Staff diary  
スタッフ日誌[2011]

[文 / 益田(制作)]

12/31(土)

今年も音楽なんて夢のような作業に明け暮れつつ一年を全うさせていただきました。 お世話になった方々、どうもありがとうございます。

今年は広瀬沙希の配信作品をリリースできたのが私にとっては大きかった。 神田優花・影山リサの作品の発表も勿論大事なことだったのだけど。 今後もより多くの人に彼女の作品が届く事を願っています。

今年は震災とかあって、日本にとって大変な一年だった。 個人的には、あれが今年のこととは思えないくらい震災後の時間が長く感じるのだけど、理由はよく分からない。


ここ数年神田優花は、絶対的な売上げこそまだ大したことないものの、継続的に音を買ってくれる固定層がつき出した。 銭・金の問題でなく、作品を発表する我々としては、非常に勇気付けられることです。

神田優花の究極的な目標は、ダウンロード数なんていう「数」を稼ぐことではなく、どれだけ聴いてくれる人の心の深い部分に歌を届けるか、なのです。 そして我々は、その目標に一歩づつ近づいていることを実感しつつある。 明日からの日々も、全てをかけてがんばりたいと思います。


影山リサ。 こちらも活動開始当初に比べれば、音を買ってくる人が増えて、勿論喜ばしいことなのですが、我々の求めているリスナーとの齟齬をまだ感じる。 要は作り手側の伝えたい何かと、購入者の求める何かがズレているように思えるわけです。これから少しづつでもすり合わせて行きたいところ。

来年も精進します。 応援してやって下さい。


12/29(木)

本だったかを見ていたら、恐竜の研究者がとある恐竜について、「生存時の推定体重345.567キロ(数字は不正確)」とか、小数点第三位ぐらいまでの数字で解説していたので、私は「そこまで詳細に分かっているのか」と驚きかけた。 が、実はその研究者は(原文では)ポンドか何かで言っていて、例えば「1000ポンドぐらいじゃねえの」とか適当に言ったのを、翻訳版で出版する際にキログラムとかに換算するから端数が出てしまっているというオチだった。


ジャズの理論書とかを見ていると、上の話を思い出す。 ジャズミュージシャンらは一部の例外を除いては、アカデミックな意味での音楽知識はゼロに近かった。 セロニアス・モンクは独学でピアノをマスターしているし、ウェス・モンゴメリーは譜面すら読めなかった。 モンクの運指などを見てると、彼がクラシック・ピアノの正統的な教育を受けてないことは一目瞭然だ。

彼らの感覚的なツボに、ムリヤリ西洋音楽的解釈を当てはめようとするから、#11thや♭13thがどうしたとかupper structure triadがどうしたとかいう話になる。 彼らがそんなこと理解した上で実践してたろうか。 怪しいもんだ。


日本の国歌「君が代」は、元々薩摩の琵琶歌だとか、要するに日本のスタンダードナンバーに近いものだったのだが、エッケルトとか言うヨーロッパ人によって西洋音楽ナイズド(西洋音楽的な和声やリズムに収斂)されてこんにちの形になっている。 「君が代」はドリア旋法(正確には雅楽の壱越調というのが近いらしいが)だとか言われたりするが、ムリヤリ西洋音楽に翻訳(解釈)するからそうなるだけのことであって、あれを歌っていた江戸時代までのほとんどの日本人に言わせれば、そんなの全て「テキトー」である。 最初に原形を聞いたエッケルトもさぞかし面食らったろう。

今でも例えば、未開地の部族の音楽などを楽理的に紐解こうとすると、物凄く複雑な変拍子や転調を繰り返していたり、微分音などが頻出していたりするかもしれないが、それは別に高度な音楽とかいうわけではなかろう。 前提となる文化が違うだけだ。


私はここ数年、ジャズについて考える時間が多少あったのだが、今のところの結論としては上の通りである。 あれを本気で再現しようと思うなら、文化ごと体感する必要がある。 テンションとかオルタードとかなら、あの音のぶつかりを「気持ち良い」と感じる感性ごと身に付けねばならない。


12/28(水)

最近の音楽制作用ツール(特に音源類)の進歩はめざましい。特にここ10年くらい。 目に見えて進化している。 生楽器(奏者)が必要なくなると、色々手間・コストが削減できて喜ばしい。 頭の中から湧き出てくる曲想を形にする時間が追いつかないような私なので、無駄な時間は大敵なのだ。

一般にギター類は打ち込みで再現するのが難しいとか言われてたのだが、もう昨今そうでもなくなりつつあるように思える。 奏法的なコツを修得すれば、かなりのレベルにまで持っていけそうな気がする。 実際にギターを弾かない人の打ち込んだギターがウソ臭いってのは、つまりはその(奏法やその前提となる楽器構造がつかめていない)証拠なのではないか。 こんなのちょっと勉強すればなんとでもなる筈だ。

私は(下手だが)一応ギター弾きなのだが、楽器音がゴチャゴチャ入ってる曲の、バッキングの一部としてのギターとかなら打ち込みで済ませてしまうことも多い。 さすがにギターがアレンジの核を為しているような曲だと、生じゃなきゃマズいような気が今まではしていたのだが、今後はどうだろう。 試しに打ち込みで済ませてみようかしら。 ホント、ちょっと考えてしまうぐらい音が良いのよ、最近のは。


12/27(火)

「捨て曲」の魅力。

曲を作っていると、当然ながら作品の仕上がりにムラができる。 しかしそれとは別に、構想段階から捨て曲のつもりで作るものもある。 「これをタイトル曲にはできないな」とかハッキリ認識しつつ作っているわけである。

言うまでも無く、作り手自体は日々進化しているのだが、作品のどれもこれもを最高傑作のつもりで作っているわけではないのである。 ピカソは「明日描く絵が一番素晴らしい」と言っていたそうだが、最高傑作とはピカソと言う絵描きそのものではなかったろうか。 描く絵の一々には、それなりにムラもあったろう。

芸術家は、自分に何かを味わわせるために作品を作るのである。 たった一つのツボ(美意識)に固執していては、未知の快感になどたどり着けない。 片っ端から自分のツボを探り続けるってのは、一見遠回りのように見えて、最高傑作にたどり着くまでの一番の近道なのだ。

最高に美しい作品を書くためにも、私はゴミみたいな曲を書きまくらねばならない。 やり尽くさないと、残る「やり残した感」が美意識を狂わせるから。


12/26(月)

ある事柄が(難しくて)理解出来ない時、その延長線上にある遥かに難解な事柄について理解に努めると、その前段階・前提である「理解できなかった事柄」が、理解出来てくる事がある(言ってることの意味分かります?)。

Aが理解できない→Aより遥かに難解なBについて考える→Bはさておき、Aが理解できてくる、って話。


少年マンガなどで、主人公が最強の敵をやっとこさ倒した後、更に(遥かに)強い敵が現れることがよくある。 前の敵とは、互角の戦いの末、薄氷を踏む勝利を得たところなのだから、それより遥かに強い敵に勝てる筈なさそうなものだが、そいつとはそれはそれで互角の勝負を繰り広げたりする。

まあマンガの世界と言っちゃそれまでだが、多分その遥かに強い敵と戦っている最中に、主人公が前の敵と戦ってる時のことなど思い出せば、「俺は何故あんなヤツに苦戦したのだろう」みたいな感覚になるんじゃなかろうか。 だったら気持ちは分かるぞ。 高校受験に四苦八苦している中学生は、高校の(大学受験用の)勉強をすれば良いのよ。きっと。


12/25(日)

今週のスタジオにて。 ウチは事務所としてはそろそろ仕事納めなんですが、私の仕事はこれからです。


 

神田優花、今年最後のリハーサル&新曲のマスタリング・チェック。 一応私としては一旦完成させたつもりの音だったのだけど、歌い手(神田優花)本人が、ボーカルトラックに気になる部分があるってことで、また編集やり直すことに。 まあこれから年末だし、時間掛けてゆっくりやります。 


12/24(土)

影山リサ、今年最後のリハーサル。 来年も応援よろしくお願いします。

 


DVDの吹き替え用日本語テキストと、字幕用テキストって微妙に(時に大きく)違うよね。 翻訳している工程が違うからなんだろうけど。 


12/23(金)

 

今週のスタジオにて。 ヒマだったから遊んでたみたいですね。私は蚊帳の外だったけど。

  


手持ちの本をタブレット端末などで読むために、デジタルデータ化する作業を、俗に自炊とか言うらしい。 で、その自炊を代行する業者を作家数人が連名で訴えたそうな。 曰く「著作権侵害」と。

しかし、一旦消費者が自分で金出して買った本(財産)を、どう扱おうが所有者の勝手だろうし、所有者が行いたいある作業を業者に(これまた金払って)代行させるのも自由だろう。 私の平衡感覚では、これを悪だとは到底思えない。 作家の「収入が減りそう」と言う危惧は理解できなくもないが、その主張が万人を納得させられるものとも思えない。

また、著作権なんてものを当然の権利と思える感覚は、少なくとも私には無い。 原告である作家連中は、いやしくも文学者なのだから、そこについては熟考した上での今回の所業なのだと信じたいが。 自分の懐の心配も当然だが、創作・芸術の未来についても考えてくれないものかね。 著作権の拡大解釈は人類の可能性を狭めるぞ。

私は芸術とか創作というものを崇高なものと思うし、思うが故に尚更それらが、「人間如きが作った『法』に守られてこそ生き長らえられるもの」だとか思いたくない。


12/22(木)

編集雑記。 リアンプについて。 リアンプってのは、ギターとかの一旦録ったドライのテイクを後でエフェクト(アンプ)処理することです。

つい最近、一旦マスタリングまで完全に終えてた曲をチェックの為に聴いていたら、ギターソロにリングモジュレーションを掛けたくなって、またミックスダウン前の工程まで戻ってしまった。

私はギター類のエフェクトについては、基本「掛け録り派」である。 特に歪み系のエフェクトなんて、ブリッヂ・ミュートの感じとか、リアンプ時の匙加減までとても想定できない。 まあリアンプをやったこと自体ほぼ無いので、やってみたら意外と納得できるものが出来たりするのかもしれないが。

録り直すほどの時間が無かったからってのもあるが、今回のリングモジュレーターについては、リアンプである。 まあ上述の通り、歪み系以外(例えばリバーブとか)は毎度ある意味ではリアンプなので、今回についても初めてと言って良いかは微妙だが。

しかし考えてみるに、リアンプって合理的なので今後はそうして行きたいところだな。 ちょっと手間は掛かるが、保険の為に掛け録りとドライと両方一遍に録ってれば良い(少なくとも現状レベルのテイクは残る)わけだし。 特にプラグイン系のエフェクトが機能的に充実してくれば、自然そっちに移行してしまいそう。


12/21(水)

私は、そんなに親しいわけでもない相手に「タメ口」で話しかけられると、あんまり良い気分がしないことが多い。 無論相手(の心)によるが。

私が「タメ口使い」に不快を感じる理由は、大抵その手の御仁は、相手と自分との上下の水位を測りつつ、下と見做した相手にそのような言葉遣いで接していることがありありと見えるからだ。

これは「私自身が見下されていることへの不満」ではない。 人間はそれぞれ違う。皆それぞれ、手前勝手な印象で世界を形成している。 だからある人間がその人固有の序列観を持っていることは不思議でも何でもないし、他人の感覚は制御しようがない。 雨に怒っても仕方ないのだ。

私が不快になる理由は、そういう人は、私以外の他人にも日常そういう態度で接しているに相違なく、そのことこそが、この社会の悪循環を生み出していることが分かるからだ。 腹が立つと言うより悲しい。 そこが私のある論理性に抵触してしまうわけですね。

私など男だからまだマシで、女の人など基本的に男に舐められているから、平素の生活においてもそのストレスに晒されることは多かろうと思う。 つうか、もう慣れ過ぎて、もはやストレスとすらも感じてないのかもしれないが。


私は基本的に、そんなに親しくない相手には全て(軽い)敬語で話すようにしている。 それは相手との年齢とか関係・立場などと無関係にである。 礼儀とか言うより、「相手との上下の水位を常に測りつつ、話し言葉を使い分ける労力」を無駄に感じるからだ。

では私が敬語とタメ口を使い分けるポイントはどこかと言うと、それは「親疎」である。 「上下」ではない。

私は、私の心の側にいる(大切な)人にタメ口で、そうでない人に敬語で喋りたい。 だから似たような気分で接してくる人には、タメ口だろうが何だろうが全く不快を感じない。 無論私とて社会の規範そのものを体感できないわけではないので、ある程度それには順ずるよう心掛けてはいるが、私の気分としては以上の通りである。 誰だって同じ人間じゃんよ。


12/20(火)

自己啓発本みたいなのが売れてたりすると、「本当に目から鱗が落ちたりするものかいな?」と淡い期待を寄せつつ斜め読みしてみたりするのだが、大抵その期待は裏切られる。

別に書かれている主張が間違っているとは思わないのだが、一度ぐらいは考えたことがあるような内容ばかりである。従って感銘などもし難い。 しかし、その手の本がベストセラーになってたりするところを見るに、多くの人はあの程度のことに日々思いを馳せる事無く生きていると言うことなのだろうか。 空恐ろしいな。


12/19(月)

影山リサ、こちらも新曲の上がりをチェックしてました。 我々身内での評価では、過去最高の仕上がりということになっているのだけど、実のところどうなんでしょう。 発表は来年になりますね。

  


ここ数年、電源使わせてくれる店が増えてありがたい。外でノートPC使って長時間の作業が出来る。 とは言いつつも、私は最悪、紙とペンがあれば最低限の作業は出来てしまうので、電源が無いなら無いでやりようはあるが。 進められる工程が広がったのは嬉しいかな。


12/18(日)

神田優花、新曲の上がりをチェック。 いくらか修正箇所が出ましたんで、これからまた編集です。

  


Infoのページに、先日お話ししました「代々木アニメーション学院生限定オーディション」の要項、上げてます。 奮ってご応募下さいね。


12/17(土)

今週のスタジオにて。

    


広瀬沙希。新曲の上がりをチェックしてました。 今年リリースした「小さな欠片」は、純然たる新作って言うより、再録も含んだプチベスト盤って感じだったんだけど、来年は完全な新作を配信で出したいと思ってます。 今回の曲も多分それに収録されると思います。

 


しかし、アクアフレッシュのチューブの中身はどうやって入れているのだ。


12/16(金)

音楽ってフィーリングでも勿論作れるが、理論を学べばその感覚的なツボを解明できたりする。 創造は理論のみから生まれるものじゃないが、理論を知れば開ける世界があるのも事実。 今回はその音楽理論について。

例えば、右も左も分からぬ者が音楽のイロハを知ろうとする場合、楽典レベルの教材から当たることになる。 その先にも様々な理論書の類は存在するが、ああいったものも結構不備が多い。 特に大抵の理論書は、クラシック音楽の理論(機能和声だの)に基づいていて、POPSのメソッドとして適当でないように思える。

まず調性(tonality)についてだが、私はある時期まで、POPSも含めた音楽の全ては、何らかの(クラシック的な)調に収斂されるものだと思い込んでいた。 しかし自分の作る曲が、例えばトニックがAmだからイ短調なのかと言うと、それでは途中のプロセスが何だかおかしい。 つまりドミナントやサブドミナントといった機能が、イ短調のそれに帰属していない。

かと言って長調(ハ長調の偽終止など)なのかと言うと、それはそれで(近いが)違う。 またトニックに帰結したがる性向自体も希薄だったり。 つまりPOPSは、もうクラシック的な機能和声から随分進化していて、その手の理論に収まりきれない力学を持ってしまってるわけだが、そこを体系的に説明してくれる書籍(あるいは人物)に出会った試しがない。 私が知らないだけなんだろうか。

詳しい人なんかから見れば、私の疑問なんてお笑い種かもしれないが、私にとっては笑い事じゃない。 音楽って、子供の頃に考えていたようなものよりずっと奥が深いようだ。 何だかこれが分かりかけたような気がしたこともあったのだが、今の時点ではやっとこさ「自分が何も分かっていない」という事を知るところまで辿り着けたって状態だ。 先は長そうだ。


12/15(木)

選ばれることより選ぶことを。

人はしばしば、どこの学校や企業に受かっただとか、異性からモテるだとか、友達が多いだとか言う、つまりは「自分が人気者であること」に安堵を覚えるようだ。 当然不人気は不安に直結する。 自分がこの世界に存在する基盤を脅かされる気分になるのだろう。

そんな不安に汲々としているようでは、当然自由などままならないだろう。 自分が「選ばれたこと」の確認作業が必要な段階で、何かを選べというのにそもそも無理があるのだろうか。 その確認作業を終わらせられぬまま、人生の時間を使いきってしまう人がこの社会にはたくさんいるように見える。

我々は、この世界に存在するだけでもう選ばれたのだから、あとは自分の好きな何かを選べば良い。 どんな権威ありげな称号にありつけたとしても、そういう「何かに選ばれたこと」を矜持としているようではダメなんだ。 我々は、自ら好きな何かを選んで、楽しい時間を過ごさなければ。 私はこのことを伝えるためにも、今日も歌を書く。


12/14(水)

代々木アニメーション学院さんで、ウチ主催の学内オーディションを開催する事になりました。

昔は毎年やってたんだけど、2005年以降、色々とあって途絶えてまして、今年それが復活した形になります。 学内限定のオーディションなので、ここ読んでいる人の大半には関係ない話なんだけど。 まあ生徒さんがこのページ見に来るかもしれないので、近い内に募集要項をInfoのページにも上げます。


12/13(火)

コード・プログレッション(コード進行)には著作権が無いそうだ。 確かにコード進行が同じ曲なんて腐るほどあるわけで、そんなものに著作権(と言うか排他的使用権)など主張されたら、音作ってるこっちはたまったもんじゃない。 創作そのものが大幅に制限されてしまう。

しかしバカな話だ。 コード進行にだって創作性は十分にあるよ。私だって曲によっては練りに練っているもの。 だからして、コード進行に著作権が設定できないことでなく、そもそもメロディー(主旋律)には設定できてしまうことの正当性自体を疑うべきなのだ。

著作権は人格権のみ設定できれば十分で、もしそうなったら盗作だとか著作権侵害だとかをやかましく言う人はきっと激減する。 著作権がなまじ金など生むから無駄に人間の欲を刺激する。 そしてそれが創作の自由度を狭めている。


12/12(月)

この間、惣菜屋みたいなところで買い物をした。 ガラスのショーケースみたいなのに商品が並べられていて、客は一々店員に品と必要な量を(グラム数)を伝えるといった、ちょっときょうび古臭いシステムだった。

「ジャーマンポテト200グラム」とかいう風に私が注文を入れると、店員のお姉さんが目分量でそれを容器に入れ、秤に載せるのだが、そこで秤に表示されるグラム数が驚くほどに正確(オーダーに忠実)で、「200」と注文すれば「197グラム」とか、大体誤差が±3〜4グラム程度の範囲内だった。

分かり難いかもしれないが、これって結構凄いことなのだ。 キンピラゴボウとかひじきの煮付けみたいなタイプのものならいざ知らず、鶏のから揚げとかジャーマンポテトみたいな、一個一個の素材がそこそこデカいヤツだと、組み合わせによってグラム数を合わせていくしかない。 とにかく、私は彼女にプロフェッショナルを感じてしまったわけである。

何故にあのお姉さんは、あそこまで正確に惣菜の重さが分かるのだろうか。 それは日々「考えているから」だろう。

客の対応をする度に、彼女は自分の盛った惣菜について考える。 「今回は少なすぎたな」とか、あるいは「今度は多すぎだ」とか。 思慮に思慮を重ね、いつしかこんにちのような技能を得るに至っている。 人は、考えねば自分に何も残せない。 やはり考えねば。

私においては、他の如何なる生き方より自分に多くのものを残せる方法として、今の人生を選んだ。 私の作る音楽はモノではない。 考え抜いた思索の結晶である。


12/11(日)

神田優花、年内最後の歌録りでした。

 


広瀬沙希。こちらも新曲のレコーディング。 「小さな欠片」引き続き発売中です。




影山リサも新曲の歌録りでした。

 


今週は3件も録りがありまして、私はこれから編集なわけです。


12/10(土)

今週のリハーサル風景。

     


12/9(金)

デジタル・レコーディング(モニタリング)はAD/DAコンバーターを介して行なわれる。 音という本来空気の振動であるものを、データとして記録するために、データ化の作業を行なう装置なわけである。 それの質によって、残るデータ(録音結果)は雲泥の差となる。 このコンバーターの入出力部分の機能を一手に担っている装置がオーディオ・インターフェイス(AI)とか言われている。

当たり前だが、どんなAIを使おうが、録音物化する前の「空気の振動」の時点での音楽は同じものである。 コンバーターの違いにより結果に違いも生ずる。 名器と言われるような優れた楽器でも、どんなプレイヤーの名演奏であろうが、コンバーターの質が悪ければ、録音物としてはそれなりのものにしかなり得ない。 そのデータを引っ張り出す(聴く)際もDAコンバーターの質相応にしか再生されない。


これらを人体に例えるなら、ハードディスク(データの記録媒体)が脳で、コンバーターは言語である。 音の振動(録音の対象物)はこの世界・宇宙の森羅万象であり、自分自身でもある。 物事を記憶しようにも、またその記憶を反芻しようにも、必ずその人の言語の精度が係ってくる。 言語とは、その人そのものである。


娯楽施設や海外旅行なんてのは、要はここで言う空気の振動である。 どんな名演奏も質の悪いコンバーターで受け止めては残せるものなど高が知れている。 三ツ星レストランのディナーも高級乗用車も、あるいは銀行預金の残高だって、それら全ては我々が心で感じられるだけのものに過ぎない。

私は、世界中を旅したり宇宙の果てを目指すより、それらを映し出す我が心こそを育てたい。 まだ誰も見たことの無い美景に辿り着くために、最高のコンバーターを持ちたい。 その為にまた今日も、曲を作り続けるのです。


12/7(水)

音楽の理論書・教程書の類を読んでいると、稀に使われている用語の定義が微妙に(あるいは大きく)異なるケースがある。 筆者はその手の本を出すぐらいなのだから、当然のように音楽理論に精通している筈で、無理解から来るものである筈が無い。

むしろ、筆者にとっては使い慣れた当たり前の用語過ぎて、意味が膨らんでしまっているのかもしれない。 普通人にとっても、例えば「鍋」と言えば鍋そのものだけでなく、「鍋料理」の意味をも含んでしまっているように。

しかし教程書である。 基本的に「分かりたい(=現時点ではまだ分からない)人」が読むものなのだから、そこは噛んで含むように教えていただきたいところだ。 いたずらに混乱を招きかねないよ。


12/6(火)

先日、外でメシ食ってた時の話。 店員のお姉さんが「お下げしてよろしいですか」と言いながら、私の席にあった空いた皿を持っていった。

口でこそ「よろしいか?」と伺いを立てる形になっているものの、彼女には全く客である私の意思を確認する様子が無く、単にマニュアルとして教え込まれたのであろう台詞を(呪文として)唱えつつ、皿を持っていただけであった。 気を抜くと言葉って呪文になってしまう。

日本人の多くは「おはようございます」とか「ありがとう」とか「さようなら」と言う言葉が、元来意味を持ったセンテンスであることを忘れてやしないだろうか。 本来学者である筈の僧が、経を呪文にしてしまっている国だからな。


12/5(月)

創作と演奏。

ジャズなんかの世界には、「作曲に何の意義も見出せない」などと言うミュージシャンがいるそうである。 ではその人らが何に意義を感じているのかと言うと、それは「演奏」にである。 彼らにとって音楽とは、演奏技術を闘わせることに他ならないのだろう。

一見、突飛な感覚のようにも思えるのだが、あながち根拠もなくはない。 作曲の技法に添って生み出される音楽作品なんて、ある程度はたかが知れている。 調性の上でスケールを並べ替える作業になど可能性を感じない人がいるのも、それはそれで無理はないように思える。 作曲なんてものが生まれてから結構な時間が経っているし、ある人にとっては「出尽くした感」もあるのだろう。


私は作曲に限界を感じない。 感じるとか感じないとか言う感覚に理由をつけるのは難しいが、私が私を突き詰める作業を音楽(創作)に託しているだけだからだろう。 つまり、「斬新な曲を作って誰かに認められたい」と言った動機が我が心に存在していない。

自分にある感覚を味わわせる為に音楽作品を作り続けている。 だから、他の人にとってのそれに当たる作業が、演奏や歌唱だったり、読書やお菓子作りであっても良い。というか、私にとっての音楽とはまさにそれと一緒なのだろう。

結局のところ「夢」ってのは、つまりは自分の可能性のことなのだろう。 だから、自分に伸びしろをを感じられない人は夢も見られない。


12/4(日)

昨日の続き。

   


12/3(土)

神田優花、新曲の最終リハでした。 来週は年内最後のレコーディングです。

 


影山リサ。こちらも新曲の最終リハ。

 


12/2(金)

Youtubeの魅力。 私の子供の頃にあんなのあったら、きっと四六時中モニターに張り付いていたろう。

子供の頃は、音楽など聴きたくても聴く方法が限られていた。 月に数千円の小遣いで、一枚3千円もするCDやレコードなどを買い漁るわけにも行かず、またCDショップなども、演歌ソフト中心の小さな店が町内に一軒あるだけで、今で言うメガストアなど県内でも一店も無かった。 つまり、音楽ソフトを買おうにも、どんなものが存在するのかという、カタログ情報を得ること自体が困難だった。

レンタルCDなんてのもあるにはあったけど、それにしても当時の私には値のはるものだった。 アルバム一枚のレンタル代とそれを録音するカセットテープ代で5〜600円はする。 友人とカセットテープを貸し借りしたり、ラジオを録音したりといった涙ぐましい作業をかなりやった。


音を耳に入れれば聴くことはできるが、音楽を理解するのにはそれ以上の情報が必要になったりする。 当時は音楽誌なども隅から隅まで読んだものだが、またこの音楽誌にも金が掛かる。 中高生ぐらいの頃、私の住んでいた町には図書館と言うものが無かったので、本を読むのも一苦労だった。 一応学校に図書室はあったが、蔵書などたかがしれている。 当然音楽の専門書などほぼ無い。

私はギター小僧だったので、ギター専門誌をよく読んだのだが、Wes MontgomeryやDjango Reinhardtと言う(有名な)ジャズ・ギタリストもそこで知った。 しかしその二人、片やオクターブ奏法を得意とすると言い、片や三本の指(左手)で演奏すると言う。 がんばって音源まで手に入れても、音だけではそれ以上の詳細が分からない。

「どうやって三本指であんな高速のフレーズが弾けるんだ?」と不思議だったDjango Reinhardtについては、映像を見て納得した。 本当に弾いている。単に上手いだけだ。 しかも3本指と言われているが、残った(動かせる)その3本のうち1本は親指で、事実上2本の指で演奏をしていた。 障害を持つ事によって、残った指の機能が異常に発達したのかもしれない。

Wes Montgomeryのオクターブ奏法についても疑問だった。 ギターは楽器の構造上、ピアノのようにオクターブ間隔で発音させるには弦間の音程差が小さくて、例えば1・3弦とか2・4弦とかの離れた弦を同時発音させる事によってしかオクターブのフレーズを演奏できない。 だから指ならその離れた弦を同時に弾くことはできるが、ピックならその二弦の間になる弦をミュート状態にしてブラッシングするような形になる(当然そこで多少のノイズは乗る)。 オクターブのフレーズは確認できても、どうやって弾いているかが分からないわけである。

これも映像を見て分かった。 Wes Montgomeryは、指は指でも右手の親指をピックの代わりのようにして演奏していた。 クラシック・ギターのアポヤンド奏法に近いようにも見えたが、それとも違う。想像していたどちらでも無かったのである。 やはりここについては百聞は一見に如かずであった。

子供の頃にYoutubeなんてものがあったら、随分無駄な時間や金を使わずに済んだろう。 今の子供らは幸福だ。いずれ凄い芸術家が出現するだろうから楽しみだ。


12/1(木)

寒い。 キーボードを叩く指が凍えそうだ。 みなさんも風邪なんかひかないように。


11/30(水)

自分自身に「自分が何故今に至ったのか」を説明できなければ、当然「今どこに向かい、これからどこにたどり着こうとするのか」も説明できない。 私はこれを「物語」と呼んでいるが、人間に物語は必要である。その人が狂人でもない限り。 欺瞞に満ちた人は、欺瞞に満ちた物語でも、とりあえずは自分を納得させられてしまうと言うだけの話で(いつまで効力を保てるか分からないが)、物語そのものが必要無い人なんていない筈だ。

多くの人が人生に疑問を抱えてしまうのは、ここで言う物語を偽り無しに成立されられないからだろう。 隣にいる誰かを愛していなければ、何故自分がその人の隣にいるのか自分に説明できない。 好きでない人生を選んでしまえば、未来や、この世界の全てを自分にどう説明して良いか分からない。

紡ぎ出したその物語こそがその人の核なのだ。 本来通り過ぎて行くだけの時間・風景に解釈を与え、記憶と為したその主体こそがあなたなのだから。 今日に至る物語があるからこそ、人は未来を描ける。

私が今日も作り続けている音楽とは、私にとって、ここで言うこの「物語」を紡ぎ出す、唯一の道具なのだと思う。 私の過去も、これから立ちはだかるであろう困難な事態でさえ、それがきっと歌になるから、私に恐れる物なんて何も無いと思える。


11/29(火)

自己を取り巻く「物語」について。 今回のこのテキスト、きっと多くの人には意味が伝わらないだろうが、そこを承知で上げる。


ある女の人から聞いた話。 ナンパで知り合った彼氏が「俺たち二人の出会いは運命だったんだ」などと強弁していたそうな。

「んなわけないじゃん」とか揶揄するのは簡単だが、私が思ったのはそういう事ではない。 人間とは、やはり自身(この場合は自身を含む人間関係)の立脚の基礎となる物語(歴史)を必要とする生き物であると言うことに、あらためて感じ入ってしまったのだ。

相手がいたりする場合、どちらか一方がこさえたその物語を、もう一方が満額で共有してくれるとも限らない。 そして共有が為されなかった場合、原則的にその関係は危うくなる。 上のケースも、女性の方が彼のこさえた物語にて自分を納得させられず、関係を破綻させてしまったと言う。 物語の説得力が弱過ぎたりする場合、しばしばこういうことは起こる。

でもやっぱり要るのよ、物語が。 例えナンパで知り合ったカップルですら。 そのケースは馴れ初めに象徴されるように、結果へ至る必然性(意志の介在したプロセス)が無さ過ぎて、気の毒にもそういう、論理を超越したウルトラC(運命だのと)を持ち出さざるを得なかったのだけど、一般にも、必然性の欠如をご飯粒で埋めたような脆弱な論理で、自分たちを美化・正当化しているようなカップルは多かろう。 そこまでしてでも物語は要る。


次回へ続く。


11/28(月)

「悲しみ」について。

昔、あるタロットのフールのカードに、うつむいた悲しげな人物が描かれていた事があったのだが、それを見て「これは間違っている。アホ(フール)は悲しみなど感じない」と、子供だった私に教えてくれた人がいた。 今になって考えれば、まことにその通りである。

苛烈な環境に晒されることくらいなら、誰だって経験しうる。 でも、悲しみを捉えるのには能力が要る。 私は「悲しみ方が分からなくて困っている人」なら幾度と無く目にしたが、「悲しんでいる人」を見たことは少ない。 


日本人は悲しみを表現するのが苦手ですね。 美術史を通じても、いわゆる「ピエタ」とか、ゴッホの石版画「悲しみ」、クラムスコイの「遣る瀬無い悲しみ」と言ったタイプの作品が見当たらない(知ってたら教えて)。

悲しみを表現しないのは悲しみを感じないからで、つまりは悲しくないのだろう。深い悲しみを捉えきれないという事か。 民族なんてのは要は言語なのだから、日本人が悲しみを捉えきれないという事は、日本語にその能力が無いという事でもあるのだろう。

私は純粋日本語を使う生粋の日本人である。 平素日本語で思考しているのだから、つまり作品の全ては日本語で出来ている(これは歌詞やタイトルが日本語かどうかなんて関係ない)。 そんな私だけど、いつか「悲しみ」を書き尽くしてやりたい。 書いてみせるよ。


11/27(日)

何日か前、若者(独身者)の6割以上だかに恋人がいない、とか言う調査結果が発表されていた。この数字は近年かなりの増加傾向にあるという。 当然そういう人らは結婚もしていないわけで、結婚志向が薄れている現状が浮き彫りになった格好だ。 少子化も、今後一層加速しかねないと言う。

若者が結婚しない理由は、「金がないから」だったりするそうだが、金がないのなら余計に結婚すりゃいいと思うのだが、どうしたものか。 一人で暮らすより、家族(大人数)で生活する形の方が絶対何かと割安になる筈だ。 婚姻届を出せば、その上に税金まで安くなる。 貧乏人こそ結婚すべきだろう。

でも、これは女が悪いわな。 一部の女性は、結婚を「永久就職」などと捉え、旦那を「黙々と働いて、給料を持って帰ってくるだけの生き物」だと思い込んでいる。 そりゃ男の方は結婚なんてしたくもなくなるさ。 「そんな事して俺に何のメリットがあるの?」なんて思うのも無理は無いよ。 男女とは、「共に生き合うもの」なのではないか。 私だって、一方的に依存してくるだけの相手なんて要らない。


しかしまあ、そんな事より何より、要するに日本人は「相手を選ぶこと」が苦手なのだろう。 一昔前のように、家だとか親の決めた相手と黙って結婚させられでもしないと、自分で相手を選ぶことさえ出来ないのではないか。


11/26(土)

今週のスタジオにて。 昨日の続き。

   


11/25(金)



今週のスタジオにて。

  


11/24(木)

もう何年か前の話だが、近所のうどん屋に行ったら、ある客が「素うどん、ネギ多目で」などと注文している。 私は軽く驚いて、同じ内容で注文を入れてみたら、確かにネギが多目に入れられていた。

しかしこれはどこまでアリなのだ? 例えば麺の多い「大盛」には別の料金が設定されているわけだから、「麺多目で」は無しである(つうか追加料金を請求される)筈だ。

因みにそこの素うどん、素とは言っても一応麺の他に少量のわかめと薄いカマボコが2〜3切れ(あとネギも勿論)入っていたのだけど、「カマボコ多目」は?「わかめ多目」は?あるいは「スープ多目」は?どうなのだろう。 一回言ってみようかな。


11/23(水)

私の知り合いの知り合いの話。 その人は、還暦を過ぎてなおまだ現役の仕事人である。

既婚者であるが、夫人とは別居していると言う。 別居の理由は何の事は無い、お互いが職場の近くに別々に家を借りているからだそうで、どちらも東京都内に住んでいるらしい。 関係が破綻しているわけでもないと言う。 因みに、子供はいないそうだ。

要するに、離婚する積極的理由が存在しないから、何となく現状を維持している(「離婚届を提出する」と言う能動的行動に至っていない)。 今後離婚する予定なども、とりあえずは無いそうだ。 一旦婚姻届を役所に提出し、現時点で離婚していないと言う唯一の事情によって、婚姻関係が継続している。 つまりは、双方が平素の生活において、お互いの存在を必要としていない。 少なくとも、話し相手であるとか、その程度の役割すらお互いに求めていないのである(その程度と言ったが、そこは実に大きいわけだが)。

上のケース、もし子供がいたりなど、現実上の制約があることによって、彼らが生活のスタイルを現状のようでなくしたことはあり得たろうが(大抵の夫婦は一緒に暮らしてぐらいいる筈だ)、そういった場合にも、精神の構え方に今との大きな違いは無かったろう。

結婚って、幾許かの税制上の優遇があったり、社会的信用に繋がったりと、まあ確かに色々メリットはある。 また、バスに乗り遅れる不安も解消してくれるのだろう(これが大きいのかも)。 でも何と言うか、多くの人にとって、結婚(と言うか人を選ぶこと)ってたったそれだけのものなのだろうか。


結婚と言う制度などに何の憧憬も持たない私だが、人生において、とりわけ長い時間を共に過ごす相手には、当然それ相応の何かを求めてしまう。 私には、面白くない人と時間を過ごすことが苦痛なのである。

面白さってのは、「心の豊かさ」ってことになろうか。 少なくともギャグを乱発する人とかではないな。


11/22(火)

BI(ベーシック・インカム)って構想がある。 全国民に政府が一定額の収入を無条件で保証するといった制度で、実際に導入している国こそまだ無いようだが、経済学的には一考の余地ありと見做されているそうな。 私も面白いとは思う。

「そんなんで本当に社会が立ち行くか」なんてのはさておき、確かにもう現代のこの社会に、人力(労働力)の需要ってあんまり無さそうだ。 雇用を確保するためだけに、ありもしない仕事を無理やり作っているような会社・業界も多い気がする。 BIが導入され、労働力が流動化すると、一気に整理・再編が始まるだろう。

BIの話を聞いていると、何だか良い事づくめのように思えて、「だったら早く導入すれば良い」などとも思えてしまうのだが、そう一筋縄にも行かないのだろう。

今の日本には「ヒマだから働いている」と言うような人が実在する。 本当にいる。 そういう人らが大量にいる以上、「もう金の心配なんてしなくて良いから、好きなことをして余生を謳歌しなさい」なんて言っても、この国はパラダイスにならないのだ。 その人たちは、あり余る時間を持たされても「何をして良いか分からない」から。 むしろ、その手持ち無沙汰は恐怖に近かろう。 考える能力が低ければそうなってしまうだろうよ。 本当に思考能力ゼロなら、それはそれで悩みなど無かろうけど。

BIの構想は面白いけど、まだまだこの社会の全ての矛盾を解決する、夢の手段にはなりそうにない。


11/21(月)

K-POPについての雑感。

作品のクオリティ、高いんだよね。 うかうかしてるとJ-POPって追い抜かれてしまうんでないの。と言うか、既に抜かれてるかも。 耳にする範囲だけで言わせてもらうと、K-POPはちょっと音回りに傾向っつうかクセがあって、全方位(ジャンル)的なクオリティを維持している感じじゃないような気もするけど。 少なくとも、ある方面の音に関しては、J-POP最強クラスのクリエイター陣に比べても遜色ない仕上がりだ。

日本の商業音楽のクオリティの頭打ち感って、技術でなく業界の構造の問題のように思える。 日本のほとんどのメーカーって、本気で良い音楽作って売ろうとしてないもの。多分。


11/20(日)

事務所のトイレに「ブルーレット」が投入されていた(知らない人は調べてくれ)。 あれの効果が如何程のものなのか、私はよく知らない。が、あの「青さ」には説得力を感じた。 私みたいに、半ば暗示にかかったような精神状態で、あれを使っている人も多いのではなかろうか。


11/19(土)

私は基本的に制作屋と言うか、要するに音屋なわけだが、スタッフが少なすぎて営業的な仕事もやらざるを得ない。 してそれは、喋ったり愛想を振り撒いたりするのが苦手な私にはほとんど拷問に近い。 世の中のいわゆる営業マンと言った人々には、本当に恐れ入る。 日常的にアレを生業として生きているのだろうから。


ありのままの自分が、変なヤツだと思われたり、嫌われたりするのは、もう仕方ないことだと諦めるようにしている。 どう背伸びしたって、私は私にしかなれないだろうから。

変なヤツと言うのは単に平均的でない者で、それはマジョリティと言う「外の世界」が決めることだ。 我々は我々のままで良いし、自分にしかなれない。 真面目に生きてりゃきっと誰かが理解してくれる筈だ。 今の私は、私の好きな自分であろうと努める事ぐらいしかできない。

今週は外に出る機会なんかがあったもので、こういう事をつらつらと考えてしまった。 この世界のどこかに、もし私みたいな人がいるなら、届けたいと思ってテキスト打ちました。


11/18(金)

神田優花の今年発売のタイトル、いくつかの海外での公開が遅れてたみたいなのですが、全て発売されたみたいです。 一応報告。



閑話休題。

意中の人に対し「俺の愛する女はお前しかいない」とか「お前さえいてくれればそれだけで良い」とか「お前がいないと生きていけない」なんて言って、相手に「忠誠」を誓う男性がいるが(実見したことこそ無いけど)、それってつまりは相手を「消去法」で選んでいるだけに他ならないと思うのだが、どうだろう。 だって「お前しかいないから」こそ、その相手を選んでいるに過ぎないわけだから。

そういうことを言われて喜ぶ女性は、究極的には、自分が死んだ後などには、相手の男性が悲嘆に暮れ、ついでに後追い自殺でもしてくれたら満足なんだろうか。 だとしたら、私の気分とそういう人らの気分は大きく隔たっている。


私なら、「好きな人は他にもたくさんいたが、一番好きなあなたを選んだ」と言われる方が嬉しいだろうし、恋人などには、自分が死んだ後、残された限りある世界の中では、精一杯幸福を追い求めて生きて欲しい。 私は愛に排他性を求めない。


11/17(木)

人間の能力には個人差が当然ある。 全員に適応できるルールを整備しようと思うなら、それは無能者に向けたシフトにならざるを得ない。 有能者はそこで犠牲を強いられる。

私は無能者を足蹴にせよとまでは言わないが、有能者が無能者の犠牲になるべきとは、それはそれで思えない。 なんとか有能者のための体制を整備せねば、組織・社会は無能者の巣窟となる。 無能者のための体制なのであれば、無能者の温床となるのは必然である。

有能者がその能力を発揮できないと言うのは、不幸なこと。社会の損失である。 私を含む無能者らにとっても、そんな状況は、歓迎すべき事態でない筈なのだ。 巡り巡って自分自身にも不幸を招くに違いないから。

大多数の無能者が、有能者の出現を歓迎できない社会なんて、そりゃ廃れていくだろうよ。 多くの日本人は、自信が無さ過ぎるのだ。 皆で手を繋いで、もれなく不幸になろうとしていやしないか。


11/16(水)

吝嗇家(ケチ)について。 あなたの周りにもいるでしょう。

多くのケチな人の表面にあらわれる吝(しわ)い振る舞いだが、それが生まれるに至る思考的プロセスってのは各人それぞれに違う(と思う)。 と言うか、いくらかのパターンに大別できるような気がする。

徳川家康は吝嗇家だったことで有名らしいが、各方面に蓋然性の枝葉を張り巡らせ過ぎた結果、そのような人物になり果ててしまった面が大きいように思える。だから気の毒な気がしないでもない。 思考(論理)の筋道が途絶えればこそ、できる大盤振る舞いってのはあるだろう。 宵越しの銭を持たぬと粋がった江戸っ子など、気前の良さの正体って、大抵はこれじゃないのか。

家康のケースはおそらくレアである。 そこらへんにいる大概の吝嗇家は、臆病さと共感性の欠如によって生まれているだけだ。

臆病者は保身で頭が一杯だろう。我がこと一つに汲々としている身で、他人に施しなんてそりゃできないさ。 これを責めるのは酷ってヤツかもしれない。

共感性が低ければ、他人の気持ちが体感できないので、何かを振る舞うことによって「隣人を喜ばせたい」などと思える筈もない。 そういう人らが辛うじて行う他人への施しは、何かを得るための投資になってしまう。 愛する人を喜ばせるためのプレゼントと、自分を好かせるためのプレゼントは違うのだ。

いくら吝い人間でも、ケチと思われることは避けたい。カッコ悪いから。 だからそういう人らでも、場合によっては何かを他人に「奢る」。 が、これも上で言う投資に他ならない。 ケチのレッテルを避けるための投資である。

私が言いたいのは、大抵の吝嗇家と言うヤツは、こうやって原理を紐解いてみるとかわいそうな人でもあるってこと。 良い悪いはさておき、まずは理解してあげましょう。


11/15(火)

人に対する好意について考えてみた。

例えば、昔の恋人のことを「今でも好きか」と問われても、多くの人は何となく答えにくかろう。 自分という人の嗜好に適った人物であったればこそ交際するにまで至ったのは間違いなかろうが、そんなに好きなら今でも付き合っている(あるいは追いかけている)筈だ。 「好きだがそれほどではない」ぐらいが適当な回答じゃなかろうか。

「好きさ(好意)」というバロメーターの対極に「嫌いさ(嫌悪)」といった感情があると思われがちだが、それは誤解である。 好きも嫌いも同じく印象で、好意の対極にあるのは、よく言われるように「無関心」である。 好き嫌い以前に「どうでもよくなった」のなら、いよいよその人に対する情熱は冷めているが、嫌いであるのなら、ある意味では関心が継続していると言える。 「好きだけど嫌いな人物」、これは当然存在し得る。

ある人に対する総合的印象・評価を形成するプロセスとは、良質な部分(長所)に好意を持ち、悪質な部分(短所)に嫌悪を感じることで、それら断片的印象の集積が、総体としてのその人の印象となる。 長所に対する好意は、まさに自分の嗜好に適っているのだろうから、そこを嫌いになったりすることもなかろうが、精神が洗練され、感受性が育つにつれ、短所に対する嫌悪感は増してくることも当然ある。 それらを統合した結果、付き合いを終える(別れる)という判断に至ったりしたとしても、やはり好きな部分は好きなままだろう(その部分に限定するなら、好意は増している可能性すらある)。

私などは、他人に対して一旦持ってしまった印象がなかなか薄れないタイプなので、恋仲になるほどの相手についての関心自体が失せるなんてことも考え難い(そもそもそんな関係の相手なんて、数も知れているし)。 やはり昔の恋人には、総体として「人生を共有するには物足りぬ相手」という判断を下したという事だ(これ、言うまでも無く私に限った話ではない)。 悪質な部分などというと大袈裟だが、「面白く無さ」ってのはつまりは短所なのです。 相対的にもっと価値のある人生(時間)の存在を脳裏にかすめさせてしまうもの。

また、いくら相手を嫌いでなかったとしても、人生は一度きりである。 私の体が一つであり、一日が24時間しかなく、残り時間(寿命)にも限りがある以上、「嫌いでない」とか「好きでぐらいはある」といった程度の消極的な理由で、人と深い付き合いなどできない。 私は一番好きなことをやって生きたいし、大好きな人と時間を過ごしたいから。


11/14(月)

漫画をよく読むのだけど、大抵のオハナシには失望してしまう。 何故か。

主人公をはじめとする登場人物に、人格的魅力が薄いからだ。 そこにはストーリーだけが横たわっている。

キャラクターが薄い理由は、偏に作者の人格に因る。 心に悪を宿していない人物に鮮やかな悪漢など描ける筈もない。 キャラクターが詰まらないのは作者が詰まらないからだ。

例えば、女にモテるとか、周囲からの人望の厚いとかいう人物を描こうと思うなら、当然のようにその人の「魅力」を描き出さねばならないわけだが、人間の魅力について、いまいちピンと来ていない作者にはこれが描けない。 結果、印象としては、成果のみを(理由無く)手に入れる幸運児を作り出してしまう。 これが面白くない。

昔、ある少年漫画で、女の子にモテてモテて仕方ない主人公を登場させた作品があったのだが、彼(主人公)が異性を惹きつけるその理由は、「フェロモンを放出しているから」と言うものだった。 そう設定するより他無かったのだろうけど、言うまでも無くその作品は面白くなかった。


11/13(日)

  

神田優花、今年(おそらく)最後の新作に取りかかっています。 面倒臭そうな曲なんで、今年中に録れるのかよく見えませんが。 上は先日のスタジオにて。神田さん、髪切りましたね。


11/12(土)



今週のリハーサル風景。

    


11/11(金)

芸術家って本来研究職に他ならないのだけど、分野がどこにも属さないのでなかなか研究費が下りない。 一般の学者がやってる研究なんて、結構マニアックな内容でも、大抵は、既存の何らかの分野に属するものなので、額はさておき研究費にぐらいは与れる。

アーティストって絵を書いたり作曲したりする人だと思われているが、それは違う。 アーティストは自分を研究しているのである(学者とかもつまりはそうなのかもしれないが)。 だから、その活動も究極的には、浮世からの支援とか、商業的な成果だとかとは無縁の作業にならざるを得なかったりする。

社会に還元されない(還元を目的としていない)研究を続けているのだから、この状況は止むを得ないと言うか、諦めざるを得ないものである。 でも、人間が自身の可能性を追求する作業の軌跡は、きっと他の人類にも何かのヒントを与えるだろうと思う。 だからその部分については支援に与れるかもしれない。 分からないけど。

因みに私は、今日も大変な思いをしながら音を作り続けているアーティストのみなさんの事を思いつつ、エールとして以上のテキストを打った。 今回の文章に私自身への慰めの要素は薄いように思える。 私は、自己満足の為の作業に没頭しつつ、現状程度にでも自由な時間を持たされて生きて行ける事に、十分満足しているので、不遇感は希薄である。


11/10(木)

人は詰まるところ一人ぼっちなんだ。でも、別に悲しむことではない。

家族や友人・恋人など、いくら周囲を他人で固めようと、自分の目に映った登場人物が増えたに過ぎず、結局人間が一人であることに変わりはない。 周囲の(特に近しい)人とは、人間が、あたかも自分が一人でないかのように錯覚してしまう一要因に過ぎない。

私はこの事に気付けた事によって、自分の価値が分かり、自由になれたのと同時に、隣にいる別の人間の価値にも気付けた。

私たちは、この心を持たされて、この世界に出会った。 そしていずれ消えて行く。 持てる物は時間だけしかない。

失うものだとか、帰る場所だとか、そういうものも全て、あるような気がしただけ。 どんなに金やモノを掻き集めても、我々はそれらを感じることぐらいしか出来ない。


あなたも私も、今日まで一人で生きて来た。 だからこれからもきっと大丈夫なんだ。 どんなに周りの人に支えられてきたとしても、それらの人々は所与のものであったり、我々が選んだりしたものなわけで、この世界はその程度には酷い場所じゃないってだけの事。 だからきっとこの先にも、素敵な出会いが待っている。 あなたはあなたのままで良いし、自由でいさえすればそれで良いのだと思う。


11/9(水)

Jazz voicingなんてものが体系づけられてたり実際するわけだが、往年のジャズ・ミュージシャンらがそんなものを理論体系として編み出したわけではない。 彼らの感覚的なツボを、外野の誰かが研究した結果って感じだろうか。

Jazzを作ろうと思うのなら、jazz voicingなんてものを知るのでなく、この感覚こそを体得せねばならないのだろう。 対位法とかを本気で習得しようと思うなら、不完全音程とか不協和音程とかを「知る」のではなく、「体感する」感性こそが必要になるのとかと同じで。

日本人の私の作るものは、他の多くの日本人と同じで、詰まるところ演歌である。 上で言う感覚を覚えねば永遠に演歌のままだ。 精進せねば。


11/8(火)

人はそれぞれ違う。 当たり前の事だが、これを実態相応に認識している人は稀有である(私とてどれだけ正確か)。

人がそれぞれに違う理由は、そもそもの感受性が違い、それによって持っている言語の精度が違ってくるからである。 単語に込めている印象が違うのだから、それらをもってして組み立てる論理・思考は当然違う。 皆ごく自然に、自身の思考をもって他人を推し量っているのだが、そうするより他ないので当然である。 他人など分からない。

「お前の母ちゃんデベソ」と他人を罵る子供は、自分の母親にはデベソであって欲しくない、と思っている。 でないとそんな悪口を思いつけない。


人は一般に、堂々とした人が好きであり、臆病な人が嫌いである。 何故か。 それはそれらの態度が、その人の思考から生み出されているからである。 ここ、分かり難いかもしれないので説明しますね。

堂々とした人が自身の振る舞いに自信を持てるのは、その人がその人なりに誇りを持てる自分であるからだ。 誰かを支える腹積もりがあるからこそ、他人を信じられる。 「私が誰かを救うつもりがあるのだから、私を救う人はいるだろう」と当然のように思えてしまう。 他人を救うつもりのある者は、ごく自然に、他人を好意的に捉えてしまう。

翻って臆病な人とは、誰を救うつもりもないので、基本的に他人が怖い。 窮地に陥った人など歯牙にも掛けぬ自分であるからして、当然のように他人など頼むに足りぬと思える。 臆病者は、他人を蹴落とそうと思えば思うほど、他人の存在を脅威と見做さざるを得なくなる。 だから臆病者は嫌われる。

猫は凶暴かつ臆病である。 トラやライオンは同じネコ科なのだが、多くの猫は、自分より体が小さく勝てそうな相手にはほとんど見境ない攻撃性を発揮するクセに、人間をはじめとする「自分より大きな生物」を極端に警戒する。 彼らが自分のロクでも無さを熟知しているからだ。


今の日本は不景気であると言う。 構造的な問題もあるのかもしれないが、要するに人々の不安がそれを生み出している。 今の日本人も、自分らのロクでも無さに苦しめられ続けていると言える。 「人生お先真っ暗だ」とか「世界は闇だ」と思える人なんて、さぞかし誰を支えるつもりもないのだろうよ。

私は臆病な人になりたくないから、せいぜい誇りある自分になるべく努めたい。 最後の最後まで、自分を応援してくれる誰かの存在を信じ抜く為にも、誰かを応援し続けたい。 自分の為に。 情けは人のためならず。


11/7(月)

スマートフォンの普及で、いわゆる「着うた」とPC用ダウンロード・コンテンツの垣根がなくなりつつある。

ウチの商品も今までは何となく価格上の差別を設定していて、「着うたフル」はPC用より\100高く販売していた。 次回のリリース分からはこの価格差を無くそうと思ってます。 理由は、今までの価格差にそもそもの根拠が無かったから。

しかし、家庭用のデスクトップPCとかって、無くなっていくんだろうな。 デカくて邪魔だし、処分に困る。 DTPとか動画とか、そういう大型のディスプレイが必要な(専門的)作業をやるような人以外にはほとんど必要なくなるだろう。

現時点でのスマートフォンの不備って、せいぜい文字の入力効率ぐらいのように思えるが、それも長文を入力する必要があるような人はオプションのキーボードでも買い足せば良いだけだからな。 音楽の消費スタイルが一層定まってくれれば喜ばしい。


11/6(日)

 

神田優花、新曲の歌録りでした。 2日公開の「True colors」、好評発売中です。


11/5(土)



今週のスタジオにて。

     


11/4(金)

今年発表のタイトル、海外では公開が遅れてたり、タイトルのリリース順序が前後してたり、やや混乱してますが、向こうの業者の手違いだと思われる。 つうか、以前にも似たようなことがあったのだけど、手違いですらないと言うか、常にこんな感じなんじゃないかと。 日本人とは感覚が違う。 今しばらくお待ちを。



オケ(バッキングトラック)の多くの部分を打ち込みで作るわけだけど(全部生演奏なんてやってられない)、ギター類って何故にあんなに再現性が低いのか。

私は一応ギター弾いたりもするもんで、自分の曲などは自分で弾いているケースも多いが、打ち込みで間に合うならそれに越したことは無いと思うこともしばしばだ。 そうできないのは、ギターってヤツは打ち込みで間に合わせるにも限界があるからだ。

個人的には、他の多くの楽器なら、ギターほどに打ち込みと生の違いを感じない。 音そのものが「違わない」と言っているのではなくて、「気にならない」って話。 なまじ私が、本当にギター弾いたりするもんだから余計気になるのかも。 他の楽器の奏者ってどうなんだろう。


11/3(木)

最近モノに飽くのが早い。 新しい曲を作ってる時など、それが出来上がる前に飽きてしまって、次の曲のことばかり考えてしまっている。

私は昔から、おいしい食べ物などに出会うと、とりあえず飽きるまでそれを食べ続けてしまいがちだ。 従ってすぐ飽きる。 しかしこれは、飽きるまで突き詰めてみないと、自分が本当にそれが好きなのか分かりにくいからでもある。

飽きてなお好きなものこそが、本当に好きなものなのである。

モノの良し悪しってのは、飽きてみて初めて分かる面がある。 音楽作品なんて日常的に作っていると、そこを痛感せざるを得ない。 飽きるまで手に入らず、「物欲しさ」を残したままだと、人間は美意識を狂わせてしまう生き物なのだ。

若者はとりあえず好きなことをとことんやるべし。 実は自分がそれを好きでないことに気付くほどにやり尽くしたらよろしい。


11/2(水)

神田優花「True colors」、本日発売です。 レーベルとしても今年最後のリリース・アイテムになります。 以下、神田優花本人から。


True colors / Be-Bop-A-Lula

人生は旅だって言葉を聞いたことがあるけれど、一つ一つ忘れないで、大切なものを全て持って先へと歩いて行けたらという願い、祈りを歌に込めました。もし全てを忘れることなく抱えていけたなら、目に映る世界はどんなにか色鮮やかに広がることでしょう。

カップリングは、最近録った実験的なナンバーで、私にはめずらしくブラスの音の曲となっています。いつもと違う世界を楽しんでいただければと思います。是非、聞いてみて下さい。

神田優花






11/1(火)

私は、ありきたりな音楽を退屈に感じることがあるが、かと言って、プログレだとか現代音楽と言ったものは、それはそれで正直あまり好きでない(良いと思う楽曲とかならあったりもするけど)。 月並みなギャグ漫画に飽いたからと言って、不条理漫画みたいなものでは笑えない、と言う人は多い筈だ。

昔、自主制作映画をひたすら批評するような深夜番組があって、ある回を私はたまたま見ていたのだが、審査員の一人がこう言う。「こういう趣旨で作品を募ると前衛モノばかりが集まりがちだが、この手の前衛と言うのは実は簡単で、正統的な作品を作る予算や能力に欠けているだけのようなものが殆どである」と。 なるほど。今考えればその通りかもしれない。

前衛音楽を作るのは簡単なのかと言うと、それはそれでモノにもよるし、一概には言えないわけだが、「単に正統的でないもの」であれば、わりかし容易に作れる。 幼児の作るものは大抵正統的でない。技法そのものを習得していないからだ。 アマチュア作品の投稿サイトみたいなのを見ても、前衛っぽいものは実に多い。 正統的な作品を作る方が、ある意味では面倒臭いのかもしれない。

人は気分の生き物なので、方向こそそれぞれ違ったりするのだが、全ての行動は気分を得るために為されている。 音楽を生む作業然り。 前衛的なものを発表したい人にもその人らなりの機微があるわけで、その人がそこで欲しい気分は「正統的作品の発表」では得られないのだろう。 私においては、衒学的な作品が気に障るなんて事は別にないわけだけど、率先して聴く気になれないってのも正直な気持ちだ。


10/31(月)

 

影山リサ。 10/26(水)発売の新曲「Baby Rose」、如何でしたか。 来年あたりには2ndアルバム出せたら、なんて思ってます。



神田優花「True colors」収録曲について。


True colors

今年発表する作品群の中で、一番気に入っている曲。 私が音楽を通して表現したい何かが、今までで一番思うように表現できた曲かもしれない。

頭の中で構想を練っている段階では、四拍子なのか三拍子なのか、何だか微妙な曲だった(聴いてもらえば分かります)。 結局四拍子にはなったものの、折衷した感じに仕上がっている。 アレンジではギターは気に入っているかな。 イントロや間奏にはオルタードってスケール使ってる。 ボーカルはとても良く仕上がっています。

私たちなりに一生懸命作りました。 あなたの心の側に置いてもらえたら、喜ばしい事この上もない。






10/30(日)

 

神田優花、今度の水曜(11/2)には今年最後のアイテム、「True colors」を発表します。 以下、収録曲について私から。


Be-Bop-A-Lula

実験的に作った曲で、当初こんな形でリリースするとは思っていなかった。 無難に出来ているとは思うけど。

五拍子とかだし、最初インストとして作っていて、歌を載せるなんて直前まで思っていなかった。 だから歌詞なんかは悪く言えば付け焼刃。

そう言えばこの曲、バッキングにブラスの音が入っているんだけど、最近私はブラスのアレンジに凝っている。 ブラスなんてほとんど楽器を触った事すらなくて、一時期、一から本読んだりして勉強していた(いまだに分かっていない部分が多いけど)。

しかしどうもこのブラス音、神田優花のアーティスト・イメージとの相性が悪くて、ここ最近作り続けているブラスを多用した楽曲も、神田優花のレパートリーとしては発表の機会が無さそう。 何らかの形ではいずれ発表出来ると思うけど。



10/29(土)

今週のスタジオにて。

     



「編集作業って、一曲につきどれくらいの時間が掛かるの?」とか問われると、返答に窮してしまう。 曲によるとしか言い様が無いから。

まず、パート数とか、どれくらいのギミックを施すか、とかにも勿論因るのだが、それより何より作業が一旦一区切りついた後の「寝かす時間」ってのがあって、それが読めないのだ。

こういう話って何度もしているような気がするが、上がったばかりの作品って、時間を置いて聴く度にどこかしら修正箇所が見つかってしまう。 つまりまだ生乾きなのだ。 だからと言って適当なところで完成としないと永遠にモノが仕上がらない。 今のところ編集には、通常約1〜2週間かけている。 あと、編集の作業時間は、曲そのものを自分が作っているか他人が作っているかに因る部分も大きいな。


10/28(金)

Bluesってポピュラーな音楽だけど奥が深い。 と言うか、音楽理論的な解釈が難しい。 まあやってた当人らは、そんなに深いこと考えてすら無かったろうけど。

典型的なコード進行に典型的なスケールをのっけただけで、とりあえずブルースらしきものは出来上がる。 で、一応の解釈としては、普通のブルースはメジャー(長調)ってことになっているんだけど、実のところバッキングはパワーコード(長短を決定付ける要素である三度の音が無い)程度のものであるケースが多いので、調性も曖昧だったりする。 もしかしてあれば短調じゃないかしら。

Bluesは、上に乗っかってるいわゆる「ブルーノート・スケール」や「ロックコード・スケール」ってのが、性格としてマイナーに近い。 後者はスケール名としてもペンタトニック・マイナーだし(ペンタトニック・マイナーはあくまでマイナーkeyに乗っかってるのみの呼称で、メジャーkey上ではブルース・ペンタトニックなどという、一応は別の名になる)。 それでも楽曲そのものとしては一応メジャー(の変格)って位置付けらしい。マイナー・ブルースってヤツも、それはそれで(別物として)存在しているし。

私は厳密に言うと、Bluesを短調だと思うのではなく、長調の定義に収まりきれていないのではないかと思うのである。 音楽理論ってのは、要は後付けの理論なので、このようにぴしゃりと収まりきれない例外が無数に存在する。 しかしながら、「音楽を支配する力学」みたいなものは間違いなく存在しているので、それを解明したくなる気持ちも分からないでもない。


10/27(木)

前々からやろうとは思っていたのだが、church mode(教会旋法)ってヤツに則った曲(歌物のPOPS)が書きたくて、今試行錯誤している。 しかし和声音楽の成立以前のメソッドなので、ある面では和声音楽との相性が実に悪い。

教会旋法って、結局は和声に収斂されたものなだけあって、モノによってはキレイに整合するっつうか、上手く収まってくれる。 でも、和声法そのものではないわけで、つまり淘汰された部分があるわけだけど、その部分が実に使いづらい。 でもその部分こそがモードの醍醐味でもあるから困る。

色々調べたくて情報漁ってたんだけど、書籍の類が全然見当たらない。 出版自体されているのだろうか。売れるわけ無いから怪しいな。 教程書の類で良いので、良い物知ってたら教えて欲しい。 中世の教会旋法から60年代のジャズや現代音楽に至るまでの、モードの概念・変遷・使用法等を、体系的にまとめたヤツ。作例とか充実してたらもっと良いんだけど、モードなんて音大とかでもどれだけ教えるのだろうか。 教えてたとしても大した時間割いてないだろうな。 あ、一応ネット上には解説サイトの類は散見されます(これだけでも随分助かってます)。


因みに、私が拵えようとしているのは、グレゴリアン・チャントなんて言う「中世の西洋音楽そのもの」はないので、対位法(とか通奏低音)的な作りのものではない。 かと言ってマイルス・デイビスとかコルトレーンみたいなのでもない。 コード進行感のある程度ある、調性音楽の上にスケールとしてモードを乗っけたようなヤツに近いんだけど、そう言い切ってしまうと、それもちょっと違う。 それらを折衷したような感じか。 とにかく、そんなにコード進行に依存したようなものじゃない。


どうでも良い話だが、厳格対位法の禁則とか守ってられるわけないな。 12弦ギターとか存在自体が禁則に引っ掛かってるみたいなものだ(フレーズが全部連続8度になる)。私は今回まさに12弦ギターを使おうと思ったの。

しかし当たり前の事だが、音楽(創作)に本来禁忌なんて無い。 あらためて現代人が音楽だと認識しているようなもの(調性音楽だとか)って、一様式に過ぎないのだと思わされる。 様式なのだから、どうしても時にそのお約束を「寒く」感じてしまう。 あと音楽は、やればやるほど「これは数学なのだ」と思わされる。 私はこの「数学」が得意でないから、余計にそう思うのだろう。 まあとにかく、上のようなものを作ろうと今四苦八苦してます。 多分来年(神田優花のレパートリーとして)発表できる筈なんですが、どうなることやら。


10/26(水)

影山リサ、新曲「Baby Rose」が、国内主要ダウンロードサイトにて本日発売です。 以下曲について、影山さん本人から。


Baby Rose

影山リサにしてはちょっと珍しい、控え目で少し臆病な女の子の恋する気持ちを歌っています。
とても可愛い曲なので、皆さん是非聴いてみて下さい。

影山リサ






10/25(火)

初めて(自分で働いた金で)買ったギターは一応テレキャスターだった。 何故一応かと言うと、フェンダーのテレキャスのようなスタンダードなものではなく、テレキャスもどきのインチキ臭いヤツだったからだ。

色は黒一色、ピックガードもついてないノッペリとしたボディーで、ヘッドはコンコルド・ヘッドとか言うタイプのトンガった作りだった。 実に子供っぽい意匠で、大人になった今、それを持ってステージになどよう立たん、と言った代物だ。

ことほどさように「初めてのもの」ってのはほろ苦い。 楽器とかだけでなく、初めて自分で選んだ服とか、靴とか、あるいは友人や恋人だとかも。 何故なら、我々人間にとって「何かを選ぶ」と言うのはスキルだからだ。 その能力は年とともに当然のように洗練されて行く。

子供の頃の友人や恋人は、同じ学校にいたとか、近所に住んでいただとか、つまり「単に可視的な範囲にいたもの」であった側面が大きい。 行動半径が狭ければ狭いほど選択肢は限られ、その選択も、選択とは言い難いようなお粗末なものとなる。

無論その限られた範囲の中からでも、我々が「選択」をしなかった筈は無いし、そこで選んだ友人が一生涯の知己となるケースだって、初めての恋人が生涯最高の人である可能性だってなくはない。 ケースとしては非常に稀だろうけど。

経験を積む度、人は何かを感じ、蓄積を為す。 人は知るのである。「こういうタイプとは合わないな」とか「私と言う人は、こういうモノが好きなんだな」とか。他にも、人間とは、ある長所とある短所を兼ね備えた立体的存在で、人を選ぶこととは、そう言う他人と自分との折り合いをつける作業であるとか。 目の前の世界を知ることとは、つまりは自分自身を知ることなのだ。

人は成長するのである。 時間を経て、多くの経験を積むうちに「人間」や「世界」と言うものをより鮮明に捉えるようになる。  だから昔手に入れたものなんかより、今手にしているものの方が当然素晴らしいし、それより何より、これから手にするものの方がもっと素晴らしいに違いないのだ。

ピカソは「明日描く絵が一番素晴らしい」と言っていたそうだが、芸術家として当然の気分だろう。 「子供の頃に書いた曲が最高傑作」なんて言っている人がいたとしたら、それほどに詰まらない音楽家はいないだろうよ。

幼少期に手にしたものが「生涯最高のものであった」などと本気で思っている人は、その執着心が別の事情に支えられているか、あるいは、その人自身が全く成長していないのか、のどちらかなのだろう。 物凄いレアな例外を除いては。


10/24(月)

神田優花、今また新曲に取り掛かってます。 一応年内にもう2曲上げる予定。

 

10/19(水)発売の「Here&Now」、如何だったでしょうか。 来月2日には今年最後のアイテム、「True colors」を発表します。こちらもお楽しみに。


10/23(日)

影山リサ、今週のリハーサル風景。

  

10/26(水)発売の新曲「Baby Rose」について。 私(益田)から。

Baby Rose

これもPOPS。そんなによくあるタイプではないような気がするけど。 パーカッションのリズムがキーになってるのかな。 サビの転調を含んだ展開とかは、LUCKY STARって曲に似ているかも。今気が付いた。

ボーカルは、早口で歌詞を畳み掛ける感じで、影山さん歌うの大変だったろうと思う。 それなりに上手く仕上がっていると思いますが、どうでしょうか。



10/22(土)

今週のスタジオにて。 一枚目は仙台土産だそうな。

    



愛する人、大切な人がこの世界から消えたら、誰だって(無論私とて)悲しい。 しかし不思議なことに、その大切な人と出会う前の我々は、その人無しでも平然と生きていた。 当たり前の事だが、私はこれが不思議でしかたない。

愛するから苦しむとか、出会ってしまうから別れの日が来てしまうなんて事は、お釈迦様に説かれるまでもなく、人は皆経験則として知っている。 だから私は例えば、子供を作るのが怖いと感じてしまう。 今存在しない悲しみの種をわざわざ作っているように思えなくもないからだ。 勿論子供がもたらすものは悲しみだけではないのでしょうが。

私は、愛する人たちに「この世界に生まれてきて良かったね」って本気で思えるから、きっと子供などが出来てもそう掛け値なしに思えるのだろうけど、だから余計に怖くもなる。 あんまりこういう気分って共感してもらえないのだろうか。よく分からない。

まあしかし、今の私のこの杞憂を拡大して言ったら、詰まるところ「生まれてこない方が良かった」と言う結論にも至りかねない。 自分が生まれて来たこの世界を呪うほど、愚かで非生産的なことはないわな。 やはり私は、どんな悲しみがオマケについてくるとしても、喜びのある人生を生きたいね。


10/21(金)

大和言葉(日本の固有言語)は、形而上概念を表す語彙に乏しい。 だからモノは指せても、気分・思考・抽象概念を表現しにくい。 日本人は昔から「モノ作り」に長けた民族だとか言われるし、実際その通りだが、反面それは言語力の弱さを物語っている特性でもあるのかもしれない。

「犬」が何なのか、それは指をさせば分かるわけだから、犬の定義は、ほぼ万人に共通している筈だ。 だが、概念語はそうでない。 皆が口にする「嬉しい」が全て同じ気分を指しているのか、検証は難しいにせよ一概には断じられない。

無論、概念語とて180度意味を取り違える人はいない(あるいは少ない)。 「嬉しい」気分を「悲しい」と表現するような人は少なかろう。 大抵の「言語の怪しい人」は、ある概念が円状だとすると、頭の中で「その中心点がズレていたり、同心円上にはあっても、円そのものが小さかったり」と言った状態にある。

私の子供の頃の同級生だったA君は、今思えば実に言語能力の怪しい人物だったのだが、彼はある時期「ウソ」のことを「お世辞」と言っていた。 良い例ですね。 「世辞」には「嘘」がしばしば含まれたりもするから、100%間違っているわけではないが、言語の意味の中心点がズレているからこういう現象が起こる。

現代の日本社会でも、自由と放埓、夢と成果、愛と執着、と言った類の概念整理が出来ていない人はいまだに少なくない。 「○○コンプレックス」とか言う言葉もよく耳にするが、日本人の間では、憧憬(劣等感)とか嗜好癖とかそう言う平面的な意味合いで使用されているケースが殆どのように思える。 本来「complex」の意味はもっと立体的で奥深いものな筈だ。

私の今のところの結論としては、言語力とは、無論ある程度教育で後天的に培うことは出来るものの、その基底に感受性が不可欠なもののように思える。 気分に名前を付けるには、その前提としてその気分を鮮やかに捉える(感じる)必要が当然ある。 因みに、私がここで言う言語力とは、単なる語彙の絶対量ではない。 ボキャブラリーだけなら、感受性などなくともいくらでも増やせるらしい。どうやら。


10/20(木)

ナンパで知り合ったカップルは、さぞかし互いに不安だろう。 それでなくとも男女間と言うのは不安に陥りやすいものなのに。

この間、とあるインターネット上の投稿サイトみたいなヤツに、こんな相談が寄せられていた。 投稿者は女性らしく、内容を要約すると「彼が浮気をしているのではないかと心配でなりません。彼との馴れ初めは、ナンパでした」と言ったものだった。

回答としての投稿はみな、「馴れ初めがそれである以上、彼が他の女性にも声を掛けている確率は高いでしょう」みたいな、いわばごく常識的なものばかりだった。 そりゃそうだわな。 回答者らは状況証拠から蓋然性の高い推測を導き出しているだけで、別に相談者の彼を、悪意にて貶めようとしているわけでもなかろう。

不安になるのは声を掛けられた女性だけではない。 依存関係のバランスによっては、男の方も気が気でない筈だ。 だって「街なかで声をかけただけの自分についてくるような女」なのである。 別の男にいつ鞍替えするやもしれない。 そりゃ不安さ。

ボードレールは何かの文章で、「街で擦れ違っただけの女性に100年の恋を感じた」みたいな事を言っていたような気がするが(字句は甚だ不正確)、文学者の特殊な感性であればこそそういう現象も起こりえるのかもしれないが、私を含む普通人にそれは為し難い。 そんな事情で相手を選んでいては、瞬く間に関係は破綻しよう。

私はこういう事に限らず、物事の捉え方が保守的というか常識的である。 それは単に論理的っつうか、算術的に思考しているだけなんだろうと思うけど。


10/19(水)




神田優花「Here&Now」、国内主要ダウンロードサイトにて本日発売です。 以下曲について、私のコメント。

Here&Now

これはごく最近作った。 ボーカル・パートは、ユニゾンとかも合わせたら確か10トラック以上ある。 パートは多いし、コーラスも複雑だったのだけど、最初から承知の上でリハーサルとかもやってたから、レコーディングそのものはそんなに難航しなかった。

聴く時には、メインのボーカル・ラインをがっつり聴く感じじゃなくて、コーラスやアレンジを含めた全体的な音の質感を体感して欲しい曲。



10/18(火)

明日発売の神田優花「Here&Now」、収録曲について。

sometime

古い曲。 かれこれ二十年近く前に作ったろうか。 Oneと違って、この曲は作った当時の原形をかなり色濃く残している。 7〜8割方そのまま。

割りと好きな曲だったからこそ、今さら引っ張り出して来たわけだけど、やっぱり拙さは感じる。 アルバムとかには多分収録しないと思う。 この曲は、パート数が少ない事もあって、各楽器の音の輪郭がかなりクリア。 特にドラムの表現には拘ったつもりだけど、やはりある種の奏法(パラディドルとか)はあんまり表現できていない。今後の課題か。 神田優花の歌自体は良く録れています。



10/17(月)

もし誰かが、あなたに「愛してる」と言って来たとして、その人は本当にあなたを愛してくれているのだろうか。

無論そうとは限らない。 その人が意図的にウソを吐いているとか言う話ではなく、愛を発動するには、その精神に必須となる条件があるのである。 愛を発動できない(誰かを愛せない)人は、愛を我が心に覚えたことが無いのだから、当然愛の意味が体感できておらず、誰かに対し表明する「愛している」も、正確な意味での愛とは違ったものになってしまう。 さしづめ、単に「好き」だとか「かわいいと思っている」だとか、「あなたが欲しい」とかの表明であったりすることが多いのではなかろうか。

無論のこと、仮に全く誰かを愛することができない人でも、あなたに一応の好意を表明をしてくれるのなら、その相手はあなたにとっての「敵」ではない。忌み嫌う必要も当然無い。 かわいがってくれる人でぐらいはあるのだから、様々な施しを与えてくれたりもするだろう。 好きでいてくれているのだから、人として、その好意には感謝ぐらいすべきだとすら私は思う。 でも、その人はあなたを愛してはくれない。 愛を発動する能力のない人が、誰かを愛する事はありえない。可能性も絶無である。

あなたをかわいがってくれる誰かが、「君が好きだ。金も物もいくらでも与えよう」と言ってくれたところで、その人がくれるものは要するに金やモノでしかない。 勿論、物質的な何かによって、あなた自身が喜ぶ事はありえようし、それを与えてくれた人にとっても、あなたが喜ぶ事は嬉しい事だろう。 あなたからの、自分に対する評価がそれによって上がるだろうし、そうすればあなたが、より自分を好きになってくれるかもしれないから。

しかしながら、その人があなたに与えたいものは、あなたが明日を生きる為の勇気ではない。愛してくれているわけではないのだから(無論あなた次第では、誰かの好意を勇気に変えることは可能だろうけど)。 その人は、つまりはあなたが「欲しい」のだから、究極的には、あなたが自由であることより、自分の側にいてくれることを望むだろう。


私は、誰かを愛して止まない人が、その心持ちを自分に説明できずに困っているのなら、「それは愛なのです」と教えてやりたい。 同時に、愛で無いものを愛だと思い込んでいる人には、「それは愛ではありません」と教えてあげたくもなる。 無いものをあると思い込んでしまえば、その人は永遠にその「無いもの」を得られないだろうから。


10/16(日)

 

10/19(水)、神田優花の新作「Here&Now」が発売されます。 是非チェックしてみて下さい。 以下はその新曲Here&Nowとカップリングのsometimeについて、神田優花さん本人から。

Here&Now / sometime

本当に欲するもののために、新しい世界へ飛び込むのをいとわないという、決意というか誓いというか、そういうものを込めました。
とにかくメロディのトラック数が多い曲で、レコーディングは大変でしたが、奥行きのあるいい曲になってます。

カップリングはどこか懐かしいサウンドのロックです。10代の頃夢中で聞いてた曲たちを思い出したりなんかして、この曲やってる間はあの頃に戻ったようななんだかくすぐったい気分でした。
この曲を聞いて同じように感じる人もいるかもしれませんね。そうでない方には逆に新鮮に聞こえる曲かもしれません。2曲とも、是非聞いてみて下さい。

神田優花






閑話休題。 知り合いの知り合い、とある弁護士さんは、酒席が大変お好きだそうで、毎晩のように夜の街にくり出し、一度に数十万やそこらの金を使うと言う。

私は酒自体を飲まないが、今の経済状態で上のような生活は土台不可能である。 しかし、私はその生活が不可能だから、つまり「手が届かないから」やらないのか、と言うと実はそんな事もないように思える。 本当に酒席がそんなに好きなら、そういう生活が出来る程度の収入を何とかしてでも確保したろうよ。 人ってそんなもんだ。

私は、酒席に注ぎ込む金を得る為などに時間を使うくらいなら、その間寝転がって本でも読んでいたい。 酒場で知り合ったような得体の知れない相手に、血の通わない金をバラ撒きつつ、一本何万もするワインなど空けるより、好きな人とダベりながらオニギリでも食べていた方が私にとっては幸せだ。 だからそういう私は酒を飲まないし、その為に働いたりもしない。

私は、私を幸福にする方法ばかりを考えているし、皆さんも詰まるところそうなのだろうと思う。 結果たどり着いた場所を「退屈だ」と感じるのなら、あなたに足りないものは想像力でしかない。


10/15(土)

影山リサ、今週のスタジオでの一コマ。 今回は先週歌入れした新曲の上がりをチェックしたりなんかしてました。

 

12日発売の「Luck In Your Eyes」、如何だったでしょうか。 再来週(10/26)には次の新曲「Baby Rose」が発売されます。 こちらもよろしく。





そう言えば、あるプロ野球の指導者が言っていたのだが、一説によると、人間の集中力(の持続)は40分間が限界なんだそうだ。 何をもって集中と言うか、はたまた何をもってして限界とするか、など突っ込みどころはあるが、とにかくそういう説もあるにはあるらしい。

私に関して言えば、ある程度以上の集中力を要する作業は、とてもじゃないが40分間すらぶっ通しでなんてやれない。 10分やれば30分ぐらいは休憩が欲しくなる。 大体考える時間を挟まねば、作業など進められない。

私の集中力の限界は、せいぜい10〜15分くらいだろうか。 怠け者だからではなくて、集中してモノを考えるにはそのぐらいが本当に限界なのだ。 これは私なりに出した今のところの結論。 ダラダラ無意味な残業ばかりやっている人とかいるけど、集中して作業を行っている時間なんてたかが知れていると思う。


10/14(金)

今週のリハーサル風景。

   



誰の為に歌うか。

私は、誰かを勇気付けたいとか思いつつ日々歌を作ってはいるが、誰の為に生きているわけでもなく、あくまで生きるのは自分の為でしかない。 「あなたの歌に元気付けられました」とか言ってくれる人がいたなら、私自身そう言われて悪い気がする筈もないし、「それは素晴らしいことでしたね」とぐらいは言うだろう。 が、私自身は、人を救う行為さえ自分の為に行なっている。

誰かを愛することとは、誰かを好きになることではない。 誰かを愛するには、愛することを決断する強い主体性が要る。 何かに甘え切っていては、誰の事も愛せない。


言語、とりわけ概念語と言うのは、心中に沸き起こる各種の感傷に名を付けることによって体得するものである。 物質であるなら指をさせばそれを教えられるから、例えば「椅子」や「猫」と言うモノを理解出来ない(その言葉の定義が他人と共有できない)人はほぼいない。 しかし、愛を知らない(体感したことがない)人は、当然愛の意味が他人(愛を理解出来る人)と共有できないことになる。

愛の意味が体感できない者の歌う「愛の歌」には、当然成分としての愛がほとんど入っていない(ゼロではなかろう。その作品制作に携わった歌い手以外の誰かの愛なら感じ取れるかもしれないから)。 従って、その歌に心を揺り動かされる人も中々現れないと言うことになる。

愛の意味を知れば、また、他人を愛することが出来れば、人は強くなれる。 歌手であれば、愛の意味を知ることによって、その歌にも、成分としての愛が色濃く投影され出すだろう。

自分の価値に気付けず、愛の意味を知らず、その為に誰かを愛する事も出来ない人は、当然他人を愛する事が出来ない。 勇気さえ持てるなら、歌うたいは愛を歌う事が出来る。 まずはあなたが、あなたの価値に気付く事だ。 そしたらいずれ、愛の意味にも気付ける筈なんだ。 愛の歌だってきっと歌える。


10/13(木)

あるITベンチャー企業の創業者の自伝的な著書を読んでいたのだが、文中に「起業当初、殆ど仕事しかしてなかった」みたいな話があった。

本当に仕事しかしてなかったんだって。 通勤時間などがバカらしくて会社に寝泊りし、眠くなったら事務所でゴロ寝、起きたらまた仕事。腹が減ったら近所のコンビニで飯を買ってくる。シャワーとかも何日かに一回会社で浴びるだけ、てな状態だったらしい。

確かに通勤(&それに付随した身だしなみを整える時間など)や規則正しい生活って、甚だロスが大きい。 本気で働きたい奴は、それらを考慮のうちから外すだけで、それまでの倍近いパフォーマンスが果たせる筈だ。

実際音屋さんたちなんかは、機材の問題もあって、在宅勤務者が多い。 会社への出勤を義務付けられでもしたら、格段に能率は落ち込む筈だ。


1日7時間の仕事を週に6日こなす、なんて愚の骨頂のように思える。 1日14時間働けば3日で終わるじゃないか(無論内容によってはそんなに単純な話では無かろうが)。 確かに集中力の問題とかあるわけだけど、そもそも世間の圧倒的多数の人らって、限界に近い集中力を求められる仕事なんてしていないような気がするのだが。 気のせいだろうか。


10/12(水)

影山リサ「Luck In Your Eyes」、国内主要ダウンロードサイトにて本日発売です。 以下曲について、私のコメント。

Luck In Your Eyes

普通のPOPSですね。 当時はこんなのが作りたかった。

ギターのカッティングのフレーズとか、割りと気に入っている。 アレンジでは、サビのド頭でベースが無くなるところが好きかな。



10/11(火)

編集雑記。

一般に音楽制作ってのは、工程毎に別々の人間が作業を担当する。 無論例外は無数にあって、作曲家がアレンジまで担当したり、歌い手さんが詞を書いていたり、なんて事は珍しくない。 しかし、作詞・作曲・編曲・録音・Mix・マスタリング、これらを一人でこなす人は稀だろう。 因みに私はその希少例の一つ(無論作業領域によっては、専業の職人に比べれば、見劣りする面もあるだろうが)。

モノによっては、例えば歌詞(言葉の響き)が既に曲の一部であったり、Mixまで含めてアレンジであったり、なんて事はしばしばあってしまうだろう。 音楽作品ってのは、要するに分業に限界がある。 ただ、その無理な分業によって生まれた偶然性みたいなものが、時に面白かったりもするから侮れない。 完全に分業を排除できない所以でもある。 ここ何日か編集作業をしつつ、以上のような事を考えていた。


10/10(月)

  

影山リサ。 先日、急遽(ってほど唐突でも無いけど)レコーディングが入りました。

こちらも10/12(水)発売の新曲(Luck In Your Eyes)、Amazonのページがもう上がっているみたいです。 Amazonはジャケット画像の解像度が高いのは実に素晴らしいのだけど、試聴用オーディオデータのビット・レートが低い気がするな。 帯に短し襷に長しと言おうか。


10/9(日)

世間は連休だそうですが、私は休日返上で編集作業中。


 

神田優花、先日のスタジオにて。 10/19(水)発売の新曲「Here&Now」、Amazonなんかではもうページも出来ているみたいですね(まだ買えないけど)。 試聴も出来るようなので、良かったら聴いてみて下さい(つうか買って下さい)。


10/8(土)

今週のリハーサル風景。

   


自慢じゃないが私は変な子供だった。 今でも十分変かもしれないが、子供の頃は今より更にその酷さが分かりやすく、周囲から見れば、おそらくちょっと低能っぽい子だった。

車にはねられて死にかけたって話をこのページでした事があるのだが、小学校低学年の頃、結構大きな事故に二度ほど遭っている。 要するに注意力の散漫な子供だった。 退屈な作業が苦手で、学校などで無理矢理やらされる時などは、何やら作業とは無関係な空想に耽ってしまい、放心してしまう事がしばしばあった。 周りからみれば、さぞかし頭の弱そうな子だったろうと、今は我ながらにして思う。

空想に耽る癖があった子供の頃の私は、考えながら一人でウロウロと歩き回ってばかりいたので、よく変人扱いされた。 特に私の親などは、あまり平素物思いに耽ったりするタイプでは無かったらしく、どうにも我が子が理解に遠い存在に映っていたようだ。

先日、ある(恐竜関係の)DVDを見ていたら、化石の発掘現場で長期間のキャンプを行っている学者が、夜な夜なテントの周辺でウロつきつつ、空想に耽っている、と言ったエピソードが紹介されていたのだが、私は何だか嬉しくて膝を叩きたい気分になった。 その学者の気分が想像に難くないからである。 人間は、気持ちを共有できる人を見つけた際、俄かに小躍りしたくなる生き物らしい。

だからして、ある意味では当然な事でもあるが、私は親や学校の先生などからは愛されなかった。 思考のプロセスが違い過ぎて、愛の前提となる理解がそもそも成立しなかったからだろう。 人はその生理として、自分に似た者を好む。 変人はつらいよ。


10/6(木)

「豊臣秀吉は、百姓から天下人となった」なんてよく言われるが、実際には厳密な意味での百姓(農民)とすら言い難いような身分だった。 おそらく農作業に従事した経験などもあまり無く、特に生家を出奔してからの流浪の時代は、今で言うならチンピラだとかホームレスだとかに近いような存在だったろう(まあそれでも実家が農家である事は事実だろうが)。

彼は幼少期に、家が貧乏で寺に預けられた時期があったらしいのだが、そこで仁王(本名なのか通称なのかよく分からない)と言う少年に、今で言う「いじめ」を受けたそうな。 どうも秀吉と言う人は、成人してからも小柄であったようだし(槍働きのエピソードなんて聞いたことが無い)、少年の頃も、体つきなど貧弱であったと思われる。 ケンカとかさせてもきっと弱かったのだろう。

その秀吉が、天下取りの最終段階である小田原征伐の折、通りすがりに生家の近く(中村)に立ち寄ったことがあるらしい(当然ながら、当時の日本最強の大軍団を連れて)。 その時の秀吉は日本の最高権力者であると言うだけでなく、日本史上前例の無いほどの強力な権力を持っていた。 中村の古老たちは震え上がりつつ秀吉を迎えたそうな。

懐かしそうに昔語りをする秀吉は、中村を永代の作り取りに(年貢を免除)するなどと言い出すなど、終始上機嫌であったらしいが、ふと思い出したように「仁王はおるか?」と言い出したそうな。 古老らは、幼い頃の秀吉が仁王にどんな扱いを受けたか知っている。 危険を察知し、「仁王は既に死んだ」と答えた。 生きていたらしいけど。

因みに上の話、出典が思い出せなくて、細かい部分は不正確かもしれないが、お許しを。


秀吉と言う人は、在世当時から後世に至るまで、「人たらし」だのと、とにかく明るい人のイメージで通っているが、上のエピソードを聞くだに、そう単純では無さそうである。 他にも彼のこの「難しさ」を感じさせる逸話はいくつもある。 ただ、魅力的な人物であるのは間違いない。 私にとって、会ってみたい歴史上の人物の一人である。どうせ会えるなら、若い頃(天下人になんかなる前)の彼であれば尚良い。


10/5(水)

本日より、広瀬沙希の「小さな欠片」が、国内主要ダウンロードサイトにて発売されています。 是非チェックしてみて下さいね。



閑話休題。 別に聞きたくも無かろうが、私(♂)について語る。

私は周囲からよく「男じゃないみたいだ」と言われる。 最近になって言われ出したのではなく、昔からだ。 学生の頃もよく、同じ学校の女の子などから「益田君は女の子みたい」とか言われていた。 これは別に容姿の話では無い(と思う)。

何が女みたい(男でないみたい)なのか、私にもよく分からないが、女の人からしばしば「女に興味が無さそう」とか言われてしまう。 別にそんな事無いのにな。 私は性癖については、ごくノーマルである。

この件について、信頼するある女性に話したところ、「本当にあなたは、他の男性に比べて、女性に興味が薄いのではないの?」と言われた。マジっすか。 まあ確かに他の男になった事が無いから、感覚など知りようも無いのだけれど、確かに平均的男性に比べると、女性への、ある面での興味は薄いのかもしれない。


ここまで言っておいて何だが、やはり私はどちらかと言うと男性的人間である。 日常、どちらかと言えば女性と接する時間の方が長いが、多くの女性には「女性特有の弱さ」があり、私にそれは無い(あるいは薄い)と感じる。 あ、一括りに女性と言っても、言語力があまりに弱い人にはその女性特有の弱さも無いけどね。 つうか何もかも無い。


私は基本的に人間が好きである。 愛していると言って良い(まあモノにもよるが)。 また、個人的な嗜好で言えば、男性より女性の方が好きである。 これは性欲に因るものでなく、共感が得やすいと言う理由によってである。 私の思考回路は、ある面に焦点を当てれば、やはり女性のそれと近いのだろうが、私自身はいわゆる女性的な人ではない。


10/4(火)

ペットについて。 何度かここでも触れたのだけど、私は犬(♀)を、(それも結構長い間)飼っていた。 私はその犬をとても可愛がったし、大切にした。愛しもしたと思うが、彼女は(当たり前かもしれないが)私を愛してはくれなかった。

私は愛犬を何度抱きしめたか分からないが、犬は私を抱きしめてはくれない。 無論、彼女は私のことを嫌いだったはずはなく、好きであったろう。 食事や寝床を提供してくれ、病気の時は医者に診せにも行ってくれる。 私を頼りにしていなかったはずが無い。 だが、私の精神を後押しせねばならないなどと、夢にも思ったことが無かったに違いない。

私と彼女が、飼い主と飼い犬と言う、絶対的主従関係下にあったからだ。

愛することは、可愛がることではない。 愛し合うと言うことは、相互に依存し合うことでもあり、どちらか一方が他方に依存するのみの関係ではないのだ。 度を越えた依存は自己の確立を妨げるが、適度の依存がなければ、それは相手に対し「あなたの精神など必要ない」と言っているに等しい。

私にとって、彼女との思い出は大切な宝物だし、きっと死ぬまで忘れられないものだろうが、私を愛してくれた人とどちらが大切か、とか、今誰かを愛する気持ちと当時の愛とどちらが密度が濃いか、など言うまでも無い。 私を愛してくれた人の方が大切であり、今の誰かを愛する気持ちの方が遥かに濃い。

私は成長しているのだ。 日々と言う階段を一歩づつ登って今日と言う日にたどり着いた。 愛と言う感情一つとっても、今ほど鮮やかにそれを映し出せる精神なんて、過去一度たりとも持った事は無かったし、子供の頃から毎日のように見続けた同じこの空の青さも、今日以上の美しさでこの目に焼き付けた事なんて無い。

私にとっての時間とは、流れて消えて行くものではなく、積み重なり続けるもの。


10/3(月)

子供なんかがよく、自分の事をファーストネームで呼んだりする。 親がそう呼ぶから、自然にそれを踏襲してしまっているだけなのだろうが、あれいつまでも卒業できなかったら、あんまり良くないのかも。 ふと思った。

一部の女の人なんかは、結構な年齢になっても自分の事をファーストネームで呼んでいたりする。 男にその現象が全く見られない事からも、一種の媚態と見て間違いないと思われるが、つまりそれは子供っぽさの演出なのだろう。 ファーストネームの自称は、普通の大人はする必要が無いが、ある精神段階の人間はそれをせずにいられなかったりする行為、と言う事になる。

私がそれをあまりお勧めできない理由は、その行為がidentifyの妨げになるような気がするからである。 自分を遠くから見ている感覚に慣れすぎると、自他の存在を正確な距離で把握できなくなるように思える。 当然、自分や他人の扱いそのものも正常でなくなろう。


10/2(日)

  

9/28に発売された神田優花「a moment」、如何だったでしょうか。 神田優花は10/19(水)に次回作「Here&Now」を発売します。 引き続きよろしく。



  

影山リサ。 10/12(水)に新曲「Luck In Your Eyes」、を発売します。 こちらも是非チェックしてみて下さい。


10/1(土)

今週のスタジオにて。

  


来週水曜日(10/5)、広瀬沙希の「小さな欠片」が、国内主要ダウンロードサイトにて発売されます。 是非チェックしてみて下さいね。


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