Staff diary  
スタッフ日誌[2011]

[文 / 益田(制作)]

6/29(水)

前から思っていたのだが、昨今のDAWのMIDIデータ編集機能ってちょっと貧弱過ぎはしないか。 特にスコア(譜面)・エディタ。 転調を含んだ楽曲の譜面表記が出来なかったり、SMFのKeySignatureがスコア(譜面表示)に反映されなかったり、それ以前にスコア表示機能そのものが無いモノまである。

確かにあの五線譜ってヤツは、(ピアノロールとかに比べると)機能的で無かったりする。いずれ音楽制作の一線では扱われなくなるものなのかもしれない(と言うか、既にそうなりつつあるからこその我が嘆きであるのだが)。

単なる慣れの問題もあるのかもしれないが、どうも私は理数系的な計数・計量感覚に乏しいらしく、数値での制御に弱い。 だからして音に関しても、F#3などと表記されるより、五線譜上のどのくらいの位置(高さ)に配置されているか、などと言う視覚的処理によってでないとその情報を体感しづらい。

音楽作ったりしない人にはいまいちピンと来ないかもしれないが、音楽制作者は、圧倒的に理系が多い。 実際に大学の理数系の学部出身であるかどうか、と言う事でなく、潜在的に理系脳であるかどうか、と言う話である。 音楽大学は、一応は文理を超越したものと見做されがちだが、あれは理科大学である。 ついでに言えば、体育大学も理系だ。

ともかく、音楽制作のツールは、平均的音楽制作技術者に向けて設計されているのだから、今後も一層数値制御系に特化されていくように思える(ってほどでは無いにせよ、少なくともスコア・エディタ淘汰の流れは止まらないと思われる)。 私の方でそれに慣れていくしかないのかな。


6/28(火)

曲を作る(案出する)と言うのが、私の仕事の確実な一部であるわけだが、結構スリリングな作業・役割でもある。 だって思いつかなくなったらお仕舞いなのよ。

昔は「曲のアイディアが出て来なくなったらどうしよう」とか思ったりもしたが、完全に杞憂だったようだ。 今は常に、思いつくアイディアを作品化する作業が追いつかない状態だ。 新たな曲を作る度に、やり残したアイディアの断片が溜まって行く。

曲を脳内で練っている過程で、生まれてくるアイディアたちの中には、当然ながら互いに共存できない類のものが含まれている。 しかしながら、一度誕生したアイディアはそれはそれで消える事が無いから、結局その後の宿題として残ってしまうのである。

曲とか作ったりしない人には分かり難いかもしれないが、曲作りの難所って発想だと思われがちだけど、そうでもない。 思いつき過ぎてもそれはそれで、何でもかんでも盛り込み過ぎて曲が壊れる事だってある。 アイディアを「削る」作業こそが肝であったりもするのだ。

昔あるFM局の制作部長さんから、「君は曲に色々なものを詰め込み過ぎている」と指摘された事がある。 その時はあまりピンと来なかったが、今はその人の言わんとする事が分かる。 確かに当時の私にはそういう面があった(無論今の私にもある)。 それが即座に自分の欠陥とも思わないが、そういう感想はあり得るだろう。

何となくだけど、これからの私の作る曲の中に、「シンプルなもの」は増えるような気がする。 別に義務として「そうせねばならない」などと自分に課しているわけではないが、削る作業の難しさを克服すれば、必然的にそうなってしまうように思える。 まあこればかりは私にも分からないけどね。


6/27(月)

人の話し相手になる事が割りとある私なのだが、世の中には、仕事場(アルバイト先等)での人間関係が負担になっている人が、思いの外多い事に驚かされる。 どうしたものか。 仕事場とは、その名の通り仕事をする場所なわけだが、仕事そのものより、そこでの人間関係が負担としてのし掛かっているケースの方が圧倒的に多いのではないか。 実に効率の悪い事だが、現実には人間関係をソツなくこなす技術こそが、重要な職業スキルとなっている節さえある。 多少バカらしい気がしないでもない。

人間関係上の悩みの発生源は、職場にいる「嫌な奴」である事が殆どである。 その人の言動が日々の気分を乱すそうな。 私自身は正直言って、平素その手の悩みを抱えていない人だが、底意地の悪い人間を見た事ぐらいならいくらでもある。だからして、そういう悩みを抱える人の気分もまるで分からぬわけではない。 「意地の悪い人」は、かわいそうな人ではあるのだろうけど、どうにかならないものか。 困ったものだね。

意地の悪い人に厭味を言われた際、どう振る舞うべきなのか。 例えばキリストやマザー・テレサなら、その相手を「許しなさい」と言うだろうし、それはある意味真理なのかもしれない。 何故なら、報復は憎しみの増幅を生むから。 しかしながら、余程に徳の高い人格ならいざ知らず、私を含む凡人に「許す」事は容易で無い。 報復をしない事は、多くの人にとって「許容する事」でなく「我慢する事」になってしまっている。

人間は精神に不安定要素を抱えた際、報復を試みたくなる習性を持っているのだから、「我慢」は禍根を残す。 職場でのストレスの大半はこの禍根だろう。 許容や我慢は、ある面では、意地の悪い人のその行動を野放しにする行為でもある。 報復によって行動を制限せねば、彼はその行為(他人に対する悪事)を繰り返し、他人の気分を一時的に害するだけでなく、他人の世界観ごと歪ませてしまう。 世界観を狂わされた人は、きっとその人こそが新たなる感染源となって憎しみの応酬を生む。

報復によって、意地悪な人の行動を制限しても、彼はある現実上の脅威によって我慢をさせられているだけで、博愛の精神など持てる筈もない。 だが、意地の悪い人がそうなってしまう理由は、ここで言う世界観が歪んでいるせいなわけで、それを正すのは容易で無い。 せめて今以上の社会の害悪とならぬよう、ある種の威嚇によって行動を制限する事も有効な手段と言えなくも無い。 理想論だけで事が済むのならば、この社会に厳然と存在する法律も裁判所も警察機構も要らないわけだから。

キリストの教えが崇高である事は認めるが、彼の説く理想社会が二千年かけても実現しないところを見るだに、人類には、ちと重過ぎる課題のようにも思える。 この稿に結論と言えるほどのものは無い。 私も迷っているのです。 いずれ私なりの結論が出ると思うが、今の私にはまだ見つけられない。


6/26(日)

読書雑記。 音楽と全く関係無い話で恐縮だが、最近読んだ「ハチはなぜ大量死したのか」について。

まずタイトルがおかしくないか。 元々は洋書で、その翻訳版なのだが、原題は「Fruitless Fall」である。「実りなき秋」とでも訳すべきだが、まあ出版に当たっての諸事情でそのタイトルが相応しくないと判断されたのは分からぬでも無い。 が、CCD(Colony Collapse Disorder/蜂群崩壊症候群)についての本である。 CCDは、蜂の蒸発とでも言うべき事態であって、大量死ではなかろう(無論、失踪した先で死んでいるかもしれないわけだが)。

上のタイトルは、いたずらに誤解を招くもので、実際文中にも「死骸が見当たらない」と言うような表現が散見される。 原文中に「die」と表現されていたのかもしれないが、それは日本語で言うなら「絶えた」と言った少々漠然たる表現であって、直接の「死(臨終)」を意味しないと思うのだがどうだろうか。

しかし読めば読むほど、あの手のミツバチのような真社会性を持つ昆虫類は、人類と別系統ながらも偉大な知性を持っていると思わざるを得ない。 文中にもあったが、蜂一匹の脳は、我々人類の脳細胞一個のようなもので、蜂の知性は集団にあってこそ発揮される(一個体に集約されていない)。

CCDの発生原因は、今もって判明しないわけだが、私が思うに、やはりミツバチなりの知性が働いてこその現象なのではないだろうか。 彼らは人間の家畜となる事を拒んでいるのではないか。 拒むと言うより、その形態を非生産的だと判断したと言うべきか。 進化の過程で、その形態にあるものを淘汰しているのかも、とか思った。


しかし、この本を読んでいて、私は無性に蜂蜜が欲しくなった。 記述を鵜呑みにするのなら、蜂蜜はとにかく完璧な健康食品と言って良い。 栄養価が高く、ビタミン等の宝庫で、傷に塗って良し、飲んで良し。 どの市販薬より優れた風邪薬となり、癌・肥満・糖尿病・心臓疾患の予防薬となり、腸内の善玉菌を増強する。ストレス軽減、更にはダイエットの効果まであると言う(そのメカニズムについては上の書籍を参照されたい)。

「百害あって一利無し」と言う言葉があるが、蜂蜜は本当に「百利あって一害無し」とでも言うべき物質なのである。 人類が数千年来利用し続けて来たのも頷ける。

蜂蜜を与えられたラットは、ショ糖を与えられた個体や糖分を一切与えられなかった個体よりも血糖値が低く、体重が軽く、ストレス・ホルモンの値が低く、どのラットよりも記憶テストで好成績を残すと言う。 蜂蜜の何が作用しているのか、研究者にもよく分かっていないらしいが、とにかく脳や血液に良い効果をもたらしている事などは間違いないらしい。

蜂蜜は外用薬としても、おそらく地球上で最強の抗菌物質だと言う。 しかも、一般の抗生剤なら細菌と同時に健康な細胞も傷付けてしまうらしいのだが、蜂蜜はそれさえないと言う。 新たな細胞の生成を促進する効果さえあるらしい。 実際医療の現場でも、創傷被覆剤として見直されていると言う。

それでいて蜂蜜は、一般的な医薬品などに比べ、圧倒的に安価である。 現代人は健康志向が強いと言うが、これほどまでに完璧な健康食品で尚且つ美味でさえあるのだから、価格が高騰したり、商品が払底しても不思議は無いのだが、現状そうなっていない。 効能がイマイチ知れ渡っていないからだろう。


6/25(土)

実を言うと、スタジオの空調設備がブッ壊れたせいで、今週はリハーサルが完全に中止になった。 「空調ぐらい壊れてても何とかなるだろう」と、とりあえず入ってみたのだが甘かった。 窓一つ無い密室で、コンソールやPCを含めた機材類が熱を放っているのである。 「冷房が効かない」なんて生易しいものではなく、「暖房がフル稼働」状態なのだ。しかも今週の気温はご存知の通り。 業者曰く、「復旧には少々時間が掛かる」との事。大事を取って、今週はお休みに。 まあ長い事やってりゃ、こんな事もあります。


6/23(木)

ここ数日、呪われているかのように機材関係のトラブルに見舞われ続けている。 何なんだ一体。 それにしても暑いな。まだ6月なのに。


人を救う物。

最後の最後に私を救ってくれるモノとは一体何なのだろう。 例えばこんにちの日本では、毎年のように年間3万人超の自殺者が出ているわけだが、彼らは、最後の最後に何からも救ってもらえなかった。

「慰めの言葉なんて要はタダじゃねーか。世の中金だよ」などと嘯く人はいるだろう。 確かに薄っぺらい慰めの言葉は、人の心を凍えさせる。が、金なんてものが人を救ってくれるのなら、はてしかし、救われぬ人などこの国にはもういない筈だが。

仕事が無ければ職業安定所のようなものがあり、とりあえずの(就職活動に必要な)資金すら、手持ちが無いのなら貸し付けてくれるような制度も確かある筈で、就職に必要な職業スキルがなければ基金訓練とか言って、給金を貰いながら職業訓練までしてくれる至れり尽くせりの制度さえある。 最悪の場合でも、生活保護に至るまでのセーフティーネットが整備されているではないか。

日本では、職が無かろうが金が無かろうが、野垂れ死にせねばならない人などもういない筈なのに、現実には自殺者が絶えぬと言う。 10数年連続で年間3万人超ですよ。 先日の震災や原発事故、生肉の食中毒事件など、全てがアホらしく感じられる程に凄まじい数字だ。 日本人を殺すのに核兵器は要らないな。

この累々たる屍の山に思いを致すにつけ、つくづく思う。 やはり金は本当は人を救ってくれないのではないか。


私はこのページでも、幾度と無く述べているのだが、金は潰しが利くと言うだけで、それそのものに利用価値がほぼ無い。 だからして、究極的に欲しい物が「金」だと言う人は、本当は欲しい物など何一つあるわけで無く、要は不安を埋めたいだけだと言う事になる。

困難が人を死に至らしめるのではなく、その人にとっての人生が、ある困難を乗り越えてまで生きる価値の無いモノであるからこそ自殺は起こる。 金や物だとか言う、いずれ無くなって行くモノに固執し、不安を埋めるだけの時間を過ごすならば、「いっそ生まれて来なければ良かった」と言う結論に行き着くのは、ある意味自然ですらある。 結局、人を救うのは夢でしかないのではないだろうか。


6/22(水)

曲を作る手順。 私の場合。

1.まず考える。 その曲のイメージを頭の中で構築して行くのである。 メロディーや進行、音色だとか、アレンジの細部に至るまで、とにかく考える。 この時、メモなどを作る事が多いが、ここで一旦詰めた構成は、実作業の段階でしばしば微調整(時に大幅に変更も)される。

2.シーケンサーでMIDIデータを作る。 ラフなものではあるが、雑な作業ではない。ここで作ったデータは最終段階においても流用されるものがあるから。

3.MIDIデータに音色(生楽器も含む)を当てていく。 オケの各パートを埋めて(レコーディングして)行く作業。 これには膨大な実時間が掛かる。 因みにウチの場合、いわゆるプリプロ的な作業段階は(明確な線引きをもっては)無い。

4.ここから歌詞を書く。 自分で書く場合、最初に構想を練っている段階などでも大掴みなものはあったりするのだが、ここである程度完全なモノに一旦仕上げる。 別の人に詞を書いてもらう場合は、譜面やオケ・ガイドメロディー等の音を渡す。 ここで、上げて欲しい歌詞のイメージを伝えたりする事もある(私の場合はあんまり無いが)。

ついでながら、人に詞を頼む場合、2.の段階で基本的なデータは上げるわけだから(無論ガイドメロディーもある)、それを渡せば良いのだが、私はあくまで先に3.の工程に入る。 ある程度最終的なオケに近い形のモノが上がって初めて、作詞家さんに曲を渡すようにしている。 音がショボいと、聴き手の頭の中でのその曲のイメージがブレるからだ。 本来その曲が持っているであろう緊張感みたいなものを、極力伝えなければならないので、そこには最大限注意している。

5.歌モノの場合、大体のオケが上がったら、歌い手さんに譜面・音を渡し、細部の歌唱についてこちらのイメージを口頭で伝える(歌の解釈について、私は基本的に歌い手に任せているが、楽曲構成上、不可欠な歌唱法についてのみ伝えている)。 その後しばらくスタジオリハ。

6.歌録り。

7.ここから編集。 主にピッチ補正などを含むボーカルトラックの調整なのだが、オケの補強みたいな作業もある(歌録り後、そこで録ったボーカル・テイクを元にサンプラーやヴォコーダーでフレーズ作ったりする場合など)。 因みに、この工程も時間が掛かる。

8.Mix・マスタリング。 7.と8.を分けているのは、大抵この間にチェックが入るから。 ほとんどが一応は商業用途で作られているモノなので、これは仕方ない。


上の手順は絶対的なものではなく、多少工程が前後したり、複数の工程が同時進行されたりする事などもあるわけだが、一応音が出来上がるプロセスは、ざっとこのような感じである。 売り物を仕上げるとなると、この他にもスチール撮ったり、撮ったスチールを元にジャケットのデータを作ったりと言った作業が入ってくる。 場合によっては広告やPVまで作る。 それらが一通り揃ったら、流通だとかの契約や書類作りといった事務作業がある。 その他にも各種のテキスト作りとか、商品化にはとにかく面倒な作業が入る。


iTunesとかで1曲たかが\200やそこらで売られている曲たちなのだが、作るのはあれはあれで結構大変なのだと言う話がしたかったのだ。 無論世間には、もっと巨大な予算規模で、かつ複雑な工程を経て出来上がっている音がいくらでもあるわけだが、我々の現状の規模・人員であの音を作るのは大変な事でもあるのだ。 と言うわけで、今日もがんばって音楽作ってます。よかったら聴いてやって下さい。


6/21(火)

今回の話は伝わり辛い事を承知で上げる。

作品ってのは言うまでも無く作者の感性の所産なわけだが、しばしば自分でも少々疑問の残る表現だとかを、残したまま作品を上げてしまう事がある。 無論100%自分の感性と違う物なら形にすらならないわけだけど、作り込みが甘いような物はどうしても出来てしまう。

一般に作り込みの甘い作品は、単に作者が手を抜いた結果出来てしまっているものも多いのだろうが、私の場合それだけではない。 少々自分自身でも稚拙と思えるような表現でも、一度くらいはそれを使っておかないと、心理に微妙なしこりを残してしまう事があるのだ。 だからいわば実験として、ある種の作品は仕上げておかねばならない。 これは本当に納得行く作品を作る為にも、不可欠な工程なのだと思っている。


以下、蛇足の蛇足である。 人は例外なく、創作において、完璧を志向する。 だから、普段モノを作らない人が、突然「一つ作品を作れ」などと言われたようなケースにおいて、完璧を志向するが故に、何もかも盛り込みすぎて酷い事になってしまう。 昨今の「子供の名前」とか好い例だ。 あれは試行錯誤の末にああなっていると言うより、平素の試行錯誤が足りぬが故にああなっている。 「名作」を作ろうと、つい力み過ぎるのだ。

手数を尽くさねば、「やり残した感」が自分に残る。 それが精神に混入すると、美意識が狂う。 芸術家は、作品を作ると言うより、それを作る為の我が審美眼こそを手に入れようとしている。


6/18(土)

今週のスタジオにて。

    


今週は急遽入った歌録りが2件ほどあった。 まあレコーディングそのものは特段の支障も無く終える事が出来たのだが、予定外の編集作業が入ってしまって、週末の予定が大狂い。 下はその急なレコーディングの様子(神田優花・影山リサ)。

   


私は原発の技術を惜しいと思うが、現実問題として、今後の日本の電力は原発以外によって賄う方向にシフトして行かざるを得ないだろうとも思う。 どうせなら、原発を超えるような効率の(日本発の)発電技術が生まれたりしないだろうか。

戦後の日本は、主要都市部がみな焼け野原となった事がある意味では幸いして、基本インフラなど実に整備しやすかったと聞く。 まあ更地同然だったのだから色々とやり易かったのは事実だろうし、そこが高度経済成長を支えた面も当然あるだろう。

今回の震災や原発事故を契機に、新たな技術や思想が生まれ、日本人がより幸福になれば良いと思う。 ドラスティックな変化って、強い梃入れでも無いと起こらないだろうから、不幸こそを奇貨とすべきなんだろうと思う。 と言うか、こういう自然災害って避けられないし、起こってしまった歴史を消す事も出来ない。 奇貨とするしかないよね。


6/17(金)

ストレスだとかの精神の問題って、目に見えないから軽視され続けて来たきらいがあるが、最近そうでもなくなっているような。 私に医学の事は分からないが、精神の在り様が人間の健康に及ぼす影響ってバカに出来ない気がする。

事実生体は、ストレス反応時に分泌されると言うコルチゾールと言う物質によって、血圧・血糖値の上昇、免疫機能低下や不妊などの諸症状、酷い場合脳の萎縮まで引き起こすらしい(これはMRIなどでも確認されているそうなので、ほぼ間違い無いと思われる)。


「職場での人間関係に悩まされている」と言うような人は実際多いわけだが、「たかがそれぐらい」などと侮ってはならない。 ストレスが健康を害する事は医学的にも明らかなのだ。

人体にとって、不安や怒りと言った諸々の不安定要素は、最も忌むべきものである。 また、精神がそういう状況(過度のストレス)下にある者は、周囲にもその気分を伝染させてしまうから、友人としてもとりあえず「避けるべき人」と言う事になってしまう。 これは人間に共感性が備わっている以上仕方ない。


平和な気分で生きる事は、とても大切な事なのだと思う。 では、どうすれば人は平和な一日を過ごせるのか。 唯一の方法は、一番好きなものを追いかける事。 自由でありさえすれば大丈夫。

ついでながら、あまりにストレスが無さ過ぎる環境、ってのもそれはそれであまり精神に良くないらしい。 適度な困難も精神の肥やしってところなのだろうか。 まあ分からないでもないかな。


6/16(木)

空前のアイドル・ブームだそうで、投票権付きのCDがバカ売れしていたりするらしい(本当に物凄い売れ行きだそうだ)。

「そんなの本当に音楽が売れているわけじゃないから怪しからぬ」などと言うのは簡単だが、私は別にそうは思わない。 ニーズを満たしていればこそ商品は売れるわけで、売り手と消費者の思惑が一致しているところを第三者がどうこう言うのも野暮ってもんだろう。

しかし、アイドルでも何でも、音楽ソフトが売れているのは喜ばしいことではある。 だってそうだろう。一番最悪なのは、アイドルだろうが何だろうが、人々が全く音楽を聴かなくなる事である。 アイドルファンだって、一応買った音楽ソフトを携帯プレイヤーだので聴くのだろうから、当然再生機ぐらいは必要になる。 それは「音楽コンテンツの消費者になる資格を有する人」に留まってくれているって事でもある。

ここ最近の音楽業界の凋落っぷりは、下手すると人々に「音楽を聴く」と言う習慣すら忘れさせる勢いのもだった(実際そうなっている層も多かろう)。 それを食い止めてくれているだけで、感謝すらしたくなる。 その中から「音楽リスナー」が育ってくれたらもっと素晴らしい。


6/14(火)

この間、我が子に対して激怒している若い父親を見かけた。 何故そうなるに至ったのか、一部始終を見ていたわけではないので私には分からなかったのだが、明らかに、教育の為に叱っていると言うより、単純に怒っているのである。 何やら自分(父親)の大切な物を壊された、とかそういう状況であるらしかった。

叱る事と怒る事は当然違う。 父親に怒鳴られているその子は、号泣していたのだが、私は最初何となしに「親なのだから、大人気無くも感情を剥き出しにして怒るのでなく、冷静に叱れば良いのに」などと他人行儀に思っていた。 しかしよくよく考えてみるに、やはりあれで良いのかも。

子供は、激怒した父親の感情に共感出来ればこそ、そこに恐怖を感じたりして泣きじゃくるわけだが、「人間と言うものは、その尊厳を傷付けられた際、このように激怒するのだ」と言う事を身を持って知らせる事も、一種の教育だろう。 だし、割りとそれは即効性のある教育法のように思える。


6/13(月)

バグとの格闘記。

好むところではないが、よく機材の不具合に悩まされる私は、いつの頃からか、遭遇したバグとその解決法を一々詳細に文章で記録するようになった。 他にも忘れてしまいそうな設定関係の手順とか、自分向けの説明書をこさえている。

数年後とかに同じような不具合に見舞われることが実際あるわけですわ。 そこで数年前の自分に教えを請うと。 何度自分にお礼を言った事か。


結局人間とは蓄積の事である。 人は日々の中、ここで言う説明書を巨細に渡り作り続けている。 説明書の分厚さこそがその人の精神の強靭さと言える。 何かを感じるから何かが残る。 艱難を財産と為せるからこそ人間は素晴らしい。

私が不具合に見舞われる事無く、日々何一つの不自由無く作業を続けていたら、あの膨大な説明書は出来上がらなかった。 自分に残せる物もなく、不測の事態にはうろたえる事しか出来なかっただろう。 説明書を作ると言うが、それは自己解決力を培う事で、つまりはその能力を持つ自分自身を作る事だ。


私が作り続けている歌とは、実のこの説明書なのである。 何の説明書かと言うと、それはこの世界を自分自身に解説するためのもの。 日々歌を作りつつ、私は私自身に、この世界何たるかを教えている。


機材のバグと言う不幸に遭遇するからこそ、私が解決力を涵養できたように、不幸だとか悲しみの無い人生ほど、無味乾燥したものは無かろう。 それこそが自分を作るのだから。 過去の私が、苦しみや悲しみを感じなかったとしたら、私は今日も時々刻々、残り時間を売り歩くような生き方しかきっと出来なかった。


6/12(日)

世の中の狭さを感じてしまう時。 例えば何か作業をしていると、機材のバグなど、トラブルに見舞われる事はしばしばあるわけだが、とりあえずマニュアル類を見ても解決方法が見当たらない場合、インターネット上に何らかの情報が転がっていないか探してみる人は多いと思う。 私もそうだ。

サーチエンジン使えばたちどころに解決法が見つかるような場合も、それはそれで多いのだが、全く見つからない事がこれまたしばしばある。 この世界で、私一人しかこのトラブルを抱えていないなんてわけ無いだろうと思うのだが、とにかくネット上に類似症例の報告が、どう探しても(検索文字などを工夫しても)見当たらない事がある。

日本語を共有している日本人の人口が、約1億2〜3千万人。英語圏まで含めたとしても、純粋英語圏の人口なんて、せいぜいその4〜5倍もあるだろうか。 そのうち音楽制作などを行なっている者など、0.1%もいるかどうか。 更にその中で、同一ソフトを使っている人なんて10分の1もいるかどうか。 更にほば同一の環境(OSやCPUなど)で同一の不具合を抱えている人、なんて話になったら、本当に僅か数人とかになっても全然不思議は無い。

その数人がネット上にそのトラブル(&その解決策)のログを残してくれている確率となると、更にか細いものになるだろう。 私が見つけられなくても、ある意味当然なのかもしれない。 詰まるところ、世の中って全然狭いんだよね。


6/11(土)

今週のスタジオにて。

       


6/10(金)

徒然なるままに制作雑記。 最近、あえて音作りをソフトウェア内部(ハードを基本的に介さない)で完結させるよう試みている。 今までも似たような事はしていたが、100%ソフト完結に徐々に移行しつつある。 元々ハード好きだからちょっとシンドい面も無くは無いが。

音の好みはさておき、内部完結の作業効率は実に良い。 時間面で見ると、本当に半分ぐらいに短縮されているかもしれない。ロスが少ない。 世間の音屋さんらがそっちに移行するのも分かるわ。 と言うのも、つい先日、同期関連のトラブルに付き合わされて、いい歳なのに徹夜してしまったのだ。 ケーブルが嫌いになりそうだ。


私は80年代っぽいFMサウンドが好きで、またそれらしきヤツを1曲作っていた。 オケはほぼFM(音色)オンリーで作った。 ドラムもスネア以外は全部FM製。 スネアは、あの当時のエレドラの雰囲気が出したくて、FMで作ろうと試みたのだが結局断念した。 昔、音色パッチなんかが商品化されているのを見て「パラメーターの設定値如きに値段付けて売るのかよ」なんて本気で思っていたが、確かに需要あるかもしれないわ。

しかし、良いゲートリバーブ(ゲートとリバーブが一体化したもの)無いかしら。出来ればVSTとかで。 リバーブそのものの質が高くて、尚且つゲートのような細かいパラメーターが設定出来るヤツ。 フリーのものを落として使ってみたりはしたのだけど、イマイチしっくり来ない。気になる点は、ゲートの機能とかよりも圧倒的にリバーブの質感。 結局今は、リバーブのセンド量をオートメーションで弄るような、非常に面倒臭い方法であれを再現している。 本来のゲートリバーブのアルゴリズムに近いと言えば近いが。


今の音屋は、DAWとかでオケのベース部分をこさえるわけだけど、随時Mixしながら音を作っている感覚だ。 例えば、音符一つ入力する度にも、その他のトラックとの親和の具合を、リアルタイムで試行錯誤しながらになる。 また、ブロック毎に全パート同時進行で曲を作って行ったり、もっと言えば小節単位で作る事さえ可能だ(実際私はそういう事をしている)。 昔の音屋さんら(編曲家など)は、これらの作業をほぼ脳内で行い、曲を譜面化、後は各プレイヤーの演奏結果をMixして曲を完成させていた事になる。 そりゃ音楽的な基礎教養が不可欠になるだろう。

私は昔の人を凄いと感じる事がしばしばあるが、別に人間の資質そのものにおいて、現代人とさほど異なるとは思っていない。 人間の能力に舞台を与えるのは状況である。昔と今ではそれが違うだけだ。

60〜70年代の音の、パート数の少なさは、脳内でアレンジを完結させる作業の限界も理由としてあったような気がする。 この脳の情報処理精度は、言語と密接に関係している筈で、だからしてクラシックのオールド・マスターたちが交響曲を書けたのは、ヨーロッパ言語の恩恵であろうかと。 私に言わせれば、チャイコフスキーと滝廉太郎の違いって、政治家で言えばまさにロベスピエールと西郷隆盛だとか、ヒトラーと東条英機の違いなんだよな。


6/9(木)

音楽制作と言うが、制作と製作は違う。 製作は物を作り、制作は作品を創出する。辞書的な定義もほぼこの通りである。 つまり、音楽制作はゼロからモノを生み出す作業と言える。

無論、コストはゼロではない。機材や消耗品など一応のコストは発生するのだが、工業製品で例えるなら、設備には金が掛かるものの、原材料が要らないモノって事だ。 だから無限の可能性を秘めている。 私の作る歌が誰かの心に響く時、私は間違いなくそこにいるのだ。

「音楽コンテンツの違法コピー・配信は怪しからん」とか、業界側は声高に主張するが、この「容易に複製・共有出来る」と言う点にこそ、無限の可能性が秘められているのである。 良い悪いはさておき、音楽作品は、その複製品を無限に生み出す事が出来る。

音楽コンテンツの複製が、道義的な「悪」であるなどと私は努々思わない。 「誰かしらの便宜の為、現状そういうルールが、曖昧ながらも確立しつつある」ぐらいになら捉えているが。 基準が曖昧なのは、大した真理に根差した主張でも無いからだろう。 きっと上のような主張をする当人らすらも、そこまで強固な正義感など持っていやしない筈だが。 「持っている」のなら、ちょっと頭を冷やした方が良い。

音楽制作は、絵画で言うなら版画の「版木」を彫っているようなものだ(まあもっと正確に言えば、版木すら記録メディアに過ぎず、本来芸術作品とはそこに彫り込まれた「意匠」そのものなわけだが)。 北斎が肉筆画より錦絵(多色刷り版画)を好んだ気持ちが、今の私には分かる気がする。

私も一応、僅かではあるが音楽で収入を得ている者である。 だからして、現状の使用料配分システムが崩壊すれば何らかの実害(現状に比しての)を蒙るであろうが、そんな端金よりもそれ以上の薔薇色の未来を想像してしまう。


6/8(水)

良い機材って何だろう。 例えば音がクリアであるとか、値段が安い(コストパフォーマンスが高い)だとか、壊れにくくて長持ちするとか、色々あるだろうけど、私が思うに「クリエイターの想像力をかき立ててくれるもの」こそが良い機材なのだと思う。

具体例を挙げると、MOOGシンセサイザーとか、ヤマハのDX7とか、そういう楽器音がその時代のPOPSの象徴となるような機材の事。 それらはクリエイターのクリエイティビティーを刺激したからこそ、その時代の音をそれ一色に染めたりした。

しかし最近そういう機材ってあんまり出てないような気がするな。 しかしこればっかりは、技術にも限界があるだろうし、楽器メーカーだけのせいにするわけにも行かないわな。


6/7(火)

川村真央「Dream a dream」の収録曲、「I'm in love」について。


2.I'm in love

タイトルになっている「Dream a dream」と違って、ごく最近(と言ってもここ1〜2年の間ぐらい)に作った曲。 これも普通のPOPSの範疇だな。

AメロとBメロ(サビ)との音量差が結構ある曲なので、初めてラジオで流す時なんかは、ちょっと気になった。 収録だったからまだ良かったけど、生放送の場合なんかはあんましレンジのある曲は使いにくい。



6/6(月)

先月末に販売開始した川村真央「Dream a dream」収録曲について、せっかく私が曲書いているので、コメントを入れてみる。


1.Dream a dream

タイトル曲、ごく普通のPOPS。 多分15年前ぐらいに作った曲。ほぼ作った当時の原形のままに近い。歌詞はごく最近付けられたもの(作詞は私じゃない)。 歌い手にとっての最初のオリジナル曲でもあったので、オーソドックスなPOPSになってます。

私は神田優花以外については、純粋なソングライターと言った立場になる。 アーティスト・イメージだとかに沿った楽曲を新たに作ったりするわけでなく、ストック曲をまとめて提出しているだけで、その中から用途(企画)に応じたものがピックアップされているような状態なので、何と言うか、コメントがし辛い。 私の方針みたいなものは介在していないので。



6/5(日)

先日、リハーサルの後の雑談で、中学生などの「いじめ自殺」について話題が及んだ。 中学生なんかは視野が狭く、学校如きが世界の全てになってしまっているが故に、そこでトラブルを抱えたぐらいの事を、この世の終わりかのように捉えてしまう。

中学生時代なんて、長い人生のたった3年間でしかない。 その後は、もう義務教育でないのだから、嫌なら学校になんて行かなくて良いし、もっと言えば、中学校だって行きたくなきゃ行かずに済む方法ぐらいある。 とにかく、自殺するぐらいなら、その前に取るべき手段はゴマンとある。

私が思うに、「いじめ問題」の元凶とまでいわないまでも、原因の一つに親の存在があるような気がする。 どこに行ってもいじめられてしまう弱い子や、誰かをいじめずにいられない弱い子、両者は紙の裏表で、つまりは自信が持てない人たちである。 理解され、愛されて育ちさえすれば、そんな下らない事と無縁の生き方がきっと出来た筈である。 首をつる前に取るべきゴマンとある手段を思いつけないのは、愛されていないが故に、そんな事を思いつく余裕が無いからだ。 生存の基礎となる条件が危ぶまれているような状況で、広い視野など持てるわけがない。ましてやたかが中学生である。


しかし生死の問題は、広く世間で言われているほど単純ではない。 生が尊くて死がそうでない、なんて誰も一概には言えない。 命(意識)は無から誕生し、必ず無に還る。死を避けられる者など、一つの例外もなく存在し得ない。 「生が苦痛だから、予定より早く死(無)に還りたい」と言う判断を、道義面で善悪に色付けするのは難しい。 そんな絶対的な価値基準など誰も持つまいて。

人間(無論その他の生物も)が生まれてくる理由も、生きている意味も、死に行く理由も、実は何一つ存在しない。 意味とか理由とか、人間がコジつけただけのものだからだ。 ただ一つ言えるのは、我々は、「与えられた限られた時間の中、幸福を求めて生きる事が出来る」って事ぐらいだ。 これは間違いない。

この私に、一人の大人として、自殺を考えている子供に掛けてあげられる言葉があるのなら「親が悲しむから自殺を思い止まりなさい」なんて辛気臭いものではなく、「大人って楽しいぜ」だな。 だってこの私においても、実際中学生時代なんかより、今の方が全然楽しいんだもの。 私はまだまだこの世界にい続けたいよ。


6/4(土)

昨日の続き。

    


6/3(金)

今週のスタジオにて。 残りは明日上げます。

     


6/2(木)

鍬形恵斎(くわがたけいさい)と言う江戸期の絵師がいる。 かの有名な葛飾北斎と同時代人で、その活動期に、北斎を批判したと言われている。

『武江年表補正略』に、恵斎の言として「北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり。是は『略画式』を恵斎が著はして後『北斎漫画』をかき、又紹真(恵斎)が『江戸一覧図』を工夫せしかば、『東海道一覧の図』を錦絵にしたりなどいへるなり」とあるそうである。 要するに恵斎は、北斎の事を「人のものをパクってばかりでオリジナリティの無いヤツだ」と評しているわけである。

確かに北斎は、浮世絵一つとっても、複数の流派に学び、他流派に出入りしたのが原因で破門にされたとの説もあるくらいで、浮世絵の諸流派のみならず、水墨画や漢画の技法をも取り入れ、更には西洋の油彩画のテクニック(遠近法等)までも貪婪に取り入れている。 恵斎の意見に肩入れするわけではないが、確かに作品においても、様々な先行の作品(アイディア)に触発されたようなものは多い。

しかし私が不思議だったのは、恵斎も絵師であるのに、北斎の機微が分からなかったのか、と言う事だ。 アーティストは、己を追及しているのである。 自分のツボを刺激するために、様々な角度からのアプローチを当然試みる。 片っ端から先行の様式を学び、自家薬籠中の物とした、と言うのは芸術家として至極当然の事で(無論私も例外でなく)、そうしたくならない人の気持ちの方が理解しかねる。 恵斎は所詮、アーティストでなく画工に過ぎなかったと言う事だろうか。

オリジナルたらねばならぬとて、常に何かに似てしまう事に怯えているような精神は、アートと言う自己追求作業には障ってしまおう。 アーティストは、先行のスタイルに「従属する」のでなく、あくまで自分のものとして「取り入れる」のである。


6/1(水)

若い人はもう知らないだろうが、私の子供の頃「BE-BOP HIGHSCHOOL」と言う漫画が流行っていた。 不良高校生の世界を舞台にしたマンガなのだが、話の中で主人公は言う。「喧嘩に一番強いヤツは、自分が負けた事に気付かないヤツだ」と。 全くその通りである。


敗者と言うのは、勝負に負ける人を言うのではなく、勝敗の帰趨の決まる前に逃げ出す人だ。 つまり勝負そのものができない。

例えば日本人は、敗戦でなく終戦と言う言葉を使いたがりますね。 負け犬根性が骨肉に沁みているのだろう。 未来永劫もう試合に臨む気が無い。

私は今までたくさんの音楽作品を作ってきたし、商品化もしてきた。 納得の行くものが出来なかった事はいくらでもあるし、セールス的にも、携わってくれた人たちを満足させられるような成果を残せなった事がしばしばである(と言うか殆どそうだった)。

だが私は、勝負が終わったと思った事は一度たりとも無い。 局地的な意味での勝負に負けることはあったし、これからも無数にあろう。 でも本当に、それがどうした?って感じなんだよなあ。 限定的な一試合おいて負ける事など、私にとっては単なる授業料でしかない。


現実に躓き、目の前に広がる世界が暗転するような時も、私は、自分の人生と言う壮大なドラマの一つの区切りだと思っていた。「○○篇」が終わっていよいよ次の章に入るのだと、次章にどんな展開が待っているのか、心のどこかはむしろ高鳴っていた。 きっとこれからもそうだろう。 私は諦めないから。

この「諦めない私」をいつも支えてくれているものこそが、何を隠そう、私の心の中に響く「歌」なのだ。 だから私には、絶対に歌が必要なのである。 どんな時にも、主人公であるこの私を奮い立たせるBGMが。 私の中にある勇気は、この「歌」で出来ている。


5/31(火)

いきなり思い出したが、以前、「人に指示(命令)される事を異常に嫌う老人」を見た事がある。 最初私は、その人の思考回路を忖度出来なかったのだが、今ではかなりハッキリと論理的に説明出来る。

指示されるのを嫌う彼は、常に誰に対しても「命令」したがった。 何か自分に都合の良い環境を作りたい時、かつそれに他人の動作を伴うことが必須な場合には、常に相手に「お願い」をするのでなく、「命令」するのである。 だから平素、それをし易い環境を整えるべく、他人を見下し、従えようと努めていたが、作戦が功を奏す相手とそうでない相手に別れていたように見えた。

彼は指示に従う事を拒むだけでなく、会話の相槌を打つ事にさえ不快を覚えていたようで、時折意味の通らぬ癇癪を起こしていた。 「良い天気ですね」と言われて、「そんな事どうでも良いじゃねえか!」と言うように。

普通人には、上の「相槌を嫌う」などと言う機微は、少々分かり辛いものだろう。 彼の脳内では、相槌を打つ→同意する→相手の意見に従う→だから絶対に受け入れられない、と言った思考が展開していたらしい。

結論から言うが、その彼(や、そのタイプの人物)は、碌な人間ではない。 自分がそれほどに嫌がる「命令」を、他人には常にしようとするのだから。 どんな気分で生きているのか、想像するだに憂鬱になる。 彼は、命令する対象(つまり他人)を虫ケラのようにしか捉えていなかったろう。

隣人を愛すべく努めている私だが、その人は好きになれなかった。 彼との出会いは、私に、「自分には博愛の精神など持てない」と気付かせてくれた重要な出会いでもあった。

彼の書いた文章を目にしたことがあるのだが、内容は非常に断片的で、常に1〜2行のセンテンスでしかなく、長文などはその1〜2行を重ねただけのような、本来長文とも呼べないような代物だった。 つまり彼には、長文を構成する程度の論理力が無いのである。論理を支える言語を持っていなかった。 だから自己認識が出来ず、物事に対し常に偏った、時に誤った結論を出してしまう。

私の考える論理力欠如のイメージは、自動車のハンドルの振れ幅に近い。 ちょっと車輪が傾いただけでももう前には進めず、矯正せねば永遠のループに陥る。 極端に進路が傾けば、そのループは目に見えて分かり易いが、僅かな傾きでも、軌道の規模が変わるだけで、必ずループする。 ここで言う矯正は、言語によって為すしかない。

誤解を恐れずに言うが、私は言語(論理)の怪しい人間が一番怖い。 どんなに凶暴な輩でも、それがヤクザやテロリストであったとしても、その思考の筋道が理解出来さえすれば、言い換えれば、そこに論理の筋道が存在しているのであれば、その相手はそこまでの恐怖の対象となり得るだろうか。 少なくとも「対処のし様」ぐらいは見出せるのではないか。 とにかく、相手の言動に、論理が存在していない事ほど怖い事は無い。

言語とは即ち論理なのだ。 「話せば分かる」は嘘である。 言語力を持たぬ者と分かり合える事などあり得ない。 視力の無い者に物が見えず、聴力の無い者に音が聞こえないのと同じである。


5/29(日)

関東梅雨入りだそうだ。道理で雨ばかり。


 

神田優花、先日録った新曲の上がり&次の新曲の譜面をチェックしてました。 新曲の歌録り終えたと思ったらまた新曲の制作です。


  

影山リサ。 こちらも新曲のチェック。下の写真は先日のスタジオにて。


5/28(土)



広瀬沙希、ここ最近立て続けに歌録りです。 以下、今週のスタジオにて。

  


お知らせ。 5/26(木)より、CD通販サイトJETROBOTにて、川村真央「Dream a dream」(全4曲/税込価格¥1,260)の販売が開始されています。 詳細はリンク先にて。試聴とかも出来ますので、是非チェックしてみて下さい。

 


5/27(金)

私は録音物を作る際、生楽器音は別として、いわゆる打ち込みには、基本的にハード・シンセを多用している。 ソフト・シンセも使わないではないが、シンセ・リードとかパッド系とか、そういう音色には割と使うものの、普通のベースとかピアノと言った楽器音には、ハードの方をよく使っている。

最近、とある同一メーカーの同一音源(サンプル)を、ソフトとハード両方で所有してしまっていて、聴き比べる機会があってしまう。 理屈としては、ハード音源を発音させてケーブルを介してレコーダーで録るよりも、ソフト・シンセをDAW上で起動してAudio化する方が、音は良い筈である。S/N比においては間違いなく良く、ケーブル通過時にある帯域成分が失われたりするなどの劣化も、理論上無くなる筈だ。 だが、どうも私はハードの音が良く聞こえてしまう。 何故なんだろう。 ソフト・シンセは音がキレイ過ぎるのだろうか。

そう言えば昔、デジタル・レコーディング環境が普及し出した頃、当時のエンジニアに、デジタルのキレイ過ぎる音を嫌って、編集時に一旦アナログ・ミキサー介した上で新たに録音し直していた人がいると聞いた(今でもそんな人、いるんだろうか)。 音の良し悪しの基準なんて、あって無いようなものである。例えばギターのディストーション・サウンドは、アンプの処理能を超えたが故に生じたエラーこそが、そもそものルーツである。 確かにアンプ・シミュレーターも、私はハード物の方が好みだ。 キレイ過ぎると嘘っぽく聞こえるのだろうか。

しかし、そこれもこれも単なる慣れの問題なのかもしれない。 私は懐古趣味をあまり持たない性質なので、ハード・シンセ(と言う物質・システム)に何の愛着も無い。単なる道具だ。 道具は使い勝手が良いに越した事はない。

と言うわけで、とりあえずは暫くの間、ソフト・シンセを積極的に使ってみようと思う。 作業効率は間違いなくそっちの方が良いし。曲作るペースも上がるかもしれない。


5/26(木)

竹久夢二の「宵待草」が流行した大正期、当たり前だが当時CDもテレビも無かった。 蓄音機はとっくに発明されていたし、レコード盤も一応は商品化されていたろうが、高価な事もあり、さほど普及もしていなかったと見える。 出版された「楽譜」がベストセラーとなり、延いては流行歌を生んだそうな。

冒頭に「竹久夢二の〜」とあるが、夢二は作詞者である。 ヒット曲「宵待草」のクレジットを敢えて表記するならば、

作詞:竹久夢二 作曲:多忠亮 アーティスト(歌手)名:無し

と言う事になる。

発表されたものが録音物でないのだから、当然歌唱を含む演奏の細かいニュアンスなど、購入者側には分からない。 各自銘々の解釈にて作品を理解し、楽しんだ。 流行歌が流行するメカニズムが、現代より高度で、受け手側に要求される音楽スキルのハードルが高い。

一見、回りくどい手法に思えるが、発表された楽曲は、受け手の能力如何によっては、下手な演者の手を介するより大変な名曲になり得るわけである。

当時としては、一般に流行歌と言うものは、そうやって生まれるものでもあったのだろう。 良い悪いはさておき、そう言った状況下にて、音色を楽しむ「テクノ」のような音楽を流行らせるのは難しかったろう。 ことほどさように、音色とは、音楽と言う芸術の核心部分では無い。

別にこの稿に何らかの結論があるわけではなく、そういう時代があったのだと、詠嘆しているだけである。 因みに私は、マスタリングまで基本的に自分でやらねば気が済まないタチなので、そう言った時代に生まれたかった(そういう形にて作品を発表したい)とは全く思わない。


5/25(水)

理由は分からないが、どうも画家ってヤツは一般に長寿らしい。 ピカソは90何歳まで生きているし、北斎も江戸時代人なのにも拘らず90近くまで生きている。 画家と一括りに言ったところで、遺伝的体質はそれぞれだろうから、どうも精神のあり様にその理由が隠されている気がしないでもない。

芸術家はボケないとも聞く。 脳を絶えず酷使し続けているからだろうか。 だったら学者や作家もボケない筈だが、実際のところどうなんだろう。 明治以降の日本の作家(純文学系)は、有名どころが殆ど自殺してしまっているので、ボケは無論のこと、平均寿命も測定し難い。 武者小路実篤なんかは、晩年かなりボケていたようだが、わりと長生きしてはいる。


きっと絵には、ストレスを発散させる(カタルシスとなる)何かがあるのだろう。では画業の何が精神に作用し、また音楽にそれは無いのか。 そう言えば音楽家は、特段に長命と言う程の事も無いような気がする(キチンと統計取ったわけでは無いが)。 世間一般で言うところの音楽が、要はスポーツだからなのかもしれない。

私は一応音楽屋さんなわけだが、いわゆるミュージシャンたちにあまりシンパシーを感じず、どちらかと言うと画家の方にそれを感じてしまう。 画家以外では、例えばファーブルや牧野富太郎、漫画家では手塚治虫などの気持ちは理解に遠くなく、実のところミュージシャンで共感出来るタイプは少ない(ゼロでは無い)。 私が音楽家的で無いからだろう。 だからして当然、いわゆる音楽業界と言うお庭に混ぜてもらいたいと言う気分も希薄だ。


5/24(火)

一応ながら、それなりの期間音楽を続けている私なのだが、実を言うと、いわゆる「ジャム・セッション」ってのが、いまだによく分からない。 無論、言葉の意味(それが指している行為)ぐらいなら分かる。 私が分からないのは、どうやってそんなので曲を作るのか、である。

バンドなんかの中には、「曲は基本的にジャムで作ってます」みたいなのが実在する。 スタジオで適当に演奏を交えながら曲(アレンジ)を仕上げていくそうな。 細かい部分などどうやって詰めて行くのだろう。 曲想を形にする、と言うより、偶発性みたいなものの面白さを味わっているのだろうか。 だったらスポーツなんかと近いのかな。

因みに私は、ジャムって曲を作った事なんて一度たりとも無いし、きっとこれから先も無い。 基本的に、全パートを譜面化した上で音にしていく。 良い悪いの話ではなく、私の作りたいものは、ジャム・セッションでは作れないから。


5/23(月)

例えば神田優花の楽曲なんかは、私が詞を書いていたりするわけだが、その内容は、(平均的J-POPなんかに比べれば)英語の分量が多い。 が、別にアメリカ人に向けて書いているわけではなく(結果的に海外でも売られてはいるが)、表現したいことが、日本語では十全に表現できない、と言う現実的な制約に因る部分も大きい。 先日挙げたhonestなんかは良い例だ(一応言っておくが、私は日本語をこよなく愛している)。

私の書くものの英語偏重は、日本語自体の不備によって生じている部分だけではないが、それは確実にある。 だから日本語が洗練されれば変わってくる面もあると思う。 森有礼は、日本の公用語を英語にしようと言い出したらしいが、気持ちが全く分からないでもない。

あくまで私の表現したい世界を完成させるために、道具として日本語や英語を使用している。 カンナやノミと言った具合に。 だから特定の言語圏に向けて発信しているわけでもないが、強いて言うなら、私も日本人なのだから、同じ言語で思考している日本人に向けている。 言語芸術なのだから、作品の本質的な滋味は、結局のところ日本人にしか伝わらないだろうと思っている。


5/22(日)

神田優花、新曲録ってました。 これから編集です。

 


川村真央。初めてのアイテムが出来上がりました。 多分今月末には販売開始されると思います。どうぞよろしく。

 


5/21(土)

今週のスタジオにて。

     


マスタリング時のモニター環境について。

編集時、当然何らかの形で音をモニタリングするわけだけど、私は今まで、マスタリング(最終チェック工程)時には、とりあえずスピーカーとヘッドフォンにてチェックするようにしていた。 一応その(スピーカー・ヘッドフォン)どちらも音源制作用途に揃えたもので、一般に電気屋のオーディオ機器コーナーで売っているようなものではない。

しかしながら、上のどちらもそれなりの音質ではあるものの、やはり両者の発する音のニュアンスはかなり違う(発する音と言うより、最終的に耳に届く聴感と言った方が正確か)。 特にリバーブの掛かり具合など、どちらを基準に設定して良いかいつも迷う(これは音を扱っている人なら、その多くが持つ悩みだろう)。 どらにしても、ごくポピュラーな再生環境だから。

また、編集作業を終えたら、一旦完成した音をCD-Rとかのメディアに焼いて、よく家庭用CDプレイヤーなどで聴くのだが、それはそれで既に出音がかなり元の想定と違う。 困ったものだ。 因みにそのCDプレイヤー(コンポ)は、スピーカーはセパレート式のものだけど、基本的に普通の電気屋にでも置いてあるような民生機である。


考えてもみたら、世間の大多数の人が音楽を聴く環境って、上記のもので言えば、普通のCDプレイヤーでの再生が一番近かろうが、そもそも家で腰据えて音楽鑑賞に集中する事自体、昨今稀だろう。 大抵、街なかや電車の中などで、携帯電話・携帯型プレイヤーで再生とか、あるいはPC付属のスピーカーで再生とか、そんなのが殆どじゃなかろうか。

で、今のところの結論。 今後も編集の過程では様々な環境にて音をチェックするとは思うが、マスタリングの最終調整に使うべき再生環境は、数千円のイヤホンとかPCのスピーカーあたりが一番妥当なのではないかと。 何万円もするヘッドフォンで音楽聴くような人なんて、いるではあろうが少数派に違いないから。


5/20(金)

健康ブームである。と言うか、そうなって久しい。 なんで一部の人らは過剰に健康を求めるのか。

それは、目的の為に生きているのでないが故に、生きる事それ自体が目的になっているからである。 だからそういう人らの「生への執着」も、実のところそこまで強いものではなかろう。 他へ働く力学が無いから、相対的に強いように見えるだけで。


医者は病人や怪我人を治療する。 が、怪我や病気は、詰まるところ人間の劣化である。 老人が腰を悪くしたとか、中高年の臓器の不具合など、無論医療によっていくばくかのメンテナンスは出来るにせよ、それは実のところ単なる延命策に過ぎず、時間を逆戻りさせる事が出来ない以上、人間は劣化(老化)を避けて通る事が出来ない。

結局のところ人は、延命策(生き長らえる術)でなく、生き方(与えられた時間の使い方)を考えるべきなのだと思う。 必ず無くなるものに執着するから、気分が萎縮するのではないのか。


5/19(木)

ここ一年くらい、再録(一旦完成した楽曲を再度レコーディングする作業)の機会が多い。 ある楽曲を、販路を変えてリリースする際に、それが録ってから結構な時間が経っている録音物だと、粗が気になってくるわけです。 良い機会なのでそれを期に再録と。

で、再録物の編集やってると、つくづく思うのだけど、やはりリハーサルを続けて来た事は無意味で無かった。 単純に歌い手の歌唱技術が上がってたり、長い間歌い続けているうちにその曲に対する解釈が定まってきていたりと、完成度が上がっているのだ。 歌い手は、仕上がった録音物を聴き込む中で、その歌を理解して行く面が濃厚にあるのだろう。

リハって、本音のところ、事務所にとっては大変な負担だ。 拘束される時間や経費など(人的なものも含め)、それなりにコストはかさむわけで、特にウチの場合なんかは、基本的に無償で行っているので出費はバカにならない。

だから余計に、一応の成果を感じられた時は、やってた甲斐があったと嬉しかったりするわけです。 意味があったようで良かったと。


5/17(火)

honestyとは何か。 honestyの訳語は、とりあえず「正直」だとかになっている。が、私はしっくり来ない。

「正直(しょうじき)」は、読みから察するに、おそらくかなり古い日本語だと思われるが、それの指すものと英語のhonestはどうも違う。 昔話に出てくる「正直爺さん」は、disinterested(無欲)やunselfish(無私)ではあったりしようし、決してliar(嘘吐き)でも無かろうが、honestでは無かろう。 欧米人が評する日本人の「不正直さ」、そしてその評価に対する日本人の当惑は、この辺に原因がありそうだ。


昔話に出てくる正直爺さんは、話の中で、大小のつづらの二者択一を迫られたりする。 大抵そこで「小さなつづら」の方を選ぶのだが、その態度こそが正直の条件となっている節さえある。 因みに、正反対の人格像として対置される「欲張り爺さん」は大きな方を選ぶ。

「大きなつづらの方にたくさんの宝物が入っていると思うから」との理由にて、大きなつづらを選ぶ爺さんは、欲深くもhonestではある。 あるいは「こういう場合、小さな方に価値のあるモノが入っていたりするのだ」と、小さなつづらを選ぶのもまたhonestなり。 動機の認識が明確であるのならそれはhonestだ。 正直と言う日本語は、「欲張り」と対置されている事からも明らかなように、やはりhonestの訳語としては適切でない。


日本人は、「不正直」だとか言われると、心外に思ってしまう。 そんなつもりが本当に無いからだ。 が、欧米人らは、実はdishonestだと言っているのであって、不正直と言うのとは若干指すものが違っている。


5/16(月)

先日のこのページで、焼き肉チェーンの社長さんの事に触れた。「演技過剰」の嫌いがあると。 その演技について敷衍してみる。説明不足のような気がしたので。

人間は機械では無いので、心が個々に植わっている。 基本的に、ある局面に遭遇した際に、固有の感性にて事態を総括する能力が備わっている(筈だ)。 自らの行為に罪悪感を持った際、真摯に反省するのはその人の感受性のなせる業で、その能力が低ければ反省は難しい。

上のケースで言えば、彼(その社長さん)は、自らの引き起こした不祥事にて死人まで出してしまったのだが、被害者本人や遺族などの心情を思えば、反省の言葉や態度など自然に出て来よう筈である。 が、共感性が低く、相手の心情を慮る能力が無ければ、哀惜の念そのものが沸いて来ない。

きっとそういう人は、今までの人生でも多くの局面にて、常識的には反省をせねばならないような場面において、反省の態度を自然に表せず、相手の逆鱗を買う事などがしばしばあったろう。 だからして、不幸にも、反省のポーズを取る(振りをする)事を処世術として体得してしまった。 自らの能力に応じた一種の適応行動なので、それ自体を咎めるのは酷な気がしないでもないが。


繰り返すが、今回のように世間を震撼させるほどの騒ぎを起こしてしまった人でも、被害者などの心に寄り添う事さえ出来るなら、相応しい態度など自然に取れる筈である。 が、それが出来なければどうなるか。 相手の気持ちが分からぬからとて、横柄な態度など取っては「どのような非難に晒されるか」だけは経験上ある程度予測出来るので、身に付けた得意技である「反省のポーズ」を反射的に取ってしまう。 私の言う「演技」とはこれである。


5/15(日)



昨日の続き。 上は差し入れ。

   


震災の影響で、不況が深刻化しつつあると言う。 給料だとか労働時間だとかを削減されている人らが多いそうな。 しかしなあ。確かに不況は事実だろうが、それにかこつけて上のような行動を、いわば公然のものとして取る事業者は如何なものか。

事業者は、従業員に何らかの負担を強いるのなら、最大限説明に誠意を尽くすべきである。 不景気は不誠実を正当化しない。 如何に不況に便乗しようが、不誠実は不誠実、不義理は不義理だ。 不況をエクスキューズにしてはいけない。


5/14(土)



今週のスタジオにて。

  


電力会社の社長さんは、土下座行脚などさせられているが、その気分には「震災が起こった時にたまたま社長職にあったのが俺なだけで、俺が原発作ったわけで無し。先代・先々代の社長らなどと比べ、特別な失策があったわけでもない。何故に俺だけが槍玉に上げられねばならん」的なものが濃厚に含まれていよう。 だし、それはある面事実である。

しかしまあ、社長などと言う要職にある者は、こう言った緊急時などにはポスト相応の責任を果たさねばならず、その為に平素それなりの報酬なども貰っていると思って欲しい。 建前としても現実としても、実際そうなっているわけだけど。

ババ掴まされたと言うか、こう言った際にババ掴まされる事も含んでそのポストの役割なのだから、仕方ないところがありますわな。


5/13(金)

「あすなろ物語」(井上靖)の一節に、主人公鮎太が冴子の書いた恋文を加島に渡しに行く場面があるのだが、大学生の加島は、そこで小学生の鮎太に「克己」の重要さを説く。 「己に克たなければならぬ」と「勉強せねばならない」と。

しかし彼(加島)は、詰まるところ何に克とうとしたのだろうか。 己に克つと言うが、歯を食いしばって勉強した挙句、手に入るであろう何が彼は欲しかったのか。 「高学歴であった方が栄達には早道だ」と言うなら、栄達とは何か、栄達の果てにあるものとは何か、を問いたい。

栄達の果てにあるものが「金」だとか言うなら、その金を手にしてどうする、と尋ねたい。 「名誉」だと言うなら、それは誰に対する名誉だと問いたい。金も名誉も、結局は他人に対する見栄ではないかと。見栄とは、降りかかる不安を誤魔化す為の道具に過ぎない。

そんなものの為に生きている時点で、彼は他人の目を借りて自分を見ている。 更には、自らの心の怯みが生み出した不安に勝てず、自分の本当に欲しい物を手に入れることより、不安を消すことを選んでいる。 つまり、既に己に負けている。 面白いこと、自分が本当に好きな何かを追い求めてこそ人は己に克っていると言えるのではないだろうか。

理想の実現に「学歴」が必要になる事はありえよう。 が、世俗的栄達を求め、日々机に齧りついているような人は、その時点で敗者である。 己に克つ事とは、他人が自分をどう見るかでなく、自分が如何に自分であり続けられるか、を追求する事である。 私も克己心を持ちたいよ。 がんばります。


5/12(木)

新しく入れたソフトのバグと格闘中だった。

最近、ブラスのアレンジに凝り出してて、ここ2週間ぐらいで3曲作ってみた。 しかしまあ私と言う人は、ブラスの音にちょっとコミカルさを連想してしまうタチのようだ。 深刻なテーマに向かない曲になってしまう。

私は思った。 私が、ブラスをフィーチャーしたカッコ良い曲にあまり出会っていないのが、その大きな原因ではないかと。 良い曲があったら教えて下さい。


5/11(水)

退屈な時間について。 いつでも楽しい私には、退屈な時間が無い。 逆に、日々のあらゆる時間が、一秒の例外もなく退屈な人がいる。何故か。

その前に、退屈さとは何なのか。 退屈は、忙しいとかヒマだとか、そういう事とは直接に関係ない。 どんなに仕事に忙殺されていようと、心が退屈な人はいる。 退屈さとは、自分をどれだけ満足させているかのバロメーターなのだろう。


日々が退屈な人が、そうでなくなる術はあるのか。 私には分からないけど、持てる時間を意味あるものにする事こそが、人生を退屈にしない方法だと思うので、やはり精一杯真面目に生きるしかないのではなかろうか。 真面目に生きる事とは、定刻に職場に通う事なんかでは無いけどね。


5/10(火)

土下座について。

電力会社の社長さんが、この度の原発関連の不始末についての謝罪行脚で、避難住民らに土下座を強要されていた。 なんだかなあ。土下座なんてしてもらってどうなるのだろう。被害者らは溜飲が下がるのかね。 まあ社長さんにとっては、自分らがしでかした事の重大さが身につまされたろうから無意味では無かったろうが。

土下座などと言うパフォーマンスによって、事態が一定の沈静化を見るようでは、この社会は未熟と言わざるを得ない。 だって土下座なんてタダだもの。そんなので済むならいくらだってするよ。

しかし電力会社の社長も如何なものか。 謝罪は謝罪で必要なのだろうが、避難民らが何を求めているのか分からないのだろうか。 人は、如何なる深刻な事態に遭遇するより、その事態の「終わりが見えない事」に不安を覚える。 仮にどれだけ時間が掛かるとしても、出口の存在を示唆してくれさえすれば、大抵の人々の安堵は得られる。

「事態を終息させるのに五年掛かります。それまでの間、大変でしょうが、避難生活を続けてもらう事になります」とか、「今回の事故は深刻なもので、事態の終息までには年単位の時間が掛かる。とりあえず皆さんが元の生活に戻れる目処は立たない。よって、新たな生活基盤を確立すべく行動していただきたい。必要な人にはもれなく住居を用意する。新たな収入源が見つかるまでの間の生活費についても個別に相談に応じる」なんて言えば良かったのではないのかねえ。 私が被害者なら、謝罪なんかより余程にそう言う建設的な言葉の方がが欲しいよ。


そう言えば、とある焼き肉のチェーン店で食中毒が多発しているそうでで、死者まで出ているそうな。 で、そのチェーンの運営会社の社長が報道陣の前でこれまた土下座をしていた。日本人は本当に土下座が好きだなあ。 何の解決にもなりはしないのに。 事態をはぐらかすだけ有害とすら言える。

私はたまたまその土下座シーンの映像を目にしたのだが、その焼き肉屋の社長さん、どうも演技過剰に見えた。 軽薄と言えばそれまでだが、悪気があるのではなく、生来そういう人なのだろう。

私がその人に持った率直な印象として、言葉が、心のごく浅い部分にしか届かない人のように見えた。 だから当然のように、他人の心の深いところに届かない言葉しか吐けないのだろう。 自分の心を捉まえられない人は、自らの心理を開示出来ないから、すぐに何かを演じようとしてしまう。 だからその振る舞いは、時々TPOを間違う。 要するに、英語で言うところのhonestyに欠けるのでしょうな。


5/7(土)

当たり前の話だが、お笑い芸人は、人を愉快にさせる事を生業としているのだから、常に当人は剽軽者であらねばならない。 実際に愉快であるかどうかはさておき、職務上、愉快気であらねばならないのである。 しかし、これが如何に凄い事か分かるだろうか。

お笑い芸人だって生身の人間である。当然プライベートもある。 身内に不幸があったり、人間関係でのトラブルなどを抱えたりも当然してしまう筈だ。 それでも彼らは常に道化に徹している。まさしきプロだな。


5/6(金)

アンリ・ファーブルは、昆虫の研究にその生涯を費やした。 言うなれば彼は、昆虫道(昆虫の研究作業)を極めようとしたのだが、彼の追求したものとは、実は昆虫ではなく自分自身だったろう。

「昆虫をもっと知りたい」と思ったファーブルには、知りたいが故に、世界が謎に染まった。 手に入れたい何かの存在が、彼を突き動かした。苦痛も快感も、全ての淵源はそこにあったろう。 ファーブルの事を調べると気付くのだが、彼が本格的に昆虫の研究を始めたのは(年齢的に)実に遅い。 確か大学生ぐらいの年の頃なのだけど、やはり物事に「遅きに失する事」など無い事が分かる。

一つ謎が解ける度、彼は自分自身にある感覚を味わわせていた筈だ。 その感覚をもう一度味わわせる為と、彼は日々虫を追い続けた。 そのスピードは、悲しみなんて振り切れる程のものだったに違いない。

彼は虫を追い続けるうちに、(無論虫の事も分かったろうが)虫以外の何か、いわばこの世界のありとあらゆる事、森羅万象が見えてきたろう。 彼はその気分として、濃厚に「一本道」を走り続けていたに違いない。

当時の学問の水準までよく知らないが、彼の研究した「昆虫」の一部は、学術的な意味において、厳密には昆虫でなかったりもする。 彼の研究対象が、学問上の分類である、コモンセンスとしての「昆虫」などでなく、あくまで「彼の考える昆虫」だったからだろう。 分かり難いかもしれないが、私も「私の音楽」を作っている。


一般に、「人間がどう生きるべきか」など私には分からない。 だが、今の私には進むべき方向があるような気がするし、ファーブルもそうだったのではないかと思える。 今の私には、ファーブルの気分のカケラが感じ取れるような気がしないでもないのだ。 似たような景色を、きっと彼も見たろう。

ファーブルにとっての昆虫が、単なる道具に過ぎなかったように、私にとっての音楽も単なる道具なのだ。 それは、ある感覚を得る為のもの。 私はそれを得る為、今日もまた曲を作り続けている。


5/5(木)

とある音楽プロデューサーの話。 彼はソングライター兼プロデューサー、自身も歌手と言った存在で、しかもセールス的な結果も出していると言う大変有能な御仁である。 私個人の嗜好で言えば、その人の書く曲にはあまり引っ掛かりどころを感じないのだが、客観的事実として、世間では一定の評価を得ている。

その人プロデュースのある女性ユニットがあるのだが、そのユニットは商業的にも成功を収めていて、歌手であるのみならず、タレントとしての知名度も高い。 してそのユニット、プロデューサーがソングライターを兼ねているのだから、当然彼女らのデビュー以来の楽曲は、そのプロデューサーの手によるものだったわけだが、活動の途中から別のライターの作る曲を使用するようになり、その後、彼女らの歌手活動そのものが頓挫しつつある印象である。

私はその人らに関する文章をたまたま目にしたのだが、プロデューサー氏が外部ライターを起用した理由として、「曲が書けないから」と言っていたと言う。 それは、彼女ら(その女性ユニット)をもってして描ける未来像が結べなくなったと言う事に他ならないのだが、男女関係の終焉などと言うものも、概ね似たような機微に起因しているような気がした。 イマジネーションの欠如である。 私は、その音楽プロデューサーの話を引き合いに、人間の想像力について考えていた。


例えば恋人たちは、今度の週末、どこにデートに行こうとか、長期休暇にどこへ旅行しようとか、そういう事を常に考えていますよね。 そこにいる自分たちの姿や心持ちを想像しつつ生きている。 このイマジネーションが途絶えれば、きっとそこにある人間関係も冷え切るに違いない。 やはり想像力の限界こそがその人である。

ある人が、ある相手に対する想像力を失う理由についても考えてみた。 一番大きな理由は、無論本人の想像力の欠如に違いないが、それと同じくらい大きな理由として、相手が「面白くない」と言うのがあるのではなかろうか。

「面白い」と言うのは声がデカくて剽軽者であるとか、そういう事ではなくて、どれだけアタマの中に発想がみなぎっているか、と言う事だ。 「逆さにして振ってももう何も出て来そうに無い」と言った人をたまに見かけるが、如何にもそういう人は、相対する人の想像力を失わしめる資質を濃厚に持っているように思える。 そういう人間になり果ててはいけない。


今の私は、想像力の限界を感じる事はとりあえず無い。 常に新しい作品のイメージは途切れないし、楽曲を担当しているアーティストの未来についても、幸いにもそのイメージが消え入る事は無い。 とめどなく溢れるイメージを、作品化する実作業において、苦痛を感じる事ならしばしばであるが。 でもまあ、その苦痛も単なる苦痛では無いかな。確実に快感を伴ってはいるし。


5/4(水)

「Diff'rent strokes」って海外ドラマがある。 「Different folks, Different strokes」とか言う成句があるそうで、「人それぞれ」みたいな意味らしい。 作品を貫く「テーマ」こそをタイトルにしているのだが、その「Diff'rent strokes」、日本でのタイトル(邦題)は「アーノルド坊やは人気者」なのである。 確かに登場するアーノルドは、主役と言って差し支えないが。

例えば、「peanuts」の邦題は「スヌーピー」なわけだけど、どうして日本人は特定のキャラクターに集約させる形でタイトルを付けたがるのだろうか。 漫画なども「○○くん」みたいなのばっかりだものな。

そう言えば、藤子不二雄の自伝的作品に、デビュー当時「四万年漂流」とかそう言うタイトルの漫画を連載しても、イマイチ人気がパッとしなかったのだが、思い切って「ロケットくん」ってタイトルにしたら人気が出だした、みたいな話があった。 日本人は「○○くん」がやはり好きなのだろう。

例えば「ドラえもん」、登場人物たちのとりとめもない日常を書き綴ったもの、と言う意味合いで「peanuts」的なタイトルを付けたら、やはりあれ程のヒット作にはならなかったのかもしれない。 「ドラえもん」と言うキャラクターを全面に押し出してこその人気だったろうか。

形而上的立体概念を把握するには、国語力が当然要る。 日本人の「○○くん」好きは、要するに言語能力の低さを物語っているのではないか。


5/3(火)

電力会社が色々と非難されているらしい。 話を聞く限り、私もその会社はちょっと非常識のように思えた。 が、今回は別にそこについてではない。

電力会社や銀行のような公共性が高い業種に就くと言うのは、いわば準公務員になる、と言うのに近いと思うが、一般的に役人の感覚は、民間のそれとは乖離してしまう傾向にある。良い悪いはさておき。

これ程の事態を引き起こし、下請け業者への売り掛けを滞らせている始末であるのに、社員には(額こそ減らされているが)ボーナスを支給するなどの行為が、世間からの批判に晒されていると言う。

彼らを批判したくなる国民感情が理解出来ないわけではないが、電力会社の構成員についても再考を促したい。 彼らならそういう事をするよ。間違いなく。 例えば公務員は、国がこれだけの借金を抱え、現在進行形で赤字国債を乱発し続けているのに、民間以上の給与水準を堅守し続けているではないか。国と自分など別なのだ。 むしろ、平均的普通人以上にそういう感覚濃厚な人材が選りすぐられているのだから、危機意識など希薄で当然である。

役所や電力会社に就職した人たちの志望動機は、実のところ何なのか。 彼らは口が裂けてもそうは言うまいが、本音のところ、単なる「ステータス主義」だとか「安定的に高額の給与が支給され、尚且つ仕事が楽」とか、そういうものであろう事は想像に難くない(全員そうだとは申しませんが)。 もし電力会社の社員らが、そのような動機にて集まった人らの中で、高倍率を潜り抜け、手練手管を尽くし、内定を勝ち取った精鋭たちであるなら、その原理上、上の所業は当然とも言える。何よりもそこに価値を置くだろうから。

似たような精神構造を持つ上司や同僚に囲まれつつ社会人経験を積んで行く彼らに、noblesse obligeの感覚など持てと言うのにそもそも無理がある。 人間がたどり着くのは、その人の目指した場所なのだ。

現状のそれら(電力会社等)を改革しよう、と考えるのなら、手を付けるべきは制度の方であって、そこに属する個々人ではない。だって、彼らの自浄能力に期待して、直接に何かを言っても無駄だもの。

私は僻み根性で言っているのでは無くて、現状の公務員やあの手(電力会社など)の特権階級は、社会の健康の為にもやはりある程度整理すべきだと思う。 金が欲しいのは悪ではない。 純然たる民間企業で栄達するとか、あるいは起業するとかしていくらでも稼いだらよろしい。 が、彼らは当然そう言ったベンチャー精神などで動いていない。

若者が将来の夢として、「公務員になりたい」などと言うらしい。 公務員稼業に理想が見出せないとは言わないが、そう言う若者が理想の実現を公務員業に託しているとは到底思えない。 こう言った気分が横溢すると、社会は当然活力を失う。 ボロ儲けしている実業家など、嫉視され、やがては引きずり落とされる。 経済などのフィールドにおいて、主役たりうるのって、そう言う、いわば「山師」らで別に構わないと私などは思うのだけど。

日本社会は夢の枯れ果てた人間の温床となり、公務員業は、ある種類の人間の巣窟となる。 本来なら民間に流れたであろう人材や、発想なども次々と消えて行く。 論理として、国家が規模不相応に役人を抱え込むと言う事は、社会に対する背徳行為である。 不正が罷り通ると、国民は国家に対する信頼を失う。


5/2(月)

川村真央(下は今週のスタジオにて)。 本日、初出演のラジオ番組が放送されているわけなんですが、いかがだったでしょうか。 

  

番組内でもお知らせしているのですが、近日、1stシングルを発表します。 彼女がウチで活動始めたのは高校1年生の頃でしたが、早現在もう高校3年生。 これだけの期間活動しているわりには、このHP内にも情報が皆無なので、次の音源用に広告など作ってみた。 以後お見知りおきを。




5/1(日)

 


先月、各種媒体にて告知してましたオーディション、一応昨日で締切りでした。 ご応募いただいた皆さん、ありがとうございます。


 

神田優花、新曲のリハーサル。 神田優花は、秋頃にはまたいくつか新曲を発表できるかと思います。 と言うか、そのつもりで動いてます。


4/30(土)

今週のスタジオにて。 今週は歌録りが予定通りに終わらなくて、5月に持ち越しになってしまった。 たまにはこういう事もある。


     


4/28(木)

川村真央、ラジオ番組の収録でかつしかFMにお邪魔して来ました。初めてのゲスト出演でした。 番組の放送は来週月曜、5/2の夜10時からになります。世間ではゴールデン・ウィークですね。


    


初めてラジオに出演させて頂きました。もし聞いてくれる方いたら幸せです。これからもより一層成長していくので、応援よろしくお願いします!

川村真央



4/27(水)

私は山登りなぞせぬが、登山家の気持ちが何となく分かる瞬間がある。 登山は、いくらペースを落とそうと、へたり込んで休もうと、後戻りしないところが魅力だったりしないだろうか。 そこに関しては、音楽を作る作業も同じである。

しかし後戻りしないのは、彼ら登山家に「目指すべき頂」があるからに他ならない。 人は、進むべき方向を持たねば、全ての時間を無駄にしてしまう。

私の芯にあるのは音楽(創作)である。 私がいつか、山に登ってみたくなったとして、私にとっての登山はindentityでは無論無い。 が、その経験が、そこで感じた何かが、いずれは我が作品になっていくから、私に無意味な瞬間など無い。


アーティストと言うものは実に幸運な存在だと思う。何故なら決して後戻りしないから。 どんな過去も、どんな悲しみも、それが作品になる。 アーティストに、無意味な時間など一秒たりとも無い。


4/26(火)

気が付けば二日も更新飛ばしてた。 別に何と言うわけでもない。 半分は仕事だったが、もう半分は遊びにかまけていた。

最近ちょっとだけ制作環境を変えた(新しい備品がいくつか入った)もので、それに習熟しようとしていたら時間がみるみるうちに過ぎて行った。子供が新しいオモチャを買い与えてもらった時と同じである。

私の音楽好きは、よく言う「趣味と実益」を、結果としてある程度兼ねているわけだけど、遊びの感覚の方が占める気分としては大きい。 私は多分、死ぬまで音楽を作り続けているだろう。だってこれ以上楽しいことがあるとは思えないんだもの。


4/23(土)

 

影山リサ、先週録った新曲の上がりをチェックしてました。 公開は年内に間に合うだろうか。


 

神田優花、新曲のリハーサル。 こちらは来月歌録りの予定。


昔は、曲なんかを作っていると、頭の中で鳴っている時は名曲だったりするのに、実際に音にすると「なんじゃこりゃ?(イメージと全然違う)」みたいになる事がしばしばあった。 因みに今はあまり無い。 程度の問題なのだろうが、頭の中にある曲と実際に仕上がる作品との誤差が少なくなってきている。 これは脳の情報処理精度が上がった為と思われる。


4/22(金)

今週、実は急ぎの仕事があって、先週末から全然休んでいなかった。 今もまだ作業は終わっていないのだけど、終わりが見えてきたので一息ついてます。 下は今週のスタジオにて。


    


4/20(水)

10年以上現役だった愛用レコーダーが、そろそろ退役期間に入りそうだ。 ずっと第一線で活躍してくれてたのだけど、さすがに10年以上も年季が入ってくると、スペック的な問題が出てくる。 あと、音云々以前にデカ過ぎて持ち運びが辛い。私も10数年の時間相応に老化しているのだ。

システムを変える事自体は何て事ないのだが、ちょっと引っ掛かっているのは、そのレコーダーで録ったデータが、全てオリジナルフォーマットで、他のDAWとかでは基本的に読めない事だ。 無論、WAVとかでなら引っ張り出せなくもないが、細かいEQの設定とかまで別のソフトで読む事は当然出来ない。 だから昔の曲のリミックスとか、リマスタリングとかやる時の事を考えたら、そのレコーダーは手放せない(データの再生機として)。 何百曲分とデータあるんだもの。

しかし、大昔の曲のデータを引っ張り出してどうこうする、って事は、現実的にはあまり無い。 思い当たる限り、おそらく今までの人生でも、僅か2〜3ケースぐらいしか存在してない。 データの保存って、実用の為ってより、多分に気分の問題なんだろうな。


4/19(火)

世の中は不公平である。 生まれ持つ環境や身体能力に個人差がある。 私の欲しい物は究極的には金でないが、金さえあれば消えてしまうような日々の煩い事も無くは無い。 こんなの、私が裕福な家にでも生まれていれば、存在すらしなかった煩いであるが、それを今更に嘆いたって詮無い事だ。

音楽商品などにおいても、パフォーマーの歌唱力・ルックス・声質など、生まれ持っての条件部分に評価が集中してしまう事は多い。 見た目が良いだけで取れるような仕事も、実際この世界にはあってしまう。 世俗的評価を伴えばそこに金が落ち、その後の絵(展開)も描きやすくなる。 無論、その逆の環境では結果も逆になる。

例えばどこの事務所さん・レーベルさんにおいても、プロモーション上の優先順位と言うものは厳然としてある筈で、現場にてある立場に立たされた人が、その不公平を嘆くのは、さながらこの世界を嘆くようなものだ。

プロモーションとか、そう言う便宜の上での扱いと、その人の人間としての尊厳とは全く次元の違うものである。 それらを区別出来ない人は、要するにその人こそが、自分を含めた人間の尊厳を感じていないのだろう。


4/17(日)

日本人が芸術を理解出来ない原因として、artの訳語としての「芸術」がイマイチ的を射ていない、と言うのがあるのではなかろうか。 「芸」とか「術」とかの字義に引きずられた形の誤解があるように思えるのだ。

絵画や音楽などと言う純粋芸術も、当然表現の舞台としての作品がある。 が、芸術とは、そこ(作品の完成)に至る作者の思考・情念そのものである。 芸術とは、写生技術や演奏技術の事ではないのである。

芸術と言うのは正直不細工な訳語なので、芸術の世界を目指す人などは、その営みを正しく「art」と呼ぶ事から始めてみてはどうか。 何かが見えてきたりしないかな。


4/16(土)

影山リサ、今週は新曲の歌録りでした。

 


川村真央。こちらも歌録り。 今回で二度目のレコーディングですね。 あとお知らせ。再来週の事なのですが、川村真央は(初めての)ラジオ出演を控えています。 詳細はまた、このページでもお知らせしますね。

 


4/15(金)



今週のリハーサル風景。 何だか暑いんですけど。 そう言えば画像の表示方法、割と好評なので今のヤツを続けてます。 また気が変わったら別のにするかもしれないけど。

   


今週は歌録りが3件ありまして、うち1件は広瀬沙希「solitude」の再録でした。




4/14(木)

「日本など一望の荒野に成り果てても構わない」と言う人ならともかく、まともに文化的な生活を送りたい者にとって、政治とは、誰かが必ず当たらねばならないものだ。 今の政府は碌なもんじゃない、と言うなら別の政党に政権を委ねるべきで、選挙と言うその為の手段も確立されている。

「だってどの政党も信用ならないんだもの」と言う人は、仕方ないので自分で政党を作るとか、ご自身で立候補されるとか、あるいは現体制を打倒すべく革命でも起こすしかない。 ここは天国じゃないのだから、現実に存在する選択肢の中からしか物事は選べない。 私は今日も音楽を作り続けたいから、政治なんてそんな事とてもやっていられない。

自分で政治なんてやれない以上、「我こそは」と言ってくれる有志にその作業は任せるしかない。 私に出来るのは、彼らの中から、適任と思える人材に投票させてもらう事ぐらいだ。 選んだ誰かの不手際は、私の不手際でもある。


4/13(水)

福島第一原発の件、大掴みには収束に向かっている筈だが、まあ現場はいまだに難儀しているらしい。 バラ撒かれた放射性物質(の半減期)によっては、数万年とかそのくらいあの場所に人は寄り付けなくなるかも。 日本は、世界で唯一、実験以外の用途で核兵器が使用された国である。そして同じく、世界で唯一サリン等の生物化学兵器が使用された国でもある。 今度の原発事故はINESでレベル7(最悪)の評価とな。 不思議な国だ。 これは偶然ではなかろう。日本人の精神のあり様に、何らかの原因があるのだろう。


あるミュージシャンが、この件を受けての一種のアンサーソング(動画)をWeb上に公開したらしい。 私も一度見てみた。歌詞も一応読んだ。 動画のコメント欄には、その人を賛美するコメントの嵐。 早い話が、世間からの喝采を浴びているらしい。

しかし私には良く分からない。 例えば、歌詞にある「放射能」の用法が怪しい(典型的な誤用と見られる)事からも分かるように、その人にはイマイチ事態を深く調査・考察した形跡が見られず、他にも歌詞中には、世間に流布されたデマをそのまま踏襲している箇所などもある。

今回の事態の当事者とでも言うべき団体(政府を含む)の要職にある者が、国外に逃亡した、などと言う事例は現時点で一例も確認されておらず(そういうデマならあったろう)、黒い雨も降っていない。 要するにその歌は、私の心に届き難かった。

歌に曰く、原発を推進した政府や電力会社は、ずっと嘘を吐いていたそうだ。「安全だって言ったじゃないか」と。「想定外などと言い訳しやがって」と。 しかし原発は、相対的に安全ではあろう。だって実際レベル7の事態でも死者が一人も出ていないじゃないか。 また、「想定外」は正直なところだろう(だからと言って許されるわけでは無いが)。千年に一度の災害だそうだから。 私は誰かを擁護したいわけではなく、率直な感想を述べているだけだ。 交通事故の死者は今日も出続けているぞ。

繰り返すが、私は現政府や電力会社を評価、あるいは擁護しているわけではない。 むしろその無能さに失望した。 だが、彼らが「国民を騙し続けていた」とは思わない。 きっと本当にそれほどのもんじゃないよ。 公平に評して、今回の事態を予見する能力や、早期に収束させる能力が無かったと言うべきではないだろうか。

「絶対に安全なのか?」と言う質問が既に愚問と言うべきで、物事に絶対は無い。 皆、リスクとリターンを勘案し、現実的な妥協点を模索しつつ日々生きている筈だ。私はそうだよ。


誰かを批判する事は実に簡単だ。 相手の欠陥を指摘すれば良いだけなのだから。 しかし批判しか出来ない人とは、要するに政府などと自分を全く別のものと捉えている。 「悪い大人が僕を騙したんだ!」と。 しかし政府は親ではない。我々が選んだ我々の代表者らである。 政治とは、国民の心を映す鏡に他ならない。

この国の政府も、その行動(施政)も、つまりは我々の求め続けたものじゃないか。 ミュージシャンはアーティストなのだから、理想こそを掲げて欲しい。 我々が今、どうすべきだと思うのか。 「嘘吐きに騙された」としか言えない人は、失礼な言い方だけど、要は幼稚なのだ。 私にも若い頃はあったし、こういう事をしたくなってしまう人の気持ちが分からないわけではないが(と言うより、分かるからこそ余計にと言うべきか)、今の私がそういう歌に感動するなんて事はもう無いだろうと思う。


4/12(火)

曲(つうかオケ)を作っている時によくあるのだが、一旦作ったトラックに、しばらくした後で若干の引っ掛かりを感じてしまう事がある。 しかし録り直したりするのは実に面倒臭い。

「これぐらい良いだろ?」とか「誰も気付きゃしねえよ」なんて言い聞かせつつ、そのまま自分にGOサインを出させようとするのだが、結局取り直すハメになる事が多い。特に最近は。 歯を食いしばりながら、既に片付けたケーブル類を引っ張り出し、徐にレコーダーを起動するわけさ。

何故か。それは納得するため。 「誰も気付かない」って、正解なんて存在していないものなのだから、気付く筈も無い。私が良ければそれが正解だ。 私は自分が納得していないものを残したくないから、こんな生き方を選んだ。 この工程において妥協すれば、その後そのトラックを聴く度に、永遠にその「妥協」が耳についてしまう。 事実、それが理由で聴きたくない曲のなんと多い事か。

私は私に聞かせる為に音楽を作っている。 モノを作る人になら共感してもらえる筈なんだけどな。


4/11(月)

「適性」と言う言葉がある。 性質が、ある分野に適している(向いている)か否かの尺度、と言う程の意味か。 「あなたには技術者としての適性があるね」なんて使う。

人間は理性の生き物だから、この、世俗的な意味合いにての「適性」を無視して生き様を決めるのは難しい。 常人であれば、やはりある程度人生がそこに引き摺られてしまうのも無理は無い。 学校の成績が良いからと、そこにすがった余生を選択したり、歌が上手いからとて歌手を志してみたり。

しかし、如何なる適性があろうと、更には、仮にそれが天賦の才と言うべきものであったとしても、適性なんかに頼って進路を決めているようじゃその人は負け組だ。 人生は一度きりなのだから。


では人は、何に因って進路を選ぶべきなのか。 それは、自分が「好きかどうか」、「楽しめるか否か」だろう。

いわゆる適性ってのは、例外無く、どこぞやの先人が作った物差しに沿ったものだ。 学校の成績は無論の事、美であっても然り。

日々、私は私であろうと思うし、優れた私になり続けようと思っている。 そしてその事を繰り返し(このページでも)述べているのだけど、イマイチ伝わらないようでもどかしい。 私が持っているのは「私の適性」ぐらいのものだ。 別にそれで良い。


4/10(日)

ある本を読んでいたら、そこに著者の写真が載っていたのだが、その笑顔の清々しさに惚れ惚れしてしまった。 人間の顔とは一体何なのだろう。

顔の構造と言うハード面で言えば、その大部分が遺伝形質なのだろうが、表情は違う。 表情とは、そこに如何様な精神がインストールされているか、と言うソフトに因るものだ。 表情とは、精神のリトマス試験紙と言って良い。

何故試験紙たり得るのかと言うと、精神のありようとその帰結としての表情、の因果関係は初等算術のように単純明快で、個体差などほぼ無いからだ。 「実は喜んでいるのに、表情には憤怒の相が浮かんでいる」なんて人は、通常存在し得ない。 だからして、顔さえ見ればそこに内在する精神はほぼ窺える。 事実、人間の風韻は、その人を一目見ただけで、何となくでも必ず伝わるではないか。


これは怖い事なのだ。 顔を見せただけで、その人の中にある愛・希望・理解・不満・敵意・害意の程全てが相手に伝わってしまうのだから。 顔は隠しようが無い。 従って、いくら忍耐を実現したところで、その人の精神に渦巻くある種の不満・不快は、周囲から容易に見て取れる。 どんなに我慢したとしても、人間の表情は、その我慢も含めた感情を露呈してしまうのだ。 人に好かれようと思うなら、我慢するのでなく、相手を理解し、愛さねば。

目の前のある事象一つに対する解釈は無論の事、その人の平素の顔立ちと言うのは、取り巻く世界全体に対する満足度を表す。 私の惚れ惚れしたその顔の持ち主は、きっと世界に対する解釈こそが素晴らしかったのだろう。要するに物欲しげで無かった。


精悍な顔立ちとは、不羈たる精神なのだろう。つまりは。 だから、そういう人に見られたければ、そういう人になるしかない。 精神は顔に出てしまうのだから、これは仕方ない。


4/9(土)

今週のリハーサル風景。 昨日の続き。

     


ギターを弾くと指に弦の臭いが付く。 自明の事だけど、子供の頃はそんな事にすら気付けなかった。やはり私は成長している。

春らしくなってきましたね。 そう言えばスタジオからの帰りしな、桜を見たのだけど、既に葉桜だった。 桜も今週ぐらいまでかな。


4/8(金)

今週のリハーサル風景。

      

来週歌録りを何件か控えてて、今週はその最終リハって感じでした。 写真、まだあるので、残りは明日上げます。


4/6(水)

友達の作り方。

私の知っている人で、暇を見つけてはSNSとかそういったもの経由の「オフ会」とやらで、見ず知らずの人間との交友関係作りに躍起になっている者がいる。 果たして斯様な方法で、本当に素敵な友達なんて作れるのか。

答えは否。作れない。 何故なら、出会いの機会だけを増やしたところで、自分自身が変わっていないから。

人間関係とは、つまりはその人そのものである。 「碌な友人がいない」と、我が身の上をかこつ者は、要は自分自身を嘆いている。 目に映したもの・選んだもの・愛したもの、人間関係とはそれらの結晶で、つまりは自分自身に他ならない。

素敵な友達は、素敵なあなたを見逃しはしないよ。 素敵な友達がいないのは、あなたが素敵でないからだろう。


確かにインターネットは便利なツールである。 様々な方法にて、知り合いの数を容易に増やせる。 また、そこで知り合う誰かが、一生涯の知己となり得る可能性だって絶無であるとまでは言えない(望みは薄いだろうが)。 しかし、知り合いの数を増やす事と、朋友を作る事は全く違う。 価値のある出会いを作る事とは、自分が、ある友人を得るに相応しい人物になる事である。

斯く言う私も、友達が欲しいと大真面目に思っている。 無二の友を得るため、今日も優れた自分像を追いかけたい。 私の友人は、オフ会ではなく、私の中にいる。


4/5(火)

節電はまあ分かる。使える電力量に限度があるのだから(まあ私はその節電にすら、然程の必要性を感じちゃいないが)。 しかし例えば「自粛」とやらで中止になったイベントは、その全てに合理的理由が存在しているのか疑問である。 花見を中止する事で被災者が救われたりでもするのだろうか。 意味が分からない。

前にも触れたプロ野球の一件、結局開幕を延期したらしいが、ではその期間プロ野球人らが何をしているかと言うと、チャリティー・マッチ(慈善試合)だそうな。 球場使って試合をしているのなら開幕して公式戦を行なうのと変わらんだろう。 チャリティーとかの名が付けば良いとでも思っているのだろうか。少なくとも世間のバッシングは止むらしい。 頭痛がしてくるな。


「節電しなければ、停電になって医療機関などに回す電力が云々」と言った論法。 分からないでも無いが、停電は震災と関係無く、例えば火災や落雷に因ってでも起こり得る。 医療機関側で対応策を備えておくべきものだろう。 この期に及んでも夜間の電力は余っているのだから、備蓄しておけば良いわけだし。 まあそう心配するでも無く(私はしてないが)、実は既に備えの方も間に合っている筈で、上の主張は杞憂に過ぎなかろうが。


自粛を促す空気の発生源って何なのだろう。 日頃からよく物を考えていない人が、何かやればどこを指摘されるか分からないので、とりあえず行動を慎んでおこうと思っているのか。 もしそうなら、これを機会にちゃんと考えろ。

震災後、各種のデマが飛び交っていたそうだが、このデマの発生源は何なのだろうか。これも多分、似たような機微から発生しているのだろうな。 要するに、こんな状況で、はしゃぐような気分になれないから、「他人にもその不安などを共有してもらおう」と思っている誰かがいるのだろう。 無意識にでも「俺はこんなに不安なのに、他人に馬鹿騒ぎされては堪らない」と言うように。 臆病な人間は、その本然として、不安な気分を周囲に撒き散らしてしまう。 だからいるだけで迷惑だったりする。


そう言えば「デマ」って言葉、ドイツ語「Demagogie」から来てるらしい。 何となくそんなような気もしていたが、それよりも私はてっきり「口から出任せ」とかの「デマカセ」から来ているのだとばかり思っていた。


4/4(月)

分かり難かったらゴメンなさい。 特に男には分かり辛いかも。

人間に限った話ではないが、女性は、感覚的に言えば「女体を持たされてこの世に生まれてくる」感があるのではないか。 あたかも宝石や札束などを持たされるように。 美人であればあるほど、その女体の価値は上がる。 世の男(オス)は、高品質な女体を持つ女性(メス)に群がるのだが、大抵それはここで言う「女体」を求めての事だ。 ここで言う女体とは、あくまでその持ち主である女性とは別のものである。

ある種の男は女体を求めて止まず、金や労力を惜しまない。 女の方は女の方で、「最大の資産である女体を、簡単に渡してなるものか」と、あたかも相場師のように、あの手この手で焦らしつつ取引きに最大の効果を上げようと試みる。 女体は物質だから、適当なところで売り抜けねば、宿命的に価値を失い始める。 コンパ・キャバクラの類とは、一面、ここで言う女体のトレードの場であったりもするのではないか(断っておくが、私はあくまで、ある種のタイプの人間像に限定した上での話をしている)。

男女を問わず、人間の持つ唯一の財産はその人の精神である。如何なる装飾品(ここで言う女体も含む)も、その人が存在した価値には敵わない。 ……筈であるのだが、困った事に精神は目に見えない。 だからそれを体感するのに一定の言語力が要る。 目の前にいる女体と言う物質であれば、簡単に目に見えるのに。

「女は若ければ若いほど良い」と言うオヤジの指す「女」とは、言うまでも無く女体であろう。 幼女だとかの、精神が脆弱な対象を偏愛する輩は最早、無警戒な持ち主から女体を盗もうと企んでいると言って良い。 女体に執着しているのであれば、その人らの言語力は間違いなく弱い。


先日、ある女性と話をしていたら、曰く「『自分を好きになってくれる人』と『自分に執着してくる人』は違う」のだと言う。更には「『好きになってくれる人』なら周りに何人いてくれても結構だが『執着してくる人』はお荷物になるだけだから一人も要らない」のだそうだ。 まあその人は、よくもこの辺を明快に言語で整理しているものだと、私はしばし感心してしまった。

しかし彼女以外の多くの女性陣も、彼女のように明確に言語化しているかはさておき、何となくでも上のような区別はしているのではないだろうか。

「好きになってくれる」と言うのは、つまりは「愛してくれる」と言う意味になろうかと思うのだが、確かに愛と執着は違う。 愛は人格に発動され、執着は物質に発動される。

「女にモテたくて懸命に努力しているのに、一向に女性が振り向いてくれない」などと思っている人がいるなら、その人はきっと根本的な部分で誤解している。 あなたが求めているのは女ではなく、女体なのではないか。  生身の女性は人間なのだから、そこに精神が植わっているのである。 それこそを愛さねば。 たったこれだけの事を理解するだけでも、今振り向いてくれない誰かは、あなたの事をちょっと見直すような気がするのだけど。


4/3(日)

最近、Downloadのページに新しいVSTプラグイン、上げてないなあ。 公開するほど大したモノを作ってないってのもあるけど、スキン作りがそれに輪をかけてメンドい。

私は常に音楽作品を作り続けているから、それに不随した程度には様々なモジュールを自作するわけだけど、公開するほどの物って確かに少ない。 あるんですよ。しょうもないモノなら山ほど。マラカスの音(.wav)2種類出力する為だけのモジュールとか。

ウチのサイト(ここ)で1ページ割いて公開している、私の自作プラグインって、大した構造のものではないけど、実験用も含め、その殆どは基本的に実用品である。 逆回転のドラム音のみで作ったドラムマシンとか、純粋にフィルターの開閉機能だけで作ったオートワウとか。一応は用途ありきで作っているのだ(事実、作品に応用してるものが多い)。 だから万人に受けるかどうかはさておき、必要な人はいる筈なんだ。現に私は必要だったのだから。


ある作家が、あとがきか何かに書いていた話を思い出した。 作品に引用する際など、あくまで作家稼業に必要との理由で、彼は個人的に「詩経(支那古代の詩集、日本で言えば万葉集みたいな位置か)」の訳を入院中か何かに編んでいたらしいのだが、出版社の人がそのメモを出版したいと言い出したらしい。 で、結局その出版物は文庫化までされ、私の目に触れるにまで至っている。 ヒットを狙って作られたものではないが、必要に応じて作られた実用品なだけに、需要が存在してしまうと言う好例だ。


私の作るものが上の例にどこまで該当するのかはよく分からないが、ウチのソフトを、雑誌や書籍、付録CD-ROM等に掲載したいなどと言う要望は実際にいくらかあった。 大抵のものには協力しているので(こちらの知らないうちに載せられているものとかもあって、それは協力だとかのしようもない)、実際にウチのソフトを使っている人もそれなりにいる筈だ。 今後も気が向いたら公開しようかと思っているので、期待せずに待っていて下さい。


4/2(土)

地震が起こって以来の、世間の支配的空気について。

テレビCMは政府広告ばかり。失礼ながら学校の先生が言うような陳腐なフレーズを連呼している。 また、街中の店と言う店には「節電中」だとかの張り紙がある。今の時勢における模範的態度なのだろう。 私は、自分の頭でモノを考えられない人が、個人的には一番怖いと思っている。

薄っぺらい励ましの言葉ほど、人の心を寒からしめるものは無かろう。 ああいう陳腐なフレーズを思いつく人は、誰かの言葉に励まされた事が本当は無いのだろう。 だからああいうセリフが言えてしまう。

模範生たらねばとて、我も我もと「節電中」。 確かに電力は不足しているのだから努めぬよりは努めた方が良かろうが、真剣にモノを考えた形跡が見当たらない。 人心が斯様であるから、日本は第二次大戦やオウム真理教事件のようなとんでもない事態を引き起こせてしまう。 自分の頭で考えないから、物事の匙加減が分からなくなるのだ。

連合国(要はアメリカ)は東京裁判、実にやり難かったろうと思う。 あれは裁判と言う名が付いてはいるが、実のところ政治ショーなわけだけど、首謀者を血祭りに上げたくても、日本と言う国では誰がその首謀者であるのか、誰を槍玉に上げて良いか皆目分からない。 同調圧力を生み出した世間が首謀者とでも言うべきで、裁判では、政府の要職に居た幾人かを、A級戦犯などととりあえずは裁いてみたものの、彼らは便宜上そこに追いやられただけの生贄に過ぎない。 主体性の無い相手とは、かくも対峙し難い。


つい数日前、用があって役所のHPを覗いていたら、臨時休館の施設の多い事。これも自粛か。 自粛の必要性など微塵も身につまされていないのに、同調圧力に流されるまま、とりあえずは自粛と言っておけば無難だと思っているのか。 地震など起こる前から、日本は平成の大不況と言われて久しく、年間3万人超の自殺者を10数年連続で出し続けていた。 この分じゃ、今年は3万では利かなくなるかもな。

私は基本的に、公務員を目の仇にするような思考法を採らない人だが、この状況を見るにつけ、「やはり多くの公務員は真剣に仕事に取り組んでいない」と痛感した。 真面目に仕事をしていない人ほど、何かを遂行する事より、不備を指摘されずに済む道を模索する事を優先する。 自信が無いからだ。 物事に真剣に取り組みさえすれば、自信などそれ相応には付くものなのに。

とにもかくにも、彼らは「施設の開館」(つまり日常業務の遂行)より、「節電のポーズ」を優先した。 「節電に努めていない事」を誰かに指摘される事に怯え、かくして現状のようなスタンドプレーに至っている。 愚の骨頂と言うべきか。

節電は節電で、したらよろしいが、施設そのものを休館してしまってどうする。 それが既に、別の(ある意味では地震より巨大な)弊害を引き起こしている事に気が付かないのだろうか。 そもそも節電節電って、電力が不足したからって、一時的な停電が必要になるぐらいのものだろう。 停電で死んだ奴なんているのかよ。


そもそも電気は、備蓄出来ないからこそこんにちのような事態を引き起こしているわけで、供給能力の限度程度には使用して何ら問題は無いのだ。 節電は、出来る事ならやれば良いが、過剰な自粛は無意味どころか、社会への害悪ですらある。 経済の萎縮は、地震などより余程に怖い。 またこれは焦眉かつ深刻な問題だ。もう少し真面目に考えて欲しい。


4/1(金)

今日発売の月刊Audition誌(5月号になるのかな?)その他の媒体にて、オーディションの告知をしています。 こういう時期なので、エントリーしてくる人がどれだけいるのか分かりませんけど。ご応募お待ちしております。

下に写真上げてますけど、こういう先輩方が現在活動しておられます(まだ他にもいますけど)。


 

神田優花。編集終わったばかりの新曲のチェックを兼ねてスタジオ入り。 神田優花の音は、曲ごと私が作っているので編集作業も早い。 元より完成形のイメージがハッキリしているのです。他人の曲だとそうも行かない。


今日も写真を上げているのだが、ここ以外のページにもたまに上げている「画像」の表示方法を変える事を検討している。 試みにいくつかのパターンを作ってみたのだけど、今のところイマイチしっくり来るものが出来ていない。 更新時に、html打つ際のテキスト量が現状に比べてあんまし増えるのは嫌だし、表示環境選ぶようなものも作りたくないし、難しいところだ。

     

今回のは、試しに作ってみたヤツその1(Downloadのページで既に使っていた)。 しかしこの手のギミックって、ハッタリが利いてて最初は何となく面白いような気がするのだけど、結局飽きるんだよなあ。


※このページに記載された内容の転載や二次利用はご遠慮ください.

archives


   お問い合わせ先  
 


株式会社 エースミュージックエクスプレス


E-mail(Mailform) -> ClickHere
Tel/Fax -> 03-3902-1455

 
(C) Ace music, exp. Co.,Ltd. (Since2000) All rights reserved.