよいよ明日発売です。 以下、その収録曲について。


9.BYE BYE BABY -Version2-

2008年の、一枚目のアルバムを出した直後くらいに出したシングルのタイトル曲。

これもRock Meと同じく、再録です。 音も同じく、細部については違う。 あとエンディングがフェイドアウトでなくなっている。


10.Girlfriend

これ作った当時ブラスアレンジに凝ってて、いくつか作った曲のウチの一つ。 本アルバムで初公開となります。

今あらためて聴いてみたけど、ところどころ聴きどころはあるように思うものの、基本的にノーマルなPOPS。 アレンジとか私なりに凝った部分はあるけど、仕上がりとしてはPOPSの範疇に収めてある。 割りと聴きやすいと思います。



9/16(月)

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広瀬沙希、前作発表からちょっと時間が経ってしまってますけど、現在次回作の制作中です。 今リハーサル中の曲でとりあえず収録曲が揃います。


18日(水)発売の、影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」、収録曲について。


4.Rock Me -Version2-

2010年に発表したシングルのタイトル曲。 アルバム収録に当たって、ボーカルトラックはほぼ全面的に再録している。

バッキングのトラックに関しては、旧バージョンのものをほぼ流用してはいるんだけど、あれを作った当時とは制作環境がかなり変わってしまってて、現在使用しているDAWに音を移し変えた上でミックスダウンしている。 だから細かい部分で言えば、各パートのバランスとかEQとか、音は微妙に違う。

あとギターソロの後半部分が、旧バージョンとは違う。 これは明確な意志をもって変えた。 言われなきゃほとんど誰も気付かないような改変だけど。


5.Sleepless Night・6.Unchained Melody・7.She's So Glamorous・8.Luck In Your Eyesの4曲については、前回発表時と全く同じトラックを使ってます。



9/15(日)

影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」、収録曲について。


2.From Yesterday

シャッフルの曲。 たまにこういうちょっと気を抜いたような曲が作りたくなる。

展開もAABAみたいな古典的なもので、昔のアメリカンPOPSをちょっと意識した。 シングルなんかにするにはちょっと弱いような曲だけど、こういうのがないとアルバムのバラエティも乏しくなりますので。


3.Live For Today -Version2-

今年の2月に発表したシングルのタイトル曲。

これは元のバージョンとほとんど同じなんだけど、ラストがフェイドアウトになっている。



9/14(土)

先日発売した神田優花「NAADA」、如何だったでしょうか。 神田優花は今月25日(水)次のシングル「Misty」をリリースする予定です。 こちらもよろしく。


18日(水)発売の、影山リサ、セカンドアルバム「Yesterday & Today」、収録曲について。


1.Perfect Prince

アルバムの一曲目を飾るナンバー。 ロックっぽいアレンジなんだけど、メインのリフは(津軽)三味線。 間奏に当たる部分(歌が入ってるんで間奏じゃないけど)が三曲合奏になってる。

Aメロのボーカル、当初ラップにしようかと思ってたんだけど、途中で気が変わって止めた。

ある面(サビとか特に)実に和声音楽的な作品。 コード進行とか、フランス和声(フォーレとか)をちょっと参考にした面がある。



9/13(金)

今の日本は少子化していると言われるが、そこについて良い悪いの判断は難しい。 ただ、間違いなく日本人の心がそういう社会を作った。 実際昔はもっと出生率も高かったのだろうが、私はその時代が良かったなどとも別に思わない。

少子化以前に、そもそも婚姻率が下がっていると言う。 何だったかのデータでは、若者の「恋人離れ」が顕著であるとか言う。 そりゃ人口も減って行くだろう。

満員電車の中で泣き喚く赤ん坊をあやしている婦人などを見ると、気の毒に思う。  赤ん坊の泣き声は基本的に耳障りだが、それを公衆の面前に振り撒き、大勢の他人に迷惑を掛ける。 親も気が気ではあるまい。 電車の中だけではない。 そもそも子供なんて、いるだけでも仕事や普段の生活に差し障ろう。 現代社会においては、子供など持たぬ方が気楽だし、いわば「得策」である。

恋人離れとかだって、物事を損得で見るなら当然かもしれない。 恋人なんて作っても、デート一つするのにも金が掛かる。 実際に私は、「生活(要は金)のことでアタマが一杯で、彼氏を作ることなんて考えられない」と言う若い女の子に会った事があるが、彼女の言い分にも一理はある。 彼氏にメシなんて奢ってもらったところで、交通費ぐらいは掛かる。 車で送り迎えしてもらったところで、デートに使う日があるなら、その時間にアルバイトでもすれば多少は生活の足しになる。

私は、人間と言うか日本人について考えていた。 もし自然界に、男女が互いに惹かれ合わず、子作りもしない生物がいたなら、やはりそいつらは滅び行く運命にあろう。 トキなんかの有り様を見ると、遺伝子が積極的に絶滅する事を選んでるんじゃないかとすら思える。

現代の日本が衰退の途にある、と言うのは一面の事実なんじゃなかろうか。 あるいは、適正な個体数に収まろうとしているだけなのかもしれないけど。


9/12(木)

やはりオリンピックの開催地決定の意思には、東日本大震災への「お見舞い」も含まれているのだろうか。

それにしても、今更言っても詮無いことだが、東京電力は福島第一の命名を誤ったな。 東電が名付けたのか知らないけど。

以前、高校サッカーの試合で、水俣高校だかの生徒が相手チームの選手に「水俣病」と罵られたとかで、問題になっていた。 私が仄聞したのだから、報道もされていた筈。 高校生らは、単に名前からの連想でそういった発言に至ったのかと思われる。

水俣病が熊本病とか言う名前だったら、四日市ぜんそくが三重ぜんそくだったら、風評被害のスケールはもっと巨大だったかもしれない。 事実「イタイイタイ病」は、そんなネーミングであるからして、その流行地である神通川流域住民が差別的な扱いを受けると言う話は聞かない。 原爆絡みの話でも、「ヒロシマ」などと言われると、広島県全域が被爆地であったかのような印象を受けてしまう。

今後暫くの間、「フクシマ」と言う響きは、ある悪印象を含んでしか響かない。 これから短期的には、新たに原発が作られることは考えにくいが、もしそのようなリスキーなものを作る際には、命名は慎重になさった方がよろしいかと。


9/11(水)

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神田優花、ニューシングル「NAADA」、本日発売です。 以下、本人より(上は先日のリハーサル中の写真)。



NAADAとはサンスクリット語で天から降ってくる音、心の中で鳴り続ける音という意味を持ちますが、この曲は地の底から何かが這い上がってくる、そんなイメージで歌っています。

Closing doorは神田優花の王道とも言うべきRockです。困難にぶつかった時、それをこじ開けて進む破壊力を持った曲です。

2曲ともロックの持つの荒さはありますが、緻密で完成度の高い曲に仕上がったと思います。カッコイイんで、是非聞いてください!

神田優花





9/10(火)

影山リサ。 今月発売のアルバム以降も、今年発表予定の作品がいくつかありまして、今私はそれらのジャケットなんかのデザインに追われてます。 下は先日のスタジオにて。

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9/9(月)

スタジオにて。

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9/8(日)

ニューシングル「NAADA」、カップリング曲「Closing door」ついて。


2.Closing door

ロックナンバーなんだけど、ベースはスラップだったりして、ちょっとファンクっぽかったりもする。 ドラム(ハイハット)の刻みが4だったり8だったり16だったり、一定してない。

間奏前の部分のメロディーライン、上下に短二度(半音)のハーモニー(クラスタ)をつけている。 あと何かあったっけ。分かんないや。



9/7(土)

影山リサ、先日のリハーサルにて。

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9/18(水)発売のアルバム「Yesterday & Today」、まだ発売日前ですが、Amazonでは仮設ページができているみたいで、試聴とかもできるみたいです。 Amazon、毎度の事ながら画像がデカい。 納品の時に要求される仕様(画像なら解像度)ってのがあって、最近やたら巨大サイズを要求されるのだけど、あのページなんかを見ると納得。


9/6(金)

「かわいらしさ」を演出する女の子なんかを目の当たりにして、私は素直に「かわいい」という感想を持つことが多い。 ただ、彼女らの意図と私の感じているかわいさは、おそらく同じ部分ではない。

人間なんて、ほとんどはきっとこんな感じで、双方の勝手な印象・感想でもって世界を捉え合っているだけなんだろう。 我々は自分にしかなれないんだ。


9/5(木)

identityと言う言葉がある。 日本語では「自己同一性」などと訳されている。 漢語を無理矢理くっつけて作った合成語で、つまり原日本語には無かった概念である(まあそもそも、大和言葉に概念語はほぼ無いが)。 してその自己同一性とは何ぞや。

私は瞬間毎に何かを目や耳にし、何かを感じている。 しかしこれは、人間の人間たる所以には該当しない。 だって野良猫だって人を見たら逃げ出したりするではないか。彼らなりに危険を感じたりしているのだろう。 が、猫は危険要因となる他者の存在には気付いても、自分自身の存在には気付かない。

この通り過ぎて行く瞬間たち、これらを統合し、一つの物語を構成するのは意識である。 子供の頃の私と、昨日の私と、一秒前の私と、今の私、これらが皆同じ私であるのは、この意識の作用と言える。 意識こそが、この私の連続性を保証してくれている。 だから「自己『同一』性」なのだ。

悲しみは私に、「悲しんでいる私」の存在を教えてくれた。 私を愛してくれた人は、私に「愛された私」の存在を教えてくれた。 私は私自身に、私の存在を教え、刻み付けるために日々音楽を作り続けている。 私が誰かを愛するのは、その人に、その人の存在を教えてあげるためです。


9/4(水)

スタジオにて。

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人間は、外部刺激にて、その想像力の欠如を補っている。 想像力さえあれば、それ以外のあらゆる物は必要なくなる。 それが健康なことかどうかはさておき。

想像力の欠如と言うのは、実に高くつく。 高級車に乗りたいとか、人も羨むような異性と街を歩きたいとか。 そういうことに心を奪われると、人は必然的に効率の悪い人生を送ってしまう。 ギャンブルや薬物に溺れたりするのも、想像力が足りないからだ。 日常が刺激的でないのは、刺激を読み取る感受性の方の問題なのだ。

何故想像力が持てないのか。 それは「視点」がおかしいからである。

日本語はしばしば主語が抜ける。 欧米人にそれはかなり異様に映るらしい。 世界は言語であり、主語とは自己そのものだからだろう。 自己の中心に意識が据わり、自己を認識しさえすれば、自分自身の捉え方が変わる。 伝わり難いかもしれない。

猫は、自分の存在にまだ気付いていないからこそ、我々とは異質なのだ。 まあ、猫並の脳の状態で生きている人間は多いが。 まあとにかく、自分の意識すら朦朧としている者に「他人の立場になって考えろ」は、無理難題である。

焦点の合わない意識のままだと、人は自分を遠くから眺めることしかできない。 何かを感じても、それが主観なのか客観なのかの区別がつかなかったりする。 だから「人も羨む異性」が必要になる。 想像力の欠けた人生は、結果として高くつく。


9/3(火)

神田優花、スタジオにて。 新曲二つ録りました。

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来週発売のニューシングル「NAADA」、タイトル曲「NAADA」について。


1.NAADA

タイトルのNAADAは要は「音」って意味なんだけど、インド言語らしく、英語のsoundとは包摂する意味が異なっていて(より重層的)、「心の中で響く音」とか「天から降り注ぐ音」とか言う意味合いがある。 因みにタイトルこそインドの言葉を拝借しているけど、楽理的な影響(インド音楽の)は全く無い。

曲そのものはロック仕立てなんだけど、転調とか細かいし、そもそもあんまし和声音楽的でない。 コーラスと二声になる部分があるのだけど、ハーモニーではない。 オブリガートでもなく、それらの中間のようなものになっている。

サビのフレーズは、声明とか読経なんてものが着想となった。 ああいうものにも、主音とか導音とかあったりして、一応最低限の楽理みたいなものはあるんです。



9/1(日)

スヌーピーのDVDに特典映像が付いていたので、それを見ると、制作スタッフらのインタビューが収録されていた。

あるスタッフ(名前や肩書きなど全部忘れた)のセリフは印象的だった。 曰く「常に心掛けていたのは『自分を出さないこと』だ。 これはシュルツ(スヌーピー原作者)の作品だ」だそうな。 大した御仁である。 漱石の言う「則天去私」とは、あのような境地だろうか。

人は時に、何を表現する際、つい「俺が俺が」と自己を主張してしまう。 そして、そのいわば「臭み」が、作品を台無しにする。

創作において執心すべきは、作品の完成度についてであり、自分の名声など二の次だ。 つうか実にどうでも良い。 クリエイターは自分が良いと思う作品を作っているのであって、誰かに誉めてもらう必要なんて無い。


8/31(土)

スティーヴ・ジョブス氏の人生を綴ったDVDを見た。 言わずと知れたアップル創業者の一人である。 内容については、まあそれなりのものだったが、ここではそこに言及しない。 興味ある方はご覧になって欲しい。

私が好感を持ったのは、散々ジョブス氏の功績を顕彰するような内容でありながら、「ジョブスは超一流のビジネスマンだったが、人格には問題があった」とハッキリ総括しているところだ。 アメリカ人ってその程度には論理的なんだろう。 日本人って、何らかの分野における一流人をすぐ「人格者」と捉えたがる。 それとこれとは別なのにね。


8/30(金)

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神田優花、先日のリハーサルにて。

既にお知らせしてますが、神田優花は9/11(水)にニューシングル「NAADA」(全2曲)を発売します。 こちら是非チェックしてみて下さい。 もうAmazonとかでは試聴もできるみたいです。


8/29(木)

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好きなものであれば、それはもう答えである。 理由なんて後で探すものだ。

誰が作ったかを問わず、好きな曲と言うのも、一種の「答え」である。 私は音屋であると同時に、当然リスナーでもあるわけだから好きな曲はたくさんある。

作曲(創作)と言う行為は「問い」である。 何をもって美とするか、自分に問うている。

「好きな曲と言う答えがあるのだから、それをひたすらに聴いていれば良いではないか」。 もしそこに過不足が無いのなら、本当にそれでも良かったかもしれない。 が、私はその好きな曲たちの、私が感じた魅力の部分を抽出、あるいは濃縮し、また不要な部分を削ったものを作ろうとしてしまう。 より純度の高いものに対する希求、それはもう執念と言って差し支えない。


私が何かを「美しい」と感じた時、そこには既に、ある「答え」が出ている。

私の欲しい物は、私が美しいと感じるもの。 私は私が美しいと感じる曲を書くし、ある人の振る舞いを見て「美しい」と感じるのなら、それは未来の私が取るべき態度なのだろうと思う。


8/28(水)

ある女性歌手が、一時期薬物中毒に陥っていたそうで、家族とともにその当時の苦悩をテレビで語ったらしい。 因みに、私はその番組自体を見ていない。

「過去の苦悩を告白する」と言う構成である以上、その人らは薬物中毒ってのを「過ぎたこと」だと思っているのだろうし、そう信じたい気分なのだろう。 物事の不可逆性なんて都合の悪いことには、人は往々にして目を瞑る。 が、私に言わせれば、彼らの苦悩は全然終わっていない。

そもそも彼女は薬物に依存したいのである。 そういう精神の傾斜を持つ人物が、その必然的帰結として薬物に手を出した。 今は「薬から手を洗った人」としてカムバックしているつもりかもしれないが、「よくがんばったね」なんて誉めてもらうことが薬の一時的な代償となっているだけだろう。 そういうトピックスバリューで持て囃される時期など高が知れている。 彼女にはいずれ「薬を絶つ理由」が無くなる。


彼女の薬物依存を止めようと、ご兄弟は必死であったと言う。 曰く「地獄の日々」だったと。 ここで整理しておきたいことがある。 薬物に依存する妹と、それを止めようとする兄、どちらがワガママか。

間違いなく兄の方である。 何故ならその兄は、自身の幸福の成立要件に、妹のあり様を組み込んでいるからである。 妹の方は薬が欲しいだけであって、兄の生き方になど一切干渉していない。

服用量を誤れば薬物は即ち毒である。 だから、「薬を止めろ」は本人の健康のためであったりもする面がある。 だからして、そういうことを言う兄の気分には、正義感の後押しがあるのだろう。 その正義を疑ったことすら無いのかもしれない。

妹は、気が狂ってでもいない限り、自分が生きたいように生きることが兄の幸福に抵触してしまうことが辛かろう。 また兄の方も、彼が望むのは「妹がごく普通の人であってくれること」程度のかわいいものである。 だが妹は、その「普通の人」でない。 お気の毒にとしか言いようが無い。


薬物中毒を克服し、地獄の日々から抜け出したと言う兄弟は、笑顔でテレビ番組に出演する。 メデタシメデタシと。 まるでそこには、人間の真の幸福ってものがあるかのようである。 でも、私から言わせれば、そういう分かりやすい幸福像ってのは大抵全部嘘っパチである。

何かの結論があってこの文章を打っているのではない。 私は答えを探しているのだけど、それは簡単でないのだ。


8/27(火)

「はだしのゲン」と言う漫画の是非について、世間で意見が割れているらしい。 私も子供の頃に読んだ。 あれほどの恐怖漫画を私は知らない。 子供の頃に感じた恐怖を、今なおありありと思い出せる。

私は小学校の時、転校を経験している。 元いた学校にも転入先にも、図書室にあの漫画は置いてあった。 予算上の優先順位が高い、特殊な位置にある漫画なのだろう。 漫画と言えば、それ一種のみしか置いてなかったように記憶する。

子供にとっての「漫画」は、比較的とっつきやすいメディアである。 学校にそれが置いてあれば、とりあえず手に取ってしまう。 してその内容は、実に偏向した、極めてイデオロギッシュなもの(古典的な左翼思想ってのとも毛色が違うのだが)。 この状態に今の今まで批判が噴出しなかったことが不思議なぐらいだ。

戦争が怪しからんと言う意見はあって良い。 現場にいる先生方やその組合などが、どういう思想を持つのも自由だろう。日本国憲法には思想の自由が謳われてますからね。 が、恐怖漫画のグロテスクな描写を子供に見せて、戦争に対する恐怖心・抵抗感を植えつけると言うのは教育ではない。 典型的な「洗脳」の手法である。

私はあれを禁書にせよとまでは思わないが、小学校などの図書室での閉架扱いと言うのは妥当かと思える。 あれを敢えて読みたいと言う子供がいるのなら、その時は開放してやれば良い。 あと、教育機関に必ず置いておかねばならない本とも思わないので、導入するか否かは各校の担当者が独自に判断すれば良いかと思う。

また公立の図書館などに置くのも構わないと思うが、児童書のコーナーではないな。 大学生があれを読むのには何の問題も無い。 被爆者の生の声として、貴重な記録である。むしろ読むべきとすら思う。


言っておくが、私はあの漫画を名作だと思っている。 同じ物作りとして、あの情念の濃さには感動せざるを得ない。 が、創作物としての評価と教材としての是非では話が違うのだ。

私は、DVDで「はだしのゲン」作者、中沢啓治氏の風貌を目にしたことがあるのだが、実に無邪気な、同時に子供っぽい人に見えた。 作者その人はそれなりに愛すべき御仁かと思えるが、あの漫画の中で発せられる主張の多くは、極めて自己中心的な主張でもある。 その稚拙な論理展開も含めて、ありのままの被害者の声ではあるのだろうが、そういうことも理解できる年齢になってから読むべき代物で、やはり子供向きではないんじゃないかね。


8/26(月)

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盆あたりから、目が回るほどに忙しい。 来月から来年初頭にかけてのリリースが立て込んでて、本当に休む暇がない。 いくらでも仕事があってしまう。 今日もこれから先週録った音の編集です。 上も下も先週のスタジオで録った写真。

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8/25(日)

私にとっての未来とは、予定調和のことではない。 かと言って自分に想定すら出来ないような、天災のようなものでもない。 会社勤めを60歳まで続ければ、定年となり退職する。65歳まで生きれば年金が支給される。 私は、こういうことを指して未来とは呼ばないのである。

上に挙げた例のような、可視的な範囲に全ての未来が収まってしまうのなら、それは予定に過ぎず、明日と言う日が、我が手でこさえるものでなくなってしまう。 未来の価値は、それがこの手で想い描けること。

私は、自分が次にどんな曲を書くのか楽しみで、毎日に興奮している。 それは新しい曲が、自分に新しい視野を与えてくれると信じるからだ。 私の未来はそこにある。


8/24(土)

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影山リサ、ニューアルバム「Yesterday & Today」を発売します。 発売日は、神田優花の「NAADA」発売のちょうど一週間後にあたる9/18(水)になります。 制作期間4年強、前作「Jewelry Box」発表より、実に5年ぶりのニューアルバムになります。 是非聴いてみて下さい。 下はジャケット。




8/23(金)

神田優花、ニューシングル「NAADA」(c/w Closing door)を9/11(水)に発売します。 もう20日も無いんで、わりとすぐのリリースになります。 もうじき試聴とかもできるようになる筈なので、また続報あればお知らせしますね。 下はジャケット画像。




8/22(木)

作曲家(と言うかクリエイター全般)には、二つのタイプがある。 曲を、一小節目から作るタイプと中心(核)から作るタイプである。 中心と言っても、タイムライン上の真ん中辺りとか、そういう意味ではない。 ここでは、曲の核心たるテーマみたいなものを指している。

どこから作ろうが、創作である以上、それは思考の産物に他ならないのだろうけど、両者の違いはその思考のパースペクティヴとでも言おうか。 要するに「深さ」だろう。

中心から作ると言うが、それは即ち曲の全体像を脳内に展開することに他ならなず、短期記憶(メモリー)の量が少なければ、このメソッドは採れない。 つまり、一小節目からしか作れない頭脳は、中心から作ることが機能的に出来ない。

だから音楽はすぐスポーツになりがちなのだろう。 言いたくは無いが、ミュージシャンの思考力の問題である。

スケールを適当になぞっただけのインプロヴィゼーションとか、延々とループする一小節のフレーズを、フィルターとか適当に弄って変化する音色を楽しむ、みたいな音楽(早い話がここで言う「一小節目から作られる曲」)って、言い方は悪いが、実のところそれぐらいしか理解出来ない頭脳から生まれているだけなのではなかろうか。 だって、音の一粒一粒なんて把握に容易いし、ましてや音色なんて誰にだって体感できる。 芸術作品には、それ以上に巨大な(通覧せねば見えてこないような)テーマが提示されているから、そういう枝葉末節に大きな関心が向けられないだけだろう。

文学愛好者にとって、ドストエフスキー作品の、フォントが明朝体であるとかゴシック体であるとか、そんなことはどうでも良い筈だ。 無論音楽と小説は同じでなかろうけど、芸術(つまり思考)の純度を保証するものって一体何なのか。 私は思考の深さだと思うけどね。


8/21(水)

専門性を持つと言うことは、どういうことか。

私は作詞・作曲・編曲家、プロデューサーであり、レコーディング・ミキシング・マスタリングエンジニアである。サウンドプログラマーであり、楽器奏者でもある。 また、商品や販促物のデザインもやるし、時には営業、事務作業までやる。このHPの管理も基本的には私がやっている。 全てのスキルは、今の私に必要程度のレベルでしかないが。

何とマルチな御仁かと思われてしまうこともあるが、別にそんなことはない。 単に自分のやりたいことに忠実に、必要な知識・技能を身につけただけである。 逆に言えば、ある専門家(例えば上で私のスキルとして挙げたものの一つを専門分野とする人)などから見れば、私の技能など全て中途半端なものだろう。 専業者じゃないので当然かもしれない。

が、それで良いのである。 何故なら私は、一流の音楽家になりたいわけでも一流のエンジニアになりたいわけでもないからだ。 私が欲しているのは「納得できる自分」。 ただこれだけ。

専業者には「定義」がある。 定義がある代物なんだから、専業者同士のコミュニティがあったりして、横で繋がるのも楽であろう。 また、専門分野ってのが、分野として用意されている以上、既に社会的な要請が存在するのだろうから、比較的食いっぱぐれもしにくかろう。

だが、「専門家になる」と言う行為は、ある側面から見れば妥協である。 だって、既存の何らかの分野なんかに、自分のやりたいことが過不足無く収まり切る筈がないじゃないか。 納まってしまう人は、つまりは分野の方に従属してしまっているのだろう。

ピカソや北斎が、「一流の御用絵師」でなく、野にいる一介のアーティストであったこと。 私の目指すのはそこである。 芸術は、孤独の中からしか生まれないものなのだと思っている。


8/20(火)

ちょっと前に、ワコールの創業者、塚本幸一の伝記的なDVDを見た。 言わずと知れた女物の下着メーカーである。

まず、若い頃の塚本氏の風貌を見て、単純にハンサムだと言うことに気付く。 きっと彼は女にもモテたろう。 と言うか、ハンサムだったりしたからこそ、その商売の着想を得た部分が濃厚にある筈だ。

当時(戦後間もない頃)、日本には物質としてのブラジャーを作る会社はおろか、「ブラジャーを着用する習慣」すら無かったそうだ。 よくもまあそんな商売をやろうと思ったものだとも思えるが、同時に一種の空白地帯だったので、巨大なビジネスチャンスが眠っていたのも事実。 現代で言えばさしづめ、ちょっと前のIT産業のようなものだと思って良い。 規模は全然違うけど。

しかしモノは女物の下着である。 「男子」の感覚が今とは違う。少なくとも当時、そんなものの行商人になりたがる男は希少だったろう。 実際そのDVDの中でも、塚本氏本人の弁にて、「散々変態扱いされた」とあった。 それを自ら述懐する辺りにも、彼の余裕が窺えるわけだが。

もし塚本氏がハンサムでなかったら、きっとその「変態扱い」に気後れして、そんな商売に手をつけられなかったに違いない。 塚本氏には多くの男性に比べ、多少なりとも女性に対する自信があった。 そして、それが僅かばかりの余裕に繋がり、あるものを彼の目に映させた。 女性に対する無理解・恐怖心が根底にあっては、女性向けの商品などヒットさせるのは無理だろう。

私が感じたのは、人の個性が、容姿にも当然由来してしまうという事。 顔の美醜など、単に社会的なコンセンサスに過ぎないのに、人間はそんなものにすら人生を左右されてしまう。 私だって当然そうなのだろう。


8/19(月)

NHKが出しているDVDで「赤ちゃん(乳児)」を特集したものを以前に見た。 赤ちゃんのいわば「特殊技能」についての記録映像である。 タイトルは忘れた。

まず、赤ちゃんに、スクリーンに映し出されたある猿の顔を見せる(猿の顔は楕円形にくり抜かれたもので、つまり顔以外の情報は削除してある)。 次に二匹の猿の顔がスクリーン映し出される。 その二匹のうちの一匹は、最初に映し出された猿である。

通常の大人なら、猿の顔などほとんど見分けられない。 一匹の猿の画像と二匹の猿の画像が順番に提示されたとしか思わない。 が、赤ちゃんは、映し出された二匹の猿の顔のうち、『最初に映し出された猿でない方』を凝視するらしい。 赤ちゃんの世界には「ある一匹の猿に、新たな猿が加わった」と言うことである。

確かに、概念として一括りにするからこそ猿なのであって、一々の猿は別のモノである。 人間は言語によって、それら一々の猿を、猿と言う概念にまとめ上げている。 猿山に群がる百匹の猿は、それぞれ百体が百様の、別の物体なのだ。 人は言語でそれを丸める。

この「同定」作業こそ、言語(=意識)の巨大な役割かと思われる。

絶対音感と言う能力がある。 能力と言うぐらいで、世間一般では優位性であるかの如く語られる。 が、要するにそれは、周波数の上下を丸める機能が育っていないだけだとも言える。 上の赤ちゃんのように、人は誰でも生まれた当初は絶対音感保持者であり、人間以外の、聴覚を持つほとんど全ての動物は絶対音感を持つであろう。 人間の意識は、少々の周波数の上下など丸めてでも、その音波群に込められた何かを抽出する。

ここで抽出されるものとは、言語でしか掬い取れないもの。 例えば「愛」であったり。 言語で抽出されたものこそがつまりは音楽である。 それが丸められず、単なる剥き出しの音(周波数)であるうちは、それは音楽・芸術ではない。

私は絶対音感保持者を「劣った者」と思うわけではない。 人間の能力に優劣をつけることほど難しい(一筋縄でない)作業はないと思うからだ。 だが、日本のような社会において、絶対音感と言うものの実体が正確に理解された際には、むしろ現在特殊技能者とすら思われている絶対音感保持者が、その能力を保有する事実を隠し出すのではないかと私は疑っている。


8/18(日)

義務教育レベルの音楽知識さえない、ズブの素人に「調の概念を教えてくれ」などと言われたら閉口してしまうだろう。 どこから説明して良いのやら。 「一言で説明してくれ」なんて言われたら、それは無理である。

例えば「人って変わるのか?」なんて問われても、一からげには答えにくい。 「あるレイヤーにおいては変わると言えるし、あるレイヤーにおいては殆ど絶望的に変わらない」とか言うしかない。 この時点であるタイプの人には理解不能だろう。

ことほどさように、物事と言うのは何事においてもそれなりに複雑である。 たかが音楽においてさえそうなのだ。 真理なんてものがそう簡単に分かっちゃたまらない。

何かを説明する際に「要するにどういうことなのか?」なんて回答を求めてくる人がいるのだけど、世の中には要約しようのないことがある。 要約しようのない無い事柄に、要約を求めてくる人ってのは、早い話がそれを理解するのに向いた頭を持っていないということだ。


8/17(土)

ファーストフード店みたいなところで会計の順番待ちをしていたら、目の前に、いわゆる障害者っぽい人とその付き添いらしき人が並んでいた。

二人の会話が聞こえてくるのだが、障害者っぽい人の方の喋り方は、基本的に呂律が回っておらず、明らかに普通(一般的)でない。 発話が普通でないと言うことは、脳が何らかの形で少なくとも平均的でないと思われる。 健康かどうかについては、私には判断できかねる。 如何なる態様をもってして脳の健康体とするかが分からないから。

ふと気が付いたのだが、その障害者らしき人、うなじが大変毛深い。 さながら馬などのたてがみかのように。 また、頸そのものの形状(太さ)が尋常でない。 つまり、そもそも身体が平均的でない。

当たり前のことだが、脳も身体の一部である。 身体が平均的でないと言う時の身体には、当然脳も含まれることがある。 言うまでも無い。 脳やそこから生じる機能を身体に含めるとすれば(当然含まれるに決まってる)、結局人間の個性とは、身体的な個体差に収斂されるのだろう。

周知の通り、人格に個人差はある。 しかし、詰まるところそれは、ある性能(構造)を持つ脳に、とある係数としての環境を与えた結果に過ぎないのではないか。

だからどうした、と言う劇的な結論がこの稿にあるわけではなく、単に私が物事を整理するために文章化しているだけである。


8/16(金)

ビートルズは「ベートーベンをどう思うか?」と言うインタビューに「歌詞が良い」と答えている。 イギリス人特有の老成・腐熟と言って良いような感覚のジョークである。 私はイギリス人に、この手の感覚は骨肉化していると思っていて、例えばロンドン警視庁をスコットランドヤードと呼ぶような慣習も、根はこれなのではないかと感じている。 これは多くの日本人には体感し辛い。

最近、2ステップ(ダブステップとかガラージとかの方)の語義について調べていたのだが、どうしても核心部分が理解出来ない。特に日本語(当然日本人監修の)によるサイトでは、いくつもの定義が乱立している状態で、理解しにくい。 こういう事はある意味珍しい。

調べものをしていて、理解に難が生じるケースはよくあるが、概念そのものが難解であったり、様式の複雑性・巨大さこそが難を生じさしめているケースが多い。 用語の定義に複数説が存在してしまっている、なんてのは、単なる混乱である。

中にこういう解説があった。 「リズムの強拍が二ヶ所(1・3拍)にあるから2ステップである」だと。

まず音楽用語で言うところの強拍を誤用していると思われる(音楽用語の強拍に「強い(アクセント)」の意味はほぼ無い。純粋な日本語として、アクセントの強い拍を熟語化して強拍と呼んでいる、と言うならそれもアリかもだが、優性・劣性遺伝などがいわゆる性能としての優劣と無関係であるように、本来強拍にアクセントの意味は殆ど無い)。

次に、1・3拍にアクセントがあるってのは、多くの音楽に共通で、ジャンル名として適当でない。特化するためでこそジャンル名なのだから。

結局、英語での解説を読んで2ステップが何となく理解できたような気がした。 何で日本人の私が英語解説を読まなきゃならんのだ、と思うが、日本語解説で理解出来ないんだから仕方が無い。 rhythm lacks the kick drum云々などと言う記述を目にしたが、要するにその程度の、標準的様式に比してキックの数が欠けている(=多少リズムが変則的)とか言う程度の代物なのかと思われる。 ジャンル的に一種のポップカルチャーの産物(アカデミックでないもの)なので、用語の定義は曖昧になりがちなんだろうか。

日本人の混乱は「2ステップ」の語義に振り回されたものが多いように思えた。 言語感覚の違いだろう。 用語の解釈一つにこれだけ齟齬が生じてしまっているのだから、音楽などと言う重文化の理解に齟齬が存在しないわけがない。 イギリス文化なんかに傾倒している日本人は、今の理解が本当に有り体のものなのか、用心して掛かった方が良い。


8/15(木)

神田優花、おそらく年末(若しくは来年アタマ)くらいにかけて、しばらくの間リリースラッシュになるんですが、第一弾シングルが来月に出る予定です。 こっちももうすぐ詳細の方、お知らせしますね。 近いうちにジャケ写とか上げます。

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8/14(水)

影山リサ、セカンドアルバム関連の作業も粗方終わりまして、リリースを待つのみとなりました。 もうじきこのサイトでもインフォメーション出しますので、お楽しみに。

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8/13(火)

スタジオにて。

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世間は盆休みに突入してるみたいですが、私は今、事務作業が山積みでそれどころではないのです。


8/11(日)

寿司屋で私は注文を入れた。「○○(ネタの名前)、二皿下さい」と。 オーダーを受けたオヤジは、軽く頷いてその注文の品を握り出した。 ほどなくして私の目の前に出されたものは、確かにネタ自体は注文と違わぬものだったが、個数が違った。 一皿だったのである。

オヤジは私の前にその一皿を置くや否や、さっさとその場を立ち去ってしまったので、私は再度声を上げ「○○、もう一皿下さい」と更に言った。 無論私のそのセリフには、「オヤジさん、もう一皿忘れてるよ」と言うメッセージが込められている。

しかしそのオヤジ、私を一瞥すると、「ああそうかい。もう一皿欲しいのかい」とでも言わんばかりの顔である。 彼は黙々ともう一皿を握り、何事も無かったかのように私の前にあらためてそれを出した。 当然ながら、彼からの「申し訳ない」などと言う謝罪の言葉・態度は無い。

私はまた注文を入れた。 「○○(今度は別のネタ)、二皿下さい」と。 すると驚いたことに、彼はまた一皿だけ持ってきた。 どうやら彼の脳は、ネタの種別と個数、と言う二つの注文内容を一度に処理することが苦手なようである。

ここで重要なことは、これら一連のやり取りの中で、彼にとっては、彼自身は一切ミスをしていないと言うことである。 ミスをしたことすら自覚していないのだから当然だ。 従って彼は、その経験こそを蓄積とし、「ミスを犯さない自分」を作るための基礎とはできないと言うことでもある。 つまり彼は成長しない。

人間は、成長するためにも、それに適した脳の状態と言うのがあるようだ。 それを満たしていない人にとって、時間や経験と言うものは、通り過ぎて行くだけのものであるようだ。 悲しい事だけど。


8/10(土)

ある人に「ニキビを劇的に治す薬って発明されないの?」って聞かれた。 回答としては「知らない」。残念ながら私にそういう知識は無い。

現状においては、多分そんなもの無いと思うし、あってもその原理によっては、軽々に使うべきでないと思う。 何故なら、ニキビはニキビで、その身体固有の条件から発生しているのであって、決して無意味に生じているのではないと思われるからだ。

人体、と言うか森羅万象は例外なくある種の合理性を持っている。 ただここで言う「理」は、人間が考えたような正義とか真理とかそういうものではなかろう。

我々が死ぬ事も、ある側面から見れば、きっとその方が有利であるからだ。 遺伝子は、一個体の寿命にリミッターをかけ、子を作ることによって存続することを選んでいる。 そちらの方が、何らかの理由にて有利であるのだろう。

では我々の「心」は、何故に生じたのか。 何もかもが消えて行くだけのものなら、心など我々は持たされずにいたはずではないのか。

きっとそうであるはず。 私はそう思う。 だから我々がこの世界に生まれてきたことには、きっと理由がある。 私にとっての芸術とは、実はこの理由を探すためのものなのだ。


8/9(金)

ホームランを打った野球選手が、ヒーローインタビューにて言う。「ファンの皆さんの声援のお陰です」、「応援してくれる皆さんの為に打ちました」などと。 本当か。

プロ野球は興行なので、ファンの存在が存続の基礎となっているのは事実だろう。 また、ファンの皆さんが贔屓チームの勝利を喜ぶのは本音だろう。 が、ファンはファンで、自分ら自身のある気分を満たすために応援をしている。 だから、選手だって自分の為に打って良い。

私が野球選手ならこう言うだろう。 「僕のホームランによって喜んでくれた人がいることは大変めでたいことで、僕にとっても嬉しい。でも僕は僕の為に打ちました」と。 人を救うこととは、自分を救うことなんです。

多くの客は基本的に、贔屓チームの勝利を渇望し、ホームランを打つという機能を、ホームランと言う実績を期待しているのであって、選手の精神を支えようとしているのではない。 人は自分のために生きるべきだし、そうしないと他人の心も見えてこない。 私はそうだった。


8/8(木)

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影山リサ。 こちらもアルバムリリースに向けての作業が着々と進んでます。 年内にアルバムともう1タイトル、シングルを出す予定です。 お楽しみに。


8/7(水)

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神田優花、ボチボチ年内一杯ぐらいにかけてのリリース計画が決まりつつある。 また結構多くの音を発表します。 神田優花は、これからも暫く音源制作に集中します。


8/6(火)

スタジオにて。

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ラーメン屋でBGMとして流れていた曲を聴きながら思ったこと。

流れていたのは多分有線か何かで、90年代あたりのJ-POPらしきものだったのだが、どの曲もそれなりにヒットしたものだった。

ヒット曲と言うのは、多くの人に支持された曲という事なので、相応に人間の琴線に触れる何かを持っているのだと思われるが、そのラーメン屋で聴いた音楽は、私の琴線には触れないものばかりだった。 まず、ある曲については、サビに出てくる歌詞が、日本語文法的に怪しいものだった。 誰も指摘しなかったのだろうか。

そのヒット曲たち、フレーズ単位で聴くならば、それなりにフックのあるもので、意味もなんとなく伝わってくる。 が、全体としてその曲の言わんとすることを要約すれば、実に下らない、言い古された月並みなことしか言ってなかったりする。 全体を貫く骨子の部分が下らない作品の、1センテンスで感動できるってどういうことなんだろう。

ああいう作品に心動かされると言う人は、特殊な感性の持ち主であるのではなく、作品全体を貫く主旨と言うものを理解した経験が無いのではないか。 だからして、辛うじて理解できたその1フレーズに「自分は感動した」と誤解してしまっているのではないか。

実在する「感動」と言う言葉の定義を満たそうと思えば、自分の中に思い当たるフシを探すしかない。 で、心の中のどこにも感動に該当する感傷が見当たらないからして、別のものをもってして感動としてしまったのではないか。

音楽、つまりは聴覚というものには、例外なく時間軸が存在している。 刻々と流れ行く時間を頭の中に留めておくことが出来なければ、音楽像が脳内で完成されない。 脳機能としてのメモリー(言語力)が貧弱過ぎれば、人はつまりは1フレーズでしか音楽を理解出来ない。 もっと言語力が無ければ、究極的には、人は音楽を音響でしか捉えきれない。 音響は、時間軸面での負担が極めて少ない。 テクノみたいな音楽が好きなのって、大抵男の人でしょう。 男の言語力が低いことは医学的にも統計的にもハッキリしている。

人は、とりあえずは、皆例外なく幸福を求めて生きていると思われる。 音楽と言うのも、受ける作品は人に何らかの喜びを与えているのだろう。 だが、ヒット曲が人々に与える効用が「理解できる喜び」であるなら、私はヒット曲の発信源になりたいとは思わない。 私はそんな薄っぺらいものを作ってはいないつもりだ。


8/5(月)

またまた琵琶について。

まず市販品としての音源は(使えるレベルのものは多分)存在していない。 フリーウェアの類も、私の探してみた限り見当たらない。 本気で琵琶を使おうと思うなら自作するしかないっぽい。 して、自作することにした。 サンプラー用のパッチを。 クオリティーには自信が無い。

琵琶に発音原理が近いものとして、三味線があるって話をした。 三味線の音源ならわりとたくさん存在していて、試しに音を出したりしてみたのだが、割りと近いニュアンスが出せそうなものがあるにはあった。 あれ使うべきだろうか。 でもやっぱし厳密な意味での琵琶でないのが気になる。 結局のところ構造も材質も違うし。 自作するなら、どこからサンプリングしよう。

ちょっと話は逸れる。 琵琶には弾法譜とか弾法図解と言うものがあるらしいのだが、実物を見たことがない。 定番的なテキスト(楽譜)らしいので(和声の赤本とかそういう感じか)、機会があれば見てみたい。 琵琶には「手」と言うものがあって、要するに定型的なフレーズらしいのだが、耳でその「手」を聴いても、よく覚えられないと言うか、それ以前に拍節感すら掴めない。 弾法譜とやらがあれば多少は理解の助けになろうかと思って。


話は更に逸れる。 そう言えば、最近新しいVST公開していない。 VSTプラグインってのは、ちょっと時代遅れの規格になりつつあるってのもあるのだけど、それより何より、私自身が最近その手のモノを作ってないからってのが大きい。

私が作る小物類って、あくまで自分で使うためのものってのが基本で(あとシンセサイザーとかの原理を理解するために作ってみたものとかもある)、作品の傾向と無縁ではない。 プラグイン作りが、昨今の関心事とやや離れてるってことです。

最近割りとよく作るのが、マイナー楽器の(サンプラー用の)パッチ。 音源化されてないような楽器だと自作するしかない。 で、そのパッチ類は全く公開していない。 多分これからも公開しない。 まずプラットフォームとしてのソフトがあんましメジャーなヤツじゃないし。 soundfont化することはできなくもないけど、必要とする人なんて殆どいないような気がする。


8/4(日)

蚊に刺されて手が痒い。 蚊について考えてみる。

私を含め人は、蚊に対してムカついたりするわけだけど、考えてもみたら蚊に意識なんてある筈がない。 空気の温度とかにつられて適当に漂っているだけに違いない。 血を吸うのはそこに物体としての人がいたからってだけだ。 これは雨に降られて服が濡れたとか言うのと、基本同じだ。 ムカついても詮無い。

天気予報が外れた時、気象庁やテレビ局にクレームが殺到するらしいが、「予想に反して晴れた」ことを非難はすまい。 要するに、雨に降られて、ケツの持って行き所のない怒りを抱えてしまっているだけだろう。 気象庁も気の毒に。 神様じゃあるまいに、気象を完璧にコントロールなんてできるわけがない。

何事においても、ケツの持って行き所と言うか、「下手人」を探そうとしてしまうのは、依存心の為せる業だろう。 「どこかの誰かがしっかりしてくれていれば、こんなことにならなかった」と言いたいわけだろうから。

基礎代謝によって私の腹が減ること、雨に降られて服が濡れること、蚊に刺されて痒いこと。 これらは全て同じ性質のものだ。 だから腹を立てても仕方ない。 蚊に刺されたくなければ自分で防御策を講じるしかない。


8/2(金)

また琵琶について考えていた。 書籍の類もいくらか取り寄せてみた。 奏法などについては、大掴みながら、あらかた理解した。

「実機(生演奏)を使わずに再現する方法」について、あれこれ考えている。 前にも触れたが、まともな音源類が存在していないのだ。 一昔前のハード音源とかに琵琶の音色って入っていたような気もするんだけど、おそらく単体で(商品に)使える代物ではないと思われる。

構造的に近いものとして、中国琵琶がある。 中国琵琶の音源はかろうじて存在するのだが、音を聴き比べてみる限り、「サワリ」のニュアンスが決定的に違う(出てない)。 あと、弦の材質が違うので(中国琵琶は金属・日本の琵琶は絹あるいはテトロン)、その辺の違いも気になる。

構造・弦ともに近いものとして、三味線がある(三味線は基本的に弦に絹糸を使う)。 三味線の音源はそれなりに存在している。 が、カバーする音域が違うので、三味線音源で琵琶を代用しようとすると、低音域が全然足りない。 あと、三味線は最低音弦のみにしかサワリ構造がなく、その辺も琵琶とは違う。

いっそシタールとかその辺の楽器音を使った方が早いんじゃないかと思えてきた。 あの手の倍音豊富な楽器で、絹製の弦を採用しているものって無いのだろうか。


7/31(水)

影山リサ、セカンドアルバムの制作も大詰めに入ってまいりました。

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琵琶について。昨日の続き。

琵琶を使ったオケを作るとして、生演奏を録る以外の方法がちょっと思いつかない。 さすがに琵琶奏者の知り合いはいそうにない。

琵琶はこれほどに有名な楽器でありながら、音源(VSTやsoundfontの類)が見当たらない。 これは商品化出来る程度のニーズすら存在してないって証なのだろうか。

俗楽系の弦楽器に顕著な(特有と言うほどでもない)倍音があるんだけど、「サワリ」と言う構造から発生している。 一般に、倍音が複雑な楽器はDTMレベルでの再現が難しい。 あと琵琶は、奏法的にも打ち込みでの再現が難しいと思われる。

琵琶そのものの音については、音源が存在しない以上、生演奏以外をもってしては導入しようがない。 何とかあれに近い音(奏法表現も含め)を作れないものだろうか。 琵琶の音が欲しい音屋ぐらいいる筈なんだけど、その人らはどうしてるんだろうか。


映像資料を見たところ、俗楽で使われる琵琶と楽琵琶はもう別の楽器だ。 柱(フレット)の数も違うし(楽琵琶は4・薩摩琵琶などは5)、高さも間隔も全然違う。 雅楽においての琵琶の演奏って、ごくシンプルなものばかりなのだけど、俗楽は雅楽に比べると実に装飾的と言うか、衒いの強い印象だ。

柱の押し込み(アーティキュレーションとしてどういう名前がついているのか知らないが、ギターで言うところのチョーキングみたいな奏法)による音程の可変幅が大きく、そこが演奏の肝になっている感がある。

楽琵琶は確か、1フレットが半音間隔で打ち込まれていたと思うが、薩摩琵琶などはもっと間隔が大きく、奏法による音程調整の裁量幅が大きい(5フレット目あたりで(開放弦から)短7度音程(10半音)くらいの音が出ていた)。 演奏能力が求められるのは後者だろう。 因みに中国琵琶は、性質としては楽琵琶に近く、音程調整はフレットに因る部分が大きい。


7/30(火)

スタジオにて。

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琵琶楽について調べていた。 ついでに楽器としての琵琶についても。 ついでだが、私は琵琶(筑前琵琶)を所有していた。今でも実家に多分ある筈だが。

琵琶のルーツについては諸説あるようだが、日本においては雅楽の楽琵琶をもってそれとして良いと思う。 正倉院御物で有名な螺鈿紫檀五弦琵琶なんてのが現物として残ってはいるが、どのような音楽を奏したのか、等不明である。 楽器なんてのは一種の消耗品なので、あのような状態で現存している時点でその五弦琵琶は、おそらくは飾り物に近かったはずである。つまりほぼ実演奏には使われていない。

琵琶法師の奏でる平曲で有名な平家琵琶と言うものがある。 一応公式には流派が継続していることになっているが、どの程度発生当時のものを残しているかは不明である。少なくとも、調べた限り私には分からなかった。

現代に残る二大流派が薩摩琵琶・筑前琵琶であるそうな。 反論もあるかもだが、私の理解した範囲では、どちらも近世以降(薩摩は江戸末期、筑前は明治)に成立した流派で、そんなに歴史があるものではない。 薩摩・筑前ともに、平家物語に題材を取ったレパートリーが数多いが、「琵琶と言えば平家」と言ったステレオタイプなイメージに引き摺られる形で(また多分に商業主義の産物として)定着したものと見て、まず間違いないかと。 平家琵琶と薩摩・筑前琵琶に直接的な関係はなく、楽曲の内容もおそらくかなり違う。

琵琶界には中世以降、当道座と言うギルドのようなものがあった。 中世の「座」を社会科で学んだ人は多いと思うが、つまりはアレである。 いつの時代も日本人は、すぐあれを作りたがる。 琵琶の世界も例外でなかった。

現代に残る琵琶楽、その映像資料にいくつか当たってみたが、旋律線などは基本ペンタトニック中心に作られているようで、演歌なんかに近いもののように聞こえた(無論、一種の現代音楽なので、半音階などもところどころに見られた。徹底した五音階なんかではない)。 無論西洋音楽のように音階が明瞭なものでなく、またビブラート(いわゆる演歌のコブシのようなもの)の幅も広いので、正確な採譜は難しく、採譜者によっては、物凄く複雑な音楽と捉えかねないものではある。 しかし、基本部分はシンプルな五音階のようなものと見た。

琵琶楽は「語り」なのか「歌」なのかと言う話だが、そもそもその二者に厳密な定義があるのかよく分からない。 私は大雑把に、「一つ一つの音符が安定した音程感を持つ声楽」を歌だと捉えているのだが、どうなんだろう。 そういう意味では現代の琵琶楽は、大掴みには歌と見て良いかと思われる。

琵琶楽っぽいものを、習作の一つでも作ろうかと思っているのだが、いわゆる琵琶楽まんまのものを作る気は無い。 が、かと言って普通のPOPSのバッキングに琵琶を導入する、なんて気もサラサラ無い。 琵琶楽を取り入れつつ、自分なりの音楽を作れれば幸いかと。 こればかりはやってみないと分からない。


7/29(月)

西遊記のDVDを見た。 世代によっては知らないかもだが、あの堺正章主演の。

しかし子供の頃(再放送で見た)は分からなかったが、あれは随分と手間隙をかけたものだ。 昨今のコントのようなドラマとは気合の入れようが違う。 ストーリーも文句なしに面白い。

キャスティングもがんばってる。 夏目雅子(三蔵法師)は当時、絶世の美女とされていたと思われる。こんにち比肩しうるタレントが思い当たらない。 孫悟空役の堺正章はザ・スパイダースのボーカル、沙悟浄役の岸部シローはタイガースのギタリスト、猪八戒は「ヘイ・ユウ・ブルース」の左とん平だ(西田敏行も一応は歌手だ)。 いかにも音楽ファン向けにシフトしたキャストである。 音楽面を全面的に担当しているゴダイゴってのがまた良いグループで、テーマ曲も名作揃いなんだこれが。


7/27(土)

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スタジオにて。


7/26(金)

ヒマラヤ・チベット高原を半分くらい削ったら、日本の降雨量は半減する、と言う説がある。 それなりのシミュレーションに基づく仮説なのだろうが、自然と言うのはそんなに単純じゃない。 そんな大掛かりな環境の変化が起こったら、影響が及ぶものは想定した範囲だけに留まるとは限らない。

アメリカでラジオ放送が始まった頃、レコード協会(もちろんアメリカの)は猛反発したと聞く。 「タダで音楽が流れては、レコードを買う人なんていなくなる」と。 実際に蓋を開けてみると、ラジオは音楽コンテンツのプロモーションツールとして強力に作用した。 物事、必ずしも試算通りにには行かぬものである。

いわゆる「策士」のイメージって「未来が読める人」なのかもしれないが、策士に読める未来であれば、それは平明な観測眼を持ってすれば読めるものに過ぎず、その程度の未来であればきっと殆どの人にも見える。 ただし、欲(希望的観測)や悲観を捨てられる事が条件になるが、そこは至難の業なのかもしれない。

未来って基本的にどうなるか分からないものだから、大事なのは平衡感覚ではないでしょうかね。 むやみに物事を悲観せず、また楽観しない。 楽観し過ぎても命を縮めるかもしれませんからね。


7/25(木)

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今制作進行中のアルバムがいくつかあるんだけど、中でも影山リサのセカンドは、ややペースが早い。 収録曲は全て揃ってて、ジャケットもほぼ上がっている。 あとはテキスト類とか、諸々の事務作業を残すのみとなってます。


7/24(水)

古代、漢字文化の流入によって、日本に存在した多くの「語り部」たちは失職したらしい。 そういうことはいつの時代にも起こりうる。 環境の変化によってニーズが無くなる人、お金を生まなくなる産業。

ここ十数年くらい、音楽業界は新たなビジネスモデルを模索していた。 CDのパッケージビジネスが崩壊するであろうことが目に見えていたからだ。 因みに現在の日本は、世界最大のCD消費地であると言う。 あくまでCDであって、純然たる音楽の消費とは性格が異なるが。

海外は海外で、新たな音楽のビジネスモデルを模索していたのだけど、ようやくその辺の目処が立ちつつあるようだ。 日本とは全く異なった形で。 CD全盛時代の音楽コンテンツの単価は、完全に崩れつつあるけど、もうそれは仕方ないと割り切っているのだろう。

電波に乗せて遠隔地に映像を送信する、と言うテレビの技術・概念を発明した人は確かに凄いが、コンテンツにCMを挟むことによってスポンサーを抱きこみ、地上波放送のスキームを確立した奴も、それはそれで結構凄い。 今ようやく形になり始めた定額・サブスクリプション型の音楽配信システムが、ビジネスとして軌道に乗るならそれに匹敵する。

一時期日本のメーカーは、Youtubeとかで音楽がバラ撒かれることにすら神経質になってたようだけど、最近は公式アカウント取ったりして、やっとその辺にも寛容になりつつあるみたいだ。 まあ海外のメーカーがやってるから、何となく追従しているのだけなのかもしれない。

しかしPVとかって、プロモーション用の、見てもらってナンボと言うものである。 PVに規制をかけて取り締まるのなら、それは完全に位置付けとしては販売用映像ってことになってしまう。 現状の、PVに広告つけて、事実上タダ見を許容ってスタンスは、現実的な落としどころかと思える。

日本のメーカーがたどり着きつつある、アイドル産業としての音楽業界。 アイドル産業ってのは性差に起因した消費なわけだけど、まあ景気の良い話をよく聞く。 昔からああいう水商売とか性風俗とかの、性差に根ざした商売と言うのは金回りが良い。 と言うか、浮世とはちょっとズレた感覚で動いているらしい。 金銭感覚ってのは、一種の理性であり文化だが、異性に対する関心ってのは生物としての原理だからってことなのかも。

音楽リスナーと言うものも、時代による絶対数の増減ってのはあるにせよ、必ず一定数いると思われる。 私が思うには、これから先の音楽業界は、そういう音楽リスナーの為の市場と、水商売としての市場との並存、あるいは二分化って形になると思われる。

アイドル商品の消費者と音楽リスナーは確かに層(人間としての属性)が違う。 でも70〜80年代のアイドル隆盛期を経て、80年代後半あたりからのバンドブームとかも起こった。 人間が音楽を聴くと言う習慣を失わない限り、今後またそういう現象も起こりうると見て良い。 そういう意味では、昨今のアイドルブームも架け橋と言うか、時代的な役割を担ってくれているように思えなくもない。

私が子供の頃好きになった音楽に含まれていたある要素が、アイドルのCDに全く含まれないかと言うと、そんなことも無いように思う。 微量なリとも含まれていたりするのではないか。


7/23(火)

スタジオにて。

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ここ数十年で、日本の生産性は16倍だかに到達したなどと言う話を本で読んだ。 あんまし実感は沸かないながらも、それなりに大した進歩なのだろう。

しかし16倍の生産性ってことは、数十年前には16人で行っていた作業が、1人で間に合うと言うことだろう。 つまり15人があぶれる。 昨今のこの社会を眺めているだけで、そこは「さもありなん」と思わずにいられない。

以前、所用あって役所に行った時の話。 窓口で並びつつ、中で働く人(公務員)を眺めていたら、一人がクリアファイルを開き、もう一人が中の紙を取り出していた。 そんな簡単な作業を、わざわざ二人の連携で行ってしまうほどに人が余っている(=仕事が無い)と見えた。 あくまでたまたま私がそういう場面に遭遇しただけで、地域や部署によってはまた事情も異なるのかもしれないが。

上の話を元地方公務員の友人に話したら、「一応その二人は、二人がかりにせよ仕事を行っているだけマシだ」と言われた。 「直接目に見えない裏手には、何もせずタバコを吹かしている人間がもっとたくさんいる」と。

私は別に、地方公務員の実態を悪行として槍玉に上げたいわけではない。 それほどにこの社会に「人力」の需要がなくなっているって話。 これは仕方ない。


7/22(月)

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神田優花、歌録り(2曲)でした。 元々予定していたのは1曲だったんだけど、急遽もう一つ録ることに。 お陰で私は週末の予定が狂ってしまった。 今編集中です。

しかし、今さらながら曲の編集って難しい。 音の仕上がりに、どうしてもしっくり来ない時がある。 「どこがどうしっくり来ないのか」と問われても短い言葉で説明することは難しい。 原因を強いて特定するなら、私のイマジネーションが不足しているのだろう。 こんな説明じゃ伝わらないか。


7/21(日)

暑い日が続いてますね。 ようかん食ってます。

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ルパン三世のDVDを見ていたら、これも時代の流れと言うか、ルパンがやたらコンピューターを使っている。 悪党のPCをハッキングして犯行の予告状を送りつけたりしてる。

しかしなあ。 ルパンは例えば札束を盗んだりするわけだけど、金ってのはある額面の使用権に他ならない。 札束なんてのは要は紙切れで、使用権の保証あってのものだ。 通し番号とかついてるし、使うのにもきっと一苦労だ。 しかも札束は物理的なモノなので。 一億円盗もうと思ったらアタッシュケース丸ごと一つぐらい必要になる。 百億盗むとか言い出したら、例えば金庫破りに成功しても札束を持って帰れない。

ルパン三世はそんなに高度なハッキング技術をお持ちなら、犯行予告を送りつけるなんてまどろっこしい事せずに、銀行のサーバーをハッキングして預金残高の桁をいくつか増やすってわけには行かないのだろうか。 まだそっちの方が難しいってことなのかな。


7/20(土)

広島で起こった少年少女らによる死体遺棄(と言うか殺人)事件が世間を賑わしているらしい。 私は後追いながら、事件の概要を知りつつある。 実につまらん事件だ。

被害者をも含む少年少女らは、何やら「接客業」と言う怪しげなものを行っていたそうな。 そこでの報酬の分配によっていさかいが生じ、暴行、延いては殺人事件にまで発展したと言う。 因みに、殺された少女こそがその接客業の元締めだったというような報道も為されている。

まあこの私が、そういう人らの行う接客業とやらの顧客となることも考え難く、そういう連中の起こした事件など対岸の火事と言って差し支えないのだが、彼らは私に考えるきっかけを与えてくれる。 私にだって若い頃はあった。

現在、逮捕されたその子たちの年齢は、(一名を除き)皆十代であると言う。 目の前に無限の未来が広がっていると言うに、その子らは目先の小銭の配分を巡って、人殺しまで行った。 如何にくだらない人生を生きているのか、ありありと伝わってくるようだ。

きっとその子たちの目には、空の青さも、花の色も、つまりこの世界の美しさが映らなかったろう。 心に無いものは目にも映らない。

私は音楽に愛された。 だから端金を巡って、仲間と殺し合いを演じるような人生も辿らずに済んだ。 音楽が好きだから、過ぎていく毎日や続いていく未来が美しいから、この世界が輝いて見えるから、私にはそんな端金がどうでもよく見えた。

まことに世界とは、その人の心が映すものだと思わずにいられない。 だって本来一つでしかないこの世界が、その子らと私で、こうも違って見えているのだから。 私は今目の前に広がっているこの世界を、そいつらにも見せてあげたいよ。


7/19(金)

スタジオにて。

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経済関連の本が面白くないって話を、つい先日したのだが、その理由の一つとして、経済関連本の内容が私にとって意味不明であることがある。

ついこの間読んでいた本には、「このままで行くと日本は崩壊する」などとあるのだが、内容をどう読んでもそこに論理的に帰結しない。 言い方は悪いが「この作者(無論、偏差値の高そうな学校を出た経済の研究者だそうな)ってアホなんじゃ?」とか疑わずにいられなかった。 まあ「崩壊」の定義が私とは違うのかもしれないが。

貨幣の価値が乱高下することは、無論望ましくはなかろうが、金ってのは本質としてそういう側面を持っている。 国債を乱発すれば金利は上がるのだろうし、円の信用も下がるのだろうが、食糧が減るわけでもなく、石油の埋蔵量が変わるわけでもない。

日本人がその意思でもって作った「決め事」である日本国。 その日本国が発行している国債、あるいは銀行券、その価値が変動(下落)しかねぬと言う。 信用を失いかねない行動を繰り返す者の信用が地に落ちる。 これは必然だが、そういう者にはそういう者なりの未来が待っているだけであって、それは別にこの世の終わりでも何でもない。

作者は警鐘を鳴らす。「こんなことを続けていてはこの国は崩壊する」と。 「勉強もせずに遊んでばかりいると碌な大人になれません」と言うオカンのようだ。 勉強嫌いだったヤツなんてゴマンといるだろうが、みんなそれなりに生きてるじゃないか。 その子にとっては、勉強より遊びの方が優先すべき時間の使い方だったってだけだ。

「膨らんだ赤字国債の額が日本の先行きを暗くしている」ってのは、つまりは日本人が自分のロクでもなさに苦しめられているだけである。 自国通貨を世界の基軸などと謳って、詐欺師のように平然と立ち回っている国なんかより、苦しんでいるだけ日本の方がまとも(精神が健康)だとすら私は思いますけどね。


7/18(木)

スタジオにて。

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いわゆるケルト音楽(アイルランド・スコットランド民謡)について調べていたのだが、資料が少ない。 実体そのものが希薄なのかもしれない。

体系とか言うほどしっかりしたものはないっぽい。 特に楽理面。 特有の楽器群とかあるみたいだが、そのどれもがヨーロッパ楽器の地方亜種って感じだった。 早い話がヨーロッパ民謡の一種ってことかと思われる。

民謡と言うのは世界中のどの地方にも大抵あるものだが、民間ベースで伝承されたものなので、ハッキリ言って楽理の底が浅い。 そもそもケルト民族ってのが、こんにち的な感覚で言うところの広域社会(国家)を形成していないので、実のところ文化的な奥行きにも乏しい印象だ。

ケルト音楽って、多分に欧米人(つまり白人)の膨張したノスタルジー(あと単なる商業主義)が生んだ妄想の産物のように思えなくもない。 楽理に乏しいと言うより、やはり実体に乏しいって言った方が正確な気がする。 そういう意味では、中国の伝統音楽とかに近いのかも。


7/17(水)

暑いですね。 下はスタジオでアイス食ってる神田さん。

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私は本を読んで暇を潰すことがわりかし多く、まあ色々なジャンルの本を読んでみたりするわけだが、「経済」関連って、本当に面白くない。 私はあれに全く興味が持てない。

経済学なんて、なんであんな物がこんにちこれほどに注目されているのだろうか。 社会に還元するところが大きいから?本当かしら? テレビなどに大の大人が、経済評論家とかファイナンシャルプランナーなんて言う肩書きで登場してくるのが、私にはやや滑稽に思えなくも無いけど。

金と言う、人間の脳が生み出した実体定かならぬものに執心し、その数字の増減に一喜一憂する。 これほどに無意味な時間の食い潰し方が他にどれだけあるか。 我々は時間しか持っていないのに、あんなもんに振り回されてて本当に良いのかね。

選挙の争点はいつも景気対策。 先進国・後進国を問わず、どこもかしこも国を挙げて「経済」にご執心と見える。 資源と言うのは、基本的に人為では如何ともし難いものだと思われる。 って事は経済の問題って、つまるところ配分の問題なんだよね? 配分にそこまで問題が生じるってことは、本当に対策を考えるべきは、人間の心についてではないのか。


7/16(火)

私は図工の好きな子供だった。 絵も好きだったけど、図画工作全般が好きで、要するに視覚で捉えるものが好きだったと言える。 そんな私が何故、絵画でなく音楽を自己追求の道具として選んだのか。

今でも思い出せるのだが、小学校高学年あたりから(中学生になるくらいにかけて)、図工に対する興味がみるみる薄れてきた。 その代わりに強い関心の対象として、心の中で頭をもたげてきたのが音楽だった(因みにここで言う音楽とは、いわゆる歌謡曲の類であって、学校の音楽科ではない)。 勿論音楽も、子供の頃から好きではあったけど、その時期に興味がより強いものとなった。

どうしてそうなったのかは分からない。 でも仮説を考えることはできる。 その頃に、私の脳機能は急激に変化していたのではないか。 それ以前には、音を音楽として脳内で再構築するに十分な短期記憶力が無かったのかもしれない。 そう言えばそのくらいの頃から、学校の成績は下がり始めたように記憶する。 何らかの相関があるのかもしれない。

視覚の処理は、その情報量も多いだろうし、一瞬鮮明なのだけど、論理性は低いように思える。 時間軸がないからだ。 映像のモーションってのは要するに、点在する複数の静止画像を、脳内で補完しつつ一つにまとめ上げるもので、厳密な意味での時間は内包していないのではなかろうか。 この辺、専門家の意見を聞いてみたい。

私は音楽家よりも画家の方にシンパシーを感じることが多い人なのだけど、とにもかくにもこの私は、手段として(絵でなく)音楽を選んだ。 その方が自分に鮮やかな感傷を与えられるからだ。 だから、手段として絵画を選んだような人とは、脳機能が根本的な部分で似ていないと言うことになる。


7/15(月)

スラー、グリッサンドと言った、ポルタメント的な音の動き(任意の音と音とをスロープ状に繋ぐもの)には、人間の思考の痕跡が濃厚に感じ取れる。

ガムランみたいな音楽は顕著だが、ああいう未開社会の音楽にはポルタメント的な音の動きが少ない(何を未開とするかに異論はあるかもだが、とりあえずここでは一般論に従う)。 ガムランは旋律打楽器のアンサンブルなどと言われるが、要するに、土地由来の金属や木を叩いて出した音を重ね合わせることで基本的に成立している。

日本の尺八は竹製だが、中東のナイは葦製である。 これらは単に、その土地の植物相(自生する草木)の違いに由来する。 ガムランは立派な様式だが、木は叩けば音がするもので、そこに人間の叡智のようなものは感じ取り難い(極端に言えば、猿でもその程度の音なら簡単に出せる)。 木が何かにぶつかる音なら、風か何かのせいでも起こる。

スラーのような滑らかな音階変化は、自然物だけでの実現は中々難しい。 そこに必ずと言って良いほど、人間の思考が介在する。 だからそういうアーティキュレーションが含まれるだけで、途端にその音は人間臭くなる。


7/14(日)

小学生の頃に、私は転居を経験した。無論親の都合で。 同県内だったけど、都会から田舎に越したせいで、いくつもの新鮮な経験をさせてもらった。

引っ越した先で知り合った級友が言うには、近くの雑木林では「カブトムシ」などが採れると言う。 私は胸がときめいた。 是非と頼み込み、放課後、採集に連れて行ってもらった。

大学の演習林や牧場など、今考えたら部外者の立ち入りが禁止されているような場所ばかりだったような気がするが、そこは小学生、そんなのお構い無しである。 よく晴れた夏の日、木漏れ日の中私は、生まれて初めて野生のカブトムシを見た。 あの昆虫図鑑に載っていたカブトムシを。 あの時の胸の高鳴りは、今でも鮮明に憶えている。

しかしながら、私の欲しい物は実はカブトムシなんかではない。 カブトムシを見た時に感じた、あの胸の高鳴りこそが、私の本当に欲しいものだ。 だから私は今日も歌を作り続けている。 あの気持ちを、自分自身にもう一度、より鮮やかなものとして味わわせる為に。


7/13(土)

「近頃の若い者は怪しからぬ」。 私はその手の言説を真に受けない。 そういう事を言っている人に、人間的な深みを感じたことが無いから。

そもそも私は、いわゆる若者の個性・originalityの存在を全く信用していない。 そんなもの無いよ。 若者の生態が変化したのは、環境が変わったからに過ぎなかろう。 単なる順応を独創性かのように捉えるのは、ある意味若者を買いかぶりすぎだ。

見渡せる程度の歴史上に存在した人間と現代人、各個人にさほどの違いがあるわけがない。 天才と言うのはどういう時代においても発生しうるが、一々の世代に独自性など無い。 あるのは取り巻く環境の変化だけだ。 医学的に見ても、たかだか数世代で遺伝子が劇的に変化したりしないだろう。


7/12(金)

怒りと言うのは通常、発生源となる者が感じている「正当性」とリンクする筈である。 悪人は、自らを悪人だと認識すればするほど、世間にアタマが上がらなくなるはずである。 つまり罵詈に対しても、怒りのリアクションを発動できない。

犬猫だって、襲われたりすれば牙を剥く。 生存を脅かされるからだ。 それほどに、生物一般にとって生存とは正当な権利なのだろう。

しかし断っているように、怒りはあくまで「感じている正当性」とリンクするだけだから、実際の正当性と必ずしも同居しない。 自己中心的な人であれば、筋違いなことで怒ったりも当然できるはずだ。

「怒りっぽさ」は、その人が何を正当だと捉えているかのバロメーターになり得る。 感じる正当性の範囲が広すぎる人とは、当然付き合いにくいはずで、人はその辺を瞬時に(直感的に)判断するのだろう。 だから怒りっぽい人は、一般的に好かれない。

いわゆるワガママな人と言うのは、正当性の無いことをゴリ押そうとする人ってよりも、あくまでその人本人は自分に正当性があると信じ込んでいる人、がほとんどなのだと思われる。 そして、それこそがその人の「世界観」である。 だからそう言う人と折り合うのは容易でない。


7/11(木)

スタジオにて。

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コンビニの弁当類は、その四割だかが廃棄されているそうだ。 私はそれを聞いて、驚くと同時に安心する。 「それだけ食糧が余っているのなら、とりあえず私の生存は安泰だ」と。 ハッキリ言って私は、世間の平均的な皆さん方なんかより、余程に生存について臆病だし敏感だ。 だから、預金残高を気にするなんて悠長なことはしない。 そんなものアテにならないから。

預金残高が底をついても、この国ではとりあえず生きていける。 いけることになっている。 借金がどうしようもなく膨らめば、破産と言う手でチャラにできるし、生活保護なんて言う手厚い制度まであるので、とりあえず餓死する心配はない。

私は、赤字国債の累積がどうだとか言われても全く気にならないが、食糧が不足すると言われれば多少は焦るかもしれない。

そもそも国債って一体何だ。 国の借金だよね?誰から借りてるのか。 直接的には銀行とかだろうが、延いてはほぼ国民から借りていると言える。 一々の国民は具体的存在だが、国に実体は無い。 単なるagreementに過ぎなかろう。 国が民から金を借りると言うのは、我が子にお小遣いを前借りさせているようなもので、俯瞰してみれば、実は大した事態になど発展しない。しようがない。 繰り返すが、「食糧難」と言った根源的な問題とは意味が違う。


7/10(水)

スタジオにて。

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昨今「読書が趣味です」などと言うと、「良い趣味をお持ちで」なんて言われそうな勢いである。 本当かよ。

秦の始皇帝は、悪名高い「焚書坑儒」を行った。 その行為の善悪を私に評価することはできないが、為政者・体制にとって読書階級が脅威であることは事実である。 日本史においても、明治維新は書生らによって為された。

書物は時に、革命勢力すら生みかねない。 マルクスの思想とかは分かりやすいけど、幕末の志士らの言う尊王攘夷(宋学)だって、立派なイデオロギーだ。 読書、ひいては教養と言うものは、きょうび一般に思われているほど無害なものではないのだ。

近代化にともなって日本にはヨーロッパ型の学制が敷かれ、義務教育も導入されたが、田舎の農家なんかには、頑なに我が子を学校に行かせない親がいたと言う。 「学問など刷り込まれては碌な百姓にならぬ」と。それも一つの考え方だろう。 確かに微積分やマルクス史観を知ったところで、農作業の役に立つとは思えない。 むしろマイナスの方が想像に難くない。 この不登校児らを当時「長欠児童」とか言ったらしい。 長欠児童問題は、社会問題としては昭和の頃まで根強く存在したそうな。

私に長欠児童の親たちを誉めそやす気は無い(正直蒙昧であると思います)が、全く無審査に学問を無害だと決め付けている、いわゆる「教育ママ」なんかよりは、一応の見解があるだけマシだとすら思う。

当然だが、書と言うのは媒介であって、内容を定義していない。 良書もあれば悪書もある。 読書は、人間を構成するための環境として、毒にも薬にもなりうるものである筈なんだが、図書館が税金で賄われるってことは、読書は無害であると認定されたってことか。 そりゃ良くも悪くも、人が本を真剣に読んでないってことじゃないのかね。


7/9(火)

スタジオにて。

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信じることは結果として効率が良い。だから私は楽観的だ。 私は保険の類に一切加入してないが、ああいうものは「円満な将来」を期せざるが故のコストである。

不安要素を次から次に想像して、わざわざ人生を高コストたらしめる人の、なんと多い事か。 病気になった時の事は病気になったその時に考えれば良い。 私がボケても、せいぜい困るのは私でなく周囲だ。私自身はむしろ、悩みなど無くなって今より快適な日々が過ごせるかもしれない。

死んだらどうするか。 死んだ後には私はいないのだから、やはり私はその場合にも困らない。 無一文で死んでも別に良い。私の死後の世界など知ったことじゃないから。 葬式なんて、挙げたい人がいるならご自由に挙げりゃ良い。 わしゃ知らん。

金なんて、とりあえずメシ食うために必要だから最小限のそれを持っているだけで、ハッキリ言って私はそんなもの大して信用しちゃいない。 金(と言うより、ある額面の使用権)なんて、それを保証してくれる権威がコケただけで雲散霧消するようなものだ。 私が最も重きを置いている「楽しい日々」の価値の足元にも及ばぬ。

私は自分に自信がある。 健康などといった基本的なことから、得られるであろうまだ見ぬ未来についてまで。 この私は、きっとこの世界から必要とされるはず。


7/8(月)

スタジオにて。

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先日、パン屋で会計の順番待ちをしていたら、目の前で店員に長々と文句を垂れているバアさんがいた。

その店で買い物をすると、額面いくらかごとにシールがもらえることになっているのだが、それを台紙みたいなのに貼り付けていって、ポイントが一定数溜まったら何らかのサービスが受けられる、と言ったシステムになっている。 そういうのよくあるでしょう。 私はそのサービスとやらを受けたことも無いし、詳しいことはよく分からないが。

バアさんが言うには、(「くれ」とわざわざ言わないと)店員がそのシールをくれなかったりするそうな。 あるいは「シールはお集めですか?」などと一々訊いてくるのだと。 バアさんは「毎度もらってるんだから一々確認などせず、黙ってシールを発行しやがれ」と言いたいらしい。

バアさんは、自分が対面する店員のパターンはそれこそ僅か数種(数人)かもしれないが、店員の立場から見れば、一々の客など覚えていられない、と言う単純な理屈が分からないらしい。

あの手合いはどうして他人の立場を理解しようとせず、また何事も人のせいにしたがるのだろう。 欲しいシールが黙っていたら発行されないのであれば、都度必要である旨、申し出れば良いだけではないか。 要するに依存心が強いわけだが、こういう依存心こそが往々に、その人に映る世界を暗黒色に染める原因となる。

石に躓くのは自らの不注意のせいか、それとも石なんてものがそこに存在した事こそがいけないのか。 後者の見解を採る人が本当にいそうだから怖い。 だからそう言う人はすぐ「騙された」と言い出す。

親鸞聖人が「法然上人に騙されて、地獄に落ちたとしても後悔などしない」と言った気分が、今の私には分かる気がする。 親鸞にはもう依存心が無かったのだろう。 人が騙されるのは、依存によってである。

私とて他人には期待する。 が、それはあくまで期待に過ぎず、結果がそれに伴わなかったからとて世界を恨むようなことはない。 誰かに金の管理を任せていたら、ある日持ち逃げされたとする。 そこでの感想は「アイツ、思ったより使えなかったな」程度である。 管理を任せた時点で自らの判断が介在するのだから、当たり前と言えば当たり前の話だけど。

もし椅子の脚が折れたら、「まだ買ってほどないのにもう壊れやがった。やっぱ安物はダメだな」とか思うでしょう。 「椅子に騙された」とは努々言うまいて。 自己さえ確立されれば、目に映る、この世界にある全ての対象は、椅子や何やに過ぎなくなる。 これはわりかし健康なことだと、私などは思うのだけど。


7/7(日)

あるミュージシャンの逸話みたいな文章を読んだ。 その御仁、極度の完璧主義者で、作品をなかなか発表しないと言う。 リテイクを重ね、仕舞いには制作資金が尽きてしまうこともしばしばだそうだ。 結果的にも、キャリアの割りには発表した作品数が実に少ない。

私はその人の曲を聴いたことがあるが、確かに上のエピソードにも合点が行く程に、まあ良く言えば完成度が高い。 逆に言うと、常に作品に対する寛容さと言うか、許容の範囲が狭く、曲から作者の余裕の無さが伝わってくる。 また、当然ながら曲の雰囲気が似たようなものばかりと言おうか、バリエーションに乏しい印象である。 一曲のみをもってして、最後の勝負に挑むかのようである。

どちらが良いと言う話をしているわけではないが、私とその人とは、随分タイプが違う。 私はおそらく、死ぬまで曲を作り続ける。 ある作品において「やり残した何か」が出ることなんて当たり前だとも思っている。 気分として、最高傑作を上げるのはもう少し後に残している。人生はまだ長い。

前にも言ったことがあるのだけど、私は芸術と言うのを運動だと思っていて、作品と言うのはその一位相だと考えている。

今までに見たクライアントさんの中にも、完成度についての拘りが強い人が確かにいた。 別に全然悪い事ではないけど、創作ってのは数をこなすことによって新たな境地を得ていく面も確実にあるので、やや勿体無い気がしないでもない。 その「気になった何か」を、次の作品にぶつけることだってできる。

私には、上に挙げたミュージシャンの気分が十全には体感出来ないので、かなりの部分は想像だが、やはりそこまで完璧主義者になってしまうのは、評価に怯えてしまうからではないか。 その不自由さは、結果的に自分の可能性を狭めてしまうように思えるが。


7/6(土)

保身、言い逃れについて。

もう随分昔の話。 当時私は仕事を探していた。「就職活動」と言ってしまうと少々ニュアンスが違ってくるのだけど、とにかく人を探している会社を当たっていた。

とある会社の面接を受けた時のこと。 その会社は、普通の会社より多くの(私についての)資料の提出を求めてきた。 学校の卒業証明だったか成績証明だったか、細かいことは忘れたが、とにかく一般的なケースに比べると多くの資料を求めてきた。 面倒ではあったが、私は出身校からその手の資料を発行してもらい(無論自腹で)、その会社に提出した。

ところがその会社、その後いくら待っても選考の結果を通知してこない(確か向こうから「○日以内に回答します」みたいな返事を得ていたと思う)。 問い合わせてものらりくらり、担当者らしき者すら出ず、誠実に対応してくれない。

不採用なのであればそれはそれで構わない。会社にも色々事情がありましょうから。 しかし、放置されるのは困る。私にも私の事情があるのだから。 私は資料も返してもらえず、不採用とも言われないので、宙ぶらりんの状態のまま時間を過ごした。 まあ勿論、並行して他の会社当たったりとかはしてたけど。


当時の私は思い切って、その会社の求人情報が掲載されていた雑誌に仲裁を頼もうと思った。 何故なら、その雑誌の編集部に「トラブルホットライン」みたいな部署があったみたいで、雑誌の巻末には、それ用の電話番号も載っていたからだ。

電話に出たのは、明らかにやる気を感じられない中年男性。 私が事情を説明しても「はあ」とか「そりゃ困ったね」みたいな、全く積極的意思を感じない他人事のような返答ばかり。 途中「もうその話は何度か聞いたなあ」などと面倒臭そうに言われる始末。 何度も言うのは建設的な回答が得られないからに他ならないのだが。

私が業を煮やして「私が何かおかしなことでも言っているのですか」と問うと、電話口の彼は「あなたの言っていることはマトモだけど、そう言われても私にはどうにもしようが無いしねえ」なんて言われてしまう。

私は「何の為に存在するセクションなのだ」と呆れてしまったが、その後ほどなくして、存在理由が分かってきた。 それは誰かの「保身・言い逃れ」の為である。

求人雑誌は、人と会社(これも要は人だが)を仲介するのだから、当然トラブルは付き物となろう。 膨大な案件を抱える以上、「掲載内容と実際の条件が違う」とか「待遇が労働法規に抵触する」などと言うクレームは日常茶飯事であった筈だ。 また、察するに大方クレームの主は企業側でなく、応募者(求職者)であったと思われる。

しかし求人誌はその性格上、企業側こそ広告主であり金主である。どちらかと言えば読者(求職者)の処遇は二の次だ。 無論、悪評が余りあれば雑誌の存続に関わろうが、少々の広告主の狼藉には目を瞑るのも無理はない。

が、大きな問題(消費者センターに苦情が殺到したり、マスコミが取り上げたりするような詐欺事件など)が起こる可能性は常にある。 そのようなことが起こった場合、求人誌側も何らかの責任を問われる可能性はあるに違いないが、その時にあの「トラブルホットライン」の存在は活きる。 「我々はそういうケースに備え、このような窓口すらわざわざ設置していましたよ」と。


世の中には、このような「保身・言い逃れ」が生んだモノ、システムが、当然ながら多数ある筈だ。 そう思うと、例えば何故斯様に税金が無駄に使われるか、音楽業界に何故CCCDみたいなものが生まれたか、等も見えてくる。 私が何かを追い求めるのは、「自分に多くのものを得させるため」と言う意味が伝わりますでしょうか。 こんな簡単なことすらも、私に音楽が無ければ見えてこなかった。


7/3(水)

歌手ってのは「歌・作品を蓄積として、自らを補強できる人」だろう。 つまり、歌を夢と捉える人。 歌が自分の中で蓄積とならないのであれば、いくら歌が上手かろうと、その人はまだ本物の歌手でないように思う。

大学入試で不正を行う者は、「学力」と言うものを我が身に備えるべきものである、と言う感覚が希薄なのだろう。 自分自身は成長せぬままでも、「合格」と言う成果だけは手に入ると思っている(まあ実際手に入るわけだけど)。

金や車だとか、学歴だとか、あるいは恋人や結婚相手だとか、人はそういう我が身の外に纏う装飾品をしばしば欲しがるわけだけど、それは装飾品として自分を飾ることはあっても、心の中の蓄積とはならない。 だから自分を成長させてもくれない。

それが自分に、新たな視野を得させるための礎となるか否か。 これが夢の判定基準である。 「医者になったら金が儲かるし、世間から一目置かれる」とか思っている人にとっての医学・医術とは、夢ではない。 上で言う装飾品である。 「病に苦しむ人を救いたい」とその人が真剣に思うのなら、その意志はきっとその人に新たな視野を与えてくれるに違いない。

私が生き方として、この「音楽」を選んだ理由は単純だ。 自分に一番多くのものを得させてくれると思ったから。 作品を一つ作り終える度、新たな境地が得られると信じたし、実際に得られ続けてきた。 これから先もそうだろう。 歌が、この私にとっての音楽と同等のものであるのなら、それは私の定義する夢なのだろう。 歌が夢であるなら、その人は歌手なのだろうと思う。


7/2(火)

スタジオにて。

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職業って何か。 仕事って如何様に生じるものか。

腹をすかした私が、ラーメンなんぞを食べるとする。 さすがに一からダシを取って、メリケン粉打って、ラーメンを作るわけに行かない。 よって適当なラーメン屋などで用を済ます。 このラーメン屋は、私の「ラーメンを作る手間」を代行してくれるからこそ、対価数百円を受け取ることができる。 つまり仕事とは、社会に生じた需要を処理する作業である。

こんな簡単なことが分からない人は何故か多い。 「自分を活かせる職場が見つからない」とか言う御仁然り、会社存続に拘泥し、無理を重ねる経営者然り。 需要が底を支えない作業は、長い目で見れば続くはずが無い。

「やりたい仕事が見つからない」と言う若者は、そもそも仕事の定義ごと見直した方が良い。 仕事は社会の需要によってしか生まれない。 それを肯定的に捉えられるか否かは、当人の感性次第であるとしか言いようが無い。

「芸能人やスポーツ選手など、やりがいの持てる職に就いている人はいるじゃないか」と言われるかもしれないが、ああ言う物も需要ありきで存在しているのだ。 現状程度の数を維持できる程度の需要がそれらを支えている。 それらの業界が現状の数百倍規模になれば、当然この社会はそれを抱えきれない。

いわゆる芸能人と言った種類の人らの発生は、日本史上で確認できる範囲で言えば、室町時代あたりからだろうか。 観阿弥・世阿弥親子とか、近江猿楽の犬王とか、そのあたりを指している(それ以前に散見される俳優(わざおぎ)とか言った人らは、要は公務員と言うか政権お抱えであった印象で、ちょっと内容が異なる)。 そういう種類の人らが、か細いながらも発生する要件として、農業生産力の向上はあったに違いない。

課せられた仕事に理想を見出すか、あるいは日銭を稼ぐための仕事はそれとして割り切り、理想は理想で追い求めるか。 自己実現の舞台を職業に求めると言うのは、一種の依頼心であろうと思う(無論、職業に理想と収入が同居するケースはあるけど)。 この辺を割り切れる程度の成熟は、そんなに得難いものではないと思われる。 言われりゃ大抵の人はきっと気付く。


7/1(月)

影山リサ、セカンドアルバム完成に向けて、作業は大詰めに入ってまいりました。

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