Staff diary  
スタッフ日誌[2010]

[文 / 益田(制作)]

9/30(木)

某媒体にてオーディションの告知をしていたのですが,それの締切りが今日(9月末日)になります. その告知経由でこのページに辿り着いている人もいるかもしれないので,思う事をつらつらと書いてみる.


オーディションとか偉そうに謳ってますけど,我々としては同志を募っていると言う感覚しか無くて,つまりは,創作活動を共に楽しめる友人を求めているに過ぎません.

ウチは,事務所っつっても大して強力なコネクションがあるとか,資金力があるとか言うわけでも無く,スタッフも皆技術畑の出身者ばかりで,つまりは単なる音屋さんです(それも趣味性濃厚な). だからして,短時日で地上波のテレビ番組に出まくって,有名になりたいとか,荒稼ぎしたいとか思っている人のニーズには,多分全くと言って良いほど応えられません.

きっと,ウチでの作業に向いているのは,純粋に音楽が好きな人. それも創作(作品制作)に向き合うつもりのある人.更には,その作業を続けて行きたい人です. 勿論,それらに該当する上に,大手の事務所やレコード・メーカーからお声が掛かる(それらのバックアップを受けられる)ような,世俗的才能に恵まれた人もいると思います. そういう人は,自分の欲しい物によっては,そっちに行くべきだと思います.

我々に出来る事はせいぜい,あなたの音楽活動のお手伝いに過ぎません. 土台「スターにしてやる」なんて事は約束出来そうにないけれども,あなたが「スターになってやる」と思っているのなら,微力ながらそのお手伝いをさせてもらいたい. 事務所なんてものは,選んでもらう相手ではなく,自ら選ぶもんです. がんばって.


9/29(水)

影山リサの「BYE BYE BABY」と言う作品を,11/3(水)にリリース(再発)します. これは一昨年の暮れに通販限定で発表した作品,この度販売形態を変えて(デジタル配信で)の再リリースとなります. 影山リサは近々,新作「Rock Me」も発表する予定なのですが,こちらは収録曲全部が今年録った新曲です. どっちも是非聴いてみて下さい.


9/28(火)

百姓一揆は成功しなかった. 百姓と言う階級についてはさておき,一揆と言う言葉は室町時代に確認されている(現代人の用法と同定義なのか怪しいが). 以来数百年間,散発的に繰り返されてきた一揆が,局地的勝利を収めた事ならあったにせよ,何故一度たりとも,体制を覆すような「革命」たり得なかったのか.

それは「理念」が無いからである. 「装備(武力)が無いから」ではない.

一揆は,過酷な税率などと言った圧政に対する発作に過ぎず,集団ヒステリーの行き着く先として武力蜂起に至っている. 仮にもし彼らが,当時の体制を打倒し,時の為政者らの首を上げたとて,その先のビジョンが絶無なのだから,やがてその蜂起も雲散霧消せざるを得ない. 彼ら百姓は,年貢を収めるのも辛かったろうが,「新体制のグランドデザインを練れ」と言われる方がもっと辛かったに違いない.

明治維新(倒幕)が成功したのも(あれの中心層は農民階級ではないが),曲がりなりにも彼ら,いわゆる幕末の志士たちには,理念(新体制のヴィジョン)があったからだろう. 江戸期の農民は,全人口の8割ぐらいを占める,圧倒的マジョリティであったにも拘らず,その蜂起は一度たりとも革命に至らなかった.


金や名誉(学歴や資格だのと言う)をいくら溜め込んだとしても,それは百姓一揆の武力である. その先に広がる景色を想像出来なければ,やがて行き場を失う. 我々が涵養すべきは,何よりもまず想像力である. それさえ確立出来れば,必要程度の武力など,自然と手に入る.


9/27(月)

お隣さん(中国)と何やら揉めているそうである. 日本は,どうしてこんなに近隣の国(と言うか中国と南北朝鮮)と上手く行かないのか. 戦後半世紀以上,謝罪や賠償(ODAなんかも事実上の賠償行為だろう)を繰り返ししてると言うのに.

上で「謝罪や賠償を繰り返ししてると言うのに」と述べたが,実は「そんな事を繰り返すからこそ,紛争が止まない」のである. 日本人が繰り返した譲歩は,愛ではなく,無理解,あるいは臆病さに因っている. 得てして臆病さは,より一層困難な事態を招くものだ.


我々はフィジカルな世界に生きているので,時に譲歩をせざるを得ない. これはしゃあない. 電車が駅に着いた時,一つの出入口に同時に降りる客と乗り込む客が殺到すれば,どちらか(基本的に乗る側)が譲歩せねばならない,と言ったように,社会はこの手の無数のルールによって整備されている.

この譲歩に対する解釈は,人それぞれで均一でない. ある人は,愛や理解によって事態を消化し,ある人は忍耐によって切り抜けている. しかし困った事ながら,後者の場合,その譲歩は常に心中に幾許かの「不満」を残してしまう. 「我慢させられる」からである.

人にはそれぞれ事情ってものがあるから,情勢如何によっては主張・要求もあって当然である. だが,相手の事情も同時に理解出来れば,その要求も,ある程度現実的な折衷案にならざるを得ない筈だ. 従って,後に各種の禍根を残し難い.

もし相手の事情を理解出来なければ,その人の為す譲歩は,愛や理解でなく禁欲に因るものである.「相手の事情はいざ知らず,譲歩せねば如何なるペナルティを科されるか分からない」と言った動機にて譲歩を実現する者には,当然ながら「要求を抑え込まれた」と言う恨みが残る. また,理解出来ない相手と言うのはとかく恐怖の対象となりやすいので,無理解は臆病さに直結しがちだ.

臆病さはしばしば相手の不興を買い,時につけ込まれるので,事態をより複雑な状況に陥らせやすい.

譲歩と言うのは,表面上同じ行為に見えても,それが愛に因るものか恐怖に因るものかで,全く違った結果を生んでしまう. 人間と言うのは,無意識にでも相手の機微・人格的風韻を嗅ぎ取ってしまうからだ.

日本の外務官僚とか政治家諸氏には,ちと愛が足りないのではないか(東洋史に対する理解とかも,もっとあって良いと思う). 愛すると言うのは,別に施す(譲歩する)だけでなく,如何に相手の主張が愚にも付かぬものか,を理解する事でもある. だから場合によっては,無体な要求など一笑に付してしまえるのも愛なのだ.


9/26(日)

「仕事に真面目に取り組む」と言うのはどういう事なのか.

先日,ある若い子と雑談していたら,その子のアルバイト先の上司(中年女性だそうな)の話になった. その上司は気が立っている事が多いらしく,よく部下をいびっているそうな. ミスを犯した部下などに「これはこの前言ったよね?」などとキツい口調で絡んで来ると言う. 話を聞くだに面倒臭そうな奴だ.

しかし翻って考えてみた. 上の上司さんは,何故そのような態度に及んでしまうのか. それは単に苛立ちを制御出来なかったからで,またその苛立つ理由も,どう酌んでやったとしても保身以上のものは見当たり難い. 部下の物覚えが悪いなら(その部下に物を教える事こそがその人の職務なのだから),如何に効率的に覚えさせるかに腐心すべきで,一々の不出来について直接本人を詰るなど,仕事の流れの上では余計な事である. もっと真面目に仕事をしろ.

服装や髪型などと言った身なりに必要以上に拘ったり,無意味な時間拘束や肉体の酷使に耐える事で,いくらかの自分の有用性をアピール出来ると思い込んでいる輩がいる(現実に結構いるみたいだ). しかし,例えば私が,5時からのレコーディング(当然セットアップ作業も含めてレコーディングである)に際して,1時間前にスタジオに入る事は全くの無駄である. そんな無意味な時間の浪費を続けていたら,他の作業に差し障る.

私は一応プロデューサーなのだから,企画全体を包括的に見渡した上で,適宜遂行せねばならない. 一々の局面で,誰かに褒められる為のスタンドプレーなど思い付いている暇は無い. 立場相応の役割とは,こういう事だと私は考えている.

だから上の上司さんのように,自らに課されたタスクの進捗状況に,一々苛立って責任を転嫁出来る相手を探している人間と言うのも,作業全体を進行させる事を至上命令と捉えられていないわけで,つまりは我が身一つの事にしか関心が至っていない(そもそも部下の気分を害しただけでも,作業の能率は下がるし,離職率だって上がりかねない.離職者が出ればさらに作業は遅滞する). 自己顕示にのみ執着しているような精神状態にある者は,要するに,まだ全然真剣に仕事に取り組めていないのである.

自分が人を雇った場合を考えてみると良い. 自分に気に入られようとして,スタンドプレーばかりに執心しているような人間など良い社員たり得るだろうか. 「そんな事より真面目に仕事をしろ」と言いたくなるだろう.


9/25(土)

今週のスタジオにて.昨日の続きです.

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寒い. どうしてこんなに急に気温が下がってるんだ.


9/24(金)

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上の写真は,川村真央ちゃんから,修学旅行で行ったベトナムのお土産だそうです. 以下,今週のスタジオにて.

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9/23(木)

神田優花の近況. セカンド・アルバム「レイチェル」のリリース以来,発表済みのものと今年中に発表する予定のトラックを合わせて,既に12曲の新曲がある. もうアルバム出せるぐらい曲数あるわけだけど,まだ全然そんな話(アルバム・リリースの運び)になってない. プロデューサーである私も,まだ三枚目を出すようなつもりも無いし,多分アーティスト本人もそうだと思う. 要するに機運がまだ全然熟していない.

何が熟していないのかと言うと,一番は収録曲. それも頭数ではなく質. 状況が整っていないと言うのもあるが,それ以前にまだレパートリーが弱過ぎる.強い曲さえ揃えばその他の状況なんて自然に整備されて行く. まだダメなのだ. 「レイチェル」と似たり寄ったりのサード・アルバムなんて出せない.少なくともあれを超えるようなものでなければ.

だからして,次のアルバムなんて,何時出来上がるのか全く予測出来ません. ただ,何年後の話になるかも分かりませんが,必ず作ります. それまで気長に待っててやって下さい.


9/22(水)

今年のリリース計画がほぼ決定しつつある. 来月(10月)末から12月のはじめにかけて,毎週ペースで音源を発表する予定です. 内容的には,新作あり再発あり,再録物もあったりします. 詳細はもうじき発表しますので,お楽しみに.


9/21(火)

アメリカン・ジョークと親父ギャグの違い.

私の大好きなアメリカのシットコム「Diff'rent strokes」にこんな一幕がある. 兄ウィリスと兄弟喧嘩をするアーノルドに,ドラモンドおじさんは言う. 「かの有名なライト兄弟も初飛行の時は喧嘩をしたんだ…….どっちが窓際の席に座るかってね」.

機知に富んだ典型的アメリカン・ジョークと言えるが,当意即妙,この小気味良さの源泉は言語力であり,愛に違いない. 脈絡を無視したアメリカン・ジョークなどあり得ない.

一方,親父ギャグとは,要するに殆どが駄洒落なわけだが,音韻的響きに因って成立しているものなだけに,脈絡に乏しい. そこにユーモアだとかウィットだとかエスプリだとか言うものは,成分として介在し難い. 親父ギャグに根源的な人間愛など見出せない.

「電話に誰も出んわ」と言う駄洒落には,そこに至る脈絡が無い(あったとしても,ギャグそのものを構成する不可欠な要素では無い). 例えば,日本人が苦手なLとRの発音は,英語圏の人にとっても同じく紛らわしいらしいから,「fly(ハエ)がfryされた(揚げられた)」などと言うギャグも成立し得る筈だが,この種のアメリカン・ジョークなどあまり 聞かない(語呂合わせ的なジョークと言うのも,あるにはあるのだが). やはりアメリカ人と日本人では,ジョークの捉え方が根本的に違う.

私はアメリカン・ジョークの方が好きです. 何故ならそこに愛を感じるから.


9/20(月)

「です」の用法って厳格性に拘り出すと日常会話が成立しなくなる. 「です」は明治期の造語と言って良いのだが(厳密にはそれ以前にも一部で使用されていたらしい),大掴みには,英語で言うところの「be動詞」にしたかったのだろうけど,だからかどうか,独特の誤用が流通している.

「良いです」とか「おいしいです」,この日常頻出する用法も,日本語としては誤りである. 駅のホームで流れる「危ないですから云々」とか言うアナウンスも,無論誤用だ. しかしながら,誰かに食事を振る舞われた際,「おいしゅうございました」とは中々言い難い.仮に文法的に正しかったとしても,言語(会話)ってのは「空気を読む」事も実に大事であるから.

文法的な正確性に拘るあまり,ニュアンスが破壊されたような話し言葉を使う人は,ある意味で国語力に欠けている. やはり意思の伝達を主眼に置く以上,「です」の正しい使用は諦めざるを得ないのかもしれない. ちょっと気持ち悪いが.


9/19(日)

国語力の無い人は,地方出身者の話し言葉(方言)を聞いた時,「怒っている」のか,などと取り違えたりするそうだ. さもありなん.前後の文脈から総合的な意味を理解するのは,要するに国語力だからだ.

目の前で喋る人の言葉であれば,口吻や表情などテキスト以外の情報も多いが,例え純粋なテキストのみであったとしても,愛や怒りと言った基本的な感情は読み取れる筈だ. それが出来ないのは,国語力に欠けているからだろう.

発言の論旨云々よりも,言葉遣いがどうだとか,要は「自分がバカにされているのではないか」と言う懸念で頭が一杯で,ディスカッションそのものを進行させられない人がいる(いい大人でも結構いる). それもこれも人間関係を上下で捉える習慣のせいなのだが,詰まるところそれも国語力の欠如に因る.

今以上の国語力を得れば,今以上に鮮やかな世界が見える. 貧しい心のまま,どんな場所に旅をしようと,本当の美しさなんて映し出せない.


9/18(土)

今週のリハーサル風景です.昨日の続き.

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9/17(金)

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今週のスタジオにて.上は差し入れの「ういろう」だそうな.

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神田優花.リハーサルついでに,年内にリリースする予定の各タイトルのジャケット画像をチェックしてました. 公開にはもう少し時間がありますが,本人もお気に入りのジャケだそうなので,ご期待下さい.

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9/16(木)

テクノについて.

一般に,音楽は,言語中枢に働きかけていると思われるのだが,この作業を長い事やっていて,数学的な,スポーティーな感覚に働きかけているもののあるらしい事に気付いた. 大掴みに言うが,テクノだとか言う音楽ジャンルはどうやらそれっぽい. だから男性,とりわけ理数系(男子)に受ける.

テクノは,音楽そのものの内容(創作性)よりも,音質だとかに重点が置かれているように思える. またその内容においても,音の配列が非常に規則的であったり,感覚に訴えかけてくるようなものが多い. だからしばしば,歌(歌詞)すら無かったりする.

歌い手と言う人間が,ある感情を,歌詞と言う意味のある言葉に託して歌うわけだが,それを理解すると言うのはつまりは人間そのものを体感する事である. それが苦手な人は,人間が苦手となる筈だ. だから歌い手すら要らなかったり,いたとしても原形を留めぬ程に声を加工されていたり(あれは人間性の部分を削り落としている),あるいは人ですらない,テキストを読み(歌い)上げるだけのプログラムで事足りたりもする.

芸術鑑賞とは,つまりは共感を楽しむものだと思うのだが,テクノを偏愛するような人たちは,(感覚でなく)感情に訴えかけてくるようなものが苦手なのではないか. だから例えば,鍵盤楽器の演奏などにおいても,情感のこもったプレイより,シーケンスのような起伏(人間の感情に因る)の無い音列を好む.あれは数列そのもので,作者の意図(作為)の部分を汲み取る余地がほぼ無い.

人間の理解に難があるような人らは,例えば異性(と言うより同性も含めた他人全般)が苦手な筈だ. 目の前の相手の感情に共感出来ないから. だからして,人を怒らせてしまったりする事が多くなる. 人が怒りの感情を爆発させるまでには,そこに至る無数のシグナルを発している筈だが,そこを嗅ぎ取る能力が低い人間は,当然ながらその爆発を招きやすい. 共感性の低い人にとって,相手の怒りとは,常に突発的事態であろう.本当はそこに至る感情的プロセスが存在するのだが,そこを理解出来ず,生じた事態だけを点で捉えるとそうなる. 彼らにとっての人間とは,思考プロセスを体感出来ず,突然の形で暴発する危険性のあるもの,なのだから当然怖い.

音楽にテクノはあっても,異性にテクノは無い. だからゲームやアニメのキャラクターなどに,擬似的な異性を見出す. 恋愛ゲームなどに出てくる女の子は,パラメーターで構成されているのだろうから,理解もしやすいのだろう. ややもすると現実世界の女性にもそうあれかし,と思ってしまう.「プレゼントをあげたら,好感度が○○ポイント上がる」とかだったら実に助かるのだろう. 言うなればあれはテクノなのだろう.


9/15(水)

東京なんかで暮らしているもので,満員電車と言うヤツによく乗るわけだが,私は,人を観察するのが一つの趣味となりつつある. 人間って面白い.

表情一つ見ただけで,その人の世界に対する満足度って,粗方分かる気がする. 不安そうな顔や,不服そうな顔をした人らは,とりあえず現状に納得出来ていないのだろう.

すし詰めの電車の中で,眉間に皺寄せ,満面に不機嫌を表している人がいる. 確かに私も人込みは嫌いだから,気持ちが分からないでもない. しかしこの大都市の機能の恩恵に肖りつつ生活している以上,請け負わざるを得ない窮屈さでもあるのは間違い無く,どうしてもそれが嫌なら相応のコストを払わねばならない.現状そのつもりの無い私にとって,満員電車の窮屈さは甘んぜざるを得ないものだ.

要するに,満員電車に乗らざるを得ない環境に納得出来ていない人は,ある意味,自分を取り巻く状況を整理出来ていないと言える. ここで言う整理は,言語力の所産である. 言語力さえあれば,不平不満は溶けなくもない.


言語力があれば,満員電車がどうしても嫌であるならば,「如何にして満員電車と無縁の生活を手にするか」を模索する事になるだろうけど,言語力なかりせば,自分を取り巻く世界に対する不満だけが,気分として残る事になる(言うまでも無く,満員の電車内と言うのは世界の一部である). 積極的に求める何かを実現するでなく,世界に対して,受動的に「こうあって欲しい」との要求だけを抱え込む事になるわけで,即ち,いわゆる「ワガママ」な人になってしまう.

お気付きかと思うが,世に言うワガママな人とは,ほとんどが言語力の未熟な人である. 世界に対する解釈が確立していないが故に,自己中心的にならざるを得なくなる. 自分の外に対する依存心を濃厚に残しつつ,世界に「こうあれかし」を求めてしまうし,我が心のありようを把握するだけの言語力に欠けるので,自らの手で理想を実現する事など到底出来ない.


私は他人を一目見ただけで「この人とは気が合いそうだな」とか,あるいはその逆であるとかの感想を,しばしば(直感的に)持ってしまう.ほとんど誰でもそうだろう. この直感を支えるインスピレーションの大部分は,その人の表情に浮き出ている「世界に対する満足度」である事に最近気が付いた.


9/14(火)

私は元々音楽を作りたかっただけで,デザインだとかに全く興味も無かったし,そんな作業をやる事になるなんて思ってもいなかった. が,今はウチの商品のほとんどのデザインを私が担当している(事務所のスタート当初には,別のデザイナーの手によるものもいくつかある). そもそもやるつもりの無かった作業だが,やってみるとそれはそれで得るものがある.

DTP関連の知識とか,その手のソフトの使用法だとかも当然身に付くが,デザイン何たるか,を実感出来たのは大きい. 例えばウチの場合は,手がけるもののほとんどが音楽商品とかそれ用の広告のデザインなわけだが,それを作っていて気付いたのは,「人は,無意識のうちにでも,音楽を聴く時に,ジャケットの絵(の印象)を援用しつつその楽曲のイメージを脳内に確立させている」と言う事だ.

であるからして,同じ曲でも,暗い雰囲気のジャケットだと楽曲が暗いイメージで捉えられたり,逆に明るい雰囲気のジャケットだと明るいイメージで捉えられたりしている. おそらくそういう事は多い筈だ. だからジャケット(画像イメージ)の無い音楽作品は,あるものに比べれば,聴き手の中で印象が醸成され難い.


音楽の記録媒体としてのコンパクト・ディスクは,メインの立場から退きつつあるが,データ配信が主流となりつつある今も,ジャケット画像自体は依然不可欠となっている. あれが無いと音楽商品は成立しないからだ.

余談だが,そう言えば一時期「楽曲が記録された状態のMD」が市販されていた事がある(あっという間に市場から撤退したが). CDがレコード盤に取って代わったようには普及しなかったのだが,ジャケットが小さ過ぎたのが理由じゃなかろうか. CDで言うところのブックレットにあたるものが,何重にも折られた状態で封入されていて,歌詞も見辛かったように記憶している.

考えてみると,世のデザイナーさんらは,音楽の記録媒体がレコード盤からCDに変わった時,戸惑ったろうな. 「こんな面積ではアルバムのイメージを表現出来ない」とか思わなかったろうか. 今見ても,LPレコードのジャケットのデカさって魅力的だ.


9/13(月)

神田優花の年内リリース予定の楽曲について.

当初,配信で4曲発表した上で,CD音質で聴きたい人用に,その4曲を収録したパッケージ物(通販用)を別に作る予定でした. で,そのパッケージ,配信との差別化を図ろうと思って1曲ボーナストラック的なものを加えて全5曲を収録するつもりだったのだけど,ボーナストラック用の曲を編集段階で繰り返し聴いていると,何だかもっと広く売りに出したくなってしまって,結局配信でもリリースする運びとなりました. ボーナストラックについては,これから何か考えます.

当初,全4曲を2曲づつ2タイトルに分けてリリースする予定だったのだけど,発表する曲が全部で5曲になってしまったもので,あらためて組み合わせを色々と練る事になってしまった. 結局「2+2+1」の計3タイトルって言う組み合わせに落ち着いたわけだけど,急に1タイトル増えてしまったもので,ジャケットのデザインをはじめとする,急ぎの仕事が入ってしまった. そんな事情で週末は休めなかったわけだが,お陰で何とか間に合いそうだ.


9/12(日)

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影山リサ,新タイトル「Rock Me」とりあえず完成しました(上がその商品). 下は本人からのコメントです.

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神田優花,先週録ったテイクをチェックしてました. 今回は急いで編集終わらせたのだけど,別に拙速な感じはしなかったな. この曲も年内には発表します.

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9/11(土)

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今週のスタジオにて.上は差し入れのチョコレート.

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下は広瀬沙希の「solitude」. 引き続き販売中です.是非聴いてみて下さい.

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9/10(金)

9月の上旬も終わろうかと言うのに,全くもって涼しくならないな.


年末のリリースに向けて,今日も朝から大童. しかもプライベートな事情も重なって,全く気持ちが落ち着く暇が無い. 早く暇になんねえかな.私は,気分が落ち着かない事が最も嫌いなんだ.


神田優花に,随分前に一旦マスタリングまで終わっていたある曲があるのだが,先月末に部分的に再録した. とりあえずはリリースの予定も無かったのだけど,再編集が終わり,チェックの為に音を聴いていたら,無性に発表したくなってきた. 何とか年内にリリースしたいので,これから大急ぎで事務処理に入ろう.


9/9(木)

昨日ぐらいから,トップページに影山リサの新タイトル「Rock Me」の広告を入れてます. パッケージ版(通販用)は近い内,多分今月中には販売開始されます. 配信版の方も年内にはリリース出来ると思いますので,お楽しみに.

そう言えば,影山リサのアーティスト・ページ,トッププロフィールの画像を変えてます.


9/8(水)

何だかここ1〜2週間,忙しかったなあ. 忙しさは現在進行中なのだけど.

曲の編集作業が集中している上に,デザインとかパッケージ製造にも追われていて,気持ちが休まらない. 今年のリリース・タイトルを年の後半に詰め込みすぎたようだ.情勢上止むを得なかった部分もあるけど.

今年って,もう残すところあと4ヶ月無いわけだけど,今のところ配信とパッケージ物合わせて,年内に7ないし8タイトルぐらい発表する予定です. 何だかバタバタしそうだなあ.


9/7(火)

最近,戦後の漫画史と言った内容の本を何冊か読んだ. 80年代とかに,異常な発行部数を誇る化け物のような週刊少年誌などが出るのだが,そもそも漫画なんて,一部の好事家のものであったろうし,そういう人らのお庭であってこそ健全と言える. 出版不況だとか世間では言われているが,私の感想としては,出版の世界,とりわけ漫画業界はまだそれなりに健康さを保っていると思う. 単に今は,適性サイズに戻っている最中なのだろう.

漫画を書きたい情熱のある者が漫画家になり,漫画を愛するものが出版社(漫画誌編集部)に勤め,その人たちが作った漫画を,漫画好き(漫画を読んで楽しい人)たちが消費する. この循環は健康そのものである.

もし漫画界が膨張し,「金回りが良い」などと言う飛語が世間に蔓延し,漫画を愛してもいない輩が大挙して業界に群がり,漫画を書きたいと言う情熱など皆無の人間が,「漫画書きになれば周囲から一目置かれる」などと言う不純な動機にて漫画家を目指し,「今時愛読する漫画の一つも無いようでは非文化人扱いされる」と言った恐怖を植えつけられた消費者が,面白さもイマイチ分からぬ漫画を買わされる事によって支えられる市場になり果てれば,これ程の退廃は無かろう.

上のような動機不純な漫画家の書く漫画など,一般論として面白かろう筈が無いのだが,週刊連載デビューやプロモーション広告の枠が金で売られているなら,懐具合によっては,採算性など度外視してそれらを買い占め,自分が漫画家である事を既成事実とする事も可能だ. つまり漫画家の立場は買える.

無論の事,広告などにコストが掛かるのは当然だし,投資した費用が必ず回収出来るとも限らない. しかし,書きたい漫画像の無い漫画家が書いた作品ばかりが誌面を占めるようになれば(それは健全な淘汰の末に残ったもので無いのだから),その漫画誌は活気を失うだろう. 必然的に,本当の才能ある漫画家は世に出にくくなり,本来漫画好きであった,正しい意味での読者も当然興味を失い,離れて行くに違いない.


私は,漫画界の話を引き合いに,音楽業界の話をしている. 音楽業界が音を立てて崩れている原因は,上の事情に尽きる. 違法コピーがどうだとか言うのは,言ってしまえば,誰かの保身の為に生み出されたウソである.

音楽業界は,ハッキリ言って実態不相応にレバレッジを利かせ過ぎた. 土地バブルとかと同じで,不健全な機構は永続しない. 私はこの人口一億二千万人の社会に,音楽産業を90年代レベルの産業規模で抱え込めるポテンシャルが無いとは思わないが,今の日本人の言語状況を見渡すに,我々はまだそういう精神段階にないのだろう. 大多数の人の心の中に,芸術に金払おうなどと言う機微が育っていないように思える.

従って音楽業界はアイドルで溢れ返る. 音楽の世界は,芸能産業と地続きだから仕方の無い事だし,別にそれが悪い事だとも思わないが,概念の整理ぐらいはしておいても良いと思う. artを作るからアーティストなのであり,artとは精神の活動である. 水商売とは根本的に違う(区別しているだけで,水商売が悪いと言うのではない.あれはあれで立派な仕事だ).


まあでも,そんなに悲観する事は無い. 出版不況も音楽業界の不況も,今の規模で業界を維持しようとするからこそ生じている歪みなわけで,要は「一旦,実体以上に肥大化してしまった図体のツケを払わされている」だけである. 少数であったとしても,音楽を作りたい人もそれを聴きたい人も確実に存在するのだから,行く末を案ずるまでもなく,そういう人らのお庭として細々となら業界は続いて行く筈だ. むしろ近い将来,健康体を取り戻す. 


9/6(月)

私の日々最大の懸案は「次の曲」である. 基本的にいつも,次はどんな歌を作ろうかと考えてワクワクしている. 私は合理主義者だ. 自分を幸福にする為の,最も効率良い方法を常に選択するよう心掛けている. 結果行き着いたところが今のこの毎日なのである.

作品は,一つ仕上げる度に増え,出来上がったものは永遠に無くならない. 私に,前進する事はあっても,後退する事など無い. どんな回り道をしようが,一見無駄に見えるその回り道こそが歌になるから,それは無駄ではない. 私にとって無意味な時間など無い. この私が,意味のある何かに変えて見せるから.


不景気で会社の業績が落ち込み,リストラの対象になったサラリーマンが首を吊ったりする.汚職が明るみになった政治家や官僚が自殺したりもする. 日本の自殺者は年間3万人を超すそうだ. 不思議な人たちである.

収入源が途絶えたら,私とて確かに困る. 飯を食わねば命が尽き,命が尽きれば大好きな音楽が作れないから. であるからして,とりあえず何とかしてでも餓死せぬ程度に飯を食う. 方法はいくらでもあるから,その辺の心配は無い.

喫煙者は,何らかの気分を得る為にタバコを吸う. ある気分を得る為にタバコを買い,ライターを買い,買ったタバコに火を付け喫煙する.

ライターは,ガスが尽きれば当然点火出来なくなる.だから,タバコに火が付けられない.従って,そのままではタバコが吸えない. だからと言って,「それならタバコなど全部ゴミ箱行きだ」とか「タバコを吸えないなら死んだ方がマシだ」とか言い出す奴はアホだろう.

「職を失うのなら,いっその事首を吊ってしまおう」と言う人たちがいる. 彼らの自殺の本当の原因は,論理力に問題がある事に相違ない.


私自身は,極めて純度の高い合理主義者のつもりなのだが,不思議な事に,世間では私のような人を一種のバカだと見做すきらいすらあるように思える. まあそう見做されたところで,私の方は一向に構わないのだが,見做している人々の方がむしろ困じ果てているように見えて,少々気の毒に見えてしまうのだ.

自分の進むべき道を教えてくれる人は,結局自分しかいない. 自分自身に自分の一番欲しい物を尋ねるしかない. 進むべき方向さえ定まれば,迷いなんて消えてしまうよ.


9/5(日)

神田優花,新曲の歌録り. これで一応年内リリース用のテイクが録り終わりました. さあ編集だ.

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以下,先週のスタジオにて.

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9/4(土)

子供はよく,食べ物を選り好む.好き嫌いがあったり,無理して量を食べようとしなかったり. で,親や学校の先生はそれを正すべく様々なアプローチを試みる. 例えば,給食を残す子には「あなたはお腹一杯だと言って食べ残すが,今のこの瞬間にもアフリカでは飢餓に苦しむ子供たちが云々」などと説教してみたり.

しかし実際に,飢えるアフリカの子供の映像などを見せられた子供が,そのショックで泣く泣く給食の残りを平らげたとして,本当の意味で上の説教は功を奏していると言えるのだろうか. 子供はショッキングな映像を見せられ,食べ残す事を我慢させられるわけだが,そんな事でアフリカの子供たちを思い遣る心が育つわけもない. 下手すれば,むしろ「あいつらアフリカ人のせいで,食いたくも無いものを無理矢理食べさせられた」と言う,気分が残りやしないだろうか.

そんな説教をするより,現に今の日本は豊かなのだし,食べたくないものを食べようが残そうが,直接アフリカの子供たちには何の影響も及ぼさないわけだし,子供には好きなものを好きなだけ食べさせればそれで良いような気がする. 但しその際に,その子の嗜好を理解し,愛さなければ,子供には何も残せないだろう.

無論の事,「食わず嫌い」など,若いのにそんな冒険心が低い事でどうする,と言いたくもなるから私も推奨はしないが,嫌いなものなどそんなに無理に食べずとも良かろう. 好きなものの旨さを味わう事が出来るなら,いずれは今嫌っているピーマンの旨さも理解出来るようになるかもしれない. また,ピーマンを一生食わずとも,さして問題無く生きて行ける.


大好きなオムライスを好きなだけ食べて良いと言われた子供は,大好きなオムライスを味わい続けるうちに,いつの日か「あのアフリカの子供たちは,私の大好きなこのおいしいオムライスを腹一杯食べる事が出来ないのか.かわいそうに」と,思うようになるだろう.

私は,教育とはそれで良いような気がする. 現行の,禁欲を叩き込む形の教育では,永遠に得られない感覚がある. 日本の教育は,例えば一昔前に比べれば,現場での体罰が無くなっただのと言われているが,そういう枝葉の部分でない,本質において,江戸時代と全く変わっていない. 拳を使おうが,ショッキングな映像を使おうが,人間に忍耐を教え込もうとしている点では同じである. 我慢であれば,それこそ人間以外の動物にでも教え込める. それは教育でなく調教と呼ぶべきだ.

学校は,忍耐を教え込むのも良いが,子供に愛を理解させてみてはどうか. 現場の先生方が愛の意味を理解出来ていないのであれば,それも無理だろうが. もしかしてそうなのか.


と言うわけで,今週のリハーサル風景.

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9/3(金)

私は,マイルス・デイビスの「'Round Midnight」を聴いたずっと後になって,モンクの方の原曲を聴いたクチなのだが,当初ハッキリ言って同じ曲とは思えなかった.

確かに似たようなフレーズが出てくるところなんかもあるのだけど,全体的な印象としては別の曲に聞こえた. 要するに,フレーズだとかを追っている次元では,まだ彼らの音楽など聴けていないのだろう. 今はもう少しだけ見えてきた気がする.

マイルスのカバーしたものは,フレーズ(譜面情報)ではなく,曲を貫いている空気と言うか,力学のようなものなのだろう. やはり彼らは,心の,私が思っていたよりずっと深い部分で音楽を感じている.

世に溢れ返る音楽を聴いていると,しばしば「一小節目から作ったのではないか」と思えるような曲に出くわす. 曲を貫く「核」のようなものに欠けた楽曲である(音楽だけでなく,絵や文学作品などでもよく見かける). 確かに一小節目からでも,フレーズを継ぎ足して行けばいずれ「曲」様なものにはなる. しかし芯を欠いた作品は,聴く人が聴けばそれと分かってしまう. フレーズなど,言ってしまえば枝葉末節である. 私はここで言う「核」から曲を作りたい.

核とは,作者の精神である. だから私は,良いフレーズを生む為とて,音符の並べ方を試行錯誤するよりも先ず,良い作品を生むに相応しい自分自身になりたい.


9/2(木)

商品の仕様変更について.

ウチも色々と商品(音源類)を出しているが,色々な理由で,同じパッケージ商品(同一品番)の仕様をあんまりコロコロ変えたくない. が,どうしても変えざるを得ないケースがしばしばあってしまう. 部品を作っているメーカーなどが,すぐその部品の生産を終了してしまうからだ. あんまり簡単に生産を終えられると,パーツの変更によって外観が変わるとか言うだけでなく,商品の原価なども変わってしまうわけで(定価を簡単に変えるわけにも行かないし),こっちも困るわけだが,こればかりはどうしようもない.

結局,ウチの商品って一度に作るロット数が少ないんで,このパーツ生産終了のあおりを受けやすい. パーツメーカーが部品を生産完了にした時点で,ウチもその部品を使っている商品を廃盤扱いにしてしまえば良いわけだけど,出来る限り欲しいと思ってくれる人には商品を届けたいと考えているので(特に活動を継続しているアーティストのアイテムはどんなに古いものでも),極力廃盤化する事は避けたいわけです. だから仕様変更に関しては,ある程度目を瞑ってやって下さい.


9/1(水)

言葉の重さについて.


中学校の,あれは確か入学式だったろうか. 講堂で,ある上級生が,在校生を代表して式辞を述べた. 私を含む新一年生は,壇上の彼(在校生代表)の言葉に聞き入っていたわけだが,彼がこんな事を言う.

「一年生の皆さんは,悩み事があったらいつでも僕たちのところへ相談に来て下さい」

しかし,仮に私が本当に一学期のある日,唐突に彼ら上級生の教室にあらわれ,「悩みがあるので相談したい」などと言ったら,彼らは面食らうだろう. つまり上の式辞は,声に出して読んでいる彼自身,真に受けてもいない事をふんだんに盛り込んだ「ホラ」である.

学校と言うのは一面,ここで言う「ホラ」を吹く技術を刷り込まれる場所に成り下がっている. 式辞を読む彼も,在校生代表に選ばれるような人物なだけに,先生が褒めてくれそうなホラを上手い事思いつく. そして,それを聞いている新入生たちも,彼らは彼らで一通り学校教育に馴致されている人たちなので,嘘を嘘と知りつつも,それなりに違和感無く聞き流す. 自分が同じ立場に立たされれば,ちゃんと似たようなホラを吹くし,間違っても本当に上級生に相談しに行ったりしない.


店でもらったレシートに「またのご来店を心よりお待ちしております」とか言うテキストが印刷されてあったりする. また,似たような事を実際に口にする店員などもよく見かけるが,しかし,言うまでも無く,店員は上司などに「そう言え」と指示されるので仕方なく口にしているだけに相違ない. そういう人らの発言は,言葉に誠意がこもっていないので,当然相手の心に響かない. 響かないだけでなく,時にその不誠実さは失礼ですらある.

実は誰だって気付いている筈だ. 「Aさんの言葉とBさんの言葉は,心の違う部分に響いて来る」とか言う事実を. それは,その人の思考の誠実さの違いなのだ. 相手の思考を体感する為の,唯一のツールは言語である. 言語は,自分のものであり,相手のものでもある.

誠実な思考を経ていない言葉は,無意識のうちにでも,他人がそれを察知する. だから,思考能力が低い人は,軽視(ないし無視)されがちな人になる筈だ. 言葉とはその人そのものである. 響く言葉が吐けないと言うのは,その人など存在しないも同然なのではないか.

親や学校の先生に何を言われても全く意に介さない子供がいるが,一方的に子供だけが悪いわけでも無いのかもしれない.先生や親の言葉が軽薄なら,子供の心に届き難いのも当然だ. 「言葉が届かない」と現実を嘆く者は,自らの思考の誠実さを一度疑ってみても良いかもしれない. 無論相手の受容能力にも差はあろうが.

私は言葉を相手の心に届けたいので,せいぜい自分なりにも物を考えたい. どんな下らない事でも,少なくとも自分の言葉で語りたい.  「悩みがあったら相談してくれ」と私が言った時は,本当に相談に乗るつもりがある. 力になれるかは分からないけど.


8/31(火)

私にとって,人間関係に親疎はあっても上下は無い. しかし,たったこれだけの感覚が,この社会ではなかなか共有してもらえない. 正反対の人間ならしばしば見かけるが. 私の言うこの「感覚(人間関係観)」こそが実は私なのだ.

人間とは即ち,関係性の事である. 自分の人間関係を嘆く者は,要は自分を嘆いている. 「碌な友人がいない」・「碌な恋人が出来ない」のは,碌な自分でないからだ. つまりそういう人は,自分に納得が行っていない.

人は常に,人を選び,人に選ばれている. 直言する者を煙たがれば,周囲は阿諛追従の輩で埋められるし,崇高な精神を持たねば,崇高な精神を持つ友人など当然持つべくもない. 人間ってのは,それ単体がバラバラに存在しているのではなく,取り持った「他人との個別の関係」によって象られるのだ.

だからして,態度のおかしな人ってのは,要するに相手との関係性を理解出来ていない人間だし,他人をぞんざいに扱う者とは,自分の周りに張り巡らされた人間関係を丁寧に扱えない人なわけで,つまりは自分をぞんざいに扱う者である.人間関係も含め自分なのだから. 自分も含めた「人間」を感じる事が出来なければ,必然的に取りうる態度も怪しいものとなる.

そういう人らは,まずは人間関係を上下で捉える癖を改めれば良いのだけど,その人たちは「上下で捉えたい」のではなく,思考が,人間関係を上下でしか捉えられない構造をしているんだろうから,一朝一夕に感覚を改める事は難しいだろうな. やれやれ.


8/30(月)

私は,この目に映った世界の美しさを,他の誰かにも見せたいと思っている. 私は音楽を,自らを勇気付ける為に作っているのだけど,誰かの心に届くのなら,こんなに嬉しい事は無いとも思っている.

気分は伝染する. 絶望的な気分で生きている人は,嫌でもそれを周囲に撒き散らしてしまうから,詰まるところ他人の気分をも害してしまいがちだ. 当然逆も然り,人間には「共感性」ってものがあるから,隣の誰かが笑っているだけでも,ついつられて笑いたくなってしまう.

私が今日と言う日を明るい気分で生きている事を,喜んでくれる人はいないだろうか. いない筈が無い. 私はどこかにいるであろうその人に,ある気分を届けたいと思いつつ,日々曲を書き続けている.

私も明るい人が好きだ. 何故ならその人は,私の気分を明るくしてくれるから. 私の欲しいものはやはり気分だな. 未来をバラ色だと感じる人がいれば,闇だと感じる人もいる.本来一つしかないこの世界が,それを映す人によってこんなにも違うのは,やはり気分のせいだ. 私は自身自身に,世界を美しく見せたい.

だからして,誰かの明るい気分が,ある不運によって消え入りそうになったら,私はその気分を守りたい. 私自身の為にも. 希望の消え失せた世界でなど,生きて行けないから.

このように,今のこの私に「誰かを守る」腹積もりがあるからこそ,私のこの心を守る誰かの存在をも夢見られる. 信じられない人は,要は誰を支えるつもりもないのだろう. 誰を支えるつもりもなく,事実誰の励みにもならずに生きているから,延いては誰からも必要とされない人になり果てる.

そういう人は,一度でいいから誰かを本気で救おうと思ってみれば良い.その誰かは,自分自身でも良い. 自分自身を幸福にする為に,自分に一番欲しい物を追いかけさせてみてはどうだろうか. 世界は変わる筈だ.


8/29(日)

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影山リサ,新曲の歌録り. これで次のタイトル収録曲が全部揃いました.

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今週から来月の上旬に掛けて,何件かレコーディングの予定が立て込んでて,休みが取れない. 今日も編集作業の合間に更新してます. そろそろ8月も終わりと言うのに,まだまだ暑いですね.


8/28(土)

今週のスタジオにて.

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神田優花,歌録りでした. ちょっと前に録った曲を部分的に変更する事になりまして,今週はその録り直し作業でした. 来週は新曲の歌入れです.

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8/27(金)

昨日は一日中ギター録りだった. 途中,近くの楽器屋に弦を買いに行ったりしたもので,変な中断を挟んでしまい,結局一日作業になってしまった. 上がったトラックもイマイチだし,なんだかスッキリしない一日だった. それにしても,何で私はこうもリズム感が悪いのか.

ギター類を弾く人ならご存知かと思うが,弦を張り替えた後って,しばらくは音が良い(音に新しい弦特有の艶がある). 昨日は,録っている途中で弦が切れた上,ちょうどストックも切れていたので買出しに行ったのだが,張り替えた後の音があまりに綺麗だったので,録音済みのテイクも全部それ(新しい弦)で録り直す事にした.

しかしこれまたギター弾きには自明の事かと思われるが,替えた直後の弦はチューニングが狂いやすい. だからして,録音作業は更に難航してしまい,結局,一曲分のギター録りで昨日は終わってしまった.


8/26(木)

私は,私自身の為にも,愛を大切なものと説きたい. 何故愛する事がそんなに大切なのか.


確かに子供と言う奴は,親から生まれる. 母親の肉体の一部が独立し,別の人間となる. だからかどうか,ある親は子を,あたかも手足かのように「自分の一部」だと錯覚してしまう. そこに自分とは別の,独立した精神が植わっている事を,つい忘れてしまう.

親など,人間と言う生物に端から備わった「生殖機能」を利用して子を作っただけで,実のところ,自分自身ですらよく分からないままに人を生み出してしまっているクセに,ある人は,子を,完全なる自分の製造物だと見做してしまう. それは驕りである.

「愛する」と言うのは,要は人間として扱う事に他ならない. 親が我が子を,我が手足かのように大切に扱ったとしても,その子を独立した人格として認めていないのなら,それは愛ではない. モノと見做された(愛されなかった)子供は,当然のように自分をモノだと思い込む.

やがてその子は,自分の事などモノだと思っているのだから,我が身に付加価値を付けることに躍起になる. 分かりやすい例で言うと,美だとか学歴・資格だとかを身に纏おうとする. 我が子をモノだと思っている親は,当然それを手放しで歓迎する. 自分の持ち物の価値が上がるのだから,喜ばしい事この上ない.

逆に,モノとしての付加価値を身に付けられなかった人は,それだけで「自分になど価値は無い」と当たり前のように思い込む. 我が身を無価値だと思えば,当然その人の行動は「自分を大切にしないもの」になる. 場合によっては周囲の他人をも傷付ける.


ハッキリ言って私は,親から全く愛されなかったクチだけど,愛してくれた誰かがいてくれたからこそ,その記憶を頼りに,今日も一番欲しい物を追い続けていられる. 愛される事によって,自分を知ったから. 自分を知らなければ,何を追いかければ良いか分からず,私はいつまでも迷い続けたろう.

自分を知れば知るほど,人間の価値が嫌でも分かってしまうから,当然他人の価値も認めざるを得なくなる. 私は,人間に貼り付いた如何なる富や権力,容姿や学識より,その人の心が存在する価値の方が重いと考えている.

今の私が誰かに与えているものは,私がいつかに誰かから貰ったものだ. 誰かから貰った愛に感謝するからこそ,他の誰かを支えたいとも思える. 「誰からも愛されない」と我が身の上を嘆く人は,きっと誰の事も愛していないだけなのだと思う.

街なかで無差別殺人事件を起こす者は,他人を大切に出来ないその前に,全く自分を大切に出来ていない. 自分に価値を感じられないからこそ,自暴自棄になれる. 環境のせいなのか,自らの感受性のせいなのかは分からないけど. つまり,自分を愛せない彼は,周囲からの愛を体感出来なかった.


我が身を遠くから眺め,外見に貼り付ける付加価値を得る事に執心すれば,当然その人は,自分の本当に欲しい物が何なのか分からない人になる. 「自分」を認めてもらえなかった人が,我が心の求める物より,世間で支配的な価値観に阿ってしまうのは,ある意味で必然でさえある. だから,子供を自立した人間にする為にも,親は何よりも先ず子を愛さなければならない. その子に「自分」を理解させる為に.


8/25(水)

「将来どんな人になりたいか」と問われた子供は,スポーツ選手だの警察官だの,あるいは医者だの政治家だのと答えてしまうのだが,生き方が,イコール仕事(職業)となっていたのは,社会が人間を食わせ難かった頃の名残に過ぎなかろう. プロのスポーツ・プレイヤーは,心がその競技に何かを見出したからこそ,その道を突き進んでいるだけで,プロの称号も,あるいは年俸も,結果として残った成果に過ぎない.

時代の趨勢如何によって,ある分野(業界)の金回りが良かったり,逆に悪かったりする事はある. だからある作業を続ける人に,結果として金や名誉が残る事も,あるいはその手のものが残らない事もあり得る. 自分を知らず,外からの賞賛の声ばかりを探し求めていると,人は自分がどこに向かって進めば良いのか,仕舞いには分からなくなる. 人類を覆っている「迷い」の正体はこれだ.


人は,好きな事をすれば良いと思う. よく「そんな事では将来路頭に迷う」などと嘆く母親がいる.まあ人間は,自身の思考パターンの範囲内でしか物事を理解出来ないから仕方のない事ではあるが,それは杞憂である. 何かを好きになる力は,人間を決して路頭に迷わせない.

「絵描きになりたいだなんて,そんな途方もない夢を見て,食べていけなくなったらどうするのか」と親は子供の行く末を案ずる. だが,その子が本当に絵を描きたいのなら,手持ちが尽きれば適当にアルバイトでも何でもやって食いつなぐだろう.餓死すれば絵が描けなくなるから.

ゴッホは生前,たった一枚しか絵が売れなかったのだが,後世評価が変わって,絵一枚に何十億円の値が付くようになった. 彼は存命中,かなりの時間を弟の仕送りで食いつないだが,仕送りなかりせば,それに代わる適当な収入源を探しただけだろう.

この「適当な収入源を探す」事が,この日本社会において現状困難である(不可能ではない)理由は,この社会の住人の多くが,ここで言う「絵描きの気持ち」を体感出来ないからだ. 心の冷え切った人たちは,当然希望の絶えた社会を作る.


再三言うが,夢とは「やりたい事」だ. 夢が職業名の事ならば,条件次第でその夢は手に入らなくなる事になってしまう. 医大に行かねば狭義の医者にはなれないわけだから,「金(学費の捻出)」と言う条件一つ欠けただけでも,その職業には就けなくなる. が,「病に苦しむ人を救いたい」と言う夢ならば,自らの進むべき道なのだから,塞がる事などあり得ない. 医師の資格が手に入らないなら,別の効率的手段を探すだけだ.

自分の外に展開されている,フィジカルな世界は,当然ながら我が意のままにコントロール出来ない. だからある時には,様々な障害となって目の前に立ちはだかるだろう.経済的困窮と言うのもその一つだ. 上で言う「好きになる力」とは,その障害物をブッ壊す勇気の事だ.

人生に行き詰まり,首を吊る人は,立ち塞がる障害に首を吊らざるを得なかったのではなく,障害と言う壁を乗り越えたいと思えなかったから,そこで命を絶った. 壁の向こうに広がる景色を想像出来なかったから. その先の人生に,障害を乗り越えてまで生き続ける価値を感じなかったから.


親は子に,好きなものを選ばせてあげて欲しい. 好きなものを選ぶ事さえ出来れば,心配しなくてもその子は,きっとその先で答えを見つけられる.

その子が,好きなものを求め続けたその先で,力尽き倒れたらどうなるのか. きっとその時は,誰かが力を貸してくれる. 現にこの私が,「本当にそんな奴がいるのなら,この俺が助けてやるよ」と,本気で思っているから.


まだ書き足りない. 続きは明日にします.


8/23(月)

心の貧しさについて.

世の中には,貧しい心の持ち主がいる. どんな物質を手にしたところで,その人は心の貧しさを覆えない. また,どんなに忙しなく動き回っていても,勤め先などに時間を拘束されていても,詰まるところその人の人生は,退屈そのものである. 心が楽しさを覚えないから.

人生を楽しめない人は,実のところ人生を「楽しくない」とすら感じられない. 何故なら,楽しくなさは,楽しさを知っていてはじめて捉えられる感情だからだ. だからして,「毎日が面白くない」などと言いつつ,その日々に甘んじているような人は,実は面白くなくもないのだ. 本当の意味での「面白くなさ」を知っている人なら,そんな退屈になど甘んじている筈が無い. 面白さの意味が分からぬ人は,面白くなさも同様に漠然としか捉えられない.

中途半端に貧しい心の持ち主は,自らの置かれた境遇に,幾許かの不満をかこっていたりもする(絶望的に貧しい心の持ち主なら,不遇に慣れる). 自分のポストや連れ合いなどは,一番顕著にその不満の標的となるので,しばしばそういう人は離婚などをしたがる. 過去を実態以上に美化したりもする. 退屈なのは,自分の心が貧しいからだと言う単純な事実を正視出来ない. 離婚したくなるのはきっと,そもそも「本当に好きな人」を選んでいないからだろう.


子供の頃の私は,学校嫌いであった. 学校に行くより,家で音楽を聴いたり,ギターを弾いていたかったし,寝転がって本や漫画をもっと読みたかった.そもそももっと寝たかった. 無論,現実を忌避したところで,それだけでは何も生まれない. しかし,もしあの頃の私が,世界に何も感じられず,学校を「嫌いだ」とすら感じず,誰かに言われるままに登校を続けるような子であったなら,おそらくは今音楽家になどなっていない.

私は,幸福になる為に,退屈な人生から全力で逃げたい. 子供の頃のままに,大好きな歌を作ったり,一日中寝そべって漫画を読んでいたいから,企業などに全人生を拘束され,馬車馬の如く酷使される毎日など選択出来ない. 私に,好きでない事なんてやっている暇は無いのだ.


手の届く範囲に存在する,次善ばかりを掻き集めていたら,誰だって一分の隙も無い程に詰まらぬ人と成り果てるだろう. そうならない方法があるとしたら,それは「自分の一番欲しい物を追いかける」ぐらいしか無いような気がする. だから「欲しい物が無い」と言われたらどうしようもない.

心豊かな人間になるにも,どうやら生まれもっての先天的才能って奴があるらしいけど,かなりの部分教育で補えたりもするらしい. ハッキリ言えるのは,今の日本が,私の言う「心貧しい人間」を作るに適した社会であると言うこと.


8/22(日)

歳経し女の存在意義について.

この社会では,女性は,ある年齢を境に急速にその価値を失う. まあ男もそうなのだが,女性においてその傾向は顕著である. だから,若さと言うモノがある種の驕りとなり,歳を重ねる事が怯えに繋がる.

肉体と言う入れ物は物質なので,時間に晒されれば当然劣化するが,精神は違う. 蓄積こそが価値だからだ. 

仏教では,人間を構成する諸要素を五蘊だとか表現したりするのだけど,今一つ私にはピンと来ない. キリスト教的なbodyとsoulだと説明された方が,私には理解し易い. 死とはbodyが尽きる事であり,紙を剥がすようにbodyからsoulは離脱すると言う.

私は平均的日本人と同程度の意味で,何の宗教も信奉していない. でも人間にsoulは感じる. 個別に違うsoulの輪郭こそをその人だと考えている. だから,私にとっての人間は,歳を取ったぐらいで価値を失わない. soulの輪郭がか細い人など愛し難い.これは若さと直接関係無い.


歳を取った女性は,若い女性に比べ,経験があり,当然それが蓄積となっている筈だ. だから一般に,母親と言う歳を取った女性は,自分の子と言う若い女性に,料理や針仕事を教え,またある時は子育ての良きアドバイザーとなる. でもそういう技術以上に大切な,伝えるべき事はあるように思える.

歳を取った女性は,若い女の子に「歳の取り方」を教えてあげれば良いと思う. 異性や若い女性に対し,如何に振る舞うべきか.集団の中で,どのように演じる役割を変えて行けば良いのか.どうやって自分自身を笑えば良いのか等. 如何にして「おばさん」なるものに変貌を遂げて行けば良いのか分からず,迷っている女性は多い筈だ. 私もたくさんそういう人を見てきた気がするけど,こればかりは男の私には上手く教えられない.


ここでいきなり話は変わるが,私はいい歳して「おじさんになり損ねた人」のような気がする. しかし別に困っていないので,アドバイスは要りません.


8/21(土)

今週のリハーサル風景.

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影山リサ,新曲の最終チェック. 来週は歌録りです.この曲を録り終えたら,とりあえず次のタイトル収録曲が揃います.

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8/20(金)

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盆のお休みで帰省していた人が結構いたようで,今週のスタジオはお土産の山だった. 以下,今週のリハーサル風景.

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8/19(木)

17日より,広瀬沙希の4作目,「solitude」が発売されています. 広瀬沙希は,多分来年以降になると思いますが,配信用のタイトルを発表しようかと思ってまして,今企画を検討中です. 以下,本人からのコメント.


日々想うこと、感じてることを少しずつ形にして、1枚のCDにすることが出来ました。 曲を聞いて、少しでも何かを思っていただけたら嬉しいです。

広瀬沙希



8/18(水)

Fさんの事について. ちょうど良い具合に気分が乾いてきたので書き付けておく. 私がその人に出会ったのは,もうかれこれ9年くらい昔の事になろうか.

あるオーディションで,たまたま私が面接を担当する事になった.その人は当時確かまだ十代の女の子で,地方(それも九州)在住者だった. その人は歌が歌いたいと言う. 我々は我々で,是非その人に,ウチに来て欲しかった. 一見相思相愛の関係だったのだが,そこに障害が存在していた. その子の「親」である.

我々は東京都内で活動しているので,どうしてもウチでこの作業をやろうと思うなら,東京か東京に通える程度の近郊に住まねばならない.九州から通うと言うのは,ハッキリ言ってあまり現実的でない. 当然ながら我々は上京を勧めた. が,親の猛反対に遭った.上京にも歌手を目指すことにも,全てに反対であると言う. その子は別に親に何らかの援助を要請したわけではない. 親は,援助を断るのでなく,我が子の生き方を制約しようとしていた. ハッキリとした理由など無い.「ダメなものはダメ」とでも言わんばかりの剣幕だった.

Fさんは,何度も親を説得しようとした.ウチの事務所から実家に電話を掛けた事もある. 頑なに反対する親に困り果てた彼女は,最後に私に,「親と話してくれ」と懇願したので,私は彼女の母親と電話する事になった.

結果から言うと,母親を説得する事は出来なかった. 私の力量不足と言いたいところだが,正直言ってあの調子では,誰が話しても結果は同じであったろう. それ程に全く聞く耳を持たぬと言った調子で,要するに会話にならなかった. あの時のあの子の涙を,私は忘れていない.

電話口で,親があまりに金の事を繰り返すので「だったら引越し代ぐらい俺が出してやるよ」と本気で言いそうになった. もしその親が「それならば娘の上京を許可する」と言うなら,その時の私は本当に引越し代ぐらい出したろう. が,親の反対理由はそんな些細な事だけでは無かった(実際,私が「金が掛からなければ良いのか」と問うと,「それでもダメ」と明言していた).娘を我が意のままに整然と存在させねばならぬと言う,半ば強迫観念すら持っているようだった.

あの親は,子供の事を何だと思っていたのだろう. タンスの中にしまってある,首飾りか何かと間違えていたのではないか. 私は我が身の非力を呪った.だが,今あの時と同じ状況に遭遇すれば,きっともっと違った結果を出せる筈だと思っている. このテキストを打ちつつ,私は,あの頃の自分に何かを教えている.

私はこんな仕事をしているから,このように誰かの親と対峙し,説得を試みねばならなかったり(嫌だけど),またある時は,家出同然の状態で一人で東京まで出てきてしまって,その日食べる物すら無いと言うような子供を見てきた. 「朝から何も食べていない」と言う子と,二人並んで夕飯を食べた事もある. 私は,音楽の世界に憧れて東京まで出てきた子らに,在りし日の自分を見ていたのだと思う. 私は結婚もしていないし,子供もいないけど,その子らが自分の子供なのだろうと思うようにした. 私は音楽と結婚してしまった.

確かに歌手活動なんて言うモノは,親が非協力的だと言うだけで,得にくくなる成果が増える. しかし私は持論として,環境を嘆かない. 私は,歌手だとか金がどうだとか,実はそんな事はもうどうでも良かった. ただ,その子に,好きな物を選ばせてあげたかった.

私は,そのFさんと一緒にこの作業に取り組めなかったけど,彼女のお陰で「RACHEL」と言う素敵な曲が出来た. 私は,彼女が今どこで何をしているのか全然知らない. どこで何をしていても良いけど,夢だけは見ていて欲しい. みんなも自由でいて下さい.


8/17(火)

下記の文章,何を言っているかサッパリ分からない,と言う人には申し訳ない. 読み飛ばして下さい.


和声法とは,大方の音楽を支配している力学を,後から解明した,と言うような学問である. 物理学とかに似ている(っつうか,学問って概ねどの分野もそんなものだが). して,その機能和声の呪縛って実にキツい. 私はそれを念頭から外した曲を,何度も作ろうと試みているけど,どうも無意識のうちに和声的な進行感を持たせてしまう.

和声的でない作品を作ろうと思っているのだけど,単純に無伴奏とか,旋法(モード)でも使おうか,みたいな発想ではない. 場合によっては和音も進行もあるのだけど,それが既存の機能和声的でないもの,みたいな曲をイメージしている.過去にもそういうアプローチで作ってみた事はあるのだけど,もう少しそれを掘り下げたい. あと,旋律線を音階と言う階段でなく,エンベロープ(曲線)で表現したような音楽も,もっと掘り下げてみたい.

モードって,別に和声法の対極にあるわけではなく,教会旋法の黄金時代にまだ和声法が確立していなかったってだけで,あくまで和声法と同一軌道上にある. 共存も無論出来る. マイルス・デイビスは天才だと思うが,モード・ジャズみたいなものをやりたいとは,とりあえず今のところはあんまし思わない.

和声法は,それを学んで理解した者だからこそ,それに則った曲が出来るのかと言うと,全くそんな事は無い. 音楽的教養皆無のアマチュア・ミュージシャンでも,「とりあえず何か曲を作れ」と言われたら,一応は和声法に則った曲を書いてしまう. ずぶの素人でも,12音階以外の旋律を口ずさむ事は困難なのと同じようなものだ.

「裸の王様」で,王様が裸である事を指摘するのは「子供」なのだが,実は多くの子供は(特に日本社会では)既にsnob化していて,王様の裸を指摘する役目としては,ほとんど使い物にならない. 和声の呪縛を解こうと思ったら,精神に余程に無垢な子供を見出さねば,よくあるプログレなどと言う,奇を衒っただけの音楽を作ってしまう. オーソドキシィの逆を選んだだけでは破壊なんて出来ないのだ.

私も一応は芸術家の端くれだから,作りたいと言う衝動は無論常にある.が,同時に破壊したい衝動はもっと激烈にある.

「良い曲を作りたい」とか思ってはいるけど,では「良い曲とは何ぞや」と問われると一概に定義し難い. 売れる曲ってのは,多くのコンセンサスを得たものになるわけだが,そこを至上命令にすると,どうしてもマジョリティ迎合型の作品になってしまう. 一部の人にしか理解出来ないが故に,盲目的な消費者を(ある種の心理につけ込んで)取り込める商品もあるにはあるが,それにしたって基底に最低限の理解(良さが分からぬ原因が,自身の相対的無理解にある事が認識出来る程度の)がなければ,その手の現象も成立しにくい. そのか細い理解も,要はコンセンサスなのだ.

売れはしないが芸術性が高い(と思われている)作品も無い事は無い.クラシックとかがとりあえずはそれに当たる. しかしそれも,何らかの既存の価値体系に阿っているのには違いない. 私の作りたいものは,少なくともそれではない.

和声音楽が琴線に触れてしまう事は,一種の教育(と言うより,もっとライトな通念と言った方が正確か)の賜物なのだけど,子供の頃の何も知らない私が和声音楽にしびれたのもまた事実なわけで,この辺りは判断が難しい. 和声音楽が,私の美しいと思う何かを持っている事については,それはそれで間違いない.

洞穴の壁に絵を描いた原始人は,無論遠近法も知らなければ,石膏デッサンもした事なかったろうが,絵画の技法など知らずとも,対象を見て感じたたままに,事実絵を描き残した. 私にあんな絵が描けるだろうか. 描きたいなあ.


8/16(月)

盆休みって事でも無いのだろうけど,まとまった休暇をもらっていた. とは言っても,片付けねばならない仕事は山ほどあったので,そんなに暇では無かったが.


唐突だが,誰かになり変わる事って幸福なのだろうか. 例えば,ある会社の平社員が,ある日突然係長や部長,あるいはその会社の社長になる事ってそんなに幸せな事だろうか. 結論から言うと,私にはそうは思えない.

平社員が係長になれば,通常収入なども増える. だから一般に人は昇進したがる. だが,人に抜きん出て栄達しようと思うなら,当然それ相応の労力も必要となる. 窓際族とか呼ばれる人たちの多くは,栄達などと引き換えに努力を払うのがバカらしい人たちで,つまりは今の生活に結局のところ満足している人らなのではないか.

私は厳密な意味でのサラリーマンを経験した事がないから,半ば想像で述べているが,会社員なんて言う人たちは,ポストに比例してその心労なども増すと思われる. 係長の椅子に座る人は,そのポストを得るに相応しい成果を手土産に係長の立場を得る. 更には,係長相応のサラリーを貰う代わりに,係長相応の心労も請け負う. 「そんな事やってられない」と思う人こそが,つまりは万年平社員だったりするのではないか. 平社員の立場すら心労だと感じそうな私が,サラリーマンにならなかったように.

会社に行くのが嫌だと愚痴るサラリーマンは,事実会社に行くのが辛いのだろうが,「それならばそんな会社には,明日にでも辞表を出してしまえば良い」と言われても,大方の人は困るだろう. 今の会社勤め以上に心の安寧の得られる時間が想像出来なかろうから(辛い現実から逃げたい一心で,会社を辞めるだけの人ならいくらでもいるだろうけど). 想像出来るのなら会社など即刻辞める筈だ. 不遇下にある人は,運が悪くて何かを掴み損ねたから不遇なのではなく,その何かを「掴みたい」と,本気で思えなかったから不遇なんだ.

月に40万円稼ごうと思うなら,当然40万円分の何か(時間だとか神経だとか)を犠牲にせざるを得ないだろうが,その犠牲が,本当に自分にとって耐え難いものなら,少々の給料の目減りになど目を瞑って,気楽な仕事をすれば良い. 現状の犠牲を払い続けてでも給料の額面を維持したいのなら,やはり今いるその場所は,その人の目指した場所だ. 会社の社長もホームレスも,目の前に無数にあった選択肢の中から,今の生き方を選んだ. やはりその人の望んだ場所なのだ.

確かに人間は,生まれつく環境を選べはしないのだけど,与えられた条件下にて,自分にとっての最良の選択を繰り返しつつ生きる生き物ではある. 過去の私の一挙手一投足全ては,一直線に今日の私に繋がっていた.だから私は,今の自分に過不足は無いと思う.

会社勤めが苦痛で,同僚と酒に酔ってくだを巻き,上司の陰口を叩きつつ,世を儚むものの,結局はそれらのガス抜きによって多少なりとも溜飲を下げ,次の日には体に鞭打って定刻に出勤する人がいるとするなら,彼がいくら「人生は辛い」と歌の文句のように嘆いたところで,その嘆きも含め,偽らざるその人そのものだ. 等身大の彼とは,どこにでもいる「嘆きつつも現状に甘んじる人」なのだ.

窓際に追いやられた自らの立場をかこつ人が,ある日突然に,道端で小銭を拾うかのように部長のポストを得たとしても,本当はその人自身を苦しめるだけなのではないか. だってその人は,無数の選択(例えそれが消極的なものであっても)の帰結としてその窓際にたどり着いたのだから.

「女にモテない」と,自分の異性関係を嘆く御仁は,本当に女にモテたいのだろうか. 本気で誰かに愛されたいなどと思った事が無いから,誰一人として周りにいてくれないのではないのか. 「ある特定の女性の心を掴みたい」のでなく,「女のような形をしたモノが周りにいて,自分をチヤホヤしてくれるような状況」が欲しいだけなら,それこそキャバクラだとかテレビゲームだとか,そういった擬似的な恋愛ゴッコで事足りる.

然るに「本当の彼女が出来ないから」などと言いつつ,上で挙げたような恋愛ゴッコに明け暮れる人らも,結局は自分の探し続けた自分像に過不足無く収まっている. 本当に誰かの心を得ようと思うなら,「愛する」と言う全く別種の作業に取り掛からねばならないけど,そんな面倒な作業,きっと請け負うつもりもなかろう.

私は,○○ランキングで一位になりたいとも,○○賞を受賞したいとも思わない. もしかしたら,私が,私の探し続けている自分像にたどり着く過程において,結果として○○賞などと言う世俗的な栄誉に与るかもしれない(可能性はゼロではない). でもやはり,私の目指しているのは,明らかにそういう肩書きではない.

私がこれから先,最期の日まで,今と似たような幸福な気分で曲を作り続ける事が出来たなら,私はそれこそが自分にとっての勝利だと思っている. さて,また曲を作るか.


8/15(日)

「犬が怖い」と言う人を見た事があるだろうか.私はある. 何故その人が犬を恐れてしまうのかと言うと,きっと過去に,吠え掛かられるなどと言う形で脅かされた事や,噛み付かれるなどと言う形で危害を加えられた,いわば負の経験を持っているからだろう. あるいは単に,犬と言う得体の知れない生物を見ただけで,そう言った悪夢を連想してしまわざるを得ないような,不幸な境遇下にあったのかもしれないが,今回とりあえず,犬による実体験によって,犬に対する恐怖を植えつけられたものと仮定する.

犬が怖いその人は,犬を見ただけである種の悪夢を想像してしまうのだから,目の前の犬を,如何なる危害を加えて来るやも知れぬ存在として,とりあえず悪意でもって見ている. その時に,犬の側がその人にどのような印象を持つのかは,モノが犬なだけに私もちょっと分からない. が,犬でなく人間であった場合,大抵の「恐れられた人」は,相手が自分に対して放っている猜疑の目を察知する. 従って,当然不快を催す. 臆病な人が嫌われる所以である.

臆病な者も,相手が本当に犬ならば避けてしまえば仕舞いだが,恐怖の対象が人間であった場合,更にはその人が職場の同僚であったり,共通のコミュニティに属しているなどと言う「日常,接触を避けられない相手」であった場合,そう一筋縄には行かなくなる. 従って,何らかの方法で制御しようとする. それは阿諛追従であったり,時には恫喝であったり.

このような卑屈な人間が作られてしまう直接の原因の多くは,上に述べた通り,負の経験である. 精神医学の本などを読むと,幼児期に虐待を受けた人の性格は歪みやすいなどとよく書かれてあるが,実に当たり前の事のように私には思える. 誰彼構わず吠え掛かる犬は(無論,人も),臆病な人間を生んでしまう,不幸の発生源に他ならない. まあ迷惑な奴だ.

翻って考えてみたいのだが,何故その犬は,見境無く誰にでも吠え掛かるのだろうか. それは,彼(その犬)自身,脳裏に生々しい「迫害された記憶」を抱えているからである. 怖いからこそ威嚇行為を発動してしまう. 加害者である彼は,同時に被害者でもあるのだ(だからとて,その行為が免罪されると言うわけではないが). 恐怖により,目の前の世界全てが信じられなくなれば,その人の威嚇の矛先は全方位に向いてしまうだろう.つまり,臆病さが人格として骨肉化してしまう.


このように,臆病者は更なる臆病者を生む.不幸は連鎖反応を起こすのである. そして,不幸の渦中にある者は,他人をも不幸に陥れようとする(無意識であったとしても,それは彼の本然である). 臆病者は,堂々とした幸福な人間が苦手である(嫌いと言うのとは微妙に違う). だから結果的に,自身の周りの人間関係を,臆病者同士で固めてしまいがちである. 当然それらの人々は,不幸の泥沼に落ちていく. 今の日本の,出口の見えない不況なども,詰まるところこのような原理にて生じていると思われる.

自分はその負の連鎖に加担したくない,と思うならどうすれば良いのか. それは臆病でなくなるしかない. その為には,隣人を理解し,愛さねばならない. 相手の思考プロセスを理解する事によって,対人恐怖を克服し,信じる事によって,目に映る世界を美しいものに変えるしかない. 昔の人が言っていた「情けは人の為ならず」と言うのは,きっとこういう意味なのだろう. 理解無くして恐怖は払拭出来ない.

他人に吠え掛かりたくなる衝動(自分の臆病さ)を乗り越えれば,きっと今より鮮やかな景色が広がる筈だ. 吠え掛かる事は,強さではなく,むしろ臆病さの表れでしかない. 臆病者にならず,他人を臆病者にさせない為には,我々自身が毅然とするしかない.


8/14(土)

世の中には「態度のおかしな人」がいる(ここで言う態度は,言葉遣い・行動などを総称している). おかしさの度合いにも因るが,人間の,いわゆる個性など,単なる標準偏差なので,浮世を見渡せば,当然おかしな(平均的でない)人の一人や二人すぐに見つかる.

偏差には当然,様々な方向がある筈だが,この社会の住人は,ここで言う「方向」のバリエーションに実に乏しい. よく言う個性のほとんどが,精神におけるある特定のパラメーター上のブレでしかない. 軸はほぼ同じだ.

だから私を含むほとんどの人は,初対面の相手などを見た時,「あ,この人は昔あそこで見たあのタイプだな」とかいう風に,簡単に分類出来てしまう. 少々のおかしな人など,「どこかで見たあの人」の印象と容易に重なる. おかしさの度合いが尋常でなく,過去に見たいずれの例にも当てはまらないレベルだった場合,人は上で言う分類が上手く行かず,戸惑う筈だ(私など,戸惑われてやせぬかいつも心配である).

親切・マナーなどと言うものは,本来配慮が様式化された行為なのであるからして,そのベースとなっているものは愛や想像力である筈である. が,世の中には当然,その愛や想像力(つまりその基盤である言語力)に欠けた人間と言うのが混ざっている.

いくらその人らに想像力が無いからといって,傍若無人な振る舞いを手放しで許すほど人間の集団は寛大でない. だからして,ある人にとっての「マナー」とは,忍耐と同義になってしまう. つまりその人らは,日常いつも我慢させられている.

インターネットの世界が,図らずもそういう人らのガス抜きの場となってしまっているのを見るだに,意外と浮世には,上に述べた欠陥を抱えつつ生きている人間が多いと思われる. そういう人らはしばしば,浮世を儚み,何事かを諦めるべく自分に言い聞かせたり,あるいは諦め切れず世界を呪ったりする.

異様な態度を取る者のほとんどは,この言語力に欠けた人間である. 異様な態度とは,時に過剰に尊大であったり,あるいは卑屈であったり. 彼らは言語力に欠けているが故に,共感性に乏しく,他人の気分が体感出来ない. だから常に,相手が何をしでかすか分からず怖い. 従って臆病になる.臆病だから過度に卑屈な態度を取ったり,あるいは,相手を威嚇せねば何をされるか分からないと思うあまりに,尊大にならざるを得なかったり.根は同じなのだ. 他者を感じられないと言う事は,即ち自己認識が甘いと言う事でもある.自己とは,他者を理解して初めて生じる相対的概念だからだ.

不必要と思える程に好戦的であったり,逆に場違いなほどのへりくだった態度を取る人がいたら,ハッキリ言ってその人の言語力は疑わしい. 因みに,そういう言語力,ひいては共感性に欠けた人とは,ほとんどの人間が無意識に体得しているある処世術を何時まで経っても理解出来ないのだから,ある面においての一種の低脳に違いないわけだが,必ずしも彼らは,例えばペーパーテストや職業的スキルにおいて,劣等ではなかったりする. 何故なら,世界が怖いから. 怖いから武装せずにいられず,学歴や資格を身に纏いたがるし,共感性に乏しいが故に,適度に他人に甘える事が出来ず,従って結果的にミスの少ない人間になったりもする. だからある面だけをクローズアップすれば,優秀な人間に映ったりもする.

普通人にとって,例えば山道で遭遇した熊が何を考えているか分からなくて怖いように,彼ら言語力に欠けた人間には,人類全てが恐怖の対象となる. 理解出来ないからだ. 理数系の人間がオタク化しやすく,護身具が必要になったりするのには理由があるのだ. オタクと呼ばれる人らが,アニメやゲームなどに登場する二次元のキャラクターなどを偏愛する理由も,彼らには「心」と言う不確定要素が理解しかねるからだ. 全てを数値で制御してもらいたいのだろう.感情が邪魔なのだ(脅威ですらあろう). だから,精神が確立していない相手であればある程良く,幼女などに執心してしまう.究極的には二次元キャラクターのように,精神そのものが存在しないものを好む.


以上,しつこいほどに私が述べ続けてきたような事である. 何故再三に渡って文章化するのかと言うと,大多数の日本人の抱えている病理が,詰まるところこの辺に集約される事に気付いたからだ.


8/13(金)

以下,再三述べている事である.

何を目指して生きるのも良いけど,夢と成果は区別しておいた方が良いような気がする. 夢とは見るもので,成果とは手に入れるモノだ. 両者の違いは,心の中にあるものか外に貼り付けるものか,である. 夢とは気分であり,物質でない.概念語なのだ.

例えば大学受験は,身に付いた学力を競うものである筈だが,学歴と言う成果だけに焦点を絞れば,それは裏口入学だとか替え玉受験などと言う手口にて,金で手に入れる事も出来てしまう. そう言った形で学歴と言う果実のみを手に入れたところで,何らその人自身は変わっていないのだから,私はそれを「外に貼り付いたもの」だと評するわけだ. この「成果」のみを欲しがる人間の何と多い事か.

病に苦しむ人を救いたくて医者になる人がいる. 「救いたい」と言う気分が夢で,「国家試験の合格」は成果だ.医者としての収入なども無論成果の一つである. 夢は心の中にあるものだから,何人たりとも侵す事の出来ないものだが,成果は状況と言う,自分の外にある条件に常に左右されるものだから,我々の努力・才能・情熱などと関係無く得られなかったり,あるいは得られたりもする. 誰かを救いたい人は,条件さえ許せば医者になるかもしれないし,許さねば別の手段を取るだけだろう. 環境と言う障害物と適当に折り合いを付け,考えられる最も効率的な手段で,自分の進みたい方向に進むだけだ.

昨今,世界的趨勢として,音楽が売れなくなっている. 今後,短期的には業界は縮小して行く一方だろうから,例えば経済的見返り(つまり金)と言う成果は得にくくなる. が,音楽を作り続けたいと言うのは私の夢であって,追いかけたい気持ちの事なのだから,それは不変のものである筈だ.

多くの日本人は,夢の意味が分からない. だから「職業名」と言った肩書きこそが夢だと思い込んでいたりする. 「私の夢は医者です」←これは日本語として間違っている.


成果を得ると言うのは,自分の値を吊り上げる行為に他ならないのだが,成果ばかりに執心してしまう人とは,つまりは自分を愛せない人だ. 自分で何かを選ぶ事よりも,自分に貼り付ける値札が大事なのだろうから. 自分自身を把握出来ず,愛せない人に,他人を愛せるわけが無い. そういう人は混沌の中で生きている. 夢を見る事が出来れば,他人を愛する事もきっと出来る.


8/12(木)

ちょっとまとまった休みを貰ったもので,空いた時間にフォーレの曲をいくつか聴いていた. 以下,そこで思った事.

フランス和声なんて実在するのだろうか. 確かにある時代のフランスの作曲家の作風に傾向(法則性)は無くも無いし,「フランス和声」に関する書物もある.また,それ(フランス和声)を真剣に学習している学生などもたくさんいる. しかしドビュッシーもラヴェルも,フォーレですらフランス和声なんてよく分からない筈だ. 「曲なんて,適当に癖で作ってるだけなんだけど」とか言われてしまうそうだ. 体系化されたフランス和声の本を見せても,「よくまあこんな本作ったね」なんて笑われそうな気がする. 

フォーレは,音大生の解いているバス課題が解けるのだろうか. 試しに解かせてみたら,教授に不正解だと言われたりして. 理由を尋ねると,「あなたが百数十年前に書いた○○と言う曲の第○楽章の○○小節目において,事実そのように進行しておりません」と言われる(本当にこういう理屈で成り立っている学問なのだ). フォーレは「あの時はそういう気分だっただけなのだけど」としか思えないだろう.


和声・作曲法なんてものがあって,もう既に一つの学問分野なのだが,その手の本などを読んでいても釈然としない気分が残る. 機能和声なんて一から十まで後付けの理論で,バッハは当然そんなものを頼りに作曲なんてしてなかった.

ラモーなんて人は,現代で例えるとどういう人に当たるだろうか. さしづめ経済学者ってところか.一線級の企業家とかでは絶対無いな. 和声には,経済学とか言う学問に漂う,そこはかとないアホ臭さ(失礼)を感じなくも無い. 無論,ラモーの業績が無用であるとは思わないが.

日本は太古の昔から「言霊のさきはう国」で,日本武尊でさえ歌を読んでいるが,国語の文法(動詞の活用だとか)の体系らしきものを作ったと言えるのは,贔屓目に見ても江戸時代後期の国学者あたりで,ちょっとそれ以上は遡れない(定家だとかがあれこれ考えた形跡なんかもあるのだけど、体系とは言い難いような気がする). それ以前の歌詠みたちは(以後もそうだろうが),いわばフィーリングで文章を作ってた事になるわけだ. 実際そうだろう. 厳密な意味での国語教育の機関など,明治以前には存在しなかった.

音大の作曲科なんかを出るような人らは,ここで言う和声法などに依拠した課題の解法を,一通り習熟しているのだろうけど,その種の作業を美術の世界に准えるなら,ピカソの数万点に及ぶ絵画全てを構図・彩色ごと丸暗記し,ある一点の一部を空白にされ,「この空白部には何が描かれていたでしょう」などと言う問題に一々答えるようなものである. ピカソ本人ですらきっと覚えていないだろう. 私はもっと,芸術の本質の部分が掴みたい.


8/11(水)

共感性の低い人ってのは,要するに言語力も鈍い. これは間違いない. 例えば,あなたの行っている会社や学校に,微笑みかけても相好を崩さない人,と言うのがいるならば,その人の国語力は怪しい. 共感性が高ければ高いほど,おそらくはその人の国語力も豊かである.

共感性の高い人は,相手の心中に沸き起こった気分を,我が心持ちとして体感出来る. 従って,結果的に優しい人であったりする事が多くなる. 少なくとも,優しくなれるポテンシャルを持っている. 逆に共感性の低い人は,相手の気分が体感出来ない. 従って,目の前の相手がよく理解出来ず,ややもすると恐怖の対象にすらなる. 恐怖に起因する譲歩は,優しさではない. 言語の不確かな人は,優しい人にはなれない. 優しくなれるポテンシャルを持っていないのだから,なれる可能性も絶無である. 禁欲的な生き物に育て上げられる事ならあり得るかもしれないが.

人間の,人間(他者)に対する理解の程を測定するには,人間を見せるのが一番早い. 見せるサンプル(人間)が希少であればあるほど,理解力を測り易いように思える. 私など,ぶっちゃけて言えば,変わり者らしくて,自分自身が格好のリトマス試験紙になってしまっている気がする. つまり私には,対峙した相手の言語力が,瞬時にして分かってしまう.


人ってのは,つまりは言語だ. 面白い人も面白くない人も,優しい人もそうでない人も,結局は言語に因ってしまっている. 所与の外見は,遺伝と言う抗い難い運命の所産であるし,世間であたかも人間の主体かのように思われているもの,例えば服装や髪型,あるいは表情などに至るまで,それらはその人の思想性が僅かに露見しただけのものだ. この思想を形成するのは,言うまでもなく言語である. 人とは言語だ.

だからして,例えば私のこの文章を隅から隅まで読んでいる人がいるなら,その人は私を知っている. なまじ実見した事のある人などより,余程に理解しているかもしれない. 私の言語を把握しているのだろうから. テキストから感じ取れる体温があるなら,それこそが,紛う事無く私である.


8/9(月)

セロニアス・モンクのドキュメンタリー・フィルムみたいな映画を見た. モンクは奏者としてより,作曲家として後世に名を馳せているのだが,モンク(と言うよりあの手のジャズ・ソングライター全般)の曲想って,明らかにクラシックやPOPS系のソングライターなどと違った独特のものだ. テンション・コードやモードだとか,JAZZヴォイシングがどうとか言う問題じゃない. もう旋律の湿り気が全然違う感じだ. あれの正体って何なのだろう.それが掴めれば私も少しはあれに近づけなくもないような気がするのに.

例えば,アメリカでは,人種によって聴く音楽ごとまるで違ったりするそうだ. 白人はROCK・カントリー,黒人はJAZZ・BLUES・R&B,ヒスパニック系はラテンなど(無論例外はある). 確かに黒人のハードロック・バンドなんて見た事無い. この辺の機微が体感出来るようになれば,私の曲想ももう少し広がるのではないだろうか.

日本に固有の音楽体系があるのか,と言う問題はさておき,日本人の音楽と言えば,演歌あたりが結局のところそれに該当するのだろうと思うが,確かに私の作る曲なんかも,大別するならやはり演歌だろう. 少なくともモンクの曲よりは演歌に近い. そこから脱却出来ていない.

私はJAZZやHIPHOPなんて言う,黒人コミュニティ発祥の音楽が好きである. が,実のところまだ全然聴けてやしないのだろうな. 作ろうと思うなら,まず聴けるようにならないといけないのだろう.道は遠いな.


8/7(土)

神田優花,今週から新しい曲の制作に入りました. 今回の曲が上がったら,年内発表予定の音は一先ず録り終える事になります.

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以下,今週のスタジオにて.

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8/6(金)

こんなに暑いと,犬は肉球を火傷しないか心配だ. 以下,今週のスタジオにて.

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8/4(水)

海外(とりわけ欧米)の音楽シーンに「アイドル」がいない理由.


ソフトが売れないと言われて久しい音楽業界だが,日本では例外的に売れているコンテンツもあると言う. 何十人と言う数の女の子を束にしたようなアイドル・グループたちである. 物凄い荒稼ぎをしているそうな.

私自身はそういうアイドル・グループに金を落とすタイプではないが,他人が何を好もうが別に構わないとは思う. しかし,そう言ったアイドル集団を好む人間の,精神の傾斜には若干の不安を感じなくも無い. 理由は今から説明する.


あの手のアイドル・グループを好む人の多くはきっと,ある人間の特定の精神を好んでいるのでなく,若い女の子集団と言う,物質の集合にパラダイスを夢想している. 能動的に誰かを好んでいるのでなく,世界観を仮託している.  だからこそあの手の女の子集団は,アーティストでなく,アイドル(偶像)と呼ばれる.

アニメやゲームのキャラクターなどに入れ揚げる人らも同じく,それらにパラダイスを夢想している. ある精神を好むのでなく(事実,精神が存在していないのだから当然だが),自分の外にある世界観を補完してもらおうとしている.

アートと言うのは本来,商業の世界とは無縁に存在しているのだが,あるアーティストの精神を愛して止まない人が一定数以上いたりした場合,そのアーティストの創作(求道)活動が商売として成立してしまう事がある. アイドルは日本でこれだけの隆盛を誇っているのに,欧米の音楽市場にはほとんど見られない. 彼ら欧米人の精神がそれを必要としていないからだろう.

言うまでも無く,artistもidolも英語である. 欧米人はそれらの概念を整理し,明確に区別しているのである. アイドルがこれほどまでに溢れ返っているこの社会の住人は,それらの違いにいまいちピンと来ていない(曲を自作してたらアーティスト,とか言う風に,的を外した形でカテゴライズしていたりする). が,これは不思議な事でも何でもない.それらの概念を整理出来るだけの言語力に欠けているからこそ,延いては偶像に世界観を補完してもらう必要も生じる. 全ては初等算術のように,論理的に説明がつく.


8/3(火)

子供の頃は,周りにいるガキどもを見るだに,つくづく「大人って偉いなあ,こいつらは皆,世の大人たちのように立派な人間に,本当に成長出来るのだろうか」などと,結構本気で思っていた. しかし実際に大人になった今,周囲を見渡しても全然大人って立派じゃない.もっと言えば,ほとんどバカばっかりだ. 子供たちよ,大人って全然大した事ないぞ.


人間は,生きている実時間を重ねていくだけで,とりあえずは世に言う「大人」と言うヤツになりはするのだが,人格が洗練されるかどうかはまた別である. 子供の頃の私が錯覚した大人の「立派さ」とは,単に共同体から課された制約を覚えた事による表面上の礼節に過ぎず,飼い犬に仕込まれた「芸」と大差無いものだった. ほとんどの大人は,本質的な意味において,子供の頃と全く変わっていない. 自己を含む,この世界に対する理解の程度においてである.

だからして,親や親類,あるいは単に目上の人である,と言うだけで,その人の言葉に真実など無論含まれてはいない. むしろベースとなっている情報が古いと言うだけで,その人の訓示は有害ですらあるかもしれない. 年齢と言うのは,重ねた時間を数値化しただけのものだが,その期間中にどれだけのモノを吸収したか,と言う指標には単純になり難い. 時間を漫然と過ごす人がいくらもいるからだ.


私は「この人は自分でモノを考えている」と感じた人の言葉には耳を傾けるが,そうでない人の言葉に価値を感じない. これはその人の年齢と直接関係無い. 年功序列なんてものが,社会での支配的原理であったりするところを見るに,この社会に,昔から大した人間などそうそういなかったのだろう. だからこそ,我々は真剣になって探さないと,本当に価値のある言葉を拾えない. 騙されてはダメだ.


8/2(月)

今8月に入ったばかりと言う事は,この暑さ,まだあと1ヶ月ぐらいは最低でも続くんだろうな.シンドいなあ. それにしても,蝉はあそこまで全力で啼かなければ,もう少し寿命も延びるのではないだろうか.


私は,何は無くとも「自分」の天才でありたい. 難関と呼ばれる試験に及第したいとも,有名人や金持ちになって異性にチヤホヤされたいとも思わない代わりに,私は,私と言う分野においての最高の人間になろうと思っている. だから私は,その一点において妥協しない.

成果において,誰かに遅れを取る事ぐらいいくらでもあり得るだろうが,そんなの別に気にならないし,本当に一々気にしていられない. どこかの誰かが,ある基準を設ければ,必然的にその基準においての優劣は生じるだろう. だから,この世の中に存在する基準の数だけ序列も存在する事になるわけだけど,結果的にそこで自分が組み込まれた一々の順位など,私にとっての日々の懸案となり得ない.

私は優れた私でありたい. だから,作品の一つ一つに妥協を許したくない. 私は「曲を作る」と言いつつ,実は妥協しない自分を作っているのだと思う. 今の私が取り組んでいる日々は,とても楽しいけれど,決して容易では無いのだ.


8/1(日)

先日,ある高校生と話をしていたのだが,その子曰く「自分はジコチュー(自己中心主義者)だから,同じくジコチューの人とはよく衝突する」そうな. その時は,何となくそんなものかと思って話を聞いていたのだが,後で思うところがあったので書き留めておく.

まずその子は,自分の事を自己中心主義者だと規定しているわけだが,精神疾患の患者まで含め,自分で短所を把握・認識していると言うのは,その症状が軽度である証拠でもある. だからその子はおそらく,さして深刻な人格上の問題を抱えていない. 少なくとも自分自身に説明がついているのだから.


それはさておき,人間と言うのは,往々にして互いの衝突を生むわけだが,それら衝突は,必ずしも自己中心主義同士の対立であるのかと言うと,そんな事はないように思う. 自己の確立された人,主体性のある人,自由な人,と言った類型と,自己中心的な人とは全く別の人種である. 違いを今から説明する.

主体性のある人と言うのは,自己が確立されているので,欲しい物や進みたい方向が定まっている. 我が心の中に,能動的に「やりたい事」や「欲しい物」があるのだから,当然それを手に入れようとするし,場合によってはその行為が,周囲との衝突に発展する可能性も絶無ではない(責任の所在はさておき).

一方,自己中心的な人とは,我が心の求める「やりたい事」や「欲しい物」があるのではなく,我が心以外のいわば「世界」に対し,自分の思う「ありうべき姿」を求めている. 「世界はこうあってくれるべきだ」と言う受動的感覚である. 甘やかされる事を当然の利得だと見做している,こういう感性を世間では「ワガママ」と呼ぶ.

「周囲の異性はもっと自分をチヤホヤすべきだ」とか「世の中はもっと自分に都合良くあるべきだ」などと考えている人間は,酷い場合,現実にそうでない社会に対し,報復しようとまで思うに至る. 「自分には人も羨むような彼女(彼氏)がいるべきだ」と言うのと,「私は○○さんが心の底から好きだ」と言うのとは,似ても似つかぬ精神である.

だからして,例えば,ある子供が絵描きになりたくて,毎日絵ばかり描いて過ごしているのを,親が「良い大学に行け」と咎めている,と言う構図は,自己中心主義同士の対立では無論ない. 子供は絵描きになりたいのだし,絵が「描きたい」のだ. その一方,親は子供と言う他人に「かくあるべし」と自分の世界観を押し付けている. この場合,自己中心主義者は親の方だけである.

手前勝手な世界観を子に押し付ける親と言うのを,わりとよく見かける. 本来他人である子供に,成績が良く,美人であるべきだとか,もっと言えば,こういう学校に行って,こういう職に就いて,こういう相手と結婚して,などと言う自分が一方的に設定した人物像を押し付ける. こういう親にとって,子供はモノである.自分を飾るアクセサリーの一つに過ぎない.

しかし子供は一人の人間なのだ. 日々何かを見つめ,何かを考えている. だからいつしか,他の誰の目にも(無論親にさえ)映らない未来を思い描く事もある. 親は,子供を愛するなら,その未来こそを認めてあげねばならない.


学校に行きたくなくて,家でテレビばかり見ている子供がいたとして,私は無論サボタージュなど推奨しない.現実逃避の果てになど,碌なモノが待っている気がしないから. 「学校ぐらい一応出ておいた方が,何かと潰しが利くし,後になって一々困らないよ」と言った程度の常識的アドバイスをするだろうか.

しかし,もしその子が,「テレビが楽しくて仕方がなく,学校になど行っていられない」・「如何にしてこの先の人生,テレビに噛り付いて,テレビの側で生きて行くか,を全力を尽くしてでも模索したい」と言うのなら,私は「それなら学校なんて辞めてしまえ」と言ってしまうだろう. その先に,美しい景色が広がっているような気がしてしまうから.


7/31(土)

今週スタジオで撮った写真.

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それにしても,冷房のちょうど良い温度設定って,何でこんなに難しいのだろう.


7/30(金)

とりあえず今週スタジオで撮った写真. 毎日暑いですね.今日は多少マシだった気がするけど.

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7/28(水)

ある漫画家の自伝的小説を読んでいたら,気になる下りがあった.

その漫画家は彼自身,従軍経験のある元日本兵で,漫画書きとしてまだ売れる前に,戦記物を書いていたらしいのだが,それがどうしてもヒットしなかったそうな. ある時,有名な元戦闘機パイロットに,漫画が売れる為のアドバイスを乞うたところ,単刀直入に「勝たんとダメですよ」と言われたらしい. 「勝たんと子供は見てくれません」と.

件の戦記物の舞台は,大東亜戦争である.物語が史実に忠実であるならば,日本は負ける. 筆者が,なまじ本当の元日本兵であったが故に,自身の記憶・実体験をフィードバックさせた生々しい作品を書いてしまう. 従って日本は,最初はそれなりに威勢が良かったものの,徐々に戦局が悪化し,絶望的な転戦(あるいは玉砕)を続けた末,最後は悲劇とも言える敗戦を迎える.

実際にその漫画も,「ハワイ・マレー沖海戦」・「サンゴ海海戦」,「ガダルカナル」まではどうにか人気が持ったものの,「マリアナ海戦」から「レイテ沖海戦」になると,どんなに作者が熱心に執筆しようが読者は見向きもしなかったそうだ. なるほど,確かに主人公が最後に負けるようなストーリーなど,読者も見たくないわな.

言われてみれば本当にその通りで,現代における漫画作品とか,芸能人だとかにしても,結局売れてしまうものって,何となく最後には勝つような雰囲気を持っている(勝ちの定義はさておき). スポーツとかでも,強いチームに人気が集中してしまうのは,多くの人の中に「勝ち馬に乗りたい気分」が濃厚に存在しているからだろう. 私は,人間各々の人生ってヤツも,斯様なものなのだろうと思った.


子供の頃は誰だって,自分の可能性がほぼ無限に広がっているが,人生の段階が進むに従って,その可能性は狭められていく. 確かに,今の私がこれからプロボクサーになって世界チャンピオンになる事や,○○省次官になる事は,ほぼ不可能である.

人によっては,時間が進むに連れ,自分の目に映る人生が,絶望的な戦記物語になって行く. だから毎日が面白くなくなり,自分と言う読者にソッポを向かれてしまう. 人生が面白くない人の正体はこれだろう.

楽しくない日々を送っている人とは,商業誌なら当然連載を打ち切られているような,面白くも何ともない作品にずっと付き合わされている読者なわけで,そりゃ毎日も退屈極まりないだろう. 例えその人が,公務員や専業主婦になって,経済的には余生の安定が保障されていたとしても,そんな眠たい漫画誰も読みたくなかろうて.

私は決して諦めない. 最後に自分は勝利を収めるような気がするからこそ,目に映る毎日と言うドラマが刺激的で仕方ない. 何が起ころうと,その出来事がいわゆる不幸であっても,私と言う主人公に何かを教える為の伏線だとしか思っていない. 最後に勝つために不可欠な伏線である. だから私の人生には,無意味な時間・出来事など無い.

私は,楽しくない毎日を過ごしている人を本当にかわいそうだと思う. たった一度しかない人生なのに,退屈なドラマに付き合わされるだけの毎日なのだろうから. でもそのドラマを面白くするのって,つまりは自分自身に他ならないのだけど. あなたの人生が面白くないのは,あなたがそういう人だからだ.


7/27(火)

ここ最近,昭和史関係の本をいくつかまとめて読んでいたのだけど,それらについての雑感.

昭和史って言うだけで,どうしても内容的に先の大戦を避けて通れなくなるのは仕方ないとして,どうもあの時代の話を追っていると気分が暗澹としてくる.

私は戦争=絶対悪とするような単純な思考法は取らない主義だし,昭和の日本を悪の権化かの如く捉える歴史観にも,安易に与したくないと思っているのではあるけど,それにしてもあの時代の軍隊(特に末端の軍人)のあり方については,もう少しなんとかならなかったのだろうかと思ってしまう.

あの戦争の是非はさておき,多くの軍人さんらは,それはそれでストイックな方々で,後世の鑑とすべき人物も多いように思えるが,下っ端の方の軍人らの,特に初年兵いじめとかああいう恥ずべき行為は誰か止められなかったのか. いくら敵国に敢然と立ち向かっても,後輩いじめが止められないような奴ばらなんて,所詮は卑怯者に他ならないよ. ああいう陰険さが,日本人の宿痾なのだとしたら,もうここらで根絶やしにしたいところだ.

精神が,後輩いじめを止められない段階にあるような,真の勇敢さに欠けた人間が,いくら肩書きだけ軍人であったとしても,正しい意味で国民を守ろうなどと言う高尚な感覚を持てよう筈がない. だからかどうか,あの当時の軍の行動原理って,どうもセクト主義の匂いばかりが鼻に付く(偏見だろうか). とにかく,彼らはもっと強くなる必要があった.


昭和の軍部は暴走気味であったとよく言われるが,実際そうだろう. 事の善悪を論ずる以前に,暴走と言われて仕方ない状態であった事については,議論の余地がないと思う. しかし現代でもそうだが,何故日本の官僚組織(軍と言うのはまさに官僚機構である)と言うのは,あそこまで歯止めの効かないものに成り果ててしまいがちなのだろう. ヨーロッパの国(例えばオランダなどと)とでは,国民に根付いている国家観が違い過ぎるのだろうな.多分.

戦国武将などが,日本の事を天下だと捉えていたように,島国である日本人にとって,日本とはつまりは天下(世界)そのものであって,人間の存念などで緻密に運営して行かずとも,自然になんとか上手い事続いて行ってくれるものなのだろう(それも当然のように). 舵取りを誤れば国そのものを損ずる結果になる,とか言う風に,薄氷を踏む思いで仕事と向き合う官僚は(少なくともヨーロッパ諸国などより)数少ないように思える.


あと昭和史の,特に軍についての記述を読んでいて思うのは,陸軍と海軍って何故あんなに(人間集団の風韻ごと)違うのだろうか. 暗澹たる気分にさせられるエピソードは,陸軍関係に集中している. 個人の人格云々などと言う次元でなく,組織を貫いている空気そのものが違ったとしか思えない. いくつかその原因らしきものを推察した下りを目にしたが,イマイチしっくり来ない. どうしてなのだろう.いずれ分かるかもしれないが.


7/26(月)

私は夏(特に近年の)が嫌いになりつつある. 梅雨が明けたと思ったら,連日,物凄い暑さですね. 「ご自愛下さい」とか言う定型句があるけど,本当にみんな体壊さないでね. 外はもう温暖湿潤気候のレベルを超えてるから.


最近,一連の創作作業の中でも,歌詞を書くのに時間が掛かって仕方が無い. まあ比較的やらない作業ではあるのだけど,昨日など12時間以上歌詞だけを考えていたのに,僅か数行のテキストしか上がらなかった.実に効率悪い.

今年の前半はあんまり表立った活動をしてなかったのだけど(普通に音は作り続けていたが),これから年末に掛けて,いくつかリリースの動きがある予定. ここ暫く,仕事のバランスがちょっとだけ変化している(パッケージ・デザインとかに割いてる時間が多い).


7/25(日)

マーク・トウェイン原作の「トム・ソーヤーの冒険」について. 随分昔に原作(無論翻訳)も読んだのだけど,最近アニメ版をDVDで最初から見ている. これが実に面白い.未見・未読の方には是非お勧めしたい作品だ.

物語中のとあるエピソードである. 主人公トムは,ガールフレンドのベッキーが犯したミスを庇う為,自らが犯人だと名乗り出,先生から鞭打ちの罰を受ける. ベッキーは放課後,トムに抱きついてお礼を言う.

大袈裟でなく,ベッキーはトムにむしゃぶりつきたい気分だったろう.だって自分を守ってくれる人なのだもの. トムは,ベッキーが鞭で打たれるのに忍びなく,自らが罰を受ける事を買って出た. 単にベッキーを守っただけでなく,彼女の感じた恐怖や受けるであろう痛みを,我が痛みとして感じてくれた. だから彼は英雄なのだ.

またトムは,自分の教科書についていた,身に覚えの無い汚れを教師に咎められ,折檻を受ける. 後にその汚れは,クラスメイトのチャーリーの手によるものである事が判明し,トムは一旦は激怒するのだが,最終的にはチャーリーを許してしまう. 彼は,如何なる腕力の持ち主より強いのだ.だから人を許す事だって出来る.

人は,自分を理解してくれる人や,愛してくれる人の存在に気付く事によって,この世界に希望を見出す. トムがこの世界に存在しなければ,ベッキーの目に映る世界はもっと暗いものだったに違いない.


「トム・ソーヤーの冒険」を見ていてつくづく思うのは,文学とは,つまりは「心」を描くものだと言う事. 私は,日本の子供向けアニメ作品などに出てくるキャラクターの多くを,人間と思えない. 何故なら,投影された「心」が読み出し難いから. 酷いものになると,珍獣が画面を駆けずり回っているだけのようにすら見える. シンパシーなど寄せようが無い.

「女の子にモテたい」と日々思っている男の子がいるなら,トム・ソーヤーを見習ってみてはどうだろう. トム・ソーヤーになれるのならば,どんなに顔立ちの端正な人より,如何に身長が高い人より,どんな高価な自動車に乗っている人よりも女の子にモテる筈だ.


7/24(土)

影山リサ,先週録った新曲の上がりをチェックしてました. 早速今週から次の新曲に取り掛かってます.

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以下,今週のリハーサル風景.

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7/23(金)

神田優花,年内に新曲をいくつか発表します. 実はジャケ類なんかも既に大体出来上がってて,あとは収録曲を揃えるだけみたいな状態です.ご期待下さい.

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以下,今週のリハーサル風景.

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7/21(水)

幸福について.

幸福と言うもののバロメーターに,隣人との比較を用いる人は多い. 年収いくらだとか,学歴や連れ合いの有無,果ては住んでいる家や乗っている車だとかに至るまで,どうも多くの人は比較による確認作業無しで幸福を感じ難いようだ. まあそんなの,実のところ幸福でも何でも無いが.

例えば豊臣秀吉は天下を取ったわけだが,生涯ソフトクリームもハンバーガーも食べる事無く死んで行った. 私はそれらの食べ物を,歩いて行ける程度の場所で\100やそこらにて買い求める事が出来るわけで,そういう意味では,ある時代の天下人以上の生活水準にある. 「だから私は幸福だ」とか思うわけではない. 他人との比較にて幸福を感じようと思うなら,こういう比較の仕方もある,と言う例を示しただけだ. 比較対象は何も隣人だけでなく,歴史と言う時間軸上にも存在している.

人類の未来は正確に分からなくとも,後世,単純な生活環境が今より快適になっている可能性は高い. かと言って我々は,現代に生まれついた事を嘆いても仕方ない. 幸福のバロメーターに,隣人との比較を用いても意味が無いのだ.


世の中には,自分の事を,自分の目に映る世界の主人公だと思えない人がいるらしい. どうしてなのだろうか.

幸福や勝利だとか,あるいは成功だとか,そういうものって,自分以外に判定してもらうものなのだろうか. 当たり前のように世間や他人に判定してもらうものだと捉えている人は,もうその時点で人生における敗者なのではないのか.如何にその人が,世間のコンセンサスとしての,いわゆる成功者であったとしても. 幸福はやはり,自分でしか判定出来ないもののように思える.

逆に,どんな失敗も屈辱も,自分に何かを教える為の肥やしにすれば良いし,するしかない.我々は主人公なのだから. 葛藤や失望だらけの日記帳は,明日の自分に読ませてやれば良い. 主人公なのだから,最後の最後に勝つ為に,教えてやらねばならない事は山ほどある筈だ.

自分自身の事を脇役だとしか思えない人は,それこそ人生の傍観者なのだろう.他人の目を借りて,自分を遠くから眺めている. 私は,自分ぐらいは自分の事を信じてあげたいよ. 「最後に勝つ」と言うけれど,勝ち負けって何なのかと言うと,つまるところ私が決めるしかないものだ. だって,我々の視界に繰り広げられているこの映画の主人公は,紛う事無く我々自身なのだから.

我々は結局のところ,自分以外の人間になどなれないのだから,今広がっているこの視界こそが,世界の全てと言う事になる. 如何なる他人も(無論この私も),あなたの目に映る世界の登場人物の一人に過ぎない.


私は幸せになりたい. 自分が最も幸福でいられる方法をいつも模索しているのだけど,目的がハッキリしているからか,あまり迷わない. 幸福とは,心が安らげる時間である.私の日々の懸案は,究極的には,自分に残された時間をどういう気分で生きて行くか,ぐらいのもんだ.

私の言う「幸福」という言葉のイメージが,多くの人にとって「遠い響き」であろう事は理解しているつもりだ. 「幸福って,そりゃ私だってなれるもんならなりたいけど」と,一笑に付されてしまいそうだけど,少なくともそんな風に捉えている人々に比べれば,私にとっての幸福は,身近な,手の届くところにあるものなのかもしれない.


7/20(火)

努力は報われるのか. 未来の事など私には分からないが,ここで言う「報い」と言うヤツの実体が,世俗的な栄達だとかなら,努力と引き換えに得られる成果など高が知れていよう. 世の中は御伽噺のように,必ずしも公平でない.

世間が学歴社会であり,多くの人がその点取りレースに狂奔する理由の一つとして,あの分野は,努力(掛けた時間や肉体の酷使など)と引き換えに得られる成果の割りが良い,と言うのがある. 生き長らえる為に生きるのなら,とりあえず机に噛り付いていれば良い,とも言える.

ある面に焦点を絞れば,努力は必ずしも報われないのだけど,目標さえ間違っていなければ,努力で得られるものはある. それは今日より優れた自分だ. 私が勝ち負けに拘らないのは,他人に勝てないからでなく(事実,勝ち続ける事など不可能だが),自分の事は自分で判断せざるを得ないからだ.

私は優れた私になる為に,今日もダラダラと自分のペースで生きている. 私の目に映るゴールは,どうせ隣の誰かなんかにゃ見えやしないよ.


7/19(月)

ゴマすり(謙虚とは違う)について. 人間の一典型だからこそ呼称が定着しているのだろうけど,いわゆるゴマすりと言われるような人物は,現実にいくらも存在する. 私は別に,そういう人らを非難したいなどと思わないが,不思議に思う事ならある. ゴマすり漢を好む人間が,(当人を含め)この世に存在するのか,と言う事である.

ゴマすり漢は,言うまでも無く,人間関係を上下で捉えている. 上と見做した相手にゴマをする以上,下と見做した相手は当然見下す筈だ. 仮に私が,彼らの世界観において「下」に位置すると見做されれば,見下され,不遜な態度を取られるだろうから,当然心地良い筈も無い. 逆に「上」だと見做されれば,ゴマをすられ,へりくだった態度を取られる筈だが,それが心地良いとも,それはそれで思えない. 私の中のある論理に抵触するから. 一般に臆病な人間が嫌われるように,ゴマすり漢もあまり好かれないのではないだろうか.

ゴマすり漢は,ゴマをすっている自分自身を偽り無く愛せるのなら,これから先もゴマをすり続ければ良い. でも現実には,そんな人滅多にいない筈だ. 私ならば,自分に見せたくないような自分の姿など,即刻あらためます. 私が思う事は単純だ. 私は,私に納得してもらえる私になりたい.


7/17(土)

影山リサ,新曲のレコーディングでした. 思っていたよりも良いテイクが録れました.新しい音源は秋頃には出せそうな気がします.

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以下,今週のスタジオにて.

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7/16(金)

今週のリハーサル風景.

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7/14(水)

韓国のタレントがよく,ある種のリップサービスとして,ファンなどの事を「家族」だとか言うのだけど,あれって要するに,あの社会での人間関係における紐帯が,基本的に血(血族)を柱としている証拠なのだろうな.

日本人と韓国人は,お互いに嫌い合っているのだろうが,一種の近親憎悪なのだろう.両者は実によく似ている.


話は変わるが,私は半年から一年にいっぺんぐらい「データの整理日」を設けている. 読んで字の如く,ひたすらにデータを整理するのだけど,本当にそれだけで一日が終わってしまう. 今日はたまたまその日に当たってしまったのだけど,この手間は無駄だ.スペック如何によって回避可能なものなので,いつか何とかしよう.

しかし私は時間の流れに疎い. よく人から「随分な骨董品を使ってますね」などと感心されるのだが,こっちは「え?!ホンの10年前に買った代物なのに?」とか思ってしまう.要するに「感覚」が違うようだ. 良く言えば,私は実に物持ちが良い.

深く考えるまでも無く,私の物持ちが良いと言うより,世の中の多くの人が「物を買わされ過ぎている」だけのような気がするのだが.違うのだろうか. まあ技術の進歩は大歓迎なのだが,その一々に付いて行きたいとは思わないな.


7/12(月)

溜まっていた編集作業が終わったら,今度は新曲のオケ作りに忙殺されている.


ボーカルなどのピッチを検出(・補正)するツールがあるのだけど,それがまたよく検出結果を間違える. 音がオクターブ違いで検出される事がしばしばあって,私はずっとプログラムの精度の問題なのかと思っていたけど,違うかもしれない.

間違えると言うものの,間違いが起こるケースに傾向があって,例えば,あるボーカリストのテイクではその検出ミスが頻発するのに,別のあるボーカリストのテイクでは全く起こらなかったりする. 多分,倍音成分に関係しているのだろうけど,要するに「実はある意味正しいピッチカーブが検出されている」のではないかと思えてきた.

我々が耳にする歌唱(メロディーライン)は,鑑賞の際,多分に脳内の補正フィルターを経ている. 音程など少々外れていても,聞く側は正しいラインを勝手に想定してしまう. その脳内での補完が一切されない状態の音を,バカ正直に検出した結果,上で言う間違いは起こっているのではないかと思った次第です. 要するに,本当にテイクそのものにオクターブ上の倍音成分が多く含まれていたりするのではないかと. 私にはよく聞き取れないけど(Spectrum analyzerとか使ってまで調べようとも思わない).


7/10(土)

今週のスタジオにて. 今週は主に,マスタリングの上がりをチェックしてました.

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7/9(金)

今週のリハーサル風景. 何だか毎日雨降ってるな.

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7/8(木)

溜まっていた編集作業がやっと終わりつつある.


再三言っているのだが,私はライブと言うヤツがあまり好きでない. まあいくら私個人が好きでなかろうと,仕事としてそれ関係の周旋をせねばならない事はあるわけだが.

好きでない理由の一つとして,演奏(無論歌唱も含む)がスポーツだから,と言うのがある. 身体能力を披露したい者やその鑑賞者がいる事は理解出来るし,ある意味当然とも言えるが,私はやはり頭で考え抜いて作った「作品」こそを芸術だと捉えている. ライブと言うスポーツ大会は,例えば,演者の身体機能に不具合が生じただけでも開催は危ぶまれるし,もっと言えば,演者が死ねば開催出来なくなる.

私はやはり,身体とか距離とかの物理性を制約だと捉えている. 近い距離にて,直接会える人や,会っていられる時間には限りがあるから,私は作品を残すしかないのだと思う.

と言いつつも,今年の年末から来年の初め頃にかけてになると思うのだけど,(弊社主催の)ライブ・イベントを行う予定だそうな. まだ会場や日程などの詳細は全然決まってないけど,決まり次第ここでもお知らせすると思います. 滅多にやらないんで,その際は是非遊びに来てください.


7/4(日)

私に悩みや,将来についての不安はあるのか. 私事だが,ちょっと前にある人から「あなたには悩みが無い」と言われたので,あらためて考えてみた.

日本はデフレ傾向にあると言う. 私に経済の事は分からないけれど,人間の心の萎縮が招いた事態であるのは間違いなかろう.

デフレってのは要するに,モノの価値が下がり,タンスに眠っている金の価値が相対的に上がるって言う現象である. モノ(あるいはサービス)を提供する側が,商品に自信を持って値を付けられず,結果的に市場全体の値を崩す. 消費者の側も,いざと言う時に頼れるものは金とばかりに貯蓄に励む. そりゃデフレも起ころう.

モノを売る側が感じている疚しさも,消費者側の感じている不安も,人間に対する理解さえあれば消えて行くものに違いないのに.

人は一体何が怖いのだろう. 私は常に人間を理解しようと努めているが,この恐怖ばかりには共感し難い. 例えば,貯蓄が無いとして,「イザと言う時どうするのか」と問われても,その「イザと言う時」ってのが具体性を帯びてないので,リアルに想像出来ない. 借金をいくら抱えたところで,破産すればゼロに戻るだけだし. 子供の学費とか?現代って高校まで事実上無償で行けるんだよ? 家に金が無いなら,高校まで行きゃ十分だろう. それ以上の高等教育を受けたかったり,研究がしたけりゃ,子供もその頃はいい歳なんだから,自分自身で適当に稼ぐなり何なりして学校に通えば良い. 勿論,家に金があるなら学費ぐらい出してやればいいと思うけど.

イザと言う時の入用って本当に謎だ. 罹病とかを想定しているのだろうか?治療費なんて,病状によっていくら必要になるかも分からないし,医者じゃ治せない病気だっていくらでもある.私は切りの無い心配はしない.詮無いから. ヒマだったら,杞憂って言葉の語源を調べてみると良い. 杞の国は滅びたそうだ.

もっと言えば,無一文で死んだって別に良いじゃないか.確かに無一文じゃ葬式も上げられないわけだけど,私の死んだ後の世界なんて知ったこっちゃない. 葬式なんて上げたきゃ誰かが勝手に上げるだろうよ.

今日のまとめ. 私に不安は無い.


7/3(土)

音楽は私の中にある. 手に入れて身につける装飾品でなく,自分自身を掘り崩す為の道具である. 欲しい物はまだ見ぬ自分だ.

あまり考え難い仮定だが「音楽(作品作り)に飽きたらどうするのか」と問われたなら,「即刻やめる」としか答えようが無い. 刺激を感じられなくなったなら,その道具は使い物にならないから.例えそれが音楽であったとしても.

ただ私は,子供の頃から音楽が好きだったし,今も無論好きだから,これからも好きだろうと思わざるを得ない. 私の嗜好は,私と言う固有の条件に因る思考のパターンから生まれているのだから,私がある日突然別人にでもならない限り変わらない筈だ.


と言うわけで,相変わらずの今週のリハーサル風景.

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7/2(金)

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暑い日が続きますね. 今週のスタジオにて.

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7/1(木)

言語以前の言語力について.

先日,コンビニのレジで並んでいたら,私の前で会計をしている女性が赤ん坊を抱いていた. 女性の方は支払いに気を取られて,それ以外の事に気が回っていないようだったが,赤ん坊の方が私を見つめていたので,私が笑い掛けると,その子はつられて笑った.

つられて笑うと言うのは,即ち共感である. 彼(赤ん坊)には,私の心の中に沸き起こった感情が忖度出来るわけで,つまりは他人の感覚を,自分のものとして体感出来ている. 感受性が豊かなのだろうけど,それは言語中枢が優れているのだろう. いわゆる言語中枢とかいわれるものの性能には個体差があって,それは生まれ持ってのものである部分も実に大きいように思える. 乳幼児にさえ出来るこの共感が,一生涯出来ない人もいるのだ.


私の知り合いに,ある精神障害を抱えている人がいるのだが,付き合い始めた当初,私は(私以外の周囲にいる人間も)彼の行動に振り回され続け,大いに難渋した. 思考のプロセスが理解出来なかったのである.

しかし不思議な事に,長く付き合っていると(あと本などでその精神障害についての知識を得て),おぼろげながらではあるが,段々彼の思考の道筋がたどれるようになって来る. そうすると,自然付き合い方も分かってくる. ただし,彼の行動と言う結果から,そこに至った思考のプロセスをトレース出来ると言う状態なので,まだ「完全に行動を予見出来る」と言った域には達していないが.

要するに,理解を成立さしめれば,物事は万事上手く行く,と言う話をしている.


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