・9/30(水)
人の可愛さについて.
私は,若い子の服装やアクセサリーなどを見ても,それそのものを可愛いと思う事など無い.断言して良い.絶無である. よく女の子がキャラクター・グッズなどを身に着けていたりもするが,「ハローキティ」だろうが「ミッキーマウス」だろうが,それ自体は,デフォルメされた動物の記号にしか見えない. キャラクターから性格が見えてくるわけでも無し,私の精神は記号など愛したり出来ない.
私が可愛いと思うのは,そのアクセサリーだのを身に着けて街を歩きたいと思った,その子の心である. 心しか愛せない. だからどんなに高価な装飾品よりも,部屋一面のキャラクター・グッズよりも,誰かの心がこの世界に存在した事を嬉しく思う.
濃淡の差こそあれ,装飾品そのものの意匠から,作った誰かの心が滲み出ている事はある. 滲出する何かとは,時に愛であったり,悲しみや怒りであったり,あるいは軽薄な商魂であったり. この「滲出する何か」こそが,芸術性なのだろう.共鳴すべき精神の痕跡が希薄な芸術作品など,本来の芸術鑑賞法が適用出来ない.
私が日々作り続けているものや,投げかけている何かは,心にしか向けられていない. きっと私は,何かが壊れている人だから,そこぐらいしか見えないのだろう.
話は変わるが,本日,神田優花のニューアルバム「レイチェル」の納品(倉庫への)が完了したとの旨,報告を受けた. これで,無事発売日に商品をお届け出来ると思う.一安心である. と言うわけで,以下いつものアルバム(神田優花「レイチェル」)解説.
・9/29(火)
CDが売れない音楽業界だが,ここ最近,イベント・コンサート絡みの収益だけは漸増してるとか言う話を仄聞した. まあ一応音楽業界,とりわけ既存のレコード・メーカーにも金が落ちているのだろうから,別に悲観すべき事態ではないが,音楽が売れているのとは,かなり内容の異なる事態である.
上で言うコンサートが指すものの殆どは,いわゆるフェスだろう. 広大な会場に複数のステージを組み,数多くのアーティストをブッキングする. 言われる通り,客はそれなりに集まるが,その殆どは特定のアーティスト・音楽を目当てに来ているわけではない.
フェス(festival)とは,その名の通り,要はお祭りである. 盆踊りの会場には,カラフルな浴衣を来た女の子が必ずいますね.彼女らは何かを見に来ているのではなく,自分を見せに来ている. いわゆるコミケやヴィジュアル・バンドのライブに思い思いの仮装をして現れるような人らと,基本的に同じ心境だと思ってほぼ間違いない. フェスの原理・構造を突き詰めていくと,結局中央に据えられているものがアーティストである必要性すら無くなる. アーティスト達は,いわば口実である.
フェスの特集記事は,音専誌よりもファッション誌で多く組まれていると言う.さもありなん. 都市や文明の一機能として,人々にステージを与える,と言う面は確かにあろうと思う. 古来人間は祭りを必要とした. しかし祭りに参加する心理と,芸術を鑑賞する心理はほど遠い.遠いだけでなく,同一軌道上に存在していない. コンサート収入の増加は,音楽業界起死回生の起爆剤とは,直接的にはなり難かろうと思う.
それではいつもの,アルバム(神田優花「レイチェル」)収録曲の解説を.
・9/28(月)
私は一本の道を走り続けている. 人生に色々な局面はあったし,これからもあり続けるだろうけど,私が走っているのは一本道だ.
タコが入ってないたこ焼きが好きだった幼少期の私も,神社の境内で落ち葉を拾ったり,友達のラジコンを羨んだ小学生の私も,臆病なくせに不良に憧れたり,ギターを初めて手にした中学生の頃の私も,バンドやってた高校生の頃の私も,自分に目立つ為,髪を染めたりピアスの穴を開けたりしていた私も,予感だけを胸に,新幹線に乗って殆ど手ぶらで東京まで出てきたあの日の私も,同じ道の上を走っていた. 無論今日の私も.
私は一時期,自分が何故こういう大人に(後天的に)なったのか,その理由をずっと考えていた. 結論としては,今もって分からない. ただ言えるのは,環境だとかそういう条件面をいくら探ったところで,答えは出なさそうだと言う事. 私は,どんな曲折を経たとしても,今の私のような人になったろうと思う. つまりは,生まれた瞬間からこうなる運命だったのだろうと. 私は音楽に愛され,同時に呪われた.
私は,明日も同じ道を走り続けるだろう. 私は何も怖くない.何故なら,今の私が走るスピードは,絡みつく不安や悲しみさえ振り切ってしまうから. この心に音楽がある限り,私は,今いるこの道の上を走り続けるだろうと思います.
以下,アルバム「レイチェル」収録曲の解説です.
・9/27(日)
CDショップって,確か全国に7千だか8千だがの店舗数があるそうだが(今もそんなにあるのだろうか),そのうち事実上機能しているのは1〜2割だそうな. 要するに,小さな演歌系の音しか置いてない店とか,本屋の隅のCDコーナーとか,そういうのを除いた,いわゆるメガストア的なものだけを数えるとこの数字(1〜2割)になると言う. 更に,全音楽ソフトの8割ぐらいは,その2割あるかないかのメガストアから出ているらしい. まあそうだろうな.私の行動範囲にも,上で言う演歌系ショップなどはあるけど,個人的な感覚ではCD屋にカウントされていないものな.
既に話したかもしれないが,以前,とあるレーベル説明会みたいな会合にて聞いた話である. 大手の全国チェーン系CDショップ(メガストアってヤツ)は,まさに全国各地にリアル・ショップを構えているわけだが,チェーン全体の総売上げの2割だかそれ以上だかは,オンラインでの売上げ(ネット通販)だそうな. 例えば都心の一等地に実店舗一つ構えるだけでも,テナント料・人件費その他固定費用は下手すりゃ月何千万とか掛かるだろうに,HPで受けたメールを処理して,商品発送するだけのWeb通販で,リアル・ショップのものなど遥かに凌駕する売上げを達成していると言う. 店舗構えるのがバカらしくなるだろうな.
要するにネット通販と言う販路を押さえるだけで,音楽商品のインフラは,ある程度機能してしまう時代になったらしい.それに加え,昨今の音楽配信の一般化がある. これらは,我々のようなレーベルにとって大変な朗報と言える.音楽ソフトの流通・販売において,メジャー・レーベルのアドバンテージは無くなりつつある.
普通,レーベルなどが音楽商品を売ろうと思えば,いかに優れたコンテンツを作るかに腐心すれば良い,と考えられがちだと思うが,実際にはそれだけでは済まない(無論コンテンツには最大限の情念を注入するが). 音楽業界も古い業界なので,既得権益と言うか,縄張りみたいなものが厳然と存在していて,ハッキリ言って新参者にとっては,障壁の多い世界である.
音楽業界は崩壊寸前だと言われている.それほどに商品が売れない. それはそれは暗い話のようだが,実のところ私はそこまで暗然とさせられない. 一旦,下げ止まるまで崩壊しても良いのではなかろうか,とさえ思っている. 今でも音楽業界は,適性サイズでないと思う.まだまだ下がりしろがあるだろう.
落ちるところまで落ちて,余剰人員・設備などが整理されてしまえば,今の所帯を維持するためだけの延命策である,下らない商品の乱発なども落ち着くだろうし,音楽業界に今の過剰な(幻想と言って良い)ブランド・イメージが薄れれば,本来音楽が好きでもない人たちのエントリーも減るだろう. 淘汰によって,むしろ業界が健康体を取り戻すような気さえする. 結果,今の数十分の一とかそんな規模の業界になるかもしれないが,その規模が等身大なのであれば,それも止むを得なかろう. その焼け野原の上でも我々は音楽を作り続けているよ. 続ける唯一の理由は,音楽が好きだから.
と言うわけで,以下,神田優花「レイチェル」収録曲の解説です.
・9/26(土)
先日(9/23)のこのページで「言葉が歌(節)に乗っていたからこそ,少年の頃の私の心に届いた」と言うような意味合いの事を述べたのだが,テキスト上げた後,また色々と考えていた.以下は,その事について. 一旦23日付のテキストを読まないと,意味が分からないかもしれない.
少年期に聴いていた音楽の歌詞(言葉)が私の心に響いた理由として,人間がその言葉に節を付けて歌ったから,と言うのは実に大きいと思うが,他にも理由が思い当たらなくも無い.それはミュージシャン(発信者)の「年齢」である.
私が一番よく音楽聴いていた,10代の初めから終わりまでの頃,好きだった演者(ミュージシャン)たちは,大体20代くらいの若者であった. つまり,ちょっと年上のお兄ちゃんお姉ちゃんだったのだ. 中でも特に,ここで言う「お兄ちゃん」らの言葉こそが胸に響いたのだけど,それは彼らがそのくらいの年齢であった事も大きかろう. 子供と言うものはしばしば,ちょっと年上の人を尊敬してしまう.
それでは親や学校の先生と言った,「遥か年上の大人たちの言葉」では届かないのか,と言うと,その通り届かない. 子供は無意識のうちにでも,大人たちの心が,遥か遠くにある事を感じている. それらの大人たちに,自分ら子供の気持ちなど,到底分かる筈も無いような気がしている. 上で「ミュージシャンたちの年齢」と述べたが,厳密には,精神年齢と言うべきなのかもしれない.
事実,多くの大人たちは,自分が子供だった頃の気持ちを覚えていない. だからして,上で言う子供の観測は大抵正しい. 大人たちの心が,遥か彼方に消え入りそうに見えるから,多くの子供は「お兄ちゃん」が好きなのだ.
以下,アルバム(神田優花「レイチェル」)収録曲の解説.
・9/25(金)
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上は今週のスタジオにて.
神田優花関連のプチ情報. スペシャの「More Music」ってプログラムで,「What I want」が流れるらしいです. 9/26の27:00〜28:00って事なので,日付的には27日の深夜3時からって事になります. また深い時間だけど,この手のPVをランダムで流してるようなプログラムってこういう時間帯である事が多い. 以下,神田優花の今週のカットとアルバム「レイチェル」の楽曲紹介.
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・9/24(木)
本日(9/24)スペシャの「SPACE SHOWER RECOMMEND JAPAN」と言うプログラムで,神田優花の「What I want」が流れるらしいです. と言っても,時間帯が朝の4:30〜6:00の間との事なので,見るのも大変でしょうけど(と言うか,これ読んでる時点でもう見逃している可能性も高い).
多分上のプログラムって,深夜から明け方にかけてPVをダラダラ流している枠だと思うのだけど,もしその映像を見てこのページに辿り着いた人がいるなら,アルバム「レイチェル」の方も,是非聴いてみて下さい.
以下,その神田優花のニュー・アルバム「レイチェル」の楽曲解説.
・9/23(水)
私が音楽(歌)と言う表現手段を優秀に感じる理由として,言葉を伝える事に長けたツールである点がある. あるセンテンスを他人の心に届けようとする際,歌唱以上に有効な手段などあるのだろうか.
人はしばしば,言葉を使って何かを伝えようと四苦八苦する. 物書きは当然の事,政治家や評論家,学者・宗教家・歌手・コメディアン,その他枚挙に暇が無いが,これらの人々に限らず,ありとあらゆる表現者は,言葉をもって何かを伝えようと絶え間なく努力している. 言葉は,宇宙開闢以来,自然界に元より備わっていたものではない.あくまで人間が作り出した生活材である. だから不備だらけであったりもする.心の震えを十全に伝えられない事も往々にしてある.
子供の頃の私には,親や学校の先生の言う事など,まともに心に届かなかった.「薄っぺらい説教ばっかりしやがって」と,軽蔑すらしていた. しかしながら,少年だった私の心に,当時聴いていた音楽に乗っていた歌詞ならば響いた. もしもあの時,ミュージシャンたちの発した言葉が,歌に乗っていなかったら,少年の心に届いたろうか.無理だったろう.
歌は,歌い手が喉を震わせ,言葉に節を付け,全身でもって心を表現する. 歌の世界は,歌い手の心に憑依し,時には歌い手本人や聴く者の涙すら誘う. この手段をもってして伝わらないものなら,現状,他のあらゆる手段をもってしても伝わり難かろう. だから私は歌を作るのです.この作業の為なら,一生を捧げても構わない.
以下,神田優花「レイチェル」収録曲の解説.
・9/22(火)
今日もアルバム(神田優花「レイチェル」)収録曲の解説を.
・9/21(月)
唐突だけど,叶わない夢なんて存在するのだろうか. 「そんなのあるに決まってる」と言う人には,夢の定義ごと問い質したい.
「夢を持て」と言われた際に,「それでは,私は○級○○士の資格取得でも志してみようか」などと言う人がいるが,再三言うように,それは夢ではない. そういう人が欲しがっているのは単に,自分の臆病さを包み隠す為の包装紙なのであって,夢ではない.夢とは「やりたい事」である.
夢を見ると言うのは,自分を担保にしつつ未来を思い描く作業である. そして,ここで言う未来とは,単なる成果の事ではない.自分が心の安寧を得られる時間の事だ. 「○○士」などと言うのは,誰かが作ったお仕着せの装飾品に他ならない.そんなものは条件次第で手に入るし,あるいは条件が許さねば手に入らなかったりもする.等身大の自分とは別けて捉えるべきものだ. 「○○士」が放つ光彩の正体は,他人との差異に過ぎぬ.そんなものが欲しくなってしまう人は,まずは自分のその心根こそを切り拓いていくべきで,夢を見るなどまだ早かろう. 他人の目で自分を見ているうちは,真の夢など見えては来ない.
「どうせ夢など叶わない」と諦観している人は,要するに,夢を見る勇気が無いのだ. 叶う叶わない以前に,夢を描けてすらいない. 夢を見る勇気が無い人が,正しい意味での夢を見るにはどうすれば良いか. それは,今よりマシな自分になるしかなかろう.夢という想像を成立さしめるのが勇気でしかなく,勇気を支えるのが自分に対する信用でしかないから. ついでに,ここで言う「マシな自分」の認定資格を持つ者は,自分自身でしかあり得ない. 涵養すべきは,一歩先の自分像を思い描く想像力でしかないのだろう.
夢が叶わない事など,本来あり得ない筈だ. 何故なら,夢とは,描けたその瞬間に叶ったも同然のものだから. 殆どの人には伝わらない事を承知で,以上の文章を上げました. 以下は,アルバム「レイチェル」収録曲の解説.
・9/20(日)
痴漢というヤツは,いつまで経っても絶滅せず,逮捕者が有名企業の社員や公務員などであったりした場合,結構大袈裟に報道されたりもする. それぐらいのトピックス・ヴァリューがあるのだから,割と大それた所業である筈なのにも拘らず,覚悟無く痴漢行為に手を染める輩は後を絶たない. その痴漢について.
私には,痴漢というものが今一つ理解に遠い. 別に潔癖ぶって「不潔な行為だから許せない」などと申し上げているわけではない. 人間も動物である.基本的に性欲と無縁でいられないのは仕方ない. 私が疑問を感じているのは,直接的な動機(衝動)ではなく,手段の効率についてである.
彼らは一体,何がしたいのか. まず,恋人や結婚相手と言った「交際対象としての異性」を求めているわけでは無いんだよね?だって電車内で見ず知らずの女性の体を触ったところで,その目的が達成できる筈も無いから. であるなら,単に有り余る性欲に歯止めが利かず,いわばその処理行為をだらしなく公共の場で行なってしまった,と言うことなのだろうか.
それにしても,痴漢行為と言う性欲処理方法って,非常にリスキー,かつ成功した際の効用も実に中途半端だ. 下手すりゃ逮捕までされるわけで,社会的地位や会社員の身分さえ失いかねず,糊口の途すら危うくなる. 痴漢行為にそのリスク相当の効用なんてあるのか? 満員電車の中なんかで神経すり減らしてまで,女体の輪郭など確かめて何が楽しいのか. 私が彼ら(痴漢)なら,性風俗店にでも行くな(無論,私はそんなところに全く行かないが).まだそっちの方が,多少なりとも欲求を満たせるような気がする. また,恋人が欲しけりゃ,それを手に入れる為の効率的な方策を練るだろう. 間違っても痴漢行為などと言う,非効率な手段に訴えたりしない.
痴漢諸氏に訊きたい. あなたがたは,電車内で女性の体を触っている自分自身の事を,「美しい」と感じた瞬間でもあるのですか. 人生において,一度たりとも美しいと感じたことの無い行動であるのなら,当然あなたがたは自分のその姿を,少年の頃の自分に見せられない筈だ. そういう意味で言うならば,私にとっては,痴漢などよりヤクザの方が余程に理解するに容易い.
不良少年が,その成れの果てとしてヤクザになったりするわけだが,彼らには,ヤクザ者をカッコイイと感じた瞬間ぐらいある筈だ(断っておくが,暴力団員を賛美しているわけではない). 私は,今の自分の姿を,子供の頃の自分に見せびらかしてやりたいよ. 「今の俺は,お前が憧れ続けた音楽家だぜ」と. だからして当然,私には痴漢行為なんて出来ない.私の心の中に今もありありと存在し続ける「あの日の自分」に,その姿を見せられないから.
痴漢は,電車内にいる女性を「心の備わった人間」と捉えられていないと思われる. ある意味,「嫌がらせををしてやろう」とすら思っていないだろう. 彼らの日常に不遇があるとすれば,原因はきっとそこにある. 他者の心が想像出来ない,と言うのは,偏に国語力の欠如に因る. だからして彼らの行動は,常に矛盾に満ちた非論理的なものとなる. 痴漢行為など,あれ程バカらしいものは無い.事の善悪を論ずる前に,逮捕されるに割が合わない.
・9/19(土)
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上は今週のスタジオにて. 以下,アルバム「レイチェル」収録曲の解説.
・9/18(金)
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上は神田優花,今週のスタジオにて.
「レイチェル」のCD製造過程で,印刷上のミス発覚. 急いで対応してるのだけど,こういう時に限って連休で工場が動かない. まあリリース日割ったりまではしない予定だけど. 余裕持って動いてて良かった.不幸中の幸いってところか. それにしても,ここ最近メチャクチャ忙しい.連休も私にはあんまり関係無さそうだ. 以下,アルバム「レイチェル」収録曲の解説.
・9/17(木)
神田優花のニュー・アルバム「レイチェル」について.最近こればっかりだけど.
まず,パッケージ(CD)の発売日が10/7(水)なのだけど,その後配信(PC・着うた等)でのリリースも予定してまして,CDには勿論歌詞カード(ブックレット)が付くのですが,ダウンロード・コンテンツには歌詞が付きません. で,歌詞を確認する方法なんですが,いくつかの歌詞サイトで公開される予定でして,とりあえず現時点では「歌ネット」さんのところで,10/7のリリースに先行して公開されてるみたいです. 配信モノを買われる方は,それらの歌詞サイトに行けば歌詞をチェック出来ます.
もうリリースまで20日切ってるので,これからしばらくアルバム収録曲について,私なりのコメントを. 以下それです.
・9/16(水)
神田優花のニュー・アルバムについて. 色々プロモーション上の予定はあるのだけど,とりあえずアルバム収録曲「What I want」が,「SPACE SHOWER TV」10月のローテーション楽曲(ZAP)に決まりました. 放送期間等,詳細はまた後日お知らせしますが,とりあえずの報告. スペシャでは今後もまだ色々と展開を予定してます.お楽しみに. 神田優花のPVは,VMCとかにも入曲されてるみたいなので,是非リクエストしてみて下さいな.
・9/14(月)
中国(china)の音楽について. ちょっと調べていたのだが,中国の音楽ってどうも実体が覚束ない. 中国の楽器と言うのはあるのだけど,中国音楽の学問的な体系って,実のところどの程度存在しているのだろう.
中国の楽器はあると言ったが,それにしても中東・ウイグルだとかの西域をルーツとしたものばかりで,中国(要するに中原周辺)固有のものなんて,どれ程あるのかよく分からない. 音楽の体系となると,それ以上に見えて来ない. 中国音楽なんて本当に存在するのだろうか.
西洋には大文明があり,言うまでも無く音楽の体系も確立している.と言うか,現代の我々が日常聴いたり作ったりしている音楽は,クラシックは元より,POPSでさえ西洋音楽を基盤としている. そこで,私を含む大抵の人は,ヨーロッパに西洋音楽と言うあれ程の巨大な体系があるのだから,中国にもそれに似たような東洋音楽の体系があったりすると思ってしまう. 実際ありそうなものだが,どうも調べてみると,我々現代人が思い描く中国(っぽい)音楽は,近々50年ぐらいで出来上がったイメージで,その実,ウイグルの音楽(民謡)であったり(ウイグルも中国の一部だと言えば,現実にそうなってはいるが),西洋音楽を現代中国風にアレンジしたものであったり,と言うのがその実体のようだ. 音楽的な面で見ても,せいぜい特定の(五音階ベースだとかの)スケールを多用している,と言った程度のもので,お世辞にもあんまり底の深いものとは言い難い.
実際に,「中国音楽」を調べてみると,それっぽいタイトルの書籍などはいくつもあるが,その内容は,音楽理論の解説書(西洋音楽でいうところの楽典みたいなもの)などでなく,文献上確認出来る,音楽らしきものの痕跡(礼楽だのと言う)をまとめた資料に過ぎなかったりする. 要約するに「何かそれらしきものがあったらしい」程度の内容である.
詰まるところ,中国(と言うかあの辺の大地)は,王朝交代による文化の断絶・破壊が激し過ぎて,体系としての音楽など事実上残っていないのだろう. 日本の雅楽なども,そのルーツは大陸だと言うが,中国本土よりブランチである筈の日本の方が,余程濃厚にその様式を保存・継承している. それにしても雅楽の体系など,西洋音楽のそれに比べれば貧弱な感は否めないのだが.
私が上のような事を考えたのは,ここ最近,中国っぽい音楽でも作ってみようかと俄かに思いついたからだ. しかし,調べてみるだに,どうも中国音楽なんて存在しているのかさえ怪しいときた. 無いものを作るのは難しいな. 詳しい人がいたら,是非教えて欲しい.
・9/13(日)
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神田優花. 来月放送予定の某番組のコメント収録をやってました.と言っても,僅か1分足らずのVTRでの出演で,それ以外はPVが流れるみたいですが. 放送時間とかの詳細はまた後日,このページでもお知らせしますね.
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・9/12(土)
先日(9/8付)このページで,「タバコを取ってくれと言われた際,ライターや灰皿も持ってくるのが愛のある人だ」と言うような話をしたのだが,大筋の論旨において誤りは無いと思うものの,やや四捨五入した感のある言い回しだった. 愛のある人は,そのような配慮の行き届いた行動を取りがちであるが,人間の配慮は,必ずしも愛が土台となっているわけではない.
配慮のバックボーンとなっているものを大別すると,愛と神経という風に言えようか. 分かりやすく言えば,優しさと臆病さである. 愛は相手の心を慮り,神経は自分の事だけを考える. 浮世でこの二者は明確に分別されていないようだが,無論明らかに別物である.実際には,この愛と神経が複雑に絡み合って人間の行動を制御しているのだが,両者の顕著な差異としては,後者の「神経」と言うヤツから生まれた配慮は,必ずしも人間関係を円滑化しない,と言うところがある.
神経(臆病さ)は悪なのかと言うと,そんな事は無い. 鈍感・無神経よりは遥かにマシで,臆病な人なら,その臆病さを克服しさえすれば,心に大きな愛が芽生える可能性を濃厚に持っている. もし心当たる人がいるのなら,君はもうすぐだ.
私が,愛と神経は違うだとか,こういう言葉の定義に一々拘泥する理由は,そこを厳密に区別する事こそが,この世界を鮮やかにする事に他ならないからだ. 例えば,「甘辛い」と言う言葉を知らねば,何らかの食べ物を口に入れた時,その評価は,甘いのか辛いのかと言う二者択一になってしまう. 当然それでは,この世界に対する見解も正確性を欠く.
食べ物を例に取ったが,これは人間の評価においても同じである. 面白いけどだらしない人,と言う人格であるとか,素晴らしい性格の持ち主だけど容姿は悪いだとか,こういう総合的且つ正確な把握が出来ねば,対峙する相手の評価は常に,完全無欠の人物か,あるいは価値の無い人間か,と言う二者択一になり兼ねず,その大雑把な両極端の評価こそが,人間関係の破綻を生んでいるケースは実に多い.
・9/11(金)
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道端(都内某所)で栗を見つけたので,写真に収めた.上の一枚がそれです.秋ですね. 以下,今週スタジオで撮った写真.
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神田優花. 「What I want」/「RACHEL」/「Tumble-weed」の3曲のPV,「SPACE SHOWER TV」とかでもリクエスト受付,始まってるみたいです.良かったらリクエストしてみて下さい.
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・9/10(木)
YouTubeのバウンディ公式チャンネル(BounDEETube)で,神田優花のPVが公開されてるみたいです. UPされてるのは,ニューアルバムから「What I want」/「RACHEL」/「Tumble-weed」の3曲.リンクとか詳細はInfoに載っけてます. 是非チェックしてみて下さい.つうかアルバム聴いて下さい.
・9/9(水)
小学生の頃,学校の体育の授業で,マラソン(42.195km走るわけではないから厳密にはマラソンでないが)みたいな事をやらされた時の話である.
長距離走なのだから学校の運動場では手狭だったのだろう.ある時,学校の外,要するに街なかを走らされた(街なかと言っても,殆ど田んぼばかりの田舎道だったが). コースは当然ながら予め決められていて,ある地点が折り返し点となり,学校とその地点を往復するようなルートであった.
私は根性が無くて,長距離走のようなシンドい作業は当時から苦手だった.従ってその成績も悪かった. 私が折り返し点に向かって走っている最中にも,とうに折り返し点を通過し,学校方向に帰ってくる何人もの先行組の人らと擦れ違う. そもそも好きでなく苦手な作業をやっている私である上に,順位もあからさまに悪い.精神力の糸は今にも切れそうになっていた.
その時,擦れ違う先行者の中にいたある友人が,へたり込みそうな私を見つけ,擦れ違いざま,笑顔で手を挙げてくれた.「がんばらんかい」と言うエールかと思われたので,私もつられて咄嗟に手を挙げ返した. 不思議だったのは,その瞬間,もう体力的な限界を感じていた私なのに,潰えかけていた「走る気力」が何故か湧いて来た事である. 大袈裟でなく,心に追い風が吹いたような気すらした.
これだけの話です. その後,力の漲った私は,次々に先行の走者をゴボウ抜きし,一着でゴールインしました,なんてオチも無論無い. 順位なども(覚えても無いが),きっといつもと変わらず悪かったろう. ただ,あの時感じた気持ちだけは,今でも鮮明に覚えている.
私は自分の為に音楽を作っているのだけど,もしこんな私にでも出来る事があるのならば,あの時感じた「追い風」を誰かの心に届けたい. 手を振ったりする事ぐらい,誰にだって(それこそロボットにでも)出来るわけだけど,あの時,気持ちが沈み行く私の存在に気付いた彼の中に,心が備わっていなければ,私の心にあの一陣の追い風は吹かなかったろう.
私の体など,生ゴミや漬け物石と本質的に何ら変わらない,単なる物質に過ぎない. 今ここにある私のこの心,そしてその結晶である作品こそが私なのである. 私は,私の心を必要とする人の側に,いつだってあり続けるんだ.
・9/8(火)
たまに,質問をしても当を得た回答をくれない人っていませんか? 私は仕事上でもプライベートでも,しばしば見かけるのだが,仕事の上で(特に煩雑な事務処理を行なう際に)そういう人に遭遇してしまった時は本当に難儀する. その手の人らは,何故に要領を得た回答が出来ないのか.
簡単に言えば愛が足りないからだろう. 想像が明後日の方に向かっているような,いわば変人と言うのは稀に存在するのかもしれないが,大抵のケースは単に,相手が何を求めているのか,にリアルな想像が至っていないだけである. そういう人の振る舞いは,しばしば周囲を辟易させるのだが,その人らはまさに想像力こそが足りないのだから,ここで言う周囲の辟易すらまともには察知してくれない.
「タバコを取ってくれ」と言われた時,単にタバコを相手に渡すだけなら,その行為はいずれロボットでも出来るようになるだろう. 相手はタバコを吸いたいのだから,当然ライターや灰皿も必要になるわけだ.そういう部分を配慮出来る人を,「気の利く人」だとか言ったりするが,要するに愛のある人だという事だ.
人間が想像力を失えば,世の中は氷の世界と化すだろう.それを防ぐためには,一見迂遠な方法であったとしても,国語教育を徹底する他ない. 人間同士を繋ぐ紐帯となり得るものは,愛とか想像力に他ならず,それらの礎となるものは国語力でしかないから. 本当なんだってば.
・9/7(月)
よく言われる事だが,世間は随分前から出版不況らしい.要するに本が売れない. 私は標準的同世代者に比べれば,本を読むほうだと思うが,その私にしても本は滅多に買わない.基本的に図書館を利用するようにしている.
私のように,元より本を買わない人はさておき,本が売れなくなっていると言うのは,元々買っていた人が買わなくなった,と言う事である. 不況は出版業界に限った話ではない.CD(音楽ソフト)は売れなくなって久しいし,テレビの視聴率低下,それに連動したスポンサー離れは著しい.更には映画業界も酷い不況らしい.まあ当然と言うか,人がテレビすら見てないのに,映画館だけ連日満席である筈もない. ラジオ業界なんかは,不況の話をあまり聞かないが,それは業界そのものが既に崩壊し過ぎて,下げ止まった感すらあるからだ. 世間全体が不景気とはいえ,中でもこういった文化事業周辺(それが無くても生きては行けるもの)の不況っぷりは凄まじい.
本を読まず,音楽もラジオも聴かず,テレビ・映画を見ない人たちは,一体何をしているのだろう. 個別の事情など,無論私には分からないけど,想像するに,安定した収入が無いような人は,不安でそんな金を使う精神的余力が無く,一方,曲がりなりにも安定収入(定職)のある人は,企業などと言った組織に拘束され過ぎて,時間的余裕が無い,と言った事情なのだろうか.
先日の選挙の結果,我が日本には政権交代が起こった. 国民が旧体制にNOを突きつけた,と言う事になるらしいが,その旧体制って特定の政党や政治家個人が作り出したものだろうか. 違うだろう.詰まるところ日本人が選んだものではないのか.
「囚人のジレンマ」ってご存知だろうか.経済学部の学生なら誰でも知っているであろう,有名なゲーム論のモデルである. 「囚人のジレンマ」についてここでは詳述しないが,要するに,個人が目先の利益を求めた場合,その行動は必ずしも集団(その個人も含んだ)の利益と合致しない,と言う事を証明するモデルである. 死のような不況を生み出す国民が,社会をその暗黒から救い出す方法はある筈なのだが,人間は必ずしもその最適な行動を取らない. 自縄自縛に陥る者にも,一応の合理性はあってしまう.
人が音楽を聴かないのは,その人の心に音楽が必要無いからで,音楽が必要で無い人間を大量生産してしまっているのが,今の日本の社会が停滞している原因なのではないかと私には思えてしまう.
私如き非力な者に,この社会を根本的にどうこうする力など,無論のこと無いわけだが,私にだって出来る事ぐらいある. それは,音楽を作る事だ. それを求める人の心の中に,いつだってあり続けるものを私は作ります.
・9/6(日)
年寄りへの提言. 以前何かのインタビューで,車内(電車やバスなど)で年寄りに席を譲らない若者について,老人側(老婆であった)が苦笑いまじりにコメントしていた. 彼女曰く「たまに,寝た振りをして席を譲らない人がいる」そうな.要するに,不満を漏らしているのだが,私は彼女を見て若干の不安を覚えた. 親切と言うのはルールではなく,あくまで思い遣りが様式化されただけのものだぞ.
年寄りに席を譲る若者は親切に違いないが,あくまでもその行為は,愛に支えられたものであって,別に義務ではない. 年寄りは席を譲ってくれた若者の愛に,当然感謝すべきだが,それを当たり前の権利と思うべきではなく,ましてや席を譲らない人を非難するなど,以っての外の狼藉である.
私個人としては,老人に限らず,体が頑健でない者に同情するし,場合によっては席ぐらい譲っても構わないと思う. しかし同時に,席を譲られる老人らは,席を譲った相手の愛に想像を至らせるべきだとも思う.これは当然である.
言うまでも無いが,日本の社会は高齢化している. 年寄りが心配などせずとも,この社会が民主主義である以上,この先も政策・社会制度は高齢者優遇型のものに傾いていく一方だろう. むしろマイノリティである若年者は,高齢者の為に強いられる犠牲が増える一方となり,仮にそうなった場合(必ずそうなる),両者の世代間に,愛が存在しなければ,きっと多くの若者は老人を「敵視」し出す. 既にそうなっているかもしれない.
私は,世の高齢者たちが感じているであろう不安に,全く想像が及んでいないわけではない(と思う). しかし,程度の差こそあれ,不安など如何なる時代の如何なる世代にも存在した.現代の年寄りにだけ,さして特別なペナルティが課されているとは思わない. 当たり前の事だけど,若者に許されぬ行為は老人にも許されない.老人だからとて,席を譲られて当然だ,などと言う傍若無人な主張が認められる筈は無い.
経済情勢だとか,人口・世代構成がどんなに変化しようと,人間の心に想像力が備わってさえいれば,きっと世の中はそれなりに円滑に動いていく. あと,老人と言うのは,ある面では社会的弱者でもあるのだが(無論,皆がそうではない),弱者と言うのは弱者に過ぎず,決して権力者ではないのである.
・9/5(土)
今週のスタジオにて.
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・9/4(金)
結局のところ,私は自分を知りたいのだと思う. で,自分って何かと言うと,つまりはこの精神であろうと. 肉体ってのは物質なので,煎じ詰めると蛋白質だとか水分だとかカルシウムだとか,そういうモノに過ぎなくなってしまう.それ以上掘り下げようにも如何ともし難いように思えてくる.
精神の内奥ってのも,計り難いものなのかもしれないけど,精神そのものを見る事は出来なくても,その輪郭は見られなくもない気がする. 私が選んだもの,愛するもの,そしてそれらの結晶である「作品」と言うのが,つまりは精神の輪郭なのではないかと. 音楽と言う「道具」を使って,モノを考える作業とは,要は精神の輪郭を探る事に他ならないのではないか.
私は,自分の「美」に対する執着に,妥協を許したくない. 自分が納得出来る作品が作れるのであれば,もう他には何も要らないとすら思ってしまう. 「地獄変」に出てくる絵仏師良秀の気持ちも,全く分からないでもないな.
・9/2(水)
時間と言うのは消えない.過ぎ去るのではなく,累積されるものだ. あなたの心がそれを離さないのであれば.
例えば,音楽活動をやっている人は,楽曲や音源を作るわけだが,それらは基本的に不滅のものである.いつだって繰り返し味わえるから. ライブ出演や諸々のメディアにての露出についても,出演時間や放送時間などと言うものは無論有限であるが,それらの軌跡(出演した事実)は消えないものだ. 楽しかった記憶さえ留めておけば,いつだって心から取り出して味わえる. 記憶の密度こそが蓄積なのだから,決して気持ちを忘れてはいけない.
仮に,あるCDタイトルを一万枚売ったアーティストがいたとする.彼が次に出したタイトルの売上げが5千枚だったら,売上げは半減した事になるのだが,それってそんなに悲観すべき事態だろうか. 私はそう思わない. 彼は累計一万枚のCDを売ったアーティストから,累計1万5千枚ものCDを売ったアーティストに成長を遂げたのである.売上げ半減と言えば一面そうだが,累積売上げ枚数は5割増しである.大変な進歩と言える. 更にはこの累積記録,増える事はあっても,永遠に減る事がない.
世の中の「事情」は常に変動する. 景気・運・天候などは,当然ながら良かったり悪かったりもするから. 私は,そういう事に一喜一憂し過ぎる事を,あまり生産的でないと感じる. 人は瞬間のみに生きるにあらず. 売上げ枚数などと言う成果は,その大部分が文化度や人口などと言う,自分の能力以外の要素に左右されるものに過ぎないではないか.
私はこの仕事をやっていて,つくづく言い得て妙だと思うのが,CDなどの作品集を「アルバム」と呼んだりする事. 本当に作品って人間の歴史そのものである. これを作り続ける愉悦を,他の人にも分けてあげたいくらいである.
・8/31(月)
人間は自己採点によって作られる. 例えば,AさんとBさんが双方時給千円でアルバイトをしたとする.Aさんはよく働き,Bさんはサボってばかりだとすると,この場合,得をしているのはBさんであると言える. 時給が変わらない以上,真面目に働けば働くほど,人は安価で労働力を提供している事となり,即ち損をしている事になるのである.
ここで,Aさんは何故に同じ賃金にて,他人に抜きん出てせっせと働けるのか,と言う反問が頭を擡げて来るのだが,それはAさんが規定する自己というモノが,Bさんのそれより大きいからである. 彼は,自分の将来の可能性や属する会社の発展に希望を抱いている.それも他人よりホンの少しだけ鮮やかに.
従業員が,自分の将来性や組織全体の未来に,いくらかでも発展的な予感を感じていさえすれば,自ずと取る行動も変わる筈なのだが,その仕事において,自分の将来に投影出来る希望が無く,属する組織と自身とを同一視出来るだけの器量も無ければ,人は目の届く範囲に散らばった小銭を拾う事ぐらいにしか関心が至らない. こういう人らの事を漢語で「小人(しょうじん)」と言うのだが,人類はこの言葉を紀元前から使っていた.
今の日本は,総小人化社会であると言える(昔からそうだったのかもしれないが). 例えば政治家が,党益だとか特定の地域・業界への利益誘導ばかりに執心したり,役人などが,いわゆる省益や,天下り先と言った個人の利益しか考えられないのも,要するに彼らの規定する自己,いわば世界観の為せる業であって,自負する自己の目方が増しさえすれば,人はその手の行動を取らなくなる.
今の音楽業界,ハッキリ言ってあんまり良い新人が出ていないし,音楽ソフトも全体的に売れなくなっている. 数十年後に現在を振り返っても,時代を象徴する楽曲など如何ほどあろうか.音楽史上の空白の時代になるのではないか. まあ振り返るその時に,音楽業界と言うモノが,どの程度の規模で残ってくれているかさえ分からないけど.
レコード・メーカーがコピー・プロテクトに躍起になったり,やたらに再発物・コンピレーションアルバム・カヴァー曲・リミックス・マッシュアップの類を濫造してしまう理由は,失礼ながら,彼(レコード会社の社員)らが小人だからである. 業界の将来よりも,来月のローンの支払いが気になるのだろう.誰を責めるわけにも行かないけど,業界として,あまり健全な状態ではないように思う.
・8/29(土)
ウチはたまに雑誌やWeb媒体なんかでオーディションの告知をしているんですが,ウチの情報を扱ってくれている某オーディション情報サイト(現状,ウチが情報提供している唯一のサイト)が,ここ最近女性専用になったらしい. サイトの作りも見てみたけど,なんとなくそれらしいものになっていた. サイトの運営方針は事業者さんの意向なので,別に良いとして,何やらこういう作業(歌など)をやる人が,現状女の人ばかりになってしまっているのは,若干淋しい気もする.
ウチは会社の方針として,エントリーの条件を,性別・年齢等不問としているのだけど,サイト自体が女性専門なら,そもそも男は訪れることさえ稀だろう. そういえば来月発売の月刊Audition10月号に,ウチの記事がちょっとだけ載ります. いつものアーティスト募集告知なんだけど,こちらは男性応募者も大歓迎です.是非ご応募下さい.
・8/28(金)
今週のリハーサル風景. 随分涼しくなりましたね.
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・8/27(木)
昨日上げた文章を読み返してみて,ちょっと誤解されるおそれがあるような気がしたので,以下補足を.
identityと言うのは,別に胸を張れるような得意分野の事,などではない. 人が,その人であるだけで,自分を誇れる根拠となるものの事で,しばしば既存の分野などにカテゴライズし難いものだ. 人によっては,何らかの分野名で言い切ってしまっても,あながち間違ってなかったりもするのだけど,本来分野名なんかで割り切れるものではない.
その人が,ただその人であるだけで,揺るぎない自信を持てるようになるには,自分で自分自身の評価を行えなければならない. これが出来る事こそがいわゆる自己の確立で,欧米社会などで,個人を個人たらしめている唯一の要因なのだと思う.
とまあ,ここまで述べてはみたが,今日は疲れているのでこの辺で止める. それにしても,我ながら上手くない文章だ.こんなんじゃ,読んでいる人の多くは,全然何を言ってるか分からないだろうな.
・8/26(水)
identityについて. ヒマな人は,試しに英和辞典などでidentityの項を引いてみて欲しいのだが,きっと要領を得ない対訳を目にする事だろう. 訳者(辞書の編纂者)自身が,identityと言う機微をイマイチ把握出来ていないのかもしれない.
いわゆる大和言葉と言う,日本の固有言語は,形而上的概念を指す語彙に乏しい.皆無と言っても過言でない. 概念は,無論のこと物質ではないのだから,それそのものを指差して,「これの事だよ」と教える事は不可能である. 心当たるフシが無い人には,永遠に理解出来ないものなのかもしれない.
identityなんて,実のところ日本語に訳しようが無い.辞書には,自己同一性などと言うあんまりスマートでない訳が一応載ってはいるが,日常語として全く機能・定着していない.
そもそも何故に定着しないのか. 大きな理由の一つとして,その機微を体感出来る日本人が少ないからだろう. 以下,私なりに感じたidentityについて,説明してみる.
物事をidentifyする,と言うのは,例えばある人が,音楽と言うモノを好きになるのではなく,その人自身が音楽そのものになってしまう事である.
私は寿司が好きだし,蕎麦も好きだけど,無論どちらも私のidentityではない. 今日の夕飯として,どちらかを選べば,どちらかは切り捨てられてしまったりするからだ. もしidentityであったならば,切り捨てられる事などあり得ない.
寿司をidentityとする寿司職人(当然いる筈だ)や,蕎麦をidentityとする蕎麦打ち職人であれば,寿司を食おうが蕎麦を食おうが,その経験は,その人の精神の核に存在する「寿司」や「蕎麦」を補強する材料となる. 寿司をidentityとする本当の寿司職人であれば,他所の寿司屋で食べた寿司は勿論の事,蕎麦だろうが何だろうが,ありとあらゆる食べ物,店の構えや店員の物腰,何一つとっても,教訓に変えられないものなどある筈が無い. 彼にとっては,夕飯に食べた寿司も蕎麦も,蓄積そのものであり,心の中にある「寿司」の一部である.だから彼には,無意味な時間・経験などあり得ない. 他人が一見どんなに下らなく思える事でも,心に寿司がある限り,彼にとって無駄な事など何一つ存在しない.
もしもこの私が,TVゲームやカラオケなどに入れあげるような日が来たとしても,故に音楽を切り捨てるなどと言う事はあり得ない.何故なら,音楽とはこの私そのものだから. 更には,カラオケを下らないと感じたり,TVゲームをホンの一瞬でも面白いと感じたり出来るのも,私の中に音楽があるからに他ならない.
自分がどこに向かって進むべきか分からず,何をやっていても充足感が得られない人が,「自分探しの旅」などと称してさまよってしまう理由を一言で説明するなら,その人の心に「indentityが無いから」である. この文章を読んでくれている人よ,以上のこの論旨,理解してもらえますか.
今の私に,identityの意味が明快に分かるのは,それが我が心にありありと存在するものだからだ.つまりは,心のあり様を開示しているに過ぎない. 要するに,この事一つとっても,音楽が私にくれたものなのである.だから私は音楽に愛されたと感じてしまうわけだ. 私の述べている事の意味がサッパリ分からない人がいるなら,もしかしたらその人の心にはidentityの火が灯っていないのかもしれない.
以下は蛇足だが,私が長々と説明しているこのindetity,欧米人はその大多数が,当たり前の事として理解している. identityと言う言葉が存在しているのが,その動かぬ証拠と言って良い. 今の日本人の思考が,如何に彼らと懸け離れたステージにあるか理解してもらえるだろうか.
・8/24(月)
私は今のこの,音楽制作と言う作業が好きだし,今の仕事にそれなりの展望も持っている. がしかし,目指すべきゴールと言うか,到達点のイメージは,ハッキリ言って希薄だ. 展望と言うのも,せいぜい向こう一年先ぐらいにありえる程度の,成果についての観測とかそんなもんである.その成果に対する観測とやらも,外れたところで別に大した痛手でもない. 一年以上先の事になると,もうそれは漠然とした予感でしかない. 要するに私は,何よりも今が好きだ.
例えば,一つの作業を地道に続けていれば,当然ながら実績・技量は蓄積されるし,作ったものが当代のニーズに合致したりすれば,富や名声にも繋がりやすい. 音楽の世界においても,「○○賞」とか言った分かりやすい栄誉が一応は用意されている.
私は,上で言う「○○賞」の受賞者などが,受賞の式典なんかで「この○○賞をもらう為にがんばってきました」とか「この賞をもらうのが予てからの夢でした」などと言っている気分に共感出来ない. 通過点として,何らかの賞をもらってしまう人はいるだろうが,賞なんかもらう為に日々精進している人なんて本当にいるのだろうか. 私は違う.
私の夢は,今のこの瞬間に存在している. 音楽が好きである事・作ってきた作品たちを愛でられる事・今日も音楽を創造し続け,発展的な予感を感じ続けている事,これらの気分がまさに私の夢だ.
私の夢とは,今日のこの日の事です. 今日の為に,昨日までの全ての日々はあったし,今日までの全ての日々は明日の為にある. 私に進むべき方向はあるし,結果として辿り着く場所もあると思う.しかし,ゴールなんてものは存在してないのではなかろうか.私はそれで構わない.
・8/23(日)
社会が停滞する原因を一つ挙げるなら,人々の精神の萎縮だろう. 人間は,自分を小さきものだと規定すればするほど,本当に取るに足らない小さきものになれてしまう.
例えば,日本国首相であれば,その責任は日本と言う国,その国民,更には日本と言う国の歴史や,未来の国民にまで及ぶのだろうが,○○町会議員とか言う人は,可視的範囲にリアルに存在する支援者への利益誘導だとか,せいぜい我が街・我が故郷の為と言った感覚でしか仕事に向き合えないケースが多いのではないか. 要するに,人は自己をどう規定するかによって,そのperspectiveも変わってくる生き物である.
地球や人類の未来の為に生きている人がいれば,自国・自国民の為に生きる人もいる.我が業界の未来の為だとか,我が社の将来を背負って,などという感覚で働いている人もいれば,我が身一つを救う事しか考えられない人もいる. その人が規定した身の丈こそが,結局その人そのものである.
日本人が,我が身を大きく規定出来るようになる為に必要なものは何かと言うと,それは思想に他ならないのだが,現時点では,その思想とやらが芽生える素地が無い. 今の日本において,政治家が経済政策を重視せざるを得ないのは当然かもしれない.
孟子の説く「恒産無ければ恒心無し」と言うのは,ある程度正鵠を射ていると思う.特にこの日本においては. 孟子は上の原理を「小人」においてのものだと断っているのだが,言ってしまえば人間なんて,その大多数は小人である. 生活の憂いをなくしてさえやれば,もう少し己を大きく規定出来そうなものなのだが.
・8/21(金)
今週のリハーサル風景を. 一枚目は差し入れのお菓子.
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神田優花,今週のスタジオにて. 新曲の歌い回しなんかをチェックしてました.
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・8/20(木)
欧米人,と言うかキリスト教徒,中でもとりわけ新教徒は,各人が心の中に対話すべき神を持っている. 私などは,いわゆる一神教の信者の考えるような,神と言うか絶対者の存在に,平均的日本人程度には懐疑的なわけだが,同時に,我が日本の風土にこの習慣(神との対話)が無かった事を,やや残念にも思う.
心の中に神を宿す,と言うのは,即ち認識力を持つ事でもある.自己の確立はここから生まれるのだろう. 認識力を持てば,その振る舞いも,他人が自分をどう見るかではなく,自分が自分としてどうあれるか,に重点を置かざるを得なくなるだろう. 自分の事を一番よく知っているのが,神と言う名の自分自身だから. 人間の精神を宙空に漂わせない為の,錨となるものこそが,信仰なのかもしれない.
私は,無論の事キリスト教徒では無いし,故に当然ながら懺悔すべき神も持たない. しかしながら,自分は信仰を持っているような気がする.私にとって,キリスト教徒で言うところのGodに当たるもの,その正体・実体は,今のところよく分かっていないながらも,詰まるところ「音楽」なのではないかと.Godとの違いがあるとすれば,無人格であるところか.まあ実のところ,神も無人格なのだろうけど.
私の人生における全ての瞬間や,目の前に現れる事物・諸現象を意味付けるのは,音楽でしかない. 因みに,ここで言う音楽とは,一般論としての音楽ではない.音楽とは,義務教育の一科目ですらあり,その道に長けた人はその成れの果てとして,芸術大学や音楽大学などに行ったり,あるいはコンクールなどでその練度を賞でられたりもするのだが,私の言う音楽は,それではない. 私の言う音楽とは,あくまで私の考える音楽の事で,他に適当な言葉が無いから代用しているだけの呼称である.
思うに,芸術って本来そういうものなのではないのだろうか. ピカソは絵画の道に長けていた人だろうか.違うだろう. 彼には追及すべき何かがあって,その手段として絵筆を持っただけの事で,画家などと言う呼称すら周りが勝手に名付けたのではないか.
・8/18(火)
「迷い」について. 以前にも似たような話をしているのだが,心の迷いについて考えたい.
例えば,一般に受験生と言うのは,複数の学校(・学部)の入試にエントリーするわけだが,そもそも行きたかった,第一志望の学校・学部からお声が掛かれば,通常,進路の選択に迷ったりしない. 人が進路に迷うケースと言うのは,合格通知をもらっても,そこに第一志望が含まれない時だろう. これは,たとえ合格通知が一通しか来なかったとしても変わらない.どこにも行かないと言うのも選択肢の一つではあるから.
人が迷ってしまうのは,目の前に提示された複数の対象が,どれを取っても大して魅力的で無いからに他ならない.要するに「欲しくない対象」だからこそ,迷いを生じさせるのである. まあ,丸っきり魅力の欠片も無い対象であれば,それはそれで人を迷わせないわけだけど.全く欲しく無いから.
恋人を選ぶ際,相手が自分を選ぶのに迷っているようなら,その人と一緒になるのはやめておいた方が良いかもしれない.だって相手は,自分の事をその程度にしか捉えてないのだもの. いくらなんでも,もう少しマシな相手ぐらい現れる筈だ. また,進学や就職先選びで迷っている人がもしいるなら,あなたにはそれらの進路において,欲しい対象が明確には存在していない,と言う事をまず真摯に受け止めるべきだ. そこで自分を騙すと,きっと事態が深刻化する.
あらためて思ったのだが,やはり人間にとっては,欲しいモノが手に入らないより,欲しいと思う対象が存在していない事の方が,より深刻であると言う事. 欲しけりゃ迷わないもの. 私はここ最近,一応ながら自分が学校や就職先を選ぼうとしていた頃を思い出していたのだが,当時,イマイチ物事が進捗しなかった理由が,今ならハッキリ分かる. どれをとってしても,自分の欲しい対象で無かったからだ. 今の私は,一番欲しい物を手に入れるべく斯様な毎日を生きているのだが,やはりと言うか,日々に迷いを感じていない. 結局のところ私と言う人は,こういう人生を歩む運命だったのだと思う.
・8/17(月)
男気について. 上手い言葉が見つからなかったので,こんなテーマになってしまったのだけど,とにかくマッチョ主義みたいなものについて語りたいのである.
結論から言うが,私は一部の「男気を過剰にアピールする輩」に,そこはかとない胡散臭さを感じてしまう.要するにあまり好きでない. また,その手の輩に何らかの精神を仮託している層には,一種の未熟さを感じている. 一応断っておくと,私はあくまで「過剰な男気」に抵抗を感じるだけで,性差とか,それによる分業の必要性まで否定するわけではない. 私だって男なのだから,その立場上,果たさねばならない役割は当然ある.
私が,過剰なる男気の演出にいかがわしさを感じる理由は,それがハッタリのように思えるからに他ならない. 私は,男気のアピールによって目立たねばならないような人に,ある種の未熟さだけでなく,軽薄な商魂(単なる金銭的見返りに限らない,要は受け狙い)の臭いを感じているのだと思う. ここで言う臭いとは,つまりは卑しさである.
人間は,心中に渦巻く幾つかの思惑を鎮めてしまえば,自然男気のアピールなど必要無くなるし,誰かに男気を代弁してもらう必要も無くなる.少なくとも私はそう思っている. あんまり論旨がスマートにまとまってないけど,時間が無いので今日はこの辺で.
・8/16(日)
音楽制作と言う作業が魅力的な理由の一つとして,作った音楽作品が消えない事がある. CDなどと言う商品はモノであるが,そこに記録されている作品はモノではない.
一旦作った楽曲も,CDなどと言う商品も,作者がこの世から消えた後でさえ残り得る代物である. 録音物なんてその気にさえなれば,人類が存在する限り,未来永劫流通させる事が出来るだろう.また,CDなどの物質は,それを入手した人の手元に残り,作品そのものは,共感してくれた人の心にあり続ける.
アーティストは,作品が完成する度に持ち曲が増えるし,演奏するレパートリーの選択肢も増え続ける.そしてそれらは,何が起ころうと決して減らない. また,何千曲持ち歌があろうと,それらに固定資産税が掛かるわけでもなし,とにかく作品とは,維持費の掛からぬ無形の財産である(本当に金銭的価値を生ずる可能性だって大いにある).
私には,創作と言う作業がこんなにも楽しいから,これをやらない人の気持ちがイマイチ良く分からないのだけど,人には色々個別の事情があるのだろう. この文章を読んでいる人なのだから,ウチの関わった音源を耳にした事ぐらいある可能性が高い筈ではあるけど,もし聴いていない人がいるのなら,是非我々が日々作っている音楽に触れてみて下さい. この気分を少しだけでも分かち合えるかもしれないので.
・8/15(土)
学歴について.
この社会を秩序付けている大きな要素として,「学歴」がある. 多くの人は,背負ったその学歴により,序列化される.人類史における最後の「階級」と言えるかもしれない. バカバカしい事この上も無いが,精神がその権威に圧倒されてしまっている者には,今の私が感じるこのバカらしさは共有してもらえないだろう.
例えば,○○大学合格者と呼ばれる資格を得るには,その学校の入学試験に受からねばならないわけだが,基本的に,あるペーパーテストの合計点が一定のラインを越えてさえいれば,その栄誉は手に入る. 合格とは,一定の基準をクリアした事であるのは間違いないのだから,栄誉と言えば栄誉に違いないが,その特定の基準を満たしてさえいれば,他の誰かにでも当然与えられる程度の栄誉に過ぎない.
受験に失敗したり,恋人にふられたり,企業の採用試験に落ちたりすると言うのは,いわばある相手の用意した特定の基準において,そのニーズを満たせなかった,あるいは自分以上にその条件を満たすであろうと思われる人物がいた,と言うだけである. 世の中に,ある側面において自分より秀でた人,と言うのは当然いる筈だが,そういうケースだとすら一概には言いにくい. ある企業の人事担当者が考える,採用するに足る適性とは,「地獄のように過酷なルーティン・ワークにも耐えられる従順さ」かもしれないわけだが,ここで問われる順応性とは,ある基準においては単なる鈍感さに他ならず,換言すれば無能さでもある.
私は,我々の価値が分からない人なんて下らない人物なのだから,そ奴らの意見など取るに足らぬ,などと言いたいわけではない. 人間などと言う不完全な生き物に,他人の価値を下す権能なんて備わっていない,と言う当たり前の事を言っている. 自分の価値は自分で決めるしかないものだ.
率直に言って私は,学歴や所属企業・団体などと言った装飾品に,自分の価値を支配される人々を,かわいそうだと思っている. ある人はその序列からドロップアウトし,社会からのある種の冷遇をも,当然のものとして受け入れ,またある人は,その仮想のヒエラルキーの上層に君臨したいあまり,死に物狂いで実体定かでない権威にしがみつく. どちらにしても,日々苦しみの中から抜け出せずにいるわけだが,結局誰がこんな世の中にしたのだろう.悲しい事だけど,我々日本人が望んだのがこの社会なのだろうか. 少なくとも「政治家の何某が悪い」などと,犯人を特定するのは難しそうだ.
断っておくが,私は自分が低学歴者だから,学歴社会を嫌っているわけではない. 何故なら,私には音楽があるから. 私はいつだって,どんな場所ででも,今と変わらず作品を生み続けるだろうし,その毎日を楽しむ事が出来る.音楽がこの私を守ってくれるから,何の不安も感じはしない. 今の私は,学歴などと言う序列の埒外にいると言って良い.出来る事なら,この気分を他の誰かにも分けてあげたいくらいだ. 私は幸福過ぎるから,多くの人が不幸に見えてしまうのかもしれない.
・8/14(金)
暑いですね. 写真でも上げるか.
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・8/13(木)
ここ最近,地震が多いな.本当に毎日揺れている気がする.
就職について.
私が大学生の頃,既に現在のように就職氷河期だのと言われていた. 私はハッキリ言って,あまり就職活動と言うヤツに真面目に取り組んだ経験が無い. だが,周囲にいた,就職活動に臨む人らの姿は,この目に鮮明に焼きついている. 就職がなかなか決まらない知り合いの,この世の終わりかの様な沈んだ面持なども.
人は「就職先」に何を求めているのだろう. 確かに人間も生き物には違いないので,食わねば生きて行けない. だが,それだけが理由なら,適当にアルバイトを見つけるなり,親の脛を齧るなりして過ごせば良い.職を見つけられないからとて,飢えて死ねとまで言う親もいまいて. もし,結婚して家族を養う為にサラリーが必要だと言うなら,その目的を満たす程度の収入があれば良いだけで,正社員の身分など必ずしも必要でない.
大学生たちの多くは,就職を,糊口の為の手段などと思ってやしない. 肩書こそが自分の価値だと思っている人にとって,就職先とは,即ち自分自身である. 自分と言うものが,大企業に勤めれば立派になり,零細企業に勤めれば卑しくなるとでも思っているのだろう. 我が人格よりも,属している集団(この場合企業)の方に価値を感じる人など,本当にその程度でしかないのかもしれない.
就職先なんてのは,私が今着ている服などと同じで,自分の外側に張り付いたものに過ぎない. 必要に応じていずれかのモノを選び,場合によっては切り捨てる. 服や就職口なんて,条件さえ揃えば他の誰かにだって手に入る程度のものに過ぎないじゃないか. 身に纏っている服が私なのではなく,この心の動きこそが私だ.
如何なる大企業(あるいは零細企業)に勤めようが,私は私だし,あなたはあなたである. 企業などと言う入れ物に,この心の価値が決められる筈が無い. あなたはあなただからこそ素晴らしいんじゃないか.心配なんて要らない.
・8/12(水)
私には,やりたい事のある人が魅力的に見える. よく言う夢とは,言い換えればこの「やりたい事」に過ぎないわけだが,若くして「やりたい事」を無くしてしまっている人は実に多い. 世間は就職難だと言うが,無いのものは実は就職口でなく,「やりたい事」なのではないか.
「私にはパチンコや麻雀,あるいはスキーや旅行など,やりたい事がたくさんある」などと言う人はきっといるだろう. しかしそれらは,大抵の場合において,本当のやりたい事ではない. 全てを懸けて掘り下げるべき対象が,自分の中に明確に見当たらないからこそ,そこら中を闇雲に掘り返しているだけであるケースが殆どだ. あるいは仕事や勉学の繰り返しと言う,自分の置かれた日常が苛烈であるから,単に息抜きを欲しているだけであったり.後者のケースなど,言うならば「やりたくない事」が存在しているだけだ. 私の考える夢のイメージは,英語で言うならprimalなもので,自分の中にある一つの塊なのだ.苛烈な日常のスケープゴートであってはならない.
係長になりたい平社員は,係長になったら課長を目指し,課長のポストが手に入れば次は部長を目指すだろうか. そういう人は,やがて社長の椅子が手に入れば(そんな人に社運を委ねる会社も無かろうが),それ以上の肩書が無くなるので,目標を喪失してしまうのではないだろうか. 何故なら,夢というものを肩書だと捉えているから.
夢とは,やりたい事なのだし,やり続けたい事だ. 「手に入れるべき何か」ではなく,その何かを手に入れたいと思った気持ちの事である. だからして,夢は,その人が望むのでありさえすれば,決して心の中から消えない.
我々は,「歌手と呼ばれてみたい人」などでなく,「歌をうたいたい人」と仕事がしたい. 例えば,「弁護士になりたい」と言うのは,そういう肩書を欲しがっているだけで,実のところ夢ではない. やりたい事こそが夢なのだから,弁護士業をやり続けたいのでなければ,それは夢と呼べないのだ. 「冤罪をこうむる人を救いたい」と言った夢を持つ人が,その手段として,弁護士の資格を得てしまう事はあるだろうが,「弁護士になるのが夢」などと言うのは「○○大学に行くのが夢」とか言っているのと同じで,それは権威主義と言う心のひるみに過ぎない. 受験生が「学問に志したい」とか言うのであれば,それは夢なのだろうけど.
「夢が無くなった人」とは,ある日を境に,それまで欲しがっていた何かが欲しくなくなった人を指すのだろうが,同じ人間が,その同一軌道上に連綿と続いている歴史の中で,一旦欲しいと感じた何かを欲しくなくなる事など,そう簡単にあり得るだろうか. そんな筈は無い. それはきっと,初めから欲しくなかったものだ. 欲しいと錯覚したのは,自分でモノを考えなかったからに過ぎない.
・8/11(火)
世間,とりわけ芸能界において,薬物絡みの事件が多発しているそうであるが,私は個別の事件について,あまり興味が無い. むしろ,人は何故そういった薬物などに手を出してしまうのか,と言ったラディカルな事を考えてしまう.
禁断症状を発するような段階の,いわば常習者などと言うならいざ知らず,そもそも違法薬物に手を染める人は,初めから体がクスリを欲しているわけではない.クスリを欲するのは心である. 心の中に住んでいる自分に対し,必死で目立とうと,スタンド・プレーに奔走する. 新たなイマジネーションを結像する為に必要な,自分という担保に下駄を履かせるために.
人はいつも,一歩先に進んだ自分の姿を想像しつつ生きている.そこにいる自分が,どれだけの振る舞いを実現できるのかを. このイマジネーションが消え入れば,人は生きる希望そのものを失う.人間とは,斯様にもか弱き生き物である.
この希望の光が,その目に,絶望的な程にか細くしか映らない人は,取り巻く不安を打ち消す為に,衒い,自分を大物に見せようとする.見せびらかす対象は,無論自分自身である. 人は,自分に目立つ為に四苦八苦するのだが,ある人は権威ある肩書を手に入れようとする.世間で通りの良い,○○士などと言う資格を得ようとしたり,あるいは教養人・芸能人などと言う呼称を手に入れようとしたりもする.
またある人は,普通の人とは別の方法で目立とうと,校則・法律・道徳・社会規範と言った「ルール」を敢えて犯す. チキン・レースに挑む姿を自分に見せつける事によって,臆病でない事を認めさせようとしている. 具体的には,酒やタバコに手を出したり,髪の色を変えたり,ピアスの穴を開けたり,それでも飽き足らなくなれば,我が身に入れ墨してみたり,ヤクザ者になろうとしたり,あるいは違法薬物に手を出してみたりもする. 人が目立つ為にしばしば必要とする他人(ギャラリー)と言うのも,要はここで言うタバコや何やと同列のもので,早い話が自分に見せびらかす為の道具に過ぎない.
何もってすれば自分に目立てるか,と言う効能に関しては,個人差がある.人はそれぞれ世界の見え方が違うからだ. 恋人を作ったり,タバコを吹かしたぐらいで,自分に目立てる中学生もいれば,覚醒剤をもってしても満足に目立てず,更なる刺激を求めさまよう人もいる.
しかし,こんなにか弱き人間であるのに,厄介にも,さほどに「愚か」ではない. 入れ墨や薬物といった,自分の外に張り付いた装飾品と,我が心そのものの充足との区別が,無意識のうちにでも付いてしまう. だからして,どんなクスリに手を染めようと,結局のところ,心に巣食った不安は消えない.
クスリに手を出す芸能人はきっと,我が身の置かれているその立場を,「自らの能力によって勝ち得たもの」だと信じられなかったのだろう.あるいは自分の身分を,自身に過不足無きものとして,容認する事が出来なかったのかもしれない. とにもかくにも,現在の身分を「安住の地」だと捉える事が出来なかったのは間違いない. もしも,自分自身の事を,誰かに与えてもらった装飾品を身に纏っただけのピエロだとしか評す事が出来なかったのだとしたら,自分がそう感じたのである.きっと本当にそうなのだろう.
やはり人が探し求めるべきは,芸能人などと言う「立場」ではなく,そこに君臨するに相応しい「自分自身」である. 自分の事は自分が一番よく知っているので,今の私にはギャラリーなどもう必要無い. 私が納得させねばならぬ私と言う相手は,非常に難儀な奴で,クスリや入れ墨なんてものが,所詮はハッタリだと言う事など知り尽くしている.だから,そんなフェイクではもう騙せない. 今よりホンの少しでも鮮やかな未来を描くためにも,私は本当の意味で,誇りを持てる自分を探し続けます. 私は音楽を作り続けるしかない.
・8/10(月)
「たこ焼き」と私.
流行なのだろうけど,最近のたこ焼きって,油で揚げたように外側がcrispyな(硬い)ものが多い. 私が子供の頃は,もっと柔らかいものが主流だった.と言うか,多分昨今のハード・タイプなんて無かった. 他にも,たまに「大ダコ入り」を謳ったたこ焼きなども見かけるが,世の中にはきっと,「私は個人的に柔らかいタイプが好き」とか「タコは別に大きくなくて良い.通常サイズの方が良い」なんて思う人もいる筈だ.
生まれて初めて「たこ焼き」を食べた時の話である. 当時私の家の近所にマルキョウというスーパーがあって(東京で見た事がないから地元資本系のスーパーと思われる),その向かって右手にパン屋,左手にたこ焼き屋(他にも粉物系のメニューなどがあったかと思う)があった. 当時の私は,小学校一年生ぐらいか,あるいは小学校に上がる前だったかと思われるのだが,母親に連れられて,そのたこ焼き屋で昼食をとった.
初めて食べたたこ焼き,大掴みには旨いと感じたのだが,中に入っている「タコ」がどうも,ゴムのように硬いわ,イマイチ味もはっきりしないわで,要するに全然旨いと感じられなかった. 中に入っているタコを一々取り除いて,それ以外の部分だけ食べたかったぐらいなのだが,いかんせん親が隣にいる.当時既に,親が子供の偏食を嫌う事を知っていたので,「このタコというヤツさえ入ってなければ旨い食い物なのに,残念な事だ」などと思いながら,渋々そのたこ焼きを食べていた.
いくつか食べているうちに,きっと店員の不手際なのだろうが,タコの入っていない個体に出くわした.噛んでも口の中にタコの感触が無いのである. その時私は,率直に「ラッキー」だと思った.だって難物であるタコが入っていないのだもの.たこ焼きなんて,全部こう(タコ無し)であって欲しいとすら思った. 私はその事(タコが入っていなかった事)を親に黙って,タコ無しのたこ焼きを頬張りつつ,至福の一時を味わった.
当時の私は,一般にどのようなタイプのたこ焼きがうまいとされているかとか,タコこそがたこ焼きの醍醐味であり,その名の所以であるとか,更には,たこ焼きが一皿いくらであるかすら知らなかった. 純粋に旨いと感じるものを旨いと思い,そうでないものを不味いと感じていたに過ぎない.
しかしながら,その幼少期の私の感覚こそが,最も信頼するに足るもので,今の私の進むべき道や,作った曲の良し悪しを判断しているのも,常にその頃の私なのだ. 小学校高学年の頃,友達の間で流行っていたからとて,好きでもないラジコン・カーに手を出したり,中学生時分に,不良っぽい服装に憧れたような私など,実に信用ならぬ奴である. 食言や魔女狩りなんて事がやれてしまうのは,まさにそういう人間だ.
因みに,今の私なら,たこ焼きにタコが入っていなければ,店に苦情を申し上げたい.タコが好きだから. 今の私は,子供の頃に理解出来なかったタコの旨さ(味と言うより食感か)が理解出来るようになった.嗜好が別人かのように変わったのでなく,進歩したのである.
・8/9(日)
影山リサ. 去年アルバム出して以降,年末に一つアイテム出したのだけど,それ以来音源を発表してません. 別の作業で忙しかったのもあるけど,曲はあるけど歌詞が上がってないとか,そういった諸々の事情で作業が断片化してしまった. 年内には1タイトル発表したいと思っているのだけど,今年ももう四ヶ月チョイしか残ってない. 厳しいところだけど,まあがんばります. 下は先週のリハーサルの様子.
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話は変わるが,いわゆるオタクについて. 昨今,随分市民権を得たものだが,私の子供の頃「オタク」と言えば即ち蔑称であった. とにかく,オタク文化は,一種のPOPカルチャーとして認知されたと言えるのだが,そもそもこのオタク文化や,それを支えているオタク層とは,如何なるものなのだろうか.
オタク体質とは,アニメやゲームが好きだったりする,ある種の趣味・嗜好性を指していると思われがちだが,例えば,Aさんは肉より魚が好きだとか,Bさんは洋食より中華料理が好きだとか言うような,純然たる嗜好だと解釈して良いのだろうか.
違う. オタクとは,単にアニメやゲームを偏愛する人と言うより,これらとの関係を強化せざるを得なくなっている人種のことで,論ずべきは彼らの「世界観」である(如何なる趣味も世界観に因るが). だからしてオタク層を,彼らの「アニメ好き」と言った部分を除いた上で眺めて見ても,一定の人格的傾向を持っているのが分かる.
昨今の政治家などは,人気取りの為に,我先にとオタク文化に理解を示したりする. あの手の文化を容認することが,文化人の条件だと思っている輩すらいるように思える. 別にそれを短絡的に悪だとまで言わないが,オタクが大量発生してしまう社会のメカニズムを解剖学的に論ずる人がもう少しいないものか. オタクは日本発らしいぞ.発生の条件が,この社会に濃厚に備わっているのではないのか.
オタクは教育の歪みによって生じている層で,オタク的性質というのは,いわば精神の脆弱性である(ここで言うオタクと,単なるゲーム好き・アニメ好きは別けて考えて欲しい). だから教育の内容如何によって,この層は激減する筈だ. だがその前に,この社会が「オタク体質とは,矯正されるべき精神の脆弱性である」と言う単純な事実を共通認識とする事が,最低条件として必要になる. 道は遠いな.
・8/8(土)
今週のリハーサル風景. 4枚目は差し入れのワッフル.
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・8/7(金)
10月7日に発売が決まった神田優花のセカンド・アルバム「レイチェル」について. 税込定価\3,045,収録曲は下記の14となります.
もう予約の受付とか始めてる業者もあるみたいです(商品そのものはまだ完成してない).丁寧に作ったアルバムなので,是非入手して聴いてみて下さい. 下は今週のスタジオにて.神田優花はここ最近忙しくて,今週からやっと新しい曲の制作に入ってます.
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・8/5(水)
暑いですね.ただ,今年は梅雨が長かったりして,これでも例年よりは涼しいそうな. 以下,暑さについて.
「暑い」の対義語を問われた際,それが国語のテストならば,「寒い」と答えていれば,とりあえず正解になるだろうけど,本当にそれで良いのだろうか. 実は,座標上,暑いの正反対のに存在する感覚を,正確に言い当てるならば,それは「何も感じない」である. 暑いも寒いも,温度を感じていると言う,ある意味では一つに括られるべき感覚だ.
マザー・テレサは「愛の対極に存在するのは,憎しみではなく無関心」と言ったそうだが,全くその通りである. 上に挙げた例と同じく,愛も憎しみも,感情と言う同一軌道上に存在する概念で,対極に位置しない. 憎しみと言うのは,執着こそが生み出す感情で,仮にそれが歪んだものであったとしても,中途半端な好意なんかより関心の熱量は高い. 恨まれる人は,それなりに魅力があるのだろう.私を含む大抵の一般人は,そもそも興味を持たれない.
人に嫌われる人は,好かれる可能性を濃厚に宿していると言える. いくら人に嫌われない人とて,そもそも関心を持たれない人なら,その人は,本質的な意味で好かれもしないだろう. 論語の子路編に以下のくだりがある.
以下,私なりに訳してみる.
弟子の子貢は問うた.「誰からも好意的に評価される人物とは如何なものでしょうか」と.孔子は答える.「あんまりそれは良くないね」と. 子貢は続けて,「それでは誰からも憎まれる人ならどうなのでしょうか」と問うた. 孔子は「勿論それも良くないよ」と答える. その上で孔子は言った.「いい人には好かれ,そうでない人からは嫌われる人,これぐらいの人間であるに越した事はないのではないか」と.
私も孔子と基本的に同意見なので,今日も,「ある人には好かれ,ある人には煙たがられる」のを理想に,暑さ厳しい中,生きて行きたいと思います.
・8/4(火)
三次元に生きる我々が,四次元という世界を今一つリアルに想像出来ないように,物事を理解した経験が無い人には,「分かる」と言う機微そのものが理解出来ないであろう.
分かった事があるからこそ,分かっていない状態との比較も可能になり,延いては,ある事物に対する自分の無理解をも認識出来たりする. つまり人は,「分かった」と感じた経験無しには,「今の自分はイマイチ良く分かってないな」と言う認識すらも持てないという事だ.
物事を理解すると言うのは,要は一つの謎を解くと言う事に他ならないわけだが,ある謎を解くには,大前提として,何事かを「謎」だと感じねばならない. 知りたくなるからこそ謎は生まれるのだから. 感じない人に謎などあり得ないし,解かれるべき謎無しに理解など起こり得ない.
私には音楽があるからこそ,この程度にでも物事が分かるようになった. そこに音楽と言う,手に入れたい対象があって,それを欲しいと強く思うが故に,手に入れる方法を知りたくなったのだし,知ろうと思うあまりに,延いては,私の心の中が謎一色に染まる事となった. この謎を一つづつ解きほぐしていく作業こそが,今の私の生き方だ.
一つの謎が解ける度,私の目の前に広がるこの世界は,少しづつ色鮮やかに変わる. 私の本当に欲しいものは,この色鮮やかな世界に他ならない. ここで言う「世界」とは,目の前に広がるこの宇宙であり,この私自身のことでもある. 謎を解く鍵は,いつも私の心の中にしか存在しなかったから,この先もきっとそうだろう.
理解を体感した事のない人に理解する瞬間が想像出来ないように,何かを手に入れた事の無い人には,手に入れる快感も,手に入る予感も想像出来ないだろう. 自分の持ち物が,生来持ち合わせたものや,周囲に与えられたものでしかない人に,掴むべき対象(要は夢)など感じにくいのは当然かもしれない. だからそういう人は,きっと「宝くじ」を買うだろう.幸運とは,天から降り注がれるものでしかないのだろうから.
「謎を解く」と言うタスクは,言うまでも無く脳で行なわれるわけだが,物事が分かる人と言うのが,単に頭脳(ハードウェアとしての)明晰な人なわけではないのである. 分かる人と言うのは,そもそも「分かりたい人」だ.欲しいもの無しに謎など生まれる筈が無い. 私は,今のこの「分からない事だらけの自分」に,いくばくかの誇りを持ちつつ,今日も次の謎を解きにかかろうと思います.
・8/3(月)
古代人(と言うより前近代人)は,色に関する語彙(無論その他の概念においても)が貧しかったので,例えば,土の色を赤と表現したり,現代で言うところの緑などの色も,青と一括りに呼んだ. 現代人と彼らの間に,色覚そのものにおける差異などほとんど無かったろうが,語彙が少ないというのは,精神世界をも貧困にする. ある意味彼ら古代人は,現代人と比べれば随分画素の粗い世界で生きていたと言える. 「語彙を豊かにする」と言うのは,即ち精神世界を鮮やかに変える事でもある.
味覚に関する語彙などは,現代の日本語においても非常に貧困なので(私は個人的にそう思う),遥か後世の人などからは,現代を生きる我々も,随分粗雑な味覚世界で暮らしていたと思われるに違いない. 品詞(特に形容詞など)って,政策的に増やしたり出来ないのだろうか.
話は少々逸れるが,私の目に映る様々な色,例えば夕焼けの赤とか,海の青とかは,他の人の目にも同じように映っているのだろうか. 「おそらくは概ね同じ風に映っているだろう」と言う仮定の基に日々モノを考えてはいるが,実のところ分かったものではない(言うまでも無く,視力や色覚には個人差があるが,私の提起している疑問は無論そんな話ではない).
私の捉えている空の「青」は,実は隣にいるAさんや,その他大多数の人の言うところの「赤」であったりするかもしれない. 常に私が,世間で言うところ赤を青と捉えているなら,その誤りを検証する事は難しいような気がする. 私のカラープロファイルは,多くの人のものと,まるで違っているかもしれない.
また,視力・色覚などの身体条件が全く同じであったとしても,人はその心によって,映す世界を違えている. 例えば,同じ海を見ても,視界に広がる大海原の青さを,単に茫漠たる青だとしか感じられない人もいれば,無限なる空の青さを映しこんだ鏡だと感じる人もいる. 後者ならば,その鏡の奥に,もう一つの巨大な世界すら想像しうるだろう. 同じ対象を目にしても,人によって心に映す世界は異なる.
「他人の目に映った世界」を垣間見る方法というヤツが,全く存在していないのかと言うと,実はそうでもない. その方法とは,作品に触れる事だ. 作品とは,その人の中に広がっていた心象風景である. 私は基本的に,自分の為に音楽を作っているのだけど,出来上がった作品は,私の目に映った世界そのものである. 見たい人には,ちょっとだけ見せてあげたくもあるから,作品を世に出している面もあるのだ. だからして,聴きたくも無いと言う人に,無理に押し付けようともあんまり思わないわけです.
・8/2(日)
世間,特に学校は夏休みの時期ですね. 以下,無駄話に続く.
小学生時分,夏休みと言えば,早朝に起きてラジオ体操に行くのが常だったのだが,学校の規則で,その後,午前10時ぐらいまで外出が禁止されていたように記憶している.私は,割と律儀にそのルールを守っていたのだが,10時までの間に何をするかと言うと,大抵はゴロ寝して,テレビの前に張り付いているだけだった. テレビ・プログラムが夏休みシフトになっていたので,その時間は,子供向けの番組(アニメや特撮物)が再放送されていたのだ.
その子供向け番組の中でも,特に記憶に残っているのは「じゃりン子チエ」なのだが(有名な作品なので,知らない人は調べられたし),本当に夏休みの度に放送されていたような気さえする. 私はここ最近,その「じゃりン子チエ」の事に不意に思いを馳せる機会があったので,思い切って原作(漫画の方)をはじめから読んでみる事にした.
して,その感想. まだ全部は読んでないのだが(長編なのだ),これが実に面白い. ある意味下品な作品ではあるのだが,随所に作者独特のエスプリ・インテリジェンスが感じられる. 子供の頃は見落としていて,その滋味を味わえなかったのだけど,こっちも大人になったって事なのだろう.
キャラクターの中では,特に花井拳骨が好きだ(知らない人には全く分からない話で恐縮だが). 碩学・花井は,スノビズムを嫌悪し,むしろ鑑別所上がりのテツの中に何らかの真実を見出している. 花井は漢籍(特に李白)の研究者でもあるのだが,学問というものを,知れば知るほどに分からなくなるものだと感じている.作者の心中にこの機微が無ければ,花井と言うキャラクターは描き出せない.
まあ,この話を続ければ,本当に際限無くなってしまうので,この辺でやめる.本当に面白い作品なので,興味があったら読まれてはいかがだろうか. ついでながら私は,時間さえあれば,子供の頃に読んだ作品を片っ端から再読したいと思っている. 今はその十分な時間が無いので,老後の楽しみにとっておくか.
・8/1(土)
神田優花,今週のスタジオで撮った写真.
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神田優花はアルバム出すって話を散々しているのだけど,アルバムの後に,シングル的な形でいくつか散発的なリリースを考えています. 今回のアルバム(2nd)制作の課程で,とりあえず上がったトラック数と言うのがかなり多くて(本当にアルバム二枚は出せるほどに上がっている),「アルバムの選には漏れたものの,お蔵入りには惜しい作品」達に,発表の場を与えたいわけです.
毎度の事なのだけど,アルバムの選に漏れる作品というのは,必ずしも楽曲としてのクオリティ面で見劣りするとか言うわけでなく,単にアルバムのトータル・コンセプトに沿わないだけだったりするケースも多いわけです.だから出さないと勿体無い. 発表されたら是非そっちの方も聴いてみて下さい.発売日が近くなって来たら,詳細お知らせします.もうちょっと先になりますけど.
・7/31(金)
何だか気持ちの忙しい一週間だった. とりあえず写真でも上げとくか.
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・7/30(木)
10月にリリースを予定している,神田優花のアルバム関連のPVをいくつか作ったのだけど,それについて.
私の立場でこんな事を言うのも何だが,そのPV,結構な出来映えなのだ.それもこれも,今回起用したディレクターの感性に負う部分が大きい. 私は物事をありのままに見る人なので,目にした事物の評価に,それを作った人の背景などを加味しない(分けて考えている,と言った方が正確か).どんな肩書を持つ人が手がけたものだろうが,良くないものは良くない. だから今回は,本当に作品が良いのだと思っている(一応断っておくが,別に今回のディレクターの経歴がよろしくないわけではない).
今回,PVを作るに当たっての人選(制作技術者の)で,唯一念頭に置いたのは,その人の感性だ. ネームバリュー・経歴・使用機材など,一切考慮しなかった. そもそも,我々自身が映像などに関しては素人で,一々細かい部分に口出し出来ないのだから,ほとんどの工程において任せきりにならざるを得ない. 相手を信用する他ないのである.頼るべきは人間としての感受性だけだった. まあ私と言う人は,いつ何時においても,人間の心ぐらいしか見てないのだけど.
最初にその人(今回起用したディレクター)の作品を見た時に,私は直感的に良いと感じたのだが,人間にとって,そのファースト・インプレッションこそが本来一番正しいのだと思う. 肩書・経歴などの持つ権威とは,時として,モノの良し悪しなど瞬間的に判断出来る筈の「人間の心」を曇らせてしまう雑音ですらあるのだろう. 私はそんなものに惑わされない. で,やっぱりその判断,結局のところ正しかったと思えるわけだが.
そのPV(3作品ある),アルバム発売に当たって,いくつか公開の手段は考えてます.なるべくみんなに見てもらいたいので. 公開についても,細かくお知らせしていくつもりなので,お楽しみに.
・7/29(水)
「目は口ほどに物を言い」とか言うのだけど,実際そうですね. 目は人間のその他の部位に比べても,格段にその人の思考が投影されている気がする.目はやはりその人だ.
人間の一挙手一投足と言うのは,要は人間の思考そのものなわけで,歌とか聴いていると,その人の頭の中身まで見えてくる. しかしまあ他人を評価する際に一々歌ってもらうわけにも行かず,先入主と言うのは,大抵顔(とりわけ目)から引き出される事になりがちだ.
よく「人間を見た目で判断してはいけない」なんて言うが,(言っている人がどういう意味で言っているのか分からないにせよ)これはハッキリ言って嘘だ. 人間性は外見でそれなりに判断出来る.表情は無論の事,服装や髪型からでも,その人の思想性というか世界観は垣間見えるものだ. 更に言えば,生まれ持った肌の色だってその人の思想・人格形成に影響を及ぼさない筈がない.
人間はある程度外見で判断出来る.もっとも,そこで導き出した諸々の人格像に,どのような順列をつけるか,なんて事になると話は変わってくるが. 人間の外見から,人格を全く読み取れない筈はない.
・7/28(火)
私が中高生ぐらいの頃,トレンディー・ドラマとか呼ばれていたTV番組が人気で,その世界観に軽い憧憬を覚えたことがある.いつも卸したてのような純白のシャツを着て,真っ白な壁の,床に塵一つ落ちていない,まるで映画のセットのような(実際セットなのだろうけど)生活臭のまるで無いマンションに住みたかった. でも,歳を取るにつれ気付いたのは,私は私でしかないし,今のこのみすぼらしい部屋が私の居場所だということ.
もしこの私が不意に,子供時分に憧れたドラマの世界のような高嶺の花を得てしまっても,きっと維持出来なかろう.何故ならそれは,我が身に不相応な物件だから. もし無理に,我が身の値を吊り上げ,そこに帳尻を合わせようとすれば,いずれ私は醜態を晒すに違いない. 不当な自己採点は,えてして破綻に繋がるものだ.
やはり人は,自身に不釣合いな高嶺の花を,不意に手に入れようとするよりもまず,それを手に入れるに相応しい自分にならなければならないのだろう. また自分を,それこそ高嶺の花だと一方的に思い込むだけでなく,本当の意味で高嶺の花と呼ばれるに相応しい自分にならなければ,真の意味での心の安定を得られないのではないだろうか. あと,そもそもその高嶺の花が本当に欲しいのかどうか,自分に聞いてみるのも大事ですね.
・7/26(日)
ここ最近,2件ほどトラブル(と言う程でもないが)に見舞われたので,それについてのメモ.
うち一件は,仕事上のいわばクレーム対応だった. まあクレームと言えば大袈裟で,一種の要望・問い合せだったのだが,先方と直接会って話す機会があって,うちの会社における諸々の事情を説明していると,見る見るうちに相手の表情に安堵の色が見られるようになった. きっとそれまで,その人にとってうちの会社とは,得体の知れない事業者に他ならなかったのだろう. 私と膝を突き合わせて話すうちに,印象が変わったと見えた.
もう一件は,ある相手に,今度は逆にクレームを申し上げた. ここでそのクレームの内容を細かく説明はしないが,ごくまっとうな(と私は思っている)苦情であった. やり取りは電話だったのだが,最初相手が明らかに喧嘩腰だったので,私も穏やかでなくなった. しかし,しばらく話を聞いているうちに,今度は私の方が,相手のおかれた状況にやや同情的になってしまった. まあこの件に関しては,明らかに相手に落度があったのだが,事情を説明される事によって,多少情状を酌量したくなってしまった.
要するに,人間関係からわだかまりを軽減するには,事情,もっと言えば思考のプロセスを開示する(無論,それと同時に相手の思考を推察する)のが最も効果的だと思われた. 無理解と言うのは,いとも容易く軋轢に変わる. 思考を理解・共有し合うと言うのは,お互いに,相手が人間である事を確認し合う作業だと言って良い. それが出来るだけでも,浮世の軋みは軽くなる.
・7/25(土)
神田優花,今週のスタジオにて. 神田優花のアルバム関連の作業で,ここ最近割と忙しかったのだけど,やっとジャケット類(印刷物)とPV関係の作業が一段落つきそうです. 因みにアルバムは,10月7日発売予定です.
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日本人の大多数は,欧米社会で言うところの「snob」に当たる. snobは英和辞典を引くと,「俗物」などと訳されているが,実のところsnobは日本語化し難い. 日本では,空気のように当たり前のものとなっているから.
漢字検定の受験に俄かに人が殺到したり,テレビが教養クイズ番組一色になったり,音楽業界においては,声楽科出身の歌手であるとか,古楽器を使ったワールド・ミュージックとか,音楽の教科書に載っているような唱歌や,あるいはクラシック曲(の主旋律)に歌詞を付けて歌ったような作品が賛美される,と言った現象の大部分は,このsnobたちが引き起こしている. 一応断っておくが,ここで挙げた例を,別に悪いものだと言っているわけではない.それに飛びつく人らの精神について述べているだけだ.
教養に憧憬があるのなら,本当に教養人になれば良く,特に教養などに何の関心も無いのであれば,無教養のままでいれば良い.別に無教養は悪ではないのだから. そもそも知識・教養というのは,人間の「好奇心」に,後から付いてくるだけのものだ.
snobらは常に,教養人になるのではなく,教養人のバッヂを付けて教養人に見られようとする. 例えば,漢字・熟語・成句・修辞,こういったものは,別にそれそのものを闇雲に暗記せずとも,読書さえ習慣化していれば,必要程度は自然に身に付くもので,その情報量と言うのも,その人における必要性に比例しただけのものだ. 自分の生活に見合った最小限のものさえ知っていれば,それ以上は必要無いとすら言える. 我が日常に登場することさえ無いような画数の多い漢字など,膨大な量記憶したところでどうなると言うのか.
世間で広く権威とされている,ある事物を提示された際,その良さが理解出来ないのであれば,素直に「分からない」と表明すれば良いのに,snobにはそれが出来ない. 分からないなどと言おうものなら,自らの無教養を露呈してしまうと思っている. 今の日本の社会にsnobが大量発生してしまう原因を,強いて一つ挙げるなら,それは学校教育だろう.
snobらは,歌詞付きクラシック曲を絶賛する. 音楽には娯楽だけでなく,文化・教養という側面もあるから,その権威に圧倒される者が存在するだけで,作品の内容など理解されずともCDは売れたりする. だが逆に,その実体定かならぬ権威というものが雲散霧消すれば,snobらはCDに価値など感じてはくれない.最初から音楽など聴いてはいなかったのだから.
ここまで読んでみて,イマイチ論旨が理解出来なかった人は,あなた自身がsnobである可能性もある.筋金入りのsnobなら,誠実に読み進めることさえ出来まいが.
何となく思ったのだが,欧米人が今の日本の社会を目の当たりにしても,日本人のほとんどがsnobであるという事に気付きにくいかもしれない. そもそも言語や宗教を共有していない異民族である上に,ここまで整然と体系的に,一億総snob状態であったりすると,彼ら欧米人の大半は,その理解に,別の解釈をもって臨んでしまうかもしれない.
・7/24(金)
今週のスタジオにて.
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タクシーの運転手は,客を一目見ただけで,その人の目的地が近いか遠いか分かったりするそうだが,まあそういう事は如何にもありそうだ. タクシーの運転手に限らず,どんな仕事においても,長くその作業をやっていれば見えてくる何か,と言うものがある.
見えてくる何か,の量には個人差がある. いくら長くその作業に従事していたとしても,考えるところが少なければ,残せる教訓も当然少ない. だからこそ私は,好きなことを続けたい.自分に残せるものが一番多いであろう作業を. 詰まるところそれは音楽である,と言うのが,私の今のところの結論なのだけど.
・7/23(木)
とある,日本では既に大御所とされている有名ミュージシャンが,アメリカの某フェス(複数のミュージシャンらが出演する音楽イベント)に参加した時の話である. そのミュージシャンは,どうやら昔から海外,特にアメリカの音楽シーンに強い憧憬を持っているらしく,実際過去には,アメリカ進出を試み,現地のレコード会社と契約したりした事もある. 結果的に彼のアメリカ進出は,セールス面において成功とは言えなかったようで,現在は活動の拠点を再び日本に移している.
彼の「フェス出場」は,それなりにニュース・バリューがあったらしく,それをドキュメント・タッチでまとめた特番みたいなものまで組まれていた.私は(おそらく再放送だろうと思うが),部分的にではあるが一応それを見る機会があった.
フェスが終わった後,番組側がオーディエンスらにステージの感想を求めていたのだが,それに対し,ある中年婦人が「彼は偉大なパフォーマンスを見せた.十分に役割を果たせたのではないかしら」みたいな事を言っていた. 実に堂々たる態度で.
多くの日本人に,上の態度は為し難い.何故なら,殆どの人が人間関係を上下で捉えているから. 人間関係を上下でしか捉えられなくなると,誰かと対峙した際,目の前の人間(この場合某ミュージシャン)を,崇拝するかの如くへりくだるか,さもなくば小馬鹿にする(見下す)か,といった振る舞いしか選択出来なくなる. おそらく多くの日本人は,「個の確立」の意味が分かっていない. ミュージシャンも政治家も,大工も八百屋も,印刷屋の営業マンも専業主婦も,違うのは肩書や生業だけであって,人間としての階級ではないのである.
言っておくが,上の中年婦人は,その日本人ミュージシャンの事を「舐めている」のではない.自分と彼とを上下で捉えていないだけだ. 平等や人権と言うのは,学校の先生が口にしようが,憲法で定めようが,その社会の構成員がそれを実感できないのであれば,存在しないも同然である. だから今の日本には,無いと言って差し支えないのではないか.
・7/22(水)
私は自分の感覚(嗜好)を,標準的だと思っている. だからして,私が好きなもの,美しいと感じるものは,大多数の平均的日本人の好むものでもあると信じて疑わない. この前提が崩れると,私が日々頭の中で構築している,論理の土台部分も危うくなる.
私はある時,「自分は美しいものを美しいと思い,面白いものを面白いと思おう」と心に決めた. 「そんなの当然ではないか」と言う人もいるだろうが,これは決して,誰の脳内でも当たり前に行なわれている情報処理ではない.
有能であるが故に妬まれる人や,突出した面が無いが故に,周囲の感情を逆撫でず,あれよあれよと言う間に出世してしまう人はいるだろう. また,他人を評価する際,その人の置かれているポストと事績とを分けて考えられない人は多い筈だ. 今の日本には,まるで良さが分からないものなのに,それを評価せねば知能や教養に欠けているとでも思われかねない,という怯えによって,絶賛させられている手合いの何と多いことだろうか. それらは偏に,世の中に「良い・悪い」と「認めたい・認めたくない」・「認めねばならない・認めてはならない」の感情的区別が付いてない人が多いからだ.
我々は,ある対象を,優秀だと評価せねば自分の感性を疑われかねないからとて,意味も分からず誉めそやしてはいないだろうか. 優秀な人の優秀さを認めたくないあまりに,優秀でない者を殊更に持ち上げてはいないだろうか. テレビに映る芸能人の美醜を判定する際,人は自分の顔を引き合いにしていないだろうか. 自分と同じような欠陥を抱えているからこそ,贔屓にしたり,自分と構造的に似た部分のある顔だからこそ,美人だと評したり.
「裸の王様」という秀逸な童話がある.ご存知だろう. 日本の童話でないのは残念だが,日本人の脳はあの手の文学を生むのが苦手である. 物語中,王様が裸である事を見抜くのは,群集の中の名も無き子供なのだが,私の日常においても,目の前に現れた事物の本質を見抜こうとするのはいつも,私の中にいる子供の頃の私である.
私は,我が心の美しいと感じるものこそを美しいと評し,我が心の醜いと思うものこそを醜いと思いたい(無論,分からないものは分からないと素直に思いたい).そしてそれらの評価は常に,この私自身や評価対象の身分などとは一切関係の無いものだ. 私が心掛けるべきは,平衡・坦懐である事ぐらいである. 私は私の感覚を,標準的だと信じる.
・7/21(火)
小学生の頃(多分5年生ぐらいの頃だったろうか),私の周りではラジコン・カーが流行っていた. ラジコン・カーそのものは,もっと小さい頃からよく目にしていた定番のオモチャだったのだが,当時俄かに流行り出したのは,我々がそれ以前に目にした紐(コード)付きのラジコンみたいなものと比べると,格段に本格的なものだった.
どこがそんなに本格的かと言うと,まず出せるスピードが断然速かった.電池などでは動かせない,バッテリー内蔵型のもので,ホンの数十分動かすにも長時間の充電が必要だった. それまでの幼児向きの紐付きラジコンは,大抵は出来合いのもので,買ったその日に,開封した直後から遊べたのだが,当時我々の間で流行ったという,その本格的なタイプは,まず模型屋で買ったボディ部分を組み立てなければならなかった.別売りの部品などもたくさんあって,とにかくカスタマイズの自由度が高かった.特にモーターなど,本物の自動車の部品を作っているチューニング・パーツ・メーカー製のものなども売られていて,何を選ぶかによって,マシンの性能も大きく変わった.
子供心に,その「本格的さ」は響いた. 私も例に漏れず,それが欲しくなったのだが,いかんせん本格的なだけに,値が張る.当時の私には高価過ぎた. 結局私は新品など買えず,友人の使いさしを安価にて譲ってもらう事にしたのだが,そんなお古でも,私には結構な買い物だった. お年玉をはたいて手に入れた,宝物と言ってよかった.
手に入れた当初,私は嬉しくて,毎日のようにそのラジコンを近所で走らせていたのだが,ひと月もしないうちに飽きてしまい,やがてそのラジコンは部屋の隅で埃を被った. その後,そのラジコンをどう処分したのか記憶にも無いが,中学生時分にはもう所有していなかったので,誰かに売るなりあげるなり,あるいは捨てるなりしたのだと思う.
私はラジコンに飽きたと言うが,厳密には飽きてすらいない. 初めから好きでなかったのだ. 私と言う少年は,その当時属していた集団内で,盲目的に崇拝されているブランドの力に抗えなかっただけで,要は自分自身でモノを考える能力が足りなかっただけだ. 私は,ラジコン・カーが好きだったことなど一度も無い.
本当は欲しくも無かったような代物に,大枚(当時としては)をはたいた事など,まるっきり無駄な経験だったのかと言うと,そうではない. 手に入れてみたからこそ,必要でない事も分かったのだ. 手に入れられず,本当は欲しくも無いものなのに,実態以上に得がたいものに見え続けてしまえば,私の中の「モノの見え方」は多少なりとも狂ったろう. ラジコン程度のものなら,その気になれば,大人になった後で飽くほどに買い漁ることだって出来るのだが,子供の頃に手に入らなかったものが,なまじ異性や家庭環境と言った「周囲からの愛」だったりすると事態は厄介だ. 簡単には買い足せないから.
・7/20(月)
Michael JacksonとTupac Amaru Shakur(2PAC)について. 二人とも故人となってしまったが,どちらもアメリカ音楽業界を代表する,まず間違いなく歴史に残る偉大なアーティストである. 両者の共通点は,アフロ・アメリカン,要するに黒人である事だ.しかしながら,両者には決定的な違いがある.
Michael Jacksonは,幼い頃から芸能の世界に身を置き,順調にスターダムを駆け上っていったのだが,成功者となるに従い,容姿が異様な形で変化した. 髪はストレートに,目は大きく,鼻は高くなり,どうすればあのようになるのか見当もつかないが,仕舞いには肌まで白くなっていた. 彼の中にあった成功のイメージは,単に富や名声だけでなく,黒人という仮想の「階級」から抜け出す事でもあったのかもしれない. 「It don't matter if you're Black or White」なんて歌っていたが,黒か白かを一番気にしていたのは,他ならぬ彼だったろう.
一方2PACは,従来型の黒人成功者を,手放しで認めていなかった. 黒人にとっての成功が,即ち「黒人社会(階級)からの脱出」になってしまっている事が不満だったと見える. 彼は,黒人コミュニティ発祥の音楽であるHIPHOPをその表現手段として選んだ.HIPHOP特有のファッションに身を包み,歌詞では自分ら黒人をnigga(ニガ)と呼び(niggaのニュアンスは容易に日本語化し難い.興味を持たれた方は調べられたし),様々なスラングやキャッチフレーズを創出・駆使し,黒人こそが優位であると言わんばかりの態度を取った.
2PACは,アメリカ社会から黒人差別を無くそうと思えばこそ,「黒人差別を無くそう」などと声高に叫んだところで,意味の無い事を知っていた.確かにそんな手法では,一万年経っても差別は無くなるまい. 彼は,「むしろ黒人こそが優れている」事を証明する事によって,事態を打開するつもりだったと思われる(事実インタビューでそのような事を述べていた). 確かに,HIPHOPという音楽ジャンルにおいては,一般に黒人こそが脚光を浴びている.ステージに立つのは黒人で,オーディエンスは白人である(無論オーディエンスの方には黒人もいる),という図式がほぼ固まりつつあった.
Michael Jacksonも2PACも,偉大なエンターテイナーに違いないが,私がもし,ゲットーに生まれた黒人少年だったとしたら,心に宿すヒーローは2PACの方だったろう.
・7/19(日)
ここを読んでいる人は,音楽好きである確率が高い筈なので,そうであると言う前提で話を進めさせてもらう.
人間関係や現在生活している場所・仕事・日々の懸案事項などと言った,要するに私を取り巻く環境の全ては,私が音楽を好きである事に由来している. 子供の頃の私が,音楽に対して何かを感じたからこそ,今の私があるのは言うまでもない.
ステージに立つ人,日々音楽作品を作り続けている人たちは,あらためて考えてみて欲しい. ある日のあなたが,音楽に何かを感じたからこそ,今のあなたがあることを. あなたの周りを固める人間関係は,音楽がくれたものだし,あなたが立ったステージは,音楽が導いてくれた場所である. 空が美しかったり,朝食がおいしかったり,要するにあなたの日々が輝いているのも,あなたの中に音楽があるからだ.
私に誇れるものがあるとしたら,それは,子供の頃に音楽に対して,特別な何かを感じた事ぐらいだ. 子供の頃の私が,音楽に何も感じなければ,私は今ここにいない.
少年だった私は「音楽」と言う,その一点を突き崩して行けば,新しい何かが見えてくるような気がしたし,今でもその予感を感じている. 音楽のお陰で,分からなかった事が,一つづつ分かるようになって来たし,今分からないでいる事も,いずれ分かってくるような気がしている. 「分かるようになる事」というのは,別に音楽の周辺に限った事柄だけではない.人間そのものや,この世界と言った,いわば森羅万象の事である.
音楽は,あなたが音楽を愛し続ける限り,あなたの心の中に,どんな時でもあり続けるだろうと思う.心配はいらない.
・7/18(土)
神田優花,今週のスタジオにて. 先々月末ぐらいから撮ってた,PVの上がりなんかをチェックしたりしてました.本人もお気に入りの仕上がりだそうです. 公開等についての詳細は追々お知らせしていきますので,しばしお待ちを.
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人は誰かと喋る時,実は言葉などさほど聞いてはいない. では何を捉えているのかと言うと,それは心である. だからして,どんな慇懃な物言いであろうと,心に害意が潜んでいる場合,相手はそれを察知する. 逆に,言葉使いなど少々間違えようが,精神の基底に愛が備わっている場合,相手はその愛の部分を感じ取る. 実のところ,人はいつも相手の心を感じている.
喧嘩する者同士の罵り合いを想像して欲しいのだが,彼らはお互いが発する悪口雑言を,厳密な論理で解釈し合っているだろうか.そんな筈は無い. 口喧嘩とは,論理でない威圧・威嚇の応酬でしかなく,与えているのは動物的な恐怖感でしかない筈だ.
心に愛が備わっていない人は,当然それが相手にも伝わる. だから愛無き人は,周囲に対し,萎縮しつつ振る舞わざるを得なくなる. 自身の感情を露にする事なども,当然難しくなる. 露にすればするほど,自身の愛の無さを露呈してしまう事になり,それ相応の評価を下される事になるから.
正直でない人というのは,自分の心に自信が持てない人なのだ. ありのまま曝け出せる程の心を持ち合わせていないから,正直にも振る舞えない(心醜く,尚且つあけすけな人,と言うのもいないではないが). 慇懃無礼という言葉があるが,過剰な作り笑顔などが,実は自身の心の醜さから生まれているような人は多い. そういう人が,そうでなくなる為の方法など,私には分からないが,結局のところ,人は相手の心しか感じていないのだから,優しい人だと思われたければ優しい人に,カッコイイ人だと思われたければカッコイイ人になるしかないのではなかろうか.
・7/17(金)
今週のリハーサル風景.
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先日,駅で募金活動をしている人に声を掛けられた. 何やら言う地震の被災者の救済を目的としていると言う.
私は基本的にあの手の募金活動に協力しない. その理由は,裕福でないから,ではない(実際に裕福ではないが).私とその募金活動をしている人,あるいは救済の対象となっている人々に,関係が存在しないからだ.
私は,我が愛の発動対象を,当然のことながら人間関係の濃淡によって振り分けている. 天災などという事情は理解するし,被害にあった人らを気の毒にも思うが,それらの被災者より先に救わねばならない人が,私の周りにはいる. だから募金など出来ない.
こんな私だからして,自費でわざわざ,遥か遠い海の向こうの政情不安定な国まで出向いて,ボランティア活動などをやっているような人らの気持ちは全く理解出来ない. ああいう人たちの側には,海外などに行く前に,先ず手を差し伸べてやらねばならぬ相手が,誰一人として存在しなかったのだろうか.不思議だ.
我が身に寄せられた募金活動への協力要請を断る際,何らかの疚しさを感じてしまう人がいるなら,その人はその疚しさの正体を真剣に考えてみた方が良いと思う.老婆心ながら.
・7/16(木)
人に優しい人と,人を傷付けるのが怖い人は,全く別の人格として区別されるべきものだが,浮世はこの単純なことを明確に理解していない.
芥川龍之介が「私は良心を持っていない.私の持っているのは神経ばかりである」と言っていたそうだが,要するに,二つをはっきり区別している. 「鼻」辺りの作品は,そういった機微を文章化しているし,彼の口から,上のような発言が生まれてしまう事も頷ける.まあ,この手の事に思いを馳せる事が多かったのだろう.
人間が臆病であるうちは,保身への執心で頭の中が一杯で,他者への配慮など生まれようがない筈で,「汝の隣人を愛せ」などと言われても,愛する為には,他者を認める大らかさ(自己に対する自信と言っても良い)が最低条件として備わっていないといけない.
「差別」なんてものが生まれてしまう背景には,やはり「自己に対する自信の無さ」が存在している. コイツの出自はどうだとか,肌の色がどうだとかいう下らない事に,飛び上がらんばかりに狂喜してしまう人などというのは,余程に自信が持てないのだろう.私もそうだったから気持ちは良く分かる.
「他者を傷付けるのが怖い人」と優しい人は違う.前者はどちらかと言えば,「他者を傷つけることに狂喜している人」と似通ったステージにいるのだと思われる. 実際に他者を傷付ける行為に及ぶか否かは,周囲の人間関係とか,そういった微妙な力学に依存する. 何だか上手く文章がまとまってないが,今日はこの辺で終わる.
・7/15(水)
先日,コンビニで買い物をして店を出ると,店の前に若者(といっても20代半ばより上に見えたが)がたむろしていて,偶然彼らの会話が耳に入ってきた. 以下その会話を聞き取れた範囲で文章化してみる.
こんな感じだった.決して彼らは無理問答をしているわけではなく,常にこういった断片的なセンテンス,あるいは殆ど単語のみのキャッチボールで会話をしているのだと思われる.どれほどに意志の疎通が為されているか,私にもよく分からなかったが.
確かに会話を文章化すると,アクセントや間といった微妙なニュアンスが損なわれるので,余計に分かりにくくなっている部分もあろう.また,当人ら同士には当然のように成立しているコンセンサスもあるかと思われるので,通りすがりの私などが会話の意味を十全に理解できないのも已む無しと思えなくも無い. しかし,それらを全て差っ引いたとしても上の会話はお粗末極まりない.
このような言語環境,いわば精神世界にいる者でも,身体が健康でありさえすれば70〜80年は生きられる.しかし,それでは彼らの人生は,暗闇に閉じ込められているようなものである. 精神世界を豊かにする為には,日本語力をつけるしかない.
社会全体に国語力の低下が蔓延しているという.これは本当に由々しき問題で,そんなことではどんな言葉も芸術も伝わらないのだ. 作品というものの価値は,受け手の感性に負う部分が実に大きい.感性ってのは,つまりは言語能力に他ならない.
今回の結論. 一体,会話というのはアバウトなもので,文法が適当でも,ある程度口吻などと言った雰囲気だけで通じてしまう.要するに聴覚というのが,アナログ回路だからだ. だからして,会話の際は常に,口語でなく文語を使うよう心掛けてみてはどうだろう. 文章というのは,視覚によって疎通が為される,いわばデジタルなものだから,曖昧さが許容されにくい.
・7/14(火)
ある人が,テレビの歌番組に出演しているアイドル歌手などを見て,「羨ましいな.自分もあれになりたい」と思ったとして,それは夢だろうか. 大抵のケースにおいてそれは夢とは呼べませんね. 何故なら,そこで描いてみた未来像に「等身大の自分」がいないから. 単なる一視聴者でしかないその人が,テレビ番組に出場する権利だけを得たとして,同じ番組に出演する,その他のプロ歌手並のパフォーマンスを披露する事など,到底出来る筈が無い.
テレビ画面に映し出された「アイドル像」を,自分の本来あるべき姿だと偽り無く思えるなら,その人は万難を排してでも,その立場を掴みに行く筈だ. もしそれが,子供が仮面ライダーになりたいと思ったり,大の大人が,この世界の支配者になってみたいと思うような,いわば空想と同種の想念であるならば,その人はきっと,今いる場所から動けない. 仮にもし,何歩か踏み出せたとしても,直ぐに自分という存在の心許なさに気付き,現実的な落ち着きどころを探さざるを得なくなるだろう. 人は最終的に,今の自分の「手の届く範囲にある何か」ぐらいにしか,リアルな欲求が発動されなくなる. それらはしばしば,酒席やクルマ,あるいは単に異性や金そのものでしかなかったりする.
確かに世の中には,路上で小銭を拾ったり,雨に降られたりと言った程度の運・不運が存在しているから,ある立場に相応しき能力を持ちながら,現時点で相応の立場を得られていない人や,逆に,能力に不相応な立場だけを得てしまっている人もいるだろう. しかし後者の場合,等身大の我が身に相応しくないその立場こそが,様々な圧力となって自身に伸し掛かって来てしまい,結局のところ,不当に得たその身分をも安住の地と出来ず,そこからドロップアウトせざるを得なくなる筈だ. 自分を信用していない人が,仮にアイドルの立場だけ与えられたとしても,その人自身が,そこにいる自分というアイドルを認められないだろう. 力量不相応の立場を得ている者に,バッシングが集中しがちな理由もそこにある.
夢を見るには,自分という担保が必要になる. 一般に,なれそうにないものを真剣に目指すのは,人間にとって苦痛に他ならない. 人は結局,なれそうな何かに落ち着かざるを得ないのだ.自分が,我が身を持ってして描けた,偽らざるイマジネーションの限界が,今の自分である事は間違いない.
今より,ホンの少しだけでも鮮やかな未来像を描きたければ,どうすればいいのか. 自分と言う担保を積み上げるほかない. 自分の想像の限界とは,自分自身に対する信用の限界でもあるのだから.
実のところ,イマジネーションというのは,モノでは無いのだから,心次第で結像可能なものだ. テレビで見かけた何某になりすます,などという事ではなく,自分が心の安寧を得られる時間を想像すべきなのだ. 一旦目指すと公言した何かを諦める人とは,大抵の場合,その何かになれそうにないと思うだけでなく,その作業を続けて行く毎日を楽しめる自信が持てなくなるのだ. それは,その現場において,一秒先の自分に対する希望すら見出せないからである. やはり人が財産とすべきは想像力なのだし,探し求めるべきは,勲章や名誉などという装飾品でなく,今より少しでもマシな自分なのだ.
・7/13(月)
私が人を殺さない理由.
物騒な話だが,私が人を殺めないのは,自分にそれを許していないからで,法の定めるところに従わねばならないからではない. だからして,最悪,極限の状況に晒されてしまえば,他人を殺める可能性というのも,完全に排除は出来ない.
そんな私であるからして,ある日突然に,「人を殺めねばならない」というような法案が国会を通って,日本国民は義務として隣人を殺さねばならなくなったとしても,私はその法律に従わない. 自分自身がそれを許さないから. 逮捕されようが刑務所にブチ込まれようが,これは変わらない.
私は常に自分でありたいし,自分の好きな自分でいたい. だから物事の善悪も自分で決めるしかないし,自分の進退は自分で選ぶしかないと思っている.
一体,私は何を目指すべきなのか. 一応は音楽家の端くれなので,例えば,大芸術家とか,売れっ子作曲家とか,人気音楽プロデューサーとか,一流ミュージシャンとか,通りの良い称号は色々ある.あるいは単に有名人とか,金持ちとか,権力者とか,世の中にはそういう呼称も,いくらでも存在している. だが,以上の全ては,何らかの既存の人物像から引き出しただけの借り物のイメージだ. ○○大卒・○○士・○○賞受賞者・○○大臣などと言う称号も,要は人の外側に張り付いた装飾品に過ぎず,その人そのものではない. 誰かが作った称号を与えられた,「先行の誰か」のイメージに過ぎない.
今の私は,上に挙げた何者にも憧れておらず,結局のところ,私は私のままでいようとしか思わない.目の前に横たわる諸々の問題を横目に,一跨ぎにどこかで目にした先行型の人物像になりすましたりは出来ないから. 私は,今より少しでも誇りを持てる自分になり続けたい. だからして,訪れる一日を,自分の持てる全てでもって解決していくしかない.
私が探し続けている,誇りある自分像に比べれば,大芸術家の称号など,何と上辺だけの陳腐な代物かと思えてしまう. そんな勲章を手にする為に,一度しかない人生を棒に振ったり出来ない. 私は私の思い描く自分になる.
私は,自分自身を感動させるために音楽を作っている. いくら周囲に絶賛された作品でも,その音源が好セールスを達成したとしても,私が納得していないのであれば,即ちそれは駄作である. いくら周りに持て囃されたとしても,私自身が納得できていない自分なら,それは取るに足らない人物に他ならない.
・7/12(日)
ベトナムという国の歴史を総覧してみると,ある時期は中国の直轄領,ある時は朝貢国であり,またフランスの植民地であった事もあれば,事実上日本の植民地のようになっていた時期もある.歴史を通じて,近隣諸地域(今で言うタイ・カンボジア・ラオスあたり)との紛争が絶えず,近代ではベトナム戦争という,大国の代理戦争の舞台となり,国土を蹂躙された. とにもかくにもベトナム史を概括すると,被侵略の歴史といって良い.
以上は,地政学的に見た,ベトナムという地域・民族に対する偏りなき説明である(と思う). しかし,ホー・チ・ミン(ベトナム民主共和国初代大統領)が起草したというベトナム独立宣言の文章を読んでいると,ベトナム史は,有史以来数々の大国からの干渉を跳ね返し,常に最終的には勝利を得続けた,栄光の歴史であると言う. なるほど確かにそう言われてみれば,そうと言えなくも無く,何となくそんな気もしてくる.やはりモノは言いようである. ベトナムの強さの秘訣は,結局のところこの「明るさ」と言える.残念ながら,今の日本に一番欠けている精神でもある.
飢える者に一枚のパンを与えたところで,次の日にはまた,同じ空腹が襲ってくるに違いないのだから,本当の意味で貧しき者を救うには,この世界に「あなたにパンを与えたいと思った誰かの心」が確かに存在しているという事を感じてもらうしかない. いくら預金があっても「あと○○万円しか残っていない」などと絶望する人もいるのだから,詰まるところ,人間が満たすべきは心でしかない.
今の日本において,多くの人が,将来病に臥せった時の不安の対象と捉えているものは,実は病魔そのものでなく,病に侵された際に誰も手を差し伸べてくれなかったり,病人など社会から爪弾きにされはせぬか,などという懸念であったりするのではないか. あるいは自分が倒れたら,残された家族はこの社会で,路頭に迷うしかないのではないか,とか.
上記の懸念は,確かな愛の存在を感じる事さえ出来れば消えてしまう,霧のような気分なのだろうと思う. しかしその霧は,愛を感じられなければ,当然晴れることもない.
・7/11(土)
神田優花,今週のスタジオにて. 二枚目は差し入れのお菓子.
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神田優花,7/8のライブレポート上げてみました. 神田優花は,10月に2ndアルバムも発売する予定なので,そちらもよろしく.
影山リサ. こちらも7/8のライブレポート上げてます. 当日はこんな感じでした. 下は今週のスタジオ・リハの様子.
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・7/10(金)
今週のだらけたリハーサル風景.
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私には好きな歌手がいる.何人もいる. だが私は,歌手の,歌の上手さ(歌唱技術)を愛した事など一度たりとも無い(と言うか,愛したり出来ない). 私が愛するのは,「歌を歌いたい」と思ったその人の心の明るさや,「歌を歌い続けて生きて行きたい」と思った時に,その人の心の中に広がっていた世界の美しさだ.
我々は一応,小規模ながら事務所業のようなことをやっているのだけど,「歌の上手い人が欲しい」なんて思っていない. 我々はオーディションを行なうけれど,歌唱技術検定を行なっているわけではない. 歌唱技術にお墨付きが欲しい人は,カラオケ大会とか,そういうものに出場した方が良いと思う.
歌を心に持ち続ける事で,自分に進むべき方向の存在を感じさせ,歌い続けることで,刻々とそのありもしない目的地に近づき続けられる人,つまり,歌があるからこそ,この世界が輝いて見えている人,それが私たちの愛する歌手です.
・7/9(木)
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昨日のライブは平日の,しかも天気の悪い中,わざわざ渋谷までお越しいただきありがとうございました. J-POPCafeのスタッフの皆さんもお疲れ様でした. 以上,一部写真を上げてますが,何しろ昨日は撮った枚数も多くて,まだ全部整理してません. 残りは明日以降にでも上げようと思ってます.
・7/8(水)
本日,渋谷J-POPCafeにて,ここ暫く告知していたイベントを行ないます. これから私も現場に向かうので,これ読んでる皆さんも,是非会場の方へ遊びに来て下さい.
ところで,猿は遺伝子レベルで見ると,人類とさほど変わらないのだが,「言語を獲得していない」という,決定的な違いがある. 母猿が死んでしまった子猿をいつまでも抱いている姿が,人間の哀れみの情を掻き立てたりするそうだが,それは人間側の手前勝手な曲解に基づいている. 猿は単に「死」の概念を理解出来ないだけで,人間が一方的に投影している「悲しみ」など,無論感じてはいない.
一方,ネアンデルタール人は,死者に花を捧げたらしい. 死体の埋葬地と思しき遺跡から,数種の花粉が出てくるそうだ. ネアンデルタール人は,もう人間だったのだろう.
忠犬ハチ公の物語なども,上の猿の話と似たようなものだ.ハチ公物語は,未だに日本人の涙腺を刺激しているみたいだが,言うまでも無く,「主人の死を理解出来ていない犬」に過ぎない. シンパシーを寄せようにも,悲しみの感情自体がどこにも存在していない.
見も蓋も無い評価ばかりで,夢の無い人のように思われるかもしれないが,そうではない. ありもしない悲しみの感情を,無理矢理に忖度して感動に浸るのはお手軽ではあるのだろうが,それは自己欺瞞に他ならない.自己欺瞞とは,即ちその人の限界である. そんなところで自分を騙してしまっては,本当の感動など得られる筈が無い. 私は感動したくないのではなく,本当の感動を求めているのである.だから騙されたくない. 私は,今以上に色鮮やかな景色が見たいし,知りたいのは常に本当の事だから.
・7/7(火)
まず明日のイベントについて. Info等でお知らせしている,明日のイベントですが,席の予約,事前の指定が出来ませんので,先着順で席を選んでもらう形になるかと思います.18:00開場ですので,良い席はお早めに.
唐突に話は変わるが,人間はその発想を,論理という箍に制御されている. 子供の描く絵が面白いなどというのは,大抵の場合,この箍の拘束が緩いからに過ぎず,言い換えれば未熟さに他ならない. 自称アーティストたちが,創造に行き詰まり,やたらと薬物に手を出したりするのだが,あれは要するに,何かを得ようとしているのでなく,ここで言う論理の箍を外そうとしているだけである. 大抵,子供が持っているものは,実は大人も持っているのだ.幾重もの包装がそれを探しにくくしているだけで.
論理と言うのは,いわば配電盤(ディストリビューター)のようなもので,どこかが断線していれば,当然電力供給はままならない. 神経が無ければ痛みなど感じる筈も無い. 痛みに耐える勇気のある人と,痛みを感じていない人は違うのである.
誰だって夢を見たことがあるだろう. 睡眠中は,脳の活動が鈍化しているから,論理が発動されにくい.だから覚醒時には考えられないような突拍子も無いストーリーに巻き込まれたりする. 単に論理の箍が外れているからこそ起こりえるだけの現象で,疑問を差し挟める程度の論理性が発動されれば,人は夢から覚める. 「これは夢だ」と言う単純な事実を無視できなくなるから.
酔っ払いは,気持ちが大きくなったような気がしているという. 単に,恐怖も羞恥も論理に因っているからで,箍を外せば当然それらは感じにくくなる. だから,彼ら酔っ払いは,自分を臆病さから解放するためにも酒を飲み続ける. 酒は原因療法でなく対症療法だと言うことだ.
私は,自分と言う厄介なクランケに対し,常に原因療法で臨もうとしている.根治を試みていると言って良い. だから,基本的にしらふであり続ける必要がある. 言うまでも無いが,別に酒を飲むのが悪いわけではない(害の無い範囲においてだが).私も酒ぐらい飲んだりする. ただ,私の本当に欲しいものには,しらふでなければ,手が届きそうもないのだ.
・7/6(月)
学校教育における国語科は,国語・算数・理科・社会などと,他の教科と並び称されているのだが,果たして国語は,理科や家庭科などと並列の関係にある概念だろうか.
実は,教育カリキュラム上,分類されているいくつかの科目の中でも,国語科だけはその内容において,他とは懸絶している. コンピューターで例えるなら,国語はOS(基本ソフト),他の教科は差し詰めアプリケーションってところだ. OSがインストールされていなければ,アプリケーションなど起動すら出来ない.
殆どの人は,無意識のうちにでも国語でモノを考えている.社会科の(無論その他の教科も)教科書は,当然国語で記述されているし,数学の問題を解く時でさえ,「一足す一は二」だとか「この問題にはこの公式を当てはめて云々」などと,人は日本語にて思考している.英語などは語学なだけに分かりやすいが,単語やセンテンスを逐一日本語に訳すことによって,初等期の基礎的理解を固める.
だからして,国語力とは人間形成において,何よりも優先されるべきもので,国語の基礎が出来てなければ,英語などと言う他言語を修得するのは無論のこと,数式や科学法則を理解したり,歴史や地理を体感することなども当然出来ない. 文学は無論の事,優れた音楽や美術に本質的な意味で感動することなども,同じく出来よう筈が無い.
体育などと言うスポーツも,一見反射のみに因っているように思うかもしれないが,あれも言語中枢からのコントロールに従った上での作業である.だから,言語が破壊された状態の人間は,運動機能に支障を来たしてしまう. 街で見かけた,物凄く動きの鈍い老人などを想像して欲しいのだが,その人にとって不自由なのは,肉体(運動神経)だろうか. そう思うなら一度話しかけてみるとよろしい. きっと不自由なのは言語の方だと分かる筈だ. 言語だけを流暢に操る様が想像し難い.
とまあここまで述べておいて何だが,実は例外的なケースもある.特に運動能力について. 猫は言語を持たないのだが,人間などとは比べ物にならないぐらい優れた運動機能を持つ. 例えば,二階の屋根から落下しても,反射的に身を翻し,無傷で着地する.だが,そこに論理は介在していない. だから,もし彼らにも言葉があって,尋ねる事が出来たとしても,「着地のコツ」などおそらくは聞き出せない. 彼らにも分からないから. 分かろうとした(言語で整理しようとした)時点で,彼らはその特殊技能を失うかもしれない. 人間界にも,ごく稀にだが,猫のように言語以外の感覚でもって優れたスポーツ・プレイヤーとなりうる人がいて,しばしば天才などと称される.
体育だけの話ではない.数学なども,体育ほどで無いにせよ,スポーティーな感覚(反射神経)に因っている部分がある.100%の論理でなく,ほとんど感覚で数式を解いている人はいる筈だ. また逆に,ある論理が妨げとなって,数学の理解が困難となっている人もいる筈だ. 世間,特に大学生などの間に「理系バカ」という蔑称が存在するのだが,理系科目(数学)に強いのと同時に,極度に文系科目(要は国語)に弱い人を指す.私も初めて見たときは驚いたが,世の中にこのタイプは実在する(理系の人全てがそれではない).
理系は男性が多く,文系(非理系と言う意味ではない)には女性が多いという. 男は,数学や体育を感覚で処理する機能に長けている反面,言語能力が弱く,女性はその逆であると言う事になるのだが,言語が愛と密接に関係しているからだろう.
愛と呼ばれる一種の想像力が人類に備わったのは,きっと子育てと言うシチュエーションに由来している. 母親は泣き喚く我が子を見ながら,何を欲しているのかを絶えず想像し続けるのだが,きっと人類における愛は,ここから誕生している.ついでだが,通常男性にこのタスクは課せられない. 母親(女性)は,愛の発動こそが,その(生物としての)役割と言うことになる. 性差の大部分は分業に因っているのだろう.
・7/5(日)
蜜蜂は,女王蜂のみが子を生む. majority(大多数)である働き蜂は,生物学的に一応メスではあるのだが,基本的に子を生まない. 自分の遺伝子を後世に残す事も無いのに,せっせと群れの為に働き続けるのだが,彼女らの一生を虚しく感じるのは,人間的感性なのだろう. 働き蜂が働き続けるのは,我々人間で例えると,臓器が絶え間なく動き続けるのに近い. 臓器が一生命を維持する為に稼動し続けるように,働き蜂は,集団を維持する為のある役割を負い続ける. 臓器が虚しさなど感じる筈もない. カマキリはその交尾時,メスがオスを捕食したりするのだが,それもこの蜜蜂の例と似たようなメカニズムなのだろう.
生物の一個体と言うのは,人間が我が身と照らして感じる程には独立したものでないようだ. 結局のところ,生物のパーソナリティをかたどるものって何なのかと言うと,それは言語なのではないだろうか.
人間各自に備わっている「心」の正体は,きっと言語だ. だからして,言語能力の低い者ほど,個性(独自の感性)は希薄で,パーソナリティという,外界と自身との境界も曖昧となる. お釈迦様の説いた解脱とは,要はここで言う「境界」の無くなった状態を指すのかもしれない.確かに常人には為し難い業ではあるが,昆虫は既に実現している.私個人としては,そのような解脱者に憧れはしない.
笑い・怒り・悲しみ・愛・羞恥などと言った「感動」は,全て論理に因っている. 論理とは即ち言語なわけで,論理的でない言語など本来あり得ない. 論理性の欠けた人とは,要するに,正しい意味での言語を使えていないのだろう.
artを日本語に訳すと,芸術だけでなく人工という意味にもなる. 人間の思考の髄なのだから,当然そうなるだろうが,ならば即ち,言語能力(思考力)の低い人間にartは実現し難いと言う事にもなる.まあ実際そうだ. artはsportsでは無いのだから,ここでは芸術家と演奏(歌唱)技術者とを分けて捉えて欲しい.
アーティストたらんと欲する者が,磨くべきは何よりも言語である. 私は同じような事を,過去にも何度か述べているのだが,これはきっと間違いない. 私が面白いと感じるアーティストと,面白くないと感じるアーティストの違いも,全てそこ(言語)に因っている.
・7/4(土)
影山リサ,今週のスタジオにて.
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火曜日のラジオは聴いてもらえたでしょうか.因みに,あの日オンエアした楽曲は「Me & My Radio/影山リサ」と,神田優花「What I want」の2曲でした. 「Me & My Radio」の方は,来週のライブでも歌います. 下は今週の神田優花.
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・7/3(金)
とりあえず今週の写真を.
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・7/2(木)
私と金(money)について. ハッキリ言うが,私は金持ちではない.生きては行ける程度の金しか持たないが,特にそれ以上を必要としていないから困ってもいない. 将来私が金持ちになる可能性だって,別に絶無ではないと思うが,懐に余裕が出来たところで,思想・趣味・嗜好などが変わるわけではないので,生活も大筋において変わらない筈だ. 今意識的に節約している何かを,気にせずに済んだりする程度の変化しか起こるまい.
だからして,懐具合に余裕が出来たからとて,手にしたその金を一円でも多く増やすべく,寝る間も惜しんで運用に血道を上げようなど,努々思わない. そんな事に執心出来る程私はヒマではないのだ.私は,自分の持てる時間の大部分を「私の欲しいもの」を手に入れるために使わせてもらう.
俄かに得た札束を手に,夜な夜な盛り場などで,赤の他人に心の通わぬ金をバラ撒いたり,あるいは逆に,預金の残高が底を尽きそうになったからとて,突如豹変し,この世の終わりかの如く周囲に当り散らす,なんて事も私にはあり得ない. どんな上着を羽織ろうと,私の心は変わらないから.
私に有り余る富があったなら,私の愛する人たちには,今以上の施しが与えられるだろうけど,私の手持ちが尽きれば,一食を振る舞う事だって物理的に不可能となる. だが,仮にそんな時が来たとしても,食事を振る舞いたかった私の気持ちに変化はない. また,近くにいない(距離的・時間的に)というだけの理由で,顔を合わせられない人も当然いる.しかし,ここにいる私は変わらない.
高級なレストランでコース料理を振る舞う時も,一つのパンを二つに分けて一緒に食べる時でも,変わっているのは,余暇・経済状態などの条件だけであって,私の心ではない. きっとこれは最期の日まで不変のものだろう. 愛し合う恋人たちには,四六時中一緒にいたくても状況がそれを許さない事があるだろう.しかし離れている時でも,一緒にいたいという気持ちに変化は無い筈だ.
私は,この文章を読んでいるあなたに,私がこういう気分で生きている事を知ってもらいたいのだ. あなたの手元に,物質的な支援は届いていなくても,それはきっと上記の理由に因る. 私がこの世界のどこかで,こんな気分で生きていた事実があるだけでも,あなたが本来の自分らしくある為の勇気は補強される筈だ.例えそれがホンの僅かばかりの支えであったとしても.
・7/1(水)
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7月か.今年も半分終わっちゃいましたね. それはさておき,昨日,影山リサがかつしかFMに生出演したのですが,収録の様子を収めたカットをいくつか上げてみました.
因みに下の一枚について. かつしかFM(放送局)の近くに,タカラトミーの本社があるのだが,道路に面したショーウィンドーがあって,毎度通る度にディスプレイ内容が変わってて面白いので,写真に収めてみた.
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