・6/29(金)
聴く限り、民謡音階とか民謡のテトラコルドとか言うヤツは、短旋法(マイナースケール)ですね。 ナチュラルマイナー、教会旋法で言うところのエオリア(あるいはドリア)に相当しようか(基本五音階なので、100%合致するものは無い)。 都節ってのもマイナーですね(こっちはフリギアか)。 日本人はマイナーを好む民族なのだろうか。確かに演歌が好きだものな。
琉球音階ってのは、どうも民謡音階の地方版であるっぽい。 つまり「訛り」である。 本土の民謡(無論民謡音階で構成されている)が、沖縄では琉球音階で伝承されていたりするケースが実在するそうだ。 同主調の転調に近いというか、きっとそのものなのだけど、同主音の長調・短調が関係調であるってのは、それらがある面では一体のものであり、長短を決する半音程の間に「人間の気分の行き来」が存在するってことなのだと思える。 琉球音階は聴く限りメジャーである。 沖縄人の情緒には、民謡音階がそのまま受容されなかったと見える。
クラシックの黄金時代、古典派・ロマン派とか言われる楽派の人らの活動期、楽曲の主流を成したのは長調だ。 確かに明確な短調と言うのは、調性(和声)音楽の所産で、それこそヨーロッパ文明の賜物なのだろうけど、相対的な作品数で言えばきっと少数だ。 ヨーロッパ人の感性にも、どちらかと言えば長調の方が合ったようだ。
個人的には、人間を農耕民族・狩猟民族とか言う二元論で語る手法ってあまり納得したことも少ないし、物事の理解・把握法としても好まないのだけど、このケースにおいては多少なりとも関係あるのだろうか。
音楽に、作用として「精神の鼓舞」を求めるなら、短調ってわけには行かない筈。 個人の力量・才覚こそが求められる社会では、精神の鼓舞って需要ありそうだわな。 日本のように、個人の能力より家柄・血統が求められる社会とは、求められる精神作用が違うってのも、ある面では当然と思える(だから日本史の中でも、時代の情勢などによっては、ある層ではきっと違う精神作用が求められたりしたろう)。 短調が促すものって何だろうな。精神統一とか内省とかって感じかな。 本来人間はこっちの方を好むのかもね。
信長が、桶狭間の直前に敦盛を舞ったとかいう話があるけど、あれ戦局がかなり絶望的だったからじゃなかろうか。 姉川とか設楽原の前に敦盛舞ってられないだろう。 戦国期の武人らがどういう音楽を好んだのか、ハッキリ言ってよく知らないけど、大多数はメジャーだったんじゃないのだろうか。 現代人においても、一般に演歌って年寄りが好む。 青春を謳歌する若者に、演歌の需要ってあんまり無さそうだ。
・6/28(木)
小泉文夫の本を読んだって話をしたのだけど、その後もいくつか立て続けに読んでいる。 して、その感想。
細部についてはさておき、大筋においては論旨にほぼ全面的に納得出来る。 教育者(芸大教授)だっただけに音楽教育についての所見とか、素人の私には分からない部分もあるけど、概ねその通りなのだろうと思える。
ちょっと分からなかったのは、文中で「西洋音楽が優位で、それ以外が劣位であるとは言えない」って話が、「むしろ東洋音楽とかの方が優位である」みたいな論調に及ぶところ。 そこで「和声音楽が未開社会には存在して、文化的な発展過程においてそれらは淘汰されていった」とかいうようなくだりがあるのだが、不勉強な私は小首を傾げてしまった。 未開社会にある和声音楽って何?
私も西洋音楽(文明)至上主義者ではなくて、文化に優劣なんて単純にはつけがたいと思っているタチだけど、だからと言って何もかもを相対化するわけには行かない。 例えば、旋法音楽(単旋律の声楽)→対位法(ポリフォニー)→和声音楽、と言った様式の変遷は、やはり「進化」であって段階を持っての発展である。 未だに単旋律の原始的な声楽しかないような地域の音楽と、和声音楽とを同等と見做したりはできない。
例えば、現代の作曲家が単旋律の楽曲を作るのは簡単だろうが、グレゴリオ聖歌なんかの時代(中世初期)の作曲家(いた筈だが、名前が残っていない)が、和声音楽を作るのはメチャクチャ難しい。っつうかある程度の教育を受けなければ無理だろう。 その後のほぼ全人類が共有してしまっているところから見ても、和声音楽は人類史における、音楽の今のところの「最終形態」と言って差し支えなかろう。 東洋音楽の方が先進的ってのは、いくらなんでも言い過ぎじゃなかろうか。
私がここで言う「和声音楽」ってのは、あくまで理論化・体系化された和声音楽(機能和声)のことであって、私の知る限り、今のところこの地球上にはヨーロッパ発のものしか存在しない。
・6/27(水)
去年もやったんですけど、今年も代々木アニメーション学院さんで、学院生限定のオーディションを開催します。 8月末締め切りなんで、多分もうじき告知も始まると思います。 毎度ですけど学内限定のオーディションなんで、ここであえて触れるべき話でも無いのでしょうけど。
代々木アニメーション学院さん、前から音楽関連のコースとかはあったみたいですが、今年から歌専門の科をスタートされたそうです。 音楽関係に一層力を入れてるようで、ウチとしても良い人材にちょっと期待してます。 できれば事務所を引っ張って行ってくれるような新人さんに来て欲しいですね。 奮ってご応募下さい。
・6/25(月)
沖縄音楽について。 一時期J-POPの世界でも、沖縄音楽とか、エッセンス的にそういうテイストを混ぜ込んだPOPSが流行した時期があった。 今はやや沈静化した感がある。 沖縄っていわば日本の外国なので、その音楽もちょっとエキゾチックに響いたりして本土人の琴線に触れたりするのか。
沖縄風の旋律を手っ取り早く作るコツとして、琉球音階なんてのがあるのだけれど、スケールで○○風の音楽を作るってのは、一番薄っぺらい方法で、そんなんじゃ仕上がるものもたかが知れている。 実際に沖縄民謡をいくつか聴いてみても、純然たる琉球音階で作られているものなんてほとんど無かったりする(無論琉球音階がベースにあることは事実だろうが)。 むしろ本土人の作った沖縄風POPSみたいなのの方がスケール依存型だったりするのだけど、まあ当然だわな。 匙加減が分からない者の作るものは、一般的に味付けも濃い。
沖縄の人らは単に音楽を作ってるつもりだっただけなのだろうけど、他の文化圏人から見たらそれが異質だった。その差異の部分を解明していく過程で琉球音階とかって出てきたのだと思われるが、無論実際の沖縄人がそんなもの意識して旋律を作っていた筈もなく。 スケールをベースに音楽を作れば、むしろその精神こそが沖縄民謡とは遠くなる。
「今更何を」と言うような当たり前の事を言っているのだけど、どちらかと言うとやはり私は、音楽の楽理なんてものより、それを作る人の気分というか精神の面を体感したい。 自分の音楽を作る補強材料として、それを取り入れたいのよね。
・6/24(日)
雅楽はA=440Hzの世界ではない。 有名な話で、雅楽関連の資料を漁っていれば、この事はいくらでも出てくる。 で、諸書一致しているのがA(雅楽で言うところの黄鐘)=430Hzである、という事。 他の音についても、表などを載せて各音を周波数表記しているものさえある。 表中では、当然ながらA(黄鐘)は430Hzとある。
が、明治期にあるイギリス人(エリス)が実際に測定した結果、A(黄鐘)=437Hzであったと言う記録がハッキリ残っている。 つまりA=430Hzなんてのが厳格なルールとして守られていたわけですらない。
これは当然かもしれない。 ヨーロッパ音楽(いわゆるクラシック)の基準音(A)も、現在では442Hzとか443Hzとかだったりするが、昔はもっと低かったらしい。 だから現代に演奏されるクラシック曲(古典楽曲)も、ピッチにおいては当時と同じでない。 一般に、時代を経るにつれ、音は高くなる傾向にあるようで、雅楽のA=437Hzってのも一応その例に漏れないと言える。 ある時期までは本当にA=430Hzとかだったりしたのだろう。
・6/23(土)
小泉文夫(音楽学者)の本を読んでいた。 まあ面白い。 上原六四郎なんかよりは現代人なので、文章なんかも単純に読みやすい。
実は私、小泉の著書って読むの初めてだ。 他の本で、小泉の理論が引用されているものなんかだったらいくつか読んだのだけど、本人の手によるものの方が断然面白いね。 特に有名な日本版テトラコルドの話は、いままでよりずっと理解も深くなった気がする。
確かに音ってものが、1オクターブ単位を周期として積み重なっているってのも、一種の思考法・把握法に過ぎないわけで、440Hzと880Hzの周波数を同じ音名にしているのだって、別に自然の摂理でも宇宙の真理でもない。 人が思いついたものだ。 現に三分損益法で算出した12律では、13半音目の音が、西洋音楽で言うところの1オクターブ上に当たらない(1/8音弱ほど高い)。 ヨーロッパ音楽のように大音域を使わなければ、それでもさしたる問題は生じなかったのだろうか。
余談だけど、江戸時代(元禄期)の和算家、中根元圭が著書「律原発揮」の中で、既に十二平均律を計算上はじき出していたそうな。 日本人って民族として優秀だと言われたりするのだろうけど、やはりそれって理数分野での能力において顕著なのだろう。 因みにその中根の発明って、当時の日本人(音楽家)からほぼ黙殺されている。 応用する能力ってのはまた別なんだろう。
私は一時期、ハーモニーの響きを寒く感じ出していて、実際作品にも使わなくなった時期がある。 でもやはり、あのハーモニーの発明って偉大なんだ。
音楽に優劣をつけるのも変だが、古代ギリシャとか盛唐の音楽は、同時代のヨーロッパのそれより、ある面では先進的であると言って差し支えないと思われる。 世界中の様々な地域・民族に音楽はあるし、ヨーロッパの音楽が世界最高峰と言えるようになったのって、贔屓目に見てもルネサンス期ぐらいからだと思うけど、あの和声法ってのだけは、ヨーロッパ以外の地域からはついぞ生まれなかった。 因みに、ほとんどの現代人がイメージする音楽とは、即ち和声音楽のことである。
音楽のことを調べていると分かってくるのだけど、音はその生理としての機能性を持っていて、ある音楽様式に関して言えば、誰かがそれを発見せずとも、きっと他の誰かが歴史の必然としてそこにたどり着いたであろう、ってのが多い。12音階(律)での旋律構成だとか、導音→主音の進行だとか。
でも機能和声は違う。 地球上にヨーロッパ文明が存在しなかったら、現在に至っても、人類史にああいう様式が存在したか疑わしいとすら思える。 誰が思いついたのか知らないが(一人じゃなかろうけど)、画期的様式であるのは間違いない。
・6/22(金)
ある音楽番組の司会者が、ラジオで言っていたんだけど、日本のミュージシャンはしばしば「ビートルズに何もかも先にやられてしまった」とか言うらしい。 「ビートルズと言う先達さえいなければ、彼らの発表した様々なアイディアを自らが発表できたのに」と言うことか。 本当かしら。
結論としては分からない。 そういうことを言う日本のミュージシャンらが如何程のアイディアを秘めているのか知らないから。 でも「ビートルズが先にやってしまったから、自分にはもう発表すべきネタが無い」と言っているのなら、ソイツは偽者である。
発想が金を生むことは確かにある。でも、「発想=金」と言う先入観は捨てるべき。 発想は、それそのものに価値があるのだから、誰かが先に何かを生んでくれているのはありがたいことだ。 自分は一つ上の階段から何かを始められる。
ピカソがもし生まれ変わって現代人であったなら、「ピカソに何もかもやられてしまった」なんて落胆する筈も無い。 ピカソが既に発明してくれた何かの上に、新たな発想を生み出すだけだろう。 むしろ後世に生まれたことこそを奇貨としたろう。
・6/21(木)
スタジオにて。
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違法コンテンツをダウンロードした者に刑事罰を与えるなんつう法案が通ったらしい。 誰の働きかけによるものなのか知らないが、来月のローンの為に音楽業界を壊滅させる気なのだろうか。
音楽の業界だって人間が運営しているのだから、色々思惑もありましょう。 誰かが保身の為に思いついた与太話が、転がる雪のように膨れ上がってしまった。 何事かがその終焉を迎える時って、概ねこんな感じなんだろうか。よく分からないけど。
・6/20(水)
気付けば随分更新が滞ってしまっていたけど、別に普段通り元気にしてました。 今週のリハーサル風景。
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神田優花、先週かな?録ったボーカルテイクのチェックなんてしてました。 暑くなりましたね。
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・6/16(土)
私にとっての最大のコンテンツは「人」だ。 まあ私に限らないからこそ、人類最大のアミューズメントが芸術なのだろう。
私は北斎やピカソが好きだけど、何が好きって彼らそのものが好きだ。 一人の人間のアタマの中から斯様なものが生み出されるのか、と興奮させられる。 芸術の魅力とは人間の可能性だ。
私が好みの作家(物書き)とかを発見した際、その人の著作を片っ端から読み漁ってしまうのは、やはりその人の精神こそを好むからだろう。
芸能界などによく現れる、「キャラ」が受けることによって注目を集める芸能人。その人らが大抵一年〜数年といった短いスパンで消えて行く理由は、受けているそのキャラとやらが表層的なものに過ぎず、その人の物の見え方とか考え方といった「感性」でないからなのだろう。
いわゆるキャラなんてものは、いうなれば作品に過ぎない。 だから「お前のそのキャラ、面白いじゃねえか、俺によこせ」なんて事もありえる。 持てる財産がその程度のものである人は、そりゃ盗作に怯えるだろうし、知的財産の登記なんてことを真剣に検討するだろうよ。
絵や曲とは何なのか。 それはそれを作った人間の感性の所産なのだけど、いわば派生物で、芸術の本質とは作者の感受性だ。 だから私は、盗作に過度に怯えている人らがよく分からない。 芸術の本質が盗めるものかと。 作品などに最大の価値を置いている時点で、その人はまだ芸術の本質とか体感できてないのではなかろうか。
絵描きが描く絵も、音楽家が書く曲も、役者などが残した映像作品なども、コメディアンの放つギャグも、芸術に照準を合わせるなら全ては枝葉末節だ。 私は上手な絵や奇を衒ったギャグなんかより、魅力的な人間が見たい。
・6/15(金)
藤子・F・不二雄の全集みたいなのを読んでいたのだが、その感想。
作品の中でも、純商業的な意味で、受けた作品と受けなかった作品があるわけだけど、当たり前ながら内容的な面白さとは単純に比例しないようだ。 例えばオバケのQ太郎は受けたが、ウメ星デンカは受けなかった。 私個人の感覚で言うなら、後者の方が断然面白いのに。
ウメ星デンカは、主人公であるデンカが人間(設定上、ウメ星人と言うことになっているが、外見は人間である)であるところが、子供の食いつきを悪くした面があるのではないだろうか。 例えば絵本に出てくるキャラクターが、擬人化されたウサギだとか猫であるのには、それなりに理由があるのではなかろうか。 オバQのオバケは、あれは非人間であると言う意味で、動物と同じなのでは。
子供にとって、主人公の「人間」は、情報として重過ぎるのではないか。 人間と言うのは、見るものに「背景(と言う雑多な情報)」を感じさせすぎるのではなかろうか。純粋なストーリーや意味を抽出するには適当でないのかもしれない。 結局、マンガがドラマなんかより子供に受けるのも、きっとメカニズムは似たようなもので、色や線で表現された世界の方が、子供にとって、情報として処理しやすいのではないだろうか。 だからマンガでも、劇画なんかは当然幼児には受けない。
人間には、その人の脳固有の情報処理性能ってのがあって、それぞれに程よい情報の重さってのがあるのだろう。 作品は万人向けのものである方が、当然商業的には受けやすい。 軽過ぎてもすれはそれでダメなんだろう。多少の歯応えが無いと。
私はマンガとかアニメとか、好きです。 私の脳が幼児並だからではなく(そういう面もあると思うけど)、情報の中の真意の部分が抽出されている(余計な情報があまり入り込んでこない)ので、物を考える材料としては適している気がする。 人間劇は、想念が別のところに発展してしまい過ぎて、じっくり物を考えるのには向かない(少なくとも私には)。
・6/14(木)
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スタジオで撮った写真を上げつつ、近況を報告。
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川村真央。 4作目の新曲に取り掛かっております。 そのオケ作りに私はここ何日か忙殺されています。 間に合えば年内に2作目のアイテム(パッケージ)出したいと思ってます。 その前にスチール撮らないといけない。
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影山リサ、こちらも新曲作ってます。 前回のリリースから、もうかれこれ5曲目になる。 影山リサは2ndアルバムを視野に入れつつ、新曲作りに励んでます。お楽しみに。
・6/13(水)
今週のリハーサル風景。
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神田優花、またまた新曲の歌録り。 ここ最近、レコーディングばっかり。 音作りに忙しくて公表する暇が無いという、本末転倒なんだかこれが正しいんだか、何だかよく分からない毎日です。 もう5〜6曲上げたらリリース関連の作業に入ります。 一番最後のリリースって何だっけかな。「True colors」か、随分昔な気がするな。
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・6/11(月)
前近代の日本音楽のバックボーンの一つに「都節音階」ってのがある。 基本五音階ベースで構成されていることを除けば、教会旋法で言うところのフリギアってヤツにほぼ相当する。 俗筝などの平調子ってヤツがまさにそれで、あと雲井調子とかそれ系統の調弦も基本はこの都節音階がベースとなっていると思われる。
前近代の日本音楽っつっても、基本的には俗謡の話で、雅楽に都節的な要素は薄い、と言うか私の知る限り皆無である。 だからかどうか、都節ってのは実に日本臭い旋律なのだけど、同時に若干「品」に欠ける。 勝手な印象で申し訳ないが。
今、三曲を取り入れた新作を作っているのだけど、都節は避けて通れない感じだ。 あれを使いつつ、何とか品の部分を保つ方法って無いのかしら。
・6/9(土)
雅楽器に「笙」ってヤツがある。 竹製のリード楽器で、雅楽では定番楽器として使用される。
その笙、奏法の一つとして「合竹(あいたけ)」ってのがあるのだが、要は和音(5〜6音構成の)である。 管絃・舞楽曲等において、笙は基本常に和音を担当している。
しかし和音と言っても、西洋音楽で言うところの機能性を担った和音とは全く違う。 進行の原理なども当然無い(解明されていないだけで実はあるのかもしれないが、少なくとも西洋音楽のそれではない)。 笙の音は、いわば効果音のようなものとして、楽曲全体を貫いている。
あらためて思うのは、和音の持つ機能性ってのも一様式に過ぎず、特定の文化圏においてのみ共有される感覚に過ぎないってこと。 日本人は死ねば遺体は火葬されるが、土葬が当たり前の文化圏では、死体を燃やすなんて何と野蛮で残酷な葬り方か思うらしい。
現に雅楽に使用される和音は、西洋音楽的な機能和声とは全く原理を異にしているわけで、合竹の進行・構成音を西洋音楽的な基準に照らし合わせると、おかしなところだらけで、禁則やら何やらに引っ掛かりまくってしまう筈だが、雅楽は別にその状態で問題なく成立している。 和声進行なんてのが文化に過ぎないからだ。
・6/8(金)
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神田優花、新曲の最終リハ。 この間録った曲のチェックなんかをしようかと思っていたのだけど、それに必要な最低限の工程にまで編集作業が進んでなくて、とりあえず次回以降に持ち越しってことになりました。
以下、今週のスタジオにて(影山リサ)。
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・6/7(木)
今週のスタジオにて。
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私の行動圏内に、料理研究家何某プロデュースとか言う弁当屋がある。 よく分からないけどそれなりに凝った弁当を作っているらしく、日替わりのオカズの内容(献立)を店先に張り出している。 試しにと昼飯に一度その弁当を買ってみた。800円也。
それなりにおいしいような気はした(私はあまり味にうるさくない)。 が、その張り出された献立を一々覚えていないので、「この揚げ物の中身は何だったっけ?」みたいな状態で、つまり自分が何を食っているのやら分からない。 何だか分からない魚と何だか分からないフライと何だか分からない和え物と何だか分からない漬物を頬張りつつ、私は考えた。
人間が食事として採っているものとは、実は気分である。 有名な弁当チェーン店のメニューのほとんどが「から揚げ弁当」だの「海苔弁当」だのの定番物であり、またその海苔弁当などの内容が「ご飯に佃煮・大判の海苔を乗せ、キンピラゴボウとちくわの天ぷらと白身魚のフライを添える」といったこれまた定番的であるのには理由がある。 周知の惣菜の方が人に認識されやすいのだ。 気分を買っているのだから、いくら良い素材を使おうが、あるいはうまかろうが、経験として蓄積されねば意味が無い。 高級感でモノを売ろうと思うなら、能書きは必須である。むしろ人はそっちに金を払っている。
人間が得るものとは、要するに「経験」である。 金も車も恋人も友人も、食い物であっても同じ。 「うまい」と言う経験を得るためのものである。 例えば、暗闇でメシを食っては勿体無い。 食い物の栄養素自体は体内に吸収されるだろうが、視覚的効果無しでは、食い物の魅力など半減である。 食事とは経験なのだから。 トンカツを食う人は、豚肉の油揚げを摂取していると言うより、記号としての「トンカツ」を経験している面が大きいのではないか。
私にとっての音楽とは、何にも代えがたい最高の気分なのだろうと思う。 高価な車に乗るよりも、世界中を旅するよりも刺激的な経験。 私の求めるものは心の中にこそある。
・6/6(水)
私は基本的にクラシック(音楽)嫌いです。 長いから。 5分超のPOPSですら長くて聴けないと言うのに、一時間の交響曲とか勘弁してくれって感じだ。
比較的マシなのも無くは無い。 曲が良いから少々長くても聴けてしまうヤツとか、曲そのものが短いヤツとか。 と、ここまで書いたところであらためて考えてみたが、前者の例ってあんまし思いつかない。 私にはやっぱり長いってだけでダメなんだわ。
ダラダラ長い交響曲とかよりは、ショパンのエチュードとかバッハの平均律の方がまだ聴ける。 本来鑑賞用途の作品かすら怪しいものだが、一曲の尺が現代のPOPSに近いからか、割りと抵抗無く聴けてしまう。
オーケストラとかそういうクラシック系の楽器編成には興味無くも無くて、管弦楽法の本とか一時期読んでたりもしたのだが、クラシックそのものは嫌いだ。 勉強のためになんて理由で聴き漁ったりもしない。退屈だから。 あくまで自分の作品を作る道具として、クラシックの技法を取り入れようと思ったりするだけだ。
・6/5(火)
雅楽(管絃)の編成で曲作ったりしてるって話を何度もここでしているのだけど、調律って難所がある。 まあ私自身は大して気にしてないから、難所たり得てすら実はいないわけだけど、歌い手さん(神田優花)なんかはさぞかし大変だろうと。
掻き集めてきた音色類、篳篥や笙なんかは単に実器をサンプリングしただけだったりするので、当然三分損益法に基づいたチューニングだったりするのだが、筝・琵琶の音は西洋音階であったり(だって無いものはしょうがない)。 アンサンブルも各楽器のチューニングがマチマチになってしまう。 私はあんまし気にしてないけど、事実そういう状態(チューニング不統一)になってしまっている。
例えば筝一つとっても、雅楽で使ういわゆる楽筝とその他の俗筝とでは、そもそも調弦法が違う。 音階的に違うだけでなく、基準音の周波数が違ったりするみたいだ。 だから単に「筝」とか言う名の音色があっても、それがどういうチューニングか分からないと迂闊に手を出せない(特にチューニングに拘る人には)。
しかし雅楽ってそもそも、旋律が平気で半音でぶつかってたりするくらいで、あんましシビアなチューニングが要求されているとも思えない。 少なくとも西洋音楽に比べれば、ある程度その辺は許容されるんじゃなかろうか。
私がチューニングに拘らない理由は、自分自身「よく分からない」からだ。 音感がそんなに良くないから、少々のズレなどさして気にならずに済んでいる。 絶対音感とかって、無論私には無いけど、欲しいとも全く思わないな。 とりあえずメリットが思いつかない。デメリットならたくさん思いつくけど。
しかしこの雅楽のヘテロフォニーってヤツの編集は実に厄介だ。 全パートが基本同一旋律を奏でる上、各楽器2〜3本づつのユニゾンだったりするもんだから、盛り上がるところなんかあった日には、音量がトンでもないことになってしまう。 POPSとかにそんなの無いでしょ?サビでボーカルが声張り上げたからって、他の全パートが一斉に大ボリュームになる、なんて。
ダイナミズムが大きいわけだから、基本レベルを抑えればいいのだろうけど、アーティストってのはブランドなわけで、同一アーティストの楽曲間にそんなに大きなレベル差はつけにくい。 やはり商品だし、ipodとかでも同一アーティストの楽曲って同一フォルダに収められてしまうわけだしねえ。
・6/4(月)
上原六四郎の「俗楽旋律考」を読もうと手に取ってはみたが、読み進められない。 私の言語機能との相性が悪いんだろう。
旧仮名遣いってだけでも基本的に私はアウトなのだけど、内容が数理的かつ記述(記譜)法が独自すぎて、理解に脳のリソースを食い過ぎる。 きっと内容自体は、よく分かった別の人が噛み砕いて説明してくれれば、2〜3ページ程度で終わるようなものなのだろうけど。
上の著述は、日本の音楽論の中でも画期的な書と言われているものらしい。 まあ確かに当時的にはそうだったのかも。 上原六四郎って西南戦争に従軍しているような人なんだもの。
しかし、三味線等の各弦の呼称はギターなどと逆になっているが、あれって何とかならないのか。理解の妨げになる。 つまりギターなんかは一般に、高い弦(下)の方から1弦・2弦と数えるのだが(販売用の弦の名称などもそうなっている)、三味線は逆で、低い方(上)から1弦・2弦・3弦である。 これだけでも読み進める上でのネックとなってしまう。 タダでさえ数学苦手な私なのに。
西洋音階でも、例えばmelodic minor(旋律的短音階)とかそうなわけだけど、日本古来の五音音階なんかの中には、上行と下行で構成が変化するスケールがいくらかある。 律音階の嬰羽(と下行時の羽)なんかが典型なのだけど、やはり導音としての機能性に引き摺られる形でその変化が起こっていて、原理としてはmelodic minorと似ている。 まあ実際に作曲をしていると、変化の必要性って、上行・下行って言うより、乗っかっているコード進行によって生じている面が大きいわけだけど。
しかし、著者上原のプロフィールを読んでいたら、東京工業学校で数理科の教鞭を取っている、などとある。完全に「理系」である。 やっぱし音楽って算数なんだ、とあらためて思った。 道理で私に出来ない筈だわ。
上の文章を読もうと借りた全集に「粋興奇人伝」ってのがあるのだけど、それがちょっと面白かった。 音楽と全然関係ない話ばっかりだけど。
・6/3(日)
Panningについてあれこれ考えていた。
そもそもステレオ録音(・再生)が実用化され出したのって、せいぜいここ半世紀ぐらいからだ。 ビートルズの初期音源はモノラルだが、活動の途中から徐々にステレオ化され出す。 ステレオ黎明期の実験段階なので、こんにち的な感覚では不自然なMixも多い。
その前にPANについて説明しておくが、要するに音の左右2chへの振り分けのことである。 スピーカーもヘッドフォンも基本的にペアになっているでしょう。 左右から別々の音を出力することによって、立体的な音像を得られるわけである。 人間の耳が二つであることに由来している。
昨今の音源は大抵ステレオサンプリングされてあって、例えばピアノなら音の高低によって、左右の音量比まで変わってくる。 リアリティを追求しているのだろうけど、奏者の視点でのリアリティとオーディエンス視点でのリアリティはまた違う。 録音物を作る際、「どの視点で作るべきか」など、詰めるべき点は多い。
例えばフルオーケストラとか弦楽四重奏とか、雅楽の管絃とかには、定番的な編成があり、各楽器群には定番的な配置(ポジション)がある。 様式的に厳格な配置であったり、単に慣例的なものだったり、その辺はマチマチだが。
管絃なんてのは前者で、配置は実に厳格である。 オーケストラの配置もある程度様式に沿ったものだが、時代などによってその内容は違って来る。あと、楽団とか指揮者によっても微妙な差異はある。 ただ、例えば「木管五重奏ならホルンが真ん中」とか、編成ごとにその程度の大雑把なお約束はあるのが普通である。
私はあんまり極端なPan振りってやらないけど、都度一々練ってはいる。 特にPOPS系とかは、定番的な様式ってヤツが存在しないから余計に気を使ってしまう。 世間の音屋の皆さんらは如何なさっているのだろう。
ついでに、今回のような文章(私の日々の懸案を綴ったような)ってのは、明確なオチとか結論が無いのだけど、自分のアタマの中を整理するためにテキスト化している部分もある。
・6/2(土)
神田優花、歌入れ。 今週は以前録っで既にリリースもしている曲の再録でした。 あと、先月録った何曲かのチェックしたりとか。
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以下、今週のスタジオにて。
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・6/1(金)
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今週のリハーサル風景。 上は差し入れの謎のお菓子。
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佳乃、レコーディングでした。 多分年内にシングル的なヤツを1タイトル出します。
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・5/31(木)
結構良いアンプ・シミュレーター見つけた。 それもフリーソフト。
今までアンプ・シミュレーターは基本的にハード機器ばかり使ってて、リアンプとか結線が面倒臭くて、それが理由でやらなかったり。 でもこれで、今後はかなりやりやすくなるな。 リアンプがやっと実用的になる。
少々の手間ぐらいかけろよ、と思われる向きもあろうかと思うが、音楽もやはり、数作ろうと思うなら作業効率との戦いにならざるを得ない。 でも上のソフト、ちょっと重いのが玉に瑕。 あとバグだらけ。フリー物だし仕方ないけどね。
・5/30(水)
雅楽を取り入れた歌物を作ったりしているのだけど(現時点で未発表)、その歌詞について。
あんまりPOPSに迎合したようなものにしても違和感がありそうだけど、かといって過度に畏まったものにもしたくなかった。例えば「古語」を使うとか、そういうのはいくら何でもやり過ぎだろうと。
しかし雅楽は旋律上の制約が大きい。 ヘテロフォニーと言って、要するに全パートが同一の旋律線を奏でる事を基本としている。 つまり縦横無尽に言葉を乗せるって作業に難がある。 歌詞を組む作業において、妥協を強いられる面が大きい。
言ってしまえば、全編「ラララ」でも良かったの。 でもそれでは聴いている方歌い手も、曲の展開とか掴みにくいだろうし、さすがにそれは断念した。 歌詞(言葉)が歌の地図になっている面って、少なからずあるので。
結局、何を言いたいのやら捉えどころの無い歌詞ってのが大半になってしまった。
普通なら、ここまで主張(歌詞に込めたメッセージ性)が存在しないケースは、他の人に歌詞をお願いするのだが、作品がちょっと変わってて、少なくとも前例のないものだったので、他人に任せられなかった。 今後は分からない。
・5/29(火)
三曲合奏用の曲を考えているのだけど、それについて。 曲と言っても、丸々一曲書こうとか思ってるわけではなくて、ある曲の一部にそのエッセンス的なものを挿入しようと思っている。
三曲の編成って、三絃(三味線)・筝までは諸書一致しているのだけど、もう一つが胡弓だったり尺八だったりと統一されていない。 そもそも尺八は虚無僧が奏する一種の法具で、俗謡での使用はご法度だったのだが、明治の廃仏毀釈でそういう制約がなくなったのだとか。
上のような経緯で、元々は三絃・筝・胡弓だったのが、明治以降尺八が胡弓に変わったと、文献ではそのように解説されているものが多い。 が、明治以前の資料にも尺八が出てくるものはわりと多くて、ある時期には併用されていたのだと思われる。 どちらもレガートっぽいフレーズに向いていて、互いに代用がきく。
因みに現在では、胡弓は廃れきっていて、三曲と言えば尺八である。 理由もよく分からないのだけど、胡弓のような擦弦楽器ってのが、どうも日本人に馴染まなかったのかとも思える。 胡弓ってのがそもそも、日本で唯一と言って良い擦弦楽器なのである。
三曲と言えば胡弓の方がルーツで、胡弓入りの編成が三曲合奏の原形なのかと言うと、どうもそうとも言い切れないらしい。 胡弓が定着する前は「一節切」と言う、尺八の原形に当たる楽器が使われていたらしく、尺八入りの編成の方がそもそもの原形に近いとも言える(一節切は尺八そのものではないにせよ)。 因みにその一節切、史料面での散逸が激しく、詳細な奏法すら分からなくなっているそうな。 現在に残る流派なども当然無い。
今のところ、三絃・筝・尺八の編成で作ってみようかと思っている。 と言うのも、胡弓の音(音源)が無いからだ(奏者の知り合いなんてのも勿論いない)。 ちょっと探してみた限り、soundfontすら存在してないようだ(知ってたら教えて下さい)。 ついでながら、中国の二胡(Erhu)と日本の胡弓は、全然別の楽器である。 二胡の音ならいくらでもある。
・5/28(月)
以前に撮ったスチールの上がりをチェックしているのですが、これがまた手間の掛かる作業で、ちょっと気が滅入ってます。
川村真央。 先日録ったばかり曲の上がりをチェックしてました。 音に関しては一旦OKが出たのだけど、個人的にちょっと気になる点に気付いてしまったので、今調整中。
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・5/27(日)
神田優花。 ここ最近で録った音のチェックとか、来週歌入れの曲の最終リハとか、次録る予定の新曲の打合せとか、色々やってました。 下はスタジオで撮った写真。
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影山リサ。 新曲の制作に入ってます。 あと先週録った曲の上がりをチェックしてたのだけど、ちょっと手の掛かりそうな修正点が発覚したもんで、これから再編集です。
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・5/26(土)
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今週は忙しかったなあ。 何だかわけが分からないうちに一週間が過ぎたって感じだ。 なんだかもう暑くなりましたね。
広瀬沙希。ここ最近新作出してませんけど、近いうちに再始動します。
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・5/25(金)
続・三曲について。
筝も三味線も胡弓も、基本的にはどれも上モノのメロディー楽器で、POPSとかで言うベースに当たる楽器は無い。ついでにリズム楽器も無い。 楽曲をボトムで支えるパートが無いので、拍節面がやや覚束ない印象。 曲を実際に聴いてみても、編成も少ないし、曲の性質上それでも問題なかったのだろう。
個人的な感想だけど、どうも雅楽なんかと比べ、三曲は「品」に欠ける気がする(失礼)。 何故なんだろう。 特に三味線にそれを感じてしまうのだけど。 三味線音楽が、遊郭などで発達した部分もあったりするからだろうか。
蛇足だが、「琴」を「こと」と訓ずるのは誤用である。人名などにもよく使われているが(私の友人の妹の名にも使われてたりする)。 あの楽器は筝(そう)である。琴(きん)とは別の楽器だ。 筝を音で読むなら「そう」、訓なら「こと」。きっと争、事なんて字と同系統なんだろう。 本来全然別の楽器(奏法ごと違う)である琴。「こと」の読みが慣用化してしまっているが、明らかに誤用である。
・5/24(木)
ちょっと前に、中東とかその周辺の音楽の関連書籍に当たってるって話をした。 アラブ(イスラム圏)って芸術の空白地帯みたいになってるって述べたのだけど、まあそれでも一応音楽絡みの文化はある。 でもなかなか人類規模での共有財産になりにくいみたいだ。
微分音込みのスケールなど、ちょっと面白い感じがしないでもないけど、やはり12音階でないってだけで、一気に西洋音楽との親和から遠ざかってしまう。 あと私は、12音階に耳が慣れきってしまっているだけなのかもしれないけど、それ以上の微分化、例えば24音階とかって、人間の創造性にマッチしない気がする。 少なくとも私はそんな音階での旋律線を、アタマの中で想像できない。
アラブ社会発の「世界的アーティスト」ってのもいない。 Umm Kulthumなんて言う大物歌手(日本で言うところの美空ひばりみたいな人らしい)がいるみたいだが、やはりあくまでアラブ(それもPOPS)世界におけるスターで、人類規模のアーティストとは言えないだろう(現に知らないでしょ?私は知らなかった)。
時間があればもう少し色々調べてみるかもしれないのだけど、その手の音楽を隅から隅まで知り尽くして、延いてはその種の曲を作ろう、なんてことは今のところ考えていない。 そこで考えた何かが、今後の作品に間接的にでも活かされれば御の字です。
・5/23(水)
つい先日、定食屋みたいなところでメシ食ってたら、近くの席のオヤジが店員(中国人と思われる)をどやしつけていた。 「机をもっと丁寧に拭きやがれ」と。
まあ一応客なんだから、ある程度の要求はしてもいいのだろうけど、そのオヤジの態度は明らかに常軌を逸していた。 「謝れ」だの「「ハイ」は?」だのと、相手に屈辱を与えようと手練手管の限りを尽くしているようだった。 私は同じ店内にいるだけで気分が悪くなり、そこで食ったメシもまずくなった。 私はそのオヤジの口にした罵詈雑言の全てを、ここに正確に記していない。 また気分が悪くなりそうだから。
そこでどやしつけらた店員が、「もっと金持ちになって、怒鳴る側の立場を得よう」なんて思っているのなら、この社会の構造は永遠に変わらない(各層の構成員に多少の入れ替わりはあるかもしれないけど)。 私はもう、こういう社会がイヤなんだ。 同じ気持ちの人はいないのだろうか。
私は常々思う。 客ってそんなに偉いのかよ。 確かに金払う方ではあるんだろうけど、同じ人間じゃないか。 ある行きがかりによって、同じ人間である二人が、客と店員と言うそれぞれの役割を得た。 たったそれだけ。 それだけの事をどうしてそこまで過大な権利を得たと誤解できるのだ。 それもいい大人が。
この国の教育には歪みがある。 学校がむしろ率先して敬語などを教えているし、先輩後輩などの上下関係などにも肯定的である。 きっと教員なども「礼儀」だとか言われたらぐうの音も出ないに相違なく、そこに疑問を持つ能力に欠けている。 礼儀ってのがどれだけ大事なのか知らないけど、それは人間の尊厳を超えるほどに大事ですか。
もういい加減に気付けばいいのに。 どうして英語に敬語が無いのか。 文科省も末端の教育機関も、教師もタダの大人も。 もう少し真剣に生きるだけで良いのに。
・5/22(火)
雅楽ってのは代々国家が保護してきたもので、わりかし権威のあるものなんだけど、ここ最近それ以外の日本の伝統音楽について、色々考えていた。 それ以外ってのは要するに、民間で流行していたもの。 いわゆる三曲とか地歌とか、そういうヤツです。
しかしまあ、最初から分かってはいたけど資料が少ない。 触れた人間の数で言えば雅楽なんかより遥かに多いはずだが、作品として残っているものが、どれだけの数あるのだろうか。
三曲(合奏)ってのは、無論和声音楽じゃないのだけど、対位法的な作りでもないのね。 雅楽のヘテロフォニーってのに一番近いと見た。 あれの編成をスケールダウンした感じだろうか。 でも雅楽ほど楽理的に厳格でも無さそうで、替手とか言って、パートによっては対旋律的に動いている部分もあったりするみたいだ。 在野で発展したジャンルなんで、その辺自由と言うか、わりと曖昧なんだろう。
いくつか聴いた中では、津軽三味線がなかなか面白かった。 比較的歴史は浅いのだろうけど(伝説的な部分はさておき、こんにちのいわゆる津軽三味線の成立は昭和に入ってからだと思われる)、あんなに細かい情報(パッセージ)を嗜む素地が当時の日本人には既に備わりつつあったんだね。 初代高橋竹山の音とか、簡単に聴く事ができる筈なので、興味ある方は聴いてみては。
もののついでで、三味線(特に津軽三味線)の奏法についても調べてみた。 タタキ(パーカッション的にバチでボディを叩く奏法)とか、ギターなんかで似たようなことをする人を見かけるけど、あれの走り的なものだろうか。 スクイってのはギターでいうアップ・ピッキング(ストローク)なんだけど、ギターは少なくとも書法(譜面表記)上、アップ・ダウンの区別は基本的に無い。殊更にスクイなんて名を当てて区別してるって事は、発音上の差異もそれなりにあるって事なんだろうか。 因みに津軽三味線では、ギターならオルタネイト・ピッキングを使うような高速のフレーズが頻出する。 当然ダウンだけでは処理しきれない。 ハジキってのは左手だけを使った(バチを使わない)奏法で、発音はギターのタッピング・ライトハンド奏法などに近いと思われる(左手だからレフトハンドだが)。 これだけの説明でも分かると思うが、津軽ものって結構テクニカルなジャンルだ。
三曲については、もう少し本とか読んで理解を深めようと思っている。 良い資料ご存知でしたら教えて欲しいけど、まあ知ってる人なんてまずいないだろうな。
・5/21(月)
管絃(雅楽)の編成に歌を入れたもの、ってのを試みに作ってるわけですが、管絃ってのはそもそも歌を入れることを前提とした編成ではない。
篳篥の音色ってのは、地を這う「人の声」を模しているらしい。 確かに篳篥の音域は人間の声に近いし、あの倍音の感じとかも人の声っぽく聞こえなくもない。 因みに笙は天から降り注ぐ光、竜笛は竜の鳴き声なのだと。 つまり管絃の編成ってのは、もうそれだけで完結した世界を表現しているらしい。 つまり「歌の入り込む余地」が無い。
しかし西洋音階非準拠の音楽ってだけで、これほどまでに編集に難があるとは思わなんだ。 ピッチ補正ツールも各種音源類とかも、基本的に全部西洋音階に沿っている。 せめてもの救いは、雅楽にハーモニーが原則無いところか。
雅楽にハーモニーがあったら、とんでもなく面倒なことになりそうだが、そもそも和声音楽用途に発達したのが12平均律なのだろうから、雅楽にハーモニーがないのは当然と言えば当然なんだよね。
・5/20(日)
川村真央、新曲の歌入れでした。 一年ぶりぐらいのレコーディングだったのですが、恙無く終了。
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影山リサ。 先週言ってたコーラス録り。 こっちも無事完了です。
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・5/19(土)
神田優花、今週は2曲の歌入れ。 次は5年前に一旦録った「clouds」って曲のリメイクに入ります。 オケも全面リニューアルしてまして(アレンジは同じ)、歌も全パート録り直します。
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以下、今週のスタジオにて。
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・5/18(金)
バッハは音楽の父とか言われているけど、彼は果たして神なのか。 ちょっと前に、対位法の本を読んでいたって話をしたんだけど、そこでの雑感です。
バッハのフーガとかパルティータとか聴いてると、彼独特の旋律線(フレーズ)があるのにすぐ気付かされる。 ほとんどの作曲家は、作るメロディーに癖があって、バッハのもそれと同様なものだと思ってしまうのだが、事はそう単純じゃない。
アルベルティ・バスは、作曲家アルベルティが多用していたからそんな名が定着したそうだが、トライアドの分散で作れるアルペジオのパターンなど限られている。 誰かがああいうフレーズを思い付くのは必定である。
対位法の禁則とか、当時不協和音とされていた音程などと言った、諸々の制約を知るにつれ、当時の人が作れたメロディーの限界みたいなものも分かってくる。 「バッハはこの旋律を創造したというより、メロディーをこう運ばざるを得なかった部分もあったのだ」なんて事が、ボンヤリだけど見えてくる。
この、「ボンヤリ見えてきた何か」は、私にバッハのあらためての「凄さ」や、ある意味での「凄くなさ(=人間臭さ)」をも同時に教えてくれる。 私が知りたいのはここなんだ。
・5/17(木)
今年はまだ音のリリースが無いわけですが、今しばらくお待ちを。 もうずいぶん新曲も録り終えているのですが、諸々の準備があるもので。
曲を書き上げるペースに、歌入れてマスター仕上げるペースが全然追いついていない状態なので、録音前の新曲が山積みだ。 どこかで一区切りつけて、リリース計画に入らないとね。 リリースって、音作ればそれでいいって言うようなものじゃなくて、付帯する事務作業が多いのです。
・5/15(火)
中東から北アフリカにかけての民族音楽について書かれた本を読んでいた。 ヨーロッパにクラシック音楽があり、アメリカにも当然(歴史こそ浅いながらも)音楽があり、アジア・インドにも勿論ある。 中東なんかにもありそうなものである。
しかしながら、イスラム教ってのがその教義上、音楽・絵画・彫刻などと言う「享楽」に寛容でないので、実際のところイスラム圏は芸術の空白地帯と言うに近い(一応あるにはあるが)。 イスラム教徒はおそらく世界人口の3割ぐらいは占めるであろうに、実に勿体無い。
そういえば、上でアジアにも音楽があると述べたが、アジアっつっても、音楽を様式ごと濃厚に残しているのは事実上日本ぐらいしかない。 雅楽のルーツは大陸だが、中国では体系としては絶えているし、朝鮮半島でも似たような状況。渤海なんて国ごと消滅している。
何故アジアに音楽があんまし残っていないかというのも、まあおそらくイスラム圏なんかと事情は近い。 儒教ってヤツがそういうものにあんまし積極的でないからだろう。 現代中国や北朝鮮の共産主義体制ってのも、芸術に積極的でないんじゃなかろうか(北朝鮮は、共産主義っつうか王朝国家って感じだけど)。 芸術の意味ごと分かってないような気さえする。
もしイスラム圏とかアジア全域が、もっと芸術(殊に音楽)に熱心で、西洋史で言うところのルネサンス期みたいなのを経験していたりしたら、私の毎日ももっと面白かったろうに、これは本当に勿体無い。
話は変わるが「銀河鉄道999」の映画(DVD)を見ていたら、宇宙のある惑星の、場末の酒場みたいなところで、流しが歌うシーンがあったのだが、私は「地球外の惑星の音楽ってどんなんや?」とちょっとだけ期待してしまった。 まあ聴いてみたらタダの粗放な(日本のフォークソングみたいな)和声音楽に過ぎなくてガッカリだったけど。 そりゃそうだわな。
・5/14(月)
依存とは何なのか。 親なしで生きて行けない乳呑み児は、無論親に依存しているが、それは物質面のみでの話である。 その子なしで生きて行けない親の方が、実は乳呑み児に依存しているのかもしれない。 仮にその子が何をしてくれるわけでなかったとしても。
依存と言うのは、世界観の一部(あるいは大部分)をその対象に委ねる事だ。 何をしてくれるわけでない相手でも、その人がいてこそ世界が完結するのであれば、あなたにとってそれは依存対象である(意味分かります?)。 私はハッキリと依存対象を失くした経験があるので良く分かる。 依存の度合いが深ければ深いほど、それを乗り越えるのは困難である。
今の私は、例えば「親」と言うものに物心両面において全く依存していない。 変な話だけど、多分親が死んでも私は泣かないと思う。 別に恨んでるとかいうわけじゃなくて、精神が依存していないのだ(恨んでいるのなら、むしろある意味では依存している)。 世界の完結において、必要性の度合いが低い。
私はかつて、音楽好きの少年で、楽器やCDなどを随分熱心に集めたものだった。 でもいつからか、究極的に欲しいものがそういった物質でないことに気付き始めた。 今の私にとって楽器とは音楽を作るための道具に過ぎない。 車好きのニイちゃんが乗っている改造車みたいなものではなく、あくまで洗濯機や電子レンジと言った実用品である。
私にとっての「音楽」も同様。 CDや何やと言うメディア(物質)ではなく、「この心に響いている何か」こそが音楽である。 音楽は私の中にある。 音楽は、私が寄りかかって依存する対象ではない。 私と不可分な、いわばこの私そのものであり、この心を後押ししてくれるものである。 他の人に説明する時に、一番分かりやすい言葉で言うなら(それでも伝わり難かろうが)、愛のようなものだと言うしか無い。
私は物を欲しがらないけど、それは「本当に大切なものは心にこそある」と信じているからだ。 私が他人にあげたいのも、同様に物ではない。
仮に私を好きになってくれる人がいたとして、無論それはありがたいのだけれど、ベタベタと依存されることを私は究極的には好まない。 私なしでは生きて行けないような人になどなって欲しくないから。
私は愛して欲しいけど、依存されることを特に望まない。 誰かを愛するには主体性が要る。 愛とは強さなんだ。 私の欲しいものは金や物質なんかでは勿論無いが、「好かれる(依存される)事」でもない。 私の欲しいのは愛。誰かこの心を蹴っ飛ばしてくれ。
・5/12(土)
影山リサ。 先日ある曲の歌入れをしまして、それのコーラスパートのリハやってました。 コーラスだけ来週別録りなのです。
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川村真央ちゃん。 来週新曲のレコーディング。かれこれ一年ぶりぐらいになりましょうか。
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・5/11(金)
神田優花、先日レコーディングした曲の上がりをチェックしてました。 今度の曲はわりと良くできた。我々自画自賛の出来映えであります。
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以下、今週のスタジオにて。
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・5/10(木)
半世紀以上も前に書かれた「対位法」の本を読んでいたのだが、用語にチョイチョイ違和感が残る。 同じ単語でも、時代を経ることによって、意味が微妙に変質してしまうのだろう。 因みに、私は対位法なんぞに詳しくはない。 そういうものがある事を知識として知っているだけで、内容については甚だ不案内。これ以上詳細に知ろうとも思わない。 上の本も斜め読みだ。
対位法ってのは和声音楽成立以前に、ヨーロッパで主流だった作曲技法で、これが現在の和声音楽に発展していった。 対位法は複数の旋律線で曲を構成するのだが、その構成にあたって、定番的テクニックがあり、また細かい禁則も定められている(まあ学説が分かれてたりするぐらいだから、そこまで厳格なものでもないのだろうが)。
私には、それらを丸暗記する気などない。 対位法そのものを知りたいわけではないからだ。 私の知りたいのは、当時の人間が音楽をどのように捉えていたかと言う「気分」の部分。
昔、まだ対位法何たるかよく分かっていなかった頃、試しにそれらしき曲を作ってみたことがある。 私は対位法全盛期の頃の作曲家(パレストリーナだの)の作品をほとんど聴いたことがない。 バッハならある程度聴いた。 私の試作品は明らかにバッハの影響が強かった。
対位法のあらましを知った今、その試作曲を見てみると、不思議なことに、それなりに対位法(禁則・○度転回など)を踏まえている。 要するに音楽(作曲)とはそういうものなのだろう。 作品に触れ、ある程度感じるところがあれば、自然と曲は作れてしまう。 当時の人らも基本的にそうだったのではないか。 だから気分こそが大事なのだろうと。
考えてもみれば当然だ。 現代だって、譜面すら読めないと言う、楽典レベルの音楽的基礎さえ無いド素人だって、曲を作れば、大抵はダイアトニックコードを使った和声音楽になる筈で、更にはドミナントモーション(X→T)ぐらいは踏襲してしまう。 と言うか、多分ほとんどの人はそれ以外の手法で曲を作れない。
・5/8(火)
雅楽には「3拍子」ってヤツが存在しない。 理由は分からない。 昔の日本(つうかアジア全域)人の精神にあのリズムは生まれなかったのだろうか。
4(2)拍子系以外のリズムが無いわけではない。 只拍子(6拍子系)とか夜多羅拍子(5拍子系)ってのがあるにはあるけど、どうも西洋音楽で言うところの3(6)拍子系とは異なる。
只拍子は、西洋音楽のワルツ(3拍子)とか、ハチロク(6/8拍子)系のリズムとは明らかに違う。 只拍子の6拍は、3+3とか2+2+2ではなく、どちらかと言えば4+2なのだ。 夜多羅拍子の5拍も同じく、2+3とか3+2ではない。 4+1ってのが一番近いように思える。 間延びした4拍子と言おうか、1小節毎にritardandoの入る4拍子をイメージしてもらえば分かってもらえようか。 分かり難いか。
上で只拍子を6拍だと述べたが、実際に聴いてみると、現代の音楽での6拍子系とはスピード感が全く違う。 POPSを聴く感覚で聴いても、ほとんど拍節を体感できないレベルのスピードで、私も譜面を目で追いつつ、やっとのことで拍節を理解している。
私は今、3拍子系の雅楽(管絃)曲を考えている。 3拍子の時点で既に雅楽では無いが、一応は雅楽の様式からそんなに外れないものにしようと思ってて、只拍子の拍節感と折衷したようなリズムを作るべく腐心している。
因みに、私が作る雅楽曲は全て唐楽系で、高麗楽系はまだ1曲も無い(右方系と言うのなら無くも無い)。 まあその唐楽系にしても、まだ1作も発表できてないわけですが(多分今年中にリリースする)。
雅楽の唐楽・高麗楽って、二大体系って言うには偏りすぎている。 現存している作品数も、明治撰定譜(明治期に編纂された、当時残っていた雅楽曲の全記録)などを見る限り圧倒的に唐楽系が多いし(おそらくは、元から高麗楽の曲なんて少なかったのではないか)、有名曲も唐楽に集中している。
高麗楽の様式って、楽器編成とその奏法に(唐楽との)ちょっとした違いがあるぐらいだが、別にさして特筆すべき点は無い。 唐楽では重要な笙が無かったり、鞨鼓の代用品の三ノ鼓ってヤツもアーティキュレーションのバリエーションが削られていたりと、単にグレードダウンしている感が否めない。 少なくとも私には、特段の魅力は感じられない。
これから先も、あまり積極的にそっち系の楽曲を作ろうとは思わない気がする。 そもそも、高麗笛とか三ノ鼓の音を探すのが大変そうで、竜笛・鞨鼓で代用するなら、いよいよ高麗楽の特異性がなくなってしまう。
・5/7(月)
山鳩の鳴き声を採譜しようとしていたのだけど、どうも倍音成分が多くて(ほぼ和音の状態)、単旋律で表現し難い。 オウムや九官鳥など、鳥類には声帯模写が得意なものがあるが、あの倍音豊富な鳴き声に理由があると見た。
オーストラリアにコトドリってのがいるのだが、音の模写において、その能力は凄まじい。 他の鳥の鳴き声や、カメラのシャッター音・エンジン音など、とにかく耳にしたサウンドをほとんど録音機かのように模倣する。 サイン波のような(倍音のない)鳴き声では、きっとそれは不可能で、やはりあの倍音豊かな声質こそがあれを実現させていると思われる。
私の今練っている新曲、鳥の鳴き声にあるヒントを得かけている。 しかし鳥って、カッコーやウグイスなど、独自の旋律を鳴き声としているものが多い。 何故なのだろう。
そういえば、カラスの鳴き声を間近で聞いた事があるが、どうも声質が人間のものと近いように思えた。だからこそ気持ち悪がられて(あの体色と相俟って)嫌われるのだろう。 カラスをペットとして飼えば、人間の言葉などもきっと上手に真似よう。 体色がもっとファンシーな色合いだったら良かったろうにね。
・5/5(土)
私は、「子供の頃にもう少しカブトムシを採っておけばよかった」と、今なお本気で悔やんでいる。 田舎育ちなもので、そういうものがわりと身近にあったのだ。
田舎といっても実に中途半端な田舎だったもので、あの手の昆虫(カブトムシ・クワガタ)が掃いて捨てるほどにいたかと言うとそうでもなく、都会の子のように金出して買いはしないものの、貴重品には違いなかった。
小学生の私は、あれが喉から手が出るほど欲しかった。 今でもその気分を鮮明に憶えている。 しかし大人になってしまったので、冷静な分析力ってのはそれはそれで別に持ってしまっているから「あんなもんゴキブリと何が違うのや」と言う気持ちも同時にある。 でも子供の頃は本気で欲しかった。 難しいものだ。
アーティストたる者、「欲しさ」を我慢で押し殺し、精神に残してしまってはいけない。 何故なら、それが「美意識」を狂わせるから。
欲しい物は飽くまでトコトン手に入れるべきだ。 飽きてしまわねば、それが本当に好きなものなのか分からないからだ。 手に入らなかったと言うトラウマから来る「欲しさ」に負けて、人生を狂わせてしまう人は結構多い。
若い頃に異性にモテなかった人ほど、結婚相手などでババつかまされるケースは多い筈だ。 手に入らなかったと言う実体験が、「自分には手に入らないかも」などと言う不安を生み、その不安こそが人間の世界観を歪めてしまう。 本来好きでもなく、欲しくなるはずの無いものを、「欲しい」と錯覚してしまう。
この先、余暇と相応の金ができたら、私はひと夏ぐらい休暇を取ってカブトムシを採りまくってやろうと思っている(本気だ)。 あんな気持ち悪いモノに囲まれたら、絶対に嫌になるだろうけど、一旦飽きるまで手に入れたい。 今より良い曲が書けるようになる筈だ。
・5/3(木)
誰か言わないかと思っていたが、誰も言わないようなので私が言う。 修正テープって何であんなに使いにくいのだろう。 修正液ってのが、乾くのに時間が掛かって不便ってのは分かる。 私も感じたことあるから。 それにしてもその代替品に、ああまで使用に難があるってのもどうなんだ。 しっかりしてくれよ、日本の文房具メーカー。
・5/2(水)
あんまり明るい話題の無い音楽業界だが、先日、「レコード会社に集まる『デモテープ』が激減している」と言う話を聞いた。 まあ全然驚かない。
我々も一応デモテープを募集してたりするけど、やはりここ数年で目に見えて集まる数は減っている。 音楽系以外も推して知るべし、だろう。 少子化とかもあるのだろうけど、それだけじゃ説明し切れない。 応募先なんてむしろ減っているというに。
芸能関係の学校なんかの話を聞いてても、どこも生徒数激減しているらしい。 まあ大学が全入とか言われている時代だからしょうがない気もするが、生徒数が10年前の10分の1以下になってるところまであったりする。 そこに流れてた層はどこに行っちゃったのだろう。
音楽ソフトが売れなくなり始めたのって、ここ10年くらいなので、ミュージシャン志望者の減少とは多少タイムラグがある。 10年前には「音楽なんて聴きたくないけど、ミュージシャンの立場には憧れる」って人がまだまだいたのだろう。 昨今それすらいなくなりつつある。
確かにもうそんなに格好良くもないのかもね。ミュージシャンなんて。 芸人とかの方がテレビ的な露出は明らかに多いし、もう最近のコメディアン志望者は、芸人を三枚目だとか思ってない。 むしろ「女にモテたくて芸人目指しました」なんてのが普通にいそうだ。
それでも音楽家は音楽を作り続けるし、音楽に何かを感じた若者はきっとアーティストを志すだろうから、私としては大した心配はしていない。 ただ、とっかかりとしての「音に触れる機会」が減りつつあるのは残念な気がする。 あと、音楽コンテンツの消費スタイルがもう少し定まってくれないだろうか、とも思う。
・5/1(火)
ちょっと前に雅楽について色々考えていた時期があって、その頃に作った何曲か(雅楽にインスパイアされたもの)をそろそろ完成させようかと思っている。
楽器編成ごと雅楽(管絃など)を踏襲したものが3曲、楽理面のみ影響を受けたものが1曲。うち2曲は歌入れまでとりあえず終わっている。
しかし雅楽はPOPSなどと違い、A=440Hzの世界ではない。 よって、ボーカルなんかもそんなに緻密なピッチ補正までは必要ないだろうと思っていた。 が、実際録ってみるとそうも行かないように思える。 やっぱある程度補正必要だわ。
ピッチコレクト用のツールは、当然西洋音階に準拠して作られている。 西洋のドレミでボーカルを補正してしまうと、バッキングに使われている楽器群(篳篥・笙など)と当然ズレてしまうのだが、かと言って、周波数ベースで、三分損益法で算出した完璧な雅楽音階に補正するのもどうかと。 実際にそれやるのはメチャクチャ手間だが、やったとして如何ほどの効果があるものか。
雅楽の謡物を聴く限り、あんまりあの手の歌って正確なピッチを要求されている風でもない。 完成度の基準も別のところに設けるべきなのだろうか。 ピッチの正確さこそが完成度って感覚自体が、もう既に西洋音楽的なのかもしれない。
・4/30(月)
「僕はビートルズ」って漫画があるそうで(私は読んでない)、ざっとあらすじを説明すると、過去(ビートルズのデビュー前)へタイムスリップしたビートルズのコピーバンド(日本人)が、ビートルズより前にビートルズ作品を発表してしまうってものらしい。 本物のビートルズは失望し、解散してしまうそうな。 日本人の創作観がよく表れていて面白い。
要するに多くの日本人は、芸術の本質が「作者の精神」でなく「作品」にあると思い込んでいる。 ヒット作を作者より前に自分名義で発表してしまえば、作者になり代われると。 ソイツら、その先どうやってミュージシャン続けて行く気だろう。
言っておくが、上のような事態が実際に起こってしまったとしても、ジョンレノンもポールマッカートニーもアーティストなのだから、創作(と言う自己追及作業)を止めたりしない。 著作物には収益が発生してしまうから「所有権」の問題が付随してしまう。 でもそれは単に、公表に制限が生まれることに他ならない。
大体「盗作」とかって何なのだろう。 私は自分以外の人間が作った音楽をしばしば聴く(当然だが)。 そこで何かを感じることとは、自分の琴線を探ることであり、そこで何かを感じたことこそが次の作品を生む燃料になる。 全て当たり前のことだと思っている。 もし誰かに「他人の曲を聴いて何らかのアイディアを思いついたのなら、それは盗作ではないか」と問われたら、どこから説明すれば良いものやら、頭を抱えてしまうかもしれない。
アーティストに限らず、人間は歴史・文化の中に生まれてくる。 何からの影響も受けず、100%オリジナルな創作物を生む人間などいない(断言して良い)。 他人の作品に着想を得ることなんて、私にはしばしばだ。 無論誰かしらの作った作品を「私が作ったもの」として発表はしない。 できない事になっているから。 しかしこれは、作品公表の上での王法(地上のルール)に過ぎない。 他者の作品を発表したければ、引用度に応じた手続きを踏まねばならないと言うだけだ。
私も盗作(他人の作品を自作だと称する行為)はよろしくないと思うが、盗作に異常に過敏になっている人らには違和感を覚える。 アートの本質を作品にこそあると思い込んでいるからだ。 アートとは、作者の精神である。 作品でなく、それを生み出す審美眼こそが芸術の本質であり、価値なのだ。 有名曲パクったぐらいでアーティストになりすませると信じているのなら、アートに対する見方が甘い。
・4/29(日)
影山リサ、新曲のレコーディングでした。 元々予定してなかったのですが、急遽歌録りになってしまいました。
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もう4月も終わりだし、随分暑くなりましたね。 スタジオでは皆さんアイスなんて食べてました。
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・4/28(土)
神田優花、今週は一応2曲も歌入れをしました。
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以下、今週のスタジオにて。
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・4/27(金)
私のやりたい事。
音楽を好きになったのは小学校低学年の頃なのだけど、取っ掛かりはテレビの歌番組だった。 必然的に音楽と芸能を概念の上で区別してなかった。
成長段階で、聴く音楽の傾向などは当然変化していった。 ロックバンドみたいなの憧れて、中学生になってギターをはじめたり、高校生になってバンド組んだりもしたのだけど、結局芸能と音楽がアタマの中で未分化のままだった。 それだけでなく、演奏と創作、どちらがやりたいのかさえ掴めていなかった。
大学を卒業した後に上京して、いくつかのところで働いたりしたのだけど、ほとんど芸能関係だった。 その歳になってなお、自分の進むべき道はそこにあると思い込んでいた。
プレアイドルの音作ったり劇伴作ったりしながら、段々自分のやってる事に疑問を感じはじめたのだけど、そこで初めて「地続きだったりするから混同してしまっているけど、私が好きな音楽と、芸能ってヤツは本来別物なのでは?」と、やっと思いはじめた。 上記の二つの作業は音楽作ってるだけ幾分マシで、実際の仕事は雑用みたいなのがほとんどだった。 事務所業ってのはそれはそれで激務で、私は正常な思考力すら奪われそうだった。 その後、その種の会社からは足を洗う。
今の私は芸能には全く興味がなく、関わろうという積極的意志も持ち合わせていない。 しかしながら、芸能を詰まらないものだとか思っているわけではない。 あれはあれで奥深く、大変な世界なのだろうから。 しかも、私と音楽の接点・媒介となってくれた。
今の私は、好きな音楽制作こそを日々やらせてもらっている。 勿論、面倒な雑務みたいなのは常に付いて回るけど、基本的には一番好きなものを追いかけている。 この私に、最後の最後まで残ってくれるものとは、今一緒にこの作業続けてくれているみんなの、歌声だとか歌詞だとか、そういうものでしかないだろう。
私はつまるところ、音楽さえ作っていられればそれだけで幸せだったのです。 私はそもそもモノを欲しがらないし、アタマの中で展開される何事かにしか興味が無い。 だから読書とかも好きではあるのだけど、やはり一番好きなのは音楽作品を作り上げること。
今の私は、やっとこさ自分が本当にやりたかったことが見えてきた感じです。 このまま突っ走ろう。
・4/24(火)
ハワイアン(ハワイの音楽)っぽいものでも作ろうかと思って、ちょっと調べていた。
去年リリースした影山リサの「Baby Rose」って曲が、彼女の作品としては比較的好評で、ほぼ同時期に出した「Luck In Your Eyes」より出ているもので、あの路線の作品をもう一つぐらい書こうかと思って。 「Baby Rose」は別にハワイアンではないけど、パーカッションとかスチールドラムが入ってて、ちょっとtropicalな匂いがしないでもない(別にそれらはハワイアン特有の楽器でもないが)。 もう少しその雰囲気を掘り下げてみようかと思ったわけです。
しかしハワイアンって、一ジャンルと呼べるほどの様式では無いみたいだ。 ちょっと調べたところ、我々のイメージするハワイアンって、「1920年頃に確立された」とある。 和暦でいうところの大正9年である。ごく最近と言って良い。 エスニック音楽とは言っても、雅楽や何やと言った類ではなく、いわば演歌のようなものなのだろう。 さしたる歴史に根差した音楽ジャンルではなく、楽理的にも西洋音楽の一亜種と言って良い。
実際に代表的な楽曲を聴いてみた限りでも、基本的には和声音楽で、ハワイアン独特の楽器群などがスパイス的に入れられている程度のものであるようだ。 またハワイの楽器といっても、スチールギターやウクレレなど、要するに西洋楽器に多少のアレンジ(構造・奏法両面で)を施した程度のものが大半で、完全にオリジナルなものは、せいぜい打楽器(`uli`uli・ipu hekeなど)くらいしか無いようである。 その打楽器も、「ココナッツの種が入った瓢箪を振って音を出す」みたいな楽器と呼ぶのも微妙なものなのだけど。
今作ろうとしているのは、POPSにそれっぽい楽器(ウクレレやスチールギターなど)を入れただけのようなもの。 まあ本来のハワイアンとは、まさにそういったモノなのだけど。
ついでながら、売上げ(ダウンロード件数)って、創作の方向性を決定付ける要因ではなくて、どちらかと言うと、何かを「作りたい」と言う衝動を後押ししてくれる要素って感じです。 まず創作意欲ありき。
・4/22(日)
神田優花、先週録り直した曲のチェックなんてしてました。
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以下、先日のリハーサルでのカット。
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・4/20(金)
インド音楽って私は総称しているけど、大別すると北インドのヒンドゥースターニー音楽と南インドのカルナタカ音楽って二大体系がある。 二大体系っつっても、ざっと調べたところおそらく根は同じで、様式や使用楽器に多少の地方性があるに過ぎないのだと思われる。 江戸落語と上方落語みたいなものなんだろう。
どんな音楽であれ、極めようと思えば大変なのだろうが、インド音楽は雅楽なんかに比べると、楽理でガチガチに固められてない分だけとっつきやすいと言えばとっつきやすい。 即興音楽であるところもあってか、作曲なんかについても各音楽家の裁量の範囲が広い。 比較的自由な解釈が許されているように思える。 あと、インドの伝統音楽は、現代に継承されている以上存在するのは間違い無いが、文献上の痕跡は極めて希薄である。
ビートルズ(特にジョージ・ハリスン)がある時期、アルバムで言えば「Rubber Soul」ぐらいからインド文化にハマってて、それらしき曲をいくつか残しているのだけど、内容はモノによってえらく違う。 「Norwegian Wood」みたいに、イントロにインド楽器(この場合はシタール)を使っただけのようなものから、「The Innner Light」・「Love You To」・「Within You Without You」あたりのように、楽理そのものがインド的であるものまで。 私が作りたいのは圧倒的に後者だ。
多分ビートルズが火付け役なのだろうと思われるが、かつて「ラーガ・ロック(インド風ロック)」ってのが流行した。 内容的にはインド楽器だとかラーガ(とりわけスケール部分)を使ったワン・コードの曲って感じのもの。 ラーガを引用って言うか、ラーガの音列部分のみを使ってるだけなので、タートと呼ぶ方が正確なのだろうけど(ラーガは包摂する内容がもう少し多岐に亘る)。
しかしビートルズってアイドルとしてデビューしているバンドな筈なのに、非常に内容はアーティスティックだ。 やはり欧米にはアートの需要ってものがあるのだろう。 日本のリスナーの多くは、音楽が好きってより芸能が好きであったり、ミュージシャンの立場のみに憧れているだけのケースが多すぎる気がする。 音楽を、立身や商売の梃子だとか捉えるのも悪ではないと思うけど、音楽はそれそのものが結構(Amusementとして)面白いものなのにね。
・4/19(木)
しんどい仕事には耐えるべきか。
人間の正体って結局は心だから、気分無しでは生きていけない。 目の前に広がる世界があってこそ辛さにも耐えられる。
土木作業員だとか立ち仕事の類って、肉体に負担が掛かるから嫌がる人は多い筈だ(無論例外はある。辛さの捉え方も個人の感性だから)。 でも、何か目標がある人、例えばその仕事のノウハウを吸収して、いずれ独立を考えている人だとか、そこで稼いだ金の使途が明確な人などであれば、少々の辛さにも耐えられる。 まあ、単に辛さを捉えられる感受性すら持っていないような人も、それはそれで苦境に耐えられるけど。
「肉体を酷使させられるより、物を考えさせられる方が辛い」って人や、「少々キツい仕事でも、職場に出会いがあって楽しければOK」なんて人もいる。 人は何事においても、常に選択しているだけなんだろう。 しんどい仕事でも、それよりマシな状況を想像できなければ、次善の生き方としてそれを許容するしかない。
学生などが時給数百円で延々と立ち仕事ができたりするのは、目標があってこそである。 コンビニでバイトをしてるバンドマンなんかも同じ。夢があるからこそ少々の辛い日常にも耐えられる。 私も学生の頃、ホテルのベッドメイクのアルバイトをしていたことがあるのだけど、今ならようせん、と言うぐらいの単純肉体労働だった。 将来へ景色が広がっているからこそ、若者はそんな仕事だってできる。 今の私に希望が絶えたと言うわけではないが、大人になった分、少年のような、大した根拠に基づかない夢想はできなくなっている。
仕事をはじめたばかりの人なら、少々の労苦には耐えられたりする筈だ。 「慣れないうちは大変なのも当然だ」とか、自分に言い聞かせられるから。 ある程度慣れた後、「慣れてもこの程度にしか改善されない」と、現状を悲観し、置かれた環境に耐えられなくなる。 離職者の多くは、こんな感じなのではないだろうか。
大人がやってる仕事ってのは、「短期目標を達成する為の試練」ではない。受験勉強のような「それを一旦乗り越えてしまえばお仕舞い」と言うようなものではないのだ。 絶え間なく続く日常なのだから、環境がある程度整っていないと続けられない。 世間のいわゆるブラック企業みたいなのに人が定着しないのは、ここで言う環境が整っていないからである。
ブラック企業ってのは、従業員をいわば「消耗品」だと捉えているのだろう。 酷使し、(体を壊す、精神を病むなどの理由で)使えなくなったら、次の部品を探す。 私はそういう企業を全面的に悪だと見做しているわけではない。 雇われる側の方こそが、仕事に就くなら、その会社がどういった事業者で、どういう人材を求めているのかを理解し、そして自分はどういう就職先を探しているのかと照合すべきなのだ。 その上でブラック企業にあえて就きたい人だっているだろう。 そういう人はそうすりゃ良い。
「今の仕事が辛くて耐えられない」と思う人は、どうすべきなのか。 私が助言するなら、「その仕事は辞めるべき」である。 続けられるだけの環境が整備されていないのだから、どうせ続かない。いずれ辞めるのなら早い方が良かろう。 再就職もその方が早く決まる。 生活を支える為の仕事と言うのは、大学生が車やギターを買う為に金を稼いでいるのとは意味が違うのだ。
世間には、「仕事とは労苦に耐えることである」なんて思っている人が事の外多い。 間違っているぞ。 私は「仕事なんてサボれ」と言うわけではない。 人はその仕事が「辛くなる」から辞めてしまうのである。 辞めずに済む状況を作りたければ、辛くない職場(肉体的にであろうと精神的にであろうと)を探すしかない。
あと事業者の方も、従業員の質を上げたい(技能の大部分は熟練によって培われるんだ)・離職率を下げたい、などと本気で思うなら、職場の環境改善に努めるべきである。 情けは人の為ならず。
無論我々は現実世界に生きているのだから、何一つ不満のない夢のような職場なんてそうそうなかろう。 だが、折り合いがつけられる程度の環境を探すのも努力である。 無意味な苦痛に耐えることなんかより、よっぽど建設的な努力だ。
水は高いところから低いところへ流れる。 無理に堰き止めたりするといずれ決壊する。 私は人間の心ってヤツを、この水の流れのようなものだと考えているわけです。
・4/18(水)
ちょっと前の話だけど、芥川賞だったかの受賞者で、受賞の会見時に終始不機嫌だった(喜びの表情を微塵も見せなかった)と言う作家がいたそうだ。
「そんな態度で人様の前に臨むなんてけしからん」なんて野暮なことは思わない。 芥川賞とかって、そもそも販促の為に出版社(当然私企業)が設けたものに過ぎず、人が作った制度の中でも最もオフィシャリティーの薄い類のものだ。 販促なんだから、パフォーマンス・ハッタリなども当然含まれていてこその「賞」である。 色々仕掛けてくる人がいる方が、世の中面白いじゃないか。
私が気になったのは、パフォーマンスそのものではなく、その演出を「誰が考え出したか」である。 まさか作家本人?だったらその人の作品って面白いんだろうか。 出版の関係者(本人は嫌々やらされた)とかだと思いたい。
それにしても、誰が考えたのか知らないが、そんな演出が販促に繋がると本気で思っているのなら、やはり読者って舐められている。 「奇を衒って目立ちさえすれば人は金を落とす(その本を買う)」と思われてるってことなんだろうから。
有名な、いわゆる「方広寺鐘銘事件」。 本当がどうか知らないが、徳川家康は側近が思いついたあの理由(難癖と言って良い)にて、豊臣家に喧嘩を吹っかけることを少々躊躇っていたと言う話を聞いたことがある。 これが事実なら、家康は後世を意識し、いくばくかの「ダサさ」を感じたのではないか。 論理性ってヤツですね。 まあでも、結局周囲に押し切られる形になってしまってるわけだけど。
上の作家の態度は、賞をしっかり頂戴し、会見にまでノコノコ臨んだ上でのものである。 そんな賞なんて辞退することだって簡単だったろうに。 もしその演出(行動)が本人の作為によるものだったのなら、その所業はその人の論理性(つまり羞恥心)に引っ掛からなかったって事だ。 文学などのような純粋芸術を生み出す者として、論理性の欠如はちょっとマズい。 創作の肝じゃんよ。
・4/16(月)
またまたインド音楽。 基本的に調性(和声)音楽でないので、コード進行ってのは無い。 だからPOPSとかで言うところのベース(ライン)も無い。 一応ベースに近い役割を担うものとしてTanpuraなんて楽器があるのだけど、それがまた笑ってしまうほどに使えない。
Tanpuraはとりあえず弦楽器なのだが、4つ弦が張ってあるだけでいわゆるフレットってヤツが無い。 4つの開放弦の音しか出せないわけで、4本弦のハープみたいなものを想像されたい。使えんでしょ?
しかもその4つのウチ2本は全く同じ音。更にもう一本はオクターブと言う、事実上2つの音しか出せない楽器(使えねえ)。 因みにその2音は西洋音楽で言うところのCとGである(固定チューニングではないからI・Vとか表記した方が良いのかも)。いわばトニックとドミナントなわけで、一応最低限の(ペダル的な)機能は果たせるように拵えてある。 ベースっつうより、基本的にドローン担当楽器ってところですな。
私が今作ろうとしている曲には、スケールに依拠したモード的な曲で、とりあえずコード進行は無いのだけど、トーナル・センターの移動みたいなのがあったりして、ちょっとした(擬似的な)進行感はある。 POPSとインド音楽の中間(ちょっとインド寄り)って感じだろうか。
・4/15(日)
インド音楽について調べる際、読んでいたある本のタイトルに「ナーダ云々」とあったのだが、ある人に「そのナーダってどういう意味?」って訊かれて、私は即答できなかった。 ナーダの意味を全く知らなかったわけではない。
ナーダに限らず、インドの諸言語って、単語が包摂する意味が立体的で複雑なのだ。 何となく意味を体感できていても、言語化(日本語訳)するのが容易でない。 あの辺で仏教などと言う、高度に思索的な(哲学と言って差し支えない)宗教が生まれたのも頷ける。 あの言語(サンスクリット語)のせいだろう。
有名な話だが、数字の0(ゼロの概念)は、インドで生まれたと言う。 仏教の説く「空」の概念なんかも、類似の思索経路にて生まれたもの(あるいは全くの同概念)に相違なく、やはり形而上的概念を生み出す(体感する)に適した言語なのだろう。
そう言えば日本は仏教国だと言うが、あのような高度な哲学が六世紀ぐらいの日本人に理解できたものか。 不思議に思う以前に、理解できなかったと結論付けて良い。 日本書紀(欽明天皇紀)に仏教伝来のくだりがあるが、当時の日本人が全く仏教の本質を理解していなかったと言う傍証(結構決定的な)になる。 日本人のアタマが悪いとかそういう事でなく、言語環境が違うってのは、それほどに巨大な壁なのだ。
当時の日本人は、舶来思想である仏教を解説するのに「福徳果報を為す」などと、イキナリ現世利益から説いている(釈迦の説いた原始仏教にそんな要素は絶無である)。 また仏教と言う思想とセットでもたらされた「仏像(金銅仏)」の装飾性にいたく感動している。 つまり物質的な見返りを保証することや、あるいは価値の高そうな物質そのもの、でもって初めて心を揺り動かされているわけで、一見浅ましい限りにも見えるが、日本古来の大和言葉に概念語がほぼ無いことと無縁ではあるまい。
私は、二千年の歴史がありながら、ほぼ芸術家を生まなかった(ゼロではない)この国にて、日々日本語を駆使し日本語で思索し、作品を捻り出している。 無謀なことなのだろうかね。
・4/14(土)
昨日の続き。
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またインド音楽について。 雅楽なんかと同じく調性音楽ってよりは旋法に近いのだけど、楽理上のバックボーンとも言えるラーガが、単なるスケールではない、って話を以前にした。 作品を作るに当たって、とりあえずそのラーガ(KafiだとかBhairavだのと言う)を骨組みとしてみているのだが、結局スケール部分しか拝借していない(このスケール部分のみを、北インドではタート、南インドではメーラとか言うらしい)。
ラーガは基本的には「音列」なのだが、Vadi(軸音)・Samvadi(補軸音)などと言う「機能性」が割振られている。西洋音楽用語で言うトニックやドミナントなんかだと思えば理解も早かろうと思うが、困った事に軸音は、主音の概念と完全には一致しないらしい(一部重なってはいるみたいだが)。
しかし、ラーガの構成音に機能性が割振られているってのは、雅楽が宮と徴を中心に構成されることなんかと一応は重なるわけで(無論西洋音楽とも)、音ってのはその生理として、ドミナントモーション的な機能性を持ってしまうってことなんだね。
しかしこれを理解する上での障害となっているのは、楽理なんてものよりもインドの言語である。 他言語世界と言うのはもう異次元で、それを使った思考から生まれた諸概念は、当然のことながら別世界なんだ。 人間を構成するものが、西洋的にbodyとsoulだと説明されればしっくりくるが、五蘊と言われても(更にその説明を受けても)何やら釈然としないのは、ベースとなっている(意識を構成している)言語そのものが違いすぎるからなんだろう。 鳩摩羅什なんて人は、本当に天才だったんだろうと思う。
ラーガが単なるスケールでないのと同様に、ターラ(あるいはタール)ってのも単なるリズム(の音型)でないと言う。 リズムそのものではなく、そのリズムが収容される時間世界を言うのだとか。 要するにこれらの理解が私にとって容易でないのは、咀嚼に使用する言語が「それ用でない」からなんだ。
・4/13(金)
神田優花、先週録った曲を一部再レコーディング。
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昨日の話についてまた考えていた。
いくら私に物欲が無いからと言って、生存に不可欠な衣食住など以外に全く金を使わないかと問われると、無論そんなことは無い。
例えば音楽を作るためのツールは(当然)金を出して買う。 昨今、PC一台あればフリーウェアだけでもそこそこの作品は作れそうなものだが、やはり商品化用途の音をまるっきりタダでは作れない。 だから結論として金は必要ってことになるのだろうか。
私はそんなことないような気がするんだよね。 音楽制作ツールの作り手さえも資本主義に取り込まれちゃってるからこそ、採算性を度外視するわけにも行かず、結果ソフトウェアまで有料となってしまっている。ソフトなんてモノですらないのに。
作り手が側にも生活があってしまうから、採算無視なんて酔狂なこと出来ない。 人間に基本的な生存が保証されてれば、とんでもないフリーウェアとか出現しそうだ。 音作りなんかも、限りなくタダに近い環境でできそうな気がする。
・4/12(木)
資本主義ってのはつまりは拝金主義で、否応無く社会の構成員全てを金によって秩序付けてしまう。 もう今の日本じゃ、冗談でなく「信用」って言葉が「金を生み出す能力」って意味になってしまっている。 凄い世界だ。
夢想だけど、もし全ての人間に、とりあえず生きていける程度の収入が無条件で保証されれば、きっと人類史は劇的な変化を迎える。 金のあるなしなんてのが、人の持つ特性の一つに過ぎなくなる筈なんだ。 身長が高いとか、絵が上手いとか、珍しい切手をたくさんもっているとか、そういうものの一つ。
金なんてものがこの社会で、上に挙げた一特性以上の何かであってしまっているのは、それがとりあえずは万人に絶対に必要だからだ。 それがないと食べて行けず、住む場所も確保できない。 行き長らえる為の金を得る為にも、資本主義社会の序列に人は組み込まれざるを得ない。 不幸な話だ。
最近俄かに言われるようになったベーシックインカムの構想、私は大賛成なの。 とりあえず生きて行ける事を万人が保証されるようになれば、(国際的な意味での)宗教のないこの国で、人々が「人権」を体感できるかもしれないと思って。
金が欲しいヤツはいくらでも稼げば良いじゃないか。本を読みたいヤツは飽くほど読めば良い。寝て暮らしたいヤツは寝てれば良い。 寝るのに飽きたら本当に欲しかった物が見えてくるかもしれない。 とりあえず金を稼ぐことをノルマと課すこの世界は、人々の目を曇らせてしまう。
・4/11(水)
人を助けるという事。 以前、ある人に「世の中、誰も我々を助けてはくれないよ」なんて言われたことがある。 その人は蓄財がいわば趣味であった。 確かに、人が誰も助けてくれぬのなら、頼れるものは金とか物とかになろうか。
「人を助けよう」なんて思わない人は、当然「助ける」と言う気分(心持ち)が分からない。 そういう心のあり様を持った事が無いのだから。 従って、自分を助けてくれた誰かの、その心持ちにも当然思いが至らない。 物理的現象としての「助かった」と言う事実には(儲かったとばかりに)感動したりぐらいするかもしれないけど、相手の心持ちに感謝するなんて事は無い。できないから。
私の言わんとすること、伝わりましょうか。 要するに、人を助けようと思わない人であればあるほど「助け甲斐」がなく、結果的にも他人からの救いを得られない。 ソイツを助けてもあんまり意味が無い(感謝もされず、見返りも無い)から。
誰かを助けようと、本気で思えば思うほど、誰かがあなたをきっと助けてくれる。
・4/10(火)
続々インド音楽(こんな名称で良いのか)。 ラーガってのが音楽構成上の中心概念って感じなのだけど、ラーガの定義がまたややこしい。 西洋音楽用語で近似のものを挙げるとすると、スケールとか音階ってことになるのだろうけど、それともまた違う。
概念としてのラーガが包摂するのは、音階の他にも、(音列上の)特定の音についての機能、ビブラート・装飾音の入れどころ、旋律形などがあるそうな。 何となくどういうものか分からなくもないが、実際にインドのミュージシャン(演奏家)たちが、それを完璧に理解・整理した上で作曲や演奏に臨んでいるとはちょっと思いがたい。 多分概ねフィーリングなんじゃなかろうか。
あるスケールに依拠した短いフレーズみたいなのありきで、そこに肉付けしていく感じで曲を展開させて行くのだろうか。 だったらクラシックでいうところの変奏曲みたいな感じだろうか。 大部分を即興で作り上げていくそうだから、非和声音楽で、かつスケール依存型であるというのは頷ける。 マイルス・デイビスがアドリブのためにモード音楽を引っ張り出してきたように、それが一番合理的だ。
私が今作ろうとしているのは、インド古典音楽そのものでなく、そこにインスパイアされたPOPSって感じのもの(毎度のことだけど)。 楽器類やラーガ(スケールを骨組みに楽曲を構成して行く部分)とかは拝借しようと思っているが、アドリブで何十分もの尺を埋める、とかは絶対踏襲したくない。 私は基本的に、即興音楽ってあんまり好きでないのです。
・4/8(日)
昨日の続き。
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・4/7(土)
神田優花、新曲録ってました。 何だか本人納得行ってないみたいなんだけど、私は別にそんなに悪いテイクじゃなかったと思う。 以下今週のスタジオにて。
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片飛鳥さんもレコーディング。
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・4/6(金)
肉体のウザさ。 要するに物理的な肉体があるからこそ、それに食わせる飯や置き場(家など)が必要になるわけで、そこに掛かる費用を捻出する為には働かざるを得ない。 肉体はモノだから調子に波があり、経年によって劣化し、時折メンテナンスも必要になる。 病院も床屋も食い物屋も性風俗店も、人間に肉体さえなければ存在すらしなかったものだ。
私はモノなんて欲しくないわけだから、実のところ精神だけあれば良いのだけど、世の中はそうも行かないらしい。 肉体に備わった状態でないと、精神は作動してくれないんだ。
肉体なんてもモノが付いて回るから、人は色んなことが見えにくくなる。 顔やスタイルだとか言う見目に惑わされて本当に好きなものを選べなくなったり、物が欲しくなるあまりに、本来得たかったであろう感覚を取り逃がしたり。 バカな話だ。 金も物も異性も、我々の精神が感じ取っているだけのものなのに。
音楽制作ってのは、汗の滲むような肉体労働そのものだが、仕上がる音楽ってのはモノではない。 だから究極的には精神一つで作ることも味わうことも出来る筈なんだ。 私は音楽を感じているだけだもの。 私を最後に救ってくれるものは、金や物質なんかじゃ決してない。
・4/4(水)
不景気について。
景気が良くないとか、それ故に仕事がないとか、よく言われますね。 しかし仕事(求人)自体はわりかし存在している。 ただ、「条件」が良くない。
三人配置すべき現場を一人で切り盛りさせれば、確かに二人分の人件費は浮く。 が、そこに残された一人は激務をこなさざるを得ず、サービス残業や何やと精神・肉体を酷使し、三人分の負担を請け負う事になる。 コストダウンに因る薄利多売型のビジネスには、常にある種の負荷が掛かってくる。 最近よく聞く、いわゆるブラック企業ってヤツはこれなのでしょうね。
大学生の頃、就職活動ってのを横目で見ていたが、保険屋や先物の営業だとか、如何にも過酷そうな職種には、いつも人の需要があった。きっとそんな会社に入っても、多くの人は続かないんだろう。
基本的に職を探す者は「やる気があります」と主張せねばならない(少なくとも建前上は)。 しかし実のところ多くの人は、本当は「やる気がありません」と言いたい。 「そんな過酷な環境に晒されるくらいなら、少々貧しくても気楽に生きたい」と考えている気がする。 しかし中々そういう要望を満たしてくれる生き方は存在しない。 魅力のカケラも無いような過酷な労働環境か、あるいはたつきとなり得るかすら怪しいような底辺の仕事、あるいは無職(つまり暮らして行けない)などと言う極端な選択肢ばかりになりがちだろう。
政府なんかは、もうこういう苛烈な競争社会からドロップアウトする生き方を用意してやれないものなのだろうか(女性には専業主婦ってのがあるけどね)。 かわいそうに思えてくるよ。 今の日本なら、「体制を社会主義にします」なんつったら諸手を挙げて賛成する層がかなりいそうだ。 もちろん仕事やお金が好きで、バリバリ働きたい人は働けば良いのよ。
江戸時代は人口の8割くらいが百姓で、ほとんどの人はとりあえず田圃を耕していれば生きて行けた。 人口の1割弱のお侍さんらも有閑階級で、一応は無為徒食できなくもなかった。 そりゃ人心もある面では穏やかになるよね。 まあその江戸人も、ある面では実にファナティックだったりもしたのだけど、そういう書生っぽい純粋な人格も、社会の穏やかさから生まれている部分はある。
今の日本では、年間三万人超の自殺者が出ている。 毎度思うが、一人の死者も出していない原発事故だとかに狂騒している人が、まるでアホに見える程の数字だ。 東日本大震災での死者総数の倍ぐらいの人間が、毎年自殺している。
自殺の直接の契機こそ「艱難」だろうけど、つまりはその人らには、選び得る「魅力的な生き方」が存在してなかったのだろう。
今の私の仕事を時給換算すると、間違いなく最低賃金を割る。 が、私は好きでやっているからこれで良いのだ。 音楽は私に、艱難をブチ壊す勇気を与えてくれる。 だから私は音楽に愛されたと思うわけですね。
・4/3(火)
源平合戦の時代(治承・寿永年間)の人物たちを、列伝形式で紹介したような本を読んでいた。
あらためて思ったが、友人になれそうな人物が一人もいない。 代表的有名選手である源義朝、子である義平・頼朝・義経、どの人とも絶対友達になれない(この中で強いて言うなら、頼朝が一番マシに思えるが)。 そもそも友情なんてのは明治以後の輸入観念で、それ以前の日本には感情としても倫理としても、そういった観念は存在しない。 主従ならあった。
鎌田政清が源義朝に最後まで付き添ったのは、その関係が主従だったからだ。 天皇が偉い理由が、天皇家に生まれ、天皇家を継いだことであるのと同じく、義朝がある系統の源氏の嫡流であったからだ。 日本人は人間を人格でなく機能で見る。 だから気分としても、友情などより上下の方が収まりが良いのだろう。 私は今日も友人を探しているけどね。
・4/2(月)
続インド音楽。 資料が少なすぎる。 私はこういう音楽関連の調べものをする時は、最終的には作品に生かすことを常に念頭に置いているわけだが、ハッキリ言って今回のケースだけは作品化できる自信が無い。
ビートルズなんかにシタールやタンブーラの音を入れた作品があったりするのだけど、ああいうちょっとした味付けとしてエスニックな楽器音を入れる、みたいな事がしたいわけじゃないのですよ。 私が取り入れたいのは、音ではなく楽理(ビートルズの曲にも、楽理ごと取り入れたようなものはあるけど)。
例えばタブラ(打楽器)一つとっても、音源なんかは存在しているものの、そこに配列されている各音色が、実際のタブラのどの奏法から生まれる音なのか皆目分からない。 タブラの奏法などについて解説しているサイトなどは一応存在しているものの、音と奏法とのリンクが上手くできない。 また、この手のインド音楽に使われる楽器類は、個体差が実に大きいそうだ(代表楽器であるシタールでさえ、モノによって弦の数ごと違うそうだ)。 つまり楽器ごとの発音が違い過ぎて、照合が難しい。
リズムなんて、適当にサンプル並び替えてそれっぽいものを作れば良い、と思われる向きもあろうかと思うが、なかなかそうも行かない。 例えばPOPS系のドラムとかでも、8ビートならハイハットを8分で刻んでキックを1・3拍目に入れてスネアを2・4拍に入れる、みたいな定型が存在するように、タブラにもそういうものが一応は存在しているのである。 知ってて崩す事と、知らないからメチャクチャ、ってのは全然意味が違う。
また、雅楽は西洋音楽とチューニングが違うのだが(A=430Hz)、三分益一・三分損一などと言う手法で求めた周波数で、それを導き出した一応のメソッドは存在する。純正律・平均律などと系統の違う音律と言うだけに過ぎない(三分損益は、原理的にはピタゴラス音律の求め方に近い)。
一方インド音楽には、絶対的な音高が存在していないそうな。 つまり、奏者などの都合によって都度音の高さ(楽器の調律)が変わる。 そんなあ。
実際の演奏についても、儀礼音楽で様式に沿ったものである点など、雅楽に近いと言えば近いと言えるが、大部分が即興によって成立している点など、ジャズなんかに近いとも言える(雅楽の演奏は完全に譜面に従ったもので、即興性は皆無である)。
もう少し作例に当たってみます。 作品化できるかは微妙ですが。
・4/1(日)
marga(インド音楽)について調べていた。 雅楽のルーツって、唐楽だけでなく、天竺楽・林邑楽など諸系統あるわけだけど、言うまでも無く天竺とは今のインドの周辺のことである。 インドの伝統音楽は雅楽の一ルーツなのだ。
しかし雅楽に輪を掛けて資料が探し難い。 日本語でmargaについて記された資料自体が少ない上に、楽理について言及しているものとなるとどれほどある事やら分からない。
今考えると雅楽なんてあれでもマシだったんだ。 とりあえずネット・図書館レベルで一通り楽理を調べられたんだもの。 それでも例えば笙の手移りなんかは資料によって記述が(単なる誤記も含め)マチマチで、諸書(&作例)を比較・検証することによって自分なりに整理していくしかなかったが。
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