Staff diary  
スタッフ日誌[2011]

[文 / 益田(制作)]

3/31(木)

先週末に録った神田優花の新曲(2曲)の編集をしていた。 しかし、何故ボーカルの補正作業はあんなにも疲れるのか。 今回もボーカルトラックの編集作業だけで丸一日掛かった。 クリアな状態の頭を8時間使う、と言うのは並大抵の作業ではない。 頭脳を使った肉体労働って感じだ。


ポータブルゲーム機(ニンテンドーDSとか)用のソフトに、音楽関連のものがいくつかある。 音作りが簡易的に出来るような代物なんだけど、機能面に致命的と思われる不備がある(あくまで私にとってだけど)。

私は、あの手のものに割と興味をそそられてしまう性質なので、そういうものが発売される度に、どういうものであるかぐらいはチェックしてしまうのだが、やはり購入には至らない。 ソフトの内容面だけで言えば、そこそこ面白そうなものもあるのだが、一番引っ掛かるのは、作った曲(データ)を外部メディアなどに保存出来ないところだ。

大抵ああいうのは、本体にせいぜい何曲分かのデータを保存出来る、と言った程度の機能しか付いていない(あとは同一ハード同士でデータのやり取りが出来るとか)。 何故なのか分からないが、結局本体だけで完結させなきゃならない仕様なので、作った曲も片っ端から削除して行かねばならないし、結局それ以上発展させられない。 無論仕事にも満足には使えない。 最低でもSMFでは保存出来るようにして欲しいところだ。それが無理なら(無理である筈が無いが)、せめてMIDI端子ぐらい付いていたら何とかやりようもあるのだけどなあ。 まあこれはハード面の問題だけど。

PC用のユーティリティ(ファイル管理用)ソフトとか作って、Wi-Fiでそっちにデータ転送出来るようにする、とか簡単に出来そうな気がするのだが、何故メーカーはその手の対応に積極的でないのか。 だし、そういうソフトがメーカー純正品である必要は別に無いのだから、どこぞやの有志が作ってくれないものか。


ここまでテキスト打った時点であらためて思った事。 もし私が上のソフトの開発に携わる者であったなら、この「ファイル保存(エクスポート)」の機能を不可欠なものとして、優先的に整備しようとするだろう。 それが無ければ、作曲活動が制限されてしまうから。

私は創作に無限の発展性、つまり永遠を見出している。 即ち、その機能の整備を不可欠と思わなかった開発陣とは、音楽観そのものがかなり違うと思われる(あるいは彼らは、音楽系ゲームを音楽とは全く別な物と捉えているのか)。 私にとっての音楽とは、ある程度やったら飽きて忘れていくもの、ではない。永遠に続いている道の一部であり、決して消えないものなのだ。


3/30(水)

昔はそれ程でも無かったような気がするが、私は基本的に二者択一的な思考法を好まない。 「A or B(甲か乙か)」と言った。 だから「夢を取るか恋人を取るか」などと悩んでいる人の気持ちにも、当然共感し辛い。

私は欲しい物を全て手に入れに行きたい。 手に入れようとしないモノとは、渋々諦めたモノではなく、詰まるところ要らない(欲しくない)モノだ。 私にとって欲しい物とは、アレもコレもひっくるめた全てで、一つの大きな塊なのだ。 この気分、感じてもらえるだろうか。


洋食と中華、夕飯にどちらを食べるか。甲乙付け難いのなら、それはどちらも本当に食べたいのだから両方食べるのだ。 愛する人の為に我が身を犠牲にするか、あるいは我が身可愛さに愛する人を見捨てるか。 私は愛する人を救い、尚且つ、愛する我が身をも救う。 私に見えている世界はこんな感じだ。


私がこの世界から消えてしまえば、今も脈々と続いているこの意識の主体が消し飛ばされる事になるわけで、それはこの目に広がっているドラマの終焉を意味する。そんなの嫌だ。 そして、愛する人がこの世界から消えてしまうと言うのは、私の今感じている、また、これからも感じ続けたい何かが消滅してしまう事を意味する。 この私が、愛するその人のいない世界を生きねばならない事になる。そんなの淋しい。 だから私は、必要な物全てを全力で守りに行くのだ。 何一つ取りこぼさないよ。


3/29(火)

音楽ソフトが売れないと言われる。よくよく考えてみるまでもなくそれは売り手側の悲嘆なわけだけど、リスナーの方から見れば供給されるモノに難があるだけかもしれない。 「音楽買いたいのに、買いたくなるようなものが見当たらない」と言うように。 学生にとっての就職難と言うのは、一面企業にとっての人材難でもあろう。

「メニューとして、(地上波ゴールデンタイムの)歌番組などがあるではないか」と言われても、ああいうものは品書きと言うより、広告である。それも寡占状態にある。 事実、ほぼ特定の団体に関わるプロモーションにしか使われていない。 リスナーにとっての音楽探しの媒体としては適当でないように思われる。 私だってリスナーなのだ。

ランキング番組などを見る限り(あんまり見ないけど)、最近売れている楽曲のPVを数秒とか数十秒とかだけ流すようなものが主流なのだけど、ほとんどの日本人はあれで十分なのかもしれない。 だから30秒の「着うた」なんてものが商品たりえるのだろう。 多分あれはアメリカじゃ商品にならない(ringbacktoneとか言って、一応あるにはあるらしいけど)。

だってUSAをはじめとする、海外のiTunesは、試聴用のデータがたっぷり90秒ぐらいあったりするのだ。至極当然である。 買うに足るかどうかを判定する為のシステムなのだから、15秒なんて曲の断片を聴かされても、リスナーは何が何だかサッパリ分からない。 作品を判定するのだから、最低限必要な情報量ってものがある。


たった15秒のCMタイアップや、TVでPVを僅か20秒流したりする程度のプロモーションにて、商品本体が30秒しかない「着うた」なんてものを売ろうと思うなら、どうしてもトータルとしての作品の内容より、断片的なフレーズだとか、「音色の奇抜さ」などで勝負するしかなくなる。 言語でなく感覚に訴えると言う事である。 しかし、それは芸術ではない。芸術とは思考の産物だからだ。

「群盲象を撫づ」と言う言葉があるが、断片だけで芸術作品の本質を理解するのは難しい。例えば「罪と罰」と言う作品の本来の滋味を味わおうと思うなら、作品を通読するしかない。 「数行読んだだけで読者が虜になる作品を書け」と言われたら、ドストエフスキーも困ったろう。 「奇抜なフォントでも使ってくれ」とでも言ったろうか。 それは文学者でなく写植屋の仕事だけどな。


3/28(月)

プロ野球の開幕時期をいつにするか、で揉めたそうな。 「開幕を延期しろ」ってのが大方の意見らしく、特にファンと言うか世間の支配的意見らしい。 理由は粗方電力の問題だろう。あとは、せいぜい「不謹慎だ」とか、そんなところだろうか。 とにかく、開幕を強行したい(と言うか予定に近い形で行いたい)、と言う意見は一部の当事者に限られるようだ。

似たような話では、避難所に使われているイベント会場で「コンサートなどを自粛しろ」と言うのもある。 商業施設の用途として、避難所機能を最優先すべきとの意見である。 しかしなあ。会場の運営サイドも、コンサートを企画する側も、その人らはその人らで生活が掛かっているのだし、そういう人たちが経済を牽引してくれなければ、この国の将来すらも危ぶまれるのだけど。 いわゆる反対派の人たちが、そこまで見据えた上で意見しているのなら何も言う事は無いのだけど。 何となくそうではないように思えてならない。どうも配慮が全方位に行き届いていない感じがする。 気のせいかしら。

プロ野球の開幕を強行したい当事者らは、世間で非難されているように、単に利己主義・商業至上主義によって開幕を強行したいだけなのだろうか。片や反対意見の持ち主は、どこまで考えた上で反対しているのだろうか。 確かに電力は足りていない。それは計画停電が実施されている事からも明らかだ。震災以後、いまだに閉園したままのレジャー施設がたくさんある。

しかし国民は、この「経済の萎縮」と言うものに、もう少し神経質になっても良いと思う。 それが巡り巡って我が身に降りかかる事である、と言う認識が薄いように思えてならない。 プロ野球の経済効果って、日本全体にとっても軽視出来ないものだろう。 また、2011年はプロ野球を開催しない、と言うわけでない以上、いつかは開幕せねばならず、電力の事を考えても、一番首が回らなくなりそうな夏場を迎える前に、少しでも試合数を消化したいところだろう。

無論、出来る限り節電はすべきだろうし、開幕の時期も、合理的に考えてベストなタイミングがあるのなら、その時期に開幕すれば良い。 しかし、「開幕強行派」は、世間で言われている程に無思慮ではないと思う。 意見を窺う限り、大掴みな印象としては、悪いがむしろ反対派の方が短慮のように思えてならない(無論皆ではないだろうが)。

ああいう興行が催されないと言う事は、当たり前だが、放映権などと言う大口のものに限らず、関連する中小の企業の経営状態も悪化させるに違いないし、延いては球場でビールを売る歩く「売り子のお姉さん」のお給金も捻出できなくなるかもしれないわけで、それが日本経済や人心に波及的に与えるダメージは小さくない筈だ。

「別に開幕するなとは言って無い。ホンの2〜3ヶ月遅らせれば良いじゃないか」と言うのは、本当にそうなのだろうけど、誰かの収入が途絶えれば、消費は当然冷え込むだろう。売り子のアルバイトらにも、家賃や何やの月々の払い物があったりもする筈で、それらの期日は待ってくれない。また、仮に待ってくれたりでもしようものなら、それがまた更なる経済の停滞を招く。


3/27(日)

今回の震災で東北沿岸部を襲った津波が、高さ○十メートルあっただとか、○階建ての建物を飲み込んだだとか言う話をチラホラ耳にするのだが、どうもTVで流れる映像を見る限り、それほどのものには見えない。 「お前が見たのは、たまたま低い津波の映像だったのだ」と言われるならそうかもしれないが、どの映像を見てもそんなに高いとは思えないんだよなあ。 何でだろう。素朴な疑問です。


閑話休題。 MOOGってアナログシンセの名機がある(設計者の名前なんだけど)。 実機はバカ高くて、私などは買おうと思わないのだけど、ある時代、一世を風靡した楽器なだけに、聞き覚えのある音で、ちょっと使ってみたくもなる。

ソフトシンセでいくつかMOOGをシミュレートしたものがあるので、最近時間があれば弄ってみている。 作品に活かしたいのだけど、もう少し先になりそうだな。


3/26(土)

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神田優花、今週は新曲二曲の歌入れでした。 本当はもっと早く録り終わる予定だったのだけど、例の地震の影響で半月ぐらい遅れてしまいました。 神田優花は、既に次の曲の制作にも入ってます。


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影山リサ。今週放送のラジオ、いかがだったでしょうか。我々もやっとオンエアチェックしましたけど。 世間がこういう状況で、ラジオの聴取率は上昇傾向にあると聞くのだが、普段より聴いてくれた人も多いのだろうか。 多少なりとも勇気を与えられたなら幸いです。 以下、影山さんから。


久しぶりのラジオ収録でした!
今回は年末に発売した5枚目のシングル、『Rock Me』の中から「Rock Me」と「She's So Glamorous」の2曲をオンエアしていただきました。
「Rock Me」はキャッチーな感じのロックで、「She's So Glamorous」は少しコミカルでカッコイイ感じの曲に仕上がってます。
他の収録曲もとてもカッコイイので、皆さん是非チェックしてみて下さい♪

影山リサ



3/25(金)

今週のスタジオにて。

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大人と言うのは、いわば判断のプロなのだと思う。子供は素人だ。 どういう事かは以下に説明する。

大人は日常的に判断を繰り返している。 人生を決めるような選択だとか、そういう大それたものばかりでなく、日常の些事に至るまで、大抵は自分で行動を決している。また、本来決するべきなのだ。 翻って子供は、進路はおろか、住む場所や着る服、夕飯のおかず一つとっても、自分で決めていない。 それらは基本的に親が決めるからだ。

子供に、服や食べ物など、ある程度の選択肢の中から自分の好きなものを選ばせる事は、その子の自由を育てる為の訓練になろうかと思う。 子供はやがて大人になり、全ての判断を自分で下さねばならないのだから。

稀に、いい年した大人なのに、自分で判断を下せない人を見かける。 その人は、年齢的には大人でも、本質的な意味で大人になりきれていない。 心に、判断を下せる程度の自由が育っていないから、自分自身の為にある決断をする、と言うたったそれだけの事が出来ない人になってしまっている。 多くは親の教育に問題がある。 人生の岐路に立たされた時にでも、他人の顔色を窺いつつ、誰かに褒められる為の行動を採ってしまう。

私が、「あなたはあなたのままで良い」などとつい口走ってしまうのは、そんな当たり前の事を実現出来ていない人が目に付いて仕方ないからだ。 あなたは他の誰でもない、あなたの為に生きるべきなんだ。


3/24(木)

例の地震の被災者が、家族にあてたと思しきビデオレターがNHKで放送されていたのだが、皆さん口々に「安心して下さい」と言ったコメント。

やはり人は、愛する人に安らかな心持ちを与えたいと思っている。 自身の安否を気遣う人が、どんな気持ちに苛まれているか想像出来るのだろう。 斯く言う私も、他人に不安な気持ちを与える事を、最大の悪だと思って生きている。 皆さんも基本的に私と同じようで、少し安心した。

こう言う天変地異は、大切な人がいつかはいなくなるように、起こって欲しい事ではないが、現実問題として避けられはしない。 だから我々にとって肝要なのは、これを如何なる奇貨として、自分に何を残すかである。 これを機会に日本人が、本当に大切なものが何なのかにあらためて思いを馳せてくれたら、甚大な被害を出したこの地震も全く意味の無いものではないように思う。


私は日々こういう仕事を行なっているが、究極のところ、ウチで活動している歌うたいの皆さんに「有名人になって欲しい」とか「金を稼いで欲しい」などと言う風に、つまりは「売れて欲しい」と思っていない(無論そうなってくれればそれに越した事は無いが)。 私があげたいものが、金や知名度などと言う成果でないからだ。

私があげたいのは、不安の無い穏やかな気分だし、未来を希望的に想像出来る楽しい毎日である。 私はこの事務所を、商業機構でなく、歌が好きな人が歌い続けて行ける場所として存続させたいと思う。 我々にとっては、そっちの方が大切なのだ。


3/23(水)

実を言うと、私はある時期から、馬の事が気になって仕方が無かった。 馬は長い間人間の乗り物であったし、その役目を果たせる程度には知能も高いと言う。 一説には5歳児並みだったかの知能を持つとも聞いた。

私が特に知っておきたかった点は「犬より知能が高いか否か」であった。 知能の程が5歳児並みとか言われても、それが如何程のものなのか、イマイチ想像出来なくて、これは実見してみるしかないと、ここ数年来時間を見つけては馬を見てみた。

で、今のところの結論。 全然犬の方が賢い。 これは自信を持って言える。もう表情一つとっても全然違う。 馬は馬で魅力的な生き物なのだけど、人類のパートナーとしては犬の方がそれに相応しいように思う。知性に限った話だが。 ついでに、猫は論外。


3/22(火)

原発について、あらためて考えていた。 そもそも私はこの手の事に興味が薄く、あまり詳しくないのだが、あんまり詳しくないままではモノを考える材料に乏しいので、今回の事態に際して、個人的に調べたり技術屋の友人に電話で色々と聞いてみたりした。 ハッキリ言って私は、核分裂何たるかすらよく分かっていなかった。

まず福島の原発は、海水入れた時点でもう再稼動は事実上無理なようだ。そもそも古い施設だったようだが、廃炉化は避けられないそうな。 今回、これほどに世間を騒擾してしまった事から、今後日本の電力供給は原発以外で賄うしかなくなるのだろうか。トラブルは沈静化しても、今後新たな原子力発電所を受け入れる自治体はもう無いかもしれない。

私は、日本はその地理的宿命として、現時点で原発以外で電力を賄う事が難しい(効率が悪過ぎる)と思うし、特に核燃料サイクルなど、資源の少ない日本にとっては夢のような話だと思う。 だから原発の技術がこの件によって廃れていくのを見るに忍びない。 が、これは沖縄の基地問題などと同じで、民主主義社会では仕方の無い事なのだろう。 技術やコストの問題などさておき、更には下されたある決定が、最終的には己の首を絞める事になろうと、「多数決の結果なのだからそれはそれでしゃあない」と言うのが民主主義なのだろうから。 どんな無知や思い違いから生まれた決定でも、多数決は絶対的正義なのだから仕方ない。

エコだとかの観点からも、有限かつ価格の安定しない石油を使い、なおかつ膨大なCO2を吐き出しながら発電する火力発電なんかより、原発はスマートだしクリーンな気がする。 石油の購入代金やCO2排出権などに掛かるコストは、最終的には我々が担う事になる。

「だったら東京に原発を作れ」と不思議な事を言う人がいるらしい。 原発は潜在的な危険性を孕んではいるのだ(誰もそれを否定してはいまい)。テロの標的にだってなりうる。 首都の機能を保全する為にも、総理官邸の隣に原発を作れる筈が無い。 それは特定の誰かの利益の為なんかじゃない。

放射線の有害性云々は、要は量の問題なのだけど、ダイオキシンとかと同じで言葉のイメージだけが独り歩きしている。 そこら中に溢れ返っている紫外線だって有害だし(放射線だって常時そこらにある)、タバコだって酒だって量さえ間違えば人間は殺傷される。 今の日本人を包んでいる霧は、我々の成熟によって晴らす事の出来る類のものじゃないのだろうか。


3/21(月)

本日夜10時より、先週収録したラジオ番組「貴津章のエレジーナイト」(ゲスト・影山リサ)が放送されます。 今回の番組はインターネット放送が無いもので、私はオンエアチェック出来ません。 受信出来るエリアにお住まいの方は是非聞いてみて下さい。


3/20(日)

福島の原発のトラブル、どうやら収束に向かいつつあるようで、とりあえずはめでたい事だ。 しかし私は今回、この件における流言蜚語の類や、それに踊らされる人々に、若干の空恐ろしさを感じた。 まあ子供の場合なんかは、事実子供なだけに未熟であるのも仕方ない気はしたが。

「政府は何かを隠している」と言うように、何かを信じられなくなる(と言うより正常な判断が下せなくなる)人は、要は自分を信じられない。 自分の持つ常識や平衡感覚、溢れかえる情報を吟味・取捨選択する能力(リテラシーとでも言うべきか)こう言った諸々に信を置けないのだろう。 確信を持って「私は騙されている」と思うのであれば、それも一つの判断だろうけど、そんな人いるかしら。 多くは風説に足元をすくわれただけだろう。

私は地面が揺れる事より、人心が揺れる事の方が余程に怖い。 一部の人は、不安に煽られただけで自分のままでいられなくなる(と言うより、そもそも自己が確立されていない)事が、今回の事態でこれまで以上にハッキリと分かった。 今のままの彼らでは、きっと魔女狩りをやれてしまうだろう。

今回、この稿をしたためるに当たって、東京人に避難や買いだめの必要が無い事を、行き過ぎた自粛ムードが経済を停滞させ、二次・三次被害を加速させる危険性を、様々な角度から論証しようかと思ったが、途中で止めてその下りのテキストを削除した。 意味が無い事に気付いたから。


日本が土地バブルを起こした事も、こんにちの不況を抜け出せない事も、全ては「心に紛れ込んだ不安」を払拭出来ぬ人々の精神の脆弱さに起因している。 この社会に、もし財産と呼べるようなものがあるとしたら、それは人間の誠実さぐらいでしかないのに。

私は文系だし、原発や電力について不案内だし、さりとて経済の事だってよく分からない。 私に出来る事は、粛々と私であり続ける事ぐらいだ。


3/19(土)

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既にいつもと変わらない日常が始まっているのですが、人々の心はまだ落ち着かなかったりもするようで。 とりあえず無事の報告代わりに、今週のスタジオで撮った写真を上げています。 色々と(電話・メール等)お問合せいただいてますが、我々は全然無事です。


3/17(木)

余震続く中、今日はラジオ番組の収録で葛飾に行ってきました(Info参照)。 放送は来週月曜(3/21)夜10時からです。報告が直前になってしまったのだけど、本当に収録自体行なわれるのかすら怪しい雲行きだったもので。 とりあえず無事収録は終わりましたが、予定通りオンエアされれば良いのだけど。

今回は珍しく午前中の収録でした(放送は夜だけど)。 地震関係の事さえさておけば、天気も良くて気持ち良い一日だった。

レポート


3/16(水)

色々思う事はあるが、とりあえず地震関係について、現時点での率直な感想。 特に私の生活する東京近郊について。

東京も最大震度5強の被災地だったし、現時点でも余震が続いているのだけど、ちょっと騒ぎ過ぎな気がしないでもない。 東京では、大地震と言えるような規模の揺れは、先週金曜の一回のみ、続いている余震は大体震度3程度、震度3の地震は東京近辺では日常茶飯事だ。 普段それで日常生活に影響など無い。 津波なども勿論無い。

冷静になって見てもらえば分かるが、震度5強でも倒壊している家屋なんてほとんど無い。あっても相当古い、現行の耐震基準をほぼ確実に満たしてないであろう建物ぐらいだ。 原発や電力供給についても、あれは行政や民間の電力会社の不手際で、要は人災だ。 そこに起因している交通網の乱れなんかも同じ。 何とかしろ、とは言いたくなるが。

東京では、コンビニやスーパーの商品、特に食料品や電池などが店先から消えていたりするのだが、これも多分に人々のパニック心理が引き起こしている人災である。ガソリンなども払底しているらしいが、それも同じだ。

日本の食糧事情は、ご存知の通りそもそも供給過多ですらあったのだ。 現時点でも企業(食品関連)の生産・供給ともに普段通りで異常は無いと言う。 食料や石油の供給源が宮城・福島沿岸などの最高レベルの被災地に集中していた、とかなら分からないでもないが、そもそも日本の食糧自給率はご存知の通りの水準(殆ど外国に依存している)だし、ガソリンは中東から船で運ばれてきている。 つまり供給源には、地震の影響など全くと言って良いほど無い(中東は中東で別の政治的問題が起こっているが、それは東北の地震とは無関係で、そこが直接的契機となってガソリンの払底が生じたのではなかろう)。

人は「モノが買えない」と騒いでいるが、供給側は「売れなきゃ困る」のである。 通常通りに供給していたところで、短期間に人が押し掛ければ店先からは消えて当然、と言うだけの話である。一時的な在庫切れに過ぎない。 恒常的に今の需要が続くのなら、供給量を増やして調整する、と言うだけだ。続くわけ無いからそんな事しないだけで。

「人々のパニック心理が引き起こしている事態である事は重々承知しているが、私は私で並んででも買っておかないと、手に入らなくなる」と言う心理は分からないでもない。 でも生存に不可欠程度の食料が手に入らなくなる、なんて言う、そこまでの深刻な事態には全然発展してないし、ガソリンが無くなって車が動かせなくなったって、別に良いじゃん。 電車動いてんだよ。

「5割運行」とか言ったって、普段の東京のダイヤがどんなものか考えてみると良い。3分間隔とかで電車動いているんだよ?それが6分間隔になったところで、そんなに困る事あるか?通勤・通学には一本早い電車に乗れば遅刻まですまい。また、してもこの状況なら、周りも許してくれるだろうし。

結論。 皆さんもっと冷静になりましょう。 確かに私がこんな事言ったところで、この先事態がもっと深刻な状況に発展する可能性もあるわけだが、現状に対する冷静な分析とそれとは別の問題だ。 社会の唯一の財産は、人間の心。もう少しクールダウンしないと、本当に高レベルの被災地への支援も滞る。


3/14(月)

地震の続報を気にしつつ、チンタラ編集作業を続けている。 それにしても、いまだに余震が続いてますね。一ヶ月は続くだとか。 東北の人、夜とか不安だろうなあ。 このまま収束に向かってくれる事を祈りたい。 私は金も名誉もそんなに欲しいと思わないが、穏やかな心持ちだけは飢える程に欲しいのだ。


3/12(土)

地震。 東京も酷かったのだけど、東北太平洋側の皆さんはさぞかし大変だろうと思います。がんばって。 ついでながらウチは一同、ケガ一つ無いようで幸いにも無事です。 まだ余震とか続いているみたいなので、皆さん気を付けて。

しかしこの地震のせいで、レコーディングのスケジュールがおしてしまっていて、来週以降〜今月一杯にかけて何だか忙しくなりそうだ。


3/11(金)

ヘッドフォンを装着してのレコーディングの仕込み作業中、えらい振動を感じたもので、「この曲、こんなに低音出てたかな?」とか「ここのモニター、サブウーファーでもついてんのか?」なんて思っていたのだが、5秒後ぐらいに地震と気付いた。 まだ余震が続いているのだけど、何やら日本観測史上最大級の揺れらしい。 皆さんも気を付けて。


3/9(水)

一万円札の原価は二十数円らしい。 確かに紙に印刷を施しただけの物だものな。そんなに不思議は無い。 私など、「そんなにするのか」と軽く驚いてしまったが。 因みに、一円玉の原価は七十五銭ぐらいだそうだ。

しかし、例えば私が、他人の一万円を損ずるに及んでしまった際、二十数円では弁償出来ない。 また、もし誰かが私の持ち物を壊したとして、「これは亡き母の形見で、私にとっては数億円相当の価値がある」などと言い張っても多分聞き入れてもらえない。 その持ち物の市価程度にしか、価値を認めてもらえないだろう。

警察は、交通違反のペナルティとして反則金を要求する。 税務署は無論の事、裁判所(民事)でさえも、詰まるところ金を要求している。 この社会の諸価値は、概ねこの「金」に収斂されるわけだけど、これも人間の思いついたものだ。 これ以上の理想世界を思い描ける人はいないのだろうか。 いつかきっと現れるのだろうけどな。


3/8(火)

トム・ソーヤーと「フランダースの犬」のネロ少年について。

どちらも日本人に馴染み深い作品の登場人物(主人公)だが、「フランダースの犬」は、現地(と言うか日本以外)ではさほど知名度が高くなく、作品の発表当時は非難の対象とすらなったらしい。 「ネロは女々しい」と。

確かにネロ少年は、風車小屋に放火した疑いをかけられ、事件の濡れ衣を着せられる。また、絵描きを志すのだが、コンクールに落選し、失意のまま雪の降る夜、愛犬パトラッシュとともに聖堂で凍え死んでしまう。 濡れ衣に対しては、自らの潔白を正々堂々と主張し、コンクールの落選に際しても、一度の失敗如きにめげず、自ら雄々しく人生を切り開いていくべきだ、との意見も、それはそれで正論である。

作品が出版された当時、現地に横溢していた気分は概ね上の通りで、つまりあの作品は、当時のヨーロッパ人の嗜好にフィットしなかった。


マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」は、アメリカ史上最高の文学との評価さえある。 アメリカの国民性に対する理解のよすがとなり得るかと思うが、あの話は笑ってしまうほどのハッピーエンドで結ばれる。 トムとガールフレンドのベッキーとの仲は睦まじく、悪役インジャン・ジョーは、その悪巧みをトムによって打ち砕かれ、その後洞窟で非業の死を遂げる。トムと親友ハックルベリー・フィンは、その洞窟にてジョーの隠した金貨を掘り当て、一生食うに困らぬほどの財産を手に入れる。浮浪児であったハックは資産家の養子となり、学校にも通い始める。 ざっとこの通り、何もかもが完璧に上手く行く仕立てとなっている。

因みに、アメリカで「フランダースの犬」が出版された際、こんな結末ではあまりにかわいそうだとて、当時のアメリカ人はストーリーに改変を加えたそうだ。悲劇「フランダースの犬」の結末を、彼ら好みのハッピーエンドに書き換えた。 冗談みたいだが実話らしい。


翻って考えたいのだが、何故欧米人にこれほど不評な「悲劇」を、日本人の多くは好むのか。 私も良く分からないが、「明らかなる哀れな者」を設定する事によって、自分の位置を再確認し、何らかの安堵を覚えるような機微がそこに存在しているのだろうか。 あるいは普段体験しない(したくない)境遇を垣間見、登場人物に感情移入する事による疑似体験の妙を味わっているとか(イマイチ良く分からない感覚だが)。これは絶叫マシンに乗りたがる人の心理と通底するのだろうか。 まだ結論が出ない。

「フランダースの犬」の、文学作品としての評価が低い理由は、いくつかあるのだろうが、ネロ少年の心の動き(の描写)が弱いから、ってのが大きい気がする。 あるいは原作者ウィーダが女性である事が、ネロと言う男性のキャラの薄さに影響しているのだろうか。 因みに、私は個人的に「フランダースの犬」が好きです。色々と理由はあるが、登場人物の機微と言うより、設定されたストーリーへの感情移入が容易いから。

余談だが、原作におけるネロ少年の設定年齢は15歳だそうだが、日本のアニメ版での設定年齢は10歳なのだそうだ。 評価の違いはこの辺にも由来しているのかもしれない。10歳と15歳では、確かに行動に対する評価も変わって来てしまうな。


3/7(月)

ストーカーとその被害者。

ストーカーとか言う言葉が出来て、それを規制する法律まで出来た。ストーカーとは悪の象徴で、追い回される人は善良な被害者でしかないのか。 個別の事例について、詳細を知らぬ私に事を一概に断ずる権能は無いが、上の評価も何やら一方的で、正鵠を得ているとは言い難いように思う。 その前に、痴情の縺れとは、如何なる事情において発生するのか。

元恋人を追い回す御仁は、まず間違いなく相手の事を(人でなく)「物」だとしか思っていない。 が、人を人だと思えず、愛する事が出来ない人とは、愛の意味が分からなかった人なわけで、つまりは愛されなかった人でもある。 愛されず、自分が分からないから他人の事も分からない。 ストーカー行為とは、要は「迷い」なのだろう。

追い回される側は、警察などに被害状況を訴える。「もう二度と近寄らないでと言ったのに、しつこく付きまとって来る」だのと。 しかし、それを言えてしまう人は、人間扱いされず、物として追い回されるに相応しい人でもある。 仮にも自分を好きだと言ってくれる相手に(その好意の対象が何であるのかはさておき)、「二度と近寄らないで」なんて、そんな物の言い方がありますか。

人から愛されず、愛の意味が分からない人が、恋人にさえ「二度と近寄るな」などと邪険に扱われる。 更には法律まで作られ、自分は世間から悪の権化だと見做される。 その人はきっと、この世界に、自分を理解してくれる人や、自分を必要としてくれる人など誰一人いないと感じるだろう。 きっともうこの先、自分には碌な出会いなど待っていないだろうとしか思えなくなる筈だ。 その孤独感・疎外感こそが、恋人と言う、今自分の側にいる「物」に対する執着を深める。 この世界に対し、抜き難い不信感を植え付けられてしまった者の末路として、さほど不思議な現象ではない。

正常な感覚を持つ者なら、何一つ持たされずに、その後の人生を一人で生き抜く自信など持てるわけがない。 私は、他人の為に自分を犠牲にすべきだ、などと言っているわけではない。 出会った誰かに、愛された記憶の一つくらいを与えてあげる事がそんなに難しいのか、と問うている。

人間に対して「二度と近寄るな」などと言えてしまう人は、それ程に容易く相手の尊厳を踏みにじれるわけで、自分と関係の生じた人を、いっぱしの人間として扱わない者である。 つまり自分自身を粗雑に扱う人だ。 その人が、痴情の縺れの末、元恋人に刺されたとして(無論傷害は、法律で言えば加害者が悪いに決まっているが)、人間を人間として大切に扱える人に比べれば、刺されるに相応しい人物であると言えなくも無い。

恋人と別れたいのであれば、「近寄るな」ではなく、そう決断するに至った自らの心境を、相手にも精一杯説明すべきではないか。 新たに好きな人が出来たのなら、その事実を、その気持ちを偽り無く開示すれば良いではないか。 どう誠実に対応しようが、まるで分かってくれないような頑迷な人もいるのであろう事は、私とて想像出来ないわけではない。でも、あなたが誠実であらねば、相手に誠実さなど望むべくも無い。


3/6(日)

ごく最近の話だが、大学入試で、ある受験生が携帯電話を使った不正行為を働いたとて、世間を騒がせたらしい。 要するに、昔からよくあったカンニングの類なのだろうが、手口が前例の無いものだっただけに、必要以上に注目されてしまっている。 事態については、警察だとか大学当局が、適当なところで収拾をつけるだろうからそれは良いとして、何故その彼(受験生)は、そのような不正を働いてしまうのか。

それは偏に教育が悪いからである。 本来入試とは、自らに備わった学力を査定してもらうものである筈だが、「合格」と言う成果だけに拘るなら、成果なんてものは、今回のような不正行為にて手に入れる事も可能なのである。 他人に問題の答えを教えてもらう事や、よく聞く裏口入学・替え玉受験など、どれをとっても成果のみを手に入れる方策である。 自分自身を育てる事に価値を置かない社会ならではの現象と言える。 彼の手に入れようとしたものは、学力でなく合格通知だった。


私は歌うたいをはじめ、様々なアーティストの皆さんと日々仕事をさせてもらっている。 で、我々の現場においての目標とは何なのか。 「売れて有名になる事」や「金持ちになる事」は、即ち受験生で言うところの「合格通知」に過ぎない。

アーティストが志すべきは「優れた自分になる事」に他ならない。 得られる成果と言うものは、時流や風土、運やタイミングだとか、あるいは他人の嗜好だとか、つまりは自分以外の要素に大きく左右される。 だから、必ずしも我々の努力に比例して手に入るわけではない。

私には、「売れる自信」など無い。 でも、この作業(音楽)を続けて行ける自信や、音楽を作り続ける日々を楽しいと思える自信ならある。 私の目標は、納得出来る自分になる事だけだ。


3/5(土)

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今週は忙しい。4曲分もオケを作らないといけないのだけど、まだ全然終わらない。 とりあえず今週のリハーサル風景。上の写真は、差し入れのみかんとケーキ。

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3/3(木)

人間には新陳代謝ってものがある。 髪の毛や爪が生え変わるように、全ての細胞が時々刻々生まれ続け、また死に続けている。 今日の私はもう昨日の私では無いし、明日の私も今日の私とは厳密には違う。 子供の頃の私と今の私には、記憶の上での連続性はあるものの、人体と言う物質面で見れば、すっかり別の代物となっている。 これは脳細胞においても基本的に同じ事が言える。

脳細胞が生死を繰り返し、やがて全く別のものになるのなら、辿れる限りの記憶の果てから連綿と続いているこの意識の主体、つまり私とは何ぞや。 新たに生まれた脳細胞は、古株の脳細胞を参照し、複写するような形にて、記憶の連続性(と言う名の錯覚)を形成しているのだろうか。

だとするなら、やはり記憶とは、印象の浅いものから欠落するわけで、ある事象に対し、その人が感じた何かの濃淡によって形成されるものと言う事になる。 つまり、淘汰の末残った記憶とはその人の感受性、要するにその人そのものだ。


私の取捨選択した記憶の断片、感じた何かに対する解釈、その濃淡こそが今の私を形成している。 自ら選んだ(作った)記憶と言う物語があるからこそ、私は自分自身に、何故この世界に生まれてきて、どうやって今のこの瞬間に辿り着いたのか、を説明出来る。 その説明が出来るからこそ、今の自分がどこに向かって進むべきか、も同じく説明出来る。

ここで言う「進むべき方向」とは、分かりやすく表現すれば「夢」だ。 心の中にまだ「あの頃」があるからこそ、私は未来を想像出来るし、そこに向かって曲を書き続ける事が出来る。 今の私が日々、時間を無意味に終わらせないで済んでいるのもそのお陰と言える。


私は、私の持てる限られた時間の中でこの私と出会い、記憶に残ってくれた人々に感謝している。 それはあなたこそが、私の物語を形成する、いわば私の一部だからだ。 あなたがいなければ、記憶の集積体としての私は存在しなかった(少なくとも今とは違うものであった)事になる。

私がここで言うあなたとは、物質としての、蛋白質の塊としてのあなたとは違う。 何かを捉え、感じていた主体の方を指している。 あなたは私の中にいるし、日々私の作り続けている音楽の一部でもある。


私は訪れる出会いをつい、「この人は私に、何か良いものをもたらしてくれるかもしれない」と言う期待でもって見てしまう。 私が何故そう感じてしまうのか。 それは、私を愛してくれた誰かがいてくれたお陰だ、としか言いようが無い。 私は、愛された記憶を頼りに、未来を思い描いている。


3/1(火)

豊臣秀吉はその晩年、既にいわゆる天下の帰趨が粗方定まった後、ある晩に近習らを集めて夜話しをしたそうな。

その内容は「俺の死後、誰が天下を取ると思うか」と言うものであった。 近習らは前田利家・徳川家康などと言う大身の者らの名を競って挙げたのだが、その名が出尽くした後に、秀吉は「黒田官兵衛が取る」と言ったらしい。

近習らは、豊前で僅か十数万石の身代しか持たぬ黒田官兵衛がどうして天下を取れるものかと、秀吉の発言を訝しんだと思われるが、秀吉には秀吉なりの確信があった。 官兵衛にはその通り身代こそ無かったが、器量があった。

黒田官兵衛と言う人物の能力の程をここで説明する気は無い。また、上の秀吉の回答は、結果としても外れている。 が、その時の秀吉が、身代や家格などと言う装飾よりも、人間個々に備わった器量の方を重く見ていた事だけは分かる。 その理由として、秀吉自身が、まさに己の器量一つで立身した、世界史的に見ても稀有な成功例である事や、また本能寺の変にて、信長と言う一個人が消されただけで、当時ほぼ全国を統一しようかと言う勢いであった織田政権が、完膚なきまでに崩壊した現実を目の当たりにした記憶が、まだ生々しかった事などもあろうか。

あらためて当時は戦国の世だったのだと思わされる。 言うまでも無く、現体制は、総理大臣のポストにある一個人が暗殺されたぐらいで瓦解しない。そんなに官僚機構が脆弱でないからだ。 アメリカ合衆国大統領は、ある面において日本の総理大臣などとは比べ物にならないぐらい強力な権限を持たされている筈だが、そのアメリカにしても、ケネディが暗殺されたぐらいでは体制はビクともしなかった。 日本の現体制と言わず、江戸の徳川体制でも、老中だとか将軍一人死んだぐらいでどうこうなるようなものでは無かったろう。


以下余談です。 戦国時代って呼称は、江戸時代などと言う後世命名されたものと違って、割りとリアルタイムに近い形で使われてた用語っぽい。無論中国史から用語を拝借したのだろうけど(春秋戦国の戦国)。 確か、江戸初期の新井白石が「折りたく柴の記」で、父親にまつわるエピソードに触れた下りで既に戦国云々と述べていた気がする。


2/26(土)

更新間隔がまた開いてしまった。別に変わった事もありませんけど。 今週のスタジオにて。昨日は暖かかったですね。

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2/21(月)

ここ最近、名前をよく耳にするようになった「クーポン共同購入サイト」について。 クーポンの共同購入と言うシステムについて、ご存じない方もいると思われるが、詳細については調べられたし。 私もあんまり詳しくない。ついでながら、使った(クーポンを購入した)事なども一度も無い。

この「クーポン共同購入サイト」とやらが、ここ最近、色々な方面で随分と叩かれている(非難されている)らしい。詐欺だとの意見さえ目にするのだが、たかだか「クーポン共同購入サイト」が、何故にここまで人々の逆鱗に触れてしまっているのか。

(非難の)直接的契機となっている事件もあるにはある。 が、それは人々の怒りが噴出する契機ではあったろうが、ここまで容易く怨嗟の声が臨界点を迎えてしまうのには、それはそれで別の原因があろう。 私が思うに、この騒動の原因は「クーポン共同購入」なるシステムなのではなかろうか。 このシステム自体は輸入品らしいが、日本人はおそらく輸入元である地域(おそらくアメリカあたり)の国民とは全く異なる機微にてそのシステムを利用している(「させられている」と言った方が正確か)。

国際的基準で言って、普通、人は自らが欲するものを、相応の対価を払って購入する。 欲しい物を欲し、実際に買うかどうかは、財布の中身や欲しさの度合いと相談する。言うまでもなく、欲しくない物など買わない。 しかし、多くの日本人のように自己を確立出来ていない人間は、自分が何を欲しているのか正確に分からない。 世間で支配的な価値観に抗えず、バスに乗り遅れまいとて欲しくも無いものを買わされ続ける。 「クーポン共同購入」のシステムは、そういった人々の機微につけ込んだ、ある意味非常に優れたビジネスモデルと言える。

だからして、短時日にして営業的成果を上げはするが、人々の心に幾許かの禍根を残す。

今になってあの手の業者を詐欺師だのと非難しているのは、おそらく「買わされた」人、あるいは「買わされそうになった人」なのだろう。 「買わされた人」には無論の事恨みが残るが、「買わされそうになった人」も同様に、戸惑わされたり、諦めさせられたりと、何らかの精神的負担を強いられている。恨みが残ってしまうのである。

買わされそうになった(=買わなかった)人にとっては、それを諦めた自分の判断に自信が無ければ無いほど、相手には詐欺師であって欲しくなる。 「やっぱりロクなもんじゃなかったんだ」と胸を撫で下ろし、非難の声を喝采し、あまつさえその尻馬に乗る。 猖獗する悪評って、蓋を開けてみると、この手の精神の屈折に因っている場合も多い。


2/20(日)

自分の価値について。

最終的に自分の価値を決めるのって自分自身だと思うのだけど、出来る事なら皆、自分の価値を自覚すべきだと思う。 我々は、我々の価値を貶めようとする如何なる存在とも、戦い続けないといけないのだと思う。

例えば、親に大切に扱われなかった子ほど、簡単に自暴自棄になれる。当然である。 親が我が子に「お前は価値の無い人間です」とわざわざ教えているのだから。 その評価を唯々諾々と受け入れてしまえば、あっという間に価値の無い人間は出来上がる。 その人が自分自身に下した評価を、概ね周囲は追認するものだからだ。

あなたの価値を分かってくれる人は、きっといつかどこかに現れる。 あなたの事を「少々乱暴に扱っても構わない」とか「さして発言を汲み取るべき価値の無い人間だ」とか、そのように評価する人がいるなら、あなたは今後もワザワザその人と付き合う必要はない。 あなたをその程度にしか評価しない人間など、その人自体の価値も高が知れている。 戦うべきだと思う。負けてはダメだ。 負けるってのは、その低評価を受け入れてしまう事なのだ。


2/19(土)

昨日の続き。今週のスタジオにて。

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軍医でもあった森鴎外は「風邪など寝ておけば治る」と言っていたらしいので、私も長らくそう思っていたのだが、どうも鴎外さんの事を知るにつけ、彼はいわゆる「藪医者」だったのではないかと言う気がしないでもない。


2/18(金)

今週のリハーサル。

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実は私は今週、珍しく風邪を引いたっぽくて、数日寝込んでいた。 今は基本的に回復してるのだけど、喉をやられたらしく、声が元に戻らない。 まだしばらく安静にしておきます。皆さんも風邪には気を付けて。


2/17(木)

「奇矯な声質(要するに変な声)」が売りの歌手をたまに見かける。名前を挙げるのは控えるが、女性歌手に多い。 「奇矯な声質」などと言ったが、私が今回論じたいのは、声帯そのものの機能が変わっている人や、思考のプロセスが普通人と異なっていて、発声にまでその異常性が滲み出てしまう、と言ったタイプ ではなく、単に「characterizeの為に、ワザと変な歌い方をしているだけ」な人たちの事である。

商業音楽の世界は、その名の通り、金儲けを目的としているのだから、要は売れた者勝ちである。 だからして、誰がどのような個別の戦術を用いようが、別に非難されるような筋合いのものではない。 しかし、そこを承知の上であえて言わせてもらうが、私はその手の歌手の、心の底からのファンにはなれそうにない。

その手の歌手の楽曲も、作品単体で見ればそれなりに面白いものもあろうかと思うが、そう言った歌い方を実践してしまう時点で、アーティストとしての、本質における適性に欠けると言って差し支えないのではないだろうか。 理由は今から述べる。


変わった声で受けを狙ってしまう歌手の心根には、「周囲から一目置かれたい」と言う他人への依存心がある。 そのメンタリティは、祭りなどに狂喜する人らや成人式で暴れる新成人らのものと通底する。 目立とうとせずにいられないのは、評価を他人に委ねているからだ。

歌と言うものは、本当に良くも悪くもその人の全てを表してしまう。

オタクっぽい女の子の中に、ヘンテコな声をもってして声優などを志望する人がいるけど、それもつまりはその人のtrauma(心的外傷)のなせる業で、言い換えれば弱さに起因している。 「誰かに褒められたい」と言う感覚から卒業しさえすれば、同じ声優を目指すにしてもアプローチが変わってくる筈だ。

アーティストが追究すべきは、本来己のみである。 受けを狙わずにいられない我が心根すら紐解く事が出来ないようでは、悪いがその人に作れるものも高が知れているように思える。 「奇矯な声」は、平たく言えばその幼稚さの発露であり、つまりはその人の限界に他ならないのではないか。


2/15(火)

横溝正史原作の映画(映像作品)をいくつか見た。 して、その感想。

横溝作品に限らず、日本人の作ったストーリーに私はしばしば似たような感想を抱いてしまう。 ストーリーの構成や映像的ギミックについては、念の入ったものであるのだが、人間の心理描写のリアリティに欠けるというか、登場人物の動機面が弱いものが多いように思う。

例えば連続殺人事件の犯人が、「金策に困った挙句、犯行を思いついた」などと言う話を見るにつけ、「そんなヤツいるか?」などと思ってしまう。 犯行が発覚すれば金策どころか、その後の人生まで台無しである。計画的犯行を思いつくような論理性があれば、それが得策でない事にも自然突き当たってしまわないだろうか。 そもそも日本では、どんなに経済的に行き詰ろうと破産すればゼロに戻るだけなのに。

世間を震撼させるほどに緻密な犯罪計画を捻り出せる頭脳・精神力の持ち主で、尚且つ誰しもが当然ぶつかるであろう、初歩的な矛盾が気にならない性格。無論それが存在し得ないとは申しませんが、それを描き出すにはもう少し心理描写のウェイトが必要じゃないかしら。


「犬神家の一族」に登場する松子さんは、溺愛する我が息子佐清(すけきよ)の為に犬神家の莫大な遺産を独占しようと画策し、殺人に及ぶ。 して当の佐清は、戦争で顔面に重症を負い、平素仮面を被っているのだが、その覆面の下の人物は、実は佐清になりすました別人で、母親の松子自身もそれに気付いていなかった、と言う筋書きである。

んなアホな。 仮面を被られたら本人かどうかの見分けすらつかなくなる程度の理解しか成立していない相手の為に、人殺しまでしてやらなくても良かろう。 我が子が他人とすりかわっている事すら気付かないのに「溺愛」って、何を愛しているのか。 大体、どれほど自分に不利な遺言を残されようと、日本の民法では遺留分と言う権利(取り分)ぐらいは保証されている。 何がなんでも全額相続したい理由も分からない。

松子さんのような人物が実在したとしたら、その行動はもっとずっと稚拙である筈だ。 横溝作品に登場する松子そのままの人間が実在するなら、私は別の意味で怖い。


ドストエフスキーに「地下室の手記」と言う作品がある。 もはやストーリーすら存在しておらず、独白と言う形の心理描写のみで一本書き切ったような作品だ。 本来文学と言うのは精神を表現するものだから、極端に言えば、(精神の舞台としての)ストーリーすら必要無かったりもするのだ。 日本人はどうもこの種のものが苦手っぽい。 例外的に上手い人もいるけど、まあ大掴みに言って。

何だが腐したみたいになってしまったが、横溝作品(映画)そのものは割りと面白くて、とりあえず最後まで見てしまう。 ある作品の「面白く無い部分」についてはこのように明快に文章化出来るのだが、「面白い理由」を説明する事は全くもって容易でない。


2/14(月)

酒と記憶について。 つい先日、あるミュージシャンが公務執行妨害で現行犯逮捕されたとかの(ネット上の)ニュース記事を目にした。 捕まった本人は、逮捕容疑について「酔っていて覚えていない」のだそうだ。

私は普段酒を飲まないが、いわゆる下戸ではない。 飲んだ事はあるし、吐くほど酔った事だってある。 しかし、記憶を無くした事は一度たりとも無い。 私は私にしかなれないし、他の人の事が分からないから、せいぜい自分をもってして他人を推量する事しか出来ないわけだけど、今の私は「酔っていて覚えが無い」とか言う人の発言を実のところ信用していない。

アルコールは異物だから、摂取によって体が変調を来たす事はありえようし、人間は触れた事象すべてをつぶさに記憶も出来ない。 しかし「暴れた」とか「誰かを口説いた」だのと言う積極的行為について、記憶が消失する事などあり得るのだろうか。 もしあり得ると言うのなら、泥酔した私は、「ジキル博士とハイド氏」のように、歴史的連続性の無い別人になり得るわけだけど。

例えば、英語のseeとlookは、同じ「見る」でも別の単語である。何かを「視界に入れる」と言う受動的行為と「見る」と言う能動的行為に、それぞれ別の動詞を割り当てている。 日本語にこういった区別が無いから日本人に自由が無いとも言えるのだが、それはさておき。 人は「視界に入った」ものを忘れても、「見た」ものを忘れたり出来るものなのだろうか。 意思が介在したものなのに。もしそれが本当なら、それほど信用出来ない人間はいない。


正直に言います。 私は、世人らの言う「酔っていて覚えていない」の類の、その殆どを嘘だと思っている。 酒の効能(大量摂取によって体に変調を及ぼす)のある部分を、都合よく拡大解釈した誰かが、自らの「甘え」の隠れ蓑にしているだけなのではないか。

「酒が記憶を消す」と言うのは、現代を覆っている一種の迷信で、要は一部の人が、自分らに都合いいからとて作り出した壮大なホラなのではないか。 酒を飲まない人や飲んでも記憶を無くさない人には検証のしようがなく、「記憶に無い」と言い張る人同士には、無意識下にでも一種の連帯保証の感覚が働いて、誰もその事に触れなかっただけなのではないだろうか。 少なくとも今の私はそれを信じていない。


2/13(日)

韓国の芸能人は、よく事務所などと揉め事を起こす事で有名だそうな。さもありなん。 混乱も含めて社会の均衡点なのだから仕方ない。 犯罪は好ましい事ではないが、起こりうるから刑法や警察機構がある。

韓国社会は濃厚な儒教社会で、人間関係が上下で整理されている。 ある場所に10人が居合わせたとすると、その全員に1番から10番までの序列がつく。 嫌な社会だと思われるだろうが、そうしないと彼らは、自分の態度を決められないから仕方ないのだ。 階級抜きに社会を把握する術が、今のところ育ってないのだから止むを得ないと言える。日本社会も、欧米のそれに比べれば韓国社会に近い。

韓国の芸能人は、事務所からの(労働者としての)扱いが過酷であると言う。 人間を上下で捉えると言うのは、人を機能として、モノとして扱う事に他ならない。 だから労働者などは機械の部品かのように酷使される。 扱う者(この場合事務所側)は扱う側で、人をモノとしか捉えられない感性なのだから、当然自分もモノだと捉えている。 使役者と言う立場を得ただけで、他人を酷使する権能を与えられたと思い込み、当然の事としてその権利を行使する。 逆の立場に立たされた時に、その扱いを受けるであろう事も半ば想像の範疇にあると言って良い(無論その想像は、論理的に整理されたものではないが)。

階級上の下層に位置する者が、そうであるが故にある苛烈な処遇に甘んじている場合、それは事態に対する整理であるとか、相手に対する愛だとかによって譲歩を実現出来ているのではないのだから、当然忍耐を要してしまう。 故に、条件さえ許せば暴発する。 売れた途端に事務所に反旗を翻す芸能人はこれである。 この対立を無くそうと思えば、民族の原理ごと弄らねばならず、それは容易でなかろうと思う。


2/12(土)

影山リサ、今週から新しい曲の制作に入りました。 影山リサは来月、一本ラジオ出演が入る予定。近くなったらまたお知らせしますね。

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2/11(金)

今週のスタジオにて。

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それはさておき。

私事で恐縮だが、私は「あなたに怖いものなんてあるの?」とか問われる事がある。 それほど平素私は、何事かに怯えていないように見えるらしい。 この事について、実は過去熟慮を重ね、既に自分なりの結論が出ているから、この際表明しておく。

私に怖いものなんて無いのか?そんなバカな。 私も気違いじゃないんだから、恐怖を感じた事ぐらいいくらでもある。 ただ、今の私は、自分が怖いか否かによって行動を決する事を慎んでいるだけだ。

では私は、何に因って行動を決しているか。 それは正義感である。それもあくまで自分の考える正義に因って。 私は私の平衡感覚こそを信じている。


2/10(木)

嘉永六年、ペリー提督率いる東インド艦隊が浦賀に来航する。 以来アメリカの、いわゆる黒船による、軍事力を背景とした恫喝外交が幕を開ける。 日本人との交渉には、恫喝こそ有効である、と言う認識は、おそらく現代のアメリカ人の中にも多少残っている。 そしてあながちそれは間違っていない。

日米交渉史はこの黒船来航から始まったと思われているが、それは事実でない。 実際にはそこに至るまでの複雑な経緯があるのだが、当時の日本(その責任政権である徳川幕府)は、まず鎖国状態にあり、アメリカや欧米諸国からのコンタクトを無視し続けた。 また、無二念打払令などと言う法令まで発布し、外国人を排斥しさえした。 無論そこに至るにも、日本側に同情すべき事情はあったのだが。

私はペリーと言う人物を到底尊敬出来そうにないが、アメリカがああいう人物を用いる他なくなる程に、事態を逼迫させた原因は日本側にもある。 当時の日本人には、相手との関係性を常に上下で見る習慣があった。今もある。 攘夷などと言う当時の流行語によっても分かるように、江戸末期、アメリカ人などは「下」だと見做され、野蛮人だとて基本的に交渉のテーブルにさえ着かせてもらえなかった。 当時のアメリカにとって、恫喝は、事態を打開する為の、手っ取り早く且つ有効な手段であったのは間違いなかろう。


当時も今も、日本人のメンタリティにさしたる差異は見られない。 要するに日本人はあまり成長していない。 上下関係を設定する事によって自身の振る舞いを決し、社会を安定させようとしている。 分かりやすい具体的尺度として身分・階級・年齢などと言うものがある。 上下と言うのは、理由はさておいての従属関係を保証するものだから、ある人にとっては実に都合良い。

あなたの身の回りに、過度に上下関係に拘泥する輩がいたなら、その人はおそらく自分の正当性に自信を持っていない(且つそれに耐えられぬ臆病さを併せ持っている)。 既に存在する序列には抗える筈も無いから、誰かに従属する立場には甘んじざるを得ない。 だが、せめて下位 の者だけは立場に因って有無を言わさず制御したい。 彼が偉そうに説教を垂れたところで、蓋を開けてみりゃせいぜいこの程度のロジックしか用意されていない。

正当性に自信が無いからこそ、相手を、理由はさておき自分に従う存在に押し込めたくなるわけで、必要以上に上下関係を強要する人なんて、早い話が自分を疚しい人間だと表明しているようなものなのだ。 あなた自身がそういう人なら、あらためるべく努めてはどうか。


一応断っておきますが、上下関係ってのもこの社会の伝統でぐらいはあるわけだから、無視出来る物だとは私も思っていない。


2/7(月)

実名こそ挙げないが、数年前に終わったと言うお昼のTV番組の、とある司会者について考えていた。 彼はレギュラー番組を多数持つ超の付く程の売れっ子芸能人で、その番組もそれなりの人気プログラムだったようだ。当時司会者である彼は、事実上テレビ界における「お昼の顔」とでも言うべき存在となっていた。

番組内の人気コーナーで、司会者やゲストコメンテーターらが、視聴者の「悩みの相談」に乗る、と言う趣旨のものがあった(実は私は、それをキチンと最初から最後まで見た事は無いのだが)。 エントリーして来た、悩みを抱える視聴者(電話出演)は、受話器越しに悩み事を打ち明ける。 まあそれは良い。

人間、生きてりゃ悩みの一つぐらい抱えてしまうだろう。 しかし私が疑問に思うのは、その司会者の彼が、相談相手として相応しい人物か、である。 私はその人の事を嫌いでも何でも無いが、ハッキリ言って相談相手にはならないと思う。多分、日本一他人の悩み事を真剣に聞いてくれない人ではなかろうか、と言うぐらい相談相手としては心許ない。

私はその彼を中傷したいわけではなく、人間には属性と言うものがある、と言う単純な事実を指摘している。 良い悪いはさておき、相談相手には似つかわしくない(その適性を持たない)、と言う話だ。 実際、少なくともテレビ界においては、今をときめく寵児なのだから、他の才能なら間違いなくあるのだろう。


私は思った。 その番組に悩み事を持ちかける視聴者は、いざ悩みを抱えた際に、相談相手としてそういう人を選んでいるぐらい、人間(もっと言えば世界)に対する理解が甘いからこそ悩み事が絶えないのではないか、と。

でも、これって笑い事では無いよなあ。 件数で言えば日本一多くの悩みを相談されているであろう御仁が、日本一悩みを相談すべきでない相手なのだから。


2/6(日)

その昔(学生の頃など)、ゲームセンターと言うヤツでヒマを潰した事が何度かある。 私は基本的にああいうところに入り浸らない性質だが、当時、例外的によくやったゲームがある。

それは、据付のレバーをマニュアル操作して、金属製の「玉」を弾くピンボールのようなゲームで、弾いた玉を的に当てて点数を稼ぎ、その点数が一定以上になったら景品がもらえるようなシステムだった(こんな説明じゃ何の事やら分かるまいが、それを知っている人にはピンと来ない事もなかろう)。 本来ゲーム機自体をあまり触らない私にしては珍しく、そのゲームだけは結構得意で、2回やれば1回くらいは景品がもらえるレベルにまで上達していた。

最近某所(ゲーセンではなく、デパートのゲームコーナーみたいなところ)にて、そのゲーム機を見つけた。 懐かしさのあまりやってみたくなったので、徐にコインを投入し、始めてはみたのだが、思いの外上手く行かない。 最初、単に腕が落ちたのかとも思ったのだが(それもあろうが)、すぐにその原因に気が付いた。 ゲームの内容そのものが変わっていたのである。 設定がシビアになっていたとでも言うべきなのだろうか。

ゲームは(おそらく)プレイの制限時間が短縮され、玉が的に当たった際の得点は、ゲーム機側でランダムに決められていた(7セグメントのLEDに、的中後に点数が表示される)。 元々点数はランダムに決められていたと思うが、プレイ時間が短縮された事により、景品を取得出来るか否かは、その「ランダムで決められる得点」に委ねられる仕様となっていた。 つまり自分の能力を介在させる余地が狭められていた。

私はもうあのゲームをやらないと思う。 理由は、景品を得られないからではない。 自分の能力不足によって得られないものがある事については何とも致し方ないが、勝敗そのものがゲーム機の基盤に委ねられているようなシステムに魅力を感じないからだ。

宝くじやサイコロ賭博のようなもの(私はどちらもやった事すら無いが)に入れ揚げてしまう人らは、もしかしてそれらに「自分の能力を介在させる余地が無い」からこそ、取りつかれてしまうのだろうか。 自分を信用していなければ、人間は当然そうなってしまう筈だ。 「自分の能力になど依存しては、確実に負ける」と思うからこそ、ランダムの結果に執着するのではないか。


2/5(土)

今週のリハーサル風景。

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2/4(金)

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スタジオで撮った写真を。先週のと合わせてUP。 下が今週の分です。

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広瀬沙希、今週は新曲の歌入れでした。 曲自体は随分前に上がってたヤツなんだけど、やっとこの度歌入れが終わりました。

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2/3(木)

尊重すべきもの。

「情けは人の為ならず」と言う言葉があるが、私は基本的に他人を尊重したい。 ある人間関係を、面倒だとて投げ出す事は慎むべく自分に言い聞かせている。 若い頃はそういう事もあったのだ。

私が他人を尊重すべきだと考える理由は簡単だ。 それは自分自身を重んじているからである。 私は、私の周囲に張り巡らされた人間関係を、どれ一つとってもぞんざいには扱わない。 それら関係性の全ては、私自身を構成するものに他ならないからだ。

人の間(あいだ)と書いてニンゲンと読む(本来の人間は仏教語で、human beingの意ではないが)。 人間とは、構築したその関係性の事だとさえ言える。 今の私はもう、自分自身を重んじるが故に、縁の生じた他人をぞんざいには扱えない。

蛇足だが、ぞんざいに扱わないと言うのは、自分を犠牲にしても構わない、と言う意味ではない。 言うべき事は言う、というのも相手を尊重する態度なのだ。


2/2(水)

私はいつも「愛する人を応援したい」と思っているが、その人の何を応援したいのか。

それは、その人の「自由」です。 キレイになりたいとか歌が上手くなりたいとか言うなら、それに応じた努力をすれば良いと思うし、難関と呼ばれる試験に合格したいならがんばって勉強すれば良い。

あるいは逆に、「勉強なんてそんな退屈な事やってられない」と言うなら、「そんな退屈な日々からなんて、全力で逃げろ」と、その背中を押してやりたい。本当に、地の果てまででも逃げ尽くして欲しい。

「芸能人になったら周囲から一目置かれるかしら」とか「○○大学に合格したらお母さんに褒めてもらえるかしら」とか、「お金を掻き集めたら、今のこの不安は消えるかしら」などと言う動機にて何かを追いかけさせられている人がいたとして、私はその心を応援してあげられない。 押したい背中とでも言うべき「自由」が見えないから。

私はその人の自由を応援する。


2/1(火)

公務員について。

世間の(一般的な)イメージとして、公務員稼業とは「楽勝な仕事の代名詞」だったりする。 「公務員世界」に対する世人らの想像(羨望)は、極端な場合、それをパラダイスだと見做している感さえある。 本当だろうか。

確かに公務員は、平均的民間企業に比べれば当面勤め先が潰れる心配が無かったり、高給かつ昇給まである程度保証されていたり、住居その他の便宜をはかってもらえたりと、いくらか優遇されている面がある(その時点で既に特権階級には違いないが)。 しかし、公務員社会も人間の共同体であり、尚且つ仕事がそこに存在しているのである。 現場に従事する人間にのしかかる心労(世間からの「怨嗟の声」も当然含まれる)が、絶無である筈が無い。

子供はしばしば「大人って良いな。早く大きくなりたい」などと大人生活を夢想する。 翻って大人の方は大人の方で、取り留めも無く「子供だったあの頃に戻りたい」などと言う思いに耽っていたりする。 まあ得てして、隣の芝生は青いものなのだろう。

子供はしゃあない。事実子供なのだし、大人になった経験が無いのだから、大人生活が隣の芝生にも見えよう。 しかし、子供時代が隣の芝生に見えてしまう大人の方は如何なものか。どんな大人も昔は子供だったろうに。 子供の頃は子供の頃で、様々な葛藤があったろう。精神が未熟だった分だけ、ある面では大人以上の心労を抱えていた筈で、そんなに気楽なだけの日々ではなかったに違いないのだけど。 忘れちゃダメだよ。


話が逸れた。 物事を有り体に見るのって、それなりに楽しい事だ。手前勝手な薄っぺらいイメージだけで世界を見ているときっと損です。 それは毎日の面白さを見過ごす事に他ならないから。


1/31(月)

寒い。 しかし寒い(気温が低い)からこそ、人は「寒い」と感じるし、「この寒さから如何にして身を守るか」などと考えてしまう。 暖かい(快適過ぎる)場所からは、巨大な文学者や芸術家が出にくい。 必要は発明の母とか言うが、艱難は哲学の母ってところか。


話は変わる。 私にはもう祖父・祖母と言った存在がいない。両親筋とも死滅しているからだ。 しかし今更ながら、本当に人間(つうか人体)には耐用年数ってものがあるのな。

「ウチの爺さんは80だけど、まだまだピンピンしてるよ」なんて話を聞いたりするが、その爺さんが20年後に生きてる、なんて事はまあ殆ど無い。 「気が付けばあの爺さん、もうかれこれ300年は生きてるな」なんて事は絶対にあり得ない。ちょっと淋しいな。 私の時間感覚はどうも悠揚であり過ぎるようで、何気なく使っている持ち物なども、しばしば骨董品扱いされてしまう。 子供の頃なども昨日の出来事のようだ。

日本人男性の平均寿命は70いくつだとか言われている(だからと言って、私自身の持ち時間など分からったもんじゃないが)。 人生はこんなに短いのに、その上たった一度きりしかない。好きな事をせざるを得ないじゃないか。


1/30(日)

読まれない手紙の効用。 あるMCを聞いて思った事。

誰かに送った手紙が、その封さえ開けられていなかったなら、そこに込められた意思は全て無意味に終わるのだろうか。

結論。そんな事はない。 何故ならそれが歌になるから。 別に歌うたいでなくても良い。その人に進むべき道さえあれば、それは無意味では無い。 自分に何事かを教えられるから。


子供の頃の遊びって、残酷なものも多いですね。椅子取りゲームとか花一匁とか。 前者は体力による露骨な生存競争だし、後者は人格そのものを選別している。 誰が発明したのか、淘汰される者の悲哀に対する愛を感じ取り難いゲームだ。

一人取り残され、誰からもその悲哀を理解してもらえなかった人は、今この瞬間にでもこの世界のどこかで、一人取り残され膝を抱えている他の誰かの気持ちを分かってやれる、数少ない人になれたのだから、その経験は僥倖と捉えるべきものだ。 取り残された人の気持ちが分かれば、誰かを取り残してしまう人らの気分も、いつか感じる事が出来るかもしれない。

出した手紙の封さえ開けてもらえなかった人は、同じ境遇にある人や、あるいは、誰かからもらった手紙の封さえ開けない人の気分までが見えてくるかもしれない。 考えるきっかけを与えられたのだから。


人は何の為に生きているのか。蓄財の為?世俗的栄誉に与る為?そんな筈が無い。 我々が持てるものは時間でしかないのだから、良質な気分を味わう為でしかあり得ない筈だ。 我々は、今この目に映る世界を、美しく、色鮮やかなものにする為に生きている。


1/29(土)

木曜のイベントの写真UPします。 当日お越し下さった皆様、寒い中本当にありがとうございました。

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1/28(金)

お疲れ様です。 昨日のイベントで撮った写真とかもあるのだけど、まだ整理していない。 先週スタジオで撮った写真をば。

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1/26(水)

更新間隔が空いてしまった(色々と忙しかったのよ)。 明日は渋谷でイベントです。ここ見てくれている皆さんも、是非遊びに来て下さいね。 私も現場にはいますので、見かけたら声かけてやって下さい(見ても分からないか)。


以下、今週のリハーサル時のカット。

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1/23(日)

アルファベットには大文字と小文字があるが、あれの位置付けは日本人にはやや体感し辛いものだ。

例えば、海外の業者経由で音楽作品を発表する際、曲のタイトルなどを英語(アルファベット)で表記したりするのだが、こっちが提出したテキストの大文字小文字が、向こうさんの都合で勝手に変えられていたりする事がよくある。 要するにタイトルは指定出来ても、表記上の大文字小文字の指定は出来ないと言う事だ。

大文字小文字って、日本人にも分かるように例えるなら、「フォント」のようなものらしい(英語圏にもフォントはフォントで存在しているから厳密には違うが)。 だから構成上の理由(理由無くというのも含まれる)で平気で変えられてしまう。 作ってるこっちは、視覚的効果などを考えて区別していたりするのだが、本来そういうもんなら仕方ないと、現状諦めるようにしている。


1/22(土)

昨日の続き。

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神田優花、ライブ直前なのだけど、新曲の打ち合わせをしてました。 今回2曲用意しているのだけど、うち1曲は歌録りまでやるか微妙。 何となく神田優花の商品イメージと合わないような気がして。 下は今週のスタジオにて。

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ここ最近、チョコチョコと機材を買い足している。 今はオーディオ・インターフェイスを物色中。オススメのものがあったら誰か教えて下さい。


1/21(金)

今週のスタジオにて。 残りは明日上げます。

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1/20(木)

日本社会には、西洋で言うところの教会に該当するものが無い。 家庭(生の両親)と言う、言うなれば極めて危うい存在から受けた教育のみを頼りに、学校と言う共同体に参加する事になるわけで、バックボーンの定かならぬ人間を量産すべくして量産していると言えなくも無い。

欧米社会(キリスト教圏)では、人間の情操を育てる為の、学校以前の教育機関として教会があり、教材としての聖書がある。 と言うより、教会で教わるものこそが教育で、学校が教えてくれる学問などは、修めたい者が修めりゃいいだけのものだと捉えられている気がする(日本の義務教育において、上の定義での教育に相当するものがあるとするなら、戦前の修身とか、現代の道徳の授業あたりがそれに当たるのだろうけど、受験科目でない事もあり、甚だ軽視されている事ご存知の通りである)。

だからかどうか、現にアメリカの大学などは、入学にさしたる関門は設けられていないと聞く。個々の単位取得(研究における成果を上げる事)こそが難所なのだろうが、研究機関なのだからそれが当然である筈だ。 日本のような、例えば法学部や経済学部にて法律や経済学を学びたい者が、現代文・英語・歴史と言った教科の成績(それも暗記の絶対量と言った)にて選別される、などと言う意味不明な制度の方がよほどに理解に苦しむ。 日本の大学は学問・研究の機関ではなく、階級章に成り果てているのだろう。


だったらあちこちに教会を作れば良い、などと言うわけには行かないのだ。 それを必要だと感じる人が少ないからこそ、社会はこんにちのようであるわけで、誰から指示されたわけでもなく、出身の学校が仮想の階級になってしまうあたり、やはりそれは日本人の原理に根ざした現象なのだろうと思う。

大学解体などと声高に叫んだところで、現状はきっと何ら変わりはしない。 そんな事より、今の大学のあり方に疑問を感じられる程度の、人間としての基礎的な情操を育てる事の方が先なんだろうな。 皆が必要ないと感じるなら、それは無くなるか、あるいは必要なものに形を変えるだろう。


1/19(水)

え〜っと、まずお知らせ(お詫び)。 メールで指摘されて気付いたのですが、TOPに載せているイベントの告知に、開催日を「1/27(水)」とあったのですが、正しくは「1/27(木)」です(現在修正済み)。 失礼しました。お間違いのないよう。


閑話休題。

よくオヤジ連中などが、女性、特に若い人など(ぶっちゃけて言えばリビドーを感じる相手)を目にした時に、体現するニヤケた顔と言うものがある(どう言うものか想像出来ます?)。 あれも笑顔と言えば笑顔に相違なく、概括するならば相手に対する好意の発露と言えなくもない。 がしかし、あの笑みで見つめられた女性は、必ずしもその笑顔の持ち主に好感を抱かないであろうと思う。

何故ならそのオヤジが好んでいるものは、物質としての女性であって、目の前の相手の精神ではないからである。

その笑みが発動されている対象が、精神なのかそうでないのかは、笑顔の質感で確実に分かる。 「私には分かる」と言っているのではない。誰にでも(それが無意識のうちであったとしても)絶対に分かるのである。 人間ってその程度には聡明な生き物だ。


1/18(火)

のび太(ドラえもんのキャラクター)は、自分が遅刻してしまう理由を「学校が遠いから」と言ったそうだ。 これは一種の笑い話なのだろうが、私には笑い事ではなかった。 ある時期までの私にとって、この事は熟考を要してしまう問題だったのだ。


学校が遠いから、と言うのは遅刻の弁明に値するのか否か。 現実に遅刻した際、教師にそのように釈明したところで一笑に付されよう。 自宅と学校との距離も、その距離の感じ方も人それぞれで、基本的にはそれらを重々踏まえた上で定刻に間に合うよう登校するのが児童らの務めだろうから。

しかしそのように釈明してしまう人が、もし本気でそのように事態を総括しているのであれば、彼はきっと反省せず、また同じ事(この場合遅刻)を繰り返す。 自分の行為を肯定する論理を持っているのだから、それは当然とも言える。


のび太少年は小学生である。学校と言っても義務教育機関だから、彼がいくら遅刻を繰り返そうと担任の教師に叱られるぐらいのものである。 「辛い思いをして早起きするぐらいなら、少々の小言ぐらい耳に痛くても構わない」と考えるならそれも一つの判断だろう。 遅刻した児童を叱りつける教師の存在は、フィジカルな世界そのものだから如何ともし難い。 教員にとってのそれ(叱責)は職務でもあるのだから、先生はその立場上、遅刻を黙認出来ない。

しかし、もしのび太少年が会社員なら、上のような理屈で居直り、遅刻を繰り返していれば、相応の(より深刻な)ペナルティが待っている筈である。あるいは彼は職を失うやもしれぬ。 仮にそうなった場合、彼の求めたものは、会社員としての栄達や職務上の成果より、同僚のそれよりホンの少々過分な睡眠時間であると言える。 それが彼の想像力の限界なのだ。

私は、人は欲しい物こそを手に入れれば良いし、流れ着いた場所はその人の目的地だと思っているから、そんな人生もそれはそれで仕方なかろうとは思う。 恨むなら自分の想像力の貧困さこそを恨むしかない。 が、もしそこで彼が、泣きついてでも「会社を首になりたくない」と言うのならば、「何故早起きぐらいせなんだ」と言いたくもなる。 が、それにしても人は然るべき場所にしかたどり着けないのだが。


私が彼の友人なら、きっと彼の上の気分を応援しないだろう。 何故なら、彼にはやりたい事が無いから。 彼がもし「僕は寝るのが大好きで、一秒でも長く寝ていたい。全力を尽くしてでもそうしていられる環境を手に入れたい」と言うのであれば、私はその夢を応援したろうけど。

彼は「寝たい」のではなく、「起きたくない」のだし「学校に行きたくない」のである。 彼の目の前には「やりたくない事」が横たわっているだけなのだ。 その挙句「学校と家との距離」と言う、初めからそこに寸分変わらず存在していた、動かし難い現実に不満を漏らしている。 彼の論理を突き詰めたなら、いずれ彼は社会からドロップアウトし、家に引き篭もり、身の周りをアニメやTVゲームと言った、自分に一方的に都合の良い偶像で隙間無く埋め尽くすしかなくなるだろう。 あるいは首を吊るか。

私の周りにもいた。パチンコ屋に入り浸った挙句、大学を中退した奴とか。 私は学校を辞める事もパチンコに入れ揚げる事も、別に悪だとは思わないが、彼はパチンコが好きなのではなく、講義から逃げたかっただけだった。 今その人がどうしているのか私は知らないけど。


広く世間では、「やりたい衝動」を「夢」と呼び、「やりたくない衝動(つまり、自分の外の世界に対し、かくあるべしと言う要求)」をワガママと呼んでいる。 私は夢を応援したいが、ワガママを推奨はしない。 我々がこの現実と折り合って生きていかねばならない以上、後で苦労するだけである事が目に見えているから。


1/17(月)

一般に人間は、どう言う相手を好きになるのだろう. 私に人間全般の意見を代弁する権能など無いが、やはり人は、自分を好きになってくれそうな人が好きなんじゃないだろうか。

我が心を理解してくれる人、ってのも確かに得がたい人物なのだろうけど、それよりも、自分を愛してくれて、その背中を押してくれる人物の方がもっと好きだろう。 だって、現にこの私がそうだから。


目の前の相手が「自分の事を好きなんじゃないだろうか」と勘違い出来る人は幸福である(皮肉でなく)。 何故なら、その気分さえ感じられれば、目の前の相手を好きになれてしまうから。 いつしか彼は、目の前の相手に本当に好かれてしまうだろう。


1/16(日)

今回の話はややこしい。私の文章力の限界もあって、平易にまとめられなかった。分からなかった人、ごめんなさい。


人は目の前に対峙する人、仮にそれをAさんとすると、Aさん一人を前にした時と、Aさんを含む複数の人を前にした時では、Aさんに対する振る舞い方が自然と変わってしまう。 私とてそうだ。何故か。

理由を大別すると、マナーと保身に分かれると思われる。 エレベーターの中にAさんと二人きりでいる場合と、それ以外の他人が乗り合わせている時では、声のボリュームなど変わって当然である。これはマナーだ。

保身と言うのは、Aさんと自分との関係性を露呈してしまう第三者(ギャラリーとでも言おうか)の出現により、それらの人々に披露する為の自分像を取り繕う為、ある種の受けを狙ったり、本来Aさんと二人きりであれば差し挟まなかったであろう発言に及んでしまう事などを差している。これは二人きりである場合に、一旦は頭を擡げたが、あえて発言するに及ばず言葉を飲み込んだケースなども含まれる。


既に何を言っているか分からないかもしれない。理解の一助たらしめんと実例を挙げてみる。 仮に目の前のAさんのある発言に事実誤認が含まれていたとする。二人きりであれば、もうそこを一々正さないのに、Aさん以外の誰か(Bさんとする)がいた場合にあえてそこを正してしまう事がある。 そこを正しておかねば、Bさんに間違った知識を与えてしまいかねず、またその発言に含まれる事実誤認に気付かずに、Aさんの発言を丸ごと追認したと見做されるやもしれない。平たく言えばアホだと思われる。 前者はマナーで後者は保身である。


私は日常における自身の振る舞いにおいて、上記のような機微を我が心に覚えた。 で、今のところ、そのとりわけ後者をあまり好ましくない振る舞いだと結論付けている。 私は出来る限り、ギャラリーの有無によってAさんに対する態度を変える事を慎もうと思う。 マナーは別として。


1/15(土)

今週のリハーサル風景。

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1/14(金)

今週のスタジオにて。

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TVシリーズのDVDは、一話ごとにオープニングテーマ・エンディングテーマを一々収録する必要があるのだろうか。


1/13(木)

備品のポータブルMDプレイヤーがブッ壊れた。 仕方ないから新しいものを買い出しに行ったら、ほとんどのメーカーが生産を打ち切っていて、結構大きな量販店でも一機種ぐらいしか置いていない(しかも無駄に高機能且つ値段も高い)。 あれほど一世を風靡した規格なのに。

ヘッドをクリーニングしたり、メーカーのサポートの技術スタッフに色々と聞いたりしたが、どうも機械的な故障らしくて、こちらではどうしようもない。修理に出すより中古品でも買った方が断然安いみたいなので、現在物色中。 しかし意外にMDって、いまだに使う機会が多いのだ。

我々は音屋なので、日常的に音のイメージを交換し合う。色々な手段を駆使するわけだけど、MDはいまだに現役だ。 ある用途に限定するなら、MDぐらい使い勝手の良いものって少ない。 ライン・マイク両方でダイレクトに録音出来る装置、尚且つ、本体でなく外部メディアに記録出来て、そのメディアは書き換え可能(それもかなり自由度が高い)、しかも単価が安い。更には、ほとんど誰でも再生機を持っている。こんなもの他にあるだろうか。 そういえば、ウチに送られてくるデモ音源も、7〜8割ぐらいはいまだにMDだ。

例えばCDがレコードに取って代わったように、MDはカセットテープの代替品として普及したのだと思うのだが、MDが歴史的役割を終えつつある今、何がそれの代替品に該当するのだろう。 ICレコーダーみたいなヤツだろうか。あれでは我々の用途は満たせないのだけど。


1/10(月)

ちょっと前の事だが、図書館に足を運んだ時の話である。 受付で私に応対してくれたのは初老と言った感じの男性だったのだが、意外にも彼は私に、友達言葉と言おうか、いわゆる「タメ口」で喋りかけてきた。それもコテコテの江戸弁で。 私が(彼に比べれば)若かったからだろう。

もしかすると彼の態度は、上司などに見つかると、失礼だとして叱責される類のものやもしれない。 客である私を年齢的存在として扱っているわけだから。 が、当の私は実を言うとちょっと嬉しかった。 彼はこの程度にでも、私の事を人間だと感じてくれているのだと思って。


一般に(国際的基準で見て)、日本人の接客態度は非常によろしいと言われているそうだ。 確かに、商業を蔑視する思想が薄い分、お隣である支那・朝鮮世界(つうかディープな儒教圏)に比べれば格段によろしかろう。 が、同時に日本人は、一旦「客」になるやいなや、極めてその態度が横柄になる事でも有名だそうな。 確かに店員の挨拶などに(如何にそれが仕事の一環の、心の籠っていないものであったとしても)誠実に応える客は少ない気がする。

何故そうなってしまうのかと言うと、これもまた、日本人が対人関係を常に上下で捉えるからだ。 客は上で店員は下なのである。 だからしばしば、ある種の客は、店員の態度に過剰な不快感を覚えたり、時にはイチャモンさえつける。自分の態度を棚に上げて。 それが当然の役得だと思い込んでいるのである。


私の今の仕事は、いわゆる狭義の接客とは言い難い。が、面と向かった相手で無いにせよ、当然ながら客と言うか「訴えかける対象」はある。 だが私は、その人たちを「神様」だとは思わない。 では何だと思っているのかと言うと、それは「我々と同じ人間」である。 これに何か問題があるのだろうか。


1/9(日)

今月末のイベント、会場に来てくれた方に無料でディスクを配布しようと思ってます。 収録内容は神田優花の2曲と映像。CDエクストラってヤツです。 是非当日もらって帰って下さい。 下は神田優花、リハーサル時のカット。

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以下、昨日の続き。

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1/8(土)

今週のスタジオにて。

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1/6(木)

東洋史の資料を読んでいると気付くのだが、基本的にアジア人(と言うか非白人)の命って軽い。実に軽い。 宗教が違うからってのもある面では理由と言えるが、宗教の定着ってのも、それを生み出し、受容する人らの気分ありきである。 今の日本人が抱えるジレンマについて考えたい。

例えば中国史関連の文献に目を通していると、二十万人を生きたまま穴埋めしただとかの、とんでもない大量虐殺の記事をしばしば目にする。 生命の価値が低いからである。 戦前の日本人についても、欧米人は似たような印象を持ったろう。大東亜戦争の犠牲者数を調べてみるといい。純粋な軍人だけでも二百数十万人の戦死者がいる。 交戦国のアメリカに比べ装備が劣弱だったと言うのもあるが、肉弾戦を支えるのも思想である。当時の日本人はいわば兵を消耗品だと捉えていたのではないか。

今のアメリカなら、勝つ負ける以前に、白兵戦で大量の死者を出しつつ戦争を続けるなど、世論が許さないに違いない。 欧米人が歴史上、アジア人と交戦した際(例えばベトナム戦争や大東亜戦争など)、口に出して言ったかどうかはさておき、彼らは「アジア人の生命は軽い」と感じざるを得なかったろう。

こんにちにおいても、例えばお隣の中国は、死刑者数世界一の死刑大国である(年間二千人とも八千人とも言われるが、正確な数は公表されていない)。つまりあそこの国はいまだに命が軽い。 もう伝統と言って良いが。


今の日本は「人命は地球より重い」だのと、欧米的価値基準を、それが生まれるに至った歴史的経緯を無視し、無批判に受容した上でこんにちの社会を形成している。 だからして、年間三万人超の自殺者を出しつつ、賞味期限の改竄だとかこんにゃくゼリーが喉に詰まっただとかの些事が、実体を遥かに超えた騒ぎに発展してしまう。挙句、人命が地球より重いなどと言うアンビバレンスに陥ってしまうのである。

何事においても、理解出来ていない者は匙加減を誤る。


1/5(水)

「婚活」と言う言葉(スラング)を仄聞した。 配偶者(結婚相手)を渉猟する行為を指すと言う。 平たく言うと見も蓋もなく、あられもない振る舞いだが、POPなスラングで言い換えればあら不思議、さしてはしたなく聞こえない、とでも思っているのだろうか。 甘いよ。

そもそも結婚って、相手がいてからこそ初めて検討するようなものではないのか。 婚期など自分を取り囲む固有の事情が決めるものであって、バスに乗り遅れまいと必死になる類のものではなかろう。本末転倒も甚だしい。 そんな気分で選ばれる相手こそ好い面の皮だと思うが、まあ双方のニーズが合致してたりするのかもしれないから別にいいけど。 そういう人にとって人生とは、傍観するものに他ならないのだろう。

基本的に人間とは、みっともない生き物だ。しかし自分自身に堕落を許せば、そのみっともなさは際限を無くしてしまう。 どこかで歯止めをかけないとねえ。


1/4(火)

今年プロ入りする某野球選手の話である。 彼は高校時代に甲子園で優勝投手となり、大学でも(よく知らないが)それなりの成績を残し、複数のプロ球団からのドラフト一位指名を受け、鳴り物入りでプロ野球界に入る事になったと言う。

ごく最近、彼はある会見の席で「自分が持っているものは仲間です」みたいな事を言ったそうで、世間にある種の波風を立てたようだ(実見してない人にこの説明では、発言のニュアンスが伝わり難いだろうけど)。 私とて一定の感慨をもってしまうものな。

確かに上のコメントは、分かりやすく浅薄である。彼自身どれほど本気でそう思ったのか怪しい。 が、世人らはその発言の薄っぺらさを揶揄するだけでなく、会見の席でそういったある種の「受け」を取る事によって何らかのポイント稼ぎを狙ってしまう程に、我が将来を心細く感じている彼の気分にも思いを至らせてあげて欲しい。 彼もまた人間なのだ。

私がもし、甲子園優勝投手だとか多球団からのドラフト一位指名だとかの実績を引っさげ、鳴り物入りでプロ入りしたなら、またその実績相応の能力を自負していたならば、会見では間違っても上のような台詞を吐かない。むしろ「自分が持っているものは野球技術です」とか「僕のストレートを見ていて下さい」なんてつい言ってしまいそうだ。 そもそも甲子園で優勝した時点で、大学に進学しようなどと思わないだろう。 だって自信があるのだから。

高校卒業を控えた彼の理性は、「大卒の資格を持っていた方が、きっとこの先無難である」と感じた。 野球人生がポシャった場合、などと言う悪夢がその脳裏をよぎる程度には、自己に眠る何かを信じられなかった。 そりゃ「持てるものは仲間」などと言ってしまうかもな。


私がこんな事を思ったのにはわけがある。 ウチにおいては、ライブのMCなどは、予め喋る内容を大掴みには決めておくのだが、そのリハーサルの際にある人が「歌詞を聴いて欲しい」みたいな事を何気なく言っていたのである。

歌を歌う人が、歌を聴いて欲しいとか歌詞を読んで欲しいと思うのは実に当然で、全くもってストレートな要求だ。 が、この手の発言はある程度自分に自信がなければ出てこない。 その人は、上の野球選手に比べれば、一般的な意味では知名度も何もかも劣っている人なのだろうけど、自信とか言うものは必ずしも世間での評価と比例しないようだ。 まあこれも当たり前か。評価を自分自身で下すからアーティストなんだものな。


1/3(月)

私はいわゆる「帰省ラッシュ」に巻き込まれた事が無い。 基本的に渋滞や人ごみが嫌いなのもあるが、世間で言うところのサラリーマン生活をした事が無いからってのも大きい。

帰省ラッシュに巻き込まれる人は、結局のところああいうのが好きなのだろう。 大多数の人と同じように学校を出てサラリーマンになり、毎日満員電車に揺られながら通勤し、盆暮れ・正月などに同僚を含む世人らと一斉に休暇を取り、渋滞に巻き込まれつつ実家に帰る。 彼は、勤続年数を重ねる事によって相応のポストを得、適齢期には相応の伴侶や子を得る。

帰省ラッシュと無縁の人生を歩もうと思うなら、上のプロセスのうちの何か(あるいは全部)を犠牲にせねばならないかもしれないわけだが、多くの人はそれを嫌がる筈だ。 やはり帰省ラッシュ、満更でもないんじゃなかろうか。


1/2(日)

今年一発目の更新になりますね。 今月の27日、J-POPCafe SHIBUYAにてライブイベントを行います。 ウチはこういう事滅多にやらないんで、お時間ありましたら是非遊びに来て下さい。 会場は渋谷駅から数分程度の場所です。アクセス等詳細はInfoのページをご覧下さい。 今年もよろしくお願いします。


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