Staff diary  
スタッフ日誌[2013]

[文 / 益田(制作)]

3/31(日)

過ぎた時間が戻ることも、死人が生き返ることも現実にはあり得ないけど、私はその現実をさほど悲観しない。 悲観しない術を編み出したって感じだけど。

死んでしまった愛する者は、この宇宙の果てまで探し回ったって存在していないが、会える場所が実はたった一つだけ存在する。 それは我々の心の中。

私には、過ぎてしまった時間にまた巡り会える自信みたいなものがある。 それは会うと言う物理的な行為、機会の実現ってよりは、同じ気持ちを味わえる自信。 それはあくまでも私に属すること。

金だって物だって名誉だって、愛する誰かですら、私たちがこの心で感じているだけなのだから、我々次第できっとその日は来るはずだ。 同じ気持ちを味わえる瞬間。

私が曲を作り続けるのは、通り過ぎたあの気持ちや、更にはまだ見ぬ景色を味わうため。


3/30(土)

私は実のところ、「自分の背後に世界など無い」と思っている。 この世界観は信仰と言うよりは合理性が基礎となっていると思う。

言わでものことだが、私は私にしかなれない。 どんなに大切な人も愛する人も、その人の視点・感覚は私の想像の範疇にしか存在していない。 どう努力したって私が他人になれることなんてあり得ないのだから、親兄弟も親友も恋人も、皆私の人生と言う映画の登場人物の一人に過ぎない。

そしてその映画は、私の死をもって終わる。 必ずその日は来る。

私の目に映る今と言う瞬間、これがこの宇宙の全てである。 我々が持っているものとは、つまりは時間のみである。

だから私は、残り時間の許す限り、私が楽しめる日々を生きたい。 眩しい未来を感じながら、何よりも好きな音楽を、愛する思い出や大好きな人たちと作り続け、おいしい食べ物を食べ、納得できる自分になる。 私は妥協しない。


3/29(金)

川村真央、新曲制作中。

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アラブ音楽における楽器編成について。

定番的な楽器がいくつかある。 ナイ・ウード・カーヌーン・カマンジャ(楽器としてはバイオリンと同じもの、フィドルとか呼んだりするようなものだ)、あと打楽器としてダラブッカ・リクなど。 特徴的なのは低音を担当する楽器が無いこと。

一応アラブ音楽にもオーケストラ級の大編成はあって、そういうケースであれば低音もそれなりに充実してるみたいなんだが、室内楽のような特に小編成の場合、低音が抜け落ちたような音になる。 POPSやクラシックに慣れ過ぎた耳には若干気持ち悪いかも。

カーヌーンとかわりかし音域が広めの楽器もあるにはあるのだけど、ベースを担当させるってのも何か違う。 そもそもアラブ音楽には機能和声なんて言う考え方自体が存在していないのだ。


3/28(木)

影山リサ。 新曲の制作中。 2ndアルバム収録用の作品は一先ず録り終えたのか、今やってるのはアルバムに収録するか微妙な作品みたいです。 影山さん、なんかまた風邪引いてるらしい。

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ハーモニーってのは言うまでも無く西洋音楽の所産なわけだが、あれ(コーラスを重ねること)って録音物を作る際の、重要なエフェクトだったりもする。 単なる厚みをつけるだけならダブルとかあるけど、結果としての効果が全く違う。

最近、極力ハーモニー(和声)を避けた作品を作るのだけど(無論モノによる)、ボーカルエフェクトとしてのハーモニーの効用は捨てがたいと思える。 あれ以外の手法であれに近い効果を得る方法を、今色々模索してます。


3/27(水)

神田優花、またレコーディング。 今インド音楽・アラブ音楽・ガムランの三部作(各2曲・計6曲)を制作中。 インド物を録り終えて、現在ガムラン物の制作に入ってます。

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リズムパターンの新作ってめっきり減った。 一昔前には、リズムパターンの創造合戦ってあったのに。 有名なところではドドンパとか。 出尽くしてしまった感があるのだろうけど、こういうの一つとっても音楽業界ってのが廃れているのが分かる。

確かにリズムパターンにはある程度限界がある。 特に商業用途であれば、極端にアブノーマルなものにするわけにも行かないだろうし。 しかし「出尽くした」とかって感慨は、要は業界の当事者らの気分である。 そんな感覚で世界を見つめてちゃイカンだろう。 仮にも創造を生業としているのだから。

音楽ジャンルってのも、ドラスティックなものが中々生まれませんな。 ジャズとかHIPHOPとか、そういう衝撃的なの。 プログレッシヴハウスとかEDMとかハッピーハードコアとか言われても、それを一ジャンルとは見做し難いよ。 やっぱしアフロ・アメリカンの発想力って凄いね。


3/26(火)

下、スタジオにて。 広瀬沙希の新曲の歌詞について、修正入れるかどうかでスタッフで迷ってた。 よりにもよって広瀬さんだもんで。歌詞こそがセールスポイントなんだ。

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普段やってる諸々の作業のうちでも、作曲(創作)って一番時間が掛かる(何をもって作業の定量とするかは判断の難しいところだが)。 それに比べれば創作性の薄いもの、例えば単なるデータの入力みたいなものって時間は食うけど、食った時間相応の成果は確実に上がるから楽と言えば楽だ。

私には、ボーっと物思いに耽っていたり、一見無駄話のようなことをダラダラとくっちゃべってる時間がいる。 実はそれこそが音楽を産む燃料だからだ。 私は寝ている時以外、基本的にモノを考えている。 常に脳をアイドリング状態にしていると言って良い。

このアイドリング、確実に創作と言う作業の一工程ではあるのだが、成果が見えにくい。 下手すると遊んでいるようにしか見えなかったりする。

きっと画家とかだって、絵筆を持ってキャンバスの前に立った時点でほぼ作品は完成しているはずだ。 完成形を脳裏に描くまでが本来の創作なのだ。 脳内に存在していない作品を手先だけで書いたような作品ってのは、見れば(聴けば)分かるものです。


3/25(月)

民族による音楽様式の違いとは、つまりは言語の違いであるって話を以前にもしたのだが、またそれについて。

中東音楽に頻出する微分音(トルコでは一音を九分割する)や7拍子や13拍子などのイーカーは、我々(非アラブ世界)の感覚では前衛表現としか思えなかったりするが、あそこではあれが伝統様式である。 アラブ言語こそがその感覚を為しているに違いない。

中東っぽい音楽を作ろうと思うと、まずそれ用のツールがいる。 一応あるんですよ、その手の音源類。 中東の人が作ったVSTとか、面白いんで私も使ってる。

で、その中東音楽用音源、実に使いにくい。 「音楽様式が違うんで、作品を作るのが大変」と言っているわけではない(それはそれで大変だが)。 ツール類の使用感と言うか、アルゴリズムが違うのである。 普段、感覚的に行えている操作がしばしば通用しない。

これってつまりは、慣習上の差異があるのみでなく、論理体系が異なるってこった。 普段当然だと思い込んでいるコンセンサスが、言語圏が違うってだけで通用しない。 論理の前提が言語だからだろう。


音楽そのものを研究する分野やその世界の学者がいる。 その研究の成果としての文章を私はしばしば目にするのだが、上の結論(音楽様式と言語の関連性)に触れているくだりにお目にかかったことがない。 単に私が寡聞にして知らないだけか、本当にそういう仮説すらも成立していないのか、あるいは当然に過ぎる、愚問とも言うべき前提なので端折られているだけなのか。 私にはよく分からない。


3/24(日)

アラブ音楽、習作っぽいものを二つほど作ってみた。 発表については未定だが。 以下、中東音楽の理論的核とも言えるマカームについて。

インド音楽のラーガは、西洋音楽で言うところの旋法よりは内容が込み入っているのだけど、中東音楽のマカームはほぼ旋法と言って差し支えないと思われる。

楽理書の類を読んでいると、マカームはどうも、いわゆるスケールのように構成音の音程間隔のみを規定したものでは無いっぽい。 各マカームの音高は絶対的なものみたいだ。 まあ教会旋法なんかと似ている。

現代のモードと教会旋法ってのは、核の部分は無論同じなんだけど、前者の方がやや発展的と言える。 D#ミクソリディアン・スケールとかって、教会旋法の全盛の当時には無かったもので、例えばドリアと言えばDから始まってDで終わる、みたいに音高ごと決められていたはず。 また旋律の広がりも、基本的には一定の範囲内に収まっていて、それ以外の、例えばトニック以下へ広がるようなものは例外(変格)とされていた。 マカームはそれに近い。


音楽を含む諸々の文化って、文化圏ごとに独自の発達を遂げるもんだけど、やはり西洋音楽ってのはそういう単なる地域差とは根本的に異なるように思える。 マカームとの地域差の範囲に収まるものを西洋音楽に見出そうと思うなら、教会旋法ってのが一番近いと思うが、西洋音楽のその後の発展型と比肩しうるものが非ヨーロッパ世界に全く見当たらないもの。


3/21(木)

中東音楽に使われる楽器群の中で、ナイとかウードについてはまあ粗方分かると言うか、構造・奏法についての想像がつくのだが、カーヌーンってヤツだけがちょっと分かりにくい。

各種資料に目を通すと、音程を調整するための構造として、ペグだのアルバだのモンダルなんてのがあるとのことなのだが、イマイチ厳密な構造がつかめない。 それらが同じものを指しているのか否かについても、正確なところが分からない(アルバとモンダルは同一構造物で、グレード違いみたいなものらしい)。 こういうのって、知り合いに奏者がいたりするだけで忽ち理解できるだろうに。

各音3本づつ26コースの弦を張るとある。音域は約3オクターブ半とな。 そうすると単純な弦数は合計78本、26コースで3オクターブ半ならクロマチックではないと言うことか。 スケールベースで調弦されていて、上のペグだとかモンダルだとかを使って各種マカーム(の半音・微分音)に対応させると言うことなのだろうか。

マカームは西洋音楽で言うところのスケールとは微妙に違っていて、上行・下行で構成音が変わったり(西洋音楽にもそういうスケールは存在するが)、いわゆるテトラコルド単位で構成音が配列されているので、必ずしも1オクターブ単位で音階がループしていない。 またマカームは、曲中にも頻繁に転移(転調?)するみたいなので、上の構造物(ペグだの)の出番も結構多いのではないか。

アルバ・モンダルなんてのは、フレット構造を基礎にしているっぽい。 どうやらレバーだとかを使って1/4音単位で音高を固定するらしいのだけど、ギターとかで言うカポタストみたいな仕組みだろうか。 もうしそうなら、1/4音単位と言うが、(開放弦の状態から)「1/4音下げる」なんてことは出来ないはずで、基本上げる事のみにしか対応していないはず。

解説文に「ペグを使って音を調整する」みたいな表現が頻出するのだけど、どういうことなんだ。 普通ギターとかでペグっつったら弦のテンションを調整する糸巻きのことを指す。 画像や動画なんかを見る限り、カーヌーンにも確かに糸巻きらしきものは存在しているが、あれを演奏中に弄るなんてことはちょっと考えにくい。 ピッチがメチャクチャになりそうだ。 ペグを使用して云々ってのは、上のモンダルなんかと同じモノを指しているんだろうと思いたい。 詳しい人いたら教えて下さい。


3/20(水)

スタジオにて。

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曼荼羅の解説DVDみたいなのを見ていたのだが、途中から眠くなってしまった。 面白くない。

紹介されていた曼荼羅の来歴はよく分からないが(と言うか作中で説明があったのかもしれないが、上の空で見ていたから分からない)、あれってどのくらいの歴史があるのだろうか。 何だか安っぽいカラフルさで、どうも骨董的価値みたいなものを感じないのだけど。 センス的には東南アジアとかの仏像みたいだった。


3/19(火)

大魔神(映画)のDVDを見た。 はじめから分かっていたけど、モノが古いんで、特撮の技術としては大した事無かった。 大魔神の基本ストーリーは、時代劇とかによくある典型的勧善懲悪モノで、時代設定は日本の中世ぐらいに見えた。

大魔神は正義の鉄槌を下すのは良いけど、何をもって善悪の基準としているのだろう。 例えばあるエピソードでは、主家を乗っ取った家老か何かに天誅を加えるのだが、必ずしも世襲が正義ではあるまい。 主家だって何代前かは知らないが、大方腕ずくでその立場を得たんだろうに。 まあその家老は、家を乗っ取った後に悪政の限りを尽くすみたいな話ではあったけど。 どうも腑に落ちん。


3/18(月)

私は基本、歌モノしか作らないわけだけど、聞く分には器楽の類もしばしば聴く。 器楽曲を聴いていて羨ましく思うのは、作曲(旋律構成)上の制約が少ないところだ。

人間の音域って実に狭い。 こんな狭い楽器も少ないってぐらいに狭いのに、基本主旋律を担当(私の場合特に)するからタチが悪い。

ブレスとかも考えてラインを作らないといけない。 これもえらい制約だ。 楽器ってこのブレスを考えないで済むところが楽で良い。 吹奏楽器ですら循環呼吸法とか言って、ブレス(と言うか休符)を必要としない奏法があるが、歌にはこれもない。 歌詞が乗る以上、原理的にも絶対無理。

歌詞が乗るってのもまた制約だ。 っつうか、これ最大の足枷かもしれない。 曲とか作ってみると分かると思うけど、乗っているセンテンスが物凄くメロディーを制約する。 それでも私は歌が作りたいのよね。 これは信念に基づいているから仕方ない。


3/17(日)

神田優花、新曲の上がりをいくつかまとめてチェック。 立て続けにまたレコーディングです。

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佳乃、先々週に録った音をチェックしてました。

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3/16(土)

広瀬沙希、新曲制作中。 夏頃に新作発表したいんだけど、間に合うかしら。

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影山リサ、新曲の上がりをチェックしてました。

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3/15(金)

タクシームってヤツがよく分からない。 アラブ音楽の演奏様式の一つで、独奏楽器による即興演奏、基本的に自由リズムである。 これが、教科書的な説明になる。 雅楽の音取りとか調子ってのに似てなくもない。また、インド古典音楽のアーラープに、より類似性を見出せるように思える。

タクシームの各フレーズ塊は一応三部構成になっているそうで、アーラープにますます似てるのだけど、音資料を聴く限り、その三部構成とやらが全く掴めない。 まだ色んなことが理解できてないのだろうな。

タクシームは、基本的には独立した楽曲って言うより、前奏曲的な位置付けであるらしい(無論例外はある)。 ここもアーラープと同じである。 インド音楽と中東音楽は、旋法(マカーム・ラーガ)を理論的柱として構成される点など、共通点が多い。 地続きだし、影響し合うところも多かったのだろう。


3/14(木)

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ちょっと前にモスラ(怪獣映画)のDVDを見た。 多分私はあれを初めて見たことになる。映画館では勿論、テレビ放送なんかも見た記憶が無い。

が、劇中歌である「モスラの歌」は知っていた。 物凄く有名な歌なので、皆さんもほとんどはご存知のはずである。

子供の頃の私は、あの歌に強烈な不気味さを感じた。 当時のそのツボをまた穿り返してみようと、DVDなんぞを見てみたわけである。

結論としては、全然大したものではなかった。やはり大人が見るもんではないな。 歌詞がインドネシア語だそうだが、インドネシア語の全く分からない私が聴いても下手なのが分かる(発音がね)。それほどに拙い。 歌っているザ・ピーナッツはプロの歌手なので、相応に耳も達者なはずで、おそらく現地語にての仮歌のようなものが用意されておらず、カタカナで書かれた歌詞を歌わされただけなのだろう。 気の毒な。

あの映画がウケた背景には、当時の日本の社会情勢も濃厚に影響していたろう。 高度経済成長の経済至上主義・科学万能主義みたいなものに警鐘を鳴らすようなストーリーで、ゴジラとかも、確か放射線の影響でミューテーション起こしたとか、そういう設定じゃなかったかしら。 モスラも未開地域発の、人知を超えた存在と言った設定。

映画では、小美人と言う双子の巫女(小人)が件の「モスラの歌」を歌うわけだが、子供向けとは言え、その辺も相俟ってそれなりに不気味なものに仕上がっている気はした。 ここで言う不気味さが、製作陣の意図と同じか分からないけど。

ただ、当の歌そのものがあまりにお粗末に思えた。 あの歌、どう聞いても正統な西洋音楽的教養の持ち主にしか作れない。 未開社会伝承の歌であれはないわ。 アレンジの管弦楽法なんかはさておき、歌にすら思いっ切りハーモニー入ってるしな。 大衆向け映画にこんなこと言っても詮無いが、興醒めではあった。


しかし、大真面目に未開社会の歌を作ろうと思ったら、それはそれで大変だわな。 まず西洋音階や和声なんかを使うなんてもっての外。それこそがウソ臭さの源となる。

モスラの主な舞台の一つは、インファント島(架空の島)と言うことになっているのだが、太平洋の孤島ってことでインドネシア語を持ってきたのだと思われる。 例えばインドネシアには有名なガムランがあるが、バリのゴング・クビャールなんて編成だって、あれは確か近々百年くらいの歴史しかない。 あれですら多分に近代の産物なのだ。 純然たる未開社会の音楽とはほど遠い。

それより何より、現地語での思考を経たものでないと、きっとどうしてもウソ臭さが抜け切らない作品になってしまうはずだ。 太平洋の島から現地の音楽家を連れて来て、映画のテーマ曲を作曲してもらう、あるいは現地伝承の歌を拝借する、なんてことをすればそれなりのものになったかもしれないと思うが、きっと大衆映画用には向かないものになる(私の興趣は満たしてくれたかもしれないけど)。 あの曲は結果としてこれほどの有名曲になっているわけだから、商業用途としては大成功なわけだし、あれはあれで良かったのだろう。

モスラの歌は、全然予想したほど私の琴線に触れるものではなかったけど、私はこれにめげず、がんばって気持ち悪い曲を書こうと思います。


3/13(水)

ある店で食べた「鳥の揚げ物」があまりにうまかったせいで、次の日別の定食屋でも似たようなものを注文したのだが、それが実にまずかった。 ベタベタと油の切れが悪い上、食材(鶏肉)が古いのか処理がマズいのかよく分からなかったけど、臭みが強くて、とにかくまずかった。 以下、そこで考えた事。


人は時に感動する。 しかし、芸術作品などの、ある対象について人が感動する時に、感受性のありようによって全くその感動を共有できない人がいる。

まずい食い物を出す店は、多くの場合、それを生み出す頭脳(料理人・経営者など)がそのまずさに気付けないからこそ、それを平然と他人に饗する。 きっとその人だって過去には食べた事があるであろう「おいしい食べ物」の、そのおいしさに気付けない感性こそが、まずい食い物の発生源となる。

感動的な音楽作品は、しばしば人感動させる。 が、そこにその感動を覚えない感性の持ち主が居合わせた場合、彼は一人その意味が分からない。 その人に分かるのは、感動させるもの(作品、あるいはその作者)と感動させられる者、と言う表面的な図式のみである。 従って多くは、どうせなら「感動させる側に回りたい」と思ってしまう。

そういう人は、根本的に芸術家(感動の供給者)には向かないはずなのだけど、「向く・向かない」の自己判断すらも理解に基づくものなので、あまりに向かない人にはそれが分からない。 だからして、何の悪夢か、そういう人が創作物の供給者となっていたりする。

そういう人が、ホンの少しでも感動を理解できたなら、きっと「自分にそれが生み出せるか否か」ごと分かってしまうはず。 だからしてその人は、芸術に対する理解が絶無であるが故に芸術家たらんとする。 一種の悲劇である。

その人は、まずい食い物屋の料理人のように、いわば食い物の本質的なうまさを捉えられない感性だからして、結果生み出すものも、必然的に本質から逸れたものになる。 多くの人が本来芸術作品に求めたであろう「感動」の成分が、ほとんど入っていないような作品を平然と発表する。 が、彼はその行為に羞恥など感じない。 感じるぐらいならそういう行動を取っていないはずだから。

まずい食い物を梃子に、世に溢れ返るおもしろくない作品、の発生メカニズムを私なりに考察してみた。 多分合ってるだろう。


3/11(月)

先日のスタジオにて。

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3/10(日)

影山リサ、レコーディングでした。

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人間にはどうやら、その人固有の雰囲気と言うか、人格的風韻ってものがあるらしい。 そしてそれは絶対に誤魔化せない。 賢い人はどうふるまっても賢く映り、バカな人がどう賢しらに振る舞っても、そのメンタリティごと等身大の愚者として周囲に映る。みたいです。 だから、カッコイイ音楽とかやろうと思うなら、まずカッコイイ人になるしかない。


3/9(土)

イーカー(アラブ音楽の拍節法)について、色々調べていたのだが、またこれも情報少なくて困っている。

打楽器の中でも、ダラブッカくらいメジャーなものならなんとか奏法についての情報も得られたのだけど、その他のものになるとまともな資料(書籍・ウェブサイト)が見当たらない。 その他のものってのは、具体的にはリク(レク)・ベンディール・ドホラ(低音版ダラブッカ)等々。 ドホラは要するにダラブッカなのだろうと思うけど、それも正確なところよく分からない。

各種イーカーの、大雑把なアクセントの位置なんかは大体のところ分かったのだけど(それにしても資料による異同はある。そんなに厳格な様式でないと見た)、ダラブッカの奏法とそのアクセント位置との相関関係がよく分からない。 Dum(Dun)とかTek(Tik)なんてのが、ダラブッカの奏法用語とイーカーのアクセントとしての用語、双方に使われているみたいなのだが、完全に一致(整合)していないところがあったり、私としてもまだ理解できていない。

しかしダラブッカはまだマシ。 それ以外になると資料すら全く見当たらず、各イーカーに対応する奏法なんかも皆目分からない。 せめてレク(タンバリンみたいな楽器)ぐらいについては知りたいところなんだけど。

動画とか当たってはみたが、あんなんで正確なところなど分かる筈もない。 あるいはダラブッカ以外の楽器には、様式と言うほどの厳格なものは存在しないのだろうか。 まあダラブッカについても、大体のパターンはあっても、細かいオカズについては奏者の裁量に委ねられてるっぽいしな。 もう少し調べてみます。


3/8(金)

最近インドだの中東だのと、エスニック音楽にちょっと傾倒しつつあったのだが、久しぶりにモーツァルトを聴いたりなんかすると、「やっぱ西洋音楽って良いわ」と思わずにいられない。

インドや中東の古典音楽とか、雅楽のヘテロフォニーなんてのは、要は単旋律に毛が生えたようなもので(異論はあるかもだが、とりあえず話を進める)、ヨーロッパ型の機能和声ってのが唯一の異彩を放っている。それほどにヨーロッパ音楽は無二のものだ。 彼らヨーロッパ人が、自らの文明に絶対的な自信を持ってしまうのも頷ける。

言うまでも無いが、モーツァルトの時代にDTMは無かった。 彼はあれらの自作曲をほぼ全て脳内で組み上げ、譜面化したものを各奏者に渡し、実演奏によって完成を見た。 短期記憶などと言う、脳の(言語的)ポテンシャルが為しえる業に相違なく、それらの偉業はヨーロッパ言語抜きにして説明できない。 山田耕筰にかの曲は書けるはずもなく。黒田清輝にピカソの絵が書けないのと同じである。

日本語と言う言語で、あれほどの情報を抱えることができるのだろうか。 私はやろうとしているのだけど。 ヨーロッパ言語(印欧諸語)以外でこれを可能ならしめる言語があるとすれば、それは日本語でしかあり得ないと思うがね。


3/7(木)

先日のスタジオにて。

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西洋楽器のリュートと中東楽器のウードは、基本同じものらしい。 構造上の決定的違いはフレットの有無にあるのだが、実際に演奏するならいざ知らず、サンプラーのライブラリーなどにおいては、その違いなんて存在しないに等しい。 仕組みとしては、各音程ごとにサンプリングしたオーディオデータの貼り合わせなんで。

再現の障壁になるのは複弦ってヤツだ。 複弦をここで説明するのは面倒なので、知りたい方には調べてもらいたいのだが、12弦ギターみたいなものを想像していただければ、理解も早かろう(それも知らなかったらゴメン)。 リュートとウードは複弦の(スタンダードな)調弦が違う。 大抵の音源類は、複弦の発音込みでサンプリングされているので、要するに双方代用が利かない。 基本構造は同じ楽器なのに。

当面、曲にリュートを使おうと言う構想は無いのだけど、ウードはある。 ウードの方が複弦の調弦はシンプルなのだけど、困ったことに通常最低音(6コース目)だけは単弦なのだと。 因みにリュートの方は最高音だけが単音だったりする。 さてどうやって再現したものか。


3/6(水)

先日のスタジオにて。

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佳乃、レコーディングでした。

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3/5(火)

絶対音感保持者と言う種類の人間がいる。 ある周波数を耳にした時、それが440Hzなのか441Hzなのか聞き分けられると言う。 私にその能力は無い。

絶対音感は、成人後の訓練では培えないと言う。 幼少期にそれ(絶対音感涵養)用のカリキュラムを施す必要があると言うが、実はこの理解は厳密でない。

絶対音感は、幼少期に培うのではなく、おそらくほぼ誰しもの幼少期に見られる能力で、多くの人はそれを成長過程で失う。 上のカリキュラムとは、能力を培う為ではなく、失わしめぬ為のものであると言う方が実態に近い。

絶対音感と同種の能力で、映像記憶能力と言うものがある。 こちらは聴覚でなく視覚における絶対的能力である。 見たものを、印象を介さずに、いわば写真に撮ったかのように脳にインプットできる。 電話帳のあるページを記憶すれば、そこに載る電話番号をいつでもスラスラと読み出せる。

これら絶対的記憶能力は、ヒトの幼少期のみでなく、チンパンジーの幼獣にも見られるらしい。 この能力を人から失わしめるものとは、おそらく言語機能である。

いわゆる理系バカとかいわれるタイプの人種がいますよね? 数学が人並み外れてできるのに、言語が覚束ない人。 多分その人は「数学ができる」のではなく、言語の獲得に失敗し(あるいは生来そういう脳の状態であるが故に)、ある能力の淘汰が十全に行われていないのだろう。 私はこの仮説に自信がある。

人を含めた動植物は、そもそもは皆単なる宇宙の一部だった。 言語の獲得により、幸か不幸か人はこの宇宙から独立してしまった。 まずロゴスありきと言うのはそういう意味なんだろう。 あなたに何かを感じさせたり、目に映したりするものとは、即ち言語。 それはあなたそのものだ。

勉強ができる人は頭が良いとか言われるが、ある機能(これも頭脳に属する)が欠如するが故に、過酷な勉強が「辛くない」人もいる。 辛さを捉えるのも感受性だからだ。 絶対記憶能力が失われず、苛烈さを捉える感性も育たない人であれば、きっと学校の成績もある程度のレベルをマークできる(科目は限られるだろうが)。

だから、勉強が辛いとか、仕事に行きたくないと思う人は、その辛さを感じている主体こそがあなたなのだから、それを捨ててはいけない。 誰に何と言われようとそれを離してはいけない。 私が音楽を作り続けているのも、この文章を打っているのも、それに対してだもの。


3/4(月)

人間の頭の良さについて。 人の頭の良さほど測り難いものは無い。 如何なる基準をもってして、どこの誰が判定するのか。

有名大学を出て、役人なんかになった挙句、汚職がバレて首を吊る人がいるが、その人は頭が良いのか。 政治家なんかは有名大学を出ている人も多いが、それにしては政治家なんて、ある面では実に割りに合わない仕事だ。少なくともそう考える人は多いはず。

勤め先を解雇され、首を吊る中年、就職先が決まらず首を吊る大学生、彼らの頭はどうなっているのか。 以前にも述べたが、仕事なんてのは食うためにやるもんである。 食うのは生き長らえるため。 メシを食うための箸が見つからないからとて、命を絶つほど馬鹿げた判断は無い。


漫画家の水木しげるさんは、子供の頃から周囲に低能だと思われていたらしい(自伝の類を読めばそれ関係の話はたくさん出てくるので、興味ある方は読まれたし)。 その水木氏、戦争中に爆撃で片腕を失っているのだが、それについての述懐が面白い。

まず片腕を失った直後は、「どうやってこの痛みを止めるか」しか考えなかったそうだ。 人は「片腕でのその後の人生など、どれほどに惨めか」などと落胆してしまいそうなものだ。就職先が見つからないぐらいで自殺を考えるような人なら当然そうなる。

が、氏は言う。「腕一本失ったからとて、その先生きていける保証などない」と。 その通りだ。遠い先のことなど、当面の課題ではない。 大学受かる前に卒業できるかを心配している受験生なんて、痴れ者に他ならない。 氏は更に言う。「このまま直後に失血死するかもしれないのだ」と。 「だったら腕一本なくても生きていたいと思った」と。

この極めて明晰かつlogicalな思考法。 これは「正解」である。 上の状況と言う設問に対する回答としてなら百点満点をあげたいくらいだ。 この人が低能?世の中を通っている基準の方がおかしいのではないか。

やはり人間の頭の良さなど測り難い。 絶対的な基準と言うものが存在してないからだ。 ペーパーテストの問題なんて言う、誰かがこさえた相対的基準なら存在しているけどね。 やっぱし人が目指すべきものは「納得できる己になること」ぐらいじゃないのかね。 そもそも頭の良さなんて、ありもしないものなんだから。


3/3(日)

神田優花、歌入れでした。 今年に入ってもう何曲録ったろう。

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影山リサ、新曲の最終リハ。 ちょっと久々のレコーディングになります。

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3/2(土)

救われる方法。

人は誰しも弱く、できることなら救われたいと思っている。 しかし、救われると言うことは、他人に「救わせる」ことでもある。

残念だが、他人の力量は無限ではない。 救われようと擦り寄って来る者とは、即ち依存しようとしてくる者で、つまりは周囲にとっての負担・脅威に他ならない。 弱い者だらけの人間集団では、救われようとのみ思う人は、時に他人に煙たがられる。 逆に人を救おうと思う人は、周囲から見れば「自分を救ってくれるかもしれない人」なわけで、当然存在価値がある。 そういう人は、そういう人だからこそ必要とされてしまう。

救われようとする者はまだマシかもしれない。 誰かが救ってくれる可能性を、僅かであったとしても感じているのだから。 他人やそれを含むこの世界全てを信じられない人は、当然誰から救ってもらえるとも思えない。 だから全ての他人は、制御せねば如何なる危害を加えてくるか分からない脅威に映る。 自分を敵視する人を好む人間がいない以上、そういう人は当然排除されがちである。

人は弱い。 他人を救うどころか、我が身一つを救うことに汲々としている。 意地悪な嫌われ者は、実は我が身を救おうともがいているだけ。 愛される事とへつらわれる事の区別がつかないのは、愛の意味を体感した事が無いから。 愛さなかった他人が悪いのか、愛を理解出来ない自らの不始末なのか分からないけど。


この世界は我々に何をしてくれるのか。 幸運な未来をもたらしてくれるのか。 常識的な結論としては「分からない」。だって外の世界なんてのは、我々のコントロールできるものではないから。 雨が降るのか晴れるのか、我々に制御できることではない。

実は人は、どう足掻いたって「祝福される」確証なんて得られない。 だって他人を含むこの世界は、自分以外に属するのだから当然だ。 我々にできることは何かを「祝福する」ことだけ。 本当にたったこれだけ。

人は生まれてから死ぬまで、自分以外の人に決してなれない。 だから、自分の心以外の世界は、全てある意味でのフィクション。 どんなに近しい人であっても、その人の心の中は想像の射程にしか存在していない。


人が救われる唯一の方法は、誰かを救おうと思う事。 救われない人が救われぬ理由は、救われようとばかり考えるから。

男の人なんかには分かりにくいかもしれないけど、子を持った経験のある女性なんかには理解できるはずだ。 救わねばならない我が子を持つことによって、自分を救ってくれる誰かの心に気付けたことが。 誰かを救おうと、深く思えば思うほど、真の友人に巡り合えると言う事実が。

誰かが私を救ってくれるか否か。そんな事は私にだって分からない。 ただ、救ってくれる誰かの心を信じる為の、唯一のよすがとなり得るものとは「私の心持ち」だ。 私が「誰かを救おう」と、本気で思えば思うほど、私を救う誰かの存在を信じられる。 だって最低でも、ここにいる私ぐらいは誰かを救おうと本気で思っているんだもの。 きっとこの世界のどこかにも、自分のような人はいる筈だ。

この判断(世界観)を為す唯一の根拠である「我が心」が醜悪であった場合、人はその醜悪なる我が心にこそ苦しめられる。 「現にここにいる自分が、全く誰の事も救おうと思ってやしないのに、私を救う誰かなんてこの世界にいるもんか」と、彼は彼で本気で思える。

ここで私が述べている「救われる方法」とは、宗教のようなものではない。 初等算術のような単純明快なことである筈なんだけど。


3/1(金)

ちょっと前に、インドの二大古典音楽(北インドのヒンドゥースターニー・南インドのカルナタカ)は大方似たようなもの、みたいなことを言ってたのだが、その違いについて。 無論共通する部分も多いのだが。

ラーガ(旋法みたいなもの)とターラ(拍節法)をその骨子としているところなんかはどちらも基本同じなのだが、例えば名称の同じラーガが南北でそれぞれ内容が異なっていたりするらしい。

南インド音楽にはヴァルナとか言う様式があって、細かく楽章単位で構成が決められていたりするらしい(全ての楽曲がそうではなかろうが)。 西洋音楽で言うところのソナタ形式みたいなものか。 北インドの方はより即興性が高いようで、数小節の反復が基礎となっているっぽい。 ループミュージックとかミニマル的なものと言うことか。 同一フレーズを延々とループさせつつフィルター弄ったりして、音の変化を楽しむようなテクノなんかに近いのかも。

ある資料に、北インド古典は即興音楽、南インドは事前に作曲された楽曲の演奏が中心、みたいな記述があった。 また別のある資料には、どちらも即興音楽的な要素が濃厚、と言った記述があり、互いに矛盾している。 が、どちらもある意味正しいのかもしれない。 例えば、北の方はほぼ純然たる即興音楽で、南の方は即興性の高いものあり、創作物ありで、北との比較においては即興音楽としての純度が低い、てなことなんじゃなかろうか。 私としては、即興音楽より作曲音楽の方に断然興味がある。


総合的な印象としては、やはり古典音楽とは言っても、最終的には宮廷だけでなく、多分に民間での発達を経由して残った音楽なだけに、諸々の様式にはさほど厳格ではないように見受けられる。 あと、何より文献的痕跡が希薄すぎて、要するに何がインドの伝統音楽やら分からない。 一般にイメージされるインド音楽の大方は、近々100年くらいに完成された様式であることがほとんどのようだ。


2/28(木)

世の中には色々な人がいる。 各種の音楽について調べていると、色々な分野に特化したウェブサイトの類がたくさんあって、実に助かります。 つまりはそれらを運営する人が存在する。 しかし、マイナーな(あくまで日本において)音楽を専らとしている人にはある種の屈折が見受けられることも多い。

日本では、特にアカデミズムの場において、西洋音楽(いわゆるクラシック)が正統とされがちである。 無論、何を正統とするかなど一概に断定できるものでなく、異論も多かろうが、クラシックを学び、芸大に行ったり海外に留学したりして、有名なコンクールで入賞することなどが、多くの人から「レールに乗ること」だと見做されているのは事実である。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんて言葉がある。 人は次点に甘んじるくらいなら、属する世界を変えてしまいたくなる生き物らしい。 あるヒエラルキーにおいて頂点を極められない場合、人はそういう行動を取りがちである。 上の諺は鶏と牛を単純な優劣だと見做しているっぽいが、現実社会において牛後となりそうな人が目指すのは、単なる鶏口ではないように見える。

東京大学に合格できない受験生の多くは、通常それ以下の大学に行ったりするものだが、少々方向性の違う学校を目指すことによって、当初の序列下に置かれずに済むことがある。 ここで言う方向性の異なる学校とは、芸術大とか医大とか、あるいは種智院大なんてのもこれに含まれる。 確かにこれらを目指す人と東大を目指す人とに、単純な順列は付けにくい。

ある競技の金メダリストと銀メダリストに一応の上下は付けられるが、陸上の金メダリストと水泳の金メダリストに、単純な上下はつけにくい。 メダリストと政治家や美容師や宗教家や学者や塗装工や音楽家にも、上下なんておいそれと付けられない。

作家の司馬遼太郎さんの随想にあった話。 彼は若い頃、受験に失敗しまくった挙句「馬賊になってやろう」とて外語学校の蒙古語科に進学したらしい。 当時のその心持ちを、「我がことながら正気の沙汰ではない」と評していたのだが、言わんとすることは実によく分かる。


マイナーな音楽ジャンルに特化したサイトなどを眺めていると、そこに「西洋音楽のルーツは実は『○○音楽(そのサイトで扱われている音楽ジャンル)』なんだ」みたいな、起源・正統性を競うかのような記述を稀に見かける。 また文章にしばしば「好戦性」を感じ取れてしまう。 私には、そういうマイナー音楽を嗜好する人の多くに、どうもある種の「心理的事情」が介在しているように思えてならないわけです。

韓国の人がよく「日本文化の起源は朝鮮半島にある」みたいなことを言うけど、あれも私は一種の精神的屈折が生み出していると思う(言っていることの内容が事実か否かの話ではない)。 事実、古代のある時期、朝鮮半島は日本にとって重要な文化の供給源だった。 仏教なども少なくとも公伝は百済からである。 ただし、仏教の発生地は朝鮮ではない。 地理的に、インドと日本の間に朝鮮半島が存在してしまうから、文化の伝来も、どうしても直接的には半島経由になってしまう。漢字や儒教の伝来とかも基本構造は同じ。 だから「朝鮮などくだらない」と言っているわけではなく、ありていに言えばその程度のものでしかないことを誇大に吹聴してしまう心根に、ある種の屈折があるのではないかと思うって話。

世界各地の地方音楽を愛好する現地人と言うのは、その国(地域)・歴史の中に生まれ、そこでの歴史・習慣・教育の中で育つ。 現地での公用語を日常的に使用し、その言語で喋り、思考する。 その上で地域特有の音楽を愛好するのであって、日本人が各種のワールド・ミュージックなどに執心するのとは、精神作用としてかなり違うはず。

世界各地の固有の音楽は、事実、皆それぞれそれなりに面白いものである(だからこそ現にこの私も関心を持って眺めている)。 日常の鬱憤のスケープゴートとして執着するなんて勿体無い。 面白いものを、自分の見たままに面白く捉える感覚こそが芸術を生むはず。


2/27(水)

アメリカと言うのは文明である。 私は文化と文明をハッキリ違うものと定義している。

クラシック(西洋)音楽は文明の所産である。 雅楽もそう。 諸文化が接触し合い、融合し、淘汰を経て精度の高い体系となる。 雅楽のルーツは唐楽だけでなく、天竺楽・高麗楽・渤海楽・林邑楽など、諸系統ある。 まさに文明の条件を備えている。 雅楽は単に宮廷音楽であるのみならず、文明の所産なのだ。

中東の人が「西洋音楽のルーツは実は中東音楽なのだ」なんて言うらしいのだが、文明と言うのはそれで当然なのだ。諸文化が流入してこそ興るもの。


文明の条件とは、それが普遍的であること。 日本の野球選手が、よくメジャーリーグに挑戦するようになった。 日本の野球は日本の野球だろうけど、アメリカの野球はアメリカの野球でなく、「世界の野球」だからこそ憧れるのだろう。 音楽の世界も然り。 アメリカの音楽業界は世界の音楽業界だ。

アメリカの音楽は、アメリカと言う思想体(こんな言葉無いけど)が生み出したものだ。 多人種・多文化が入り交ざり、新たな音楽が生まれる土壌となった。 アメリカは人類史最後の文明で、似たような条件をもつ地域が今他には見当たらない。


アメリカンPOPSとの類似性が辛うじて見出せるものとして、(スケールは随分違うながらも)歌舞伎がある。 江戸期の歌舞伎や相撲の興行は、基本民間ベースであった。 これって結構凄いことなのだ。 少なくとも同時代の中国・朝鮮に類似のものは見当たらない。

ちょっと前に、中国には厳密な意味での古典(宮廷)音楽が現存しないって話をしたのだが、もっと言えば、史上民間音楽の方はほぼ存在すらしなかった(ここで言う民間音楽ってのは、歌舞伎や現代のアメリカンPOPSを指している)。 歴史上、政府外の民衆ってのが文化を勃興させるほどの活力を持ったことがほぼ無いから。在野の勢力ってものが存在しないので、民間音楽も無い (民謡とかなら各地に点在するだろうが)。 これは民族の原理なのだろう。


2/26(火)

インド音楽の楽器編成は、どうも資料(主に動画)を当たっている限り、つまりは何でもありと言うか、そこまで厳格な様式がなさそうだ。 っつうか、雅楽の管絃とかクラシックの○管編成なんてのがちょっと特殊(厳格)過ぎるだけなのかもしれない。

この「厳格さ」は、いわゆるクラシックや雅楽が「宮廷音楽」であるところにほぼ由来していよう。 これらは時の政権だとか、宗教勢力の庇護の下に発達した。 一種の儀礼なので様式にうるさい。

インド(ヒンドゥースターニー・カルナタカ)音楽は、とりあえずは宮廷音楽である。 が、「編成」などと言う様式の根幹部分に厳格でないと言うのは、つまりはそれがある部分、濃厚に民間で発展したものであるって証拠なのではないか。

ある本に、曰く「中東音楽は古典と民謡の垣根が薄い」とな。 古典ってのはまさに雅楽やクラシックのような音楽のことで、西洋においても日本においても、民謡・俗謡とそれらは明らかに違う。 中東音楽にその垣根が薄いってのは即ち、権力の庇護が手厚くなかったってことだろう。 確かにイスラム教ってのは、娯楽の類に寛容でない。

偏に日本の音楽と言っても、雅楽と三曲、あるいは催馬楽と端唄・小唄の類は全く違う。 仮に片方を音楽、もう一方を民謡とするなら、民謡は世界中のどの地域にも存在するが、音楽は稀有である。 文明と呼べるほどの体系となると、私の知る限り、厳密な意味において現存しているのは西洋のいわゆるクラシックと雅楽くらいしかないのではないか。

例えば、一般概念としての「中国の音楽」なんてのがありますよね。 実際大陸の宮廷音楽は雅楽の一ルーツでもあるぐらいで、中国古典音楽は確かに存在した。 が、現代の中華人民共和国にそれは継承されていない。 朝鮮半島においても然り。 世間で認識されている中国音楽とは、ウイグルの民謡だったり、中国楽器(多分に遺物としての)を使った現代音楽に過ぎなかったりする。

朝鮮の音楽ってのも、早い話が朝鮮の民謡か、あるいはせいぜい宮廷音楽の復元品(多分に形だけの)だろう。 歴史上、朝鮮半島に宮廷音楽は存在したが、継承されているとは言い難い(体系としてはほぼ散逸)。 いわゆる中国音楽も朝鮮音楽も、要はほぼ民謡である。 観光資源としてだとか、一定の需要があるのだろうけど、失礼ながら楽理的な底は浅かろう。


前近代には、ごく僅かな例外を除き、政権の中枢以外に世界など存在しなかった。 在野に勢力など存在しないのである(したら潰されていた)。 万葉集に例外的に庶民の歌が収められていると言ったところで、歌壇が貴族社会のものであったと言う事実は揺るぎない。当然ながら音楽も、権力の庇護下にある方が、体系としては高度に発達する。

我々が普段耳にしているJ-POPなんてのは、大別するなら民謡だろう(無論純粋な民謡とは違うが)。 つまり楽理面は稚拙になりがちなジャンルである。 まあでも、その割りには堅牢なものが作られていると思います。 商業主義と言う別の原理性が、その動力となっているのだろうか。 学究とはベクトルが違うながらも、底の浅いものではない。


2/25(月)

インド音楽にはターラ(理論)なんてものがありまして、私もちょっと本などで齧った程度なんでよく分かっていない部分もあると思うけど、よう要するに拍節法らしい。

リズムは輪廻のように循環すると言う思想があるそうな(しかしそもそもリズムって、同一音型の反復であることが多いものだが)。 旋律などもこの規則に従って、拍節のアタマ(サムと言う)で解決するような形を取るのが一種の典型となるらしい。

私はちょっと前に、いくつかインド音楽にインスパイアされたような曲を作ってみたが、このターラ理論に関しては、若干意識したものもある程度。 つまり楽曲成立の必須条件とまでは見做していない。 まあ私は日本語で思考している以上、本質においてターラ的拍節観とは相容れないわけだけど。


サムへ帰結などと言うが、拍節・楽節なんてのは多分に解釈なので、作者・演奏家の捉え方によって成立している側面が大きい。

先日、中近東の音楽についていくつか資料を当たっていたら、代表的なリズム型(イーカー)が列記されていたのだが、7拍子系の「ナワハト」と言うイーカーのアクセントが、本によって違っている。 よくよく見てみるとある本に載っているリズム型は、別の本のリズム型の6拍目から始まったものではないか。 小節の基点が解釈だからこういうことも起こってしまう。

ガムランでも似たようなことがあった。 ガムランは基本8拍子なんだが、日本人を含む大多数の人類の標準的感覚で聴けば、8拍目から小節が始まっている(通常、1拍目とされる拍がガムランにおける8拍目に当たる)。 実際譜例(五線譜化したもの)などを見ても、ガムランの解釈通りに記譜しているものもあれば、西洋音楽風に1拍ずらしたものもあった。

音なんてのは、聴いている人の解釈によって成立しているのだから、同じ音楽を耳にしても、AさんとBさんの捉えている情報は実は全く違う。 ガムランを理解(体感)するには、「8拍目を1拍目と捉える感性」こそを身につけねばならないのだろう。 他言語をもってして、どの程度それが可能だろうか。


2/24(日)

神田優花、新曲の最終リハ、ってことになったのかな。 とにかく次は歌入れです。

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私は学校の勉強が嫌いだった。 退屈だから。

「退屈」の反対は「忙しい」ではない。 いくら忙しくたって退屈な時はある。 退屈の反対は「おもしろい」なのだ。 馬車馬のように走り回っていても、あるいは家で寝転がっていても、おもしろい時はおもしろい。 退屈さとは、おもしろくなさ。

受験勉強が退屈なのは、その労力と引き替えに得られるであろう成果への想像が、自分を奮い立たせてくれないから。 大した想像が得られないってのは、要するに夢の無い作業ってこった。 そこに夢さえあれば、人は勉強ぐらいしますって。

翻って考えても、若い時分の私が、もう少し歯を食いしばって勉強して、もう少々通りの良い学校なんぞに行ったところで、今の毎日が、現状に比して劇的に楽しくなったとも思えない。 つうことは、その努力と引き替えに得られる何かへの想像、が成立しないのは当然と言うか、正解である。 実際大した物が得られないんだもの。

私は音楽に愛されたのと同時に、音楽に呪われた。 どういう曲折を経たところでここにたどり着いてしまうのだから、勉強なんてものも人生における価値を失ってしまう。 私がたどり着いた今日は、決して偶然の産物なんかじゃない。


2/23(土)

今週のスタジオにて。

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2/22(金)

サラーフ・アル・マハディと言う作曲家・音楽学者の著書を読んでいたのだが、その感想。 それにしてもその御仁、聞くところによると、チュニジアの国歌を作曲したほどの人物らしい。

アラブ音楽のリズムは、実に複雑である。11拍子とか7拍子とか、非アラブ世界では殆ど前衛表現とさえ言えるようなリズムが頻出する。 しかも伝統音楽に。

氏の著書に「アラブ音楽の複雑なリズムは、言語(アラビア語)に由来している」(字句は不正確)と言う意味のくだりがあったのだが、さすが音楽学者と言うか、まあよく物事を理解しているものだと感心した。 私もちょっと似たようなことに思いを馳せた時期があったもので。

上の本、巻末の後書きだったかに、原典はフランス語だとかあった。 つまり氏は、少なくとも論文が書ける程度にはフランス語に習熟している。 母国語以外を修得する事で、比較が可能になったことによって、ある事実が鮮明に理解できたものと思われる。 やはり比較は学問の基礎だな。 分かると言うのは相対概念なので、「分かった」と言う経験が無い人には「分からないこと」など存在しないもの。

で、アラビア語とは如何なる言語なのか。 私はハッキリ言って知らない。 が、理解の助けとなるものも無くは無い。 手元にアラブ音楽のCDがあるのだが、曲のタイトルに「汝の我に耐えさしめることの証しを、我は拒む」や「軍隊の旗手よ、あなたの仕打ちにわたしは恋に苦しむ」などとある。 後者には目的語が二つある。 和訳(日本語化)を経たものではあるが、原語の影響が濃厚であることは疑いなかろう。 つまりそういう言語なんだろう。 リズム様式などが、他言語圏から見て複雑なのも不思議は無い。


2/21(木)

音楽、と言うより商業用途の録音物の世界は、ここ十年くらいで激変した。 と言っても、CDが売れなくなって配信が主流になったとか、そういう表層の現象についての話ではない。

確かにCDは売れなくなった。 CDが売れないんだから、当然小売業界も縮小せざるを得ず、他にも問屋とかCDプレス業とかブックレットを作る印刷屋とか、あおりを食っている業界は多い。 しかし我々みたいに、音を作っている者の視点で見た変化 、それについての感慨ってのはそれはそれで小さくない。

CDは物だから、物理的に場所を占有する。 原材料が必要で、移動に送料がかかり、保管に倉庫代がかかり、ショップでも棚を占有する。 どれも有限であるからして、新譜売りと言う商売は、いつも生鮮食品のように、リリース後一定期間内であらかたの勝負をつけないといけない。 リリース直前から新譜扱いなんて言う期間(およそ三ヶ月くらい)の間に、プロモーションを含めた物量を使い切るが如く投入する。 それら一連の運動に、維持コストがかかり過ぎるからだ。 新譜期間が過ぎたタイトルは、多少の例外を除き、基本的に客注対応のみ前提としたカタログ商品となり、やがて入手すら困難(廃盤)となる。

配信は違う。 ニューリリースタイトルなんて括りは無論あるが、少々トピックスバリューが上乗せされるに過ぎない。 物理的な場所を占有しないので、廃盤(流通期間)なんて発想もない。 CDのように売れる度に物が一つ減り、時に追加製造の必要が生じる、なんてことが一切無い。 配信の売上げなんてのは預金の金利みたいなもので、完璧な不労所得である。 無論スタジオ代とか、録音物そのものの製造にコストはかかるけどね。

今の我々の音は大して売れていない。しかし一旦音が売れ出すと、しかもそれがいわゆる名盤のように、時を越えて売れ続けるようなものになると、それは権利者にとっての財産に他ならなくなる。 実際資産価値もあるしね。アメリカの銀行なら、それを担保に金貸してくれるかもしれない。 昔マイケル・ジャクソンがビートルズの版権を買ったとか何とかいうニュースがあったけど、我々のような音屋にとって、あの「版権」の感覚がもっとビビッドに、リアリティをもって映った状態だ。 実は今までの音楽作品って、ごく一部の名盤以外は、事実上消耗品に他ならなかったのだ。

上の事実(昨今の趨勢)は、私の気分と実によく合っている。 我々は音楽作品を貯金しているのだ。 その元本は全く目減りしない。 永遠に輝きを失わず、時に利息まで生む。 我々が今日も作り続けている音楽作品は、作ること自体がこんなに楽しい上、きっとこれから先も、我々を守ってくれるときている。

音楽は、通り過ぎて消えて行くものではない。 蓄積され続け、勇気に変わり続ける愛のようなもの。 私が音楽に愛されたってのは、空言ではないのだ。


2/20(水)

またアラブ音楽。今回は楽器について。

代表的な楽器に、ナーイ・カーヌーン・ウードなんてのがある(こういうものの常として、カタカナ表記にはバリエーションがあるが)。 ウードはリュート属なんだが、アラブ音楽特有の微分音を出すため、フレットが無い。 カーヌーンはチター属なんだが、こちらも構造上、微分音に対応している。

ナーイってのは要するに(ノンリードの)笛なんだが、尺八のように、奏法(いわゆるメリ・カリ)によってこちらも微分音が発音可能となっている。 ただし、指孔の構造はあくまで半音区切りでの発音を前提としている。 アラブ音楽も12音律をその基礎としている証拠だ。

他にも、バイオリンなんかは西洋楽器ながら、アラブ音楽における標準編成の一部と見做されているほどに使用頻度が高い。 フレットレス楽器なんで当然微分音にも対応できようが、そもそもバイオリンってのはインド音楽にも使われるし、カントリーミュージックの類にも必須の楽器(フィドル)となっている。 要するに潰しが利くと言うか、使い勝手が良いのだろう。

リズム担当楽器に、ダラブッカとかリクなんて耳慣れないものがあるが、原理は実に単純。 奏法も動画なんかを見る限り、さほど特殊でも無さそうだ。 ただ、リズムは傾向として西洋音楽のそれとは結構違う。 いわゆる変拍子とか自由リズムなんて形式が多用されている印象。


手元にある道具でああいった音楽を再現することを想定してみるのだが、別に大した難点があるとも思えない。 微分音なんてピッチベンドとかでいくらでも調整できるし。変則的なリズムなんてのも然り。 音源を揃えるのも特段大変でもなさそうだし。 ある程度作例に当たれば、似たようなものくらい作れそうな気がする。 無論、あくまで成果物としての「似たようなもの」の話である。精神面は別。

因みに、今回は別のテーマでテキストを上げる予定だったのだが、論旨が上手くまとまらなかった。 また別の機会にでも上げます。


2/19(火)

アラブ(中東)音楽について、また色々と本読んだりして調べてました。 アラブ音楽を、アラブ音楽の側では「西洋音楽のルーツ」だとか自負していたりするそうな。同時に「ギリシャ音楽の後継者」だとも。 まあ地続きだし、事実そういう側面もあるのだろう。 ただし、その後の発展過程において、両者(アラブとヨーロッパ)はかなり違う。

まず、基本的に和声音楽ではない。 和音そのものはところどころ出てくるものの、いわゆる機能性を持った和声ではなく、雅楽で言うところの笙の合竹とかそういうものに近い、いわば装飾的和音と言ったもの。

マカーム(アラブ音楽)ってのは、旋法音楽とかヘテロフォニーってのに近い。 西洋音楽史で言えば中世初期、グレゴリオ聖歌の時代の音楽が一番近いのではないか。 あれを器楽化したような感じ。 拍節感も自由リズムに近い。 異論もあろうかと思うが、あくまで私の管見。

アラブ音楽の特徴として、頻出する微分音がしばしば挙げられるが、12以外の音律を採用していると言うのではなく、12音律の(発展的)解釈法の一つであるように思える。 bluesで言うところのブルーノートとかそういうヤツ。 あくまで12音律がその基礎にあってのもの。

固有の楽器群とか、その標準的な編成とか、資料を漁ればすぐ知ることができるが、そういう楽理以外の様式については、私はあんまし興味ない。 そういうのって、それこそ民族や地域の数だけ存在するだろうから。

もう少し色々調べたり作例あたったりしてみようかとは思ってますが、今後の作品に生かすかは微妙。


2/17(日)

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神田優花、またまたまたレコーディングでした。 あと、最近録った音をまとめてチェックしたりなんぞしてました。 「future」引き続き販売中です。


2/16(土)

ここ暫く、昨年の10月からずっとほぼ毎週何らかの新作をリリースしてきたんですが、先日の神田優花「future」にて一休み。 次のリリースは早ければ夏頃になります。 以下、今週のスタジオにて。

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2/15(金)

私の基本的なスタンスとして、他人やそれを含む外界のことって究極的にはどうでも良い。 特に私の行動に干渉してこない範囲においては、物凄くどうでも良い。 「近頃の若い者はなっとらん!」などと説教する気は毛頭無いが、その若者の「なってなさ加減」によって私の平素の生活が脅かされるようであれば少々話は違ってくるって事。

世間は空前のアイドルブームである。 私はそれについて、どういう側面からも加担する気は無いし、またその現象について批判する気も無い。 客観的事実として、音楽ソフトが売れてないので、アイドルだろうが何だろうが、売れ筋のコンテンツが辛うじて存在すること事態は歓迎すべきことかと思える。 アイドルがいなければ、それ以外の音楽コンテンツが売上げを伸ばしたとも思えないし、売れ筋コンテンツが存在しなければ再生機の普及にも(こちらは間違いなく)影響したろう。 人々が音楽を鑑賞する習慣そのものを失うことは、音楽屋にとっては脅威である。

以上のことを前提として踏まえた上で話は以下へ続く。

欧米社会には「アイドル商品」が存在しない。 多少の例外はあるかもしれないが、大筋においてここに異論の余地は少ない筈だ。 してそれは何故か。 それは人間のそういう嗜好性を「弱さ」として排除する思想が存在するからだろう。 彼ら欧米人にとってエンターテインメントの世界は、人間が人間の能力に敬意を払う場であって、人間の弱さ・未熟さを偏愛する世界ではないのだろう。

いわゆる児ポ法も、国際社会(つまり欧米)の趨勢に追従する形で強化された。 日本人の原理を鑑みるに、内心肯んじ難い心境であった御仁も多かったのではないか。

アイドルブームと言うのは、人間を機能・物質的価値でもって測る思想が生んだ諸現象の端的な一つだろう。 そう言えばバブル期は「アイドル冬の時代」とか言われていた気がする。 まことに時代と言うのは人の心が生み出しているのだと思える。

愛でる側は、人間の弱さ・拙さを好み、愛でられる側は、自らの未熟さを演じることによって誰かへの依存を試みる。 男は女に弱さを求め、女は弱くなければ警戒されることを知っている。 双方の間に横たわっているのは、「人間への根源的な猜疑」に他ならない。 私が今述べていることは、きっと多くの人に理解されないだろう。

長引く不況、学歴社会、少子化、アイドルブーム、年間三万人超の自殺者、これらは全て我々現代人が生み出したもので、つまりは我々の目指した理想郷なんだろうよ。 自分が優しくされることなら好むが、他者に優しくすることを好まない人ってのは、要するに優しさ・愛の意味がそもそも分かっていない。 その人の言語で言うところの優しさとは「弱さ」のことである。

人間を物質と見做し、人間関係を上下のみでもって推し量る人が多数を占めれば、人間はこのような社会を醸成する、と言う分かりやすい見本が今の日本のような気がする。


2/14(木)

もう随分前の話だが、日本のある男性アイドル歌手のチャートアクションがギネスブックに載ったとか何とか言う芸能ニュースがあった。 その時当事者であるその歌手が、コメントとして「ギネスに載るのが夢だった」みたいなことを言っていたのだが、私はふと「ギネスって何だろう」とあらためて思ったので調べてみた。

民間企業、要はあのギネスビールのギネス社が発行している刊行物らしく、内容(記録)も同社が認定していると言う。 無論政府刊行物などのようなオフィシャルなものではない。 ギネス社が「こういう企画本があったら面白かろう」と言う事で刊行したものがまんまと売れた(メジャー化した)らしいのだが、時を経てその企画本は若干の権威・公共性を帯びる。

まあこういう現象はどこの社会でも起こりうるものだろう。 日本で言うなら宝島社の「VOW」みたいなものか。 単にあれがスケールアップしたようなものが、ギネス社がなまじ外国企業だったりするので、実体を超えて日本人の目に映ってしまったのかと思われる。

同様の例として、ミシュラン社が発行する旅行ガイドブックなどがある。 ミシュランはタイヤメーカーだが、レストランのガイドブックの発行元として有名になってしまった。 タイヤメーカーだから旅行ガイドを作ることでドライブを推奨し、ギネスはビールメーカーなので酒場での話の種を提供したってことか。 まあありうべきこと。

とすると、「ギネスに載るのが夢だった」と言う発言は、置き換えるなら、海外アーティストが「伊藤園お〜いお茶俳句大賞を取るのが夢だった」とか言うようなもんか。 いや、それはそれで立派な目標だが。


2/13(水)

神田優花「future」、本日発売。


future/you

futureは、願わくはこの曲が誰かの希望になりますように、そう思いながら歌っています。
いつでも前向きに明日を信じてとはいかないけれど、沈んでいきそうな今日でも、明日こそは...と思ってほしいのです。それがきっと、よりよい未来を作ってくれる、私はそう信じています。
Youは3拍子の柔らかい曲で、少し感傷的な気分の曲です。ぜひ、聞いてください。

神田優花




2/12(火)

神田優花「future」(全2曲)のカップリング曲「you」について。


2.you

三拍子の曲。 これは古い曲で、多分十何年前に原形を書いた。 曲としてはほとんどその当時と変わってない。

バグパイプの音を入れたかったんだけど、バグパイプって基本独奏前提で作られている楽器で、アンサンブルに向かなくて、この曲でもバグパイプの登場箇所は前奏曲的なものになっている。 アレンジには、他にもオルガンとかアコーディオン(間奏)とかを使っていて、それらが曲全体の核となる雰囲気を作っている。

フレーズにはスパニッシュとかエスニック系のスケールをいくつか使ってるんだけど、調とのコンビネーションにおいてちょっとノーマルでない使い方をしてたりする。 リズムは確かカホンのみ。 歌詞の(メロディーへの)乗せ方とかに多少こだわった曲ですかね。



2/11(月)

今日って祝日なんですね。 久しく休んでないので、何か全然そんな感覚がない。 別に納期とかがあって休めないなんてわけじゃないけど、私なりにやっておかないといけない作業が山積みでしてね。



神田優花「future」(全2曲)のタイトル曲「future」について。


1.future

今回の一連のリリース・アイテム(7タイトル、計14曲)の中でも気に入っている曲。 普通のPOPSですけど。 公開日としてはラスト(2013年2月13日)になります。

個人的にはオーギュメントのコードが効果的に使えた曲のような気がする。 間奏に二種類のメロディックマイナーのスケールを使っているんだけど、一つは上行形と下行形で構成音が変わるタイプ、もう一つはコード進行で変わるタイプ。 他にも間奏のギターソロではコンビネーション・オブ・ディミニッシュとかも使ってて、私なりに凝って作っている。

神田優花の歌もとっても良く録れてます。 特に最後あたりのファルセットとか。 是非心の側に置いてあげて下さい。



2/10(日)

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神田優花、またまた歌入れ(&新曲のリハ)でした。 ここ最近ずっとレコーディングばっかり。 来る13(水)には新作「future」発売です。 下がそのジャケット。






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影山リサ。 先日発売した新曲「Live For Today」如何でしたか? 影山リサも現在新曲の制作中です。



故人だが、小泉文夫さんって言う学者(音楽学者)さんがいまして、私なんかも一応はその学恩に浴していると言うか、まあ彼の著作を読んだりするわけです。

その小泉氏、芸大の教授だったのだが、音楽学者と言うだけに音楽そのものを包括的に研究していて、つまりは研究対象が幅広い。 で、その対象の中に俗謡・童歌の類もある。

フィールドワークと言うか、小泉さんはご自身でもって実際に各地の小学校などに出向いて、子供らの間で流行っている歌(童歌)を採録していて、その研究結果を出版物にしていたりする。 私もそれを(ざっとだが)読んだ。

彼の研究が私の人生を面白くしてくれていることへの感謝を前置いた上での話だが、どうも腑に落ちない点もある。 子供の間で流行っているおハヤシだよね? もっと卑猥なものがたくさん含まれていないと不自然だ。 と言うか大半がそのようなものでもおかしくない。 私だって昔は子供だったんだからそれくらい分かるよ。

その手の尾籠な歌って、出版などに当たって割愛されてしまったのだろうか。 あるいは東京の偉い学者が学術調査に来ると言うので、小学校・小学生の側にある種の遠慮が働いて自粛されてしまったのか。 まあそれにしても残念なことだ。


2/9(土)

今週のスタジオにて。

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エジプトの音楽について、あれこれ本読んだり考えたりしていた。 エジプトっつっても現代のエジプト・アラブ共和国の話ではなく、古代エジプト文明の方ね。 両者の歴史は基本的に断絶している。 ギリシャ文明と現在のギリシャ国家の関係みたいなもんだ。 ギリシャ人みたいに、現代エジプト人もきっと「我らは古代エジプト王朝の末裔だ」とか言ってるんだろうけど。

で、そのエジプトの音楽、基本的には散逸しまくっていて、ほぼ原形を留めていない。 遺物としての楽器だとか、壁画に楽師の姿があったり、ヒエログリフに多少の音楽(歌詞など)の痕跡が認められたりと言った程度であるらしい。 あと他文明圏が残した記録から伺える部分があったりもするみたいだ。 ヘロドトスの「歴史」とかプラトンの「法律」あたりに多少の記述があると言う。

楽器と言う物質が残ってるってのは大きい。 弦楽器なんかは正確なチューニングが分からないだろうけど、チューニング固定の楽器、打楽器とか笛の類であれば、保存状態によっては音も出せるはずなので、音律がある程度分かるはず。 あと声楽なら、歌詞(の発音)が分かれば、ある程度はリズムもつかめたりしないものだろうか(拍節的音楽でなかった可能性も含めて)。 日本の和歌とかだって、その定型性からある程度リズムの想像もつくじゃないか。

まあ常識的に考えて和声音楽であった可能性は低いが、壁画を見る限り、ほぼ間違いなくアンサンブルは存在したらしい。 とすると、中近東のいわゆる伝統音楽に近いものか。あるいは雅楽のヘテロフォニーのように比較的シンプルな旋律線を集団で多少のアレンジを加えつつ演奏したりした、って感じだろうか。 スケールのような体系は既にあったのではないかと思える。インド音楽で言うところのラーガだとかアラブ音楽のマカームのようなもの。 対旋律の概念くらいなら既に存在したかもしれない。

アンサンブルの標準的な規模は、正確にはよく分からないながらも、雅楽の管絃とかガムランほどのスケールでは無いように思える。 インドの伝統音楽のスタイルなんかに近かったのでは。 あとエジプト音楽の楽器群は、現代の中東・アフリカのそれに近い。その程度には継承されている部分もあると言うことか。地理的に当然と言えば当然だが。

それにしても勿体無い。 あれほど広域かつ長期に亘る高度な文明である。 音楽一つとっても巨大な体系であった可能性はある。 残っていてくれれば、私の人生の楽しみがまた一つ増えたに違いないのに。 まあ研究者らによる今後の復元作業に期待したい。 ついでながら、現代のエジプト音楽は、どうやら単なる現代中東音楽の一地方種と言ったものらしい。


2/8(金)

あんましアタマ良くなさそうな人に限って「お金」が好きそうにみえるのは何故か、この間ちょっと真剣に考察してみた。

お金に何より価値を置いていると言う人が、そうであるならば一見合理的でない行動を取ることがある。 本当に金が好きなら易々とローンで物を買わないだろう。 ローンを組むってのは、10万円の品を11万円で買う方法だ。

お金と言うのは一面、実に分かりやすい指針・指標である。 人間が考えられる諸価値を統合、抽出した概念である。 ドストエフスキーは金を「鋳造された自由だ」と言ったが、そういう側面は確実にある。お金である程度なら時間だって買える。

だからして、物事の価値について個別の判断が下せない人にとって、それ(金銭的価値)は重要なよすがとなり得る。 「あなたはコレが欲しいの?好きなの?」なんて問われたら、一応の自己認識の開示を求められるわけで、考えることが苦手な人にとってそれは苦痛に他ならない。 それなら「額面いくらである」と言う事実に沿う方が手っ取り早い。

私の知るある人で、およそ収入不相応な高額な車を、ゆうに10年以上に亘る長期ローンで購入した人がいる。 しかしその人に、その車が「必要かどうか」を十分に検討した形跡は見られない。 金が好きな人はモノも好きである。 高価な額面つきの物質ってのは、これまた理解に容易いからだろう。

福袋と言う商品がある。 なんぼ額面上いくらになろうとも、人は欲しくもない物をもらったって甲斐も無い筈だが、事実そういう商品が存在している以上、需要があるのだろう。 欲しい物を評価・判断するより、世間での支配的価値(つまり金額)におもねる方が得策である、と言う人がいる証拠なのだろう。

これを読んでいる人へ。 周囲にいる「お金が好きそうな人」の行動原理が一見理解できなかった場合、実はその人は「金が好きなのではなく、考える事が嫌いなのだ」と理解すれば、行動もするすると紐解けてきたりします。


2/7(木)

人が人にフラれるわけ。 恋愛と言うか男女関係ってのは、人間にとって永遠の課題だったりするみたいだ。

人は、恋人にフラれることを(当然)快く思わない。 この不快は、最悪の場合、自殺とかそういう行為までを引き起こす。 未来を信じられなくなるからだ。 人は、恋人や家族に未来を重ね合わせている。

ずっと前から側にあって、昨日も側にあったものが「今日から存在しない」と言われれば、人は明日をどう想像して良いか分からなくなったりする。 私にだってこの痛みは分かる。 かと言ってこれはどうしようもない。 世界はこの程度には残酷なものなんだ。

人と人が違う道を歩んでしまうのは、各人に固有の意志が存在するからだ。 何が悪いと言うわけでなく、お互いに望む生き方が相容れなかったと言うこと。 あるいは死別とか言うケースもありますわな。 まあそれも含め、抗い難いこの世界の冷厳な実態。 ことほどさように、自分の外にある世界は御し難い。

人はつい、夢だとか言って「自分に都合の良い状況の実現」こそを至上の価値だとか思ってしまう。 だから方法如何によって他人さえ意のままにできないか、などと夢想する。 でもそれは人が陥りやすい典型的な錯覚だ。

夢とは、その人の想像力の限界。 私が有名人になることや金持ちになることなんてのは、フィジカルな成果の一つに過ぎない。 私の夢とは、次に書く曲のこと。 夢が途絶えることとは、次の曲が「書けない」ような気がしてしまうこと。 つまりそれらは全て、私の勇気に由来している、あくまでも私の心に属すること。

私が恋人にフラれたり、天皇になれなかったりするのは、私が道で擦れ違った誰かになれないのと同じ事。 ある立場を得るに相応しい条件を備えた人物になれなかったと言う事。 だが、「相応しい人物になる事を目指す」と言う選択肢は決して絶たれたりはしないがね。

自分が今いる場所・状況は、過去の自分が模索し続けてきたものだ。 一流大学に入ろうと努力してはみるものの、徹夜での勉強が辛くて思うように成績を上げられなかった人は、大学合格と言う成果より、睡眠時間を欲した。 睡眠時間と引き替えに、得られるであろう成果が自分にもたらしてくれる何か、についての想像がその人をその程度にしか後押ししてくれなかった。

私は音楽が好きだけど。 それより何より音楽が私を愛してくれた。 音楽はいつも、金や資格・権威と言ったステータスのように自分の外を飾る何かでなく、私の中で、私を後押しする強い力であった。今でもそう。 音楽こそ、私が結像する未来の根拠。

恋人にフラれて首を吊る人も、究極的なところでは、その恋人より他の何かを選んだんだ。 多くの人は「そんなことない!」って言うだろうけど、これは私の言う事がきっと正しい。

恋人は他人であり、自分以外の世界の一部だから、時に我が意のままにならない。 でも、本当にその恋人が好きなら、この世界が終わるまで追い続ければ良い(ストーカーになれってんじゃないよ)。 諦めぬことは我が心に属する。 その人の心を掴むべく、納得行くまで努力を重ねれば良い。 恋人にフラれて自殺するような人は、その努力より、目の前のイバラの人生を回避する事を選んだ。

ついでながら、ストーカーなんて言う人らに訊きたい。 「そんな事(ストーキング)をして相手の好意が手に入りますか」と。「むしろ余計に嫌われるだけではないですか」と。 相手の気持ちを無視して付き纏い行為を止めないのであれば、その人が欲しい物は恋人(の好意)ではなく、恋人の形をした物質だ。

物質であれば、物理的に占有することが可能である。 拉致して部屋に監禁することも、いっそ剥製にして床の間に飾っておく事だってできる。 やはりストーカーだって、自らの求める精一杯の状況にたどり着こうとしているだけなんだ。 「相手の気持ちが手に入らない」のではなく、当人こそ「相手の気持ち」を欲しちゃいない。

恋人が自分をフッたのは、フラれたその人が自殺するのと全く同じ「選択」である。 私は、人々の「意志」であれば後押ししてあげたいが、「折れてくる世界」など実現してあげられない。 自殺したいのなら、それがその人の自由なのだろう。 その人に想像できた精一杯の選択。

雨降りに絶望する人に、雨の降らない世界を実現してあげることなんて出来るわけ無い。 「雨なんて放っとけばいつか止むよ」とか言う、当たり前のことくらいなら言えるけど。


2/6(水)

影山リサ「Live For Today」、本日発売です。 以下本人からのコメント。


Live For Today

今回の曲は、何かにつまづいたり迷ってる人の背中を強く押してあげる様な内容の曲です。 自分や誰かを応援する様な気持ちで歌いました。
80年代風のキャッチーでポップな曲なので、皆さん是非聴いてみてください!

影山リサ




2/5(火)

影山リサ「Live For Today」について。


1.Live For Today

これは影山リサの基本的なコンセプトである80年代風のPOPS。 ほぼ(スネア以外)FMシンセのみで作った。 過去の作品で言うと「LUCKY STAR」なんかと位置付けは近い。

エンディングがフェイドアウトのヤツとそうでないヤツの二つのバージョンを作っていて、とりあえず今回リリースの音源(シングルバージョン)はフェイドアウトでない方。 フェイドアウトの方は多分アルバムに入れます。

歌については、この度リリースする3曲のうちで一番良く録れていると思います。



2/4(月)

先日のスタジオにて。 写真は川村真央。

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事務所のコピー機がショボくて(型が古くて画質が粗い)、モノによってはコンビニとかのコピー機を使うのだけど、今って1枚10円のところと5円のところがあるのね。 たかがコピーでも倍違うってのは大きい。 コピーするページ数が多いときなんかは、ちょっと料金の違いにビックリする感じがある。


2/3(日)

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神田優花。 先週発売の「laser」、如何でしたか。 神田優花は昨年末からずっと新曲作りを続けてます(上は先日のスタジオにて)。 来週水曜日にはまたまた新タイトル「future」を発表します。 これでここ暫くの一連のリリースは一応一区切り。 次回のリリースは間に合えば夏頃を予定してます。


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影山リサ。 いよいよ次の水曜に、新曲「Live For Today」発表です。


2/2(土)

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今週のスタジオにて。

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前にも言ったけど、ガムランを作る上での、最大の壁は「チューニング」だ。 ガムランの音律は西洋型と違うと言うだけでなく、統一的な規格が存在しない。 各楽団(セット)毎に違うのである。

例えば、おいそれと本物の楽団一つ揃えるわけには行かないので、DTMレベルでガムランを再現するとする。 そこでは、サンプリングされた音のピッチが全て揃ってないとアンサンブルが成立しない。 だから寄せ集めの音源集でセットを組むのはほとんど不可能である。 平均律にコレクトしてあるサンプルは存在するし、ある意味手軽だろうけど、あの音律こそがガムランの醍醐味なんだ。

以前海外サイトで発見した、ある特定のセット(楽器群)をまるごとサンプリングしたようなキットがある。 音は1ショット(1レイヤー)の塊りみたいなヤツで、ヴェロシティ・レイヤーなど一切無く、アーティキュレーション的なリアルさとは遠いが、チューニングに比べればそれは実に些細な事である。 これで何とか制作に漕ぎ着けられるかもしれない。


2/1(金)

少し前の話だけど、現役の大阪市長さんの出自(被差別部落出身だとか親がヤクザだとか)を暴露した週刊誌があって、ちょっとした騒動になっていた。 親がどうだとか出自云々なんて本人の努力では如何ともし難いことなんで、そんなこと言われても困るよねって話だ。 でも、私はそこについてはどうでも良い。

確かあの方は、市職員の刺青を徹底的に弾圧したり、いわゆる同和利権にメスを入れたり、つまり政治家としては、その手の輩と徹底抗戦の構えを見せていた。 そういう出自であるならば、むしろ出自を同じくする人らを政策的に優遇したりしてもおかしくないように一見思えるが、人間とはそう単純では無いらしい。

ニュート・ギングリッチさんって言うアメリカの政治家を思い出した。 彼が生まれた時、母親は17歳、父親は事実上いなかったそうな。 成長の後、彼は政治家となり、アメリカ合衆国下院議長なども務めた。 金も人脈もないところから、相当な努力を重ねたであろうことは想像に難くない。

そのギングリッチ氏、政治家になるや否や、福祉関連の制度を次々に廃止しようとしたのだが、「母子家庭」に対する援助などもむろんその打ち切りの対象であった。 彼が母子家庭出身であることは無論周知だった。

ある女性キャスターが尋ねたそうな。「あなたは過去の自分と同じ境遇にある母子家庭に同情しないのか」と。 そこで彼は答える。「ノー。あの時の我ら母子が国になんか頼っていたなら今の私は無かった」と。


戦ってきた人には、同じハンディキャップを背負いながら「戦わない人」にイラつく感覚があるのかもしれない。 気持ちが分からないのではなく、分かるからこそ甘やかさない。 そしてそういう人らは、手法が全面的に正しいかどうかはさておき、少なくとも「信用できない人」ではない。

「生理中」だとか偽って水泳の授業をサボる女子は、体育教師が男性である方が組しやすかろう。 女性教師ならそんなに容易く騙されないから。 特にオバサンなんてのは、女として過ごした時間も長いからそう簡単には騙されない。 でも、本当に少女の心の側にいてくれるのは、若い男性教師なんかよりそのオバサン先生。 庶民なんてものにだらしなく優しい政治家ってのも、つまりはその人らがお坊っちゃん出身であることに起因している部分が多少なりともあるのではなかろうか。

子供をどう扱って良いか分からず狼狽する大人は、大抵自らの子供の頃の気分を覚えていない。 だから子供が異星人に見える。 我々はそういう大人になってはいけない。 自分が子供だったことさえ覚えていれば、子供の美しさも、あるいは下らなさも分かる筈だ。 誰かの心の側にいることってのは、理解することでもある。


1/31(木)

ついこの間、12平均律以外の音律についての話をしたんだけど、またそれについてあれこれ考えていた。

私にも12音律以外を使った作品(習作)を作った経験があるが、それは思考の精髄を反映するためのキャンバス足りえる「音楽作品」とは到底思いがたいものだった。 印象としては、何だか締まりのない、単なる調子っぱずれの音の羅列で、そこを掘り起こしても大した何かが出てくるとも思えず、出来上がったフレーズもせいぜい効果音として作中のスパイスに使えるかどうか(それも何度もしつこく使えるほどのものでもない)と言った程度のものだった。

ルールが存在するからこそスポーツであるように、また五・七・五の定型があるからこそ俳句であるように、前提を崩して際限無いカオスにしてしまうと、音楽だって音楽ではなくなる。 作ることと作らないことが対極にあるのなら、壊すことはどちらかと言えば作ることであり、それは作らないこととは対極に近い。 12音階の前提を取っ払うことは、「壊す」ことでなく「作らない」ことだ。

12平均律は、人類の叡智の結晶である。 周波数と言う取り留めの無いものを整理し、体系化した。 それは無数の紆余曲折を経た、血の滲むが如き作業である。 12以外の音律は、過去人類史に存在したが、皆12音律に収斂されていった。 新たな発見でもなんでもない。

「12平均律なんてもう古い。俺は13平均律で音楽を作る」みたいな人はいるが、要するにそれは「五・七・六で俳句を作った」と言うようなモノで、前提となる枠組みこそが体系の根幹であることを、理解できなかったと公言しているようなものだ。

物書きが「既存の言語体系なんてもう古い。俺は自分語を作ったぜ」なんて言って、著者本人以外誰一人として理解できないデタラメなプロトコルを発信したところで、そこに人類の新たな可能性なんて眠っているようには到底思えない。

オクターブを12で区切ることは、西洋音楽のみならず、雅楽などに使われる三分損益法においても基本は同じで、つまりは人類の根源的感性に根差した必然なのである。 アラブ音楽に頻出する微分音なども、その基底に、12音階の概念があってこその手法であることは確実である。 12音階が無ければ、調の概念もハーモニーも一切そこには(少なくとも一般概念のそれとしては)存在せず、人類の築き上げてきた体系は意味を成さなくなる。

12音律を「侵すべからざる絶対的条件」だと思っているわけじゃない。 ある表現の為に、それ以外の音律の方が効率的であるとか、何らかの事情(合理性)ありきで、新たなる体系を作りあげる作業には結構大きな意味があると思う。 が、単に前提を取っ払う(しかもその前提を十全に理解せぬままに)作業に大した意味は感じない。

要するに私は、12以外の音律だとか無調音楽の類に、絵画の世界で言うところのキュビズムとかシュールレアリスムなんかと同じ匂いを感じられないってことを言いたかった。 似通っている部分はあるのかもだけど。


1/30(水)

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神田優花「laser」、本日発売です。 上は先日のスタジオにて。


laser/MIND

laserは全体をどうまとめようか固めずにレコーディングにのぞんだ曲です。その時の気分て歌ってみようと、ちょっと実験的な気分でやったのですが、おもしろいものになったと思います。 MINDは、音を刻んで刻んで刻んでいく激しいロックです。自分の中のタガをはずす、がテーマでした。この曲をやったからLosersが歌えた、そんな曲です。ぜひ聞いてください。

神田優花




1/29(火)

神田優花「laser」(全2曲)のカップリング曲「MIND」について。


2.MIND

シンプルなロック。アレンジはギター・ベース・ドラムの3ピース編成。 これ聴くと物凄く音がスカスカに聞こえるんだけど、世の中に3ピースのバンドなんていくらでもあるわけで(最少編成とは言え)、つまり普段我々が作っている音がゴチャゴチャし過ぎているだけで、こういう音って別に珍しいものでもないわけです。

本当に3パートのみで作っているので、例えば間奏にギターソロが入ってくるところでは、バッキングのギターの音が消えてしまう。 編成が少ない曲ってのは、干渉してくる音も少ないわけで、ヘンテコなスケールとか試しに使うには適している。 この曲も、ギターソロにモード系のスケールとか使ってたりします。

あんまり色んな面にこだわって作ったと言うほどのものでもなくて、実際に曲仕上げるための期間も短かった。 自分的な許容範囲を広げればこういう感じのものは量産できる。 しないと思うけど。



1/28(月)

明後日発売の神田優花「laser」(全2曲)、タイトル曲「laser」について。


1.laser

仮タイトルのままリリースすることになった曲。 歌詞に大した主張が無いってことです。

イントロとか、曲のところどころにピアノとパーカッションだけになる部分があるのだけど、そのピアノのフレーズ、いわゆる12音技法で作っている。 一旦やってみて思ったけど、多分あれ(12音技法)をこれ以上掘り下げることはないだろうと思う。 そんなに大したものが出てきそうにない。

本編そのものは調性音楽なんだけど、その無調性の部分の雰囲気をちょっと引き摺る感じに仕上げたつもり。 Aメロ(のメロディーライン)に出てくる臨時記号なんかはそのためのスパイスです。 曲の核の部分は実に単純で、Aメロなんかも単にサビの反行。

メインとして出てくるギターの(アタックの強い)フレーズは、生演奏のカッティングよりもサンプラーなんかの雰囲気を出したかった。 もっとリリース部分をバッサリ切ってそこを強調しても良かったかな。 曲中に出てくるラップは、Losersなんかと同じで(言葉に)意味は無い。 効果音です。



1/27(日)

音屋の皆さん、PCから出る音声を録音(オーディオ化)する時ってどうしてます? そんなこと普通はあんまりしないのかな。 私はたまにそういうことをやります。

私は、原始的ではあるけど、PCとレコーダーをオーディオインターフェイスで繋いで、デジタル録音って手法を今まで使っていた。 大変面倒で、下手したら半日ぐらいの作業になってしまったこともしばしば。 内部ループバックで録音できるのなら、手間的にはそれに越した事はないといつも思っていた。

オーディオのループバックデバイスとか存在してるけど、インストールとか面倒なわりには、どうも私の環境じゃまともに使えたためしが無い(一応、オーディオファイル化はできるけどノイズが酷くて使用に耐えない)。

そんなこんなしているうちに、素晴らしいソフトを発見した。 要はループバックデバイスなんかと効能は近いんだけど、デバイスの選択とかの面倒なプロセスが一切ない(インストールすら必要ない)。 普通にスピーカーから再生されている音を、PC内部のアプリで録音(オーディオ化)しているみたい。 無論多少のノイズは乗るが、まあ高音質と言って差し支えない。 デジタル録音時に乗ってしまう特有のノイズも無かったりするし(どっちにしろノイズは付いてまわるのだが、この二者のノイズは質が違う)。

しかし、今までケーブルとか引っ張り出してまでやってた作業はなんだったんだ。 同様の成果を得るための作業時間が、三分の一以下になってしまった。


1/26(土)

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そろそろ地面に残った雪も消えかけてますね。 下は今週のリハーサル風景。

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1/25(金)

昔、テレビの深夜番組を見ていたら、奇抜な音楽を追求していると言う若者が出てきたので眺めていた。 若者は「自分の曲を聴いてくれ」と歌い出したのだが、それは大方予想通りの、単なる奇声だった。

奇抜さの定義について、私はよく分からない部分もあるが、斬新な発想と、単なる非正統性とは無論違う。 気違いの発言は尋常ではなかろうが、別にそこに大した可能性なんて秘められてなかろう。 研究の対象にぐらいはなるかもしれないが。 言語機能の故障によるデタラメさと、新たな発想とは、むしろ対極に位置している。

普通人が奇抜さを演出しようとする時、大抵その行動は「奇声を発する」とか「裸で街を歩く」なんて方向になる。 その貧困な発想が、もうどうしようもなく正統的だ。 確かに「あるモノ以上」と「あるモノ以下」は、ある面においては似てたりすることがありますからね。


ちょっと話は変わる。 現代の音楽は、そのほとんどが12音階で構成されている。 が、周波数をある法則に従って区切り、音名を与えているだけなので、8とか16とかの音階だって作ろうと思えば簡単だ。

ちょっと前に「新しい試み」とて、16音階だかの曲を作っていた人を見かけたのだが、12以外の音階って、実は別に新しくない。 アラブの音楽(マカーム)では当たり前のように半音以下の微分音が使われるし、確か1オクターブ24音階の鍵盤楽器とかも存在した筈(どの程度実用化されているか知らないが、何かの本で読んだ)。 他にも31平均律とか34平均律とか、その手の試みって割合既に為されている。

もっと言えば、前漢期に六十律と言って、オクターブを60に区切った音律すら既に発明されていた。 前漢期ですよ? 新しいどころか紀元前の話である。 それ以外にも、効果音・SEみたいなもので12音階以外で作られたものってたまにあるけど、別にそこに大した可能性って感じ取れない。 ある種の淘汰の末に12平均律が残ったってのが実情に近く、それ以外の音律が駆逐されてしまったのには、やはり人類の本然に根差した理由があるのだろう。

12平均律の正体って、つまるところ12乗根に過ぎない。 12回かけて倍になる数字ってのを、かける毎に異なる音名としただけ。 だから16乗根で16平均律は求められるし、17だって18だって計算上できる。 でもそこに、音楽的な面白さとか新しさが眠っているかはどうかってのは、全く次元の違う話。

で、結局その種の音律(非12平均律)が定着しなかったり、しても限られた地域に限定されていたり(人類規模で共有されなかったり)するのは、やはり真の「面白さ」が、そういうところには存在して無いからだろう。 私はそう思います。

では真の面白さとは、那辺に存在しうるか。 結論。そんなの簡単に分からないからこそ、見つかったそれは面白いのだ。 一足飛びに得られるものに、大したものなんてあるわけない。 真剣に面白いものを探している私は、奇声を発したりはしない。


1/24(木)

私は綺麗なものばかりを目にして生きて行きたいのだけれど、なかなか浮世はそうもさせてくれないね。

綺麗なものってのは、端的には絵画や音楽作品だとか、そういう芸術、創作物ってことになるのだけど、要は人の心だ。 美しいものも醜いものも、全ては人の心。

人間は、ある側面モノ(物質)である。蛋白質だとかカルシウムだとかの塊。 で、その有機体のある運動律のことを精神とか生命だとか呼ぶのだけど、それは言わば「現象」である。 私とは、私と言う現象。

蝋燭の火を他の蝋燭に継いでも、元の火が即座に失われないように、続いていく私と言う現象が残した何かが、誰かの心に灯ることがあるだろう。 更には私がいなくなっても、私の作る歌を愛してくれる人が、きっとこの世界に残っていてくれる。 そう思えるから今日もがんばれる。 私の希望も失望も、人の心がもたらすもの。

醜いと思えるものを目にする時、それは即ち私にとっての失望なのだけど、簡単に負けちゃいられませんわな。 音楽を作り続ける私が究極的に欲しい物とは、妥協しない自分です。 がんばります。


1/23(水)

鈴木サヤカ「YES-YES-YES」(全2曲)、本日発売です。 以下、カップリング曲「海の大冒険」について。


2.海の大冒険

一枚目のアルバム「SWEET」の収録曲、「海の冒険」のリミックスとでも言いましょうか。 オケは全面的に作り直してるんだけど、歌(ヴォーカルテイク)は基本的に当時のものを使用している。 2003年4月にリリースのアルバムなんで、歌は2002年の終わりぐらいか、遅くても2003年の初めとかに録っていると思われる。

オケはいわゆるチップチューン風のトラックで、音源もそれ用途のものを使った。 私はmml(music macro language)ってヤツをせっせと打ち込んだわけです。 久方振りだったので大変でしたよ。

これの元の曲(「海の冒険」)は、確か鈴木サヤカが初めてレコーディングした曲で、当時彼女はまだ15歳くらいだったはず。 歌詞も本人の手によるものなんですが、私はこの曲の歌詞がとても好きなんです。





1/22(火)

明日発売の、鈴木サヤカ「YES-YES-YES」(全2曲)のタイトル曲「YES-YES-YES」について。


1.YES-YES-YES

以前にも言ったんだけど、随分昔に録ってお蔵入りしていた曲。 ちょっとエスニックな雰囲気とかするけど、別に楽理とかに根ざしたもんじゃない。

オケはソフトシンセのみで作った。 勿論生楽器も使用していないけど、サンプリング系の音も一切使ってないと思う。 本当にシンセ(合成)音のみ。

サビに掛け声みたいなのがあるんだけど、レコーディングに苦労した記憶がある。 シャイな子なんで、ああいうの苦手みたいなんです。



1/20(日)

神田優花、先日発売の「World is mine」、如何だったでしょうか。 現在、大量に抱え込んだ新曲をせっせと消化してます。 下は先日のリハの様子。

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たまに、円周率を小数第何万位まで覚えているとか言うようなビックリ人間がいたりするのだが、小数点以下10桁まで覚えている人に比べ、10万桁まで覚えている人は、一万倍の心の豊かさを持っているのだろうか。

違う。 それは単に「円周率の記憶」と言う、たった一つのことに拘泥しているに過ぎない。 芸術家の目指す美であるとか、あるいは破壊ってのは、その手のことを俯瞰し、俯瞰することすらも俯瞰しつつたどり着く境地だ。 それは、その人にとって、この上ないメタレベルの彼方にある。 ピカソの絵は、円周率何万桁目とかに見つけられたものではない。

メタレベルの限界にたどり着くための(唯一の)梯子は言語である。 芸術家は、一段一段階梯を整えつつ、まだ見ぬ境地にたどり着こうとする。 そしてそれには途方も無い時間が掛かる。人間の一生なんてあっという間に食い潰すほどの。 画家が長生きしてしまうのは、時間こそが彼らの欲しいものだからなのかもしれない。


1/19(土)

スタジオにて。 雪の残る中、リハーサルでした。

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調べ物をしているとあらためて思うのだが、インターネットの情報って意外と大した事ない。 本の方が巨細と言うか、要するに役に立つ。 あと、情報ソースとして堅牢である。ネットはどうしても玉石混淆となりやすい。 玉石混淆である理由は、情報の発信源が「無審査」だからってのが大きいな。

インターネット(ウェブサイト)の大半は無料コンテンツだ。 広告料程度の実入りはあるかもしれないが、基本フリーである。 ってことは、制作費がかけられない。 所詮は相応のショボいコンテンツにならざるを得ない。 即時性とかインタラクティブ性とかの、ネット特有のアドバンテージってのは確実にあるけど、過大評価され過ぎたきらいは濃厚だよね。


1/18(金)

ガムラン制作用の環境を整えようとしているんだけど、予想通り難航している。 基本的に音楽制作用のツール類ってのが西洋音楽準拠なんだもの。

ガムランは使用楽器群がかなり独自で、いわゆる西洋楽器をほぼ使用しない。 またそのオリジナル楽器らは、調律が西洋音階でないので鍵盤にアサインし難いし、西洋楽器(音階)とのアンサンブルが難しい。

ガムランにはpelogとslendroと言う二種のスケールがある、みたいな話をしたが、この説明は多少の語弊を含む。 二種の代表的スケールが存在する、のではなく、セット毎に、それらどちらかのスケール演奏用のチューニングが為されている、と言った方が実態に近い。 またその音高は固定的で、上下に移調なんてのも基本的にできない。 pelog用のセットでslendroの演奏、なんてことも当然できない。

ガムランの調律は、「西洋音階と違う」と言うだけでなく、明確な調律法自体を持たない。 事実、地域によってとか楽団単位でも基本チューニングが異なったりするようだ。あまりに汎用性が無いと言うか、西洋音楽との(無論雅楽とも)親和性が低いので、実際にそれらを折衷したような音楽が無いのだろう。 POPSなんかのちょっとしたフレーズに民族楽器(二胡とか)を使用したりすることってあるけど、チューニングの壁が比較的無いから可能なんだろう。 まあフレットレス楽器とかならピッチなんてどうとでもなるし。

本物(生演奏)のフレットレス楽器なら上の通りだが、soundfontやVSTiとかなら、どういう音程でサンプリングしたかによって使い道が限定される。 繰り返すが、ガムランは楽団毎にチューニングが異なるような音楽なので、かなりシビアにサンプリングされたものばかりでないと、それ風に仕上がらない(音律がバラバラになる)。 ガムラン用のsoundfontを漁っているうちに気付いたのだが、寄せ集めのサンプル集でガムランのセットを組むのは至難の業と言える。

西洋音階でガムラン風の楽曲を作ると言うのも難しそうだ。 事実、ドビュッシーなんかがガムランにインスパイアされた楽曲を、西洋音階(十二平均律)から抽出した近似値的なslendro音階で作ったりしているみたいだが、仕上がりはslendroの雰囲気とはほど遠いと言う(私は作品を聴いてないが)。

ガムランの楽器群に施されているチューニングは、平均律なんかと異なるだけでなく、明確な算出法に基づいていないって話をしたのだけど、かと言って「チューニングの概念が存在しない」と言うのとも違う。 各打楽器のピッチを聴く限り、一応はある基準に沿ったセッティングが施されているのは間違いない。 伝承に基づいたチューニングはあるものの、その根拠となる計算式は存在しないのだろう。


1/17(木)

ガムランについて、またあれこれと考えていた。 以下、私的なメモを兼ねて。

当たり前のことながら、ああいうエスニック音楽と言うのは、それこそ地域だとか民族ごとに存在する。 私はそういうエスニック音楽を一つのジャンルとして、それこそクラシックや雅楽と同列に捉える、と言った解釈法は採らない。 原始的な声楽だとか、地域ごとの天然物や金属を使った器楽音楽みたいなものは、それこそ世界中どこの地域・民族にでも容易に発生しうるものだからだ。 人間の叡智を結集した、いわば文明の所産である体系としての音楽とそれは違う。

事実、ガムラン一つとってみても、インドネシアは島嶼国家なので、島ごとに一定の文化的断絶があり、ガムランの様式も例に漏れず、地域によって(微妙にだが)違う。 代表的なものとして、バリ・ジャワ・スンダ(ジャワ西部)のそれぞれのスタイルがあるが、その地域差をジャンルとは呼ばないだろう。 薩摩弁と津軽弁は、デンマーク語とベルギー語よりも違う(類似性が低い)だろうけど、日本語と言う名で一括りにして問題ない。 薩摩弁と津軽弁と江戸弁のトリリンガルなんて笑止だろう。

関係資料(主に書籍)を探しても、数が非常に少ない。 これはマイナーな音楽ジャンルであることもさることながら、テキスト化できるような楽理があまり存在していないからだろう。 事実その稀少な資料も、ページ数が実に少なかった。

楽理とか言っていいのか分からないけど、一応の決め事はいくらかあるらしい。 一〜二小節程度のフレーズの反復によって楽曲が成立しているようなのだが、その核となるフレーズをボコックとか言うそうな。 曲中に入る装飾的なフレーズをコテカンと言い、これは二つのパート(主にgangsaやreong)の連携によって為されるらしい。 例を挙げるなら、新内流し(三味線)のフレーズなんかが型としてはやや近い。 実際に音を聴いていると、「ここのことか」と思わされる部分がある。

他にもアンセルとか言って、次のブロックに進行する為の合図としての音型変化などもあるらしい。 これはクンダンと言う打楽器がリードすると言う。 要するにPOPSなどで言うドラムのフィルのようなものだが、ブロックの進行と言っても、Aメロ・Bメロと言うような明快な進行感があるわけではない。 基本的にはミニマルのような同音型反復の音楽なので、ブロック間の違いとやらも、あっても多少テンポが変化したりと言った程度の微妙なものに過ぎないようだ。

pelogとslendro(sulendra)と言う二種の音律(音階)については、以前触れた。 pelogは沖縄音階に近いとか言う記述をいくつか目にしたが、聴いたところ、どちらかと言えば都節とかいわゆるヨナ抜きの短音階に近いのでは(無論、西洋音階や雅楽の三分損益法で算出した音階とは違うので、完全に比定はできない)。 同様にslendroについても、律や民謡音階に近いなどと言われている。 本当にそれら二者(あとはメジャーペンタトニック、いわゆるヨナ抜きの長音階)と似たような音階構造を持っているようなのだけど、トニックとかの観念が希薄なので、スケールの比定も当然曖昧にならざるを得ない。 あとこういうのも地方性とかあったりして、たまたま私が聴いたものが上のようであったに過ぎないのかも。

ガムランは基本、打楽器(旋律打楽器)のセッションによって楽曲が構成されるのだけど、金属系の打楽器に音程が存在してしまうので、擬似的なスケールが生まれてしまったのかと思われる。 それが、時間を経る中で、明確な算出法が存在しないながらも音律として半ば固定化されたと言うことだろうか。 上のコテカンとかも、おそらくボコックを主旋律とした場合の対旋律とか言うほどのものではないのだろうと思われる。 スポーツのラリーみたいなものの面白さが、伝承され、一種の様式となったのではなかろうか。 ジャズのセッションなんかは感覚的に近いのかもしれない。

祭礼・儀式(葬礼など)にガムランの演奏は用いられるらしい。 儀礼音楽と言えば大層なものに聞こえるが、葬式で木魚を叩きつつ読経する坊さんを、音楽家と捉えようと思えば捉えられなくもない。 あれのスケールを巨大にしたようなものか。

今のところの結論として、私がガムランに深くのめり込むことは無かろうと思う。 ちょっとしたスパイスとして楽曲に取り入れる、とか言うことならあるかもしれないけど、本当に作るならその前にガムラン制作用のツール作りから始めないといけない。


1/16(水)

神田優花「World is mine」、本日発売。


World is mine/Clouds recall

World is mineはスケールの大きなオーケストラの楽曲で、その音に包まれるような心地よさが魅力の曲です。まだ誰のものでもない今日、始まったばかりの朝、そんな期待に満ちた解放感にぜひ浸ってみてください。

cloudsはアルバム『RACHEL』の中に入っている曲で、今回新しく録り直ししたものになります。
曲って録り終わってからも、時間が立ってからもっとこう歌いたいとか、欲がどんどん出てきちゃったりします。 この曲は、オケの音を新しく作り直すということで歌もリレコーディングさせてもらえる貴重な機会をもらえた曲です。この幸せな曲を、ぜひ聞いてみて下さい。

神田優花





1/15(火)

神田優花「World is mine」(全2曲)のカップリング曲「Clouds recall」について。


2.Clouds recall

アルバム「レイチェル」収録曲「clouds」のリメイク版。 バッキングもヴォーカルもほぼ全面的に録り直した。 これも「World is mine」同様、クラシック的なアレンジなんで、1タイトルにまとめました。 こっちは金管入ってないけど。

確か銅鑼の音以外は全て作り直していて、前のバージョンからのトラックの流用はほぼ無い。 ただ、音(トラック)は全面的に作り直しでも、アレンジ(楽譜的な面)は全然変えてない。

(神田優花の)ヴォーカルは前作より格段に良くなっている。 前作お持ちの方は、是非聴き比べてみて下さい。 あんまりこういうリメイクってやらないんだけど、今回珍しくそういう事に挑戦してみました。 今後も気が向いたらやるかも。



1/14(月)

「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。教会に入れば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」。

これ、ピカソの言葉。 彼は軍人や修道士を小馬鹿にして、画家の方がそれより上だ、なんて思っていたわけじゃない。 むしろ、三重冠を受ける法王の気分や、戦いに臨む将軍に見えた景色を、飢えるほどに求めたろう。 そればかりでなく、ある一庶民に見えた平凡な一日でさえも、きっと彼は飢えるほどに見たかったはずだ。

だが、どんな天才だろうが努力家だろうが、法王と将軍を兼任する人はいない。 これはAさんがBさんになれないのと同じこと。 でも、そんな不可能を可能にする方法が一つだけある。 それは芸術家になること。

前に同じことを述べたことがあるけど、私は、心の中と言うものが宇宙より広いと思うから、芸術を志す。 蓄財や立身出世に励む人とか、物に執着する人とか、彼らは皆、実のところ宇宙の果てを目指そうとしている。 彼らの行動を突き詰めればそうなってしまうはずだ。

私は、私が持つこの限られた時間の中で、味わいたい気分を探し続けているだけ。 音楽は、この「気分」を私にくれる。 人はこの宇宙ですらも、心で感じているだけなんだ。



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先週に新曲「So Long」を発表した影山リサ、来月には次のタイトル「Live For Today」が発売されます。 下はそのジャケット。上は先日のリハーサルにて。





1/13(日)




神田優花、始動してます。 昨年末から持ち越し(制作中)の楽曲がたくさんあるので、あんまし今年は正月休みに断絶を感じないのですが。 上は今度の水曜発売の「World is mine」のジャケット。

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神田優花「World is mine」(全2曲)のタイトル曲「World is mine」について。


1.World is mine

管弦楽の編成に歌を乗っけたようなのを作りたかった。 私は別にクラシックとかにルーツを持ってる人ではないけど、割りと子供の頃から聴いてはいた。 だから自分としては、そんなに新しい試みってほどのものでもない。 因みに私は大半のクラシックが嫌い。長いから。

展開は古典的なソナタ形式。 POPS的な尺に収めてるんでプチ・ソナタって感じだけど。 エンディングに二重導音終止って言う、ルネサンス期よりも前の、ゴシック期とかに多用されていた手法を使っている。 当時の音楽ってほとんど声楽曲だけど(これはほぼ器楽曲)。

バッキングはパート数多いんだけど、それと対照的にヴォーカルは基本1パートのみ。 聴き手の意識が分散しないよう心掛けた。



1/12(土)

スタジオにて。 今年も全然変わらず音楽作ってます。

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soundfontってご存知か。 多分音屋さんたちなら知らない人はいないと思うが、要はサンプラー用の音色のデータフォーマットです。

音の良し悪しって、サンプルそのものだけに由来してなくて、やはりその制御系の影響が大きい。 どんなに馬鹿デカいサイズのサンプリングデータでも、使えないものは使えないわけです。 で、soundfontとその代表的なプレイヤーとの組み合わせにての発音はどうかと言えば、まあ昨今の市販音源類に比べればお世辞にも優れているとは言えない。 ただ、汎用フォーマットなんで、タダでバラ撒かれているファイルの種類が多かったり、それはそれで色々と重宝される面があるのです。

soundfontって、実のところほとんど忘れられた規格みたいになってるんだけど(データ配布サイトなんかもほとんど死んでたりするし)、私は今でも結構使い倒している。 ちょっとした、ややもするとしょうもない音色を使う時なんかに、soundfontに助けられたことは多い。 これは作っているものの傾向にもよるだろうから、誰しもにとってそんなに有難いものでもないのかもしれないけど。

soundfont、新作が出てこないのが淋しい。また脚光を浴びたりせんものかと思ったけど、まあ無理か。 VSTものとかですら最近新作が減ってるものね。


1/11(金)

最近ピカソのことを考えている時間が多い。

ピカソは「想像できることであればそれはもう現実なのだ」と言っているのだけど、全くその通りだと思う。 人間の限界とは、その人の想像力の限界だと私も思うから。

音楽とか長いことやってると、この作業を「続けていけない人」をたくさん見てしまう。 で、その続けていけない人が続けられない理由とは何ぞやと言うと、つまるところ想像が尽きるからである。 想像ってのは、有名人になるとか金持ちになるとか、必ずしもそういうことではない。 この作業を続けている未来の自分の姿こそが結像できなくなるのだ。

今のこの、いわば当たり前の現状が延々と続いていく様、こそが想像できなくなる。 この想像の成立要件に、約束された成果なんて必要ない。 必要なのは、続いていく日々を楽しめるであろうと言う予感。 人は結局のところ、これさえあれば生きて行けるみたいだ。


1/10(木)

子供の頃、一緒に暮らしていた犬は、私が言うのもなんだが賢い犬だった。 大人になった今も、あれより賢い犬を見たことがない。 その犬、多くの言葉(人語)を理解していたし、相手の気分に共感することができた。 怒ってない私が手を上げても首をすくめない。 気分を感じているからだ。

そんなに賢い犬だったのに、何かを「可愛い」と感じることがついぞなかった。 煌びやかな装飾が施された洋菓子などを与えても、「うまそう」とか「うまい」と言った味覚上の悦びは感じるのだが、その意匠(を施した人の心)に思いは至らない。 どんなぬいぐるみなど与えても、「柔らかい」と言う感触は当然捉えられるので、クッション代わりに使う事はあっても、可愛さは感じてくれなかった。 「可愛さ」を感じるのは、今のところ人間だけに許された、余程に高度な機微かと思われる。

割りと最近私は気付いたのだが、人間の中にも、この可愛さを実のところ体感できない人はかなりいる。 女の人なんかは割りと軽々しく「可愛い」を連呼するのだが、あれは一種の媚態である。 多くのケースにおいては、「何かを可愛いと感じることのできる自分は、それだけ繊細」で、それこそ「可愛い心の持ち主ですよ」と言うアピールに過ぎない。 可愛さは難しいのだ。

可愛さを感じるには、共感性と認識力がいる。 子供の頃の気持ちをありありと覚えていないと、他者に可愛さなど見出せようもない。

単に「可愛い人」ならばいる。 ただし、その人自身の「可愛さ」と「可愛さを感じられる心の持ち主であること」とは、立脚の基礎を異にしているので、両方が一個人に共存しているケースはあるけど、必ずしもそうだとは限らない。


1/9(水)

影山リサ「So Long」、本日発売です。


So Long

過去の恋愛を歌った曲です。
切ないけど明るく強く、前を向いて歩いていく。いつだってそんな自分でいたい。そんな感じをイメージして歌いました。

コーラスは神田優花さんに参加してもらっています。皆さん、是非聴いてみてください。

影山リサ





1/8(火)

正直に言うと、私はちょっと音楽に飽きていて(作ることにではなく聴くことに)、ここ最近は絵ばっかり見ている。

新しい作品についてであれば、常に構想に余念はなく、そういう意味では相変わらず最大の懸案は音楽である。 しかし、他人の作った音楽をインスピレーションとして感じる事が実に少ない。 最近の私は、絵ばかりを見ている。

好きな画家は色々いるけど、やはりピカソの面白さは群を抜いている。北斎も好き。 この二人はちょっと別格って感じだ。

そういや開高健に「ピカソはほんまに天才か」とか言う著作があって、要するに彼にはピカソの天才性が感じられにくいようである。 無論私は開高さんとは別の解釈を持つが、基本的に私がクリエイターの類の人を見て、その人が本物かどうかを判断する大きな基準は、その人の残した言葉である(当然作品は言わずもがな)。 ピカソはその語録を見れば歴然たるアーティストで、そこに疑いの余地はない。 つまりあの絵画は、適当に作られたものではないのです。

ピカソは「新しいものを作る時、それを作るのは実に複雑だから、作品はどうしても醜くなってしまうのだ」と言っている。 私はこれが実によく分かる。

ある種の(狭義の)美と言うのは、様式や伝統に根差しているものである。 創造がある面破壊と同義である以上、まだ見ぬ美を彫り出そうと思うのなら、どうしてはそれは醜さを避けられないはずだ。 その醜さの中に新たな美はある。醜くなることを恐れては、新たな美になどきっとたどり着けない。 結果、必然的に一部の人間の理解が得られなくなる。


1/7(月)

影山リサ「So Long」について。


1.So Long

ヴォーカルのパート数が多くて、編集大変だった。

元々はラップが入る予定だった(と言うか既にラップ入りの試作品まで作っていた)んだけど、何だかゴチャゴチャし過ぎるってことで、ラップ部分は割愛することになった。

コーラス(オブリガート)を歌ってるのは神田優花なんだけど、リハーサル期間少なかった割りには良く出来てると思う。 さすが。

神田優花の音は基本ロックなんで、アレンジはギターを中心に据えているんだけど、鈴木サヤカなんかはシンセ音が中心になっている。 アレンジャーとしてこの辺は一応分けているわけです(無論それ一辺倒ではないが)。 影山リサのサウンド・コンセプトは基本的に「シンセとギターのブレンド 」で、大雑把にはその二つの配合の具合が肝だと考えているんだけど、この曲はそれが上手いこと機能してくれた気がする。



1/5(土)

言わでものことだが、ピカソの絵は写実的でない。 写実でないのだから、それは視覚のみにて捉えられる(処理できる)何かではないと言う事だ。 ピカソを評価した当時のヨーロッパ人らは、あれを言語で捉えたことになる。

開高健などをはじめ、ピカソに理解を示さない日本人は多く、また当時のヨーロッパですらピカソに批判的であった人は多かった(批判のトーンは、ピカソのキャリア晩期になるにつれ濃くなる)。 当然かもしれない。と言うか、全日本人にあれを理解しろと言うのは酷だろう。 言語体系が違うんだもの。

音楽も本質的鑑賞法においては、絵と大差ない筈。 つまり言語処理に因っている。 狼が雷の音に怯えるように、soundであれば言語を介さずしても捉えられる。が、音楽(music)は言語抜きには処理しがたい。 私は、脳裏を過った閃光を音楽と言う形にして留めている。 留めるための道具として、一番私にとってvividだったからこそ音楽と言う表現手法を選んだ。

音楽制作用の機材、新製品を眺めていると、sound(音色)作りに特化したものがやたらと目に付く。 世のミュージシャンらの大半の需要がその辺にあるということか。 やはり私は音楽家としては少数派に属するのかも。


1/4(金)

ピカソは「閃きは、自分で呼び込めるものではない。私にできるのは、閃きを形にすることだけだ」と言っているそうな。

仕事として音楽なんかを作り続けていると、それが一種のルーティンワークに思えてくる瞬間がしばしばある。 誰でもそうだろうと思うけど。 創造ってのは即ち破壊でもあるので、退屈は大敵なんだ。

新しい何かなんて、そんなに簡単に得られるものではない。 でも得たいとつい思ってしまう。 階梯をすっ飛ばして得られる境地なんてあるわけも無いのに。

ここ暫くの私は、ハッキリ言うと新しい何かに飢えていたのだけど、今のところの結論としては、「私は感じることしかできない」ってところに落ち着いた。 感じるってのは、ある意味受身な態度で、探し当てるってのとはニュアンスが違う。

私はあるがままに生きて、降り注いでくる閃きを作品化するしかないのだろう。 だからして、すべき努力ってのは、何かを求めて徘徊することでなく、何かがこの視界に飛び込んできた際に、それを見逃さない「自分」を作るべく精進することだけなんだろう。 芸術家の適性なんて、つまるところ誠実さぐらいか。


1/3(木)

あいも変わらず曲作ってたんだけど、小泉文夫の言ってるテトラコルドってヤツ(の力学)を痛感してしまった。 曲(と言うか旋律)を作っている時に、いわゆる核音ってのに確かに引力みたいなものを感じるのよね。

音楽学ってのは、物理学とかに比べると概念の整理法に過ぎない部分が大きいように思えるのだけど、当然ながら整理法にも優劣ってのはあって、小泉やラモーが偉大な学者であるのは間違いない。 大いに恩恵に与っているし、それなりの実証性を感じるから。 学問が階段を作ってくれるから、音楽家はある高さでモノを見ることができるし、想像を飛躍させることができる。

今作ってるのは、実にシンプルなヨナ抜き(ペンタトニック)の旋律なんだけど、背景としての調が断続的に変化するようなもの。 スケールの構成音は一定なのに、トニック(核音)だけが移動して行く。 楽理的に説明するなら、ペンタトニックといわゆる民謡音階を行き来しているような形になるんだろうか。 まあ聴いてもらわないと何だか分からないだろうけど。 今年も早々から曲ばかり作ってます。


1/2(水)

昨年11月くらいからずっと、毎週水曜に何らかのアイテムをリリースし続けてきたのだけど、とりあえずここで一休み。 で、来週からまた連続リリース再開する予定なのですが、その一発目が影山リサ「So Long」。 ウチの今年最初のリリースタイトルになります。是非聴いてみて下さい。


1/1(火)

一時期、スキッフルについて色々と調べたり考えたりしていたんだけど、それについてのメモ。 スキッフルってのは、楽器に見立てた身の回りの手軽なモノなんかで即興的な音楽を奏でる手法とでも言いましょうか。 アメリカ発祥で、ある時期のイギリスでは大流行したモノだと言う。

スキッフルは、一ジャンルと呼べるような、楽理と言うほどのものに根差した音楽ではない(事実、やってる音楽自体はジャズだったりブルースだったりする)が、アマチュアの取っ掛かりとしての演奏形態としては当然ありうべきもので、実際にもスキッフルバンド出身で、その後ビッグネームとなったミュージシャンもたくさんいるらしい。 ビートルズの前身もスキッフルバンドだったりする。

スキッフルを特定付ける、固有の楽器と言うほどのものもない。 洗濯板を叩いてドラム代わりにしたり、タバコの箱で作ったCigar box guitarなんてのを使ったりするらしい。 因みにそのCigar box guitar、写真なんかで見る限りタバコの箱っつうより長方形の木箱をボディにしたカスタムギターみたいに見えた。 一般に日本人が、タバコの箱って言われて想像するような物体ではない。

手作りの楽器を使うと言うが、そんなんでチューニングとか大丈夫なんだろうか。 無論そこまでシビアなチューニングが要求されるはずも無いが、最低でも小編成のアンサンブルぐらいは成立しているのだろうから、無視されてはいないのだろう。

代表的楽器群の中には、他にもWashtub bassなんてのがあるらしく、こちらは写真などを見る限り、一弦の手作りフレットレスベースって感じ。 フレットを打ち込むってのはまさに職人芸な筈で、素人の手作りでは難しかろう。 フレットレスにして音程をプレイヤーの音感に委ねる方が、スキッフルのようなものにおいては合理的なんだろう。


スキッフルっぽい習作を既に一つ作ってみたのだが、アレンジのキーになっているのはギター(リゾネーターギター)だ。 手作り楽器みたいなのだけで作ろうかとも思ったけど、ちょっと安定性に欠けるようで今回は断念。 今後あらためて作るかもしれない。

因みにスキッフルってのは「絶対に市販楽器を使わない」と言った決め事があるわけでは、それはそれでない。 使っても良いし、使わなくても良い。 単なる即席楽団ってなだけに特段の様式も存在せず、その辺はおおらかなのだ。


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