Staff diary  
スタッフ日誌[2008]

[文 / 益田(制作)]

9/30(火)

世のミュージシャン達はまことに「ライブ」が好きだ.凄い人になると,本当に毎日ライブをやってたりする.しまいには駅前の路上で歌い出す始末. どうしてそんなにライブが好きなのだろうか.

こんな事を言うぐらいだから,当然私は「ライブ好き」の気持ちが分からない.実際ライブを見に行く機会もあまり無い. 私は音源(録音物)を作る事が仕事だと思っているのだが,私にとっての録音物とは,画家で言うところの絵画みたいなものである.画家がアトリエで絵筆を握っている姿を,殊更に絵画収集家に見せたりしないのと同じように,ライブにさしたる意味を見出せないでいる.

「だって人前で歌うのって楽しいんだもの」という人はいるだろう.結婚披露宴など,他人が自分を祝福してくれる舞台を用意してもらうのに快感を覚える人は多いだろうから(私は違うけど).実際に,結婚式を何度でもやりたいという人に会ったことはある. しかしそんな会合に金払ってでも通い詰めたい客がそんなにいるのだろうか.少なくとも私は遠慮したい.

どこにでもいるような人が,「注目されたい」という,それこそ誰でも抱くような願望を持ち,ライブを催してしまう. 私などは,東京という,有史以来空前といっていい人口密度の中で生活しているせいか,溢れかえる人の波に酔いそうな日々を送っている.大袈裟でなく,音楽よりも「静寂」を買いたいと思う時すらある. 当然ながら,わざわざ金出して時間使ってまで,ありきたりな人間がありきたりな歌をうたう姿など見に行きたくない.

上で「ライブに行く機会もあまり無い」と述べたが,何故「あまり」なのかというと,ごく稀な例外があるからだ. ライブに足を運んででも見たいアーティストはいる. それはそのアーティストの生きている・歌っている姿が見たかったり,その人の吐く生の言葉を受け止めたい場合である.単純な音楽的完成度だけで見れば,ライブは音源(スタジオレコーディング)に勝てない. 私がライブを見たくなるのは,その人の精神を愛している場合のみだ. 無論演者の精神は音源にも憑依する.だから良い音源を作るアーティストには,ライブを見たくなるような歌い手も多い.しかし「購買意欲をそそるCD」にクレジットされているアーティストが,必ずしも「ライブを見たくなるアーティスト」にはならない.この辺,説明が難しいところだ.

一般に,音源が売れているアーティストは,ライブの動員も伸びる傾向にある.が,「有名人だから見ておきたい」といっただけの理由で衆目を集めているような人も多い.動物園の珍獣と似たような事情で有り難がられているのである. 私は動物園が嫌いではないけど,動物はモノを考えてないので,精神を味わいたいという興趣を満たしてはくれない.


9/27(土)

影山リサ,先日収録したラジオ番組の放送内容のチェックをかねてスタジオ入り. 本放送は今日からなので,受信できる方は是非聴いてみて下さい.

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9/26(金)

今週のスタジオにて. 9月ももう終わりか.

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9/25(木)

更新間隔がまた空いてしまった. 影山リサ,「FMやまと」(77.7MHz)の「つちやRYU'S BAR」の収録で大和市まで行ってきました.番組の放送は9/27(土),再放送のスケジュールはこちらをご確認下さい. あと,番組収録時の様子をUPしてますので,よかったらこちらもどうぞ. 「FMやまと」スタッフの皆さん,パーソナリティの土谷さん,どうもお世話様でした.

因みに,パーソナリティの方のブログにも影山リサの写真がUPされているみたいなので,こちら(「つちやRYU'S BLOG」)もどうぞ.


9/22(月)

能力と誠実さについて. 人が世を渡って行くのに必要不可欠なものとは何なのだろうか.「能力」だと思っている人は多いのだが,果たしてそうだろうか.

勝海舟という人は,幕末における日本のキーパーソンだったのだが,旗本の子に生まれ,幕臣としては異数の出世を遂げた彼は,無論のこと各種の才能や地位に恵まれていた.後世の我々も,彼の能力の恩恵に少なからずあやかっている. その勝海舟が,あの幕末の動乱期,ある書簡の冒頭で「自分は無能無才,人を欺かざることを平生の志としている」といった風に自身を評している. なまじ能力があったが故にたどり着いた境地だったのかもしれないが,きっと偽らざる本音だったろう(書簡などの冒頭に遜辞を入れるのが,当時の定型でもあるのだが).

確かに人間は,他者の才能に敬意を払う生き物ではある.しかし,能力に払う敬意と生身の人間に対して抱く愛とは,全く別趣の感情であることは,誰にでも分かる筈だ. 100メートルを世界で一番速く走り抜ける人間には,世界中の注目が集まるし,その能力は見る者を圧倒するだろう.優れた身体能力を持つ者に感動するのは,人間の本能かもしれない. しかし人は,その世界一速い人を,世界一の速さゆえに愛するだろうか.そんな事はなかろう.あくまでそれとこれとは別だ. 私は,能力のある人を目の当たりにした時,その能力を素直に崇敬したり,あるいは我が身を省みて,引け目を感じたりはするかもしれないが,能力の持ち主を能力があるが故に愛したりはしない.愛するのはあくまで人間の誠実さだ.

勝海舟の同時代人に西郷隆盛という人がいる.日本史上の巨人には違いないが,何故あの時代,彼があれ程に周囲から敬愛されたかが,後世の我々にはやや分かり難い. 彼もきっと能力という突起物でなく,誠実さという「為さざる部分」でもって愛された人なのだろう.だからその魅力の痕跡が,史実としては残り難ったのだろうと思われる.


9/20(土)

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今週のリハーサル風景.上は神田優花.下は影山リサ. その影山リサなんですが,既にお知らせしている通り,来週の土曜放送のラジオ番組にゲスト出演しますので,そちらの方も是非聴いてみて下さい.

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9/19(金)

今週のスタジオにて. 随分涼しくなってきましたね.

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9/18(木)

大抵の人は理想を抱きますね.自分自身に「かくあるべし」という理想像を重ねてしまう. それ自体は無論悪くないのだが,往々にして,その理想像と生身の自分の姿は乖離していたりもする. こういった場合に,人が採りうる姿勢には,大雑把に言って二種類しかない.自身に厳格に,遠い理想を求めるか,あるいはその理想像を諦めるか.

例えば,幼き日に「ロックスター」に憧れた少年がいたとしますね. ある少年は,そのロックスターという理想像を追い求めて,自分に厳格であり続けるでしょう.彼は,あるいはいつの日か,本物のロックスターになるやもしれない. 一方ある少年は,「ロックスター」に憧れては見たものの,その理想像と現実の自分が懸け離れ過ぎていて,尋常な精神状態では「自分がロックスターになる」という未来像が脳裏に描けず,結果諦めてしまう.この諦観が,歳を取るにつれ深刻になっていくタイプも見られるが,大別するなら無論同類に属する. 人間は理性の生き物なので,ある意味已む無きことかと思えなくもない.

上で言う後者は,時に欺瞞的確認作業を行なったりもする. 歌手としてステージに立てないなら,カラオケで済ませてしまおう,といった趣旨の作業である. 人は,自分の憧れた何かに手が届きそうにないとき,手が届く範囲にある「似て非なるもの」をつかむ事で自分を納得させようとしてしまう.実は自分さえも,心のどこかでそれが偽物だと分かっていたとしても,そこで自分に厳格さを発動させないでいる.

私は酒が飲めない体質ではないが(寧ろアルコール耐性は強いと思われる),世にある酒席が,上に言う「欺瞞的確認作業」に成り下がっている事がままあるから,参加するのに抵抗を感じたりしてしまう. 私は常々,人は自分の心の赴くままに生きて行けば良い,と思っているので,誰がどのように振舞おうと一向に構わない.しかし,そこにいる自分の心の在り処,ぐらいは認識しておいても良いような気がする.

銀幕のヒロインに,自分を重ね合わせる少女はいるでしょう. しかし,「映画のような恋がしたい」と思っていた少女がやがて大人になり,「結婚相談所」や「出会い系サイト」などで知り合った相手と,あたかも掛け合わせのように一緒になる時,当然ながら,過去に思い描いていた理想の恋と,自分を取り巻く現実に齟齬が生じる.「その齟齬をどれほど自身に容認するか」が,その人の厳格さなのだろう.

「名曲を作りたい」と思っているのに名曲が出来ない,という現実を突きつけられた時,「どうせ俺に名曲なんて作れやしないのだから,今あるこの駄作を名曲ってことにしてしまおう」などといった自己欺瞞にだけは,陥りたくないと私は思う. 歯を食いしばってでも,「いつか自分には名曲が書ける筈だ」という可能性を排除したくないのだ. 私は,いくら他人に煙たがられたとしても,自己に厳格でありたいと思うし,自分に厳格でない人を目の当たりにした時に「私はああなりたくない」と思ってしまう. 私は私のことが好きなので,自分ぐらいは自分の可能性を信じてあげたい.


9/17(水)

Infoにもありますが,9/27(土),FMやまと(77.7MHz)の「つちやRYU'S BAR」という番組に影山リサがゲスト出演します. この番組は何やら提携局がたくさんあるらしく,FMやまと(神奈川県大和市)の放送エリアの他,色々な場所で受信できるみたいなので,受信可能なエリアにお住まいの方は是非聴いてみて下さい.あと,インターネットでも放送内容をチェックできるそうなので,この辺り,詳しくはInfoのページを参照して下さい.とりあえず報告.


9/16(火)

広瀬沙希「circle」,販売開始されてます(詳細はInfo参照).

以下,昨日佳乃が出演した「音うたげ」の模様.

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9/15(月)

日本史でいう江戸末期(嘉永年間),薩摩藩の家督相続にイザコザ(派閥抗争)があったらしいのだが,その際,さかんに呪詛が行なわれたと,割とハッキリした記録にある. 記録とは主に書簡・聞書きの類なのだが,呪詛の対象とされた方の側の眷属が,相手方によるその行為(呪詛)に対して怒りを綴ったものだ. 要するに,争っている双方とも「呪詛」の霊験そのものは信じて疑っていない. 僅か百数十年前の同国人たちなのに.

私は彼ら(上記の薩摩人たち)を「未開人」のように感じないわけではないが,同時に,現代人とそんなに違わないとも感じる. 21世紀のこんにちに至って,いまだに厄年だの何だの大真面目に言っているような人もいるからだ. 天気予報と星占いを脳の同じ部分で処理する感覚は,どうも私には理解し難い.今回,「人は何故,加持祈祷といったオカルト的なものに傾倒するのか」に私なりの結論を出してみたい.

そもそも,ああいう呪術的な世界を好む質の人間というのが,いつの時代にもいるのだろう.密教僧になるような人などは,端からそういう精神の傾斜を濃厚に持っている気がしてならない. 弘法大師なんかも,そういうタイプの人だったように思える.彼(空海)は,同時代(平安時代)人から崇敬され,後世,神格化されたのだが,戦国時代かなんかに生まれでもしていたら,売僧として,信長あたりに縊り殺されたかもしれない. 話が逸れた.オカルトへの傾倒は,あの手の世界を好むか好まざるかという「本人の気質」のみに起因しているのだろうか.それも当たらずしも遠からず,という気がする.

私が思うに,あの手の性質は「考える能力の無さ」が生んでいると思うのだがどうか. 当然だが,誰にとっても世の中には謎が多い.理屈で割り切りたくても,割り切れない事象が山積している. 例えば,身の回りの不遇一つとっても,実はそれを引き起こしている直接的原因があったりするにも拘らず,真剣に原因を究明しなければ,その人にとっては「割り切れない事態」となる. であるからして,しばしば「厄年のせいだ」などいう古代人的総括をしてしまったりする.それが即ち,オカルト信仰の萌芽なのだろう.

病に冒されたり,身内に不幸があったり,仕事や人間関係が上手く行かなかったり,欲しいと思うものが手に入らなかったり,これら全ての事象は,基本的に理由があって起こっている筈なのに,人はあまりそれらと真剣に向き合わない. 向き合わないのだが,謎に包まれているという不快感ぐらいは感じられる程度に普通の感覚を持っていれば,とりあえず一番近くにある手頃な解釈に謎の根拠を求めてしまう.それが時に「厄年」などという非科学的なものであった場合,その人の成れの果てはオカルト信者だったりするのだろう.

幕末の薩摩人たちは,あの時代に生まれている以上,思索の拠点となる情報の量にも限りがあったろうし,已む無き面もあるにはある.しかしそういった条件において,我々現代人は明らかに恵まれているのである. 真面目に物を考えないとオカルト信者になってしまいますよ.


9/14(日)

昨日,本屋で買ってきた漫画を読んでいたのだが,何やらどうも内容に覚えがあるような気がしてきた. で,今し方判明したのだが,その本を買ったのは二度目だったようだ. 不覚にもやってしまった.


9/12(金)

今週のスタジオにて.

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9/11(木)

とある世界的に著名なミュージシャンが,子供の頃,地元で録ったデモ音源をリリース(商品化)したというので,私は大いに期待して聴いてみた. が,残念ながら期待外れだった.

音源は,そのミュージシャンが地元にいる頃に8Trのレコーダーで録った音,という触れ込みだった.私も少年時分,アナログ4TrのMTRで音を録ったりしていたので,あの雰囲気の音を聴けると思って俄かに期待したのであったが,実際の音源は完璧にリマスタリングされたもので,事前にその音源の背景を知らされてなければ,ごくありふれた市販品としか思えなかったであろう完成度だった. まあ多分,バラの録音ソースそのものぐらいは,当時のものを使っていたりするのだろうな.おおかた.

しかし考えてもみれば,当然だわな. 私だってあの当時の音源(子供の頃4Trで録った)を,今リリースされるなんて言われたら堪ったもんじゃない. そのミュージシャンのケースも,聞いたところによると,既に結構前から本人の意思に反して,子供の頃のデモテープがブートレッグみたいな形で出回っていたそうな. それに不快感を覚えた本人が,リマスタリングしたそのデモテープを正式な形でリリースしたのだとの事. そりゃ完璧に修正するわな. 期待していた甘酸っぱさなど微塵も残ってなかった.


9/10(水)

食の安全を脅かすような事件が頻発しているという.特に今話題になっている事故米の転売事件だが,ちょっと今までのBSEとか賞味期限表示の改竄とかいうのとは悪質さにおいて別格の感がある. 故意に事故米を買い付け,食品として流通させるなんて,世の中には凄い人がいるものだと思う.

例えば,少し前に社会を震撼させた「毒ギョーザ」事件だが,あの商品の仲介業者も,まさかあのような毒物が混入しているとは思いもよらなかったろう.チェック体制の不備などはあったのかもしれないが,少なくともあれは仲介業者にとっても「願わざる事態」であった筈だ.アメリカ産牛肉におけるBSE問題なんかも,ミスに起因するという意味では,同情の余地も無いことは無い事件だと思える. 私は今回,当事者となっている企業のトップ,あるいは本件における直接の責任者などの生の声をまだ聴いていない.が,今後彼らが会見などの場で,どのような釈明を行なうのか,ある程度予測がつく.ハッキリ言って,あまり意味のある会見にはならない筈だ.

こういった不祥事を起こしてしまった人の中でも,論理的でない者が採りがちな常套手段に,「自分を弱者・被害者に見せる」というのがある.論理的でないが故に,ある行為に至った自身の思考のプロセスを理路整然と開示できず,反射的に相手の情緒に訴えかけてくる. その行為に至る自分の心持ちを,自身で内省・総括する事が出来る程度の言語力があったならば,彼は歳を重ねるうちに,そういった行動を採らない人間になれただろうに.

今回の事故米事件と似たようなケースは,過去にも存在した. 鳥インフルエンザに感染した鶏を,故意に隠蔽しようとした養鶏屋があったのを記憶しておられるだろうか.激しいバッシングの中,当事者であるその会社の会長夫妻は自殺したのだが,世間は,この自殺のメカニズムを理解しているのであろうか.

論理的に物を考えない人は,時に論理的には説明の付かないような行動を取る.本人に理由を求めても,きっと整然とした釈明など期待できない. 会見の場を設けて,釈明させようとしたところで,本人は説明できないので「自殺」という安易な解決策を採ってしまう.要するに事態に向き合わず,逃亡を図っているだけで,隠蔽体質という意味において,事件を起こしてしまった精神と全く同じなのだ.何ら変わっていない. 轢き逃げ犯などが「怖かったので逃げた」などという,意味不明の申し開きをする事があるが,要するに頭の中が混乱しているのだ.論理性の欠如に他ならない. 轢き逃げ犯に限らず,一般に犯罪者は論理性に欠ける.よく事件直後なんかに「逮捕された容疑者は,〜などと意味不明の供述をしており,動機は不明」みたいな報道がなされる.要するに,論理性の欠如が事件に繋がっている. その人が意味不明の言語を喋っている事が,犯罪行為を誘発しているのだ. この際表明しておくと,私は個人的に,国語力が怪しい人間をあまり信用しない.

「ロゴス」という言葉がある.聖書にも出てくるのだが,その意味は「言葉」であり,同時に「論理」でもある.言葉とは即ち論理なのだ. 言語能力を培わねば,論理的思考回路など持つべくもない. 最近のこの手の偽装事件や,秋葉原その他各地で頻発している無差別殺傷事件などは,文部科学省が国語教育を徹底するだけで,激減する筈である.間違いない.


9/9(火)

アウエルバッハというドイツの作家(作家としての事績はよく知らない)の言葉で,「現在持っているものに満足しない者は,持ちたいと思っているものを手に入れたとしても,同様に満足しないであろう」というのがあるらしい. 分かる気がする. 私自身は「現状に満足しない者」であり,同時に「現状に満足する者」でもある. 夢というか,目標が設定できる人というのは,ほぼ例外なく「現状に満足しない者」だと言えると思うのだけど,自分が置かれている「現状」に,自身の全身全霊を注ぎ込めると感じているであれば「現状に満足する者」だとも言えよう.

例えば,自らの境遇に「こんな筈ではなかった」と不満を感じつつ日々を過ごしている人がいる.彼の不遇感は何らかの勲章を手に入れれば解消されるのかというと,結論としては「解消されない」であろう. 「こんな筈ではなかった」と,現状を託つ凡百の主婦やサラリーマンが(私は主婦やサラリーマンを立派な仕事だと思うが),一念発起して芸能人や芸術家になろうとし,仮に本当になれたとしても,おそらく彼らの心の隙間は埋まらない.きっと,もっと刺激の強いクスリが欲しくなるだけだ. 一方「作品を完成させること」自体が楽しい芸術家は,ある作品が完成したとしても,更にはその作品が世間からの名声を得,商業的な成功を収めたとしても,次の瞬間には新たな作品に手をかけるだろう.

結局人生って,「憧れの誰か」になる事に意味があるのだろうか.違うような気がする. 等身大の自分から懸け離れた「自分像」に外貌だけ近付けたとして,自分を構成する最大の要素である「心」は変わらない.心を変えようと思うならば,それは自分が,全く歴史的連続性の無い別人になってしまう事に他ならない. つまりは,人はどんなにがんばっても,「今より少しだけマシな自分」ぐらいにしかなれないのではないか.そして,今より少しだけマシな自分になり続ける事は,人間の成しうる最も偉大な業でもある.

「私の人生,こんな筈ではない」.この自己評価は本当に正しいのだろうか.私は間違っていると思う. 人生のあらゆる局面における自身の判断は,いかにそれらが消極的な選択であったとしても,こんにちの自分に直結するものだった筈だ. 要するに,貴方における人生のありとあらゆる瞬間は,今のご自身に向かって一直線に進んでいたのである. 貴方という人は,今の貴方のような人だ.

私は,今のこの「音楽の事を考え続け,音楽を作り続ける日々」に満足している.将来,我々の作るモノが売れようが売れまいが,それは当然の帰結であり,いわば歴史的必然であるのだろうと思う. 日々に満足している私が,しいて心掛けていること言えば,「ちょっぴり自分に厳格であること」ぐらいでしょうか.「自己に厳格さを欠く」というのは,要するに堕落するという事だ.自身にそれを許してしまえば,私は際限無く堕落するだろう.


9/8(月)

スタジオにて.

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9/7(日)

この間,スタジオで時間があったので,試しに録ってみた音を上げてみる. 歌っているのは片飛鳥,曲は鈴木サヤカの「宝石」(2006年8月リリース)という作品です. 録ってはみたものの使い道が無い音なので,とりあえずここで公開してみた.多分すぐ削除します.

宝石」(MP3)

歌:片飛鳥
作詞:鈴木サヤカ
作・編曲:益田武史



9/6(土)

昨日の続き,今週リハーサル風景.

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相撲界が大麻騒動で揺れているらしい.まあそれはいいのだが,この件に関しての,識者や角界関係者の神妙な面持ちを見るにつけ,多少の違和感というか,失礼ながら,若干の滑稽さすら感じてしまっているのは私だけなのだろうか.

最初に断っておきますけど,大麻の不法所持はいけません.日本は法治国家ですからね.違法行為は無論宜しくない. しかし「大麻=悪」という解釈は,少なくとも人類が遍く共有しているスタンダードでは無い,ということぐらいは知っておいて良いかと思う. 一応言っておくが,大麻の法的な扱いは,国や地域(あるいは時代)によって異なる.

路上喫煙というヤツが今社会問題となっていて,東京都でも区によっては条例で規制され始めているのだが,現状,中央区でタバコを吸いながら歩いていても法的には問題ないが,そのまま道路一つ隔てた千代田区に突入すれば条例違反となる. また北区では今年の12月1日から路上喫煙を禁止する条例が施行されるそうで,11月30日の午後11時59分に路上でタバコを吸ってもとりあえず問題ないのだが,12月1日の午前0時からは違法になる. 大麻の違法性というのも,大掴みにはこれらと似たようなもので,例えば,私がアメリカの特定の州(大麻吸引が合法な)に旅行に出て,大麻を吸引し,更には射撃場で銃を乱射した上で帰国してきたとしても,法的には何ら問題無い筈だ(無論,単なる例え話で,私はそんなヒマな事はしないけど). 自己紹介で「趣味は大麻吸引です」と表明したところで,それも全く法的には問題ない. そもそも国内法的にも,大麻の吸引自体を規制する条文は無い筈だが.

自動車で,制限速度50km/hの道路を100km/hにて走行すれば,無論違法だが,制限速度100km/hの高速道路を100km/hで走っても何の問題も無い.当然ですね. ある相撲取りは,尿検査の結果,陽性反応が出たとか何とか言われているが,「所有の自家用車を精査したところ,過去に100km/hの速度を出した形跡がある」などと言われたところで,どこでそのスピードを出したのか判明しない限り,責めを負わされるいわれはない. まあ彼らにおいては,ずっと日本で巡業していたのかもしれないけれど.

以上のような事を,相撲協会や識者たちが理解している上で,昨今の言動に及んでいるのなら私は別に構わない.日本での大麻所持が違法である事は間違いないのだし.


9/5(金)

再来週の月曜(9/15),佳乃が「音うたげ」という番組に生出演します.詳細はInfoを参照してもらうとして,とりあえず今週スタジオで撮った写真.

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その「音うたげ」なのだが,聞くところによると,今月一杯で番組終了との事.ウチのアーティストも割と顔を出していた番組なだけに,ちょっと残念ですな.


9/4(木)

大抵の人は,明るい気分の時,あまり深くものを考えないのだろうか. 確かに不幸が重なったりして気分が滅入った時など,色々なことを内省し出したりする.だからなのか,往々にして人間が深く考えたログとしての「作品」には,暗い雰囲気のものが多くなる.文学にせよ歌詞にせよ.

私はJ-POPの歌詞を,目を皿のようにして読んだりするのだが,やはり深くモノを考えた上で書いてあるらしき作品には,何となく暗いものが多い.暗いなんて大雑把な言い方だけど,要するに怒りや悲しみを表現した作品だという意味だ. 一方,明るい気分を表現した作品は,パーティがどうしただの,「踊ろうよ」だの,見も蓋も無く言えば,薄っぺらいものが多い.

深遠なる「明るさ」を作品に昇華させることは不可能なのかというと,無論そんな筈はない.熟慮の末,希望的な結論を導き出す人は必ずいる.数は少ないけど,現にそういう作品を作り続けている素晴らしいアーティストもいる事はいる.ただ,あんまり売れてなかったりするのが残念だ.


9/3(水)

ここ数日,人間の頭の整理について考えていた. 語彙や文法といった言語力の精度を上げることは,単純に脳の整理に繋がる(正比例関係にある)のだろうか.何だか微妙に違うような気もする.

何故そう思うのかを以下に述べてみる. 例えば,明治から昭和初期にかけての日本軍(大日本帝国軍)の強さの源泉って,装備よりは精神力だと思うのだが,何故日本人は兵卒に至るまであれ程に強靭であったのか.もしかして,頭の中身がシンプルだったからに他ならないのではないだろうか.

私は率直に欧米人を,人類文明の先端にいると思っているが(劣等感など感じないけど),当時においても基本は変わらないだろう.言語・歴史の変遷・宗教など,日本とは成立の背景が違いすぎるので,ある意味仕方ない.明治後の日本が移植できたのは,基本的に「技術」であって,思想ではない. で,当時の日本人などより遥かに頭の中身が詰まっていたであろう欧米人より,日本の兵卒は集中力があったように思えるのだが,要するに,脳の中身が増えるのは,雑念で混濁するという事でもあるのだろう.

現代の日本人は,「ドルを溜め過ぎる」とか「働き過ぎる」などと,やや非難調で評される.確かに日本人は,平均的ヨーロッパ人より労働(拘束)時間が長いのだが,これも頭の中身と関係ありそうな気がしないでもない.イタリア人が昼寝したり,フランス人にバカンスが必要なのも,結局彼らの言語力がそうさせているのかもしれない. 昼寝が必要な人間を軍人にしても,そりゃ弱かろう. モンゴル帝国(チンギス・ハーンの)の騎馬民族たちは,人間離れした運動能力を持ち,なおかつ文明人離れした残虐さを合わせ持っていたという.モンゴル帝国に限らず,一般に人間は,古代に遡るに従ってその所業が残酷になる傾向にある. 苛烈な状況に耐えうる精神というのは,実は「想像力の無さ」に支えられていたりするのかもしれない.まあ一概には断じられないが.

上の理屈が仮に正しいとしたら,ヨーロッパ人は頭の中身が詰まっていたからこそ,軍隊という肉体労働に向かなかったのだし,日本人は「兵卒に至るまで」強靭だったというより,「兵卒だからこそ」強靭であった面もあったろうと思う. 脳内に夾雑物が少ないからこそ集中出来た,みたいな状態. 物が少ない部屋なら,探し物も見つかりやすかろう.

それでは結局,頭の中身が少なければ少ないほど人間は能力を発揮できるのか,という話だが,私自身結論づけられないながら,それも違う気がする.日本の戦国期においても,学の無い百姓兵ってあまり使い物にならなかったみたいだし. 詰まるところ,言語力・想像力を十二分に培った上で,その整理を付けられる事,が人間にとって一番望ましい状態であって,頭の中が混濁するが故に集中力を発揮できない人というのは,単にまだ発展途上段階にあるのだろう. そして時に,そういった半端な状態の人は,それ以下の人に,パフォーマンスにおいて劣ってしまうケースがあると.


9/1(月)

大分の教員不正採用事件についてである. 極めて常識的感想で申し訳ないが,あれはいけませんな. 仮にも国家が主催している選考試験で不正が働かれるというのは,国民の国家に対する敬意を失わせるに等しい.

当然だが,公立学校の教職員というのは,税金で養われている.周知の通り,昨今の教職員達の一部は何やら特定の思想集団となっていたりするのだが(その思想の是非はさておく),彼らがあまつさえ,不正な手段でもって同業者を息のかかった人物で固めだすというのは,日本国にとって由々しき問題だ(当事者が思想的に無色であったとしても同じだが). 公務員がそうなるというのは,国家が異胎を宿してしまっているという事に他ならない.要するに国家の中に別の国家が出来てしまっている状態だ. 早急な外科手術が必要で,まあ政府の側もそれを痛感してのこの事態なのだと思われる.

今この時にも,事件の推移を固唾を飲んで見守っている,脛に傷持つ御仁が全国におられる事だろう.火の粉が自身にも降りかかりやしないだろうかと,気が気でなかろう. 私がこのように想像する根拠は,別に何らかの情報を得ているから,などではない.人間というものに「個性」が無いからである. 個性が無いのだから,ある特定の条件下に置かれれば,皆似たり寄ったりの行動を取ってしまっている筈だ.


8/30(土)

神田優花,今週のリハーサルの風景.

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8/29(金)

今週のリハーサルの様子をUP. あ〜腰が痛い.

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広瀬沙希(Photo2)の新作「circle」を近いうちに販売開始します.公開日とか決まったらまたお知らせすると思いますので,よろしく.


8/28(木)

ずっと編集作業やってました. 暑さが和らいできたら外回りの仕事を増やそうと思っていたのだけど,ここ一週間ぐらいの間にちょっと涼しくはなって来ましたね. ずっと天気が悪かったから,一時的に気温が下がってるだけなのかもしれないけど. しかし,暑さが和らいできたと思ったら今度は連日の雨か.人間も生き物だから天気が悪いと気が滅入りますね.


8/26(火)

爺むさい話で恐縮だが,ここ最近腰痛に悩まされている.特に座った状態から立ち上がるときが辛い. 音屋は肉体労働だからな.


8/25(月)

オリンピック終わりましたね.北京では日本選手が登場する度にブーイングが飛んでいたらしいのですが,今回はその中国人について.

私は基本的に,民族性は地理的条件が作るものだと考えている.だから日本人の性質も,民族のDNAが表現しているなどというより,大掴みには日本列島の地理が作り出したと思っている. だからして,異民族の思考も,考えて理解出来ない筈はないと思うのだ. ちょっと前,私は東洋史(要するにほとんど中国史)関係の本を続けて読んでいた時期があった. で,あの辺りの大地に住んでいる人間を歴史に沿って俯瞰していると,現在の「中華人民共和国人」の思考のプロセスがなんとなく理解できてくる瞬間がある. 例えば,サッカーの国際試合があっちで行なわれたりすると,観客が「反日」をスローガンに暴徒化したりするのだが,あれは「反日」ではなく「反政府」運動だな,と直感的に分かってしまったりする. もしこれが理解できない人がいるなら,それは受けた歴史教育に問題があるのだと思う. 現代中国人のこの機微が体感できてくると,何故中国共産党が法輪功を弾圧するのか,などというのも徐々に理解できてくる. 人間に性格があるのと同じように,民族にも体質が存在する.

日本でも似たような現象はあった. 日本史でいうところの幕末頃の話.当時,倒幕を図っていた志士達は,時の政権に対してバカ正直に「倒幕」をスローガンとした反政府運動などしなかった.スローガンは「尊皇攘夷」である. 徳川将軍家は「征夷大将軍」といって,名目上,夷狄(異民族)を征伐することを使命とした官職についていたから,「攘夷を実行しろ」と揺さぶられれば正面切ってNOとは言えなかったわけだ(ついでにその征夷大将軍は形式上,朝廷(天皇)から任命されていたから,幕府は「尊王」の立場も当然崩せなかった). 因みに,「攘夷」を掲げた運動だったので,当然ながら倒幕勢力は,外国人に対する狼藉も頻繁に働いたのだが,彼らが樹立した新政権(明治政府)は,徳川政権などより積極的な開国路線を採った. この辺,中国史でいうなら後漢・霊帝期,太学の学生運動とか,清末の義和団事件の推移などを思い合わせて欲しいのだが,人間の営みなんて,二千年やそこらでは大して変化しない事が分かる.

現在の中国共産党は,政権の正当性を保証するために,「日本軍国主義と戦ってこの国土を守った」という神話を採用している.教科書もその色で染められているので,当然日本は悪役として登場する. 外側に敵を設定することによって内部の団結を図る,というのは組織論のイロハだろうが,反日教育も,あの国民に国家への帰属意識を芽生えさせようと思えばこその苦肉の策だと思われる. 中国の歴史教科書は,基本的に軍記物語なので,良い悪いは別として,時には大袈裟な虚構も取り入れられてしまう.教科書内の日本に関する記述に誤謬が含まれているのならば,日本人は毅然として不快感を表明したらよろしいと思うが,同時に彼らの微妙な立場を理解してやることも必要だとは思う.

スポーツの国際大会など,世界のマスコミが注目するような舞台で国民が暴徒化すれば,中国政府の国際的信用は失墜するし,他国民(日本など)も感情を害する. しかし中国政府は立場上,「反日」をスローガンに暴れる国民を正面切って弾圧しにくい.

ちょっと脱線する. 私は便宜上「中国」という言葉を使うようにしているが,この呼称にいつも若干の気持ち悪さを感じている. あの辺りの地理的・歴史的・民族的呼称として,「中国」というのは甚だ正確性を欠くもので,いわば当代の政治的産物だと言って良い. 情緒と論理は別物の筈なんだけど,どうも政治の世界はそうもいかないらしい. 「支那」とか言うと何らかの意図を感じさせてしまいかねないし(本来学問的には,この呼称の方がまだ当を得ている筈だが),その前に読んでいる人にとって,意味が分からないかもしれないので,気持ち悪いがこのまま通す.

で,結局中国人やアメリカ人というのは,濃厚に原理的な民族な訳だが,それ故に扱い難い部分もあれば扱い易い部分もあるのではないか(好きになれるか否かは別として). 原理さえ理解してしまえば,ひょっとして初等算術のように明快な人らなのではないか. 原理を把握した上で利害を探る,という接触方法はそんなに難しいのだろうか(私自身は多分苦手だけど). 言っておくが,欧米人などは日本人の原理を理解する為に既にそれなりの努力をしてきている.日本人なら彼ら(ルース・ベネディクトとかウォルフレンとか)の「日本人論」を読んでみると良い.彼らの分析が正しいか否かはさておき,少なくとも我々日本人よりは相手を理解しようという姿勢が見られるように思うが. 話がまとまってないけど,今日はこの辺で終わる事にする.


8/24(日)

神田優花,やっと上がった新曲のチェックをしてました.

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影山リサ.そろそろ新しい曲でも作ろうかと思っているのですが,何かまだ他に色々やる事があるみたいで,しばらく先になりそうです. 下は先週スタジオで撮った写真.

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8/23(土)

ちょっと久し振りになりますが,今週のリハーサルの様子をUP.

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8/22(金)

更新間隔が空いてしまった. のどかに物思いに耽ってました.


人は変わるのか. 「あの人,昔は良い人だったのに,最近変わってしまった」とか「彼は,昔と今では言う事が違う」とか,あるいは「昔は酷い人だったのに,最近マシになった」なんて話を聞く事があるが,本当に人間は時間の経過と共に変わってしまう生き物なのだろうか.

私の持論だが,人(人格)は基本的に変わらない. 無論,物事に絶対は無いので断定は避けるが,私自身はそう思っている. 他人が変わったと感じてしまう人がいるなら,評価そのものが間違っているのだと思う.彼は決して変わってはいない.

「ある時,良い人に見えたのに,今そうでない人」というのは,「情緒が安定せず,態度に一貫性がない人」という一本筋の通った人なのだし,「時により,発言内容が異なる人」というのは,「整然とした思考回路から発言が生まれておらず,発言に原理性が見出せない人」という一貫した人格である. 「昔は酷い人だったのに,最近マシ」という人も,周囲の環境・パワーバランスの微妙な変化によって,本来取りたかった態度を渋々引っ込めているだけに過ぎなかったりする. 人は変わらない.

経験不足・無知によって,場違いな態度を取ってしまったり,不必要なトラブルを招いてしまうようなタイプの人を見ていても,「彼のこの若さ故の欠陥は,時が経つにつれ修正されていくだろう」という観測が容易に成り立つケースがある.その人が順当に大人になっていく姿は,「変わっている」のではない. 結局「彼は変わった」と嘆く人は,自身の観測眼の甘さを嘆いた方が良い.きっとその方が後の人生にとって有意義だ.

恋人や友人との関係が長続きしなかったり,離婚を繰り返す人の大半は,要は観測が甘いのだろう. 変わるのは,人間の表面的な振舞いだけで,その振舞いを生むに至るその人の思考回路(人格)自体は不変のものである. それを「彼は変わった」などと,自分の判断を省みないで総括してしまう行為は,同じ過ちにそのまま繋がるのでは無かろうか.

曰く「彼は変わった」.そこに自身の判断の誤りが介在しないのであれば,当然「運が悪かった」とかいう,説明不可能な事由に原因を求めることになる. 従って善後策も練られない(不運の所為なので練りようがない)し,延いては似たような事を繰り返す破目になる. 人は変わらないのだけど.


8/18(月)

坊主頭(丸刈り)について. 何やら不祥事を起こしてしまった輩が,反省のポーズとして坊主頭にしたりする事があるのだが,あれも如何なものだろうか.

世間に不祥事扱いされようが何だろうが,物事にはそれに至るまでの紆余曲折があり,当事者にもそれなりの見解がある筈だ.無論反省という形で総括するも良し(その際に坊主頭にしたけりゃしても良い),逆に反論があるなら,堂々とそれを主張すれば良い. 一番最悪なのは,坊主頭にするなどという無意味なパフォーマンスで非難をかわそうとする事だ. また,そういった表面的なパフォーマンスだけで,本当にある程度非難の声を沈静化出来てしまうところが,この社会の未熟さを物語ってもいる.

丸刈りにする事も土下座する事も,要は「タダ」である.周囲がうるさいから,記号としての「反省のポーズ」をとりあえず示しておく,というのはその人の思考停止をダイレクトに招く.私は感心しない. 言語によって事態を総括しなければ,当然ながら本質的な意味での反省など出来る筈も無い.結局,言語による総括を経ない事象は,それがいわゆる不祥事であったりでもしようものなら,やがて本人にとって,何となく悪いイメージの「触れられたくない記憶」となり,時間が経つにつれ,忘却の彼方に消されて行く. 何の総括もしていない以上,似たような状況に再び遭遇した際にも,自分がどういう態度を取るべきか,が分からない.

当たり前の話だけど,真面目に物事を考えない人は,本当の意味での反省も出来ない.


8/17(日)

休み中ヒマだったので,珍しくオリンピックなんぞを見ていた.具体的には野球の日本VS韓国戦を見ていたのだが,日本代表チーム,というより現代日本人の致命的欠陥を見せられた気分だった.

試合は5対3で日本の負けだった.それは良い.問題はその負け方だ. 同点で迎えた9回表に1点勝ち越された日本は,その直後から,素人目で分かるほどあからさまに集中力を欠いていた.ミスを連発した挙句,結局計3点のリードを献上してしまった. その裏に1点返したみたいだったが,無論焼け石に水で,試合そのものは落とした. 結果論ではあるが,9回表に1点リードされた際,集中力を切らさずに後続を断っていたら,試合の帰趨はどうなったか分からなかったろう.

思い出した.サッカーのワールドカップを見ていた時にも似たような気分になった. 古い話だが,フランス大会一次リーグで日本代表チームは,強豪を相手に1・2戦を悉く落とした上,下馬評では圧倒的有利と言われた,いわば格下との試合(第3戦)にも惨敗した.決勝トーナメント進出への望みが絶たれた状態で望んだその試合(第3戦)こそが,最も失点も多かった. この間のドイツ大会では,オーストラリア戦,1点リードのまま迎えた試合終了直前,ふいに同点に追いつかれたその直後,急激に集中力を低下させた日本チームは,あれよあれよという間に立て続けに3点を入れられ,試合にも惨敗した. 彼らは,何故あのように「崩れ落ちる」ような負け方をしてしまうのか.

現場の監督やコーチが認識しているか分からないが,きっと彼らに欠けているのは「考える能力」だ.技術面だけなら,例えば韓国代表と比べて然程劣るとは思えない. 9回という試合の最終局面において,リードを許してしまうという絶望的な境遇に晒された際,彼らはその事態に真剣に向き合う事が出来ない.従って当然,その事態を打開する為の方策を真剣に考えることも出来ない. いくら最終回にリードされていようと,相手が強敵だろうと,望みは薄いながらも勝つ為の方法自体はあるのだから,点を取られた次の瞬間から,冷静に粛々とその方法を履行すれば良いだけなのに.

試合の結果について,きっと日本中から罵詈が飛んだろう.「あれほどの大舞台で,何たる無様を晒すのか」と. しかし,彼らが能力を発揮できなかった理由には,その「大舞台」さえ含まれている.考慮に入れなければならないファクターが増えるから,余計に頭は混乱する.そして普段なら発揮できたであろうパフォーマンスすら維持できなくなる.

国際試合しかもオリンピックという大舞台,日本中がテレビ画面に釘付けであろう事も容易に想像できる.その試合の最終回にリードを許してしまう.この時点で既に脳はパニック状態になり,ミスを連発する.ミスをすれば「大変な事をしでかしてしまった」という,更なる懸案事項が脳裏を掠め,ますます混乱には拍車がかかる. 因みに,当のミスをしてしまった選手は,その裏の攻撃で自分に打順が回ってきた際,「ここで打って汚名返上したい」と力むあまり,凡打に終わってしまった. 本来なら彼は,いつ何時においても打たねばならない使命の下に動いている筈なのに,ある条件下においては冷静にそのタスクをこなせなくなる.脳の整理がつかないからだ.

詰まるところ,現代日本人の宿痾というべき「集中力の欠如」は,教育の問題に他ならない. 結局彼らの最大の課題は,脳の整理力をつける事なのだが,現場は気付いているのだろうか. 日本代表に選出される程のスポーツ選手なのだから,運動能力にさしたる課題など残されてなかろうと思うが.


8/16(土)

盆休みなんてものを取らせてもらっている.が,やる事は音の編集とか曲作りばかり.普段と何も変わってない. まあ好きでやっているからいいのだけど.

東京近郊に住んでいる人以外にはよく分からない話かもしれないが,ここ最近,連日のように降っている夕立は何なのだろう. 局地的豪雨とかそういう言い回しってあるけど,その「局地的さ」が半端じゃない.目で普通に確認出来る程度の距離にある空が普通に青い(晴れている)のに,自分の立っている場所は土砂降りだったりする.明らかに異常気象だと思うのだが,どうにかならないのだろうか.


8/14(木)

とある新人女性歌手のPVを見たら,衣装がビキニ型の水着という,いわば半裸のような状態で歌っていたのだが,あれって「セクシー」なのだろうか. 露出度の高い衣装を喜ぶオーディエンスって誰なのだろう.常識的に考えて男性だと思いそうなもんだが,どうも違うらしい.メイン・ターゲットは女性であるかのようである.やはりセクシーとはいうものの,本質的な意味でのセックス・アピールは薄いように思える.

水着って「意味」だ.以下「意味」について説明する. 水着とは,材質的な面においてそういう定義があるのではなく,水着と決められた布切れが水着になるのだ. だからして,下着と水着に明確な違いなどない筈で,水着で歌い踊る人を,事情を知らずにいきなり目にしてしまったら,「下着姿で踊っている人」に見えてしまう事もあり得る(現に私がそうだった). もうちょっと補足しておこうかな. 例えば「嘔吐物」ってありますね.いわゆるゲロってヤツ.あれは胃の中身を嘔吐・吐瀉したからゲロになったのであって,胃の中に入っている時点では単なる「胃の内容物」なのである. 吐いてしまったから別の意味が生じてしまっただけで,両者(「胃の内容物」と「ゲロ」)に物質的な面における違いなど無い. ピジョン・ミルクなんてのも,広義にはこれの一例ですな.

で,水着のセクシー歌手だが,あれも要するに,売り手サイドもセクシー何たるかよく分からないのだろうな.何日か前にこのページで述べたコメディアンなどと同じで,自分でも良さが分からないけど,こういうものが受けるらしいと思っているのではなかろうか.だから最適な匙加減が分からない. 奇声を上げるコメディアンも,自分自身で面白さが分からない人ほど,その声が大きくなる傾向にあるような気がする.匙加減が分からないから必死でボリュームを付け足してしまう. 自分で面白さが分かっている人なら,匙加減など間違える筈がない.

蛇足だが,上で「売り手サイドもよく分からない」と述べたが,多分売り手側は,ああいった雰囲気そのものは好きなのだろうと思う(基本的に人は,好きでないものに積極的に手を出したがらない).しかし音楽リスナーがどういった心持ちで音楽やアーティストに憧れるのか,という気分が体感できないのだろうと思う(セクシーさの感じ方を含めて).この辺,説明が難しいな. 以上,全く商才の無い私の感想です.私がどう思おうが,上の歌手は結果的に売れてしまうかもしれない.ただ,それはお金を落としてくれる人を得たのであって,音楽ファンの心を得たのでは無いと思う.


8/12(火)

松浦静山という,江戸時代の殿様が執筆した「剣談」という書物がある.その中に「勝ちに不思議の勝ちあり,負けに不思議の負けなし」というくだりがあるのだが,今の私にはその静山の気持ちが分かる(体感出来る).

確かに物事の帰趨は,当事者の努力・能力を越えた要素によって決まってしまう事がある.それを卑近な言葉では運とか言ったりするのだが,「私は運が悪い」とかいうように何事も超自然的現象の所為にしてしまうのは,一種の思考停止に他ならないと思う.

雨に降られて髪型が乱れたり,服が濡れたりしたのは「運が悪い」せいなのだろうか. 違うだろう.天気予報を小まめにチェックしなかったり,傘を用意していなかった所為だ. 濡れたくないあまりに,「天気予報では降水確率0%だとのことだったが,この季節には夕立が多いから,念のため傘を携帯しよう」とかいう風に,不測の事態に備え,石橋を叩く人だっている. 結局「負け」には理由があるのだ.

己の不遇を「運の悪さの所為」だと総括してしまえば,その人はそれ以上の思索・努力を放棄してしまうだろう. 女優さんがいつまでも(歳を取っても)綺麗なのは,たまたま美人に生まれた幸運のお陰なのではなく,「美とは何か」を模索し続けているからに他ならない. 万全の準備をもって雨に備えた結果,雨に降られない事,こそが幸運(勝ち)なのであって,勝ちには不思議の勝ちがあったりするのだ.


8/11(月)

一昨日,一日中ずっと曲作りをしてたのだが,何だかいい曲が出来たような気がして,昨日は一日気分が良かった.子供の頃にもこういう時があった. 今日もその気分が続いているので,早いうちに溜まった仕事を片付けます.


8/9(土)

神田優花,新曲の再々レコーディング. 写真は歌入れが終わって,一息ついているところ.

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以下,影山リサ.

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8/8(金)

今週はレコーディング(歌入れ)が二件ほどあった.来週は盆休みがあるので,今週録った音の編集でもチンタラやろうと思います. 以下,今週のリハーサル風景.

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8/7(木)

今日は昼間から買出しで浅草橋に行っていたのだが,あまり軽率に真昼間から外を出歩くのが,危険な気すらしてしまう暑さだ. 子供の頃は,夏休みなんかに冷房の効いた部屋の中にいたら,「子供は外で遊べ」みたいな事をよく言われたものだが,この頃は「外での運動は危険なので控えましょう」的なことを言われてしまうそうな. 地球上の気候が変わり過ぎて,コモンセンスそのものが変わってきているらしい.

地球の気候で思い出した. たまに歴史関連,とりわけ日本史の本を読んでいると,「ひょっとしてこの当時って,現代よりかなり涼しかった(寒かった)のではないか」という疑念が頭を擡げてくる.ハッキリしたデータが存在しないのが残念だ. 色々な面で感じる事ではあるが,特に農作物の豊凶絡みの話を読む度にそれ(気候の違い)を強く感じてしまう. 無論,品種改良その他の諸技術によって,収穫効率が良くなった面はあろうと思うけど.


8/5(火)

ここ数年,芸人(コメディアン)ブームだという.ブームというが,自然発生的なものではなく,露骨にそういうムーブメントを作ろうとしている仕掛け人的な存在がいるのだろう. で,ここ最近出てきた「ブレイクした芸人」達のネタ(ショー)とやらを一通り拝見させてもらったのだが,ハッキリ言って全然笑えなかった(単純に見せる側(芸人さん達)だけが悪いのでは無かろうと思うが). 私が見た幾つかのサンプルは,例えば「変な表情を作る」とか,「奇声を発して踊り回る」とか,「奇抜な衣装・メイクで登場する」とか,「決め台詞がある」とかいう,いわば『持ちギャグ』を披露する人達だったのだが,果たして「面白い人」って「面白いギャグを持っている人」のことなのだろうか.

仮に,Aさんという面白い人が持っていた秀逸な「ギャグ」を,Bさんが「俺によこせ」を言って貰ってしまったら,面白い人はBさんになってしまうのだろうか.そんなわけがない. 面白いのはギャグではなく,人間そのものである筈だ.その人の感じ方,世界の見え方,いわば「頭の中身」こそが注目に値するのであって,ギャグなどそれこそ共有のものであっても構わない程度のものだ.音楽でいうところの和音やコード進行などのように.

私は,奇声を発したり,変な表情を作っている彼らの「変人さ」加減を嫌っているのでは決してない. そうではなくて,「自分を変人に見せたい」と思った際に,とりあえず「奇声を発してしまう」という,その人の「正常さ」・「普通さ」に辟易しているのだ.

本当の意味での「面白い人」が商業ベースに乗りにくい原因は,ひとえにオーディエンスにあろう.ひょっとして,国語力の低下が直接の原因になっていやしないだろうか. 私だって,「言語の妙」を解さない乳幼児を笑わせようと思ったら,それこそ本当に「変な顔をする」とか「奇声を発して踊る」とか,そういう事ぐらいしか方法が思いつかない. コメディアンにも仕事人という側面があるだろうから,当然「聴衆の笑い」という成果を得ねばならないのだろうし,この現状も止むを得ないのかもしれない.

まあ私のような人が何と思おうと,ああいうものを世に出したい売り手がいて,それなりに面白がっている客がいるのであれば,商業的には成り立っているのだろうから別に良いのだけど,彼ら(芸人さん達)に一つだけ問いたい.「あなた方は,ご自身が演じているそのギャグを,心の底から面白いと感じていますか」と.もし「私自身には面白さがよく分からないが,こういうものが大衆に受けるらしいからやってみた」とか答えるのであれば,そのギャグに対する私の感想も,基本的に「あなた方と同じく面白さがよく分からない」です.

私は音楽家である.いくら売れなかろうと,他人に「つまらない」と扱き下ろされようと,私自身は良いものだと思って作っている. 無論完成した作品に不満が残る事は多々あるが,基本的に自分自身が聴きたいと思う音楽を作っている.これだけは自信を持って言える.


8/4(月)

CDが売れなくなっているという.まあここで触れるまでもなく,ここ10年ぐらい言われ続けていることで,音楽業界的には常識といって良い認識だろう. 何故CDは売れないのか.

その前に,本来人は何故CDを買うのだろうか. 音楽が好きだからとか芸術を愛するからとかいうのでは,謎に対する答えにはならない. 人がCDを買う(表現者・創作者に注目する)理由は,単純にアーティストや作品に魅力を感じるからだろう.その魅力の源泉は,それらの創作者達が常人でないところにあったりもする. 異常人であるが故に世界観が常人とは異なり,普通人では抱かない感想を持ち,それを形(作品)にしてしまう.そんなものだからこそ,他の大多数の常人はその作品に価値を感じる. 凡庸な人間が,誰しもと似たり寄ったりの世界観・価値観を持ち,それこそ「芸術家になって注目されたい」といった月並みな願望を持ち,誰にでも作れそうな作品を残す.当然他人は,そんな自分にでも作れそうなものに対価を払う価値を見出せず(その人の「立場」になら憧れるかもしれないが),結果CDが売れなくなる. 現状ってこれなのではないのだろうか.

仮にアーティストの定義を「メジャーデビューしている人」・「テレビに出ている人」・「CMソングやドラマの主題歌を歌っている人」みたいなところに置くなら,それらのほとんどは金さえあれば実現できる.だから現実にも,単にそういった条件が揃っていたためだけに「アーティスト」と呼ばれている人もいるに違いない.

それでは普通人は創作者を志すべきではないのか,という話だが,別にそんなことはない. 但し,既存の「アーティスト像」に近付こうとすれば無理が生じるかもしれない.自分でない何かになろうとしているのだから.

人は結局その人にしかなれないし,自分自身のままで良いのである. 自分なりに心の安寧が得られる生き方を探せば良いのであって,それが「作品を作り続けること」であるのなら,その人は誰に認めてもらうまでも無く芸術家なのだ. まあ「作品を作り続けること」に安寧を見出すような人なんて,既に普通人ではないのだろうけど.


8/3(日)

神田優花. 先月末に録った新曲を作り直したので,それ(新曲のマイナーチェンジ版)のチェックをしてました. 来週レコーディングです.

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影山リサ,先週のリハーサルの様子. 言い忘れていたのですが,先日注文の受付を開始したパッケージ版「Jewelry Box」は,二種類の仕様があります(いわば初回版と通常版といったところか). といっても収録曲もジャケット全く同じで,違いは盤面のみです. 発送する商品は初回版が無くなり次第,通常版に切り替えます.注文時にタイプの指定は出来ませんのでご了承下さい.まだ数には余裕ありますけど,念のため.

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8/2(土)

昨日は,所用で随分遅くまで渋谷をうろついていたもので,まあとにかく疲れた. 下は今週のリハーサル風景.

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8/1(金)

編集,とりわけボーカルの補正をやっている時にいつも思うのだが,歌い手さん本人にもあの「ピッチカーブ」を見せた方が良いだろうな.現実的には作業の効率上,一々そんな事もやってられないわけだけど. 一応説明しておくと,ここでいう「ピッチカーブ」というのは,録音ソース(この場合ボーカル)のピッチ(音程)を時間軸に沿って図示(グラフ化)したものだ. 当然の話だが,歌い手にはその人固有の唱法上の癖がある.必ずしもそれが悪いってわけではなくて,自分にはこういう癖がある,という事をハッキリ認識していた方が良い歌い手になれるような気がするのだ. 考える事が何より大事で,考えて取った行動が結果的に失敗に繋がっても,それはそれで構わないように思う.考える習慣さえ身についていれば,その失敗すらも思索の材料になるから. 自分で考えて答えが出ないその時になって,初めてエンジニアやプロデューサーの助言というものが必要になってくるのだと思っている.


7/31(木)

iTunes(US)の今年5月(18日付)のJ-POPチャート(TOP ALBUMS)で,鈴木サヤカの「LISTEN,」が4位まで行っていたらしい.こんなランキングなんて,サイト側がレーベルに一々教えてくれるわけでもないので,我々も全然知らなかった(ごく最近,iTunesのデータベースを参照していたら気が付いた). 何やら売上げが伸びているのだけは気付いていたけど.

同タイトル(「LISTEN,」)は,1月あたりにも5位(iTunes USのJ-POPチャートで)とかその辺にいたらしく,要するにロングセラー商品になりつつあるっぽい(えらく低空飛行のロングセラーだが). 鈴木サヤカの音源は「LISTEN,」が一番売れているのだけど,それ以外も割とコンスタントに出てはいる.しかし基本的に海外でだ.無論有難いことなのだけど,欲を言えば日本でももう少し売れてくれないものだろうか.


7/29(火)

神田優花の曲を作り直しているって話をしてましたが,今まさにその作業(曲の焼き直し)に没頭している.他の仕事がなおざりになりつつあるので,あんまり良くないのだけど.

私が考えるに,モノを作る人間には条件が二つあって,一つは確固たる美意識を持っている事.もう一つはそれを形に(作品化)するための執念をもっている事だ. 途中で力尽きたような作品を作っているようでは,いくら感性が鋭かろうと名作なんて作れる筈が無い. 今回の作品,私は作っている途中で何かを諦めかけたのだと思う.「もうこれで良いや」と. しかしよくよく考えた末,絶対後悔すると思ったから,ここで引き返した. 周りの皆さんにはご迷惑をお掛けします.


7/28(月)

先週歌録りを終えた神田優花の新曲,早速編集に入っていたのだが,やっぱり細部の粗が気になって仕方がない. というわけで,曲を作り直してまた録り直すことにしました.そもそもこの曲,先週の時点でも既に再録だったのだが,一体いつになったら完成するのだろう.


7/26(土)

神田優花,新曲のレコーディング.この曲は二度目の歌入れになります. 自分で言うのも何だが,今回のヤツは曲がダメだな.ディテールの詰めの甘さが気になって仕方が無い.

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以下,影山リサ.

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7/25(金)

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今週のスタジオで撮った写真.それにしてもなんという暑さだ.


7/24(木)

スポーツとしての歌について. 日頃こういう作業(音作り)をやっていると,現場では当たり前に使っているのに,世間ではまったく共有されていない言い回し,みたいなものが生まれてしまう.その一例に「体育」というのがある.

「歌の上手さ」と一括りに考えられているものでも,無論細分化することが出来る.「野球が上手いこと」を一つ取ってみても,高打率を残せるのか遠くに飛ばせるのか,打つだけでなく守備が上手いのか,あるいは走塁が上手いのか,駆け引きに長じているのか,上手さにも色々あるのと同じだ. この野球の例を歌に当て嵌めるなら,音程・リズムの正確さや音域・声量など,歌の上手さにも当然色々あるわけだが,ここに挙げた何点かは,いわゆる筋力や聴覚などの「身体能力」に拠っている部分が大きい.我々はそれを体育と言う. 「この人の上手さは体育だな」といった風に使う. 歌うたいには当然必要な能力なのだが,それ(身体能力)だけしかない歌手になど,私は惹かれない.

では身体能力以外に因る歌の上手さとは何ぞやという話だが,基本的にそれは「心」だ.言い換えれば感受性・想像力と言っても良い. 結局表現力に繋がるのはここだと思うのだが,それを培うのはやはり言葉だろう. この話を始めるとまた長くなりそうなので,今回は止めておくが,歌をうたう,あるいは聴くだけの人でも,言語力といった無形のものに支えられている「心」が歌を作る,という事は認識しておいて良いと思う.


7/23(水)

とある女性タレントの不倫騒動が持ち上がっているらしい.そんな事はどうでもいい. 私が気になるのは「不倫」という言葉の用法だ.皆ちゃんと不倫の意味を理解して使っているのだろうか.「配偶者のある異性との交際」なんて意味じゃないぞ.

「不倫は悪い事なのか?」みたいな小見出しを見た記憶がある. その質問に答えるなら「不倫なのだから良くはないだろう」としか言いようがない. 「妻子持ちの男性との交際は不倫に当たるのか?」とかいう問題提起なら分からないでもないが.「倫ニ不(アラ)ズ」と書いて不倫なのだからして,不倫は良くないに決まっている. どうも私は理屈っぽくて,いつもこういう些細な事が引っ掛かってしまう.


7/21(月)

世間は連休中らしいが,私は今日は朝から働き詰めだ. ここ一月ぐらい仕事を溜め過ぎたので,今片付けています. それにしても暑い日が続きますな.


7/19(土)

影山リサ.パッケージ版の「Jewelry Box」,とりあえず販売開始しました.是非聴いてみて下さい.

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神田優花,新曲の最終チェック.来週歌入れです.

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7/18(金)

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今日の午後から降った雨は凄かったですね.東京付近でない方には良く分からないだろうけど. 上は今週スタジオで撮った写真.


7/16(水)

唐突だが「優しさ」について考えてみる. 目の前の川で溺れる者がいた時,見て見ぬフリを決め込む人は無論優しくない.では,我が身を呈してでも助けようとする人は,何故そのような行動に出られるのだろうか.

私は自己犠牲の崇高さを否定するのでは無いが,我が身を呈してでも他人を救える人の行為は,厳密には自己犠牲という感覚の上に成立していないと思う. 溺れる者をも救える人とは,我が身を犠牲に出来る人というより,「何があろうと自分だけは絶対に溺れない」という強固な自信のある人だと思うのだ. ゴータマ・シッダルタが釈迦族の王子であったなどという事実を思い合わせられたい.結局自身の生活に汲々としているような境遇では,何よりもまず,物欲という煩悩を克服するのに精一杯で,悟りなど開きようがないのではないか.特に凡人の場合は.

臆病な人は当然不安が多い.まず自分自身を救えるか否かという懸案にばかり捉われていて,他人を救う事にまで頭が回らない. 他人を救える人の精神というのは,上の局面において,自分を犠牲にするか他人を犠牲にする(見て見ぬフリをする)か,などという二者択一を迫られていないのだ. まず自分自身は絶対に助かるので何の心配も要らない.だからこそどうやったら目の前の溺れる者を救えるか,という「救い方」を考えることに集中できる.

この理屈で言うと,愛の欠けた環境で育った子供には「優しさ」が育ち難いことになる. 幼少期に育たなかった「優しさ」を,残りの人生でリカバーするのは非常に難しく,ケースによっては,一生かかってもその境地にたどり着けない.子供は無駄な葛藤に人生の大部分を費やす破目になるかもしれない. 銀行預金の残高が気になっては居ても立ってもいられない,という人などは,要するにこの「破目」に陥っているだけなのかもしれず,そんな無意味な迷いに多くの時間を費やしてしまわせない為にも,親は子を愛すべきだと思う.

憎しみは憎しみを生み,愛は愛を生む,などという単純な事実は,わざわざ人に言われるまでも無く,普通に社会生活を経験した事がある人なら,自明の事として気付いている筈である. だからキリストは「汝の隣人を愛せ」と言った.「先ずは貴方から愛しなさい」と.理屈としては間違っていない.

「臆病さ」は,場合によっては必要以上に事態をこじらせる.愛とは対極にある心理なのだ. 皆さんは経験ありませんか.臆病さから出た自分の言動が事態を一層困難にしてしまった事.私にはあります.今でもたまにある. 他人は自分ではないのだから,当然我が事のように他人の心理など想像出来ない.しかし同じ人間なのだから,理解するよすがすら無い筈は無いのだ.但し,理解には一定の愛が必要だが.


7/14(月)

しかし暑いな. 5月に国内の各配信サイトでリリースした,影山リサ「Jewelry Box」なんですが,CDクオリティ(44.1kHz/16bit/STEREO)で聴きたい人の為にパッケージ版を販売しようかと思ってます.というか,します. どういう形で販売するかは未定ですが,今のところ流通に乗せる予定はありません(こんなタイミングでの再発だし,どう考えてもそんなに出ないだろうから). 基本的にはCD音質で聴きたい人の為だけに作るつもりなのですが,一応歌詞(ブックレット)も付きます. 詳細はまたこのページでもお知らせするので,しばしお待ちを.


7/12(土)

今週の神田優花は,先週上手く録れなかった新曲を,一から練習し直してました.

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以下は影山リサ.

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7/11(金)

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上は今週スタジオで撮った写真. 今週は編集作業やら機材のセットアップやらであっという間に過ぎた.久々に割と忙しい一週間だった.


7/10(木)

応援してくれる人について. 「たった一人でも応援してくれる人がいる限り,僕らは音楽活動を続けます」みたいなことを言うミュージシャンなどがいたりするわけだが,応援してくれる人って一体何なのだろう.

私も,「応援してくれる人」を得たいとは常々思っている.が,応援というのは,CDを買ってくれたり,ライブ会場に足を運んでくれたりすることなんだろうか.だとしたら,私はその行為に無論感謝はしているけれど,自身の音楽活動がそれらの「応援」に支えられることによって継続出来ているとは思わない. やはり私は自分自身の為に音楽を作っている.そもそも私の感じる「応援」って,そういった即物的なものだけではないし.

では真の「応援してくれる人」とは誰ぞやという話だが,私にとってのそれは,心が通じ合う人,あるいは言葉や感覚が届く(共有できる)人だろうか. だから地理的に遠く離れていたり,さらには時代すら懸け離れていてもその応援は成立し得ることになる. 現に私が「友人」だと感じる人は,実際の知り合いでなかったり,遥か遠い歴史の彼方にいたりもする.

今の私は,ただただ子供の頃から好きだった音楽を続けているだけのバカな人なのだが,日常の中,一瞬でも私のことを思い出してくれる人がいるなら,それだけでも私にとっては十分に応援なんです. こんな作業を続けている人なんて,みんな似たような気持ちだろうと思うのだけど.


7/9(水)

以下,興味無い人にとっては全く意味不明の文章だろうと思うので,適当に読み飛ばして下さい.

ちょっと前から気になっていた機材(FM音源)があったのだが,とうとう買ってしまった. 随分古いもの(調べたら1986年発売とあった)の割に外観は結構キレイで,少なくとも20数年前の代物とは思えないのだが,いかんせんそこは骨董品,使い勝手は決して良くない.まあ当世的感覚で評価すればの話だが. どうも私はFM系の音が好きで,やたら食指が動いてしまう.しかもハードウェアなので,置く場所にも困っている.

FM好きとはいうものの,実は私は音作りなどほとんどやらない.と言うか出来ない. 私は元々ギター弾きだったりするし,基本的にアコースティックな楽器ばかり弄ってきた人なのだ. シンセとかって近々ここ10年ぐらいのお付き合いで,中でも音色を作ったりするような厳密な意味でのシンセサイザー(PCM系でないモノ)なんて,せいぜいここ5〜6年ぐらいだろうか. 要するに初心者といっても過言でないのだ. だからかどうか知らないが,オモチャを与えられた少年のようにハマってしまっている.

FMって音源方式は本当に難解だ.パラメーターに任意の数値を与えたらどんな音色が生成されるか,が空で想像出来る人なんてのが存在するなら,尊敬に値すると思う.私には無理だ. 初めて手にしたのが6opで,今回入手したのが4op.基本的に素人なんで,オペレーターの数が少ないものから弄ってみるべきだと思った次第です.本当なら2opのモデルとかが欲しかったんだけど,音源モジュールタイプの2opFM音源って存在して無さそうだった.


7/8(火)

織田信長はその少年期,異装好みであったとか,奇癖が目立ち「うつけ者」呼ばわりされたとか,有名な話であるが,現代を生きる与太者の「信長も若い頃はうつけ呼ばわりされたのだから,俺も大器なのかも?」といった発想は基本的に愚かしい. そもそも信長や戦国期に傾き者などと言われた人たちの異装には,先行の型(様式)が存在しなかったそうだ.早い話が独創だった.

信長は,ファッションが奇抜だったから異常人なのではなく,頭の中が常人と違い過ぎて,ファッションなどという側面においても,その独創(異常)性が露見してしまっていたに過ぎない. だから彼の行動は逆算し難い.遥か後世の人の脳をもってしても,思考のプロセスを理解し難い部分がある.要は天才なのだろう.

そういえば,織田政権(あるいは織豊政権期一杯)の「資金源」が何であったのか,現代の学者も正確には分からないそうだ. あれほどの重商主義を採っていたのだから,きっと商業・貿易絡みの利権を押さえていたに違いないが,それにしても正確なところは分からない. まあ織田軍団には,現代の上場企業のように細かい情報を公開する義務など無いのだから,わざわざ公表したり記録を残したりしない限り,当然ながら詳細は不明となる. たまに政治家なんかが「平成の信長になる」みたいな事を公言したりするが,実は信長の持っていた思想や方法論・構想(つまりは行動原理そのもの)を,21世紀人ですら厳密にはよく分かっていないのだ.分からないものになれる訳が無い.

不用意に自身を信長に准えてしまう人の脳裏には,何となく「昔の人は現代人より愚かだ」という図式が成立していたりするのだろうが,それは現代人がしばしば抱きがちな錯覚だ. 私も昔は,本などを読む際にその錯覚が抜けず,理解の妨げとなって困った. 繰り返すがそれは錯覚なのだ.人間は歴史段階の中に生まれてきてしまうから,時代背景に精神が支配されがちだというだけで,一個人のポテンシャル(遺伝的形質)自体は大して変わらないのだ. ましてや天才の話である.たまたま後世に生まれたというだけの凡人になど,容易に理解出来る筈が無い.

以上は一般論である.だからして,例外的なケースというのは当然あり得るだろう. 私は織田信長という人に魅力を感じてしまうのだが,それと同時に,彼と同時代人でなくて良かったとも思う.


7/7(月)

記憶力について. 世の中には,記憶力の良い人と悪い人がいるという.人は記憶力というと,単に物事を記録する脳内のキャパシティ(許容量)みたいなものだと捉えがちで,記憶力の良い人とは,その許容量が多い人を想像してしまうのだが,多分それは違う.

記憶力の正体は「感受性」だ. 経験や情報の許容量そのものが人によってそんなに違うのではなく,ある事象に直面した際の感想が人によって区々で,その感想が平凡,ないし無感想であった場合,人は直面した事象ごと忘れてしまいがちなのだ.

歴史の年号や人物の名前が覚えられない受験生がいる.そりゃそうだろう. 前後のストーリー(歴史的経緯)を軽視,あるいは無視して,数字や漢字・カタカナの羅列を無理矢理記憶しようとしても,頭に入るわけが無い.それらに対する「感想」が希薄なのだから.

歴史の年号を語呂合わせで覚える,といった暗記法がある(「良い国作ろう鎌倉幕府」みたいなヤツ).無味乾燥した歴史年号にイメージを喚起させることによって,微かにでも何らかの感想を持たせようとしたもので,記憶の方法としてはあながち間違っていない. しかし,一つ一つの記憶対象に一々イメージを与えるより,記憶力そのもの(要は感受性)を育てる方が,人間の情操にとっては肝要だと思う.

感想(自分なりの見解)を持つことなど,そんなに難しいことでは無い筈だ.自分の心をつかまえられるだけの正直さがありさえすれば良い. 但しそれには国語力が要る.


7/6(日)

影山リサ,先週のリハーサル風景.

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何だか一気に暑くなりましたですね.


7/5(土)

今週スタジオで撮った写真.

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7/4(金)

神田優花. 今週は新曲の歌入れ,の予定だったのだが,何だか良いテイクが録れなくて結局諦めた.来週以降また仕切り直しですな.

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今週はもう一件歌録り(広瀬沙希)があって,そっちは上手くいったのだけど,色々やることが多くて写真は撮ってません.


7/2(水)

数日前,町を歩いていたら偶然「祭り」に出くわした.的屋が軒を並べているアレだ. まあ私は祭りになんか興味も無いし,そのまま人込みを通り抜けたのだが,しかし何故に祭りというヤツにはあそこまでガラの悪い連中が集うのか.

結論から言うと,アレは彼らのステージなのだろう.まあ都市やイベントというのは,市民にステージを与える,というのもその重要な役割である.予想通りめかしこんで現れる連中というのも,害の無い範囲においては可愛げある人たちと思えなくも無い.

私があらためて感じたのは,何故人間という生き物には,ああまで「性格」が無いのか,という事である. 人間には,各人に一つづつ固有の人格が厳然と備わっている,などと思われていたりする.無論巨細に見ればそうとも言えるが,実は世間一般で考えてられている程,人間はバラエティに富んでいない.人間はそれほど行動原理を性格に支配されない,といった方が良いのかも知れないが.

毎年成人式のシーズンになると,式典で暴れる新成人の姿が報道されますね.それはそれはまるでデジャヴかのように,毎年毎年似たような出で立ちの青年達がカメラに抜かれている(あの種の報道には,商魂の匂いというか,何か別の意図を感じてしまって,額面通り受け取れない部分もあるが). 考えてもみて欲しい.基本的に成人式は,参加者にとって一生に一度の儀式である.毎年カメラに映る彼らは,当たり前だが皆別人なのだ. ついでに,暴れている彼らは,どんなに全国に恥を晒されるより,周囲の大人にどやしつけられるより,警察に逮捕されるよりも,「式典を廃止する」といわれる方が困る筈だ.皆頭の中身が似たり寄ったりなのだから,例外的な感想を持つ者などいないだろう.断言できる. 私の感じている「性格の欠如」,少しでも共感してもらえるだろうか.

以前,江戸期に諸藩で起こった御家騒動についての記録を一々読んだことがあるのだが,読み進めるにつれ気付いたのが,どういう事情でそのトラブルが発生し,どのような紆余曲折を経て,どのような結果に落ち着いたのか,という基本的なストーリーが皆ほぼ同じである事だ. まず藩内が何らか(相続候補者が複数人いるなど)の事情で派閥化する.藩政のイニシアチブを巡って派閥間に抗争が起きる.場合によっては敗者側が粛清され,場合によっては抗争そのものに収集がつかなくなり,最終的にお上の裁断で一応の落着を見たりする.しばしば一部の関係者は腹を切る.ほとんどいつもこんなパターン. これが当事者や多少の場所・時間を変え,数年〜数十年置きに起こっている. 人間ってこんなにも個性を持たない生き物なのかと,半ば暗然とした気分になった.

断っておくが,私は標準的でない人間が好きである.少なくとも標準的な人よりは刮目に値すると思っている. ただ,私の考える「標準的でない人」は単なる不良少年などではないのである.あれは人間が一定数以上の集団になった際に,必ず発生するいわば人間の一典型に過ぎない.正直言って,見飽き過ぎて少々食傷気味なぐらいなのだ. 奇抜な服装や髪型をしている人より,アタマの中身が奇抜な人を見たい. そもそもああいう人らの服装や髪型って,その手の様式を踏襲しているだけで,奇抜でもなんでもないが.


7/1(火)

もう7月か. 今週はレコーディング(歌入れ)を一応2件予定してまして,只今その仕込中です.何だか歌録りも久しぶりな気がするな.前って何時だったろう.4月か. まあ多分これから立て続けに何件かレコーディングしますので,秋頃には新作もいくらか発表出来ると思われます.お楽しみに.


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