Staff diary  
スタッフ日誌[2012]

[文 / 益田(制作)]

3/31(土)

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スチール撮ってました。 以下、撮影の様子。 撮影の上がりっぽいカットも含まれてますが、あくまで撮影の横からデジカメで撮っただけのものらしいです。 本当の上がりは今後リリースのタイトルで使います。

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3/30(金)

何日か前に「可愛さ」について考察していたのだけど、その後またそれについてダラダラ考えていた。

織田信長なんて人は、後世から「血も涙も無い人間」みたいに思われているが(事実、おそらくは日本史上もっとも多くの人間を殺した人物だろう)、彼は他人に可愛さを感じたりしなかったのかと言うと、そんな事はない。

信長は、部下である秀吉とその正妻寧々の痴話喧嘩を仲裁した事がある。 その際に寧々に送った書状の文面も今に伝わっている。 出典などよく分からないけど、有名な文章なので、調べればすぐ内容は分かるかと思う。

とにかく、そんなイージーな(処理が容易と思える)案件を持って来る秀吉夫妻を、きっと信長は可愛いと感じたはずで、行間からもその気分は伺える。 信長って人もその程度には普通の人間だったんだろう。


3/29(木)

催馬楽の歌詞って、何だかほのぼのしてて良い。 昔の人の情緒が感じ取れるようで私は好き。 催馬楽そのもの(つまり曲)の良さはあんまり感じないけど。

曲名で言えば、「伊勢の海」・「更衣」・「安名尊」なんてのがお気に入り。 作詞とかやってる人なら、騙されたと思って一度ご覧になると良い。


3/28(水)

こんなところでどこまで喋って良い事なのか分からないけど、こういう事務所業やっていると、しばしば専門学校とかそれに準ずる機関なんかとちょっとした連携をして、人材を探すことがある。

回ってきたプロフィールだとかを見ていると、(特に専門学校経由のものには)異常なくらい外国人(アジア系)が多いことに気付かされる。 確かに東京で生活していると、コンビニだとか飲食店の店員にアジア系外国人を目にすることは多いんだけど。

あれっておそらくは、ビザを確保する為の一種の方便として学生の身分を得ているだけで、別に本気でミュージシャン目指してたりするわけじゃないんだよね。 だからこそ音楽だとかの「遊び系」の専門学校に人材が集中するんだろう。 こっちは大真面目にアーティストを探そうとしているから、当初は面食らってしまいましたよ。


3/26(月)

音楽ソフトは売れないと言われて久しいけど、本当に収益モデルが確立しにくい業界になりつつあるみたいね。 特に日本では、音楽ソフトなんてノベルティグッズにぐらいしかならなくなるんじゃないか、とすら思える。 音楽リスナーって層が、決定的に欠けているように見えるから。

ファイル共有ソフトみたいなものをわざわざ使わずとも、POPS系の有名どころの楽曲って、例えばYoutubeみたいなメジャーなサイトに行けばほぼ全てがフル尺で聴けるし、しかもそのアップロード元がオフィシャル(レコード会社等)だったりもする。 ユーザーのちょっとした工夫でダウンロードだって出来る。 YoutubeってiPhoneのメニューにもデフォルトで並んでるぐらいで、きょうびアングラサイトでも何でもない(ウチだってPVとか公開してるし)。

海外での音楽配信は、ほぼ完全にサブスクリプション型に移行しつつあるみたいで、詳しいシステムは知らない(あんまし興味も無いから調べてない)けど、iTunesでもサブスクリプションが導入されているっぽい。 日本での現行のシステム、着うた1曲\300とかって、つまり世界的相場に比して高過ぎる(その気になれば誰でもタダ同然で入手できるモノなのだから)。 そんな値段で買う人がいなくなりつつあるから、自然の摂理として、価格の暴落が起こってしまっている。 偽り無い世界的趨勢ってヤツは以上の通りである。

メジャー系のレコード会社とかのように、基礎代謝が大きな企業体を維持することはさぞかし大変だろう。 リスナーという土壌の無い世界で、膨れ上がった図体を維持しようとすれば無理が生じるのは当然だ。 日本のメーカーとかって、サブスクリプション型配信に対してどういうスタンスなんだろうか。 CCCDとかまで作ってた人らなんだから、きっと少なくとも積極的ではあるまい。 今は見方が違ったりするのかな。分からない。


私もリスナーだし、「音楽業界はどうなってしまうんだ」と言う懸念がないわけではないけど、実はその辺、割と楽観的だ。きっとなるようになって上手く落ち着くよ。 経済学的な均衡点ってのは、水が高いところから低いところへ流れたような、一番無理の無い形のことで、人々が求めているのは常にそこなんだ。

音楽を作りたい人がいて、聴きたい人がいて、その二者の間を取り持って環境を整えるべく調整している人がいる(無論商売として)。 作る人の「環境」は、聴きたい人の「聴きたさ」に比例するだけ。 作りたい人は作りたいから作る。 環境はあるに越した事ないけど、「良い環境が整わなければ作らない」なんて人は本当のクリエイターじゃない。 音楽業界が大金を生まない世界になったって、アーティストが自己追及作業を止めたりはしない。 だから心配は要らない。


3/25(日)

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昨日の続き。

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3/24(土)

今週のスタジオにて。

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ここ最近、曲ばかり作りすぎて、それらに歌詞が全然埋まってない。 商品化するのってほとんどが歌物なんで、歌詞が無いことには上がらない。 これから暫くはがんばって(得意でない)歌詞書きます。 人に書いてもらったりもしてるんだけど、それでも間に合わないのです。


3/23(金)

公務員はハッキリ言っていじめられている。 公務員関係の予算を削れば削るほど、世人の溜飲は下がるらしい。

私は常識人なんで、今の日本の財政状況では、公務員関連の支出を減らさざるを得ないのも止むを得ないと思う。 でも公務員の皆さんにだって生活があるってことも理解してあげないとな。 「このご時世に、ぬくぬくと安定を享受しやがって」と言う非難はあろうかと思うが、他の人(民間の勤め人)なんかに比べれば、栄達・一攫千金と言ったものなんかよりも「安定」に価値を置いたからこそその仕事を選んだ面もあるのだろうから、端からそこに価値を置かなかった人よりも「不況に強い環境」を手にしているのは当然と言えなくもない。 ただ、その安定の基礎が、税収に拠っているってのが泣き所ではあるが。

安定に重きを置くからこそ手に入れた身分であったのだが、その安定とやらの「磐石さ」も限界を迎えつつあるってことなのだろうか。 だったらある意味では仕方ない面もあるのかな。


3/22(木)

「可愛さ」の正体について。 可愛さって何なのか。

人は人やモノに可愛さを感じる。 「あの子、可愛いよね」の、可愛さを成立さしめるのにも条件がある筈だ。

一般に子供は可愛い。 また女性なども(少なくとも男性よりは)可愛がられるケースが多い筈だ。 それは精神などが完全に自立しておらず、他人の庇護を必要としてしまうからだろう。 他者に依頼する気分こそが可愛さの源泉ではなかろうか。

これは単なる「未熟さ」とは違う。 例え未熟であっても、他者に依頼する気分を持っていなければその人は可愛くはならない。 依頼心を露にすることは、自分の脆弱性を曝け出すことでもあるのだから、男性などは軽々にそんな態度を取れない場合もある。 一般に成人男性は可愛くなり難いだろう。自立し過ぎているし、その態度を共同体から課されてもいる。

他人に依頼する気分と言うのは、即ち他者に対する需要である。 依頼された人は、必要とされることによって自身の存在意義をある程度感じ取れるだろうから、可愛い人間の存在をある範囲においては歓迎する筈である。

では人は、他者に依存すればするほど、周囲からの愛情を享受できるのかと言うと、それも違う気がする(見る限り事実そうでないから)。 他者の側も、人によっては、相手の放つその依頼心を、十全に処理できるとは限らないからだ。 つまり、向けられた依頼の分量によっては、自身の手に余る場合があり、それは自らを危険に晒すことと同義であると言うことだ。 だから、過度に依頼してくる相手に対する感情は、可愛さを通り越し、憎たらしさにすら発展することもあり得るわけだ。 自己防衛も本能なり。

相手に対する印象を、どの範囲まで「可愛い」で処理できるかは、その人の自負する能力に因ろう。 自らが弱すぎる人間(子供や一部の女性など)は、他人を可愛いと感じることが難しい筈だ。 相手の依頼を処理できる自信が無かろうから。 処理できぬ依頼は、迷惑なのである。

可愛さは、依頼心やそれを支える愛情、両当事者間のパワーバランス、などの複雑なファクターに因って成立するのだから、ある「可愛い子」が、別の人からはムカつかれたりすることだって往々にしてあり得ることになる。

か弱い少女は可愛がられる筈だが、その子が「自立せねばならぬ、人を頼んではならぬ」と必死で自分に言い聞かせてたりすると、ある人にとって、その可愛さは増すやもしれない。 その態度は、相手の負担を軽減させるから。

人は他人にモノを教えたがるが、生徒の質問が(難解すぎて)手に余る場合、先生は当惑する、あるいはムカつく筈なんだ。 私の理屈で言うと。 無論そんな生徒でも、先生の能力に因ってはムカつかれない。

赤ちゃんの可愛さは、その存在が依頼心の塊であるからで、またパワーバランス的にも、その存在は脅威となり難い。 可愛さ成立の要件が整っている。 逆にいい大人(特に男)が依頼してくる場合、その案件は、相手の手に余るものである可能性が高い(相手の立場だって常に磐石ではないのだから)。 よって可愛さが成立し難い。

きっと可愛さを感じる性質は、人間の本能としてインプリンティングされている面もあるのではないか。 でないと、いくらイージーな依頼であったとしても、負担の度合いこそ違えど、対象となった相手にとっての迷惑には違いないわけで、それを人類が可愛さと言う感情をもって無難に処理せねば、弱者(乳幼児など)がこの社会で生きていけなくなる。 種の保存の為にも、可愛さと言う感情を抱く性質はある程度必要なのだろう。


ついでに「可愛い服」や「可愛いオモチャ」、あるいは「可愛い曲」などと言う、可愛い非人間について。 可愛いは、字義から言っても本来、人間に対してのみ形成される印象である筈である。 だから、人間以外に対する「可愛い」は、「可愛い人間を連想させるもの」と言う評価なのだろう。 だから文化である側面が大きくなる。 赤ちゃんの可愛さはほぼ世界共通だが、ベビー服の可愛さは別の文化圏では共有され難かったりする筈だ。


3/21(水)

歴史時間の大半、人類はその生命を維持するための食糧を得ることに汲々としていた。 日本だって百数十年前までは、人口の8割くらいが農民(つまり食糧生産担当者)だった。 時代を遡るにつれ、その割合は大きくなる。

農耕・牧畜(遊牧)なんていう、いわゆる文明の諸々のスタイルも、要は「食うための手段」に他ならない。 長らく人は、食うのに精一杯だった。

が、ご存知のように今の日本はそうではない。 農業は機械化され、現場に昔ほどの人は必要なく、割合で言えば人口の僅か数%程度の人員が全人口分の食糧を調達できる。

絵画・彫刻や芸能、音楽、詩文、哲学と言ったいわゆる文化(の担い手)と言うのは、ある意味では余暇を基盤としている。 世界史的に見ても、例えば奴隷制度が哲学者を生んでいたり、日本においても確認できる文化の痕跡って、農業生産力に支えられている。

労働が美徳である、と言う価値観(憲法にすら労働は義務だと謳われている)さえ払拭してしまえば、実は今の日本では、国民の大半は遊んで暮らせる。 良い悪いの話はさておき、現代社会は、国民の大多数を無為徒食させられる能力を持ってしまっている。

消費は(少なくとも在りし日のようには)復活しないだろう。 高度経済成長とかって、それを成立さしめる特殊な事情下においてこそ起こった歴史的異変であって、本来継続する筈のない事象である。 やれ商品券政策だとか定額給付金だとか、一部の政治家は旧来の消費刺激策こそが世の不具合を解消してくれると思い込んでいるみたいだけど。

金融とか情報産業とかの、物質を生産しない業種に携わることを労働だと認めないような思想がある。 思想なんだからそういうのがあっても良いが、それを言うなら製造業だって、もっと言えば商品作物の生産だって、いわば遊びのようなものだ。 作っているものが人類の生存に不可欠な「食糧」では無いのだから。

現代人は、「労働が美徳である」と言うお題目を妄信するあまり、本来需要などありもしなかった、誰のためでもない仕事をムリヤリ創出し、そこに人間の人生の多くの時間を費やさせる、と言う異常な社会を作り出した。 人口のほとんどが食糧生産に汲々としていた社会が今は御伽噺であるように、現代社会もいずれは御伽噺となるだろう。 「昔の人は、やりたくもない「仕事」に人生の大部分を拘束されていたそうな」って。


3/20(火)

ボーカルのピッチ補正について。 何度も述べているのだけど、またこれについて。

とにかく時間・手間が掛かりすぎる。 編集作業っつっても色々あるのだけど、これほどに時間・神経を使う工程はない。 1トラック仕上げるのに平気で2〜3時間とか掛かりやがる(ボーカルだけで10トラック以上あるような曲だってあるのだ)。 世の音屋さんたちはどうしているのだろうか。

私はボーカルのピッチ補正に手間を掛けすぎなんだろうか。 それにしても録音物の制作において、人間の声ほどに精度の悪いものはない。 補正ツールが必要なパートなんて他になかろう。少なくとも一般的には。

私が使っている補正ツールがちょっとバージョン的にも古過ぎる(10年物)ってのもあるのだろうか。 ここ最近のものを知らないから何とも言えないが、いくらなんでも10年前の商品よりは使い勝手も向上しているだろう。 しかし、ピッチのカーブを絵を描く感覚で作り上げて行く作業なわけだから、オートマチック化するのにも限界がある筈だ。 絵を描く(=意匠を反映させる)わけだから。 完全オートマチックでは絵が描けない。

私がこのことについて、あらためて思いを馳せているのには理由がある。 今後、録音物(商品)を量産して行きたいからだ。 ピッチ補正の工程がその足枷になってしまっている。 そこに時間が掛かりすぎて、商品を量産化できない。 あの工程さえなければ今の倍近い作品を発表できる筈なのに。 ホント良い方法知ってたら教えて欲しい。


3/19(月)

物事の善悪などを、平明に判断する感覚の基礎となるもの。

順応性とか言う言葉は、割りと美質のようなイメージで使われるが、世の中には順応してはいけないような環境だってある。 例えば師や恋人の発言だって、モノによっては「そんなのおかしくないか?」と思える程度のバランス感覚はあって良い。 それが持てない関係と言うのは、尊敬や恋愛なんてものではなく、洗脳である。

カルト宗教の類って世界中にあるだろうけど、日本的な教祖絶対主義みたいなのって、ヨーロッパ社会なんかでは成立し難いのではないだろうか。 彼らは、個の確立なくして生きていけない社会の構成員なんだろうから。

ある種の人間は、例えば知らずに入った会社が実は暴力団関係の企業だったりした場合、そのままヤクザになってしまいそうにすら見える。 私は、ごく普通の会社員などを見ていてもしばしばそのような感想を持ってしまう。 順応性ってヤツがあり過ぎるからである。

上司だろうが客だろうが「おかしな事はおかしい」と捉えられる感性は、正義感とか言う言葉に集約されがちだけど、その基礎となるのは「その人の生存基盤がどれだけ磐石か」ではないだろうか。 過酷な環境下で生きる者ほど、自身の権利に無頓着になる気がする。

神に選ばれ、存在の理由を与えられた者は、もうそれだけで「判断」ができるようになるのではないか。 日本人の順応性ってヤツは、人権感覚の希薄さと同義に見えて仕方ない。


3/18(日)

影山リサ、新曲の制作に入ってます。 今度のはテンポ早めのシャッフル。

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神田優花、歌録りでした。 先週録ったテイクにちょっとした不備が見つかって、結局ボーカルテイクは全部録り直しに。 でもまあ、より良いものが録れたと思います。

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3/17(土)

今週のスタジオにて。

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久しぶりの顔です。 真央ちゃん、ここ暫くお休みしてましたが、めでたく復帰です。

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3/16(金)

スネ夫(ドラえもんの脇役)って、基本設定が「金持ち」である筈なんだが、どう考えても小金持ちだよなあ。

のび太の住んでいる街のモデルは、確か練馬区だったかと記憶する。 まあ実にそんな感じである(サザエさんは世田谷だそうだが)。 練馬のニュータウンっぽい住宅街に居を構え、校区ものび太と同じなのだから、住所的にも野比家とごく近い筈である(田舎の人は感覚が掴みにくいかもしれないが、東京などの人口密集地の校区は地方のそれとは全然違う)。

つうかそもそも、のび太と同じ公立小学校に通ってる時点で、どこまでの金持ちなんだ。 作者の少年時代をフィードバックさせる形で設定を作っている上に、時代ごとに弄るわけに行かない部分だから作り手側も困っていることだろう。 「ちびまる子ちゃん」の花輪君ですら主人公と同じ公立だしな。


しかしあのマンガに出てくる子供らは、何故みんな「母親似」なのか。 のび太は無論のこと(父親とは顔の系統が違う)、スネ夫もジャイアンも基本的に母親と同系統の顔だ。 父親は登場回数が少なすぎて、作者も存在を忘れているのではないか。


3/15(木)

アメリカの音楽史とか、それ以外の単なるポップカルチャー関連の資料を眺めていると「ロックミュージックと青少年の健全性について」とか、そういうテーマでの議論が絶えないようである。 今でもCDなんかに「PARLENTAL ADVISORY」マークなんてのがついてたりする。 要するに彼らアメリカ人は、音楽の影響力を信じている。 あの社会においては実態として存在するのだろう。

まあ当然である。 誰かの好きな音楽とは、もうその人の心の一部なのだから。 影響力を持たぬ筈が無い。

日本社会について考えてみた。 人間とか社会を動かすような要因となり得るほどの音楽など、今のJ-POPシーンに存在するのだろうか。

結論としては、多分あるにはある。 アメリカのそれとは随分内容的に違うものだろうけど。 ある現象は、発信者と受信者と言う媒介によって為される。 どっちかの感性が異常に鋭かったりするだけでも、結果的に影響は残る。


上のテキスト打った後にダラダラ考えていたんだけど、日本のアーティスト(特にHIPHOP系とか)って、基本アメリカの大衆音楽の影響が大きい筈なんだけど、何故コアの部分(精神)が異常な変質を遂げているのだろうか。

本来ロックとかHIPHOPって、反骨精神に支えられていたりする筈なんだけど、日本のその手のミュージシャンって、訴えてる内容が「お母さんを大事にしよう」とか「環境問題を考えよう」みたいなテーマだったりすることが多い。 何故か優等生なんだ。

確かに、母親を大切にすることは悪い事ではない。 でも「お母さんを大事にしよう」などと声高に言う人は、母親を支えていく腹積もりがあるのではなく、母親無しで生きて行くのが怖い人なのではないだろうか。 誰かを大事にしようなんて叫ぶ人は、本当は自分が大事にされたいだけなのではないか。

そういう人は、実は「自分は見捨てられるのではないか」と言う不安を抱えている。 不安を撒き散らす人に同調する人らは、当然その人らも不安だし、何もかもを先細りさせてしまう。 音楽の世界もそうなっている。

「お母さんを大事にしよう」なんて叫ばずに済む精神を持てたら、きっとその人は、お母さんは無論のこと、もっと多くの人を救えるようになるのに。


3/14(水)

いわば歌物の雅楽(管絃)ってヤツを作ろうとしているのだが、様式に忠実であろうとすればするほど無理が出てくる。 人間の声ってのは、そもそも制約が大きいのに。

雅楽はヘテロフォニーの音楽だと言われるようだが、つまりは一つの旋律線を基礎に成立している(ハーモニーの思想は基本的に無い)。 だからボーカルラインを組み込もうとするなら、必然的に篳篥や何やとユニゾンに近い旋律型にするのが一番自然なように思える(実際に催馬楽などほぼその通りに作られている)。

しかし、ボーカルもそうだが篳篥の音域が実に狭い。 1オクターブ強しかないのである(人間の声はそれ以上はあろうが、一つの曲に使用される音域で言えば似たような範囲に限られよう)。 しかもその二者のレンジは微妙にズレていて、全く同一の旋律を実現し難い。

しかも使える調が少ない。 呂・律なんていうスケール(音列)は実際にはほとんど無視されているが、トニック音(と言うか終止の型)だけは一応守られていて、その程度には調というものも実在するのに、そのメニューが実に少ない。 楽理の上でも6種、事実上5種しかないのだ(平調と太食調のトニックは同じ)。 従って、ボーカルの音域に合わせてKeyを微調整したりするのが難しい。

管絃を伴奏に歌をつけるとなると、音域的に無理のあるものが多くなってしまう。 POPSの旋律作りに慣れきっていると、その制約の厳しさに閉口してしまう。

音符の粒の細かいパッセージみたいなのも、雅楽的でなくて、少なくとも現状の私はそういうものを却下してしまう(雅楽器(篳篥など)が構造的にそれを奏すのに向かないってのもある)。 当時の日本(と言うよりアジア全域)にそのような複雑な旋律線が存在しなかったのは、やはり当時の日本人の情緒(言語環境と言った方が正確かも)にそぐわなかったからで、理由があるのだ。 そこを掘り崩してみないことには物事の本質なんて見えてこない。


雅楽は日本の音楽かって話だけど、とりあえず日本の音楽ではあるけど、日本人の音楽とは言いがたい。 そもそも雅楽寮って朝廷に属していたわけで、楽人などはいわば役人であった。 演奏などにも皇室・公家などと言う特殊な階級人以外は触れること自体稀であった筈で、録音物・再生機も無かったのだから、おそらく庶民のほとんどは、雅楽なんて死ぬまでに一度も耳にしなかった筈である(因みに江戸期までの日本は、人口の8割くらいが百姓だった)。 寺社系の楽とかなら、もう少々触れる機会もあったのかもしれないけど。 ついでに、雅楽と言う呼称は明治後のものだが、ここでは便宜的にそう呼んでいる。

日本人の音楽なんてものがあるとすれば、無伴奏の民謡・童歌の類とか、せいぜいその程度のものではないんだろうか。 日本は百数十年前に開国し、西洋文明を受容することによって、その一部である西洋音楽も輸入した。 事実上、音楽など無いに等しかった社会に、突如としてあの巨大な体系が流入して来たのである。 いわゆるPOPSも、系譜としてはクラシック(西洋音楽)の末裔である。 つまり日本土着の文化ではない。

ある種の西洋音楽をクラシックと呼称することなんかも、日本人の気分がよく現れている。 クラシックってつまりは古典って意味に他ならないわけだけど、本来「楽」でしかなかったものを雅楽と呼び、脇に整理してしまっている。 気分の上で西洋文明に圧倒されてしまっているのだ。 あちらこそが音楽だと。

音楽が売れなくなっていると言うが、これって実は日本人にはまだああいうものを嗜むのが難しすぎるってだけなのではないか。 もともと味の分からなかった食べ物を、人類のスタンダードだとか思い込んで、背伸びして上手そうなフリで食べていただけなのではないのだろうか。 分からないことは恥ずかしいことではないぞ。 味わう為の基礎となるべき言語、あるいは宗教が違い、またそこに至るまでの歴史の変遷自体が全然違うのだから。


3/13(火)

藤子F不二雄の全集みたいなのを読んでいた。まだ読了してはいないけど。

しかしあらためて凄いと思うわな。 ああいうものは本当に子供の心を持っていないと書けない。 大人だと小さな矛盾が論理性に引っ掛かってしまって、ああいう作品のダイナミズムを生み出せなくなってしまう。 「コエカタマリン」だもんなあ。

しかしあの人のマンガって、本当に堂に入ったマンネリだ。信念すら感じてしまう。 知らない人なんてまずいないだろうけど、念のために基本設定を一応説明しておく。 まず主人公(因みにその名前が作品のタイトルにもなる)が民間人の家に居候している。で、その居候先にいる少年の日常のトラブルを解決する。少年を取り囲む子供らのコミュニティでは、暴れん坊のガキ大将と金持ちで気障な子、ヒロイン役の優等生っぽい女の子がいる。毎度必ずいる。 これを作品毎に多少設定をシフトして展開しているだけである。 もう藤子F不二雄さんは、マンガとはそういうものだと思っているのではないかと言うぐらい、ほぼ毎度基本設定が同じである(ディテールには多少の違いがあるが)。

その全集、詳細は調べてもらえばすぐ分かる筈だが、ドラえもんが掲載誌(小学○年生シリーズ)の年代(読者の世代)別で収録されていて、自分の世代のヤツだったりすると、ちょっと見覚えあったりして面白い。

で、そのドラえもんなんかは、最初の回に「ドラえもん登場」的なエピソードがあるわけだけど(当たり前だよね。でないと読者は何のこっちゃ分からない筈だから)、段々それが割愛され出す。 年代別シリーズの3巻目ぐらいだったかからは、もう第一話目からドラえもんが当然のように家族の一員だったりする。

ドラえもんならまだ分かる。ヒット作となり、設定が市民権を得たってのもあろうから。 しかし他の作品、例えば「ポコニャン」(知らない人も多かろう)なども、第一話目から当然のように家族の一員である。 でもそれで大丈夫。 一読者である私に言わせれば「ああ、またいつものヤツね」ってな具合である。 


3/11(日)

影山リサ、先日録った新曲の上がりをチェックしたりなんかしてました。

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神田優花、新曲の歌録りでした。 早速次の曲のリハに入ってるわけですが。 神田優花、今年は多分リリース曲多くなります。

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3/10(土)

今週のスタジオにて。

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ここ数日、天気悪いし、急にまた寒くなった。 皆さん、風邪引かないようにして下さいね。


3/9(金)

政府は、公務員の新規採用を大幅に減らす方向で調整に入っているそうだ。 今の日本での非正規雇用の形態は、ヨーロッパでいうところのワークシェアリングってのに近いんだろうか。 日本人は、成り上がり的な金持ちを忌み嫌う民族である。一人勝ちを許さない。 この不況下、公務員はもう既に特権階級と見做されつつあるってことなんだろう。

日本史上、世界史で言うところの「独裁者」に最も近かったと思われる織田信長でさえ、「天下布武」のスローガンを掲げていた(印に使用していた)。 要するに、「自分の行動は『天下』(と言う半ば架空の公共物)の為のものである」と言う表明に他ならず、当時の社会でさえ、信長が「俺の為に天下を取る」と公言できない何らかの力学が働いていたことが伺える。 それでもなお、彼の今際の際はご存知の通り。

ベーシックインカムの構想(それとワンセットにならざるを得ない消費税大幅増の許容)とか、公務員の削減、ワークシェアリング。 要するに日本人は皆で手を繋いで貧乏になろうとしているのだけど、早い話がそれを是認する空気があってしまう。 事業を積極的に興したりする人なんかが、だんだん少数になりつつある。また、社会の側もイマイチそういう人々を歓迎してくれない。

日本人には、起業するより雇われる事を好む人が多かろう。 「社長に憧れる」と言う人が、本気でそう思うのなら、明日にでも起業すれば良い。 日本には会社を作る自由があるのだから。 一般に社長は平社員より給料が高かろうけど、その立場・給料相応の労力・神経を使わされるに違いない筈で、多くの人はそれを嫌がるからこそ、雇われ人の立場に甘んじている。

今の日本のありようは、やはり多くの日本人が望んだものだし、今後行き着くであろう未来も、多くの日本人が望んだ世界である。

今の日本を「活力を失った社会」と言えばそれまでだが、人間の活力とは即ち物欲かと言うとそれも違うような気がする。 私に物欲は薄いが、いつも私なりの答えを探し続けている。 これだって立派な欲だし、それは活力を支えている。

日本人(あるいは人類)が、物質面の欲望に飽いて、それ以上の価値を希求するようになれば素晴らしいと思うんだけどねえ。


3/8(木)

自分の尊厳を守る作業ってのは、究極的には自己に委ねられている。 自分が感じた自己に対する価値を、同程度に共有してくれる人たちこそが、友人(人間関係)の正しい定義なのだろう。 どんな人だって、人間関係の基礎はそこに集約される筈だ。

私は(私に限らぬが)、私を(私が自認する価値より)軽んじる人間とは、深く付き合う気が無い。 私に価値を感じないのだろうから、その人との交友から何ほどのものが生まれるとも思い難いのである。 皆さんも究極的にはそうであろうと思うのだが。

自分が相手の立場になって考えてみると良い。 自分が価値を感じる人物であればあるほどに、その人を大切にする筈だ。 私に価値を感じない人は、私にとって必要性の薄い人間だと判断せざるを得ない。 私はそう考えて、今までの人間関係を構築してきた。 自分の為に。 これは親兄弟や幼馴染みの類であろうと、基本的な態度は変わらない。

誰かが一方的につけた安値を、唯々諾々と踏襲すれば、忽ちその人の価値はその程度になり下がる。 人間の相場とは、かくも単純な仕組みで成り立つ。 我々は、我々を買い叩く人を客とすべきでない。


ついでながら、基本的に人間(他人)に価値を感じられない人ってのが存在するが、その人は自分にすら価値を感じていない。 だから、自分の周囲にある人間関係と言うものを構築する気が端から無い。 美人の方がオシャレでしょう。


もしもこの世界に、自分のことを重んじる人間など誰一人として存在しなかったら、我々はどうするべきなのか。 それは、如何に孤独であったとしても、誰とも付き合うべきではない。 自分の価値は、我々自身が決めるべきものであるからだ。 その価値に気付く人間は、いつかきっと現れる。


3/7(水)

曲作りって、事前に練っていた様々なアイディアを具現化させる作業でもあるわけだけど、どの程度のアイディア(情報量)を盛り込むかってのは悩みどころではある。 曲の長さとかもそうだけど、情報量の匙加減って作者の作為そのものである。 多ければ良いってもんじゃなし、かと言って少なければ良いってもんじゃなし。 その辺が適当な作品なんて、内容においても高が知れている。

例えば曲想を練る段階で「イントロはこういう風に、Aメロはこう、サビはこう、間奏はこう、コーダはこんな感じで」とか考えるわけだけど、間奏に間奏独自のコード進行・バッキングを作るのと、例えばサビとかのバッキングを流用するのとでは結構な情報量の違いになる。 コーダをイントロの変型にするか独自のものにするか、とかも然り。

曲の長さとかについても、ただ曲を長くすることなんて実に簡単で、リピートの回数を増やせば良いだけである。 実際に浮世で流れている曲を聴いていても、「このリピート数って必然性あるのか?」なんて疑問を感じるものは多い。

ちょっと前の私は、この情報を盛り込む事に割と執心していて、削ることを疎かにしていた節がある(無論、その感覚が絶無であったわけではないが)。 最近は心境の変化なのか、削ることにもそれなりに注意を払うようになったわけです。 曲の長さについては、昔から短いものが好きだったけど。


3/5(月)

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神田優花。 新曲の最終リハでした。 最近曲作るペース早いな。

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3/4(日)

ある知人で教員養成学校に行ってた人がいて、晴れて近々(非常勤ではあるが)教師業に就く事に決まったそうなんだが、その人と話をした感想を書き残してみる。 因みに女性である。

曰く、生徒を相手に授業(教育実習など)をやりながら、つくづく「バカに先生などと言う役割を与えてはいけない」と(半分自分に対する戒めでもあるんだろうけど)痛感したそうな。 正直私は笑ったけど、痛いほどに論旨は分かる。 全くその通りである。 バカに人の上に立つような「立場」だけを与えると、周囲が迷惑する。

先生・生徒なんて言う関係性は分かりやすいが、社会には様々なパワーバランスがある。 例えば雇用・被雇用の関係とか、性別、上司・部下、先輩・後輩、更にはそこに年齢・経験などの諸要素まで入り混じり、複雑な関係性が成立してしまう。 しかしそれらは皆、立場のみの違いであり、その立場に付随した役割に違いが生じるだけである。 それは人としての上下を裏付けるものなんかじゃない。

例えば、学校のサークルやお稽古事の教室に入ったり、どこかでアルバイトでもしようとか思ったら、そこには店長・部長だとか先輩だとか言う「先住者」が必ずといっていいほどいるだろう。 入ったばかりの新人さんなんかは当然仕事の流れ・慣習などがほとんど分からないので、そういう先達らから教えを請うことになろうが、そこで忽ちその関係性を「上下」だと錯覚する者が現れる。 上で言う「バカ」の典型である。 その人が先にそこにいたのは単なる偶然に過ぎない。 先にいた者が後から来た者より多くの情報に触れているのは、ごく当たり前の話である。

例えばコンビニなんかで、仕事を覚えるべく、研修・OJT期間にある者がいたとして、そこにいたある先輩に、店長が「新人さんに仕事を教えてあげて下さい」なんて頼もうものなら、その先輩が、この稿でいう「バカ」であったりした場合、即座にある誤解をしてしまったりする。「自分の手下が出来た」などと錯覚してしまうのである。 「教える・教わる」と言う態度を、上下関係の証だと取り違えてしまう。

スポーツ系の部活動なんかでの後輩いじめみたいな話ってよく聞くが、要するに上の「勘違い」に起因している。 先輩・後輩などと言う本来大した意味を持たない関係性を、「上下」だと誤解してしまうが故の勘違いである。 先輩は後輩に練習の流れや、部内での慣習について教えてあげるべきだが、「オイお前、この部屋を掃除しろ」なんてのは根本的な部分を、はき違えている。

「新人は、いつも朝○時にこの部屋を掃除することになっています。掃除用具はあそこに置いてあります。使った後には同じ場所に片付けることになっています。」これが指導の本質であり、指導者とは別に命令権者と必ずしもイコールではない。 が、彼女の言う「バカ」にその区別は付かない。 だから、そういう人に立場だけを与えられないわけですね。 我々も気をつけないとね。


3/3(土)

今週のスタジオにて。

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3/2(金)

ボサノバっぽい奴を作ってたんだけど、雅楽なんかに比べりゃ、ああいうのってある面楽ですね。

理由は、そのジャンルのジャンルたる所以のほとんどが楽理面以外にあるから。 無論、ボサノバにも定番的な使用楽器があり、定番的な奏法があるが、要するにジョアン・ジルベルトやジョビン聴いてそれっぽいものを作れば、それはボサノバなんだ。 もちろん、骨子が音楽理論に支えられてないからこそ難しい部分も大いにあるんだけどね。


3/1(木)

もう3月ですね。 東京、雪積もってますけど。 代々木アニメーション学院さんの地方校対象のオーディション、昨日で締め切りでした。 とりあえず関係された方々、ありがとうございました。


このページって、私が日々感じたことなんかをつらつらと書き綴っている日記なんだけど、ここ最近関心事がマニアックになり過ぎていて、どうも書きづらい。 今までは、内容についてメールなんかをいただいたり(批判的なものも含め)、あと技術的な疑問などについて書き残せば、知り合いの音屋さんなんかからアドバイスをもらうことなんかもたまにあったのだけど、ここ暫くの雅楽関連のテキストについては何一つリアクションが無い。 読んでる人たちの日々の関心事と遠すぎるのだろう。

『安摩亂聲の竜笛による無拍節のカノン、二席・三席の退吹(おめりぶき)のタイミングには何らかの法則性があるのか』とか、『禁帯出本でいいから、芝祐泰の「五線譜による雅楽総譜」を置いている図書館は無いのか』とか言い出しても、確かにほとんどの人には興味が無い、あるいはワケが分からないだろう。

私のアタマの中は、そういう事で日々一杯だったり事実するわけだから、当然世の中の関心と遠いところにいる。 浮世の戯れ事に疎いわけである。 まあ昔からマイペースな人間だとかは言われていたが、最近頓にそれが激しくなってきているような気がする。


2/29(水)

今年って閏年だったんだな。 つう事はオリンピックがあるのか。 オリンピックが4年に一度だなんて信じられないな。


2/28(火)

またまた雅楽について。

私は基本的長い曲があんまり好きでなくて、POPSなんて実のところ3分もありゃ(2分台で)十分だとすら思っている。 まあでも、一般的なPOPSとあまりにかけ離れてもどうかと思うので、大体3〜4分台に収めるように心掛けてはいるが。 5分あるPOPSは長い。

で、雅楽である。 長いんだこれが。 序・破・急(クラシックで言うところの楽章である)なんて言うフルコースは無論のこと、有名な越天楽(当曲のみ)でも9分超ある。 ちょっと長すぎる。 今、雅楽を取り入れた歌物を作っているんだけど、尺だけは全く踏襲する気がない(長いんだもの)。 今作ってるのは3分チョイ。十分だ。


雅楽を取り入れたトラックを実際に作るに当たって、今気になっているのは、エフェクトをどうするか。 無論、篳篥にDistortionをかけるつもりはないが、全パート全くのドライにしてよいものやら。 リバーブぐらいはかけなきゃ音が締まらない気がするのだけど。

作例を聴いていると基本的にドライなんだけど、室内などで演奏しているものは、そのホールの部屋鳴り程度の残響は当然ある(リバーブとはそもそもそれを模したものだが)。 単純にリバーブで処理していいのかは分からないが。



雅楽は基本的に和声音楽ではない。 西洋音楽とは別の体系なのだ。 例えば12音技法などは、調性音楽のアンチテーゼであるが故に、調性からの解放など謳いつつも、実際には実に制約の多い窮屈な代物だ。 だってマークシート方式のテストで0点取んなきゃいけないんだもの。それは100点取るのと同じことで、調性にがんじがらめに縛られることでもある。

雅楽はどちらかと言えば旋法に近い(それとも違うけど)。 教会旋法に倣って、呂を長旋法、律を短旋法としている楽理書などもあるが、作例に当たると明らかなように、そもそもそのスケールが全然守られていない。 完全に無視して旋律を作っている。 元(作曲段階)からそうであったのか、長い演奏の歴史の中でそう変わって行ったのか不明であるが。

管絃は、主旋律を篳篥が担当し、竜笛は基本ユニゾン(オクターブを含む)を担当するのだが、音域が違いすぎて(篳篥のが狭すぎる)同一の旋律線を奏でられない。 自然、竜笛パートはオブリガート的になってくるのだが、稀に偶然篳篥などと竜笛が3度などの音程関係になってしまうことがある。 つまりハーモニー(和声)が成立してしまう。雅楽(特に管絃)の悠揚な旋律の上であるからして、それはもう完全に、機能性を感じ取ろうと思えば感じ取れてしまいそうなものなのだが、雅楽の世界には機能和声などのような古典的な「禁則」など無いのである。 12音技法などとの大きな違いであり、そこが雅楽の素晴らしいところだ。

管絃は、メロディー楽器が一斉に一つの旋律を奏でようとする音楽だったりするのだけど、筝は調弦によって、笙などはそもそも、「出せない音」が存在する。 Fは、笙・筝では出せないのに、主旋律(篳篥)はそんなのお構い無しにFのロングトーンなどを出すのだけど、笙や筝はハーモニーに回るなんてことをしない(そういう思想が存在していない)。 どうするかと言うと、Fの音にF#の音をかぶせたりするのである。 西洋音楽的には短二度の不協和音であるが、関係ない。 出せる一番近い音をかぶせたのだ。 協・不協なんて基準が既に西洋音楽的なのだ。

雅楽は「○○からの解放」なんてチンケなテーマで作られていない。 雅楽こそが音楽であり、世界であったのだ。 だから別の体系を意識した禁則など設定する必要がなかった。 雅楽の調は、西洋音楽的な調性のカテゴライズとは、基本的に別のところに基準があるし、拍子や音階に拘泥するところが少ない。

ここ最近、雅楽のことばっかり考えているのだけど、私は雅楽に新しい地平線を感じているのだ。 きっとこれから暫くの間、私の作品は劇的に変わる。 受けるかどうかは分からないけど、そんなの私の知ったことではない。 これから楽しくなってきそうだ。


2/26(日)

影山さん、新曲の歌録りでした。 今回の曲はブラスをフィーチャーしたアレンジで、今までの曲とは一風変わった作りになってます。 夏頃には発表できるかな。お楽しみに。

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2/25(土)

今週のスタジオにて。

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神田優花。 先々週録った曲のマスタリング・新曲のチェックやら、あと昔録った曲のリアレンジ版のオケのチェックなんてやってました。 あと次に録る曲のリハーサルも。

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2/24(金)

人は菌類や寄生虫のように、直接何かに寄生しているわけではなく、一応は独立して生きている。 だから、たった一人きりで、大地を踏みしめつつ日々歩き続けている。

心臓と言うエンジンは実に高性能で、上手く行けば100年ぐらい(一度も止まることなく)稼動し続ける。精密機械と言って差し支えない。 人はその精密機械を稼動させ続けなければならない。 止まると死ぬから。

人は生きねば死ぬ。 生きないと言うのは即ち死ぬ事で、ハムレットだって「その中間」なんて選べない。

生命にモラトリアムなんて無いのだから、人はどんな苦しみの中でも、自分を鼓舞し、明日を想像しつつ生きて行かねばならない。 大変な生き物だ。 いっそ心なんて持たされなければ、苦しみも悲しみも感じず、苦痛の無い人生を歩めただろうに。 まあそれは、いわば貝に生まれ変われってことだけどね。 解脱ってそういうことなんだろうか。


私がドラえもんなら、苦しむ誰かに、苦しみなど一切無い完全無欠の幸福を与えてあげたいけれども、私はタダの人。割れた湯呑すら元に戻せない。

現実の方を塗り替えるのには限界があるのだから、我々はこの苛烈な現実と向き合っていく勇気こそを持つしかない。


2/23(木)

ある女性タレントが、占い師だかなんだかに洗脳され、おかしな行動をとっているなどと話題になっているそうな。

上の一件を面白おかしく伝える雑誌・TV番組等は、その占い師を詐欺師、タレントを被洗脳者(被害者)と一方的に決め付けつつプログラムを構成しているみたいなんだけど、それも如何なものだろう。

よく知らないけどその占い師は、多くのメディアが決め付けているように、よくある営利目的の新興宗教だとか霊媒師の類とよく似た軽薄な商魂の権化に過ぎないのかもしれない。 少なくとも私だってその人を心の師とはしないだろう。 でもそのタレントはその占い師を信じた。 換言すると、その占い師の言葉以上に頼れるものが、この世界にもう存在しなかったと言える。 少なくとも彼女の目にはそれ以上に信じられるものが映らなかった。 彼女だけを責めるのも酷な気がする。

人は皆心を持たされて、望む望まざるに関わらずこの世界に生まれてくる。 何かを信じて生きて行くしかないのに、彼女は自分の信じる何かに取り残され続け、絶望に尻餅をついて、最後に残ったその占い師の言葉にすがり付いた。 彼女の近くにいる人たちが、彼女にとって占い師以下でしかなかったのは間違いない。


私事になるけど、随分昔に、私の知るある女性が、あの有名なオウム真理教に入信したと言う話を聞いた。 彼女は中学校の音楽の教員だったのだけど、学生時代からずっと付き合い続けた彼氏にフラれた直後、極度の人間不信に陥り、結果入信に至ったらしい。 確か仕事も辞めたとか聞いた。

彼女らの機微が痛いほどに分かるだけに、当人らだけを責められないと私は感じてしまう。 人なんてみんな弱いものじゃないか。 自分の信じていた未来に裏切られ、彼女らの目に映ったこの世界は、根底から音を立てて崩れた。

私が音楽を作るのは私のためです。 でももし私の歌に何かの使命があるのなら、恋人にフラれて一人ぼっちになり、この世界を信じられなくなった誰かの心の側にある歌であって欲しい。 誰だって、明日を思い描いて生きて行かなきゃならないのだから、その背中をブン殴る歌。 私の全てをかけてでも作ってやるから待ってろ。


2/22(水)

ピカソは和暦でいうところの昭和48年まで生きている。ほぼ現代人である。 ピカソの作風を整理した時代区分での「キュビズムの時代」から、彼の絵は顕著に具象性から遠ざかる。 絵画史における上のトピックは、音楽史で言うなら何がそれに当たるのだろう。 多くの現代音楽家の作るものは、確かに古典とは違うけれど。

ヤニス・クセナキス、ジョン・ケージ、シェーンベルク、あの人らは明らかに理系脳である。 北斎やピカソとは人間の類型として遠すぎる。 彼らの音楽は「言語を駆使し、論理に論理を重ねたどり着いた境地」ではないのではないか。 他の多くの現代音楽家にも言えることだが、スポーティーな感覚で作品を生んでいるように思える。 私はああいうものに、あたかも工業デザインなどのような無機質さと言うか、冷たさを感じてしまう。 良い悪いの話ではなく、あくまで私の嗜好に適うかと言う問題である。

芸術って人肌の温もりではないか。少なくとも私にとってはそうだ。 私が芸術を愛するのは、きっと私が弱いからだ。 誰かの気持ちを心に宿さなければ、きっと今まで生きてこられなかった。 実は私の好きなものとは、「人の思考の痕跡」なのだろうと思う。


2/21(火)

雅楽関連。 またかよって感じだけど。

とにかく楽節が掴めない。 西洋音楽みたいに、4小節とか8小節とかのブロックで作られていないものが多いのだけど、何らかの楽節に相当する単位は存在していないのだろうか。 有名な越天楽なんかはまだマシで、一応8小節単位で楽節らしきものが存在し、大雑把には3部構成の体を為している。 あの曲が雅楽の代表作となり得たのって、実は分かりやすい(曲構成が掴みやすい)からに他ならなかったりして。

とにかくフレーズが掴みにくくて仕方ない。 普段音楽を聴いている時には全く意識していなかったのだけど、結構私は楽節を軸に音楽の構成を理解していたようだ。

あれだけ長大なフレーズに、明確な楽節が存在していない楽曲を、奏者らはどうやって把握しているのだろうか。 アタマから丸覚えだったりするのだろうか。そんなわけないと思うんだけど。 因みに、基本的に雅楽に総譜ってヤツは存在していない。


一口に雅楽と言っても色々と細分化されていて、特に楽器編成がジャンルを分ける大きな特徴となっているのだが、この楽器編成(の解説)がまた諸書によりマチマチであったりする。 管絃の編成なんかは、ほぼどの資料も一致しているのだけど、ちょっとマイナーなもの、舞楽系とかになると急に情報が錯綜してしまっている。 こんなの、詳しい知人の一人でもいれば何てことないのだろうけど、単なる誤記なのか、そもそもそんなに厳密なものでないだけなのか、全く分からない。 特に舞楽系なんて作品自体が(無論映像資料も)少な過ぎて検証が難しい。


2/20(月)

集中力って何なのだろう。 私には集中力があるのだろうか。

自慢じゃないが、私は子供の頃から家で勉強なんてことをほとんどしたことがない。 せいぜい強制的に課された宿題を嫌々やったぐらいのもので、自主的な受験勉強などはほとんどやった記憶がない。 学校の勉強が嫌いだったからだ。 それほどにその作業が、私にとっては辛かったと言える。

一見、私のような人は集中力がないと見做され、逆に正反対の人間、例えば一日に十何時間とか机に齧りついていられるような人は集中力があると見做されがちだ。 して、これは本当か。

私はあながちそうとも言い切れないと思っている。 一日十時間以上も机に齧りついていられる人は、勉強にそこまで脳のリソースを割いていると思えないのである。 つまり集中していないからこそ長時間の作業に耐えられる。辛くないから。 本当に集中する(リソースを要する)作業なら、そんなに一日十何時間なんてやってられるんだろうか。 私は私以外になったことがないから分からないけど、私においては難しい。

私は、曲作りなんて言う、平素の生活の中でも最も集中を要求される作業を、30分すら連続して行えない。 大抵、5分10分やったらそれと同じくらい、あるいはその数倍の休憩時間が必要となる。 本当にそうでもしないと作業が継続できない。 考える時間を挟まねば、進めるべき作業が定まらないってのもあるが、要するにそれだけ脳に負担が掛かるってことだ。

もし、私で言うところの曲作りのような作業を、十何時間ぶっ通しでやれるなんて人がいるなら、その人は集中力なんてないのではないのかなあ。 集中状態をそんなに長く続けたら、きっと頭がおかしくなってしまうよ。


2/19(日)

先日のリハーサル時の写真。

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ここ一月ぐらい雅楽について調べていたのだけど、そろそろ作品化しようかと思っている。 神田優花のレパートリーとして。 神田優花は元々声楽科出身で、しかも邦楽を専攻していたので、そんなに相性も悪くないはずだ。

雅楽ならやはり管弦をやりたいところで、一応それ用のツールは一通り揃えられた。 しかし管弦と言っても、管弦そのものを書く気はなくて(私は基本的にインストを書かない)、できれば管弦と歌モノを折衷したものを書きたいと思っている。

雅楽の歌物と言えば、催馬楽なんてものがまさにあるわけだけど、やはり私としては管弦の編成で一曲書いておきたい。 それ書いた後でまだ私の精神に余熱があれば、催馬楽っぽいもの(そのものではない)でも書こうかな。


そう言えば催馬楽って、資料の類には「篳篥・竜笛・笙が各1本、楽筝・琵琶各数本、笏拍子1本」なんて書いてあるものが多いのだけど、実際に演奏している映像(動画)見る限り、筝も琵琶も1本であるものばかりなんだけど、あれってどうしてなんだろう。たまたまだろうか(実際には2〜3本のケースもある?)。 まあ見られる映像の数が少なくて、判断つかない面もあるんだけど。


あと雅楽について不安なのは、いまだに旋律線が十全に把握できないこと。ラインが大き過ぎる。 例えば催馬楽の「更衣」。 冒頭の独唱部の1フレーズ、「ころもがえ」の歌詞のド頭の「こ」を発音した後、最後の「え」を発音し終わるまで、ゆうに30秒はある。 こんなの「え」を聴き終わった時点で最初の歌詞が何だったのか忘れてしまうよ。 私の短期記憶のキャパシティを超えている。

しかし、私が把握するのにすら難儀しているフレーズを日常的に耳に入れていた人らが、もしバッハの平均律とかショパンのエチュードなんかの速いパッセージを聴いたら、それはそれで多分処理できないのだろう。 結局当時の人と現代人では、基本的に脳の情報処理速度が違い過ぎるように思える。 CPUで言うところのクロック数が違うって状態。 

メロディーラインが悠揚に過ぎるのみでなく、打楽器のリズムも大き過ぎて、楽節が体感できない。 リズムを刻んでいるとは言い難い。あれじゃせいぜい拍節の目印にぐらいにしかならないだろう。それもごく大まかな。 管弦の太鼓と鉦鼓のアクセントの位置が明らかにズレてたりするのも、あれも一種の味なのだろうか。分からん。


笙の一竹なんかも、旋律を奏でるのに明らかな無理がある。 ファのナチュラルが出せないんだもの。 篳篥などとのユニゾンのフレーズでも、絶対に出せない音があるから、そこだけ短二度の不協和音化してしまう。 これも雅楽の味と言えばそうなのだろうけど。

あと和音である合竹(あいたけ)の読みは訓なのに、一竹(いっちく)は音であるのは何故なんだ。 伝来当初の雅楽には合竹なんて奏法は無かったのだろか。


2/18(土)

今週のスタジオにて。

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一昨日の文章について、誤解があるかもしれないので補足。

『「絶対に売れる」だなんて、他人に何を期待しているんだ。』と述べたのだけど、私は同時に、「私が困った時にはきっと誰かが助けてくれる」と信じている。 そしてこの感覚は、矛盾なく私の精神に同居している。

だからして、「あなたの音楽は売れると思うか?」と問われても、当然答えは「Yes」。売れるような気がしている。 だが「絶対に売れるべきだ」なんて思わない。 私が困った時にも「誰かが助けてくれるべき」とは思わない。 この感覚の違いが分かるだろうか。

「誰かが私を助けるべきだ」と、この世界に対して要求する人は、同時に「誰も助けてくれないのではないか」と言う懸念を持っている。だから「助けやがれ」と思うわけですね。 その懸念は、その人が「誰を助けるつもりもない」からこそ生まれてしまう。 誰かを救うつもりがあるのなら、「きっと誰かが救ってくれる」と信じていられる筈なのです。 以上、何度も繰り返していることだけど。


2/17(金)

こういう日記(まさにこのページ)を残していると、「時間が経って考え方が変わったりしないの?」とか尋ねられることがある。 それに答えるなら、当然そういうことはある。 ただ、変わると言っても、私と言う固有の思考回路が別人のものにすり替えられたりするわけではないので、「進化する」ってのが実情に近い。 このページの文章についても、(単純な誤字・脱字・誤変換の類はさておき)基本的にはあまり修正なんかもしない。

人が何かを買うと、その対価としてのお金なんかを当然失うわけだが、その事実をもってして、「購入とは喪失である」とは誰も思わないだろう。 何かを手に入れる為に費やした何かがあっただけだ。

人が手に入れたり失ったりするのは「物質」だけである。「経験」は蓄積されるのみ。 私にとっての音楽とは、この蓄積であり、人生も然り。 私に失うものなど何も無い。 手にしたものも、捨てたものも、それら全てが歌になるから。 歌を生み出すこの私の精神に変わるから。

物質なんて、全ては感じるだけのものに過ぎないのだから、私の欲しいものは、究極的には「未来に対する希望」でしかない。 つまり「気分」だ。 私は未来に輝きを感じられればそれだけで十分であり、モノなんてのも、手に入れるかどうかの基準は、その気分の足しになるか否かだけだ。 ここで言う「輝き」の正体こそが、よく言われる「夢」って奴なんだろう。

だから「私の夢は医者になることです」なんて言う人がいたとしても、その人が医者業に光を感じていないのであれば、実はそれは夢じゃない。

せっかくこの世界に生まれてきたのだから、しかも限りある時間しか持たされていないのだから、みんな夢だけは持ち続けていて下さい。


2/16(木)

「厳しさ」とは何なのか。 「俺は厳しい人間だ。お前がちょっとでも弛んでいたら許さないぞ」なんて事を言う人がまたにいますわな。

言語力の無い人は、物事を腑分けするのが苦手で、特に概念語は混乱のもとになるらしい。 「プライド」とか言う言葉も間違って共有されているケースが多く、私などは実に気持ち悪い気分でそれを聞いている。 「私はプライドが高いから私を侮辱する人を許さない」みたいに言う人、お前全然プライドを持っていないじゃないか。

上の例で言う「厳しい人」は、「厳格さ」を他人にこそ要求しているわけで、全く甘えた奴である。 相手の気分や抱える事情を無視して、要求ばかりを突きつければ、当然そんなことをする人に対する周囲からの風当たりは強くなる。だってワガママな奴なんだから。 その風当たりを予測してのことか、自ら「俺は厳しい人間だ」と宣言することによって、ある種の予防線としているらしい。 卑怯な御仁である。

相手の事情を慮ることや、自分自身を省みることなく、ただただ指摘や要求を繰り返すことなんて実に簡単だ。 むしろ成熟した人間は、それを戒めるべく自分に言い聞かせている。


「絶対に売れて見せます」なんて言うミュージシャンも、私には分からない。

無論、「売れたい」と言う気持ちが理解できないわけではない。 だけど、成果は多くの他人に由来するものである。 自分以外の人間の、嗜好・動向なんて私の知ったこっちゃ無いよ。 「絶対に売れる」だなんて、他人に何を期待しているんだ。

私だって「売れたいか(自分の音楽に売れて欲しいか)」と問われれば、答えは「Yes」だよ。 が、同時に「でも、売れるかどうかは私が決めることじゃないから分からないし、究極的に私が求めるものはそこじゃない」と答えてしまうだろう。 私は「自分の生き方」は貫きたいが、「ワガママ」は極力慎みたい。

私は「私が納得できる自分」になるんだ。 「厳しさ」を求めるべきは、自分にだ。


2/15(水)

ここ数日間、まあいつものことなんだが、音作りに集中していた。 しかし私は頭が悪いのだろうか。作業の計画が狂うことが多過ぎる。

どう狂うかと言うと「多分5時間ぐらいで終わるだろう」とか思って始めた作業が、終わってみれば20時間以上掛かってたりとか、そういう感じ。 要するに、できそうな気がしてしまう。 そして、このちょっと狂った感覚こそが、日常の私を支えているらしい。

つまり私は物事に、ややもすると自己中心的なほどに「肯定的な観測」を持ってしまう(それも全方位的に)。 だから勝手に気分よく毎日を過ごさせてもらっているわけだが、私は気分しか必要ないのでそれで結構だ。 しかしそのせいで、殺人的な作業スケジュールを消化せざるを得なかったりもするわけだけど。


2/14(火)

平調越天楽は黒田節の原曲らしいが、最初どう聴いてもそう聞こえなかった(今でもそうなんだけど)。

管絃版の越天楽をバックに黒田節を歌ったものを聞かせてもらって、やっと(原曲関係にあることが)理解できはしたが、どうも日本人は、音楽の解釈において旋律線と言うものに重きを置かない民族だったらしい。 これもやはり言語と関係あるんだろうな。


話は変わる。 アコーディオンって、一応現物を見たことくらいあるような気がするのだが(記憶が定かでない)、どんなものか全然分かってなかった。 あれ、左手って遊んでるわけじゃなかったのね。

アコーディオンは左手用にボタンが配置されているのだが、そのボタン、ワンタッチでコード(三和音)を発音できるようになっているのだ(単音用のボタンもある)。 和音はメジャー・マイナー以外にディミニッシュまである。 単音とのコンビネーションで、もっと複雑な和音も出せる。 すげえ。

ボタンは無論のこと、鍵盤にもきっとヴェロシティとかなくて、音の強弱はほとんどつけようがないのだと思われるが、あの鞴(蛇腹の部分)の動きは音に影響してくるだろう。 だから打ち込みなら、トレモロとかエクスプレッションで似たような効果を出せば近くなろうか。

最近、アコーディオンとかバグパイプだとか、あの手の発音原理が近い楽器について色々調べていた。 あれらをいっぺんに使うような曲を考えていたのだ。 もうオケはできかかっているけどね。


2/12(日)

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神田優花、新曲の歌入れでした。 早速のその次の曲の制作に入ってますけど。 下は歌入れの様子。

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音楽やっている人の中には、「曲を作るのが一番面倒臭い」とか思っている人が(割と)いるみたいだ。 そういうことを(平然と)公言する人さえいるくらいで、さして憚るべきこととも見做されていない風である。

確かに、ある行動の目的が、万人皆同じであらねばならない、なんてことは無い。 受験勉強をやっている人が、みな学問そのものに興味があるわけでもなし。 将来の栄達だとか単なるステータスの為に学歴を求めたって、それは決して悪ではない。 ただそういう人らは、学問そのものに関心を持ち、研究者になってしまうような人たちとは別種の生き物である。

私はどうやら後者(学者肌)であるらしい。 つまり音楽(楽曲)制作そのものが好きである。 それをもってして立身の梃子にしようなどとは微塵も思わない。 これは私にその(学者としての)適性があるか否かという問題はさておいての話で、単なる属性の話である。

私の中にある確信は、この作業を続けて行ける(その日々を楽しいと思える)ことについてだけなんだ。 結果(成果)についての確信なんて、実のところ何一つ無い。


2/11(土)

今週のスタジオにて。

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「星の王子ニューヨークへ行く」って映画がある。 私はDVDで見た。

「アフリカの何やらいう国の王子が、その身分を隠したままアメリカで生活し、恋人を作る」と言うのがあらかたのストーリーであるが、話の肝は、王子が「身分ではなく自分自身を見つめてくれる人を探す」ところにある。

アメリカってそれなりに良い国なのだろう。 アメリカ人にも色々いるだろうし、実際には俗物もいくらでもいるだろうが、実態はさておき、「何が美徳とされているか」があの映画から垣間見える。 多くの日本人には分からないだろう。


2/10(金)

パイプオルガンの音を使いたいのだけど、あれは本当に場所を選ぶ音色だ。 大袈裟すぎて、TPOを間違えると寒いことこの上ない。 POPSのアレンジであまり使われないのも、きっとそのせいなんだろうね。 私も過去に使った記憶があんまりなくて、多分単体ではほとんど使用していないのではなかろうか。 リードオルガン系の音にレイヤーしたりとか、そういう形でなら使ったかもしれないけど(リードオルガンの音はよく使っている)。

あれは構造的に、弦楽器(ギターとか)みたいにサンプルプレイバックで再現できないような類の音ではない。 本物は実に大掛かりな仕組みなんだけど、基本的には鍵盤楽器なので、各音をサンプリングすればいいだけで、再現に技術的な障壁なんてない(再現に難のある特殊なアーティキュレーションなど無い)。 音色こそが使いにくい(POPSのアレンジに向かない)ってことなんだろう。

同種のものとして、クワイヤ系とかもある。 あれも非常に使いにくい。 たまに(ビジュアル系のバンドとか)使っているミュージシャン見かけるけど、正直微妙な仕上がりであることが多い。 あの人たちがどういうものを作りたいかは痛いほどに分かるんだけど、上手く実現できていないように思える。 あれやっぱり難しいんだわ。 よっぽど上手に使わないと別の印象が大きくなりすぎる。 少なくとも現時点で、あれを上手に使っている例を見ない。 だから私においても、今後もあんまり使わないように思います。 良い例があったら教えて下さい。


2/9(木)

楽理なんてものを理解しようと努めている時に、一番の障害となるのは、読んでいる資料にある「誤植(誤字・脱字)」である。 理解したい概念が難解であればあるほど困る。

難しいことを説明されている時に、相手に言い間違いがあったりしたら誰だって困るはずだ。 言い間違いならその場で問い質すこともできなくもなかろうが、本などではそうも行かない。 別の資料に当たったりして、自分なりの(正解の)見当をつけるくらいしかない。

論理的に考えればきっと誤字なんだろうと思われるものでも、出版社に問い合わせたりするわけにも行かず、何となく消化不良感だけが残ってしまう。 教程書の類を上梓する人らは、誤字脱字には最大限の注意を払うべきだと思う。 エッセイ集とかそんなのと一緒に捉えてもらっては困る。


2/8(水)

ちょっと前の話なんだけど、あるタレントが作家に転向したそうな。 で、そのタレント、出版社の何やら言う賞の受賞者と言う触れ込みで作家デビューしたらしい。 誰のアイディアか知らないが、まあプロモーションの手法としては別にそんなに珍しくもない。 自社の商品売るためにお手盛りで受賞作に仕上げたってことなんだろう。

そこにまつわるこぼれ話として仄聞したのは「当初出版社側は受賞作の執筆者がその某タレントだとは(エントリー時点では)知らず、純粋に作品の内容のみで判断した結果賞を与えるに至った」って話。 ウソつくな。

音楽業界でも、似たようなのがちょっと前にあった。 某有名ミュージシャンの娘さんが、作詞家みたいなことをやってるらしいのだが、その人の作詞家デビューの逸話も上とよく似ていて、身分(有名ミュージシャンの娘であること)を伏せてレコード会社に送った詩に、制作部が色めき立ち、天才作詞家などと絶賛され、デビューに至ったと言う。

こういう与太話を捻り出している人物は、どういうつもりなのか分からないけど、この手の話がセールスなどに繋がると思っているのなら、いくらなんでも読者・リスナーを舐めすぎていやしないか。 作品の質よりも、その背景となる権威でもって相手に商品を売りつけようとしているのだから。 もうこういうの止めた方が良いよ。 マナーでもあるけど、それ以前に戦術としても上策でない。

CD不況とか出版不況とか言われ出して久しいが、この手の話を聞く度にあらためて「斜陽な業界だというのは間違いないようだ」と思わされる。 この種の情報が出版社やレコードメーカーなどと言うコンテンツの担い手そのものから出ているとしたら、もうそこには碌な人物が残っていないと言わざるを得ない。


2/7(火)

バグパイプについて。 ある曲の間奏にバグパイプ音を入れたくて、俄かにバグパイプについて調べていた。 バグパイプなんて触ったことすらなかったのだけど、どうもこれまたクセのある楽器なようで。

まず広義の吹奏楽器ではあるのだろうけど、直接呼気でもって発音させるような仕組みではないらしい。 bag+pipeでバグパイプと言うように、空気を入れるbagがあるらしくて、そこでのワンクッションを経て発音に至る。

メロディーを奏でるチャンター管と常に一定の音を出し続けるドローン管がいくつかある(テナー2管・バス1管あたりが標準タイプらしい)。 で、そのチャンター管、音域が1オクターブ強しかなく、それも半音単位で発音できるわけでなく、スケールしか演奏できない。 それもBbミクソリディアン固定だったりするそうな。 ブルース・ハープなど、スケール固定の楽器って存在するわけだけど、バグパイプはブルース・ハープのように各スケール版を一通り取り揃えているわけでもなさそうで、一体何に使えっつうんだよ。 あまりの使えなさに笑ってしまった。

しかし、バグパイプってどうも独奏を前提としているらしくて、他の楽器とのアンサンブルを想定していないようだ。 それもその筈と言うか、そもそも楽器っつうより一種の特殊兵器みたいなものらしい。 異常に音がデカいのも、戦術上の位置付けが、日本で言うところの陣貝(法螺貝)に近いからのようだ。


2/6(月)

サブスクリプション型の配信(定額制の音楽コンテンツ落とし放題のサービス)って、ビジネスとして成立しているかまだ怪しくて(と言うかしてないだろう)、ウチなんかはとりあえず参入はしているものの、全然収入としては当て込めない。 広告にでもなればまあ良いかって感じに捉えていた。

そのサブスクリプションで、ここ最近、ウチの音が思いの外落とされていて、特に海外では(国内のサービスは確か全滅に近かった筈)月に1万件近いダウンロード数だったりする。 なんかビックリだ。

例えばiTunesでは、「無料ダウンロード楽曲」のコーナーがあって毎週更新されているのだけど、掲載を希望するアーティストが多過ぎて簡単にはあそこにのっけてもらえないそうな(ウチもはねられたことがある)。倍率凄いんだって。 でも、いざあそこで紹介されて曲が何万件と落とされようが、基本的に無料なのだから、一銭の実入りにもならない。 それでもやりたい人が後を絶たないってのは、それだけ宣伝効果が高いってことなのだろう。 何が言いたいかというと、収益などさておき、作品が聴かれていることにはそれなりの意味があるってこと。

実感しにくい人も多いだろうけど、音楽って本当に売れないのだ。 そしてそれは「値段が高いから」なんてのが理由では決してない。 「人々が音楽に興味をもっていない」のである。 ウチも、以前ニフティさんがやってたMOOCSってサイトで無料ダウンロード・キャンペーンやったことがあるのだけど、無料であってもそんなに大した数落とされていなかった。

そりゃそうだよね。 アマチュアの作品投稿サイトだとか、「タダで落とせる音楽コンテンツ」なんていくらでもあるわけだけど、そんなところがあるからとて、私だって落としまくったりしないもの。 金が掛かろうが掛かるまいが、落とすものは「聴きたい曲」だけだ。 聴かないCDなんてタダでも要らないよ。

二束三文だろうがタダだろうが、魅力のカケラも無いコンテンツに人は寄り付かない。 値段なんていくら安くても、人が聴きたいと思ってくれる作品であるならば、そこには濃厚に可能性が眠っている。 私はそう思う。


2/5(日)

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神田優花、新曲の最終リハでした。 今度の曲はシングルのタイトル曲くらいにはなるな。


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上は影山リサ。



職務に対する誠実さとは何か。 この間、寿司屋に行った時の話である。 割と込んでいる時間帯だったらしく、ごった返す客の話し声とBGMで、店内は騒々しかった。

私はカウンター越しの店員に注文を入れようと、片手を挙げ「すみません」を連呼したのだが、その店員が声に反応を示さない。 私は大音声とは言わないが、相手の存在を無視したほどの小声ではない。 いくら店内がうるさかろうが、私の声が僅か1メートル先の人間に聞き取れない筈はない。

結論から言うと、その店員はその仕事に真剣に取り組んでいない。 彼はその場所でその仕事に就いている最中である。 極めて高い蓋然性で客からのオーダーが入ってくる状況に置かれながら、その客の(注文したいと言う)意志を汲み取れない、と言うのは怠慢以外の何物でもない。 意識をそこに集中してさえいれば、私の声にも、片手を挙げる仕草にも、当然気付けた筈である。

人が目に映すものや聴き取るもの、つまり感じるものとは「その人そのもの」である。 当然耳に入った筈の私の声や、視界に入ったであろう挙手を、その店員はスルーさせてしまった。 彼の本当に欲しい物が、その瞬間に存在していなかった証拠である。 彼は一流の、日本一の板前になってやろうなどと努々思っていない人なのだろう。

私は、私の本当に欲しい物がこの視界に飛び込んできた時、それが生涯のうちの一刹那であったとしても、それを決して取り逃がさないよ。


2/4(土)

今週のスタジオで撮った写真。

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ここ最近、雅楽について調べているのだが(しつこいな)、考えてもみれば、もし結構なレベルまで理解できて、曲を作れたとしても使いどころなんて果たしてあるんだろうか。

影山リサの「My Old Jewelry Box」って曲の冒頭なんかに雅楽っぽいフレーズを挟んだりしてるんだけど、あれば雅楽器の音を入れているだけで楽理もヘッタクレも無い「なんちゃって雅楽」だ(雅楽の様式に従ってないと言うだけで、音楽としていい加減なものではないが)。 私は当時よりも掘り下げた形で雅楽について考えている。

しかし上の曲、あれは和声音楽的な進行がない(トーナリティーは存在している)、旋法音楽的な楽曲で、おそらく雅楽のようなものとも親和の度合いがわりかし高い。 だから、今試行錯誤中の雅楽作品も、あそこで使っておくべきだったのだ。 ちくしょう。マズったが今更どうしようもない。

今のところ、全く新しい曲を一から作って、そこに無理なく織り込んだりできれば、なんて考えているんだけど。


2/3(金)

続・雅楽。 くどいようだが、私みたいな人がこの世界のどこかにいて、この文章を参考にするかもしれないと思い、思索のログを残している。

雅楽には呂だとか律だとか言う旋法(スケール)があるのだが、その構成音が、諸書によりマチマチだったりするから当初理解に苦しんだ(特に呂旋)。 西洋音楽に例えるなら、書物によって「ハーモニック・マイナー」の構成音の解釈が割れている、みたいな状況だ。

これはだんだん分かってきた。 大陸から輸入された当初の呂の音階と、その後日本に定着した(日本化された)呂が微妙に違うのだ。 著者によってどの呂を指しているかが微妙に違っているらしい。 また、律と言うのも呂が変化して出来上がったものであるようだ。 つまり、「呂(原形)→呂(日本版)→律」と言う歴史的変遷・進化を辿っている。

呂を長音階、律を短音階としているものもあったが、その二者は並立・共存していたわけではなく、実際には呂旋はほとんど実用されていなかったそうだ。 つまり上で言うように、律は呂の進化型と言うのが実態に近いと思われる。

あと、(呂・律を)七音階としているものと五音階としているものとがあるのだが、これはおそらく単に、作例や実際の演奏の現場などでも、明確に区別されていないだけだろう。 片方は七音階のスケールの主要五音を抜粋したものであったりとか。 しかし、こんなの丁寧に説明してくれないと混乱してしまうよ。

しかし雅楽の調については、いまだによく分からない面が多い。 例えば「渡し」というのは移調のことなのだが、西洋音楽のように「単にトランスポーズするだけ」と言った明快なものではないと言う。 個々の調子特有の旋律線だとか終止の型などの「様式」を踏襲することによって、その調性を実現するらしい。

楽筝・琵琶などは、調ごとにチューニングが違うので、別の調(のチューニング)を同じ運指で弾けば「渡し」にはなるが、「トランスポーズ」にはならない。あと、主旋律を担う篳篥の音域が楽器としては狭すぎる(1オクターブ強)ので、単純移調に限界がある。 この辺りが、西洋音楽で言うところの移調と渡しとの違いとなっているのだろうか。

色々と調べていて段々分かってきたのだが、雅楽(曲)はやはり創意を反映する対象としては不備がありすぎる。 つまりartの道具にはなりにくい。 西洋音楽との優劣などを安易に論じたくはないが、決定的に用途が違うものなのだと思われる。


2/2(木)

雅楽器の音源が存在してないって話を以前にしたのだけど、その続き。

雅楽器の一部は、エスニック系の音源集みたいなヤツに含まれていたりはするのだけど、管絃を構成する全楽器が揃ってたりするわけではないので、らしき曲は作れても、要は「なんちゃって雅楽」にしかならない。

しかし、そのエスニックとかワールドミュージックとか言うキーワードで括られた際、基本的に日本の音楽(雅楽とか)って、中国のブランチ扱いなんだよね。 中国って国土がデカいとか人口が多いとか、あるいは歴史が長いとか言う事実から派生したイメージで随分得している気がするな。 国際社会での発言権とかって要は存在感だからな。

こと音楽に関してなら、中国なんて全っ然大した事ない。 正確に言うなら、大した事があったのか無かったのか、文化として現代に継承されていないので皆目分からない。 確かに日本の雅楽は元はと言えば大陸から移入されたものだが、当然千年以上も時間が経ってるので、独自の発展を遂げているし、ルーツである大陸の方では、その様式・体系がほとんど途絶えてしまっている。

そもそも中国って、王朝が交代する度に人口が激減するくらいに文化その他の破壊・散逸が激しい。 当然のように王朝ごとに主体たる民族も違うし、歴史的な連続性は薄い。 だからして雅楽のようなもの一つとっても、キチンと保存・継承しているの日本こそがその本家と言って良いのである。 楽器と言う物質が現存しているのと、音楽様式と言う体系が継承されているのとでは全然意味が違うんだ。

雅楽と言うのは、歴とした音楽の様式である。 単なる(考古学資料としての)楽器群なんかじゃない。 エスニック臭い楽器なんかを使ってPOPSをコピーしているような音楽がよくあるけど、そういう薄っぺらいものと雅楽は本質的に違う。 薄っぺらいと言うのは罵詈ではない。単にポピュラー音楽(西洋音楽がベースにある)を別系統の楽器群で翻訳したようなものって、その基礎に体系が存在していないのだから、事実薄っぺらいのだ。


私は雅楽について(独学で)調べていて、例えば「調子」一つとっても、西洋音楽で言うところのkeyやtonalityとは明らかに違う、別種の概念であることにちょっと感動した。 これでこそ理解のし甲斐があるってもんだ。


2/1(水)

音響学で言うところの「カクテルパーティー効果」(知らないなら調べられたし)は、情報の選別が人間の脳内で行われていると言う。まあそうだろう。

インスピレーションに対する解釈なんてものは、当然ながら人によりけりってことなんだ。 個別の脳(つまり言語)が情報を逐一処理しているのだから。 情報(源)そのものは同じでも、そこから結果形成される「印象」は大いに人による。

子供の頃の私は、音楽作品の音(音響)を聴いていなかった。 だから「このテープは音が悪い」とか言われても、全くピンと来なかった。 私という固有の言語機能が、音楽を音響として捉えなかったのだろう。 私に理数系の適性が無いのも根は同じだと思われる。 私は音楽に、作者の心の震えこそを感じていた。 今もそうだけど。

同じ音楽を聴かせても、人によって受け止め方は違うのだから、同じ世界に生きても、人によって当然その把握は違う。

先日、ある女性が「私の彼氏は音楽を聴かせても音しか聴いていない」とか言う話をしていた。 その彼氏は理科系だそうな。さもありなん。 言語以外の機能を大幅に援用することによって、音楽と言う情報を処理しているのだろう。 だから歌詞などと言うテキスト情報に思いが至らない。 その御仁、芸術の本質は体感し難いかもしれないが、音響であれば、私などの数万倍の精度で情報を処理できるのかもしれず、まことに人類には個体差が大きいと思わされる。

「カクテルパーティー効果」は何も聴覚に限った話ではなく、人間のありとあらゆる感覚は、それを解析する脳の性能に因っている。 溢れ返る情報の「何を取捨選択したか」が、つまりはその人なんだろう。

あなたに聞こえた何かや、あなたの目に映った何か。 あなたの選んだ友人や恋人、選んだ生き方。 あなたの心に響いている、あなたの好きな歌。 これらこそがあなたなんだ。

夜空の星や野に咲く花だとか、季節の移り変わりに美を感じるのは、その人の固有の感性である。 野良猫の言語機能は決してそれを感じない。 「猫に小判」とはよく言ったもので、心の貧しい人が如何程の大金を手にしたところで、それを感じる機能が育っていないのであれば、金の本質など体感できやしない。

私は、貧しい心のまま俄かに大金なぞ手に入れるよりも、今この目の前にある端金の本質こそを知りたい。 我々は結局時間しか持っていないのである。 金も夢も愛も、つまりは感じることしかできないのだから、精一杯の鮮やかさでこの目に焼き付けたい。


1/31(火)

代々木アニメーション学院さんの関東近隣校で、先日(今月20日締切りで)オーディション告知を出していたんだけど、引き続いて地方校でも募集をかける事になりました。 追加募集は2月末日締切りとなります。



音ネタ(サンプリングCD・ループ集等)の探し方。 私は基本的にループ使わないもので、あんまりその辺り耳聡くもないわけですけど。 ちょっとここ最近、興味が出てきたもので、ヒマを見つけてはネタを探してます。

そこで気が付いたんだけど、私はこういうことに関しても、変わり者らしい。 コンテンポラリーなサウンドを満載した、有名デベロッパー謹製の音ネタみたいなものに、全く食指が動かない。 ああいう音なんかより、フリーのループソフトとかにオマケで付いてるようなループ集の方がよっぽど使いやすい。 なんか多くの人と作業の目的が違うんだろうな。

有名デベロッパーがこさえたような音も良いんだろうけど、ループ集なんてのは、そのループソフトそのものを作ってるメーカー純正のものが良いような気がする。 あくまでループ貼り合わせてトラック作る作業を「オモチャ遊び」だと捉えてくれているような気がするから(遊び心って全然悪いことじゃない)。

私は、どんなに今風でハッタリの効いたトラックよりも、自分の創意が反映された音を求めている。 だから究極的にはループじゃダメって話に行き着くんだけど。 まあとりあえず飽きるまで弄ってみます。


1/30(月)

前から気になってはいたのだが、雅楽についてあらためて調べていた。

当たり前だけど、いっぱしの体系なので理解するのには時間がかかる。 今とりあえず資料(主に書籍)を読み漁っているのだけど、通常私は調べものをする時はとりあえずインターネットを使う。 今回も一先ずその手を使ってはみたのだけど、ネット上の情報量の少なさに閉口してしまった。 世の中に雅楽に詳しい人はいっぱいいるのだろうけど、インターネットと言う媒体との親和性が低いと見える。 とにかくネットでの情報収集については、早々に音を上げてしまった。

良書に巡り合ったせいか、いわゆる管絃に使われる楽器の奏法だとかの特性については粗方理解できたような気がするのだが、調子(平調だとかの)について楽理的な面での理解に苦しんでいる。 説明が十分為されていないのか私のアタマが悪いのか、あるいは楽理なんてものがそもそも存在していないのか、よく分からないけど。

調とは言うが、西洋音楽的な調性っつうよりも、要は旋法なんだよね? 主音を同じくする別の調子があったりするのは何なのだろう。教会旋法で言うところのヒポドリアとかそんなのに近いのだろうか。全然分からない。

雅楽の調は旋法と言いつつも、ではスケールに収斂されるのかと言うとそれも違うみたいで、現に歴史的には存在した呂や律だとかの音階も、実質的には(演奏の現場において)絶えてしまっていると言う。 だったら調って何なのだ。 とりあえず作品作る為の楽理を知りたいのに、そこについて詳しく言及した書物が見当たらない。 西洋音楽で言うところの、和声法・作曲法に当たる内容の書物は無いのだろうか。 あ、和声音楽ではないから和声法は無いか。


しかし雅楽って、その歴史のわりには作例が実に少ない。 新作が次々に生まれ続けるようなジャンルでないから当然なんだけど(武満徹とかが新曲作ったりしてたみたいだけど、あくまで例外的なケースだろう)。 その気になれば、現存する雅楽作品を一つ残らず聴き尽くすことだってできなくもなさそうだ。 作品が少なすぎて、色々なことが研究者にすらよく見えてこないみたいだし。

そういえばDTMレベルで雅楽作ってる人っていないんだろうか。 ビックリするぐらい雅楽器の音源って存在していないのよ。 音源なんてサンプリングすれば良いだけだから、技術的障壁なんてあるわけない。商品化できる程度の需要が存在していないのだろう。 私は管絃とか興味あるけど、生の奏者集めたりなんて、ちょっとそこまではできないわな。

質はいざ知らず、PCM系のトーンジェネレーターのプリセットとかに、ちょっとだけ雅楽器の音色入ってたりするんだけど、メーカーはサンプリング時のチューニングとかどうしたんだろう。 手元の音源じっくり聴いたりチューナー使って調べれば分かる筈だけど、私はそこまでやってない。 因みに雅楽ってA=430hzの世界なのです。 しかもその音階も、西洋音階のピッチを落としただけってのとも違ってて、つまり西洋音楽的な音階・調律に翻訳できない。


とにかく一通り理解できたら、何らかの形で作品化したいところだけど、無論管絃の新作なんて書くつもりは毛頭ない。 私は基本的に歌にしか興味がないのです。 管弦楽(クラシックのね)だのジャズだのを自分なりに消化しても、行き着く先は常に歌物。それにしか興味がないから。 しかし管絃(雅楽)と歌物のPOPSって相性悪そうだ。


1/29(日)

先日のリハーサル風景。

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ある店でたのんだ「牛スジの煮込み」をほったらかして本を読んでたら、冷えて脂が膜を張ってしまっていた。 あたかも湖に張った氷かのように一面に。 私は普段料理をしないが、そういえば昔煮込み系の料理とかやってた時も、脂の量凄かったわ。 思い出した。

しかし牛って草食動物なんだよな。 草だけ食べてあそこまで丸々と太り脂肪を蓄えられるのなら、女の人などがダイエット目的で野菜中心の食生活にすることなんかもどこまで効果あるんだろうか、とか考えてしまった。 まあ肉中心よりはマシでしょうが。


1/28(土)

月曜の夜に降った雪が、まだところどころに残っている。 寒いってことなんだろう。 下は今週のスタジオで撮った写真。

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1/27(金)

人(音楽リスナー)は、どれだけ歌詞を聴いているのだろうか。 ふと思った。

昨今、CDは売れなくなっている。 配信が主流になりつつあるのだろうけど、あれって基本的に歌詞が付かない。 別にそれが致命的な商品の欠陥とされている気配もしないところを見るにつけ、一般消費者にとって、歌詞(文字情報)は必須でないのだろう。

紙媒体上の歌詞(テキスト)が必須でないって事は、多くのリスナーはオーディオデータ(音そのもの)と言うアナログ情報から歌詞を解析していることになるのだが、それもどこまでだろうか。 本当は音(振動)しか聴いてやしないのではないか。 つまり言語を理解していないのでは。

言葉が届かない相手に、音のギミックを凝らした作品は効果的だろう。 説得できない相手には暴力が有効であるのと同じである。 こんなことだからこの社会は、人を精神でなく物質だと捉えることしかできないんじゃないのだろうか。

しかし、歌詞を聴けない人に「歌詞を聴け!」と言っても仕方ない。 聴く事ができないものはできないから。


1/26(木)

調性って言葉の定義は実に曖昧だ。 調性の対義語が無調性なら、モード系のジャズや一部のテクノは無調性音楽になってしまう。 違うとはそれはそれで言い切れないが、シェーンベルクの12音音楽などとそれらは明らかに違う。

モード(旋法)音楽や一部のテクノには機能和声的な進行がないので、コード・トーナリティーを持っているとは言えないのだろうけど、広い意味でのトーナリティー(トニックに帰結しようとする力学)は大抵持っている。

この「調性」に限らず、音楽関係の用語って実に定義が曖昧だ。つうか、合理的でない。 音程の数え方に自然数を採用していたり、長・短・増・減・完全など、音程を指す用語が不統一であったり。 あんまり親切でないのよ。どうしてなんだろうか。 これが余計に(学問としての)音楽を難解にしているし、とっつき難くしているきらいがあるような気がするのだが。


1/25(水)

パーカッションについて。

ある曲のリズムを(ドラムキットでなく)パーカションで作ろうと思ったのだけど、パーカッショニストって、どんなセットを使っているのだろうか。 無論人それぞれってのは分かっている。 いわゆるドラムスだってドラマーによって使うキットは違うんだけど、一般に、スネアとバスと、あとタムがフロアタムと合わせて3つくらいあって、それにシンバル系、クラッシュ・ライド・ハイハットがあるくらいの編成が標準的だ。 私が知りたいのは一般的なパーカッションキットだ。

とりあえずコンガ・ボンゴあたりはポピュラーなんだろうか。 私はとりあえず、その二つにティンバレスを加えたものでセットを組んでみたがどうなんだろう。

私自身はドラマーではないが、ドラムの構造ぐらいある程度知っておかないと、ドラムのフレーズなんて十分に作れない。 管弦楽とかだって、各楽器の構造・奏法(運動性)をある程度理解しておかねば書けない。 パーカッションだってまあ同じです。 とりあえずフレーズ作ってはみたけど、素人臭い(理解の浅い)ものになってやしないだろうかね。 まあなってるだろうな。精進のしどころですな。


1/24(火)

ループ音楽(こんな名称で良いのか?)について。 いわゆる「打ち込み」の定義はよく知らないが、生演奏の対義語であるのなら、それ以外の音楽は全て広義の打ち込みなんだろう。

ループってのは、一々の音(ノートデータ)を入力したようなものでなく、数小節だとかの(録音済みの)オーディオデータのことで、それを貼り合わせて作品らしきものに仕上げたものを、ここではループ音楽と呼んでいる。 それを作るための専用のツールも市販されている。 そこそこ売れているような気配さえある。

一つ一つのループ(市販品)はプロが作っているものなので、当然相応のクオリティで、それらを貼り合わせているのだから、できる作品の仕上がりも一見はプロっぽかったりもする。 が、発展性の無さというか、如何にも創意が反映されていないその作品のたたずまいが、どうしても素人臭さを漂わせてしまう。 ハッキリ言って、聴けばそれと分かる。

単にありもののデータを貼り合わせるだけでなく、がんばって作り込むことによって、そこそこのレベルにまで持っていけなくもないのだが、無論、やはりそれ(ループソフト)だけで十全に音楽制作はできない(少なくとも私は)。 まああしかし、補助ツールとしてなら使えなくもないし、一種の遊び道具としてなら面白くなくもない。 私は使ってます。 あまつさえそれで作ったトラックの商品化まで検討している次第である。

ただ、神田優花の諸作品(のトラック)をループソフトで作ったりするかと言うと、それは無い。 曲想を作品化する為のツールではないのだから。 良い悪いの問題でなく、用途が違うものなのでこれは仕方ない。


1/23(月)

先日告知してました代々木アニメーション学院生限定のオーディション、20日(金)付で締め切りとなりました。 ご応募ありがとうございます。 合否の通知は、おそらく来月中には出せると思いますので、今しばらくお待ち下さい。


1/22(日)

先日のリハーサル風景。

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DVDとか見てると、冒頭に注意書きというか、警告文みたいなのが入っていることが多いのだけど、読ませなきゃいかんという事情は分かるが、仕様上そのチャプターを飛ばせなくする(早送りすらできなくする)と言うのは如何なものか。 あれは軽い暴力だよな。

言うまでもない事だが、人生とは時間である。 人間は詰まるところ時間しか持っていないと言うのに、その時間を理由はどうあれ強制的に奪うと言うのはあまりに無神経だ。 私は時間を無駄に使わされることが大嫌いである。 皆もそうじゃない?


1/21(土)

寒いっすね。 今週のスタジオにて。

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ちょっと前に、HIPHOP系のトラックをいくつか作ってたのだけど、バッキングだけで肝心のラップを乗せてなかった。 理由は「ラッパーがいない」からだ。 で最近、ラップのアカペラトラックでも貼り付けて完成させてやろうと思ったのだけど、そのアカペラトラックをどう(入手)すべきか考え込んでいた。

海外には、フリーのアカペラトラックが落とせるサイトいくつもある。 サイト自体は「ネタは勝手に使ってくれ」的なスタンスだったりするのだが、超有名人のトラックなんかがゴロゴロ転がっていたりして、権利関係がクリアされているのかも、こっちではよく分からない(と言うか、きっとクリアされてなかろう)。

ちょっと調べてみたところ、あの手のファイルは、DJ連中などが作るMixの類によく使われていて、権利ホルダーの側もプロモーションになるからと半ばそれを黙認している状態らしい。 しかしそれらの行為(リミックス等)が著作権に抵触するのは明白で、厳密には(と言うか当然)法的にもアウトなのだと言う。 そりゃそうだろうな。

しかしその種の権利関係の怪しい音源は、巷に溢れかえっていて、現にiTunesだとかAmazonだとかいう、そこそこメジャーな販路でも普通に売られていたりする(おそらく何のお咎めも無く)。

多分何らかの問題に発展した際にも、ファイルをバラ撒いているサイトの運営者などが槍玉に上げられることはあっても、一々のファイルをダウンロードした個人は善意の第三者になろうかとは思われる。 まあしかし、アメリカ合衆国に、日本の民法で言うところの「善意の第三者」なんてものが存在するのか知らないけどな(類似のものすら無ければ、社会秩序が維持できないだろうから、きっとある筈)。

いくら皆もやっていて、権利者も黙認状態だからと言って、一応は事業者である我々がその手の行為を平然とやるわけにも行かず、今とりあえずは大人しくロイヤルティ・フリーの(商品化に差し支えない)音源を探ってます。 今後、ウチの作品にワン・ポイント的に使う事とかあるかもです。


1/20(金)

音感って伸びないようだ。 私はそれなりに長いこと音に携わってきているが、音感が鋭敏になったという実感は絶無である。 成長に伴って脳の整理力というか処理能が上がった感はあるが、それは音感とは別だろう。

録音物にあるフレーズなんかを耳でトレースする際、短期記憶とその情報処理によって一々作業を遂行しているわけだが、絶対的な音(周波数)を記憶(長期間保持)することはできない(物凄く大雑把にならできなくもないが)。 理由はきっと、音の高低が言語化できないからだろう。

「絶対音感は幼児期からの教育によってからしか培えない」とか言われる。 幼少期に絶対音感涵養の為のカリキュラムを施されていない私に実証能力は無いが、それって本当かしら。 私においては、なんとなくだけど、子供の頃にそういう教育を受けていたとしても、結果的に備わる音感に劇的な違いは出なかったのではないかと思う。 これは私の固有の性質に由来しているのだろうから。


1/19(木)

新しい曲の構想についてのメモ。 独り言みたいなもんです。

今作ろうとしているのは、メジャーコードだけで構成される短調の曲。 短調にだってメジャーコードは当然使われるし、また調性って、本来意味など持たない音(周波数)に(多分に解釈によって)機能を与えることによって成立する力学である。 だから必ずしもトニックに帰結させる必要なども無く、メジャーコードだけでも短調は作れると踏んだ。

古典的な機能和声においても、短調のドミナントは機能増強の為にメジャーコード(7th)化されるし、いわゆるドリアとかピカルディとかの変位和音も、要は非ダイアトニックのメジャーコードである。 潜在的な短調のトーナリティーさえ維持できれば、メジャーコードだけによる短調ってアリなはず。

つうか、既にそんな曲なんて無意識のうちにいくらでも作ってるかもしれないのだが、もう少し意識を注いだ上で作ってみたいわけです。 まあしかし、調性なんて多分に解釈に過ぎないから、作者が言い張れば、それがその曲の調に違いないわけだけど。


他に今作ろうとしているのは、12音技法に則った曲。

私は、如何なる様式であってもとりあえず音楽であれば知っておきたい、と思う質である。 更には、その様式に則った作品を作ってみたいとも思う質でもある(上がったその作品を発表するかどうかはさておき)。 しかし、12音技法(に則した曲)ってヤツだけは今まで作ってみる気が起きなかった。

その12音技法、今試しに作ろうとしているんだけど、私はどうも文系脳で。シェーンベルクとか、あの手の前衛音楽家とかって、絶対理系脳だ。

してその12音音楽、調性を破壊した音楽なのだから、調性を感じさせてはマズいと言う理屈は解るが、調性感を無理矢理にでも避けようとするが故のひずみが生じてしまうと言うか、調性からの解放を謳いつつも、調性にある意味でがんじがらめに束縛されてしまう。

無調性の曲を作ると言うのは、マークシート方式のテストで0点取らねばならないと言う事なのだ。調性の概念を完璧に理解してなきゃならない(ちょっと気を抜くと点数を取ってしまう)。 その理解の程がお寒いと言うか、要するに「調性が気になってしょうがないんじゃん」と言う感想が生まれてしまう。 つまり自由でない。

まあ使いどころがあるかどうかはさておき、とりあえず一曲作ってはみると思う。


しかしここ最近、私の曲を作るペースに、それを商品化するペースが全然追いついてなくて、ストックが増える一方だ。 オーディションとかたまにやってますけど、作品を消化する意欲ある人を歓迎してます。


1/18(水)

ガーシュウィン関連の本を読んでいた。 して、それについての雑感。 因みに私、別にガーシュウィンに詳しいわけでもなんでもない。「ああ、summertime作った人ね」ぐらいの感覚。

ガーシュウィンって白人(ユダヤ系)で、クラシックの系譜に分類されることもあるように、交響曲的なものも書いていて、それでいてジャズやポップスのスタンダードまでを作ってる。 完璧な音楽家なんて後世囃されるようになってしまったのだけど、ちょっとゲタはかせ過ぎというか、虚像化してやしないかな。 早世していることなんかも、カリスマ性の演出に一役買っているように思える。

ガーシュウィンは、アメリカと言うちょっとヨーロッパとは毛色の違う白人国家の、その音楽史(しかもその草創期)における、伝説的音楽家(作曲家)である。 数々のスタンダードナンバーを作曲しているわけだけど、クラシック音楽的な素養はほぼ無かったようだ。

有名な「Rhapsody in blue」なんかも、編曲に別の人(ファーデ・グローフェ)の手を借りている。 私など、知らなかっただけにちょっと興醒めの感は否めなかった(オーケストラのスコアを彼自身が書けたのだと思っていたから)。

同曲の冒頭の、これまた有名なクラリネットのフレーズも、なにやらユダヤ系の古典(民俗音楽)にソックリなものがあったりするそうだ。 つまり彼の独創ではないらしい。 しかしそれを言い出すなら、ピカソの抽象画だってそのネタ元は割れているわけで、その事実をもってしても、ピカソの芸術家としての価値が下がるわけではないけどね。


きっとある時期のアメリカの民意が、その歴史に、超人的音楽家の存在を必要としてしまったのだろう。 で、ガーシュウィンがたまたまそこに祭り上げられたと。 分かりますよ。 神話の成立要件って、基本的にはそんなところだ。 アメリカは歴史の浅い国なだけに、速成にでも神話が必要だったのだろう。

このように「名声」と言うのは、内実とは無関係に、周囲の情勢によって作り上げられてしまう。 自らの実力によって名声を得る者もいれば、周囲の情勢こそを塗り固めることによって成立した名声もある。 後者の方が成立条件が緩いだけに、実例としても当然数多くなる。

ガーシュウィンの現在価値は、多分に情勢によって成立している面があると思うが、彼が彼であり、自分を追及したのは間違いなかろう。 私はガーシュウィン好きだよ。歴史的評価なんて関係無く。


以下余談です。

「Rhapsody in blue」の事を調べててあらためて気付いたんだけど、当たり前ながらラプソディって、ソナタ(奏鳴曲)とかロンド(輪舞曲)とか言うのが形式名であるのと同じく「狂詩曲」って形式のことである。 提示部・展開部・再現部と言う形式を踏まえるからこそソナタであるように、一応ラプソディにも形式がある(それが自由・無形式といったものであっても)。

だからして、Queenの「Bohemian Rhapsody」は、あれは正しい意味でのラプソディなんだ。ラプソディ形式を踏まえた楽曲だから。 逆に日本人アーティストのレパートリーにたまにある「○○ラプソディ」は、ほとんどラプソディとは呼べない。 全然形式に則ってないから。

確かに、制約が無いのがラプソディなのだと言われればその通りであるが、日本人は言葉を語感だけで捉えすぎのように思える。 もう少し意味に思いを至らせないと。


1/17(火)

人間の意識とは何なのか。 勿論正体なんて分からないわけだけど、おそらく言語と深い関係にあるのだろう。

言語とは言っても、それはいわゆる言語力とか言うものと必ずしもイコールではない。だから語彙とかとも本質的には関係ない。 言語を獲得するためのメモリー部分の性能とでも言おうか、一般に言語中枢とか言語野とか言われている部分に当たるのではなかろうか。

人間は成長する過程で言語を獲得し、語彙なども増強していくわけだが、その言語力のさらに下層のレイヤーが間違いなく存在している。 分かりやすい言葉で言うなら、一般に「共感性」とか「感受性」とか言われるものが、それにきっと近い。

私の勝手な(科学的でない)感覚では、犬においてその機能はわりと発達していて、猿には発達していない。 どちらも動物の中では知能が高いと言われているものであるが。

猿は知能が高いと言われているが、その知能の高さとは、おそらくは「棒切れを使って何かを取る」と言ったような、計数・計量の感覚に長けているという事を指しているのであって、それはいわば運動神経である。 言語中枢と運動神経は連動していたとしても、あくまで別の機能であるように思える。

例えば九官鳥は、人語をいともたやすく模倣するのだが、喋るだけで意味など捉えちゃいない。 同じように、スポーティーな感覚で言語を使う人間がいる。 アスペルガー症候群などと言うある種の精神疾患者は、言語を音として(まさに九官鳥のように)捉え、使用すると言う。 当然、喋るほどに意味を理解してはいない。 言語中枢以外の何かをもって、言語機能を代用しているのである。 実のところ代用できるはずはないから、言語様の別の何かをしか実現できない。 従って常人とは明らかに異なり、「精神疾患」にカテゴライズされてしまう。

犬は九官鳥と違って喋らない。 骨格などが人語の発話に不適であるのが、おそらくはその理由の大半であると思われるが、とにかく犬は人語を話さない。 が、人間の言語を理解するための基礎となる機能、は持っているように思われる。

生物学的なカテゴライズはいざ知らず、意識の面において、おそらく今生物界で一番人間に近いのは犬あたりだろう。 あと、アザラシとかも近いかもしれない(実見した経験が少ないから分からない部分が多いが)。猿はかなり遠い。

猿なども知能が高いと言われてはいるのに、犬こそが古来人間のパートナーであり続けたこと。 またその犬、日本(あるいはアジア)固有種などよりヨーロッパ産の種の方が、私のここで指すある機能において優秀である点など、現実は私の仮説を補強してくれる。 愛や理解は、共鳴し増幅する性質を持っている。

私の指しているその機能こそが、おそらくは人間の意識を生んでいる。 幼い頃の私が音楽を捉えたのも、きっとその機能をもってしてであるし、誰かを愛した時も、その人が持つその機能こそを愛したろう。


1/16(月)

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神田優花、また新曲の制作に入ってます。 初めの頃は、曲なんかも事務所側で完全に決めてたんだけど、ここ最近はちょっと変わってきていて、候補曲をある程度の数作った上で、神田優花本人がアーティストイメージに合ったものを選ぶ、みたいな形に変わりつつある。 たったそれだけの作業でも、アーティストイメージが固まってこないとできないわけで、相応のキャリアが必要なんだとあらためて思った。


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影山リサ。 こっちも新曲作りに入ってます。 今度の曲はブラスをメインに据えたアレンジで、今までにやってこなかったタイプの楽曲です。 


1/14(土)

今週のスタジオにて。

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1/13(金)

VSTプラグインソフトって要はdllファイルで、それをVSTプラグインフォルダとかに入れてホストアプリに認識させつつ使用する(VSTってのは規格名で、他にもプラグインの規格は色々ある)。 で、そのVST、フリーのものとかもたくさんあって、私のような音屋は世界中から落としてきては試すわけです(私に限らず音屋は皆そうだろう)。

落としたVSTで困るのは、インストーラーが付いているヤツだ。 そのまんまdllが入っているヤツとインストーラー付きのヤツがあって、インストーラー付きのヤツはレジストリを汚してしまうので何となく敬遠したくなってしまう(dllのみでも一応の痕跡は残してしまうんだろうけど)。 フリーのVSTなんて、試しに使ってはみても実用にはほど遠くて、即刻削除するものも多いからだ。

先日、音屋向けの便利ツール紹介サイトみたいなのを見ていたら、インストーラーから中のファイル(dll等)を強引に引っこ抜くアプリが紹介されていて、「こりゃ良いわ」と思って早速落としてみた。 が、中身を解凍してみて呆然としてしまった。 そのアプリが「インストーラー付き」であったから。

ああいったツールを開発する人の頭の中で展開されている論理として、あれをどういう用途(気分)を持つユーザーに向けて発表しているつもりなのだろうか。 ムカつくとかいうのでなく、不思議なのだ。

あのツールを完成させるのは結構な手間だった筈だ。 私も音屋なのでいわばサウンドプログラマーである。時にmmlのような、まさに「プログラム」を打つことだってある。 だからその大変さはある程度想像できる。 冗談のつもりでは無いはずなんだけど。


1/12(木)

天才とは何か。 天才って言葉、使われるわりには条件が曖昧ですね。

先日あるクイズ番組で、一流大学を首席で卒業しただとか、難関と言われる国家試験に最年少で合格しただのと言う御仁らが、回答者として会し、クイズを(競技として)競っていたのだが、番組はその回答者らを紹介する際、しきりに「天才」と言う言葉を使っていた。 果たして彼らは天才なのか。

結論としては、私には分からない。 が、ペーパーテストで高得点をマークする事は天才の条件ではない。 「大した能力じゃない」とか言ってるわけではない。 情報を吸収するのにも才能は要ろう。 テストと言うものが、基準ごと誰かが作ったものであるからこそ、そこでの高得点は天才の条件たり得ないのだ。 試験そのものの難易度とは関係ない。

テレビなどで「天才少年」とか謳われる子が、全国の駅名や円周率を小数点以下数百桁に至るまで暗記していたりする。 それなりに凄いことだが、せいぜい賞金とか景品がもらえるぐらいのものだろう。

もし大学受験用の試験問題が「全国の駅名」なら、彼らは一流大学に合格するだろうに。 一流大学に行けば、将来の栄達も保証されるかもしれない。 世俗的な栄達とは、つまりはそれだけのものである。


天才って、自分自身を追求できる人じゃないのか。 一番難しいのは自分であり続けることだろう。

一流大学や国家試験の合格通知などの、如何なる資格の類も、総理大臣の椅子だって、つまりは誰かが拵えたものだ。 そんなもので自分を納得させられる人は、究極的には「名誉の戦死」を喜々として選べるのだろうか。 私は嫌だよ。 私は優れた自分になりたい。

私は幸せになりたいけど、その幸せの形(定義づけ)を他人に委ねたりはしない。 私は幸せの形ごと自分で探している。


1/11(水)

私は文章を読むのが好きで、本に限らずネット上の日記(ブログ)だとかの類まで、ヒマがあれば読んでしまう。 でもああいうのって、誰が読んでくれるという保証もないわけで、言うなれば独白である(この文章だってそうだ)。 そんで、ある人の独白を読んで思ったこと。


なんか音楽作ってる人らしいんだけど、曲作りに飽きたそうな。曲が浮かんでこないのだと。 同時に、音楽以外のことにも全く希望を感じないらしくて、とにかく全方位的にやる気が出ないと言う。

曰く、昔はそうではなかったそうな。 音楽の才能について賞賛されたこともあり、希望に燃えていた時期もあったらしいが、今は取り囲む高価な機材に埋もれつつ、何も思いつかない絶望的な日々を過ごしていると言う。


この私が、そんな風になってしまう日なんて来たりするのだろうか。

「曲が思いつかない」と言うが、実はそれは「メロディーのアイディアが浮かばない」なんて限定されたものではなくて、「未来像」が結べなくなっているのだろう。 曲を作ると言うのは、それを作るに相応しい自分になることなのだから。

私にとって「歌を作ること」とは、それを作る自分自身や、できたその歌を歌う人、その声が届く誰かの心など、それら全てを想い描く作業で、それは想像力のみに支えられている。 私にとって「曲ができなくなること」とは、つまりは「希望の光が絶えること」に他ならない。

私に曲が出来なくなる日は、私が消える日だ。 私はこの世界とお別れする最後の瞬間まで、きっと新しい曲を想い描き続けるだろう。


1/10(火)

世間の音屋さんらの大多数がどうなのかは知らないが、私はオケなどを作る際、一旦MIDIデータを作って、それにあれこれと音色をかぶせてみて気に入る音を選ぶことが(割りと)ある。

無論、ある音源を使用することに的を絞った上で、リアルタイムで発音させながらデータこさえることもそれはそれであるし、そうでない場合も、ある程度音色の目星はつけた上でMIDIデータも作るわけだが、当初の予定を変更することなんてしょっちゅうだ。

で、その音を選ぶ作業工程で引っ掛かってくるのが、ピッチベンドとかそういうパラメーター値が、音源間で共有されないことだ。

特にピッチベンド関係で困らされることは多い。レンジ固定とか、あるいはピッチベンド機能そのものが無い音源なんてのも存在する。 ピッチベンド込みのMIDIデータをピッチベンド無しの音源で再生しようと思ったら、基本的に「作り直し」が必要になる(モノによっては実に大掛かりな)。 しかも、そのベンド無しの音源を確実に使うならまだしも、発音試したら「何か違う」みたいに感じて、「やっぱり別の音源にしよう」 みたいになる事もしばしばある。 MIDIデータ作りの作業が丸々無駄になるわけである。

どの音源もピッチベンドはとりあえずつけてくれないものだろうか。 とりあえずプレビューのためだけにも必要なのよ。 この「ピッチベンド機能の有無」って、その音源が市販品かフリーウェアかなんて関係ない。 しかし、ここまで統一されてないってことは、一般にピッチベンドってあまり使われない機能なんだろうか。私は使うのに。


1/9(月)

ラグタイムっぽいヤツを作ろうと思って、色々調べていた。

まずラグタイムの定義についてだが、ある時期のアメリカの黒人音楽をラグタイムだとかジャズだとか総称していただけで、音楽的な定義は曖昧であるらしい。 確かに演歌の音楽的定義なんてあって無いようなもんだわな。

しかしながら、そもそもの語義としては、Rag(ズレ)+Time(時間)で、要するに読んで字の如く、タイミングのズレた音楽って意味らしい。 実際に辞典の類にはシンコペーションの語が枕詞のように載っている。

作例を調べてみたのだが、このジャンルはScottJoplinと言う大家がいる。 と言うか、ほとんど有名どころはその人ぐらいしかいない(無論いるにはいるが、多分作家・作品ともに世間的な知名度は低い) 。 あとガーシュウィンがちょっとやってたりするぐらいか。

で、そのラグタイム王Joplinの一連の作品を聴いた時に、そんなにシンコペーションがフィーチャーされているようにも思えなくて、今まで私が勝手に定義していたシンコペーションが狭義であり過ぎた事に気付かされた。 作中には、確かに私の定義していたような典型的シンコペーションも散見されるが、辞典などにあるシンコペーションが指すものとは、あの2・4拍目にアクセントが置かれる(ピアノの)フレーズなんだろう。 確かにあれこそがラグタイムの醍醐味ではある。

そう言えば、私の聴いた作品は、どれもピアノのみで、歌なんて無論のこと、ベースとか管の類も一切入ってなかった。 曲によってはビッグバンドでのアレンジに向いてそうなものとかあるのだが、流行当時の作品にその手のアレンジは一切施されていないようだ。 詳しい情報源あったら教えてください。

作ってた曲について言えば、せめてベースぐらい乗っけたかったんだけど、ピアノが出すあのラグタイム独特のリズムを損なわず、尚且つ ピアノの譜面(左手の)を殆どまんまトレースしたものでないフレーズを作るのが難しくて諦めた。 ウォーキング・ベースっぽいものとかも考えなくもなかったんだけど、それでは最早ラグタイムでなくなってしまう。


1/8(日)

昨日の続き。

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1/7(土)

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今年一発目のリハーサル。 だからかどうか、差し入れの山。 以下、スタジオにて。


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片飛鳥。新年早々、歌録りでした。 そういえば画像の表示方法、前のに戻しました。

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1/6(金)

音屋はせっかちが多い筈。 何度も言ってるが、音は時間軸を要する。 作るのに時間が掛かり、検証にもまた時間が掛かる。 完成品を味わうにもこれまた当然時間が掛かる。 音は、自然とせっかちを生んでしまう。

デザイナーとかが、例えば画像の色味を補正するなら、モニター確認しつつ適当にパラメーター弄って、リアルタイムで結果を検証すればいいわけだけど、音はそうは行かない。 例えば、ある曲の間奏のシンセの音色ちょっと変えるとして、パラメーター弄るまでは良いのだが、結果の検証に(16小節だとかの)実時間が要る。 「ああでもないこうでもない」とツマミをひねる度に検証時間が必要になる。

この作業はとにかく時間をバカ食いするのである。 時間の節約に努めねば、人生などあっという間に使い切ってしまうだろう。 正直私は使わないが、大容量のサウンド・ライブラリーの中には、音色をロードしたプラグインを含むファイルを立ち上げる際、DAWの起動に10分以上掛かったりするものがあるそうだ。 どんだけリアルな音か知らんが、冗談じゃないよね。作業効率も少しは考えてくれよ。


買い物とかしてる時、手際の悪い店員なんかを見るたび私は、「この人は時間の大切さを身につまされたことが無いのだろう」とつくづく感じてしまう。 人間なんて、突き詰めれば時間しか持ってないと言うのに。


1/5(木)

退屈な時間とは何なのだろうか。

時間を有意義に過ごすことが出来ない人は、退屈さと付き合うのも同時に下手である。 「退屈だから」と言う理由で働く人は、いざ就いた勤め先で仕事をこなす上でも、日々退屈を感じ続けているだろう。 自分に残せるものが少ない作業なのだから。 これは逆説でもなんでもない。

やりたい事の無い人は、日々が退屈だが、その退屈ささえ肌を刺すような痛みとしては捉えきれない。 退屈でない時間を持たねば、相対値である退屈さなど感じようも無い。 論旨が伝わるだろうか。


私は退屈が嫌いです。 持てる時間など限られているのだから、可能な限り良質な気分を味わいたい。 「どういう気分で時間を過ごすか」が最大の懸案だからこそ、私は日々歌を作り続けている。 自分に一番多くのものを残せる作業だから。 私には、好きでないことをやっている時間もなければ、好きでない人と過ごす時間もない。


1/4(水)

普段よく通る公園で、主婦らしき女性二人が何やら話し込んでいた。 夫や同年代の子を持つ女性同士は友人になりやすかろう。 共通の苦悩(あるいは喜び)を知っている(と思える)者同士なのだろうから。

子育てに悩む女性は、その苦悩が深刻であればあるほど、同じ気分の中にあり、痛みを分かち合える誰かに「いて欲しい」と思える。 そして延いては、この世界のどこかにいるであろう、その「友」の存在に気付くことが出来る。 その友の側とて同じ気持ちに違いない。

結局人は似た者で群れる。 「くだらない友人しか周囲にいない」と嘆くその人は、つまりは自分を嘆いているだけ。 人は、真剣に悩み、真剣に道を探せばこそ同じ気持ちを持つ友にめぐり合える。 悲しいほどに美しい景色を見たければ、悲しみを分かち合える友が欲しければ、我々自身が精一杯真剣に生きるしかない。


1/3(火)

久しぶりにnsf作ろうと思ってmml打ち込んでいた。 それもゆうに5〜6年ぶりにである。 私の中で、あの手の音を作る作業は終わった事になっていたので、勘を取り戻すのに随分難儀した。

あの手のもの(80年代以前のゲームサウンド)が作りたければ、あの音って単なる矩形波やノイズだとかに過ぎないので、現行のシンセ類でも十分再現可能な筈である。 しかし単なる音だけではなく、mmlの記述に因る独特のアーティキュレーション(エンベロープ類など)こそがあの雰囲気(サウンド・キャラクター)繋がっている。 それを抜きにしてあのツボは感じられない。 だから私はトラッカー系のツールも基本的に使わない。男はだまってmml。

しかし私はmmlを舐めていた。 「ここ数年扱ってないけど、まあできるだろう」と高をくくっていたのだが、かなりの部分を忘れてしまっていて、初心者用のテキストから読み返す破目に。 結局2分弱の曲を打ち込むのに丸二日近くかかってしまった。 既存曲を打ち込んだだけなので、作曲すらしてない。 せいぜいリアレンジといった作業だと言うに。

mmlって要はプログラムなので、音として検証するのに一旦コンパイルしてnsf化しないといけないわけだけど、再生が曲のアタマからになってしまうのがキツい。 作業に時間がかかってしまう理由として、ここは実に大きい。 nsf化なんて、本来最後の最後に一回やれば良いだけなのに。 要するに時間のロスが大きいわけです(だから食指が動かなくなっている部分もある)。

リアルタイムで曲の途中からでも音を検証できる、シーケンサー的なプログラムを誰か作ってくれないものか。 それがつまりはトラッカーなのかもしれないが、欲を言えばスコアエディタが欲しい。 無理ならせめてピアノロールがあれば良いのだけど。

ついでに、私の打ったソースって実にツギハギだらけで汚い。 いつだったかネット上にあった誰かしらのソースを見たのだが、あまりの整然とした美しさに感動してしまった。 ああいうの作れる人とは、基本的な脳の構造に違いがあるのだろう。 努力なんかでカバーできると思えない。


因みに、また今後数年(あるいはそれ以上)はnsf作らないと思う(案外すぐ作り出すかもしれないけど)。 あれが私の「とことんまでに追及すべき何か」たりえないのは、その魅力が「音そのもの」だからだろう。 追求しようがないと言おうか。 私のツボの一つでは確実にあるけどね。


1/1(日)

年末にある機材を導入したのだけど、セットアップに随分難儀させられた。 と言うか、させられない事など滅多に無い。 それほどこの手の機材の導入はめんどい。

ソフトウェアのセキュリティの厳重さは、つまりは不正コピーを防止するためのものなのだろう。 まあ気持ちは分かる。 だってソフトってつまりはデータで、容易に複製出来てしまうからこそコピーがはびこる。 ソフトウェアで食ってる業者らにとってはそこは死活問題なわけで、そりゃ神経質にならざるを得ないわな。

しかし私は正規ユーザーである。 不正コピーが横行しているからとて、導入に四苦八苦させられているのでは筋違いも甚だしい。 朝礼で「遅刻者が多い」と、遅刻せずに来ている生徒に説教をする校長先生じゃないんだから。

私が購入した代物は、ハッキリ言ってその手のものの中では大した値の張るものでもない。 しかしこんなに導入に不安があるのなら、怖くて高いものなんて買えないよ。 100万超の音源買って、起動すら出来ないとかシャレにならん。


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