Staff diary  
スタッフ日誌[2008]

[文 / 益田(制作)]

12/30(火)

私はあまりモノ(物質)を欲しがらない.むしろ所有を嫌がっているとすら言えるかもしれない. とにかくこの「所有観」について.

私は仕事柄というのもあって,楽器・機材の類をいくらか個人所有しているのだが,その大部分は随分昔に買った物で,一応愛着が無い事もないが,基本的には手放しあぐねているだけの物だったりする. 現在常用している機材の多くは会社の備品で,個人的に機材類を買う事はほとんど無くなった. また,使っている機材も平均的な同業者らに比べると,圧倒的に少ない.必要最小限と言って良い. 要するに機材が欲しくないのである. 音屋さんたちの中には,機材のコレクター的な人種もいるのだが(別に悪い事ではない),私は全くもってそういったタイプではない.

楽器などといった音楽制作機器類に限らず,プライベートにおける奢侈品の類も殆ど持たない. たまにテレビ番組などで,出演者が賞品を貰うようなシーンを見かけるが,食べ物や商品券などといった,いわば消耗品ならさておき,そうでない代物の場合,私はいつも「自分があんなモノを貰った日には,どうやって処分すれば良いのだろう」などと思い耽ってしまう. それほどまでにモノが要らない. 例えば,車などをプレゼントされるなどというのは(無いけど),軽い嫌がらせに属する.だって軽々に売り飛ばすわけにも行かないだろうから.

何故こんなにモノが欲しくないのかは,自分自身よく分からないけど,多分心の問題なのだろうと思う. 私は過去に味わった「気分」をかなり明確に覚えている.悪い気分も勿論だが,良い気分も当然覚えている.覚えているのだから,記憶の中から取り出して味わうのもそれなりに容易だ.当たり前だけど,それらの記憶を維持するのに特別なコストは掛からない. 私にとって一番の娯楽は,良い気分を味わう事なのだ. モノに依存する部分が少ない.

モノというのは,基本的に「自分の外」に存在するものなのだけど,私が日々音楽制作を通して得ようとしているものは,「自分の中」にある発想である. ついでに,モノをさほど欲しない私なのだが,他人に関心を持つことがしばしばある.しかしながら,例えば「友達」や「恋人」などと言った記号の付いた物質が欲しいのかと問われると,そうではない. 興味を持ってしまうのは,結局はその人の「頭の中身の面白さ」にである.

将来,我々がやっている事業の規模が変化したりして,モノの所有状況が変わることはあり得る. しかし,基本的に私自身が,所有を好まない体質であることは変わらないだろう.


12/28(日)

影山リサの新作「BYE BYE BABY」(全3曲/¥1,260),昨日から販売開始されています. 以下,収録曲についてのコメント.

1曲目「BYE BYE BABY」と2曲目「Unchained Melody」は,80年代っぽいFMサウンド全開の作品.今年発表したアルバム「Jewelry Box」の流れを汲んだ楽曲です.3曲目の「Dear My POPSTAR」は,同名の曲がアルバムに収録されているんですが,それの別Mixです. 基本的に「Jewelry Box」の補遺みたいな音源になってます. アルバムの選にもれた楽曲たちって感もあるけど,こっちはこっちでがんばって作ってますので,良かったら聴いてみて下さい. 下はタイトル・ナンバー「BYE BYE BABY」の試聴用サンプル.

BYE BYE BABY」(MP3)


12/27(土)

曲を作る理由. 今回の話は伝わりづらい事を承知の上で上げる.

私が一番大切にしているのは「心」なのだけど,その心の良好な状態,即ち「感動」を得るために曲を作っている.あくまで自分のために.

今までずっと生きてきた時間の中には,時々刻々捉え続けてきた「感傷」が無数に存在するのだが,いつも私は,それらを細かく分類・腑分けした上で,良質な感傷を再現しようと試みている.そして,その再現のための重要な補助ツールとして作品がある. 子供の頃に感じたあの気持ちを,自分にもう一度味わわせるための道具として. だからして,感情の起伏・パターンが少なかったり,「心」が大切でない人には,曲など必要ないかもしれない.私には必要だけど.

味わった無数の感傷を覚えていない人の精神は,物事の美醜を判定する材料に乏しくなるだろうから,作品を生み出すことが難しいはずだ. 少年の頃に聴いた音楽を,心底カッコイイと感じた人だからミュージシャンを志すわけで,その気持ちを忘れてしまっては,良質な音など生み出せない.

ハッキリ言って,私は子供の頃からほとんど何も変わっていない.無論,時間相応の経験値ぐらいならある.が,精神における歴史的連続性の濃度でいうなら,少年期などまるで昨日の事だ. 私は,引き出せる限りの記憶について,その局面で覚えた感情を一々詳細に覚えているし,だからこそ作品が生み出せるのだと自負している.

誰だって,様式を一通り理解すれば,曲らしきものぐらいは出来る. しかしそこで上がった「曲らしきもの」は,しばしば本来の創作とは別のリビドーから生まれている事があり,今の私にはそういう,自己顕示欲の残滓を鑑賞する趣味はとりあえず無い. 「曲らしきもの」と「曲」との違いが分からなければ,永遠に作品は出来ない.と言うか,創作を必要とする精神の素地が生まれない.


12/26(金)

一応先週で今年のリハは終わりだったのだけど,今週は補講みたいな感じで,ちょっとだけスタジオ入り. やり残していた事も結構あったので.

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12/25(木)

クリスマスですね.毎度の事ながら,あんまりそういう浮世の戯れ事とは無縁の私.今日も仕事なので.

今月一日発売の月刊Auditionにウチの記事(アーティスト募集告知)が載ってるんですが,それの締切りが今月一杯,来週の水曜になります. 奮ってご応募下さい. 因みにその募集記事,いつもの神田優花に加え,今回から影山リサの写真を載せてます.影山リサは,今年リリースのアルバム「Jewelry Box」も,引き続き発売中です.神田優花もいずれ新作出しますので,こちらもよろしく.


12/24(水)

前から思ってたことなのだけど,いわゆる「似たもの夫婦」ってありますよね.あれについて. 因みに,ひとえに「似ている」と言っても,人格的な部分を抜きにした単なる容姿(特に顔の造作)のみについての話.

見た事ありませんか.単純に顔の似ている夫婦(あるいはカップル)を. 私はある.それも複数例. 言っておくが,いくら家族とは言っても,夫婦の顔が似ているのは,親子や兄弟が似ているのとは意味が違う. 夫婦というのは血縁上は赤の他人なのだから,遺伝的な面で見れば似ている筈が無い.夫婦の顔が似ているのなら,何らかの理由でそういう相手を意図的に選択しているのである.

いきなり結論になるが,人間って,本能的に自分の顔を,「美しい」あるいは「可愛い」と感じるように作られているのではないだろうか. だから当然,自分の子供を愛でる.子供というのは遺伝子の半分が自分と同じ,半複製品なのだから,基本的に顔の構造も似てしまう. 生き物が自分の子を可愛がらねば,その種は危うい.

この理屈を突き詰めると,例えば芸能人などで,顔の作りが大衆に受けてしまう人というのは,必ずしも絶世の美男・美女ではなく,ある意味「一般的」な顔であるケースが多くなる事になる.また,よくありがちな「造作上の欠陥」をそれとなく宿しているタイプも受容されやすい事になる.実際そんな気がする. 言わずもがな,その欠陥は,醜悪な程にあからさまではマズい.一応「美人」という触れ込みでブラウン管に映っている人間が,自分と似たような欠陥を抱えていたりするからこそ,価値を見出してもらえる部分もあるのだろうから.


12/22(月)

週末は休み無く編集作業をしてました. 肩が凝った.


メールなどに使われる「絵文字」について. まあ大抵の人はご存知かと思われるが,絵文字というヤツがある(知らなければ,「絵文字」で検索していただけると山ほど出てくる). 若い人はよく使っているのだけど,要するに文脈上,喜びを表現したいときに「笑顔」の絵文字を挿入し,謝意を表したいときに「土下座している人」の絵文字を使う,といった具合にである. 実は私は,その絵文字文化,あんまりよろしくないもののような気がしている.

近頃の若者は怪しからん,とか言うつもりはない.そもそもああいう,発生して間もないポップ・カルチャーみたいなものは,えてして世代間で共有されにくいものだ.また,そういうものの一切存在しない社会ほど無味乾燥したものもなかろう.他にも,メールの字数制限や携帯電話端末の文字入力効率の悪さに対応して生まれた「生活の知恵」である面もあるのかもしれない. だからして,基本的に私は絵文字を「あって良いもの」だと考えているのだけど,一点苦言を呈したいのは,あれが「文章力の低下」に繋がりかねない事だ.

絵文字という記号は,本来文章で表現すべき喜びや悲しみを,「笑っている人」や「泣いている人」の絵を入れる事で代用している.つまり,自分が感じた何かを,文章化せずに他者に伝達しようとしているのだ. 旅先で見た景色の美しさを伝えたければ,持ちうるあらん限りの語彙を駆使して説明すべきなのだが,写真が一枚あれば,とりあえず事足りてしまう. しかしそこに固有の感性は介在し難い.

とまあ以上のような事を考えたわけだが,仮名文字のルーツは漢字で,その漢字も元を正せば絵文字(象形文字)だ,と言われてしまえば,その通りな面も確かにある.


12/20(土)

今週のスタジオにて.写真は影山リサ.

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神田優花,新曲の歌録り. 神田優花は,今回のレコーディングで,とりあえず今年のスケジュール終了です.

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12/19(金)

今週のスタジオにて. とりあえず今年のリハは今週で終了,年末は溜まった編集作業を片付けます.

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広瀬沙希,新曲の歌録りでした.今回の曲は,きっちりリハーサルやってたので,結構良く仕上がってると思います.

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12/18(木)

直感について. 「勘」って論理の対極にあるとか思われがちなのだけど,あながちそうでもない気がする. 明文化されていないだけで,何らかの根拠があるのではないか.

江戸時代の前期に柳生但馬守宗矩という剣豪がいた.徳川将軍家の剣術指南役を勤めていた程の,当代一流というべき剣客だったのだが,その柳生但馬守に面白いエピソードがある.

ある時,庭を眺めていた柳生但馬守の後ろ姿を見ていた小姓が,心中で「もし今,後ろから唐突に切りかかったりでもしようものなら,いくら剣豪と言えども一たまりもあるまい」と思った.すると柳生但馬守が突然周囲を見回し始めたという. 用人が「如何なされました」と尋ねると,但馬守は「今し方,殺気を感じたのだが,辺りには人影も無し」とかいう風に答えたそうな. どこまで本当の話なのか知らないが,柳生但馬守の凄みを語るエピソードという事で,こんにちに伝わっている.

上の話を,私はずっとある種の「怪談」みたいに捉えていた.面白いけど「そんなバカな」ってな感じに. しかしここ最近,ひょっとするとそれなりの真実が含まれているのではないか,と思うようになってきた. 特殊な精神の鍛錬を行なってきた人間には,普通の人とは違う直感が働くことがあるのではなかろうか.

現代においても,相撲取りや野球選手などが,ある「間合い」を嫌う事があるが,あれも広義には一種の「殺気」を感じ取っているのだろう.殺気を感じ取るだけの「直感力」は,長年の経験から生まれている筈だ. 断っておくが,ここで言う「直感」は,超能力とかいうオカルトめいたものではなく,煎じ詰めれば科学的にも立証可能な,根拠ある勘の事を指している.

剣客なんかでなくとも,人は誰だって初対面の相手を見た時,直感的に好き・嫌いを判断している.無論第一印象というのは絶対ではないのだが,普通はとりあえずの目測ぐらい立ててみるものだ. そしてその目測は,それまでの人生経験というデータベースから導き出した,ひとかどの根拠ある判断に支えられている筈で,この目測判断の正確な人なら,第一印象だけで人間の評価は事足りるかもしれない. 勘ってそんなにバカに出来ない.


12/17(水)

人の顔,特に「眼」について. 一般に「人を見た目で判断してはいけない」などと言われるのだが,確かに,身なりといった表面的な情報だけで,人の貴賤を決め付けるのは良くない. しかし,人の「見た目」が,その人を評価する判断材料に全くもってなり得ないのか,と言えば,無論そんな事は無い. 人の服装や髪型,表情の作り方,というのは,その人の思想性を端的に表す.他人がそれらの情報を人格の評価材料にしてしまうのは,ある意味では当然と言える.

つい先日,路線バスに乗った時の話である. その日は朝から雨が降りしきっていて,停留所でバスを待つ間にも,私は傘をさしてはいたのだが,コートが多少雨に濡れてしまったようだった. その後,到着したバスに乗り込み,満員のバスの中,運良く空いている席を見つけたので,そこに座った.中年女性の隣だった.

席に着いた私は,徐に読書を始めたのだが,隣の女性が何やら文句を言ってきた.私の服が濡れているのが不服であると言う. その日は雨なのだから,私に限らず,車内にいるほとんどの乗客は濡れている.しかも私は,特に隣の席に身を乗り出しているわけでもなく,体が密着しているわけでも無かった.ただご存知の通り,一般にバスの二人掛け席は,大人二人が座るには狭い.運行中,揺れの程度によっては,隣の人と体が接触してしまう程度の事は十分に起こり得る.女性はそれが嫌だと言う.

しかしながら,その時バス内は満員だったので,他に移る席は無い.立ち上がったところで別の人に触れてしまうだけだし,私が移動すれば別の誰かがその女性の隣に座ることになるだろうが,その日は雨降りである.その別の誰かの服も濡れている可能性が高く,仮にそうであった場合,またそこに軽いトラブルが起こる.

その女性は,乗り合いバスというのは性質上,不特定多数の人とのすし詰め状態に陥る乗り物である,とか,雨降りの日にはコートを濡らした人が乗り込んでくる,という単純な事実を素直には受け入れ難いようだった. 要するに,自分自身の「嫌だ」という感情のみが,行動原理の大部分を占めてしまっているのだろう. 申し訳ないが,私は彼女を一瞥しただけで,要求(早い話が「立ち去れ」と言う)に対しては無視させてもらった.読書の時間を削ってまで議論する価値も無いと感じてしまったのだ. ただその一瞥の瞬間,女性の顔が私の視界に入ったのだが,彼女の目はとても細かった. 率直に言って,如何にも上のようなワガママを言い出しそうな人に見えた.

眼窩・眼球の大きさや瞼の形状などというのも,大部分は遺伝的形質なのだろう. 私がその女性に感じた「目の細さ」は,そういう事を差しているのではない.その人に「目を開こう」という意思を感じなかったのだ. ここで言う「目を開く意思」とは,「分かり合える余地」の事でもある. 細い目をした彼女は,状況を斟酌したり,他人の心理を忖度したりという「想像」の源泉とでもいうべき,「好奇心」を宿していない精神の持ち主に見えた.

仮に,そこで私が立ち上がれば,その中年女性は一つの要求を通せたことになるわけだけど,彼女が日々感じているであろう「不遇感」は.根本的には何ら解消されない筈だ. 人生に鬱屈を感じている人は,一度目を見開いてみてはどうだろうか.


12/16(火)

私は時々,何気ない景色をぼんやりと眺め続けたくなる.心に染み入る程に美しいと感じたりもする. そしてその理由を考える. この文章を読んでくれているあなたが,目の前の世界を美しいと感じるのならば,その理由は何だろうか. 隣にいる誰かのおかげなのか,あるいは自身に課している目標のおかげなのか.

私は音楽のことを考えるのが好きで,音楽を作り続けていられるからこそ,この目の前の世界が,こんなに輝いて見えるのだと思っている. ある朝突然に,今の身分を引き剥がされ,この作業を停止せしめられ,更には好きでもない仕事に就かされ,残りの人生全てをそれに費やせと言われたら,おそらくこの世は闇だろう.

自我を引っ込める事が「他者に対する配慮」で,ワガママを通す事が「自分の生き方」だと思っている人は多いのだが,その理屈を突き詰めていくと,「努力」とは単に苦痛に耐える事で,如何に肉体を酷使出来るか,が「勤勉さ」という事になってしまう. また,「自分の生き方を貫く事」も一面では,非難されて然るべき行為ということになり兼ねない. 無論違います.

「夢のある生き方」というのは,「如何にして自分自身にこの世界を美しく見せるか」という方法を模索する作業だ. 夢とワガママは全く別の次元で成立している.ワガママを極めたところで何も見えては来ない. 夢と物欲・愛とストイシズム,これらは全く違うものである.これを理解出来なければ,本質的な意味での愛や夢など,体感出来よう筈が無い.

ここまで読んだ時点で,上の論旨を全く理解出来ない人がいるなら,きっとその人の考えている愛や夢は,本来の意味での愛でも夢でもなんでも無く,その人が欲しがっている何かや,恋人だと思っている相手なども,きっと別の何かなのだろう.


12/14(日)

「孟子」に『民の若(ごと)きは則ち恒産無ければ,因って恒心無し』という有名な一文があるが,世の中ってのは,結局人の心が作っているのだから,社会を安定させるには,詰まるところ人心を安定させるしかない. 人に落ち着きを与えるためには,進むべき方向というか,要は夢を持たせる事が一番効果的なのだが,それは容易に実現可能な処方ではない.夢は自ら培うもので,買い与えてやることなど出来ないものだからだ. 夢は現実の手前に見るものでなく,自分の力で現実の向こうに見るものだ.一足飛びに現在の自分の評価を改竄するためのツールなんかではない.

自らを規定する「identity」を持つ,夢のある人は,自己を律する基準があり,進むべき方向も見えている.従って「安定した人間」に見え勝ちだ. 一方,夢に焦点が定まらない人もいる.中途半端にでも教育を受けていれば,その「何の夢も持たない自分」に不安定さを覚えてしまう. この不安を感じさせないでいるには,感性を陶冶し,夢のある人間にするか,あるいは一切の情操を育てず(破壊し),いわば家畜や昆虫のような人間にするしかない.

芸能人になるとかスポーツ選手になるとか,そういった突飛な夢などぶち上げなくとも,人間は,一定の立場を与えられさえすれば,とりあえず情緒が安定する.そういう生き物だ. 差し当たり手に入れやすい「立場」として,人の親だとか,夫あるいは妻,社員などというのがある. これだけ情報が溢れ返る社会の中で,中途半端な教育だけを施しておいて,夢や安定を持たないフリーターやニートなんていう人種を大量に作ってはいけないのだ. そんな社会に無差別殺人事件が起こるのは,ある意味当然と言って良い.

どんな人だろうが,安定した職を得さえすれば,上司や同僚が出来,後輩・部下も出来ていく.長い時間を共有すれば,それらの人たちとの間に,友情が芽生えるかもしれない. 職を持てば,ある程度安定した収入も得ることが出来,延いてはそれなりの条件の結婚相手を得ることも比較的容易になり,家庭を築けば,その中に新しい関係・秩序が生まれる. 逆に,日雇い労働者や期間工など,安定した職が得られない人は,以上に述べた秩序からドロップアウトせざるを得なくなる.

昨今の社会不安の原因を,大企業や政治のあり方に求める論調をよく目にする.あながち間違いではないと思う. しかし,それら企業の経営者や政治家たちも,全ては教育によって作られている.やはり充実させるべきは教育であろう.何よりも教育が大切なのだ. 歴史を知り,自己を確立し,また,自分自身や宇宙を認識するだけの言語力を育てねばならない. 愛ある社会を作るための唯一のツールは言語なのだけど,どれほどの人がそれに気付いているのだろうか.

今回の結論は,上の「教育を充実せよ」に尽きるのだが,教育というのは,現場の教員ごと養成しないといけないので,数世代をかけての矯正プログラムにならざるを得ず,一朝一夕には行かない. 差し当たって政治の側が取り組むべき事といえば,やはり企業を法で規制することだろうか. 企業に倫理を求めるというのは,それこそ教育に属する事で,時間が掛かり過ぎるから.


12/13(土)

来週は二件歌録りの予定がある.それは良いのだが,うち一件が,どうもリハーサル不足気味で,ちょっと気がかりだ. 普段ならレコーディングのスケジュールを延ばしたりして,幾らでも対応出来るのだが,いかんせん年末なので,そんな事やっていると年を跨いでしまう. 何とかなれば良いのだけど. 来週までに録り溜めた音は,年末年始のヒマな時にチンタラ編集しようと思ってます.

下は影山リサ,今週のスタジオにて. 影山リサは,新作音源「BYE BYE BABY」も完成してます.近々販売開始されますので,こちらもよろしく. ウチとしては今年最期のリリースになります.

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12/12(金)

今週のスタジオにて.

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ところどころに写り込んでいる「みかん」は,神田優花のご実家からの差し入れ. みんなでおいしくいただいております.実家のお母さん,どうもありがとうございます.


12/10(水)

愛と理解について. 愛と理解は別物ではあるのだが,密接な関係にあるといって良い.どちらも想像力に支えられている. 想像力により,相手の気持ちを想像し,思考のプロセスを忖度することにより,一定の理解に至る.愛を発動させるか否かというのは,その次の段階になる. 母性というのは大部分が条件反射的行為(本能)なので,ここで定義する愛とは,若干別物だと解釈したい.

集金方法が法に触れたりして,世間を騒がせてしまうような,いかがわしげな新興宗教があったりする.その教祖などの言動みるにつけ,実は私はいつも,彼らの思考回路が理解出来てしまう. その教祖らが,俗物であればあるほど理解は容易い.私の中にある俗物性と,程好くシンクロするのだろう. だからして,彼らの世界観・思考パターン,自己弁護の論理,法廷戦術,表沙汰になっていない言動など,その殆どをある程度の幅の中で想像出来る. 但し私は,彼らを全く愛していない.

愛の発動は,理解に因るのだが,想像というのも所詮は推察に過ぎないので,如何なる理解も必ず正鵠を得ている,とは限らない. 昨今,ペット・ブームだと言いますね.犬や猫に思い思いの服を着せている飼い主がいるが,あれも一応愛ではあるのだろう.とりあえず「寒かろう」という想像をよすがに服を着せている部分も無い事は無いのだろうから. しかし相手は犬猫である.そういう人間の想像がそのまま当てはまる程,感覚・思考回路が似ていない.寒さは苦手だが,着衣はそれ以上に苦手,という事も当然あり得る.まあ私のこの想像とて,どこまで正しいか分かったものでないが.

ペット産業の当事者達は気付いているだろうが,ペットは「愛の捌け口」である. 「性欲の捌け口」とかいう言い回しがあったりするが,ペットは要するに「愛の捌け口」だ. だからその基盤となるべき「理解」が,明後日の方向であることも間々見られてしまう. 対象が犬猫だから良いようなものだが,なまじ相手が人間だったりすると,その理解の見当違いぶり(誤解)は,絶望的な溝になりうる. 言うまでも無く,相手に対する「無理解」というのも同様である. 私の個人的意見としては,無理解よりは誤解の方が遥かに許せるな.まあどっちもあまり良い事ではないのだろうけど.

もうかなり前の話だが,ウチが社印を作った時の話である. 社印だから当然オーダー・メイド(既製品でないもの)で,職人さんに製作を依頼したわけだが,私は使いっ走りとして,完成した現物を引き取りに出向いた. ところが,どういう事情があったのか,予定の時間にモノが仕上がっていなくて,私はそこで多少待たされた.作業は最終工程ではあったようで,せいぜい数十分といった程度の待ち時間ではあったのだが,その時その判子屋は,私に未開封のタバコを一箱くれた.

タバコをくれたのは老人だったのだが,私が完成した社印を頂戴して帰る際にも,その手付かずのタバコを持って帰れという. 親切からの行為なのだろうから,私は有難くそれを頂戴した上で,帰りに駅のゴミ箱に入れた. 申し訳ないが私は非喫煙者である.日々顔を合わせる人らの中にも喫煙者はいない. ただ,その老人の思い遣り自体は嬉しかった.

きっとあの老人は,喫煙者なのだろう. 基本的に誤解に基づく愛の発生原因は,相手の心理を想像する際に,あまりに自らの感覚から類推し過ぎる事だと思われる. 人間というのは,ある程度のヴァラエティをもっている.自分の感覚のみを拡大して行なう親切が,常に相手にとって同様に有難いものだとは限らないという事だ.その一方,自分なら気にも留めないような何気ない所作が,相手を深く傷付けたり,憤慨させてしまう事もあるという事になる. この点で言えば,標準的な人にとって,浮世は苛烈でないというのも納得できる.大抵の場合,自分が為されて嬉しい事を相手に施せば喜ばれ,自分が為されて嫌な事を相手に施せば嫌われる,というだけなのだから. 何だか話が終わりそうにないので,全然文章がまとまってないが,今日はここで止める.


12/9(火)

人間に対する理解について. よく犯罪者が逮捕された後など,マスコミがその容疑者の周囲にいた人物らに,それまでの容疑者の印象を尋ねるような一幕がある. 周囲の人らは答える.「そんな風な人には見えなかった」とか,「あんな事件を起こすなんて信じられない」とか.

孔子は,弟子の子路が衛の国へ仕官することが決まった時,「子路は死ぬだろう」と予感したそうな. 孔子の予想通り,子路はその性格が故に,政争に巻き込まれて落命する. 孔子は子路を救えはしなかったけれど,その人格を理解していた.

私には,社会を震撼させるような事件など起こす予定は無い.このまま大好きな音楽を作り続けて,安らかに最期の日を迎える事が出来るなら,これ以上に幸福なことはないと思っている. しかし,いつ如何なる運命に晒されたとしても,人一人殺める事は絶対にあり得ないか,と問われれば,「それは断言できない」としか答えようが無い. 自分の心に任せたことならば,あり得ないとは言い切れないからだ.

この私が将来,避け難い運命にまみえて,不幸にも人を殺めてしまうような事があったなら,マスコミは,私の周囲に私の人物評を求めるかもしれない. その際に「彼ならば,あるいはこういう事もあり得たでしょう」と言ってもらえた方が私は嬉しい. 勝手に薄っぺらい善人像を,我が身に重ね合わせられるより,私の中にあるこの「どうしようも無さ」まで含んで理解してもらえた方が,いかばかり幸せだろうか.


12/8(月)

一念発起して歌手なんぞを目指してみた人が,とりあえず何から手を付けて良いか分からないので,音楽の専門学校や歌の教室なんかに通い出す. 暫くすると,当初自分が思い描いていたような,進捗状況に発展しない事に業を煮やした彼には,ある疑念が頭を擡げる.「こんなとこでレッスンなんてチンタラやってたところで,○○(有名な歌手名を入れて下さい)になれるのかよ?」といった疑念が.

上の疑問に私が答えるなら,「不可能」だ. 無論,通っている教室や事務所のカリキュラム・営業力,その他諸々のパフォーマンスには差があるだろうから,別の場所を探せば当然別の待遇もあり得よう.しかし,既存の有名歌手には決してなれない.私は「人は,自分でない他人になれない」という,当たり前の事を言っているだけだが.

この世に「運」というものは確かにある.クジを引けば,当てる人と外す人が出てくる程度には. しかし,浮世に無数に存在する「運」という不公平を,すべて正して行けるわけもないし,正したところで詮無い事だ. 我が身の不遇を嘆くことほど退屈な作業は無い. 隣の誰かになる必要など無いし,なりたくてもなれはしないのだから.

人間の周囲に存在している環境というのは,すなわちその人自身である(意味分からなかったらゴメンなさい). 人間は,自己を律しつつ,一歩づつで良いから,自分の理想に近付いていくしかない.他人の周囲に存在している環境は,その誰かの持つ固有の条件が生じせしめているものなので,同じものは手に入らない.

自分は他でもない,自分なりに成長していくしかない.自己を陶冶し,今より少しだけマシな自分になり続けるしか. あらん限りの想像力で,理想の自分を思い描きましょう. ある日突然に,自分が他人に生まれ変われはしないのだから. 私もがんばります.


12/7(日)

どんな出版物だろうと,書くのも校正するのも人間なのだから間違いはあるわけで,私も日頃本を読んでいると,誤字や脱字,最近のものでは誤変換をよく発見してしまう. それは良いのだが,昨日珍しい誤植を見つけたので記念に写真に収めた.下がそれだ.

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気付いてくれただろうか.「西郷」の「郷」の字が右に90度回転している. 長いことものを読んできたが,初見の例だったので紹介してみた.だからどうしたという話だが.


12/6(土)

愛は物質ではないので,当然だけど目に見えない. しかしながら,見る方法も実のところ無い事は無い.

例えば,人は「恋人」や「結婚相手」を選びますね.選ぶ動機が愛であるなら.つまりは,「どういう相手を選んだか」は,愛の型取りであると言えなくもない. 「どういう相手でも良かった.声を掛けてきた相手に何となくついて行っただけ」なんて調子で相手を選んでいる人など,まさにその情念の欠如こそが,その人の愛の形だ. そういう人が将来,たどり着くであろう殺風景も,その人の愛の形なのだろう.

人は瞬間毎に何かを選び続けている.恋人だけでなく,友人や生き方,一日の過ごし方,感じ方に至るまで. 適当に選んだ好きでもない相手と一緒になり,そもそもの馴れ初めがそうであったが故に,当然起こりえたトラブルを抱え,延いてはお互いを傷付け合う人たちがいる.今もし目の前に,愛の枯れ果てた荒んだ景色が広がっている人がいるのなら,それは紛うことなく,あなたの中にあった愛の形そのものだ.

駅のホームや街中といった公衆の面前で,わざわざ乳繰り合う男女を目にする事がある. 彼らは,その姿を通行人に見てもらいたいのだろう. ギャラリーを設定する事によって,愛を既成事実化しようと試みている. そういった確認作業が必要な程に,お互いを支える愛が心許ないものであると,図らずも告白しているようなもので,それこそがまた,彼らの愛の形なのだろう. その気になりさえすれば,愛は目に見えなくも無い.

どんなモノを手に入れたところで,目に映っている景色が美しくなりはしない. 今より良い景色が見たいのなら,心を満たすしかない.


12/5(金)

随分前に,このページで一度触れた事があるのだが,「野口英世」について. 因みに私は,彼の事績について,その多くを知らない.伝記みたいなものは山ほど出版されているだろうから,興味ある人は調べて欲しい. お札に載っているぐらいの人物なのだから,丸っきり知らないという人はいないだろうという事で進める.

野口英世は幼い頃,左手に重度の火傷を負い,その少年期を,事実上左手無しで過ごした.火傷後の癒着で左手が開かなくなったそうだ. 子供の頃の彼は,周囲の少年らにその左手の事を「手ん棒」などとからかわれ,苛められていたという. 野口少年は,自分のその開かない左手を見つめながら,何を考えたろうか.

野口は15歳の時,同級生らの寄付により,その左手の大手術を受けた.人類が築き上げた偉大なる医学の恩恵によって,幸運にも彼の左手は蘇生する. 開いたその手の平を見つめた野口少年は,何を思ったろうか.

彼が歴史に名を残す程の医学者になったのは,幼い頃に左手が開かなかったからに違いない. 人間は,身体上の不具や能力的な欠陥を「考えるきっかけ」に変えてしまう事があるのだ. 余程の人でもない限り,人間に欠点は付き物である. 自分の欠陥に直面すれば,人は当然劣等感を覚える.その欠陥をひた隠して残りの人生を生きて行くか,欠点を認めた上で諦めるか,あるいは克服するか.人生に岐路が現出する. 劣等感そのものを感じない人なら放置するだろうけど,私はそんな暗闇に生きていたくない. 傷付いたとしても鮮やかな景色が見たい.

自分の欠陥に直面させられることの素晴らしさを説いている. 「考えるきっかけ」を与えられる事は,人間が持ちうる最大の僥倖だ. 劣等感に苛まれている人は,その葛藤を何かを掴む契機に変えて欲しい. 何かを手に入れようとすれば,人は当然壁にぶち当たる.だが,そこで手に入るであろう「考える能力」は,この世界を鮮やかに映し出す. 私の言いたい事が伝われば嬉しいのだけど.


12/4(木)

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神田優花,先週録った音のマスタリングをチェックしてました.

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影山リサも先週録った音のチェック. 影山リサは今月,新作「BYE BYE BABY」(3曲入り/¥1,260)を発表予定です. 下はそのジャケット.小さいけど.

BYE BYE BABY


12/3(水)

今週のスタジオにて.

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本当なら今週はリハーサル,お休みの予定だったのだけど,ちょっとだけスタジオ入り.補講みたいな感じで.


12/2(火)

もう12月になってしまった. 年内に発表予定のアイテムがもう一つあって,先週末から編集や何やでバタバタしている.本当ならもう少し余裕をもって完成する筈だったのだけど,レコーディングが当初の予定より一週間ぐらい押してしまった. 年末の仕事は下手すると年を跨いでしまうから,上手く立ち回らないと,思いの外予定が狂ってしまうな.


12/1(月)

京都の神護寺にある伝源頼朝像(いわゆる神護寺三像)の像主が,本当に頼朝なのか怪しくなってきたとかいうニュースを,つい数日前目にしたのだが,従来説に異論を打ち上げたという米倉迪夫氏の著書を,私は結構前に一応読んでいたので,やや今更な感も否めなかった. 実際に現在では,既にほとんどの教科書が,あの肖像画の像主について慎重な態度を取っている筈だ.

その米倉氏の著書だが,一読した感想としては,一応納得のできる内容で,私も神護寺三像の像主は,従来言われてきた人物らではないかもしれないと思った. しかしそれより何より驚いたのは,あの手の肖像画の像主比定って,あんなにいい加減に行なわれているのか,という事(詳しくは氏の著書を一読されたい). そりゃ従来説も覆るだろう.

実際,日本人が今まで「肖像画」と言われて真っ先にイメージしていたような,源頼朝をはじめ,聖徳太子や足利尊氏といった有名な肖像画は,現在その多くが訝しまれている. 服飾などが時代考証に耐え得るものでなかったり,花押が違っていたりと,旧来の像主比定が,ほぼ完全に否定されているようなものもある.

やはり学問水準というのは,時代によって変わるものなので,こんな事も当然起こる.それは仕方ない. 天皇陵などの治定も,そろそろやり直した方が良いと思う.


11/30(日)

人権(human rights)について.

私は,ある能力において秀でた人の,その優秀さに相応の敬意を持ちたい.だが同時に,ある分野における優秀性を認めるからとて,人間としての優位性など認めない. 逆に,ある能力において明らかに劣った人だからとて,ただそれだけの理由で,卑下される謂れなど無い.その人は,不得意な分野を持っているというだけの事なのだし,また,何一つとして取り柄が無かったとしても変わらない.それが単純に人間としての序列に繋がるわけではない. と言いつつ,私は同時に,能力の無い人を,有能な人だとは決して評価しない.

キリスト教社会では,全ての人間には,神の与え給うた人権が必ず一つ植わっていると説く.そしてその人権は,何人たりとも侵すべからざるものであると. 私はこの世界に,万物を取り決める神が存在するとも思えないし,人間に人権が備えられているとも思えないのだけれども,それらを実在するものとして欧米社会は成り立っている. またそこにいる個人たちも,この「人権」を,自分に与えられた権利として,行使することを許されていると信じている.

偏差値(学業成績に順列を付けること)を無くそうとか,運動会では皆が手を繋いで一緒にゴールインしよう,などと言い出す教師達は,人権の意味を履き違えている. 何故に彼ら教師達は,「成績が悪くとも足が遅くとも,あなたはあなたであるだけで,他人が侵す事の出来ない尊厳を持たされているのだ」と,教えてあげないのだろう. 私は子供の頃から,教育現場において,幾度となく「人権」という言葉を聞かされたが,それらは皆,小学生の読書感想文のように上滑りで,誠実な思考を経ていない言葉に聞こえた.誰もその本当の意味を理解していなかったのだろう.

仮に私がこの先,誰かに下僕として仕えることがあったとしても,それは,あくまで特定の行き掛かり(経済的事情など)によって,そういう生業を一時的に選択しただけだとしか思わない. 奴隷となって精神ごと主人に服従しようなどと努々思わないだろう. 逆の立場になったとて同じだ.仮に誰かの雇い主になることがあったとしても,精神の屈従など強いたり出来るわけがない. 同じ人間なのだから.

私は不遜な人間になりたくないけど,臆病な人間にもなりたくない. 強者に諂いもしないが,弱者を天使と見做したりもしない.


何故私がこのように,ダラダラと人権について考えていたかと言うと,ひょっとして欧米人が音楽ソフトをあれほどに買うのって,人権思想のせいなのではないかと思ったからだ. 例えばアメリカでは,社会現象といわれるようなヒット・タイトルの売上げは,1000万枚を超える.日本で言うところのミリオンセラーをイメージして欲しいのだけど,その部数たるやゆうに十数倍である.人口なんて日本の倍ぐらいしかないのに(アメリカのアーティストは世界がマーケットだからというのもあるが). 因みに日本では,シングルのミリオン・ヒットという現象自体が消滅しつつある.それ程に音楽が売れなくなっている.

人間は,他者の才能を認めるのにも,一定の揺るぎない自己が必要になる生き物なのだろう. 要するに欧米社会は,英雄の出現を待ち望んでいる.他者の才能を坦懐に評価出来るだけの尊厳を,誰しもが持っているのだろう.「出る杭は打たれる」みたいな諺なんて,多分存在すらしていないだろう. 音楽ソフトの売上げと人権思想の関係について,もっと穿った視点で述べようとも思ったのだが,今回は疲れたので止めておく.説明に物凄く多くの言葉を要してしまいそうなので. まあ上の文章だけでも,勘の良い人なら理解出来る筈だが.


11/29(土)

教壇に立った先生が生徒たちに問う.「皆さんは将来,どんな職業に就きたいですか?」と. ある優等生は真っ先に答える.「公務員になって,社会に貢献したいです」とか何とか.優等生だけに一応正解らしきものを知っているのである. そこで,別の生徒がからかうように嘯く.「僕は医者になる.金持ちになって贅沢三昧の日々を送る」と.

上の二つの意見,一見正反対のように見えて,実は同じなのだ. 偽善者と偽悪者は,紙の裏表に過ぎないのである. 上の二つの発言の顕著な特徴は,自分で考えた言葉でない事だ. 人は,自分の思考を経ていない薄っぺらい発言ばかり繰り返すうちに,本当のそのような人になってしまう嫌いがある. ある意味,言葉の力は偉大だ.

自分でモノを考える習慣の無い人は,やがて歳をとり,人生の重大な岐路に立たされた際も,軽薄な言動の許されないような状況下に置かれているにも拘らず,ついぞ真剣に事態に対峙することが出来なかったりする. 例えば,就職先を選ばねばならないような時期に及んでも,その選考基準が,提示された給与額や職業名といった世間での表面的な通りの良さ,でしかなかったりする.

自分でモノを考えない人が,その暗闇から自分自身を助け出す方法があるとしたら,それは,力を振り絞って自分でモノを考える事でしかない. その時に必要になる唯一の道具は言語である.だから本を読まねば.


11/28(金)

とりあえず今週のスタジオでのカット.

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神田優花,今週は歌録りでした. レコーディング中は写真なんて撮ってるヒマなかったんで,下は録り終えた後,一息ついたところです. もう次の新曲作りに入ってます.

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影山リサも今週は歌録り. これから今週録った音の編集です.

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仕事終わった後の,空のグラデーションが見事だったので,不意にシャッターを切ったのだけど,あんまり上手く撮れず. 実物はもっと綺麗だったのに.

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11/27(木)

「評価」について. 清川八郎という人がいた.日本史で言う江戸時代末期の人物である.彼はいわゆる幕末の志士で,当時,日本中の名士たちと顔を合わせているのだが,それらの人々に対する感想を述べた手記が,資料としてこんにちに伝わっている.

して,その感想(評価)だが,単刀直入に言って辛辣である.多くの人物を酷評しているのだが,清川の評価は,必ずしもその対象となった人物の歴史的評価と一致しない. 何故に彼は,独自の人物評を残すに至ったのであろうか.

清川の人物評を巨細に眺めると,結局彼は,自分の意見(政治的信条)に賛同した者や,自分の意見を絶賛するあまり資金提供さえ行なったような人物を,常に高く評価している. 高く買われなかったのは,その逆の人物たちだ.自分を高評価しない人物を酷評している. 身も蓋も無いようだが,彼の人物評には,明らかにそういう傾向があるように思える. 私は,彼(清川)の下した他者に対する評価によって,むしろ彼という人物の底を知った.

例えば,ある能力において,明らかに自分より有能な人を目の当たりにしても,複雑な妬心が交錯して,素直に称賛できないのに,逆に明らかに,自分より劣ると思える人を目の前にした時,俄かに喝采を浴びせたくなるような心理に陥った事がありませんか. 私にはある.しかしそれと同時に,その自分の矮小さから脱却せねばならない必要性をも,一応は認識している. きっと他人に対する拍手喝采は,相手ではなく自分自身を評しているに他ならないのだろう.

曰く,「人を評するというのは自分を評する事だ」と. 音楽の世界だって当然,数多の評価によって成り立っている. レコードメーカー・事務所などが行なうオーディションやプロモーションの優先順位,宣伝・広告媒体等各種のメディアでの扱い,流通・販売の仲介業者から各CDショップに至るまで,一々評価が付きまとう.もっといえば,リスナー各々の選択すらもその「評価」で,この世界はそれら無数の評価によって成立しているのである. 斯く言う私も例外でなく,都度下す評価の一つ一つが,自分自身をかたどっているのだろう.私の選んだもの,愛するものこそが私自身だ.

何も感じない.どんな対象にも何一つ評価を下さない,という人もいるだろうが,その「何の採点もしない」という態度こそが,紛れもない一つの批評行為であって,自分自身を評価させるに十分な材料を提供していると言える.

私は,人が下す評価の一つ一つを見て,その人そのものを評価する.同時に,自分が下す評価が,私自身を評している事を肝に銘じている. あなたの周囲にいる友人らや恋人をはじめとした,あなたの選んできたもの全ては,つまりはあなた自身だ. 結局,世の中も人の心が作り出しているのだから,社会が持ちうる財産も人の心でしかないのかもしれない.


11/26(水)

私は曲を一つ作り上げると,何かが一歩進んだような気がする.本当はありもしないものなのかもしれないが,「目的地」に一歩近付けたような気がするのである. 曲以外のもの,例えば折り紙細工をいくら作ろうと,さして何に近付いた気もしない.言わずもがな,酒を飲んでも賭け事をしても同じだろう.

私が曲を作り終えた時に感じるこの「一里塚」を,人生の如何なる瞬間にも感じない人がいるのなら,当然その人は,自分が「何処に向かって進むべきか」が分からないであろう. 分からないから,とりあえず糊口の為に仕事を選び,生き長らえる為に食う. 勿論,生体としての人間は,生存条件が過酷である事を好まない.収入は多い方が良く,自身の社会的地位・名声が安定している事を好む. その本能に従うままに好条件を求める,というのを「夢」とは呼ばない.

進行方向の定まらない人に,時間的・経済的余裕が出来たりでもしようものなら,とりあえず酒やギャンブルにでも使うだろうか.あるいは車やゴルフとか.「余裕」の程度によっては,世間で栄華の象徴と見做されるような,思いつく限りの散財を試みるかもしれないが,進むべき方向が存在しないのであれば,いくら時間や金をギャンブルに費やそうが,それは特段の脱線でも迂回でもない. しかしそれらの散財は,自分を何処へも連れて行ってはくれない.

私には,到達すべき「目的地」が定まっているのかと言うと,実のところそれも微妙に違う. きっと私は,これからも音楽を作り続けるだろうが,最期の日にも,何処にたどり着く事も無く,作りかけの曲を残したまま死ぬだろう.別にそれで構わない. 目的地が実際に存在しているか否か,ではなく,今いるこの場所において,進むべき方向を感じられる事こそが素晴らしいのだ. そして,その感覚を自分に与えてくれるものだからこそ,私は「音楽」が好きなのである.


11/25(火)

連休中は私も世間様なみに休暇を取らせてもらってました. 何をしていたかと言うと,相も変わらず曲作り,というか音楽の構想をボーっと考えていた. 以下休み中の雑感など,適当に書き留めておく.


連休中,曲作りなんぞをしながらダラダラと過ごしていると,不意に腹が減ったので,食事にでも行こうかと思ったのだが,気が付けば深更,空いている店も少なくて,仕方なくチェーン店系の居酒屋に行った.

私は基本的に酒を飲まないし,食事の為だけに入った店だったので,とりあえず白いご飯と酒の肴みたいなヤツを数品注文した. すると,注文直後に店員が,ご飯のみをテーブルに置いた.まあ茶碗に盛るだけなのだろうから時間が掛からないのは分かる. しかし,その後数十分おかず(酒の肴)が出て来ない. 調理に時間が掛かったり,注文が殺到して調理器具(ガス台など)に余裕が無かったのかもしれないが,客である私は,白米だけ出されても困るのである.

店員には「この客は,注文の内容から察するに,白米のオカズに酒の肴をあてがうつもりらしい」といった程度の想像力が働いていない. 要求されたオーダーを事務的に処理しているだけなのだろうけど,それではその店員は機械と大差ないことになる. その店員さんに,世間一般でいう教養がどの程度備わっているのかは分からないが,少なくとも想像力を問われた経験はあまり無さそうに見えた. ここでいう想像力は,言い換えれば「愛」である.愛の無い社会はかように住み辛い. 私は,冷えて表面の固くなったご飯を頬張りながら,以上のような事を考えていた.

今回の話と音楽とに,何か関係があるのかというと,無論ある. 例えば,与えられた楽曲を「正しい音程で,正確なリズムで,歌詞を間違えずに歌うだけの歌手」というのも,ここでいう店員さんと同じなのである. その曲に込められた「何か」や,歌い手である自分が置かれた環境に対する「見解」,聴き手に対する「配慮」,といった諸々の愛が,その歌唱を洗練する. やはり表現者に必要なものは,想像力であり,愛なのである.


当たり前だけど,私は私でしかないので,他の誰かの考えることが正確には分からない. しかし丸っきり理解出来ないのかというと,それも違う.同じ人間なので,共通した部分というか,似たような感覚はある筈で,私が他人を理解しようとする時は基本的に,自分の中にあるその「似た感覚」を拡大しつつ相手の思考プロセスを忖度する,という作業を試みる. だからして,あまりに自分と思考のプロセスが異なる人間の言動は予見出来ないことも多い.

若い頃の私は,他人の気持ちが今よりずっと分からなかった.無論,今でも分からない事がたくさんある. 要するに,全ては「愛」の欠如に因るのだろう.


11/22(土)

下は今週のスタジオにて. 影山リサは,今週予定していた歌録りが来週に延期になってしまいました.次のタイトル,年内の完成が怪しくなってきた.

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11/21(金)

今週のリハーサル風景.

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11/20(木)

今週は二件歌録りの予定があって,その仕込みやら新曲のオケ作りやらでずっとレコーダーと睨めっこしてのだが,急な事情で歌録りが延期になってしまった. 歌い手のコンディションの問題なのだが,まあこの季節は体調崩しやすいみたいですからね.皆さんも気をつけて下さい.


11/18(火)

ここ最近「Letter」という英単語について調べていた. 英和辞典なんかで意味を引くと,当然「手紙」という訳が載っている.日本人は手紙の英訳をLetterだと当たり前のように思っていて,無論それは間違いではないのだが,Letterの訳には,手紙以外にも「文字」・「記事」・「文学」・「学問」や,ひいては「学識」・「知識」などというものまである.

辞書で,ある英単語の日本語訳を調べると,複数の訳語が載っていることがよくある.そこで「アメリカ人はこの単語を,こんなにたくさんの意味に使い回しているのか」と思ったら基本的に間違いだ. 上の「Letter」にしても,あくまで英語圏の人が使う「Letter」は一種類で,一つの概念である.あえて日本語化しようとするから,一語に集約出来ず,様々な訳語を併記せざるを得なくなってしまうだけだ.

要するに英語圏の人が使う「Letter」は,手紙という物質ではなく,それに記載されている情報の方を指している.「私はあなたにLetterを出した」と言えば,”意思を発信した”という意味になろうか. では実のところ,日本人の言うところの「手紙」を指す本当に正しい英単語は何かと言えば,「紙」なのだからPaperだろう.そうとしか言いようがない.

因みに漢語では,日本で言う「手紙」の事を「信」と書く.どちらかと言えば英語の「Letter」に近かろう. 結局今回の例を一つとってみても,基本的に日本人は,メタフィジカルな思考というのが苦手な民族なのだろうかと思ってしまう. 私だって「免許」と言われたら,反射的に「免許証」という物質を想像してしまうものな.本来免許とは「権利」のことなのに.


11/17(月)

三拍子とかハチロクって,ロックっぽい曲には向かないのだろうか.特にマイナーだったり,シリアスな内容のもの. 今色々と試行錯誤しているんだけど,どうもそんな気がする. 既存の三拍子系の作品で,そういうもの(シリアスなロックナンバー)があったら教えて欲しい.参考までに.


11/15(土)

今週のリハーサル風景.

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広瀬沙希,新曲のメロディーをチェックしてました. 年内に歌録り間に合うだろうか.

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11/14(金)

神田優花,新曲の最終チェックでした.来週歌録りです.

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影山リサ,こっちも新曲の最終リハ.あと次の音源に収録用のリミックスのチェックとか色々やってました.

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11/12(水)

現役の航空幕僚長が書いた論文の内容が,何やら物議を醸しているらしく,国会に参考人招致までされているらしい.本人は事実上,職を追われたという. 事の顛末について,ここで詳述する気は無いので,知りたい人は調べられたし.マスコミを連日騒がせている事件なので,今なら情報を仕入れるのも容易な筈だ. しかしまあ,なんと言いますか,釈然としない気分にさせられる事件だ.

私は,槍玉に挙げられている論文そのものを読んでいないので,正確な論旨を把握していない.でもある程度主張は想像できる. 先の大戦における日本の振舞いへの肯定的評価・現政府見解への反対意見,現在の日本の体制(とりわけ軍事)についての提言,特に憲法(九条)への批判,といった内容なのだろう. この手の意見が目立った形で世に出た際,今の日本社会は徹底的にその意見を封じようとするように見えるが,実際に躍起になって潰そうとしているのは,マスコミと政治の世界ぐらいのもので,おそらく世論は,その自衛官の意見に同調する声の方が多数だろう.だから余計にマスコミなどが焦るのかもしれない.

あるニュース番組では,コメンテーターが「こういう事を言う人間は徹底的に締め出さねばならない」などという意見を堂々と主張していた. その自衛官(辞職しているので元をつけるべきか)の主張に同意出来ないからといって,反対意見を述べるとか,説得に努めるとかいうのでなく,「意見を封殺せよ」と言う.何と卑劣な輩かと半ば呆れてしまった. 彼(その自衛官)は自身の意見を述べているのであって,あなた方のような別の意見を持つ者を「社会から抹殺せよ」などと言っているわけではありませんよ. その自衛官が持つ思想の是非はさておき,マスコミや一部の政治家の態度は明らかにおかしい.正常だと本気で思っているのだろうか.

世論はおおむねその自衛官の意見に好意的な筈だが,大抵の人は自由な立場から意見を述べているのでそうなる. 国家(官)・組織の中には同調圧力みたいなものが当然存在していて,中にいる人たちは,立場を無視して外野と同じように物を言えるわけではない. 私はどちらの気持ちにも一定の理解を持っているつもりだが,個人的に「役人は政府見解に異論を述べてはいけない」という空気には若干の抵抗がある.

その自衛官は,この同調圧力のことを評して曰く「さながら北朝鮮だ」と.言わんとする事は分かるが,現実には,どんな先進国だろうが民主主義国家だろうが,政府の要職にある人間が政府見解を公然と批判したりする事はあまり無い(特に歴史観などは). 実際アメリカやEU諸国においても,私は寡聞にして類似の事例を聞かない(彼らの歴史的立場がそうさせている面もあるかもしれないが). そういう意味では,日本の社会はまだある種の健康さを失っていないと言えるかもしれない.あるいは単に未熟なだけかもしれない. 彼も職を辞した(扱いは定年退職らしいが)今後は,一層好き放題物を言えるし,おそらく言うだろう.無論好きなだけ言ってよろしい.彼はその「無制約さ」と引き換えに航空幕僚長のポストを失った. それが自由という事でもある.


江戸時代には,洒落本・黄表紙作家が処罰されることがあった.また,赤穂事件を扱った芝居(「忠臣蔵」)の類は一切上演出来なかった.徳川政権が上演を禁止したからである. 実際には時代やキャストの設定を変えることによって,騙し騙し上演していたのだが,現代の我々には馬鹿げたことに思えなくも無い. 今回のこの喧騒や現行の憲法も,後世から見ればこのような滑稽談に映るだろう.「昔はバカな時代だった」みたいに. 政治家諸氏は,組織の見解に忠実であるのも良いのだが,もう少々後世を意識してもバチは当たらないと思う.

ついでだが,私も憲法(特に九条)は改正した方が良いと思う. 素直な国語力であの条文を読めば,日本は軍隊を持てないことになる.現実にはそうも行かないから,曲解に曲解を重ね,条文を無きが如く扱うことによって今の自衛隊を維持しているが,私はそれを法治国家として危険だと感じる. そもそも軍隊の無い国家など成立する筈が無い.私は右とか左とか全く関係なく,大人としての常識を述べているだけです.


11/10(月)

ボケについて. 昔は痴呆症とか呼んでいたのだが,最近では認知症と言うらしい.まあとにかくそれの話.

アルツハイマー病とかいうのは,どうも純然たる病気なのかもしれなくて,日頃の摂生ぐらいで回避できるのかよく分からないのだけど,いわゆる耄碌・老人性認知症と言われているものの大多数は,単に脳の運動不足なのではないだろうか.

医者がいうには,物書きや芸術家はボケないらしい.脳のアスリートですからね. また,実践されているという様々な「ボケ防止対策」を見渡す限り,明らかにそれらは「脳(言語中枢)の運動」である.要するに,考える習慣の無い人からボケて行くのではないのだろうか.

若くして既に,考えないことが習慣化している人はいる.そういう人は当然ボケやすいだろうし,耄碌が始まったら認知症とか呼ばれるだろうけど,早い話,若い頃からその進行が始まっているのだろう.年取って顕在化しただけの話で.


11/9(日)

読書のススメ. 学校の先生などというものは,とかく面白くない本を読ませようとする.平和がどうしただの,友情がどうしただの. 確かにそれらのテーマに,深遠な何事かが含まれていたりするのは否定しない.が,子供が読んで面白いかどうかは別だ.人は面白いと思う本を読むべきだ.

今もそうなのかよく知らないが,私の子供時分は「マンガを読むとバカになる」などと言われていた.本当かよ. 何で「テキスト+挿絵」の本は良くて,漫画はダメなのか理解できない.絵の分量の問題なのだろうか.内容が低俗だとかいうなら,活字だって低俗なものはある.メディアの種類とそれとは関係ない. まあ授業中にマンガを読んでいる子供が,マンガ本を没収されたりするのは仕方ないと思うが.授業の妨げになるから.

大して面白いとも思わない「学校推奨の本」的なものを,先生に褒められそうだからといって読んでいる子供は,本当にかわいそうだ. そういう子供は,歳を取って教育現場を離れた暁には,解放されたとばかりに本を読まなくなるだろう.読書なんて宿題みたいなもので,苦痛そのものなのだろうから.

活字が堅苦しく感じられて絵本ぐらいしか読めそうにないなら,迷わず絵本から読むべきだ.手にした絵本が面白くないなら,別の面白そうな絵本を探す. 「少々難しそうな本ぐらい読んでいないと恥ずかしい」とか,「いい年して絵本なんて読んでいては恥ずかしい」なんて思っている人は,難しそうな本どころか,本質的には絵本すらも理解出来ずに一生を終えることになってしまう筈だ. 

繰り返すが,子供は面白い本を読むべきだ. その面白い本がマンガなら,マンガを気が済むまで読めば良い. 「ドラえもん」が好きなら一巻から最終巻まで読めば良い.全巻読破してしまったら,同じ作者の別の作品を探してみれば良い. 「面白い」と感じることが出来る人間になるなら,私はそれで良いと思う. 大人たちが心配しなくても,彼はいずれ活字にも手を出さざるを得なくなる.

もっと言えば,本なんて読みたくなければ読まなくて良いから,とにかく子供は楽しい事をすべきだ. 人生を謳歌するにあたって,最大の障害となりうるのは「鈍感さ」である.


11/8(土)

昨日の続き,今週のスタジオにて.

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11/7(金)

今週のリハーサル風景.

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11/6(木)

アメリカで史上初の黒人大統領が誕生するそうだ. しかしあれを黒人と言われてもなあ.カニ料理食べに行ってカニクリームコロッケ出されたような気分だ.

それはさておき,実は今日は色々と思うところあって,上げるつもりだったテキストがあったのだが,結局見合わせることにした. イマイチ論旨がまとまらなかったのだ.あらためて別の機会にでも上げる事にする.


11/4(火)

テレビ番組で,有名な学者が,宇宙人(人というと語弊があるが,要するに地球外の生命体)について持論を述べていた. その学者さんは様々なオカルティズムの否定派として有名な(学会とかでの評価は知らないが,テレビ会では)御仁である.

その学者の持論を要約すると「宇宙のどこかに知的生命体は存在するであろう.存在する可能性は高い.現に我々が存在している.但し,オカルト信奉者らのいう『空飛ぶ円盤』は宇宙人の乗った飛行物体では無い」といったものだった.十二分に主旨を理解できるし,私は100%賛成である. 我々が存在しているという事は,生命体というものが,ある一定の自然条件の備わった場所ならば,発生・存続するという動かぬ証拠で,宇宙のどこかにそんな星でもあろうものなら,当然生命も存在しているだろう.

しかし,番組でその学者が上の意見を述べた直後,スタジオからどよめきが起こった.「ついに先生は宇宙人の存在をお認めになるのですね?」と. 私の知る限り,上で要約した意見(宇宙人に対する見解)は,その学者の従来からの首尾一貫した立場であった.ついに認めるも何も,以前から全く変わらない見解なのである.しかし,多くの出演者たちには,その見解の主旨が理解できないようだった.

意見対立を「宇宙人肯定派VS否定派」とかいう風に単純に図式化すれば,多くの人は一応の理解が出来るのだろう.しかし物事は,常にそんなに単純であってはくれない.特に思想的立場・学術的見解などというのは. その程度の骨子を理解出来ないとなると,周囲にいる諸々の人間というものが,当然把握出来ないだろう.人間を理解できないというのは,自分をも掴めないという事だ.


11/3(月)

人は日々衰える.どんな美人でも寄る年波には勝てない. 元来体の弱い人は,風邪を引かないように着衣や食事,生活習慣に気を配ったり,ちょっとした体調不良をも敏感に察知して,薬を服用したりする. 一方,風邪一つ引いた事の無い頑健な人物が,突然体の不調を覚えた時,彼は今まであまりに健康であったが故に,病に対する備えについて,思いを馳せた経験がない.当然,打つべき手も分からない.

人体は,若い頃なら少々の不摂生など物ともしないが,自分自身でも気付かないうちに,日々肉体は老化している. 若さに頼り過ぎた「美」などは,突如としてその根拠を失いやすい. 美を売りにした「プロの美人」とでも言うべき女優やタレントさんは,容姿を維持することを生業としているわけだから,当たり前だが,突然にその美貌を失う訳には行かない.微妙な肌の調子や,細かい体型の変化にも気を配り,美を極限まで維持する.

たまにスポーツ選手などで,ある時を境に極端に(老化などの理由で割り切れない程に)成績を落とす人がいるが,要するに,自分の技術について「考えた経験が少ない」のだろう. 自己のポテンシャルを最大限に発揮しようと思うなら,やはり考えつくさねば. 人間の可能性は,考える能力に比例する.


11/2(日)

料理人は料理を作るプロだ.大抵素人よりはうまい料理を作る. 出された食事を平らげる人(客)は,料理に関しては素人でも,味の良し悪しぐらいは普通分かる.中にはかなりうるさい人もいて,グルメとか呼ばれる. 音楽に准えるなら,料理人はミュージシャン,客はリスナーってところだろう.これら二者は本来別の属性ではある.しかしミュージシャンは,ミュージシャンである以前にリスナーでなければらないと思う.リスナーがミュージシャンである必要はとりあえず無い.

料理人は料理を作ることに拘りがあり,自身に味の良否を判断できる確固たる基準が備わっていなければならない.稀に「こんな料理のどこがうまいのか分からないが,どうも流行っているらしいから,客に出しておこう」といった人もいるようだが,料理人としては明らかに二流以下である. 料理人は最低でも,自分自身ぐらいはうまいと思う料理を出すべきだろう.

芸術などの分野は不思議なもので,味の良否がイマイチ分からず,料理を作るのが好きでもないのに,「料理人という人種は人間として優位である,だからして自分もそれであらねばならない」などという誤解を元にその世界を志す人,らしきものを生んでしまう. 味覚が発達していないのだから,本来鑑賞者にすら向いていない筈なのだが,無論本人にその自覚は無い.

レシピがあれば一応の料理が出来るように,アートの世界においても,様式さえ理解できればとりあえず作品らしきものぐらいは出来てしまう. そういう人が料理を作ると,当然ながらイマイチなものが出来上がる.自分で食べてもうまいと思えない料理を作っておいて,尚且つ自分を一端の「料理人」だと規定しようとするのだから,これまた当然ながらそこに撞着が起こる. 自分がテキトーに作った「イマイチな飯」を,「五つ星レストランで出される高級料理だ」と思い込まねばならないのだから,脳内には混乱が起こり始める.欺瞞無しに整理し得ない事態に直面しているのだろうから.

実は殆どの人には,そもそもその料理がうまいのか不味いのか,本当の料理人の手で作られたものなのか否か,ぐらい分かるのである. 料理が出来ないのに自分を料理人だとまで思い込み出すと,本来判別出来ていた筈の味の違いすら分からなくなる.味覚が麻痺していては,まともな料理など作れる筈もなく,そういう人の作る料理は,ますます「売り物」から遠ざかることになる.

「正確な比較が出来ること」,これは学問的態度の基礎なのだと思う. 「出来ない事」が理解できなければ,いつまでも出来るようにならない.出来ない事が理解出来てはじめて,「その事実に向き合って克服して行こう」とか,「自分に向いていないので諦めよう」などと総括出来る. 「出来ないと思うこと」は物を考えるきっかけになるのだ.


11/1(土)

昨日の続き,今週のリハーサル風景です(神田優花).

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以下,影山リサ.

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10/31(金)

今週のカット. ちょっと肌寒くなってきましたね.

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閑話休題. 芸術とは何なのか,日本人は本当に理解しているのだろうか. やや唐突だが,疑念が湧いてきた.

「自然の芸術」なんていうフレーズがあったりする. 言っておくが,これは一種の形容矛盾だからこそレトリックたりえている訳で,そもそもの語義から言えば,「nature(自然)→natural(天然の)」と「art(芸術作品)→artificial(人工的な)」は全くの対義語である. アートとは,人間が考え抜いて作り出すからこそアートなのであって,本来,脂や汗の臭いと不可分なものだ.大腸菌も含んで人間なのだから.

この単純な事実が理解出来ていない人は,幼児の描く絵や象の落書きを,真の芸術などと絶賛したりする. もっと言えば,人並みでない(通常人以下の)思考回路から生まれている作品こそが芸術などという誤解に陥ってしまう. そういう世間の無理解の元に,持ち上げられてしまったアーティストを実際目にしてしまう.誰とは言わないが,結局,持ち上げられた当人が困るだけだろう.

確かに子供は,人が時を経るにつれ,無くしてしまいやすいものを濃厚に残していたりするし,大人が世間ずれして隠す術を覚えてしまった何かを,ありのままに曝け出していたりする.が,かといって子供こそが真の芸術家である,なんて短絡も甚だしい. それら(子供の美質)全てを考慮しても,子供が子供であるが故の諸々の未熟さは,創作の障害となる. やはり芸術家は,子供そのものでなく,子供の心を濃厚に残した大人でなければならない.

神童などと呼ばれるほどの天才的少年(少女)音楽家は存在する.しますとも. しかし往々にして彼らは,様式の模倣における熟達の早さを絶賛されているに過ぎない.だから大抵プレイヤーである事が多いし,作曲家などといっても古典様式の踏襲者であることがほとんどだ.

モノを記憶する,あるいは理解する能力と,作り出す(創造する)能力は全く別である.この一事が常識になっていない時点で,この社会には,芸術の理解に必要な言語力が欠けているのではなかろうか. 正直言って私は,多くの自称リスナーに懐疑的である.無論一部の自称アーティストにも.

風が織りなす雲の形が,アートを感じさせることはありましょう. でもそれは,その雲に詩情を感ずる人間の創造性こそが芸術なのであって,思考の無いところにアートなどあり得ないのである.


10/30(木)

私も今までに何度かお目にかかった事があるのだが,世の中には稀に,「夢を取るか恋人を取るか」なんていう二者択一に悩まされている人がいる. あれは何なのだろうか.

私の本音を言わせて貰えば,上のような悩みなど「有り得ない」と思っている. もしそういう二者択一を迫られている人がいるなら,その夢か恋人のどちらか(あるいは両方とも)が間違っているのだと思う. 夢というのは,心の中に存在しているもので,その人自体と不可分なものである. 二者択一を迫られて悩んだ挙句,「捨てることを選ぶ」なんて芸当が,本来出来ないものなのだ. 「悩んだ結果,恋人の方を取る(夢を捨てる)」なんてことが出来るのなら,その人の考える夢の定義が間違っているとしか言いようがない.

何かを好きであったり,美しいと感じたりといった感覚が,その人そのものであるように,夢とは人間が持つ固有の世界観である.もし,夢と自分との二者択一を迫る恋人がいるのなら,その人は相手をまだ理解すらしていないわけで,そんな関係を恋人同士とは呼べないだろう. 愛だの恋だの言う前に,せめてお互いに対する理解ぐらい成立させた方が良い.


10/29(水)

児童虐待事件などが起こる度に私は,現代人というのは親の権利と言うのを拡大解釈し過ぎではないか,などと思ってしまう. 虐待というのとは違うけど,自分の子供を,学校にも行かせずボクサーに仕立てている親などを,テレビ局が持ち上げたりするのも如何なものだろうか. 子供は親の持ち物ではないぞ.

日本では近世まで,各地(特に南方)に「若衆」・「若者組」などといわれる制度(社会機能)が存在した. 大雑把に説明すると,その地域で生まれた男児全てが,一定年齢になると親元から離され,若衆宿などと呼ばれる施設で起居(集団生活)させられるという制度で,集団内では若衆頭などというリーダーが決められ,若衆らは大幅な自治権を持たされていた.

その若者組,大抵の若者は結婚を期に組を脱退するのだが,結婚相手の選択も現代的な恋愛・結婚観から見れば,かなり違和感の残るものである. まず若者(男子)は,村落内にいる未婚の女子のもとに夜這いをかける.女子は原則的にその夜這いを拒まないそうだ. 当然,人気(?)の女子のもとには,多数の若者が通うこととなる.やがてその女子が妊娠すると,夜這いをかけた若者全員が集められ,女子はその若者の中から自分の伴侶を選ぶ.男子側に選択(拒否)権は無かったらしい. 無論細かい事を言うなら,この手の風習には,地域などによる異同はあるだろうが,大掴みにはこのような実態だったらしい.

当然ではあるが,上のような選択法(結婚相手の)なのだから,医学的な見地では,父親との血縁関係の怪しい子供が生まれることになるのだが,そのそこはかとない抵抗感も現代人的な感覚なのだろう. 若者組というのは,要するに「子供は家庭でなく,村落のもの」という共同体の意思を体現した制度なのである.

私が上のような話を長々と述べたのは他でもない.「子供は親の所有物」という現代人の観念は,そんなに普遍的なものでないという事が言いたかったのである. 確かに現代は,子供の管理・教育など,親に与えられた権利・義務の範囲が大きい.だからなのかどうなのか,現代人は時に親権を乱用し過ぎてしまうきらいがあるように思う.生まれてしまった以上,子供もいっぱしの人間なのだ.親のオモチャではない. 人を殴り倒す技術を教える前に,最低限の教育は施さねばならない.子供の生き方は本来,自我が育った後に本人が選ぶものだろう.

確かに,本気で一流の音楽家などを育てようと思ったら,通常は幼少期からの英才教育が必要で,それは大抵親(あるいは親族など)の意志に拠るものだ. 子育てに親の意志が介在するのは,ある意味では当然と言える.しかし,現に上の話のように「子供は村落の共有物」という感覚だって,歴史・地理的にかなり広範囲に渡ってコモンセンスとされてきたのは紛れもない事実である.親子の関係を,相対化して見つめ直す一つの材料にぐらいなるだろう.

因みに私自身は,その若衆制度を賛美する気に到底なれない.つくづくそんなところに生まれなくて良かったと思う. ついでだがその若衆制度,日本では近代化(明治維新)を期に,非文明的制度ということで叩き潰された.廃止当時には多少の例外もあったみたいだが,現代ではほぼ完全に消滅している. さもあろう.


10/28(火)

高校生の頃,私は毎日学校に行くのがとてもイヤだった. ある朝,学校に行く電車の中,急にサボる事を思い立ち,途中の駅で降りてゲームセンターに行った. しかし,いくらかゲームをやっているうちに,なんとなくバカバカしくなって,次の日は学校に行くことにした.

私は「授業をサボってゲームセンターに行くなど怪しからん」などという,陳腐な道徳を振りかざす気はない. むしろ,TVゲームがしたくて仕方ないヤツは,学校なんて辞めてしまっても構わないとすら思う質だ. 私がバカらしくなった理由は単純で,学校がイヤだからといってゲームセンターに逃避したところで,その先に何ら明るい未来が待っていそうな気がしなかったからである.ゲームに夢を見出せなかったと言って良い. 私は基本的に楽しい気分で生きていたいのである.

TVゲームが好きで好きで仕方がなくて,如何にしてゲームに囲まれて生きて行くか,を真剣に考える人はいるだろう.そういう人はそうやって生きていけば良いし,それも結構な人生だと思う. 高校生時分の私にとって,ゲームセンターとは,そういった将来の希望を託せるような対象ではなく,単に学校と言う当面の課題から目をそらす為だけのスケープゴートに過ぎなかったのだ. 私の中にある「音楽」とは明らかに違う.

若かりし日の私は,「音楽」に特別な何かを感じた.そこを掘り崩していけば,いつか何かが掴めるような予感がした.そして今もしている. 世の中には,この「予感」を全く感じずに生きている人がいるらしいが,そういう人がどのように生きて行けばいいのかなんて,私には分からない.しかし,隣の誰かが楽しそうに土を掘っているからといって,気が進まないままに周辺の土を掘り返してみたところで,大したものは出て来ないだろうとは思う. 人は楽しい気分がする方に歩むべきなのだろうから.

高校生の頃の私と同じように,学校が嫌いで,ゲームセンターにも大した希望を見出せず,かといって,その頃の私で言うところの「音楽のようなもの」が心の中に無い人は,どうすれば良いのかと問われても,結論としては分からない. 本当に,何に対しても「楽しい気分」を感じないのであれば,相対的な苦痛も感じないだろうから,そういう人間の方途は提示し難い. であるなら,一番潰しが利きそうな学歴を得る為に学校に皆勤し,比較的世間で通りの良い就職や縁談の相手を得る,という人生に落ち着かれるのが良かろうと思う.収入や社会的地位が安定してさえいれば,とりあえず人様に迷惑を掛けずに一生を終えることも容易であろうから.


10/27(月)

人は話し合えば分かり合える生き物なのか. 「話せば分かる」なんて言葉をよく耳にしますね.本当だろうか.五・一五事件で,当時総理大臣だった犬養毅が,襲撃に来た青年将校らに向かって叫んだ言葉が,まさに「話せば分かる」だったが,全くお構い無しに撃ち殺された. 結論から言うと,「話せば分かる」は残念だけど嘘だと思う.話し合って必ず分かり合えるのなら暴力は要らない.歴史は暴力・恫喝に因って動いてきた部分も大きい(暴力の是非について言及しているのではない).

例えば法治国家は,その効能を発揮させる為に,警察や軍などという暴力装置がセットになっている.当たり前ですね.これが無ければ機能しない. また,これが存在するというのは,「人は時に,話しても分かり合えない」という証拠なのである.

私が第三者として,他人同士の議論を眺めていて思うのは,ほとんどの「対立」というヤツは,意見の相違などという高次なものに拠って生まれていないという事.大抵は当事者のどちらか(あるいは双方)が,議論の前提を理解できていなかったり,自己撞着に陥っていたり,矛盾を承知で詭弁を弄しているだけだったりする. 要するに議場に「議論するに相応しくない人」が混ざっているから,収集がつかなくなるだけなのだ.

無論例外はあります.標榜している善悪のスタンダード自体が違う場合などもあるからである. 宗教・宗派間の対立などはこれなのだが,まあ詰まるところ「話し合って分かり合えない」という結論に変わりは無い. 分かり合うというのと,「政治的妥協点を見出す」というのは別です.


10/26(日)

「ドラえもん」という漫画は本当に名作だと思う(私はアニメ版をとんと見ていない.原作の話である). キャラクターに人間の典型を見る事が出来る,日本では稀有な文学作品だ.

人間の典型を見られる文学作品,というのは,例えば,ある人の事を説明する際に「彼はまるでピーターパンだ」とか,「ドン・キホーテそのものだ」とか言えば,多くの言葉を要さずに相手の理解を得られるわけだが,そういった共有の概念となりうる人格像を提供してくれる作品のことを指している. 「あいつはジャイアンだ」と言えば,その人をイメージ出来ますね.

スネ夫は周囲の気を引く為に,「テレビ局にパパの知り合いがいる」などと言って有名人との繋がりをチラつかせたり,あるいは金に物を言わせて,ラジコンや別荘などという「持ち物」をひけらかしたりする. そういう彼は,体つきがとても貧弱で,特にその背が低い. 彼は誰よりも自分が小さく見えるのだろう.だから持ち物をもってして,他人の関心を引くことにいつも執心してしまうし,のび太という「自分以下の存在」の発見に胸を躍らせずにいられない.見下せる相手を探したくて仕方がない. 金や権威といった装飾品無しでは,自分など周りから見向きもされないと思い込むあまり,相手の気持ちなど察する余裕がない.

ジャイアンは誰よりも喧嘩が強い.少なくとも,自分に歯向かう人間など周りには一人もいない.弱者になったことがないので,弱者の存在を目にしても,決して身につまされることなどなく,弱者の気持ちなど慮ることが出来ない. 一見粗暴なだけの,どうしようもない人間なのだが,あまりに強く,身の安全が脅かされる恐怖など微塵も感じないあまり,普通の人であれば当然持つであろう懸念にすら,囚われずに済んでいる. つまり彼は,他の大多数の人よりほんの少しだけ多く,モノを考える時間を持たされている. やがて彼はその強さにすら倦み,「自分のこのあり余る力を,何か世の役に立てる事は出来ないか」などと思うようになる.その挙句,時にのび太やスネ夫をその腕力で救おうとさえしてしまう.

のび太はだらしない.時に見ている者を苛立たせる程に惰弱である. 喧嘩が弱く,臆病で,怠け者で意志が弱く,運動が苦手で,勉強も出来ない.ドラえもんの作者は,そういうのび太を「自分の化身」だと言ったそうだ. 幼い日の作者は,ドラえもんみたいな友人や,しずかちゃんみたいなガールフレンドが,飢える程に欲しかったのだろう.だからドラえもんという作品は,あそこまで生々しい.

本来のび太は,自身に能力が無く,持ち物においてもスネ夫以下でしかないのだが,ドラえもんという不動の親友を得たことによって,スネ夫がいまだに囚われている,ある種の葛藤から抜け出しつつある. のび太の心の中には,新しい何かが生まれつつあるのかもしれない. 人間は「自分の欠陥」に直面した際,それを何かを掴む契機にしてしまうことさえある.

かくいう私の中にも,ジャイアンやスネ夫やのび太はいる. 傲慢でワガママで,見栄っ張りで臆病で. あなたの周りに彼らはいませんか.あるいはあなた自身の中に.私には心当たるフシがあります. この「心当たるフシ」をありありと見出せる事も,名作である一つの証拠なのだろうと思う.


10/25(土)

昨日から,先月末に影山リサが出演したラジオ番組「つちやRYU'S BAR」のインターネット放送が始まってます.本放送を聴けなかった方は是非そちらの方,チェックしてみて下さい.

ダウンロードはこちらから → 「Small Cast Radio NETWORKS

影山リサです。今回初めて「RYU'S BAR」に出演させて頂きました!
皆さん聞いて頂けたでしょうか?
MCの土屋さんのお陰もあって、緊張せずとても楽しめました!
まだ聞いてない方は是非聞いてみて下さい♪



以下,今週のリハーサル風景(影山リサ).

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10/24(金)

今週の写真. それにしても今日の雨は凄かった.

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10/23(木)

現在,神田優花と影山リサともに新曲の制作中です.うまく行けば来月の上旬ぐらいには完成するだろうか. 影山リサの方は,今取り掛かっている曲が上がったら年内に新作を発表する予定です.

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10/22(水)

「夢のある人」とは,「その夢をidentityとする人」と言い換えていいかもしれない. 抽象的な話になってしまって申し訳ないが,夢は自分の中に作るもので,外に付けるものではない. 「私は夢のある人が好きです」などとうっかり言おうものなら,「私には○○大学に合格するという夢がある」とか,「司法試験に受かって弁護士になるという夢がある」なんて表明されてしまう.日常会話なら閉口するしかないが,せっかくなのでその誤りを説明してみる.

別に大学生や弁護士が悪いわけではなくて,自分の外に付けるバッヂと心の中に育てる夢とを区別したいのだ. 弁護士になって冤罪を無くしたいとか,社会正義を実現したいとかいう人がいて,その人のidentityが「弁護士である事」であるなら,それは夢のある人なのだと思う. 単に「弁護士のバッヂを付けたら世間で一目置かれる」などと思っているなら,そんなものは夢ではない. 私が言いたいのはこういう単純なことである.

「夢を見る」というのは,新しい自分像を頭の中に思い描くことである.あくまで「自分のイメージ」に近付くことなのだ.「美しい自分になり続けること」といって良い. 一足飛びに,どこかで見かけた借り物のイメージに自分をすげ替えることではない.それは単に他人に成りすますことに他ならない. 「歌手になりたい」とか言う人の中にも,この手のタイプは実に多いのだけど,困った事に,そんな人でも,CD出したりTVに出たりすることぐらい,金さえあれば出来てしまう. まあ私はそういう歌手を愛さないし,その人の心の中に夢があるのか無いのか,を見誤ったりもしないが.


10/21(火)

いわゆる幕末の頃,越前松平家の隠居であった松平春嶽が,幕府から政事総裁職就任を懇望された際の話である. 春嶽自身は,その職をいわば「貧乏クジ」だと思っていたらしく,本気で辞退したかったらしい.結局拒みきれず渋々承引せざるを得なかったのだが,その打診の際のやり取りに,気になる一幕があった.

時の老中,板倉勝静から「殿には世からの人望がある故に云々」と,就任を依頼するに至った理由を説かれるのだが,それに対して春嶽は「あるいは人望はあるやもしれぬが,それは世の人が嘱望しているというだけのことで,それと拙者の力量とは別である」といった意味の回答をしている. このやり取り,私は原典を確認していないが,「再夢紀事」という書物にあるとのことである. 春嶽は「人望」という言葉を,極めて厳密に解釈している.

私が感心したのは,前近代人である彼の国語力の豊かさである. この21世紀ですら,せいぜい数百といった,少ない語彙のみをもって暮らしている人は多い.自然その語彙はほとんど生活単語(形而上的概念語でないもの)にならざるを得ず,一つの単語をいくつもの用途に使い回し,結果,自分自身や世界を曖昧模糊として捉えることしか出来ない.

言葉の意味には,可能な限り厳格であらねばならないと思う.特に,モノを考えたい人や頭でモノを作りたい人なら.


10/20(月)

博愛と禁欲について. 昨日このページで触れた内容について,また思うことがあったので追記する.

現代の日本社会に,欧米的倫理観(要するにキリスト教)は希薄である.ではどのような思想(原理)が秩序を維持しているのかというと,一言では言い難い.日本教とでもいうべき道徳観念は,ブッキッシュでないからだ. 前近代,というより大東亜戦争終結時まで,日本の道徳教育は「修身」に重点を置いていた(修身が科目名ですらあった). 「修身」という語の出典(「大学」)からも明らかなように,儒教(朱子学)を立脚点としているわけだが,キリスト教的「愛」の実践が難しい社会で,尚且つ秩序を維持しようと思えば,修身ひいては禁欲に重点を置いた教育を行なわざるを得なかったろう. 明治期の修身科は,武士道の文化的遺伝と言って良く,同じく儒教をバックボーンとしている.武士道は,多分に秩序維持の為の必要にかられて生まれた倫理なので,あるいは儒教が日本史に流入して来なかったとしても,おおむね似たような行動律が社会を支配した筈である.

今の日本は,依然キリスト教的倫理観は根付かず,かといって武士道的ストイシズムも廃れている. だからして,稀に極度に自己中心的な人間がいたりでもしようものなら,白昼に無差別殺人事件などを平気で起こしてしまう. 当然の帰結と言って良い.

ちょっと脱線する. 明治の新政府は欧化政策を採っていたのだが,それと同時に復古主義をスローガンにもしていた.実際「廃仏毀釈」などという文化大革命的な運動も起こったのだが,当時の日本人の言う神道というのは,果たして日本古来の思想なのだろうか. あれって直截的には,平田篤胤とかあの辺の国学者の思想を背景としていると思われるのだが,だとすると日本古来の思想というより,江戸期に勃然として起こったカルト信仰みたいなものだろう. 本来の神道はそれほど排他的で無い筈だ.

話を戻す. 私は,社会には愛が必要だと思うが,この愛と言う形而上的概念を体感するのにも,一定の言語力が要る. 例えばライオンやチーターは,草食動物を食べる事によって生き長らえているわけだが,彼らが仮に何らかの事情(骨折するとか)によって,その運動能力に不具合を来たした場合,「狩り」が出来なくなる.狩りが出来なければ飢えるしかないのだが,人間社会ではそうならないように福祉や社会保障といった機能・思想がある.それらの運用を支えているのが「思い遣り」という想像力である事は間違いない.ライオンと人類との決定的な違いは想像力なのである.

言わずもがな,想像力の源泉は国語力である. 愛も思い遣りも物質ではないのだから,それらを生む道具は言語でしか無い筈だ. 文部科学省さん,がんばって下さい.


10/19(日)

西郷隆盛が大島(奄美)に潜居していた頃,島の子供らを相手に寺子屋の師匠みたいなことをしていたそうな. ある時,子供らに「家族が仲良くするにはどうすれば良いか」と問うたところ,生徒らは「五倫五常を守る」とか何とか答えたらしい.西郷は結論として「欲を捨てることだ」と教授している. 孫引きなので,私にはこのエピソードについて,これ以上の詳細は分からない.しかし,上の回答は西郷の独創ではなく,江戸人(特に武家階級)の平均的見解であったろう. 当時の思想(特に儒教系の)は,基本的にストイシズムを柱としていて,キリスト教のように諸々の欲望に寛容でない. ついでながら,宗派にも因るが,仏教も基本的に欲望には否定的だ. ともかく,西郷の訓戒は,当時としてはごく模範的と言える.

仮に上の西郷の訓示が正しいとしたら,突き詰めて行くところ,他者に対する善行は,自身の禁欲・忍耐と,ある意味では同義ということにもなる. また,自分の夢や理想を追い求めることさえ,時には断つべき欲・煩悩ということになるのだが,本当だろうか.

キリスト教は,その本然として「愛」を説く. 他者に対する善行を,「禁欲」という自我を削ることに因らず,心の中に愛(博愛の精神)を育てるという,別の自我を生むことに因らせようという教えである. 西郷という人は,当時の日本人としては稀有なほどに,その精神に愛を感じさせる人間なのだが,彼の言う「敬天愛人」の「愛」も,察するところ多分に武士道的「無私」や「禁欲」と未分化で,キリスト教的「愛」とは微妙に成分が異なるように思える. 思想に甲乙付けても詮無いが,私の気分にはキリストの教えの方が合う.

人に何かを与えたり,あるいは施したりすることが,社会の安寧秩序に貢献していることは間違いない. しかしそれらが「禁欲」に支えられているのであれば,我々の社会もある基準においては未熟なのかもしれない. 私の考える「成熟した社会」とは,他者に対する施しが,「他者の喜ぶ姿を見たいという衝動・他者の笑顔を我が喜びとして感じられること(つまりは愛)」に起因している世界だ. キリスト教的理想社会と言ってしまえばそれまでだが.

私は日本史が,武士道などという,ストイシズムを極限まで結晶化した思想を生んだことを誇りに思うし,その思想を骨肉化した人々に敬意を持ちもするが,同時にキリスト教的な価値観が日本の風土に根付かなかったことをやや残念にも思う.


10/18(土)

ようやく秋らしくなってきた今日この頃,相も変わらず音作りばかりやってますが.

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影山リサ,新譜の制作に入ってます.年内には発表出来る予定です.

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10/17(金)

今週の神田優花.

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アーティストの「イメージ」について. アーティストって本来芸術家という意味なのだけど,ここでは「タレント」としての商品イメージについて述べる.

アーティストの商品コンセプトやタレント・イメージなんてものを,外(客)に見せる為に取り繕うものだと考えている人がいるなら,それは間違っている. アーティスト・イメージは,アーティスト本人が自分の中に構築していくものだ. 自分の中に鮮やかな自分のイメージを作っていかなければならない.その自分像が明晰になるにつれ,周囲もそれに同調せざるを得なくなる. オーディエンスに「アーティスト・イメージの定まらない人」だと認識されているアーティストは,要するに本人の中にも明確な自分像が確立されていないのだろう.無いものを認識しようがない.

アーティスト像の確立を目指す人は,明確な自分像を思い描くと良い.いずれ自分はそのイメージに近付いて行かざるを得ない. 脳裏に自分像を描くにはイマジネーションが必要なのだが,そのイマジネーションを支えるのは言語力でしかない. 今回の話は,別にアーティストに限ったことではない.より鮮やかな像を結ぶためにも読書をお勧めします.


10/16(木)

昨日のことになりますが,橘萌子「kiss,それから」というタイトルが発売されています. 既にInfoのページでもお知らせしているので,詳しくはそちらを参照して下さい. 以下,本人からのメッセージ.

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『橘萌子です。ドキドキしながら作った初めての作品、一人でも多くの方に手にとって頂けるよう祈っています。恋する女のコの色んな気持ちを込めた3曲のラブソング、是非聴いてください!』


10/15(水)

私が何より大切にするのは「心の安寧」である. もし「他人の為に死ねるか(自分の命と他人の命を引き換えに出来るか)」と問われたら,その他人と自分との関係をまず踏まえて判断する. 自分が死ぬのは当然心地良くない.つまり心の安寧を乱される.だからして,易々と大多数の赤の他人の為になど死ねない. しかし,その他人と私との関係によっては,その人を見殺しにてまで自分がのうのうと生き長らえる事が,苦痛であったりするかもしれない.その場合自分を犠牲にすることも有り得る.その捨身行為に酔って,晴れがましい気分で死ねるなら.

「金」に対しても,全くぶれない評価を持っている. 「金が欲しいか」と問われたとする.金によって手に入る「心の安寧」も当然あるので,金は欲しい.が,その金を手に入れるためだけに,自尊心を傷付けられたり,寝る間も惜しんで働き続ける事なんて真っ平御免である.その苛烈さが心の安寧を乱してしまうから. 私にはこのように,ボーっと物思いに耽る時間も必要なのだ.金ごとき,心をささくれ立たせてまで手に入れる価値は無い.私にとって金は,心の安寧を得る為の一手段に過ぎないのだ.この辺の優先順位を間違う事など無い.

音楽についても同じである. 「音楽を作り続ける事」が私の心の安寧に繋がっているからこそ,私はこの作業を続けている. だからして,音楽活動を続けて行くことによって,まだ見えない将来に希望を感じる事が出来る人,こそが音楽家になるべきだと思っている. とにもかくにも,私にとって一番大切なのは「心の安寧」なのである.


10/14(火)

今制作中の音源があるのだけど,曲数が足りなくて困っていた.発表済みの曲を収録して頭数を合わせようと思ったのだけど,あんまり手抜きでもマズかろうと思って,急遽リミックスヴァージョンを作る事にした. 今日は朝からその作業に手を付けていたのだけど,とりあえず終わりました. 一日で作ったものなので,拙速の感は否めないけど,年内には公開できると思われる.リミックスとかも偶にやると面白いな.


10/12(日)

世間は連休だそうですが,普段私はあんまりそういうのと関係なく動いてまして,今回も例に漏れず,デザインや編集作業なんてものをやってました. でも別に忙しくはないです.

今年も残すところあと3ヶ月無いわけだけど,ウチは年内に発表予定の音源が2タイトルほどあります. 一つは既にパッケージまで上がってて,公開を待つだけなんですが,もう一つはいまだに収録曲すら揃ってない.マスタリングが終わってないとかいう生易しいものでなく,曲そのものすらまだ出来ていない. 年内の完成,難しいかもしれない.


10/11(土)

影山リサ,今週のリハーサル風景. 影山リサはもうすぐ新曲の制作に入ります.

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10/10(金)

今週はやや久しぶりのレコーディングだった.これから編集に入ろうと思ってます. 以下,今週スタジオで撮った写真.

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10/9(木)

経済に世界的な混乱が生じているらしい.世界同時株安などと言われているのだが,急激な円高を併発しているそうな.

私は経済に疎い.株などに全く手を付けないし,経済ニュースなんかにもあまり興味がない. だからして,今回の騒動もどうでもいいと言えばどうでもいいのだが,ウチは一応ドルで定価を設定した商品(音楽コンテンツ)を販売してもいる.多少ながら収益に影響あるのですね.具体的には,円が上がれば上がるほど収益が減る.

売上げ(実売数)自体は気になるが,収益などはっきり言ってどうでも良い. しかし自分のやっている商売に,為替相場の変動が影響するようになるなんて思わなかった.世界って狭くなっているんだな.


10/6(月)

あるスポーツ選手が,若い人へのメッセージとして「指導者の言う事を疑え」と言っていた.現代の日本においては,猜疑という感覚が,あまりよろしくないものと解されているような気がするのだが,疑う事は実に大事なのである. 疑っている主体こそがその人なのだ.森羅万象を疑うべきだ.

「疑う」を「考える」と換言しても良い. 生徒が,「指導者の指示は如何なる科学的根拠に裏打ちされているのか」に思いを馳せないのであれば,実のところその指導は半分も功を奏していない. 自ら考える能力を涵養する事,こそが指導の名に値する.

「答える」という動詞は,日本語においてはとりあえず一種の単語に集約されているが,英語には「answer」・「reply」・「solve」など,それを指す語が色々ある. 例えば「今日の朝食は何でしたか?」とか,「飼っている猫の名前は何ですか?」といった質問に対するような,そもそも解釈の余地が残されていない(はじめから答えが存在している)応答であれば「answer」で事足りる. 一方,「あなたにとって歌とは何ですか?」や「人は何故生きるのですか?」などといったラディカルな質問に対するような,熟考を要してしまう解答を「solve」という. 日本人はこの「solve」が苦手なのだが,日本語において,これらの概念が区別されていないのは,その分かりやすい証拠である.

考えねば答えは出ない. 「朝食が何であったか」などという,単なる客観的事実は,本来答えでも何でもないのである.食事の際に居合わせた他人にでも分かることなのだから. 私はモノを考えているアーティストが好きである.考えないアーティストなどという,「存在してもいない精神」を愛せる筈が無い.

与えたテキストを任意の音符通りに歌い上げるソフト(プログラム)が,現に商品化されているが,ただ譜面に忠実に歌をうたうだけのヴォーカリストなら,本当にそんなソフトで代用が効く. 私はそんな歌手を愛さない. 我思う故に我有り.考えない葦はタダの植物だ.


10/5(日)

芸能界というヤツを.ぼんやり眺めていて気が付くのは,いわゆるタレントさんたちは,必ずしも非の打ち所の無い完璧な美人ばかりではないという事だ. 芸能人なのだから美人に決まっているではないか,という意見もあろうし,それもある意味では正しい. しかし一方で,あからさまな欠点を抱えつつ一線級のタレントを続けている人も存在する. 言っておくが,「欠陥を抱えている=醜悪」という意味ではない.

容姿の美醜における,あからさまな欠陥を抱えたタレントが現にいるのは,その商品(タレント)に需要があるからに他ならない.その需要を支える消費者の気分というヤツが存在するのだ. 普通,素人は素人なだけに,程度は人にも因ろうが,素人程度に不美人であったりもするし,自身が抱えている欠陥相応のコンプレックスなども当然持っていたりする.そういう素人の目の前に,同様の欠陥を持つタレントが現れた場合,多くの人はそのタレントの存在に希望を見出してしまうらしい. 美醜における連帯保証人を得た気分とでも言うのだろうか.

芸能界ってものは別にオリンピックなどのように,ある基準における厳密な優劣を競い合っているわけでもなく,好感度などという諸人の曖昧な気分で成り立っているので,上の話も特に驚くようなことではないのである. 断っておくが,私は物事を分析しているのであって,誰かを誹謗しているわけでも,逆に賛美しているわけでもない.


10/3(金)

今週のリハーサル.

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10/1(水)

ある作家がその著書の中で,「人は進退を,善悪でなく,美醜に拠って決めるべし」みたいなことを言っていたのだが,私も同感だ. 親鸞聖人が「善人なおもて往生をとぐ云々」などと言っていたのも,多分似たような意味を含むのだろう.

ここでいう善悪・美醜を「客観・主観」と言い換えてもいい. 善悪というのは,当然それを判定する為のスタンダード(規範)みたいなものを,仮にでも設定しないと色分けできない.法律や道徳などは,その分かりやすい「仮定」と言える.要するに世間における支配的な認識のことである. まあ大多数の凡人は,それに従っておけば大過なく生きていけるのだろう. が,その規範というのが仮の(絶対的でない)ものなので,それを共有していない他人には,時に単なる善意でさえ,迷惑に感じられることがある.これは仕方ない.

親鸞は「心に任せたことならば,人を殺めることもあり得る」と述べているが,私もその気持ちは理解できる. モノを作る(心からモノを産む)人間は,万物に「美醜」を感じねばならないと思っているのである. 美醜すら「借りてきた物差しで測るもの」だと考えているような人には,今回の話は分からないかもしれない.


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