Staff diary  
スタッフ日誌[2011]

[文 / 益田(制作)]

9/30(金)

私は音楽に愛された。 単に音楽を好きになっただけではない。

好きになったものくらい、過去にも他にいくらでもあった。 子供の頃はプラモデルが好きだったし、ゲームが好きだった時期もある。 小学生の頃に飼いはじめた犬は、悲しいほどに好きだった。 でもそれら全ては、私を愛してはくれなかった。

子供の頃の私は、音楽に特別な何かを覚えた。 心の奥底で、私を支え、後押ししてくれる強い力を感じた。 その感覚を、この地上に存在する一番適当な言語に当てはめるなら、愛と呼ぶしかない。 私は愛された。

単に私が好きになっただけのモノや、あるいは私を好きになってくれる者でさえ、いつかはこの目の前から通り過ぎて行くかもしれない。 だが、愛は決して消えない。 私の中に刻まれ、明日を探す勇気に変わる。

音楽を続ける私に、別に約束された成果があるわけではないが、私は音楽を作り続ける日々を永遠に楽しむことが出来る。 音楽は、私が答えを探し続けるための勇気。 私に進むべき道を教えてくれる。


9/29(木)

loveについて。 以前(9/1)、このページで「好意には好きの一種しかない」と申し上げたのだが、ちょっと補足をば。

英語のlikeは、訳すなら「好き」だ。 この「好き」の熱量が変わってlike very muchになったところで、感情が別物になったわけではない。 やはり種類としては同じである。

しかしlikeとloveは違う。 likeの熱量がいくら増そうとも、それはloveではない。 感情の種類が違うと言うより、精神の構え方が違うって感じだろうか。 loveには主体性がいる。 likeは「好き」と言う感情に過ぎないのだから、単に相手に依存し切った状態でもダラダラと発動出来る。また、単に対象を「頼りにする」と言うだけでも良いのだから、その対象とやらも人(精神)である必要すらない。

一方loveには、相手の精神を捉え、それを後押しする覚悟がいる。

loveが発動できれば人は強くなれる。 誰かを愛するには主体性が必要なのである。 子供が出来た女性が強くなってしまうのはこのせいである。

自分の弱さに負けてしまいそうな人は、誰かを愛してみると良い。 きっと強くなれる。 まあ、強くなければ誰かを愛したりも出来ないのだから、弱い奴にこんな事言っても無理かもしれないわけだが、自分の弱さを打ち砕く一番手っ取り早い方法は、誰かを愛する事だろう。


9/28(水)

神田優花「a moment」、国内主要ダウンロードサイトにて本日発売です。 是非聴いてみて下さい。 以下、私のコメント。

a moment

神田優花の王道的なナンバー。 ちょっと前にドラムのルーディメンツとか色々齧ったりしてみてて、その辺が多少なりとも活かされた曲だろうか。 わりかし最近作った曲。

編集では、ウチとしては珍しくマスタリングにMSなんて手法を用いている(オーディオ・データを、左右2chでなく、中央と両サイドに分けてマスタリングする手法。詳しくは調べられたし)。 別にそれほど素晴らしい効果があるとも思わないので、今後多用しようとかは考えてない。 必要に応じてって感じか。

アレンジでは、ドラムのフェイドインとか、ギターソロの導入部なんかは気に入っている。 あと、サビの追っかけてくるボーカルに掛かった、フィルターの閉じていく感じとかも、割りと思うように仕上がった。



9/27(火)

明日発売の神田優花「a moment」、収録曲についてコメントしてみる。

One

これの原形は結構古い。15年以上前に作っている。 とは言ってもギターのリフとかリズムとか以外は、殆ど原形留めていないから、半分新曲でもあるけど。

シンコペーションって苦手で(演奏が)、この曲についても、演奏ミスを何箇所か編集で誤魔化している。 アーティスト本人は、割りと好きな曲だって言ってたのだけど、私には少々粗くも感じられる。 嫌いではないけど。



9/26(月)

ある人から聞いた話について、考え込んでいた。

ある男の人が、思いを寄せる女性に対し「俺は君を悲しませたくない。だから絶対に君より後に死ぬ」なんて言うらしい。 う〜む。実を言うと私は偶然にも、他人に正反対のことを言ったことがあるのだ。「絶対俺より後に死んでくれ」と。

上の男性の発言、論理的に矛盾は無いような気がするのだが、どうも気分がついて来ない。何故なのだろう。 確かに、誰かより後に死ねば、その誰かをとりあえず(自分の死によって)悲しませずには済む。 でもそれは、必ず自分自身がその誰かの死を乗り越えねばならないと言う事でもある。 私はそんなの嫌だ。だって悲しいじゃん。

私は私を悲しませたくない。私が悲しいのが嫌だから。 私が他人を悲しませたくないのは、誰かが悲しむとその悲しみが我が心にも伝わってくるからである。これも要するに自分が悲しみを味わいたくないからだ。


私は結局自分の事ぐらいしか考えていないし、考えられない。 他人への愛も、自分に対する愛の延長線上にあるものだとしか捉えていない。 また、人生を、自分の視界と言うスクリーンに映り込む一篇の映画みたいなものだと捉えている。 だから愛する人との死別のシーンなど、当然ながら挟みたくない。 そして、私の死をもってその映画は終わる。 その後に続く世界など私の知った事ではない。

愛する人たちよ、ワガママな私の為に、どうか私なんかより長生きして下さい。


9/25(日)

私は、実のところお金なんていらない。 平素の生活が求めてくるから、仕方なしに最小限のそれを持ち合わせているだけで、別に身に余る財産を持ちたいなんて全然思わない。

名誉や社会的地位なんてのも、同じくいらない。 これは別に求められもしないから、何ら気兼ねなく持たないでいられる。 これから先もそんなものを求めて生きたりしない。 私は私のままでいい。


私が持っているのは自由だけ。 私に必要なのものは夢。そして今の私が欲しいものは、その夢を追いかける為の勇気。 どうかこの私を愛してやって下さい。 あなたの愛さえあれば私は生きて行ける。


9/24(土)

昨日の続き。

   


いよいよ来週、神田優花のニュー・シングル「a moment」が発売されます。 是非聴いてみて下さいね。 下は今週のスタジオにて。

 


9/23(金)

今週のスタジオにて。 続きは明日上げます。

  


9/22(木)

負けが込んできたプロ野球チームは、観客動員数が激減するそうだが、ファン心理を想像するだに、これは当然と思える。 贔屓のチームがあるからこそ、悔しかったり惨めな思いをさせられる。 苦痛を感じない為の自己防衛策として、人は無意識のうちにでも存在を頭から切り離してしまうのだろう。

仏教の教えって、基本的にこういうものなのだろうと考えている。 執着するからこそ傷付く、求めるから失う。 執着を断ち切れば人は傷付かずに済むと。 全くお説ご尤も。 だがしかし、それは人間の情操を破壊し、魚類や昆虫に等しい存在に変えてしまう事でもある。

理想を言えば、私は、負けの込んできたご贔屓チームを、最後まで応援できる人でありたい。 だってその好意は、自分の決断なのだから。 無論、自分こそがその対象に失望したのなら話は別だがね。


9/21(水)

正しい事。

私はせっかくこの世界に生まれて来たのだから、何が本当に正しい事なのかを知りたい。 これは「何が世間で道徳とされているか、を知りたい」なんて意味ではない。 私は答えを手に入れたい。心が締め付けられるような、葛藤のその理由だとかの。

勇気って何なのだろう。 共同体でのコンセンサスに盲目的に従う事や、道徳に障るからとて何かを諦めるような事が、いずれも勇気でないように、何かを守るばかりでなく、ある時は失う事すら怖れない事が勇気でもあるのだと思う。

私はやはり欲しい物を手に入れたい。 私にとっての「答え」とは、音楽だとか、愛する人だとか、そういう個別のバラけた何かではなく、一つの大きな塊のように思える。 私が、自分の生きているこの人生を「一本道」だと感じるのは、きっとこの「答え」が一個の大きな塊だからなのだろう。

今はまだ見つけられないその「答え」が、きっといつか手に入ると信じて、私は今日も歌を作り続けている。 今日の私は、残念ながら、その答えをまだ手に入れられないままでいるのだけど。


9/20(火)

中学生くらいの頃だったろうか、近所の友人の家に行った時の話である。

当時私は犬(♀)を飼っていたのだが、住んでいたところが田舎だった事もあって、半分放し飼いみたいな状態だった。 だから、ヤツ(犬)はどこにでもついて来ようとする。 その日も友人宅の玄関先までついて来やがったのだが、さすがに家の中までは入れない。 私は彼女に別れを告げ、友人宅に入っていった。 私の家はすぐ近くなので、勝手に帰るだろうと思っていたのだ。

友人と暫くの間(半日ぐらいだったろうか)喋ったりした後、家に帰るべくその友人宅を出たその時、玄関の前で彼女が私を待っていた。 その時感じた気持ちを、私は今でも鮮明に覚えている。

彼女が、心の備わっていない「犬の置物」であるなら、玄関前に置いておけばきっと永遠にそのままそこにいるだろう(重量がなければ風に飛ばされるか)。 その時の私は、私を待っている誰かの心がこの世界に存在した事が嬉しかった。 その日は嬉しくて、その後二人で日が暮れるまで野原を駆けずり回った。

彼女がくれた何かは、今日も私を守ってくれている。 道を歩いている時も、満員電車に揺られている時も、仕事でくたびれ切った夜も、私の進む道のその先には、あの時のように、誰かが私を待っていてくれるような気がするから。


9/19(月)

他人の過去が気になる、って気分の正体は一体何なのだろうね。 恋人や結婚相手の、過去の異性関係などを詮索してしまう人は多い筈だ。

仮にいくら派手な異性関係を過去に持っている人物がいたとして、精神は物質ではないのだから、別に汚れたりはしない。 過去なんて、人々の脳裏に記憶化されているだけで、実体として存在しているわけでもない。 肉体関係などを経て、物理的に身体が汚れてしまったのなら風呂に入って洗えば良い。 とにかく、人間がその過去によって汚されてしまう事など、本当は無い筈なのだ。

しかし現実に過去は、当人にもその関係者にも禍根を残す。 一般に人が、人間を可能性でなく、血統・経歴などと言う商品価値で見ているからなのだろうか。 ややバカらしい気がしないでもないが、斯く云う私とて、その感覚から100%逃れる事が出来るのかと言うと、確かに容易では無い気がする。 私を含む人間ってヤツは、実に弱い生き物だから。


「逃げたくても過去が自分を追ってくる」なんて本気で思っている人もいるだろうが、「いくら過去が追ってきても、時間はいつか必ずやその過去を振り切る」だろうよ。 我々には、まっさらな明日が必ず、それも永遠に訪れ続けるのだから。 人は時間とともに、その精神を成長させる事が出来る。 何かを「笑い飛ばす」ってのは、その成長が過去を振り切ってしまう事なのだろう。 心配しなくてもきっと大丈夫。


9/18(日)

私に必要な時間。 私には、日がな一日ボーっと考えたり、ダラダラと誰かと喋ったりする時間が要る。絶対に要る。 読書の時間なんかも効用はそれに近いが、わざわざその為の時間を割くほどには重要視してはいない。

喋る時は、喋ると言いつつ、厳密な意味での会話をしているわけではない。 自分の考えをまとめる為に、聴き手を必要としているだけで、結論を相手に委ねているわけではない。 相談をしているわけではないのだ。 かと言ってこの相手、誰でも良いと言うわけではなく、やはり打てば響く程度の主体性や知識がないと用を為さない。 現状、私にとって、この意味での話し相手たり得ている人は一人しかいない。

一人でボーっと考える時間は、かなり膨大に必要となる。 ほぼ丸一日とか使わないと、思考がモノにならない。 10時間とか考え続けて、やっとこさノッてくる事が多いのだ。 分かり難いかもしれないが、これらの時間が無いと、私は仕事にならないのだ。

ある漫画家のエッセイを読んでいたら、こんな事が書いてあった。 その人が家でボーっと物思いに耽っていたら、奥さんが「今日はお仕事はお休みなの?」などと怪訝そうに聞いてくるそうで、その度に「これが仕事だ!何年漫画家の女房やってんだ!」などと怒鳴ってしまうらしい。

私にはその漫画家の気持ちがよく分かる。 奥さんはタダの人なので分からなくても当然で、ある意味気の毒ではあるのだが、漫画家の方の主張(「これが仕事だ!」)は、それはそれで全面的に正しい。

漫画家とかなら、机に向かって漫画を書いている時のみが仕事だと見做されてしまうのだろうが、それは大間違いである。 考える時間を持たねば、机に向かっても書くモノ(内容)が無い。 音楽とかでもつまりは同じ事で、思索を経ずしていきなりスタジオに入れられても、DAWの前に座らされても、形にすべき曲想が無ければどうしようもない。 ここが分かってもらえないと、この手の仕事はキツい。

私も、以前勤めていた、とある会社にいた上司が「モノを作る」と言う事が如何なる作業なのか全く分かっていない人で、随分と苦労させられた経験がある。 でも、これは仕方ない事なのだろう。私は今の状況(創作に対する理解ある環境)を、むしろ稀有な幸福だと捉えるようにしている。

だからして、私は現状、週に丸々1〜2日は考える時間に当てているが、実はそれこそが創作なのである。決して遊んでいるわけではないのだ。 むしろその時間は、普段より激しく脳を酷使しているのである。 と言うわけで、そういう時は電話とかにも出なかったりする事がありますが、どうかお許しを。


9/17(土)

昨日の続き。

   


私は(極端なまでの)合理主義者である。 目的の為にいつも一直線に動いているので、基本的に迷いがない。

私は金を溜め込まない。 あれは使うためにあるものだからだ。 困った時の事は困った時に考える。 リスクをゼロにする事なんてどう足掻いたって無理だから。私はそんなにヒマじゃない。 生命保険などにも絶対入らない。 私の死んだ一秒後の世界の事なんて知ったこっちゃないから。

「生命保険に入らない」とか、「遺産を残さない」とか言うと、「残された大切な人に何も残さなくて良いのですか?」なんて言う人がいるんだろうけど、私の残したいものは金ではなく勇気である。 私は残された人に残したいものを残す為に、今日も全力を尽くしている。 金は私の「残したいもの」でないから、そこに全く留意しないだけである。


9/16(金)

今週のスタジオにて。

   


先日、スタジオでピアノを弾こうと思ったら、腕が鈍って全然弾けなくなってやがった(元からそんなに弾けたわけでもないが)。 演奏技術ってのは、維持するのに大変なコストを伴う。

確かに楽器ってのは、弾けないよりは弾けた方が何かと便利なのだが、日々割かねばならない時間や労力を考えると、やはりとてもじゃないが演奏技術など維持できない。 毎日数時間のトレーニング×楽器の種類、なんてヒマはとても割けない。 特に私のように総合的にオケ作って売り物にせねばならないような役割の人間においては。 プレイヤーとかなら別なのだろうけど。

しかし、それにしたってある程度は楽器を扱えないと、作業に支障を来たすのも事実。 このあたり、何とかならんものかね。


9/15(木)

私は、昨今の音楽ソフトが売れなくなった理由を「恫喝の効き目が切れてきたから」と表現した事があったのだけど、それがどういう事か、ちょっとだけ敷衍したい。

例えばテレビのバラエティ番組などで、いわゆる「楽屋ネタ」と言われるようなものが散見される。 「ディレクターの何某がどうした」だのと言う。 ああいうものは、実は視聴者にとっては別段面白くもないものに違いない筈だが、一種の「面白み」として事実受け入れられている。 番組中、しばしば付け足されている「スタッフの笑い声」なども同質のもので、私などは「あなた方がそれに受けたところで何だと言いたいのだ」と本気で思ってしまうが。

スタッフの笑い声は、「ここは笑いどころなのですよ」と正解を暗に指し示している。 いわゆる楽屋ネタも同じく「ここは業界人の皆様が共有する『笑いのツボ』ですよ」と言う印をつけているのである。 つまり、彼ら制作陣は、視聴者に空気を読ませようとしている。 遠回しに「この面白さが分からないのなら、欠陥はお前の方にあるのだ」と言わんとしている。

彼らは、視聴者を自由に楽しませようとしているのでなく、本能的に権威でもって従わせようとしている。 私はこれを「恫喝」だと表現したわけだが、このような背景にて成立した成果は、ある条件が欠けた際に土崩する。

音楽も似たようなものだ。 音楽業界は、上で言う「ある条件」が既に決定的に欠けつつある。 昨今の業界の不況の原因は、詰まるところそこに尽きるのではないかと。 不正コピー云々は、誰かの保身の為に生まれたウソである。


9/14(水)

後追い自殺なんて言葉がある。 古くは殉死なんて習慣もあったし、どうも日本人には、他人の後を追って死にたくなる衝動があるらしい。

しかし、それって決して前向きな行動では無いよな。 単に絶望に打ちひしがれて、生きる気力を失っているだけではないのか。 乃木希典が明治天皇に殉じた事など、美談とされているみたいだが、如何なものかしら。 後を追われた人だって、そんなのを喜ぶとはちょっと思えないのだけど。 少なくとも私ならそうだ。

どんなに大切な人でも、それは我々が心でそう感じただけで、あくまで我々は自分の為に生きているし、自分の為にしか生きられない。

もしも大切な人が、私の目の前から消え失せたら。 きっと私は悲しむだろうし、最後の瞬間までその人の事を心に宿し続けるだろうけど、後追い自殺はしない。 その人の記憶を胸に、訪れる新たな一日に、新しい予感を追い続けるだろう。

愛する人の記憶は、きっといつだって私を守ってくれるだろうし、私の愛するその人はきっと、私がこういう気持ちでいる事を喜んでくれる筈。


9/13(火)

不倫や離婚、暴力行為などを繰り返し、家庭の崩壊を招くような御仁がいる。 家族は離散し、愛の絶え果てた孤独な部屋でヤケ酒をあおるその人は、きっと我が身の不幸を嘆きつつ、こう思うだろう。「家族団欒、みんな笑顔で幸福だったあの頃に戻れたら」。

彼は得たいものを得られない不幸な人なのか。 違う。 その孤独こそ、彼がずっと求めて止まなかったものだ。

側にいる人の穏やかな一日より、自儘に刹那の快楽を貪り続ける事を選べば、当然待ち受けているであろう未来がやってくる。 でもそれは、その人が望んだものに他ならない。 だってその人は、他にいくらでもあった選択肢の中から、その生き方こそを選んだではないか。 その人の今いるその場所は、過去のその人が目指し続けた場所だ。


私は今の生活が好きである。 子供の頃から好きだった音楽の事を日々考え、自分が美しいと信じる曲を作り、またその作業を、大好きな人たちと共に続けている。 私はこの生活を守るためなら、努力を惜しまない。 これは私の選んだ生き方だし、今のこの場所は私の探し続けた場所だ。 過去の私の全ての時間は、一直線にここに向かっていた。

あなたの側には、あなたが大切にしてきたものこそがある筈だ。 あなたがもし、今の生活を不幸だと感じるなら、本気で幸福になりたいと思うなら、大切だと思う何かを、今のこの瞬間からでも構わないので全力で守ってあげて下さい。


9/12(月)

愛について。

愛は得がたいものである。 よく、「人は誰しも、いつかは大人になって、愛する人と巡り会い、やがて一緒になる」みたいな御伽噺のような文句が、まことしやかに語られたりするのだが、私はそれに全くもって懐疑的である。

例えば我々の周りには、子供の頃から今に至るまでたくさんの人々が存在した。 人がいるって事は、つまりはその人に、両親・家庭がもれなく存在したと言う事に他ならないわけだが、その数多の両親たち、全てが例外なく愛し合った結果結ばれて、その愛の結晶として家庭やその子を為したのだろうか。

そんなわけがない。 「親が決めたから」とか、「適齢期に、手の届く範囲に今の相手以上に適当な人がいなかったから」とか、その程度の理由で結ばれた人らはゴマンといる筈だ。 つうか、大半がそうだろう。 また人間には生来、子を作る機能が備わっているから、健康な男女であれば、ほぼ誰にだって子供は作れる。 つまり愛は必須条件ではない。

この社会では、愛など死ぬまで体感せずに死んで行く人が大多数だろう。 現に私の育った家庭など間違いなくそうであった。 私の両親などは、いまだに「愛」と言う言葉の本質的な意味が全く分かっていない筈だ。 物欲や執着との、概念上の区別が出来ていないのであるが、彼らは特段の異常人などではない。 あれで標準的庶民の範疇なのだろう。 標準的庶民として生き、標準的庶民の典型的末路として、愛を知らぬまま死んで行く。


私が何を言いたいかと言うと、もし今のあなたに愛の意味が分かるのなら、それは幸運であると言って差し支えないと言う事。 あなたは「間に合った」のである。 それの意味を知らぬまま消えて行く悲劇を免れた。


9/11(日)

昨日の続き。

   


↓夏休みが終わった川村真央ちゃん。

 



私は誰かを好きにはなるが、自分を好かせようとは別に思わない(勿論好きになっては欲しいけど)。

誰かに食事を振る舞う事があっても、その時の私は、自分が何かを得る為の餌としての、蛋白質や炭水化物を与えたいと思っているわけではなく、目の前の精神にその味を「味わわせたい」と思っているだけだ。

延いてはその相手に、「これを私に味わわせたいと思ったこの人(私)の心が、確かにこの世界に存在したのだから、いつかまたもう一度こんな気分を味わえるかもしれない」と言う希望をつかまえて欲しいと思っている。 「こんなに愛されたのだから、これから先も、きっと素晴らしい出会いが私を待っているだろう」と言う予感こそを捉えて欲しいのだ。

「こんなに私を愛してくれる人なんてそうそういない、これを手放したらもう二度とこんな人つかまえられない」なんて思われたら最悪だ。 私が自分自身を執着の対象とされる事を好まないのは、単に「迷惑だから」ではなく、結果的に相手の世界観を歪めてしまっているからだ。

いくら執着しても、人間の存在は有限である。 同時に二つの場所にいる事も出来なければ、永遠に生きる事だって出来ない。 どんなに周囲が羨むような人やモノを手にしたところで、人体を含むモノには限りがある。 だから私は歌を作るのよ。 私は、その人の心の中に勇気を作ろうとしている。


9/10(土)

今週のリハーサル風景をば。 まだまだ暑い日が続きますね。

   


唐突だが、例えばカレーライスが好きな人が、ある日カレーライスを嫌いになってしまう事なんて、実際起こりえるのだろうか。

無論、いくら好きでも、同じものばかり食べ続ければそりゃ飽きてくる。 でもそれはあくまで一時的な気分転換を欲しているだけであって、カレーライスそのものに対する評価が根底から覆っているわけではない。

初めて食べたハンバーグのウマさに如何なるカルチャー・ショックを受けたとしても、だからと言ってそれまでに好きであり続けたカレーライスを嫌いになるわけが無い。 もう一つ好きな食べ物が出来ただけだろう。 そこに排他性など起こりえない。

やはり人の趣味や嗜好と言うのは、その人固有の人格、つまり思考のパターンから生まれているわけで、変わる事なんてありえない。 もし、ある時に「好き」だと言っていたものを嫌いになる人がいたなら、そもそもその人は、その対象を元より好きでなかったのだろう。 「好き」と言う気持ちを捉えられるだけの、論理力や誠実さに欠けているだけなのだと思う。


9/9(金)

結婚指環について考えていた。 そういうものを装備している人を見かけるからだ。

あれは何の意思表示なのだろう。 「私は既婚者ですよ」と言う印なのだけど、それを殊更に表明する必然性があるのか。 私はその行為に批判的なのではなく、本当に分からないから考えているのだ。

周りの皆もしているからとて、単に右に倣えで着けている人、つまり何の作為もそこに介在していないケース、これはこれで少なくないような気もするな。 もしかして、結婚相手に対する「私はあなた一筋です(浮気などしません)」と言う誓約のつもり? だとしたら、そんな事に誓約書まで提出せねばならぬ時点で、その人の感情の雲行きは既に怪しいような気すらする。

あるいは、あれは自らの意志で着けるものでなく、相手(伴侶)の方からの要請が多分に含まれての行為なのだろうか。 だったらその事情は分からないでもないが、相手に「紐付き」の印をつけねばならない(落ち着けない)心境ってのも如何なものかね。 また、相手からの要請などでなく、自ら率先してああいうものを身に着けたくなっている人も、それはそれで多いように見える。 気のせいではあるまい。

例えば私は独り者であるからして、当然ながら結婚指環など身に着けない。 しかしもしこの先、誰かと婚姻関係を結ぶに至った際、そういうものを身に着けたくなるだろうか。 絶対にならない。これは自信を持って言える。

着けたくなる理由がそもそも分からないから着けないのだが、着けない理由はそれはそれで山ほどある。 買うのに金が掛かるは、着けるのが面倒臭いは、また私は、多少アレルギー体質なので、肌に何か(特に金属など)を密着させるのを避けたい。 ついでに、自ら「既婚者」だと表明してしまうと、異性からモテなくなりそうな気がするのだが。どうなのだろう。

上で「ついでに」と断ったが、実はそこは結構大事な部分のように思える。 だって指環の装着って、要は何らかの意思表示に他ならないわけだから、「どう見られるか」って部分が実のところ最重要点である筈なのだ。


指環を装備してしまう人は、「私には結婚してくれる相手がいます」と表明する事によって、延いては、何らかの対外的信用を得ようとしているのだろうか。 だとしたら、指環を着けずにいられない人とは、自己について、何らかの引け目を感じていると言う事になる。 つまり、「自分の人気の無さ」に幾許かの不安を抱えている(違います?)。


「私は既婚者だ」と表明する事によって、自分の人気・信用の担保を作ろうとするのは、方法論として適切でない(効果が無い)ように思える。 「自分は人気者である」と言う一種の権威を振りかざす事によって、ある相手からの好意を引き出そうとしてしまうのは、人間関係の構築術において、非常によくあるごく初歩的な間違いなのである。 世の中には、これが理解出来ない人の何と多い事か。

自分の信用に不安を抱えているような人は、すぐに権威による威圧よって相手の譲歩を引き出そうとしてしまう。 だからその人は好かれないのだ。 指環などと言う装飾品を身に纏ったところで、その人自身は何も変わっていないのだから、魅力の無い人は魅力の無いままなんだ。 むしろ指環を着けずにいられないそのメンタリティが、その人の持つ「ある印象」を補強してしまう気すらしてしまう。


9/8(木)

過去について。

誰しもが持つ過去だが、必ずしも自分にとって好ましいものばかりではなく、忘れてしまいたいような過去もある。 忘れたい過去、これは実に厄介なもので、どう足掻いても絶対に消えない。 未来ならいくらでも作れるのだけど、過去だけはどんなに小さなものでも絶対に書き換える事が出来ない。 過去に苦しめられている人は多い筈だ。私とて例外でない。

実は脳細胞と言えども、激しい代謝に晒されていて、昨日のそれと今日のそれとは既に違うものである。 だからして、「10年前の自らの行為を悔いている」などと言う人がいるなら、その過去が心の傷として記憶に残ってしまっている時点で、それはある自分自身の解釈による取捨選択を経たものと言う事になる。 自らの意思でその記憶を反芻し続けたのである。 「消えない過去」を消さなかったのは、他ならぬあなたなのだ。


私は、「人は過去に苦しめられ続けるべき」などと全く思わない。 だが、忘れるべきとも、それはそれで思えない。 過去について、ある解釈を成立させる事によって、それを克服出来ればそれに越した事は無いと思うけど。 ここで言う「解釈を成立させる事」とは、評価を改竄する事ではない。 事態そのものは正当に評価せねば、自分を成長させる材料にならないからだ。 幸いなるかな悲しむ者。 がんばって。

おそらく、消せない過去の多くは、自分の美意識に悖る行為なのだろう。 行為があなたの美意識に障らないのであれば、とっくにその記憶は消えていた筈だ(少なくとも傷では無かったろう)。 過去などと言う本来実体の無いものに、あたかもの実在性をあたえているのは我々の美意識なのである。 人はその過去を、嫌えば嫌うほど、憎めば憎むほど、自らの消えない傷へと変えてしまう。

だから、消えない過去とは、実は我々そのものである。 それは、自分が考える「どういう自分であるべきか」の答えでもあるのだから。 モノの感じ方や、解釈こそがその人間の主体なのだ。 過去を悔いてしまうのは、言うなればあなたが成長している証でもある。 どうやったって消えない過去にしがみつくより、その成長にこそ可能性を感じるべきではないか。 建設とはそういう事だ。 過去を悔いる事が出来るのだから、あなたはきっといつか、今日よりマシな自分になれる筈。


遥か昔の恋人などに、いつまでも執着している人がいたりする。 本来、物事の生理として風化せざるを得ないような「過去の恋人像」にいつまでもしがみついてしまうのは、時間と共にそれが実体以上に美化されてしまっている証拠である。 つまり、その人にとって、相対的に今の現実が退屈なのである。

もしも私の昔の恋人などが、いまだに過去に執着して私を追い掛け回していたとしたら、こんなに悲しい事は無いよ。 「私がその人に残せたものって一体何だったんだろう」って本気で思うだろう。少なくとも「俺ってそんなに魅力的かしら?」なんて喜んだり出来る筈が無い。 私との日々を美しい思い出としてくれるのはありがたい事だが、その人はその人で精一杯素晴らしい今日を生きていて欲しいし、薔薇色の未来を思い描いていて欲しいさ。

過去がどんなに美しくても、自分にとって大切なものだったとしても、私は今しか生きられないし、どんな貴重な過去よりも、目の前で輝いている未来の方が大切である。 過去の自分に如何に素敵な恋人がいたとしても、これから先、今は予想だにしない魅力的な人物に巡り会える可能性は絶たれたりしない。


今の私が、如何なる過去よりも未来の方に光彩を感じてしまうのは、私に音楽があったからだし、その光彩を成立さしめるものとは、この私の想像力に他ならない。 この想像力が絶えれば、私とて持てるものは過去でしかなくなるだろう。 やはり、イマジネーションの限界こそが人間そのものである。

だから私は、大切な思い出や忘れられない傷をも含んだ、今持てる全てでもって、立ちはだかる次の一瞬を生きようと思っています。 これを読んでいるあなたの目の前に、私と同じような景色が広がるなら、こんなに嬉しい事はない。


9/7(水)

昔の人は「愛しい」を「かなしい」と読んだりした。 誰かを愛しく思う時、悲しみのような感情を覚えたのだろう。 今は私にもそれが分かります。

私が生きたいのは、やはり「悲しみの無い人生」などではない。 むしろ、肌を切り刻むような、この世界の本当の悲しみすらこの心に映したい。 子供の頃から好きだったあの晴れた空の、本当の鮮やかさをこの目に焼き付けたい。

その為にすべき唯一の事として、私は今日も歌を作り続けている。 私は、自分がこんな人間に生まれてきて、今日の自分のような人になれて、本当に良かったと思っています。


9/6(火)

景気が悪く、雇用不安が蔓延していると言う。 就職難は社会情勢に起因する事実であるのだろうが、斯様なご時世に、やっとこさ決まった就職口をいとも簡単に離れてしまう人も、それはそれで多いらしい。 何故か。

目的があれば、人は常に手段を値踏みする。 仕事に生きがいを見出せる幸福な人は無論いるが、そうでない人も多い。 そういう人らにとって、就職なんてのは糊口の手段に過ぎず、払う時間や労力とそのリターン(詰まるところ金)とを勘案して選ぶだけのものであろう。別にそれは悪ではない。 ベストな職に就けるかどうかは、状況に負う部分が多く、我々の意思だけじゃ決まらない。

飯を食う為、あるいは趣味に使う金を稼ぐ為(大切な人に何かを振る舞う、と言うのも要は趣味である)だとかの理由で、人はとりあえず働く。 あくまで目的ありきである。 憲法に勤労が義務だとか謳われているが、あれはもう現代社会の実態に即さなくなっているように思う。 働く必要が無いなら働かなくて良いじゃん。 義務だからでなく、目的があったればこそ人は働くべきでないか。

目的がありさえすれば、仮にそれが「飯を食う」と言うごくプリミティブなものであったとして、「食費に使う給料をもらう為に働いている」と言う明確な意志が介在すれば、人はその目的相応にぐらいは、労働の過酷さにも耐えられる筈である。

逆に目的が無ければ、労働条件の上での少々の障りにすら人は耐えられない。 そこで歯を食いしばったところで、更に得られるものなど無いのだから。

日本の景気が停滞しているのは、日本経済に成長の意志が希薄だからで、それは要するに多くの日本人に目的が無いと言う事なのだろう。


9/5(月)

ゲーム・センターが、かつての若者の溜まり場でなく、老人の憩いの場に変化しつつある、と言うニュースを仄聞した。 まあ昨今、日本は高齢化社会であると言うし、如何にもありそうな話ではある。

ゲーム・センターにいた老人の一人に、そこに集う理由を尋ねたところ、「安く時間が潰せる」と答えたそうだ。 何と比較した上で安いと言っているのか、ちょっと分かりかねる部分もあるが、確実にその人の人生観が凝縮された一言ではある。 その人にとっての人生とは、時間を消費する事でしかないのだろう。 その時間を使って何を残すか、と言うように、時間を手段と見做さなければ、必然的にそうなってしまおうか。


目的が無いから、人は持たされた残り時間を「安く潰せる方途を探そう」とか思ってしまうし、ある困難に遭遇した際、いとも容易く首を吊る。 残り時間に手段としての価値を見出せないからだ。

私は、今の日本の教育を、人として一番肝心な何かを培う事について、蔑ろにしたものであると感じる。 ある時代まではそれで良かったのだろうが、その方法論が通用するには、我々日本人は、ある意味中途半端に成熟し過ぎたのではなかろうか。


9/4(日)

影山リサ、つい先日のリハーサル時のカット。

  

10/12(水)発売の「Luck In Your Eyes」の方もよろしくお願いします。




9/3(土)

今週のリハーサル風景。

   



最近、作る曲が次々お蔵入りしてしまう。 ここ暫くブラスのアレンジに凝ってて、そのブラスを多用したトラックばかり作ってしまっているのだけど、金管の音と神田優花のアーティスト・イメージの相性が実に悪い。 とりあえず神田優花のレパートリーに適用できないので、結果多くがストック化しているわけです。 まあいつか何らかの形で発表できるだろうけど。

下は今週の神田優花。

 


9/2(金)

人間に対する印象について。 イマイチ私にはピンと来ないのだが、一般に人は、他者に対する印象を保持する事が苦手なようだ。 だから、遠距離恋愛などは成立しがたいと言う。 ちょっと距離が隔たった事によって、物理的に会えないだけで相手の印象が薄れるのだろう。 印象が薄れると言う事は、そこに通わせていた愛も薄れると言う事だ。

死者に対する悲しみなども同じで、時間とともに薄れていく。 まあこれは薄れなければ大変な事で、人間に忘却の機能がついていなければ、私は今日まで生きて来れなかったろう。


私がこの事に気が付いたのは、他人の振る舞いを見てである。 私自身と平均的他者とでは、どうやらこの「人間に対する印象の保持機能」が違い過ぎるようだ。 良い事なのか悪い事なのかは分からないけど、私がこういう人でなければ、今まで残した音楽作品なんて到底作れなかった事は間違い無い。


9/1(木)

人間はよく、感情や人間関係に名前を付けたがる。 前者には恋愛だとか友情だとか、後者には友達だとか恋人だとか。

でもそれってウソッパチである。 感情には本来、例えば好意であれば「好き」と言う一種類しかなく、あとはその対象によってそれぞれ熱量が変わってくるだけだ。 「友達としては好きなんだけど、恋人としてはちょっとね…」なんてのも、別に感情に種類があるわけでなく、単に、その相手を「それほど好きでない」だけである。


人間の間にある感情は、好意であれば「好き」の一種類でしかなく、後は熱量に違いがあるだけ。 だから関係が恋人だとか結婚相手だとかに発展するかどうかも、機会とその時々の状況が決める部分が大きいのだと思う。

例えば、日本では重婚は認められていないから、出会うのが遅かっただけで結婚相手になれない人もいる。 一旦婚姻関係など結んでしまうと、人にはもうそれだけで動かし難い状況ってヤツが生まれてしまったりもするのだ。 本来結婚制度なんて、相続の円滑化とか家族体制の維持の為にあるだけなんだろうし、それを推奨する為にに、税制上の優遇措置ってオマケが付いているだけに過ぎない筈なんだけどね。


8/31(水)

あらためて思うが、本当に音楽作りって時間が掛かる。 気が遠くなりそうだ。 強い意志を持って「休みを取ろう」と思わなければ、ついダラダラと1年365日働いてしまいそうになる。 作品の検証作業に時間軸を要するってのが何より大きいな。 ピカソは数万点の絵画を残したらしいが、私に数万の曲はまず残せない。

有名なミュージシャンなどの逸話として、「一曲を数時間で仕上げる」とか、「ストックが何千曲ある」とか、まことしやかに語られていたりするが、どこまで本当かしら。 仮に本当だったとしても、その曲とやら、かなりざっくりしたものに過ぎないんじゃなかろうか。 適当なコードに鼻歌が乗っただけ、とか。 細部に至るまで完成されている作品だったら驚きだけど。

一曲作るのにどれぐらい掛かるのか、とか何度か聞かれた事があるけど、これは実に答えにくい。 モノにもよるし、何曲か同時進行で作ってたり、頭の中だけで練っている構想期間がやたらと長いヤツがあったり。 とにかく答えにくい。 音を作る実作業だけでも、数日〜数週間とマチマチだ。

ここ何年かは、年産20〜30ぐらいのペースで作っているのだが(今年はもう少し増えるかも)、音楽以外の事に興じているヒマなんてほとんど無い。 年50だと、ほぼ週に一曲って感じか。まあ無理だな。

年20〜30曲ぐらいがほとんど限界なんだから、三千曲のストックを作ろうと思ったら百年以上掛かる計算になってしまう。 時間を使い切る方が先になろう。


私が殊更に、人生のことを「時間」だと捉えてしまうのは、この音楽制作ってヤツが時間を食い過ぎるから、ってのもあるような気がして来た。


8/30(火)

もう随分昔の話だが、湯島の金属バット殺人事件ってご存知か。 それなりに有名な事件だったと記憶しているが。 東大卒のエリートだった人物が、家庭内暴力を繰り返す我が息子(長男)の、寝込みを襲って金属バットで撲殺した事件である。

裁判では、長男の繰り返した暴力行為が詳細に語られ、家族からの嘆願もあり、父親には酌量の余地ありとて、寛大な処分が下された。 なるほど、口の無い死人であるその長男の、暴力行為のみをクローズ・アップすれば、「何と酷いヤツか」と、殺されて当然のような気すらしてくる。 しかし果たして、本当に悪いのは暴力を振るう少年のみか。


父親は、長男が繰り返すその暴力行為に対し、絶対服従を決め込んだそうな。 やられるがまま殴られ続け、土下座で謝り続けたという。 少年に何かの許可を得る時は、これまた土下座で手をついて、子供に向って敬語で「お願い」したらしい。

しかも上の絶対服従の態度、何やら言う専門家(カウンセラー)の指示だか許可だかを得ての行為だったと言う。 一体それは何の専門家で、如何なる理論的根拠に基づいた指導だったろうか。 処方が良く分からないなら、カウンセラーの看板など降ろしてしまえば良いのに。 そうも行かない事情がそのカウンセラーとやらにもあったろうか。 人間は小さな生き物だからね。


私はその少年がかわいそうに思えてならない。 彼はさぞかし情けない思いだったろう。 暴力を振るわずにいられない弱い自分と、鏡に映った自分自身のような情けない父親。 彼は殴る度に自分が嫌いになり、この世界を呪ったろう。 彼には、未来など闇にしか見えなかったろうが、誰一人として、彼の気分を理解しようとはしなかった。

暴力を振るわずにいられない弱い少年がそこにいて、非行に走る我が息子を体を張ってでも矯正できない弱い父親がいて、やられるがままその暴力行為を誰一人として止められない、家族を含む弱い周囲の人々がいた。 弱者は更なる弱者を生む。 類が友を呼び、事態は最悪の結果を招いた。


人は、こう言った負の連鎖から、抜け出す為にどうすれば良いのか。 それは誰かが勇気を持って毅然と振る舞うしかない。 私は、大切にする人々の為にも、今日も毅然たる自分であらねばならないと思っている。


8/29(月)

私にとって「分からない未来」とは、状況の事であって、心持ちの事ではない。 私は、子供の頃に好きになった音楽が今までずっと好きだったし、今日も好きだから、明日もきっと好きだろうし、一年後・十年後だってきっと好きだろう。 この世界に別れを告げる最後の瞬間だって、きっと好きなままであるに違いない。

十年後の私がどう言う環境下にあるか、など正確に分かる筈も無い。 遠い未来になればなるほど、そう言った状況についての観測は見えにくくなる。 しかし私の「心持ち」は別だ。

「私の事、十年後も好きでいてくれるかしら?」と言う質問に対し、「先の事は分からない」などと答える人は、状況でなく、我が心持ちこそを「分からない」と答えているわけで、実に心許ない人間である。

私は、今好きなものなら、きっと永遠に好きだよ。


8/28(日)




神田優花、ちょっと久々(っつっても二週ぶりぐらいだけど)のスタジオ入りでした。

 

9/28(水)に、神田優花のニュー・シングル「a moment」が発売されます。 もうトップページに広告をランダム表示させているのですが、下がその画像(一番上の画像はジャケット)。 本人からのコメントも合わせてどうぞ。




a moment / One

神田優花らしい曲になったと思います。もう一度自分を再確認する、そんな曲に仕上がりました。
自分の存在が他人によって肯定されるその喜びを、人は人と繋がっていられるという奇跡をいつでも胸に忘れないでいたい、とそんなことを思いながら歌いました。
カップリングは、開放感のある気持ちのいいロックナンバーです。言葉の響きの持つ疾走感を大事に歌っています。是非聞いてみて下さい。

神田優花



8/27(土)

  

影山リサ。 10/12(水)にニュー・シングル「Luck In Your Eyes」が発売されます。 下はそのジャケットと本人からのコメント。



「Luck In Your Eyes」

恋を歌った曲です。
キラキラした感じのとても良い曲なので、皆さん是非聴いてみて下さい!

影山リサ



8/26(金)



今週のスタジオにて。 上は差し入れの「かぼちゃプリン」だそうな。

      



 

広瀬沙希、10月に新作「小さな欠片」の発売が決まったのですが、下にそのジャケを上げてます。



今回のリリースで、広瀬沙希の楽曲が、格段に入手しやすくなります。 我々としても、作品こそを聴いて欲しいアーティストなので非常に喜ばしい。 以下、本人からのコメント。


「小さな欠片」について

どんな言葉でどんな風に歌えば聞いている人に思いが伝わるだろう?
一生懸命考えながらひとつひとつ作り上げました。
歌に込めた思いに少しでも触れていただけたら幸いです。

広瀬沙希



8/25(木)

人間は生まれてくる環境を選択できない。 恵まれた環境に生まれたら「当たり」だし、そうでなければ 「ハズレ」だが、そもそもそのクジ自体を我々が引いたわけですらない。 我々にゴールは選べるが、出発点は選べない。

されど選べるものもある。我々には意思があるのだから。 それが人とモノとの、最大にして唯一の違いなのだ。 生まれつく環境こそ選べない私たちでも、何を感じ、愛するか、どんな友人や恋人を作るか、誰を心の師とするか、どんな夢を持つか、どこに向かって歩むか、これら全てを選べる。

人と人との出会いには、無論偶然と言う要素も含まれているが、出会った人との関係には、その全てに濃淡がある筈で、今の我々の側にいる人たちは、つまりは我々が選んだ人たちなのだから、それらは言わば「私たち自身」である。 我々の感受性、無数の選択の結晶なのだから。

私のようなくだらない人間でも、なんとか自分を律して立派な私であろうと思えるのは、周りにいてくれる人たちのお陰だ。 今日の私は、私を選んだ人にとっての紛う事なきその一部なのだから、せめて私なりに立派な自分であらねばと思える。 私が何も選ばず、何からも選ばれなければ、中空に漂うように、風に吹かれるままどこまでも堕落し続けたろう。

私の作る歌が、誰かの心に響く時、私はそこにいる。 その歌があなたの「好きな歌」であってくれたなら、それはもう、あなたの心の一部として。


私の心の側にいる人よ、側にいてくれてありがとう。 私は持たされた限りある時間の中で、あなたと出会い、重なり合う時間を共有させてもらった。 私が今の私であるのも、一番大切な何かに気付けたのも、それはあなたのお陰です。 私はきっとあなたの事が好きだから、せめてものお礼として、今日も私が作り続けているこの「歌」と言う、愛された記憶をどうか持っていって下さい。


8/24(水)

私はハンバーグにパイナップルが乗っていたり、メロンに生ハムが乗っていたりするような料理があまり好きでない。 まあ食い合わせなんて要は文化なのだから、単に順応していないってだけなのだろうが。 しかしまあ、この手のアレンジを思いつくのにもセンスがいるもので、時に感動的なほどのコンビネーションを実現しているケースもある。

音楽のアレンジなどにも似たようなところがあって、例えば、カントリー・ミュージックにヴァイオリン(フィドル)を使ってみた人だとか、クラビネットでエレキギターを代用しようと考えたヤツなんて(これはスティービー・ワンダーでいいのだろうか)、それだけで音楽史に残る功績者である。


8/23(火)

「好き」と言う気持ちについて。 私は結局ワガママなもんで、いつも自分の事ぐらしか考えてない。 だから、好きなものが好きだし、愛する者を喜ばせたいと思ってしまう。 あくまで自分がそうしたいから。ワガママなのよ。

目の前で悲しんでいる人がいたりなんかすると、もうそれだけでキモチ悪い。 その不安や悲しみがありありと伝わってくるから、それだけで食欲が失せる。 だから常日頃、目の前の相手には少しでも良い気分を与えたいと思っている。 これもあくまで自分の為ね。 腹が減ったからメシを食う、とか、蚊が飛んでて鬱陶しいから蚊取線香に火をつける、みたいな感覚。 みんな俺の為に笑っていて下さい。


私には、「自分を好かせよう」と思って他人に何かを与える事などありません。 私が何かを与えるのは、私がその人を「好き」だから。 ただそれだけ。


ある人を「好き」と言うのは、私が晴れた空が好きだったり、野に咲く花が好きだったり、海の青さが好きだったりするように、誰かを可愛いと感じる事。 だから見返りなど考えもしない。 ただ、人は、花や何やと言ったモノではないので、時に私が投げかけた愛を倍にして返してくれたりする。 だから人って好きよ。


8/22(月)

広瀬沙希、新タイトルが10/5(水)に配信限定で発売される事になりました。 新曲あり、旧作の再録あり、中にはアレンジまで完全リニューアルしたものまであります(全4曲)。 今までのベスト的な内容になっていますので、是非聴いてみて下さい。


8/21(日)

目の前で溺れそうな人が「二人」いたら、私はどうすべきなのか。 溺れる者が一人なら、「身を呈して助ける」と言う行為に酔うのも容易い。 しかし二人ならどうか。

「好きな方を助けたら?」と言うのはごくまっとうな助言だが、溺れる二者のどちらもを好きであるなら、事は容易で無い。 好きだとか言う気分を持たずに生きて、そのまま死んで行けるなら、人はこういう迷いとも無縁でいられるが。


私なら、溺れそうな二人を、二人とも救います。ついでに私自身も五体満足なままで。 私は決して溺れないし、愛する者を溺れさせない。


野に咲く花を見て「美しい」と感じた心こそが私であるのなら、私は私であり続ける為に、その心を決して放さない。 どこぞやに、それを「許さない」と言う誰かがいたとしても、私は構わない。 答えはいつかきっと見つかる。私が見つけてみせる。

人生に岐路など、実はありえない。 目の前で道が二つに別れてしまったなら、それは「何か」が間違っているだけ。 進むべき道は、いつだって一本なんだ。 今までもそうだったから、きっとこれからもそう。


8/20(土)

影山リサ。 10月に2タイトル(「Luck In Your Eyes」・「Baby Rose」)のリリースが決まりました。 多分来月ぐらいからジャケットの画像なんかも公開すると思いますので、お楽しみに。

 


実を言うと、私はここ数日間マトモに寝ていない。 昨日も2〜3時間うつらうつらしただけで、寝たんだか寝てないんだかよく分からない状態で今に至っている。 今日は寝ます。


8/19(金)



今週のリハーサル。 上は差し入れのお菓子。

      


8/18(木)

行きたい場所。

今更ながらに気付いたのだけど、私に「行きたい場所」なんて無い。 「たどり着きたい境地」とかならあるんだろうけど、あくまでそれは物理的な場所ではなく、気分の事だ。

どこかに誰かと遊びに行ったり、あるいは泊りがけで旅行に行ったりした事もあるが、私は観光地なんかに行きたかったわけではない。 断言して良い。今でも私に行きたい場所なんて無い。

遊びに行く事が楽しくないわけではない。 何故ならそこに一緒にいる誰かの心を感じる事が出来るから。 私は誰かの心を感じたいのだと思う。 遊びに行きたいのではなく、誰かを喜ばせたい。 旅行に行きたかったのではなく、その景色を誰かの目に映したかった。

私はストイックなのではなく、愛する人を喜ばせる事こそが趣味なのだと思う。 今頃になって気が付いた。


8/17(水)

ある有名ミュージシャン同士の対談を記事(テキスト)で読んだ。

対談中のあるくだりで、「もう誰も音楽に金なんて払わない」とか「そもそも音楽が金になっていた事がおかしかったのかも」みたいな発言があった。 まあ割りと前から言われ出している事ではあるので、慧眼とか言うと褒め過ぎだが、一面の真理ではあるかもしれない。

言うまでも無い事だが、音楽ってモノじゃないからね。 物質でないものに値札を付けて売ろうとしているのだけど、無理がある部分も確かにある。 現実には、昨今売れているCDタイトルなんかも、あるにはあるけど、アイドルのブロマイドであったり投票券であったり、つまりタレントのグッズが売れているのであって、ヒットしている音楽があるわけではない。

私はまだまだ音楽に可能性を感じるけど、それは換金性とか言う側面でではない。 金儲けがしたいのなら、もう純粋音楽に関わるべきではないのかもしれない。


8/16(火)

「彫刻家は、木を掘って作品にするのではなく、木に埋まっている作品を外に掘り出しているのだ」とかよく言われる。 無論修辞と言おうか、一種の美的表現であって、事実ではない。 彫刻家は木を掘って作品にしているのであって、元の木に完成像など埋まっていない。

しかし、そのように錯覚してしまう彫刻家の気分は、私にも分かる。 多分、作品を手先で生む作業と、頭(想念)で生む作業の違いに気付いて、その感覚上の差異を上のように表現した人がいたのだろう。 音楽とかも同じで、手先だけで曲は作れてしまう。 往々にしてそういうものは詰まらないが。


8/15(月)

過去にも触れているのだが、曲の長さについて。

私は一リスナーとして、長い曲が好きでない。 一時間もある交響曲なんてもう聴きたいと思わない。3分でまとめてくれ。 昔は何とかそういうものも聴いたりしたのだが、半分教養願望みたいなのに押されて、退屈に耐えながら聴いていただけだ。俗物だから。

POPSはクラシックに比べれば短いが、それでもモノによっては6分も7分もあったりする。なげえよ。 私の個人的見解としては、POPSは2〜3分台で十分だと思う。 初期のビートルズの作品とか、丁度良い塩梅に感じる。


大体POPSが7分ある必然性ってどこにあるのだろう。 作品の表現にそれだけの時間が必要だったのかしら。 確かに葉書の裏にゲルニカは描けないわな。 しかし大抵の長いPOPSは、リピートで尺を埋めたような冗長なモノが多い気がする。 まああんまり正確なデータに基づいているわけじゃないが(嫌いだから私はそういう曲を聴かないのだ)。

でもまあ「曲の長さ」ってのも歴然たる「意趣」なわけで、その匙加減こそが創作性でもある。 って事は7分の曲を書いている作家さんは、あの尺が気持ち良いのだろうか。 私には分からない感覚だ。 私に聞こえない帯域で鑑賞すべき音が流れている、とか言われたら納得だけどな。


8/14(日)

割と最近よく聞くようになったような気がする「最も大きな理由の一つ」みたいな言い回し、若干の違和感を覚えつつ聞き流している人は多いのではなかろうか。

英語で言う「one of most〜」的な言い回しを直訳した感じなのだろうけど、日本人(つうか多分アジア人全般)は「最も〜」と言う表現にHierarchie(ピラミッド構造)の頂点を連想してしまう。 だから「そのうちの一つ」って何よ?みたいな感想を持ってしまうと。 私もそうだった。

欧米人ってのは、基本的に物事・社会を階級的な要素で捉えていないらしい。だから「one of most〜」がありえてしまう。 そこに矛盾を感じにくいのだろう。 今は一応私にもそれが分かる。 日本人の多くが、その気分を共有してくれるようになれば、きっとこの社会はもう少し住みやすくなる。


ついでだが、英語では「Nobody knows」とか「Only God knows」みたいな言い回しがある。 日本語なら「誰も知らない」。 英語でも文法上、「Anybody doesn't know」はあり得る筈だが、どうも英語圏の人はこの形を好まないようだ。 思考のクセとして、否定の形を嫌うのだろうか。

思考のクセと言ったが、思考と言うのは他ならぬ言語によって為されているのだから、このクセこそがつまるところ「民族」の正体なのだろう。 民族なんてものに、科学的な実体などおそらく無い。 民族なんてものが本当にあるとすれば、それは「如何なる言語を共有しているか」と言う事でしかなかろう。


8/13(土)

少年時代、いわゆる洋楽と言うヤツを割と聴いたりしたわけだが、それらのミュージシャンの国籍を真剣に考えた事は殆どなかった。 印象としては外人なんて皆同じで、漠然とだが、アメリカとかそういう国の人たちだと捉えていたように思う。

だんだん分かってくるのだが、意外とそうでもない。 昔の洋楽は、コンテンツの絶対量こそ少なかったものの、大掴みには今よりももっと国籍面での垣根が低かった気がする。様々な国の音楽が流入してきていたし、例えばアメリカの音楽シーンにも、様々な国籍を持つミュージシャンがいた。 あくまでイメージだが(統計取ったわけでないので)、今の方がアメリカの音楽業界などは閉鎖的になっているように思える。 あるいは、販路の方が変わって、昔ほど活動拠点に拘る必要が無くなったのだろうか。


ミュージシャンらはクリエイターである。常に「何か面白いことをしてやろう」と思っている人たちなので、よくコラボレーションなんて事をしたがる。 そしてそこに国籍条件と言った垣根は基本的に無い。 しかし、日本のミュージシャンらは、その輪の中になかなか入れない。 何故か。

地理的に日本が極東の島国で、活動の場が物理的に離れ過ぎている(隔絶されている)、と言うのは理由としては小さくなかろうけど、それより何より、要は「やろうとしている事が違う」ってのが理由の本質ではなかろうか。 これは、「演奏技術の違い」なんてモノとは根本的に違う。

なるほど、確かに日本人だって、日本人同士内輪でよく「featuring何某」とかやっている。 しかしあれは、いわば「商品にオビを付けた」と言うだけであって、販促の為の名義貸しである。 全然一緒に何かを作っていない。

多くの日本人ミュージシャンが、その精神の上で、いまだにアーティストの一員となれないのは、つまりは本当にアーティストでないから、ってだけなのではないだろうか。


8/12(金)

二日前のこのページで、「ある業界が好況で、金銭的見返りを得やすい環境になると言う事態はままある」と述べた。

例えば私がまだ十代の頃、カラオケ・ブームと言うヤツが起こって、雨後の筍のように、至るところにカラオケ・ボックスが出来た。 楽曲データの補充を通信システムで賄う「通信カラオケ」ってヤツが始まって、当時それ用のコンテンツのデータ(MIDI)作成技術者(つまり音屋さんたち)に大量の仕事が舞い込んだ。

サウンド・プログラマーってのは、一般のプログラマーやSEなどとは殆ど技術領域がカブっていなくて、業者はそれ専門の技術者を押さえる必要があった。 当時は普通に、求人誌などにもカラオケ用データ作成技術者募集の記事が出ていたと記憶する(未経験者ではまず使い物にならないだろうに)。 とにかく、今考えると仕事の単価も割と高くて、クライアントを押さえるなど、上手く立ち回ればそれだけで食えなくもないぐらいの需要が存在した。

しかし、ブームなんてのは流行なだけにやがて下火になる。 俄かに発生した特需もある程度のバランスに落ち着き、簡単に新しいクライアントを獲得する、なんてのも難しくなった。 技術の進歩や業界の縮小により、仕事そのものも減った。 つまりある技能が、換金し難くなった。 音屋さんらの技術自体に、さほどの変化など無かったろうが(むしろ技術は向上していたろう)。


カラオケ・ブームの後にも、携帯電話用の「着メロ」データ作成の需要とか、散発的な特需はあって、実際私の周辺にも、その手の仕事を請け負っている音屋さんはいた(どっちかと言うと、末端の作業員と言うより、その元締めみたいな事をやっているみたいだったけど)。 が、それもやがて廃れる。 今は音楽そのものが下火であると言う。 世の中の流れだから、これはどうしようもない。


私自身は何も変わらない私なのに、世の中の方があらたまって、私の技能が今以上に金を生み易くなる事だってあるかもしれない。 商売ってのは、その「世の趨勢」の方に自分のアクションを合わせていく事によって成果を得る分野なのだろうけど、私は多分それには向いていない。 粛々と自分の道を進む事(つまりはart)ぐらいしか出来そうに無い。 だから成果の予測については、私以外に聞いてくれと。


8/11(木)

「誰かを喜ばせたい」と言う感覚が絶無である人間をたまに見かける。男に多い。 女の人は生来、備わっている愛の分量が多いのだろう。

「愛」の定義って如何なるものだろう。 四捨五入して言えば、無条件の好意ってとことだろうか。 「他人が何か良いものをもたらしてくれるかもしれない」と言う漠然たる予感は、条件になってしまうのかな。 ならば、具体的実利を期待しない好意と言った方が良いのか。

西洋文明が大規模に流入してくる明治以前から、一応ながら日本語に愛と言う語彙は存在していた。 何だか仏教語的なもので、愛染・愛着・愛執などと言う語として。 仏教では、執着の一つとして、どちらかと言うと忌むべきものと言う位置付けだったようだ。名前に愛の字を入れるなんて、結構思い切った事だったと思われる。 直江兼続の兜の前立にある「愛」は、一体どういうつもりだったのかしら。

※今ちょっと調べたら、愛染明王とか愛宕権現の頭文字を拝借しただけなのではないか、と言うのがほぼ定説だそうだ。 多分その通りだろう。 兼続の腹には、現代人が期待するほどの何事も無かったと思われる。 現代と当時とでは、人々の捉えている愛の語感が違い過ぎる。


それにしてもその愛と言う日本語、キリスト教的「博愛」などと成分的に同じかしら。 断言は出来ないが、おそらく違おう。 だし、ひょっとして、いまだに日本語の愛って執着を指してやしないか。 教行信証とかに「絶対他力」なんてあるけど、そこで言う「絶対」と欧米人の言う「absolute」が同じなのかとかもよく分からないものな。 言葉って難しい。


世界とは、本当は自分の心が映しただけのものである。 未来とは、自分の中にある過去が映し出した幻だ。 だからして、誰を愛した記憶もなく、誰を喜ばせたいとも思わない人は、さぞかしこの世界が闇に見えようし、未来は氷の世界に映ろう。 一度でいいから、勇気を持って誰かを愛してみれば良いのに。


8/10(水)

夢と成果について。 この話って何度もしているのだけど、あまりに世間の人らがこの二者をゴッチャにしているので、つい物申したくなってしまう。

例えば「ミュージシャンになりたい」とか言うと、親などが「そんなので食っていけるのか?」なんて言う。 それに答えるなら「分からない」としか言いようがない。 だって「食って行けるか」ってのは、要は「金になるのか」って事に他ならず、その金の源となるのは、商業音楽の世界では「売れるか否か」ってところにほぼ尽きる。

売れるかどうかは、世の趨勢が決める部分が大きいので、結局のところ誰にも分からない。 夢とは職業名の事ではなく、自分が何処を目指して歩むかと言う指標である。

確かに、例えばある業界が好況で、金銭的見返りを得やすい環境になると言う事態はままあるだろう。 音楽業界だって将来そうならないとは言えない(今のところその兆しは全く見えないが)。 そう言う環境如何によっては、「俺の作ってるモノが、それなりの金に化けそうだな」とか言う予測が立ってしまう事はあり得なくもない。 が、それは、自分の「何かを追求する作業」を、金に変える自信なんかではない。


私は今のところ、何とかこんな感じで、日々の大部分の時間を音楽に使いつつ生きてはいるが、今後経済的に行き詰る可能性は無くは無い。 そしたらどうするか。 まああんまりリアルな想像ではないが、食うための仕事でもしつつ音楽を続けるだろうか。 数年後の私が、あなたの家の近くの道路をほじくり返しているかもしれない。

私に「音楽を金に変える自信」は無いが、「音楽を続けて行ける自信」ならある。 続けて行くかどうかは、あくまで私が決める事だからだ。 継続は我が身に属するが、成果は、究極的には外の世界が決める。 私にそれは分からない。


8/9(火)

美女にまつわる心労。 女の人は、醜女に生まれつくよりは美人に生まれたいだろう。 不美人は、それはそれで苦労も多いだろうから。 しかし美人に気苦労が無いのか言うと、そんな事も無かろう。 美人には、美人と言う条件特有の負荷が生じる。

美人は、美と言う財産を持たされているので、相応の資産管理コストを強いられる。 それのみを目当てとする相手から、その資産を守らねばならない。 またその資産は、年を経るにつれ価値が下落する。 そこに頼って生きようと思うなら、「売り抜ける」必要がある。


翻って不美人は、良くも悪くも自身と乖離した美など持たないので、自然他者は、精神こそに対峙してくれる。 目移りする程の美を持たぬ者の幸福と言える。

美女に生まれた人は、いつしか不安に思うやもしれない。 「私の心を愛してくれる人など、この世界にいるのだろうか」と。

この疑問に答えるなら、間違いなく「いる」。 但し、世の中はそういう人ばかりではないので、探さねばならない。 かけがえの無い出会いや、かけがえの無い人を得るには、我々自身が真剣に生きねばならない。 当たり前の事だけど。


余談だが、世にふりて上で言う「資産管理コスト」の負担を免れた女性(平たく言うと婆さんなど)は、ある面では、人生が実に気楽になるのではないだろうか。 その「身軽さ」を不安だと捉えてしまって、四苦八苦している女性なんかをたまに見かけるが。 何ともまあ、かけてあげる言葉も無い。

「だったら若い女性などは、化粧や美容室通いなど止めてしまえば良い」と言う考え方は当然あり得る。 金や努力を注ぎ込んでまで、自ら率先して心労の種を増やす事もあるまい、と言う話。 しかし、現に世にいくらでもいる資産家たちを見るだに、事はそんなに単純では無さそうだ。 やはり美と言う資産は、それによって得られる利得も大きいので、簡単に捨てられないのだろう。 いずれにせよ私には無縁の悩みだが。


8/8(月)

桂米朝(落語家)の自伝を読んでいたのだが、米朝さんの駆け出し時代、戦後まだ間もない頃の日本の情緒にしみじみ感じ入ってしまった。

例えば米朝は、正岡容の門人となるのだが、馴れ初めは何の事はない、突然家に押しかけている。 「読者です。先生にお会いしたい」みたいな調子で。 正岡容もお人よしだ。きょうび、アポなしでは顔を見せてくれる相手すらなかなかいないと言うに。

他にも、若かりし頃の色街通いの話なんかもあるのだが、噺家仲間と酩酊状態で入った遊郭で手持ちが尽きて、帰りの電車賃を女郎さんからもらった話など。 随分と穏やかな時代だったと思わされる。


見ず知らずの泥酔者に、電車賃を渡す女郎さんは、さぞかしこの世界やその未来が明るく見えたろう。 だって彼女は、誰かを助ける気があるのだもの。 自分が困った時に手を差し伸べてくれる誰かの存在を、本気で信じていられた筈だ。 そういった数々の愛に出会えたからこそ、米朝さんも噺家になろうなんて酔狂な夢を描けた。 今と昔、どちらが豊かであるかなんて、私には分からない。


8/7(日)

大掴みに言って、理系は外に向う性質で、文系は内に向う性質なのだろうと思う。 性差と言うのも、要はこの二極上にある。 男は潜在的理系が多く、思考法も即物的だ。 女は潜在的文系が多く、情緒的で、万物を言語で捉えがちである。

性差ってのは、分業に因っていると思われる。 狩猟・採集の時代、男には「食料の調達」と言うタスクが課されていた。 狩りに出ねばならないので、男には体力・運動(反射)神経が必要になる。 スポーツの能力ってのは、計数・計量の感覚で、理系寄りの能力だ。

一方女には、「子育て」と言う最重要タスクが課されている。 モノを言わない子供が何を考えているのか、常に想像する必要がある。 目の前で泣きじゃくる子が「お腹が空いている」のか、「便意をもよおしたのか」のか、「気分が悪い」のか、母親は常に忖度せねばならない。 良き母親になるのに、言語力は不可欠と言える。


政治とか経営ってのは、つまりは男性的分野で、芸術とか哲学ってのは女性的分野なのだろう(現実の芸術家や哲学者は男ばかりだが)。 男は、究極的には宇宙の果てを目指すのかもしれないが、女は心の中を知ろうとする。 心の深奥ってのは、宇宙より奥深いと思うから、私は芸術を志向するが。


言うまでも無い事だけど、一般に男性ホルモン(あるいは女性ホルモン)だけで構成される人間がいないように、男女どちらにおいても、その性質は男性・女性が複雑に混合されたものだ。 だから男性的・女性的性質ってのも、つまりは程度の問題かと。


8/6(土)

今週のリハーサル。

   


神田優花、先週歌録りした曲のチェック。 今回上がった曲で、とりあえず年内にリリースする予定の曲は上がりました。

 


影山リサ。 新しい曲のリハーサルに入ってます。 今度の曲は何だか難関みたいで、レコーディングまでは結構時間が掛かりそうな雰囲気です。 年内に発表できるだろうか。

 


8/5(金)

ライブについて。 しつこいようだが、最近この事について考える時間が多い。

「音源(録音物)とは、ライブ演奏を簡易的に楽しむものだったのに、いつの間にか立場が逆転している」と言った意見を仄聞した。 つまりは、録音物優位の音楽鑑賞スタイルは好ましくない、と言う。

そもそも主張の前提となっている、「録音物はライブの派生物」と言うのは事実なのか。 確かに「どちらが先に生まれたのか」と問われるなら、ライブ(生演奏)である事は間違い無い。 録音はせいぜいここ百数十年の技術である。 しかし音楽家(芸術家)は、常に作品制作を主眼に活動し、それを伝える手段の一つとして演奏会なり何なりを選んでいた。 手段としてのライブは、当時それに代わるものが無かっただけで、百数十年以上前であっても次善の策に過ぎなかった筈である。 偏に伝達能が低いから。 録音技術とは、芸術を愛して止まなかった人類の、その模索の結晶でもある筈だ。


現実問題として、ライブが好きな演者は多い。 もう、観客より演者の為にライブはあるのかもしれない。 あまりに好きである事が原因で、「音源はライブを詰めたもの」だとか「お客さんと直に触れ合えるからライブの方が素晴らしい」とか、まことしやかに語られるが、おそらくそれらは後付けの理由だろう。 ライブで(音源以上に)伝わるモノとは、「演者の生体的特徴」や「物理的音響の絶対量」程度ではないのか。 いずれにしても、ごく表層的なものだ。


音楽が本当に好きだと言う人に問いたい。 子供の頃のあなたが、初めて音楽に何かを感じたり、何かに気付かされたりしたその瞬間、そこはライブ会場でしたか? 違う筈だ。 私は違うよ。 私は、ライブ・アルバムですらあまり好きになれなかった。

ライブにしか興味がない人は、音楽に何かを感じたのではなく、単に目立ちたくてアーティストの立場に憧れただけではないのか。

「ライブをやらないとCDが売れない」とか「お客さんがつかない」とか言われる。 それは一面の事実でしょう。 我々もレーベルですから、取引先だとかの各方面から「もっとライブをやらないのか」と、実際よく言われたりする。 しかし、ライブのみを楽しむお客さんがたくさんいて、いくらCDがついでに売れたとしても、それは詰まるところ、作品を一曲も聴いて貰えないのと同じなんだ。

私は、今後もライブを活動の中心に据える気なんてサラサラ無い(本当に必要ならいくらでもやるが)。 当面私は、自分が納得出来る最高の作品(録音物)を残すべく努めるだけ。 一見遠回りなように思えるだろうけど、私の本当に欲しい物を手に入れるには、実はこれが一番近道なのだと思う。


8/4(木)

手塚治虫(漫画家)にこういう逸話があるそうな。 ある日の夕飯時、自分原作のアニメの放送時間に、娘さんが裏番組である別のアニメを見ていたのに気付いた妻が、「コラ!お父さんの番組を見なさい」とチャンネルを変えようとした際に、彼(手塚)は、「子供が好きなものを見せてやれ!」と妻を怒鳴りつけたそうだ。 因みに手塚治虫は、普段非常に温厚な人物だったそうだ。

彼の本当に欲しかった物が、今の私には分かる気がする。


私は音楽が好きだし、その作業(曲作り)は夢といって差し支えないのだけれど、究極的に欲しい物は、「売れる(有名になったり金持ちになったりする)事」ではない。

もし私や私の作品たちが、世俗的評価を得て、何やら言う権威ありげな賞に与ったりして、「この芸術作品の素晴らしさが分からないなんて、君には知能に欠陥でもあるのか」などと言う無言の恫喝に怯えながら、お金を使わせられる人が続出したら、きっと私には富や名声など思いのままに手に入る。 でもそれは、私の本当に欲しいものではない。

今の音楽業界の凋落っぷりは、恫喝の効き目が切れてきたからってのも理由としては小さくなかろう。


私は、私の作る歌が、誰かの「好きな歌」であってくれたら、とても喜ばしいと思っている。 恫喝に怯えつつ、「手に入れさせられるモノ」であってくれても、ちっとも嬉しくなんか無い。 私は、誰かの外見を飾る歌でなく、誰かの心の中にあり続ける歌を作りたいんだ。 私は諦めません。


8/3(水)

一昔前(80年代後半〜90年代ぐらい)の音楽業界は、平たく言えば、今よりずっと金回りが良かった。 だから、ライブハウスなどで活動していたバンドなどが、能力を買われて、メジャーの世界に引き上げられ、一躍スターになるような例も現実にいくらもあった。 逆に言えば、日本の音楽業界に、過去そういう特殊な時期も存在したと言うだけだが。

いわゆる「バンド・ブーム」なんて言う時代があった。 ブームとは、確かに才能の群がり出た時代でもあるのだが、ある意味ではバブルでもあるので、同時に色んな面でのハードルの低い時代でもあった。 今、当時のバンドの作品を聴くと、確かにプロの水準とは思えないようなものも多い。


私が、ある時知り合いに、音楽業界の現状を半ば嘆きつつ、「今はレコード会社が縁故でアーティストを採用している」と言うような話をしたら、その知り合いはにべもなく「コネで人を採る会社の方がマトモだ」と言い放った。 考えてみれば確かにそうかもしれない。 歌が上手いかギターが上手いか知らないが、デモテープ一本聴いただけの素性すら定かでない若者に、何千万だとかの投資を平気で出来る会社が果たしてマトモかどうか。 そもそも商品が売れない業界なのだ。何を出しても売れないのだから、信用すら無い者よりは、信用ぐらいはある方を選んでしまうのも無理は無い。

限られた数の椅子を巡って、コネの無い者が、コネのある者以上の待遇を得ようと思うなら、当然他者らを遥かに凌駕する才能だとか実績だとかを求められようが、何千万の価値を認められる才能など、そうそうある筈もない。 一千万円相当の才能を持つ人は、一千万円の札束を用意できる人より遥かに希少だと言う事だ。

音楽の世界は、単にマトモになっただけなのかもしれない。 但し、そのマトモな業界は、20年前の10分の1の規模すら維持出来ないかもしれないけど。


8/2(火)

酒もタバコものまず、ゴルフだとかのスポーツも、競馬・麻雀・パチンコだとかのギャンブルも一切やらない私に、趣味と言えるものがあるとしたらせいぜい読書ぐらいである(とは言っても読書家と言うほどではない。仕事人なので本を読める時間も高が知れている)。 読書が趣味だとか言うと、「好きな作家は?」とか聞かれる事があるけど、あれってあんまり本を読まない人の発想なんだろうな。

音楽が好きな人なんかなら分かってくれると思うが、「好きなミュージシャンは?」とか聞かれても困る筈だ。 そんなの言えねえよ。 そんな質問してくる人は、その時点で大して音楽が好きでなかろうが、その質問に対し「好きなミュージシャンは○○です」などと即答できる人も、きっと大した音楽好きでないと思う。 聴けば聴くほど、そういう質問には回答し難くなる。 私程度でもそうなのだから、本格的なリスナーならなおの事だろう。

そう言えば私も昔、某音楽プロデューサーに上のような質問をされた事があるのだが、やはり返答に窮してしまった。 当たり前だろう。


私の趣味は読書なのだが、いわゆる文学作品を読まない。 昔は読んだりしたのだが、高校生ぐらいの頃が一番読んだろうか。大学に入った頃ぐらいから徐々に読まなくなり、今は全く読まなくなった。 理由は退屈だから。

好きな人に聞いてみたいのだが、純文学とかって、そんなに面白いのだろうか。 いや、面白くないとは言わないが(事実私も昔は読んでいたのだから)、冗長に過ぎないか。 あと、当たり外れが多い気もする。 面白くない作品は、本当に面白く無い。 読後に人生を無駄遣いした気分になる。


文学ってのが、誰かの日記帳のように、ただただダラダラとエピソードを綴っただけのものなら、私はその手の物には食傷している。 私は、文学と言うものは、人間の心(機微)を書き出すものだと思っているのである。 その為に仮の舞台としてストーリーが必要になるのだろうと。 だからして、登場人物の心の動きが鈍い物語など、私にとっては退屈でしかない。 掻い摘めば要は2〜3分で終わる話を、丸一日かけて語られるのは苦痛でしかない。

私にとって文学ってそれなのよ。とにかく冗長、これに尽きる。 歴史関係の本とか、好きでよく読むが、歴史小説・時代小説の類は好まない。 理由は同じ。 読みたい人物の「機微」が、ただストーリーで薄められているだけのようにしか感じられないから。 だから学者が書いたような研究書だとか、史論・史伝の類ならそれなりに楽しんで読める。 「著者」と言う人物の機微がそれなりの濃度で味わえるから。


8/1(月)

ある女の子が、「私は自分を好きになってくれる男の子をいつも好きになれなくて、好きだと言ってきた相手にしばしば幻滅してしまう」などと言う。 しかし、本当に「自分を好きになってくれる人」を嫌う人間なんているのだろうか。

いるわけない。それは真夏の猛暑の中、「寒い」と震えている人のようなもので、まともな思考の末に生まれる感覚ではない。 では、上の女の子のケースはどうなのか。

きっとよくあるパターンで、男の子の方が、その女の子の精神を愛しているのではなく、モノとしてのその子が欲しいだけなのだろう。 主体たる精神を無視して、モノとしての女体を欲しがっている人なんてそりゃ幻滅もされるわ。

分かり易く例えるなら、その男の子の言動は、自分の持っている首飾りをやたら欲しがって、「その首飾りを俺によこせ」って言っているように聞こえるのだろう。 精神をすっ飛ばして「お前が欲しい」なんて言うのは、要するにこういう事なのだ。

「好き」だと告白しても相手にされない、と悩む男の子は相手の精神を愛してあげるべし。 喜ばせようとしてみれば良い。

女の子の方は、無意識にでも相手の心根を読んでいるからこそ、上の印象形成に至っているわけだから、人物を見る目は狂っていない。 だから大丈夫。 今後、好きだと思える男の子が現れたら、きっとその男の子は、その子の事を好きになってくれる人だ。


7/31(日)

音楽を含む創作物の「受け」は、共感に因っていると言われる。 まあそうでしょう。 いわゆる名画もヒット曲も、その立脚点は要するに人々の共感と言える。

名画は、共感のその深さによって成立していると言える。 一億円の名画は、その絵に一億の価値を見出した人間が、世界にたった一人いれば成立する。 一方ヒット曲は、共感のその広さによって成立している。 100万ダウンロードは、その音楽に数百円程度の価値を見出した100万人によって成立しているのである。 どっちが良いとか悪いとか、そういう話ではなく、この世の中の生理として、そういうものであると。

良し悪しはさておき、商業音楽の世界で最大級の成功を収めようと思うなら、多くの人からの共感を得ねばならないのだから、分かり易い最大公約数的なものになる筈である。 しかし、そういう当たり障りのない、誰にでも理解できる毒にも薬にもならないような作品は、必ずしも受けるのかと言うと、実のところそうでもなかったりする。 芸術になど全く関心を持たない層が、それはそれで平均層でもあるからだろう。 この辺りは難しい。 無論、カケラも共感できる部分を持たない作品など、それはそれで無視されようが。


私は、芸術とは、人間の美に対する執念が生むものだと考えているので、正直に言えば、商業音楽界が生産しているコンテンツの大部分は、つまりは芸術作品と呼べないものだと思っている(イメージとしては、工業製品などに近いものだと捉えている)。

音楽の世界(特に日本の)でバカ正直に芸術作品を作ろうとすれば、必然的にマジョリティには受けない。 従って商業的な面においても成功は難しくなる。 しかしここで言う成功の成分って、金だとか知名度だとか、せいぜいその程度のものでしかないんだがね。


アーティストとは、功利でなく、己の追求者だ。 音楽家の皆さんは、やはり商業的な成功を至上の価値とすべきでは無いように思う。世俗的な成功を求める人ばかりになってしまったから、こんなに音楽業界は廃れきってしまったのではないの?

ビッグ・アーティストの商業的成功の殆どは、そもそもは単にその人らの自己追求作業を、第三者が金にするアイディアを思いついて絡んで行った結果生まれただけのものだろう。 つまり金も名誉も、アーティストにとっては結果的に手に入ってしまっただけのものだろうと。 私個人の見解だけど、お金が人並み外れて好きな人は、もうそれだけで芸術家に向かないと思う。


しかしまあ「卵が先か鶏が先か」じゃないけど、本来消費者(リスナー)の側が、本当に芸術と言う人間の自己追求作業が好きであるなら、こんにちの音楽業界はもっと違ったものになっていた筈である。 要するに日本人の多くは、本質的に人間が好きでないのだろう。


7/30(土)

 

今週のスタジオにて。 昨日の続き。

   


神田優花、新曲の歌録り。最近立て続けだったけど。 神田優花は年内に3タイトル(計6曲)リリースする予定です。 また詳しい事決まったらお知らせしますね。

   


影山リサ。 影山さんも年内に2タイトル、リリースの予定です。 こちらもお楽しみに。





依存心とは何だろう。 誰か(何か)に助けてもらおうとしている人は、精神的に自立していないのだろうか。 私は、自分が窮地に陥った時には、誰かが助けてくれると信じているが。

自立していない(=依存心の強い)人とは、「誰かが助けてくれる」と思っている人ではなく、むしろ「誰も助けてくれない」と思いつつ、尚且つ「助けやがれ」と不満を持っている人なのだろうな。 この世界に得心の行っていない人と言うべきか。

不平不満とか絶望ってのは要は依頼心である。 自分以外の世界に対し「こうあれかし」と思うから不満はつのる。

会社からの待遇や支給される給与に納得が行かないのであれば、交渉する・転職する・退社して起業する等々、選択肢がいくらでもあるのだが、悶々と不満ばかりを抱えている人とは、要するに会社だとか経営者だとかの「外の世界」側が自発的に折れてくる事を期待しているわけで、つまりはある成果について、相手に依存している事になる。

不満そうな顔をして歩いている人を街なかで見かける。 あの人らは「この世界の、自分に対する施しが十分でない」と感じているのだろうか。 今の自分の境遇を「こんなもんだろう」とある意味諦観出来る事が自己の確立でもあるんじゃなかろうか。 諦観って言葉は悪いけど。


7/29(金)



今週のスタジオにて。

     


よく使う弁当屋の店員で、明らかにオバちゃん(女性)なのに、名札に記載されている名前が(これまた明らかな)男性名である人がいる。 最初、名札か制服などを忘れたりして別の店員のモノを着用しているのかとも思ったが、いつ行っても同じ名札だ。 気になってしゃあない。何なんだよ。


7/28(木)

「音楽業界は終わっている」なんて言われているけど、実際そういう面もあるのかなあ。 業界のメインストリームらへんなんて、私からしたら他人事だけど。

まず、消費のスタイルがイマイチ定まっていない感じはマズいわな。 パッケージ売りのスタイルが崩壊しつつあるのに、配信とか携帯用の着うたとかが、そこまで定着している風でもない。音質もマズいし。 しかしまあそれは、コンテンツの作り手である私らが考えることではないけどね。 まあ傍観しつつ、上手い具合に落ち着いてくれないかなと。

今の音楽業界の趨勢を、我々末端のミュージシャンらが嘆いているかと言うと、別にそうでもないのよね。まあ他の人の気持ちなんて代弁出来ないわけだけど。 パッケージ売りって障壁が大きかった(今でもそうだ)。 バイヤーとの交渉とか、「何で音楽家の私がそんな事しなきゃいけねーんだよ」っていつも思ってた。 だから最近全然しない。 配信とAmazonとかの通販系の販路抑えときゃ十分だろうって。 後は真面目に音楽作ってりゃ、いつか誰かが見つけてくれるよ。

音楽業界は崩壊してても、音楽は別にビクともしてない。 好きな人が好きなものを作り続けるだけの事。 なまじ儲かってた時期があったりしたからいけなかったのかもしれないね。 金の匂いに群がってきた扶養家族を、音楽業界は抱え込み過ぎた。 金の匂いより、名声の匂いに群がる人の方が多いように私には見えるけど、どっちもあんまし音楽好きでない事に変わりは無い。


ウチは基本的に一から音を作れる。 作詞・作曲からレコーディング、ミックス・マスタリングまで一応ながら。 それどころかデザイン関係までほとんど自社で手がけている。 ウチみたいなところにしてみたら、今って良い時代でもあるんだよね。 好きな音をさしたる干渉も無く流通に乗っけられる。 タイアップとかだって、その気になれば相応のモノなら取れなくもないし。 とにかく、短期的な結果を求めなさえしなければやり易い時代ではある。

私の率直な感想としては、業界が廃れるにつれ、どんどん作業がやり易くなっているって感じだ。 まあ廃れる事とは直接関係無いのかもしれないけど、音楽コンテンツのディストリビューションがパッケージ依存型でなくなっている事は確実に追い風だ。

業界の不振とか、ホントどこ吹く風って感じで、タダの音楽好きの我々にしてみれば実にどうでも良い。 音楽リスナーが減っているのは残念なような気がしないでもないけど、それもどうかしら。 ある時を境に音楽が必要でなくなる人なんて、そもそも本物のリスナーなんだろうか。 リスナーとしての資質を持って生まれた人なら、如何なる紆余曲折を経ようと、結局揺ぎ無いリスナーになってしまうんでないのかな。楽観的に過ぎるかもしれないけど。


7/27(水)

英語で「天職」の事を「calling」と言ったりする。 天職を持ってしまった人は、誰かに「呼ばれた」ような気がするのだろう。

棟方志功は、生前あるインタビューで「私が版画を選んだのではなく、版画に私が選ばれた」みたいな事を言っていたのだが、きっと誇張などで無く、本当にそんな気がしたのだろう。 私もそうだもの。

私に進むべき道があるのは、音楽があるからだ。 今ここで、何かを感じている主体が私なのだとしたら、この目が何かを映すのも、きっと私の心に音楽があったから。

この「進むべき道」の遥か先に、今はまだ見つけられない答えが、私を待っているような気がする。 私の人生、面白くなってくるのはきっとこれからだ。


7/26(火)

先日、ある商業施設のエレベーターに乗った時の話である。 私は確か8階だったか、とにかく最上階にいた。

昇降機を呼び出すボタンを押そうと思ったら、ボタンの前で三人の女性(大学生ぐらいに見えた)がダベっていたのだが、呼び出しボタンを見ると、点灯していない。 彼女らはそこで雑談しているだけで、エレベーターを利用するつもりは無いと見えた。 私は彼女らの脇をかいくぐるようにして何とかボタンを押した。

しばらくすると、当然ながら昇降機がやって来たのだが、私が乗り込もうとすると、なんと彼女らは、三人とも何の躊躇も無く私より先に乗り込んだ。 驚くべき事に、エレベーターを使うつもりがあったのである。

私は地下一階まで降りるつもりだった。 乗ったのが最上階、商業ビルなだけに利用者も多く、様々なフロアから人が乗り込んでくる。当然その乗り込んできた人らは各々自らが降りたい階のボタンを押す。 一階に着いた時、多くの人がそこで降り始めた。 降りる人らが一段落したと思ったその時、最上階から乗り込んだ例の三人が何やら相談を始めたのだが、内容は同乗の私にも筒抜けだった。

「降りちゃおうか?」、「そうだね」みたいな調子で、結局ワンテンポ遅れて(同乗者を待たせる形で)彼女ら三人はゾロゾロと降り始めた。 乗り込んだ時点で、「降りる階」と言う目的を決めていなかったと言う事にまず驚かされる。

私は、彼女らのエレベーター使用の一部始終を見ていたわけだが、彼女らは三人いながらにして、一度たりとも、何のボタンも押さなかった。 私が押した呼び出しボタンに便乗し、誰かの降りる一階にこれまた便乗して降りた。 それどころではない。彼女らは乗る時も降りる時も、明確な目的を設定せず、明確な意思を介在させぬまま一連の作業を完遂した。 私にとっては驚愕に値する人たちだ。 彼女らは、何となく皆と同じように進学し、就職したり結婚したりも出来るのだろう。 その行動の意図を他人に説明したりは出来ないだろうが。

「もし私が呼び出しボタンを押さなかったら、彼女らはあの後どうしたのだろう?」と不思議に思ったが、やがて「私が来なくとも、エレベーターを利用する人ぐらい放っておけばいずれ訪れる」と言う事に気が付いた。 更には、不特定多数の人が乗り降りするエレベーターは、多くの人が利用する階(一階など)には、大抵誰かによって停められる。 つまり彼女らは、何一つ自らの意志による決定を行わずとも、流されるままに利用を完遂できる。 但し、彼女らの行動が、大多数と同じで、流されるままでも問題無い事が条件とはなる。 特殊な目的の為に動いているのであれば、それで済むわけ無い。

もし彼女らに、上の一部始終について、説明を促してもきっと出来なかろう。それ以前に事実関係を殆ど記憶すらしてなかろう。 彼女らにとって、世界の全ては無意識下に動いているもので、その日の外出なども、気が付けば家にたどり着いていた、と言ったものだった違いない。 渡り鳥や大移動をする昆虫などの脳の状態に近いように見える。 凄いとは思うけど、私はああはなりたくない。

飼い主に捨てられた犬などが、長距離を歩いて元の家に戻ってくる、みたいな話を聞く事があるが、きっとその犬と彼女らの脳内の情報処理プロセスは似ていよう。 犬は地図も持たず、見たことの無い道を歩いて家に帰ってくる。 「どうしてそんな事できるの?」とか聞いても犬もきっと答えられない。 「何となく」って感じだろう。


7/25(月)

音楽(録音物)の何を聴くか。

中学生ぐらいの頃、よくカセットテープの貸し借りをした。 ある時ある友人が「このテープは音が悪い(あるいは良い)」などと言っていたのだが、当時の私にはそれがよく分からなかった。 今になって察するに、媒体の質云々ではなく、録音状態の事を主に感じての発言だったろうかと思えるが。

そう言えばあの当時、市販のカセットテープには、ノーマルとかメタルだとかの「等級」があって、相応の価格設定も為されていたように記憶しているが、それらの違いも私はあまり感じた事が無かった。 さすがに今聴けば区別ぐらいはつくとは思うが。


私は子供の頃の自分の感覚を信用していて、物事を判断する諸々の指針としている。 子供の頃にライブが好きでなかったから、今の私にもそれは必要無いだとか、子供の頃の私は音質に拘らなかったのだから、今の私が作ろうとしている音楽とは、いわゆるmusicであってsoundではない、とか。


中学生時分の私が音の違いを感じなかったのは、要は音質を聴いていなかったからだろう。 「音楽になど興味が無いから、音の区別もつかない」人は多かろうが、私は曲がりなりにも音楽好きの少年であった。 私は音(音響)でなく、作品そのもの、更に言えばそこに込められた作者の精神を聴いて(感じて)いた。

そんな私だから、録音物を発表したりするようになった現在においても、何と言うか、あるファクターが抜け落ちたような録音物を出してしまいそうになる。 実際今でも、一応は音屋であるクセにビット・レートとか、そういうのってどうでも良いような気分で編集作業を行っている。

無論今は、商品であると言う性質上、他人の耳によるチェック機能が働いているので、そこまで酷いものにはなっていない筈だが。 私は本来、そういう事をやらかす人間だ。


7/24(日)

自然科学に「質量保存の法則」ってのがある。 知らないのであれば、詳細は調べて欲しいのだが、要は「如何なる化学変化を経ようと、物質の総量は変わらない」って事を命題化したものだ。 厳密な部分では色々と異論もあるそうだが。

一部の仏教などで言われている「輪廻」が、どういう現象を指しているのか、正確なところは私にも良く分からないが、この世界のあらゆる物質が循環し、再利用されているのは事実で、例えば人体も、物質面で見れば例外でなく、死をもってもその循環から離脱する事はない。 だから輪廻転生はあながちホラ話でもなく、我々の肉体も永遠のサイクルの中にいる事はまず間違いない。

が、我々の肉体に備わっている精神(意識)はおそらくそうでない。 一つの死をもって雲散霧消し、きっと永遠に還る事はない。 悲しい事だけど。


人間が子を作る時に伝承するものは、科学的には「遺伝子」なのだが、遺伝子とは周知の通り、4種の塩基の配列情報である。 つまり、単なる数値データに近い。

その配列情報(数値データ)は、世代を経る毎に当然分散して行く。 親子の顔が似ているのは、その数値の配列に、まだ似通っている部分があるからである。 だからして、たまに「俺は戦国時代の武将○○の末裔だ」などと称する人がいるが、数十世代とか数百年を経たのちの子孫など、赤の他人と同じである。 まあ家系とか言うのは一種の信仰なので、そこに口を挟むべきでは無いのかもしれないが。

人間も生き物なので、子孫を残そうとする本能がある。 事実上唯一の手段としての性行為に快感と言う蜜が付いてくるのは、人間がある意味高度な生物であるからなのだろうか。

直接の子孫を残さない人は、遺伝子と言う情報こそ後世に残さないのだが、人体と言う物質は間違いなくこの世界に還元されて行く。


聖書には「神は土くれに命を吹き込み、人を作った」とあるが、神の存在はさておき、ある面ではまことに言い得て妙である。 その「吹き込まれた命」さえ無ければ、事実人間など土くれと変わらない。

この私やあなたの、どこに価値があるのか。 物持ちである事とか、高学歴である事だとか、容姿に優れている事なのか。 違う。 我々がこの世界に存在した事だ。

私が作る歌は、その歌が響く誰かの心があってこそ、初めて歌となりえている。 私は本気でそう思っているよ。


7/23(土)

  

今週のスタジオにて。 昨日の続き。


神田優花、先週録った曲のチェック&新曲の最終リハ。 先週録った曲の方は、再調整する事になったので、これからまた編集作業。 新曲の方は来週歌録りです。

  


憂鬱な気分で食べるメシがマズいわけ。 昨日の補足。

人間とは物質でもあって、栄養は人体(と言う物質)が摂取しているのだけど、メシのウマさなどは、その大部分は精神が感じ取っているものである。 精神の実体は言語である。 実は、メシを味わうのも芸術に感動するのも、この精神の作用に他ならず、要はそれらの外部からの情報を逐一言語化する事によって、人は感動を得ている。

糊口の為だけに、好きでもない仕事に日々忙殺されている人でも、たまには休日ぐらいある筈だ。 もし会社の近くなどに、仕事中よく利用している外食チェーン店や弁当などを買っているコンビニエンス・ストアがあるのなら、よく晴れた休みの日に、思い切って大好きな人と一緒にそこのメシを食べてみると良い(都市部に住んでりゃ、家の近所に同じ店やコンビニぐらい探せばきっとあろう)。 「別の食材使ってんのか?」ってぐらい味が違ってくる筈だ。

何故そうなるのかと言うと、それは人間が気分で構成されている生き物だからだ。 もし、あなたが今食べようとしているスープに誰かが泥を撒いたら、当然それは泥の味が混入したマズいスープになりますわな。 好きな生き方を選んでいない(=楽しくない時間が人生の大部分を占めている)人は、要するに、毎日の気分に常にこの「泥」が混入しているので、何を食べてもそこに多少の「泥臭さ」が混じっているのである。 つまり「メシがマズい」。


私は子供の頃から音楽が好きで、今は子供の頃以上に好きである。 こよなく愛する音楽を、愛する人たちと一緒に日々作り続けている私には、毎日の全ての時間に、無意味な瞬間など一秒たりとも存在せず、食べるメシはいつもウマい。

まあ、たまにマズいメシに遭遇してしまう事とかあるけど、それはまるで私の肌を刺すようにマズく感じられるものなので、常にそこから全力で逃げたいと思わせてくれる。 不自由な日々を送っている人は「毎日のメシもマズい」のだが、実はそのマズさとやらも、どこか他人事なのだ。 「全方位へのダイナミクスが弱い」状態とでも言おうか。

あなたにもし好きな事があるなら、あなたは全力でそれを追いかけるべき。 やりたくない事があるなら、そこから全力で逃げるべき。 あなたにもし「感じる何か」があるのなら、あなたはそれを離してはいけない。


7/22(金)

   

ここ数日間、何だか涼しいっすね。 写真は今週のスタジオにて。


 

そういえば、今週の差し入れは「から揚げ」だったのだが、ウマかった。 たまには塩味も悪くないな。 して、そのウマさについて。

言わずもがな、憂鬱な気分で食べるメシはうまくない。つうかマズい。周知の事だろう。 最上級のステーキだろうが何十万もするフランス料理のフルコースだろうが、憂鬱な気分で食べるそれは、牛丼や回転寿司よりマズい。 人間が気分の生き物だからだ。

金が欲しい人も名誉が欲しい人も、要は気分を探している。 それがあれば、無いより良い気分が得られると思えばこそ、人はそれを求めるのだろうから。

しかし、論理力が無い人は、自らが何を欲しているかよく分からなかったりする。 だから何の為に金を稼ぐのか、誰の為に名誉を求めるのか、が究極的に分からない状態に陥る。

好きでも無い作業(仕事)に追われ、人生の持ち時間の大部分をそこに忙殺され、うまくもないメシを毎日食い続けている人がいる。 憂鬱な時のメシの味、あなたも覚えているでしょう?この世の中には、毎日例外なくあの気分で食事をしている人が存在するのである。

「金を稼ぐ為には辛い生き方をせねばならないのだ」と言う人がいる。本当ですか? 辛い思いをせねば40万円稼げない、と言うのなら、月給15万の楽な仕事でもやれば良い。 余った時間を趣味に使うとか、夢は広がるではないか。

「妻子の為には辛い人生に甘んじねばならぬ」。これも本当だろうか。 自分を愛せない人が、家族を含む他人を本気で愛したり出来るものなのかね。私は懐疑的だ。 無論、働くのが好きで仕方ない人は、馬車馬の如く働きまくれば良い。 金が好きなら金を集めたら良い。 好きな事ならトコトンすべき。

私が何故、日々音楽を作り続けているか教えてあげよう。 それは最高にウマいメシを食うためだ。 どうせ消えて行く私なんだ。持てる残り時間全てを使ってでも、まだ誰も味わった事のない最高のメシを味わってやるぜ。


7/21(木)

小学校3年の夏、私は車にはねられて死にかけた。 その日が誕生日だったので、毎年その時期になると思い出す。 私は全身を強く打って気絶したらしく、そのまま病院に担ぎ込まれた。当然私自身には、全くその辺の記憶は無い。

病院の一室で目を覚ましたら、そこには親や学校の担任の教師などが揃っていた。 教師は「私の事が分かるか?」などと真顔で問い詰めてきたので、「当たり前じゃん」と思って、分かる旨答えていたのだが、後になって、あれが周囲にとってかなり重大な事態だった事に気が付いた。

どれぐらいの間、気を失っていたのか分からないが、気を取り戻したら空腹であることに気が付いた。 無性に何か食べたくなったので、側にいた母親にそう伝えると、いくつかオニギリを持ってきてくれた。 私は出されたオニギリを、あっという間に全て平らげたのだが、しばらくして全て吐き戻した。 事故の直後で、体に異変が起きていたのだろうけど、周囲の不安は如何ばかりであったろうと今更ながらに思う。 私自身は「俺調子悪いのかな?」とか思った程度だったけど。

その後、しばらく入院し、私はなんとか退院した。 奇跡的にも、身体的な面での事故の後遺症は全くと言って良い程無かったのだが、精神的な面での後遺症は、じわじわと現れ出した。 交通事故に遭って気絶した私は、もしもう少し打ち所が悪く、あのまま意識を取り戻さなかったら、死んでいた事になる。 私があそこで死んでいれば、今私の中にある、その後の今日までの記憶は何一つ存在せず、今も日々私と顔を合わせている人たちの目の前にも、当然私がいない。


死とは如何様なものなのか。 気絶と言うのはいわば臨死体験なわけだけど、経験者としての率直な感想としては、痛くも痒くもなく、蝋燭の炎が一瞬にして消えるように全てが無に帰すと言った、イメージとしてはただの暗闇である(無と言うのは暗黒ですら無いのだが)。 夢を見ない深い眠りの底みたいな感じだろうか。

車にはねられた瞬間は、それなりに衝撃もあったろうし痛かったりした筈だが、全くその辺の記憶は無い。痛くなかったのかもしれない。 あと、気絶するぐらい激しくはねられたのだから、外傷の類も色々とあった筈だが、そこについてもあまり覚えていない。 私にとって、どうでも良い事だったのだろう。


精神的後遺症の最大のものは、「私が持っているものは、所詮時間でしかない」と言う当たり前の事を深く認識した事だろうか。 大切なおもちゃも、貯めたお年玉も、その暗闇にはどうせ連れて行けない。

時間しか持っていないのだから、当然ながら物より気分を大切にしてしまう。 その後の毎日(無論今のこの瞬間も)が、心のどこかで「オツリ」のように思えてしまうので、「どうせなら、間に合う限り楽しい事をやろう」とばかり考えてしまう。 そしてそれは正しいのだと思う。

私はある特殊な事情で、早くにそれに気が付いたのだけど、きっと誰しもが最後には気付くのではないかと思う。我々が時間しか持っていない事に。


何度も言っているんだけど、今日の私が、他人にあげたいと思うものは気分です。 食べ物をあげる事があっても、あげたいものは食べ物ではない。 その食べ物を味わわせたいだけで、あげたいものはあくまでも気分。 朽ちて行く何かではなく、そこに込められていた私の気分こそをあげたかった。

そんな私だから、誰かからもらって嬉しいものも究極的には気分でしかない。 いずれ訪れる最後の瞬間に、私の中に残ってくれるものは、きっと誰かの気持ちでしかないだろう。 だから、どうかこの私を応援して下さい。


7/20(水)

平田篤胤(江戸期の国学者)の著作に「仙境異聞」・「勝五郎再生記聞」なんてのがある(岩波で文庫化されているので、興味があるなら入手は容易い)。 分かりやすく現代で例えるなら、超常現象の自称体験者に聞き取り調査を行った、その記録である。 別に篤胤はそれら超常現象に否定的では無い。と言うか、むしろそれらに実在して欲しい気分すら窺える。性格なのだろう。

平田国学は、昭和に至るまでの日本の国家神道・皇国史観の思想的バックボーンとなったような学問で、まあ戦後の日本では反作用で甚だその評判がよろしくない。 が、平田篤胤と言う人は、著書などを読む限り、やはりそれなりの学者で、単なるいかがわしいカルト宗教の親玉と言った人物ではないように思える。 平田学は、当時的にはやはり紛れも無い学問で、もっと言えば科学ですらあったろう。


私も、いわゆる超常現象だとかのオカルトっぽいものに興味を持っているクチなのだが、何故かと言うと、そういうものを言下に否定する能力も無いし、否定してしまっては、思索の可能性が絶たれるように思えるからだ。

しかしながら、「幽霊や超能力は実在するか」とか、「いわゆるUFOは宇宙人の乗った飛行物体か」とか問われると、首をかしげざるを得ない。 今のところ、とてもそうは思えないから。 信ずるに足る根拠が足りていない状態、とでも言おうか。 自分を納得させられない。


現実に「幽霊や宇宙人を見た」と主張する人はいるわけだが、「見た」と言う事実に大した証拠能力は無い。 写真とかでもまあ似たようなもんだ。 幽霊などの実在について、私には立証能力が無く、また逆に実在しないとも言い切れる材料が無いわけだが、「実見した」と言う証言について、その真偽なら判断つかなくも無い気がする。

「幽霊を見た」と言う人がいるのなら、私はその人と話がしてみたい。 そうすれば、その目撃談がどの程度真実かぐらいは分かる筈だ。 篤胤もきっとそう思ったんだろう。 ただ彼の場合、彼固有のバイアスがかかってしまい、私とは別の結論にたどり着いてしまっているみたいだけど。


7/19(火)

道を歩いているとしばしば、いわゆる「歩きタバコ」をしている人を見かける。 ご存知かと思うが、昨今もうほとんどの都市圏では条例などで路上喫煙は禁止されていて、実際ここ最近は、ほとんど見かけなくなってもいるのだが、まだまだいなくはない。

彼らを大雑把に分類するなら、

歩きタバコが、

1.悪い事(マナー・条例違反)だと知らない。
2.悪い事だと感覚的に思えない。
3.悪い事だと知ってはいるが、我慢できなくてつい吸ってしまう。
4.悪い事だからこそ、あえてやっている。


と言う感じになろうか。

1.には教えてあげるべし(そういう人が近くにいるなら)。 

2.は十分存在しえるだろう。 路上喫煙がここまでうるさく言われ出したのは、せいぜいここ十数年ぐらいである。 老人など、一昔前の感覚が抜けない人が多いのも無理は無い。 とにかく、2.のタイプには、丁寧に教えてあげるのがよろしかろう。 それが悪い事なのだと教えてあげれば、改善される余地は大いにある筈だ。 但し、昨今常識となりつつある感覚が、いまだ体得できていない人なのだから、失礼だが学習能力は高くなかろう。教えるのには少々根気が必要かもしれない。

4.も十分に考えられる。 不良少年やヤクザは、悪い事をやっている事が一種のアイデンティティーなのだから、その行為が道徳的「悪」でなければ話にならない。 悪だからこそカッコイイのである。 周囲に害を為す事をあえて行っている輩に、それを一々指摘しても直ちに改心の契機になるわけがない。 その人らの感覚では、他人の忠告に素直に従う事など当然カッコ悪かろう。

一般人がそういう人に直接注意をするのは、不必要なトラブルを招くかもしれず、ハッキリ言って時間の無駄である。 我慢できないのであれば、警察などの社会機能を活用すべきだろう。その為にせっかく税金を払っているのだから。

問題は3.である。一番多いのがこれだろう。 が、心配要らない。彼らの大多数は、放っておけばやがてその行為(路上喫煙)をやめる。 自らの行為が悪であると認識しつつ、尚且つヤクザになるつもりも無いのであれば、やがて人はその自己矛盾に耐えられなくなる筈である。 人間は一応論理の生き物なのだ。


7/18(月)

こんな仕事やってんだから当たり前と言えば当たり前だが、私は子供の頃から音楽少年だった。 音楽が好きで、レコードやCDなどを聴き漁ったクチなのだが、いわゆるライブと言うヤツにあまり行かなかった。

無論、音楽少年だったのだから、ライブぐらい見に行った事はあるし、バンドを組んで自分らでライブをやった事もある。 が、究極的にそれ(ライブ)を好きになれなかったのだ(好きなら今でも毎日のようにやっているよ)。

理由は単純だ。 ライブと言う手法は、表現(作品)の伝達能力が低いからである。 生身の演者がそこで演奏を行うのだから、当然演奏ミス(歌詞の間違い等を含む)もあるし、とにかくベストテイクでない。

クラシックの音楽家たちがさかんに演奏会を行ったのは、当時まだ録音の技術が無かったからである。 当時は、演奏会ぐらいしか音楽作品の伝達の方法が存在しなかったと言える。 楽譜の出版と言う手も無いでは無かったが、譜面情報と言うのは、内容としてはごく表面的なものでしかない上、受け手に要求される能力が高く、やはり伝達・共有の手段としての能力は低い。

ライブハウスなどに行った事がある人なら分かると思うが、あそこで演奏(表現)される作品は、何がなんだかサッパリ分からない。 歌詞など全く聞き取れず、音響が劣悪過ぎて音そのものもほとんど聞き取れない。 下手すると聞き取る為の耳を悪くする。


では何故人はライブに足を運ぶのか。 それはお祭り騒ぎが好きだからだったり、知り合いと会う(他人に自分を見せる)為だったり、何らかの、程度の低い自己確認作業の為である事が殆どなのではなかろうか。 純粋な音楽鑑賞の為にライブハウスに通っている人なんてどれだけいるか。

アイドル歌手のライブなんかは分からないでも無い。 音楽表現の伝達ではなく、タレントを実見する為の手段なのだろうから。 歌などは間を持たせるための手段の一つなのだろうし、既に熟知しているフレーズなら、ライブの音響で体感(と言うより脳内の補完を経て再構築)するのもたやすかろうから。


無論、ライブは悪い面ばかりではない。 生の演者の存在が目前にあるからこそ伝わる何か、と言うものも当然あろうから。 しかし、アート(作品)は作者の肉体を超越した(肉体が絶えても残る)ものだからこそ素晴らしいのじゃなかろうか。 従って、生身の作者を目の前にせねば伝わらない部分、と言うのはやはりアートの核心では無いのではないかと。

私においては、今までもそうだったけど、これからもライブを活動の中心に据える気はサラサラ無い。 あくまで音源(作品)制作こそが活動の核である。 正確に伝わらないのなら、作品など発表する意味が無い。 私は欺瞞が嫌いなの。

お祭り騒ぎが好きな人がお祭りに行きたくなるのは自然だし、誰から咎められる筋合いのものでもないのだけど、しかしミュージシャンたちぐらいは気が付いていて欲しい気がする。 ライブが表現の伝達手段としての役割を十分に担えない事を。

まあ確かに、ライブの即時性に「追求すべき何か」が存在しないとは思わないから、そこにもアートの種はあるのでしょうかね。 あと、大道芸人にそんな事を言うのは間違っているかな。 金になるから仕方なしにやっているライブってのは、大学教授が学者でありながら、学生相手に行う講義のようなものか。 それはしゃあないな。芸術家も学者も、霞を食って生きては行けないからね。


7/17(日)

くどいようだが、健康志向とかエコだとかの風潮について物申したい。 結論から言うと、それらの流行は全て消極的気分から生まれている。 何かが欲しいのではなく、漠然とした将来への不安を拭おうとする足掻きである。

先日の原発事故が、多くの日本人の不安を増幅させていると言う。 無論原発(放射性物質)は危険である。 が、私は「放射能が云々」と騒いでいる人の、その不安心理に同調できない。 もっと言えばアホらしくさえ感じている。 その不安とやらが、何やらウソッパチに聞こえるからだ。

もちろんその人らなりには、その不安は真実なのだろうよ。 が、それは、その人らに「やりたい事」が無いが故に、「生への執着」以外に働く力学が全く存在せず、従って相対的にそれ(原発への不安や健康志向)が強く見えるだけの事だろう。 だから本当はその執着も大した熱量を持っていない筈なんだ。 その人らが今抱えている不安は、彼らが真剣に生きさえすれば、その殆どが消えてしまう類のものだ。

私も命は惜しい。健康は生命に直結しているから、無論私にとっても大切である。 健康が侵されれば、日々の営みに支障が生じ、最悪の場合死に至る。 死ねば私の大好きなこの作業(音楽制作)が継続出来なくなる。当然それは苦痛だから避けたい事態だ。 今回程度の事態で、放射能がどうだとか狂騒している輩なんかより、私の方がよほどに健康に留意しているに違いない。

そもそも今回のレベル7(最悪)の事態においても、一名の死者すら出さない原発は本当に危険なのか。 今回に限らず、歴史上においても、チェルノブイリを除けば、原発の事故で死んだ人なんて限りなくゼロに近かろう。

「放射線の害は、数十年経ってみないと分からない」。これも事実と言えば事実だろうけど、そんな事言い出したら、例えば50年後の影響なんて話になれば、究極的にはどんなモノだって、どんな学者にも分からない。 現時点で確実に言えるのは、統計上、飲酒・喫煙や人間関係でのストレス以上に健康に悪影響を及ぼす、などと言う有意なデータはまず確認出来ないであろう事。

原発の(事実上唯一の)代わりを担っている火力発電は、燃料の採掘現場で毎年大量の事故死者を出していると言う。 また排出するCO2は温室効果ガスとなり、地球温暖化に一役買っていると言われる。今年も熱中症での死者は当然出ている。

その前に、交通事故の死者は毎年数千人単位で出ているのである。 原発事故のパニックで、スーパーのミネラルウォーターが払底したそうだが、水道に紛れた微量の放射性物質になんかより、スーパーに着くまでの道で車に轢かれる心配をした方が余程に現実的だ。

交通事故なんかより(無論この度の震災よりも)もっと凄いのが日本の自殺者だ。 10数年連続で毎年3万人以上だよ。ここ10数年で40万人くらいの人が死んでいる。 これがどれだけ凄い数か分かるだろうか。

自殺者は、要は蔓延する不安に圧し殺されている。 原発事故に狂騒する輩の不安心理は周囲に伝染し、社会不安を醸成するに至る。 人間には共感性があって、怯える人はその不安を周囲の人間にも撒き散らしてしまう(だから友人としても避けたい人物と言う事になってしまう)から、原発を社会悪だとてヒステリックに糾弾する人は、実はその人こそが社会悪だったりするのだ。 怯えとは、自分の姿そのものなのだ。

世の中が分からない事だらけで、日々不安にかられている人は、まあその人だって好きで不安になっているわけではないのだろう。 が、その不安を払拭するには、真面目にモノを考えるしかない。 真面目にモノを考えられない人は、その人こそが社会不安の発生源である事を自覚すべきだ。 社会不安は、原発などより遥かに巨大な被害を生み出している。

先日の地震の後、震災のショックで死ぬ老人が結構な数いたと言う。 「地震で倒壊した家屋の下敷きになった」とかではない。地震による心労で溶けるようになくなってしまったらしい。 生前のその人らに「日々の関心事」を尋ねたら、おそらく健康だとか長寿だとか答えたろう。 そんな人らなんかより、絶対に私の方が健康や長寿に執着を持っている。これだけは自信を持って言える。


7/16(土)

   

今週のスタジオにて。 昨日の続き。


神田優花、新曲の歌録り。 レコーディングは無事終わったのだけど、ちょっと予定が変わりまして、新しい曲をもう一つ録る事になってしまいました。 なので今月中くらいにもう1曲上げる予定でして、それを録り終えたら年内のリリースタイトルがとりあえず揃う予定です。

  


7/15(金)

暑苦しい中の今週のリハーサル風景。

    


7/14(木)

ギターやベースを再現したVSTinstrumentは、入力されたノート(信号)と実際に発音される音が1オクターブ違うものが時々ある。 ギター類は楽譜でも、オクターブ違いで表記される事がしばしばあって、上の仕様も、おそらくはその習慣(記譜法)の影響を受けたもので、まあ理解出来る範疇と言えば範疇だ。 が、モノによって音が1オクターブ違うってのは、それはそれで実に面倒でもある。 なんとか統一できないものかね。しかし。

実際の発音と譜面表記が同じであろうが、1オクターブ違いであろうが、私はどちらでも構わないと思うのだが、統一されていないと言うのが困る。 だって、音色を比較する為にいくつかのVSTi試したりするのに、一々元のノートのデータごと弄らなければならないのよ(だからフリーソフトによくある、ピッチベンドレンジ固定ってのも何とかして欲しい)。

実際のところ、世の音屋さんらはどうしているのだろう。 特にギター類を実際に弾かない人たちは大変だろう。 面倒とか言う以前に、間違って本当の楽器では演奏できない音域のフレーズを、そのまま出力してしまってたりしないのだろうか。 まあ私じゃあるまいし、大丈夫なんだろうけど。


7/13(水)

私の普段の食事は基本外食だ。あと弁当・惣菜類を買って食べるとか。 要するに料理を作らない。 しかし、外で飯を食うと、色々考えさせられる事が多い。

例えば副菜なんかは、案出した誰かの心を感じ取れるところが良い。 「トンカツにはキャベツが合う」とか、感じた誰かがかつてどこかに居たのだろう。それが巡り巡って私の目の前に出されたと。分かりますよ。 あるモノに込められた「人間の思索の痕跡」を感じ取れる時、私は安堵のような気分を覚える。 みんなそうだろうと思うけど。

時に、ビックリするようなモノを出される事がある。単に「物凄く不味い」とか、「味付けが濃過ぎる」とか。 そういった料理を客に出す店の、店主や料理人は、その料理を食べてみた事ぐらいあるのだろうか。 こういう場合は逆に「この料理には人間の思考が介在しているのだろか?」と不安になってくる。 それは不安と言うか、恐怖に近い。


このように、思考の込められていない創作物は、人間の心を温めてくれない。 しかし、生き物は栄養を補給せねば生きられない。 また料理なら、食材を混ぜ合わせて作っている以上、まあ大抵のものは食えなくはない。 この「食えなくはない」と言う唯一の事情によって、存続している料理屋は多かろう。

しかし芸術作品はメシではない。それが無くても人間は、とりあえずは生きて行けるのだ(本当は生きて行けないのだけど)。 だから、思考の込められていないモノが、次々と淘汰されていく。

創作物を誰かの心に届けようと思うなら、作者は考えねば。 精一杯考えた末に残るものであるなら、きっとそれは誰かの心に届く筈。


7/12(火)

人称について。 たまに詞なんか考えていると、人称(特に一人称・二人称)で迷う事がある。 英語ならばこの悩みはほぼ無くなる。 人称にバリエーションが無いからだ。 Iとyouがあれば、とりあえず事足りる。

何故日本語は、かほどに人称が多岐・複雑であるのか。 と言うより、何故英語はこれほどまでに人称がシンプルなのか。 それは英語に敬語が無いのと同じで、人間を上下で見る感覚が希薄な分、階級で細かく人称を分ける習慣が発達しなかったからだろう。

私は、日本人(つうかアジア人全般)が人間を上下で見過ぎるところを、病弊だと捉えているが、私も日本人である。 日本語を使って生活している以上、言語の生理を無視するわけにも行かず、困る事があるのだ。 人称が複雑すぎて、階級だけでなく、時代などによってもその(人称の)ニュアンスが大きく変動してしまっているから。

例えば「君」と「僕」などは、おそらくは比較的新しい日本語で、登場した当初は、西洋的な無階級の気分が横溢した人称だったと思われるのだが(このあたりキチンと調べたわけではなく、推量です)、こんにちの日本社会では、もう階級に取り込まれてしまった感が濃厚である。

「お前」や「貴様」は、元々は敬称である筈だが、ご存知の通り、今は違う。 若い男が使う「俺」と、地方の老婆などが使う「俺」、ロック・バンドの歌詞に出てくる「お前」と、古い外国文学などの翻訳文に出てくる「お前」、これらはかなりニュアンスが違うのだが、読み取ってもらうのは難しい。 特に詞のような、文字数制限のシビアな表現手段では。


最近書いていた歌詞に「お前」と言う人称が出てくるのだけど、私の表現したかった「お前」のニュアンスを読み取ってもらう事は、難しいだろうなどと思いつつ、上記テキストのような事をつらつらと考えていた。


7/11(月)

私の知っている女の人で、生まれてすぐに父と生き別れ、母子家庭で育ったと言う人がいる。父親の顔も覚えていないそうな。 で、彼女のお母さんはその(彼女の父親との離婚)後、再婚・再々婚し、今度その三人目の旦那とも別れるらしい。

上の子は、母子家庭で育ったと言うものの、人生のかなり早い段階から母親とは別に暮らしていて、一人暮らしだとか、祖父母と同居するだとかして時間を過ごして来たと言う。

その子が今度、親(実の母と義父)の離婚を期に、再び母親と暮らすと言う。 しかも母親だけでなく、その子の母親には、彼女の他に、三度目の旦那との間にも女の子がいて(つまりその子にとっては妹にあたる)、その子とも一緒に暮らすのだと言う。

私は素朴な疑問をぶつけてみた。 「その妹とは仲良く暮らせるのか」と。 すると彼女は「妹はとても可愛い存在で、一緒に暮らすのに何の抵抗も無い」と言う。 私はその事についてあれこれ考えてみた。


源頼朝は、弟である義経(や、その他の弟も)を殺している。 彼の父親の義朝は艶福家だったらしく、方々に子を作っていて、中には遊女に産ませたような子もいた。 頼朝の十人近い兄弟らは、その全てが(頼朝から見れば)「腹違い」である。 最終的に弟らは、頼朝から、棟梁の地位を争う潜在的ライバルと見做され、結果消された。

豊臣秀吉は父親を早くに無くしているのだが、母親の再婚相手との関係が上手く行かなかったらしく、やがて実家を出奔する。 が、母親と義父の間には一男一女が出来る。つまり秀吉にとっては弟と妹である。 弟は、後に兄秀吉に重用され、大和大納言と言われる豊臣秀長で、妹は徳川家康の正妻、朝日姫である。 秀吉は父親違いの弟妹を実によく可愛がった(妹の方は微妙なところだが)。

徳川家康の実父である松平広忠は、当時(戦国時代)のパワーバランスによる複雑な事情から、妻・於大を離縁している。 が、子である家康は、その後も度々母とは面会し、その再嫁先で生まれた(父親違いの)弟などを、これまた実によく可愛がっていて、徳川幕府成立後にも、大名として取り立てていたりする。


頼朝と、秀吉・家康、三人の天下人の環境には、決定的な違いがある。 義理の兄弟の「母親が違う」か「父親が違う」か、である。 同じ兄弟でも、父違いと母違いでは、気分としての親疎に大きな隔たりがあるらしい。

古くは、父から骨を継ぎ、母から肉を継ぐ、とかそういう迷信もあったようだが、要するに、江戸期までの日本を含む儒教圏では、母(女)と言うのは腹を貸すだけの存在で(姓すら共有しなかった)、家とはその建前上、父系によって引き継がれるものであるとされた。 しかし、儒教倫理の上でこそ父は親なわけだが、感情面で言えば、人間にとっての親とは、本当は母親の事であるのかもしれない。 人間は難しい。


7/10(日)

モテる(好かれる)人とモテない(好かれない)人。 人には、男女関係無く、持つ魅力に差がある。

好みのタイプを訊かれた際に「お金持ち」などと言う人は、質問を無視している。 好きな食べ物を問われて「お金」と答える人はアホだろう。 「どういう種類の人格を好むのか」と言う質問に「金持ち」と答える人も同じである。


一般論として、どういう人がモテるのか、まではちょっと正確には分からないが、私自身は配慮のある人が好きだ(大多数の人もそうだろうと思うけど)。 例えば、好みのタイプを訊かれた時に「面白い人」とか「優しい人」なんて答える人は多いのではないかと思うが、ここで言われている「面白さ」と言うのは、単なる声のデカさではなく、和やかな空気を生み出す配慮の事だろう。 「優しさ」が配慮そのものである事は言うまでも無い。

和やかな空気を生み出すには機知が要る。 その源泉は配慮で、ユーモア・ウィット・エスプリなどと言う、イマイチ日本語化し難い諸概念は、強いて訳すならばこの機知だろうか。 日本語にし難いのは、日本人にその感覚が乏しい証拠なのだろう。

世の中には、いわゆる「天気屋さん」がいる。 どういう人種か分かりますよね。要するに機嫌の上下が激しい人を言う。 躁鬱の極端な人、怒りっぽい人、ウジウジ・メソメソした人。 その手の人とは、つまりは自己中心主義者で、無配慮であるが故にその振る舞いに至っている。 だから私は、いわゆる天気屋さんがあまり好きではない(そうでない人の方が好きです)。

もしここを読んでいる人の中に、いわゆる天気屋さんがいるのなら聞いて欲しい(まあ諸要素鑑みるに、天気屋さんはあまりここを読んでいないだろうが)。 他人と言うのは、あなたの感情の起伏をモロにぶつけて良い相手ではない。 会社や学校などで知り合う他人は、あなたのお母さんでは無いのだから。

配慮ってのをもう少し穿ってみると、それは「他人を困らせない為の、他人に不安を与えない為の努力」である。 多くの人は、日々その努力を怠らない。 いつもヘラヘラ笑っている人には、その人なりの悲しみがあるのだ。 私も子供の頃はそれが分からなかったけど。

人間も生き物なのだから、バイオリズムが一定しないのは当たり前である。 しかし多くの常識人らは、その落差を配慮で埋めている。 感情の起伏をありのままに他人にぶつける人にはそれが欠けていると言う事だ。 だから、おそらくそういう人はモテない。 少なくとも私はあまり好きでない。


以下蛇足である。 他人を困らせない為の努力を怠る人は、無配慮で人からも好かれないのだが、わざわざ「他人を困らせてやろう」とまで日々画策している人が世の中にはいる。 当然そういう人は他人から嫌われる(最早論外と言うべきだが)。 そういう人らには、そういう人らなりの事情ってのが存在しているが故にその行動に至っているのだけど、他人は普通そこまで読み取ってはくれないから、単なる嫌な奴と言う印象で処理されてしまう(事実嫌な奴でぐらいはあるわけだが)。

我々はこの世界に「生かされている」のだから、なるべく人の気分を騒擾させないよう努めるべきかと思う。 私は一応日々そのように心掛けているよ。 私は害の無い人でいたい。


7/9(土)

   

今週のスタジオにて。 昨日の続き。


神田優花、新曲の一応最終リハでした。 とりあえずこの曲が上がれば、年内の大まかなリリース計画は立ちそうな感じです。

神田優花と言えば、ちょっとお知らせ。 スマートフォン向けアプリ「HAPPY MUSICアプリ(仮)」とやらのコンテンツとして、神田優花の楽曲(7曲)は発売されるとの事です。 細かい日程とかは分かりませんが、対応機種・アプリをお持ちの方は是非チェックしてみて下さい。 因みにその7曲は全部既発タイトルで、新曲はありません。

神田優花の新作の発表については、それはそれで今進めていますので、決まり次第お知らせします。 お楽しみに。

 


7/8(金)



今週のスタジオにて。 上の差し入れ、皆でおいしくいただきました。

    


7/7(木)

日本の幽霊と西洋などのMonsterは、似て非なるものである。 例えば四谷怪談のお岩さんや皿屋敷のお菊さんは、自らが受けた残酷な仕打ちに対する復讐の為に化けて出ているのだが、吸血鬼や狼男は、別に愛憎に起因する復讐を行なっているわけではない。 あくまで特定の場所・時間等の条件下にのみ出現し、本来なんの関係も無い通りがかりの人を襲う。

「どちらが怖いか」は、その人の感性に因るだろうから何とも言えないが、私にはMonsterの方が怖い。話が通じそうにないから。 「怨念に因って化けて出る」と言うのは一種の論理である。 だからして、その程度にでも論理的行動を取る主である幽霊となら、「話し合い」が成立しそうな気がしないでもないのだ。 お岩さんになら「それは誤解だ」とか「あの行為について、私は反省している」などと言う申し開きも立たないでもないように思えるのである。

一方のMonsterはどうか。 「満月を見たら狼になって見境無く襲ってくる」、あるいは「血液を吸いたいが故に、見かけた人を襲う」と言う相手には打つ手が無さそうだ。アタマの中身(行動原理)が全く違うのだろうから。 西洋人の恐怖も、私の感じている恐怖に近いような気がする。 言葉が通じない相手は、何よりも怖い。


私は、人間の死後、肉体が果てたその後に、何か精神のようなものが残るとは到底思えないのだけど、もし残ると言うのであれば、その事実を歓迎したい気分がある。 この世から消えてしまった愛する者が、幽霊だろうが何だろうが、もう一度目の前に現れてくれるのなら、どれ程に嬉しい事だろうか。


7/6(水)

犬が食べたケーキの代償。

私は子供の頃、犬(♀)を飼っていた。 今の私はもう別の犬を飼いたいとも思わないし、子供もいないのだけど、もし私に子供がいたなら、その子には犬を飼わせてあげたいと思う。 別れの辛さも含めて、きっと多くのものを残してくれるに違いないから。

子供の頃に犬を飼っていたと言っても、飼い始めたのこそ小学生の頃だが、その犬は長生きしたもので、私が結構いい歳になっても側にいてくれた。 少年の日の思い出が、そのまま心の側にいてくれたようなもので、彼女に対する感謝は言葉では言い尽くせない。


彼女が私の側から消えた時、私は考えた。

例えば犬は生き物なので、十何年も生きていると、食費や医療費、日々の散歩に使う時間もバカにならない。 食費を一日いくらで計算して行くと、膨大な出費になる。 他にも彼女は甘い物が好きで、私は大学生になっても、毎日のように彼女のお土産にとケーキやアイスクリームなどを買って帰っていた。

彼女は好奇心が強く、散歩が好きだった。 私が車の免許を取った頃には、親の車を借りて、色々な場所に彼女を連れて行った。 高速のドライブインから見えた景色があまりに綺麗だったので、私は彼女を抱きかかえてその景色を見せた。 何だかキョトンとした目で遠くを眺めているだけだったけど。

私だって気違いではないのだから、金は惜しい。 ケーキ代もガソリン代も、貧乏学生だった当時の私には(今も貧乏だが)随分痛い出費だった。 彼女が消えた今、あの出費・時間・労力は、私にとって一体何だったのか。


生命と言うものが、例外なく一空に帰するならば、私が彼女の為に買い続けたケーキは、全て無意味な浪費であったのか。 景色が見せたくて、走らせた車のガソリン代も、そこに費やした時間も、私が見せたあの景色も、全ては無価値なのか。

そんなわけないわな。 だってアイツは喜んだんだし、確かにあの景色を見たんだもの。 そして、その気分を与えたかった私の心がそこに存在したんだもの。 この世界が灰になったって、それだけは間違いない。


あの頃の私が、ケーキの見返りなど一々望んでいなかったように、今の私も、特定の誰かからの具体的な見返りなど求めて生きていない。 私が誰かにあげたケーキは、その味をその人に味わわせたかったからあげただけのものだ。

即物的見返りなんざ求めてないが、我が心の中に「誰かにある気分を与えたい」と思う衝動を確かに感じられる。 だから今のこの瞬間にも、最後の最後に、この私が窮地に陥った時には、きっと誰かが助けてくれるだろうと信じていられる。 この広い世界のどこかには、私みたいな人もきっといる筈だから。

「きっとこの先も、何とかなるさ」と、未来を楽観できるからこそ、私は私でいられるし、日々一番欲しい物を追いかけていられる。 この気分の中で日々生きていられるだけでも、私には十分に見返りと思える。 やはりケーキの見返りはあった。


7/5(火)

私はせっかちなんだが、そのせいか仕事はそれなりに早い。 終わらせないとイライラしてしまうからだ。 アタマの中に懸案が渦巻いているような状態が苦手と言って良い。 思い立ったらすぐ行動に移してしまうから、結果が出るのも早かったりする。 例えば商品出す際なんかも、諸々の事務手続きを含む、音以外の作業は実にスピーディーだ(音周りの作業も遅くはないけどね)。

しかし世の中不公平で、仕事が早かったら相応に評価されるかと言うとそうでもない。 「○○って、意外とすぐ出来るんですね」、なんてよく言われてしまう。 つまり、処理した作業そのものが「簡単」だと思われてしまうのだ。 まあ世の中って、往々にしてそんなもんなわけだが。


話は変わるが、復興担当大臣の一件、一連の報道を後追いながらとりあえず確認した。 僅か9日で大臣を辞任したそうだが、あの政治家の事績がもし後世に残るとしたら、事実上今回の一連の事件に絡めたものぐらいだろう(内容がショボ過ぎて、「悪名」と言うのも当を得ないが)。 あと、彼があのポストに就けた背景が、やや薄汚い憶測を交えたトーンで語られるぐらいか。 どのみち日本政治史における、有意義な事績など皆無だが。

しかし情けない。怒りの念すら沸いてこないよ。 私は彼(その元大臣)と一応は同郷人になるのだが、あの地域(福岡)は、いまだにあのような人間が幅を利かせているのか。 あの程度の人物があのようなポストを得るのも、未開地域ならではと言う感じがする。 言いたい事はあるが、山ほどあり過ぎて少々の文章量では消化出来ない。


7/4(月)

このHPにアクセスして来たあなたが、どういう人なのか私は知らない。 私の直接の知人なのかもしれないし、そうでない(全く知らない人)なのかもしれない。 サーバーのログってヤツがあるので、ある程度オリジナル・アクセス数は把握できるから、そこから察するに、知らない人がほとんどなのだろうと思われる(私は友達が少ない)。

私が今ここで、かような日々を過ごしているのは、決して偶然ではない。 過去の自分が、日々何かを感じ、考え、何かを選んできたからこそ今の自分がある。 私について言えば、音楽に何かを感じた少年が、歌を作り始め、ある時新幹線に乗って東京に出てきたから、今の私の生活があるわけで、全ては自分自身の意志に沿った選択の帰結である。 単なる偶然の集積ではない。

あなたが私と直接に知り合ったり、あるいはこのテキストを目にする(あるいはウチの音楽を聴く)と言う形で間接的にでも知り合った事には、きっとあなたの意志が介在している筈だ。 だからそこには意味がある。 我々がここに辿り着いたのは、決して偶然では無いのだ。


7/3(日)

人間の営みってのは、ある側面に照らせば間違いだらけであったりもする。それこそ人間なのだから。 わけの分からない馴れ初めで知り合った二人が、さしたる意志も介在させないままに子供を作ったり、作られたが最後、その子は捨て犬のようにほったらかされたり。

どんな因果で誕生した命であっても、一旦生まれた以上、その命はややもすると百年近い時間を持たされてしまう。 それほどに人の存在は重い。

私のスタンスを表明しておく。 私は上で言う「わけの分からない馴れ初め」などをワザワザ推奨まではしないが、どんな事情で生まれたものであったとしても、一旦生まれた命であればそれを100%肯定する。 そしてその命に意志があるのなら、私はそれを全力で応援したい。

斯く言う私も人間だから、持たされた残り時間には限りがあるわけだけど、私には作った歌がある。 それは不滅のものだから、心配は要らない。 歌はいつだって、それを必要とする誰かの心の中に響き続ける事が出来る。

この文章を今読んでいるあなたは、どういうわけか無数の紆余曲折を経てこのテキストに辿り着いた。 この瞬間にまで一人で辿り着けたのだから、これからもきっと大丈夫。


7/2(土)

今週のスタジオにて。

    


アーティストが救うべきものってのは、まあ理想を言えば「万人」なのだろうけど、現実問題としてそれは大変な作業だろう。 とりあえずは「自分に似た誰か」を助けてあげてはどうか。 私は「自分に似た人」がどこかにいるのなら、そいつぐらいは助けてあげたいと思うよ。

辛い事があったり、思い出したくない過去があるのなら、今のこの瞬間にでも、同じ気持ちを抱えている誰かの気持ちが分かってあげられるではないか。 アーティストはそういう、この世界のどこかにいるであろう誰かの為に歌を歌えば良い。

その誰かは、たった一人の事かもしれない。 また、そのたった一人は、自分自身なのかもしれない。 私はそうだよ。 いつも昨日の自分に何かを教える為に歌を作り続けている。


7/1(金)

今週のスタジオにて。 残りは明日上げます。

    


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