Staff diary  
スタッフ日誌[2012]

[文 / 益田(制作)]

9/30(日)

最近アレンジしていた曲にチェロ(ソロ)が出てくる箇所があったのだけど、それについての雑記。 特に重音奏法について。

オーケストラに使われる伝統的な弦楽器は、POPSのギターなんかとは違って、基本単音での演奏を想定している。 従って、実際にスコアなんかを見ても、フレーズは単音であるケースがほとんどなんだけど、例外的な奏法として、複数の弦をいっぺんに発音させるダブル・ストップとかトリプル・ストップなんてのがある。

私の曲に出てくるフレーズは、クォドル・ストップなんて言う、4本の同時発音まで含まれているのだけど、現実にはどの程度の音程差まで演奏可能なのか、でちょっと考え込んでしまった。 こういうのも奏者によって結構違ったりするのよね。 ギターとかでも、ストレッチの幅って個人差実に大きい。 手のサイズ・指の長さにも個人差があるのだから、これはどうしようもない。

また、バイオリンとチェロでは楽器本体の(構造的な)大きさが違う(と言うか、担当する音域が違う)ので、ある音程関係にある二音を押さえる際に必要となるストレッチの(物理的な)幅が違ってくる。 ギター類で言うところのフレットの幅が違うわけである(バイオリン類はフレットレス楽器だが)。 当然ポジションの位置でもそれは変わってくるのだけど、ハイ・ポジションになればなるほどフレット間隔は狭くなる。

さすがにチェロくらいになったら、私も実器を見たことぐらいあるので、イメージも掴めなくはないけど、プレイヤーではないので、細かい部分は想像に頼らざるを得なくなる。

あと、これらの楽器は基本的に固定チューニングなので、様式上、絶対的な音高が定められている(開放弦の音高が動かせない)。 だから、開放弦を取り混ぜた和音を発音させる際、調によっては構成音に悩まされるわけです。

まあ今回の作品は何とか上がりましたけど、楽器ってのはシンセとかと違って、実物が存在するからそれを無視するわけには行かず、面倒なわけです。 そこが面白いところでもありますけど。


9/29(土)

今週のスタジオにて。 そういや随分涼しくなりましたね。

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神田優花、先週までに録った音、何曲分かまとめてチェックしてました。

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9/28(金)

今週のスタジオにて。

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また能管の話。 苦労してサンプル(音)を探し当てたのだが、音と譜面(唱歌)の照合ができない。 教則用の動画とか見てたんだけど、そこで使われている能管と私の手元にあるサンプルのピッチが全然違う。 そもそもあの手の笛は、吹き込み方でピッチが変わったりもするし、個体差が大きい楽器とは聞いていた。 しかし、ここまでとは。

唱歌に出てくるカタカナ(オヒャラ〜とか言う)は、運指を表しているのだとばかり思っていたのだが、どうもそんなに単純ではないっぽい。 カタカナの種類が干音の8より明らかに多いのだ。 もっと細かいアーティキュレーションの部分まで記述されていると見た。

しかも能管って、流派がいくつかあって、その流派ごとに微妙に記譜法が違うんでややこしい。 しかし、流派まで存在しているわりには詳しい解説サイトが無いのは何故だろう。 一応能管のことを扱ったサイトってのはあるんだけど、どうも私にとっては情報が十分でない。 良い本も見当たらないし。困った。


9/27(木)

「昔(子供の頃)は良かった」なんて述懐する人がいるが、子供の頃の何がそんなに良くて、現状の何がそんなに良くないのか。

子供なんかより、大人の方が行動半径も広いし、経済的な意味での自由度も高い。 知識や諸々の判断の基礎となる経験も豊富に蓄積されているのだから、目にする情報もよりビビッドなものとなりうる筈である。

思うに、誰だって子供の頃は、可能性が大きく広がっているのに、それが歳を取るにつれ、現実に打ちのめされるからか。 女の人なんかがよく教育ママになりがちなのは、自らの方途を喪失するからかもしれない。

つまり、実際の「持ち物」でなく、「可能性」こそが目減りした結果、現状を嘆かわしいものと捉えるようになっていると言える。

可能性と言うのは、自らが何かを得ていく予感であったり、あるいはもっと受動的に、何かしらから優遇される(何かを得させてもらえる)予感であったりするだろう。 だから子供の頃は可能性が自分のみに属しておらず、世界に対する期待と混ざり合ったものになる。 子供の全能感は、おそらくこれらのハイブリッド型なのだけど、実は後者(受動性)のみに拠っていたりする場合、自らの自立とともにその感覚は失われたりする。

人々が感じるこの可能性には、大きな個人差がある。 女の人なら、美人であればあるほど何かを得られる予感も濃いだろうし、人によっては生涯ほとんどこの可能性を感じずに時間を使い切る人もいるはず。 私は正直言って、感じる可能性に子供の頃からさしたる変化がないので、今述べている事柄の大部分は推測だ。

生き甲斐の失いやすさは、依存心の強さに由来している。 月並みな結論だけど、自分に生き甲斐を失わしめない為には、強くなければならないってことですね。


9/25(火)

近頃の表現者は、何故に音楽をそんなに定義の狭いものとして捉えるのだろう。 色々なものがあったって良いし、なければ面白くないじゃないか。 昨今のPOPSとか聴いていて私はそう思う。

例えば多くの表現者(いわゆるアーティスト)は、ある作品を表現する際に「その音楽作品が面白いかどうか」を抽出して考える事よりも「それを演ずる自分が、衆目にカッコよく映るか否か」に気を取られすぎている。 これは演者だけでなく、ライターとかにも感じる。 そんなことでは面白い作品なんて生まれないよ。

ビートルズはイエローサブマリンだとかレディ・マドンナのような、一見間の抜けたような曲を作っているが、音楽の面白さって そういうところにもある。 カート・コバーンはVaselinsのファンだったらしいが、音楽家はミュージシャンである以前にリスナーであるはずなのだけど、そうでない人が音楽の世界に入り込み過ぎてやしないだろうか。

「もしや私はバカだと思われてやしないか?」なんて事が不安で仕方ない人は、詰まるところ本当にバカなのだろう。 「カッコ悪く映ることが怖くて仕方ない人」は、その精神こそがカッコ悪いし、アーティストに向かない。

医者は本来、病に苦しむ人を救う職業だが、「医者になれば先生なんて呼ばれて周囲からの尊敬を集められるし、金にもなる」なんて考える輩ばかりが集まれば、当然その業界は腐敗するだろう。 私は音楽の世界にそうなって欲しくはないね。もうなってるのかもしれないけど。

ミュージシャンに憧れて音楽業界を志す人は、きっと近い将来(短期的には)激減するだろう(既にかなり減りつつあるだろうけど)。 心震えるような創作物だとか、鑑とすべき精神が見当たらないのならそれも仕方ない。 「アーティストの立場に憧れる人」がいくら増えても、日本からピカソやムンクは生まれにくいよ。きっと。


9/24(月)

先日のスタジオにて(影山リサ)。

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ハープって楽器は、そこそこ有名なわりにはその発音原理が知られていない(ような気がする)。 あれはスケール楽器で、元々変ハ長調にチューニングされている。

各音毎、計7つのペダルがあって、それを踏み込むことによって1〜2半音の音程を変えられる。 だから一応細かい半音とかも出せるわけである。 因みに、ペダルで設定した音の変更は、オクターブ違いの音にも適用される。 つまり、ドの音を半音上げたりすると、あらゆる高さのドにも#がついてしまうわけだ。

だから#9(シャープナインス)みたいな(ミとミ♭が含まれるような)和音を出そうと思うなら、ミとレ#にするとか、それなりの工夫が要る。 まあそれにしても出せなくはないわけだから、楽器としては最低限の機能を持っていると言える。 ただ、曲中にペダル操作によってしか出せない音があってしまうので、スピーディーなクロマチックのフレーズとかは演奏に制限が生じることにはなる。

今作っている神田優花の新曲に、ハープが結構フィーチャーされているヤツがあって、ハープについて色々考えていた。 その曲に出てくるフレーズは、アルペジオにFとF#が出てくるので(オクターブ違い、半音隣りではない)、ちょっと楽器の構造と言うか、そのペダルの存在が頭をチラついてしまったわけです。


9/23(日)

今週のスタジオにて。

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先日、レコーディング始めようとしたら、突然マシンがオーディオインターフェイスを認識しなくなってて焦った。 最悪諸々の日程ごと狂ってくることも覚悟したのだけど、手を尽くして何とかその場でトラブルを回避できた。 しかしこういうの本当に勘弁して欲しいよ。 


9/22(土)

神田優花、またまたレコーディング。 年内納品用の最後の曲でした。 とは言っても、これからも間隔空けずに新曲作り続けますけど。

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9/21(金)

雅楽のレパートリーは五線譜に翻訳したものが存在する。 有名なところでは芝祐泰の「五線譜による雅楽総譜」と言うヤツがあるのだが、基本的に雅楽は新曲が生まれないジャンルなので(一応創作雅楽とかあるけどね)、資料としてはそれがあれば十分である。

ここ最近、私は能の音楽について調べていたのだけど、四拍子唯一の旋律楽器である能管(のフレーズ)は、五線譜に翻訳したものがどうやら存在しない。 音程がメチャクチャすぎて翻訳しようがないのだろう。

一応譜面に代わるものとして、唱歌(しょうが)とか言うフレーズを文字化したものが存在するが、それについての詳しい資料が見つからない。 唱歌そのものは資料として手元にもあるし、音についても有名どころ(中之舞など)であれば聴けなくもない。 が、「どの文字がどの音に相当するのか」がイマイチ分からない。

ロゼッタストーンに刻まれた文字を解明していった学者の気持ちは分かるし、私も似たような作業をしてはいるのだが、むなしいのは、私の疑問は詳しい人に聞けばごく初歩的なものに過ぎないことだ。 だってこの辺になると、詳しい知り合いがいないんだもの。


9/20(木)

創作と発表のタイムラグについて。

演奏を創作物と見做すなら(一部のJazz系ミュージシャンなどは本気でそう思っているらしい)、創作と発表にタイムラグがほぼ無い。 画家なんかはどうなんだろう。絵を完成させてから展覧会などで公開するまでに、どのくらいタイムラグがあるのだろうか。

私の場合、このタイムラグが実に長い。 公開までのプロセスとして、1.作曲(構想)→2.編曲(オケ作り)→3.歌入れ(リハーサル期間)→4.ビジュアル素材作り・事務作業等を経て公開、ってな流れになる。

最後の4なんて一工程にまとめちゃってるけど、実際は事務作業が何段階もあったり、データ類納品してから公開までも結構時間掛かったりで、一筋縄ではない。 まあ腰だめで見て、平均一年以上はゆうに掛かるわけだけど、適当な歌い手がいない曲など、2と3の間がさらに何年空くかも分からない。

画家なんかは、一人で作品制作を完了できるので、上のプロセスで言うところの3の工程を省ける。 まあ私の場合なんかは、作品を一人で作ってるわけではなく、歌い手の創作性みたいなものがかなり反映された共同制作物なので、画家のケースとは随分状況が違うけど。


しかしこのように、構想と発表に一年以上もタイムラグがあってしまうと、作品の公開時点でのホットな関心事とその作品(の印象)との乖離が激しい。 『「○○」と言う曲がリリースされる』と言うインフォメーションが出る頃には、「いつの話やねん」みたいな気分であることが多い。

これ、歌い手さんとかでもそうだろうけど、我々のような裏方さんの方がきっと強く感じている。 まあこんなこと言っても仕方ないけど、こういう期間もっと短縮できたら良いですね。


9/19(水)

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影山リサ。 年内リリース予定の音はもう全部録り終えてまして、今はセカンドアルバム用の収録曲をせっせと作ってます。


9/18(火)

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そういえば世間では昨日まで三連休だったんですね。 私はあんましそういうの関係なく動いてるんで、平気で仕事のメールとかも出してましたけど。 上は先日のスタジオにて。


能管って楽器は、一応旋律楽器ってことになってはいるのだけど、雅楽の三分損益法や西洋音階と言った基準に照らすと、明らかに調律が狂っている。 構造的にはスケール楽器みたいなものなんだが、最も使用頻度の高い干音(かんおん・中音域)でオクターブ間に8音入っている。 まあディミニッシュ系とかスパニッシュ8ノートスケールみたいな8音スケールってあるにはあるけど。

そもそも能管とは竜笛であったと言う説がある。 壊れた竜笛の補強材が「喉」(能管特有の構造)になったのだとか。 この喉こそが能管の特異性(音の狂い)に直結している。 要するに、独自の調律法を持っているのではなく、単にチューニングの狂いに対する寛容さが能管を生んだと言える。 のどかな話だね。

能管はその名の通り、本来は能で使用される楽器であるが、後に使用範囲が歌舞伎だとか落語の下座だとかに拡大される。 能のBGMに使用される楽器は四拍子と言って、能管・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)・太鼓(たいこ)の四種である。 お分かりかと思うが、うち3つまでが打楽器で、能管は四拍子唯一のメロディー楽器なのである(それも単音の)。

私の読んだある本には、『能管は能における唯一の旋律楽器であり、他の楽器と音律を合わせる機会がなかった』と言うようなことが書いてあった。 その事があの調律の曖昧さに繋がっているのかもしれないが、確かに能においては唯一の旋律楽器であるにせよ、歌舞伎や寄席の下座では他の楽器とのアンサンブルが生じてしまっているのだから、そのままではマズかろうと思うのだが、実際には狂いっぱなしの音律で演奏に参加してしまっている。 まあ結果的に、能管こそが下座音楽の醍醐味となってしまってはいるのだけど。


9/17(月)

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片飛鳥、こちらも新曲制作中。 多分近いうちに新作発表します。 一応4曲入りを予定しているんだけど、全部本人作詞作曲。がんばって作ってます。 写真は先日のスタジオにて。



私は尺(長さ)に拘る人らしい。 それも音楽だけでなく、あらゆる創作物において。

映画を滅多に見ない私なんだが、黒澤映画って奴はDVDとかで見たりする。まあ結構面白いと思います。 でも、その黒澤映画においても「このくだり、こんな尺いるか?」とか思わされるシーンが多々ある。 「影武者」のラストシーンとか、物凄く感じた。

いわゆるドラマとかのように、あらかじめ一話の尺が決められているものならいざ知らず、映画は基本的にある程度監督の好きな尺で撮れる筈。 黒澤明が何も考えていないわけがないから、やはりあの尺が彼なりの正解なのだろう。 私とは感覚が違う。

黒澤映画ですら時に冗長に感じてしまうようなせっかちな私なので、それ以外の映画やドラマなど、見ていられない。 ダラダラとした描写に思考の欠如を感じてしまうのよね。


9/16(日)

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広瀬沙希、新曲作りに入ってます。 年内に新作(タイトル)は厳しいかなあ。 まあコツコツ作ってますんで、見守ってやって下さい。


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佳乃。 ここ最近、昔の曲の再録を二つ続けてやってました。 こちらはおそらく年内には新作発表できるかと。


9/15(土)

神田優花、新曲の最終リハ。 今やってる曲のボーカルを来週録ったら、とりあえず年内リリース予定の曲が全部上がります。 でも、今回リリース予定のタイトル数が多いんで(全7タイトルの予定)、ひょっとしたら一部は年を越してしまうかもしれません。

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9/13(木)

挨拶の意味。 世の中「挨拶は大事だ」とか力説する人いますよね。 してどれほど大事か。

例えば職場や学校は、働く場であり学業を修める場である。 そこには人間が集合してたりもするから、関係をある程度円滑に保つ必要性は生じる。 が、それはあくまで仕事や学問の本質とは別のものだ。

仕事や学問なんてのは、本気で究めようとするなら実に大変なものだ。 従って、誰にでもできる作業ではない。 そのような困難な場に、その適性が深刻に欠けている者が置かれた際、彼は彼なりに苦悩する。 一般に人にとって「分からない事」は苦痛だからだ。

だが、そんな彼にでも理解できる稀有な事があったりする。 それが「挨拶」である。

挨拶が大事だと言う人は、本当に挨拶が大事だと思っていると言うより、辛うじてその事ぐらいは理解できた、と言うだけのケースが殆どである。 その人にだって理解できた稀有な事柄なのだから、当然そこに縋りつくわな。 でもそれは仕事や学業の本質ではない。

結論。 挨拶は文化でもあり、人間集団の潤滑油でもあろうから、不必要であるとか有害であるとまでは申しません。 でも、仕事の本筋ではないのだから、重要性もその程度に過ぎない。


9/12(水)

雅楽や歌舞伎音楽ってのは、当然ながら和声音楽ではない。 つうか、西洋のいわゆる和声音楽以外に、世界中どこにも和声音楽なんて事実上無いけど。

JAZZは和声音楽だが、あれは西洋和声音楽にそのオリジンを持っているわけで、ヨーロッパ音楽の一進化型と見做すべきだろう。 モードってのも教会旋法なわけで。 少なくとも独自のルーツを持って発展したものではない。 楽器群もヨーロッパ産のものを拝借しているわけだしね。


歌舞伎音楽のメロディーラインに、たまにとんでもないモノがあるのだけど、非和声音楽ならでは、である。 コードを付けるのが、不可能ではないにせよ、かなり難しいであろう旋律が平気で出てくる。 今私はこれに何らかの(新作の)ヒントを得つつある。


下座音楽って、歌舞伎の下座にせよ出囃子にせよ、短いのが良い。 今手元に歌舞伎音楽のCDがあるのだけど、メディア一枚に全99曲入りだ(ダイジェスト版とかじゃないよ)。 POPSなんかとは用途が違うものではあるんだけど、楽曲の尺なんて1〜2分程度あれば十分だと思わされる。

思い浮かぶ事柄をダラダラと文章化した。 なんかもう、全然まとまってないけど、今日はここで終わる。


9/11(火)

引き続き下座音楽についてあれこれ考えている。 寄席の方も歌舞伎の方についても並行して思いを巡らせている状態だ。 どっちも面白いのよね。

寄席の方の、いわゆる出囃子ってヤツは、長唄なんかを下座楽器で適当にアレンジしたようなもので、そんなに楽理的にも奥の深い体系ではないのだろうけど、とにかく面白い。 特にあの能管の調子外れの音が私の琴線をくすぐる。

歌舞伎音楽も、今で言うミクスチャーと言うか、浄瑠璃や長唄など当時の様々な音楽を取り入れていて面白い。 時に雅楽(怪しげなもんだが)まで取り入れている。

私が下座音楽に感じている魅力の正体は、やはり当時の人が感じていたトキメキなのだろうと思う。 現代のある種のJ-POPとかのように、消費者を強制する(スノビズムを刺激する)ような嫌らしい臭いが無い。 歌舞伎や寄席に足を運んでいた人らは、きっと皆自発的であったろう。 楽しいからだ。

下座音楽は本当に聴いてて楽しい。 現代には自称音楽好きとかたくさんいる筈なのに、なんでもっと皆このことについて言わないのだろうか。不思議なくらいですよ。


9/10(月)

スタジオにて(川村真央)。 9月になったと思ったら、あれよあれよとその3分の1が終わりつつある。 光陰矢の如し。

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影山リサ、先日歌入れした曲のチェックなんぞやってました。 今回の曲は、コーラスパートが結構複雑で、ハーモニーもあるけど、対旋律ががっつり入ってる。 その対旋律部分を神田優花さんにお願いしたのだけど、中々ソツなく仕上がってます。 勿論メインのパートもがんばってますけど。

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9/9(日)

神田優花、新曲のリハーサルとか、先日録った音のチェックとか色々やってました。

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9/8(土)

下座で使われると言うビービー笛とか言う奴が本気で分からない。 諸書に散見されるので、存在していること自体はほぼ間違いないが、それら各資料に、一つとして写真の掲載が無い。 ネット上でも画像が見つけられなかった。 ここまで調べても判然とせぬとは中々の強敵だ。

まず、歌舞伎の舞台で雅楽(管絃)を模す際に使用される、というところまでは間違いなく、諸書そのことは一致している。 が、ネットで検索しても詳しい解説サイトはおろか、断片的にでもその楽器について触れている個人ブログの類にすら行き着けない。


「歌舞伎の下座音楽」(演劇出版社/望月太意之助著)の奏楽の項目に『篳篥を奏楽笛(ビービー笛)で代用している』とあり、「図解日本音楽史」(東京堂出版/田中健次著)の下座の楽器の一覧、「ふえ」のリストに『ピーピー笛』とある。 今度はピーピー笛である。

また、「歌舞伎音楽入門」(音楽之友社/山田庄一著)の「独自の楽器と道具」の項目には『ビー笛』とあり、その説明文に『雅楽の感じを出すために考案されたブリキ製の笛で内部に竹のリードが付いていて、複数の合奏によって笙のような音が出ます。』とある。 次はの代用とな。

「歌舞伎音楽」(東洋音楽学会編)の歌舞伎囃子要録(田中伝左衛門筆)・雑楽器の項目には、ただ単に『ビー』とあり、その説明書きには『歌舞伎創案の楽器。金属製のごく小型のラッパ。雅楽様の音楽に篳篥の代用として用いられる。』とある。 同書の注釈には『金属製、長さ十センチぐらい、径一センチ弱の小型ラッパ様の楽器で、通常二人、時には三人で吹く』ともある。 この記述から、形状が朧げながら想像できるようにはなった。


まず、そもそも情報が少ないのに、その楽器の名称だけでも「奏楽笛」・ 「ビービー笛」・「ピーピー笛」・「ビー笛」・「ビー」などと多数あり(これらが同一楽器を指しているのは総合的に判断してほぼ間違いない)、また一般に駄菓子屋や縁日などで売られているオモチャの笛を「ピーピー笛」などと呼ぶ習慣があったり、あるいはエンドウマメの鞘で作る草笛をピーピー笛(豆)などと言う事もあり、これら「名称関係の錯綜」が、ネットでの検索・情報収集をより一層困難にしている。

またその用途についても、一書に笙の代用とあり、別の資料にては篳篥の代用とあったり、内容に食い違いがある。 それについては前掲の「歌舞伎音楽」でやや詳細に触れられているが、ここではとりあえずそれは措く。

まあそもそもの用途が「雅楽(管絃)を模す」なのだから、おそらく「何が何の代用」とか言う厳密な決め事が設定されているわけでもなく、全体としてそれっぽい雰囲気に仕上がれば良しとされている(あるいは決め事があったとしても歴史に埋没した)のではないか。 だから研究者によって説も分かれてしまうのではなかろうか。 現場にさえ定説がないのであればそれは当然かと。 私個人の感想としては、その名にビービーとか付くことから容易に想像できる通り、倍音豊富な楽器なのだろうと思われるので、篳篥に近いように思える(因みに笙のリードは金属製)。


ちょっと気になったのは、歌舞伎業界創案の独自楽器であると言うこと。 つまり楽器屋などでははきっと売られていない。 では黒御簾の連中はどうやってそれを入手しているかということだが、(下座楽器)専門の業者とかいるのだろうか。だったらHPぐらい無いのか。 あるいはまさか自作?金属製のリード楽器を? 径1センチ弱のボディー内部に装着する竹製リードはどうやって調達する? 確かに舞台関係の人って、わりかし道具類を自作するものだが、下座ってそんな技術まで必要なのか。

大体、「音階がつけられるのか」とか言う基本的なことすらいまだに分かっていない(サイズから推して、運指による音程変化はまず無さそうだ)。 笛とは言うが、横笛(flute)・縦笛(pipe)の類ではなく、単なるwhistleなのではないか、とも思っている。

因みに、どんな音がするかは大体分かってます。 音資料(「奏楽」)を聴く限り、多分この音だろうと言う目星はつく。 楽器編成が分かっているので、そこから引き算すれば、「この音か」ってのがある。

金属(ブリキ)製のボディーに竹製リード(多分シングル)となると、現行楽器で原理的に近いのはサックスあたりになるのだが、サイズが違い過ぎてどうもイメージとは遠い。 もっと倍音だらけ(それも楽器のチャチさに由来している)の、カズーやハーモニカ、あるいはトロンブーンとかの方がまだイメージに近い(ハーモニカは原理的に笙に近い筈だ)。 これ、引き続き調べるけど、詳細が判明する日が来るのだろうか。


9/7(金)

今週のスタジオにて。

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一昔前まで、日本で音楽と言えばそれは即ち雅楽であった。 そもそも雅楽と言う呼称自体、明治後に西洋音楽と区別する必要から生じたもので、それ以前に雅楽が雅楽と呼ばれたことは無い筈だ。 雅楽は久しく、単に音楽(おんがく)と呼ばれていた。 現代人の使う音楽とは若干イントネーションが違うが。


歌舞伎は演劇なので、話の筋によって多彩な場面が生じる。 寺院や宮廷の場面など、BGMとして雅楽が必要なケースがあったのだが、下座のセットで無理矢理それを表現したらしい。 予算その他の事情で、管絃のセットを丸ごと組むわけにも行かなかったのだろう。

レパートリー名で言うと「奏楽」・「管絃(かげん)」あたりになるのだが、笙を篠笛(調子の高いもの)で、竜笛を能管で、篳篥を奏楽笛で、鞨鼓を太鼓、鉦鼓を摺鉦(当たり鉦)、太鼓(釣太鼓)を楽太鼓でそれぞれ代用したらしい。

雅楽の雰囲気を出すために、下座の楽器類で管絃を模す、と言うのは面白い。 PSG音源のノイズを、ドラムの代用にしたりしたようなものか。 ちょっと作ってみたくなる。

ついでに、太鼓類の名称は、これまた雅楽と微妙に違っていて紛らわしい。 鞨鼓を太鼓で代用と言うが、雅楽で太鼓と言うと釣太鼓・大太鼓を普通指す(下座の太鼓は、いわゆる締太鼓を指すらしい)。 雅楽では太鼓を楽太鼓と言ったりもするのだが、下座の言う楽太鼓とは(写真資料などを見る限り)微妙に違うように思える。 下座の楽太鼓は、パーランクーみたいな形状のもののように見えたが(サイズまで分からなかった)、あるいは装飾面においてのみ違うだけなのかもしれない。 だとしたら代用ではなく、楽太鼓だけは雅楽(管絃)と同じものってことになるが。

これ、調べたらすぐ分かった。 ある本に楽太鼓の解説で『歌舞伎で用いるのは形は(雅楽で使用されるものと)同様ですが一周り大きく彩色がありません。』とある(括弧内は私)。 と言う事は、基本的に雅楽のと同じものと考えて良さそうだ。 雅楽の楽太鼓だって、釣太鼓と大太鼓では全然サイズが違うが基本的には同楽器(互換品)として扱われているのだから。(9/9)


よく分からなかったのが、篳篥の代用品である奏楽笛と言う奴。 一名「ビービー笛」とか言うらしいが、それについての詳細が分からない。 少なくともネット上にそれらしきもの(解説サイト)が見当たらない。 楽器と言うほどのものでもないのか。 それにしても情報が無さ過ぎる。 これについては、もう少し資料(書籍類)を当たってみます。


9/6(木)

先週録った音の編集やってたら、もう週の半ばを過ぎていた。 当初「5〜6時間くらいで終わらないだろうか」とか思っていたが、全然甘かった。 土曜日からほぼブッ通しでやってて、やっと今日一区切りついた。



話は変わる。 私どもは、音を商品として世に出しているので、色々なご意見をいただいてしまう。 私自身、ウチの音とは全く関係の無いところで、人様の音楽評を見るのが好きであったりもする。

で、その音楽評とやらを読んでいて思うのは、高評価のレビューは日本人と外国人(主に欧米人)とで全く違い、低評価のレビューにおいて、日本人と外国人はほぼ質的に同じであると言うこと。 洋の東西を問わず、低評価(と言うかある音楽作品についての罵詈)を下す人間にはある種の傾向がある、と言うことなのだろう。

補足しておくが、冷静な低評価ってのはある。 誰にだって嗜好ってものがあるから、好みでない対象があってしまうのは仕方ない。 が、それとある対象に向けた罵詈雑言ってのは質的に全然違うものだ。 後者を専らとしてしまう人ってのは、つまりは純粋な批評と、批評にかこつけて自らの不満を表面することの区別がついていない。 要するに言語力の問題だろう。

好意的な感想も、その逆の感想も、自分に何事かを説明するために言語を組む作業は建設的に思える。 「こんな音楽、クソだ」では自分に何も説明できない。


ぶっちゃけて言ってしまうが、その手の罵詈の発生源は、音楽愛好者ってより音響愛好者が多い(厳密な統計取ったわけではないが、ある程度見渡せばそのようにしか思えない)。 言語的でない思考の持ち主は、世界を非難の目で見てしまいがちってことなのだろうか。 ある事柄について、当事者らが抱える事情(感情)に思いが至らねば、物事ってのは大抵「障害物」と化してしまうってことなんだろう。

確かに音楽なんて、自分の好きなものを聴き、好きでないものは聴かなければ良いだけであって、わざわざ罵詈を撒き散らす必要は無い気がする。 その必要の無いことを敢えてする(対象を敵視せずにいられない)人には、やはりその人が抱える固有の事情があろう。

私も作品について否定的な意見をもらうことはあるが、大抵は「音楽」でなく「音」についてだ。 私にとってそこは表現の核心部分ではないが、一側面ではある。 音について批判的な人は、多分本当に「音」を聴いている。 だから(音楽でない)音のみにフォーカスしても(無論それ以外に対しても)、私とは余程に違った情報処理を行っていると思われる。

物事を言語的に把握しないタイプの人は、諸情報のmaterialな部分を抽出して処理している感じなんだろう。 そしてそれ以外の部分、例えば作品(音)に込められた作者の気分だとか、そういうものには中々思いが至り難い。 だから、例えばウチの作品を耳にした際、音は聴くのだろうけど、そこに込められたノスタルジーや何やと言った「感傷」の面が伝わり難いのだろう。 この溝を埋めるのは、きっと容易でない。 まあ埋める必要があるのかも分からないけどね。


9/5(水)

源頼朝は、征夷大将軍と言うポストを得ることによって、事実上の鎌倉独立政権を築いたわけだけど、その(法律的な)着想をどこで得たのだろう。 不思議だ。

知らない人の為に大雑把に説明しておくが、平安末期、当時の僻地である関東では、開墾地主が武装し、武士の原形(武装農民)が発生していた。 その頃は、中央でも律令制度が有名無実化しつつあったのだが、地方は既に無政府状態に近かった。 現在の日本で類似の例を挙げるのは難しいが、今でも国・地域によっては、似たような状況(僻地にまで施政が行き渡らない)があったりするのではないか。

律令は公地公民が原則であったし、当時横行していた荘園制度も、活用できるのは一部の特権階級に限られていた。 つまり関東周辺を支配する武装農民は、法的には不安定極まりない立場だった。 頼朝はその武装農民らの意志を代表する形で征夷大将軍の地位を得る。 これによって関東非合法地帯やそこに盤踞する集団は、若干の合法性を帯びる。 この着想が秀逸である証拠に、その後このシステムは、江戸幕府が崩壊する19世紀末まで、800年近くも運用され続ける。

征夷大将軍と言うのは、有事を盾に、徴税・徴兵権などと言う、国家の根幹とも言うべき特権を得られるポストである。 平時において頼朝がこれに任命されたと言うのは、いわば国家の中に国家を作ったようなもので、この一事によって律令制度は事実上崩壊したとも言える。

征夷大将軍と言うのは、延暦年間に初代大伴弟麻呂が任命され、有名どころで坂上田村麻呂(こちらも延暦年間)がいる。 しかしその坂上田村麻呂以来、同名の役職は(史料で確認される限り)400年近く絶えていた。 これを引っ張り出してこられるってのは、余程に故事・有職故実に精通した人物に違いない。 武人の子として生まれ、生涯をほぼ流人の身で過ごした頼朝にそれが可能であったろうか。

ブレインがいたとしか考えられない。 それもこれほどの脱法行為を思いつけるレベルの。 あるいは流人生活の中で、そういう知識を身につける機会があったのだろうか。 どうやって?図書館なんて無いんだぞ。 やはり無理なような気がする。

一応公家社会に精通した者が側近としていた事はいた。 三善康信とか大江広元とか。 鎌倉幕府(と言うか頼朝個人)の顧問とでも言うべき人物だが、彼らが思いついたのだろうか。 だとしたら、彼らは世間一般に理解されている以上の学識者である。 法の盲点を突く悪徳弁護士みたいな人らだ。


9/4(火)

三味線は日本俗楽にとって切り離せない存在、みたいな話をしたのだが、その割には三味線って大した歴史を持たない。

豊臣秀吉が確か、淀殿に(三味線の原形である三弦だったかを)プレゼントしたとか言う話があったような気がする(出典は忘れた)。 そんな話が残るぐらいだから、当時まだ珍品の域を出てないわけで、民衆の間に定着するのには、まだまだ時代を下らねばならない。

定着したと言えるのは江戸期だろう(江戸時代っつっても二百数十年あるわけだけど)。 雅楽(の原形)が5世紀に伝来していたことに比べると、ごく最近と言って良い。 しかし、短時間に急激に伝播したってのは、それだけ日本人の嗜好に適っていたとも言える。 私も個人的に、三味線音楽と演歌の根は同じに思える。



篠笛って楽器はブルース・ハープの様に、スケール毎に楽器があるそうだ。 ○本調子とか言って(○には数字が入る)、半音毎に十二〜三本ある(Fからオクターブ上のFあたりまで)らしい。

とは言っても、楽器そのものはほぼクロマチック楽器で、運指(半開含む)やメリカリ等の奏法によって、半音単位の発音ができる。 クラリネットのA管とかそういうのが、もっと小刻みに存在する感じだと思っていただければ。

呂音・甲音なんてのが、竜笛で言うところの責・和に相当する。 吹き方によって、同一運指にてオクターブ違いの発音が可能であるらしい。 これは能管でも同じ。


篠笛が十三本もあるのに比べて、能管は一本なんだと。 雅楽のように、調がほとんど決まっているような様式的音楽のみに使用されるわけでなく、スケール固定の楽器一本で、あらゆるケースに対応するのは難しかろうと思うが、何とかなってるっぽい。 そもそも能管って端からチューニング狂いっぱなしみたいな楽器なのだ。 早い話が効果音みたいなものなので、あんまり厳密なチューニングとか要求されないのだろう。


9/3(月)

神田優花、また新曲の歌入れでした。 早速次の曲の制作にも入ってます。 この次の曲って奴を録り終えたら、一先ず神田優花は年内リリース予定の音が揃うことになります。 でもまだストックが溜まりまくってるので、来年もこれからも急ピッチで制作進めてまいります。

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9/2(日)

下座音楽について調べてるって話をしたけど、またそれについて。 寄席の下座音楽の方に興味があったのだけど、もののついでに歌舞伎の方についても調べてみた。 前もって言っておくが、私は歌舞伎を見たことがない。 劇場などで実見した経験が無い、と言う意味ではなく、映像とかでもしっかり見た記憶が無い。

寄席の方も歌舞伎の方も、要するにどちらも舞台音楽なのだが、同じ下座と言う言葉を使うように、ルーツも同じなのだと思われる。 発展の過程で、双方亜種化して行ったのだろう。 編成なんかも、似ているが微妙に違う。 因みに、寄席の方のみを指して特別に「お囃子」と呼んだりするそうだ(現場用語って感じか)。

歌舞伎音楽は下座だけではない。 様々な音楽が登場するのだけど、下座音楽とは、基本的に効果音などのことを言う。 長唄や、清元・常盤津などと言う浄瑠璃の方が、舞台全体に占めるウェイトは大きいように思える。 ただ、それらに共通しているのは主役と言える楽器が「三味線」であるという事。 歌舞伎にとって、三味線の存在は実に大きい。 これは寄席の方も同じなのだが、要するに三味線は、日本の俗楽にとって切り離せない存在なのだろう。

歌舞伎の下座は基本、三味線・唄・囃子で構成される。 囃子ってのは、四拍子(笛(能管)・大鼓・小鼓・太鼓)・大太鼓・篠笛と言った編成。 それに各種の助奏楽器(主に打楽器)が加わる。

しかしこう言うものの理解に努めていてあらためて思うのは、「ネットって便利」ってこと。 本(と言うより印刷物)なんかより絶対に優れている。 だって音や動画まで埋め込めるんだもの。 音楽なんだから、音が無いと絶対に理解出来ないものってのが存在してしまう。

四拍子や何やと言う、メインで使用される楽器群を主奏楽器と呼ぶのだが、それに対し「場合によっては使用する」楽器群を助奏楽器と言う(楽器っつうより効果音作成器って感じだけど)。 してその助奏楽器の数がとにかく多い。 こんなの名前(とせいぜい写真)だけ挙げられても、実際にどんな音がするのか、正確なところが分からない。 CDなどで聴く音の、どれに当たるのかが分からない。

ネット上には、この私の疑問を一網打尽に氷解させてくれるサイトが実在する(最初発見した時は本気で感動した)。 各楽器を図鑑化し、一々解説のテキストとサンプル音源を上げてくれている。 素晴らしい。


9/1(土)

影山リサ、ちょっと久しぶりのレコーディング。 影山さんは既に次の曲に取り掛かっているらしいです。 とりあえず今回で、今年公開予定の曲用の音は一応全部録り終えました。 リリース日なんかはまたこのページでもお知らせしますね。

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8/31(金)

今週のスタジオにて。 今日で8月も終わりか。

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以前より告知してました、代々木アニメーション学院・学内オーディション、本日で締め切りとなります。


8/30(木)

自律とか体性とかのいわゆる神経系の話って、イマイチ十全な実証性を感じにくいのだけど、今回はその話。

ちょっと前に、ある人に「自転車のブレーキはどちらの手でかけているか」と問われたのだが、あんまし記憶に無い。 「よく分からない」と答えると、「右か、あるいは両手でかけないと危険だ」と言われた。 左だけだと前輪にのみロックがかかってしまい、転倒する危険があるのだという。

先日、自転車に乗った時にその話を思い出したのだが、なんと私は言われたとおり、右か両手でブレーキをかけていた。 それもほぼ無意識に。 人間はこの無意識と意識のバランスで生きていると思われる。

例えば昆虫は、100%無意識の状態で生きている(動いている)と思われる。 空を飛ぶ虫に、空の飛び方の教えを乞うても彼らは教えてはくれない。 自分でも分からないから。 長嶋茂雄さんは現役時代、「来た球を打つ天才」と称されたそうだが、本当にそうなんだろう。 しかし、無意識が動作を支配しているから、来た球は打てても「指導」は難しい。 そのコツを他人に言語化して伝えられないから。

この手の天才(無意識)型のスポーツ選手は、その他の凡人(意識支配型)プレイヤーに比べると、絶頂期こそ圧倒的な能力を見せ付けるだろうが、その時期は限られてしまうだろう。 日々細かく衰えていく、肉体の変化に対応することが難しいだろうから。 肉体の衰えに対応するのは、人間の思考だから。

きっと無意識型の方が、潜在的な身体能力の多くのパーセンテージを動員できる。 意識(思考)型が瞬間的に割けるリソースなど限られている。 ここで言う意識型の人間は、極端な場合、例えば車の運転ができない筈だ。 両手両足で異なるタスクを受け持ちつつ、視覚・聴覚と言った感覚まで動員させねばならないから。 人間の思考のみにそれらはきっと重過ぎる。できる限り無意識を援用せねば。 だから女性は一般に、運動が苦手なのではないのか。

芸術は、この人間の意識こそを総動員する作業である。 だから(生物でなく)人間の可能性を追求する作業と言って良い。

日々私に音楽を作らせているそれ(意識)とは、とても脆くか弱いもの。 私が意志をなくせば、簡単に消えてしまうもの。


8/29(水)

下座音楽みたいなのを作ってみようかと思っている。 下座と言っても、歌舞伎のそれより寄席の出囃子みたいなの。

落語の下座は、三味線以外のパートは全て前座レベルの噺家さんらが受け持つそうだ(三味線は一応専業の奏者)。 つうことは常識的に考えて、そこまで高度な演奏技術を要求されないってことか。 私は自分がその手の楽器を演奏するわけでもないし、音を聴いても各奏者の技術レベルまでは分からない。

そんなに厳格な様式とかは無さそう。 楽理は勿論だけど、楽器類なんかもそんなに厳格な編成とか決まって無さそうだ。 下座なんて、所詮は落語のオマケってことなんだろうか。 三味線(これは必須)・能管(または篠笛)・太鼓(大太鼓・締太鼓)ってのがオーソドックスな編成(落語の方、歌舞伎はまた違う)と見たけど、何か間違ってるかも。 詳しい人、教えて下さい。

下座音楽って、それのみを扱った専門的な楽理解説書が多分存在していない(私は見つけられなかった)。 日本の伝統音楽を概括したものの中の一項目とか、せいぜいその程度の扱い。 しかも、そこで言う下座音楽って大抵歌舞伎の方なんだ。 歌舞伎の下座音楽については一応いくつか解説書が存在しているが、扱っている内容は楽理って言うより、音楽史とかそういうものに近い。


しかし音源類が無い。 三味線はそこそこあるけど、それ以外の笛・太鼓類が無い。 やはり需要が無いと見える。DTMレベルでああいうものを作る人がいないのだろう。 それなりに面白そうなのにな。

篠笛はsoundfontがとりあえず見つかったが、能管が無い。 能管ってのは他の横笛類とは若干発音原理が違うようで( 「喉」の構造が決定的に違う)、竜笛・篠笛あたりでは代用が効きそうにないんだ。 能管は、何かネタ探してきて適当な(1レイヤーとかの)サンプラー用のライブラリー作ろう。 太鼓類は適当な音ネタさえあれば、こっちもサンプラーで何とかなりそう。

あと、この文章打ってて気がついたけど、能管・篠笛って変換できるのね。そこそこメジャーな楽器なんじゃん。 しかし、そんなこんなで苦労して曲作っても、また発表する場がなくてお蔵入りするんだろうなあ。


8/28(火)

ど根性ガエルのDVDを見ていたらこんな話があった。 登場人物の一人、新八が、主人公ひろしの落としたテストの答案用紙を拾い、教室の黒板に貼り出す。 テストの点数は10点、要は晒し者にしたわけである。 ひろしはまだ、その時教室にいない。

そこでヒロイン京子が、新八の行為をたしなめる。 「そんな事をしては(ひろしが)かわいそうではないか」と。 京子は答案用紙を黒板から剥ぎ取るのだが、ちょうどそこにひろしが登場する。

ひろしには、騒然とした教室の空気の意味が分からない。 そこに新八が言う。「10点の答案用紙を貼り出して、笑いものにしていたところ、京子が邪魔をした」と。 ここで新八は「答案用紙の持ち主」の名を伏せる。

そこでひろしは笑いながら「その答案用紙を俺も見たい」などと皆の前で言い出す。「10点の答案用紙なんぞを落とす奴がマヌケなんだ」と。 このエピソードが活写するのは、典型的な「バカ」と言う人間像である。


バカとはまさにこれなのだ。 「その10点の答案用紙の持ち主って、ひょっとして俺では?」なんていう懸念がアタマをよぎらない。 つまり究極のバカとは、様々な蓋然性に可能性の枝葉を張り巡らすことが出来ぬ者を言う。 恐怖や羞恥は、その人の論理性が生み出す。 だから人は、ある程度以上のバカであれば不安も少ない。


8/27(月)

ちょっと前のある時期、雅楽について色々と調べていて、そのおさらいとして曲もいくつか作ってみた。 その中の管楽器(篳篥・竜笛)についての雑記。

竜笛とかって、基本、スケール固定の楽器なのだが、かといって各調ごとに楽器を持ち替えるってわけでもない。 あくまで楽器は一つなんだ。 これは雅楽に使われる調が極めて限定的(&様式的)であることに助けられている。 と言うか、雅楽がああいう音楽だからこそ竜笛がああいう楽器である、ってのが実態に近かろうか。 だからPOPSとか、他のジャンルとの親和性は低いよ。きっと。

竜笛は、スケール固定とは言っても、バグパイプのように単一スケール以外の音が絶対に出せないってわけではない。 竜笛の発音は運指のみに因っているわけではないのだ。 竜笛には責(せめ)・和(ふくら)とか言って、同一運指でも二種の音(基本オクターブ違いの)を出す奏法があるし、メリ・カリ(篳篥では塩梅)とか言って、こちらも奏法(吹き込み方)によって、微妙に音の高低を変動させる方法がある。 あと、竜笛も要は笛なんで、指孔の半開とかで微妙な音程取ったりとかの基本テクニックはある。 ちなみに、竜笛には折指とか言う運指があるらしくて、経過音的な#や♭も出せるそうだ。 私は折指が具体的にどんなものかまでは知らない。

篳篥・竜笛などが出せる音階(運指によって)・音域等は、ちょっと資料を漁れば簡単に分かる。 ご丁寧に図や五線譜表記付きで解説されていたりする。 が、私は実際に竜笛などを演奏するわけではないので、そんなの読んでもイマイチつかめない部分が出てくる。

録音物は、当たり前だけど必ずしも生演奏ばかりで作るわけじゃない。 と言うか、POPS系など、昨今生演奏の方が珍しかろう。 私の場合も例に漏れないのだけど、いくらプログラミングであっても、その楽器の原理をある程度理解していなければ、どうしても仕上がりが嘘臭くなりがちである。 私には、各楽器の原理を「理解した上で無視すること」はあっても、「考えない」ことは無い。

私が曲を作る上で迷ったのは、例えば責・和と言う奏法があるのは分かったとして、「その二者がどれくらいのスピードで切り返せるのか」が分からない。 「BPM140の曲で16分音符×4のパッセージを、責・和・責・和で吹けるのか?」とかである。 メリ・カリも然り。

この辺が、資料読んでもイマイチ見えてこないのは当然かもしれない。 奏法上のコツを文章化するのが難しいからだろう。 こういうのは本当に、師匠とかについて伝授してもらわないと掴みにくいものなのだろう。 「ネクタイの結び方を文章で説明してくれ」とか言われても無理でしょう。 ネクタイなら図示するって手もあるが、息の吹き込み方なんてそれも無理。 困ったことに、動画とか見ても「息の吹き込み加減」なんてのはよく分からないんだ。

作例とか聴いたってはじまらない。 古典と同じような曲ばかり作るわけじゃないからだ。 結局ここについてはいまだに正確には分かっていない。 実際に奏者に聞いてみればある程度は分かったろうが、そこまでやってない。 何故なら、楽器演奏における常識として、奏者の技術に因る面がメチャクチャに大きいだろう、と思ったからだ。 私の作ったフレーズが、実際の演奏に耐えうるものなのかも、結局ほとんどは奏者の技量に因るんだろう。


8/26(日)

写真。昨日の続きです。 川村真央、レコーディングでした。

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ここ2週間くらいで、5曲もレコーディングがありまして、昨日も一日中編集作業に追われてました。 9月一杯ぐらいで一段落つきそうな感じなんだけど。


8/25(土)

今週のスタジオにて。 昨日の続き。

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当たり前だけど、弱さと優しさは違う。 でも、それらを区別するのは言語である。 だからして、その人の言語機能によっては、その二つに違いなど存在しなくなる。 意味分かりますか?

私は軽く色盲っぽいのか、コンディションによっては白いチョークと黄色いチョークの色の違いが分かり難くなる。 完全な色盲になれば、私にとってそれらの違いはなくなってしまう。 白いチョークを買いに行って売り切れてたら、代わりに黄色を買えばいい。

私はできることであれば他人に優しくしたいけど、優しさを感じ取る言語力が無い相手の心に、優しさを届けるのはその時点では不可能である。 私は諦めないタチなので、「分からん奴に何やっても無駄」とは思わない。 が、優しさを感じ取れない相手に、当面生の優しさを与え続ける意味は無い、とも思う。

優しさを感じ取れない相手が、他人の優しさを感じ取れるようになる為に我々がまずすべきことは、少なくとも無条件の優しさを与え続けることではない。 相手によっては、その優しさも単なる「弱さ」だと受け取られるから。 そういう相手は、漏れなくそこにつけ込むし、つけ込まれた際、最悪我々の大切にするものが犠牲になる。

我々は、我々の側にある大切なものを失うべきではない。 他人に対する愛情は、自愛の精神の延長に生まれる。 家族や、近しい人々を大切にできなければ、地球の裏側にいる人を救ったりなどできる筈も無い。


私は上のテキストを、この度の日韓関係のこじれに思いを致しつつ打った。 政治家諸氏は、配慮や譲歩と言う行為を、相手に対する無理解の隠れ蓑にしてはいけない。


8/24(金)

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今週のスタジオにて。 まだまだ暑いですね。

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8/23(木)

今アレンジやってる曲があって、それのギターパート用の小物(音)を作っていた。

ギター類って、打ち込みでの再現が難しい楽器だとよく言われる。 実際そうだ。 で、何が難しいかと言うと、音そのものと言うよりも、細かい奏法表現だとかノイズの類が結局のところ難所と言うか、再現の困難な部分となっている。

だから、入力のコツさえ掴めばある程度のリアリティーは確保できる(と思う)。 で、それには細かいアクセサリー的な音(ノイズとかの)が必要になるんだけど、それを作っていたわけです。

自分で弾いたフレーズを録音したものから、ノイズだとかブラッシング(カッティング)の音を抜き出していくわけだけど、そこまでして打ち込みでギターパート作る意味あんのかって思われそうだ。 でも、あるんです。その必要が。



話は変わる。 葛飾北斎は基本的には海外での評価を受けて、国内でも再評価の機運が高まったと言うタイプの画家なんだけど、存命当時、国内的にどの程度の知名度があったのだろうか。

飯島虚心なんて人が北斎の伝記を書いている。 虚心はそれなりにがんばって書いてはいるけど、北斎がつまるところ庶民なもんで、履歴の詳細が分からず苦労した跡が窺える。 結局北斎については、虚心をしても、出自などと言う基本的な部分すらよく分かっていない。

葛飾北斎は、絵師としては相対的に有名だったのかもしれないが、そもそも絵師と言うものがどれほど認知されていたことか。 当時、テレビもラジオも雑誌もインターネットも無い。 在野の有名人と言うもの自体がほとんどいなかったと思われるが、強いて有名人と言えば、歌舞伎役者とか学者(儒者)とか剣の達人とか、せいぜいそういう人らぐらいだったのでは。 またその知名度とやらも、おそらくはこんにちのテレビタレントなどと比べるまでもない。

富嶽三十六景はそこそこ版を重ねたらしいが、あれはきっと富士山のブロマイドとして売れたのであって、その原画を描いた絵師がどれほど認知されたことか。 現代においても、カメラマンの名で売れる写真集なんて滅多になかろう。 まあテレビもラジオも無かった分、相対的に出版のメディアとしての価値は重かったのかもしれないけど。

北斎は(ほぼ生涯を通して)貧乏であったらしい。 ある時期は唐辛子の行商人であったとか言う話も残っているし、虚心の本にも「洗うが如き赤貧であった」とか書かれていた。 まああんまり金とかに興味なかったんだろう。如何にもそんな感じの御仁である。

ピカソは存命中から、同時代人に絶賛されていた。 フランス政府は作品の散逸を防ぐためか、彼の死亡時、相続税の代わりとて遺族からほとんど超法規的に絵を接収している(ピカソ本人はスペイン人)。 もう間違いなく後世人類史に残るレベルの芸術家だと見做されていたのだろう。 成功者だったピカソは、当然俗に言う金持ちでもあったろう。

当時のヨーロッパにアートを愛する気風があったのだろうけど、北斎もピカソも偉大な芸術家であることは間違いなく、両者の違いは単に、浮世での名声を存命中に受けたかどうか、つまりは「プロモーションが成功したか否か」と言うことになる。

有名な逸話だが、ゴッホは生前、絵が一枚(あるいは二枚)しか売れなかったとか言われている。 死後に催されたゴッホ展により評価が定まり、後それがこんにちのような不動のものとなるのだが、しかしまあそれにしたって、「死後のプロモーション(非業の死に絡めた)が成功した結果」と言えなくも無い。 名声ってのは、要はその程度のものである。 画家の価値とは本来無関係なところに位置している。


8/22(水)

当たり前だけど、目の見えない人にどんな大型のテレビを与えても意味が無い。 それを映す視力が無いのだから。 今の私に安定した身分とか収入とかって、まだ必要ない。 「老後の事も考えないと」とか言われても、そりゃ老後の設計にはそれなりの価値があるのだろうけど、優先順位として、私には先に手に入れなきゃならないものが山ほどある。

私の欲しい物とは、我が心の充足。 私はこの世界に生まれた。 深い闇から目覚めて、せっかくこの世界を映したのだから、それを今以上に美しいものにしたい。 そこを等閑に、どんな高価な物を与えられても、私はそれを十全に感じられない。

私は、今追い求めているものを手に入れられないまま時間を使い切ってしまうかもしれないけど、それでも良い。


8/20(月)

私の音感が悪いわけ。

私と言う人は「印象」を梃子にして物事を記憶しているらしい。 いわば感受性が記憶力を形成している。 だから二日前の夕飯がなかなか思い出せない。 それに何かを感じたなら、幼少期の出来事だって思い出せるが、印象が薄ければ、僅か二日前の出来事すら心に留めておけない。

音と言うのは、周波数のことなんだけど、単なる振動のサイクルに印象を持ちようがないが故に、私の中に絶対音感なんて能力が形成されなかったのだと思う。 絶対音感保持者は、440Hzの音と441Hzの音を聴き分けられるというが、無論私にそれは真似できない。 印象以外を持ってして物事をインプットしている人にはごく容易いであろう作業が、私には全くできない。


直感像素質者と言う種の人間がいる。 映像記憶(記録)を元に、印象を介さずに記憶を形成すると言う。 この映像記憶能力は一般に、人間では誰しもの幼少期に見られ、チンパンジーの幼獣ですらそれを持つという。 人は成長と共にこの能力を(少なくとも表面的には)失うらしい。

何がその能力を失わしめるのか。 きっとそれは「言語」だろう。 直感像素質者などと言うと特殊能力の持ち主のように聞こえるが、実はある特殊能力を持つと言うより、別のある能力を獲得してないが故に、ある特性が淘汰されずにいる人だとも言える。 あたかも永久歯が生え揃わず、いまだに乳歯を残している人かのように(別に乳歯が悪いって言ってるわけじゃないよ)。

直感像素質者と言った類の人間は、映像だけでなく、音声をはじめとするあらゆる知覚を、印象以外の何かをもって把握している筈だ(私はここで把握と表現したが、それが適切なのかも分からない)。 私はここで言う「印象以外の何か」と言った能力を、人生のかなり早い段階で失った(あるいははじめから持たなかった)が故に音感が悪いのではなかろうか。


8/19(日)

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今週のスタジオにて。

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何だかお隣の韓国と領土(竹島)で揉めてるらしいっすね。 こんなところで政治の話しても仕方ないけど。

ある子供が、隣の子のオモチャを取り上げる時、その衝動が「オモチャが欲しい」と言うものなのであれば、そのオモチャをくれてやれば仕舞いである。 が、もし「隣の子の持ち物を分捕りたい」と言うものであるのなら、その子とのトラブル回避は容易でない。

報道などでよく「問題解決」と言う言葉が聞かれるが、日本の方は問題を解決したいのかもしれないけれど、相手の望んでいるのは問題解決などではないのではないのか。 むしろあの隣国は、ある火種(この場合は領土問題)をもってして、日本と衝突する(延いては何らかの成果を得る)事こそをカタルシスとしていたりするのではないの。 だったら、あんな岩山なんてあげたところでトラブルは止まないよ(無論あげるべきではないが)。 今の紛争が解決すれば、次の火種を探すだけだろう。

国際法廷に訴え出るとか言う話が出ているけど、当然相手は出て来るまい。 隣人の持ち物を分捕ることで溜飲を下げているのなら、法的な意味での所有権などが日本のものであることなど、実は百も承知なのではないの。 負けるに決まっている勝負になんか、人はわざわざ出てこないよ。

韓国は、半世紀もの間、事実上支配してたんでしょ?竹島を。 単にあの岩山が本気で欲しいだけなら、もう黙ってそれを既成事実化しておけば良かったんだ。 日本の政治家も韓国側の実効支配体制が均衡点になってしまっている以上、積極的なアクションを取るわけにも行かず、ダラダラ時間が経ち続けていたと言うのに。

あんな何もない岩山に大統領が自ら、用も無いのにわざわざ出向いて日本人の感情を逆撫でる。 それが国内的な支持率に繋がる事が既に「本当はあの島が純粋に欲しいだけでない」証拠なんだ。 だってそんなことしたばっかりに、均衡していた支配体制がむしろ不安定化しつつあるじゃないか。

例えばオリンピックなどと言う、世界の注目を集める場において「独島は我が領土」などと言い出さずにいられないのは、つまりは「我が領土でない」ことを、現状の支配が不法なものであることを、誰よりもよく知っているからなのではないの。

「相手も問題解決を望んでいる」なんて思っているウチは、多分この問題は終わらない。


8/18(土)

今週のスタジオにて。

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先日、スーパーに行った時の話。 ある少年(中学生くらいに見えた)が、そのスーパーのテナントである自転車屋の店先で、自転車のタイヤに空気を入れていたのだが、すぐ隣で女性(70歳代くらいだろうか、老女と言って良かった)が空気入れの順番待ちをしていた。

女性はしきりに少年に空気入れ(電動式)の使用法について尋ねているのだが、少年は明らかにウザがっていて、目も合わせずほとんど無視している状態だった。 私も彼くらいの年の頃なら、似たような気持ちになったかもしれないから、彼を責められないのだけど。

女性は不安だったろう。 自転車の空気ぐらいどうってことないだろうけど、分からないことを教えてくれる人がいないのだもの。 この世界に自分が一人ぼっちでいる気持ちになったかもしれない。 私には、その不安が分かるんだ。

その光景を目にした私がどうしたか教えてあげよう。 「私がその女性の自転車に空気を入れた」。更には、次から自分で空気を入れられるように、空気入れの使い方も教えた。 どうだ、カッコイイだろう。

みんなも、私なんかにオイシイところ持って行かれてないで、同じような光景を目にした時は、周りを押しのけてでも老女を助けてあげたら良いよ。 「そんな事して何の得があるの?」などと思われる向きもあろうけど、得られるものは確実にあるよ。 それは「自分が好きな自分」。


8/17(金)

厳格対位法について触れたくだりで、「当時の人は4度音程を不良とした」とか、そういう話をした。 それについて。

今のPOPS界で頻出する3度・6度の音程などは、当時不完全音程とされた。 不完全だから使っちゃいけないとか、そういうワケじゃなくて、3度・6度などの音程関係にある二つの音は、「完全に響き(溶け)合わない」とされていた。 一方、4度・5度は完全音程とされ、完全に溶け合うと見做されていた。 まあ当時と今ではチューニングも違うので、一緒くたにはできない面もあるのだけれど、周波数が単純な整数比になるものが完全音程関係だとされていた、とご理解いただければ。

ルネサンス期風の声楽曲を現代人が聴く際、曲中に4度音程が出てきたところで、どうとも思わないだろうし、ルネサンス期よりもっと古い時代、ロマネスク期などでは4度の平行オルガヌムなど、最も美しい響きとされた。

4度の響きが不良とされたのは、とりあえず単に「美しくないから」ではない。 現代人がX7にTへの引力を感じるように、当時の人は4度の響きに解決の必要性を感じた。 感性の問題だから、それを感じなくなった我々にそれは掴み難い。

対位法では1度・5度・8度の響きが、忌避すべきものとして扱われる。 単純な響きでさえそうだけど、連続・並達でもそう。 ルネサンス期に何故1度・5度・8度の響きが忌避すべきものとされたかと言うと、それはポリフォニー音楽を成立させる上で、複数パートの音が完全に溶け合っちゃ声部の独立性が損なわれるから、ってところが大きいように思われる。 4度音程が不協和音とされたのも、そういう理由があるのかもしれない。

ルネサンス様式の音楽(声楽曲)を実際に聴いてみれば分かる筈だが、リズムと言うか譜割が実に単調で、対位法とは言うものの、異なる旋律線が同一曲に共存しているとは感じ難い。 少なくとも、バッハのフーガとかに見られるような独立性の高い複数の旋律が、一つの曲に同居しているって感じではない。

だからかどうか、時代区分的にはルネサンス期の直後のバロック期、主流であった自由(器楽)対位法は、あまり禁則にうるさくなさそうだ(実際それ風の曲を作ってても、禁則なんて気にしていられない)。 独立性の高い複数の旋律や、各種カノン等の技法を駆使して作り上げられると言う楽曲の構成上、それは当然かと思える。 各(声部の)旋律線を「流れ」として捉えた場合、4度音程なんて少々出てきたところで、他声部と(脳内で)溶け合ってしまわない。 これは書法の違いから生まれたものではあるのだが、つまりは聴く側の解釈、いわば情報処理の問題である。

「解釈」の正体は言語である。 人は情報を脳で、言語機能で処理している。 各人固有の言語機能によって、人は音楽を歌として捉えたり、詩として捉えたり、声として捉えたり、単なる音響として捉えたりする。 単語としてのmusicもsongもpoemもvoiceもsoundも、含む意味は皆違う。 4度の響きに対する解釈も然り。

音楽は、作り手にも聴き手にも、一定の言語力が要る。


8/16(木)

もう結構前の事だが、プロ野球のドラフト会議の話。 現役の監督さん(原監督)の甥っ子だかがドラフトの目玉選手だったらしい。 そのオジさんの球団(ジャイアンツ)はドラフト一位で彼を指名し、彼にとってもジャイアンツは意中の球団であったと言う。

ところがその相思相愛の両者の中に割って入った球団があった。 球団はその彼を強行指名し、籤引きでも当たりを引いた(ジャイアンツは籤を外した)。 が、その後の入団交渉は決裂し、指名された方は浪人と言う形で、限りある選手生命の中の貴重な一年を棒に振り、指名した側は指名した側で、貴重なドラフト一位の権利をドブに捨てた形となった。 更には、ジャイアンツは一位指名の選手を取り損ね、もし来年もその彼を指名するのなら、二年分の一位指名権を費やすことになるわけで、つまり結果として、当事者の誰一人として喜ばせなかった(アンチ巨人の人が溜飲を下げた、とかならあったかもしれない)。

強行指名した球団には「ルールに則ってやっている」と言う感覚があったんだろう。 実際に世間の評価(多分にアンチ巨人的な人らのだが)も概ね、「ルールに則ってやってるんだ。何が悪い!」みたいな感じだった。 全く仰る通り、お説ご尤もである。

しかし、指名された彼にだってそれまでの人生ってものがあったろう。 プロ野球監督(当時はまだ選手だったろうか)の甥として生まれ、自身もプロになろうかと言うほどに野球に打ち込んだ。 子供の頃からテレビなどに映るオジさんの姿を追い続けたろうし、それは子供だった彼にとってのヒーローだったに違いない。

人は言う。「ルール違反はしていないのに文句でもあるのか」。あるいは単に「ざまあみやがれ」などと。 世間の快哉の声は彼の耳にも届いていたろう。 でも彼にとっては、オジさんの背中を追い続け、やっとの事でたどり着いたドラフト会議の日だった。 良い悪いはさておき、「オジさんと同じユニフォーム着たかったんだろうな」とか言う程度のことなら、私にだって分かる。

一方、この程度の気持ちを分かってくれない相手が、「ルールには何一つ違反していない」と言い張ったところで、指名された彼の立場になってみれば、職場としてその球団を選び、その人らの中でこれからの日々を過ごしたいと思える筈も無い。

私には贔屓の球団など無い。 だからこの一件に関しても、好悪の感想は持たない。 ただ、物事と言うのは「いくら正論をもってしても、相手の感情を無視して推し進めれば、大抵良い結果を生まない」と言うことだけはよく分かった。


8/15(水)

先日のスチール撮影。 影山リサ。

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「T'en va pas」と言う曲がある。 フレンチ・ポップスの名曲と言われているそうな。 有名な曲なので、聴けば知っていると言う人も多いのではないかと思う。 80年代のフランス映画「La femme de ma vie」(ジェーン・バーキン主演)の主題歌で、発売と同時に大ヒットし、チャートでは8週連続一位を記録したと言う。 同曲は英語版もリリースされ、また日本語でもカバーされ、こちらもそれなりにヒットしている。

不思議なことだが、音楽の良し悪しって容易に説明できない(できればみんなヒット曲書いているよね)。 この「T'en va pas」一つとっても、メロディーラインが特殊なスケールであるわけでなし、コード進行も楽器編成も、POPSとしてはごくありきたりなもので、楽理とか言う側面で言えば、特筆すべき点など皆無である。 なんら特殊な技巧を凝らしているわけでなく、かと言ってフックとなり得る程のシンプルさ(五音階などの)があるわけでもない。 でも結果として事実売れた。

たまにこう言う曲って生まれる。 多くの人の心を捉えて離さない曲。 いわゆる名作ってのはこういう「誰しもに分かるもの」だったりするのかもしれない。 つまりは普遍性を持った作品であるという事。 この普遍性と言うヤツは、時に人種・民族(宗教などをも)を超え、人々の琴線を刺激する。 フランス人とは全く違う言語を使って日々思考している私も、その曲(特にメロディーライン)を美しいと感じるもの。

以前に触れたのだが、朝鮮半島の民謡には、三拍子系が多いと言う。 そして日本の民謡には(俗謡にも雅楽にも)、純粋な三拍子は確か一例も存在しない。 両民族固有の言語機能がこの現象を生んでいるのだと思われるが、「T'en va pas」のような曲は、人間の脳のどのレイヤーに作用したろうか。 良く分からない。

私は、人間の脳の可能な限りの一番深いレイヤーに訴えかけようと、常日頃曲を書き続けているのだけど、そうである以上、人間の言語機能(ロゴス)について思いを至らせないわけには行かない。 ヒット作と言うのは多くの人のコンセンサスたりえるもので、いわばごく表層のレイヤーに訴えるものだと思っていたのだけど、そんなに単純ではないのかも。 難しいね。


8/14(火)

先日のスチール撮影。 川村真央。ちょっと多めに上げてます。

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Youtubeをダラダラ見ていたら、あるコメディアンのトーク(数分程度か)を目にしてしまった。 おそらくは過去に地上波とかで放送された映像なのだろうと思われた。

私は若い頃、そのコメディアンが割りと好きだった(今は嫌いになったとか言うのではなくて、忙しくてあんまり関心を持続できないってだけだ)。 感受性・感覚に面白さを感じたから。 でもそのトークは面白くなかった。 衰えたのか、状況上の制約によるものか、ちょっと判定しがたい部分もあるが。

話そのものは面白くなくもなかった。 だから、「語り手」がその話を心底面白いと感じつつ喋ったのなら、もう少し笑えたかもしれない。 私の見る限り、その映像では、語り手が自分の話を面白いとさほど感じているように見えなかった。

コメディアンに限らず創造者ってのは、何かを面白いとか美しいとか感じなくなったら仕舞いである。 感性こそが芸術の主体なのだから。 感じることことが創造に直結する。 もし私が、音楽に感動を覚えなくなったらどうするか。 きっと過去に自分が何かを好きだった記憶や、他人に作品を誉めそやされた記憶を頼りに、在りし日の自分像を追いつつ次の曲を書こうとするだろう。 まさに上のコメディアンもそう見えた。 自分のギャグがウケた過去の記憶、を頼りに喋り続けているようだった。

モノを作る人の価値は、「商業世界において、どのようなステータスに位置しているか」などではない。 きっとその彼は、実は自分が衰えていることを、自身誰よりも分かっている筈だ。 私がああなってしまう(何かを面白いとか美しいとか感じなくなる)日が、この先いつか来たりするのだろうか。 こればかりはちょっと分かりませんな。


8/13(月)

先日のスチール撮影の模様(片飛鳥)。

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幕末の日米交渉史についての文章を読んでいると、いつも暗然とした気分にさせられる。 文明の衝突ってのは、両民族の良いところも悪いところも浮き彫りにする。 例えばアメリカ人は、紛争の解決手段としての「暴力」・「威嚇」を、比較的優先順位の高いものだと捉えていて、それは現在にも連綿と続く民族の伝統のようだが、アメリカ人のその確信の一部は、日本人との交渉経験から生まれたものかもしれない。

あの頃の日本人に「人間を上下で計るな」と言うのが無理難題であることは分かる。 あの頃の日本人のいわゆる「ぶらかし」だとか、その場その場で適当な嘘を吐く行為について、当事者を責めたところで仕方ないかもしれない。 だって彼らの行動原理は、悪意なんてものじゃないもの。 考えることが苦手なだけなんだ。 言語が違う他民族との間に横たわるこの溝を、個人の才覚程度をもってして埋めることは容易でない。

当初強圧的だった日本(幕府)だが、一旦恫喝に腰が砕けた後は、相手の為すがまま、唯々諾々と悪条件を呑まされ続け、後継政権である明治政府に莫大な負の資産を残す。 もっとも、知りうる限り、日米修好通商条約の締結交渉に当たったハリスと言う人物が悪意の人であったか、には多少の疑問が残るが。

一個人の人格が不変であるように、民族と言うものも固有の性格を持っているものみたいだ。 人は別人に生まれ変わったりできない。


8/12(日)

約束通り、先日のスチール撮影の様子を上げます。 まずは神田優花。

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一枚目の写真は、差し入れの和菓子。 ちょっと分かりにくいかもしれないけど、職人芸とでも言うべき凝った意匠で、みんなで感心しきりでした。

今回の撮影で、とりあえず今年のリリース分については絵的なネタが揃ったかと。 リリース、しばしお待ちを。


8/11(土)

今週はスチール撮りとかあって、結構キツかった。 撮影の様子をUPしようかと思ってたんだけど、忙しくてそれも間に合ってない。 数日中には上げます。


今、声楽曲みたいなものを書いている。 様式としてはルネッサンス期のものを下敷きにしたもの。 いわゆる厳格対位法ってヤツです。

ちょっと前にバロック様式のフレーズ(ブロック)を一部に取り入れた曲を書いたんだけど(現時点は未発表)、同じ対位法でも、どちらかと言うと自由対位法と言ったヤツで、今回のとは趣が違う。

厳格対位法・自由対位法なんてのは、一応どっちもcounterpoint(対位法)で一括りなんだけど、一応両者のあらましを(あくまで私なりの解釈で)説明しておく。 厳格対位法ってのは、主にルネサンス期の声楽に採用されていた様式で、比較的禁則とかにうるさい。 自由対位法はバロック期の器楽曲の様式って感じですかね。 積極的な技法に拠っていて、禁則にはそんなにうるさくない印象。 多くの現代人のイメージする対位法はきっとこっちだろう。 内容的には対位法と言いつつも、もう和声音楽の萌芽が感じられる。要はバッハ。 前者の代表格はパレストリーナでいいのかな。

しかしあの当時のヨーロッパ人は、何故あの諸々の禁則を禁則としたのだろう。 現代に生きる私が、あの禁則を全部踏まねばなならない、なんてことは無論無いわけだけど、当時の人らの気分は知りたい。

何故連続5度や並達8度、あるいは単なる4度の響きが不良とされたか。 それは当時の人らが何らかの理由で、その響きを「好ましくない」と感じたからなのだろうけど、多くの現代人にその感覚はつかめない筈だ。 私もそう。

今作っていると言うその曲、大雑把にはこの(厳格対位法の)禁則を踏まえつつ書いているわけだけど、まだ色々なものが見えてこない。 しかしこんなの(今書いている曲)、公表する機会あるんだろうか。


8/9(木)

今書いている曲にオルガンを使おうと思っているのだけど、それについての雑感を。 あくまで古典的・標準的オルガンについての話です。

オルガン(実機)には基本的にヴェロシティ(タッチによる音の強弱)ってのが無い。 どんな強さで鍵盤を叩いても、発音上の音量が一定なわけです。 打ち込み用途の音源とかなら、ヴェロシティを実装することなんて技術的には何ら問題なく可能である筈だが、それにしてもベタ打ちの方がつまりは本物っぽい。

では、オルガンと言う楽器は、絶対に音量の強弱表現ができないのかと言うと、無論そんなことはない。 一応、ヴェロシティの代わりになるものとして、スウェル・ペダル、クレッシェンド・ペダルなんてものがある。 この二つの原理を簡単に説明すると、前者はシャッターの開閉によって、後者はストップ(シンセサイザーで言うところのオシレーターと思って下さい)の加減(足し引き)によって音量を調節するものだ。 ペダルと言うからには、操作は当然足で行う。

原理的に、スウェル・ペダルの方が当然スムースな音量変化を表現できる(要するにヴォリューム・ノブなのだから)。 一方、クレッシェンド・ペダルってのは、音量変化のカーブが、構造上どうしても階段状になってしまう。 が、そちらの方が楽器固有の方式であるが故に、オルガンの特性を表現できる。 私なら、あえてオルガンをアレンジ上使いたいケースなら、後者を採用したいところだ。

しかし困った事に、実機以外での再現が難しい表現なんだこれが。 単に階段状の音量変化を表現するだけなら、エクスプレッションとか、ヴォリュームそのもののカーブを書いてしまえばいいわけだけど、クレッシェンド・ペダルの原理はストップの足し引きなのである。 アナログ・モデリングとかならまだしも、サンプリングでそれは再現できない。 単なる歪な音量変化しか表現できない。

今迷っているのです。 サンプルに階段状のヴォリューム・カーブを書き加えて、クレッシェンド・ペダルもどきの表現にするか、あるいは素直にスウェル・ペダル的な表現(音量調節)にしておくか。


ついでながら、音量の強弱がつけられないなんて、何と不便な楽器かと思うかもしれないが、チェンバロ然り、元来鍵盤楽器とはそういうものなんだよね。 ピアノが画期的な楽器なんだ。命名の由来も「強弱がつけられる」ってところなわけだしね。


8/8(水)

motet(とりわけプチ・モテ)の楽譜が見たい。 特に伴奏のオルガンと通奏低音楽器(コントラバス等)の動きが知りたいのだけど、ちょっとネット上に良いスコア(あるいはMIDIデータ)が見当たらない(一応あるにはあるが)。 動画とかも結構転がってはいるんだけど、視認だけでは、細かい旋律の動きまでちょっと分からない。

一般に、motetの伴奏のオルガンって、各声部を単にミックスしただけのようなもの(ユニゾン)が多いような気がするのだが、見る限りそれだけでもないっぽくて、旋律に微妙なアレンジが加えられていたり、あるいは音符がチョイチョイ削られていたり。 そんなに厳格なルールが存在しているわけでもないのかな。

まあ、見た譜例の絶対量が全然少なくて、まだまだよく分からない面が多いのだけど、時代とか作曲家とかによっても違ったりするのかね。 あるいは奏者の独自の解釈がかなり許容されているとか。 もう少し調べてみます。


8/6(月)

今年はリリース予定タイトルが多くて、ここしばらくデザイン関係とか事務作業に追われている。 私は音楽作りたいだけの人なので、この辺り実に億劫だ。

去年の最後のリリースから数えて、もうアルバム2枚分以上(二十数作品)の曲を作っているのだけど、書いた曲だけで言えば、多分その倍ぐらいある。 お蔵入りしたり、現時点でレコーディングが間に合っていなかったり。

基本的にいつも、曲作るペースに歌を録るペースが追いつかないので、ストックは溜まる一方なんだ。 これ調整が難しい。 アイディアがアタマに溜まりすぎると便秘みたいで気持ち悪いんだ。 ある程度吐き出しとかないと。

話は変わるが、テナガエビ釣りってのをやってみたくてあれこれ想像を膨らませてるんだけど、関連情報調べたり道具を物色したりする時間が無い。 今年のリリースタイトル片付けた頃には、とっくにシーズン終わってんだろうな。


8/5(日)

今週のリハーサル。

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前にも言ったような気がするのだが、作品について、「もう少し分かりやすいものを書いてはどうか」なんていう意見をいただくことがある。 正直言って、そんなに難解なものを作っているつもりはないのだけれど、一部の人にはそう聞こえたりもするらしい。

私と言う人は、どうもあまり平均的でないところがあるらしく、ややもすると普通人の感覚を忘れてしまいそうになる。 普通人にとって、「分かる」と言うのはちょっとした感動らしい。 逆に言えば、「分からない」と言うのはもうそれだけで不安、もっと言えば恐怖に値する。

私は全然そんなこと無いんだ。 学術研究書の類を読むことが割りとあるが、意味が分からないことなどしょっちゅうだ。 そんなの一々気にしていられない。その部分を読み飛ばすだけ。 前提となる知識が足りてなかったりするのだから当然と言えば当然だし、それをどうとも思わない。 どうしても理解したければ、前段階となる知識を仕入れるだろうし。 それでもなお理解できないのなら、それを理解することが私には向いていないってだけだ。

例えば、ピカソに見えていたある美しさが、他の誰かに体感できなくとも、それはその誰かにとっての恥ではない。 これを恥だと捉える感覚は、間違いなく(学校)教育が植えつけたものだろう。

「裸の王様」は、その原形では、王様を裸だと喝破するのは、子供でなく黒人だそうだ。 失礼な話だけど、作中では黒人が「無教養」の象徴であるらしい。 当時その社会では、事実、黒人はそのような位置付けであったのだろう。 時代が変わって設定に改変を加えざるをえなくなった結果、そこが子供に代わったと。 まあ事情は分かる。

しかしまあ、作者が表現したかった話の核心部分ってのは、黒人(人種でなく階層としての)での方が表現できている気がするな。 ヨーロッパ社会でも同じかは分からないが、日本なんかでは、子供って既にスノッブだもの。 小学生でも 「王様は裸だ」って言えないよね。


8/4(土)

今週のスタジオにて。

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先日スタジオで、声楽科(短大)の教材を見せてもらったのだけど、いわゆるネウマ譜を採用していたりと、意外と本格的なことに驚いた。 たった二年のカリキュラムなのだろうに、あなどれんな。

ヨーロッパの中世(日本史で言うところの飛鳥〜平安期ぐらい)、音楽と言えば聖歌だった。 私には古を尊ぶ感覚は薄い(と言うか殆ど無い)のだけど、あの時代の人々はどういう気持ちで音楽に接してたろうか。 神の存在が今とは比べ物にならないくらいリアルだったろうから、聖歌の捉え方も全く違った筈。

バッハのmotetとか嫌いでなくて、あれ的なものを書いてみたい気もしないでもないのだけど、クワイアっつうのが何だかワザとらしくて好きになれない。 記憶する限り、過去の作品にも採用して無い。 何とか上手く取り入れる方法は無いものか。

しかし五線譜ってのはご存知の通り、細かい奏法(唱法)上のアーティキュレーションがかなりの部分割愛されちゃってるわけだけど、原始的な音楽(声楽)であればあるほど、メリスマティックであったりする面もあるわけで、五線譜のお陰で淘汰されてしまったものも随分あるのだろう。 無論、楽譜のお陰で継承されたものもたくさんあるのだろうけど。


8/3(金)

画家とかに、幾何学模様みたいな絵ばっかり描いているような人っているでしょう。 音楽で言うなら、音(音色)こそを作品の核にするようなものか。 作家名で例えて言えない。好きでないが故に、名前も知らないから。

私が好きなアーティストは「言語」で作品を練るタイプなんだけど、この言語的とか言うのがどの辺を指しているのか、どうも伝わりにくいらしい。 感覚・スポーツでなく、言語。分からないかなあ。

作曲って作業には、計数・計量の感覚が求められる部分があって、どうも従事者が理数系寄りになるきらいがあってしまう。 だから、私が音楽に求めるものと、一般に言う音楽の実態が乖離してしまっている。 これは私の方がおかしいんだ。


8/2(木)

あるベンチャー企業家が語っていたのだけど、社員として一番欲しい人は、起業(経営)経験者なのだと。 なんだか気持ちが分かる。 同じ苦労を味わっている人なら、痛みも喜びも共有してくれるような気がするのだろう。

共通の趣味を持つ人や、同じ年頃の子を持つ主婦同士とか、気持ちを分かち合える人同士ってのは仲良くなりやすい。 当たり前だよね。 だから、何も感じない人ってのは、誰とも友達になれない(私の言う友達ってのは、「知り合い」って意味じゃないよ)。

我々は、真剣に生きれば生きるほど、真の友人に巡り会える。


8/1(水)

主人公の見分け方。 映画でも小説でもマンガでも、誰を主人公とすべきなのか判然としないことってあると思う。

結論から言うが、主人公とは、読者である自分が「一番感情移入できる対象」のことである。 作品タイトルとか実は関係ない。 スポ魂物とかで「○○のボール」とかあっても、ボールは主人公たり得ないでしょう(当たり前だけど)。

「フランダースの犬」はタイトルこそ犬だけど、無論犬に感情移入はし難い。 主人公はネロ少年である。 が、作者ウィーダが女流作家であることもあって、あの作品は「少年の心の動き」が弱い。 因みに劇場版の方は、ヒロインであるアロアがまごうことなき主人公である。 見てみれば分かる。

これは大抵の作家に当てはまることなのだけど、一般に、女は男を書くのが下手で、男は女を書くのが下手である。 気分が掴みにくいんだろう。

ついでに、ドラえもんの主人公はのび太である。 あの物語は「のび太に見えた世界」なのだから当然である。 海外文学とか、割とこの辺明快なのだけど。 一般論として、主人公は作者の化身であることが多い。 だから作者と主人公の性別が違ったり、作者自身が面白くない人間だと、名作は生まれにくい。


7/31(火)

つい先日、ガムランとかにそこまで興味ないって話をしてた矢先なんだけど、ここ何日かちょっとガムラン関係の資料を漁っていた。 因みに、印象についての変化は無い。 依然、深く掘り下げてみたい対象にはなりえない。

なかなか面白く感じたのは、楽器群が独自であること。 基本的に西洋楽器が入らない(無論中国・インド楽器や雅楽器も)。 使われる楽器は、系統的にも独自なものに思える(チター属のものとか一応あるみたいだけど)。 因みに、殆どが打楽器である。 メロディー(音階)を担当するものも殆どが打楽器。 クロマチック・パーカッションの類を想像されたい。

楽理面はハッキリ言って貧弱(異論もあろうが、あくまで個人的感想だ)。 大別するとpelogとsulendraと言う二種の音階があり、楽曲はそのどちらかに属するらしいが、どちらも基本5音階のスケールである(無論、実際には多少の異同もある)。 構成音などは調べられたし。いくらでも出てくる。

調律は西洋音階(平均律)とは別系統だが、雅楽の三分損益法とかみたいな明快な算出法を持っている風でも無さそう。 楽譜も存在しない。 「(西洋音楽の)五線譜を援用しない」と言う意味ではない。 記譜の習慣そのものがほぼ存在していない(独自の数字譜みたいなものが散見されるが、多分伝統的なものではない)。 楽曲の継承は口伝がメインなのだと。 どの程度の部分が正確に伝承されるのか、何となく怪しい話だ。

実際に音を聴いてみても、何だか捉えどころの無いアンビエントとかミニマルみたいな音楽で、イマイチ刺激に欠ける。 ヒーリング・ミュージックとか、そういう用途なら良いのかもね。 私は音楽に言語的な刺激を求めてますので、ちょっと欲しいものと違うように思える。 良いとか悪いとか言う話ではなくてね。


7/30(月)

神田優花、新曲の上がりをチェックしてました。 またまた間隔あけずに次の新曲に入ってます。

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7/28(土)

今週のリハーサル。

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西洋音楽にアウフタクトが多いのは、あっちの言語(ロマンス諸語)の冠詞・前置詞のせいらしい。 物凄く納得。 本題は拍のアタマに持って来たいところだものな。 日本の伝統音楽には強拍が多いらしいが、それも言語(日本語)に由来すると言う。

声楽こそが全ての音楽のルーツで、器楽などはみな後発である。 だから純粋器楽曲とかでも、声楽(発声原理)の影響を少なからず受けていると言う事か。


7/27(金)

天職のことを英語でcallingと言ったりする。 本物の歌手は「歌を歌いたい」だけでなく、「『歌を歌いなさい』と、誰かに言われたような気がする」ものらしい。 大いなる何かの力で、その道に立たざるを得なくなる。 これは、一般的基準における歌の上手・下手なんかとは全然関係ない。

僭越ながら私にも分かります。 私も呼ばれたような気がするから。 私は「音楽を作る人生を選んだ」と言うより、もうそうやって生きて行くしかなかった。 今振り返っても、人生のどの地点においても、それ以外の道なんて残されてはいなかった。 「何を言いやがる」って思うかもしれないけど、これは本当のこと。

この文章を読んでいる人の中にも、色々な職に就いている人、色々な生き方をしている人、がいると思う。 もし今のあなたが「私は呼ばれたのか呼ばれてないのか分からない」と言うなら、私が答えを教えてあげます。 あなたは「呼ばれていない」。 私にでもこれだけは分かる。 呼ばれた人ってのは、誰に分からなくとも、自分だけには絶対に分かるんだ。


7/26(木)

音楽制作ツールの新着情報を扱ってるサイトなんかをたまに見るのだけど、最近スマートフォン向けアプリの類が増えた。 増えたと言うか、そっちの方が情報の中心をなしている気さえする。 今後、加速度的にデスクトップとかのPCユーザーって減って行ったりするのだろうか。 と言うか、もうそうなってんのか。

確かに、デカくて置き場所には困るわ、処分するのも金掛かるわ、ホントPCって面倒臭い。 PCのアドバンテージって、せいぜいキーボードの入力効率とモニターぐらいか。 キーボードは外付けとかで何とかなるから、本質的にはモニターのサイズぐらいだろうか。

しかし私はいまだに頑固にPC使いだ。 しかもモニター小さい。 私は性格的に、機材の「乗り換え」って奴を好まない。 無論新しい機材を導入することはあるのだけど、常に何かを「付け足す」と言った感覚で作業をしている。 これは人生観そのものでもある。


7/25(水)

究極的にアタマの悪い人にとって、一番難しいのは、「自分がバカである」という一事を知ることのようだ。 確かに、バカも度が過ぎると堂に入ったもので、実に清々しい。

恐怖とか羞恥とか、そういうのって皆論理によって成立している。 例えば「時間」と言う概念を持たなければ、人は不安なども感じないと言う(概念なんだから論理によって脳内に構築するしかないものだ)。 魚類や昆虫は、不安など感じないのだ。

ここで言う究極のバカは、気後れなど決してしない。 我が身を省みるなんていう高等な機微を持たないから。

例えば、スノッブ・権威主義者だとか、屈折した自己愛の強い人だとか、そういう社会との親和の度合いが低い人種がいる。 一般にそういう人らは嫌われがちなのだろうけど、そこがある種の「気後れ」から生まれていると言う一点において、愛せる可能性を見出せなくも無い。 理解が成立する架け橋ってのが残されている。

究極のソレってタイプの人間には、この架け橋ってのが残されていない(焼き切られちゃってる)わけですね。 だから詰まるところ、愛し合えないし、分かり合えない。

目の前にいる人が、その手のタイプかどうか見分ける方法は簡単で、私はその人の目を見れば分かるのだけど、大抵の人も何となく察知している筈。 人間の持つ総合的な印象ってヤツは、絶対に我々を裏切らない。 


7/24(火)

私は基本的にテレビを見ないのだけど、何故なのかあらためて考えてみた。

早い話が、テレビ(と言うより芸能)界ってヤツがあんまし好きでない。ドラマとかにも全く興味はないが、バラエティ番組ってヤツがこれまた好きでない。 報道だとか、客観的なニュース原稿を読み上げるだけのプログラムとかならまだマシなんだが、それにしてもネット上にあるテキスト情報で十分だ。 テレビを見る積極的な動機ってのが存在していない。

バラエティ番組が好きでない理由はハッキリしている。 あれの出演者らが皆過剰なまでに「演技」をしているからだ。 ドラマに出てくる役者らは言うまでも無く、人と言うのは一般人に至るまでほぼ皆、日常的に演技をしている。 共同体がそれを要求するのだろうけど、私はそういう人らと接するのに、多少の精神的な負荷を感じている(別にそういう人らを悪だと言っているわけではないよ)。 私がキャバクラの類を避けたくなるのも、同じ理由からだ。 どちらかと言うと素のままの人間が好きなのだけど、そういう人って少ない。

普段からその苦痛を感じつつ生きている私が、わざわざテレビでまで演技(それも過剰なまでの)を積極的に見ようと思わないのは当然である。 私は人間が好きだけど、人間の演技を見てしまうと、その人(演技者)の精神的な緊張みたいなものまで伝わってきて、心が穏やかでいられなくなるのだ。


7/23(月)

民謡に関する研究書などを読んでいたのだけど、ちょっと面白かったのでその感想を。

手毬歌の類は、手元から地面までの間をバウンドする毬のスピードがそのままテンポ(BPM)に直結すると言う(当たり前だが)。 従って、立った状態で毬をつく地域と膝を立てた状態で毬をつく地域では、歌のスピードが全然違うそうな(無論後者が速い)。

子守唄は、子供を背負った状態で歌われるので、拍のアタマが休符になっているケースが多いそうな。 踏ん張る時に、同時に歌をうたうのはキツいのだろうか。 子守なんてしたことないから分からない。

同じ歌でも、伝承されている地域の方言による変質など、実例を挙げての説明が非常に面白かった。 他にも、二音旋法・三音旋法(こんな名前じゃなかったけど)の、終止に至る法則性とか。 あれは研究してみたくなる気持ちも分からないでもないわ。

一つ、小泉文夫の本で分からなかったのが、正格旋法・プラガル旋法の用法。 教会旋法に正格・変格なんて分類があることは知っているが、私の知っている定義だと意味が通らない箇所があって、別の意味でもあるのだろうかと思ってしまった。 未だによく分からない。


7/22(日)

昨日の続き。 スタジオにて(写真は片飛鳥)。

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神田優花、新曲の歌録り。 こちら、恙無く完了。

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サンプラー系の音源を使っていていつも思うのだけど、サンプルの絶対的な容量と音源としての優秀性ってそんなに比例しない。 soundfontとかでもそうで、サイズがデカけりゃ良い音ってわけでもない。

やはりサンプリングされたオーディオデータそのものとか、更には、それらの発音を制御するプログラムの出来不出来、ってのが決定的に影響してくるのよね。


7/21(土)

昨日と一昨日の気温差は何なんだ。 寒暖差激しい中の、今週のリハーサル。

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クラウド(cloud computing)ってありますよね。 ちょっと前に仄聞したのだけど、サーバー側のトラブルで、アップされていたデータ類が全部ブッ飛んでしまう事件があったそうな。 クラウドの仕組みをはじめて聞いた時から、いかにもそういう事が起こりそうだと感じたが、やっぱり起こったらしい。

如何なる利便を謳われていようと、現状私はクラウドなんてサービス使いたくない。怖い。 無論自分の機材がブッ壊れる事だって、それはそれであり得るわけだけど、それとこれとは全然次元が違う話だ。 こっちの不手際とか関係なくデータが危険に晒される、ってのはいただけないよな。


7/20(金)

ちょっと面白そうなアプリ(ShockWaveアプリ)を見つけたんだけど、使い勝手の悪さに閉口してしまった。 因みにフランス製。

内容を簡単に説明すると、要するに(あるジャンルに特化した)音楽制作用のアプリなんだけど、まず組んだシーケンスがファイルとして保存できない(言っておくがデモ版とかではない)。 何のためにシーケンス組めるようにしたんだ。

更には、作った曲が(オーディデータとして)レンダリングできない。 まあ無理矢理オーディオインターフェイス経由で録音したり、内部でループバックさせて録るとか、できなくもないけど、そんな面倒なことする人も少なかろう(私は必要とあらばやるけどね)。

つまり、「シーケンス組んで本体で発音させる」事しかできない。 しかもそのアプリ、起動したら全画面を占有する仕様で、タスクバーまで丸ごと隠してしまうので、他の機能を援用しづらい。ホント不便極まりない。 制作陣はどういうつもりで作ったんだ。 世の中には本当にまだまだ謎が多い。


ついでに、フランス人の英語嫌いってよく聞くけど、本当にそうらしくて、この手のアプリに至るまでフランス語表記一点張りなんだ。 私の第二外国語程度のフランス語力では、何が何だかサッパリ分からない。 Lisez-moiとか言うタイトルのテキストファイルがあったりすると、moiって英語のmeだから多分Read meの事なんだろうな、とか辛うじて想像できるくらい。

フランス人って、もうそういう偏狭なナショナリズムからとっくに卒業しててもよさそうなくらい老成した民族の筈なんだが。どうしたものだろう。 英語なんてそもそもはフランス語から派生した方言みたいなものだろうに。

まあ日本人のように大らか過ぎてもそれはそれで困るけどな。 漢字一つとっても、漢音・呉音・唐音などが混在しているので、覚えねばならない読みが多過ぎる。 下手したら朝鮮音まで混じってやがる。 金姓の「金」を「キム」と読む類の俄かな習慣は、後世にまた一つ負の資産を残すことになるに違いないわけで、やめた方が良いに決まってるんだけど、今更もう手遅れだわな。

しかし民族の正体って、煎じ詰めると結局は言語でしかないわけで、民族の純粋性を保つものってのも血統なんかよりは言語ってことになる。 「フランス人とは何ぞや」って問われたら、究極的にはフランス語を使う集団だとしか言いようが無いのである。 だからして、ナショナリズムの行き着く先が他言語(この場合は英語)の排除ってのは、理屈としては正しい。


7/19(木)

ピカソ語録のうちの有名なもので「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」と言うのがある。 意味がイマイチ理解出来ない人も多いのではないか。 私なりに説明してみますね。

儒教をはじめとするアジア的思考法ってのは、ある面では「対象を見えるようにする」もので、ドイツ語のideologieってヤツだ。 まことに人間とは、このideologieを排除してモノを見る事が難しい生き物であるようだ。

確か明代だったと思うが、お隣の中国で、罪人の腑分け(臓器解剖)を行ったことがあるそうな。 当時中国(とその周辺地域)では、伝説的な「五臓六腑」ってヤツが信じられていた。 言うまでも無いが、この五臓六腑は全く実証的でない。

当然ながら、開いた罪人の腹部には、五臓六腑とは全然違う配置で臓器が並んでいる。 が、明の役人は「ああそうか。コイツは罪人だから臓器も尋常でないのか」で済ましてしまったらしい。 つまり漢方の伝統的な五臓六腑論の誤りに、動かぬ証拠を見せられてなお気付けなかった。 これが「対象を見たままでなく、見えるように見る思考法」である。

解剖に立ち会った役人は、いわゆるバカ(無教養人)ではない。 むしろ明の官吏なら、科挙及第者だったりするかもしないわけで、きっと儒学的教養豊かな、いわゆるインテリだったろう。 なまじ教養があったりするからこそ、物事が曇って見える。 分かりやすい例ですね。 山脇東洋なんかの思考法と比べてみるだけで、何故日本と中国とで、ああまで近代化のペースが違ったのか分かりますでしょう。

明代の役人を、今の日本人は笑えない。 この社会には、ある人物に備わった「人格」と「ステータス」の区別すらついていない人が実に多いもの。 つまり、物事を「見たまま」に見られていない。 これが出来ないうちは、真のアーティストになんかなれるわけがない。

私は、「美しいとされているもの」ではなく「私が美しいと感じるもの」を書きます。


7/18(水)

ちょっと音楽的な調べものをする際になんかに、書籍の類を漁るのは当然として、実際の音を聴くためにCDとかそういう音源類も探すわけです。 で、CDとかにブックレット(歌詞カード)って付いてますよね。あれが結構貴重な資料になる。

ブックレットと言う印刷物は、即ち簡易な「本」なわけだけど、紙面の制限がシビアなのもあって(何百頁とかにできない)、内容が網羅的かつ概括的にならざるを得ない。 それが、手っ取り早くその音楽を理解したいこっちにとっては、実に助かる。 無論中には、ブックレットの内容(記述)が全然充実していないのとかもあるけどね。


7/17(火)

ワールド・ミュージック(世界各地の伝統音楽)とかに割と興味なくも無い私なんですが、対象ごとに関心の濃淡は当然ある。 雅楽やインド音楽とかは好きだけど、アフリカ音楽や、ガムランなどの太平洋の島嶼の民族音楽とか、そこまでの熱量をもって見つめていない。

どうしてかっつうと、あの手の音楽が感覚的なもの、いわばスポーツだからだと思う。 現時点では自分なりにそのように分析している。 ガムランからは人間の思考の痕跡を感じ取りにくい。 私は思考から生まれる何事か(つまりアート)には興味があるが、ダンスとかスポーツとか、そういう五感に働きかけるようなものを掘り下げたいとは思っていない。

これらを区別するポイントを一言で表現するなら、言語的であるか否か。

多くのミュージシャンは、感覚面に訴えるようなものにばかり傾倒するから、すぐ麻薬みたいなものに手を出したくなるのではないかね。 まあ私個人は麻薬の是非になんて大した定見があるわけでなし、ハッキリ言ってどうでも良いのだけど、単純に、そっち方向に行っても大したものは見つからないんじゃないかね。


7/15(日)

昨日の続き。

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神田優花、新曲の最終リハ。 今年リリース(つうか納品)予定のものが14曲ありまして、そのうちの12曲目になります。 本当はもっと作りたかったんだけど、多分来年以降のお楽しみってことで。

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7/14(土)

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今週のスタジオにて。 毎日暑いし、雨降ってばっかりで嫌になりますね。


7/12(木)

フラメンコは基本リズムの周期が12拍なんだと。 確かに12進数って合理的だ。2でも3でも4でも6でも割れるしね。

フラメンコって、フリギア系のスケール使っとけばそれっぽくなる。 名前にスパニッシュとかが入っているスケールも、大抵フリギア系だ。 コードも、いわゆるフリギア終止ってのがあるんだけど、そういうのを使えばらしくなる。

さほど格式ばった音楽ジャンルでもなさそうで、楽器編成などもそんなに厳格でないようだが、ギターは不可欠っぽい。 それもナイロン弦が基本みたいね。 あとは編成によってマチマチだが、リズム担当は手拍子(パルマ)・カスタネット、あとはカホンとか、ほとんどその程度のものみたい。 手拍子なんて楽器と言えるかも微妙だし、カホンは南米産の打楽器で、様式として組み込まれたのもごく最近らしい。 つまり全体的にそんな感じで、民謡だけにおおらかである。

フリギアは日本音楽で言うところの都節音階ってのにほぼ相当するのだけど、当初、「それにしては随分出来上がる音楽の雰囲気は違うものだな」なんて思っていた。 が、実際に曲作ってみるとやっぱ似てるわ。 ちょっと気を抜くと、フレーズが俗筝のそれみたいになってしまう。

こういうエスニック系の音楽を、私は曲作る時のアイディアとして一部拝借したりするだけなんだけど、一ジャンルを形成しているってのは凄いことだ。 ジャンルが成立しているってことは、それ専門のミュージシャンや作曲家がいるわけなんだけど、私なんかは「これからフラメンコだけで1000曲作れ」とか言われたら困ってしまう。


7/10(火)

音楽関連の研究書の類を読んでいるとしばしば思うのだが、本当に音楽とかそれを支配する空気ってのは捉えどころがないようだ。

例えば、資料中に引用される譜例ってのがありますよね。 「○○音階とは、〜〜と言う構成音で成立している」と言った話を「実例としてこういう楽曲がある」みたいな感じで帰納させたりするのだけど、その譜例がしっくり来ない。

どういう事かと言うと、その引用例の多くが「実例」と言うには、「どこここの音はスケールアウトしています」と言った注釈付きのものだったりして、読んでいるこっちはイマイチ釈然としない。 例えて言うなら「俳句は5・7・5で形成されます」って話に、作例として字余りの句が載せられているような状態である。 通常そんなことあり得ない。

無論、物事に多少の例外は付き物である。 しかしながら、一般に譜例として引用するようなモノは、ある説明を補強する為の材料である。 普通なら、むしろ都合良いレア・ケースを持ってきてでも自説の補強材料にしたい筈。 そもそもその説明に十全に適ってすらいないような怪しげなものを持ってきてどうする、と言いたくもなるよ。 ハッキリ言って「その説、実例があんまり無いんじゃないの?」とか思わずにいられない。 私は実態をよく知らないから、余計にそう思う。

音楽に、それを支配する力学は存在する。確実にある。 やってるこっちが確かに感じるんだから、間違いなくあるんだろう。 でも、それを研究している学者などの解釈が、実態を解明し切っているとは到底思えない(コジツケ臭い部分がまだまだ残っている)。 ラモーも上原六四郎も小泉文夫も偉大だし、恩恵を被ってもいるが、まだまだ音楽を解明し切っているとは言えないように思える。


7/9(月)

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川村真央ちゃん、歌録りでした。 間隔空けずにすぐ次の曲の制作に入ってます。


上の歌録りの際に、あるフレーズの末尾部分にどうしても音程を取れない箇所があって(歌い手の音域とか音感次第でこういう事はある)、私は編集でどうやってそれを誤魔化すか考えていたのだけど、レコーディング中、本人が何かを掴んだみたいで、ある時を境にそれ以降そのフレーズを安定的に歌えるようになってしまった。 お陰で私は編集楽になって助かったのだけど。

聞くところによると、リハーサル段階でも、ずっとその箇所の音程が取れなかったそうで(私はリハーサル担当ではないので知らなかった)、短期的にはこれ以上の上達は難しいとの判断で、レコーディングに入ったとのことだった。

しかし本題はそこではない。 そのフレーズを安定的に歌えるようになった彼女の歌は、それを機に、別の箇所も見違えるように良くなっていたのだ。 明らかにそこ以降のテイクが良いので、私はそれより前のテイクを(使わないだろうと思って)削除した。

人って不思議だ。 「自分には何かができる」と感じたことをきっかけに、見違えるように輝きを増してしまう。 今で言う中学生ぐらいまで夜尿症が治らなかった坂本龍馬は、自分の剣術の才能に気付いたことを契機にあれほどの傑物に成長した(勿論それだけじゃなかろうけど)。 「呉下の阿蒙にあらず」なんてフレーズがあるけど、私はまさに、現実にそういうものを感じた。 心に追い風が吹くのだろう。

我々がこの作業を通して作りたいものとは、まさにそれです。 誰かの心に吹く追い風。 だから事務所としてもいつだって、美人であるとか歌が上手いとか、そういう人を求めていない。 我々が求めているのは、「歌が上手い人」ではなく、「歌が好きな人」。


下は影山リサ。 先日のスタジオにて。

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7/8(日)

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上は差し入れ。 一枚目のみかんジュースは(ありがたいことに)毎年恒例みたいになってしまっている。 みんなでおいしくいただいてます。


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神田優花の新曲のリハーサル前の譜面チェックなんかをしていたんだけど、本人が「音(ガイドメロディー)と譜面が違う」と言い出した。 私(作者)も聴いてみると、なるほどたしかにそのように(違って)聞こえる。 でも、よくよく聞き込んでみると、やはり譜面通りだった。

こういうことってたまにある。 ガイドメロディーにバッキングの音が複雑に混ざり合う上に、倍音なんかも含まれてたりすると、聴きようによっては、脳が中心の旋律部分以外の音を拾ってしまうケースがある。 更には、耳がそれに慣れてしまうと、脳内での訂正が難しくなってしまう。 人間は音を、耳ではなく脳で聴いている。

カクテルパーティー効果ってのは、その補正(音の選別)が脳内で行われる。 やはり人間は、世界(と言う情報)を自分の「解釈」によって成立させている。 同じ曲(録音ソース)の同じフレーズが、神田優花と私では違って聞こえた。 どちらかが正しくてどちらかが間違っていた、なんて単純な話じゃない。 作った私の意図があり、ある聴き手に別の解釈が成立していただけ。 それ以上でもそれ以下でもない。

音楽に限らず、絵だとか文章だとか、会話で交わす単語一つに至るまで、それは常に単なる割符に過ぎない。 発信した側(表現者)の意図が、そのままいつも満額で相手に伝わるとは限らないのだ。 と言うか、大抵誤謬(と言うより受け手側固有の解釈)を含んでしか伝わらない。 各自の言語機能が違うからである。


7/7(土)

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今週のリハーサル。


また更新間隔が空いてしまった。 事務作業や曲作りで忙しかったのだ。


7/3(火)

音楽って物理とかの世界なんかと比べると、人が考え出した様式と言うか概念の(自然の摂理でない)世界なので、何が困るって用語の定義が研究者によって一定しない。 だから学術書みたいなのも、どうしてもその分難解になってしまう。

例えば「調性」と言う言葉一つとっても、普通なら西洋の和声音楽で言うところの長調・短調を指すのだが、常にそうとも限らない。 テクノとか旋法音楽は調性音楽でないのかって話になると、上の定義(狭義の調性)のみに照らすなら、調性音楽ではなくなってしまう。

旋法だってトーナリティ(トーナル・センター)は存在しているのだから非調性音楽とは言えず、現に無調性音楽とか言うと、十二音技法で作られた作品などを指すのが一般的だ。 つまり調性の定義は、今のところ前後の文脈などから判断するより他ない。

拍子とか言う用語も同じ。 西洋音楽で言うところの「○拍子」と、雅楽の「○拍子」は全く意味が違うし、雅楽の世界ではそもそも拍子と言う語の指す概念が単一でない。


つい最近読んだ文章に、「○○(POPS系のアーティスト名)の曲は、そのほとんどが長調、ないし短調であった」なんて言うくだりがあって、「え?当たり前じゃないか」と一瞬面食らってしまった。 だって非和声音楽をやってる流行歌手なんて、そうそういないだろうと思って。

読み進めていくと分かってきたのだが、その筆者は長調・短調(調性音楽)の定義を、物凄く厳格な西洋的様式を踏まえた楽曲だけに限定していて、例えば演歌の大半を調性(和声)音楽と見做していないようなのだ。 私の感覚で言えば、ほとんどの演歌は自然短音階の短調だ。

ギター一本、3コードで作ったような曲でも、大抵は一応のトニックもドミナントもサブドミナントもあるし、メロディーは何らかのスケールに属している筈。 テクノとかだって、曲にはトーナリティがあり、フレーズは何らかのスケールに依拠している筈で、その各音には何らかの(ドミナントだとかリーディング・ノートだとかの)機能性が割り振られている筈。 であるなら、それらはもう紛れもない調性音楽である。 これを調性音楽でないと言うのなら、もう一つ概念語が必要になる筈だ。

私が思うのは、音楽の世界はもう少し「用語の定義を整理しろ」ってこと。ここに尽きる。 理論を組み立てる前に、その材料となる単語の定義が曖昧(且つ、そもそも足りてない)ってのは、学問として致命的だ。


7/2(月)

神田優花。 ここ最近録った曲の上がり(マスタリング)を、5曲まとめてチェックしてました。

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神田優花はボチボチ今年のリリース計画の詰めに入ってます。 新作楽しみにしてくれてる人もいるみたいなんですが、お待たせしてゴメンなさい。 今しばらくお待ち下さいね。詳細はこのページでもお知らせしますので。


7/1(日)

今年ももう半分切りましたね。 先日のリハーサル風景。

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ちょっと前に「雅楽に三拍子は存在しない」って話をしたのだけど、その三拍子について。

あの後、また色々と本を読んでいたらたまたま知ったのだけど、朝鮮半島の伝統音楽(民謡的なもの)には三拍子が結構見られるそうだ。 日本においては、雅楽は無論のこと俗謡・民謡に至るまで、純然たる三拍子って存在しない筈だ。

雅楽ってのは、日本の伝統音楽では一応あるものの、そもそも大陸から伝わった音楽のエッセンスである。 そこに存在しないのだから、おそらくアジア全域においても三拍子ってあまり無かったのだと思われる。 とりわけ日本の雅楽が歴史の中で三拍子を淘汰して行った可能性も無くは無いけど。 とにかく、どちらかと言えば朝鮮半島の方が特殊なのだろうと思われる。

十進法が人間の指の数に由来しているように、二拍子は人間の手足が二本づつであることと密接に関係している(四拍子は二拍子の派生物だろう)。 本を読んだだけの言わば又聞きなので、実例こそ知らないが、何やら朝鮮半島では三拍子の方が伝統音楽(民謡)の多数を占めるとか言わんばかりの書きクチだった。 本当かよ。音楽はまだまだ奥が深いな。


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