Staff diary  
スタッフ日誌[2013]

[文 / 益田(制作)]

6/30(日)

スタジオにて。

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先日、「豆腐屋が吹いてるラッパあるでしょ?あれって何て楽器?」と訊かれて、即答できなかった。 「楽器なんて言うほど大したものじゃないんじゃないの?」みたいなことを言ったのだけど、その後ちょっと気になったので調べてみた。

やっぱし楽器と言うほどのものではないっぽい。 歌舞伎の下座で使われる楽器類は、楽器と言えば楽器でもあろうが、そこらへんにあったものを叩いて音を出した→叩いて音を出すものだから打楽器、みたいなのが実情に近かったりする。 豆腐屋のラッパも要はそれみたいなもので、それ用の譜面も教則本もなければ正式な流派などもない。

「豆腐屋のラッパ」と言われて多くの人が連想するアレは、正式名称「宮本ラッパ」と言い、製造元は宮本喇叭製作所だそうだ。因みにそこ、現在既に廃業しているらしい。 ってことは、現物の入手は難しいかと思われる。 しかし、製造にそんなに高度な技術を要するとも思えないので、需要があるなら誰かが作り出すだろう。 つまり現在生産されてないってのは、需要が存在しないからってのに過ぎなかろう。

「豆腐屋が用いていたラッパ」に限れば、いくつか種類があるみたいだが、一番ポピュラーな二音階型のラッパは、呼気と吸気によってその二音階を出すらしい(同時に、その二音階のみしか出せない)。 これは調べて初めて知った。 呼気と吸気のどちらがどの音に当たるのかは、調べても分からなかったが、何となく呼気が高い方のような気がする。


6/29(土)

神田優花、またまたレコーディング。 これで録音済み未発表トラック、いくつになるんだろう。

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6/28(金)

alphorn(一名alpenhorn)と言う楽器をご存知か。 私は一応名前ぐらいは以前から知ってて、詳細についてはごく最近知った。

ホルンとは言うものの、フレンチホルンなどとは違って、構造としての音孔もバルブもスライドも無く、(吹き込み方による)自然倍音列しか出せないとある。 音高指定用の構造が無いことより、自然倍音列とは言うものの一応音程が取れることに驚いた。 外観ぐらいは大雑把に知っていたのだけど、法螺貝みたいに、単にデカい(単一の)音を出すだけの物体かと思っていたのだ。 一応alphorn用の楽曲とかまであるそうだ。

通常であれば、音域4オクターブ弱、12〜13程度の自然音が出せ、奏者の熟練度に因っては4.5オクターブ、20以上の音が出せるらしい。 音域自体は大して広がるわけでなく、出せる音の数がそんなに増えるなんて、その熟練とやら、単なる力技では無いと見た。

しかしalphornを曲に使おうと思ったら、どうすれば良いのだろう。 奏者の知り合いなんているはずもなく、さりとて実機を入手するわけにも行かない(そもそも手に入れても置く場所が無い)。 音色として使おうにも、無論GMなどに入っているはずもなく、VSTとかsoundfontすらも見当たらない。 そもそも、出せる自然倍音列とやらが一般的な平均律ではないので、鍵盤に割り当て難く、POPS系のアレンジに導入するのも難しいものと思われる。


6/27(木)

影山さん、歌入れでした。

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神田優花、先日録った音のチェックと新曲のリハ。 早めに新作のリリース日程決めたいんだけど、テキスト類とか諸々の事務作業が捗ってなくて。しばしお待ちを。

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6/26(火)

スタジオにて。

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6/24(月)

バイノーラル録音について。

もうかれこれ十年以上前になると思うが、あるクライアントから「音が上下に動くような録音物を作ってくれ」と言われたことがある。 その時は「左右なら可能だが、上下は無理です」と答えた。

そもそもMixer等に音像の左右を設定するパラメーター(PAN)はあるが、それ以外(上下・前後など)の音像設定についてはパラメーターごと存在しない。 だから私の回答は一応の常識に従ったもので、今でも正しかったと思っている。 が、実は音響の世界には「左右以外の音像を録音物に埋め込める」と言う主張(信仰)が存在する。

バイノーラル録音とか言う言葉を聞いたことはありますでしょうか。 ここでそれを詳述する気はないが、ダミーヘッドと言うモノを使って録音物を作る作業のことで、左右だけでなく上下・前後などの音像設定を含むオーディオデータを作れるとするものである。 実際にそういった効果が録音物中に反映されているか否かはさておき、そういう思想に支えられた手法であるのは事実だ。 このバイノーラル効果を掛けるためのエフェクターすら実在する。

当時(十数年前)の私も、バイノーラル録音の存在自体は知っていた。 だが、理論的な裏付けに乏しかった(と言うか理論的裏付けが無かった)ように記憶していたし、私自身も効果の程に疑問を持っていたので、上の回答となったのだけど、最近得た新たな知識によって、その仮説が私の中で補強された。


例えば視覚であれば、空間認知において、網膜と脳細胞はリンクしている。 どういうことかと言うと、隣り合うAと言う物質とBと言う物質は、当然そういう位置関係で網膜に映り込むわけだが、その際連動して反応する脳細胞も位置的に隣り合っていたりするそうである。 つまり視覚と言うのは、前後・左右・上下と言った位置関係に関する情報を脳に伝達できる。 が、聴覚はそうでない。

聴覚は、視覚で言うところの網膜に当たる細胞が、直列的に並んでいる(それが螺旋状に収納されている)のだが、その順列は反応する音の高低にのみ因るそうである。 つまり脳が処理する以前の段階で、既にデータそのものに左右以外の位置情報が含まれる余地が無い。 左右であれば、耳が二つあることで明らかなように、脳以前の段階にて位置情報は含まれる(左右の音量差・時間差によってある程度位置関係を想定できる)。 あと単純な音量(の大小)によって、発音体の遠近は当然把握できるだろう。

バイノーラル録音ってのは、ゴルゴ13のエピソードにも登場したぐらいで、音屋なら知らない人はほとんどいない程に有名なものだが、あれって一種の迷信と言うか、疑似科学の産物ではないのだろうか。

無論科学ってのも、要は現時点での暫定的な仮説ってのに過ぎないし、プラシーボ効果とかだって立派な科学的(統計上の)裏付けがある。 しかし、バイノーラル録音については、医学的な定説と明らかに矛盾するし、現状それを覆すデータが示されていないので、私にとっては眉唾ものと言うか、もっと言えば効果の存在しないものである。 ただ、加持祈祷の験だって、ある人にはあるのだから、そこ(信仰)に干渉するつもりは毛頭ないけど。


6/21(金)

スキッフルとか民俗音楽みたいなのって、大抵低音が貧弱だったりする。 だからして、低音がしっかりしているだけで途端にその音は近代的なものに聞こえたりもする。 逆に考えると、低音部を端折るだけで容易にある雰囲気は出せる。

低音って難しいんだ。 そもそも、しっかりした低音を出せる楽器を作ることが難しい。 低音出すってだけで、相応の剛性とか問われる点が増えるしね。


6/20(木)

私は鏡を見ることがあんまり好きでない。どっちかと言うと嫌いとすら言える。 だからして当然、私にはあんまり自分自身が見えていない。目に自分が映っていないと言うべきか。 鏡を見るのが好きでない理由は、自分の姿を確認することによって、別の世界に引きずり込まれるような気さえしてしまうからだ。

自分の姿を一々確認しないことは、自己が確立されていないことと必ずしも同じでないと思う。 自分で言うのも何だが、私の自己はそれなりに強靭である。

私は、この世界を「見ている」のだと思う。 世界の一部として同化し果ててしまっていたり、世界の一部である自分を俯瞰しているのではない。 あくまで私自身がこの世界を見つめている。

それはあたかも、一編の映画を見るかのようである。 映画のスクリーンに、観客席に座っている自分の顔が映ることなど、普通なら無い。 自分の顔など見てしまったら、せっかく楽しい映画を見ている最中に、便所にでも立ったようで、気分を壊される。 だから鏡など見たくない。


6/19(水)

スタジオにて。

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ルパン三世は泥棒である。つまり、実在するとすれば彼らは犯罪者だ。 だがそのルパン、設定上、悪い奴からしか金目のものを盗まないそうである。 そうでなければヒーロー像が成立しないのだろう。

要するに、カッコ良さの条件は法律ごときに左右されない。 いくら合法的存在であろうと、ルパンが自らを「カッコ悪い」と感じているのであれば、そんな奴はカッコ良くないからヒーローになどなりえないのだ。 カッコ良い奴とは、自分をカッコ良いと信じている奴。

ルパンの生き様は、例え法に抵触しても「納得の行く自分像」には抵触しないのだろう。 私も勿論そちらを優先する。


 

6/18(火)

影山リサ。 発表済みの曲を二つほどアルバム収録用に再録する予定でして、その二曲目の最終リハでした。 きっと既発のバージョンよりずっと良くなってると思いますよ。

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6/17(月)

知人などから「結婚する」と聞かされれば、とりあえずは「おめでとう」と言うだろうか。 私はその程度には常識人である。 しかし「めでたい」と心底感じるかと問われれば、それはまた別の話だ。

結婚と言うものは、ある人にとってステータスの証以外の何物でもなかったりするらしい。 だから「せねば不安」だったりするそうな。 だからして、十分な(本来ありうべき)動機が介在してなかろうと、してしまうケースはよくある。 身も蓋もなく言えば、双方がババつかまされているような結婚。 当人らにとって本当に幸福かどうか怪しいものを、本気で祝福する気分には中々なれない。

結婚って何のためにするもんなんだろう。 税金対策以外全く合理的理由が思いつかない。

子供を作るのは生物としての本能だし、少子化は少なくとも社会にとって良いこととされてはいない。 でも子供は別に結婚制度とは無関係に作れるしな。 本当に必要なら国が親権者になって人工的に人間を作れば良いだけだしな。 倫理の問題とか確かにあるけど、現に精子バンクも代理母出産もあるのだ。 大体日本の社会は、僅か百数十年前まで「子供は家庭でなく共同体に属するもの」と言った観念だってあった。


上で言う「ババつかまされるケース」ってのは、当事者が「自分はモテない」と感じている時に起こりやすい。 「こんなにモテない自分なのだから、この相手を逃したらもう二度とこういうチャンスに巡り会えない」とか思うわけです。 でも、あんまり分かりやすいババをつかむと、その行為こそが更なる自己嫌悪を生むから気をつけられたし。

理想を言えば、人は「好きになれる相手」をあくまで探すべきだと思うけど、「自分に何かが手に入る予感」と言うのは、誰にでも感じ取れるものでないらしい。 もうちょっと勇気を持てば良いだけなんだろうけど、それが言うほど容易くないらしい。


6/16(日)

神田優花、新曲の歌入れ。 また随分曲が溜まってきちゃいましたけど、今年ぐらいから、もう少し小刻みに作品を発表する予定なんです。 今しばらくお待ちを。

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6/15(土)

今週のリハーサル風景。 暑くなってきましたね。

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6/14(金)

高校生の頃、私はバンドマンだったんだけど、当時音楽を通した知り合いが増えつつあった。 その中のとある知り合いの、地元の溜まり場みたいな場所に顔を出した時の話。

そこに溜まっているのは、皆一応ミュージシャンだった。 で、そこで出会ったある人(おそらくその時初対面だったのではないかと思う)と、色々音楽の話をした。 今思えば実にインチキ臭い人物だったのだが、とにかくハッタリの利いた言葉を吐く人物で、一見マニアックなその音楽知識に、私は半ば圧倒されかけていた。

彼がある曲について言う。 「○○(曲のタイトル)はちょっと普通では考えられないようなコード進行なんだよね」などと。 私はその時点でその曲を知らなかったが、「考えられないようなコード進行」には大変興味を持った。

その後、苦労して(そうでもないが)その曲を入手し、聴いてみた。 が、何のことはない。 ごくシンプルな(3コード程度の)コード進行の曲だった。 一体何だったんだ。 因みにその曲は、私が知らなかっただけで割りと有名な曲。

あの彼とは、その後疎遠になったし、この件について問い合わせることもなかったのだけど、今になって考えると、当時の彼は単にコード進行の意味すらまだ理解できてなかったのではないだろうか、と思う。 そう解釈するのが一番自然なんだもの。

当時は私も子供だったし、音楽理論なんて今ほども全然分かってなかった。 でも、一応義務教育とか楽典とかに毛が生えた程度のレベルでは理解していたように思う。 でないと曲なんて作れないと思ってたし。 あの彼も、曲とか確か作ってたように記憶するが、コード進行も理解せずにどの程度のものが作れたろうか。 今となっては検証しようもないが。

私の育った福岡と言う場所が、土地柄なのか、あの手のインチキ臭い人物を量産していた面もあるように思うが、それに加えて、どうも音楽の世界って、すぐハッタリで武装すると言った衒学的人物が多過ぎる気がする。


6/13(木)

アフリカの音楽について、ちょっと調べていた。

資料はやはり少ない。 また数少ないその資料も、どれを取っても内容が薄い。 アカデミックに体系化された音楽ではないので、これは仕方ないのかも。 本などを作る側も、内容が足りなくてページ埋めるのが大変だったろう。

偏にアフリカと言ってもあれだけ広い大陸なので、地域(部族)差も大きかろうし、「アフリカ音楽」と一括りに説明するのに無理があるのかと思われる。 ただ、その地域音楽の一つ一つは、さほど高度な体系ではなかろうけど。

譜例は参考になったけど、楽理面の解説は、個人的な感想としては、何だかあんまし納得度の高いものではなかった。 内容は旋律やハーモニーなんてことより、リズムについて割いている文字数が多かった。 私が著者でもそうなってしまうかも。 あと、訳書とかは文章が難解だった。原文か訳のどちらかが不味いのだろうか。 あるいは日本語との互換性そのものの問題か。

アフリカの民族楽器については、無論実機の入手は難しいが、ちょっと探してみた限り、音源類(VSTとかsoundfontとか)の入手も至難の業かと思われる。 要するに商品化できるほどの需要が存在してないのだろう。

アフリカ音楽って総称できるほどのものはおそらく明確には存在してなくて、あの大陸に土着する各部族ごとに、民俗音楽みたいなのがあるだけなんだろう。 一応アフリカ全体としての類似性と言うか、均質性みたいなのは見えなくもない。

割りと和声音楽的だったのは意外だったけど、まあ機能和声とかそんなところにまでは発展してないっぽい。 ヨーロッパ音楽史で言うところの平行オルガヌムとか、あるいはもう少し発展したモテトとか、そういうのに近いのかな。 まあ印象としてはそんなところです。


6/12(水)

スタジオにて。

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覚醒剤は「覚醒」剤などと謳っているが、実質覚醒の作用があるのだろうか。 正常時とは異なる現実認識を持つらしいが、今我々に見えているこの現実よりそれは高次のものなのか?

覚醒剤を使ったことのない私には想像の域を出ないが、例えば酒に酔っ払う感覚の強烈なものだとすると、それは論理性の箍を外すことに他ならず、覚醒剤によって巻き起こる幻覚作用は、卑近なものに准えるなら「夢」に一番近かろう。 覚醒剤って言うより、幻覚体験剤とか言う方が実体に近いよね。 一般に幻覚は、いわゆる現実より低次なものと見做されている。

夢を見ている時は、脳の機能がおそらく低下しているので、論理性が発動されにくい。 だから眠っている時に見る夢って大抵デタラメだ。 人間の脳は、空想をむしろ抑える役割を果たしているそうな。 そこが機能せねば、人は際限無く夢(と言うか幻覚)を見てしまうのだろう。

私が見たい夢とは、無論上で言う幻覚のことではない。 夢と言う言葉に、「睡眠時に見る幻覚」と「未来への展望」と言う二種の意味があってしまうから混乱する。 と言うか、この二者が厳密に(言語的に)区別されていないってのは、ある意味仕方ない。 「この現実より高次の意識」 ってのが今のところまだ存在していないから。

私が探しているのは、つまりはこの「現実より高次の意識」なんだと思う。 もし私にそれが確かなものとしてつかめたら、その時は今目の前に広がっているこの現実、それすらも夢(幻)のようにしか思えなくなるかもしれない。


6/11(火)

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神田さんのご実家から、今年もみかんジュースが届きました。今年からペットボトル仕様だ。 みんなでおいしくいただいてます。いつもありがとうございます。 しかしもうそんな季節ですか。 以下、スタジオにて。

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6/10(月)

DVDで見た「大魔神」、「大魔神が善悪を基準に動いていること」をうるさく感じたって話を以前にした。 「大魔神」に限らず、典型的な時代劇、「水戸黄門」だとかにもいつも同様のうるささを感じてしまう。 その点、ゴジラとかの方が嫌いではない。 ゴジラっていわば天災のようなもので、だからこそある意味怖い。

ゴジラにブッ壊されたビルの中には、当然人が入っていて、圧死していたりするはずだが、そこに善人・悪人と言った選別は介在していないだろう。 中途半端な正義とか標榜されるより、どうせなら私はそっちの方が好きだ。


6/9(日)

人は変わるのか。 ある本を読んでいたら、文中に「人は変わる」とあった。 同時に「変わらないのは情報だ」とも。 果たしてそうか。

私は「人は変わらない」と思っている。 変わるのは環境ぐらいのもので、それに対するリアクションの基礎となる「心」は不変のものであろうと。 経験などによって蓄積される情報の量も変わるのだけど、その情報を吟味する材料としての「心」は常に変わらない。 今気付いたけど、私は人間の脳機能のことを心と表現しているのかもしれない。

人は変わらないと思っているって言ったけど、「思っている」っていうより、「現実をそのように表現する」って言った方が正確かもしれない。 もっと我が解釈に忠実に表現するなら、「人の心は成長するが、変わっているのではなく、新たな要素が付加され続けている」と言うべきか。

上の本に曰く、「人は変わる」と。 だから、過去のある誤った判断については「あれは本当の自分ではない」と、人は思ってしまうのだと。 言わんとすることは分からないでもないが、私の言語はその現象を「変わらない」と表現してしまう。 ある時にはある行動を取り、またある時には別の行動を取る。 しかしそれは都度の局面(蓄積された情報量も含む)に応じた表面行動が異なっているに過ぎず、その判断を下したであろう脳機能は固有のものではないか。

上の本の作者と私の意見は、本質において異なるものではなかろう。 ただそれを表現する語彙が違う。 まことに言語とはその人そのものであるが、次善のプロトコルに過ぎず、万能のものでない。 千差万別である脳の、唯一の橋渡しであるのは間違い無いが、実に心許ないものだ。


6/8(土)

神田優花、スタジオにて。 ここ最近新曲作ってばっかりだ。

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ここ最近作ってた曲のバッキングに、マンドリンが出てくるのだが、あらためて楽器と言うものについて考えていた。

ピアノとバイオリンなら、まあ楽器と言う括りである以外、ほとんど全てが違うわけだが、バイオリンとビオラなら、その違いは便宜上の違いでしかなく、分類・整理する上での必要に応じて区別された面が大きい。 遺伝子がどうこうなどと言う、生物学的な違いなんてないからだ。

野球場の大きさやフェンスの高さには、ルール上の決まりが(曖昧にしか)存在してないらしい。 ギターのボディとかフレット数とか弦の材質なんかもそうだ。 特に弦やボディなんて、発音への影響は少なくないのに。 ピアノとかだって、メジャーな楽器であるが故に標準的なスタイルってのが定着してしまってはいるが、ベーゼンドルファーに97鍵モデルがあったりするように、実は鍵盤の数すら厳密には決まっていない。

弦がナイロンだろうがスチールだろうがガットだろうが、ギターはギターである。 弦は素材だけでなく、製法も全然違ったりする(説明し難いが、低音弦は縒り糸みたいな構造)。 この違いは、撥弦時の発音そのものもあるのかもしれないが、それよりフレットノイズの方に深刻に影響する。 こういう構造上の差異を考慮に入れないと、結果として仕上がった作品から、リアリティが感じ取れなくなる。

マンドリンを曲に使ったのだけど、マンドリンそのものはギターとさして違わない。 ギターとマンドリンの違いは、要するに上に述べた便宜上の違いに他ならない。 ボディーのサイズの違いとかは、わりかし発音の違いにも如実に現れる部分なんだけど、弦の数やそのチューニングなんかは、つまりは様式だ。本質的な意味での差異ってのとは違う。

ギターとマンドリンに本質的な違いなんてないわけだから、単発の音だけを聴いて、どっちの楽器だか判別することなんかも難しい。 ただ、弦の数自体が違うわけだから(ギターは6、マンドリンは4)、例えばマンドリンで五和音は出せない。 出せば忽ちそれはマンドリン臭くなくなる。 音色そのものがマンドリンであったとしても。

他にもチューニングが違うわけだから、当然典型的な和音配置も変わる。 開放弦を混ぜたものだとか、モノによっては、その楽器特有の和音構成なんかもありえる筈で、それらを考慮に入れて初めて、楽器はその楽器となりうる。

人間の指は十本だから、ピアノ(鍵盤楽器)で十和音を出すことは可能なわけだけど、十和音の音色をサックスに変えたら、それは忽ち十本編成のサックス隊じゃなければ実現できない音になる。 この辺を考慮に入れていない作品、剥き出しのメロディー(譜面情報)に、音色を適当に乗っけただけのようなもの)にたまに出くわすが、私はそういう作品をあんまし好まない(分かっててやってんのなら別です)。 作者の思考が、限界まで投入された作品が好きなんです。


6/7(金)

スタジオにて。

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ジャンベについて調べていた。 西アフリカの打楽器である。 中東のダラブッカなんかと形状は似ている。 外見が似てるんだから構造(発音原理)なんかも近いと思われ、演奏を聴く限り、音だけでダラブッカとの判別はちょっと難しい。

あの辺りの太鼓類の名称って、錯綜していると言うか、明瞭でない。 タブラと称されるものがインドと中東ではあきらかに別の楽器であったり。 音楽が学問的な体系化を経ていないからってのが、その理由の一つだろうか。

アフリカの音楽とか言うと、如何にも原始的なものを想像してしまいそうなものだが、まあ強ち的外れでもない。 いわゆる西洋音楽なんかと比べると、公平に見て楽理的な底は浅い。 ただ、一応伝統的な演奏様式(編成)などは無くもないようだ。 マリやギニアでは、打楽器の編成ぐらいは定着しているっぽい。

ただ、ジャンベ一つとっても、奏法について解説しているサイトなんかが見つからない(調べ方が甘いのかも)。 奏法の伝統様式ってのが厳密なものとしては存在しないのかも。 動画なんかを見る限り、そんな印象を持った。

アフリカってユーラシア大陸と地続きなんで、特に大陸の北の方の伝統音楽には、中東音楽の影響がわりかしあるそうだ(実際に聴いたわけではない)。 POPSについては、植民地時代の宗主国(フランスだとか)の影響が強いそうな。 まあそうだろう。

まだ全然細かい部分まで調べてないから分からないけど、多分アフリカ音楽を掘り下げて作品化することは無さそうな気がする。 ちょっとあの辺の楽器をアレンジに取り入れたりすることはあるかもだけど。


6/6(木)

川村真央、レコーディングでした。

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とある音楽辞典みたいな本を読んでいたら、「ジャズ」の項目に「高度な理論を駆使した音楽」みたいに記述してあった。 そうなんだろうか。 何か私の捉えているジャズのイメージと違ったもので気になった。

確かに和声音楽の上に乗っかってる体系なんで、その分高度と言えなくはない。 が、それを言うならクラシックは言うまでも無く、POPSだってそうだ。っつうか世の中に溢れ返るほとんどの音楽はそうだろう。 ジャズだけ特別ってことはない。

ジャズの高度な理論って、テンションとかモードとか、そういうのを指しているのだろうか。 しかし、モードって要は教会旋法である。和声音楽より遥かに原始的なもので、ジャズのモードは確かにそれを敷衍したものではあるにせよ、核の部分は同じである。

テンションってのも、通常の和音に11度だとか13度だとかの音を付加したものだけど、だからって別に高度とは思えない。 それらの和音に独自の機能性とかがあるってわけでもないし。 要するに、雅楽で言うところの笙の合竹のように、ちょっと変わった(主要和音以外の)音を加えて、その装飾的な響きを楽しんでるだけ、と言ったところが実状に近いのではないのかね。 私の理解が甘いのか。


6/5(水)

片飛鳥、次のシングルについて、打ち合わせてました。

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払拭できない変な先入観ってある。 私は子供の頃、官房長官を防衛関係の人だと(何となく)思っていた時期がある。 おそらく「ぼう」の語感に引き摺られたものかと思われる。 さすがに今そんなことはない。

私がいまだに払拭できないのは、「工」と言う言葉のイメージだ。 工学部とか言われると、何となく偏差値低そうに思えてしまう。 全然そんなことないだろうに。 「マサチューセッツ工科大学」とか言われても同じ。 ぶっちゃけて言うと「工業高校」のイメージなんだろうと思う。 「進学校」の反対みたいな印象。

だからして、私に面と向って「俺はマサチューセッツ工科大卒だ」なんて威張って言う人がいたとしても、心中全く畏敬の念が沸き起こらない。 無論、理屈の上で理解していないわけではないので、「普通科行かないなんて、何か理由でもあったの?」なんて言わないけど。

私は物事の上下の話をしたいわけではなくて、イメージを払拭することの困難さを説いている。 これって理屈ではないんだもの。


6/4(火)

影山リサ。 先日再録した曲のチェックなんてしてました。

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ルパン三世のDVDを見ていて思ったのだが、ルパンたちは、いい加減装備をリニューアルした方が良いな。 特殊部隊との戦闘に当たって、スーツ姿にワルサーP38はなかろうよ。 ほぼ丸腰と変わらないじゃん。秒殺されるぞ。


6/3(月)

オシャレっつうものの欺瞞性について述べたんだけど、その補足。 まだ言い足りない。

音楽ってのは芸術の一分野だし、世間一般においてもそのような認識かと思われる。 芸術ってのは、人間の思考をある対象に限界まで注ぎ込んだものである。 作者の美に対する執着こそが芸術作品を生む。

日本の音楽業界(商業音楽界)には、人類規模の共通概念としての芸術家や芸術作品とは、随分趣の違うものが溢れ返っている。 商業音楽なのだから、アートと志向性が違っても良いが、何故か日本の音楽業界人らは「アーティスト」などと称したがる。 私は言葉の定義はわりかし敏感だ。

美に対する執着こそが芸術の原動力なのだから、作品とは一種のカタルシスとなりうる。 時に鑑賞者にとっても、同じくそれはカタルシスたりえる。だから名画などは高価で売り買いされたりする。 作者にとっても収集家にとっても、それら一連の行為は快感に他ならない筈だ。 従って誰の苦痛も伴わない。

人は、好きな服を探せば良いんだ。流行の服なんて探さなくて良い。 音楽なんてのも楽しければ良いのだ。 音楽を作って楽しい奴が作り、それを聴いて楽しい奴が聴く。 ただそれだけで良い筈。 でも現実の音楽界はそうでない。

好きでやってる音楽が、たまたま浮世の流行の最先端に持ち上げられてしまうことはあるだろうけど、流行の最先端であることを自らに課し、それを自称、あるいは暗にほのめかす者は、要するにそのステータスの誇示によって、周囲を従えようとしている。 そこに群がる人らは、好きでそれを消費するのでなく、権威に圧倒され、消費させられている。

ここで言う消費者と音楽愛好家とは全く違う。 愛好家は文字通り音楽を愛する者で、消費者とは音楽商品を強迫によって「買わされる」者。 消費者は常に、「今時この音楽を聴いてないの?」とか「この作品の高尚さが君には分からないの?」などと言う恫喝により、金を毟り取られる。 つまり業界の繁栄が、ある人たちの苦痛によって成り立っている。

こういう羊のような人たち(いわゆるスノッブ)が大量に生まれてしまう原因は、偏に学校教育にあろう。 これを一朝一夕に改善する方法なんて思いつけない。

誰かの苦痛によって成り立つ繁栄は、いわばダムを作って水の流れを堰き止めているようなもので、臨界点を超えれば決壊を招く。 昨今の音楽業界の凋落ぶりって、分かりやすく言えばこういうことだ。 無論これは音楽に限った話ではない。 でもこういう図式ってのも終焉を迎えつつあると思うな。 見ていても面白くないから。 最後に残るのは、きっと面白いもの。


6/2(日)

多くの人はガンダムを知っている。 知ってるってことは、その姿を脳裏に思い描くことができる筈なんだが、「ではガンダムの絵を描いてくれ」と言われても、ほとんどの人は正確に描けない筈だ。

それは各人の脳が、固有の印象形成能力を介してガンダムを捉えているからで、正確なフォルムなどを写真に撮ったかのように脳内に記録しているわけではないからだ。 ディテールが正確でないから、コンパイルで引っ掛かる。 映像記憶能力保持者であれば、まさに写真に撮ったかのように映像を記録しているわけだが。

この世界は、各人の脳が結像している。 Aさんの捉えた世界とBさんの捉えた世界は違うのだ。 各人が同じガンダム像を描けないように。

人はガンダムの何を捉え、何を端折るのか。 それこそがその人の正体なのだろう。 私が、私に見えた世界を、ありのままに曲として書きたいのは、自分の正体を知るため。


6/1(土)

人間の諸感覚の中でも、視覚と聴覚は特別であると思える。 それに比べると嗅覚・味覚はややモノが違う。 触覚は微妙なものだな。

具体的な違いは、言語を介するか否か、に尽きる。 人は目で文字を読み、耳で言葉を聴く。 触覚が微妙なのは、一応点字とかで、言語をほぼ直接的に取り入れることができるからだ。

味や匂いで言語を表現することは、今のところ実現されていない。 今後は分からないけど、おそらく難しいだろう。 もしそれが可能なら、パフューマーとかが芸術家になり得るかもしれない。


何度かこのページでも触れたのだが、音楽ってものは時間を食う。 創作にも、脳内に時間軸を要する。 デザイン関連の作業とかやっていると、検証に時間を要さないってだけで、如何に作業が時間的に効率良いか思い知らされる。 音の編集って、時間をバカ食いする。 私はこれでも早い方だが。

音楽は、絵なんかと違って、体感するに時間が必要になる(音色であれば一瞬である。単なる空気の振動なのだから)。 断片としての音の一つ一つを短期記憶力で保持し、脳内で再構成する。 私が作った曲は、私に似た誰かの中で、息を吹き返す。 きっと私はそこにいる。私がこの世界から跡形も無くなった後にだって。

音楽はきっと、ある言語機能の持ち主にとってなら、絵なんかより巨大な感動の媒介となりえる筈だ。 私の作る曲を誰よりも分かってくれるのは、私に似た誰か。


5/31(金)

正確な定義は分からないながらも、オシャレと言う言葉をたまに耳にする。 無論、何となく意味するところは分かる。 流行に則したとか、その最先端だとか言う誇示かと思える。

音楽の世界にも(と言うか音楽の世界にはむしろ濃厚に)このオシャレは存在する。 が、私の日々の作業はそれとはまるで無関係だ。

オシャレの誇示は、猿山の猿で言うところのマウンティングに相当しよう。 周囲に対する一種の威嚇なのだろうけど、臆病であればあるほど、それが必要になる面がある。

私がそれと無縁なのは、自分が楽しいと思える作業しかやる気がないからだ。 オシャレの誇示って要は周囲に対する欺瞞のようにしか思えなくて、ハッキリ言って好きでない。 少なくとも私はそこを追求する気が無い。

「オシャレでござい」と言う作品は、要するに恫喝によって相手を従わせようとしているのだけど、「もうそういうの止めようよ」と言いたくなる。 私は楽しい事が好きだから、そういう「威嚇する側とされる側」で出来上がっている構造を見るのも好きでない。 どちらも臆病で、その不安とか猜疑心が伝わってくるようで気持ち悪いのです。

私の言っていること、ほとんどの人には伝わらないでしょうけど、要するに私は、思い切りの良い創作物が好きなのです。 作者が心底楽しんで作ったものが。 ビビりながら作った「これで誰にも指摘されないだろう」みたいな消極的なものって全然好きでない。


5/30(木)

人間の能力、特に脳機能に優劣など実は無い。 個体差なら当然あるが。

Aと言うタイプの脳とBと言うタイプの脳、これは自然界が作ったいわば性差のようなもので、Aと言うタイプの持ち主がBと言うタイプに生まれなかったことを嘆くなんて、実に非生産的な所業である。

東京大学に受からなかったことを嘆く人は実在するだろうが、東京大学は、ある特定のタイプの頭の良さの持ち主(それも出現率の割りあい高い)ばかりを掻き集めている機関である。その選考に漏れたことって、そんなに嘆かわしいことだろうか。 私にはよく分からない。

この宇宙に一人しか人がいなければ、そこに優劣なんてつけようが無かったろう。 他人と自分を比べるから、優劣などと言うものが実際にあるように思えてくる。 実はそんなものありもしないのに。

私は、自分で納得できる自分になりたい。 その為に、自分が美しいと信じる曲を、極力我が心に妥協を許さず作り続けている。 結局我々ができることって、納得できる自分になること、ぐらいじゃないのかね。 今日だってそう思って生きてるよ。


5/29(水)

絶対音感について。 一般に絶対音感は特殊な能力として、ある種「優位性」であるが如く語られる。 本当だろうか。

私は違うと思っていた。 最近、学者レベルの見解を知るにつれ、それは確信に変わりつつある。 絶対音感は優位性ではない。 無論、人間(の脳)をタイプ分けした際に、何の基準をもって優劣とすべきか、などの疑問は残るわけだけど。

人間の脳には、そもそも周波数を聞き分ける機能が備わっていて、帯域ごとに反応する細胞が違うそうである。 つまり、絶対音感の方が脳機能としては原初的だと言える。 きっと聴覚を持つ人間以外の生物の、そのほとんどは絶対音感を持っていることだろう。

多くの人間の脳は、絶対音感を持たない。 「持たない」などと表現するから、何か不足しているかのような印象を与えるのだろうが、そうではない。 周波数など多少違おうとも、メロディーと言う構成を識別し、同一のものとして認識できる能力が多くの人間には備わっていると言うことである。 その能力がなければ、あるメロディーが、半音違っただけでも別の曲として聞こえてしまう。

絶対音感とは、「音高の違いすら補正できない脳の状態」に他ならない。 その脳の状態は、ある音楽作品が、各パートのアレンジ、各楽器の奏法だとか、メロディーライン・歌詞・リズムなど、全てを総合して表現している何か、5分の曲であればその5分間を通した、核とでも言うべき一つのテーマ、それを捉える能力ときっと著しく抵触する。

ハッキリ言ってしまうと、絶対音感なんてものが、依然剥き出しのままの状態の脳の持ち主では、芸術なんて対象を掘り起こす作業は難しかろう。 いわゆる音屋とか絵師にならなれるかもしれないけど。

ロボットを作ることを想像されると良い。 メロディーなどと言う複雑なパターンを、少々の音高の違いなど自動補正して同一のものと認識する機能と、絶対的な音高を識別する機能、どちらが実装に容易いか。 言うまでもなかろう。


5/28(火)

影山リサ。 過去にリリースしたシングル曲「Rock Me」を、アルバム用に再録してました。 今編集中です。

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時間ってのが人が生み出した概念である以上、歴史なんてのも一種のフィクションである。

対象としての歴史そのものは唯一であったとしても、それを編む人間の方は一つでない。 それぞれの個体差があり、皆それぞれ立場に応じた利害がある。 人間なんてものに、修史などと言う作業は本来難し過ぎるのかもしれない。

本来とりとめもない時間の内容に意味を与え、総評としての物語性を与えるのが歴史観ってことなのかと思えるが、だからして客観的な歴史なんてのは本来成立し難い筈だ。 「日韓で歴史観を共有」とか言うお題目が一時期聞かれたが、まあ無理である。 「そんなの御免だね」とか言ってるわけじゃなくて、「物理的に不可能」だと言っている。 AさんとBさんの人生観ですら共有できないと言うに。

AさんとBさんの人生観が同じでないのは、両者の脳が同じでないからだが、社会(あるいは国家)と言うのも、詰まるところ集団の脳機能が作り上げているのだから(集団の思考を抽出した上で総合しているのだから、より純粋性は高い筈)、完全なる共有はできない筈である。

教科書問題とか慰安婦問題ってのは、要は歴史の解釈の問題に他ならないのだが、韓国人には韓国人の事情があって、ある事実(歴史)に特定の解釈を与えねば物語が成立し難かったりするのでしょう。 慮ってやって欲しいところではあるが、阿るべきではない。

日韓関係のもつれってのは、今明らかに快方に向かっている、と個人的には思う。 ただそれは、従来韓国側が主張してきた理想に沿ったものでは全然無いけどね。


5/27(月)

スタジオにて。

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5/26(日)

黒田官兵衛とライトゴロ。

先日、所在無くニュースのテキストを読んでいたら、プロ野球で何十年ぶりだとかの「ライトゴロ」が出たとか何とか言うニュースを目にした。 詳細は忘れた。そんなに古いニュースではないので探せば多分出てくる。

外野に抜ける当たりってのは、普通はヒットになるものなのだが、ライトゴロはそれを右翼手が一塁でアウトにするプレイである。 ニュースになるくらいなんだから珍しいのだろう。

記事によると、当事者である右翼手と一塁手は、数週間前から入念な打ち合わせをしていたそうで、ライトにお誂え向きの球が転がって来た際、ここぞとばかりの連携で念願のライトゴロを達成したらしい。 さもありなん。

可能性の枝葉を、事前に脳裏に張り巡らすことができるからこそ、イザと言う時にそういう離れ業がやってのけられる。 私は関ヶ原の折の、黒田官兵衛の働きを思い出した。

官兵衛は動乱に乗じて、関ヶ原から遠く離れた九州で挙兵した。 一種の空白地帯だったこともあって、ごく短期間でほぼ全九州を制圧しそうな勢いですらあった。

官兵衛の真意がどこにあったのかは、日本史上の謎となっているが、挙兵そのものは、事前から周到に計画したものであったろう。 でないとそんな芸当できるはずが無い。 近年それを証明する資料が出てきたりしているが、そんな傍証なくたって当然のことだ。 考えている人の方が、結局は強い。


5/25(土)

昨日の続き。

歴史は複雑である。 現代人と歴史上の人間、一個人の能力そのものにさほどの(本質的な)差は無いにせよ、置かれている社会が違うというのは、発揮できる能力にも、時に巨大な差が出ると言うことだ。

もし私の愛する人が、已む無き事情により、慰安所のようなところで泣く泣く働かねばならないようなことになれば、私とて悲しい(その仕事が好きならそうでもない)。 そうせずに済む社会を実現すべきだと強く思うだろう。 ただ、歴史時間に実在した慰安婦やその周囲が、それと同じ気分に陥ったかと言うと、それは分からない。 置かれている状況が違うからである。 時代や立場、言語その他の環境が違うから。

日韓関係において、「未来志向を」とか良く言われるみたいだけど、未来って何だろう。 音楽が空気の振動に過ぎないように、時間なんてのも実体の覚束ないものだ。 過去も未来も、要するに解釈に過ぎず、未来を想像できる生き物なら、同時に過去と言う物語も作ってしまうに違いない。 未来を志向せよと言いつつ、相手が譲歩できない過去の解釈に、目を瞑れと言うのにはあまりに無理があるように思える。

私個人にも歴史観と言うか、世界観はあるが、それを他の誰かと共有したいとは別に思わない。 共有されないことが歯痒くて仕方ない者は、要するに自己の確立ができていないのでは。 依存心こそがその原因だろうから。


ある政治家の慰安婦問題についての言及が波紋を呼んでいるそうである。 個人的にはその政治家を支持したいところだが、その発言内容に目を通したところ、むしろ不満が残るようなものだった。 もっと突っ込んでも良いだろうと。

「歴史の真実を追究するのは学者の仕事、政治家の仕事は調整、だから波紋を起こすような発言は慎むべき」みたいな意見も見られたようだが、私は全く賛同しない。 「喧嘩できない」ってのは既に一つのカードを放棄しているのと同じだが、調整屋にとってもそれは致命的だ。 また、政治家は調整の為にウソすら容認すべきか? そんなことやってるからここまで事態が複雑化したのだろう。 むしろ肝心の調整すら困難にしているとしか思えないし。


5/24(金)

慰安婦問題ってのが定期的に持ち上がる。 こんなところで論ずるような話柄ではないのだが、まあヒマなんで考えてみる。 予め断っておくが、私は専門家ではないので、詳しいことは分からない。

まず、日本軍が女性を強制的に連行しただとか言うのはデタラメだろう。 これだけ慰安婦問題が脚光を浴びていながら、まともな証拠が一例も挙がっていないところを見るだにまず間違いないかと。 軍と言うものの性質上、指示の痕跡が残らないとは考え難い。 この辺が明白である以上、今ホットな問題はそこではないと言うことか。 あるいは論点が定まっていないだけか。 これも議論には付き物と言うべき現象だけどね。

良い悪いはさておき、日本軍に限らず、軍隊に慰安所的なものは必要なのだろう。 「だろう」と断定を避けるのは、私自身、いわゆる風俗の類に全く関わらずに生きているからだ。 私にはこの先も慰安所(性風俗店)は必要ないが、現にこの社会にこれだけそう言ったものが存在している以上、ある人には必要なのだろう。 軍隊なんて一般人の一部が担っているだけなのだから、そういう人も当然含まれていよう。

慰安所を運営(経営)したのは軍ではない。 当たり前じゃん。 公共機関である軍が慰安所の経営なんて面倒臭いことしたがる筈がない。ただでさえ戦争で忙しいのに。 大量の証拠が示すように、民間の業者が軍を相手に商売をしていただけだろう。 平明な読解力をもって資料に当たれば、こういう結論に至るのは必然かと思えるが、そうならない人がいるのは、思考にある種のバイアスが掛かっているからかと思われる。

小学校の近くには文房具屋がほぼ必ずある。 軍には、若い男が大量に(女抜きで)動員されているのである。 縁日のテキ屋みたいなもんで、慰安所経営者・女衒らにとっては言わば「稼ぎ時」である。実際入れ食いであったようだし。

上の状況は、日本以外の軍隊(無論近代以降)においても基本変わらないかと思われる。 日本国政府は公共事業を民間の事業者に発注するが、まさか共産主義じゃあるまいに、国営の建設会社など作らないだろう。

慰安所の運営に軍は関与したか否かと言う話だが、これは当然関与したろう。 つうか関与せねばなるまい。 公共事業だって入札だとか、当然国や地方自治体など公共機関の関与はあるし、ある程度監督しなければ何が跳梁跋扈するか知れない。 しかも慰安所は、兵隊相手の商売である。 伝染病でも流行したら至上命令である戦争遂行に支障を来たす。 関与するよ、そりゃ。

軍が何故関与するか。 それは、軍が臨時政府になりうるからだ。 この辺が瞬時に理解出来ない人は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が何故征夷大将軍のポストを欲したかなど、基本的な歴史を学び直したら良い。

軍(に属する兵隊)は慰安所を利用していた。 その慰安所は軍の一定の関与のもとに運営されていたが、経営そのものは民間業者が行っていた。 上の主語である「軍」は、一応この文章では日本軍を指すが、別に日本(軍)特有の現象ではない。 人とはそういう生き物なのだろう。

慰安婦を軍が奴隷として強制連行した、などと言うのは単なる与太話だろう。 慰安所で働く慰安婦と事業者の間に非人道的な関係があったか否か、と言う話については、ケースによるだろうから一概には言えない。 そういう状況もあったのかもしれないし、動かぬ証拠が出てくるなら「あった」と断定しても良いかと。 ただ、それについての責任の所在が現在の日本国政府にあるかって言われると、まあ無いでしょう。 法律的な感覚では。

物の善悪とは別に、現代はおおむね法治の時代だから、違法行為にはペナルティがあって然るべきである。 しかし当時少なくとも合法であったものを今になって犯罪と見做すのは、法と言うものの性格上できない筈だ。


この問題が、当事者である韓国以外、特にアメリカ相手でもしばしば持ち上がるのは、これまた複雑な事情が介在しているのだろうけど、要するに日本が外交下手であるのがその大きな理由かと思える。 義務教育からディベートとか取り入れれば良いんだよ。 韓国はちょっと分からないけど、アメリカならある程度の論理的主張であれば受け入れてくれる筈なんだけど。

ついでに日本の外交がマズい理由についても考えてみた。 端的に言うなら、「高潔な人格の不在」がその大きな理由ではないか。 小村寿太郎の話とか聞いた上で、翻って現代の日本外交を思うと、そう判断せずにいられないんだけど。


5/23(木)

ギター弾きだった私だけど、ここ最近退役期間に入っている。 単に弾いてないだけでなく、機材関連の情報にも疎い。 ギター関係の機材類って、スタンダードなものばかりでなく、新しいものもチョイチョイ出る。

ギター用の機材でルーパーってのがあるんだけど、ごく最近まで私は知らなかった。 エフェクターの一種みたいな扱いなんだけど、機能としてはサンプラーに近い。 フレーズを丸ごとサンプリングして、それのプレイバック中にリアルタイムで別のフレーズを重ねる、みたいなことが出来たりする。 まあ特段に新しい技術ってわけでもないが。

ルーパーを、原理的にエフェクターと呼んで良いのか微妙だが、Delayとかだってエフェクター扱いだから、別に良いのかな。 この二者の原理はほぼ同じである。 それにしても、本当に画期的な技術なんて中々無いのね。

そのルーパーの使用を前提とした曲を今書いている。 実際にルーパーを使うかどうかはさておき(多分使わない)、ルーパーの原理を踏まえた上のフレーズを。


5/22(水)

影山リサ。 歌録りだったんだけど、何やら想定したテイクが録れなかったらしく、次回に再度レコーディングってことになりました。 まあこういう事もたまにはあります。

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千年の名曲ってのは存在しない(少なくとも現時点では)。 千年のうちに、ハードウェアとしての人体にさほどの変化がなくとも、言語環境が変わり過ぎるからだ。 千年と言わず、江戸末期の俗謡ですら、現代人には(好悪以前に)曲の全体像の把握が困難である。

現存する最古の音楽ってどの辺だろう。 古代にも音楽はあったろうが、ある程度形として残っているものなら、グレゴリオ聖歌あたりがそれに当たろうか。 だったら6世紀中頃って感じかな。 ああいうものを現代風にアレンジし直したものって見かけるけど、手を加えない状態にて現代人があれを嗜めるかって言うと、多くの人には難しかろう。

学校なんかで習う音楽史って、音楽の父とまで言われるバッハの時代、いわゆるバロック期ぐらいから始まってたように記憶するけど、あの辺りが現代人が音楽として認識出来るものの歴史的上限って感じなのだろう。 因みに、バロック期のスタートは日本史で言うところの江戸時代とほぼ重なっている。 当時のヨーロッパ人の脳は、既にあの程度の状態だったってことだ。


5/21(火)

スタジオにて。

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広瀬沙希さん、先日録った音を聞いてました。 以下、スタジオにて。

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5/19(日)

神田優花、歌録り二曲終了。 今回録った曲は二曲とも、中東音楽を意識した作品で、バッキングは勿論、歌にもその影響が濃い。 今から編集なんだけど、どんなミックスにしようか悩んでいる。

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音楽的な特徴として顕著なところでは、微分音の多用なんかがあるんだけど、まあそれは特に問題ない。 それよりボーカルトラックの(エフェクト的な)処理の方が気になっている。

あんまりエフェクト過多だとそれっぽくならないし、ダブルの処理感ですらウソ臭さい。 コーラスすらつけ難いのさ(中東音楽には和声の思想が無い)。 やっぱしほぼドライで仕上げるべきなんだろうか。


5/18(土)

ここ最近、歌詞を(三つほど)まとめて書いていた。 歌詞書く時って、言語的な思考のリソースを丸々奪われるので、このページのネタが途切れがちだ。

当たり前だけど、心のホンの僅かな動きをテキストに留める作業には、深い内省がいる。 日頃の喧騒とそれって、実に相性が悪い。 私に商売とかは向かないね。


5/15(水)

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神田優花、新曲の最終リハってことになってたのかな。 スタジオにて。

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影山リサ。 アルバム収録用に、過去に録った何曲かを再録する予定で、今そのリハーサル中。 ファーストアルバムは、あれはあれで当時としてはそれなりにベストなものを作ったつもりだけど、やはり多少拙速な感は否めない。 次のアルバムはきっともっと良いものになります。気合が違う。

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5/14(火)

スタジオにて。

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カリメロってアニメが昔あって、多分再放送だったかと思われるが、私はそれをよく見た記憶がある。 本編もさることながら、主題歌(オープニングテーマ)がとても好きだった。 心が沈む時には、今でもつい口ずさんでしまう。

カリメロの歌詞は、主人公カリメロが「がんばっちゃおう」と自分に言い聞かせるような内容だ。 私は誰かに「がんばりなさい」なんて諭されるよりも、「がんばっちゃおう」と決する誰かの心を感じる方が好きみたいだ。 そっちの方が我が心を後押ししてくれる。 我々もそんな歌を作らないとね。


5/13(月)

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スタジオにて。

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キーボードのブライドタッチでカタカナを打とうとする時、長音符「ー」ってどうしても打ち間違えてしまう。 配置が悪いんじゃないのかね。


5/12(日)

広告の適正価格。 戦後の経済人(松下幸之助とか井深大とか)のインタビュー映像をいくつかDVDで見ていたんだけど、まあそれの感想。

当たり前なんだろうけど、広告に対する捉え方が現代とは違う。 テレビメディアへの一極集中の感覚がない。 現代はインターネットの普及でそれこそテレビメディアの牙城が崩れ出している感はあるけど、テレビを「牙城」だと感じる程度には巨大な権威としている。 上の時代はその権威の定着前なのだ。 分かりますかね。

広告って何なのだろう。 大掴みに言って、モノを売るための宣伝だよね。 だったら、例えば100万円の広告費は、最終的に100万円以上の利益に繋がらねば、適正価格と言えないことになる。 「そんなに単純なものではないよ」とか言われそうだが、原則論で言えばそうなる筈なのだ(長期的視野に立って回収を見込んでいるものであったとしても)。

以上の原則を踏まえた上で、少なくとも音楽業界における広告価格は異常である。 100万円の利益を出そうと思ったら億単位の広告費がかかりそうだ。 つまり全くもって適正でない。

適正でないのなら、いずれ市場原理が機能して適正なところに落ち着く筈なのだが、現状そうなっていない。 ってことはその値段でも買う人がいる商品なのだ。 そういう人が後を絶たなければ、当然価格の暴落も起きない。 その(ある観点で見れば)不当な価額にて買う人は、「音を売って金にする」と言う原則とは異なる原理で動いていることになる。

要するに、費用対効果で考えた場合、アホらしいほどに広告費は高いって話をしているのだが、逆にメチャクチャに安いものもある。 どことは言わないが、「採算以前に、これで経費を賄えるのか」と心配になるくらいだったりする。 しかしそういう媒体、想像通りと言うか、広告効果はほぼ絶無に近い。 ああいうのも広告本来の目的とは別の部分で成立しているのだろう。 不当に安いものと不当に高いものは、ある面において似ている。

我々は、我々の感覚にて適正と思えないものを、競り合ってでも買い落とすつもりなんてない。 私は、これから先、音楽業界にある種の歪んだ威光がなくなれば、広告も適正価格に落ち着くだろうと思っているので、その時にはあらためて検討するだろうと思うが。

我々が今優先的にやるべきことは、納得の行く作品を黙々と作り続けることだと思っている。 幸い音楽作品は腐るようなものでないので。


5/11(土)

ピカソと脳科学。

ある視覚的対象は、万人にとって同じくあるわけでなく、網膜が写し取った諸情報を、個々の脳機能が脳内で映像として再構築したものであると言う。 だからして、当たり前のことながら、目の前にあるリンゴは、我が脳機能が構成した、世界で唯一のものと言うことになる。 隣人は決して同じものを結像しえない。

道端で小銭を拾う人はいるが、常日頃「小銭は落ちてやせぬか」と気を配りつつ歩いている人の方が、当然落ちている小銭を発見しやすい。 そういう人は、世界と言う情報に、あるフィルターをかけているのである。 その固有のフィルターを世界観とか言う。

世界を希望の色で染め上げる人と、世界に絶望し、首を括る人。 どちらも実在するが、世界とは本来一つである筈だ。 そのたった一つの世界が、見る人によってこうも違ってくるのも、結局は個々の脳機能の違いと言うことになる。

絵描きは絵を描く。 静物画は目の前のテーブルに乗った物質をただ写実的に書き写したものだと思われがちだが、実は違う。 静物画には静物画の様式が存在し、多くの絵描きはそれを疑うことなく踏襲しているに過ぎない。 自分が見ていると思い込んでいる景色は、実は自分に見えた映像そのものではないのだ。

原始人が描いた洞窟壁画のようなものがある。 牛や馬の形状などと言う、実にとりとめもないものを絵画的に描き留める術を、誰かが編み出した。 多くの人はその天才の偉業を模倣する形であれらの壁画を残したのだろうと思われる。 つまりああいったものにすら様式は存在すると言うことだ。 三次元の物体を二次元(絵画)化するんだから、技法に因るのも当たり前だよね。

多くの人は、自分のその行為が、様式に基づくものなのかどうかすら気付いていない。 自分に見えた像を写し取っているだけだと本気で思い込んでいる。 我々が見ていると思い込んでいるものは、実は「見させられている」ものに過ぎないかもしれないんだ。

ピカソは「私は対象を、見えるようにでなく、私が見たままに描くのだ」と言ったらしい。 彼の言葉の意味が分かりますでしょうか。 私も、私の心に響いた音楽を、私の捉えたままに書き出そうと思います。


5/10(金)

沖縄県民の二割超だかが、沖縄の独立を支持しているとか言うニュースを仄聞した。 溜息が出るような話だ。

政府を含む大多数の日本人の感情はよく知らないが、私個人としては「独立したいのならすれば良い」と思う。 現実的に国家として立ち行くか、などはさておき。 ただ、きっと上の二割超の沖縄人は、本気で独立を志向していない。 日本と言う「親」を揺さぶるためのカードとして、独立をチラつかせているに過ぎない。

家出をほのめかす子供は、心の底から親に依存しているからこそ「家出」なんて言い出せる。 精神が独立していれば、親と別居したいと思うのであれば、粛々と親元を離れるべく、経済的な自立法を模索するだけのことだ。

前々から思っていたのだが、私は沖縄人にはある種の「甘え」があると思う。 沖縄人が「我ら沖縄」と団結する時がある。 郷土愛は無論持って良い。 が、それは日本の都道府県の一つとして「我ら福岡人」とか「我ら東京都民」と言うのと同等でなければならない筈だ。 同じ日本人なのだから。 自分たちだけはマイノリティとして一種特別だと感じているのなら、それは甘えだろう。

米軍基地の問題、先の大戦時に沖縄が受けた禍害、無論私もそれは知っている。 だが、沖縄の地政学上の立地がその悲劇を生んだ面が大きく、日本の内政的問題として、他の諸問題と同様に、粛々と解決して行かねばならないだけだと思う。 その責任は当然沖縄にもある。

「沖縄は太平洋戦争で酷い目に遭ったんだ!」と言うのは勿論事実でしょう。 でも東京都民だって酷い目に遭いました。

沖縄は、言語的にも人種的にも、大掴みに言って日本の一地方であろう。 台湾が中国の文化圏であると言うのと似たような意味で。 だからいわゆる本土人と一緒に一つの国家を形成する事は決して不自然ではないし、ドイツとオーストリアが別の国家であるように、互いに別の国家を形成しても、それはそれで何ら問題ない。 民主主義なんだから、国民の総意にて判断すれば良い。

沖縄は主体性を持って、いずれかの判断をなさるがよろしい。 成熟した一県として日本国に参加するか、あるいは独立の道を取るか。 今すぐ実現可能かどうかはさておき、自らの判断に忠実に、ある目的地に向かって進めば良いだけ。


偶然なのだろうが、私には沖縄人の知り合いが複数人いる。 中でも一人とは、一緒に音楽作品を作ったりしたことのある仲だ。 陽気で、悪意のない人の多い印象だが、やはり平均的日本人に対して抱く印象とは微妙に違う。

私は、沖縄人全てに成熟が必要とか思うわけではない。 必要なのはごく一部の人々なんだろうと思う(上の二割ってのは参考になる数字なのかも)。 沖縄人は真の日本人の一員としての自覚を持つも良し、独立を志向するも良し、どちらにせよ精神的に自立すべし。 私は愛を持って言っているんです。


5/9(木)

気が付いたらGW終わってたんだけど、私は全くそういうのと関係なく働き詰めだった。 別に大したことをしていたわけじゃないけど、溜まっていた編集作業を片付けて、あとは頭の中に溜まっていたアイディアを作品化する作業を続けていたら、あっと言う間に連休期間なんて終わっていた。 お陰で作業は捗ったけど。


5/8(水)

音楽制作用ツール類の新製品情報って、わりと小まめにチェックしたりするんだけど、それ見ながら最近思ったこと。

音楽制作ツールっつっても色々ある。 純粋に音楽作品の構築を補助するためのものや、音(音色)そのものを作るもの(無論それらの機能を折衷したものも)。 部数だけで言うと、音色作りその為の機材の方が出てるっぽい。 音楽を作るタイプの人間には男が多いので(統計取ったわけじゃないが、腰だめで見ても9割以上男だろう)、そういうものの方が売れ筋となるのだろう。

ラディカルな部分では、音楽とは「譜面情報」のことになる筈だが、昨今の音色こそが肝であると言ったタイプの音楽は、譜面情報などに大したウェイトが割かれていない。 良い悪いの話をしているわけではないが、音色と言うのは音楽に比べ、理解に容易い。

理解ととりあえず言ったが、理解と言う言葉は適当でないかもしれない。 体感と言うべきか。 早い話が、音色の把握には言語機能の援用をさほど(あるいは全く)必要としない。

本を読むには当然言語力が要る。 文章を読み、脳内にて理解を構築せねばならぬ。 センテンスの保持に必要程度の言語力・短期記憶能力は最低限必要になる。 音楽の理解にも、つまりは同様のメカニズムが介在する。

音色の体感と言うのは、読書に例えるならフォントの形状的な面白さに陶酔するようなもので、文学の本質などとはほど遠いところで何かを捉えていることになる。 表面的にはドストエフスキーやシェイクスピアの本を片手に読書を愉しんでいるように見えるが、その人はフォントの形状に快感を覚えているのである。 本質的な感動など共有できるはずがない。


言語というツールは、他者の心を理解する為にあるのだと思われる。 だから子育てと言うタスクを宿命として背負わされている女性に発達し、一般に男性に発達しないのだろう。 その代わり男には、運動機能・空間把握能力などの、理数能が発達したのかと思われる。

言語機能の弱い人は「感情のこもった歌」などと言うものが苦手な筈だ。 他者の心を把握するための機能が弱いのだから。 当然そういう人は目の前の人間が何を感じているのか掴みにくいので、必然的に人が怖くなりがちだろう。

そういう人は、歌のように人間の感情の塊は無論のこと、器楽などにおいても、人間の感情の込められた演奏などは苦手に違いない。 シーケンスのようなのっぺりと無機質な、人間の感情が介在していない音列のようなものの方が安心だろう。 歌詞を指定された音程通りに歌い上げるプログラム(音楽制作ツール)がちょっと前にバカ売れしたみたいだけど、日本人においてならではの現象かと思える。 言語機能に由来している筈だ。


私は上のような類型の人の気分を感じたくて、音色に特化したような曲を作ってみた。 旋律・和声などと言う音楽的要素を極力排除したもので、旋律形などは一小節程度の単純なフレーズを延々ループさせたもの、リズムも音符の全てがジャストタイミング、ヴェロシティーは一定。 2〜3の旋律形を適当に組み替えたりした上で繰り返し、時折フィルターやエフェクター類のパラメーターを弄ったりしただけのようなもの。

まるでその種の機材のデモソングみたいなもので、音楽的には面白くもなんともないもののように思える。 とりあえず一つ作ってはみたけど、別に新しい何かが見えてきた気はしない。 もう少し作ってみるべきか。


5/7(火)

私は脳(機能)についてあれこれ考えることが多いんだが、脳科学系の本とかほとんど読んだことがない。 いずれしっかり読もうと思っているけど。

各人の脳は世界を結像しているが、当然脳の個別の性能によって結果としての世界は違ってくる。 音楽も世界の一部で、結局各人の脳がそれを捉えている。 オーディオ機器のマニアとかいらっしゃるが、ケーブルの材質なんかより、脳機能の差異の方が余程に音楽像を左右する。

音楽と言う情報の、音響部分のみしか捉えられない人は、つまりは短期記憶力、メモリーの容量の不足が原因で、空気の振動を脳内で構築し、トータルとしての音楽像を結ぶことができないのだろう。 つまり言語力が不足している。 音響と言うのは単なる空気の振動で、マッサージ器の振動などと同じく、体感のみであれば容易にできる。

「音楽作品」の「理解」には、相応の言語力が要る。 音楽を含む芸術作品とは、作った誰かの心である。 言語とは、自分を含むこの宇宙を掴まえるためにあり、いわゆる教養とは、自分以外の誰かの心を知るためにある。

流れている同じ曲を聞いていても、AさんとBさんでは、脳内に結ぶ音楽作品の像は全く違う。 この世界の、自分以外のありとあらゆる人は別人だ。 私と隣の誰かは全く別の人間なのだ。 この当たり前のことを実体程度に認識している人がどれほどいるだろうか。

私は、私みたいな人に向けて音楽を作っている。


5/6(月)

続・タンゴについて。

ポピュラーな編成にキンテートとオルケスタティピカってのがあるんだけど、キンテートは要はクインテット(五重奏)、オルケスタティピカってのはティピカルオーケストラ(標準編成)ってな程度の意味かと思われる。 つまりそんなに厳格な様式とかではない。

実際に映像なんかを見ても、本当に編成なんて実にいい加減だ。 フルートが入ってたり、ギターはアコースティックだったりエレキ(セミアコ含む)だったり。 あと、コントラバス(ダブルベース)は、指弾きだったり弓だったり、奏法ごと定まってないっぽい。

しかしタンゴはやはり西洋音楽の亜種だな。 クラシックよりは俗楽(ファドとかフラメンコなど)の影響が濃い気がするが。 ほとんど短調なんだけど、調性については完全にクラシックの様式を踏んでいる。 旋律線なんかにもクラシックの影響は濃厚で、パガニーニとかのそれみたいだ。


5/5(日)

コンサーティナって楽器の音が使いたくて、ちょっと音源を探してみたら、一つ良さげなsoundfontが見つかったはいいけど、実機の音域をカバーしていない。 何故に中途半端な音域だけサンプリングしたのだろう。

コンサーティナにはダイアトニックとクロマチックの両タイプがあるんだけど、前者は蛇腹の押し引きによって同ボタンにての発音(音高)が変わるって話を以前にした。 どうもそのsoundfont、蛇腹を引く時の発音音域のみサンプリングしているのか、欲しい低音が一部発音できない。 困ったな。 コンサーティナって、音域が高音に寄ってる楽器なんで、低音が欠けているのはちょっと痛い。

実機を使わない録音物は、であるが故に余計に、楽器の構造を無視すると途端に嘘臭くなる。 コンサーティナは蛇腹の押し引きによって発音音域が異なる点なども、その楽器の重要な特性である。 だから無視したくない。 別の音源とか使えば無論その音域は出せるわけだけど、音そのもの(音色)ってのも楽器の(ある意味一番の)特性なわけだし、判断の難しいところだ。


5/4(土)

画家は作品を自分一人で完結させられるところが羨ましい。 音楽なんて、ちょっとヘンテコな曲でも作ろうもんなら忽ち「歌い手不在」に陥る。 私みたいに変わった曲ばかり書いてるライターは、歌い手を宥める苦労が多い。

ピカソの前衛絵画は、あれが絵だったからこそ作品化(完成)を見た部分が濃厚だ。 あれが歌だったりしたら、歌い手によっては歌うのを嫌がったろう。 特に日本の商業音楽界みたいな土壌を背景に、日本人みたいな民族から出てきた歌手志望者ならなおのこと。


話は変わる。 神田優花は今年アルバムを出す予定なんだけど、それの制作と並行して民俗音楽っぽい要素を取り入れた楽曲を随分録った。 こっちはアルバムには収録しないけど、神田優花番外編として年内にリリースする予定。 それらとアルバムの発表が一段落したら、ファンクっぽい作品をいくつか(5〜6曲くらい)録ろうと思っている。 これは公開できるとしたら来年以降になります。

影山リサ。 こっちの方こそファンクっぽいレパートリーを増強しようと考えていたみたいなのだけど、ちょっと構想が変化してきているっぽい。 比較的シンセを多用したようなPOPS路線がしばらく続くかも。 FMサウンドみたいなのは減ると思う。 どのみちこの辺は私が判断する部分でないので、正確なところは分かりませんけど。

今消化に困っているのは、スキッフルっぽい作品群。 作ったは良いけど発表の目処が立たない。 本当に単なるスキッフルなら使いようもあるんだけど、そうじゃないから困る。 スキッフル的な楽器を使っているだけで、音楽そのものは全然シンプルじゃないんだよね。


5/3(金)

会社とかでも個人でも、行き詰まることがありますよね。 企業は倒産したり、個人は首を括ったり。

倒産寸前の会社は、何やかやと延命の策を弄すが、長期的に見れば大抵徒労に終わる。 常識的な範囲での経費を惜しまず、法を遵守した上で、更に経営が立ち行かないのであれば、その会社は倒れるべくして倒れていると言える。 すべからくは延命でなく撤退である。

この世界に必要とされていない人が、撤退を余儀なくされるのはある種の必然である。 「そんなのあんまりだ」と思うのなら、模索すべきは姑息な延命策でなく、世界に貢献する方法ではないのか。 真剣に探せば、きっと見つかるはずだ。

私は子供の頃に好きになった音楽を、今もずっと追求し続けているが、何故それが可能かと言うと、今の私にその追及作業に必要程度の環境が揃っているからだ。 ある程度の機材があり、技術があり、人間関係がある。 活動の母体としての事務所があり、歌い手などの共同作業者がいて、仕上がった作品の販売を手がけてくれる事業者がいる。餓死せずに済む程度の食い物にありつけ、寝る場所にも不自由していない。 何故今の私にその環境が整っているかと言うと、それこそが、今日までの私が求め続けて来たものだからだ。 私の今日までの全ての時間は、今のこの瞬間に一直線に向かっていた。

今の私の毎日には、誰かの大きな苦痛や犠牲を伴う必要が存在していない。 していれば、それが理由で、いつかこの日々は破綻を迎える可能性もある筈だが、究極的にはそれは止むを得ない。 自然の摂理だから。


これから先、私がこの作業(作品を生み出すこと)を中断せざるを得ない事態に陥るかもしれない。 私の意志はあるところに常に進もうとするだろうが、持てる肉体や環境は有限である。 物理的に行き詰まる可能性はある。 そうしたらどうなるか。

その時こそが、この作業の真価が問われる時なのだろう。 今の私が続けている作業に、どれほどの意味があるか。

私が行き詰る時には、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。 私の作品を、私の今のこの追及作業を必要としてくれる誰かが。 この広い世界のどこかに、その人はきっといる筈だ。 いないのであれば、私の作業の価値もそれまでと言うことだ。 それならそれで構わない。

ピカソは臨終の際、「私がいなくなっても、私を愛してくれる誰かがこの世界に残っている。悲しい事なんかない」みたいなことを言ったらしい。

ピカソの絵が、言葉が、今の私の心の中にあり、背中を後押ししてくれているように、私の作る歌が誰かの心に響くかもしれない。 それが遠い未来だったとしても。 私はその日を信じて止まない。


巨大迷路は、左右どちらかの壁をひたすら伝って行けば、いずれ出口にたどり着く。 そして実はそれが一番の早道かもしれない。 今の私も、一見迂遠な方法を採っているようだが、子供の頃に感じた何かをひたすらに信じつつ生きている日々が、実は何よりの早道なのかもしれない。

「早道と言うが、ゴールって何さ?」と問われても、そんなの分からない。 想像すらできないものだからこそ追い求めているのだから。 金や名誉なら、そんなのもう既に想像の範疇にあるものじゃないか。 私の探しているのはそんなものじゃない。 きっと掴まえてみせる。


5/2(木)

影山リサ、歌入れでした。 先週末からこれの編集やってたんだけど、今は一段落着きました。

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コンサーティナやバンドネオンの譜例を見ていても、実に遊びのないと言うか、シンプルなメロディーラインや和音構成が多い(扱っている音楽ジャンルに因っている部分もあるだろうが)。 楽器の構造上、トリッキーなフレーズや一般的な鍵盤楽器では考えられないような開離配置の和音が実現できるはずなのに。 どうしてなんだろう。


5/1(水)

例年ほどでは無いが、今年のGWも、やることはあってわりかし忙しい。



今作ってる曲にマンドリンの音を入れたくて、マンドリンについてちょっと調べていた。 元々はアコギで済ますつもりだったんだけど、ブルーグラスっぽい雰囲気を取り込みたくてマンドリンでも使ってみようかと。

マンドリンは小型のギターみたいなものなんだが、4弦全てが複弦となっている。 因みに複弦は4コースとも同音程に調律する。 同じピッチの弦二本×4コースってことです。

チューニングは標準的なバイオリンと同じ(五度間隔)。 バイオリンとの相互乗り入れを想定しているってことなんだろうか。 撥弦楽器でしかも小型なんで、持続音が得意でないらしく、その代替効果としてトレモロ奏法を多用するとな。 やはりバイオリンのニッチを占める楽器と見た。

リュート属とかかと思っていたら、一応マンドリンだけで属を形成しているそうだ。 マンドリン属の楽器は、マンドラ・マンドロンチェロ・マンドローネ等があるとの事。 私はこれらの実物を触ったりしたことこそ無いが、知り合いのクラフトマンの話で、存在ぐらいは知っていた。

今のところ私が使おうと思っているのは、ごく標準的なマンドリンの音。 ギターの代替品として使う予定なんだけど、担当音域はギターよりちょっと高めになる。 想定している効果が出れば良いけど。


4/30(火)

タンゴについて考えていた。 備忘録代わりに。

南米アルゼンチンのものとヨーロッパ産のものを、前者をアルゼンチン・タンゴ、後者をコンチネンタル・タンゴなどと呼んで区別するそうだが(多分に国産的呼称ながら)、やはり音楽そのもののオリジンはヨーロッパだろう。 純粋な南米ルーツの音楽とは言い難く、ヨーロッパ人の入植抜きに誕生し得たものとは思えない。 また、発展過程においても両者は相互に影響し合っていると思われる。

以前、中南米の古代文明(インカ・マヤだの)の音楽について調べていたのだが、結局分からなかった。 私個人が調べられなかったと言うより、「実体が判明していない」と言った方が近かろうか。 きっとある程度のものはあった筈だが、定説そのものが存在してない。

タンゴは、一ジャンルと言うよりヨーロッパ音楽の一地方種である。 内容的にもせいぜい伝統的な様式が存在すると言った程度で、特段に独自の楽理を持っているなんてわけではない。 南米に、タンゴのようなものが自然発生的に(ヨーロッパ文明の流入なしに)生まれた可能性は低い。

様式の一つに楽器編成がある。 五人編成のキンテート(クインテットのことか)、それより大編成のオルケスタティピカ。 編成の詳細は資料などに詳しいが、参考映像などを見渡す限り、さほど厳密な決め事でも無さそう。 例えばオルケスタティピカなど、ある資料には「同数のバイオリンとバンドネオン」とあるが、実際にはバイオリンの方が全然本数が多かったり、ビオラが入ってたり。

今考えていることを曲作りに活かしたいとは思っているけど、ベタベタの古典的タンゴを作ろうとかは思ってない。 ちょっとしたスパイスとして、今後の作品に取り込めたらと思ってます。


4/29(月)

神田優花。 ここ最近歌入ればっかだったんだけど、ここらで小休止。 今週はGW休みです。

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ピカソの「泣く女」のモデルは愛人ドラ・マールだそうだが、マリー・テレーズの肖像と比べると、あまりの描線・タッチの違いに、モデルがまったき別人であると納得させられる。

私は、ドラ・マールもマリー・テレーズも、実際のところどんな人物だったか分からない。 しかし、両者をモデルにしたピカソの絵を見ていると、「ピカソがどのような人物だと感じていたか」であればボンヤリと見えてこなくもない。 マリー・テレーズは、暖か味のある優しい人だったのかな。 ドラ・マールには、心をささくれ立たせる何かがあったのかも。


4/28(日)

普段の更新がマメすぎて、数日とばしたぐらいで「どうかしたの?」とか言われてしまう。 日記ぐらい休ませてくれ。 以下、スタジオにて。

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広瀬沙希、歌入れでした。 今から編集だ。

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4/25(木)

南北朝鮮の国民性。 私は多くの日本人が朝鮮人に対して持っている複雑な感情を知っているし、ある面においては共感すらする。 隣国と言うのは一般に、利害が衝突しがちであるものだが、その一般論の範疇を超えている部分がある。 ただし、私は右翼的な思想の持ち主ではない。

私は音楽について色々調べ物をすることがあるわけだが、朝鮮半島関係の音楽を調べるのは実に大変だ。 中国についてなら、「いわゆる伝統音楽と言うものは存在しない(現代に継承されていない)」と言う、わりかしハッキリとした結論が得られるのだが、韓国とかならそれも難しい。 「我が国には五千年の歴史がある」みたいなのに類する誇張と言うか、学術的検証に耐えられない主張が多すぎるからだ。

調べ物をしていても、そのソース如何によっては常に「ウラを取らないといけないな」と思わされる。 韓国なんかは既に先進国なんだから、学問とナショナリズムをそろそろ区別しても良いんじゃなかろうかね。 歴史学者なんかは、私と似たような(と言うかある意味私なんかより巨大な)苦悩を味わわされているに違いない。 想像するに余りあるよ。


4/23(火)

ここ何日か、ボーカルテイクを編集してた曲、いわゆる西洋音階準拠でなかったので、大変だったと言うか、手の施しようが無い分作業量は少なくて楽ではあった。

今回の曲はガムランの影響が濃い。 ガムランは明快な音階算出法が存在してなくて、楽団(と言うか楽器鍛冶)ごとに調律が違う上、同じ音高でも楽器によって微妙にピッチが違ったりする。 デチューン効果の為なんだと。

雅楽は西洋音階準拠ではないが、一応の算出法はある。 ガムランにはそれすら無いわけで、音程なんて気にしつつ編集するのが馬鹿らしく思えてこなくもなかった。 この曲、年内には発表できると思います。


4/22(月)

スタジオにて。

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神田優花、レコーディングでした。 一日に2曲まとめて録ってます。

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4/21(日)

スタジオにて。

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4/20(土)

神田優花の配信限定アルバムをリリースする予定です。 収録曲は既に揃っているんだけど、色々やることが多くて大変です。 他にも諸々、今年はえらくハイペースで動いてまして、休む暇が無い。

神田優花は、アルバム以外にも、多分今年の前半で十数曲を発表する予定です。


4/19(金)

Moraってサイトのリニューアルにあたって、取り扱ってもらっていた旧譜が一旦入手不可となってたんだけど、今週アップされた神田優花のマインドスケープで、とりあえず過去のタイトルも全て再アップされた模様。

マインドスケープなんて10年近く前にリリースしたタイトルで、今更再アップとかしたところで、そんなに飛ぶように売れたりする代物じゃないわけだけど、MoraとかiTunesとかってメジャーどころのサイトは、データベースと言うか、アーカイブ的な意味合いもあるので置いておくことが結構大事だったりするのです。 未入手の方は、この機会に是非聴いてみて下さい。


4/18(木)

コンサーティナ調べたついでにバンドネオン(bandoneon)についても調べてみた。 基本似たような楽器なのだが、バンドネオンはコンサーティナと違って、「悪魔が発明した楽器」と言われるほどに演奏が難しいそうな。

コンサーティナ同様、ダイアトニックタイプとクロマチックタイプの二種が存在するが、調べてみた限り、ダイアトニックタイプってのが全然スケール楽器じゃない。 理由は不明だが、ダイアトニックを謳いつつ、基本12音階をカバーしている。

両者(ダイアトニックタイプとクロマチックタイプ)の違いは、蛇腹の押し引きによって音程が変わるタイプとそうでないタイプ、と言う点にしかない。 コンサーティナがその原形らしいから(バンドネオンは後発)、名称を無批判に(言葉の定義を無視して)継承しているだけなのかも。

バンドネオンの演奏に難がある理由は、ボタン配置が不規則であることと、蛇腹の押し引きによってその各ボタンに割り当てられている音が変わること、更には、その上にスケール楽器ですら無い点にある。 構造が、無意味な程に演奏を制約する。 悪魔が考え出したと言いたくもなろう。

教則本みたいなのに載っていた譜例を見る限り、あんまり癖のあるフレーズを奏する為の楽器でもなさそうだ(譜例は実にシンプルなものばかりだった)。 実際音を聴いてみても、さほどトリッキーなフレーズが出てくる風でもない。メチャクチャなのはボタン配置だけか。


4/17(水)

コンサーティナ(concertina)って楽器がある(楽器名と言うより商品名に近いと思われ、また統一的なカタカナ表記も定着していない)。 鞴を使った、要はアコーディオンみたいな発音原理の楽器(分類上も、アコーディオン属)なんだけど、異なる部分もかなり多い。 似たような位置付けのモノで、バンドネオンなんてのもある。

まず一般的な(ピアノ様の)鍵盤を採用していない。 ボタン式の発音トリガーになっていて、タッチの強弱によるヴェロシティ差なんてのもおそらくは無い。 アコーディオンが両サイドともボタンになっているようなものと言えば、多少理解の助けとなるだろうか。 アコーディオンすら知らなければ、この説明でも意味が分からないだろうけど。

最大の違いは、蛇腹の押し引きによって、同一ボタンにおける発音(音程)が変わる点である。 変化の幅もボタンによって一定していない。 二度だったり五度だったり。 聞くだに、演奏にとんでもない熟練を必要としそうだが、実際の奏者が言うには「そうでもない」らしい。 スケール(ダイアトニック)楽器なので、ハーモニカのように、適当に演奏してもとりあえずそれらしきものになってしまうと言うことだろうか。

スケール楽器と言ったが、正確にはスケール楽器タイプのものとクロマチックタイプの二種が存在する。 クロマチックの方は、蛇腹の押し引きによる音程変化が無い。 二種があるとは言うものの、演奏の勝手が違い過ぎて、本来同一楽器とすべきものか。

今私は、このコンサーティナを使った曲を作ろうと思っていて、その為に楽器の構造・原理について思いを馳せていたわけである。 因みに、生のコンサーティナを録ろうとか思っているわけではない。 でも、こういう(いわば遊びとしての)知識は、音楽を作る上で必要なんだ。 イマジネーションを立体的にするため。


ギターを弾かないライターの書いたギターのフレーズって、聴けばそれと分かったりするケースがある。 そしてそれは、「普段ギターに触れない」と言う経験上の理由ってより、ギターと言う楽器に対するイマジネーションの貧困さが原因になっている気がしてしまう。

どうすればギター(のフレーズ)にリアリティが生まれるか。 それは、ギタリストにギターを弾かせるんです。脳内で。 その為には一見無駄に思えるような(いわばゴミのような)知識が無数に要る。


4/16(火)

うどん屋で昼食を取っていたら、店内にラジオ番組が流れていた。 何やら言う若手(新人)女性演歌歌手の新曲とやらが流れたのだが、その曲のテーマは「日本を応援」みたいなもの(申し訳ないが、歌手名も曲名も綺麗サッパリ失念した)。

「日本を応援」などと言うが、その歌手のお姉さんはプロデューサーやらが考えた企画を言われた通りに遂行しているだけで、本音ではとてもそれどころではないと見えた。 新人歌手である。 自分の将来すら定かでないのだ。 曲が売れなければ、おそらくはこの先の歌手人生そのものが頓挫する。 他人の応援などしてる場合じゃないよ。

彼女の歌に、「日本を応援したい」と言う気持ちは微塵も感じ取れなかったが、自分に任された作業に真剣に取り組んでいると言う「誠実さ」だけは伝わってきた。 正直申し上げて、楽曲・歌唱両方とも私の琴線にそう深く触れるものではなかったけど、そのお姉さんには「がんばれ」と応援したくなる気分になった。

上のケースに限らず、街なかで耳にする数多の音楽、好みであるものなんてごく僅かだが、皆にそれぞれ「がんばれ」と思ってしまう。 私も大人になった。 若い頃は、好きでないものにこんなに寛容になれなかった。


と、ここで本題に移る。 斯く言う私だが、「寛容になれない対象」が存在してしまう。

どういうものかと言うのを一言で説明するのは難しいが、語弊を恐れずに言うなら「本質的に音楽に対する愛がなく、アートなどと言う作業を真剣に行うつもりもなく、それらの作業に真剣に取り組んできた先人らの一部が結果的に得た「成果」のみを掠め取ろうとしている輩」に対して、私の気分は寛容になれない。

私は基本的に、他人がどう生きようと、ある言葉に対してどのような定義を持とうが、構わないと思うようにしている。 ただ個人的に、ピカソや北斎の畢生の作業と、上の「私が寛容になれない対象」の行っている作業を、同一のものとは定義し難い。 それらの違いは、ある人にとっては明白であるが、ある人にとってはそうでないらしい。

端的に言うなら、本物なら好き、本物でなくとも無邪気なものには比較的寛容になれる、と言うことになろうか。 伝わり難いでしょうね。


4/15(月)

神田優花、新曲の最終リハでした。 もうレコーディングばっかりだ。

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影山リサ。 新曲の制作中。昨年末に出した「Sleepless Night」の評判が比較的良いらしくて、多少フィードバックも届いてたりします。 今年は(今度こそ)アルバムも出します。お楽しみに。

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4/14(日)

スタジオにて。

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川村真央ちゃん。ちょっと久しぶりのレコーディングでした。 今回の曲はパートも少ないし編集が楽だ。

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4/13(土)

たまに行くスーパーにこんな貼り紙があった。 「返品は、レシートか現物が無いと受け付けられません」だと。

「お前んとこで買った魚が腐ってたから金を返せ!」なんて言ってきたクレーマーがいたのだろうか。 あの貼り紙はその有力な傍証である。 しかもソイツはレシートも現物も持たなかったと見える。 恐ろしいな。こんな要求に応じてたら、店は金をたかられ放題である。

スーパー側の当惑は想像するに余りある。 私が店長とかだったらどうするだろうか。 「ウチで商品を購入したことが証明できなければ返金に応じられません」なんて常識的な返答が通じるぐらいの人間なら、そもそもソイツはその要求をして来ない。

「話せば分かる」は嘘である。 そう言った犬養毅は直後に銃殺されたじゃないか。 言語とはプロトコル。共有されてナンボのもの。


4/12(金)

例えば「ラーメン食べたいな」とか人が思うのは、ラーメンの味を知っているからである。 ラーメンの味を知らない人は、当然ながら「食べたい」とも思えない。 想像できないんだから。 徳川家康だって織田信長だって、アイスクリームなど食べたことも無かったろうが、「食べたい」とすら思えなかった。

想像力こそがその人の限界である。 ある時代には、天下人ですら夏の暑い日に「冷房が欲しい」とも「アイスクリームが食べたい」とも思えなかった。 想像がそこに至らなかったから。 想像できることであれば、それはもう現実である。

高級車に乗ることも、豪邸に住むことも、そんなの楽勝で我が想像の範疇だ。 自動車の概念ごと知らない人や、住む家すら無い人ならいざ知らず。 今いる家が数十倍規模になればそれは豪邸だろうけど、そんなの誰だって想像に難くないはず。

私にとって、想像できるものはもう我が手の中にあるもの。 だから私は、既存の高価な物質など手に入れるべく奔走なんてしていられない。 私は、まだ見ぬ気分を探すのに忙しい。 欲しいものとは、他でもない想像力。

音楽作品とは、私にある気分を、過去にそれを感じた時よりも、より心の深い場所にて感じさせてくれる道具。 私は、自分にある感覚を味わわせるための道具として、音楽を使っているだけ。


4/11(木)

私の祖母の話。 何年か前に死んだ。

晩年、彼女は体のあちこちに不具合を来たしていたらしく。 病院通いが日課になっていたらしい。 しかし、彼女の抱えていた諸症状の原因を特定するなら「老衰」である。 医者は魔法使いではない。治せる病気なんてたかが知れている。 時間を逆戻りさせることなんてできやしないのだから、医療と言うのは必然的に騙し騙しにならざるを得ない。 そういう意味では、全ての医術は姑息的と言える。

バアさんは日々の通院に飽き足らず、複数の病院をハシゴし出すものだから、当然似たような効能の薬ばかりを貰ってくる。 あんまり大量に同じような薬品を口にすると、かえって体に毒ではないかと家族に止められるのだが、その助言に対して「命を狙われているのではないか」などと勘繰りだしたらしい。 明らかなノイローゼである。 そう言えば死ぬ間際、何やら言う宗教などにも縋りついたらしいが、どの程度の験があったろうか。

彼女は、自身の健康状態に留意を怠らない人、などではない。 想像力や心の豊かさに欠け、愛や夢と言ったものに乏しく、故に最後に残ったのが「生への執着」であったに過ぎない。 仮にあと数年とか命を長らえたとして、何ほどのものが残せたとも正直言って思えない。

この、バアさんの断末魔の日々、当時私は既に実家におらず、上の話もほぼ伝聞である。 しかし彼女を知る私としては、何となくさもありなんと思えなくも無い話だった。

当時の私が実家にいなかったのは、私に「やりたい事」があったから。 人間がたどり着く場所とは、目指す場所なんだ。

いくつもの病院に通い詰め、大量の薬に囲まれ、誰一人信じられず、猜疑の心に取りつかれつつ迎えた最期の日だって、きっとその人の目指し続けた場所。


4/10(水)

神田優花、先日のリハーサルにて。

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孫子(兵法書)って、ある時代までは禁書と言うか、門外不出のような扱いだったらしい。 ある目的を持つ人らにとっては垂涎の的だったろう。

が、実際に入手して見てみると「なんじゃこりゃ」みたいな内容。 そりゃそうだわな。 戦争に勝つ方法なんて、魔法の呪文じゃあるまいし、簡単にテキスト化できるわけない。 意味のあるテキストと言うのは、読む人が読まないとその肝心の意味をなさないのだ。


4/9(火)

片飛鳥、歌入れでした。 新作のリリース、秋頃に間に合うかな。

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何故かリクルートスーツの真央ちゃん。

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4/8(月)

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スタジオにて。 上は差し入れ。抹茶味の人形焼みたいなの。

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自信って何だろう。 自信有り気な人、自信無さそうな人、いますよね。

自信とは読んで字の如く、自分に対する信用なのだろう。 「他ならぬ私だから、幸福な未来が待っている筈だ」とか、逆に「私如き、この先も碌な未来が待ってやしない」とか、人はそれぞれ未来に観測を持っている。 何も信じられないと言う人は、要は自分が信じられない。

未来の観測の基礎となる、「自信」とは如何様に涵養されるものか。 それはきっと誰かを幸福にした経験を通じてだろう。

一般に親は、子供を祝福する。 その子が存在することを手放しで喜び、それを幸福と感じる。 だから、親が子の存在を喜べば喜ぶほど、その子は他人を幸福にした経験を蓄積できる。 これこそが、その子の自信となり、その子の目の前に広がる未来となる。

愛されなかった子は、他人を幸福にした経験に乏しいので、自分に自信が持てない。 他人の機微が自身の蓄積となる、と言う平明な事実に気付かぬまま世界を見つめるので、他人と言うものに存在意義を感じにくい。 ややもすると有害にさえ感じられる。

自信が持てなくてどうしようもないって人は、そばにいる誰かにメシを奢ってみれば良い。 「そんなこと既にやってるよ」って言う人は、その行為を「自分を好かせる為」にやってやしないだろうか。 メシは相手を喜ばせるために振る舞うもんだ。

相手を喜ばせたと言う経験は、そのまま自信となり、我々の心に蓄積される。 自信とは、誰かを幸福にできると言う確信のこと。

だからサラリーマンとかでも嫁子供いる奴とそうでない奴には、持てる自信に差が出るのだ。 それは即ち他人を幸福にした実績の差。

我が身を祝福する親の存在は財産だが、親すらも他人なので必ず得られるとも限らない。 未来が闇に見えるなら、隣にいる誰かを幸福にしてみれば良い。 騙されたと思って。


4/7(日)

歌詞を書くのって大変だ。 私は音楽を通して表現したい何かに比べ、歌詞を通して表現したいものってのが希薄だ。 音に関するアイディアは腐るほど湧いて出て、形にする作業がおっつかない状態なんだが、歌詞で積極的に表現したい世界なんてそんなに(曲ほどは)無い。

ここ最近の私の作詞って、やらないと曲が完成しないので仕方なしに「音符を言葉で埋める」ってだけの作業に近い。 無論手を抜いているわけではないのだけど、これだけ後回しになってしまう時点でそんなにやりたい作業でないのだろう。

変な曲であればあるほど他人に詞を書いてもらいにくくなるので、そういうヤツから順番に自分で書く(埋める)ことになったりする。 だから余計に、この作業が好きじゃなくなってるような気がしないでもない。


4/6(土)

新聞連載の4コマ漫画とかを見ていると、「この作者、日々これのネタばっかり探して生きてるんだろうな」とか思わずにいられない。 きっとそうだろう。

音楽家だってこの辺は同じだ。 日々ネタを探してばかりだ。 人間は考える葦である。 「どれだけの意識を注いだか」が、結果としての作品に投影される。 私が芸術作品(創作物全般)に優劣をつける基準はこれ(だけ)である。 作者の注意の量。 ピカソも確か、芸術家に必要な四つの態度のうちの一つとして注意を挙げていたように記憶する。

私は常に脳をアイドリング状態にしているって話を以前にしたのだけど、それって何なのか。

芸術ってのは、つまりはその脳のアイドリングのことなんだ。 強いて例えるなら原発とかに似ている。 原発が電気を生み出すように、脳が曲を生み出す。 実は作品なんて副産物なんだ。 曲ってのは、脳のアイドリングって言う絶え間ない運動律の一位相に過ぎない。

私は一々の作品は完成させるけど、芸術を完結させたりはしない。 やはり私は作品なんかより、それを生み出すに相応しい自分になりたいだけなんだと思う。


4/5(金)

歴史上の人物は、映像が残っているケースが少ないので、人物像が掴み難い。 西郷隆盛なんて何がそんなに凄いのか全く分からないが、実物を見さえすれば、その傑物ぶりは一目瞭然だったのかもしれない。

三島由紀夫は生前のインタビュー映像が残っている。 見るからに利発、聡明そうで、発する言語も明晰、文学者らしく修辞に富んでいる。 が、視線の配り具合に微かな危うさを感じなくも無い。 危うさとは精神の脆弱さ。

三島が結果的にああいう事件を起こしたからそう思うのではない。 私は現代のある有名人にも彼と同じ脆さを感じているもの。 因みにその人は事件は起こしていない。 三島ほどの酩酊体質ではないのだろう。


4/4(木)

音楽を誰の為に作るか。 こういう事はよく考えてしまう。

ある程度長いこと音楽作品を公表し続けていると、多少はリスナーの類も付いてきてしまう。 諸々の感想とか、そういうフィードバックも受けるようになると、そういうお客さんが確かに愛しく見えてきたりもする。

浮世に「ファンの皆さんの為に音楽を続けています」みたいな事を言うミュージシャンは多いが、正直言って私は違う。 この事務所がスタートした時、ハッキリ言って可視的な範囲にいるファンなんてゼロだった。 若い男の子のバンドみたいに、スタート時からある程度周囲の知り合いに見守られつつ音楽活動を始めたわけじゃない。 「ファンの為に始めた」なんて言うと明らかな欺瞞になる。

私は音楽を自分の為に作り続けている。これだけは間違いない。 ただ、「自分と似た誰か」の事を純然たる他人と見做していないだけだ。


4/3(水)

スタジオにて。

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ンビラとかバラフォンなんて言うアフリカの楽器がある。 民芸品みたいないい加減なものかと思っていたら、一応キチンとしたチューニングなどもあるらしい。

ちょっと調べた限りでは、ンビラのチューニングは何だか半音単位で並んでなくて、高度な音楽表現には向かない感じだ。 バラフォンの方もよく調べてないけど、どうもクロマチック楽器では無さそうだ(一般に、未開地域の音楽は使用スケールの音程間隔が広くなる傾向にある)。

インターネットで調べてみたんだけど、サイトによって正統とされているンビラのチューニングは違う。 ただ、よくよく見てみると配列(音程間隔)自体はほぼ同じみたいで、要するに絶対音高が定まっていない楽器ってことなのか。

最近あらためて分かったのだけど、私って人は、どうやらスキッフルとか民俗音楽とか言う比較的素朴な音楽(編成)が好きらしい。 問題はそれらの楽器を使って、どこまでの音楽表現が可能かってところに尽きる。

楽器ってのは表現の手足なんで、使い勝手良いに越したことはない。 民俗楽器みたいなものって、当時の用途上、表現に事足りてはいたんだろうけど、現代の音楽表現にはちょっと難がありましてね。 創造に全然追いついていないのよ。


4/2(火)

先日のリハーサル。

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桂米朝さんの落語のCDを聴いていたら、こんな小咄があった。 病院に毎日通う老人らの会話。 A「あの人今日はいませんな?」、B「あの人病気しましてん」。

私のよく通う道沿いに病院があるのだが、老人ら(ほぼ同じメンツ)が毎日開院前から並んでいる。 顔見知りになってしまうのだろう、仲良く談笑しながら。 つい上の小咄を思い出した。

この状況で高齢者の医療費を無料化したりなんかしたら、おそらく日本の医療行政は破綻するだろう。 病院は娯楽施設じゃないんだが。

こういうことを言うと「お年寄りになんてことを言うんだ」とか言われそうだ。 しかし、病気(身体の不具合)と言うのは老人に限った症状ではないのだ。 本当に体調を崩した若者だっている。ディズニーランドみたいな感覚で通い詰められたら他の人に迷惑だったりしないのか。

現実の医師らが、どのような気分で職務についているのかは知らない。 単に「金になる」と言うだけの理由で医者を志したのかもしれず、上の老人らをどんな気分で遇しているのかも分からない。 が、「病に苦しむ人を救いたい」と言った動機にて医者になったような人なら、上の老人らの応対に持ち時間を食い潰されるのは苦痛でしかないはずだ。

人間は時間しか持っていないのだから、生命や健康に執着する気持ちは分からないでもない。 が、生き長らえること自体は目的ではない。 使い道あっての命だろう。 毎日病院に並ぶ老人には、生の目的など無い。 断言して良い。 あんな人間になり果ててはいけない。


4/1(月)

スタジオにて。

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ピカソが生涯に残した作品の点数って、諸資料マチマチだったりする。 ちょっと手元で見てみただけでも数千の単位から6万点、8万点、あるいは15万点なんてのもある。 これはちょっと誤差のレベルではない。

これは各資料得ている情報そのものが違うわけではなく、おそらくは解釈の違いなのだろうと思われる。 どの程度絵画以外の作品をカウントするかとか、習作レベルのものの、どの程度までを作品に入れるか、による違いだろう。

モーツァルトやバッハの作品番号(K〜・BWV〜等)は、諸書完全に一致している筈だ。 番号割り振りの目的が学術用途だったりするので当然だろうけど。 ピカソ作品にはそういうオフィシャルな通し番号みたいなのは無いのだろうか(調べたら一応あるっぽい。クリスチャン・ゼルボスのカタログ・レゾネ(作品全集)は中でも有名らしいが、事実通説すら割れている事でも明らかなように、それとて洩れが多いそうだ)。

しかし曲を作ってるとよく思う。 絵画はきっと大量の習作を生んでしまうに違いない。 シーケンサーなどでラフなメロディラインを、いわばスケッチする際、私は片っ端から「入力しては消し」を繰り返す。 楽器を手に鼻歌、とかでも似たようなプロセスを踏むわけだが、これが「キャンバスに油絵」だったらそうは行かない。 大量の「描き損じ」を生んでしまうに違いない筈で、それを習作とするか単なるゴミとするかで、生涯の作品点数も変わってしまうのだろう。

「アトリエに転がっていた書き損じなんて、それを作品とは言うまい」ってのは鑑賞者の感覚。 ピカソの絵なんてのは、それを売りたい人ってのが存在してしまうので、おいそれとゴミとは呼べなくなってしまうのだろう。


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