Staff diary  
スタッフ日誌[2010]

[文 / 益田(制作)]

3/31(水)

昨年末あたりの,神田優花の売上げ明細(配信)をチェックしていたら,ちょっと気になる点があった. 「mixi music」って何だ?SNSの「mixi」は,一応知ってはいるけど.

多分音楽ダウンロード・サービス的なものなのだろうけど,我々は,常に自社の音源を卸している業者の全てを把握しているわけではない.なので,明細などに目を通して初めて存在を知るサイトなどがあったりもする. 「mixi music」ってのがまさにそれに当たるのだが,昨年末,瞬間的に神田優花の「水底」って曲がその「mixi music」でえらく落とされているのだけど,何があったのだろう.

神田優花について言えば,昨年末(10〜11月)はスペシャでPVがローテーションされてたりと,いくらかのプロモーションがあったので,多少なりともそのリアクションなのかと思いきや,売れてるその「水底」はPVがオンエアされるどころか,アルバムにすら収録されていない(アルバム発表後に出した配信限定シングルに収録). 何なんだ,一体.

遅ればせながら「mixi music」について調べてみたが,どうも昨年末にサービスそのものが終了しているらしい.確かにある期を境に,明細からもその名が消えている. ついでに言っておくが,当たり前だけどこの明細って,リアルタイムで出るものじゃなくて,発行に数ヶ月のタイムラグがある. だからこの「mixi music」のように,存在を知った時点で既にサイト自体が消滅していたりする事もあり得る.


蛇足ながら,この「水底」にソックリな曲が「キャナルシティ博多」ってショッピングモールのオープン当初(1996年〜),施設のBGM(B2F)に使われていた事がある. 地元の人など,施設の利用者は,普通に耳にした事があっても不思議は無い筈だが,神田優花の「水底」,あれをパクっているわけではない. そのBGMを作ったのは他ならぬ私なのだ(当時学生). 割と気に入ってた曲なので,十数年ぶりに再利用してみた. 私は一本道を走り続けているので,こういう事はしばしばあるのだ.


3/30(火)

「『ナンバーワンでなくオンリーワン』などと言う思想が日本人の退廃・堕落を招いた」と言う人がいるそうである. そういう人らは「人間たるもの,やはりナンバーワンを目指すべき」などと結論付けているのだろうか.

私は,「他人より優位に立ちたい」と思わないから,少なくともナンバーワン(一等)を目指してはいない. が,同時に,自分の存在がオンリーワン(唯一)であるなど自明の事で,それを殊更にどうとも思わない. 「ナンバーワンでなくオンリーワン」などと言う人は,だからどうだと言うのだろう. 競争は必ず敗者を生むだろうが,敗れ続ける事に疲弊した者が居直って上のような事を高言したところで,それは劣等感の裏返しに過ぎない.

事実,ナンバーワンになど大した価値は無い. だからと言って,その事実を「諦める事」のエクスキューズにしたところで如何ほどの収穫があろうか.それは,単に敗北に甘んじているのと,大筋において変わらないのではないか. 自己を陶冶する事を忘れれば,人間は忽ち堕落するだろう. 隣人と競う事などに価値はなくとも,自らを研鑽する事に価値はある. 今日より優れた自分像を追い求める事を,放棄すべきでない.


私は諦めない. 例えば,もう二度と会えないであろう「愛する者」に,もう一度会えないものかと今日も考えている. そして何となくだけど,いつか会えるような気がしている. 決して「無理だ」とて,忘却の彼方に消し去ったりしない. 私は,夢を諦めないし,欲しい物を追うことを止めたりしない.実は自分がそれを欲していなかったと言う事に,気付いたことならいくらでもあるけど.

私は欲しい物を手に入れようと思うし,自分が美しいと思う曲を書こうと思う.そして今日も,一歩でも良いから,自分にだけは胸を張れる自分に近づこうと思います.


それはそうと,USBのコネクタ部の裏表は,もっと一目瞭然に出来ないのだろうか.


3/29(月)

良い悪いはさておき,人間(と言うより生物全般)には「強者の下に群がる」習性が,多かれ少なかれあると思うのだが,この強者って何なのだろうか.

生物は常に競争してしまう.好悪は別として,これが進化の原動力にもなっている. 人間と言う厄介な生き物は,馴致・調教する為の思想(延いてはそれを体現する制度)が必要になる程に,この競争の習性が強い. 身分制度はそれなりに優秀な統御法なのだろう.

社会には様々な階級が存在している.会社での肩書き(ポスト)などはその分かりやすい例だが,社会の静謐は,この序列によって保たれている面も大きいのだろう. しかし,現代の日本は建前上,制度によって身分が固定化されていない事になっているので,必ずしも社会が隅々まで階級化されているわけではない. そしてその序列の厳格でない人間関係は,その副作用として,ある種類の人格を強化してしまうらしい.

人に想像力が無ければ,相手が自分と同じようにモノを感じ,考えているなどと言う事を体感出来ないのだから,当然のように周囲を取り囲む人間らが,単なる人体と言おうか,一種の「障害物」に見える. 通常の感受性にても,立ち塞がる壁には人格など感じようが無い筈で,要するに,想像力を欠けば人がそのように見えてくる. 

思考プロセスの読み取れぬ相手が周りをうろついている,と言うのは即ち恐怖である. 人が,人に対してこの恐怖を感じた際,包丁や錐などと言う危険物を一定の場所に仕舞うように,自分以外の人間も隔離したくなるところなのだが,現実にはそうも行かない. 仕方ないので一部の人間は,相手を制御する為に「仮想の階級」を押し付けようと考える. この社会に点在する「尊大な人間」の正体は,これだと思われる. 尊大な振舞いとは,要は牽制なのである. 盗塁されそうで不安なピッチャーほど,牽制球はしつこくなるだろう.

上の「押し付け」の度合いは,その人の感じる恐怖に比例する. なので,ある人間の尊大さとは,逆説的な言い回しだが,その人の臆病さであるとも言える. ある人は,怯えるが故に尊大にならざるを得ない. 「私は,大層な立場にいつつ,全くもって謙虚でない人を知っているぞ」と言う人がいるかもしれないが,その手の人間は,おそらくその立場を,等身大の自分に相応しいものだと感じていないのだ. むしろそこが乖離していればしているほど,君臨しているその立場こそが,圧し掛かってくるフラストレーションの源となってしまう. 置かれている身分が磐石であれば,殆どの人は謙虚にならざるを得ない筈だ. 臆病な人が尊大になってしまうのと全く同じ意味で.

怯えの度が過ぎて,精神疾患だと認定されてしまう人までいるのだが,そうなってしまう理屈は上に述べた通りである. 周囲に対する怯えが生んだ人格なのだから,自分に自信が無ければ無いほど,ここで言う恐怖は深刻になり,病理も根深いものとなる. 怖ければ怖いほど,人は目の前の相手を制御する必要性に駆られてしまう.

尊大に振舞い,強者を演じる事で,その人は周囲の人間を「従えよう」と考えているわけだが,むしろその態度は,嫌われる原因にこそなれ,人が集まってくる要素にはなり難い. 情勢上,已む無く「諂う」人間なら得られても,自分を「慕う」人など決して得られない. しかし彼にそれは分からない.他人の感情が想像出来ない事の帰結がその態度なのだから.

尊大な者は,目の前に媚び諂う者が現れた時,自らの採用する処世術の正しさを(誤解だが)再認識し,確信を深める. 逆に,自身の尊大な態度に反発し,牙を剥いてくる相手が出現した際には,恐怖によって行動を慎むか,あるいは自らの詰めの甘さを省みる事はあっても,自分の判断・世界観が誤っている可能性については,一顧だにしない. つまり彼は変わらない.更に尊大さを増す事すら濃厚に起こり得る.

想像力の無い人は,他人と接する時の態度を基本的に,尊大である事と卑屈である事,の二種類しか知らない. 彼の世界観にて,自分より上と見做した相手に対しては常に卑屈に振舞い,下だと見做したい相手には,常に尊大に振舞う. 敵視する者に対しても,好意を寄せる相手に対しても,基本的に態度は同じである.それらは常に「従わせたい対象」であり,「到底自分には従ってくれそうもない相手」と「当然自分に従うべき存在」に分類される(これは自分との位置関係の上下によって決まる).

この病から人を救う方法があるとすれば,まずは恐怖を払拭してやらねばならず,十分な愛を与えねばならないのだけど,現実問題として,無条件に愛の溢れた場所と言うものが,世の中にそうそう存在していないから事は容易でない. もし,これ読んでいる人の中に「人の親」がいるなら,精一杯子供さんを愛してあげて下さい. その子の目に映る世界を美しいものにする為にも. 信じる勇気を与えてあげて欲しい.


他者に寛容でない強者などあり得ない. 他人の行為に寛大でない人は,強者ではなく,せいぜい強者に成りすましたつもりの臆病者である. 社会に身分と言う箍があれば,それら臆病者の振舞いのある部分は抑制されるが,それは鎖に繋がれた犬の行動半径が限られるのと同じである. 彼の心中に渦巻く「暴れ回りたい」と言う衝動は,そのまま温存される. 私は本当の意味で強い人になりたいよ.だから寛容でありたい.


3/28(日)

とある高校の野球部の監督の発言が,ちょっとした物議を醸しているそうな. 何やら,高校野球の大会で,特別枠みたいな形で全国大会に出場したチームに負けた事を悔やんで,侮辱的(に捉えられかねない)発言をしてしまったと言う. 私自身は高校野球にも関心が低いし,ましてや出場校の選定方法など詳しく知る由も無い. 上の一件についても,仄聞した内容を掻い摘んでいるだけなので,不正確な部分があったりするかもしれないが,ご容赦いただきたい.詳しい事情は,調べればいくらでも出てくると思うので,調べられたし.

その監督さん,謝罪(釈明?)会見まで行ったらしいが,その時の態度や服装などが,更なる非難を呼び,結局は辞任にまで追い込まれたらしい. 気の毒な話ではあるが,私にとっては,微笑ましい事件でしかないので,この件について真剣にアナライズする気にもなれなかったのだが,今日,たまたまその監督の会見の様子を一部目にしてしまった. 確かにあの格好は,見る者に一定の感慨をもたらすな.

もし私が,彼の上司や同僚などに当たる立場で,あの格好で会見に臨む事を事前に知っていたら,とりあえずは諌めたろう(本人の信念に基づく行動であるのなら好きにさせるが). 私の個人的感想などさておき,必ずや物議を醸すであろう事が想像に難くないからだ. しかし彼はあの格好で会見に臨み,おそらくは学校側などからの要請によって仕方なくであろうが,通り一遍の釈明を行った.が,彼自身が実のところ反省していないので,見る者の気分を逆撫でる結果になってしまった. 正直私は笑ってしまったけど,こういう事は実社会においてもしばしばある.

私が感心したのは,教育機関(それもおそらくは私立の)などと言う,いかにも管理・画一化されやすそうな現場において,人間のああいう所作(言わば「ばり」とでも言おうか)が矯正されずに温存されていた事についてだ. 日本の学校社会って,意外に私が思うより寛容なのかもな.

アメリカの古生物学者(恐竜の研究者)にロバート・バッカーと言う人物がいるのだけど(恐竜などに興味ある人の中には知っておられる方も多いであろう,著名な人物である),その人の事を思い出していた. 彼は平素,長髪の髭面にテンガロンハットをかぶり,あたかもカウボーイの様な服装に身を包んでいる. ロバート・バッカーは,研究内容などでなく,ルックスのインパクトで私の記憶に残っているのだが,アメリカの学者社会が,ああいった服装などに小うるさくない証拠でもあるのだろう. でなければきっと彼は,学生(研究生)時代,あるいは学者としての駆け出し(助手など)の頃に,とっくに周囲にそういう奇抜な服飾趣味を改めさせられている事だろう.

大人としての私は,「格好ぐらい本人の好きにさせてやれば良い」と言う論者なのだけど,服装などに神経質になってしまう人らの心根の部分も見えなくはないので(決して褒められた精神でないと思うが),現実問題としてこの社会が上の監督の服装を許容する可能性は低い(特に短期的には)だろうとも思う. 甲冑姿の歴史学者とかいたら面白いのにな.


3/27(土)

先月末からのスチール撮り,今週でやっと一区切りです.撮影の様子とかUPしたいところなのだけど,それより先にすべき事が山積みで,それどころでない. とりあえず今から,撮り終えた膨大なカットのチェックに入ります.


3/26(金)

編集雑記. 神田優花の新曲,今回は歌をステレオマイクで録ると言う,一風変わったアプローチを試みてみました. 音を聴いてみた率直な感想としては,効果の程は微妙.言われなきゃリスナーも気付かないだろうな.

今回の曲のボーカル・トラックは,ごく一部ダブルにしているところがあるものの,大部分は録ったままの音で上げている. ピッチもリズムも補正入れてないし,エフェクトも基本的にリバーブのみ,コンプは軽く掛けてるけど.

今回の曲,発表の予定はまだ全然立って無いのだけど,なんとか年内に出せたらと思っています. そう言えばこの曲,アナログ・レコードっぽいローファイなMixとかも作ってみたのだけど,ちょっとノイジー過ぎてそのMixの商品化は難しい感じです.


3/24(水)

更新が滞り気味だが,何の事は無い.相も変わらず編集作業漬けの毎日. 今日とて別にお知らせすべき内容があるわけでもないが,生存報告として更新してみる.


3/20(土)

今週のスタジオにて.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6 Photo7 Photo8

上げるつもりだったテキストがあるのだけど,読み返してみたら気分が変わったので,上げない事にした. 明日からまた編集作業に入ります.


3/19(金)

先日録った神田優花の新曲,急遽追加のテイクを録る事になりました. 編集の段階で,ちょっと気になる部分が出てきたもので.

Photo1 Photo2

因みに,その気になる点とは,歌そのものでは無く,レコーディング時のルーティングと言うか,設定上の問題です. だから100%私の都合.今回は付き合ってもらいました.


3/15(月)

別に私は売れている音楽家ではないけれど,一応それなりに長い事創作活動をやって来たもので,私の作品に触れた人もキャリア相応程度には存在する. 作品に対しての感想なども,たまに頂戴するわけだけど,今回はこのリスナー(音楽を聴いてくれる人々)について.

悪く聞こえたら心外だが,我々はリスナーだとか(広義の顧客)の為に音楽を作っていない. お金を落としてくれる人らに感謝はするが,あくまで自分の為に創作を続けている. 「お客さん第一」を表明するミュージシャンは存在するだろうが,それではそういう人らは,客が興味を失えば創作活動を止めてしまうのだろうか.確かに実際,売れなくなった途端に音楽活動を止めてしまうようなミュージシャンもいる.と言うか,商業音楽の現場ではそういう人らが多数派だろう.

これまた言い方は悪いのかもしれないが,私は客という存在を,客であると言うだけの理由でそこまで深くは愛せない. だって日々を一緒に過ごしているわけでもなく,何を考えているのかも詳しくは知らない人なわけで,愛せるかどうかはあくまで相手に因る. お客さんは神様だなんて思えない.人間だと思っている.

私は,私自身が最高に美しいと感じる音楽を作りたい. 作品の美しさを,私と同じように感じてくれる人がいるなら「良かったですね」とは言いたいけれど,それは「ありがとう」と言う感覚とはちょっと違う. リスナーの皆さんには,自分自身が美しいと感じる音楽を聴いて欲しいな.


3/14(日)

先日,見知らぬ若者に突然道を尋ねられた. 彼の探している場所を私は知らなかったので,結果として全くお役に立てなかったのだが,その時思った事のメモ.

道を尋ねてきた彼は関西圏の人らしく,あからさまな関西弁で話しかけて来たのだが,彼とのコンタクトの最中,私の気分には,ごく微量ではあるが不快感がよぎっていた. そう言えば私は昔から,方言で喋りかけてくる人間に,軽い違和感を覚えていた. ある論理に抵触するからだろう. 因みに,私がここで言う方言使いとは,標準語を喋る習慣が全く無く,ある地方の方言でしか喋られない人,を指さない.

「標準語で喋られない」のであればいざ知らず(と言うか,止むを得ないのだろうが),キャラクター作り(擬態・韜晦)の為の方言はあまり褒められたものでないような気がする. 多くの関西人の使う過剰とも言える関西弁などは,その成分の半分ぐらいが,ある種の「ウソ」だと思われる. 彼らは喋ろうと思えば標準語でも喋れるのに,ある心理によって,関西弁を押し通しているのではないか. 事実この私は,今いる東京から見れば,大阪などより遥か僻地の出身者だが,日常ほぼ完全な標準語を使用している.言葉遣いで出身地を見抜かれる事などまず無い. 私程度の者に出来る事が,他の多くの地方出身者に出来ぬ筈が無かろう.

日本には立派な義務教育制度があり,洗練された標準語がある. それなのに,東京と言う地方出身者の雑居地にて,見知らぬ相手にいきなり自分の母国語(地元弁)で話しかけると言う行為に,少なくとも私はマナーを感じない.

例えば,私が海外で道を尋ねるなら,現地語か,最低でも国際共通語である英語で尋ねるのが望ましかろう. 唐突に(いわば当たり前かのように)日本語で喋りかけるのは,どう考えても失礼だと思う. やはり東京の街中で,関西弁にていきなり物を尋ねる行為には,若干の甘えを感じてしまう.

ただ,関西弁と言うのは,他の地方言語に比べると,やや国際色を帯びてはいる. 津軽弁や薩摩弁の芸能人はいないが,関西弁ならいなくもない. 一応関西弁は第二標準語でぐらいはあるのだろう. だから儀礼上の境界線が曖昧になって,上のような若者が出てきてしまうのかもしれない. あと,関西弁は,表現力において非常に優れた言語なので,便利でつい使ってしまいたくなる面がある事は認める.

念の為断っておくが,私は主に,物事を分析し,自分の頭の中を整理する為にこういう文章を打っている. 別に上の若者に立腹し,こんな場所で不満をぶちまけたいとか思っているわけではない.


3/13(土)

神田優花,新曲のレコーディングでした.

Photo1 Photo2 Photo3

今回の曲はちょっと難物でして,編集段階でピッチ・リズムの補正を全くしない予定で臨んでます. レコーディング時の歌唱の精度が割と肝になって来るわけだけど,今のところ,それなりのテイクが録れたと思います.まあ編集始めてみないと分からない部分もあるけど.


3/12(金)

今週のスタジオにて. 今週も歌録り二件.明日から編集です.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6


3/11(木)

天正十年(西暦1582年),甲斐武田家滅亡の折,世に言う天目山の戦の話である. 平安期から続いた名家武田家は,織田軍団によってここで滅ぶ.

当時の武田家の,事実上の当主であった勝頼(厳密には子の信勝が当主で,勝頼は家宰)は,相次ぐ敗戦により離反者・逃亡者が続出する中,絶望的な行軍(敗走)を続けていた. その時,家臣の一人である小山田信茂が,自分の城(岩殿城)で軍勢を匿うと言い出した. 小山田家は武田家累代の家臣である.渡りに船と勝頼はその話に乗った.藁にもすがる思いであったろう.

小山田は,まず軍勢受け入れの支度をするとて,先に(武田軍を残して)岩殿城に入ると言う事になった. 小山田は,武田軍の中に事実上の人質として置いていた,自分の母を一緒に連れて帰りたいと勝頼に申し出たと言う. 勝頼は当然小山田の心中を疑ったろうが,その期に及んで悶着を起こしても詮無く,言われるがままに母親を渡した. 私が勝頼であったとしても,その状況ではそうするより他に無かったろう.

勝頼一行は,小山田を信じて岩殿に向かうのだが,その間にも逃亡者は続出したらしい. 結局,小山田は端から勝頼一行を受け入れる気など無く,途上の笹子峠では,武田軍に鉄砲を撃ちかけると言う,当時類例の思い当たり難い程の裏切り行為を見せた. 寄る辺を失った勝頼一行は,その後集団自決する. こういう物の常として,エピソードにはいくらか異説があるが,詳細は調べられたし.「理慶尼乃記」と言う書物に詳しい.

事の終わった後,小山田は敵方であった織田軍に出向き,信長への拝謁を望んだらしい.自らの寝返り行為が「戦功」として認めてもらえるとでも思ったのだろう. ところが,小山田はそこで織田方から「古今未曾有の不忠者」と罵られ,家族諸共処刑された.

織田氏側の判断は,私にも理解出来る. 私でもそうしたかもしれない.少なくとも,彼(小山田)の功を賞して麾下に組み込もうなどと思える筈も無い. だって,「私はいつ寝返るか分からない人間です」と言って,自分を紹介して来ている人物なのだから.

きっと小山田本人も,自分以外の立場(織田氏側とまでも言わない,単なる第三者の視点でも良い)に立てば,自らの行動の矛盾に気付いたろう. このように人は,我が身に纏わる事象において,平明な理性を持ってさえすれば出来る程度の冷静な判断が出来ない. 願望が心を曇らせるからだ.

だからして,人はパチンコに行ったり,宝くじを買ったりしてしまう. 「胴元にとって,パチンコ屋と言う商売が成立してしまう以上,客である自分は,長期的に見れば必ずその賭けに負ける」と言うだけの平明な観測がアタマを過らない. 「自分だけは例外的に勝ち続けられるかもしれない」などと思ってしまう. こういう人を明るい人だと呼べるのだろうか.

希望とは,論理を無視して成立するものではないのである. 上の小山田信茂を笑えない現代人は多い筈だ.


3/10(水)

国内での,年間の自殺者数がまた3万人を超えたそうだ. 凄いな.BSEとかO-157とかで騒いだりしているのが,アホらしく思える程の数字だ. この現象の根本的な原因が,「長引く不況」に無い事を,私がこれから証明してやる.

我々が日々,食事を採るのは,言うまでも無く生命を維持する為である. 医療や栄養学なんてものが存在するのも健康維持の為で,延いては生きる為である. 命が無いと,趣味も何もあったもので無いから.

殆どの人が日々働いているのは,対価としての給金を得るためだろうが,究極的には生きる(生命を維持する)為である. もらった給金の使途は「飯を食う」が最優先になっているだろうから. 家族の為云々と言うのも,要は家族を食わせる(家族の生命を維持する)のが第一義なのであって,就職と言うのはその為の一手段である.

目の前に置かれた夕飯を,どうやって食べるか考えてみたが,どうも箸が見当たらない. だが,言うまでもなく箸とは,食べ物を口に運ぶ為の道具に過ぎない.目的でなく手段である. だからして,それが無ければフォークやスプーンで代用するとか,それすら無ければ最悪手掴みで食べれば良い. 格好は悪くても,あくまで「飯を食う」のが最終目的なのだから,それで良い筈だ. 間違っても「箸が無いのだから,もう夕飯など食えない」と,ちゃぶ台を引っくり返す,なんて人はいませんよね.

昨今,不況であると言うのは事実らしい.新卒者の就職はままならず,職を失った人も街に溢れかえっていると言う. が,就職が無いならとりあえずの糊口の為に,アルバイトでも日雇いの肉体労働でも何でもやれば良い. それも無理なら生活保護を受けるとか(制度としてそういうものが存在し,条件さえ満たせば受給する権利があるのだから,利用出来るならすれば良い),最悪,乞食になると言う選択肢だってある.乞食に身をやつす事が,如何に避けたい事態だったとしても,少なくとも首を吊るよりは優先順位が高い筈だ.

景気なんてのは不確定要素によっても変動するから,きっといつかまた良くなるだろう.その時にあらためて就職活動するも良し,もしかしたら世の中のシステムが変わって,就職活動などそれ自体必要なくなるかもしれない. 職を失い,首を吊る人とは,上で言う「箸が無いからちゃぶ台を引っくり返す人」である. 不況だとか就職がどうしたとか言う問題でなく,論理力の問題である事は一目瞭然だろう.

実は人間とは,「生き長らえる事」を超越した崇高な理念の為に生きる,いわば生命を手段と捉える事すら可能な,稀有な生き物なのである. しかし,そう言った次元にまで思考を張り巡らせようと思ったら,当然その前提としての論理力が不可欠となる. 職を失って首を吊る程度の思考回路で,夢や理想など描けよう筈も無い.


3/8(月)

昨日は日曜と言うのに,10時間ぐらいぶっ通しで編集作業やってました. そうでもしないとスケジュールを消化出来ないんだもの.多分しばらくこんな状態です. がんばります.

しかし,編集作業に拘束されている様は,如何にも仕事している風で説得力があるが,曲想を練っている時など,いくら長時間集中していようと,周りから見ればタダのボーッとしているオッサンだったりするから困る.


3/7(日)

神田優花,新曲の最終リハでした. 近々歌録りです.

Photo1 Photo2

以下,昨日の続き.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


そう言えば先日,スタジオに来る途中で携帯電話を落としてしまった子がいて,その日のリハーサルはその件で大童だった. 幸いその携帯電話は無事見つかったのだけど,落し物について思う事を述べてみる.

私は子供の頃からよく物を無くす人だった. 無くす度に親などからよく叱られたのだけど,人間の一生において,物を無くす事とはただ単に失う事でしかないのだろうか. 無論そんな事は無い.

物を無くす度に叱られた事が,今の私の記憶に残っているように,人は何かを失う度に,その何かについて思いを馳せる. 我が身の不注意を嘆いてみたり,無くした物の大切さにあらためて気付いたり.更には,大切な何かを失って,二度とこのような過ちは犯すまいと自身を戒めたり,無くした事によって初めて,実はその何かが自分に必要でなかった事に気付かされたり. 人は何かを感じる事によって,ホンの少しであったとしても成長する事が出来る.

無くしたモノや金と言うのは,自分を成長させる為のコストである. 私にとっては,札束とか,高価な物質を身に纏う事よりも,今より優れた自分になる事の方が大切である 何かを無くした経験は,我々がそれを何かに変えて,心に蓄積させる為の材料に過ぎない. あなたがそこで感じた何かが,巨大であればある程,その無くなった何かも浮かばれる. だから失う事を恐れてはいけない.

私が今,このような事を考え,ここにテキストを上げられるのも,失った何かのお陰である.

そう言えば先日のリハーサルに,「塩大福」の差し入れがあった. 食べ物は当たり前だけど,食べてしまえば無くなる. また,食べ物を買えば,その分対価としてのお金は無くなる. 物質として無くなってしまう物に意味は無いのかと言うと.これまたそんな筈はない.

大福は食べてしまえば無くなるが,引き替えに得られる大福の食感や,おいしかったと言う気分は残る.あなたがそれを忘れてしまわないのであれば. そしてそれは,その気分をあなたに味わわせたいと思った誰かの心が,この世界に存在している証拠なのである. 失う事を恐れてはいけない.


3/6(土)

今週のスタジオにて. 今週は歌録りもあって慌ただしかった.今月は忙しいのだ.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6


3/5(金)

歴史関連の本などを読んでいると,よく「本能寺の変の黒幕は,実は某であった」とか「家康は○百年後の事態を想定して云々」だのという,陰謀史観であるとか,いわゆる奇説・異説の類によくお目にかかる. 実のところ,歴史の実体とは,如何様なものであったのだろうか.

私は,珍説・奇説の類を,思考の遊びとしては面白いと感じるが,いくつかのそういった説の提唱者に,想像力の逞しさよりむしろ,「想像力の無さ」を感じてしまう事がある. 歴史上実在したある人物が,どの程度先の未来像を結び得たろうか.また,その人一個の思惑でもって,どの程度実際の歴史を動かし得ただろうか. 例えば「風が吹けば桶屋が儲かる」と言ったような,何十手・何百手先を読んでの行動を採っていたろうか. 私にはとてもそうは思えない. 人間って,それ程聡明な生き物でもない.

殆どの人間は,目の前に対峙する相手の心持ちを慮ると言った程度の,いわば1.5人前の想像力すら持ち合わせていない. 酷い人になると,自分自身が何を考えているのか分からない程に,立体的思考を持てない. 歴史と言うのは,諸々の自然条件(無論人間も含めた)から,なるようにしてなった無為の帰結に過ぎなかろう. 人間の作為(特に一個人の陰謀)で動いた部分など,僅少極まりない筈だ.

「本能寺の変を引き起こした明智光秀には,どのような政権構想があったのか」などと言った内容で結構な量の文章を上げている人を見かけるのだけど,私個人としては「おそらく何の青写真も無かったろう」としか思えない. 「目の前にいる目障りな上司を消したい」一心で,発作的な行動に出ただけのように思える. 彼には,何百年先どころか,半年後の世界すらリアルに想像出来かねるものであったろう. だって現代を生きる我々だって,歴史がこの先どのように展開して行くかなんて,想像出来ないではないか.

ある有名作家が,「現代の日本人は,過去のどの歴史段階に生きた日本人も感じなかった虚しさの中に生きている.何故なら近代化を達成してしまって,目標を喪失しているからだ」みたいな事を述べていた(字句は正確で無いが)のだが,私には全然納得出来ない言説である. だってそれが正しいとしたら,例えば江戸時代人は,自らが生きるその時代(当時は当時で人類史の最末端)より,遥かに進歩した現代のような時代を想像の射程に入れていた事になる.そんなわけない. 現代人がリアルに想像出来る進歩って,どの程度の具体性ですか.せいぜい「携帯電話にこういう新機能が付くだろう」とか,その程度ではないのか. そもそも近代化って言葉が今だからこそ通じる賞味期限の短い用語で,それが指す近代など相対値に過ぎなかろう.


勿論,未来に想像出来る部分もある. 例えば「晴れた日があるように,雨の降る日も訪れる」とか言うような,平明な観測を持ってすれば,誰にでも予想可能な事態である. これが見えなくなるのは,偏に願望と言う邪念が心を曇らせるからだ.


3/3(水)

詰まらん話で恐縮だが,何故人は一般に,いわゆる「行きつけの店」などで,自身の存在を記憶してもらう事が嬉しかったりするのだろうか.どうも私は違うのだが.

先日,割とよく行く店の若い店員に,「私はあなたを覚えてますよ」的な意思表示の言葉を掛けられた. その店員はおそらく,ある種のサービスとしてそのような事をしたのだろうが,私は一気にその店に足を運ぶ気が失せてしまった. 気に入っていた店なだけに残念である.

ここまで言っておいて何だが,逆に私が店員側であったとしたら,おそらくその店員と似たような行動を採ったろう. 世間知として,「一般に人は,自分の存在が店員などの記憶に残る事を好む」と言う事実を,一応は知っているからだ. だが,あくまで私にとってのその行動は,自らの感覚を拡大・発展させたものではない.

どうも私は,生まれ持っての感覚が,大多数の他人のそれと微妙に違うらしく,子供の頃などは,人付き合い,時に家族との接触にすらに難渋した. この「違う」と言う事実や,それによって引き起こる様々な軋轢・衝突は,不幸な事ではあっても,「誰が悪い」などと責任を押し付けられる性質のものでは無いと思うのだが,原因を強いて挙げるとしたら,やはり私の方にあったろう. 平均的で無いのは私の方だろうから.

話を戻すが,やはり一般に人は,顔を覚えてもらう事に多少の喜びを感じるのだろう.だからその店員も好意でもって,上のような行動を採る. 一応断っておくと,その好意自体は,私もありがたく思っている. 確かに私も,忘れられるより記憶に残りたいとは思う.

しかし上の一件,これはこれで私の正直な気持ちなのである.どうして私は店員に覚えられるのが嫌なのだろう. 多分私は,自分の「精神」が,歴史(一個人の記憶なども無論含む)上に何らかの痕跡を残す事を喜ばしく思うが,顔かたちと言ったフィジカル面が残る事を,若干疎ましく感じているのだと思う. そう言えば私は,鏡を見る事をあまり好まない.


3/2(火)

私(♂)は,男と女では,どちらかと言えば女の方が好きである(無論,人にも因るが). 男なのだから当たり前ではないか,と思われる向きもあろうが,私のこの嗜好性は,生物学的条件に根差したものではない.

私は時に,一部の男性を「恐い」と感じる事がある. 理由は,思考の痕跡が読み取り難いからである. 要するに私の思考回路が,どちらかと言えば女性のそれに近いのだろう. 思考が読み取れないと言うのは,即ちその人の行動も予測出来ないと言う事に他ならず,それはやはり恐怖にも繋がりやすい.

思考回路が近い・遠い,と表現するのには,多少の語弊があるな. 思考のプロセスが異なる人,と言うより,脳内にて明晰な思考が展開されていない人間こそに,私は恐怖を感じてしまう.原理性が見出せないから.

考えない人は恐いのだ. 行動が論理に支えられていないのだから,何をしでかすか想像出来ない.


3/1(月)

3月です.今月は忙しい.

忙しいと言った矢先から何だが,ちょっと時間があったので,DVDを何本かまとめて見ていた. で,そのウチの一本についての感想.

地方の高校を舞台にした,青春(恋愛)モノのアニメを見たのだけど,何だか釈然としないものだった. まずヒロイン役の女の子が全然可愛くない. 容姿がではなく,パーソナリティーがである. そのアニメの制作陣の,画力はさておき,人間観に疑問を感じてしまった.

アニメのヒロイン役の女の子って,何のイメージが投影されているのだろう. 異性に対する一見高慢な態度とか,突如崩れ落ちるかのように豹変するさまなど,実在の人間像から引き出したイメージとどうも考えにくい. だってそんな女の子,実際にクラスにいたとしても,どう考えても男の子にモテないだろう. オハナシなのだから作り物っぽいのも当然,と言われてしまえばそれまでだが,本来作中の人物とは,現実の人間像が投影されているからこそ,共感が得られたりもするものなのではないのか.

制作陣,とりわけキャラクターに人格を埋め込む作業の担当者(脚本家など)の頭の中に「可愛い女の子」が住んでいないのではなかろうか. 創作であれ演技であれ,「人格を作り出す」と言うのは,精神のチャンネルを切り替える作業である. だから「可愛い女の子」がよく分からないスタッフに,可愛い女の子を生み出すのは難しかろうし,可愛い女の子であった経験が無い女優に,可愛い女の子の役を演じるのは難しかろう. 事実,有名作家などの中にも,女性を書ききれない人は多い.分からないからだろう.

映像面において,昨今のアニメーションの技術的進歩はめざましい.それは門外漢である私でも分かるほどに. しかし,人間心理の描写の稚拙さは,それはそれで目を覆いたくなるほどである. 何故なのだろうか. アニメーションの制作陣に,致命的に欠けた点があるのではないのか.


音楽の世界も同じなのだ. 良い歌をうたう人は,良い歌とは如何なるものか,を知っていなければいけないし,良い曲を作る人は,良い曲を知らねばならない. 良い歌が何か分からない人が良い歌うたいになれる筈は無いし,曲の良し悪しが分からない人間に,良い曲なんて書けるわけがない. 可愛くない人に可愛い歌は歌えないし,カッコ悪い人にカッコイイ歌も歌えない.


2/26(金)

今週のリハーサル. もう今月も終わりか.2月は早いな.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6


音楽制作って本当に手軽になった.とにかくツールが安価にて手に入る. 最近のフリーソフトの機能は半端じゃないのだ.本当に.

私が編集に使っているDAWソフトの機能制限版だかが,最近フリーウェア化されたので,落としてみたのだが,もうあれだけで殆どの編集作業は事足りてしまうと思った.しかも音質も実にクリア. 今のところフリーでちょっと揃え難いものって,ピッチ補正ツールとかマスタリング・エフェクト類とかぐらいだろうか(無論,アナログ系の機材とかは別にして). VSTだとか言うプラグイン類のホスト・アプリもフリーでいくらでもあるし,上質なプラグイン・ソフトも,フリーのものがたくさん転がっている. 本当にPC一台あれば,音楽は作れてしまう.

別に何の結論があるわけでも無いが,あらためて感心してしまったもので.


2/25(木)

また更新間隔が空いてしまった.本当に忙しいんだもの. また新しい仕事が入りそうだ.


声の大きさについて考えていた. 酔っ払いの声のボリュームが上がってしまうのは,いくつか理由があるにせよ,声の調節(制御)機能が緩んでいるのだろう. 耳の悪い人も声が大きくなる傾向にある.ヘッドフォンしている人の声がデカくなるのと同じ理屈で. しかし私が思いを馳せていたのは,以上のようなケースについてではない.

まだ学校などに通っていた頃,校庭のどこかから響いてくる,体育会系の人らの叫び声をよく聞いた. 一部の会社では,いい歳した社員らが,まさにあの体育会系の絶叫を強いられたりするらしい. 従順な社員らが,求められるままに声を張り上げている姿が,手に取るように思い浮かべられる.

客商売などでも,顧客第一を謳いつつ,従業員に大音声を求める会社があるようだが,客は店員の大声など本当に求めているだろうか.聞こえりゃそれで十分だろう. 事実,私が客であればそう思う. 何と言っているのか判別できぬ程の小声ではさすがに困るが.

ハッキリ言って,声など相手に聞こえればそれで良いのである.至近距離に対峙する相手に絶叫するなど,むしろ失礼である.相手も迷惑だろう. 声は言葉を伝達する為にあるのだから,必要を越えた音量は,既に本来とは別の目的に発せられているものである事を知るべきである.

恫喝者は,声のボリュームも大きかろう. 単にあるテキストを相手に伝達したいのでなく,動物的恐怖を与えようと思うから,自然声も大きくなる. 恫喝の意志と声のボリュームは比例するのではないか. この場合,必要性にはかられているのだが,やはり大声は,声本来の目的を逸脱したところに生まれている(むしろ発声器官の用途は,本来そのようなものなのかもしれないが).

歌唱なども良い例である. 通常の会話を越えた意思伝達の手段だからこそ,時に絶叫を用いてしまう. ただ,上の体育会系の例などと違うのは,その大声が誰の意志に因って発生し,誰の心に届けられようとしているのか,と言う「構造」がまるで異なっている点だ. この構造で言えば,恫喝はどちらかと言えば歌唱に近い. 歌唱は特に,特殊なメッセージを伝える際,目の前の相手にも叫ばねばならない事情が発生する. そうせねば届かないから.

遠く離れた(距離的に)相手に喋りかける際,自然に声が大きくなるように,本来声の音量は,自らの伝えたい気持ちと,届けるべき相手の心との距離によって決まるだけのもので,他人がその調節を強いるような性格のものではない. 必要を越えた声量は,むしろ相手を蔑ろにしているが故に生まれるのだ.

絶叫を強いる会社などは,社員の服従の度合いを確認しているだけだろう. 一々服従を確認せねば保てない会社なんて,言ってしまえばその程度の組織に過ぎない. また,何の疑いも無く,必要を越えた(自らの気分を逸脱した)大声を発してしまう社員は,いい歳して未だに誰かに褒められようと思っている. 別に絶叫を強いるのも,それに応えるのも,当人らの勝手と言えばその通りだが,それが一種の支配欲や猜疑心,依頼心・幼稚さの発露である事は知っていても損は無いと思う.


2/23(火)

今月末から来月一杯にかけて,私はとても忙しい. 今既にその繁忙期に入っているのだけど,とにかく時間が無い. 貧乏暇無しとはよく言ったものだ.


忙しい理由の一つは,曲作りに忙殺されているからなのだが,最近思った事のメモ.

私は,音色だとか言う「音そのもの」に然程偏執的でないと言うか,それを音楽の従物だと捉えている. 主体は音楽そのものであり,延いては作者の精神である. 音楽を文学に例えるならば,音色と言うのは書物の装丁だとか,もっと言えば,フォントのようなものだろう. つまり聴き手にとって,心で作品を反芻する前段階の伝達手段,要は感覚(視覚)的効果に過ぎない. 創作物を構成する1ファクターではあるものの,作品世界そのものではないのである.

確かに音色は大事です.それなしで作品世界は表現し難い. 事実,ギターの音がショボいだけで,ある楽曲が本来持つ緊張感が伝わり難くなったりする. だから私も音色を軽視しない. が,やはり音色は作品世界そのものではない.

ジャンルの命名からして音色に由来するような,まさに音色こそにフォーカスした音楽ジャンルまで存在する. しかし,概ねそのジャンルの底は浅かろうし,正直聴いていても飽きやすかろう.フォントの妙で受けている小説の人気など長続きし難かろう.

音の面白さ・音色の妙だけで構成されたような音楽は,世に溢れ返っている. きらびやかな装丁の,奇抜なフォントで印刷された書籍とでも言うべきか.しかしながらその内容は,あるのだか無いのだかイマイチ判然としない. 装丁の立派な書籍も良いけど,私は面白い「内容」こそを書きたいよ.


2/21(日)

冬季オリンピックの開催中だそうな. して,とある日本代表選手の服装・振舞いが多くの日本人の顰蹙を買っていると言う. 斯く言う私も,非難されているその彼とあまり変わらないぐらいの年の頃,髪は染めているわ鼻にまでピアスの穴を開けているわの,まあ格好に関してはあんまり褒められた若者ではなかった.

良い悪いで言えば,きっといけないのでしょうね.そういう格式ばった場所で,それ相応の服装・振舞いを為さないと言うのは. 世間が罵声を浴びせかける事によって,実際その彼は行動を慎みつつあるようだが,しかし威圧によって,その手の若者の行動を制限する事に,そんなに大きな意義があるのだろうか.

その前に,どうして多くの日本人らは,彼の振舞いに斯程に寛容でないのか. 多くの日本人は,突出した存在を嫌うが,平均的でないと言うだけで嫌うのではない.あからさまに「劣っている」と言う意味での非標準性であれば,あのような形で非難される事はない. 非難する人らは,対象となっている振舞いに,若干の羨望があるのではないか.

オリンピックの選手に税金が使われているからこそ,あの態度に腹が立つ云々と言う論調,あれは嘘ですね. 長者番付に載るほどの額,納税しているような人ならいざ知らず,国家予算の配分先を,我が懐から収めた税そのものであるかの如き痛みとして体感出来る程の,異常な感受性など普通人は持ち合わせていない筈だ.

私は槍玉に挙げられている彼を,無論直接は知らない. が,彼の気分のカケラぐらいは共有出来なくもないような気がする. 服装や髪型などに何らかの自己主張を込めたくなる気分ぐらい,多くの人だって若かりし日には感じた事がある筈だ.そういった面において,きっと彼は特殊な人間ですらない. だから余計に見る者の感情を逆撫でるのかもしれないが.

この私に,彼の気分のカケラが感じ取れるように,その彼も,いつか自分に似たような若者に一抹のシンパシーを示すかもしれない. また,その想像力は,自分のような人を非難する,大多数の普通人らにすら向けられるかもしれない. もしかしたら,もうすでに向けられているのかもしれない.分からないけど.

一方,素行の悪い青年などを,頭ごなしに非難している自分自身をゆめ疑わない人たちは,きっと永遠に,その子らの目に映る世界が見えて来ないだろう. 威圧によって行動を制限する事は出来ても,彼にその手段を採用せずに済む「心持ち」を与えてやる事など出来ないに違いない.

放埓を推奨しろとは言わないが,もう少し愛してあげても罰は当たらないと思う.


2/19(金)

Photo1

今週のスタジオにて.上は差し入れのお菓子.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6 Photo7


2/17(水)

私は,音楽制作の手法を日々研鑽しているのだが,その一環として,ネット上に転がっているプログラムを,色々と落としては使ってみている. ほとんどのものは,数時間以内に削除するのだけど.

削除する理由は,個人的に体感する「使い勝手の悪さ」が原因なわけだが,そのプログラムを作っている本人やそれを愛用しているユーザーらにとっては,一応のニーズを満たしている代物なのだろうから面白い. これは,人がモノを作る際に,刺激されているツボが各々違っている証拠でもある.

私の感じる「使い勝手の悪さ」の主なものは,「こちらが意図した効果が再現出来ない」事である(ほとんどこれに尽きると言って良い). しかし,プログラムの仕様として,意図する効果を再現する機能が装備されていない場合がしばしばある(ここで言っているのは機能制限の事ではない). 早い話が,randomizeこそを肝にしているようなプログラムが思いの外多いのである.

って事は,創作(音楽制作)を,アタマの中で何かを作る事ではなく,プログラムなどから生まれたrandomizeの結果を楽しむもの,だと捉えている人が結構な数存在している事になる.まあ実際,世の中眺めてみてもその通りである. 私はそういうものを創作とは呼ばない.

誤解しないでもらいたいのだが,私は他人がどのような趣味を持とうが,何を楽しいと感じようが,一向に構わないのである. ただ,言葉や,それに付随する概念の定義に厳格でありたいのだ. 私は,創作と創作でない行為を分けて捉えている.


2/15(月)

朝の満員電車の中での話である.

その時の車内は,文庫本のページをめくる手の動きさえままならぬ程のすし詰め状態であったのだが,ある駅に着いた時,近くにいた一人の中年女性が,電車を降りようと思ったのだろう,突然体を仰け反らせて動き出した. 電車のドアが開いた途端,彼女は,絶叫と言うような音量にて「すみません!」の言葉を連呼し,私を含む周囲の人間らを力づくで押しのけ,電車を降りていった.

大抵朝の電車は満員になるので,自分の降りる駅が近づいたら,ドア付近に陣取るとか,いくらか上の所業を回避する方法もあったかと思うが,まあそれは良い. 他の乗客はさておき私自身は別にさして不快とも思わなかった. が,おそらく若干の不快感を覚えた人も中にはいるのではないか,と感じた.

何故かと言うと,その女性は,「すみません」と言う言葉を,「そこをどけ」と言う意味で使っていたからだ. 一般に人は,表面的な言葉より,その言語を発した人間の心を捉えている. だから,如何に物言いはへりくだっていても,相手の怒りを買う事はある. 悪意を嗅ぎ取られるからだ. 逆に,同じ状況下にて,同じ言葉を発したとても,全くもって相手に不快感を与えないような人もいる筈だ.

人間は慇懃な言葉遣いなどを覚えるよりも,邪無き精神の方こそを涵養すべきである.


2/14(日)

子供の頃の方が今よりも流暢に喋られた,と思う大人はいないだろうか.きっと多い筈だ. 発音・発声などと言う技術面においては,大人の方が優れている事は疑いないのに.

大多数の大人は,他人と喋る時の所作を弁えている.表情を作り,声色を整える. 無論そういった挙措の大部分はマナーに属するもので,思い遣りが儀礼化したものなのだろう. それらを身に付けることが大人になる事でもあるのだが,後天的に身に付いたそれらが,我々の心を不自由にしている面も,大いにあるように思える.

余所行きの表情や声色を整える,と言う作業は,当然脳に一定の負担を強いるわけで,間違いなくそれなりのリソースを食う. だから,他人との意見交換を為す際に,ホンの僅かであったとしても,集中力が阻害される.従って,心が通いにくくなる. 子供はこの雑念を,良くも悪くも持っていない事が多いから,ある面においては,大人より優れた意思疎通能力を持ってしまっている. 子供の精神は,自分自身と言う物理的存在にとらわれない,一種の幽体離脱状態の中にあると言って良い.


私が以上のような事を考えたのには理由がある. 歌をうたうと言う作業においても,似たようなメカニズムが存在すると思ったのだ. 歌手が歌をうたう際,例えば,「サビの高い音では声が上擦りそうなので,裏返しておこう」とか,「ロングトーンは音程のキープが難しいので,ビブラートで締めよう」だとか言う細工って,良く言えば歌唱技術なのだけど,これらって,上で言う大人の挙措と同じく,一種の雑念ではないのか. だからして時に,歌の世界を表現し,聴き手の心に伝える,と言うプロセスにおいての障害となりうる. それら(ビブラート等)に思いを馳せた瞬間,歌手はホンの一瞬だけでも,「聴き手」と言う相手の存在を忘れてしまう.

では,精神に拠った作業においては,「子供である方が有利」なのかと言えば,無論そんな事は無い. いくら子供には,意思疎通を阻害する要因が少ないからとて,精神そのものの未熟は覆うべくも無い. 確かに子供には雑念が少ないが,未熟さの度が過ぎれば,例えば喋ると言う作業に手一杯で,語りかける相手の存在を忘れる事だってありえる.雑念とは一面,配慮の事でもあるのだ. やはり人間は,大人にならねば精神の豊かさが得られない.

裏声やビブラートが悪いのではない.歌手には必要な知識・技術である. が,それらのテクニックには,上記の副作用があると言う事実を認識する事も,ある意味ではそれら以上に肝要かと思える.

一旦大人になってしまった人間が,子供のような幽体離脱感を得る事は難しい. だから大人は,自分の心のあり様を掴んだ上で,一から腑分けしていくしかあるまい. 自分が何故斯様な表情でいるのか,斯様な行動を採っているのか,を知るのである. それによって,子供の頃に持っていた意思疎通能力を取り戻すしかない. きっと,子供の頃以上の鮮やかさで取り戻せる筈だ.


2/13(土)

先週撮ったスチール,一部UPします.昨日の続き.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


2/12(金)

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6

上は今週のリハーサル風景. 下は先週のスチール撮影の上がりを一部UP.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


スチールの上がりって,いつもはあんまり公開しないのだけど,今回は一部披露しろ,とのお達しがあったので上げてます.


2/10(水)

先週撮ったスチールのデータ,ほとんど休日返上でチェックしているのに,整理が終わってない. しかし画像を見ていて思うに,やはりどんなに綺麗に撮った写真よりも,生身の(動いている)人間の方が魅力的ですね.


話は変わる.閑話だが. 私は,もうどのくらい昔か憶えていないぐらい子供の頃から音楽が好きだったのだけど,取っ掛かりは,ありきたりながらTVの歌番組だった. 当時,いわゆる歌謡曲を色々と聞いていたわけだけど,当然ながら中には,引っ掛かりを覚える歌とそうでない歌とがあった.

当時はまだクレジットにまで関心が至っておらず,どの曲を誰が作ったのかなど,ほとんど気にもしていなかったが,大人になるにつれ,そのあたりの知識はついてくる. で,子供の頃の私が引っ掛かった楽曲達を,時間が経った後であらためて調べてみると,驚くべき事に,悉くと言って良いほどに,ほとんど一人の(同じ)作曲家の手による作品である事に気が付いた. 余程に彼(その作曲家)のメロディー・センスは,私の琴線に触れるものであるらしい.

それでは現在の私の理想とする,目指すべき創作者像とは,その御仁なのかと言うと,それが全然違う. 以下は,伝わり辛い事を覚悟の上で述べる.

その作曲家は,確かに大した才能をお持ちだと思うが,脳のある部分だけを使って曲を作っているように思える. その「ある部分」とは,脳の芯ではない.いわば縁(へり)である. 私もそこで曲を作る事があるから分かるのだ.

脳の縁で作る曲は,量産が利くし,生み出すに精神的疲労をあまり伴わない(芯で作る曲に比べれば). いうなれば,工業製品を作る感覚で曲を作る感じになる.創造と言うより,スポーツにやや近いような気がする. 商業音楽家には,ここで言う,脳の縁で曲を生む作業が得意な人が向いている(別に優劣の話などしていない).

私は脳の芯で曲を作る. と言うか,芯で生む作業と縁で生む作業を,分けて捉えている. 私の考える芸術とは,無論芯で作るものだ. だからして当然,縁でしか作らない人に憧れたりもしない. 観光地などにいる「似顔絵描き」と「画家」は別物だろう(くどいようだが優劣の話ではない). 私も,脳の縁で曲を作る事はある.それもしばしば. その作業もそれなりに面白いし,可能性を感じなくもないのだ.

二つの作業が別物であるからとて,それぞれの道での達者は,それはそれで賞賛されてしかるべきだ. 現に私は子供の頃,上に挙げた作曲家の作るメロディーが引っ掛かって仕方なかった. だが,正直言って,今聴けばその作品達が,深い思考に支えられていない物である事は一目(一聴?)瞭然である. 深い思考に支えられていなかったからこそ,子供の感性にも響いたのかもしれない. この話,この辺で止めるけど,どれだけの人の共感を得られただろうか.一人共感してくれていたら御の字だな.


2/8(月)

「辛さ(苦痛)」について. よく,「生きて行くのは辛い」などと言われるが,実のところどれ程辛いのだろうか.

その前に,苦痛と言うものを,誰しもが等しく感じているのだろうか. 例えば,宿題や受験勉強が辛いとか,立ち仕事が苦痛であるとか言うが,同じ作業をしていても,Aさんの感じる辛さと,Bさんの感じる辛さは同じでないのではないか. 何故なら,人間には一人一人に固有の感受性が備わっているから.

同じものを目にしても,面白いと感じる人がいれば,感じない人もいる. 面白さ・喜びに個人差があるのに,苦痛に個人差が無かろう筈が無い. 要するに,鈍感な人は,苦痛すらまともに感じられないのである. 然るに,鈍感な人間は,如何に苛烈な環境下にいようと,実は然程に辛くない.

だから極端な例で言うと,昆虫の一個体は,集団や種の保存の為に死ねたりする. 魚は,包丁で捌かれる時も痛みなど感じていない,なんてよく言われる(実際どうなのか分からないが).もしそれが本当なら,それは神経・痛覚云々と言うより,感受性の問題なのではなかろうか.

今回の話,私としてはかなり前から,いわば自明の理と認識していたのだが,あらためて文章化してみた.


2/7(日)

日本史は独裁者の出現を拒み続けたと言われる.もはや原理と言って良いそうな. 私もこの社会を,おおむねそのように捉えてはいるのだが,独裁者と言うより「突出した人間」を嫌う,と言った方が実態に近いような気もする. 出る杭は打たれる,と言った言葉もあるように,何故突出した人間は嫌われるのか.

結論から言えば,社会の構成員に,愛・想像力が欠けているからだろう. 確かに,愛無き強者は,何をしでかすか分からないだけに怖い. 弱者・無能者の気分が体感出来ないのだから,そんな人間に社会の舵取りを任せたら(つまり,独裁者などにしてしまえば),その他大多数の人間(majority)は,どのような過酷な制度に晒されるか分かったものでない. 従って,majorityの側から見れば,そのような事態(独裁権の確立)は如何にしてでも防がねばならないのだろう.

大多数の無能者(つまり普通人)の側は無能者の側で,十分な愛が備わっていない. そして,想像の至る範囲は,あくまで自分の身の丈ほどである. だからして,余計に強者が怖い. 自分がその立場(強者)に置かれでもしようものなら,どんな事をしでかすかと想像するだけで,独裁者に戦慄を覚えてしまう. 我が身の影に怯えているようなものだが.


以上の事は,私の仮説に過ぎないが,検証しようと思ったとして,上で言う大多数に証言を求めても,おそらくは無駄である.そんなに自己を認識している人が少ない筈だから. 私が,裁判などで犯罪者に何を問うても,おそらく直接的な収穫は無かろうと思う所以でもある.


2/6(土)

Photo1 Photo2

昨日の続き(スチール撮りの様子),下に上げてます. 今回の上がりは,現時点でも結構膨大な量なのだけど,これからそのチェック作業です. 上は別件でスタジオに来ていた神田優花.彼女の撮影は多分来月です.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


以下は動画.

Movie1 Movie2 Movie3


2/5(金)

Photo1

スチール撮ってました. 今回の撮影,実は一年以上前からやろうやろうと,話だけは持ち上がってたのですが,結局こんなに伸びてしまった. 予定のカットをまだ撮り終わってなくて,多分来月あたりにまた撮影します.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


動画も録ったので上げてみる.

Movie1 Movie2 Movie3


2/3(水)

ここ最近,懸案事項が多くて,週の半分ぐらいは物思いに耽っている. 新しい企画とかを考えているのです.勿論曲作りも含む. 時間が足りない.

私は,曲を書くのだが,作曲だけでなくアレンジや,ある程度の楽器演奏なども担当している. 更にはレコーディング・Mix・マスタリング等のエンジニアでもある. 場合によっては,完成品の売り込み(要するに営業)もやらねばならないので,例えば普通のライターが年間10曲書く,と言うのと私の10曲とでは,おそらく負担がかなり違う.

もっと言えば,ここ何年かは,ジャケット類や各種の販促物のデザインもやっている(これは好きでやらせてもらっているのだが)から,更に負担感は増している. 我ながら,何とコストパフォーマンスの高い平社員か.


2/2(火)

酒癖について.

私はいわゆる酒癖の悪い人ではないのだが(そもそも普段酒を飲まない),ちょっと前まで,世の中には,体質的に酒癖の悪い人とそうでない人がいて,自分は後者に分類されるのだとばかり思っていた. しかし,それはどうやら違うようだ.

酒(アルコール)は異物なので,摂取することによって,体が変調を来たす事は無論あり得ようが,本来精神は不動のものである筈だ. 酒を飲んで暴れる人は,そもそも「暴れたい人」なのだろう.普段の彼は何らかの事情によって,その行動を慎んでいる. そして,いざ酒が入った時には,「酒の席だから」とか,「酔っ払いの為す事だから仕方ない」などと言う周囲の寛容・社会通念に甘えつつ,自身に堕落を許している. 酒席で豹変した人は,その豹変した姿こそが本当のその人なのだ.

酒癖悪い人は,普段の生活において,隠さねばならぬ本性を常に抱えていると言える.周囲を取り囲む力学関係の壁によって,その本性は日常,制限されている. だから酒が入った程度のきっかけで,その精神は臨界点を迎えてしまう.

酒癖の悪い体質,なんてものは存在しない.酒癖の悪い性質の人間がいるだけだ.その実,人格の問題なのだろう. 酒癖の悪い人は,酒を止めるべきなのでなく,酒によって暴発せざるを得ない精神のあり方こそを矯めるべきである.


2/1(月)

拙作(新作VST)「REVERSE」が,しばらく落とせなくなっていたのだけど(サーバーから削除していた),もう復活しています. ちょっとだけ改良加えてました. パラメーターがVolumeのみだったのだけど,Pitchのみに変更(Volumeは廃止).どうせ1Noteにつき1サンプルしか割り当ててないので,Volumeはヴェロシティとかで調節してもらうとして,Pitchが弄れた方が便利だろうと思って.と言うか,私自身が使う際,その方が勝手が良いので.


1/31(日)

Photo1

神田優花,また新曲作りに入ってます. 去年アルバム出してから,今回のでもう4曲目ぐらいになるだろうか.結構ハイペースで作ってます.

以下,昨日の続き.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


そう言えば,物凄く久しぶりにだが,VSTを一つ公開した(Downloadのページ参照). 別に全然大したモノじゃないけど,今回は逆回転のサンプルばかりで作ったドラム・キット.

前にも言ったと思うけど,曲を作る際,私は必要なモジュール類を都度自作したりするので,この手のガラクタは,常に手元にたくさんある. スキン作るのが面倒で,ほとんど公開しないだけだ. しかし,一応は必要にかられて作っているものである以上,このガラクタ達を必要する人も,どこかにはいるかもしれない(現に私は必要なのだから). と言うわけで公開してます.よかったら使って下さい.


1/30(土)

今週のリハーサル風景. 今週もキツかった.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


スタジオ・リハの時って,私は,機材のセットアップとかキュー出しとか言う,要は雑用係なのだけど,誰か代わりにやってくれないものだろうか. ウチがもっと儲かるようになったらアシスタント雇って欲しいな.


1/29(金)

つい昨日,ニュース番組で,秋葉原で起きた無差別殺傷事件の公判について報道がなされていたのだが,ニュースは「公判を通して,真の動機を解明する事が最も肝要である」みたいなセリフで締められていた. どこかで聞いたようなフレーズではあるが,犯人の口から真の動機を聞き出す事が肝要だと言っているのだろうか.だとしたら,私は「本当かよ」と言いたい.

事件の加害者を公判などでいくら詰問したところで,弁護士などが用意したコメントを読み上げるぐらいの事しかおそらくは出来ないに相違なく,真の動機などを自分の言葉で語ったり出来る筈が無かろう. 何故なら,彼自身が自分の事を理解していないだろうから.

犯人の口から真の動機など伺うべくもない. 動機は,その筋の研究者などが解明すべきもので,犯人の供述内容なんて,せいぜいその研究の資料にぐらいしかならないだろう. 頭の中が整然としていないから,事件を起こしてしまうのではないのか.


1/28(木)

何年か前に,大阪だかの若い会社員が,インターネットを介して知り合った家出少女(確か福岡の小学生だったか)を自宅に匿って逮捕された,と言った事件があった. 問題が露見した際に,二人は自分らを「恋人同士だ」と主張したらしい. 事実お互いの間に,そのようなコンセンサスが成立していたのかもしれない.

ここで,「愛し合う二人が一緒に暮らして何が悪い」とか,「少女はその生活(家出暮らし)を幸福に思っていた,彼女の自由を尊重すべき」などと居直られてしまうと,閉口せざるを得ない大人が日本には多い筈だ. だが,この主張は実に愚にもつかぬ.自由の意味を履き違えているだけである.

考えてもみて欲しいのだけど. 小学生の頃のあなたに,確固たる自己など備わっていましたか.それこそ自由を享受出来るほどの. 私には無かったぞ.まだまだ頭の中が混沌としていて,それどころではなかった. 規制がなければ,宿題なんて一切やらなかっただろうし,学校などもサボり続けたろう. 甘言を弄して誘うような見ず知らずの大人でもいようものなら,フラフラ付いて行ったかもしれない. このような,ただ制約を忌避しているだけの状態を「自由」とは言わない.強いて言うなら,放埓とでも呼ぶべきか. 自由を愛すると言うのは,もっと崇高な精神だ.

上の小学生は,今の自分ではちょっと手に入れ難い額のお金や,口うるさい親や学校の先生の目から逃がれられる隠れ家を用意してくれる,見ず知らずの他人に付いて行っただけだ. しかもその他人は,彼女の人格形成やその将来などに,一切責任を持つ気がない. そんな事考えた事すらないから,あんな事件が起こせるのだろう.

英語に「calf love」と言う言葉がある. 辞書などで引くと,「幼い恋」だとかの訳が載っているのだが,要するに英語圏の人らは,子供の言う恋愛と,本当の恋愛とを区別して捉えている. だから,上の事件についても,「それは単なるcalf loveだ」と言って,取り合ってくれないだろう. 彼ら欧米人は,むしろ子供の頃の気持ちを濃厚に覚えているからこそ,子供の主張する「calf love」如きに狼狽しない. 尊重すべき価値の無いものである事を知っているから.


「子供にも自分で行動を選ぶ権利がある.自分の体をどうしようが勝手だ」と言うような,聞いたようなフレーズもある. だが,そういった意味においても,子供の体は子供自身だけのものではない.何故なら,再生産を大人(親)の経済力に依存させているから. 親の家に住み,親に食事を与えてもらってはじめて維持できている体なのだから,それは子供自身のものとは言い難い. だから,この理屈で言えば,一人暮らしの成人女性が,誰と付き合おうが,あるいは性風俗店で働こうが,合法的な範囲であれば,それは自身の判断に委ねられてしかるべき,と言う事になる. 私もそれは仕方ないと思う.


上に挙げた子供が求めているのは,自由でなく無制約に過ぎない. 私は,子供の頃の気分を覚えている大人だが,もし自分の子供が上のような事件を起こしたなら,無理矢理にでも家に連れ帰す. 私は子供の自由を尊重するが,無規範など奨励しないから. このバランス感覚こそ,私の自由だ.

無規範とは,自由の対極にある概念だ. 自由は,人間の精神の内奥にこそ存在するもので,子供などが口にする,外界に対する自由の主張など,大抵のケースにおいて幼稚さの発露に過ぎず,所詮は単なるワガママである. 新興宗教団体なんかが主張して止まない「思想・信条の自由」なども,要約すれば「布教・集金活動に制約を加えるな」と言うワガママである. 本来,思想などと言うものは,人間の精神に内在するもので,国家権力だろうが誰だろうが,決して侵せないものだ. 人間の行動を制約する事ならいざ知らず,自由を侵せる者など存在し得ない. 誰かが,私を別人に変える事が出来ますか?

大人は,その責任において,自由の名をエゴの隠れ蓑にするような人間を量産すべきでないと思う. そんな野放図さの中で育ってしまうと,本当の意味での自由を選べない人間に成り果ててしまいかねない. 究極的には,誰かの自由が共同体の規範を侵す事はあり得るが,基本的に,規範意識と自由は一つの精神に同居出来る. 同居を拒むのは利己心である.


1/27(水)

あるコンテンツの,我々が個人的に感じる良し悪しと,当代での受けが良さそうか否か,と言うのは当然違う. 「良い作品だとは思うのだけど,発表する場所が無い」とか,あるいは逆に「別にさして優れたモノとも思わないけれど,そこそこ受けが良さそうだ」とか言うのがある. 我々は一応,それらを分けて捉えている.

分かりやすく,受けの良さそうなモノは,当然展開も早いし,各種の予測も立ち易い. 逆に前例の少ないものや,本質的な滋味の分かり難い,要は難解な代物,と言うのは,これまた当然ながら商品化し難い. これらは単純な優劣をつけ難い,と言う話をしている.

一見分かりやすく,受けの良さそうなコンテンツで衆目を集め,難解な商品のプロモーションに繋げて行く,と言うのは物売りの一種の常套手段だと思うのだけど,私も現実的にそれが一番理想的なスタイルだと思う. プロモーション上のプライオリティ(優先順位)と言うのは,いわば棋譜である. 必ずしも我々の審美眼とイコールではない.


1/26(火)

恒例行事のようだが,今年も成人式で一部の新成人が暴れたらしく,その様子や後の謝罪行脚の様が報道されていた. まるでデジャ・ヴかのようで,もう風物詩と言って過言でない. 彼らは何故あれほどに成人式が好きなのか.

成人式などと言う,誰かがこさえたイベントにあれだけ狂喜出来るなんて,なんと従順な人たちか,と私は率直に思う. 彼らは決してバカではない.むしろある種の教養人なのかもしれない. 権威と言うものを,全く体感出来ないような人だって事実存在するのだ.

ああいう式典などで暴れ狂う青年らは,各種の常識的判断を用いるに,多分「中学校」あたりの記憶をフィード・バックさせていると思われるのだが,さぞかし中学生の頃が楽しかったと見える. 翻って考えると,実につまらぬ「現状」を抱えているとも言える. 人生における何事かが,既に終焉を迎えているのかもしれない.

今を楽しめない人の言う「良かったあの頃」と言うものを私は信じない. 子供の頃の事を割とよく覚えている私だが,「当時に帰りたいか」と問われると,それは真っ平御免である. 何故なら,今が楽しくて仕方ないから. 過去は大切な財産に違いないが,「あの頃は良かった」とか「子供の頃に戻りたい」とか思う人の気持ちは,私には分からない. あの頃なんかより,今の方が断然楽しいのだから,きっと未来はもっと素晴らしいものに違いない. だから,子供の頃なんかより,今日より楽しい明日にたどり着きたい.

中学校がそんなに楽しかったのであれば,私なら「如何にして永遠に中学生であり続けれらるか」を,自分の全てを掛けてでも模索するだろう. 彼らはそのような努力など一切せず,お役所などが主催してくれるイベントに参加させてもらい,周囲の寛容に甘えつつ,式の進行を妨げ,まぜ返し,ホンの一時の快楽を貪っている. 狂騒が,何ら建設に向かっていないから,私はああいったものをただ空しくしか感じられない. 断言して良い.あれは何も生み出さない.

建設を志向しない破壊など,本質的な意味で破壊ですらない. 彼らは大人の庇護の下に,子供でいたいとダダをこねているだけだ.


1/23(土)

今週のリハーサル風景.

Photo1 Photo2 Photo3


1/22(金)

今週のスタジオにて.

Photo1 Photo2 Photo3


そう言えばウチは今年(2010年)で,事務所開設10周年になるんですね.何だかあっという間でしたけど. これからもよろしくお願いします.


1/20(水)

ある時,背中が痒かったので,しばし掻いていたのだが,掻き終わった後,私は自分自身が軽く息を切らしている事に気が付いた. 背中を掻く作業も運動と言えば運動に違いないが,たかがそれだけの運動量で息切れまでしてしまっている自分に,その時若干の疑問を感じた.

考えてみれば,答えはすぐに出たりする. 私が息を切らした理由は,運動がハードだったからだけでなく,その作業の間,呼吸を止めていたからだ. 何故私は呼吸を止めていたのか. それは,対象である背中が動くと単純に掻き難い(ポイントを定め辛い)からである.背中を固定する為に一時横隔膜の運動を止めていた. 作業遂行の便宜の為に.

このように人間は,あらためて考えねば,殆ど無意識に取っている自分の行動の原理すら分からなかったりする. だから,自分の好きな物を愛したり,欲しい物を求める,と言った簡単な事さえ時に出来なくなる. 考えさえすりゃ良いんです. 答えなんて,割とすぐ手の届くところにあったりもするのだから.


1/19(火)

気が付けば更新間隔がまた空いてしまった. 別にこれと言った理由は無いのだけど,強いて言うなら今大作に取り掛かっていて,そっちでアタマが一杯だったのだ.自然,こっちの方は疎かになってしまった.

疎かになったと言っても,それは文章を起こす作業だけの話である. 曲作りってのは考える作業に他ならないわけで,考えた時間相応の収穫は常に私の中に残る.だからいずれ,このページにその残った何かが登場することもあるだろう. この心が何かを感じ,考えている以上,私にとって無駄な時間など存在しない.

よく考えてみたら,間隔が空いたって言っても,たった二日しか空いてない. 普段の更新間隔がマメ過ぎるのだろうな.


1/16(土)

今週のリハーサル風景. 昨日の続きです.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4


1/15(金)

今週のリハーサル風景.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


海外でのダウンロード販売について,続報です. Rhapsodyってサイトでも神田優花影山リサ鈴木サヤカのタイトルが発売されています. 別に今日発売されたわけじゃなくて,お知らせするのを忘れてただけですが.


1/13(水)

先日,英会話のテキストみたいな本を読んでいたら,「free」と言う単語を解説するくだりに,「freeとは制約の無い状態を指します」と言った簡潔な記述があった.

確かに間違いじゃない. 現実に日本社会では,自由と言う言葉が無制約・無制限と言う意味で使われている.「おかわり自由」などと. そもそも無制約(あるいはタダとか)と言う訳は,本来のfreeの語義から派生した,副次的なものである筈なのだが.

私が見た上のテキスト本の筆者は,英語云々以前に,日本語力がまだ十分でないのかもしれない. 日本人が,英語圏の人と過不足無く意思の疎通を図ろうと思うなら,英語力よりまず日本語力をつけねばならないと思った. 日本語が満足に操れるなら,英会話など何てことは無いに違いない.


1/12(火)

悪循環について. 軍隊などの悪しき通弊として,「新人いびり」と言うのがあった.今でもあるのかもしれない. 一部の運動部などでは,今でも似たような風習があると聞く.

まず,新人は先輩にいびられる.そして,先輩にいびられた新人にも後輩が出来,やがて自分が先輩になる時,ここぞとばかりに新入りをいびり倒す.いわば当然の権利として. 誰かがこの拡大再生産を止めねば,上の権利は次世代に相続され続け,慣習と化す. 後輩をいびらねば損だと思う輩さえ現れるかもしれない. 自己を律する事を忘れれば,人間はどこまでも堕してしまう.


もう10年以上前の話になるが,私はとある芸能プロダクションの音楽制作部に勤めていた.とは言っても小さな会社で,スタッフなど多い時でも6〜7人もいたろうか.音楽制作部と言うのも名ばかりで,殆ど私一人で切り盛りしていた.

個人に性格があるように,会社などと言う団体にも性格と言うか,体質のようなものはある. 今だから言えるが,その会社,社内の空気は非常に殺伐としていて,社員らの気分も常にささくれ立っていた. 上司に暴力を振るわれた同僚などもいた. 幸い私は大きなトラブルを起こさなかったし,巻き込まれもしなかったが,社長に怒鳴られる事ぐらいならあった. そんな会社だったのだが,そう言えばそこの社長は,過去(ペーペーだった時代)に自分が受けた「シゴキ」について,私を含む部下らによく語っていた. 何らかのエクスキューズであったのかもしれない.自分の振る舞いを自分自身に肯定させる為の.

そんなに長く勤めた会社でも無かったが,当時私は,社内で既に古株の部類だった(それ程に離職率が高かった). 古株なのだから,後輩と言うヤツが何人もいたわけだが,私はその人たちをいびらなかった.むしろ精一杯愛したつもりだ. 別に我慢したのではない.私は,後輩を顎で使うなどと言う利得に,魅力など微塵も感じなかったからだ.無論今も感じない.

私は「新人いびり」の連鎖に加担しなかったが,別に正義漢ぶっているのではない. 私の欲しいものがそんなところに無いと言っているだけだ. 私は決して無欲なのではない.むしろ,欲しいもの全てを手に入れてやる,とすら思っている. 「新人いびり」と言ったような,他人の残飯の如き利権に肖りたい者は,そのおこぼれを漁っていれば良い. あんまり周囲に迷惑掛けて欲しくないけど.

「損なヤツだ」と私を笑うような人が,現実に存在するから悪循環は根絶されないのだろう. 私はそういう人らを,かわいそうだと思っているが. 私は,私を笑う人が絶対にたどり着けないであろう景色を見ようとしている.


1/10(日)

私はよく子供の頃の事を思い出すのだが,要するにそれは,自分と言う生き物を知りたいからだ. 自分は何が好きなのか,あるいは嫌いなのか.何を美しい・醜いと感じるのか.

子供の頃に好きだった音楽・漫画・テレビ番組など,格好の資料といえる. 耳にした音楽や,目にした子供向けのテレビ・アニメなど,本当に数多あるわけだが,何だって無審査に受け入れたわけではない.当然そこに一々好悪の感情があった. 子供の頃の私が好きだったもの,それは本当の私の片鱗なのだろうと思う.

当たり前の事なのだけど,思い出と言うのは無限でない.あくまで限られた時間内での出来事に過ぎない. だから言うまでも無く,今の私にも,まだ見たこと無いものがあり,遭遇したことのない気分がある.当然覚えたことの無い感覚は眠っている筈だ. それを掘り起こす為に日々曲を作り続けている. 私は,残された時間全てを使ってでも,自分の正体を突き止めてやろうと思っている.

自分を感動させる為に曲を作るのだから,同じく自分を感動させる為,旅行にでも行って変わった景色でも見てくれば良い,などと考えてみた事も無いことは無い. でもそれでは駄目なのだ. この宇宙のありとあらゆる場所に,如何なる瞬間にも存在することさえ出来ないのだから,目の前に広がる景色の向こう側を見たければ,それを映す心の方を掘り起こすしかない. この世界なんて,いわば我々の心が作り出した幻なのだから.

ゴールと言うのは,誰かが線を引いてくれたからこそ,そこがゴールたり得るわけだけど,私の目指すのは,まだ誰もたどり着いていない場所なのである.だからして,「線を引いてくれる誰か」も当然いない. それが分かってしまったから,今の私はもう,誰に褒められたいとも思わなくなってしまった. 誰かが喜んでくれる事なら嬉しいけど.


1/9(土)

昨日の続き. 今週のスタジオにて.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5


1/8(金)

神田優花,今週は新年一発目のリハーサルでした. 昨年末に録った新曲のチェックを兼ねてスタジオ入り.

Photo1

以下,今週のスタジオにて.

Photo1 Photo2 Photo3 Photo4 Photo5 Photo6


1/7(木)

既に新年の仕事に突入してます. と言っても,いつものように音弄ってるだけですが. 今年も,明らかに無理のあるリリース計画を立てているわけだけど,どれだけ計画通りに履行できるだろうか.


ウチの音源の,海外サイトでの販売について,続報です. 神田優花のいくつかのタイトルが,napsterHMV(勿論どっちもアメリカの方)でもやっと販売開始されたみたいです.napsterの方は専用ブラウザみたいなのが要るみたい.iTunesみたいなヤツだと思う. HMVでは影山リサ鈴木サヤカのアルバムも発売されています. 現段階では,各海外サイトで扱われている音源がマチマチなのだけど,追々全部のサイトにて,リリース予定タイトル・全14作が出揃う筈です.しばしお待ちを.

まあ本当にいつも言うように,このページを読んでいるのって,殆どは日本人なわけだけど,一応ここがアーティストの公式サイトでもあるわけで,最低限のナビゲートはしとかないわけにも行かないのです.ここ以上に詳細な情報を載せているところも無いので仕方ない.

それはさておき,何でHMVは曲順がムチャクチャなんだよ.


1/5(火)

年末年始の休暇中にある曲を仕上げようと思っていたのだが,結局頓挫してしまった. 見つめ直せば見つめ直す程,綻びが目について,もうどうしようもなくなってしまった. やり直しです.

私は,どんな風に世間から指差されようと,自分に対してだけは厳格でいたい. だからまた出直すのです. いつか,今の私に想像もつかないような鮮やかな景色にたどり着く為なのだから,これは仕方ない.


1/4(月)

A君について. 地元にいた,子供の頃のある友人の話である. 私と彼は,仲が良かったと言って差し支えない間柄で,小学校の高学年から中学一年生の頃まで,よく行動をともにしていたのだが,その後,別に喧嘩別れなどと言うわけでなく,ごく自然に疎遠となった.

A君は学校では割と目立っているタイプの人で,それなりに周囲からの人気を集めていたように記憶しているが,時間を経るにつれ,その人気には陰りが見え出し,二十歳ぐらいの頃には,すっかり不人気な(要するに周囲に関心を持たれない)人になり果てていた. その変遷に,一応は理由も色々あったのだろうが,そもそも子供社会での人気と言うのは,大人の視点で見てしまうと,実に不合理で覚束ないものであったりもする(無論そうでない場合もあるが). 例えば,人格などさておき,足が速いだけの子がクラスの人気者になってしまう,と言った現象は,日本中どの地域でも見られるそうだ. A君の人気も若干その気があったように今となっては思える.早い話が,元よりさしたる魅力的人物でなかったのだろう.

一般に,人は,自身の思考プロセスをもってして,他人の思考を推し量るものだが,私とて例外でなかった.しかし当時の私は,彼の思考が尋常一様の斟酌では理解出来ず,常に彼の言動に振り回され続けたように記憶している. 彼は簡単に約束を反故にするし,突然に態度を豹変させるのである.

例えば,A君の宿題を手伝ってやったりするとする.彼は感激し,「今度君に困った事があったら,何なりと言ってくれ,手を貸すから」と言ったような事さえ口にするのだが,いざ私が「今度は僕の宿題を手伝ってくれ」などと言う段になると,彼は平気で「嫌だよ.僕だって忙しいから」と言うように,にべもなく前言を翻す.

当初私は彼を「裏切り者」のように捉えたのだが,やがてその解釈が誤りである事に気付いた. 彼はただ単に,「気分」を覚えていないだけだった. だからして,一旦着た恩なども,平気で忘れられてしまう.事実関係を忘却するのでなく,相手の厚意に払った感謝の気持ちを忘れてしまう. 従って,一見豹変したかのように見える(事実豹変しているわけだが). 不意に食言を指摘されると,発言の事実だけは覚えていたりするので,閉口してしまっていた. 過去の自分が発した言葉が,別人のもののように思えて,どう対処して良いか本当に分からなかったのだろう.

また彼は,その態度も実に(傍若無人と言える程に)堂々としていたのだが,それも今になって考えると,単に各方位へ配慮を至らせるだけの想像力に欠けていただけなのだろう. 気後れしないのでなく,気後れなどと言う高度な機微を体感出来なかったと言って良い.

思い返すに,決して悪い人では無かった. が,(おそらくは)言語力に欠けていたと思われる.だから自己認識が,絶望的なほどに出来ない. A君は,言葉遣いが(人並みでないと言う意味においてだが)何やらコミカルで,それが彼の人気の一源泉でもあったように思えるが,今考えると,それは単なる国語力の欠如に他ならず,その欠陥は,彼の感受性や想像力・記憶力を当然ながら蝕んでいたろう.

他の人よりも彼の近くにいた私は,彼にそこはかとない疑問を感じていた. 「ひょっとして彼は,私を含む周囲の,一方的に投影するような人格を持ち合わせていないのではないか」と. 結局,そういう性質のA君に私は疲れてしまい,やがては,彼との関係そのものを薄れさせてしまったわけだが,しかしそれも已む無き事かと思える. 今になって考えてみても,当時の私の,彼への如何なる施しも,結局は無意味だったろうから. だって彼には,感情を蓄積する機能が備わっていなかったのだもの.

私は,この文章をしたためるにあたって,当時を懐古しつつ,少年期にA君と言う人と出会えて良かったとあらためて思った. 今の私が人間の思考を察するよすがとなる,貴重なサンプルだからだ. しかしながら,やはり現代人はA君のようではいけないとも思った.


1/3(日)

薬物について. これに関しては以前からゆっくり見解をまとめたいと思っていたので,暇な正月休みにでも考えてみる事にした. アーティストと呼ばれる人ら(無論音楽家も含む)は,割と薬物と言ったものに手を染めたりしがちだと思われている.実例(逮捕例など)も多い. 何故彼らには薬物が必要なのか.

一応,薬物に手を出すクリエイターらのメカニズムを,私の想像し得る範囲にて説明しておく.間違っていたらすまない. まず,正常な精神状態(いわば等身大のその人)にて,発想が途絶え,新たな作品が生み出せなくなる. そこで,薬物を摂取する事で,脳の状態を正常なからしめる事により,(いわば幻覚・幻聴様の)発想の欠片を垣間見る.分かりやすい例えで言うと,夢がそれに近い. 薬物を体外から摂取する事により,一旦無理矢理自分に夢を見させ,そこで覚えた幻をスケッチし,作品化する.夢から覚めた後で,細部を再構築したりしているのかもしれない. 要するに彼らは,自分名義にて発表するであろう作品を,別人に作ってもらおうとしている. しかもその別人とは,自分の中に眠る魔人でも何でもない.アルツハイマー病の患者や乳幼児の言動が突拍子も無い,と言うのと同じく,論理性の欠如によって生じた,ただのバグである.

本来創作とは,思索に思索を重ねる事によって為される,論理の所産に他ならない. クスリなどで,脳のコンディションを正常なからしめてしまえば,論理の階梯が途切れてしまう. だから本当の創作者にとって,それ(薬物)は,大敵ですらある筈だ.

私自身はクスリの類に手を出した事が無いし,今後もおそらくは手を出さないであろう. 何故なら,私にはそれが必要ないからである. いわゆるクリエイターと言った人たちは,当然だが,創造をライフワークとしている. 発想こそが唯一の財産なのである. だからして,発想が途絶えれば,それは即ちその人の限界と言う事になってしまう. 限界を迎えた人間は,本来ならば,そこでその人の創作者としての生命も絶える筈なのだが,創作者は商業機構の一角を担っている場合もあるし,また自らに対する見栄でアーティストを自称していたりもする. だから,発想が絶えたからとて,即座にアーティストの看板を下ろしてしまうわけには行かなかったりもする.

アーティストは,自分の脳で作品を生むものだ. 自分の脳が生めない,あるいは今後生み出す可能性を感じないのであれば,その人は本来鑑賞者になるべきだと思う. 私は幼児や象の描く絵画に全く芸術を感じない性質である. 無論ドラッグ・ソングにもさしたる興味が無い.少なくとも私は,そういうものを自分の名前で出したいと思わない.

正直に言います. 私はクスリに手を染める自称クリエイターたちを「恥ずかしい人たち」だと思っています(同時に哀れにも思う). 薬物に依存する事が,ややもするとカッコイイ事であるとでも言うような風潮があったりするのかもしれないが,行為を紐解いてみれば,上記のメカニズムに尽きる. 自分の衝動の源泉が何処にあるのかさえ分からないのなら,ますますもって彼は芸術家に向かない. 考える能力が無いから.

断っておくが,私は「違法行為だから手を出してはいけない」とは別に思わない. ただ,日本は法治国家である.法を犯せば相応のペナルティが課せられる事は,ある程度諦めてもらわないといけない.


1/2(土)

今年初めての更新. 何だか今年は,年末年始の休暇が短いからか,この休暇中に上げようと思っていた作業がまだ全然終わっていない.

鈴木サヤカの7タイトルが,iTunesで再リリースされているのだけど,やはりと言うか,ある程度予想はしてたものの値段が上がっている.それもモノにもよるけど,1タイトルあたり2ドルぐらい上がっているものもある. それにしても一般的なアルバム価格より安いと思うが.

以前から言っていたのだけど,海外での販売価格の設定は,こちらに権限が無い事になっているので,まあ仕方ないのです. 今後も出来るだけ良い作品を発表できるようがんばりますので,今年もよろしく.


※このページに記載された内容の転載や二次利用はご遠慮ください.

archives


   お問い合わせ先  
 


株式会社 エースミュージックエクスプレス


E-mail(Mailform) -> ClickHere
Tel/Fax -> 03-3902-1455

 
(C) Ace music, exp. Co.,Ltd. (Since2000) All rights reserved.