Staff diary  
スタッフ日誌[2009]

[文 / 益田(制作)]

3/31(火)

人が怒る理由. 人間が不快を感じるのは,自分の欲求・欲望を,何らかの妨げによって達成できない場合だ. 欲求を満たすというのは,単に何かをしたいとか,何かが欲しいというだけではない. 自身の脳内に成立している,ヒエラルキーを完成させることなども含まれる.従って,自分のイメージする序列感を(悪い方向に)乱されるのは,怒りを誘発させる契機となりやすい.

序列感というのは,何を美しい・可愛い・カッコイイと思うか,誰に畏敬の念を感じるか,何を権威とするか,といった秩序感覚のことである. 本来整然としているべきその感覚を乱される,というのは,欲望を妨げられると言う意味において,自分の行きたい方向に障害物が立ち塞がっているのと同様な不快をもたらす. 人は美人と思えないものを「美人像」として押し付けられると,怒りを覚えるのだ.

だからして「ブサイクな芸能人」などは非難の対象となりやすい.視聴者たちは,序列感を乱されるから. 言っておくが,ひとえに芸能人といっても,ブサイクな芸能人が,ブサイクな人という立ち回りを演じている分には何の問題もない.それどころか,序列感を正しく満たされている気分すらして,むしろ爽快だろう.実際その手のピエロ的芸能人は好感を持たれがちだ. しかし,不美人が美人を演じると,たちまちブーイングが起こる.

「序列感を乱されるから怒る」という話をしたが,乱されなければ腹は立たないのである.誰がどのような夜郎自大的妄想を持っていたとしても,その人に相応の評価が伴わない場合,大抵の人はさしたる怒りの感情を発動しない. テレビなどに権威を感じている人らにとって,他人がテレビや何やで扱われているというのは,その他人が脳内の序列の最上位に置かれてしまうという事なのだ. そういう人らにとっては,テレビ界こそがヒエラルキーとなるし,そこでの扱いこそが即ち世間での評価ということになる.テレビによって,力づくで脳内の序列を構成されてしまうのである.

世に芸能人志望者は多いのだが,彼らの一部は,芸能人にしてもらうことによって,日頃自分がおかれている立場(周囲からの待遇)を改善しようと企んでいる. 本来,一芸に秀でた特殊な人だからこそ,テレビや何やで扱われるべき対象となるのだが,ある人はそれを逆手にとって,一旦テレビなどで扱われることによって,自分が特別な人間であることの証明とする気で,要は地位(序列上の上位)を確定させようとしている. それっていわば順位の改竄に他ならないのだが. 彼らは,自分がされて不快な事を,世間に対して為そうとしている.

世人の口にする「ブスのくせにアイドルになりやがって」とか,「大した能力も無いのに歌手になりやがって」などという批判は,実のところ,批判の名を借りて自らの不満を表明しているわけだが,芸能人や芸能人志望者の側は,そういう人間の機微を知っておいても損はないと思う. 実力不相応の立場を得れば周囲に僻まれる,即ち,非難されるということは,能力を認められていないということでもあると. 無論,その評価が正当なものであるか否かというのは,別の次元の話だ.人間は自分に採点が甘く,他人に厳しい生き物ではあるから.


3/30(月)

私は基本的に,頭の中身こそが人間だと思っている.精神の豊かな人間が好きで,心の貧しい人が好きでない. これは「容姿など問わない」という意味ではない.容姿に,その人の精神が反映されないわけはないから.

だからして,私は「若さ」にさして価値を置かない.人の「未熟さ」にやたらと食指を動かされている人を見かけるのだが,要するに彼らの精神は,何かに臆してしまっているのだろう. この世に時間が存在している以上,人間は加齢を避けて通れないのだけど,経年によって生じる「老い」と精神の「衰え」は違う.

英語のoldには,単に「古い」だけでなく,「熟成された」という意味があるという.英語圏の人は,oldに「蓄積」を連想しているのだろう. 中華圏でも「老(ラオ)」や「爺(イエ)」というのは,最高の敬称とされている.一体,儒教は孝を徳目としていて,年功によって社会を序列化している. また,古来インド社会では,時間の感覚すら希薄であるという.当然老いも若きもあって無いようなものなのだろう.だからして,編年形式の歴史記録が存在せず,例えばブッダ(ゴータマ・シッダルタ)の事績なども時代比定が困難であるという. とにかく良い悪いはさておき,日本ほど「若さ」に価値を置く社会は,珍しいのかもしれない.

「女子高生」や「女子大生」などというものが大好きなオヤジ連中や,「女児」などに,ある種のリビドーを感じている青年らがいる. まあオヤジ連中の方は,本当に高等学校に就学している女生徒が好きなのではなく,多分に手前勝手な(記号としての)「女子高生」像に,幻想を抱いているに過ぎなかったりするのだろうけど. で,その「女子高生好き」が,私には分からない.女児に執心する気分など,それ以上に体感し難い.

当然だが,人間の魅力は人による.魅力的な女子高生もいるだろうが,精神の発達段階にある「魅力的人物」なら,経験を重ねた上の(要するに歳を取った)その人の方が,さらに優秀だし魅力的でもあろう. 「若さ」に過剰な価値を見出しているのは,人間をモノだと思っている証拠である.一般に,モノは中古より新品の方が価値が高いとされる. また,「発達段階にある事」なんかに過剰な関心を持ってしまうのは,精神が衰えている証拠だ.

この文章を読んでくれている諸氏よ.「君の若さに惹かれた」なんて言う相手と,絶対に一緒になってはいけない. また,「若い頃の君の方が素敵だった」なんて事を言われてしまう人になど,決してなってはいけない. 何故ならば,そんな人は,頭の中(精神)でなく,肉体(若さ)という物質にしか価値を感じられていないからで,そんな評価は,本来「モノ」に与えられるべきものである. 「未来のあなたを見てみたい」と思われるような人にならなければ.アーティストというのは,つまりはそういう人の事だ. 自身の内奥を探求していける人こそが,アーティストの名に値する.

精神の豊かな人が好きだと言ったけど,精神の豊かさとは,その人の頭の中にどれだけのモノが詰まっているか,という事でもある. いくら感受性の豊かな人間でも,経験なしでその豊かさは得られない. 私だって,若い人や,それこそ子供を見て「可愛い」と思う事はある.しかし,動物としての「可愛さ」と人間としての「面白さ」は違う. 子供は,私の想像力を喚起させる引き金となり得る,という意味では興味深いけど,やはり私を面白がらせてはくれない. 面白がらせてくれる人の方が私は好きだな.


3/29(日)

インターネットの普及は,きっと後世,人類史におけるトピックとして,産業革命などより重大視されるに違いない.それほどに革命的である. で,そのインターネット,様々な用途に使えるわけだけど,コミュニケーション・ツールとしても,まあ非常に便利な代物で,この文章読んでいる時点で,皆さんもその恩恵に少なからずあやかっている.

インターネット(Eメール)が普及してなかった頃,意思を伝達する際には,電話かあるいは直接相手に会わなければならなかった.物凄く面倒だ. ネットワーク環境下にあれば,一々そんなことせずに済む. しかし,顔を合わせずに済むというのは諸刃の剣で,生身の人間としてのコミュニケーション能力を欠いた大人を量産してしまいかねない. 実社会では,単純な経歴や技能だけでなく「ヒューマン・スキル」というものが重視される. かくいう私はそのヒューマン・スキルに達者でなくて,日々四苦八苦しているクチだけど.

インターネット上の掲示板などというのは,相手と顔を合わせずに意見交換が出来てしまう.しかも自分の身分すら隠したままでいられる. 共有した歴史が皆無で,お互いの顔すら合わせぬコミュニティーというのは,簡単に軋轢を生むようだ. やはり社会と言うのが愛で成り立っている事を痛感してしまう.

私は,インターネット界が,仮面舞踏会であることを好みはしないが,ある程度まで已む無きものと思っている.だから,徹底的に規制すべきだとか無論思わないのだけれど,偉大な文明の利器なのだから,弊害・副作用ももっと知られていて良いと思う.一種の世間知として. インターネットは便利だけど,インターネット界に「住んでいる」ような人間を作らないような教育も必要だろうと思う.


3/28(土)

真面目に音楽の話を. 今私が音回りを担当しているのは,神田優花と影山リサの二人なのだけど,今後の展望について.

神田優花は近々セカンド・アルバムを発表する予定で,音も既に上がっているのだけど,楽器編成もシンプルでロック・テイストの強いものになります. 前作「マインドスケープ」は,情勢上止むを得ないところもあって,ロックっぽい曲とPOPS寄りのものとを折衷した仕上がりになっているのだけど,あれに収録されていたようなヌル目のPOPSが,次回作には基本的に入ってません. で,今後なのだけど,とりあえずロック色はやや薄めて,暫くは若干POPS寄りの音を作って行こうかと思ってます.と言っても,あくまで音(録音物の質感やアレンジ)の話であって,曲自体は今の路線を大きく外れる予定は無い.メジャー・コード一辺倒で作るとか,そういう事は無いです. まあ,どうなるかまだよく分からないけど.

影山リサについて. 前作「Jewelry Box」は,古めの(80年代とかの)アメリカン・ポップスを下敷きにした,割とオーソドックスなPOPSアルバムのつもりだったのだけど,次のは,もう少し今モノっぽいアレンジにしようかなと. ここ最近,リハーサルでも動き(ステージ・アクション)について色々と試行錯誤しているみたいなので,その辺も考慮して商品イメージを詰めて行きたいところ. まあ影山リサに関しては,大綱の部分を私が決めるわけでないので,どうなって行くのかも断定できないわけだけど.

今モノのアレンジって話が出たので,ちょっと脱線を. 私自身は昨今のJ-POPの趨勢って,あまり好むところでない. 殊に一部のメーカーが作っている,ビルボード・チャートの上位を席捲している音の模造品,みたいなものがあるのだけど,あれは真似するポイントが若干ズレている気がしていただけない. 音だけでいえば,小手先の装飾技術だけは上手く模倣出来ていて,過剰なぐらいデコラティヴではあるのだけれど,曲の芯(曲想とでもいうべきか)というか,核心部分の輪郭が非常にか細いものが多い. イントロの一小節目から作り出したような印象すら受けてしまう. リスナーとしての私は,ここで言う「芯の太い曲」が好きなので,ちょっとそこが物足りなく感じてしまう. コピー元である(と思われる)一部の洋楽作品って,その輪郭がもっと太くて明瞭な気がする. この手の話は伝わりづらいような気がするので,ここらで止めておく.


3/27(金)

東京の桜は満開ですね. 今週のリハーサル風景.

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3/26(木)

色々と事務作業で忙しかったり,上げようと思っていたテキストに待ったが掛かったりで,更新間隔がまた空いてしまった.


ナンパで知り合ったカップルが(例外はあるにせよ)長続きしない理由. ナンパって大抵,男の方から声を掛けるわけだけど,ナンパ師みたいな人も,相手に対しての一応の評価を元に口説いている(と思われる). 「引っ掛かるかもしれない」ととりあえず思うから声をかけるし,「もう一押しすれば引っ掛かりそうだ」とか思えばこそ,しつこく迫ったりもするわけで,ナンパされてしまう女の人の方にも,一定の資質が内在しているのである.

私の幼友達の中に,二十歳前後の頃,いわゆるナンパ師みたいになっていた人がいた.今は結婚もして普通の旦那さんになっているのだけど,当時は見ず知らずの女の人に声を掛けまくっていた. で,その彼なのだが,日常的にナンパばかりやっているのだから,当然引っ掛かってくる相手もいるわけだけど,その戦利品(引っ掛かった女の人)に対する扱いがぞんざい極まりない. 例えばデートの前日に朝まで酒を飲んでいて,一緒に入った映画館では4時間寝っぱなし,上映中の記憶も殆どなかった,などという事もあったという.こんな調子なのだから,約束の時間に遅れることなど日常茶飯事であったろう.

当時,友人である私は,彼の行動を不思議に思っていた.「何故彼は,見知らぬ女性に声を掛けずにいられぬ程に恋人が欲しいのに,いざデートとなると,相手に対する扱いがああまでぞんざいであるのか」が理解できなかったのだ. しかし今はハッキリ分かる.彼はナンパに引っ掛かってきた相手を「舐めていた」のだ.だって,いきなり声を掛けてきた見ず知らずの自分にフラフラ付いてくる程度の相手なのだもの. 更には,相手との歴史(共有してきた時間)が皆無である.どんな乱暴な扱いをしようと,関係が複雑でないので縁を切ることも容易い. 彼がそう思っていたであろう一傍証として,現に結婚にまで至った相手とはそういう馴れ初めでない.明らかに区別していたと思われる.

逆に,引っ掛けられた女性側の視点に立ってみる. 女性側は女性側で,声を掛けてくる男を「自尊心を満たすツール」だとしか見做していない.「声を掛けてくる男がいるなんて,なんと私には魅力があることか」とか「こんなにしつこく迫ってくるなんて,余程私に魅力を感じているのだろう」とかいう風に都合良く解釈している.

ナンパで知り合った多くのカップルは,お互いに,自分を高みに置き,相手を低く見積もっている. お互いの評価がそうである上に,一緒に過ごした時間や共通の知人も存在しないのだから,当然その矛盾に満ちた関係は破綻しやすい. 破綻するためのこの上ない条件が揃っているから,現実にもそういうカップルは長続きしていないのではないかと.


3/22(日)

最近忙しい. 忙しいというと,特定の場所で拘束(時間的に)されているとか,方々を走り回っているみたいなイメージがあるかもしれないけど,特にそれほどの事はない. 考えないといけない事,懸案事項が山積しているのだ. 今日も日曜だけど,実質的に休めないのです.頭がフル稼働しているから. 向こう数ヶ月はこんな毎日が続きそうだ.


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上は影山リサ,先週のリハーサルの様子.


3/21(土)

今週のリハーサル風景. 今週もスタジオに差し入れあり.差し入れの多い事務所だ(ありがたいけど).

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3/20(金)

野球の国際大会が開催されているそうな. 色々思う事はあるが,今回は「韓国」について触れてみたい.

私は建前が嫌いなのでハッキリ言うが,多くの韓国人は日本を恨めしく思っている.無論日本人は日本人で,韓国を(ある意味では相手以上に)嫌っているが. 普通,国が違えば歴史の変遷,延いては国民性に違いが出る上に,隣国というのはとかく様々な利害がバッティングするものなので,どこの地域においても仲違いしがちなものである.EU諸国とかでも例外ではあるまい. しかし,そういった当然の状況を差し引いても,日韓の感情的わだかまりは深い. 他ならぬ事情が存在しているのだ.

日本で人気の野球だが,実のところ世界的にはマイナー・スポーツである.理由は想像に難くない. ルールが難しく,器具が高価で,設備を整えるのが面倒だからだ.そもそも自前のプロリーグが存在している国が少ない. キューバみたいな共産圏は,旧ソ連のように国家が選手を養成している(その手段としてのリーグはあるにしても)だけで,プロリーグが存在しているのとは意味が違う. 日本のように,どんな田舎にも少年野球チームやその練習場があり,試合一つするにも20〜30人の人間がいるというのに,その人数分の十分な器具類が用意されており,その辺の中学校や高校に照明設備まで整っている方が稀有なのだ.

野球のリーグを民間で維持するには,近代国家としての条件がほぼ全て揃っている必要がある. チームを抱え,選手の高額年俸や設備投資を負担できる私企業が成熟し,球団には年間百数十試合をこなす事務能力があり,その百数十試合を消化するために,国内を縦横無尽に移動できる信頼に足る交通機関がいる. またオーディエンス側には,スポーツをエンターティメントとして享受できる民度(教育水準・経済力)がいる. 世界各地には,未だに電力供給すらままならぬ地域が幾らでもあるのである.現実問題として,映像の安定的配信や照明設備が不可欠なナイトゲームなど出来る筈が無い.

日本にプロリーグが存在するのは,日本がそういった近代国家としての条件を備えた国だからである.民族が歴史の帰結としてそういう体制を為すに至っている. ここで「韓国や台湾にもプロ野球はあるではないか」という反問はあろう.しかしながら,何故それらの国にプロリーグが存在するのかというと,ぶっちゃけて言えば,日本の植民地だったからに他ならない.

体制は近代でも,韓国は日本と違って,歴史的必然としての革命(日本史でいう明治維新みたいなもの)を経験していない.自らの手で近代化を達成していないのである. 明治期の韓国は,まだ李氏朝鮮の時代が続いていた.中国(隋・唐あたり)型の王朝国家で,大掴みには日本史でいう律令体制みたいな状態だった(貨幣の流通すら無かった). 日本でいうところの江戸時代といったプレ近代どころか,鎌倉時代すら経験していない. 韓国史は,日本からの植民地化によって,平安時代から突如として近代に突入してしまったようなものだ.ひずみが生じないわけが無い.

しかし,どんな歴史的事情が介在していようと,今の韓国は堂々たる近代国家である.特に経済など,国際社会の重要な一角を担っているといって過言でない. 当然スポーツなどの分野でも,国際的な舞台に立たざるを得ない. あながち韓国人のよくいう,「全ては日帝の植民地支配のせい」というのも,当たらずしも遠からずと思えなくもない.

体制と民度がアンバランスである,というのは,人間で例えると,学力に発達が追いついていないようなものだ. 普通,学力と発達はシンクロするものなので,ちょっと喋っただけでも勉強の出来そうな子供は分かる. 一流大学の学生が,怪しげな新興宗教にいとも簡単に騙されてしまう事があるが,彼らは学力相応の発達を遂げられていないのだろう.

つい先日,野球の韓国代表チームは,日本との試合に勝った後,マウンドに国旗(太極旗)を立てたそうだ. あんまりそんな事をする国が他にないそうだから,きっとマナーをわきまえない行動なのだろう. 日本人として彼らの非礼に憤慨するのは簡単だが,彼らに対する理解も必要だと思う. ちょっと失礼な例えだけど,もし小学生が,いくら学力があるからとて大学生のサークルに入れられてしまえば,精神的な成熟度が違い過ぎて,きっと様々な問題を起こしてしまう筈である.

ヨーロッパ型文明への移行が,人類における「近代化」とされてしまっているのは,現実として認めざるを得ない. 私が何を言いたいかというと,「彼ら(韓国人)をもう少し愛してあげて欲しい」という事. 既に彼らはスポーツだけでなく,経済や学問といった普遍的世界への参加を余儀なくされている(上でいう「ひずみ」がそれらの世界でも生じているのは,周知の通りである). 民族性というものはあるとしても,時間が経つにつれ,彼らにも国際人としてのマナーぐらい身に付く筈である.愛を持って見守ってやって欲しい.


3/19(木)

迷惑メールって送られてきますよね?ウチも例に漏れず,送られてきます. 一応,フィルタリング・ソフトとか導入してるんで,一々全てのスパム・メールを削除したりはしないのだけど,色々な条件を潜り抜けて我々の手元に到達するものもある. ヒマだったのでそのスパム・メールについて考えてみた.

スパム・メールの文面って,基本的には広告なのだけど(例外は無論ある),薬関係とかアダルト・サイトなんかの勧誘だとか,一定の傾向はある. で,その広告活動,受け取り手の我々には単に迷惑なものでしかないわけだけど,送り手(業者)の立場になって考えてみると,あれはあれでそれなりに大変な事が想像に難くない.

例えば普通のプロバイダのアカウントから送られてくるものは,どう考えてもいずれプロバイダ側にアカウントを停止されてしまうわけで,次々に新しいアカウントを取得しなければならず,当然相応のコストも負担しなければならない. 独自サーバー経由で送られてくるものも多いわけだけど,当然それにしたってサーバーの導入・維持・管理コストは発生してくるわけで,少なくともタダではない. 他にも,膨大であろう送信先情報の収集・管理など,いかなるツールを援用してようと,煩雑な作業を伴うことは容易に想像できる.下手すりゃ逮捕されるリスクまで付きまとう.

上記のコストを負担してでも,彼ら業者がスパム・メールを送りつけてくる理由は簡単で,「費用負担以上の見返りがあるから」に他ならない. 要は結局のところ,送られてくるスパム・メール記載の情報を元に,アダルト・サイトや何やで金を落とす人が,きっと後を絶たないのだろう. そうでなければその手の業者が絶滅しない筈が無い.これは断言できる. 早い話,スパム・メールというのは,それを必要としている人の存在が,それを維持させているに他ならないという事だ.


3/18(水)

運について. 同じようなテーマで何度か文章を上げているのだが,またその追記.

厳密な意味での運の良し悪しに,大した個人差なんて無かろう. まあ道端で小銭を拾う人とかそうでない人とか実際いるわけだけど,その程度の偏差ぐらいしかこの世には存在していない. 運の良し悪しなんて本当にあるのだろうか.

運の良し悪しが存在していなくとも,自分に巡ってきた好機に対する「敏感さ」に個人差はある.大いにある. これを運の良さと呼ぶのであれば,世の中に強運の人は存在している. 自分に必要な何かを感じる能力がある人は,巡ってきた好機を逃さない. そういう人になるには,まず進むべき道を定めなければならず,進むべき道を決めるためには,まず何かに惹かれなければならない. 人が,何か好きになる対象を定めるには,当然ながら感受性の豊かさが必要で,感受性を培う方法なんて良く分からないけど,先天的に授かったもの以上のものを求めるのであれば,言語力を磨くしかなかろうと思う.一見迂遠な途ではあるけど.

「好機を逸さない能力」の事を運の良さと呼ぶならば,間違いなく運の良さに個人差はある. 「運が悪い」と自身の境涯を嘆く人は,神頼みより先にすべきことがあると思う. そもそも「運」が天から降り注がれるもの,というようなイメージを払拭すべきだ.本来運は,自分の外でなく,自分の中にあるべきものである事を知った方が良いのではないだろうか. それが分かるだけでも,何かが変わるかもしれない.


3/17(火)

ここを読んでいる人の中には,歌とか音楽が好きな人が結構いる筈なのだけど,無論私もそうだ. 私は本当に音楽が好きで良かった.音楽が好きだからこそ,進むべき方向を見失わずに済んでいるし,延いては今のような生き方を選べた.

よく私は人生をカードゲームに例えるのだけど,人はゲームに臨んだ際,上がり手を想定出来ていればこそ,必要なカードを見逃さずに済む. 欲しいカードが見えてこない人には捨てるべきカードも分からない. カードの取捨選択が出来ないからこそ,多くの人は「金」というオールマイティーをせっせと集めたりするのだが,残念ながら金は,進むべき方向を指し示してはくれない. お金を稼ぐ手段を持っている人より,お金の使い道を持っている人の方が,人生そのものは豊かなのではないだろうか.

私は,音楽が好きだからこのように毎日が輝いているし,今周りにいてくれる友人知己をも得られた.更には,分からないことだらけの世の中が,少しづつ分かりはじめて来たし,これから更にクリアに見えてくるだろうと思っている.

私が何を言いたいかと言うと,歌や音楽が好きな人たちは,単に音楽を好きでいる人なだけでなく,それと同時に,音楽に愛された人たちなのだという事. 幸運にも音楽に愛されたからこそ,目の前に横たわるこの取り留めもない世界や時間に,自分なりの解釈を与える事が出来ている. 私は,たった一度の人生を,進むべき方向が分からないままに食い潰さないで本当に良かったと思う.


3/14(土)

今週のリハーサル風景(影山リサ).

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整形手術について. 一昔前に比べればだいぶ抵抗感もなくなってきてるように思うのだけど,実際に自分の顔に整形手術を施す人なんて,まだ少数派なのだろう. で,その整形手術,導入する人は皆それぞれの事情にて導入しているのだと思うのだが,基本的に自分を醜女(しこめ)だと思い込んでいる人が,「先行型の美人像に近付く」意図でもって導入する事は,個人的にあまり感心できない. 顔にメスを入れることによって,現状の周囲からの扱いが多少なりとも変化する事を期待しての行為なのだろうが,そんなものを得る事に,どれほどの価値があるのだろうか.

自分を既にある程度美人だと思っているような人が,その美に更なる完成度を与えるために加工を施すのであれば,本人の脳裏には,自分のイメージする美人像が明確にある筈だ.こういうアグレッシヴな整形なら,やる意味もあるような気がする. 上に挙げた「醜女の整形」は,本来心の問題なので,顔のパーツを弄ったぐらいで解消されるのか甚だ怪しい.

美人とは,顔が整っているから美人だと思われているようだが,実は微妙に違う. キレイだから美人なのではなく,美人だから衆人にキレイに映ってしまうのだ(分かり難くてゴメンなさい). 周囲を圧倒してしまう精神の作用こそが美人を成立さしめているように思うが,どうだろうか. だからして,自分を醜いと過度に感じてしまっている人が,まず手を付けるべきはそこ(顔の造作)ではなかろうと.

実際世の中には,不美人だから整形を検討してしまう人がいれば,美人だからこそ整形を検討している人もいる. どっちも先ず本人の思い込みありきの行動なのだが,それなりに高額であろう費用を投じて,前者が得られるモノって,実に心許ない. 美貌なんてものも,自分の心を満たすための一選択肢に過ぎないのだ.


3/13(金)

今週のスタジオにて.

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3/12(木)

英語に「懐かしい」に相当する単語が存在しないのは,英語圏の人が,懐かしいという感覚をあまり持たないからかもしれないな. 昨夜の出来事が懐かしくないように,感情に軽い断絶でも生じなければ,懐かしさは感じ難いかもしれない. 人によっては「兎追いし彼の山」などと,少年時代を思い出して,懐かしさに浸る事もあるだろうけど,それはその人にとっての少年期が,遠い記憶になり果ててしまっているからこそ起こり得る現象だ.

私はさすがに野ウサギを追ったことは無いけど,田舎育ちではあるので,子供時分にはよくカブトムシなどを捕まえて遊んでいた. 今の私がカブトムシを捕まえに行かない理由は,それ以上に楽しい遊びを見つけてしまったからであって,当時の感覚を思い出せなくなっているからではない. 事実,今でも「虫捕り」を楽しそうだと思うので,機会があれば行ってもいい.というか,むしろ積極的に行きたい. しかし,音作りという遊びに忙殺されているからな,今の私は. 今後の課題だな.


3/11(水)

こんにち人類が,かようなまでの進化を遂げたのは,他の動物に比べ,人間に個体差が大きいからではないだろうか. 昆虫や魚類には形質上の違いはおろか,性格すら無さそうに見える.あれでは環境の劇的な変化でも伴わなければ進化の必要性さえ生じにくいだろう.

例えばキリンは,そもそも高いところに茂る葉を食むという習性があるため,首の長い個体が生存競争に勝ち,そうでない者は淘汰され,結果,種としてこんにちのような形態をなすに至っている(と思われる). 個体差こそが,進化の原動力となっているのだ.

他の種と比較すると,人間には個体差(特に精神の)が大きいように思える. ある能力において,秀でたものや劣ったものが出現しやすい.特異さの程度が甚だしかった場合,当然その特性は,他の大多数の平均的個体にとっての模倣の対象となる.あるいは反面教師にもなろうし,排除の対象となるかもしれない.とにもかくにも,集団内に波紋を起こす.

また,その特性を持つ当人にとっては,考えるきっかけを与えられる事にもなる. 考えるきっかけが生じるということは,新たな発見の可能性に直結するということだ. これら全ては進化に繋がって行く.

一個人においてだけでなく,集団についても同様なことが言える. 文明の興隆には条件がある.紀元前の支那から21世紀のアメリカまで,多種の異民族が同居し,互いを練磨し合う環境において文明は発生している. 差異こそが発展を促すのだから,変人は社会のスパイスでもある.思想の可能性となり得る貴重な何かを持っているかもしれない相手なので,排除するばかりでなく,敢えて意見を伺う事も無意味ではないのかもしれない.


3/10(火)

ゴッホに「ひまわり」という有名な作品がある. 「ひまわり」というタイトルだけは有名なのだが,ゴッホ作の「ひまわり」が複数点あることはあまり知られていない(ような気がする). 今調べたら,周知のあの構図(花瓶に差してあるもの)でだけでも7点描いているらしい.数え方によっては,「ひまわり」は十数点にもなるそうだ.

多分ゴッホにとって「ひまわり」は,絵画上の大きなテーマだったのだろう.描いても描いても描き足りず,それどころか,描けば描くほどに描き残した何かを発見してしまう. モノを作っている人なら理解できる感覚なのではないだろうか. 言っておくが,昨今粗製濫造されている,安易な商魂の産物としてのカヴァー曲とか,そういうものとゴッホの「ひまわり」は,本質において違う.

かくいう私も,似たようなテーマでいくつもの曲を作ってしまうし,一つの曲をいくつものパターンでアレンジしてしまう. 自分にとって大切なテーマであればあるほどに,その作業は執拗になってしまう.これは宿命だ. きっとこれからも,この手の試行錯誤を続けるだろう.


3/7(土)

ちょっと前に日本の自殺者について触れたのだが,現代の日本人に「考える能力」が欠如している原因について考えてみた. まあ民族というのは歴史の所産なので,一概に元凶を特定するのは難しいわけだが,無理矢理にでも直接的原因をあげつらってみる.

大抵のケースにおいて,直接的に人間を構成しているものって,遺伝子よりは教育だと私は思うので,とりあえずここではそう仮定する. 更には,日本人全体に影響を及ぼしているのだから,どちらかと言うと各家庭ではなくやはり学校における教育体制(特に初等教育)に原因があろうと. で,その教育制度の欠陥なのだが,制度上の不備は数あろうが,やはりあのペーパーテストの形式が良くないのではなかろうか.

殆どの人は経験済みだと思うが,あのテストというやつは,要は点数で序列が付けられる. 制限時間内にどれだけ高得点をマークするかを競っているわけだが,自然,試験開始後,即座に分からない問題は飛ばし(後回しにし),即答できるものから埋めていく事になる. これ,テストで得点するためのごく基礎的なメソッドで,義務教育レベルで徹底される常識である(言われたことありますよね?). 当然ながらペーパーテストは「時間を掛けて考える」能力には比重が置かれず,単純記憶量を競う面が大きくなる.

人間の頭脳と一口に言ったところで,「記憶力」・「理解力」・「発想力」などと,これまた当然ながら細分化できるわけだが,ペーパーテストで判定できるのは,殆どが記憶力.多少なら理解力も問えるだろうか.まあそれにしても高が知れている.基本的に記憶量をベンチマークとしていると言って差し支えない. 要するに,考える能力が欠落した人間を大量生産するシステムと言っても過言でない.

日本から芸術家が輩出されにくい理由は,日本人に考える能力が足りないせいだろう.私はこれを,一種の確信を持って言っている. 音楽などを聴いていても,欧米人と日本人の作品とを比べると一目瞭然である.そこに横たわる歴然たる差を見ただけで,疑念を差し挟む余地がもう無い.

とまあここまで言ってはみたが,日本人は日本人であるが故に,大芸術家や大思想を生まなかった代わりに,こんにちの生活レベル(経済力)ぐらいは得ているわけで,一概に悪いとも言い難い. 結局,日本の歴史やその中に蠢いた日本人たちが目指し続けた場所というのが,こんにちのこの,年間自殺者3万人超の日本国なのだろうから,仕方ないのかもしれない. 因みに私は,今の日本の教育制度を次善の策として,已む無きものと認めている.


3/6(金)

ここ最近,天気悪い日ばっかりだな.今日も雨だ. 以下,今週のリハーサル風景.

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因みに,写真(Photo2)にあるのは差し入れのチョコレートなのだが,あれで5千円もするそうだ. 個人的にはまず買わないな.


3/5(木)

私は,オケを作る作業に中断を入れるのが激しく苦手だ.とは言っても,一曲分のオケ作りって,一日で済むような作業量では無いので,どこかしらで中断せざるを得ないわけだが.

一日の作業時間を8時間とかに決めてしまえば良いわけだが,そうすると絶対に中途半端なところで中断することになる.トータル15時間で終わる筈の作業が20時間掛かってしまったりして,非常に効率が悪いのである. 結局こういう(切りのいいところで仕事を一旦終える)事が苦手ってだけでも,要するに仕事が出来ない人なのだろうな.私は.


3/4(水)

まだ詳しい事は言えないけど,今年は色々と計画があって,今その仕込みで毎日忙殺されている. 曲作ってるヒマが無くて参ってます.いつか音だけに専念出来る環境を手に入れたい. まあその為に動いている面もあるけど.


ここ数日考えていた事. 「信仰」というのは,要するに自分に対する信用から生まれるのだと思われる.だから騙される事など本来ありえない. 自分に対する信用に裏打ちされていない信心は(そもそも信心と呼ぶことさえ語弊があるが),主体的に「信じる事」が出来ないが故に「信じさせられた」事になり,挙句,結果如何によっては「騙された」とかいう風に総括されてしまうだけだ. 正しく「信じた」のであれば,騙されはしない.

自分の判断なのだから,結果ごと自身で受け入れられる,といった信仰心は,人間のどこから生まれるのか. 一般に,他人に対する印象(信用)が,その人の過去の振舞いに裏打ちされるように,同じく自分自身に対する信用も,大部分は自分の過去の振舞いによって形成されている. 人は無意識のうちにでも「他ならぬ私だから,きっと大丈夫だろう」とか,あるいは「私ごときの行いなのだから,必ず失敗するであろう」とかいう風に,我が身に照らし合わせた形で未来を予測している.

自分自身を信用していない人は,いくら他人に持ち上げられたところで,最終的に自分だけは自分を信用出来なかったりする.その辺の他人なんかより,自分自身と付き合ってきた時間がなまじあるだけに,その観測はある意味正しかったりもする. 人生の岐路に立たされた時,周囲の人間(親や友達など)に相談してから決めよう,などと思ってしまう人は,要するに自分(の判断)を信用出来ないのだろう. 進むはおろか,退くことすら他人の助言無しでは決められない.それ程に自分を信じていない.

自分に対する信心は,自分が生きてきた今までの時間の中で培うしかない. 「あの時だって大丈夫だったのだから,きっとこれからも上手く行くだろう」とか「こんなに私を愛してくれる人がいるのだから,きっとこの先にも素敵な出会いが待っているだろう」とか. その正反対の,例えば「今までも散々失敗してきた無才な私だから,きっと次もまた上手く行かないだろう」とか「こんなに愛されない私なのだから,これから先も碌な出会いに恵まれないだろう」などという感懐を抱く人もいるだろう,それはそれで自らの経験則に裏付けられた予想で,ある意味正しいのかもしれない.

その人がどんな青写真を描こうと,現実がどのように転ぶかは分からない.未来は,人知を超えた要素で決まる面も多分にあるから. だけど私自身は,自分に対する信心を強固に持っている人,と生きて行きたい. 実際に私の周りは,そんな人ばかりになりつつある.喜ばしいことこの上ない.


3/1(日)

ドラえもんについてまた考えていた. ドラえもんの登場人物のうちで,誰が一番好き(誰と仲良くなりたい)かと考えてみたのだが,私はジャイアンかもしれない. あの漫画の登場人物らは,みんなキャラが立っているし,愛すべき部分を持っているのだが,とりわけジャイアンには可能性を感じる.

のび太は時間が経つにつれ,普通の大人になるだろうからあまり心配要らない.その代わり人間のサンプルとしてはそんなに面白みを感じさせない. スネ夫は,あのまま大人になってしまわないかと心配だ.いつか何かに気が付けば良いのだが. ジャイアンは,若さという葛藤の中にいて,まだ粗暴さを濃厚に残している少年なのだが,もう少し時間が経てばきっと何かに気が付くだろう. 「こんなに強い俺が,のび太なんて殴って一体何になるのか」と,きっと思わずにはいられない.

「子供の頃,自分の周りにジャイアン的粗暴さを持つ少年はいたが,結局大した成長を見せなかったぞ?」なんて思う人はいるだろう.それはその少年が「本物のジャイアン」で無いからだ. 私は,本物のジャイアンだからこそ彼(ジャイアン)の中に「臆病さを克服できる可能性」を感じているのだ. 「贋物のジャイアン」程に醜いものは無い.本当のジャイアンとは,気高く颯爽としたものだ.

彼は歌が好きだから,本当に歌手になって欲しい. あの比類なき強さを歌にして,小さき我々を救って欲しい.


2/28(土)

当然だけど,人間は長所と短所を合わせ持っている.だからして,100%の善人も100%の悪人も中々実在し難い. こんな単純なことが分からないでいるうちは,偏りなき人間の評価は難しい.

「この人は優しい人だけど,仕事は出来ない」とか「面白い人だけど,ルーズで頼りない」とか「バカだけど正直だ」とか,人には長所と短所が併存している. ここが整理出来ないと,例えば自分の恋人にありもしない完全無欠の人格像を投影してみたり,延いては,その妄想と現実(生身のその人)との乖離に耐え切れず,関係を破綻させてしまったりする.

例えば,世の人はしばしば「政治家の批判」をする.時にその声は罵詈雑言となる.一般に,評価より批判の方が簡単なのだ.相手の瑕疵をあげつらえば良いだけだから. また,政治家の批判が容易である理由の一つは,大抵の場合,彼らが「知り合い」でないことだ. 多くの人は,自分の知り合いを批判しない.

「批判しない」と言ったが,厳密には「出来ない」と言う方が正しい. 恋人に欠点が存在しなくなるように,知り合いは良き者に見えたり,あるいは顔を知っているだけで,ある種の気まずさが生じるのか,正当な批判も引っ込めてしまいがちになる. その人の人格や能力の評価に,自分との間柄など基本的に関係ない筈だが.

結局,多くの人が,この手の事を整理出来なくなってしまう原因は,ひとえに国語力の欠如にあろう.整理力は論理性とも言える. 恋人や友人との関係を良好に保つためには,長所を愛するだけでなく,短所も認め合うことが肝要なのではあるまいか. それらを整理・総合して相手を選んでいけば,人間関係の失敗は少なくなるのではないかと.


2/27(金)

今週ずっと天気悪いと思ってたら,今日は雪だ. ひとまず今週の写真.

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今週はスケジュールの都合で,まともなリハーサルの時間が取れなくて,午前中とかあんまり慣れない時間にスタジオ入りしてました.ウチはどちらかと言うと夜型の事務所なので,朝はあんまり気合が入らない.


2/26(木)

ペンギンの子供を主人公にした「ピングー」というクレイ・アニメをご存知だろうか.有名なので知っている人は多い筈だが. 知らない人は是非一度見て欲しい. 作り手側が「子供の心」を忘れていない,まさしき名作である.

「ピングー」の数あるエピソードの中に「ピングーのボーリング」という話がある. 大雑把に内容を説明すると,主人公ピングーとその友人たちが,手製のレーンにてボーリング遊びに興ずる,というだけのシンプルな(僅か5分程度の)エピソードである. 言うまでも無く,ボーリングは本来どれだけ多くのピンを倒すか,を競うゲームで,ピングーたちも最初は通常のルールに則って成績を競う. が,途中で友達の一人(アザラシのロビ)が投じた一球が,一本もピンを倒せない.投げた張本人はそれを見て失笑する. その笑いはやがて周りに伝染し,ピングーらは皆,次々に暴投(ピンを倒さない投球)を繰り返し,抱腹絶倒する.

不条理な笑いではあるが,私も子供の頃に,まさに同じ笑いのツボを刺激されたことがある. 今でも鮮明に覚えているのだが,私は上のエピソードを見た瞬間,「紛うことなくあれだ」と直感した. 子供の頃にありませんでしたか?ゲームの最中に,ゲーム本来の趣旨を逸脱した暴走行為に熱中し,それに愉悦を感じた事が.

子供向けと称する作品は数あるが,大抵のものには,大人の視点から見た「概念化された子供」しか出てこない. 例えば,イタズラ小僧が主人公であったりする作品は多いが,登場するそのイタズラ小僧は,要するに,大人が彼を(いわばペットかのように)眺めているだけであったりする.子供の心に映りこんだ世界を反映出来ていない. 「ピングー」は,本物の子供を見られるだけでも稀有な作品と言える.知らない人は見てみては.


2/24(火)

AさんとBさんでは,どちらがベターである(良い)か,などという設問があったとする.普通であれば,とりあえず手始めにAさんとBさんの長所などを単純比較したりするのだと思うが,昨日の私と今日の私とを比較するならばどうなるだろう.

昨日の私と今日の私は,AさんとBさんなどという単純比較の対象ではない.昨日の私がAさんなら,今日の私は差し詰め,Aさん+Bさんだ.昨日までの私に,新たな自分(今日の私)が上積みされることになるから. だって,新しい発見や情報が,たとえ僅か一日分であったとしても,上乗せされたではないか. だからして,昨日の私より今日の私の方が当然優れている. この理屈で言えば,明日の私はAさん+Bさん+Cさんなのだから,当然今日の私より優れている.

「昔のあなたの方が素敵だった」などと言われてしまう人はいるだろう. それはきっと,その人の感情に「断絶」が生じてしまっているからだ. 昔感じていたであろう気持ちが思い出せなくなっているのであれば,当然その当時の自分が別人に見えるだろう. 昔の自分が別人のように見えるのであれば,それは本当に今の自分とは別人なのだ.

昨日の自分があるからこそ,今日の自分を上乗せ出来る. 昨日の自分が消滅しているのであれば,上乗せは出来ない.もう一度一からやり直し,同じ事を繰り返すのだ. 逆説的な言い回しだけど,変わってしまう人は結局何ら変われないのだ.

「昔の方が素敵だった人」は,本当に今と当時のその人が,あたかも別人なのかもしれないけど,どちらをとっても大して魅力的な人物ではなかろう. だって,感情に連続性が無いのだから,心にさしたる蓄積も無かろうから. で,その大した魅力の無いAさんとBさんを敢えて比較するなら,多少若くて容姿や健康を保っている「昔のその人」の方がマシになる. 若い頃の方が良かった,などと思われている人の正体はこれだ. また,自分で「若い頃の自分の方が良かった」などと思えてしまっている人は,要するに,無意識のうちに自分自身すらも自分を「つまらぬ人」だと評価しているのに他ならない.

蓄積の無い人は,「周囲からの扱い」こそが,自分の価値となる. もうこうなってしまうとその人は,本来独立不羈たるべき「人間」という崇高なものではなく,周りから利用価値を定めてもらう「道具」に等しい. 容姿なんてものは,煎じ詰めると周囲へのサービスの為にある装飾品に過ぎない.自分の中身とは別のものだ.

実のところ人間は,自分の顔を見る事すら出来ない(鏡というエフェクトを介して見えている顔は,厳密には自分の顔そのものではない). 鏡があるから容姿があり,時計があるから,概念としての時間も若さも存在している.我々の価値はそんなものに左右されないのです.


2/22(日)

日本では,年間の自殺者が11年連続で3万人を超えたそうだ.ただ事じゃないな. 単純計算で,11年の間に33万人超の自殺者が出ているということなわけだが,広島・長崎あわせた原爆投下による死者の総数より多い.

で,主な自殺の理由は,不況による失職だったりするのだそうな. 確かに気の毒ではあるが,しかしなあ.死んでも構わない(=生き続ける意志が無い)のであれば,職なんてどうでも良かろうに. 糊口のために働いているのじゃないのか.彼らは.

結局このように,自殺の本当の原因は,不景気などでなく教育の問題であることが分かる. 頭の中が混乱しているから,死を選んでしまうのだ. 義務教育なんかで,もう少し「考える能力の涵養」を主眼においたカリキュラムを実践してみてはいかがであろうか. 多分自殺者激減するぞ.


2/21(土)

今週の写真(影山リサ).

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以下,神田優花.

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2/20(金)

今週の写真. 何か最近忙しい.

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2/18(水)

葛飾北斎という江戸期の浮世絵師がいる.名前ぐらい聞いたことあるだろう. その北斎が,75歳の頃(天保年間)に発表した富嶽百景の跋文(後書き)にこうある.

己六才より物の形状を写の癖ありて,半百の此より数々画図を顕すといえども,七十年前画く所は実に取るに足るものなし .七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり.故に八十六才にしては益々進み,九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め,一百歳にして正に神妙ならんか.百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん.願わくは長寿の君子,予の言の妄ならざるを見たまふべし.

75のジジイが,70歳までに描いた絵など取るに足らぬものだと言い切っている.そればかりか,86になれば更に腕は上がり,90にして奥意を極め,100歳になれば神妙の域に達するだろうとまで言っている.百数十歳にして,生けるが如き絵を描くだろうと.

結局アーティストというものは,周囲からアーティストと呼んでもらえる人,などでなく,自分の内奥を抉り出して行ける人だということだ. 年齢など関係ないどころか,年を取れば取るほどに輝きを増す.

北斎は,上の跋文からも容易に読み取れる通り,非常にプリミティブな芸術家としての(原形とでも言うべき)特性を宿した絵師で,日本史上では稀有と言える本物のアーティストなのだが,実は日本人にはさほど評価されていない. ゴッホやドビュッシーに影響を与え,アメリカのLIFE誌上で企画された人類百傑に日本人でただ一人選ばれたほどの人物なのだが,日本人はその海外での評価を逆輸入する形で,北斎を再発見したと言って良い. 海外での評価を後追いするなど,日本人としては,あまり誇れる事ではない.


2/15(日)

時間が基本的に一定方向にのみ進むものだとするなら,人間という生き物はただ老いて行く一方,という事になり,繰り返す日々は死へのカウントダウンに他ならなくなる. 別に100%間違っちゃいないのかもしれないが,その人生観では,人間の一生など,時々刻々磨り減っていく蝋燭と変わらなくなってしまう.

若さというのは,生きた時間の短さに他ならないのだけど,そこに過剰な価値を見出してしまうと,常に明日という日が今日以下のものになってしまう.無論今日は昨日以下に. 過ごしてきた時間というものを,「心に蓄積するもの」だと解釈できなければ,そう考えるしかなくなる. 不幸な事だけど.

確かに,若さは可能性を秘めてはいる.が,それ以上では無い.試合開始前だから勝負の帰趨が判然としていない,とかその程度の意味でしかないのである. いくら試合開始前だからといって,少年野球のチームがプロ野球チームに勝てるなんて事は基本的にあり得ない.試合前だからとて,実力が変わるわけではないから.

私だって当然「可能性の漲る若さ」を経験しているし,今でも濃厚にその気分の中にいる.更には持てる記憶の全てを,こんにちの糧となしえているとも思っている. 私は,全ての昨日たちを,今も心に宿しているのだ. 一応断っておくが,昨日たちを宿すというのは,生きてきた実時間分のエピソードを全て記憶しているとか,そういう意味ではない.感情に断絶が存在しないという意味だ.

日々という階段を,一段づつ登って今日という日に至った.だから,私は過去に,今以上見晴らしの良い場所に立った事など無いのだ. 日々というのは,失っていくものではなく,心に蓄えていくものだ. 「あの頃は良かった」などと述懐してしまう人というのは,本当に「良かったあの頃」を経験しているのではなく,過ぎた日々が遠くなり過ぎているが故に,過度に概念化,美化されてしまっているだけではないのか. 昔が良かったなどと思えてしまうのは,その「良さ」が周囲からの扱いだとか,その程度のものでしかない証拠だ.

若さを失えば,可能性が薄れゆくか? 就職先を探していたら,年齢制限や学歴制限が謳われていた,としても,それはある人が「私は身長○○cm以上の人でないとお付き合いできない」などと言っているのと同じである.そんな人が世の中にいたところで,我々自身の価値は変わらない. 寄る年波に肌は衰えるだろう.でもそれは,たかが「外見」という,あくまで周りからの一評価基準である.心が衰えていないのであれば,我々自身は変わらない.それどころか,更に輝きを増しているかもしれない.

確かに「残された時間」というのは減り続けるのだろうけど,私の生きてきた時間の中で,今日より素晴らしかった日など一日たりとも無いのだ.何故なら,今日の私が,過去のどの時点より成長した私だから.一番成長した自分で,最も鮮やかな景色を眺めることが出来たのが今日という日だから. なので,明日の私もきっと同じ気持ちになるだろう. ピカソは「明日描く絵が一番素晴らしい」と言っていたそうだが,痛いほどに気持ちが分かる. 私だって,次に書く曲が最高傑作だ.


2/14(土)

今週の写真(神田優花). ウチは最近,結構忙しいのだけど,神田優花関連の動きをいくらか控えているからなのです.追々情報も公開していきます.

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以下,影山リサ.

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2/13(金)

今週の写真.

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2/12(木)

先日,図書館の中をうろついていると,教育関連書のコーナーに出くわした. 様々なタイトルの本が並んでいたのだが,中でも「いじめ」関係のタイトルが多く目についた.いまだに教育界はこの問題に頭を悩ませているらしい. もう日本人の宿痾といって過言でないな.

いじめが起こる原因を一言で説明するなら,「子供達が自分に自信を持てないから」に他ならない. 病根は,学校よりも家庭にあるのである. だからして,手を付けるべきも家庭からで,要は親に再教育が必要なのである.

と,まあここまで思いが至った時点で,それ(親の再教育)が現実に可能か否かと考えたら,やはり色々な面で難しい気がする. 現状,付け焼刃的に,学校などの教育現場にて個々の事例に対する火消しを計るしか無いのだろう. 思い切ってキリスト教を政策的に導入するとか,それぐらいやらないと,いじめ問題は永遠にこの国から無くならないかもしれない.


2/8(日)

何やらまた,マルチ商法みたいな事をやっていた会社の社長が,詐欺容疑で逮捕されたらしい. それにしても「騙された」と騒いでいる連中の醜さは何とかならないのだろうか.あなたがたの中には「信じた主体」というものが存在しないのか.

親鸞は「極楽浄土が実在するかなんてよく分からないが,自分は尊敬する師の教えを信じたから,地獄に落ちても後悔などしない」と言っている. また,「信じるのも信じないのも,自分で決めれば良い」とも言っている. 現代人の多くは,歴史時代の人間を,そこはかとなく「愚かだ」と思っているきらいがあるが,親鸞は鎌倉時代の坊さんである. 彼がもし,上の「被害者」らを目にすれば,微笑を禁じえないだろう.

騙されたと騒いでいる人たち,どうやら彼らは,自分たちの選んだものや愛したものを誇れないようだ.選んだとか信じたとかいう感覚すら無いのかもしれないが. 人を信じると言うのは,つまりは自分を信じる事だ. 彼らは自分自身すらも信じられないのだろう.

誤解の無いように言っておくが,私はマルチ商法の親玉を弁護する気など無いので,別にその人が死刑にされようが晒し首になろうが,一向に構わないと思っている. しかし,自称被害者たちの方も何とかして欲しい.


2/7(土)

今週のスタジオにて(神田優花).

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以下,影山リサ. 何やらステージ・アクションの練習とかしてたみたいです.

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2/6(金)

今週の写真.

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2/5(木)

評価について. 日本の戦国期に,石田三成というやや文官型の武将がいた.関ヶ原の戦における敗者である西軍の,事実上の総指揮者として歴史上名高い. その三成の麾下に,島左近という人物がいたのだが,今回はその人の話.

大和の筒井家を出て浪人していた左近は,当時既にひとかどの人物として定評があって,各所から仕官の要請があったのだが,それらを断り続けていたという. 最終的に,再三に渡る懇願もあって,石田三成に召し抱えられることになるのだが,その際三成は,当時の自身の禄高4万石から,その半分にあたる2万石を左近の俸禄に当てた. 三成は主君である秀吉に「主従の禄が変わらぬではないか」とからかわれたそうな.

三成は左近に,「当面は2万石で召し抱えるが,自分の出世に伴ってその禄高も上げていく.具体的には常に自身の禄の半分を分け与える」と表明したそうだが,さすがにそれは畏れ多いと左近の方で断ったという.その気持ちだけで十分だったのだろう. これら仕官にまつわるエピソードが,どの程度史実と合致するのか分からないが,その当時,島左近を「三成に過ぎたるもの」とて,揶揄する落首まで出回ったそうだから,三成の身代からみて不相応な買い物であったのは事実なのだろう.

時は移って関ヶ原の折,劣勢にあえぐ西軍からは離反者が続出したのだが,左近は最期まで三成のもとで奮戦し,その様子は狂気とも形容された. 左近は乱戦の中,敵方からの激しい銃撃によって斃れるのだが,譜代の臣でも無かった彼を,そこまで駆り立てたものとは何なのか. それは主君からの評価に他ならないだろう. 親の愛は無条件だが,他人からの評価には理解が必要になる. 人は時に,評価に殉ずる事すら厭わない生き物らしい. もうそれは銭・金の問題では無かったろう.

島左近は,まともな肖像画すら現代に伝わっておらず,史上さして有名とも言い難い. が,死にゆく彼の脳裏にどのような思考が巡ったか,だけは想像に難くない.

私は歴史オタクみたいな人ではないのだが,実在した人間の思考を推し量ることは好きだ. 歴史上の人物ってのは,僅か数種といったパラメーター(政治力・経済センスみたいな)だけで構成されているゲームのキャラクターみたいなものでは無いのだ.


2/4(水)

橘萌子,昨日はラジオ出演で,かつしかFMにお邪魔して来ました. 以下,収録の模様をUP. 今回からライブカメラとやらで,動画が配信(インターネット上で)されたらしい.ここ読んでる人の中にも,見た人いるんだろうか.

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パーソナリティの三浦社長・丸山さん,どうもお世話様でした.いつもフォローありがとうございます.


昨年末に,雑誌その他の媒体で告知してました弊社オーディション(アーティスト募集)について. 残念ながら,今回は一次選考通過者無し(0名)とのことです. たくさんのご応募ありがとうございました.


2/3(火)

唐の太宗(李世民)は,そもそも次男で,皇位継承権も無かったのだが,クーデター(玄武門の変)を起こし,皇太子であった兄を殺害した上で帝位に就いた.

その玄武門の変の直後,弑された兄(李建成)の側近であった魏徴という人物が,太宗に向かってこう言い放ったという.「お前のような者は早く殺すべきだと進言していたのに,皇太子(李建成)は聞き入れなかった.だから予想通りこんにちの様な事態を招いた」と. 当然太宗は立腹したが,考えた末,魏徴を処罰せず,やがて自らの側近として登用した. 太宗が何故に魏徴を重用したのかというと,「直言して憚らない者は得難いから」だそうだ.

翻って考えると,阿諛追従をこととする輩であれば,比較的得やすいということになる. 確かに,阿諛は言い過ぎだとしても,自分の欠陥を憚ることなく諌めてくれる人間なんて,そんなにいないのかもしれない. 更には,そういった「直諌する人間」を煙たがっているようでは,いずれその人の周りは,一分の隙も無いほどに,その程度の人間関係で埋め尽くされてしまうだろう. 早い話,耳障りの良い事しか言わないような「得やすい人」しか周囲にいなくなる.

結局,人間関係というのは,その人そのものである.あなたが選んだ人々があなた自身なのだ. 自分を高めうるよすがとなりうる人材を,貴重だと感じる人であれば,その人は自分自身を改善し続けるだろう. そうでない人は,きっとその逆の人生しか歩めないことになる.


1/31(土)

今日で1月も終わりか. 下の写真は神田優花.

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1/30(金)

更新間隔が空いてしまった.色々忙しかった割には報告すべき事が無かったもので. とりあえず今週の写真.

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1/27(火)

他人に対する尊敬について. 子供の頃の私は,他人を尊敬することが出来なかった.説教をたれる大人に対しても「綺麗事ばかりぬかしやがって」と,半ば軽蔑していた. 人間が人間に敬意を払えないでいるうちは,いかなる賢人の助言も,偉大な先人が遺した文章も,全て無価値となる.それらを受容できるだけの,精神の素地が育ってないのだから. 種の無い鉢に水を撒くに等しい.

私は数多くの問題を抱えた人間だが,誇れる事もある. それは,自分より優秀な他人を尊敬できることだ.尊敬できる点というのは,必ずしも世間の注目を集めるような特殊技能などではない. また,尊敬するというのは,他人と自分とに序列を付けるという事でもない.他人が自分より優位であったり,より多くのモノを持っているというのでなく,その他人が持っている「自分の持っていない部分」を認める事だ. 因みに,尊敬の対象とは,あくまで人格であって,その人の持ち物や肩書といった権威では無い.

私事になります. つい先日,珍しくリハーサルに遅れてきた女の子がいた.その人は急いでスタジオに向かいながら,我々のいる現場へ電話をかけてきたのだが,その内容は「すみません.寝坊しました」という身も蓋も無いものだった. 普通,遅刻する人というのは,「目覚まし時計が壊れてて」とか「急に体調が悪くなって」とかいう風に,何らかの言い訳を拵えて来るものだ.正直に自分の非を申し開くことは,意外と難しい. 言うまでも無く遅刻は悪いことだが,私は率直に,彼女の正直さに相応の敬意を持った.私に足りない部分を持ち合わせているから.

考えてみると私は,全くもって何一つ尊敬できる点の無い人間,とは付き合いたいと思わない.事実,今の私の周りに,そんな人はあまりいないような気がする. 出来ることなら私は,周囲にいる人たちのどこかしらを尊敬したい.

私は何も「もっと他人を尊敬しろ」などという説教をしたいわけではない. そうではなくて,他人を尊敬できた方が世の中が輝いて見える,という単純な事を教えてあげたいのだ. 他人を認めるというのは,自らを貶めることなどでは無いのである. 些細な事でも構わない.ある分野における「一日の長」を他人に見出すだけで良い.それが自分をホンの少しだけマシなものに変えるのだ.


1/26(月)

言葉の定義について. 「愛」とか言うと,すぐ男女間の恋愛を想像されてしまう.無論丸っきり違うというわけではないのだが,別に愛は男女間にのみ存在する感情ではない. 「自由」という言葉も,よく無制約・無制限といった意味で使われがちだ. 「謙虚に振舞う」というのもしばしば,他人に諂う事だと思われているし,逆に「自信を持つ」というのは,自己中心的に振舞う事だと思われている. 全部違います.

論語(子路篇)にこんな話がある. 弟子の子路に「先生が衛(国名)の政治を任されたら,何から手を付けますか」と問われた孔子は,「必也正名乎(必ずや名を正さんか)」と答えた. 名とは要するに「言葉」である.孔子は,何よりも先ず言葉を正さねば,いかなる物事も立ち行かないと考えていた. 上の話は,「名正しからざれば,則ち言順(したが)わず.言順わざれば,則ち事成らず」と続く.

人間は,言葉でもってあらゆる情報を解析・処理しているのだから(映像や音声などは副次的なものである),言葉の定義には厳格にならざるを得ないのだ. 言葉の定義を曖昧なままにしている人は,実のところ,常に意思の疎通が十分に図れないわけで,眼前に存在する宇宙や自分自身の事さえも,厳密に捉えられない人であるという事に他ならない. そんな状態では,いかなる物事も成就する筈が無い.


1/25(日)

私は,今のこの作業(音楽制作)を,多分死ぬまで続けているだろうけど,別にそれを義務として自らに課しているわけではない. 単に好きだからやっているだけで,好きでなくなったら即刻やめる. ただ,人間は基本的に変わらない.この先私が別人になることなど考えにくいので,おそらくはこのまま音楽を好きであり続けるだろうという,平明な観測が成り立ってしまうだけだ.

では,好きでやっていると公言している作業を,突如としてやめてしまう人,というのが何故存在するのか. それは,その人の公言する「好き」が単に嘘であったり,自分ですらよく「好き」の意味が分かっていないからだ.

自分の好きな服と,見栄えの良い(他人に良く映る)服は違う. 小学生でも,先生や親が喜ぶ回答を知っていたりするのだが,それが即ち「見栄えの良い服」だ. その服は,周囲を構成する人間関係が変わったり,時代の風潮が微妙に変化したりするだけでも,無価値になったりする. つまり,脱ぎ捨てられてしまうような事が,容易に起こり得る.

人は常に,面白いから笑うのだと思われているが,実は微妙に違う. あるテーゼに対し,どのようなリアクションを取るべきか,を学習の末に知っているという部分もかなり大きい. 選んだり,愛したり,笑ったり,何かを美しいと感じたり,これらを心に任せるままに振舞えない人生を,私は窮屈だと感じる.だからこんな大人になった. 出来ることなら皆さんにも,心に任せるままに振舞って欲しい. 今の日本が,もっと多様性を許容する,自由を尊重出来る社会であったら素晴らしいのに.


1/24(土)

今週の写真.昨日の続き.

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神田優花の音源について. ここ最近,新作をリリースしてないのだけど,今年こそはアルバムを出そうと思ってます. 新曲(収録候補曲)は,既にアルバム2枚分ぐらいゆうに録り溜めているのだけど,レコーディングの他にやる事が多くて,つい遷延してしまった.

前作「マインドスケープ」が完成した当時,あれはあれで結構なものが出来たと自負していたのだけど,新作は,歌に関しても,楽曲・アレンジに関しても,間違いなくあれ以上の代物になる. 期待してて下さい.


1/23(金)

今週の写真.

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ピカソや北斎は,絵を売り渡してしまうことに抵抗が無かったのだろうか.よく分からない. 私は自分に聞かせる為に音楽を作っているもので,自分が聴けなくなる音なんて作りたくない. この点で言えば,音楽(自作の録音物)はその性質上,どんな販路でリリースしようが,誰が何枚買おうが,更には原盤まで売り飛ばしたとしても,私が聴くことに何の支障も無い.私の性に合っている.

音楽家など,芸術家を称する者がよく違法薬物を使用したりするのだが,あれもよく分からない. 体外からの薬物摂取によって,脳の状態を正常なからしめることで,より奇抜な発想を得ようとでも思っているのだろうか.

発想というのは,思索に思索を重ねる事によって得る,論理の所産である.薬物などで,階段をすっ飛ばすようにして思考の常軌を逸させるような,いわば短絡によって一時的に得るようなものではない. そんな方法でモノを作っていたら,常に薬物に頼らなければならないし,作品の美醜を判定するための正常さを失った状態で,創作に臨まねばならないことになる. 私にはそれでは意味が無い.


1/21(水)

自由について. 自由とは,「自らに由(よ)る」というだけの意味だが,こんにちの日本では,どうも履き違えられている感がある. 自らに由るという主体性の部分が溶け去ってしまって,単に無礙・放埓といった意味で使われている気がしないでもない. 自由と言う言葉が誕生した当初(明治期だが),当時freedomの訳語を創出した知識人は,当然のように正しい意味を理解していた. 「自由」という字を当てているのが,その動かぬ証拠と言って良い.

明治以前,例えば幕末期の吉田松陰などは,何かの文章で「フレーヘード」が云々と言っていた.時代から推して,蘭書からの引用だと思われるが,英語でいうところのfreedomのことを指している事はほぼ間違い無い. その文章,前後の論旨など正確なところは失念したが,フレーヘードは文脈上,革命のスローガンといった位置付けで使用されている. フランス革命のスローガンの一つである「自由」からの連想だろうか.

上の例が象徴するように,前近代の日本に「自由」という言葉は存在しなかった. 言葉が存在しなかったという事は,観念そのものも無かったということで,観念が存在していなかったという事は,即ち日本人の精神風土に自由は必要無かったという事だ. 基本的に主体性の無い民族なのだろうか.

自由には責任が付いてまわるという.そりゃそうだ.自らに由る行為なのだから,当然責任も自身で請け負わなければなるまい. 昨今の日本では,いかがわしげな新興宗教団体から高直な壷などを買ったり,あるいはマルチ商法などに関わって,高額にての代理店契約なんかを結んだ輩が,後々になって「騙された」などと主張し,あまつさえ訴訟を起こしたりする. 「信仰」あるいは単に「信じる」という行為が,自由に支えられているという感覚が希薄なのだろう.

言葉という割符の意味が共有されねば,どのようなメッセージも無価値になりかねない. いくら精神風土がそれを欲しないからといって,言葉を,本来の意味を歪めたまま共有するというのは好ましい事でない. 自由という言葉の意味を見つめ直せば,自由の本来の意味も感じられるようになるかもしれない.


1/19(月)

世間で言う程,人間に個性は無い. 言うまでも無いことだが,AさんとBさんは同じでないと言った程度の個体差ぐらいは,誰にだって当然ある.身体・環境といった,人間を構成する諸要素が異なるからだ. 一般的に捉えられている個性とは大抵,異なる触媒を得た結果として生じた表面的な違いに過ぎず,それらは条件さえ備われば誰にでも生じうる差異なのだ.

不良少年と良家のお嬢さんの違いは,身体条件・家の経済力・親の思想やその実践である教育,このあたりに尽きる筈で,言うまでも無く,それらは全て外からのインスピレーションに過ぎない. そのインスピレーションに対する「解釈」こそが個性の部分なのだけど,この解釈に個人差は少ない. そう思いません?


1/18(日)

最近あんまり聞かなくなったような気がするが,一時期よく「自分探しの旅」とかいう表現が流行していた. 要するに,現状の自分に不安定さを感じた人が,進むべき方向を探す旅に出ることらしいが,それまで過ごしてきた日常の中で,どうしても見つからなかったような「進むべき方向」が,旅先なんかで不意に見つかるものだろうか.

進むべき方向が定まらない人というのは,提示された選択肢が少ないのではなく,目の前に現れた事物に対する感想が希薄なだけではないのか. 感受性の豊かさというのは,それこそ個性なのだろうから,後天的に涵養出来るものなのか分からないが,感受性こそが人生をカラフルにするのだと思う. 「旅」などというのも,要は外からのアナログな刺激で,ある意味では想像力の欠如を一時的に補っているだけだ. 自分の中にある感受性そのものを培った方が良い.

私に関して言えば,欲しいものは旅先などに存在していない.自分の中だ. 自分の中に眠っている筈の,新たな発想を探している.進むべき方向は定まっているので,私の毎日はそれを掘り崩す作業となる. 日々の試行錯誤が作品なのです.


1/17(土)

今週のスタジオにて(神田優花).

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以下,影山リサ. 影山リサは,これからしばらくの間,新作のリリースとか新曲のレコーディングの予定がありません. 技術的な面の強化期間になるらしいです.発表済みの音源がいくつかあるので,しばらくそっちの方を聴いておいて下さい.

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1/16(金)

今週のスタジオにて. 今日は来客が多くて,時間が無い.

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橘萌子が,2/3(火)にラジオ出演します.詳細はInfoを見て下さい.とりあえず報告.

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1/15(木)

よく他人と自分との関係を,力学的な水位でしか捉えられない人がいるのだが,そういう人らにとっては,この世の中の全ての他人たちが,自分より上,もしくは下の存在ということになってしまう. つまりは,社会とは序列の事で,常に人間関係とは,上下のことになる.

人間関係を上下でしか測れない人は,自分より上と思しき人を見た時に,卑屈な態度を取らざるを得ないのだが,同時に自分より下と見做した相手には,当然の権利として,尊大・倨傲・不遜な態度を取る.

そういう不遜な人に対して「謙虚になれ」と言ったところで,表明的な形式としての礼儀作法ぐらいなら踏襲出来ようが,心持ちとしての「謙虚さ」を体感など出来ないだろう. その人にとっての「謙虚のポーズ」は,本来格下である相手を,あたかも格上かの如く扱うことに他ならず,単に譲歩を強いられる事でしかないのだから.

何故そのように,他人との距離を力関係でしか捉えられない人になってしまうのか. それは自分に自信が持てないからだ. 自分に自信が無いから,他人を認めることが出来ず,自分を軽く見積もっているから,他人もその程度にしか扱うことが出来ない. 要するに,人間の価値がよく分からないのだ. 幼少期に愛されなかった人や,臆病過ぎる人は,こうなりがちな気がする.人間の価値を推し量るだけの余裕が無くなるのだろう.

人間の価値が分かっていないという事は,その人の目に映る他人とは,単にモノというか,オブジェに過ぎず,感情の通った人格として捉えることが困難な対象である筈だ. だから自分にとって有益か有害かなどという,「利害」を置いて評価することが難しくなる. こういう人が世界観を改める為には,周囲の愛に気付くしかないのだろうけど,無条件の愛など,どこにでも転がっているような条件ではない. 愛を得る為には,まず自らが愛さねば.

私が歌い手さん(ボーカリスト)に求めるものは,第一に「愛」だ.歌唱技術など二の次です. 私は愛のある表現者が好きなのだ. 一般に,人が他人に物を貰った時,手にした物の金銭的価値に喜びを感ずるだろうか.違うだろう. 物をくれた相手の,心中に渦巻いたであろう「思い遣り」に感謝する筈だ. 歌や音楽作品なんてのは,本来モノでは無いのだから,人はパッケージや盤といった物質ではなく,「そこに込められた何か」の方に敬意を払っている筈だ. 客というのは,見下して良い相手では無いです.歌手になるというのも,他人を見下せることでは無い. 心配しなくても,世間は人の能力やキャリアにそれ相応の敬意ぐらい払ってくれる.また,能力などなくても,一人の人間としての尊厳ぐらい感じてくれる.


1/14(水)

人は,愛ある環境で育てば,さほどの学究を経なくとも愛を体感出来るようになる. それと同じぐらい平明な事実として,愛されなかった人に愛は育ち難い.

ある人間の集団が,愛に満ち溢れていた時,そこでは常に新しい愛が生まれ続ける. 愛の枯れ果てた環境は,愛を生まないばかりか,憎しみを生産し続けるかもしれない. 愛にも憎しみにも相乗作用があり,それらは自己増殖を繰り返す. 無論のこと,無関心というのも同様で,更なる無関心を生む.

集団の中に,愛の無い底意地の悪い人,がいた場合,彼は周囲を悪意でもって捉えているので,他人に対してその悪意を具体化した行動を取る. 対象とされた相手は相手で,情勢上,対抗措置をとらざるを得なかったりする.万策尽き果てた末には,その愛無き相手に屈従を強いられるかもしれないのだから,時にその対抗措置は,辛辣・酷薄を極める. 誰かが緩衝材となって,その負の連鎖を断ち切らない限り,その集団は憎しみの拡大再生産を止められないだろう.

では誰が,まず最初に緩衝材となるべく手を挙げるのか. それはあなたでなければならない,というのがキリストの教えで,何よりもまず「汝の隣人を愛せ」と説く.そればかりでなく,「右の頬を打たれたら,左の頬を差し出せ」とまで言う. 確かに,右の頬を打たれた人が「いかにして相手の頬を打ち返すか」に捉われているなら,その集団には争いが絶えない筈だ. 結局のところ,争いを止めるには,先ずはあなたが,それを望まなければならない,という事になる. 当たり前の話だが.

子供の頃の私は,自ら率先して,上で言う緩衝材になるべく行動を起こしたり出来なかった.聖者になる資質など無いのだろう. 今でも大して変わらない.愛の伝道師になどなれない. が,負の連鎖の一部にはなるまい,といった程度の自戒はある.これが私の精一杯かもしれない. 今の私は精々,自分自身のために日々音楽を作り続け,世界に対して,出来る限り害の無い人であろうと心がけることぐらいしか出来ない.

死後に判明した事だが,マザー・テレサはその晩年,神の不在に絶望していたそうな. 要するに,彼女は気違いではなかったという事だ.尚のこと偉大であると言える. 修道女の話に仏教を持ち出すのも何だが,親鸞の言う悪人とは,彼女のような人も含むのかもしれない.


1/11(日)

結構前(と言っても去年だけど)に録った曲で,聴く度にアコギのチューニングが気になっていたヤツがあったのだけど,そもそもギターなんてチューニングの甘い楽器だし,良いだろうと思って放っておいた. しかし,昨日あらためて聴き直してみるに,どうも気持ち悪くて,思い切ってギターだけ録り直すことにした.

急遽そんなことを思い付いてしまったので,結局昨日はほぼ半日ぐらいその作業に使ってしまった. 一旦マスタリングまで終わっていた曲ではあったのだけど,リリース前だったので,こういう修正作業も実行に移しやすい. 困るのは既にリリースしてしまった後に,粗を発見してしまった場合だ.いつもその曲の事が,頭の片隅に懸案事項となって残ってしまったりする. モノを作っているとこういう事,無数にあります.


1/10(土)

影山リサ,今週のスタジオにて. 年末に発表した新作「BYE BYE BABY」,好評発売中です.

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神田優花,去年録った新曲のチェックを兼ねてスタジオ入り. 今年一発目のリハでした.

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1/9(金)

今週のリハーサル風景.

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1/7(水)

批判と精神について. 物事を批判する精神を持つのは悪い事ではないのだが,物事の批判にかこつけて,日頃の自分の鬱憤を晴らそうとする精神は醜い. 両者は明確に違う.

他人を批判すると,結果,相手の気分を損ねてしまう事があるのだが,そうならない事もある. 批判が至極中立的な感想に過ぎなかったり,批判の裏に愛があったりする時,相手は不思議とそれを察知してしまうもので,そんな場合,険悪な空気は案外生まれなかったりするものだ.

逆の場合とは何か. それは,自らに巣食った(いわば期せざる排泄物のような)妬心・憎悪が,批判の名を借りて溢れ出しているケースだ. これは周囲に悪臭を放つだけでなく,結局批判をしている当人そのものを,より一層グロテスクなものに変えてしまう.

自分以下と思える存在や,蹴落としたい相手,あるいは,大した実力があるとも思えないのに,社会的評価を得てしまっている者,などと言った,要するに「認めたくないもの」を発見した時,素直に肯んずる事が出来ず,非難の声を上げずにいられない人がいる.「みんな見てくれ,コイツはこんなに酷いぞ」と. それは結局,自身の心に染み付いた,汚物のような何かを肥大させているに他ならないのだけど,それに気付けない人は多い. 無論,肥大化の具合に個人差はあるのだが,肥大が甚だしい場合,その人は深刻な社会不適合者となり得る.

精神の基底に,相手に対する愛が備わっていない場合,しばしばその人の発する批判や要求は,相手の気分を害する. そういう人は大抵,苦悶に耐えつつ主張を引っ込めるか,さもなくば,ちゃぶ台を引っくり返すが如く,相手との関係を破壊する事も辞さないつもりで,非難の金切り声を上げる. 後者を採った場合,相手も生身の人間なので,関係が本当に潰えてしまったりする. 本来,愛さえあれば,主張や要求など,さほど難しい事でも無い筈だ.

インターネット上などで,グロテスクな自分をぶちまけてしまっている人というのは,要するに愛無きが故に,普段,相手のとの関係性を上手く取り持つ事が出来ず,インターネットの世界が,自分を特定されない場であるのをいい事に,だらしなくエゴイズムを解放しているだけなのだろう. ますます浮世との距離を作ってしまうだろうに. おそらくあの手の人は,日常生活においても,人格(生身の人間)以外の何かとの関係を,強化せざるを得ない境遇にあったりする筈だ.

批判が常に相手との不和を生むようなら,自分の心の健全さを一度疑ってみるとよろしい. 不健全なる精神から生まれた批判は,腐臭を放つし,それを繰り返すうちに,その悪臭は自身の抜き難い体臭(固有の性格)となる. 私自身は常に,自分をあんまり醜くしたくないので,出来ることなら健全でいたいと思っている.単に坦懐でありたいだけだけど.


1/6(火)

ちょっと前の事だが,とある有名ポータルサイトのトップに載っていた広告の話. おそらくは出版業界のキャンペーンなのだと思われるのだが,出版物(特に書籍)の販促の為に,特設ページまで作られていた.

そのキャンペーン広告のコピー(謳い文句)に,「今時,好きな作家の一人も言えないようでは恥ずかしい」みたいな文言が踊っていた. まあ世相を反映していると言うか,現代人の芸術(文学も含む)観を垣間見た気がする. 本なんて,本当に読みたくないのであれば,別に読まなくたって良いのに.

何故業界側はこのように,魚を網に追い込むようにして,需要の無いところに消費を生み出そうとするのだろう. 正しい意味での読書家や音楽愛好者を育てなければ,この分野の先は長くないのに.

とまあここまで書いて思ったのだけど,現代の日本ってのは精神史における過渡期なのかもしれないな.カタストロフィの前兆というか,今後この手の業界は今の数分の一とか,数十分の一とかいう規模でしかなくなるかもしれない. そうなるなら,現在音楽業界で起こっている様々な現象が,後世エポックメイキングな出来事として語られるようになるだろう. まあ世の中なるようにしかならないから,それもいいか.


1/5(月)

もしジョルジュ・ブラックが,伝統的絵画様式の模倣における一点の翳りなき秀才で,例えば東京芸大を首席で卒業するような人物だったなら,こんにち美術史に,これ程の功績を残すことなど無かったろう. かといって単に,ごく初歩的な様式すらも,模倣的に継承することが不可能な程未熟では話にもならなかったろうが.

ブラックに准えるなどおこがましいが,私は様式としての音楽の模倣が不得意である. まず音感や楽器の演奏技術といった,スポーツとしての音楽に達者でない. 実のところ,これだけでも,アカデミックな意味での音楽には不向きとされる. 実際,先行型の「作曲家」は,一流のプレイヤーでもある事が多い.

かくいう私も,昔はギター小僧だった. ある時唐突に,これ(ギター)をどれだけ練習しようと,自分はプレイヤーになれるほどにも上達しないであろう,という事に気付いた.理由は単に才能が無いからだ. 勿論,今でもある程度楽器演奏は嗜むが,昔のように毎日欠かさず何時間も楽器に齧りついている,なんて事は無くなった. その代わり,楽器の構造・物理性に,あまり拘束されない創作方法を手に入れたような気はする.

早い話,私自身が,先行の優れた音楽家像に近い人間で無いので,「自分の音楽」という様式を作るしかないのだ. だから,私が作っているものはあくまで,定義ごと私の考える音楽作品である. 既存の音楽様式に照らし合わせた評価など,ハッキリ言ってどうでも良い.


1/4(日)

以前このページで,人格(人間の性格)は基本的に変わらない,というような事を述べたのだけど,それについてまた考えた.

結論そのものは変わらない.根本的に人格は不変のものだ. また,それと同時に,人間の表面的な振舞いは変わり続ける.周囲のパワーバランスは日々変化し続けるからだ. その変化について穿って考えてみた.

人間は固有の感受性を持っているので,世界観を根底から変えるのは容易でないと思われる. 「悔い改める」というような言い回しがあるが,改めると言うより,実際には「付け足す」といった表現の方が近いような気がする. 例えば,ある心の醜い人が,ある日を境に,突然に心の美しい人への変貌を遂げる事があるのなら,それは別人に生まれ変わるという事に他ならず,現実的にはあり得ないだろう.

人は,自分の醜さを深く認識して,現時点での自身を総括し,そこで何らかの教訓を引き出し,延いては「新たな自分像」を思い描くに至る.そこで結んだそのイマジネーションに,一歩づつ近付くことによって,人は少しづつマシな自分になり続ける.このプロセスが一部でも欠ければ,人は成長を止めてしまう. やはり理想の自分とは,今の自分の延長線上にあるものだ.歴史的連続性の無い「別人」にはなれない.

例えばこの私が,明日突然に有名人や権力者になったとしても,今のこの心が俄に豹変したりでもしない限り,私自身は何も変わっていない. 新しいおベベを着せてもらったに過ぎない. やはり私は,誰某という先行のモデルにもなりたいとは思わないし,どう背伸びしてもなれないと思う. 私の描く私にならねば.


1/3(土)

いわゆる「反抗期」について. 辞書的な解釈では「自我の発達過程において、周囲のものに対して否定的・反抗的態度が強く表れる時期」の事だそうな.しかしながらこの「反抗期」という表現は,大人の視点から出た一方的な評価に過ぎない.

生まれたばかりの子供というのは,基本的に一人で生きていけない.親の扶助あってはじめて生き長らえることが出来るわけで,この辺,他の哺乳動物と変わらない,と言うか,ある面では人類などそれ以下でしかない. で,その自分では何一つ出来ない子供が,ある程度大きくなるにつれ,おぼろげながらも一つの人格を形成し出すのだが,親の方は,その事態に対する認識がやや遅れてしまう事がしばしばある. いつまでも「何一つ出来ない乳呑み児」だと錯覚してしまう. この解釈の上での齟齬が,やがて両者の衝突を生むに至るのだが,それを「反抗期」とは如何なものか.

親がどのように侮ろうと,子供の中には確固たる人格が芽生えつつあるのだから,当然ながら,親からの干渉に一々反応してしまうことになる. 自分の傷口を舐めるのと同じ感覚で子供の傷口を舐めると,子供は「他人の唾液で汚された」と感じてしまったりする. これを反抗期と評するのは,やや一方的過ぎる嫌いがあるように思える.子供という一人格を,自身の手足と同様に解釈している方にも落度がありはしないだろうか.

私は,以上のような事を考えながらつくづく思ったのだが,何故人は自分が子供だった事を忘れてしまうのだろうか. 子供は子供にしかなった事は無いが,大人は子供だったことがあるのである.無理解を非難されて然るべきは,どちらかと言えば大人の方だろう. 思春期のある時間に,自分自身にも説明のつかない葛藤を抱えてしまっている子供に対して,「コイツは反抗期にある」という評価はあまりに愛が無さ過ぎる.

私はもういい歳なのだけど,ある意味では今でも反抗期にあると思っている. 人間が自我を確立する過程における,ある段階を「○○期」などと総括してしまうと,何だかあたかも天災かのようで,放っておくと自然に解消する事態かのようだが,そんなわけない. 大抵の家庭において,時と共にこの手のトラブルが解消されてしまうのは,無意識のうちにでも,親が子供に対する認識を改めざるを得なくなっているからだ.


1/2(金)

音楽のジャンル(カテゴリー)について. モノを作る人間にとって,ジャンル名ほどどうでも良いものは無い(筈だ).少なくとも私はそうだ. しかし困った事に(困っても無いが),音楽作品を商品化しようとすると,流通に至るまでの段階で,作品のカテゴライズ(ジャンル別け)を求められることがしばしばあってしまう. 消費者の商品検索の便宜を図るためでもあろうし,別にそれにさしたる抵抗も無いので,我々も素直に,自社の音に何らかのジャンル名を冠することになる. いわゆるPOPSとかROCKとかの事なのだが,卸す先(業者)によっては,もっと細かいジャンル別けや,あるいはサブジャンルの指定(ジャンル内の更なるジャンル別け)まで求められる事さえある.

こういう作業(音楽制作)をやっていて,作品なんかを公開していると,当然ではあるが様々なリアクションが返ってくる.中でも,ここ最近気が付いたのは,一旦ジャンル名を冠すると,「こんなの本物の○○(ジャンル名)ではない!」などと言い出す者が出現することだ.仮にそれがマイナーなジャンル名だったりすると,その傾向は顕著になる. ある人には,ジャンル名が,レゾンデートル(存在意義)にすらなってしまっているのだろう.

私は音屋なので,毎日が試行錯誤と言うか,思索の繰り返しになってしまう. あくまで自分の必要に応じてだが,時に管弦楽法の本を読み,JAZZヴォイシングを学び,時にはドラムのルーディメンツを学ぶ. だからして,ある時試みに作ってみた「HIPHOP臭い曲」を,「こんなの本物のHIPHOPじゃない!」などと評されても,「それはそうかもしれませんね」としか答えようが無い.私は,私の中に答えの存在する「自分の芸術」を模索しているのであって,既存のジャンルの様式に沿う創作物など,ハナから作ろうとしていないからだ.

一応私は,ソングライターであり,プロデューサーでもある. あるアーティストに楽曲を作る(宛がう)際には,まずアーティストのカラーというかイメージを設定し,その埒内でレパートリーを考えて行く. 例えば神田優花鈴木サヤカというアーティストについて,私はその全楽曲の作・編曲を手がけているが,当然一定の方針の下に作り分けている. 脳内にある別々の箪笥からモノを取り出しているのだ.また,各アーティストの数あるレパートリーについても,細かく色々な引き出しからモノを出す.隣の箪笥から引っ張り出して来たりまですると,聴く人に散漫な印象を与えかねないので,そこは一応考慮している. また,それらの箪笥や引き出しの数は,日々増えて行っている.過去に開けた事のある,ある引き出しを二度と開かなくなる,なんて事もあり得る. とにもかくにも,特定のジャンルに拘泥する気がそもそも無い.

例えば鈴木サヤカには,60曲ぐらいの作品があるのだけど,そのウチの僅か数曲は「chiptune」を称している.別にそういう様式に近付こうとしたわけでもなく,作品を作った後に,その手の音楽を「chiptune」と総称するらしいという知識をたまたま得たから,とりあえず冠してみたまでだ.それこそ検索の便宜の為に. そうすると「こんなの本物のchiptuneじゃない」とか「(chiptuneとして)良くない代物だ」などと言い出すリスナーがやはり出現する.

まあウチとしても,「何を,こちらこそ真のchiptuneだ」などと主張する気もサラサラ無く,「あるいは仰せの通りかもしれませんな」と言うしかない. 私共にとって音楽ジャンルなんてこの程度のものである. また,音楽のジャンルというものは,そんなに厳密な定義が存在するものでもなく,ある程度自由な解釈が許されているものだと思っているので,今後も必要に応じて何らかのジャンル名を名乗る事はあるだろう.

実のところ私は,上のような意見(批判)を表明してしまう人の心根の部分が,ある程度理解出来なくもないので,今回の様な申し開きというか,こういう文章を上げる事に大した意味がない事も分かっているのだが,とりあえず一度表明しておこうかと思って.


1/1(木)

今日から2009年ですね.今年もよろしく.


正月休み中なので,ぼんやり音楽を聴いていて気付いたこと. 昔のアーティストってやたらにカヴァー曲をやりますね.極端なものだと,アルバム収録曲の大半がカヴァー(非オリジナル)曲だったりする(ストーンズの1stなんかまさにそれで,オリジナル曲は1曲だけしか収録されてない).

当時と今とでは音楽産業の規模も違い過ぎていて,何故上のような事が起こるのか,現代人には分かり難くなってしまっているが,要するにあれは,タイアップ(シングル)曲の代用品なのだろう. 現代の商業音楽って,アルバムをリリースする際には,先行のシングルにタイアップをつけたりして,とにかく収録楽曲の認知度を上げる.一般にリスナーは,1曲も知っている曲が収録されていないアルバムを,あまり買いたがらない. 先行シングルの認知度が高ければ高いほど,アルバムは売れる傾向にある.それならばいっそスタンダード・ナンバーを入れてしまえば,手っ取り早く且つ効果も高い.それこそ誰でも知っている曲なのだから.

昨今の音楽業界にカヴァー・ブームが起こってしまっているのは,要するに先祖がえりというか,業界が後退しているわけで,ある意味,斜陽にある証拠なのだろう. ベスト盤の濫造というのも根は同じで,実は,昔はアルバムとはベスト盤の事であって,現代で言う普通のオリジナル・アルバム(トータル・アルバム)こそが,ある時代を境に勃然として濫造された,いわば流行の所産なのである. しかし,ここまで言って何だが,今回の主題はそこではない.

私は昔から音楽を聴いてきたのに,こんな単純な事実(カヴァー・ソングがタイアップ曲の代用であるという)につい数日前まで気が付かなかった.当時では常識であったろうに. それ程までに時間というのは,何もかもを洗い流してしまう.

鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」という書物の中に,「歓楽(御歓楽)」という用語がいくらか出てくるのだが,どれだけの現代人にこの「歓楽」の意味が分かるだろうか. 「将軍の御歓楽によって,行事が延期された」とかいう具合に使われているのだが,要するに「歓楽」は現代で言う「病気」を指す用語なのである. また,日本史における江戸時代というのは,時間にして僅か百数十年前までの時代区分のことを指すのだが,その江戸時代人がどのように「用を足していた(排泄していた)か」が,正確に分からなくなっているという. 歴史時間というのは,どうも思った以上に遠いらしい.他にも,人名などというのが,実のところどのように読まれたのか分かっていないケースは多い. 歴史の授業で習うような有名人の名も,発音上,どこまで信用できるのか怪しい.

人間なんてせいぜい70〜80年ぐらいしか生きられないので,たった100年時間が経っただけでも,ほとんどの人が死に絶えてしまって,ある時代の空気というのは忘れ去られてしまうみたいだ.


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