・12/31(金)
今年も今日で終わりですね. 今年も楽しい一年だった.来年はきっともっと面白いだろう. このページも今年最後の更新です.思うところを書き連ねてみる.
ちょっと前にTVで,あるメジャーリーガー(アメリカの野球選手)の特集が組まれていた. ちゃんと見てないから曖昧で悪いが,その人は息子さんだかに先立たれ,いつもその亡くなった息子の事を胸に野球に取り組んでいる,と言った内容だったろうか.
私は思った. いくら愛する人に先立たれても,それが如何に大切な存在だったとしても,人は自分の為に生きている. どんなに誰かを大切に思ったとしても,愛する事を決断したのは自分だ. 上の野球選手も,彼は彼で,自分の為に生きている筈だ.
だからして,いわゆる「後追い自殺」など全く無意味で,あれ程に非生産的な行為は無い. 人は絶対に自分にしかなれない.誰の心持ちに,痛いほどに共感したとしても,目の前の相手になりかわる事は出来ない. 今あなたの目に映っている景色は,あなたにしか見えていないし,先立ってしまった大切な人の為にあなたが出来る事は,その人を心に刻み付けて精一杯生きる事だけ.
人は,隣人と自分を比べるから,失うものがあるような気がしてしまう. 人生とは時間の事.我々に許された事は,与えられた時間の中で感情の起伏を味わう事だけ.
大切な人が消えた事は,今まで感じられた心が側からいなくなってしまった事. それはつまり,自分の近くで動き続けていたように思えた,ある心の機微が存在しなくなったように思える事なのだけど,そもそもその心とはあなたが感じただけのものであった筈だ. 誰かの心を昨日のままに今日味わえなくなった,と言うのは失う事ではないのだ. 何かが在るというのは,最初からあなたがそう感じただけの事だから.
あなたには無数の昨日があったではないか. そして,確かにあった無数の昨日たちこそが今のあなたではないか. 大切な人はあなたの中にいる.
人が持てるものは,気分でしかない. どんな俗物でも,どんな守銭奴でも,金や名誉が欲しいとは言ったところで,それがある生活の方が無い生活より良質な気分で生きて行けると言うだけで,欲しいものはあくまで気分である筈だ. 私も気分だけを探している. 音楽とは,その気分を満たす為の道具に過ぎない. 最も効果的な道具ではあると言うだけの話で.
私は空の青さの,その美しさにしばしば痺れてしまう. こんなにこの世界は美しいのだから,私がここに生まれてきた意味が無い筈がない,などといつも思えてしまう. 私はこの体が灰になるまで,自由に歌を書き続けたい. 私は,この心に宿った無数の昨日たちの,その全てをもって次の一瞬を生きたい. 来年もがんばります.応援して下さい.
・12/30(木)
裁判員制度が発足してもう結構経つが,単純な刑事事件の判決など,基本的に量刑は重くなる傾向にあると言う. まあ当然だろう.以前から刑事罰が軽すぎるとの批判はよく耳にした. 世論がそのまま反映された形になっている.裁判員制度の趣旨とも合致しておろう.
しかし,検察側が「死刑」を求刑したあるケースにおいては,最終的に無期懲役の判決が出たそうな. そのケースにおいて,裁判員は死刑判決を出さなかったのだが,それは何故なのか.
私はその裁判で審理された事件の内容を(ほぼ全く)知らない. が,死刑の判決を下すというのは,つまりは「そいつを殺せ」と言うに等しい. いくら犯罪者であろうと,その瞬間にも何かを目に映し,何かを感じているその主体を,この世界から葬り去る事が死刑である. 当たり前だが,消滅した命は二度と還らない.
ヨーロッパ社会では死刑廃止論が根強いと言う. 彼らが日々何を大事にしているのか,その社会の根幹を為す価値が何なのか,その辺りに思いを馳せるだに,主張は当然とも言える. それほどに人間の存在は重い.
私に,死刑制度の是非は分からない.現時点で何とも言えない. 私は上の事件を知らないが,死刑を求刑されるぐらいの被告なのだから,既に人を殺めていたりするのだろう. 殺められた命もそれはそれで重いわけで,殺めた側の責任は重大である.自らの死以外の何をもってすればその罪を償えるのか,私には分からない.
犯した罪は重いのだろうが,私はその犯罪行為の被害者でも関係者でもない. 死刑制度の是非はさておいても,これだけは断言出来る. 私が裁判員だったとしても,彼らと同じく死刑判決は出せない.
死刑執行人(刑務官)は,ボタンを押す事によって刑を執行する(死刑囚の命を絶つ)のだが,そのボタンはダミーを含め複数個あり,数人の刑務官らがそれを押す事によって刑が執行される. 誰のボタンが直接死刑囚の命を絶つ事になったのかは,刑務官本人らにも分からないようになっていると言う. 言うまでもなく,死刑執行人の精神的負担を軽減する為の方策なのだろう. 人間と言うものは,かくもか弱い.
詳しくは知らないが,刑務官と言うのは常識的に考えて公務員なのだろうから,老後を含めその生活は安定している筈だ. しかし,いくら我が身の安定との引き換えであろうと,他人の命を絶つ事を生業とせねばならない心労は,いかばかりであろうか. 察するに余りある.
人間の存在の意味すら理解出来ないような,情操が破壊されたような生き物にならば,ある意味複数のボタンは必要なかろう. 人として生まれ,なまじ精神を持たされた上に,他人の精神を消滅させねばならないと言う,生爪を剥がされるような数奇な人生を歩んでいる人が,この世界の片隅にいる. そしてその作業は,社会がこんにちのようである以上,誰かがやらねばならない事だ.
私は,死刑囚一人を葬る為に,ダミーも含めた複数のボタンを数人掛かりで押しているような人たちの心にも,届けられるような歌が書きたい. がんばります.
・12/27(月)
月並みだけど,一年って早いな. 私は年末,ギリギリまで仕事がありそうだ. まあそれでも今週は,スタジオリハが無いだけでもちょっと気が楽なんだけど.
最近,アレンジでドラムに凝り出している.特にタムを多用するようになった. 因みに,今私が試行錯誤しているのは,生音系(生演奏そのものではない)のドラム.アナログ・ドラムとかではない.
私は昔,ホンの一時期ではあるけど部屋にドラムセット置いたりしていたのだが,今はまったくドラム自体を扱わなくなった. スティックの感触すら忘れかけている始末で,ドラム・アレンジがお座なりになりつつもあったので,これではイカンとあらためて勉強しているのです. ドラムって基本効能は「クリック」に過ぎないのだけど,あれはあれで一つの楽器と見做すと奥が深いのだ.
・12/26(日)
昨日の続き.
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・12/25(土)
今週でウチのスタジオリハは終わり.私はまだ仕事納めってわけには行かないけど. 今週のリハーサル風景.今週は多めに撮ってるみたいなので,残りは明日上げます.
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・12/24(金)
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クリスマスだそうな. 上は今週の差し入れのケーキ,私は食べてないがおいしかったそうだ. 以下,今週のスタジオにて.
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・12/23(木)
ドラマや映画などの映像作品は,漫画や小説などと比べるとアナログ的なメディアだ. 漫画は,簡略化された線で人物や風景などと言った現実世界を表現しているし,小説などはもっとデジタル的で,要するに文字と言うプロトコルのみで世界を表現する.
読書などを音楽鑑賞で例えるなら,譜面を見て脳内で演奏を再現する,と言う状態である. 不可能では無いかもしれないが,受け手側に相当の音楽的スキルが必要になる.万人向けの娯楽とはなり難い.
小説的手法と言うのは,完結する世界を読者のイマジネーションに委ねている. だからして,同じ作品でも,読者の受容能力によって名作にも駄作にもなり得る. が,その受容能力の豊かな相手には,最も鮮やかな世界を提供できる手法でもある. 感受性豊かな人には,中途半端な映像作品などより,余程に色鮮やかな世界を結像させる事が出来る.
音楽,とりわけ音色などと言うものは映像作品のギミックなどと同じで,作品においては枝葉末節である.核では無い.
漫画などは小説に比べればアナログ的ではあるものの,あれも基本は省略こそが肝と言えそうだ. 二色で世界を表現するのだから. デフォルメと言うのも,言い換えれば省略(記号化)である. 例えば漫画の登場人物の「動揺」を描写する際の記号として,「汗」がある. 漫画では,動揺した人物がとにかく汗をかく. 汗と言う記号無しであの心理的動揺を表現しようと思ったら,どれだけの情報量が必要か. やはりあれも省略なのだ.
音楽表現って,アナログ化の一途をたどっている. ハイレート・ハイビットだとか,5.1chサラウンドだとかって,つまりは生の音(演奏)に近付けようとしているわけで,要はアナログ化と言って差し支えないと思われる.
この文章に何らかの結論があるわけではない. 私はよく外で,ノートPCだとかシーケンサー(あるいはメモ紙)だとかを使って,メモ的な作曲を行うのだが,その際に以上のような事を考えていた. 外で走り書いたような曲のメモってのは,ここで言う小説みたいなもので,私の脳内での補完を経る事によって成立している.
・12/20(月)
他人に気に入られる為の行為として,譲歩は必ずしも有効でない. 特に我慢してまでの譲歩は,無益どころか相手の不興すら買いかねない. 人間には共感する機能が備わっていて,無意識のうちにでも目の前の相手の心情を慮る(体感する)事が出来てしまうから.
我慢に因る譲歩は,その時に心中に沸き起こる,ある種の不快感を相手にも感じさせてしまう. 心情を読み取られまいとしても,相手の言語中枢が破壊されてでもいない限り不可能である. 人間には個人差こそあれ,基本的には誰しもに共感性が備わっているから,あなたの感じた気分はほぼ確実にバレる.
では,他人と利害がぶつかった際,人はどのように振る舞うべきなのか. それは勇気を持つしかない. どうしても譲歩出来ぬなら,その旨事情も含めて相手に説明すれば良い.思考のプロセスを開示するのは勇気である. あるいは相手の立場を斟酌し,愛をもって譲歩する. 隣人を愛するのは,これまた勇気である.
勇気さえあれば,何事も上手く行く.
・12/19(日)
元来アーティストが追求すべきは,己のみである. 商業機構にのっかる事やそこでの成果(金や知名度など)は,結果として手に入ったりもするものだが,そもそもの目的ではない筈だ. しかし現状,そうはなっていない.
商業機構側の一角を担うレコード・メーカーなどの目的は,無論芸術の振興などではない. あくまで金儲けだし,それが健全なものであるならば何の問題も無い. だからして,本来音楽業界とは,活動目的の異なる二者(アーティストとそれを売る側)の思惑のある部分がたまたま一致した結果,共同作業をするに至った,いわば同床異夢の現場に過ぎない.
昨今,その音楽業界が壊滅しつつあると言う. 要するに音楽が売れない. 何故か.
こんにち,音楽の世界を志す多くの人たちは,コンテストなどに出場し,レコード会社のディレクターなどに見初められたりする事によって,デビューの切符を掴んだりする. そしてあまつさえ,「メジャーデビューが夢」だとか,平気で公言していたりする. 無論それは一概に悪い事とも言えないのだが,この現象を分かりやすく説明すると,上に挙げた二者の目的が「完全に」一致している状態である.
不思議な事に,表に出るパフォーマーもそれを支える業界側も,「売れる」と言う同じ目的にて動いている筈なのに,一向にその成果を得られずにいる. むしろ一昔前によくいた「お互いの最終目的が一致してないケース」の方が,商業的にも成功していたように思える程だ.
「不思議な事に」などと述べたが,実はこれは不思議でも何でもない. 例えばラーメン屋でもケーキ屋でも良いが,「作りたい料理がある」店主が,自分自身「ウマい」と確信した品を提供する店と,「金持ちになりたい」とか「有名店の店主と呼ばれて一目置かれたい」などと言う動機の御仁が,「人気店を作って金儲けをしたい」と言う目的だけはハッキリしているものの,商品そのものについては,自分でもウマいんだかマズいんだかイマイチよく分かっていないものを提供する店,客にとってどちらが魅力的か,問うまでもなかろう. 一般論として,後者はいずれ淘汰されるに違いない.
ある種の音楽商品が市場から淘汰されたとして,別のタイプの音楽商品が台頭して来るかと言えば,それは分からない. 音楽業界の現状は,曲がりなりにも(リスナーを含めた)音楽業界の全構成員の求めたものでぐらいはあるからだ. 純粋に,アーティストと言うものが本来の求道者で,リスナーと言うものが,他ならぬその求道者を探している人たちであったなら,音楽業界はこんにちのようであった筈がない. これからどうなるかは,我々に因る.
ついでに言っておくが,私は別に商業主義を邪なものだとは思っていない. ある事態の原因を推察しているだけだ.
・12/18(土)
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相変わらずのリハーサル風景. 今年もあと僅かですね.
・12/17(金)
今週のスタジオにて.
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・12/15(水)
来月に予定しているイベントで,来場者にサンプル・ディスクを無料配布しようと思っていまして,その収録曲なんかを今考えています. 動画なんかも収録した,いわゆるCDエクストラとかエンハンスドCDとか言われるようなものにする事も検討中.
そう言えば,予定している会場,かなり大型のスクリーンがあるので,PVとかの映像を流したりしようかとも考えている. まあとにかく,我々なりに色々と趣向を練ってますので,是非お暇なら遊びに来て下さい. 日時は年明け頃に発表します.
・12/13(月)
ちょっと前にドラムのルーディメンツを勉強(つっても軽く齧った程度だが)していたもので,それを曲作りに生かそうかなどと企んでいる. 単にリズム刻むだけのメトロノームのようなドラムワークって退屈だし,もう少し面白いものが出来ないかと思って. 年末年始の僅かな休暇を利用して音を作ろうかと思ってます.
ここ最近,昔作った曲の焼き直し作業に追われている. と言っても別にどこかからの要請ではないので,納期も無いし,本当に追われているわけではないが. 私は,何らかの形で発表する作品の,おそらく倍以上の数の曲を作っている. 別に出し惜しみしているわけではないのだが,結果そんな感じになってしまっている. だから日々の作業が公開作品に直結するわけではないのです.
・12/12(日)
もうタイムリーな話題でもなくなりつつあるのかもしれないが,何やら朝鮮半島情勢がキナ臭いそうな. 北朝鮮は,餓死者を出し続けながらも軍拡を止めない. して何故に彼らはあのようであるのか.
それは,あの国の人々が,消極的にであるにせよ,詰まるところあのような体制を望んでいるからだろう. 望んでいると言えば多少語弊があるか. あれ以上の体制を想像出来ないと言うべきだろうか.
あの国は,末端の人民には餓死者が出ていると言うのに,国家の上層部は「喜び組」などと快楽を貪り続けている. その支配階級の人らを「とんでもない奴らだ」と非難したところで,下層に位置する者らが実のところその立場を「羨ましい」などと思っているのであれば,結局上層部の構成員が入れ替わる事はあっても,体制そのものがドラスティックに変化する「革命」など起ころう筈が無い. 一個人の成れの果てが,その人の想像力の限界であるように,国家・民族と言うようなものも,その集団における想像力の結晶なのである.
フランス革命の何が凄いって,要するにあの理念を生み出せたところだ. 今のアメリカが人類文明の最先端にいる(と私は思う)のも,彼らの標榜する自由とか民主主義とかの理念ありきであって,技術だとかはその後についてきただけのもののように思える. 日本史上の天皇家はブルボン王朝のようにはならなかったし,今後もとりあえずは安泰だろう. この国は,王族を血祭りにあげるような理念など生み出すような土壌でないから.
そう言えば,北の現体制は李朝末期にそっくりだ. 一部の特権階級が権力を握り,民など顧みず贅沢の限りを尽くしている. 朝鮮人は結局,放っておくとあのような体制に行き着く性質を,その原理として濃厚に持っているのではないか. それ以上の理想社会を思い描けるのなら,あのようにはならない筈だ.
韓国は日本からの植民地化や日本の敗戦による独立などと言う,いわば外圧によって,こんにちのような民主主義国家となるに至っている. 韓国人は「日帝三十六年の植民地支配」などと,その歴史を諸悪の根源のように語るが,(良い悪いは別として)そういった契機(外圧)無しに現体制を自力で実現出来たと思っているのなら甘い.きっと,数百年やそこらでは全然無理だったろう.
ここまでテキスト打ったところで,眠たくなったので寝る. 全然話がまとまってないけど.
・12/11(土)
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今週のスタジオにて.昨日の続き. 上は差し入れのお菓子. リハーサル中,みんなでおいしくいただきました.
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私は今日から,来月のイベント用の仕込みに入っています. これが結構大変なのだ.
・12/10(金)
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今週のスタジオにて. 上の写真は差し入れの「みかん」(事務所のみんなでいただきました).
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・12/8(水)
history(歴史)はstory(物語)の派生語であると言う. まあそうだろうな. 歴史と仰々しく言うと,国家とか家系のそれだとかを連想されてしまいがちのように思えるが,歴史とは,共同体だけでなく一個人にも(濃厚に)存在するものである. 歴史を持たない人間ほど詰まらない人はいない.
人生は物語である. 歴史とは,単なる客観的事実の集積ではない. 一般に人は,通過してきた膨大な時間,そこに存在した無数の事象を自らの語り口(解釈)で紡ぐのだが,その物語こそが歴史である. 無作為に蓄積された情報そのものより,それを取捨選択し,物語を構成する為に何を抽出したか,と言う意思こそがその人と言える. 紡いだ歴史こそがその人なのである.
どうやってここまで来たのかを自分に説明出来なければ,今どこに進んでいるのか,この先どこにたどり着くべきなのか,も当然説明出来ない. 「自分探し」が必要になってしまう人の正体である. 私は,日々音楽を作りつつ,自分が何故この世界に生まれてきて,どこへ今向かっているのか,を自分自身に説明している. 私は一本の道を走り続けている.
誰にだって悪い記憶はある.思い出したくないような過去はあるだろう. でもその心の傷がタダの傷のままであるのは,その悪い記憶を,教訓として生かすべき明日を思い描けていないからだ. 思い描く事さえ出来れば,その記憶はきっと意味ある何かに変わる.
言い換えれば,「今日は嫌な一日だった」とか「今年は碌な年でなかった」とか,あるいは,人生そのものを「最悪だ」などと思っている人は,その時点で,その不運を奇貨と見做せる程度の発展的未来像を描けていない. 自分が詰まらぬ人でなくなりさえすれば,過去は悪い記憶のままでなくなるのに.
あなたに忘れたい過去があるのは,今のあなたの想像力が貧困だからだし,要するに詰まらない人間だからなのだ. 逆に過去が美しく見え過ぎるのも同じく,今の自分をもって描ける未来がか細いからだ. 悪い記憶を意味ある何かに変える事が出来るのは,他ならぬ自分でしかない.
もしもこれを読んでいる人の中に,貧弱な歴史しか紡げず,鮮やかな未来が思い描けない人がいるなら,あなたはもっと真剣に,記憶の中の幸運だった自分を探すべきだ. そしていつか,今日の自分に足りない何かを教えてあげられる自分になれば良い. きっとその時には,無為に過ごした筈の今日が,財産とすべき過去に変わっている.
過去の自分や,過ごした時間が嫌いで仕方ないのは,かくあるべき自分像がおぼろげながらにでも心に存在するからで,それは誇りにして良い事だと思う. 大切な何かを無くしたのなら,その大切なものが何を自分に残してくれたからこそ大切だったのか,に思いを至らせれば良い. それが大切な存在のままで,あなたの心の中にまだいる事に気付く筈だ. 我々に失うものなんて無いんだ.
・12/7(火)
ウチは小規模な上,ほとんどが女性なので(自然そうなっただけで,意図的な体制ではない),他所さんからたまに「アイドル事務所?」などと訊かれる事がある. 即座に否定するが. だって我々にアイドル商品なんて作る気も無いし,第一作れないんだもの.
小規模な事務所ってよくプレ・アイドルってヤツを企画したりするんだけど(私も昔,その手の企画に音屋として関わっていた事ならある),やはりそういうものを企画する人たちって,基本的に「アイドル好き」ばかりだ.
ウチのスタッフは全くもってアイドル好きではない. 私など,少年の頃からいわゆる「My favorite idol」を持たない性質だし,アイドル歌手のコンサートなどにも足を運んだ事が無い(スタッフとして舞台の袖にいた事とかならあるけど). ラーメンが好きでもないタダのおっさんが,突然ラーメン屋を開業しても,ラーメンマニアを唸らせるような旨いラーメンなど作れる筈がない. 私は基本的に,不得意な分野に手を出す事に積極的でない.
しかし翻って考えてみると,世にいるアイドルのプロデューサーなどは,そもそも彼ら自身,生粋のアイドルオタクだったりするのだろうな. でないと,そんな商品上手にプロデュース出来ないだろう. マニアのツボってものを心得てないと. 考えるだに私には無理だな.
・12/6(月)
石田三成って知ってますよね. 関が原の戦の敗者として有名な.
彼は敗戦の後,捕えられ,斬首されるのだが,刑場に向かう途中,喉が渇いたとて水を所望したそうな. 捕吏の一人が「水は無いので干柿で間に合わせい」と言ったところ,「柿は痰の毒になる」とて断ったと言う.
捕吏は,今から首を刎ねられる身でありながら,痰の毒などと体を気遣う様を片腹痛く思い,三成本人にもそう言ったところ,三成は「貴様ら下郎に天下を争った者の気持ちは分かるまい.真の英雄は最後まで望みを捨てぬものだ」などと言い放ったそうだ.
私は,もし石田三成と言う人が同時代人で,尚且つ知り合える機会があったとして,仲良くなれたかどうか,自信は無い. それ程に気難しそうな人物に見える. が,彼が最後の最後まで紛れも無い彼であった事は,今日を生きる私の勇気に変わっている. 私も日々,自分に「かくあるべき自分像」を課しつつ生きているからだ. たかが首を刎ねられるぐらいの事で,私が私でなくなってなるものか.
・12/5(日)
欲しい物が手に入らない理由.
欲しい物が手に入らない事に苦しむ人は,いつの時代にも多かろう. そして人は,その現実に原因を求める.人間が論理の生き物だからだ.
どんな状況においても,そうなるに至った理由はきっと存在している筈だが,それを自分に説明するには根気が要る.この根気の成分の多くは言語力だと思われる. 考える根気の無い人は,大抵国語力も怪しい.
厄年だの何だのと言う非科学的なものに根拠を求める人は,つまりはここで言う根気に欠ける. 言語力と感受性は密接に関係しているので,この根気に欠けた人は,実を言うと何かを辛いと感じる事も苦手である. 即ち,どんなに一見困難な事態に遭遇しようと,実のところ然程に辛くはない. 良くも悪くも,辛さを掴み取るだけの国語力を持たないのだから.
人間関係が良好でない現実に悩む人はいるだろう. 換言すれば,「良好な人間関係」はその人にとって欲しい物であるわけだ. 人間関係における軋轢には,当然個別に原因が存在している筈で,大抵のケースにおいては,自らの振る舞い如何によってそれを回避出来るに違いないのだが,歯を食いしばって原因を究明しなければ,その事態は謎のままになり,自分を苦しめ続ける.
その苦しみが,嫌であれば嫌であるほど,人は打開策を真剣に練らざるを得なくなる.嫌なのだから. もし「嫌だ嫌だ」と日々を厭うものの,事態と真剣に向き合わない人がいるのなら,実はその人にとって,事態はまんざらでも無い. だって,そこから逃げたいとまで思わないのだもの.
今回の結論. 変な言い回しだけど,欲しい物が手に入らない大抵の理由は,実は本人さえもそれを真剣に欲してないから,である. 本当は「欲しい物」ですら無いのだから,当然真面目に掴みに行こうと思わないし,従ってなかなか手にも入らない. 欲しい物が手に入らなくて悩んでいる人は,一度で良いから事態と真剣に向き合ってみれば良い.
真面目に向き合えば,いつかそれが手に入るかもしれないし,そもそも欲しくなかった事に気付くかもしれない. どのみち手に入らない苦しみは消える.
私は他人に対し「こうあるべきだ」などとは言わない. 私は押し付けがましい人でありたくない.基本的に無害でいたいのだ. が,「ある物が欲しいのであれば,それを手に入れるに相応しい自分にならねばならぬ」と言った(算術のように)当たり前の助言ならばする事もある.
・12/4(土)
昨日,えらい暖かいと思ってたんだけど,東京の最高気温24度だそうだ.もう1度で夏日ってヤツだ.12月なのに.どうなっているんだ.
それはそうと,今週水曜に発売された「MUSIC(in me)」で,ウチの年内のリリースアイテムはとりあえず一区切りです(如何でした?). 各タイトルは,引き続き販売されていますので,是非入手してみて下さい.
と言うわけで,今週のリハーサル風景.
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・12/3(金)
何だか今日は,12月とは思えないくらい暖かかったですね.
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・12/1(水)
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神田優花「MUSIC(in me)」,本日リリース(Moraの新着ページ). 画像のデカいAmazonのリンクでも貼っておくか.
上は先週のリハーサル時のカット,下は神田優花からのメッセージです.
・11/29(月)
私は仕事上のミスをよくやらかす.子供の頃から忘れ物の多い子だった. 早い話が,そういう面においてあんまり頭が良くないのだろう.
だが,今の私には同時に誇れる事もある. それは,誰かにミスを指摘された際,素直に「ゴメン」と謝れる事だ. 自分に自信が持てなかった昔は,たったそれだけの事が上手く出来なかった.やはり私は日々進歩している.
そう言えば,Amazonさんが音楽配信を始めたそうだ. 海外のAmazonの方は前から既に配信してたのだけど,日本のAmazonでも始めたらしい.
サイトの作りを見る限り,単に先行の海外サイトのフォーマットをそのまま日本版に移植しただけのようにも見えるが,嬉しいのはジャケット画像がとにかくデカい事. 国内のどの配信サイトのよりデカい. 外資だからか,アメリカン・サイズである. 下にリンク貼ってるんで,まあ試しに見てみて下さいな.
神田優花「Ray」
・11/28(日)
私の音楽活動.
私は,演奏(無論歌唱も含む)をスポーツだと捉えているので,厳密には創作と見做していない(創作性皆無であるとまで思わないが). 普段ウチが,あまりライブ活動に力を入れない所以でもある.
一応ながら私は,元々はプレイヤーでもあったので,昔は自分がステージに立って演奏する事もあるにはあった. 因みに今は無い.意識的に避けている面もある.
私にとっての音楽活動とは何か,と言うと,それは「考える事」である. 休日,布団の上に寝転んでいたり,所在無く道を歩いていたり,満員電車に揺られていたり,風呂桶に浸かっていたり,定食屋で注文した品が届くのを待っていたり,届いた定食を食べていたりする時間,それら全ては私の音楽活動である. つまり私には,落ち着いてモノを考える時間が要る. 音楽以外の懸案事項とか,日々の不安材料とか言う物は大敵なのである. 私は,常に穏やかな気分でいなければならない.
まあ私はライターだからこういう風になるけど,歌手とかだって基本的には,「作品制作」こそが音楽活動の中心であるべきではないかと思ったりする.
ついでに. 年明けにライブ・イベントを予定していますが,まあ顔見せだとか挨拶的な意味合いが濃いからってのもあるけど,生バンド揃えて演奏しようとか特に思っていない. ウチのほとんどの楽曲って,そもそも生演奏を前提に編曲されていないし,小編成のバンドで再現する必然性って薄い.つうか,それ用にリアレンジする必要が生じる. 大部分をシーケンスだとかオーディオデータを走らせる事(つまりオケ)で済ませるのが,最も合理的に思える.少なくとも現時点では.
たまに「生演奏を堪能したい」的な意見をもらう事があるのだけど,ちょっと現状そういったニーズにはお応え出来ないっぽくて申し訳ない. まあでも,その種の興趣を満たしたいのであれば,いくらでもそういう対象はあるので,無理にウチが応える必要も無いかとも思っている.
・11/27(土)
今週のリハーサル風景.
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神田優花,12/1(水)発売予定のデジタル・シングル「MUSIC(in me)」の楽曲解説.
・11/26(金)
年明けのライブイベントの日程(&会場),調整つきつつある.詳細はまた後日. 以下,今週のスタジオにて.
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・11/24(水)
影山リサ「Rock Me」,本日リリース(Moraの新着ページ).
・11/23(火)
優れた競走馬は,大人の男一人を担いだ上で,時速70kmを超えるスピードで走るそうな. 凄いと言えば確かに凄いのだろうけど,競馬と言う特定の条件下における能力だから,多少環境が違っただけでも,実現出来るパフォーマンスは(無論,結果としての優劣の序列も)変わってくるに違いない.
彼らは本来,草原で草を食む草食動物で,サバンナで羚羊を追いかけるチーターとは基本的な生存条件が異なっている. つまりその脚力が必要(生存上有利な条件)なのかすら本当は怪しい. まあ逃げ足は速いに越した事なかろうが.
どこぞの人間がこさえた「競馬」と言う競技のルールに則れば,所定のコースを一秒でも早く駆け抜けた馬こそが優秀であるとされる. 優秀な馬は各種の賞に与り,馬主は大金を与えられる. 彼(その馬)は,競走馬としての現役引退後も,継承されるべき優れた種であるとて,種馬として重宝される.
乳牛は,搾乳効率の良い個体こそが優位であるとされ,当然ながら残すべき種であるともされる. 畜産農家らにとって都合良い種だから. ついでながら,ほとんどの乳牛は人為的に搾乳せねば,乳腺炎になってしまうそうな.酷いと死ぬ. つまり,優秀とされる牛であればあるほど,自然界では生存すらままならない.
資格取得や大学受験に狂奔する人たちに,上の話の滑稽さは感じてもらえないだろう. 私はもう,どこかの誰かに駿馬と呼んでもらいたいなどと思わない. 搾乳効率が悪かろうが,駄馬と罵られようが,私は自分が納得出来る自分になるため,まだ誰も見た事の無い草原を一人で駆け抜けたい. 私の求めるものは,きっと私の中にしか眠っていないから.
・11/22(月)
「徳は孤ならず,必ず隣あり」. 「論語(里仁篇)」にこう言う言葉がある. 幾通りかの解釈はあるらしいが,基本的には「徳ある者は孤立せず,必ず理解者が現れる」と言った意味だそうだ. 私も同感です.と言うか,そう信じて生きています.
だからもし,日々に孤独を感じる事があるなら,それは私に,まだ足りない何かがあるのだろう. 今日もがんばります.
・11/21(日)
私は常々「人は欲しい物全てを手に入れれば良い」と思っているし,そう公言して憚らないが,この表現は誤解を生みやすいようにも感じている. あくまで人が歩むべき道は一つである.
例えば,ある人が音楽家であるならば,もしその人が現時点で,特定の会社に所属するサラリーマンであったとしても,間違いなくその人は音楽家である. 定職に就かず,音楽三昧の日々を送っていようと,いくら収入そのものを音楽で賄っていようと,音楽家でない人はいる. この辺り,説明が難しい. 心の中のプライオリティの問題だからだ.
夢って,一つの塊なのだ. その中の成分として色々なものが含まれている.「欲しい物全て」ってのは,その色々の成分の事である. 優先順位すら曖昧な選択肢が目の前にとっちらかっているだけの状態では,まだその人は夢を見られない. 心に決めた道の上にいないから. その人がアーティストであるかどうかは,表面的なルックス,歌や楽器演奏の上手い下手などと直接関係が無い. 私の言いたい事,伝わりますでしょうか.
我々は事務所業的な事をやっているのだけど,人を育てる事が大きな課題となっている. アーティストを育てるってのは,歌だとか踊りだとかを上達させるのではなく,その人を,ここで言う一本の道の上に乗っけてやる事なのだ. その一本道に乗っかりさえすれば,何に関心を持とうが,何を手に入れようが構わない. 単に歌が上手くなりたいだけの人は,カラオケ教室に行けば良いと思う.
我々が見せたい景色は,自分の全てを張らないと見えないものなのだ.
・11/20(土)
神田優花. 来月1日に新作「MUSIC(in me)」が,リリースされます. 以下,今週のスタジオにて.
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下は今週のリハーサル風景.
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・11/19(金)
今週のスタジオにて.
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・11/17(水)
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神田優花「Ray」,本日リリース(Moraの新着ページ). カタログ情報も上がっているみたいなので,詳細はそちらで. 上は先週のリハーサル時のカットです.
以下,神田優花から.
・11/16(火)
人間の何を信用するか. 目の前にいる他人を信用する為の拠り所となるものって何だろうか. 私が考えるには,やはりその人の持っている雰囲気とかだろうか. 曖昧な拠り所ではあるが,それ以外に思い当たらない.
言葉ってのは確かに重要なのだけど,吐かれた言語が,その人の言葉かどうかを察する為のよすがとなるのは,やはりその人の物腰や所作と言った,総合的な雰囲気だ. 口にすれば誠実に見られそうなセリフを踏襲する事くらいなら,誰にだって出来る.
私は金持ちでないので,投資話を持ちかけられる事などほぼ無いのだが,仮に持ちかけられたとして,乗るかどうかの決め手になるのは,相手の持つ雰囲気だろうな. 直感とでも言おうか,結局それが一番信用出来る.
迷った際,「どうすべきか誰かに相談してから決めよう」なんて思う人は,つまるところ,相手ではなく自分を信用していない. 「自分如きの判断など,信用出来たもんじゃない」と思えるからこそ,他人の判断を仰ごうとしてしまう. 決断する主体の存在が希薄だからこそ,時に「騙された」などと言う話にもなる.
信じる事の反対は,疑う事ではない. 疑うと言うのは,「この人は必ずや私を裏切るであろう」と信じる事なのであって,つまりは信用する事と表裏一体の感覚なのだ. 信じる事の反対は,疑わない事であり,要するに「何も考えない事」・「何の決断もしない事」である.
「騙された」などと,のうのうと言えてしまう人は,信じる事を決断した自分がいないのだろう. 自由の無い人間ほど怖いものはない.
・11/15(月)
神田優花,11/17(水)発売予定のデジタル・シングル「Ray」の収録曲解説.
・11/14(日)
ある音楽家(それも当代一流と言われている)が,「夢がある事は素晴らしい,と言う現代の風潮に反吐が出る」みたいな事を言っていたらしい. 彼はアーティストなのだから,モノを考えていない筈はなく,ある程度の理由があっての発言なのだろうが,私にはよく分からない. 私は夢を見る事を素晴らしい事だと思うから.
その音楽家には夢は無いのだろうか.そんな筈は無い. 彼が今,暖めているであろう「次の曲」のイメージは,夢そのものだし,今までに作ってきた無数の作品群は彼の夢の結晶たちでは無いか.
もしかして上の音楽家は,夢と言う用語を「栄達の願望」とか「数値目標」とか,そういう意味で使っているのだろうか.だったらまあ分からないでもないかな.
人が,夢と言うか,未来を想像する事無しに生きていけるのだと本気で思える人は,実に強靭な精神をお持ちなのだと思う. 私には無理だ.
・11/13(土)
先週「BYE BYE BABY」(配信版)がリリースされた影山リサですが,今月末(11/24)には「Rock Me」の配信版もリリースされます. パッケージ版未入手の方は,この機会に是非聴いてみて下さい. カタログ情報はこちら(バウンディ).
そう言えば「BYE BYE BABY」はPC配信だけでなく,着うた関係もリリース(レコ直・LISMO等で)されていますので,良かったら探してみて下さい. 以下,今週のスタジオにて.
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・11/12(金)
年末にイベントをやる予定だったのですが,年を跨いでしまいそうです. まだハッキリとした日程は決まってないのですが,多分来年の1月あたりにやります.今調整中なので,詳細決まったらお知らせします. 以下,今週のスタジオで撮った写真.
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片飛鳥,歌入れでした.
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・11/11(木)
今週「IMAGINE」を発表したばかりの神田優花ですが,来週の11/17(水)に次のシングル「Ray」を発表します. 以下,収録曲の解説.
・11/10(水)
本日,神田優花の「IMAGINE」がリリースされてます. 詳細は上記リンク先か,バウンディの公式にもカタログ情報が上がってるみたいなので,そちらご参照下さい. 以下,神田優花からのコメント.
・11/9(火)
以下,無駄話である. 何の教訓にもなりそうにない,下らない話で恐縮だが,不意に思い出したもので.
ファミレスなんかによく「ドリンクバー」ってものがある. 大体セルフサービスで,ソフトドリンク飲み放題みたいなサービスなのだが,私は注文しても,ほとんどお茶類ぐらいしか飲まない.何故か,炭酸飲料やコーヒーなどと言ったものをあまり飲みたい気分にならないのである.
しかしああいうドリンク・サーバーから出てくる茶は,正直あんまりおいしくない. 濃縮されたシロップを水で希釈したようなものを飲む事になるのだが,本来のお茶の風味などは当然再現されておらず,いわば色つきの真水を飲んでいるのに近い状態だ. だからして,私はある時期から,ファミレスなどではわざわざ金を出してまでドリンクバーを頼まなくなった.お冷で十分だと思うようになったのである.
本題に入る. もう何年も前なのだが,知り合いのカメラマンとファミレスで昼食を取った時の話である.
ランチのセットみたいなヤツを注文したのだが,ドリンクバーも一緒に頼んだ(あるいはセットに付属していたのだったか). 私は普段,お冷で十分なのだが,わざわざ金を出してまで頼んだドリンクバーである(付属のサービスだったとしても,ランチセットの代金にドリンク代は含まれている筈である).どうせならしっかりソフトドリンクとやらを飲んでやろうと思った.
しかしその時行った店,ドリンク飲み放題ではあるものの,よくあるタイプのビュッフェ・スタイル(セルフサービス方式)でなく,都度お替りを注文するオーダー形式だった. 最初に料理を注文する際,同時にファースト・ドリンクを指定するのだが,当然それが運ばれてくるまで若干の時間がある.
その時,我々は仕事上がりで喉が渇いていた. 私の目の前には,我々が席に着いた直後に出されたお冷のグラスが置いてあったのだが,私は「せっかく金を出してまでドリンクバーを頼んだのだ.お冷などでこの喉の渇きを癒してなるものか」と思っていた. 水分など取れる量にも限界があるのだ.
するとその時,驚くべき光景が私の視界に飛び込んで来た.
目の前のカメラマンさんは,その日の仕事の話などをしつつ,何らためらう事もなく,テーブルの上の「お冷」を飲み始めたのである. 無論,その後に届いたソフトドリンクも,それはそれで飲んでいたのだが,その時の私は,お冷に手を付けた彼を「何てカッコイイのだろう」と,しばし羨望してしまった. 卑しい私に,あのような真似は為し難い.
・11/8(月)
「リア充」と言う言葉をご存知か. 私はこの手のスラングに疎くて,本当につい最近知ったのだが,大意は「実生活(リアル)において充実している事」だそうだ. こんな言葉が流行するぐらいなのだから,使用している人らの世界には,当然の事として「実生活以外の充実」が存在しているのだろうか. だったらちょっと怖いな.
斯く言う私も,想像の世界に生きているようなもので,日々空想に耽ってはいる.が,実生活の方は実生活の方でそれなりに充実している. 少なくとも,実生活を空想世界と対置させ,相対概念とするような気分にはない. あるいは残念な事ではあるのかもしれないが,我々はこの世界でしか生きて行けないのだから仕方ない.
・11/7(日)
先日,スタジオでのリハーサルの合間に雑談していたのだが,「肩こり」に話題が及んだ. よく言われているのだが,肩こりは,ほぼ日本人特有の症状であると言う. しかしまあ,外国人も同じ人類で,基本的な体の構造は同じなのだから,日本人に発症するものが発症しないわけが無い. 「肩こりのある無しは,言語の問題である」と言う説明を私なりに試みたのだが,どうも不十分だったような気がするので,ここであらためてまとめておく.
因みに「肩がこる」と言う修辞は,漱石による発明だそうだ.従って,明治期あたりに生まれたのだろう. 言葉が誕生した事により,やがてその疾患は日本人のコンセンサスとなった.言葉が生まれる前も,その疾患自体は間違いなく存在した筈だが,文献上一切確認出来ない(少なくとも私は寡聞にして知らない). 例えば江戸期の日本は,人口のほとんどが農民で,彼らは肉体労働者そのものであったのだから(現代の農家とは,器具類においても懸絶している),甚だしく肉体を酷使したろう.いわゆる単純労働のような作業も多かった筈で,肩がこらなかった筈が無い. 症状を指す名詞が無かったから,意識する事が難しかったのだろう.
肩を英語にするなら「shoulder」だが,英語圏の人らは,日本人の言う肩こりを「stiff neck(首)」などと表現するそうな. 確かに「こる部位」を肩と呼ぶべきか,には疑問が残る. また,人体の部位の名称は実に曖昧でもある.
例えば,「背が高い」などと日本語では表現されるが,背は英語なら「back」であり,「back」に「height」の意味はなかろう. 日本語の「背」には,「背中」だけでなく「身長」の意も含まれる.「背」と言う言葉を理解する事とは,それら複数の意味合いを包摂した立体的概念を把握する事である. それを体感出来る能力こそが,国語力なのだろう.
とにかく,「肩こり」と言う表現(用語)は日本人特有だが,それに相当する症状は日本人特有でない,と言う話をしている. 何故まるで特有であるかのような錯覚が生まれるのかと言うと,上で述べた通り,言語に集約するからである. 民族などと言うものも,要は言語なのである. 何だか,まとめようと思ったのに上手くまとまってないな.まあいいや.
・11/6(土)
週明けの水曜日に,神田優花の新作「IMAGINE」が発売されます. 神田優花の今年初めてのリリース・タイトルなのですが,これから年末にかけて,計3タイトル(全5曲)を発表しますので,是非チェックしてみて下さい.
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以下,今週のスタジオにて.
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・11/5(金)
今週のスタジオにて.
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・11/3(水)
本日,影山リサの「BYE BYE BABY」の配信版がリリースされてます. iTunes・Moraをはじめとする,国内の主要音楽ダウンロード・サイトで公開されています.音源自体はちょっと古いものですが,未入手の方はこの機会にチェックしてみて下さい.
・11/1(月)
日本語って,やはり多少論理性に乏しいのだろうか. 例えば訳文などを読んでいると,しばしば意味が分かり辛い下りに遭遇するが,どう繰り返し読んでも理解出来なかったセンテンスが,原文を読むとすんなり理解出来たりする事がある. これは英文に限らず,漢文でも同じだ. 訳者の技術(翻訳力)もあろうが,日本語そのものの論理性みたいなものが引っ掛かってるような気がする.
・10/31(日)
一般に,オタクと呼ばれる人種(中でも特に女性)には「早口」が多い. 私は,私の実体験に基づいて言っているのだが,他からも多くの証言を得ているので,私の身辺に限った話では無いと思われる.
会話と言うのは,本来コール&レスポンスによって成り立つ「グルーヴ」である. だから相手(の心)を感じる事無しには成立し得ない. 相手の理解度を無視して話は進める事が出来ず,その為には,一センテンス毎に相手のリアクションを確かめねばならない. スピード・アップしようにも,相手がいるから自ずと限界がある.
しかし,それはあくまで相手の心を感じている事が前提である. 相手(の理解)など無視して,言いたい事だけを矢継ぎ早に喋れば,当然早口になる. マナーとして踏むべき要所をぶっ飛ばしているのだから. こう言う風に,一方的に言語を浴びせかける行為を,普通「会話」とは呼ばないが.
度を越えた早口で喋ってしまう人とは,要するに単なる自己中心主義者なのではないか. 相手を感じていないが故に早口になれてしまう. おそらくそういう人は,当然の帰結として,浴びせかける言葉の内容(話柄)も,「自分の関心事」でしかない場合が多くなるだろう. だからして,多くの一般人は,早口で喋りかけて来る相手を生理的に好きになれない筈だ. 何故なら,自分に対する愛を感じ取れないから.
因みに,女性の方が早口になってしまう理由は,おそらく言語中枢の精度とか滑舌とか,単にそういう身体条件の問題なのだと思う. 相手を感じておらず,尚且つ遅弁である人,と言うのはいくらでもいる筈である.男性にこのタイプは結構いるのではないか. そういう人は,「相手の心を感じていない」と言う側面においては上記類型と共通しているのだから,喋るのは遅くとも,例えば「遅過ぎる」とか「相槌を的確に打たない」とかいう風に,別の形で相手を無視してしまっているのではないだろうか.
・10/30(土)
今週のリハーサル風景.
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川村真央,先々週録った曲の上がりをチェックしてました. 初めてマスタリング工程まで行った曲です.
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今週水曜(10/27)にリリースした「タイトロープ」について,佳乃からのコメント.
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・10/29(金)
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本日より,影山リサ「Rock Me」販売開始されてます. 上は今週のスタジオで撮った写真.
・10/28(木)
私に限った話ではないが,実のところ,人は他人の考えている事が分からない. 多くの人は,分かったつもりでいるだけの事で,その実それは想像に過ぎない.
この想像を成立さしめるよすがは,自分自身の思考である. 「この状況,自分ならこう考えるだろう」と言う感覚こそが,他人を推し量る唯一の材料となっている. 思い遣りのある優しい人は,「自分がこうされたら嬉しいだろう」と言う想像を元に他人に施しを与え,意地悪な人は,「自分がこう言われたら傷付くだろう」との想像を元に他人に厭味を言う.
無論,他人と自分は同一ではない. だから自分と異なった他人を感じる為に,人は無意識のうちにでも,自分の感覚のある部分を拡大したり,あるいは削ったりと言う試行錯誤を繰り返している.
以上は,私の考える「人間が他者を理解するプロセス」である. ここで「この世界に絶望する人」について考えたい.
「誰の事も信じられない」とか「人生,お先真っ暗だ」とか,要するに,この世を「闇」だと捉える人は,何故そうなってしまうのか. それは「誰も自分を愛さない」し,窮地においては「誰しもが自分を見捨てるだろう」と思えるからだ. つまりそう思う彼は,実は自分こそが,誰の事も愛しておらず,誰を救うつもりもない. 従って,世界が闇に見える.
精神疾患の一種で「妄想性人格障害」と言うのがある. 人間の「世界に対する不信感」が深刻化した末に行き着く疾患であるらしい. 病名が付くほどで無いにしろ,軽度のそれを抱えている人は多かろう. 世界に絶望する人は,要は自分自身の「ロクでも無さ」に苦しめられている.
この病から,自分を救う方法があるとすれば,それは「何かを信じてみる」しかなかろう. それが容易でない事くらい,私とて分かっている. でも,それしかない. 日々が不安で仕方ない人は,一度で良いから,本気で誰かの支えになろうと思ってみる事だ.
・10/27(水)
本日,佳乃の「タイトロープ」がリリースされてます. Infoにもありますが,iTunes・Moraをはじめとする,国内の主要音楽ダウンロード・サイトで公開されています.
そういえばちょっと前まで,Infoのページなんかに公開サイト一覧を載せてたのだけど,あまりにあの手の業者は入れ替わりが激しいので,とりあえず代表的なところを一つ二つ載せるだけに留めておく事にした. もう何年か経てば,もう少しこの流動性も収まろうとは思うけど.
・10/26(火)
私もいい歳なもので,昔からの友人らの多くが子持ちである. 親子について考えてみた.
親子と言うものは,通常似ているものだし,似ているに越した事は無い. 実は今回「親子が似ていない事は,場合によっては悲劇にすら発展する」って主旨でテキストを打っていたのだが,とんでもなく膨大な文章量となってしまったので,とりあえずここに上げる事を見送った. 考えているウチに派生して出てきた想念を,ちょっとだけ書き留めておく.
大多数の人は,自分を認めて欲しい. だから生来の自分を肯定してくれる論理などを好む. あるフレーズを,その論理的整合性より,自分にとっての耳障りの良さによって,採用するか否か決めてしまいがちだ. それがどうやら人間の「自我」と言うものらしい.
だからして,人は自分に似た人を好むし,自分の立脚点となるある論理に抵触する人の存在(振る舞い)を好まない筈だ. 良い悪いの話をしているのではない.
タイプにも因るだろうが,親は自分に似ていない子を見た際に,その子の存在を否定する方向で評価しがちな筈だ. そうせねば,自分自身が否定される気分になるだろうから. 親と子の力関係は,子が本当に子供であるうちなど,絶対的なものになりやすい(無論親が上である). 似なかった子供にとって,これは不幸だろう.
しかし親も人間である. 自分が否定される気分を当然好まないし,自我を否定される事に,それこそ子供のように怯えてしまいもする. 親に似なかった子供たちに,私は心底同情するが,同時に「親も人間なんだから許してやってくれ」とも言いたい.
親(と言うか家庭環境)は,確かに人間の人生を大きく左右する条件ではある. が,決定付けると言う程のものでもない.あなたが自由でありさえすればなおの事.
・10/25(月)
先日,ラーメン屋での話である. 注文したラーメンが目の前に置かれたのだが,具の一つである「海苔」が,私の目に留まった.
おもむろにそのラーメンをすすっていた私なのだが,ボーっとしていたのか,気が付くとどんぶりの中を見渡してもあの「海苔」が無い. 消えてなくなるわけがないから,つまりは私が食べたのだ. 上の空で食事をしていたが故に,海苔を味わう事を忘れていた.
私のあの食事において,あの海苔は存在しなかったも同然である. 意識を注がなかったが故に,感じる事が出来なかった. 何が言いたいかと言うと,朦朧とした意識では,人生を十全に味わう事が出来ぬ,と言う単純な事. 薄弱な精神では,ラーメン一つ正しい形で味わえないのである.
私が何より心の充足に価値を置くのは,「旨い飯を食うため」でもある. せっかくこの世界に生まれて来たのだから,飯ぐらい本来の旨さを味わいたい. まあこの文章を残せた時点で,あの海苔も私にとっては,意味無くも無いものだったわけだが.
・10/24(日)
そう言えば昔「会社(勤め先)に定期昇給制度がない.今の会社に勤めていても,今後の夢も希望も見えて来ない」などと嘆いている人がいた. まあ雇われ人の立場としては,定期昇給が保証されればそれに越した事は無いわけで,気持ちは理解出来ないでも無い.
しかし,江戸時代の武士の禄高や百姓の耕作地は,二百数十年もの間,基本的には「据え置き」であったが,一応社会は成り立っていた. あの時代,建前上コメは通貨代わりだったのだが,価値は当然変動したろうし,貨幣そのものは実際流通していたから,今で言うインフレ・デフレの類も当然(社会が単純な分,現代以上の甚だしさで)起こったろう.
ウチは,こんな規模の遊びみたいな会社ではあるが,一応経営を行っている. 私は代表者でないが,スタッフが少ないが故に,嫌でも経営的な側面でモノを考えざるを得ない時がある. そういう,「雇われ人であり,尚且つ経営者の心情が想像出来なくもない私」の率直な意見として,何故人は「定期昇給」などと言うものを当然の権利だと思えるのだろうか.
だって考えてもみなさいよ. 貨幣の価値も会社の業績も,常に上下しているのですよ. 高度経済成長期のような,ある種の「異常な時代」ならいざ知らず,会社が永遠に業績を伸ばし続け,成長し続ける,なんて誰が決めたのだろう. 現実問題として,業績は上下するのに,人件費だけは一方的に上がり続ける,では会社も困ろう. どうしても給料の額面を上げて欲しければ,自分の力で会社の業績を伸ばすとか,最低でもそれぐらいの事はせねばなるまいて. まあ世の中には「景気」なんて得体の知れないものもあるから,我々の努力などと無関係に金回りが良くなるような事もあるが.
世の中を見渡しても,普通に業績の落ち込む会社(あるいは業界)も,倒産してしまう会社もある. 自分が日々同じ事しかしていないのに,定期昇給を望んでいる従業員なんて,どれだけ自己と組織を分離して捉えているのだろう. 私が経営者だったなら,欲しい社員はそういう人では無いな.
・10/23(土)
今週のリハーサル風景.
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銀行預金の残高,あるいは学歴や資格なかりせば,この先路頭に迷うやもしれぬ. そう思う人が,如何に巧みにその不安の種をかき消したところで,彼は人生における敗者だと思う. 世の中には,「不安を消す作業」と「夢」との区別が付いていない人が多い.
不安要素と言うのは不思議なもので,探せば切りが無くなるらしい.そんな想像力があるのなら,もっとポジティブな方向に活かせば良いと思うのだが. 本当に世の中にはよく分からない人がいる.パチンコや宝くじに一攫千金の夢を見られる想像力と言うのも,私にはよく分からない. 夢は,現実の向こうに見出すものであって,現実の手前で(現実すら把握せずに)見るものじゃなかろうに.
好きな事をしている人,別に歌や音楽に限らず,絵を描く人でも写真を撮る人でも何でも構わないが,その人は本当に幸せだと思う. 如何に金やモノを掻き集めても,それは不安を誤魔化す材料にしかならない.
金は浮世を回っていくし,モノは必ず劣化する. 人生とは,与えられた時間の中で,上下する感情の起伏を味わうだけのもの.
不安の少ない人生なんかより,愛する一篇の歌を口ずさめる人生の方が,どれだけ意味があるだろうか. 私なら絶対そちらを選ぶ.
・10/22(金)
今週のリハーサル風景を.
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・10/21(木)
歳を取るにつれ,人は何を失うのか.
時間を「失うもの」だと捉えれば,人は日々価値を失い続けるものになるのかもしれない. 確かに,今の仕事においても,例えば歌手の営業活動なんかをやっていると痛感する事がある. 営業回りをする際,「新人」とか「デビュー」とか「ファースト・アルバム」とか銘打てた方がトピックス・バリューが断然高く,各種のメディアなんかでも扱ってもらいやすいのだが,その手の文句は基本的に一度しか使えない. 歌手は,活動を長くやればやるほど,ある面において,ニュース・ソースとしての価値は下がり続ける. 無論,人気などと言う付加価値があれば,それも絶対ではないが.
例えば職を選ぶ際,求人の要綱に「年齢制限」が謳われている事はままありますね. 日本社会には年齢による序列も濃厚に存在しているから,あるいは単に,年齢によって生じる各種の衰え(体力・容姿など)が,人間の商品価値を下げている事も原因と考えられる.
確かに人間は,ある意味物質でもあるから,商品価値と言う尺度で測れなくも無い. 自分をモノだと捉えるなら,そりゃ名誉や肩書き,あるいは単に預金残高などによって,自身の価値を高める事に執心せざるを得ないだろう.
生身の人間は,確かに歳を取る. 歳を取ることによって,周りからの扱いが変わり,振る舞う役割を変えざるを得なかったり.あるいは,人生のある時期には簡単に得られた,ある成果を得るのが容易でなくなったり,あるいは完全に得られなくなったり.
例えば私はオジサンなので,もう十代の少年には戻れない.絶対に戻れない. でも十代の少年であった頃は間違いなくあったのだから,オジサンである私の心の中に,少年の頃の私は今も存在している. 本当に少年だった頃の私の中に,オジサンは存在していなかった. 何が言いたいのかと言うと,「少年の頃の私より,今の私の方が優れている」と言う事. オジサンは,少年を包摂しているからこそオジサンなのだ.
確かに今の私では,「年齢制限:20歳以下」などと言う求人にはエントリー出来ない. でも,だから何だと言うのだ. 世の中には,誰かが勝手に作った基準が星の数程あり,その基準の数だけ優劣も生まれる. 私はそこで生じた一々の優劣に,一喜一憂するような人生を選ばなかった.
私に価値を感じなかった誰かとは,私の価値が分からなかった人だ. あなたに価値を感じなかった誰かも,あなたの価値が分からなかった人. たったそれだけの事.
我々自身は,誰が何と評そうと,今日も優れた自分になり続けるだけだ. 私は,誇りある私になる為,心に決めた道の上を走り続けているし,今日もまた一歩,目指す場所に近付き続けている. 私は諦めない.
私はある頃から,他人と自分を比較する事を止めた. そしたら,失うものなんて,本当は何一つ無かったと言う事に気が付いた.
・10/20(水)
二十歳前ぐらいの頃,当時は住んでいたところが田舎だったこともあり,周囲の連中の一部が「車」に取り憑かれ出していた. 無論の事,ここで言う車は,実用品としてのそれではない.装飾品である.
若気の至りと言おうか,自動車に趣味性を見出す若者の存在は別に珍しくも無かろうが,当時の私は,周囲にいる人らの,車ごときに心を奪われてしまうところが正直あまり好きでなかった. 理由は後述する.
人は何故,自分の外側に貼り付ける装飾品に過度に執心してしまうのか. それは心が貧しいからだ. 心の中にfortuneを感じていなければ,人は金やモノ,資格や名声などが欲しくて堪らなくなる(少なくとも,fortuneを感じている人とはモノの見え方が違って来る). 自分を育てることよりも,車を手に入れることが優先されていた彼らの青春は,若くして既に枯れていたのかもしれない. あるいは,初めからそんなもの無かったのか.
ここで断っておきたいのは,「車に夢を見出す人はいる」と言う事だ. 心が車に何かを感じ,それを極める事に道を見出す人はいるだろう. だが,多くの若者が取り憑かれる一過性の「車好き」は,大抵それではない.
ここで私の言う「車好き」と言ったタイプは,おそらく金が好きだろう. 金が好きで尚且つモノが好きである筈だ. 金とモノは,身に付ける装飾品と言う意味で同類項である. 外見に着飾る為の装飾品を漁るばかりで,心の充足に重きを置かなければ,何時まで経っても彼らの不安は消えない.
自分を育てる事(心の充足)に重きを置けないのは,彼が,自分の可能性を信じていないからだ. 未来に広がる景色を,一歩前に進んだ自分像を想像出来ないから,今のままの自分に,モノで下駄を履かせようとばかりしてしまう. 私は自分に可能性を感じる人が好きだし,そうでない人を好きになれない.
私の愛して止まない「音楽」と,周囲の連中が好きだと公言した「車」,両者が明らかに違うものである事に(当時,今ほど明確に言語化出来なかっただけで),私は気付いていた. 音楽は身に付け,私を飾るものではなく,私の心の中にあるものだ. だから消えない.
・10/19(火)
優しさとは何なのか.
つい最近,ビルの解体工事現場の壁が道路側に崩れ落ち,歩道を自転車で通っていた女子高校生が下敷きになると言う痛ましい事件があった. 何の罪も無い,ただその時間にその道を通っていただけの女の子は,そこで即死した.
その後,事件の続報として,その解体業者の体制が杜撰であったとか,その手の話がチラホラ出てきてはいる. が,それは,こういう事件が明るみに出た際の常でもある. 探られれば脛に傷持つ会社などいくらでもあろう. まあ私に詳しい事は分からないから,きっとその会社は,本当に色々とルーズでぐらいあったのかもしれない.
結果あのような事態を招いたのだから,きっとその程度には杜撰な会社であったろう. 末端の作業員の仕事振りは杜撰だったろうし,現場にて作業員を束ねる監督者の監督振りも杜撰だったろう. そんな人を監督者に抜擢した人物も無論杜撰だったろうし,経営者の採用基準も管理体制も全てが杜撰な,何から何までどうしようもない会社だったろうか.
私は思った. もしかしたらその会社は,一見優しくて,ある面においては良い組織だったのかもしれないと. 採用の基準は無能者に温情的で,採用後も少々の従業員の怠慢には目を瞑り,社内には適度にダラけた空気が蔓延し,従業員にとってはそれなりに勤めやすい会社だった可能性もなくはない.
が,その会社の優しさのせいで,罪の無い高校生が死んだのだとしたら.
誰かの中途半端な温情によって,その職責を全う出来ぬ人物,いわば無能者がポストだけを得てしまう事は,不幸の始まりである. 本人を含む,誰をも幸福にしない. 場合によっては,あのような不条理な死さえ生じさしめてしまう. 心を鬼にしてでも,誰かが憎まれ役を買ってでも,踏み外してはならぬ要所はあった筈だ.
私は,出来る事なら優しい人でありたいと思うが,優しさの意味には拘りたい. 私は,半分以上自分への戒めとして,このテキストを打っている.
・10/18(月)
とある知人の話. 彼は被リストラ(解雇)経験者,しかもその経験も複数回に渡るそうな. 一般人にとって,離職はただ事でない.
電話越しの彼は,私に「俺がどんな悪い事をしたのか教えてくれ」などと詰め寄る. が,いかんせん私が彼を解雇したわけでもなく,解雇に至った状況もつぶさには知らない. 「それは気の毒に」などと言う,陳腐な慰めの言葉ぐらいしか投げかけてやれない.
彼は決して悪い人ではない.私も彼を嫌いでない. しかし私には,(彼には悪いが,)彼を解雇する会社側の気持ちも分からないではない. それ程に彼は仕事が出来ない. 能力でなく,意識が欠けているのである. 彼と話しているとよく分かるのだが,彼にとっての働く事とは,「会社員の立場にある事」でしかなく,会社組織に属しつつ,時間さえ潰していれば「自動的に給料は振り込まれるもの」と信じている. つまり,貢献するつもりが全く無い.
彼は,以前勤めていた会社で,過酷なセクションへと配置換えされたらしいのだが,「仕事が楽だった元の部署に戻してくれ」と言う要求が通らなかったのが理由で自主退職したと言う. 部署換えそのものが,会社からの遠回しな退職勧告だったのだろうけど,状況を説明する彼自身が,ついぞそれを理解していなかったように見えた.
彼は,「どこから金が生まれ,どういうプロセスで我が懐に流れ着くのか」と言う,仕事の大局を全く理解しておらず,給料など,おそらくは天から降ってくるもののイメージであったろう. 故に,社内での言動なども,常に場違いなものだったと思われる. 「何か悪い事をした」のではなく,「悪い事さえしなければ,無為徒食出来る」と思い込んでいた意識の低さこそが,彼を,会社にとって不必要な存在へと変えていた. 「俺がどんな悪い事をしたのか」と言う発言こそが,全てを物語っていると言えなくも無い.
電話の向こうの彼は,泣きながら私に「解雇に納得が行かない」と訴えていたのだけど,「世界のありよう」に納得が行かない事については,私には如何ともし難い. どんな相手にも,それぞれの事情が存在しているだろうから.
解雇が(法に抵触する程に)不当なものであるなら,それこそ不当解雇とて,訴える事は可能だろうが,その主張が通って,会社からいくばくかの小銭をむしり取れたところで,解雇の決定自体が覆る(復職出来る)ケースなど想像し難い. やはり,現実上の「ある立場」を得たいのなら,それ相応の自分になるしかない.
タダの人である私が,完全無欠のパラダイスを提供してあげる事など,出来る筈も無い. 私に出来る精一杯の事は,「この苛烈な現実と折り合っていく意志のある誰か」の,背中を押してあげる事ぐらい. ありもしない意志を励ます事など,私に限らず不可能だろう.
・10/17(日)
金とタバコ. 非喫煙者の私には関係無い話だが,今月のアタマから,タバコは大幅に値上げされたそうだ. で,色々と考えてみた.
そもそもタバコとは何なのか. 嗜好品などと呼ばれる事があるが,タバコは「好みに因って嗜む」と言う本来の嗜好品の定義に当てはまらない.従って厳密には嗜好品ではない. タバコは中毒症状によって「吸わされている」のであって,喫煙者は医学的には「ニコチン依存症」と言う病気なのである.
タバコは何かを得る為のツールではない. 禁煙状態の肉体に起こる禁断症状を緩和する為の,いわば原状回復の(マイナスを埋める)道具である. ついでながら,嗜好品とは何らかの快感(プラス)を得る為の道具だ. 明らかに両者は違う.
禁煙と言うのは,文字通り自らに喫煙を禁ずる事を言うのだろうけど,これが中々上手く行かないらしい. して,それは何故なのか.
それは,吸いたい気持ちを押さえ込もうとするからだ. そもそも燃え盛っている欲求(禁断症状)を,頭から塞ぎ込もうとするのだから,当然のように反作用を生み,場合によっては暴発する. この暴発を避けるには,修身に修身を重ね,歯を食いしばって欲望を断ち切るか,あるいは欲望が消えて「吸いたくなくなる」境地を得るか,どちらかしかない. 禅だとか言うのは,さしづめ前者を得る為のプロセスであろうか.
生身の人間が欲を絶つなど,容易で無いように思える. だから,大多数の人に禁煙は為し難かったりするのだろう. タバコを吸わずに済むには,吸いたくならない人,吸う必要の無い人になるしかない. 酒とかも要するに同じだと思う.
私は金についても思いを馳せていた. 多くの人にとっての金は,タバコと同じく不安と言うマイナスを埋める為のツールで,嗜好品には該当しない. 金そのものに利用価値がほぼ無い事を見るに,それは明らかだ. 札束はメモ紙にすら使えない. 我々が求める何かと引き換えてこそ,価値となり得る.
使途の定まらない金の効用は,せいぜい「将来路頭に迷わないように」とか「病気になった時の為」などと言う,不安を埋める事である. 将来の不安要素(マイナス)を,いくらシラミ潰しに埋めたところで,ゼロに近付く事はあれ,プラスには転じない. 何かを得ようと思うなら,本当に好きな物を追いかけねば.
私は,貨幣のコレクターにもならないし,タバコに捕らわれようとも思わない. 私は,私の本当に欲しい物を手に入れるんだ.
・10/16(土)
川村真央. はじめてのレコーディングでした. 端から聴いていた感想としては,まあ現状においてのベストテイクだったかなと. これから私は編集作業です.
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以下,今週のスタジオにて.
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・10/15(金)
今週のリハーサル風景.
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神田優花,11/10(水)発売予定のデジタル・シングル「IMAGINE」の収録曲解説.
・10/14(木)
神田優花. これから年末にかけて,3タイトル,計5曲を発表する予定です. 以下,その楽曲解説.試聴用のMP3も上げてみました.
・10/13(水)
「peanuts」ってアニメ(原作は漫画)をご存知だろうか. 邦題は「スヌーピー」なのだけど,作中のスヌーピーはチャーリー・ブラウンのペットに過ぎず,別に主人公でも無いので,タイトルとしては原題の「peanuts」の方が相応しいように思える.
基本的にほとんど子供しか出てこない作品なのだけど,ちょっと面白い描写があって気に留まった. 学校での授業のシーンで,隣り合う子供同士の会話は全てセリフで構成されているのに,大人(教師)の発言は全て,ポルタメントの掛かったような変なラッパの音で表現されているのである. 子供にとって,心に届かない大人の言葉など言葉ではない. 実にそれを上手く表現していると思った.
私はラッパのような言葉を吐く大人になりたくない. 私は子供だった事があるし,その頃の気持ちを忘れていないから,出来る事なら子供の理解者でありたい. 私が今のこの気持ちを無くしてしまったら,おそらくはもう曲なんて書けない.
・10/12(火)
リスナーたる事.
私は一応音楽家で,作品を公表している立場ではあるのだが,曲を作る上で日々心掛けている事がある. それは自分が一リスナーである気持ちを忘れない事だ.
私は,私と言う生身の人間を抱えつつ生きている. だから時に,衒いだとか驕りだとか,あるいは自己採点における甘さだとか,そういう邪念に目を曇らせてしまう. そうなるとマトモな曲は書けない.
私と言うリスナーを納得させられる曲を書く為に,私はいつも一リスナーたろうと心掛けている. 「こんな曲を書いたのだから,さぞや周囲から一目置かれるだろう」とか,私を含む俗人はすぐに思い違う. また,本来自分が純然たるリスナーであったなら,見向きもしなかったであろう駄作を,「自分が作った」と言う唯一の事情によって,名曲だなどと錯覚してしまう.
私が目指した音楽家とは,単にストイックな自分だった. 私は常に正直であろうと思う.
・10/11(月)
影山リサ「Rock Me」(パッケージ版の通販がもうすぐ開始される予定ですので,しばしお待ちを)収録曲について.
・10/10(日)
英語には敬語が無い. これがどういう事か分かるだろうか. 人間関係を上下で捉える,階級的な気分そのものが存在していないと言う事だ. 多くの日本人には想像すら出来ないだろうが,さぞかし住みやすい世界だろう. 本来社会とは,かくあるべきなのではないか.
兄弟の事を英語でbrotherと言うが,そこには兄だとか弟だとか言う序列(階級)的な意味合いは含まれていない(無論sisterにも). 単に同じ親を持つ男性,と言う意味でしかない. 英語圏の社会に,儒教的な長序の感覚そのものが希薄だからだろう.
序列の中に置かれず,愛されて育てば,当然その人は堂々とした人物になるだろうけど,その正反対の環境で育てば,これまた当然正反対の人間になってしまう.
私は欧米社会・白人至上主義では無いので,何においても欧米社会が優れているとまでは思わないが,日本人が学ぶべき点はまだまだたくさんあるように思える. 日本には,立場やそれによる役割の違いと,人間としての上下を混同している人がいまだに多い.
・10/9(土)
今週のスタジオにて. 東京近辺,今日明日は雨みたいですね.
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・10/8(金)
今週のスタジオにて.
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・10/7(木)
私が歌を作りたい理由なんて,実に単純だ. それは自分を勇気付ける為. 子供の頃から気付けば歌が好きで,何時からか自分で歌を作るようになっていた. ここで言う歌とは,そんなしっかりした理論(和声法などの)に則った「音楽作品」などと呼べるような代物ではない. 子供がよく自作する鼻歌のようなものだ.
心が挫けそうになる程の,悪い夢を見た朝には,次の一歩を踏み出す為の力強い歌が私には必要だった. 既存の歌で物足りなければ,自分で作るしかない.
この間,ある休日の朝,目は覚めたものの物憂くて,布団に入ったまま天井を見ていたら,外から女の子の声が聞こえてきたのだけど,それは「お兄ちゃんがんばれ」と言う言葉に節を付けて歌う声だった.
私の作っていた歌とは,あれなのだ. あのような断片的なフレーズを,人生の様々な局面で,自分を奮い立たせる為に作り続けた.
そしていつからか,歌と言うものが,この世界を自分自身に説明する為の言葉である事にも気が付いた. 歌を一つ作る度,それまで見えなかったものが少しづつ見えるようになり,新しい景色が目の前に広がった. 今までもそうだったから,きっとこれからもそうだろう.
主婦は,台所に立つと鼻歌を歌いたくなると言うけど,気持ちは何となく分かる. ある気分が高揚させられるからだろう. 人は気分の生き物だから.
世界に歌が無ければ,人は,この気分の高揚すら得られずに生き続け,死んで行く事になる. 人生に絶望しそうな夜や,これ以上走れないとへたり込みそうな時や,朝起きて会社や学校に行くのが辛い時や,台所で愛する誰かの為に料理を作る時,口ずさむ歌が無いのだから.
私はそれが嫌だから,自分の為に歌を作っている. だから「聞きたくない」と言う人に無理に聞かせたいとも思わない. でも,もしこの世界のどこかに「私の作る歌が必要な人」がいるなら,その人の心にぐらいは届けたいと思っています. いつでも心の中にあり続ける歌を.
・10/6(水)
ちょっと前に,古くからの友人と電話していた時の話である. 職場でのミスが重なっていたらしく,随分と気が沈んでいた彼は,「もう俺のやる事為す事,全て信用ならんと周りに思われている」と苦笑い交じりに語っていた.
私には,彼が任されている仕事の内容がよく分からない. 専門的な仕事みたいなので,説明されても多分分からないだろう. 従って,具体的なアドバイスなど何一つ出来ない. でも,彼がとても辛そうである事だけは感じ取れた. 私も一応仕事をしているので,悪い事が重なる時はあるし,上手く物事が進捗しないもどかしさも感じた事はある. と言うか,日々それらとの戦いである. だから,か細くではあっても共感ぐらいなら出来なくもない.逆に言えば共感ぐらいしか出来ないわけだけど.
その友人に限らず,苦しんでいる誰かに対し,私がしてあげられる事はあるのだろうか. 例えば,もし私に身に余る財産があるのなら,「職場が辛いならそんな会社とっとと辞めて遊んで暮らせよ」と,札束を手渡す事ぐらいは出来るかもしれない. その金を手に,家に引き籠っていれば,とりあえず当面,彼に「職場での悩み」はなくなるだろうけど,それは事態の打開策と言えるのだろうか. 死ぬまで遊んで暮らせる金を渡す事など容易でないし,世に溢れる「職場で悩む人」全てに,一生遊んで暮らせる環境を整備してやれる筈も無い. 私は,その職を選んだ彼が,その仕事を通して実現したかった何か,こそを手に入れさせてあげたいよ.
苦しみの一切無い世界の実現を謳う新興宗教などがあるが,私にはそんな事到底出来そうも無い. 世の中は矛盾や不公平に溢れているし,それらを全て正せるとも思わない(正されるべきとは思っているけど). 今の私に出来る事は,自分の一番欲しい物を追い続ける事ぐらいしかない.
私は友を勇気付ける為にも,何よりも美しい景色が見たい. まずは私が見た景色でなければ,他の誰かに伝える事など出来る筈が無い. 完全な幸福が何なのか分からない私に,完全な幸福なんて実現出来そうもない. 今の私に出来る事は,歌で誰かの背中を押す事ぐらいだ. 私は,今日の私が一番欲しい物を追い続けている事こそが,誰かの勇気に変わるような気がしている.
私の押したい背中とは,その人の自由です. 日々喜んだり,あるいは悲しんでいるその主体の存在こそを見つめている. だからその主体は,ある時には悲嘆に暮れるだろうけど,悲しみすら感じない者の背中など押しようがない. 私は苦しんでいる人を救いたいと思うが,当然ながら,苦しんでいない人は救えない.
・10/5(火)
子供の頃に見たアニメなどを今あらためて見てみると,「これはこんな話だったのか」と驚かされたりする. 子供の頃以上に面白いと感じたり,あるいは詰まらなく感じたり. 因みに,「面白い」の反対は「詰まらない」ではない.「何も感じない」だ. やはり私も大人になっている分,子供の頃に比べれば,ある面の感受性は洗練されている. だから感慨も一味違ったものになってしまう.
結局,どんな映画を見たところで,心が豊かでなければ,残せるものも少なくなってしまう. 子供の頃の私は,平たく言うと今より頭が悪かったわけで,そんな精神にどんな名作を見せても仕方なかったようだ. 大人になった今でも,寝ぼけ眼で見る映画と,冴えた脳の状態にて見るそれとでは,感じ取れる内容にも当然差が出てしまうだろう.
自由で無い人と言うのは,人生と言う壮大な映画を,寝ぼけ眼で見ているのだ. 多くの伏線や,感動的なシーンを平然と見過ごしつつ日々を送っている.
幸福の種など,実は目の前にいくらでも転がっていると言うのに,自らにそれを認識させずにいる. いつも誰かからのお仕着せの価値観に身を委ね,欲しくも無いものを何時までも追いかけさせられている.
「冤罪に苦しむ人を救いたい者」が弁護士になる事はあると思う. しかし,弁護士を目指す若者は,自分が追いかけているものが「弁護士のバッヂ」なのか,あるいは「夢」なのか,そのくらい区別しておいても良いように思う.
「ミュージシャンになって周囲を見返してやりたいんです」みたいな動機を堂々と謳いつつ,音楽の世界を志している若者が割りといたりするのだが,私は「若いんだから,もっと楽しそうな事やりなよ」といつも思ってしまう.
「誰かを見返したい」と言う負の動機は,先日述べた,圧制に耐えかねての百姓一揆や,現代で言うならさしづめ,各地の成人式で暴れる新成人らの原理である. 建設を志向せず,既存の体制に骨髄まで阿った上で,駄々をこねる事によって,何らかの好条件の割り当てを期待している. 資格の類に執着する輩も,そのほとんどの動機は「周囲に認められたい」と言う願望に過ぎない. いまだに「誰かに褒められたい」と言う気分から抜け出せずにいる.
「周囲から一目置かれたい」とか,そういう些事にしがみついている若者に破壊力を感じないのは,彼らが何ら建設を志向していないからだ. 創造とは建設だぞ.そんなネガティブな事でどうする. たった一度しかない人生,限られた時間の中で,我々に好きでない事をやっているヒマなんてあるのか?
私は日々,一歩前に進んだ自分の姿を思い描く,我がイマジネーションに引き摺られながら生きています. 私は名作を書くのだ.
・10/4(月)
人間の尊厳について.
欧米社会では,自らの権利を主張・行使しない者は,その分人間としての尊厳も少ないものとして扱われるそうだ. 言われてみれば当然である. 日本社会においても,それを口に出して言う人がいないだけで,厳然とそういう暗黙のルールは生きているように思える. 誇り高く振る舞う者は,その人が自分自身に感じた程度の価値を,周囲からも認めてもらえるのではないか(誇り高き振る舞いと言うのと,傍若無人な態度と言うのは違う).
学級のマドンナたり得る「モテる女の子」は,きっと親に大切にされているケースが多かろう. ごく自然に自分に価値を感じているから,周囲もその尊厳を追認してしまう. 逆に大切に扱われなかった子は,当然のように自分など価値の無いものと思い込む. 周りも自然とそれを感じるから,その人の尊厳は認められない. やはり自らが規定した自己こそが,その人の尊厳なのだ.
明治政府は,法体系・軍制・教育制度から服飾文化に至るまで,ヨーロッパ型の社会制度を受容したのに,何故キリスト教だけは本格的に導入しなかったのだろうか. 神道政権として復古主義を採っていたから,他宗とだけは相容れなかったのだろうが,残念で仕方ない. 日本人には,いまだにダイアローグの習慣が無い. これが如何に問題であるか,と言う危機意識すら持てないほどに言語機能が未熟である.
欧米人は神と対話する. 懺悔すべき神を心に宿す事によって,自問自答を繰り返し,考える能力を培う. 考えている主体こそが,その人の自己である. 多くの日本人は,思考を苦痛だと捉えている. 自分の心の在り処を捉まえられないから,「幸福を求めて生きる」と言う,たったそれだけの作業が出来ない. そして,そういう人らは周囲から,人間としての尊厳を感じてもらえない.
今の日本社会に,もう飢餓は無い. 格差社会だの何だのと言われているが,実はもう飢える心配などどこにも存在していない. また今の日本社会には固定化された身分も無い. 有り余る富を手にしたところで,隣人の100倍の飯を食えるわけでなし,都会に自分のお城を建てられるわけでなし.ましてや,一個人が持てる時間など金で買える筈も無く,そういう意味においては本質的には皆平等である.
この社会にいまだ残る不平等とは,実は個人の中にある尊厳の差に他ならない. 羨望を集める者がいる一方,容認すらされぬ者がいる. しかしこの格差を埋める方法はある.それは,各人が自分自身に尊厳を感じる事である. たったそれだけで良いのだけど,それがある人にとっては,どうも至難の業らしい.
私はその人の心の奥に存在する,精神の輪郭(例えそれがか細いものであったとしても)に訴えようと,音楽と言う針を日々投げかけている.
・10/3(日)
影山リサ「Rock Me」収録曲について.
・10/2(土)
今週のスタジオにて.昨日の続きです.
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近日発売予定の影山リサ「Rock Me」収録曲について,私なりのコメント(楽曲解説)を上げてみる. 因みに本作に関して,私はプロデューサーとかそう言う立場ではないので,あくまでライターとしてのコメントになります.
・10/1(金)
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佳乃,配信限定の新タイトル「タイトロープ」が今月27日に,国内主要音楽ダウンロードサイトにて発売されます. 収録曲は全4曲,既に発表済みの曲ばかりなのですが,オケはリアレンジ,ボーカルも全て再録してます. 是非聴いてみて下さい. 以下,今週のスタジオにて.
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